3. Ambaṭṭhasuttavaṇṇanā3. 庵婆吒経の解釈
Addhānagamanavaṇṇanā
遠方への遊行の解釈
254. Apubbapadavaṇṇanāti atthasaṃvaṇṇanāvasena heṭṭhā aggahitatāya apubbassa padassa vaṇṇanā atthavibhajanā. ‘‘Hitvā punappunāgatamattha’’nti (dī. ni. aṭṭha. 1.ganthārambhakathā) hi vuttaṃ. Janapadinoti janapadavanto, janapadassa vā issarā rājakumārā gottavasena kosalā nāma. Yadi eko janapado, kathaṃ bahuvacananti āha **‘‘rūḷhisaddenā’’**ti. Akkharacintakā hi īdisesu ṭhānesu yutte viya īdisaliṅgavacanāni icchanti, ayamettha rūḷhi yathā aññatthapi ‘‘kurūsu viharati, aṅgesu viharatī’’ti ca. Tabbisesanepi janapada-sadde jāti-sadde ekavacanameva. Porāṇā panāti pana-saddo visesatthajotano, tena puthuatthavisayatāya evañcetaṃ puthuvacananti vakkhamānavisesaṃ joteti. Bahuppabhedo hi so padeso tiyojanasataparimāṇatāya. Naṅgalānipi chaḍḍetvāti kammappahānavasena naṅgalānipi pahāya, nidassanamattañcetaṃ. Na kevalaṃ kassakā eva, atha kho aññepi manussā attano attano kiccaṃ pahāya tattha sannipatiṃsu. **‘‘So padeso’’**ti padesasāmaññato vuttaṃ, vacanavipallāsena vā, te padesāti attho. Kosalāti vuccati kusalā eva kosalāti katvā.
254. 「未曾有の語の解釈」とは、意味の注釈によって前述で取り上げられていなかったために未曾有である語の解釈、意味の分別である。「再三現れた意味を捨てて」と説かれているからである。「コーサラ国の人々」とは、地方の人々、あるいは地方の統治者たる王族たちが氏族によってコーサラと呼ばれる。もし一つの地方であるならば、どうして複数形なのかと問い、「慣用句(通称)によって」と言った。文字(文法)を考察する学者たちは、このような箇所で適切なもののようにこのような性や数(の用法)を認めており、他においても「クル国(複数)に住む、アンガ国(複数)に住む」とされるように、これがここでの慣用である。その修飾語においても「地方」という語、「種族」という語は単数形のままである。「しかし古人たちは」の「しかし」という語は特別な意味を示すものであり、それによって多くの意味の対象であることからこのように複数形であるという、後述される特異性を示している。実にその地域は三百由旬の広大さを持つことによって多くの区分があるからである。「鋤をも捨てて」とは、作業を放棄することによって鋤をも捨てて、ということであり、これは単なる一例である。農民たちだけでなく、他の人々も自らの仕事を捨ててそこに集まった。「その地方」とは地方の共通性から説かれたものであり、あるいは語の転換によって「それらの地域」という意味である。「コーサラ」と呼ばれるのは、巧みな者(kusalā)たちこそがコーサラ(kosalā)であるとすることによる。
Cārikanti caraṇaṃ, caraṇaṃ vā cāro, so eva cārikā. Tayidaṃ maggagamanaṃ idhādhippetaṃ, na cuṇṇikagamanamattanti āha **‘‘addhānagamanaṃ gacchanto’’**ti. Taṃ vibhāgena dassetuṃ **‘‘cārikā ca nāmesā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha dūrepīti nātidūrepi. Sahasā gamananti sīghagamanaṃ. Mahākassapapaccuggamanādiṃ ekadesena vatvā vanavāsītissasāmaṇerassa vatthuṃ vitthāretvā janapadacārikaṃ kathetuṃ **‘‘bhagavā hī’’**tiādi āraddhaṃ. Ākāsagāmīhi eva saddhiṃ gantukāmo **‘‘chaḷabhiññānaṃ ārocehī’’**ti āha.
「遊行」とは歩み行くことであり、あるいは歩み行くことが遊行(cāra)であり、それそのものがcārikāである。この道を行くことがここで意図されており、単にぶらぶら歩くことではないとして、「遠方への歩みを行く」と言った。それを分別して示すために「そしてこの遊行とは」などと言われた。そこにおいて「遠くにあっても」とは、それほど遠くない場合でも、である。「突発的な歩み」とは急速な歩みである。大迦葉の出迎えなどを部分的に述べて、森林住のティッサ沙弥の物語を詳細に語り、地方への遊行を語るために「世尊は実に」などが始められた。虚空を行く者たちとともにのみ行こうとして「六神通の者たちに告げよ」と言われた。
Saṅghakammavasena sijjhamānāpi upasampadā satthu āṇāvaseneva sijjhanato **‘‘buddhadāyajjaṃ te dassāmī’’**ti vuttanti vadanti. Apare pana aparipuṇṇavīsativassasseva tassa upasampadaṃ anujānanto **‘‘dassāmī’’**ti avocāti vadanti. Upasampādetvāti dhammasenāpatinā upajjhāyena upasampādetvā.
僧伽の羯磨によって成就する具足戒であっても、師の命令によってこそ成就することから「仏の遺産をそなたに授けよう」と説かれたのだ、と諸師は言う。また他の師たちは、満二十歳に満たない彼に具足戒を許しつつ「授けよう」と仰せられたのだ、と言う。「具足戒を受けさせて」とは、法の将軍(舎利弗)を戒師として具足戒を受けさせて、である。
Navayojanasatikampi ṭhānaṃ majjhimadesapariyāpannameva, tato paraṃ nādhippetaṃ turitacārikāvasena agamanato. Samantāti gatagataṭṭhānassa catūsu passesu samantato. Aññenapi kāraṇenāti bhikkhūnaṃ samathavipassanātaruṇabhāvato aññenapi majjhimamaṇḍale veneyyānaṃ ñāṇaparipākādikāraṇena majjhimamaṇḍalaṃ osarati. **‘‘Sattahi vā’’**tiādi ‘‘ekamāsaṃ vā’’tiādinā vuttānukkamena yojetabbaṃ.
九百由旬の場所もまた中インドに属するものであり、それ以上は急速な遊行によって行かないことから意図されていない。「周囲に」とは、訪れた場所の四方の四方に、である。「他の理由によっても」とは、比丘たちの止観がまだ未熟であることから、また他の理由によっても中インドの被教化者たちの智慧の成熟などの理由によって中インドへ下る。「あるいは七日に」などは「一ヶ月に、あるいは」などと説かれた順序に従って結びつけるべきである。
Sarīraphāsukatthāyāti ekasmiṃyeva ṭhāne nibaddhavāsavasena ussannadhātukassa sarīrassa vicaraṇena phāsukatthāya. Aṭṭhuppattikālābhikaṅkhanatthāyāti aggikkhandhopamasutta (a. ni. 7.72) maghadevajātakādi (jā. 1.1.9) desanānaṃ viya dhammadesanāya aṭṭhuppattikālaṃ ākaṅkhamānena. Surāpānasikkhāpadapaññāpane (pāci. 328) viya sikkhāpadapaññāpanatthāya. Bodhaneyyasatte aṅgulimālādike (ma. ni. 2.347) bodhanatthāya. Kañci, katipaye vā puggale uddissa cārikā nibaddhacārikā. Tadaññā anibaddhacārikā.
「身体の安穏のために」とは、同一の場所に定住することによって四大の調和を乱した身体が、歩行することによって安穏となるために、である。「機縁の時を期待するために」とは、大火聚譬喩経や摩竭陀王本生などの説示のように、法を説くための機縁の時を待ち望みつつ、である。飲酒戒の制定におけるように、学処を制定するために、である。教化すべきアングリマーラなどの有情たちを教化するために、である。誰か特定の、あるいは少数の人物を対象とする遊行が「定まった遊行(nibaddhacārikā)」である。それ以外のものが「定まらない遊行(anibaddhacārikā)」である。
Dasasahassi lokadhātuyāti jātikhettabhūte dasasahassacakkavāḷe. Tattha hi satte paripakkindriye passituṃ buddhañāṇaṃ abhinīharitvā ṭhito bhagavā ñāṇajālaṃ pattharatīti vuccati. Sabbaññutaññāṇajālassa anto paviṭṭhoti tassa ñāṇassa gocarabhāvaṃ upagato. Bhagavā kira mahākaruṇāsamāpattiṃ samāpajjitvā tato vuṭṭhāya ‘‘ye sattā bhabbā paripākañāṇā ajja mayā vinetabbā, te mayhaṃ ñāṇassa upaṭṭhahantū’’ti cittaṃ adhiṭṭhāya samannāharati. Tassa saha samannāhārā eko vā dve vā bahū vā tadā vinayūpagā veneyyā ñāṇassa āpāthamāgacchanti ayamettha buddhānubhāvo. Evampi āpāthamāgatānaṃ pana nesaṃ upanissayaṃ pubbacariyaṃ pubbahetuṃ sampati vattamānañca paṭipattiṃ oloketi, tenāha **‘‘atha bhagavā’’**tiādi. Vādapaṭivādaṃ katvāti ‘‘evaṃ nu te ambaṭṭhā’’tiādinā mayā vuttavacanassa ‘‘ye ca kho te bho gotama muṇḍakā samaṇakā’’tiādinā paṭivacanaṃ katvā tikkhattuṃ ibbhavādanipātanavasena nānappakāraṃ asambhivākyaṃ sādhusabhāvāya vācāya vattuṃ ayuttavacanaṃ vakkhati. Nibbisevananti vigatatudanaṃ, mānadabbavasena apagataparipphandananti attho.
「一万の世界において」とは、生誕の領域である一万の車輪世界(小千世界)においてである。そこにおいて諸々の有情の成熟した根を見るために、仏の智慧を差し向けて留まられた世尊は「智慧の網を広げる」と言われる。「一切知の智慧の網の中に入った」とは、その智慧の対象となったことである。世尊は大悲定に入り、そこから出定して「今日、私が教化すべき成熟した智慧をもつ有情たちが、私の智慧の前に現れるように」と心を決意して念慮される。その念慮とともに、一人あるいは二人、あるいは多数の、その時教化されるべき対象者が智慧の視野に入ってくる。これがここでの仏の威力である。このように視野に入ってきた者たちの素質、過去の行い、過去の因、そして現在進行中の実践を観察されるのであり、それゆえ「そこで世尊は」などと言った。「論争と応酬をして」とは、「アンバッタよ、そなたは〜か」などと私が述べた言葉に対して、「尊者ゴータマよ、かの頭を剃った沙門どもは」などと応酬し、三度「下賤の者」と言い放つことによって、種々の粗暴な言葉、善良な性質の言葉として語るに不適切な言葉を語るであろう。「怒りなきもの」とは、刺すような棘が去ったもの、慢心という高慢による動揺が去ったもの、という意味である。
Avasaritabbanti upagantabbaṃ. Icchānaṅgaleti idaṃ tadā bhagavato gocaragāmanidassanaṃ samīpatthe bhummanti katvā. **‘‘Icchānaṅgalavanasaṇḍe’’**ti nivāsanaṭṭhānadassanaṃ adhikaraṇe bhummanti. Tadubhayaṃ vivaranto **‘‘icchānaṅgalaṃ upanissāyā’’**tiādimāha. Dhammarājassa bhagavato sabbaso adhammaniggaṇhanaparā paṭipatti, sā ca sīlasamādhipaññāvasenāti taṃ dassetuṃ **‘‘sīlakhandhāvāra’’**ntiādi vuttaṃ. Yathābhirucitenāti dibbavihārādīsu yena yena attano abhirucitena vihārena.
「赴くべき」とは近づくべきである。「イッチハーナンガラに」とは、これがその時の世尊の托鉢の村の例示であり、近接の意味における地格である。「イッチハーナンガラの密林に」とは、居住場所の例示であり、拠点の地格である。その両者を明らかにして「イッチハーナンガラを依処として」などと言った。法王たる世尊のすべての不正法を制圧することを旨とする実践、それも戒・定・慧によるものであることを示すために「戒の陣営」などと説かれた。「望むところに従って」とは、天住などの自らが望むところの住まいによって、である。
Pokkharasātivatthuvaṇṇanā
沸伽羅娑羅の物語の解釈
255. Manteti irubbedādimantasatthe. Pokkhare kamale sayamāno nisīdīti pokkharasātī. Sāti vuccati samasaṇṭhānaṃ, pokkhare saṇṭhānāvayave jātoti **‘‘pokkharasātī’’**tipi vuccati. Setapokkharasadisoti setapadumavaṇṇo. Suvaṭṭitāti vaṭṭabhāvassa yuttaṭṭhāne suṭṭhu vaṭṭulā. Kāḷavaṅgatilakādīnaṃ abhāvena suparisuddhā.
255. 「マントラにおいて」とは、リグ・ヴェーダなどのマントラ典籍においてである。「蓮華(pokkhara)の台座に自ら坐した」からポッカラサーティ(Pokkharasāti)である。「サーティ(sāti)」とは均整のとれた形態をいい、蓮華の形態の部位に生じたことから「ポッカラサーティ」とも呼ばれる。「白蓮華に似た」とは白蓮華のような色相である。「よく整った」とは、丸みのあるべき箇所において非常によく丸みを帯びている。「黒痣や雀斑などがないことによって」きわめて清浄である。
Imassa brāhmaṇassa kīdiso pubbayogo, yena naṃ bhagavā anuggaṇhituṃ taṃ ṭhānaṃ upagatoti āha **‘‘ayaṃ panā’’**tiādi. Padumagabbhe nibbatti tenāyaṃ saṃsedajo jāto. Na pupphatīti na vikasati. Rajatabimbakanti rūpiyamayaṃ rūpakaṃ.
このバラモンにいかなる過去の善業があり、それによって世尊が彼を慈悲で導くためにその場所へ赴かれたのかを示して「しかし彼は」などと言った。蓮華の胎内に生じたのであり、それゆえ彼は湿生として生まれた。「咲かない」とは開かないことである。「銀の人形」とは銀で作られた像である。
Ajjhāvasatīti ettha adhi-saddo issariyatthadīpano, āsaddo mariyādatthoti dassento **‘‘abhibhavitvā’’**tiādimāha. Tehi yuttattā hi ukkaṭṭhanti upayogavacanaṃ, tenāha **‘‘upasaggavasenā’’**tiādi. Yāya mariyādāyāti yāya avatthāya. Nagarassa vatthunti ‘‘ayaṃ khaṇo, sumuhuttaṃ mā atikkamī’’ti rattivibhāyanaṃ anurakkhantā rattiyaṃ ukkā ṭhapetvā ukkāsu jalamānāsu nagarassa vatthuṃ aggahesuṃ, tasmā ukkāsu ṭhitāti ukkaṭṭhā, ukkāsu vijjotayantīsu ṭhitā patiṭṭhitāti mūlavibhujādipakkhepena saddasiddhi veditabbā, niruttinayena vā ukkāsu ṭhitāsu ṭhitā āsīti ukkaṭṭhā. Apare pana bhaṇanti ‘‘bhūmibhāgasampattiyā, upakaraṇasampattiyā, manussasampattiyā ca taṃ nagaraṃ ukkaṭṭhaguṇayogato ukkaṭṭhāti nāmaṃ labhī’’ti. Tassāti ‘‘ukkaṭṭha’’nti upayogavasena vuttapadassa. Anupayogattāti visesanabhāvena anupayuttattā. Sesapadesūti ‘‘sattussada’’ntiādipadesu. Yathāvidhi hi anupayogo purimasmiṃ. Tatthāti ‘‘upasaggavasenā’’tiādinā vuttavidhāne. **‘‘Saddasatthato pariyesitabba’’**nti etena saddalakkhaṇānugato vāyaṃ saddappayogoti dasseti. Upaanuadhiāitievaṃpubbake vasanakiriyāṭhāne upayogavacanameva pāpuṇātīti saddavidū icchanti.
「治めている(ajjhāvasati)」における「adhi」という語は主権の意味を示し、「ā」という語は境界の意味を示すと明示して「支配して」などと言った。それらと結合しているために「Ukkaṭṭhaṃ(ウッカッタを)」という対格の言葉があり、それゆえ「接頭辞の働きによって」などと言った。「いかなる境界によって」とは、いかなる状態によって、である。「都市の敷地を」とは、「今こそ好機であり、吉兆の時を逃してはならない」と夜明けを警戒しつつ夜に松明(ukkā)を立て、松明が燃え盛る中で都市の敷地を定めた。それゆえ松明において建てられたからウッカッタ(Ukkaṭṭhā)であり、松明が照らす中で建てられ確立された、と語根や接尾辞などの適用によって語の成立が理解されるべきであり、あるいは語源解釈の方法によって「松明が立っている中に定着した」からウッカッタである。また他の師たちは「土地の充実、物資の充実、人々の充実によって、その都市は卓越した(ukkaṭṭha)徳を備えていることからウッカッタという名を得た」と言う。「その」とは、「Ukkaṭṭhaṃ」と対格によって説かれた語の、である。「対格を用いないことによって」とは、修飾語としての対格が用いられていないことによってである。「残りの語において」とは、「有情が満ち溢れた」などの語においてである。実に前者の語においては規則通りに対格が用いられていない。「そこにおいて」とは、「接頭辞の働きによって」などと説かれた規定においてである。「文法書から探究されるべきである」というこれによって、文法規則に従ったこの語の適用であることを示している。upa, anu, adhi, āなどの接頭辞を前置する「住する」という動詞の座においては対格のみが至る、と文法家たちは認めている。
Ussadatā nāmettha bahulatāti, taṃ bahulataṃ dassetuṃ **‘‘bahujana’’**ntiādi vuttaṃ. Gahetvā posetabbaṃ posāvaniyaṃ. Āvijjhitvāti parikkhipitvā.
「ウッサダター(優越・充満)」とは、ここでは「多数・豊富であること」を意味する。その豊富さを示すために「多くの人々」などと説かれたのである。「養うべきもの」とは、引き取って養育すべきものである。「取り囲んで」とは、包囲してという意味である。
Raññā viya bhuñjitabbanti vā rājabhoggaṃ. Rañño dāyabhūtanti kulaparamparāya yogyabhāvena rājato laddhadāyabhūtaṃ. Tenāha **‘‘dāyajjanti attho’’**ti. Rājanīhārena paribhuñjitabbato uddhaṃ paribhogalābhassa seṭṭhadeyyatā nāma natthīti āha **‘‘chattaṃ ussāpetvā rājasaṅkhepena bhuñjitabba’’**nti. **‘‘Sabbaṃ chejjabhejja’’**nti sarīradaṇḍadhanadaṇḍādi bhedaṃ sabbaṃ daṇḍamāha. Nadītitthapabbatādīsūti nadītitthapabbatapādagāmadvāraaṭavimukhādīsu. ‘‘Rājadāya’’nti imināva rañño dinnabhāve siddhe **‘‘raññā pasenadinā kosalena dinna’’**nti vacanaṃ kimatthiyanti āha **‘‘dāyakarājadīpanattha’’**ntiādi. Nissaṭṭhapariccattanti muttacāgavasena pariccattaṃ katvā. Evañhi taṃ seṭṭhadeyyaṃ uttamadeyyaṃ jātaṃ.
「王のように享受されるべきもの」あるいは「王の封土」である。「王の賜り物となった」とは、家系の正統性によって王から授与された賜り物となったことを意味する。それゆえに「相続財産という意味である」と説かれたのである。王の様式によって享受されるべきものであることから、享受の獲得においてこれ以上優れた贈与物はないという意味で、「天蓋を掲げ、王の如く要約して享受されるべきもの」と説かれた。「一切の断罪・処罰」とは、身体刑や財産刑などの一切の刑罰のことを述べている。「河川の渡し場や山などにおいて」とは、河川の渡し場、山の麓、村の門、森の入口などにおいてという意味である。「王の賜り物」というこの語によって既に王から与えられたものであることが成り立つにもかかわらず、「コーサラ国のパセーナディ王によって与えられた」という言葉がなぜあるのかといえば、「施主である王を明示するためである」などと説かれたのである。「完全に放棄された」とは、執着なき施捨によって放棄されたものとしたことである。このようにして、それは最上・最高の贈与物となったのである。
Upalabhīti savanavasena upalabhīti imamatthaṃ dassento **‘‘sotadvāra…pe… aññāsī’’**ti āha. Avadhāraṇaphalattā sabbampi vākyaṃ antogadhāvadhāraṇanti āha **‘‘padapūraṇamatte nipāto’’**ti. **‘‘Avadhāraṇatthe’’**ti pana iminā iṭṭhatovadhāraṇatthaṃ kho-saddaggahaṇanti dasseti. **‘‘Assosī’’**ti padaṃ kho-sadde gahite tena phullitamaṇḍitaṃ viya hontaṃ pūritaṃ nāma hoti, tena ca purimapacchimapadāni siliṭṭhāni honti, na tasmiṃ aggahiteti āha **‘‘padapūraṇena byañjanasiliṭṭhatāmattamevā’’**ti. Matta-saddo visesanivattiattho, tenassa anatthantaradīpanatā dassitā hoti, eva-saddena pana byañjanasiliṭṭhatāya ekantikatā.
「得た」とは、聞くことによって得たということであり、この意味を示すために「耳の門…中略…知った」と説かれた。限定の果であることから、文全体が内包された限定を持つため「句を補うだけの不変化詞である」と説かれた。しかし「限定の意味において」という語によって、望ましい限定の意味で「コー(実に)」という語が用いられていることが示される。「聞いた」という言葉に「コー」の語が添えられると、それによって花が咲き飾られたかのように満たされたものとなり、それによって前後の句が滑らかになるのであり、それが添えられていない場合にはそうならない。それゆえに「句の補足によって文字の滑らかさをもたらすにすぎない」と説かれた。「マッタ(〜にすぎない)」という語は特別な意味を排除するものであり、それによって他の意味を示さないことが明らかにされている。一方、「エーヴァ(実に)」という語によって、文字の滑らかさの確実性が示されている。
Samitapāpattāti accantaṃ anavasesato savāsanaṃ samitapāpattā. Evañhi bāhirakavirāgasekkhāsekkhapāpasamanato bhagavato pāpasamanaṃ visesitaṃ hoti, tenāha vuttañhetantiādi. Anekatthattā nipātānaṃ idha anussavattho adhippetoti āha **‘‘khalūti anussavatthe nipāto’’**ti. Ālapanamattanti piyālāpavacanamattaṃ. Piyasamudāhāro hete ‘‘bho’’ti vā ‘‘āvuso’’ti vā ‘‘devānaṃ piyā’’ti vā. Gottavasenāti ettha gaṃ tāyatīti gottaṃ. Gotamoti hi pavattamānaṃ vacanaṃ, buddhiñca tāyati ekaṃsikavisayatāya rakkhatīti gottaṃ. Yathā hi buddhi ārammaṇabhūtena atthena vinā na vattati, evaṃ abhidhānaṃ abhidheyyabhūtena, tasmā so gottasaṅkhāto attho tāni tāyati rakkhatīti vuccati. Ko pana soti? Aññakulaparamparāsādhāraṇaṃ tassa kulassa ādipurisasamudāgataṃ taṃkulapariyāpannasādhāraṇaṃ sāmaññarūpanti daṭṭhabbaṃ. Ettha ca **‘‘samaṇo’’**ti iminā sarikkhakajanehi bhagavato bahumatabhāvo dassito samitapāpatākittanato. **‘‘Gotamo’’**ti iminā lokiyajanehi uḷārakulasambhūtatādīpanato.
「悪を静めたことから」とは、極めて余すところなく習気とともに悪を静めたことからという意味である。このようにして、外道の離欲者や有学・無学の悪の静まりと比して世尊の悪の静まりの卓越性が示される。それゆえに「実にこのように説かれた」などと言われたのである。不変化詞には多くの意味があるため、ここでは伝聞の意味が意図されているとして「『カル(実に・伝聞)』とは伝聞の意味における不変化詞である」と説かれた。「呼びかけにすぎない」とは、親愛の情を込めた単なる呼びかけの言葉である。「ボー(友よ)」あるいは「アーヴソ(友よ)」あるいは「神々に愛されし者よ」というのは、実に親愛なる呼びかけである。「ゴッタ(姓・氏族)によって」という点において、「牛(言葉・智)を守る(保護する)からゴッタ」という。実に「ゴータマ」として通用している言葉や智を守り、絶対的な対象として保護するから「ゴッタ」と呼ばれるのである。ちょうど智が対象となる意味なくして働かないように、名称も名指される対象なくしては働かない。それゆえに、その氏族と呼ばれる意味がそれらを守り保護するのだと言われる。では、それとは何か。他の家系の伝承と共通し、その家系の始祖から由来し、その家系に属する者たちに共通する普遍的な相であると解されるべきである。そしてここでは「沙門」という語によって、悪を静めたことの称賛から同等の人々によって世尊が重んじられていることが示されている。「ゴータマ」という語によって、世俗の人々によって高貴な家柄の出身であることが示されている。
Uccākulaparidīpanaṃ uditoditavipulakhattiyakulavibhāvanato. Sabbakhattiyānañhi ādibhūtamahāsammatamahārājato paṭṭhāya asambhinnaṃ uḷāratamaṃ sakyarājakulaṃ. Kenaci pārijuññenāti ñātipārijuññabhogapārijuññādinā kenaci pārijuññena pārihāniyā. Anabhibhūto anajjhotthato. Tathā hi tassa kulassa na kiñci pārijuññaṃ lokanāthassa abhijātiyaṃ, atha kho vaḍḍhiyeva. Abhinikkhamane ca tatopi samiddhatamabhāvo loke pākaṭo paññāto. Iti **‘‘sakyakulā pabbajito’’**ti idaṃ vacanaṃ bhagavato saddhāpabbajitabhāvadīpanaṃ vuttaṃ mahantaṃ ñātiparivaṭṭaṃ, mahantañca bhogakkhandhaṃ pahāya pabbajitabhāvasiddhito. Sundaranti bhaddakaṃ. Bhaddakatā ca passantassa hitasukhāvahabhāvena veditabbāti āha atthāvahaṃ sukhāvahanti. Tattha atthāvahanti diṭṭhadhammikasamparāyikaparamatthasaṃhitahitāvahaṃ. Sukhāvahanti yathāvuttatividhasukhāvahaṃ. Tathārūpānanti tādisānaṃ. Yādisehi pana guṇehi bhagavā samannāgato, tehi catuppamāṇikassa lokassa sabbathāpi accantāya saddhāya pasādanīyo tesaṃ yathābhūtasabhāvattāti dassento yathārūpotiādimāha. Tattha yathābhūtaṃ…pe… arahatanti iminā dhammappamāṇānaṃ, lūkhappamāṇānañca sattānaṃ bhagavato pasādāvahataṃ dasseti. Taṃ dassaneneva ca itaresampi atthato pasādāvahatā dassitā hotīti daṭṭhabbaṃ tadavinābhāvato. Dassanamattampi sādhu hotīti ettha kosiyasakuṇavatthuṃ (ma. ni. aṭṭha. 1.144; khu. pā. aṭṭha. 10) kathetabbaṃ.
「高貴な家柄の顕示」とは、栄えに栄えた広大な刹帝利の家柄を明らかにすることによる。実に、一切の刹帝利の始祖である大選定大王(マハーサンマタ)以来、純血で最も高貴な釈迦の王族である。「何らかの衰退によって」とは、親族の衰退や財産の衰退などのいかなる衰退・損失によっても。「圧倒されず」とは、覆い尽くされずということである。実に、その家柄には世の導師の誕生において何の衰退もなく、かえって繁栄するばかりであった。そして出家においては、それ以上に最も繁栄した状態であったことが世に広く知られている。このように「釈迦族から出家した」というこの言葉は、世尊が信によって出家されたことを示すために説かれたのであり、広大な親族の輪と莫大な財産の集積を捨てて出家されたことが確立されているからである。「スンダラ(美しき・善き)」とは善美なることである。善美であることは、見る者に対して利益と幸福をもたらすことによって知られるべきであるため、「利益をもたらし、幸福をもたらす」と説かれた。その中で「利益をもたらす」とは、現世・来世・究極の目的に結びついた利益をもたらすことである。「幸福をもたらす」とは、前述の三種の幸福をもたらすことである。「そのような者たちの」とは、そのような徳を備えた者たちのという意味である。世尊が具足されているいかなる徳によっても、四種の基準を持つ世間にとって、それらが如実な本性であるがゆえに、あらゆる点において至高の信によって信順されるべき方であることを示すために、「そのような…」などと説かれた。その中で「如実に…中略…阿羅漢である」という語によって、法を基準とする者たち、あるいは質素さを基準とする者たちに世尊が信順をもたらすことが示されている。そして、その顕示によって他の人々に対しても実質的に信順をもたらすことが示されていると解されるべきである。それらは不可分だからである。「見るだけでも善いことである」という点については、コシヤ鳥の物語を語るべきである。
Ambaṭṭhamāṇavakathāvaṇṇanā
アンバッタ青年に関する対話の解説
256. Mante parivattetīti vede sajjhāyati, pariyāpuṇātīti attho. Mante dhāretīti yathāadhīte mante asammuṭṭhe katvā hadaye ṭhapeti oṭṭhapahatakaraṇavasena, na atthavibhāvanavasena.
256.「讃歌を誦読する」とは、ヴェーダを読誦し習得するという意味である。「讃歌を保持する」とは、学んだ讃歌を忘れることなく、口唇の運動によって心に留めることであり、意味を解釈することによってではない。
Sanighaṇḍukeṭubhānanti ettha vacanīyavācakabhāvena atthaṃ saddañca nikhaḍati bhindati vibhajja dassetīti nikhaṇḍu, sā eva idha kha-kārassa gha-kāraṃ katvā ‘‘nighaṇḍū’’ti vutto. Kiṭayati gameti ñāpeti kiriyādivibhāgaṃ, taṃ vā anavasesapariyādānato gamento pūretīti keṭubhaṃ. Vevacanappakāsakanti pariyāyasaddadīpakaṃ, ekekassa atthassa anekapariyāyavacanavibhāvakanti attho. Nidassanamattañcetaṃ anekesampi atthānaṃ ekasaddavacanīyatāvibhāvanavasenapi tassa ganthassa pavattattā. Vacībhedādilakkhaṇā kiriyā kappīyati etenāti kiriyākappo, so pana vaṇṇapadasambandhapadatthādivibhāgato bahuvikappoti āha **‘‘kiriyākappavikappo’’**ti. Idañca mūlakiriyākappaganthaṃ sandhāya vuttaṃ. So hi satasahassaparimāṇo nayacariyādipakaraṇaṃ. Ṭhānakaraṇādivibhāgato, nibbacanavibhāgato ca akkharā pabhedīyanti etehīti akkharappabhedā, sikkhāniruttiyo. Etesanti vedānaṃ.
「語彙集と典礼学(サニガンドゥ・ケートゥバ)を伴う」という点において、表現されるべき意味と表現する言葉を分析し、区分し、分けて示すものがニカンドゥ(語彙集)であり、それがここでは「カ」の音を「ガ」の音に変えて「ニガンドゥ」と説かれた。行為などの区分を行わせ、知らせるもの、あるいはそれを余すところなく尽くして補完するものがケートゥバ(典礼学)である。「同義語を明示する」とは、類義語を説明するものであり、一つの意味に対して多くの類義語の区分を明らかにするという意味である。これは単なる一例にすぎず、多くの意味が一つの言葉で表現されることを明らかにする点においてもその書物は成立している。「言葉の区分などの特徴を持つ行為がこれによって定められる」ことからキリヤーカッパ(詩律・文法規準)と呼ばれ、それは文字や句の結合、句の意味などの区分から多くの変形を持つため、「文法・作法規準の諸相」と説かれた。そしてこれは根本的な作法規準の書物を指して説かれたものである。それは実に十万の分量を持つ、規範の適用などの論書である。発声の位置や作用などの区分から、また努力の区分からこれらによって文字が分析されることから文字の区分であり、それらはシクシャー(音声学)とニルクタ(語源学)である。「これらについて」とは、ヴェーダについてという意味である。
Te eva vede padaso kāyatīti padako. Taṃ taṃ saddaṃ tadatthañca byākaroti byācikkhati etenāti byākaraṇaṃ, saddasatthaṃ. Āyatiṃ hitaṃ tena loko na yatati na īhatīti lokāyataṃ. Tañhi ganthaṃ nissāya sattā puññakiriyāya cittampi na uppādenti.
まさにそれらヴェーダを句ごとに朗詠する者がパダカ(句熟達者)である。個々の言葉とその意味をこれによって分析し説明するものがビャーカラナ(文法学)であり、言葉の学問である。これによって世間が将来の善に向かって努めず、励まないことからローカーヤタ(順世派・論理学)と呼ばれる。実にその書物に依拠して、人々は功徳をなそうとする心すら起こさないのである。
Vayatīti vayo, ādimajjhapariyosānesu katthaci aparikilamanto avitthāyanto te ganthe sandhāreti pūretīti attho. Dve paṭisedhā pakatiṃ gamentīti dassento ‘‘avayo na hotī’’ti vatvā tattha avayaṃ dassetuṃ **‘‘avayo nāma…pe… na sakkotī’’**ti vuttaṃ. **‘‘Anuññāto’’**ti padassa kammasādhanavasena, ‘‘paṭiññāto’’ti pana padassa kattusādhanavasena attho veditabboti dassento **‘‘ācariyenā’’**tiādimāha. Ācariyaparamparābhataṃ ācariyakaṃ. Garūti bhāriyaṃ attānaṃ tato mocetvā gamanaṃ dukkaraṃ hoti. Anatthopi uppajjati nindābyārosaupārambhādi.
「編む(網羅する)」からヴァヤであり、初め・中・終わりのどこにおいても疲労することなく、滞ることなくそれらの書物を保持し、完結させるという意味である。二重の否定は肯定をもたらすことを示すために「欠けているのではない」と述べ、そこで欠けている状態を示すために「欠けているとは…中略…できないことである」と説かれた。「容認された」という句は受動の成立によって、「自負する」という句は能動の成立によって意味が理解されるべきであることを示すために「師によって…」などと説かれた。師の伝統によって伝えられたものをアーチャリヤカ(師伝)という。「重い」とは重大なことであり、そこから自身を解放して去ることは困難である。非難、憤慨、叱責などの不利益も生じるのである。
257. ‘‘Abbhuggato’’ti ettha abhisaddayogena itthambhūtākhyānatthavaseneva upayogavacanaṃ.
257. 「名声が高く湧き起こった(アッブッガト)」という語において、「アビ」という接頭辞の結合によって、このような状態を述べる意味として対格が用いられている。
258. Lakkhaṇānīti lakkhaṇadīpanāni mantapadāni. Antaradhāyantīti na kevalaṃ lakkhaṇamantāniyeva, atha kho aññānipi brāhmaṇānaṃ ñāṇabalābhāvena anukkamena antaradhāyanti. Tathā hi vadanti ‘‘ekasataṃ addhariyaṃ sākhā sahassavattako sāmā’’tiādi. Paṇidhi …pe… mahatoti ettha paṇidhimahato samādānamahatoti ādinā paccekaṃ mahanta-saddo yojetabbo. Paṇidhimahantatādi cassa buddhavaṃsacariyāpiṭakavaṇṇanādivasena veditabbo. Niṭṭhāti nipphattiyo. Bhavabhedeti bhavavisese. Ito ca etto ca byāpetvā ṭhitatā visaṭabhāvo.
258. 「相(三十二相)」とは、身体的特徴を説き明かす讃歌の句である。「隠没する」とは、単に相を説く讃歌だけでなく、他のものもバラモンたちの智慧の力の欠如によって次第に隠没していくのである。実に彼らは「百の枝を持つアドヴァリヤ(祭式)、千の詩節を持つサーマ(歌詠)」などと言う。「願望が…中略…偉大であることから」という点において、「願望が偉大であることから」「受持が偉大であることから」などと、個々に「偉大」という語を結合すべきである。その願望の偉大さなどは、仏陀の家系(仏種姓経)や行蔵(所行蔵経)の註釈などによって理解されるべきである。「究極」とは成就のことである。「諸々の生存の違いにおいて」とは、個々の転生においてという意味である。あちらこちらへ広がり留まっている状態が広汎性である。
Jātisāmaññatoti lakkhaṇajātiyā lakkhaṇabhāvamattena samānabhāvato. Yathā hi buddhānaṃ lakkhaṇāni suvisadāni, suparibyattāni, paripuṇṇāni ca honti, na evaṃ cakkavattīnaṃ, tenāha **‘‘na teheva buddho hotī’’**ti. Abhirūpatā, dīghāyukatā, appātaṅkatā, brāhmaṇādīnaṃ piyamanāpatāti imehi catūhi acchariyasabhāvehi. Dānaṃ, piyavacanaṃ, atthacariyā, samānattatāti imehi catūhi saṅgahavatthūhi. Rañjanatoti pītijananato. Cakkaṃ cakkaratanaṃ vatteti pavattetīti cakkavattī. Sampatticakkehi sayaṃ vattati, tehi ca paraṃ sattanikāyaṃ vatteti pavattetīti cakkavattī. Parahitāvaho iriyāpathacakkānaṃ vatto vattanaṃ etassa, etthāti vā cakkavattī. Appaṭihataṃ vā āṇāsaṅkhātaṃ cakkaṃ vattetīti cakkavattī. Khattiyamaṇḍalādisaññitaṃ cakkaṃ samūhaṃ attano vase vattetīti cakkavattī cakkavattivattasaṅkhātaṃ dhammaṃ carati, cakkavattivattasaṅkhāto dhammo etasmiṃ atthīti vā dhammiko. Dhammato anapetattā dhammo rañjanaṭṭhena rājāti dhammarājā. ‘‘Rājā hoti cakkavattī’’ti vuttattā **‘‘cāturanto’’**ti padaṃ catudīpissarataṃ vibhāvetīti āha **‘‘catusamuddaantāyā’’**tiādi. Tattha ‘‘catuddīpavibhūsitāyā’’ti avatvā ‘‘catubbidhā’’ti vidhaggahaṇaṃ taṃtaṃparittadīpānampi saṅgahatthanti daṭṭhabbaṃ. Kopādīti ādi-saddena kāmamohamānamadādike saṅgaṇhāti. Vijitāvīti vijitavā. Kenaci akampiyaṭṭhena janapade thāvariyappatto, daḷhabhattibhāvato vā, janapado thāvariyaṃ patto etthāti janapadatthāvariyappatto.
「種族の共通性から」とは、相の性質において相としての共通性があるにすぎないことからである。実に仏陀の諸相が極めて明瞭で、極めて明確で、円満であるのに対し、転輪聖王のそれはそうではない。それゆえに「それらによって仏陀となるのではない」と説かれたのである。容姿の端麗さ、長寿であること、無病であること、バラモンらに愛され好まれることという、これら四つの驚くべき特質による。布施、愛語、利行、同事という、これら四つの摂事による。「喜ばせることから」とは、歓喜を生じさせることからである。輪、すなわち輪宝を転じるから転輪聖王(チャッカヴァッティ)である。自身の福徳の輪によって進み、それらによって他の衆生の集いを運行させるから転輪聖王である。他者の利益をもたらす威儀の輪の回転・運行がこの人にある、あるいはこの人においてなされるから転輪聖王である。あるいは、何ものにも妨げられない命令という名の輪を転じるから転輪聖王である。刹帝利の領域などと称される輪(集団)を自身の支配下に運行させるから転輪聖王である。転輪聖王の徳目と称される法を実践し、あるいは転輪聖王の徳目と称される法がこの人にあるから「如法の王(ダルミカ)」である。法から離れていないことから法であり、喜ばせるという意味で王であるから「法王(ダルマラージャ)」である。「転輪の王となる」と説かれていることから、「四方の境に至る」という句は四大州の主であることを明らかにしているとして「四方の海を境とする…」などと説かれた。そこで「四大州に飾られた」と言わずに「四種」と種別を挙げたのは、それぞれの付属の島々をも包摂するためであると解されるべきである。「怒りなど」という「など」の語によって、貪愛・迷妄・傲慢・驕りなどが包摂される。「勝利せる者」とは勝利を収めた者である。何ものにも動揺させられないという意味で国土において堅固さを得た者、あるいは固い忠誠があることから、国土がこの人において堅固さを得たから「国土の堅固さを得た者」である。
Cittīkatabhāvādināpi (khu. pā. aṭṭha. 3; dī. ni. aṭṭha. 2.33; su. ni. aṭṭha. 1.226; mahāni. aṭṭha. 50) cakkassa ratanaṭṭho veditabbo. Esa nayo sesesupi. Ratinimittatāya vā cittīkatādibhāvassa ratijananaṭṭhena ekasaṅgahatāya visuṃ aggahaṇaṃ. Imehi pana ratanehi rājā cakkavattī yaṃ yamatthaṃ paccanubhoti, taṃ taṃ dassetuṃ **‘‘imesu panā’’**tiādi vuttaṃ. Ajitaṃ jināti mahesakkhatāsaṃvattaniyakammanissandabhāvato. Vijite yathāsukhaṃ anuvicarati hatthiratanaṃ assaratanañca abhiruhitvā tesaṃ ānubhāvena antopātarāseyeva samuddapariyantaṃ pathaviṃ anusaṃyāyitvā rājadhānimeva paccāgamanato. Pariṇāyakaratanena vijitamanurakkhati tena tattha tattha kātabbakiccassa saṃvidhānato. Avasesehīti maṇiratanaitthiratanagahapatiratanehi. Tattha maṇiratanena yojanappamāṇe padese andhakāraṃ vidhamitvā ālokadassanādinā sukhamanubhavati, itthiratanena atikkantamānusakarūpasampattidassanādivasena, gahapatiratanena icchiticchitamaṇikanakarajatādidhanapaṭilābhavasena.
尊崇された状態などによっても、輪の宝としての意味は理解されるべきである。この理趣は他の宝についても同様である。あるいは愛楽の原因であることから、尊崇された状態などが愛楽を生じさせるという意味において一つに包括されるため、別個には挙げられていない。しかし、これら宝によって転輪聖王がいかなる利益を享受するかを示すために「これらの中で…」などと説かれた。威光の偉大さをもたらす業の報いであることから、未征服の地を征服する。象宝や馬宝に乗り、それらの威力によって朝食の間に海を境とする大地を巡幸して首都へと帰還することから、征服地を意のままに巡歴する。主導宝(宰相宝)によって、各地でなすべき務めを指図することから征服地を保護する。「残りのものによって」とは、摩尼宝、女宝、居士宝によってである。そこにおいて摩尼宝によって一ヨージャナの範囲の暗闇を払い、光明を見るなどして安楽を享受し、女宝によって人間を超えた容色の美を見るなどし、居士宝によって欲するままの宝玉・黄金・銀などの財産を獲得することによるのである。
Ussāhasattiyogo tena kenaci appaṭihatāṇācakkabhāvasiddhito pacchimenāti pariṇāyakaratanena. Tañhi sabbarājakiccesu kusalaṃ avirajjhanayogaṃ, tenāha **‘‘mantasattiyogo’’**ti. Hatthiassaratanānaṃ mahānubhāvatāya kosasampattiyāpi pabhāvasampattisiddhito **‘‘hatthi…pe… yogo’’**ti vuttaṃ. (Koso hi nāma sati ussāhasampattiyaṃ duggaṃ tejaṃ kusumoraṃ parakkamaṃ pabbatomukhaṃ amosapaharaṇaṃ) tividhasattiyogaphalaṃ paripuṇṇaṃ hotīti sambandho. Sesehīti sesehi pañcahi ratanehi.
「熱意の力(勇気)の具備」とは、それによって何ものにも妨げられない命令の輪の確立がなされることからであり、「最後のもので」とは主導宝(宰相宝)によってである。実にそれは一切の王の職務に巧みであり、誤りのない方策を持つ。それゆえに「謀略の力の具備」と説かれたのである。象宝や馬宝の偉大な威力によって、国庫の充実によっても威信の成就が確立されることから、「象…中略…の具備」と説かれた。(実に国庫とは、熱意の充実があるときに、要塞、威光、精鋭、武勇、先陣、確実な攻撃力を生む)。三種の力の具備の果が円満となるという文脈である。「残りのものによって」とは、残りの五つの宝によってである。
Adosakusalamūlajanitakammānubhāvenāti adosasaṅkhātena kusalamūlena sahajātādipaccayavasena uppāditakammassa ānubhāvena sampajjanti sommatararatanajātikattā. Majjhimāni maṇiitthigahapatiratanāni. Alobha…pe… kammānubhāvena sampajjanti uḷārassa dhanassa, uḷāradhanapaṭilābhakāraṇassa ca pariccāgasampadāhetukattā. Pacchimanti pariṇāyakaratanaṃ. Tañhi amoha…pe… kammānubhāvena sampajjati mahāpaññeneva cakkavattirājakiccassa pariṇetabbattā. Upadeso nāma savisesaṃ sattannaṃ ratanānaṃ vicāraṇavasena pavatto kathābandho.
「無瞋の善根によって生じた業の威力によって」とは、無瞋と呼ばれる善根によって倶生などの縁の力で生じた業の威力によって生じるのであり、穏やかな宝の性質を持つからである。中間のものとは摩尼宝、女宝、居士宝である。無貪…中略…の業の威力によって生じるのは、莫大な財産と、莫大な財産を獲得する原因となる施捨の成就を原因とするからである。「最後のものである」とは主導宝である。実にそれは無痴…中略…の業の威力によって生じるのであり、大いなる智慧によってのみ転輪王の国務が導かれるべきだからである。「教示」とは、七つの宝の特質を詳細に考察することによって展開された言説の集成である。
Saraṇato paṭipakkhavidhamanato sūrā, tenāha **‘‘abhīrukajātikā’’**ti. Asure vijinitvā ṭhitattā vīro, sakko devānaṃ indo. Tassa aṅgaṃ devaputto senaṅgabhāvatoti vuttaṃ **‘‘vīraṅgarūpāti devaputtasadisakāyā’’**ti. **‘‘Eke’’**ti sārasamāsācariyamāha. Sabhāvoti sabhāvabhūto attho. Vīrakāraṇanti vīrabhāvakāraṇaṃ. Vīriyamayasarīrā viyāti saviggahavīriyasadisā, saviggahaṃ ce vīriyaṃ siyā taṃsadisāti attho. Nanu rañño cakkavattissa paṭisenā nāma natthi, ya’massa puttā pamaddeyyuṃ, atha kasmā parasenappamaddanāti vuttanti codanaṃ sandhāyāha sacetiādi, tena parasenā hotu vā mā vā te pana evaṃ mahānubhāvāti dasseti. Dhammenāti katupacitena attano puññadhammena. Tena hi sañcoditā pathaviyaṃ sabbarājāno paccuggantvā ‘‘svāgataṃ te mahārājā’’ti ādiṃ vatvā attano rajjaṃ rañño cakkavattissa niyyātenti, tena vuttaṃ ‘‘so imaṃ…pe… ajjhāvasatī’’ti. Aṭṭhakathāyaṃ pana tassa yathāvuttassa dhammassa cirataraṃ vipaccituṃ paccayabhūtaṃ cakkavattivattasamudāgataṃ payogasampattisaṅkhātaṃ dhammaṃ dassetuṃ **‘‘pāṇo na hantabbotiādinā pañcasīladhammenā’’**ti vuttaṃ. Evañhi ‘‘adaṇḍena asatthenā’’ti idaṃ vacanaṃ suṭṭhutaraṃ samatthitaṃ hotīti. Yasmā rāgādayo pāpadhammā uppajjamānā sattasantānaṃ chādetvā pariyonandhitvā tiṭṭhanti kusalappavattiṃ nivārenti, tasmā te ‘‘chadanā, chadā’’ti ca vuttā. Vivaṭetvāti vigametvā. Pūjārahatā vuttā ‘‘arahatīti araha’’nti. Tassā pūjārahatāya. Yasmā sammāsambuddho, tasmā arahanti. Buddhattahetubhūtā vivaṭṭacchadatā vuttā savāsanasabbakilesappahānapubbakattā buddhabhāvassa.
敵対者を粉砕することに依拠するから「勇者」であり、それゆえに「恐れを知らぬ性質の」と説かれた。阿修羅に勝利して留まるから「英雄」であり、それは神々の王サッカである。その肢体である天子は軍団の肢体であることから「英雄の肢体の如き姿とは、天子に似た身体」と説かれた。「ある者たちは」とは、『サーラサマーサ』の論師を指して言っている。「本性」とは本質的な意味である。「英雄の原因」とは英雄たる所以である。「精進でできた身体の如く」とは、形を持った精進に似たということであり、もし精進が形を取るならばそれに似ているという意味である。「実に転輪王には敵軍など存在せず、その王子たちが粉砕すべき相手などいないのに、なぜ『敵軍を粉砕する』と説かれたのか」という詰問を念頭に置いて「もし…」などと述べたのであり、それによって敵軍がいようといまいと、彼らはそれほどに偉大な威力を持つことを示している。「法によって」とは、自身が積み立て修めた福徳の法によってである。実にそれによって促され、地上のすべての王たちが迎えに出て「大王よ、ようこそ」などと言って自身の王国を転輪王に委ねるのである。それゆえに「彼はこの…中略…統治する」と説かれた。しかし義釈においては、前述の法がより長く成熟するための縁となる、転輪王の義務の遂行から生じた実践の成就と呼ばれる法を示すために、「『生きものを殺してはならない』などの五戒の法によって」と説かれた。このように解してこそ、「杖によることなく、剣によることなく」というこの言葉がより一層よく論証されるのである。貪欲などの悪法は、生起するときに衆生の心相続を覆い尽くし包み込んで留まり、善の活動を阻むがゆえに、それらは「覆い(チャダナ)」「覆蔽(チャダ)」と呼ばれる。「開いて」とは、取り除いてという意味である。「供養を受けるに値する」とは、「受けるに値するから阿羅漢(アラハン)」と説かれた。その供養を受けるに値することである。正等覚者であるがゆえに阿羅漢である。仏陀であることの原因となった「覆いを開いたこと」が説かれたのは、習気とともに一切の煩悩を断滅したことが仏陀たる状態の前提だからである。
Arahaṃ vaṭṭābhāvenāti phalena hetuanumānadassanaṃ. Sammāsambuddho chadanābhāvenāti hetunā phalānumānadassanaṃ. Hetudvayaṃ vuttaṃ ‘‘vivaṭṭo vicchado cā’’ti. Dutiyena vesārajjenāti ‘‘khīṇāsavassa te paṭijānato’’tiādinā vuttena vesārajjena. Purimasiddhīti purimassa padassa atthasiddhīti attho. Paṭhamenāti ‘‘sammāsambuddhassa te paṭijānato’’tiādinā (ma. ni. 1.150; a. ni. 4.8) vuttena vesārajjena. Dutiyasiddhīti dutiyassa padassa atthasiddhi, buddhatthasiddhīti attho. Tatiyacatutthehīti ‘‘ye kho pana te antarāyikā dhammā’’tiādinā, (ma. ni. 1.150; a. ni. 4.8) ‘‘yassa kho pana te atthāyā’’tiādinā (ma. ni. 1.150; a. ni. 4.8) ca vuttehi tatiyacatutthehi vesārajjehi. Tatiyasiddhīti vivaṭṭacchadanatāsiddhi yāthāvato antarāyikaniyyānikadhammāpadesena hi satthu vivaṭṭacchadanabhāvo loke pākaṭo ahosi. Purimaṃ dhammacakkhunti purimapadaṃ bhagavato dhammacakkhuṃ sādheti kilesārīnaṃ, saṃsāracakkassa ca arānaṃ hatabhāvadīpanato. Dutiyaṃ padaṃ buddhacakkhuṃ sādheti sammāsambuddhasseva taṃsabbhāvato. Tatiyaṃ padaṃ samantacakkhuṃ sādheti savāsanasabbakilesappahānadīpanato. ‘‘Sammāsambuddho’’ti hi vatvā ‘‘vivaṭṭacchado’’ti vacanaṃ buddhabhāvāvahameva sabbakilesappahānaṃ vibhāveti. **‘‘Sūrabhāva’’**nti lakkhaṇavibhāvane visadañāṇataṃ.
「輪廻の不在によって阿羅漢である」とは、果によって因を推論して示すことである。「覆いの不在によって正等覚者である」とは、因によって果を推論して示すことである。「輪廻を離れ、覆いを離れた」という二つの因が説かれた。「第二の無畏によって」とは、「煩悩を滅尽したと自負するあなたに対して…」などと説かれた無畏による。「前者の成立」とは、前者の句の意味の成立という意味である。「第一のものによって」とは、「正等覚者であると自負するあなたに対して…」などと説かれた無畏による。「後者の成立」とは、後者の句の意味の成立、すなわち仏陀の意味の成立という意味である。「第三と第四のものによって」とは、「実にそれら障害となる法において…」などと、「実にあなたのために…」などと説かれた第三・第四の無畏による。「第三の成立」とは、覆いを開いたことの成立である。如実に障害となる法と解脱に至る法を示すことによって、世尊が覆いを開いた状態が世に明らかになったからである。「前者は法眼である」とは、前者の句が煩悩という敵と輪廻の車輪の輻(や)を打ち破ったことを示すことから、世尊の法眼を論証する。「第二の句は仏眼を論証する」とは、正等覚者にのみそれが備わっているからである。「第三の句は普眼(一切智眼)を論証する」とは、習気とともに一切の煩悩を断滅したことを示すからである。実に「正等覚者」と述べてから「覆いを開いた者」と言う言葉は、仏陀たる状態をもたらす一切の煩悩の断滅そのものを明らかにしている。「勇者の状態」とは、相を明示する明晰な智慧の性質のことである。
259. Evaṃ bhoti ettha evanti vacanasampaṭicchane nipāto. Vacanasampaṭicchanañcettha ‘‘tathā mayaṃ taṃ bhavantaṃ gotamaṃ vedissāma, tvaṃ mantānaṃ paṭiggahetā’’ti ca evaṃ pavattassa pokkharasātino vacanassa sampaṭiggahoti āha. **‘‘Sopi tāyā’’**tiādi. Tattha tāyāti tāya yathāvuttāya samuttejanāya. Ayānabhūminti yānassa abhūmiṃ. Divāpadhānikāti divāpadhānānuyuñjanakā.
259. 「その通りです、尊者よ」という点において、「その通りです」とは言葉を受け入れる不変化詞である。ここでの言葉の受諾とは、「そのように私たちはかの尊者ゴータマについて知るであろう。そなたは讃歌の継承者である」というように展開したポッカラサーティの言葉を受け入れることであるとして、「彼もその…」などと説かれた。その中で「その」とは、前述の激励によってという意味である。「乗り物の適さない土地」とは、乗り物で行けない場所である。「昼の精進に励む者たち」とは、昼間に修行の精進に専念している者たちのことである。
260. Yadipi pubbe ambaṭṭhakulaṃ appaññātaṃ, tadā pana paññāyatīti āha **‘‘tadā kirā’’**tiādi. Aturitoti avegāyanto.
260. 以前にはアンバッタの家系は無名であったとしても、その当時は有名であったとして、「当時、伝えられるところでは…」などと説かれた。「急ぐことなく」とは、慌てることなくという意味である。
261. Yathā khamanīyādīni pucchantoti yathā bhagavā ‘‘kacci vo māṇavā khamanīyaṃ, kacci yāpanīya’’ntiādinā khamanīyādīni pucchanto tehi māṇavehi saddhiṃ paṭhamaṃ pavattamodo ahosi pubbabhāsitāya tadanukaraṇena evaṃ tepi māṇavā bhagavatā saddhiṃ samappavattamodā ahesunti yojanā. Taṃ pana samappavattamodataṃ upamāya dassetuṃ **‘‘sītodakaṃ viyā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha sammoditanti saṃsanditaṃ. Ekībhāvanti sammodanakiriyāya samānataṃ. Khamanīyanti ‘‘idaṃ catucakkaṃ navadvāraṃ sarīrayantaṃ dukkhabahulatāya sabhāvato dussahaṃ kacci khamituṃ sakkuṇeyya’’nti pucchanti, yāpanīyanti āhārādipaccayapaṭibaddhavuttikaṃ cirappabandhasaṅkhātāya yāpanāya kacci yāpetuṃ sakkuṇeyyaṃ. Sīsarogādiābādhābhāvena kacci appābādhaṃ, dukkhajīvikābhāvena kacci appātaṅkaṃ, taṃtaṃkiccakaraṇe uṭṭhānasukhatāya kacci lahuṭṭhānaṃ, tadanurūpabalayogato kacci balaṃ, sukhavihārasabbhāvena kacci phāsuvihāro atthīti sabbattha kacci-saddaṃ yojetvā attho veditabbo. Balappattā pīti pītiyeva. Taruṇapīti pāmojjaṃ. Sammodanaṃ janeti karotīti sammodanikaṃ tadeva sammodanīyaṃ. Sammoditabbato sammodanīyanti idaṃ pana atthaṃ dassetuṃ vuttaṃ **‘‘sammodituṃ yuttabhāvato’’**ti. Saritabbabhāvato anussaritabbabhāvato ‘‘saraṇīya’’nti vattabbe **‘‘sāraṇīya’’**nti dīghaṃ katvā vuttaṃ. **‘‘Suyyamānasukhato’’**ti āpāthamadhuratamāha, **‘‘anussariyamānasukhato’’**ti vimaddaramaṇīyataṃ. **‘‘Byañjanaparisuddhatāyā’’**ti sabhāvaniruttibhāvena tassā kathāya vacanacāturiyamāha, **‘‘atthaparisuddhatāyā’’**ti atthassa nirupakkilesataṃ. Anekehi pariyāyehīti anekehi kāraṇehi.
261. 「忍受すべきことなどを尋ねながら」とは、世尊が「青年たちよ、そなたたちは耐え忍びうるか、無事に過ごせているか」などと忍受すべきことなどを尋ねながら、それら青年たちとともにまず交わされた歓談が、先になされた言葉に倣うことによって、同様にそれら青年たちも世尊とともに等しく歓談を交わす者となったという文脈である。その等しい歓談の様子を譬えによって示すために「冷水の如く…」などと説かれた。その中で「歓談した」とは、和合したことである。「一体となること」とは、歓談の行為において等しくなることである。「忍受すべきこと」とは、「この四つの輪と九つの門を持つ身体という機械は、苦しみが多いため本質的に耐え難いものであるが、耐え忍ぶことができているか」と尋ねることであり、「無事に過ごせているか」とは、食物などの条件に依存して活動する長きにわたる継続としての生活によって、無事に過ごせているかということである。頭痛などの病気の不在によって「無病であるか」、苦しい生活の不在によって「無患であるか」、それぞれの務めを果たすにあたっての活動の容易さによって「軽快であるか」、それ相応の力の具備によって「力があるか」、安楽な生活の実在によって「快適な生活があるか」と、すべての箇所に「〜であるか」という言葉を結びつけて意味を理解すべきである。力強さに達した喜びが歓喜(ピーティ)そのものである。初々しい喜びが欣喜(パーモッジャ)である。歓談を生じさせ、なすものが「歓談の(サンモーダニカ)」であり、それこそが「歓談すべき(サンモーダニーヤ)」である。歓談されるべきものであることから「歓談すべき」というこの意味を示すために、「歓談するにふさわしい状態であることから」と説かれた。心に留められるべき状態であること、追憶されるべき状態であることから「思い起こすべき(サラニーヤ)」と説くべきところを、「サーラニーヤ」と長音にして説かれた。「聞くに心地よいことから」とは、耳に入るときに極めて甘美であることを述べており、「追憶するに心地よいことから」とは、吟味するにあたって麗しいことを述べている。「文字の純清さによって」とは、自然な語法であることによってその談話の表現の巧みさを述べており、「意味の純清さによって」とは、意味に汚れがないことを述べている。「多くの方法によって」とは、多くの理由によってという意味である。
Apasādessāmīti maṅkuṃ karissāmi. Kaṇṭhe olambetvāti ubhosu khandhesu sāṭakaṃ āsajjetvā kaṇṭhe olambitvā. Dussakaṇṇaṃ gahetvāti nivatthasāṭakassa dasākoṭiṃ ekena hatthena gahetvā. Caṅkamaṃ abhiruhitvāti caṅkamituṃ ārabhitvā. Dhātusamatāti rasādidhātūnaṃ samāvatthatā, arogatāti attho. Anācārabhāvasāraṇīyanti anācārabhāvena saraṇīyaṃ. ‘‘Anācāro vatāya’’nti saritabbakaṃ.
「辱めよう」とは、恥じ入らせてやろうということである。「首に掛けて」とは、両肩に上衣を掛けて首から垂らして。「衣の端を握って」とは、身にまとった上衣の裾の端を片手で握って。「経行堂に上がって」とは、歩行瞑想を始めて。「四大の調和」とは、体液などの諸要素が調和した状態であり、無病であるという意味である。「不作法を思い起こさせる」とは、不作法の状態によって記憶されるべきことである。「実にこの者は不作法である」と記憶されるべきことである。
262. **‘‘Bhavaggaṃ gahetukāmo viyā’’**tiādi asakkuṇeyyattā dukkaraṃ kiccaṃ ārabhatīti dassetuṃ vuttaṃ. Asakkuṇeyyañhetaṃ sadevakenāpi lokena, yadidaṃ bhagavato apasādanaṃ, tenāha **‘‘aṭṭhāne vāyamatī’’**ti. Ayaṃ bālo ‘‘mayi kiñci akathente mayā saddhiṃ kathetumpi na visahatī’’ti mānameva paggaṇhissati, kathente pana kathāpasaṅgenassa jātigotte vibhāvite mānaniggaho bhavissatīti bhagavā ‘‘evaṃ nu te’’tiādimāha. Tena vuttaṃ ‘‘atha kho bhagavā’’tiādi. Ācārasamācārasikkhāpanena ācariyā, tesaṃ pana ācariyānaṃ pakaṭṭhā ācariyāti pācariyā yathā papitāmahoti, tenāha **‘‘ācariyehi ca tesaṃ pācariyehi cā’’**ti.
262. 「有頂天を捉えようと欲するかの如く」などは、不可能であるがゆえに困難な行為を企てていることを示すために説かれたのである。実に世尊を辱めることなど、神々を含む世間をもってしても不可能なことであり、それゆえに「あり得ないことに努めている」と説かれた。世尊は「この愚者は『私が何も語らなければ、自分と話すことすら耐えられないのだ』と慢心ばかりを募らせるだろう。しかし語り合う中で、話の成り行きによってその生まれと氏族を明らかにしてやれば、慢心の打破となるだろう」と考え、「そなたにとってはそうなのか」などと説かれたのである。それゆえに「そこで世尊は…」などと説かれた。作法や正しい行儀を教えることから「師(アーチャリヤ)」であり、それら師たちの優れた師が「大師(パーチャリヤ)」であり、曾祖父のようなものである。それゆえに「師たち、そして彼らの大師たちによって」と説かれた。
Paṭhamaibbhavādavaṇṇanā
第一の召使いの議論の解説
263. Tīsu iriyāpathesūti ṭhānagamananisajjāsu. Kathāpaḷāsanti kathāvasena yugaggāhaṃ. Sayānena ācariyena saddhiṃ sayānassa kathā nāma ācāro na hoti, taṃ itarehi sadisaṃ katvā kathanaṃ idha kathāpaḷāso.
263. 「三つの威儀において」とは、立ち姿、歩行、着座において。「言葉の張り合い」とは、言葉による対抗意識のことである。横たわっている師に対して横たわったまま語り合うのは礼儀作法ではなく、それを他の者たちと同じようにして語ることが、ここでの言葉の張り合いである。
Tassa pana yaṃ anācārabhāvavibhāvanaṃ satthārā ambaṭṭhena saddhiṃ kathentena kataṃ, taṃ saṅgītianāruḷhaṃ paramparābhatanti upari pāḷiyā sambandhabhāvena dassento **‘‘tato kirā’’**tiādimāha. Muṇḍakā samaṇakāti ca garahāyaṃ ka-saddo, tenāha **‘‘hīḷento’’**ti. Ibhassa payogo ibho uttarapadalopena, taṃ ibhaṃ arahantīti ibbhā. Kiṃ vuttaṃ hoti? Yathā ibho hatthivāhanabhūto parassa vasena vattati, na attano, evaṃ etepi brāhmaṇānaṃ sussusakā suddā parassa vasena vattanti, na attano, tasmā ibhasadisapayogatāya ibbhāti. Te pana kuṭumbikatāya gharavāsino gharassāmikā hontīti āha **‘‘gahapatikā’’**ti. Kaṇhāti kaṇhajātikā. Dijā eva hi suddhajātikā, na itareti tassa adhippāyo, tenāha **‘‘kāḷakā’’**ti. Mukhato nikkhantāti brāhmaṇānaṃ pubbapurisā brahmuno mukhato nikkhantā, ayaṃ tesaṃ paṭhamuppattīti adhippāyo. Sesapadesupi eseva nayo. **‘‘Samaṇā piṭṭhipādato’’**ti idaṃ panassa ‘‘mukhato nikkhantā’’tiādivacanatopi ativiya asamavekkhitavacanaṃ catuvaṇṇapariyāpannasseva samaṇabhāvasambhavato. Aniyametvāti avisesetvā, anuddesikabhāvenāti attho.
師がアンバッタと語り合う中でなされたその不作法の解明は、結集(サンギーティ)には収録されず口伝で伝えられたものであることを、以降の聖典本文との関連性として示すために「その後、伝えられるところでは…」などと説かれた。「坊主頭のちっぽけな沙門ども」という表現における「カ」の音は軽蔑を表すものであり、それゆえに「軽蔑しながら」と説かれた。「召使い(イバ)の道具」がイバであり、後肢の脱落によって、その召使いに値する者たちをイッバ(召使い)という。何を言っているのかといえば、ちょうど象の乗り物である召使いが他者の意のままに行動し、自身の意志で動かないように、これらバラモンに仕える奴隷たちも他者の意のままに行動し、自身の意志で動かない。それゆえに、召使いに似た使役を受けることから「イッバ」と呼ばれるのである。彼らは家長であることから在家の者であり、家の主人であるため「居士(ガハパティカ)」と説かれた。「黒い者たち」とは、黒い階級の生まれの者たちである。バラモンのみが清浄な生まれであり、他の者たちはそうではないというのが彼の意図であり、それゆえに「黒い者たち」と説かれた。「口から出た」とは、バラモンたちの先祖はブラフマー神の口から出たのであり、これが彼らの最初の起源であるという趣旨である。残りの句においてもこの理趣が適用される。「沙門は踵の後ろから出た」というこの言葉は、彼の「口から出た」などの言葉と比べても極めて思慮に欠けた言葉である。なぜなら四姓に属する者すべてに沙門となる可能性が存在するからである。「区別することなく」とは、個別化せず、指名しない形でという意味である。
Mānussayavasena kathetīti mānussayaṃ avassāya attānaṃ ukkaṃsento, pare ca vambhento ‘‘muṇḍakā’’ti ādiṃ katheti. Jānāpemīti jātigottassa pamāṇaṃ yāthāvato vibhāvanena pamāṇaṃ jānāpemīti. Attho etassa atthīti atthikaṃ daṇḍikañāyena.
「高慢の高まりによって語る」とは、慢心の高まりに依拠して自らを高め、他者を軽蔑しながら「坊主頭ども」などと語ることである。「知らせよう」とは、生まれと氏族の基準を如実に解明することによって、その正当な基準を知らせようという意味である。「意味(必要)がこの人にある」から求めている人(アッティカ)であり、杖を持つ者の比喩(有所有の表現)と同様である。
**‘‘Yāyeva kho panatthāyā’’**ti itthiliṅgavasena vuttanti vadanti, taṃ parato ‘‘purisaliṅgavasenevā’’ti vakkhamānattā yuttaṃ. Yāya atthāyāti vā pulliṅgavaseneva tadatthe sampadānavacanaṃ, yassa atthassa atthāyāti attho. Assāti ambaṭṭhassa dassetvāti sambandho. Aññesanti aññesaṃ sādhurūpānaṃ. Santikaṃ āgatānanti guruṭṭhāniyānaṃ santikaṃ upagatānaṃ. Vattanti tehi caritabbaācāraṃ. Asikkhitoti ācāraṃ asikkhito. Tato eva appassuto. Bāhusaccañhi nāma yāvadeva upasamatthaṃ icchitabbaṃ, tadabhāvato ambaṭṭho appassuto asikkhito ‘‘avusito’’ti viññāyati, tenāha **‘‘etassa hī’’**tiādi.
「まさにその目的のために」とは女性名詞の形によって説かれたのだと言われるが、それは後に「男性名詞の形によってのみ」と述べられることと合致している。あるいは「何らかの目的のために」とは、男性名詞の形でその目的のための為格の表現であり、「いかなる目的の達成のために」という意味である。「この人に」とは、アンバッタに示してという結合である。「他の者たちの」とは、他の立派な者たちの。「もとに来た者たち」とは、師匠の地位にある者たちのもとに近づいた者たちの。「行儀」とは、彼らによって実践されるべき作法である。「学んでいない」とは、作法を学んでいないことである。それゆえに無学である。実に多聞(博学)とは、心の静寂のためにのみ望まれるべきものであり、それがないことからアンバッタは無学であり、学んでおらず、「未完成の者」として知られる。それゆえに「実にこの者には…」などと説かれた。
264. Kodhavasacittatāya asakamano. Mānanimmadanatthanti mānassa nimmadanatthaṃ. Uggiletvāti sinehapānena kilinnaṃ ubbamanaṃ katvā. Gottena gottanti tena vuttena purātanagottena idāni taṃ taṃ anavajjasaññitaṃ gottaṃ sāvajjato uṭṭhāpetvā uddharitvā. Sesapadesupi eseva nayo. Tattha gottaṃ ādipurisavasena, kulāpadoso, tadanvaye uppannaabhiññātapurisavasena veditabbo yathā ‘‘ādicco, maghadevo’’ti. Gottamūlassa gārayhatāya amānavatthubhāvapavedanato **‘‘mānaddhajaṃ mūle chetvā’’**ti vuttaṃ. Ghaṭṭentoti omasanto.
264. 怒りに支配された心のために落ち着かない。「慢心を打ち砕くために」とは、傲慢さを挫くためである。「吐き出させて」とは、油の服用によって湿ったものを嘔吐させて。「氏族によって氏族を」とは、彼によって語られた古の氏族によって、今やその非難なきとされた氏族を有罪から引き起こし、暴き出してという意味である。残りの句においてもこの理趣が適用される。そこにおいて「氏族」とは始祖によって知られるべきであり、「家系の悪評」とはその血統に生まれた名高い人物によって知られるべきである。ちょうど「太陽の子孫」「マガーデーヴァの血統」というが如くである。氏族の根源が非難されるべきものであることによって慢心の根拠がないことを知らせるために、「慢心の旗を根元から断ち切って」と説かれた。「攻撃しながら」とは、侮辱しながらという意味である。
Yasmiṃ mānussayakodhussayā aññamaññūpatthaddhā, so ‘‘caṇḍo’’ti vuccatīti āha **‘‘caṇḍāti mānanissitakodhayuttā’’**ti. Kharāti cittena, vācāya ca kakkhaḷā. Lahukāti taruṇā. Bhassāti ‘‘sāhasikā’’ti keci vadanti, ‘‘sārambhakā’’ti apare. Samānāti hontā, bhavamānāti atthoti āha **‘‘santāti purimapadasseva vevacana’’**nti. Na sakkarontīti sakkāraṃ na karonti. Apacitikammanti paṇipātakamma nānulomanti attano jātiyā na anucchavikanti attho.
慢心の高まりと怒りの高まりが互いに支え合っている者を「獰猛(チャンダ)」と呼ぶことから、「獰猛とは、慢心に基づいた怒りを具えた者たち」と説かれた。「粗暴な」とは、心と言葉において手荒なことである。「軽薄な」とは、若く浅はかなことである。「乱暴な」とは、ある者たちは「無謀な者」と言い、他の者たちは「好戦的な者」と言う。「〜である」とは、存在していることであり、「ある(サンタ)」とは前の句の同義語にすぎないと説かれた。「敬わない」とは、敬意を払わないことである。「敬礼の行為」とは、平身低頭する行為のことである。「相応しくない」とは、自身の生まれに相応しくないという意味である。
Dutiyaibbhavādavaṇṇanā
第二の召使いの議論の解説
265. Kāmaṃ sakyarājakule yo sabbesaṃ buddhataro samattho ca, so eva abhisekaṃ labhati, ekacco pana abhisitto samāno ‘‘idaṃ rajjaṃ nāma bahukiccaṃ bahubyāpāra’’nti tato nibbijja rajjaṃ vayasā anantarassa niyyāteti, kadāci sopi aññassāti tādise sandhāyāha **‘‘sakyāti abhisittarājāno’’**ti. Kulavaṃsaṃ jānantīti kaṇhāyanato paṭṭhāya paramparāgataṃ anussavavasena jānanti. Kulābhimānino hi yebhuyyena paresaṃ uccāvacaṃ kulaṃ tathā tathā udāharanti, attano ca kulavaṃsaṃ jānanti, evaṃ ambaṭṭhopi. Tathā hi so parato bhagavatā pucchito vajirapāṇibhayena yāthāvato kathesi.
265. 確かに釈迦族においては、全員の中で最も賢明で有能な者だけが灌頂を受ける。しかしある者は灌頂を受けたものの、「この王権というものは多忙で煩わしい仕事が多い」としてそれに嫌気がさし、年齢的に近い者に王権を譲り、時にはその者もまた別の人に譲るということがある。そのような者たちを指して「釈迦族とは、灌頂を受けた王たちである」と説かれた。「家系を知っている」とは、カンハーヤナ以来、伝統として伝えられてきた伝承によって知っているということである。実に、家柄を誇る者たちは大抵、他人の家柄の高低をあれこれと言い立て、自身の家系を知っているものであり、アンバッタも同様である。実に彼は後に世尊から問われたとき、金剛手(ヴァジュラパーニ)の恐れから如実に語ったのである。
Tatiyaibbhavādavaṇṇanā
第三の召使いの議論の解説
266. Khettaleḍḍūnanti khette kasanavasena naṅgalena uṭṭhāpitaleḍḍūnaṃ. ‘‘Laṭukikā’’ icceva paññātā khuddakasakuṇikā laṭukikopamavaṇṇanāyaṃ ‘‘cātakasakuṇikā’’ti (ma. ni. aṭṭha. 3.150) vuttā. Kodhavasena laggitunti upanayhituṃ, āghātaṃ bandhitunti attho. **‘‘Amhe haṃsakoñcamorasame karotī’’**ti iminā ‘‘na taṃ koci haṃso vā’’tiādivacanaṃ saṅgītiṃ anāruḷhaṃ tadā bhagavatā vuttamevāti dasseti. ‘‘Evaṃ nu te’’tiādivacanaṃ, ‘‘avusitavāyevā’’tiādivacanañca mānavasena samaṇena gotamena vuttanti maññatīti adhippāyenāha **‘‘nimmāno dāni jātoti maññamāno’’**ti.
266. 「畑の土塊の」とは、畑を耕すことによって鋤によって掘り起こされた土塊のことである。「ラトゥキカー(ウズラ)」として知られる小鳥は、ウズラの譬えの解説において「チャーカタ鳥」と説かれている。「怒りによって執着する」とは、恨みを抱くことであり、敵意を結ぶという意味である。「我らを白鳥や鶴や孔雀と同等にする」というこの語によって、「そなたは白鳥でも何でもない」などの言葉は結集には収録されなかったが、当時世尊によって語られたまさにそのことであることを示している。「そなたにとってはそうなのか」などの言葉や「まさに未熟者である」などの言葉は、沙門ゴータマが慢心によって語ったものだと彼は考えているという意図から、「今や自分は慢心のない者となったと思い込んで」と説かれた。
Dāsiputtavādavaṇṇanā
女奴隷の子の議論の解説
267. Nimmādetīti a-kārassa ā-kāraṃ katvā niddesoti āha **‘‘nimmadetī’’**ti. Kāmaṃ gottaṃ nāmetaṃ pitito laddhabbaṃ, na mātito na hi brāhmaṇānaṃ sagottāya āvāhavivāho icchito, gottanāmaṃ pana yasmā jātisiddhaṃ, na kittimaṃ, jāti ca ubhayasambandhinī, tasmā **‘‘mātāpettikanti mātāpitūnaṃ santaka’’**nti vuttaṃ. Nāmagottanti gottanāmaṃ, na kittimanāmaṃ, na guṇanāmaṃ vā. Tattha ‘‘kaṇhāyano’’ti niruḷhā yā nāmapaṇṇatti, taṃ sandhāyāha ‘‘paṇṇattivasena nāmanti. Taṃ pana kaṇhaisito paṭṭhāya tasmiṃ kulaparamparāvasena āgataṃ, na etasmiṃyeva niruḷhaṃ, tena vuttaṃ **‘‘paveṇīvasena gotta’’**nti. Gotta-padassa pana attho heṭṭhā vuttoyeva. Anussaratoti ettha na kevalaṃ anussaraṇaṃ adhippetaṃ, atha kho kulasuddhivīmaṃsanavasenāti āha **‘‘kulakoṭiṃ sodhentassā’’**ti. Ayyaputtāti ayyikaputtāti āha **‘‘sāmino puttā’’**ti. Disā okkākarañño antojātā dāsīti āha **‘‘gharadāsiyā putto’’**ti. Ettha ca yasmā ambaṭṭho jātiṃ nissāya mānatthaddho, na cassa yāthāvato jātiyā avibhāvitāya mānaniggaho hoti, mānaniggahe ca kate aparabhāge ratanattaye pasīdissati, na ‘‘dāsī’’ti vācā pharusavācā nāma hoti cittassa saṇhabhāvato. Abhayasuttañcettha (ma. ni. 2.83; a. ni. 4.184) nidassanaṃ. Keci ca sattā agginā viya lohādayo kakkhaḷāya vācāya mudubhāvaṃ gacchanti, tasmā bhagavā ambaṭṭhaṃ nibbisevanaṃ kātukāmo ‘‘ayyaputtā sakyā bhavanti, dāsiputto tvamasi sakyāna’’nti avoca.
267. 「謙虚にさせる(ニンマーデーティ)」とは、「ア」の音を「アー」の音に変えた表現であるとして「慢心を挫く」と説かれた。確かに氏族というものは父から得られるべきものであり、母からではない。実にバラモンたちは同姓の者との婚姻を望まないからである。しかし氏族名というものは生まれによって定まるものであり人為的なものではなく、生まれは父母双方に関わるものであることから、「父母に属するとは、父母のものであること」と説かれた。「名と氏族」とは氏族の名前のことであり、通称の名や徳を称える名ではない。そこにおいて「カンハーヤナ」として定着した呼び名について指して「名称によって名である」と述べた。しかしそれはカンハ仙人以来、その家系の伝統として伝わってきたものであり、この人だけに定着したものではない。それゆえに「伝統によって氏族である」と説かれた。氏族という語の意味は、既に述べた通りである。「思い起こす者に」という点において、単に思い起こすことだけが意図されているのではなく、家系の純粋さを吟味することによるという意味で「家系の末端を清める者に」と説かれた。「主人の子たち」とは祖父の子たちという意味で「主人の子たち」と説かれた。「ディサーはオッカーカ王の家女奴隷であった」ことから「家女奴隷の子」と説かれた。そしてここでは、アンバッタは生まれに依拠して慢心に凝り固まっており、その生まれが如実に解明されなければ慢心の打破はあり得ず、慢心が打破されてこそ後の段階で三宝に帰依することになるからであり、「女奴隷」という言葉も心が穏やかであるならば粗悪な言葉とはならない。これについては『無畏王子経』などが実例である。またある衆生は、火によって金属が柔軟になるように、手厳しい言葉によって柔軟になるのである。それゆえに世尊はアンバッタから慢心を抜き去りたいと望み、「釈迦族は貴族であり、そなたは釈迦族の女奴隷の子である」と仰せになったのである。
Ṭhapentīti paññapenti, tenāha **‘‘okkāko’’**tiādi. Pabhā niccharati dantānaṃ ativiya pabhassarabhāvato.
「据える」とは制定することであり、それゆえに「オッカーカ(松明・光彩)」などと説かれた。歯が極めて輝かしいことから光が放たれるのである。
Paṭhamakappikānanti paṭhamakappassa ādikāle nibbattānaṃ. Kira-saddo anussavatthe, tena yo vuccamānāya rājaparamparāya kesañci matibhedo, taṃ ulliṅgeti. Mahāsammatassāti ‘‘ayaṃ no rājā’’ti mahājanena sammannitvā ṭhapitattā ‘‘mahāsammato’’ti evaṃ sammatassa. Yaṃ sandhāya vadanti –
「最初の劫の人間たちの」とは、最初の劫の初期の時代に生まれた者たちのという意味である。「キラ(伝えられるところでは)」という語は伝聞の意味であり、それによって語られている王の系譜についての一部の見解の相違を示している。「マハーサンマタ(大選定王)の」とは、「この人が我らの王である」と多くの人々によって選ばれ立てられたことから「マハーサンマタ」と公認された者のことである。これに関して以下のように言われている。
‘‘Ādiccakulasambhūto, suvisuddhaguṇākaro;
「太陽の家系に生まれ、極めて清らかな徳の源泉であり、
Mahānubhāvo rājāsi, mahāsammatanāmako.
偉大な威光を持つ王がいた。その名はマハーサンマタ。
Yo cakkhubhūto lokassa, guṇaraṃsisamujjalo;
彼は世の眼となり、徳の光線を輝かせ、
Tamonudo virocittha, dutiyo viya bhāṇumā.
闇を払う者として、第二の太陽の如く燦然と輝いた。
Ṭhapitā yena mariyādā, loke lokahitesinā;
世の利益を求める彼によって定められた規範を、
Vavatthitā sakkuṇanti, na vilaṅghayituṃ janā.
人々は秩序正しく守り、踏み越えることはできない。
Yasassinaṃ tejassinaṃ, lokasīmānurakkhakaṃ;
名声高く、威光に満ち、世界の境界を守護する者、
Ādibhūtaṃ mahāvīraṃ, kathayanti ‘manū’ti ya’’nti.
最初の始祖たる大英雄を、人々は『マヌ』と呼ぶのである」と。
Tassa ca puttapaputtaparamparaṃ sandhāya –
そして彼の子孫の系譜に関して言えば、
‘‘Tassa putto mahātejo, rojo nāma mahīpati;
「彼の子は偉大な威光を持つ、ロージャという名の地上の王であった。
Tassa putto vararojo, pavaro rājamaṇḍale.
その子はヴァラロージャであり、諸王の集いの中で傑出していた。
Tassāsi kalyāṇaguṇo, kalyāṇo nāma atrajo;
彼には優れた徳を持つ、カルヤーナという名の子がいた。
Rājā tassāsi tanayo, varakalyāṇanāmako.
その子もまた王であり、ヴァラカルヤーナという名であった。
Tassa putto mahāvīro, mandhātā kāmabhoginaṃ;
その子は偉大な英雄であり、欲望を享受する者たちの王マンダーターであった。
Aggabhūto mahindena, aḍḍharajjena pūjito.
最上なる者として、帝釈天マヒンダから半分の王国を捧げられた。
Tassa sūnu mahātejo, varamandhātunāmako;
その子は偉大な威光を持つ、ヴァラマンダーターという名であった。
‘Uposatho’ti nāmena, tassa putto mahāyaso.
『ウポーサタ』という名で、その子は偉大な名声を持っていた。
Varo nāma mahātejo, tassa putto mahāvaro;
ヴァラという名の偉大な威光を持つ者、その子はマハーヴァラであった。
Tassāsi upavaroti, putto rājā mahābalo.
彼にはウパヴァラという、強大な力を持つ王の子がいた。
Tassa putto maghadevo, devatulyo mahīpati;
その子はマガーデーヴァであり、神に等しい地上の王であった。
Caturāsītisahassāni, tassa puttaparamparā.
八万四千代にわたって、彼の子孫の系譜は続いた。
Tesaṃ pacchimako rājā, ‘okkāko’ iti vissuto;
彼らの最後の王は、『オッカーカ』として知られた。
Mahāyaso mahātejo, akhuddo rājamaṇḍale’’ti.
偉大な名声と偉大な威光を持ち、諸王の集いにおいて偉大であった」と。
Ādi tesaṃ pacchatoti tesaṃ maghadeva paramparabhūtānaṃ kaḷārajanakapariyosānānaṃ anekasatasahassānaṃ rājūnaṃ aparabhāge okkāko nāma rājā ahosi, tassa paramparābhūtānaṃ anekasatasahassānaṃ rājūnaṃ aparabhāge aparo okkāko nāma rājā ahosi, tassa paramparabhūtānaṃ anekasatasahassānaṃ rājūnaṃ aparabhāge punāparo okkāko nāma rājā ahosi, taṃ sandhāyāha **‘‘tayo okkākavaṃsā ahesuṃ. Tesu tatiyaokkākassā’’**tiādi.
「彼らの始まりから終わりまで」とは、それらマガーデーヴァの系譜に属しカラーラジャナカ王を最後とする何十万もの王たちの後にオッカーカという名の王がおり、その系譜に属する何十万もの王たちの後に別のオッカーカという名の王がおり、さらにその系譜に属する何十万もの王たちの後にまた別のオッカーカという名の王がいた。それを指して「三つのオッカーカの血統があった。そのうち第三のオッカーカ王の…」などと説かれたのである。
Sahasā varaṃ adāsinti puttadassanena somanassappatto sahasā avīmaṃsitvā tuṭṭhiyā vasena varaṃ adāsiṃ, ‘‘yaṃ icchasi, taṃ gaṇhā’’ti. Rajjaṃ pariṇāmetuṃ icchatīti sā jantukumārassa mātā mama taṃ varadānaṃ antaraṃ katvā imaṃ rajjaṃ pariṇāmetuṃ icchatīti.
「軽率に望みを与えた」とは、息子の姿を見て歓喜に満たされ、思慮することなく満足のあまり「そなたの望むものを何でも取れ」と望みを与えてしまったことである。「王位を譲ることを望んでいる」とは、そのジャンタ王子の母が私のその望みの授与を口実にして、この王位を譲り渡すことを望んでいるということである。
Nappasaheyyāti na pariyatto bhaveyya.
「屈服させられないだろう」とは、支配しきれないだろうということである。
Nikkhammāti gharāvāsato, kāmehi ca nikkhamitvā. Heṭṭhā cāti ca-saddena ‘‘asītihatthe’’ti idaṃ anukaḍḍhati. Tehīti migasūkarehi, maṇḍūkamūsikehi ca. Teti sīhabyagghādayo, sappabiḷārā ca.
「去って」とは、家庭生活から、そして諸々の欲望から離れて出家して。「下にも」という「も」の語によって「八十肘の」という言葉が引き合わされる。「彼らによって」とは、鹿や猪、蛙や鼠によって。「彼らは」とは、獅子や虎など、蛇や猫などのことである。
Avasesāhi attano attano kaniṭṭhāhi.
「残りの者たちと」とは、それぞれ自分自身の妹たちとという意味である。
Vaḍḍhamānānanti anādare sāmivacanaṃ. Kuṭṭharogo nāma sāsamasūrīrogā viya yebhuyyena saṅkamanasabhāvoti vuttaṃ **‘‘ayaṃ rogo saṅkamatīti cintetvā’’**ti.
「増大する者たちの」とは、無視の意味を含む所有格である。らい病というものは、麻疹や天然痘のように大抵は伝染する性質のものであることから、「『この病は伝染する』と考えて」と説かれた。
Migasūkarādīnanti ādi-saddena vanacarasoṇādike saṅgaṇhāti.
「鹿や猪など」の「など」という語によって、森に住む犬などが包摂される。
Tasmiṃ nisinneti sambandho. Khattiyamāyārocanena attano khattiyabhāvaṃ jānāpetvā.
「彼が座っているときに」という結合である。「刹帝利の目印を告げることによって」とは、自身の刹帝利としての身分を知らせてという意味である。
Nagaraṃ māpehīti sāhāraṃ nagaraṃ māpehīti adhippāyo.
「都を築け」とは、食糧を備えた都を築けという趣旨である。
Kesaggahaṇanti kesaveṇibandhanaṃ. Dussaggahaṇanti vatthassa nivāsanākāro.
「髪の結い方」とは、髪の編み方のことである。「衣の身につけ方」とは、布の着こなしの様式のことである。
268. Attano upārambhamocanatthāyāti ācariyena ambaṭṭhena ca attano attano upari pāpetabbaupavādassa apanayanatthaṃ. Asmiṃ vacaneti ‘‘cattārome bho gotama vaṇṇā’’tiādinā attanā vutte, bhotā ca gotamena vutte ‘‘jātivāde’’ti imasmiṃ yathādhikate vacane. Tattha pana yasmā vede vuttavidhināva tena paṭimantetabbaṃ hoti, tasmā vuttaṃ **‘‘vedattayavacane’’**ti, **‘‘etasmiṃ vā dāsiputtavacane’’**ti ca.
268. 「自身の非難を晴らすために」とは、師とアンバッタが自分たちに帰せられるべき非難を取り除くためである。「この言葉において」とは、「尊者ゴータマよ、これら四つの階級があります」などと自ら述べ、また尊者ゴータマによって述べられた「階級の議論において」という、この問題となっている言葉においてである。しかしそこにおいて、ヴェーダに説かれた規則によってこそ彼は反論すべきであったため、「三ヴェーダの言葉において」あるいは「この女奴隷の子という言葉において」と説かれた。
270. Dhammo nāma kāraṇaṃ ‘‘dhammapaṭisambhidā’’tiādīsu (vibha. 718) viya, saha dhammenāti sahadhammo, sahadhammo eva sahadhammikoti āha **‘‘sahetuko’’**ti.
270. 「法(ダンマ)」とは「法の無礙解」などにおけるが如く原因(理屈)のことであり、法を伴うものがサハダンマであり、サハダンマこそがサハダンミカであるとして「理由のある」と説かれた。
271. Tasmā tadā paṭiññātattā. Tāsetvā pañhaṃ vissajjāpessāmīti āgato yathā taṃ saccakasamāgame. ‘‘Bhagavā ceva passati ambaṭṭho cā’’ti ettha itaresaṃ adassane kāraṇaṃ dassetuṃ **‘‘yadi hī’’**tiādi vuttaṃ. Āvāhetvāti mantabalena ānetvā. Tassāti ambaṭṭhassa. Vādasaṅghaṭṭeti vācāsaṅghaṭṭe.
271. 「それゆえに」とは、その時に承諾したからである。「脅して質問に答えさせよう」としてやって来たのは、かのサッチャカとの会合の時のようである。「世尊とアンバッタだけが見て」という点において、他の者たちに見えなかった理由を示すために「もし…」などと説かれた。「召喚して」とは、呪文の力で連れて来てという意味である。「彼の」とは、アンバッタの。「論争の衝突において」とは、言葉の衝突においてという意味である。
272. Tāṇanti gavesamānoti, ‘‘ayameva samaṇo gotamo ito bhayato mama tāyako’’ti bhagavantaṃyeva ‘‘tāṇa’’nti pariyesanto upagacchanto. Sesapadadvayepi eseva nayo. Tāyatīti yathāupaṭṭhitabhayato pāleti, tenāha **‘‘rakkhatī’’**ti, etena tāṇa-saddassa kattusādhanatamāha. Yathupaṭṭhitena bhayena upadduto nilīyati etthāti leṇaṃ, upalayanaṃ, etena leṇa-saddassa adhikaraṇasādhanatamāha. **‘‘Saratī’’**ti etena saraṇa-saddassa kattusādhanatamāha.
272. 「救いを探し求めながら」とは、「まさにこの沙門ゴータマこそがこの恐怖から私を救ってくださる方だ」と世尊のみを「救い」として探し求め、近づきながらという意味である。残りの二つの句においてもこの理趣が適用される。「救う」とは、現前した恐怖から保護することであり、それゆえに「保護する」と説かれ、これによって救い(ターナ)という語の能動の意味が示されている。現前した恐怖に脅かされた者がここに身を隠すから「避難所(レーナ)」、すなわち隠れ家であり、これによって避難所という語の場所(依処)の意味が示されている。「思い起こす」ということによって、帰依所(サラナ)という語の能動の意味が示されている。
Ambaṭṭhavaṃsakathāvaṇṇanā
アンバッタの家系の対話の解説
274. Gaṅgāya dakkhiṇatoti gaṅgāya nadiyā dakkhiṇadisāya. Āvudhaṃ na parivattatīti saraṃ vāsattiādiṃ vā parassa upari khipitukāmassa hatthaṃ na parivattati, hatthe pana aparivattente kuto āvudhaparivattananti āha **‘‘āvudhaṃ na parivattatī’’**ti. So kira ‘‘kathaṃ nāmāhaṃ disāya dāsiyā kucchimhi nibbatto’’ti taṃ hīnaṃ jātiṃ jigucchanto ‘‘handāhaṃ yathā tathā imaṃ jātiṃ sodhessāmī’’ti niggato, tenāha **‘‘idāni me manorathaṃ pūressāmī’’**tiādi. Vijjābalena rājānaṃ tāsetvā tassa dhītuyā laddhakālato paṭṭhāya myāyaṃ jātisodhitā bhavissatīti tassa adhippāyo. Ambaṭṭhaṃ nāma vijjanti sattānaṃ sarīre abbhaṅgaṃ ṭhapetīti ambaṭṭhāti evaṃ laddhanāmaṃ vijjaṃ, mantanti attho. Yato ambaṭṭhā etasmiṃ atthīti ambaṭṭhoti kaṇho isi paññāyittha, taṃbaṃsajātatāya ayaṃ māṇavo ‘‘ambaṭṭho’’ti voharīyati.
274. 「ガンジス河の南から」とは、ガンジス河の南の方角から。「武器が回らない」とは、矢や槍などを他者に向かって放とうとする者の手が回らないのであり、手が回らなければどうして武器が回るだろうかという意味で「武器が回らない」と説かれた。伝えられるところでは、彼は「どうして私は女奴隷の胎から生まれたのか」とその卑しい生まれを嫌悪し、「いざ、私は何としてもこの生まれを清めてやろう」と出発したのであり、それゆえに「今や私の願いを満たそう」などと説かれたのである。呪術の力で王を脅し、その王女を得た時から私のこの生まれは清められるだろうというのが彼の意図であった。「アンバッタという名の呪術」とは、衆生の身体に油を塗布するように定着するからアンバッタと、このように名付けられた呪術、すなわち呪文のことである。アンバッタ呪術が彼にあることからアンバッタとしてカンハ仙人は知られ、その家系に生まれたことからこの青年は「アンバッタ」と呼ばれている。
Seṭṭhamante vedamanteti adhippāyo. Mantānubhāvena rañño bāhukkhambhamattaṃ jātaṃ tena panassa bāhukkhambhena rājā, ‘‘ko jānāti, kiṃ bhavissatī’’ti bhīto ussaṅkī utrāso ahosi, tenāha **‘‘bhayena vedhamāno aṭṭhāsī’’**ti. Sotthi bhaddanteti ādivacanaṃ avocuṃ. ‘‘Ayaṃ mahānubhāvo isī’’ti maññamānā.
「最上の呪文」とは、ヴェーダの呪文という意味である。呪文の威力によって王の腕の硬直が生じたにすぎず、その腕の硬直によって王は「何が起きるか誰が知ろうか」と恐れ、疑念を抱き、恐怖した。それゆえに「恐怖に震えながら立ち尽くした」と説かれた。「貴方にとって幸いあれ」などの言葉を語ったのは、「この方は偉大な威光を持つ仙人である」と考えたからである。
Undriyissatīti vippakiriyissati, tenāha **‘‘bhijjissatī’’**ti. Mante parivattiteti bāhukkhambhakamantassa paṭippassambhakavijjāsaṅkhāte mante **‘‘saro otaratū’’**ti parivattite. Evarūpānañhi mantānaṃ ekaṃseneva paṭippassambhakavijjā hontiyeva yathā taṃ kusumārakavijjānaṃ. Attano dhītu apavādamocanatthaṃ tassa bhujissakaraṇaṃ. Tassānurūpe issariye ṭhapanatthaṃ uḷāre ca naṃ ṭhāne ṭhapesi.
「粉々になるだろう」とは、飛び散るだろうということであり、それゆえに「破滅するだろう」と説かれた。「呪文を唱え返したとき」とは、腕を硬直させる呪文を解除する呪術と呼ばれる呪文を「矢よ、下りよ」と唱え返したときである。実にこのような呪文には、クスマアラカの呪術のように必ず解除する呪術が存在するからである。自身の娘への非難を晴らすために彼を自由人(非奴隷)とし、彼に相応しい権力を与えるために高貴な地位に据えたのである。
Khattiyaseṭṭhabhāvavaṇṇanā
刹帝利の最上性の解説
275. Samassāsanatthamāha karuṇāyanto, na kulīnabhāvadassanatthaṃ, tenāha **‘‘atha kho bhagavā’’**tiādi. Brāhmaṇesūti brāhmaṇānaṃ samīpe, tato brāhmaṇehi laddhabbaṃ āsanādiṃ sandhāya **‘‘brāhmaṇānaṃ antare’’**ti vuttaṃ. Kevalaṃ saddhāya kātabbaṃ saddhaṃ, paralokagate sandhāya na tato kiñci apatthentena kātabbanti attho, tenāha **‘‘matake uddissa katabhatte’’**ti. Maṅgalādibhatteti ādi-saddena ussavadevatārādhanādiṃ saṅgaṇhāti. Yaññabhatteti pāpasaññamādivasena katabhatte. Pāhunakānanti atithīnaṃ. Khattiyabhāvaṃ appatto ubhato sujātatābhāvato, tenāha **‘‘aparisuddhoti attho’’**ti.
275. 憐れみから慰めるために述べたのであり、高貴な身分であることを示すためではないとして、「そこで世尊は…」などと説かれた。「バラモンたちの間で」とは、バラモンたちの近くでということであり、そこからバラモンたちによって得られるべき座席などを指して「バラモンたちの間で」と説かれた。単に信によってなされるべき施本が「追善供養の布施(サッダ)」であり、他界した者を指してそこから何の返礼も期待せずになされるべきものであるという意味から、「死者のために施された供養において」と説かれた。「祝宴などの食事において」の「など」という語によって、祭礼や神々の供養などが包摂される。「祭祀の食事において」とは、悪を慎むことなどのために施された食事において。「賓客たちの」とは、客人のことである。「刹帝利たる身分に至っていない」とは、父母双方からの正しい血統でないことからであり、それゆえに「不純であるという意味である」と説かれた。
276. Itthiṃ karitvāti ettha karaṇaṃ kiriyāsāmaññavisayanti āha **‘‘itthiṃ pariyesitvā’’**ti. Brāhmaṇakaññaṃ itthiṃ khattiyakumārassa bhariyābhūtaṃ gahetvāpi khattiyāva seṭṭhā, hīnā brāhmaṇāti yojanā. Purisena vā purisaṃ karitvāti etthāpi eseva nayo. Pakaraṇeti rāgādivasena paduṭṭhe pakkhalite kāraṇe, tenāha **‘‘dose’’**ti. Bhassati niratthakabhāvena khipīyatīti bhassaṃ, chārikā.
276. 「女として」という点において、なすこと(行為)は一般的な動作を対象とするため「女を求めて」と説かれた。バラモンの娘の女を刹帝利の王子の妻として娶ったとしても、やはり刹帝利こそが最上であり、バラモンは劣っているという文脈である。「男によって男をなす」という点においても同様の理趣である。「過失において」とは、貪欲などによって汚され、誤った原因においてということであり、それゆえに「過ちにおいて」と説かれた。「灰(バッサ)」とは、無価値なものとして投げ捨てられるから灰であり、灰塵のことである。
277. Janitasminti kammakilesehi nibbatte. Jane etasminti vā janetasmiṃ, manussesūti attho, tenāha **‘‘gottapaṭisārino’’**ti. Saṃsanditvāti ghaṭetvā, aviruddhaṃ katvāti attho.
277. 「生じた者において(Janitasmiṃ)」とは、業と煩悩によって生じた者において。「この人々において(Jane etasmiṃ)」あるいは「この生じた人々において(janetasmiṃ)」とは、人間たちにおいてという意味である。それゆえに「**氏族に依存する者たち(gottapaṭisārino)**」と言われたのである。「照らし合わせて(Saṃsanditvā)」とは、適合させて、矛盾しないようにしてという意味である。
Paṭhamabhāṇavāravaṇṇanā niṭṭhitā.
第一の誦品(初誦)の註釈が終了した。
Vijjācaraṇakathāvaṇṇanā
明行についての説示の註釈
278. Idaṃ vaṭṭatīti idaṃ ajjhenādi kattuṃ labbhati. Jātivādavinibaddhāti jātisannissitavāde vinibaddhā. Brāhmaṇasseva ajjhenajjhāpanayajanayājanādayoti evaṃ ye attukkaṃsanaparavambhanavasena pavattā, tato eva te mānavādapaṭibaddhā ca honti. Ye pana āvāhavivāhavinibaddhā, te eva sambandhattayavasena ‘‘arahasi vā maṃ tvaṃ, na vā maṃ tvaṃ arahasī’’ti evaṃ pavattanakā.
278. 「これはふさわしい(Idaṃ vaṭṭati)」とは、この読誦等を行うことが許されるということである。「門地説に縛られた者たち(Jātivādavinibaddhā)」とは、生まれに依拠する言説に縛られた者たちのことである。「バラモンのみが読誦し、教え、祭祀を行い、祭祀を執り行わせるなどである」というように、自己を称賛し他者を軽蔑する形で生じた言説であり、それゆえにそれらは慢心に基づく言説に束縛されたものである。また、嫁入りや婿取りに縛られた人々は、まさにその三種の親族関係に基づいて「あなたには私にふさわしい資格があるのか、それとも資格がないのか」というように振る舞う者たちである。
Yatthāti yassaṃ vijjācaraṇasampattiyaṃ. Laggissāmāti olaggā antogadhā bhavissāmāti cintayimha. Paramatthato avijjācaraṇāniyeva ‘‘vijjācaraṇānī’’ti gahetvā ṭhito paramatthato vijjācaraṇesu vibhajiyamānesu so tato dūrato apanīto nāma hotīti āha **‘‘dūrameva avakkhipī’’**ti. Samudāgamato pabhutītiādisamuṭṭhānato paṭṭhāya.
「どこにおいて(Yattha)」とは、いずれの明行の成就において。「固執するであろう(Laggissāma)」とは、執着し、包摂されるであろうと考えたということである。勝義においては無明と無行であるものそのものを「明行である」と捉えて留まっている者が、勝義における明行の諸徳が分別して明かされるとき、そこから遥か遠くへ退けられた者となるのであり、それゆえに「**遥か遠くへ投げ捨てた(dūrameva avakkhipī)**」と言われたのである。「獲得から始まり(Samudāgamato pabhuti)」とは、初期の発生段階からのことである。
279. Tividhaṃ sīlanti khuddakādibhedaṃ tividhaṃ sīlaṃ. Sīlavasenevāti sīlapariyāyeneva. Kiñci kiñcīti ahiṃsanādiyamaniyamalakkhaṇaṃ kiñci kiñci sīlaṃ atthi. Tattha tattheva laggeyyāti tasmiṃ tasmiṃyeva brāhmaṇasamayasiddhe sīlamatte ‘‘caraṇa’’nti laggeyya. Aṭṭhapi samāpattiyo caraṇanti niyyātitā honti rūpāvacaracatutthajjhānaniddeseneva arūpajjhānānampi niddiṭṭhabhāvāpattito niyyātitā nidassitā.
279. 「三種の戒(Tividhaṃ sīlaṃ)」とは、小戒などの区別による三種の戒である。「戒の様態によってのみ(Sīlavaseneva)」とは、戒という方便(説示様式)によってのみということである。「わずかなもの(Kiñci kiñci)」とは、不殺生などを特徴とする禁戒・規律としてのわずかな戒が存在するということである。「その場その場において固執する(Tattha tattheva laggeyya)」とは、その時々のバラモンの教義で確立された戒の程度にすぎないものを「行足」であるとして執着するであろうということである。「八つの等至も行足であると指定された(Aṭṭhapi samāpattiyo caraṇanti niyyātitā honti)」とは、色界第四禅の説示によって無色界の諸禅もまた示されたことになるため、指定され、例示されたのである。
Catuapāyamukhakathāvaṇṇanā
四種の堕落への門戸の説示の註釈
280. Asampāpuṇantoti ārabhitvā sampattuṃ asakkonto. Avisahamānoti ārabhitumeva asakkonto. Khārinti parikkhāraṃ. Taṃ pana vibhajitvā dassetuṃ **‘‘araṇī’’**tiādi vuttaṃ. Tattha araṇīti aggidhamanakaṃ araṇīdvayaṃ. Sujāti dabbi. Ādi-saddena tidaṇḍatighaṭikādiṃ saṅgaṇhāti khāribharitanti khārīhi puṇṇaṃ. Nanu upasampannassa bhikkhuno sāsanikopi yo koci anupasampanno atthato paricārakova, kiṃ aṅgaṃ pana bāhirakapabbajiteti tattha visesaṃ dassetuṃ **‘‘kāmañcā’’**tiādi vuttaṃ. Vuttanayenāti ‘‘kappiyakaraṇa…pe… vattakaraṇavasenā’’ti evaṃ vuttena nayena. Paricārako hoti upasampannabhāvassa visiṭṭhabhāvato. ‘‘Navakoṭisahassānī’’tiādinā (visuddhi. 1.20; paṭi. ma. aṭṭha. 37) vuttappabhedānaṃ anekasahassānaṃ saṃvaravinayānaṃ samādiyitvā vattanena uparibhūtā aggabhūtā sampadāti hi ‘‘upasampadā’’ti vuccatīti. Guṇādhikopīti guṇehi ukkaṭṭhopi. Ayaṃ panāti vuttalakkhaṇo tāpaso.
280. 「到達しない者(Asampāpuṇanto)」とは、始めてはみたものの到達することができない者。「堪え得ない者(Avisahamāno)」とは、始めることすらできない者。「天秤棒(Khāriṃ)」とは、必需品(資具)のことである。それらを分別して示すために「**火打木(araṇī)**」などと言われた。そこで「火打木(araṇī)」とは、火を起こすための二つの火打木である。「柄杓(Sujā)」とは、杓(しゃく)のことである。「〜など」という言葉によって、三脚や三つ組の甕などを包摂する。「天秤棒を満たした(khāribharitaṃ)」とは、天秤籠に満杯にしたということである。具足戒を受けた比丘にとって、仏教内のいかなる未受具足の者であっても実質的には従者(給仕者)にすぎないのではないか、ましてや外道の出家者において何をいわんや、というその特質を示すために「**確かに〜(kāmañcā)**」などと言われた。「述べられた方法によって(Vuttanayena)」とは、「如法とすること……(中略)……義務を果たすことによって」というように述べられた方法によってである。具足戒を受けた境地は卓越した状態であるため、(外道の出家者は)従者となるのである。「九十億千の……」などに述べられた無数の自制と律儀の諸種別を受持して生きることによって、最高峰の優れた成就となるがゆえに「具足戒(upasampadā)」と呼ばれるからである。「徳において勝っているとしても(Guṇādhikopi)」とは、諸々の徳によって優れていてもということである。「しかしこれ(Ayaṃ pana)」とは、上述の特徴を持つ苦行者のことである。
Tāpasā nāma kammavādikiriyāvādino, na sāsanassa paṭāṇībhūtā, yato nesaṃ pabbajituṃ āgatānaṃ titthiyaparivāsena vināva pabbajjā anuññātāti katvā **‘‘kasmā panā’’**ti codanaṃ samuṭṭhapeti codako. Ācariyo **‘‘yasmā’’**tiādinā codanaṃ pariharati. ‘‘Osakkissatī’’ti saṅkhepato vuttamatthaṃ vivarituṃ **‘‘imasmiñhī’’**tiādi vuttaṃ. Khuradhārūpamanti khuradhārānaṃ matthakeneva akkamitvā gamanūpamaṃ. Aññeti aññe bhikkhū. Aggisālanti aggihuttasālaṃ. Nānādārūhīti palāsadaṇḍādinānāvidhasamidhādārūhi.
苦行者とは業論者・作用論者であり、仏教の敵対者ではない。彼らが出家を求めて来た場合には、異教徒の別住(試験期間)を経ることなく出家が認められていることから、「**ではなぜ(kasmā panā)**」と詰問者が詰問を起こすのである。阿闍梨は「**〜だからである(yasmā)**」などと答えてその詰問を退ける。「退転するであろう」と簡潔に述べられた意味を解明するために「**実にこの〜(imasmiñhī)**」などと言われた。「剃刀の刃に似た(Khuradhārūpamaṃ)」とは、剃刀の刃の先端を踏んで歩むかのようなことである。「他の者たち(Aññe)」とは、他の比丘たちのことである。「火の堂(Aggisālaṃ)」とは、火の供養のための堂。「種々の木(Nānādārūhi)」とは、パラシャの木など種々の燃料用の木のことである。
Idanti ‘‘catudvāraṃ āgāraṃ katvā’’tiādinā vuttaṃ. Assāti assa catutthassa puggalassa. Paṭipattimukhanti kohaññapaṭipattiyā mukhamattaṃ. So hi nānāvidhena kohaññena lokaṃ vimhāpento tattha acchati, tenāha **‘‘iminā hi mukhena so evaṃ paṭipajjatī’’**ti.
「これ(Idaṃ)」とは、「四方に扉のある家を造って」などと述べられたことである。「彼にとっての(Assa)」とは、この第四の人物にとっての。「実践の門(Paṭipattimukhaṃ)」とは、偽善の実践の単なる端緒のことである。実に彼は種々の偽善によって世人を驚嘆させつつそこに座しているのであり、それゆえに「**実にこの方便によって、彼はそのように実践するのである(iminā hi mukhena so evaṃ paṭipajjatī)**」と言われたのである。
Khalādīsu manussānaṃ santike upatiṭṭhitvā vīhimuggatilamāsādīni bhikkhācariyāniyāmena saṅkaḍḍhitvā uñchanaṃ uñchā, sā eva cariyā vutti etesanti uñchācariyā. Aggipakkena jīvantīti aggipakkikā, na aggipakkikā anaggipakkikā. Uñchācariyā hi khalesu gantvā khalaggaṃ nāma manussehi diyyamānaṃ dhaññaṃ gaṇhanti, taṃ ime na gaṇhantīti anaggipakkikā nāma jātā. Asāmapākāti asayaṃpācakā. Asmamuṭṭhinā muṭṭhipāsāṇena vattantīti asmamuṭṭhikā. Dantena uppāṭitaṃ vakkalaṃ rukkhattaco dantavakkalaṃ, tena vattantīti dantavakkalikā. Pavattaṃ rukkhādito pātitaṃ phalaṃ bhuñjantīti pavattaphalabhojino. Jiṇṇapakkatāya paṇḍubhūtaṃ palāsaṃ, taṃsadisañca paṇḍupalāsaṃ, tena vattantīti paṇḍupalāsikā, sayaṃpatitapupphaphalapattabhojino.
脱穀場などにおいて人々の近くに立ち寄り、稲、緑豆、胡麻、黒豆などを乞食の作法に従って集めて拾い集めることを「落穂拾い(uñchā)」といい、まさにその行いを生業とする彼らを「落穂拾いを生業とする者(uñchācariyā)」という。「火で調理したもので生きる者」を火調理者といい、火調理者でない者を「非火調理者(anaggipakkikā)」という。落穂拾いを生業とする者は脱穀場へ行って、人々から与えられる「脱穀場の初穂」と呼ばれる穀物を受け取るが、これら(非火調理者)はそれを受け取らないので、「非火調理者」と呼ばれるようになったのである。「自家調理をしない者(Asāmapākā)」とは、自ら調理しない者のことである。「石の拳(手持ちの石)によって生活する者」を「石拳者(asmamuṭṭhikā)」という。「歯で剥ぎ取った樹皮」を歯剥樹皮といい、それによって生活する者を「歯剥樹皮者(dantavakkalikā)」という。「樹木などから自然に落ちた果実を食する者」を「落果食者(pavattaphalabhojino)」という。「熟して古くなり黄色くなった落ち葉、およびそれに類する黄葉によって生活する者」を「黄葉食者(paṇḍupalāsikā)」といい、自ら落ちた花・果実・葉を食する者たちのことである。
Idāni te aṭṭhavidhepi sarūpato dassetuṃ **‘‘tatthā’’**tiādi vuttaṃ. Saṅkaḍḍhitvāti bhikkhācariyāvasena laddhadhaññaṃ ekajjhaṃ katvā.
いま、それら八種の者たちを具体的に示すために「**そこにおいて(tatthā)**」などと言われた。「集めて(Saṅkaḍḍhitvā)」とは、乞食によって得られた穀物を一つにまとめて、ということである。
Pariyeṭṭhi nāma dukkhāti paresaṃ gehato gehaṃ gantvā pariyeṭṭhi nāma dīnavuttibhāvena dukkhā. Pāsāṇassa pariggaho dukkho pabbajitassāti vā danteheva uppāṭetvā khādanti.
「探索は苦である(Pariyeṭṭhi nāma dukkhā)」とは、他人の家から家へと巡り歩く探索は、卑屈な生き方であるために苦であるということである。「あるいは、出家者にとって石を所持することは執着の苦となる」として、歯だけで剥ぎ取って食べるのである。
Imāhi catūhiyevāti ‘‘khārividhaṃ ādāyā’’tiādinā vuttāhi catūhi eva tāpasapabbajjāhīti.
「これら四つのみによって(Imāhi catūhiyeva)」とは、「天秤棒を担いで……」などと述べられた四種の苦行者の出家様式によって、ということである。
282. Apāye vināse niyutto āpāyiko. Tabbhāvaṃ paripūretuṃ asakkonto tena aparipuṇṇo aparipūramāno, karaṇe cetaṃ paccattavacanaṃ, tenāha **‘‘āpāyikenāpi aparipūramānenā’’**ti.
282. 「堕落・破滅に関わるもの(Apāye vināse niyutto)」を「阿波耶的(āpāyiko、堕落への道にある者)」という。その状態を満たすことができず、それによって満たされず、成就されないことである。これは具格の意味における主格表現であり、それゆえに「**堕落への道によってすら満たされず(āpāyikenāpi aparipūramānena)**」と言われたのである。
Pubbakaisibhāvānuyogavaṇṇanā
古代の仙人のあり方の実践についての説示の註釈
283. Dīyatīti datti, dattiyeva dattikanti āha **‘‘dinnaka’’**nti. Yadi brāhmaṇassa sammukhībhāvo rañño na dātabbo, kasmāssa upasaṅkamanaṃ na paṭikkhittanti āha **‘‘yasmā panā’’**tiādi. Khettavijjāyāti nītisatthe. Payātanti saddhaṃ, sassatikaṃ vā, tenāha **‘‘abhiharitvā dinna’’**nti. Kasmā bhagavā ‘‘rañño pasenadissa kosalassa dattikaṃ bhuñjatī’’tiādinā brāhmaṇassa mammavacanaṃ avocāti tattha kāraṇaṃ dassetuṃ **‘‘idaṃ pana kāraṇa’’**ntiādi vuttaṃ.
283. 「与えられるもの(Dīyati)」を贈与(datti)といい、贈与そのものを「贈与物(dattikaṃ)」という。それゆえ「**与えられたもの(dinnakaṃ)**」と言われた。「もしバラモンが王に対面すべきでないのなら、なぜ王の接近が拒絶されなかったのか」ということについて、「**〜であることから(yasmā panā)**」などと言われた。「国土の知(Khettavijjā)」とは、政治道徳の学問(政術)においてである。「捧げられた(Payātaṃ)」とは、信仰によるもの、あるいは永続的なものであり、それゆえ「**持参して与えられたもの(abhiharitvā dinnaṃ)**」と言われた。なぜ世尊は「パセーナディ・コーサラ王の賜物を享受している」などとバラモンの急所を突く言葉を述べられたのか、その理由を示すために「**しかしこの理由(idaṃ pana kāraṇaṃ)**」などと言われた。
284. Rathūpatthareti rathassa upari attharitapadese. Pākaṭamantananti pakāsabhūtaṃ mantanaṃ. Tañhi suddādīhi ñāyatīti na rahassamantanaṃ. Bhaṇatīti api nu bhaṇati.
284. 「戦車の敷物の上で(Rathūpatthare)」とは、戦車の上に敷物が敷かれた場所で。「公然の密議(Pākaṭamantanaṃ)」とは、公になった相談のことである。それはシュードラらにも知られているため、秘密の相談ではない。「語るだろうか(Bhaṇatīti)」とは、はたして語るだろうか、ということである。
285. Pavattāroti pāvacanabhāvena vattāro, yasmā te tesaṃ mantānaṃ pavattakā, tasmā āha **‘‘pavattayitāro’’**ti. Sudde bahi katvā raho bhāsitabbaṭṭhena mantā eva, taṃtaṃatthapaṭipattihetutāya padanti mantapadaṃ, anupanītāsādhāraṇatāya vā rahassabhāvena vattabbaṃ hitakiriyāya adhigamupāyaṃ. Sajjhāyitanti gāyanavasena sajjhāyitaṃ, taṃ pana udattānudattādīnaṃ sarānaṃ sampādanavaseneva icchitanti āha **‘‘sarasampattivasenā’’**ti. Aññesaṃ vuttanti pāvacanabhāvena aññesaṃ vuttaṃ. Samupabyūḷhanti saṅgahetvā uparūpari saññūḷhaṃ. Rāsikatanti iruvedayajuvedasāmavedādivasena, tatthāpi paccekaṃ mantabrahmādivasena, ajjhāyānuvākādivasena ca rāsikataṃ.
285. 「伝承者たち(Pavattāro)」とは、聖典として語る者たちのことであり、彼らはそれらの真言(マントラ)を行き渡らせた者たちであるため、「**広めた者たち(pavattayitāro)**」と言われた。シュードラを締め出して人目を避けて語られるべきものであることから「真言(mantā)」であり、それぞれの目的を実践するための手段であることから「句(padaṃ)」であって、あるいは入門していない資格なき者には明かされない秘密として語られるべき、利益をもたらす実践のための獲得の手段である。「朗誦された(Sajjhāyitaṃ)」とは、詠唱の形式で朗誦されたものであり、それは高低アクセントなどの声調を整えることによって望まれるものであるため、「**音調の完成によって(sarasampattivasenā)**」と言われた。「他者たちに語られた(Aññesaṃ vuttaṃ)」とは、聖典として他者たちに説かれたということである。「集積された(Samupabyūḷhaṃ)」とは、集められて順々に積み重ねられたものである。「集成された(Rāsikataṃ)」とは、リグ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダなどの区分により、さらにその中でも個々の真言や梵書などの区分、章や節などの区分によって集成されたということである。
Tesanti mantānaṃ kattūnaṃ. Dibbena cakkhunā oloketvāti dibbacakkhuparibhaṇḍena yathākammūpagañāṇena sattānaṃ kammassakatādiṃ paccakkhato dassanaṭṭhena dibbacakkhusadisena pubbenivāsañāṇena atītakappe brāhmaṇānaṃ mantajjhenavidhiñca oloketvā. Pāvacanena saha saṃsanditvāti kassapasammāsambuddhassa yaṃ vacanaṃ vaṭṭasannissitaṃ, tena saha aviruddhaṃ katvā. Na hi tesaṃ vivaṭṭasannissito attho paccakkho hoti. Aparāpare panāti aṭṭhakādīhi aparā pare pacchimā okkākarājakālādīsu uppannā. Pakkhipitvāti aṭṭhakādīhi ganthitamantapadesu kilesasannissitapadānaṃ tattha tattha pade pakkhipanaṃ katvā. Viruddhe akaṃsūti brāhmaṇadhammikasuttādīsu āgatanayena saṃkilesikatthadīpanato paccanīkabhūte akaṃsu. Idhāti ‘‘tyāhaṃ mante adhīyāmī’’ti etasmiṃ ṭhāne. Paṭiññaṃ aggahetvāti ‘‘taṃ kiṃ maññasī’’ti evaṃ paṭiññaṃ aggahetvāva.
「彼らの(Tesaṃ)」とは、真言の作者たちの。「天眼によって観察して(Dibbena cakkhunā oloketvā)」とは、天眼の周辺智である応業智によって衆生の自業所持などを直接に見るという意味での天眼に似た宿住智により、過去劫におけるバラモンたちの真言の読誦法を観察して。「聖典と照らし合わせて(Pāvacanena saha saṃsanditvā)」とは、カッサパ正等覚者の言葉のうち、輪廻に関わるものと矛盾しないようにしてということである。彼らにとって輪廻を脱する解脱に関わる真義は直接体験されるものではないからである。「しかし後世の者たちは(Aparāpare pana)」とは、アッタカらに続く後代の、オッカーカ王の時代などに生じた者たちである。「挿入して(Pakkhipitvā)」とは、アッタカらによって編纂された真言の句の中に、煩悩に結びついた句をあちこちに挿入して。「矛盾するものとした(Viruddhe akaṃsu)」とは、婆羅門法経などに説かれる方法に従って、汚れに満ちた意味を示すことによって(本来の法に)反するものとしたということである。「ここにおいて(Idhā)」とは、「私はあなたに真言を学ばせている」というこの箇所において。「同意を得ずに(Paṭiññaṃ aggahetvā)」とは、「あなたはどう考えるか」という同意をあらかじめ得ることなしに、ということである。
286. Nirāmagandhāti kilesāsucivasena vissagandharahitā. Anitthigandhāti itthīnaṃ gandhamattassapi avisahanena itthigandharahitā. Ettha ca **‘‘nirāmagandhā’’**ti etena tesaṃ porāṇānaṃ brāhmaṇānaṃ vikkhambhitakilesataṃ dasseti, **‘‘anitthigandhā brahmacārino’’**ti etena ekavihāritaṃ, **‘‘rajojalladharā’’**ti etena maṇḍanavibhūsanānuyogābhāvaṃ, **‘‘araññāyatane pabbatapādesu vasiṃsū’’**ti etena manussūpacāraṃ pahāya vivittavāsaṃ, **‘‘vanamūlaphalāhārā vasiṃsū’’**ti etena sālimaṃsodanādipaṇītāhārapaṭikkhepaṃ, **‘‘yadā’’**tiādinā yānavāhanapaṭikkhepaṃ, **‘‘sabbadisāsū’’**tiādinā rakkhāvaraṇapaṭikkhepaṃ, evañca vadanto micchāpaṭipadāpakkhikaṃ sācariyassa ambaṭṭhassa vuttiṃ upādāya sammāpaṭipadāpakkhikāpi tesaṃ brāhmaṇānaṃ vutti ariyavinaye sammāpaṭipattiṃ upādāya micchāpaṭipadāyeva. Kutassa sallekhapaṭipattiyuttatāti. ‘‘Evaṃ sute’’tiādinā bhagavā ambaṭṭhaṃ santajjento niggaṇhātīti dasseti.
286. 「生臭さのない者たち(Nirāmagandhā)」とは、煩悩の不浄による生臭さから離れた者たち。「女の臭いのない者たち(Anitthigandhā)」とは、女性の匂いすら耐えられないほどに、女性の臭気から離れた者たち。そしてここにおいて、「**生臭さのない者たち(nirāmagandhā)**」というこれによって、それら古代のバラモンたちが煩悩を抑止していたことを示し、「**女の臭いのない梵行者たち(anitthigandhā brahmacārino)**」によって独住であることを示し、「**塵垢を身にまとう者たち(rajojalladharā)**」によって化粧や装飾を行わないことを示し、「**荒野の山麓に住した(araññāyatane pabbatapādesu vasiṃsu)**」によって人里の近辺を離れた閑静な居住を示し、「**森の根や果実を食物として住した(vanamūlaphalāhārā vasiṃsu)**」によって上等な米や肉の食事を拒否したことを示し、「**いかなる時も……(yadā)**」などによって乗り物を拒絶したことを示し、「**すべての方向において……(sabbadisāsu)**」などによって防護のための囲いを拒絶したことを示している。このように語りつつ、師を伴うアンバッタの誤った実践のあり方と比較して、それらのバラモンたちのあり方は正しき実践の側にあるとしても、聖者の戒律における正しい実践と比べるならば誤った実践にすぎず、彼らにどうして煩悩を削ぎ落とす実践が具わっていようか、と示すのである。「このように聞くとき」などによって、世尊がアンバッタを威圧して屈服させていることを示している。
Veṭhakehīti veṭhakapaṭṭakāhi. Samantānagaranti nagarassa samantato. Katasudhākammaṃ pākārassa adhobhāge ṭhānaṃ vuccatīti adhippāyo.
「覆いによって(Veṭhakehi)」とは、覆いの布によって。「都市の周囲に(Samantānagaraṃ)」とは、都市のまわり全体に。漆喰塗りの仕上げが施された城壁の下部の場所を指している、というのが趣意である。
Dvelakkhaṇadassanavaṇṇanā
二相を現示することの説示の註釈
287. Na sakkotisaṅkucite iriyāpathe anavasesato tesaṃ dubbibhāvanato. Gavesīti ñāṇena pariyesanamakāsi. Samānayīti ñāṇena saṅkalento sammā ānayi samāhari. **‘‘Kaṅkhatī’’**ti padassa ākaṅkhatīti ayamatthoti āha **‘‘aho vata passeyyanti patthanaṃ uppādetī’’**ti. Kicchatīti kilamati. **‘‘Kaṅkhatī’’**ti padassa pubbe āsisanatthataṃ vatvā idānissa saṃsayatthatameva vikappantaravasena dassento **‘‘kaṅkhāya vā dubbalā vimati vuttā’’**ti āha. Tīhi dhammehīti tippakārehi saṃsayadhammehi. Kālusiyabhāvoti appasannatāya hetubhūto āvilabhāvo.
287. (衣服で)覆い隠された威儀においては、それら(二相)を余すところなく明瞭に見極めることができない。「探求した(Gavesī)」とは、知恵によって探索した。「推し量った(Samānayī)」とは、知恵によって総合して正しく導き出し、集約した。「**疑う(Kaṅkhati)**」という語の意味は「望む(ākaṅkhati)」であるとして、「**『ああ、願わくは見たいものだ』という希求を生じさせる(aho vata passeyyanti patthanaṃ uppādetī)**」と言われた。「困惑する(Kicchatī)」とは、疲弊する。「**疑う(Kaṅkhati)**」という語について、先に「希求する」という意味を述べておいて、今度はその語の「疑惑」という意味そのものを別の解釈として示すために、「**あるいは、疑惑による微弱な疑念が言われたのである(kaṅkhāya vā dubbalā vimati vuttā)**」と言われた。「三つの法によって(Tīhi dhammehi)」とは、三種の疑惑の法によってである。「濁った状態(Kālusiyabhāvo)」とは、不信の原因となる心の濁りである。
Yasmā bhagavato kosohitaṃ sabbabuddhānaṃ āveṇikaṃ aññehi asādhāraṇaṃ vatthaguyhaṃ suvisuddhakañcanamaṇḍalasannikāsaṃ, attano saṇṭhānasannivesasundaratāya ājāneyyagandhahatthino varaṅgaparamacārubhāvaṃ, vikasamānatapaniyāravindasamujjalakesarāvattavilāsaṃ, sañjhāpabhānurañjitajalavanantarābhilakkhitasampuṇṇacandamaṇḍalasobhañca attano siriyā abhibhuyya virājati, yaṃ bāhirabbhantaramalehi anupakkiliṭṭhatāya, cirakālaṃ suparicitabrahmacariyādhikāratāya, susaṇṭhitasaṇṭhānasampattiyā ca, kopīnampi santaṃ akopīnameva, tasmā vuttaṃ **‘‘bhagavato hī’’**tiādi. Pahūtabhāvanti puthulabhāvaṃ. Ettheva hi tassa saṃsayo, tanumudusukumāratādīsu panassa guṇesu vicāraṇā eva nāhosi.
世尊の陰部が覆いに隠されていること(陰相蔵密)は、すべての仏に特有のものであり他者と共有されないものであって、極めて清らかな黄金の円盤のようであり、自らの形態と配置の美しさによって、良馬や香象の最上の器官の極致の美しさを、開きゆく黄金の蓮華の輝く花蕊の優美さを、夕暮れの光に染まった水林の間に現れる満月の美しさを、自らの輝きによって凌駕して際立っている。それは内外の汚れに汚されないこと、長期間にわたり十分に修練された梵行の功徳、そして見事に整った形態の成就によって、恥ずべき部分でありながら全く恥ずべきものではない。それゆえに「**実に世尊の〜(bhagavato hī)**」などと言われた。「広大なこと(Pahūtabhāvaṃ)」とは、広大であること。実に彼にとって疑惑があったのはここだけであり、薄さ、柔軟さ、繊細さなどの徳については検討するまでもなかったのである。
288. Hirikaraṇokāsanti hiriyitabbaṭṭhānaṃ. Chāyanti paṭibimbaṃ. Kathaṃ kīdisanti āha **‘‘iddhiyā’’**tiādi. Chāyārūpakamattanti bhagavato paṭibimbarūpaṃ. Tañca kho buddhasantānato vinimuttattā rūpakamattaṃ bhagavato sarīravaṇṇasaṇṭhānāvayavaṃ iddhimayaṃ bimbakamattaṃ. Taṃ pana rūpakamattaṃ dassento bhagavā yathā attano buddharūpaṃ na dissati, tathā katvā dasseti. Ninnetvāti nīharitvā. Kallosīti pucchāvissajjane kusalo cheko asi. Tathākaraṇenāti kathinasūciṃ viya karaṇena. Etthāti pahūtajivhāya. Mudubhāvo pakāsito amuduno ghanasukhumabhāvāpādanatthaṃ asakkuṇeyyattā dīghabhāvo, tanubhāvo cāti daṭṭhabbaṃ.
288. 「恥じらいを生じさせる場所(Hirikaraṇokāsaṃ)」とは、恥じらうべき場所(陰部)。「影(Chāyaṃ)」とは、影像のことである。どのように、どのようなものかといえば、「**神通によって(iddhiyā)**」などと言われた。「影の幻影にすぎないもの(Chāyārūpakamattaṃ)」とは、世尊の影像の姿である。そしてそれは、仏の心相続からは離れているため、世尊の身体の色と形態の器官を備えた神通によって作られた像にすぎない姿である。世尊はその姿を示される際、自らの実際の仏の身体が見えないようにして示されたのである。「出して(Ninnetvā)」とは、取り出して。「あなたは巧みである(Kallosi)」とは、問答において熟練し、達者である。「そのようにすることによって(Tathākaraṇena)」とは、硬い針のようにすることによって。「ここにおいて(Etthā)」とは、広長舌において。「柔軟性が明かされた」とは、柔軟でないものには厚みと繊細さを持たせることができないためであり、長さと薄さも同様に理解されるべきである。
291. **‘‘Atthacarakenā’’**ti iminā byatirekamukhena anatthacarakataṃyeva vibhāveti. Na aññatrāti na aññasmiṃ sugatiyanti attho. Upanetvā upanetvāti taṃ taṃ dosaṃ upanetvā upanetvā, tenāha **‘‘suṭṭhudāsādibhāvaṃ āropetvā’’**ti. Pātesīti pavaṭṭanavasena pātesi.
291. 「**利益をもたらす者によって(Atthacarakenā)**」とは、これによって反対の観点から「不利益をもたらす者であること」を明らかにしている。「他の場所ではなく(Na aññatra)」とは、他の善趣においてではないという意味である。「引き合いに出して(Upanetvā upanetvā)」とは、その時々の過失を次々に引き合いに出してであり、それゆえに「**完全に奴隷などの身分に貶めて(suṭṭhudāsādibhāvaṃ āropetvā)**」と言われた。「投げ落とした(Pātesī)」とは、転落させることによって投げ落としたということである。
Pokkharasātibuddhūpasaṅkamanavaṇṇanā
ポッカラサーティが仏のもとを訪れる説示の註釈
293-6. Āgamā nūti āgato nu. Khoti nipātamattaṃ. Idhāti ettha, tumhākaṃ santikanti attho. Adhivāsetūti sādiyatu, taṃ pana sādiyanaṃ manasā sampaṭiggaho hotīti āha **‘‘sampaṭicchatū’’**ti.
293-6. 「来たのか(Āgamā nu)」とは、やって来たのか。「実に(Kho)」とは、単なる不変化詞。「ここへ(Idha)」とは、ここに、あなた方のもとへという意味である。「受け入れてほしい(Adhivāsetu)」とは、受諾してほしいということであり、その受諾とは心による受納であるため、「**受け取ってほしい(sampaṭicchatū)**」と言われた。
297. Yāvadatthanti yāva attho, tāva bhojanena tadā katanti attho. Oṇittanti āmisāpanayanena sucikataṃ, tenāha **‘‘hatthe ca pattañca dhovitvā’’**ti.
297. 「望むだけ(Yāvadatthaṃ)」とは、用が足りるだけの食事によってその時満たされたという意味である。「手を清め(Oṇittaṃ)」とは、食物の汚れを取り除くことで清浄にされたことであり、それゆえに「**手と鉢を洗って(hatthe ca pattañca dhovitvā)**」と言われた。
298. Anupubbiṃ kathanti anupubbaṃ kathetabbakathaṃ, tenāha **‘‘anupaṭipāṭikatha’’**nti. Kā pana sā? Dānādikathāti āha **‘‘dānānantaraṃ sīla’’**ntiādi. Tena dānakathā tāva pacurajanesupi pavattiyā sabbasādhāraṇattā, sukarattā, sīle patiṭṭhānassa upāyabhāvato ca ādito kathetabbā. Pariccāgasīlo hi puggalo pariggahitavatthūsu nissaṅgabhāvato sukheneva sīlāni samādiyati, tattha ca suppatiṭṭhito hoti. Sīlena dāyakapaṭiggāhakasuddhito parānuggahaṃ vatvā parapīḷānivattivacanato, kiriyadhammaṃ vatvā akiriyadhammavacanato, bhogasampattihetuṃ vatvā bhavasampattihetuvacanato ca dānakathānantaraṃ sīlakathā kathetabbā, tañce dānasīlaṃ vaṭṭanissitaṃ, ayaṃ bhavasampatti tassa phalanti dassanatthaṃ imehi ca dānasīlamayehi paṇītapaṇītatarādibhedabhinnehi puññakiriyavatthūhi etā cātumahārājikādīsu paṇītapaṇītatarādibhedabhinnā aparimeyyā dibbabhogasampattiyo laddhabbāti dassanatthaṃ tadanantaraṃ saggakathā. Svāyaṃ saggo rāgādīhi upakkiliṭṭho, sabbathānupakkiliṭṭho ariyamaggoti dassanatthaṃ saggānantaraṃ maggo kathetabbo. Maggañca kathentena tadadhigamupāyasandassanatthaṃ saggapariyāpannāpi, pageva itare sabbepi kāmā nāma bahvādīnavā aniccā addhuvā vipariṇāmadhammāti kāmānaṃ ādīnavo, hīnā gammā pothujjanikā anariyā anatthasañhitāti tesaṃ okāro lāmakabhāvo, sabbepi bhavā kilesānaṃ vatthubhūtāti tattha saṃkileso, sabbasaṃkilesavippamuttaṃ nibbānanti nekkhamme ānisaṃso ca kathetabboti ayamattho bodhitoti veditabbo. Maggoti cettha iti-saddena ādiatthadīpanato ‘‘kāmānaṃ ādīnavo’’ti evamādīnaṃ saṅgahoti evamayaṃ atthavaṇṇanā katāti veditabbā. ‘‘Tassa uppattiākāradassanattha’’nti kasmā vuttaṃ, nanu maggañāṇaṃ asaṅkhatadhammārammaṇaṃ, na saṅkhatadhammārammaṇanti codanaṃ sandhāyāha **‘‘tañhī’’**tiādi. Tattha paṭivijjhantanti asammohapaṭivedhavasena paṭivijjhantaṃ, tenāha **‘‘kiccavasenā’’**ti.
298. 「順序だった説示(Anupubbiṃ kathaṃ)」とは、順を追って説かれるべき説法のことであり、それゆえに「**順序に従った説示(anupaṭipāṭikathaṃ)**」と言われた。ではそれはいかなるものか? 布施などの説示であるとして、「**布施の次に戒……(dānānantaraṃ sīlaṃ)**」などと言われた。そこで布施の説示は、まず一般の人々においても実践され、すべての人に共通であり、行いやすく、戒に確立するための手段となるため、最初に説かれるべきである。実に施しの性質を持つ人は、所有する事物に執着がないため、容易に戒を受持し、そこに堅固に確立するからである。戒によって施者と受者の清浄さから他者への恩恵を説き、他者を害することからの離脱を説き、実践すべき徳を説いて不作為の徳を説き、財産の成就の原因を説いて生存の成就の原因を説くことから、布施の説示の次に戒の説示が説かれるべきである。そしてもしその布施と戒が輪廻に依存するものであるなら、この天界の成就がその果報であると示すために、またこれら布施と戒からなる種々の上乗な功徳の行為によって、四大王天などに属する種々の上乗で計り知れない天界の富の成就が得られるべきであることを示すために、その次に「天界の説示」がある。この天界は貪欲などに汚されており、聖なる道(八正道)こそが完全に汚れのないものであると示すために、天界の説示の次に「道(聖道)」が説かれるべきである。そして道を説くにあたり、その獲得のための手段を明示するために、天界に属する諸々の欲望であっても、ましてやそれ以外の欲望は言うまでもなく、すべての欲望は多くの過患があり、無常で、不安定で、変壊する性質のものであるという「諸欲の過患」を説き、それらは劣悪で、卑俗で、凡夫のもので、高貴でなく、無益であるという「諸欲の卑賤さ」を説き、すべての生存は煩悩の根拠となるという「生存の汚濁」を説き、すべての汚濁から完全に解脱したものが涅槃であるという「出離の功徳」が説かれるべきである、というこの意味が教示されたと知るべきである。ここで「道」という語における「〜など」という言葉によって初めの意味を示すことから、「諸欲の過患」などの包摂があると、このようにこの註釈がなされたと知るべきである。「その生起の様態を示すため」となぜ言われたのか、道智は無為の法を対象とするものであり、有為の法を対象とするものではないではないか、という詰問を念頭に置いて「**実にそれ(道智)は〜(tañhī)**」などと言われた。そこにおいて「通達する(paṭivijjhantaṃ)」とは、無迷の通達によって通達することであり、それゆえに「**作用によって(kiccavasenā)**」と言われた。
Pokkharasātiupāsakattapaṭivedanākathāvaṇṇanā
ポッカラサーティの在家信者としての宣言の説示の註釈
299. Ettha ca **‘‘diṭṭhadhammo’’**tiādi pāḷiyaṃ dassanaṃ nāma ñāṇadassanato aññampi atthi, tannivattanatthaṃ ‘‘pattadhammo’’ti vuttaṃ. Patti ca ñāṇasampattito aññampi vijjatīti tato visesadassanatthaṃ ‘‘viditadhammo’’ti vuttaṃ. Sā panesā viditadhammatā ekadesatopi hotīti nippadesato viditabhāvaṃ dassetuṃ ‘‘pariyogāḷhadhammo’’ti vuttaṃ. Tenassa saccābhisambodhaṃyeva dīpeti. Maggañāṇañhi ekābhisamayavasena pariññādikiccaṃ sādhentaṃ nippadesena catusaccadhammaṃ samantato ogāḷhaṃ nāma hoti, tenāha **‘‘diṭṭho ariyasaccadhammo etenāti diṭṭhadhammo’’**ti. Tiṇṇā vicikicchāti sappaṭibhayakantārasadisā soḷasavatthukā, aṭṭhavatthukā ca tiṇṇā vitiṇṇā vicikicchā. Vigatā kathaṅkathāti pavattiādīsu. ‘‘Evaṃ nu kho, na nu kho’’ti evaṃ pavattikā vigatā samucchinnā kathaṅkathā. Vesārajjappattoti sārajjakarānaṃ pāpadhammānaṃ pahīnattā, tappaṭipakkhesu ca sīlādiguṇesu suppatiṭṭhitattā vesārajjaṃ visāradabhāvaṃ veyyattiyaṃ patto adhigato. Sāyaṃ vesārajjappatti suppatiṭṭhitabhāvoti katvā āha **‘‘satthusāsane’’**ti. Attanā paccakkhato diṭṭhattā adhigatattā na paraṃ pacceti, na tassa paro paccetabbo atthīti aparappaccayo. Yaṃ panettha vattabbaṃ avuttaṃ, taṃ parato āgamissati. Sesaṃ suviññeyyameva.
299. そしてここにおいて、「**法を見た者(diṭṭhadhammo)**」などについて、聖典における「見ること」とは智見以外のものもあるため、それを除外するために「法に達した者(pattadhammo)」と言われた。また「到達」は知恵の成就以外のものも存在するため、それとの差異を示すために「法を知った者(viditadhammo)」と言われた。さらにその法を知った状態は一部分であることもあるため、余すところなく知った状態を示すために「法を究めた者(pariyogāḷhadhammo)」と言われた。それによって彼の四諦の現観を示している。実に道智は一刹那の現観によって遍知などの作用を果たしつつ、余すところなく四聖諦の法に完全に分け入ったものとなるからであり、それゆえに「**聖諦の法がこれによって見られたので『法を見た者』という(diṭṭho ariyasaccadhammo etenāti diṭṭhadhammo)**」と言われた。「疑惑を乗り越えた(Tiṇṇā vicikicchā)」とは、危険な荒野に似た十六の事柄に関する疑惑、および八つの事柄に関する疑惑を乗り越え、完全に超克したということである。「疑問が消え去った(Vigatā kathaṅkathā)」とは、輪廻の展開などにおいて「このようであろうか、そうではないのだろうか」というように生起する疑問が消滅し、断たれたということである。「無畏に達した(Vesārajjappatto)」とは、臆病をもたらす悪法が断ぜられたことにより、それと対立する戒などの徳に堅固に確立したことによって、無畏、すなわち確信に満ちた状態、明晰さに到達し、獲得したということである。この無畏への到達とは堅固に確立した状態であることから、「**師の教えにおいて(satthusāsane)**」と言われた。自ら直接に見て体得したことによって他者を頼みとせず、彼にとって他者に依拠すべきことがないため「他者に依らない者(aparappaccayo)」という。ここにおいて語られるべきことで未だ語られていないことは、後に現れるであろう。残りは容易に理解できることである。
Ambaṭṭhasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā.
アンバッタ経の註釈における隠れた意味の解明(復註)が終了した。