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5. Kūṭadantasuttavaṇṇanā5.クータダンタ経(究角経)釈

323. Purimasuttadvayeti ambaṭṭhasoṇadaṇḍasuttadvaye. Vuttanayamevāti yaṃ tattha āgatasadisaṃ idhāgataṃ taṃ atthavaṇṇanato vuttanayameva, tattha vuttanayeneva veditabbanti attho. ‘‘Taruṇo ambarukkho ambalaṭṭhikā’’ti (dī. ni. aṭṭha. 1.2) brahmajālasuttavaṇṇanāyaṃ vuttanti āha **‘‘ambalaṭṭhikā brahmajāle vuttasadisāvā’’**ti.

323. 「前の二つの経において」とは、アンバッタ経とソーナダンダ経の二つの経においてのことである。「説かれた通りの仕方で」とは、それらにおいて説かれたのと同様のものがここでも説かれているので、その義釈によってすでに説かれた通りの仕方であり、それらにおいて説かれた通りの仕方によって知られるべきであるという意味である。「若きマンゴーの木がアンバラッティカーである」(長部義釈1.2)と梵網経釈において説かれていることから、「アンバラッティカーは梵網経において説かれたのと同様である」と言われた。

Yaññāvāṭaṃ sampādetvā mahāyaññaṃ uddissa saviññāṇakāni, aviññāṇakāni ca yaññūpakaraṇāni upaṭṭhapitānīti vuttaṃ pāḷiyaṃ ‘‘mahāyañño upakkhaṭo’’ti, taṃ upakkharaṇaṃ tesaṃ tathāsajjananti āha **‘‘upakkhaṭoti sajjito’’**ti. Vacchatarasatānīti yuvabhāvappattāni balavavacchasatāni, te pana vacchā eva honti, na dammā balibaddā cāti āha **‘‘vacchasatānī’’**ti. Eteti usabhādayo urabbhapariyosānā. Anekesanti anekajātikānaṃ. Saṅkhyāvasena anekatā sattasataggahaṇeneva paricchinnā. Migapakkhīnanti mahiṃsarurupasadakuruṅgagokaṇṇamigānañceva morakapiñjaratittirakapotādipakkhīnañca.

祭壇(祭場)を準備して、大祭祀のために有情(有識)および無情(無識)の祭祀の具足物が整えられたことが、聖典において「大祭祀が用意された」と説かれている。その用意とは、それらの適切な準備のことであり、それゆえに「用意されたとは、準備された」と言われた。「百頭の若牛たち」とは、若さの盛りにある力強い数百頭の子牛たちのことであり、それらは子牛にすぎず、調教された役牛ではないことから、「百頭の子牛たち」と言われた。「これら」とは、雄牛から始まって羊に至るまでの者たちである。「多くの」とは、多様な種類のもののことである。数量としての多さは七百頭を数えることによって限定されている。「鳥獣たち」とは、水牛、ルル鹿、パサダ鹿、クルンガ鹿、ゴカンナ鹿などの獣たち、ならびに孔雀、カピンジャラ鳥、シャコ、鳩などの鳥たちのことである。

328. Yaññasaṅkhātassa puññassa yo saṃkileso, tassa nivāraṇato nisedhanato vidhā vuccanti vippaṭisāravinodanā. Tato eva tā taṃ puññābhisandaṃ avicchinditvā ṭhapentīti **‘‘ṭhapanā’’**ti vuttā. Tāsaṃ pana yaññassa ādimajjhapariyosānavasena tīsu kālesu pavattiyā yañño tiṭṭhapanoti āha **‘‘tiṭṭhapananti attho’’**ti. Parikkharonti abhisaṅkharontīti parikkhārā, parivārāti vuttaṃ. **‘‘Soḷasaparikkhāranti soḷasaparivāra’’**nti.

328. 祭祀と呼ばれる功徳において、その汚れとなるものを防ぐこと、遮ることから、後悔を取り除く諸種(の備え)が説かれる。まさにそのゆえに、それらはその功徳の流れを断絶させることなく確立させるので、「確立(安立)」と言われる。しかし、それらが祭祀の初め・中・終わりの三時にわたって行われることによって祭祀が確立されるので、「確立することが意味である」と言われた。調えること、作ることゆえに「資具(パリッカーラ)」、すなわち「伴侶(パリヴァーラ)」と説かれた。「十六の資具とは、十六の伴侶」と。

Mahāvijitarājayaññakathāvaṇṇanā

大勝王祭祀談釈

336. Pubbacaritanti attano purimajātisambhūtaṃ bodhisambhārabhūtaṃ puññacariyaṃ. Tathā hissa anugāminova nidhissa thāvaro nidhi nidassito. Aḍḍhatā nāma vibhavasampannatā, sā taṃ taṃ upādāyupādāya vuccatīti āha **‘‘yo koci attano santakena vibhavena aḍḍho hotī’’**ti. Tathā mahaddhanatāpīti taṃ ukkaṃsagataṃ dassetuṃ **‘‘mahatā aparimāṇasaṅkhyena dhanena samannāgato’’**ti vuttaṃ. Bhuñjitabbato paribhuñjitabbato visesato kāmā bhogo nāmāti āha **‘‘pañcakāmaguṇavasenā’’**ti. Piṇḍapiṇḍavasenāti bhājanālaṅkārādivibhāgaṃ ahutvā kevalaṃ khaṇḍakhaṇḍavasena.

336. 「前世の行い」とは、自身の過去世において生じた、菩提の資糧となった功徳の行いのことである。実にこのようにして、彼に従う宝蔵によって、恒久的な宝蔵が示された。「富裕であること」とは、富に恵まれていることであり、それはそれぞれの対象に依存して言われるので、「自身の所有する富によって富裕である者なら誰でも」と言われた。「また、大財を有することも同様である」とは、その卓越した状態を示すために「莫大で無量無数の財産を具足している」と説かれた。享受されるべきもの、享受されるべき対象、特に諸々の欲望が財宝と呼ばれるので、「五欲の徳によって」と言われた。「塊の状態で」とは、器物や装飾品などの区別を持たず、ただ塊ごとの状態でということである。

Māsakādīti ādi-saddena thālakādiṃ saṅgaṇhāti. Bhājanādīti ādi-saddena vatthaseyyāvasathādiṃ saṅgaṇhāti. Suvaṇṇarajatamaṇimuttāveḷuriyavajirapavāḷāni **‘‘sattaratanānī’’**ti vadanti. Sālivīhiādi pubbaṇṇaṃ purakkhataṃsassaphalanti katvā. Tabbipariyāyato muggamāsādi aparaṇṇaṃ. Devasikaṃ…pe… vasenāti divase divase paribhuñjitabbadātabbavaḍḍhetabbādividhinā parivattanakadhanadhaññavasena.

「マーサカ貨等」という言葉における「等」という語によって、鉢などを包含する。「器物等」という言葉における「等」という語によって、衣服・寝具・住居などを包含する。黄金、白銀、宝玉、真珠、瑠璃、金剛石(ダイヤモンド)、珊瑚を「七宝」と言う。大麦、稲などは「前穀」であり、主たる農作物の果実であると見なされる。それと反対に、緑豆、黒豆などは「後穀」である。「日々……によって」とは、日々に享受し、施し、増やすべきなどの規定によって流通する財物と穀物によって、ということである。

Koṭṭhaṃ vuccati dhaññassa āṭhapanaṭṭhānaṃ, koṭṭhabhūtaṃ agāraṃ koṭṭhāgāraṃ tenāha **‘‘dhaññena…pe… gāro cā’’**ti. Evaṃ sāragabbhaṃ ‘‘koso’’ti, dhaññassa āṭhapanaṭṭhānañca ‘‘koṭṭhāgāra’’nti dassetvā idāni tato aññathā taṃ dassetuṃ **‘‘atha vā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha yathā asino tikkhabhāvaparihārato paricchado ‘‘koso’’ti vuccati, evaṃ rañño tikkhabhāvapariharaṇattā caturaṅginī senā ‘‘koso’’ti āha **‘‘catubbidho koso hatthī assā rathā pattī’’**ti. ‘‘Vatthakoṭṭhāgāraggahaṇeneva sabbassāpi bhaṇḍaṭṭhapanaṭṭhānassa gahitattā tividhaṃ koṭṭhāgāranti vuttaṃ. **‘‘Idaṃ evaṃ bahu’’**ntiādi rājā tamatthaṃ jānantova bhaṇḍāgārikena kathāpetvā parisāya nissaddabhāvāpādanatthañca āha evaṃ me pakatikkhobho na bhavissatīti.

「穀倉」とは穀物を蓄える場所を言い、穀倉となった家屋が穀倉屋である。それゆえに「穀物によって……屋である」と言われた。このように要の蔵を「宝庫」とし、穀物を蓄える場所を「穀倉」と示して、今やそれとは別の仕方でこれを示すために「あるいは……」等と説かれた。そこにおいて、刀剣の鋭利さを保護することからその鞘が「鞘(コーサ)」と呼ばれるように、王の厳威を護持することから四種からなる軍隊が「蔵(宝庫・コーサ)」と呼ばれるので、「象軍、馬軍、車軍、歩兵軍の四種の蔵」と言われた。「衣類置場の穀倉を挙げることによって、すべての物品を保管する場所が包含されるので、三種の穀倉と言われた」。「これらはこのように豊富である」等と、王はその事実を知りながらも、庫蔵官に語らせて会衆を静粛にさせるために「このようにすれば私の本来の動揺はなくなるであろう」と言ったのである。

337-8. Brāhmaṇo cintesi janapadassa anupaddavatthañceva yaññassa ca cirānupavattanatthañca, tenāha **‘‘ayaṃ rājā’’**tiādi.

337-8. バラモンは国土の平穏無事と祭祀の末長い継続を考え、それゆえに「この王は……」等と言った。

Sattānaṃ hitassa sukhassa ca vidūsanato ahitassa dukkhassa ca āvahanato corā eva kaṇṭakā, tehi corakaṇṭakehi. Yathā gāmavāsīnaṃ ghātā gāmaghātā, evaṃ panthikānaṃ duhanā vibādhanā panthaduhanā. Adhammakārīti dhammato apetassa ayuttassa karaṇasīlo, attano vijite janapadādīnaṃ tato anatthato tāyanena khattiyo yo khattadhammo, tassa vā akaraṇasīloti attho. Dassavo eva khīlasadisattā dassukhīlaṃ. Yathā hi khette khīlaṃ kasanādīnaṃ sukhappavattiṃ, mūlasantānena sassassa buddhiñca vibandhati, evaṃ dassavo rajje rājāṇāya sukhappavattiṃ, mūlaviruḷhiyā janapadānaṃ paribuddhiñca vibandhanti. Tena vuttaṃ ‘‘dassavo eva khīlasadisattā dassukhīla’’nti. Vadha-saddo hiṃsanatthopi hotīti vuttaṃ **‘‘māraṇena vā koṭṭanena vā’’**ti. Addubandhanādināti ādi-saddena rajjubandhanasaṅkhalikabandhanādiṃ saṅgaṇhāti. Jāniyāti dhanajāniyā, tenāha **‘‘sataṃ gaṇhathā’’**tiādi. Pañcasikhamuṇḍakaraṇanti kākapakkhakaraṇaṃ. Gomayasiñcananti sīse chakaṇodakāvasecanaṃ. Kudaṇḍakabandhananti gaddulabandhanaṃ. Evamādīnīti ādi-saddena khuramuṇḍaṃ karitvā bhasmapuṭapothanādiṃ saṅgaṇhāti. Ūhanissāmīti uddharissāmi, apanessāmīti attho. Ussahantīti pubbe tattha kataparicayatāya ussāhaṃ kātuṃ sakkonti. Anuppadetūti anu anu padetu, tenāha **‘‘dinne appahonte’’**tiādi. Sakkhikaraṇapaṇṇāropanāni vaḍḍhiyā saha vā vinā vā puna gahetukāmassa, idha pana taṃ natthīti āha **‘‘sakkhiṃ akatvā’’**tiādi, tenāha **‘‘mūlacchejjavasenā’’**ti. Pakārato bhaṇḍāni ābharati sambharati paricayati etenāti pābhataṃ, bhaṇḍamūlaṃ.

衆生の利益と安楽を損ない、不利益と苦しみをもたらすことから、盗賊こそが障害(棘)であり、それらの盗賊という障害によって(荒らされている)。村の住人を殺害することが村の略奪であるように、旅人を苦しめ妨害することが街道の襲撃である。「非法の行いをする者」とは、法から離れた不当なことを行いやすい性質の者、あるいは自らの領土において国土などをその害悪から防護することによる刹帝利(王族)の王法を行わない性質の者、という意味である。盗賊こそが杭に似ていることから「盗賊の杭」である。実際、田畑において杭が耕起などの円滑な作業を妨げ、根の生長によって作物の成長を阻むように、盗賊は領土において王命の円滑な執行を妨げ、根本の繁栄によって国土の発展を阻害する。それゆえに「盗賊こそが杭に似ていることから盗賊の杭である」と説かれた。「殺傷」という言葉は加害の意味も含むので、「殺害によって、あるいは打擲によって」と説かれた。「縛首具等によって」の「等」という語によって、縄での拘束、鎖での拘束などを包含する。「没収によって」とは財産の没収によることであり、それゆえに「百を徴収せよ」等と言われた。「五頭の剃髪」とは、烏の羽のような形に剃ることである。「牛糞の塗布」とは、頭に牛糞水を注ぎかけることである。「小木枷での拘束」とは、首枷での拘束である。「これら等」の「等」という語によって、剃刀で剃髪して灰袋で打擲することなどを包含する。「根絶しよう」とは、引き抜き、取り除こうという意味である。「尽力している」とは、過去にそれにおいて慣れ親しんでいるため、熱心に行うことができるということである。「支給せよ」とは、順次支給せよということであり、それゆえに「与えられたものが不足するなら」等と言われた。証拠書類を作成することは、利息を伴うか伴わないかにかかわらず後で回収したい者のためであるが、ここではそれがないので、「証拠を作成せずに」等と言われ、それゆえに「元金免除(無償提供)によって」と言われた。様々に品物を運び、集め、それによって商売を行うことから「仕入れ金」、すなわち商品代金である。

Divase divase dātabbabhattaṃ devasikabhattaṃ. ‘‘Anumāsaṃ, anuposatha’’ntiādinā dātabbaṃ vetanaṃ māsikādiparibbayaṃ. Tassa tassa kulānurūpena kammānurūpena sūrabhāvānurūpenāti paccekaṃ anurūpa-saddo yojetabbo. Senāpaccādi ṭhānantaraṃ. Sakakammapasutattā, anupaddavattā ca dhanadhaññānaṃ rāsiko rāsikārabhūto. Khemena ṭhitāti anupaddavena pavattā, tenāha **‘‘abhayā’’**ti, kutocipi bhayarahitāti attho.

日々に与えられるべき食事は「日々の食事」である。「月ごとに、布薩ごとに」等と与えられるべき給与は「月々の手当」である。それぞれの家柄に応じて、職務に応じて、勇猛さに応じてと、個々に「応じて」という語を結びつけるべきである。将軍職などの官職である。自らの職務に専念していること、そして無事平穏であることから、財宝や穀物の集積は山積みとなっている。「安全に確立している」とは、患いなく存続していることであり、それゆえに「無恐怖である」と言われた。何ものからも恐怖がないという意味である。

Catuparikkhāravaṇṇanā

四つの資具釈

339. Tasmiṃ tasmiṃ kicce anuyanti anuvattantīti anuyantā, anuyantā eva ānuyantā yathā ‘‘anubhāvo eva ānubhāvo’’ti. Assāti rañño. Teti ānuyantakhattiyādayo. Attamanā na bhavissanti ‘‘amhe ettha bahi karotī’’ti. Nibandhavipulāgamo gāmo nigamo, vivaḍḍhitamahāāyo mahāgāmoti attho. Janapada-saddo heṭṭhā vuttattho eva. Channaṃ pakatīnaṃ vasena rañño hitasukhābhibuddhi, tadekadesā ca ānuyantādayoti vuttaṃ **‘‘yaṃ tumhākaṃ anujānanaṃ mama bhaveyya dīgharattaṃ hitāya sukhāyā’’**ti.

339. その時々の職務に従い従属するゆえに「従者」であり、従者こそが家臣たちである。「威力こそが威力である」と言われるのと同じである。「彼に」とは、王に。「彼ら」とは、家臣である刹帝利たち等のことである。「彼(王)は私たちをここから締め出している」として不満を抱くことはないであろう。多くの人々が集まり財が集積する村が「町(ニガマ)」であり、莫大な収入が増大した大きな村という意味である。「国土」という語は前述の通りの意味である。六種の臣民に基づいて王の利益と安楽の増進があり、家臣たち等はその一部であることから、「あなた方の承認が私の長きにわたる利益と安楽のためになるように」と説かれた。

Amā saha bhavanti kiccesūti amaccā, rajjakiccavosāsanakā. Te pana rañño piyā, sahapavattanakā ca hontīti āha **‘‘piyasahāyakā’’**ti. Rañño parisati bhavāti pārisajjā, te pana keti āha **‘‘sesā āṇattikarā’’**ti, yathāvuttaānuyantakhattiyādī hi avasesā rañño āṇākarāti attho. Satipi deyyadhamme ānubhāvasampattiyā, parivārasampattiyā ca abhāve tādisaṃ dātuṃ na sakkā, vuḍḍhakāle ca tādisānampi rājūnaṃ tadubhayaṃ hāyatevāti āha **‘‘mahallakakāle…pe… na sakkā’’**ti. Anumatiyāti anujānanena, pakkhāti sapakkhā yaññassa aṅgabhūtā. Parikkharontīti parikkhārā, sambhārā. Ime tassa yaññassa aṅgabhūtā parivārā viya hontīti āha **‘‘parivārā bhavantī’’**ti.

国務において常に共にあるゆえに「大臣」であり、国政の執行者たちである。彼らは王にとって親しく、共に活動する者たちであることから、「親しき朋輩」と言われた。王の会衆に属する者たちが「侍臣」であり、彼らは誰かと言えば、「残りの命令執行者たち」と言われた。前述の家臣である刹帝利たち以外の、王の命令に従う者たちという意味である。施すべき物(布施物)があっても、威力の成就や伴侶の成就が欠けていればそのような施しを行うことはできず、高齢の時期にはそのような王たちであってもその双方が衰退するので、「老齢の時には……できない」と言われた。「同意によって」とは承認によることであり、「味方」とは祭祀の構成要素となった仲間たちである。調えるゆえに「資具」、すなわち資糧である。これらはその祭祀の構成要素となり、伴侶のようになることから、「伴侶となる」と言われた。

Aṭṭhaparikkhāravaṇṇanā

八つの資具釈

340. Yasasāti ānubhāvena, tenāha **‘‘āṇāṭhapanasamatthatāyā’’**ti. Saddahatīti ‘‘dātā dānassa phalaṃ paccanubhotī’’ti pattiyāyati. Dāne sūroti dānasūro deyyadhamme īsakampi saṅgaṃ akatvā muttacāgo. Svāyamattho kammassakataññāṇassa tikkhavisadabhāvena veditabbo, tenāha **‘‘na saddhāmattakenevā’’**tiādi. Yassa hi kammassakatā paccakkhato viya upaṭṭhāti, so evaṃ vutto. Yaṃ dānaṃ detīti yaṃ deyyadhammaṃ parassa deti. Tassa pati hutvāti tabbisayaṃ lobhaṃ suṭṭhu abhibhavanto tassa adhipati hutvā deti anadhibhavanīyattā. ‘‘Na dāso, na sahāyo’’ti vatvā tadubhayaṃ anvayato, byatirekato ca dassetuṃ **‘‘yo hī’’**tiādi vuttaṃ. Dāso hutvā deti taṇhāya dānassa dāsabyataṃ upagatattā. Sahāyo hutvā deti tassa piyabhāvānissajjanato. Sāmī hutvā deti tattha taṇhādāsabyato attānaṃ mocetvā abhibhuyya pavattanato. Sāmiparibhogasadisā hetassāyaṃ pavattatīti.

340. 「名声によって」とは威力によってということであり、それゆえに「命令を確立する能力によって」と言われた。「信じる」とは、「施者は布施の果報を享受する」と信解することである。「施しにおいて勇者である」とは「施勇」のことであり、施すべき物に対していささかも執着することなく、寛大に手放すことである。この意味は業処知の鋭敏で明晰な状態によって知られるべきであり、それゆえに「単なる信仰のみによってではなく」等と言われた。業自有の知がまるで目の前のことのように現前している者、その者がこのように説かれる。「ある布施を与える」とは、ある施すべき物を他者に与えることである。「その主となって」とは、その対象への貪欲を完全に見事に克服し、その支配者となって与えることであり、征服されないことによる。「奴隷ではなく、友でもなく」と述べて、その双方を順次および逆次によって示すために「実に誰であれ……」等と説かれた。奴隷となって与えるのは、渇愛によって布施の奴隷状態に陥っているからである。友となって与えるのは、布施への愛着を手放さないからである。主人となって与えるのは、そこにおいて渇愛の奴隷状態から自らを解放し、それを克服して活動するからである。実に彼のこの行いは、主人の享受と同様である。

Samitapāpā samaṇā, bāhitapāpā brāhmaṇā ukkaṭṭhaniddesena, pabbajjāmattasamaṇā jātimattabrāhmaṇā pana kapaṇādiggahaṇenevettha gahitāti adhippāyo. Duggatāti dukkarajīvikaṃ upagatā kasiravuttikā, tenāha **‘‘daliddamanussā’’**ti. Addhikāti addhānamaggagāmino. Vaṇibbakāti dāyakānaṃ guṇakittanavasena, kammaphalakittanamukhena ca yācanakā seyyathāpi naggacariyādayo, tenāha **‘‘iṭṭhaṃ dinna’’**ntiādi. **‘‘Pasatamatta’’**nti vīhitaṇḍulādivasena vuttaṃ, **‘‘sarāvamatta’’**nti yāgubhattādivasena. Opānaṃ vuccati ogāhetvā pātabbato naditaḷākādīnaṃ sabbasādhāraṇatitthaṃ opānaṃ viya bhūtoti opānabhūto, tenāha **‘‘udapānabhūto’’**tiādi. Sutameva sutajātanti jāta-saddassa anatthantaravācakatamāha yathā ‘‘kosajāta’’nti.

悪を静めた者が「沙門」であり、悪を退けた者が「バラモン」であるとは最上の規定によるものであり、単に出家しただけの沙門や、生まれだけのバラモンは、ここでは貧民等の把握によって包摂されている、というのが意図である。「貧窮者」とは、困難な生活に陥り困窮した暮らしをしている者であり、それゆえに「貧しき人々」と言われた。「旅人」とは、長旅の途上にある者たちである。「乞食者」とは、施者の徳を称賛することによって、また業果を称賛する口実によって乞う者たちのことであり、例えば裸形の行者たちなどのことであって、それゆえに「望ましいものが与えられた」等と言われた。「一握りほど」とは籾や米などに基づいて説かれたものであり、「一鉢ほど」とは粥やご飯などに基づいて説かれたものである。「水飲み場」とは、降りていって飲むことができることから河川や池などの誰もが共通に利用できる渡し場を言い、水飲み場のようになったゆえに「水飲み場の如き者」であり、それゆえに「井戸の如き者」等と言われた。「聞き及んだこと」こそが「所聞の事柄」であり、「生じた」という語が格別の意味を持たないことを述べている。例えば「生じた宝庫」と言うのと同じである。

Atītādiatthacintanasamatthatā nāmassa rañño anumānavasena, itikattabbatāvasena ca veditabbā, na buddhānaṃ viya tattha paccakkhadassitāyāti dassetuṃ **‘‘atīte’’**tiādi vuttaṃ. Aḍḍhatādayo tāva yaññassa parikkhārā hontu tehi vinā tassa asijjhanato, sujātatā surūpatā pana kathanti āha **‘‘etehi kirā’’**tiādi. Ettha ca keci ‘‘yathā aḍḍhatādayo yaññassa ekaṃsato aṅgāni, na evamabhijātatā, abhirūpatā cāti dassetuṃ kirasaddaggahaṇa’’nti vadanti ‘‘ayaṃ dujjāto’’tiādi vacanassa anekantikataṃ maññamānā, tayidaṃ asāraṃ, sabbasādhāraṇavasena hesa yaññārambho tattha siyā kesañci tathāparivitakkoti tassāpi avakāsābhāvādassanatthaṃ tathā vuttattā. Kira-saddo pana tadā brāhmaṇena cintitākārasūcanattho daṭṭhabbo. Evamādīnīti ādi-saddena ‘‘ayaṃ virūpo daliddo appesakkho assaddho appassuto anatthaññū na medhāvī’’ti etesaṃ saṅgaho daṭṭhabbo.

この王の過去などの事柄を思量する能力とは、推量によって、また為すべきことの分別によって知られるべきものであり、仏たちのようにそこにおいて直接知見するものではないことを示すために、「過去において」等と説かれた。富裕であることなどは、それらなくしては祭祀が成就しないため、ひとまず祭祀の資具であるとしよう。しかし、名門の生まれであることや容姿端麗であることはどうなのかと問い、「これらによって、まさに……」等と言われた。ここにおいて一部の者たちは、「富裕であることなどが確実に祭祀の構成要素であるのに対して、名門の生まれであることや容姿端麗であることはそうではないということを示すために『まさに』という語を用いたのだ」と述べており、「この者は悪しき生まれである」などの言葉が不確定であることを考えているが、これは無意味である。実にこの祭祀の開始は万人共通の形で行われており、そこにおいて一部の者たちにそのような推測が生じる可能性もあるため、その余地がないことを示すためにそのように説かれたからである。「まさに」という語は、その当時バラモンによって思量された様態を示唆する意味であると見なされるべきである。「これら等」の「等」という語によって、「この者は醜悪であり、貧しく、権勢がなく、不信であり、無学であり、無知であり、聡明でない」というこれらの包摂と見なされるべきである。

Catuparikkhārādivaṇṇanā

四つの資具等釈

341. **‘‘Sujaṃ paggaṇhantāna’’**nti purohitassa sayameva kaṭacchuggahaṇajotanena evaṃ sahatthā, sakkaccañca dāne yuttatā icchitabbāti dasseti. Evaṃ dujjātassāti etthāpi heṭṭhā vuttanayeneva attho veditabbo.

341. 「柄杓を掲げ持っている者たちに」とは、司祭自らが柄杓を手に持つことを示すことによって、このように自らの手で、恭敬して施すことに適していることが望ましい、ということを示している。「このように悪しき生まれの者に」というここにおいても、前述の通りの方法によって意味を知るべきである。

342. Tiṇṇaṃ ṭhānānanti dānassa ādimajjhapariyosānabhūtāsu tīsu bhūmīsu, avatthāsūti attho. Calantīti kampanti purimākārena na tiṭṭhanti. Karaṇattheti tatiyāvibhattiatthe. Kattari hetaṃ sāmivacanaṃ karaṇīyasaddāpekkhāya. ‘‘Paccānutāpo na kattabbo’’ti vatvā tassa akaraṇūpāyaṃ dassetuṃ **‘‘pubbacetanā pana acalā patiṭṭhapetabbā’’**ti vuttaṃ. Tattha acalāti daḷhā kenaci asaṃhīrā. Patiṭṭhapetabbāti supatiṭṭhitā kātabbā. Evaṃ karaṇena hi yathā taṃ dānaṃ sampati yathādhippāyaṃ nippajjati, evaṃ āyatimpi vipulaphalatāyāti āha **‘‘evañhi dānaṃ mahapphalaṃ hotīti dassetī’’**ti, vippaṭisārena anupakkiliṭṭhabhāvato. Muñcacetanāti pariccāgacetanā. Tassā niccalabhāvo nāma muttacāgatā pubbābhisaṅkhāravasena uḷārabhāvo, samanussaraṇacetanāya pana niccalabhāvo ‘‘aho mayā dānaṃ dinnaṃ sādhu suṭṭhū’’ti tassa sakkaccaṃ paccavekkhaṇāvasena veditabbo. Tathā akarontassāti muñcacetanaṃ, tattha paccāsamanussaraṇacetanañca vuttanayena niccalaṃ akarontassa vippaṭisāraṃ uppādentassa. Khettavisese pariccāgassa katattā laddhesupi uḷāresu bhogesu cittaṃ nāpi namati. Yathā kathanti āha **‘‘mahāroruvaṃ upapannassa seṭṭhigahapatino viyā’’**ti.

342. 「三つの境地において」とは、布施の初め・中・終わりの三つの段階、すなわち局面において、という意味である。「動揺する」とは、震え動き、以前のありようのままでとどまらないことである。「手段の意味において」とは、具格(第三格)の意味においてである。実にこれは「為されるべき」という語と関連した能動の所有格である。「後悔はなされるべきではない」と述べて、それを生じさせない方策を示すために「しかし、事前の思念は不動に確立されるべきである」と説かれた。そこにおいて「不動」とは、強固で誰にも動かされないことである。「確立されるべき」とは、しっかりと確立されるべきであるということである。このように行うことによって、実にその布施が現在において望み通りに成就するように、将来においても広大な果報をもたらすので、「このようにして布施は広大な果報をもたらすことを示している」と言われた。後悔によって汚されないからである。「喜捨の思念」とは、放擲する思念のことである。それが不動であることとは、手放す寛大さであり、事前の作意による崇高な状態である。しかし、追想の思念が不動であることは、「ああ、私によって布施が実に立派に、見事に与えられた」とそれを恭敬して省察することによって知られるべきである。「そのように行わない者には」とは、喜捨の思念、およびそこにおける追想の思念を前述の通りの方法で不動とせず、後悔を生じさせる者にはということである。卓越した福田において喜捨がなされたことによって、広大な富を得たとしても、心は傾かない。どのようにかと言えば、「大焦熱地獄に堕ちた長者居士のように」と言われた。

So kira tagarasikhiṃ paccekabuddhaṃ attano gehadvāre piṇḍāya ṭhitaṃ disvā ‘‘imassa samaṇassa piṇḍapātaṃ dehī’’ti bhariyaṃ āṇāpetvā rājupaṭṭhānatthaṃ pakkāmi. Seṭṭhibhariyā sappaññajātikā, sā cintesi ‘‘mayā ettakena kālena ‘imassa dethā’ti vacanamattaṃ pissa na sutapubbaṃ, ayañca maññe ahosi paccekasambuddho, yathā tathā adatvā paṇītaṃ piṇḍapātaṃ dassāmī’’ti upagantvā paccekasambuddhaṃ pañcapatiṭṭhitena vanditvā pattaṃ ādāya antonivesane paññattāsane nisīdāpetvā parisuddhehi sālitaṇḍulehi bhattaṃ sampādetvā tadanurūpaṃ khādanīyaṃ, byañjanaṃ, sūpeyyañca abhisaṅkharitvā bahi gandhehi alaṅkaritvā paccekasambuddhassa hatthesu patiṭṭhapetvā vandi. Paccekabuddho ‘‘aññesampi paccekabuddhānaṃ saṅgahaṃ karissāmī’’ti aparibhuñjitvāva anumodanaṃ katvā pakkāmi. Sopi kho seṭṭhi rājupaṭṭhānaṃ katvā āgacchanto paccekabuddhaṃ disvā ahaṃ ‘‘tumhākaṃ piṇḍapātaṃ dethā’’ti vatvā pakkanto, api vo laddho piṇḍapātoti. Āma seṭṭhi laddhoti. ‘‘Passāmā’’ti gīvaṃ ukkhipitvā olokesi. Athassa piṇḍapātagandho uṭṭhahitvā nāsapuṭaṃ pūresi. So ‘‘mahā vata me dhanabyayo jāto’’ti cittaṃ sandhāretuṃ asakkonto pacchā vippaṭisārī ahosi. Vippaṭisārassa pana uppannākāro ‘‘varameta’’ntiādinā (saṃ. ni. 1.131) pāḷiyaṃ āgatoyeva. Bhātu panāyaṃ ekaṃ puttakaṃ sāpateyyakāraṇā jīvitā voropesi, tena mahāroruvaṃ upapanno. Piṇḍapātadānena panesa sattakkhattuṃ suggatiṃ saggaṃ lokaṃ upapanno, sattakkhattumeva ca seṭṭhikule nibbatto, na cāssa uḷāresu bhogesu cittaṃ nami, tena vuttaṃ ‘‘nāpi uḷāresu bhogesu cittaṃ namatī’’ti.

彼(長者)は、タガラシキン独覚仏が自らの家の扉口に托鉢のために立っているのを見て、「この沙門に托鉢の食事を与えよ」と妻に命じて王の宮廷へ出仕するために立ち去った。長者の妻は智慧ある生まれであり、彼女は考えた。「私はこれほどの長い間、夫から『この者に与えよ』という言葉すら聞いたことがなかった。そしてこの方は察するに独覚仏であろう。いい加減に与えるのではなく、上等な托鉢の食事を差し上げよう」と。彼女は独覚仏のもとに近づき、五体投地して礼拝し、鉢を受け取って屋内のしつらえられた座に坐らせ、清浄な上米でご飯を用意し、それにふさわしい軽食や副菜、スープを調理し、外側を香気で飾り立てて独覚仏の御手に差し出して礼拝した。独覚仏は「他の独覚仏たちにも施与しよう」と考え、自らは食さずに随喜の法を説いて立ち去った。その長者も王への出仕を終えて戻る途中、独覚仏に出会って「私は『あなたに托鉢の食事を与えよ』と言って立ち去ったが、あなたは托鉢の食事を得られましたか」と尋ねた。「はい、長者よ、得られました」。「拝見しましょう」と首を伸ばして覗き込んだ。するとその托鉢の食事の芳香が立ち上り、彼の鼻腔を満たした。彼は「ああ、私にとって莫大な財の浪費が生じてしまった」と心をとどめることができず、後になって後悔した。後悔が生じた様態については、「これなら……の方がましであった」等と聖典(相応部1.131)に説かれている通りである。さらにこの長者は、兄弟の幼い一人息子を財産目当てに殺害したため、大焦熱地獄に堕ちた。しかし托鉢の食事の布施によって、彼は七度善趣の天界に生まれ、七度長者の家に生まれたが、広大な富に彼の心が傾くことはなかった。それゆえに「広大な富にも心が傾かない」と説かれたのである。

343. Ākaroti attano anurūpatāya samariyādaṃ saparicchedaṃ phalaṃ nibbattetīti ākāro, kāraṇanti āha **‘‘dasahi ākārehīti dasahi kāraṇehī’’**ti. Paṭiggāhakato vāti balavataro hutvā uppajjamāno paṭiggāhakatova uppajjati, itaro pana deyyadhammato, parivārajanatopi uppajjeyyeva. Uppajjituṃ yuttanti uppajjanārahaṃ. Tesaṃyeva pāṇātipātīnaṃ. Yajanaṃ nāmettha dānaṃ adhippetaṃ, na aggijuhananti āha ‘‘yajataṃ bhavanti **detu bhava’’**nti. Vissajjatūti muttacāgavasena vissajjatu. Abbhantaranti ajjhattaṃ, sakasantāneti attho.

343. なすこと、自らに応じて限度を伴い、限定を伴った果報を生じさせるゆえに「様態」であり、原因であるので、「十の様態によってとは、十の原因によって」と言われた。「あるいは受者から」とは、より強力になって生じるものは受者からこそ生じるが、他のものは施すべき物から、また従者たちからも生じるであろう。「生じるのがふさわしい」とは、生じるに値するということである。それら不殺生を守る者たち自身の(心において)。祭祀とはここでは布施が意図されており、火の供養ではないので、「尊者が祭祀を施されますように、尊者が与えられますように」と言われた。「放擲せよ」とは、寛大に手放すことによって放擲せよということである。「内部において」とは内面的に、自己の相続においてという意味である。

344. Heṭṭhā soḷasa parikkhārā vuttā yaññassa te vatthuṃ katvā, idha pana sandassanādivasena anumodanāya āraddhattā vuttaṃ **‘‘soḷasahi ākārehī’’**ti. Dassetvā attano desanānubhāvena paccakkhato viya phalaṃ dassetvā, anekavāraṃ pana kathanato ca āmeḍitavacanaṃ. Tamatthanti yathāvuttaṃ dānaphalavasena kammaphalasambandhaṃ. Samādapetvāti sutamattameva akatvā yathā rājā tamatthaṃ sammadeva ādiyati citte karonto suggahitaṃ katvā gaṇhāti, tathā sakkaccaṃ ādāpetvā. Āmeḍitakāraṇaṃ heṭṭhā vuttameva.

344. 前段では十六の資具が祭祀の対象として説かれたが、ここでは教示等による随喜が始められたため、「十六の様態によって」と説かれた。「示して」とは、自らの説法の威力によってまるで目の前のことのように果報を示してということであり、何度も語ることから反復の表現である。「その意味を」とは、前述の通り布施の果報に基づく業と果報の結びつきのことである。「勧め励まして」とは、単に聞くだけにとどめさせず、王がその意味を正しく受け入れ、心に留めてしっかりと把握して受け取るように、恭敬して受け取らせて、ということである。反復の理由は前述の通りである。

**‘‘Vippaṭisāravinodanenā’’**ti idaṃ nidassanamattaṃ lobhadosamohaissāmacchariyamānādayopi hi dānacittassa upakkilesā, tesaṃ vinodanenapi taṃ samuttejitaṃ nāma hoti tikkhavisadabhāvappattito. Āsannatarabhāvato vā vippaṭisārassa tabbinodanameva gahitaṃ, pavattitepi hi dāne tassa sambhavato. Yāthāvato vijjamānehi guṇehi tuṭṭhapahaṭṭhabhāvāpādanaṃ sampahaṃsananti āha **‘‘sundaraṃ te…pe… thutiṃ katvā kathesī’’**ti. Dhammatoti saccato. Saccañhi dhammato anapetattā dhammaṃ, upasamacariyābhāvato samaṃ, yuttabhāvena kāraṇanti ca vuccatīti.

「後悔を除去することによって」とは一例にすぎない。実に貪欲、瞋恚、愚痴、嫉妬、物惜しみ、傲慢なども布施の心の汚れであり、それらを除去することによっても、その心は鋭敏で清浄な状態に達することから奮い立たせられたと言える。あるいは後悔がより身近なものであることから、その除去のみが挙げられたのである。実に布施が実行された後にも後悔が生じることがあるからである。真実に存在する功徳によって喜び楽しむ状態をもたらすことが歓喜させることであり、それゆえに「あなたの……は素晴らしいと称讃して語った」と言われた。「法によって」とは真理によってである。真理とは法から離れていないがゆえに「法」であり、静寂の行いであるゆえに「平等(サマ)」であり、妥当であるゆえに「道理」とも呼ばれる。

345. Tasmiṃ yaññe rukkhatiṇacchedopi nāma nāhosi, kuto pāṇavadhoti pāṇavadhābhāvasseva daḷhīkaraṇatthaṃ sabbaso viparītagāhāvidūsitañcassa dassetuṃ pāḷiyaṃ ‘‘neva gāvo haññiṃsū’’ti ādiṃ vatvāpi ‘‘na rukkhā chijjiṃsū’’tiādi vuttaṃ, tenāha **‘‘kiṃ pana gāvo’’**tiādi. Barihisatthāyāti paricchedanatthāya. Vanamālāsaṅkhepenāti vanapupphehi ganthitamālāniyāmena. Bhūmiyaṃ vā pattharantīti vedibhūmiṃ parikkhipantā tattha pantharanti. Antogehadāsādayoti antojātadhanakkītakaramarānītasayaṃdāsā. Pubbamevāti bhatikaraṇato pageva. Gahetvā karontīti divase divase gahetvā karonti. Tajjitāti gajjitā. Piyasamudācārenevāti iṭṭhavacaneneva. Phāṇitena cevāti ettha ca-saddo avuttasamuccayattho, tena paṇītapaṇītānaṃ nānappakārānaṃ khādanīyabhojanīyādīnañceva vatthamālāgandhavilepanayānaseyyādīnañca saṅgaho daṭṭhabbo, tenāha **‘‘paṇītehi sappitelādisammissehevā’’**tiādi.

345. その祭祀においては、木や草の伐採さえもなかった。どうして生き物の殺害があろうか。まさに殺生がないことを確固たるものとするため、またすべての誤った見解によって損なわれていないことを示すために、聖典において「牛も殺されず」等と説いた後にも「木も伐採されず」等と説かれた。それゆえに「まして牛などは……」等と言われた。「祭壇の境界のために」とは、区画を定めるために。「花輪の形に」とは、野の花で編まれた花輪の様式に。「あるいは地面に敷き広げる」とは、祭壇の地を囲んでそこに敷き広げる。「家の奴婢たち等」とは、家の中で生まれた者、金銭で買い取られた者、捕虜として連れてこられた者、自ら奴隷となった者たちである。「あらかじめ」とは、労役を課すよりも前に。「受け取って行う」とは、日々に受け取って行うことである。「脅され」とは、怒鳴りつけられること。「親愛の振る舞いによってのみ」とは、喜ばしい言葉によってのみ。「糖蜜とともに」の「ともに(および)」という語は、説かれていないものを総括する意味である。それによって極めて上等な様々な種類の硬軟の食物等、および衣服、花輪、香、塗香、乗り物、寝具などの包含と見なされるべきであり、それゆえに「上等な澄ましバターや油等と混ぜ合わされたものによってのみ」等と言われた。

346. Saṃ nāma dhanaṃ, tassa patīti sapati, dhanavā. Diṭṭhadhammikasamparāyikahitāvahattā tassa hitanti sāpateyyaṃ, tadeva dhanaṃ. Tenāha **‘‘pahūtaṃ sāpateyyaṃ ādāyāti bahuṃ dhanaṃ gahetvā’’**ti. Gāmabhāgenāti saṅkittanavasena gāme vā gahetabbabhāgena.

346. 「自(サ)」とは財産のことであり、その主であるゆえに「サパティ」、すなわち財産家である。現世と来世の利益をもたらすことから、彼にとって有益なものが「財産(サーパテイヤ)」であり、それこそが財貨である。それゆえに「莫大な財産を携えてとは、多くの財貨を受け取って」と言われた。「村の取り分によって」とは、告知に基づく村における、あるいは受け取るべき分け前によって。

347. **‘‘Yāguṃ pivitvā’’**ti yāgusīsena pātarāsabhojanamāha. Puratthimena yaññavāṭassāti rañño dānasālāya nātidūre puratthimadisābhāgeti attho, yato tattha pātarāsaṃ bhuñjitvā akilantarūpāyeva sāyanhe sālaṃ pāpuṇanti **‘‘dakkhiṇena yaññavāṭassā’’**ti ādīsupi eseva nayo.

347. 「粥を飲んで」とは、粥を筆頭とする朝の食事のことを言っている。「祭場の東方に」とは、王の施療院(施捨堂)から遠くない東の方角にという意味である。なぜなら、そこで朝食をとって疲れることもなく夕方に施捨堂に到着するからである。「祭場の南方に」等においても同様の道理である。

348. Parihārenāti bhagavantaṃ garuṃ katvā agāravaparihārena.

348. 「礼節をもって」とは、世尊を重んじ、無礼な振る舞いを避けることによって。

Niccadānaanukulayaññavaṇṇanā

常施・家系祭祀釈

349. Uṭṭhāya samuṭṭhāyāti dāne uṭṭhānavīriyaṃ sakkaccaṃ katvā. Appasambhārataroti ativiya parittasambhāro. Samārabhīyati yañño etehīti samārambhā, sambhārasambharaṇavasena pavattasattapīḷā. Appaṭṭhataroti pana ativiya appakiccoti attho. Vipākasaññitaṃ atisayena mahantaṃ sadisaphalaṃ etassāti mahapphalataro. Udayasaññitaṃ atisayena mahantaṃ nissandādiphalaṃ etassāti mahānisaṃsataro. Dhuvadānānīti dhuvāni thirāni acchinnāni katvā dātabbadānāni. Anukulayaññānīti anukulaṃ kulānukkamaṃ upādāya dātabbadānāni, tenāha **‘‘amhāka’’**ntiādi. Nibaddhadānānīti nibandhetvā niyametvā paveṇīvasena pavattitadānāni.

349. 「奮起して奮起して」とは、施しにおいて精進の奮起を恭敬して行って。「より準備の少ない」とは、極めて準備物が少ないことである。これらによって祭祀が開始されるゆえに「開始(事業)」、すなわち資具を調えることに基づいて生じる衆生の苦難である。「より手数の少ない」とは、極めてなすべき仕事が少ないという意味である。異熟と呼ばれる、極めて広大で相応しい果報をこれ(布施)が持つゆえに「より大果あるもの」である。功徳の現起と呼ばれる、極めて広大な流出果などをこれが持つゆえに「より大功徳あるもの」である。「恒常の施し」とは、恒常で確固とした、絶やすことのないものとして施されるべき布施のことである。「家系に応じた祭祀」とは、家系に従い、家柄の順序に基づいて施されるべき布施のことである。それゆえに「私たちの……」等と言われた。「不断の施し」とは、結びつけ定められて、伝統として行われる布施のことである。

Hatthidantena pavattitā dantamayasalākā, yattha dāyakānaṃ nāmaṃ aṅkanti. Raññoti setavāhanarañño.

象牙によって作られた象牙の札であり、そこに施者たちの名が刻まれる。「王の」とは、セータヴァーハナ王のことである。

Ādīnīti ādi-saddena ‘‘seno viya maṃsapesiṃ kasmā okkhanditvā gaṇhāsī’’ti evamādīnaṃ saṅgaho. Pubbacetanāmuñcacetanāaparacetanāsampattiyā dāyakassa vasena tīṇi aṅgāni, vītarāgatāvītadosatāvītamohatāpaṭipattiyā dakkhiṇeyyassa vasena tīṇīti evaṃ chaḷaṅgasamannāgatāya dakkhiṇāya. Aparāparaṃ uppajjanakacetanāvasena mahānadī viya, mahogho viya ca ito cito ca abhisanditvā okkhanditvā pavattiyā puññameva puññābhisando.

「……等」の「等」という語によって、「鷹が肉片を急襲して奪うように、なぜ奪うのか」というこれらなどの包含である。事前の思念、喜捨の思念、事後の思念の成就によって施者の側から三つの要素、離貪・離瞋・離痴の境地によって受者の側から三つの要素と、このように六つの要素を具足した布施である。次々に生じる思念によって、大河のように、また大洪水のようにあちらこちらから溢れ出し押し寄せて流れることから、功徳そのものが「功徳の流れ」である。

350. Kiccapariyosānaṃ natthi divase divase dāyakassa byāpārāpajjanato, tenāha **‘‘ekenā’’**tiādi. Kiccapariyosānaṃ atthi yathāraddhassa āvāsassa katipayenāpi kālena parisamāpetabbato, tenāha **‘‘paṇṇasāla’’**ntiādi. Suttantapariyāyenāti suttantapāḷinayena. (Ma. ni. 1.12, 13; a. ni. 2.58) nava ānisaṃsāti sītapaṭighātādayo paṭisallānārāmapariyosānā nava udayā. Appamattatāya cete vuttā.

350. 日々に施者の関与が生じるため、仕事の終わりがない。それゆえに「一つの……によって」等と言われた。着手された精舎はわずかな期間でも完成されるべきものであるため、仕事の終わりがある。それゆえに「草庵を……」等と言われた。「経典の論法によって」とは、経典の聖典の説き方に従ってのことである。(中部1.12-13; 増支部2.58)「九つの功徳」とは、寒さの防御から始まって独坐の楽しみを最後とする九つの現起のことである。これらはわずかなものとして説かれた。

Yasmā āvāsaṃ dentena nāma sabbampi paccayajātaṃ dinnameva hoti. Dve tayo gāme piṇḍāya caritvā kiñci aladdhā āgatassapi chāyūdakasampannaṃ ārāmaṃ pavisitvā nhāyitvā patissaye muhuttaṃ nipajjitvā vuṭṭhāya nisinnassa kāye balaṃ āharitvā pakkhittaṃ viya hoti. Bahi vicarantassa ca kāye vaṇṇadhātu vātātapehi kilamati, patissayaṃ pavisitvā dvāraṃ pidhāya muhuttaṃ nipannassa visabhāgasantati vūpasammati, sabhāgasantati patiṭṭhāti, vaṇṇadhātu āharitvā pakkhittā viya hoti. Bahi vicarantassa ca pāde kaṇṭako vijjhati, khāṇu paharati, sarīsapādiparissayā ceva corabhayañca uppajjati, patissayaṃ pavisitvā dvāraṃ pidhāya nipannassa sabbe te parissayā na honti, sajjhāyantassa dhammapītisukhaṃ, kammaṭṭhānaṃ manasi karontassa upasamasukhañca uppajjati bahiddhā vikkhepābhāvato. Bahi vicarantassa ca kāye sedā muccanti, akkhīni phandanti, senāsanaṃ pavisanakkhaṇe mañcapīṭhādīni na paññāyanti, muhuttaṃ nisinnassa pana akkhīnaṃ pasādo āharitvā pakkhitto viya hoti, dvāravātapānamañcapīṭhādīni paññāyanti. Etasmiñca āvāse vasantaṃ disvā manussā catūhi paccayehi sakkaccaṃ upaṭṭhahanti. Tena vuttaṃ ‘‘āvāsaṃ dentena nāma sabbampi paccayajātaṃ dinnameva hotī’’ti, tasmā ete yathāvuttā sabbepi ānisaṃsā veditabbā. Tena vuttaṃ ‘‘appamattatāya cete vuttā’’ti.

なぜなら、住居を施す者によって、あらゆる生活の必需品(資具)が施されたことになるからである。二、三の村を托鉢して何も得られずに戻ってきた者であっても、木陰と水に恵まれた園林に入り、水浴びをして住居においてしばらく横たわり、起き上がって坐れば、身体に力が補給されたようになる。また外を歩き回る者の身体においては、風や太陽の熱によって肌の色艶が衰えるが、住居に入って扉を閉め、しばらく横たわれば、不調和な相続が静まり、調和した相続が確立し、肌の色艶が補給されたようになる。また外を歩き回る者の足には棘が刺さり、切り株にぶつかり、爬虫類などの危険や盗賊の恐怖が生じるが、住居に入って扉を閉めて横たわる者には、それらすべての危険がなくなる。読誦する者には法の喜びの安楽が、瞑想対象を作意する者には寂静の安楽が生じる。外部への散乱がないからである。また外を歩き回る者の身体からは汗が流れ、目がかすみ、宿所に入る瞬間には寝台や椅子などが見えなくなるが、しばらく坐っていれば、視力の清浄さが補給されたようになり、扉や窓、寝台や椅子などが見えるようになる。そしてこの住居に住んでいる(修行者を)見て、人々は四種の必需品をもって恭敬して給仕する。それゆえに「住居を施す者によって、あらゆる必需品が施されたことになる」と説かれたのであり、したがってこれら前述のすべての功徳が知られるべきである。それゆえに「これらはわずかなものとして説かれた」と言われた。

Sītanti ajjhattaṃ dhātukkhobhavasena vā bahiddhā utuvipariṇāmavasena vā uppajjanakasītaṃ. Uṇhanti aggisantāpaṃ, tassa vanaḍāhādīsu (vanadāhādīsu vā sārattha. ṭī. cūḷavagga 3.295) sambhavo veditabbo. Paṭihantīti paṭibāhati, yathā tadubhayavasena kāyacittānaṃ bādhanaṃ na hoti, evaṃ karoti. Sītuṇhabbhāhate hi sarīre vikkhittacitto bhikkhu yoniso padahituṃ na sakkoti. Vāḷamigānīti sīhabyagghādicaṇḍamige. Guttasenāsanañhi āraññakampi pavisitvā dvāraṃ pidhāya nisinnassa te parissayā na hontīti. Sarīsapeti ye keci sarante gacchante dīghajātike sappādike. Makaseti nidassanamattametaṃ, ḍaṃsādīnampi etesveva (etaneva sārattha. ṭī. cūḷavagga 3.295) saṅgaho daṭṭhabbo. Sisireti sisirakālavasena, sattāhavaddalikādivasena ca uppanne sisirasamphasse. Vuṭṭhiyoti yadā tadā uppannā vassavuṭṭhiyo paṭihanatīti yojanā.

「寒さ」とは、内部の四大の乱れによって、あるいは外部の気候の変化によって生じる寒さのことである。「暑さ」とは、火の熱さのことであり、それは山火事などにおいて生じるものと知られるべきである。「防ぐ」とは、退けることであり、その双方によって心身の妨げが生じないようにする。実に寒暑に苛まれた身体では、心が散乱した比丘は如理に精進することができない。「獰猛な獣たち」とは、獅子や虎などの狂暴な野獣のことである。防護された宿所は、たとえ森林の中であっても、入って扉を閉めて坐る者にはそれらの危険がないからである。「爬虫類」とは、這って進む長い体の蛇などのことである。「蚊」とは一例にすぎず、虻などもこれらに包含されると見なされるべきである。「冷気において」とは、冬の季節によって、また七日間の長雨などによって生じる冷気の接触においてのことである。「雨を」とは、その時々に生じる降雨を防ぐ、と結びつけられる。

Vātātapo ghoroti rukkhagacchādīnaṃ ummūlabhañjanādivasena pavattiyā ghoro sarajaarajādibhedo vāto ceva gimhapariḷāhasamayesu uppattiyā ghoro sūriyātapo ca. Paṭihaññatīti paṭibāhīyati. Leṇatthanti nānārammaṇato cittaṃ nivattetvā paṭisallānārāmatthaṃ. Sukhatthanti vuttaparissayābhāvena phāsuvihāratthaṃ. Jhāyitunti aṭṭhatiṃsāya ārammaṇesu yattha katthaci cittaṃ upanibandhitvā upanijjhāyituṃ. Vipassitunti aniccādito saṅkhāre sammasituṃ.

「猛烈な風と太陽の熱」とは、樹木や藪を根こそぎ倒すことによって生じる猛烈な、塵を伴う風および塵を伴わない風、そして夏の猛暑の時期に生じる猛烈な日光の熱のことである。「退けられる」とは、防がれる。「避難のために」とは、様々な対象から心を退けて独坐を楽しむために。「安楽のために」とは、前述の危険がないことによる快適な生活のために。「禅定を修めるために」とは、三十八の瞑想対象のうちのいずれかに心を繋ぎ止めて専注して思惟するために。「内観(ヴィパッサナー)のために」とは、無常等から諸行を正しく観察するために。

Vihāreti patissaye. Kārayeti kārāpeyya. Rammeti manorame nivāsasukhe. Vāsayettha bahussuteti kāretvā pana ettha vihāresu bahussute sīlavante kalyāṇadhamme nivāseyya, te nivāsento pana tesaṃ bahussutānaṃ yathā paccayehi kilamatho na hoti, evaṃ annañca pānañca vatthasenāsanāni ca dadeyya ujubhūtesu ajjhāsayasampannesu kammakammaphalānaṃ, ratanattayaguṇānañca saddahanena vippasannena cetasā.

「精舎を」とは、住居を。「建立させよ」とは、建立させるのがよい。「快適な」とは、心にかなう、住み心地のよい。「多聞の者たちをここに住まわせよ」とは、精舎を建立させたなら、ここに多聞で戒を保つ立派な修行者たちを住まわせるのがよい。彼らを住まわせるにあたっては、それらの多聞の者たちが必要品によって疲弊することがないように、食べ物、飲み物、衣服、寝具などを、正直で志に満ちた者たちに、業と業の果報、ならびに三宝の功徳を信じる清らかな心をもって与えるのがよい。

Idāni gahaṭṭhapabbajitānaṃ aññamaññūpakāritaṃ dassetuṃ **‘‘te tassā’’**ti gāthamāha. Tattha teti bahussutā. Tassāti upāsakassa. Dhammaṃ desentīti sakalavaṭṭadukkhapanūdanaṃ saddhammaṃ desenti. Yaṃ so dhammaṃ idhaññāyāti so upāsako yaṃ saddhammaṃ imasmiṃ sāsane sammāpaṭipajjanena jānitvā aggamaggādhigamena anāsavo hutvā parinibbāti ekādasaggivūpasamena sīti bhavati.

今や在家の信者と出家者の相互の助け合いを示すために、「彼らは彼に……」という詩偈を説かれた。そこにおいて「彼らは」とは、多聞の者たちである。「彼に」とは、優婆塞(在家信者)に。「法を説く」とは、すべての輪廻の苦しみを除去する正法を説く。「彼がここでその法を知って」とは、その優婆塞がこの教えにおいて正しく実践することによってその正法を知り、最上の道(阿羅漢道)の獲得によって無漏の者となって完全なる涅槃に入る、すなわち十一の火の静まりによって清涼となる。

Sītapaṭighātādayo vipassanāvasānā terasa, annādilābho, dhammassavanaṃ, dhammāvabodho, parinibbānanti evaṃ sattarasa.

寒さの防御から内観の完了に至る十三と、食物等の獲得、聴法、法の覚知、完全なる涅槃の、このように十七である。

351. Attano santakāti attaniyā. Duppariccajanaṃ lobhaṃ niggaṇhituṃ asakkontassa. Saṅghassa vā gaṇassa vā santiketi yojanā. Tatthāti yathāgahite saraṇe. Natthi punappunaṃ kattabbatā viññūjātikassāti adhippāyo. **‘‘Jīvitapariccāgamayaṃ puñña’’**nti ‘‘sace tvaṃ na yathāgahitaṃ saraṇaṃ bhindissati, evāhaṃ taṃ māremī’’ti yadipi koci tiṇhena satthena jīvitā voropeyya, tathāpi ‘‘nevāhaṃ buddhaṃ na buddhoti, dhammaṃ na dhammoti, saṅghaṃ na saṅghoti vadāmī’’ti daḷhataraṃ katvā gahitasaraṇassa vasena vuttaṃ.

351. 「自身の所有物」とは、自分のものである。「手放しがたい貪欲を制止することができない者の」。「僧伽あるいは教団の御前において」と結びつけられる。「そこにおいて」とは、受け入れた通りの帰依において。賢者たる性質の者には、何度も行うべき必要性はない、というのが意図である。「生命を投げ出すほどの功徳」とは、「もしお前が受け入れた通りの帰依を破棄しないなら、私はお前を殺すであろう」と、たとえ誰かが鋭い刃物で命を奪おうとしても、それでも「私は仏を仏でないとは言わず、法を法でないとは言わず、僧を僧でないとは言わない」と、より強固にして受け入れた帰依に基づいていると説かれた。

352. Saraṇaṃ upagatena kāyavācācittehi sakkaccaṃ vatthuttayapūjā kātabbā, tattha ca saṃkileso parihanitabbo, sikkhāpadāni pana samādānamattaṃ, sampattavatthuto viramaṇamattañcāti saraṇagamanato sīlassa appaṭṭhataratā, appasamārambhataratā ca veditabbā. Sabbesaṃ sattānaṃ jīvitadānādinā daṇḍanidhānato, sakalalokiyalokuttaraguṇādhiṭṭhānato cassa mahapphalamahānisaṃsataratā daṭṭhabbā.

352. 帰依した者によって、身・口・意によって恭敬して三宝の供養がなされるべきであり、そこにおいて汚れは避けられるべきであるが、学処(戒)は受持することのみ、生起した対象から離れることのみであるため、帰依よりも戒の方がより手数が少なく、より事業(準備)が少ないと知られるべきである。すべての衆生に無畏を施すことなどによって危害を加えないこと、そしてすべての世間的・出世間的な功徳の基礎であることから、これ(戒)がより大果あり、より大功徳あるものであると見なされるべきである。

Vakkhamānanayena ca verahetutāya veraṃ vuccati pāṇātipātādipāpadhammo, taṃ maṇati ‘‘mayi idha ṭhitāya kathaṃ āgacchasī’’ti tajjentī viya nīharatīti veramaṇī, tato vā pāpadhammato viramati etāyāti ‘‘viramaṇī’’ti vattabbe niruttinayena ikārassa ekāraṃ katvā **‘‘veramaṇī’’**ti vuttā. Asamādinnasīlassa sampattato yathāupaṭṭhitavītikkamitabbavatthuto virati sampattavirati. Samādānavasena uppannā virati samādānavirati. Setu vuccati ariyamaggo, tappariyāpannā hutvā pāpadhammānaṃ samucchedavasena ghātanavirati setughātavirati. Idāni tisso viratiyo sarūpato dassetuṃ **‘‘tatthā’’**tiādi vuttaṃ. Pariharatīti avītikkamavasena parivajjeti. Na hanāmīti ettha iti-saddo ādiattho, tena ‘‘adinnaṃ nādiyāmī’’ti evaṃ ādīnaṃ saṅgaho, -saddena vā, tenāha **‘‘sikkhāpadāni gaṇhantassā’’**ti.

また後述の論法によれば、怨恨の原因となるがゆえに殺生などの悪法を「怨(ヴェーラ)」と言い、それを「私がここにいるのに、どうしてやって来るのか」と叱責するかのように追い払うゆえに「離止(ヴェーラマニー)」であり、あるいはその悪法からこれによって離れるゆえに「離止(ヴィラマニー)」と称されるべきところを、語源解釈の論法に従ってイ音をエ音に変えて「離止(ヴェーラマニー)」と説かれた。戒を受持していない者の、生起したままの犯すべき対象からの離止が「現前の離止」である。受持に基づいて生じた離止が「受持の離止」である。橋と呼ばれるものは聖道であり、それに含まれるものとなって悪法を根絶することによる断絶の離止が「断絶の離止」である。今や三つの離止を具体的に示すために、「そこにおいて……」等と説かれた。「防護する」とは、不犯によって避けることである。「殺さない」というここにおいて、「……と」という語は「……等」の意味であり、それによって「与えられていないものを取らない」などの包含であり、あるいは「または」という語による。それゆえに「学処を受け取る者の」と言われた。

Maggasampayuttāti sammādiṭṭhiyādimaggasampayuttā. Idāni tāsaṃ viratīnaṃ ārammaṇato vibhāgaṃ dassetuṃ **‘‘tatthā’’**tiādi vuttaṃ. Purimā dveti sampattasamādānaviratiyo. Pacchimāti setughātavirati. Sabbānipi bhinnāni honti ekajjhaṃ samādinnattā. Tadeva bhijjati visuṃ visuṃ samādinnattā. Gahaṭṭhavasena cetaṃ vuttaṃ. Bhedo nāma natthi paṭipakkhasamucchindanena akuppasabhāvattā, tenāha **‘‘bhavantarepī’’**ti. Yonisiddhanti manussatiracchānānaṃ uddhaṃ tiriyameva dīghatā viya jātisiddhanti attho. Bodhisatte kucchigate bodhisattamātusīlaṃ viya dhammatāya sabhāveneva siddhaṃ dhammatāsiddhaṃ, maggadhammatāya vā ariyamaggānubhāvena siddhaṃ dhammatāsiddhaṃ. Diṭṭhiujukaraṇaṃ nāma bhāriyaṃ dukkhaṃ, tasmā saraṇagamanaṃ sikkhāpadasamādānato mahaṭṭhatarameva, na appaṭṭhataranti adhippāyo. Yathā tathā vā gaṇhantassāpīti ādaragāravaṃ akatvā samādiyantassāpi. Sādhukaṃ gaṇhantassāpīti sakkaccaṃ sīlāni samādiyantassāpi, na diguṇaṃ, tiguṇaṃ vā ussāho karaṇīyo.

「道相応の」とは、正見などの聖道に相応した。「そこにおいて……」等は、それらの離止の対象による分類を示すために説かれた。「前の二つ」とは、現前と受持の離止のことである。「最後のもの」とは、断絶の離止のことである。一括して受持されたものであるため、すべてが破られる。別々に受持されたものであるため、それ(破られたもの)だけが破られる。これは在家の信者に基づいて説かれたものである。対立するものを断絶することによって動揺しない性質であるため、破綻ということはない。それゆえに「他の生存においても」と言われた。「胎生(本性)として成就した」とは、人間や畜生の上方や横への長さのように、生まれつき成就したという意味である。菩薩が胎内に宿った時の菩薩の母の戒のように、法性として本性によって成就したものが「法性成就」であり、あるいは道の法性として聖道の威力によって成就したものが「法性成就」である。見解を正しくすることは重い苦難であるため、帰依は学処の受持よりもより手数が多く、より手数が少ないのではない、というのが意図である。「どのようにであれ受け取る者にとっても」とは、敬意や恭敬を払わずに受持する者にとっても。「見事に受け取る者にとっても」とは、恭敬して諸戒を受持する者にとっても、二倍、三倍の努力がなされるべきではない。

Abhayadānatāya sīlassa dānabhāvo, anavasesaṃ vā sattanikāyaṃ dayati tena rakkhatīti dānaṃ, sīlaṃ. ‘‘Aggānī’’ti ñātattā aggaññāni. Cirarattatāya ñātattā rattaññāni. ‘‘Ariyānaṃ sādhūnaṃ vaṃsānī’’ti ñātattā vaṃsaññāni. **‘‘Porāṇānī’’**tiādīsu purimānaṃ etāni porāṇāni. Sabbaso kenacipi pakārena sādhūhi na kiṇṇāni na khittāni na chaḍḍitānīti asaṅkiṇṇāni. Ayañca nayo nesaṃ yathā atīte, evaṃ etarahi, anāgate cāti āha **‘‘asaṅkiṇṇapubbāni na saṅkiyanti na saṅkiyissantī’’**ti. Tato eva appapikuṭṭhāni na paṭikkhittāni. Na hi kadācipi viññū samaṇabrāhmaṇā hiṃsādipāpadhammaṃ anujānanti. Aparimāṇānaṃ sattānaṃ abhayaṃ detīti sabbesu bhūtesu nihitadaṇḍattā sakalassapi sattanikāyassa bhayābhāvaṃ deti. Na hi ariyasāvakato kassaci bhayaṃ hoti. Averanti verābhāvaṃ. Abyāpajjhanti niddukkhataṃ.

無畏の施与であることによって戒は布施の性質を持ち、あるいは余すところのない衆生の群れを慈しみ、それによって保護するゆえに布施であり、戒である。「最上である」と知られているゆえに「最上のもの」である。久しい昔からのものであると知られているゆえに「古来のもの」である。「聖者たち、善士たちの家系である」と知られているゆえに「家系に属するもの」である。「原初のもの」等において、過去の者たちにとってこれらは原初のものである。善士たちによっていかなる点においても全く混濁されず、投げ捨てられず、放棄されなかったゆえに「不混濁のもの」である。そして彼らのこのありようは、過去においてそうであったように、現在においても、未来においてもそうであることから、「かつて混濁されたことがなく、混濁されず、混濁されることもないであろう」と言われた。まさにそのゆえに、賢者たちによって非難されず、拒絶されない。実にいかなる時も、分別ある沙門やバラモンたちが加害などの悪法を容認することはない。「無量の衆生に無畏を与える」とは、すべての生き物に対して暴力(杖)を置いていることから、すべての衆生の群れに恐怖のない状態を与える。実に聖弟子から誰かに恐怖が生じることはない。「怨みなき」とは怨恨のないこと。「害なき」とは苦痛のないことである。

Nanu ca pañcasīlaṃ sabbakālikaṃ, na ca ekantato vimuttāyatanaṃ, saraṇagamanaṃ pana buddhuppādahetukaṃ, ekantavimuttāyatanañca, tattha kathaṃ saraṇāgamanato pañcasīlassa mahapphalatāti āha **‘‘kiñcāpī’’**tiādi. Jeṭṭhakanti uttamaṃ. **‘‘Saraṇagamaneyeva patiṭṭhāyā’’**ti iminā tassa sīlassa saraṇagamanena abhisaṅkhatatamāha.

しかし、五戒はすべての時代に通じるものであり、必ずしも解脱の境地ではない。一方、帰依は仏の出現を原因とするものであり、絶対的な解脱の境地である。そうであるなら、なぜ帰依よりも五戒の方がより大果であるのか、と問い、「……であるとしても」等と言われた。「最上の」とは、勝れた。「まさに帰依に立脚して」とは、これによってその戒が帰依によって整えられた状態を述べている。

353. Īdisamevāti evaṃ saṃkilesaṃ paṭipakkhameva hutvā. Heṭṭhā vuttehi guṇehīti ettha heṭṭhā vuttaguṇā nāma saraṇagamanaṃ, sīlasampadā, indriyesu guttadvāratāti evaṃ ādayo. Paṭhamajjhānaṃ nibbattento na kilamatīti yojanā. Tānīti paṭhamajjhānādīni. **‘‘Paṭhamajjhāna’’**nti ukkaṭṭhaniddeso ayanti āha **‘‘ekaṃ kappa’’**nti, ekaṃ mahākappanti attho. Hīnaṃ pana paṭhamajjhānaṃ, majjhimañca asaṅkhyeyyakappassa tatiyaṃ bhāgaṃ, upaḍḍhakappañca **āyuṃ deti. ‘‘Dutiyaṃ aṭṭhakappe’’**ti ādīsupi iminā nayena attho veditabbo, mahākappavaseneva ca gahetabbaṃ. Yasmā vā paṇītāniyevettha jhānāni adhippetāni mahapphalatarabhāvadassanaparattā desanāya, tasmā **‘‘paṭhamajjhānaṃ ekaṃ kappa’’**ntiādi vuttaṃ. Tadevāti catutthajjhānameva. Yadi evaṃ kathaṃ āruppatāti āha **‘‘ākāsānañcāyatanādī’’**tiādi.

353. 「このようなものこそが」とは、このように汚れの対立するものとなって。「前述の徳によって」というここにおいて、前述の徳とは、帰依、戒の具足、諸根の護持などのことである。「初禅を生じさせる者は疲弊しない」と結びつけられる。「それらは」とは、初禅などのことである。「初禅」とは最上の規定であることから、「一劫」と言われた。一劫とは一無量劫(大劫)という意味である。しかし劣った初禅、および中位の初禅は、無量劫の三分の一、および半劫の寿命を与える。「第二禅は八劫」等においても、この方法によって意味を知るべきであり、大劫に基づいて把握されるべきである。あるいは、ここで意図されているのは勝れた諸禅定だけであり、教説がより大果であることを示すことを主眼としているため、「初禅は一劫」等と説かれたのである。「まさにそれ」とは、第四禅のことである。もしそうなら、どのようにして無色界の禅定となるのかと問い、「空無辺処等……」等と言われた。

Sammadeva niccasaññādipaṭipakkhavidhamanavasena pavattamānā pubbabhāgiye eva bodhipakkhiyadhamme sammānentī vipassanā vipassakassa anappakaṃ pītisomanassaṃ samāvahatīti āha **‘‘vipassanā…pe… abhāvā’’**ti. Tenāha bhagavā –

常住の想いなどの対立するものを完全に打破することに基づいて生じ、初段階の菩提分法を正しく高める内観は、内観の実践者に少なからぬ歓喜と喜びをもたらすので、「内観は……ないことから」と言われた。それゆえに世尊は説かれた――

‘‘Yato yato sammasati, khandhānaṃ udayabbayaṃ;

「諸々の蘊の生滅を、随所に正しく観察するごとに、

Labhatī pītipāmojjaṃ, amataṃ taṃ vijānata’’nti. (dha. pa. 374);

歓喜と喜悦を得る。それを知る者にとって、それは不死(涅槃)である」(法句経374)と。

Yasmā ayaṃ desanā iminā anukkamena imāni ñāṇāni nibbattentassa vasena pavattitā, tasmā **‘‘vipassanāñāṇe patiṭṭhāya nibbattento’’**ti heṭṭhimaṃ heṭṭhimaṃ uparimassa uparimassa patiṭṭhābhūtaṃ katvā vuttaṃ. Samānarūpanimmānaṃ nāma manomayiddhiyā aññehi asādhāraṇakiccanti āha **‘‘attano…pe… mahapphalā’’**ti. Vikubbanadassanasamatthatāyāti hatthiassādivividharūpakaraṇaṃ vikubbanaṃ, tassa dassanasamatthabhāvena. Icchiticchitaṭṭhānaṃ nāma purimajātīsu icchiticchito khandhappadeso. Samāpentoti pariyosāpento.

この教えはこの順序に従ってこれらの智を生じさせる者に基づいて説かれたものであるため、「内観の智に立脚して生じさせる」とは、下位のものを上位のものの基盤として説かれたのである。同等の形態を創造することは、意成の神通の他者とは共有されない働きであることから、「自らの……大果ある」と言われた。「変現を示す能力によって」とは、象や馬などの多様な姿を作ることが変現であり、それを示すことができる能力によって。「望み望んだ場所」とは、過去世において望み望んだ蘊の領域のことである。「完結させる」とは、成就させることである。

Kūṭadantaupāsakattapaṭivedanākathāvaṇṇanā

クータダンタの優婆塞帰依談釈

354-8. Sabbe te pāṇayoti ‘‘satta ca usabhasatānī’’tiādinā vutte sabbe pāṇino. Ākulabhāvoti bhagavato santike dhammassa sutattā pāṇīsu anuddayaṃ upaṭṭhapetvā ṭhitassa ‘‘kathañhi nāma mayā tāva bahū pāṇino māraṇatthāya bandhāpitā’’ti citte paribyākulabhāvo udapādi. Sutvāti ‘‘bandhanato mocitā’’ti sutvā. Kāmacchandavigamena kallacittatā arogacittatā, byāpādavigamena mettāvasena muducittatā akathinacittatā, uddhaccakukkuccappahānena vikkhepavigamanato vinīvaraṇacittatā tehi na pihitacittatā, thinamiddhavigamena udaggacittatā saṃpaggaṇhanavasena alīnacittatā, vicikicchāvigamena sammāpaṭipattiyā adhimuttatāya pasannacittatā ca hotīti āha **‘‘kallacittantiādi anupubbikathānubhāvena vikkhambhitanīvaraṇataṃ sandhāya vutta’’**nti. Yaṃ panettha atthato avibhattaṃ, taṃ suviññeyyameva.

354-8. 「それらすべての生き物たち」とは、「七百頭の雄牛たち」等と説かれたすべての生き物たちのことである。「混乱した状態」とは、世尊の御前で法を聞いたことにより、生き物たちへの慈悲の心を起こして留まっていた彼に、「どうして私はこれほど多くの生き物を殺害のために縛らせてしまったのか」と心に激しい混乱が生じた。「聞いて」とは、「束縛から解放された」と聞いて。「柔軟な心」とは、欲求の離脱によって健全な心、病のない心となることである。「温和な心」とは、瞋恚の離脱によって慈愛に基づく柔和な心、頑固でない心となることである。「蓋(障害)なき心」とは、掉挙・悪作の断滅によって散乱が離れることから蓋のない心、それらに覆われていない心となることである。「歓喜せる心」とは、惛沈・睡眠の離脱によって高揚した心、奮起によって沈滞していない心となることである。「澄明な心」とは、疑念の離脱によって正しい実践に専心することから清らかな心となることである。それゆえに「柔軟な心等は、次第の説法の威力によって諸蓋が鎮伏された状態を指して説かれた」と言われた。ここにおいて意味が詳しく解説されていないものは、容易に理解できるものばかりである。

Kūṭadantasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā.

クータダンタ経釈の深奥義釈を了す。