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8. Mahāsīhanādasuttavaṇṇanā8. 大師子吼経の解説

Acelakassapavatthuvaṇṇanā

裸形カッサパの物語の解説

381. Yasmiṃ raṭṭhe taṃ nagaraṃ, tassa raṭṭhassapi yasmiṃ nagare tadā bhagavā vihāsi, tassa nagarassapi etadeva nāmaṃ, tasmā uruññāyanti uruññājanapade uruññāsaṅkhāte nagareti attho. Ramaṇīyoti manoharabhūmibhāgatāya chāyūdakasampattiyā, janavivittatāya ca manoramo. Nāmanti gottanāmaṃ. Tapanaṃ santapanaṃ kāyassa khedanaṃ tapo, so etassa atthīti tapassī, taṃ tapassiṃ. Yasmā tathābhūto tapaṃ nissito, tapo vā taṃ nissito, tasmā āha **‘‘tapanissitaka’’**nti. Lūkhaṃ vā pharusaṃ sādhusammatācāravirahato napasādanīyaṃ ājīvati vattatīti lūkhājīvī, taṃ lūkhājīviṃ. Muttācārādīti ādi-saddena parato pāḷiyaṃ (dī. ni. 1.397) āgatā hatthāpalekhanādayo saṅgahitā. Uppaṇḍetīti uhasanavasena paribhāsati. Upavadatīti avaññāpubbakaṃ apavadati, tenāha **‘‘hīḷeti vambhetī’’**ti. Dhammassa ca anudhammaṃti ettha dhammo nāma hetu ‘‘hetumhi ñāṇaṃ dhammapaṭisambhidā’’tiādīsu (vibha. 720) viyāti āha **‘‘kāraṇassa anukāraṇa’’**nti. Kāraṇanti cettha tathāpavattassa saddassa attho adhippeto tassa pavattihetubhāvato. Atthappayutto hi saddappayogo. Anukāraṇanti ca so eva parehi tathā vuccamāno. Parehīti ‘‘ye te’’ti vuttasattehi parehi. Vuttakāraṇenāti yathā tehi vuttaṃ, tathā ce tumhehi na vuttaṃ, evaṃ sati tehi vuttakāraṇena sakāraṇo hutvā tumhākaṃ vādo vā tato paraṃ tassa anuvādo koci appamattakopi viññūhi garahitabbaṃ ṭhānaṃ kāraṇaṃ nāgaccheyya, kimevaṃ nāgacchatīti yojanā. **‘‘Idaṃ vuttaṃ hotī’’**tiādinā tamevatthaṃ saṅkhepato dasseti.

381. その都市がある国土も、世尊が当時住まわれていた都市も、同じ名称であったため、「ウルニャーにおいて」とはウルニャー地方のウルニャーと呼ばれる都市において、という意味である。「快適な」とは、心地よい土地であり、木陰と水に恵まれ、人がいなくて静かであることから心地よい。「名前を」とは姓(ゴートラ)の名である。苦行・苦痛・身体を疲れさせることが「苦行(タパ)」であり、それを持つ者が「苦行者(タパッシー)」であり、その苦行者を。「そのような者は苦行に依拠している、あるいは苦行が彼に依拠している」ことから、「苦行に依拠する者」と言われた。粗野で荒々しく、善人として認められた振る舞いを欠いているため清らかな信仰を起こさせない生活をしている者を「粗食・粗悪な生活者」という。その粗悪な生活者を。「放埓な振る舞い等」とは、「等」という言葉によって、後に経文(長部)に出てくる「手を舐めること」などが含まれる。「嘲笑する」とは、あざ笑いながら非難すること。「誹謗する」とは、軽蔑して非難することであり、それゆえに「蔑み、嘲る」と言われた。「法にかなう法」とは、ここでの「法」とは原因のことであり、「原因に関する智が法無碍解である」等のように、「正当な理由にかなう論理」と言われた。ここでの「正当な理由」とは、そのように発せられた言葉の意味が意図されている。それが言葉の生起の原因だからである。言葉の運用は意味に基づいているからである。そして「論理」とは、他者によってそのように言われることである。「他者によって」とは、「それらの」と言われた有情たちによって。「言われた正当な理由によって」とは、彼らによって言われたように、もしあなた方によって言われなかったならば、そのような場合、彼らによって言われた理由により、理由を伴ってあなた方の主張あるいはそれに対する反論のいかなる些細な点も、識者たちによって非難されるべき余地や理由が生じることはないであろうに、どうしてそのように生じないのか、という結びつきである。「これはこういう意味である」等によって、その意味を簡潔に示している。

382. Idāni yaṃ vibhajjavādaṃ sandhāya bhagavatā ‘‘na me te vuttavādino’’ti saṅkhepato vatvā taṃ vibhajitvā dassetuṃ ‘‘idhāhaṃ kassapā’’tiādi vuttaṃ, taṃ vibhāgena dassento **‘‘idhekacco’’**tiādimāha. Bhagavā hi niratthakaṃ anupasamasaṃvattanikaṃ kāyakilamathaṃ ‘‘attakilamathānuyogo dukkho anariyo anatthasaṃhito’’tiādinā (saṃ. ni. 3.1081; mahāva. 13; paṭi. ma. 2.30) garahati. Sātthakaṃ pana upasamasaṃvattanikaṃ ‘‘āraññiko hoti, paṃsukūliko hotī’’tiādinā vaṇṇeti. Appapuññatāyāti apuññatāya. Tīṇi duccaritāni pūretvāti micchādiṭṭhibhāvato kammaphalaṃ paṭikkhipanto ‘‘natthi dinna’’ntiādinā (dī. ni. 1.171; ma. ni. 1.445; 2.94, 95, 225; 3.91, 115; saṃ. ni. 3.210; dha. sa. 1221; vibha. 938) micchādiṭṭhiṃ purakkhatvā tathā tathā tīṇi duccaritāni pūretvā. Anesanavasenāti kohaññe ṭhatvā asantaguṇasambhāvanicchāya micchājīvavasena. Ime dveti ‘‘appapuñño puññavā’’ti ca vutte duccaritakārino dve puggale sandhāya.

382. 今や世尊が分別説(分析的な主張)を指して「彼らは私の説くところを語る者ではない」と簡潔に述べて、それを分析して示すために「カッサパよ、ここに私は…」等と言われたことを詳細に示すために、「ここに或る者は」等と言われた。世尊は無益で心の静寂をもたらさない肉体の苦行を「自己を苦しめる修行は苦であり、聖なるものではなく、無益である」等として非難される。しかし有益で心の静寂をもたらす苦行を「森林に住む者となり、糞掃衣を着る者となる」等として称賛される。「福徳が少ないことによって」とは、無福であることによって。「三つの悪行を満たして」とは、邪見の状態から業と果報を否定し「布施には何の意味もない」等として邪見を重んじ、様々に三つの悪行を満たして、ということである。「不当な探求によって」とは、偽善に立ち、存在しない徳を誇示しようと欲する邪命によって。「これら二つの」とは、「福徳の少ない者と福徳のある者」と言われた悪行を行う二人の人物を指して。

‘‘Ime **dve sandhāyā’’**ti ettha pana dutiyanaye ‘‘appapuñño, puññavā’’ti ca vutte sucaritakārinoti ādinā yojetabbaṃ. Kammakiriyavādino hi ime dve puggalā. Iti paṭhamadutiyanayesu vuttanayeneva tatiyacatutthanayesu yojanā veditabbā.

「これら二つの…を指して」という点について、第二の理路では「福徳の少ない者、福徳のある者」と言われた善行を行う者、というように結びつけられるべきである。これら二人の人物は業と行為を認める者だからである。このように、第一と第二の理路で述べられた方法に従って、第三と第四の理路においても結びつきが理解されるべきである。

Bāhirakācārayutto titthiyācārayutto, na vimuttācāro. Attānaṃ sukhetvāti adhammikena sukhena attānaṃ sukhetvā, tenāha **‘‘duccaritāni pūretvā’’**ti. **‘‘Na dāni mayā sadiso atthī’’**tiādinā tissannaṃ maññanānaṃ vasena duccaritapūraṇamāha. Micchādiṭṭhivasenāti ‘‘natthi kāmesu doso’’ti evaṃ pavattamicchādiṭṭhivasena. Paribbājikāyāti pabbajjaṃ upagatāya tāpasadārikāya. Daharāyāti taruṇāya. Mudukāyāti sukhumālāya. Lomasāyāti tanutambalomatāya appalomāya. Kāmesūti vatthukāmesu. Pātabyatanti paribhuñjitabbaṃ, pātabyatanti vā paribhuñjanakataṃ. Āpajjantoti upagacchanto. Paribhogattho hi ayaṃ -saddo, kattusādhano ca tabba-saddo, yathāruci paribhuñjantoti attho. Kilesakāmopi hi assādiyamāno vatthukāmantogadhoyeva.

「外道の行儀を具えた」とは、外道の振る舞いを具えたということであり、解脱の振る舞いではない。「自己を快楽させ」とは、非合法な快楽によって自己を喜ばせ、それゆえに「悪行を満たして」と言われた。「今や私に匹敵する者はいない」等によって、三つの思い上がり(慢心)に基づいて悪行を満たすことを述べている。「邪見によって」とは、「諸々の欲に過失はない」というように生じた邪見によって。「遍歴女に」とは、出家した苦行者の娘に。「若年の」とは若い。「柔和な」とは繊細な。「有毛の」とは、薄く銅色の毛を持つ、体毛の少ない。「諸欲において」とは、欲望の対象において。「享受されるべきこと」とは享受されるべきこと、あるいは享受されるべき状態。「達する」とは赴く。「享受する」という意味の語であり、能動的な意味の言葉であって、望むままに享受する、という意味である。煩悩としての欲もまた、味わわれるときには欲望の対象に含まれるからである。

Idanti yathāvuttaṃ atthappabhedaṃ vibhajjanaṃ. Titthiyavasena āgataṃ aṭṭhakathāyaṃ tathā vibhattattā. Sāsanepīti imasmiṃ sāsanepi.

「これ」とは、述べられた通りの意味の区別の分析である。外道に基づいて現れたものである。義注においてそのように分別されているからである。「教えにおいても」とは、この仏陀の教えにおいても。

Arahattaṃ attani asantaṃ ‘‘atthī’’ti vippaṭijānitvā. Sāmantajappanaṃ, paccayapaṭisevanaṃ, iriyāpathanissitanti imāni tīṇi vā kuhanavatthūni. Tādiso ti dhutaṅga- (mi. pa. 4.2; visuddhi. 1.22) samādānavasena lūkhājīvī eva. Dullabhasukho bhavissāmi duggatīsu upapattiyāti adhippāyo.

あるいは自己に存在しない阿羅漢性を「存在する」と偽って公言して。あるいは近隣への暗示、受用、威儀に依拠すること、これら三つの偽りの事柄。「そのような者であれ」とは、頭陀行の誓受によって粗悪な生活をする者そのものである。「私は悪趣への再生において得難い幸福を得るであろう」という意図である。

383. Asukaṭṭhānatoti asukabhavato. Āgatāti nibbattanavasena idhāgatā. Idāni gantabbaṭṭhānanti āyatiṃ nibbattanaṭṭhānaṃ. Puna upapattinti āyatiṃ anantarabhavato tatiyaṃ upapattiṃ, puna upapattīti punappunaṃ nibbatti. Kena kāraṇenāti yathābhūtaṃ ajānanto hi icchādosavasena yaṃ kiñci garaheyya, ahaṃ pana yathābhūtaṃ jānanto sabbaṃ taṃ kena kāraṇena garahissāmi, taṃ kāraṇaṃ natthīti adhippāyo, tenāha **‘‘garahitabbamevā’’**tiādi. Tamatthanti garahitabbasseva garahaṇaṃ, pasaṃsitabbassa ca pasaṃsanaṃ.

383. 「どこそこの場所から」とは、どこそこの生存から。「来た」とは、再生することによってここに来た。「今や赴くべき場所」とは、将来再生する場所のこと。「再度の誕生を」とは、将来の直後の生存の次の第三の再生を、「再度の誕生」とは何度も繰り返す誕生のこと。「いかなる理由によって」とは、如実に知らない者は欲や怒りによって何であれ非難するであろうが、私は如実に知っているのに、いかなる理由によってそのすべてを非難するであろうか、そのような理由はない、という意図である。それゆえに「非難されるべきことだけを」等と言われた。「その意味を」とは、非難されるべきことだけを非難し、称賛されるべきことを称賛することである。

Na koci ‘‘na sādhū’’ti vadati diṭṭhadhammikassa, samparāyikassa ca atthassa sādhanavaseneva pavattiyā bhaddakattā. Pañcavidhaṃ veranti pāṇātipātādipañcavidhaṃ veraṃ. Tañhi pañcavidhassa sīlassa paṭisattubhāvato, sattānaṃ verahetutāya ca ‘‘vera’’nti vuccati. Tato eva taṃ na koci ‘‘sādhū’’ti vadati, tathā diṭṭhadhammikādiatthānaṃ asādhanato, sattānaṃ sādhubhāvassa ca dūsanato. Na nirundhitabbanti rūpaggahaṇe na nivāretabbaṃ. Dassanīyadassanattho hi cakkhupaṭilābhoti tesaṃ adhippāyo. Yadaggena tesaṃ pañcadvāre asaṃvaro sādhu, tadaggena tattha saṃvaro na sādhūti āha **‘‘puna yaṃ te ekaccanti pañcadvāre saṃvara’’**nti.

現世の、および来世の利益を達成することに基づいて生じることによって優れているため、誰も「良くない」とは言わない。「五種の怨恨」とは、殺生などの五種の怨恨のことである。それは五戒と相反するものであり、有情たちにとって怨恨の原因となるため「怨恨」と呼ばれる。それゆえに誰もそれを「良い」とは言わない。そのように現世などの利益を達成せず、有情たちの善なる状態を損なうからである。「遮断されるべきではない」とは、姿を捉えることにおいて遮られるべきではない。美しいものを見るためにこそ眼の獲得はある、というのが彼らの意図である。彼らにとって五門における不抑制が良いとされる限度において、そこにおける抑制は良くないとされる。それゆえに「さらに彼らが或るものを…五門における抑制を」と言われた。

Atha vā yaṃ te ekaccaṃ vadanti ‘‘sādhū’’ti te ‘‘eke samaṇabrāhmaṇā’’ti vuttā titthiyā yaṃ attakilamathānuyogādiṃ ‘‘sādhū’’ti vadanti, mayaṃ taṃ na ‘‘sādhū’’ti vadāma. Yaṃ te ekaccaṃ vadanti ‘‘na sādhū’’ti yaṃ pana te anavajjapaccayaparibhogaṃ, sunivatthasupārupanādisammāpaṭipattiñca ‘‘na sādhū’’ti vadanti, taṃ mayaṃ ‘‘sādhū’’ti vadāmāti evaṃ pettha attho veditabbo.

あるいは、彼らが或るものを「良い」と言うのは、「或る沙門・婆羅門たち」と言われた外道たちが自己を苦しめる修行などを「良い」と言うのに対し、私たちはそれを「良い」とは言わない。彼らが或るものを「良くない」と言うのは、彼らが過失なき生活資具の受用や、整然と着飾るなどの正しい実践を「良くない」と言うのに対し、私たちはそれを「良い」と言う、とここでの意味はこのように理解されるべきである。

Evaṃ yaṃ paravādamūlakaṃ catukkaṃ dassitaṃ, tadeva puna sakavādamūlakaṃ katvā dassitanti pakāsento **‘‘eva’’**ntiādimāha. Yañhi kiñci kenaci samānaṃ, tenapi taṃ samānameva, tathā asamānaṃ pīti. Samānāsamānatanti samānāsamānatāmattaṃ. Anavasesato hi pahātabbānaṃ dhammānaṃ pahānaṃ sakavāde dissati, na paravāde. Tathā paripuṇṇameva ca upasampādetabbadhammānaṃ upasampādanaṃ sakavāde, na paravāde. Tena vuttaṃ ‘‘tyāha’’ntiādi.

このように、他者の主張に基づく四句が示されたが、それと同じものが再び自らの主張に基づくものとされて示された、と明らかにして「このように」等と言われた。何であれ或るものと等しいものは、それによっても等しいのであり、同様に等しくないものもそうである。「等しさと等しくなさ」とは、単なる等しさと等しくなさのことである。断じられるべき諸法の完全な断滅は自らの主張に見出されるが、他者の主張には見出されない。同様に、完全に具足されるべき諸法の具足も自らの主張に見出されるが、他者の主張には見出されない。それゆえに「私は彼らに」等と言われた。

Samanuyuñjāpanakathāvaṇṇanā

徹底的な尋問の説法の解説

385. Laddhiṃ pucchantoti ‘‘kiṃ samaṇo gotamo saṃkilesadhamme anavasesaṃ pahāya vattati, udāhu pare gaṇācariyā. Ettha tāva attano laddhiṃ vadā’’ti laddhiṃ pucchanto. Kāraṇaṃ pucchantoti ‘‘samaṇo gotamo saṃkilesadhamme anavasesaṃ pahāya vattatī’’ti vutte ‘‘kena kāraṇena evamatthaṃ gāhayā’’ti kāraṇaṃ pucchanto. Ubhayaṃ pucchantoti ‘‘idaṃ nāmettha kāraṇa’’nti kāraṇaṃ vatvā paṭiññāte atthe sādhiyamāne anvayato, byatirekato ca kāraṇaṃ samatthetuṃ sadisāsadisabhedaṃ upamodāharaṇadvayaṃ pucchanto, ubhayaṃ pucchanto kāraṇassa ca tilakkhaṇasampattiyā yathāpaṭiññāte atthe sādhite sammadeva anupacchā bhāsanto nigamento samanubhāsati nāma. Upasaṃharitvāti upanetvā. **‘‘Kiṃ te’’**tiādi upasaṃharaṇākāradassanaṃ. Dutiyapadeti ‘‘saṅghena vā saṅgha’’nti imasmiṃ pade.

385. 「見解を問う」とは、「沙門ゴータマは汚れの法を余すところなく断じて行動しているのか、それとも他の宗派の師たちか。まずはここで自らの見解を述べよ」と見解を問うこと。「理由を問う」とは、「沙門ゴータマは汚れの法を余すところなく断じて行動している」と言われたときに、「いかなる理由によってそのように意味を把握するのか」と理由を問うこと。「両方を問う」とは、「ここにこのような理由がある」と理由を述べて、主張された意味が論証される際に、順・逆の両面から理由を立証するために類似と非類似の二つの譬喩の例を問うことであり、両方を問い、理由が三相を具えていることによって主張された通りの意味が論証されたときに、正しく後から追及して語り、結論づけることを「徹底的に論難する」という。「引き寄せて」とは、適用して。「彼らにとって何が」等は、引き寄せる様態の提示である。「第二の句において」とは、「僧伽と僧伽を」というこの句において。

Tamatthanti taṃ pahātabbadhammānaṃ anavasesaṃ pahāya vattanasaṅkhātañca samādātabbadhammānaṃ anavasesaṃ samādāya vattanasaṅkhātañca atthaṃ. Yojetvāti akusalādipadehi yojetvā. Akosallasambhūtaṭṭhena akusalā ceva tatoyeva akusalāti ca saṅkhaṃ gatāti saṅkhātā tattha purimapadena ekantākusale vadati, dutiyapadena taṃsahagate, taṃpakkhiye ca, tenāha **‘‘koṭṭhāsaṃ vā katvā ṭhapitā’’**ti, akusalapakkhiyabhāvena vavatthāpitāti attho. Avajjaṭṭho dosaṭṭho gārayhapariyāyattāti āha **‘‘sāvajjāti sadosā’’**ti. Ariyā nāma niddosā, ime pana katthacipi niddosā na hontīti niddosaṭṭhena ariyā bhavituṃ nālaṃ asamatthā.

「その意味を」とは、断じられるべき諸法を余すところなく断じて行動すること、および受持されるべき諸法を余すところなく受持して行動することと呼ばれる意味を。「結びつけて」とは、不善などの言葉と結びつけて。「巧みさの欠如から生じたという意味で不善であり、まさにそれゆえに不善であると数えられる」ことから「不善と呼ばれる」のであり、そこにおいて前の句によって全くの不善を語り、第二の句によってそれに伴うもの、その仲間を語る。それゆえに「部分として立てられた」と言われ、不善の仲間の状態として確定された、という意味である。「過失の意味、欠点の意味、非難されるべきことの同義語である」ことから「有過失とは欠点のあること」と言われた。聖者とは無欠点な者のことであるが、これらはどこにおいても無欠点ではないため、無欠点という意味での聖者になるには適しておらず、無能である。

386-392. Yanti kāraṇe etaṃ paccattavacananti āha **‘‘yena viññū’’**ti. Yaṃ vā panāti ‘‘yaṃ pana kiñcī’’ti asambhāvanavacanametanti āha **‘‘yaṃ vā taṃ vā appamattaka’’**nti. Gaṇācariyā pūraṇādayo. Satthuppabhavattā saṅghassa saṅghasampattiyāpi satthusampatti vibhāvīyatīti āha **‘‘saṅghapasaṃsāyapi satthuyeva pasaṃsāsiddhito’’**ti. Sā pana pasaṃsā pasādahetukāti pasādamukhena taṃ dassetuṃ **‘‘pasīdamānāpi hī’’**tiādi vuttaṃ. Tattha pi-saddena yathā anvayato pasaṃsā samuccīyati, evaṃ satthuvippaṭipattiyā sāvakesu, sāvakavippaṭipattiyā ca satthari appasādo samuccīyatīti daṭṭhabbaṃ. Sarīrasampattinti rūpasampattiṃ, rūpakāyapāripūrinti attho. Bhavanti vattāro rūpappamāṇā, ghosadhammappamāṇā ca. Puna bhavanti vattāroti dhammappamāṇavaseneva yojetabbaṃ. Yā saṅghassa pasaṃsāti ānetvā sambandho.

386-392. 「〜であること」とは、理由においてこれは主格の言葉であるため、「識者がそれによって」と言われた。「あるいはまた」とは、「いかなる些細なものであっても」という不確実を表す言葉であるため、「何であれ些細なものであっても」と言われた。「宗派の師たち」とはプーラナ・カッサパらである。僧伽は師を源泉とするため、僧伽の徳によっても師の徳が明らかになる。それゆえに「僧伽の称賛によっても師への称賛そのものが成就するからである」と言われた。その称賛は清らかな信仰を原因とするため、清らかな信仰を通じてそれを示すために「信仰を抱く者たちも実に」等と述べられた。そこにおいて「〜も」という言葉によって、順次において称賛が集められるように、師の不正な行いによって弟子たちに対して、また弟子の不正な行いによって師に対して不信が集められる、と見なされるべきである。「身体の徳」とは容姿の美しさ、肉身の完成という意味である。姿を基準とする者、音声の教えを基準とする者が語る者となる。「再び語る者となる」とは、法を基準とすることに基づいて結びつけるべきである。「僧伽に対する称賛」と引き寄せて結びつける。

Tattha yā buddhānaṃ, buddhasāvakānaṃyeva ca pāsaṃsatā, aññesañca tadabhāvo jotito, taṃ viratippahānasaṃvaruddesavasena nīharitvā dassetuṃ **‘‘ayamadhippāyo’’**tiādi vuttaṃ. Tattha setughātavirati nāma ariyamaggavirati. Vipassanāmattavasenāti ‘‘anicca’’nti vā ‘‘dukkha’’nti vā vividhaṃ dassanamattavasena, na pana nāmarūpavavatthānapaccayapariggaṇhanapubbakaṃ lakkhaṇattayaṃ āropetvā saṅkhārānaṃ sammasanavasena. Itarānīti samucchedapaṭippassaddhinissaraṇappahānāni. **‘‘Sesa’’**nti pañcasīlato añño sabbo sīlasaṃvaro, ‘‘khamo hotī’’tiādinā (ma. ni. 1.24; 3.159; a. ni. 4.114) vutto suparisuddho khantisaṃvaro, ‘‘paññāyete pidhiyyare’’ti (su. ni. 1041; cūḷani. 60) evaṃ vutto kilesānaṃ samucchedako maggañāṇasaṅkhāto ñāṇasaṃvaro, manacchaṭṭhānaṃ indriyānaṃ pidahanavasena pavatto parisuddho indriyasaṃvaro, ‘‘anuppannānaṃ pāpakānaṃ akusalānaṃ dhammānaṃ anuppādāyā’’tiādinā (dī. ni. 2.402; ma. ni. 1.135; saṃ. ni. 5.8; vibha. 205) vutto sammappadhānasaṅkhāto vīriyasaṃvaroti imaṃ saṃvarapañcakaṃ sandhāyāha. Pañca kho panime pātimokkhuddesātiādi sāsane sīlassa bahubhāvaṃ dassetvā tadekadese eva paresaṃ avaṭṭhānadassanatthaṃ yathāvuttasīlasaṃvarasseva puna gahaṇaṃ.

そこにおいて諸仏および仏弟子たちだけに称賛されるべき状態があり、他の者たちにはそれがないことが照らし出されたが、それを離・断・抑制の提示に基づいて取り出して示すために「これが意図である」等と述べられた。そこにおいて「堤防を破壊する離」とは聖道の離のことである。「単なるヴィパッサナー(観)の力によって」とは、「無常」あるいは「苦」という多様な観察の力だけによるのであり、名色の確定と条件の把握を前置きとして三相を当てはめて諸行を観察することによるのではない。「他のもの」とは、正断・安息・出離の断のことである。「残り」とは、五戒以外のすべての戒の抑制、「耐え忍ぶ者となる」等と述べられた極めて清浄な忍辱の抑制、「智慧によってこれらは塞がれる」とこのように述べられた煩悩を断じる道智と呼ばれる智慧の抑制、意を第六とする諸根を閉ざすことに基づいて生じる清浄な根の抑制、「未生の悪しき不善の諸法を生じさせないために」等と述べられた正勤と呼ばれる精進の抑制という、この五種の抑制を指して言われた。「実にこれら五つの波羅提木叉の項目がある」等と教えにおける戒の豊富さを示して、その一部分にのみ他者が留まっていることを示すために、上述の戒の抑制そのものが再び取り上げられている。

Ariyaaṭṭhaṅgikamaggavaṇṇanā

聖八支道の解説

393. Sīhanādanti seṭṭhanādaṃ, abhītanādaṃ kenaci appaṭivattiyanādanti attho. ‘‘Ayaṃ yathāvutto mama vādo aviparīto, tassa aviparītabhāvo imaṃ maggaṃ paṭipajjitvā aparappaccayato jānitabbo’’ti evaṃ **aviparītabhāvāvabodhanatthaṃ. ‘‘Atthi kassapā’’**tiādīsu yaṃ maggaṃ paṭipanno samaṇo gotamo vadanto yuttapattakāle, tathabhāvato bhūtaṃ, ekaṃsato hitāvihabhāvena atthaṃ, dhammato anapetattā dhammaṃ, vinayayogato paresaṃ vinayanato ca vinayaṃ vadatīti sāmaṃyeva attapaccakkhatova jānissati, so mayā sayaṃ abhiññā sacchikatvā pavedito sakalavaṭṭadukkhanissaraṇabhūto atthi kassapa maggo, tassa ca adhigamūpāyabhūtā pubbabhāgapaṭipadāti ayamettha yojanā. Tena ‘‘samaṇo gotamo ime dhamme’’tiādinayappavatto vādo kenaci asaṃkampiyo yathābhūtasīhanādoti dasseti.

393. 「師子吼」とは最上の叫び、恐れなき叫び、何者にも論駁されない叫びという意味である。「この述べられた私の主張は誤りがない。その誤りのなさは、この道を実践して自らの体験によって知られるべきである」と、このように誤りのなさを理解させるために「カッサパよ、存在する」等と述べられた。沙門ゴータマが語るとき、適した時に、真実であることから事実を、決定的に有益であることから義(利益)を、法から離れていないことから法を、調伏に結びつき他者を調伏することから律を語る、その道を実践した者は、自分自身で直接に知るであろう。私が自ら通達して現証し宣説した、輪廻のすべての苦しみを脱出させるものである道が存在するのであり、カッサパよ、それを獲得するための手段である前段階の道も存在する、とこれがここでの結びつきである。これによって「沙門ゴータマはこれらの法を」等の方法で生じた主張は何者にも動揺させられない如実の師子吼であることを示している。

‘‘Evametaṃ yathābhūtaṃ sammappaññāya passatī’’tiādīsu (a. ni. 3.134) viya **maggañca paṭipadañca ekato katvā dassento. ‘‘Ayamevā’’**ti vacanaṃ maggassa puthubhāvapaṭikkhepanatthaṃ, sabbaariyasādhāraṇabhāvadassanatthaṃ, sāsane pākaṭabhāvadassanatthañca. Tenāha ‘‘ekāyano ayaṃ bhikkhave maggo’’ti, (dī. ni. 2.373; ma. ni. 1.106; saṃ. ni. 5.367, 384, 409)‘‘eseva maggo natthañño dassanassa visuddhiyā’’ti (dha. pa. 274),

「このようにこれを如実に正しい智慧によって見る」等のように、道と実践道を一つにして示しながら、「これこそが」という言葉は、道が多数あることを否定するため、すべての聖者に共通であることを示すため、そして教えにおいて顕著であることを示すためである。それゆえに「比丘たちよ、この道は唯一の道である」「見解の清浄のための道はこれのみであり、他にはない」と言われた。

‘‘Ekāyanaṃ jātikhayantadassī,

「生滅の尽きる処を見る者、

Maggaṃ pajānāti hitānukampī;

慈悲深き者は唯一の道を知る。

Etena maggena tariṃsu pubbe,

過去の者たちもこの道によって渡り、

Tarissanti ye ca taranti ogha’’nti. (saṃ. ni. 5.384, 409; mahāni. 191; cūḷani. 107, 121; netti. 170);

暴流を渡るであろう者たちも、渡りつつある者たちもそうである。」(相応部等)

Sabbesu suttapadesesu abhidhammapadesesu ca ekovāyaṃ maggo pākaṭo paññāto āgato cāti.

すべての経典の箇所および阿毘達磨の箇所において、この道だけが明白であり、知られており、説かれているのである。

Tapopakkamakathāvaṇṇanā

苦行の企ての説法の解説

394. Tapoyeva upakkamitabbato ārabhitabbato tapopakkamoti āha **‘‘tapārambhā’’**ti. Ārambhanañcettha karaṇamevāti āha ‘‘tapokammānīti **attho’’**ti. Samaṇakammasaṅkhātāti samaṇehi kattabbakammasaññitā. Niccoloti nissaṭṭhacelo sabbena sabbaṃ paṭikkhittacelo. Naggiyavatasamādānena **naggo. ‘‘Ṭhitakova uccāraṃ karotī’’**tiādi nidassanamattaṃ, vamitvā mukhavikkhālanādiācārassapi tena vissaṭṭhattā. Jivhāya hatthaṃ apalikhati apalihati udakena adhovanato. Dutiyavikappepi eseva nayo. ‘‘Ehi bhaddante’’ti vutte upagamanasaṅkhāto vidhi ehibhaddanto, taṃ caratīti ehibhaddantiko, tappaṭikkhepena na ehibhaddantiko. Na karoti samaṇena nāma parassa vacanakarena na bhavitabbanti adhippāyena. Puretaranti taṃ ṭhānaṃ attano upagamanato puretaraṃ. Taṃ kira so ‘‘bhikkhunā nāma yādicchakī eva bhikkhā gahetabbā’’ti adhippāyena na gaṇhāti. Uddissakataṃ ‘‘mama nimittabhāvena bahū khuddakā pāṇā saṅghātaṃ āpāditā’’ti na gaṇhāti. Nimantanaṃ na sādiyati ‘‘evaṃ tesaṃ vacanaṃ kataṃ bhavissatī’’ti. Kumbhīādīsupi so sattasaññīti āha **‘‘kumbhīkaḷopiyo’’**tiādi.

394. 苦行こそが企てられるべき、始められるべきものであることから苦行の企てであるため、「苦行の開始」と言われた。ここでの「開始」とは実行そのものであるため、「苦行の行為という意味である」と言われた。「沙門の行為と呼ばれる」とは、沙門たちによってなされるべき行為と名付けられたもの。「無衣の者」とは衣服を捨て去った者、完全に衣服を拒絶した者のことである。裸形行の誓受によって裸形である。「立ったままで大便をする」等は単なる例示であり、嘔吐した後に口をすすぐなどの作法も彼によって捨て去られているからである。舌で手を舐め回す、水で洗わないことから舐めるのである。第二の選択肢においても同様の理路である。「尊者よ、来てください」と言われたときに行くという作法を「エーヒバッダンタ」といい、それを行う者を「エーヒバッダンティカ」といい、それを拒絶することによって「エーヒバッダンティカではない」という。沙門たる者は他者の言葉に従う者であってはならないという意図によって行わないのである。「より前もって」とは、その場所へ自分が赴くことよりも前もって。彼は「比丘たる者は偶然得られた托鉢の食事だけを受け取るべきである」という意図をもって受け取らないのである。自分向けに作られたものは「私のために多くの小さな生き物が殺された」として受け取らない。招待を受け入れないのは「そうすれば彼らの言葉に従ったことになるであろう」と考えるからである。瓶などにおいても彼は生き物の認識を持つため、「瓶や鉢…」等と言われた。

Kabaḷantarāyoti kabaḷassa antarāyo hotīti. Gāmasabhāgādivasena saṅgamma kittenti etissāti saṅkitti, tathā saṃhaṭataṇḍulādisañcayo. Manussāti veyyāvaccakaramanussā.

「一口の妨げ」とは、一口の食事の妨げになるということ。「寄り集まって調達する」とは、村の共同などによって集まって褒め称えることであり、そのように集められた米などの蓄えのこと。「人々」とは、雑務を行う使用人たちのことである。

Surāpānamevāti majjalakkhaṇappattāya surāya pānameva surāggahaṇena cettha merayampi saṅgahitaṃ. Ekāgārameva uñchatīti ekāgāriko. Ekālopeneva vattatīti ekālopiko. Dīyati etāyāti datti, dvattiālopamattagāhi khuddakaṃ bhikkhādānabhājanaṃ, tenāha **‘‘khuddakapātī’’**ti. Abhuñjanavasena eko aho etassa atthīti ekāhiko, āhāro. Taṃ ekāhikaṃ, so pana atthato ekadivasalaṅghakoti āha **‘‘ekadivasantarika’’**nti. **‘‘Dvīhika’’**ntiādīsupi eseva nayo. Ekāhaṃ abhuñjitvā ekāhaṃ bhuñjanaṃ ekāhavāro, taṃ ekāhikameva atthato. Dvīhaṃ abhuñjitvā dvīhaṃ bhuñjanaṃ dvīhavāro. Sesadvayepi eseva nayo. Ukkaṭṭho pana pariyāyabhattabhojaniko dvīhaṃ abhuñjitvā ekāhameva bhuñjati. Sesadvayepi eseva nayo.

「酒を飲むことだけ」とは、酒の特徴をもつ酒を飲むことだけである。ここでの「酒」という表現には、醸造酒も含まれている。「ただ一軒の家だけに托鉢する」ゆえに「一軒家行者」である。「一口の食物だけで生活する」ゆえに「一口行者」である。「これによって与えられる」ゆえに「鉢(小器)」であり、二口から三口分の食物を入れる小さな施食の器である。それゆえ「小鉢」と言った。「食べないことによって、彼には一日の期間がある」ゆえに「一日食」であり、食物のことである。その一日食について、彼は実質的に一日を飛び越える(一日おきに食べる)者であることから「一日おき」と言った。「二日食」などの句においてもこの方法が適用される。一日食べずに一日食べるのが一日交代であり、それは実質的には一日食のことである。二日食べずに二日食べるのが二日交代である。残りの二つ(三日食、七日食)においてもこの方法が適用される。しかし、最上等の交代食行者は、二日食べずに一日だけ食べる。残りの二つにおいてもこの方法が適用される。

395. Kuṇḍakanti tanutaraṃ taṇḍulasakalaṃ.

395. 「米糠」とは、より細かな米の破片のことである。

396. Saṇehi saṇavākehi nibbattavatthāni sāṇāni. Missasāṇāni masāṇāni, na bhaṅgāni. Erakatiṇādīnīti ādi-saddena akkamakacikadalīvākādīnaṃ saṅgaho. Erakādīhi katāni hi chavāni lāmakāni dussānīti vattabbataṃ labhanti.

396. 「麻の布」とは、大麻や麻の樹皮から作られた衣服のことである。「混紡の麻布」とは、交ぜ織りの麻布であり、純粋な麻布ではない。「エラカ草など」という句の「など」という言葉によって、アッカ(白花夾竹桃)、マカチ(繊維植物)、バナナの樹皮などが含まれる。エラカ草などで作られたものは、粗末で劣悪な衣服と呼ばれるに値するからである。

Micchāvāyāmavaseneva ukkuṭikavatānuyogoti āha **‘‘ukkuṭikavīriyaṃ anuyutto’’**ti. Thaṇḍilanti vā samā pakatibhūmi vuccati ‘‘patthaṇḍile pāturahosī’’tiādīsu (ma. ni. 4.10) viya, tasmā thaṇḍilaseyyanti anantarahitāya pakatibhūmiyaṃ seyyanti vuttaṃ hoti. Laddhaṃ āsananti nisīdituṃ yathāladdhaṃ āsanaṃ. Akopetvāti aññattha anupagantvā, tenāha **‘‘tattheva nisīdanasīlo’’**ti. So hi taṃ achaḍḍento apariccajanto akopento nāma hoti. Vikaṭanti gūthaṃ vuccati āsayavasena virūpaṃ jātanti katvā.

邪なる精進によってこそ蹲踞(うずくまり)の行に専従しているゆえに、「蹲踞の精進に専従する」と言った。「露出した地面」とは、「露出した地面に現れた」(中部4.10)などに見られるように、平坦な自然の地面のことである。それゆえ「露出した地面に横たわる」とは、何も敷かれていない自然の地面に横たわることであると説かれている。「得られた座」とは、座るために得られたままの座のことである。「動かさずに」とは、他の場所へ行かずにという意味であり、それゆえ「その場にのみ座る習性の者」と言った。彼はそれを投げ捨てず、放棄しないので「動かさない」と呼ばれるのである。「排泄物(ヴィカタ)」とは、消化管の作用によって異形となったものであることから、糞尿のことを言う。

Ettha ca ‘‘acelako hotī’’tiādīni vatapadāni yāva ‘‘na thusodakaṃ pivatī’’ti etāni ekavārāni. ‘‘Ekāgāriko vā’’tiādīni nānāvārāni, nānākālikāni vā. Tathā ‘‘sākabhakkho vā’’tiādīni, ‘‘sāṇānipi dhāretī’’tiādīni ca. Tathā hettha vā-saddaggahaṇaṃ, pi-saddaggahaṇañca kataṃ. Pi-saddopi vikappattho eva daṭṭhabbo. Purimesu pana na kataṃ. Evañca katvā ‘‘acelako hotī’’ti vatvā ‘‘sāṇānipi dhāretī’’tiādi vacanassa, ‘‘rajojalladharo hotī’’ti vatvā ‘‘udakorohanānuyogaṃ anuyutto’’ti vacanassa ca avirodho siddho hoti. Atha vā kimettha avirodhacintāya. Ummattakapacchisadiso hi titthiyavādo. Atha vā ‘‘acelako hotī’’ti ārabhitvā tappasaṅgena sabbampi attakilamathānuyogaṃ dassentena ‘‘sāṇānipi dhāretī’’tiādi vuttanti daṭṭhabbaṃ.

そしてここで、「無衣の者となり」などの修行条項から「米の研ぎ汁を飲まない」に至るまでは一連の回である。「あるいは一軒家行者となり」などは異なる回、あるいは異なる時期のものである。同様に「あるいは野菜を食べ」などや、「あるいは麻布を身につけ」なども同様である。それゆえにここでは「あるいは(vā)」という語や「〜も(pi)」という語が用いられている。「〜も」という語もまた選択(選択肢)の意味であると解されるべきである。しかし、以前の箇所では用いられていない。このように理解することで、「無衣の者となり」と言っておきながら「麻布を身につける」などと言い、「塵垢をまとう者となり」と言っておきながら「水浴の行に専従する」と言うことの矛盾のなさが成立する。あるいは、ここで矛盾のなさを考察することに何の意味があろうか。外道の教説は狂人の籠のようなものだからである。あるいはまた、「無衣の者となり」と説き始め、その文脈において自らを苦しめる行(自苦行)のすべてを示すために「麻布を身につける」などと説かれたと解されるべきである。

Tapopakkamaniratthakathāvaṇṇanā

苦行への着手が無益であることの解説

397. Sīlasampadādīhi vināti sīlasampadā, samādhisampadā, paññāsampadāti imāhi lokuttarāhi sampadāhi vinā na kadāci sāmaññaṃ vā brahmaññaṃ vā sambhavati, yasmā ca tadevaṃ, tasmā tesaṃ tapopakkamānaṃ niratthakataṃ dassentoti yojanā. **‘‘Dosaveravirahita’’**nti idaṃ dosassa mettāya ujupaṭipakkhatāya vuttaṃ. Dosa-ggahaṇena vā sabbepi jhānapaṭipakkhā saṃkilesadhammā gahitā, vera-ggahaṇena paccatthikabhūtā sattā. Yadaggena hi dosarahitaṃ, tadaggena verarahitanti.

397. 「戒の具足などを欠いて」とは、戒の具足、定の具足、慧の具足というこれら出世間の具足を欠いては、沙門性も婆羅門性も決して生じ得ない。そうであるからこそ、それらの苦行への着手が無益であることを示している、と結びつけられる。「怒りと怨念を離れた」とは、怒りが慈悲と直接に対立するものであることから説かれた。あるいは、「怒り」という語によって禅定の対立要因であるすべての煩悩が取られ、「怨念」という語によって敵対する生きとし生けるものが取られる。なぜなら、怒りを離れることを最上とするとき、怨念を離れることが最上となるからである。

398. Pākaṭabhāvena kāyati gametīti pakati, lokasiddhavādo, tenāha **‘‘pakati kho esāti pakatikathā esā’’**ti. Mattāyāti mattā-saddo ‘‘mattā sukhapariccāgā’’tiādīsu (dha. pa. 290) viya appatthaṃ antonītaṃ katvā pamāṇavācakoti āha **‘‘iminā pamāṇena evaṃ parittakenā’’**ti. Tena pana pamāṇena pahātabbo pakaraṇappatto paṭipattikkamoti āha **‘‘paṭipattikkamenā’’**ti. Sabbatthāti sabbavāresu.

398. 明らかな状態によって語られ理解されるものを「世間一般の常識(習俗)」といい、世間で成立している論説のことである。それゆえ「『それは世間一般のことである』とは、世間一般の言説である」と言った。「わずかばかりの」とは、「わずかな楽を捨てることによって」(法句経290)などに見られるように、「わずか(mattā)」という語は少量の意味を内に含んで分量を表す語であるゆえに、「この分量によって、このようにわずかなものによって」と言った。しかし、その分量によって断じられるべきものは文脈に応じた実践の階梯であるゆえに、「実践の階梯によって」と言った。「すべての箇所で」とは、すべての巡り(回)においてである。

399. Aññathā vadathāti yadi acelakabhāvādinā sāmaññaṃ vā brahmaññaṃ vā abhavissa, suvijānova samaṇo suvijāno brāhmaṇo. Yasmā pana tumhe ito aññathāva sāmaññaṃ brahmaññañca vadatha, tasmā dujjānova samaṇo dujjāno brāhmaṇo, tenāha **‘‘idaṃ sandhāyāhā’’**ti. Taṃ pakativādaṃ paṭikkhipitvāti pubbe yaṃ pākatikaṃ sāmaññaṃ brahmaññañca hadaye ṭhapetvā tena ‘‘dukkara’’ntiādi vuttaṃ, tameva sandhāya bhagavatāpi ‘‘pakati kho esā’’tiādi vuttaṃ. Idha pana taṃ pakativādaṃ pākatikasamaṇabrāhmaṇavisayaṃ kathaṃ paṭikkhipitvā paṭisaṃharitvā sabhāvatova paramatthatova samaṇassa brāhmaṇassa ca dujjānabhāvaṃ āvikaronto pakāsento. Tatrāpīti samaṇabrāhmaṇavādepi vuttanayeneva.

399. 「あなたがたは別の意味で語っている」とは、もし無衣であることなどによって沙門性や婆羅門性が成り立つのであれば、沙門は容易に知られ、婆羅門も容易に知られるであろう。しかし、あなたがたはこれとは異なる意味で沙門性と婆羅門性を語っているのだから、沙門は知りがたく、婆羅門も知りがたいのである。それゆえ「このことを意図して言った」と言った。「その世間一般の説を論駁して」とは、以前に世間一般の沙門性と婆羅門性を心に抱いて、彼が「なし難い」などと言ったまさにそのことを意図して、世尊もまた「それは世間一般のことである」などと言われた。しかしここでは、世間一般の沙門・婆羅門の領域に関するその世間の説を論駁し、退けて、本性からしても勝義からしても沙門と婆羅門が知りがたいものであることを明らかに示している。「そこにおいても」とは、沙門・婆羅門の説においても説かれた通りの方法によるということである。

Sīlasamādhipaññāsampadāvaṇṇanā

戒・定・慧の具足の解説

400-1. Paṇḍitoti hetusampattisiddhena paṇḍiccena samannāgato, kathaṃ uggahesi paripakkañāṇattā ghaṭe padīpena viya abbhantare samujjalantena paññāveyyattiyena tattha tattha bhagavatā desitamatthaṃ pariggaṇhanto tampi desanaṃ upadhāresi. Tassa cāti yo acelako hoti yāva udakorohanānuyogaṃ anuyutto viharati, tassa ca. Tā sampattiyo pucchāmi, yāhi samaṇo ca hotīti adhippāyo. Sīlasampadāyāti iti-saddo ādiattho, tena ‘‘cittasampadāya paññāsampadāyā’’ti padadvayaṃ saṅgaṇhāti asekkhasīlādikhandhattayasaṅgahitañhi arahattaṃ, tenāha **‘‘arahattaphalameva sandhāya vutta’’**ntiādi. Tattha idanti idaṃ vacanaṃ.

400-1. 「賢者」とは、原因の具足によって成就した賢明さを備えた者である。いかにして受け取ったかといえば、熟達した智慧をもつがゆえに、壺の中の灯火のように内側で輝く智慧の明晰さによって、それぞれの箇所で世尊が説かれた意味を把握し、その教えをよく心に留めたのである。「彼に対しても」とは、無衣の者となって水浴の行に専従して過ごすような者に対しても、という意味である。それらによって沙門となるような諸々の具足について尋ねる、というのが趣旨である。「戒の具足によって」という句の「〜など(iti)」という語は「初め」の意味であり、それによって「心の具足、慧の具足」という二つの句を含む。無学の戒などの三つの蘊に包摂されるものこそが阿羅漢果である。それゆえ「阿羅漢果そのものを意図して説かれた」などと言った。その文脈において「これ」とは、この言葉のことである。

Sīhanādakathāvaṇṇanā

獅子吼の言説の解説

402. Anaññasādhāraṇatāya, anaññasādhāraṇatthavisayatāya ca anuttaraṃ buddhasīhanādaṃ nadanto. Ativiya accantavisuddhatāya paramavisuddhaṃ. Paramanti ukkaṭṭhaṃ, tenāha **‘‘uttama’’**nti. Sīlameva lokiyasīlattā. Yathā anaññasādhāraṇaṃ bhagavato lokuttarasīlaṃ savāsanaṃ paṭipakkhaviddhaṃsanato, evaṃ lokiyasīlampi tassa anucchavikabhāvena sambhūtattā, samena samanti samasamanti ayamettha atthoti āha **‘‘mama sīlasamena sīlena mayā sama’’**nti. **‘‘Yadidaṃ adhisīla’’**nti lokiyaṃ, lokuttarañcāti duvidhampi buddhasīlaṃ ekajjhaṃ katvā vuttaṃ. Tenāha ‘‘sīlepī’’ti. Iti imanti evaṃ imaṃ sīlavisayaṃ. Paṭhamaṃ pavattattā paṭhamaṃ.

402. 他と共通しない(他に類を見ない)ものであり、他と共通しない勝義の領域を対象とするがゆえに、無上の仏の獅子吼を吼えるのである。極めて徹底して清浄であるがゆえに最高度に清浄である。「至高」とは最上のことであり、それゆえ「最上」と言った。世間の戒であるがゆえに「戒そのもの」である。世尊の出世間の戒が習気とともに反対勢力を粉砕するがゆえに他に類を見ないものであるのと同様に、世間の戒もまた彼にふさわしい状態として生じたものであることから、「同等なものと同等である」とは「全く等しい」というのがここでの意味である。それゆえ「私の戒と同等な戒において、私と等しい者」と言った。「この増上戒において」とは、世間と出世間の両方の仏の戒を一つにまとめて説いたものである。それゆえ「戒においても」と言った。「このようにこれを」とは、このようにこの戒の領域について、という意味である。最初に説かれたものであるから「最初のもの」である。

Tapatīti santappati, vidhamatīti attho. Jigucchatīti hīḷeti lāmakato ṭhapeti. Niddosattā ariyā ārakā kilesehīti. Maggaphalasampayuttā vīriyasaṅkhātā tapojigucchāti ānetvā sambandho. Paramā nāma sabbukkaṭṭhabhāvato. Yathā yuvino bhāvo yobbanaṃ, evaṃ jigucchino bhāvo jegucchaṃ. Kilesānaṃ samucchindanapaṭippassambhanāni samucchedapaṭipassaddhivimuttiyo. Nissaraṇavimutti nibbānaṃ. Atha vā sammāvācādīnaṃ adhisīlaggahaṇena, sammāvāyāmassa adhijegucchaggahaṇena, sammādiṭṭhiyā adhipaññāggahaṇena gahitattā aggahitaggahaṇena sammāsaṅkappasatisamādhayo maggaphalapariyāpannā samucchedapaṭipassaddhivimuttiyo daṭṭhabbā. Nissaraṇavimutti pana nibbānameva.

「熱する」とは、激しく燃え上がらせることであり、滅ぼし尽くすという意味である。「忌み嫌う」とは、軽蔑し、劣悪なものとして見なすことである。過失がないがゆえに聖者であり、煩悩から遠く離れている。道と果に相応する精進と呼ばれる「苦行忌嫌」であると結びつけて理解される。「至高」と呼ばれるのは、あらゆる中で最上であることによる。若者の状態が「若さ」であるように、忌み嫌う者の状態が「忌嫌」である。煩悩を断絶し静めることが、断絶による解脱と静止による解脱である。「出離による解脱」とは涅槃である。あるいは、正語などは「増上戒」の把握によって、正精進は「増上忌嫌」の把握によって、正見は「増上慧」の把握によって捉えられているため、まだ把握されていないものとして、道と果に含まれる正思惟・正念・正定が断絶と静止による解脱として理解されるべきである。しかし、出離による解脱とは涅槃そのもののことである。

403. Yaṃ kiñci janavivittaṃ ṭhānaṃ idha **‘‘suññāgāra’’**nti adhippetaṃ. Tattha nadantena vinā nādo natthīti āha **‘‘ekatova nisīditvā’’**ti. Aṭṭhasu parisāsūti khattiyaparisā, brāhmaṇaparisā, gahapatiparisā, samaṇaparisā, cātumahārājikaparisā, tāvatiṃsaparisā, māraparisā, brahmaparisāti imāsu aṭṭhasu parisāsu.

403. 人のいない静かな場所ならどこでも、ここでは「空閑処」と意図されている。そこで吼える者がいなければ吼え声は存在しないゆえに、「一人だけで座って」と言った。「八つの会衆において」とは、王族の会衆、婆羅門の会衆、居士の会衆、沙門の会衆、四大王天の会衆、三十三天の会衆、魔の会衆、梵天の会衆というこれら八つの会衆においてである。

Vesārajjānīti visāradabhāvā ñāṇappahānasampadānimittaṃ kutoci asantassanabhāvā nibbhayabhāvāti attho. Āsabhaṃ ṭhānanti seṭṭhaṃ ṭhānaṃ, uttamaṃ ṭhānanti attho. Āsabhā vā pubbabuddhā, tesaṃ ṭhānanti attho.

「無畏(自信)」とは、恐れのない状態であり、智慧と断徳の成就を根拠として、何ものからも脅かされない状態、恐れのない状態という意味である。「雄牛(最高)の位座」とは、最勝の位座、最上の位座という意味である。あるいは、「雄牛」とは過去の諸仏のことであり、彼らの位座という意味である。

Apica usabhassa idanti āsabhaṃ, āsabhaṃ viyāti āsabhaṃ. Yathā hi nisabhasaṅkhāto usabho attano usabhabalena catūhi pādehi pathaviṃ uppīḷetvā acalaṭṭhānena tiṭṭhati, evaṃ tathāgatopi dasahi tathāgatabalehi samannāgato catūhi vesārajjapādehi aṭṭhaparisāpathaviṃ uppīḷetvā sadevake loke kenaci paccatthikena akampiyo acalena ṭhānena tiṭṭhati. Evaṃ tiṭṭhamānova taṃ āsabhaṃ ṭhānaṃ paṭijānāti upagacchati na paccakkhāti attani āropeti. Tena vuttaṃ ‘‘āsabhaṃ ṭhānaṃ paṭijānātī’’ti.

さらに、雄牛(最高のもの)に属するものが「雄牛の」であり、雄牛のようであるから「雄牛の」である。最高の雄牛と呼ばれる雄牛が、自らの牛の力によって四つの足で大地を踏みしめ、揺るぎない姿勢で立つように、如来もまた十の如来の力を具え、四つの無畏という足によって八つの会衆という大地を踏みしめ、神々を含む世界においていかなる敵対者によっても揺るがされず、不動の位座に立つのである。このように立ちつつ、その雄牛の位座を宣言し、到達し、拒絶せず、自らに引き受ける。それゆえ「雄牛の位座を宣言する」と説かれた。

Sīhanādaṃ nadatīti yathā migarājā parissayānaṃ sahanato, vanamahiṃsamattavāraṇādīnaṃ hananato ca ‘‘sīho’’ti vuccati, evaṃ tathāgato lokadhammānaṃ sahanato, parappavādānaṃ hananato ca ‘‘sīho’’ti vuccati. Evaṃ vuttassa sīhassa nādaṃ sīhanādaṃ. Tattha yathā sīho sīhabalena samannāgato sabbattha visārado vigatalomahaṃso sīhanādaṃ nadati, evaṃ tathāgatasīhopi dasahi tathāgatabalehi samannāgato aṭṭhasu parisāsu visārado vigatalomahaṃso ‘‘iti rūpa’’ntiādinā (saṃ. ni. 3.78; a. ni. 8.2) nayena nānāvilāsasampannaṃ sīhanādaṃ nadati.

「獅子吼を吼える」とは、百獣の王(ライオン)があらゆる困難に耐え忍び、森の野牛や狂象などを打ち倒すことから「獅子」と呼ばれるように、如来もまた世間の法に耐え忍び、他宗の誤った言説を打ち破ることから「獅子」と呼ばれる。このように呼ばれる獅子の吼え声を「獅子吼」という。そこにおいて、獅子が獅子の力を具え、あらゆる場所で恐れなく、身の毛もよだたせることなく獅子吼を吼えるように、如来という獅子もまた十の如来の力を具え、八つの会衆において恐れなく、身の毛もよだたせることなく、「色はこのようである」などの方法によって、多彩な威厳に満ちた獅子吼を吼えるのである。

Pañhaṃ abhisaṅkharitvāti ñātuṃ icchitamatthaṃ attano ñāṇabalānurūpaṃ abhiracitvā taṅkhaṇaṃyevāti pucchitakkhaṇeyeva ṭhānuppattikapaṭibhānena vissajjeti. Cittaṃ paritosetiyeva ajjhāsayānurūpaṃ vissajjanato. Sotabbañcassa maññanti aṭṭhakkhaṇavajjitena navamena khaṇena labbhamānattā. ‘‘Yaṃ no satthā bhāsati, taṃ no sossāmā’’ti ādaragāravajātā mahantena ussāhena sotabbaṃ sampaṭicchitabbaṃ maññanti. Suppasannā pasādābhibuddhiyā vigatupakkilesatāya kallacittā muducittā honti. Pasannakāranti pasannehi kātabbasakkāraṃ, dhammāmisapūjanti attho. Tattha āmisapūjaṃ dassento **‘‘paṇītānī’’**tiādimāha. Dhammapūjā pana **‘‘tathattāyā’’**ti iminā dassitā. Tathābhāvāyāti yathattāya yassa vaṭṭadukkhanissaraṇatthāya dhammo desito, tathābhāvāya, tenāha **‘‘dhammānudhammapaṭipattipūraṇatthāyā’’**ti. Sā ca dhammānudhammapaṭipatti yāya anupubbiyā paṭipajjitabbā, paṭipajjantānañca sati ajjhattikaṅgasamavāye ekaṃsikā tassā pāripūrīti taṃ anupubbiṃ dassetuṃ **‘‘keci saraṇesū’’**tiādi vuttaṃ.

「質問を整えて」とは、知りたいと望む意味を自らの智慧の力に応じて組み立てて、という意味である。「その瞬間にまさに」とは、質問されたまさにその瞬間に、臨機応変の弁才によって答えることである。相手の意向に応じた解答によって「心を大いに喜ばせる」のである。「彼の教えを聞くべきであると考える」のは、八つの不利な機会(八難)を離れた第九の好機(仏の出現)によって得られるものだからである。「私たちの師が語られることを、私たちは聞こう」と、敬意と尊崇の念を起こし、大いなる熱意をもって聞くべきものとして受け止める。澄みきった信順の深まりによって、煩悩の汚れを離れ、適合した心、柔軟な心となる。「清純なる行為」とは、信順した者たちによってなされるべき供養であり、法供養と財供養のことである。その中で財供養を示すために「上等な」などと言った。一方、法供養は「事実どおりにするために」という語によって示されている。「そのような状態のために」とは、それによって輪廻の苦しみから脱出するために法が説かれた通りの状態にするためであり、それゆえ「法に随う法の修行を成就するため」と言った。そして、その法に随う法の修行がどのような順序で実践されるべきか、また実践する者たちに内面的な条件が整っているときにそれがいかに確実に成就するかというその順序を示すために、「ある者は三帰依に」などと説かれた。

Imasmiṃ panokāse ṭhatvāti ‘‘paṭipannā ca ārādhentī’’ti etasmiṃ sīhanādakiccapāripūridīpane pāḷipadese ṭhatvā. Samodhānetabbāti saṅkalitabbā. Eko sīhanādo asādhāraṇo aññehi appaṭivattiyo seṭṭhanādo abhītanādoti katvā. Esa nayo sesesupi. Purimānaṃ dasannantiādito paṭṭhāya yāva ‘‘vimuttiyā mayhaṃ sadiso natthī’’ti etesaṃ purimānaṃ dasannaṃ sīhanādānaṃ, niddhāraṇe cettha sāmivacanaṃ, tenāha **‘‘ekekassā’’**ti. **‘‘Parisāsu ca nadatī’’**ti ādayo parivārā ‘‘ekaccaṃ tapassiṃ niraye nibbattaṃ passāmī’’ti sīhanādaṃ nadanto bhagavā parisāyaṃ nadati visārado nadati yāva ‘‘paṭipannā ārādhentī’’ti atthayojanāya sambhavato. Tathā sesesupi navasu.

「この機会にとどまって」とは、「実践する者たちは満足する」という獅子吼の役割の成就を示す本文の箇所にとどまって、という意味である。「総合されるべきである」とは、合算されるべきであるという意味である。一つの獅子吼は他に類を見ず、他者によって覆滅され得ない最勝の叫びであり、恐れなき叫びであることからそのように言われる。この方法は他の場合にも当てはまる。「以前の十の」とは、最初から始まって「解脱において私に等しい者はいない」に至るまでのこれら以前の十の獅子吼のことである。限定の文脈において属格が用いられているため、「一つ一つの」と言った。「会衆においても吼える」などの周囲の文脈は、「ある苦行者が地獄に生まれるのを私は見る」と獅子吼を吼える世尊が会衆において吼え、自信に満ちて吼え、やがて「実践する者たちは満足する」というところまで意味の結合が可能であることによる。残りの九つにおいても同様である。

**‘‘Eva’’**ntiādi yathāvuttānaṃ tesaṃ saṅkaletvā dassanaṃ. Te dasāti te ‘‘parisāsu ca nadatī’’ti ādayo sīhanādā. Purimānaṃ dasannanti yathāvuttānaṃ purimānaṃ dasannaṃ. Parivāravasenāti paccekaṃ parivāravasena yojiyamānā sataṃ sīhanādā. Purimā ca dasāti tathā ayojiyamānā purimā ca dasāti evaṃ dasādhikaṃ sīhanādasataṃ hoti. Evaṃ vādīnaṃ vādanti evaṃ pavattavādānaṃ titthiyānaṃ vādaṃ. Paṭisedhetvāti tathābhāvābhāvadassanena paṭikkhipitvā. Yaṃ bhagavā udumbarikasutte ‘‘idha nigrodha tapassī’’tiādinā (dī. ni. 3.33) upakkilesavibhāgaṃ, pārisuddhivibhāgañca dassento saparisassa nigrodhassa paribbājakassa purato sīhanādaṃ nadi, taṃ dassetuṃ **‘‘idāni parisati naditapubbaṃ sīhanādaṃ dassento’’**tiādi vuttaṃ.

「このように」などは、前述のそれらを合算して示すものである。「それら十の」とは、「会衆においても吼える」などの獅子吼のことである。「以前の十の」とは、前述の以前の十のことである。「周囲の文脈によって」とは、それぞれ文脈に応じて結びつけられる百の獅子吼のことである。「そして以前の十」とは、そのように結びつけられない以前の十のことであり、このようにして百十の獅子吼となる。「このように説く者たちの説を」とは、このように展開された外道たちの説を、という意味である。「論駁して」とは、事実であるか否かを示すことによって打ち消して、という意味である。世尊がウドゥムバリカ経において「ここに、ニグローダよ、苦行者が…」(長部3.33)などによって汚れの区分と清浄の区分を示しつつ、弟子たちを伴った遊行者ニグローダの面前で獅子吼を吼えられたが、それを示すために「今や、会衆においてかつて吼えられた獅子吼を示すために」などと説かれた。

Titthiyaparivāsakathāvaṇṇanā

異教徒の別住(試みの期間)の解説

404. Idanti ‘‘rājagahe gijjhakūṭe pabbate viharantaṃ maṃ…pe… pañhaṃ pucchī’’ti idaṃ vacanaṃ. Kāmaṃ yadā nigrodho pañhaṃ pucchi, bhagavā cassa vissajjesi, na tadā gijjhakūṭe pabbate viharati, rājagahasamīpe pana viharatīti katvā **‘‘rājagahe gijjhakūṭe pabbate viharantaṃ ma’’**nti vuttaṃ, gijjhakūṭe viharaṇañcassa tadā avicchinnanti, tenāha **‘‘yaṃ taṃ bhagavā’’**tiādi. Yogeti naye, dukkhanissaraṇūpāyeti attho.

404. 「これ」とは、「王舎城の霊鷲山に住んでいた私に…中略…質問を尋ねた」というこの言葉のことである。確かにニグローダが質問を尋ね、世尊が彼に答えた時、その時は霊鷲山に住んでいたのではなく、王舎城の近くに住んでいたのであるが、「王舎城の霊鷲山に住んでいた私に」と説かれたのは、その当時彼の霊鷲山での滞在が途切れていなかったことによる。それゆえ「世尊が…であったことを」などと言った。「実践(ヨーガ)において」とは方法において、苦しみの脱出手段において、という意味である。

405. Yaṃ parivāsaṃ sāmaṇerabhūmiyaṃ ṭhito parivasatīti yojanā. Yasmā sāmaṇerabhūmiyaṃ ṭhitena parivasitabbaṃ, na gihibhūtena, tasmā aparivasitvāyeva pabbajjaṃ labhati. Ākaṅkhati pabbajjaṃ, ākaṅkhati upasampadanti ettha pana pabbajjā-ggahaṇaṃ vacanasiliṭṭhatāvaseneva ‘‘dirattatirattaṃ sahaseyya’’nti (pāci. 50) ettha dirattaggahaṇaṃ viya. Gāmappavesanādīnīti ādi-saddena vesiyāvidhavāthullakumāripaṇḍakabhikkhunigocaratā, sabrahmacārīnaṃ uccāvacesu kiṃkaraṇīyesu dakkhānalasāditā, uddesaparipucchādīsu tibbachandatā, yassa titthāyatanato idhāgato, tassa avaṇṇe, ratanattayassa ca vaṇṇe anattamanatā, tadubhayaṃ yathākkamaṃ vaṇṇe ca avaṇṇe ca attamanatāti imesaṃ saṅgaho veditabbo, tenāha **‘‘aṭṭha vattāni pūrentenā’’**ti. Ghaṃsitvā koṭṭetvāti ajjhāsayassa vīmaṃsanavasena suvaṇṇaṃ viya ghaṃsitvā koṭṭetvā.

405. 沙弥の地位にとどまっている者が過ごす別住(見習い期間)を過ごす、と結びつけられる。沙弥の地位にとどまる者によって別住が過ごされるべきであり、在家の身のままではないがゆえに、別住を過ごさずに出家を得るのである。「出家を望み、具足戒を望む」というここでの「出家」という語の把握は、「二夜または三夜を共に横たわる」(波逸提50)における「二夜」の把握のように、言葉の滑らかさによるものに過ぎない。「村へ入ることなど」の「など」という語によって、遊女、未亡人、年増の未婚女性、去勢者、比丘尼を訪ねること、同僚の修行者たちの様々ななすべき務めにおいて巧みで怠惰でないこと、学習や質問などに対する強い意欲、かつて属していた異教の教団の悪評や三宝の称賛に対する不快感、それら両方の称賛と悪評に対して順次不快や満足を抱くこと、これらの内容が含まれると知るべきである。それゆえ「八つの義務を果たしつつ」と言った。「擦り、叩いて」とは、意図を試すために、あたかも黄金を擦り、叩くようにして、という意味である。

Gaṇamajjhe nisīditvāti upasampadākammassa gaṇappahonakānaṃ bhikkhūnaṃ majjhe saṅghatthero viya tassa anuggahatthaṃ nisīditvā. Vūpakaṭṭhoti vivitto. Tādisassa sīlavisodhane appamādo avuttasiddhoti āha **‘‘kammaṭṭhāne satiṃ avijahanto’’**ti. Pesitacittoti nibbānaṃ pati pesitacitto taṃninno tappoṇo tappabbhāro. Jātikulaputtāpi ācārasampannā eva arahattādhigamāya pabbajjāpekkhā hontīti tepi tehi ekasaṅgahe karonto āha **‘‘kulaputtāti ācārakulaputtā’’**ti, tenāha **‘‘sammadevāti hetunāva kāraṇenevā’’**ti. ‘‘Otiṇṇomhi jātiyā’’tiādinā nayena hi saṃvegapubbikaṃ yathānusiṭṭhaṃ pabbajjaṃ sandhāya idha ‘‘sammadevā’’ti vuttaṃ. Hetunāti ñāyena. Pāpuṇitvāti patvā adhigantvā. Sampādetvāti asekkhā sīlasamādhipaññā nipphādetvā, paripūretvā vāti attho.

「僧団の中央に座って」とは、具足戒の儀式に十分な員数の比丘たちの中央に、僧団の長老のように彼を助けるために座って、という意味である。「遠離した者」とは、一人離れた者のことである。そのような者にとって戒の清浄に対する不放逸は言わずもがなであるゆえに、「瞑想の対象(業処)において念を捨てず」と言った。「心を送った者」とは、涅槃に向かって心を送り、それに傾き、それに傾倒し、それを目指す者のことである。名門の良家の子弟であっても行儀正しく阿羅漢果の獲得のために出家を求めるのであり、彼らもこれらの中に一つにまとめるために「『良家の子』とは行儀正しき良家の子である」と言い、それゆえ「『正しくまさに』とは原因によって、理由によってまさに」と言った。「生に圧倒されている」などの方法によって、危機感(厭離)を先立たせて教誡の通りに出家することを指して、ここでは「正しくまさに」と言ったのである。「原因によって」とは正理によって、である。「到達して」とは至り、体得して、である。「成就して」とは無学の戒・定・慧を成就して、あるいは満たしてという意味である。

Niṭṭhāpetunti nigamanavasena pariyosāpetuṃ. ‘‘Brahmacariyapariyosānaṃ…pe… vihāsī’’ti iminā eva hi arahattanikūṭena desanā pariyosāpitā. Taṃ pana nigamento **‘‘aññataro kho panā…pe… ahosī’’**ti vuttaṃ dhammasaṅgāhakehi. Yaṃ panettha atthato na vibhattaṃ, taṃ suviññeyyameva.

「締めくくるために」とは、結語として完了させるために、という意味である。「清浄行の極致を…中略…過ごした」というまさにこの阿羅漢の頂点によって教えは完結された。それを締めくくるにあたって、結集者たちによって「実にその中の一人となり…中略…なった」と説かれた。ここで意味として詳細に分別されなかったものは、容易に理解できるものばかりである。

Mahāsīhanādasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā.

大獅子吼経の注釈における隠れた意味の解明。