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4. Soṇadaṇḍasuttavaṇṇanā4. ソーナダンダ経の釈

300. Evaṃ me sutaṃ…pe… aṅgesūti soṇadaṇḍasuttaṃ. Tatrāyaṃ apubbapadavaṇṇanā. Aṅgesūti aṅgā nāma aṅgapāsādikatāya evaṃ laddhavohārā jānapadino rājakumārā, tesaṃ nivāso ekopi janapado rūḷhisaddena aṅgāti vuccati, tasmiṃ aṅgesu janapade. Cārikanti idhāpi aturitacārikā ceva nibaddhacārikā ca adhippetā. Tadā kira bhagavato dasasahassilokadhātuṃ olokentassa soṇadaṇḍo brāhmaṇo ñāṇajālassa anto paññāyittha. Atha bhagavā ayaṃ brāhmaṇo mayhaṃ ñāṇajāle paññāyati. ‘Atthi nu khvassupanissayo’ti vīmaṃsanto addasa. ‘Mayi tattha gate etassa antevāsino dvādasahākārehi brāhmaṇassa vaṇṇaṃ bhāsitvā mama santike āgantuṃ na dassanti. So pana tesaṃ vādaṃ bhinditvā ekūnatiṃsa ākārehi mama vaṇṇaṃ bhāsitvā maṃ upasaṅkamitvā pañhaṃ pucchissati. So pañhavissajjanapariyosāne saraṇaṃ gamissatī’ti, disvā pañcasatabhikkhuparivāro taṃ janapadaṃ paṭipanno. Tena vuttaṃ – aṅgesu cārikaṃ caramāno…pe… yena campā tadavasarīti.

300. 「このように私は聞きました……アンガ国において……」とは種徳経である。そこでの新出語の註解は次の通りである。「アンガ国において」のアンガとは、肢体の端正さ(身体の美しさ)によってそのように呼ばれる地方の王族たちであり、彼らの居住地である単一の地方もまた、通称としてアンガと呼ばれる。そのアンガたちの地方において、という意味である。「遊行を」とは、ここでもまた急がぬ遊行および定期的な遊行が意図されている。その時、世尊が一万の世界を観察しておられると、ソーナダンダ(種徳)バラモンが智慧の網(知網)の内側に現れたという。そこで世尊は、「このバラモンが私の知網に現れている。『果たして彼に善根(勝因)があるだろうか』」と観察され、これを見られた。「私がそこへ赴いたとき、彼の弟子たちは十二の様態によってバラモン(ソーナダンダ)の徳を称賛し、私の御許へ来ることを許さないであろう。しかし彼は弟子たちの主張を論破し、二十九の様態によって私の徳を称賛し、私に近づいて質問をするであろう。そして彼は問いの解明の終わりに帰依するであろう」と。このように見極めて、五百人の比丘たちに囲まれてその地方へと向かわれた。それゆえに、「アンガ国において遊行しつつ……チャンパーのあるところへと至られた」と説かれたのである。

Gaggarāya pokkharaṇiyā tīreti tassa campānagarassa avidūre gaggarāya nāma rājaggamahesiyā khaṇitattā gaggarāti laddhavohārā pokkharaṇī atthi. Tassā tīre samantato nīlādipañcavaṇṇakusumapaṭimaṇḍitaṃ mahantaṃ campakavanaṃ. Tasmiṃ bhagavā kusumagandhasugandhe campakavane viharati. Taṃ sandhāya gaggarāya pokkharaṇiyā tīreti vuttaṃ. Māgadhena seniyena bimbisārenāti ettha so rājā magadhānaṃ issarattā māgadho. Mahatiyā senāya samannāgatattā seniyo. Bimbīti suvaṇṇaṃ. Tasmā sārasuvaṇṇasadisavaṇṇatāya bimbisāroti vuccati.

「ガッガラ蓮池のほとりにおいて」とは、そのチャンパー市の近くに、ガッガラという名の王の正妃によって掘られたことに由来してガッガラと呼ばれる池がある。そのほとりには、周囲に見事な青などの五色の花で飾られた広大なチャンパカ(金香木)の林がある。世尊は花々の香りに満ちたそのチャンパカ林に滞在しておられた。それを指して「ガッガラ蓮池のほとりにおいて」と説かれたのである。「マガダ国のセーニヤ・ビンビサーラ(頻婆娑羅)によって」において、その王はマガダ族の支配者であることから「マガダの(マーガダ)」と呼ばれる。大軍勢(セーナー)を具足していることから「セーニヤ」と呼ばれる。「ビンビ」とは黄金のことである。したがって、良質な黄金に似た容色を持つことから「ビンビサーラ」と呼ばれる。

301-302. Bahū bahū hutvā saṃhatāti saṅghā. Ekekissāya disāya saṅgho etesaṃ atthīti saṅghī. Pubbe nagarassa anto agaṇā bahi nikkhamitvā gaṇataṃ pattāti gaṇībhūtā. Khattaṃ āmantesīti. Khattā vuccati pucchitapañhe byākaraṇasamattho mahāmatto, taṃ āmantesi āgamentūti muhuttaṃ paṭimānentu, mā gacchantūti vuttaṃ hoti.

301-302. 「大勢が集まり結合している」ので「衆(サンガ)」である。「それぞれの方角に彼らの衆がある」ので「衆ある者(サンギー)」である。「以前は城内にいて集団をなしていなかった者たちが、外へ出て集団を形成した」ので「集団をなした(ガニーブータ)」である。「近侍(カッタ)に命じた」とは、「カッタ」とは質問された問いに答える能力のある大臣をいい、彼に命じた。「待つように」とは、「しばらくの間、待たせよ。行かせるな」と述べたということである。

Soṇadaṇḍaguṇakathā

ソーナダンダの功徳の説示

303. Nānāverajjakānanti nānāvidhesu rajjesu, aññesu aññesu kāsikosalādīsu rajjesu jātā, tāni vā tesaṃ nivāsā, tato vā āgatāti nānāverajjakā, tesaṃ nānāverajjakānaṃ. Kenacideva karaṇīyenāti tasmiṃ kira nagare dvīhi karaṇīyehi brāhmaṇā sannipatanti – yaññānubhavanatthaṃ vā mantasajjhāyanatthaṃ vā. Tadā ca tasmiṃ nagare yamaññā natthi. Soṇadaṇḍassa pana santike mantasajjhāyanatthaṃ ete sannipatitā. Taṃ sandhāya vuttaṃ – ‘‘kenacideva karaṇīyenā’’ti. Te tassa gamanaṃ sutvā cintesuṃ – ‘‘ayaṃ soṇadaṇḍo uggatabrāhmaṇo yebhuyyena ca aññe brāhmaṇā samaṇaṃ gotamaṃ saraṇaṃ gatā, ayameva na gato. Svāyaṃ sace tattha gamissati, addhā samaṇassa gotamassa āvaṭṭaniyā māyāya āvaṭṭito, taṃ saraṇaṃ gamissati. Tato etassāpi gehadvāre brāhmaṇānaṃ sannipāto na bhavissatī’’ti. ‘‘Handassa gamanantarāyaṃ karomā’’ti sammantayitvā tattha agamaṃsu. Taṃ sandhāya – atha kho te brāhmaṇātiādi vuttaṃ.

303. 「諸国の」とは、種々の国、他の様々なカーシーやコーサラなどの国々で生まれた者、あるいはそれらの国が彼らの居住地である者、あるいはそこからやって来た者たちを「諸国の者」といい、それらの諸国の者たちに、ということである。「何らかの用務によって」とは、その都市には二つの用務によってバラモンたちが集まるという。すなわち祭祀に参列するためか、あるいはマントラ(聖典)を読誦するためである。そしてその時、その都市には祭祀はなかった。しかしソーナダンダの御許でマントラを読誦するために彼らは集まっていたのである。それを指して「何らかの用務によって」と説かれた。彼らはソーナダンダの訪問の意向を聞いて、こう考えた。「このソーナダンダは高名なバラモンである。他の多くのバラモンたちは沙門ゴータマに帰依したが、彼だけはまだ帰依していない。もし彼がそこへ赴くならば、確かに沙門ゴータマの魅惑の術(幻惑術)に巻き込まれて彼に帰依してしまうだろう。そうなれば、彼の屋敷の門前にもバラモンたちが集まることはなくなってしまうだろう」と。「さあ、彼の訪問を妨害しよう」と相談してそこへ赴いた。それを指して「そのとき、それらのバラモンたちは」等と説かれたのである。

Tattha imināpaṅgenāti imināpi kāraṇena. Evaṃ etaṃ kāraṇaṃ vatvā puna – ‘‘attano vaṇṇe bhaññamāne atussanakasatto nāma natthi. Handassa vaṇṇaṃ bhaṇanena gamanaṃ nivāressāmā’’ti cintetvā bhavañhi soṇadaṇḍo ubhato sujātotiādīni kāraṇāni āhaṃsu.

そこにおいて、「この理由によっても」とは、この根拠によっても、ということである。このようにその根拠を述べて、さらに「自らの徳を称賛されて喜ばない生き物はいない。さあ、彼の徳を称賛することによって訪問を思いとどまらせよう」と考えて、「実に尊者ソーナダンダは双方ともに生まれが良い」等の理由を述べたのである。

Ubhatoti dvīhi pakkhehi. Mātito ca pitito cāti bhoto mātā brāhmaṇī, mātumātā brāhmaṇī, tassāpi mātā brāhmaṇī; pitā brāhmaṇo, pitupitā brāhmaṇo, tassāpi pitā brāhmaṇoti, evaṃ bhavaṃ ubhato sujāto mātito ca pitito ca. Saṃsuddhagahaṇikoti saṃsuddhā te mātugahaṇī kucchīti attho. Samavepākiniyā gahaṇiyāti ettha pana kammajatejodhātu ‘‘gahaṇī’’ti vuccati.

「双方ともに」とは、母方と父方の二つの血統において、である。「母方からも父方からも」とは、尊者の母はバラモン女であり、母の母もバラモン女であり、その母もまたバラモン女である。父はバラモンであり、父の父もバラモンであり、その父もまたバラモンである。このように尊者は母方からも父方からも双方ともに生まれが良い。「清浄な胎(母胎)より生まれ」とは、あなたの母の胎、子宮が清浄であるという意味である。しかし「均等に消化する母胎によって」という文脈では、業から生じた火の要素(消化熱)が「胎」と呼ばれる。

Yāva sattamā pitāmahayugāti ettha pitupitā pitāmaho, pitāmahassa yugaṃ pitāmahayugaṃ. Yuganti āyuppamāṇaṃ vuccati. Abhilāpamattameva cetaṃ. Atthato pana pitāmahoyeva pitāmahayugaṃ. Tato uddhaṃ sabbepi pubbapurisā pitāmahaggahaṇeneva gahitā. Evaṃ yāva sattamo puriso, tāva saṃsuddhagahaṇiko. Atha vā akkhitto anupakuṭṭho jātivādenāti dassenti. Akkhittoti – ‘‘apanetha etaṃ, kiṃ iminā’’ti evaṃ akkhitto anavakkhitto. Anupakuṭṭhoti na upakuṭṭho, na akkosaṃ vā nindaṃ vā laddhapubbo. Kena kāraṇenāti? Jātivādena. Itipi – ‘‘hīnajātiko eso’’ti evarūpena vacanenāti attho.

「七代の祖父に至るまで」において、父の父が祖父であり、祖父の代(世代)が祖父代である。「ユガ(代)」とは寿命の長さをいう。これは単なる表現にすぎない。意味の上では祖父そのものが祖父代である。それより上のすべての先祖もまた、祖父という言葉によって包括される。このように七代目の祖先に至るまで清浄な胎より生まれたのである。あるいは、「血統論によって非難されず、軽蔑されない」ことを示している。「非難されない」とは、「これを取り除け、こいつに何の用があるのか」というように排斥されず、拒絶されないことである。「軽蔑されない」とは、侮辱されず、罵倒や非難をかつて受けたことがないことである。「どのような理由によってか?」血統論によってである。すなわち「あいつは下層階級の生まれだ」というような言葉によって、という意味である。

Aḍḍhoti issaro. Mahaddhanoti mahatā dhanena samannāgato. Bhavato hi gehe pathaviyaṃ paṃsuvālikā viya bahudhanaṃ, samaṇo pana gotamo adhano bhikkhāya udaraṃ pūretvā yāpetīti dassenti. Mahābhogoti pañcakāmaguṇavasena mahāupabhogo. Evaṃ yaṃ yaṃ guṇaṃ vadanti, tassa tassa paṭipakkhavasena bhagavato aguṇaṃyeva dassemāti maññamānā vadanti.

「富裕で」とは主権者であること。「大いなる財産があり」とは莫大な富を具足していること。尊者の家には大地の土砂のように多くの財宝があるが、沙門ゴータマは財産がなく、托鉢によって腹を満たして生活しているということを示している。「大いなる資財(享受財)があり」とは、五つの愛欲の徳(五欲)に基づく広大な享受財を持つこと。このように、彼らが挙げる徳のそれぞれに対比させて、世尊の非・徳(至らなさ)を示そうと思いながら語っているのである。

Abhirūpoti aññehi manussehi abhirūpo adhikarūpo. Dassanīyoti divasampi passantānaṃ atittikaraṇato dassanayoggo. Dassaneneva cittapasādajananato pāsādiko. Pokkharatā vuccati sundarabhāvo, vaṇṇassa pokkharatā vaṇṇapokkharatā, tāya vaṇṇasampattiyā yuttoti attho. Porāṇā panāhu – ‘‘pokkharanti sarīraṃ vadanti, vaṇṇaṃ vaṇṇamevā’’ti. Tesaṃ matena vaṇṇañca pokkharañca vaṇṇapokkharāni. Tesaṃ bhāvo vaṇṇapokkharatā. Iti paramāya vaṇṇapokkharatāyāti uttamena parisuddhena vaṇṇena ceva sarīrasaṇṭhānasampattiyā cāti attho. Brahmavaṇṇīti seṭṭhavaṇṇī. Parisuddhavaṇṇesupi seṭṭhena suvaṇṇavaṇṇena samannāgatoti attho. Brahmavacchasīti mahābrahmuno sarīrasadiseneva sarīrena samannāgato. Akhuddāvakāso dassanāyāti ‘‘bhoto sarīre dassanassa okāso na khuddako mahā, sabbāneva te aṅgapaccaṅgāni dassanīyāneva, tāni cāpi mahantānevā’’ti dīpenti.

「容貌端正で」とは、他の人々よりも美しく優れた容姿を持つこと。「見目麗しく」とは、一日中見ていても飽きることがないゆえに見るに値すること。「清らかで」とは、見るだけで心に清らかな信仰を生じさせること。「美しさ(ポッカラター)」とは麗しさのことであり、肌の色の美しさが「肌の美しさ(ヴァンナポッカラター)」であり、その優れた容色を備えているという意味である。しかし古代の註釈家たちは「ポッカラとは身体をいい、ヴァンナとは肌の色のことである」と述べている。彼らの見解によれば、肌の色と身体の双方がヴァンナポッカラである。それらの状態がヴァンナポッカラター(容姿の秀麗さ)である。このように「最上の容姿の秀麗さを備え」とは、最上で清らかな肌の色と、優れた体躯の美しさを備えているという意味である。「ブラフマン(梵天)の肌の色のようで」とは最上の色を持つこと。清らかな肌の色の中でも最上である黄金の肌の色を具足しているという意味である。「ブラフマンの威容をもち」とは、大梵天の身体に似た身体を具足していること。「その姿を観るのに狭い余地(見劣りする点)がない」とは、「尊者の身体において、見るべき場所は狭くなく広大であり、あなたの手足や肢体のすべてが見るに値し、それらもまた大いなるものである」ということを示している。

Sīlamassa atthīti sīlavā. Vuddhaṃ vaddhitaṃ sīlamassāti vuddhasīlī. Vuddhasīlenāti vuddhena vaddhitena sīlena. Samannāgatoti yutto. Idaṃ vuddhasīlīpadasseva vevacanaṃ. Sabbametaṃ pañcasīlamattameva sandhāya vadanti.

「戒(道徳)を保持する」ので「有戒者」である。「戒を増大させ、発展させている」ので「増戒者」である。「増大した戒によって」とは、増大し発展した戒によって。「具足している」とは備えていること。これは「増戒者」という言葉の言い換えにすぎない。これらすべては、単なる五戒のみを指して言っているのである。

Kalyāṇavācotiādīsu kalyāṇā sundarā parimaṇḍalapadabyañjanā vācā assāti kalyāṇavāco. Kalyāṇaṃ madhuraṃ vākkaraṇaṃ assāti kalyāṇavākkaraṇo. Vākkaraṇanti udāharaṇaghoso. Guṇaparipuṇṇabhāvena pure bhavāti porī. Pure vā bhavattā porī. Poriyā nāgarikitthiyā sukhumālattanena sadisāti porī, tāya poriyā. Vissaṭṭhāyāti apalibuddhāya sandiṭṭhavilambitādidosarahitāya. Anelagalāyāti elagaḷenavirahitāya. Yassa kassaci hi kathentassa elā gaḷanti, lālā vā paggharanti, kheḷaphusitāni vā nikkhamanti, tassa vācā elagaḷaṃ nāma hoti, tabbiparitāyāti attho. Atthassa viññāpaniyāti ādimajjhapariyosānaṃ pākaṭaṃ katvā bhāsitatthassa viññāpanasamatthāya.

「善き言葉を語り」等の句において、善く麗しく、語句や表現が整った言葉を持つので「善き言葉を語る者」である。善く甘美な発声(発音)を持つので「善き発声を持つ者」である。「発声」とは発話の音声のことである。徳に満ちあふれていることによって都(王都)にあるかのようであるから「都の(洗練された)」である。あるいは王都にある(都会的な)ものであるから「都の」である。都の女性の優美さに似ているので「都の」であり、その洗練された言葉によって、ということである。「明瞭で」とは、妨げがなく、つかえたり長引いたりするなどの欠点がないこと。「滑らかで」とは、唾液の漏れ(つばの飛び散り)がないこと。誰であれ語るときに唾が垂れたり、涎が流れたり、唾沫が飛んだりするならば、その言葉は唾漏れと呼ばれるが、それとは逆のものであるという意味である。「意味を理解させる」とは、初め・中・終わりを明白にして、語られた意味を理解させることができることである。

Jiṇṇoti jarājiṇṇatāya jiṇṇo. Vuddhoti aṅgapaccaṅgānaṃ vuddhibhāvamariyādappatto. Mahallakoti jātimahallakatāya samannāgato. Cirakālappasutoti vuttaṃ hoti. Addhagatoti addhānaṃ gato, dve tayo rājaparivaṭṭe atītoti adhippāyo. Vayoanuppattoti pacchimavayaṃ sampatto, pacchimavayo nāma vassasatassa pacchimo tatiyabhāgo.

「老いた」とは、老衰によって老いていること。「年長で」とは、肢体の成長の極致に達していること。「高齢で」とは、年齢が高齢であることを具足していること。生まれてから長い年月が経っているということである。「高齢に達し」とは、長い年月を経て、二、三代の王の治世を経験しているという意味である。「晩年に至った」とは、最後の年代(老年期)に達していることであり、晩年とは百歳のうちの最後の三分の一の期間である。

Api ca jiṇṇoti porāṇo, cirakālappavattakulanvayoti vuttaṃ hoti. Vuddhoti sīlācārādiguṇavuddhiyā yutto. Mahallakoti vibhavamahantāya samannāgato. Addhagatoti maggappaṭipanno brāhmaṇānaṃ vatacariyādimariyādaṃ avītikkamma caraṇasīlo. Vayoanuppattoti jātivuddhabhāvampi antimavayaṃ anuppatto.

さらにまた、「老いた」とは古くからの、長い歴史を持つ家系の出であるということである。「年長で」とは、戒律や行儀などの徳の成長を備えていること。「高齢で」とは、富や財産の大いなることを具足していること。「高齢に達し」とは、道を歩み、バラモンたちの誓戒や実践などの規範を踏み越えることなく行じる性質を持つこと。「晩年に至った」とは、生まれの古さ(長老の身分)とともに最後の年代に達していることである。

Buddhaguṇakathā

仏陀の功徳の説示

304. Evaṃ vutteti evaṃ tehi brāhmaṇehi vutte. Soṇadaṇḍo – ‘‘ime brāhmaṇā jātiādīhi mama vaṇṇaṃ vadanti, na kho pana metaṃ yuttaṃ attano vaṇṇe rajjituṃ. Handāhaṃ etesaṃ vādaṃ bhinditvā samaṇassa gotamassa mahantabhāvaṃ ñāpetvā etesaṃ tattha gamanaṃ karomī’’ti cintetvā tena hi – bho mamapi suṇāthātiādimāha. Tattha yepi ubhato sujātoti ādayo attano guṇehi sadisā guṇā tepi; ‘‘ko cāhaṃ ke ca samaṇassa gotamassa jātisampattiādayo guṇā’’ti attano guṇehi uttaritareyeva maññamāno, itare pana ekanteneva bhagavato mahantabhāvadīpanatthaṃ pakāseti.

304. 「このように言われたとき」とは、それらのバラモンたちによってこのように言われたとき、ソーナダンダは「これらのバラモンたちは生まれなどによって私の徳を語っているが、自らの徳に執着することは私にとって適切ではない。さあ、私は彼らの主張を打ち破り、沙門ゴータマの大いなるあり方を知らせて、彼らがそこへ行くようにさせよう」と考えて、「それなら、諸君よ、私の言葉も聞きなさい」等と述べた。そこにおいて、「双方ともに生まれが良い」など自らの徳と同等の徳であっても、「私ごときが何者であり、沙門ゴータマの生まれの円満さなどの徳は何と素晴らしいことか」と自らの徳よりも遥かに勝るものであると考え、他の徳については、専ら世尊の大いなるあり方を明かすために説き明かしている。

Mayameva arahāmāti evaṃ niyāmentovettha idaṃ dīpeti – ‘‘yadi guṇamahantatāya upasaṅkamitabbo nāma hoti. Yathā hi sineruṃ upanidhāya sāsapo, mahāsamuddaṃ upanidhāya gopadakaṃ, sattasu mahāsaresu udakaṃ upanidhāya ussāvabindu paritto lāmako. Evameva samaṇassa gotamassa jātisampattiādayopi guṇe upanidhāya amhākaṃ guṇā parittā lāmakā; tasmā mayameva arahāma taṃ bhavantaṃ gotamaṃ dassanāya upasaṅkamitu’’nti.

「私たちこそがふさわしい」とこのように限定して、ここでこのことを示している。「もし徳の大いなることによって近づくべきであるとするならば、スメール山(須弥山)に比べれば芥子粒のごとく、大海に比べれば牛の足跡の水のごとく、七つの大湖の水に比べれば露の滴のようにわずかで取るに足らないものである。まさにそのように、沙門ゴータマの生まれの円満さなどの徳に比べれば、私たちの徳はわずかで取るに足らない。それゆえに、私たちこそがあの尊者ゴータマを見舞うために近づくのにふさわしいのである」と。

Mahantaṃ ñātisaṃghaṃ ohāyāti mātipakkhe asītikulasahassāni, pitipakkhe asītikulasahassānīti evaṃ saṭṭhikulasatasahassaṃ ohāya pabbajito.

「大いなる親族の集まりを捨てて」とは、母方に八万の家系、父方に八万の家系というように、十六万の家系を捨てて出家された。

Bhūmigatañca vehāsaṭṭhañcāti ettha rājaṅgaṇe ceva uyyāne ca sudhāmaṭṭhapokkharaṇiyo sattaratanānaṃ pūretvā bhūmiyaṃ ṭhapitaṃ dhanaṃ bhūmigataṃ nāma. Pāsādaniyūhādayo paripūretvā ṭhapitaṃ vehāsaṭṭhaṃ nāma. Etaṃ tāva kulapariyāyena āgataṃ. Tathāgatassa pana jātadivaseyeva saṅkho, elo, uppalo, puṇḍarīkoti cattāro nidhayo uggatā. Tesu saṅkho gāvutiko, elo aḍḍhayojaniko, uppalo tigāvutiko, puṇḍarīko yojaniko. Tesupi gahitaṃ gahitaṃ pūratiyeva, iti bhagavā pahūtaṃ hiraññasuvaṇṇaṃ ohāya pabbajitoti veditabbo.

「地下にある財宝も、空中(高殿)にある財宝も」において、宮殿の前庭や庭園において、漆喰で塗られた池に七宝を満たして地中に置かれた財宝が「地下にあるもの」と呼ばれる。高楼の尖塔などを満たして置かれたものが「空中にあるもの」と呼ばれる。これはまず家系から受け継がれたものである。しかし如来の生誕の日には、サンカ、エーラ、ウッパラ、プンダリーカという四つの財宝の蔵が出現した。それらのうち、サンカは一ガーヴタ(約四分の一由旬)の広さ、エーラは半由旬、ウッパラは三ガーヴタ、プンダリーカは一由旬の広さであった。それらからどれほど取っても満たされ続けた。このように世尊は豊富な金銀を捨てて出家されたと知るべきである。

Daharova samānoti taruṇova samāno. Susukāḷakesoti suṭṭhu kāḷakeso, añjanavaṇṇasadisakeso hutvā vāti attho. Bhadrenāti bhaddakena. Paṭhamena vayasāti tiṇṇaṃ vayānaṃ paṭhamavayena. Akāmakānanti anicchamānānaṃ. Anādaratthe sāmivacanaṃ. Assūni mukhe etesanti assumukhā, tesaṃ assumukhānaṃ, assūhi kilinnamukhānanti attho. Rudantānanti kanditvā rodamānānaṃ. Akhuddāvakāsoti ettha bhagavato aparimāṇoyeva dassanāya okāsoti veditabbo.

「若くして」とは、年若くして。「漆黒の黒髪をもち」とは、非常に黒い髪、あるいは墨のような色をした髪を持ち、という意味である。「麗しい」とは、美しい。「第一の年代(若年)によって」とは、三つの年代のうちの最初の年代において。「欲しない」とは、望んでいない。これは軽視の意味を持つ属格である。「顔に涙を浮かべている」ので「涙の顔の者」であり、それらの涙の顔の者たち、涙で濡れた顔の者たちという意味である。「泣き叫んでいる」とは、叫び声をあげて泣いている。「その姿を観るのに狭い余地がない」において、世尊には観照するための余地が無限にあると知るべきである。

Tatridaṃ vatthu – rājagahe kira aññataro brāhmaṇo samaṇassa gotamassa pamāṇaṃ gahetuṃ na sakkotīti sutvā bhagavato piṇḍāya pavisanakāle saṭṭhihatthaṃ veḷuṃ gahetvā nagaradvārassa bahi ṭhatvā sampatte bhagavati veḷuṃ gahetvā samīpe aṭṭhāsi. Veḷu bhagavato jāṇukamattaṃ pāpuṇi. Puna divase dve veḷū ghaṭetvā samīpe aṭṭhāsi. Bhagavāpi dvinnaṃ veḷūnaṃ upari kaṭimattameva paññāyamāno – ‘‘brāhmaṇa, kiṃ karosī’’ti āha. Tumhākaṃ pamāṇaṃ gaṇhāmīti. ‘‘Brāhmaṇa, sacepi tvaṃ sakalacakkavāḷagabbhaṃ pūretvā ṭhite veḷū ghaṭetvā āgamissasi, neva me pamāṇaṃ gahetuṃ sakkhissasi. Na hi mayā cattāri asaṅkhyeyāni kappasatasahassañca tathā pāramiyo pūritā, yathā me paro pamāṇaṃ gaṇheyya, atulo, brāhmaṇa, tathāgato appameyyo’’ti vatvā dhammapade gāthamāha –

これについての話がある。王舎城において、あるバラモンが沙門ゴータマの身体の寸法を測ることができないと聞き、世尊が托鉢に入られる時に六十肘(約三十メートル)の竹竿を持って城門の外に立ち、世尊が来られたときに竹竿を持って近くに立った。竹竿は世尊の膝の高さにしかならなかった。次の日、彼は二本の竹竿をつなぎ合わせて近くに立った。世尊は二本の竹竿の上にも腰の高さほどにしか見えず、「バラモンよ、何をしているのか」と問われた。「あなたの寸法を測っているのです」と答えると、「バラモンよ、たとえそなたが全輪囲世界を満たすほどに竹竿をつなぎ合わせてやって来たとしても、決して私の寸法を測ることはできないであろう。私は他人が寸法を測れるような仕方で四阿僧祇百千劫にわたり波羅蜜を満たしたのではない。バラモンよ、如来は無比であり、測り知れないのだ」と言われ、法句経において詩偈を説かれた。

‘‘Te tādise pūjayato, nibbute akutobhaye;

「そのような、心静まり、何ものをも恐れることなき方々を供養する者の、

Na sakkā puññaṃ saṅkhātuṃ, imettamapi kenacī’’ti. (dha. pa. 36);

功徳はいかほどであるかと、何人といえども計ることはできない」(法句経一九六)

Gāthāpariyosāne caturāsītipāṇasahassāni amataṃ piviṃsu.

詩偈の終わりに、八万四千の生き物たちが不死(甘露の法)を飲んだ。

Aparampi vatthu – rāhu kira asurindo cattāri yojanasahassāni aṭṭha ca yojanasatāni ucco. Bāhantaramassa dvādasayojanasatāni. Bahalantarena cha yojanasatāni. Hatthatalapādatalānaṃ puthulato tīṇi yojanasatāni. Aṅgulipabbāni paṇṇāsayojanāni. Bhamukantaraṃ paṇṇāsayojanaṃ. Mukhaṃ dviyojanasataṃ tiyojanasatagambhīraṃ tiyojanasataparimaṇḍalaṃ. Gīvā tiyojanasataṃ. Nalāṭaṃ tiyojanasataṃ. Sīsaṃ navayojanasataṃ. ‘‘So ahaṃ uccosmi, satthāraṃ onamitvā oloketuṃ na sakkhissāmī’’ti cintetvā nāgacchi. So ekadivasaṃ bhagavato vaṇṇaṃ sutvā – ‘‘yathākathañca olokessāmī’’ti āgato.

もう一つの話がある。阿修羅王ラーフは四千八百由旬の身長であったという。彼の両腕の間は千二百由旬であった。胸の厚みは六百由旬。手のひらと足の裏の幅は三百由旬。指の関節は五十由旬。眉の間は五十由旬。口は幅二百由旬、深さ三百由旬、周囲三百由旬。首は三百由旬。額は三百由旬。頭は九百由旬であった。「私は背が高い。身をかがめて師を見下ろすことはできないだろう」と考えてやって来なかった。彼はある日、世尊の徳を聞いて、「どうにかして見てみよう」とやって来た。

Atha bhagavā tassajjhāsayaṃ viditvā – ‘‘catūsu iriyāpathesu katarena dassessāmī’’ti cintetvā ‘‘ṭhitako nāma nīcopi ucco viya paññāyati. Nipannovassa attānaṃ dassessāmī’’ti ‘‘ānanda, gandhakuṭipariveṇe mañcakaṃ paññāpehī’’ti vatvā tattha sīhaseyyaṃ kappesi. Rāhu āgantvā nipannaṃ bhagavantaṃ gīvaṃ unnāmetvā nabhamajjhe puṇṇacandaṃ viya ullokesi. Kimidaṃ asurindāti ca vutte – ‘‘bhagavā onamitvā oloketuṃ na sakkhissāmī’’ti nāgacchinti. Na mayā, asurinda, adhomukhena pāramiyo pūritā. Uddhaggameva katvā dānaṃ dinnanti. Taṃ divasaṃ rāhu saraṇaṃ agamāsi. Evaṃ bhagavā akhuddāvakāso dassanāya.

そこで世尊は彼の意図を知り、「四つの威儀(立ち振る舞い)のうちどれによって示そうか」と考え、「立っている者は低くても高く見えるものである。横たわって彼に姿を示そう」と、「アーナンダよ、香房の周辺に寝台を用意しなさい」と言われ、そこで獅子の横たわりをされた。ラーフがやって来て、横たわっておられる世尊を、首をもたげて天空の満月を見上げるように見上げた。「どうしたのか、阿修羅王よ」と問われると、「世尊よ、身をかがめて見下ろすことができないと思い、参りませんでした」と答えた。「阿修羅王よ、私は下を向いて波羅蜜を満たしたのではない。上を向いて布施を施したのだ」と。その日、ラーフは帰依した。このように世尊は、その姿を観るのに狭い余地がないのである。

Catupārisuddhisīlena sīlavā, taṃ pana sīlaṃ ariyaṃ uttamaṃ parisuddhaṃ. Tenāha – ‘‘ariyasīlī’’ti. Tadetaṃ anavajjaṭṭhena kusalaṃ. Tenāha – ‘‘kusalasīlī’’ti. Kusalasīlenāti idamassa vevacanaṃ.

四種清浄戒によって「有戒者」であり、その戒は聖なるものであり、最上で清浄である。それゆえに「聖なる戒をもつ者」と説かれた。それは過失がないという意味において善いものである。それゆえに「善き戒をもつ者」と説かれた。「善き戒によって」とはこれの同義語である。

Bahūnaṃ ācariyapācariyoti bhagavato ekekāya dhammadesanāya caturāsītipāṇasahassāni aparimāṇāpi devamanussā maggaphalāmataṃ pivanti, tasmā bahūnaṃ ācariyo. Sāvakaveneyyānaṃ pana pācariyoti.

「多くの人々の師の師匠」とは、世尊の一回の説法によって八万四千の、また無数の神々と人間たちが道果の不死(甘露)を飲むゆえに、多くの人々の師である。しかし教化されるべき弟子たちにとっては師の師匠である。

Khīṇakāmarāgoti ettha kāmaṃ bhagavato sabbepi kilesā khīṇā. Brāhmaṇo pana te na jānāti. Attano jānanaṭṭhāneyeva guṇaṃ katheti. Vigatacāpalloti – ‘‘pattamaṇḍanā cīvaramaṇḍanā senāsanamaṇḍanā imassa vā pūtikāyassa…pe… kelanā paṭikelanā’’ti (vibha. 854) evaṃ vuttacāpallā virahito.

「愛欲への執着を滅尽した」において、確かに世尊はすべての煩悩を滅尽しておられる。しかしバラモンはそのことを知るわけではない。自らの知る範囲においてその徳を語っているのである。「浮薄さ(軽薄さ)を離れた」とは、「鉢の装飾、衣の装飾、座臥所の装飾、あるいはこの腐敗した身体の……愛着や執着」(分別論八五四)とこのように説かれた浮薄さを離れていることである。

Apāpapurekkhāroti apāpe nava lokuttaradhamme purato katvā vicarati. Brahmaññāya pajāyāti sāriputtamoggallānamahākassapādibhedāya brāhmaṇapajāya, etissāya ca pajāya purekkhāro. Ayañhi pajā samaṇaṃ gotamaṃ purakkhatvā caratīti attho. Api ca apāpapurekkhāroti na pāpaṃ purekkhāro na pāpaṃ purato katvā carati, na pāpaṃ icchatīti attho. Kassa? Brahmaññāya pajāya. Attanā saddhiṃ paṭiviruddhāyapi brāhmaṇapajāya aviruddho hitasukhatthiko yevāti vuttaṃ hoti.

「悪を前に置かぬ者」とは、悪ではない九つの出世間法を前に掲げて歩むこと。「清浄なる(バラモンたる)人々において」とは、サーリプッタ、モッガッラーナ、マハーカッサパなどに区分される真のバラモンの人々においてであり、これらの人々を率いる者である。実にこの人々は沙門ゴータマを先頭に戴いて歩むという意味である。さらにまた「悪を前に置かぬ者」とは、悪を前に掲げず、悪を先にして歩まず、悪を望まないという意味である。誰に対してか?清浄なる人々に対して。自分に対して敵対するバラモンの人々に対しても敵対することなく、ただ利益と幸福を望む者である、ということである。

Tiroraṭṭhāti pararaṭṭhato. Tirojanapadāti parajanapadato. Pañhaṃ pucchituṃ āgacchantīti khattiyapaṇḍitādayo ceva devabrahmanāgagandhabbādayo ca – ‘‘pañhe abhisaṅkharitvā pucchissāmā’’ti āgacchanti. Tattha keci pucchāya vā dosaṃ vissajjanasampaṭicchane vā asamatthataṃ sallakkhetvā apucchitvāva tuṇhī nisīdanti. Keci pucchanti. Kesañci bhagavā pucchāya ussāhaṃ janetvā vissajjeti. Evaṃ sabbesampi tesaṃ vimatiyo tīraṃ patvā mahāsamuddassa ūmiyo viya bhagavantaṃ patvā bhijjanti.

「他の国からも」とは他の王国から。「他の地方からも」とは他の地方から。「問いを尋ねるためにやって来る」とは、賢者たる王族たちや神々、梵天、竜、乾闥婆などが、「問いを構想して尋ねよう」とやって来る。その際、ある者たちは問いの欠陥や、あるいは答えを受け止める能力のなさに気づいて、問うこともなく沈黙して座る。ある者たちは問う。世尊はある者たちに質問への意欲を生じさせて答えられる。このように彼らすべての疑念は、岸に至った大海の波のように、世尊に至って打ち砕かれるのである。

Ehi svāgatavādīti devamanussapabbajitagahaṭṭhesu taṃ taṃ attano santikaṃ āgataṃ – ‘‘ehi svāgata’’nti evaṃ vadatīti attho. Sakhiloti tattha katamaṃ sākhalyaṃ? ‘‘Yā sā vācā nelā kaṇṇasukhā’’tiādinā nayena vuttasākhalyena samannāgato, muduvacanoti attho. Sammodakoti paṭisanthārakusalo, āgatāgatānaṃ catunnaṃ parisānaṃ – ‘‘kacci, bhikkhave, khamanīyaṃ, kacci yāpanīya’’ntiādinā nayena sabbaṃ addhānadarathaṃ vūpasamento viya paṭhamataraṃ sammodanīyaṃ kathaṃ kattāti attho. Abbhākuṭikoti yathā ekacce parisaṃ patvā thaddhamukhā saṅkuṭitamukhā honti, na ediso, parisadassanena panassa bālātapasamphassena viya padumaṃ mukhapadumaṃ vikasati puṇṇacandasassirikaṃ hoti. Uttānamukhoti yathā ekacce nikujjitamukhā viya sampattāya parisāya na kiñci kathenti, atidullabhakathā honti, na evarūpo. Samaṇo pana gotamo sulabhakatho. Na tassa santikaṃ āgatāgatānaṃ – ‘‘kasmā mayaṃ idhāgatā’’ti vippaṭisāro uppajjati dhammaṃ pana sutvā attamanāva hontīti dasseti. Pubbabhāsīti bhāsanto ca paṭhamataraṃ bhāsati, tañca kho kālayuttaṃ pamāṇayuttaṃ atthanissitameva bhāsati, na niratthakakathaṃ.

「『よく来られた、歓迎する』と語る方」とは、神々や人間、出家者や在家者のうち、自らの御許へやって来たそれぞれに対して「来なさい、歓迎する」とこのように語るという意味である。「温和な」とは、そこでの温和さとは何か?「あの言葉は過失がなく耳に快い」などの方法によって説かれた親しみやすさを具足しており、優しい言葉を語る者という意味である。「歓迎する者」とは歓待に巧みな者であり、やって来た四部の会衆に対して「比丘たちよ、堪え忍ぶことができるか、生活は維持できているか」などの方法によって、旅の疲れをすべて鎮めるかのように、何よりも先に歓迎の対話をする者という意味である。「眉をひそめぬ方」とは、ある人々が集会に至って硬い表情になり顔をしかめるのに対して、この方はそうではなく、集会を見ることで、あたかも朝日の光に触れた蓮華のようにその御顔の蓮華がほころび、満月のような輝きをもつ。「打ち解けた御顔の方」とは、ある人々がまるで顔を伏せたかのように、やって来た集会に対して何も語らず、言葉を交わすのが極めて難しいのに対して、この方はそうではない。沙門ゴータマは語りかけることが容易な方である。その御許にやって来た者たちに「なぜ私たちはここへ来たのか」という後悔が生じることはなく、法を聞いて大いに喜ぶのであると示している。「先んじて語る方」とは、語るときには誰よりも先に語り、しかも適切な時に、適切な分量で、有益なことだけを語り、無益な話はなさらない。

Na tasmiṃ gāme vāti yattha kira bhagavā paṭivasati, tattha mahesakkhā devatā ārakkhaṃ gaṇhanti, taṃ nissāya manussānaṃ upaddavo na hoti, paṃsupisācakādayoyeva hi manusse viheṭhenti, te tāsaṃ ānubhāvena dūraṃ apakkamanti. Api ca bhagavato mettābalenapi na amanussā manusse viheṭhenti.

「その村において、ない」とは、世尊が住まわれる場所には偉大な威徳をもつ神々が見張りをし、それによって人々に災難が起こらない。土着の鬼神(土霊)たちこそが人々を苦しめるが、神々の威光によって遠くへ逃げ去るからである。さらにまた、世尊の慈悲の力によっても非人(鬼神)たちが人々を苦しめることはない。

Saṅghītiādīsu anusāsitabbo sayaṃ vā uppādito saṅgho assa atthīti saṅghī. Tādiso cassa gaṇo atthīti gaṇī. Purimapadasseva vā vevacanametaṃ. Ācārasikkhāpanavasena gaṇassa ācariyoti gaṇācariyo. Puthutitthakarānanti bahūnaṃ titthakarānaṃ. Yathā vā tathā vāti yena vā tena vā acelakādimattakenāpi kāraṇena. Samudāgacchatīti samantato upagacchati abhivaḍḍhati.

「衆ある者」等において、指導すべき、あるいは自ら教化した集団(サンガ)を持つので「衆ある者」である。そのような集団を持つので「集団ある者(ガニー)」である。あるいはこれは前の言葉の同義語である。行儀作法を教えることによる集団の指導者であるから「集団の師(ガナーチャリヤ)」である。「多くの開祖たち」とは多くの異教徒の師たちのこと。「どのようにであれ」とは、無着衣(裸形)などのわずかな理由によってであれ。「集まってくる」とは、四方から集まり、増大する。

Atithi no te hontīti te amhākaṃ āgantukā, navakā pāhunakā hontīti attho. Pariyāpuṇāmīti jānāmi. Aparimāṇavaṇṇoti tathārūpeneva sabbaññunāpi appameyyavaṇṇo – ‘‘pageva mādisenā’’ti dasseti. Vuttampi cettaṃ –

「私たちの客となる」とは、彼らは私たちの旅人であり、新参の賓客となるという意味である。「知っている」とは理解している。「無量の徳をもつ」とは、そのように一切知者であっても測り知れない徳を持つのであり、「ましてや私のような者においては言うまでもない」ということを示している。このように説かれてもいる。

‘‘Buddhopi buddhassa bhaṇeyya vaṇṇaṃ,

「たとえ仏陀が仏陀の徳を語り、

Kappampi ce aññamabhāsamāno;

一劫の間、他のことを語らなくとも、

Khīyetha kappo ciradīghamantare,

長い時を経た劫は尽きるであろうが、

Vaṇṇo na khīyetha tathāgatassā’’ti.

如来の徳は尽きることがない」と。

305. Imaṃ pana satthu guṇakathaṃ sutvā te brāhmaṇā cintayiṃsu – yathā soṇadaṇḍo brāhmaṇo samaṇassa gotamassa vaṇṇe bhaṇati, anomaguṇo so bhavaṃ gotamo; evaṃ tassa guṇe jānamānena kho pana ācariyena aticiraṃ adhivāsitaṃ, handa naṃ anuvattāmāti anuvattiṃsu. Tasmā evaṃ vutte ‘‘te brāhmaṇā’’tiādi vuttaṃ. Tattha alamevāti yuttameva. Api puṭosenāti puṭosaṃ vuccati pātheyyaṃ, taṃ gahetvāpi upasaṅkamituṃ yuttamevāti attho. Puṭaṃsenātipi pāṭho, tassattho, puṭo aṃse assāti puṭaṃso, tena puṭaṃsena. Aṃsena hi pātheyyapuṭaṃ vahantenāpīti vuttaṃ hoti.

305. この師の徳の説示を聞いて、それらのバラモンたちは考えた。「ソーナダンダ・バラモンが沙門ゴータマの徳を語るように、あの尊者ゴータマは並外れた徳をお持ちである。そのように彼の徳を知りながら、我が師はずっと放置してこられた。さあ、師に従おう」と、彼らに同意した。それゆえに、このように言われたとき、「それらのバラモンたちは」等と説かれた。そこにおいて、「十分である」とはまさに適切であること。「携帯食用の袋を肩にかけてでも」とは、プタオーサとは旅の食糧をいい、それを持ってでも近づくことがまさに適切であるという意味である。「プタムセーナ」という読みもあり、その意味は、肩に袋を持つ者(プタ・アンサ)であり、その「肩に袋を背負うことによって」である。肩に食糧袋を担いででも、と言っているのである。

Soṇadaṇḍaparivitakkavaṇṇanā

ソーナダンダの思惟の解釈

306-308. Tirovanasaṇḍagatassāti antovanasaṇḍe gatassa, vihārabbhantaraṃ paviṭṭhassāti attho. Añjaliṃ paṇāmetvāti ete ubhatopakkhikā, te evaṃ cintayiṃsu – ‘‘sace no micchādiṭṭhikā codessanti – ‘kasmā tumhe samaṇaṃ gotamaṃ vanditthā’ti? Tesaṃ – ‘kiṃ añjalimattakaraṇenāpi vandanaṃ nāma hotī’ti vakkhāma. Sace no sammādiṭṭhikā codessanti – ‘kasmā tumhe bhagavantaṃ na vanditthā’ti. ‘Kiṃ sīsena bhūmiyaṃ paharanteneva vandanaṃ nāma hoti, nanu añjalikammampi vandanaṃ evā’ti vakkhāmā’’ti. Nāmagottanti ‘‘bho, gotama, ahaṃ asukassa putto datto nāma, mitto nāma, idhāgato’’ti vadantā nāmaṃ sāventi nāma. ‘‘Bho, gotama, ahaṃ vāseṭṭho nāma, kaccāno nāma, idhāgato’’ti vadantā gottaṃ sāventi nāma. Ete kira daliddā jiṇṇā kulaputtā ‘‘parisamajjhe nāmagottavasena pākaṭā bhavissāmā’’ti evamakaṃsu. Ye pana tuṇhībhūtā nisīdiṃsu, te kerāṭikā ceva andhabālā ca. Tattha kerāṭikā – ‘‘ekaṃ dve kathāsallāpepi karonto vissāsiko hoti, atha vissāse sati ekaṃ dve bhikkhā adātuṃ na yutta’’nti tato attānaṃ mocetvā tuṇhī nisīdanti. Andhabālā aññāṇatāyeva avakkhittamattikāpiṇḍo viya yattha katthaci tuṇhībhūtā nisīdanti.

306-308. 「林に入ったとき」とは、林の中に入り、精舎の内に入ったときという意味である。「合掌して」とは、彼ら(一部の者)は日和見主義者であり、こう考えた。「もし邪見の者たちが『なぜお前たちは沙門ゴータマに礼拝したのか』と非難するなら、彼らには『単に合掌しただけで礼拝したことになるのか』と言おう。もし正見の者たちが『なぜあなた方は世尊に礼拝しなかったのか』と非難するなら、『頭を地につけて打ちつけることだけが礼拝なのか。合掌することもまさに礼拝ではないか』と言おう」と。「名と家柄を」とは、「尊者ゴータマよ、私は某の息子で、ダッタという名です、ミッタという名です、ここへ来ました」と言いながら名を告げ知らせる。「尊者ゴータマよ、私はヴァーセッタ姓です、カッチャーナ姓です、ここへ来ました」と言いながら家柄を告げ知らせる。彼らは貧しく落ちぶれた名家の息子たちであり、「会衆の中で名と家柄によって有名になろう」としてこのようにしたのである。他方、沈黙して座った者たちは、詐欺師かあるいは愚か者たちである。そのうち詐欺師たちは、「一つ二つの対話をするだけでも親しくなってしまう。親しくなれば、一つ二つの布施をしないわけにはいかなくなる」と、そこから身を引いて沈黙して座る。愚か者たちは、無知ゆえに投げ捨てられた粘土の塊のように、どこであれ沈黙して座っているのである。

Brāhmaṇapaññattivaṇṇanā

バラモンの規定の解釈

309-310. Cetasā cetoparivitakkanti bhagavā – ‘‘ayaṃ brāhmaṇo āgatakālato paṭṭhāya adhomukho thaddhagatto kiṃ cintayamāno nisinno, kiṃ nu kho cintetī’’ti āvajjanto attano cetasā tassa cittaṃ aññāsi. Tena vuttaṃ – ‘‘cetasā cetoparivitakkamaññāyā’’ti. Vihaññatīti vighātaṃ āpajjati. Anuviloketvā parisanti bhagavato sakasamaye pañhapucchanena udake miyamāno ukkhipitvā thale ṭhapito viya samapassaddhakāyacitto hutvā parisaṃ saṅgaṇhanatthaṃ diṭṭhisañjāneneva ‘‘upadhārentu me bhonto vacana’’nti vadanto viya anuviloketvā parisaṃ bhagavantaṃ etadavoca.

309-310. 「心によって心の思惟を」とは、世尊は「このバラモンはやって来てからずっと、うつむいて身体を強張らせて何を考えながら座っているのか、いったい何を考えているのか」と観察し、自らの心によって彼の心を察知された。それゆえに「心によって心の思惟を知って」と説かれた。「悩まされる」とは、苦悩に陥る。「会衆を見回して」とは、世尊が自らの教義に従って質問されたことにより、水中で溺れかけていた者が引き上げられて陸地に置かれたかのように、心身ともに静まり、「諸君よ、私の言葉を吟味してくれ」と視線で合図しながら会衆を引き留めようとするかのように、会衆を見回して世尊にこう申し上げたのである。

311-313. Sujaṃ paggaṇhantānanti yaññayajanatthāya sujaṃ gaṇhantesu brāhmaṇesu paṭhamo vā dutiyo vāti attho. Sujāya diyyamānaṃ mahāyāgaṃ paṭiggaṇhantānanti porāṇā. Iti brāhmaṇo sakasamayavasena sammadeva pañhaṃ vissajjesi. Bhagavā pana visesato uttamabrāhmaṇassa dassanatthaṃ – ‘‘imesaṃ panā’’tiādimāha. Etadavocunti sace jātivaṇṇamantasampanno brāhmaṇo na hoti, atha ko carahi loke brāhmaṇo bhavissati? Nāseti no ayaṃ soṇadaṇḍo, handassa vādaṃ paṭikkhipissāmāti cintetvā etadavocuṃ. Apavadatīti paṭikkhipati. Anupakkhandatīti anupavisati. Idaṃ – ‘‘sace tvaṃ pasādavasena samaṇaṃ gotamaṃ saraṇaṃ gantukāmo, gaccha; mā brāhmaṇassa samayaṃ bhindī’’ti adhippāyena āhaṃsu.

311-313. 「祭杓を取る者たちの」とは、祭祀を行うために祭杓を取るバラモンたちの中で、一番目あるいは二番目であるという意味である。「祭杓によって与えられる大いなる供物を受け取る者たちの中で」とは古代の註釈家たちの説である。このようにバラモンは自らの教義に従って正しく問いに答えた。しかし世尊は、特に最上のバラモンを示すために「しかしこれらのうちで」等と仰せられた。「こう言った」とは、もし生まれや容姿やマントラの具足がバラモンでないなら、いったい誰がこの世でバラモンとなるのか。このソーナダンダは私たちを破滅させようとしている、さあ彼の主張を論破しよう、と考えてこう言ったのである。「非難する」とは拒絶すること。「非難して立ち入る」とは割り込むこと。これは「もしあなたが信順の心によって沙門ゴータマに帰依したいのなら、行きなさい。バラモンの教義を壊すな」という意図で言ったのである。

314. Etadavocāti imesu brāhmaṇesu evaṃ ekappahāreneva viravantesu ‘‘ayaṃ kathā pariyosānaṃ na gamissati, handa ne nissadde katvā soṇadaṇḍeneva saddhiṃ kathemī’’ti cintetvā – ‘‘etaṃ sace kho tumhāka’’ntiādikaṃ vacanaṃ avoca.

314. 「こう言われた」とは、これらのバラモンたちがこのように一斉に騒ぎ立てたとき、「この話は決着がつかないだろう。さあ、彼らを静かにさせてソーナダンダとだけ語り合おう」と考えられて、「もし諸君が……」という言葉を仰せられたのである。

315-316. Sahadhammenāti sakāraṇena. Samasamoti ṭhapetvā ekadesasamattaṃ samabhāvena samo, sabbākārena samoti attho. Ahamassa mātāpitaro jānāmīti bhaginiyā puttassa mātāpitaro kiṃ na jānissati, kulakoṭiparidīpanaṃ sandhāyeva vadati. Musāvādampi bhaṇeyyāti atthabhañjanakaṃ musāvādaṃ katheyya. Kiṃ vaṇṇo karissatīti abbhantare guṇe asati kiṃ karissati? Kimassa brāhmaṇabhāvaṃ rakkhituṃ sakkhissatīti attho. Athāpi siyā puna – ‘‘pakatisīle ṭhitassa brāhmaṇabhāvaṃ sādhentī’’ti evampi sīlameva sādhessati, tasmiṃ hissa asati brāhmaṇabhāvo nāhosīti sammohamattaṃ vaṇṇādayo. Idaṃ pana sutvā te brāhmaṇā – ‘‘sabhāvaṃ ācariyo āha, akāraṇāva mayaṃ ujjhāyimhā’’ti tuṇhī ahesuṃ.

315-316. 「理にかなったことによって」とは根拠をもって。「同等である」とは、一部分の同等性を除いて、全体的なあり方において同等であり、あらゆる様態において同等であるという意味である。「私は彼の父母を知っている」とは、姉妹の息子の父母をどうして知らないことがあろうか、家系の完璧さを明かすことを指して言っているのである。「偽りを語るだろうか」とは、目的を損なうような嘘を語るだろうか。「容貌が何をしてくれようか」とは、内面に徳がないのに何になろうか、彼のバラモンの身分を守ることができるだろうかという意味である。さらにまた「本来の戒律に留まる者のバラモンの身分を達成させる」ということがあるかもしれないが、そのようにしても戒こそが達成させるのであり、それが彼になければバラモンの身分はあり得ず、容貌などは単なる惑わしにすぎない。これを聞いてそれらのバラモンたちは、「師は真実を語られた。私たちは根拠もなく怒っていた」と沈黙した。

Sīlapaññākathāvaṇṇanā

戒と智慧の説示の解釈

317. Tato bhagavā ‘kathito brāhmaṇena pañho, kiṃ panettha patiṭṭhātuṃ sakkhissati, na sakkhissatī’ti? Tassa vīmaṃsanatthaṃ – ‘‘imesaṃ pana brāhmaṇā’’tiādimāha. Sīlaparidhotāti sīlaparisuddhā. Yattha sīlaṃ tattha paññāti yasmiṃ puggale sīlaṃ, tattheva paññā, kuto dussīle paññā? Paññārahite vā jaḷe eḷamūge kuto sīlanti? Sīlapaññāṇanti sīlañca paññāṇañca sīlapaññāṇaṃ. Paññāṇanti paññāyeva. Evametaṃ brāhmaṇāti bhagavā brāhmaṇassa vacanaṃ anujānanto āha. Tattha sīlaparidhotā paññāti catupārisuddhisīlena dhotā. Kathaṃ pana sīlena paññaṃ dhovatīti? Yassa puthujjanassa sīlaṃ saṭṭhiasītivassāni akhaṇḍaṃ hoti, so maraṇakālepi sabbakilese ghātetvā sīlena paññaṃ dhovitvā arahattaṃ gaṇhāti. Kandarasālapariveṇe mahāsaṭṭhivassatthero viya. There kira maraṇamañce nipajjitvā balavavedanāya nitthunante, tissamahārājā ‘‘theraṃ passissāmī’’ti gantvā pariveṇadvāre ṭhito taṃ saddaṃ sutvā pucchi – ‘‘kassa saddo aya’’nti? Therassa nitthunanasaddoti. ‘‘Pabbajjāya saṭṭhivassena vedanāpariggahamattampi na kataṃ, na dāni naṃ vandissāmī’’ti nivattitvā mahābodhiṃ vandituṃ gato. Tato upaṭṭhākadaharo theraṃ āha – ‘‘kiṃ no, bhante, lajjāpetha, saddhopi rājā vippaṭisārī hutvā na vandissāmī’’ti gatoti. Kasmā āvusoti? Tumhākaṃ nitthunanasaddaṃ sutvāti. ‘‘Tena hi me okāsaṃ karothā’’ti vatvā vedanaṃ vikkhambhitvā arahattaṃ patvā daharassa saññaṃ adāsi – ‘‘gacchāvuso, idāni rājānaṃ amhe vandāpehī’’ti. Daharo gantvā – ‘‘idāni kira theraṃ, vandathā’’ti āha. Rājā saṃsumārapatitena theraṃ vandanto – ‘‘nāhaṃ ayyassa arahattaṃ vandāmi, puthujjanabhūmiyaṃ pana ṭhatvā rakkhitasīlameva vandāmī’’ti āha, evaṃ sīlena paññaṃ dhovati nāma. Yassa pana abbhantare sīlasaṃvaro natthi, ugghāṭitaññutāya pana catuppadikagāthāpariyosāne paññāya sīlaṃ dhovitvā saha paṭisambhidāhi arahattaṃ pāpuṇāti. Ayaṃ paññāya sīlaṃ dhovati nāma. Seyyathāpi santatimahāmatto.

317. そこで世尊は、「バラモンによって問いは答えられたが、果たしてこの点に踏みとどまることができるだろうか、できないだろうか」と彼を試すために、「しかしバラモンよ、これらのうちで……」等と仰せられた。「戒によって清められた」とは、戒によって清浄になったこと。「戒のあるところに智慧がある」とは、その人に戒があるところにまさに智慧があるのであり、破戒の者にどうして智慧があろうか。あるいは智慧のない愚かで啞の者にどうして戒があろうか。「戒と智慧」とは戒と智慧のことである。「智慧(パンニャーナ)」とは智慧(パンニャー)そのものである。「バラモンよ、その通りである」とは、世尊がバラモンの言葉を認めながら仰せられた。そこにおいて「戒によって清められた智慧」とは、四種清浄戒によって洗われたことである。ではどのように戒によって智慧を洗うのか。ある凡夫の戒が六十年間、八十年間と破られることがないならば、彼は臨終の時であってもすべての煩悩を滅ぼし、戒によって智慧を洗って阿羅漢果を得る。カンダラサーラ院のマハーサッティヴァッサ(六十歳)長老のように。その長老が臨終の床に横たわり激痛のために呻いていたとき、ティッサ大王が「長老を見舞おう」と赴いて院の門前に立ち、その声を聞いて尋ねた。「これは誰の声か」と。「長老の呻き声です」と。「出家して六十年にもなるのに、苦痛の観察(把握)すらできていないとは。もう彼を礼拝しない」と引き返し、大菩提樹を礼拝しに行った。そこで給仕の若い比丘が長老に言った。「尊者よ、なぜ私たちに恥をかかせるのですか。信仰深かった大王も失望して『礼拝しない』と帰ってしまいました」と。「なぜだ、友よ」と。「あなたの呻き声を聞いたからです」と。「それなら、私に機会をくれ」と言って、痛みを抑え込んで阿羅漢果に達し、若い比丘に合図した。「友よ、行きなさい。今こそ大王に私を礼拝させなさい」と。若い比丘は行って、「今こそ長老を礼拝してください」と言った。王はトカゲのように地にひれ伏して長老を礼拝し、「私は尊者の阿羅漢果を礼拝するのではありません。凡夫の境地に踏みとどまって守り抜かれた戒そのものを礼拝するのです」と語った。このように戒によって智慧を洗うというのである。一方、内面に戒の防護がない者が、鋭い理解力(即解)によって四句の詩偈の終わりに智慧によって戒を洗い、無礙解とともに阿羅漢果に達することがある。これが智慧によって戒を洗うというのである。サンタティ大臣のように。

318. Katamaṃ pana taṃ brāhmaṇāti kasmā āha? Bhagavā kira cintesi – ‘‘brāhmaṇā brāhmaṇasamaye pañcasīlāni ‘sīla’nti paññāpenti, vedattayauggahaṇapaññā paññāti. Uparivisesaṃ na jānanti. Yaṃnūnāhaṃ brāhmaṇassa uttarivisesabhūtaṃ maggasīlaṃ, phalasīlaṃ, maggapaññaṃ, phalapaññañca dassetvā arahattanikūṭena desanaṃ niṭṭhapeyya’’nti. Atha naṃ kathetukamyatāya pucchanto – ‘‘katamaṃ pana taṃ, brāhmaṇa, sīlaṃ katamā sā paññā’’ti āha. Atha brāhmaṇo – ‘‘mayā sakasamayavasena pañho vissajjito. Samaṇo pana maṃ gotamo puna nivattitvā pucchati, idānissāhaṃ cittaṃ paritosetvā vissajjituṃ sakkuṇeyyaṃ vā na vā? Sace na sakkhissaṃ paṭhamaṃ uppannāpi me lajjā bhijjissati. Asakkontassa pana na sakkomīti vacane doso natthī’’ti puna nivattitvā bhagavatoyeva bhāraṃ karonto ‘‘ettakaparamāva maya’’ntiādimāha. Tattha ettakaparamāti ettakaṃ sīlapaññāṇanti vacanameva paramaṃ amhākaṃ, te mayaṃ ettakaparamā, ito paraṃ etassa bhāsitassa atthaṃ na jānāmāti attho.

318. 「しかしバラモンよ、その戒とは何か」となぜ問われたのか。世尊はこう考えられた。「バラモンたちはバラモンの教義において五戒を『戒』と定め、三ヴェーダを習得する知恵を『智慧』と定めている。それより上の卓越した境地を知らない。私はバラモンに、さらに勝れた卓越した境地である道戒、果戒、道智、果智を示し、阿羅漢果の頂点をもって説法を締めくくろう」と。そこで彼に語りたいと望んで問いかけ、「しかしバラモンよ、その戒とは何か、その智慧とは何か」と仰せられた。そこでバラモンは考えた。「私は自らの教義に従って問いに答えた。しかし沙門ゴータマは再び立ち戻って質問してこられる。今、私は彼の心を満足させて答えることができるだろうか、できないだろうか。もしできなければ、最初に生じた私の恥辱の念は打ち砕かれてしまう(恥をさらしてしまう)。しかし、できない者が『できません』と言うことには何の落ち度もない」と、再び世尊に委ねて、「私たちにはこれだけが最上です」等と申し上げた。そこにおいて「これだけが最上」とは、この「戒と智慧」という言葉そのものが私たちの最上のものであり、私たちにはこれだけが限界であって、これ以上にこの説かれたことの意味を知りません、という意味である。

Athassa bhagavā sīlapaññāya mūlabhūtassa tathāgatassa uppādato pabhuti sīlapaññāṇaṃ dassetuṃ – ‘‘idha brāhmaṇa, tathāgato’’tiādimāha. Tassattho sāmaññaphale vuttanayeneva veditabbo, ayaṃ pana viseso, idha tividhampi sīlaṃ – ‘‘idampissa hoti sīlasmi’’nti evaṃ sīlamicceva niyyātitaṃ paṭhamajjhānādīni cattāri jhānāni atthato paññāsampadā. Evaṃ paññāvasena pana aniyyātetvā vipassanāpaññāya padaṭṭhānabhāvamattena dassetvā vipassanāpaññāto paṭṭhāya paññā niyyātitāti.

そこで世尊は彼に、戒と智慧の根本である如来の出現から始まって戒と智慧を示すために、「バラモンよ、ここに如来が……」等と仰せられた。その意味は沙門果経で説かれた方法によって知るべきであるが、ここに特異点がある。ここでは三種の戒も「これもまた彼の戒において存在する」とこのように戒としてのみ配分され、初禅などの四つの禅定は意味の上では智慧の具足であるが、このように智慧としては配分されず、ヴィパッサナー(観)の智慧の直接の原因(足場)であることだけを示して、ヴィパッサナーの智慧以降が智慧として配分されている。

Soṇadaṇḍaupāsakattapaṭivedanākathā

ソーナダンダの信徒としての告白の説示

319-322. Svātanāyāti padassa attho ajjatanāyāti ettha vuttanayeneva veditabbo. Tena maṃ sā parisā paribhaveyyāti tena tumhe dūratova disvā āsanā vuṭṭhitakāraṇena maṃ sā parisā – ‘‘ayaṃ soṇadaṇḍo pacchimavaye ṭhito mahallako, gotamo pana daharo yuvā nattāpissa nappahoti, so nāma attano nattumattabhāvampi appattassa āsanā vuṭṭhātī’’ti paribhaveyya. Āsanā me taṃ bhavaṃ gotamo paccuṭṭhānanti mama agāravena avuṭṭhānaṃ nāma natthi, bhoganāsanabhayena pana na vuṭṭhahissāmi, taṃ tumhe hi ceva mayā ca ñātuṃ vaṭṭati. Tasmā āsanā me etaṃ bhavaṃ gotamo paccuṭṭhānaṃ dhāretūti, iminā kira sadiso kuhako dullabho, bhagavati panassa agāravaṃ nāma natthi, tasmā bhoganāsanabhayā kuhanavasena evaṃ vadati. Parapadesupi eseva nayo. Dhammiyā kathāyātiādīsu taṅkhaṇānurūpāya dhammiyā kathāya diṭṭhadhammikasamparāyikaṃ atthaṃ sandassetvā kusale dhamme samādapetvā gaṇhāpetvā. Tattha naṃ samuttejetvā saussāhaṃ katvā tāya ca saussāhatāya aññehi ca vijjamānaguṇehi sampahaṃsetvā dhammaratanavassaṃ vassitvā uṭṭhāyāsanā pakkāmi. Brāhmaṇo pana attano kuhakatāya evampi bhagavati dhammavassaṃ vassite visesaṃ nibbattetuṃ nāsakkhi. Kevalamassa āyatiṃ nibbānatthāya vāsanābhāgiyāya ca sabbā purimapacchimakathā ahosīti.

319-322. 「明日のために」という語の意味は、「今日のために」において説かれた方法によって知るべきである。「それによってその会衆が私を軽蔑するでしょう」とは、それによって、あなたがたが遠くから来られるのを見て私が座から立ち上がったという理由で、その会衆が「このソーナダンダは晩年に達した長老であり、ゴータマは若く青二才で彼の孫にも及ばない。その彼が、自分の孫ほどにも満たない者のために座から立ち上がるとは」と軽蔑するでしょう。「私の座からの立ち上がりを、尊者ゴータマは……」とは、私に敬意がないために立ち上がらないわけではありませんが、財産を失う恐れから立ち上がりません。そのことをあなたも私も承知しておくべきです。それゆえに尊者ゴータマは、これを私の座からの立ち上がりと見なしてください、ということである。これほどのごまかし屋(偽善者)は稀であるという。しかし彼には世尊への不敬はなく、財産を失う恐れからごまかしのためにこのように言っているのである。他の句においても同じ方法である。「法話によって」等において、その場に適した法話によって現世と来世の利益を示し、善き法へと勧め、受け入れさせ、そこで彼を励まし、意欲を起こさせ、その意欲と他の現存する徳によって喜ばせ、法宝の雨を降らせて、座から立ち上がって立ち去られた。しかしバラモンは自らのごまかしの心ゆえに、このように世尊によって法の雨が降らされたにもかかわらず、卓越した境地(証得)を生じさせることができなかった。ただ彼の未来の涅槃のための薫習(善き習気)のために、すべての前後の対話がなされたのである。

Iti sumaṅgalavilāsiniyā dīghanikāyaṭṭhakathāyaṃ

以上で、長部経典の註釈書『スマンガラ・ヴィラーシニー』における、

Soṇadaṇḍasuttavaṇṇanā niṭṭhitā.

種徳経の註解を終わる。