1. Mahāpadānasuttavaṇṇanā1. 大本経釈
Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa
世尊・応供・正等覚者に帰依いたします。
Dīghanikāye
Mahāvaggaṭīkā
大品複註
Pubbenivāsapaṭisaṃyuttakathāvaṇṇanā
宿住に関する言説の釈
1. Yathājātānaṃ karerirukkhānaṃ ghanapattasākhāviṭapehi maṇḍapasaṅkhepehi sañchanno padeso **‘‘karerimaṇḍapo’’**ti adhippeto. Dvāreti dvārasamīpe. Dvāre ṭhitarukkhavasena aññatthāpi samaññā atthīti dassetuṃ **‘‘yathā’’**tiādi vuttaṃ. Kathaṃ pana bhagavā mahāgandhakuṭiyaṃ avasitvā tadā karerikuṭikāyaṃ vihāsīti? Sāpi buddhassa bhagavato vasanagandhakuṭi evāti dassento **‘‘antojetavane’’**tiādimāha. Salaḷāgāranti devadārurukkhehi katagehaṃ. Pakatibhattassa pacchatoti bhikkhūnaṃ pākatikabhattakālato pacchā, ṭhitamajjhanhikato uparīti attho. Piṇḍapātato paṭikkantānanti piṇḍapātabhojanato apetānaṃ. Tenāha **‘‘bhattakicca’’**ntiādi.
1. 「自然に生じた」とは、カレィリ樹の生い茂る葉や枝梢が覆い屋のようになって一面を覆っている場所を「カレィリの覆い屋(カレィリマンダパ)」と意図している。「門のところに」とは門の近傍に、という意味である。門前にある樹木によって他処にも同名が存在することを示すために「〜のように」等と説かれた。では、世尊は大香舎(大香室)に住まわれず、なぜその時にカレィリ小舎に逗留されていたのか。そこもまた仏陀世尊が住まわれる香舎そのものであると示すために「祇樹給孤独園の内部に」等と述べられた。「沙羅堂(サララーガラ)」とはヒマラヤスギ(デーヴァダール樹)の木で作られた館のことである。「通常の食事の後に」とは、比丘たちの通常の食事の時間の後、正午を過ぎた頃という意味である。「托鉢から戻った」とは托鉢による食事を終えた者たちのことである。それゆえに「食事が終わって」等と述べられた。
Maṇḍalasaṇṭhānā māḷasaṅkhepena katā nisīdanasālā **‘‘maṇḍalamāḷa’’**nti adhippetāti āha **‘‘nisīdanasālāyā’’**ti. Pubbenivāsapaṭisaṃyuttāti ettha pubba-saddo atītavisayo, nivāsa-saddo kammasādhano, khandhavinimutto ca nivasitadhammo natthi, khandhā ca santānavaseneva pavattantīti āha **‘‘pubbenivutthakkhandhasantānasaṅkhātena pubbenivāsenā’’**ti. Yojetvāti visayabhāvena yojetvā. Pavattitāti kathitā. Dhammūpasaṃhitattā dhammato anapetāti dhammī. Tenāha **‘‘dhammasaṃyuttā’’**ti.
「円形(マンダラ)の形状をした、円堂(マーラ)の形式で作られた坐所堂を『マンダラマーラ』と意図している」と述べるために「坐所堂において」と言われた。「宿住に関する」のここでの「宿(プッバ)」という語は過去の領域を指し、「住(ニヴァーサ)」という語は業の所作による住居を意味する。蘊を離れて住する法は存在せず、蘊は相続としてのみ生起するがゆえに「過去に住した蘊の相続と称される宿住によって」と言われた。「結びつけて」とは対象として結びつけてという意味である。「始められた」とは語られたということである。法に随伴しているがゆえに法から離れていないものが「法的な」である。それゆえに「法と結合した」と言われた。
Udapādīti paduddhāro, tassa uppannā jātāti iminā sambandho. Taṃ panassā uppannākāraṃ pāḷiyaṃ saṅkhepatova dassitaṃ, vitthārato dassetuṃ **‘‘aho acchariya’’**ntiādi āraddhaṃ. Tattha ke anussaranti, ke nānussarantīti padadvaye paṭhamaṃyeva sappapañcanaṃ, na itaranti tadeva puggalabhedato, kālavibhāgato, anussaraṇākārato, opammato niddisantena **‘‘titthiyā anussarantī’’**tiādi vuttaṃ. Aggappattakammavādinoti sikhāppattakammavādino ‘‘atthi kammaṃ atthi kammavipāko’’ti (paṭi. ma. 1.234) evaṃ kammassakatāñāṇe ṭhitā tāpasaparibbājakā. Cattālīsaṃyeva kappe anussarantīti brahmajālādīsu (dī. ni. 1.33) bhagavatā tathā paricchijja vuttattā. Tato paraṃ na anussarantīti tathāvacanañca diṭṭhigatopaṭṭhakassa tesaṃ ñāṇassa paridubbalabhāvato.
「生じた」とは語の提示であり、「彼女に生起した、生じた」とこれに接続する。その生起の有様は聖典(パーリ)では簡潔に示されているにすぎないため、詳細に示すために「ああ、驚くべきことだ」等が始められた。その中で「誰が想起し、誰が想起しないのか」という二句のうち、前者にのみ詳細な展開があり、後者にはない。まさにそのことを人々の別、時間の区分、想起の様相、譬喩によって示すために「外道たちは想起する」等と説かれた。「最高の業を説く者たち(業論者)」とは、至高の業論を奉じ、「業はあり、業の異熟はある」と業自的所有智に留まる苦行者や遊行者たちのことである。「四十劫のみを想起する」とは、『梵網経』等において世尊がそのように限定して説かれたからである。「それ以上は想起しない」とそのように説かれたのは、見解に随伴する彼らの智慧が極めて微弱であることによる。
Sāvakāti mahāsāvakā tesañhi kappasatasahassaṃ pubbābhinīhāro. Pakatisāvakā pana tato ūnakameva anussaranti. Yasmā ‘‘kappānaṃ lakkhādhikaṃ ekaṃ, dve ca asaṅkhyeyyānī’’ti kālavasena evaṃ parimāṇo yathākkamaṃ aggasāvakapaccekabuddhānaṃ puññañāṇābhinīhāro, sāvakabodhipaccekabodhipāramitāsambharaṇañca, tasmā vuttaṃ **‘‘dve aggasāvakā…pe… kappasatasahassañcā’’**ti. Yadi bodhisambhārasambharaṇakālaparicchinno tesaṃ tesaṃ ariyānaṃ abhiññāñāṇavibhavo, evaṃ sante buddhānampissa saparicchedatā āpannāti codanaṃ sandhāyāha **‘‘buddhānaṃ pana ettakanti paricchedo natthi, yāvatakaṃ ākaṅkhanti, tāvatakaṃ anussarantī’’**ti ‘‘yāvatakaṃ neyyaṃ, tāvatakaṃ ñāṇa’’nti (mahāni. 156; cūḷani. 85; paṭi. ma. 3, 5) vacanato. Sabbaññutaññāṇassa viya hi buddhānaṃ abhiññāñāṇānampi savisaye paricchedo nāma natthi, tasmā yaṃ yaṃ ñātuṃ icchanti, te taṃ taṃ jānanti eva. Atha vā satipi kālaparicchede karuṇūpāyakosallapariggahādinā sātisayattā mahābodhisambhārānaṃ paññāpāramitāya pavattiānubhāvassa paricchedo nāma natthi, kuto tannimittakānaṃ abhiññāñāṇānanti vuttaṃ **‘‘buddhānaṃ…pe… natthī’’**ti.
「声聞」とは大声聞たちのことであり、彼らの過去の誓願は十万劫に及ぶからである。しかし通常(普通)の声聞たちはそれよりも少ない期間しか想起しない。「十万劫と、一阿僧祇劫あるいは二阿僧祇劫」という時間の区分により、上首声聞と独覚(辟支仏)たちの功徳と智慧の誓願、ならびに声聞菩提および独覚菩提の波羅蜜の充足の分量がそれぞれ相応するがゆえに、「二人の上首声聞は……十万劫」等と説かれた。もし諸々の聖者の通智の力力がそれぞれの菩提資糧の積集期間によって限定されるとするならば、その場合、仏陀たちにも限定が生じるのではないかという詰問に配慮して、「しかし仏陀たちにはこれほどという限定はなく、望むだけの期間を想起する」と言われた。「知られるべきもの(所知)の広大さと同じだけ、智慧がある」という言葉のゆえである。一切知智と同様に、仏陀たちの諸々の通智にもその対象において限定というものはない。それゆえに彼らが知りたいと欲するものは何であれ、まさにそれを知るのである。あるいは、たとえ時間の限定があったとしても、慈悲と方便の巧みさ等によって勝れているがゆえに、大菩提資糧の般若波羅蜜(智慧の完成)の働きの威力には限定というものはない。ましてやそれを原因とする通智において限定があろうか、ゆえに「仏陀たちには……ない」と説かれたのである。
Khandhapaṭipāṭiyāti yathāpaccayaṃ anupubbapavattamānānaṃ khandhānaṃ anupubbiyā. Khandhappavattinti vedanādikkhandhappavattiṃ. Tesañhi anubhavanādiākāraggahaṇamassa sātisayaṃ, taṃ saññābhave tattha tattha anussaraṇavasena gahetvā gacchantā ekavokārabhave alabhantā ‘‘na passantī’’ti vuttā, jāle patitā viya sakuṇā, macchā viya cāti adhippāyo. Kuṇṭhā viyāti dandhā viya. Paṅguḷā viyāti pīṭhasappino viya. Diṭṭhiṃ gaṇhantīti adhiccasamuppannikadiṭṭhiṃ gaṇhanti. Yaṭṭhikoṭihetukaṃ gamanaṃ yaṭṭhikoṭigamanaṃ khandhapaṭipāṭiyā amuñcanato.
「蘊の順序に従って」とは、縁に従って順次に生起する諸々の蘊の順序によって、ということである。「蘊の生起」とは、受などの諸々の蘊の生起のことである。彼らにとって体験などの様相を把握することは極めて優れているが、想のある生存(有)においてあちこち想起しながら進み、一蘊のみの生存(無想有)においてそれを得られずに「見ることができない」と説かれた。網に落ちた鳥や魚のようなものというのがその意味である。「鈍重な者のように」とは緩慢な者のように。「不具の者のように」とは座ったまま這う者のように。「見解を抱く」とは無因無縁論(偶発論)の見解を抱くことである。杖の先を頼りに進むのが「杖の先による歩み」であり、蘊の順序から離れられないことによる。
Evaṃ santepīti kāmaṃ buddhasāvakāpi asaññabhave khandhappavattiṃ na passanti, evaṃ santepi te buddhasāvakā asaññabhavaṃ laṅghitvā parato anussaranti. **‘‘Vaṭṭe’’**tiādi tathā tesaṃ anussaraṇākāradassanaṃ. Buddhehi dinnanaye ṭhatvāti ‘‘yattha pañcakappasatāni rūpappavattiyeva, na arūpappavatti, so asaññabhavo’’ti evaṃ sammāsambuddhehi desitāyaṃ dhammanettiyaṃ ṭhatvā. Evañhi antarā cutipaṭisandhiyo apassantā parato anussaranti seyyathāpi āyasmā sobhitoti (theragā. aṭṭha. 1.2.164 sobhitattheragāthāvaṇṇanā). So kira pubbenivāse ciṇṇavasī hutvā anupaṭipāṭiyā attano nibbattaṭṭhānaṃ anussaranto yāva asaññabhave attano acittakapaṭisandhi tāva addasa, tato paraṃ pañcakappasataparimāṇe kāle cutipaṭisandhiyo adisvā avasāne cutiṃ disvā ‘‘kiṃ nāmeta’’nti āvajjayamāno nayavasena ‘‘asaññabhavo bhavissatī’’ti niṭṭhaṃ agamāsi. Atha naṃ bhagavā taṃ kāraṇaṃ aṭṭhuppattiṃ katvā pubbenivāsaṃ anussarantānaṃ aggaṭṭhāne ṭhapesi. **‘‘Cutipaṭisandhiṃ oloketvā’’**ti idaṃ cutipaṭisandhivasena tesaṃ ñāṇassa saṅkamanadassanaṃ, tena sabbaso bhave anāmasitvā gantuṃ na sakkontīti dasseti.
「そうであっても」とは、たしかに仏弟子たちも無想天における蘊の生起を見ることはないが、そうであってもその仏弟子たちは無想天を飛び越えてその先を想起する。「流転において」等は、そのように彼らの想起の様相を示すものである。「仏陀たちによって示された規範に立脚して」とは、「そこでは五百劫の間、色法の生起のみがあり、無色法の生起はない、それが無想有である」と正等覚者たちによって説かれた法の規範に立脚して、ということである。このように途中の死と再生を見ることなくその先を想起するのであり、それは長老ソービタの如くである(長老偈註)。長老は宿住通において自在の修習をなし、順序に従って自らが生まれた場所を想起しながら、無想天における自らの無心の再生に至るまでを見た。その先五百劫の期間において死と再生を見ることができず、最後に死を見て「これは一体何であろうか」と熟慮し、規範によって「無想有であったのだろう」と結論に達した。そこで世尊はその事由を機縁として、彼を宿住随念において第一の地位に据えられた。「死と再生を観察して」とは、死と再生を通じて彼らの智慧が移行することを示すものであり、それによって生存(生)に全く触れることなく進むことはできないと示している。
Taṃ tadeva passantīti yathā nāma saradasamaye ṭhitamajjhanhikavelāya caturatanike gehe cakkhumato purisassa rūpagataṃ supākaṭameva hotīti lokasiddhametaṃ, siyā pana tassa sukhumataratirohitādibhedassa rūpagatassa agocaratā. Na tveva buddhānaṃ ñātuṃ icchitassa ñeyyassa agocaratā, atha kho taṃ ñāṇālokena obhāsitaṃ hatthatale āmalakaṃ viya supākaṭaṃ suvibhūtameva hoti tathā ñeyyāvaraṇassa suppahīnattā. Tenāha ‘‘buddhā pana attanā vā parehi vā diṭṭhakatasutaṃ, sūriyamaṇḍalobhāsasadisa’’nti ca ādi.
「まさにそのものを次々に見る」とは、秋の季節の正午の時間に、四肘の広さの家の中にいる目の見える人にとって、諸々の色形(物質形態)は極めて明瞭であるという世間の道理のようである。しかしその人にとっては、より微細なものや遮られたものなどの色形は対象外となることがあり得る。しかし仏陀たちにとっては知りたいと欲する知られるべき対象が対象外となることは決してなく、智慧の光によって照らされ、掌の上の阿摩勒果(アンマロクの果実)のように極めて明瞭で判然としている。所知障が完全に断ぜられているからである。それゆえに「仏陀たちは自らによって、あるいは他者によって見られ、なされ、聞かれたことを、太陽の円盤の輝きのように」等と説かれた。
Tathā sāvakā ca paccekabuddhā cāti. Ettha tathā-saddena ‘‘attanā diṭṭhakatasutameva anussarantī’’ti idaṃ upasaṃharati, tena sappadesameva nesaṃ anussaraṇaṃ, na nippadesanti nidasseti.
「同様に声聞たちも、独覚たちも」とある。ここで「同様に」という語によって「自らが見、なし、聞いたことのみを想起する」ということを包括している。これによって彼らの想起は限定的(一分)であり、無限定(全分)ではないことを示している。
Khajjopanakaobhāsasadisaṃ ñāṇassa ativiya appānubhāvatāya. Sāvakānanti ettha pakatisāvakānaṃ pākatikapadīpobhāsasadisaṃ. Mahāsāvakānaṃ (theragā. aṭṭha. 2.21 vaṅgīsettharagāthāvaṇṇanāya vitthāro) mahāpadīpobhāsasadisaṃ. Tenāha visuddhimagge (visuddhi. 2.402) ‘‘ukkāpabhāsadisa’’nti. Osadhitārakobhāsasadisanti ussannā pabhā etāya dhīyati, osadhīnaṃ vā anubalappadāyakattā ‘‘osadhī’’ti evaṃ laddhanāmāya tārakāya pabhāsadisaṃ. Saradasūriyamaṇḍalobhāsasadisaṃ sabbaso andhakāravidhamanato. Apaṭubhāvahetuko visayaggahaṇe cañcalabhāvo khalitaṃ, kuṇṭhibhāvahetuko visayassa anabhisamayo paṭighāto. Āvajjanapaṭibaddhamevāti āvajjanamattādhīnaṃ, āvajjitamatte eva yathicchitassa paṭivijjhanakanti attho. Sesapadadvayepi eseva nayo.
「蛍の光に似ている」とは、智慧の威力が極めて微小であることによる。「声聞たちの」において、通常(普通)の声聞たちにとっては通常の灯火の輝きに似ている。大声聞たちにとっては大灯火の輝きに似ている(長老偈註)。それゆえに『清浄道論』において「松明の光に似ている」と述べられた。「薬草の星(金星・暁の明星)の光に似ている」とは、輝かしい光がこれによって保たれること、あるいは諸々の薬草に活力を与えることから「薬草(オーサディー)」という名を得た星の光に似ているということである。「秋の太陽の円盤の輝きに似ている」とは、完全に暗闇を打ち破ることによる。不熟練を原因とする対象の把握における動揺が「よろめき(過誤)」であり、鈍重さを原因とする対象の不覚知が「妨げ(障害)」である。「作意(思惟)にのみ結びついている」とは作意次第であること、作意するだけで望み通りのものを直ちに洞察するという意味である。残りの二句においても同様の解釈である。
Asaṅgaappaṭihataṃ pavattamānaṃ bhagavato ñāṇaṃ lahutarepi visaye, garutare ca ekasadisamevāti dassetuṃ **‘‘dubbalapattapuṭe’’**tiādinā upamādvayaṃ vuttaṃ. Dhammakāyattā bhagavato guṇaṃ ārabbha pavattā **‘‘bhagavantaṃyeva ārabbha uppannā’’**ti vuttaṃ. Taṃ sabbampīti taṃ yathāvuttaṃ sabbampi pubbenivāsapaṭisaṃyuttaṃ kathaṃ. Titthiyānaṃ, sāvakānañca pubbenivāsānussaraṇaṃ bhagavato pubbenivāsānussaraṇassa hīnudāharaṇadassanavasenettha kathitaṃ. Evañhi bhagavato mahantabhāvo visesato pakāsito hotīti. Saṅkhepatoti samāsato. Yattakopi pubbenivāsānussatiñāṇassa pavattibhedo attano ñāṇassa visayabhūto, taṃ sabbaṃ tadā yathākathitaṃ te bhikkhū saṅkhipitvā **‘‘itipī’’**ti āhaṃsu. Tassa ca anekākāratāya āmeḍitavacanaṃ, pi-saddo sampiṇḍanattho, ‘‘iti kho bhikkhave sappaṭibhayo bālo’’tiādīsu (ma. ni. 3.124; a. ni. 3.1) viya ākārattho iti-saddoti dassento **‘‘evampī’’**ti tadatthamāha.
世尊の智慧は執着なく無礙に働き、軽微な対象においても重大な対象においても同一であることを示すために、「脆い葉の器に……」等の二つの譬喩が説かれた。法身であるがゆえに世尊の徳を機縁として生起したことを「まさに世尊を機縁として生起した」と説かれた。「それらすべてをも」とは、前述の宿住に関するすべての言説のことである。外道たちや声聞たちの宿住随念は、世尊の宿住随念に対して劣った実例を示す観点からここで語られた。このようにして世尊の偉大さが格別に顕示されるからである。「要約して」とは簡潔に。自らの智慧の対象となった宿住随念智の働きの差異のすべてを、当時語られた通りにそれらの比丘たちは要約して「このように」と言った。そしてそれには多くの様相があるがゆえに重ねて述べられた語であり、「〜も(ピ)」という語は総括の意味である。「比丘たちよ、愚者はこのように恐れを抱く」等におけるように、様相の意味を表すのが「このように(イティ)」という語であると示すために、「このようにさえも」とその意味を述べられた。
2-3. Vuttamevāti ettha ca idha pāṭhe yaṃ vattabbaṃ tena pāṭhena sādhāraṇaṃ, taṃ vuttamevāti adhippetaṃ, na asādhāraṇaṃ apubbapadavaṇṇanāya adhikatattāti taṃ dassento **‘‘ayameva hi viseso’’**tiādimāha. **‘‘Assosī’’**ti idaṃ savanakiccanipphattiyā vuttaṃ saddaggahaṇamukhena tadatthāvabodhassa siddhattā. Tattha pana pāḷiyaṃ ‘‘imaṃ saṃkhiyadhammaṃ viditvā’’ icceva (dī. ni. 1.2) vuttaṃ. Ime bhikkhū mama guṇe thomenti, kathaṃ? Mama pubbenivāsañāṇaṃ ārabbhāti yojanā. Nipphattinti kiccanipphattiṃ, tena kātabbakiccasiddhanti attho. Noti pucchāvācī nu-iti iminā samānattho nipātoti vuttaṃ **‘‘iccheyyātha nū’’**ti. Nanti bhagavantaṃ. ‘‘Yaṃ bhagavā’’ti ettha yaṃ-saddena kiriyāparāmasanabhūtena ‘‘dhammiṃ kathaṃ katheyyā’’ti evaṃ vuttaṃ. Dhammikathākaraṇaṃ parāmaṭṭhaṃ ‘‘etassā’’ti padassa atthoti āha **‘‘etassa dhammikathākaraṇassā’’**ti, ādaravasena pana taṃ dvikkhattuṃ vuttaṃ.
2-3. 「すでに説かれた通り」とは、ここでの本文において説くべきことで、かの本文と共通するものは「すでに説かれた通り」と意図されているのであり、共通しない新しい句の解釈に専念しているわけではないことを示すために「まさにこの差異が……」等と述べられた。「聞いた」とは、音声の把握を通じてその意味の理解が成就したことにより、聴聞の働きの成就として説かれた。しかしパーリ聖典においては「この論義の法を知って」とだけ説かれている。これらの比丘たちは私の徳を称賛している、どのようにか。私の宿住智を機縁として、と結びつく。「成就を」とは任務の成就であり、それによってなすべき任務の達成という意味である。「〜か(ノー)」とは疑問を表す「ヌ(nu)」と同義の不変化詞であると述べるために「望むであろうか」と言われた。「彼を」とは世尊を。「世尊が……こと」において、「こと(ヤン)」という語は行為を指すものとして「法話を語られるであろう」とこのように説かれた。法話をなすことが指し示されたものが「これの」という句の意味であると述べるために「この法話をなすことの」と言われた。敬重の念からそれは二度繰り返して述べられた。
4. Suṇāthāti ettha iti-saddo ādiattho, pakārattho vā, etena ‘‘manasi karothā’’ti padaṃ saṅgaṇhāti. Sotāvadhānaṃ sotassa odahanaṃ, sussūsāti attho. Chinnaṃ upacchinnaṃ vaṭumaṃ saṃsāravaṭṭaṃ etesanti chinnavaṭumakā, sammāsambuddhā, aññe ca khīṇāsavā, idha pana sammāsambuddhā adhippetā. Tesañhi sabbaso anussaraṇaṃ itaresaṃ avisayo. Tenāha **‘‘aññesaṃ asādhāraṇa’’**nti. Paccattavacane dissati yaṃ-saddo kammatthadīpanato. Upayogavacane dissati yaṃ-saddo pucchanakiriyāya kammatthadīpanato. Tanti ca upayogavacanameva pucchati-saddassa dvikammakabhāvato. Yanti yena kāraṇenāti ayamettha atthoti āha **‘‘karaṇavacane dissatī’’**ti. Bhummeti daṭṭhabboti yathā yaṃ-saddo na kevalaṃ paccattaupayogesu eva, atha kho karaṇepi dissati, evaṃ idha bhummeti daṭṭhabbo. Dasasahassilokadhātunti jātikkhettabhūtaṃ dasasahassacakkavāḷaṃ. Unnādento uppajji anekacchariyapātubhāvapaṭimaṇḍitattā buddhuppādassa.
4. 「聞きなさい」において、「〜と(イティ)」という語は始まりの意味、あるいは様態の意味であり、これによって「心にとどめなさい」という句を包含している。「耳を傾けること(ソータ・アヴァダーナ)」とは耳を向けること、謹聴したいと欲するという意味である。「道が断たれた」とは輪廻の道が断ち切られた者たちであり、正等覚者たちやその他の漏尽者(阿羅漢)たちのことであるが、ここでは正等覚者たちが意図されている。彼らによる完全な想起は他者の及ぶところではないからである。それゆえに「他者には共通しない」と言われた。主格において「ヤン(yam)」の語が見られるのは業(対象)の意味を明示するためである。対格において「ヤン」の語が見られるのは問う行為の対象の意味を明示するためである。「それ(タン)」もまた対格である。「問う」という動詞が二重対格をとるからである。「ヤン」とは「いかなる理由によって」というのがここでの意味であると述べるために「具格において見られる」と言われた。「処格において見られるべきである」とは、「ヤン」の語が主格や対格においてのみならず具格においても現れるのと同様に、ここでも処格において見られるべきであるということである。「一万の世界(一万宇宙)」とは、生誕の領域となる一万の輪囲山世界(チャッカヴァーラ)のことである。仏陀の出現が無数の驚異の顕現によって飾られているがゆえに、「歓呼させつつ生起した」のである。
Kālassa bhaddatā nāma tattha sattānaṃ guṇavibhūtiyā, buddhuppādaparamā ca guṇavibhūtīti tabbahulatā yassa kappassa bhaddatāti āha **‘‘pañcabuddhuppādapaṭimaṇḍitattā sundarakappe’’**ti, tathā sārabhūtaguṇavasena **‘‘sārakappe’’**ti. ‘‘Imaṃ kappaṃ thomento evamāhā’’ti vatvā imassa kappassa tathā thometabbatā anaññasādhāraṇāti dassetuṃ **‘‘yato paṭṭhāyā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha yato paṭṭhāyāti yato pabhuti abhinīhāro katoti manussattādiaṭṭhaṅgasamannāgato abhinīhāro pavattito. Saṃsārassa anādibhāvato imassa bhagavato abhinīhārato puretaraṃ uppannā sammāsambuddhā anantā aparimeyyāti tehi uppannakappe nivattento **‘‘etasmiṃ antare’’**ti āha. Kāmaṃ dīpaṅkarabuddhuppāde ayaṃ bhagavā abhinīhāramakāsi, tassa pana bhagavato nibbatti imassa abhinīhārato purimatarāti vuttaṃ **‘‘amhākaṃ…pe… nibbattiṃsū’’**ti.
時代の瑞祥(めでたさ)とは、そこにおける生きとし生ける者たちの徳の豊かさによるものであり、仏陀の出現こそが最高の徳の豊かさである。それが豊富にある劫の瑞祥さゆえに「五仏の出現によって飾られているがゆえに吉祥なる劫において」と言われ、同様に精華たる徳のゆえに「真髄なる劫(サラカッパ)において」と言われた。「この劫を称賛してこのように説かれた」と述べて、この劫がそのように称賛されるべきことは他に共通しないと示すために「誓願を立てて以来」等が説かれた。その中で「誓願を立てて以来」とは、誓願を立てた時以降、すなわち人間性などの八つの条件を具備して誓願が立てられた時からのことである。輪廻には始めがないため、この世尊の誓願以前に出現した正等覚者たちは無数無量であり、彼らが出現した劫を除外するために「その間において」と言われた。確かにディーパンカラ仏の出現の際にこの世尊は誓願を立てられたが、かの世尊の生誕はこの方の誓願よりも前であるため、「私たちの……生誕された」と説かれた。
Asaṅkhyeyyakappapariyosāneti mahākappānaṃ asaṅkhyeyyapariyosāne. Esa nayo ito paresupi. **‘‘Ito tiṃsakappasahassānaṃ uparī’’**ti etena padumuttarassa bhagavato, sumedhassa ca bhagavato antare ekūnasattatikappasahassāni buddhasuññāni ahesunti dasseti. **‘‘Ito aṭṭhārasannaṃ kappasahassānaṃ uparī’’**ti iminā sujātassa bhagavato, atthadassissa ca bhagavato antare ekenūnāni dvādasakappasahassāni buddhasuññāni ahesunti dasseti. **‘‘Ito catunavute kappe’’**ti iminā dhammadassissa bhagavato, siddhatthassa ca bhagavato antare chādhikanavasatuttarāni sattarasakappasahassāni buddhasuññāni ahesunti dasseti. **‘‘Ekatiṃse kappe’’**ti iminā vipassissa bhagavato, sikhissa ca bhagavato antare saṭṭhi kappāni buddhasuññāni ahesunti dasseti. Te sabbepi padumuttarassa bhagavato oraṃ sumedhādīhi uppannakappehi saddhiṃ samodhāniyamānā satasahassā kappā honti, yattha mahāsāvakādayo (theragā. aṭṭha. 2.21 vaṅgīsattheragāthāvaṇṇanā) vivaṭṭū panissayāni kusalāni sambhariṃsu. Buddhasuññepi loke paccekabuddhā uppajjitvā tesaṃ purisavisesānaṃ puññābhisandābhibuddhiyā paccayā honti. **‘‘Evamaya’’**ntiādi vuttamevatthaṃ nigamanavasena vadati.
「無数劫の終わりに」とは、大劫の無数(阿僧祇)の終わりにおいてという意味である。この解釈は以降のものにも当てはまる。「今より三万劫を越えて」とは、パドゥムッタラ世尊とスメーダ世尊の間に、仏陀の不在な六万九千劫があったことを示している。「今より一万八千劫を越えて」とは、スジャータ世尊とアッタダッシー世尊の間に、仏陀の不在な一万一千九百九十九劫(一万二千に一劫足りない劫)があったことを示している。「今より九十四劫において」とは、ダンマダッシー世尊とシッダッタ世尊の間に、仏陀の不在な一万七千九百六劫があったことを示している。「三十一劫において」とは、ヴィパッシー世尊とシキー世尊の間に、仏陀の不在な六十劫があったことを示している。パドゥムッタラ世尊より後の時代において、スメーダ仏等の出現した諸劫とともにそれらをすべて合算すると十万劫となり、その間に大声聞たちが輪廻を離脱する依怙となる諸々の善根を積集したのである。仏陀が存在しない世界にあっても独覚たちが出現し、それら優れた人々の功徳の集積の増大のための縁となった。「このようにこの……」等は、すでに説かれた意味を結びとして述べているのである。
**‘‘Kiṃ paneta’’**ntiādi pubbanimittavibhāvanatthāya āraddhaṃ. Tattha etanti buddhānaṃ uppajjanaṃ. Kappasaṇṭhānakālasminti vivaṭṭakappassa saṇṭhahanakāle. Ekamasaṅkhyeyyanti saṃvaṭṭaṭṭhāyiṃ sandhāyāha. Ekaṅgaṇaṃ hutvā ṭhiteti pabbatarukkhagacchādīnaṃ, meghādīnañca abhāvena vivaṭaṃaṅgaṇaṃ hutvā ṭhite. Lokasannivāseti bhājanalokena sannivisitabbaṭṭhāne. Vīsati yaṭṭhiyo usabhaṃ. ‘‘Usabhamattā, dve usabhamattā’’tiādinā paccekaṃ mattā-saddo yojetabbo. Yojanasahassamattā hutvāti patamānāva udakadhārā yojanasahassamattaṃ ākāsaṭṭhānaṃ pharitvā pavattiyā yojanasahassamattā hutvā. Yāva avinaṭṭhabrahmalokāti yāva ābhassarabrahmalokā, yāva subhakiṇhabrahmalokā, yāva vehapphalabrahmalokāti attho.
「ではこれは何であるか」等は前兆を明らかにするために始められた。その中で「これ」とは仏陀たちの出現のことである。「劫の形成の時において」とは成劫の形成される時においてである。「一阿僧祇」とは壊住劫のことを指して述べている。「一つの広場となって留まった時」とは、山や木や茂み等、また雲等が存在しないために開かれた広場となって留まった時である。「世界の住処において」とは器世界として定住すべき場所においてである。「二十の杖(ヤッティ)が一牛舎(ウサバ)である」。「一牛舎ほど、二牛舎ほど」などと、それぞれに「〜ほど(マッタ)」という語を結びつけるべきである。「一千由旬ほどになって」とは、降り注ぐ水流が一千由旬ほどの空間を満たして生起することにより一千由旬ほどになって、ということである。「破滅しなかった梵天界に至るまで」とは、光音天に至るまで、遍浄天に至るまで、広果天に至るまで、という意味である。
Vātavasenāti saṭṭhisahassādhikanavayojanasatasahassubbedhassa sandhārakavātamaṇḍalassa vasena. Mahābodhipallaṅkoti mahābodhipallaṅkappadesamāha. Tassa pacchā vināso, paṭhamaṃ saṇṭhahanañca dhammatāvasena veditabbaṃ. Tatthāti tasmiṃ padese. Pubbanimittaṃ hutvāti buddhappādassa pubbanimittaṃ hutvā. Pubbanimittasannissayo hi gaccho nissitavohārena tathā vutto. Tenāha **‘‘tassā’’**tiādi. Kaṇṇikābaddhāni hutvāti ābaddhakaṇṇikā viya hutvā. Suddhāvāsabrahmāno attamanā…pe… gacchantīti yojanā. Vehapphalepi subhakiṇhe saṅgahetvā **‘‘nava brahmalokā’’**ti vuttaṃ. Tathā hi te catutthiṃyeva viññāṇaṭṭhitiṃ bhajanti. Nikkhamantesūti mahābhinikkhamanaṃ abhinikkhamantesu. Abhijāti panettha jātibhāvasāmaññena gabbhokkantiyāva saṅgahitā. Nimīyati anumīyati phalaṃ etenāti nimittaṃ, kāraṇaṃ. Ñāpakampi hi kāraṇaṃ disvā tassa abyabhicārībhāvena phalaṃ siddhameva katvā gaṇhi, yathā taṃ asito isi abhijātiyaṃ mahāpurisassa lakkhaṇāni disvā tesaṃ abyabhicārībhāvena buddhaguṇe siddhe eva katvā gaṇhi, evaṃ pana gayhamānaṃ tannimittakaṃ phalaṃ tadānubhāvena siddhaṃ viya voharīyati tabbhāve bhāvato. Tenāha **‘‘tesaṃ nimittānaṃ ānubhāvenā’’**tiādi. Tathā cāha bhagavā ‘‘so tena lakkhaṇena samannāgato…pe… rājā samāno kiṃ labhati, buddho samāno kiṃ labhatī’’ti (dī. ni. 3.202, 204) ca evamādi. Imamatthanti pañca buddhā imasmiṃ kappe uppajjissantīti imamatthaṃ yāthāvato jāniṃsu.
「風の力によって」とは、九十六万由旬の厚みをもつ支持風輪の力によってである。「大菩提座」とは大菩提座の場所を指している。その場所が最後に滅び、最初に形成されることは法の本性(法爾)として理解されるべきである。「そこにおいて」とはその場所において。「前兆となって」とは仏陀の出現の前兆となってである。前兆の依処となる草木が、依拠するものとしての世俗の表現によってそのように説かれた。それゆえに「その……」等と言われた。「房(花輪)を結んだようになって」とは、花房を結び合わせたかのようになって。「浄居天の梵天たちは歓喜して……向かう」と結びつく。広果天や遍浄天をも包含して「九つの梵天界」と説かれた。実に彼らは第四の識住に属するからである。「出家される時に」とは大出家を出家される時に。「生誕」とは、ここでは誕生という一般的な意味によって受胎(入胎)をも包含している。「これによって果報が測られる、推論される」ゆえに前兆(徴表)、原因である。兆候を示す原因を見て、それに狂いがないことから果報が成就したと確信して捉えたのである。アシタ仙人が誕生の際に大人物の相を見て、それに狂いがないことから仏陀の徳が成就したと確信して捉えたように。そのように捉えられたその前兆を原因とする果報は、その力によって成就したかのように世俗で語られる。それが存在する時に存在するという関係による。それゆえに「それらの前兆の威力によって」等と言われた。また世尊も「彼はその相を具備して……王となるならば何を得るか、仏陀となるならば何を得るか」などとそのように説かれた。「この意味を」とは、五人の仏陀がこの劫に出現されるというこの意味を正しく知ったということである。
Jātiparicchedādivaṇṇanā
生誕の限定等の釈
5-7. Kappaparicchedavasenāti ‘‘ito so ekanavute kappe’’tiādinā yattha yattha kappe te te buddhā uppannā, tassa tassa kappassa paricchindanavasena parijānanavasena. ‘‘Idaṃ ta’’nti hi niyametvā paricchijja jānanaṃ paricchindanaṃ paricchedo. Parittanti ittaraṃ. Lahukanti sallahukaṃ, āyuno adhippetattā rassanti vuttaṃ hoti. Tenāha **‘‘ubhayametaṃ appakasseva vevacana’’**nti.
5-7. 「劫の限定によって」とは、「今より九十一劫において」等と、それぞれの仏陀が出現されたそれぞれの劫において、その劫を限定することによって、完全に知ることによってである。「これこそがそれである」と定めて区切って知ることが限定(区分)である。「わずかな」とは短小な。「軽微な」とは極めて軽い、寿命を意図しているため「短い」と説かれたことになる。それゆえに「この両者は少ないことの同義語である」と言われた。
**‘‘Appaṃ vā bhiyyo’’**ti avisesajotanaṃ ‘‘vīsaṃ vā tiṃsaṃ vā’’tiādinā aniyamitavaseneva yathālābhato vavatthapetvā ayañca nayo apacuroti dassento **‘‘evaṃ dīghāyuko pana atidullabho’’**ti āha. Idaṃ taṃ visesavavatthāpanaṃ puggalesu pakkhipitvā dassento **‘‘tattha visākhā’’**tiādimāha.
「多少」とは、「二十あるいは三十」などと限定しないことによって、得られるままに決定する非限定の表示であり、このような道は稀であることを示すために「しかしこのように長寿であることは極めて稀である」と言われた。この特定の限定を個々の人物に適用して示すために「そこにおいてヴィサーカーは」等と述べられた。
Yadi evaṃ kasmā amhākaṃ bhagavā tattakampi kālaṃ na jīvi, nanu mahābodhisattā carimabhave ativiyauḷāratamena puññābhisaṅkhārena paṭisandhiṃ gaṇhantīti? Saccametanti. Tattha kāraṇaṃ dassetuṃ **‘‘vipassīādayo panā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha abhijātiyā mettāṭhānatāya abhisaṅkhāraviññāṇassa mettāpubbabhāgatā. Tadanuguṇañhi tesaṃ visesato paṭisandhiviññāṇaṃ. Tassa visesato bahulaṃ khemavitakkūpanissayatāya somanassasahagatatā, anaññasādhāraṇaparopadesarahitañāṇavisesūpanissayatāya ñāṇasampayuttatā, asaṅkhārikatā ca veditabbā, asaṅkhyeyyaṃ āyu ādhāravisesato, nissayavisesato, paṭipakkhadūrībhāvato, pavattiākāravisesato ca aparimeyyānubhāvatāya kāraṇassa. Tattha cirataraṃ kālaṃ santānassa pāramitāparibhāvitatā ādhāravisesatā. Alobhajjhāsayādiāsayasampadā nissayavisesatā. Lābhamacchariyādipāpadhammavikkhambhanaṃ paṭipakkhadūrībhāvo. Sabbasattānaṃ sakalavaṭṭadukkhanissaraṇatthāya āyūhanā pavattiākāraviseso veditabbo.
もしそうであるなら、なぜ私たちの世尊はそれほどの期間も生きられなかったのか。大菩薩たちは最後の生存において極めて広大無辺な功徳の行持(福行)によって結生(再生)するのではないのか、と。これは真実である。その理由を示すために「しかしヴィパッシー仏らは」等が説かれた。そこにおいて生誕が慈悲の境地にあるため、行持の意識(能作識)は慈悲を前段階とする。彼らの結生識はそれに特によく適応しているからである。その結生識は特に安穏なる思惟(無怨害の思惟)を拠り所とするために喜悦を伴い、他者に共通せず他人の指導を必要としない殊勝な智慧を拠り所とするために智慧と相応し、無加行(自発的)であると知るべきである。支持の卓越、所依の卓越、敵対関係(障害)の遠離、働きの様相の卓越のゆえに、原因が無量の威力を有することから寿命は無数(阿僧祇)である。そこにおいて長期にわたる心相続の波羅蜜による薫習が支持の卓越である。無貪の意楽などの意楽の具足が所依の卓越である。利得への物惜しみなどの悪法を鎮伏することが障害の遠離である。一切の衆生の全輪廻の苦からの脱出のための努力が働きの様相の卓越であると知るべきである。
Ayañca nayo sabbesaṃ mahābodhisattānaṃ carimabhavābhinibbattakakammāyūhane sādhāraṇoti tassa phalenāpi ekasadiseneva bhavitabbanti āha **‘‘iti sabbe buddhā asaṅkhyeyyāyukā’’**ti, asaṅkhyeyyakālāvatthānāyukāti attho. Asaṅkhyeyyāyukasaṃvattanasamatthaṃ paricitaṃ kammaṃ hoti, buddhā pana tadā manussānaṃ paramāyuppamāṇānurūpameva kālaṃ ṭhatvā parinibbāyanti tato paraṃ ṭhatvā sādhetabbapayojanābhāvato, dhammatāvesāti vā veditabbā. Aṭṭhakathāyaṃ pana tato paraṃ pana aṭṭhānassa ‘‘utubhojanavipattiyā’’ti (dī. ni. aṭṭha. 2.5) kāraṇaṃ vuttaṃ, ‘‘taṃ lokasādhāraṇaṃ loke jātasaṃvuddhānaṃ tathāgatānaṃ na hotī’’ti na sakkā vattuṃ. Tathā hi nesaṃ rogakilamathādayo hontiyeva. Utubhojanavasenāti asampannassa, sampannassa ca utuno, bhojanassa ca vasena yathākkamaṃ āyu hāyatipi vaḍḍhatipi. Āyūti ca paramāyu adhippetaṃ. Tattha yaṃ vattabbaṃ, taṃ brahmajālādiṭīkāyaṃ (dī. ni. ṭī. 1.40) vuttameva.
そしてこの道理は、すべての諸菩薩の最後の生存をもたらす業の集積において共通するものであり、その結果も同様でなければならないとして、「このようにすべての仏陀は無量寿(阿僧祇寿)である」と述べられた。無数の期間存続する寿命をもつという意味である。無量寿をもたらすに足る業が修められているが、仏陀たちはその時の人間たちの最長寿命の分量に応じた期間だけ留まって般涅槃される。それ以上留まっても達成すべき利益が存在しないからであり、あるいはそれが法の本性(法爾)であると理解すべきである。しかし註釈書においては、それ以上留まらない理由として「気候や食物の不調のため」と説かれているが、「それは世間に共通のものであり、世間に生まれ育った如来たちには生じない」と言うことはできない。実に彼らにも病気や疲労などが生じるからである。「気候や食物によって」とは、不調な、あるいは順調な気候と食物によって、順次に寿命が減少したり増大したりする。そして「寿命」とは最長寿命が意図されている。そこで説かれるべきことは『梵網経註』などですでに説かれた通りである。
Idāni tamatthaṃ samudāgamato paṭṭhāya dassetuṃ **‘‘tattha yadā’’**tiādi vuttaṃ. Dhamme niyuttā dhammikā, na dhammikā adhammikā, hiṃsādiadhammapasutā. Adhammikameva hoti issarajanānaṃ anuvattanena, paresaṃ diṭṭhānugatiāpajjanena ca. Uṇhavalāhakā devatāti uṇhautuno paccayabhūtameghamālāsamuṭṭhāpakā devaputtā. Tesaṃ kira tathā cittuppādasamakālameva yathicchitaṭṭhānaṃ uṇhaṃ pharamānā valāhakamālā nātibahalā ito cito nabhaṃ chādentī vitanoti. Esa nayo sītavalāhakavassavalāhakāsu. Abbhavalāhakā pana devatā sītuṇhavassehi vinā kevalaṃ abbhapaṭalasseva samuṭṭhāpakā veditabbā. Tāsanti ettha ‘‘mittā’’ti padaṃ ānetvā yojanā. Kāmaṃ heṭṭhā vuttā sattavidhāpi devatā cātumahārājikāva tā pana tena tena visesena vatvā idāni tadaññe paṭhamabhūmike kāmāvacaradeve sāmaññato gaṇhanto **‘‘cātumahārājikā’’**ti āha. Tāsaṃ adhammikatāyāti rājūnaṃ adhammikabhāvamūlakena uparājādiadhammikabhāvaparamparābhatena tāsaṃ devatānaṃ adhammikabhāvena. Visamaṃ candimasūriyā pariharantīti bahvābādhatādi aniṭṭhaphalūpanissayabhūtassa yathāvuttaadhammikatāsaññitassa sādhāraṇassa pāpakammassa balena visamaṃ vāyantena vāyunā pīḷiyamānā candimasūriyā sineruṃ parikkhipantā visamaṃ parivattanti yathāmaggena nappavattantīti. Assidaṃ yathā candimasūriyānaṃ visamaparivattanaṃ visamavātasaṅkhobhahetukaṃ, evaṃ utuvassādivisamappavattīti dassetuṃ **‘‘vāto yathāmaggena na vāyatī’’**tiādi vuttaṃ. Devatānanti sītavalāhakadevatādidevatānaṃ. Tenāha ‘‘sītuṇhabhedo utū’’tiādi. Tasmiṃ asampajjanteti tasmiṃ yathāvutte vassabījabhūte utumhi yathākālaṃ sampattiṃ anupagacchante.
今やその意味を生起の始めから示すために「そこにおいて……の時」等が説かれた。法に従う者は「如法な者」、如法でない者は「非法な者」であり、殺生などの非法に熱中する者たちである。支配者たちに従うこと、また他者の見解に追従することによって非法そのものとなる。「熱雲を司る神々(温雲神)」とは、温かい気候の縁となる雲の連なりを生じさせる天子たちのことである。彼らがそのように心を起こすと同時に、望む通りの場所に熱気を行き渡らせながら、あまり厚くない雲の連なりが空を覆って広がるという。この道理は冷雲神や雨雲神にも当てはまる。しかし「雨覆雲を司る神々(雲塊神)」は、寒暖や雨を伴わずに単に雲の層のみを生じさせる者たちであると知るべきである。「彼らの」において、「友」という語を補って結びつける。確かに下に述べられた七種の神々も四大王衆天に属するが、それらをそれぞれの特徴によって語り、今やそれ以外の第一層の欲界の神々を一般的に総括して「四大王衆天」と言われた。「彼女たちの非法のゆえに」とは、王たちの非法の状態を根本とし、副王らの非法の連鎖によってもたらされた神々の非法な状態による。「日月は不規則に運行する」とは、多病などの好ましくない結果の拠り所となる前述の非法と称される共通の悪業の力により、不規則に吹く風に圧迫されながら、日月が須弥山を巡る際に不規則に回転し、正しい軌道に従って進まないことである。この日月の不規則な回転が乱れた風の動揺を原因とするように、気候や雨などの不規則な生起もそうであると示すために「風が正しい軌道に従って吹かない」等と説かれた。「神々の」とは冷雲神などの神々のことである。それゆえに「寒暖の差異ある気候」等と言われた。「それが順調でない時に」とは、前述の雨の種となる気候が時機に適って順調な状態に至らない時に、ということである。
‘‘Na sammā devo vassatī’’ti saṅkhepato vuttamatthaṃ vivaranto **‘‘kadācī’’**tiādimāha. Tattha kadāci vassatīti kadāci avassanakāle vassati. Kadāci na vassatīti kadāci vassitabbakāle na vassati. Katthaci vassati, katthaci na vassatīti padesamāha. **‘‘Vassantopī’’**tiādi ‘‘kadāci vassati, kadāci na vassatī’’ti padadvayasseva atthavivaraṇaṃ. Vigatagandhavaṇṇarasādīti ādi-saddena nirojataṃ saṅgaṇhāti. Ekasmiṃ padeseti bhattapacanabhājanassa ekapasse. Uttaṇḍulanti pākato ukkantataṇḍulaṃ. Tīhākārehīti sabbaso apariṇataṃ, ekadesena pariṇataṃ, dupariṇatañcāti evaṃ tīhākārehi. Paccati pakkāsayaṃ upagacchati. Appāyukāti ettha ‘‘dubbaṇṇā cā’’tipi vattabbaṃ. Evaṃ utubhojanavasena āyu hāyati hetumhi aparikkhīṇepi paccayassa paridubbalattā.
「天(雨)が正しく降らない」と簡潔に説かれた意味を解明して「ある時は」等と述べられた。その中で「ある時は降る」とは、降るべきでない時に降ることである。「ある時は降らない」とは、降るべき時に降らないことである。「ある場所では降り、ある場所では降らない」とは場所を述べている。「降るとしても」等は「ある時は降り、ある時は降らない」という二句の意味の解明である。「香・色・味などを失った」の「〜など」という語は滋養のなさを包含している。「一つの場所において」とは飯を炊く器の一方の側において。「生煮えの米」とは炊飯から外れた米のことである。「三つの様相によって」とは、全く熟していないもの、一部が熟したもの、煮えすぎたものという三つの様相によってである。「消化される」とは胃(熟臓)に達する。「短命な」において、「醜い容色でもある」とも言われるべきである。このように気候や食物によって、根本原因は尽きていなくとも補助的な条件(縁)が微弱であるがゆえに寿命は減少するのである。
**‘‘Yadā panā’’**tiādi sukkapakkhassa attho vuttavipariyāyena veditabbo.
「しかし……の時は」等という浄らかな側面(白法)の意味は、説かれたことの反対として理解されるべきである。
Vaḍḍhitvā vaḍḍhitvā parihīnanti veditabbaṃ. Kasmā? Na hi ekasmiṃ antarakappe aneke buddhā uppajjanti, eko eva pana uppajjatīti. Idāni tamatthaṃ vitthārato dassetuṃ **‘‘katha’’**ntiādi vuttaṃ. Cattāri ṭhatvāti accantasaṃyoge upayogavacanaṃ. Yaṃyaṃāyuparimāṇesūti yattakayattakaparamāyuppamāṇesu. Tesampīti buddhānaṃ. Taṃ tadeva āyuparimāṇaṃ hoti, tattha kāraṇaṃ heṭṭhā vuttameva.
「増大しては増大して、そして減少し」と理解されるべきである。なぜなら、一の間劫において複数の仏陀が出現することはなく、ただ一人だけが出現するからである。今やその意味を詳細に示すために「どのように」等が説かれた。「四つ留まって」とは絶対的接続における対格である。「それぞれの寿命の分量において」とは、それぞれの最長寿命の分量においてである。「彼ら仏陀たちにも」とは仏陀たちのことである。まさにその通りの寿命の分量となるのであり、その理由は前述の通りである。
Jātiparicchedādivaṇṇanā niṭṭhitā
生誕の限定等の釈 終了
Bodhiparicchedavaṇṇanā
菩提樹の限定の釈
8. Mūleti mūlāvayavassa samīpe. Taṃ pana tassā heṭṭhāpadeso hotīti āha **‘‘pāṭalirukkhassa heṭṭhā’’**ti. Taṃdivasanti attanā jātadivase, taṃdivasanti vā taṃ bhagavato abhisambodhidivase. So kira bodhirukkho sālakalyāṇī viya pathaviyā abbhantare eva puretaraṃ vaḍḍhento abhisambodhidivase pathaviṃ ubbhijjitvā uṭṭhito ratanasataṃ ucco, tāvadeva ca vitthato hutvā nabhaṃ pūrento aṭṭhāsi. Ayampi kiretassa rukkhabhāvena viya aññehi vemattatā. Ghanasaṃhatanāḷavaṇṭatāya kaṇṇikabaddhehi viya pupphehi. Ekasañchannāti pupphānaṃ nirantaratāya ekajjhaṃ sañchannā, tattha tattha nibaddha…pe… samujjalanti tahaṃ tahaṃ olambitakusumadāmehi ceva tahaṃ tahaṃ khittamālāpiṇḍīhi ca ito cito vippakiṇṇavividhavaṇṭamuttapupphehi ca sammadeva ujjalaṃ. Aññamaññaṃ sirīsampattānīti aññamaññassa siriyā sobhāya sampannāni. Buddhaguṇavibhavasirinti sammāsambuddhehi abhigantabbaguṇavibhūtisobhaṃ. Paṭivijjhamānoti adhigacchanto.
8. 「根元において」とは根の部位の近傍において。それはその樹の下の場所であることから「パータリ樹の下において」と言われた。「その日に」とは自らの誕生の日に、あるいは「その日に」とは世尊の正覚(成道)の日に。その菩提樹はサラカリヤーニー樹のように大地の中で前もって成長し、成道の日に大地を突き破って現れ、百肘の高さとなり、たちまち広がって天空を満たして留まったという。これもまたこの樹の樹木としての他とは異なる特徴であるという。密生して固く結ばれた花柄によって房を結んだかのようになった花々によって。「一面に覆われた」とは、花々が絶え間なく一面に覆い尽くしていることであり、「あちこちに結ばれ……輝く」とは、あちこちに垂れ下がった花飾りや、あちこちに投げ置かれた花束や、あちこちに散り敷かれた様々な花柄から外れた花々によって完全に輝いていることである。「互いに美しさを競い合う」とは、互いの美しさ、輝きを具備していることである。「仏陀の徳の威力の栄華を」とは、正等覚者たちが達するべき徳の威力の美しさを。「洞察しつつ」とは覚得しつつ。
Setambarukkhoti setavaṇṇaphalo ambarukkho. Tadevāti pāṭaliyā vuttappamāṇameva. Ekatoti ekapasse. Surasānīti sumadhurarasāni.
「白マンゴー樹」とは白い実をつけるマンゴー樹のことである。「同じく」とはパータリ樹において説かれた分量と同じということである。「一方において」とは片側において。「美味なる」とは極めて甘美な味の。
Ekova pallaṅkoti ekova pallaṅkappadeso. So so rukkho ‘‘bodhī’’ti vuccati bujjhanti etthāti katvā.
「唯一の座床」とは唯一の金剛座の場所のことである。それぞれの樹木は、その下で覚りを啓くことから「菩提樹」と呼ばれる。
Sāvakayugaparicchedavaṇṇanā
声聞の双子の弟子の限定の釈
9. Sāvakaparicchedeti sāvakayugaparicchede. ‘‘Khaṇḍatissa’’nti dvepi ekajjhaṃ gahetvā ekattavasena vuttanti āha **‘‘khaṇḍo ca tisso cā’’**ti, buddhānaṃ sahodaro, vemātikopi vā jeṭṭhabhātā na hotīti **‘‘ekapitiko kaniṭṭhabhātā’’**ti vuttaṃ. Avasesehi puttehi. ‘‘Paññāpāramiyā matthakaṃ patto’’ti vatvā tassa matthakappattaṃ guṇavisesaṃ dassetuṃ **‘‘sikhinā bhagavatā’’**tiādi vuttaṃ.
9. 「声聞の限定において」とは声聞の双子の弟子の限定において。「カンダとティッサ」と両者を一つに合わせて単数として説かれていることから「カンダとティッサ」と言われた。仏陀たちと同母の兄弟、あるいは異母であっても兄となる者はいないことから「同父の弟」と説かれた。他の息子たちによって。「智慧の完成の頂点に達した」と述べて、彼が頂点に達した卓越した徳を示すために「シキー世尊によって」等と説かれた。
Uttaroti uttamo. Puna uttaroti theraṃ nāmena vadati. Pāranti parakoṭimatthakaṃ. Paññāvisayeti paññādhikāre. Pavattiṭṭhānavasena hi pavattiṃ vadati.
「ウッタラ」とは最勝の者。「再びウッタラ」とは長老の名を述べている。「彼岸(頂点)」とは究極の極致である。「智慧の領域において」とは智慧の権能において。働きの場所によってその働きを語っているからである。
Sāvakasannipātaparicchedavaṇṇanā
声聞の集会の限定の釈
10. Uposathanti āṇāpātimokkhaṃ. Dutiyatatiyesūti dutiye, tatiye ca sāvakasannipāte. Eseva nayoti caturaṅgikataṃ atidisati. Abhinīhārato paṭṭhāya vatthuṃ kathetvā pabbajjā dīpetabbā, sā pana yasmā manorathapūraṇiyaṃ aṅguttaraṭṭhakathāyaṃ (a. ni. aṭṭha. 1.1.211) vitthārato āgatā, tasmā tattha vuttanayeneva veditabbāti.
10. 「布薩」とは教誡波羅提木叉のことである。「第二と第三において」とは第二および第三の声聞の集会において。「同じ道理である」とは四支を具足していることを準用している。過去の誓願から説き起こして物語を語り出家を明示すべきであるが、それは『願望充足(マノーラタプーラニー)』(増支部註)において詳細に現れているため、そこで説かれた通りの方法で理解されるべきである。
Upaṭṭhākaparicchedavaṇṇanā
侍者の限定の釈
11. Nibaddhupaṭṭhākabhāvanti ārambhato paṭṭhāya yāva parinibbānā niyataupaṭṭhākabhāvaṃ. Aniyatuupaṭṭhākā pana bhagavato paṭhamabodhiyaṃ bahū ahesuṃ. Tenāha **‘‘bhagavato hī’’**tiādi. Idāni ānandatthero yena kāraṇena satthu nibaddhupaṭṭhākabhāvaṃ upagato, yathā ca upagato, taṃ dassetuṃ **‘‘tattha ekadā’’**tiādi vuttaṃ. ‘‘Ahaṃ iminā maggena gacchāmī’’ti āha anayabyasanāpādakena kammunā codiyamāno. Atha naṃ bhagavā tamatthaṃ anārocetvāva khemaṃ maggaṃ sandhāya ‘‘ehi bhikkhu iminā gacchāmā’’ti āha. Kasmā panassa bhagavā tamatthaṃ nārocesīti? Ārocitepi asaddahanto nādiyissati. Tañhi tassa hoti dīgharattaṃ ahitāya dukkhāyātiti. Teti te gamanaṃ, **‘‘ta’’**nti vā pāṭho.
11. 「専属の侍者の状態」とは、就任の初めから般涅槃に至るまでの定まった侍者の状態のことである。しかし世尊の成道後初期には不定の侍者たちが多数いた。それゆえに「世尊には実に……」等と説かれた。今やアーナンダ長老がいかなる理由によって師の専属の侍者の状態に至ったのか、どのように至ったのかを示すために「そこにおいてある時」等が説かれた。破滅と災厄をもたらす業に促されて「私はこの道を行きます」と言った。そこで世尊はその事由を告げることなく、安全な道を意図して「来なさい、比丘よ、この道を行こう」と言われた。ではなぜ世尊はその事由を彼に告げられなかったのか。告げられたとしても信じずに聞き入れないであろうし、それは彼にとって長きにわたり不利益と苦しみをもたらすことになるからである。「あなたたちの」とは「あなたの歩み」であり、あるいは「それ(タン)」という読みもある。
Anvāsattoti anubaddho, upadduto vā. Dhammagāravanissito saṃvego dhammasaṃvego ‘‘amhesu nāma tiṭṭhantesu bhagavatopi īdisaṃ jāta’’nti. ‘‘Ahaṃ upaṭṭhahissāmī’’ti vadanto dhammasenāpati atthato evaṃ vadanto nāma hotīti **‘‘ahaṃ bhante tumhe’’**tiādi vuttaṃ. Asuññāyeva me sā disāti asuññāyeva mama sā disā. Tattha kāraṇamāha **‘‘tava ovādo buddhānaṃ ovādasadiso’’**ti.
「取り憑かれた」とは付きまとわれた、あるいは災難に遭った。「法への敬重に基づく戦慄(法への畏敬)」とは、「私たちが現にいるのに、世尊にさえこのようなことが起こるとは」という法への畏敬の念である。「私が給仕いたします」と言う法将(サーリプッタ)は、意味の上ではこのように言っていることになるとして「尊者よ、私はあなた方を……」等と述べられた。「私にとってその方角は空虚ではない」とは、私にとってその方角は決して空虚ではないということである。その理由として「あなたの教誡は仏陀たちの教誡に似ている」と述べられた。
Vasituṃ na dassatīti ekagandhakuṭiyaṃ vāsaṃ na labhissatīti adhippāyo. Parammukhā desitassāpi dhammassāti suttantadesanaṃ sandhāya vuttaṃ. Abhidhammadesanā panassa parammukhāva pavattā pageva yācanāya. Tassā vācanāmaggopi sāriputtattherappabhavo. Kasmā? So niddesapaṭisambhidā viya therassa bhikkhuto gahitadhammakkhandhapakkhiyo. Apare pana ‘‘dhammabhaṇḍāgāriko paṭipāṭiyā tikadukesu devasikaṃ katokāso bhagavantaṃ pañhaṃ pucchi, bhagavāpissa pucchitapucchitaṃ nayadānavasena vissajjesi. Evaṃ abhidhammopi satthārā parammukhā desitopi therena sammukhā paṭiggahitova ahosī’’ti vadanti. Sabbaṃ vīmaṃsitvā gahetabbaṃ.
「住むことを許さない」とは、同一の香舎に住むことを得られないであろうという意味である。「面と向かわず(不在の折に)説かれた法も」とは経蔵の説法を指して説かれた。しかし彼に対するアビダンマの説法は、前もっての懇請により面と向かわずに行われた。その復唱の系譜もサーリプッタ長老に由来する。なぜなら、それは義釈や無礙解道のように、長老が比丘から受け取った法蘊の側に属するからである。しかし他の者たちは、「法蔵の番人(アーナンダ)は三法・二法の順序に従って日々機会を得て世尊に質問し、世尊も彼が問い尋ねたことを手引きを与えることによって解き明かされた。このようにアビダンマも師によって不在の折に説かれたものであっても、長老によって直接対面して受け取られたのである」と言う。すべてを吟味して理解すべきである。
Aggupaṭṭhākoti upaṭṭhāne sakkaccakāritāya aggabhūto upaṭṭhāko. Thero hi upaṭṭhākaṭṭhānaṃ laddhakālato paṭṭhāya bhagavantaṃ duvidhena udakena, tividhena dantakaṭṭhena, pādaparikammena, gandhakuṭipariveṇasammajjanenāti evamādīhi kiccehi upaṭṭhahanto ‘‘imāya nāma velāya satthu idaṃ nāma laddhuṃ vaṭṭati, idaṃ nāma kātuṃ vaṭṭatī’’ti cintetvā taṃ taṃ nipphādento mahatiṃ daṇḍadīpikaṃ gahetvā ekarattiṃ gandhakuṭipariveṇaṃ nava vāre anupariyāyati. Evaṃ hissa ahosi ‘‘sace me thinamiddhaṃ okkameyya, bhagavati pakkosante paṭivacanaṃ dātuṃ nāhaṃ sakkuṇeyya’’nti, tasmā sabbarattiṃ daṇḍadīpikaṃ hatthena na muñcati. Tena vuttaṃ ‘‘aggupaṭṭhāko’’ti.
「最高の侍者」とは給仕において恭敬を尽くすがゆえに最高となった侍者のことである。長老は侍者の地位を得た時から、世尊に二種類の水、三種類の歯木、足の清拭、香舎の周辺の清掃などの奉仕をなし、「この時間には師のためにこれこれのものが得られるべきであり、これこれのことがなされるべきである」と考えてそれらを成し遂げ、大きな松明を持って一晩に九回香舎の周辺を巡回した。長老にはこのように思われたからである。「もし私に惛沈・睡眠(眠気)が訪れたなら、世尊がお呼びになったときにお答えすることができなくなるかもしれない」。それゆえに夜通し松明を手から離さなかった。それゆえに「最高の侍者」と説かれたのである。
12. Pitumātujātanagaraparicchedo pitumukhena āgatattā **‘‘pitiparicchedo’’**ti vutto.
12. 父・母・生地の限定は父を筆頭として示されているため、「父の限定」と説かれた。
Vihāraṃ pāvisīti gandhakuṭiṃ pāvisi. Ettakaṃ kathetvāti kappaparicchedādinavavārapaṭimaṇḍitaṃ vipassīādīnaṃ sattannaṃ buddhānaṃ pubbenivāsapaṭisaṃyuttaṃ ettāvatā desanaṃ desetvā. Kasmā panettha bhagavā vipassīādīnaṃ sattannaṃyeva buddhānaṃ pubbenivāsaṃ kathesi, na buddhavaṃsadesanāyaṃ (bu. vaṃ. 64 gāthādayo) viya pañcavīsatiyā buddhānaṃ, tato vā pana bhiyyoti? Anadhikārato, payojanābhāvato ca. Buddhavaṃsadesanāyañhi (bu. vaṃ. 75) –
「精舎に入られた」とは香舎に入られたということである。「これだけを説いて」とは、劫の限定などの九つの項目で飾られたヴィパッシー仏ら七仏の宿住に関するこれまでの説法を説いて、という意味である。ではなぜ世尊はここでヴィパッシー仏ら七仏のみの宿住を説き、『仏種姓経』の説法におけるように二十五仏、あるいはそれ以上の仏たちの宿住を説かれなかったのか。権能(機縁)がなく、必要性もないからである。実に『仏種姓経』の説法においては――
‘‘Kīdiso te mahāvīra, abhinīhāro naruttama;
「大勇者よ、あなたの誓願はいかなるものであったのか、人中の最勝者よ。
Kamhi kāle tayā vīra, patthitā bodhimuttamā’’ti. ādinā –
勇者よ、いかなる時にあなたによって至上の菩提が願われたのか」等の――
Pavattaṃ taṃ pucchaṃ adhikāraṃ aṭṭhuppattiṃ katvā yassa sammāsambuddhassa pādamūle attanā mahābhinīhāro kato, taṃ dīpaṅkaraṃ bhagavantaṃ ādiṃ katvā yesaṃ catuvīsatiyā buddhānaṃ santikā bodhiyā laddhabyākaraṇo hutvā tattha tattha pāramiyo pūresi, tesaṃ paṭipattisaṅkhāto pubbenivāso, attano ca paṭipatti kathitā, idha pana tādiso adhikāro natthi, yena dīpaṅkarato paṭṭhāya, tato vā pana purato buddhe ārabbha pubbenivāsaṃ katheyya. Tasmā na ettha buddhavaṃsadesanāyaṃ viya pubbenivāso vitthārito. Yasmā ca buddhānaṃ desanā nāma desanāya bhājanabhūtānaṃ puggalānaṃ ñāṇabalānurūpā, na attano ñāṇabalānurūpā, tasmā tattha aggasāvakānaṃ, mahāsāvakānaṃ, (theragā. aṭṭha. 2.21 vaṅgīsattheragāthāvaṇṇanā) tādisānañca devabrahmānaṃ vasena desanā vitthāritā. Idha pana pakatisāvakānaṃ, tādisānañca devatānaṃ vasena pubbenivāsaṃ kathento sattannameva buddhānaṃ pubbenivāsaṃ kathesi. Tathā hi ne bhagavā palobhanavasena samuttejetuṃ sappapañcatāya kathāya desanaṃ matthakaṃ apāpetvāva gandhakuṭiṃ pāvisi. Tathā ca imissā eva desanāya anusārato āṭānāṭiyaparitta- (dī. ni. 3.275) desanādayo pavattā.
行われたその質問を権能(機縁)とし、その足元で自ら大誓願を立てたかのディーパンカラ世尊を初めとして、その御前で菩提の記別を得てあちこちで波羅蜜を満たした二十四仏の実践と称される宿住、および自らの実践が語られた。しかしここには、ディーパンカラ仏から始めてそれ以前の仏たちを機縁として宿住を語るようなそのような機縁はない。それゆえにここでは『仏種姓経』の説法のように宿住は詳述されなかったのである。また、仏陀たちの説法というものは説法の器となる人々の智慧の力に応じるものであり、自らの智慧の力に応じるものではない。それゆえにそこでは上首声聞たち、大声聞たち、およびそれらに準ずる神々や梵天たちのために説法が展開された。しかしここでは通常(普通)の声聞たち、およびそれらに準ずる神々のために宿住を説くにあたり、七仏のみの宿住を説かれた。実に世尊は彼らを熱意によって奮起させるために、詳細な言説をもって説法の頂点に到達することなく香舎に入られたのである。そしてまさにこの説法に倣って『アーターナーティヤ保護経』の説法等が行われたのである。
Apicettha bhagavā attano suddhāvāsacārikāvibhāviniyā uparidesanāya saṅgahatthaṃ vipassīādīnaṃ eva sattannaṃ sammāsambuddhānaṃ pubbenivāsaṃ kathesi. Tesaṃyeva hi sāvakā tadā ceva etarahi ca suddhāvāsabhūmiyaṃ ṭhitā, na aññesaṃ parinibbutattā. ‘‘Siddhatthatissaphussānaṃ kira buddhānaṃ sāvakā suddhāvāsesu upapannā upapattisamanantarameva imasmiṃ sāsane upakādayo viya arahattaṃ adhigantvā nacirasseva parinibbāyiṃsu, na tattha tattha yāvatāyukaṃ aṭṭhaṃsū’’ti vadanti. Tathā yesaṃ sammāsambuddhānaṃ paṭivedhasāsanaṃ ekaṃsato nicchaye na ajjāpi dharati, na antarahitaṃ, te eva kittento vipassīādīnaṃyeva bhagavantānaṃ pubbenivāsaṃ imasmiṃ sutte kathesi veneyyajjhāsayavasena. Apubbācarimaniyamo pana aparāparaṃ saṃsaraṇakasattavāsavasena ekissā lokadhātuyā icchitoti na tenetaṃ virujjhatīti daṭṭhabbaṃ. Nirantaraṃ matthakaṃ pāpetvāti abhijātito paṭṭhāya yāva pātimokkhuddeso yāva tā buddhakiccasiddhi, tāva matthakaṃ sikhaṃ pāpetvā. Na tāva kathitoti yojanā.
さらにここで世尊は、自らの浄居天への遊歴を明らかにする以降の説法に包含するために、ヴィパッシー仏ら七人の正等覚者の宿住のみを説かれた。実に彼らの声聞たちこそが当時も今も浄居天の境涯におり、他の仏たちの声聞たちは般涅槃に達しているからである。「シッダッタ仏、ティッサ仏、プッサ仏らの声聞たちは浄居天に生まれたが、生まれた直後にこの教えにおけるウパカらのように阿羅漢果に達して間もなく般涅槃し、それぞれの天界で寿命の限り留まることはなかった」と語られている。同様に、その証得の教えが決定として今日においても保たれており隠没していない正等覚者たちを称賛して、化導されるべき者たちの意楽に応じてヴィパッシー仏ら世尊たちの宿住のみをこの経において説かれた。前後に重ならないという規定は、転生を繰り返す衆生の住処という観点から一つの世界において望まれるものであり、それによってこれが矛盾することはないと知るべきである。「絶え間なく頂点に導いて」とは、誕生から始まって波羅提木叉の読誦に至るまで、仏陀の任務の達成に至るまで、頂点・絶頂に導いて、ということである。「まだ説かれていない」と結びつく。
Tantinti dhammatantiṃ, pariyattinti attho. Puttaputtamātuyānavihāradhanavihāradāyakādīnaṃ sambahulānaṃ atthānaṃ vibhāvanavasena pavattavāro sambahulavāro.
「聖典(タント)」とは法の規範、教説(パリヤッティ)という意味である。息子、息子の母、乗り物、精舎、財宝、精舎の施主など、多くの事柄を解明する観点から行われた章が「多くの項目の章(多数章)」である。
Sambahulavāravaṇṇanā
多くの項目の章の釈
Kāmañcāyaṃ pāḷiyaṃ anāgato, aṭṭhakathāsu āgatattā pana ānetvā dīpetabboti taṃ dīpento **‘‘sabbabodhisattānañhī’’**tiādimāha. Kulavaṃso kulānukkamo. Paveṇīti paramparā. **‘‘Kasmā’’**ti puttuppattiyā kāraṇaṃ pucchitvā taṃ vissajjento **‘‘sabbaññubodhisattānañhī’’**tiādimāha, tena tesaṃ jātanagarādi paññāyamānaṃ ekaṃsato manussabhāvasañjānanatthaṃ icchitabbaṃ, aññathā yathādhippetabuddhakiccasiddhi eva na siyāti dasseti, yato mahāsattānaṃ carimabhave manussaloke eva pātubhāvo, na aññattha.
確かにこれはパーリ聖典には説かれていないが、諸註釈書に説かれているがゆえに引用して明示すべきであるとして、それを明示するために「すべての菩薩たちには実に……」等と説かれた。「家系」とは家柄の順序。「伝統」とは世襲の継承。「なぜか」と息子の誕生の理由を問うてそれに答えるために「一切知の菩薩たちには実に……」等と述べられた。これによって彼らの生地などが知られることは、間違いなく人間であることを認識させるために望まれるのであり、そうでなければ意図された仏陀の任務の達成そのものが成り立たないことを示している。大士(菩薩)たちは最後の生存において人間界にのみ出現し、他処には出現しないからである。
Sambahulaparicchedavaṇṇanā
多くの項目の限定の釈
Candādīnaṃ sobhāvisesaṃ raheti cajāpetīti rāhu, rāhuggaho, idha pana rāhu viyāti rāhu. Bandhananti ca anatthuppattiṭṭhānataṃ sandhāya vuttaṃ. Tathā mahāsattena vuttavacanameva gahetvā kumārassa **‘‘rāhulo’’**ti nāmaṃ akaṃsu. Athāti nipātamattaṃ. Rocinīti rocanasīlā, ujjalarūpāti attho. Rucaggatīti rucaṃ pabhātaṃ āgatibhūtā, ga-kārāgamaṃ katvā vuttaṃ. Itthiratanabhāvato manussaloke sabbāsaṃ itthīnaṃ bimbapaṭicchannabhūtāti bimbā.
月などの格別の輝きを奪い、捨て去らせるものが「ラーフラ」、ラーフ星(羅睺星)であるが、ここでは「ラーフの如きもの」という意味でラーフラである。「束縛」とは不利益の生起する場所であることを指して説かれた。大士が述べられたまさにその言葉を取って、王子に「ラーフラ」という名をつけた。「さて(アタ)」とは単なる不変化詞である。「ロチニー」とは輝く性質をもつ者、光り輝く姿の者という意味である。「ルチャッガティー」とは光輝、輝きを帯びた者であり、「ガ」の文字の挿入によって説かれた。女宝であることから人間界のすべての女性たちの鑑(手本)となる者ゆえに「ビンバー(美しき姿の女性)」である。
Jhānā vuṭṭhāyāti pādakajjhānato uṭṭhāya.
「禅定から立って」とは基礎となる禅定から出定して。
Aṭṭhaṅgulubbedhāti aṭṭhaṅgulappamāṇabahalabhāvā. Cūḷaṃsena chādetvāti tiriyabhāgena ṭhapanavasena sabbaṃ vihāraṭṭhānaṃ chādetvā. Suvaṇṇayaṭṭhiphālehīti phālappamāṇāhi suvaṇṇayaṭṭhīhi. Suvaṇṇahatthipādānīti pakatihatthipādaparimāṇāni suvaṇṇakhaṇḍāni. Vuttanayenevāti cūḷaṃseneva. Suvaṇṇakaṭṭīhīti suvaṇṇakhaṇḍehi. Salakkhaṇānanti lakkhaṇasampannānaṃ sahassārānaṃ.
「八指の高さ」とは八指の分量の厚みがあること。「屋根の棟によって覆い」とは横木を配置することによって精舎のすべての場所を覆い。「黄金の棒の板によって」とは板の分量の黄金の棒によって。「黄金の象の足」とは通常の象の足の大きさの黄金の塊。「説かれた通りの方法で」とは屋根の棟によって。「黄金の塊によって」とは黄金の切片によって。「相(特徴)を具備した」とは特徴を備えた千の輻(や)をもつ車輪の。
Bodhipallaṅkoti abhisambujjhanakāle nisajjaṭṭhānaṃ. Avijahitoti buddhānaṃ tathānisajjāya anaññatthabhāvībhāvato apariccatto. Tenāha **‘‘ekasmiṃyeva ṭhāne hotī’’**ti. Paṭhamapadagaṇṭhikāti pacchime sopānaphalake ṭhatvā ṭhapiyamānassa dakkhiṇapādassa patiṭṭhahanaṭṭhānaṃ. Taṃ pana yasmā daḷhaṃ thiraṃ kenaci abhejjaṃ hoti, tasmā **‘‘padagaṇṭhī’’**ti vuttaṃ. Yasmiṃ bhūmibhāge idāni jetavanamahāvihāro, tattha yasmiṃ ṭhāne purimānaṃ sabbabuddhānaṃ mañcā paññattā, tasmiṃyeva padese amhākampi bhagavato mañco paññattoti katvā ‘‘cattāri mañcapādaṭṭhānāni avijahitāneva hontī’’ti vuttaṃ. Mañcānaṃ pana mahantakhuddakabhāvena mañcapaññāpanapadesassa mahantāmahantatā appamāṇaṃ, buddhānubhāvena pana so padeso sabbadā ekappamāṇoyeva hotīti ‘‘cattāri mañcapādaṭṭhānāni avijahitāneva hontī’’ti vuttanti daṭṭhabbaṃ. Vihāropi na vijahito yevāti etthāpi eseva nayo. Purimaṃ vihāraṭṭhānaṃ na pariccajatīti hi attho.
「菩提座(ボーディパッランカ)」とは、現等覚を達成したときの着座の場所のことである。「捨て去られない」とは、諸仏がそのように着座することが他の場所になり得ないことから、放棄されないことである。それゆえ「まさに同一の場所にある」と言われる。「最初の階段の節(パダガンティカー)」とは、最下段の階段板に立って置かれる右足が据えられる場所のことである。それは堅固で安定し、何ものにも破壊されないため、「足の節(パダガンティ)」と呼ばれる。現在、祇樹給孤独園大精舎(ジェータヴァナ・マハーヴィハーラ)があるその敷地において、過去のすべての仏たちの寝台(マンチャ)が設けられたまさにその場所に、我らの世尊の寝台も設けられたという理由から、「四つの寝台の足の場所は、まさに捨て去られない」と言われたのである。寝台の大小によって寝台を設ける場所の大小が不定となることはなく、仏の威力によってその場所は常に一定の広さであることから、「四つの寝台の足の場所は、まさに捨て去られない」と言われたと理解されるべきである。「精舎もまた捨て去られない」という点についても、同様の道理である。すなわち、過去の精舎の場所を放棄しないという意味である。
Visiṭṭhā mattā vimattā, vimattāva vemattaṃ, visadisatāti attho. Pamāṇaṃ āroho. Padhānaṃ dukkarakiriyā. Rasmīti sarīrappabhā.
「格別の(ヴィシッタ)」分量が「異分量(ヴィマッタ)」であり、異分量そのものが「異分性(ヴェーマッタ)」であって、相違性という意味である。「寸法(パマーナ)」とは身長のことである。「専修(パダーナ)」とは難行のことである。「光明(ラスミ)」とは身体の放つ輝きのことである。
‘‘Sattānaṃ pākatikahatthena chahattho majjhimapuriso, tato tiguṇaṃ bhagavato sarīrappamāṇanti bhagavā aṭṭhārasahattho’’ti vadanti. Apare pana bhaṇanti ‘‘manussānaṃ pākatikahatthena catuhattho majjhimapuriso, tato tiguṇaṃ bhagavato sarīrappamāṇanti bhagavā dvādasahattho upādinnakarūpadhammavasena, samantato pana byāmamattaṃ byāmappabhā pharatīti upari chahatthaṃ abbhuggato, bahalatarappabhā rūpena saddhiṃ aṭṭhārasahattho hotī’’ti.
「有情たちの通常の尺(ハッタ)で六尺の者が中等身の男性であり、それの三倍が世尊の身の寸法であるから、世尊は十八尺である」と言う人々がいる。しかし他の者たちは、「人間の通常の尺で四尺が中等身の男性であり、それの三倍が世尊の身の寸法であるから、世尊は所執受の身体(色法)としては十二尺であるが、周囲に一尋ほどの尋光(ビャーマッパバー)が遍満し、上方に六尺立ち上るので、より濃密な光明の姿と合わせて十八尺となるのである」と述べている。
Addhaniyanti dīghakālaṃ.
「長期にわたるもの(アッダニヤ)」とは、長い時間のことである。
Ajjhāsayapaṭibaddhanti bodhisambhārasambharaṇakāle tathāpavattajjhāsayādhīnaṃ, tathāpavattapatthanānurūpaṃ vipulaṃ, vipulatarañca hotīti attho. Svāyamattho cariyāpiṭakavaṇṇanāyaṃ vuttanayeneva veditabbo. Ettha ca yasmā sarīrappamāṇaṃ, padhānaṃ, sarīrappabhā ca buddhānaṃ visadisāti idha pāḷiyaṃ anāgatā, tasmā tehi saddhiṃ vemattatāsāmaññena āyukulānipi idha āharitvā dīpitāni. Paṭividdhaguṇesūti adhigatasabbaññuguṇesu. Nanu ca bodhisambhāresu, veneyyapuggalaparimāṇe ca vemattaṃ natthīti? Saccaṃ natthi, tadubhayaṃ pana buddhaguṇaggahaṇena gahitameva hotīti na uddhaṭaṃ. Yadaggena hi sabbabuddhānaṃ buddhaguṇesu vemattaṃ natthi, tadaggena nesaṃ sambodhisambhāresupi vemattaṃ natthīti. Kasmā? Hetuanurūpatāya phalassa, ekanteneva veneyyapuggalaparimāṇe vemattabhāvo vibhāvito. Mahābodhisattānañhi hetuavatthāyaṃ sambhatūpanissayindriyaparipākā veneyyapuggalā carimabhave arahattasampattiyā paripositāni kamalavanāni sūriyarasmisamphassena viya tathāgataguṇānubhāvasamphassena vibodhaṃ upagacchantīti dīpesuṃ aṭṭhakathācariyā.
「意楽に結びついた(アッジャーサヤパティバッダ)」とは、菩提の資糧を積集する時にそのように生じた意楽に左右され、そのように生じた請願に相応して広大となり、さらに広大となるという意味である。この意味は、『所行蔵注(チャリヤーピタカ・アッタカタ)』に説かれた通りの道理によって理解されるべきである。そして、ここでは仏たちの身体の寸法・専修・身の光明が異なっているため、聖典の本文(パーリ)には現れていないが、それらと共に差異性という共通点に基づいて、寿命や家柄もここに引き合いに出されて説かれている。「通達された徳において」とは、得られた一切知の徳においてということである。「しかし、菩提の資糧と化導されるべき有情の数に差異はないのではないか?」と問うかもしれない。確かに差異はないが、それら両者は仏の徳の把握によってすでに把握されているため、別個には取り出されなかったのである。すべての仏たちに仏の徳において差異がないのと同様に、彼らの正覚の資糧においても差異はないからである。なぜなら、果は因に相応するからである。化導されるべき有情の数量における差異は確実に明らかにされている。大菩提薩埵(大菩薩)たちの因の段階において培われた資質と諸根の成熟を有する被化導者たちは、最後の生涯において阿羅漢果の達成のために育まれた蓮の群生が太陽の光線に触れるように、如来の徳と威力の感触によって開花に至るのである、と義注の師たちは説いた。
Nidhikumbhoti cattāro mahānidhayo sandhāya vadati. Jāto cāti. Ca-saddena katamahābhinīhāro cāti ayampi attho saṅgahitoti daṭṭhabbo. Vuttaṃ hetaṃ buddhavaṃse –
「財宝の甕(ニディクンバ)」とは、四大宝蔵のことを指して言っている。「生まれたこと(ジャータ)」について、「〜も(チャ)」という語によって、「偉大な誓願を立てたこと」というこの意味も包摂されていると見なされるべきである。実に『仏種姓経(ブッダヴァンサ)』において次のように説かれているからである——
‘‘Tārāgaṇā virocanti, nakkhattā gaganamaṇḍale;
「星辰の群れが輝き、虚空の円盤に諸星が宿る。
Visākhā candimāyuttā, dhuvaṃ buddho bhavissatī’’ti. (bu. vaṃ. 65);
満月はヴィサーカー(室宿)と合す。決定して仏となるであろう。」と。(仏種姓経 65)
‘‘Eteneva ca sabbabuddhānaṃ visākhānakkhatteneva mahābhinīhāro hotī’’ti ca vadanti.
「まさにこのヴィサーカー宿によってこそ、すべての仏たちの大誓願がなされるのである」とも彼らは言う。
13. Ayaṃ gatīti ayaṃ pavatti pavattanākāro, aññe pubbenivāsaṃ anussarantā iminā ākārena anussarantīti attho, yasmā cutito paṭṭhāya yāva paṭisandhi, tāva anussaraṇaṃ ārohanaṃ atītaatītataraatītatamādijātisaṅkhāte pubbenivāse ñāṇassa abhimukhabhāvena pavattīti katvā. Tasmā paṭisandhito paṭṭhāya yāva cuti, tāva anussaraṇaṃ orohanaṃ pubbenivāse paṭimukhabhāvena ñāṇassa pavattīti āha **‘‘pacchāmukhaṃ ñāṇaṃ pesetvā’’**ti. Cutigantabbanti yaṃ panidaṃ cutiyā ñāṇagatiyā gantabbaṃ, taṃ gamanaṃ bujjhananti attho. Garukanti bhāriyaṃ dukkaraṃ. Tenāha **‘‘ākāse padaṃ dassento viyā’’**ti. Aparampi kāraṇanti chinnavaṭumānussaraṇaṃ pacchāmukhaṃ ñāṇaṃ pesanato aparaṃ acchariyabbhutakāraṇaṃ. Yatrāti paccattatthe, nāmāti acchariyatthe nipāto, hi-saddo anatthako. Tenāha **‘‘yo nāma tathāgato’’**ti. Evañca katvā ‘‘yatrā’’ti nipātavasena visuṃ yatra-saddaggahaṇaṃ samatthitaṃ hoti. Papañcenti sattasantānaṃ saṃsāre vitthārentīti papañcaṃ. Kammavaṭṭaṃ vuccatīti kilesavaṭṭassa papañcaggahaṇena, vipākavaṭṭassa dukkhaggahaṇena gahitattā. Pariyādinnavaṭṭeti sabbaso khepitavaṭṭe. ‘‘Maggasīlena phalasīlenā’’ti vatvā tayidaṃ maggaphalasīlaṃ lokiyasīlapubbakaṃ, buddhānañca lokiyasīlampi lokuttarasīlaṃ viya anaññasādhāraṇaṃ evāti dassetuṃ **‘‘lokiyalokuttarasīlenā’’**ti vuttaṃ. Samādhipaññāsupi eseva nayo. Samādhipakkhāti samādhi ca samādhipakkhā ca samādhipakkhā, ekadesasarūpekaseso daṭṭhabbo. Tenāha **‘‘maggasamādhinā’’**tiādi, **‘‘vihāro gahito vā’’**ti ca. Samādhipakkhā nāma vīriyasatiādayo.
13. 「この生起のありさま(アヤン・ガティ)」とは、この生起の仕方、他者たちが過去の生涯を想起するときにこの仕方で想起するという意味である。死期から結生(胎宿)に至るまでの想起は上昇であり、過去、さらに過去、最も過去などの生と呼ばれる過去の生涯へと知解が向かうことによって生じるからである。それゆえ、結生から死期に至るまでの想起は下降であり、過去の生涯において知解が逆行することによって生じることから、「知解を後方に向かわせて」と言った。「死期の行路(チュティガンタッバ)」とは、死期の知の行路によって行かれるべきもの、その移行を覚知することという意味である。「重い(ガルカ)」とは、困難であり成し難いことである。それゆえ「虚空に足跡を示すかのように」と言った。「他の理由(アパランピ・カーラナン)」とは、遮断された道を想起することは、知解を後方へ向かわせること以上に驚異的で未曽有な理由であるということである。「〜のところ(ヤトラ)」は主格の意味であり、「実に〜とは(ナーマ)」は驚嘆の意味を表す不変化詞、「ヒ」という語は無意味(語調を整えるもの)である。それゆえ「かの如来とは」と言った。このようにして「ヤトラ」という不変化詞に基づいて、別個に「ヤトラ」の語の解釈が成立する。「戯論(パパンチャ)」とは、有情の相続を輪廻において拡散させるものであるから戯論という。煩悩の輪転は戯論という把握によって、異熟の輪転は苦という把握によって把握されているため、「業の輪転」と言われる。「尽きた輪転において(パリヤーディンナヴァッテ)」とは、輪転を完全に滅し尽くしたことにおいてという意味である。「道戒と果戒によって」と述べて、この道果の戒は世間的な戒を前提とするものであり、仏たちにとっては世間的な戒も出世間的な戒と同様に他に共通しないものであることを示すために、「世間・出世間の戒によって」と言われた。三摩地と般若においてもこの道理である。「三摩地の類(サマーディパッカ)」とは、三摩地と三摩地に属する法が「三摩地類」であり、一部分と同形の残余語として見なされるべきである。それゆえ「道の三摩地によって」など、あるいは「住が取られる」などと言った。三摩地に属する法とは、精進や念などのことである。
Sayanti attanā. Nīvaraṇādīhīti nīvaraṇehi ceva tadekaṭṭhehi ca pāpadhammehi, vitakkavicārādīhi ca. ‘‘Vimuttattā **vimuttīti saṅkhyaṃ gacchantī’’**ti iminā vimutti-saddassa kammasādhanataṃ āha aṭṭhasamāpattiādivisayattā tassa. Vimuttattāti ca ‘‘vikkhambhanavasena vimuttattā’’tiādinā yojetabbaṃ. Tassa tassāti aniccānupassanādikassa. Paccanīkaṅgavasenāti pahātabbapaṭipakkhaaṅgavasena. Paṭippassaddhante uppannattāti kilesānaṃ paṭippassambhanaṃ paṭippassaddhaṃ, so eva anto pariyosānabhāvato, tasmiṃ sādhetabbe nibbattattā, taṃtaṃmaggavajjhakilesānaṃ paṭippassambhanavasena pavattattāti attho. Kilesehi nissaṭatā, apagamo ca nibbānassa tehi vivittattā evāti āha **‘‘dūre ṭhitattā’’**ti.
「自ら(サヤン)」とは、自分自身で。「蓋などから(ニーヴァラナーディーヒ)」とは、諸々の蓋およびそれと同じ処にある悪法、尋・伺などから。「解脱していることから『解脱』という名称を得る」というこれによって、それが八等至などの対象であることから、「解脱」という語の所作性(業)を述べている。「解脱していることから」とは、「制伏による解脱のゆえに」などと結合されるべきである。「それぞれの(タッサ・タッサ)」とは、無常の随観などの。「敵対する支分によって」とは、断じられるべき反対の支分によって。「安息の極限において生じたことから」とは、煩悩の安息が「安息」であり、それ自体が究極・終極であることから、達成されるべきそれにおいて生じたゆえに、それぞれの道によって断滅されるべき煩悩の安息によって生起したという意味である。煩悩からの離脱と離去は、涅槃がそれらから遠離していることそのものであるため、「遠く離れて留まっていることから」と言った。
16. Dhammadhātūti dhammānaṃ sabhāvo, atthato cattāri ariyasaccāni. Suppaṭividdhāti suṭṭhu paṭividdhā savāsanānaṃ sabbesaṃ kilesānaṃ pajahanato. Evañhi sabbaññutā, dasabalañāṇādayo cāti sabbe buddhaguṇā bhagavatā adhigatā ahesuṃ. Arahattaṃ dhammadhātūti keci. Sabbaññutañāṇanti apare. Dvīhi padehīti dvīhi vākyehi. Ābaddhanti paṭibaddhaṃ taṃmūlakattā uparidesanāya. Devacārikakolāhalanti attano devaloke cārikāyaṃ suddhāvāsadevānaṃ kutūhalappavattiṃ dassento suttantapariyosāne (dī. ni. aṭṭha. 2.91) vicāressati, atthato vibhāvessatīti yojanā. Ayaṃ desanāti ‘‘ito so bhikkhave’’tiādinā (dī. ni. 2.4) vitthārato pavattitadesanamāha. Nidānakaṇḍetiādito desitaṃ uddesadesanamāha. Sā hi imissā desanāya nidānaṭṭhāniyattā tathā vuttā.
16. 「法界(ダンマダートゥ)」とは、諸法の自性のことであり、意味としては四聖諦である。「善く通達された」とは、習気(じっけ)を伴うすべての煩悩を断滅したことにより、見事に通達されたということである。このようにして一切知性、十力智などのすべての仏の徳が世尊によって獲得された。「法界とは阿羅漢果である」と言う者たちもいる。「一切知智である」と述べる者たちもいる。「二つの句によって」とは、二つの文によって。「連関した」とは、それに根ざしたものであるため、後の説示と結びついていることである。「天界遊行の喧騒」とは、自身が天界を遊行する際に浄居天の天子たちの好奇の生起を示しつつ、経の結び(長部義注2.91)において検討し、意味として解明するであろう、と結合される。「この説示」とは、「比丘たちよ、今より…」など(長部2.4)と詳細に展開された説示を指している。「序品(ニダーナカンダ)において」とは、冒頭に説かれた総説の説示を指している。それはこの説示の序論の位置にあるため、そのように言われたのである。
Bodhisattadhammatāvaṇṇanā
菩薩の法爾の解釈
17. ‘‘Vipassīti tassa nāma’’nti vatvā tassa anvatthataṃ dassetuṃ **‘‘tañca kho’’**tiādi vuttaṃ. Vividhe attheti tirohitavidūradesagatādike nīlādivasena nānāvidhe, tadaññe ca indriyagocarabhūte te ca yathūpagate, vohāravinicchaye cāti nānāvidhe atthe. Passanakusalatāyāti dassane nipuṇabhāvena. Yāthāvato ñeyyaṃ bujjhatīti bodhi, so eva sattayogato bodhisattoti āha **‘‘paṇḍitasatto bujjhanakasatto’’**ti. Sucintitacintitādinā pana paṇḍitabhāve vattabbameva natthi. Yadā ca panānena mahābhinīhāro kato, tato paṭṭhāya mahābodhiyaṃ ekantaninnattā bodhimhi satto bodhisattoti āha **‘‘bodhisaṅkhātesū’’**tiādi. Maggañāṇapadaṭṭhānañhi sabbaññutañāṇaṃ, sabbaññutañāṇapadaṭṭhānañca maggañāṇaṃ ‘‘bodhī’’ti vuccati. ‘‘Sato sampajāno’’ti iminā catutthāya gabbhāvakkantiyā okkamīti dasseti. Catasso hi gabbhāvakkantiyo idhekacco gabbho mātukucchiyaṃ okkamane, ṭhāne, nikkhamaneti tīsu ṭhānesu asampajāno hoti, ekacco paṭhame ṭhāne sampajāno, na itaresu, ekacco paṭhame, dutiye ca ṭhāne sampajāno, na tatiye, ekacco tīsupi ṭhānesu sampajāno hoti. Tattha paṭhamā gabbhāvakkanti lokiyamahājanassa vasena vuttā, dutiyā asītimahāsāvakānaṃ (theragā. aṭṭha. 2.21 vaṅgīsattheragāthāvaṇṇanāya vitthāro) vasena, tatiyā dvinnaṃ aggasāvakānaṃ, paccekabuddhānañca vasena. Te kira kammajavātehi uddhaṃpādā adhosirā anekasataporise papāte viya yonimukhe khittā tāḷacchiggaḷena hatthī viya sambādhena yonimukhena nikkhamantā mahantaṃ dukkhaṃ pāpuṇanti, tena nesaṃ ‘‘mayaṃ nikkhamāmā’’ti sampajaññaṃ na hoti. Catutthā sabbaññubodhisattānaṃ vasena. Te hi mātukucchimhi paṭisandhiṃ gaṇhantāpi pajānanti, tattha vasantāpi pajānanti, nikkhamanakālepi pajānanti. Na hi te kammajavātā uddhaṃpāde adhosire katvā khipituṃ sakkonti, dve hatthe pasāritvā akkhīni ummīletvā ṭhitakāva nikkhamantīti. Ñāṇena paricchinditvāti pubbabhāge pañcamahāvilokanañāṇehi ceva ‘‘idāni cavāmī’’ti cutiparicchindanañāṇena ca aparabhāge ‘‘idha mayā paṭisandhi gahitā’’ti paṭisandhiparicchindanañāṇena ca paricchijja jānitvā.
17. 「ヴィパッシィー(毘婆尸)が彼の名である」と述べて、その語義通りの意味を示すために「そして実に彼こそ」などが言われた。「種々の義において」とは、隠匿されたもの、遠方にあるものなど、青などの種々の色による多様なもの、それ以外の感覚器官の対象となったもの、適切に生起したもの、世俗の判決などの種々の事柄においてということである。「見ることの巧みさによって」とは、観察することにおける巧みな状態によって。あるがままに知られるべき覚りを覚知するゆえに「菩提(ボーディ)」であり、まさにそれが有情と結びつくゆえに「菩薩(ボーディサッタ)」であるとして、「賢明なる有情、覚知する有情」と言った。善く思惟されたことを思惟するなどの点における賢明さについては、言うまでもない。そして彼が大いなる誓願を立てた時、それ以降、大菩提に専心して傾倒しているがゆえに、菩提に執着(専念)した者が菩薩であるとして、「菩提と呼ばれるものにおいて」などと言った。道智を足場とするのが一切知智であり、一切知智を足場とするのが道智であって、これらは「菩提」と呼ばれる。「正念正知にして」というこれによって、第四の入胎によって入胎したことを示す。実に四種の入胎があり、ある胎児は母胎に入る時、留まる時、出る時の三つの段階において正知を欠いており、ある胎児は第一の段階では正知があるが他では欠いており、ある胎児は第一と第二の段階では正知があるが第三では欠いており、ある胎児は三つの段階すべてにおいて正知がある。その中で第一の入胎は世間の一般の人々に関して説かれ、第二は八十の大弟子たちに関して説かれ、第三は二大弟子と独覚たちに関して説かれた。彼らは業生風によって足を上、頭を下にして、数百人の深さの断崖のような産門に投げ落とされ、鍵穴を通る象のように狭い産門から出る時に激しい苦痛を受け、そのため彼らには「我らは出つつある」という正知がないのである。第四は一切知菩薩たちに関するものである。彼らは母胎に結生する時も正知し、そこに留まる時も正知し、出る時にも正知する。業生風も彼らの足を上、頭を下にして投げ落とすことはできず、両手を広げ、目を開けて立ったまま出てくるのである。「智によって限定して」とは、事前に五大観察の智、および「いま没する」という死期を限定する智によって、また事後には「いま我によって結生された」という結生を限定する智によって、明確に知ってということである。
Pañcannaṃ mahāpariccāgānaṃ, ñātatthacariyādīnañca satipi pāramiyā pariyāpannabhāve sambhāravisesabhāvadassanatthaṃ visuṃ gahaṇaṃ. Tattha aṅgapariccāgo, nayanapariccāgo, attapariccāgo, rajjapariccāgo, puttadārapariccāgoti ime pañca mahāpariccāgā. Tatthāpi kāmaṃ aṅgapariccāgādayopi dānapāramīyeva, tathāpi pariccāgavisesabhāvadassanatthañceva sudukkarabhāvadassanatthañca mahāpariccāgānaṃ visuṃ gahaṇaṃ. Tato eva ca aṅgapariccāgatopi visuṃ nayanapariccāgaggahaṇaṃ, pariccāgabhāvasāmaññepi rajjapariccāgaputtadārapariccāgaggahaṇañca kataṃ. Ñātīnaṃ atthacariyā ñātatthacariyā, sā ca kho karuṇāyanavasena. Tathā sattalokassa diṭṭhadhammikasamparāyikaparamatthānaṃ vasena hitacariyā lokatthacariyā. Kammassakatāñāṇavasena, anavajjakammāyatanasippāyatanavijjāṭhānavasena, khandhāyatanādivasena, lakkhaṇattayāditīraṇavasena ca attano, paresañca tattha satipaṭṭhānena ñāṇacāro buddhacariyā, sā panatthato paññāpāramīyeva, ñāṇasambhāravisesatādassanatthaṃ pana visuṃ gahaṇaṃ. Buddhacariyānanti bahuvacananiddesena pubbayogapubbacariyādhammakkhānādīnaṃ saṅgaho daṭṭhabbo. Tattha gatapaccāgatavattasaṅkhātāya pubbabhāgapaṭipadāya saddhiṃ abhiññāsamāpattinipphādanaṃ pubbayogo. Dānādīsuyeva sātisayapaṭipatti pubbacariyā. ‘‘Yāva cariyāpiṭake saṅgahitā abhinīhāro pubbayogo, kāyādivivekavasena ekacariyā **pubbacariyā’’**ti keci. Dānādīnañceva appicchatādīnañca saṃsāranibbānesu ādīnavānisaṃsānañca vibhāvanavasena, sattānaṃ bodhittaye patiṭṭhāpanaparipācanavasena ca pavattakathā dhammakkhānaṃ. Koṭiṃ patvāti paraṃ pariyantaṃ paramukkaṃsaṃ pāpuṇitvā. Sattamahādānānīti aṭṭhavassikakāle ‘‘hadayamaṃsādīnipi yācakānaṃ dadeyya’’nti ajjhāsayaṃ uppādetvā dinnadānaṃ, maṅgalahatthidānaṃ, gamanakāle dinnaṃ sattasattakamahādānaṃ, maggaṃ gacchantena dinnaṃ assadānaṃ, rathadānaṃ, puttadānaṃ, bhariyādānanti imāni satta mahādānāni (cariyā. 79) datvā.
五大施や親族のための所行(親族利行)などは、波羅蜜に含まれているとはいえ、資糧の卓越性を示すために個別に挙げられている。その中で、身体の一部の施捨、眼の施捨、自らの身の施捨、王位の施捨、妻子(妻子)の施捨、これらが五大施である。その中でも、身体の一部の施捨なども確かに布施波羅蜜そのものであるが、施捨の卓越性と極めて困難であることを示すために、五大施が個別に挙げられている。まさにそのために、身体の一部の施捨からも別個に眼の施捨が挙げられ、施捨という点では共通していても、王位の施捨と妻子の施捨が挙げられている。親族の利益のための所行が親族利行であり、それは慈悲の心による。同様に、有情世間に対する現世・来世・勝義の利益による有益な所行が世間利行(世界利行)である。業処の智により、無過失な仕事の分野・技能・学問の分野により、蘊・処などにより、三相の判定などにより、自他において念処の確立を伴う智の活動が仏利行(覚行)である。それは本質的には般若波羅蜜そのものであるが、智の資糧の卓越性を示すために別個に挙げられている。「諸々の覚行(仏利行)」と複数で示されていることによって、過去の行業(前瑜伽)、過去の所行(前行)、法の説示などの包摂が見なされるべきである。その中で、往還の義務と呼ばれる前段階の修行法とともに神通等至を達成することが過去の行業である。布施などにおいて特に勝れた実践が過去の所行である。「『所行蔵』に収められた誓願に至るまでが過去の行業であり、身の遠離などによる単独の修行が過去の所行である」と言う者たちもいる。布施などや少欲などのこと、また輪廻と涅槃における過患と功徳を明らかにすることを通じて、有情たちを三つの覚り(声聞・独覚・仏)に定着させ成熟させるために展開された説示が法の説示である。「頂点に達して」とは、最高の限界、最上の卓越に達して。「七大施」とは、八歳の時に「乞食者たちに心臓の肉などをも与えよう」と意楽を起こして与えた施し、吉祥象の施し、出立の時に与えた七百ずつの大施、道を行く時に与えた馬の施し、戦車の施し、子供の施し、妻の施し、これら七つの大施(所行蔵 79)を与えて。
‘‘Idāneva me maraṇaṃ hotū’’ti adhimuccitvā kālakaraṇaṃ adhimuttikālakiriyā, taṃ bodhisattānaṃyeva, na aññesaṃ. Bodhisattā kira dīghāyukadevaloke ṭhitā ‘‘idha ṭhitassa me bodhisambhārasambharaṇaṃ na sambhavatī’’ti katvā tattha vāsato nibbindamānasā honti, tadā vimānaṃ pavisitvā akkhīni nimīletvā ‘‘ito uddhaṃ me jīvitaṃ nappavattatū’’ti cittaṃ adhiṭṭhāya nisīdanti, cittādhiṭṭhānasamanantarameva maraṇaṃ hoti. Pāramīdhammānañhi ukkaṃsappavattiyā tasmiṃ tasmiṃ attabhāve abhiññāsamāpattīhi santānassa visesitattā attasinehassa tanubhāvena, sattesu ca mahākaruṇāya uḷārabhāvena adhiṭṭhānassa tikkhavisadabhāvāpattiyā bodhisattānaṃ adhippāyā samijjhanti. Citte, viya kammesu ca nesaṃ vasībhāvo, tasmā yattha upapannānaṃ pāramiyo sammadeva paribrūhanti. Vuttanayena kālaṃ katvā tattha upapajjanti. Tathā hi amhākaṃ mahāsatto imasmiṃyeva kappe nānājātīsu aparihīnajjhāno kālaṃ katvā brahmaloke nibbatto, appakameva kālaṃ tattha ṭhatvā tato cavitvā manussaloke nibbatto, pāramīsambharaṇapasuto ahosi. Tena vuttaṃ ‘‘bodhisattānaṃyeva, na aññesa’’nti. **‘‘Ekenaattabhāvena antarena pāramīnaṃ sabbaso pūritattā’’**ti iminā payojanābhāvato tattha ṭhatvā adhimuttikālakiriyā nāma nāhosīti dasseti. Api ca tattha yāvatāyukaṭṭhānaṃ carimabhave anekamahānidhisamuṭṭhānapubbikāya dibbasampattisadisāya mahāsampattiyā nibbatti viya, buddhabhūtassa asadisadānādivasena anaññasādhāraṇalābhuppatti viya ca ‘‘ito paraṃ mahāpurisassa dibbasampattianubhavanaṃ nāma natthī’’ti ussāhajātassa puññasambhārassa vasenāti daṭṭhabbaṃ. Ayañhettha dhammatā.
「今まさに我が死あれ」と決意して命を終えることが「勝解死(意楽による死)」であり、それは菩薩にのみあり、他の者にはない。菩薩たちは長寿の天界に留まり、「ここに留まる我には菩提の資糧を積集することが不可能である」として、そこに住むことに嫌悪の心を抱き、その時宮殿に入って目を閉じ、「これ以上我が生命が存続しないように」と心を定めて座すと、心の決定の直後に死が訪れる。波羅蜜の諸法が卓越して生起し、それぞれの生涯において神通等至によって相続(心身)が向上しているため、自己愛が薄く、有情に対する大悲が広大であることから、その決定(誓願)が鋭く明瞭な状態に達し、菩薩たちの望みは成就するのである。彼らは心においても業においても自在であるため、そこに生まれたならば波羅蜜が完全に増大するような場所へ、述べられた方法によって命を終えてそこに生まれるのである。実に我らの大士はこの賢劫においてさえ、種々の生涯で禅定を失うことなく死んで梵天界に生まれ、そこにわずかな間だけ留まってそこから没し、人間界に生まれて波羅蜜の積集に努めたのである。それゆえ「菩薩にのみあり、他の者にはない」と言われた。「一つの生涯を挟むだけで波羅蜜が完全に満たされたことから」というこれによって、必要性がないためにそこに留まって勝解死をすることはなかったということを示している。さらに、そこで寿命の限り留まることは、最後の生涯において数々の大宝蔵の出現を前提とした天の富に似た大いなる繁栄が生じるのと同様に、また仏となったときに無比の布施等によって他に類を見ない利養が生じるのと同様に、「これ以降、大士には天の富の享受というものはない」と熱意を生じた福徳の資糧の力によるものと見なされるべきである。実にこれがここにおける法爾(自然の理)である。
Manussagaṇanāvasena, na devagaṇanāvasena. Pubbanimittānīti cutiyā pubbanimittāni. Amilāyitvāti ettha amilātaggahaṇeneva tāsaṃ mālānaṃ vaṇṇasampadāyapi gandhasampadāyapi sobhāsampadāyapi avināso dassitoti daṭṭhabbaṃ. Bāhirabbhantarānaṃ rajojallānaṃ lepassapi abhāvato devānaṃ sarīragatāni vatthāni sabbakālaṃ parisuddhappabhassarāneva hutvā tiṭṭhantīti āha **‘‘vatthesupi eseva nayo’’**ti. Neva sītaṃ na uṇhanti yassa sītassa paṭikāravasena adhikaṃ seviyamānaṃ uṇhaṃ, sayameva vā kharataraṃ hutvā abhibhavantaṃ sarīre sedaṃ uppādeyya, tādisaṃ neva sītaṃ, na uṇhaṃ hoti. Tasmiṃ kāleti yathāvuttamaraṇāsannakāle. Bindubinduvasenāti chinnasuttāya āmuttamuttāvaliyā nipatantā muttaguḷikā viya bindu bindu hutvā. Sedāti sedadhārā muccanti. Dantānaṃ khaṇḍitabhāvo khaṇḍiccaṃ. Kesānaṃ palitabhāvo pāliccaṃ. Ādi-saddena valittacataṃ saṅgaṇhāti. Kilantarūpo attabhāvo hoti, na pana khaṇḍiccapāliccādīti adhippāyo. Ukkaṇṭhitāti anabhirati. Sā natthi uparūpari uḷārauḷārānameva bhogānaṃ visesato duvijānanānaṃ upatiṭṭhahanato. Nissasantīti uṇhaṃ nissasanti. Vijambhantīti anabhirativasena vijambhanaṃ karonti.
「人間の数え方によって」であり、天人の数え方によってではない。「前兆(プッバニミッタ)」とは、死の前兆のことである。「萎むことなく」というここにおいて、「萎まない」という把握によって、それらの花々の色の素晴らしさも、香りの素晴らしさも、美しさの素晴らしさも損なわれないことが示されていると見なされるべきである。内外の塵や垢の付着もないことから、天人たちの身体にまとわれた衣服は常に清浄で光り輝いたままであるゆえ、「衣服においても同様の道理である」と言った。「寒くもなく熱くもなく」とは、その寒さの対策として過剰に用いられる熱さ、あるいは自ずから激しくなって圧倒し、身体に汗を生じさせるような、そのような寒さでも熱さでもない。「その時に」とは、前述の死期が近づいた時に。「水滴の状態で」とは、切れた糸から落ちる真珠の首飾りの真珠の玉のように、滴となって。「汗が」とは、汗の筋が流れ出る。歯が欠ける状態が「欠歯」である。毛髪が白くなる状態が「白髪」である。「など」という語によって、皮膚の皺を包摂している。疲労した姿の身体にはなるが、歯が欠けたり白髪になったりすることはない、というのが趣旨である。「倦怠」とは不快感(退屈)である。それは、より上層の広大で広大な富、特に知りがたい富が次々と現れるために、存在しない。「息を吐く」とは、熱い息を吐き出すことである。「伸びをする」とは、不快感のゆえに伸びをすることである。
Paṇḍitā evāti buddhisampannā eva devatā. Yathā devatā sampatijātā ‘‘kīdisena puññakammena idha nibbattā’’ti cintetvā ‘‘iminā nāma puññakammena idha nibbattā’’ti jānanti, evaṃ atītabhave attanā kataṃ, aññadāpi vā ekaccaṃ puññakammaṃ jānantiyeva mahāpuññāti āha **‘‘ye mahāpuññā’’**tiādi.
「賢明な者たちのみ」とは、知恵を具えた天子たちのことである。天子たちが生まれたばかりの時に「どのような福業によってここに生まれたのか」と考えて、「これこれの福業によってここに生まれたのだ」と知るように、過去生において自らがなしたこと、あるいは別の時にも一部の福業を、大福徳の者たちは知るのである、という理由から「大福徳の者たちである」などと言った。
Na paññāyanti ciratarakālattā paramāyuno. Aniyyānikanti na niyyānāvahaṃ sattānaṃ abhājanabhāvato. Sattā na paramāyuno honti nāma pāpussannatāyāti āha **‘‘tadā hi sattā ussannakilesā hontī’’**ti. Etthāha – kasmā sammāsambuddhā manussaloke eva uppajjanti, na devabrahmalokesūti? Devaloke tāva nuppajjanti brahmacariyavāsassa anokāsabhāvato, tathā anacchariyabhāvato. Acchariyadhammā hi buddhā bhagavanto, tesaṃ sā acchariyadhammatā devattabhāve ṭhitānaṃ na pākaṭā hoti yathā manussabhūtānaṃ, devabhūte hi sammāsambuddhe dissamānaṃ buddhānubhāvaṃ devānubhāvato loko dahati, na buddhānubhāvato, tathā sati ‘‘sammāsambuddho’’ti nādhimuccati na sampasīdati, issaraguttaggāhaṃ na vissajjeti, devattabhāvassa ca cirakālādhiṭṭhānato ekaccasassatavādato na parimuccati. Brahmaloke nuppajjantīti etthāpi eseva nayo. Sattānaṃ tādisaggāhavinimocanatthañhi buddhā bhagavanto manussasugatiyaṃyeva uppajjanti, na devasugatiyaṃ. Manussasugatiyaṃ uppajjantāpi opapātikā na honti, sati ca opapātikūpapattiyaṃ vuttadosānativattanato, dhammaveneyyānaṃ dhammatantiyā ṭhapanassa viya dhātuveneyyānaṃ dhātūnaṃ ṭhapanassa icchitabbattā ca. Na hi opapātikānaṃ parinibbānato uddhaṃ sarīradhātuyo tiṭṭhanti. Manussaloke uppajjantāpi mahābodhisattā carimabhave manussabhāvassa pākaṭabhāvakaraṇāya pana dārapariggahampi karontā yāva puttamukhadassanā agāramajjhe tiṭṭhanti, paripākagatasīlanekkhammapaññādipāramikāpi na abhinikkhamantīti. Kiṃ vā etāya kāraṇacintāya ‘‘sabbabuddhehi āciṇṇasamāciṇṇā, yadidaṃ manussabhūtānaṃyeva abhisambujjhanā, na devabhūtāna’’nti. Ayamettha dhammatā. Tathā hi tadattho mahābhinīhāropi manussabhūtānaṃyeva ijjhati, na devabhūtānaṃ.
極限の寿命があまりにも長い時間であるため、「知られない」のである。「出離を導かない(アニッヤーニカ)」とは、有情たちが器ではない(教化の器でない)ため、出離をもたらさないということである。有情たちは悪の増大によって極限の寿命を持たない者となるゆえに、「実にその時、有情たちは煩悩が増大している」と言った。ここで問う、「なぜ正等覚者たちは人間界にのみ出現し、天界や梵天界には出現しないのか?」と。天界においては、まず清浄行(梵行)の生活の機会がないため、同様に驚異的な性質がないため出現しない。仏なる世尊たちは驚異的な法を持つ者たちであり、彼らのその驚異的な法性は、天人の状態にある者たちにおいては、人間となった者のようには明白にならない。天人となった正等覚者に現れる仏の威力を、世間は天人の威力と見なし、仏の威力とは見なさないからである。そうであれば、「正等覚者である」と信順せず、澄浄な信仰を起こさず、自在神への執着を捨てず、天人の状態が長期間続くことから、一部の一入永遠論(一分常住論)から脱することができない。梵天界に出現しないという点についても、同様の道理である。有情たちのそのような執着を解き放つためにこそ、仏なる世尊たちは人間という善趣にのみ出現し、天という善趣には出現しないのである。人間という善趣に出現するとしても、化生(化生の者)としては出現しない。もし化生として出現するならば、述べられた過失を超越することができないからであり、法によって教化されるべき者たちのために法の綱領を遺すのと同様に、遺骨(舎利)によって教化されるべき者たちのために遺骨を遺すことが望まれるからである。化生の者たちには、完全な涅槃(パリニッバーナ)の後に身体の遺骨が残ることはない。人間界に出現するとしても、大菩薩たちは最後の生涯において、人間であることが明白になるように妻を娶ることさえし、子の顔を見るまで在家のただ中に留まり、成熟した戒・出離・般若などの波羅蜜を有しながらも出家しないのである。あるいは、このような理由の思惟に何の意味があろうか、「これ即ち、天人となった者としてではなく、人間となった者として現等覚を達成することは、すべての仏たちによって行われ実践されてきたことである」と。これがここにおける法爾である。実に、そのための大誓願もまた人間となった者にのみ成就し、天人となった者には成就しないからである。
Kasmā pana sammāsambuddhā jambudīpe eva uppajjanti, na sesadīpesu? Keci tāva āhu ‘‘yasmā pathaviyā nābhibhūtā, buddhānubhāvasahitā acalaṭṭhānabhūtā bodhimaṇḍabhūmi jambudīpe eva, tasmā jambudīpe eva uppajjantī’’ti, tathā ‘‘itaresampi avijahitaṭṭhānānaṃ tattheva labbhanato’’ti. Ayaṃ panettha amhākaṃ khanti – yasmā purimabuddhānaṃ, mahābodhisattānaṃ, paccekabuddhānañca nibbattiyā sāvakabodhisattānaṃ sāvakabodhiyā abhinīhāro, sāvakapāramiyā sambharaṇaṃ, paripācanañca buddhakhettabhūte imasmiṃ cakkavāḷe jambudīpe eva ijjhati, na aññattha. Veneyyānaṃ vinayanattho ca buddhuppādoti aggasāvakamahāsāvakādi veneyyavisesāpekkhāya etasmiṃ jambudīpe eva buddhā nibbattanti, na sesadīpesu. Ayañca nayo sabbabuddhānaṃ āciṇṇasamāciṇṇoti. Tesaṃ uttamapurisānaṃ tattheva uppatti sampatticakkānaṃ viya aññamaññūpanissayato aparāparaṃ vattatīti daṭṭhabbaṃ, eteneva imaṃ cakkavāḷaṃ majjhe katvā iminā saddhiṃ cakkavāḷānaṃ dasasahassasseva khettabhāvo dīpito ito aññassa buddhānaṃ uppattiṭṭhānassa tepiṭake buddhavacane anupalabbhanato. Tenāha **‘‘tīsu dīpesu buddhā na nibbattanti, jambudīpeyeva nibbattantīti dīpaṃ passī’’**ti. Iminā nayena desaniyāmepi kāraṇaṃ nīharitvā vattabbaṃ.
ではなぜ、正等覚者たちは閻浮提(ジャンブディーパ)にのみ出現し、他の大陸(洲)には出現しないのか? ある者たちはまず、「大地の中心であり、仏の威力を具え、不動の場所である菩提道場(ボーディマンダ)の地が閻浮提にのみあるがゆえに、閻浮提にのみ出現するのである」と言い、同様に「他の捨て去られない場所もそこにのみ得られるからである」と言う。しかしここにおいて我らの承認するところはこうである——過去の仏たち、大菩薩たち、独覚たちの出現によって、声聞菩薩たちの声聞菩提への誓願、声聞波羅蜜の積集と成熟は、仏国土であるこの輪囲世界において閻浮提にのみ成就し、他では成就しないからである。そして仏の出現は化導されるべき者たちを調伏することを目的とするため、大弟子や諸大弟子などの教化されるべき優れた者たちを考慮して、仏たちはこの閻浮提にのみ誕生し、他の大陸には誕生しないのである。そしてこの道理は、すべての仏たちによって行われ実践されてきたことである。それらの至高の者たちがそこにのみ出現することは、転輪聖王の宝輪が相互の依存関係によって順次に回転するようなものであると理解されるべきである。これによって、この輪囲世界を中心として、これと共に一万の輪囲世界のみが国土であることが示された。これ以外の仏たちの出現場所は三蔵の仏典の中に見出されないからである。それゆえ「三つの大陸には仏たちは誕生せず、閻浮提にのみ誕生する、と大陸を観察した」と言った。この道理によって、場所の決定における理由も引き出して語られるべきである。
Idāni ca khattiyakulaṃ lokasammataṃ brāhmaṇānampi pūjanīyabhāvato. ‘‘Rājā pitā bhavissatī’’ti kulaṃ passi pituvasena kulassa niddisitabbato.
「そして現在、刹帝利(クシャトリヤ)の家柄は世間に承認されており、バラモンたちからも供養されるべきものだからである」。「王が父となるであろう」と、父親に基づいて家柄が示されるべきことから、家柄を観察した。
‘‘Dasannaṃ māsānaṃ upari satta divasānī’’ti passi, tena attano antarāyābhāvaṃ aññāsi, tassā ca tusitabhave dibbasampattipaccanubhavanaṃ.
「十ヶ月の後に七日間」と観察し、それによって自らには障害がないこと、そして彼女が兜率天(トゥシタ)において天の富を享受することを知った。
Tā devatāti dasasahassicakkavāḷadevatā. Kathaṃ pana tā devatā tadā bodhisattassa pūritapāramibhāvaṃ, kathaṃ cassa buddhabhāvaṃ jānantīti? Mahesakkhānaṃ devatānaṃ vasena, yebhuyyena ca tā devatā abhisamayabhāgino. Tathā hi bhagavato dhammadānasaṃvibhāge anekavāraṃ dasasahassacakkavāḷadevatāsannipāto ahosi.
「それらの天女たち」とは、一万の輪囲世界の天女たちのことである。しかし、それらの天女たちが当時、菩薩の波羅蜜が満たされた状態をどのように知り、どのようにして彼の仏となる状態を知ったのか? 大威徳の天女たちを通じてであり、大抵の場合、それらの天女たちは悟り(現観)の分を有する者たちであった。実に世尊の法施の分配において、幾度も一万の輪囲世界の天女たちの集会があったからである。
‘‘Cavāmī’’ti jānāti cutiāsannajavanehi ñāṇasahitehi cutiyā upaṭṭhitabhāvassa paṭisaṃviditattā. Cuticittaṃ na jānāti cuticittakkhaṇassa ittarabhāvato. Tathā hi taṃ cutūpapātañāṇassapi avisayova. Paṭisandhicittepi eseva nayo. Āvajjanapariyāyoti āvajjanakkamo. Yasmā ekavāraṃ āvajjitamattena ārammaṇaṃ nicchinituṃ na sakkā, tasmā taṃ evārammaṇaṃ dutiyaṃ, tatiyañca āvajjitvā nicchayati. Āvajjanasīsena cettha javanavāro gahito. Tenāha **‘‘dutiyatatiyacittavāre eva jānissatī’’**ti. Cutiyā puretaraṃ katipayacittavārato paṭṭhāya ‘‘maraṇaṃ me āsanna’’nti jānanato **‘‘cutikkhaṇepi cavāmīti jānātī’’**ti vuttaṃ. Paṭisandhiyā pana apubbabhāvato paṭisandhicittaṃ na jānāti. Nikantiyā uppattito parato ‘‘asukasmiṃ me ṭhāne paṭisandhi gahitā’’ti jānāti. Tasmiṃ kāleti paṭisandhiggahaṇakāle. Dasasahassilokadhātu kampatīti ettha kampanakāraṇaṃ heṭṭhā brahmajālavaṇṇanāyaṃ (dī. ni. ṭī. 1.149) vuttameva. Atthato panettha yaṃ vattabbaṃ, taṃ parato mahāparinibbānavaṇṇanāyaṃ (dī. ni. aṭṭha. 2.171) āgamissati. Mahākāruṇikā buddhā bhagavanto sattānaṃ hitasukhavidhānatapparatāya bahulaṃ somanassikāva hontīti tesaṃ paṭhamamahāvipākacittena paṭisandhiggahaṇaṃ aṭṭhakathāyaṃ (dī. ni. aṭṭha. 2.17; dha. sa. aṭṭha. 498; ma. ni. aṭṭha. 4.200) vuttaṃ. Mahāsivattheropana yadipi mahākāruṇikā buddhā bhagavanto sattānaṃ hitasukhavidhānatapparāva, vivekajjhāsayā pana visaṅkhāraninnā sabbasaṅkhāresu ajjhupekkhanabahulāti pañcamamahāvipākacittena paṭisandhiggahaṇamāha.
「没する」と知るのは、死期が近づいた知を伴う速行心によって、死期が近づいている状態が了知されるからである。死心を知ることはない。死心の瞬間が極めて短いからである。実にそれは死生智の対象ですらない。結生心においても同様の道理である。「作意の順序」とは、作意の順序のことである。一度作意しただけでは対象を確定することはできないため、まさにその対象を二度、三度と作意して確定する。ここでは作意を主として速行の順序が把握されている。それゆえ「二度目、三度目の心の順序においてこそ知るであろう」と言った。死期より前の数回の心が生起する段階から「我の死は近づいた」と知ることから、「死の瞬間にも没すると知る」と言われた。しかし、結生には前段階がないため、結生心を知ることはない。執着(愛着)が生じた後で、「我はこれこれの場所に結生した」と知る。「その時に」とは、結生の瞬間に。「一万の世界が震動する」というここにおいて、震動の理由は前に『梵網経注(ブラフマジャーラ・アッタカタ)』(長部義注復注 1.149)において説かれた通りである。意味としてここで語られるべきことは、後で『大般涅槃経注(マハーパリニッバーナ・アッタカタ)』(長部義注 2.171)に出てくるであろう。大悲の仏なる世尊たちは、有情たちの利益と安楽の配慮に専念しているため、多くは歓喜(喜倶)の心を持っておられることから、彼らが第一の大異熟心によって結生することが義注(長部義注 2.17; 法集論義注 498; 中部義注 4.200)において説かれている。しかし大シヴァ長老は、たとえ大悲の仏なる世尊たちが有情たちの利益と安楽の配慮に専念しているとしても、遠離の意楽を持ち、無為(涅槃)に傾倒し、すべての諸行に対して捨(平静)を多く持っておられることから、第五の大異熟心によって結生すると述べている。
Pure puṇṇamāya sattamadivasato paṭṭhāyāti puṇṇamāya pure sattamadivasato paṭṭhāya, sukkapakkhe navamito paṭṭhāyāti attho. Sattame divaseti navamito sattame divase āsaḷhipuṇṇamāyaṃ. Idaṃ supinanti idāni vuccamānākāraṃ. Majjhimaṭṭhakathāyaṃ pana ‘‘anotattadahaṃ netvā ekamantaṃ aṭṭhaṃsu. Atha nesaṃ deviyo āgantvā manussamalaharaṇatthaṃ nhāpetvā’’ti (ma. ni. aṭṭha. 4.200) vuttaṃ. Tattha nesaṃ deviyoti mahārājūnaṃ deviyo. Caritvāti gocaraṃ caritvā.
「満月の前の七日目から」とは、満月の前の七日目から、白月(上弦)の九日目からという意味である。「七日目に」とは、九日目から七日目のアーサーリハ(浅陀)の満月の日に。「この夢を」とは、今から語られるありさまの夢を。しかし『中部義注』においては、「アノータッタ池に連れて行き、一方に立たせた。そこで彼ら(四大天王)の妃たちがやって来て、人間の汚れを除去するために沐浴させ」(中部義注 4.200)と説かれている。そこでの「彼らの妃たち」とは、大王たちの妃たちのことである。「巡って」とは、餌場を巡り歩いて。
Haritūpalittāyāti haritena gomayena kataparibhaṇḍāya. **‘‘So ca kho purisagabbho, na itthigabbho, putto te bhavissatī’’**ti ettakameva te brāhmaṇā attano supinasatthanayena kathesuṃ. **‘‘Sace agāraṃ ajjhāvasissatī’’**tiādi pana devatāviggahena tamatthaṃ yāthāvato pavedesuṃ.
「緑色で塗られた(ハリトゥーパリッタ)」とは、新鮮な牛糞によって装飾が施された。「そして実にそれは男児の胎児であり、女児の胎児ではない。あなたに息子が生まれるであろう」と、これだけをそれらのバラモンたちは自らの夢占いの術の道理によって語った。「もし在家に住するならば」などは、天人の神がかりによってその意味を正しく知らせたのである。
Dhammatāti ettha dhamma-saddo ‘‘jātidhammānaṃ bhikkhave sattāna’’ntiādīsu (ma. ni. 1.131; 3.373; paṭi. ma. 1.33) viya pakatipariyāyo, dhammo eva dhammatā yathā devo eva devatāti āha **‘‘ayaṃ sabhāvo’’**ti, ayaṃ pakatīti attho. Svāyaṃ sabhāvo atthato tathā niyatabhāvoti āha **‘‘ayaṃ niyāmoti vuttaṃ hotī’’**ti. Niyāmo pana bahuvidhoti te sabbe atthuddhāranayena uddharitvā idhādhippetaniyāmameva dassetuṃ **‘‘niyāmo ca nāmā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha kammānaṃ niyāmo kammaniyāmo. Esa nayo utuniyāmādīsu tīsu. Itaro pana dhammo eva niyāmo dhammaniyāmo, dhammatā.
「法爾(ダンマター)」というここにおいて、「ダンマ」という語は「比丘たちよ、生ずる性質(法)のある有情たちにとって」など(中部1.131; 3.373; 無礙解道1.33)におけるように本性の同義語であり、デーヴァ(天)そのものがデーヴァター(神)であるように、法そのものが法爾であるとして、「これが自性である」と言った。「これが本性である」という意味である。この自性は意味としてはそのように決定していることであるとして、「これが必然の理(ニヤーマ)と言われる」と言った。必然の理には多種多様なものがあるため、それらすべてを意味の抽出の道理によって取り出し、ここで意図されている必然の理のみを示すために、「必然の理とは」などが言われた。その中で、諸業の必然の理が「業の必然の理(業決定)」である。この道理は時節の必然の理などの三つにおいても同様である。それに対して、法そのものである必然の理が「法の必然の理(法決定)」、すなわち法爾である。
Kusalassa kammassa. Nisento tikhiṇaṃ karonto.
「善業の」。「研ぎ澄ます(ニセーント)」とは、鋭くすることである。
Arūpādibhūmibhāgavisesavasena utuvisesadassanato utuvisesena sijjhamānānaṃ rukkhādīnaṃ pupphaphalādiggahaṇaṃ **‘‘tesu tesu janapadesū’’**ti visesetvā vuttaṃ. Tasmiṃ tasmiṃ kāleti tasmiṃ tasmiṃ vasantādikāle.
無色などの土地の差異に基づいて時節の差異が見られることから、時節の差異によって結実する樹木などの開花や結実の把握について、「それらそれらの地方において」と限定して説いた。「その時その時に」とは、その時その時の春などの時期に。
Madhurato bījato tittato bījatoti yojanā.
「甘い種子から、苦い種子から」と結合される。
18. Vattamānasamīpe vattamāne viya voharitabbanti ‘‘okkamatī’’ti vuttanti āha **‘‘okkanto hotīti ayamevattho’’**ti. Evaṃ hotīti evaṃ vuttappakārenassa sampajānanā hoti. Na okkamamāne paṭisandhikkhaṇassa duviññeyyatāya. Yathā ca vuttaṃ ‘‘paṭisandhicittaṃ na jānātī’’ti. Dasasahassacakkavāḷapattharaṇena vā appamāṇo. Ativiya samujjalanabhāvena uḷāro. Devānubhāvanti devānaṃ pabhānubhāvaṃ. Devānañhi pabhaṃ so obhāso abhibhavati, na tesaṃ ādhipaccaṃ. Tenāha **‘‘nivatthavatthassā’’**tiādi.
18. 現在に近い過去は現在であるかのように表現されるべきであることから、「入胎する」と説かれたとして、「入胎したのである、というのがまさにこの意味である」と言った。「このようになる」とは、このように述べられた様態で彼の正知があるということである。入胎しつつある瞬間には、結生の瞬間が知りがたいがゆえに正知はない。「結生心を知らない」と説かれた通りである。あるいは、一万の輪囲世界に広がるがゆえに「無量」である。極めて輝かしい状態であるゆえに「広大」である。「神々の威力(デーヴァーヌバーヴァ)」とは、神々の輝きの威光のことである。実にその光輝は神々の輝きを圧倒するのであって、彼らの統治権を圧倒するのではない。それゆえ「まとっている衣服の」などと言った。
Lokānaṃ lokadhātūnaṃ antaro vivaro lokantaro, so eva itthiliṅgavasena **‘‘lokantarikā’’**ti vutto. Rukkhagacchādinā kenaci na haññantīti aghā, asambādhā. Tenāha **‘‘niccavivaṭā’’**ti. Asaṃvutāti heṭṭhā, upari ca kenaci na pihitā. Tena vuttaṃ **‘‘heṭṭhāpi appatiṭṭhā’’**ti. Tattha pi-saddena yathā heṭṭhā udakassa pidhāyikā pathavī natthīti asaṃvutā lokantarikā, evaṃ uparipi cakkavāḷesu viya devavimānānaṃ abhāvato asaṃvutā appatiṭṭhāti dasseti. Andhakāro ettha atthīti andhakārā. Cakkhuviññāṇaṃ na jāyati ālokassa abhāvato, na cakkhuno. Tathā hi ‘‘tena obhāsena aññamaññaṃ sañjānantī’’ti vuttaṃ. Jambudīpe ṭhitamajjhanhikavelāyaṃ pubbavidehavāsīnaṃ atthaṅgamanavasena upaḍḍhaṃ sūriyamaṇḍalaṃ paññāyati, aparagoyānavāsīnaṃ uggamanavasena, evaṃ sesadīpesu pīti āha **‘‘ekappahāreneva tīsu dīpesu paññāyantī’’**ti. Ito aññathā pana dvīsu eva dīpesu ekappahārena paññāyantīti. Ekekāya disāya nava nava yojanasatasahassāni andhakāravidhamanampi imināva nayena daṭṭhabbaṃ. Pabhāya nappahontīti attano pabhāya obhāsituṃ anabhisambhunanti. Yugandharapabbatappamāṇe ākāse vicaraṇato **‘‘cakkavāḷapabbatassa vemajjhena vicarantī’’**ti vuttaṃ.
世間(世界)である輪囲世界の間の間隙が「世界間(ローカンタラ)」であり、まさにそれが女性名詞として「世界中間(ローカンタリカ)」と言われた。樹木や茂みなど何ものによっても遮られないゆえに「遮蔽なきもの(アガー)」、障害がないものである。それゆえ「常に開かれている」と言った。「覆われていない(アサンヴター)」とは、下方においても上方においても何ものによっても覆われていないことである。それゆえ「下方にも支えがない」と言われた。そこにおいて「〜も(ピ)」という語によって、下方において水を覆う大地が存在しないために覆われていない世界中間であるのと同様に、上方においても輪囲世界におけるような天宮が存在しないために覆われておらず、支えがないということを示している。「暗黒がここにある」ゆえに「暗黒の」である。光が存在しないために眼識が生じないのであって、眼が存在しないからではない。実に「その光輝によって互いを認識する」と説かれているからである。閻浮提に位置して真昼の時、東勝身洲(東ヴィデーハ)の住人たちには日没として半分の太陽の円盤が見え、西牛貨洲(西ゴイヤーナ)の住人たちには日の出として見え、このように他の大陸においても同様であるとして、「一撃(同時)に三つの大陸において見られる」と言った。これ以外の場合は、二つの大陸においてのみ同時に見られる。それぞれの方角において九十万由旬の暗黒を打ち払うことも、まさにこの道理によって理解されるべきである。「自らの光では及ばない」とは、自らの光によって照らす能力がないということである。由乾陀羅山(ユガンダラ)の高さの虚空を行き交うことから、「輪囲山の中ほどを行き交う」と言われた。
Vāvaṭāti khādanatthaṃ gaṇhituṃ upakkamantā. Viparivattitvāti vivattitvā. Chijjitvāti mucchāpattiyā ṭhitaṭṭhānato muccitvā, aṅgapaccaṅgachedanena vā chijjitvā. Accantakhāreti ātapasantāpābhāvena atisītabhāvameva sandhāya accantakhāratā vuttā siyā. Na hi taṃ kappasaṇṭhahanaudakaṃ sampattikaramahāmeghavuṭṭhaṃ pathavisandhārakaṃ kappavināsakaṃ udakaṃ viya khāraṃ bhavituṃ arahati. Tathā hi sati pathavīpi vilīyeyya, tesaṃ vā pāpakammabalena petānaṃ udakassa pubbakheḷabhāvāpatti viya tassa udakassa tadā khārabhāvāpatti hotīti vuttaṃ **‘‘accantakhāre udake’’**ti.
「専念している(ヴァーヴァター)」とは、食べるために捕らえようと試みていることである。「反転して(ヴィパリヴァッティトヴァー)」とは、身をひるがえして。「ちぎれて(チッジトヴァー)」とは、気絶して立っていた場所から離れて、あるいは手足の切断によってちぎれて。「極めて塩辛い(アッチャンタカーラ)」とは、日光の熱がないことによる極度の冷たさそのものを指して「極めて塩辛い」と言われたのであろう。実にその劫の生成期の水は、繁栄をもたらす大雨の雲から降った、大地を保持する水であって、劫を破壊する水のように塩辛いものであるはずがないからである。もしそうであれば大地も溶解してしまうであろう。あるいは、それらの餓鬼たちの悪業の力によって、水が膿や唾液の状態になるように、その水がその時塩辛い状態になることから、「極めて塩辛い水において」と言われたのである。
Ekayāgupānamattampīti pattādibhājanagataṃ yāguṃ gaḷociādiuddharaṇiyā gahetvā pivanamattampi kālaṃ. Samantatoti sabbabhāgato chappakārampi.
「粥を一杯飲むだけの間も」とは、鉢などの容器に入った粥を柄杓などで取って飲むだけの間も。 「四方八方から」とは、あらゆる方向から、六方向からも。
19. Catunnaṃ mahārājānaṃ vasenāti vessavaṇādicatumahārājabhāvasāmaññena.
19. 「四大天王によって」とは、毘沙門天(ヴェッサヴァナ)などの四大天王としての共通性に基づいて。
Yathāvihāranti yathāsakaṃ vihāraṃ.
「それぞれの住まいに従って」とは、おのおの自身の住まいに従って。
20. Pakatiyāti attano pakatiyā eva. Tenāha **‘‘sabhāvenevā’’**ti. Parassa santike gahaṇena vinā attano sabhāveneva sayameva adhiṭṭhahitvā sīlasampannā. Bodhisattamātāpīti amhākaṃ bodhisattamātāpi. Kāladevilassāti yathā kāladevilassa santike aññadā gaṇhāti, bodhisatte pana…pe… sayameva sīlaṃ aggahesi, tathā vipassībodhisattamātāpīti adhippāyo.
20. 「本性として」とは、まさに自らの本性によって。それゆえ「自然に」と言った。他者のもとで受持することなく、自らの本性によって自ら決意して戒を具足している。「菩薩の母もまた」とは、我らの菩薩の母もまた。「カーラデーヴィラの」とは、普段はカーラデーヴィラのもとで受持するが、菩薩が…中略…自ら戒を受持したように、毘婆尸(ヴィパッシー)菩薩の母も同様であった、というのが趣旨である。
21. **‘‘Manussesū’’**ti idaṃ pakaticārittavasena vuttaṃ, ‘‘manussitthiyā nāma manussapurisesu purisādhippāyacittaṃ uppajjeyyā’’ti. Bodhisattassa mātuyā pana devesupi tādisaṃ cittaṃ nuppajjateva. Yathā bodhisattassa ānubhāvena bodhisattamātu purisādhippāyacittaṃ nuppajjati, evaṃ tassa ānubhāveneva sā kenaci purisena anabhibhavanīyāti āha **‘‘pādā na vahanti dibbasaṅkhalikā viya bajjhantī’’**ti.
21. 「人間たちにおいて」とは、「人間の女性には、人間の男性に対して情欲の心が起きるであろう」という自然の慣習に基づいて言われたものである。しかし菩薩の母には、神々に対してもそのような心は決して生じない。菩薩の威力によって菩薩の母に情欲の心が生じないのと同様に、まさに彼の威力によって彼女はいかなる男性によっても犯されることがないとして、「足が前に進まず、天の鎖で縛られたようになる」と言った。
22. Pubbe ‘‘kāmaguṇūpasaṃhitaṃ cittaṃ nuppajjatī’’ti vuttaṃ, puna ‘‘pañcahi kāmaguṇehi samappitā samaṅgībhūtā paricāretī’’ti ca vuttaṃ. Kathamidaṃ aññamaññaṃ na virujjhatīti āha **‘‘pubbe’’**tiādi. Vatthupaṭikkhepoti abrahmacariyavatthupaṭisedho. Tenāha **‘‘purisādhippāyavasenā’’**ti. Ārammaṇapaṭilābhoti rūpādipañcakāmaguṇārammaṇasseva paṭilābho.
22. 以前には「愛欲の感覚に結びついた心が生じない」と説かれ、後には「五つの愛欲の綱領を備え、具足して楽しむ」とも説かれている。これらがどうして互いに矛盾しないのか、として「以前に」などを言った。「対象の排除」とは、不淫の事柄の排除である。それゆえ「情欲の心によって」と言った。「対象の獲得」とは、色などの五つの愛欲の綱領の対象そのものの獲得である。
23. Kilamathoti khedo, kāyassa garubhāvakathinabhāvādayopi tassā tadā na honti eva. ‘‘Tirokucchigataṃ passatī’’ti vuttaṃ. Kadā paṭṭhāya passatīti āha **‘‘kalalādikālaṃ atikkamitvā’’**tiādi. Dassane payojanaṃ sayameva vadati. Tassa abhāvato kalalādikāle na passati. Puttena daharena mandena uttānaseyyakena **saddhiṃ. ‘‘Yaṃ taṃ mātū’’**tiādi pakaticārittavasena vuttaṃ. Cakkavattigabbhatopi hi savisesaṃ bodhisattagabbho parihāraṃ labhati puññasambhārassa sātisayattā, tasmā bodhisattamātā ativiya sappāyāhārācārā ca hutvā sakkaccaṃ pariharati. Sukhavāsatthanti bodhisattassa sukhavāsatthaṃ. Puratthābhimukhoti mātu purimabhāgābhimukho. Idāni tirokucchigatassa dissamānatāya abbhantaraṃ, bāhirañca kāraṇaṃ dassetuṃ **‘‘pubbe katakamma’’**ntiādi vuttaṃ. Assāti deviyā. Vatthunti kucchiṃ. Phalikaabbhapaṭalādino viya bodhisattamātukucchitacassa patanubhāvena ālokassa vibandhābhāvato yathā bodhisattamātā kucchigataṃ bodhisattaṃ passati, kiṃ evaṃ bodhisattopi mātaraṃ, aññañca purato ṭhitaṃ rūpagataṃ passati, noti āha **‘‘bodhisatto panā’’**tiādi. Kasmā pana sati cakkhumhi, āloke ca na passatīti āha **‘‘na hi antokucchiyaṃ cakkhuviññāṇaṃ uppajjatī’’**ti. Assāsapassāsā viya hi tattha cakkhuviññāṇampi na uppajjati tajjassa samannāhārassa abhāvato.
23. 「疲労(キラマタ)」とは疲弊のことであり、その時彼女には身体の重さや硬さなども全くない。「胎内に入っている者を見る」と説かれた。いつから見るのか、として「受胎卵などの時期を過ぎて」などを言った。見る目的は自ら述べている。その目的がないため、受胎卵などの時期には見ないのである。幼く弱々しく仰向けに寝ている子供「とともに」。「それは母の…」などは自然の慣習に基づいて言われた。実に転輪聖王の胎児よりも格別に、菩薩の胎児は福徳の資糧が卓越しているために保護を受けるのであり、それゆえ菩薩の母は極めて適合した食物と行動を保ち、恭敬して保護するのである。「安楽に住まわせるために」とは、菩薩を安楽に住まわせるために。「東方を向いて」とは、母の正面を向いて。今や、胎内にいる者が見えることについての内的一因と外的一因を示すために、「過去になされた業」などが言われた。「彼女の(アッサー)」とは、王妃の。「基盤(ヴァットゥ)」とは胎のことである。水晶や雲の層などのように、菩薩の母の胎の皮膚が極めて薄いために光の遮断がないことから、菩薩の母が胎内の菩薩を見るように、同様に菩薩もまた母や、前方に立つ他の色形を見るのか、見ないのか、として「しかし菩薩は」などを言った。ではなぜ、眼があり、光があるのに見ないのか、として「実に胎内においては眼識は生じないからである」と言った。呼吸と同様に、そこではそれに相応する作意がないために、眼識もまた生じないからである。
24. Yathā aññā itthiyo vijātappaccayā tādisena rogena abhibhūtāpi hutvā maranti, bodhisattamātu pana bodhisatte kucchigate tassa vijāyananimittaṃ, na koci rogo uppajjati, kevalaṃ āyuparikkhayeneva kālaṃ karoti, svāyamattho heṭṭhā vutto eva. **‘‘Bodhisattena vasitaṭṭhānañhī’’**tiādi tassa kāraṇavacanaṃ. Aññesaṃ aparibhoganti aññehi na paribhuñjitabbaṃ, na paribhogayogyanti attho. Tathā sati bodhisattapitu aññāya aggamahesiyā bhavitabbaṃ, tathāpi bodhisattamātari dharantiyā ayujjamānakanti āha **‘‘na ca sakkā’’**tiādi. Apanetvāti aggamahesiṭhānato nīharitvā. Attani chandarāgavaseneva bahiddhā ārammaṇapariyesanāti visayinisārāgo sattānaṃ visayesu sārāgassa balavakāraṇanti dassento āha **‘‘sattānaṃ attabhāve chandarāgo balavā hotī’’**ti. Anurakkhituṃ na sakkotīti sammā gabbhaparihāraṃ nānuyuñjati. Tena gabbho bahvābādho hoti. Vatthu visadaṃ hotīti gabbhāsayo visuddho hoti. Mātu majjhimavayassa tatiyakoṭṭhāse bodhisattagabbhokkamanampi tassā āyuparimāṇavilokaneneva saṅgahitaṃ vayovasena uppajjanakavikārassa parivajjanato. Itthisabhāvena uppajjanakavikāro pana bodhisattassa ānubhāveneva vūpasamati.
24. 他の女性たちが出産を原因としてそのような病に冒されて死ぬこともあるようにではなく、菩薩の母には菩薩が胎内にいる間、その出産を原因とするいかなる病も生じず、ただ寿命の尽きることによってのみ命を終えるのであり、この意味はすでに前述された。「菩薩が住んだ場所は実に」などはその理由の言葉である。「他者によって享受されるべきでない」とは、他者によって享受されてはならず、享受するにふさわしくないという意味である。そうであれば、菩薩の父には別の第一王妃がいるはずであるが、それでも菩薩の母が生きている間は不適切であるとして、「〜することもできない」などを言った。「退けて」とは、第一王妃の地位から外して。自己に対する愛欲に基づいてこそ外の対象を追求するのであり、主体への愛着が有情たちにとって客体への愛着の強力な原因であることを示しつつ、「有情たちの自己の身体に対する愛欲は強力である」と言った。「保護することができない」とは、適切に胎児の保護に専念しないことである。それによって胎児は多くの病を患うことになる。「基盤が清浄である」とは、子宮が清浄であるということである。母の中年の第三期における菩薩の入胎もまた、年齢による変状の発生を避けることから、彼女の寿命の分量の観察によって包摂されている。しかし、女性の本性によって生じる変状は、菩薩の威力によって鎮まるのである。
25. Sattamāsajātoti paṭisandhiggahaṇato sattame māse jāto. So sītuṇhakkhamo na hoti ativiya sukhumālatāya. Aṭṭhamāsajāto kāmaṃ sattamāsajātato buddhivayavā, ekacce pana cammapadesā vuddhiṃ pāpuṇantā ghaṭṭanaṃ na sahanti, tena so na jīvati. ‘‘Sattamāsajātassa pana na tāva te jātā’’ti vadanti.
25. 「七ヶ月で生まれた者」とは、結生から七ヶ月目に生まれた者のことである。その者は極めて繊細であるために、寒暖に耐えることができない。「八ヶ月で生まれた者」は、確かに七ヶ月で生まれた者よりも成長しているが、皮膚の一部の箇所が成長しつつあって接触に耐えられず、そのため生存することができない。「しかし七ヶ月で生まれた者には、まだそれらが生じていないのである」と彼らは言う。
27. Devā paṭhamaṃ paṭiggaṇhantīti ‘‘lokanāthaṃ mahāpurisaṃ sayameva paṭhamaṃ paṭiggaṇhāmā’’ti sañjātagāravabahumānā attano pītiṃ pavedentā khīṇāsavā suddhāvāsabrahmāno ādito paṭiggaṇhanti. Sūtivesanti sūtijagganadhātivesaṃ. Eketi abhayagirivāsino. Macchakkhisadisaṃ chavivasena. Aṭṭhāsi na nisīdi, na nipajji vā. Tena vuttaṃ ‘‘ṭhitāva bodhisattaṃ bodhisattamātā vijāyatī’’ti. Niddukkhatāya ṭhitā eva hutvā vijāyati. Dukkhassa hi balavabhāvato taṃ dukkhaṃ asahamānā aññā itthiyo nisinnā vā nipannā vā vijāyanti.
27. 「神々が最初に受け取る」とは、「世の救い主たる大士を我ら自身が最初に受け取ろう」と敬意と尊崇の念を起こし、自らの歓喜を表しながら、漏尽者たる浄居天の梵天たちが最初に受け取るのである。「産婆の姿」とは、出産を世話する乳母の姿のことである。「ある者たち」とは、無畏山寺(アバヤギリ)の住人たちである。「魚の目のよう」とは、肌の色に基づいて。「立った」とは、座ることも横たわることもなかった。それゆえ「立ったままで菩薩の母は菩薩を産む」と言われた。苦痛がないために立ったままで産むのである。苦痛が強いために、その苦痛に耐えかねて他の女性たちは座るか横たわって産むのである。
28. Ajinappaveṇiyāti ajinacammehi sibbitvā katapaveṇiyā. Mahātejoti mahānubhāvo. Mahāyasoti mahāparivāro, vipulakittighoso ca.
28. 「鹿皮の敷物によって」とは、鹿皮を縫い合わせて作られた敷物によって。「大威光の(マハーテーヤ)」とは、大いなる威力のある。「大名声の(マハーヤサ)」とは、多くの従者を伴い、広大な名声の響きのある。
29. Bhaggavibhaggāti sambādhaṭṭhānato nikkhamanena vibhāvitattā bhaggā, vibhaggā viya ca hutvā, tena nesaṃ avisadabhāvameva dasseti. Alaggo hutvāti gabbhāsaye, yonipadese ca katthaci alaggo asatto hutvā, yato ‘‘dhamakaraṇato udakanikkhamanasadisa’’nti vuttaṃ. Udakenāti gabbhāsayagatena udakena. Amakkhitova nikkhamati sammakkhitassa tādisassa udakasemhādikasseva tattha abhāvato. Bodhisattassa hi puññānubhāvato paṭisandhiggahaṇato paṭṭhāya taṃ ṭhānaṃ pubbepi visuddhaṃ visesato paramasugandhagandhakuṭi viya candanagandhaṃ vāyantaṃ tiṭṭhati.
29. 「折れ曲がり砕かれた」とは、狭隘な場所から出ることによって生じるため、折れ曲がり、砕かれたようになって、それによって彼らの不浄な状態そのものを示す。「付着することなく」とは、子宮や産門の場所にどこにも付着せず、執着することなく、それゆえ「水筒から水が出るようである」と言われた。「水によって」とは、子宮内の羊水によって。「汚されることなく出る」とは、付着するようなその種の水や粘液などがそこには全く存在しないからである。実に菩薩の福徳の威力により、結生した時からその場所は以前にも清浄であり、特に至高の香気ある香室のように白檀の香りを放ちつつ保たれているのである。
Udakavaṭṭiyoti udakakkhandhā.
「水流」とは、水の塊のことである。
31. Muhuttajātoti muhuttena jāto hutvā muhuttamattova. Anudhāriyamāneti anukūlavasena nīyamāne. Āgatānevāti taṃ ṭhānaṃ upagatāni eva. Anekasākhanti ratanamayānekasatapatiṭṭhānahīrakaṃ. Sahassamaṇḍalanti tesaṃ upariṭṭhitaṃ anekasahassamaṇḍalahīrakaṃ. Marūti devā. Na kho pana evaṃ daṭṭhabbaṃ padavītihārato pageva disāvilokanassa katattā. Tenāha **‘‘mahāsatto hī’’**tiādi. Ekaṅgaṇānīti vivaṭabhāvena vihāraṅgaṇapariveṇaṅgaṇāni viya ekaṅgaṇasadisāni ahesuṃ. Sadisopi natthīti tumhākaṃ idaṃ vilokanaṃ visiṭṭhe passituṃ **‘‘idha tumhehi sadisopi natthi, kuto uttaritaro’’**ti āhaṃsu. Aggoti padhāno, kena panassa padhānatāti āha **‘‘guṇehī’’**ti. Paṭhama-saddo cettha padhānapariyāyo. Bodhisattassa pana padhānatā anaññasādhāraṇāti āha **‘‘sabbapaṭhamo’’**ti, sabbapadhānoti attho. Etassevāti aggasaddasseva. Ettha ca mahesakkhā tāva devā tathā ca vadanti, itare pana kathanti? Mahāsattassa ānubhāvadassanādinā. Mahesakkhānañhi devānaṃ mahāsattassa ānubhāvo viya tena sadisānampi ānubhāvo paccakkho ahosīti, itare pana tesaṃ vacanaṃ sutvā saddahantā anuminantā tathā āhaṃsu. Paripākagatapubbahetusaṃsiddhāya dhammatāya codiyamāno imasmiṃ…pe… byākāsi.
31. 「生まれて間もない(ムフッタジャータ)」とは、瞬時にして生まれ、わずか一瞬を経たばかりの。「差し伸べられつつある時」とは、順応して運ばれつつある時。「至ったのである」とは、まさにその場所に近づいたのである。「多くの枝のある」とは、宝石でできた数百の支柱のダイヤモンド(骨組み)を持つもの。「千の円盤を持つ」とは、それらの上に位置する数千の円盤のダイヤモンド(装飾)を持つもの。「天神たち(マル)」とは、神々のことである。しかし、歩行よりも前に方角の観察がなされたことから、そのように見なされるべきではない。それゆえ「大士は実に」などと言った。「一つの庭のように」とは、開かれていることによって、精舎の庭や周囲の庭のように、一つの庭のようになった。「同等の者さえ存在しない」とは、あなた方のこの観察は卓越した者を見るためのものであり、「ここにはあなたと同等の者さえ存在しない、どうしてさらに優れた者がいようか」と彼らは言った。「最上(アッガ)」とは第一のことであり、何によって彼の第一性があるのか、として「諸々の徳によって」と言った。ここにおいて「最初(パタマ)」という語は、第一と同義である。しかし菩薩の第一性は他に共通しないものであるとして、「すべての最初である」と言った。「すべての第一である」という意味である。「この〜の」とは、最上という語の。「そしてここにおいて、大威徳の神々は実にそのように言うが、他の者たちはどのように言うのか?」大士の威力の観察などによってである。実に大威徳の神々にとって、大士の威力と同様に彼と同等の者たちの威力も明白であったが、他の者たちは彼らの言葉を聞いて信じ、推論してそのように言ったのである。成熟した過去の因によって成就した法爾に促されて、この…中略…において宣言した。
Jātamattasseva bodhisattassa ṭhānādīni yesaṃ visesādhigamānaṃ pubbanimittabhūtānīti te niddhāretvā dassento **‘‘ettha cā’’**tiādimāha. Tattha patiṭṭhānaṃ caturiddhipādapaṭilābhassa pubbanimittaṃ iddhipādavasena lokuttaradhammesu suppatiṭṭhitabhāvasamijjhanato. Uttarābhimukhabhāvo lokassa uttaraṇavasena gamanassa pubbanimittaṃ. Tena hi bhagavā sadevakassa lokassa abhibhūto, kenaci anabhibhūto ahosi. Tenāha **‘‘mahājanaṃ ajjhottharitvā abhibhavitvā gamanassa pubbanimitta’’**nti. Tathā sattapadagamanaṃ sattapadabojjhaṅgasampannaariyamaggagamanassa. Suvisuddhasetacchattadhāraṇaṃ suvisuddhavimuttichattadhāraṇassa. Pañcarājakakudhabhaṇḍasamāyogo pañcavidhavimuttiguṇasamāyogassa. Anāvaṭadisānuvilokanaṃ anāvaṭañāṇatāya. ‘‘Aggohamasmī’’tiādinā achambhitavācābhāsanaṃ kenaci avibandhanīyatāya appavattiyassa saddhammacakkappavattanassa. ‘‘Ayamantimā jātī’’ti āyatiṃ jātiyā abhāvakittanā anupādi…pe… pubbanimittanti veditabbaṃ tassa tassa anāgate laddhabbavisesassa taṃ taṃ nimittaṃ abyabhicārīti katvā. Na āgatoti imasmiṃ sutte, aññattha ca vakkhamānāya anupubbiyā na āgato. Āharitvāti tasmiṃ tasmiṃ sutte, aṭṭhakathāsu ca āgatanayena āharitvā dīpetabbo.
生れるや否やの菩薩の直立などの諸相が、いかなる勝れた証得の前兆であるかを選別して示すために、「ここに…」などと述べた。そこにおいて、直立することは四神足の獲得の前兆である。神足の力によって出世間法において堅固に確立された状態が成就されるからである。北を向くことは、世間を超え出ることによる歩みの前兆である。それゆえ世尊は天を含む世間を制圧し、何者にも制圧されることがなかった。それゆえに「大衆を圧倒し、制圧して進むことの前兆である」と述べた。同様に七歩歩むことは、七覚支を具えた聖なる道を行くことの(前兆である)。清浄極まりない白傘が差し掛けられることは、極めて清浄なる解脱の傘を戴くことの(前兆である)。五種の王の標章が具足することは、五種の解脱の功徳が具足することの(前兆である)。遮るもののない方角の観察は、無障礙智の(前兆である)。「我は最高である」などと恐れなき言葉を語ることは、何者にも妨げられず退転することのない正法輪の転回の(前兆である)。「これが最後の生である」と未来の生の不存在を宣言することは、無余…(略)…前兆であると知られるべきである。将来において得られるべき個々の卓越した境地に対して、それぞれの前兆は違えることがないからである。「来たらず」とは、この経において、また他所でこれから語られる順序において来ていないということである。「引いて」とは、それぞれの経において、また註釈書において伝承された方式によって引いて解明されるべきである。
‘‘Dasasahassilokadhātu **kampī’’**ti idaṃ satipi idha pāḷiyaṃ āgatatte vakkhamānānaṃ acchariyānaṃ mūlabhūtaṃ dassetuṃ vuttaṃ, evaṃ aññampi evarūpaṃ daṭṭhabbaṃ. Tantibaddhā vīṇā cammabaddhā bheriyoti pañcaṅgikatūriyassa nidassanamattaṃ, ca-saddena vā itaresampi saṅgaho daṭṭhabbo. ‘‘Andubandhanādīni taṅkhaṇe eva chajjitvā puna pākatikāneva honti, tathā jaccandhādīnaṃ cakkhusotādīni tathārūpakammapaccayā tasmiṃyeva khaṇe uppajjitvā tāvadeva vigacchantī’’ti vadanti. Chijjiṃsūti ca pādesu bandhaṭṭhānesu chijjiṃsu. Vigacchiṃsūti vūpasamiṃsu. Ākāsaṭṭhakaratanāni nāma taṃtaṃvimānagatamaṇiratanādīni. Sakatejobhāsitānīti ativiya samujjalāya attano pabhāya obhāsitāni ahesuṃ. Nappavattīti na sannipāto. Na vāyīti kharo vāto na vāyi. Mudusukho pana sattānaṃ sukhāvaho vāyi. Pathavigatā ahesuṃ uccaṭṭhāne ṭhātuṃ avisahantā. Utusampannoti anuṇhāsītatāsaṅkhātena utunā sampanno. Apphoṭanaṃ vuccati bhujahatthasaṅghaṭṭanasaddo, atthato pana vāmahatthaṃ ure ṭhapetvā dakkhiṇena puthupāṇinā hatthatāḷanena saddakaraṇaṃ. Mukhena usseḷanaṃ saddassa muñcanaṃ seḷanaṃ. Ekaddhajamālā ahosi nirantaraṃ dhajamālāsamodhānagatāya. Na kevalañca etāni eva, atha kho aññānipi ‘‘vicittapupphasugandhapupphavassadevopavassi sūriye dissamāne eva tārakā obhāsiṃsu, acchaṃ vippasannaṃ udakaṃ pathavito ubbhijji, bilāsayā ca tiracchānā āsayato nikkhamiṃsu, rāgadosamohāpi tanu bhaviṃsu, pathaviyaṃ rajo vūpasami, aniṭṭhagandho vigacchi, dibbagandho vāyi, rūpino devā sarūpeneva manussānaṃ āpāthaṃ agamaṃsu, sattānaṃ cutūpapātā nāhesu’’nti evamādīni yāni mahābhinīhārasamaye uppannāni dvattiṃsapubbanimittāni, tāni anavasesato tadā ahesunti.
「一万の境界宇宙が揺れ動いた」というこれは、ここ聖典本文(パーリ)に説かれているにもかかわらず、これから語られる驚嘆すべき事々の根源であることを示すために語られたのであり、他のこのような事象も同様に見なされるべきである。「弦の張られた琴、皮の張られた太鼓」とは五種からなる楽器の例示にすぎず、あるいは「ca(また)」という言葉によって他のものも包含されていると見なすべきである。「足枷や束縛などはその瞬間に断ち切られて再び元通りとなり、同様に生まれつきの盲人などの眼や耳などは相応の業の条件によってその瞬間に生じ、直ちに消滅する」と人々は言う。「断ち切られた」とは、足の縛られた箇所において断ち切られたということである。「鎮まった」とは、静まったということである。「空中に位置する宝物」とは、それぞれの天宮にある宝石などの宝物である。「自らの光輝によって輝いた」とは、自らの極めて煌びやかな光によって輝いたということである。「生じなかった」とは、集まり生じなかったということである。「吹かなかった」とは、激しい風が吹かなかったということである。しかし、衆生に安楽をもたらす柔らかな心地よい風は吹いた。(鳥たちは)高い所に留まることができず、「地上へと下りた」。「気候が具足した」とは、寒からず暑からざる気候が具足したということである。「手を打つこと(打歓)」とは、腕や手を打ち鳴らす音をいい、意味としては左手を胸に置き、右手の平で手を打って音を立てることである。「口で叫ぶこと」とは、声を放ち叫ぶことである。「一連の旗の列となった」とは、旗の列が途切れることなく連なったことによる。これらのみならず、実にその他にも「美しい花、香しい花の雨を神が降らせ、太陽が見えている時に星々が輝き、澄み切った清らかな水が大地から湧き出し、穴に棲む動物たちも住処から出て、貪・瞋・痴も薄らぎ、地上の塵は静まり、不快な臭気は消え去り、神聖な香りが漂い、色界の神々が自らの姿のまま人間の眼前に現れ、衆生の死と再生は生じなかった」などという、大誓願の時に生じた三十二の吉兆が、その時すべて残らず現れたのである。
Tatrāpīti tesupi pathavikampādīsu evaṃ pubbanimittabhāvo veditabbo. Na kevalaṃ sampatijātassa ṭhānādīsu evāti adhippāyo. Sabbaññutaññāṇapaṭilābhassa pubbanimittaṃ sabbassa ñeyyassa, titthakaramatassa ca cālanato. Kenaci anussāhitānaṃyeva imasmiṃyeva ekacakkavāḷe sannipāto kenaci anussāhitānaṃyeva ekappahāreneva sannipatitvā dhammapaṭiggaṇhanassa pubbanimittaṃ. Paṭhamaṃ devatānaṃ paṭiggahaṇaṃ dibbavihārapaṭilābhassa, pacchā manussānaṃ paṭiggahaṇaṃ tattheva ṭhānassa niccalasabhāvato āneñjavihārapaṭilābhassa pubbanimittaṃ. Vīṇānaṃ sayaṃ vajjanaṃ parūpadesena vinā sayameva anupubbavihārapaṭilābhassa pubbanimittaṃ. Bherīnaṃ vajjanaṃ cakkavāḷapariyantāya parisāya pavedanasamatthassa dhammabheriyā anusāvanassa amatadundubhighosanassa pubbanimittaṃ. Andubandhanādīnaṃ chedo mānavinibandhabhedanassa pubbanimittaṃ. Mahājanassa rogavigamo tasseva sakalavaṭṭadukkharogavigamabhūtassa saccapaṭilābhassa pubbanimittaṃ. ‘‘Mahājanassā’’ti padaṃ ‘‘mahājanassa dibbacakkhupaṭilābhassa, mahājanassa dibbasotadhātupaṭilābhassā’’tiādinā tattha tattha ānetvā sambandhitabbaṃ. Iddhipādabhāvanāvasena sātisayañāṇajavasampattisiddhīti āha **‘‘pīṭhasappīnaṃ javasampadā caturiddhipādapaṭilābhassa pubbanimitta’’**nti. Supaṭṭanasampāpuṇanaṃ catupaṭisambhidādhigamassa pubbanimittaṃ. Atthādianurūpaṃ atthādīsu sampaṭipattibhāvato. Ratanānaṃ sakatejobhāsitattaṃ yaṃ lokassa dhammobhāsaṃ dassessati, tena tassa sakatejobhāsitattassa pubbanimittaṃ.
「そこにおいても」とは、それらの大地が震動することなどにおいても、このように前兆であると知られるべきである。ただ生まれたばかりの者の直立などの諸相のみに限らない、という意味である。(大地の震動は)全知の智慧の獲得の前兆である。一切の知るべき対象と外道の所説を揺るがすからである。何者にも促されることなくこの一つの境界宇宙に集うことは、何者にも促されることなく一斉に集って法を受け止めることの前兆である。初めに神々が受け止めることは天上界の安住(天住)の獲得の、後に人間たちが受け止めることはその場に不動の状態で立つことから不動の安住(不動住)の獲得の前兆である。琴が自ずから鳴ることは、他者の教導によることなく自ら次第の安住(次第住)を獲得することの前兆である。太鼓が鳴ることは、境界宇宙の果てに至る聴衆に知らせることができる法の太鼓の告知、不死の太鼓の響きの前兆である。足枷や束縛が断ち切られることは、慢心の束縛を打ち破ることの前兆である。人々の病の治癒は、まさに一切の輪廻の苦しみという病の消滅である四聖諦の体得の前兆である。「人々の」という言葉は、「人々の天眼の獲得の」「人々の天耳界の獲得の」などと、それぞれの文脈に結びつけて解釈すべきである。神足の修習によって勝れた智の速やかさの達成が成就することから、「足萎えの者の敏捷さの具足は四神足の獲得の前兆である」と述べた。良き港への到達は四無礙解の証得の前兆である。義などに相応して義などへと正しく到達することであるからである。諸宝が自らの輝きで光ることは、世間に法の光明を示すであろう、その自らの光輝による照明の前兆である。
Catubrahmavihārapaṭilābhassa pubbanimittaṃ tassa sabbaso veravūpasamanato. Ekādasaagginibbāpanassa pubbanimittaṃ dunnibbāpananibbānabhāvato. Ñāṇālokādassanassa pubbanimittaṃ anāloke ālokadassanabhāvato. Nibbānarasenāti kilesānaṃ nibbāyanarasena. Ekarasabhāvassāti sāsanassa sabbattha ekarasabhāvassa, tañca kho amadhurassa lokassa sabbaso madhurabhāvāpādanena. Dvāsaṭṭhidiṭṭhigatabhindanassa pubbanimittaṃ sabbaso diṭṭhigatavātāpanayanavasena. Ākāsādiappatiṭṭhavisamacañcalaṭṭhānaṃ pahāya sakuṇānaṃ pathavigamanaṃ tādisaṃ micchāgāhaṃ pahāya sattānaṃ pāṇehi ratanattayasaraṇagamanassa pubbanittaṃ. Bahujanakantatāyāti candassa viya bahujanassa kantatāya. Sūriyassa uṇhasītavivajjitautusukhatā pariḷāhavivajjitakāyikacetasikasukhappattiyā pubbanimittaṃ. Devatānaṃ apphoṭanādīhi kīḷanaṃ pamoduppatti bhavantagamanena, dhammasabhāvabodhanena ca udānavasena pamodavibhāvanassa pubbanimittaṃ. Dhammavegavassanassāti desanāñāṇavegena dhammāmatassa vassanassa pubbanimittaṃ. Kāyagatāsativasena laddhaṃ jhānaṃ pādakaṃ katvā uppāditamaggaphalasukhānubhavo kāyagatāsatiamatapaṭilābho, tassa pana kāyassāpi atappakasukhāvahattā khudāpipāsāpīḷanābhāvo pubbanimittaṃ vutto. Aṭṭhakathāyaṃpana khudaṃ, pipāsañca bhinditvā vuttaṃ. Tattha pubbanimittānaṃ bhedo visesasāmaññavibhāgena, gobalībaddañāyena ca gahetabbo. ‘‘Sayamevā’’ti padaṃ ‘‘aṭṭhaṅgikamaggadvāravivaraṇassā’’ti etthāpi ānetvā sambandhitabbaṃ. Bharitabhāvassāti paripuṇṇabhāvassa. ‘‘Ariyaddhajamālāmālitāyāti kāsāyaddhajamālāvantatāyā’’ti keci, sadevakassa lokassa pana ariyamaggabojjhaṅgaddhajamālāhi mālibhāvassa pubbanimittaṃ. Yaṃ panettha anuddhaṭaṃ, taṃ suviññeyyameva.
(怨敵の情愛は)四梵住の獲得の前兆である。あらゆる怨念が完全に静まるからである。(火の鎮火は)十一の火の消滅の前兆である。消し難きものが消滅するからである。(闇の中の光は)智の光明を見る前兆である。光なき所に光明を見る状態であるからである。「涅槃の味によって」とは、煩悩が消滅する味によって、ということである。「一味となることの」とは、教えが一切において一味となることの前兆であり、しかもそれは甘美ならざる世間をことごとく甘美ならしめることによる。(邪見を離れることは)六十二の邪見を粉砕することの前兆である。邪見の風をことごとく取り除くことによるからである。空中などの不安定で険しく揺れ動く場所を捨てて鳥たちが地上へと行くことは、そのような誤った執着を捨てて衆生が命ある限り三宝へと帰依することの前兆である。「多くの人々に愛されることによって」とは、月のように多くの人々に愛されることによる。(太陽が熱と寒さを離れて心地よい気候となることは)熱悩を離れた身心の安楽の獲得の前兆である。神々が手を打つなどして歓喜することは、有の果てへと至ることによって歓喜が生じ、また法の本性を覚知することによって感興の言葉(優陀那)を放ち、歓喜を顕示することの前兆である。「法の勢いある降雨の」とは、説法智の勢いによって不死の法の雨を降らせることの前兆である。身至念の力によって得られた禅定を基礎として生起させた道果の安楽の享受が「身至念たる不死の獲得」であり、その(身至念の)身体に対しても満ち足りた安楽をもたらす性質から、飢えと渇きに苦しめられないことが前兆であると説かれた。しかし註釈書においては、飢えと渇きを別々に分けて説いている。そこにおける前兆の分類は、特殊と一般の区別によって、また「牛と牡牛の論理」によって理解されるべきである。「自ら」という言葉は、「八支聖道の門を開くことの」というここにも引いて結合されるべきである。「満たされた状態の」とは、充満した状態の(ことである)。「聖なる旗の列で飾られることとは、袈裟の旗の列を持つことである」と一部の者は言うが、天を含む世間が聖道と覚支という旗の列によって飾られることの前兆である。なお、ここで取り上げられなかったものは、実に容易に理解できることである。
Etthāti ‘‘sampatijāto’’tiādinā āgate imasmiṃ vāre. Vissajjitova, tasmā amhehi idha apubbaṃ vattabbaṃ natthīti adhippāyo. Tadā pathaviyaṃ gacchantopi mahāsatto ākāsena gacchanto viya mahājanassa tathā upaṭṭhāsīti ayamettha niyati dhammaniyāmo bodhisattānaṃ dhammatā ti idaṃ niyativādavasena kathanaṃ. Pubbe purimajātīsu tādisassa puññasambhārakammassa katattā upacitattā mahājanassa tathā upaṭṭhāsīti idaṃ pubbekatakammavādavasena kathanaṃ. Imesaṃ sattānaṃ upari īsanasīlatāya yathāsakaṃ kammameva issaro nāma, tassa nimmānaṃ attano phalassa nibbattanaṃ mahāpurisopi sadevakaṃ lokaṃ abhibhavituṃ samatthena uḷārena puññakammena nibbattito, tena issarena nimmito nāma, tassa cāyaṃ nimmānaviseso, yadidaṃ mahānubhāvatā, yāya mahājanassa tathā upaṭṭhāsīti idaṃ issaranimmānavasena kathanaṃ. Evaṃ taṃ taṃ bahulaṃ vatvā kiṃ imāya pariyāyakathāyāti avasāne ujukameva byākari. Sampatijāto pathaviyaṃ kathaṃ padasā gacchati, evaṃ mahānubhāvo ākāsena maññe gacchatīti parikappanavasena ākāsena gacchanto viya ahosi. Sīghataraṃ pana sattapadavītihārena gatattā dissamānarūpopi mahājanassa adissamāno viya ahosi. Acelakabhāvo, khuddakasarīratā ca tādisassa iriyāpathassa na anucchavikāti kammānubhāvasañjanitapāṭihāriyavasena alaṅkatapaṭiyatto viya, soḷasavassuddesiko viya ca mahājanassa upaṭṭhāsīti veditabbaṃ. Mahāsattassa puññānubhāvena tadā tathā upaṭṭhānamattamevetanti. Pacchā bāladārakova ahosi, na tādisoti. Buddhabhāvānucchavikassa bodhisattānubhāvassa yāthāvato paveditattā parisā cassa byākaraṇena buddhena viya…pe… attamanā ahosi.
「ここに」とは、「生れるや否や」などの言葉で現れたこの段落において、ということである。すでに解決されたことであり、したがって我々がここで新しく語るべきことは何もない、という意味である。その時、大地を歩いていながらも大士(菩薩)は空中を歩いているかのように大衆の目に映った。これはここにおける必然の理法(決定)であり、諸々の菩薩の法性である、とこれは決定論(法性論)の立場からの説明である。過去の前世においてあのような功徳の資糧となる業をなし積集したために、大衆にそのように映ったのだ、とこれは宿作業論の立場からの説明である。これらの衆生の上に君臨する性質から、それぞれの業こそが主宰者(自在天)と呼ばれる。その創造とは、自らの結果を生じさせることである。偉大なる人(大士)もまた天を含む世間を制圧しうる勝れた功徳の業によって生じさせられたのであり、それゆえその主宰者によって創られたと言える。そしてこの主宰者の特別な創造力、すなわち大いなる威力によって、大衆にそのように映ったのだ、とこれは主宰神創造論の立場からの説明である。このように様々に語った後で、「このような方便の説示に何の意味があろうか」と最後に率直に解明した。生まれたばかりで大地をどうして足で歩けようか、このように大いなる威信を持つ者は空中を行くのだろう、と推測することによって、空中を行くかのようであったのである。しかし極めて速やかに七歩を踏み出して進んだため、その姿は見えていながらも、大衆には見えないかのようであった。裸であり、幼い身体であることは、そのような威儀には相応しくないため、業の威力によって生じた奇跡(神変)の力によって、装身具で飾り立てられたかのようであり、十六歳ほどの若者のように大衆の目に映ったと知るべきである。大士の功徳の威力によって、その時そのように映ったにすぎないのである。後には幼子となり、そのよう(な姿)ではなかった。仏たる境地に相応しい菩薩の威力が如実に説かれたので、聴衆はその解説によって、仏によって…(略)…歓喜したのである。
Sabbadhammatāti sabbā soḷasavidhāpi yathāvuttā dhammatā sabbabodhisattānaṃ hontīti veditabbā puññañāṇasambhāradassanena nesaṃ ekasadisattā.
「一切の法性」とは、前述の十六種の法性のすべてが、すべての菩薩に備わるものであると知るべきである。福徳と智慧の資糧が示されることにおいて、彼らはみな等しいからである。
Dvattiṃsamahāpurisalakkhaṇavaṇṇanā
三十二相(三十二大人相)の註釈
33. Dukūlacumbaṭaketi daharassa nipajjanayogyatāvasena paṭisaṃhaṭadukūlasukhume. ‘‘Khattiyo brāhmaṇo’’ti evamādi jāti. ‘‘Koṇḍañño gotamo’’ti evamādi gottaṃ. ‘‘Poṇikā cikkhallikā sākiyā koḷiyā’’ti evamādi kulapadeso. Ādi-saddena rūpissariyaparivārādisabbasampattiyo saṅgaṇhāti. Mahantassāti vipulassa, uḷārassāti attho. Nipphattiyoti siddhiyo. Gantabbagatiyāti gati-saddassa kammasādhanatamāha. Upapajjanavasena hi sucaritaduccaritehi gantabbāti gatiyo, upapattibhavaviseso. Gacchati yathāruci pavattatīti gati, ajjhāsayo. Paṭisaraṇeti parāyaṇe avassaye. Sabbasaṅkhatavisaṃyuttassa hi arahato nibbānameva taṃpaṭisaraṇaṃ. Tyāhanti te ahaṃ.
33. 「上布の枕に」とは、幼子が横たわるのに相応しいように折り畳まれた、細やかな上布に、ということである。「クシャトリヤ、バラモン」などが「種姓」である。「コンダンニャ、ゴータマ」などが「氏族」である。「ポニカ、チクカリカ、シャーキヤ、コーリヤ」などが「家柄の出自」である。「など」という言葉によって、容姿、権力、眷属などのすべての繁栄を包括している。「大いなる者の」とは、広大で卓越した者の、という意味である。「達成」とは、成就のことである。「行くべき趣(境遇)に」とは、「gati(趣)」という言葉が業の達成(所業)であることを示している。善行や悪行によって生まれ変わることに応じて行くべきものであるから「諸趣」であり、転生する生の差異である。好みに応じて赴き活動するから「趣」であり、志向(意向)である。「依り所において」とは、究極の拠り所、保護において、ということである。すべての有為から離れた阿羅漢にとって、涅槃こそがその依り所である。「tyāhaṃ」とは、「te ahaṃ(あなたに私は)」のことである。
Dasavidhe kusaladhamme, agarahite ca rājadhamme (jā. 2 mahāmaṃsajātake vitthāro) niyuttoti dhammiko. Tena ca dhammena sakalaṃ lokaṃ rañjetīti dhammarājā. Yasmā cakkavattī dhammena ñāyena rajjaṃ adhigacchati, na adhammena, tasmā vuttaṃ **‘‘dhammena laddharajjattā dhammarājā’’**ti. Catūsu disāsu samuddapariyosānatāya caturantā nāma tattha tattha dīpe mahāpathavīti āha **‘‘puratthima…pe… issaro’’**ti. Vijitāvīti vijetabbassa vijitavā, kāmakodhādikassa abbhantarassa, paṭirājabhūtassa bāhirassa ca arigaṇassa vijayi, vijetvā ṭhitoti attho. Kāmaṃ cakkavattino kenaci yuddhaṃ nāma natthi, yuddhena pana sādhetabbassa vijayassa siddhiyā **‘‘vijitasaṅgāmo’’**ti vuttaṃ. Janapadova catubbidhaacchariyadhammādisamannāgate asmiṃ rājini thāvariyaṃ kenaci asaṃhāriyaṃ daḷhaṃ bhattabhāvaṃ patto, janapade vā attano dhammikāya paṭipattiyā thāvariyaṃ thirabhāvaṃ pattoti janapadatthāvariyappatto. Manussānaṃ ure satthaṃ ṭhapetvā icchitadhanaharaṇādinā parasāhasakāritāya sāhasikā.
十種の善法と非難されることのない王の法(大肉本生譚[ジャータカ 2]に詳述)に従事しているから「正法にかなう者(法王)」である。そしてその正法によって全世界を喜ばせるから「法王」である。転輪王は正法と正義によって王位を得るのであり、不正によってではない。それゆえに「正法によって王位を得たゆえに法王である」と述べられた。四方において海を限界とすることから「四端(四海の果て)」とは、それぞれの島(大陸)における大地を指す。それゆえ「東の…(略)…主」と述べた。「勝利者」とは、征服すべき者を征服した者、貪欲や怒りなどの内なる敵や、敵対する王である外なる敵の群れを征服した者、征服して確立した者という意味である。確かに転輪王には誰とも戦いというものはないが、戦いによって成し遂げるべき勝利が成就していることから「戦いに勝てる者」と述べられた。国土が、四種の驚嘆すべき法などを具えたこの王において、何者にも動かされない強固な忠誠を抱く状態に至ったこと、あるいは国土において自らの正法に適った実践によって確固たる不動の状態に至ったことから、「国土において安定を達成した者」という。人々の胸に刃物を突きつけて望む財物を奪うなど、他者への暴力を行うことから「乱暴者(無法者)」という。
Ratijananaṭṭhenāti atappakapītisomanassuppādanena. Saddatthato pana rametīti ratanaṃ. ‘‘Aho manohara’’nti citte kattabbatāya cittīkataṃ. ‘‘Svāyaṃ cittīkāro tassa pūjanīyatāyā’’ti cittīkatanti pūjanīyanti atthaṃ vadanti. Mahantaṃ vipulaṃ aparimitaṃ mūlaṃ agghatīti mahagghaṃ. Natthi etassa tulā upamāti atulaṃ, asadisaṃ. Kadāci eva uppajjanato dukkhena laddhabbattā dullabhadassanaṃ. Anomehi uḷāraguṇeheva sattehi paribhuñjitabbato anomasattaparibhogaṃ. Idāni nesaṃ cittīkatādiatthānaṃ savisesaṃ cakkaratane labbhamānataṃ dassetvā itaresupi te atidisituṃ **‘‘cakkaratanassa cā’’**tiādi āraddhaṃ. Aññaṃ devaṭṭhānaṃ nāma na hoti rañño anaññasādhāraṇissariyādisampattipaṭilābhahetuto, sattānañca yathicchitatthapaṭilābhahetuto. Aggho natthi ativiya uḷārasamujjalasattaratanamayattā, acchariyabbhutamahānubhāvatāya ca. Yadaggena mahagghaṃ, tadaggena atulaṃ. Sattānaṃ pāpajigucchanena vigatakāḷako puññapasutatāya maṇḍabhūto yādiso kālo buddhuppādāraho, tādise eva cakkavattīnampi sambhavoti āha **‘‘yasmā ca panā’’**tiādi. Upamāvasena cetaṃ vuttaṃ, upamopameyyānañca na accantameva sadisatā. Tasmā yathā buddhā kadāci karahaci uppajjanti, na tathā cakkavattino, evaṃ santepi cakkavattivattaparipūraṇassāpi dukkarabhāvatopi dullabhuppādāyevāti, iminā dullabhuppādatāsāmaññena tesaṃ dullabhadassanatā vuttāti veditabbaṃ. Kāmaṃ cakkaratanānubhāvena sijjhamāno guṇo cakkavattiparivārasādhāraṇo, tathāpi ‘‘cakkavattī eva naṃ sāmibhāvena visavitāya paribhuñjatī’’ti vattabbataṃ arahati tadatthaṃ uppajjanatoti dassento **‘‘tadeta’’**ntiādimāha. Yathāvuttānaṃ pañcannaṃ, channampi vā atthānaṃ itararatanesupi labbhanato **‘‘evaṃ sesānipī’’**ti vuttaṃ. Hatthiassa-pariṇāyakaratanehi ajitavijayato, cakkaratanena ca parivārabhāvena, sesehi paribhogūpakaraṇabhāvena samannāgato. Hatthiassamaṇiitthiratanehi paribhogūpakaraṇabhāvena sesehi parivārabhāvenāti yojanā.
「悦びを生じる意味から」とは、飽くことのない歓喜と喜びを生じることによる。語義としては、楽しませる(喜ばせる)から「宝(ratana)」である。「ああ、素晴らしい」と心に留められるべきものであるから「尊重されたもの」である。「この尊重は、それが供養されるべきものであることによる」として、「尊重されたもの」とは供養されるべきものという意味であると人々は言う。莫大で広大で無量の価打ちがあるから「高価なもの」である。これに対する秤(比較、比喩)がないから「無比のもの」、比類なきものである。稀にしか出現しないため、極めて得難いことから「見ることが稀なもの」である。劣らぬ卓越した功徳を具えた衆生によってのみ享受されるべきものであるから「勝れた衆生の享受するもの」である。今や、これらの尊重などの意味がとりわけ輪宝において得られることを示し、他の宝にもそれらを適用するために「輪宝の…」などと説き始めた。王が他者と共有することのない主権などの繁栄を獲得する原因であり、また衆生が望み通りの利益を獲得する原因であるから、他に神殿のような場所は存在しない。極めて卓越して輝かしい七宝から成り、驚嘆すべき大いなる威力があるため、価格をつけられない。最高に高価である点において、最高に無比である。衆生が悪を嫌悪して汚れがなくなり、功徳に専念して精華となったような、仏の出現に相応しい時代にこそ転輪王たちの出現もある。それゆえに「また実に…のゆえに」などと述べた。これは比喩として語られたのであり、比喩と被比喩は完全に同一ではない。それゆえ仏陀たちが稀にしか出現しないようには転輪王は出現しないが、そうであっても転輪王の義務を全うすることもまた至難であることから極めて稀な出現なのであり、この稀なる出現という共通点によって、彼らに「見るのが稀である」と述べられたと知るべきである。なるほど輪宝の威力によって成し遂げられる功徳は転輪王の眷属にも共通するが、それでも「転輪王こそが主たる者として、支配力をもってこれを享受する」と言われるに値する。そのために出現するからである。これを示すために「まさにその…」などと述べた。前述の五つ、あるいは六つの意味が他の宝においても得られることから、「このように他のものも」と述べた。象宝・馬宝・将軍宝によって未征服の地を征服し、輪宝によって眷属とし、残りの宝によって享受の道具として具備している。象宝・馬宝・摩尼宝・玉女宝によって享受の道具とし、残りの宝によって眷属とする、と解釈される。
Catunnaṃ mahādīpānaṃ sirivibhavanti tattha laddhaṃ sirisampattiñceva bhogasampattiñca. Tādisamevāti ‘‘purebhattamevā’’tiādinā vuttānubhāvameva. Yojanappamāṇaṃ padesaṃ byāpanena yojanappamāṇaṃ andhakāraṃ. Atidīghatādichabbidhadosaparivajjitaṃ.
「四大洲の繁栄と富」とは、そこで得られた吉兆の繁栄と富の繁栄である。「その通りに」とは、「正午以前に…」などと説かれた威力のとおりに、ということである。「一由旬にわたる地域に広まることによって、一由旬にわたる暗闇を(照らす)」。「過度に長いなどの六種の過失を離れた」。
Sūrāti sattivanto, nibbhayāti atthoti āha **‘‘abhīrukā’’**ti. Aṅganti kāraṇaṃ. Yena kāraṇena ‘‘vīrā’’ti vucceyyuṃ, taṃ vīraṅgaṃ. Tenāha ‘‘vīriyassetaṃ **nāma’’**nti. Yāva cakkavāḷapabbatā cakkassa vattanato **‘‘cakkavāḷapabbataṃ sīmaṃ katvā ṭhitasamuddapariyanta’’**nti vuttaṃ. **‘‘Adaṇḍenā’’**ti imināva dhanadaṇḍassa, sarīradaṇḍassa ca akaraṇaṃ vuttaṃ. **‘‘Asatthenā’’**ti iminā pana senāya yujjhanassāti tadubhayaṃ dassetuṃ **‘‘ye katāparādhe’’**tiādi vuttaṃ. Vuttappakāranti sāgarapariyantaṃ.
「勇者」とは力ある者、恐れなき者という意味であるから「無畏なる者」と述べた。「支分」とは原因である。その原因によって「勇士」と呼ばれるべきもの、それが勇士の支分である。それゆえ「これは精進の名称である」と述べた。境界宇宙の山に至るまで輪が転じることから、「境界宇宙の山を限界として存在する海の果てまで」と述べられた。「刑罰によらず」ということによって、財産刑や身体刑を行わないことが説かれた。「武器によらず」ということによって、軍隊で戦うことがないことが説かれた。その双方を示すために「過ちを犯した者たちを…」などと述べられた。「前述のような」とは、海の果てに至るまでの、ということである。
‘‘Rañjanaṭṭhena rāgo, taṇhāyanaṭṭhena **taṇhā’’**ti pavattiākārabhedena lobho eva dvidhā vutto. Tathā hissa dvidhāpi chadanaṭṭho ekantiko. Yathāha ‘‘andhatamaṃ tadā hoti, yaṃ rāgo sahate nara’’nti, (netti. 11, 27) ‘‘taṇhāchadanachāditā’’ti (udā. 64) ca. Iminā nayena dosādīnampi chadanaṭṭho vattabbo. Kilesaggahaṇena vicikicchādayo sesakilesā vuttā. Yasmā te sabbe pāpadhammā uppajjamānā sattasantānaṃ chādetvā pariyonandhitvā tiṭṭhanti kusalappavattiṃ nivārenti, tasmā te ‘‘chadanā, chadā’’ti ca vuttā. Vivaṭṭacchadāti ca o-kārassa ā-kāraṃ katvā niddeso.
「染着する意味から貪(rāga)であり、渇望する意味から愛(taṇhā)である」と、作用のあり方の相違によって貪欲(lobha)そのものが二種に説かれている。実にその二種とも、覆い隠すという意味は決定的なものである。「その時、貪欲が人を制圧すれば、深い闇となる」(導論 11, 27)、「愛の覆いに覆われて」(自説経 64)と説かれている通りである。この理路によって、瞋恚などの覆い隠す意味も語られるべきである。「煩悩」という言葉によって、疑いなどの残りの煩悩が説かれている。それらすべての悪法は、生じるとき衆生の相続(心身の流れ)を覆い尽くして留まり、善の活動を阻むから、それらは「覆い(chadana)、覆蔽(chada)」と呼ばれる。「覆いを開いた者(vivaṭṭacchadā)」とは、o音をā音に変えて示されたものである。
35. Tāsanti dvinnampi nipphattīnaṃ. Nimittabhūtānīti ñāpakakāraṇabhūtāni. Tathā hi lakkhīyati mahāpurisabhāvo etehīti lakkhaṇāni. Ṭhānagamanādīsu bhūmiyaṃ suṭṭhu samaṃ patiṭṭhitā pādā etassāti suppatiṭṭhitapādo. Taṃ panassa suppatiṭṭhitapādataṃ byatirekamukhena vibhāvetuṃ **‘‘yathā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha aggatalanti aggapādatalaṃ. Paṇhīti paṇhitalaṃ. Passanti pādatalassa dvīsu passesu ekekaṃ, ubhayameva vā pariyantaṃ passaṃ. **‘‘Assa panā’’**tiādi anvayato atthavibhāvanaṃ. Suvaṇṇapādukatalamiva ujukaṃ nikkhipiyamānaṃ. Ekappahārenevāti ekakkhaṇeyeva. Sakalaṃ pādatalaṃ bhūmiṃ phusati nikkhipane. Ekappahāreneva sakalaṃ pādatalaṃ bhūmito uṭṭhahatīti yojanā. Tasmā ayaṃ suppatiṭṭhitapādoti nigamanaṃ. Yaṃ panettha vattabbaṃ anupubbaninnādiacchariyabbhutaṃ nissandaphalaṃ, taṃ parato lakkhaṇasuttavaṇṇanāyaṃ (dī. ni. aṭṭha. 3.201) āvibhavissatīti.
35. 「それらの」とは、両方の達成の、ということである。「前兆となった」とは、知らせる原因となった、ということである。実にこれらによって大士たる状態が特徴づけられる(知られる)から「相(特徴)」である。直立や歩行などの際に、大地にしっかりと均等に足が定着する者であるから「足裏が平らな者(足下安平立相)」である。その足裏が平らに定着する状態を反対の側面から解明するために「ちょうど…のように」などと述べた。そこにおいて「足先」とは、足の指の先端の足裏である。「踵」とは、踵の足裏である。「側面」とは、足裏の二つの側面の一つ一つ、あるいは両方の端の側面である。「しかし彼の…」などは、肯定の側面からの意味の解明である。金の履物の底のようにまっすぐに下ろされる。「一瞬にして」とは、同一の刹那に、ということである。下ろすときに足裏全体が大地に触れる。一瞬にして足裏全体が大地から離れる、と解釈される。それゆえ、これは「足裏が平らな者」であると結論づけられる。ここで語られるべき、順次に窪みがあることなどの驚嘆すべき異相の果報については、後の『相経』の註釈(長部註 3.201)において明らかにされるであろう。
Nābhi dissatīti lakkhaṇacakkassa nābhi parimaṇḍalasaṇṭhānā suparibyattā hutvā dissati, labbhatīti adhippāyo. Nābhiparicchinnāti tassaṃ nābhiyaṃ paricchinnā paricchedavasena ṭhitā. Nābhimukhaparikkhepapaṭṭoti pakaticakkassa akkhabbhāhatapariharaṇatthaṃ nābhimukhe ṭhapetabbaṃ parikkhepapaṭṭo, tappaṭicchanno idha adhippeto. Nemimaṇikāti nemiyaṃ āvalibhāvena ṭhitamaṇikālekhā. Sambahulavāroti bahuvidhalekhaṅgavibhāvanavāro. Sattīti āvudhasatti. Sirivacchoti siriaṅgā. Nandīti dakkhiṇāvattaṃ. Sovattikoti sovattiaṅgo. Vaṭaṃsakoti āveḷaṃ. Vaḍḍhamānakanti purimahādīsu dīpaṅkaṃ. Morahatthakoti morapiñchakalāpo, morapiñchapaṭisibbito vā bījanīviseso. Vāḷabījanīti cāmarivālaṃ. Siddhatthādi puṇṇaghaṭapuṇṇapātiyo. ‘‘Cakkavāḷo’’ti vatvā tassa padhānāvayave dassetuṃ **‘‘himavā sineru…pe… sahassānī’’**ti vuttaṃ. **‘‘Cakkavattirañño parisaṃ upādāyā’’**ti idaṃ hatthiratanādīnampi tattha labbhamānabhāvadassanaṃ. Sabbotisattiādiko yathāvutto aṅgaviseso cakkalakkhaṇasseva parivāroti veditabbo.
「轂(こしき)が見える」とは、千輻輪相の轂が円形となって極めて明瞭に見える、得られるという意味である。「轂に区切られた」とは、その轂において区切られて境界として位置しているということである。「轂の口を囲む帯」とは、通常の車輪において軸が擦れて摩耗するのを防ぐために轂の口に配置されるべき保護帯のことであり、ここではそれに類する文様を意味している。「輪の小玉」とは、外輪(リム)に列をなして並ぶ小玉の線である。「多くの段」とは、多種多様な文様の構成要素を示す段である。「槍」とは、武器の槍である。「吉祥の印(徳相)」とは、吉祥の徴である。「右巻き(右旋)」とは、右巻きの文様である。「スヴァスティカ(卍)」とは、卍の徴である。「花輪」とは、頭の飾りである。「ヴァッダマーナカ」とは、東大洲などの島を象徴する図形である。「孔雀の尾の束」とは、孔雀の羽の束、あるいは孔雀の羽を縫い合わせた特別な扇である。「払子」とは、ヤクの尾の毛(の扇)である。白芥子、満杯の水瓶、満杯の皿などである。「境界宇宙」と述べて、その主要な構成要素を示すために「ヒマラヤ、須弥山…(略)…幾千の」と述べられた。「転輪王の眷属にいたるまで」とは、象宝などもそこに得られる状態を示すものである。槍を初めとする前述の特別な特徴の「すべて」は、車輪の相の眷属(付随物)であると知るべきである。
**‘‘Āyatapaṇhī’’**ti idaṃ aññesaṃ paṇhito dīghataṃ sandhāya vuttaṃ, na pana atidīghatanti āha **‘‘paripuṇṇapaṇhī’’**ti. Yathā pana paṇhilakkhaṇaṃ paripuṇṇaṃ nāma hoti, taṃ byatirekamukhena dassetuṃ **‘‘yathā hī’’**tiādi vuttaṃ. Āraggenāti maṇḍalāya sikhāya. Vaṭṭetvāti yathā suvaṭṭaṃ hoti, evaṃ vaṭṭetvā. Rattakambalageṇḍukasadisāti rattakambalamayageṇḍukasadisā.
「踵が長い」とは、他者の踵よりも長いことを指して言ったのであり、過度に長いことではない。それゆえ「完全な踵」と述べた。踵の相がいかに完全であるかを反対の側面から示すために「実に…のように」などと述べた。「錐の先で」とは、円形の尖端で。「丸くして」とは、美しく丸くなるように丸くして。「赤い毛織物のまりのような」とは、赤い毛織物で作られたまりのような、ということである。
**‘‘Makkaṭassevā’’**ti dīghabhāvaṃ, samatañca sandhāyetaṃ vuttaṃ. Niyyāsatelenāti chattiritaniyyāsādiniyyāsasammissena telena, yaṃ ‘‘surabhiniyyāsa’’ntipi vadanti. Niyyāsatelaggahaṇañcettha haritālavaṭṭiyā ghanasiniddhabhāvadassanatthaṃ.
「猿の(手足)のように」とは、長いことと均等であることを指して言われたものである。「樹脂の油で」とは、滴り落ちる樹脂などを混ぜ合わせた油であり、「芳香の樹脂」とも呼ばれる。ここで樹脂の油を挙げたのは、石黄の棒の濃厚で滑らかな状態を示すためである。
Yathā satakkhattuṃ vihataṃ kappāsapaṭalaṃ sappimaṇḍe osāritaṃ ativiya mudu hoti, evaṃ mahāpurisassa hatthapādāti dassento **‘‘sappimaṇḍe’’**tiādimāha. Talunāti sukhumālā.
百回も打ち叩かれた綿の層が、澄ましバター(酥油)の精華に浸されると極めて柔らかくなるように、大士の手足もそのようであると示すために「酥油の精華に…」などと述べた。「みずみずしい」とは、繊細で柔軟な、ということである。
Cammenāti aṅgulantaraveṭhitacammena. Paṭibaddhaaṅgulantaroti ekato sambaddhaaṅgulantaro na hoti. Ekappamāṇāti dīghato samānappamāṇā. Yavalakkhaṇanti abbhantarato aṅgulipabbe ṭhitaṃ yavalakkhaṇaṃ. Paṭivijjhitvāti taṃtaṃpabbānaṃ samānadesatāya aṅgulīnaṃ pasāritakālepi aññamaññaṃ vijjhitāni viya phusitvā tiṭṭhanti.
「皮によって」とは、指の間を取り巻く皮によって。「指の間が繋がった」とは、一体となってくっついた指の間ではない。「等しい寸法」とは、長さが等しい寸法ということである。「麦粒の相」とは、指の節の内側に位置する麦粒の形をした相である。「貫くように」とは、それぞれの節が等しい位置にあるため、指を広げた時にも互いに貫き合うかのように触れ合って並んでいる。
Saṅkhā vuccanti gopphakā, uddhaṃ saṅkhā etesanti ussaṅkhā, pādā. Piṭṭhipādeti piṭṭhipādasamīpe. Tenāti piṭṭhipāde ṭhitagopphakabhāvena baddhā hontīti yojanā. Tayidaṃ ‘‘tenā’’ti padaṃ uparipadadvayepi yojetabbaṃ ‘‘tena baddhabhāvena na yathāsukhaṃ parivaṭṭanti, tena yathāsukhaṃ naparivaṭṭanena gacchantānaṃ pādatalānipi na dissantī’’ti. Uparīti piṭṭhipādato dvitiaṅgulimattaṃ uddhaṃ, ‘‘caturaṅgulamatta’’nti ca vadanti. Nigūḷhāni ca honti, na aññesaṃ viya paññāyamānāni. Tenāti gopphakānaṃ upari patiṭṭhitabhāvena. Assāti mahāpurisassa. Satipi desantarappavattiyaṃ niccaloti dassanatthaṃ nābhiggahaṇaṃ. **‘‘Adhokāyova iñjatī’’**ti idaṃ purimapadassa kāraṇavacanaṃ. Yasmā adhokāyova iñjati, tasmā nābhito…pe… niccalo hoti. **‘‘Sukhena pādā parivaṭṭantī’’**ti idaṃ pana purimassa, pacchimassa ca kāraṇavacanaṃ. Yasmā sukhena pādā parivaṭṭanti, tasmā adhokāyova iñjati, yasmā sukhena pādā parivaṭṭanti, tasmā puratopi…pe… pacchatoyevāti.
「踝」をサṅカ(saṅkha)と呼ぶ。踝が上部にある足であるから「踝が上にある(足高相)」足である。「足の甲に」とは、足の甲の近くに、ということである。「それによって」とは、足の甲にある踝であることによって結ばれている、と解釈される。この「それによって」という言葉は、上の二つの文にも「それによって結ばれているがゆえに意のままに回転せず、意のままに回転しないがゆえに歩く者の足裏も見えない」と結びつけられるべきである。「上部に」とは、足の甲から二、三指ほど上であり、「四指ほど」とも言われる。そして隠れていて、他者のように目立たない。「それによって」とは、踝の上に位置していることによって。「彼の」とは、大士の、ということである。別の場所へ移動している時でも不動であることを示すために「臍」を取り上げた。「下半身のみが動く」とは、前の句の理由を述べる言葉である。下半身のみが動くがゆえに、臍から上は…(略)…不動である。「足が容易に回転する」とは、前後の句の理由を述べる言葉である。足が容易に回転するがゆえに下半身のみが動き、足が容易に回転するがゆえに前方からも…(略)…後方からのみ(見える)、と。
Yasmā eṇimigassa samantato ekasadisamaṃsā anukkamena uddhaṃ thūlā jaṅghā honti, tathā mahāpurisassāpi, tasmā vuttaṃ **‘‘eṇimigasadisajaṅgho’’**ti. Paripuṇṇajaṅghoti samantato maṃsūpacayena paripuṇṇajaṅgho. Tenāha **‘‘na ekato’’**tiādi.
エニ鹿は周囲全体に均等な肉がつき、次第に上に向かって太くなる脛を持っているように、大士の脛もそのようである。それゆえ「エニ鹿のような脛を持つ者(腨如鹿王相)」と述べられた。「ふくよかな脛」とは、周囲全体に肉が満ちてふくよかな脛のことである。それゆえ「一箇所だけではなく…」などと述べた。
Etenāti ‘‘anonamanto’’tiādivacanena, jāṇuphāsubhāvadīpanenāti attho. Avasesajanāti iminā lakkhaṇena rahitajanā. Khujjā vā honti heṭṭhimakāyato uparimakāyassa rassatāya, vāmanā vā uparimakāyato heṭṭhimakāyassa rassatāya, etena ṭhapetvā sammāsambuddhaṃ, cakkavattinañca itare sattā khujjapakkhikā, vāmanapakkhikā cāti dasseti.
「これによって」とは、「屈むことなく」などの言葉によって、膝が容易に届く状態を示したことによる、という意味である。「残りの人々」とは、この相を持たない人々である。下半身に比べて上半身が短いために「背が屈んだ者(傴僂)」であるか、上半身に比べて下半身が短いために「小人(侏儒)」である。これによって、正等覚者と転輪王を除いて、他の衆生は背が屈んだ者の類か小人の類であることを示している。
Kāmaṃ sabbāpi padumakaṇṇikā suvaṇṇavaṇṇāva, kañcanapadumakaṇṇikā pana pabhassarabhāvena tato sātisayāti āha **‘‘suvaṇṇapadumakaṇṇikasadisehī’’**ti. Ohitanti samohitaṃ antogadhaṃ. Tathābhūtaṃ pana taṃ tena channaṃ hotīti āha **‘‘paṭicchanna’’**nti.
なるほどすべての蓮の花の台座は黄金色であるが、黄金の蓮の台座は輝きによってそれよりも勝れている。それゆえ「黄金の蓮の台座に似たものによって」と述べた。「収められた」とは、内に整然と収まり納められた。「そのようになっているものが、それによって隠されている」ことから「隠された」と述べた。
Suvaṇṇavaṇṇoti suvaṇṇavaṇṇavaṇṇoti ayamettha atthoti āha **‘‘jātihiṅgulakenā’’**tiādi, svāyamattho āvuttiñāyena ca veditabbo. Sarīrapariyāyo idha vaṇṇa-saddoti adhippāyo. Paṭhamavikappaṃ vatvā tathārūpāya pana ruḷhiyā abhāvaṃ manasi katvā vaṇṇadhātupariyāyameva vaṇṇa-saddaṃ gahetvā dutiyavikappo vutto. Tasmā padadvayenāpi suniddhantasuvaṇṇasadisachavivaṇṇoti vuttaṃ hoti.
「黄金色」とは、黄金の色のような色(金色相)という意味である。それゆえ「天然の辰砂によって…」などと述べた。この意味は反復の規則によっても知られるべきである。ここでは「vaṇṇa(色・姿)」という言葉は身体の同義語である、という意味である。第一の解釈を述べて、しかしそのような慣用表現がないことを考慮し、「vaṇṇa」という言葉を色彩そのものの意味にとって第二の解釈が述べられた。したがって、両方の語によって「よく精錬された黄金のような皮膚の色」と述べられたことになる。
Rajoti sukhumarajo. Jallanti malīnabhāvāvaho reṇusañcayo. Tenāha **‘‘malaṃ vā’’**ti. Yadi vivattati, kathaṃ nhānādīnīti āha **‘‘hatthadhovanādīnī’’**tiādi.
「塵」とは微細な塵である。「垢」とは汚れをもたらす塵埃の堆積である。それゆえ「あるいは汚れ」と述べた。もし(塵垢が)弾かれるのであれば、どうして入浴などをするのかについて「手を洗うことなど…」などと述べた。
Āvaṭṭapariyosāneti padakkhiṇāvaṭṭanavasena pavattassa āvaṭṭassa ante.
「旋回の終わりに」とは、右巻きに回転して進む旋回の先端において、ということである。
Brahmuno sarīraṃ purato vā pacchato vā anonamitvā ujukameva uggatanti āha **‘‘brahmā viya ujugatto’’**ti. Sā panāyaṃ ujugattatā avayavesu buddhippattesu daṭṭhabbā, na daharakāleti vuttaṃ **‘‘uggatadīghasarīro bhavissatī’’**ti. Itaresūti ‘‘khandhajāṇūsū’’ti imesu dvīsu ṭhānesu namantā purato namantīti ānetvā sambandho. Passavaṅkāti dakkhiṇapassena vā vāmapassena vā vaṅkā. Sūlasadisāti potthakarūpakaraṇe ṭhapitasūlapādasadisā.
梵天の身体は前にも後ろにも屈むことなく、まっすぐに伸びている。それゆえ「梵天のようにまっすぐな身体」と述べた。しかしこのまっすぐな身体であることは、諸器官が成長した時に見られるべきものであり、幼い時ではない。それゆえ「長身に伸びた身体となるであろう」と述べられた。「他の者においては」とは、「肩や膝において」というこれら二つの場所において屈む者は前方に屈む、と引き寄せて結びつける。「側面が曲がった者」とは、右側あるいは左側に曲がっている者である。「串のような者」とは、粘土の人形を作る際に置かれた芯の串のような者である。
Hatthapiṭṭhiādivasena satta sarīrāvayavā ussadā upacitamaṃsā etassāti sattussado. Aṭṭhikoṭiyo paññāyantīti yojanā. Nigūḷhasirājālehīti lakkhaṇavacanametanti tena nigūḷhaaṭṭhikoṭīhītipi vuttameva hotīti. Hatthapiṭṭhādīhīti ettha ādi-saddena aṃsakūṭakhandhakūṭānaṃ saṅgahe siddhe taṃ ekadesena dassento **‘‘vaṭṭetvā…pe… khandhenā’’**ti āha. **‘‘Silārūpakaṃ viyā’’**tiādinā vā nigūḷhaaṃsakūṭatāpi vibhāvitā yevāti daṭṭhabbaṃ.
手の甲などを初めとする身体の七箇所において肉が盛り上がって満ちている者であるから「七処が隆起した者(七処隆満相)」である。「骨の先端が(見える)」と結びつけられる。「隠れた血管網によって」とは、相を述べる言葉であり、それによって「隠れた骨の先端によって」とも語られたことになる。「手の甲などに」というここでの「など」という言葉によって、両肩の峰と首の付け根の峰が包含されていることが成立しているが、それを一部分によって示しながら「丸くして…(略)…肩によって」と述べた。「石像のように」などによって、両肩の峰が隠れていることもまた明らかにされていると見なすべきである。
Sīhassa pubbaddhaṃ sīhapubbaddhaṃ, paripuṇṇāvayavatāya sīhapubbaddhaṃ viya sakalo kāyo assāti sīhapubbaddhakāyo. Tenāha **‘‘sīhassa pubbaddhakāyo viya sabbo kāyo paripuṇṇo’’**ti. Sīhassevāti sīhassa viya. Dussaṇṭhitavisaṇṭhito na hotīti duṭṭhu saṇṭhito, virūpasaṇṭhito ca na hoti, tesaṃ tesaṃ avayavānaṃ ayuttabhāvena, virūpabhāvena ca saṇṭhiti upagato na hotīti attho. Saṇṭhantīti saṇṭhahanti. Dīghehīti aṅgulināsādīhi. Rassehīti gīvādīhi. Thūlehīti ūrubāhuādīhi. Kisehīti kesalomamajjhādīhi. Puthulehīti akkhihatthatalādīhi. Vaṭṭehīti jaṅghahatthādīhi.
獅子の前半分が「獅子の前身」であり、各器官が充実していることから獅子の前身のように全身がある者であるから「獅子の前身のような身体を持つ者(獅子上半身相)」である。それゆえ「獅子の前身のように、全身が充実している」と述べた。「獅子のように」とは、獅子のごとく、ということである。「不格好で均整を欠くことがない」とは、不格好に位置したり醜く位置したりすることがなく、それぞれの器官が不調和であったり醜かったりする状態に陥ることがない、という意味である。「整っている」とは、正しく位置している。「長いものによって」とは、指や鼻などによって。「短いものによって」とは、首などによって。「太いものによって」とは、腿や腕などによって。「細いものによって」とは、頭髪や体毛や腰などによって。「広いものによって」とは、眼や手の平などによって。「丸いものによって」とは、脛や腕などによって。
Satapuññalakkhaṇatāya nānācittena puññacittena cittito sañjātacittabhāvo ‘‘īdiso eva buddhānaṃ dhammakāyassa adhiṭṭhānaṃ bhavituṃ yutto’’ti dasapāramīhi sajjito abhisaṅkhato, ‘‘dānacittena puññacittenā’’ti vā pāṭho, dānavasena, sīlādivasena ca pavattapuññacittenāti attho.
百福の相を持つことによって、様々な美しい功徳の心によって彩られ、生じた美しい心を持つ状態であり、「これこそが諸仏の法身の拠り所となるに相応しい」と十波羅蜜によって整えられ造作された。「布施の心によって、功徳の心によって」という読みもあり、布施により、また持戒などによって生じた功徳の心によって、という意味である。
Dvinnaṃ koṭṭānaṃ antaranti dvinnaṃ piṭṭhibāhānaṃ vemajjhaṃ piṭṭhimajjhassa uparibhāgo. Citaṃ paripuṇṇanti aninnabhāvena citaṃ, dvīhi koṭṭehi samatalatāya paripuṇṇaṃ. Uggammāti uggantvā, aninnaṃ samatalaṃ hutvāti adhippāyo. Tenāha **‘‘suvaṇṇaphalakaṃ viyā’’**ti.
「二つの肩甲骨の間」とは、背中の両腕の中間、背中の中央の上部である。「満ちて充実した」とは、窪みがないことによって満ちており、二つの肩甲骨と平らであることによって充実している。「盛り上がって」とは、高くなって、窪みがなく平らになって、という意味である。それゆえ「金の板のように」と述べた。
Nigrodho viya parimaṇḍaloti parimaṇḍalanigrodho viya parimaṇḍalo, ‘‘nigrodhaparimaṇḍalaparimaṇḍalo’’ti vattabbe ekassa parimaṇḍala-saddassa lopaṃ katvā **‘‘nigrodhaparimaṇḍalo’’**ti vutto. Tenāha **‘‘samakkhandhasākho nigrodho’’**tiādi. Na hi sabbo nigrodho parimaṇḍaloti, parimaṇḍalasaddasannidhānena vā parimaṇḍalova nigrodho gayhatīti ekassa parimaṇḍalasaddassa lopena vināpi ayamattho labbhatīti āha **‘‘nigrodho viya parimaṇḍalo’’**ti. Yāvatako assāti yāvatakvassa o-kārassa va-kārādesaṃ katvā.
「ベンガル菩提樹(ニグローダ)のように円満である」とは、円満なニグローダ樹のように円満であるということであり、「ニグローダ樹のように円満で均整がとれている」と言うべきところを一つの「円満」という言葉を省略して「ニグローダ樹のように円満である(諾瞿陀円満相)」と述べられた。それゆえ「幹と枝が均等なニグローダ樹」などと述べた。すべてのニグローダ樹が円満であるわけではないからであり、あるいは「円満」という言葉が隣接していることによって円満なニグローダ樹のみが取られるので、一つの「円満」という言葉の省略なしにもこの意味は得られる。それゆえ「ニグローダ樹のように円満である」と述べた。「彼の身の丈と同じだけ」とは、「yāvatakvassa」のo音をva音に変えたものである。
Samavaṭṭitakkhandhoti samaṃ suvaṭṭitakkhandho. Koñcā viya dīghagalā, bakā viya vaṅkagalā, varāhā viya puthulagalāti yojanā. Suvaṇṇāḷiṅgasadisoti suvaṇṇamayakhuddakamudiṅgasadiso.
「均等に丸みを帯びた首」とは、均等に美しく丸みを帯びた首(肩)のことである。「鶴のように首が長く、鷺のように首が曲がり、猪のように首が太い」と結びつけられる。「金のアリンガ太鼓に似た」とは、金製の小さなムディンガ太鼓に似た、ということである。
Rasaggasaggīti madhurādibhedaṃ rasaṃ gasanti anto pavesantīti rasaggasā rasaggasānaṃ aggā rasaggasaggā, tā etassa santīti rasaggasaggī. Tenāti ojāya apharaṇena hīnadhātukattā te bahvābādhā honti.
「最上の味を味わう者」とは、甘味などの様々な味を飲み込み、内部へと送り込むものが「味蕾(味を味わう器官)」であり、味蕾の最上のものが「最上の味蕾」であり、それらを持つ者であるから「最上の味蕾を持つ者(得味最上相)」である。「それによって」とは、滋養が行き渡らないことによって体質が劣弱であるため、彼らは病気が多いのである。
Hanūti sannissayadantādhārassa samaññā, taṃ bhagavato sīhassa hanu viya, tasmā bhagavā sīhahanu. Tattha yasmā buddhānaṃ rūpakāyassa, dhammakāyassa ca upamā nāma hīnūpamāva, natthi samānūpamā, kuto adhikūpamā, tasmā ayampi hīnūpamāti dassetuṃ **‘‘tatthā’’**tiādi vuttaṃ. Yasmā mahāpurisassa heṭṭhimānurūpavaseneva uparimampi saṇṭhitaṃ, tasmā vuttaṃ **‘‘dvepi paripuṇṇānī’’**ti, tañca kho na sabbaso parimaṇḍalatāya, atha kho tibhāgāvasesamaṇḍalatāyāti āha **‘‘dvādasiyā pakkhassa candasadisānī’’**ti. Sallakkhetvāti attano lakkhaṇasatthānusārena upadhāretvā. Dantānaṃ uccanīcatā abbhantarabāhirapassavasenapi veditabbā, na aggavaseneva. Tenāha **‘‘ayapaṭṭakena chinnasaṅkhapaṭalaṃ viyā’’**ti. Ayapaṭṭakanti kakacaṃ adhippetaṃ. Samā bhavissanti, na visamā, samasaṇṭhānāti attho.
「顎(hanu)」とは、歯を支えて保持する部位の名称であり、それが世尊においては獅子の顎のようであるから、世尊は「獅子の顎を持つ者(獅子頬相)」である。そこにおいて、諸仏の色身と法身に対する比喩は劣った比喩にすぎず、同等の比喩はなく、増して優れた比喩などあろうはずがない。それゆえこれも劣った比喩であることを示すために「そこにおいて…」などと述べた。大士においては下顎に相応するように上顎も位置しているため、「両方ともに充実している」と述べられた。しかもそれは完全な円形ではなく、三分の一を残した半円形であることから「十二夜の月のようである」と述べた。「考察して」とは、自らの人相学の書に従って観察して。「歯の高低」は、内側や外側の側面によっても知られるべきであり、先端のみによるのではない。それゆえ「鉄のやすりで切断された法螺貝の薄片のように」と述べた。「鉄のやすり」とは、鋸を意味している。「平らであるだろう」とは、不揃いではなく均等な形である、という意味である。
Sātisayaṃ mududīghaputhulatādippakāraguṇā hutvā bhūtā jātāti pabhūtā, bha-kārassa ha-kāraṃ katvā pahūtā jivhā etassāti pahūtajivho.
極めて柔軟で長く幅が広いなどの優れた性質となって生じたものが「豊富(pabhūta)」であり、bha音をha音に変えて、広大な舌を持つ者であるから「広長舌を持つ者(広長舌相)」である。
Vicchinditvā vicchinditvā pavattasaratāya chinnassarāpi. Anekākāratāya bhinnassarāpi. Kākassa viya amanuññasaratāya kākassarāpi. Apalibuddhattāti anupaddutavatthukattā, vatthūti ca akkharuppattiṭṭhānaṃ veditabbaṃ. Aṭṭhaṅgasamannāgatoti ettha aṅgāni parato āgamissanti. Mañjughosoti madhurassaro.
途切れ途切れに出る声であるから「途切れた声の者」もいる。様々に調子が乱れる声であるから「割れた声の者」もいる。烏のように不快な声であるから「烏声の者」もいる。「障害がないことから」とは、根拠となる器官に障害がないことからであり、「根拠となる器官」とは文字(音声)の発生場所と知るべきである。「八つの要素を具えた」とは、ここでの要素は後で現れる。「美声の」とは、甘美な声の、ということである。
Abhinīlanettoti adhikanīlanetto, adhikatā ca sātisayaṃ nīlabhāvena veditabbā, na nettanīlabhāvasseva adhikabhāvatoti āha **‘‘na sakalanīlanetto’’**tiādi. Pītalohitavaṇṇā setamaṇḍalagatarājivasena. Nīlasetakāḷavaṇṇā pana taṃtaṃmaṇḍalavaseneva veditabbā.
「濃紺の眼を持つ者」とは、際立って青い眼を持つ者であり、際立っていることは極めて青いことによって知られるべきであり、眼の全体が青いことによるのではない。それゆえ「眼の全体が青いのではない」などと述べた。黄や赤の色彩は白目の部分にある筋によるものである。青や白や黒の色彩はそれぞれの眼球の部位によって知られるべきである。
‘‘Cakkhubhaṇḍanti akkhidala’’nti keci. ‘‘Akkhidalavaṭuma’’nti aññe. Akkhidalehi pana saddhiṃ akkhibimbanti veditabbaṃ. Evañhi viniggatagambhīrajotanāpi yuttā hoti. **‘‘Adhippeta’’**nti iminā ayamettha adhippāyo ekadesena samudāyupalakkhaṇañāyenāti dasseti. Yasmā pakhuma-saddo loke akkhidalalomesu niruḷho, tenevāha **‘‘mudusiniddhanīlasukhumapakhumācitāni akkhīnī’’**ti.
「眼の器官とは瞼のことである」と一部の者は言う。「瞼の縁である」と他の者は言う。しかし瞼を伴う眼球であると知るべきである。このようにしてこそ、奥深く輝くという解釈も妥当となる。「意図された」とは、ここでは一部をもって全体を代表させる論理による意図であることを示している。「まつ毛(pakhuma)」という言葉は世間において瞼の毛として定着しているからこそ、「柔らかく滑らかで青く微細なまつ毛が密集した眼」と述べたのである。
Kiñcāpi uṇṇā-saddo loke avisesato lomapariyāyo, idha pana lomavisesavācakoti āha **‘‘uṇṇā loma’’nti. Nalāṭavemajjhe jātāti nalāṭamajjhagatā jātā. Odātatāya upamā, na mudutāya. Uṇṇā hi tatopi sātisayaṃ mudutarā. Tenāha‘‘sappi maṇḍe’’**tiādi. Rajatapubbuḷakanti rajatamayatārakamāha.
「白毫(uṇṇā)」という言葉は世間において一般には体毛の同義語であるが、ここでは特別な毛を意味している。それゆえ「白毫とは毛である」と述べた。「額の中央に生じた」とは、額の中心部に生じた、ということである。白さについての比喩であり、柔らかさについてではない。白毫は実にそれよりも遥かに柔らかいからである。それゆえ「酥油の精華に…」などと述べた。「銀の小球」とは、銀製の星(飾玉)を指している。
Dve atthavase paṭicca vuttanti yasmā buddhā, cakkavattino ca paripuṇṇanalāṭatāya, paripuṇṇasīsabimbatāya ca ‘‘uṇhīsasīsā’’ti vuccanti, tasmā te dve atthavase paṭicca ‘‘uṇhīsasīso’’ti idaṃ vuttaṃ. Idāni taṃ atthadvayaṃ mahāpurise suppatiṭṭhitanti **‘‘mahāpurisassa hī’’**tiādi vuttaṃ. Saṇhatamatāya, suvaṇṇavaṇṇatāya, pabhassaratāya, paripuṇṇatāya ca rañño bandhauṇhīsapaṭṭo viya virocati. Kapisīsāti dvidhābhūtasīsā. Phalasīsāti phalitasīsā. Aṭṭhisīsāti maṃsassa abhāvato ativiya aṭṭhitāya, patanubhāvato vā taconaddhaaṭṭhimattasīsā. Tumbasīsāti lābusadisasīsā. Pabbhārasīsāti piṭṭhibhāgena olambamānasīsā. Purimanayenāti paripuṇṇanalāṭatāpakkhena. Uṇhīsaveṭhitasīso viyāti uṇhīsapaṭṭena veṭhitasīsapadeso viya. Uṇhīsaṃ viyāti chekena sippinā viracitauṇhīsamaṇḍalaṃ viya.
「二つの意味の理由によって述べられた」とは、諸仏や転輪王は、完全な額を持つことによって、また完全な頭の形を持つことによって「肉髻を頭に持つ者(頂肉髻相)」と呼ばれるからであり、それゆえこれら二つの意味の理由によって「頂に肉髻を持つ者」と述べられたのである。今や、その二つの意味が大士において確固として具わっていることを「大士においては実に…」などと述べた。極めて滑らかであり、黄金色であり、光り輝き、充実していることから、王の巻いた頭巾(ターバン)の帯のように輝いている。「猿頭の者」とは、二つに割れた頭の者である。「果実頭の者」とは、裂けた頭の者である。「骨頭の者」とは、肉がないため極めて骨張っているか、薄いために皮で覆われた骨ばかりの頭の者である。「瓢箪頭の者」とは、ヒョウタンに似た頭の者である。「傾斜頭の者」とは、後頭部が垂れ下がった頭の者である。「前述の方式によって」とは、完全な額の側によって。「頭巾を巻いた頭のように」とは、頭巾の帯で巻かれた頭部のように。「頭巾のように」とは、熟練した職人によって作られた見事な頭巾のように。
Vipassīsamaññāvaṇṇanā
毘婆尸(ヴィパッシー)という名称の註釈
37. Tassa vitthāroti tassa lakkhaṇapariggaṇhane nemittakānaṃ santappanassa vitthāro vitthārakathā. Gabbhokkantiyaṃ nimittabhūta supinapaṭiggāhakasantappane vuttoyeva. Niddosenāti khārikaloṇikādidosarahitena. Dhātiyoti thaññapāyikā dhātiyo. Tā hi dhāpenti thaññaṃ pāyentīti dhātiyo. **‘‘Tathā’’**ti iminā ‘‘saṭṭhi’’nti padaṃ upasaṃharati, sesāpīti nhāpikā, dhārikā, parihārikāti imā tividhā. Tāpi dahanti vidahanti nhānaṃ dahanti dhārentīti ‘‘dhātiyo’’ tveva vuccanti. Tattha dhāraṇaṃ urasā, ūrunā, hatthehi vā suciraṃ velaṃ sandhāraṇaṃ. Pariharaṇaṃ aññassa aṅkato attano aṅkaṃ, aññassa bāhuto attano bāhuṃ upasaṃharantehi haraṇaṃ sampāpanaṃ.
37. 「その詳細」とは、相の観察において相占者たちをもてなした詳細な物語のことである。胎内に宿った時の前兆となった夢を解釈する者たちをもてなすことにおいてすでに説かれた通りである。「無毒の(良質な)」とは、辛味や塩気などの欠点のない(乳によって)。「乳母たち」とは、母乳を飲ませる乳母たちのことである。彼女らは乳を養い、母乳を飲ませるから乳母と呼ばれる。「同様に」ということによって「六十人」という言葉を適用する。「他の者たちも」とは、入浴させる者、抱きかかえる者、世話をする者というこれら三種類である。彼女たちもまた入浴の世話をし、抱きかかえるから「乳母たち」とまさに呼ばれる。そこにおいて「抱きかかえる」とは、胸や腿や手によって長い時間支え持つことである。「世話をする」とは、他者の膝から自らの膝へ、他者の腕から自らの腕へと引き寄せて運び、連れて行くことである。
38. Mañjussaroti saṇhassaro. Yo hi saṇho, so kharo na hotīti āha **‘‘akharassaro’’**ti. Vaggussaroti manorammassaro, manorammatā cassa cāturiyane puññayogatoti āha **‘‘chekanipuṇassaro’’**ti. Madhurassaroti sotasukhassaro, sotasukhatā cassa ativiya iṭṭhabhāvenāti āha **‘‘sātassaro’’**ti. Pemanīyassaroti piyāyitabbassaro, piyāyitabbatā cassa suṇantānaṃ attani bhattisamuppādanenāti āha **‘‘pemajanakassaro’’**ti. Karavīkassaroti. Karavīkasaddo yesaṃ sattānaṃ sotapathaṃ upagacchati, te attano sarasampattiyā pakatiṃ jahāpetvā avase karonto attano vase vatteti, evaṃ madhuroti dassento **‘‘tatrida’’**ntiādimāha. Tattha **‘‘karavīkasakuṇe’’**tiādi tassa sabhāvakathanaṃ. Laḷitanti pītivegasamuṭṭhitaṃ līḷaṃ. Chaḍḍetvāti ‘‘saṅkharaṇampi madhurasaddasavanantarāyakara’’nti tiṇāni apanetvā. Anikkhipitvāti bhūmiyaṃ anikkhipitvā ākāsagatameva katvā. Anubaddhamigā vāḷamigehi. Tato maraṇabhayaṃ hitvā. Pakkhe pasāretvāti pakkhe yathāpasārite katvā apatantā tiṭṭhanti.
38. 「美しい声の」とは、滑らかな声のことである。滑らかなものは荒々しくないから「荒々しくない声の」と述べた。「快い声の」とは、心を楽しませる声であり、心を楽しませることはその巧みさと功徳の結合によるものであるから「巧みで洗練された声の」と述べた。「甘美な声の」とは、耳に心地よい声であり、耳に心地よいことは極めて好ましいものであることによるから「喜ばしい声の」と述べた。「愛されるべき声の」とは、愛慕されるべき声であり、愛慕されるべきであることはそれを聞く者たちの内に信愛を生じさせることによるから「親愛を生じる声の」と述べた。「迦陵頻伽(カラヴィーカ)の声の」とは、カラヴィーカ鳥の声が耳に入った衆生は、その声の美しさによって本来の性質を忘れ、自由を奪われてその声の支配下に入ってしまう、そのように甘美であることを示すために「そこにおいてこれは…」などと述べた。そこにおいて「カラヴィーカ鳥において…」などはその本性の説明である。「歓喜の舞」とは、喜びの勢いによって生じた優雅な身のこなしである。「吐き出して」とは、「草を噛むことさえも甘美な声を聞く妨げとなる」として草を吐き捨てて。「下ろすことなく」とは、地上に下ろすことなく空中に留めたままで。「猛獣に追われていた鹿たち」は、そこから死の恐怖を忘れて。「翼を広げて」とは、翼を広げたままの状態で落下することなく留まる。
Suvaṇṇapañjaraṃ vissajjesi yojanappamāṇe ākāse attano āṇāya pavattanato. Tenāha **‘‘so rājāṇāyā’’**tiādi. Laḷiṃsūti laḷitaṃ kātuṃ ārabhiṃsu. Taṃ pītinti taṃ buddhaguṇārammaṇaṃ pītiṃ teneva nīhārena punappunaṃ pavattaṃ pītiṃ avijahitvā vikkhambhitakilesā therānaṃ santike laddhadhammassavanasappāyā upanissayasampattiyā paripakkañāṇatāya sattahi…pe… patiṭṭhāsi. Sattasatamattena orodhajanena saddhiṃ padasāva therānaṃ santikaṃ upagatattā **‘‘sattahi jaṅghasatehi saddhi’’**nti vuttaṃ. Tatoti karavīkasaddato. Satabhāgena…pe… veditabbo anekakappakoṭisatasambhūtapuññasambhārasamudāgatavatthusampattibhāvato.
一由旬にわたる空中に自らの権威が及ぶことから、金の籠(から鳥を)放った。それゆえ「かの王の命によって…」などと述べた。「舞い始めた」とは、歓喜の舞を舞い始めた、ということである。「その歓喜を」とは、仏の功徳を対象とするその歓喜を、同じ方法で繰り返し生じた歓喜を手放すことなく、煩悩を鎮め、長老たちの御前で法を聞くという適切な条件を得て、素質の具足により智慧が成熟したことによって七…(略)…確立した。約七百人の後宮の人々と共に徒歩で長老たちの御前へと赴いたことから、「七百人の歩行者たちと共に」と述べられた。「それよりも」とは、カラヴィーカ鳥の声よりも。「百分の一も…(及ばない)」と知られるべきである。幾百幾千コーティ(億)劫にわたって積集された功徳の資糧から生じた拠り所の具足であるからである。
39. Kammavipākajanti sātisayasucaritakammanibbattaṃ pittasemharuhirādīhi apalibuddhaṃ dūrepi ārammaṇaṃ sampaṭicchanasamatthaṃ kammavipākena sahajātaṃ, kammassa vā vipākabhāvena jātaṃ pasādacakkhu. Duvidhañhi dibbacakkhuṃ kammamayaṃ, bhāvanāmayanti. Tatridaṃ kammamayanti āha **‘‘na bhāvanāmaya’’**nti. Bhāvanāmayaṃ pana bodhimūle uppajjissati. Ayaṃ ‘‘so’’ti sallakkhaṇaṃ kāmaṃ manoviññāṇena hoti, cakkhuviññāṇena pana tassa tathā vibhāvitattā manoviññāṇassa tattha tathāpavattīti āha **‘‘yena nimittaṃ…pe… sakkotī’’**ti.
39. 「業の異熟から生じた」とは、極めて勝れた善行の業によって生じ、胆汁や痰や血液などによって妨げられることなく、遠くの対象をも捉えることができ、業の異熟と共に生じた、あるいは業の異熟として生じた清浄な眼のことである。実に天眼には業によるものと修習によるものの二種がある。そのうちこれは業によるものであるから「修習によるものではない」と述べた。修習によるものは菩提樹の根元で生じるであろう。「これはかの者である」という識別は、なるほど意識によってなされるが、眼識によってそのように明らかに示されたために意識がそこにおいてそのように機能するのである。それゆえ「それによって相を…(略)…できる」と述べた。
40. Vacanatthoti saddattho. Nimīlananti nimīlanadassanaṃ navisuddhaṃ, tathā ca akkhīni avivaṭāni nimīladassanassa na visuddhibhāvato. Tabbipariyāyato pana dassanaṃ visuddhaṃ, vivaṭañcāti āha **‘‘antarantarā’’**tiādi.
40. 「言葉の意味」とは、語の意味である。「目を閉じること」とは、目を閉じた観察は明瞭ではなく、そのように目が開かれていないことは目を閉じた観察の不明瞭さによる。しかしそれとは逆に、観察は明瞭であり開かれていることから、「時々に…」などと述べた。
41. Nī-iti – jānanatthaṃ dhātuṃ gahetvā āha **‘‘panayati jānātī’’**ti. Yato vuttaṃ ‘‘animittā na nāyare’’ti (visuddhi. 1.174; saṃ. ni. aṭṭha. 1.1.20), ‘‘vidūbhi neyyaṃ naravarassā’’ti (netti. saṅgahavāra) ca. Nī-iti pana pavattanatthaṃ dhātuṃ gahetvā ‘‘nayati pavattetī’’ti. Appamatto ahosi tesu tesu kiccakaraṇīyesu.
41. 語根「nī(導く)」を知るという意味に取って、「理解する、知る」と述べた。「相なきものは知られない」(清浄道論 1.174;相応部註 1.1.20)、「智者によって最上の人の導き(教え)は知られるべきである」(導論 総説部)と説かれている通りである。また語根「nī」を活動させるという意味に取って、「導く、活動させる」となる。様々ななすべき義務において怠りなくあった。
42. Vassāvāso vassaṃ uttarapadalopena, tasmā vassaṃ, vasse vā, sannivāsaphāsutāya arahatīti vassiko, pāsādo. Māsā pana vasse utumhi bhavāti vassikā. Itaresūti hemantikaṃ gimhikanti imesu. Eseva nayoti uttarapadalopena niddesaṃ atidisati.
42. 「雨季の住処」は、後部要素の省略によって「雨季」であり、それゆえ雨季に、あるいは雨季において居住の快適さに相応しいから「雨季の」宮殿である。一方、諸々の月は雨季という季節にあるものであるから「雨季の(諸月)」である。「他のものにおいて」とは、「冬季の、夏季の」というこれらにおいて、ということである。「これも同じ方式である」とは、後部要素の省略による表現を準用している。
Nātiucco hoti nātinīcoti gimhiko viya ucco, hemantiko viya nīco na hoti, atha kho tadubhayavemajjhalakkhaṇatāya nātiucco hoti, nātinīco. Assāti pāsādassa. Nātibahūnīti gimhikassa viya na atibahūni. Nātitanūnīti hemantikassa viya na khuddakāni, tanutarajālāni ca. Missakānevāti hemantike viya na uṇhaniyāneva, gimhike viya ca na sītaniyāneva, atha kho ubhayamissakāneva. Tanukānīti na puthulāni. Uṇhappavesanatthāyāti sūriyasantāpānuppavesāya. Bhittiniyūhānīti dakkhiṇapasse bhittīsu niyūhāni. Siniddhanti sinehavantaṃ, siniddhaggahaṇeneva cassa garukatāpi vuttā eva. Kaṭukasannissitanti tikaṭukādikaṭukadrabbūpasañhitaṃ. Udakayantānīti udakadhārāvissandayantāni. Yathā jalayantāni, evaṃ himayantānipi tattha karonti eva. Tasmā hemante viya himāni patantāniyeva hontīti ca veditabbaṃ.
「高すぎることもなく低すぎることもない」とは、夏季の宮殿のように高すぎず、冬季の宮殿のように低すぎず、その両者の中間の特徴を持つことによって高すぎることもなく低すぎることもない。「その(宮殿の)」とは、宮殿の、ということである。「多すぎることもなく」とは、夏季の宮殿のように過度に多くはない。「小さすぎることもなく」とは、冬季の宮殿のように小さく、より目の細かい格子ではない。「混合したものである」とは、冬季のように暖かいばかりではなく、夏季のように涼しいばかりでもなく、両者が混合したものである。「薄い」とは、厚くないことである。「熱を遮るために」とは、太陽の熱気が入らないようにするためである。「壁の小窓」とは、南側の壁にある小窓である。「滑らかな」とは、油分を含んだものであり、滑らかであるということによって重厚であることもまた語られている。「辛味を帯びた」とは、三辛(生姜・胡椒・長胡椒)などの辛味の薬物を配合したものである。「水仕掛けの装置」とは、水の流れを噴出させる装置である。水仕掛けの装置のように、そこには雪(冷水)の装置もまた作られている。それゆえ冬のように雪が降るようになっていると知るべきである。
Sabbaṭṭhānānipīti sabbāni paṭikiriyānhānabhojanakīḷāsañcaraṇādiṭṭhānānipi, na nivāsaṭṭhānāniyeva. Tenāha **‘‘dovārikāpī’’**tiādi. Tattha kāraṇamāha **‘‘rājā kirā’’**tiādi.
「すべての場所をも」とは、身繕い、沐浴、食事、遊戯、散策などのすべての場所をも意味し、ただ居住する場所だけではない。それゆえに「門番たちも」などと言われたのである。その理由について「王は実に」などと言われた。
Paṭhamabhāṇavāravaṇṇanā niṭṭhitā.
第一誦品の註釈が完了した。
Jiṇṇapurisavaṇṇanā
老人に関する解説
44. Gopānasivaṅkanti vaṅkagopānasī viya. Vaṅkānañhi vaṅkabhāvassa nidassanatthaṃ avaṅkagopānasīpi gayhati. Ābhoggavaṅkanti ādito paṭṭhāya abbhuggatāya kuṭilasarīratāya vaṅkaṃ. Tenāha **‘‘khandhe’’**tiādi. Daṇḍaparaṃ daṇḍaggahaṇaparaṃ ayanaṃ gamanaṃ etassāti daṇḍaparāyanaṃ, daṇḍo vā paraṃ āyanaṃ gamanakāraṇaṃ etassāti daṇḍaparāyanaṃ. Ṭhānādīsu daṇḍo gati avassayo etassa tena vinā appavattanatoti daṇḍagatikaṃ, gacchati etenāti vā gati, daṇḍo gati gamanakāraṇaṃ etassāti daṇḍagatikaṃ. Daṇḍapaṭisaraṇanti etthāpi eseva nayo. Jarāturanti jarāya kilantaṃ assavasaṃ. Yadā ratho purato hotīti dvedhāpathe sampatte purato gacchante balakāye tattha ekaṃ saṇṭhānaṃ āruḷho majjhe gacchanto bodhisattena āruḷho ratho itaraṃ saṇṭhānaṃ gacchanto yadā purato hoti. Pacchā balakāyoti tadā pacchā hoti sabbo balakāyo. Tādise okāseti tādise vuttappakāre maggappadese. Taṃ purisanti taṃ jiṇṇapurisaṃ. Suddhāvāsāti siddhatthādīnaṃ tiṇṇaṃ sammāsambuddhānaṃ sāsane brahmacariyaṃ caritvā suddhāvāsabhūmiyaṃ nibbattabrahmāno. Te hi tadā tattha tiṭṭhanti. ‘‘Kiṃ paneso jiṇṇo nāmā’’ti eso tayā vuccamāno kiṃ atthato, taṃ me niddhāretvā kathehīti dasseti. Aniddhāritasarūpattā hi tassa attano bodhisatto liṅgasabbanāmena taṃ vadanto ‘‘ki’’nti āha. ‘‘Yathā kiṃ te jāta’’nti dvayameva hi loke yebhuyyato jāyati itthī vā puriso vā, tathāpi taṃ liṅgasabbanāmena vuccati, evaṃ sampadamidaṃ veditabbaṃ. **‘‘Kiṃ vuttaṃ hotī’’**tiādi tassa aniddhāritasarūpataṃyeva vibhāveti.
44. 「垂木のように曲がった」とは、曲がった垂木のようであること。曲がったものの曲がり具合を示すために、曲がっていない垂木が引き合いに出されることもある。「曲がりくねった」とは、初めから立ち現れた屈曲した身体によって曲がっていること。それゆえに「肩に」などと言われた。「杖を頼みとする」とは、杖を握ることが最も優れた歩み・進行であるから「杖を頼みとする」であり、あるいは杖がその人の優れた拠り所・進行の原因であるから「杖を頼みとする」である。立つこと等において杖が歩みであり頼りであり、それなしでは進まないことから「杖を歩みとする」であり、あるいはこれによって進むから「歩み」であり、杖が歩み・進行の原因であるから「杖を歩みとする」である。「杖を拠り所とする」という点でも同様の道理である。「老いに苦しむ」とは、老いによって疲れ果て、自由がきかないこと。「車が前に出たとき」とは、二股の道に至ったとき、軍勢が前を進んでいて、その中の一つの停留場所に乗って中央を進んでいた菩薩が乗る車が、別の停留場所へと進み、前に出たときのこと。「後ろに軍勢が」とは、そのとき全軍が後ろになったということ。「そのような場所で」とは、そのような述べられた通りの道の場所で。「その男を」とは、その老人のこと。「浄居天たち」とは、悉達(シッダッタ)などの三人の正等覚者の教えにおいて梵行を修め、浄居天界に生じた梵天たちである。彼らは実にそのときそこにいたのである。「いったいこの老人とは何者か」とは、あなたによって言われているこれは意味として何か、それを私に明確にして語れ、と示している。自分自身にとってその本質が明確にされていないため、菩薩は指示代名詞をもって彼を指して「何」と言ったのである。「世間では一般に生まれるのは女か男かの二者にすぎないのに、『何がお前に生まれたのか』と指示代名詞で言われるように、ここでも同様に理解されるべきである。『何が言われたことになるのか』などは、まさにその本質が明確でないことを明らかにしている。
**‘‘Tena hī’’**tiādi ‘‘ayañca jiṇṇabhāvo sabbasādhāraṇattā mayhampi upari āpattito evā’’ti mahāsattassa saṃvijjanākāravibhāvanaṃ. Rathaṃ sāretīti sārathi. Kīḷāvihāratthaṃ uyyuttā yanti upagacchanti etanti uyyānaṃ. Alanti paṭikkhepavacanaṃ. Nāmāti garahaṇe nipāto ‘‘kathañhināmā’’tiādīsu (pārā. 39, 42, 87, 88, 90, 166, 170; pāci. 1, 13, 36) viya. Jātiyā ādīnavadassanatthaṃ taṃmūlassa ummūlanaṃ viya hotīti, tassa ca avassitabhāvato ‘‘jātiyā mūlaṃ **khaṇanto nisīdī’’**ti āha. Siddhe hi kāraṇe phalaṃ siddhameva hotīti. Pīḷaṃ janetvā antotudanavasena sabbapaṭhamaṃ hadayaṃ anupavissa ṭhitattā paṭhamena sallena hadaye viddho viya nisīdīti yojanā.
「それならば」などは、「この老いという状態はすべてに共通するものであるから、私の上にも必ず及ぶであろう」という、大士(菩薩)の戦慄のありさまを明らかにしている。「車を走らせる」から御者である。遊楽のために熱心な人々が行く・赴く場所であるから庭園である。「もうよい」とは拒絶の言葉である。「いったい」とは、「いったいどのようにして」などのように非難に用いられる不変化詞である。生まれの過患を示すために、その根本を根絶するかのようであり、また彼が住まわなくなったことから「生(しょう)の根を掘り起こしつつ坐した」と言われた。実に原因が達成されれば、結果は必ず達成されるからである。苦痛を生じさせて内側を刺し通すように、真っ先に心臓に入り込んで留まったため、第一の矢で心臓を射抜かれたかのように坐した、と結びつけられる。
Byādhipurisavaṇṇanā
病人に関する解説
47. Pubbe vuttanayenevāti ‘‘suddhāvāsā kirā’’tiādinā pubbe vutteneva nayena. Ābādhikanti ābādhavantaṃ. Dukkhitanti sañjātadukkhaṃ. Ajātanti ajātabhāvo, nibbānaṃ vā.
47. 「前述の道理によって」とは、「浄居天たちが実に」などの前述の通りの道理による。「病んでいる」とは、病気を持つこと。「苦しんでいる」とは、苦痛が生じていること。「不生」とは、生まれない状態、あるいは涅槃のことである。
Kālakatapurisavaṇṇanā
死人に関する解説
50. Bhantanettakuppalādi vividhaṃ katvā lātabbato vilāto, vayhaṃ, sivikā cāti āha **‘‘vilātanti sivika’’**nti. Sivikāya diṭṭhapubbattā mahāsatto citakapañjaraṃ ‘‘sivika’’nti āha. Ito paṭigatanti ito bhavato apagataṃ. Katakālanti pariyosāpitajīvanakālaṃ. Tenāha **‘‘yattaka’’**ntiādi.
50. 揺れる覆いなどを様々に整えて運ばれるべきものであることから「ヴィラータ(輿)」、乗り物、連輿であり、それゆえに「ヴィラータとは輿のことである」と言われた。以前に輿を見たことがあったため、大士は火葬の台の檻を「輿」と呼んだのである。「ここから去った」とは、この生存から離れたこと。「時を作した」とは、生存の期間を終えたこと。それゆえに「どれほど」などと言われた。
Pabbajitavaṇṇanā
出家者に関する解説
53. Dhammaṃ caratīti dhammacaraṇo, tassa bhāvo dhammacaraṇabhāvoti dhammacariyameva vadati. Evaṃ ekekassa padassāti yathā ‘‘sādhudhammacariyāti pabbajito’’ti yojanā, evaṃ ‘‘sādhusamacariyāti pabbajito’’tiādinā ekekassa padassa yojanā veditabbā. Sabbānīti ‘‘sādhudhammacariyā’’tiādīsu āgatāni sabbāni dhammasamakusalapuññapadāni. Dasakusalakammapathavevacanānīti dānādīni dasakusaladhammapariyāyapadāni.
53. 「法を修める」から「法を修める者」であり、そのあり方が「法を修めること」であり、まさに法の実践を述べている。「このように各々の句について」とは、「善い法の修行者が出家者である」と結びつけられるように、「善い平安の修行者が出家者である」などと各々の句の結合が理解されるべきである。「すべて」とは、「善い法の修行」などに説かれるすべての法、平等、善、功徳の句のことである。「十善業道の同義語」とは、布施などの十善業道の換言句のことである。
Bodhisattapabbajjāvaṇṇanā
菩薩の出家に関する解説
54. Pabbajitassa dhammiṃ kathaṃ sutvāti sambandho. Aññañca saṅgītianāruḷhaṃ tena tadā vuttaṃ dhammiṃ kathanti yojanā. **‘‘Vaṃsovā’’**ti padattayena dhammatā esāti dasseti. Cirassaṃ cirassaṃ passanti dīghāyukabhāvato. Tathā hi vuttaṃ ‘‘bahūnaṃ vassānaṃ…pe… accayenā’’ti. Tenevāti na cirassaṃ diṭṭhabhāveneva. Acirakālantarikameva pubbakālakiriyaṃ dassento **‘‘jiṇṇañca disvā…pe… pabbajitañca disvā, tasmā ahaṃ pabbajitomhi rājā’’**ti āha yathā ‘‘nhatvā vatthaṃ paridahitvā gandhaṃ vilimpitvā mālaṃ piḷandhitvā bhutto’’ti.
54. 「出家者の法話を聞いて」と結びつく。また結集に入らなかった、そのとき彼によって語られた法話を、と結びつけられる。「血統のように」という三つの句によって、これが自然の法規であることを示している。長命であるため「長い年月ののちに」見るのである。実に「多くの年の…中略…経過によって」と説かれている通りである。「それゆえに」とは、久しぶりに見たのではないということによってである。間を置かない直前の動作を示して、「老人を見て…中略…出家者を見て、それゆえに王よ、私は出家した」と言った。ちょうど「入浴し、衣服を着て、香を塗り、花輪を飾り、食事をした」と言うようなものである。
Mahājanakāyaanupabbajjāvaṇṇanā
大衆の追随出家に関する解説
55. ‘‘Kasmā **panetthā’’**tiādinā tesaṃ caturāsītiyā pāṇasahassānaṃ mahāsatte saṃbhattataṃ, saṃvegabahulatañca dasseti, yato sutaṭṭhāneyeva ṭhatvā ñātimittādīsu kiñci anāmantetvā mattavaravāraṇo viya ayomayabandhanaṃ ghanabandhanaṃ chinditvā pabbajjaṃ upagacchiṃsu.
55. 「なぜここで」などによって、それら八万四千の生きとし生ける者たちの、大士への帰依と強い戦慄とを示している。彼らは聞いたその場に留まり、親族や友人たちに何も告げず、発情した優れた象が鉄の堅固な足枷を断ち切るように、出家へと赴いたのである。
Cattāro māse cārikaṃ cari na tāva ñāṇassa paripākaṃ gatattā.
まだ智慧が成熟していなかったため、四ヶ月の間、遊行した。
Yadā pana ñāṇaṃ paripākaṃ gataṃ, taṃ dassento **‘‘ayaṃ panā’’**tiādimāha. Sabbeva ime pabbajitā mama gamanaṃ jānissanti, jānantā ca maṃ anubandhissantīti adhippāyo. Sannisīvesūti sannisinnesu. Saṇatevāti saṇati viya saddaṃ karoti viya.
しかし智慧が成熟したとき、それを示すために「しかしこれは」などと言われた。これら出家者たちは皆、私の旅立ちを知るであろう、そして知れば私を追ってくるであろう、という意図である。「座したとき」とは、着席したとき。「ざわめくように」とは、ざわめくかのように、音を立てるかのように。
Avivekārāmānanti anabhirativivekānaṃ. Ayaṃ kāloti ayaṃ tesaṃ pabbajitānaṃ mama gamanassa ajānanakālo. Nikkhamitvāti paṇṇasālāya niggantvā, mahābhinikkhamanaṃ pana pageva nikkhanto. Pāramitānubhāvena uṭṭhitaṃ upari devatāhi dibbapaccattharaṇehi supaññattampi mahāsattassa puññānubhāvena siddhattā tena paññattaṃ viya hotīti vuttaṃ **‘‘pallaṅkaṃ paññapetvā’’**ti. ‘‘Kāmaṃ taco ca nhāru ca, aṭṭhi ca avasissatū’’tiādi (ma. ni. 2.184; saṃ. ni. 2.22, 237; a. ni. 2.5; 8.13; mahāni. 17, 196) nayappavattaṃ caturaṅgavīriyaṃ adhiṭṭhahitvā. Vūpakāsanti vivekavāsaṃ.
「遠離を好まぬ者たちの」とは、遠離を楽しまない者たちのこと。「この時である」とは、それらの出家者たちが私の旅立ちを知らないこの時であるということ。「出て」とは、草庵を出てのことであるが、大出家はすでにそれ以前になされていた。「結跏趺坐を設けて」とは、波羅蜜の威力によって生じ、上空で神々によって天の敷物で立派に敷かれたものであっても、大士の功徳の力によって成就したものであるため、彼によって敷かれたかのようであるから言われた。「皮と腱と骨だけが残ろうとも」などに示される四肢の精進を決意して。「遠離の住居」とは、静寂の住処のことである。
Aññenevāti yattha mahāpuriso tadā viharati, tato aññeneva disābhāgena. Kāmaṃ bodhimaṇḍo jambudīpassa majjhe nābhiṭṭhāniyo, tadā pana brahāraññe vivitte yogīnaṃ paṭisallānasāruppo hutvā tiṭṭhati, tadañño pana jambudīpappadeso yebhuyyena bahujano ākiṇṇamanusso iddho phīto ahosi. Tena te taṃ taṃ janapadadesaṃ uddissa gatā **‘‘anto jambudīpābhimukhā cārikaṃ pakkantā’’**ti vuttā anto jambudīpābhimukhā, na himavantādipabbatābhimukhāti attho.
「他の方角へ」とは、大人がそのとき住していた場所から、まったく別の方角へということである。確かに菩提道場は閻浮提の中央のへそのような場所であるが、当時は大森林の静寂の中にあり、修行者の瞑想に適して存在していた。一方、閻浮提の他の地域は大部分が多くの人々で満ち、豊かで繁栄していた。そのため彼らはそれぞれの地方を目指して行き、「閻浮提の内部に向かって遊行に赴いた」と言われたのであり、閻浮提の内部に向かったのであって、雪山などの山々に向かったのではない、という意味である。
Bodhisattaabhinivesavaṇṇanā
菩薩の専念に関する解説
57. Kāmaṃ bhagavā buddho hutvā sattasattāhāni tattheva vasi, sabbapaṭhamaṃ pana visākhapuṇṇamaṃ sandhāya **‘‘ekarattivāsaṃ upagatassā’’**ti vuttaṃ. Rahogatassāti raho janavivittaṃ ṭhānaṃ upagatassa, tena gaṇasaṅgaṇikābhāvena mahāsattassa kāyavivekamāha. Paṭisallīnassāti nānārammaṇacārato cittassa nivattiyā pati sammadeva nilīnassa tattha avisaṭacittassa, tena cittasaṅgaṇikābhāvenassa pubbabhāgiyaṃ cittavivekamāha. Dukkhanti jātiādimūlakaṃ dukkhaṃ. Kāmaṃ cutūpapātāpi jātimaraṇāni eva, maraṇajātiyova ‘‘jāyati mīyatī’’ti pana vatvā ‘‘cavati upapajjatī’’ti vacanaṃ na ekabhavapariyāpannānaṃ nesaṃ gahaṇaṃ, atha kho nānābhavapariyāpannānaṃ ekajjhaṃ gahaṇanti dassento āha **‘‘idaṃ dvayaṃ…pe… vutta’’**nti. Kasmā pana lokassa kicchāpattiparivitakkane ‘‘jarāmaraṇassā’’ti jarāmaraṇavasena niyamanaṃ katanti āha **‘‘yasmā’’**tiādi. Jarāmaraṇameva upaṭṭhāti āditoti adhippāyo. Abhiniviṭṭhassāti āraddhassa. Paṭiccasamuppādamukhena vipassanārambhe tassa jarāmaraṇato paṭṭhāya abhiniveso aggato yāva mūlaṃ otaraṇaṃ viyāti āha **‘‘bhavaggato otarantassa viyā’’**ti.
57. 確かに世尊は仏となってから七週間のあいだまさにそこに留まられたが、最初に毘舎佉(ヴィサーカー)月の満月の日を指して「一夜の宿に赴いた者の」と言われた。「独坐した者の」とは、人混みを離れた場所に赴いた者のことであり、群衆の集まりを離れたことによる大士の身遠離を述べている。「静慮した者の」とは、様々な対象へ向かう心の動きを止めることによって、そこに正しく潜入し心が拡散していないことであり、心の混乱を離れたことによる前段階の心遠離を述べている。「苦」とは、生などを根本とする苦のことである。確かに死と生もまた生と死にほかならず、死と生について「生まれ、死ぬ」と語りつつ「死没し、再生する」という言葉は、同一の生存に属するものを捉えるのではなく、異なる生存に属するものを包括して捉えることである、と示すために「この二つは…中略…言われた」と言った。なぜ世間の難境への陥落を思索するにあたり、「老死の」と老死によって限定したのかといえば、「それゆえに」などと言われた。老死こそが最初に現れるからである、という意図である。「専念した者の」とは、開始した者の。「有頂から降りてくる者のように」とは、縁起の門によって観相(ヴィパッサナー)を開始するにあたり、彼の専念が老死から始まって根本へと至ることが、頂上から根元へと下るかのようであるから言われた。
Upāyamanasikārāti upāyena manasikaraṇato manasikārassa pavattanato. Idāni taṃ upāyamanasikārapariyāyaṃ yonisomanasikāraṃ sarūpato, pavattiākārato ca dassetuṃ **‘‘aniccādīni hī’’**tiādi vuttaṃ. Yonisomanasikāro nāma hotīti yāthāvato manasikārabhāvato. Aniccādīnīti ādi-saddena dukkhānattaasubhādīnaṃ gahaṇaṃ. Ayanti ‘‘etadahosī’’ti evaṃ vutto ‘‘kimhi nu kho satī’’tiādinayappavatto manasikāro. Tesaṃ aññataroti tesu aniccādimanasikāresu aññataro eko. Ko pana soti? Aniccamanasikārova, tattha kāraṇamāha **‘‘udayabbayānupassanāvasena pavattattā’’**ti. Yañhi uppajjati ceva cavati ca, taṃ aniccaṃ udayavayaparicchinnattā addhuvanti katvā. Tassa pana tabbhāvadassanaṃ yāthāvamanasikāratāya yonisomanasikāro. Ito yonisomanasikārāti hetumhi nissakkavacananti tassa iminā **‘‘upāyamanasikārenā’’**ti hetumhi karaṇavacanena atthamāha. Samāgamo ahosīti yāthāvato paṭivijjhanavasena saṅgamo ahosi. Kiṃ pana tanti kiṃ pana taṃ jarāmaraṇakāraṇanti āha **‘‘jātī’’**ti. ‘‘Jātiyā kho’’tiādīsu ayaṃ saṅkhepattho – kimhi nu kho sati jarāmaraṇaṃ hoti, kiṃ paccayā jarāmaraṇa’’nti jarāmaraṇakāraṇaṃ pariggaṇhantassa bodhisattassa ‘‘yasmiṃ sati yaṃ hoti, asati ca na hoti, taṃ tassa kāraṇa’’nti evaṃ abyabhicārikāraṇapariggaṇhane ‘‘jātiyā kho sati jarāmaraṇaṃ hoti, jātipaccayā jarāmaraṇa’’nti yā jarāmaraṇassa kāraṇapariggāhikā paññā uppajjati, tāya uppajjantiyā samāgamo ahosīti. Sabbapadānīti ‘‘kimhi nu kho sati jāti hotī’’tiādinā āgatāni jātiādīni viññāṇapariyosānāni nava padāni.
「方便の作意から」とは、巧みな手段によって思索することから、作意が働くことによってである。今やその方便の作意の同義語である如理作意をその本質と働きのありさまから示すために、「無常などを実に」などと言われた。「如理作意と呼ばれる」とは、事実通りの作意であることからである。「無常などを」の「など」という言葉によって、苦、無我、不浄などの把握が含まれる。「この」とは、「彼にこの思いが生じた」とこのように述べられた、「何があるときに」などの方法で展開する作意のことである。「それらのうちのいずれか」とは、それら無常などの作意のうちのいずれか一つのことである。ではそれは何かといえば、まさに無常の作意であり、その理由について「生滅の随観によって生起したため」と言われた。実に生じ、また滅するものは、生と滅によって区切られているがゆえに無常であり、不確かであるとされる。そのありさまを見ることは事実通りの作意であるから如理作意である。「この如理作意より」とは原因における奪格であり、その意味を「この方便の作意によって」と原因における具格によって示している。「出会いがあった」とは、事実通りの通達による合致があったということである。「ではそれは何か」とは、老死の原因であるそれは何かということであり、「生である」と言った。「実に生があるとき」などにおいて、これは要約された意味である――「何があるときに老死があるのか、何を縁として老死があるのか」と老死の原因を把握する菩薩にとって、「これがあるときにこれがあり、これがないときにこれがない。それがこれの原因である」と、このように狂いのない原因を把握する中で、「実に生があるときに老死があり、生を縁として老死がある」という、老死の原因を把握する智慧が生じ、その生起する智慧との出会いがあったということである。「すべての句」とは、「何があるときに生があるのか」などによって現れる、生から識に至る九つの句のことである。
Dvādasapadike paṭiccasamuppāde idha yāni dve padāni aggahitāni, tesaṃ aggahaṇe kāraṇaṃ pucchitvā vissajjetukāmo tesaṃ gahetabbākāraṃ tāva dassento **‘‘ettha panā’’**tiādimāha. Paccakkhabhūtaṃ paccuppannabhavaṃ paṭhamaṃ gahetvā tadanantaraṃ anāgataṃ ‘‘dutiya’’nti gahaṇe atīto tatiyo hotīti āha **‘‘avijjā saṅkhārā hi atīto bhavo’’**ti. Nanu cettha anāgatassāpi bhavassa gahaṇaṃ na sambhavati paccuppannavasena abhinivesassa jotitattāti? Saccametaṃ, kāraṇe pana gahite phalaṃ gahitameva hotīti tathā vuttanti daṭṭhabbaṃ. Api cettha anāgatopi addhā atthato saṅgahito eva, yato parato ‘‘nāmarūpapaccayā saḷāyatana’’ntiādinā anāgataddhasaṅgahikā desanā pavattā. Tehīti avijjāsaṅkhārehi ārammaṇabhūtehi. Na ghaṭiyati na sambajjhati. Mahāpuriso hi paccuppannavasena abhiniviṭṭhoti aghaṭane kāraṇamāha. Adiṭṭhehīti anavabuddhehi, itthambhūtalakkhaṇe cetaṃ karaṇavacanaṃ. Sati anubodhe paṭivedhena bhavitabbanti āha ‘‘na **sakkā buddhena bhavitu’’**nti. Imināti mahāsattena. Teti avijjāsaṅkhārā. Bhavaupādānataṇhāvasenevāti bhavaupādānataṇhādassanavaseneva. Diṭṭhā taṃsabhāvataṃsahagatehi tehi samānayogakkhamattā. Visuddhimagge (visuddhi. 2.570) kathitāva, tasmā na idha kathetabbāti adhippāyo.
十二支の縁起において、ここで捉えられなかった二つの句について、それらが捉えられなかった理由を問い、答えようとして、まずそれらの把握されるべきありさまを示すために「しかしここで」などと言われた。直接経験される現在の生存を最初に把握し、その直後の未来を「第二」として把握するとき、過去は第三となるから、「無明と行は実に過去の生存である」と言われた。では、ここで未来の生存の把握も成り立たないのではないか、現在の観察として専念が示されているからではないか、と。それは真実であるが、原因が捉えられたとき結果はすでに捉えられているため、そのように言われたと見なされるべきである。さらにここでは、未来の期間も意味の上で実に包括されている。なぜなら後において「名色を縁として六処」などと未来の期間を包括する説示がなされているからである。「それらによって」とは、対象となった無明と行によってである。「合致しない」とは結びつかないことである。大人は現在に基づいて専念したからである、と結びつかない理由を述べている。「見られざるものによって」とは、覚知されていないものによってであり、これは状態を示す具格である。覚知があれば通達があるはずであるから、「仏となることはできない」と言われた。「この者によって」とは、大士によって。「それらは」とは、無明と行のことである。「有・取・愛によってまさに」とは、有・取・愛の観察によってまさに、ということである。それらと同性質で共にあるものとして見られたため、同等の適用に耐えるからである。『清浄道論』においてすでに語られたことであり、それゆえにここでは語られるべきではない、というのが意図である。
58. Paccayatoti hetuto, saṅkhāratoti attho. ‘‘Kimhi nu kho sati jarāmaraṇaṃ hotī’’tiādinā hi hetuparamparāvasena phalaparamparāya vuccamānāya ‘‘kimhi nu kho sati viññāṇaṃ hotī’’ti vicāraṇāya ‘‘saṅkhāre kho sati viññāṇaṃ hotī’’ti viññāṇassa visesakāraṇabhūte saṅkhāre aggahite tato viññāṇaṃ paṭinivattati nāma, na sabbapaccayato. Tenevāha ‘‘nāmarūpe kho sati viññāṇaṃ hotī’’ti (dī. ni. 2.58), nāmampi cettha sahajātādivaseneva paccayabhūtaṃ adhippetaṃ, na kammūpanissayavasena paccuppannavasena abhinivisassa jotitattā. Ārammaṇatoti avijjāsaṅkhārasaṅkhātaārammaṇato, atītabhavasaṅkhātaārammaṇato vā. Atītaddhapariyāpannā hi avijjāsaṅkhārā. Yato paṭinivattamānaṃ viññāṇaṃ atītabhavatopi paṭinivattati nāma. Ubhayampīti paṭisandhiviññāṇampi vipassanāviññāṇampi. Nāmarūpaṃ nātikkamatīti paccayabhūtaṃ, ārammaṇabhūtañca nāmarūpaṃ nātikkamati tena vinā avattanato. Tenāha **‘‘nāmarūpato paraṃ na gacchatī’’**ti.
58. 「縁から」とは原因から、行からという意味である。「何があるときに老死があるのか」などと原因の連続によって結果の連続が語られる中で、「何があるときに識があるのか」という探求において、「行があるときに識がある」と識の特別な原因である行が捉えられないとき、そこから識は反転すると言われるのであり、すべての縁から反転するのではない。それゆえに「名色があるときに識がある」と言われた。ここでの名も倶生などのあり方によって縁となったものと意図されており、業の親依止の力によるものではない。現在の観察として専念が示されているからである。「対象から」とは、無明と行と呼ばれる対象から、あるいは過去の生存と呼ばれる対象からである。過去世に属する無明と行から反転する識は、過去世からも反転すると言われる。「両者ともに」とは、結生識も観相の識もである。「名色を超えない」とは、縁であり対象でもある名色を超えないということである。それなしには働かないからである。それゆえに「名色から先へは行かない」と言われた。
Viññāṇe nāmarūpassa paccaye honteti viññāṇe nāmassa, rūpassa, nāmarūpassa ca paccaye honte. Nāmarūpe ca viññāṇassa paccaye honteti tathā nāme, rūpe, nāmarūpe ca viññāṇassa paccaye honteti catuvokāraekavokārapañcavokārabhavavasena yathārahaṃ yojanā veditabbā, dvīsupi aññamaññapaccayesu hontesūti pana pañcavokārabhavavaseneva. Ettakenāti evaṃ viññāṇa nāmarūpānaṃ aññamaññaṃ upatthambhanavasena pavattiyā. Jāyetha vā…pe… upapajjetha vāti ‘‘satto jāyati…pe… upapajjati vā’’ti samaññā hoti viññāṇanāmarūpavinimuttassa sattapaññattiyā upādānabhūtassa dhammassa abhāvato. Tenāha **‘‘ito hī’’**tiādi. Etadevāti viññāṇaṃ, nāmarūpanti etaṃ dvayameva.
「識が名色の縁となるとき」とは、識が名、色、名色の縁となるときのことである。「名色が識の縁となるとき」とは、同様に名、色、名色が識の縁となるときであり、四蘊有、一蘊有、五蘊有の生存に応じて適切に結びつけて理解されるべきであるが、「両者が互いに縁となるとき」というのは、まさに五蘊有の生存によるものである。「これだけによって」とは、このように識と名色が互いに支え合うことによる展開によってである。「生まれ…中略…生じるであろう」とは、「衆生が生まれ…中略…生じる」という世俗の呼び名が成立するのであり、識と名色を離れて衆生の概念の根拠となる法は存在しないからである。それゆえに「ここから実に」などと言われた。「これだけが」とは、識と名色というこの二つだけのことである。
Pañca padānīti ‘‘jāyetha vā’’tiādīni pañca padāni. Nanu tattha paṭhamatatiyehi catutthapañcamāni atthato abhinnānīti āha **‘‘saddhiṃ aparāparaṃ cutipaṭisandhīhī’’**ti. Puna taṃ ettāvatāti vuttamatthanti yo ‘‘ettāvatā’’ti padena pubbe vutto, tameva yathāvuttamatthaṃ ‘‘yadida’’ntiādinā niyyātento nidassento puna vatvā. Anulomapaccayākāravasenāti paccayadhammadassanapubbakaṃ paccayuppannadhammadassanavasena. Paccayadhammānañhi attano paccayuppannassa paccayabhāvo idappaccayatā paccayākāro, so ca ‘‘avijjāpaccayā saṅkhārā’’tiādinā vutto. Saṃsārappavattiyā anulomanato anulomapaccayākāro. Jātiādikaṃ sabbaṃ vaṭṭadukkhaṃ cittena samihitena kataṃ samūhavasena gahetvā pāḷiyaṃ ‘‘dukkhakkhandhassā’’ti vuttanti āha **‘‘jāti…pe… dukkharāsissā’’**ti.
「五つの句」とは、「生まれるであろう」などの五つの句のことである。そこでは第一と第三、第四と第五は意味において同一ではないか、それに対して「前後の死と再生とともに」と言われた。「再びその『これだけによって』と述べられた意味を」とは、「これだけによって」という句で以前に述べられたまさにその意味を、「すなわち」などと演繹し例証して再び述べて。「順次の縁のありさまによって」とは、縁となる法を見せることを先立てて、縁によって生じる法を見せることによってである。縁となる法が自らの縁生法に対して縁であること、これが「これに縁する性」であり縁のありさまであり、それは「無明を縁として行」などと説かれている。輪廻の展開に順ずることから「順次の縁のありさま」である。生をはじめとするすべての輪廻の苦を、心が結び合わせて集積として捉え、経典において「苦蘊の」と説かれたことから、「生…中略…苦の集積の」と言われた。
59. Dukkhakkhandhassa anekavāraṃ samudayadassanavasena viññāṇassa pavattattā **‘‘samudayo samudayo’’**ti āmeḍitavacanaṃ avoca. Atha vā ‘‘evaṃ samudayo hotī’’ti idaṃ na kevalaṃ nibbattinidassanapadaṃ, atha kho paṭiccasamuppāda-saddo viya samuppādamukhena idha samudaya-saddo nibbattimukhena paccayattaṃ vadati. Viññāṇādayo bhavantā idha paccayadhammā niddiṭṭhā, te sāmaññarūpena byāpanicchāvasena gaṇhanto ‘‘samudayo samudayo’’ti āha, evañca katvā yaṃ vakkhati ‘‘imasmiṃ sati idaṃ hotīti paccayasañjānanamattaṃ kathita’’nti, (dī. ni. aṭṭha. 2.59) taṃ samatthitaṃ hoti. Yadi evaṃ ‘‘udayadassanapaññā vesā’’ti idaṃ kathanti? Nāyaṃ doso paccayato udayadassanamukhena nibbattilakkhaṇadassanassa sambhavato. Dassanaṭṭhena cakkhūti samudayassa paccakkhato dassanabhāvena cakkhu viyāti cakkhu. Ñātakaraṇaṭṭhenāti yathā samudayo sammadeva ñāto hoti avabuddho, evaṃ karaṇaṭṭhena. Pajānanaṭṭhenāti ‘‘viññāṇāditaṃtaṃpaccayuppattiyā etassa dukkhakkhandhassa samudayo hotī’’ti pakārato jānanaṭṭhena. Nibbijjhitvā paṭivijjhitvā uppannaṭṭhenāti anibbijjhitvā pubbe udayadassanapaññāya paṭipakkhadhamme nibbijjhitvā ‘‘ayaṃ samudayo’’ti paccayato, khaṇato ca, sarūpato paṭivijjhitvā uppannabhāvena, nibbijjhanaṭṭhena paṭivijjhanaṭṭhena vijjāti vuttaṃ hoti. Obhāsaṭṭhenāti samudayasabhāvapaṭicchādanakassa mohandhakārassa ca kilesandhakārassa ca vidhamanavasena avabhāsakabhāvena.
59. 苦蘊の生起を何度も見ることによって識が働いたため、「集起せり、集起せり」と重言を述べられた。あるいは「このように集起する」とは、単に生起を示す句ではなく、むしろ縁起という言葉が生起の門によるように、ここでの「集起」という言葉は発生の門によって縁であることを述べている。識などがここで縁となる法として示されており、それらを総称として包括的に捉えて「集起せり、集起せり」と言われたのである。このように解釈することで、「これがあるときこれがある、という縁の認識のみが語られた」と後述されることが立証される。もしそうなら「これは生起を見る智慧である」というのはどういうことか。この難点はない。縁から生起を見る門によって発生の特徴を見ることも可能だからである。「見ることの意味において眼」とは、集起を直接見ることによって眼のようであるから眼である。「知らしめることの意味において」とは、集起が正しく知られ覚知されるようにすることの意味においてである。「了知することの意味において」とは、「識などの様々な縁の生起によってこの苦蘊の集起がある」と様相に即して知ることの意味においてである。「刺し通して、通達して生じた意味において」とは、以前に通達していなかった生起を見る智慧の反対の法を刺し通し、「これが集起である」と縁から、瞬間から、本質から通達して生じたことによってであり、刺し通すこと、通達することの意味において「明」と言われるのである。「光を放つ意味において」とは、集起の本質を覆い隠す癡の暗闇と煩悩の暗闇を打ち破ることによって照らし出すあり方による。
Idāni yathāvuttamatthaṃ paṭipāṭiyā vibhāvetuṃ **‘‘yathāhā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha cakkhuṃ udapādīti pāḷiyaṃ paduddhāro. Kathaṃ udapādīti ceti āha **‘‘dassanaṭṭhenā’’**ti. ‘‘Samudayassa paccakkhato dassanabhāvenāti vutto vāyamattho. Iminā nayena sesapadesupi attho veditabbo. Cakkhudhammoti cakkhūti pāḷidhammo. Dassanaṭṭho atthoti dassanasabhāvo tena pakāsetabbo attho. Sesesupi eseva nayo. Ettakehi padehīti imehi pañcahi padehi. **‘‘Kiṃ kathita’’**nti piṇḍatthaṃ pucchati. Paccayasañjānanamattanti viññāṇādīnaṃ paccayadhammānaṃ nāmarūpādipaccayuppannassa paccayasabhāvasañjānanamattaṃ kathitaṃ avisesato paccayasabhāvasallakkhaṇassa jotitattā. Saṅkhārānaṃ sammadeva udayadassanassa jotitattā **‘‘vīthipaṭipannā taruṇavipassanā kathitā’’**ti ca vuttaṃ.
今や前述の意味を順序立てて明らかにするために、「述べられているように」などと言われた。その中で「眼が生じた」とは、経典の句の提示である。どのように生じたのかといえば、「見ることの意味において」と言われた。「集起を直接見ることによって」と述べられたのもこの意味である。この道理によって残りの句においても意味が理解されるべきである。「眼の法」とは、「眼」という経典の法のことである。「見ることの意味」とは、見ることの本質であり、それによって明らかにされるべき意味である。残りのものにおいても同様の道理である。「これらだけの句によって」とは、これら五つの句によって。「何が語られたのか」と総括的な意味を問うている。「縁の認識のみ」とは、識などの縁となる法が名色などの縁生法に対する縁の本質を認識したことのみが語られたのであり、無差別に縁の本質を識別したことが示されているからである。諸行の正しい生起の観察が示されたことから、「正道に入った初期の観相が語られた」とも言われた。
61. Attanā adhigatattā āsannapaccakkhatāya **‘‘aya’’**nti vuttaṃ, ariyamaggādīnaṃ magganaṭṭhena maggoti. Pubbabhāgavipassanā hesā. Tenāha **‘‘bodhāyā’’**ti. Bodhapadassa bhāvasādhanataṃ sandhāyāha **‘‘catusaccabujjhanatthāyā’’**ti. Pariññāpahānabhāvanābhisamayā yāvadeva sacchikiriyābhisamayatthā nibbānādhigamatthattā brahmacariyavāsassāti vuttaṃ **‘‘nibbānabujjhanatthāya eva vā’’**ti. ‘‘Nibbānaṃ paramaṃ sukha’’nti (ma. ni. 2.215, 217; dha. pa. 204) hi vuttaṃ. Bujjhatīti cattāri ariyasaccāni ekapaṭivedhena paṭivijjhati, tena bodha-saddassa kattusādhanattamāha. Paccattapadehīti paṭhamāvibhattidīpakehi padehi. Nibbānameva kathitaṃ viññāṇādi nirujjhati etthāti katvā. Anibbattinirodhanti sabbaso paccayanirodhena anuppādanirodhaṃ accantanirodhaṃ.
61. 自ら体得されたことで間近に直接経験されたため「これ」と言われた。聖道などを求める意味において「道」である。これは前段階の観相である。それゆえに「覚りのために」と言われた。「覚り」という語の状態成就を指して「四聖諦を覚知するために」と言われた。遍知・断・修・作証の現観は、実に作証の現観を目的とし、涅槃の体得を目的とする梵行の生活であるため、「あるいは涅槃を覚知するためだけに」と言われた。「涅槃は至上の楽である」と説かれている通りである。「覚る」とは、四聖諦を一つの通達によって覚知することであり、それによって「覚り」という語の能動成就を述べている。「主格の句によって」とは、第一格(主格)を示す句によってである。識などがここで滅することから、まさに涅槃が語られたのである。「不生の滅」とは、あらゆる縁の滅によって生じないことによる滅、究極の滅のことである。
62. Sabbeheva etehi padehīti ‘‘cakkhū’’tiādīhi pañcahi padehi. Nirodhasañjānanamattamevāti ‘‘nirodho nirodhoti kho’’tiādinā nirodhassa sañjānanamattameva kathitaṃ pubbārambhabhāvato, na tassa paṭivijjhanavasena paccakkhato dassanaṃ ariyamaggassa anadhigatattā. Saṅkhārānaṃ sammadeva nirodhadassanaṃ nāma sikhāppattāya vipassanāya vasena icchitabbanti **‘‘vuṭṭhānagāminī balavavipassanā kathitā’’**ti ca vuttaṃ.
62. 「これらすべての句によって」とは、「眼」などの五つの句によってである。「滅の認識のみ」とは、「滅せり、滅せり実に」などと滅の認識のみが語られたのであり、初期の開始段階であるためであり、聖道をまだ体得していないため、通達による直接の観察ではない。諸行の正しい滅の観察とは、頂点に達した観相によって望まれるべきであるから、「出起に至る力強い観相が語られた」とも言われた。
63. Viditvāti pubbabhāgiyena ñāṇena jānitvā. Tato aparabhāgeti vuttanayena paccayanirodhajānanato pacchābhāge. Upādānassa paccayabhūtesūti catubbidhassapi upādānassa ārammaṇapaccayādinā paccayabhūtesu, upādāniyesūti attho. Vahantoti pavattento. Idanti ‘‘aparena samayenā’’tiādi vacanaṃ. Kasmā vuttanti ‘‘yāya paṭipattiyā sabbepi mahābodhisattā carimabhave bodhāya paṭipajjanti, vipassanāya mahābodhisattena tatheva paṭipanna’’nti kathetukamyatāvasena pucchāvacanaṃ. Tenāha **‘‘sabbeyeva hī’’**tiādi. Tattha puttassa jātadivase mahābhinikkhamanaṃ, padhānānuyogo ca dhammatāvasena veditabbo, itaraṃ itikattabbatāvasena. Tatthāpi cirakālaparibhāvanāya laddhāsevanāya mahākaruṇāya sañcoditamānasattā ‘‘kicchaṃ vatāyaṃ loko āpanno’’tiādinā (dī. ni. 2.57; saṃ. ni. 2.4, 10) saṃsāradukkhato mocetuṃ icchitassa sattalokassa kicchāpattidassanamukhena jarāmaraṇato paṭṭhāya paccayākārasammasanampi dhammatāva. Tathā attādhīnatāya, kenaci anupakhatattā, asecanakasukhavihāratāya, catutthajjhānikatāya ca ānāpānakammaṭṭhānānuyogo. Pañcasu khandhesu abhinivisitvāti viññāṇanāmarūpādipariyāyena gahitesu pañcasu upādānakkhandhesu vipassanābhinivesavasena abhinivisitvā paṭipattiṃ ārabhitvā. Anukkamanti anu anu gāmitabbato paṭipajjitabbato ‘‘anukkama’’nti laddhanāmaṃ anupubbapaṭipattiṃ. Katvāti paṭipajjitvā.
63. 「知って」とは、前段階の智慧によって知って。「その後の段階において」とは、述べられた道理によって縁の滅を知った後の段階において。「執着の縁となったものにおいて」とは、四種の執着の対象縁などとして縁となったものにおいて、執着され得るものにおいて、という意味である。「運びつつ」とは、展開させつつ。「この」とは、「のちの時に」などの言葉のことである。なぜ語られたのかといえば、「すべての偉大な菩薩たちが最後の生存において覚りのために実践するその行によって、観相によって偉大な菩薩はまさにそのように実践した」と語ることを望むことによる問いの言葉である。それゆえに「すべて実に」などと言われた。そこにおいて子の生まれた日に大出家すること、そして苦行の修行は自然の法規として理解されるべきであり、他のことはなすべきこととして理解されるべきである。そこにおいても、長い間の習熟によって得られた親炙による大悲に促された心によって、「世間は実に難境に陥った」などと、輪廻の苦から解き放つことを望む衆生世界の難境への陥落を見る門によって、老死から始まる縁のありさまを考察することもまた自然の法規である。同様に自らに依拠し、何ものにも害されず、混じりけのない安楽な住処であり、第四禅に属するものであることから、入出息念の業処への専念がある。「五蘊に専念して」とは、識・名色などの同義語によって捉えられた五取蘊において、観相の専念によって専念し、実践を開始して。「順序を」とは、順次に進むべき、実践すべきものであることから「順序」と名づけられた順次の実践のことである。「なして」とは、実践して。
Iti rūpanti ettha dutiyo iti-saddo nidassanattho, tena paṭhamo iti-saddo sarūpassa, parimāṇassa ca bodhako anekatthattā nipātānaṃ,āvuttiādivasena vāyamattho veditabbo. Antogadhāvadhāraṇañca vākyaṃ dassento **‘‘idaṃ rūpaṃ, ettakaṃ rūpaṃ, ito uddhaṃ rūpaṃ natthī’’**tiādimāha. Tattha **‘‘ruppanasabhāva’’**nti iminā sāmaññato rūpassa sabhāvo dassito, **‘‘bhūtupādāyabheda’’**ntiādinā visesato, tadubhayenapi ‘‘idaṃ rūpa’’nti padassa attho niddiṭṭho. Tattha lakkhaṇaṃ nāma tassa tassa rūpavisesassa anaññasādhāraṇo sabhāvo. Raso tasseva attano phalaṃ pati paccayabhāvo. Paccupaṭṭhānaṃ tassa paramatthato vijjamānattā yāthāvato ñāṇassa gocarabhāvo. Padaṭṭhānaṃ āsannakāraṇaṃ, tenassa paccayāyattavuttitā dassitā. **‘‘Anavasesarūpapariggaho’’**ti iminā pana ‘‘ettakaṃ rūpaṃ, ito uddhaṃ’’ rūpaṃ natthīti padadvayassāpi attho niddiṭṭho rūpassa sabbaso pariyādānavasena niyāmanato. ‘‘Iti rūpassa samudayo’’ti ettha pana iti-saddo ‘‘iti kho bhikkhave sappaṭibhayo bālo’’tiādīsu (ma. ni. 3.124; a. ni. 3.1) viya pakāratthoti āha **‘‘itīti eva’’**nti.
「このように色は」のここでの二番目の「このように」という言葉は例示の意味であり、それによって最初の「このように」という言葉は本質と限定を知らせるものである。不変化詞には多くの意味があるからであり、あるいは反復などによってこの意味が理解されるべきである。限定を含む文章を示して、「これが色であり、これだけが色であり、これより以上の色はない」などと言われた。その中で「変壊する性質」によって一般的な色の本質が示され、「四大種と所造色の区分」などによって特殊な本質が示され、その両者によって「これが色である」という句の意味が示されている。そこにおいて「特相」とは、それぞれの色の特殊な他と共通しない本質である。「作用」とは、まさにそれ自身の結果に対する縁としてのあり方である。「現起」とは、それが勝義において存在することから事実通りに智慧の対象となるあり方である。「近因」とは直接の原因であり、それによってその縁に依存するあり方が示されている。「余すところのない色の把握」によって、「これだけが色であり、これより以上の色はない」という両方の句の意味もまた、色の完全な尽徹による限定によって示されている。「このように色の集起」における「このように」という言葉は、「このように実に、比丘たちよ、危険を伴う愚者は」などのように様態の意味であるから、「このようにとは、このように」と言われた。
Avijjāsamudayāti avijjāya uppādā, atthibhāvāti attho. Nirodhanirodhī hi uppādo atthibhāvavācakopi hoti, tasmā purimabhavasiddhāya avijjāya sati imasmiṃ bhave rūpasamudayo, rūpassa uppādo hotīti attho. **‘‘Taṇhāsamudayā’’**tiādīsupi eseva nayo. Āhārasamudayāti ettha pana pavattipaccayesu kabaḷīkārāhārassa balavatāya so eva gahito. Tasmiṃ pana gahite pavattipaccayatāsāmaññena utucittāni gahitāneva hontīti catusamuṭṭhānikarūpassa paccayato udayadassanaṃ vibhāvitamevāti daṭṭhabbaṃ. **‘‘Nibbattilakkhaṇa’’**ntiādinā kālavasena udayadassanamāha. Tattha nibbattilakkhaṇanti rūpassa uppādasaṅkhātaṃ saṅkhatalakkhaṇaṃ. Passantopīti na kevalaṃ paccayasamudayameva, atha kho khaṇato udayaṃ passantopi. Addhāvasena hi paṭhamaṃ udayaṃ passitvā ṭhito puna santativasena disvā anukkamena khaṇavasena passati. Avijjānirodhā rūpanirodhoti aggamaggena avijjāya anuppādanirodhato anāgatassa rūpassa anuppādanirodho hoti paccayābhāve abhāvato. Taṇhānirodhā kammanirodhoti etthāpi eseva nayo. Āhāranirodhāti pavattipaccayassa kabaḷīkārāhārassa abhāvena. Rūpanirodhoti taṃsamuṭṭhānarūpassa abhāvo hoti. Sesaṃ vuttanayameva. **‘‘Vipariṇāmalakkhaṇa’’**nti bhaṅgakālavasena hetaṃ vayadassanaṃ, tasmā taṃ addhāvasena paṭhamaṃ passitvā puna santativasena disvā anukkamena khaṇavasena passati. Ayañca nayo pākatikavipassakavasena vutto, bodhisattānaṃ panetaṃ natthi. Esa nayo udayadassanepi.
「無明の集起によって」とは、無明の生起によって、存在によってという意味である。滅の反対である生起は存在を意味することもある。それゆえに前世で成立した無明があるとき、この生存において色の集起、色の生起があるという意味である。「愛の集起によって」などにおいても同様の道理である。「食の集起によって」において、維持の縁の中では段食が強力であるため、それだけが捉えられた。しかしそれが捉えられたとき、維持の縁という共通性によって時節と心も捉えられたことになり、四種の生起原因を持つ色の縁による生起の観察が明らかにされたと見なされるべきである。「生起の特徴」などによって、時による生起の観察を述べている。そこにおいて「生起の特徴」とは、色の生起と呼ばれる有為の特徴のことである。「見る者であっても」とは、単に縁の集起を見るだけでなく、瞬間からの生起を見る者であっても、ということである。期間の観点からまず生起を見ていた者は、さらに連続の観点から見て、次第に瞬間の観点から見るのである。「無明の滅によって色の滅」とは、最上の道によって無明が生じないことによる滅から、未来の色の不生の滅がある。原因がないときには結果がないからである。「愛の滅によって業の滅」という点でも同様の道理である。「食の滅によって」とは、維持の縁である段食がないことによって。「色の滅」とは、それを生起原因とする色がないことである。残りは述べられた通りの道理である。「変異の特徴」とは、壊滅の時による滅の観察である。それゆえにそれをまず期間の観点から見て、さらに連続の観点から見て、次第に瞬間の観点から見るのである。そしてこの道理は通常の観相者に基づいて語られたものであり、菩薩たちにはこのような(段階的な)ものはない。この道理は生起の観察においても同様である。
**‘‘Iti vedanā’’**tiādīsupi heṭṭhā rūpe vuttanayānusārena attho veditabbo. Tenāha **‘‘ayaṃ vedanā, ettakā vedanā’’**tiādi. Tattha vedayita…pe… sabhāvanti ettha ‘‘vedayitasabhāvaṃ…pe… vijānanasabhāva’’nti paccekaṃ sabhāva- saddo yojetabbo. Vedayitasabhāvanti anubhavanasabhāvaṃ. Sañjānanasabhāvanti ‘‘nīlaṃ pīta’’ntiādinā ārammaṇassa sallakkhaṇasabhāvaṃ. Abhisaṅkharaṇasabhāvanti āyūhanasabhāvaṃ. Vijānanasabhāvanti ārammaṇassa upaladdhisabhāvaṃ. Sukhādīti ādi-saddena dukkhasomanassadomanassupekkhāvedanānaṃ saṅgaho rūpasaññādīti ādi-saddena saddasaññādīnaṃ, phassādīti ādi-saddena cetanā vitakkādīnaṃ cakkhuviññāṇādīnanti ādi-saddena sabbesaṃ lokiyaviññāṇānaṃ saṅgaho. Yathā ca viññāṇe, esa nayo vedanādīsupi. Tesanti ‘‘samudayo’’ti vuttadhammānaṃ. Tīsu khandhesūti vedanāsaññāsaṅkhārakkhandhesu. ‘‘Phuṭṭho vedeti, phuṭṭho sañjānāti, phuṭṭho cetetī’’ti (saṃ. ni. 4.93) vacanato ‘‘phassasamudayā’’ti vattabbaṃ. ‘‘Nāmarūpapaccayāpi viññāṇa’’nti (vibha. 246; dī. ni. 2.97) vacanato **viññāṇakkhandhe ‘‘nāmarūpasamudayā’’**ti vattabbaṃ. Tesaṃ yevāti tīsu khandhesu ‘‘phassassa viññāṇakkhandhe nāmarūpassā’’ti phassanāmarūpānaṃyeva vasena atthaṅgamapadampi yojetabbaṃ, avijjādayo pana rūpe vuttasadisā evāti adhippāyo.
「このように受は」などにおいても、下で色について述べられた道理に従って意味が理解されるべきである。それゆえに「これが受であり、これだけの受であり」などと言われた。そこにおいて「感受…中略…の本質」において、「感受する本質…中略…了別する本質」とそれぞれに「本質」という語を結びつけるべきである。「感受する本質」とは、経験する本質のこと。「想念する本質」とは、「青、黄」などと対象を識別する本質のこと。「形成する本質」とは、集積する本質のこと。「了別する本質」とは、対象を把握する本質のこと。「楽など」の「など」という言葉によって、苦、喜、憂、捨の受が含まれ、「色想など」の「など」という言葉によって、声想などが含まれ、「触など」の「など」という言葉によって、思、尋などが含まれ、「眼識など」の「など」という言葉によって、すべての世間の識が含まれる。そして識においてそうであるように、この道理は受などにおいても同様である。「それらの」とは、「集起」と述べられた法のことである。「三蘊において」とは、受・想・行の三蘊においてである。「触れられて感受し、触れられて想念し、触れられて思慮する」という言葉から、「触の集起によって」と言われるべきである。「名色を縁として識もある」という言葉から、識蘊においては「名色の集起によって」と言われるべきである。「それらのまさに」とは、三蘊においては「触の、識蘊においては名色の」と触と名色にまさに即して滅の句も結びつけられるべきであり、無明などは色において述べられたのと同様である、という意図である。
Samapaññāsalakkhaṇavasenāti paccayato vīsati khaṇato pañcāti pañcavīsatiyā udayalakkhaṇānaṃ, paccayato vīsati khaṇato pañcāti pañcavīsatiyā eva vayalakkhaṇānaṃ cāti samapaññāsāya udayavayalakkhaṇānaṃ vasena. Tattha pañcannaṃ khandhānaṃ udayo lakkhīyati etehīti lakkhaṇānīti vuccanti avijjādisamudayoti, tathā tesaṃ anuppādanirodho lakkhīyati etehīti lakkhaṇānīti vuccanti avijjādīnaṃ accantanirodho. Nibbattivipariṇāmalakkhaṇāni pana saṅkhatalakkhaṇamevāti. Evaṃ etāni samapaññāsalakkhaṇāni sarūpato veditabbāni. Yathānukkamena vaḍḍhiteti yathāvuttaudayabbayañāṇe tikkhe sūre pasanne hutvā vahante tato paraṃ vattabbānaṃ bhaṅgañāṇādīnaṃ uppattipaṭipāṭiyā buddhippatte paramukkaṃsagate vipassanāñāṇe. Pageva hi chattiṃsakoṭisatasahassamukhena pavattena sabbaññutaññāṇānucchavikena mahāvajirañāṇasaṅkhātena sammasanañāṇena sambhatānubhāvaṃ gabbhaṃ gaṇhantaṃ paripākaṃ gacchantaṃ paṭipadāvisuddhiñāṇaṃ aparimitakāle sambhatāya paññāpāramiyā ānubhāvena ukkaṃsapāramippattaṃ anukkamena vuṭṭhānagāminibhāvaṃ upagantvā yadā ariyamaggena ghaṭeti, tadā ariyamaggacittaṃ sabbakilesehi maggapaṭipāṭiyā vimuccati, vimuccantañca tathā vimuccati, yathā sabbañeyyāvaraṇappahānaṃ hoti. Yaṃ kilesānaṃ ‘‘savāsanappahāna’’nti vuccati, tayidaṃ pahānaṃ atthato anuppattinirodhoti āha **‘‘anuppādanirodhenā’’**ti. Āsavasaṅkhātehi kilesehīti bhavato ābhavaggaṃ, dhammato āgotrabhuṃ savanato pavattanato āsavasaññitehi rāgo, diṭṭhi, mohoti imehi kilesehi. Lakkhaṇavacanañcetaṃ, pāḷiyaṃ yadidaṃ ‘‘āsavehī’’ti, tadekaṭṭhatāya pana sabbehipi kilesehi sabbehipi pāpadhammehi cittaṃ vimuccati. Aggahetvāti tesaṃ kilesānaṃ lesamattampi aggahetvā.
「五十相によって」とは、縁から二十、瞬間から五という二十五の生起の相、縁から二十、瞬間から五という二十五の滅の相という、五十の生滅の相によることである。そこにおいて五蘊の生起がこれらによって特徴づけられるから「相」と言われ、無明などの集起であり、同様にそれらの不生の滅がこれらによって特徴づけられるから「相」と言われ、無明などの究極の滅である。一方、生起と変異の相は、まさに有為の特徴である。このようにこれら五十相が本質として理解されるべきである。「順序に従って増大したとき」とは、前述の生滅の智慧が鋭く、勇壮で、清らかに働いて、それ以後に語られるべき壊滅の智慧などの生起の順序によって成長し、最高の高みに達した観相の智慧においてである。実にそれ以前に三十六兆の門によって働き、一切知智にふさわしい金剛の智慧と呼ばれる思惟の智慧によって蓄積された威力を宿し、成熟へと向かう行道智見清浄が、無量の方便の時に蓄積された智慧波羅蜜の威力によって究極の頂点に達し、次第に出起に至る状態となって聖道と結合するとき、そのとき聖道の心はすべての煩悩から道の順序に従って解脱し、解脱するにあたって、あらゆる知るべきことへの覆いが断たれるように解脱する。煩悩の「習気とともに断ずること」と言われるこの断滅は、意味としては不生の滅であるから、「不生の滅によって」と言われた。「漏と呼ばれる煩悩から」とは、生存から有頂まで、法から種姓に至るまで漏出する・流出することから「漏」と名づけられた貪、見、癡というこれら煩悩からである。これは特徴の言葉であり、経典において「漏から」とあるのは、それと同義であることによって、すべての煩悩から、すべての悪法から心が解脱するのである。「執着することなく」とは、それらの煩悩を微塵も捉えることなく。
Maggakkhaṇe vimuccati nāma taṃtaṃmaggavajjhakilesehi phalakkhaṇe vimuttaṃ nāma. Maggakkhaṇe vā vimuttañceva vimuccati cāti uparimaggakkhaṇe heṭṭhimamaggavajjhehi vimuttañceva yathāsakaṃ pahātabbehi vimuccati ca. Phalakkhaṇe vimuttamevāti sabbasmimpi phalakkhaṇe vimuttameva, na vimuccati nāma.
道の瞬間には、それぞれの道によって断たれるべき煩悩から解脱しつつあると言われ、果の瞬間には解脱したと言われる。あるいは道の瞬間には、解脱し、かつ解脱しつつある。すなわち上位の道の瞬間には下位の道によって断たれるべきものから解脱しており、かつ自らによって断たれるべきものから解脱しつつある。果の瞬間にはまさに解脱しているのであり、すべての果の瞬間においてまさに解脱しているのであって、解脱しつつあるとは言われない。
Sabbabandhanāti orambhāgiyuddhambhāgiyasaṅgahitā sabbasmāpi bhavasaññojanā, vippamutto visesato pakārehi mutto. Suvikasitacittasantānoti sātisayaṃ ñāṇarasmisamphassena suṭṭhu sammadeva samphullacittasantāno. **‘‘Cattāri maggañāṇānī’’**tiādi yehi ñāṇehi suvikasitacittasantāno, tesaṃ ekadesena dassanaṃ. Nippadesato dassanaṃ pana parato āgamissati, tasmā tattheva tāni vibhajissāma. Sakale ca buddhaguṇeti atītaṃse appaṭihatañāṇādike sabbepi buddhaguṇe. Yadā hi lokanātho aggamaggaṃ adhigacchati, tadā sabbe guṇe hatthagate karoti nāma. Tato paraṃ ‘‘hatthagate katvā ṭhito’’ti vuccati.
「すべての束縛から」とは、下分結と上分結に含まれるすべての生存の結び目から、完全に解脱した、特別な様態で脱したということ。「十分に開花した心の連続」とは、優れた智慧の光の接触によって非常によく正しく開花した心の連続である。「四つの道智」などは、それによって十分に開花した心の連続となる智慧の一部の例示である。限定のない完全な提示はのちに現れるため、そこでそれらを分析する。「すべての仏の功徳を」とは、過去世における無碍智をはじめとするすべての仏の功徳を。実に世間を導く主が最上の道を体得したとき、そのときすべての功徳を手中に収めたと言われる。そののち「手中に収めて留まった」と言われる。
‘‘Paripuṇṇasaṅkappo’’ti vatvā paripuṇṇasaṅkappatāparidīpanaṃ udānaṃ dassetuṃ ‘‘anekajātisaṃsāra’’ntiādi vuttaṃ. Tattha ādito dvinnaṃ gāthānamattho heṭṭhā brahmajālanidānavaṇṇanāyaṃ (dī. ni. ṭī. 1.paṭhamamahāsaṅgītikathāvaṇṇanā) vutto eva. Parato pana ayoghanahatassāti ayo haññati etenāti ayoghanaṃ, kammārānaṃ ayokūṭaṃ, ayomuṭṭhi ca, tena ayoghanena hatassa pahatassa. Eva-saddo cettha nipātamattaṃ. Jalato jātavedasoti jalayamānassa aggissa, anādare vā etaṃ sāmivacanaṃ. Anupubbūpasantassāti anukkamena upasantassa vikkhambhantassa niruddhassa. Yathā na ñāyate gatīti yathā tassa gati na ñāyati. Idaṃ vuttaṃ hoti – ayomuṭṭhikūṭādinā pahatattā ayoghanena hatassa pahatassa ayogatassa, kaṃsabhājanādigatassa vā jalamānassa aggissa anukkamena upasantassa dasasu disāsu na katthaci gati paññāyati paccayanirodhena appaṭisandhikaniruddhattāti. Evaṃ sammāvimuttānanti sammā hetunā ñāyena tadaṅgavikkhambhanavimuttipubbaṅgamāya samucchedavimuttiyā ariyamaggena catūhipi upādānehi, āsavehi ca muttattā sammā vimuttānaṃ, tato eva kāmabandhanasaṅkhātaṃ kāmoghabhavoghādibhedaṃ avasiṭṭhaoghañca taritvā ṭhitattā kāmabandhoghatārīnaṃ suṭṭhu paṭipassambhitasabbakilesavipphanditattā kilesābhisaṅkhāravātehi akampanīyatāya acalaṃ nibbānasaṅkhātaṃ saṅkhārūpasamaṃ sukhaṃ pattānaṃ adhigatānaṃ khīṇāsavānaṃ gati devamanussādibhedāsu gatīsu ‘‘ayaṃ nāmā’’ti paññāpetabbatāya abhāvato paññāpetuṃ natthi na upalabbhati, yathāvuttajātavedo viya apaññattikabhāvameva te gacchantīti attho. Evaṃ manasi karontoti ‘‘evaṃ anekajātisaṃsāra’’ntiādinā (dha. pa. 153) attano katakiccattaṃ manasi karonto bodhipallaṅke nisinnova virocitthāti yojanā.
「願いを満たした」と言って、願いが満たされたことを明らかにする感興の言葉を示すために、「多くの生涯の輪廻を」などと言われた。その中で初めの二つの詩節の意味は、下で『梵網経』の序論の註釈においてすでに語られている。その先において「鉄鎚で打たれた者の」とは、これによって鉄が打たれるから鉄鎚であり、鍛冶屋の鉄の金槌、鉄の握り槌のことであり、その鉄鎚によって打たれた、打ち叩かれた者のこと。「まさに」という言葉はここでは単なる不変化詞である。「燃え盛る火の」とは、燃え上がっている火のことであり、あるいはこれは無関心における属格である。「順次に静まった者の」とは、次第に静まり、鎮まり、滅した者のこと。「その行方が知られないように」とは、その行方が知られないように、ということである。語られたことはこういうことである――鉄の握り槌などで打たれたことによって、鉄鎚で打たれ叩かれて鉄に入り、あるいは青銅の器などに入って燃え盛っていた火が次第に静まったとき、十方のどこにもその行方は知られない。縁の滅によって再生なく滅したからである。「このように正しく解脱した者たちの」とは、正しく原因によって、道理によって、部分的な遠離による解脱を先駆けとする断滅による解脱によって、聖道によって四つの執着からも漏からも解脱したため「正しく解脱した者たち」であり、それゆえに欲の束縛と呼ばれる欲の激流や有の激流などの残りの激流をも渡り終えて留まっているため「欲の束縛の激流を渡った者たち」であり、すべての煩悩の動揺が完全におさまり、煩悩と行の風によって動かされないため不動であり、涅槃と呼ばれる諸行の静寂である安楽に到達した、体得した漏尽者たちの行方は、天や人などの区別の行先において「これである」と示されるべきものがないため、示すことができず、見出されない。前述の火のように、彼らは概念を超えた状態へとまさに赴く、という意味である。「このように作意しつつ」とは、「このように多くの生涯の輪廻を」などによって自らがなすべきことをなし終えたことを作意しつつ、菩提の座に坐したまま輝かれた、と結びつけられる。
Dutiyabhāṇavāravaṇṇanā niṭṭhitā.
第二誦品の註釈が完了した。
Brahmayācanakathāvaṇṇanā
梵天の勧請の解説
64. Yannūnāti parivitakkanatthe nipāto, ahanti bhagavā attānaṃ niddisatīti āha **‘‘yadi panāha’’**nti. **‘‘Aṭṭhame sattāhe’’**tiādi yathā amhākaṃ bhagavā abhisambuddho hutvā vimuttisukhapaṭisaṃvedanādivasena sattasu sattāhesu paṭipajji, tato parañca dhammagambhīratāpaccavekkhaṇādivasena, evameva sabbepi sammāsambuddhā abhisambuddhakāle paṭipajjiṃsu, te ca sattāhādayo tatheva vavatthapīyantīti ayaṃ sabbesampi buddhānaṃ dhammatā. Tasmā vipassī bhagavā abhisambuddhakāle tathā paṭipajjīti dassetuṃ āraddhaṃ. Tattha **‘‘aṭṭhame sattāhe’’**ti idaṃ sattamasattāhato paraṃ, sattāhato orime ca pavattāya paṭipattiyā vasena vuttaṃ, na pallaṅkasattāhassa viya aṭṭhamassa nāma sattāhassa vavatthitassa labbhamānattā. Anantaroti ‘‘adhigato kho myāyaṃ dhammo’’tiādiko vitakko (dī. ni. 2.67; ma. ni. 1.281; 2.337; saṃ. ni. 1.172; mahāva. 7, 8).
64. 「いざ」とは、思索の意味における不変化詞である。「私」とは、世尊が自らを指し示しているから、「もし私自身が」と言われた。「第八の週に」などは、私たちの世尊が正等覚者となって解脱の楽を味わうことなどによって七週間のあいだ過ごし、その後に法の深遠さを省察することなどによって過ごされたように、すべての正等覚者たちも正等覚の時にそのように過ごされ、それらの週などもその通りに定められているのであり、これはすべての仏たちの自然の法規である。それゆえ毘婆尸(ヴィパッシー)世尊も正等覚の時にそのように過ごされたことを示すために開始された。そこにおいて「第八の週に」とは、第七週ののち、一週間の手前に展開した行いに基づいて言われたのであり、結跏趺坐の週のように第八という名の週が確立して得られるからではない。「直後に」とは、「私が体得したこの法は」などの思索のことである。
Paṭividdhoti sayambhuñāṇena ‘‘idaṃ dukkha’’ntiādinā paṭimukhaṃ paṭivijjhanavasena pavatto, yathābhūtaṃ avabuddhoti attho. Dhammoti catusaccadhammo tabbinimuttassa paṭivijjhitabbadhammassa abhāvato. Gambhīroti mahāsamuddo viya makasatuṇḍasūciyā aññatra samupacitaparipakkañāṇasambhārehi aññesaṃ ñāṇena alabbhaneyyappatiṭṭho. Tenāha **‘‘uttānabhāvapaṭikkhepavacanameta’’**nti. Alabbhaneyyappatiṭṭho ogāhituṃ asakkuṇeyyatāya sarūpato visesato ca passituṃ na sakkāti āha **‘‘gambhīrattāva duddaso’’**ti. Dukkhena daṭṭhabboti kicchena kenaci kadācideva daṭṭhabbo. Yaṃ pana daṭṭhumeva na sakkā, tassa ogāhetvā anu anu bujjhane kathā eva natthīti āha **‘‘duddasattāva duranubodho’’**ti. Dukkhena avabujjhitabbo avabodhassa dukkarabhāvato. Imasmiṃ ṭhāne ‘‘taṃ kiṃ maññatha bhikkhave dukkarataraṃ vā durabhisambhavataraṃ vā’’ti (saṃ. ni. 5.1115) suttapadaṃ vattabbaṃ. Santārammaṇatāya vā santo. Nibbutasabbapariḷāhatāya nibbuto. Padhānabhāvaṃ nītoti vā paṇīto. Atittikaraṭṭhena atappako sādurasabhojanaṃ viya. Ettha ca nirodhasaccaṃ santaṃ ārammaṇanti santārammaṇaṃ, maggasaccaṃ santaṃ, santārammaṇañcāti santārammaṇaṃ anupasantasabhāvānaṃ kilesānaṃ, saṅkhārānañca abhāvato santo nibbutasabbapariḷāhattā nibbuto, santapaṇītabhāveneva tadatthāya asecanakatāya atappakatā daṭṭhabbā. Tenāha **‘‘idaṃ dvayaṃ lokuttarameva sandhāya vutta’’**nti. Uttamañāṇassa visayattā na takkena avacaritabbo, tato eva nipuṇañāṇagocaratāya, saṇhasukhumasabhāvattā ca nipuṇo. Bālānaṃ avisayattā paṇḍitehi eva veditabboti paṇḍitavedanīyo. Ālīyanti abhiramitabbaṭṭhena sevīyantīti ālayā, pañca kāmaguṇā. Ālayanti abhiramaṇavasena sevantīti ālayā, taṇhāvicaritāni. Ālayaratāti ālayaniratā. Suṭṭhu muditā ativiya muditā anukkaṇṭhanato. Ramatīti ratiṃ vindati kīḷati laḷati. Ime sattā yathā kāmaguṇe, evaṃ rāgampi assādenti abhinandanti yevāti vuttaṃ **‘‘duvidhampī’’**tiādi.
「通達された」とは、自覚の智慧によって「これは苦である」などと真正面から通達することによって生じた、事実通りに覚知されたという意味である。「法」とは、四聖諦の法のことである。それを除いて通達されるべき法は存在しないからである。「深遠である」とは、大海のように、蚊の口の針では(測れないように)、積み重ねられ成熟した智慧の資糧を持つ者たち以外の他の人々の智慧では足場を得られないこと。それゆえに「これは平易である状態を否定する言葉である」と言われた。足場を得られず、沈潜することができないため、その本質や特殊性を捉えることができないことから「深遠であるから見難い」と言われた。「見難い」とは、苦労して誰かによっていつか見られるべきものであること。しかし見ることすらできないものを、沈潜して順次に理解することなど論外であるから、「見難いから覚り難い」と言われた。「覚り難い」とは、覚知することが困難であることによる。この箇所において「比丘たちよ、それをどう思うか。どちらがより難しく、より成就し難いか」という経の句が語られるべきである。また「穏やかな対象を持つがゆえに穏やかである」。すべての熱悶が鎮まっているがゆえに「鎮まっている」。「優れた状態に達した」ゆえに「勝妙である」。満ち足りることがないという意味において、美味な食事のように飽きさせない。そしてここでは滅諦が穏やかな対象であるから「穏やかな対象」であり、道諦は穏やかであり穏やかな対象でもあるから「穏やかな対象」であり、静まらない性質の煩悩と諸行が存在しないことから「穏やか」であり、すべての熱悶が鎮まっているから「鎮まっている」のであり、穏やかで勝妙であることによって、その目的のために混じりけのないものであることから飽きさせない状態であると見なされるべきである。それゆえに「この二つは出世間のみを指して言われた」と言われた。最上の智慧の領域であるため論理的思考によって踏み入ることはできず、それゆえに精妙な智慧の対象であり、微細で精妙な本質を持つことから「精妙」である。愚者たちの領域ではないため賢者たちによってのみ知られるべきであるから「賢者によって知られるべきもの」である。「愛着する」とは、楽しむべきものとして親しまれるから「愛着」であり、五つの欲望の対象のことである。「愛着する」とは、楽しむことによって親しむから「愛着」であり、渇愛の動きのことである。「愛着を喜ぶ」とは、愛着に没頭すること。「大いに喜ぶ」とは、倦むことがないため非常に歓喜すること。「楽しむ」とは、喜びを見出し、戯れ、楽しむこと。これらの衆生は欲望の対象におけるように、貪りをも快いものとし、歓喜するのであるから、「二種ともに」などと言われた。
Ṭhānaṃ sandhāyāti ṭhāna-saddaṃ sandhāya. Atthato pana **‘‘ṭhāna’’**nti ca paṭiccasamuppādo eva adhippeto. Tiṭṭhati ettha phalaṃ tadāyattavuttitāyāti ṭhānaṃ, saṅkhārādīnaṃ paccayabhūtā avijjādayo. Imesaṃ saṅkhārādīnaṃ paccayāti idappaccayā, avijjādayova. Idappaccayā eva idappaccayatā yathā devo eva devatā, idappaccayānaṃ vā avijjādīnaṃ attano phalaṃ paṭicca paccayabhāvo uppādanasamatthatā idappaccayatā, tena paramatthapaccayalakkhaṇo paṭiccasamuppādo dassito hoti. Paṭicca samuppajjati phalaṃ etasmāti paṭiccasamuppādo. Padadvayenāpi dhammānaṃ paccayaṭṭho eva vibhāvito. Tenāha **‘‘saṅkhārādipaccayānaṃ avijjādīnametaṃ adhivacana’’**nti. Ayamettha saṅkhepo, vitthāro pana visuddhimaggasaṃvaṇṇanāsu (visuddhi. 2.570) vuttanayena veditabbo.
「場所を指して」とは、「場所」という語を指して。意味としては「場所」とはまさに縁起のことと意図されている。「結果がそれに依存して働くことによって、ここに留まる」から場所であり、諸行などの縁となった無明などのことである。「これら諸行などの縁」であるから「これに縁するもの」であり、無明などにほかならない。「これに縁するもの」それ自体が「これに縁する性」であり、神が神格であるようなものである。あるいは「これに縁するもの」である無明などが自らの結果に対して縁である状態、生じさせる能力が「これに縁する性」であり、それによって勝義の縁の特徴を持つ縁起が示されたことになる。「これを縁として結果が生起する」から縁起である。両方の句によって諸法の縁の意味のみが明らかにされている。それゆえに「行などの縁である無明などの同義語である」と言われた。ここでの要約はこれであり、詳細については『清浄道論』の諸註釈において述べられた道理によって理解されるべきである。
Sabbasaṅkhārasamathotiādi sabbanti sabbasaṅkhārasamathādipadābhidheyyaṃ sabbaṃ, atthato nibbānameva. Idāni tassa nibbānabhāvaṃ dassetuṃ **‘‘yasmā hī’’**tiādi vuttaṃ. Tanti nibbānaṃ. Āgammāti paṭicca ariyamaggassa ārammaṇapaccayahetu. Sammantīti appaṭisandhikūpasamavasena sammanti. Tathā santā ca savisesaṃ upasantā nāma hontīti āha **‘‘vūpasammantī’’**ti, etena sabbe saṅkhārā sammanti etthāti sabbasaṅkhārasamatho, nibbānanti dasseti. Sabbasaṅkhāravisaṃyutte hi nibbāne sabbasaṅkhāravūpasamapariyāyo ñāyāgato yevāti. Sesepadesupi eseva nayo. Upadhīyati ettha dukkhanti upadhi, khandhādayo. Paṭinissaṭṭhāti samucchedavasena pariccattā honti. Sabbā taṇhāti aṭṭhasatappabhedā sabbāpi taṇhā. Sabbe kilesarāgāti kāmarāgarūparāgādibhedā sabbepi kilesabhūtā rāgā, sabbepi vā kilesā idha kilesarāgāti veditabbā, na lobhavisesā eva cittassa viparītabhāvāpādanato. Yathāha ‘‘rattampi cittaṃ vipariṇataṃ, duṭṭhampi cittaṃ vipariṇataṃ, mūḷhampi cittaṃ vipariṇata’’nti (pārā. 271) virajjantīti attano sabhāvaṃ vijahanti. Sabbaṃ dukkhanti jarāmaraṇādibhedaṃ sabbaṃ vaṭṭadukkhaṃ. Bhavena bhavanti tena tena bhavena bhavantaraṃ. Bhavanikantibhāvena saṃsibbati, phalena vā saddhiṃ kammaṃ sataṇhasseva āyatiṃ punabbhavabhāvato. Tato vānato nikkhantaṃ tattha tassa sabbaso abhāvato. Ciranisajjācirabhāsanehi piṭṭhiāgilāyanatālugalasosādivasena kāyakilamatho ceva kāyavihesā ca veditabbā. Sā ca kho desanāya atthaṃ ajānantānaṃ, appaṭipajjantānañca vasena, jānantānaṃ, pana paṭipajjantānañca desanāya kāyaparissamopi satthu aparissamova. Tenāha bhagavā ‘‘na ca maṃ dhammādhikaraṇaṃ vihesesī’’ti (udā. 10). Tathā hi vuttaṃ **‘‘yā ajānantānaṃ desanā nāma, so mama kilamatho assā’’**ti. Ubhayanti cittakilamatho, cittavihesā cāti ubhayaṃ petaṃ buddhānaṃ natthi, bodhimūleyeva samucchinnattā.
「一切の諸行の寂止」などの「一切」とは、一切の諸行の寂止などの句によって名指される一切のことであり、その義においては涅槃に他ならない。いま、その涅槃の性質を示すために「それゆえ実に」等と説かれた。「それを」とは涅槃を指す。「依って」とは縁起し、聖道にとっての所縁縁の因となることである。「寂止する」とは、再生を伴わない寂静によって寂止することである。そのように寂静であり、殊勝に寂静となったものを「寂止する」というので、「ここにおいて一切の諸行が寂止するがゆえに、一切の諸行の寂止、すなわち涅槃である」と示す。一切の諸行から離れた涅槃において、一切の諸行の寂止という説き方は道理に適ったものであるからである。残りの諸句においてもこの手順によるべきである。ここに苦が置かれる(積集する)がゆえに執着の根源(依處、ウパディ)であり、蘊などである。「捨棄された」とは、断絶の力によって放棄されたことである。「一切の渇愛」とは、百八種に区分される一切の渇愛である。「一切の煩悩の貪り」とは、欲貪・色貪などの区別による一切の煩悩である貪りであり、あるいはここでは一切の煩悩が「煩悩の貪り」と知られるべきである。単なる貪の変異のみならず、心の反転した状態をもたらすからである。説かれているように、「貪った心も変異し、瞋った心も変異し、癡の心も変異する」(波羅夷271)とある。「離貪する」とは、自らの本性を捨てることである。「一切の苦」とは、老死などに区分される一切の輪廻の苦である。「有によって」とは、それらの有によって他の有となる。「有への愛着によって織りなされる」、あるいは業が果報とともに、渇愛ある者に対してのみ将来の再生をもたらすがゆえである。「その織糸(渴愛)から脱した」とは、そこにおいてそれ(渇愛)が完全に存在しないからである。長時間の着座や長時間の説法によって、背中の疲労や口蓋・喉の渇きなどを通じて、身体の疲弊と身体の悩乱が生じると知られるべきである。そしてそれは、説法の意味を知らず、実践しない者たちに対する説法によるものであり、知る者、実践する者たちに対する説法による身体の疲労は、師にとっては無疲労に等しい。それゆえに世尊は「法のために私を悩ますことはなかった」(自説経10)と説かれた。実にこのように説かれた。「知らぬ者たちへの説法こそが、私の疲労となるであろう」と。「両者」とは心の疲労と心の悩乱のことであり、これら両者は仏陀たちには存在しない。菩提樹の根元においてすでに根絶されているからである。
65. Anubrūhanaṃ sampiṇḍanaṃ. Soti ‘‘apissū’’ti nipāto. Vipassinti paṭi-saddayogena sāmiatthe upayogavacananti āha ‘‘vipassissā’’ti. Vuddhippattā acchariyā vā anacchariyā. Vuddhiatthopi hi akāro hoti yathā‘‘asekkhā dhammā’’ti (dha. sa. tikamātikāya 11). Kappānaṃ cattāri asaṅkhyeyyāni satasahassañca sadevakassa lokassa dhammasaṃvibhāgakaraṇatthameva pāramiyo pūretvā idāni samadhigatadhammarājassa tattha appossukkatāpattidīpanatā, gāthātthassa acchariyatā, tassa vuddhippatti cāti veditabbā. Atthadvārena hi gāthānaṃ anacchariyatā. Gocarā ahesunti upaṭṭhahiṃsu. Upaṭṭhānañca vitakketabbatāvāti āha **‘‘parivitakkayitabbataṃ pāpuṇiṃsū’’**ti.
65. 「増大」とは集めることである。「彼」とは「実にまた」という小辞である。「ヴィパッシーを」とは、対格の語と結合することで属格の意味を持つ対格表現であるとし、「ヴィパッシーの」と述べる。「増大に達した」とは驚くべきこと、または驚くべきことではないことである。否定辞の「a」は増大の意味にもなるからであり、例えば「無学の法」のようにである。四阿僧祇と十万劫の間、天人を含む世界のために法を分け与える目的で波羅蜜を満たし、いまや法王の位に達した世尊が、そこで説法に積極的でなくなった(無関心となった)ことの表明、偈文の意味の驚異、そしてその増大に達したことと知られるべきである。意味の門を通じれば偈文は驚くべきことではないからである。「対象となった」とは現起したことである。現起したとは思量すべきことになったことであるとし、「思量されるべき境地に至った」と述べた。
Yadi sukhāpaṭipadāva kathaṃ kicchatāti āha **‘‘pāramīpūraṇakāle’’**tiādi. Evamādīni duppariccajāni dentassa. Ha-iti vā byattanti etasmiṃ atthe nipāto, ‘‘ekaṃsatthe’’ti keci. Ha byattaṃ, ekaṃsena vā alaṃ nippayojanaṃ evaṃ kicchena adhigatassa dhammassa desetunti yojanā. Halanti ‘‘ala’’nti iminā samānatthaṃ padaṃ ‘‘halanti vadāmī’’tiādīsu (saṃ. ni. ṭī. 1.172) viya. Rāgadosaphuṭṭhehīti phuṭṭhavisena viya sappena rāgena, dosena ca samphuṭṭhehi abhibhūtehi. Rāgadosānugatehīti rāgadosehi anubandhehi.
もし実践が容易であるならば、なぜ困難であるというのか、これについて「波羅蜜を満たす時に」等と述べた。このように捨て難い諸々のものを与えつつ、ということである。「ha」とは明確さを示す意味の小辞であり、ある者たちは「確実の意味」という。「ha」は明白に、あるいは確実に、このように困難を極めて覚った法を説くことは「無益である(必要ない)」と結びつけられる。「ハラン(十分である)」とは、「アラン(止めるべし)」と同義の語であり、「ハランと言う」などの用法と同様である。「貪と瞋に触れた者たちによって」とは、毒を放つ蛇に触れたかのように、貪と瞋に侵され圧倒された者たちによって、という意味である。「貪と瞋に追随された者たちによって」とは、貪と瞋が付き従っていることである。
Niccādīnanti niccaggāhādīnaṃ. Evaṃ gatanti evaṃ pavattaṃ aniccādiākārena pavattaṃ. **‘‘Catusaccadhamma’’**nti idaṃ aniccādīsu, saccesu ca yathālābhavasena gahetabbaṃ. Evaṃ gatanti vā evaṃ ‘‘anicca’’ntiādinā abhinivisitvā mayā, aññehi ca sammāsambuddhehi gataṃ, ñātaṃ paṭividdhanti attho. Kāmarāgena, bhavarāgena ca rattā nīvaraṇehi nivutacittatāya, diṭṭhirāgena rattā viparītābhinivesena na dakkhanti yāthāvato imaṃ dhammaṃ nappaṭivijjhissanti. Evaṃ gāhāpetunti ‘‘anicca’’ntiādinā sabhāvena yāthāvato dhamme jānāpetuṃ. Rāgadosaparetatāpi nesaṃ sammūḷhabhāvenevāti āha **‘‘tamokhandhena āvuṭā’’**ti.
「常などの」とは、常という執着などのことである。「このように至った」とは、このように生起した、無常などの様相で生起したということである。「四聖諦の法」とは、この無常等において、また諸諦において得られた力に応じて把持されるべきである。あるいは「このように至った」とは、このように「無常」等と深く入って、私により、また他の正等覚者たちにより到達され、知られ、通達されたという意味である。欲貪と有貪に染まり蓋によって心を覆われたため、また見解の貪に染まり顛倒した執着によって、あるがままにこの法を見ることはなく、通達することもないであろう。「このように把握させるために」とは、「無常」等の本性によって法をあるがままに知らしめるためである。彼らが貪と瞋に満たされていることも、まったくの愚癡によるものであるとし、「暗黒の塊に覆われて」と述べた。
Dhammadesanāya appossukkatāpattiyā kāraṇaṃ vibhāvetuṃ **‘‘kasmā panā’’**tiādinā sayameva codanaṃ samuṭṭhāpeti. Tattha yathāyaṃ idāni dhammadesanāya appossukkatāpatti sabbabuddhānaṃ āciṇṇasamāciṇṇadhammatāvasena, sabbabodhisattānaṃ ādito ‘‘kiṃ me aññātavesenā’’tiādinā (bu. vaṃ. 2.99) mahābhinīhāre attano cittassa samussāhanaṃ āciṇṇasamāciṇṇadhammatā vāti āha **‘‘kiṃ me’’**tiādi. Tattha aññātavesenāti sadevakaṃ lokaṃ unnādento buddho ahutvā kevalaṃ buddhānaṃ sāvakabhāvūpagamanavasena aññātarūpena. Tividhaṃ kāraṇaṃ appossukkatāpattiyā paṭipakkhassa balavabhāvo, dhammassa paramagambhīratā, tattha ca bhagavato sātisayaṃ gāravanti taṃ dassetuṃ **‘‘tassa hī’’**tiādi āraddhaṃ. Tattha paṭipakkhā nāma rāgādayo kilesā sammāpaṭipattiyā antarāyakarattā. Tesaṃ balavabhāvato ciraparibhāvanāya sattasantānato dubbisodhiyatāya te satte mattahatthino viya dubbalaṃ purisaṃ ajjhottharitvā anayabyasanaṃ āpādentā anekasatayojanāyāmavitthāraṃ sunicitaṃ ghanasannivesaṃ kaṇṭakaduggampi adhisenti. Dūrappabheda ducchejjatāhi dubbisodhiyataṃ pana dassetuṃ **‘‘athassā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha ca anto āmaṭṭhatāya kañjikapuṇṇalābu ciraparivāsikatāya takkabharitacāṭi snehatintadubbalabhāvena vasātelapītapilotikā; telamissitatāya añjanamakkhitahatthā dubbisodhanīyā vuttā. Hīnūpamā cetā rūpappabandhabhāvato, acirakālikattā ca malīnatāya, kilesasaṃkileso eva pana dubbisodhanīyataro anādikālikattā, anusayitattā ca. Tenāha **‘‘atisaṃkiliṭṭhā’’**ti. Yathā ca dubbisodhanīyatāya evaṃ gambhīraduddasaduranubodhānampi vuttaupamā hīnūpamāva.
法を説くことに無関心となった理由を明らかにするために、「それではなぜ」等と自ら疑義を起こす。そこで、このたびの法を説くことへの無関心の発生は、すべての仏陀に習わしとなった法規の力によるものか、あるいはすべての菩薩が初めから「名もなき姿で何になろうか」等と大願において自らの心を鼓舞したことが習わしとなった法規によるものか、として「何が私に」等と述べる。その中の「名もなき姿で」とは、天人を含む世界を歓喜させる仏陀とはならず、単に仏陀の弟子となることを通じて名もなき姿で、ということである。無関心の発生の三種の理由は、敵対するものの強力さ、法の至極の深遠さ、そしてそれに対する世尊の過分なる尊重であり、それを示すために「実にその」等と説き始めた。そこでの敵対するものとは貪等の煩悩であり、正しい実践の妨げとなるからである。それらの強力さゆえに、長い間の薫習によって衆生の相続から浄化し難いことから、それらは狂った象が弱き人を踏みにじるかのように衆生を圧倒して災厄と破滅に至らしめ、数百由旬の広さを持つ密生した荊棘の険しい要塞の如き状態にある。遠く離れた分別や断ち難さによって浄化の困難さを示すために「そこで彼に」等と説かれた。そこにおいて内部が汚れていることから酢の入った瓢箪、長い間放置されたことから酸乳で満ちた壺、脂肪油で濡れて弱まったことから獣脂油を吸ったボロ布、油が混ざったことから墨が塗られた手などは浄化し難いと説かれた。これらは物質の連続であり、汚れが最近のものであることから低劣な譬えであるが、煩悩の汚れは無始の時からのものであり、随眠しているがゆえに、より浄化し難い。それゆえに「甚だしく汚れた」と述べた。浄化の困難さの譬えと同様に、深遠で、見難く、悟り難いことについての説示もまた低劣な譬えにすぎない。
Gambhīropi dhammo paṭipakkhavidhamanena supākaṭo bhaveyya, paṭipakkhavidhamanaṃ pana sammāpaṭipattipaṭibaddhaṃ, sā saddhammasavanādhīnā, taṃ satthari, dhamme ca pasādāyattaṃ. So visesato loke sambhāvanīyassa garukātabbassa abhipatthanāhetukoti panāḷikāya sattānaṃ dhammasampaṭipattiyā brahmayācanādinimittanti taṃ dassento **‘‘apicā’’**tiādimāha.
深遠な法であっても、敵対するものを撃退することによって極めて明白となるであろう。しかし、敵対するものの撃退は正しい実践に依存し、それは正しい教えを聞くことに従属し、それは師と法への清らかな信順にかかっている。それは殊に世において尊敬され重んじられるべき者の懇請を原因とするので、道筋において衆生の法の受容のための梵天の懇請などを動機とすることを示し、「さらにまた」等と述べた。
66. ‘‘Aññataro’’ti appaññāto viya kiñcāpi vuttaṃ, atha kho pākaṭo paññātoti dassetuṃ **‘‘imasmiṃ cakkavāḷe jeṭṭhakamahābrahmā’’**ti vuttaṃ. Mahābrahmabhavane jeṭṭhakamahābrahmā. So hi sakko viya kāmadevaloke, brahmaloke ca pākaṭo paññāto. Upakkilesabhūtaṃ appaṃ rāgādirajaṃ etassāti apparajaṃ, apparajaṃ akkhi paññācakkhu yesaṃ te taṃsabhāvāti katvā apparajakkhajātikāti imamatthaṃ dassetuṃ **‘‘paññāmaye’’**tiādimāha. Appaṃ rāgādirajaṃ yesaṃ te taṃsabhāvā apparajakkhajātikāti evamettha attho veditabbo. Assavanatāti ‘‘sayaṃ abhiññā’’tiādīsu (dī. ni. 1.28, 405; ma. ni. 1.154, 444) viya karaṇe paccattavacananti āha **‘‘assavanatāyā’’**ti. Dasapuññakiriyavatthuvasenāti dānādidasavidhavimuttiparipācanīyapuññakiriyavatthūnaṃ vasena. Tenāha **‘‘katādhikārā’’**tiādi. Papañcasūdaniyaṃ pana ‘‘dvādasapuññakiriyavasenā’’ti (ma. ni. aṭṭha. 2.282) vuttaṃ, taṃ dānādīsu saraṇagamanaparahitapariṇāmanadvaya pakkhipanavasena vuttaṃ.
66. 「ある一人の」と知られていないかのように言われたが、実に明白に知られた者であることを示すために「この世界における長たる大梵天」と述べた。大梵天の住処における長たる大梵天である。彼は帝釈天が欲界の天においてそうであるように、梵天界において明白に知られた者である。随煩悩であるわずかな貪等の塵を持つ者が「塵の少なき者」であり、わずかな塵の目、すなわち智慧の眼を持つ者たちがその性質を持つがゆえに「塵の少なき性質の者」であり、この意味を示すために「智慧からなる」等と述べた。わずかな貪等の塵を持つ者たち、彼らがその性質を持つがゆえに塵の少なき性質の者たちであると、このようにここで意味が知られるべきである。「聞かないことによって」とは、「自ら超人的知解によって」などにおいて具格が主格として用いられるように具格の表現であるとし、「聞かないことによって」と述べた。「十の功徳をなす基盤の力により」とは、布施などの十種の解脱を成熟させる作福処の力による。それゆえに「善行を積んだ」等と述べた。しかし『破斥戯論(パパンチャ・スーダニー)』においては「十二の作福処の力により」と説かれており、それは布施等の中に帰依と利他への回向の二つを組み入れたことによるものである。
69. Garuṭṭhāniyesu gāravavasena garukarapatthanā ajjhesanā, sāpi atthato patthanā evāti vuttaṃ **‘‘yācana’’**nti. Padesavisayañāṇadassanaṃ hutvā buddhānaṃyeva āveṇikabhāvato idaṃ ñāṇadvayaṃ ‘‘buddhacakkhū’’ti vuccatīti āha **‘‘imesañhi dvinnaṃ ñāṇānaṃ buddhacakkhūti nāma’’**nti. Tiṇṇaṃ maggañāṇānanti heṭṭhimānaṃ tiṇṇaṃ maggañāṇānaṃ **‘‘dhammacakkhū’’**ti nāmaṃ, catusaccadhammadassananti katvā dassanamattabhāvato. Yato tāni ñāṇāni vijjūpamābhāvena vuttāni, aggamaggañāṇaṃ pana ñāṇakiccassa sikhāppattiyā dassanamattaṃ na hotīti ‘‘dhammacakkhū’’ti na vuccatīti. Yato taṃ vajirūpamābhāvena vuttaṃ. Vuttanayenevāti ‘‘apparajakkhajātikā’’ti ettha vuttanayeneva. Yasmā mandakilesā **‘‘apparajakkhā’’**ti vuttā, tasmā bahalakilesā **‘‘mahārajakkhā’’**ti veditabbā. Paṭipakkhavidhamanasamatthatāya tikkhāni sūrāni visadāni, vuttavipariyāyena mudūni. Saddhādayo ākārāti saddahanādippakāre vadati. Sundarāti kalyāṇā. Sammohavinodaniyaṃ pana ‘‘yesaṃ āsayādayo koṭṭhāsā sundarā, te svākārā’’ti (vibha. aṭṭha. 814) vuttaṃ, taṃ imāya atthavaṇṇanāya aññadatthu saṃsandati sametīti daṭṭhabbaṃ. Yato saddhāsampadādivasena ajjhāsayassa sundaratāti, tabbipariyāyato asundaratāti. Kāraṇaṃ nāma paccayākāro, saccāni vā. Paralokanti samparāyaṃ. Taṃ dukkhāvahaṃ vajjaṃ viya bhayato passitabbanti vuttaṃ **‘‘paralokañceva vajjañca bhayato passantī’’**ti. Sampattibhavato vā aññattā vipattibhavo ‘‘paraloko’’ti vuttaṃ **‘‘para…pe… passantī’’**ti.
69. 尊敬すべき立場にある者たちへの敬意による丁重な懇願が請願であり、それも意味においては請願に他ならないので「要請」と述べた。一部を対象とする智見であって、仏陀たちだけの固有の性質であることから、これら二つの智慧は「仏眼」と呼ばれるとし、「実にこれら二つの智慧に仏眼という名がある」と述べた。「三つの道智の」とは、下位の三つの道智に「法眼」という名があり、四聖諦の法を見るということから単に見ることのみの性質であるためである。それらの智は稲妻の譬えとして説かれ、最上の道智は智慧の働きが頂点に達しているため単に見ることのみではないので「法眼」とは呼ばれない。それは金剛の譬えとして説かれているからである。「説かれた方法によって」とは、「塵の少なき性質の者」という箇所で説かれた方法による。煩悩の少ない者たちが「塵の少なき者」と説かれたがゆえに、煩悩の多い者たちは「塵の多き者」と知られるべきである。敵対するものを撃退する能力があることから鋭く、勇ましく、明晰であり、その逆として鈍い。「信などの様相」とは、信仰などの様相を言う。「善き」とは勝れたことである。しかし『迷惑劃開(サムモーハヴィノーダニー)』においては「意楽などの部分が善い者たちを、善き様相の者という」と説かれており、それはこの注釈とまったく合致し一致するものと見なされるべきである。信の具足などによる意楽の善さがあり、その逆による不善さがあるからである。「原因」とは縁起の様相、あるいは諸諦である。「他界」とは来世である。それは苦をもたらす過失のように恐るべきものとして見るべきであるとし、「他界と過失を恐れとして見る」と述べた。あるいは獲得された生存とは異なる衰亡の生存を「他界」といい、「他…略…見る」と述べた。
Ayaṃ panettha pāḷīti ettha ‘‘apparajakkhā’’dipadānaṃ atthavibhāvane ayaṃ tassa tathābhāvasādhakapāḷi. Saddhādīnañhi vimuttiparipācakadhammānaṃ balavabhāvo tappaṭipakkhānaṃ pāpadhammānaṃ dubbalabhāveneva hoti, tesañca balavabhāvo saddhādīnaṃ dubbalabhāvenāti vimuttiparipācakadhammānaṃ savisesaṃ atthitānatthitāvasena ‘‘apparajakkhā mahārajakkhā’’ti ādayo pāḷiyaṃ (paṭi. ma. 1.111) vibhajitvā dassitā. Iti saddhādīnaṃ vasena pañca apparajakkhā, asaddhiyādīnaṃ vasena pañca mahārajakkhā. Evaṃ tikkhindriyamudindriyādayoti vibhāvitā paññāsa puggalā. Saddhādīnaṃ pana antarabhedena anekabhedā veditabbā. Khandhādayo eva lujjanapalujjanaṭṭhena loko, sampattibhavabhūto loko sampattibhavaloko, sugatisaṅkhāto upapattibhavo, sampatti sambhavati etenāti sampattisambhavaloko sugatisaṃvattaniyo kammabhavo. Duggatisaṅkhātaupapattibhavaduggatisaṃvattaniyakammabhavā vipattibhavalokavipattisambhavalokā.
「ここにおいてこの聖典は」とは、ここでの「塵の少なき者」などの句の意味を解釈するにあたり、それがそうであることを証だてる聖典である。信などの解脱を成熟させる法の強力さは、その敵対する悪しき法の微弱さによってのみ生じ、それらの強力さは信などの微弱さによるものであり、解脱を成熟させる法の顕著な有無の力に応じて、「塵の少なき者、塵の多き者」などが聖典(無礙解道1.111)において分別して示された。このように信などの力により五つの塵の少なき者、不信などの力により五つの塵の多き者がある。このように鋭根・鈍根などが解明されて五十の人物となる。しかし信などの内部の区別によって無数の区別があると知られるべきである。諸蘊こそが破壊され滅びるという意味において世界であり、獲得された生存となった世界が獲得生世界であり、善趣と呼ばれる受生有であり、幸運がこれによって生じるがゆえに獲得生起世界であり、善趣へと導く業有である。悪趣と呼ばれる受生有と悪趣へと導く業有が、衰亡生世界と衰亡生起世界である。
Puna ekakadukādivasena lokaṃ vibhajitvā dassetuṃ **‘‘eko loko’’**tiādi vuttaṃ. Āhārādayo hi lujjanapalujjanaṭṭhena lokoti. Tattha **‘‘eko loko sabbe sattā āhāraṭṭhitikā’’**ti (dī. ni. 3.303; a. ni. 10.27, 28; paṭi. ma. 1.2, 112, 208) yāyaṃ puggalādhiṭṭhānāya kathāya sabbasaṅkhārānaṃ paccayāyattavuttitā vuttā, tāya sabbo saṅkhāraloko eko ekavidho pakārantarassābhāvato. **‘‘Dve lokā’’**tiādīsupi iminā nayena attho veditabbo. Nāmaggahaṇena cettha nibbānassa aggahaṇaṃ tassa alokasabhāvattā. Nanu ca ‘‘āhāraṭṭhitikā’’ti ettha paccayāyattavuttitāya maggaphalānampi lokatā āpajjatīti? Nāpajjati pariññeyyānaṃ dukkhasaccadhammānaṃ ‘‘idha loko’’ti adhippetattā. Atha vā na lujjati na palujjatīti yo gahito, tathā na hoti, so lokoti taṃgahaṇarahitānaṃ lokuttarānaṃ natthi lokatā. Upādānānaṃ ārammaṇabhūtā khandhā upādānakkhandhā. Anurodhādivatthubhūtā lābhādayo aṭṭha lokadhammā. Dasāyatanānīti dasa rūpāyatanāni vivaṭṭajjhāsayassa adhippetattā. Tassa ca sabbaṃ tebhūmakakammaṃ garahitabbaṃ, vajjitabbañca hutvā upaṭṭhātīti vuttaṃ **‘‘sabbe abhisaṅkhārā vajjaṃ, sabbe bhavagāmikammā vajja’’**nti. Yesaṃ puggalānaṃ saddhādayo mandā, te idha ‘‘assaddhā’’tiādinā vuttā. Na pana sabbena sabbaṃ saddhādīnaṃ abhāvatoti apparajakkhadukādīsu pañcasu dukesu ekekasmiṃ dasa dasa katvā **‘‘paññāsāya ākārehi imāni pañcindriyāni jānātī’’**ti vuttaṃ. Atha vā anvayato, byatirekato ca saddhādīnaṃ indriyānaṃ paropariyattaṃ jānātīti katvā tathā vuttaṃ. Ettha ca apparajakkhādivasena āvajjantassa bhagavato te sattā puñjapuñjāva hutvā upaṭṭhahanti, na ekekā.
さらに一、二などの数によって世界を区分して示すために「一なる世界」等と述べた。食物などが破壊され滅びるという意味において世界であるからである。そこにおいて「一なる世界、一切の衆生は食によって存続する」という、人に基づいた言説によって一切の諸行の条件依存的な存続が説かれたが、それによって一切の行の世界は、他に異なる様態がないがゆえに一であり、一種類である。「二つの世界」等においても、この方法によって意味が知られるべきである。またここで名(精神)を把握することによって涅槃が把握されないのは、それが非世界の性質を持つからである。「食によって存続する」ということにおいて、条件依存的な存続ゆえに道と果もまた世界性に陥るのではないか。陥ることはない。知られるべき苦諦の法が「ここでの世界」と意図されているからである。あるいは破壊されず滅びないとして把握されたものが、実際にはそうではない、それが世界であるので、そのような把握のない出世間の法には世界性はない。執着の対象となった蘊が取蘊である。随順などの対象となった利得などの八世間法である。「十の処」とは、解脱への意楽が意図されているため十の色処(物質的感覚領域)である。そして彼にとって一切の三界の業は非難されるべきであり、避けるべきものとして現れるとし、「一切の行は過失であり、一切の有へ至る業は過失である」と説かれた。信などの弱い衆生たちが、ここでは「不信」等と説かれた。しかし信などがまったく存在しないわけではないので、塵の少なき者の二組などの五つの二組の各々において十ずつとして「五十の様相によってこれら五根を知る」と述べた。あるいは順次と逆次の両面から信などの諸根の勝劣を知るとしてそのように述べた。そしてここで塵の少なき者などとして観察する世尊に対し、それらの衆生は個々としてではなく群れをなして現起する。
Uppalāni ettha santīti uppalinī, gacchopi jalāsayopi, idha pana jalāsayo adhippetoti āha **‘‘uppalavane’’**ti. Yāni udakassa anto nimuggāneva hutvā pusanti vaḍḍhanti, tāni antonimuggaposīnī. Dīpitānīti aṭṭhakathāyaṃ pakāsitāni, idheva vā ‘‘aññānipī’’tiādinā dīpitāni. Ugghaṭitaññūti ugghaṭanaṃ nāma ñāṇugghaṭanaṃ, ñāṇe ugghaṭitamatte eva jānātīti attho. Vipañcitaṃ vitthāramevamatthaṃ jānātīti vipañcitaññū. Uddesādīhi netabboti neyyo. Saha udāhaṭavelāyāti udāhāre dhammassa uddese udāhaṭamatte eva. Dhammābhisamayoti catusaccadhammassa ñāṇena saddhiṃ abhisamayo. Ayaṃ vuccatīti ayaṃ ‘‘cattāro satipaṭṭhānā’’tiādinā nayena saṅkhittena mātikāya dīpiyamānāya desanānusārena ñāṇaṃ pesetvā arahattaṃ gaṇhituṃ samattho **‘‘puggalo ugghaṭitaññū’’**ti vuccati. Ayaṃ vuccatīti ayaṃ saṅkhittena mātikaṃ ṭhapetvā vitthārena atthe vibhajiyamāne arahattaṃ pāpuṇituṃ samattho **‘‘puggalo vipañcitaññū’’**ti vuccati. Uddesatoti uddesahetu, uddisantassa, uddisāpentassa vāti attho. Paripucchatoti atthaṃ paripucchantassa. Anupubbena dhammābhisamayo hotīti anukkamena arahattappatto hoti. Na tāya jātiyā dhammābhisamayo hotīti tena attabhāvena maggaṃ vā phalaṃ vā antamaso jhānaṃ vā vipassanaṃ vā nibbattetuṃ na sakkoti. Ayaṃ vuccati puggalo padaparamoti ayaṃ puggalo byañjanapadameva paramaṃ assāti ‘‘padaparamo’’ti vuccati.
青蓮華がここにあるがゆえに青蓮華の池であり、茂みも水場もそうであるが、ここでは水場が意図されているとし、「青蓮華の林に」と述べた。水の中に沈んだままで養われ成長するものが、水中に沈んで養われるものである。「示された」とは注釈書において明かされた、あるいはまさにここで「他のものも」等によって示されたことである。「開智者(ウッガティタンニュー)」とは、開くこととは智慧が開くことであり、智慧が開かれただけで知るという意味である。「広開智者(ヴィパンチタンニュー)」とは、開かれた詳細な意味を知る者である。「所引導者(ネイヤ)」とは要綱等によって導かれるべき者である。「説示の時に」とは、説示において法の要綱が説かれたその瞬間に、ということである。「法の現観」とは、智慧による四聖諦の法の現観である。「この者が言われる」とは、この者が「四念処」などの方法で簡潔に要綱が示されるとき、説法に従って智慧を働かせて阿羅漢果を把握しうる「開智者なる人物」と言われる。「この者が言われる」とは、この者が簡潔に要綱を置き、詳細に意味が分別されるときに阿羅漢果に到達しうる「広開智者なる人物」と言われる。「要綱によって」とは、要綱を原因として、説示する者、あるいは説示させる者にとってという意味である。「質問する者にとって」とは、意味を質問する者にとって、ということである。「順を追って法の現観がある」とは、次第に阿羅漢果に達するということである。「その生涯においては法の現観がない」とは、その個体(生涯)においては道や果、あるいは至極には禅定やヴィパッサナーすら生じさせることができないということである。「この人物は文字第一者と言われる」とは、この人物は言葉の文字表現のみを最上とするがゆえに「文字第一者」と言われる。
Yeti ye duvidhe puggale sandhāya vuttaṃ vibhaṅge kammāvaraṇenāti pañcavidhena ānantariyakammena. Vipākāvaraṇenāti ahetukapaṭisandhiyā. Yasmā duhetukānampi ariyamaggapaṭivedho natthi, tasmā duhetukapaṭisandhipi ‘‘vipākāvaraṇamevā’’ti veditabbā. Kilesāvaraṇenāti niyatamicchādiṭṭhiyā. Assaddhāti buddhādīsu saddhā rahitā. Acchandikāti kattukamyatākusalacchandarahitā, uttarakurukā manussā acchandikaṭṭhānaṃ paviṭṭhā. Duppaññāti bhavaṅgapaññāya parihīnā, bhavaṅgapaññāya pana paripuṇṇāyapi yassa bhavaṅgaṃ lokuttarassa paccayo na hoti, sopi duppañño eva nāma. Abhabbā niyāmaṃ okkamituṃ kusalesu dhammesu sammattanti kusalesu dhammesu sammattaniyāmasaṅkhātaṃ ariyamaggaṃ okkamituṃ adhigantuṃ abhabbā. **‘‘Na kammāvaraṇenā’’**tiādīni vuttavipariyāyena veditabbāni.
「彼ら」とは、二種類の人物を指して『分別論』において説かれた「業の障害によって」とは五種の無間業による。「異熟の障害によって」とは無因の結生による。二因の結生の者たちにも聖道の通達はないがゆえに、二因の結生もまた「まさに異熟の障害である」と知られるべきである。「煩悩の障害によって」とは決定邪見による。「不信なる者たち」とは、仏陀等に対する信を欠いた者たちである。「欲求なき者たち」とは、善をなそうとする欲求を欠いた者たちであり、鬱単越(北倶盧洲)の人間は欲求なき境遇に入っている。「悪慧なる者たち」とは、有分識の智慧に欠けた者たちであり、有分識の智慧が円満であっても、その有分識が出世間の法の条件とならない者もまた、悪慧なる者に他ならない。「善なる諸法において決定境地、正性に踏み入ることができない」とは、善なる諸法において決定正性と呼ばれる聖道に踏み入り、到達することができないということである。「業の障害によらず」等は、説かれたことの反対として知られるべきである。
**‘‘Rāgacaritā’’**tiādīsu yaṃ vattabbaṃ, taṃ paramatthadīpaniyaṃ [paramatthamañjūsāyaṃ visuddhimaggasaṃvaṇṇanāyanti bhavitabbaṃ –
「貪行者」等において語られるべきことは、あの『勝義の解説(パラマッタ・ディーパニー)』〔『清浄道論釈・勝義の蔵(パラマッタ・マンジューサー)』とあるべきである――
‘‘Sā esā paramatthānaṃ, tattha tattha yathārahaṃ;
「それは諸々の勝義を、それぞれ然るべき箇所に;
Nidhānato paramattha-mañjūsā nāma nāmato’’ti. (visuddhimaggamahāṭīkāya nigamane sayameva vuttattā)] visuddhimaggasaṃvaṇṇanāyaṃ vuttanayena veditabbaṃ;
蔵しているがゆえに、名によって『勝義の蔵』と呼ばれる」(『清浄道論大疏』の結びにおいて自ら説かれていることから)〕の『清浄道論』の注釈において説かれた方法によって知られるべきである。
70. Ārabbhāti attano adhippetassa atthassa bhagavato jānāpanaṃ uddissāti attho. Selo pabbato ucco hoti thiro ca, na paṃsupabbato, missakapabbato vāti āha **‘‘sele yathā pabbatamuddhanī’’**ti. Dhammamayaṃ pāsādanti lokuttaradhammamāha. So hi pabbatasadiso ca hoti sabbadhamme atikkamma abbhuggataṭṭhena pāsādasadiso ca, paññāpariyāyo vā idha dhamma-saddo. Sā hi abbhuggataṭṭhena pāsādoti abhidhamme (dha. sa. aṭṭha. 16) niddiṭṭhā. Tathā cāha –
70. 「〜に関して」とは、自らの意図する意味を世尊に知らせることを目指して、という意味である。岩山は高く堅固であり、土の山や混ざりものの山ではないとし、「岩山、山の頂にあるように」と述べた。「法からなる高殿」とは出世間の法を言う。それは一切の法を超越して高くそびえるという意味において山のようでもあり、高殿のようでもある。あるいはここでの「法」という語は智慧の別名である。智慧は高くそびえるという意味において高殿であるとアビダルマ(法集論注16)に示されている。そしてこのように説かれている――
‘‘Paññāpāsādamāruyha, asoko sokiniṃ pajaṃ;
「智慧の高殿に登り、憂いなき者は憂いある民を;
Pabbataṭṭhova bhūmaṭṭhe, dhīro bāle avekkhatī’’ti. (dha. pa. 28);
山上に立つ者が地上の者を見るように、賢者は愚者を見下ろす」(法句経28)。
**‘‘Yathā hī’’**tiādīsu yathā pabbate ṭhatvā rattandhakāre heṭṭhā olokentassa purisassa khette kedārapāḷikuṭiyo, tattha sayitamanussā ca na paññāyanti anujjalabhāvato. Kuṭikāsu pana aggijālā paññāyati ujjalabhāvato evaṃ dhammapāsādamāruyha sattalokaṃ olokayato bhagavato ñāṇassa āpāthaṃ nāgacchanti akatakalyāṇā sattā ñāṇagginā anujjalabhāvato, anuḷārabhāvato ca rattiṃ khittā sarā viya honti. Katakalyāṇā pana bhabbapuggalā dūre ṭhitāpi bhagavato ñāṇassa āpāthaṃ āgacchanti paripakkañāṇaggitāya samujjalabhāvato, uḷārasantānatāya himavantapabbato viya cāti evaṃ yojanā veditabbā.
「実に〜のように」等において、山の上に立って夜の暗闇の中で下を見下ろす人にとって、畑のあぜ道や小屋、そこに横たわる人々は輝きがないために見えないが、小屋の中の火の炎は輝いているゆえに見えるように、法からなる高殿に登って衆生界を見渡す世尊の智慧の領域には、善根を積んでいない衆生は智慧の火によって輝いておらず、広大でないがゆえに夜に放たれた矢のように現れない。しかし善根を積んだ有資格の人物は、遠くにいても智慧の火が成熟して輝いているがゆえに、また広大な相続を持つがゆえにヒマラヤ山のように世尊の智慧の領域に現れる。このように結びつけて理解されるべきである。
Uṭṭhehīti tvaṃ dhammadesanāya appossukkatāsaṅkhātasaṅkocāpattito kilāsubhāvato uṭṭhaha. Vīriyavantatāyāti sātisaya catubbidhasammappadhānavīriyavantatāya. Vīrassa hi bhāvo, kammaṃ vā vīriyaṃ. Kilesamārassa viya maccumārassapi āyatiṃ asambhavato **‘‘maccukilesamārāna’’**nti vuttaṃ. Abhisaṅkhāramāravijayassa aggahaṇaṃ kilesamāravijayeneva tabbijayassa jotitabhāvato. Vāhanasamatthatāyāti saṃsāramahākantārato nibbānasaṅkhātaṃ khemappadesaṃ sampāpanasamatthatāya.
「立ち上がりたまえ」とは、あなたは説法への無関心と呼ばれる萎縮や怠惰な状態から立ち上がりたまえ、ということである。「精進あることによって」とは、卓越した四種の正勤の精進を持つことによって、という意味である。勇者の状態、あるいは行為が精進である。煩悩魔と同様に死魔も将来において生じないことから「死と煩悩の魔を」と述べた。行魔の征服が言及されないのは、煩悩魔の征服によってその征服も明示されているからである。「導く能力によって」とは、輪廻の大荒野から涅槃と呼ばれる安穏の地へと到達させる能力による。
71. ‘‘Apārutaṃ tesaṃ amatassa dvāra’’nti keci paṭhanti. Nibbānassa dvāraṃ pavisanamaggo vivaritvā ṭhapito mahākaruṇūpanissayena sayambhuñāṇena adhigatattā. Saddhaṃ pamuñcantūti saddhaṃ pavedentu, attano saddahanākāraṃ upaṭṭhāpentūti attho. Sukhena akicchena pavattanīyatāya suppavattitaṃ. Na bhāsiṃ na bhāsissāmīti cintesi.
71. 「彼らに不死の門は開かれた」と読む者もいる。大悲の拠り所を伴う自受用の智慧によって覚得されたがゆえに、涅槃の門、すなわち入るべき道は開かれて置かれた。「信を放て」とは、信を表明せよ、自らの信仰の様相を現せ、という意味である。安楽に、苦労なく転じうるものであるゆえに「善く転ぜられた」。語らなかった、語るまいと考えた。
Aggasāvakayugavaṇṇanā
上首の二大弟子の解説
73. Sallapitvāti ‘‘vippasannāni kho te āvuso indriyānī’’tiādinā (mahāva. 60) ālāpasallāpaṃ katvā. Tañhissa aparabhāge satthu santikaṃ upasaṅkamanassa paccayo ahosi.
73. 「歓談して」とは、「友よ、あなたの諸根は極めて清らかである」等(大品60)と語り合い歓談して、ということである。実にそれが、彼の後の師の御前への参入の条件となった。
75-6. Anupubbiṃ kathanti anupubbiyā anupubbaṃ kathetabbaṃ kathaṃ. Kā pana sāti? Dānādikathā. Tattha dānakathā tāva pacurajanesu pavattiyā sabbasādhāraṇattā, sukarattā, sīle patiṭṭhānassa upāyabhāvato ca ādito kathitā. Pariccāgasīlo hi puggalo pariggahavatthūsu nissaṅgabhāvato sukheneva sīlāni samādiyati, tattha ca suppatiṭṭhito hoti. Sīlena dāyakapaṭiggāhakavisuddhito parānuggahaṃ vatvā parapīḷānivattivacanato, kiriyadhammaṃ vatvā akiriyadhammavacanato, bhogasampattihetuṃ vatvā bhavasampattihetuvacanato ca dānakathānantaraṃ sīlakathā kathitā, tañce dānasīlaṃ vaṭṭanissitaṃ, ayaṃ bhavasampatti tassa phalanti dassanatthaṃ, imehi ca dānasīlamayehi paṇītapaṇītatarādibhedabhinnehi puññakiriyavatthūhi etā cātumahārājikādīsu paṇītapaṇītatarādibhedabhinnā aparimeyyā dibbabhogabhavasampattiyo hontīti dassanatthaṃ tadanantaraṃ saggakathaṃ. Vatvā ayaṃ saggo rāgādīhi upakkiliṭṭho, sabbadā anupakkiliṭṭho ariyamaggoti dassanatthaṃ saggānantaraṃ maggakathā kathetabbā. Maggañca kathentena tadadhigamupāyadassanatthaṃ saggapariyāpannāpi, pageva itare sabbepi kāmā nāma bahvādīnavā, aniccā adhuvā, vipariṇāmadhammāti kāmānaṃ ādīnavo, hīnā, gammā, pothujjanikā, anariyā, anatthasañhitāti tesaṃ okāro lāmakabhāvo, sabbepi bhavā kilesānaṃ vatthubhūtāti tattha saṃkileso, sabbaso kilesavippamuttaṃ nibbānanti nekkhamme ānisaṃso ca kathetabboti ayamattho maggantīti ettha iti-saddena ādiatthajotakena bodhitoti veditabbaṃ.
75-6. 「順次の説法」とは、順序に従って説かれるべき教えである。それは何かといえば、施論などである。そこにおいて施論は、まず多くの人々に通じ、すべてに共通し、行いやすく、戒に確立するための手段となるがゆえに最初に説かれた。実に布施の性質を持つ人は、所有物に対して執着がないゆえに容易に諸々の戒を受持し、そこによく確立する。戒によって施者と受者の清浄さから他者への恩恵を説き、他者への加害の中止を説くことから、為すべき法を説いて為すべからざる法を説くことから、富の達成の因を説いて生存の境遇の達成の因を説くことから、施論の次に戒論が説かれた。そしてもしその布施と戒が輪廻に基づいているならば、この天界の富はその果報であると示すため、またこれらの布施と戒からなる、より勝れ、さらに勝れた等と区分される作福処によって、四大王天などにこれらより勝れ、さらに勝れた等と区分される計り知れない天界の富と生存の幸運が生じることを示すために、その次に生天論が説かれた。そして「この天界は貪等によって汚されており、常に汚れがないのは聖道である」と示すために生天論の次に道論が説かれるべきである。そして道を説く者は、その獲得の手段を示すために、天界に含まれるものも、ましてや他のすべての欲望は多くの過患があり、無常で、不確かで、変壊する法であると欲望の過患を、低劣で、卑しく、凡夫のもので、聖なるものでなく、無益であるとその浅ましさを、一切の生存は煩悩の基盤であるとそこにおける汚れを、完全に煩悩から解脱したものが涅槃であると出離の功徳を説くべきである。この意味は「道を」という箇所において、初めの意味を示す小辞の「iti」によって知らしめられていると知るべきである。
Sukhānaṃ nidānanti diṭṭhadhammikānaṃ, samparāyikānaṃ, nibbānapaṭisaṃyuttānañcāti sabbesampi sukhānaṃ kāraṇaṃ. Yañhi kiñci loke bhogasukhaṃ nāma, taṃ sabbaṃ dānanidānanti pākaṭo yamattho. Yaṃ pana taṃ jhānavipassanāmaggaphalanibbānapaṭisaṃyuttaṃ sukhaṃ, tassāpi dānaṃ upanissayapaccayo hotiyeva. Sampattīnaṃ mūlanti yā imā loke padesarajjaṃ sirissariyaṃ sattaratanasamujjalacakkavattisampadāti evaṃpabhedā mānusikā sampattiyo, yā ca cātumahārājikacātumahārājādibhedā dibbasampattiyo, yā vā panaññāpi sampattiyo, tāsaṃ sabbāsaṃ idaṃ dānaṃ nāma mūlaṃ kāraṇaṃ. Bhogānanti bhuñjitabbaṭṭhena **‘‘bhogo’’**ti laddhanāmānaṃ manāpiyarūpādīnaṃ, tannissayānañca upabhogasukhānaṃ. Avassayaṭṭhena patiṭṭhā. Visamagatassāti byasanappattassa. Tāṇanti rakkhā tato paripālanato. Leṇanti byasanehi paripāciyamānassa olīyanapadeso. Gatīti gantabbaṭṭhānaṃ. Parāyaṇanti paṭisaraṇaṃ. Avassayoti vinipatituṃ adento nissayo. Ārammaṇanti olubbhārammaṇaṃ.
「諸々の安楽の因」とは、現世の、来世の、そして涅槃に関する一切の安楽の原因である。世において富の安楽と呼ばれるものは、すべて布施を原因とすることは明白な意味である。そしてあの禅定・ヴィパッサナー・道・果・涅槃に関する安楽にとっても、布施は強力な依処の条件となる。「諸々の幸運の根本」とは、世における地方の王権、栄華と権力、七宝に輝く転輪聖王の幸運などの人間の幸運、そして四大王天や四大王などの天界の幸運、あるいは他のいかなる幸運であれ、それら一切の根本原因がこの布施である。「諸々の富の」とは、享受されるべきという意味で「富」という名を得た快い色などと、それに依存する享受の安楽のことである。頼りとなるという意味で「拠り所」である。「難局に陥った者の」とは、災厄に遭った者のことである。「守護」とは、そこからの保護による。「隠れ家」とは、災厄に苛まれる者の避難場所である。「行く先」とは行くべき場所である。「究極の頼み」とは帰依処である。「支持」とは転落させない支えである。「依拠」とは掴まるべき対象である。
Ratanamayasīhāsanasadisanti sabbaratanamayasattaṅgamahāsīhāsanasadisaṃ mahagghaṃ hutvā sabbaso vinipatituṃ appadānato. Mahāpathavisadisaṃ gatagataṭṭhāne patiṭṭhāya labhāpanato. Ālambanarajjusadisanti yathā dubbalassa purisassa ālambanarajju uttiṭṭhato, tiṭṭhato ca upatthambho, evaṃ dānaṃ sattānaṃ sampattibhave uppattiyā, ṭhitiyā ca paccayabhāvato. Dukkhanittharaṇaṭṭhenāti duggatidukkhanittharaṇaṭṭhena. Samassāsanaṭṭhenāti lobhamacchariyādipaṭisattupaddavato sammadeva assāsanaṭṭhena. Bhayaparittāṇaṭṭhenāti dāliddiyabhayato paripālanaṭṭhena. Maccheramalādīhīti maccheralobhadosaissāvicikicchādiṭṭhi ādicittamalehi. Anupalittaṭṭhenāti anupakkiliṭṭhatāya. Tesanti maccheramalādikacavarānaṃ. Etehi eva durāsadaṭṭhena. Asantāsanaṭṭhenāti anabhibhavanīyatāya santāsābhāvena. Yo hi dāyako dānapati, so sampatipi kutoci na bhāyati, pageva āyatiṃ. Dhammasīsena puggalo vutto. Balavantaṭṭhenāti mahābalavatāya. Dāyako hi dānapati sampati pakkhabalena balavā hoti, āyatiṃ pana kāyabalādīhipi. Abhimaṅgalasammataṭṭhenāti ‘‘vaḍḍhikāraṇa’’nti abhisammatabhāvena. Vipattibhavato sampattibhavūpanayanaṃ khemantabhūmisampāpanaṃ, bhavasaṅgāmato yogakkhemasampāpanañca khemantabhūmisampāpanaṭṭho.
「宝の獅子座に似ている」とは、一切の宝からなる七支の大獅子座に似て高価であり、完全に転落することを許さないからである。「大地に似ている」とは、至る所において確立の場を得させるからである。「掴まる綱に似ている」とは、衰弱した人にとって掴まる綱が起き上がり立ち続ける支えとなるように、布施は衆生にとって幸運の境遇への誕生と存続の条件となるからである。「苦難を渡るという意味において」とは、悪趣の苦難を渡るという意味である。「安堵させるという意味において」とは、貪欲や物惜しみなどの敵対する災厄から完全に安堵させるという意味である。「恐怖からの守護という意味において」とは、貧困の恐怖から保護するという意味である。「物惜しみの垢等によって」とは、物惜しみ・貪り・瞋り・嫉妬・疑い・悪見などの心の垢によって。「汚されないという意味において」とは、汚染されないことによる。「それらの」とは物惜しみの垢などの芥である。これらによって近づき難いという意味である。「恐れなきという意味において」とは、圧倒されないことによる恐怖のなさである。実に施主である施しの主は、現在においても何ものをも恐れず、将来においては言うまでもない。法の頭によって人が説かれた。「強力であるという意味において」とは、偉大な力を持つことによる。施主である施しの主は、現在においては味方の力によって強力であり、将来においては体躯の力などによっても強力である。「至高の吉祥と認められるという意味において」とは、「繁栄の原因」として認められていることによる。衰亡の生存から幸運の生存へと導くことは安穏の境地へ到達させることであり、生存の戦いから繋縛なき安穏へと到達させることも安穏の境地へ到達させることの意味である。
Idāni dānaṃ vaṭṭagatā ukkaṃsappattā sampattiyo viya vivaṭṭagatāpi tā sampādetīti bodhicariyabhāvenapi dānaguṇe dassetuṃ **‘‘dānañhī’’**tiādi vuttaṃ. Tattha sakkamārabrahmasampattiyo attahitāya eva, cakkavattisampatti pana attahitāya, parahitāya cāti dassetuṃ sā tāsaṃ parato vuttā, etā lokiyā, imā pana lokuttarāti dassetuṃ tato paraṃ **‘‘sāvakapāramīñāṇa’’**ntiādi vuttaṃ. Tatthāpi ukkaṭṭhukkaṭṭhatarukkaṭṭhatamāti dassetuṃ kamena ñāṇattayaṃ vuttaṃ. Tesaṃ pana dānassa paccayabhāvo heṭṭhā vutto eva. Etenevassa brahmasampattiyāpi paccayabhāvo dīpitoti veditabbo.
いまや布施は輪廻における卓越した幸運のみならず、解脱における幸運をも成就することから、菩提行の観点からも布施の徳を示すために「布施こそ実に」等と述べた。そこにおいて帝釈天・魔王・梵天の幸運は自らの利益のためだけであり、転輪聖王の幸運は自らの利益と他者の利益のためであることを示すために、それはそれらの次に説かれ、これらは世間的であり、これらは出世間的であることを示すために、その次に「声聞波羅蜜の智慧」等と説かれた。そこでも卓絶、より卓絶、最上であることを示すために順次に三つの智慧が説かれた。それらに対する布施の条件関係はすでに前に説かれた通りである。これによって布施が梵天の幸運に対しても条件となることが明かされたと知るべきである。
Dānañca nāma dakkhiṇeyyesu hitajjhāsayena vā pūjanajjhāsayena vā attano santakassa paresaṃ pariccajanaṃ, tasmā dāyako sattesu ekantahitajjhāsayo purisapuggalo, so ‘‘paresaṃ hiṃsati, paresaṃ vā santakaṃ haratī’’ti aṭṭhānametanti āha **‘‘dānaṃ dadanto sīlaṃ samādātuṃ sakkotī’’**ti. Sīlasadiso alaṅkāro natthīti akittimaṃ hutvā sabbakālaṃ sobhāvisesāvahattā. Sīlapupphasadisaṃ pupphaṃ natthīti etthāpi eseva nayo. Sīlagandhasadiso gandho natthīti ettha ‘‘candanaṃ tagaraṃ vāpī’’tiādikā (dha. pa. 55) gāthā, ‘‘gandho isīnaṃ ciradikkhitānaṃ, kāyā cuto gacchati mālutenā’’tiādikā (jā. 2.17.55) ca vattabbā. Sīlañhi sattānaṃ ābharaṇañceva alaṅkāro ca gandhavilepanañca parassa dassanīyabhāvāvahañca. Tenāha **‘‘sīlālaṅkārena hī’’**tiādi.
布施とは、布施を受けるにふさわしい人々に対して利益の意楽、あるいは供養の意楽によって自らの所有物を他者に喜捨することであり、それゆえに施主は衆生に対して専ら利益を願う意楽を持つ人であって、その人が「他者を害し、あるいは他者の所有物を奪う」ということはあり得ないとし、「布施をなしつつ戒を受持することができる」と述べた。戒に匹敵する装飾はないとは、作為的なものではなく常に特別な輝きをもたらすからである。戒の花に匹敵する花はないということも、ここにおいて同じ手順による。戒の香りに匹敵する香りはないということについては、ここで「栴檀も多伽羅も」(法句経55)などの偈、また「久しく受戒した仙人たちの香りは、身体から放たれて風とともに漂う」(ジャータカ2.17.55)などの偈が語られるべきである。実に戒は衆生にとっての装身具であり、装飾であり、香油の塗布であり、他者に見られるべき美しさをもたらすものである。それゆえに「実に戒という装飾によって」等と述べた。
**‘‘Ayaṃ saggo labbhatī’’**ti idaṃ majjhimehi chandādīhi āraddhaṃ sīlaṃ sandhāyāha. Tenāha sakko devarājā –
「この天界が得られる」とは、中等の意欲などによって始められた戒を指して述べている。それゆえに帝釈天王は言った――
‘‘Hīnena brahmacariyena, khattiye upapajjati;
「下等の清浄行によって刹帝利(王族)に生まれ;
Majjhimena ca devattaṃ, uttamena visujjhatī’’ti. (jā. 2.22.429);
中等によって天界に、上等によって清浄となる」(ジャータカ2.22.429)。
Iṭṭhoti sukho, kantoti kamanīyo, manāpoti manavaḍḍhanako, taṃ panassa iṭṭhādibhāvaṃ dassetuṃ **‘‘niccamettha kīḷā’’**tiādi vuttaṃ. Niccanti sabbakālaṃ kīḷāti kāmūpasaṃhitā sukhavihārā. Sampattiyoti bhogasampattiyo. Dibbanti dibbabhavaṃ devalokapariyāpannaṃ. Sukhanti kāyikaṃ, cetasikañca sukhaṃ. Dibbasampattinti dibbabhavaṃ āyusampattiṃ, vaṇṇayasaissariyasampattiṃ, rūpādisampattiñca. Evamādīti ādi-saddena yāmādīhi anubhavitabbaṃ dibbasampattiṃ vadati.
「望ましい」とは安楽な、「愛しい」とは慕わしい、「快い」とは心を増大させるものであり、その望ましさ等の状態を示すために「ここには常に歓楽があり」等と述べた。「常に」とはいつの時も、「歓楽」とは欲を伴う安楽な生活である。「幸運」とは富の幸運である。「天界の」とは天界の生存、天上界に含まれるものである。「安楽」とは身体的および精神的な安楽である。「天界の幸運」とは天界の生存における寿命の幸運、容色・名声・主権の幸運、色(姿)などの幸運である。「等」という語によって夜摩天等で享受されるべき天界の幸運を言う。
Appassādāti nirassādā paṇḍitehi yathābhūtaṃ passantehi tattha assādetabbatābhāvato. Bahudukkhāti mahādukkhā sampati, āyatiñca vipuladukkhānubandhattā. Bahupāyāsāti anekavidhaparissayā. Etthāti kāmesu. Bhiyyoti bahuṃ. Dosoti aniccatādinā, appassādatādinā ca dūsitabhāvo, yato te viññūnaṃ cittaṃ nārādhenti. Atha vā ādīnaṃ vāti pavattatīti ādīnavo, paramakapaṇatā, tathā ca kāmā yathābhūtaṃ paccavekkhantānaṃ paccupatiṭṭhanti. Lāmakabhāvoti nihīnabhāvo aseṭṭhehi sevitabbattā, seṭṭhehi na sevitabbattā ca. Saṃkilissananti vibādhetabbatā upatāpetabbatā. Nekkhamme ānisaṃsanti ettha yattakā kāmesu ādīnavā, tappaṭipakkhato tattakā nekkhamme ānisaṃsā. Api ca ‘‘nekkhammaṃ nāmetaṃ asambādhaṃ asaṃkiliṭṭhaṃ, nikkhantaṃ kāmehi, nikkhantaṃ kāmasaññāya, nikkhantaṃ kāmavitakkehi, nikkhantaṃ kāmapariḷāhehi, nikkhantaṃ byāpādato’’tiādinā (sārattha. ṭī. 3.26 mahāvagge) nayena nekkhamme ānisaṃse pakāsesi, pabbajjāya, jhānādīsu ca guṇe vibhāvesi vaṇṇesi.
「味わいが少ない」とは、あるがままに見る賢者たちにとってはそこに味わうべきものがないため無味であるということである。「多くの苦難がある」とは、現在において、また将来において莫大な苦難が付き従うゆえに大いなる苦難があるということである。「多くの絶望がある」とは、多種多様な障害があることである。「ここにおいて」とは諸々の欲望においてである。「いっそうの」とは多くの。「過失」とは無常であることや味わいが少ないことなどによって損なわれていることであり、それゆえにそれらは智者の心を満足させない。あるいは貧困へと導くがゆえに過患であり、至極の惨めさであり、欲望はあるがままに省察する者たちにそのように現起する。「浅ましさ」とは、高貴でない者たちによって親しまれ、高貴な者たちによって親しまれないがゆえに卑しいことである。「汚濁」とは悩乱されるべきこと、苦しめられるべきことである。「出離の功徳」とは、ここにおいて欲望にどれほどの過患があるか、その反対として出離にはそれだけの功徳があるということである。さらに「出離とは混雑がなく、汚れがなく、欲望から脱し、欲望の想念から脱し、欲望の思惟から脱し、欲望の熱悶から脱し、瞋恚から脱したものである」などの方法(『精髄義釈(サーラッタ・ディーパニー)』大品3.26)によって出離の功徳を明かし、出家や禅定等における徳を解明し称賛した。
Vuttanayanti ettha yaṃ avuttanayaṃ ‘‘kallacitte’’tiādi, tattha kallacitteti kammaniyacitte, heṭṭhā pavattitadesanāya assaddhiyādīnaṃ cittadosānaṃ vigatattā uparidesanāya bhājanabhāvūpagamanena kammakkhamacitteti attho. Assaddhiyādayo hi yasmā cittassa rogabhūtā tadā te vigatā, tasmā arogacitteti attho. Diṭṭhimānādikilesavigamanena muducitte. Kāmacchandādivigamena vinīvaraṇacitte. Sammāpaṭipattiyaṃ uḷārapītipāmojjayogena udaggacitte. Tattha saddhāsampattiyā pasannacitte. Yadā ca bhagavā aññāsīti sambandho. Atha vā kallacitteti kāmacchandavigamena arogacitte. Muducitteti byāpādavigamena mettāvasena akathinacitte. Vinīvaraṇacitteti uddhaccakukkuccavigamena vikkhepassa vigatattā tena apihitacitte. Udaggacitteti thinamiddhavigamena sampaggahitavasena alīnacitte. Pasannacitteti vicikicchāvigamena sammāpaṭipattiyaṃ adhimuttacitte, evampettha attho veditabbo.
「説かれた手順によって」において、説かれていない手順である「適格な心」等について言えば、そこでの「適格な心」とは活動に適した心であり、下位において行われた説法によって不信などの心の過失が去ったがゆえに、上位の説法の器となることによって活動に堪えうる心という意味である。不信などは心の病であり、その時それらが去ったがゆえに、病なき心という意味である。見解や慢心などの煩悩が去ったことによる柔軟な心。欲貪などが去ったことによる蓋(障害)なき心。正しい実践において広大な歓喜と喜びを伴うことによる高揚した心。そこにおける信の具足による清らかな心。そして世尊が知られたとき、という結びつきである。あるいは「適格な心」とは欲貪の除去による病なき心。「柔軟な心」とは瞋恚の除去により慈悲の力によって剛情でない心。「蓋なき心」とは掉挙と後悔の除去により散乱が去ったがゆえに覆われていない心。「高揚した心」とは惛沈と睡眠の除去により奮起の力によって沈滞していない心。「清らかな心」とは疑いの除去により正しい実践へと確信を深めた心、このようにここでの意味が知られるべきである。
**‘‘Seyyathāpī’’**tiādinā upamāvasena nesaṃ saṃkilesappahānaṃ, ariyamagguppādañca dasseti. Apagatakāḷakanti vigatakāḷakaṃ. Sammadevāti suṭṭhu eva. Rajananti nīlapītādiraṅgajātaṃ. Paṭiggaṇheyyāti gaṇheyya pabhassaraṃ bhaveyya. Tasmiṃyeva āsaneti tissameva nisajjāyaṃ, etena nesaṃ lahuvipassakatā, tikkhapaññatā, sukhapaṭipadākhippābhiññatā ca dassitā hoti. Virajanti apāyagamanīyarāgarajādīnaṃ vigamena virajaṃ. Anavasesadiṭṭhivicikicchāmalāpagamanena vītamalaṃ. Paṭhamamaggavajjhakilesarajābhāvena vā virajaṃ. Pañcavidhadussīlyamalāpagamanena vītamalaṃ. Dhammacakkhunti brahmāyusutte (ma. ni. 2.383) heṭṭhimā tayo maggā vuttā, cūḷarāhulovāde (ma. ni. 3.416) āsavakkhayo, idha pana sotāpattimaggo adhippeto. **‘‘Yaṃ kiñci samudayadhammaṃ, sabbaṃ taṃ nirodhadhamma’’**nti tassa uppattiākāradassananti. Nanu ca maggañāṇaṃ asaṅkhatadhammārammaṇaṃ, na saṅkhatadhammārammaṇanti? Saccametaṃ. Yasmā taṃ nirodhaṃ ārammaṇaṃ katvā kiccavasena sabbasaṅkhataṃ paṭivijjhantaṃ uppajjati, tasmā tathā vuttaṃ.
「譬えば」等によって、譬えの力により彼らの煩悩の捨断と聖道の生起を示す。「黒い汚れが去った」とは、汚れが離れたことである。「完全に」とは極めて善く。「染料を」とは青や黄などの色染めの品を。「受容するであろう」とは受け入れ、光り輝くであろう、ということである。「その座においてまさに」とは、その着座において、ということであり、これによって彼らの速やかな観察力、鋭い智慧、容易な実践と速やかな通達が示される。「塵を離れ」とは、悪趣へ至るべき貪の塵などの除去によって塵を離れたことである。残余なき見解と疑いの垢の除去によって「汚れを去り」。あるいは第一の道によって断ぜられるべき煩悩の塵がないことによって「塵を離れ」、五種の破戒の垢の除去によって「汚れを去り」である。「法眼」とは、『梵摩経』(中阿含91/中2.383)においては下位の三つの道が説かれ、『小羅睺羅教誡経』(中阿含200/中3.416)においては漏尽が説かれているが、ここでは預流道が意図されている。「いかなる集起の性質を持つ法であれ、そのすべては滅尽の性質を持つ法である」とは、それ(法眼)の生起の様相を示すことである。道智は無為の法を対象とし、有為の法を対象とするのではないのではないか。それは真実である。それが滅尽(涅槃)を対象として、機能の力によって一切の有為を通達しつつ生起するがゆえに、そのように説かれた。
‘‘Suddhaṃ vattha’’nti nidassitaupamāyaṃ idaṃ upamāsaṃsandanaṃ vatthaṃ viya cittaṃ, vatthassa āgantukamalehi kiliṭṭhabhāvo viya cittassa rāgādimalehi saṃkiliṭṭhabhāvo, dhovanasilā viya anupubbikathā, udakaṃ viya saddhā, udake temetvā ūsagomayachārikābharehi kāḷakapadese samucchinditvā vatthassa dhovanapayogo viya saddhāsinehena temetvā temetvā satisamādhipaññāhi dose sithilī katvā sutādividhinā cittassa sodhane vīriyārambho, tena payogena vatthe nānākāḷakāpagamo viya vīriyārambhena kilesavikkhambhanaṃ, raṅgajātaṃ viya ariyamaggo, tena suddhassa vatthassa pabhassarabhāvo viya vikkhambhitakilesassa cittassa maggena pariyodapananti. ‘‘Diṭṭhadhammā’’ti vatvā dassanaṃ nāma ñāṇadassanato aññampi atthīti taṃ nivattanatthaṃ **‘‘pattadhammā’’**ti vuttaṃ. Patti ca ñāṇasampattito aññampi vijjatīti tato visesadassanatthaṃ **‘‘viditadhammā’’**ti vuttaṃ. Sā pana viditadhammatā dhammesu ekadesenāpi hotīti nippadesato viditabhāvaṃ dassetuṃ **‘‘pariyogāḷhadhammā’’**ti vuttaṃ, tena nesaṃ saccābhisambodhiṃyeva vibhāveti. Maggañāṇañhi ekābhisamayavasena pariññādikiccaṃ sādhentaṃ nippadesatova catusaccadhammaṃ samantato ogāhantaṃ paṭivijjhatīti. Sesaṃ heṭṭhā vuttanayameva.
「清浄な布」と例示された譬えにおいて、この譬えの照合は、布の如き心、布の外来の汚れによる汚濁の如き心の貪などの垢による汚濁、洗濯板の如き順次の説法、水の如き信、水に浸してアルカリ・牛糞・灰を載せて黒ずんだ部分を取り除き布を洗う作業の如き、信の潤いによって幾度も浸し、正念・三昧・智慧によって過失を緩め、聞くことなどの方法によって心を清浄にする精進の開始、その作業によって布から様々な汚れが去る如き精進の開始による煩悩の伏鎮、染料の如き聖道、それによって清浄な布が光り輝く如き煩悩を伏鎮した心の道による極めての清浄である。「法を見た」と述べて、見るということには智見以外のものもあるためそれを排除するために「法に達した」と述べた。そして到達にも智慧の成就以外のものもあるため、それとの違いを示すために「法を知った」と述べた。しかしその法を知った状態は法の一部分においてもあるため、限定的でなく知った状態を示すために「法に沈潜した」と述べ、これによって彼らの四聖諦の正覚を明らかにする。道智は一瞬の現観の力によって遍知などの機能を果たし、限定的でなく四聖諦の法に四方から沈潜して通達するからである。残りはすでに前述した方法の通りである。
77. Cīvaradānādīnīti cīvarādiparikkhāradānaṃ sandhāyāha. Yo hi cīvarādike aṭṭha parikkhāre, pattacīvarameva vā sotāpannādiariyassa, puthujjanasseva vā sīlasampannassa datvā ‘‘idaṃ parikkhāradānaṃ anāgate ehibhikkhubhāvāya paccayo hotū’’ti patthanaṃ paṭṭhapesi, tassa ca sati adhikārasampattiyaṃ buddhānaṃ sammukhībhāve iddhimayaparikkhāralābhāya saṃvattatīti veditabbaṃ. Vassasatikattherā viya ākappasampannāti adhippāyo.
77. 「衣の施しなどの」とは、衣などの必需品の布施を指して述べている。衣などの八つの必需品、あるいは鉢と衣のみを預流などの聖者、あるいは持戒の凡夫に施して「この必需品の布施が、未来において『来たれ、比丘』となる因となりますように」と誓願を立てた者は、善行の資糧が円満であるとき、仏陀の御前において神通からなる必需品の獲得へと導かれると知るべきである。百歳の長老のように威儀が円満である、という意味である。
Sandassesīti suṭṭhu paccakkhaṃ katvā dassesi. Idhalokatthanti idhalokabhūtaṃ khandhapañcakasaṅkhātamatthaṃ. Paralokatthanti etthāpi eseva nayo. Dassesīti sāmaññalakkhaṇato, salakkhaṇato ca dassesi. Tenāha **‘‘anicca’’**ntiādi. Tattha hutvā abhāvato aniccanti dassesi. Udayabbayapaṭipīḷanato dukkhanti dassesi. Avasavattanato anattāti dassesi. Ime ruppanādilakkhaṇā pañcakkhandhāti rāsaṭṭhena khandhe dassesi. Ime cakkhādisabhāvā nissattanijjīvaṭṭhena aṭṭhārasa dhātuyoti dassesi. Imāni cakkhādisabhāvāneva dvārārammaṇabhūtāni dvādasa āyatanānīti dassesi. Ime avijjādayo jarāmaraṇapariyosānā dvādasa paccayadhammā paṭiccasamuppādoti dassesi. Rūpakkhandhassa heṭṭhā vuttanayena paccayato cattāri, khaṇato ekanti imāni pañca lakkhaṇāni dassesi. Tathāti iminā ‘‘pañca lakkhaṇānī’’ti padaṃ ākaḍḍhati. Dassentoti iti-saddo nidassanattho, evanti attho. Nirayanti aṭṭhamahānirayasoḷasaussadanirayappabhedaṃ sabbaso nirayaṃ dassesi. Tiracchānayoninti apadadvipadacatuppadabahuppadādibhedaṃ migapasupakkhisarīsapādivibhāgaṃ nānāvidhaṃ tiracchānalokaṃ. Pettivisayanti khuppipāsikavantāsikaparadattūpajīvinijjhāmataṇhikādibhedabhinnaṃ nānāvidhaṃ petasattalokaṃ. Asurakāyanti kālakañcikāsuranikāyaṃ. Evaṃ tāva duggatibhūtaṃ paralokatthaṃ vatvā idāni sugatibhūtaṃ vattuṃ **‘‘tiṇṇaṃ kusalānaṃ vipāka’’**ntiādi vuttaṃ. Vehapphale subhakiṇṇeyeva saṅgahetvā asaññīsu, arūpīsu ca sampattiyā dassetabbāya abhāvato duviññeyyatāya **‘‘navannaṃ brahmalokāna’’**ntveva vuttaṃ.
「示した」とは、極めて明瞭に目の当たりに示した。「現世の意味を」とは、現世となった五蘊と呼ばれる意味を。「来世の意味を」とは、ここにおいても同じ手順である。「示した」とは、共相の観点から、また自相の観点から示した。それゆえに「無常」等と述べた。そこにおいて、存在して後に存在しなくなるがゆえに無常であると示した。生滅に圧迫されるがゆえに苦であると示した。意のままにならないがゆえに無我であると示した。これら変壊などの特徴を持つ五蘊を、集積という意味において蘊として示した。これら眼などの本性を、衆生がなく霊魂がないという意味において十八界として示した。これら眼などの本性であり認識の門と対象となった十二処を示した。これら無明等から老死に至る十二の縁起の法を縁起として示した。色蘊について前述の方法により条件の観点から四つ、刹那の観点から一つというこれら五つの特徴を示した。「そのように」とは、これによって「五つの特徴を」という語を引き寄せる。「示しつつ」とは、「iti」という語は例示の意味であり、「このように」という意味である。「地獄を」とは、八大熱地獄と十六の遊増地獄に区分されるすべての地獄を示した。「畜生界を」とは、無足・二足・四足・多足等に区分され、野獣・家畜・鳥・這う虫等に分かれる多種多様な畜生の世界を。「餓鬼界を」とは、飢渇餓鬼・嘔吐物食餓鬼・他者施与飲食餓鬼・焼熱渇愛餓鬼等に分かれる多種多様な餓鬼の衆生の世界を。「阿修羅の群れを」とは、カーラカンチャカ阿修羅の群れを。このようにまず悪趣となった来世のあり方を語り、いまや善趣となったものを語るために「三つの善業の異熟を」等と述べた。広果天は遍浄天の中に含められ、無想定や無色界においては示すべき幸運が存在せず知り難いことから、「九つの梵天界を」とだけ述べた。
Gaṇhāpesīti te dhamme samādinne kārāpesi.
「受け取らせた」とは、それらの法を受持させた。
Samuttejanaṃ nāma samādinnadhammānaṃ yathā anupakārakā dhammā parihāyanti, pahīyanti ca, upakārakā dhammā parivaḍḍhanti, visujjhanti ca, tathā nesaṃ ussāhuppādananti āha **‘‘abbhussāhesī’’**ti. Yathā pana taṃ ussāhuppādanaṃ hoti, taṃ dassetuṃ **‘‘idhalokatthañcevā’’**tiādi vuttaṃ. Tāsetvā tāsetvāti paribyattabhāvāpādanena tejetvā tejetvā. Adhigataṃ viya katvāti yesaṃ katheti, tehi tamatthaṃ paccakkhato anubhuyyamānaṃ viya katvā. Veneyyānañhi buddhehi pakāsiyamāno attho paccakkhatopi pākaṭataro hutvā upaṭṭhāti. Tathā hi bhagavā evaṃ thomīyati –
「奮起させる」とは、受持された諸法のうち、無益な法が衰退し断ぜられ、有益な法が増大し清浄となるように、彼らに意欲を生じさせることであり、「大いに励ました」と述べた。どのようにその意欲を生じさせるか、それを示すために「現世のあり方と」等と述べた。「恐れさせては」とは、極めて明白ならしめることによって鋭く研ぎ澄まして。「獲得されたかのようにして」とは、語りかける相手にとって、その教えが目の当たりに体験されているかのようにして、ということである。化導されるべき者たちにとって、仏陀たちによって明かされる教えは、目の前の現実よりもいっそう明白となって現起するからである。実に世尊はこのように讃嘆される――
‘‘Ādittopi ayaṃ loko, ekādasahi aggibhi;
「この世界は十一の火によって燃え盛っているが;
Na tathā yāti saṃvegaṃ, sammohapaliguṇṭhito.
愚癡に覆われた者は、そのようには戦慄しない。
Sutvādīnavasaññuttaṃ, yathā vācaṃ mahesino;
過患を伴う大仙の言葉を聞く時のようには;
Paccakkhatopi buddhānaṃ, vacanaṃ suṭṭhu pākaṭa’’nti.
目の前の現実よりも、仏陀たちの言葉は極めて明白である」と。
Tenāha **‘‘dvattiṃsakammakāraṇapañcavīsatimahābhayappabhedañhī’’**tiādi. Dvattiṃsakammakāraṇāni ‘‘hatthampi chindantī’’tiādinā (ma. ni. 1.178) dukkhakkhandhasutte āgatanayena veditabbāni. Pañcavīsatimahābhayāni ‘‘jātibhayaṃ jarābhayaṃ byādhibhayaṃ maraṇabhaya’’ntiādinā (cūḷani. 123) tattha tattha sutte āgatanayena veditabbāni. Āghātanabhaṇḍikā adhikuṭṭanakaḷiṅgaraṃ, yaṃ ‘‘accādhāna’’ntipi vuccati.
それゆえに「三十二の拷問と二十五の大いなる恐怖の区別を」等と述べた。三十二の拷問は、「手をも切り」などの『苦蘊経』(中阿含99/中1.178)に説かれた方法によって知られるべきである。二十五の大いなる恐怖は、「生への恐怖、老いへの恐怖、病への恐怖、死への恐怖」等のそれぞれの経において説かれた方法によって知られるべきである。「死刑台」とは、首切り台の木片のことであり、「切り株」とも呼ばれる。
Paṭiladdhaguṇena codesīti ‘‘taṃtaṃguṇādhigamena ayampi tumhehi paṭiladdho, ānisaṃso ayampī’’ti paccakkhato dassento ‘‘kiṃ ito pubbe evarūpaṃ atthī’’ti codento viya ahosi. Tenāha **‘‘mahānisaṃsaṃ katvā kathesī’’**ti.
「獲得された徳によって促した」とは、「様々な徳の獲得によって、あなたがたによってこれも得られ、この功徳も得られた」と目の当たりに示し、「これ以前にこのようなものがあっただろうか」と促すかのようであった。それゆえに「大いなる功徳として語られた」と述べた。
Tappaccayañca kilamathanti saṅkhārapavattihetukaṃ tasmiṃ tasmiṃ sattasantāne uppajjanakaparissamaṃ saṃvighātaṃ vihesaṃ. Idhāti heṭṭhā paṭhamamaggādhigamatthāya kathāya. Sabbasaṅkhārūpasamabhāvato santaṃ. Atittikaraparamasukhatāya paṇītaṃ. Sakalasaṃsārabyasanato tāyanatthena tāṇaṃ. Tato nibbindahadayānaṃ nilīyanaṭṭhānatāya leṇaṃ. Ādi-saddena gatipaṭisaraṇaṃ paramassāsoti evamādīnaṃ saṅgaho.
「それによって生じる疲労」とは、行(サンカーラ)の生起を原因としてそれぞれの有情の相続に生じる疲労、困憊、苦悩のことである。「ここに」とは、以下の初道獲得のための説話においてのことである。すべての行が寂静である状態ゆえに「寂静」である。飽きることのない最高の楽ゆえに「秀絶」である。輪廻のすべての患難から救うという意味によって「洲(救い)」である。それから離欲した心を持つ者たちの避難所となる状態ゆえに「窟(隠れ家)」である。「等」という語によって、帰処、最高の安息など、このようなものの包摂が示されている。
Mahājanakāyapabbajjāvaṇṇanā
大衆の出家の解説
80. Saṅghappahonakānaṃ bhikkhūnaṃ abhāvā **‘‘saṅghassa aparipuṇṇattā’’**ti vuttaṃ. Dve aggasāvakā eva hi tadā ahesuṃ.
80. サンガに十分な比丘たちが不在であったことから、「サンガが具足していなかったため」と言われた。当時は二大弟子たちのみが存在していたからである。
Cārikāanujānanavaṇṇanā
遊行の許しの解説
86. ‘‘Kadā udapādī’’ti pucchaṃ ‘‘sambodhito’’tiādinā saṅkhepato vissajjetvā puna taṃ vitthārato dassetuṃ **‘‘bhagavā kirā’’**tiādi vuttaṃ. Pitu saṅgahaṃ karonto vihāsi sambodhito ‘‘satta saṃvaccharāni satta māse satta divase’’ti ānetvā sambandho, tañca kho veneyyānaṃ tadā abhāvato. Kilañjehi bahi chādāpetvā, vatthehi anto paṭicchādāpetvā, upari ca vatthehi chādāpetvā, tassa heṭṭhā suvaṇṇa…pe… vitānaṃ kārāpetvā. Mālāvacchaketi pupphamālāhi vacchākārena veṭhite. Gandhantareti cāṭibharitagandhassa antare. Pupphānīti cāṭiādibharitāni jalajapupphāni ceva caṅkotakādibharitāni thalajapupphāni ca.
86. 「いつ生じたのか」という問いに対し、「正等覚から」等と要約して答えた上で、さらにそれを詳細に示すために「世尊は実に」等と述べられた。父に対する摂受をなしつつ過ごされたのは、正等覚から「七年と七月と七日」と結びつけられるが、それは当時化導すべき者たちがいなかったためである。外側をむしろで覆わせ、内側を布で覆わせ、さらに上方も布で覆わせ、その下に金の…中略…天蓋を作らせて。「花輪の囲いにおいて」とは、花輪によって囲われた形に巡らされた場所において。「香の合間において」とは、瓶に満たされた香の合間において。「花々」とは、瓶などに満たされた水生の花々、および籠などに満たされた陸生の花々である。
Kāmañcāyaṃ rājā buddhapitā, tathāpi buddhā nāma lokagaruno, na te kenaci vase vattetabbā, atha kho te eva pare attano vase vattenti, tasmā rājā **‘‘nāhaṃ bhikkhusaṅghaṃ demī’’**ti āha.
確かにこの王は仏陀の父であるが、それでも仏陀は世の師であり、彼らはいかなる者にも従属させられるべきではなく、むしろ彼らこそが他者を自らの支配下に従わせるのである。それゆえ王は「私は比丘サンガを与えない」と言ったのである。
Dānamukhanti dānakaraṇūpāyaṃ, dānavattanti attho. Na dāni me anuññātāti idāni me dānaṃ na anuññātā, no na anujānantīti attho.
「施しの口」とは、施しをなす手段、施しの義務という意味である。「今や私に許されていない」とは、今や私への布施は許されていない、許さないわけではないという意味である。
Paritassanajīvitanti dukkhajīvikā dāliddiyanti attho.
「困窮した生活」とは、苦しい暮らし、貧困という意味である。
Sabbesaṃ bhikkhūnaṃ pahosīti bhagavato aṭṭhasaṭṭhi ca bhikkhusatasahassānaṃ bhāgato dātuṃ pahosi, na sabbesaṃ pariyattabhāvena. Tenāha **‘‘senāpatipi attano deyyadhammaṃ adāsī’’**ti. Jeṭṭhikaṭṭhāneti jeṭṭhikadeviṭṭhāne.
「すべての比丘たちに十分であった」とは、世尊と六十八万の比丘たちに行き渡るように施すのに十分であったということであり、すべてを尽くすことによってではない。それゆえ「将軍もまた自らの布施の品を与えた」と言ったのである。「筆頭の地位において」とは、筆頭の王妃の地位においてという意味である。
Tatheva katvāti carapurise ṭhapetvā. Sucinti suddhaṃ. Paṇītanti uḷāraṃ, bhāvanapuṃsakañcetaṃ ‘‘ekamanta’’ntiādīsu (pārā. 2) viya. Bhañjitvāti madditvā, pīḷetvāti attho. Jātisappikhīrādīhiyevāti antojātasappikhīrādīhiyeva, amhākameva gāviādito gahitasappiādīhiyevāti attho.
「そのようにして」とは、密偵たちを配置して。「清らかな」とは、純粋な。「秀美な」とは、上等なものであり、これは「一方に」などの表現のように状態を表す中性名詞である。「砕いて」とは、踏みつぶして、圧迫してという意味である。「生まれつきの醍醐や乳などによってのみ」とは、自家産の醍醐や乳などによってのみ、自分たちの牝牛などから得られた醍醐などによってのみという意味である。
90. Parāpavādaṃ, parāpakāraṃ, sītuṇhādibhedañca guṇāparādhaṃ khamati sahati adhivāsetīti khanti. Sā pana yasmā sīlādīnaṃ paṭipakkhadhamme savisesaṃ tapati santapati vidhamatīti paramaṃ uttamaṃ tapo. Tenāha **‘‘adhivāsanakhanti nāma paramaṃ tapo’’**ti. ‘‘Adhivāsanakhantī’’ti iminā dhammanijjhānakkhantito viseseti. Titikkhanaṃ khamanaṃ **titikkhā.**Akkharacintakā hi khamāyaṃ titikkhā-saddaṃ vaṇṇenti. Tenevāha **‘‘khantiyā eva vevacana’’**ntiādi. Sabbākārenāti santapaṇītanipuṇasivakhemādinā sabbappakārena. So pabbajito nāma na hoti pabbājitabbadhammassa apabbājanato. Tasseva tatiyapadassa vevacanaṃ anatthantarattā.
90. 他者からの誹謗、他者からの危害、寒熱などの差異といった徳に対する過ちを忍び、耐え、受容するがゆえに「忍辱(耐え忍び)」である。そしてそれは戒などの対立する諸法を特に熱し、焼き、退散させるがゆえに、最高かつ最上の苦行である。それゆえ「受容の忍辱こそが最高の苦行である」と言われた。「受容の忍辱」という言葉によって、法を観察する忍辱と区別している。堪え忍ぶこと、耐えることが「忍受」である。文法学者たちは堪忍において「忍受」という語を説明する。それゆえ「実に忍辱の同義語」等と言ったのである。「あらゆる様態によって」とは、寂静、秀絶、微細、安穏、無畏等によって、あらゆる様式で。「その者は出家者ではない」とは、出家せしめるべき法(悪法)を出家(排除)させていないからである。それと同じ第三の句の同義語も、意味に差異がないためである。
**‘‘Na hī’’**tiādinā taṃ evatthaṃ vivarati. Uttamatthena paramanti vuccati para-saddassa seṭṭhavācakattā, ‘‘puggalaparoparaññū’’tiādīsu (a. ni. 7.68; netti. 118) viya. Paranti aññaṃ. Idāni para-saddaṃ aññapariyāyameva gahetvā atthaṃ dassetuṃ **‘‘atha vā’’**tiādi vuttaṃ. Malassāti pāpamalassa. Apabbājitattāti anīhaṭattā anirākatattā. Samitattāti nirodhitattā tesaṃ pāpadhammānaṃ. **‘‘Samitattā hi pāpānaṃ samaṇoti pavuccatī’’**ti hi vuttaṃ.
「実に〜ではない」等によって、その意味を解き明かしている。「最上の意味において至高(パラマ)」と言われるのは、「パラ」という語が「勝れた者」を意味するからであり、「人の高下を知る者」等の表現のようである。「パラ」とは他者のことである。今度は「パラ」という語を別の同義語としてとらえて意味を示すために「あるいは」等と述べられた。「汚れの」とは、悪しき汚れの。「出家させていないため」とは、取り除かれておらず、排除されていないため。「静めたため」とは、それらの悪法を止滅させたため。「実に悪を静めたがゆえに沙門と呼ばれる」と言われている通りである。
Apica bhagavā bhikkhūnaṃ pātimokkhaṃ uddisanto pātimokkhakathāya ca sīlapadhānattā sīlassa ca visesato doso paṭipakkhoti tassa niggaṇhanavidhiṃ dassetuṃ ādito **‘‘khantī paramaṃ tapo’’**ti āha, tena aniṭṭhassa paṭihananūpāyo vutto, titikkhāgahaṇena pana iṭṭhassa, tadubhayenapi uppannaṃ ratiṃ abhibhuyya viharatīti ayamattho dassitoti. Taṇhāvānassa vūpasamanato nibbānaṃ paramaṃ vadanti buddhā. Tattha khantiggahaṇena payogavipattiyā abhāvo dassito, titikkhāgahaṇena āsayavipattiyā abhāvo. Tathā khantiggahaṇena parāparādhasahatā, titikkhāgahaṇena paresu anaparajjhanā dassitā. Evaṃ kāraṇamukhena anvayato pātimokkhaṃ dassetvā idāni byatirekato taṃ dassetuṃ **‘‘na hī’’**tiādi vuttaṃ, tena yathā sattānaṃ jīvitā voropanaṃ, pāṇileḍḍudaṇḍādīhi vibādhanañca ‘‘parūpaghāto, paraviheṭhana’’nti vuccati, evaṃ tesaṃ mūlasāpateyyāvaharaṇaṃ, dāraparāmasanaṃ, visaṃvādanaṃ, aññamaññabhedanaṃ, pharusavacanena mammaghaṭṭanaṃ, niratthakavippalāpo, parasantakagijjhanaṃ, ucchedavindanaṃ, micchābhinivesanañcaupaghāto, viheṭhanañca hotīti yassa kassaci akusalassa kammapathassa, kammassa ca karaṇena pabbajito, samaṇo ca na hotīti dasseti.
さらに世尊は比丘たちに波羅提木叉(戒本)を説示するにあたり、戒本の説示においては戒が主であり、戒に対しては特に怒り(瞋恚)が対立法であるため、それを抑止する方法を示すために、まず「忍辱は最高の苦行である」と述べられた。それによって好ましからざるものを打ち破る方法が説かれ、「忍受」を挙げることによって好ましいものを、その両方によって生じる愛着に打ち勝って住するという意味が示されたのである。渇愛の束縛を静息させることから、仏陀たちは涅槃を至高と説く。そこにおいて「忍辱」を挙げることで加行の破綻のないことが示され、「忍受」を挙げることで意楽の破綻のないことが示された。同様に「忍辱」を挙げることで他者の過失を忍ぶことが、「忍受」を挙げることで他者を害しないことが示された。このように肯定的理由によって順次に戒本を示し、今度は否定的理由によってそれを示すために「実に〜ではない」等と述べられた。それによって、有情の命を奪うことや、手・土塊・棒などで害することが「他者への侵害、他者への加害」と呼ばれるように、彼らの根本財産を奪うこと、他人の妻を侵すこと、嘘をつくこと、離間をはかること、粗暴な言葉で急所を突くこと、無益なおしゃべり、他人の財物を貪ること、断見を抱くこと、邪な執着をなすこともまた侵害であり加害であるとし、いかなる不善の業道や業を行うことによっても、出家者でも沙門でもなくなるということを示している。
Sabbākusalassāti sabbassāpi dvādasākusalacittuppādasaṅgahitassa sāvajjadhammassa. Karaṇaṃ nāma tassa attano santāne uppādananti tappaṭikkhepato akaraṇaṃ **‘‘anuppādana’’**nti vuttaṃ. **‘‘Kusalassā’’**ti idaṃ ‘‘etaṃ buddhāna sāsana’’nti vakkhamānattā ariyamaggadhamme, tesañca sambhārabhūte tebhūmakakusaladhamme sambodhetīti āha **‘‘catubhūmakakusalassā’’**ti. Upasampadāti upasampādanaṃ, taṃ pana tassa samadhigamoti āha **‘‘paṭilābho’’**ti. Cittajotananti cittassa pabhassarabhāvakaraṇaṃ sabbaso parisodhanaṃ. Yasmā aggamaggasamaṅgino cittaṃ sabbaso pariyodapīyati nāma, aggaphalakkhaṇe pana pariyodapitaṃ hoti puna pariyodapetabbatāya abhāvato, iti pariniṭṭhitapariyodapanataṃ sandhāyāha **‘‘taṃ pana arahattena hotī’’**ti. Sabbapāpaṃ pahāya tadaṅgādivasenevāti adhippāyo. **‘‘Sīlasaṃvarenā’’**ti hi iminā tebhūmakassāpi saṅgahe itarappahānānampi saṅgaho hotīti, evañca katvā sabbaggahaṇaṃ samatthitaṃ hoti. Samathavipassanāhīti lokiyalokuttarāhi samathavipassanāhi. Sampādetvāti nipphādetvā. Sampādanañcettha hetubhūtāhi phalabhūtassa sahajātāhipi, pageva purimasiddhāhīti daṭṭhabbaṃ.
「すべての不善の」とは、十二の不善心生に包摂されるあらゆる有罪の法のことである。「為すこと」とはそれを自己の相続に生じさせることであり、その否定として不作為を「生じさせないこと」と述べた。「善の」とは、「これが仏陀たちの教えである」と後に説かれることから、聖道法およびその資糧となる三界の善法を覚らせるため、「四界の善の」と述べた。「具足」とは具足させることであり、それはその完全な獲得であるため「獲得」と述べた。「心の浄化」とは、心を輝かしい状態にすること、完全に清浄にすることである。最上道(阿羅漢道)を具足した者の心は完全に清められ、最上果(阿羅漢果)の瞬間にはすでに清められており、重ねて清めるべき必要がないため、完全に成し遂げられた清浄を意図して「それは実に阿羅漢果によって生じる」と述べた。あらゆる悪を捨て去り、部分的な止滅などの方法によってのみ、という意味である。実に「戒の防護によって」という言葉によって三界のものも包摂されることで、その他の断捨も包摂されることになり、このようにして「すべて」という表現が裏付けられる。「止観によって」とは、世間的および出世間的な止観によって。「成就して」とは、完成させて。ここでの成就とは、原因となった諸法によって結果となった諸法を、倶生した諸法によっても、まして以前に達成された諸法によっても成し遂げることと見なすべきである。
Kassacīti hīnādīsu kassaci sattassa kassaci upavādassa, tena davakamyatāyapi upavadanaṃ paṭikkhipati. Upaghātassa akaraṇanti etthāpi ‘‘kassacī’’ti ānetvā sambandho. Kāyenāti ca nidassanamattametaṃ manasāpi paresaṃ anatthacintanādivasena upaghātakaraṇassa vajjetabbattā. Kāyenāti vā ettha arūpakāyassāpi saṅgaho daṭṭhabbo, na copanakāyakarajakāyānameva. Pa atimokkhanti pakārato ativiya sīlesu mukhyabhūtaṃ. **‘‘Atipamokkha’’**nti tameva padaṃ upasaggabyattayena vadati. Evaṃ bhedato padavaṇṇanaṃ katvā tatvato vadati **‘‘uttamasīla’’**nti. **‘‘Pāti vā’’**tiādinā pālanato rakkhaṇato ativiya mokkhanato ativiya mocanato pātimokkhanti dasseti. ‘‘Pāpā ati mokkhetīti atimokkho’’ti nimittassa kattubhāvena upacaritabbato. Yo vā nanti yo vā puggalo naṃ pātimokkhasaṃvarasīlaṃ pāti samādiyitvā avikopento rakkhati, taṃ ‘‘pātī’’ti laddhanāmaṃ pātimokkhasaṃvarasīle ṭhitaṃ mokkhetīti pātimokkhanti ayamettha saṅkhepo, vitthārato pana pātimokkhapadassa attho visuddhimaggasaṃvaṇṇanāyaṃ (visuddhi. ṭī. 1.14) vuttanayena veditabbo.
「いかなる者をも」とは、下劣な者などのいかなる有情に対しても、いかなる非難もということであり、それによって戯れを好むことによる非難すらも退けている。「加害をなさないこと」においても、「いかなる者をも」と結びつけて理解すべきである。「身によって」とは単なる例示にすぎず、心によって他者の不利益を考えること等による加害も避けるべきだからである。あるいは「身によって」とは、ここにおいて無色の身も包摂されると見なすべきであり、動作をなす身や肉体のみを指すのではない。「波羅提木叉」とは、種々の点において極めて戒の首要となるものである。「至極の解脱」とは、その同じ語を接頭辞を入れ替えて述べている。このように分析的に語釈を行って、本質から「最上の戒」と述べている。「守る、あるいは」等によって、保護すること・守護することから、あるいは大いに解脱すること・大いに解脱させることから「波羅提木叉」であることを示している。「悪から大いに解脱させるから波羅提木叉」と、原因を能動主体として擬人化して扱われるからである。あるいは「ある人がそれを」、ある人がその波羅提木叉律儀戒を守り、受持して損なうことなく護るならば、その「護る者」という名を得た、波羅提木叉律儀戒に安住する者を解脱させるがゆえに「波羅提木叉」である、というのがここでの要約である。詳細な波羅提木叉の語義は『清浄道論釈』で説かれた方法に従って知るべきである。
Mattaññutāti bhojane mattaññutā, sā pana visesato paccayasannissitasīlavasena gahetabbāti āha **‘‘paṭiggahaṇaparibhogavasena pamāṇaññutā’’**ti. Ājīvapārisuddhisīlavasenāpi gayhamāne ‘‘pariyesanavissajjanavasenā’’tipi vattabbaṃ. Saṅghaṭṭanavirahitanti janasaṅghaṭṭanavirahitaṃ, nirajanasambādhaṃ vivittanti attho. Catupaccayasantoso dīpito paccayasantosatāsāmaññena itaradvayassāpi lakkhaṇahāranayena jotitabhāvato. **‘‘Aṭṭhasamāpattivasibhāvāyā’’**ti iminā payojanadassanavasena yadatthaṃ vivittasenāsanasevanaṃ icchitaṃ, so adhicittānuyogo vutto. Aṭṭha samāpattiyo cettha vipassanāya pādakabhūtā adhippetā, na yā kācīti sakalassāpi adhicittānuyogassa jotitabhāvo veditabbo.
「節度を知ること」とは、食事において節度を知ることであり、それは特に資具依止戒によって把握されるべきであることから、「受納と受用による分量を知ること」と述べた。正命清浄戒によって把握される場合も、「遍求と受用による」と述べるべきである。「接触のない」とは、人の接触のない、人の混雑から離れた閑静な、という意味である。四資具の満足が示されているのは、資具の満足という共通性によって、他の二者も相引の理によって照らし出されているからである。「八等至の自在を得るために」とは、用途を示すことによって、閑静な住処に親しむことが求められた目的である増上心の修習が説かれている。ここでの八等至はヴィパッサナーの基礎となるものが意図されており、無作為なものではないため、増上心の修習の全体が照らし出されていると知るべきである。
Devatārocanavaṇṇanā
諸天の告知の解説
91. Ettāvatāti ettakena suttapadesena. Tatthāpi ca iminā…pe… kathanena suppaṭividdhabhāvaṃ pakāsetvāti yojanā. Ca-saddo byatirekattho, tena idāni vuccamānatthaṃ ullaṅgeti. Ekamidāhanti ekaṃ ahaṃ. Idaṃ-saddo nipātamattaṃ. Ādi-saddena ‘‘bhikkhave samaya’’nti evamādi pāṭho saṅgahito. Ahaṃ bhikkhave ekaṃ samayanti evaṃ pettha padayojanā.
91. 「これほどによって」とは、これだけの経の文句によって。「そこにおいても、この…中略…説示によって善く通達された状態を明らかにして」と連結する。「また」という語は対比の意味であり、それによって今説かれようとしている意味を提示している。「私は一つの」とは、一つの〜を私が。「この」という語は単なる不変化詞である。「等」という語によって、「比丘たちよ、ある時」等のような本文が包摂される。「比丘たちよ、私はある時」というようにここでも文を連結する。
Subhagavaneti subhagattā subhagaṃ, sundarasirikattā, sundarakāmattā vāti attho. Subhagañhi taṃ sirisampattiyā, sundare cettha kāme manussā patthenti. Bahujanakantatāyapi taṃ subhagaṃ. Vanayatīti vanaṃ, attasampattiyā attani sinehaṃ uppādetīti attho. Vanute iti vā vanaṃ, attasampattiyā eva ‘‘maṃ paribhuñjathā’’ti satte yācati viyāti attho. Subhagañca taṃ vanañcāti subhagavanaṃ, tasmiṃ subhagavane. Aṭṭhakathāyaṃpana kiṃ iminā papañcenāti **‘‘evaṃ nāmake vane’’**ti vuttaṃ. Kāmaṃ sālarukkhopi ‘‘sālo’’ti vuccati, yo koci rukkhopi vanappati jeṭṭhakarukkhopi. Idha pana pacchimo eva adhippetoti āha **‘‘vanappatijeṭṭhakassa mūle’’**ti. Mūlasamugghātavasenāti anusayasamucchindanavasena.
「スバガ林において」とは、恵まれている(スバガ)ゆえにスバガであり、麗しい吉祥を有するから、あるいは麗しい欲求ゆえにという意味である。実にそれは吉祥の成就によって恵まれており、ここにおいて人々は麗しい諸欲を望むのである。多くの人々に愛されることによっても恵まれている。「願わせる(ヴァナヤティ)」から「森(ヴァナ)」であり、自らの成就によって自らに対する愛着を生じさせるという意味である。あるいは「乞う(ヴァヌテ)」から「森(ヴァナ)」であり、自らの成就によって「私を受用せよ」と有情に乞うかのようであるという意味である。恵まれており、かつ森であるからスバガ林であり、そのスバガ林においてである。しかし義釈においては、このような冗長な説明は何になろうかと、「その名を持つ森において」と述べられた。確かに娑羅樹も「サーラ」と呼ばれ、いかなる樹木であれ、大樹であれ、最勝の樹木であれ呼ばれる。しかしここでは後者のみが意図されていることから、「最勝の大樹の根元において」と述べた。「根本を根絶することによって」とは、随眠を断滅することによってという意味である。
Na vihāyantīti akuppadhammatāya na vijahanti. **‘‘Na kañci sattaṃ tapantīti atappā’’**ti idaṃ tesu tassā samaññāya niruḷhatāya vuttaṃ, aññathā sabbepi suddhāvāsā na kañci sattaṃ tapantīti atappā nāma siyuṃ. **‘‘Na vihāyantī’’**tiādinibbacanesupi eseva nayo. Sundaradassanāti dassanīyāti ayamatthoti āha **‘‘abhirūpā’’**tiādi. Sundarametesaṃ dassananti sobhanametesaṃ cakkhunā dassanaṃ, viññāṇena dassanaṃ pīti attho. Sabbe heva…pe… jeṭṭhā pañcavokārabhave tato visiṭṭhānaṃ abhāvato.
「退没しない」とは、動揺しない性質であるために失わない。「いかなる有情をも熱悩させないゆえに無熱天(アタッパ)」とは、彼らの間においてその呼称が定着しているために言われたものであり、そうでなければすべての浄居天がいかなる有情をも熱悩させないゆえに無熱天と呼ばれることになってしまう。「退没しない」等の語源解釈においてもこの方法が適用される。「麗しい姿の」とは、見目麗しいという意味であることから「端正な」等と述べた。「彼らの姿は麗しい」とは、眼による彼らの姿を見ることは美しく、心による見ることもまた美しいという意味である。「実にすべての…中略…長老たち」とは、五蘊有においてそれらより勝れた者たちが存在しないためである。
Sattannaṃ buddhānaṃ vasenāti sattannaṃ sammāsambuddhānaṃ apadānavasena. Avihehi ajjhiṭṭhena ekena avihābrahmunā kathitā tehi sabbehi kathitā nāma hontīti vuttaṃ **‘‘tathā avihehī’’**ti. Eseva nayo sesesupi. Tenāha bhagavā ‘‘devatā maṃ etadavocu’’nti. Yaṃ pana pāḷiyaṃ ‘‘anekāni devatāsatānī’’ti vuttaṃ, taṃ sabbaṃ pacchā attano sāsane visesaṃ adhigantvā tattha uppannānaṃ vasena vuttaṃ. Anusandhidvayampīti dhammadhātupadānusandhi, devatārocanapadānusandhīti duvidhaṃ anusandhiṃ. Niyyātentoti nigamento. Yaṃ panettha atthato avibhattaṃ, taṃ suviññeyyamevāti.
「七仏の力によって」とは、七仏の正等覚者の行績によって。「無煩天たちに懇請された一人の無煩天の梵天によって語られたことは、彼らすべてによって語られたことになる」と「同様に無煩天たちによって」と述べられた。他の天たちにおいてもこの方法が適用される。それゆえ世尊は「諸天は私にこう語った」と言われたのである。パーリ本文において「多くの数百の諸天が」と述べられているのは、それらすべてが後に自らの教えにおいて卓越した境地を得て、そこに生まれた者たちについて述べられたものである。「二つの脈絡をも」とは、法界句の脈絡と、諸天の告知句の脈絡という二種類の脈絡のことである。「結びつつ」とは、結論づけつつ。ここにおいて意味が詳しく分別されていない部分は、容易に理解できるものばかりである。
Mahāpadānasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā.
大本経の解説における隠れた意味の解明。