3. Mahāparinibbānasuttavaṇṇanā3. 大般涅槃経注釈
131. Pūjanīyabhāvato, buddhasampadañca pahāya pavattatā mahantañca taṃ parinibbānañcāti mahāparinibbānaṃ; savāsanappahānato mahantaṃ kilesakkhayaṃ nissāya pavattaṃ parinibbānantipi mahāparinibbānaṃ; mahatā kālena mahatā vā guṇarāsinā sādhitaṃ parinibbānantipi mahāparinibbānaṃ; mahantabhāvāya, dhātūnaṃ bahubhāvāya parinibbānantipi mahāparinibbānaṃ; mahato lokato nissaṭaṃ parinibbānantipi mahāparinibbānaṃ; sabbalokāsādhāraṇattā buddhānaṃ sīlādiguṇehi mahato buddhassa bhagavato parinibbānantipi mahāparinibbānaṃ; mahati sāsane patiṭṭhite parinibbānantipi mahāparinibbānanti buddhassa bhagavato parinibbānaṃ vuccati, tappaṭisaṃyuttaṃ suttaṃ mahāparinibbānasuttaṃ. Gijjhā ettha vasantīti gijjhaṃ, gijjhaṃ kūṭaṃ etassāti gijjhakūṭo, gijjhaṃ viya vā gijjhaṃ, kūṭaṃ, taṃ etassāti gijjhakūṭo, pabbato, tasmiṃ gijjhakūṭe. Tenāha **‘‘gijjhā’’**tiādi. Abhiyātukāmoti ettha abhi-saddo abhibhavanattho, ‘‘abhivijānātū’’tiādīsu (dī. ni. 2.244; 3.85; ma. ni. 3.256) viyāti āha **‘‘abhibhavanatthāya yātukāmo’’**ti. Vajjirājānoti ‘‘vajjetabbā ime’’tiādito pavattaṃ vacanaṃ upādāya ‘‘vajjī’’ti laddhanāmā rājāno, vajjīraṭṭhassa vā rājāno vajjirājāno. Vajjiraṭṭhassa pana vajjisamaññā tannivāsirājakumāravasena veditabbā. Rājiddhiyāti rājabhāvānugatena sabhāvena. So pana sabhāvo nesaṃ gaṇarājūnaṃ mitho sāmaggiyā loke pākaṭo, ciraṭṭhāyī ca ahosīti **‘‘samaggabhāvaṃ kathesī’’**ti vuttaṃ. Anu anu taṃsamaṅgino bhāveti vaḍḍhetīti anubhāvo, anubhāvo eva ānubhāvo, patāpo, so pana nesaṃ patāpo hatthiassādivāhanasampattiyā, tattha ca susikkhitabhāvena loke pākaṭo jātoti **‘‘etena…pe… kathesī’’**ti vuttaṃ. Tāḷacchiggalenāti kuñcikāchiddena. Asananti saraṃ. Atipātayissantīti atikkāmenti. Poṅkhānupoṅkhanti poṅkhassa anupoṅkhaṃ, purimasarassa poṅkhapadānugatapoṅkhaṃ itaraṃ saraṃ katvāti attho. Avirādhitanti avirajjhitaṃ. Ucchindissāmīti ummūlanavasena kulasantatiṃ chindissāmi. Ayanaṃ vaḍḍhanaṃ ayo, tappaṭikkhepena anayoti āha **‘‘avaḍḍhiyā etaṃ nāma’’**nti. Vikkhipatīti vidūrato khipati, apanetīti attho.
131. 供養されるべき状態であることから、また仏の成就を捨てて生じる偉大なものであり、その完全なる涅槃(般涅槃)であることから「大般涅槃」である。習気(残余の煩悩の傾向)を伴って断じたことによる大いなる煩悩の滅尽に基づいて生じた完全なる涅槃であることからも「大般涅槃」である。偉大な時間によって、あるいは偉大な徳の集積によって達成された完全なる涅槃であることからも「大般涅槃」である。偉大な状態のために、諸々の舎利(遺骨)が多数となるための完全なる涅槃であることからも「大般涅槃」である。偉大な世間から離脱した完全なる涅槃であることからも「大般涅槃」である。一切世間に共通しない仏たちの戒などの徳によって偉大である仏・世尊の完全なる涅槃であることからも「大般涅槃」である。偉大な教え(仏法)が確立されたときの完全なる涅槃であることからも「大般涅槃」である、と仏・世尊の完全なる滅度が説かれ、それに関連する経が『大般涅槃経』である。鷲(霊鷲)がここに住むことから「霊鷲(gijjha)」であり、鷲のような山頂(峰)をもつことから「霊鷲山(gijjhakūṭa)」であり、あるいは鷲に似た、山頂を具えた山であることから「霊鷲山」という山であり、その霊鷲山においてである。それゆえに「鷲が」などと説かれた。「征服しようと望む者」というここでの「abhi」という語は圧倒するという意味であり、「よく知るがよい」(長部2.244; 3.85; 中部3.256)などにおけるのと同様であることから、「圧倒するために進軍しようと欲して」と説かれた。「ヴァッジの王たち」とは、「彼らは避けるべきである」などに由来する言葉に基づいて「ヴァッジ」という名を得た王たちのこと、あるいはヴァッジ国の王たちが「ヴァッジの王たち」である。しかしヴァッジ国という名称は、そこに住む王子たちに基づいて知られるべきである。「王の威光(威信)によって」とは、王たる状態に伴う本性によって、ということである。その彼ら共和国の諸王の本性は、相互の団結(和合)によって世に知られ、長く持続するものであったことから、「和合の状態を説いた」と述べられた。その人を具えた者を次々に育て増大させるゆえに「威力(anubhāva)」であり、威力こそが「威光(ānubhāva)」、威勢(patāpa)である。彼らの威勢は象や馬などの乗り物の充実によって、またそれらにおいてよく訓練されていることによって世に知られたものであったことから、「これによって〜説いた」と述べられた。「鍵穴から」とは、鍵の孔を通して、ということである。「矢を」とは、矢(射出するもの)のことである。「射通すであろう」とは、通り抜けさせる、ということである。「矢継ぎ早に」とは、矢筈(やはず)に次の矢筈を続けることであり、前の矢の矢筈の跡に続く矢筈となるように他の矢を放って、という意味である。「外すことなく」とは、過たずに、ということである。「根絶やしにするであろう」とは、根こそぎにすることによって家系を断ち切るであろう、ということである。進むこと、増大することが「aya(幸・富)」であり、その反対によって「anaya(不幸・衰退)」であることから、「衰退の名称である」と説かれた。「投げ散らす」とは、遠くへ投げ捨てる、取り除く、という意味である。
Gaṅgāyanti gaṅgāsamīpe. Paṭṭanagāmanti sakaṭapaṭṭanagāmaṃ. Āṇāti āṇā vattati. Aḍḍhayojananti ca tasmiṃ paṭṭane aḍḍhayojanaṭṭhānavāsino sandhāya vuttaṃ. Tatrāti tasmiṃ paṭṭane. Balavāghātajātoti uppannabalavakodho.
「ガンジス川において」とは、ガンジス川の近くにおいて、ということである。「港町に」とは、車荷の港町に、ということである。「命令が」とは、命令が通用する、ということである。「半ヨージャナ」とは、その港町において半ヨージャナの場所に住む者たちを指して説かれたものである。「そこにおいて」とは、その港町において、ということである。「激しい怒りを生じた者」とは、生じた強烈な怒りをもつ者、ということである。
Meti mayhaṃ. Gatenāti gamanena.
「私に」とは、私の、ということである。「行くことによって」とは、赴くことによって、ということである。
Rājaaparihāniyadhammavaṇṇanā
王の不衰退法(衰退せざる法)の解釈
134. Sītaṃ vā uṇhaṃ vā natthi, tāyaṃ velāyaṃ puññānubhāvena buddhānaṃ sabbakālaṃ samasītuṇhāva utu hoti, taṃ sandhāya tathā vuttaṃ. Abhiṇhaṃ sannipātāti niccasannipātā, taṃ pana niccasannipātataṃ dassetuṃ **‘‘divasassā’’**tiādi vuttaṃ. Sannipātabahulāti pacurasannipātā. Vosānanti saṅkocaṃ. **‘‘Yāvakīva’’**nti ekamevetaṃ padaṃ aniyamato parimāṇavācī, kālo cettha adhippetoti āha **‘‘yattakaṃ kāla’’**nti. ‘‘Vuddhiyevā’’tiādinā vuttamatthaṃ byatirekamukhena dassetuṃ **‘‘abhiṇhaṃ asannipatantā hī’’**tiādi vuttaṃ. Ākulāti khubhitā, na pasannā. Bhijjitvāti vaggabandhato vibhajja visuṃ visuṃ hutvā.
134. 寒さも暑さもない。その時において仏たちの功徳の威力によって、常に適度な寒暑の気候である。そのことを指してそのように説かれた。「しばしば集まる」とは、常に集会することであり、その常に集会することを示すために「一日に」などと説かれた。「集会を多くする」とは、頻繁に集会することである。「縮小」とは、引きこもること、萎縮することである。「〜である限り」とは、これ一つで無規定の分量を表す言葉であり、ここでは時間が意図されていることから「いかほどの時間」と説かれた。「増長こそが」などによって説かれた意味を、反対の側面から示すために「しばしば集まらない者たちは実に」などと説かれた。「乱れた」とは、動揺した、清澄でない。「分裂して」とは、徒党を組むことから分かれて別々になって、ということである。
Sannipātabheriyāti sannipātārocanabheriyā. Aḍḍhabhuttā vāti sāmibhuttā ca. Osīdamāneti hāyamāne.
「集会の太鼓によって」とは、集会を知らせる太鼓の音によって、ということである。「食事の途中で」とは、主人が食事の途中であっても、ということである。「沈滞するときに」とは、衰退するときに、ということである。
Pubbe akatanti pubbe anibbattaṃ. Suṅkanti bhaṇḍaṃ gahetvā gacchantehi pabbatakhaṇḍa nadītitthagāmadvārādīsu rājapurisānaṃ dātabbabhāgaṃ. Balinti nipphannasassādito chabhāgaṃ, sattabhāgantiādinā laddhakaraṃ. Daṇḍanti dasavīsatikahāpaṇādikaṃ aparādhānurūpaṃ gahetabbadhanadaṇḍaṃ. Vajjidhammanti vajjirājadhammaṃ. Idāni apaññattapaññāpanādīsu tappaṭikkhepa ādīnavānisaṃse vitthārato dassetuṃ **‘‘tesaṃ apaññatta’’**ntiādi vuttaṃ. Pāricariyakkhamāti upaṭṭhānakkhamā.
「かつて制定されなかったこと」とは、以前に生じていなかったことである。「税」とは、財貨を持って通行する者たちから、山道や川の渡し場、村の門などにおいて王の役人たちに支払われるべき分け前のことである。「貢納」とは、収穫された穀物などからの六分の一、七分の一などとして得られる租税のことである。「罰金」とは、十あるいは二十カハーパナなどの、罪科に応じて徴収されるべき金銭の罰のことである。「ヴァッジの法」とは、ヴァッジ王の法のことである。今や制定されていないことの制定などにおける反対の過失と功徳を詳細に示すために、「彼らの制定されていない〜」などと説かれた。「奉仕に堪えうる」とは、世話をすることに適した、ということである。
Kulabhogaissariyādivasena mahatī mattā pamāṇaṃ etesanti mahāmattā, nītisatthavihite vinicchaye ṭhapitā mahāmattā vinicchayamahāmattā, tesaṃ. Dentīti niyyātenti. Sace coroti evaṃsaññino sace honti. Pāpabhīrutāya attanā kiñci avatvā. Daṇḍanītisaññite vohāre niyuttāti vohārikā, ye ‘‘dhammaṭṭhā’’ti vuccanti. Suttadharā nītisuttadharā, īdise vohāravinicchaye niyametvā ṭhapitā. Paramparābhatesu aṭṭhasu kulesu jātā agatigamanaviratā aṭṭhamahallakapurisā aṭṭhakulikā.
家柄や財産、権力などによって偉大な分量(基準)をもつ者たちが「大臣(マハーマッタ)」であり、政治道徳の学問(政術論)に規定された裁判(判決)に任命された大臣たちが「裁判大臣(判事)」であり、彼らのことである。「引き渡す」とは、委ねる、ということである。「もし盗賊であれば」と、このように思うならば、ということである。悪を恐れる心から、自分では何も言わずに。「刑法(断罪の術)と呼ばれる慣習法に従事する者たち」が「司法官(裁判官)」であり、彼らは「正義に立つ者(法官)」と呼ばれる。「経(基準)を保持する者たち」とは、政治の規範(法規)を保持する者たちであり、このような訴訟の裁判において規定されて配置されている。「代々世襲された八つの家系に生まれ、邪道(偏頗)に走ることを離れた八人の長老たち」が「八家評議員」である。
Sakkāranti upakāraṃ. Garubhāvaṃ paccupaṭṭhapetvāti ‘‘ime amhākaṃ garuno’’ti tattha garubhāvaṃ pati pati upaṭṭhapetvā. Mānentīti sammānenti, taṃ pana sammānanaṃ tesu nesaṃ attamanatāpubbakanti āha **‘‘manena piyāyantī’’**ti. Nipaccakāranti paṇipātaṃ. Dassentīti ‘‘ime amhākaṃ pitāmahā, mātāmahā’’tiādinā nīcacittā hutvā garucittākāraṃ dassenti. Sandhāretunti sambandhaṃ avicchinnaṃ katvā ghaṭetuṃ.
「敬意を」とは、恩恵を、ということである。「尊崇の念を確立して」とは、「この方々は私たちの尊敬すべき方々である」と、そこにおいて敬重の念を各自で抱いて、ということである。「敬う」とは、尊重することであり、その尊重は彼らに対する自らの喜びを前提とするものであることから、「心から愛惜する」と説かれた。「平伏の礼を」とは、跪いての礼拝を、ということである。「示す」とは、「この方々は私たちの祖父であり、外祖父である」などとへりくだった心となって、敬重の心のあり方を示すのである。「持続させるために」とは、関係を断絶させることなく結び合わせるために、ということである。
Pasayhākārassāti balakkārassa. Kāmaṃ vuddhiyā pūjanīyatāya ‘‘vuddhihāniyo’’ti vuttaṃ, attho pana vuttānukkameneva yojetabbo, pāḷiyaṃ vā yasmā ‘‘vuddhiyeva pāṭikaṅkhā, no parihānī’’ti vuttaṃ, tasmā tadanukkamena **‘‘vuddhihāniyo’’**ti vuttaṃ.
「暴力的なあり方の」とは、無理強い(強奪)の、ということである。確かに増長によって供養されるべきであることから「増長と衰退」と説かれたが、意味は説かれた順序に従って結びつけられるべきであり、あるいはパーリ本文において「増長こそが期待され、衰退はない」と説かれていることから、その順序に従って「増長と衰退」と説かれたのである。
Vipaccituṃ aladdhokāse pāpakamme, tassa kammassa vipāke vā anavasarova devatopasaggo, tasmiṃ pana laddhokāse siyā devatopasaggassa avasaroti āha **‘‘anuppannaṃ…pe… vaḍḍhentī’’**ti. Eteneva anuppannaṃ sukhanti etthāpi attho veditabbo. ‘‘Balakāyassa diguṇatiguṇatādassanaṃ, paṭibhayabhāvadassana’’nti evaṃ ādinā devatānaṃ saṅgāmasīse sahāyatā veditabbā.
悪業が熟す機会を得ていないとき、あるいはその業の異熟(結果)において、天の災厄の生じる余地は全くないが、それが機会を得たときには天の災厄の生じる余地がある、ということから「生じていない〜増大させる」と説かれた。これによって「生じていない安楽を」というここにおける意味も知られるべきである。「軍勢を二倍、三倍に見せること、恐るべき状態を見せること」などによって、天神たちが戦頭において助力することが知られるべきである。
Anicchitanti aniṭṭhaṃ. Āvaraṇatoti nisedhanato. Yassa dhammato anapetā dhammiyāti idha **‘‘dhammikā’’**ti vuttā. Migasūkarādighātāya sunakhādīnaṃ kaḍḍhitvā vanacaraṇaṃ vājo, migavā, tattha niyuttā, te vā vājenti nentīti vājikā, migavadhacārino. Cittappavattiṃ pucchati. Kāyikavācasikapayogena hi sā loke pākaṭā pakāsabhūtāti.
「望まない」とは、好ましくない、ということである。「遮ることによって」とは、禁止することによって、ということである。法(正義)から離れていないものが正法(如法)であり、ここでは「法的な」と説かれた。鹿や猪などを殺すために犬などを連れて森を行くことが狩猟(vājo)であり、狩り(migavā)であり、それに従事する者たち、あるいはそれらを駆り立てて導く者たちが「狩人(vājikā)」であり、猟殺を行う者たちである。心の展開(意図)を尋ねているのである。実に身体的・言語的な行為によって、それは世において明白となり、顕現したものとなるからである。
135. Devāyatanabhāvena citattā, lokassa cittīkāraṭṭhānattā ca cetiyaṃ ahosi.
135. 神々の宿所(祠堂)として築かれた(積み上げられた)ものであることから、また世の人々の崇敬の場所であることから「霊樹(祠堂・チェーティヤ)」であった。
Kāmaṃkāravasena kiñcipi na karaṇīyāti akaraṇīyā. Kāmaṃkāro pana hatthagatakaraṇavasenāti āha **‘‘aggahetabbāti attho’’**ti. Abhimukhayuddhenāti abhimukhaṃ ujukameva saṅgāmakaraṇena. Upalāpanaṃ sāmaṃ dānañcāti dassetuṃ **‘‘ala’’**ntiādi vuttaṃ. Bhedopi idha upāyo evāti vuttaṃ **‘‘aññatra mithubhedāyā’’**ti. Yuddhassa pana anupāyatā pageva pakāsitā. Idanti ‘‘aññatra upalāpanāya, aññatra mithubhedā’’ti ca idaṃ vacanaṃ. Kathāya nayaṃ labhitvāti ‘‘yāvakīvañca…pe… no parihānī’’ti imāya bhagavato kathāya nayaṃ upāyaṃ labhitvā.
「思うがままになすことによって何一つなされるべきでない」とは、なすことができない(征服できない)、ということである。思うがままになすこととは、手中に収めることによるものであることから、「捕らえられるべきでない、という意味である」と説かれた。「正面からの戦いによって」とは、正面から直接に戦いを行うことによって、ということである。懐柔と自らの贈与であることを示すために、「十分である」などと説かれた。離間もまたここにおいては方策であることから、「相互の離間を除くほかには」と説かれた。しかし戦争が方策でないことは、すでに前に明らかにされている。「これを」とは、「懐柔を除くほかには、相互の離間を除くほかには」というこの言葉のことである。「説示の導きを得て」とは、「〜である限り、衰退はない」というこの世尊の説示から導き、方策を得て、ということである。
Anukampāyāti vajjirājesu anuggahena. Assāti bhagavato.
「慈悲によって」とは、ヴァッジの王たちに対する憐れみによって、ということである。「彼の」とは、世尊の、ということである。
Kathanti vajjīhi saddhiṃ kātabbayuddhakathaṃ. Ujuṃ karissāmīti paṭirājāno ānetvā pākāraparikhānaṃ aññathābhāvāpādanena ujubhāvaṃ karissāmi.
「話を」とは、ヴァッジ族とともになされるべき戦争についての話を、ということである。「まっすぐに(平らに)するであろう」とは、敵対する王たちを連れてきて城壁や堀のあり方を変えさせることによって、平らにするであろう、ということである。
Patiṭṭhitaguṇoti patiṭṭhitācariyaguṇo. Issarā sannipatantu, mayaṃ anissarā, tattha gantvā kiṃ karissāmāti licchavino na sannipatiṃsūti yojanā. Sūrā sannipatantūti etthāpi eseva nayo.
「確立された徳をもつ」とは、師としての徳を確立した、ということである。「主権者たちよ、集まるがよい。私たちは主権者ではない、そこへ行って何になろうか」とリッチャヴィ(離車)族の人々は集まらなかった、と結びつけられる。「勇者たちよ、集まるがよい」というここにおいても同様の道理である。
Balabherinti yuddhāya balakāyassa uṭṭhānabheriṃ.
「軍勢の太鼓を」とは、戦争のために軍勢を出陣させる太鼓を、ということである。
Bhikkhuaparihāniyadhammavaṇṇanā
比丘の不衰退法(衰退せざる法)の解釈
136. Aparihānāya hitāti aparihāniyā, na parihāyanti etehīti vā aparihāniyā, te pana yasmā aparihāniyā kārakā nāma honti, tasmā vuttaṃ **‘‘aparihānikare’’**ti. Yasmā pana te parihānikarānaṃ ujupaṭipakkhabhūtā, tasmā āha **‘‘vuddhihetubhūte’’**ti. Yasmā bhagavato desanā uparūpari ñāṇālokaṃ pasādentī sattānaṃ hadayandhakāraṃ vidhamati, pakāsetabbe ca atthe hatthatale āmalakaṃ viya suṭṭhutaraṃ pākaṭe katvā dasseti, tasmā vuttaṃ **‘‘candasahassaṃ…pe… kathayissāmī’’**ti.
136.「不衰退のために有益である」から「不衰退(不退転の法)」であり、あるいはこれらによって衰退しないことから「不衰退」である。それらは実に不衰退をもたらすものであることから、「不衰退をもたらす」と説かれた。しかしそれらは衰退をもたらすものと正反対のものであることから、「増長の因となる」と説かれた。世尊の教えは、次々に智慧の光を澄みわたらせて衆生の心の闇を打ち払い、説き明かされるべき意味を手の中のアムラ果のように極めて明白にして示すものであることから、「千の月を〜説くであろう」と説かれたのである。
Yasmā bhagavā ‘‘tassa brāhmaṇassa sammukhā vajjīnaṃ abhiṇhasannipātādipaṭipattiṃ kathentoyeva ayaṃ aparihāniyakathā aniyyānikā vaṭṭanissitā, mayhaṃ pana sāsane tathārūpī kathā kathetabbā, sā hoti niyyānikā vivaṭṭanissitā, yāya sāsanaṃ mayhaṃ parinibbānato parampi addhaniyaṃ assa ciraṭṭhitika’’nti cintesi, tasmā bhikkhū sannipātāpetvā tesaṃ aparihāniye dhamme desento teneva niyāmena desesi. Tena vuttaṃ **‘‘idaṃ vajjisattake vuttasadisamevā’’**ti. Evaṃ saṅkhepato vuttamatthaṃ vitthārato dassento **‘‘idhāpi cā’’**tiādimāha. Tattha **‘‘tato’’**tiādi disāsu āgatasāsane vuttaṃ taṃ kathanaṃ. Vihārasīmā ākulā yasmā, tasmā uposathapavāraṇā ṭhitā.
世尊は、「その婆羅門の面前でヴァッジ族の頻繁な集会などの実践を説きつつも、この不衰退の教えは(輪廻からの)離脱をもたらさず、輪廻に属するものである。しかし私の教えにおいては、そのような教えは離脱をもたらし、還滅に属し、それによって私の教え(仏法)が私の般涅槃の後にも長期にわたって持続するものとなるように説かれるべきである」と考えられた。それゆえに比丘たちを集めさせて、彼らに不衰退の諸法を説くにあたって、まさにその形式によって説かれたのである。それゆえに「これはヴァッジ族の七法において説かれたのと同様である」と述べられた。このように簡潔に説かれた意味を詳細に示すために、「ここにおいてもまた」などを説かれた。そこにおいて「それから」などは、諸方から伝えられた教えにおいて説かれたその説示である。寺院の結界が混乱しているため、布薩や自恣が停止されたのである。
Olīyamānakoti pāḷito, atthato ca vinassamāno. Ukkhipāpentāti paguṇabhāvakaraṇena, atthasaṃvaṇṇanena ca paggaṇhantā.
「脱落しつつある」とは、本文(聖典)からも、意味の上からも失われつつある、ということである。「引き上げさせる」とは、熟達した状態にすることによって、また意味を解説することによって高揚させることである。
Sāvatthiyaṃ bhikkhū viya pācittiyaṃ desāpetabboti (pārā. 565 vitthāravatthu). Vajjiputtakā viya dasavatthudīpanena (cūḷava. 446 vitthāravatthu). ‘‘Gihigatānīti gihipaṭisaṃyuttānī’’ti vadanti. Gihīsu gatāni, tehi ñātāni gihigatāni. Dhūmakālo etassāti dhūmakālikaṃ citakadhūmavūpasamato paraṃ appavattanato.
舎衛城(サーヴァッティ)の比丘たちのように波逸提を告白させるべきである(波羅夷565の詳細な事柄)。ヴァッジ族の比丘たちのように十事を示すことによって(小品446の詳細な事柄)。「在家の者たちに知られたこととは、在家の者たちに関連することである」と彼らは言う。在家の者たちに行き渡った、彼らによって知られたことが在家の者たちに知られたことである。「煙の時をもつもの」とは、煙の時の間だけ存在するものであり、火葬の煙が収まった後には存続しないことからである。
Thirabhāvappattāti sāsane thirabhāvaṃ anivattitabhāvaṃ upagatā. Therakārakehīti therabhāvasādhakehi sīlādiguṇehi asekkhadhammehi. Bahū rattiyoti pabbajitā hutvā bahū rattiyo jānanti. Sīlādiguṇesu patiṭṭhāpanameva sāsane pariṇāyakatāti āha **‘‘tīsu sikkhāsu pavattentī’’**ti.
「確固たる状態に達した者たち」とは、教えにおいて確固たる、退転しない状態に至った者たちのことである。「長老たらしめる徳によって」とは、長老たる状態を達成する戒などの徳によって、無学の法(阿羅漢の徳)によって、ということである。「多くの夜を(長年月を)」とは、出家してから多くの夜(歳月)を知っている、ということである。戒などの徳において確立させることこそが教えにおける指導性であることから、「三学において実践させる」と説かれた。
Ovādaṃ na denti abhājanabhāvato. Paveṇīkathanti ācariyaparamparābhataṃ sammāpaṭipattidīpanaṃ dhammakathaṃ. Sārabhūtaṃ dhammapariyāyanti samathavipassanāmaggaphalasampāpanena sārabhūtaṃ bojjhaṅgakosallaanuttarasītībhāvaadhicittasuttādidhammatantiṃ.
「訓誡を与えない」とは、(相手が法を受ける)器でない状態であるためである。「伝統の説話を」とは、師資相承によって伝えられた、正しい実践を明らかにする法の説話を、ということである。「核心となる法の教説を」とは、止と観、道と果を成就させることによって核心となった、覚支の巧みさ、無上の寂静の状態、増上心経などの法の規範を、ということである。
Punabbhavadānaṃ punabbhavo uttarapadalopena. Itareti ye na paccayavasikā na āmisacakkhukā, te na gacchanti taṇhāya vasaṃ.
「再生を与えること」が後末の語の省略によって「再生」である。他の者たち、すなわち必需品(利供養)に支配されず、世俗の財物を目当てとしない者たちは、渇愛の支配下に入ることはない。
Āraññakesūti araññabhāgesu araññapariyāpannesu. Nanu yattha katthacipi taṇhā sāvajjā evāti codanaṃ sandhāyāha **‘‘gāmantasenāsanesu hī’’**tiādi, tena ‘‘anuttaresu vimokkhesu pihaṃ upaṭṭhāpayato’’ti ettha vuttasinehādayo viya āraññakesu senāsanesu sālayatā sevitabbapakkhiyā evāti dasseti.
「阿蘭若(森林)の住居において」とは、森林の地域において、森林に属する場所において、ということである。「いかなる場所であっても渇愛は過失あるものではないか」という疑念を指して「村落の住居において実に」などと説かれた。それによって、「無上の諸解脱に対する憧れを起こす者」というここにおいて説かれた愛着などのように、森林の住居に対する愛着は親しむべき(善き)側のものにほかならない、ということを示している。
Attanāvāti sayameva, tena parehi anussāhitānaṃ saraseneva anāgatānaṃ pesalānaṃ bhikkhūnaṃ āgamanaṃ, āgatānañca phāsuvihāraṃ paccāsisantīti dasseti. Iminā nīhārenāti imāya paṭipattiyā. Aggahitadhammaggahaṇanti aggahitassa pariyattidhammassa uggahaṇaṃ. Gahitasajjhāyakaraṇanti uggahitassa suṭṭhu atthacintanaṃ. Cintanattho hi sajjhāyasaddo.
「自ら」とは、自分自身で、ということである。それによって、他者から勧められることなく自発的に、まだ来ていない戒徳ある比丘たちの来訪を、またすでに来た比丘たちの安穏なる住処を期待していることを示している。「この方法によって」とは、この実践によって、ということである。「学んでいない法の学習」とは、まだ学んでいない教説の法を習得することである。「習得したものの読誦をなすこと」とは、習得したものの意味をよく思索することである。実に「読誦(sajjhāya)」という語には思索の意味があるからである。
Entīti upagacchanti. Nisīdanti āsanapaññāpanādinā.
「来る」とは、近づいてくる、ということである。「坐る」とは、座席を設けることなどによって坐る、ということである。
137. Āramitabbaṭṭhena kammaṃ ārāmo. Kamme ratā, na ganthadhure, vāsadhure vāti kammaratā, anuyuttāti tapparabhāvena punappunaṃ pasutā. Iti kātabbakammanti taṃ taṃ bhikkhūnaṃ kātabbaṃ uccāvacakammaṃ cīvaravicāraṇādi. Tenāha **‘‘seyyathida’’**ntiādi. Upatthambhananti dupaṭṭatipaṭṭādikaraṇaṃ. Tañhi paṭhamapaṭalādīnaṃ upatthambhanakāraṇattā tathā vuttaṃ. Yadi evaṃ kathaṃ ayaṃ kammarāmatā paṭikkhittāti āha **‘‘ekacco hī’’**tiādi.
137.「楽しむべき場所であるという理由から、行為(事業)が園(アラーマ)である」。事業を喜び、経典の学習の務めや禅定の住処の務めに専念しないことが「事業を好むこと」であり、「熱心である」とは、それを第一として繰り返し専念することである。「なすべき事業とはこのように」とは、それぞれの比丘たちのなすべき大小さまざまな作業、衣の仕立てなどである。それゆえに「例えばこのように」などと説かれた。「補強すること」とは、二重、三重にすることなどである。それは実に第一の布地などを補強する原因となることから、そのように説かれた。もしそうであるならば、なぜこの事業を好むことが斥けられたのかと言えば、「ある者は実に」などと説かれた。
Karonto yevāti yathāvuttatiracchānakathaṃ kathentoyeva. Atiracchānakathābhāvepi tassa tattha tapparabhāvadassanatthaṃ avadhāraṇavacanaṃ. Pariyantakārīti sapariyantaṃ katvā vattā. ‘‘Pariyantavatiṃ vācaṃ bhāsitā’’ti (dī. ni. 1.9, 194) hi vuttaṃ. Appabhasso vāti parimitakathoyeva ekantena kathetabbasseva kathanato. Samāpattisamāpajjanaṃ ariyo tuṇhībhāvo.
「なしているまさにそのときに」とは、前述の無益な世間話(畜生論)を語っているまさにそのときに、ということである。無益な世間話がない場合であっても、彼がそこにおいて専念している状態を示すための限定の言葉である。「限度を設ける者」とは、限度を定めて語る者のことである。「限度ある言葉を語る者」(長部1.9, 194)と実に説かれているからである。「あるいは言葉少ない者」とは、語るべきことのみを語ることから、控えめに語る者のことである。等至(禅定)に入ることが「聖なる沈黙」である。
Niddāyatiyevāti niddokkamane anādīnavadassī niddāyatiyeva. Iriyāpathaparivattanādinā na naṃ vinodeti.
「眠るまさにそのこと」とは、眠りに落ちることにおいて過失を見ない者が、まさに眠り続けることである。姿勢(威儀)を変えることなどによってそれを追い払おうとしない。
Evaṃ saṃsaṭṭho vāti vuttanayena gaṇasaṅgaṇikāya saṃsaṭṭho eva viharati.
「このように交わって」とは、説かれた方法によって、集団との交わりにおいてまさに交わって住する、ということである。
Dussīlā pāpicchā nāmāti sayaṃ nissīlā asantaguṇasambhāvanicchāya samannāgatattā pāpā lāmakā icchā etesanti pāpicchā.
「破戒にして悪しき欲をもつ者たちとは」とは、自らは無戒であり、存在しない徳を誇示したいという欲求を具えていることから、悪しき、卑しい欲をもつ者たちのことであり、それが悪欲の者たちである。
Pāpapuggalehi mettikaraṇato pāpamittā. Tehi sadā saha pavattanena pāpasahāyā. Tattha ninnatādinā tadadhimuttatāya pāpasampavaṅkā.
悪しき人物たちと交友を結ぶことから「悪友をもつ者」である。彼らと常に行動を共にすることから「悪しき仲間をもつ者」である。そこへ傾倒することなどによって彼らに傾倒していることから「悪友に親しむ者」である。
138. Saddhā etesaṃ atthīti saddhāti āha **‘‘saddhāsampannā’’**ti. Āgamanīyapaṭipadāya āgatasaddhā āgamanīyasaddhā, sā sātisayā mahābodhisattānaṃ paropadesena vinā saddheyyavatthuṃ aviparītato ogāhetvā adhimuccanatoti āha **‘‘sabbaññubodhisattānaṃ hotī’’**ti. Saccapaṭivedhato āgatasaddhā adhigamasaddhā surabandhādīnaṃ (dī. ni. aṭṭha. 3.118; dha. pa. aṭṭha. 1.suppabuddhakuṭṭhivatthu; udā. aṭṭha. 43) viya. ‘‘Sammāsambuddho bhagavā’’tiādinā buddhādīsu uppajjanakapasādo pasādasaddhā mahākappinarājādīnaṃ (a. ni. aṭṭha. 1.1.231; dha. pa. aṭṭha. 1.mahākappinattheravatthu; theragā. aṭṭha. 2.mahākappinattheragāthāvaṇṇanā, vitthāro) viya. ‘‘Evameta’’nti okkantitvā pakkhanditvā saddahanavasena kappanaṃ okappanaṃ. Duvidhāpīti pasādasaddhāpi okappanasaddhāpi. Tattha pasādasaddhā aparaneyyarūpā hoti savanamattena pasīdanato. Okappanasaddhā saddheyyavatthuṃ ogāhetvā anupavisitvā ‘‘evameta’’nti paccakkhaṃ karontī viya pavattati. Tenāha **‘‘saddhādhimutto vakkalittherasadiso hotī’’**ti. Tassa hīti okappanasaddhāya samannāgatassa. Hirī etassa atthīti hiri, hiri mano etesanti hirimanāti āha **‘‘pāpa…pe… cittā’’**ti. Pāpato ottappenti ubbijjanti bhāyantīti ottappī.
138.「彼らに信仰がある」ゆえに信(信仰ある者)であることから、「信仰を具足した者たち」と説かれた。到来すべき実践の道によって生じた信が「順道信(到来信)」であり、それは偉大な菩薩たちにおいて卓越したものであり、他者の教示なしに信ずべき対象に誤りなく没入して確信するものであることから、「一切知の菩薩たちにある」と説かれた。聖諦の通達から生じた信が「証得信」であり、スラバンダなどのようである(長部注釈3.118;法句経注釈1・スッパブッダ癩者故事;自説経注釈43)。「世尊は正等覚者であられる」などと仏たちに対して生じる清らかな信心が「浄信」であり、マハーカーッピナ王などのようである(増支部注釈1.1.231;法句経注釈1・マハーカーッピナ長老故事;長老偈注釈2・マハーカーッピナ長老偈解説、詳細)。「このようにまさにそのとおりである」と没入し飛び込んで信じることによる判断が「確信(沈潜信)」である。「二種ともに」とは、浄信もまた確信もまた、ということである。そのうち浄信は、聞くだけで清信することから、他者に導かれやすい性質をもつ。確信は、信ずべき対象に深く分け入り、入り込んで「このようにまさにそのとおりである」と目の当たりにするかのように展開する。それゆえに「信解脱者はワッカリ長老のようである」と説かれた。「彼には実に」とは、確信を具足した者には、ということである。「羞恥(恥じる心)が彼にある」ゆえに有慚であり、羞恥の心が彼らにあることから「有慚の者たち」であり、「悪を〜心」と説かれた。悪から恐れ慄き、怯え、怖れることから「有愧の者(恐れる者)」である。
Bahu sutaṃ suttageyyādi etenāti bahussuto, sutaggahaṇaṃ cettha nidassanamattaṃ dhāraṇaparicayaparipucchānupekkhanadiṭṭhinijjhānānaṃ pettha icchitabbattā. Savanamūlakattā vā tesampi taggahaṇeneva gahaṇaṃ daṭṭhabbaṃ. Atthakāmena pariyāpuṇitabbato, diṭṭhadhammikādipurisatthasiddhiyā pariyattabhāvato ca pariyatti, tīṇi piṭakāni. Saccappaṭivedho saccānaṃ paṭivijjhanaṃ. Tadapi bāhusaccaṃ yathāvuttabāhusaccakiccanipphattito. Pariyatti adhippetā saccapaṭivedhāvahena bāhusaccena bahussutabhāvassa idha icchitattā. Soti pariyattibahussuto. Catubbidho hoti pañcamassa pakārassa abhāvato. Sabbatthakabahussutoti nissayamuccanakabahussutādayo viya padesiko ahutvā piṭakattaye sabbatthakameva bāhusaccasabbhāvato sabbassa atthassa kāyanato kathanato sabbatthakabahussuto. Te idha adhippetā paṭipattipaṭivedhasaddhammānaṃ mūlabhūte pariyattisaddhamme suppatiṭṭhitabhāvato.
「多く聞かれたこと、契経や応頌などがこれによってである」ゆえに多聞であり、ここでの「聞くこと」の把握は、受持、熟知、問い尋ねること、考察、見解による観察などもここにおいて望まれるべきであることから、単なる例示にすぎない。あるいは聞くことを根本とするため、それらの把握によって把握されたと見なされるべきである。利益を望む者によって習得されるべきであることから、また現世などの人間の目的の達成によって習得された状態であることから「教説(パリヤッティ)」であり、三蔵のことである。「聖諦の通達」とは、諸聖諦を通達することである。それもまた多聞であり、前述の多聞の役割を果たすことからである。ここでは聖諦の通達をもたらす多聞によって多聞である状態が望まれているため、教説が意図されている。「彼が」とは、教説の多聞の者のことである。第五のあり方がないことから「四種となる」。「全義多聞(一切の教義に通じた多聞の者)」とは、依止を離れるための多聞の者などのように一地域的な(限定された)者ではなく、三蔵においてあらゆる意味での多聞が存在することから、すべての教義を包括し、語ることから「全義多聞」である。彼らがここで意図されているのは、実践と通達の正法の根本となる教説の正法においてしっかりと確立しているからである。
Āraddhanti paggahitaṃ. Taṃ pana duvidhampi vīriyārambhavibhāgena dassetuṃ **‘‘tatthā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha ekakāti ekākino, vūpakaṭṭhavihārinoti attho.
「発起された」とは、奮い立たされた、ということである。それを二種ともに精進の発起の区別によって示すために、「そこにおいて」などと説かれた。そこにおいて「一人で」とは、孤独に、静寂に住する者、という意味である。
Pucchitvāti parato pucchitvā. Sampaṭicchāpetunti ‘‘tvaṃ asukanāmo’’ti vatvā tehi ‘‘āmā’’ti paṭijānāpetunti attho. Evaṃ cirakatādianussaraṇasamatthasatinepakkānaṃ appakasireneva satisambojjhaṅgabhāvanāpāripūriṃ gacchatīti dassanatthaṃ **‘‘evarūpe bhikkhū sandhāyā’’**ti vuttaṃ. Tenevāha ‘‘apicā’’tiādi.
「尋ねて」とは、他者に尋ねて、ということである。「認めさせるために」とは、「あなたは某という名であるか」と言って、彼らに「そのとおりです」と了解させるために、という意味である。このように遠い昔になされたことなどを追憶することのできる念と聡明さをもつ者たちには、わずかな苦労もなく念覚支の修習の成就に至ることを示すために、「このような比丘たちを指して」と説かれた。それゆえに「さらにまた」などと説かれたのである。
139. Bujjhati etāyāti ‘‘bodhī’’ti laddhanāmāya sammādiṭṭhiādidhammasāmaggiyā aṅgoti bojjhaṅgo, pasattho, sundaro vā bojjhaṅgo sambojjhaṅgo. Upaṭṭhānalakkhaṇoti kāyavedanācittadhammānaṃ asubhadukkhāniccānattabhāvasallakkhaṇasaṅkhātaṃ ārammaṇe upaṭṭhānaṃ lakkhaṇaṃ etassāti upaṭṭhānalakkhaṇo. Catunnaṃ ariyasaccānaṃ pīḷanādippakārato vicayo upaparikkhā lakkhaṇaṃ etassāti pavicayalakkhaṇo. Anuppannā kusalānuppādanādivasena cittassa paggaho paggaṇhanaṃ lakkhaṇaṃ etassāti paggahalakkhaṇo. Pharaṇaṃ vipphārikatā lakkhaṇaṃ etassāti pharaṇalakkhaṇo. Upasamo kāyacittapariḷāhānaṃ vūpasamanaṃ lakkhaṇaṃ etassāti upasamalakkhaṇo. Avikkhepo vikkhepaviddhaṃsanaṃ lakkhaṇaṃ etassāti avikkhepalakkhaṇo. Līnuddhaccarahite adhicitte pavattamāne paggahaniggahasampahaṃsanesu abyāvaṭattā ajjhupekkhanaṃ paṭisaṅkhānaṃ lakkhaṇaṃ etassāti paṭisaṅkhānalakkhaṇo.
139.「これによって目覚める」ことから「菩提(覚り)」という名を得た正見などの諸法の和合の構成要素(肢分)であるから「覚支」であり、称賛された、あるいは優れた覚支が「等覚支(七覚支)」である。「確立を特徴とする」とは、身・受・心・法の不浄・苦・無常・無我の状態を観察することと呼ばれる、対象における確立を特徴とするゆえに「確立を特徴とする」という。四聖諦を圧迫などのあり方から選択し吟味することを特徴とするゆえに「択法覚支(択法を特徴とするもの)」という。未生の善を生じさせることなどによる心の奮起・高揚を特徴とするゆえに「精進覚支(精進を特徴とするもの)」という。満ちわたり、遍満することを特徴とするゆえに「喜覚支(遍満を特徴とするもの)」という。身体と心の熱悩を静めることを特徴とするゆえに「軽安覚支(寂静を特徴とするもの)」という。散乱しないこと、散乱を打ち破ることを特徴とするゆえに「定覚支(不散乱を特徴とするもの)」という。沈滞と浮動を離れた増上心が展開するときに、奮起・抑制・歓喜において無関心であることからの中立・省察を特徴とするゆえに「捨覚支(省察を特徴とするもの)」という。
Catūhi kāraṇehīti satisampajaññaṃ, muṭṭhassatipuggalaparivajjanā, upaṭṭhitassatipuggalasevanā, tadadhimuttatāti imehi catūhi kāraṇehi. Chahi kāraṇehīti paripucchakatā, vatthuvisadakiriyā, indriyasamattapaṭipādanā, duppaññapuggalaparivajjanā, paññavantapuggalasevanā, tadadhimuttatāti imehi chahi kāraṇehi. Mahāsatipaṭṭhānavaṇṇanāyaṃ pana ‘‘sattahi kāraṇehī’’ (dī. ni. aṭṭha. 2.385; ma. ni. aṭṭha. 1.118) vakkhati, taṃ gambhīrañāṇacariyāpaccavekkhaṇāti imaṃ kāraṇaṃ pakkhipitvā veditabbaṃ. Navahi kāraṇehīti apāyabhayapaccavekkhaṇā, gamanavīthipaccavekkhaṇā, piṇḍapātassa apacāyanatā, dāyajjamahattapaccavekkhaṇā, satthumahattapaccavekkhaṇā, sabrahmacārīmahattapaccavekkhaṇā, kusītapuggalaparivajjanā, āraddhavīriyapuggalasevanā, tadadhimuttatāti imehi navahi kāraṇehi. Mahāsatipaṭṭhānavaṇṇanāyaṃ (dī. ni. aṭṭha. 2.385; ma. ni. aṭṭha. 1.118) pana ānisaṃsadassāvitā, jātimahattapaccavekkhaṇāti imehi saddhiṃ ‘‘ekādasā’’ti vakkhati. Dasahi kāraṇehīti buddhānussati, dhammānussati, saṅghasīlacāgadevatāupasamānussati, lūkhapuggalaparivajjanā, siniddhapuggalasevanā, tadadhimuttatāti imehi dasahi. Mahāsatipaṭṭhānavaṇṇanāyaṃ (dī. ni. aṭṭha. 2.385; ma. ni. aṭṭha. 1.118) pana pasādaniyasuttantapaccavekkhaṇāya saddhiṃ ‘‘ekādasā’’ti vakkhati. Sattahi kāraṇehīti paṇītabhojanasevanatā, utusukhasevanatā, iriyāpathasukhasevanatā, majjhattapayogatā, sāraddhakāyapuggalaparivajjanatā, passaddhakāyapuggalasevanatā, tadadhimuttatāti imehi sattahi. Dasahi kāraṇehīti vatthuvisadakiriyā, indriyasamattapaṭipādanā, nimittakusalatā, samaye cittassa paggahaṇaṃ, samaye cittassa niggahaṇaṃ, samaye cittassa sampahaṃsanaṃ, samaye cittassa ajjhupekkhanaṃ, asamāhitapuggalaparivajjanaṃ, samāhitapuggalasevanaṃ, tadadhimuttatāti imehi dasahi kāraṇehi. Mahāsatipaṭṭhānavaṇṇanāyaṃ (dī. ni. aṭṭha. 2.385; ma. ni. aṭṭha. 1.118) pana ‘‘jhānavimokkhapaccavekkhaṇā’’ti iminā saddhiṃ ‘‘ekādasahī’’ti vakkhati. Pañcahi kāraṇehīti sattamajjhattatā, saṅkhāramajjhattatā, sattasaṅkhārakelāyanapuggalaparivajjanā, sattasaṅkhāramajjhattapuggalasevanā, tadadhimuttatāti imehi pañcahi kāraṇehi. Yaṃ panettha vattabbaṃ, taṃ mahāsatipaṭṭhānavaṇṇanāyaṃ (dī. ni. aṭṭha. 2.385; ma. ni. aṭṭha. 1.118) āgamissati. Kāmaṃ bodhipakkhiyadhammā nāma nippariyāyato ariyamaggasampayuttā eva niyyānikabhāvato. Suttantadesanā nāma pariyāyakathāti **‘‘iminā vipassanā…pe… kathesī’’**ti vuttaṃ.
「四つの理由によって」とは、正念と正知、忘念の人物を避けること、念の確立した人物に親しむこと、それへの傾倒というこれら四つの理由によってである。「六つの理由によって」とは、問い尋ねること、事物(身体や住居など)の清浄にすること、諸根の調和をとること、無慧の人物を避けること、智慧ある人物に親しむこと、それへの傾倒というこれら六つの理由によってである。しかし『大念処経注釈』においては「七つの理由によって」(長部注釈2.385;中部注釈1.118)と説くであろうが、それは深遠な智の行相の観察というこの理由を加えて知られるべきである。「九つの理由によって」とは、悪趣の恐怖の観察、行路(道)の観察、托鉢の受納の尊重、遺産(仏法)の偉大さの観察、師(仏)の偉大さの観察、同梵行者たちの偉大さの観察、怠惰な人物を避けること、精進を発起した人物に親しむこと、それへの傾倒というこれら九つの理由によってである。しかし『大念処経注釈』(長部注釈2.385;中部注釈1.118)においては、功徳を見ること、家柄(種姓)の偉大さの観察とともに「十一」と説くであろう。「十の理由によって」とは、仏随念、法随念、僧随念、戒随念、捨随念、天随念、寂止随念、粗野な人物を避けること、心柔和な人物に親しむこと、それへの傾倒というこれら十の理由によってである。しかし『大念処経注釈』(長部注釈2.385;中部注釈1.118)においては、清信を生じる経典の観察とともに「十一」と説くであろう。「七つの理由によって」とは、上質な食事に親しむこと、快適な気候に親しむこと、快適な姿勢に親しむこと、中立の実践、激昂した身体の人物を避けること、身体の静まった人物に親しむこと、それへの傾倒というこれら七つの理由によってである。「十の理由によって」とは、事物の清浄にすること、諸根の調和をとること、相(瞑想の徴相)に巧みであること、適切な時に心を奮起させること、適切な時に心を抑制すること、適切な時に心を歓喜させること、適切な時に心を見守ること、定なき人物を避けること、定ある人物に親しむこと、それへの傾倒というこれら十の理由によってである。しかし『大念処経注釈』(長部注釈2.385;中部注釈1.118)においては、「禅定と解脱の観察」というこれとともに「十一によって」と説くであろう。「五つの理由によって」とは、衆生に対する中立、諸行に対する中立、衆生や諸行を愛着する人物を避けること、衆生や諸行に対して中立である人物に親しむこと、それへの傾倒というこれら五つの理由によってである。これについて説かれるべきことは、『大念処経注釈』(長部注釈2.385;中部注釈1.118)において出てくるであろう。確かに三十七道品(菩提分法)と呼ばれるものは、直接的な意味においては出離をもたらすものであるため聖道と相応したものにほかならない。経典の説示とは方便の教説であることから、「これによって観を〜説いた」と述べられたのである。
140. Tebhūmake saṅkhāre ‘‘aniccā’’ti anupassati etāyāti aniccānupassanā, tathā pavattā vipassanā, sā pana yasmā attanā sahagatasaññāya bhāvitāya vibhāvitā eva hotīti vuttaṃ **‘‘aniccānupassanāya saddhiṃ uppannasaññā’’**ti. Saññāsīsena vāyaṃ vipassanāya eva niddeso. Anattasaññādīsupi eseva nayo. Lokiyavipassanāpi honti, yasmā ‘‘anicca’’ntiādinā tā pavattantīti. Lokiyavipassanāpīti pi-saddena missakāpettha santīti atthato āpannanti atthāpattisiddhamatthaṃ niddhāretvā sarūpato dassetuṃ **‘‘virāgo’’**tiādi vuttaṃ. Tattha āgatavasenāti tathā āgatapāḷivasena ‘‘virāgo nirodho’’ti hi tattha nibbānaṃ vuttanti idha ‘‘virāgasaññā, nirodhasaññā’’ti vuttasaññā nibbānārammaṇāpi siyuṃ. Tena vuttaṃ **‘‘dve lokuttarāpi hontī’’**ti.
140. 三界の諸行を「無常である」とこれによって観察するゆえに「無常随観」であり、そのように展開した観(ウィパッサナー)である。しかしそれは、自らに伴う修習された想によって明瞭にされたものにほかならないことから、「無常随観とともに生じた想」と説かれた。あるいは想を主として観そのものを説いているのである。無我想などにおいても同様の道理である。「無常」などとしてそれらが展開することから、世間の観でもある。「世間の観でもある」という「〜も(api)」という言葉によって、ここには混じり合ったもの(出世間も)が存在するということが意味の上から得られるのであり、その意味として得られた結論を取り出して具体的に示すために「離貪」などと説かれた。「そこに出てくる形式によって」とは、そのように伝わる本文の形式によってであり、「離貪、止滅」とは実にそこにおいて涅槃が説かれていることから、ここにおいて「離貪想、滅想」と説かれた想は、涅槃を対象とするものでもあり得る。それゆえに「二つの出世間のものでもある」と説かれた。
141. Mettā etassa atthīti mettaṃ, cittaṃ. Taṃsamuṭṭhānaṃ kāyakammaṃ mettaṃ kāyakammaṃ. Esa nayo sesadvayepi. Imānipi mettākāyakammādīni bhikkhūnaṃ vasena āgatāni tesaṃ seṭṭhaparisabhāvato. Yathā pana bhikkhūsupi labbhanti, evaṃ gihīsupi labbhanti catuparisasādhāraṇattāti taṃ dassento **‘‘bhikkhūnañhī’’**tiādimāha. Kāmaṃ ādibrahmacariyakadhammassavanenapi mettākāyakammāni labbhanti, nippariyāyato pana cārittadhammassavanena ayamattho icchitoti dassento **‘‘ābhisamācārikadhammapūraṇa’’**nti āha. Tepiṭakampi buddhavacanaṃ paripucchanaatthakathanavasena pavattiyamānaṃ hitajjhāsayena pavattitabbato.
141.「慈愛が彼にある」ゆえに慈(慈愛の心)である。それから生じた身体的行為が「慈愛の身業」である。この道理は残りの二つ(口業と意業)においても同様である。これらの慈愛の身業なども比丘たちに基づいて説かれたのは、彼らが最上の集いであるからである。しかし比丘たちにおいて見出されるのと同様に、四部の大衆に共通するものであることから在家の者たちにおいても得られるのであり、そのことを示すために「比丘たちには実に」などを説かれた。確かに梵行の根本となる法(根本的な教え)を聞くことによっても慈愛の身業は得られるが、直接的な意味においては威儀の作法(威儀法)を聞くことによってこの意味が意図されていることを示すために、「威儀の諸法の充足」と説いた。三蔵の仏の言葉であっても、質問し意味を解説する形式によって展開されるのは、利益を願う意図によって展開されるべきものであるからである。
Āvīti pakāsaṃ, pakāsabhāvo cettha yaṃ uddissa taṃ kāyakammaṃ karīyati, tassa sammukhabhāvatoti āha **‘‘sammukhā’’**ti. Rahoti appakāsaṃ, appakāsatā ca yaṃ uddissa taṃ kāyakammaṃ karīyati, tassa paccakkhābhāvatoti āha **‘‘parammukhā’’**ti. Sahāyabhāvagamanaṃ tesaṃ purato. Ubhayehīti navakehi, therehi ca.
「公然と」とは、明白に、ということであり、ここでの明白な状態とは、その身業がなされる対象となる者の面前であることから、「面前で」と説かれた。「私的に」とは、明白でないこと、ということであり、明白でない状態とは、その身業がなされる対象となる者の面前でないことから、「背後で(陰で)」と説かれた。彼らの前に仲間となって赴くことである。「双方によって」とは、新参の者たちによっても、長老たちによっても、ということである。
Paggayhāti paggaṇhitvā uccaṃ katvā.
「捧げ持って」とは、掲げて高くして、ということである。
Kāmaṃ mettāsinehasiniddhānaṃ nayanānaṃ ummīlanā, pasannena mukhena olokanañca mettaṃ kāyakammameva, yassa pana cittassa vasena nayanānaṃ mettāsinehasiniddhatā, mukhassa ca pasannatā, taṃ sandhāya vuttaṃ **‘‘mettaṃ manokammaṃ nāmā’’**ti.
確かに慈愛の情愛に潤んだ目を開くことや、澄んだ顔で見つめることは慈愛の身業にほかならないが、いかなる心に基づいて眼の慈愛の情愛の潤いや顔の清らかさがあるのか、その心を指して「慈愛の意業と呼ばれる」と説かれたのである。
Lābhasaddo kammasādhano ‘‘lābhāvata, lābho laddho’’tiādīsu viya, so cettha ‘‘dhammaladdhā’’ti vacanato atītakālikoti āha **‘‘cīvarādayo laddhapaccayā’’**ti. Dhammato āgatāti dhammikā. Tenāha ‘‘dhammaladdhā’’ti. Imameva hi atthaṃ dassetuṃ **‘‘kuhanādī’’**tiādi vuttaṃ. Cittena vibhajanapubbakaṃ kāyena vibhajananti mūlameva dassetuṃ **‘‘evaṃ cittena vibhajana’’**nti vuttaṃ, tena cittuppādamattenapi paṭivibhāgo na kātabboti dasseti. Appaṭivibhattanti bhāvanapuṃsakaniddeso, appaṭivibhattaṃ vā lābhaṃ bhuñjatīti kammaniddeso eva.
「利得(lābha)」という語は、「実に利得である、利得が得られた」などと言われるように、業(所作の対象)の成就を示す語である。またここでは「法によって得られた」と言われていることから、過去時制のものであるとして、「**衣などの得られた必需品**」と言った。法に従って得られたものであるから「如法(dhammikā)」である。それゆえ「法によって得られた」と言った。まさにこの意味を示すために、「**詐欺などによって**」等と説かれた。心による分配を先立たせて身によって分配するという根本を示すために、「**このように心で分配すること**」と言われ、それによって単なる心の生起(思いなし)だけでも独占の分配をしてはならないということを示している。「独占せず(appaṭivibhattaṃ)」とは、状態を示す中性名詞の解説であり、あるいは「独占されない利得を享受する」という業(対象)の解説でもある。
Taṃ taṃ neva gihīnaṃ deti attano ājīvasodhanatthaṃ. Na attanā bhuñjatīti attanāva na paribhuñjati ‘‘mayhaṃ asādhāraṇabhogitā mā hotū’’ti. **‘‘Paṭiggaṇhanto ca…pe… passatī’’**ti iminā tassa lābhassa tīsupi kālesu sādhāraṇato ṭhapanaṃ dassitaṃ. **‘‘Paṭiggaṇhanto ca saṅghena sādhāraṇaṃ hotū’’**ti iminā paṭiggahaṇakālo dassito, **‘‘gahetvā…pe… passatī’’**ti iminā paṭiggahitakālo, tadubhayaṃ pana tādisena pubbābhogena vinā na hotīti atthasiddho purimakālo. Tayidaṃ paṭiggahaṇato pubbe vassa hoti ‘‘saṅghena sādhāraṇaṃ hotūti paṭiggahessāmī’’ti. Paṭiggaṇhantassa hoti ‘‘saṅghena sādhāraṇaṃ hotūti paṭiggaṇhāmī’’ti. Paṭiggahetvā hoti ‘‘saṅghena sādhāraṇaṃ hotūti paṭiggahitaṃ mayā’’ti evaṃ tilakkhaṇasampannaṃ katvā laddhalābhaṃ osānalakkhaṇaṃ avikopetvā paribhuñjanto sādhāraṇabhogī, appaṭivibhattabhogī ca hoti.
彼はそれらの利得を、自身の生計を浄化するために在家の者たちに与えることは決してない。「自分一人で享受しない」とは、「私の不均等の享受があってはならない」として、自分一人だけで消費しないことである。「**受納しつつ…乃至…見る**」によって、その利得を(受納前・受納時・受納後の)三つの時すべてにおいて共有のものとして置くことが示されている。「**受納しつつ『僧伽と共有のものであれ』と**」によって受納の時が示され、「**受け取って…乃至…見る**」によって受納された後の時が示される。しかしその両者は、そのような事前の作意なしにはあり得ないため、事前の時は意味の上で成就している。すなわち、受納の前には「『僧伽と共有のものであれ』と考えて受納しよう」という思いが生じる。受納している者には「『僧伽と共有のものであれ』と考えて受納している」という思いが生じる。受納した者には「『僧伽と共有のものであれ』と考えて受納した」という思いが生じる。このように三相を具足したものとし、得られた利得を最終的な相(共有性)を損なうことなく享受する者が、共有の享受者であり、不独占の享受者である。
Imaṃ pana sāraṇīyadhammanti imaṃ catutthaṃ saritabbayuttadhammaṃ. Na hi…pe… gaṇhanti, tasmā sādhāraṇabhogitā eva dussīlassa natthīti ārambhopi tāva na sambhavati, kuto pūraṇanti adhippāyo. **‘‘Parisuddhasīlo’’**ti iminā lābhassa dhammikabhāvaṃ dasseti. **‘‘Vattaṃ akhaṇḍento’’**ti iminā appaṭivibhattabhogitaṃ, sādhāraṇabhogitañca dasseti. Sati pana tadubhaye sāraṇīyadhammo pūrito eva hotīti āha **‘‘pūretī’’**ti. ‘‘Odissakaṃ **katvā’’**ti etena anodissakaṃ katvā pituno, ācariyupajjhāyādīnaṃ vā therāsanato paṭṭhāya dentassa sāraṇīyadhammoyeva hotīti. Sāraṇīyadhammo panassa na hotīti paṭijagganaṭṭhāne odissakaṃ katvā dinnattā. Tenāha **‘‘palibodhajagganaṃ nāma hotī’’**tiādi. Yadi evaṃ sabbena sabbaṃ sāraṇīyadhammapūrakassa odissakadānaṃ na vaṭṭatīti? No na vaṭṭati yuttaṭṭhāneti dassento **‘‘tena panā’’**tiādimāha. Gilānādīnaṃ odissakaṃ katvā dānaṃ appaṭivibhāgapakkhikaṃ ‘‘asukassa na dassāmī’’ti paṭikkhepassa abhāvato. Byatirekappadhāno hi paṭivibhāgo. Tenāha **‘‘avasesa’’**ntiādi. Adātumpīti pi-saddena dātumpi vaṭṭatīti dasseti, tañca kho karuṇāyanavasena, na vattapūraṇavasena.
「しかしこの憶念すべき法(sāraṇīyadhamma)を」とは、この第四の記憶されるべき相応の法を、ということである。「受け取らない…乃至…」ゆえに、破戒の者にはそもそも共有の享受そのものが存在しないため、着手すら成り立たず、ましてや成就などあり得ようか、というのが趣旨である。「**清浄な戒を持つ者**」によって、利得が如法であることを示している。「**義務を破ることなく**」によって、不独占の享受と共有の享受を示している。この両者が存在するとき、憶念すべき法は満たされるとして「**満たす**」と言った。「**特定して(限定して)**」ということにより、特定せずに父や師・親師などに、あるいは上座の座から順に与える者には、憶念すべき法そのものが存する。しかし、世話をする場面で特定して与えた場合には、彼にとって憶念すべき法とはならない。それゆえ「**障害の世話と呼ばれるものとなる**」などと言った。「もしそうであるなら、憶念すべき法を満たす者にとって、一切の特定した布施は相応しくないのか」というと、相応しい場面においては相応しくなくはないことを示すために、「**しかしそれによって**」等と言った。病者などに特定して与える布施は、「あの者には与えない」という拒絶がないため、不独占の側に属する。排他性(差別)を本質とするものが独占(偏頗な分配)だからである。それゆえ「**残りを**」等と言った。「与えないことも」という「も(pi)」の語によって、与えることも相応しいと示しており、それも慈悲の力によるものであって、義務を成就する力によるのではない。
Susikkhitāyāti sāraṇīyadhammapūraṇavidhimhi suṭṭhu sikkhitāya, sukusalāyāti attho. Idāni tassā kosallaṃ dassetuṃ **‘‘susikkhitāya hī’’**tiādi vuttaṃ. **‘‘Dvādasahi vassehi pūrati, na tato ora’’**nti iminā tassa duppūraṇaṃ dasseti. Tathā hi so mahapphalo mahānisaṃso, diṭṭhadhammikehipi tāva garutarehi phalānisaṃsehi ca anugato. Taṃsamaṅgī ca puggalo visesalābhī ariyapuggalo viya loke acchariyabbhutadhammasamannāgato hoti. Tathā hi so duppajahaṃ dānamayassa, sīlamayassa ca puññassa paṭipakkhadhammaṃ sudūre vikkhambhitaṃ katvā suvisuddhena cetasā loke pākaṭo paññāto hutvā viharati, tassimamatthaṃ byatirekato, anvayato ca vibhāvetuṃ **‘‘sace hī’’**tiādi vuttaṃ, taṃ suviññeyyameva.
「よく学んだ者によって」とは、憶念すべき法を成就する方法において善く学ばれた、善く熟練した者によって、という意味である。今、その熟練を示すために「**よく学んだ者にとっては実に**」等と説かれた。「**十二年で満たされ、それ未満では満たされない**」によって、その成就の困難さを示している。実にそれは大きな果報と大きな功徳があり、現世においても極めて重大な果報と功徳を伴うからである。それを具足した人は、殊勝な境地を得た聖者のように、世において驚くべき未曾有の法を具えた者となる。実に彼は、捨てがたい布施による福徳および戒による福徳の敵対する法を遥か遠くに鎮伏し、極めて清浄な心をもって世に顕れ知られて住むのである。彼のこの意味を、背反と順応の面から解明するために「**もし実に**」等と説かれたが、それは容易に理解できることである。
Idāni ye samparāyike, diṭṭhadhammike ca ānisaṃse dassetuṃ **‘‘eva’’**ntiādi vuttaṃ. Neva issā, na macchariyaṃ hoti cirakālabhāvanāya vidhutabhāvato. Manussānaṃ piyo hoti pariccāgasīlatāya visuddhattā. Tenāha ‘‘dadaṃ piyo hoti bhajanti naṃ bahū’’tiādi (a. ni. 5.34). Sulabhapaccayo hoti dānavasena uḷārajjhāsayānaṃ paccayalābhassa idhānisaṃsabhāvato dānassa. Pattagataṃ assa diyyamānaṃ na khīyati pattagatavasena dvādasavassikassa mahāpattassa avicchedena pūritattā. Aggabhaṇḍaṃ labhati devasikaṃ dakkhiṇeyyānaṃ aggato paṭṭhāya dānassa dinnattā. Bhayevā…pe… āpajjanti deyyapaṭiggāhakavikappaṃ akatvā attani nirapekkhacittena cirakālaṃ dānapūratāya pasāditacittattā.
今、来世および現世の功徳を示すために「**このように**」等と説かれた。長期間の修習によって(不純な心が)払拭されているため、嫉妬も物惜しみも存在しない。施しの性質によって清浄であるため、人々に愛される。それゆえ「与える者は愛され、多くの者が彼に親しむ」(増支部 5.34)等と説かれた。施しの力によって広大な意楽を持つ者たちには、ここでの施しの功徳として必需品の獲得があるため、必需品を得やすい者となる。鉢に入ったものとして与えられるものは尽きることがない。十二年間にわたり大鉢を満たすことを絶え間なく成就したからである。日々、布施に値する者たちの最上席から順に布施を与えたため、最上の品を得る。布施の品や受納者の選別をすることなく、自身に対して無執着な心で長期間にわたり布施を満たして心を清澄にしたため、畏怖に…乃至…陥ることもない。
Tatrāti tesu ānisaṃsesu vibhāvetabbesu. Imāni taṃ dīpanāni vatthūni kāraṇāni. Alabhantāpīti amahāpuññatāya na lābhino samānāpi. Bhikkhācāramaggasabhāganti sabhāgaṃ tabbhāgiyaṃ bhikkhācāramaggaṃ jānanti.
「その中で」とは、それらの功徳が解明されるべき事柄において、ということである。「これらはそれを明らかにする事例・原因である」。「得られない者たちも」とは、大いなる福徳がないために利得のない者たちであっても、ということである。「乞食行の道に適した」とは、それに相応しい乞食行の道を知る、ということである。
Anuttarimanussadhammattā, therānaṃ saṃsayavinodanatthañca **‘‘sāraṇīyadhammo me bhante pūrito’’**ti āha. Tathā hi dutiyavatthusmimpi therena attā pakāsito. Manussānaṃ piyatāya, sulabhapaccayatāyapi idaṃ vatthumeva. Pattagatākhīyanassa pana visesaṃ vibhāvanato **‘‘idaṃ tāva…pe… ettha vatthu’’**nti vuttaṃ.
(過人法を偽る意図のない)真の過人法であること、また長老たちの疑念を晴らすために、「**大徳よ、私によって憶念すべき法は満たされました**」と言った。実に第二の事例においても、長老によって自身が表明された。人々に愛されること、必需品を得やすいことにおいても、まさにこの事例である。しかし鉢に入ったものが尽きないことの特質を解明するために、「**これはまず…乃至…ここでの事例である**」と説かれた。
Giribhaṇḍamahāpūjāyāti cetiyagirimhi sakalalaṅkādīpe, yojanappamāṇe samudde ca nāvāsaṅghāṭādike ṭhapetvā dīpapupphagandhādīhi kariyamānamahāpūjāyaṃ. Pariyāyenapīti lesenapi. Anucchavikanti sāraṇīyadhammapūraṇatopi idaṃ yathābhūtappavedanaṃ tumhākaṃ anucchavikanti attho.
「ギリバンダ大供養において」とは、チェティヤギリ(寺院)において、ランカー島全体において、また一ヨージャナの広さの海上に船を連ねて筏などを設けて、灯明や花や香などによって行われた大供養において、ということである。「口実によっても」とは、方便によっても、ということである。「相応しい」とは、憶念すべき法を満たしたことからも、このありのままの表明はあなた方に相応しい、という意味である。
Anārocetvāva palāyiṃsu corabhayena. ‘‘Attano dujjīvikāyā’’ti ca vadanti.
盗賊への恐れから告げることなく逃亡した。「自らの悪しき生活によって」とも言われる。
Vaṭṭissatīti kappissati. Therī sāraṇīyadhammapūrikā ahosi, therassa pana sīlatejeneva devatā ussukkaṃ āpajji.
「相応しいであろう」とは、許されるであろう、ということである。長老尼は憶念すべき法を満たした者であったが、長老の戒の威光によってのみ神霊は熱心に配慮したのである。
Natthi etesaṃ khaṇḍanti akhaṇḍāni. Taṃ pana nesaṃ khaṇḍaṃ dassetuṃ **‘‘yassā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha upasampannasīlānaṃ uddesakkamena ādi antā veditabbā. Tenāha **‘‘sattasū’’**tiādi. Anupasampannasīlānaṃ pana samādānakkamenapi ādi antā labbhanti. Pariyante chinnasāṭako viyāti vatthante, dasante vā chinnavatthaṃ viya, visadisūdāharaṇaṃ cetaṃ ‘‘akhaṇḍānī’’ti imassa adhigatattā. Evaṃ sesānipi udāharaṇāni. Khaṇḍitabhinnatā khaṇḍaṃ, taṃ etassa atthīti khaṇḍaṃ, sīlaṃ. **‘‘Chidda’’**ntiādīsupi eseva nayo. Vemajjhe bhinnaṃ vinivijjhanavasena visabhāgavaṇṇena gāvī viyāti sambandho. Sabalarahitāni asabalāni. Tathā akammāsāni. Sīlassa taṇhādāsabyato mocanaṃ vivaṭṭūpanissayabhāvāpādanaṃ. Yasmā ca taṃsamaṅgīpuggalo serī sayaṃvasī bhujisso nāma hoti, tasmāpi bhujissāni. Tenevāha ‘‘bhujissabhāvakāraṇato **bhujissānī’’**ti. Suparisuddhabhāvena pāsaṃsattā viññupasatthāni. Imināhaṃ sīlena devo vā bhaveyyaṃ, devaññataro vā, tattha ‘‘nicco dhuvo sassato’’ti, ‘‘sīlena suddhī’’ti ca evaṃ ādinā taṇhādiṭṭhīhi aparāmaṭṭhattā. ‘‘Ayaṃ te sīlesu doso’’ti catūsupi vipattīsu yāya kāyaci vipattiyā dassanena parāmaṭṭhuṃ anuddhaṃsetuṃ. Samādhisaṃvattanappayojanāni samādhisaṃvattanikāni.
これらに欠損(khaṇḍa)がないから「破綻なき(akhaṇḍāni)」である。彼らのその欠損を示すために「**その者の**」等と言われた。そこにおいて受具足した戒については、誦出の順序によって最初と最後が知られるべきである。それゆえ「**七つにおいて**」等と言った。受具足していない戒については、受持の順序によっても最初と最後が得られる。「端が破れた下衣のように」とは、布の端や縁が破れた衣のようなものであり、これは「破綻なき」という句が肯定されたものであることに対する不同(逆)の例えである。残りの例えも同様である。欠け破れている状態が欠損(khaṇḍa)であり、それがこの戒にあるから「欠損せる(khaṇḍa)戒」である。「**穴あき(chidda)**」などの語においてもこの方法が適用される。中央で破れているのは、貫通することによって異なった色となった牝牛のようである、と結びつけられる。斑点(sabala)を離れたものが「無斑(asabalā)」である。同様に「無雑(akammāsā)」である。渇愛の奴隷状態から戒を解放することは、解脱の依処たる状態をもたらすことである。またそれを具足した人は、自由であり自らを統御する「自主の人(bhujissa)」と呼ばれるため、その点からも「自主の(bhujissāni)」である。それゆえに「自主の状態の原因であることから**自主の**」と言った。極めて清浄な状態ゆえに称賛されるべきものであるから「智者に称賛される(viññupasatthāni)」である。「この戒によって私は神となるか、神のいずれかとなろう」と考え、そこにおいて「常住であり堅固であり永遠である」とし、また「戒によって清浄となる」などという渇愛や見解によって執着されていないからである。「これがあなたの戒における過失である」と、四つの過失のいかなる過失を指摘することによっても執着させたり非難させたりすることができない。「三昧へと導く効用を持つもの」が「三昧に資する(samādhisaṃvattanikāni)」である。
Samānabhāvūpagatasīlāti sīlasampattiyā samānabhāvaṃ upagatasīlā sabhāgavuttikā. Kāmaṃ puthujjanānañca catupārisuddhisīle nānattaṃ na siyā, taṃ pana na ekantikaṃ, idaṃ ekantikaṃ niyatabhāvatoti āha **‘‘natthi maggasīle nānatta’’**nti. Taṃ sandhāyetaṃ vuttanti maggasīlaṃ sandhāya etaṃ ‘‘yāni tāni sīlānī’’tiādi vuttaṃ.
「等同の状態に達した戒を持つ」とは、戒の具足によって等同の状態に達した戒を持つ、均等な生活態度を持つ、ということである。凡夫たちの四種清浄戒にも差別がないことはあり得るが、それは決定的なものではなく、これは決定的な性質ゆえに決定的なものであるとして、「**道における戒には差別がない**」と言った。「それを指してこれが説かれた」とは、道の戒を指してこの「それらの戒とは」等が説かれた、ということである。
Yāyanti yā ayaṃ mayhañceva tumhākañca paccakkhabhūtā. Diṭṭhīti maggasammādiṭṭhi. Niddosāti nidhutadosā, samucchinnarāgādipāpadhammāti attho. Niyyātīti vaṭṭadukkhato nissarati nigacchati. Sayaṃ niyyantasseva hi ‘‘taṃsamaṅgīpuggalaṃ vaṭṭadukkhato niyyāpetī’’ti vuccati. Yā satthu anusiṭṭhi, taṃ karotīti takkaro, tassa, yathānusiṭṭhaṃ paṭipajjanakassāti attho. Samānadiṭṭhibhāvanti sadisadiṭṭhibhāvaṃ saccasampaṭivedhena abhinnadiṭṭhibhāvaṃ. Vuddhiyevāti ariyavinaye guṇehi vuḍḍhiyeva, no parihānīti ayaṃ aparihāniyadhammadesanā attanopi sāsanassa addhaniyataṃ ākaṅkhantena bhagavatā idha desitā.
「いかなる」とは、私にとってもあなた方にとっても現前にあるこの、ということである。「見(diṭṭhi)」とは、道の正見である。「無疵の」とは、過失を払い落とした、貪欲などの悪法を根絶した、という意味である。「出離する」とは、輪廻の苦しみから抜け出る、達する、ということである。自ら出離するまさにそのものが「それを具足した人を輪廻の苦しみから出離させる」と言われる。師の教誡を行う者が「それを行う者(takkaro)」であり、その者の、すなわち教誡に従って実践する者の、という意味である。「等同の見の状態」とは、等しい見の状態、真理の現観による無分別の見の状態である。「増大のみ」とは、聖者の律における徳による増大のみであり、衰退はない、ということである。この不退転法の説示は、自身の教えの久住を望む世尊によってここで説かれた。
142. Āsannaparinibbānattāti katipayamāsādhikena saṃvaccharamattena parinibbānaṃ bhavissatīti katvā vuttaṃ. Etaṃyevāti ‘‘iti sīla’’ntiādikaṃyeva iti sīlanti ettha iti-saddo pakārattho, parimāṇattho ca ekajjhaṃ katvā gahitoti āha **‘‘evaṃ sīlaṃ ettakaṃ sīla’’**nti. Evaṃ sīlanti evaṃ pabhedaṃ sīlaṃ. Ettakanti etaṃ paramaṃ, na ito bhiyyo. Catupārisuddhisīlanti maggassa sambhārabhūtaṃ lokiyacatupārisuddhisīlaṃ. Cittekaggatā samādhīti etthāpi eseva nayo. Yasmiṃ sīle ṭhatvāti yasmiṃ lokuttarakusalassa padaṭṭhānabhūte ‘‘pubbeva kho panassa kāyakammaṃ vacīkammaṃ ājīvo suparisuddho hotī’’ti (ma. ni. 3.431; kathā. 874) evaṃ vuttasīle patiṭṭhāya. Esoti maggaphalasamādhi. Paribhāvitoti tena sīlena sabbaso bhāvito sambhāvito. Mahapphalo hoti mahānisaṃsoti maggasamādhi tāva sāmaññaphalehi mahapphalo, vaṭṭadukkhavūpasamena mahānisaṃso. Itaro paṭippassaddhippahānena mahapphalo, nibbutisukhuppattiyā mahānisaṃso. Yamhi samādhimhi ṭhatvāti yasmiṃ lokuttarakusalassa padaṭṭhānabhūte pādakajjhānasamādhimhi ceva vuṭṭhānagāminisamādhimhi ca ṭhatvā. Sāti maggaphalapaññā. Tena paribhāvitāti tena yathāvuttasamādhinā sabbaso bhāvitā paribhāvitā. Mahapphalamahānisaṃsatā samādhimhi vuttanayena veditabbā. Api ca te bojjhaṅgamaggaṅgajhānaṅgappabhedahetutāya mahapphalā sattadakkhiṇeyyapuggalavibhāgahetutāya mahānisaṃsāti veditabbā. Yāya paññāya ṭhatvāti yāyaṃ vipassanāpaññāyaṃ, samādhivipassanāpaññāyaṃ vā ṭhatvā. Samathayānikassa hi samādhisahagatāpi paññā maggādhigamāya visesapaccayo hotiyeva. Sammadevāti suṭṭhuyeva yathā āsavānaṃ lesopi nāvasissati, evaṃ sabbaso āsavehi vimuccati. Aggamaggakkhaṇañhi sandhāyetaṃ vuttaṃ.
142.「完全なる涅槃が近づいたことから」とは、数ヶ月余りの一年ほどで完全なる涅槃があるであろうと考えて説かれた。「これのみを」とは、「このように戒を」等のみを、ということである。「このように戒を」のここでの「このように(iti)」の語は、様態の意味と分量の意味を併せ持ったものとして取られているため、「**このように戒を、これだけの戒を**」と言った。「このように戒を」とは、このような区分の戒を。「これだけの」とは、これが最高であり、これ以上はない、ということである。「四種清浄戒」とは、道の資糧となる世間の四種清浄戒である。「心の専注が三昧である」という点においても、これと同じ方法である。「いかなる戒に留まって」とは、出世間の善の近因となる「実に彼の身業・口業・生計はあらかじめ極めて清浄である」(中部 3.431; 論事 874)とこのように説かれた戒に立脚して、ということである。「これ」とは、道果の三昧である。「薫修された」とは、その戒によってあまねく修習され、円満に培われた、ということである。「大果・大功徳がある」とは、道の三昧はまず沙門果によって大果であり、輪廻の苦しみの寂止によって大功徳である。他方(果の三昧)は寂静による断滅によって大果であり、涅槃の楽の生起によって大功徳である。「いかなる三昧に留まって」とは、出世間の善の近因となる基礎となる禅定の三昧、および出起に至る三昧に留まって、ということである。「それ」とは、道果の智慧である。「それによって薫修された」とは、その説かれた三昧によってあまねく修習され、薫修された、ということである。大果・大功徳であることは、三昧において説かれた方法によって知られるべきである。さらに、それらは覚支・道支・禅支の区分を原因とすることから大果であり、七種の布施に値する人の区分を原因とすることから大功徳であると知られるべきである。「いかなる智慧に留まって」とは、いかなるこの如実知見の智慧、あるいは止観の智慧に留まって、ということである。止行者にとっては、三昧を伴う智慧であっても道に達するための殊勝な条件となるからである。「正しく」とは、まさに善く、煩悩の痕跡すら残らないように、このように完全に煩悩から解脱する。実に最上の道(阿羅漢道)の瞬間を指してこれが説かれたのである。
143. Lokiyatthasaddānaṃ viya abhiranta-saddassa siddhi daṭṭhabbā. Abhirantaṃ abhirataṃ abhiratīti hi atthato ekaṃ. Abhiranta-saddo cāyaṃ abhirucipariyāyo, na assādapariyāyo. Assādavasena hi katthaci vasantassa assādavatthuvigamena siyā tassa tattha anabhirati, yadidaṃ khīṇāsavānaṃ natthi, pageva buddhānanti āha **‘‘buddhānaṃ…pe… natthī’’**ti. Abhirativasena katthaci vasitvā tadabhāvato aññattha gamanaṃ nāma buddhānaṃ natthi. Veneyyavinayanatthaṃ pana katthaci vasitvā tasmiṃ siddhe veneyyavinayanatthameva tato aññattha gacchanti, ayamettha yathāruci. Āyāmāti ettha ā-saddo ‘‘āgacchā’’ti iminā samānatthoti āha **‘‘ehi yāmā’’**ti. Ayāmāti pana pāṭhe a-kāro nipātamattaṃ. Santikāvacarattā theraṃ ālapati, na pana tadā satthu santike vasantānaṃ bhikkhūnaṃ abhāvato. Aparicchinnagaṇano hi tadā bhagavato santike bhikkhusaṅgho. Tenāha ‘‘mahatā bhikkhusaṅghena saddhi’’nti. Ambalaṭṭhikāgamananti ambalaṭṭhikāgamanapaṭisaṃyuttapāṭhamāha. Pāṭaligamaneti etthāpi eseva nayo. Uttānameva anantaraṃ, heṭṭhā ca saṃvaṇṇitarūpattā.
143. 世間の語の意味のように、「歓喜した(abhiranta)」という語の成立を見るべきである。実に歓喜した(abhiranta)、深く歓喜した(abhirata)、歓喜(abhirati)とは、意味としては一つである。そしてこの「歓喜した」という語は、好意と同義であり、味愛と同義ではない。実に味愛の力によってどこかに住む者には、味愛の対象が失われることによって、そこにおいて不歓喜が生じるかもしれないが、そのようなものは煩悩の尽きた者にはなく、仏陀たちにはなおさら存在しないとして、「**仏陀たちには…乃至…ない**」と言った。歓喜の力によってどこかに住み、それがなくなることによって他所へ行くということは、仏陀たちには存在しない。しかし教化されるべき者を導くためにどこかに住み、それが達成されると、まさに教化されるべき者を導くためにそこから他所へと行かれる。これがここでの「意のままに」である。「さあ行こう(āyāma)」のここでの「ā」の語は、「来たれ(āgaccha)」という語と同義であるとして、「**来たれ、行こう**」と言った。しかし「ayāma」という読みでは、「a」の文字は単なる不変化詞(接頭辞)である。身近に仕える者であることから長老に声をかけているのであり、当時に師の身近に住む比丘たちがいなかったわけではない。実にその時、世尊の身近には数え切れない比丘僧伽がいた。それゆえ「大いなる比丘僧伽とともに」と言った。「アンバラッティカーへの赴行」とは、アンバラッティカーへの赴行に関する本文を指している。「パータリ村への赴行において」という点においても、これと同じ方法である。直後の箇所は明白であり、下文においても解説される形である。
Sāriputtasīhanādavaṇṇanā
サーリプッタの獅子吼の解説
145. ‘‘Āyasmā sāriputto’’tiādi pāṭhajātaṃ. Sampasādanīyeti sampasādanīyasutte (dī. ni. 3.141) vitthāritaṃ porāṇaṭṭhakathāyaṃ, tasmā mayampi tattheva naṃ atthato vitthārayissāmāti adhippāyo.
145. 「尊者サーリプッタは」等の文の集成がある。『浄信経』(長部 3.141)において古注釈で詳述されたので、したがって我々もまさにそこにおいてその意味を詳述しよう、というのが趣旨である。
Dussīlaādīnavavaṇṇanā
破戒の過患の解説
148. Āgantvā vasanti ettha āgantukāti āvasatho, tadeva agāranti āha **‘‘āvasathāgāranti āgantukānaṃ āvasathageha’’**nti. Dvinnaṃ rājūnanti licchavirājamagadharājūnaṃ. Sahāyakāti sevakā. Kulānīti kuṭumbike. Santhatanti santhari, sabbaṃ santhari sabbasanthari, taṃ sabbasanthariṃ. Bhāvanapuṃsakaniddeso cāyaṃ. Tenāha **‘‘yathā sabbaṃ santhataṃ hoti, eva’’**nti.
148. 外来の者たちがやって来て(āgantvā)ここに住む(vasanti)から「宿舎(āvasatha)」であり、まさにその家であるとして、「**宿舎とは外来の者たちの宿泊用の家である**」と言った。「二人の王の」とは、リッチャヴィの王とマガダの王の、ということである。「仲間たち」とは、従者たちである。「家々」とは、家長たちである。「敷かれた」とは、敷いた、すべてを敷いた、一切に敷かれた、その一切に敷かれたものを、ということである。またこれは状態を示す中性名詞の解説である。それゆえ「**すべてが敷かれたようになる、そのように**」と言った。
149. Dussīloti ettha du-saddo abhāvattho ‘‘duppañño’’tiādīsu (ma. ni. 1.449; a. ni. 5.10) viya, na garahatthoti āha **‘‘asīlo nissīlo’’**ti. Bhinnasaṃvaroti ettha yo samādinnasīlo kenaci kāraṇena sīlabhedaṃ patto, so tāva bhinnasaṃvaro hoti. Yo pana sabbena sabbaṃ asamādinnasīlo ācārahīno, so kathaṃ bhinnasaṃvaro nāma hotīti? Sopi sādhusamācārassa parihāniyassa bheditattā bhinnasaṃvaro eva nāma. Vissaṭṭhasaṃvaro saṃvararahitoti hi vuttaṃ hoti.
149. 「破戒の者(dussīla)」のここでの「du」の語は、「悪慧の者(duppañña)」など(中部 1.449; 増支部 5.10)のように非存在の意味であり、非難の意味ではないとして、「**戒なき者、戒を欠いた者**」と言った。「防護を破った者」において、受持した戒を持つ者が何らかの理由で戒の破壊に至った場合、彼はまず防護を破った者となる。しかし、全く戒を受持しておらず行儀を欠いた者は、どのようにして防護を破った者と呼ばれるのか。彼もまた、失われるべき善き行儀を壊したことから、まさに防護を破った者と呼ばれる。防護を捨て去った者、防護を離れた者と言われているのである。
Taṃ taṃ sippaṭṭhānaṃ. Māghātakāleti ‘‘mā ghātetha pāṇino’’ti evaṃ māghātāti ghosanaṃ ghositadivase.
それぞれの技術の場である。「不殺生の時に」とは、「生きものを殺してはならない」とこのように不殺生の触れが出された日に、ということである。
Abbhuggacchati pāpako kittisaddo.
悪しき悪名が立ちのぼる。
Ajjhāsayena maṅku hotiyeva vippaṭisāribhāvato.
後悔する状態であることから、意楽によって実に意気消沈する。
Tassāti dussīlassa. Samādāya pavattiṭṭhānanti uṭṭhāya samuṭṭhāya katakāraṇaṃ. Āpāthaṃ āgacchatīti taṃ manaso upaṭṭhāti. Ummīletvā idhalokanti ummīlanakāle attano puttadārādidassanavasena idha lokaṃ passati. Nimīletvā paralokanti nimīlanakāle gatinimittupaṭṭhānavasena paralokaṃ passati. Tenāha **‘‘cattāro apāyā’’**tiādi. Pañcamapadanti ‘‘kāyassa bhedā’’tiādinā vutto pañcamo ādīnavakoṭṭhāso.
「彼の」とは、破戒の者の、ということである。「取り組んで行われた場」とは、自ら立ち上がって行った行為である。「現前に現れる」とは、それが心に現起する、ということである。「目を開いてこの世を」とは、目を開く時に自身の妻子などを見ることによってこの世を見る、ということである。「目を閉じてあの世を」とは、目を閉じる時に趣の兆候が現れることによってあの世を見る、ということである。それゆえ「**四つの悪趣**」等と言った。「第五の句」とは、「身体の崩壊によって」等によって説かれた第五の過患の部類である。
Sīlavantaānisaṃsavaṇṇanā
持戒の功徳の解説
150. Vuttavipariyāyenāti vuttāya ādīnavakathāya vipariyāyena. ‘‘Appamatto taṃ taṃ kasivāṇijjādiṃ yathākālaṃ sampādetuṃ sakkotī’’tiādinā ‘‘pāsaṃsaṃ sīlamassa atthīti sīlavā. Sīlasampannoti sīlena samannāgato. Sampannasīlo’’ti evamādikaṃ pana atthavacanaṃ sukaranti anāmaṭṭhaṃ.
150. 「説かれたことの反対によって」とは、説かれた過患の説示の反対によって、ということである。「怠りなき者は、それぞれの農業や商業などを時期に応じて成就することができる」等によって、「賞賛すべき戒を彼が持っているから持戒の者である。戒を具足した者とは、戒を具えた者である。具足せる戒を持つ者」等のこのような語義説明は容易であるため、言及されなかった。
151. Pāḷimuttakāyāti saṅgītianāruḷhāya dhammikathāya. Tatthevāti āvasathāgāre eva.
151. 「聖典外の言葉によって」とは、結集に編入されていない法話によって、ということである。「まさにそこにおいて」とは、宿舎において、ということである。
Pāṭaliputtanagaramāpanavaṇṇanā
パータリプッタ城の造営の解説
152. Issariyamattāyāti issariyappamāṇena, issariyena ceva vittūpakaraṇena cāti evaṃ vā attho daṭṭhabbo. Upabhogūpakaraṇānipi hi loke ‘‘mattā’’ti vuccanti. Pāṭaligāmaṃ nagaraṃ katvāti pubbe ‘‘pāṭaligāmo’’ti laddhanāmaṃ ṭhānaṃ idāni nagaraṃ katvā. Māpentīti patiṭṭhāpenti. Āyamukhapacchindanatthanti āyadvārānaṃ upacchedanāya. **‘‘Sahassasevā’’**ti vā pāṭho, sahassaso eva. Tenāha **‘‘ekekavaggavasena sahassaṃ sahassaṃ hutvā’’**ti. Gharavatthūnīti gharapatiṭṭhāpanaṭṭhānāni. Cittāni namantīti taṃtaṃdevatānubhāvena tattha tattheva cittāni namanti vatthuvijjāpāṭhakānaṃ, yattha yattha tāhi vatthūni pariggahitāni. Sippānubhāvenāti sippānugatavijjānubhāvena. Nāgaggāhoti nāgānaṃ nivāsappariggaho. Sesadvayesupi eseva nayo. Pāsāṇoti appalakkhaṇapāsāṇo. Khāṇukoti yo koci khāṇuko. Sippaṃ jappitvā tādisaṃ sārambhaṭṭhānaṃ pariharitvā anārambhe ṭhāne tāhi vatthupariggāhikāhi devatāhi saddhiṃ mantayamānā viya taṃtaṃgehāni māpenti upadesadānavasena. Nesanti vatthuvijjāpāṭhakānaṃ, sabbāsaṃ devatānaṃ. Maṅgalaṃ vaḍḍhāpessantīti maṅgalaṃ brūhessanti. Paṇḍitadassanādīni hi uttamamaṅgalāni. Tenāha **‘‘atha maya’’**ntiādi.
152. 「主権の度合いに応じて」とは、権力の分量に応じて、権力と財産・資具によって、このように意味を見るべきである。世間では享受の資具もまた「度合い(mattā)」と呼ばれるからである。「パータリ村を城(都市)として」とは、以前は「パータリ村」と名を得ていた場所を、今や城として、ということである。「築いている」とは、建設している、ということである。「収入の道を断つために」とは、収入の門(税関など)を遮断するために、ということである。「**千の集まりによって**」という読みもあり、まさに千ずつ、ということである。それゆえ「**一つの部類ごとに千、千となって**」と言った。「屋敷地」とは、家を建てる敷地である。「心が傾く」とは、それぞれの土地を占有している神霊たちの威光によって、敷地鑑定士たちの心がまさにその場所へと傾く、ということである。「技術の威光によって」とは、技術に伴う知識の威力によって、ということである。「龍の占有」とは、龍たちの住処の占有である。残りの二つにおいてもこの方法である。「岩」とは、不吉な相を持つ岩である。「切り株」とは、何らかの切り株である。技術(呪文)を唱えて、そのような争いのある場所を避け、争いのない場所において、それらの敷地を占有する神霊たちと相談するかのように、指図を与えることによってそれぞれの家を築く。「彼らの」とは、敷地鑑定士たちの、すべての神霊たちの、ということである。「吉祥を増進させるであろう」とは、吉祥を育てるであろう、ということである。賢者との謁見などは至高の吉祥だからである。それゆえ「**そこで我らは**」等と言った。
Saddo abbhuggacchati avayavadhammena samudāyassa apadisitabbato yathā ‘‘alaṅkato devadatto’’ti.
「飾られたデーヴァダッタ」というように、部分の性質によって全体が指示されるべきであることから、名声が立ちのぼる。
Ariyakamanussānanti ariyadesavāsimanussānaṃ. Rāsivasenevāti ‘‘sahassaṃ satasahassa’’ntiādinā rāsivaseneva, appakassa pana bhaṇḍassa kayavikkayo aññatthāpi labbhatevāti ‘‘rāsivasenevā’’ti vuttaṃ. Vāṇijāya patho pavattiṭṭhānanti vaṇippathoti purimavikappe attho dutiyavikappe pana vāṇijānaṃ patho pavattiṭṭhānanti, vaṇippathoti imamatthaṃ dassento **‘‘vāṇijānaṃ vasanaṭṭhāna’’**nti āha. Bhaṇḍapuṭe bhindanti mocenti etthāti puṭabhedananti ayamettha atthoti āha **‘‘bhaṇḍapuṭe…pe… vuttaṃ hotī’’**ti.
「聖者の地の人間たちの」とは、アーリヤ国の住民たちの、ということである。「山積みにすることによってのみ」とは、「千、十万」などと山積みにすることによってのみ、しかし僅かな品物の売買は他所でも得られることから「山積みにすることによってのみ」と言われた。「商業の道・活動の場」が商路(vaṇippatha)であるというのが第一の解釈の意味であり、第二の解釈では商人たちの道・活動の場が商路であると、この意味を示すために「**商人たちの居住地**」と言った。ここで品物の包みを開き、解くことから「包みを開く場所(puṭabhedana)」であると、これがここでの意味であるとして、「**品物の包みを…乃至…説かれている**」と言った。
Ca-kārattho samuccayattho vā-saddo.
「ca」の意味は集合の意味であり、「vā」の語である。
153. Kāḷakaṇṇī sattāti attanā kaṇhadhammabahulatāya paresañca kaṇhavipākānatthanibbattinimittatāya ‘‘kāḷakaṇṇī’’ti laddhanāmā parūpaddavakarā appesakkhasattā. Tanti bhagavantaṃ. Pubbaṇhasamayanti pubbaṇhe ekaṃ samayaṃ. Gāmappavisananīhārenāti gāmappavesana nivasanākārena. Kāyapaṭibaddhaṃ katvāti cīvaraṃ pārupitvā, pattaṃ hatthena gahetvāti attho.
153. 「不吉な(貧相な)衆生」とは、自身に不善の法が多いことによって、また他者に不善の報いと無益を生じさせる因であることによって「不吉」と名を得た、他者に災いをもたらす威光の乏しい衆生のことである。「その」とは、世尊を、ということである。「午前の時に」とは、午前中の一時期に、ということである。「村に入る作法によって」とは、村に入る際の下衣を着ける様子によって、ということである。「身に結びつけて」とは、衣をまとい、鉢を手にとって、という意味である。
Etthāti etasmiṃ vā sakappitappadese. Saññateti sammadeva saññate susaṃvutakāyavācācitte.
「ここに」とは、この自身が意図した場所において、ということである。「慎みある者たちにおいて」とは、身・口・心を極めて善く慎み、善く防護した者たちにおいて、ということである。
Pattiṃ dadeyyāti attanā pasutaṃ puññaṃ tāsaṃ devatānaṃ anuppadajjeyya. **‘‘Pūjitā’’**tiādīsu tadeva pattidānaṃ pūjā, anāgate eva upaddave ārakkhasaṃvidhānaṃ paṭipūjā. ‘‘Yebhuyyena ñātimanussā ñātipetānaṃ pattidānādinā pūjanamānanādīni karonti ime pana aññātakāpi samānā tathā karonti, tasmā nesaṃ sakkaccaṃ ārakkhā saṃvidhātabbā’’ti aññamaññaṃ sampavāretvā devatā tattha ussukkaṃ āpajjantīti dassento **‘‘ime’’**tiādimāha. Balikammakaraṇaṃ mānanaṃ, sampati uppannaparissayaharaṇaṃ paṭimānanti dassetuṃ **‘‘ete’’**tiādi vuttaṃ.
「回向を与えるべきである」とは、自身が積み立てた福徳をそれらの神霊たちに振り向けて与えるべきである、ということである。「**供養された**」などにおいて、まさにその福徳の回向が供養であり、将来の災難に対して保護の手配をすることが返礼の供養である。「多くの場合、親族の人間は親族の餓鬼たちに福徳の回向などによって供養や尊敬などを行うが、この者たちは見知らぬ他者であるにもかかわらずそのように行う。それゆえ彼らを丁重に保護の手配をすべきである」と、互いに勧め合って神霊たちはそこにおいて熱心に配慮する、と示すために「**これら**」等と言った。供養を行うことが尊敬であり、今生じた危難を取り除くことが返礼の尊敬であると示すために「**それら**」等と説かれた。
Sundarāni passatīti sundarāni iṭṭhāni eva passati, na aniṭṭhāni.
「善きものを見る」とは、善き望ましいもののみを見、望ましくないものは見ない、ということである。
154. Āṇiyo koṭṭetvāti lahuke dārudaṇḍe gahetvā kavāṭaphalake viya aññamaññaṃ sambandhe kātuṃ āṇiyo koṭṭetvā. Nāvāsaṅkhepena kataṃ uḷumpaṃ, veḷunaḷādike saṅgharitvā valliādīhi kalāpavasena bandhitvā kattabbaṃ kullaṃ.
154. 「楔を打ち込んで」とは、軽い木の棒を取って、扉の板のように互いに連結させるために楔を打ち込んで、ということである。船の代用として作られたものが浮木(uḷumpa)であり、竹や葦などを集めて蔓などで束ねて結んで作られるべきものが筏(kulla)である。
Udakaṭṭhānassetaṃ adhivacananti yathāvuttassa yassa kassaci udakaṭṭhānassa etaṃ ‘‘aṇṇava’’nti adhivacanaṃ, samuddassevāti adhippāyo. Saranti idha nadī adhippetā sarati sandatīti katvā. Gambhīravitthatanti agādhaṭṭhena gambhīraṃ, sakalalokattayabyāpitāya vitthataṃ. Visajjāti anāsajja appatvā. Pallalāni tesaṃ ataraṇato. Vināyeva kullenāti īdisaṃ udakaṃ kullena īdisena vinā eva tiṇṇā medhāvino janā, taṇhāsaraṃ pana ariyamaggasaṅkhātaṃ setuṃ katvā nittiṇṇāti yojanā.
「水の場所の名称である」とは、説かれたようないかなる水の場所であっても、これに「大海(aṇṇava)」の名称がある、海のことである、というのが趣旨である。「池(sara)」とは、ここでは流れる・注ぎ出ることから川が意図されている。「深遠で広大である」とは、底知れない意味で深遠であり、三界全体に広がることから広大である。「触れることなく」とは、接触せず、達することなく、ということである。沼沢(pallala)は彼らが渡らない場所である。「筏なしにまさに」とは、このような水をこのような筏なしにまさに渡った聡明な人々、しかし渇愛の川を聖道と呼ばれる橋を架けて渡りきった、と解釈される。
Paṭhamabhāṇavāravaṇṇanā niṭṭhitā.
第一の誦品(読誦の章)の解説が終了した。
Ariyasaccakathāvaṇṇanā
四聖諦の説示の解説
155. Mahāpanādassa rañño. Pāsādakoṭiyaṃ katagāmoti pāsādassa patitathupikāya patiṭṭhitaṭṭhāne niviṭṭhagāmo. Ariyabhāvakarānanti ye paṭivijjhanti, tesaṃ ariyabhāvakarānaṃ nimittassa kattubhāvūpacāravaseneva vuttaṃ. Tacchāvipallāsabhūtabhāvena saccānaṃ. Anubodho pubbabhāgiyaṃ ñāṇaṃ, paṭivedho maggañāṇena abhisamayo, tattha yasmā anubodhapubbako paṭivedho anubodhena vinā na hoti, anubodhopi ekacco paṭivedhena sambandho, tadubhayābhāvahetukañca vaṭṭeva saṃsaraṇaṃ, tasmā vuttaṃ pāḷiyaṃ ‘‘ananubodhā…pe… tumhākañcā’’ti. Paṭisandhiggahaṇavasena bhavato bhavantarūpagamanaṃ sandhāvanaṃ, aparāparaṃ cavanupapajjanavasena sañcaraṇaṃ saṃsaraṇanti āha **‘‘bhavato’’**tiādi. Sandhāvitasaṃsaritapadānaṃ kammasādhanataṃ sandhāyāha **‘‘mayā ca tumhehi cā’’**ti paṭhamavikappe. Dutiyavikappe pana bhāvasādhanataṃ hadaye katvā **‘‘mamañceva tumhākañcā’’**ti yathārutavaseneva vuttaṃ. Nayanasamatthāti pāpanasamatthā, dīgharajjunā baddhasakuṇaṃ viya rajjuhattho puriso desantaraṃ taṇhārajjunā baddhaṃ sattasantānaṃ abhisaṅkhāro bhavantaraṃ neti etāyāti bhavanetti, taṇhā, sā ariyamaggasatthena suṭṭhu hatā chinnāti bhavanettisamūhatā.
155. マハーパナーダ王の。「宮殿の尖塔の上に作られた村」とは、宮殿の崩落した尖塔のあった場所に位置する村のことである。「聖者の状態をなすものたちの」とは、現観する者たちにとって聖者の状態をなす原因としての主体の比喩によって説かれたものである。真実にして転倒のない状態であることから「真理(諦)」である。「随覚」とは先行する知であり、「現観」とは道知による理解であり、そこにおいて随覚を先立たせる現観は随覚なしにはあり得ず、ある随覚もまた現観と結びついており、その両者の欠如を原因として輪廻において彷徨うため、聖典に「随覚しないことから…乃至…あなた方にとっても」と説かれた。結生(輪廻の再生)の受有によって存在から他の存在へと赴くことが「彷徨(sandhāvana)」であり、次々と死滅と再生によって往復することが「輪廻(saṃsaraṇa)」であるとして、「**存在から**」等と言った。彷徨い輪廻したという語の受動(業の成就)の意味を考慮して、第一の解釈において「**私によってもあなた方によっても**」と言った。しかし第二の解釈では、状態の成就を念頭に置いて、「**私にとってもあなた方にとっても**」と文字通りの意味に従って説かれた。「導く能力がある」とは、至らせる能力がある、ということであり、長い綱で繋がれた鳥のように、綱を手にした人が別の場所へと連れて行くように、渇愛という綱で繋がれた衆生の相続を行為(業形成)が別の存在へと導く、これによって導かれることから「後有を導くもの(bhavanetti、有導)」、すなわち渇愛であり、それが聖道の剣によって善く撃ち滅ぼされ断たれたから「後有の導きが絶たれた」のである。
Anāvattidhammasambodhiparāyaṇavaṇṇanā
不還の法・正覚を究極とする境地の解説
156. Dve gāmā ‘‘nātikā’’ti evaṃ laddhanāmo, ña-kārassa cāyaṃ na-kārādesena niddeso ‘‘animittā na nāyare’’tiādīsu (visuddhi. 1.174; jā. aṭṭha. 2.2.34) viya. Tenāha **‘‘ñātigāmake’’**ti. Giñjakā vuccanti iṭṭhakā, giñjakāhi eva kato āvasathoti giñjakāvasatho. So kira āvāso yathā sudhāparikammena sampayojanaṃ natthi, evaṃ iṭṭhakāhi eva cinitvā chādetvā kato. Tena vuttaṃ **‘‘iṭṭhakāmaye āvasathe’’**ti. Tulādaṇḍakavāṭaphalakāni pana dārumayāneva.
156. 二つの村が「ナーティカ」という名を得ており、この「ña」の文字は「animittā na nāyare」などのように「na」の文字への置換による表現である。それゆえ「**ニャーティカの村において**」と言った。レンガ(giñjakā)とは瓦・レンガのことであり、レンガによってのみ作られた宿舎が「レンガの宿舎(giñjakāvasatha)」である。その住居は、漆喰の仕上げの必要がないように、レンガのみを積んで屋根を葺いて作られたと伝えられる。それゆえ「**レンガ造りの宿舎において**」と説かれた。しかし梁や扉の板などは木製のものである。
157. Oraṃ vuccati kāmadhātu, paccayabhāvena taṃ oraṃ bhajantīti orambhāgiyāni, orambhāgassa vā hitāni orambhāgiyāni. Tenāha **‘‘heṭṭhābhāgiyāna’’**ntiādi. Tīhi maggehīti heṭṭhimehi tīhi maggehi. Tehi pahātabbatāya hi nesaṃ saṃyojanānaṃ orambhāgiyatā. Orambhañjiyāni vā orambhāgiyāni vuttāni niruttinayena. Idāni byatirekamukhena nesaṃ orambhāgiyabhāvaṃ vibhāvetuṃ **‘‘tatthā’’**tiādi vuttaṃ. Vikkhambhitāni samatthatāvighātena puthujjanānaṃ, samucchinnāni sabbaso abhāvena ariyānaṃ rūpārūpabhavūpapattiyā vibandhāya na hontīti vuttaṃ **‘‘avikkhambhitāni asamucchinnānī’’**ti. Nibbattavasenāti paṭisandhiggahaṇavasena. Gantuṃ na denti mahaggatagāmikammāyūhanassa vinibandhanato. Sakkāyadiṭṭhiādīni tīṇi saṃyojanāni kāmacchandabyāpādā viya mahaggatūpapattiyā avinibandhabhūtānipi kāmabhavūpapattiyā visesapaccayattā tattha mahaggatabhave nibbattampi tannibbattihetukammaparikkhaye kāmabhavūpapattipaccayatāya mahaggatabhavato ānetvā puna idheva kāmabhave eva nibbattāpenti, tasmā sabbānipi pañcapi saṃyojanāni orambhāgiyāni eva. Paṭisandhivasena anāgamanasabhāvāti paṭisandhiggahaṇavasena tasmā lokā idha na āgamanasabhāvā. Buddhadassanatheradassanadhammassavanānaṃ panatthāyassa āgamanaṃ anivāritaṃ.
157. 「下位」とは欲界のことであり、条件となることによってその下位に親しむから「下位に属するもの(下分結)」であり、あるいは下位のものに資するから「下分結」である。それゆえ「**下位に属する者たちの**」等と言った。「三つの道によって」とは、下位の三つの道によって、ということである。それらによって断じられるべきものであることから、それらの結び目(結)は下分結なのである。あるいは語源の方法によって、下位を破滅させるものが下分結と説かれた。今、背反の観点からそれらの下分結たる状態を解明するために「**そこにおいて**」等と説かれた。凡夫たちには能力の挫折によって鎮伏されたもの、聖者たちには完全な非存在によって根絶されたものが、色界・無色界の存在への転生を妨げることはないとして、「**鎮伏されず、根絶されていない**」と説かれた。「再生の力によって」とは、結生の受有の力によって、ということである。高大(色界・無色界)に至る行為の集積を妨げるため、行くことを許さない。有身見などの三つの結は、欲愛や瞋恚のように高大の転生の障害となるものではないが、欲界の存在への転生の特別な条件であるため、そこ(色界・無色界)の高大の存在に生まれたとしても、その再生の原因となる業が尽きたとき、欲界の存在への転生の条件となることによって高大の存在から引き戻し、再びまさにこの欲界の存在へと転生させる。それゆえ五つの結はすべて例外なく下分結なのである。「結生による非帰還の性質」とは、結生の受有によってその世界からここへと戻らない性質、ということである。しかし仏陀への謁見、長老への謁見、説法を聴聞するための彼の来訪は妨げられない。
Kadāci karahaci uppattiyā saviraḷākāratā pariyuṭṭhānamandatāya abahalatāti dvedhāpi tanubhāvo. Abhiṇhanti bahuso. Bahalabahalāti tibbatibbā. Yattha uppajjanti, taṃ santānaṃ maddantā, pharantā, sādhentā, andhakāraṃ karontā uppajjanti, dvīhi pana maggehi pahīnattā tanukatanukā mandamandā **uppajjanti. ‘‘Puttadhītaro hontī’’**ti idaṃ akāraṇaṃ. Tathā hi aṅgapaccaṅgaparāmasanamattenapi te honti. Idanti ‘‘rāgadosamohānaṃ tanuttā’’ti idaṃ vacanaṃ. Bhavatanukavasenāti appakabhavavasena. Tanti mahāsivattherassa vacanaṃ paṭikkhittanti sambandho. Ye bhavā ariyānaṃ labbhanti, te paripuṇṇalakkhaṇabhavā eva. Ye na labbhanti, tattha kīdisaṃ taṃ bhavatanukaṃ, tasmā ubhayathāpi bhavatanukassa asambhavo evāti dassetuṃ **‘‘sotāpannassā’’**tiādi vuttaṃ. Aṭṭhame bhave bhavatanukaṃ natthi aṭṭhamasseva bhavassa sabbasseva abhāvato. Sesesupi eseva nayo.
時たま生起することによる希薄な様態、纏(煩悩の現起)の微弱さによる希薄さという、二つの面での希薄化がある。「しばしば」とは、度々、ということである。「濃厚な」とは、極めて激しい、ということである。それらが生起する場所において、その相続を圧迫し、満たし、打ち負かし、暗黒としながら生起するが、二つの道によって断じられているため、極めて薄く微弱なものとなって**生起する。「息子や娘ができる」**というのは理由にならない。実に手足の接触だけでも彼らは生じるからである。「これ」とは、「貪・瞋・痴の微薄さによって」というこの言葉である。「生存の微薄さの力によって」とは、僅かな生存の力によって、ということである。「それ」とは、マハーシーヴァ長老の言葉が拒絶された、と結びつけられる。聖者たちに得られる生存は、完全な特徴を持つ生存そのものである。得られない生存において、そのような生存の微薄さとはいかなるものか、したがって両様において生存の微薄さはあり得ないことを示すために、「**預流者にとっての**」等と説かれた。第八の生存においては、第八の生存そのものが完全に存在しないため、生存の微薄さは存在しない。残りの者たちにおいてもこの方法である。
Kāmāvacaralokaṃ sandhāya vuttaṃ itarassa lokassa vasena tathā vattuṃ asakkuṇeyyattā. Yo hi sakadāgāmī devamanussalokesu vomissakavasena nibbattati, sopi kāmabhavavaseneva paricchinditabbo. Bhagavatā ca kāmaloke ṭhatvā ‘‘sakideva imaṃ lokaṃ āgantvā’’ti vuttaṃ, ‘‘imaṃ lokaṃ āgantvā’’ti ca iminā pañcasu sakadāgāmīsu cattāro vajjetvā ekova gahito. Ekacco hi idha sakadāgāmiphalaṃ patvā idheva parinibbāyati, ekacco idha patvā devaloke parinibbāyati, ekacco devaloke patvā tattheva parinibbāyati, ekacco devaloke patvā idhūpapajjitvā parinibbāyati, ime cattāro idha na labbhanti. Yo pana idha patvā devaloke yāvatāyukaṃ vasitvā puna idhūpapajjitvā parinibbāyati, ayaṃ idha adhippeto. Aṭṭhakathāyaṃ pana imaṃ lokanti kāmabhavo adhippetoti imamatthaṃ vibhāvetuṃ **‘‘sace hī’’**tiādinā aññaṃyeva catukkaṃ dassitaṃ.
他の世界を基準にしてはそのように言うことができないため、欲界の世界を指して説かれた。実に神や人間の世界に交錯して生まれる一度帰者も、欲界の存在を基準として限定されるべきである。そして世尊によって欲界に留まりつつ「一度だけこの世に来て」と説かれ、「この世に来て」ということによって五種の一度帰者のうち四種を除外して一者のみが取られた。実に或る者はここで一度帰果に達してここで完全な涅槃に入り、或る者はここで達して天界で完全な涅槃に入り、或る者は天界で達してまさにそこで完全な涅槃に入り、或る者は天界で達してここに生まれて完全な涅槃に入る。これら四者はここでは得られない。しかしここで達して天界で寿命の限り住し、再びここに生まれて完全な涅槃に入る者、これがここで意図されている。しかし注釈においては「この世」とは欲界の存在が意図されていると、この意味を解明するために「**もし実に**」等によって全く別の四つの組み合わせが示された。
Catūsu …pe… sabhāvoti attho apāyagamanīyānaṃ pāpadhammānaṃ sabbaso pahīnattā. Dhammaniyāmenāti maggadhammaniyāmena. Niyato uparimaggādhigamassa avassaṃbhāvibhāvato. Tenāha **‘‘sambodhiparāyaṇo’’**ti.
四つの…乃至…性質、という意味である。悪趣に至る悪法が完全に断じられているからである。「法の決定性によって」とは、聖道の法の決定性によって、ということである。上位の道の獲得が必然であることから「決定された」のである。それゆえ「**正覚を究極とする者**」と言った。
Dhammādāsadhammapariyāyavaṇṇanā
法鏡の法門の解説
158. Tesaṃ tesaṃ ñāṇagatinti tesaṃ tesaṃ sattānaṃ ‘‘asuko sotāpanno, asuko sakadāgāmī’’tiādinā taṃtaṃñāṇādhigamanaṃ. Ñāṇūpapattiṃ ñāṇābhisamparāyanti tato parampi ‘‘niyato sambodhiparāyaṇo, sakideva imaṃ lokaṃ āgantvā dukkhassantaṃ karissatī’’tiādinā ca ñāṇasahitaṃ uppattipaccayabhāvaṃ. Olokentassa ñāṇacakkhunā pekkhantassa kāyakilamathova, na tena kāci veneyyānaṃ atthasiddhīti adhippāyo. Cittavihesāti cittakhedo, sā kilesūpasaṃhitattā buddhānaṃ natthi. Ādīyati ālokīyati attā etenāti ādāsaṃ, dhammabhūtaṃ ādāsaṃ dhammādāsaṃ, ariyamaggañāṇassetaṃ adhivacanaṃ, tena ariyasāvakā catūsu ariyasaccesu viddhastasammohattā attānampi yāthāvato ñatvā yāthāvato byākareyya, tappakāsanato pana dhammapariyāyassa suttassa dhammādāsatā veditabbā. Yena dhammādāsenāti idha pana maggadhammameva vadati.
158. 「それらそれらの衆生の智慧の境地を」とは、それらそれらの衆生の「某は預流者であり、某は一度帰者である」等のそれぞれの知の獲得を。「知に基づく転生、知に基づく来世を」とは、それ以降も「決定して正覚を究極とし、一度だけこの世に来て苦しみの終わりをなすであろう」等と、知を伴った転生の条件の状態を、ということである。智慧の眼によって観察する者に見つめることによる身の疲労のみがあり、それによって教化されるべき者たちの何の利益の達成もない、というのが趣旨である。「心の疲弊」とは、心の疲れであり、それは煩悩を伴うものであるため仏陀たちには存在しない。これによって自己が捉えられ、見られるから「鏡(ādāsa)」であり、法たる鏡が「法鏡(dhammādāsa)」である。これは聖道知の名称であり、それによって聖弟子たちは四聖諦において迷妄を打ち破っているため、自身をもありのままに知ってありのままに説明することができる。しかしそれを明らかにする教説(経)の法鏡たる状態が知られるべきである。「いかなる法鏡によって」とは、ここでは道の法そのものを言っている。
Avecca yāthāvato jānitvā tannimittauppannapasādo aveccapasādo, maggādhigamena uppannapasādo, so pana yasmā pāsāṇapabbato viya niccalo, na ca kenaci kāraṇena vigacchati, tasmā vuttaṃ **‘‘acalena accutenā’’**ti.
「不壊の」とは、ありのままに知って、それを機縁として生じた清澄な信仰が「不壊の浄信」であり、道の獲得によって生じた清澄な信仰である。しかしそれは岩山のように不動であり、いかなる理由によっても消え去らないため、「**不動の、不朽の**」と説かれた。
**‘‘Pañcasīlānī’’**ti gahaṭṭhavasenetaṃ vuttaṃ tehi ekantapariharaṇīyato. Ariyānaṃ pana sabbāni sīlāni kantāneva. Tenāha **‘‘sabbopi panettha saṃvaro labbhatiyevā’’**ti.
「**五戒**」とは、在家の者を基準としてこれが説かれた。彼らによって完全に維持されるべきものだからである。しかし聖者にとってはすべての戒が好ましいものそのものである。それゆえ「**ここにおいてすべての防護もまた得られるのである**」と言った。
Sabbesanti sabbesaṃ ariyānaṃ. Sikkhāpadāvirodhenāti yathā bhūtarocanāpatti na hoti, evaṃ. Yuttaṭṭhāneti kātuṃ yuttaṭṭhāne.
「すべての者に」とは、すべての聖者たちに、ということである。「学習条項に背くことなく」とは、真実の過人法を語る罪(波逸提)とならないように、ということである。「相応しい場所において」とは、なすのに相応しい場所において、ということである。
Ambapālīgaṇikāvatthuvaṇṇanā
遊女アンバパーリーの事績の解説
161. Tadā kira vesālī iddhā phītā sabbaṅgasampannā ahosi vepullappattā, taṃ sandhāyāha **‘‘khandhake vuttanayena vesāliyā sampannabhāvo veditabbo’’**ti. Tasmiṃ kira bhikkhusaṅghe pañcasatamattā bhikkhū navā acirapabbajitā ahesuṃ osannavīriyā ca. Tathā hi vakkhati ‘‘tattha kira ekacce bhikkhū osannavīriyā’’tiādi (dī. ni. aṭṭha. 2.165). Satipaccupaṭṭhānatthanti tesaṃ satipaccupaṭṭhāpanatthaṃ. Saratīti kāyādike yathāsabhāvato ñāṇasampayuttāya satiyā anussarati upadhāreti. Sampajānātīti samaṃ pakārehi jānāti avabujjhati. Ayamettha saṅkhepo, vitthāro pana parato satipaṭṭhānavaṇṇanāyaṃ (dī. ni. aṭṭha. 2.373; ma. ni. aṭṭha. 1.106) āgamissati.
161. その当時、ヴェーサーリーは栄え、富み、すべての要素を具備して繁栄を極めていたと伝えられる。それを指して「**律の犍度篇において説かれた方法によって、ヴェーサーリーの繁栄の状態が知られるべきである**」と言った。その比丘僧伽の中には、出家して間もない五百人ほどの新参の比丘たちがおり、精進の緩んだ者たちであったと伝えられる。実に「そこにおいて、或る比丘たちは精進が緩んでおり」等(長部注釈 2.165)と説かれる通りである。「正念を確立させるために」とは、彼らに正念を現前させるために、ということである。「念ずる」とは、身などをありのままの本質から智慧を伴う念によって随念し、観察することである。「正知する」とは、等しく諸々の様相において知り、覚知することである。これがここでの要約であり、詳細は後の念処の解説(長部注釈 2.373; 中部注釈 1.106)において出てくるであろう。
Sabbasaṅgāhakanti sarīragatassa ceva vatthālaṅkāragatassa cāti sabbassa nīlabhāvassa saṅgāhakaṃ vacanaṃ. Tassevāti nīlāti sabbasaṅgāhakavasena vuttaatthasseva. Vibhāgadassananti pabhedadassanaṃ. Yathā te licchavirājāno apītādivaṇṇā eva keci vilepanavasena pītādivaṇṇā khāyiṃsu, evaṃ anīlādivaṇṇā eva keci vilepanavasena nīlādivaṇṇā khāyiṃsūti vuttaṃ **‘‘na tesaṃ pakativaṇṇo nīlo’’**tiādi. Nīlo maṇi etesūti nīlamaṇi, indanīlamahānīlādinīlaratanavinaddhā alaṅkārā. Te kira suvaṇṇaviracite hi maṇiobhāsehi ekanīlā viya khāyanti. Nīlamaṇikhacitāti nīlaratanaparikkhittā. Nīlavatthaparikkhittāti nīlavatthanīlakampalaparikkhepā. Nīlavammikehīti nīlakaghaṭaparikkhittehi. Sabbapadesūti ‘‘pītā hontī’’tiādisabbapadesu. Parivaṭṭesīti paṭighaṭṭesi. Āharanti imasmā rājapurisā balinti āhāro, tappattajanapadoti āha **‘‘sāhāranti sajanapada’’**nti. Aṅguliphoṭopi aṅguliyā cālanavaseneva hotīti vuttaṃ **‘‘aṅguliṃ cālesu’’**nti. Ambakāyāti mātugāmena. Upacāravacanaṃ hetaṃ itthīsu, yadidaṃ ‘‘ambakā mātugāmo jananikā’’ti.
「すべてを包摂する」とは、身体に属するものも衣服や装飾に属するものも、すべての青い状態を包摂する言葉である。「その者の」とは、青いというすべてを包摂することによって説かれた意味そのものの。「区分の提示」とは、種類の提示である。それらのリッチャヴィの王たちが、黄色などを帯びない色であるにもかかわらず、塗香によって黄色などの色に見えたように、青などを帯びない色であるにもかかわらず、塗香によって青などの色に見えたとして、「**彼らの本来の色が青いのではない**」等と言われた。「青い宝石がこれらの中にある」から「青き宝飾(nīlamaṇi)」であり、サファイアや大サファイアなどの青い宝石が嵌め込まれた装飾品である。それらは黄金で作られた宝飾の輝きによって一様に青いかのように見えると伝えられる。「青い宝石が散りばめられた」とは、青い宝石で囲まれた。「青い布で覆われた」とは、青い布や青い毛布で覆われた。「青い矢筒を持つ」とは、青い革の箙(えびら)を身につけた。「すべての句において」とは、「黄色である」等のすべての句において、ということである。「回転させた」とは、打ち鳴らした。「王の役人たちがここから税(bali)を徴収する(āharanti)」から「徴税区(āhāra)」であり、それに達した地方であるとして、「**地方を伴う**」と言った。指を弾くこともまた指を動かすことによって生じるとして、「**指を動かした**」と説かれた。「小娘によって」とは、女(mātugāma)によって、ということである。実にこれは「小娘、女、母」という女性に対する親愛(あるいは軽侮)の表現である。
Avalokethāti apavattitvā olokanaṃ oloketha. Taṃ pana apavattitvā olokanaṃ anu anu dassanaṃ hotīti āha **‘‘punappunaṃ passathā’’**ti. Upanethāti ‘‘yathāyaṃ licchavirājaparisā sobhātisayena yuttā, evaṃ tāvatiṃsaparisā’’ti upanayaṃ karotha. Tenāha **‘‘tāvatiṃsehi samake katvā passathā’’**ti.
「見よ(avaloketha)」とは、目をそらすことなく見つめることをせよ、ということである。しかし目をそらさずに見つめることは次々と見ることとなるとして、「**度々見よ**」と言った。「比べよ」とは、「このリッチャヴィ王の集会が際立った美しさを具えているように、三十三天の集会もそのようである」と比定をなしなさい、ということである。それゆえ「**三十三天と同等にして見よ**」と言った。
‘‘Upasaṃharatha bhikkhave licchaviparisaṃ tāvatiṃsasadisa’’nti nayidaṃ nimittaggāhe niyojanaṃ, kevalaṃ pana dibbasampattisadisā etesaṃ rājūnaṃ issariyasampattīti anupubbikathāya saggasampattikathanaṃ viya daṭṭhabbaṃ. Tesu pana bhikkhūsu ekaccānaṃ tattha nimittaggāhopi siyā, taṃ sandhāya vuttaṃ **‘‘nimittaggāhe uyyojetī’’**ti. Hitakāmatāya tesaṃ bhikkhūnaṃ yathā āyasmato nandassa hitakāmatāya saggasampattidassanaṃ. Tenāha **‘‘tatra kirā’’**tiādi. Osannavīriyāti sammāpaṭipattiyaṃ avasannavīriyā, ossaṭṭhavīriyā vāti attho. Aniccalakkhaṇavibhāvanatthanti tesaṃ rājūnaṃ vasena bhikkhūnaṃ aniccalakkhaṇavibhūtabhāvatthaṃ.
「比丘たちよ、リッチャヴィの集会を三十三天に似たものとして引き比べよ」とは、相の把握(執着)への勧奨ではなく、単に「これらの王たちの主権の繁栄は天界の栄華に似ている」と、次第の説法において天界の栄華を説くことのように見なされるべきである。しかしそれらの比丘たちの中の或る者には、そこにおいて相の把握(好意的な執着)が生じる可能性もあり、それを指して「**相の把握へと奮起させる**」と説かれた。尊者ナンダの利益を願って天界の栄華を示したように、それらの比丘たちの利益を願うことによる。それゆえ「**そこにおいて実に**」等と言った。「精進の緩んだ者たち」とは、正しい実践において精進が沈滞した者たち、あるいは精進を放棄した者たち、という意味である。「無常相を解明するために」とは、それらの王たちを通じて比丘たちにとって無常相が明白となるために、ということである。
Veḷuvagāmavassūpagamanavaṇṇanā
ヴェーTypeValue(竹林村)での安居入りの解説
163. Samīpe veḷuvagāmoti pubbaṇhaṃ vā sāyanhaṃ vā gantvā nivattanayogye āsannaṭṭhāne niviṭṭhā parivāragāmo. Saṅgammāti sammā gantvā. Assāti bhagavato.
163. 「近くのヴェーるヴァ村」とは、午前または夕方に赴いて戻るのに適した近い場所に位置する周辺の村である。「集まって」とは、善く行って。「彼の」とは、世尊の。
164. Pharusoti kakkhaḷo, garutaroti attho. Visabhāgarogoti dhātuvisabhāgatāya samuṭṭhito bahalatararogo, na ābādhamattaṃ. Ñāṇena paricchinditvāti vedanānaṃ khaṇikataṃ, dukkhataṃ, attasuññatañca yāthāvato ñāṇena paricchijja parituletvā. Adhivāsesīti tā abhibhavanto yathāparimadditākārasallakkhaṇena attani āropetvā vāsesi, na tāhi abhibhuyyamāno. Tenāha **‘‘avihaññamāno’’**tiādi. Adukkhiyamānoti cetodukkhavasena adukkhiyamāno, kāyadukkhaṃ pana ‘‘natthī’’ti na sakkā vattuṃ. Asati hi tasmiṃ adhivāsanāya eva asambhavoti. Anāmantetvāti anālapitvā. Anapaloketvāti avissajjitvā. Tenāha **‘‘ovādānusāsaniṃ adatvāti vuttaṃ hotī’’**ti. Pubbabhāgavīriyenāti phalasamāpattiyā parikammavīriyena. Phalasamāpattivīriyenāti phalasamāpattisampayuttavīriyena. Vikkhambhetvāti vinodetvā. Yathā nāma pupphanasamaye campakādirukkhe vekhe dinne yāva so vekho nāpanīyati, tāvassa pupphanasamatthatā vikkhambhitā vinoditā hoti, evameva yathāvuttavīriyavekhadānena tā vedanā satthu sarīre yathāparicchinnaṃ kālaṃ vikkhambhitā vinoditā ahesuṃ. Tena vuttaṃ ‘‘vikkhambhetvāti vinodetvā’’ti. Jīvitampi jīvitasaṅkhāro kammunā saṅkharīyatīti katvā. Chijjamānaṃ virodhipaccayasamāyogena payogasampattiyā ghaṭetvā ṭhapīyati. Adhiṭṭhāyāti adhiṭṭhānaṃ katvā. Tenāha ‘‘dasamāse mā uppajjitthāti samāpattiṃ samāpajjī’’ti. Taṃ pana ‘‘adhiṭṭhānaṃ, pavattana’’nti ca vattabbataṃ arahatīti vuttaṃ **‘‘adhiṭṭhahitvā pavattetvā’’**ti.
164. 「激しい」とは、荒々しい、極めて重大な、という意味である。「異変の病」とは、体液の不調によって生じた極めて重い病であり、単なる不調ではない。「智慧によって限定して」とは、諸々の感受の刹那性、苦しみであること、無我であることをありのままに智慧によって限定し、推量して、ということである。「忍受した」とは、それらを圧倒し、揉み潰された様相を観察することによって自身の中に引き受けて留まらせたのであり、それらに圧倒されることなく、ということである。それゆえ「**悩まされることなく**」等と言った。「苦悩することなく」とは、心の苦しみの面で苦悩することなく、ということであり、身体の苦痛が「ない」と言うことはできない。実にそれがなければ忍受そのものが成り立たないからである。「語りかけることなく」とは、言葉を交わすことなく。「告げることなく」とは、暇乞いすることなく。それゆえ「**教誡と訓戒を与えることなく、と説かれている**」と言った。「先行する精進によって」とは、果定の準備段階の精進によって。「果定の精進によって」とは、果定に伴う精進によって。「鎮伏して」とは、退けて。あたかも開花期にあるチャンパカなどの樹木に楔が打ち込まれたとき、その楔が取り除かれない限り、その開花の能力が鎮伏され退けられているように、まさにそのように説かれた精進の楔を打ち込むことによって、それらの苦痛は師の身体において限定された期間、鎮伏され退けられたのである。それゆえ「鎮伏してとは退けて」と説かれた。寿命をも「生命の形成(命行)」は業によって形成されることから、切断されそうになるのを対立する条件の結合によって、努力の成就により繋ぎ合わせて維持される。「決意して」とは、決意をなして。それゆえ「『十ヶ月の間、生じるな』と等持(果定)に入った」と言った。しかしそれは「決意すること、持続させること」とも言われるべきであるとして、「**決意し持続させて**」と説かれた。
Khaṇikasamāpattīti tādisaṃ pubbābhisaṅkhāraṃ akatvā ṭhānaso samāpajjitabbasamāpatti. Puna sarīraṃ vedanā ajjhottharati savisesapubbābhisaṅkhārassa akatattā. Rūpasattakaarūpasattakāni visuddhimaggasaṃvaṇṇanāsu (visuddhi. ṭī. 2.706, 717) vitthāritanayena veditabbāni. Suṭṭhu vikkhambheti pubbābhisaṅkhārassa sātisayattā. Idāni tamatthaṃ upamāya vibhāvetuṃ **‘‘yathā nāmā’’**tiādi vuttaṃ. Apabyūḷhoti apanīto. Cuddasahākārehi sannetvāti tesaṃyeva rūpasattakaarūpasattakānaṃ vasena cuddasahi pakārehi vipassanācittaṃ, sakalameva vā attabhāvaṃ visabhāgarogasañjanitalūkhabhāvanirogakaraṇāya sinehetvā na uppajjiyeva sammāsambuddhena sātisayasamāpattivegena suvikkhambhitattā.
「刹那の等持(定)」とは、そのような事前の準備形成をなさずにその場で入定されるべき定である。格別な事前の準備形成がなされていないため、再び身体に苦痛が覆いかぶさる。「色の七種・無色の七種」は、『清浄道論』の解説(清浄道論大疏 2.706, 717)において詳述された方法によって知られるべきである。事前の準備形成が卓越しているため、善く鎮伏する。今、その意味を例えによって解明するために「**あたかも…のように**」等と説かれた。「取り除かれた」とは、退けられた。「十四の様相によって練り上げて」とは、それらの色の七種・無色の七種を通じて十四の様相によって如実知見の心を、あるいは身体全体を、異変の病によって生じた粗暴な状態を無病にするために潤して、正等覚者によって卓越した等持の力をもって善く鎮伏されたため、生じることすら全くなかったのである。
Gilāno hutvā puna vuṭṭhitoti pubbe gilāno hutvā puna tato gilānabhāvato vuṭṭhito. Madhurakabhāvo nāma sarīrassa thambhitattaṃ, taṃ pana garubhāvapubbakanti āha **‘‘sañjātagarubhāvo sañjātathaddhabhāvo’’**ti. **‘‘Nānākārato na upaṭṭhahantī’’**ti iminā disāsammohopi me ahosi sokabalenāti dasseti. Satipaṭṭhānādidhammāti kāyānupassanādayo anupassanādhammā pubbe vibhūtā hutvā upaṭṭhahantāpi idāni mayhaṃ pākaṭā na honti.
「病んで後に立ち直った者」とは、以前に病気になり、後にその病気の状態から立ち直った者である。「甘美なる状態(脱力・硬直)」とは身体のこわばりであり、それは重さの状態を先立たせるとして、「**重さが生じ、硬直が生じた状態**」と言った。「**種々の様相において現れない**」によって、悲しみの力によって私には方角の迷妄すら生じた、と示している。「念処などの法」とは、身随観などの随観の法が、以前は明白となって現れていたのに、今や私には明らかではない、ということである。
165. Abbhantaraṃ karoti nāma attaniyeva ṭhapanato. Puggalaṃ abbhantaraṃ karoti nāma samānattatāvasena dhammena pubbe tassa saṅgaṇhato. Daharakāleti attano daharakāle. Kassaci akathetvāti kassaci attano antevāsikassa upanigūhabhūtaṃ ganthaṃ akathetvā. Muṭṭhiṃ katvāti muṭṭhigataṃ viya rahasibhūtaṃ katvā. Yasmiṃ vā naṭṭhe sabbo taṃmūlako dhammo vinassati, so ādito mūlabhūto dhammo, mussati vinassati dhammo etena naṭṭhenāti muṭṭhi, taṃ tathārūpaṃ muṭṭhiṃ katvā pariharitvā ṭhapitaṃ kiñci natthīti dasseti.
165. 「内となす」とは、自身の中にのみ留めることから言う。人を「内となす」とは、平等性(同事)の力によって法をもって以前に彼を包摂したことから言う。「若い時に」とは、自らが若かった時に。「誰にも語らずに」とは、自身のいかなる弟子にも秘匿すべき教えを語らずに。「握り拳を作って」とは、拳の中にあるかのように秘密にして。「あるいは、いかなるものが滅びたときにすべてのそれを根本とする法が滅びるのか、それが最初からの根本たる法であり、それが滅びることによって法を忘失し滅びるから『握り拳(師拳)』であり、そのように握り拳を作って保持して置かれたものは何もない」と示している。
Ahamevāti avadhāraṇaṃ bhikkhusaṅghapariharaṇassa aññasādhāraṇicchādassanatthaṃ, avadhāraṇena pana vinā **‘‘ahaṃ bhikkhusaṅgha’’**ntiādi bhikkhusaṅghapariharaṇe ahaṃkāramamaṃkārābhāvadassananti daṭṭhabbaṃ. Uddisitabbaṭṭhenāti ‘‘satthā’’ti uddisitabbaṭṭhena. Mā vā ahesuṃ bhikkhūti adhippāyo. ‘‘Mā vā ahosī’’ti vā pāṭho. Evaṃ na hotīti ‘‘ahaṃ bhikkhusaṅghaṃ pariharissāmī’’tiādi ākārena cittappavatti na hoti. **‘‘Pacchimavayaanuppattabhāvadīpanatthaṃ vutta’’**nti iminā vayo viya buddhakiccampi pariyositakammanti dīpeti. Sakaṭassa bāhappadese daḷhībhāvāya veṭhadānaṃ bāhabandho. Cakkanemisandhīnaṃ daḷhībhāvāya veṭhadānaṃ cakkabandho.
「私こそが」という限定は、比丘僧伽を統率することへの他者と共通の欲望を示すためであり、しかし限定なしには「**私は比丘僧伽を**」等と、比丘僧伽の統率における我執・我所執の非存在を示すものであると見なされるべきである。「指示されるべきという意味で」とは、「師である」と指示されるべきという意味で。「比丘たちであってはならない」というのが趣旨である。「あってはならない」という読みもある。「このようにない」とは、「私が比丘僧伽を統率しよう」等の様相で心の活動が生じない、ということである。「**最後の年齢に達した状態を解明するために説かれた**」によって、年齢のように仏陀の務めもまた終了した事業であることを明らかにしている。荷車の腕木の部分を堅固にするために巻きつけることが腕木の結束(bāhabandha)である。車輪の甑(こしき)やリムの継ぎ目を堅固にするために巻きつけることが車輪の結束(cakkabandha)である。
Tamatthanti veṭhamissakena maññeti vuttamatthaṃ. Rūpādayo eva dhammā saviggaho viya upaṭṭhānato rūpanimittādayo, tesaṃ rūpanimittādīnaṃ. Lokiyānaṃ vedanānanti yāsaṃ nirodhanena phalasamāpatti samāpajjitabbā, tāsaṃ nirodhā phāsu hoti, tathā bāḷhavedanābhitunnasarīrassāpi. Tadatthāyāti phalasamāpattivihāratthāya. Dvīhi bhāgehi āpo gato etthāti dīpo, oghena parigato hutvā anajjhotthaṭo bhūmibhāgo, idha pana catūhipi oghehi, saṃsāramahogheneva vā anajjhotthaṭo attā ‘‘dīpo’’ti adhippeto. Tenāha **‘‘mahāsamuddagatā’’**tiādi. Attassaraṇāti attappaṭisaraṇā. Attagatikā vāti attaparāyaṇāva. Mā aññagatikāti aññaṃ kiñci gatiṃ paṭisaraṇaṃ parāyaṇaṃ mā cintayittha. Kasmā? Attā nāmettha paramatthato dhammo abbhantaraṭṭhena, so evaṃ sampādito tumhākaṃ dīpaṃ tāṇaṃ gati parāyaṇanti. Tena vuttaṃ **‘‘dhammadīpā’’**tiādi. Tathā cāha ‘‘attā hi attano nātho, ko hi nātho paro siyā’’ti (dha. pa. 160, 380) upadesamattameva hi parasmiṃ paṭibaddhaṃ, aññā sabbā sampatti purisassa attādhīnā eva. Tenāha bhagavā ‘‘tumhehi kiccaṃ ātappaṃ, akkhātāro tathāgatā’’ti (dha. pa. 276). Tamaggeti tamayogassa agge tassa atikkantābhāvato. Tenevāha **‘‘ime aggatamā’’**tiādi. Mamāti mama sāsane. Sabbepi te catusatipaṭṭhānagocarā vāti catubbidhaṃ satipaṭṭhānaṃ bhāvetvā brūhetvā tadeva gocaraṃ attano pavattiṭṭhānaṃ katvā ṭhitā eva bhikkhū agge bhavissanti.
「その義を」とは、迷妄を交えて考えるという述べられた意味である。色などの諸法そのものが身体を持っているかのように現れることから色相などであり、それらの色相などのことである。「世間的な受の」とは、それらを滅することによって果等至に入定すべきであり、それらの滅によって安穏となるからであり、激しい苦痛に責め苛まれた身体にとっても同様である。「そのために」とは、果等至に住するためである。二つの部分によって水が去ったところが島(洲)であり、激流に囲まれて水没していない土地の部分である。しかしここでは四つの激流によって、あるいは輪廻の大激流によって水没していない自己が「島(洲)」と意図されている。それゆえに「大海に至った」等と言われた。「自らを帰処とする」とは、自己をより所とすることである。「自らを行く手とする」とは、自己を行く手とすることである。「他を行く手としない」とは、他のいかなる行く手や、より所や、帰処をも考えてはならないということである。なぜなら、ここにおいて自己とは勝義においては内なる義によって法であり、そのように成就されたものがあなた方の島となり、庇護となり、行く手となり、帰処となるからである。それゆえに「法を島とし」等と言われた。またそのように、「実に自己こそ自己の主である。他の誰が主であろうか」(法句経160, 380)と言われるように、教示の程度のみが他者に依存しているのであり、人の他のすべての達成は自己に依存しているのである。それゆえに世尊は「あなた方がなすべきことは熱誠であり、如来らは説く者にすぎない」(法句経276)と言われた。「暗黒の頂」とは、暗黒の結合の頂にあり、それを超え出ることがないからである。それゆえに「これらは最上である」等と言われた。「私の」とは、私の教えにおいてである。「彼らすべては四念処を行境とする」とは、四種の念処を修習し増大させ、それを行境とし自己の活動の場として確立した比丘たちこそが最上となるであろうということである。
Dutiyabhāṇavāravaṇṇanā niṭṭhitā.
第二の誦品釈が終了した。
Nimittobhāsakathāvaṇṇanā
徴相・光明説釈
166. Anekavāraṃ bhagavā vesāliyaṃ viharati, tasmā imaṃ vesālippavesanaṃ niyametvā dassetuṃ ‘‘kadā pāvisī’’ti pucchitvā āgamanato paṭṭhāya taṃ dassento **‘‘bhagavā kirā’’**tiādimāha. Āgatamaggenevāti pubbe yāva veḷuvagāmakā āgatamaggeneva paṭinivattento. Yathāparicchedenāti yathāparicchinnakālena. Tatoti phalasamāpattito. Ayanti idāni vuccamānākāro. Divāṭṭhānolokanādi parinibbānassa ekantikabhāvadassanaṃ. Ossaṭṭhoti vissaṭṭho āyusaṅkhāro ‘‘sattāhameva mayā jīvitabba’’nti.
166. 世尊は幾度となくヴェーサーリーに滞在された。それゆえに、このヴェーサーリーへの立ち入りを特定して示すために、「いつ入ったのか」と問うて、到着からの過程を示しつつ「世尊は実に」等と言われた。「来た道そのものによって」とは、以前にヴェールヴァ村に至るまでに来た道そのものによって引き返しつつ、ということである。「限定された通りに」とは、限定された時間に従って、ということである。「それから」とは、果等至から。「これは」とは、いま述べられようとしている様態である。昼の場所を観察することなどは、完全な涅槃(パリニッバーナ)が決定的であることの現れである。「放棄された」とは、「私は七日のみ生きるべきである」として寿命の行が放棄されたことである。
Jeṭṭhakaniṭṭhabhātikānanti sabbeva sabrahmacārino sandhāya vadati.
「年長の兄弟、年少の兄弟たち」とは、すべての同朋たる清浄行者たちを指して語っている。
Paṭipādessāmīti maggapaṭipattiyā niyojessāmi. Maṇiphalaketi maṇikhacite pamukhe atthataphalake. Taṃ paṭhamaṃ dassananti yaṃ veḷuvane paribbājakarūpena āgatassa siddhaṃ dassanaṃ, taṃ paṭhamadassanaṃ. Yaṃ vā anomadassissa bhagavato vacanaṃ saddahantena tadā abhinīhārakāle paccakkhato viya tumhākaṃ dassanaṃ siddhaṃ, taṃ paṭhamadassanaṃ. Paccāgamanacārikanti paccāgamanatthaṃ cārikaṃ.
「導くであろう」とは、道の修行に従事させるであろう、ということである。「宝玉の敷板において」とは、宝玉がちりばめられた正面の敷板において、ということである。「その最初の対面」とは、竹林において遍歴行者の姿でやって来た時に得られた対面、それが最初の対面である。あるいは、アノマダッシー世尊のお言葉を信じ、その誓願を立てた時に目前で見るかのようになされたあなた方の対面、それが最初の対面である。「帰還のための遊行」とは、帰還を目的とする遊行のことである。
Sattāhanti accantasaṃyoge upayogavacanaṃ. Therassa jātovarakagehaṃ kira itaragehato vivekaṭṭhaṃ, vivaṭaṅgaṇañca, tasmā devabrahmānaṃ upasaṅkamanayogyanti **‘‘jātovarakaṃ paṭijaggathā’’**ti vuttaṃ. Soti uparevato. Taṃ pavattinti tattha vasitukāmatāya vuttaṃ taṃ.
「七日間」とは、完全な継続を表す対格表現である。長老の生誕の寝室は他の部屋から離れて静寂な場所にあり、中庭が開けていたため、諸天や梵天たちが訪れるのに適していた。それゆえに「生誕の寝室を整えよ」と言われた。「彼は」とは、ウパレーヴァタのことである。「その事情を」とは、そこに住みたいと願ったことによって言われたことである。
‘‘Jānantāpi tathāgatā pucchantī’’ti (pārā. 16, 165) iminā nīhārena **thero ‘‘ke tumhe’’**ti pucchi. ‘‘Tvaṃ catūhi mahārājehi mahantataro’’ti puṭṭho attano mahattaṃ satthu upari pakkhipanto **‘‘ārāmikasadisā ete upāsike amhākaṃ satthuno’’**ti āha. Sāvakasampattikittanampi hi atthato satthu sampattiṃyeva vibhāveti.
「如来たちは知っていても問う」(波羅夷16, 165)というこの方法によって、長老は「あなた方は誰であるか」と問うた。「あなたは四大王よりも偉大である」と尋ねられた時、自らの偉大さを師の上へと帰し、「女信徒よ、これらは我らの師の園丁のようなものである」と語った。弟子の成就を称賛することも、実際には師の成就そのものを明らかにすることだからである。
Sotāpattiphale patiṭṭhāyāti therassa desanānubhāvena, attano ca upanissayasampattiyā ñāṇassa paripakkattā sotāpattiphale patiṭṭhahitvā.
「預流果に確立して」とは、長老の説法の威力によって、また自身の習気(所依)の達成によって智慧が円熟したため、預流果に確立したということである。
Ayanti yathāvuttā. Etthāti ‘‘vesāliṃ piṇḍāya pāvisī’’ti etasmiṃ vesālīpavese. Anupubbīkathāti anupubbadīpanī kathā.
「これは」とは、述べられた通りのことである。「ここにおいて」とは、「ヴェーサーリーへ托鉢に入った」というこのヴェーサーリーへの立ち入りにおいてである。「順次説」とは、順序を明らかにする話である。
167. Udenayakkhassa cetiyaṭṭhāneti udenassa nāma yakkhassa āyatanabhāvena iṭṭhakāhi cite mahājanassa cittīkataṭṭhāne. Katavihāroti bhagavantaṃ uddissa katavihāro. Vuccatīti purimavohārena ‘‘udenacetiya’’nti vuccati. Gotamakādīsupīti ‘‘gotamakacetiya’’nti evaṃ ādīsupi. Eseva nayoti cetiyaṭṭhāne katavihārabhāvaṃ atidisati. Vaḍḍhitāti bhāvanāpāripūrivasena paribrūhitā. Punappunaṃ katāti bhāvanāya bahulīkaraṇena aparāparaṃ pavattitā. Yuttayānaṃ viya katāti yathā yuttaṃ ājaññayānaṃ chekena sārathinā adhiṭṭhitaṃ yathāruci pavattati, evaṃ yathārucipavattirahataṃ gamitā. Patiṭṭhānaṭṭhenāti adhiṭṭhānaṭṭhena. Vatthu viya katāti sabbaso upakkilesavisodhanena iddhivisayatāya pavattiṭṭhānabhāvato suvisodhitaparissayavatthu viya katā. Adhiṭṭhitāti paṭipakkhadūrībhāvato subhāvitabhāvena taṃtaṃadhiṭṭhānayogyatāya ṭhapitā. Samantato citāti sabbabhāgena bhāvanupacayaṃ gamitā. Tenāha **‘‘suvaḍḍhitā’’**ti. Suṭṭhu samāraddhāti iddhibhāvanāya sikhāppattiyā sammadeva saṃsevitā.
167. 「ウデナ夜叉の霊樹の地において」とは、ウデナという名の夜叉の住まいとしてレンガで築かれ、多くの人々によって崇敬された場所において、ということである。「建立された精舎」とは、世尊のために建立された精舎のことである。「呼ばれる」とは、従来の通称によって「ウデナ霊樹(祠堂)」と呼ばれる。「ゴータマカ等においても」とは、「ゴータマカ霊樹」などにおいても同様である。「この方法と同じである」とは、霊樹の地に建立された精舎の状態を準用することである。「増大させられた」とは、修習の完成によって増大させられたことである。「再三なされた」とは、修習の反復によって絶え間なく行われたことである。「調御された車のようにされた」とは、調教された駿馬の車が熟練した御者によって御され、意のままに進むように、意のままに活動する状態に至らしめられたことである。「確立された義によって」とは、基礎づけられた義によってである。「台座のようにされた」とは、すべての随煩悩を清めることによって神通の領域の活動の場となるため、極めてよく清められた障害のない台座のようにされたことである。「習熟された」とは、対治すべきものから遠ざかることにより、よく修習された状態によって種々の決意に適するように置かれたことである。「全面的に集められた」とは、あらゆる面において修習の蓄積へと至らしめられたことである。それゆえに「極めて増大させられた」と言われた。「よく開始された」とは、神通の修習の頂点に達することによって正しく親しまれたことである。
Aniyamenāti ‘‘yassa kassacī’’ti aniyamavacanena. Niyametvāti ‘‘tathāgatassā’’ti sarūpadassanena niyametvā. Āyuppamāṇanti paramāyuppamāṇaṃ vadati, tasseva gahaṇe kāraṇaṃ brahmajālasuttavaṇṇanāyaṃ (dī. ni. aṭṭha. 1.40; dī. ni. ṭī. 1.40) vuttanayeneva veditabbaṃ. Mahāsivatthero pana ‘‘mahābodhisattānaṃ carimabhave paṭisandhidāyino kammassa asaṅkhyeyyāyukatāsaṃvattanasamatthataṃ hadaye ṭhapetvā buddhānaṃ āyusaṅkhārassa parissayavikkhambhanasamatthatā pāḷiyaṃ āgatā evāti imaṃ bhaddakappameva tiṭṭheyyā’’ti avoca. **‘‘Khaṇḍiccādīhi abhibhuyyatī’’**ti etena yathā iddhibalena jarāya na paṭighāto, evaṃ tena maraṇassapi na paṭighātoti atthato āpannamevāti. ‘‘Kva saro khitto, kva ca nipatito’’ti aññathā vuṭṭhitenāpi theravādena aṭṭhakathāvacanameva samatthitanti daṭṭhabbaṃ. Tenāha **‘‘so na ruccati…pe… niyamita’’**nti.
「無限定に」とは、「誰であれ」という無限定の言葉によってである。「特定して」とは、「如来は」と固有の姿を示すことによって特定して、ということである。「寿命の長さを」とは、最長の寿命の長さを語っている。まさにそれを採用する理由は『梵網経註釈』(長部註1.40; 長部複註1.40)において述べられた方法によって知られるべきである。しかしマハーシーヴァ長老は「大菩薩たちの最後の生において再生をもたらす業が無量寿の長さを生じる能力を心に留め、諸仏の寿命の行が障害を排する能力は聖典に現れている通りであるから、この賢劫の間存続するであろう」と述べた。「歯の欠落などによって圧倒される」ということによって、神通力によって老いが妨げられないように、それによって死も妨げられないということが実質的に導かれる。「どこへ矢が放たれ、どこへ落ちたのか」と別様に提起されたとしても、長老の説は註釈の言葉そのものを支持していると見なされるべきである。それゆえに「それは好まれない…中略…限定された」と言われた。
Pariyuṭṭhitacittoti yathā kiñci atthānatthaṃ sallakkhetuṃ na sakkā, evaṃ abhibhūtacitto. So pana abhibhavo mahatā udakoghena appakassa udakassa ajjhottharaṇaṃ viya ahosīti vuttaṃ **‘‘ajjhotthaṭacitto’’**ti. Aññopīti therato, ariyehi vā aññopi yo koci puthujjano. Puthujjanaggahaṇañcettha yathā sabbena sabbaṃ appahīnavipallāso mārena pariyuṭṭhitacitto kiñci atthaṃ sallakkhetuṃ na sakkoti, evaṃ thero bhagavatā kataṃ nimittobhāsaṃ sabbaso na sallakkhesīti dassanatthaṃ. Tenāha **‘‘māro hī’’**tiādi. Cattāro vipallāsāti asubhe ‘‘subha’’nti saññāvipallāso, cittavipallāso, dukkhe ‘‘sukha’’nti saññāvipallāso, cittavipallāsoti ime cattāro vipallāsā. Tenāti yadipi itare aṭṭha vipallāsā pahīnā, tathāpi yathāvuttānaṃ catunnaṃ vipallāsānaṃ appahīnabhāvena. Assāti therassa. Maddatīti phusanamattena maddanto viya hoti, aññathā tena maddite sattānaṃ maraṇameva siyā. Kiṃ sakkhissati, na sakkhissatīti adhippāyo. Kasmā na sakkhissati, nanu esa aggasāvakassa kucchiṃ paviṭṭhoti? Saccaṃ paviṭṭho, tañca kho attano ānubhāvadassanatthaṃ, na vibādhanādhippāyena. Vibādhanādhippāyena pana idha ‘‘kiṃ sakkhissatī’’ti vuttaṃ hadayamaddanassa adhigatattā. Nimittobhāsanti ettha ‘‘tiṭṭhatu bhagavā kappa’’nti sakalakappaṃ avaṭṭhānayācanāya ‘‘yassa kassaci ānanda cattāro iddhipādā bhāvitā’’tiādinā aññāpadesena attano caturiddhipādabhāvanānubhāvena kappaṃ avaṭṭhānasamatthatāvasena saññuppādanaṃ nimittaṃ, tathā pana pariyāyaṃ muñcitvā ujukaṃyeva attano adhippāyavibhāvanaṃ obhāso. Jānantoyeva vāti mārena pariyuṭṭhitabhāvaṃ jānanto eva. Attano aparādhahetuto sattānaṃ soko tanuko hoti, na balavāti āha **‘‘dosāropanena sokatanukaraṇattha’’**nti. Kiṃ pana thero mārena pariyuṭṭhitacittakāle pavattiṃ pacchā jānātīti? Na jānāti sabhāvena, buddhānubhāvena pana anujānāti.
「心が取り憑かれた」とは、いかなる利害も識別できないように、そのように心が圧倒されたことである。その圧倒は、巨大な水の奔流がわずかな水を覆い尽くすかのようであったため、「心が覆われた」と言われた。「他の者も」とは、長老以外の、あるいは聖者以外のいかなる凡夫をも指す。ここでの凡夫への言及は、完全に顛倒を断じていない凡夫が魔羅によって心を取り憑かれていかなる利害も識別できないように、そのように長老も世尊がなされた徴相・光明を全く識別できなかったことを示すためである。それゆえに「魔羅は実に」等と言われた。「四つの顛倒」とは、不浄に「浄」とする想の顛倒・心の顛倒、苦に「楽」とする想の顛倒・心の顛倒というこれら四つの顛倒である。「それによって」とは、他の八つの顛倒は断じられていたとしても、述べられた四つの顛倒が断じられていなかったことによる。「彼の」とは、長老の。「圧迫する」とは、触れるだけで圧迫するかのような状態になることであり、そうでなければ魔羅に圧迫された衆生は死ぬほかないであろう。「何ができようか、何もできまい」というのが意図である。なぜ何もできないのか、実に魔羅は筆頭弟子の腹に入ったではないか。確かに腹に入ったが、それは自らの威力を示すためであり、害を加える意図からではない。しかし害を加える意図については、ここでは心を圧迫することに達していたため「何ができようか」と言われたのである。「徴相・光明を」とは、ここにおいて「世尊よ、一劫の間留まりたまえ」と劫全体にわたる存続を懇願するために、「アーナンダよ、誰であれ四神足を修習した者は」等と他の口実によって自らの四神足の修習の威力により劫の間留まることができるという想を生じさせることが「徴相」であり、そのような方便を離れて率直に自らの意図を明らかにすることが「光明」である。あるいは「知りつつも」とは、魔羅に取り憑かれている状態を知りつつも、ということである。自らの過失を原因とする時、衆生の悲しみは薄らぎ、激しくならないことから、「過失を帰することによって悲しみを薄らぐものとするため」と言われた。では、長老は魔羅に心を取り憑かれていた時の出来事を後から知るのだろうか。本来の性質としては知ることはないが、仏の威力によって知るのである。
Mārayācanakathāvaṇṇanā
魔羅の請願説釈
168. Anatthe niyojento guṇamāraṇena māreti, virāgavibandhanena vā jātinimittatāya tattha tattha jātaṃ jātaṃ mārento viya hotīti **‘‘māretīti māro’’**ti vuttaṃ. Ativiya pāpatāya pāpimā. Kaṇhadhammehi samannāgato kaṇho. Virāgādiguṇānaṃ antakaraṇato antako. Sattānaṃ anatthāvahapaṭipattiṃ na muccatīti namuci. Attano mārapāsena pamatte bandhati, pamattā vā bandhū etassāti pamattabandhu. Sattamasattāhato paraṃ satta ahāni sandhāyāha **‘‘aṭṭhame sattāhe’’**ti na pana pallaṅkasattāhādi viya niyatakiccassa aṭṭhamasattāhassa nāma labbhanato. Sattamasattāhassa hi parato ajapālanigrodhamūle mahābrahmuno, sakkassa ca devarañño paṭiññātadhammadesanaṃ bhagavantaṃ ñatvā ‘‘idāni satte dhammadesanāya mama visayaṃ atikkamāpessatī’’ti sañjātadomanasso hutvā ṭhito cintesi ‘‘handa dānāhaṃ naṃ upāyena parinibbāpessāmi, evamassa manoratho aññathattaṃ gamissati, mama ca manoratho ijjhissatī’’ti. Evaṃ pana cintetvā bhagavantaṃ upasaṅkamitvā ekaṃ antaṃ ṭhito ‘‘parinibbātu dāni bhante bhagavā’’tiādinā parinibbānaṃ yāci, taṃ sandhāya vuttaṃ **‘‘aṭṭhame sattāhe’’**tiādi. Tattha ajjāti āyusaṅkhārossajjanadivasaṃ sandhāyāha. Bhagavā cassa abhisandhiṃ jānantopi taṃ anāvikatvā parinibbānassa akālabhāvameva pakāsento yācanaṃ paṭikkhipi. Tenāha **‘‘na tāvāha’’**ntiādi.
168. 不利益に従事させ、徳を殺すことによって殺す。あるいは離欲を妨げることによって、生の徴相となるため各処に生じたものを次々と殺すかのようであることから、「殺すゆえに魔羅である」と言われた。極めて邪悪であるため「悪魔」である。黒暗の諸法を具備しているため「黒暗なる者」である。離欲などの諸徳を終わらせることから「終結者」である。衆生の不利益をもたらす行いを放さないことから「ナムチ」である。自らの魔羅の罠によって放逸な者たちを縛る、あるいは放逸な者たちがその親族であることから「放逸の友」である。第七の七日間の後における七日間を指して「第八の七日間に」と言われたのであり、結跏趺坐の七日間などのように一定の役目を定めた第八の七日間という名称が得られるからではない。なぜなら第七の七日間の後、羊飼いの樹の根元で大梵天と帝釈天王に説法を承諾された世尊を知って、「今や衆生を説法によって我が領域を超え出させようとしている」と不快感を生じさせて立っていた魔羅は、「いざ、今こそ私は彼を方便によって入滅させよう。そうすれば彼の願望は破綻し、私の願望は成就するであろう」と考えたからである。このように考えて世尊に近づき、一方に立って「世尊よ、今こそ入滅してください」等と入滅を請願した。それを指して「第八の七日間に」等と言われた。そこにおいて「今日」とは、寿命の行を放棄された日を指して語っている。世尊は彼の底意を知りながらもそれを明かすことなく、入滅の時期ではないことのみを明らかにしてその請願を退けられた。それゆえに「私はまだ」等と言われた。
Maggavasena viyattāti saccasampaṭivedhaveyyattiyena byattā. Tatheva vinītāti maggavasena kilesānaṃ samucchedavinayanena vinītā. Tathā visāradāti ariyamaggādhigameneva satthusāsane vesārajjappattiyā visāradā, sārajjakarānaṃ diṭṭhivicikicchādipāpadhammānaṃ vigamena visāradabhāvaṃ pattāti attho. Yassa sutassa vasena vaṭṭadukkhato nissaraṇaṃ sambhavati, taṃ idha ukkaṭṭhaniddesena ‘‘suta’’nti adhippetanti āha **‘‘tepiṭakavasenā’’**ti. Tiṇṇaṃ piṭakānaṃ samūho tepiṭakaṃ, tīṇi vā piṭakāni tipiṭakaṃ, tipiṭakameva tepiṭakaṃ, tassa vasena. Tamevāti yaṃ taṃ tepiṭakaṃ sotabbabhāvena ‘‘suta’’nti vuttaṃ, tameva. Dhammanti pariyattidhammaṃ. Dhārentīti suvaṇṇabhājane pakkhittasīhavasaṃ viya avinassantaṃ katvā suppaguṇasuppavattibhāvena dhārenti hadaye ṭhapenti. Iti pariyattidhammavasena bahussutadhammadharabhāvaṃ dassetvā idāni paṭivedhadhammavasenapi taṃ dassetuṃ **‘‘atha vā’’**tiādi vuttaṃ. Ariyadhammassāti maggaphaladhammassa, navavidhassāpi vā lokuttaradhammassa. Anudhammabhūtanti adhigamāya anurūpadhammabhūtaṃ. Anucchavikapaṭipadanti ca tameva vipassanādhammamāha, chabbidhā visuddhiyo vā. Anudhammanti tassā yathāvuttapaṭipadāya anurūpaṃ abhisallekhitaṃ appicchatādidhammaṃ. Caraṇasīlāti samādāya pavattanasīlā. Anu maggaphaladhammo etissāti vā anudhammā, vuṭṭhānagāminivipassanā, tassā caraṇasīlā. Attano ācariyavādanti attano ācariyassa sammāsambuddhassa vādaṃ. Sadevakassa lokassa ācārasikkhāpanena ācariyo, bhagavā. Tassa vādo, catusaccadesanā.
「道によって賢明な」とは、諦の通達の巧みさによって明敏であることである。「同様に調御された」とは、道によって煩悩を断滅・調御することによって調御されたことである。「同様に確信に満ちた」とは、聖道の獲得そのものによって師の教えにおいて無畏に達したことで確信に満ちたことであり、臆病さをもたらす悪見や疑惑などの悪しき諸法が消え去ったことによって確信に満ちた状態に達した、という意味である。その聞法によって輪廻の苦しみからの脱出が可能となるような聞法が、ここでは最上の定義として「多聞(聞かれたもの)」と意図されているとして、「三蔵によって」と言われた。三つの蔵の集合が三蔵であり、あるいは三つの蔵を三蔵といい、三蔵そのものを指し、それによってということである。「まさにそれを」とは、聞くべきものであることによって「聞かれたもの」と言われたその三蔵そのもののことである。「法を」とは、教理の法を。「保持する」とは、金の器に注がれた獅子の油のように失われないようにして、極めて熟達し自在に活動する状態として保持し、心に留めることである。このように教理の法による多聞にして正法を保持する状態を示し、今や通達の法によってもそれを示すために「あるいはまた」等と言われた。「聖法の」とは、道果の法、あるいは九種の出世間法のことである。「随順する法となった」とは、証得にふさわしい法となったことである。「相応しい実践」ともまさにそのヴィパッサナーの法をいい、あるいは六種の清浄のことである。「随順する法を」とは、その述べられた実践に相応しい、少欲などの徹底した削落の法のことである。「実践を習性とする」とは、受持して活動することを習性とする者たちである。あるいは、道果の法がこれに随順するがゆえに「随法(随順する法)」、すなわち出起に至るヴィパッサナーであり、それを実践することを習性とする者たちである。「自らの師の説を」とは、自らの師である正等覚者の教説を、ということである。天を含む世界に正しい行儀を学ばせることによる師が世尊である。その説とは、四聖諦の教えである。
Ācikkhissantīti ādito kathessanti, attanā uggahitaniyāmena pare uggaṇhāpessantīti attho. Desessantīti vācessanti, pāḷiṃ sammā pabodhessantīti attho. Paññāpessantīti pajānāpessanti, saṅkāpessantīti attho. Paṭṭhapessantīti pakārehi ṭhapessanti, pakāsessantīti attho. Vivarissantīti vivaṭaṃ karissanti. Vibhajissantīti vibhattaṃ karissanti. Uttāniṃ karissantīti anuttānaṃ gambhīraṃ uttānaṃ pākaṭaṃ karissanti. Saha dhammenāti ettha dhamma-saddo kāraṇapariyāyo ‘‘hetumhi ñāṇaṃ dhammapaṭisambhidā’’tiādīsu (vibha. 270) viyāti āha **‘‘sahetukena sakāraṇena vacanenā’’**ti. Sappāṭihāriyanti sanissaraṇaṃ, yathā paravādaṃ bhañjitvā sakavādo patiṭṭhahati, evaṃ hetudāharaṇehi yathādhigatamatthaṃ sampādetvā dhammaṃ kathessanti. Tenāha **‘‘niyyānikaṃ katvā dhammaṃ desessantī’’**ti, navavidhaṃ lokuttaradhammaṃ pabodhessantīti attho. Ettha ca ‘‘paññāpessantī’’tiādīhi chahi padehi cha atthapadāni dassitāni, ādito pana dvīhi padehi cha byañjanapadāni. Ettāvatā tepiṭakaṃ buddhavacanaṃ saṃvaṇṇanānayena saṅgahetvā dassitaṃ hoti. Vuttañhetaṃ nettiyaṃ ‘‘dvādasapadāni suttaṃ, taṃ sabbaṃ byañjanañca attho cā’’ti (netti. saṅkhāre).
「語るであろう」とは、最初から話すであろう、自らが学んだ方法に従って他者に学ばせるであろう、という意味である。「説くであろう」とは、読誦するであろう、聖典を正しく覚醒させるであろう、という意味である。「知らせるであろう」とは、了知させるであろう、思索させるであろう、という意味である。「確立するであろう」とは、種々の様態で確立するであろう、開示するであろう、という意味である。「開示するであろう」とは、開かれたものとするであろう。「分別するであろう」とは、区分されたものとするであろう。「明瞭にするであろう」とは、不明瞭で深遠なものを、平易で明白なものとするであろう。「法とともに」とは、ここにおいて「法」という言葉は、「原因における智慧は法無礙解である」等(分別論270)におけるように理由と同義であるとして、「原因を具え理由を具えた言葉によって」と言われた。「奇跡を伴う(導出を伴う)」とは、脱出を伴うことであり、他人の説を打ち破って自らの説が確立するように、理由と実例によって証得された通りの義を成就して法を語るであろう、ということである。それゆえに「解脱に至るものとして法を説くであろう」と言われた。九種の出世間法を覚醒させるであろう、という意味である。そしてここにおいて、「知らせるであろう」などの六つの言葉によって六つの意味の言葉(義句)が示され、最初の二つの言葉によって六つの表現の言葉(文句)が示された。これによって三蔵の仏陀の言葉が註釈の方法に従って総括して示されたことになる。このことはネッティにおいて「十二の句は経であり、それはすべて文句であり義である」(ネッティ・諸行)と述べられている通りである。
Sikkhattayasaṅgahitanti adhisīlasikkhādisikkhattayasaṅgahaṇaṃ. Sakalaṃ sāsanabrahmacariyanti anavasesaṃ satthusāsanabhūtaṃ seṭṭhacariyaṃ. Samiddhanti sammadeva vaḍḍhitaṃ. Jhānassādavasenāti tehi tehi bhikkhūhi samadhigatajhānasukhavasena. Vuddhippattanti uḷārapaṇītabhāvagamanena sabbaso parivuddhiṃ upagataṃ. Sabbapāliphullaṃ viya abhiññāsampattivasena abhiññāsampadāhi sāsanābhivuddhiyā matthakappattito. Patiṭṭhitavasenāti patiṭṭhānavasena, patiṭṭhappattiyāti attho. Paṭivedhavasena bahuno janassa hitanti bāhujaññaṃ. Tenāha **‘‘bahujanābhisamayavasenā’’**ti. Puthu puthulaṃ bhūtaṃ jātaṃ, puthu vā puthuttaṃ bhūtaṃ pattanti puthubhūtaṃ. Tenāha **‘‘sabbākāra…pe… patta’’**nti. Suṭṭhu pakāsitanti suṭṭhu sammadeva ādikalyāṇādibhāvena paveditaṃ.
「三学に包摂された」とは、増上戒学などの三学を包摂することである。「教えの清浄行の全体を」とは、あますところのない師の教えである最上の行いを。「成就した」とは、正しく増大した。「禅定の味による」とは、それぞれの比丘たちによって獲得された禅定の楽による。「成長に至った」とは、広大で殊勝な境地へ至ることによって全面的に成長を遂げた。「すべてが満開となったかのようである」とは、神通の獲得により、神通の具足によって教えの隆盛の頂点に達したことによる。「確立したことによる」とは、確立による、確立に達したことによる、という意味である。通達によって多くの人々の利益となることが「多くの人々のためのもの」である。それゆえに「多くの人々の現観による」と言われた。広く広大となった、あるいは広大さに達したことが「広大となった」である。それゆえに「あらゆる様態において…中略…達した」と言われた。「よく開示された」とは、初めも善く等のあり方によって極めて正しく宣示されたことである。
Āyusaṅkhāraossajjanavaṇṇanā
寿命の行の放棄釈
169. Satiṃ sūpaṭṭhitaṃ katvāti ayaṃ kāyādivibhāgo attabhāvasaññito dukkhabhāro mayā ettakaṃ kālaṃ vahito, idāni pana na vahitabbo, etassa avahanatthaṃ cirataraṃ kālaṃ ariyamaggasambhāro sambhato, svāyaṃ ariyamaggo paṭividdho, yato ime kāyādayo asubhādito sammadeva pariññātā, catubbidhampi sammāsatiṃ yathātathaṃ visaye suṭṭhu upaṭṭhitaṃ katvā. Ñāṇena paricchinditvāti yasmā imassa attabhāvasaññitassa dukkhabhārassa vahane payojanabhūtaṃ attahitaṃ tāva mahābodhimūle eva parisamāpitaṃ, parahitaṃ pana buddhaveneyyavinayanaṃ parisamāpitabbaṃ, taṃ idāni māsattayeneva parisamāpanaṃ pāpuṇissati, tasmā abhāsi ‘‘visākhapuṇṇamāyaṃ parinibbāyissāmī’’ti, evaṃ buddhañāṇena paricchinditvā sabbabhāgena nicchayaṃ katvā. Āyusaṅkhāraṃ vissajjīti āyuno jīvitassa abhisaṅkhārakaṃ phalasamāpattidhammaṃ ‘‘na samāpajjissāmī’’ti vissajji taṃvissajjaneneva tena abhisaṅkhariyamānaṃ jīvitasaṅkhāraṃ ‘‘nappavattessāmī’’ti vissajji. Tenāha **‘‘tatthā’’**tiādi. Ṭhānamahantatāyapi pavattiākāramahantatāyapi mahanto pathavīkampo. Tattha ṭhānamahantatāya bhūmicālassa mahattaṃ dassetuṃ **‘‘tadā kira…pe… kampitthā’’**ti vuttaṃ. Sā pana jātikkhettabhūtā dasasahassī lokadhātu eva, na yā kāci, yā mahābhinīhāramahājātiādīsupi kampittha. Tadāpi tattikāya eva kampane kiṃ kāraṇaṃ? Jātikkhettabhāvena tasseva ādito pariggahassa katattā. Pariggahakaraṇaṃ cassa dhammatāvasena veditabbaṃ. Tathā hi purimabuddhānampi tāvatakameva jātikkhettaṃ ahosi. Tathā hi vuttaṃ ‘‘dasasahassī lokadhātū, nissaddā honti nirākulā…pe… mahāsamuddo ābhujati, dasasahassī pakampatī’’ti ca ādi (bu. vaṃ. 84-91). Udakapariyantaṃ katvā chappakārapavedhanena avītarāge bhiṃsetīti bhiṃsano, so eva bhiṃsanakoti āha **‘‘bhayajanako’’**ti. Devabheriyoti devadundubhisaddassa pariyāyavacanamattaṃ. Na cettha kāci bherī ‘‘devadundubhī’’ti adhippetā, atha kho uppātabhāvena labbhamāno ākāsagato nigghosasaddo. Tenāha **‘‘devo’’**tiādi. Devoti megho. Tassa hi acchabhāvena ākāsassa vassābhāvena sukkhagajjitasaññite sadde niccharante devadundubhisamaññā. Tenāha **‘‘devo sukkhagajjitaṃ gajjī’’**ti.
169. 「念をよく確立して」とは、この身体などの区分からなる、個体と名づけられた苦の重荷は、これまで私によって担われてきたが、今や担われるべきではない。これを担わないために長きにわたり聖道の資糧が集積され、その聖道は通達された。それによってこれら身体などは不浄などとして正しく完全知されたのであるから、四種の正念を如実にその対象においてよく確立して、ということである。「智慧によって限定して」とは、この個体と名づけられた苦の重荷を担う目的であった自利は、すでに大菩提樹の根元において完成されたが、他利である仏陀の教化されるべき者たちの調御は完成されるべきであり、それは今や三ヶ月で完成に達するであろう、それゆえに『私はヴィサーカーの満月に完全な涅槃に入るであろう』と仰せられた。このように仏の智慧によって限定し、あらゆる面から決定を下して、ということである。「寿命の行を放棄された」とは、寿命・生命を形成する果等至の法を『入定すまい』として放棄された。それを放棄することによって、それにより形成されていた生命の行を『続けさせまい』として放棄されたのである。それゆえに「そこにおいて」等と言われた。場所の広大さによっても、揺れ方の様態の壮大さによっても、大きな地震であった。そこにおいて場所の広大さによる地震の壮大さを示すために「その時実に…中略…震動した」と言われた。しかしそれは生誕の領域である一万の世界界そのものであり、他のいかなるものでもなく、偉大な誓願や誕生などの際にも震動したものである。その時にもまさにそれだけの領域が震動した理由は何であろうか。生誕の領域としてまさにそれ自身が最初から把握されていたからである。その把握されたことは法性(理法)の力によるものと知るべきである。実に過去の諸仏の生誕の領域もまたその程度であったからである。実にこのように「一万の世界界は、静まり返り混乱なく…中略…大海は渦巻き、一万(の世界)は激しく震動する」(仏種姓84-91)等と言われている通りである。水を限界として六種の激しい揺れによって未だ離欲せざる者たちを恐怖せしめるゆえに「戦慄すべきもの」であり、まさにそれが「恐怖を生じさせるもの」であるとして「恐怖を生じるもの」と言われた。「神々の鼓」とは、神の雷鳴という言葉の同義語にすぎない。ここにおいて何らかの太鼓が「神の雷鳴」と意図されているのではなく、異変として生じる空中の轟音のことである。それゆえに「神が」等と言われた。「神」とは雲のことである。雲が澄んでおり空に雨がないのに空雷と名づけられる音が響き渡る時に、神の太鼓という名称が与えられる。それゆえに「神が空雷を鳴らした」と言われた。
Pītivegavissaṭṭhanti ‘‘evaṃ cirataraṃ kālaṃ vahito ayaṃ attabhāvasaññito dukkhabhāro, idāni na cirasseva nikkhipissatī’’ti sañjātasomanasso bhagavā sabhāveneva pītivegavissaṭṭhaṃ udānaṃ udānesi. Evaṃ pana udānentena ayampi attho sādhito hotīti dassanatthaṃ aṭṭhakathāyaṃ **‘‘kasmā’’**tiādi vuttaṃ.
「歓喜の勢いに任せて放たれた」とは、「長きにわたって担われてきたこの個体と名づけられた苦の重荷は、今やまもなく投げ捨てられるであろう」と喜悦を生じさせた世尊が、ごく自然に歓喜の勢いに任せて放たれた感興の言葉(感興偈)を唱えられた。このように感興の言葉を唱えることによってこの意味もまた成就されることを示すために、註釈において「なぜか」等と言われた。
Tulīyatīti tulanti tula-saddo kammasādhanoti dassetuṃ **‘‘tulita’’**nti vuttaṃ. Appānubhāvatāya paricchinnaṃ. Tathā hi taṃ parito khaṇḍitabhāvena ‘‘paritta’’nti vuccati. Paṭipakkhavikkhambhanato dīghasantānatāya, vipulaphalatāya ca na tulaṃ na paricchinnaṃ. Yehi kāraṇehi pubbe avisesato mahaggataṃ ‘‘atula’’nti vuttaṃ, tāni kāraṇāni rūpāvacarato āruppassa sātisayāni vijjantīti **‘‘arūpāvacaraṃ atula’’**nti vuttaṃ, itarañca **‘‘tula’’**nti, appavipākaṃ tīsupi kammesu yaṃ tanuvipākaṃ hīnaṃ, taṃ tulaṃ. Bahuvipākanti yaṃ mahāvipākaṃ paṇītaṃ, taṃ atulaṃ. Yaṃ panettha majjhimaṃ, taṃ hīnaṃ, ukkaṭṭhanti dvidhā bhinditvā dvīsu bhāgesu pakkhipitabbaṃ. Hīnattikavaṇṇanāyaṃ vuttanayeneva appabahuvipākataṃ niddhāretvā tassa vasena tulātulabhāvo veditabbo. Sambhavati etasmāti sambhavoti āha **‘‘sambhavassa hetubhūta’’**nti. Niyakajjhattaratoti sasantānadhammesu vipassanāvasena, gocarāsevanāya ca nirato. Savipākaṃ samānaṃ pavattivipākamattadāyikammaṃ savipākaṭṭhena sambhavaṃ. Na ca taṃ kāmādibhavābhisaṅkhārakanti tato visesanatthaṃ ‘‘sambhava’’nti vatvā **‘‘bhavasaṅkhāra’’**nti vuttaṃ. Ossajjīti ariyamaggena avassajji. Kavacaṃ viya attabhāvaṃ pariyonandhitvā ṭhitaṃ attani sambhūtattā attasambhavaṃ kilesañca abhindīti kilesabhedasahabhāvikammossajjanaṃ dassento tadubhayassa kāraṇaṃ avoca **‘‘ajjhattarato samāhito’’**ti.
「比較衡量されるゆえに」とは、比較衡量できるものであり、「比較」という言葉は受動の意味であることを示すために「比較衡量された」と言われた。威力が小さいために限定されたものである。実にそれは周囲を断片化された状態であることから「わずかなもの」と呼ばれる。対治すべきものを排することから長い相続を持ち、広大な果報を持つがゆえに比較衡量できず、限定されない。以前に無差別において大乗的な(広大な)ものが「無比」と言われた理由、それらの理由は色界よりも無色界においてより卓越して存在することから「無色界は無比である」と言われ、他方は「有比」と言われた。三つの業の中で果報が小さく微小な果報の劣ったものが有比である。「果報の多いもの」とは、大果報にして勝れたものであり、それが無比である。ここにおいて中間のものは、劣ったものと勝れたものとの二つに分けて、二つの部分に配分されるべきである。三類の劣等の解説において述べられた方法に従って、果報の多寡を確定し、それに基づいて比較可能か無比かの状態を知るべきである。これより生じるゆえに「発生」であるとして、「発生の原因となった」と言われた。「自己の内なるものに専念する」とは、自らの相続の諸法におけるヴィパッサナーにより、また行境の実践に専念することである。果報を伴うものでありながら、転起の果報のみを与える業を、果報を伴うという意味で「発生」という。そしてそれは欲界などの生存を形成するものではないことを他と区別するために、「発生」と述べて「生存の形成(有行)」と言われた。「放棄された」とは、聖道によって断ち切られたことである。鎧のように個体を覆って存在し、自己において生じたものであるがゆえに自己に生じた煩悩をも打ち砕いた。煩悩の破壊と共にある業の放棄を示しつつ、その双方の原因を「内なるものに専念し、心を定めて」と語られた。
Tīrentoti ‘‘uppādo bhayaṃ, anuppādo khema’’ntiādinā vīmaṃsanto. ‘‘Tulento tīrento’’tiādinā saṅkhepato vuttamatthaṃ vitthārato dassetuṃ **‘‘pañcakkhandhā’’**ti ādiṃ vatvā bhavasaṅkhārassa avassajjanākāraṃ sarūpato dassesi. **‘‘Eva’’**ntiādinā pana udānavaṇṇanāyaṃ ādito vuttamatthaṃ nigamanavasena dassesi.
「観察しつつ」とは、「生起は恐怖であり、不生起は平安である」等と思索しつつ、ということである。「比較衡量し、観察しつつ」等と簡潔に述べられた意味を詳細に示すために、「五蘊」等と述べて生存の行を放棄する様態を具体的に示された。「このように」等によっては、感興の言葉の釈において最初に述べられた意味を結びとして示された。
Mahābhūmicālavaṇṇanā
大地震説釈
171. Yanti karaṇe vā adhikaraṇe vā paccattavacananti adhippāyena āha **‘‘yena samayena, yasmiṃ vā samaye’’**ti. Ukkhepakavātāti udakasandhārakavātaṃ upacchinditvā ṭhitaṭṭhānato khepakavātā. **‘‘Saṭṭhi…pe… bahala’’**nti idaṃ tassa vātassa ubbedhappamāṇameva gahetvā vuttaṃ, āyāmavitthārato pana dasasahassacakkavāḷappamāṇampi udakasandhārakavātaṃ upacchindatiyeva. Ākāseti pubbe vātena patiṭṭhitokāse. Puna vātoti ukkhepakavāte tathākatvā vigate udakasandhārakavāto puna ābandhitvā gaṇhāti yathā taṃ udakaṃ na bhassati, evaṃ utthambhentaṃ ābandhanavitānavasena bandhitvā gaṇhāti. Tato udakaṃ uggacchatīti tato ābandhitvā gahaṇato tena vātena utthambhitaṃ udakaṃ uggacchati upari gacchati. Hotiyevāti antarantarā hotiyeva. Bahalabhāvenāti mahāpathaviyā mahantabhāvena. Sakalā hi mahāpathavī tadā oggacchati, uggacchati ca, tasmā kampanaṃ na paññāyati.
171. 「いかなる」とは、具格あるいは処格の主格表現であるという意図によって、「いかなる時において、あるいはいかなる時に」と言われた。「吹き上げる風」とは、水を保持する風を断ち切って、留まっていた場所から吹き飛ばす風のことである。「六十…中略…厚い」とは、その風の高さの分量のみを取って述べられたのであり、長さと広さからは一万の世界の広さの水を保持する風をも断ち切るのである。「空間に」とは、かつて風によって支えられていた場所に。「再び風が」とは、吹き上げる風がそのようになして去った時、水を保持する風が再び結びついて捉える、すなわちその水が落下しないように、支えつつ結び目の覆いのように結びつけて捉える。「そこから水が湧き上がる」とは、そこから結びついて捉えられたことによって、その風に支えられた水が湧き上がり、上方へと昇る。「実に生じる」とは、間折々に実に生じるということである。「厚さによって」とは、大地が極めて広大であることによる。実にその時、全大地が沈み、また浮き上がるため、揺れが感知されないのである。
Ijjhanassāti icchitatthasijjhanassa. Anubhavitabbassaissariyasampattiādikassa. Parittāti paṭiladdhamattā nātisubhāvitā. Tathā ca bhāvanā balavatī na hotīti āha **‘‘dubbalā’’**ti. Saññāsīsena hi bhāvanā vuttā. Appamāṇāti paguṇā subhāvitā. Sā hi thirā daḷhatarā hotīti āha **‘‘balavā’’**ti. ‘‘Parittā pathavīsaññā, appamāṇā āposaññā’’ti desanāmattameva, āposaññāya pana subhāvitāya pathavīkampo sukheneva ijjhatīti ayamettha adhippāyo veditabbo. Saṃvejento dibbasampattiyā pamattaṃ sakkaṃ devarājānaṃ. Vīmaṃsanto vā tāvadeva samadhigataṃ attano iddhibalaṃ. Mahāmoggallānattherassa pāsādakampanaṃ pākaṭanti taṃ anāmasitvā saṅgharakkhitasāmaṇerassa pāsādakampanaṃ dassetuṃ **‘‘so kirāyasmā’’**tiādi vuttaṃ. Pūtimisso gandho etassāti pūtigandho, tena pūtigandheneva adhigatamātukucchisambhavaṃ viya gandheneva sīsena, ativiya dārako evāti attho.
「成就の」とは、望んだ目的の成就の、ということである。享受されるべき主権の達成などのことである。「限定された」とは、得られたばかりで十分に修習されていないことである。そのように修習が強力でないことから「微弱な」と言われた。想を主たるものとして修習が語られたからである。「無量の」とは、熟達し十分に修習されたことである。それは確固として極めて堅固であることから「強力な」と言われた。「限定された地想、無量の水想」というのは説法の表現にすぎず、水想が十分に修習された時に地震が容易に成就する、というのがここでの意図と知るべきである。「戦慄させつつ」とは、天界の栄華に放逸となっていた帝釈天王を、ということである。あるいは、たった今自らが得た神通力を「試みつつ」ということである。大目連長老の宮殿の揺動は周知のことであるため、それには触れず、サンガラッキタ沙弥の宮殿の揺動を示すために「その尊者は実に」等と言われた。「腐敗の混じった匂いを持つもの」が腐敗臭であり、その腐敗臭によって母の胎内から生じたばかりのような匂いによって、極めて幼い子供にすぎない、という意味である。
Ācariyanti ācariyūpadesaṃ. Iddhābhisaṅkhāro nāma iddhividhappaṭipakkhādībhāvena icchitabbo, so ca upāye kosallassa attanā na sammā uggahitattā na tāva sikkhitoti āha **‘‘asikkhitvāva yuddhaṃ paviṭṭhosī’’**ti. **‘‘Pilavanta’’**nti iminā sakalameva pāsādavatthuṃ udakaṃ katvā adhiṭṭhātabbapāsādova tattha pilavatīti dasseti. Adhiṭṭhānakkamaṃ pana upamāya dassento **‘‘tāta…pe… jānāhī’’**ti āha. Tattha kapallakapūvanti āsittakapūvaṃ, taṃ pacantā kapāle paṭhamaṃ kiñci piṭṭhaṃ ṭhapetvā anukkamena vaḍḍhetvā antantena paricchindanti pūvaṃ samantato paricchinnaṃ katvā ṭhapenti, evaṃ ‘‘āpokasiṇavasena ‘pāsādena patiṭṭhitaṭṭhānaṃ udakaṃ hotū’ti adhiṭṭhahanto samantato pāsādassa yāva pariyantā yathā udakaṃ hoti, tathā adhiṭṭhātabba’’nti upamāya upadisati.
「師を」とは、師の教示を。「神通の形成」とは、神通の種類や対治などの状態として望まれるべきものであり、それは巧みな手段を自ら正しく学んでいなかったため未だ習熟されていなかったことから、「学ばずして戦いに入った」と言われた。「浮かんでいる」とは、これによって宮殿の敷地の全体を水となし、決意されるべき宮殿そのものがそこに浮かんでいることを示している。しかしその決意の手順を比喩によって示しつつ、「我が子よ…中略…知るがよい」と語った。そこにおいて「鍋焼き菓子」とは、注ぎ焼き菓子であり、それを焼く者たちは鍋に最初にわずかな生地を置き、次第に広げて端々で区切り、菓子を四方で区切られたものとして置く。このように「水遍の力によって『宮殿の建っている場所が水となれ』と決意しつつ、宮殿の周囲の限界に至るまで水となるように、そのように決意すべし」と比喩によって教示している。
Mahāpadāne vuttamevāti ‘‘dhammatā esā, bhikkhave, yadā bodhisatto tusitā kāyā cavitvā mātukucchiṃ okkamatī’’ti (dī. ni. 2.18) vatvā ‘‘ayañca dasasahassī lokadhātu saṅkampati sampakampati sampavedhatī’’ti (dī. ni. 2.18), tathā ‘‘dhammatā esā, bhikkhave, yadā bodhisatto mātukucchimhā nikkhamatī’’ti (dī. ni. 2.30) vatvā ‘‘ayañca dasasahassī lokadhātu saṅkampati sampakampati sampavedhatī’’ti (dī. ni. 2.32) ca mahābodhisattassa gabbhokkantiyaṃ, abhijātiyañca dhammatāvasena mahāpadānepathavīkampassa vuttattā itaresupi catūsu ṭhānesu pathavīkampo dhammatāvasenevāti mahāpadāneatthato vuttaṃ evāti adhippāyo.
『大本経』において「実にこれは法性である、比丘たちよ、菩薩が兜率天の集いから没して母の胎内に宿る時」(長部2.18)と述べて「この一万の世界界は揺れ動き、激しく揺れ動き、激震する」(長部2.18)とし、同様に「実にこれは法性である、比丘たちよ、菩薩が母の胎内から出る時」(長部2.30)と述べて「この一万の世界界は揺れ動き、激しく揺れ動き、激震する」(長部2.32)と大菩薩の入胎と降誕において法性による地震が『大本経』に述べられていることから、他の四つの場合においても地震は法性の力によるものであると、『大本経』において実質的に語られている、というのが意図である。
Idāni nesaṃ pathavīkampanaṃ kāraṇato, pavattiākārato ca vibhāgaṃ dassetuṃ **‘‘iti imesū’’**tiādi vuttaṃ. Dhātukopenāti ukkhepakadhātusaṅkhātāya vāyodhātuyā pakopena. Iddhānubhāvenāti ñāṇiddhiyā vā kammavipākajiddhiyā vā pabhāvena, tejenāti attho. Puññatejenāti puññānubhāvena, mahābodhisattassa puññabalenāti attho. Ñāṇatejenāti paṭivedhañāṇānubhāvena. Sādhukāradānavasenāti yathā anaññasādhāraṇena paṭivedhañāṇānubhāvena abhihatā mahāpathavī abhisambodhiyaṃ akampittha, evaṃ anaññasādhāraṇena desanāñāṇānubhāvena abhihatā mahāpathavī akampittha, taṃ panassā sādhukāradānaṃ viya hotīti ‘‘sādhukāradānavasenā’’ti vuttaṃ.
今やそれらの地震の原因と発生の様態による区分を示すために「このようにこれらにおいて」等と言われた。「界の激動によって」とは、吹き上げる界と呼ばれる風界の激動によって。「神通の威力によって」とは、智慧の神通、あるいは業報から生じた神通の力によって、すなわち威力によって、という意味である。「功徳の威力によって」とは、功徳の威力によって、すなわち大菩薩の功徳の力によって、という意味である。「智慧の威力によって」とは、通達の智慧の威力によって。「賞賛を与えることによって」とは、他に共通しない通達の智慧の威力に打たれた大地が成道において震動したように、他に共通しない説法の智慧の威力に打たれた大地が震動した。それは大地が賞賛を与えているかのようであることから「賞賛を与えることによって」と言われた。
Yena pana bhagavā asītianubyañjanapaṭimaṇḍitadvattiṃsamahāpurisalakkhaṇa- (dī. ni. 2.33; 3.198; ma. ni. 2.385) vicitrarūpakāyo sabbākāraparisuddhasīlakkhandhādiguṇaratanasamiddhidhammakāyo puññamahattathāmamahattayasamahaāiddhimahattapaññāmahattānaṃ paramukkaṃsagato asamo asamasamo appaṭipuggalo arahaṃ sammāsambuddho attano attabhāvasaññitaṃ khandhapañcakaṃ kappaṃ vā kappāvasesaṃ vā ṭhapetuṃ samatthopi saṅkhatadhammaṃ paṭijigucchanākārappavattena ñāṇavisesena tiṇāyapi amaññamāno āyusaṅkhārossajjanavidhinā nirapekkho ossajji. Tadanubhāvābhihatā mahāpathavī āyusaṅkhārossajjane akampittha, taṃ panassā kāruññasabhāvasaṇṭhitā viya hotīti vuttaṃ **‘‘kāruññasabhāvenā’’**ti. Yasmā bhagavā parinibbānasamaye catuvīsatikoṭisatasahassasaṅkhyā samāpattiyo samāpajji antarantarā phalasamāpattisamāpajjanena, tassa pubbabhāge sātisayaṃ tikkhaṃ sūraṃ vipassanāñāṇañca pavattesi, ‘‘yadatthañca mayā evaṃ sucirakālaṃ anaññasādhāraṇo paramukkaṃsagato ñāṇasambhāro sambhato, anuttaro ca vimokkho samadhigato, tassa vata me sikhāppattaphalabhūtā accantaniṭṭhā anupādisesanibbānadhātu ajja samijjhatī’’ti bhiyyo ativiya somanassappattassa bhagavato pītivipphārādiguṇavipulatarānubhāvo parehi asādhāraṇañāṇātisayo udapādi, yassa samāpattibalasamupabrūhitassa ñāṇātisayassa ānubhāvaṃ sandhāya idaṃ vuttaṃ ‘‘dveme piṇḍapātā samasamaphalā samasamavipākā’’tiādi (udā. 75), tasmā tassa ānubhāvena samabhihatā mahāpathavī akampittha. Taṃ panassā tassaṃ velāyaṃ ārodanākārappatti viya hotīti **‘‘aṭṭhamo ārodanenā’’**ti vuttaṃ.
さらに世尊は、八十の種々相によって飾られた三十二の大士相の多彩な色身を持ち、あらゆる面で極めて清浄な戒蘊などの徳の宝を満たした法身を持ち、功徳の偉大さ、力の偉大さ、名声の偉大さ、神通の偉大さ、智慧の偉大さの究極の頂点に達し、無比であり、無比に等しく、比類なき者であり、応供・正等覚者であって、自らの個体と名づけられた五蘊を一劫の間でも、あるいは劫の残りでも保つことができたにもかかわらず、有為の法を嫌悪する様態で生じた殊勝な智慧によって草葉ほどにも思わず、寿命の行を放棄する作法により未練なく放棄された。その威力に打たれた大地が寿命の行の放棄において震動したのであり、それは大地が憐れみの情を抱いているかのようであったことから「憐れみの情によって」と言われた。世尊は入滅の時に二十四兆もの等至に果等至の入定を挟みながら入定され、その前段階において極めて鋭利で勇猛なヴィパッサナーの智慧を働かせ、「私がこのように長きにわたり他に共通しない究極の頂点に達した智慧の資糧を集積し、無上の解脱を獲得したその目的である、実に私の頂点に達した果報である究極の結着たる無余涅槃界が今日成就する」と、一層この上ない喜悦に達した世尊に歓喜の広がりなどの徳のより広大な威力が、他者には共通しない卓越した智慧が生じたのであり、その等至の力に増大させられた卓越した智慧の威力を指して「これら二つの托鉢の施食は同等の果報を持ち、同等の異熟を持つ」(自説経75)等と言われたのであって、それゆえにその威力に強く打たれた大地が震動したのである。それは大地がその時に号泣する様態に至ったかのようであることから「第八は号泣することによって」と言われた。
Idāni saṅkhepato vuttamatthaṃ vivaranto **‘‘mātukucchiṃ okkamante’’**tiādimāha. Ayaṃ panatthoti ‘‘sādhukāradānavasenā’’tiādinā vutto attho. Pathavīdevatāya vasenāti ettha samuddadevatā viya mahāpathaviyā adhidevatā kira nāma atthi. Tādise kāraṇe sati tassā cittavasena ayaṃ mahāpathavī saṅkampati sampakampati sampavedhati, yathā vātavalāhakadevatānaṃ cittavasena vātā vāyanti, sītuṇhaabbhavassavalāhakadevatānaṃ cittavasena sītādayo bhavanti. Tathā hi visākhapuṇṇamāyaṃ abhisambodhiatthaṃ bodhirukkhamūle nisinnassa lokanāthassa antarāyakaraṇatthaṃ upaṭṭhitaṃ mārabalaṃ vidhamituṃ –
今や簡潔に述べられた意味を開示しつつ「母の胎内に宿る時」等と言われた。「この意味とは」とは、「賞賛を与えることによって」等と述べられた意味のことである。「地神の力によって」とは、ここにおいて海神のように大地を司る神が実に存在するのである。そのような原因がある時、その神の心によってこの大地は揺れ動き、激しく揺れ動き、激震するのであり、風雲を司る諸天の心によって風が吹き、寒暑や雨雲を司る諸天の心によって寒さなどが生じるようなものである。実にヴィサーカーの満月に成道のために菩提樹の根元に座られた世尊の障害をなすために現れた魔羅の軍勢を打ち払うために――
‘‘Acetanāyaṃ pathavī, aviññāya sukhaṃ dukhaṃ;
「この大地は心なきものであり、苦楽を識別することもない。
Sāpi dānabalā mayhaṃ, sattakkhattuṃ pakampathā’’ti. (cariyā. 1.124) –
それすらも私の布施の力によって、七度激しく震動した」(所行蔵1.124)――
Vacanasamanantaraṃ mahāpathavī bhijjitvā saparisaṃ māraṃ parivattesi. Etanti sādhukāradānādi. Yadipi natthi acetanattā, dhammatāvasena pana vuttanayena siyāti sakkā vattuṃ. Dhammatā pana atthato dhammasabhāvo, so puññadhammassa vā ñāṇadhammassa vā ānubhāvasabhāvoti. Tayidaṃ sabbaṃ vicāritameva, evañca katvā –
という言葉の直後に、大地は裂けて従者諸共の魔羅を覆した。「これを」とは、賞賛を与えること等のことである。心なきものであるがゆえに存在しないとしても、法性の力によって述べられた方法によって生じ得ると言うことができる。しかし法性とは実際には法の本性であり、それは功徳の法、あるいは智慧の法の威力の性質である。これらすべては検討された通りであり、このようにして――
‘‘Ime dhamme sammasato, sabhāvasarasalakkhaṇe;
「自性の働きと特徴を持つこれら諸法を正しく思惟する時、
Dhammatejena vasudhā, dasasahassī pakampathā’’ti. (bu. vaṃ. 1.166);
法の威力によって一万の大地は激しく震動した」(仏種姓1.166)――
Ādi vacanañca samatthitaṃ hoti.
などの言葉もまた支持されることになる。
Niddiṭṭhanidassananti niddiṭṭhassa atthassa niyyātanaṃ, nigamananti attho. Ettāvatāti pathavīkampādiuppādajananena ceva pathavīkampassa bhagavato hetunidassanena ca. ‘‘Addhā ajja bhagavatā āyusaṅkhāro ossaṭṭho’’ti sallakkhesi pārisesañāyena. Evañhi tadā thero tamatthaṃ vīmaṃseyya nāyaṃ bhūmikampo dhātuppakopahetuko tassa apaññāyamānarūpattā, bāhirakopi isi evaṃ mahānubhāvo buddhakāle natthi, sāsanikopi satthu anārocetvā evaṃ karonto nāma natthi, sesānaṃ pañcannaṃ idāni asambhavo, evaṃ bhūmikampo cāyaṃ mahābhiṃsanako salomahaṃso ahosi, tasmā pārisesato āha ‘‘ajja bhagavatā āyusaṅkhāro ossaṭṭhoti sallakkhesī’’ti.
「示された実例を」とは、示された意味の確証、すなわち結論という意味である。「これほどまでに」とは、地震などの異変を生じさせたことによっても、地震の世尊による原因の実証によってもである。「確かに今日、世尊によって寿命の行が放棄された」と剰余の理法によって識別した。このように実にその時長老はその意味を検討したであろう。この地震は界の激動によるものではない、それに見合う姿が認められないからである。仏陀の時代には外道にもこれほどの大威力を持つ仙人はおらず、仏弟子にも師に告げずしてこのようなことをなす者はいない。残る五つは今生じるはずもない。そしてこの地震は極めて恐ろしく身の毛もよだつものであった。それゆえに残余の理から「今日、世尊によって寿命の行が放棄されたと識別した」と語られた。
Aṭṭhaparisavaṇṇanā
八衆説釈
172. Okāsaṃ adatvāti ‘‘tiṭṭhatu bhante bhagavā kappa’’ntiādi (dī. ni. 2.178) nayappavattāya therassa āyācanāya avasaraṃ adatvā. Aññānipi aṭṭhakāni sampiṇḍento hetuaṭṭhakato aññāni parisābhibhāyatanavimokkhavasena tīṇi aṭṭhakāni saṅgahetvā dassento ‘‘aṭṭha kho imā’’tiādimāha. ‘‘Āyasmato ānandassa sokuppattiṃ pariharanto vikkhepaṃ karonto’’ti keci sahasā bhaṇite balavasoko uppajjeyyāti.
172. 「機会を与えず」とは、「世尊よ、一劫の間留まりたまえ」等(長部2.178)の方法で生じた長老の懇願に機会を与えることなく、ということである。他の八つの組をも合わせつつ、原因の八つの組とは異なる、衆・勝処・解脱による三つの八つの組を包括して示すために「実にこれら八つの」等と言われた。「尊者アーナンダの悲しみの発生を回避し、気を紛らわせつつ」と一部の者たちは述べる。突然告げられたならば激しい悲しみが生じるであろうから、ということである。
Samāgantabbato, samāgacchatīti vā samāgamo, parisā. Bimbisārapamukho samāgamo bimbisārasamāgamo. Sesadvayepi eseva nayo. Bimbisāra…pe… samāgamādisadisaṃ khattiyaparisanti yojanā. Aññesu cakkavāḷesupi labbhateyeva satthu khattiyaparisādiupasaṅkamanaṃ. Ādito tehi saddhiṃ satthu bhāsanaṃ ālāpo. Kathanapaṭikathanaṃ sallāpo. Dhammupasañhitā pucchā paṭipucchā dhammasākacchā. Saṇṭhānaṃ paṭicca kathanaṃ saṇṭhānapariyāyattā vaṇṇa-saddassa ‘‘mahantaṃ hatthirājavaṇṇaṃ abhinimminitvā’’tiādīsu (saṃ. ni. 1.138) viya. **‘‘Tesa’’**nti padaṃ ubhayapadāpekkhaṃ ‘‘tesampi lakkhaṇasaṇṭhānaṃ viya satthu sarīrasaṇṭhānaṃ, tesaṃ kevalaṃ paññāyati evā’’ti. Nāpi āmukkamaṇikuṇḍalo bhagavā hotīti yojanā. Chinnassarāti dvidhābhūtassarā. Gaggarassarāti jajjaritassarā. Bhāsantaranti tesaṃ sattānaṃ bhāsato aññaṃ bhāsaṃ. Vīmaṃsāti cintanā. ‘‘Kimatthaṃ…pe… desetī’’ti idaṃ nanu attānaṃ jānāpetvā dhamme kathite tesaṃ sātisayo pasādo hotīti iminā adhippāyena vuttaṃ? Yesaṃ attānaṃ ajānāpetvāva dhamme kathite pasādo hoti, na jānāpetvā, tādise sandhāya satthā tathā karoti. Tattha payojanamāha **‘‘vāsanatthāyā’’**ti. Evaṃ sutopīti evaṃ aviññātadesako aviññātāgamanopi suto dhammo attano dhammasudhammatāyeva anāgate paccayo hoti suṇantassa.
集まるべきものであることから、あるいは集まるがゆえに集会であり、会衆のことである。ビンビサーラ王を筆頭とする集会がビンビサーラ集会である。残りの二つにおいてもこの方法と同じである。ビンビサーラ等の集会に類するものを刹帝利衆とする、と解釈される。他の世界界においても師が刹帝利衆などに近づくことは実に得られるのである。最初に彼らと共に師が語ることが「話しかけ」である。語り合い応酬することが「対話」である。法に関する問いと問い返しが「法の議論」である。容姿に関する言及は、容姿の同義語であることから「色」という言葉が「巨大な象王の姿を現じて」等(相応部1.138)におけるようになされる。「彼らの」という言葉は双方の言葉に関わり、「彼らの特徴や容姿のように師の身体の容姿もまた、彼らのものと全く同じように現れる」ということである。世尊が宝玉の耳飾りを着けることもない、と解釈される。「途切れた声」とは、二つに割れた声である。「かすれた声」とは、しゃがれた声である。「他の言語」とは、それらの衆生の言語とは異なる言語である。「思索」とは、思考のことである。「何のために…中略…説くのか」とは、実に自らを知らせた上で法を説いたならば彼らに格別の信順が生じるのではないか、というこの意図から言われたのではないか。自らを知らせることなく法を説いた時にこそ信順が生じ、知らせた時にはそうならないような人々、そのような人々を指して師はそのようになさるのである。そこにおける目的を「習気(薫習)のために」と述べた。「このように聞かれたものも」とは、このように説く者を知らず、来訪した者を知らなくても、聞かれた法は自らの法の正しさそのものによって、将来において聞く者の条件となるのである。
**‘‘Ānandā’’**tiādiko saṅgītianāruḷho pāḷidhammo eva tathā dassito. Esa nayo ito paresupi evarūpesu ṭhānesu.
「アーナンダよ」などと結集に編纂されなかった聖典の法そのものがそのように示された。この方法はこれ以降のこのような箇所においても同様である。
Aṭṭhaabhibhāyatanavaṇṇanā
八勝処説釈
173. Abhibhavatīti abhibhu, parikammaṃ, ñāṇaṃ vā. Abhibhu āyatanaṃ etassāti abhibhāyatanaṃ, jhānaṃ. Abhibhavitabbaṃ vā ārammaṇasaṅkhātaṃ āyatanaṃ etassāti abhibhāyatanaṃ. Ārammaṇābhibhavanato abhibhu ca taṃ āyatanañca yogino sukhavisesānaṃ adhiṭṭhānabhāvato, manāyatanadhammāyatanabhāvato vātipi sasampayuttaṃ jhānaṃ abhibhāyatanaṃ. Tenāha **‘‘abhibhavanakāraṇānī’’**tiādi. Tāni hīti abhibhāyatanasaññitāni jhānāni. **‘‘Puggalassa ñāṇuttariyatāyā’’**ti idaṃ ubhayatthāpi yojetabbaṃ. Kathaṃ? Paṭipakkhabhāvena paccanīkadhamme abhibhavanti puggalassa ñāṇuttariyatāya ārammaṇāni abhibhavanti. Ñāṇabaleneva hi ārammaṇābhibhavanaṃ viya paṭipakkhābhibhavo pīti.
173. 「圧倒するゆえに」勝者であり、遍作、あるいは智慧のことである。圧倒する場(処)がこれにあるゆえに勝処であり、禅定のことである。あるいは圧倒されるべき所縁と呼ばれる場がこれにあるゆえに勝処である。所縁を圧倒することから勝者であり、修行者の殊勝な楽の依処となることから、あるいは意処・法処となることから処でもあるため、相応する心・心所を伴う禅定が勝処である。それゆえに「圧倒する原因を」等と言われた。「それらは実に」とは、勝処と名づけられた禅定のことである。「人物の智慧の卓越性によって」とは、双方において結合されるべきである。どのようにか。対治すべきものとして反対の諸法を圧倒し、人物の智慧の卓越性によって所縁を圧倒する。実に智慧の力によってのみ所縁の圧倒と同様に対立物の圧倒もなされるからである。
Parikammavasena ajjhattaṃ rūpasaññī, na appanāvasena. Na hi paṭibhāganimittārammaṇā appanā ajjhattavisayā sambhavati, taṃ pana ajjhattaparikammavasena laddhaṃ kasiṇanimittaṃ avisuddhameva hoti, na bahiddhāparikammavasena laddhaṃ viya visuddhaṃ.
遍作の力によって内なる色を想うのであり、安止の力によってではない。実に似相を所縁とする安止が内なる領域に生じることはあり得ず、その内なる遍作の力によって得られた遍相(カシナ相)は不純なものにとどまり、外なる遍作の力によって得られたもののように純清ではないからである。
Parittānīti yathāladdhāni suppasarāvamattāni. Tenāha ‘‘avaḍḍhitānī’’ti. Parittavasenevāti vaṇṇavasena ābhoge vijjamānepi parittavaseneva idaṃ abhibhāyatanaṃ vuttaṃ. Parittatā hettha abhibhavanassa kāraṇaṃ. Vaṇṇābhoge satipi asatipi abhibhāyatanabhāvanā nāma tikkhapaññasseva sambhavati, na itarassāti āha **‘‘ñāṇuttariko puggalo’’**ti. Abhibhavitvā samāpajjatīti ettha abhibhavanaṃ, samāpajjanañca upacārajjhānādhigamasamanantarameva appanājhānuppādananti āha **‘‘saha nimittuppādenevettha appanaṃ pāpetī’’**ti. Saha nimittuppādenāti ca appanāparivāsābhāvassa lakkhaṇaṃ vacanametaṃ. Yo ‘‘khippābhiñño’’ti vuccati, tatopi ñāṇuttarasseva abhibhāyatanabhāvanā. Etthāti etasmiṃ nimitte. Appanaṃ pāpetīti bhāvanaṃ appanaṃ neti.
「わずかなものを」とは、得られたままの、箕や皿の大きさのものを。それゆえに「増大させられていない」と言われた。「わずかなものとしてのみ」とは、色としての思念があるとしても、わずかなものとしてのみこの勝処が語られた。ここにおいてわずかであることが圧倒の原因だからである。色の思念があろうとなかろうと、勝処の修習というものは鋭い智慧を持つ者にのみ生じるのであり、他の者には生じないとして「智慧の卓越した人物」と言われた。「圧倒して入定する」とは、ここにおいて圧倒することと入定することとは、近行禅の獲得の直後に安止禅を生じさせることであるとして「ここでは相の生起とともに安止に至らしめる」と言われた。「相の生起とともに」とは、安止の遅滞がないことの特徴を示す言葉である。「敏速な神通を持つ者」と呼ばれる者、それよりも智慧の卓越した者にのみ勝処の修習はある。「ここにおいて」とは、この相において。「安止に至らしめる」とは、修習を安止へと導くことである。
Ettha ca keci ‘‘uppanne upacārajjhāne taṃ ārabbha ye heṭṭhimantena dve tayo javanavārā pavattanti, te upacārajjhānapakkhikā eva, tadanantarañca bhavaṅgaparivāsena, upacārāsevanāya ca vinā appanā hoti, saha nimittuppādeneva appanaṃ pāpetī’’ti vadanti, taṃ tesaṃ matimattaṃ. Na hi parivāsitaparikammena appanāvāro icchito, nāpi mahaggatappamāṇajjhānesu viya upacārajjhāne ekantato paccavekkhaṇā icchitabbā, tasmā upacārajjhānādhigamanato paraṃ katipayabhavaṅgacittāvasāne appanaṃ pāpuṇanto ‘‘saha nimittuppādenevettha appanaṃ pāpetī’’ti vutto. Saha nimittuppādenevāti ca adhippāyikamidaṃ vacanaṃ, na nītatthaṃ, adhippāyo vuttanayeneva veditabbo, na antosamāpattiyaṃ tadā tathārūpassa ābhogassa asambhavato. Samāpattito vuṭṭhitassa ābhogo pubbabhāgabhāvanāyavasena jhānakkhaṇe pavattaṃ abhibhavanākāraṃ gahetvā pavattoti daṭṭhabbaṃ. Abhidhammaṭṭhakathāyaṃ pana ‘‘iminā tassa pubbābhogo kathito’’ti (dha. sa. aṭṭha. 204) vuttaṃ. Antosamāpattiyaṃ tathā ābhogābhāve kasmā ‘‘jhānasaññāyapī’’ti vuttanti āha **‘‘abhibhavana…pe… atthī’’**ti.
そしてここにおいて一部の者たちは「近行禅が生じた時、それを対象として下限として二、三の速行の反復が生じるが、それらは近行禅の側に属するものであり、その直後に有分の遅滞や近行の反復なしに安止が生じ、相の生起とともに安止に至らしめる」と述べるが、それは彼らの単なる私見である。実に準備された遍作によって安止の反復が意図されているのではなく、広大の分量の禅定におけるように近行禅において決定的に省察が意図されるべきでもない。それゆえに近行禅の獲得の後、わずかな有分心の終わりに安止に達する者を「ここでは相の生起とともに安止に至らしめる」と述べたのである。「相の生起とともに」というのは意図を含んだ言葉であり、文字通りの意味ではなく、その意図は述べられた方法によって知られるべきであり、等至の内部においてその時にそのような思念が生じることはあり得ないからである。等至から出定した者の思念は、前段階の修習の力によって禅定の瞬間に生じた圧倒の様態を捉えて生じたものと見なされるべきである。しかし『アビダルマ註釈』においては「これによって彼の事前の思念が語られた」(法集論註204)と述べられている。等至の内部にそのような思念がないのに、なぜ「禅定の想においても」と言われたのかといえば、「圧倒…中略…がある」と言われた。
Vaḍḍhitappamāṇānīti vipulappamāṇānīti attho, na ekaṅguladvaṅgulādivasena vaḍḍhiṃ pāpitānīti tathā vaḍḍhanassevettha asambhavato. Tenāha **‘‘mahantānī’’**ti. Bhattavaḍḍhitakanti bhuñjanabhājanaṃ vaḍḍhetvā dinnabhattaṃ, ekāsane purisena bhuñjitabbabhattato upaḍḍhabhattanti attho.
「増大させられた分量のものを」とは、広大な分量のものを、という意味であり、一指や二指などの単位で増大に至らしめられたものではない。ここではそのように増大させること自体があり得ないからである。それゆえに「巨大なものを」と言われた。「飯の増量」とは、食事の器を増やして与えられた食事であり、一度の座席で男によって食されるべき食事の半分の食事、という意味である。
Rūpe saññā rūpasaññā, sā assa atthīti rūpasaññī, na rūpasaññī arūpasaññī, saññāsīsena jhānaṃ vadati. Rūpasaññāya anuppādanaṃ evettha alābhitā.
色における想が色想であり、それが彼にあるゆえに「色想ある者」、色想なき者が「無色想の者」であり、想を主たるものとして禅定を語っている。色想を生じさせないことそのものが、ここでは得ていないことである。
Bahiddhāva uppannanti bahiddhā vatthusmiṃyeva uppannaṃ. Abhidhamme pana ‘‘ajjhattaṃ arūpasaññī bahiddhā rūpāni passati parittāni suvaṇṇadubbaṇṇāni…pe… appamāṇāni suvaṇṇadubbaṇṇānī’’ti (dha. sa. 220) evaṃ catunnaṃ abhibhāyatanānaṃ āgatattā abhidhammaṭṭhakathāyaṃ (dha. sa. aṭṭha. 204) ‘‘kasmā pana ‘yathā suttante ajjhattaṃ rūpasaññī eko bahiddhā rūpāni passati parittānītiādi vuttaṃ, evaṃ avatvā idha catūsupi abhibhāyatanesu ajjhattaṃ arūpasaññitāva vuttā’ti codanaṃ katvā ‘ajjhattarūpānaṃ anabhibhavanīyato’ti kāraṇaṃ vatvā, tattha vā hi idha vā bahiddhā rūpāneva abhibhavitabbāni, tasmā tāni niyamato vattabbānīti tatrāpi idhāpi vuttāni. ‘Ajjhattaṃ rūpasaññī’ti idaṃ pana satthu desanāvilāsamattamevā’’ti vuttaṃ. Ettha ca vaṇṇābhogarahitāni, sahitāni ca sabbāni parittāni ‘‘parittāni suvaṇṇadubbaṇṇānī’’ti vuttāni, tathā appamāṇāni ‘‘appamāṇāni suvaṇṇadubbaṇṇānī’’ti. Atthi hi so pariyāyo parittāni abhibhuyya tāni ce kadāci vaṇṇavasena ābhujitāni honti, suvaṇṇadubbaṇṇāni abhibhuyyāti. Pariyāyakathā hi suttantadesanāti. Abhidhamme (dha. sa. 222) pana nippariyāyadesanattā vaṇṇābhogarahitāni visuṃ vuttāni, tathā sahitāni. Atthi hi ubhayattha abhibhavanavisesoti. Tathā idha pariyāyadesanattā vimokkhānampi abhibhavanapariyāyo atthīti ‘‘ajjhattaṃ rūpasaññī’’tiādinā paṭhamadutiyaabhibhāyatanesu paṭhamavimokkho, tatiyacatutthaabhibhāyatanesu dutiyavimokkho, vaṇṇābhibhāyatanesu tatiyavimokkho ca abhibhavanappavattito saṅgahito. Abhidhamme pana nippariyāyadesanattā vimokkhābhibhāyatanāni asaṅkarato dassetuṃ vimokkhe vajjetvā abhibhāyatanāni kathitāni; sabbāni ca vimokkhakiccāni jhānāni vimokkhadesanāyaṃ vuttāni. Tadetaṃ ‘‘ajjhattaṃ rūpasaññī’’ti āgatassa abhibhāyatanadvayassa abhidhamme abhibhāyatanesu avacanato ‘‘rūpī rūpāni passatī’’tiādīnañca sabbavimokkhakiccasādhāraṇavacanabhāvato vavatthānaṃ katanti viññāyati. ‘‘Ajjhattarūpānaṃ anabhibhavanīyato’’ti idaṃ katthacipi ‘‘ajjhattaṃ rūpāni passatī’’ti avatvā sabbattha yaṃ vuttaṃ ‘‘bahiddhā rūpāni passatī’’ti, tassa kāraṇavacanaṃ, tena yaṃ aññahetukaṃ, taṃ tena hetunā vuttaṃ. Yaṃ pana desanāvilāsahetukaṃ ajjhattaṃ arūpasaññitāya eva abhidhamme (dha. sa. 223) vacanaṃ, na tassa aññaṃ kāraṇaṃ maggitabbanti dasseti. Ajjhattarūpānaṃ anabhibhavanīyatā ca tesaṃ bahiddhā rūpānaṃ viya abhūtattā. Desanāvilāso ca yathāvuttavavatthānavasena veditabbo veneyyajjhāsayavasena vijjamānapariyāyakathābhāvato. ‘‘Suvaṇṇadubbaṇṇānī’’ti eteneva siddhattā na nīlādi abhibhāyatanāni vattabbānīti ce? Taṃ na, nīlādīsu katādhikārānaṃ nīlādibhāvasseva abhibhavanakāraṇattā. Na hi tesaṃ parisuddhāparisuddhavaṇṇānaṃ parittatā, appamāṇatā vā abhibhavanakāraṇaṃ, atha kho nīlādibhāvo evāti. Etesu ca parittādikasiṇarūpesu yaṃ yaṃ caritassa imāni abhibhāyatanāni ijjhanti, taṃ dassetuṃ **‘‘imesu panā’’**tiādi vuttaṃ.
「外に生じた」とは、外の所縁においてのみ生じたということである。しかし阿毘達磨においては、「内において無色想の者として、外の少量の美色・悪色の色法を見る……中略……無量の美色・悪色の色法を見る」というように四つの勝処が説かれているので、阿毘達磨註釈書において、「経典では『内において有色想の者として、外の少量の色法を見る』等と説かれたように説かず、なぜここでは四つの勝処すべてにおいて『内において無色想の者』とだけ説かれたのか」という問いを立てて、「内の色法を克服することはできないからである」という理由を述べて、「そこ(経典)であれここ(阿毘達磨)であれ、外の色法のみが克服されるべきものである。したがって、それら(外の色法)は必ず説かれるべきであるため、そこでもここでも説かれている。しかし『内において有色想の者』というのは、師の説法の妙技にすぎない」と述べられた。そしてここでは、色への作意を離れたものも、作意を伴うものも、すべての少量のものが「少量の美色・悪色」と説かれ、同様に無量のものが「無量の美色・悪色」と説かれている。実に、少量のものを克服し、それらが時に色に従って作意されるなら、美色・悪色を克服するという、そのような方便がある。経典の説法は方便説だからである。しかし阿毘達磨においては、無方便説(直接的説法)であるため、色への作意を離れたものと、それを伴うものとが別個に説かれている。両者において克服の差異があるからである。同様に、ここでは方便説であるため、諸解脱にも克服の方便があるとし、「内において有色想の者」等によって、第一・第二の勝処に第一の解脱が、第三・第四の勝処に第二の解脱が、色勝処に第三の解脱が克服の働きに基づいて包摂されている。しかし阿毘達磨においては、無方便説であるため、解脱と勝処を混同なく示すべく、解脱を除外して勝処が説かれ、すべての解脱の働きをもつ禅定は解脱の説示において説かれている。これらは、「内において有色想の者」として説かれた二つの勝処が阿毘達磨の勝処において説かれていないことから、また「有色の者が色法を見る」等の説示がすべての解脱の働きに共通する言葉であることから、区別がなされたと知られる。「内の色法は克服できないからである」というこの言葉は、どこにおいても「内において色法を見る」とは説かれず、すべての箇所で「外において色法を見る」と説かれたことの理由の言明であり、それによって他の原因によるものは、その原因によって説かれたのである。しかし説法の妙技を原因として「内において無色想」であることのみが阿毘達磨で説かれたことについては、そのために他の理由を探し求めるべきではないということを示している。また内の色法が克服できないのは、それらが外の色法のように(禅定の所縁として)現前しないからである。また説法の妙技は、上述の区別によって知られるべきであり、教化される者の意向に応じた現前の方便説であることによる。「美色・悪色」ということだけで成立するのだから、青などの勝処を説くべきではないのではないか、と言うなら、そうではない。青などにおいて修行を積んだ者にとっては、青などの状態そのものが克服の原因だからである。実に、それら清浄・不清浄な色法にとって、少量であることや無量であることが克服の原因なのではなく、青などの状態そのものこそが原因なのである。そしてこれら少量などの遍処の色法において、いかなる性質の者にこれらの勝処が成就するのかを示すために、「しかしこれらにおいて」等と説かれた。
Sabbasaṅgāhakavasenāti sakalanīlavaṇṇanīlanidassananīlanibhāsānaṃ sādhāraṇavasena. Vaṇṇavasenāti sabhāvavaṇṇavasena. Nidassanavasenāti passitabbatāvasena cakkhuviññāṇādiviññāṇavīthiyā gahetabbatāvasena. Obhāsavasenāti sappabhāsatāya avabhāsanavasena. Umāpupphanti atasipupphaṃ. Nīlameva hoti vaṇṇasaṅkarābhāvato. Bārāṇasisambhavanti bārāṇasiyaṃ samuṭṭhitaṃ.
「すべてを包摂することによって」とは、すべての青色・青の顕色・青の輝きに共通することによって、という意味である。「色の力によって」とは、本来の色(色処)の力によって。「顕色の力によって」とは、見られるべきものとして、眼識などの認識過程によって捉えられるべきものとしての力によって。「光輝の力によって」とは、自ら光を放つことによる輝きの力によって。「麻の花」とは、亜麻の花のことである。混じり気のない色であるため、ただ青色のみである。「波羅奈産」とは、波羅奈(バーラーナシー)で生じたもの。
Ekaccassa ito bāhirakassa appamāṇaṃ ativitthāritaṃ kasiṇanimittaṃ olokentassa bhayaṃ uppajjeyya ‘‘kiṃ nu kho idaṃ sakalaṃ lokaṃ abhibhavitvā ajjhottharitvā gaṇhātī’’ti, tathāgatassa pana tādisaṃ bhayaṃ vā sārajjaṃ vā natthīti abhītabhāvadassanatthameva ānītāni.
この教えの外の者の中には、無量に極めて広大となった遍処の相を見て、「これは全世界を圧倒し、覆い尽くして捉えるのだろうか」と恐れを生じる者もいるかもしれないが、世尊にはそのような恐れも怯えもないため、無畏の状態を示すためにこそ説かれたのである。
Aṭṭhavimokkhavaṇṇanā
八解脱の注釈
174. Uttānatthāyeva heṭṭhā atthato vibhattattā. Ekaccassa vimokkhoti ghosopi bhayāvaho vaṭṭābhiratabhāvato, tathāgatassa pana vimokkhe upasampajja viharatopi taṃ natthīti abhītabhāvadassanatthameva ānītāni.
174. 「明瞭な意味を持つ」とは、下文において義理によって分別されているからである。ある者にとっては「解脱」という声を聞くことさえも、輪廻を喜ぶ性質ゆえに恐怖をもたらすが、世尊には解脱を具足して住していてもその(恐れの)心がないため、無畏の状態を示すためにこそ説かれたのである。
Ānandayācanakathāvaṇṇanā
アーナンダの懇願の注釈
178. Bodhīti sabbaññutaññāṇaṃ. Tañhi **‘‘catumaggañāṇapaṭivedha’’**ntveva vuttaṃ sabbaññutaññāṇappaṭivedhassa taṃmūlakattā. Evaṃ vuttabhāvanti ‘‘ākaṅkhamāno ānanda tathāgato kappaṃ vā tiṭṭheyyā’’ti (dī. ni. 2.166) evaṃ vuttabhāvaṃ.
178. 「菩提」とは一切智の智慧のことである。実にそれは「四道の智慧による通達」とだけ説かれた。一切智の智慧の通達はそれを根本としているからである。「このように説かれたこと」とは、「アーナンダよ、如来は望むならば一劫の間も存続することができよう」と、このように説かれたことである。
179. Tampi oḷārikanimittaṃ kataṃ tassa mārena pariyuṭṭhitacetaso na paṭividdhaṃ na sallakkhitaṃ.
179. そのように明白になされた暗示を、魔に心を覆われていた彼は通達することも、気づくこともできなかった。
183. Ādikehīti evamādīhi mittāmaccasuhajjāhi. Piyāyitabbato piyehi. Manavaḍḍhanato manāpehi. Jātiyāti jātianurūpagamanena. Nānābhāvo visuṃbhāvo asambaddhabhāvo. Maraṇena vinābhāvoti cutiyā tenattabhāvena apunarāvattanato vippayogo. Bhavena aññathābhāvoti bhavantaraggahaṇena purimākārato aññākāratā ‘‘kāmāvacarasatto rūpāvacaro hotī’’tiādinā, tatthāpi ‘‘manusso devo hotī’’tiādināpi yojetabbo. Kutettha labbhāti kuto kuhiṃ kismiṃ nāma ṭhāne ettha etasmiṃ khandhappavatte ‘‘yaṃ taṃ jātaṃ…pe… mā palujjī’’ti laddhuṃ sakkā. Na sakkā eva tādisassa kāraṇassa abhāvatoti āha **‘‘netaṃ ṭhānaṃ vijjatī’’**ti. Evaṃ acchariyabbhutadhammaṃ tathāgatassāpi sarīraṃ, kimaṅgaṃ pana aññesanti adhippāyo. ‘‘Paccāvamissatī’’ti netaṃ ṭhānaṃ vijjati satiṃ sūpaṭṭhitaṃ katvā ñāṇena paricchinditvā āyusaṅkhārānaṃ ossaṭṭhattā, buddhakiccassa ca pariyosāpitattā. Na hettha māsattayato paraṃ buddhaveneyyā labbhantīti.
183. 「初めの者たちと」とは、友人、大臣、親族などの者たちと、という意味である。愛すべき者たちであるから「愛しい者たち」。心を喜ばせる者たちであるから「好ましい者たち」。「生まれによって」とは、生まれに応じた歩みによって。「別離」とは、別個になること、結びつきがなくなること。「死による別離」とは、死没によってその生存状態から再び戻らないことによる離別。「生存による変容」とは、別の生存を得ることによって以前のありさまから別のありさまになることであり、「欲界の衆生が色界の者となる」等であり、そこでもまた「人間が神となる」等と結びつけるべきである。「ここでどうして得られようか」とは、どこで、いずこで、どのような場所で、この五蘊の生起において、「生じたものが……中略……壊れないように」などと得ることができようか、そのような理由は存在しないため決して得られない、という意味で「その道理は存在しない」と言った。このように驚くべき希有の法を具えた如来の身体でさえそうであるなら、ましてや他の者たちにおいてをや、という意図である。「再び戻るだろう」ということは、正念をしっかりと確立し、智慧によって決定して命行を捨てられたため、また仏陀の務めを完遂されたため、あり得ないことである。実にここでは、三ヶ月を過ぎて仏陀に教化されるべき者は存在しないからである。
184. Sāsanassa ciraṭṭhiti nāma sasambhārehi ariyamaggadhammehi kevalehīti āha **‘‘sabbaṃ lokiyalokuttaravaseneva kathita’’**nti lokiyāhi sīlasamādhipaññāhi vinā lokuttaradhammasamadhigamassa asambhavato.
184. 教えの久住とは、その資粮を伴う聖道の法によってのみ可能であるため、「すべて世間的・出世間的な力によって説かれた」と言った。世間的な戒・定・慧なしには、出世間的な法の獲得はあり得ないからである。
Tatiyabhāṇavāravaṇṇanā niṭṭhitā.
第三の読誦段の注釈は終了した。
Nāgāpalokitavaṇṇanā
象の顧視の注釈
186. Nāgāpalokitanti nāgassa viya apalokitaṃ, hatthināgassa apalokanasadisaṃ apalokananti attho. Āhaccāti phusitvā. Aṅkusakalaggāni viyāti aṅkusakāni viya aññamaññasmiṃ laggāni āsattāni hutvā ṭhitāni. Ekābaddhānīti aññamaññaṃ ekato ābaddhāni. Tasmāti gīvaṭṭhīnaṃ ekagghanānaṃ viya ekābaddhabhāvena, na kevalaṃ gīvaṭṭhīnaṃyeva, atha kho sabbānipi tāni buddhānaṃ ṭhapetvā bāhusandhiādikā dvādasa mahāsandhiyo, aṅgulisandhiyo ca itarasandhīsu ekābaddhāni hutvā ṭhitāni, yato nesaṃ pakatihatthīnaṃ koṭisahassabalappamāṇaṃ kāyabalaṃ hoti. Vesālinagarābhimukhaṃ akāsi kaṇṭakaparivattane viya kapilanagarābhimukhaṃ. Yadi evaṃ kathaṃ taṃ nāgāpalokitaṃ nāma jātaṃ? Tadajjhāsayaṃ upādāya. Bhagavā hi nāgāpalokitavaseneva apaloketukāmo jāto, puññānubhāvena panassa patiṭṭhitaṭṭhānaṃ parivatti, tena taṃ ‘‘nāgāpalokitaṃ’’ tveva vuccati.
186. 「象の顧視」とは、象のように顧みること、大象の見方に似た見方という意味である。「触れて」とは、接触して。「鉤の先端のように」とは、鉤のように互いに連結し結びついて留まっていること。「一つに連なった」とは、互いに一つに結び合わされたこと。「それゆえに」とは、首の骨が一体の塊のように結び合わされていることによる。首の骨だけでなく、仏陀のすべての骨は腕の関節などの十二の大関節と指の関節を除いて、他の関節において一つに結び合わされて留まっており、それゆえにそれらの者には通常の象の千億倍の身体の力がある。カピラ城に向き直った時のように、ヴェーサーリー城に向き直られた。もしそうなら、なぜそれが「象の顧視」と呼ばれるのか。その意図に基づいている。実に世尊は象の顧視の仕方によって顧みようと望まれたが、福徳の力によって立っておられた場所が回転したため、それを「象の顧視」とだけ言うのである。
‘‘Idaṃ pacchimakaṃ ānanda tathāgatassa vesāliyā dassana’’nti nayidaṃ vesāliyā apalokanassa kāraṇavacanaṃ anekantikattā, bhūtakathanamattaṃ panetaṃ. Maggasodhanavasena taṃ dassetvā aññadevettha apalokanakāraṇaṃ dassetukāmo **‘‘nanu cā’’**tiādimāha. Taṃ taṃ sabbaṃ pacchimadassanameva anukkamena kusināraṃ gantvā parinibbātukāmatāya tato tato nikkhantattā. **‘‘Anacchariyattā’’**ti iminā yathāvuttaṃ anekantikattaṃ pariharati, tayidaṃ sodhanamattaṃ. Idaṃ panettha aviparītaṃ kāraṇanti dassetuṃ **‘‘apicā’’**tiādi vuttaṃ. Na hi bhagavā sāpekkho vesāliṃ apalokesi, ‘‘idaṃ pana me gamanaṃ apunarāgamana’’nti dassanamukhena bahujanahitāya bahujanasukhāya lokānukampāya apalokesi. Tenāha **‘‘apica vesālirājāno’’**tiādi.
「アーナンダよ、これが如来のヴェーサーリーの最後の見納めである」というこれは、決定的なものではないため、ヴェーサーリーを顧みられたことの理由の言葉ではなく、単なる事実の言明にすぎない。道を開くことによってそれを示し、ここに顧みられた別の理由を示そうとして「〜ではないか」等を言われた。順次にクシナガラへ行って完全な涅槃に入ろうと望まれたため、そこかしこから出発されたので、そのすべてが最後の見納めにほかならない。「驚くべきことではないから」というこれによって、上述の非決定性を退けているが、これは単なる検証にすぎない。しかしここに誤りのない理由があることを示すために「さらに」等と説かれた。世尊は未練をもってヴェーサーリーを顧みられたのではなく、「私のこの歩みは再び戻ることのないものである」と示すことを通じて、多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、世間への憐れみによって顧みられたのである。それゆえに「さらにヴェーサーリーの王たち……」等と言われた。
Antakaroti sakalavaṭṭadukkhassa sakasantāne, parasantāne ca vināsakaro abhāvakaro. Buddhacakkhudhammacakkhudibbacakkhumaṃsacakkhusamantacakkhusaṅkhātehi pañcahi cakkhūhi cakkhumā. Savāsanānaṃ kilesānaṃ samucchinnattā sātisayaṃ kilesaparinibbānena parinibbuto.
「終止させる者」とは、自身の相続および他者の相続におけるすべての輪廻の苦しみを滅尽させる者、消滅させる者。「仏眼・法眼・天眼・肉眼・普門眼」と呼ばれる五つの眼を持つため「具眼者」。習気(潜在的執着)を伴う煩悩が断たれているため、極めて優れた煩悩の涅槃によって「完全な涅槃に入られた者」。
Catumahāpadesavaṇṇanā
四大教法の注釈
187. Mahāokāseti mahante okāse. Mahantāni dhammassa patiṭṭhāpanaṭṭhānāni. Yesu patiṭṭhāpito dhammo nicchīyati asandehato, kāni pana tāni? Āgamanavisiṭṭhāni suttotaraṇādīni. Dutiyavikappe apadisantīti apadesā, ‘‘sammukhā metaṃ āvuso bhagavato suta’’ntiādinā kenaci ābhatassa ‘‘dhammo’’ti vinicchinane kāraṇaṃ. Kiṃ pana tanti? Tassa yathābhatassa suttotaraṇādi eva. Yadi evaṃ kathaṃ cattāroti? Yasmā dhammassa dve samparāyā satthā, sāvakā ca, tesu ca sāvakā saṅghagaṇapuggalavasena tividhā, evaṃ ‘‘tumhākaṃ mayā yaṃ dhammo paṭiggahito’’ti apadisitabbānaṃ bhedena cattāro. Tenāha ‘‘sammukhā me taṃ āvuso bhagavato suta’’ntiādi. Tathā ca vuttaṃ nettiyaṃ ‘‘cattāro mahāpadesā buddhāpadeso saṅghāpadeso sambahulattherāpadeso ekattherāpadeso. Ime cattāro mahāpadesā’’ti (netti. 18) buddho apadeso etassāti buddhāpadeso. Esa nayo sesesupi. Tenāha **‘‘buddhādayo…pe… mahākāraṇānī’’**ti.
187. 「大いなる機会において」とは、偉大な機会において。法を確立する偉大な場所である。そこに確立された法は疑いなく決定されるが、それらは何か。聖典に基づく優れた経への適合などである。第二の解釈では、示される(指示される)から教法(指示)であり、「友よ、私はこれを世尊の御前から直接聞きました」等によって、誰かによってもたらされたものが「法」であると判定する際の根拠である。ではそれは何か。そのもたらされたままの経への適合などのことである。もしそうなら、なぜ四つあるのか。法には師と弟子という二つの拠り所があり、その中で弟子は僧伽・僧団・個人の別によって三種あるため、このように「あなたがたのために私が受け取った法」と指示されるべきものの区別によって四つある。それゆえに「友よ、私はこれを世尊の御前から直接聞きました」等と言った。そしてまた『ネッティ』において、「仏陀を根拠とする教法、僧伽を根拠とする教法、多数の長老を根拠とする教法、一人の長老を根拠とする教法の四つの大教法がある。これらが四つの大教法である」と説かれている。仏陀がその根拠であるから仏陀大教法である。この方法は残りにおいても同様である。それゆえに「仏陀らは……中略……大いなる根拠である」と言った。
188. Neva abhinanditabbanti na sampaṭicchitabbaṃ. Ganthassa sampaṭicchanaṃ nāma savananti āha **‘‘na sotabba’’**nti. Padabyañjanānīti padāni ca byañjanāni ca, atthapadāni, byañjanapadāni cāti attho. Pajjati attho etehīti padāni, akkharādīni byañjanapadāni. Pajjitabbato padāni, saṅkāsanādīni atthapadāni. Aṭṭhakathāyaṃpana ‘‘‘padasaṅkhātāni byañjanānī’ti byañjanapadāneva vuttānī’’ti keci, taṃ na, atthaṃ byañjentīti byañjanāni, byañjanapadāni, tehi byañjitabbato byañjanāni, atthapadānīti ubhayasaṅgahato. Imasmiṃ ṭhāneti tenābhatasuttassa imasmiṃ padese. Pāḷi vuttāti kevalo pāḷidhammo pavatto. Attho vuttoti pāḷiyā attho pavatto niddiṭṭho. Anusandhi kathitoti yathāraddhadesanāya, upari desanāya ca anusandhānaṃ kathitaṃ sambandho kathito. Pubbāparaṃ kathitanti pubbenāparaṃ avirujjhanañceva visesādhānañca kathitaṃ pakāsitaṃ. Evaṃ pāḷidhammādīni sammadeva sallakkhetvā gahaṇaṃ sādhukaṃ uggahaṇanti āha **‘‘suṭṭhu gahetvā’’**ti. Sutte otāretabbānīti ñāṇena sutte ogāhetvā tāretabbāni, taṃ pana ogāhetvā taraṇaṃ tattha otaraṇaṃ anuppavesanaṃ hotīti vuttaṃ **‘‘sutte otāretabbānī’’**ti. Saṃsandetvā dassanaṃ sandassananti āha **‘‘vinaye saṃsandetabbānī’’**ti.
188. 「歓喜すべきではない」とは、そのまま受け入れるべきではないこと。文章を受け入れるとは聞くことであるため、「聞くべきではない」と言った。「句と文」とは、句と文、すなわち意味の句と表現の句という意味である。これらによって意味が至達されるから「句」であり、文字などが表現の句である。至達されるべきものであるから「句」であり、開示などが意味の句である。しかし註釈書において「句と呼ばれる文」として表現の句のみが説かれたとする者もいるが、そうではない。意味を表現するから文、表現の句であり、それらによって表現されるべきものだから文、意味の句であるというように、両方が包摂されるからである。「この場所において」とは、彼によってもたらされた経典のこの箇所において。「パーリが説かれた」とは、純粋なパーリの法が述べられたこと。「意味が説かれた」とは、パーリの意味が述べられ指示されたこと。「文脈が語られた」とは、説法の開始と以降の説法との接続が語られ、関連が語られたこと。「前後が語られた」とは、前後の教えが矛盾せず、卓越した意義を持つことが語られ、明らかにされたこと。このようにパーリの法などを正しくしっかりと観察して把握することが正しく受け取ることであるため、「しっかりと受け取って」と言った。「経に照合されるべきである」とは、智慧によって経に沈潜させて度達させるべきであり、その沈潜して渡ることは、そこに入り込ませることであるため、「経に照合されるべきである」と説かれた。比較して見ることを照合というため、「律に照合されるべきである」と言った。
Kiṃ pana taṃ suttaṃ, ko vā vinayoti vicāraṇāya ācariyānaṃ matibhedamukhena tamatthaṃ dassetuṃ **‘‘ettha cā’’**tiādi vuttaṃ. Vinayoti vibhaṅgapāṭhamāha. So hi mātikāsaññitassa suttassa atthasūcanato ‘‘sutta’’nti vattabbataṃ arahati. Vividhanayattā, visiṭṭhanayattā ca vinayo, khandhakapāṭho. Evanti evaṃ suttavinayesu pariggayhamānesu vinayapiṭakampi na pariyādīyati parivārapāḷiyā asaṅgahitattā. Suttantābhidhammapiṭakāni vā suttaṃ atthasūcanādiatthasambhavato. Evampīti ‘‘suttantābhidhammapiṭakāni suttaṃ, vinayapiṭakaṃ vinayo’’ti evaṃ suttavinayavibhāge vuccamānepi. Na tāva pariyādīyantīti na tāva anavasesato pariggayhanti, kasmāti āha **‘‘asuttanāmakañhī’’**tiādi. Yasmā ‘‘sutta’’nti imaṃ nāmaṃ anāropetvā saṅgītampi jātakādibuddhavacanaṃ atthi, tasmā vuttanayena tīṇi piṭakāni na pariyādiṇṇānīti. Suttanipātaudānaitivuttakādīni dīghanikāyādayo viya suttanāmaṃ āropetvā asaṅgītānīti adhippāye panettha jātakādīhi saddhiṃ tānipi gahitāni. Buddhavaṃsacariyāpiṭakānaṃ panettha aggahaṇe kāraṇaṃ maggitabbaṃ, kiṃ vā tena magganena? Sabbopāyaṃ vaṇṇanānayo theravādaṃ dassanamukhena paṭikkhitto evāti.
ではその経とは何か、あるいは律とは何かという探究において、師たちの見解の相違を通じてその意味を示すために「そしてここにおいて」等と説かれた。「律」とは経分別(ヴィバンガ)の本文を指す。それは本母(マーティカー)と呼ばれる経の意味を指し示すことから「経」と呼ばれるに値するからである。多様な方法と優れた方法を持つことから「律」は犍度(カンダカ)の本文である。このように経と律が把握されるとき、律蔵も附随(パリヴァーラ)の本文が包摂されないため完全には尽くされない。あるいは経蔵と阿毘達磨蔵が、意味の指示などの意味が存在することから「経」である。「このように」とは、「経蔵と阿毘達磨蔵が経であり、律蔵が律である」と、このように経と律の区分が説かれるとしても、である。「まだ尽くされない」とは、まだ余すところなく把握されていないことである。なぜなら「経という名を持たないものも実に……」等と言ったからである。「経」という名を冠さずに結集されたジャータカなどの仏語もあるため、上述の方法では三蔵が尽くされないからである。スッタニパータ、ウダーナ、イティヴッタカなどは、長部などのように経の名を冠して結集されていないという意図から、ここではジャータカなどと共にそれらも取られている。ここで仏種姓や所行蔵が取られていない理由を探求すべきであるが、その探求に何の意味があろうか。この注釈の方法はすべて、上座部の見解を示すことによって退けられているのである。
Atthīti kiṃ atthi, asuttanāmakaṃ buddhavacanaṃ natthi evāti dasseti. Tathā hi nidānavaṇṇanāyaṃ (dī. ni. ṭī. 1.paṭhamamahāsaṅgītikathāvaṇṇanā; sārattha. ṭī. 1.paṭhamamahāsaṅgītikathāvaṇṇanā) amhehi vuttaṃ ‘‘suttanti sāmaññavidhi, visesavidhayo pare’’ti. Taṃ sabbaṃ paṭikkhipitvā ‘‘suttanti vinayo’’tiādinā vuttaṃ saṃvaṇṇanānayaṃ ‘‘nāyamattho idhādhippeto’’ti paṭisodhetvā. Vineti etena kileseti vinayo, kilesavinayanūpāyo, so eva ca naṃ karotīti kāraṇanti āha **‘‘vinayo pana kāraṇa’’**nti.
「ある」とは何があるのか、経という名を持たない仏語は存在しないということを示している。実に因縁の解説において私たちが「経とは総括の規則であり、他は個別の規則である」と述べた通りである。それらすべてを退けて、「経とは律である」等と説かれた解釈の方法を「この意味はここでは意図されていない」と訂正して、これによって煩悩を調伏するから「律」であり、煩悩を調伏する方便であり、それこそがこれ(調伏)をなす原因であるため、「しかし律とは原因である」と言った。
Dhammeti pariyattidhamme. Sarāgāyāti sarāgabhāvāya kāmarāgabhavarāgaparibrūhanāya. Saññogāyāti bhavasaṃyojanāya. Ācayāyāti vaṭṭassa vaḍḍhanatthāya. Mahicchatāyāti mahicchabhāvāya. Asantuṭṭhiyāti asantuṭṭhibhāvāya. Saṅgaṇikāyāti kilesasaṅgaṇagaṇasaṅgaṇavihārāya. Kosajjāyāti kusītabhāvāya. Dubbharatāyāti dupposatāya. Virāgāyāti sakalavaṭṭato virajjanatthāya. Visaññogāyāti kāmabhavādīhi visaṃyujjanatthāya. Apacayāyāti sabbassāpi vaṭṭassa apacayanāya, nibbānāyāti attho. Appicchatāyāti paccayappicchatādivasena sabbaso icchāpagamāya. Santuṭṭhiyāti dvādasavidhasantuṭṭhibhāvāya. Pavivekāyāti pavivittabhāvāya, kāyavivekāditadaṅgavivekādivivekasiddhiyā. Vīriyārambhāyāti kāyikassa ceva, cetasikassa ca vīriyassa paggahaṇatthāya. Subharatāyāti sukhaposanatthāya. Evaṃ yo pariyattidhammo uggahaṇadhāraṇaparipucchāmanasikāravasena yoniso paṭipajjantassa sarāgādibhāvaparivajjanassa kāraṇaṃ hutvā virāgādibhāvāya saṃvattati, ekaṃsato eso dhammo. Eso vinayo, sammadeva apāyādīsu apatanavasena dhāraṇato, kilesānaṃ vinayanato, satthu sammāsambuddhassa ovādānusiṭṭhibhāvato etaṃ satthusāsananti dhāreyyāsi jāneyyāsi, avabujjheyyāsīti attho. Catusaccassa sūcanaṃ suttanti āha **‘‘sutteti tepiṭake buddhavacane’’**ti. Tepiṭakañhi buddhavacanaṃ saccavinimuttaṃ natthi. Rāgādivinayanakāraṇaṃ tathāgatena suttapadena pakāsitanti āha **‘‘vinayeti etasmiṃ rāgādivinayakāraṇe’’**ti.
「法において」とは、教理の法において。「貪りのために」とは、貪りの状態のため、欲貪や有貪を増大させるために。「結合のために」とは、生存の束縛のために。「集起のために」とは、輪廻を増大させるために。「大欲のために」とは、大欲の状態のために。「不満足のために」とは、不満足の状態のために。「社交のために」とは、煩悩の群れ集まり、集団の群れ集まりにおいて住することのために。「怠惰のために」とは、怠惰な状態のために。「養い難さのために」とは、養うことが困難な状態のために。「離貪のために」とは、すべての輪廻から離れるために。「離結合のために」とは、欲や生存などから離れ結びつきを解くために。「減損のために」とは、すべての輪廻を減損させるために、涅槃のためにという意味である。「少欲のために」とは、資具への少欲などによって完全に欲望を離れるために。「満足のために」とは、十二種の満足の状態のために。「遠離のために」とは、遠離の状態のため、身の遠離など、部分的な遠離などの遠離の成就のために。「精進の開始のために」とは、身体的および精神的な精進を奮起するために。「養いやすさのために」とは、容易に養われる状態のために。このように、受け取り、把持し、質問し、作意することによって如理に実践する者にとって、貪りなどの状態を避ける原因となって離貪などの状態へと導く教理の法は、決定して法である。それは律であり、悪処などに正しく落ちないように保持することから、煩悩を調伏することから、師たる正等覚者の教誡・訓戒であることから、これを師の教えとして受持すべきであり、知るべきであり、理解すべきであるという意味である。四聖諦を示すものが経であるため、「経において、すなわち三蔵の仏語において」と言った。三蔵の仏語には四聖諦から離れたものは存在しないからである。貪りなどを調伏する原因を世尊は経の句によって明らかにされたため、「律において、すなわちこの貪りなどを調伏する原因において」と言った。
Sutte osaraṇañcettha tepiṭake buddhavacane pariyāpannatāvaseneva veditabbaṃ, na aññathāti āha **‘‘suttapaṭipāṭiyā katthaci anāgantvā’’**ti. Challiṃ uṭṭhapetvāti arogassa mahato rukkhassa tiṭṭhato upakkamena challiyā sakalikāya, papaṭikāya vā uṭṭhapanaṃ viya arogassa sāsanadhammassa tiṭṭhato byañjanamattena tappariyāpannaṃ viya hutvā challisadisaṃ pubbāparaviruddhatādidosaṃ uṭṭhapetvā paridīpetvā, tādisāni pana ekaṃsato guḷhavessantarādipariyāpannāni hontīti āha **‘‘guḷhavessantara…pe…paññāyantīti attho’’**ti. Rāgādivinayeti rāgādīnaṃ vinayanatthe. Tadākāratāya na paññāyamānāni na dissamānāni chaḍḍetabbāni vajjitabbāni na gahetabbāni. Sabbatthāti sabbavāresu.
ここで「経への流入」は、三蔵の仏語に包摂されていることによってのみ知られるべきであり、他の仕方によるのではないため、「経の次第においてどこにも現れず」と言った。「樹皮を起こして」とは、病のない大樹が立っている時に、加工によって樹皮や削り屑、あるいは皮殻を起こすように、病のない教えの法が立っている時に、文言の表現だけでそれに包摂されているかのように見せかけて、樹皮のように前後の矛盾などの欠陥を起こして、明らかにして、しかしそのようなものは決定して秘密のヴェッサインタラ(偽経)などに包摂されるものであるため、「秘密のヴェッサインタラ……中略……知られるという意味である」と言った。「貪りなどの調伏において」とは、貪りなどを調伏するという意味において。そのようなあり方として知られないもの、見出されないものは、捨てるべきであり、避けるべきであり、受け取るべきではない。「すべての箇所において」とは、すべての節において。
Imasmiṃ pana ṭhāneti imasmiṃ mahāpadesaniddesaṭṭhāne. **‘‘Sutte cattāro mahāpadesā’’**tiādinā vuttampi avuttena saddhiṃ gahetvā pakiṇṇakakathāya mātikaṃ uddisati. Ñātuṃ icchito attho pañho, tassa vissajjanāni pañhābyākaraṇāni, atthasūcanādiatthena suttaṃ, pāḷi, taṃ suttaṃ anulometi anukūletīti suttānulomaṃ, mahāpadeso. Ācariyā vadanti saṃvaṇṇenti pāḷiṃ etenāti ācariyavādo aṭṭhakathā. Tassa tassa therassa attano eva mati adhippāyoti attanomati. Dhammavinicchaye patteti dhamme vinicchinitabbe upaṭṭhite. Imeti anantaraṃ vuttā cattāro mahāpadesā. Pamīyati dhammo paricchijjati vinicchīyati etenāti pamāṇaṃ. Tenāha **‘‘yaṃ ettha sametī’’**tiādi. Itaranti mahāpadesesu asamentaṃ. Puna itaranti akappiyaṃ anulomentaṃ kappiyaṃ paṭibāhantaṃ sandhāyāha.
「しかしこの場所において」とは、この四大教法が説示された場所において。「経における四つの大教法」等と説かれたものも、説かれていないものと共に取って、雑多な論述の題目を示している。知りたいと望まれる意味が「問い」であり、それへの回答が「質問の解説」であり、意味の指示などの意味において「経」、すなわちパーリであり、その経に随順し、適合するものが「経への随順」、すなわち大教法である。諸師がこれによってパーリを語り注釈するから「師の教説」、すなわち注釈書である。それぞれの長老自身の見解・意図が「自己の見解」である。「法の判定に至ったとき」とは、判定されるべき法が生じたときに。「これら」とは、直前に述べられた四つの大教法である。これによって法が測られ、限定され、判定されるから「規範」である。それゆえに「ここで合致するものを」等と言った。「他方」とは、大教法に合致しないもののこと。「さらに他方」とは、不適法なものを随順させ、適法なものを排斥することを指して言った。
Ekaṃseneva byākātabbo vissajjetabboti ekaṃsabyākaraṇīyo. Vibhajjāti pucchitamatthaṃ avadhāraṇādibhedena vibhajitvā. Paṭipucchāti pucchantaṃ puggalaṃ paṭipucchitvā. Ṭhapanīyoti tidhāpi avissajjanīyattā ṭhapanīyo byākaraṇaṃ akatvā ṭhapetabbo. ‘‘Cakkhuṃ anicca’’nti pañhe uttarapadāvadhāraṇaṃ sandhāya **‘‘ekaṃseneva byākātabba’’**nti vuttaṃ niccatāya lesassāpi tattha abhāvato. Purimapadāvadhāraṇe pana vibhajjabyākaraṇīyatā cakkhusotesu visesatthasāmaññatthānaṃ asādhāraṇabhāvato. Dvinnaṃ tesaṃ sadisatācodanā paṭipucchanamukheneva byākaraṇīyā paṭikkhepavasena, anuññātavasena ca vissajjitabbatoti āha **‘‘yathā cakkhu, tathā sotaṃ…pe… ayaṃ paṭipucchābyākaraṇīyo pañho’’**ti. Taṃ jīvaṃ taṃ sarīranti jīvasarīrānaṃ anaññatāpañho. Yassa yena anaññatācoditā, so eva paramatthato nupalabbhatīti vañjhātanayassa matteyyatākittanasadisoti abyākātabbatāya ṭhapanīyo vuttoti. Imāni cattāri pañhabyākaraṇāni pamāṇaṃ teneva nayena tesaṃ pañhānaṃ byākātabbato.
「一向に解説されるべきである」とは、一向に答えるべきであり、一向解説(断定的に答えるべきもの)である。「分別して」とは、問われた意味を限定などの区別によって分別して。「反問して」とは、質問した人物に問い返して。「置くべきもの」とは、三通りの方法でも答えられないため、解説をせずに保留すべきものである。「眼は無常であるか」という問いにおいて、後句の限定を指して「一向に解説されるべきである」と説かれた。そこには常であることの微細な根拠すら存在しないからである。しかし前句の限定においては分別解説(分別して答えるべきもの)であり、眼と耳における個別的な意味と一般的な意味が共通しないからである。それら二つの類似性の問いは、否定と肯定の力によって答えられるべきであるため、反問によってのみ解説されるべきであるとして、「眼のようであるか、耳のようであるか……中略……これは反問解説の問いである」と言った。「その命がその身体であるか」とは、命と身体の同一性に関する問いである。誰が誰と同一であると主張されても、それ自体が究極的真理において見出されないため、石女の息子の母への愛情を称賛するようなものであり、答えるべきではないものとして「置くべきもの(無記)」と説かれた。これら四つの問いの解説は、まさにその方法によってそれらの問いが解説されるべきであるため規範となる。
Vinayamahāpadeso kappiyānulomavidhānato nippariyāyato anulomakappiyaṃ nāma, mahāpadesabhāvena pana taṃsadisatāya suttantamahāpadesesupi **‘‘anulomakappiya’’**nti ayaṃ aṭṭhakathāvohāro. Yadipi tattha tattha bhagavatā pavattitapakiṇṇakadesanāva aṭṭhakathā, sā pana dhammasaṅgāhakehi paṭhamaṃ tīṇi piṭakāni saṅgāyitvā tassa atthavaṇṇanānurūpeneva vācanāmaggaṃ āropitattā **‘‘ācariyavādo’’**ti vuccati ācariyā vadanti saṃvaṇṇenti pāḷiṃ etenāti. Tenāha **‘‘ācariyavādo nāma aṭṭhakathā’’**ti. Tisso saṅgītiyo āruḷho eva ca buddhavacanassa atthasaṃvaṇṇanābhūto kathāmaggo mahindattherena tambapaṇṇidīpaṃ ābhato pacchā tambapaṇṇiyehi mahātherehi sīhaḷabhāsāya ṭhapito nikāyantaraladdhisaṅkarapariharaṇatthaṃ. Attanomati nāma theravādo. Nayaggāhenāti suttādito labbhamānanayaggahaṇena. Anubuddhiyāti suttādīniyeva anugatabuddhiyā. Attano paṭibhānanti attano eva tassa atthassa vuttanayena upaṭṭhānaṃ, yathāupaṭṭhitā atthā eva tathā vuttā. Samentameva gahetabbanti yathā suttena saṃsandati, evaṃ mahāpadesato atthā uddharitabbāti dasseti. Pamādapāṭhavasena ācariyavādassa kadāci pāḷiyā asaṃsandanāpi siyā, so na gahetabboti dassento āha ‘‘ācariyavādopi suttena samentoyeva **gahetabbo’’**ti. Sabbadubbalā puggalassa sayaṃ paṭibhānabhāvato. Tathā ca sāpi gahetabbā, kīdisī? Suttena samentā yevāti yojanā. Tāsūti tīsu saṅgītīsu. **‘‘Āgatameva pamāṇa’’**nti iminā mahākassapādīhi saṅgītameva ‘‘sutta’’nti idhādhippetanti tadaññassa suttabhāvameva paṭikkhipati. Tadatthā eva hi tisso saṅgītiyo. Tatthāti gārayhasutte. Na ceva sutte osaranti, na ca vinaye sandissantīti veditabbāni tassa asuttabhāvato tena ‘‘anulomakappiyaṃ suttena samentameva gahetabba’’nti vuttaṃ evatthaṃ nigamanavasena nidasseti. Sabbattha ‘‘na itara’’nti vacanaṃ tattha tattha gahitāvadhāraṇaphaladassanaṃ daṭṭhabbaṃ.
律の大教法は、適法に随順することを規定することから、文字通り「随順適法」と呼ばれるが、大教法であることによってそれと類似しているため、経典の大教法においても「随順適法」というのが註釈書の慣用表現である。あちこちで世尊によって説かれた雑多な教えこそが註釈書であるが、それは結集者たちが最初に三蔵を結集したのち、その意味の解説に応じて読誦の道に載せられたものであるため、諸師がこれによってパーリを語り注釈するから「師の教説」と呼ばれる。それゆえに「師の教説とは註釈書である」と言った。そして三度の結集に載せられた仏語の意味の解説である論述の道筋は、マヒンダ長老によって銅鍱島(スリランカ)にもたらされ、のちに銅鍱島の長老たちによって、他部派の教義との混同を避けるためにシンハラ語で定められた。「自己の見解」とは長老たちの説である。「方法の把握によって」とは、経などから得られる方法を把握することによって。「追従する智慧によって」とは、経などに従った智慧によって。「自己の機根」とは、その意味が述べられた方法によって自分自身に現れることであり、現れたままの意味がそのように説かれたこと。「合致するもののみを受け取るべきである」とは、経と合致するように、このように大教法から意味が引き出されるべきであることを示している。誤読によって師の教説がパーリと合致しないこともあるため、それは受け取るべきではないことを示して、「師の教説もまた経と合致するもののみを**受け取るべきである**」と言った。すべての弱き人は自らの機根を持たないからである。そしてそれも受け取られるべきであるが、どのようなものか。経と合致するもののみである、と結びつく。「それらにおいて」とは、三度の結集において。「現れたもののみが規範である」というこれによって、マハーカッサパらによって結集されたもののみがここで意図された「経」であるとし、それ以外のものが経であることを退けている。実にそのためにこそ三度の結集があったからである。「そこにおいて」とは、非難されるべき経において。「経に流入せず、律に見出されない」と知られるべきであり、それが経ではないことから、それによって「随順適法は経と合致するもののみを受け取るべきである」と説かれた意味を結論として示している。いたるところで「他方ではない」という言葉は、それぞれの箇所で把握された限定の結果を示すものであると見なされるべきである。
Kammāraputtacundavatthuvaṇṇanā
鍛冶の子チュンダの事績の注釈
189. Sūkaramaddavanti vanavarāhassa mudumaṃsaṃ. Yasmā cundo ariyasāvako sotāpanno, aññe ca bhagavato, bhikkhusaṅghassa ca āhāraṃ paṭiyādentā anavajjameva paṭiyādenti, tasmā vuttaṃ **‘‘pavattamaṃsa’’**nti. Taṃ kirāti ‘‘nātitaruṇassā’’tiādinā vuttavisesaṃ. Tathā hi taṃ **‘‘mudu ceva siniddhañcā’’**ti vuttaṃ. Mudumaṃsabhāvato hi abhisaṅkharaṇavisesena ca ‘‘maddava’’nti vuttaṃ. Ojaṃ pakkhipiṃsu ‘‘ayaṃ bhagavato pacchimako āhāro’’ti puññavisesāpekkhāya, taṃ pana tathāpakkhittadibbojatāya garutaraṃ jātaṃ.
189. 「スーカラマッダヴァ」とは、野豚の柔らかい肉のことである。チュンダは預流果に達した聖なる弟子であり、他の人々も世尊と比丘僧伽のために食物を調理するときには過ちのないものだけを調理するため、「既存の肉」と説かれた。それは実に「極めて若くはない」等と説かれた特徴を持つ。それゆえにそれは「柔らかく、かつ滑らかである」と説かれた。柔らかい肉であること、そして特別な調理法によって「マッダヴァ(柔軟なもの)」と説かれた。「これは世尊の最後の食物である」として特別な功徳を望んで神々が滋養分(オージャ)を投入したが、そのように投入された神聖な滋養分によって極めて重いものとなった。
Aññe yaṃ dujjīraṃ, taṃ ajānantā ‘‘kassaci adatvā vināsita’’nti upavadeyyunti parūpavādamocanatthaṃ bhagavā ‘‘nāhaṃ ta’’ntiādinā sīhanādaṃ nadati.
他の人々が消化し難いことを知らずに、「誰にも与えずに廃棄した」と非難することを防ぐために、世尊は「私は見出さない」等と獅子吼を放たれたのである。
190. Kathaṃ panāyaṃ sīhanādo nanu taṃ bhagavatopi sammāpariṇāmaṃ na gatanti? Nayidaṃ evaṃ daṭṭhabbaṃ, yasmā ‘‘sammadeva taṃ bhagavato pariṇāmaṃ gata’’nti vattuṃ arahati tappaccayā uppannassa vikārassa abhāvato, aññapaccayassa ca vikārassa mudubhāvaṃ āpāditattā. Tenāha **‘‘na pana bhuttappaccayā’’**tiādi. Na hi bhagavā, aññe vā pana khīṇāsavā navavedanuppādanavasena āhāraṃ paribhuñjanti aṭṭhaṅgasamannāgatameva katvā āhārassa upabhuñjanato. Yadi evaṃ kasmā pāḷiyaṃ ‘‘bhattaṃ bhuttāvissa kharo ābādho uppajjī’’tiādi vuttaṃ? Taṃ bhojanuttarakālaṃ uppannattā vuttaṃ. ‘‘Na pana bhuttapaccayā’’ti vutto vāyamattho aṭṭhakathāyaṃ. Katupacitassa laddhokāsassa kammassa vasena balavatipi roge uppanne garusiniddhabhojanappaccayā vedanāniggaho jāto, tenāha **‘‘yadi hī’’**tiādi. Patthitaṭṭhāneti icchitaṭṭhāne, icchā cassa tattha gantvā vinetabbaveneyyāpekkhā daṭṭhabbā. Gāthāyampi **‘‘suta’’**nti iminā sutamattaṃ, paresaṃ vacanamattametaṃ, na pana bhojanappaccayā ābādhaṃ phusi dhīroti dasseti.
190. しかし、なぜこの獅子吼がなされたのか。それは世尊にとっても正しく消化されなかったのではないか。そのように見なされるべきではない。それを原因として生じる変調が存在せず、他の原因による変調を和らげたため、「それは世尊にとって正しく消化された」と言い得るからである。それゆえに「しかし食べたことを原因としてではない」等と言った。実に世尊や、あるいは他の煩悩を滅尽した者たちは、新たな苦受を生じさせることによって食物を食べるのではなく、八つの条件を備えたものとしてのみ食物を享受するからである。もしそうなら、なぜパーリにおいて「食事を食べた彼に激しい病が生じた」等と説かれたのか。それは食事の後の時間に生じたために説かれたのである。「しかし食べたことを原因としてではない」と、この意味は註釈書において説かれている。積み重ねられ機会を得た業の力によって激しい病が生じたとしても、重く滑らかな食事を原因として苦痛の抑制が生じたため、「もし〜なら」等と言った。「望まれた場所において」とは、望んだ場所においてであり、その望みとはそこに行って教化されるべき者を教化することへの配慮であると見なされるべきである。詩偈においても「聞かれた」というこれによって、単に聞かれただけであり、他人の言葉にすぎず、食事を原因として賢者が病にかかったのではないことを示している。
Pānīyāharaṇavaṇṇanā
飲み水を持参することの注釈
191. Pasannabhāvena udakassa acchabhāvo veditabboti āha **‘‘acchodakāti pasannodakā’’**ti. Sādurasattā sātatāti āha **‘‘madhurodakā’’**ti. Tanukameva salilaṃ visesato sītalaṃ, na bahalanti āha **‘‘tanusītalasalilā’’**ti. Nikkaddamāti setabhāvassa kāraṇamāha. Paṅkacikkhallādivasena hi udakassa vivaṇṇatā, sabhāvato pana taṃ setavaṇṇaṃ evāti.
191. 清らかであることによって水の透明さを知るべきであるとして、「透明な水とは清らかな水である」と言った。美味であることによって快適であるとして、「甘露の水」と言った。薄い水こそが特に冷たく、濃密な水ではないとして、「薄く冷たい水」と言った。「泥のない」とは、白い状態の理由を述べている。泥や濁りなどによって水は変色するが、本来は白色だからである。
Pukkusamallaputtavatthuvaṇṇanā
マッラ族の子プックサの事績の注釈
192. Dhuravāteti paṭimukhavāte. Dīghapiṅgaloti dīgho hutvā piṅgalacakkhuko. Piṅgalakkhiko hi so ‘‘āḷāro’’ti paññāyittha. Evarūpanti dakkhati karissati bhavissatīti īdisaṃ. Īdisesūti yatra yaṃcāti evarūpanipātasaddayuttaṭṭhānesu.
192. 「向かい風において」とは、正面からの風において。「背が高く赤茶色の眼の」とは、背が高く赤茶色の眼を持っていたこと。実に赤茶色の眼を持っていた彼は「アーラーラ」として知られていた。「このような」とは、見るであろう、なすであろう、生じるであろう、というこのようなこと。「このようなものにおいて」とは、感嘆詞などが結びついた場所において。
193. Vicarantiyo meghagabbhato niccharantiyo viya hontīti vuttaṃ **‘‘niccharantīsūti vicarantīsū’’**ti. Navavidhāyāti navappakārāya. Navasu hi pakāresu ekavidhāpi asani tappariyāpannatāya ‘‘navavidhā’’ tveva vuccati. Īdisī hi esā ruḷhi aṭṭhavimokkhapattipi samaññā viya. Asaññaṃ karoti, yo tassā saddena, tejasā ca ajjhotthaṭo. Ekaṃ cakkanti ekaṃ maṇḍalaṃ. Saṅkāraṃ tīrentī paricchijjantī viya dassetīti saterā. Gaggarāyamānāti gaggarātisaddaṃ karontī, anuravadassanañhetaṃ. Kapisīsāti kapisīsākāravatī. Macchavilolikāti udake paripphandamānamaccho viya viluḷitākārā. Kukkuṭasadisāti pasāritapakkhakukkuṭākārā. Naṅgalassa kassanakāle kassakānaṃ hatthena gahetabbaṭṭhāne maṇikā hoti, taṃ upādāya naṅgalaṃ ‘‘daṇḍamaṇikā’’ti vuccati, tasmā daṇḍamaṇikākārā daṇḍamaṇikā. Tenāha **‘‘naṅgalasadisā’’**ti. Deve vassantepi sajotibhūtatāya udakena atemetabbato mahāsani **‘‘sukkhāsanī’’**ti vuttā. Tenāha **‘‘patitaṭṭhānaṃ samugghāṭetī’’**ti.
193. 「飛び交う」とは、雲の胎内から放たれるかのようであるため、「放たれるにおいて、すなわち飛び交うにおいて」と説かれた。「九種の」とは、九つの様態の。九つの様態において一種類のものであっても、それに属することから「九種」とだけ言われる。実に八解脱の獲得の名称のように、これはそのような慣用表現である。その音と威力によって圧倒された者を気絶させる。「一つの輪」とは、一つの円輪。「境界を定める」とは、区切るかのように見せることから「稲妻」。「ゴロゴロと鳴り響く」とは、ゴロゴロという音を立てることであり、反響を示すものである。「猿の頭のような」とは、猿の頭の形をしているもの。「魚の蠢きのような」とは、水中で跳ね回る魚のように乱れた形のもの。「鶏のような」とは、羽を広げた鶏の形のもの。鋤で耕す時に農夫たちが手で握る場所に突起があり、それに基づいて鋤は「柄の突起」と呼ばれるため、柄の突起の形をしているものが柄の突起である。それゆえに「鋤のような」と言った。雨が降っていても自ら火を帯びているため、水によって濡らされないことから、大落雷は「乾いた雷」と説かれた。それゆえに「落ちた場所をえぐり取る」と言った。
Bhusāgāraketi bhusamaye agārake. Tattha kira mahantaṃ palālapuñjaṃ abbhantarato palālaṃ nikkaḍḍhitvā sālāsadisaṃ pabbajitānaṃ vasanayoggaṭṭhānaṃ kataṃ, tadā bhagavā tattha vasi, taṃ pana khalamaṇḍalaṃ sālāsadisanti āha **‘‘khalasālāya’’**nti. Etthāti hetumhi bhummavacananti āha **‘‘etasmiṃ kāraṇe’’**ti, asanipātena channaṃ janānaṃ hatakāraṇeti attho. So tvaṃ bhanteti ayameva vā pāṭho.
「籾殻の小屋において」とは、籾殻でできた小屋において。そこでは大きな藁の山の内部から藁をかき出して、小屋のような出家者の居住に適した場所が作られており、その時世尊はそこに住まわれていたが、その脱穀場の円形が小屋のようであったため、「脱穀場の小屋において」と言った。「ここにおいて」とは、原因を表す処格(第七格)であるため、「この理由において」と言った。落雷によって六人の人々が命を落とした理由において、という意味である。「そのあなた様は、尊者よ」というのも、まさにこの読誦である。
194. Siṅgī nāma kira uttamaṃ ativiya pabhassaraṃ buddhānaṃ chavivaṇṇobhāsaṃ devalokato āgatasuvaṇṇaṃ. Tenevāha **‘‘siṅgīsuvaṇṇavaṇṇa’’**nti. ‘‘Kiṃ pana thero taṃ gaṇhī’’ti sayameva pucchaṃ samuṭṭhāpetvā tattha kāraṇaṃ dassento **‘‘kiñcāpī’’**tiādimāha. Teneva kāraṇenāti upaṭṭhākaṭṭhānassa matthakappatti, paresaṃ vacanokāsapacchedanaṃ, tena vatthena satthu pūjanaṃ, satthu ajjhāsayānuvattananti iminā teneva yathāvuttena catubbidhena kāraṇena.
194. 「シンギー」とは、諸仏の肌の輝きのように極めて輝かしい、天界からもたらされた最上の黄金のことである。それゆえに「黄金色の」と言った。「なぜ長老はそれを受け取ったのか」と自ら問いを起こし、そこに理由を示すために「〜であるとしても」等と言った。「まさにその理由によって」とは、給仕の立場の極致への到達、他者の言葉の機会の遮断、その布による師への供養、師の意図への追随という、上述の四種の理由によって、ということである。
195. Thero ca tāvadeva taṃ siṅgīvaṇṇaṃ maṭṭhadussaṃ bhagavato upanāmesi ‘‘paṭiggaṇhatu me bhante bhagavā imaṃ maṭṭhadussaṃ, taṃ mamassa dīgharattaṃ hitāya sukhāyā’’ti. Paṭiggahesi bhagavā, paṭiggahetvāva naṃ paribhuñji. Tena vuttaṃ **‘‘bhagavāpi tato ekaṃ nivāsesi, ekaṃ pārupī’’**ti. Tāvadeva kira taṃ bhikkhū ovaṭṭikaraṇamattena tunnakammaṃ niṭṭhāpetvā therassa upanesuṃ, thero bhagavato upanāmesi. Hataccikaṃ viyāti paṭihatappabhaṃ, viya-saddo nipātamattaṃ. Bhagavato hi sarīrappabhāhi abhibhuyyamānā tassa vatthayugassa pabhassaratā nāhosi. Antantenevāti anto anto eva, abbhantarato evāti attho. Tenāha **‘‘bahipanassa pabhā natthī’’**ti.
195. そして長老はすぐにその黄金色の滑らかな衣を世尊に差し出して、「世尊よ、私のこの滑らかな衣をお受け取りください。それが私の長きにわたる利益と幸福のためになりますように」と言った。世尊は受け取られ、受け取られてすぐにそれを身につけられた。それゆえに「世尊もまたその一枚を下衣とし、一枚を上衣とされた」と説かれた。比丘たちは端をかがるだけで裁縫を終えてすぐに長老に差し出し、長老が世尊に差し上げたという。「光を失ったかのように」とは、光を遮られたかのようにであり、「かのように」という語は単なる助詞である。世尊の身体の光によって圧倒されたため、その一対の衣の輝きは見えなくなったのである。「内側においてのみ」とは、内側においてのみ、内部においてのみという意味である。それゆえに「しかしその外側には光がない」と言った。
**‘‘Pasannarūpaṃ samuṭṭhāpetī’’**ti etenetassa āhārassa bhuttappaccayā na so rogoti ayamattho dīpito. Dvīsu kālesu evaṃ hoti dvinnaṃ nibbānadhātūnaṃ samadhigamasamayabhāvato. Upavattane antarena yamakasālānanti ettha vattabbaṃ parato āgamissati.
「澄み切った物質現象を生じさせる」というこれによって、この食事を食べたことを原因としてその病が生じたのではないという、この意味が明らかにされた。二つの時期にこのようになるのは、二つの涅槃の境地を獲得する時だからである。「沙羅双樹の間のウパヴァッタナにおいて」についての説明は、後に出てくるであろう。
196. Sabbaṃ suvaṇṇavaṇṇameva ahosi ativiya parisuddhāya pabhassarāya ekagghanāya bhagavato sarīrappabhāya nirantaraṃ abhibhūtattā.
196. 極めて清浄で輝かしい一体となった世尊の身体の光によって絶え間なく圧倒されたため、すべてがまさに黄金色となった。
Dhammeti pariyattidhamme. Pavattāti pāvacanabhāvena desetā. Puratova nisīdi ovādappaṭikaraṇabhāvato.
「法において」とは、教理の法において。「説く者」とは、教えとして説く者。「前にこそ座った」とは、教誡に応じるためである。
197. Dānānisaṃsasaṅkhātā lābhāti vaṇṇadānabaladānādibhedā dānassa ānisaṃsasaññitā diṭṭhadhammikā, samparāyikā ca lābhā icchitabbā. Te alābhāti te sabbe tuyhaṃ alābhā, lābhā eva na honti. Diṭṭheva dhamme paccakkhabhūte imasmiṃyeva attabhāve bhavā diṭṭhadhammikā. Samparetabbato pecca gantabbato ‘‘samparāyo’’ti laddhanāme paraloke bhavā samparāyikā. Diṭṭhadhammikā ca samparāyikā ca diṭṭhadhammikasamparāyikā. Dānānisaṃsasaṅkhātā lābhāti dānānisaṃsabhūtā lābhā. Sabbathā samameva hutvā samaṃ phalaṃ etesaṃ na ekadesenāti samasamaphalā. Piṇḍapātāti tabbisayaṃ dānamayaṃ puññamāha.
197. 「布施の功徳と呼ばれる利益」とは、色の施与や力の施与などの区別による布施の功徳と名づけられた、望まれるべき現世および来世の利益である。「それらは不利益である」とは、それらすべてはあなたにとって不利益であり、決して利益ではないということ。「現世において」とは、目の当たりに存在するまさにこの生存において生じる現世のものである。「死後に赴くべきものであることから来世」と名づけられた、他界において生じる来世のものである。現世のものと来世のもので、現世・来世のものである。「布施の功徳と呼ばれる利益」とは、布施の功徳である利益のことである。あらゆる点で同等であって、部分的にではなく全体として等しい果報を持つから「等しく等しい果報を持つ」。「托鉢の食事」とは、それを対象とする施与による功徳を言っている。
Yadi khettavasena nesaṃ samaphalatā adhippetā, satipi ekasantānabhāve puthujjanaarahantabhāvasiddhaṃ nanu tesaṃ khettaṃ visiṭṭhanti dassetuṃ **‘‘nanu cā’’**tiādimāha. Parinibbānasamatāyāti kilesaparinibbānakhandhaparinibbānabhāvena parinibbānasamatāya. **‘‘Paribhuñjitvā parinibbuto’’**ti etena yathā paṇītapiṇḍapātaparibhogūpatthambhitarūpakāyasannissayo dhammakāyo sukheneva kilese pariccaji, bhojanasappāyasaṃsiddhiyā evaṃ sukheneva khandhe pariccajīti evaṃ kilesapariccāgassa, khandhapariccāgassa ca sukhasiddhinimittatāya ubhinnaṃ piṇḍapātānaṃ samaphalatā jotitā. ‘‘Piṇḍapātasīsena ca piṇḍapātadānaṃ jotita’’nti vutto vāyamattho. Yathā hi sujātāya ‘‘imaṃ āhāraṃ nissāya mayhaṃ devatāya vaṇṇasukhabalādiguṇā sammadeva sampajjeyyu’’nti uḷāro ajjhāsayo tadā ahosi, evaṃ cundassapi kammāraputtassa ‘‘imaṃ āhāraṃ nissāya bhagavato vaṇṇasukhabalādiguṇā sammadeva sampajjeyyu’’nti uḷāro ajjhāsayoti evampi nesaṃ ubhinnaṃ samaphalatā veditabbā. Satipi catuvīsatikoṭisatasahassasamāpattīnaṃ devasikaṃ vaḷañjanasamāpattibhāve yathā pana abhisambujjhanadivase abhinavavipassanaṃ paṭṭhapento rūpasattakādi (visuddhi. ṭī. 2.707 vitthāro) vasena cuddasahākārehi sannetvā mahāvipassanāmukhena tā samāpattiyo samāpajji, evaṃ parinibbānadivasepi sabbā tā samāpajjīti evaṃ samāpattisamatāyapi tesaṃ samaphalatā. Cundassa tāva anussaraṇaṃ uḷārataraṃ hotu bhagavato dinnabhāvena aññathattābhāvato, sujātāya pana kathaṃ devatāya dinnanti? Evaṃsaññibhāvatoti āha **‘‘sujātā cā’’**tiādi. Aparabhāgeti abhisambodhito aparabhāge. Puna aparabhāgeti parinibbānato parato. Dhammasīsanti dhammānaṃ matthakabhūtaṃ nibbānaṃ. Me gahitanti mama vasena gahitaṃ. Tenāha **‘‘mayhaṃ kirā’’**tiādi.
もし福田の力によってそれらが等しい果報を持つと意図されているなら、一人の相続(心身の流れ)であるとしても、凡夫と阿羅漢の状態によって彼らの福田は異なっているではないか、ということを示すために「〜ではないか」等と言った。「涅槃の同等性によって」とは、煩悩の涅槃と五蘊の涅槃の状態による涅槃の同等性によってである。「食べて涅槃に入られた」というこれによって、上等な托鉢の食事の受用によって支えられた色身に基づく法身が、安らかに煩悩を捨て去ったように、食事の適正さの成就によって、このように安らかに五蘊を捨て去ったというように、煩悩の放棄と五蘊の放棄の安楽な成就の原因であることから、二つの托鉢の食事が同等の果報を持つことが明らかにされた。「托鉢の食事を筆頭として、托鉢の食事の施与が明らかにされた」と、この意味も説かれている。スジャーターに「この食べ物によって、私の樹神に美貌・安楽・力などの徳が正しく成就しますように」という広大な意図がその時あったように、鍛冶の子チュンダにも「この食べ物によって、世尊に美貌・安楽・力などの徳が正しく成就しますように」という広大な意図があったというように、これによっても彼ら両者の同等の果報が知られるべきである。二十四兆の等至(三昧)が日々の受用の等至であるとしても、正等覚の日に新たなヴィパッサナーを始めて、色の七法などの力によって十四の様態で総合し、大ヴィパッサナーを通じてそれらの等至に入られたように、完全な涅槃の日にもそれらすべてに入られたというように、等至の同等性によってもそれらは同等の果報を持つ。チュンダの追想は世尊に与えられたことであり他の状態がないため、より広大であるとしても、スジャーターについてはどのように神に与えられたのか。「そのように認識していたからである」として、「そしてスジャーターは」等と言った。「のちの時期に」とは、完全な覚りののちの時期に。「さらにのちの時期に」とは、完全な涅槃ののちに。「法の頂」とは、諸法の頂点である涅槃のこと。「私によって捉えられた」とは、私に関して捉えられたこと。それゆえに「私に関して実に……」等と言った。
Adhipatibhāvo ādhipateyyanti āha **‘‘jeṭṭhabhāvasaṃvattaniyaka’’**nti.
支配者である状態が主導権であるとして、「主導的な状態に導くもの」と言った。
Saṃvareti sīlasaṃvare. Veranti pāṇātipātādipañcavidhaṃ veraṃ. Tañhi veridhammabhāvato, verahetutāya ca ‘‘vera’’nti vuccati. Kosallaṃ vuccati ñāṇaṃ, tena yutto kusaloti āha **‘‘kusalo pana ñāṇasampanno’’**ti. Ñāṇasampadā nāma ñāṇapāripūrī, sā ca aggamaggavasena veditabbā, aggamaggo ca niravasesato kilese pajahatīti āha **‘‘ariyamaggena…pe… jahātī’’**ti. Imaṃ pāpakaṃ jahitvāti dānena tāva lobhamacchariyādipāpakaṃ, sīlena pāṇātipātādipāpakaṃ jahitvā tadaṅgavasena pahāya tato samathavipassanādhammehi vikkhambhanavasena, tato maggapaṭipāṭiyā samucchedavasena anavasesaṃ pāpakaṃ pahāya. Tathā pahīnattā eva rāgādīnaṃ khayā kilesanibbānena sabbaso kilesavūpasamena nibbuto parinibbutoti saupādisesāya nibbānadhātuyā desanāya kūṭaṃ gaṇhanto **‘‘iti cundassa…pe… sampassamāno udānaṃ udānesī’’**ti.
「抑制において」とは、戒の抑制において。「怨敵」とは、殺生などの五種の怨敵(悪行)のことである。それは敵対する法であることから、また怨恨の原因であることから「怨敵」と呼ばれる。巧みさは智慧と呼ばれ、それを具えた者が巧みであるとして、「しかし巧みな者とは智慧を具えた者である」と言った。「智慧の具足」とは智慧の円満のことであり、それは最上の道(阿羅漢道)の力によって知られるべきであり、最上の道は余すところなく煩悩を捨てるため、「聖道によって……中略……捨てる」と言った。「この悪を捨てて」とは、まず布施によって貪りや物惜しみなどの悪を、戒によって殺生などの悪を、部分的な放棄によって捨て、次いで止観の法によって制圧による放棄によって、次いで道の階梯によって断絶による放棄によって、余すところなく悪を捨てて、このように捨て去ったからこそ、貪りなどの消滅により、煩悩の涅槃によって、すべての煩悩の寂静によって「寂静となり、完全な涅槃に入られた」と、有余依涅槃界の説示の頂点を捉えて、「このようにチュンダの……中略……見届けて感興の言葉を唱えられた」と言った。
Catutthabhāṇavāravaṇṇanā niṭṭhitā.
第四の読誦段の注釈は終了した。
Yamakasālavaṇṇanā
沙羅双樹の注釈
198. Evaṃ taṃ kusinārāyaṃ hotīti yathā anurādhapurassa thūpārāmo dakkhiṇapacchimadisāyaṃ, evaṃ taṃ uyyānaṃ kusinārāya dakkhiṇapacchimadisāyaṃ hoti. Tasmāti yasmā nagaraṃ pavisitukāmā uyyānato upecca vattanti gacchanti etenāti ‘‘upavattana’’nti vuccati, taṃ sālapantibhāvena ṭhitaṃ sālavanaṃ. Antarenāti vemajjhe. Tassa kira mañcakassāti tattha paññapiyamānassa tassa mañcakassa. Tatrāpi…pe… eko pādabhāgassa, tasmā ‘‘antarena yamakasālāna’’nti vuttaṃ. Saṃsibbitvāti aññamaññaāsattaviṭapasākhatāya saṃsibbitvā viya. ‘‘Ṭhitasākhā’’tipi vuttaṃ aṭṭhakathāyaṃ. Yaṃ pana pāḷiyaṃ ‘‘uttarasīsakaṃ mañcakaṃ paññapehī’’ti vuttaṃ, taṃ pacchimadassanaṃ daṭṭhuṃ āgatānaṃ devatānaṃ daṭṭhuṃ yogyatāvasena vuttaṃ. Keci pana ‘‘uttaradisāvilokanamukhaṃ pubbadisāsīsakaṃ katvā mañcakaṃ paññapehīti attho’’ti vadanti, taṃ tesaṃ matimattaṃ.
198. 「このようにクシナガラにおいてある」とは、アヌラーダプラのトゥーパーラーマが南西の方角にあるように、その林園はクシナガラの南西の方角にある。「それゆえに」とは、都市に入ろうと望む者たちが林園から近づいて歩む(向かう)ことから「ウパヴァッタナ」と呼ばれ、それは沙羅の並木として立つ沙羅の林である。「間に」とは、中央に。「その寝台の」とは、そこに設えられたその寝台の。「そこにおいても……中略……一つは足側に」であり、それゆえに「沙羅双樹の間に」と説かれた。「結び合わされて」とは、互いに枝が触れ合っていることによって、結び合わされたかのようであること。「直立した枝」とも註釈書に説かれている。パーリにおいて「頭を北に向けた寝台を設えよ」と説かれたのは、最後の見納めを見に来た神々が見るのに適していることによって説かれたのである。しかしある者たちは「北の方角を向いて見るように、東を頭にして寝台を設えよ、という意味である」と言うが、それは彼らの単なる憶測にすぎない。
Ete nāgānamuttamāti ete gottato gocariādināmakā hatthināgesu balena seṭṭhatamā. Majjhimaṭṭhakathāyaṃ (ma. ni. aṭṭha. 1.148) pana keci hatthino ito aññathā āgatā, so pana nesaṃ nāmamattakato bhedo daṭṭhabbo.
「これらは象たちの中で最上のものである」とは、これらは家系からゴチャリなどの名を持つ、象たちの中で力において最も優れたものである。しかし中部註釈書においてはある象たちがこれとは異なって現れているが、それは彼らの単なる名前の違いによる区別と見なされるべきである。
Paribhuttakālato paṭṭhāya…pe… parikkhayaṃ gataṃ, ‘‘na pana paribhuttappaccayā’’ti heṭṭhā vuttanayeneva attho daṭṭhabbo. Caṅgavāreti ūmiyaṃ. Katokāsassa kammassa vasena yathāsamuṭṭhito rogo ārogyaṃ abhimaddatīti katvā etamatthaṃ dassento **‘‘viyā’’**ti vuttaṃ. Yasmā bhagavā heṭṭhā vuttanayena kappaṃ, kappāvasesaṃ vā ṭhātuṃ samattho eva, tattakaṃ kālaṃ ṭhāne payojanābhāvato āyusaṅkhāre ossajjitvā tādisassa kammassa okāsaṃ adāsi, tasmā etamatthaṃ dassento ‘‘viyā’’tipi vattuṃ yujjatiyeva.
「受用した時から……中略……消滅に至った」とは、「しかし受用したことを原因としてではない」と下文で述べられた方法によって意味が見なされるべきである。「腸において」とは、腹の中において。機会を得た業の力によって生じた病が健康を圧倒するかのように、この意味を示して「かのように」と説かれた。世尊は上述の方法によって一劫、あるいは一劫の残り(余劫)の間存続することが実に可能であったが、それだけの時間存続することに利益がないため、命行を捨ててそのような業に機会を与えられたのであり、それゆえにこの意味を示して「かのように」と言うことも実に妥当である。
Kusalaṃ kātabbaṃ maññissanti ‘‘evaṃ mahapphalaṃ, evaṃ mahānisaṃsaṃ, mahānubhāvañca taṃ kusala’’nti.
「このように偉大な果報があり、このように偉大な功徳があり、大いなる威力がある善行である」として、「善行はなされるべきであると考えるであろう」。
Ekassāpi sattassa vaṭṭadukkhavūpasamo buddhānaṃ garutaro hutvā upaṭṭhāti atidullabhabhāvato, tasmā **‘‘aparampi passatī’’**tiādi vuttaṃ, svāyamattho māgaṇḍiyasuttena (su. ni. 841) dīpetabbo.
たった一人の衆生の輪廻の苦しみの寂静であっても、極めて得難いことであるため、諸仏にとっては重大なこととして現れる。それゆえに「さらに別をも見て」等と説かれたのであり、この意味はマーガンディヤ経によって明らかにされるべきである。
Tatiyaṃ pana kāraṇaṃ sattānaṃ uppajjanakaanatthapariharaṇanti taṃ dassento puna **‘‘aparampi passatī’’**tiādimāha.
しかし第三の理由は衆生に生じる不利益の除去であるため、それを示すために再び「さらに別をも見て」等と言われた。
Sīhaseyyanti. Ettha sayanaṃ seyyā, sīhassa viya seyyā sīhaseyyā, taṃ sīhaseyyaṃ. Atha vā sīhaseyyanti seṭṭhaseyyaṃ, yadidaṃ atthadvayaṃ parato āgamissati.
「獅子の臥法を」について。ここで横たわることが臥法であり、獅子のような臥法が獅子の臥法であり、その獅子の臥法を。あるいは獅子の臥法とは最上の臥法のことであり、この二つの意味は後に出てくるであろう。
‘‘Vāmena passena sentī’’ti evaṃ vuttā kāmabhogiseyyā, dakkhiṇapassena sayāno nāma natthi dakkhiṇahatthassa sarīraggahaṇādiyogakkhamato, purisavasena cetaṃ vuttaṃ.
「左脇を下にして横たわる」と、このように説かれたものは愛欲を楽しむ者の臥法であり、右手を身体の支えなどに用いるのに適しているため、右脇を下にして横たわる者は存在しない。そしてこれは男性に関して説かれたものである。
Ekena passena sayituṃ na sakkonti dukkhuppattito.
苦痛が生じるため、一方の脇だけで横たわることはできない。
Ayaṃ sīhaseyyāti ayaṃ evaṃ vuttā sīhaseyyā. **‘‘Tejussadattā’’**ti iminā sīhassa abhīrubhāvaṃ dasseti. Bhīrukā hi sesamigā attano āsayaṃ pavisitvā santāsapubbakaṃ yathā tathā sayanti, sīho pana abhīrubhāvato satokārī bhikkhu viya satiṃ upaṭṭhāpetvāva sayati. Tenāha **‘‘purimapāde’’**tiādi. Dakkhiṇe purimapāde vāmassa purimapādassa ṭhapanavasena dve purimapāde ekasmiṃ ṭhāne ṭhapetvā. Pacchimapādeti dve pacchimapāde. Vuttanayeneva idhāpi ekasmiṃ ṭhāne pādaṭṭhapanaṃ veditabbaṃ, ṭhitokāsasallakkhaṇaṃ abhīrubhāveneva. **‘‘Sīsaṃ pana ukkhipitvā’’**tiādinā vuttā sīhakiriyā anutrāsapabujjhanaṃ viya abhīrubhāvasiddhā dhammatāvasenevāti veditabbā. Sīhavijambhitavijambhanaṃ ativelaṃ ekākārena ṭhapitānaṃ sarīrāvayavānaṃ gamanādikiriyāsu yogyabhāvāpādanatthaṃ. Tikkhattuṃ sīhanādanadanaṃ appesakkhamigajātapariharaṇatthaṃ.
「これは獅子の臥法である」とは、このように説かれたものが獅子の臥法であるということである。「威光が優れているため」とは、これによって獅子の無畏(恐れのないこと)を示している。恐れを抱く他の獣たちは、自らの住処に入って恐怖を伴って思い思いに横たわるが、獅子は無畏であるため、正念を保つ比丘のように正念を現前させて横たわる。それゆえに「前足を」などと言われたのである。右の前足の上に左の前足を置くことによって、二つの前足を一つの場所に置き、「後ろ足を」とは二つの後ろ足のことである。既に説かれた通りの理趣によって、ここでも一つの場所に足を置くことが知られるべきであり、静止している位置を観察することは、まさに無畏によるものである。「頭を上げて」などと説かれた獅子の所作は、驚きなく目覚めることのように、無畏から生じる法爾の力によるものであると知られるべきである。獅子が体を伸ばすのは、長いあいだ一つの姿勢で置かれていた身体の各部分を、歩行などの動作に適した状態にするためである。三度獅子吼をあげるのは、劣った獣たちを遠ざけるためである。
Seti abyāvaṭabhāvena pavattati etthāti seyyā, catutthajjhānameva seyyā catutthajjhānaseyyā. Kiṃ pana taṃ catutthajjhānanti? Ānāpānacatutthajjhānaṃ, tato hi vuṭṭhahitvā vipassanaṃ vaḍḍhetvā bhagavā anukkamena aggamaggaṃ adhigantvā tathāgato jātoti. ‘‘Tayidaṃ padaṭṭhānaṃ nāma, na seyyā, tathāpi yasmā ‘catutthajjhānā vuṭṭhahitvā samanantarā bhagavā parinibbāyī’ti (dī. ni. 2.219) vakkhati, tasmā lokiyacatutthajjhānasamāpatti eva tathāgataseyyā’’ti keci, evaṃ sati parinibbānakālikāva tathāgataseyyāti āpajjati, na ca bhagavā lokiyacatutthajjhānasamāpajjanabahulo vihāsi. Aggaphalavasena pavattaṃ panettha catutthajjhānaṃ veditabbaṃ. Tattha yathā sattānaṃ niddupagamanalakkhaṇā seyyā bhavaṅgacittavasena hoti, sā ca nesaṃ paṭhamajātisamanvayā yebhuyyavuttikā, evaṃ bhagavato ariyajātisamanvayaṃ yebhuyyavuttikaṃ aggaphalabhūtaṃ catutthajjhānaṃ ‘‘tathāgataseyyā’’ti veditabbaṃ. Sīhaseyyā nāma seṭṭhaseyyāti āha **‘‘uttamaseyyā’’**ti.
ここに安らかに、無関心な状態(平穏)でとどまるから「臥法(臥床)」であり、第四禅そのものが臥法であるから「第四禅の臥法」という。では、その第四禅とは何か。入出息念の第四禅である。世尊はそこから出定して毘鉢舎那(洞察)を増大させ、順次に最上の道(無学道)に到達して如来となられたからである。「これは原因(近因)であって臥法ではない。しかしながら『第四禅より出定して直ちに世尊は般涅槃された』と説かれるであろうから、世俗の第四禅の等至こそが如来の臥法である」とある人々は言う。もしそうであれば、般涅槃の時のものだけが如来の臥法となってしまい、世尊が世俗の第四禅に頻繁に入定して過ごされたわけではない。ここでは最上の果(阿羅漢果)の力によって生じた第四禅と知られるべきである。そこにおいて、有情たちの睡眠に入る特徴をもつ臥法が有分心によるものであり、それが彼らにとって最初の生(受生)に結びついて多く現れるように、世尊にとって聖なる生に結びついて多く現れる最上の果となった第四禅が「如来の臥法」であると知られるべきである。獅子の臥法とは最上の臥法であることから「最上の臥法」と言われた。
Natthi etissā uṭṭhānanti anuṭṭhānā, seyyā, taṃ anuṭṭhānaseyyaṃ. ‘‘Ito uṭṭhahissāmī’’ti manasikārassa abhāvato ‘‘uṭṭhānasaññaṃ manasi karitvā’’ti na vuttaṃ. Etthāti etasmiṃ anuṭṭhānaseyyupagamane. Kāyavasena anuṭṭhānaṃ, na cittavasena, cittavasena ca anuṭṭhānaṃ nāma niddupagamananti tadabhāvaṃ dassetuṃ **‘‘niddāvasenā’’**tiādi vuttaṃ. Bhavaṅgassāti niddupagamanalakkhaṇassa bhavaṅgassa.
これには起き上がることがないから「無起」の臥法であり、それが「無起の臥法」である。「ここから起き上がろう」という作意がないため、「起き上がりの想を作意して」とは説かれなかった。「ここに」とは、この無起の臥法に入ることにおいてである。起き上がらないのは身体によるものであり、心によるものではない。心による起き上がらないこととは睡眠に入ることであり、その不在を示すために「睡眠によって」などと言われた。「有分の」とは、睡眠に入る特徴をもつ有分のことである。
Sabbapāliphullāti sabbatthakameva vikasanavasena phullā, na ekadesavikasanavasena. Tenāha **‘‘sabbe samantato pupphitā’’**ti. Ekacchannāti samphullapupphehi ekākārena sabbattheva chāditā. Ullokapadumānīti heṭṭhā olokentāni viya tiṭṭhanapadumāni. Morapiñchakalāpo viya pañcavaṇṇapupphasañchāditattā.
「すべて満開となった」とは、すべての場所で開花することによって満開となったのであり、一部分だけの開花によるのではない。それゆえに「すべて四方に花開いた」と言われた。「一面を覆われた」とは、満開の花々によって一様にすべての場所が覆われたことである。「見上げる蓮華」とは、下を見つめているかのように立っている蓮華のことである。孔雀の尾羽の束のように五色の花に覆われているからである。
Nandapokkharaṇīsambhavānīti nandapokkharaṇītīrasambhavāni. Mahātumbamattanti āḷhakamattaṃ. Paviṭṭhānīti khittāni. Sarīrameva okirantīti sarīrameva ajjhokiranti.
「ナンダ池に生じた」とは、ナンダ池の岸辺に生じたもののことである。「大きな升ほど」とは、アーラカ枡ほどのことである。「入った」とは、投じられたことである。「身体に降り注ぐ」とは、身体の上に降り注ぐことである。
Devatānaṃ upakappanacandanacuṇṇānīti saṭṭhipi paññāsampi yojanāni vāyanakasetavaṇṇacandanacuṇṇāni. Dibbagandhajālacuṇṇānīti dibbagandhadibbacuṇṇāni. Haritālaañjanacuṇṇādīnipi dibbāni paramasugandhāni evāti veditabbāni. Tenevāha **‘‘sabbadibbagandhavāsavikatiyo’’**ti.
「諸天の調合された栴檀の粉末」とは、六十由旬や五十由旬にも香る白色の栴檀の粉末のことである。「天の香りの網の粉末」とは、天の香りと天の粉末のことである。雌黄や安息香の粉末などもまた、天の極めて香しいものであると知られるべきである。それゆえに「すべての天の香気と薫香の変異」と言われた。
Ekacakkavāḷe sannipatitvā antalikkhe vajjanti mahābhinikkhamanakāle viya.
一つの輪囲山(世界)に集まり、大出家の時のように空中で奏でられた。
Tāti devatā. Ganthamānā vāti mālaṃ racantiyo eva. Apariniṭṭhitā vāti yathādhippāyaṃ pariyositā eva. Hatthena hatthanti attano hatthena parassa hatthaṃ. Gīvāya gīvanti kaṇṭhagāhavasena attano gīvāya parassa gīvaṃ. Gahetvāti āmasitvā. Mahāyaso mahāyasoti āmeḍitavasena aññamaññaṃ ālāpavacanaṃ.
「彼らは」とは諸天のことである。「編みながら」とは、まさに花綱を作りながらである。「完成していなくても」とは、思い通りに終えてのことである。「手と手を」とは、自分の手と相手の手を。「首と首を」とは、抱き合うことによって自分の首と相手の首を。「取って」とは、触れ合って。「大名声ある者よ、大名声ある者よ」とは、重言による互いの語り合いの言葉である。
199. Mahantaṃ ussāhanti tathāgatassa pūjāsakkāravasena pavattiyamānaṃ mahantaṃ ussāhaṃ disvā.
199. 「大いなる熱意を」とは、如来への供養と敬敬のために行われている大いなる熱意を見て、ということである。
Sāyeva pana paṭipadāti pubbabhāgapaṭipadā eva. Anucchavikattāti adhigantabbassa navavidhalokuttaradhammassa anurūpattā.
「まさにその実践」とは、前段階の実践のことである。「相応しいから」とは、証得されるべき九種の出世間法に相応しいからである。
Sīlanti cārittasīlamāha. Ācārapaññattīti cārittasīlaṃ. Yāva gotrabhutoti yāva gotrabhuñāṇaṃ, tāva pavattetabbā samathavipassanā sammāpaṭipadā. Idāni taṃ sammāpaṭipadaṃ byatirekato, anvayato ca vibhāvetuṃ **‘‘tasmā’’**tiādi vuttaṃ. Jinakāḷasuttanti jinamahāvaḍḍhakinā ṭhapitaṃ vajjetabbagahetabbadhammasandassanakāḷasuttaṃ sikkhāpadamariyādaṃ, upāsakopāsikāvāresu **‘‘gandhapūjaṃ mālāpūjaṃ karotī’’**ti vacanaṃ cārittasīlapakkhe ṭhapetvā karaṇaṃ sandhāya vuttaṃ, tena bhikkhubhikkhunīnampi tathākaraṇaṃ anuññātamevāti daṭṭhabbaṃ.
「戒」とは作持戒を指して言っている。「作法の規定」とは作持戒である。「種姓地に至るまで」とは、種姓智に至るまで修められるべき奢摩他と毘鉢舎那の正しき実践のことである。いま、その正しき実践を背反と随順によって明らかにするために「それゆえに」などと言われた。「勝者の黒縄」とは、勝者という大工によって置かれた、避けるべき法と取るべき法を示す黒縄であり、学処の境界のことである。優婆塞と優婆夷の章において「香の供養、花の供養を行う」という言葉は、作持戒の側に置いて行うことを指して説かれたのであり、これによって比丘や比丘尼たちにも同様に行うことが許されていると見なされるべきである。
Ayañhīti dhammānudhammapaṭipadaṃ sandhāya vadati.
「実にこれこそが」とは、法に随順する法の実践を指して言っている。
Upavāṇattheravaṇṇanā
ウパヴァーナ長老の解釈
200. Apanesīti ṭhitappadesato yathā apagacchati, evamakāsi, na pana nibbhacchi. Tenāha **‘‘ānando’’**tiādi. Vuttasadisā vāti samacittapariyāyadesanāyaṃ (a. ni. 2.37) vuttasadisā eva. Āvārentoti chādento.
200. 「立ち去らせた」とは、立っていた場所から離れ去るようにさせたのであり、叱責したのではない。それゆえに「アーナンダよ」などと言われた。「説かれたものと同様」とは、等心経の説法において説かれたものとまったく同様である。「遮りながら」とは、覆い隠しながら。
Yasmā kassapassabuddhassa cetiye ārakkhadevatā ahosi, tasmā therova tejussado, na aññe arahantoti ānetvā yojanā.
迦葉仏の仏塔において守護の天子であったため、長老こそが威光が優れており、他の阿羅漢たちではないと導いて結びつける。
Idāni āgamanato paṭṭhāya tamatthaṃ vitthārato dassetuṃ **‘‘vipassimhi kira sammāsambuddhe’’**tiādi āraddhaṃ. **‘‘Cātumahārājikā devatā’’**ti idaṃ gobalībaddañāyena gahetabbaṃ bhummadevatādīnampi tappariyāpannattā. Tesaṃ manussānaṃ.
いま、来訪から順にその意味を詳細に示すために「毘婆尸正等覚者の時に」などを始めた。「四大王衆天の諸天」という表現は、牛と雄牛の論理(広義と狭義)によって理解されるべきであり、地居天などもそこに含まれるからである。「それらの人々の」とは、人々のことである。
Tatthāti kassapassa bhagavato cetiye.
「そこに」とは、迦葉仏の仏塔においてである。
201. Adhivāsentīti rocenti.
201. 「耐え忍ぶ」とは、喜ぶことである。
Chinnapāto viya chinnapāto, taṃ chinnapātaṃ, bhāvanapuṃsakaniddeso yaṃ. Āvaṭṭantīti abhimukhabhāvena vaṭṭanti. Yattha patitā, tato katipayaratanaṭṭhānaṃ vaṭṭanavaseneva gantvā puna yathāpatitameva ṭhānaṃ vaṭṭanavasena āgacchanti. Tenāha ‘‘āvaṭṭantiyo **patitaṭṭhānameva āgacchantī’’**ti. Vivaṭṭantīti yattha patitā, tato vinivaṭṭanti. Tenāha **‘‘patitaṭṭhānato parabhāgaṃ vaṭṭamānā gacchantī’’**ti. Purato vaṭṭanaṃ āvaṭṭanaṃ, itaraṃ tividhampi vivaṭṭananti dassetuṃ **‘‘apicā’’**tiādi vuttaṃ. Devatā dhāretuṃ na sakkoti udakaṃ viya osīdanato. Tenāha **‘‘tatthā’’**tiādi. Tatthāti pakatipathaviyaṃ. Devatā osīdanti dhātūnaṃ saṇhasukhumālabhāvato. Pathaviyaṃ pathaviṃ māpesunti pakatipathaviyaṃ attano sarīraṃ dhāretuṃ samatthaṃ iddhānubhāvena pathaviṃ māpesuṃ.
切り落とされて倒れるように倒れるのが「切り落とされたように倒れること」であり、これは状態を表す中性名詞の指示である。「身を回転させる」とは、前を向いた状態で転がることである。倒れた場所から何肘かの場所を転がって進み、再び倒れた場所へと転がりながら戻ってくる。それゆえに「身を回転させながら倒れた場所へと戻ってくる」と言われた。「転がり回る」とは、倒れた場所からあちこちへと転がることである。それゆえに「倒れた場所から他の場所へと転がりながら進む」と言われた。前方へと転がるのが「身を回転させること」であり、他の三方は「転がり回ること」であると示すために「さらにまた」などと言われた。大地は水のように沈み込むため、諸天を支えることができない。それゆえに「そこに」などと言われた。「そこに」とは、通常の大地においてである。諸天は諸要素が細やかで繊細であるために沈み込む。大地の上に大地を化作したとは、通常の大地の上に、自らの身体を支えることができる大地を神通力によって化作したということである。
Kāmaṃ domanasse asatipi ekacco rāgo hotiyeva, rāge pana asati domanassassa asambhavo evāti tadekaṭṭhabhāvatoti āha **‘‘vītarāgāti pahīnadomanassā’’**ti. Silāthambhasadisā iṭṭhāniṭṭhesu nibbikāratāya.
確かに憂いがなくてもある種の貪りは存在するが、貪りがないならば憂いは決して生じ得ないため、それらが同じ場にあることから「離貪の者たちとは、憂いを捨て去った者たちである」と言われた。石柱に似ているとは、好ましいことにも好ましくないことにも動揺しないからである。
Catusaṃvejanīyaṭṭhānavaṇṇanā
四つの発心すべき場所の解釈
202. Apāragaṅgāyāti gaṅgāya orambhāge. **‘‘Saṅkārachaḍḍakasammajjaniyo gahetvā’’**tiādi attano attano vasanaṭṭhāne vattakaraṇākāradassanaṃ. **‘‘Evaṃ dvīsu kālesū’’**tiādi nidassanatthaṃ paccāmasanaṃ, taṃ heṭṭhā adhigataṃ.
202. 「ガンジス川のこちら岸に」とは、ガンジス川の岸辺の側に。「塵を捨てる箒を取って」などは、各自の住処において義務を果たす様相の提示である。「このように二つの時に」などは、例示のための再言であり、それは前に述べられた通りである。
Kammasādhano sambhāvanattho bhāvanīya-saddoti āha **‘‘manasā bhāvite sambhāvite’’**ti. Dutiyavikappe pana bhāvanaṃ, vaḍḍhanañca paṭipakkhapahānatoti āha **‘‘ye vā’’**tiādi.
「培うべき(バーヴァニーヤ)」という語は、所作を成就する讃嘆の意味であることから、「心によって修習された、尊崇された」と言われた。第二の解釈では、修習することと増大させることは敵対するものを捨断することによるため、「あるいは〜する者たち」などと言われた。
Buddhādīsu tīsu vatthūsu pasannacittassa, na kammaphalasaddhāmattena. Sā cassa saddhāsampadā evaṃ veditabbāti phalena hetuṃ dassento **‘‘vattasampannassā’’**ti āha. Saṃvego nāma sahottappañāṇaṃ, abhijātiṭṭhānādīnipi tassa uppattihetūni bhavantīti āha **‘‘saṃvegajanakānī’’**ti.
仏などの三宝において澄明な心を持つ者であり、業果への単なる信によるのではない。そして、その信の具足はこのように知られるべきであると、結果によって原因を示すために「義務を具足した者の」と言われた。「感激(サンヴェーガ)」とは慚愧を伴う智慧のことであり、誕生の地などもそれの生起の原因となることから「感激を生じさせるもの」と言われた。
Cetiyapūjanatthaṃ cārikā cetiyacārikā. Sagge patiṭṭhahissantiyeva buddhaguṇārammaṇāya kusalacetanāya saggasaṃvattaniyabhāvato.
仏塔を供養するための遊行が「仏塔への遊行」である。仏の徳を所縁とする善なる思(意志)は天界に導くものであるため、必ずや天界に赴くであろう。
Ānandapucchākathāvaṇṇanā
アーナンダの問いの言説の解釈
203. Etthāti mātugāme. Ayaṃ uttamā paṭipatti, yadidaṃ adassanaṃ, dassanamūlakattā tappaccayānaṃ sabbānatthānaṃ. Lobhoti kāmarāgo. Cittacalanā paṭipattiantarāyakaro cittakkhobho. Murumurāpetvāti saaṭṭhikaṃ katvā khādane anuravadassanaṃ. Aparimitaṃ kālaṃ dukkhānubhavanaṃ aparicchinnadukkhānubhavanaṃ. Vissāsoti visaṅgo ghaṭṭanābhāvo. Otāroti tattha cittassa anuppaveso. Asihatthena verīpurisena, pisācenāpi khāditukāmena. Āsīdeti akkamanādivasena bādheyya. Assāti mātugāmassa. Pabbajitehi kattabbakammanti āmisapaṭiggahaṇādi pabbajitehi kātabbaṃ kammaṃ. Satīti vā kāyagatāsati upaṭṭhāpetabbā.
203. 「ここに」とは、女人においてである。「見ないこと」というこれが最上の実践である。それ(見ること)を縁とするすべての不利益は見ることが根本だからである。「貪り」とは欲貪である。「心の揺らぎ」とは、実践の障害となる心の動揺である。「ボロボロに噛み砕いて」とは、骨ごと噛み砕いて食べる擬音を示している。「無制限の時間を苦しみ受けること」とは、限りのない苦しみを受けることである。「親密さ」とは執着であり、触れ合わないことの不在である。「機会」とは、そこへ心が入り込むことである。「刀を手にした敵によって、あるいは食べようとする夜叉によって」。「害する」とは、踏みつけるなどによって害することである。「その」とは、女人の。「出家者たちによってなされるべき行為」とは、施物を受け取ることなど出家者たちがなすべき行為である。「正念」とは、身至念が現前されるべきである。
204. Atantibaddhāti abhāravahā. Pesitacittāti nibbānaṃ pati pesitacittā.
204. 「網に繋がれていない」とは、重荷を背負わないことである。「心を向けた」とは、涅槃に向かって心を向けたことである。
205. Vihatenāti kappāsavihananadhanunā pabbajaṭānaṃ vijaṭanavasena hatena. Tenāha **‘‘supothitenā’’**ti, asaṅkaraṇavasena suṭṭhu pothitenāti attho, dassanīyasaṃvejanīyaṭṭhānakittanena ca vasanaṭṭhānaṃ kathitaṃ.
205. 「打たれた」とは、綿打ち弓によって粗い繊維の絡まりを解くように打たれた。「よく打たれた」と言われたのは、混じりけのないようによく打たれたという意味であり、見に行くべき発心すべき場所を讃えることによって住処が語られた。
Ānandaacchariyadhammavaṇṇanā
アーナンダの未曾有なる法の解釈
207. Theraṃ adisvā āmantesīti tattha adisvā āvajjanto therassa ṭhitaṭṭhānaṃ, pavattiñca ñatvā āmantesi.
207. 「長老を見ずに呼びかけた」とは、そこに見ずに、思いを巡らせて長老のいる場所と様子を知って呼びかけた。
Kāyakammassa hitabhāvo hitajjhāsayena pavattitattāti āha **‘‘hitavuddhiyā katenā’’**ti. Sukhabhāvo kāyikadukkhābhāvo, cetasikasukhabhāvo cetasikasukhasamuṭṭhitattā cāti vuttaṃ **‘‘sukhasomanasseneva katenā’’**ti. Āvirahovibhāgato advayabhāvato advayenāti imamatthaṃ dassetuṃ **‘‘yathā’’**tiādi vuttaṃ. Satthu khettabhāvasampattiyā, therassa ajjhāsayasampattiyā ca ‘‘ettakamida’’nti pamāṇaṃ gahetuṃ asakkuṇeyyatāya pamāṇavirahitattā tassa kammassāti āha **‘‘cakkavāḷampī’’**tiādi.
身業の利益となる性質は、利益を願う意図によって行われたことによるため「利益の増大のために行われた」と言われた。安楽である性質は身体的な苦痛がないことであり、精神的な安楽である性質は精神的な安楽から生じたことによるため「安楽と喜悦によって行われた」と言われた。現前と非現前の区別なく、二つでないことによって「二つなく」というこの意味を示すために「あたかも」などと言われた。師という福田の具足と、長老の意図の具足により、「これほどである」と量を測ることができないため、その行為には限量がないことから「輪囲世界をも」などと言われた。
Evaṃ pavattitenāti evaṃ odissakamettābhāvanāya vasena pavattitena. Vivaṭṭūpanissayabhūtaṃ kataṃ upacitaṃ puññaṃ etenāti katapuñño, arahattādhigamāya katādhikāroti attho. Tenāha **‘‘abhinīhārasampannosīti dassetī’’**ti.
「このように行われた」とは、このように個別の慈悲の修習によって行われた。「輪廻を脱する資糧となった、なされ積まれた功徳をこれによって持つ者」が作功徳者であり、阿羅漢果の証得のために積まれた資格を持つ者という意味である。それゆえに「誓願を具足していることを示している」と言われた。
208. Katthaci saṅkucitaṃ hutvā ṭhitaṃ mahāpathaviṃ pattharanto viya, paṭisaṃhaṭaṃ hutvā ṭhitaṃ ākāsaṃ vitthārento viya, catusaṭṭhādhikayojanasatasahassubbedhaṃ cakkavāḷagiriṃ adho osārento viya, aṭṭhasaṭṭhādhikasahassayojanasatasahassubbedhaṃ sineruṃ ukkhipento viya, satayojanāyāmavitthāraṃ mahājambuṃ khandhe gahetvā cālento viyāti pañca hi upamā hi therassa guṇakathā mahantabhāvadassanatthañceva aññesaṃ dukkaṭabhāvadassanatthañca āgatāva. Eteneva cāti ca-saddena ‘‘ahaṃ etarahi arahaṃ sammāsambuddho’’ (dī. ni. 2.4), ‘‘sadevakasmiṃ lokasmiṃ natthi me paṭipuggalo’’ti (ma. ni. 1.285; 2.341; mahāva. 11; kathā. 405; mi. pa. 5.11) ca evaṃ ādīnaṃ saṅgaho daṭṭhabbo. Byattoti khandhakosallādisaṅkhātena veyyattiyena samannāgato. Medhāvīti medhāsaṅkhātāya sammābhāvitāya paññāya samannāgato.
208. どこかで縮こまって存在している大地を広げるかのごとく、収縮して存在している空間を拡大するかのごとく、百六十四万由旬の高さの輪囲山を沈み込ませるかのごとく、百六十八万由旬の高さのスメール山を持ち上げるかのごとく、百由旬の広がりを持つ大閻浮樹を肩に載せて揺り動かすかのごとく、という五つの比喩は、長老の徳の言説の偉大さを示すため、また他の者たちのなし難さを示すために挙げられたのである。「これによってまた」の「また(ca)」という語によって、「私は今や阿羅漢・正等覚者である」、「天を含む世界において私に匹敵する者はいない」などの包含が理解されるべきである。「明晰な」とは、蘊の巧みさなどに代表される明晰さを具えていること。「聡明な」とは、聡明と呼ばれる正しく修められた智慧を具えていることである。
209. Paṭisanthāradhammanti pakaticārittavasena vuttaṃ, upagatānaṃ pana bhikkhūnaṃ bhikkhunīnañca pucchāvissajjanavasena ceva cittarucivasena ca yathākālaṃ dhammaṃ desetiyeva, upāsakopāsikānaṃ pana upanisinnakathāvasena.
209. 「親愛なる挨拶の法」とは通常の作法によって言われたが、訪れた比丘や比丘尼たちには問答によって、また心の好みに応じて時宜に適って法を説き、優婆塞や優婆夷たちには近くに座しての語らいによって説くのである。
Mahāsudassanasuttadesanāvaṇṇanā
大善見王経の説法の解釈
210. Khuddaka-saddo patirūpavācī, ka-saddo appatthoti āha **‘‘khuddakanagaraketi nagarapatirūpake sambādhe khuddakanagarake’’**ti. Dhuparavisālasaṇṭhānatāya taṃ ‘‘ujjaṅgalanagaraka’’nti vuttanti āha **‘‘visamanagarake’’**ti. Aññesaṃ mahānagarānaṃ ekadesappamāṇatāya sākhāsadise. Ettha ca ‘‘khuddakanagarake’’ti iminā tassa nagarassa appakabhāvo vutto, ‘‘ujjaṅgalanagarake’’ti iminā bhūmivipattiyā nihīnabhāvo, ‘‘sākhānagarake’’ti iminā appadhānabhāvo. Sārappattāti vibhavasārādinā sāramahattaṃ pattā.
210. 「クッダカ(小さな)」という語は類似を表し、「カ」という語は微小を意味することから、「小都市においてとは、都市に似た狭苦しい小都市において」と言われた。不毛で広大な形状であることから、それを「荒地都市」と言ったのであり、「険しい都市において」と言われた。他の大都市の一部の規模に過ぎないため、枝に似ている。ここで「小都市において」によってその都市の小ささが説かれ、「荒地都市において」によって土地の悪さによる劣等さが説かれ、「枝都市において」によって非主要であることが説かれている。「本質に達した」とは、富の本質などによって本質の偉大さに達したことである。
Kahāpaṇasakaṭanti ettha ‘‘dvikumbhaṃ sakaṭaṃ. Kumbho pana dasambaṇo’’ti vadanti. Dve pavisantīti dve kahāpaṇasakaṭāni dve āyavasena pavisanti.
「貨幣の車」とは、ここでは「二クンバの車である。一クンバは十アンバナである」と言う。「二台が入る」とは、二台の貨幣の車が二つの収入として入るということである。
Subhikkhāti sulabhāhārā, sundarāhārā ca. Tenāha **‘‘khajjabhojjasampannā’’**ti. Saddaṃ karonteti ravasārinā tuṭṭhabhāvena koñcanādaṃ karonte. Avivittāti asuññā, kadāci ratho paṭhamaṃ gacchati, taṃ añño anubandhanto gacchati, kadāci dutiyaṃ vuttaratho paṭhamaṃ gacchati, itaro taṃ anubandhati evaṃ aññamaññaṃ anubandhamānā. Etthāti kusāvatīnagare. Tassa mahantabhāvato ceva iddhādibhāvato ca niccaṃ payojitāneva bheriādīni tūriyāni, samma sammāti vā aññamaññaṃ piyālāpasaddo samma-saddo. Kaṃsatāḷādisabbatāḷāvacarasaddo tāḷa-saddo, kūṭabheri-saddo kumbhathūṇasaddo.
「食糧が豊かな」とは、食物が得やすく、美味な食物があることである。それゆえに「様々な食べ物に満ちた」と言われた。「音を立てる」とは、声高らかに満足して鶴の鳴き声をあげることである。「絶え間ない」とは、空虚でないことであり、ある時は一台の車が先に行き、他の車がそれに続いて行き、ある時は二番目に言われた車が先に行き、もう一台がそれに続く、このように互いに連なっていく。「ここに」とは、クサーヴァティー都市においてである。それが広大であり、また繁栄していることから、常に太鼓などの楽器が演奏されており、「サンマ、サンマ(友よ、友よ)」とは互いの親愛なる呼びかけの声が「サンマ」という声である。銅拍子などのあらゆる打楽器の音が「ターラ」の音であり、頂太鼓の音が「クンバトゥーナ」の音である。
Evarūpā saddā honti kacavarākiṇṇavīthitāya, araññe kandamūlapaṇṇādiggahaṇāya, tattha dukkhajīvikatāya cāti yathākkamaṃ yojetabbaṃ. Idha na evaṃ ahosi devaloke viya sabbaso paripuṇṇasampattikatāya.
このような音は、通りがゴミで散らかっていること、森で根や葉などを採取すること、そこでの生活の苦しさによるものであると順次に結びつけられるべきである。ここでは天界のようにあらゆる点において完全に満ち足りているため、そのようではなかった。
Mahantaṃ kolāhalanti saddhāsampannānaṃ devatānaṃ, upāsakānañca vasena purato purato mahatī ugghosanā hoti. Tattha bhagavantaṃ uddissa katassa vihārassa abhāvato, bhikkhusaṅghassa ca mahantabhāvato te āgantvā…pe… pesesi. Pesento ca ‘‘kathañhi nāma bhagavā pacchime kāle attano pavattiṃ amhākaṃ nārocesi, nesaṃ domanassaṃ mā ahosī’’ti ‘‘ajja kho vāseṭṭhā’’tiādinā sāsanaṃ pesesi.
「大いなる騒動」とは、信を具えた諸天と優婆塞たちによる前々の大いなる歓声である。そこには世尊のために建てられた精舎がなく、比丘僧伽も大規模であったため、彼らがやって来て……中略……使いを送った。送るにあたって、「世尊は最後の時にどうしてご自身の様子を我々にお知らせくださらなかったのかと、彼らに不快の念が生じないように」と、「ヴァーセッタたちよ、今日まさに」などの伝言を送った。
Mallānaṃ vandanāvaṇṇanā
マッラ族の拝礼の解釈
211. Aghaṃ dukkhaṃ āventi pakāsentīti aghāvino, pākaṭībhūtadukkhāti āha **‘‘uppannadukkhā’’**ti. Ñātisālohitabhāvena kulaṃ parivattati etthāti kulaparivattaṃ. Taṃ taṃkulīnabhāgena ṭhito sattanikāyo ‘‘kulaparivattaso’’ti vuttanti āha **‘‘kulaparivatta’’**nti. Te pana taṃtaṃkulaparivattaparicchinnā mallarājāno tasmiṃ nagare vīthiādisabhāgena vasantīti vuttaṃ **‘‘vīthisabhāgena ceva racchāsabhāgena cā’’**ti.
211. 禍い(アガ)すなわち苦しみを表明する(アーヴェンティ)から「苦悩せる者たち(アガーヴィノー)」であり、苦しみが現れた者たちのことであるから「苦しみが生じた者たち」と言われた。血縁・親族関係によって家系が巡る場であるから「家族の集まり」である。それぞれの家系に属する者としてとどまる人々の集団が「家族の集まりごとに」と言われたことから「家族の集まり」と言われた。それぞれの家族の集まりで区切られたマッラ族の王たちは、その都市において通りなどの区画に応じて住んでいることから「大通りの区画ごと、小路の区画ごとに」と言われた。
Subhaddaparibbājakavatthuvaṇṇanā
スバッダ遍歴行者行状の解釈
212. Kaṅkhā eva kaṅkhādhammo. Ekato vāti bhūmiṃ avibhajitvā sādhāraṇatova. Bījato ca aggaṃ gahetvā āhāraṃ sampādetvā dānaṃ bījaggaṃ. Gabbhakāleti gabbhadhāraṇato paraṃ khīraggahaṇakāle. Tenāha **‘‘gabbhaṃ phāletvā khīraṃ niharitvā’’**tiādi. Puthukakāleti sassānaṃ nātipakke puthukayogyaphalakāle. Lāyanagganti pakkassa sassassa lavane lavanārambhe dānaṃ adāsi. Lunassa sassassa veṇivasena bandhitvā ṭhapanaṃ veṇikaraṇaṃ. Tassa ārambhe dānaṃ veṇaggaṃ. Veṇiyo pana ekato katvā rāsikaraṇaṃ kalāpo. Tattha aggadānaṃ kalāpaggaṃ. Kalāpato nīharitvā maddane aggadānaṃ khalaggaṃ. Madditaṃ ophuṇitvā dhaññassa rāsikaraṇe aggadānaṃ khalabhaṇḍaggaṃ. Dhaññassa khalato koṭṭhe pakkhipane aggadānaṃ koṭṭhaggaṃ. Uddharitvāti koṭṭhato uddharitvā.
212. 疑惑そのものが疑惑の法である。「一括して」とは、土地を分けることなく共有のままである。「種から初物を取って」食事を調えて施すのが「種の初物」である。「穂孕みの時に」とは、実を宿した後に乳状になる時である。それゆえに「穂を割いて乳を取り出して」などと言われた。「青米の時に」とは、穀物が熟しきらず青米に適した実の時である。「刈り取りの初物」とは、熟した穀物の刈り取りにおいて、刈り取りの始めに施しを与えたことである。刈り取られた穀物を編み物のように束ねて置くことが「編み束にすること」である。その始めの施しが「編み束の初物」である。編み束を一つにまとめて山積みにしたものが「束」である。そこでの初物の施しが「束の初物」である。束から取り出して脱穀する時の初物の施しが「脱穀場の初物」である。脱穀したものを籾殻を吹き飛ばして穀物の山にする時の初物の施しが「脱穀場製品の初物」である。穀物を脱穀場から穀物倉に入れる時の初物の施しが「穀物倉の初物」である。「取り出して」とは、穀物倉から取り出して、である。
‘‘Nava **aggadānāni adāsī’’**ti iminā ‘‘kathaṃ nu kho ahaṃ satthu santike aggatova mucceyya’’nti aggaggadānavasena vivaṭṭūpanissayassa kusalassa katūpacitattā, ñāṇassa ca tathā paripākaṃ gatattā aggadhammadesanāya tassa bhājanabhāvaṃ dasseti. Tenāha **‘‘imaṃ aggadhammaṃ tassa desessāmī’’**tiādi. Ohīyitvā saṅkocaṃ āpajjitvā.
「九つの初物の布施を与えた」とは、これによって「どうにかして私は師の御前で真っ先に解脱したい」と、最上の初物の布施によって輪廻を脱する資糧となる善根を作し積み重ねており、智慧もそのように成熟していたため、最上の法の説法を受ける器であることを示している。それゆえに「この最上の法を彼に説こう」などと言われた。「退いて」とは、縮こまって。
213. Aññātukāmova na sandiṭṭhiṃ parāmāsī. Abbhaññiṃsūti sandehajātassa pucchāvacananti katvā jāniṃsūti atthamāha. Tenāha pāḷiyaṃ ‘‘sabbeva na abbhaññiṃsū’’ti. Nesanti pūraṇādīnaṃ. Sā paṭiññāti ‘‘karoto kho mahārāja kārayato’’tiādinā (dī. ni. 1.166) paṭiññātā, sabbaññupaṭiññā eva vā. Niyyānikāti sappāṭihāriyā, tesaṃ vā siddhantasaṅkhātā paṭiññā vaṭṭato nissaraṇaṭṭhena niyyānikāti. Sāsanassa sampattiyā tesaṃ sabbaññutaṃ, tabbipariyāyato ca asabbaññutaṃ gacchatīti daṭṭhabbaṃ. Tenāha **‘‘tasmā’’**tiādi. Atthābhāvatoti subhaddassa sādhetabbaatthābhāvato. Okāsābhāvatoti tathā vitthāritaṃ katvā dhammaṃ desetuṃ avasarābhāvato. Idāni tameva okāsābhāvaṃ dassetuṃ **‘‘paṭhamayāmasmi’’**ntiādi vuttaṃ.
213. 知りたいと願うだけで、自己の見解に執着しなかった。「よく知ったであろうか」とは、疑問を抱いた者の問いの言葉として「知ったのか」という意味を説いた。それゆえにパーリ語では「すべて知らなかったのか」と言われている。「彼らの」とは、プーラナなどの者たちの。「その宣言」とは、「大王よ、行う者、行わせる者」などによって宣言されたことであり、あるいは全知者の宣言そのものである。「導き出すもの」とは奇跡を伴うものであり、あるいは彼らの教義と呼ばれる宣言が輪廻から脱出するという意味で導き出すものである。教えの成就によって彼らに全知性が帰せられ、その反対によって非全知性に帰せられると理解されるべきである。それゆえに「それゆえに」などと言われた。「利益がないことから」とは、スバッダの達成すべき利益がないことから。「機会がないことから」とは、そのように詳細にして法を説く時間がないことから。いま、その機会のなさを明かすために「初夜において」などと言われた。
214. Yesaṃ samaṇabhāvakarānaṃ dhammānaṃ sampādanena samaṇo, te pana ukkaṭṭhaniddesena ariyamaggadhammāti catumaggasaṃsiddhiyā pāḷiyaṃ cattāro samaṇā vuttāti te bāhirasamaye sabbena sabbaṃ natthīti dassento **‘‘paṭhamo sotāpannasamaṇo’’**tiādimāha. Purimadesanāyāti ‘‘yasmiñca kho, subhadda, dhammavinaye’’tiādinā vuttāya desanāya. Byatirekato, anvayato ca adhippeto attho vibhāvīyatīti paṭhamanayopettha ‘‘purimadesanāyā’’ti padena saṅgahito vāti daṭṭhabbo. Attano sāsanaṃ niyamento āha ‘‘imasmiṃ kho’’ti yojanā. Āraddhavipassakehīti samādhikammikavipassakehi, sikhāppattavipassake sandhāya vuttaṃ, na paṭṭhapitavipassane. Apare pana ‘‘bāhirakasamaye vipassanārambhassa ganthopi natthevāti avisesavacanameta’’nti vadanti. Adhigataṭṭhānanti adhigatassa kāraṇaṃ, tadatthaṃ pubbabhāgapaṭipadanti attho, yena sotāpattimaggo adhigato, na uparimaggo, so sotāpattimagge ṭhito akuppadhammatāya tassa, tattha vā siddhito ṭhitapubbo bhūtapubbagatiyāti sotāpattimaggaṭṭho sotāpanno, na sesaariyā bhūmantaruppattito. Sotāpanno hi attanā adhigataṭṭhānaṃ sotāpattimaggaṃ aññassa kathetvā sotāpattimaggaṭṭhaṃ kareyya, na aṭṭhamako asambhavato. Esa nayo sesamaggaṭṭhesūti etthāpi imināva nayena attho veditabbo. Paguṇaṃ kammaṭṭhānanti attano paguṇaṃ vipassanākammaṭṭhānaṃ, eteneva ‘‘avisesavacana’’nti vādo paṭikkhittoti daṭṭhabbo.
214. 沙門たる状態をもたらすそれらの法を成就することによって沙門となるが、それらは優れた提示としては聖道法であるから、四つの道が成就されることによってパーリ語において四人の沙門が説かれているのであり、彼らは外部の教えには全く存在しないことを示すために「第一の預流の沙門」などを説いた。「前の説法において」とは、「スバッダよ、いかなる法と律において」などと説かれた説法においてである。背反と随順によって意図された意味が明らかにされるため、ここでの第一の理趣も「前の説法において」という語によって包括されていると理解されるべきである。自らの教えを限定して「まさにこの中に」と結びつける。「熱心に毘鉢舎那を始めた者たちによって」とは、奢摩他を行持とする毘鉢舎那の実践者たちであり、頂に達した毘鉢舎那の実践者を指して言っているのであって、毘鉢舎那を始めたばかりの者ではない。しかし他の者たちは「外部の教えにおいては毘鉢舎那の始まりの典籍すらないのだから、これは無差別の表現である」と言う。「証得した境地」とは、証得の原因、そのための前段階の実践という意味であり、それによって預流道を証得し、上の道を証得していない者は、預流道にとどまる者であり、それは動揺しない法であるため、あるいはそこで成就したことから、かつてとどまったという過去のあり方によって「預流道にとどまる預流者」であって、他の聖者ではない。境地の違いが生じるからである。預流者は自らが証得した境地である預流道を他者に語って預流道にとどまる者にすることができるが、第八の者(預流向)はあり得ないからそうではない。この理趣は残りの道にとどまる者たちにおいても同様に理解されるべきである。「熟達した業処」とは、自らが熟達した毘鉢舎那の業処であり、これによって「無差別の表現」という主張は論破されたと見なされるべきである。
Sabbaññutaññāṇaṃ adhippetaṃ. Tañhi sabbañeyyadhammāvabodhane ‘‘kusalaṃ chekaṃ nipuṇa’’nti vuccati tattha asaṅgaappaṭihataṃ pavattatīti katvā. Samadhikāni ekena vassena. Ñāyanti etena catusaccadhammaṃ yāthāvato paṭivijjhantīti ñāyo, lokuttaramaggoti āha **‘‘ariyamaggadhammassā’’**ti. Padissati etena ariyamaggo paccakkhato dissatīti padeso, vipassanāti vuttaṃ **‘‘padese vipassanāmagge’’**ti. Samaṇopīti ettha pi-saddo ‘‘padesavattī’’ti etthāpi ānetvā sambandhitabboti āha **‘‘padesavatti…pe… natthīti vuttaṃ hotī’’**ti.
一切知智が意図されている。それはすべての知るべき法を覚知することにおいて「巧みであり、熟練しており、精妙である」と言われる。そこにおいて執着なく妨げなく働くからである。「一歳を越えた」。「正理」とは、これによって四聖諦の法をありのままに通達するから正理であり、出世間の道であることから「聖道の法」と言われた。「一部」とは、これによって聖道が現前として見られるから一部であり、毘鉢舎那のことであるから「一部において、毘鉢舎那の道において」と言われた。「沙門もまた」において、「また(pi)」という語は「一部にとどまる」という箇所にも導いて結びつけられるべきであることから、「一部にとどまる……中略……いないと説かれたことになる」と言われた。
215. Soti tathāvutto antevāsī. Tenāti ācariyena. Attano ṭhāne ṭhapito hoti parapabbājanādīsu niyuttattā.
215. 「彼は」とは、そのように説かれた弟子である。「彼によって」とは、師によって。他者を出家させることなどに任命されたため、自らの地位に置かれたのである。
Sakkhisāvakoti paccakkhasāvako, sammukhasāvakoti attho. Bhagavati dharamāneti dharamānassa bhagavato santike. Sesadvayepi eseva nayo. Sabbopi soti sabbo so tividhopi. Ayaṃ pana arahattaṃ patto, tasmā paripuṇṇagatāya matthakappatto pacchimo sakkhisāvakoti.
「直接の弟子」とは、目の前の弟子、対面の弟子という意味である。「世尊が存命の時に」とは、存命の世尊の御前において。残りの二つにおいてもこの理趣と同じである。「彼もすべて」とは、それら三種すべてである。しかしこの者は阿羅漢果に達したため、完全な境地に達した最後の直接の弟子である。
Pañcamabhāṇavāravaṇṇanā niṭṭhitā.
第五の誦品(八千頌編)の解釈が終了した。
Tathāgatapacchimavācāvaṇṇanā
如来の最後の言葉の解釈
216. Tanti bhikkhusaṅghassa ovādakaṅgaṃ dassetuṃ…pe… vuttaṃ dhammasaṅgāhakehīti adhippāyo. Suttābhidhammasaṅgahitassa dhammassa atisajjanaṃ sambodhanaṃ desanā, tasseva pakārato ñāpanaṃ veneyyasantāne ṭhapanaṃ paññāpananti ‘‘dhammopi desito ceva **paññatto cā’’**ti vuttaṃ. Tathā vinayatantisaṅgahitassa kāyavācānaṃ vinayanato ‘‘vinayo’’ti laddhādhivacanassa atthassa atisajjanaṃ sambodhanaṃ desanā, tasseva pakārato ñāpanaṃ asaṅkarato ṭhapanaṃ paññāpananti **‘‘vinayopi desito ceva paññatto cā’’**ti vuttaṃ. Adhisīlasikkhāniddesabhāvena sāsanassa mūlabhūtattā vinayo paṭhamaṃ sikkhitabboti taṃ tāva ayamuddesaṃ sarūpato dassento **‘‘mayā hi vo’’**tiādimāha. Tattha sattāpattikkhandhavasenāti sattannaṃ āpattikkhandhānaṃ avītikkamanīyatāvasena. Satthukiccaṃ sādhessati ‘‘idaṃ vo kattabbaṃ, idaṃ vo na kattabba’’nti kattabbākattabbassa vibhāgena anusāsanato.
216. 「それを」とは、比丘僧伽への教誡の支分を示すために……中略……結集者たちによって説かれたというのが趣旨である。経と阿毘達磨に包括される法を授けること、悟らせることが説示であり、それを詳細に知らせること、教化されるべき者の相続(心)に確立することが施設であるから、「法もまた説示され、施設された」と言われた。同様に、律の聖典に包括される身と口を調伏することから「律」という名を得た意味を授けること、悟らせることが説示であり、それを詳細に知らせること、混同なく確立することが施設であるから、「律もまた説示され、施設された」と言われた。増上戒の学処の提示であることにより、教えの根本である律が最初に学ばれるべきであるため、まずその提示を具体的に示すために「実に私によって汝らに」などを説いた。そこにおいて「七つの罪聚の力によって」とは、七つの罪聚を犯してはならないことの力によってである。「師の役目を果たすであろう」とは、「これは汝らのなすべきことであり、これは汝らのなすべきでないことである」となすべきこととなすべからざることの区別によって教誡するからである。
Tena tenākārenāti tena tena veneyyānaṃ ajjhāsayānurūpena pakārena. Ime dhammeti ime sattatiṃsabodhipakkhiyadhamme. Tappadhānattā suttantadesanāya **‘‘suttantapiṭakaṃ desita’’**nti vuttaṃ. Satthukiccaṃ sādhessati taṃtaṃcariyānurūpaṃ sammāpaṭipattiyā anusāsanato. Kusalākusalābyākatavasena **nava hetū. ‘‘Satta phassā’’**tiādi sattaviññāṇadhātusampayogavasena vuttaṃ. Dhammānulome tikapaṭṭhānādayo cha, tathā dhammapaccanīye, dhammānulomapaccanīye, dhammapaccanīyānulometi catuvīsati samantapaṭṭhānāni etassāti catuvīsatisamantapaṭṭhānaṃ, taṃ pana paccayānulomādivasena vibhajiyamānaṃ aparimāṇanayaṃ evāti āha **‘‘anantanayamahāpaṭṭhānapaṭimaṇḍita’’**nti. Satthukiccaṃ sādhessatīti khandhādivibhāgena ñāyamānaṃ catusaccasambodhāvahattā satthārā sammāsambuddhena kātabbakiccaṃ nipphādessati.
「様々な様態によって」とは、教化されるべき者たちの意図に応じた様々な様態によって。「これらの法を」とは、これらの三十七菩提分法を。それが主要であることから、経の説示について「経蔵が説示された」と言われた。「師の役目を果たすであろう」とは、それぞれの行状に応じた正しい実践によって教誡するからである。善・不善・無記の区分によって「九つの因」がある。「七つの触」などは、七つの識界の相応によって説かれた。法の順次における三法発趣などの六つ、同様に法の逆次、法の順逆次、法の逆順次において二十四の全包発趣があるから「二十四全包発趣」であり、それは縁の順次などによって分類されると無限の理趣となることから「無限の理趣の大発趣によって飾られた」と言われた。「師の役目を果たすであろう」とは、蘊などの分類によって知られる四聖諦の覚知をもたらすことから、師である正等覚者によってなされるべき役目を果たすであろう、ということである。
Ovadissanti anusāsissanti ovādānusāsanīkiccanipphādanato.
「教誡するであろう」とは、教誡と訓誡の役目を果たすことから指導するであろう、ということである。
Cārittanti samudācārā, navesu piyālāpaṃ vuḍḍhesu gāravālāpanti attho. Tenāha ‘‘bhanteti vā āyasmāti vā’’ti. Gāravavacanaṃ hetaṃ yadidaṃ bhanteti vā āyasmāti vā, loke pana ‘‘tatra bhava’’nti, ‘‘devānaṃ piyā’’ti ca gāravavacanameva.
「作法」とは慣習の振る舞いであり、後輩には親愛の言葉を、年長者には敬意の言葉をかけるという意味である。それゆえに「大徳よ、あるいは友よ」と言われた。「大徳よ、あるいは友よ」というのは実に敬意の言葉であり、世俗においては「尊貴なる御方」「神々に愛されたる者」というのが敬意の言葉である。
‘‘Ākaṅkhamāno samūhanatū’’ti vutte ‘‘na ākaṅkhamāno na samūhanatū’’tipi vuttameva hotīti āha **‘‘vikappavacaneneva ṭhapesī’’**ti. Balanti ñāṇabalaṃ. Yadi asamūhananaṃ diṭṭhaṃ, tadeva ca icchitaṃ, atha kasmā bhagavā ‘‘ākaṅkhamāno samūhanatū’’ti avocāti? Tathārūpapuggalajjhāsayavasena. Santi hi keci khuddānukhuddakāni sikkhāpadāni samādāya saṃvattituṃ anicchantā, tesaṃ tathā avuccamāne bhagavati vighāto uppajjeyya, taṃ tesaṃ bhavissati dīgharattaṃ ahitāya dukkhāya, tathā pana vutte tesaṃ vighāto na uppajjeyya ‘‘amhākaṃ evāyaṃ doso, yato amhesu eva keci samūhananaṃ na icchantī’’ti. Keci ‘‘sakalassa pana sāsanassa saṅghāyattabhāvakaraṇatthaṃ tathā vutta’’nti vadanti. Yañca kiñci satthārā sikkhāpadaṃ paññattaṃ, taṃ samaṇā sakyaputtiyā sirasā sampaṭicchitvā jīvitaṃ viya rakkhanti. Tathā hi te ‘‘khuddānukhuddakāni sikkhāpadāni ākaṅkhamāno saṅgho samūhanatū’’ti vuttepi na samūhaniṃsu, aññadatthu ‘‘purato viya tassa accayepi rakkhiṃsu evā’’ti satthusāsanassa, saṅghassa ca mahantabhāvadassanatthampi tathā vuttanti daṭṭhabbaṃ. Tathā hi āyasmā ānando, aññepi vā bhikkhū ‘‘katamaṃ pana bhante khuddakaṃ, katamaṃ anukhuddaka’’nti na pucchiṃsu samūhanajjhāsayasseva abhāvato.
「望むならば廃止せよ」と言われた時、「望まないならば廃止するな」とも言われたことになるから、「選択の言葉によって残された」と言われた。「力」とは智慧の力である。もし廃止しないことが見通され、まさにそれが望まれていたのであれば、なぜ世尊は「望むならば廃止せよ」と言われたのか。そのような人々の意図に応じたためである。実に、些細な学処を受け入れて守り続けることを望まない者たちがおり、彼らにそのように言われなければ、世尊に対して不快の念が生じるかもしれず、それは彼らにとって長きにわたり不利益と苦しみになるであろう。しかしそのように言われれば、「これは我々自身の過失である、なぜなら我々の中にこそ廃止を望まない者がいるのだから」と、彼らに不快の念は生じないであろう。ある人々は「すべての教えを僧伽に委ねるためにそのように説かれた」と言う。そして世尊によって制定されたいかなる学処も、釈迦の子たる沙門たちは頭上に受け止め、命のように護るのである。実に彼らは「些細な学処を望むならば僧伽は廃止せよ」と言われたにもかかわらず廃止せず、むしろ「以前のように、滅後にも護り続けた」のであり、師の教えと僧伽の偉大さを示すためにもそのように説かれたと理解されるべきである。実にそれゆえに尊者アーナンダも、あるいは他の比丘たちも、「大徳よ、どれが小で、どれが微細なものですか」と尋ねなかった。廃止しようという意図そのものがなかったからである。
Na taṃ evaṃ gahetabbanti ‘‘nāgasenatthero khuddānukhuddakaṃ jānātī’’tiādinā vuttaṃ taṃ nesaṃ vacanaṃ iminā vuttākārena na gahetabbaṃ adhippāyassa aviditattā. Idāni taṃ adhippāyaṃ vibhāvetuṃ ‘‘nāgasenatthero **hī’’**tiādi vuttaṃ. Yasmā nāgasenatthero (milindapañhe abhejjavagge vitthāro) paresaṃ vādapathopacchedanatthaṃ saṅgītikāle dhammasaṅgāhakamahātherehi gahitakoṭṭhāsesu ca antimakoṭṭhāsameva gahetvā milindarājānaṃ paññāpesi. Mahākassapatthero pana ekasikkhāpadampi asamūhanitukāmatāya tathā kammavācaṃ sāveti, tasmā taṃ tesaṃ vacanaṃ tathā na gahetabbaṃ.
「ナーガセーナ長老は小微細なものを知っている」などと説かれた彼らの言葉は、意図が知られていないために、この説かれた通りの様態で受け取るべきではない。いま、その意図を明らかにするために「ナーガセーナ長老は実に」などと言われた。ナーガセーナ長老は(ミリンダ王の問いの破論の章に詳細あり)他者の論難を断つために、結集の時に法を結集した大長老たちによって把握された区分の中で最後の区分だけを取ってミリンダ王に示されたのである。しかし大迦葉長老は、一つの学処すら廃止したくないという思いから、そのように羯磨文を唱えられたのである。それゆえに、彼らのその言葉をそのように受け取るべきではない。
217. Dveḷhakanti dvidhāgāho, anekaṃsaggāhoti attho. Vimatīti saṃsayāpatti. Tenāha **‘‘vinicchituṃ asamatthatā’’**ti. Taṃ vo vadāmīti taṃ saṃsayavantaṃ bhikkhuṃ sandhāya vo tumhe vadāmi.
217. 「二股の心」とは二つの把握、一面的でない把握という意味である。「疑い」とは疑惑に陥ること。それゆえに「決定することができないこと」と言われた。「汝らに告げる」とは、その疑いを持つ比丘を指して「汝らに告げる」ということである。
Nikkaṅkhabhāvapaccakkhakaraṇañāṇaṃ yevāti buddhādīsu tesaṃ bhikkhūnaṃ nikkaṅkhabhāvassa paccakkhakāriyābhāvato tamatthaṃ paṭivijjhitvā ṭhitaṃ sabbaññutaññāṇameva. Ettha etasmiṃ atthe.
「疑いのない状態を直接知る智慧そのもの」とは、仏などに対してそれらの比丘たちに疑いのない状態を直接示すものがなかったため、その意味を通達してとどまる一切知智そのもののことである。「ここに」とは、この意味においてである。
218. Appamajjanaṃ appamādo, so pana atthato ñāṇūpasañhitā sati. Yasmā tattha satiyā byāpāro sātisayo, tasmā **‘‘satiavippavāsenā’’**ti vuttaṃ. Appamādapadeyeva pakkhipitvā adāsi taṃ atthato, tassa sakalassa buddhavacanassa saṅgaṇhanato ca.
218. 怠らないことが不放逸であり、それは実質的には智慧を伴う正念である。そこにおいて正念の働きが優れていることから、「正念を離れないことによって」と言われた。不放逸という言葉そのものに含めてそれを授けられたのは、実質的にそれがすべての仏の言葉を包含するからである。
Parinibbutakathāvaṇṇanā
般涅槃の言説の解釈
219. Jhānādīsu, citte ca paramukkaṃsagatavasībhāvatāya ‘‘ettake kāle ettakā samāpattiyo samāpajjitvā parinibbāyissāmī’’ti kālaparicchedaṃ katvā samāpatti samāpajjanaṃ **‘‘parinibbānaparikamma’’**nti adhippetaṃ. Theroti anuruddhatthero.
219. 禅定などにおいて、また心において最高度に達した自在性があるため、「これほどの時間にこれほどの等至に入定して般涅槃に入ろう」と時間の限定をして等至に入定することが「般涅槃の準備作業」として意図されている。「長老は」とはアヌルッダ長老のことである。
Ayampi cāti yathāvuttapañcasaṭṭhiyā jhānānaṃ samāpannabhāvakathāpi saṅkhepakathā eva, kasmā? Yasmā bhagavā tadāpi devasikaṃ vaḷañjanasamāpattiyo sabbāpi aparihāpetvā samāpajji evāti dassento **‘‘nibbānapuraṃ pavisanto’’**tiādimāha.
「これもまた」とは、説かれた六十五の禅定への入定の言説も簡略な言説に過ぎない。なぜなら、世尊はその時にも日頃親しんでいた等至のすべてを欠かすことなく入定されたからである、と示すために「涅槃の都に入りながら」などを説いた。
Imāni dvepi samanantarāneva paccavekkhaṇāyapi yebhuyyenānantariyakatāya jhānapakkhikabhāvato, yasmā bhavaṅgacittaṃ sabbapacchimaṃ, tato bhavato cavanato ‘‘cutī’’ti vuccati, tasmā na kevalaṃ ayameva bhagavā, atha kho sabbepi sattā bhavaṅgacitteneva cavantīti dassetuṃ **‘‘ye hi kecī’’**tiādi vuttaṃ.
これらの二つも直後のものであり、省察にとっても多くは無間であることから禅定の側に属するものであり、有分心はすべての最後であり、その生から死ぬ(移行する)ことから「死」と呼ばれるため、ただこの世尊だけでなく、実にすべての有情も有分心によって死ぬのだと示すために「いかなる者たちも」などと言われた。
220. Paṭibhāgapuggalavirahitoti sīlādiguṇehi asadisatāya sadisapuggalarahito.
220. 「匹敵する者のない人」とは、戒などの徳において同等な者がいないため、匹敵する人を欠いていることである。
221. Saṅkhārā vūpasamanti etthāti vūpasamoti evaṃsaṅkhātaṃ ñātaṃ kathitaṃ nibbānaṃ.
221. 諸行がここに寂静となるから「寂静」であり、このように称され、知られ、語られた涅槃のことである。
222. Yanti paccatte upayogavacananti āha **‘‘yo kālaṃ akarī’’**ti.
「彼が」とは主格に用いられた対格の言葉であることから、「命を終えた者が」と言われた。
Suvikasitenevāti pītisomanassayogato suṭṭhu vikasitena muditena. Vedanaṃ adhivāsesi abhāvasamudayo kato suṭṭhu pariññātattā. Anāvaraṇavimokkho sabbaso nibbutabhāvato.
222. 「よく開いた(顔で)」とは、歓喜と喜悦が結びついていることによってよく開き、喜ばしい(顔で)ということである。感受(受)を耐え忍んだのは、実体のないものの生起がなされたことを完全に知覚したからである。「覆いのない解脱」とは、完全に滅尽した状態であることによる。
223. Ākaronti attano phalāni samānākāre karontīti ākārā, kāraṇāni. Sabbākāravarūpeteti sabbehi ākāravarehi uttamakāraṇehi sīlādiguṇehi samannāgateti attho.
223. 自らの結果を同様の様態で作るから「行相(様態)」であり、原因のことである。「あらゆる優れた行相を具えた」とは、すべての優れた行相、最上の原因である戒などの徳を具えているという意味である。
225. Kathaṃbhūtāti kīdisābhūtā.
225. 「どのようになったのか」とは、どのような状態になったのか。
Cullakaddhānanti parittaṃ kālaṃ dvattināḍikāmattaṃ velaṃ.
「わずかな時間」とは、二、三ナーディカー(一時間足らず)ほどの短い時間のことである。
Buddhasarīrapūjāvaṇṇanā
仏身供養の解釈
227. Kaṃsatāḷādi tāḷaṃ avacarati etthāti **‘‘tāḷāvacara’’**nti vuccati ātatāditūriyabhaṇḍaṃ. Tenāha **‘‘sabbaṃ tūriyabhaṇḍa’’**nti.
227. 銅拍子などの拍子がここで演奏されるから「楽器(ターラーヴァチャラ)」と言われ、張り革などの楽器のことである。それゆえに「すべての楽器」と言われた。
Dakkhiṇadisābhāgenevāti aññena disābhāgena anāharitvā yamakasālānaṃ ṭhānato dakkhiṇadisābhāgeneva, tatopi dakkhiṇadisābhāgaṃ haritvā netvā.
「南の方角によってのみ」とは、他の方向から運ぶことなく、双樹のサール樹の場所から南の方角によってのみ、そこからも南の方角へと運んで導いて、ということである。
Jetavanasadiseti sāvatthiyā jetavanasadise ṭhāne, ‘‘jetavanasadise ṭhāne’’tipi pāṭho.
「祇園精舎に似た場所で」とは、舎衛城の祇園精舎に似た場所で、ということであり、「祇園精舎に似た場所において」という読みもある。
228. Pasādhanamaṅgalasālāyāti abhisekakāle alaṅkaraṇamaṅgalasālāya.
228. 「装飾の吉祥堂において」とは、灌頂の時の装飾のための吉祥堂において。
229. Devadāniyoti tassa corassa nāmaṃ.
229. 「デーヴァダーニヤ」とは、その盗賊の名である。
Mahākassapattheravatthuvaṇṇanā
大迦葉長老行状の解釈
231. Pāvāyāti pāvā nagarato. Āvajjanapaṭibaddhattā jānanassa anāvajjitattā satthu parinibbānaṃ ajānanto **‘‘dasabalaṃ passissāmī’’**ti thero cintesi, satthu sarīre vā satthusaññaṃ uppādento tathā cintesi. Tenevāha ‘‘atha bhagavantaṃ ukkhipitvā’’ti. ‘‘Dhuvaṃ parinibbuto bhavissatī’’ti cintesi pārisesañāyena. Jānantopi thero ājīvakaṃ pucchiyeva, pucchane pana kāraṇaṃ sayameva pakāsetuṃ **‘‘kiṃ panā’’**tiādi āraddhaṃ.
231. 「パーヴァーから」とは、パーヴァー市から。知ることは作意に依存しているため、作意しなかったことから師の般涅槃を知らずに「十力を拝しよう」と長老は考えた。あるいは師の身体に師の想を生じさせてそのように考えた。それゆえに「そこで世尊を持ち上げて」と言われた。「確実に般涅槃されたであろう」と残余の論理によって考えた。知っていながらも長老は邪命外道に尋ねたのであり、尋ねた理由を自ら明らかにするために「ではなぜ」などを始めた。
Ajja sattāhaparinibbutoti ajja divasato paṭilomato sattame ahani parinibbuto.
「今日で般涅槃されて七日目」とは、今日の日から逆算して七日目に般涅槃された、ということである。
232. Nāḷiyā vāpakenāti nāḷiyā ceva thavikāya ca.
232. 「筒と袋によって」とは、筒と袋の両方によって。
Mañjuketi mañjubhāṇine madhurassare. Paṭibhāneyyaketi paṭibhānavante. Bhuñjitvā pātabbayāgūti paṭhamaṃ bhuñjitvā pivitabbayāgu.
「愛らしい声の者に」とは、愛らしく語る美声の者に。「弁才ある者に」とは、機知に富む者に。「食べてから飲むべき粥」とは、最初に食べてから飲むべき粥のことである。
Tassāti subhaddassa vuḍḍhapabbajitassa.
「彼の」とは、老いて出家したスバッダのことである。
Ārādhitasāsaneti samāhitasāsane. Alanti samattho. Pāpoti pāpapuggalo. Osakkāpetunti hāpetuṃ antaradhāpetuṃ.
「成就された教えにおいて」とは、堅固に確立された教えにおいて。「十分に」とは、能力がある。「悪しき者」とは、悪しき人物のことである。「後退させること」とは、衰退させ、消滅させることである。
Pañhavārāti pañhā viya vissajjanāni ‘‘yasmiṃ samaye kāmāvacaraṃ kusalaṃ cittaṃ uppannaṃ hotī’’tiādinā, (dha. sa. 1.1) ‘‘yasmiṃ samaye rūpūpapattiyā maggaṃ bhāvetī’’tiādinā (dha. sa. 1.251) ca pavattāni ekaṃ dve bhūmantarāni. Mūle naṭṭhe pisācasadisā bhavissāmāti yathā rukkhe adhivattho pisāco tassa sākhāparivāre naṭṭhe khandhaṃ nissāya vasati, khandhe naṭṭhe mūlaṃ nissāya vasati, mūle pana naṭṭhe anissayova hoti, tathā bhavissāmāti attho. Atha vā mūle naṭṭheti pisācena kira rukkhagacchādīnaṃ kañcideva mūlaṃ chinditvā attano puttassa dinnaṃ, yāva taṃ tassa hatthato na vigacchati, tāva so taṃ padesaṃ adissamānarūpo vicarati. Yadā pana tasmiṃ kenaci acchinnabhāvena vā sativippavāsavasena vā naṭṭhe manussānampi dissamānarūpo vicarati, taṃ sandhāyāha **‘‘mūle naṭṭhe pisācasadisā bhavissāmā’’**ti.
「問いの段」とは、「いかなる時に欲界の善なる心が生じるか」など、「いかなる時に色界の再生のために道を修めるか」などとして説かれた、問いのような答えである一、二の境地の差異のことである。「根が失われた時の夜叉のようになるであろう」とは、あたかも木に宿る夜叉が、その枝葉が失われた時は幹に依って住み、幹が失われた時は根に依って住むが、根が失われた時は全く依る所がなくなるように、そのようになるであろうという意味である。あるいは「根が失われた時」とは、夜叉が木や藪などのある根を切り取って自分の子供に与え、それが彼の手から離れない限り、彼はその地域を姿を見られずに歩き回る。しかしそれが何者かによって奪われたり、正念を失ったりして失われた時、人間にも姿を見られて歩き回るようになる、そのことを指して「根が失われた時の夜叉のようになるであろう」と言ったのである。
Maṃ kāyasakkhiṃ katvāti taṃ paṭipadaṃ kāyena sacchikatavantaṃ tasmā tassā desanāya sakkhibhūtaṃ maṃ katvā. Paṭicchāpesi taṃ paṭicchāpanaṃ kassapasuttena dīpetabbaṃ.
「私を身証(体現者)として」とは、その実践を身体によって現証した者、それゆえにその説法の証人となった私として。「引き渡した」とは、その引き渡しは迦葉経によって明らかにされるべきである。
233. Candanaghaṭikābāhullato candanacitakā.
233. 栴檀の薪が多いことから「栴檀の薪積(火葬壇)」という。
Taṃ sutvāti taṃ āyasmatā anuruddhattherena vuttaṃ devatānaṃ adhippāyaṃ sutvā.
「それを聞いて」とは、尊者アヌルッダ長老によって語られた諸天の意図を聞いて。
234. Dasikatantaṃ vāti paliveṭhitaahatakāsikavatthānaṃ dasaṭhānena tantumattampi vā. Dārukkhandhaṃ vāti candanādicitakadārukkhandhaṃ vā.
234. 「縁の糸すら」とは、包んでいた真新しいカーシー布の縁の場所の糸だけでも。「木片すら」とは、栴檀などの火葬壇の木片だけでも。
235. Samudāyesu pavattavohārānaṃ avayavesu dissanato sarīrassa avayavabhūtāni aṭṭhīni **‘‘sarīrānī’’**ti vuttāni.
235. 全体に用いられる言葉が部分に見られることから、身体の部分となった骨のことが「遺骨(身体)」と言われている。
Na vippakiriṃsūti sarūpeneva ṭhitāti attho. ‘‘Sesā vippakiriṃsū’’ti vatvā yathā pana tā vippakiṇṇā ahesuṃ, taṃ dassetuṃ **‘‘tatthā’’**tiādi vuttaṃ.
「散らばらなかった」とは、そのままの形で残ったという意味である。「残りは散らばった」と言って、どのようにそれらが散らばったのかを示すために「そこに」などと言われた。
Udakadhārā nikkhamitvā nibbāpesunti devatānubhāvena. Evaṃ mahatiyo bahū udakadhārā kimatthāyāti āha **‘‘bhagavato citako mahanto’’**ti. Mahā hi so vīsaratanasatiko. Aṭṭhadantakehīti naṅgalehi aṭṭheva hi nesaṃ dantasadisāni potthāni honti, tasmā ‘‘aṭṭhadantakānī’’ti vuccati.
「水流が出現して消火した」とは、神々の力によるものである。なぜこれほど多くの大きな水流が必要なのかといえば、「世尊の火葬壇は巨大であった」からである。実にそれは百二十肘の大きさであった。「八つの歯を持つものによって」とは、鋤(すき)のことである。実にそれらには歯のような刃が八つあり、それゆえに「八歯のもの」と呼ばれる。
Dhammakathāva pamāṇanti ativiya acchariyabbhutabhāvato passantānaṃ, suṇantānañca sātisayaṃ pasādāvahabhāvato, savisesaṃ buddhānubhāvadīpanato. Parinibbutassa hi buddhassa bhagavato evarūpo ānubhāvoti taṃ pavattiṃ kathentānaṃ dhammakathikānaṃ attano ñāṇabalānurūpaṃ pavattiyamānā dhammakathā evettha pamāṇaṃ vaṇṇetabbassa atthassa mahāvisayattā, tasmā vaṇṇanābhūmi nāmesāti adhippāyo. Catujjātiyagandhaparibhaṇḍaṃ kāretvāti tagarakuṅkumayavanapupphatamālapattāni pisitvā katagandhena paribhaṇḍaṃ kāretvā. Khacitvāti tattha tattha olambanavasena racetvā, gandhavatthūni gahetvā ganthitamālā gandhadāmāni ratanāvaḷiyo ratanadāmāni. Bahikilañjaparikkhepassa, antosāṇiparikkhepassa karaṇena sāṇikilañjaparikkhepaṃ kāretvā. Vātaggāhiniyo paṭākā vātapaṭākā. Sarabharūpapādako pallaṅko sarabhamayapallaṅko, tasmiṃ sarabhamayapallaṅke.
「法話こそが基準である」とは、極めて驚くべき不思議なことであるため、見る者、聞く者にこの上ない清らかな信をもたらし、格別に仏の威力を示すからである。実に般涅槃された仏たる世尊のこのような威光について、その様子を語る説法者たちが自らの智慧の力に応じて行う法話こそがここでの基準であり、讃嘆されるべき意味が広大であるため、これは讃嘆の領域であるというのが趣旨である。「四種の香の塗り壁を作らせて」とは、タガラ、クンクマ、ヤヴァナの花、タマーラの葉をすり潰して作った香料によって塗り壁を作らせて。「ちりばめて」とは、あちこちに垂れ下がるように配置して、香料の品を取って編んだ花綱が「香の綱」であり、宝玉の連なりが「宝の綱」である。外側に竹垣を巡らし、内側に幕を巡らせることによって「幕と竹垣の囲い」を作らせて。「風を受ける旗」が「風旗」である。野獣(シャラボ)の形の脚を持つ台座が「野獣の台座」であり、その野獣の台座において。
Sattihatthā purisā sattiyo taṃsahacaraṇato yathā ‘‘kuntā pacarantī’’ti, tehi samantato rakkhāpanaṃ pañcakaraṇanti āha **‘‘sattihatthehi purisehi parikkhipāpetvā’’**ti. Dhanūhīti etthāpi eseva nayo. Sannāhagavacchikaṃ viya katvā nirantarāvaṭṭhitaārakkhasannāhena gavacchijālaṃ viya katvā.
槍を手にした男たちが槍を伴っていることから、「槍が歩く」と言うように、それらによって四方を警備させることが五重の囲いを作ることであるから「槍を手にした男たちに取り囲ませて」と言われた。「弓によって」という箇所もこれと同じ理趣である。鎧の格子窓のようにして、隙間なく配置された警備の鎧によって格子網の窓のようにして。
Sādhukīḷitanti saparahitaṃ sādhanaṭṭhena sādhū, tesaṃ kīḷitaṃ uḷārapuññapasavanato, samparāyikatthāvirodhikaṃ kīḷāvihāranti attho.
「善き遊戯をなした」とは、自他の利益を達成するという意味で善であり、彼らの遊戯は広大な功徳を生み出すことから、来世の利益を損なわない遊戯の生活という意味である。
Sarīradhātuvibhajanavaṇṇanā
仏舎利の分配の解釈
236. Imināva niyāmenāti yena nīhārena mahātale nisinno kañci parihāraṃ akatvā kevalaṃ iminā niyāmeneva. Supinakoti dussupinako. Dukūladupaṭṭaṃ nivāsetvāti dve dukūlavatthāni ekajjhaṃ katvā nivāsetvā. Evañhi tāni sokasamappitassāpi abhassitvā tiṭṭhanti.
236. 「まさにこの方法によって」とは、高楼の上に座って何ら特別な対応をすることなく、ただこの方法によってのみ。「悪夢を見た者」とは、凶夢を見た者のことである。「二重の絹布をまとって」とは、二枚の絹布を重ねてまとって。このようにすれば、悲嘆に暮れた者でもずり落ちずに保たれるからである。
Abhisekasiñcakoti rajjābhiseke abhisekamaṅgalasiñcako uttamamaṅgalabhāvato. Visaññī jāto yathā taṃ bhagavato guṇavisesāmatarasaññutāya avaṭṭhitapemo pothujjanikasaddhāya patiṭṭhitapasādo katūpakāratāya sañjanitacittamaddavo.
「灌頂の注ぎ手」とは、王位灌頂において最高の吉祥であることから灌頂の吉祥の水を注ぐ者のことである。「気を失った」とは、世尊の卓越した徳という甘露の味を知ることによって定着した愛着を持ち、凡夫の信によって確立された澄明な心を持ち、施された恩によって心に柔軟さを生じさせた者であるかのように。
Suvaṇṇabimbisakavaṇṇanti suviracita apassenasadisaṃ.
「黄金のビムビサーカの色の」とは、美しく作られた背もたれに似たもののことである。
Kasmā panettha pāveyyakā pāḷiyaṃ sabbapacchato gahitā, kiṃ te kusinārāya āsannatarāpi sabbapacchato uṭṭhitā? Āma, sabbapacchato uṭṭhitāti dassetuṃ **‘‘tattha pāveyyakā’’**tiādi vuttaṃ.
ではなぜここで、パーヴァーの者たちはパーリ語において最後に挙げられているのか。彼らはクシナーラーにより近かったのに最後に立ち上がったのか。そうである、最後に立ち上がったのだと示すために「そこにパーヴァーの者たちは」などと言われた。
Dhātupāsanatthanti satthu dhātūnaṃ payirupāsanāya. Nesaṃ pakkhā ahesuṃ ‘‘ñāyena tesaṃ santakā dhātuyo’’ti.
「舎利を礼拝するために」とは、師の舎利を親しく供養するためである。「道理からして彼ら自身の舎利である」と彼らは味方した。
237. Doṇagajjitaṃ nāma avoca satthu avatthattayūpasaṃhitaṃ. Etadatthameva hi bhagavā maggaṃ gacchanto ‘‘pacchato āgacchanto doṇo brāhmaṇo yāva me padavaḷañjaṃ passati, tāva mā vigacchatū’’ti adhiṭṭhāya aññatarasmiṃ rukkhamūle nisīdi. Doṇopi kho brāhmaṇo ‘‘imāni sadevake loke aggapuggalassa padānī’’ti sallakkhento padānusārena satthu santikaṃ upagacchi, satthāpissa dhammaṃ desesi, tenapi so bhagavati niviṭṭhasaddho ahosi. Etadavoca, kiṃ avocāti āha **‘‘suṇantu…pe… avocā’’**ti.
237. 「ドーナの咆哮」と呼ばれるものを説いた。それは師の三つの時期(生・成道・涅槃)に結びついたものである。実にこの目的のために、世尊は道を行きながら「後ろから来るドーナバラモンが私の足跡を見るまでは、足跡が消えないように」と決意して、とある樹の根元に座られた。ドーナバラモンも「これらは天を含む世界における最上の人の足跡である」と観察し、足跡に従って師の御前に近づき、師も彼に法を説かれ、彼も世尊に確固たる信を抱くようになった。「これを語った」とは、何を語ったのかを示して「聞きなさい……中略……と語った」と言われた。
Kāyena ekasannipātā vācāya ekavacanā abhinnavacanā evaṃ samaggā hotha. Tassa panidaṃ kāraṇanti āha **‘‘sammodamānā’’**ti. Tenāha **‘‘cittenāpi aññamaññaṃ sammodamānā hothā’’**ti.
身をもって一つに集まり、言葉をもって一つの言葉、違わない言葉として、このように調和しなさい。その理由を示して「歓談しながら」と言われた。それゆえに「心においても互いに歓談する者となりなさい」と言われた。
238. Tato tato samāgatasaṅghānanti tato tato attano vasanaṭṭhānato samāgantvā sannipatitabhāvena samāgatasaṅghānaṃ. Tathā samāpatitasamūhabhāvena samāgatagaṇānaṃ. Vacanasampaṭicchanena paṭissuṇitvā.
238. 「あちこちから集まった僧伽たちに」とは、あちこちの自らの住処から集まり集合したことによって集まった僧伽たちに。同様に、集まってできた集団であることによって集まった群衆に。「言葉を受け入れることによって」返答して。
Dhātuthūpapūjāvaṇṇanā
舎利塔供養の解釈
239. Yakkhaggāho devatāveso. Khipitakaṃ dhātukkhobhaṃ uppādetvā khipitakarogo. Arocako āhārassa aruccanarogo.
239. 「夜叉の憑依」とは神が憑くことである。「くしゃみ病」とは体内の要素の動揺を生じさせて起こるくしゃみの病である。「食欲不振」とは食物を欲しない病である。
Sattamadivaseti sattavassasattamāsato parato sattame divase. Balānurūpenāti vibhavabalānurūpena.
「第七日に」とは、七年七ヶ月が過ぎた後の第七日にということである。「勢力に応じて」とは、富の力に応じてという意味である。
Pacchā saṅgītikārakāti dutiyaṃ tatiyaṃ saṅgītikārakā. Dhātūnaṃ antarāyaṃ disvāti tattha tattha cetiye yathāpatiṭṭhāpitabhāveneva ṭhitānaṃ dhātūnaṃ micchādiṭṭhikānaṃ vasena antarāyaṃ disvā, mahādhātunidhānena sammadeva rakkhitānaṃ anāgate asokena dhammaraññā tato uddharitvā vitthāritabhāve kate sadevakassa lokassa hitasukhāvahabhāvañca disvāti adhippāyo. Paricaraṇamattamevāti gahetvā paricaritabbadhātumattameva. Rājūnaṃ hatthe ṭhapetvā, na cetiyesu. Tathā hi pacchā asokamahārājā cetiyesu dhātūnaṃ na labhati.
「後の結集者たち」とは、第二・第三の結集者たちのことである。「諸々の遺骨(仏舎利)の危難を見て」とは、それぞれの仏塔に安置されたままの状態にある遺骨が邪見の者たちによって危機に瀕するのを見て、大仏舎利安置によって善く保護されたものが、未来において阿育(アショーカ)法王によってそこから取り出されて広く弘められたとき、神々を含む世界に利益と幸福をもたらすことを見抜いて、という意味である。「供養するだけの分」とは、受け取って供養すべき分だけの遺骨のことである。諸王の手の中に置き、仏塔の中には置かなかった。実際、後にアショーカ大王は諸仏塔において遺骨を見つけることができなかったのである。
Purimaṃ purimaṃ katassa gaṇhanayogyaṃ pacchimaṃ pacchimaṃ kārento aṭṭha aṭṭha haricandanādimaye karaṇḍe ca thūpe ca kāresi. Lohitacandanamayādīsupi eseva nayo. Maṇikaraṇḍesūti lohitaṅkamasāragallaphalikamaye ṭhapetvā avasesamaṇivicittakesu karaṇḍesu.
以前に作られたものを収めるにふさわしい、次々に作らせた八つずつの黄栴檀などでできた小箱と仏塔とを作らせた。赤栴檀製のものなどについても同様の理路である。「宝珠の小箱の中に」とは、赤真珠・瑪瑙・水晶製のもの以外の、その他の宝石で装飾された小箱の中に、ということである。
Thūpārāmacetiyappamāṇanti devānaṃpiyatissamahārājena kāritacetiyappamāṇaṃ.
「トゥーパーラーマ仏塔の大きさ」とは、天愛帝須(デーヴァーナンピヤ・ティッサ)大王によって造営された仏塔の大きさのことである。
Mālā mā milāyantūti ‘‘yāva asoko dhammarājā bahi cetiyāni kāretuṃ ito dhātuyo uddharissati, tāva mālā mā milāyantū’’ti adhiṭṭhahitvā. Āviñchanarajjuyanti aggaḷāviñchanarajjuyaṃ. Kuñcikamuddikanti dvāravivaraṇatthaṃ kuñcikañceva muddikañca.
「花々よ、枯れることなかれ」とは、「アショーカ法王が外に仏塔を造るためにここから遺骨を取り出すまで、花々は枯れるな」と決意(加持)してのことである。「引き綱に」とは、掛け金の引き綱に、ということである。「鍵と印章を」とは、扉を開けるための鍵と印章のことである。
Vāḷasaṅghātayantanti kukkulaṃ paṭibhayadassanaṃ aññamaññapaṭibaddhagamanāditāya saṅghāṭitarūpakayantaṃ yojesi. Tenāha **‘‘kaṭṭharūpakānī’’**tiādi. Āṇiyā bandhitvāti anekakaṭṭharūpavicittayantaṃ attano devānubhāvena ekāya eva āṇiyā bandhitvā vissakammo devalokameva gato. **‘‘Samantato’’**tiādi pana tasmiṃ dhātunidāne ajātasattuno kiccavisesānuṭṭhānadassanaṃ.
「回転する木偶の仕掛け」とは、木偶の恐ろしい外観を持ち、互いに連動して動くように組み立てられた人形の仕掛けを配置したことである。それゆえに『木偶たち…』などと言われたのである。「楔で留めて」とは、多様な木偶の巧みな仕掛けを自らの神変の力によって唯一の楔で留めて、毘首羯磨(ヴィッサカンマ)は天界へと去ったのである。「四方に」などは、その遺骨の安置における阿闍世(アジャータサットゥ)王の特別な事業の遂行を示すものである。
‘‘Asukaṭṭhāne nāma dhātunidhāna’’nti raññā pucchite ‘‘tasmiṃ sannipāte visesalābhino nāhesu’’nti keci. ‘‘Attānaṃ nigūhitvā tassa vuḍḍhatarassa vacanaṃ nissāya vīmaṃsanto jānissatīti na kathesu’’nti apare. Yakkhadāsaketi upahārādividhinā devatāvesanake bhūtāviggāhake.
王が「しかるべき場所に遺骨の安置があるのか」と尋ねたとき、「その集会において特別な利得を得た者たちはいなかった」と言う者もいる。「自らを隠して、その長老の言葉に依拠して探求し知るであろうと考えて語らなかった」と言う者もいる。「夜叉の召使いに」とは、供養などの儀礼によって神懸かりとなった憑依者において、という意味である。
Imaṃ padanti ‘‘evametaṃ bhūtapubba’’nti dutiyasaṅgītikārehi ṭhapitaṃ imaṃ padaṃ. Mahādhātunidhānampi tassa atthaṃ katvā tatiyasaṅgītikārāpi ṭhapayiṃsu.
「この句を」とは、「このようにかつてあった」という、第二結集者たちによって置かれたこの句のことである。第三結集者たちも大仏舎利安置をその意味として置いたのである。
Mahāparinibbānasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā.
大般涅槃経解説における微細義の釈解。