11. Kevaṭṭasuttavaṇṇanā11. ケーヴァッタ経(堅固経)の解説
Kevaṭṭagahapatiputtavatthuvaṇṇanā
長者子ケーヴァッタの事績の解説
481. Pāvārikambavaneti pāvārikaseṭṭhino ambabahule upavane. Taṃ kira so seṭṭhī bhagavato anucchavikaṃ gandhakuṭiṃ, bhikkhusaṅghassa ca rattiṭṭhānadivāṭṭhānakuṭimaṇḍapādīni sampādetvā pākāraparikkhittaṃ dvārakoṭṭhakasampannaṃ katvā buddhappamukhassa saṅghassa niyyātesi, purimavohārena pana ‘‘pāvārikambavana’’nti vuccati, tasmiṃ pāvārikambavane. Kevaṭṭoti idaṃ tassa nāmaṃ kevaṭṭehi saṃrakkhitattā, tesaṃ vā santike saṃvaḍḍhitattāti keci. ‘‘Gahapatiputtassā’’ti ettha kāmaṃ tadā so gahapatiṭṭhāne ṭhito, pitu panassa acirakālaṃkatatāya purimasamaññāya ‘‘gahapatiputto’’ tveva voharīyati, tenāha **‘‘gahapati mahāsālo’’**ti. Mahāvibhavatāya mahāsāro, gahapatīti attho ra-kārassa la-kāraṃ katvā ‘‘mahāsālo sukhumālo aha’’ntiādīsu (a. ni. 3.39) viya. Saddhāsampannoti pothujjanikāya saddhāya vasena saddhā samannāgato.
481. パーヴァーリカのマンゴー林においてとは、パーヴァーリカ長者のマンゴーが豊かな庭園においてのことである。伝えられるところによれば、その長者は世尊にふさわしい香房(ガンバクティ)を、また比丘僧伽のために夜の居処・昼の居処・小屋・東屋などを調え、垣根で囲んで門楼を備えたものにして仏を初めとする僧伽に献納したのだが、以前の呼び名によって「パーヴァーリカのマンゴー林」と呼ばれており、そのパーヴァーリカのマンゴー林においてである。「ケーヴァッタ」とは、漁師たち(ケーヴァッタ)によって保護されたこと、あるいは彼らのもとで育てられたことから、これが彼の名前であるという説もある。「居士の子の」というここについて、確かにその時彼は居士の地位に就いていたが、父が亡くなって日が浅かったため以前の通称によって「居士の子」と称されているのであり、それゆえに「大いなる富を持つ居士」と言ったのである。大いなる財産を持つことから大いなる富(mahāsāra)、居士という意味であり、「私は富裕(mahāsālo)で繊細であった」などのように、raの音をlaの音に変えたのである。信仰を具足したとは、凡夫の信仰の力によって信仰を具えたということである。
Samiddhāti sammadeva iddhā, iddhiyā vibhavasampattiyā vepullappattāti attho. ‘‘Ehi tvaṃ bhikkhu anvaddhamāsaṃ, anumāsaṃ, anusaṃvaccharaṃ vā manussānaṃ pasādāya iddhipāṭihāriyaṃ karohī’’ti ekassa bhikkhuno āṇāpanaṃ tasmiṃ ṭhāne tassa ṭhapanaṃ nāma hotīti āha **‘‘ṭhānantare ṭhapetū’’**ti. Uttarimanussānaṃ dhammatoti uttarimanussānaṃ buddhādīnaṃ adhigamadhammato. Niddhāraṇe cetaṃ nissakkaṃ. Iddhipāṭihāriyañhi tato niddhāreti. Manussadhammato uttarīti pakatimanussadhammato upari. Pajjalitapadīpoti pajjalanto padīpo.
繁栄したとは、完全に見事に栄えた、繁栄と富の成就によって広大さに達したという意味である。「比丘よ、来なさい。半月ごと、ひと月ごと、あるいは一年ごとに、人々の信心のために神変(神通の奇跡)を行え」と一人の比丘に命じることは、その地位に彼を任命することになるので、「特定の地位に任命してください」と言ったのである。人勝法(過人法)からとは、勝れた人間である仏などの証得の法からということである。これは限定のための奪格である。神変をそこから選び出すからである。人間の法を超えたとは、通常の人間法の上にあるということである。灯火をともしたとは、燃え盛る灯火である。
482. Na dhaṃsemīti guṇasampattito na cāvemi, tenāha **‘‘sīlabheda’’**ntiādi. Vissāsaṃ vaḍḍhetvā bhagavati attano vissatthabhāvaṃ brūhetvā vibhūtaṃ pākaṭaṃ katvā.
482. 損ないませんとは、徳の成就から離脱させませんということであり、それゆえに「戒の破壊」等と言ったのである。信頼を増大させてとは、世尊に対する自らの信頼した状態を大きくして、明白かつ顕著にして、ということである。
Iddhipāṭihāriyavaṇṇanā
神変(神足変現)の解説
483-4. Ādīnavanti dosaṃ. Gandhārīti cūḷagandhārī, mahāgandhārīti dve gandhārīvijjā. Tattha cūḷagandhārī nāma tivassato oraṃ matānaṃ sattānaṃ upapannaṭṭhānajānanavijjā. Mahāgandhārī tampi jānāti tato uttaripi iddhividhañāṇakappaṃ yebhuyyena iddhividhakiccaṃ sādheti. Tassā kira vijjāya sādhako puggalo tādise desakāle mantaṃ parijappitvā bahudhāpi attānaṃ dasseti, hatthiādīnipi dasseti, dassanīyopi hoti, aggithambhampi karoti, jalathambhampi karoti, ākāsepi attānaṃ dasseti. Sabbaṃ indajālasadisaṃ daṭṭhabbaṃ. Aṭṭoti dukkhito bādhito, tenāha **‘‘pīḷito’’**ti.
483-4. 過患とは過失である。ガンダハーリーとは、小ガンダーラ呪と大ガンダーラ呪の二つのガンダーラ呪禁のことである。そのうち小ガンダーラ呪とは、死後三年以内の衆生の転生した場所を知る呪術である。大ガンダーラ呪はそれをも知り、さらにそれ以上の神通智の領域に属する多くの神通の働きを成就する。伝えられるところによれば、その呪術を修得した者は、しかるべき場所と時に呪文を唱えて自らの姿を多様に現し、象などを現し、美しく見せることもでき、火を止め、水を止め、虚空にも姿を現す。すべては幻術のようなものと見なされるべきである。苦しめられたとは、苦痛を受け悩まされたことであり、それゆえに「迫害された」と言ったのである。
Ādesanāpāṭihāriyavaṇṇanā
他心変現(記説変現)の解説
485. Kāmaṃ **‘‘cetasika’’**nti padaṃ ye cetasi niyuttā cittena sampayuttā, tesaṃ sādhāraṇavacanaṃ, sādhāraṇe pana gahite cittaviseso gahitova hoti, sāmaññajotanā ca visese avatiṭṭhatīti cetasikaggahaṇassa adhippāyaṃ vivaranto **‘‘somanassadomanassaṃ adhippeta’’**nti āha. Somanassaggahaṇena cettha tadekaṭṭhā rāgādayo, saddhādayo ca dassitā honti, domanassaggahaṇena dosādayo. Vitakkavicārā pana sarūpeneva dassitā. Evaṃ tava manoti iminā ākārena tava mano pavattoti attho. Kena pakārena pavattoti āha **‘‘somanassito vā’’**tiādi. **‘‘Evaṃ tava mano’’**ti idaṃ pana somanassitatādimattadassanaṃ, na pana yena yena somanassito vā domanassito vā, taṃ taṃ dassanaṃ. Dutiyanti ‘‘itthampi te mano’’ti idaṃ. Itipīti ettha iti-saddo nidassanattho ‘‘atthīti kho, kaccāna, ayameko anto’’tiādīsu (saṃ. ni. 2.15; 3.90) viya, tenāha **‘‘imañca imañca atthaṃ cintayamāna’’**nti pi-saddo vuttatthasampiṇḍanattho. Parassa cintaṃ manati jānāti etenāti cintāmaṇi. Tassā kira vijjāya sādhako puggalo tādise desakāle mantaṃ parijappitvā yassa cittaṃ jānitukāmo, tassa diṭṭhasutādivisesasañjānanamukhena cittācāraṃ anuminanto kathetīti keci. Apare ‘‘vācaṃ niccharāpetvā tattha akkharasallakkhaṇavasenā’’ti vadanti.
485. 確かに「心的なもの(心所)」という語は、心に結びつき心と相応する諸要素の共通の言葉であるが、共通のものが取られたときには心の特殊性もまた取られており、一般的な表現は特殊なものに留まることから、心的なものを取った意図を明かして「喜悦と憂愁が意図されている」と言ったのである。そしてここでの喜悦の把握によって、それと同じ領域にある貪りなどや、信仰などが示され、憂愁の把握によって怒りなどが示される。尋(思考)と伺(省察)は直接そのものとして示されている。「このように汝の意はある」とは、このような様態で汝の意が働いているという意味である。いかなる様態で働いているのかについて「喜んでいるとか……」等と言った。「このように汝の意はある」というこれは、喜んでいるなどの状態のみを示すものであり、何によって喜んでいるのか、あるいは憂えているのかというそれら個々のものを示すのではない。二番目とは「汝の意はこのようでもある」というこれである。「〜とも(iti pi)」のここでのitiの語は、「カッチャーナよ、有るということは一つの極端である」などのように例示の意味であり、それゆえに「これこれの対象を思惟して」と言い、piの語は説かれた意味を併合する意味である。他者の思いをこれによって考える(知る)ゆえに如意宝珠(チンターマニ)という。伝えられるところによれば、その呪術を修得した者は、しかるべき場所と時に呪文を唱え、心を知りたいと欲する相手の、見聞きしたものなどの識別を手がかりとして心の動きを推測して語ると言う者もいる。また別の者たちは「声を放たせて、その文字の判別によって知る」と言う。
Anusāsanīpāṭihāriyavaṇṇanā
教誡変現の解説
486. Pavattentāti pavattanakā hutvā, pavattanavasenāti attho. **‘‘Eva’’**nti hi padaṃ yathānusiṭṭhāya anusāsaniyā vidhivasena, paṭisedhavasena ca pavattiākāraparāmasanaṃ, sā ca sammāvitakkānaṃ micchāvitakkānañca pavattiākāradassanavasena pavattati tattha ānisaṃsassa ādīnavassa ca vibhāvanatthaṃ. Aniccasaññameva na niccasaññanti attho. Paṭiyogīnivattanatthañhi eva-kāraggahaṇaṃ. Idhāpi evaṃ saddaggahaṇassa attho, payojanañca vuttanayeneva veditabbaṃ. Idaṃgahaṇepi eseva nayo. Pañcakāmaguṇikarāganti nidassanamattaṃ daṭṭhabbaṃ, tadaññarāgassa, dosādīnañca pahānassa icchitattā, tappahānassa ca tadaññarāgādikhepanassa upāyabhāvato tathā vuttaṃ duṭṭhalohitavimocanassa pubbaduṭṭhamaṃsakhepanūpāyatā viya. Lokuttaradhammamevāti avadhāraṇaṃ paṭipakkhabhāvato sāvajjadhammanivattanaparaṃ daṭṭhabbaṃ tassādhigamūpāyānisaṃsabhūtānaṃ tadaññesaṃ anavajjadhammānaṃ nānantariyabhāvato. Iddhividhaṃ iddhipāṭihāriyanti dasseti iddhidassanena parasantāne pasādādīnaṃ paṭipakkhassa haraṇato. Iminā nayena sesapadadvayepi attho veditabbo. Satataṃ dhammadesanāti sabbakālaṃ desetabbadhammadesanā.
486. 生じさせながらとは、生じさせる者となって、生じさせることによってという意味である。「このように」という語は、教え導かれた通りの教誡の規定に基づき、また禁止に基づいて生起する様態を指示するものであり、それは正思惟と邪思惟の生起の様態を示すことによって機能し、そこにおける功徳と過患を明らかにするためである。無常の想いのみであり、常の想いではないという意味である。相反するものを排除するためにeva(まさに・のみ)という語が用いられている。ここでも「このように(evaṃ)」という語の把握の意味と目的は、説かれた筋道によって知られるべきである。「これ」を把握する場合も同様である。五つの欲望の対象(五欲)に対する貪りとは単なる例示と見なされるべきであり、それ以外の貪りや、怒りなどの断滅が望まれているためであり、その断滅はそれ以外の貪りなどを滅ぼす手段であることから、あたかも悪血を抜くことが膿んだ悪肉を除く手段であるかのように、そのように説かれたのである。出世間の法のみをという限定は、相反する状態であることから有過失の法を排除することを意図したと見なされるべきであり、その証得の手段や功徳である他の無過失の法と不可分であるからである。神通の諸種を神変であると示しているのは、神通を示すことによって他者の心相続における信などの障害を取り除くからである。この筋道によって他の二つの語においても意味が知られるべきである。不断の説法とは、常に説かれるべき法の説示である。
Iddhipāṭihāriyenāti sahayoge karaṇavacanaṃ, iddhipāṭihāriyena saddhinti attho. Ādesanāpāṭihāriyenāti etthāpi eseva nayo. Dhammasenāpatissa āciṇṇanti yojanā. **‘‘Cittācāraṃ ñatvā’’**ti iminā ādesanāpāṭihāriyaṃ dasseti. **‘‘Dhammaṃ desesī’’**ti iminā anusāsanīpāṭihāriyaṃ **‘‘buddhānaṃ satataṃ dhammadesanā’’**ti anusāsanīpāṭihāriyassa tattha sātisayatāya vuttaṃ. Saupārambhāni patirūpena upārambhitabbato. Sadosāni dosasamucchindanassa anupāyabhāvato. Sadosattā eva addhānaṃ na tiṭṭhanti cirakālaṭṭhāyīni na honti. Addhānaṃ atiṭṭhanato na niyyantīti phalena hetuno anumānaṃ. Aniyyānikatāya hi tāni anaddhaniyāni. Anusāsanīpāṭihāriyaṃ anupārambhaṃ visuddhippabhavato, visuddhinissayato ca. Tato eva niddosaṃ. Na hi tattha pubbāparavirodhādidosasambhavo. Niddosattā eva addhānaṃ tiṭṭhati paravādavātehi, kilesavātehi ca anupahantabbato. Tasmāti yathāvuttakāraṇato, tena saupārambhādiṃ, anupārambhādiṃ cāti ubhayaṃ ubhayattha yathākkamaṃ gārayhapāsaṃsabhāvānaṃ hetubhāvena paccāmasati.
神変によってとは、同伴を表す具格の言葉であり、神変とともにという意味である。他心変現によってというここでも同様である。法将軍(サーリプッタ)の習わしであると結びつけられる。「心の動きを知って」というこれによって他心変現を示す。「法を説いた」というこれによって教誡変現を示す。「仏たちの不断の説法」とは、そこにおける教誡変現の卓越性ゆえに説かれた。非難を伴うとは、もっともらしく非難され得るものであることによる。過失を伴うとは、過失を根絶する手段ではないことによる。過失を伴うがゆえに、久しく留まらず、長い時間にわたって持続するものではない。久しく留まらないことから、出離をもたらさないと、結果によって原因を推し量るのである。出離をもたらさないがゆえに、それらは永続しないのである。教誡変現は清浄から生じるものであり、清浄を拠り所とすることから、非難のないものである。それゆえに過失がない。実にそこには前後の矛盾などの過失が生じることがないからである。過失がないがゆえに、他者の論難の風や、煩悩の風によって損なわれないため、久しく留まるのである。「それゆえに」とは、上述の原因によるものであり、それによって非難を伴うこと等と、非難のないこと等という双方を、両者において順次に責められるべき状態と称賛されるべき状態の原因として指し示している。
Bhūtanirodhesakavatthuvaṇṇanā
四大種の滅尽を求めた者の事績の解説
487. Aniyyānikabhāvadassanatthanti yasmā mahābhūtapariyesako bhikkhu purimesu dvīsu pāṭihāriyesu vasippatto kusalopi samāno mahābhūtānaṃ aparisesanirodhasaṅkhātaṃ nibbānaṃ nāvabujjhi, tasmā tāni niyyānāvahatābhāvato aniyyānikānīti tesaṃ aniyyānikabhāvadassanatthaṃ. Tatiyaṃ pana takkarassa ekantato niyyānāvahanti tasseva niyyānikabhāvadassanatthaṃ.
487. 出離をもたらさない状態を示すためとは、四大種を探索した比丘は前の二つの変現において自在を得て巧みであったにもかかわらず、四大種の余りなき滅尽と呼ばれる涅槃を悟らなかったため、それらは出離をもたらさないことから非出離的なものであると、それらが出離をもたらさない状態を示すためである。しかし第三のものは、それを行う者に完全に間違いなく出離をもたらすため、その出離をもたらす状態を示すためである。
Evametissā desanāya mukhyapayojanaṃ dassetvā idāni anusaṅgikampi dassetuṃ **‘‘apicā’’**tiādi āraddhaṃ. Mahābhūte pariyesantoti aparisesaṃ nirujjhanavasena mahābhūte gavesanto, tesaṃ anavasesanirodhaṃ vīmaṃsantoti attho. Vicaritvāti dhammatāya codiyamāno vicaritvā. Dhammatāsiddhaṃ kiretaṃ, yadidaṃ tassa bhikkhuno tathā vicaraṇaṃ, yathā abhijātiyaṃ mahāpathavikampādi. Mahantabhāvappakāsanatthanti sadevake loke anaññasādhāraṇassa buddhānaṃ mahantabhāvassa mahānubhāvatāya dīpanatthaṃ. Idañca kāraṇanti sabbesampi buddhānaṃ sāsane īdiso eko bhikkhu tadānubhāvappakāsano hotīti idampi kāraṇaṃ dassento.
このようにこの教えの主要な目的を示して、今や副次的なものをも示すために「さらに……」等と着手した。四大種を探索してとは、余りなく滅する観点から四大種を探求し、それらの余りなき滅尽を究明してという意味である。巡り歩いてとは、法の法則性(法爾)に促されて巡り歩いてのことである。かの比丘のそのような遍歴は、偉人の誕生における大地の大震動などのように、法の法則性によって成し遂げられたものであると伝えられる。偉大さを明らかにするためとは、神々を含む世界において他と共有されない仏たちの偉大さを、大いなる威力によって解明するためである。この理由もまたとは、すべての仏たちの教えにおいて、このような一人の比丘がその威力を明らかにする者となるという、この理由をも示している。
Katthāti nimitte bhummaṃ, tasmā katthāti kismiṃ ṭhāne kāraṇabhūte. Kiṃ āgammāti kiṃ ārammaṇaṃ paccayabhūtaṃ adhigantvā, tenāha **‘‘kiṃ pattassā’’**ti. Teti mahābhūtā. Appavattivasenāti anuppajjanavasena. Sabbākārenāti vacanatthalakkhaṇādisamuṭṭhānakalāpacuṇṇanānattekattavinibbhogāvinibbhoga- sabhāgavisabhāgaajjhattikabāhirasaṅgahapaccayasamannāhārapaccayavibhāgākārato, sasambhārasaṅkhepasasambhāravibhattisalakkhaṇasaṅkhepasalakkhaṇavibhattiākārato cāti sabbena ākārena.
どこにおいてとは、原因(所縁)を表す処格であり、したがって「どこにおいて」とは、原因となったいかなる場所においてということである。何に至ってとは、いかなる対象である条件を得てということであり、それゆえに「何に到達した者に」と言った。それらとは四大種のことである。生起しないことによってとは、生じないことによってである。すべての様態によってとは、語義、特相、等起、色聚、粉砕、非同一性、同一性、分離、不分離、同分、不同分、内、外、包摂、条件、結合、条件の分析の様態から、また資具の総括、資具の分別、自相の総括、自相の分別の様態からという、あらゆる様態によってである。
488. Dibbanti ettha pañcahi kāmaguṇehi samaṅgībhūtā hutvā vicaranti, kīḷanti, jotanti cāti devo, devaloko. Taṃ yanti upagacchanti etenāti devayāniyo. Vasaṃ vattentoti ettha vasavattanaṃ nāma yathicchitaṭṭhānagamanaṃ. Cattāro mahārājāno etesaṃ issarāti cātumahārājikā yā devatā maggaphalalābhino tā tamatthaṃ ekadesena jāneyyuṃ buddhavisayo panāyaṃ pañhoti cintetvā ‘‘na jānāmā’’ti āhaṃsu, tenāha **‘‘buddhavisaye’’**tiādi. Ajjhottharaṇaṃ nāmettha nippīḷananti āha **‘‘punappunaṃ pucchatī’’**ti. Abhikkantatarāti rūpasampattiyā ceva paññāpaṭibhānādiguṇehi ca amhe abhibhuyya paresaṃ kāmanīyatarā. Paṇītatarāti uḷāratarā, tenāha **‘‘uttamatarā’’**ti.
488. 神聖なとは、ここで五つの欲望の対象を具足して行き交い、歓戯し、輝くことから「天(デーヴァ)」、天界である。それに赴き、これによって近づくことから「天への乗り物(デーヴァヤーナ)」である。意のままに動かすとは、ここでは意のままに動かすこととは思い通りの場所に行くことである。四人の大王がこれらの主であることから「四天王」である。道と果を得た諸々の天神たちは、その事柄を一通り知ることはできたが、この問いは仏の領域であると考えて「私たちは知りません」と言ったのであり、それゆえに「仏の領域において」等と言った。圧倒するとはここでは締め付けることであり、「繰り返し尋ねる」と言った。遥かに勝れたとは、身体の美しさや智慧・弁才などの徳によって私たちを凌駕し、他者にとってより望ましい者たちである。より勝妙なとは、より広大であることであり、それゆえに「より秀でた」と言った。
491-3. Devayāniyasadiso iddhividhañāṇasseva adhippetattā. **‘‘Devayāniyamaggoti vā …pe… sabbametaṃ iddhividhañāṇasseva nāma’’**nti idaṃ pāḷiyaṃ aṭṭhakathāsu ca tattha tattha āgataruḷhivasena vuttaṃ.
491-3. 天への乗り物に類するものとは、神通智のみが意図されていることによる。「天への乗り物の道、あるいは……乃至……これらすべては神通智そのものの名である」というこれは、パーリ聖典や註釈書の随所に現れる慣用表現に基づいて説かれた。
494. Āgamanapubbabhāge nimittanti brahmuno āgamanassa pubbabhāge uppajjananimittaṃ. Pāturahosīti āvi bhavi. Pākaṭo ahosīti pakāso ahosi.
494. 来訪の前兆とは、梵天の来訪に先立って現れる前兆である。「顕現した」とは明白になった。「明白となった」とは明るく照らし出された。
497. Padesenāti ekadesena, upādinnakavasena, sattasantānapariyāpannenāti attho. Anupādinnakepīti anindriyabaddhepi. Nippadesato anavasesato. Pucchāmūḷhassāti pucchituṃ ajānantassa. Pucchāya dosaṃ dassetvāti tena katapucchāya pucchitākāre dosaṃ vibhāvetvā. Yasmā vissajjanaṃ nāma pucchānurūpaṃ pucchāsabhāgena vissajjetabbato, na ca tathāgatā virajjhitvā katapucchānurūpaṃ vissajjenti, atthasabhāgatāya ca vissajjanassa pucchakā tadatthaṃ anavabujjhantā sammuyhanti, tasmā pucchāya sikkhāpanaṃ buddhāciṇṇaṃ, tenāha **‘‘pucchaṃ sikkhāpetvā’’**tiādi.
497. 一部分によってとは、一端によって、執受(心に把持されたもの)の力によって、衆生の心相続に属するものによってという意味である。非執受のものにおいてもとは、感覚器官に結びついていないものにおいてもである。全部分からとは、余すところなくである。問いに迷った者にとは、尋ね方を知らない者にである。問いの過失を示してとは、彼によってなされた問いの、尋ねられた様態における過失を明らかにしてである。実に回答とは問いに適合し、問いと同等なものとして答えられるべきであり、如来たちは誤った問いに合致させて答えることはなく、回答が法の本質にかなっているために質問者たちはその意味を悟らずに困惑してしまうことから、問い方を教え導くことが仏たちの習わしであり、それゆえに「問い方を教え込んで」等と言われたのである。
498. Appatiṭṭhāti appaccayā, sabbaso samucchinnakāraṇāti attho. Upādinnaṃ yevāti indriyabaddhameva. Yasmā ekadisābhimukhaṃ santānavasena saṇṭhite rūpappabandhe dīghasamaññā taṃ upādāya tato appake rassasamaññā tadubhayañca visesato rūpaggahaṇamukhena gayhati, tasmā āha **‘‘dīghañca rassañcāti saṇṭhānavasena upādārūpaṃ vutta’’**nti. Appaparimāṇe rūpasaṅghāte aṇusamaññā, taṃ upādāya tato mahati thūlasamaññā. Idampi dvayaṃ visesato rūpaggahaṇamukhena gayhati, tenāha **‘‘imināpī’’**tiādi. Pi-saddena cettha ‘‘saṇṭhānavasena upādārūpaṃ vutta’’nti etthāpi vaṇṇamattameva kathitanti imamatthaṃ samuccinatīti vadanti. Subhanti sundaraṃ, iṭṭhanti attho. Asubhanti asundaraṃ, aniṭṭhanti vuttaṃ hoti. Tenevāha **‘‘iṭṭhāniṭṭhārammaṇaṃ panevaṃ kathita’’**nti. Dīghaṃ rassaṃ, aṇuṃ thūlaṃ, subhāsubhanti tīsu ṭhānesu upādārūpasseva gahaṇaṃ, bhūtarūpānaṃ visuṃ gahitattā. Nāmanti vedanādikkhandhacatukkaṃ tañhi ārammaṇābhimukhaṃ namanato, nāmakaraṇato ca ‘‘nāma’’nti vuccati. Heṭṭhā ‘‘dīghaṃ rassa’’ntiādinā vuttameva idha ruppanaṭṭhena ‘‘rūpa’’nti gahitanti āha **‘‘dīghādibhedaṃ rūpañcā’’**ti. Dīghādīti ca ādi-saddena āpādīnañca saṅgaho daṭṭhabbo. Yasmā vā dīghādisamaññā na rūpāyatanavatthukāva, atha kho bhūtarūpavatthukāpi. Tathā hi saṇṭhānaṃ phusanamukhenapi gayhati, tasmā dīgharassādiggahaṇena bhūtarūpampi gayhatevāti ‘‘dīghādibhedaṃ rūpa’’micceva vuttaṃ. Kiṃ āgammāti kiṃ adhigantvā kissa adhigamahetu. **‘‘Uparujjhatī’’**ti idaṃ anuppādanirodhaṃ sandhāya vuttaṃ, na khaṇanirodhanti āha **‘‘asesametaṃ nappavattatī’’**ti.
498. 拠り所のないとは、条件のない、完全に原因が断ち切られたという意味である。執受されたもののみとは、まさに感覚器官に結びついたもののみである。一方向に向かって連続して定着した物質の連鎖に「長」という呼称があり、それに基づいてそれより小さいものに「短」という呼称があり、その双方は特に物質を認識することを通じて捉えられることから、「長と短とは形状に基づいた所造色を説いたものである」と言った。わずかな量の物質の集合体に「微(小)」という呼称があり、それに基づいてそれより大きなものに「粗(大)」という呼称がある。これもまた特に物質を認識することを通じて捉えられることから、「これによっても……」等と言った。そしてここでのpi(〜も)の語によって、「形状に基づいた所造色を説いたものである」というここでも単なる色彩のみが語られたというこの意味を併合しているのだと言う。美とは美しいこと、好ましいという意味である。醜とは美しくないこと、好ましくないことが説かれている。それゆえに「好ましい対象と好ましくない対象がこのように語られた」と言ったのである。長・短、微・粗、美・醜という三つの箇所において所造色のみが取られているのは、大種色(地水火風)は別に取られているからである。「名」とは受などの四つの蘊であり、それは対象に向かって傾く(ナーマ)ことから、また名づけることから「名」と呼ばれる。前述の「長・短」等によって説かれたものそのものが、ここでは変壊するという意味から「色」として捉えられていることから、「長などの区別ある色と」と言った。そして「長など」という「など」の語によって、水などの包摂も知られるべきである。あるいは、長などの呼称は色処(視覚の対象)のみを根拠とするのではなく、大種色をも根拠としているからである。実に形状は触れることを通じても捉えられるため、長・短などの把握によって大種色もまた確実に捉えられることから、「長などの区別ある色」とまさに説かれたのである。何に至ってとは、何を得て、何の証得を原因として、ということである。「滅する」というこれは不生滅(生じないことによる滅)を指して説かれたものであり、刹那滅を指したものではないことから、「これらは余すところなく機能しない」と言った。
499. Viññātabbanti visiṭṭhena ñātabbaṃ, ñāṇuttamena ariyamaggañāṇena paccakkhato jānitabbanti attho, tenāha **‘‘nibbānassetaṃ nāma’’**nti. Nidissatīti nidassanaṃ, cakkhuviññeyyaṃ. Na nidassanaṃ anidassanaṃ, acakkhuviññeyyanti etamatthaṃ vadanti. Nidassanaṃ vā upamā, taṃ etassa natthīti anidassanaṃ. Na hi nibbānassa niccassa ekassa accantasantapaṇītasabhāvassa sadisaṃ nidassanaṃ kutoci labbhatīti. Yaṃ ahutvā sambhoti, hutvā paṭiveti taṃ saṅkhataṃ udayavayantehi saantaṃ, asaṅkhatassa pana nibbānassa niccassa te ubhopi antā na santi, tato eva navabhāvāpagamasaṅkhāto jarantopi tassa natthīti āha **‘‘uppādanto…pe… ananta’’**nti. ‘‘Titthassa nāma’’nti vatvā tattha nibbacanaṃ dassetuṃ **‘‘papanti etthāti papa’’**nti vuttaṃ. Ettha hi papanti pānatitthaṃ. Bha-kāro kato niruttinayena. Visuddhaṭṭhena vā sabbatopabhaṃ, kenaci anupakkiliṭṭhatāya samantato pabhassaranti attho. Yena nibbānaṃ adhigataṃ, taṃ santatipariyāpannānaṃyeva idha anuppādanirodho adhippetoti vuttaṃ **‘‘upādinnakadhammajātaṃ nirujjhati appavattaṃ hotī’’**ti.
499. 識知されるべきとは、殊勝なものによって知られるべき、最上の智慧である聖道智によって直接に知られるべきという意味であり、それゆえに「これは涅槃の名である」と言った。見られることから「見証(示現)」であり、眼識によって知られるものである。見られないものが「不可見(無示現)」であり、眼識によって知られないもの、というこの意味を彼らは語る。あるいは「見証」とは比喩であり、それを持たないことから「不可比喩(無見証)」である。常住であり、唯一であり、絶対的に寂静で勝妙な本質である涅槃に類似した比喩はいかなるものからも得られないからである。生じていなかったものが生じ、生じた後に消滅するその有為のものは、生起と崩壊という両端を持つが、無為であり常住なる涅槃にはそれら両方の端が存在せず、まさにそれゆえに新しき状態から離脱することと言われる衰老の端もそれには存在しないことから、「生起の端……乃至……無辺である」と言った。「渡場の名」と言って、そこにおける語源的解釈を示すために「ここで水を飲む(パパ)ゆえにパパ(渡場)である」と説かれた。ここでの「パパ」とは飲水所(渡場)のことである。語源論の規則によってbhaの文字が用いられた。あるいは清浄という意味から「あまねく輝く(全処光炎)」であり、いかなるものによっても汚されないことから、遍く輝かしいという意味である。涅槃を証得した者の、その心相続に属するもののみの不生滅がここで意図されていることから、「執受された法群が滅し、機能しなくなる」と説かれた。
Tatthāti ‘‘viññāṇassa nirodhenā’’ti yaṃ padaṃ vuttaṃ, tasmiṃ. **‘‘Viññāṇa’’**nti viññāṇaṃ uddharati vibhattabbattā etthetaṃ uparujjhatīti etasmiṃ nibbāne etaṃ nāmarūpaṃ carimakaviññāṇanirodhena anuppādavasena nirujjhati anupādisesāya nibbānadhātuyā, tenāha **‘‘vijjhātadīpasikhā viya apaṇṇattikabhāvaṃ yātī’’**ti. ‘‘Carimakaviññāṇa’’nti hi arahato cuticittaṃ adhippetaṃ. **‘‘Abhisaṅkhāraviññāṇassāpī’’**tiādināpi saupādisesanibbānamukhena anupādisesanibbānameva vadati nāmarūpassa anavasesato uparujjhanassa adhippetattā, tenāha **‘‘anuppādavasena uparujjhatī’’**ti. Sotāpattimaggañāṇenāti kattari, karaṇe vā karaṇavacanaṃ. Nirodhenāti pana hetumhi. Etthāti etasmiṃ nibbāne. Sesamettha yaṃ atthato na vibhattaṃ, taṃ suviññeyyameva.
そこにおいてとは、「識の滅によって」と説かれたその語においてである。「識」とは、区分されて説かれた識を取り出すのであり、ここにおいてこれが滅するとは、この涅槃においてこの名色が最後の識の滅によって無余涅槃界において生じないことによって滅するのであり、それゆえに「消え去った灯火の炎のように、概念なき状態に立ち至る」と言った。「最後の識」とは、阿羅漢の死心のことが意図されている。「行識(業を形成する識)の滅によっても」等によっても、有余涅槃を通じてまさに無余涅槃のことを述べているのであり、名色が余すところなく滅することが意図されているからであり、それゆえに「不生によって滅する」と言った。「預流道智によって」とは能動者(主格)あるいは道具(具格)としての具格の言葉である。「滅によって」とは原因におけるものである。「ここにおいて」とは、この涅槃においてである。ここにおいて意味として詳しく分析されなかった残りの部分は、極めて容易に理解できる。
Kevaṭṭasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā.
ケーヴァッタ経(堅固経)註釈の深奥義の解明。