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4. Soṇadaṇḍasuttavaṇṇanā4. ソーナダンダ経の註釈

300. Sundarabhāvena sātisayāni aṅgāni etesaṃ atthīti aṅgā, rājakumārāti āha **‘‘aṅgā nāma aṅgapāsādikatāyā’’**tiādi. Idhāpi adhippetā, na ambaṭṭhasutte eva. Āgantuṃ na dassantīti āgamane ādīnavaṃ dassetvā paṭikkhipanavasena āgantuṃ na dassanti, nānujānissantīti adhippāyo. Nīlāsokakaṇikārakoviḷārakundarājarukkhehi sammissatāya taṃ campakavanaṃ **‘‘nīlādipañcavaṇṇakusumapaṭimaṇḍita’’**nti daṭṭhabbaṃ. Na campakarukkhānaṃyeva nīlādipañcakusumatāyāti vadanti. **‘‘Bhagavā kusumagandhasugandhe campakavane viharatī’’**ti iminā na māpanakāle eva tasmiṃ nagare campakarukkhā ussannā, atha kho aparabhāge pīti dasseti. Māpanakāle hi campakānaṃ ussannatāya sā nagarī ‘‘campā’’ti nāmaṃ labhi. Issarattāti adhipatibhāvato. Senā etassa atthīti seniko, seniko eva seniyo, atthitā cettha bahubhāvavisiṭṭhāti vuttaṃ **‘‘mahatiyā senāya samannāgatattā’’**ti.

300. 美しさによって優れた身体の部位(相好)を彼らが持っていることから「アンガ(Angā)」といい、王子たちのことであるとして「**アンガとは身体の美しさによって……(aṅgā nāma aṅgapāsādikatāyā)**」などと言われた。ここ(ソーナダンダ経)においても意図されているのであり、アンバッタ経のみにおいてではない。「来ることを許さない(Āgantuṃ na dassanti)」とは、来訪における過失を示して拒絶することによって来訪を許さない、認めることはないであろう、というのが趣意である。青アショカ、カニカーラ、コヴィラーラ、クンダ、ラージャルッカの木々が混在していることから、そのチャンパカの森は「**青などの五色の花で飾られた(nīlādipañcavaṇṇakusumapaṭimaṇḍitaṃ)**」と見なされるべきである。チャンパカの木そのものが青などの五色の花をつけるからではない、と(諸師は)言う。「**世尊は花の香気に満ちたチャンパカの森に住まわれる**」というこれによって、都市の建設時にのみその都市にチャンパカの木が繁茂していたのではなく、その後の時代においてもそうであったことを示している。建設時にチャンパカの木が繁茂していたことから、その都市は「チャンパー」という名を得たのである。「統治者であることから(Issarattā)」とは、支配者の状態であることから。「軍隊(senā)を彼が持っている」ことからセーニカ(seniko)といい、セーニカそのものをセーニヤ(seniyo)という。ここでの「所持」とは多数を備えていることにおいて卓越しているため、「**大軍を具備していることから(mahatiyā senāya samannāgatattā)**」と言われた。

301-2. Saṃhatāti sannipatitā, ‘‘saṅghino’’ti vattabbe **‘‘saṅghī’’**ti puthutthe ekavacanaṃ brāhmaṇagahapatikānaṃ adhippetattā, tenāha **‘‘etesa’’**nti. Rājarājaññādīnaṃ bhaṇḍadharā purisā khatā, nesaṃ tāyanato khattā. So hi yehi yattha pesito, tattha tesaṃ dosaṃ pariharanto yuttapattavasena pucchitamatthaṃ katheti, tenāha **‘‘pucchitapañhe byākaraṇasamattho’’**ti. Kulāpadesādinā mahatī mattā etassāti mahāmatto.

301-2. 「集まった(Saṃhatā)」とは、結集した。「集団を持つ者たち(saṅghino)」と言うべきところで「**集団を持つ者(saṅghī)**」と複数義に単数形が用いられているのは、バラモンや資産家たちを意図しているためであり、それゆえに「**彼らの(etesaṃ)**」と言われた。王や王族などの荷物(職務)を保持する人びとを「クシャットリヤ(khatā)」といい、彼らを守護することから「執事・侍従(khattā)」という。実に彼は、誰によってどこへ派遣されようとも、そこにおいて彼らの落ち度を防ぎつつ、道理に適った形で尋ねられた事柄を語るため、「**尋ねられた問いに答える能力のある者(pucchitapañhe byākaraṇasamattho)**」と言われた。家柄の呼称などによって大きな分量を備えていることから「大臣(mahāmatto)」という。

Soṇadaṇḍaguṇakathāvaṇṇanā

ソーナダンダの徳の説示の註釈

303. Visiṭṭhaṃ rajjaṃ virajjaṃ, virajjameva verajjaṃ yathā ‘‘vekataṃ vesaya’’nti, nānāvidhaṃ verajjaṃ nānāverajjaṃ, tattha jātātiādinā sabbaṃ vuttanayeneva veditabbaṃ. Uttamabrāhmaṇoti abhijanasampattiyā vittasampattiyā vijjāsampattiyā uggatataro, uḷāro vā brāhmaṇo. Asannipātoti lābhamaccharena nippīḷitatāya asannipāto viya bhavissati.

303. 優れた領地をヴィラッジャ(virajjaṃ)といい、「ヴェーカタ(vekataṃ)」や「ヴェーサヤ(vesayaṃ)」のようにヴィラッジャそのものをヴェーラッジャ(verajjaṃ)という。種々の異なる領地を「種々の異国(nānāverajjaṃ)」といい、そこに生じた者たちなどについては、すべて既に述べられた方法に従って理解されるべきである。「最上のバラモン(Uttamabrāhmaṇo)」とは、門地の成就、富の成就、学識の成就によって極めて高位にある、あるいは気品あるバラモンのことである。「会合がないかのように(Asannipāto)」とは、利得への執着によって苦しめられているために、まるで会合がないかのようになるであろう。

‘‘Aṅgeti gameti ñāpetīti aṅgaṃ, hetūti āha **‘‘imināpi kāraṇenā’’**ti. ‘‘Ubhato sujāto’’ti ettake vutte yehi kehici dvīhi bhāgehi sujātatā viññāyeyya. Sujāta-saddo ca ‘‘sujāto cārudassano’’tiādīsu (theragā. 818) ārohasampattipariyāyoti jātivaseneva sujātataṃ vibhāvetuṃ **‘‘mātito ca pitito cā’’**ti vuttaṃ. Anorasaputtavasenāpi loke mātupitusamaññā dissati, idha panassa orasaputtavaseneva icchitāti dassetuṃ **‘‘saṃsuddhagahaṇiko’’**ti vuttaṃ. Gabbhaṃ gaṇhāti dhāretīti gahaṇī, gabbhāsayasaññito mātukucchippadeso. Yathābhuttassa āhārassa vipācanavasena gaṇhanato achaḍḍanato gahaṇī, kammajatejodhātu.

「支分(aṅgaṃ)」とは、到達させ、知らせるものであるから「支分(原因・要素)」であるとして、「**この理由によっても(imināpi kāraṇenā)**」と言われた。「双方から良き生まれである」とこれだけ言われた場合、何らかの二つの系統から良き生まれであることが理解されるかもしれない。また「良き生まれ(sujāta)」という語は、「美しく生まれ、見目麗しい」などの用例では容姿の端正さの同義語であるため、血統によってのみ良き生まれであることを明かすために「**母方からも父方からも(mātito ca pitito cā)**」と言われた。実の息子でない場合であっても世間では父母という呼称が見られるが、ここでは実の息子であることによってのみ望まれることを示すために「**胎門が清浄であり(saṃsuddhagahaṇiko)**」と言われた。胎児を受け入れ、保持するから「胎門(gahaṇī)」といい、子宮と呼ばれる母胎の場所のことである。摂取された食物を消化することによって保持し、吐き出さないことから「消化器官(gahaṇī)」ともいい、業から生じた火の元素のことである。

Pitā ca mātā ca pitaro, pitūnaṃ pitaro pitāmahā, tesaṃ yugo dvando pitāmahayugo, tasmā, yāva sattamā pitāmahayugā pitāmahadvandāti evamettha attho daṭṭhabbo. Evañhi pitāmahaggahaṇeneva mātāmahopi gahitoti. So aṭṭhakathāyaṃ visuṃ na uddhaṭo. Yuga-saddo cettha ekasesanayena daṭṭhabbo ‘‘yugo ca yugo ca yugā’’ti. Evañhi tattha tattha dvandaṃ gahitameva hoti, tenāha **‘‘tato uddhaṃ sabbepi pubbapurisā pitāmahaggahaṇeneva gahitā’’**ti. Purisaggahaṇañcettha ukkaṭṭhaniddesavasena katanti daṭṭhabbaṃ. Evañhi ‘‘mātito’’ti pāḷivacanaṃ samatthitaṃ hoti. Akkhittoti appattakhepo. Anavakkhittoti saddhathālipākādīsu na avakkhitto na chaḍḍito. Jātivādenāti hetumhi karaṇavacananti dassetuṃ **‘‘kena kāraṇenā’’**tiādi vuttaṃ. Ettha ca **‘‘ubhato…pe… pitāmahayugā’’**ti etena brāhmaṇassa yonidosābhāvo dassito saṃsuddhagahaṇikabhāvakittanato, **‘‘akkhitto’’**ti iminā kiriyāparādhābhāvo. Kiriyāparādhena hi sattā khepaṃ pāpuṇanti. **‘‘Anupakkuṭṭho’’**ti iminā ayuttasaṃsaggābhāvo. Ayuttasaṃsaggampi hi paṭicca sattā akkosaṃ labhanti.

父と母を「父母(pitaro)」といい、父たちの父を「祖父たち(pitāmahā)」という。それらの対(ペア)を「祖父母の対」といい、それゆえに「七代の祖父母の対に至るまで」とは、祖父母の七組の対に至るまで、とこのようにここでの意味は理解されるべきである。このように「祖父」という言葉の取得によって母方の祖父もまた含まれている。それは註釈において別個に取り上げられてはいない。またここでの「対(yuga)」という語は、「一つの対ともう一つの対で、諸々の対」という単一残余の法則によって見なされるべきである。このようにしてその時々の対がまさに含まれているのであり、それゆえに「**それより上のすべての先祖たちも『祖父』という語の把握によって包摂されている(tato uddhaṃ sabbepi pubbapurisā pitāmahaggahaṇeneva gahitā)**」と言われた。そしてここでの「先祖(purisa)」という語の把握は、代表的な例示としてなされたと見なされるべきである。このようにしてこそ「母方からも」という聖典の言葉が成立するからである。「非難されず(Akkhitto)」とは、非難を受けていないこと。「軽蔑されず(Anavakkhitto)」とは、祖霊祭の供物用の煮炊きものなどにおいて排除されず、捨て去られていないこと。「生まれの論争によって(Jātivādena)」とは、原因における具格表現であることを示すために「**いかなる理由によって(kena kāraṇenā)**」などと言われた。そしてここにおいて、「**双方から……(中略)……祖父母の対に至るまで**」というこれによって、胎門が清浄であることの称賛からバラモンの母胎の過失のないことが示され、「**非難されず(akkhitto)**」によって行為上の過失のないことが示されている。行為上の過失によって衆生は非難を受けるからである。「**誹謗されず(anupakkuṭṭho)**」によって、不適切な交わりのないことが示されている。不適切な交わりによっても衆生は悪口を受けるからである。

Issaroti ādhipateyyasaṃvattaniyakammabalena īsanasīlo, sā panassa issaratā vibhavasampattipaccayā pākaṭā jātāti aḍḍhatāpariyāyabhāveneva vadanto **‘‘aḍḍhoti issaro’’**ti āha. Mahantaṃ dhanaṃ assa bhūmigatañceva vehāsaṭṭhañcāti mahaddhano. Tassāti tassa tassa. Vadanti ‘‘anvayato, byatirekato ca anupasaṅkamanakāraṇaṃ kittemā’’ti.

「主権者(Issaro)」とは、支配をもたらす業の力によって統治する性質の者であり、その主権者であることは富の成就という条件によって公になったものであるため、富裕であることの同義語として語りつつ「**富裕とは主権者である(aḍḍhoti issaro)**」と言われた。彼には地中および空中に莫大な財産があることから「大富豪(mahaddhano)」という。「彼の(Tassa)」とは、それぞれの人の。「順次と逆次の観点から、訪れるべきでない理由を語ろう」と彼らは言う。

Adhikarūpoti visiṭṭharūpo uttamasarīro. Dassanaṃ arahatīti dassanīyo, tenāha **‘‘dassanayoggo’’**ti. Pasādaṃ āvahatīti pāsādiko, tenāha **‘‘cittappasādajananato’’**ti. Vaṇṇassāti vaṇṇadhātuyā. Sarīranti sannivesavisiṭṭhaṃ karacaraṇagīvāsīsādiavayavasamudāyaṃ, so ca saṇṭhānamukhena gayhatīti **‘‘paramāya vaṇṇapokkharatāyāti…pe… sampattiyā cā’’**ti vuttaṃ. Sabbavaṇṇesu suvaṇṇavaṇṇova uttamoti vuttaṃ **‘‘seṭṭhena suvaṇṇavaṇṇena samannāgato’’**ti. Tathā hi buddhā, cakkavattino ca suvaṇṇavaṇṇāva honti. Brahmavacchasīti uttamasarīrābho, suvaṇṇābho icceva attho. Imameva hi atthaṃ sandhāya **‘‘mahābrahmuno sarīrasadiseneva sarīrena samannāgato’’**ti vuttaṃ, na brahmujugattataṃ. Akhuddāvakāso dassanāyāti ārohapariṇāhasampattiyā, avayavapāripūriyā ca dassanāya okāso na khuddako, tenāha **‘‘sabbānevā’’**tiādi.

「優れた容姿を持つ者(Adhikarūpo)」とは、卓越した容姿、最上の身体を持つ者。「見るに値する(Dassanaṃ arahati)」から「麗しい(dassanīyo)」といい、それゆえに「**見るにふさわしい(dassanayoggo)**」と言われた。「清らかな信敬をもたらす(Pasādaṃ āvahati)」から「尊容ある(pāsādiko)」といい、それゆえに「**心の清らかな信敬を生じさせることから(cittappasādajananato)**」と言われた。「肌の色の(Vaṇṇassa)」とは、色の要素の。「身体(Sarīraṃ)」とは、見事な配置を持つ手足、首、頭などの部分の集まりであり、それは形態を通して捉えられるため「**極上の容色と美貌によって……(中略)……また成就によって(paramāya vaṇṇapokkharatāyāti…pe… sampattiyā cā)**」と言われた。すべての肌の色の中で黄金色こそが最上であることから、「**最上の黄金の肌の色を具備している(seṭṭhena suvaṇṇavaṇṇena samannāgato)**」と言われた。実に仏たちや転輪王たちはまさに黄金色の肌をしているからである。「梵天の如き威容を持つ(Brahmavacchasī)」とは、最上の身体の輝きを持つ者、黄金の輝きを持つ者という意味にほかならない。まさにこの意味を念頭に置いて「**大梵天の身体に似た身体を具備している(mahābrahmuno sarīrasadiseneva sarīrena samannāgato)**」と言われたのであり、梵天のように直立した体つきのことではない。「見るのに狭苦しくない(Akhuddāvakāso dassanāya)」とは、均整のとれた身長と周囲の成就、および各部位の完全さによって、見るための空間が狭小ではないということであり、それゆえに「**すべてにおいて〜(sabbānevā)**」などと言われた。

Yamaniyamalakkhaṇaṃ sīlamassa atthīti sīlavā. Taṃ panassa rattaññutāya vuddhaṃ vaḍḍhitaṃ atthīti vuddhasīlī. Tena ca sabbadā sammāyogato vuddhasīlena samannāgato. Sabbametaṃ pañcasīlamattameva sandhāya vadanti tato paraṃ sīlassa tattha abhāvato, tesañca ajānanato.

禁戒と規律を特徴とする戒を彼が持っていることから「有戒者(sīlavā)」という。そしてそれが彼の長年の経験によって増大し、発展していることから「増大した戒を持つ者(vuddhasīlī)」という。そしてそれによって常に正しく励んでいることから「増大した戒を具備した者」である。これらすべては五戒の程度のみを念頭に置いて語られているのであり、それ以上の戒は彼ら(バラモン)には存在せず、彼らも知るところではないからである。

Ṭhānakaraṇasampattiyā, sikkhāsampattiyā ca katthacipi anūnatāya parimaṇḍalapadāni byañjanāni akkharāni etissāti parimaṇḍalapadabyañjanā. Atha vā pajjati attho etenāti padaṃ, nāmādi. Yathādhippetamatthaṃ byañjetīti byañjanaṃ, vākyaṃ. Tesaṃ paripuṇṇatāya parimaṇḍalapadabyañjanā. Atthañāpane sādhanatāya vācāva karaṇanti vākkaraṇaṃ, udāhāraghoso. Guṇaparipuṇṇabhāvena tassa brāhmaṇassa, tena vā bhāsitabbaatthassa. Pūre puṇṇabhāve. Pūreti ca purimasmiṃ atthe ādhāre bhummaṃ, dutiyasmiṃ visaye. **‘‘Sukhumālattanenā’’**ti iminā tassā vācāya mudusaṇhabhāvamāha. Apalibuddhāya pittasemhādīhi. Sandiṭṭhaṃ sabbaṃ dassetvā viya ekadesaṃ kathanaṃ. Vilambitaṃ saṇikaṃ cirāyitvā kathanaṃ. ‘‘Sandiddhavilambitādī’’ti vā pāṭho. Tattha sandiddhaṃ sandehajanakaṃ. Ādi-saddena dukkhalitānukaḍḍhitādiṃ saṅgaṇhāti. **‘‘Ādimajjhapariyosānaṃ pākaṭaṃ katvā’’**ti iminā tassā vācāya atthapāripūriṃ vadanti.

調音の場所や器官の完全さ、そして学習の完全さによってどこにも欠けるところがなく、整った語句と音節と文字を持つことから「円満な語句と音節を持つ(parimaṇḍalapadabyañjanā)」という。あるいは、意味がこれによって到達される(知られる)から「語(padaṃ)」といい、名詞などのことである。意図された意味を明示するから「表現(byañjanaṃ)」といい、文章のことである。それらが完全であることから「円満な語句と音節を持つ」という。意味を知らせる手段として言葉そのものが器官(表現手段)であることから「発言(vākkaraṇaṃ)」といい、発声の音声のことである。徳が満ち足りた状態であることによってそのバラモンの、あるいは彼によって語られるべき意味の。「満ちていることにおいて(Pūre)」とは、充満している状態において。「満ちていることにおいて(pūre)」という語は、前者の意味においては受納の場所としての処格であり、後者の意味においては対象としての処格である。「**優美さによって(Sukhumālattanenā)**」というこれによって、その言葉の柔軟で滑らかな状態を語っている。「胆汁や痰などによって妨げられない(Apalibuddhāya)」こと。「つなぎ合わされた(Sandiṭṭhaṃ)」とは、全体を示しながらも一部分だけを語るかのようであること。「遅延した(Vilambitaṃ)」とは、ゆっくりと時間をかけて語ることである。あるいは「疑惑と遅延など(sandiddhavilambitādi)」という読みもある。そこにおいて「疑惑のある(sandiddhaṃ)」とは、疑念を生じさせること。「〜など」という言葉によって、つまずいて発音することや引き延ばすことなどを包摂する。「**始めと中間と終わりを明瞭にして(Ādimajjhapariyosānaṃ pākaṭaṃ katvā)**」というこれによって、その言葉の意味の完全さを語っている。

**‘‘Jiṇṇo’’**tiādīni padāni suviññeyyāni, heṭṭhā vuttatthāni ca. Dutiyanaye pana jiṇṇoti nāyaṃ jiṇṇatā vayomattena, atha kho kulaparivaṭṭena purāṇatāti āha **‘‘jiṇṇoti porāṇo’’**tiādi, tena tassa brāhmaṇassa kulavasena uditoditabhāvamāha. Jātivuddhiyā ‘‘vayoanuppatto’’ti vakkhamānattā, guṇavuddhiyā tato sātisayattā ca **‘‘vuddhoti sīlācārādiguṇavuddhiyā yutto’’**ti āha. Tathā jātimahallakatāya vakkhamānattā **‘‘mahallako’’**ti padena vibhavamahattatā yojitā. Maggapaṭipannoti brāhmaṇānaṃ paṭipattivīthiṃ upagato taṃ avokkamma caraṇato. Antimavayanti pacchimavayaṃ.

「**老いた(Jiṇṇo)**」などの語は容易に理解できるものであり、前に述べられた通りの意味である。しかし第二の解釈においては、「老いた」とは単に年齢だけによる老いではなく、家系の継承による古さであるとして「**老いたとは古代からの(jiṇṇoti porāṇo)**」などと言われ、これによってそのバラモンが家柄の面で代々栄えてきた状態を語っている。生まれの加齢によって「高齢に達した」と後に言われることになるため、徳の成熟によってそれ以上に優れていることから「**長老とは、戒律や所作などの徳の成熟を具備した者(vuddhoti sīlācārādiguṇavuddhiyā yutto)**」と言われた。同様に、年齢の高齢化について後に語られることから、「**年老いた(mahallako)**」という語によって富の偉大さが結びつけられている。「道を歩む者(Maggapaṭipanno)」とは、バラモンたちの実践の道に入り、そこから逸脱することなく歩むことによる。「最後の年齢(Antimavayaṃ)」とは、晩年のことである。

Buddhaguṇakathāvaṇṇanā

仏の徳の説示の註釈

304. Tādisehi mahānubhāvehi saddhiṃ yugaggāhavasenapi dahanaṃ na mādisānaṃ anucchavikaṃ, kuto pana ukkaṃsananti idaṃ brāhmaṇassa na yuttarūpanti dassento āha **‘‘na kho pana metaṃ yutta’’**ntiādi. Sadisāti ekadesena sadisā. Na hi buddhānaṃ guṇehi sabbathā sadisā kecipi guṇā aññesu labbhanti. Itareti attano guṇehi asadisaguṇe. Idanti idaṃ atthajātaṃ. Gopadakanti gāviyā pade ṭhitaudakaṃ.

304. そのような絶大な威力を持つ方々とともに匹敵するものとして肩を並べることすら私のような者には相応しくないのに、まして自らを高めることなどどうしてできようか、これはバラモンにとって適切ではないと示すために「**実に私にとってこれは適切ではない……(na kho pana metaṃ yuttaṃ)**」などと言われた。「類似した(Sadisā)」とは、一部分において類似したということである。仏たちの徳と完全に類似した徳など、いかなる他者にも見出されることはないからである。「他の者たち(Itare)」とは、自らの徳とは類似しない徳を持つ者たちのことである。「この事柄(Idaṃ)」とは、この生起した事柄。「牛の足跡の水(Gopadakaṃ)」とは、牛の足跡に溜まった水のことである。

Saṭṭhikulasatasahassanti saṭṭhisahassādhikaṃ kulasatasahassaṃ kulapariyāyenāti suddhodanamahārājassa kulānukkamena āgataṃ. Tesupīti tesupi catūsu nidhīsu. Gahitagahitanti gahitaṃ gahitaṃ ṭhānaṃ pūratiyeva dhanena paṭipākatikameva hoti. Aparimāṇoyevāti ‘‘ettako eso’’ti kenaci paricchindituṃ asakkuṇeyyatāya aparicchinno eva.

「十六万の家(Saṭṭhikulasatasahassaṃ)」とは、六万余る十万の家系(十六万家)のことであり、家柄の継承によってとは、スッドーダナ大王の家系の順序に従って伝わったものである。「それらにおいても(Tesupīti)」とは、それら四つの宝庫においても。「取られた場所(Gahitagahitaṃ)」とは、財宝が取り出されたその場所がまさに満たされ、元の状態に戻るということである。「実に無量である(Aparimāṇoyeva)」とは、「これほどの量である」と何人にも限定することができないため、限定されないということである。

Tatthāti mañcake. Sīhaseyyaṃ kappesīti yathā rāhu asurindo āyāmato, vitthārato ubbedhato ca bhagavato rūpakāyassa paricchedaṃ gahetuṃ na sakkoti, tathā rūpaṃ iddhābhisaṅkhāraṃ abhisaṅkharonto sīhaseyyaṃ kappesi.

「そこにおいて(Tatthā)」とは、寝台において。「獅子の臥法をとられた(Sīhaseyyaṃ kappesī)」とは、阿修羅王ラーフが縦・横・高さにおいて世尊の色身の限界を捉えることができないように、そのような姿の神通力を現じて獅子の臥法をとられた。

Kilesehi ārakattā parisuddhaṭṭhena ariyanti āha **‘‘ariyaṃ uttamaṃ parisuddha’’**nti. Anavajjaṭṭhena kusalaṃ, na sukhavipākaṭṭhena. Katthaci caturāsītipāṇasahassāni, katthaci aparimāṇāpi devamanussā yasmā catuvīsatiyā ṭhānesu asaṅkhyeyyā aparimeyyā devamanussā maggaphalāmataṃ piviṃsu, koṭisatasahassādiparimāṇenapi bahū eva, tasmā anuttarācārasikkhāpanavasena bhagavā bahūnaṃ ācariyo. Teti kāmarāgato aññe bhagavato pahīnakilese. Keḷanāti keḷāyanā dhanāyanā.

煩悩から遠く離れていることによる清浄という意味で「聖なる者(ariya)」であるとして、「**聖なる、最上の、清浄な(ariyaṃ uttamaṃ parisuddhaṃ)**」と言われた。過失のないという意味での「善(kusala)」であり、楽の報いをもたらすという意味ではない。ある場所では八万四千の、ある場所では無量の天人たちが、二十四の機会において無数・無量の天人たちが道果の不死の甘露を飲んだのであり、百千億などの数量によっても実に多数であるため、無上の行儀を教導することによって世尊は多くの者たちの師となられたのである。「それら(Te)」とは、貪愛以外の世尊の断ぜられた煩悩のことである。「愛玩(Keḷanā)」とは、愛着し、財産として執着することである。

Apāpapurekkhāroti apāpe pure karoti, na vā pāpaṃ purato karotītipi apāpapurekkhāroti imamatthaṃ dassetuṃ **‘‘apāpe navalokuttaradhamme’’**tiādi vuttaṃ. Tattha apāpeti pāpapaṭipakkhe, pāparahite ca. Brahmani seṭṭhe buddhe bhagavati bhavā tassa dhammadesanāvasena ariyāya jātiyā jātattā, brahmuno vā bhagavato hitā garukaraṇādinā, yathānusiṭṭhapaṭipattiyā ca, brahmaṃ vā seṭṭhaṃ ariyamaggaṃ jānātīti brahmaññā, ariyasāvakasaṅkhātā pajā, tenāha **‘‘sāriputtā’’**tiādi. Pakatibrāhmaṇajātivasenāpi ‘‘brahmaññāya pajāyā’’ti padassa attho veditabboti dassetuṃ **‘‘apicā’’**tiādi vuttaṃ.

「悪を優先しない者(Apāpapurekkhāro)」とは、悪ならざるものを優先する者、あるいは悪を前方に置かない者という意味でも「悪を優先しない者」であるとして、この意味を示すために「**悪ならざる九つの出世間法を……(apāpe navalokuttaradhamme)**」などと言われた。そこにおいて「悪ならざるもの(apāpe)」とは、悪と対立するもの、悪を離れたもののことである。最上なる梵天である仏・世尊から生じた者であり、その説法によって聖なる生まれとして生まれたことから、あるいは梵天である世尊のために敬重などによって、また教誡に従った実践によって尽くし、あるいは最上の聖道を知ることから「バラモンに親和的な民(brahmaññā pajā)」、すなわち聖弟子と呼ばれる衆生のことであるとし、それゆえに「**サーリプッタら……(sāriputtā)**」などと言われた。通常のバラモンの種族の観点によっても「バラモンに親和的な民のために」という句の意味は理解されるべきであると示すために「**さらにまた……(apicā)**」などと言われた。

Tiroraṭṭhā tirojanapadāti ettha rajjaṃ raṭṭhaṃ, rājanti rājāno etenāti, tadekadesabhūtā padesā pana **janapado,**janā pajjanti ettha sukhajīvikaṃ pāpuṇantīti. Pucchāya vā dosaṃ sallakkhetvāti sambandho. Asamatthatanti attano asamatthataṃ. Bhagavā vissajjeti tesaṃ upanissayasampattiṃ, ñāṇaparipākaṃ, cittācārañca ñatvāti adhippāyo.

「他国の、他地方の(Tiroraṭṭhā tirojanapadā)」において、領地を「国(raṭṭhaṃ)」といい、これによって王たちが統治する(rājanti)からであり、その一部分である地域を「地方(janapado)」といい、人々がここへ行き(pajjanti)、安楽な生活を得るからである。「問いにおける落ち度を観察して(Pucchāya vā dosaṃ sallakkhetvā)」とは、(前後の文脈との)関連である。「自らの無能力(Asamatthataṃ)」とは、自分自身の無能力のことである。世尊は彼らの素質の成就、知恵の成熟、そして心のあり方を知って答えられる、というのが趣意である。

‘‘Ehi **svāgatavādī’’**ti iminā sukhasambhāsapubbakaṃ piyavāditaṃ dasseti, **‘‘sakhilo’’**ti iminā saṇhavācataṃ, **‘‘sammodako’’**ti iminā paṭisandhārakusalataṃ, **‘‘abhākuṭiko’’**ti iminā sabbattheva vippasannamukhataṃ, **‘‘uttānamukho’’**ti iminā sukhālāpataṃ, **‘‘pubbabhāsī’’**ti iminā dhammānuggahassa okāsakaraṇato hitajjhāsayataṃ bhagavato vibhāveti.

「『さあ来なさい』と**歓迎の言葉を述べる者(svāgatavādī)**」というこれによって、心地よい対話を先立たせる親愛の言葉を語る者であることを示し、「**親しみやすい者(sakhilo)**」によって穏やかな言葉を語る者であることを示し、「**歓談する者(sammodako)**」によって心地よく迎え入れる巧みさを示し、「**眉をひそめない者(abhākuṭiko)**」によって常に澄んだ顔色であることを示し、「**開かれた顔の者(uttānamukho)**」によって語りかけやすさを示し、「**先に話しかける者(pubbabhāsī)**」によって法による救済の機会を作ることから、世尊の利他への意図を明らかにしている。

Yattha kirāti kira-saddo arucisūcanattho, tena bhagavatā adhivutthapadese na devatānubhāvena manussānaṃ anupaddavatā, atha kho buddhānubhāvenāti dasseti. Tenāha ‘‘apicā’’tiādi.

「〜という(Yattha kira)」において、「〜という(kira)」という語は不賛成(世説への異論)を示す意味であり、それによって世尊が滞在される地域において人間たちに災難がないのは、神々の威力によるのではなく、実に仏の威力によるのであると示している。それゆえに「さらにまた……」などと言われた。

Anusāsitabboti vineyyajanasamūho gayhatīti nibbattitaṃ ariyasaṅghameva dassetuṃ **‘‘sayaṃ vā’’**tiādi vuttaṃ, anantarassa vidhi paṭisedho vāti katvā. **‘‘Tādisovā’’**ti iminā ‘‘sayaṃ vā’’tiādinā vuttavikappo eva paccāmaṭṭhoti. ‘‘Purimapadasseva vā’’ti vikappantaraggahaṇaṃ. Bahūnaṃ titthakarānanti pūraṇādīnaṃ anekesaṃ titthakarānaṃ, niddhāraṇe cetaṃ sāmivacanaṃ. Kāraṇenāti appicchasantuṭṭhatādisamāropanalakkhaṇena kāraṇena. Āgantukā navakāti abhinavā āgantukā abbhāgatā. Pariyāpuṇāmīti paricchindituṃ jānāmi sakkomi, tenāha **‘‘jānāmī’’**ti. **‘‘Kappampi ce aññamabhāsamāno’’**ti abhūtaparikappanavacanametaṃ tathā bhāsamānassa abhāvato.

「教導されるべき(Anusāsitabbo)」とは、教化されるべき人々の集まりが捉えられるのであり、生み出された聖者たちの集いそのものを示すために「**自ら、あるいは……(sayaṃ vā)**」などと言われたのであって、直前の規定に対する代替案である。「**そのような者こそが(tādisovā)**」というこれによって、「自ら、あるいは……」などと述べられた選択肢そのものが指示されている。「あるいは前の句の」とは、別の解釈の提示である。「多くの教祖たちの(Bahūnaṃ titthakarānaṃ)」とは、プーラナら多くの異教の師たちのことであり、限定詞としての属格表現である。「理由によって(Kāraṇena)」とは、少欲知足などを具備しているという特徴を持つ理由によって。「新参の者たち(Āgantukā navakā)」とは、新しくやって来た訪問者たちのことである。「私は完全に学び知っている(Pariyāpuṇāmi)」とは、限界を見極めることを知っており、それができるということであり、それゆえに「**知っている(jānāmī)**」と言われた。「**たとえ一劫の間、他のことを語ることなく……(Kappampi ce aññamabhāsamāno)**」とは、事実ではない仮定の言葉であり、そのように語り続ける者は存在しないからである。

305. Alaṃ-saddo arahattopi hoti ‘‘alameva nibbinditu’’ntiādīsu (saṃ. ni. 1.124) viyāti āha **‘‘alamevāti yuttamevā’’**ti. Puṭena netvā asitabbato paribhuñjitabbato puṭosaṃ vuccati pātheyyaṃ. Puṭaṃsena purisena.

305. 「十分である(Alaṃ)」という語は、「実に厭離するに十分である」などの用例のように、適合・妥当の意味にもなるため、「**まさに十分であるとは、実に適切であるということ(alamevāti yuttamevā)**」と言われた。包みに入れて持参して食べられるべきもの、享受されるべきものであることから、弁当(旅の食糧)を「包み食(puṭosaṃ)」という。弁当を肩に掛けた人によって、ということである。

Soṇadaṇḍaparivitakkavaṇṇanā

ソーナダンダの思惑の説示の註釈

307. Ubhatopakkhikāti micchādiṭṭhisammādiṭṭhīnaṃ vasena ubhayapakkhikā. Kerāṭikāti saṭhā.

307. 「双方の陣営に属する者たち(Ubhatopakkhikā)」とは、邪見と正見の双方の立場に属する者たちのことである。「狡猾な者たち(Kerāṭikā)」とは、偽善者たちのことである。

Brāhmaṇapaññattivaṇṇanā

バラモンの規定の説示の註釈

309. Vighātanti cittadukkhaṃ.

309. 「困惑(Vighātaṃ)」とは、心の苦しみのことである。

311-3. Sujanti homadabbiṃ paggaṇhantesūti juhanatthaṃ gaṇhanakesu, irubbijjesūti attho. Paṭhamo vāti tattha sannipatitesu yajanakiriyāyaṃ sabbapadhāno vā. Dutiyo vāti tadanantaro vā. **‘‘Suja’’**nti karaṇe etaṃ upayogavacananti āha **‘‘sujāyā’’**ti. Aggihuttapamukhatāya yaññassa yaññe diyyamānaṃ sujāmukhena dīyatīti āha **‘‘sujāya diyyamāna’’**nti. Porāṇāti aṭṭhakathācariyā. Visesatoti vijjācaraṇavisesato, na brāhmaṇehi icchitavijjācaraṇamattato. Uttamabrāhmaṇassāti anuttaradakkhiṇeyyatāya ukkaṭṭhabrāhmaṇassa. Brāhmaṇasamayanti brāhmaṇasiddhantaṃ. Mā bhindi mā vināsesi.

311-3. 「柄杓(Sujaṃ)」とは、供犠の柄杓を捧げ持つ者たちにおいて、すなわち供養を行うために持つ者たちにおいて、リグ・ヴェーダの知を持つ者たちにおいてという意味である。「第一の者、あるいは(Paṭhamo vā)」とは、そこに集まった者たちの中で祭祀の行為において最も主要な者、あるいは。「第二の者、あるいは(Dutiyo vā)」とは、その次に位置する者、あるいは。「**柄杓を(sujaṃ)**」とは具格の意味における対格表現であり、それゆえに「**柄杓によって(sujāyā)**」と言われた。火の供養を筆頭とするがゆえに、祭祀において与えられるものは柄杓の口を通して与えられるため、「**柄杓によって与えられるもの(sujāya diyyamānaṃ)**」と言われた。「古人たち(Porāṇā)」とは、註釈書の師たちのことである。「卓越性によって(Visesato)」とは、明行の卓越性によるのであり、バラモンたちが望む単なる明行によるのではない。「最上のバラモンの(Uttamabrāhmaṇassa)」とは、無上の布施の対象であることによる卓越したバラモンの。「バラモンの教理を(Brāhmaṇasamayaṃ)」とは、バラモンの教義を。「損なわないでください(Mā bhindi)」とは、破滅させないでください。

316. Samasamoti samoyeva hutvā samo. Hīnopamavasenapi samatā vuccatīti taṃ nivattento **‘‘ṭhapetvā ekadesasamatta’’**ntiādimāha. Kulakoṭiparidīpananti kulaādiparidīpanaṃ athāpi siyāti athāpi tumhākaṃ evaṃ parivitakko siyā. Brāhmaṇabhāvaṃ sādheti vaṇṇo. Mantajātīsupi eseva nayo. Sīlameva sādhessati brāhmaṇabhāvaṃ. Kasmāti ce? Āha **‘‘tasmiñhissā’’**tiādi. Sammohamattaṃ vaṇṇādayoti vaṇṇamantajātiyo hi brāhmaṇabhāvassa aṅganti sammohamattametaṃ asamavekkhitābhimānabhāvato.

316. 「全く同等(Samasamo)」とは、まさに等しくあって同等ということである。劣った比喩によっても同等性が語られることがあるため、それを否定して「**一箇所の同等性を除いて……(ṭhapetvā ekadesasamattaṃ)**」などと言われた。「家柄の極致を示すこと(Kulakoṭiparidīpanaṃ)」とは、家柄などを極致まで明示することである。「また、あるいは(athāpi)」とは、あるいはあなた方にこのような思惑があるかもしれない。「容姿はバラモンの状態を成り立たせる」と。真言や家柄においても同様の理路である。「戒こそがバラモンの状態を成り立たせるであろう」。なぜかと言えば、「**実に彼においては〜(tasmiñhissā)**」などと言われた。「容姿などは単なる迷妄にすぎない(Sammohamattaṃ vaṇṇādayo)」とは、容姿や真言や家柄がバラモンの状態の構成要素であるというのは、よく熟考されていない自惚れであることから、単なる迷妄にすぎないということである。

Sīlapaññākathāvaṇṇanā

戒と知恵についての説示の註釈

317. Kathito brāhmaṇena pañhoti ‘‘sīlavā ca hotī’’tiādinā dvinnameva aṅgānaṃ vasena yathāpucchito pañho yāthāvato vissajjito etthāti etasmiṃ yathāvissajjite atthe. Tassāti soṇadaṇḍassa. Sīlaparisuddhāti sīlasampattiyā sabbaso suddhā anupakkiliṭṭhā. Kuto dussīle paññā asamāhitattā tassa. Jaḷe eḷamūge kuto sīlanti jaḷe eḷamūge duppaññe kuto sīlaṃ sīlavibhāgassa, sīlaparisodhanūpāyassa ca ajānanato. Pakaṭṭhaṃ ukkaṭṭhaṃ ñāṇaṃ paññāṇanti, pākatikaṃ ñāṇaṃ nivattetuṃ ‘‘paññāṇa’’nti vuttanti tayidaṃ pakārehi jānanato paññāvāti āha **‘‘paññāṇanti paññā yevā’’**ti.

317. 「バラモンによって語られた問い(Kathito brāhmaṇena pañho)」とは、「戒ある者となり……」などと二つの要素のみに基づいて、尋ねられた通りの問いが事実通りに答えられたことにおいて、すなわちそのように答えられた意味においてである。「彼の(Tassa)」とは、ソーナダンダの。「戒において清浄(Sīlaparisuddhā)」とは、戒の成就によって完全に清らかで汚れていないこと。「戒なき者にどうして知恵があろうか」とは、心が統一されていないからである。「愚かで唖の者にどうして戒があろうか」とは、愚かで唖で知恵のない者にどうして戒があろうか、戒の分別も戒を清める手段も知らないからである。「極めて優れた知恵(Pakaṭṭhaṃ ukkaṭṭhaṃ ñāṇaṃ)」をパニャーナ(paññāṇaṃ)といい、通常の知識を除外するために「パニャーナ」と言われたのであって、これは種々の様態によって知ることから知恵(paññā)そのものであるとして、「**パニャーナとは知恵そのものである(paññāṇanti paññā yevā)**」と言われた。

Sīlenadhotāti samādhipadaṭṭhānena sīlena sakalasaṃkilesamalavisuddhiyā dhotā visuddhā, tenāha **‘‘kathaṃ panā’’**tiādi. Tattha dhovatīti sujjhati. Mahāsaṭṭhivassatthero viyāti saṭṭhivassamahāthero viya. Vedanāpariggahamattampīti ettha vedanāpariggaho nāma yathāuppannaṃ vedanaṃ sabhāvarasato upadhāretvā ‘‘ayaṃ vedanā phassaṃ paṭicca, so phasso anicco dukkho vipariṇāmadhammo’’ti lakkhaṇattayaṃ āropetvā pavattitavipassanā. Evaṃ vipassantena ‘‘sukhena sakkā sā vedanā adhivāsetuṃ ‘‘vedanā eva vediyatī’’ti. Vedanaṃ vikkhambhetvāti yathāuppannaṃ dukkhaṃ vedanaṃ ananuvattitvā vipassanaṃ ārabhitvā vīthiṃ paṭipannāya vipassanāya taṃ vinodetvā. Saṃsumārapatitenāti kumbhīlena viya bhūmiyaṃ urena nipajjanena. Paññāya sīlaṃ dhovitvāti akhaṇḍādibhāvāpādanena sīlaṃ ādimajjhapariyosānesu paññāya suvisodhitaṃ katvā.

「戒によって洗われた(Sīlenadhotā)」とは、三昧の近因である戒によって、すべての煩悩の汚れの清浄を通じて洗われ、清らかになったということであり、それゆえに「**ではどのように(kathaṃ panā)**」などと言われた。そこにおいて「洗う(dhovati)」とは、清まることである。「六十年の長老のように(Mahāsaṭṭhivassatthero viya)」とは、六十年を経た大長老のように。「感受の把握だけでも(Vedanāpariggahamattampīti)」において、「感受の把握」とは、生じた感受を自性の働きから観察して「この感受は触を条件としており、その触は無常で苦で変壊する性質のものである」と三相を当てはめて行われた洞察(ヴィパッサナー)のことである。このように洞察する者にとっては、「感受そのものが感じられている」として容易にその感受を耐え忍ぶことができる。「感受を鎮伏して(Vedanaṃ vikkhambhetvā)」とは、生じた苦しい感受に引きずられることなく洞察を始め、正しい軌道に乗った洞察によってそれを払いのけて。「ワニが倒れるように(Saṃsumārapatitena)」とは、ワニのように地面に胸をつけて伏せることによって。「知恵によって戒を洗って(Paññāya sīlaṃ dhovitvā)」とは、欠損のない状態などをもたらすことによって、戒を初めと中間と終わりにおいて知恵によって極めて清浄にして。

318. **‘‘Kasmā āhā’’**ti uparidesanāya kāraṇaṃ pucchati. Lajjā nāma ‘‘sīlassa jātiyā ca guṇadosapakāsanena samaṇena gotamena pucchitapañhaṃ vissajjesī’’ti parisāya paññātatā. Ettakaparamāti ettakaukkaṃsakoṭikā pañca sīlāni, vedattayavibhāvanaṃ paññañca lakkhaṇādito niddhāretvā jānanaṃ natthi, kevalaṃ tattha vacīparamā mayanti dassetīti āha **‘‘sīlapaññāṇanti vacanameva paramaṃ amhāka’’**nti. **‘‘Ayaṃ pana viseso’’**ti idaṃ niyyātanāpekkhaṃ sīlaniddese, tenāha **‘‘sīlamicceva niyyātita’’**nti. Sāmaññaphale pana ‘‘sāmaññaphala’’ micceva niyyātitaṃ, paññāniddese pana jhānapaññaṃ adhiṭṭhānaṃ katvā vipassanāpaññāvaseneva paññāniyyātanaṃ kataṃ, tenāha **‘‘paṭhamajjhānādīnī’’**ti.

318. 「**なぜ言われたのか(Kasmā āhā)**」とは、それ以降の説法の理由を尋ねている。「恥じらい(Lajjā)」とは、「戒と家柄の功罪を明らかにすることによって、沙門ゴータマから問われた問いに答えた」と会衆に知られることである。「これほどの極致(Ettakaparamā)」とは、これほどの最高の限界である五戒や三ヴェーダを明かす知恵を、特徴などから厳密に規定して知ることはなく、単に言葉の極致において自分たちはそうであるにすぎないと示すために「**戒と知恵という言葉こそが、私たちにとっての極致である(sīlapaññāṇanti vacanameva paramaṃ amhākaṃ)**」と言われた。「**しかしこの特質(Ayaṃ pana viseso)**」とは、戒の説示における指定を念頭に置いたものであり、それゆえに「**戒としてのみ指定された(sīlamicceva niyyātitaṃ)**」と言われた。しかし沙門果経においては「沙門の果報」としてのみ指定され、知恵の説示においては禅定の知恵を拠り所として洞察の知恵に基づいて知恵の指定がなされたため、「**初禅などの〜(paṭhamajjhānādīnī)**」と言われた。

Soṇadaṇḍaupāsakattapaṭivedanākathāvaṇṇanā

ソーナダンダの在家信者としての宣言の説示の註釈

321-2. Nattāti puttaputto. Agāravaṃ nāma natthi, na cāyaṃ bhagavati agāravena ‘‘ahañceva kho panā’’tiādimāha, atha kho attalābhaparihānibhayena. Ayañhi yathā tathā attano mahājanassa sambhāvanaṃ uppādetvā kohaññena pare vimhāpetvā lābhuppādaṃ nijigisanto vicarati, tasmā tathā avoca, tenāha **‘‘iminā kirā’’**tiādi.

321-2. 「孫(Nattā)」とは、息子の息子のことである。「不敬などはない」のであり、彼が世尊への不敬によって「もし私が……」などと言ったのではなく、実に自らの利得が失われる恐れからである。実に彼は、どうにかして多くの人々の敬敬を生じさせ、偽善によって他者を驚嘆させ、利得の発生を貪り求めて暮らしているため、そのように語ったのであり、それゆえに「**これによって〜という(iminā kirā)**」などと言われた。

Taṅkhaṇānurūpāyāti yādisī tadā tassa ajjhāsayappavatti, tadanurūpāyāti attho. Tassa tadā tādisassa vivaṭṭasannissitassa ñāṇassa paripākassa abhāvato kevalaṃ abbhudayanissito eva attho dassitoti āha **‘‘diṭṭhadhammikasamparāyikamatthaṃ sandassetvā’’**ti, paccakkhato vibhāvetvāti attho. Kusale dhammeti tebhūmake kusale dhamme, ‘‘catubhūmake’’tipi vattuṃ vaṭṭatiyeva, tenevāha ‘‘āyatiṃ nibbānatthāya vāsanābhāgiyā vā’’ti. Tatthāti kusaladhamme yathā samādapite. Nanti brāhmaṇaṃ samuttejetvāti sammadeva uparūpari nisānetvā puññakiriyāya tikkhavisadabhāvaṃ āpādetvā. Taṃ pana atthato tattha ussāhajananaṃ hotīti āha **‘‘saussāhaṃ katvā’’**ti. Evaṃ puññakiriyāya saussāhatā, evarūpaṃ guṇasamaṅgitā ca niyamato diṭṭhadhammikā atthasampādanīti evaṃ saussāhatāya, aññehi ca tasmiṃ vijjamānaguṇehi sampahaṃsetvā sammadeva haṭṭhatuṭṭhabhāvaṃ āpādetvā.

「その瞬間に相応しい(Taṅkhaṇānurūpāya)」とは、その時の彼の意図のあり方に相応しいという意味である。彼にはその時、そのような輪廻の解脱に結びついた知恵の成熟がなかったため、単に現世と来世の繁栄に結びついた意味のみが示されたとして、「**現世と来世の利益を示して(diṭṭhadhammikasamparāyikamatthaṃ sandassetvā)**」と言われ、直接に明らかにしてという意味である。「善き法において(Kusale dhamme)」とは、三界に属する善き法においてであり、「四界に属する」と言ってもまさに妥当である。それゆえに「将来の涅槃のために、あるいは薫習の一部として」と言われた。「そこにおいて(Tatthā)」とは、勧められた通りの善法において。「彼を(そのバラモンを)励まし(Nanti brāhmaṇaṃ samuttejetvā)」とは、見事に次々と研ぎ澄ませて、功徳の行為において鋭敏で明晰な状態をもたらして。それは実質的にはそこへの意欲を生じさせることであるため、「**意欲を起こさせて(saussāhaṃ katvā)**」と言われた。このように功徳の行為への意欲があること、このような徳を具備していることは必然的に現世の利益を成就するものである、とこのように意欲を起こさせ、彼に存在する他の徳によって歓喜させ、見事に大いなる歓喜と満足の状態をもたらして。

Yadi bhagavā dhammaratanavassaṃ vassi, atha kasmā so visesaṃ nādhigacchatīti āha **‘‘brāhmaṇo panā’’**tiādi. Yadi evaṃ kasmā bhagavā tassa tathā dhammaratanavassaṃ vassīti āha **‘‘kevalamassā’’**tiādi. Na hi bhagavato niratthakā desanā hotīti.

「もし世尊が法宝の雨を降らせたのなら、それならなぜ彼は殊勝な境地(聖果)に達しなかったのか」と問い、「しかし、バラモンは……」等と言われた。「もしそうであるなら、なぜ世尊は彼のためにそのように法宝の雨を降らせたのか」と問い、「ただ彼のために……」等と言われた。世尊の説法には無益なものはないからである。

Soṇadaṇḍasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā.

ソーナダンダ経(種徳経)釈の深奥義釈を了す。