5. Janavasabhasuttavaṇṇanā5. 闍尼沙(ジャナヴァサバ)経の解説
Nātikiyādibyākaraṇavaṇṇanā
ナーティカの人々などに関する記別の解説
273-275. **‘‘Parito’’**ti padaṃ yathā samantatthavācako, evaṃ samīpatthavācakopi hotīti samantā sāmantāti attho vutto. Āmeḍitena pana samantattho jotito. Yassa pana sāmantā janapadesu ‘‘nātike viharatī’’ti vuttattā nātikassāti viññāto yamattho. Yassa parito janapadesu byākaroti, tattha paricārakārakānaṃ byākaraṇaṃ avuttasiddhaṃ, nidassanavasena vā tassa vakkhamānattā ‘‘parito parito janapadesu’’ icceva vuttaṃ. Paricāraketi upāsake. Tenāha **‘‘buddhadhammasaṅghānaṃ paricārake’’**ti. Upapattīsūti nibbattīsu. Ñāṇagatipuññānaṃ upapattīsūti ettha ñāṇagatūpapatti nāma tassa tassa maggañāṇagamanassa nibbatti. Yaṃ sandhāya vuttaṃ ‘‘pañcannaṃ orambhāgiyānaṃ parikkhayā’’tiādi. Puññūpapatti nāma taṃtaṃdevanikāyūpapatti. Sabbatthāti ‘‘vajjimallesū’’tiādike sabbattha catūsupi padesu. Purimesūti pāḷiyaṃ vutte sandhāyāha. Dasasuyevāti tesu eva dasasu janapadesu. Paricārake byākaroti byakātabbānaṃ bahūnaṃ tattha labbhanato. Nātike bhavā nātikiyā.
273-275. 『周りの』という語は「四方の」という意味を表すのと同様に、「近隣の」という意味をも表すことから、「周囲の、近隣の」という意味が説かれた。反復によって四方の意味が示されている。「その近隣の地方において」については、「ナーティカに住まわれる」と説かれたことから「ナーティカの」と知られる意味である。四方の地方の人々について記別する際、そこでの奉仕者(信徒)たちへの記別は言わずとも明らかであり、あるいは例示としてそれが語られるであろうことから「四方四方の地方において」とだけ説かれたのである。「奉仕者たちを」とは、優婆塞(在家の信徒)たちを、ということである。それゆえに『仏・法・僧の奉仕者たちを』と言われた。「生まれにおいて」とは、転生において、ということである。「智の趣きと福徳の生まれにおいて」とは、ここで「智の趣きの生まれ」とは、それぞれの道智の進行による転生のことである。「五下分結の滅尽によって」などと説かれたのがこれを指している。「福徳の生まれ」とは、それぞれの神々の群れへの転生のことである。「すべての箇所で」とは、「跋耆(ヴァッジ)や末羅(マッラ)において」などの四つの句のすべてにおいて、という意味である。「以前の箇所において」とは、聖典(パーリ)に説かれた箇所を指して言っている。「まさに十の」とは、それら十の地方において、ということである。記別されるべき多くの人々がそこに存在するがゆえに、奉仕者たちを記別されるのである。ナーティカに生まれた人々が「ナーティカの人々」である。
Niṭṭhaṅgatāti niṭṭhaṃ nicchayaṃ upagatā.
「確信に達した」とは、究極の確信に至った、という意味である。
Ānandaparikathāvaṇṇanā
アーナンダの周縁の談話の解説
276. Yasmā saṅghasuppaṭipatti nāma dhammasudhammatāya, dhammasudhammatā ca buddhasubuddhatāya, tasmā ‘‘aho dhammo, aho saṅgho’’ti dhammasaṅghaguṇakittanāpi atthato buddhaguṇakittanā eva hotīti ‘‘bhagavantaṃ kittayamānarūpā’’ti padassa ‘‘aho dhammo’’tiādināpi attho vutto.
276. 僧伽の正しい実践は法の善き性質によるものであり、法の善き性質は仏陀の善き覚りによるものであるから、「ああ法よ、ああ僧伽よ」と法と僧伽の功徳を称賛することも、意味の上ではまさに仏陀の功徳を称賛することになるゆえに、「世尊を称賛するような姿で」という句の意味が「ああ法よ…」などによっても説かれたのである。
278. Ñāṇagatīti ‘‘pañcannaṃ orambhāgiyānaṃ saṃyojanānaṃ parikkhayā’’tiādinā āgataṃ pahātabbapahānavasena pavattaṃ maggañāṇagamanaṃ. Yasmā tassā eva ñāṇagatiyā vasena tassa tassa ariyapuggalassa opapātikatādiviseso, tasmā taṃ tādisaṃ tassa abhisamparāyaṃ sandhāyāha **‘‘ñāṇābhisamparāyamevā’’**ti.
278. 「智の趣き」とは、「五下分結の滅尽によって…」などによって示される、断ずべきものを断ずることによって生じた道智の進展のことである。まさにその智の趣きによって、それぞれの聖者に化生などの特別な境遇が生じるゆえに、彼のそのような未来世の転生を指して『まさに智の未来世への赴きを』と言われた。
279. Upasantaṃ pati sammati ālokīyatīti upasantapatiso. Upasantadassano upasantaussanno. Bhātirivāti ettha ra-kāro padasandhikaro, iva-saddo bhusatthoti āha **‘‘ativiya bhātī’’**ti.
静寂に向かって静まり、見つめられるゆえに「静寂の守護者」という。静かな容貌を持ち、静寂が満ち溢れていることである。「光り輝くかのように」において、raの文字は連声(サンディ)のためのものであり、ivaという語は強調の意味であるため、『極めて光り輝く』と言われた。
Janavasabhayakkhavaṇṇanā
闍尼沙夜叉の解説
280. Jeṭṭhakabhāvena jane vasabhasadisoti janavasabhoti assa devaputtassa nāmaṃ ahosi.
280. 首領であることによって人々の間で雄牛(指導者)に似ているゆえに「闍尼沙(ジャナヴァサバ=人中の雄牛)」というのが、この天子の名であった。
Ito devalokā cavitvā sattakkhattuṃ manussaloke rājabhūtassa. Manussalokā cavitvā sattakkhattuṃ devabhūtassa. Etthevāti etasmiṃyeva cātumahārājikabhave, etthāpi vessavaṇassa sahabyatāvasena.
この天界から没して七度人間界で王となった。人間界から没して七度天界の神となった。「まさにここに」とは、この四天王天の境涯にこそ、ここにおいても毘沙門(ヴェッサヴァナ)天王の同僚としての立場において、という意味である。
281. Āsisanaṃ āsā, patthanā. Āsāsīsena cettha kattukamyatākusalacchandaṃ vadati. Tenevāha **‘‘sakadāgāmimaggatthāyā’’**tiādi. Yadaggeti ettha agga-saddo ādipariyāyoti āha **‘‘taṃ divasaṃ ādiṃ katvā’’**ti. **‘‘Purimaṃ…pe… avinipāto’’**ti idaṃ yathā tattakaṃ kālaṃ sugatito sugatūpapattiyeva ahosi, tathā katūpacitakusalakammattā. Phussassa sammāsambuddhassa kālato pabhuti hi sambhatavivaṭṭūpanissayakusalasambhāro esa devaputto. Anacchariyanti anu anu acchariyaṃ. Tenāha **‘‘punappunaṃ acchariyamevā’’**ti. Sayaṃparisāyāti sakāya parisāya. Bhagavato diṭṭhasadisamevāti āvajjanasamanantaraṃ yathā te bhagavato catuvīsatisatasahassamattā sattā ñāṇagatito diṭṭhā, evaṃ tumhehi diṭṭhasadisameva. Vessavaṇassa sammukhā sutaṃ mayāti vadati.
281. 望むことが希望であり、願いである。ここでは願いを筆頭として、為そうと欲する善なる意欲(善法欲)を語っている。それゆえに『一度還る者(一来自在・斯陀含)の道のために…』などと言われた。「以来」において、「先端(アッガ)」という語は初めの同義語であるゆえに『その日を最初として』と言われた。『以前の…乃至…悪趣に堕ちない』とは、その間ずっと善趣から善趣への転生ばかりであったように、善業を積み重ねていたからである。弗沙(プッサ)正等覚者の時代から解脱の拠り所となる善徳の資糧を蓄積してきたのがこの天子である。「驚くべきことではない」とは、次から次へと驚くべきことである。それゆえに『繰り返し驚くべきことである』と言われた。「自らの会衆において」とは、自分の眷属において、ということである。「世尊がご覧になったのとまさに同じように」とは、思念するやいなや、世尊が二十四万もの生きとし生けるものを智の趣きによってご覧になったように、あなた方がご覧になったのとまさに同じように、という意味である。毘沙門天王の御前で私は聞いた、と語っているのである。
Devasabhāvaṇṇanā
諸天の集会の解説
282. Vassūpanāyikasaṅgahatthanti vassūpanāyikāya ārakkhāsaṃvidhānavasena bhikkhūnaṃ saṅgahaṇatthaṃ ‘‘vassūpagatā bhikkhū evaṃ sukhena samaṇadhammaṃ karontī’’ti, pavāraṇasaṅgaho panassa pavāretvā satthu santikaṃ gacchantānaṃ bhikkhūnaṃ antarāmagge parissayapariharaṇatthaṃ. Dhammassavanatthaṃ dūraṭṭhānaṃ gacchantesupi eseva nayo. Attanāpi āgantvā dhammassavanatthaṃ sannipatiyeva. Etthetthāti ettha ettha ayyānaṃ vasanaṭṭhāne.
282. 「雨安居に入る者たちを保護するために」とは、雨安居に入るにあたって守護を配置することによって比丘たちを保護し、「安居に入った比丘たちがこのように安らかに沙門の法を実践できるように」とするためであり、また彼(毘沙門天王)の自恣(プラヴァーラナー)の保護とは、安居を終えて師匠の御許へと赴く比丘たちの道中の危難を取り除くためのものである。聴法のために遠所へと赴く者たちに対しても同様の理路である。自らもやって来て聴法のために集ったのである。「ここに、ここに」とは、尊者たちの住まわれるそれぞれの場所において、という意味である。
Tadāpīti ‘‘purimāni bhante divasānī’’ti vuttakālepi. Eteneva kāraṇenāti vassūpanāyikanimittameva. Tenāha pāḷiyaṃ ‘‘tadahuposathe pannarase vassūpanāyikāyā’’tiādi. Āsanepi nisajjāya sudhammāya devasabhāya paṭhamaṃ devesu tāvatiṃsesu nisinnesu tassā catūsu dvāresu cattāro mahārājāno nisīdanti, idaṃ nesaṃ āsane nisajjāya cārittaṃ hoti.
「その時にも」とは、「大徳よ、以前の日々において」と語られた時にも、ということである。「まさにこの理由によって」とは、雨安居に入ることを理由として、という意味である。それゆえに聖典において「その日の十五日の布薩の日、雨安居に入るにあたり…」などと説かれた。座所に着席する際にも、善法堂という天の集会所において、まず三十三天(忉利天)の神々が座った後に、その四つの扉に四天王が着席する。これが彼らの座への着席の作法である。
Yenatthenāti yena kiccena yena payojanena. Ārakkhatthanti ārakkhabhūtamatthaṃ. Vuttaṃ vacanaṃ etesanti vuttavacanā, mahārājāno.
「いかなる目的で」とは、いかなる用務で、いかなる必要性で、ということである。「守護の目的で」とは、守護という役割を果たす目的で、という意味である。「言葉を告げられた」とは、指示を受けた四天王たちのことである。
283. Atikkamitvāti abhibhavitvā.
283. 「超えて」とは、凌駕して、という意味である。
Sanaṅkumārakathāvaṇṇanā
鳩摩羅童子(サナンクマーラ)の講話の解説
284. Abhisambhavituṃ adhigantuṃ asakkuṇeyyo anabhisambhavanīyo. Tenāha **‘‘appattabbo’’**tiādi. Cakkhuyeva patho rūpadassanassa maggo upāyoti cakkhupatho, tasmiṃ cakkhupathasminti āha **‘‘cakkhupasāde’’**ti, cakkhussa gocarayoggo vā cakkhupathoti āha **‘‘āpāthe vā’’**ti. Nābhibhavatīti na abhibhavati, gocarabhāvaṃ na gacchatīti attho. Heṭṭhā heṭṭhāti tāvatiṃsato paṭṭhāya heṭṭhā heṭṭhā, na cātumahārājikato paṭṭhāya, nāpi brahmapārisajjato paṭṭhāya. ‘‘Cātumahārājikā hi tāvatiṃsānaṃ yathā jātirūpāni passituṃ sakkonti, tathā brahmāno heṭṭhimā uparimāna’’nti keci, taṃ na yuttaṃ. Na hi heṭṭhimā brahmāno uparimānaṃ mūlapaṭisandhirūpaṃ passituṃ sakkonti, māpitameva passituṃ sakkontīti daṭṭhabbaṃ.
284. 圧倒すること、捉えることができないのが「把握し難い」である。それゆえに『到達し得ない…』などと言われた。眼こそが形態を見るための道であり手段であるから「眼の通路」といい、その眼の通路において、ということから『眼の感官において』と言われ、あるいは眼の対象となるにふさわしいものが眼の通路であることから『視野において』と言われた。「凌駕しない」とは、圧倒しないことであり、認識の対象とならないという意味である。「下へ下へと」とは、三十三天より下へ下へとであり、四天王天から始まるのでもなく、梵衆天から始まるのでもない。「四天王天の神々が三十三天の神々の本来の姿を見ることができるように、下位の梵天たちも上位の梵天の姿を見ることができる」と言う者たちもいるが、それは正しくない。下位の梵天たちは上位の梵天の本来の結生(再生)の姿を見ることはできず、化作された姿のみを見ることができると知るべきである。
Suṇantova niddaṃ okkamīti gatiyo upadhārento bahi visaṭavitakkavicchedena saṅkocaṃ āpannacittatāya. Mayhaṃ ayyakassāti bhagavantaṃ sandhāya vadati.
「聞きながら眠りに落ちた」とは、諸々の境遇を思索しながら、外へと拡散した思惟を断ち切ることによって心が内へと収縮した状態になったことによる。「私の祖父の」とは、世尊を指して言っているのである。
Pañca sikhā etassāti pañcasikho, pañcasikho viya pañcasikhoti āha **‘‘pañcasikhagandhabbasadiso’’**ti. Mamāyantīti piyāyanti.
五つの結髪を持つゆえに「五髻(パンチャシカ)」といい、パンチャシカに似ているゆえにパンチャシカというのであって、『五髻乾闥婆に似た』と言われた。「執着する」とは、愛着する、という意味である。
285. Sumuttoti saradosehi suṭṭhu mutto. Yehi pittasemhādīhi palibuddhattā saro avissaṭṭho siyā, tadabhāvato vissaṭṭhoti dassento āha **‘‘apalibuddho’’**ti. Viññāpetīti viññeyyo, antogadhahetuattho kattusādhano esa viññeyyasaddoti āha **‘‘atthaviññāpano’’**ti. Sarassa madhuratā nāma maddavanti āha **‘‘madhuro mudū’’**ti. Savanaṃ arahatīti savanīyo. Savanārahatāya ca āpāthasukhatāyāti āha **‘‘kaṇṇasukho’’**ti. Bindūti piṇḍito. Ākoṭitabhinnakaṃsasaddo viya anekāvayavo ahutvā niravayavo, ekabhāvoti attho. Tenāha **‘‘ekagghano’’**ti, etenevassa avisāritā saṃvaṇṇitā daṭṭhabbā. Gambhīruppattiṭṭhānatāya cassa gambhīratāti āha **‘‘nābhimūlato’’**tiādi. Evaṃ samuṭṭhitoti jīvhādippahāramattasamuṭṭhito. Amadhuro ca hoti uppattiṭṭhānānaṃ parilahubhāvato. Na ca dūraṃ sāveti vīrabhāvābhāvato. Ninnādī suvipulabhāvato savisesaṃ ninnādo, pāsaṃsaninnādo vā. Tenāha **‘‘mahāmegha…pe… yutto’’**ti.
285. 「善く放たれた」とは、声の欠陥から見事に解き放たれたことである。胆汁や痰などによって遮られることによって声が明瞭でない場合があるが、それがないことから明瞭であることを示して『遮られない』と言われた。「理解させる」ゆえに「理解されるべき」であり、内包された使役の意味を持つ能動の表現としてこの「理解されるべき」という語が用いられているゆえに『意味を理解させる』と言われた。声の甘美さとは柔軟さのことであるゆえに『甘美で柔軟な』と言われた。「聞かれるに値する」ゆえに「可聴の」という。聞かれるに値し、耳に入って心地よいことから『耳に快い』と言われた。「凝縮した」とは、まとまっていることである。叩かれて割れた青銅の器の音のように多くの破片に分かれることなく、分裂のない唯一の状態であるという意味である。それゆえに『一つの塊となった』と言われ、これによってその声の散乱のなさが称賛されていると知るべきである。深い発生場所を持つことから深遠であるゆえに『臍の根元から…』などと言われた。このように生起した声は、舌などの接触だけで生じたものと異なり、発生場所が軽々しくないため甘美でないということがない。また勇壮さがないために遠くまで聞こえないということもない。「鳴り響く」とは、極めて広大であることから特別な響きを持つこと、または称賛される響きを持つことである。それゆえに『大雲の…乃至…具えた』と言われたのである。
Pacchimaṃ pacchimanti dutiyaṃ, catutthaṃ, chaṭṭhaṃ, aṭṭhamañca padaṃ. Purimassa purimassāti yathākkamaṃ paṭhamassa, tatiyassa, pañcamassa, sattamassa ca. Atthoyevāti atthaniddeso eva. Vissaṭṭhatā hissa viññeyyatāya veditabbā, mañjubhāvo savanīyatāya, bindubhāvo avisāritāya, gambhīrabhāvo ninnāditāyāti. Yathāparisanti ettha yathā-saddo parimāṇavācī, na pakārādivācīti āha ‘‘yattakā **parisā’’**ti, tena parisappamāṇaṃ evassa saro niccharati, ayamassa dhammatāti dasseti. Tenāha **‘‘tattakamevā’’**tiādi.
「後々の」とは、第二・第四・第六・第八の句のことである。「先々の」とは、順に第一・第三・第五・第七の句のことである。「意味そのものである」とは、意味の解説そのものだということである。実にその声の明瞭さは理解しやすさによって知られるべきであり、美しさは聞き心地の良さによって、凝縮性は散乱のなさによって、深遠さは響き渡る性質によって知られるべきだからである。「会衆の広さに応じて」において、「応じて」という語は分量を表すものであり、様態などを表すものではないゆえに『どれほどの会衆であっても』と言われ、これによって会衆の広さの分だけ彼の声が響き渡るという、これが彼の法爾(性質)であることを示している。それゆえに『まさにそれだけ…』などと言われた。
‘‘Ye hi kecī’’tiādi ‘‘yāvañca so bhagavā’’tiādinā vuttassa atthassa hetukittanavasena samatthanaṃ saraṇesu nesaṃ niccasevanena, sīlesu ca patiṭṭhāpanena chakāmasaggasampattianuppādanato. Tenāha **‘‘ye hi keci…pe… vadatī’’**ti. Nibbematikagahitasaraṇeti maggenāgatasaraṇagamane. Te hi sabbaso samugghātitavicikicchatāya ratanattaye aveccappasādena samannāgatāyeva, pothujjanikasaddhāya vasena buddhādīnaṃ guṇe ogāhetvā jānanti, aparaneyyabuddhino te pariyāyato nibbematikagahitasaraṇā veditabbā. Gandhabbadevagaṇanti gandhabbadevasamūhaṃ. Tukā vuccati khīriṇī yā tukātipi vuccati. Tassā cuṇṇaṃ tukāpiṭṭhaṃ. Taṃ koṭṭetvā pakkhittaṃ ghanaṃ nirantaracitaṃ hutvā tiṭṭhati.
『実にいかなる者たちであれ…』などは、『そしてその世尊が…』などによって説かれた意味の原因を語ることによる裏付けであり、三帰依を常に実践させ、戒律に安住させることによって、六欲天の富の獲得をもたらすからである。それゆえに『実にいかなる者であれ…乃至…と語る』と言われた。「疑いなく帰依を受け入れた者たちにおいて」とは、聖道によって得られた帰依において、ということである。彼らは疑念を完全に根絶していることによって三宝への不壊の浄信を具えている者たちであり、凡夫の信仰によって仏陀などの功徳に深く分け入って知り、他者の教導に左右されない智慧を持つ彼らは、比喩的に疑いなく帰依を受け入れた者たちと知るべきである。「乾闥婆の神々の群れを」とは、乾闥婆の神々の集団を、ということである。「トゥカー」とは乳木(キリーニ)と呼ばれるものであり、トゥカーとも呼ばれる。その粉がトゥカーの粉である。それを打ち砕いて敷き詰めたものは、緻密で隙間なく積み重なった状態となる。
Bhāvitaiddhipādavaṇṇanā
修習された神足の解説
287. Supaññattāti suṭṭhu pakārehi ñāpitā bodhitā, asaṅkarato vā ṭhapitā, taṃ pana bodhanaṃ, asaṅkarato ṭhapanañca atthato desanā evāti āha **‘‘sukathitā’’**ti. Ijjhanaṭṭhenāti samijjhanaṭṭhena, nippajjanassa kāraṇabhāvenāti attho. Patiṭṭhānaṭṭhenāti adhiṭṭhānaṭṭhena. Iddhiyā pādoti iddhipādo, iddhiyā adhigamupāyoti attho. Tena hi yasmā uparūpari visesasaṅkhātaṃ iddhiṃ pajjanti pāpuṇanti, tasmā ‘‘pādo’’ti vuccati. Ijjhatīti iddhi, samijjhati nippajjatīti attho. Iddhi eva pādo iddhipādo, iddhikoṭṭhāsoti attho. Evaṃ tāva ‘‘cattāro iddhipādā’’ti ettha attho veditabbo. Iddhipahonakatāyāti iddhiyā nipphādane samatthabhāvāya. Iddhivisavitāyāti iddhiyā nipphādane yogyabhāvāya. Anekatthattā hi dhātūnaṃ yogyattho vi-pubbo su-saddo, visavanaṃ vā pajjanaṃ visavitā, tattha kāmakāritā visavitā. Tenāha **‘‘punappuna’’**ntiādi. Iddhivikubbanatāyāti vikubbaniddhiyā vividharūpakaraṇāya. Tenāha **‘‘nānappakārato katvā dassanatthāyā’’**ti.
287. 「善く施設された」とは、優れた諸々の仕方によって知らされ、悟らされた、あるいは混同なく確立されたということである。その覚知させることや混同なく確立することは、実質的には説示そのものであるので、「善く説かれた」と言われた。「成就の意味によって」とは、全うされるという意味であり、成就することの原因であることによって、という意味である。「基礎(確立)の意味によって」とは、確立の意味によってである。神足の足(基礎)であるから神足であり、神変(神通・成就)への到達の手段という意味である。それによって、人々が次々と卓越した境地と呼ばれる神通・成就へと進み至るがゆえに、「足」と呼ばれるのである。成就するから神通(iddhi)であり、全うされ、成就するという意味である。神通そのものが足であるから神足であり、神通の構成要素という意味である。まずこのように「四神足」における意味が理解されるべきである。「神通を果たすことにおいて」とは、神通を生じさせる能力があることについてである。「神通の効力において」とは、神通を生じさせる適合性があることについてである。諸々の語根は多義的であるため、「vi-」を冠した「su-」という語は適合性の意味を持つ。あるいは、遍満すること、進み至ることが効力であり、そこにおいて意のままになすことが効力である。それゆえに「幾度も」などと言われた。「神通の変現において」とは、変現の神通によって種々の姿を作り出すことについてである。それゆえに「種々の仕方で示して見せるために」と言われた。
‘‘Chandañca bhikkhu adhipatiṃ karitvā labhati samādhiṃ, labhati cittassekaggataṃ, ayaṃ vuccati chandasamādhī’’ti (vibha. 432) imāya pāḷiyā chandādhipati samādhi chandasamādhīti adhipatisaddalopaṃ katvā samāso vuttoti viññāyati, adhipatisaddatthadassanavasena pana **‘‘chandahetuko, chandādhiko vā samādhi chandasasamādhī’’**ti aṭṭhakathāyaṃvuttanti veditabbaṃ. ‘‘Padhānabhūtāti vīriyabhūtā’’ti keci vadanti. Saṅkhatasaṅkhārādinivattanatthañhi padhānaggahaṇanti. Atha vā taṃ taṃ visesaṃ saṅkharotīti saṅkhāro, sabbampi vīriyaṃ. Tattha catukiccasādhakato aññassa nivattanatthaṃ padhānaggahaṇanti padhānabhūtā seṭṭhabhūtāti attho. Catubbidhassa pana vīriyassa adhippetattā bahuvacananiddeso kato. Visuṃ samāsayojanavasena yo pubbe iddhipādattho pādassa upāyatthataṃ, koṭṭhāsatthatañca gahetvā yathāyogavasena idha vutto, so vakkhamānānaṃ paṭilābhapubbabhāgānaṃ kattukaraṇiddhibhāvaṃ, uttaracūḷabhājanīye vā vuttehi chandādīhi iddhipādehi sādhetabbāya iddhiyā kattiddhibhāvaṃ, chandādīnañca karaṇiddhibhāvaṃ sandhāya vuttoti veditabbo, tasmā ‘‘ijjhanaṭṭhena iddhī’’ti ettha kattuattho, karaṇattho ca ekajjhaṃ gahetvā vuttoti kattuatthaṃ tāva dassetuṃ ‘‘nipphattipariyāyena ijjhanaṭṭhena vā’’ti vatvā itaraṃ dassento ‘‘ijjhanti **etāyā’’**tiādimāha. Vuttanti kattha vuttaṃ? Iddhipādavibhaṅgapāṭhe. (Vibha. 434) tathābhūtassāti tenākārena bhūtassa, te chandādidhamme paṭilabhitvā ṭhitassāti attho. **‘‘Vedanākkhandho’’**tiādīhi chandādayo antokatvā cattāropi khandhā kathitā. Sesesūti sesiddhipādesu.
「比丘は意欲(欲)を主導として三摩地を得、心の専一性を得る。これが欲三摩地と呼ばれる」(分別論 432)というこの聖典本文によって、欲を主導とする三摩地が欲三摩地であり、主導という語を省略して複合語が説かれたと知られる。しかし主導という語の意味を示すことによって、「欲を原因とする、あるいは欲が優勢である三摩地が欲三摩地である」と註釈書に説かれたと知るべきである。「正勤となったとは、精進となったことである」と或る者たちは言う。作られた形成などを排除するために「正勤」と把握されたのである。あるいは、それぞれの卓越した徳を形成する(作為する)がゆえに形成(行)であり、それは一切の精進である。そこにおいて四つの役割(四正勤)を果たすものからそれ以外のものを排除するために「正勤」と把握されたのであり、正勤となった、最勝となったという意味である。四種の精進が意図されているため、複数形の表現がなされた。別々に複合語を解釈することによって、先に神足の意味として足の手段性および構成要素性を取って、適合性に応じてここに説かれたものは、後述される獲得の先行段階である能動・所動の神通であること、あるいは小部註などで説かれた欲などの神足によって成就されるべき神通に対する能動の神通であること、そして欲などの所動の神通であることを指して説かれたと知るべきである。それゆえに「成就の意味によって神通である」というここにおいて、能動の意味と所動の意味を一括して把握して説かれたのであり、まず能動の意味を示すために「成就の表現によって、あるいは成就の意味によって」と述べて、他方を示すものとして「これによって成就する」などと言われた。「説かれた」とはどこに説かれたのか?神足分別(分別論 434)の本文においてである。「そのようになった者」とは、その様態になった者、それらの欲などの法を獲得して留まる者という意味である。「受蘊」等によって、欲などを内包して四つの蘊も説かれた。「他のものにおいて」とは、残りの神足においてである。
Vīriyiddhipādaniddese ‘‘vīriyasamādhipadhānasaṅkhārasamannāgata’’nti dvikkhattuṃ vīriyaṃ āgataṃ. Tattha purimaṃ samādhivisesanaṃ ‘‘vīriyādhipati samādhi vīriyasamādhī’’ti, dutiyaṃ samannāgamaṅgadassanaṃ. Dveyeva hi sabbattha samannāgamaṅgāni, samādhi, padhānasaṅkhāro ca. Chandādayo hi samādhivisesanāni, padhānasaṅkhāro pana padhānavacaneneva visesito, na chandādīhīti na idha vīriyādhipatitā padhānasaṅkhārassa vuttā hoti. Vīriyañca samādhiṃ visesetvā ṭhitameva, samannāgamaṅgavasena pana padhānasaṅkhāravacanena vuttanti nāpi dvīhi vīriyehi samannāgamo vutto hoti. Yasmā pana chandādīhi visiṭṭho samādhi, tathāvisiṭṭheneva ca tena sampayutto padhānasaṅkhāro, sesadhammā ca, tasmā samādhivisesanānaṃ vasena cattāro iddhipādā vuttā, visesanabhāvo ca chandādīnaṃ taṃtaṃavassayadassanavasena hotīti ‘‘chandasamādhi…pe… iddhipāda’’nti ettha nissayatthepi pāda-sadde upāyatthena chandādīnaṃ iddhipādatā vuttā hoti. Teneva hi abhidhamme uttaracūḷabhājanīye (vibha. 456) ‘‘cattāro iddhipādā chandiddhipādo’’tiādinā chandādīnameva iddhipādatā vuttā. Pañhapucchake (vibha. 457 ādayo) ‘‘cattāro iddhipādā idha bhikkhu chandasamādhī’’tiādinā ca uddesaṃ katvāpi puna chandādīnaṃyeva kusalādibhāvo vibhatto. Upāyiddhipādadassanatthameva hi nissayiddhipādadassanaṃ kataṃ, aññathā catubbidhatā na siyāti. Ayamettha pāḷivasena atthavinicchayo veditabbo. Idāni paṭilābhapubbabhāgānaṃ vasena iddhipāde vibhajitvā dassetuṃ **‘‘apicā’’**tiādi vuttaṃ, taṃ suviññeyyameva. Idha iddhipādakathā saṅkhepeneva vuttāti āha **‘‘vitthārena pana…pe… vuttā’’**ti.
精進神足の釈において、「精進三摩地正勤行を具足した」と二度「精進」が現れる。そこにおいて前者は三摩地の限定詞であり、「精進を主導とする三摩地が精進三摩地である」とされ、後者は具足する要素の指示である。なぜなら、至るところで具足する要素は三摩地と正勤行の二つだけだからである。欲などは三摩地の限定詞であり、一方、正勤行は正勤という言葉そのものによって限定されており、欲などによってではない。したがってここでは正勤行の精進主導性は説かれていない。また精進は三摩地を限定して留まるだけであり、具足する要素としては正勤行という言葉によって説かれているので、二つの精進を具足することが説かれているわけでもない。しかし、欲などによって卓越した三摩地であり、そのように卓越した三摩地と相応した正勤行および残りの諸法であるから、三摩地の限定詞の力によって四神足が説かれたのであり、欲などの限定詞であることはそれぞれの拠り所を示すことによるのであるから、「欲三摩地……略……神足」というここにおいて、所依の意味における「足」という語であっても、手段の意味によって欲などの神足性が説かれたことになる。まさにそれゆえに阿毘達磨の分別論(456)において「四神足とは欲神足……」などとして、欲などの神足性そのものが説かれたのである。問答篇(分別論 457等)において「四神足とは、ここに比丘が欲三摩地……」などと総括した上で、再び欲などの善などの性質が分別された。手段としての神足を示すためにこそ、所依としての神足の提示がなされたのであり、そうでなければ四種とはならないからである。これにおいて聖典本文による意味の決定は理解されるべきである。今や獲得の先行段階に基づいて神足を分別して示すために「さらにまた」などと説かれたが、それは容易に理解されることである。ここでは神足についての論説は簡潔にのみ説かれたので、「しかし詳細には……略……説かれた」と言われた。
Kecīti abhayagirivāsino. Tesu hi ekacce ‘‘iddhi nāma anipphannā’’ti vadanti, ekacce ‘‘iddhipādo pana anipphanno’’ti vadanti, anipphannoti ca paramatthato asiddho, natthīti attho. Ābhatoti abhidhammapāṭhato (vibha. 458) dīghanikāyaṭṭhakathāyaṃ (dī. ni. aṭṭha. 2.287) ānīto purimanayato aññenākārena desanāya pavattattā. Chando eva iddhipādo chandiddhipādo. Eseva nayo sesesupi. Ime panāti imasmiṃ sutte āgatā iddhipādā. Raṭṭhapālatthero (ma. ni. 2.293; a. ni. aṭṭha. 1.1.210; apa. aṭṭha. 2.raṭṭhapālattheraapadānavaṇṇanāya vitthāro) ‘‘chande sati kathaṃ nānujānissantī’’ti sattāhaṃ bhattāni abhuñjitvā mātāpitaro anujānāpetvā pabbajitvā chandameva avassāya lokuttaraṃ dhammaṃ nibbattesīti āha **‘‘raṭṭhapālatthero…pe… nibbattesī’’**ti. Soṇatthero (mahāva. 243; a. ni. 6.55; theragā. aṭṭha. terasanipāta; apa. aṭṭha. 2.soṇakoṭivīsattheraapadānavaṇṇanāya vitthāro) bhāvanamanuyutto āraddhavīriyo paramasukhumālo pādesu phoṭesu jātesupi vīriyaṃ nappaṭipassambhesīti āha **‘‘soṇatthero vīriyaṃ dhuraṃ katvā’’**ti. Sambhūtatthero (theragā. aṭṭha. 2.sammūtattheragāthāvaṇṇanāya vitthāro) ‘‘cittavato kiṃ nāma na sijjhatī’’ti cittaṃ pubbaṅgamaṃ katvā bhāvanaṃ ārādhesīti āha **‘‘sambhūtatthero cittaṃ dhuraṃ katvā’’**ti. Moghatthero vīmaṃsaṃ avassayi, tasmā tassa bhagavā ‘‘suññato lokaṃ avekkhassū’’ti (su. ni. 1125; bu. vaṃ. 54.353; mahā. ni. 186; cūḷani. mogharājamāṇavapucchā 144; mogharājamāṇavapucchāniddese 88; netti. 5; peṭako. 22, 31) suññatākathaṃ kathesi, paññānissitamānaniggahatthaṃ, paññāya pariggahatthañca dvikkhattuṃ pucchito samāno pañhaṃ kathesi. Tenāha **‘‘āyasmā mogharājā vīmaṃsaṃ dhuraṃ katvā’’**ti.
「或る者たち」とは無畏山寺派の者たちである。彼らのうち或る者は「神通というものは究極的には成り立たない(非実在である)」と言い、或る者は「神足が成り立たない」と言う。「成り立たない」とは、勝義において成就していない、存在しないという意味である。「引かれた」とは、阿毘達磨の本文(分別論 458)から長部註(2.287)に導入されたものであり、前述の様態とは別のあり方によって説法が行われたことによる。欲そのものが神足であるから欲神足である。残りのものにおいてもこの方法による。「しかしこれらは」とは、この経において説かれた神足のことである。ラッタパーラ長老(中部 2.293等)は、「意欲(欲)があるのに、どうして両親が許さないことがあろうか」と七日間食事を摂らず、両親に許可させて出家し、欲そのものに依拠して出世間の法を生じさせたので、「ラッタパーラ長老は……略……生じさせた」と言われた。ソーナ長老(大品 243等)は、修行に励んで精進を奮い起こし、極めて繊細であったため足に水泡が生じたときでさえ精進を緩めなかったので、「ソーナ長老は精進を主導として」と言われた。サンブータ長老は、「心ある者に何が成就しないことがあろうか」と心を先導として修行を全うしたので、「サンブータ長老は心を主導として」と言われた。モーガラージャ長老は思惟(観)に依拠していたので、世尊は彼に「世界を空なりと観察せよ」と空性の教えを説き、智慧に起因する慢心を挫くため、また智慧によって把握させるために二度問われて質問に答えた。それゆえに「尊者モーガラージャは思惟(観)を主導として」と言われた。
Punappunaṃ chanduppādanaṃ pesanaṃ viya hotīti chandassa upaṭṭhānasadisatā vuttā.
幾度も欲を生じさせることは使いを出すようなものであるから、欲には給仕に似た性質があると説かれた。
Parakkamenāti parakkamasīsena sūrabhāvaṃ vadati. Thāmabhāvato ca vīriyassa sūrabhāvasadisatā daṭṭhabbā.
「勇敢さ(勇猛)によって」とは、勇猛の頂点によって勇敢な性質を言う。力強さがあることから、精進には勇者の性質に似たところがあると見なされるべきである。
Cintanappadhānattā cittassa mantasaṃvidhānasadisatā vuttā.
思考を主とすることから、心には謀略を企てることに似た性質があると説かれた。
Jātisampatti nāma visiṭṭhajātitā. ‘‘Sabbadhammesu ca paññā seṭṭhā’’ti vīmaṃsāya jātisampattisadisatā vuttā. Sammohavinodaniyaṃ (vibha. aṭṭha. 433) pana cittiddhipādassa jātisampattisadisatā, vīmaṃsiddhipādassa mantabalasadisatā ca yojitā.
「家柄の良さ」とは優れた生まれのことである。「一切の法の中で智慧が最勝である」ことから、思惟(観)には家柄の良さに似た性質があると説かれた。しかし『迷惑解明』(分別論註 433)においては、心神足に家柄の良さに似た性質が、思惟神足に謀略の力に似た性質が適用されている。
Anekaṃ vihitaṃ vidhaṃ etassāti anekavihitanti āha **‘‘anekavidha’’**nti. Vidha-saddo koṭṭhāsapariyāyo ‘‘ekavidhena ñāṇavatthū’’tiādīsu (vibha. 751) viyāti āha **‘‘iddhividhanti iddhikoṭṭhāsa’’**nti.
種々の多くの種類がこれにあるから「多種多様な」であり、「種々の」と言われた。「種類(vidha)」という語は、「一種類の智の根拠」などにおけるように部分の同義語であるので、「神通の種類とは神通の部分のことである」と言われた。
Tividhaokāsādhigamavaṇṇanā
三種の機会(境地)の獲得の解説
288. **‘‘Sukhassā’’**ti idaṃ tiṇṇampi sukhānaṃ sādhāraṇavacananti āha **‘‘jhānasukhassa maggasukhassa phalasukhassā’’**ti. Nānappanāpattatāya pana appadhānattā upacārajjhānasukhassa, vipassanāsukhassa cettha aggahaṇaṃ. Purimesu tāva dvīsu okāsādhigamesu tīṇipi sukhāni labbhanti, tatiye pana kathanti? Tattha kāmaṃ tīṇi na labbhanti, dve pana labbhantiyeva. Yathālābhavasena hetaṃ vuttaṃ. ‘‘Sakkharakathalampi macchagumbampi carantampi tiṭṭhantampī’’tiādīsu (dī. ni. 1.249; ma. ni. 1.433; 2.259; a. ni. 1.45, 46) viya. Saṃsaṭṭhoti saṃsaggaṃ upagato samaṅgībhūto, so pana tehi samannāgatacittopi hotīti vuttaṃ **‘‘sampayuttacitto’’**ti. Ariyadhammanti ariyabhāvakaraṃ dhammaṃ. Upāyatoti vidhito. Pathatoti maggato. Kāraṇatoti hetuto. Yena hi vidhinā dhammānudhammapaṭipatti hoti, so upeti etenāti upāyo, so tadadhigamassa maggabhāvato patho, tassa karaṇato kāraṇanti ca vuccati.
288. 「楽の」というこれは、三つの楽のすべてに共通する言葉であるので、「禅定の楽、道の楽、果の楽の」と言われた。しかし種々の安止に至るものではなく主たるものではないため、近行禅の楽と内観(ヴィパッサナー)の楽はここでは把握されていない。まず前の二つの境地獲得においては三つの楽のすべてが得られるが、第三においてはどうなのか?そこでは望むらくは三つすべてが得られるわけではないが、二つは確実に得られる。得られる可能性に応じてこのように説かれたのである。「砂利や小石、魚の群れ、泳ぐものや留まるもの」などにおけるのと同様である。「混じり合った」とは、接触に至り、一体となったということであるが、それはそれらの法を具足した心でもあるので、「相応した心を持つ」と言われた。「聖なる法」とは、聖者たらしめる法のことである。「手立てによって」とは、方法によってである。「道によって」とは、行路によってである。「原因によって」とは、因によってである。それというのも、いかなる方法によって法に随順する実践がなされるか、それによってこれへと至るがゆえに「手立て(方法)」であり、その獲得への道であることから「行路(道)」であり、それをなすものであることから「原因」とも呼ばれる。
‘‘Aniccantiādivasena manasi karotī’’ti saṅkhepato vuttamatthaṃ vivarituṃ **‘‘yoniso manasikāro nāmā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha upāyamanasikāroti kusaladhammappavattiyā kāraṇabhūto manasikāro. Pathamanasikāroti tassa eva maggabhūto manasikāro. Anicceti ādiantavantatāya, anaccantikatāya ca anicce tebhūmake saṅkhāre ‘‘anicca’’nti manasikāroti yojanā. Eseva nayo sesesupi. Ayaṃ pana viseso tasmiṃyeva udayabbayapaṭipīḷanatāya dukkhanato, dukkhamato ca dukkhe, avasavattanatthena, anattasabhāvatāya ca anattani, asucisabhāvatāya asubhe. Sabbampi hi tebhūmakaṃ saṅkhataṃ kilesāsucipaggharaṇato ‘‘asubha’’ntveva vattuṃ arahati. Saccānulomikena vāti saccābhisamayassa anulomanavasena. **‘‘Cittassa āvaṭṭanā’’**tiādinā āvajjanāya paccayabhūtā tato purimuppannā manodvārikā kusalajavanappavatti phalavohāreneva tathā vuttā. Tassā hi vasena sā kusaluppattiyā upanissayo hotīti. Āvajjanā hi bhavaṅgacittaṃ āvaṭṭetīti cittassa āvaṭṭanā, anu anu āvaṭṭetīti anvāvaṭṭanā. Bhavaṅgārammaṇato aññaṃ ābhujatīti ābhogo. Samannāharatīti samannāhāro. Tadevārammaṇaṃ attānaṃ anubandhitvā anubandhitvā uppajjamāne manasi karoti ṭhapetīti manasikāro. Ayaṃ vuccatīti ayaṃ upāyamanasikāralakkhaṇo yonisomanasikāro nāma vuccati, yassa vasena puggalo dukkhādīni saccāni āvajjituṃ sakkoti.
「無常などとして作意する」と簡潔に説かれた意味を解明するために、「正しき作意とは」などが説かれた。そこにおいて「手立ての作意」とは、善法の生起の原因となる作意である。「行路の作意」とは、その善法の道となる作意である。「無常に」とは、始まりと終わりがあること、永続性がないことによって無常である三界の諸行を「無常である」と作意すること、と解釈される。残りのものにおいても同様である。しかしこの差異は、まさにそれにおいて、生滅に圧迫されることによる苦しみ、苦しみに耐え難いことによる「苦に」、意のままにならないという意味と無我の本性であることによる「無我に」、不浄の本性であることによる「不浄に」である。一切の三界の作られたものは、煩悩の不浄を漏出させるがゆえに、まさに「不浄」と呼ぶにふさわしいからである。「あるいは真理に順応する作意によって」とは、真理の現観に順応することによってである。「心の転回」などによって、注意を向けること(引向)の条件となり、それに先立って生じた意門の善なる速行の働きが、結果を表す言葉によってそのように説かれた。それを通じてこそ、それが善の生起の所依(強い条件)となるからである。注意を向けることは有分心を転回させるので「心の転回」であり、次々と転回させるので「継続的転回」である。有分の対象とは別のものを傾注するから「傾注」である。もたらすから「随伴」である。その対象を自らに結びつけて次々と生じるものを作意し、心に据えるから「作意」である。「これが呼ばれる」とは、この手立ての作意の特徴を持つ正しき作意と呼ばれるものであり、これによって人は苦などの真理に注意を向けることができるのである。
Asaṃsaṭṭhoti na saṃsaṭṭho kāmādīhi vivitto vinābhūto. Kāmādivisaṃsaggahetu uppajjanakasukhaṃ nāma vivekajaṃ pītisukhanti āha **‘‘paṭhamajjhānasukha’’**nti. Kāmaṃ paṭhamajjhānasukhampi somanassameva, suttesu pana taṃ kāyikasukhassāpi paccayabhāvato visesato ‘‘sukha’’ntveva vuccatīti idhāpi jhānabhūtaṃ somanassaṃ sukhanti, itaraṃ somanassaṃ. Tena vuttaṃ **‘‘sukhā’’**ti. Hetumhi nissakkavacananti āha **‘‘jhānasukhapaccayā’’**ti. Aparāparaṃ somanassanti jhānādhigamahetu paccavekkhaṇādivasena punappunaṃ uppajjanakasomanassaṃ.
「離れた」とは、混じり合わず、諸々の欲望などから離脱し、離れたことである。欲望などとの非接触を原因として生じる楽は、離脱より生じる喜楽であるので、「初禅の楽」と言われた。確かに初禅の楽も喜悦(喜)にほかならないが、経典においてはそれが身体的な楽の条件ともなることから、特に「楽」とだけ呼ばれているので、ここでも禅定に属する喜悦が楽であり、他のものは喜悦である。それゆえに「楽から」と言われた。原因を示す奪格(起点格)であるので、「禅定の楽を縁として」と言われた。「さらなる喜悦」とは、禅定の獲得を原因として省察などによって幾度も生じる喜悦のことである。
Pamodanaṃ pamudo, taruṇapīti, tato pamudā. ‘‘Pāmojjaṃ pītatthāyā’’tiādīsu taruṇapīti ‘‘pāmojja’’nti vuccati, idha pana pakaṭṭho mudo pamudo pāmojjanti adhippetaṃ, tañca somanassarahitaṃ natthīti avinābhāvitāya **‘‘balavataraṃ pītisomanassa’’**nti vuttaṃ. Jhānassa ujuvipaccanīkataṃ sandhāya **‘‘pañca nīvaraṇāni vikkhambhetvā’’**ti vuttaṃ. Jhānaṃ pana tadekaṭṭhe sabbepi kilese, sabbepi akusale dhamme vikkhambhetiyeva, attano okāsaṃ gahetvā tiṭṭhati paṭipakkhadhammehi anabhibhavanīyato. Tasmāti okāsaggahaṇato, laddhokāsatāyāti attho. Maggaphalasukhādhigamāya okāsabhāvato vā okāso, assa adhigamo okāsādhigamo. Purimapakkhe pana okāsaṃ avasaraṃ adhigacchati etenāti okāsādhigamo.
歓喜することが歓喜(pamuda)であり、生まれたての喜び(微細な喜)であり、それゆえに「歓喜から」である。「極歓喜は喜のために」などにおいては、生まれたての喜びが「極歓喜(pāmojja)」と呼ばれるが、ここでは卓越した喜びが歓喜であり極歓喜であると意図されている。そしてそれは喜悦を欠いては存在しないため、不可分であることから「より強力な喜悦」と言われた。禅定がそれらに直接対立するものであることを指して、「五蓋を鎮伏して」と言われた。しかし禅定は、その境地に属する一切の煩悩、一切の不善法をも鎮伏し、対立する諸法に圧倒されないことから自らの機会(足場)を捉えて留まる。「それゆえに」とは、機会を捉えることから、機会を得たことによって、という意味である。あるいは、道果の楽を獲得するための機会(余地)であるから「機会」であり、その獲得が「機会の獲得」である。前者の立場では、これによって機会や場を獲得するがゆえに「機会の獲得」である。
Rūpasabhāvatāya, ekantarūpādhīnavuttitāya, savipphārikatāya ca ānāpānavitakkavicārānaṃ thūlabhāvaṃ anujānanto **‘‘kāyavacīsaṅkhārā tāva oḷārikā hontū’’**ti āha. Tabbidhuratāya pana ekaccānaṃ vedanāsaññānaṃ thūlataṃ ananujānanto **‘‘cittasaṅkhārā kathaṃ oḷārikā’’**ti āha. Itaro ‘‘appahīnattā’’ti kāraṇaṃ vatvā **‘‘kāyasaṅkhārā hī’’**tiādinā tamatthaṃ vivarati. Teti cittasaṅkhārā. Appahīnā saṅkhārā labbhamānasaṅkhāranimittatāya ‘‘oḷārikā’’ti vattuṃ arahanti, pahīnā pana tadabhāvato ‘‘sukhumā’’ti āha ‘‘pahīne upādāya **appahīnattā oḷārikā nāma jātā’’**ti. Pāḷiyaṃ ‘‘kāyasaṅkhārānaṃ paṭippassaddhiyā’’ti vuttattā **‘‘sukhanti catutthajjhānikaphalasamāpattisukha’’**nti vuttaṃ. ‘‘Cittasaṅkhārānaṃ paṭippassaddhiyā’’ti pana vuttattā **‘‘nirodhā vuṭṭhahantassā’’**ti vuttaṃ. Vacīsaṅkhārapaṭippassaddhi kāyasaṅkhārapaṭippassaddhiyāva siddhāti veditabbā. Tenevāha **‘‘dutiya…pe… visuṃ na vuttānī’’**ti. Pāḷiyaṃ pana atthato siddhāpi supākaṭabhāvena vibhāvetuṃ sarūpato gaṇhāti. Na hi ariyavinaye atthāpattivibhāvanā abhidhammadesanāya pakatīti. Yathā nīvaraṇavikkhambhanañca paṭhamassa jhānassa adhigamāya upāyo, evaṃ sukhadukkhavikkhambhanaṃ catutthassa jhānassa adhigamāya upāyoti **‘‘catutthajjhānaṃ sukhaṃ dukkhaṃ vikkhambhetvā’’**ti vuttaṃ. Sesaṃ heṭṭhā vuttanayameva.
物質的な性質であること、専ら物質に依存して作用すること、そして強い波動を伴うことから、出入息と尋・伺が粗雑であることを認めて、「まず身行と口行は粗雑であるとしよう」と言われた。しかしそれとは異なり、一部の受や想が粗雑であることを認めずに、「心行はどうして粗雑なのか」と言われた。他方は「断ぜられていないから」と理由を述べて、「身行は実に」などによってその意味を解明する。「それらは」とは心行のことである。断ぜられていない諸行は、得られる形成の徴標があることによって「粗雑である」と言うにふさわしく、一方、断ぜられたものはそれがないことによって「微細である」ことから、「断ぜられたものに比して、断ぜられていないことによって粗雑となった」と言われた。聖典において「身行の静息によって」と説かれていることから、「楽とは第四禅の果定の楽である」と言われた。しかし「心行の静息によって」と説かれていることから、「滅尽定から出定する者の」と言われた。口行の静息は、身行の静息によってすでに成就していると理解されるべきである。それゆえに「第二……略……別には説かれない」と言われた。しかし聖典においては、意味として成就していても、極めて明瞭に示すために固有の形で取り上げられる。聖なる律において、意味の当然の帰結を示すことは阿毘達磨の説示の通則ではないからである。五蓋の鎮伏が初禅を獲得するための手立てであるように、苦楽の鎮伏は第四禅を獲得するための手立てであるので、「第四禅は苦楽を鎮伏して」と言われた。残りは前述の方法と同じである。
Avijjārāgādīhi saha vajjehīti sāvajjaṃ, akusalaṃ, tadabhāvato anavajjaṃ kusalaṃ. Attano hitasukhaṃ ākaṅkhantena sevanīyato sevitabbaṃ, kusalaṃ, tabbipariyāyato na sevitabbaṃ, akusalaṃ. Lāmakabhāvena hīnaṃ, akusalaṃ, seṭṭhabhāvena paṇītaṃ, kusalanti sāvajjadukādayo tayopi dukā yathārahaṃ etesaṃ kusalākusalakammapathānaṃ vaseneva veditabbā. Sabbanti yathāvuttaṃ sabbaṃ catūhi dukehi saṅgahitaṃ dhammajātaṃ. Yathārahaṃ kaṇhañca sukkañca paṭidvandibhāvato, sappaṭibhāgañca appaṭibhāgañca advayabhāvato. Vaṭṭapaṭicchādikā avijjā pahīyati catunnaṃ ariyasaccānaṃ sammadeva paṭivijjhanato. Tato eva arahattamaggavijjā uppajjati. Sukhanti evaṃ kammapathamukhena tebhūmakadhamme sammasitvā vipassanaṃ ussukkāpetvā maggapaṭipāṭiyā arahatte patiṭṭhahantassa yaṃ arahattamaggasukhañceva arahattaphalasukhañca, taṃ idha ‘‘sukha’’nti adhippetaṃ. Antogadhā eva nānantariyabhāvato.
無明や貪欲などの過失を伴うから「有過(罪過あるもの)」であり不善である。それらがないから「無過(罪過なきもの)」であり善である。自らの福利と安楽を望む者によって親しまれるべきであるから「親しむべきもの」であり善であり、その反対であるから「親しむべからざるもの」であり不善である。卑劣な性質によって「劣れるもの」であり不善であり、卓越した性質によって「勝れたもの」であり善である、というように、有過の二組などの三つの二組(二法)もまた、適宜これら善不善の業道に基づいて理解されるべきである。「一切を」とは、四つの二組に包摂される前述の一切の法のことである。適宜、黒(悪)と白(善)が互いに対立することから、また類似するものと類似しないものが二様でないことからである。輪廻を覆い隠す無明は、四聖諦をまさに正しく覚知することによって断ぜられる。そこからまさに阿羅漢道の明知が生じる。「楽を」とは、このように業道の観点から三界の諸法を把握し、内観を奮い起こして、道の順序によって阿羅漢果に確立する者の、まさに阿羅漢道の楽および阿羅漢果の楽のことであり、それがここでは「楽」と意図されている。間を置かないものであることから、まさに内包されているのである。
Aṭṭhatiṃsārammaṇavasenāti pāḷiyaṃ āgatānaṃ aṭṭhatiṃsāya kammaṭṭhānānaṃ vasena. Vitthāretvā kathetabbā paṭhamajjhānādivasena āgatattāti adhippāyo. **‘‘Katha’’**ntiādinā tameva vitthāretvā kathanaṃ nayato dasseti. **‘‘Catuvīsatiyā ṭhānesū’’**tiādīsu yaṃ vattabbaṃ, taṃ mahāparinibbānavaṇṇanāyaṃ (dī. ni. aṭṭha. 2.219) vuttameva. **‘‘Nirodhasamāpattiṃ pāpetvā’’**ti iminā arūpajjhānānipi gahitāni honti tehi vinā nirodhasamāpattisamāpajjanassa asambhavato, catutthajjhānasabhāvattā ca tesaṃ. Dasa upacārajjhānānīti ṭhapetvā kāyagatāsatiṃ ānāpānañca aṭṭha anussatiyo, saññāvavatthānañcāti dasa upacārajjhānāni. Adhisīlaṃ nāma samādhisaṃvattaniyanti tassa heṭṭhimantena paṭhamajjhānaṃ pariyosānanti vuttaṃ **‘‘adhisīlasikkhā paṭhamaṃ okāsādhigamaṃ bhajatī’’**ti. Adhicittaṃ nāma catutthajjhānaniṭṭhaṃ tadantogadhattā arūpajjhānānaṃ, tappariyosānattā phalajjhānānanti vuttaṃ **‘‘adhicittasikkhā dutiya’’**nti. Matthakappattā adhipaññāsikkhā nāma aggamaggavijjāti āha **‘‘adhipaññāsikkhā tatiya’’**nti. Sikkhattayavasena tayo okāsādhigame nīharantena yathārahaṃ taṃtaṃsuttavasenapi nīharitabbanti dassento **‘‘sāmaññaphalepī’’**tiādimāha.
「三十八の対象に基づいて」とは、聖典に説かれた三十八の業処に基づいて、という意味である。初禅などに基づいて説かれているため、詳細に説かれるべきであるという趣旨である。「どのように」などによって、その詳細な説示を方法論から示す。「二十四の箇所において」などにおいて説かれるべきことは、大般涅槃経の註釈(長部註 2.219)においてすでに説かれた通りである。「滅尽定に至らしめて」ということによって、無色界禅も把握されたことになる。それらなしには滅尽定に入ることは不可能であり、またそれらは第四禅の性質を持つからである。「十の近行禅」とは、身至念と出入息念を除いた八随念と想差別(食厭想など)の十の近行禅のことである。「増上戒」とは三摩地をもたらすものであり、その最も低い限界において初禅が終極であることから、「増上戒の学処は第一の機会の獲得に属する」と言われた。「増上心」とは第四禅を終極とするものであり、無色界禅はそれに内包され、果定の禅はそれを究極とするものであることから、「増上心の学処は第二に属する」と言われた。頂点に達した「増上慧の学処」とは最上の道の明知であるので、「増上慧の学処は第三に属する」と言われた。三学に基づいて三つの境地獲得を導き出す者は、適宜それぞれの経典に基づいて導き出すべきであることを示しつつ、「沙門果経においても」などと言われた。
Yadaggena ca tisso sikkhā yathākkamaṃ tayo okāsādhigame bhajanti, tadaggena tappadhānattā yathākkamaṃ tīṇi piṭakāni te bhajantīti dassetuṃ **‘‘tīsu panā’’**tiādi vuttaṃ. Tīṇi piṭakāni vibhajitvāti tiṇṇaṃ okāsādhigamānaṃ vasena yathānupubbaṃ tīṇi piṭakāni vitthāretvā kathetuṃ labhissāmāti. Samodhānetvāti samāyojetvā tattha vuttamatthaṃ imassa suttassa atthabhāvena samānetvā. Dukkathitanti asambandhakathanena, atipapañcakathanena vā duṭṭhu kathitanti na sakkā vattuṃ tathākathanasseva sukathanabhāvatoti āha **‘‘tepiṭakaṃ…pe… sukathitaṃ hotī’’**ti.
そして三学が順次に三つの境地獲得に配分される頂点に応じて、それらを主とすることから順次に三蔵がそれらに配分されることを示すために、「しかし三つにおいて」などが説かれた。「三蔵を分別して」とは、三つの境地獲得に基づいて順を追って三蔵を詳細に説くことができるであろうということである。「統合して」とは、適切に結びつけて、そこに説かれた意味をこの経の意味として合致させて、ということである。「悪しく説かれた」とは、無関係な説示によって、あるいは過度な戯論の説示によって不当に説かれたということはできない。そのような説示こそが善き説示であるからである。それゆえに「三蔵は……略……善く説かれたものとなる」と言われた。
Catusatipaṭṭhānavaṇṇanā
四念処の解説
289. Na kevalaṃ abhidhammapariyāyeneva kusalaṭṭho gahetabbo, atha kho bāhitikapariyāyena pīti āha **‘‘phalakusalassa cā’’**ti. Khemaṭṭhenāti catūhipi yogehi anupaddavabhāvena. Sammā samāhitoti samathavasena ceva vipassanāvasena ca suṭṭhu samāhito. Ekaggacittoti vikkhepassa dūrasamussāritattā ekaggataṃ avikkhepaṃ pattacitto. Attano kāyatoti ajjhattaṃ kāye kāyānupassanāvasena sammā samāhitacitto samāno ‘‘samāhito yathābhūtaṃ pajānāti passatī’’ti (saṃ. ni. 3.5; 5.1071, 1072; netti. 40; mi. pa. 1.14) vacanato. Tattha ñāṇadassanaṃ nibbattento tato bahiddhā parassa kāyepi ñāṇadassanaṃ nibbatteti. Tenāha **‘‘parassa kāyābhimukhaṃ ñāṇaṃ pesetī’’**ti. Sammā vippasīdatīti sammā samādhānapaccayena abhippasādena ñāṇūpasañhitena ajjhattaṃ kāyaṃ okappeti. Sabbatthāti sabbaṭṭhānesu. Sati kathitāti yojanā. Lokiyalokuttaramissakā kathitā anupassanāñāṇadassanānaṃ tadubhayasādhāraṇabhāvato.
289. 単に阿毘達磨の方法によってのみ善の意味が把握されるべきなのではなく、バーヒティカ経の方法によっても把握されるべきであるので、「果の善の」と言われた。「安全(寂静)の意味によって」とは、四つの軛(繋縛)による災難がないことによってである。「正しく定まった」とは、止(サマタ)によっても観(ヴィパッサナー)によっても極めて善く定まったことである。「専一の心を持つ者」とは、散乱が遠く排除されたことによって、専一性、非散乱に達した心を持つ者である。「自らの身体から」とは、内なる身体において身随観によって正しく心を定めた者となり、「定まった者はありのままを知り、見る」という言葉によるからである。そこにおいて知識と見解(智見)を生じさせ、そこから外なる他者の身体においても智見を生じさせる。それゆえに「他者の身体に向けて智慧を送り出す」と言われた。「正しく澄明になる」とは、正しい定めの条件によって、智を伴う深い信(澄明)によって内なる身体を確信することである。「至るところで」とは、すべての場所においてである。「念が説かれた」と解釈される。世間・出世間が混ざり合った形で説かれたのであり、随観と智見がその両方に共通する性質を持つからである。
Sattasamādhiparikkhāravaṇṇanā
七三摩地資具の解説
290. Etthāti imissā kathāya. Jhānakkhassa vīriyacakkassa ariyamaggarathassa sīlaṃ vibhūsanabhāvena vuttanti āha **‘‘alaṅkāro parikkhāro nāmā’’**ti. Sattahi nagaraparikkhārehīti nagaraṃ parivāretvā rakkhaṇakehi kataparikkhepo, parikhā, uddāpo, pākāro, esikā, palighā, pākārapakkhaṇḍilanti imehi sattahi nagaraparikkhārehi. Sambharīyati phalaṃ etenāti sambhāro, kāraṇaṃ. Bhesajjañhi byādhivūpasamanena jīvitassa kāraṇaṃ. Parivāraparikkhāravasenāti parivārasaṅkhātaparikkhāravasena. Parikkhāro hi sammādiṭṭhiyādayo maggadhammā sammāsamādhissa sahajātādipaccayabhāvena parikaraṇato abhisaṅkharaṇato. Upecca nissīyatīti upanisā, saha upanisāyāti saupanisoti āha **‘‘saupanissayo’’**ti, sahakārīkāraṇabhūto dhammasamūho idha ‘‘upanissayo’’ti adhippeto. Sammā pasatthā sundarā diṭṭhi etassāti sammādiṭṭhi, puggalo, tassa sammādiṭṭhissa. So pana yasmā patiṭṭhitasammādiṭṭhiko, tasmā vuttaṃ **‘‘sammādiṭṭhiyaṃ ṭhitassā’’**ti. Sammāsaṅkappo pahotīti maggasammādiṭṭhiyā dukkhādīsu parijānanādikiccaṃ sādhentiyā kāmavitakkādike samugghāṭento sammāsaṅkappo yathā attano kiccasādhane pahoti, tathā pavattiṃ panassa dassento āha **‘‘sammāsaṅkappo pavattatī’’**ti. Esa nayo sabbapadesūti ‘‘sammāsaṅkappassa sammāvācā pahotī’’tiādīsu sesapadesu yathāvuttamatthaṃ atidisati.
290. 「ここにおいて」とは、この説話においてである。禅定の車軸、精進の車輪を持つ聖道の車にとって、戒が装飾として説かれたので、「装飾が資具と呼ばれる」と言われた。「七つの城砦の資具によって」とは、城を取り囲んで防護するために施された囲壁、すなわち濠、土塁、城壁、門柱、閂、城壁上の防塁というこれら七つの城砦の資具によって、ということである。これによって果が蓄積されるから「資具(資糧)」、すなわち原因である。実に薬は病を鎮めることによって生命の原因となる。「眷属としての資具によって」とは、眷属と呼ばれる資具に基づいてである。なぜなら資具である正見などの道法は、倶生などの条件となって正定を補佐し、整えるからである。近づいて拠るから「所依」であり、所依を伴うから「所依を伴う」のであり、「強い条件を伴う」と言われた。協同する原因となる法の集まりが、ここでは「強い条件(親依止)」と意図されている。正しく称賛された優れた見解をこれに持つから「正見」であり、人(補特伽羅)のことであり、その正見を持つ者のことである。その者は正見に確立しているからこそ、「正見に留まる者に」と言われた。「正思惟が可能となる」とは、道の正見が苦などの真理において完全な知などの役割を果たすとき、欲の思惟などを根絶する正思惟が自らの役割を果たすことが可能となるように、その働きを示しつつ「正思惟が作用する」と言われた。「この方法はすべての語において」とは、「正思惟を持つ者に正語が可能となる」などの残りの語において、前述の意味を準用するものである。
Ettha ca yasmā nibbānādhigamāya paṭipannassa yogino bahūpakārā sammādiṭṭhi. Tathā hi sā ‘‘paññāpajjoto, paññāsattha’’nti ca vuttā. Tāya hi so avijjandhakāraṃ vidhamitvā kilesacore ghātento khemena nibbānaṃ pāpuṇāti, tasmā ariyamaggakathāyaṃ sammādiṭṭhi ādito gayhati, idha pana puggalādhiṭṭhānadesanāya ‘‘sammādiṭṭhissā’’ti vuttaṃ. Yasmā pana sammādiṭṭhipuggalo nekkhammasaṅkappādivasena sammadeva saṅkappeti, na micchākāmasaṅkappādivasena, tasmā sammādiṭṭhissa sammāsaṅkappo pahoti. Yasmā ca sammāsaṅkappo sammāvācāya upakārako. Yathāha ‘‘pubbe kho gahapati vitakketvā vicāretvā pacchā vācaṃ bhindatī’’ti, (saṃ. ni. 2.348) tasmā sammāsaṅkappassa sammāvācā pahoti. Yasmā pana ‘‘idañcidañca karissāmā’’ti hi paṭhamaṃ vācāya saṃvidahitvā yebhuyyena te te kammantā sammā payojīyanti, tasmā vācā kāyakammassa upakārikāti sammāvācassa sammākammanto pahoti. Yasmā pana catubbidhaṃ vacīduccaritaṃ, tividhañca kāyaduccaritaṃ pahāya ubhayaṃ sucaritaṃ pūrentasseva ājīvaṭṭhamakasīlaṃ pūrati, na itarassa, tasmā sammāvācassa sammākammantassa ca sammāājīvo pahoti. Visuddhidiṭṭhisamudāgatasammāājīvassa yoniso padhānassa sambhavato sammāājīvassa sammāvāyāmo pahoti. Yoniso padahantassa kāyādīsu catūsu vatthūsu sati sūpaṭṭhitā hotīti sammāvāyāmassa sammāsati pahoti. Yasmā evaṃ sūpaṭṭhitā sati samādhissa upakārānupakārānaṃ dhammānaṃ gatiyo samannesitvā pahoti ekattārammaṇe cittaṃ samādhātuṃ, tasmā sammāsatissa sammāsamādhi pahotīti. Ayañca nayo pubbabhāge nānākkhaṇikānaṃ sammādiṭṭhiādīnaṃ vasena vutto, maggakkhaṇe pana sammādiṭṭhiādīnaṃ tassa tassa sahajātādivasena vutto ‘‘sammādiṭṭhissa sammāsaṅkappo pahotī’’tiādīnaṃ padānamattho yutto, ayameva ca idhādhippeto. Tenāha **‘‘ayaṃ panattho’’**tiādi.
そしてここにおいて、涅槃の獲得のために実践する修行者にとって、正見は多大の助けとなる。実にそれは「智慧の灯火、智慧の剣」とも説かれている。それによって彼は無明の闇を打ち破り、煩悩の盗賊を倒して、安全に涅槃に到達する。それゆえに聖道の教説においては正見が最初に把握されるが、ここでは人を主体とする説示によって「正見を持つ者に」と説かれた。そして正見を持つ人は出離の思惟などによってまさに正しく思惟し、邪悪な欲望の思惟などによらないから、正見を持つ者に正思惟が可能となる。また正思惟は正語の助けとなる。「長者よ、人はまず思惟し考察した後に言葉を発する」と説かれている通りである。それゆえに正思惟を持つ者に正語が可能となる。そして「これこれのことをしよう」とまず言葉によって手配してから、多くの場合それらの事業が正しく遂行されるので、言葉は身の行為の助けとなるから、正語を持つ者に正業が可能となる。そして四種の言葉の悪行と三種の身体の悪行を捨てて、両方の善行を満たす者にこそ正命を第八とする戒が満たされるのであり、他の者にはそうではないから、正語と正業を持つ者に正命が可能となる。清浄な見解から生じた正命を持つ者には正しい正勤が生じるから、正命を持つ者に正精進が可能となる。正しく精進する者には身体などの四つの対象において念が善く確立するので、正精進を持つ者に正念が可能となる。このように善く確立した念は、三摩地の助けとなる法とならない法の行方を究明して、単一の対象に心を定めることが可能となるから、正念を持つ者に正定が可能となるのである。そしてこの方法は、先行段階における異なる刹那の正見などに基づいて説かれたものであるが、道の刹那における正見などは、それぞれの倶生などの関係によって説かれた「正見を持つ者に正思惟が可能となる」などの句の意味に合致し、まさにこれこそがここで意図されている。それゆえに「しかしこの意味は」などと言われた。
Maggañāṇeti maggapariyāpannañāṇe ṭhitassa taṃsamaṅgino. Maggapaññā hi catunnaṃ saccānaṃ sammādassanaṭṭhena ‘‘maggasammādiṭṭhī’’ti vuttā, sā eva nesaṃ yāthāvato jānanato paṭivijjhanato idha ‘‘maggañāṇa’’ntipi vuttā. Maggavimuttīti maggena kilesānaṃ vimuccanaṃ samucchedappahānameva. Phalasammādiṭṭhi eva ‘‘phalasammāñāṇa’’nti pariyāyena vuttaṃ, pariyāyavacanañca vuttanayānusārena veditabbaṃ. Phalavimutti pana paṭippassaddhippahānaṃ daṭṭhabbaṃ.
「道智において」とは、道に包摂される智慧に留まる者、それを具足した者のことである。道の智慧は四聖諦を正しく見るという意味で「道正見」と説かれたのであり、それがそれらをありのままに知り、覚知することから、ここでも「道智」とも説かれた。「道の解脱」とは、道によって煩悩から解脱すること、すなわち断絶による断除そのものである。果正見そのものが「果の正智」と別の表現で説かれたのであり、その別の表現は前述の方法に従って理解されるべきである。一方、果の解脱は静息による断除と見なされるべきである。
Amatassa dvārāti ariyamaggamāha. So pana vinā ca ācariyamuṭṭhinā anantaraṃ abāhiraṃ karitvā yāvadeva manussehi suppakāsitattā vivaṭo. Dhammavinītāti ariyadhamme vinītā. So panettha kilesānaṃ samucchedavinayavasena veditabboti āha **‘‘sammāniyyānena niyyātā’’**ti.
「不死の門」とは聖道のことである。そしてそれは、師の握りこぶし(秘伝)なしに、隔たりなく外ならぬものとして、人間たちによってまさに善く開示されたがゆえに「開かれた」のである。「法によって導かれた」とは、聖なる法において調伏されたということである。しかしここにおいてそれは、煩悩の断絶による調伏に基づいて理解されるべきであるので、「正しき導きによって導かれた」と言われた。
Atthīti puthutthavisayaṃ nipātapadaṃ ‘‘atthi imasmiṃ kāye kesā’’tiādīsu (dī. ni. 2.377; ma. ni. 1.110; 3.154; saṃ. ni. 4.127; a. ni. 6.29; 10.60; vibha. 356; khu. pā. 2.1.dvattiṃsaākāra; netti. 47) viyāti āha **‘‘anāgāmino ca atthī’’**ti. Tenevāha ‘‘atthi cevettha sakadāgāmino’’ti. Bahiddhā saṃyojanapaccayo nibbattihetubhūto puññabhāgo etissā atthīti puññabhāgā, atisayavisiṭṭho cettha atthiattho veditabbo. Ottappamānoti uttasanto bhāyanto. Na pana natthi, atthi evāti dīpeti.
「ある」とは、「この身体には毛髪がある」などにおけるように、多数の存在の領域を示す不変化詞であるので、「不還者たちもある」と言われた。それゆえに「ここには一来者たちもある」と言われたのである。外的な結縛の条件であり生起の原因となる功徳の分け前をこの人が持つから「功徳の分け前を持つ者」であり、ここでは極めて卓越した存在の意味が理解されるべきである。「恐れをなして」とは、怯え、恐れながらである。しかし存在しないのではなく、現に存在するのだと示している。
291. Assāti vessavaṇassa. Laddhi pana na atthi paṭividdhasaccattā. **‘‘Abhisamaye viseso natthī’’**ti etena sabbepi sabbaññuguṇā sabbabuddhānaṃ sadisā evāti dasseti.
291. 「彼に」とは毘沙門天にである。しかし真理を覚知しているため、邪見はない。「現観において差異はない」ということによって、すべての全知の徳は諸仏において全く等しいということを示している。
292. Kāraṇassa ekarūpattā imāni pana padānīti na kevalaṃ ‘‘tayidaṃ brahmacariya’’ntiādīni padāni, atha kho ‘‘imamatthaṃ janavasabho yakkho’’tiādīni padāni pīti.
292. 理由が一様であることから、「しかしこれらの句は」とは、単に「この清浄行は」などの句だけでなく、「この意味を鬼神ジャナヴァサバは」などの句もまた、ということである。
Janavasabhasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā.
人勝経註における隠れた意味の解明(釈疏)。