10. Pāyāsirājaññasuttavaṇṇanā十、パーヤーシ貴族経の註解
406. Evaṃ me sutanti pāyāsirājaññasuttaṃ. Tatrāyamapubbapadavaṇṇanā – āyasmāti piyavacanametaṃ. Kumārakassapoti tassa nāmaṃ. Kumārakāle pabbajitattā pana bhagavatā ‘‘kassapaṃ pakkosatha, idaṃ phalaṃ vā khādanīyaṃ vā kassapassa dethā’’ti vutte ‘‘katarakassapassā’’ti. ‘‘Kumārakassapassā’’ti evaṃ gahitanāmattā tato paṭṭhāya vuḍḍhakālepi ‘‘kumārakassapo’’ tveva vuccati. Apica rañño posāvanikaputtattāpi taṃ kumārakassapoti sañjāniṃsu.
406. 「このように私は聞いた」とは『パーヤーシ貴族経』である。そこにおいて、以下の未解の語の註解がある。「尊者(āyasmā)」とは親愛の呼びかけである。「クマーラカッサパ(Kumārakassapa、童子迦葉)」とは彼の名前である。童子の時に出家したため、世尊によって「カッサパを呼びなさい。この果物あるいは食べ物をカッサパに与えなさい」と仰せられたとき、「どちらのカッサパですか」「童子カッサパである」とこのように名が取られたことから、それ以降、高齢になってからも「クマーラカッサパ」とだけ呼ばれた。さらにまた、王の養育費を受けた息子であったことからも、彼をクマーラカッサパ(王子迦葉)と知ったのである。
Ayaṃ panassa pubbayogato paṭṭhāya āvibhāvakathā – thero kira padumuttarassa bhagavato kāle seṭṭhiputto ahosi. Athekadivasaṃ bhagavantaṃ citrakathiṃ ekaṃ attano sāvakaṃ etadagge ṭhapentaṃ disvā bhagavato sattāhaṃ dānaṃ datvā ‘‘ahampi bhagavā anāgate ekassa buddhassa ayaṃ thero viya citrakathī sāvako bhavāmī’’ti patthanaṃ katvā puññāni karonto kassapassa bhagavato sāsane pabbajitvā visesaṃ nibbattetuṃ nāsakkhi. Tadā kira parinibbutassa bhagavato sāsane osakkante pañca bhikkhū nisseṇiṃ bandhitvā pabbataṃ āruyha samaṇadhammaṃ akaṃsu. Saṅghatthero tatiyadivase arahattaṃ patto, anuthero catutthadivase anāgāmī ahosi, itare tayo visesaṃ nibbattetuṃ asakkontā devaloke nibbattā.
彼の過去の因縁から始まる出現の物語は以下の通りである。その長老は、パドゥムッタラ世尊の時代に長者の息子であったという。ある日、世尊が華麗な弁才をもつ一人の弟子をこの分野の第一位に据えるのを見て、世尊に七日間の布施をなし、「願わくは世尊よ、私も未来の一人の仏陀のもとで、この長老のように華麗な弁才をもつ弟子となれますように」と願望を立てて功徳を積み、カッサパ世尊の教えにおいて出家したが、卓越した境地を生み出すことはできなかった。その当時、入滅された世尊の教えが衰退するにつれ、五人の比丘が梯子を作って山に登り、沙門の法を実践したという。サンガの長老は三日目に阿羅漢果に達し、次席の長老は四日目に不還者となった。残りの三人は卓越した境地を生み出すことができず、天界に転生した。
Tesaṃ ekaṃ buddhantaraṃ devesu ca manussesu ca sampattiṃ anubhavantānaṃ eko takkasilāyaṃ rājakule nibbattitvā pakkusāti nāma rājā hutvā bhagavantaṃ uddissa pabbajitvā rājagahaṃ uddissa āgacchanto kumbhakārasālāyaṃ bhagavato dhammadesanaṃ sutvā anāgāmiphalaṃ patto. Eko ekasmiṃ samuddapaṭṭane kulaghare nibbattitvā nāvaṃ āruyha bhinnanāvo dārucīrāni nivāsetvā lābhasampattiṃ patto ‘‘ahaṃ arahā’’ti cittaṃ uppādetvā ‘‘na tvaṃ arahā, gaccha, satthāraṃ upasaṅkamitvā pañhaṃ pucchā’’ti atthakāmāya devatāya codito tathā katvā arahattaphalaṃ patto.
彼らの一仏の間の天界と人間界における栄華を享受する中で、一人はタッカシラーの王家に生まれ、パックサーティという名の王となって世尊を仰いで出家し、王舎城を目指して来る途中で陶師の小屋で世尊の説法を聞いて不還果に達した。一人はある港の良家に生まれ、船に乗って難破し、木の皮の衣をまとって利得と栄誉を得て「私は阿羅漢である」という思いを起こしたが、「そなたは阿羅漢ではない。行きなさい、師匠の御もとに赴いて質問しなさい」と利益を願う神に諫められ、そのようにして阿羅漢果に達した。
Eko rājagahe ekissā kuladārikāya kucchimhi uppanno. Sā ca paṭhamaṃ mātāpitaro yācitvā pabbajjaṃ alabhamānā kulagharaṃ gantvā gabbhaṃ gaṇhi. Gabbhasaṇṭhitampi ajānanti sāmikaṃ ārādhetvā tena anuññātā bhikkhunīsu pabbajitā, tassā gabbhanimittaṃ disvā bhikkhuniyo devadattaṃ pucchiṃsu. So ‘‘assamaṇī’’ti āha. Dasabalaṃ pucchiṃsu. Satthā upālittheraṃ sampaṭicchāpesi. Thero sāvatthinagaravāsīni kulāni visākhañca upāsikaṃ pakkosāpetvā sodhento ‘‘pure laddho gabbho, pabbajjā arogā’’ti āha. Satthā ‘‘suvinicchitaṃ adhikaraṇa’’nti therassa sādhukāramadāsi. Sā bhikkhunī suvaṇṇabimbasadisaṃ puttaṃ vijāyi. Taṃ gahetvā rājā pasenadi kosalo posāpesi. ‘‘Kassapo’’ti cassa nāmaṃ katvā aparabhāge alaṅkaritvā satthu santikaṃ netvā pabbājesi. Iti naṃ rañño posāvanikaputtattāpi ‘‘kumārakassapo’’ti sañjāniṃsūti. Taṃ ekadivasaṃ andhavane samaṇadhammaṃ karontaṃ atthakāmā devatā pañhe uggahāpetvā ‘‘ime pañhe bhagavantaṃ pucchā’’ti āha. Thero pañhe pucchitvā pañhavissajjanāvasāne arahattaṃ pāpuṇi. Bhagavāpi taṃ citrakathikānaṃ bhikkhūnaṃ aggaṭṭhāne ṭhapesi.
一人は王舎城のある良家の娘の胎内に生まれた。彼女は最初、両親に願ったが出家を許されず、嫁いで懐妊した。懐妊したことにも気づかず、夫を喜ばせて彼に許され、比丘尼たちのもとで出家した。彼女の妊娠の徴候を見て比丘尼たちはデーヴァダッタに尋ねた。彼は「沙門に非ず(破戒者)」と言った。十力(世尊)に尋ねた。世尊はウパーリ長老に引き受けさせた。長老は舎衛城の住民たちと在家信女ヴィサーカーを呼び寄せて調査し、「出家前に得た胎児であり、出家には罪がない」と言った。世尊は「見事に裁決された訴訟である」と長老に称賛を与えられた。その比丘尼は黄金の像のような息子を産んだ。それを引き取ってパセーナディ・コーサラ王が養育させた。そして彼に「カッサパ」と名付け、後に身を飾り立てて師匠の御もとへ連れて行って出家させた。このようにして彼を王の養育費を受けた息子であったことからも「クマーラカッサパ」と知ったのである。ある日、彼が盲目の森(アンダヴァナ)で沙門の法を実践していたとき、利益を願う神が問答を学ばせ、「これらの問いを世尊にお尋ねしなさい」と言った。長老は問いを尋ね、問答の終了時に阿羅漢果に達した。世尊もまた彼を華麗な弁才をもつ比丘たちの第一位に据えられた。
Setabyāti tassa nagarassa nāmaṃ. Uttarena setabyanti setabyato uttaradisāya. Rājaññoti anabhisittakarājā. Diṭṭhigatanti diṭṭhiyeva. Yathā gūthagataṃ muttagatanti vutte na gūthādito aññaṃ atthi, evaṃ diṭṭhiyeva diṭṭhigataṃ. Itipi natthīti taṃ taṃ kāraṇaṃ apadisitvā evampi natthīti vadati. Purā…pe… saññāpetīti yāva na saññāpeti.
「セータビヤー(Setabyā)」とはその都の名である。「セータビヤーの北に(uttarena setabyanti)」とは、セータビヤーから北の方角に、ということである。「貴族(rājañña)」とは、灌頂を受けていない王(領主)のことである。「邪見に陥った(diṭṭhigata)」とは、邪見そのもののことである。「糞にまみれた」「尿にまみれた」と言ったとき、糞などのほかに別なものがあるわけではないように、邪見そのものが邪見に陥ったことである。「このようにしても存在しない(itipi natthi)」とは、それぞれの理由を挙げて、このようにしても存在しないと言う。「〜するまで(purā…pe… saññāpeti)」とは、説得するまで、ということである。
Candimasūriyaupamāvaṇṇanā
日月比喩の註解
411. Ime bho, kassapa, candimasūriyāti so kira therena pucchito cintesi ‘‘ayaṃ samaṇo paṭhamaṃ candimasūriye upamaṃ āhari, candimasūriyasadiso bhavissati paññāya, anabhibhavanīyo aññena, sace panāhaṃ ‘candimasūriyā imasmiṃ loke’ti bhaṇissāmi, ‘kiṃ nissitā ete, kittakapamāṇā, kittakaṃ uccā’tiādīhi paliveṭhessati. Ahaṃ kho panetaṃ nibbeṭhetuṃ na sakkhissāmi, ‘parasmiṃ loke’ iccevassa kathessāmī’’ti. Tasmā evamāha.
411. 「親愛なるカッサパよ、これらの太陽と月は(ime bho, kassapa, candimasūriyā)」とは、長老から問われた彼はこう考えたという。「この沙門は最初に太陽と月を比喩に持ち出した。太陽や月のように智慧において優れ、他者によって圧倒されがたい者に違いない。もし私が『太陽と月はこの世にある』と言えば、『それらは何に依拠しているのか、どれほどの大きさか、どれほどの高さか』などと問い詰めてくるだろう。私はそれを解きほぐすことができないだろう。『あの世にある』とだけ答えておこう」と。それゆえにこのように言ったのである。
Bhagavā pana tato pubbe na cirasseva sudhābhojanīyajātakaṃ kathesi. Tattha ‘‘cande cando devaputto, sūriye sūriyo devaputto’’ti āgataṃ. Bhagavatā ca kathitaṃ jātakaṃ vā suttantaṃ vā sakalajambudīpe patthaṭaṃ hoti, tena so ‘‘ettha nivāsino devaputtā natthī’’ti na sakkā vattunti cintetvā devā te na manussāti āha.
しかし世尊はその少し前に『甘露食本生経(スダーボージャナ・ジャータカ)』を説かれた。そこにおいて「月には月の神の子がおり、太陽には太陽の神の子がいる」と説かれている。そして世尊によって説かれた本生話や経典は全ジャンブ洲に広まっていたので、彼は「ここに住む神の子たちはいない」と言うことはできないと考え、「彼らは神々であって人間ではない」と言ったのである。
412. Atthi pana, rājañña, pariyāyoti atthi pana kāraṇanti pucchati. Ābādhikāti visabhāgavedanāsaṅkhātena ābādhena samannāgatā. Dukkhitāti dukkhappattā. Bāḷhagilānāti adhimattagilānā. Saddhāyikāti ahaṃ tumhe saddahāmi, tumhe mayhaṃ saddhāyikā saddhāyitabbavacanāti attho. Paccayikāti ahaṃ tumhe pattiyāmi, tumhe mayhaṃ paccayikā pattiyāyitabbāti attho.
412. 「貴族よ、あるいは理由があるのか(atthi pana, rājañña, pariyāyo)」とは、何か根拠があるのか、と尋ねている。「病に罹り(ābādhikā)」とは、耐え難い苦痛を意味する病気に冒された。「苦しみ(dukkhitā)」とは、苦痛に達した。「重病となり(bāḷhagilānā)」とは、極めて重い病気となった。「信頼できる(saddhāyikā)」とは、私はあなた方を信じる、あなた方は私にとって信頼すべき、信ずべき言葉をもつ者たちである、という意味である。「頼りになる(paccayikā)」とは、私はあなた方を信じる、あなた方は私にとって頼りになる、信ずべき者たちである、という意味である。
Corādiupamāvaṇṇanā
盗賊等の比喩の註解
413. Uddisitvāti tesaṃ attānañca paṭisāmitabhaṇḍakañca dassetvā, sampaṭicchāpetvāti attho. Vippalapantassāti ‘‘putto me, dhītā me, dhanaṃ me’’ti vividhaṃ palapantassa. Nirayapālesūti niraye kammakāraṇikasattesu. Ye pana ‘‘kammameva kammakāraṇaṃ karoti, natthi nirayapālā’’ti vadanti. Te ‘‘tamenaṃ, bhikkhave, nirayapālā’’ti devadūtasuttaṃ paṭibāhanti. Manussaloke rājakulesu kāraṇikamanussā viya hi niraye nirayapālā honti.
413. 「指示して(uddisitvā)」とは、彼ら自身と彼らに保管させた財物とを示して、引き渡して、という意味である。「泣き叫ぶ者の(vippalapantassa)」とは、「わが息子よ、わが娘よ、わが財産よ」と様々に嘆き叫ぶ者の、ということである。「地獄の獄卒たちにおいて(nirayapālesu)」とは、地獄において責め苦を与える有情たちにおいて、ということである。「行為(業)そのものが責め苦をなすのであって、地獄の獄卒などは存在しない」と言う者たちがある。彼らは「比丘たちよ、地獄の獄卒たちは彼を……」という『天使経』を否定するものである。人間界の王家における刑吏のように、地獄には地獄の獄卒がいるからである。
415. Veḷupesikāhīti veḷuvilīvehi. Sunimmajjathāti yathā suṭṭhu nimmajjitaṃ hoti, evaṃ nimmajjatha, apanethāti attho.
415. 「竹べらによって(veḷupesikāhi)」とは、竹のへらによって。「よく拭き落としなさい(sunimmajjatha)」とは、実によく拭き落とされるように、そのように拭き落としなさい、取り除きなさい、という意味である。
Asucīti amanāpo. Asucisaṅkhātoti asucikoṭṭhāsabhūto asucīti ñāto vā. Duggandhoti kuṇapagandho. Jegucchoti jigucchitabbayutto. Paṭikūloti dassaneneva paṭighāvaho. Ubbādhatīti divasassa dvikkhattuṃ nhatvā tikkhattuṃ vatthāni parivattetvā alaṅkatapaṭimaṇḍitānaṃ cakkavattiādīnampi manussānaṃ gandho yojanasate ṭhitānaṃ devatānaṃ kaṇṭhe āsattakuṇapaṃ viya bādhati.
「不浄(asuci)」とは、不快なもの。「不浄と呼ばれる(asucisaṅkhāto)」とは、不浄の部類に属するもの、あるいは不浄と知られたもの。「悪臭(duggandho)」とは、死体の臭い。「忌まわしい(jeguccho)」とは、嫌悪すべきもの。「嫌悪すべき(paṭikūlo)」とは、見るだけで嫌悪をもたらすもの。「悩ます(ubbādhati)」とは、一日に二度沐浴し、三度衣服を着替え、装飾され着飾った転輪王などの人間であっても、その臭いは百由旬離れた場所にいる神々の首に掛けられた死体のように苦しめる、ということである。
416. Puna pāṇātipātādipañcasīlāni samādāyavattentānaṃ vasena vadati. Tāvatiṃsānanti idañca dūre nibbattā tāva mā āgacchantu, ime kasmā na entīti vadati.
416. 再び不殺生などの五戒を受持して暮らす者たちを念頭に置いて語る。「三十三天の神々の(tāvatiṃsānaṃ)」とは、これほど遠くに生まれた者たちは来ないにしても、なぜこれら(近くの者たち)は来ないのか、と語るのである。
418. Jaccandhūpamo maññe paṭibhāsīti jaccandho viya upaṭṭhāsi. Araññavanapatthānīti araññakaṅgayuttatāya araññāni, mahāvanasaṇḍatāya vanapatthāni. Pantānīti dūrāni.
418. 「生まれつきの盲人の比喩のように私には思われる(jaccandhūpamo maññe paṭibhāsi)」とは、生まれつきの盲人のように現れた、ということである。「森林や辺鄙な野原(araññavanapatthāni)」とは、森林修行に適していることから森林であり、広大な大森林であることから辺鄙な野原である。「人里離れた(pantāni)」とは、遠く離れた場所のことである。
419. Kalyāṇadhammeti teneva sīlena sundaradhamme. Dukkhapaṭikūleti dukkhaṃ apatthente. Seyyo bhavissatīti paraloke sugatisukhaṃ bhavissatīti adhippāyo.
419. 「善美なる法をもつ(kalyāṇadhamme)」とは、まさにその戒によって美しい法をもつ者のことである。「苦を嫌悪する(dukkhapaṭikūle)」とは、苦を望まない者のことである。「より良きことがあるであろう(seyyo bhavissatī)」とは、来世において善趣の幸福があるであろう、という意図である。
420. Upavijaññāti upagatavijāyanakālā, paripakkagabbhā na cirasseva vijāyissatīti attho. Opabhoggā bhavissatīti pādaparicārikā bhavissati. Anayabyasananti mahādukkhaṃ. Ayoti sukhaṃ, na ayo anayo, dukkhaṃ. Tadetaṃ sabbaso sukhaṃ byasati vikkhipatīti byasanaṃ. Iti anayova byasanaṃ anayabyasanaṃ, mahādukkhanti attho. Ayonisoti anupāyena. Apakkaṃ na paripācentīti apariṇataṃ akhīṇaṃ āyuṃ antarāva na upacchindanti. Paripākaṃ āgamentīti āyuparipākakālaṃ āgamenti. Dhammasenāpatināpetaṃ vuttaṃ –
420. 「出産間近の(upavijaññā)」とは、出産期が近づいた、胎児が成熟して間もなく出産するであろう、という意味である。「手女となるであろう(opabhoggā bhavissatī)」とは、召使いとなるであろう、ということである。「大いなる災厄(anayabyasana)」とは、大いなる苦のことである。「アヤ(aya)」とは幸福のことであり、「アナヤ(anaya)」とは非幸福、苦のことである。それが完全に幸福を破壊し、打ち砕くゆえに「ビャサナ(byasana、災厄)」である。このように、アナヤそのものがビャサナであるゆえに「大いなる災厄(anayabyasana)」であり、大いなる苦という意味である。「不適切な方法によって(ayoniso)」とは、手段によらずに。「未熟なものを熟させない(apakkaṃ na paripācenti)」とは、成熟していない尽きていない寿命を中途で断絶させない、ということである。「成熟を待つ(paripākaṃ āgamenti)」とは、寿命の成熟の時を待つ、ということである。法の将軍(サーリプッタ)によってもこのように説かれた――
‘‘Nābhinandāmi maraṇaṃ, nābhinandāmi jīvitaṃ;
「私は死を喜ばず、生を喜ばない。
Kālañca paṭikaṅkhāmi, nibbisaṃ bhatako yathāti. (theragā. 1001)
雇われ人が賃金を待つように、私はその時を待つ」(テーラガーター1003)
421. Ubbhinditvāti mattikālepaṃ bhinditvā.
421. 「掘り起こして(ubbindhitvā)」とは、粘土の塗りを壊して、ということである。
422. Rāmaṇeyyakanti ramaṇīyabhāvaṃ. Velāsikāti khiḍḍāparādhikā. Komārikāti taruṇadārikā. Tuyhaṃ jīvanti supinadassanakāle nikkhamantaṃ vā pavisantaṃ vā jīvaṃ api nu passanti. Idha cittācāraṃ ‘‘jīva’’nti gahetvā āha. So hi tattha jīvasaññīti.
422. 「快いありさま(rāmaṇeyyaka)」とは、楽しい状態のことである。「戯れにふける者(velāsikā)」とは、遊びに熱中する者。「少女(komārikā)」とは、若い少女のことである。「あなたの霊魂(tuyhaṃ jīvaṃ)」とは、夢を見ているときに出て行く霊魂、あるいは入ってくる霊魂を見ることがあるだろうか、ということである。ここでは心の活動を「霊魂」と捉えて語っている。実に彼はそこにおいて霊魂の想念(我見)をもっていたからである。
423. Jiyāyāti dhanujiyāya, gīvaṃ veṭhetvāti attho. Patthinnataroti thaddhataro. Iminā kiṃ dasseti? Tumhe jīvakāle sattassa pañcakkhandhāti vadanti, cavanakāle pana rūpakkhandhamattameva avasissati, tayo khandhā appavattā honti, viññāṇakkhandho gacchati. Avasiṭṭhena rūpakkhandhena lahutarena bhavitabbaṃ, garukataro ca hoti. Tasmā natthi koci kuhiṃ gantāti imamatthaṃ dasseti.
423. 「弓の弦によって(jiyāya)」とは、弓の弦によって首を絞めて、という意味である。「より硬直した(patthinnataro)」とは、より硬くなった。これによって何を示すのか。あなた方は生きているときの有情には五蘊があると言い、死没するときには色蘊のみが残り、三つの蘊は生起せず、識蘊は去ると言う。残った色蘊はより軽くなるはずなのに、より重くなっている。それゆえ、どこかへ行く何者も存在しない、というこの意味を示している。
424. Nibbutanti vūpasantatejaṃ.
424. 「消えた(nibbuta)」とは、熱勢の静まったことである。
425. Anupahaccāti avināsetvā. Āmato hotīti addhamato marituṃ āraddho hoti. Odhunāthāti orato karotha. Sandhunāthāti parato karotha. Niddhunāthāti aparāparaṃ karotha. Tañcāyatanaṃ na paṭisaṃvedetīti tena cakkhunā taṃ rūpāyatanaṃ na vibhāveti. Esa nayo sabbattha.
425. 「損なうことなく(anupahacca)」とは、傷つけることなく。「半死の状態である(āmato hoti)」とは、半ば死んで死にかけていることである。「こちらへ揺すれ(odhunātha)」とは、手前の方へ動かせ。「あちらへ揺すれ(sandhunātha)」とは、向こうの方へ動かせ。「あちこちへ揺すれ(niddhunātha)」とは、あちこちへ動かせ。「その処を感受しない(tañcāyatanaṃ na paṭisaṃvedeti)」とは、その眼によってその色処(視覚対象)を認識しない。この方式はすべての箇所において同様である。
426. Saṅkhadhamoti saṅkhadhamako. Upalāpetvāti dhamitvā.
426. 「法螺貝吹き(saṅkhadhamo)」とは、法螺貝を吹く者。「吹き鳴らして(upalāpetvā)」とは、吹いて。
428. Aggikoti aggiparicārako. Āpādeyyanti nipphādeyyaṃ, āyuṃ vā pāpuṇāpeyyaṃ. Poseyyanti bhojanādīhi bhareyyaṃ. Vaḍḍheyyanti vaḍḍhiṃ gameyyaṃ. Araṇīsahitanti araṇīyugaḷaṃ.
428. 「火を祀る者(aggiko)」とは、火を礼拝・給仕する者。「育てる(āpādeyyaṃ)」とは、成熟させる、あるいは寿命に達せしめる。「養う(poseyyaṃ)」とは、食物などによって養う。「成長させる(vaḍḍheyyaṃ)」とは、成長に導く。「火きり木の一対(araṇīsahita)」とは、火きり木の二つ一組のことである。
429. Tirorājānopīti tiroraṭṭhe aññasmimpi janapade rājāno jānanti. Abyattoti avisado acheko. Kopenapīti ye maṃ evaṃ vakkhanti, tesu uppajjanakena kopenapi etaṃ diṭṭhigataṃ harissāmi pariharissāmīti gahetvā vicarissāmi. Makkhenāti tayā vuttayuttakāraṇamakkhalakkhaṇena makkhenāpi. Palāsenāti tayā saddhiṃ yugaggāhalakkhaṇena palāsenāpi.
429. 「国境の外の王たちも(tirorājānopi)」とは、国境を越えた他の地方の王たちも知っている、ということである。「不器用な(abyatto)」とは、明瞭でない、未熟な。「怒りによっても(kopenapi)」とは、私にこのように言うであろう者たちに対して生じる怒りによっても、この邪見を保持し、堅持して歩むであろう。「侮蔑によっても(makkhenāpi)」とは、あなたが言った正当な根拠を覆い隠すという特徴をもつ侮蔑によっても。「張り合いによっても(palāsena)」とは、あなたと対等に競い合うという特徴をもつ張り合いによっても。
430. Haritakapaṇṇanti yaṃ kiñci haritakaṃ, antamaso allatiṇapaṇṇampi na hotīti attho. Sannaddhakalāpanti sannaddhadhanukalāpaṃ. Āsittodakāni vaṭumānīti paripuṇṇasalilā maggā ca kandarā ca. Yoggānīti balibadde.
430. 「緑の葉(haritakapaṇṇa)」とは、いかなる緑のものであれ、生草の葉すらもない、という意味である。「矢筒を帯びた(sannaddhakalāpa)」とは、弓と矢筒を装備した。「水に浸された道(āsittodakāni vaṭumāni)」とは、水が満ちた道と谷川。「荷車用の牛(yoggāni)」とは、荷を引く牛のことである。
Bahunikkhantaroti bahunikkhanto ciranikkhantoti attho. Yathābhatena bhaṇḍenāti yaṃ vo tiṇakaṭṭhodakabhaṇḍakaṃ āropitaṃ, tena yathābhatena yathāropitena, yathāgahitenāti attho.
「ずっと先に出発した(bahunikkhantataro)」とは、遠くへ出発した、ずっと以前に出発した、という意味である。「積んできた荷物によって(yathābhatena bhaṇḍena)」とは、あなた方が積み込んできた草や木や水の荷物、その運んできたままの、積み込んだままの、持ち込んだままのものによって、という意味である。
Appasārānīti appagghāni. Paṇiyānīti bhaṇḍāni.
「価値の乏しい(appasārāni)」とは、安価な。「商品(paṇiyāni)」とは、品物のことである。
Gūthabhārikādiupamāvaṇṇanā
糞担ぎ等の比喩の註解
432. Mama ca sūkarabhattanti mama ca sūkarānaṃ idaṃ bhattaṃ. Uggharantanti upari gharantaṃ. Paggharantanti heṭṭhā parissavantaṃ. Tumhe khvettha bhaṇeti tumhe kho ettha bhaṇe. Ayameva vā pāṭho. Tathā hi pana me sūkarabhattanti tathā hi pana me ayaṃ gūtho sūkarānaṃ bhattaṃ.
432. 「私と豚たちの餌(mama ca sūkarabhattaṃ)」とは、私と豚たちのためのこの餌である。「上から漏れ出る(uggharantaṃ)」とは、上から垂れ落ちる。「下から滴り落ちる(paggharantaṃ)」とは、下から染み出る。「そなたたちよ、ここで(tumhe khvettha bhaṇe)」とは、そなたたちよ、ここで。これ自体が本文である。「実にこれは私の豚の餌である(tathā hi pana me sūkarabhattaṃ)」とは、実にこれは私の豚たちのための餌である糞だからだ。
434. Āgatāgataṃ kaliṃ gilatīti āgatāgataṃ parājayaguḷaṃ gilati. Pajjohissāmīti pajjohanaṃ karissāmi, balikammaṃ karissāmīti attho. Akkhehi dibbissāmāti guḷehi kīḷissāma. Littaṃ paramena tejasāti paramatejena visena littaṃ.
434. 「落ちてくる負け賽を呑み込む(āgatāgataṃ kaliṃ gilati)」とは、落ちてくる負けの賽の玉を呑み込む。「供養を捧げよう(pajjohissāmi)」とは、供養をなそう、捧げ物の儀礼を行おう、という意味である。「賽で遊ぼう(akkhehi dibbissāma)」とは、賽の玉で遊ぼう。「至高の力をもつ毒を塗られた(littaṃ paramena tejasā)」とは、猛烈な力をもつ毒を塗られた。
436. Gāmapaṭṭanti vuṭṭhitagāmapadeso vuccati. ‘‘Gāmapada’’ntipi pāṭho, ayamevattho. Sāṇabhāranti sāṇavākabhāraṃ. Susannaddhoti subaddho. Tvaṃ pajānāhīti tvaṃ jāna. Sace gaṇhitukāmosi, gaṇhāhīti vuttaṃ hoti.
436. 「廃村の跡(gāmapaṭṭa)」とは、人が立ち退いた村の場所のことである。「gāmapada」という読みもあり、意味は同じである。「麻の荷(sāṇabhāra)」とは、麻の樹皮の荷物。「しっかり縛られた(susannaddho)」とは、堅く結ばれた。「自分で考えなさい(tvaṃ pajānāhi)」とは、あなたが判断しなさい。もし取りたいなら取りなさい、と言われている。
Khomanti khomavākaṃ. Ayanti kāḷalohaṃ. Lohanti tambalohaṃ. Sajjhanti rajataṃ. Suvaṇṇanti suvaṇṇamāsakaṃ. Abhinandiṃsūti tussiṃsu.
「亜麻(khoma)」とは、亜麻の樹皮。「鉄(aya)」とは、黒鉄。「銅(loha)」とは、赤銅。「銀(sajjha)」とは、銀。「金(suvaṇṇa)」とは、金の貨幣。「喜んだ(abhinandiṃsu)」とは、満足した。
437. Attamanoti sakamano tuṭṭhacitto. Abhiraddhoti abhippasanno. Pañhāpaṭibhānānīti pañhupaṭṭhānāni. Paccanīkaṃ kattabbanti paccanīkaṃ paṭiviruddhaṃ viya kattabbaṃ amaññissaṃ, paṭilomagāhaṃ gahetvā aṭṭhāsinti attho.
437. 「歓喜した(attamano)」とは、自分の心で満足した心をもつこと。「悦服した(abhiraddho)」とは、深く信順した。「問いへの適切な応答(pañhāpaṭibhānāni)」とは、問いに対する現前たる論答である。「敵対すべきもの(paccanīkaṃ kattabbaṃ)」とは、敵対し反対するかのように振る舞うべきだと考えた、逆の立場を取って立ち向かった、という意味である。
438. Saṅghātaṃ āpajjantīti saṅghātaṃ vināsaṃ maraṇaṃ āpajjanti. Na mahapphaloti vipākaphalena na mahapphalo hoti. Na mahānisaṃsoti guṇānisaṃsena mahānisaṃso na hoti. Na mahājutikoti ānubhāvajutiyā mahājutiko na hoti. Na mahāvipphāroti vipākavipphāratāya mahāvipphāro na hoti. Bījanaṅgalanti bījañca naṅgalañca. Dukkhetteti duṭṭhukhette nissārakhette. Dubbhūmeti visamabhūmibhāge. Patiṭṭhāpeyyāti ṭhapeyya. Khaṇḍānīti chinnabhinnāni. Pūtīnīti nissārāni. Vātātapahatānīti vātena ca ātapena ca hatāni pariyādinnatejāni. Asārādānīti taṇḍulasārādānarahitāni palālāni. Asukhasayitānīti yāni sukkhāpetvā koṭṭhe ākiritvā ṭhapitāni, tāni sukhasayitāni nāma. Etāni pana na tādisāni. Anuppaveccheyyāti anupaveseyya, na sammā vasseyya, anvaddhamāsaṃ anudasāhaṃ anupañcāhaṃ na vasseyyāti attho. Api nu tānīti api nu evaṃ khettabījavuṭṭhidose sati tāni bījāni aṅkuramūlapattādīhi uddhaṃ vuddhiṃ heṭṭhā virūḷhiṃ samantato ca vepullaṃ āpajjeyyunti. Evarūpo kho rājañña yaññoti evarūpaṃ rājañña dānaṃ parūpaghātena uppāditapaccayatopi dāyakatopi pariggāhakatopi avisuddhattā na mahapphalaṃ hoti.
438. 「破滅に陥る(saṅghātaṃ āpajjanti)」とは、破滅・滅亡・死に至る、ということである。「大いなる果報なきもの(na mahapphalo)」とは、異熟の果報において大きな果報をもたらさない。「大いなる功徳なきもの(na mahānisaṃso)」とは、徳の利益において大きな功徳をもたらさない。「大いなる輝きなきもの(na mahājutiko)」とは、威光の輝きにおいて大きな輝きをもたない。「大いなる展開なきもの(na mahāvipphāro)」とは、果報の広がりにおいて大きな展開をもたない。「種子と鋤(bījanaṅgala)」とは、種子と鋤のことである。「悪田において(dukkhette)」とは、不良な田地、養分のない田地において。「やせた土地において(dubbhūme)」とは、不均等な土地の区画において。「播くならば(patiṭṭhāpeyya)」とは、蒔くならば。「破損した(khaṇḍāni)」とは、砕かれ割れた。「腐敗した(pūtīni)」とは、養分を失った。「風と日に打たれた(vātātapahatāni)」とは、風と日光に打たれて生命力を使い果たした。「実の入っていない(asārādāni)」とは、米の実の芯を欠いた籾殻。「適切に保管されていない(asukhasayitāni)」とは、乾燥させて倉に納めて置かれたものを「適切に保管された」という。しかしこれらはそのようなものではない。「雨を降らせない(anuppaveccheyya)」とは、降り注がない、適切に雨を降らせない、半月ごと、十日ごと、五日ごとに降らせない、という意味である。「それらは果たして〜であろうか(api nu tāni)」とは、このように田地・種子・降雨の欠陥があるとき、それらの種子は芽・根・葉などによって上へと生長し、下へと根を張り、周囲へと広大になるであろうか、ということである。「貴族よ、このような祭祀は(evarūpo kho rājañña yañño)」とは、貴族よ、このような布施は、他者を害することによって得られた資具の観点からも、施者の観点からも、受者の観点からも清浄でないため、大いなる果報をもたらさないのである。
Evarūpo kho rājañña yaññoti evarūpaṃ rājaññadānaṃ aparūpaghātena uppannapaccayatopi aparūpaghātitāya sīlavantadāyakatopi sammādiṭṭhiādiguṇasampannapaṭiggāhakatopi mahapphalaṃ hoti. Sace pana guṇātirekaṃ nirodhā vuṭṭhitaṃ paṭiggāhakaṃ labhati, cetanā ca vipulā hoti, diṭṭheva dhamme vipākaṃ detīti.
「貴族よ、このような祭祀は」とは、貴族よ、このような布施は、他者を害することなく得られた資具の観点からも、他者を害さない持戒の施者の観点からも、正見などの徳を具えた受者の観点からも、大いなる果報をもたらすのである。もし卓越した徳を具え、滅尽定から出定した受者を得て、思(意志)もまた広大であるならば、まさに現世において異熟(果報)を与えるのである。
439. Imaṃ pana therassa dhammakathaṃ sutvā pāyāsirājañño theraṃ nimantetvā sattāhaṃ therassa mahādānaṃ datvā tato paṭṭhāya mahājanassa dānaṃ paṭṭhapesi. Taṃ sandhāya atha kho pāyāsi rājaññotiādi vuttaṃ. Tattha kaṇājakanti sakuṇḍakaṃ uttaṇḍulabhattaṃ. Bilaṅgadutiyanti kañjikadutiyaṃ. Dhorakāni ca vatthānīti thūlāni ca vatthāni. Guḷavālakānīti guḷadasāni, puñjapuñjavasena ṭhitamahantadasānīti attho. Evaṃ anuddisatīti evaṃ upadisati. Pādāpīti pādenapi.
439. パーヤーシ貴族はこの長老の説法を聞いて長老を招待し、七日間にわたり長老に大布施をなし、それ以降、一般の人々に布施を設けた。それを指して「そこでパーヤーシ貴族は…」などが説かれた。そこにおいて「米ぬかの混ざった粗飯(kaṇājaka)」とは、ぬかを含み、籾の混ざったご飯である。「酢漬けの汁を添えた(bilaṅgadutiya)」とは、酸味のある粥の汁を添えたもの。「粗末な衣服(dhorakāni ca vatthāni)」とは、粗大な衣服。「団子状の房のついた(guḷavālakāni)」とは、団子のような房のある、毛束のように固まった大きな房のある、という意味である。「このように指示する(evaṃ anuddisati)」とは、このように指図する。「足をもっても(pādāpi)」とは、足によってさえも。
440. Asakkaccanti saddhāvirahitaṃ assaddhadānaṃ. Asahatthāti na sahatthena. Acittīkatanti cittīkāravirahitaṃ, na cittīkārampi paccupaṭṭhāpetvā na paṇītacittaṃ katvā adāsi. Apaviddhanti chaḍḍitaṃ vippatitaṃ. Suññaṃ serīsakanti serīsakaṃ nāma ekaṃ tucchaṃ rajatavimānaṃ upagato. Tassa kira dvāre mahāsirīsarukkho, tena taṃ ‘‘serīsaka’’nti vuccati.
440. 「不敬をもって(asakkaccaṃ)」とは、信仰心を欠いた、不信仰な布施。「自らの手によらず(asahatthā)」とは、自らの手で与えずに。「軽んじて(acittīkataṃ)」とは、敬意を欠いて、敬意をも現前させず、殊勝な心を起こさずに与えた。「投げ棄てるように(apaviddhaṃ)」とは、投げ捨てるように、ばらまくように。「空虚なセーリーサカ(suññaṃ serīsakaṃ)」とは、セーリーサカという名の空っぽの銀の宮殿に赴いた。その門には大きなセーリーサ(合歓木)の樹があったといい、それゆえにそれは「セーリーサカ」と呼ばれる。
441. Āyasmā gavaṃpatīti thero kira pubbe manussakāle gopāladārakānaṃ jeṭṭhako hutvā mahato sirīsassa mūlaṃ sodhetvā vālikaṃ okiritvā ekaṃ piṇḍapātikattheraṃ rukkhamūle nisīdāpetvā attanā laddhaṃ āhāraṃ datvā tato cuto tassānubhāvena tasmiṃ rajatavimāne nibbatti. Sirīsarukkho vimānadvāre aṭṭhāsi. So paññāsāya vassehi phalati, tato paññāsa vassāni gatānīti devaputto saṃvegaṃ āpajjati. So aparena samayena amhākaṃ bhagavato kāle manussesu nibbattitvā satthu dhammakathaṃ sutvā arahattaṃ patto. Pubbāciṇṇavasena pana divāvihāratthāya tadeva vimānaṃ abhiṇhaṃ gacchati, taṃ kirassa utusukhaṃ hoti. Taṃ sandhāya ‘‘tena kho pana samayena āyasmā gavaṃpatī’’tiādi vuttaṃ.
441. 「尊者ガヴァンパティは」について:長老はかつて人間であった時、牛飼いの少年たちの長老であり、大きなシリッサ(合歓木)の根元を清めて砂を撒き、一人の托鉢の長老をその樹下に座らせ、自らが手に入れた食物を与えた。そしてそこから没して、その功徳によってあの銀の天宮に生まれ変わった。シリッサの樹はその天宮の門にそびえ立っていた。それは五十年に一度実を結び、それによって「五十年が過ぎた」としてその天子は無常感を抱くのであった。彼はのちの時代、われらの世尊の時代に人間として生まれ、師の説法を聞いて阿羅漢果に達した。しかし過去の習性によって、昼の休息のためにしばしばその天宮へと赴いていた。それは彼にとって心地よい気候であったからである。そのことを指して「さて、その時、尊者ガヴァンパティは……」などと説かれたのである。
So sakkaccaṃ dānaṃ datvāti so parassa santakampi dānaṃ sakkaccaṃ datvā. Evamārocesīti ‘‘sakkaccaṃ dānaṃ dethā’’tiādinā nayena ārocesi. Tañca pana therassa ārocanaṃ sutvā mahājano sakkaccaṃ dānaṃ datvā devaloke nibbatto. Pāyāsissa pana rājaññassa paricārakā sakkaccaṃ dānaṃ datvāpi nikantivasena gantvā tasseva santike nibbattā. Taṃ kira disācārikavimānaṃ vaṭṭaniaṭaviyaṃ ahosi. Pāyāsidevaputto ca ekadivasaṃ vāṇijakānaṃ dassetvā attano katakammaṃ kathesīti.
「彼は敬意を込めて布施を行い」とは、彼が他人の所有物であっても敬意を込めて布施を行ったということである。「このように告げた」とは、「敬意を込めて布施を行いなさい」などの趣旨で告げたということである。そして長老のその告げ知らせを聞いて、多くの人々は敬意を込めて布施を行い、天界に生まれた。しかし、パイヤーシ王族の従者たちは、敬意を込めて布施を行ったにもかかわらず、執着のためにそこへ行って、まさに彼のそばに生まれた。その方角を巡行する天宮は、荒野の森の中にあったという。そしてパイヤーシ天子は、ある日、商人たちに姿を現して、自らがなした業について語ったのである。
Iti sumaṅgalavilāsiniyā dīghanikāyaṭṭhakathāyaṃ
このように、スマンガラ・ヴィラーシニー(吉祥の開顕)と名づけられた長部経典注釈において、
Pāyāsirājaññasuttavaṇṇanā niṭṭhitā.
『パイヤーシ王族経注釈』は完結した。
Niṭṭhitā ca mahāvaggassatthavaṇṇanā.
そして『大品注釈』は完結した。
Mahāvaggaṭṭhakathā niṭṭhitā.
大品注釈(マハーヴァッガ・アッタカター)終了。