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13. Tevijjasuttavaṇṇanā13. テーヴィッジャ経(三明経)の解説

518. Uttarenāti ettha ena-saddo disāvācīsaddato pañcamīantato adūrattho icchito, tasmā uttarena-saddena adūratthajotanaṃ dassento **‘‘adūre uttarapasse’’**ti āha. Akkharacintakā pana ena-saddayoge avadhivācini pade upayogavacanaṃ icchanti. Attho pana sāmivaseneva icchitoti idha sāmivacanavaseneva vuttaṃ.

518. 北方にとは、ここでのenaの語尾は方角を表す語につく奪格の語尾であり、「遠くない」という意味が意図されているため、北方にという語によって遠くない意味を示すために「遠くない北側に」と言った。文法学者たちはenaの語の結合において限界を表す語に対格を認める。しかし意味としては属格(所有格)によって望まれるため、ここでは属格の力によって説かれている。

519. Kulacārittādīti ādi-saddena mantajjhenābhirūpatādisampattiṃ saṅgaṇhāti. Mantasajjhāyakaraṇatthanti āthabbaṇamantānaṃ sajjhāyakaraṇatthaṃ, tenāha **‘‘aññesaṃ bahūnaṃ pavesanaṃ nivāretvā’’**ti.

519. 家柄や行状などとは、「など」の語によって呪文の学習や容姿端麗などの資質の成就を総括している。呪文の読誦を行うためとは、アタルヴァンの呪文を読誦するためであり、それゆえに「他の多くの者の立ち入りを禁じて」と言った。

Maggāmaggakathāvaṇṇanā

道と非道の対話の解説

520. **‘‘Jaṅghacāra’’**nti caṅkamato ito cito ca caraṇamāha. So hi jaṅghāsu kilamathavinodanattho cāroti tathā vutto. Tenāha ‘‘anucaṅkamantānaṃ anuvicarantāna’’nti. Tenāti ubhosupi anucaṅkamanānuvicāraṇānaṃ labbhanato. Sahāyā hi te aññamañña sabhāgavuttikā. ‘‘Maggo’’ti icchitaṭṭhānaṃ ujukaṃ maggati upagacchati etenāti maggo, ujumaggo. Tadañño amaggo, tasmiṃ magge ca amagge ca. Paṭipadanti brahmalokagāmimaggassa pubbabhāgapaṭipadaṃ.

520. 「経行(歩行)」とは、経行処をあちらこちらへと歩くことを言う。それは実に脚の疲労を解消するための歩行であることからそのように言われた。それゆえに「経行し巡り歩く者たちの」と言った。「それによって」とは、両者ともに経行し巡り歩くことが見られることによる。彼らは互いに同じ行状を持つ友人同士だからである。「道」とは、望む場所へと真っ直ぐに求め、これによって近づくゆえに「道」、直道である。それ以外のものが「非道」であり、その道と非道においてである。実践行とは、梵天界に至る道の予備的な実践行である。

Niyyātīti niyyānīyo, so eva **‘‘niyyāniko’’**ti vuttoti āha **‘‘niyyāyanto’’**ti. Yasmā niyyātapuggalavasenassa niyyānikabhāvo, tasmā ‘‘niyyāyanto’’ti puggalassa yoniso paṭipajjanavasena niyyāyanto maggo **‘‘niyyātī’’**ti vutto. Karotīti attano santāne uppādeti. Uppādentoyeva hi tattha paṭipajjati nāma. Saha byeti vattatīti sahabyo, sahavattanako. Tassa bhāvo sahabyatāti āha **‘‘sahabhāvāyā’’**tiādi. Sahabhāvoti ca salokatā, samīpatā vā veditabbā, tenāha **‘‘ekaṭṭhāne pātubhāvāyā’’**ti. Sakameva ācariyavādanti attano ācariyena pokkharasātinā kathitameva ācariyavādaṃ. Thometvā paggaṇhitvā ‘‘ayameva ujumaggo ayamañjasāyano’’ti pasaṃsitvā ukkaṃsitvā. Bhāradvājopi sakamevāti bhāradvājopi māṇavo attano ācariyena tārukkhena kathitameva ācariyavādaṃ thometvā paggaṇhitvā vicaratīti yojanā. Tena vuttanti tena yathā tathā vā abhiniviṭṭhabhāvena vuttaṃ pāḷiyaṃ.

導くとは、出離をもたらすものであり、それこそが「出離的な」と説かれたものであることから、「導きながら」と言った。出離した人に基づくことによってそれが出離的な状態となるため、「導きながら」とは人の如理の実践によって導く道が「導く」と説かれたのである。成すとは、自らの心相続に生じさせることである。生じさせながらまさにそこで実践していると言えるからである。ともに生きる(共住する)ゆえに「同行者」、共に行動する者である。その状態が「同行(共住)」であることから、「同等の状態のために」等と言った。同等の状態とは、同じ世界にあること、あるいは近隣にあることと知るべきであり、それゆえに「一つの場所に出現するために」と言った。自らの師の説のみをとは、自らの師であるポッカラサーティによって語られた通りの師の説をである。称賛し高揚させてとは、「これこそが直道であり、これこそが出離の道である」と称え高めてのことである。バーラドヴァージャもまた自らの師の説のみをとは、バーラドヴァージャ青年もまた自らの師であるタールッカによって語られた通りの師の説のみを称賛し高揚させて歩んでいる、と結びつけられる。「彼によって説かれた」とは、彼によってどのようにであれ執着された状態によって聖典に説かれたことである。

521-2. Aniyyānikā vāti appāṭihāriyāva aññamaññassa vāde dosaṃ dassetvā aviparītatthadassanatthaṃ uttararahitā eva. Aññamaññassa vādassa ādito viruddhaggahaṇaṃ viggaho, sveva vivadanavasena aparāparaṃ uppanno vivādoti āha **‘‘pubbuppattiko viggaho aparabhāge vivādo’’**ti. Duvidhopi eso viggaho, vivādoti dvidhā vuttopi virodho. Nānāācariyānaṃ vādatoti nānārucikānaṃ ācariyānaṃ vādabhāvato. Nānāvādo nānāvidho vādoti katvā.

521-2. 出離をもたらさないのかとは、証拠(奇跡)を示せないまま、互いの説に過失を示し、誤りのない意味を示すための返答を欠いたままであるのかということである。互いの説の最初における相反する把握が「確執(異執)」であり、それが論争によって次々と生じたものが「論争(諍論)」であることから、「最初に生じたものが確執であり、後に生じたものが論争である」と言った。二重のこれもまたとは、確執と論争という二通りに説かれた違背のことである。様々な師の説であることからとは、様々な嗜好を持つ師たちの説であることからである。様々な説とは、多種多様な説ということである。

523. Ekassāpīti tumhesu dvīsu ekassāpi. Ekasminti sakavādaparavādesu ekasmimpi. Saṃsayo natthīti ‘‘maggo nu kho, na maggo nu kho’’ti saṃsayo vicikicchā natthi. Añjasāyanabhāve pana saṃsayo. Tenāha ‘‘esa kirā’’tiādi. Bhagavā pana yadi sabbattha maggasaññino, evaṃ sati ‘‘kismiṃ vo viggaho’’ti pucchati.

523. 一人にもとは、あなた方二人のうちの一人にも。一つにおいてもとは、自説と他説のいずれか一つにおいても。「疑念はない」とは、「道であろうか、道ではないであろうか」という疑惑や躊躇がないことである。しかし直道であるかどうかについては疑念がある。それゆえに「それは実に……」等と言った。しかし世尊は、もし至る所に道の認識があるならば、そうであるならば「何についてあなた方に確執があるのか」と問われるのである。

524. ‘‘Icchitaṭṭhānaṃ ujukaṃ maggati upagacchati etenāti maggo, ujumaggo. Tadañño amaggo’’ti vutto vāyamattho. Sabbe teti sabbepi te nānāācariyehi vuttamaggā.

524. 「望む場所へと真っ直ぐに求め、これによって近づくゆえに道、直道である。それ以外のものが非道である」とこの意味が説かれた。それらすべてとは、様々な師たちによって説かれたそれらすべての道のことである。

Ye pāḷiyaṃ ‘‘addhariyā brāhmaṇā’’tiādinā vuttā. Addharo nāma yaññaviseso, tadupayogibhāvato ‘‘addhariyā’’ tveva vuccanti yajūni, tāni sajjhāyantīti addhariyā, yajubbedino. Ye ca tittiriisinā kate mante sajjhāyanti, te tittiriyā, yajubbedino eva. Yajubbedasākhā hesā, yadidaṃ tittiraṃ. Chando vuccati visesato sāmavedo, taṃ sarena kāyantīti chandokā, sāmavedino. **‘‘Chandogā’’**tipi paṭhanti, so evattho. Bahavo irayo etthāti bavhāri, irubbedo. Taṃ adhīyantīti bavhārijjhā.

パーリ聖典において「アッダリヤ・バラモンたち」等と説かれている者たちである。「アッダラ」とは特定の祭祀のことであり、それに役立つものであることからヤジュル・ヴェーダの文句が「アッダリヤ」と呼ばれ、それらを読誦する者がアッダリヤ(ヤジュル・ヴェーダを信奉する者たち)である。またティッティリ仙人によって作られた呪文を読誦する者たちはティッティリヤであり、同じくヤジュル・ヴェーダを信奉する者たちである。ティッティラとはヤジュル・ヴェーダの一派だからである。「チャンダ(韻律)」とは特にサーマ・ヴェーダを指し、それを旋律をもって歌う者たちがチャンドカ(サーマ・ヴェーダを信奉する者たち)である。「チャンドーガ」とも読まれ、同じ意味である。多くの句(イラ)がここにあることからバヴハーリ、すなわちリグ・ヴェーダである。それを学ぶ者たちがバヴハーリッジャである。

‘‘Bahūnī’’ti etthāyaṃ upamāsaṃsandanā – yathā te nānāmaggā ekaṃsato tassa gāmassa vā nigamassa vā pavesāya honti, evaṃ brāhmaṇehi paññāpiyamānāpi nānāmaggā brahmalokūpagamanāya brahmunā sahabyatāya ekaṃseneva hontīti.

「多くの」というここにおいて、次のような比喩の照合がある。すなわち、それらの様々な道が間違いなくその村や町に入るためのものであるように、同様にバラモンたちによって提示されている様々な道もまた、梵天界へ赴くため、梵天との共住のために間違いなくなるのである、と。

527-529. Va-kāro āgamasandhimattanti anatthako va-kāro, tena vaṇṇāgamena padantarasandhimattaṃ katanti attho. Andhapaveṇīti andhapanti. **‘‘Paññāsasaṭṭhi andhā’’**ti idaṃ tassā andhapaveṇiyā mahato gacchagumbassa anuparigamanayogyatādassanaṃ. Evañhi te ‘‘suciraṃ velaṃ maggaṃ gacchāmā’’ti evaṃ saññino honti. Nāmakaṃyevāti atthābhāvato nāmamattaṃyeva, taṃ pana bhāsitaṃ tehi sārasaññitampi nāmamattatāya asārabhāvato nihīnamevāti āha **‘‘lāmakaṃyevā’’**ti.

527-529. vaの文字は単なる挿入連結語であるとは、無意味なvaの文字であり、その文字の挿入によって他の語との単なる連結がなされたという意味である。盲人の列とは、盲人の隊列である。「五十年、六十年の盲人たち」というこれは、その盲人の列が大きな茂みの周りを巡るのにふさわしいことを示している。このように彼らは「非常に長い時間、道を進んでいる」というこのような認識を持つからである。名ばかりのものとは、実質がないことから単なる名前にすぎず、しかし彼らによって本質と認識されたその語られた事柄も、名ばかりのものであるがゆえに無価値で下等なものにすぎないことから、「劣悪なものにすぎない」と言ったのである。

530. Yatoti bhummatthe nissakkavacanaṃ, sāmaññajotanā ca visese avatiṭṭhatīti āha **‘‘yasmiṃ kāle’’**ti. Āyācantīti patthenti. Uggamanaṃ lokassa bahukārabhāvato tathā thomanāti. Ayaṃ kira brāhmaṇānaṃ laddhi ‘‘brāhmaṇānaṃ āyācanāya candimasūriyā gantvā loke obhāsaṃ karontī’’ti.

530. 「〜から(Yato)」とは処格(場所・時)の意味における奪格の言葉であり、一般的な表現が特定の意味に定着していることから「**その時に**」と述べた。「請い願う」とは祈願することである。昇ることは世間にとって多大な利益となるため、そのように称賛するのである。これは実に、「バラモンたちの請願によって日月が運行し、世を照らす」というバラモンたちの所説である。

532. Idha pana kiṃ vattabbanti imasmiṃ pana appaccakkhabhūtassa brahmuno sahabyatāya maggadesane tevijjānaṃ kiṃ vattabbaṃ atthi, ye paccakkhabhūtānampi candimasūriyānaṃ sahabyatāya maggaṃ desetuṃ na sakkontīti adhippāyo. **‘‘Yatthā’’**ti ‘‘idha panā’’ti vuttamevatthaṃ paccāmasati.

532. 「ここで何を言うべきか」とは、現前していない梵天との共住への道を説くにあたり、現前している日月との共住への道すら説くことができない三明のバラモンたちについて、何を語る価値があろうか、という意図である。「**〜において(Yattha)**」とは、「ここで何を〜」と述べられたまさにその意味を指している。

Aciravatīnadīupamākathāvaṇṇanā

アチラヴァティー川の譬喩の解説

542. Samabharitāti sampuṇṇā. Tato eva kākapeyyā. Pārāti paratīraṃ. Apāranti orimatīraṃ. Ehīti āgaccha.

542. 「満ちあふれて(Samabharitā)」とは満ち満ちていることである。それゆえに「烏が飲めるほどに」である。「彼岸(Pārā)」とは向こうの岸。「此岸(Apāraṃ)」とはこちらの岸。「来なさい(Ehī)」とはやって来なさい、ということである。

544. Pañcasīla…pe… veditabbā yamaniyamādibrāhmaṇadhammānaṃ tadantogadhabhāvato. Tabbiparītāti pañcasīlādiviparītā pañca verādayo. ‘‘Punapī’’ti vatvā **‘‘aparampī’’**ti vacanaṃ itarāyapi nadi upamāya saṅgaṇhanatthaṃ.

544. 「五戒……」等と知るべきである。なぜなら、禁制や誓戒などのバラモンの諸法がそれに含まれるからである。「それとは反対の」とは、五戒などとは反対の五つの怨恨などのことである。「ふたたび」と言った上で「**さらにまた**」と述べたのは、もう一つの川の譬喩をも包含するためである。

546. Kāmayitabbaṭṭhenāti kāmanīyabhāvena. Bandhanaṭṭhenāti teneva kāmetabbabhāvena sattānaṃ cittassa ābandhanabhāvena. Kāmañcāyaṃ guṇa-saddo atthantaresupi diṭṭhappayogo, tesaṃ panettha asambhavato pārisesañāyena bandhanaṭṭheyeva yuttoti dassetuṃ **‘‘anujānāmī’’**tiādinā atthuddhāro āraddho, esevāti bandhanaṭṭho eva. Na hi rūpādīnaṃ kāmetabbabhāve vuccamāne paṭalaṭṭho yujjati tathā kāmetabbatāya anadhippetattā. Rāsaṭṭhaānisaṃsaṭṭhesupi eseva nayo tathāpi kāmetabbatāya anadhippetattā. Pārisesato pana bandhanaṭṭho gahito. Yadaggena hi nesaṃ kāmetabbatā, tadaggena bandhanabhāvo cāti.

546. 「欲せられるべきという意味によって」とは、愛求されるべき状態によってである。「縛縛(束縛)の意味によって」とは、その欲せられるべき状態によって衆生の心を束縛する状態によってである。確かにこの「グナ(guṇa)」という語は他の意味でも用いられる例が見られるが、ここにおいてはそれらは成り立たないため、余剰の論理によってまさに縛縛の意味こそが適当であることを示すために、「**私は認める**」等として語義の抽出が始められた。「これこそが」とは縛縛の意味そのものである。実際、色などが欲せられるべき状態にあると語られる場合、(織物の)層・倍の意味は適さない。そのように欲せられることとは意図されていないからである。堆積の意味や功徳の意味においても同様の理路である。それでもやはり欲せられることとは意図されていないからである。しかし余剰の論理によって縛縛の意味が取られた。それらが欲せられる度合いに応じて、束縛の状態もあるからである。

Koṭṭhāsaṭṭhopi tesu yujjateva cakkhuviññeyyādikoṭṭhāsabhāvena nesaṃ kāmetabbato. Koṭṭhāse ca guṇa-saddo dissati ‘‘diguṇaṃ vaḍḍhetabba’’ntiādīsu, sampadāṭṭhopi –

それらにおいて「部分(部類)」の意味もまさに成り立ちうる。眼で識知されるもの等の部類であることによって、それらが欲せられるからである。そして部分の意味に「グナ」という語は「二倍(二重)に増やすべきである」等に見られる。また「成就」の意味においても——

‘‘Asaṅkhyeyyāni nāmāni, saguṇena mahesino;

「大仙(仏陀)の徳(グナ)による名は無数にあり、

Guṇena nāmamuddheyyaṃ, api nāmasahassato’’ti. (dha. sa. aṭṭha. 1313; udā. aṭṭha. 53; paṭi. ma. aṭṭha. 76);

千の御名にあっても、徳(グナ)によって名が立てられる」。(法集論注1313、自説経注53、無礙解道注76)

Ādīsu sopi idha na yujjatīti anuddhaṭo.

などの用例があるが、それもここでは適さないため抽出されなかった。

Cakkhuviññeyyāti cakkhuviññāṇena vijānitabbā, tena pana vijānanaṃ dassanamevāti āha **‘‘passitabbā’’**ti. ‘‘Sotaviññāṇena sotabbā’’ti evamādi etenupāyenāti atidisati. Gavesitampi ‘‘iṭṭha’’nti vuccati, taṃ idha nādhippetanti āha **‘‘pariyiṭṭhā vā hontu mā vā’’**ti. Iṭṭhārammaṇabhūtāti sukhārammaṇabhūtā. Kāmanīyāti kāmetabbā. Iṭṭhabhāvena manaṃ appāyantīti manāpā. Piyajātikāti piyasabhāvā.

「眼で識知されるべき」とは眼識によって了知されるべきものであり、それによる了知とは見ることにほかならないので「**見られるべき**」と述べた。「耳識によって聞かれるべき」等もこの方法によって類推される。探求されたものもまた「所望のもの(iṭṭha)」と呼ばれるが、それはここでは意図されていないため、「**求められたものであれ、そうでなかれ**」と述べた。「望ましい対象となった」とは楽の対象となったこと。「愛求されるべき」とは欲せられるべきこと。「望ましい状態によって心を喜ばせる」ゆえに「意にかなう(manāpā)」。「愛すべき性質のもの」とは愛着の生じる本性をもつものである。

Gedhenāti lobhena abhibhūtā hutvā pañcakāmaguṇe paribhuñjantīti yojanā. Mucchākāranti mohanākāraṃ. Adhiosannāti adhiggayha ajjhosāya avasannā, tenāha **‘‘ogāḷhā’’**ti. Pariniṭṭhānappattāti gilitvā pariniṭṭhāpanavasena pariniṭṭhānaṃ upagatā. Ādīnavanti kāmaparibhoge sampati, āyatiñca dosaṃ apassantā. Ghāsacchādanādisambhoganimittasaṃkilesato nissaranti apagacchanti etenāti nissaraṇaṃ, yoniso paccavekkhitvā tesaṃ paribhogapaññā. Tadabhāvato anissaraṇapaññāti imamatthaṃ dassento **‘‘idametthā’’**tiādimāha.

「貪りによって」とは貪欲に圧倒されて五妙欲を享受する、と結びつけられる。「眩惑のありさま」とは惑乱のありさま。「沈溺した」とは執着し耽溺して沈み込んだことであり、それゆえに「**沈み込んだ**」と述べた。「極限に達した」とは呑み込まれて終末に至るあり方で極限に達したこと。「過患を」とは、欲を享受することにおける現在の、また未来の過失を見ないことである。食物や衣服などの享受に起因する汚れから脱する、離れる根拠となるゆえに「出離(nissaraṇa)」であり、それは如理に省察してそれらを享受する智慧である。それがないことから「出離の智慧なき」である。この意味を示すために「**これにおいて**」等と述べた。

548-9. Āvarantīti kusalappavattiṃ āditova nivārenti. Nivārentīti niravasesato vārayanti. Onandhantīti ogāhantā viya chādenti. Pariyonandhantīti sabbaso chādenti. Āvaraṇādīnaṃ vasenāti āvaraṇādiatthānaṃ vasena. Te hi āsevanabalavatāya purimapurimehi pacchimapacchimā daḷhataratamādibhāvappattā vuttā.

548-9. 「覆う」とは善の生起を最初から遮ること。「遮断する」とは余すところなく防ぐこと。「巻きつく」とは沈み込ませるように覆い隠すこと。「すっかり巻きつく」とは完全に覆い隠すこと。「障害などの力によって」とは障害などの意味の力によってである。それらは習熟の強さによって、前のものよりも後のものの方がより強固な状態などに達していると説かれる。

Saṃsandanakathāvaṇṇanā

比較・対照の言明の解説

550. Itthipariggahe sati purisassa pañcakāmaguṇapariggaho paripuṇṇo eva hotīti vuttaṃ **‘‘sapariggahoti itthipariggahena sapariggaho’’**ti. **‘‘Itthipariggahena apariggaho’’**ti ca idaṃ tevijjabrāhmaṇesu dissamānapariggahānaṃ duṭṭhullatamapariggahābhāvadassanaṃ. Evaṃbhūtānaṃ tevijjānaṃ brāhmaṇānaṃ kā brahmunā saṃsandanā, brahmā pana sabbena sabbaṃ apariggahoti. Veracittena avero, kuto etassa verappayogoti adhippāyo. Cittagelaññasaṅkhātenāti cittuppādagelaññasaññitena, tenassa sabbarūpakāyagelaññabhāvo vutto hoti. Byāpajjhenāti dukkhena. Uddhaccakukkuccādīhīti ādi-saddena tadekaṭṭhā saṃkilesadhammā saṅgayhanti. Appaṭipattihetubhūtāya vicikicchāya sati na kadāci cittaṃ purisassa vase vattati, pahīnāya pana siyā vasavattananti āha **‘‘vicikicchāya abhāvato cittaṃ vase vattetī’’**ti. Cittagatikāti cittavasikā, tenāha **cittassa vase vattantī’’**ti. Na tādisoti brāhmaṇā viya cittavasiko na hoti, atha kho vasībhūtajjhānābhiññatāya cittaṃ attano vase vattetīti vasavattī.

550. 妻を持つことがあるとき、男性にとって五妙欲の所有は完全なものとなるため、「**所有ありとは、妻の所有によって所有ありである**」と述べられた。そして「**妻の所有なくして所有なき**」とは、三明のバラモンたちに見られる所有のうち最も粗雑な所有が存在しないことを示すものである。このような状態にある三明のバラモンたちと梵天との間に、どのような比較・一致があろうか。梵天はまったく一切の所有がないのである。「怨恨の心なくして怨恨なき」とは、彼にどこに怨恨の作用があろうか、という意図である。「心の病と名づけられた」とは心が生じる際の病と呼ばれるものであり、それによって彼のすべての色身の病のあり方が語られたことになる。「害意によって」とは苦痛によって。「掉挙・悪作などによって」の「など」という語によって、それと同類である雑染の諸法が包含される。不実践の原因となる疑いがあるとき、決して心は人の意のままにはならないが、それが断じられたときには意のままになるため、「**疑いがないことから心を意のままにする**」と述べた。「心に従う者たち」とは心の支配下にある者たちであり、それゆえに「**心の意のままに従う**」と述べた。「そのようではない」とは、バラモンたちのように心の支配下にあるのではなく、自在を得た禅定と神通によって心を自分の意のままにするがゆえに「自在者」である。

552. Brahmalokamaggeti brahmalokagāmimagge paṭipajjitabbe, paññapetabbe vā, taṃ paññapentāti adhippāyo. Upagantvāti amaggameva ‘‘maggo’’ti micchāpaṭipajjanena upagantvā, paṭijānitvā vā. Paṅkaṃ otiṇṇā viyāti matthake ekaṅgulaṃ vā upaḍḍhaṅgulaṃ vā sukkhatāya ‘‘samatala’’nti saññāya anekaporisaṃ mahāpaṅkaṃ otiṇṇā viya. Anuppavisantīti apāyamaggaṃ brahmalokamaggasaññāya ogāhayanti. Tato eva saṃsīditvā visādaṃ pāpuṇanti. Evanti ‘‘samatala’’ntiādinā vuttanayena. Saṃsīditvāti nimmujjitvā. Sukkhataraṇaṃ maññe tarantīti sukkhanaditaraṇaṃ taranti maññe. Tasmāti yasmā tevijjā amaggameva ‘‘maggo’’ti upagantvā saṃsīdanti, tasmā. Yathā teti yathā te ‘‘samatala’’nti saññāya paṅkaṃ otiṇṇā. Idheva cāti imasmiñca attabhāve. Sukhaṃ vā sātaṃ vā na labhantīti jhānasukhaṃ vā vipassanāsātaṃ vā na labhanti, kuto maggasukhaṃ vā nibbānasātaṃ vāti adhippāyo. Maggadīpakanti maggadīpakābhimataṃ. **‘‘Iriṇa’’**nti araññāniyā idaṃ adhivacananti āha **‘‘agāmakaṃ mahārañña’’**nti. Migaruruādīnampi anupabhogarukkhehi. Parivattitumpi na sakkā honti mahākaṇṭakatāya. Ñātīnaṃ byasanaṃ vināso ñātibyasanaṃ. Evaṃ bhogasīlabyasanāni veditabbāni. Rogo eva byasati vibādhatīti rogabyasanaṃ. Evaṃ diṭṭhibyasanampi daṭṭhabbaṃ.

552. 「梵天の世界への道において」とは、梵天の世界へと赴く道が実践されるべき、あるいは施設されるべきであるときに、それを施設する、という意図である。「近づいて」とは、道ではないものをまさに『道である』と誤って実践することによって近づいて、あるいは公言して。「泥濘に落ち入ったかのように」とは、表面が一指、あるいは半指ほど乾いていることから『平坦な地面だ』と思い込んで、幾人もの背丈に及ぶ大泥濘に落ち入ったかのようである。「踏み入る」とは、悪処への道を梵天の世界への道だと思い込んで沈み込むことである。それゆえに沈没して落胆に至る。「このように」とは『平坦な地面だ』等と述べられた方法によってである。「沈没して」とは沈んで。「乾いた川を渡るかのごとく渡る」とは、乾いた川を渡るかのように渡ると思っていることである。「それゆえに」とは、三明のバラモンたちが道ではないものをまさに『道である』と近づいて沈没するがゆえにである。「彼らが〜のごとく」とは、彼らが『平坦な地面だ』と思い込んで泥濘に落ち入ったかのごとくである。「まさにこの世において」とは、この生存において。「楽も快感も得られない」とは、禅定の楽もヴィパッサナーの快感も得られないことであり、まして道果の楽や涅槃の快感など得られるはずがあろうか、という意図である。「道を示す者」とは、道を示す者とみなされた者。「**荒野(Iriṇa)**」とは広大な密林の名称であるため、「**村のない大森林**」と述べた。鹿やトナカイなどにとっても利用できない木々によってである。大いなる茨があるため、転回することすらできない。親族の破滅・喪失が「親族の災厄」である。このように財産の災厄、戒の災厄も知るべきである。病そのものが害し苦しめるゆえに「病の災厄」である。このように見解の災厄も理解されるべきである。

554. Jātasaṃvaḍḍhoti jāto hutvā saṃvaḍḍhito. Na sabbaso paccakkhā honti paricayābhāvato. Ciranikkhantoti nikkhanto hutvā cirakālo. Dandhāyitattanti vissajjane mandattaṃ saṇikavutti, taṃ pana saṃsayavasena cirāyanaṃ nāma hotīti āha **‘‘kaṅkhāvasena cirāyitatta’’**nti. Vitthāyitattanti sārajjitattaṃ. Aṭṭhakathāyaṃ pana vitthāyitattaṃ nāma chambhitattanti adhippāyena **‘‘thaddhabhāvaggahaṇa’’**nti vuttaṃ.

554. 「生まれ育った」とは生まれて成長したこと。馴染みがないことから「完全に現前しているわけではない」。「久しく離れていた」とは離れてから長い時間が経っていること。「緩慢さ」とは返答における鈍さ、緩慢な行動であり、それは疑惑による躊躇となるため「**疑惑による遅延**」と述べた。「萎縮」とは気後れすることである。しかし註釈においては、萎縮とはおののくことであるという意図で「**硬直した状態の把握**」と述べられている。

555. U-iti upasaggayoge lumpa-saddo uddharaṇattho hotīti **‘‘ullumpatū’’**ti padassa uddharatūti atthamāha. Upasaggavasena hi dhātu-saddā atthavisesavuttino honti yathā ‘‘uddharatū’’ti.

555. 「U-」という接頭辞が結合すると「lumpa」という語は引き上げる意味となるため、「**救い上げたまえ(ullumpatu)**」という語に対して「引き上げたまえ」とその意味を述べた。実に接頭辞の力によって語根の言葉は特別な意味を表すようになるのであり、あたかも「引き上げたまえ」というがごときである。

Brahmalokamaggadesanāvaṇṇanā

梵天の世界への道の説示の解説

556. Yassa atisayena balaṃ atthi, so **‘‘balavā’’**ti vuttoti āha **‘‘balasampanno’’**ti. Saṅkhaṃ dhamayatīti saṅkhadhamako, taṃ dhamayitvā tato saddapavattako. Appanāva vaṭṭati paṭipakkhato sammadeva cetaso vimuttibhāvato.

556. 優れた力を持つ者が「**力ある者**」と説かれたため、「**力に満ちた者**」と述べた。「法螺貝を吹く」ゆえに法螺貝吹きであり、それを吹いてそこから音を響かせる者である。敵対するものから心が正しく解脱している状態であることから、「安止(定)こそがふさわしい」。

Pamāṇakataṃ kammaṃ nāma kāmāvacaraṃ pamāṇakarānaṃ saṃkilesadhammānaṃ avikkhambhanato. Tathā hi taṃ brahmavihārapubbabhāgabhūtaṃ pamāṇaṃ atikkamitvā odissakaanodissakadisāpharaṇavasena vaḍḍhetuṃ na sakkā. Vuttavipariyāyato pana appamāṇakataṃ kammaṃ nāma rūpārūpāvacaraṃ, tenāha **‘‘tañhī’’**tiādi. Tattha arūpāvacare odissakānodissakavasena pharaṇaṃ na labbhati, tathā disāpharaṇaṃ.

「量のある行為(有限の業)」とは欲界のものであり、量をなす雑染の諸法が制伏されていないからである。実にそれは梵住の前段階となった量を越えて、特定・不特定の方向への遍満によって増大させることができないからである。しかし説かれたことの反対から、「無量の行為(無量の業)」とは色界・無色界のものであり、それゆえに「**実にそれは**」等と述べた。そこにおいて無色界では特定・不特定による遍満は得られず、同様に方向への遍満も得られない。

Keci pana taṃ āgamanavasena labbhatīti vadanti, tadayuttaṃ. Na hi brahmavihāranissando āruppaṃ, atha kho kasiṇanissando, tasmā yaṃ suvibhāvitaṃ vasībhāvaṃ pāpitaṃ āruppaṃ, taṃ **‘‘appamāṇakata’’**nti vuttanti daṭṭhabbaṃ. Yaṃ vā sātisayaṃ brahmavihārabhāvanāya abhisaṅkhatena santānena nibbattitaṃ, yañca brahmavihārasamāpattito vuṭṭhāya samāpannaṃ arūpāvacarajjhānaṃ, taṃ iminā pariyāyena pharaṇappamāṇavasena appamāṇakatanti vattuṃ vaṭṭatīti apare. Vīmaṃsitvā gahetabbaṃ.

しかしある者たちは、それは所依(原因)の力によって得られるのだと言うが、それは不適切である。梵住の等流果が無色定なのではなく、遍処(カシナ)の等流果が無色定なのである。したがって、よく修習され自在の境地に至った無色定が「**無量となされたもの**」と説かれたと見るべきである。あるいは、極めて優れた梵住の修習によって調えられた相続(心身の流れ)において生じたもの、そして梵住の等至から出定して等至した無色界の禅定が、この方便によって遍満の分量に応じて無量となされたものである、と言うことが妥当であると他の者たちは言う。よく考察して受持すべきである。

Rūpāvacarārūpāvacarakammeti rūpāvacarakamme, arūpāvacarakamme ca sati. Na ohīyati na tiṭṭhatīti katūpacitampi kāmāvacarakammaṃ yathādhigate mahaggatajjhāne aparihīne taṃ abhibhavitvā paṭibāhitvā sayaṃ ohīyakaṃ hutvā paṭisandhiṃ dātuṃ samatthabhāve na tiṭṭhati. Laggitunti āvarituṃ nisedhetuṃ. Ṭhātunti paṭibalo hutvā ṭhātuṃ. Pharitvāti paṭippharitvā. Pariyādiyitvāti tassa sāmatthiyaṃ khepetvā. Kammassa pariyādiyanaṃ nāma tassa vipākuppādanaṃ nisedhetvā attano vipākuppādananti āha **‘‘tassa vipākaṃ paṭibāhitvā’’**tiādi. Evaṃ mettādivihārīti evaṃ vuttānaṃ mettādīnaṃ brahmavihārānaṃ vasena mettādivihārī.

「色界・無色界の業があるとき」とは、色界の業、および無色界の業があるときである。「残らない、とどまらない」とは、なされ積み立てられた欲界の業であっても、獲得された通りに広大なる禅定が退転していないとき、それを圧倒し排除して自らは後に控え、結生(再生)をもたらす能力のある状態にとどまらないということである。「遮る」とは覆い防ぐこと。「立ちはだかる」とは対抗してとどまること。「遍満して」とは押し返して遍満して。「使い尽くして」とはその能力を尽くさせて。業を使い尽くすとは、その異熟(結果)の生起を阻んで自らの異熟を生起させることであるため、「**その異熟を排除して**」等と述べた。「このように慈悲などを住処とする者」とは、このように説かれた慈などの梵住の力によって慈悲などを住処とする者のことである。

559. Aggaññasutte…pe… alatthunti aggaññasutte āgatanayena upasampadañceva arahattañca alatthuṃ paṭilabhiṃsu. Sesaṃ suviññeyyameva.

559. 「起世経において……」等で、「得た」とは起世経に説かれた方法によって具足戒と阿羅漢果をともに得た、獲得したということである。残りは容易に理解できる。

Tevijjasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā.

三明経の解説における隠れた意味の解明。

Niṭṭhitā ca terasasuttapaṭimaṇḍitassa sīlakkhandhavaggassa atthavaṇṇanāya

そして十三の経で飾られた戒蘊品の義釈における

Līnatthappakāsanāti.

隠れた意味の解明(複註)は終了した。

Sīlakkhandhavaggaṭīkā niṭṭhitā.

戒蘊品複註 完