9. Mahāsatipaṭṭhānasuttavaṇṇanā9. 大念処経の註釈
Uddesavārakathāvaṇṇanā
総説の章の註釈
373. ‘‘Kasmā bhagavā idaṃ suttamabhāsī’’ti asādhāraṇaṃ samuṭṭhānaṃ pucchati, sādhāraṇaṃ pana ‘‘pākaṭa’’nti anāmasitvā **‘‘kururaṭṭhavāsīna’’**ntiādi vuttaṃ. Samuṭṭhānanti hi desanānidānaṃ, taṃ sādhāraṇāsādhāraṇabhedato duvidhaṃ, sādhāraṇampi ajjhattikabāhirabhedato duvidhaṃ. Tattha sādhāraṇaṃ ajjhattikaṃ samuṭṭhānaṃ nāma bhagavato mahākaruṇā. Tāya hi samussāhitassa bhagavato veneyyānaṃ dhammadesanāya cittaṃ udapādi. Yathāha ‘‘sattesu ca kāruññataṃ paṭicca buddhacakkhunā lokaṃ volokesī’’tiādi. (Dī. ni. 2.69; ma. ni. 1.283; 2.339; saṃ. ni. 1.172; mahāva. 9) bāhiraṃ pana sādhāraṇaṃ samuṭṭhānaṃ nāma dasasahassamahābrahmaparivārassa sahampatimahābrahmuno ajjhesanaṃ. Tathā cāha ‘‘brahmuno ca ajjhesanaṃ viditvā’’ti. (Dī. ni. 2.69; ma. ni. 1.283; 2.339; saṃ. ni. 1.179; mahāva. 9) tadajjhesanuttarakālañhi dhammapaccavekkhaṇājanitaṃ appossukkataṃ paṭipassambhetvā bhagavā dhammaṃ desetuṃ ussāhajāto ahosi. Yathā ca mahākaruṇā, evaṃ dasabalañāṇādayo ca desanāya ajjhattasamuṭṭhānabhāve vattabbā. Sabbañhi ñeyyadhammaṃ, tesaṃ desetabbappakāraṃ, sattānañca āsayānusayādiṃ yāthāvato jānitvā bhagavā ṭhānāṭṭhānādīsu kosallena veneyyajjhāsayānurūpaṃ vicittanayadesanaṃ pavattesīti. Asādhāraṇampi ajjhattikabāhirabhedato duvidhameva. Tattha ajjhattikaṃ yāya mahākaruṇāya, yena ca desanāñāṇena idaṃ suttaṃ pavattitaṃ, tadubhayaṃ veditabbaṃ, bāhiraṃ pana dassetuṃ **‘‘kururaṭṭhavāsīna’’**ntiādimāha. Tena vuttaṃ ‘‘asādhāraṇaṃ samuṭṭhānaṃ pucchatī’’ti, tena ‘‘attajjhāsayādīsu catūsu suttanikkhepesu kataroya’’nti suttanikkhepo pucchito hotīti itaro ‘‘kururaṭṭhavāsīna’’ntiādinā ‘‘parajjhāsayoyaṃ suttanikkhepo’’ti dasseti.
373. 「なぜ世尊はこの経を説かれたのか」と不共の発起について問うており、共通のものは「明白である」として言及せず、「クル国の住人たちの…」などと言われた。発起とは説法の起因であり、それは共通と不共の区分によって二種あり、共通のものも内的なものと外的なものの区分によって二種ある。そのうち内的な共通の発起とは世尊の大悲である。大悲によって奮い立たされた世尊に、教化されるべき者たちへの説法の心が生じた。「衆生への憐れみによって、仏眼をもって世間を見渡された」(長部2.69、中部1.283、2.339、相応部1.172、大品9)などと説かれている通りである。外的な共通の発起とは、一万の大梵天を伴うサハンパティ大梵天の要請である。「梵天の要請を知って」(長部2.69、中部1.283、2.339、相応部1.179、大品9)と説かれている通りである。その要請の直後に、法の省察から生じた消極性を静めて、世尊は法を説く意欲を起こされたのである。大悲と同様に、十力智なども説法の内的な発起のあり方として語られるべきである。すべての知るべき法と、それらを説くべき様態と、衆生の志向や随眠などをありのままに知って、世尊は正機・非機の巧みさによって教化されるべき者の志向に応じた多彩な教理の説法を行われた。不共のものも内的なものと外的なものの区分によってまさに二種である。そのうち内的なものは、いかなる大悲によって、いかなる説法の智慧によってこの経が説かれたのか、その両者を知るべきであり、外的なものを示すために「クル国の住人たちの…」などと言われた。「不共の発起を問うている」と言われたのはそれゆえであり、それによって「自らの志向など四つの経の提示のうち、これはどれか」と経の提示が問われたことになり、他方は「クル国の住人たちの…」などによって「この経の提示は他者の志向によるものである」と示している。
Kururaṭṭhaṃ kira tadā taṃnivāsisattānaṃ yonisomanasikāravantatādinā yebhuyyena suppaṭipannatāya, pubbe ca katapuññatābalena tadā utuādisampattiyuttameva ahosi. Tena vuttaṃ **‘‘utupaccayādisampannattā’’**ti. Ādi-saddena bhojanādisampattiṃ saṅgaṇhāti. Keci pana ‘‘pubbe pavattakuruvattadhammānuṭṭhānavāsanāya uttarakuru viya yebhuyyena utuādisampannameva hontaṃ bhagavato kāle sātisayaṃ utusappāyādiyuttaṃ taṃ raṭṭhaṃ ahosī’’ti vadanti. Cittasarīrakallatāyāti cittassa, sarīrassa ca arogatāya. Anuggahitapaññābalāti laddhūpakārañāṇānubhāvā, anu anu vā āciṇṇapaññātejā. Ekavīsatiyā ṭhānesuti kāyānupassanāvasena cuddasasu ṭhānesu, vedanānupassanāvasena ekasmiṃ ṭhāne, tathā cittānupassanāvasena, dhammānupassanāvasena pañcasu ṭhānesūti evaṃ ekavīsatiyā ṭhānesu. Kammaṭṭhānaṃ arahatte pakkhipitvāti catusaccakammaṭṭhānaṃ yathā arahattaṃ pāpeti, evaṃ desanāvasena arahatte pakkhipitvā. Suvaṇṇacaṅkoṭakasuvaṇṇamañjūsāsu pakkhittāni sumanacampakādinānāpupphāni, maṇimuttādisattaratanāni ca yathā bhājanasampattiyā savisesaṃ sobhanti, kiccakarāni ca honti manuññabhāvato, evaṃ sīladassanādisampattiyā bhājanavisesabhūtāya kururaṭṭhavāsiparisāya desitā bhagavato ayaṃ desanā bhiyyoso mattāya sobhati, kiccakārī ca hotīti imamatthaṃ dasseti **‘‘yathā hi puriso’’**tiādinā. Etthāti kururaṭṭhe.
クル国は当時、そこに住む衆生たちが如理作意などを持ち概ね正しく実践していたこと、また過去になされた功徳の力によって、当時まさに気候などの恵まれた環境を備えていた。それゆえ「気候や諸縁などに恵まれていたことから」と言われた。「など」という語によって、食事などの恵まれた条件を包摂する。しかしある注釈家たちは「過去に行われたクル国の義務の法の実践の薫習によって、北倶盧洲のように概ね気候などに恵まれていた国が、世尊の時代には格別に気候が適するなどした国となった」と語る。「心身の健全さによって」とは、心と身体の無病息災によって。「恵まれた智慧の力を持つ者たち」とは、得られた助けとなる智慧の威光を持つ者たち、あるいは相次いで修練された智慧の輝きを持つ者たち。「二十一の箇所において」とは、身随観によって十四の箇所において、受随観によって一の箇所において、同様に心随観によって一の箇所、法随観によって五の箇所において、このように二十一の箇所において。「業処を阿羅漢果に結びつけて」とは、四聖諦の業処が阿羅漢果に至らせるように、説法によって阿羅漢果に結びつけて。「金の籠や金の小箱に入れられたジャスミンやチャンパカなどの種々の花、あるいは宝玉や真珠などの七宝が、器の素晴らしさによって格別に輝き、美しさゆえにその役割を果たすように、戒や見などの成就によって卓越した器となったクル国の住人の会衆に説かれた世尊のこの説法は、いっそう輝き、その役割を果たす」というこの意味を、「たとえば人が…」などによって示している。「ここにおいて」とは、クル国において。
Pakatiyāti sarasatopi, imissā satipaṭṭhānasuttadesanāya pubbepīti adhippāyo. Anuyuttā viharanti satthu desanānusārato bhāvanānuyogaṃ.
「本来的に」とは、自ずからの性質としても、この念処経の説法以前においても、という意味である。「専心して住する」とは、師の説法に従って修行の専修に励むことである。
Vissaṭṭhaattabhāvenāti aniccādivasena kismiñci yonisomanasikāre cittaṃ aniyojetvā rūpādiārammaṇe abhirativasena vissaṭṭhacittena bhavituṃ na vaṭṭati, pamādavihāraṃ pahāya appamattena bhavitabbanti adhippāyo.
「放縦な心身によって」とは、無常などによる何らかの如理作意に心を向けず、色などの対象に耽溺することによって放縦な心となっていてはならず、放逸な生活を捨てて不放逸であるべきである、という意味である。
Ekāyanoti ettha ayana-saddo maggapariyāyo. Na kevalaṃ ayanameva, atha kho aññepi bahū maggapariyāyāti paduddhāraṃ karonto ‘‘maggassa hī’’ti ādiṃ vatvā yadi maggapariyāyo ayana-saddo, kasmā puna ‘‘maggo’’ti vuttanti codanaṃ sandhāyāha **‘‘tasmā’’**tiādi. Tattha ekamaggoti eko eva maggo. Na hi nibbānagāmimaggo añño atthīti. Nanu satipaṭṭhānaṃ idha maggoti adhippetaṃ, tadaññe ca bahū maggadhammā atthīti? Saccaṃ atthi, te pana satipaṭṭhānaggahaṇeneva gahitā tadavinābhāvato. Tathā hi ñāṇavīriyādayo niddese gahitā, uddese pana satiyā eva gahaṇaṃ veneyyajjhāsayavasenāti daṭṭhabbaṃ. **‘‘Na dvidhāpathabhūto’’**ti iminā imassa maggassa anekamaggabhāvābhāvaṃ viya anibbānagāmibhāvābhāvañca dasseti. Ekenāti asahāyena. Asahāyatā ca duvidhā attadutiyatābhāvena vā, yā ‘‘vūpakaṭṭhakāyatā’’ti vuccati, taṇhādutiyatābhāvena vā, yā ‘‘pavivittacittatā’’ti vuccati. Tenāha **‘‘vūpakaṭṭhena pavivittacittenā’’**ti. Seṭṭhopi loke ‘‘eko’’ti vuccati ‘‘yāva pare ekāhaṃ vo karomī’’tiādīsūti āha **‘‘ekassāti seṭṭhassā’’**ti. Yadi saṃsārato nissaraṇaṭṭho ayanaṭṭho, aññesampi upanissayasampannānaṃ sādhāraṇato, kathaṃ bhagavatoti āha **‘‘kiñcāpī’’**tiādi. Imasmiṃ khoti ettha kho-saddo avadhāraṇe, tasmā imasmiṃ yevāti attho. Desanābhedoyeva heso, yadidaṃ ‘‘maggo’’ti vā ‘‘ayano’’ti vā. Ayana-saddo vā kammakaraṇādivibhāgo. Tenāha **‘‘atthato pana eko vā’’**ti.
「一乗(唯一の道)」について、ここでアヤナ(ayana)という語は道の同義語である。単にアヤナのみならず、他に多くの道の同義語があるとして語句の解説を行い、「道とは…」などと述べた上で、もしアヤナという語が道の同義語であるならば、なぜ再び「道(magga)」と説かれたのかという反論を考慮して、「それゆえ…」などと言われた。そこにおいて「一の道」とは唯一の道である。涅槃に至る道は他に存在しないからである。ここでは念処が道として意図されており、それ以外の多くの道支の法が存在するではないか、と問うかもしれない。確かに存在するが、それらは念処が挙げられることによって必然的に伴うものであるから包摂されているのである。事実、詳細な解説においては智慧や精進などが挙げられており、総説において念(気づき)のみが挙げられているのは教化される者の志向によるものと知るべきである。「二股の道ではない」というこれによって、この道が多くの道でないことと同様に、涅槃に至らない道でないことをも示している。「一なる者によって」とは、同伴なき者によって。同伴なきことにも二種あり、自らの第二の者(他者)なきこと、すなわち「身の遠離」と呼ばれるものと、渇愛という第二の者なきこと、すなわち「心の遠離」と呼ばれるものである。それゆえ「身を遠離し、遠離せる心によって」と言われた。世間においても最上の者は「唯一」と呼ばれ、「他者が及ばぬほどわたしはあなたがたのために一途になそう」などの用例があるゆえに、「一なる者の、とは最上者の」と言われた。もし輪廻からの脱出という意味が行くことの意味であり、他の善根を具えた者たちにも共通であるならば、なぜ世尊のものとされるのか、という問いに対して「いかに…」などと言われた。「まさにこの」というここでの「コー(kho)」の語は限定の意味であり、それゆえ「まさにこれにおいて」という意味である。これこそが「道」あるいは「アヤナ」という説法の違いに他ならない。あるいはアヤナという語は行為や手段などの区分である。それゆえ「意味においては一つである、あるいは…」と言われた。
Nānāmukhabhāvanānayappavattoti kāyānupassanādimukhena tatthāpi ānāpānādimukhena bhāvanānayena pavatto. Ekāyananti ekagāminaṃ, nibbānagāminanti attho. Nibbānañhi adutiyabhāvato, seṭṭhabhāvato ca ‘‘eka’’nti vuccati. Yathāha ‘‘ekañhi saccaṃ na dutīyamatthī’’ti (su. ni. 890). ‘‘Yāvatā bhikkhave dhammā saṅkhatā vā asaṅkhatā vā virāgo tesaṃ aggaṃ akkhāyatī’’ti. (A. ni. 4.34; itivu. 90) khayo eva antoti khayanto, jātiyā khayantaṃ diṭṭhavāti jātikhayantadassī. Avibhāgena sabbepi satte hitena anukampatīti hitānukampī. Atariṃsūti tariṃsu. Pubbeti purimakā buddhā, pubbe vā atītakāle.
「多方面の修行の理路によって生起した」とは、身随観などを通じて、そこでもまた出入息などを通じて修行の理路によって生起した。「一乗の」とは、唯一の境地へ赴く、すなわち涅槃へ赴くという意味である。涅槃は無二のものであること、最上のものであることから「一」と呼ばれるからである。「真理は一つであり、第二のものは存在しない」(スッタニパータ890)、「比丘たちよ、有為であれ無為であれ、諸法のある限り、離貪こそがそれらの最上のものであると説かれる」(増支部4.34、如是語90)と説かれている通りである。尽きることこそが終わりであるから「尽端」であり、生が尽きる終わりを見た者ゆえに「生の尽端を見る者」である。分け隔てなくすべての衆生を慈しみによって憐れむゆえに「慈しみもて憐れむ者」である。「渡った」とは、渡過した。「かつて」とは、過去の諸仏が、あるいは過去の時代に。
Tanti tesaṃ vacanaṃ, taṃ vā kiriyāvuttivācakattaṃ na yujjati. Na hi saṅkheyyappadhānatāya sattavācino ekasaddassa kiriyāvuttivācakatā atthi. ‘‘Sakimpi uddhaṃ gaccheyyā’’tiādīsu (a. ni. 7.72) viya sakiṃ ayanoti iminā byañjanena bhavitabbaṃ. Evamatthaṃ yojetvāti ‘‘ekaṃ ayanaṃ assā’’ti evaṃ samāsapadatthaṃ yojetvā. Ubhayathāpīti purimanayena, pacchimanayena ca. Na yujjati idhādhippetamaggassa anekavāraṃ pavattisabbhāvato. Tenāha **‘‘kasmā’’**tiādi. **‘‘Anekavārampi ayatī’’**ti purimanayassa ayuttatādassanaṃ, **‘‘anekañcassa ayanaṃ hotī’’**ti pacchimanayassa.
「それ」とは彼らの言葉であり、あるいはその動詞の意味を表すことは妥当ではない。数えられるものを主とする名詞を指す「エーカー(eka)」の語には、動詞の反復を表す意味はないからである。「一度上へ昇るべし」など(増支部7.72)のように、「一度赴く」という表現でなければならない。そのように意味を結合して、「彼の一度の赴きがある」とこのように複合語の意味を結合して。両様においても、すなわち前の理路においても後の理路においても。ここで意図されている道には幾度もの生起の実在があるため、妥当ではない。それゆえ「なぜなら…」などと言われた。「幾度も赴く」とは前の理路の不当性を示すものであり、「彼の赴きは幾度もある」とは後の理路の不当性を示すものである。
Imasmiṃ padeti ‘‘ekāyano ayaṃ bhikkhave maggo’’ti imasmiṃ vākye, imasmiṃ vā ‘‘pubbabhāgamaggo, lokuttaramaggo’’ti vidhānapade. Missakamaggoti lokiyena missako lokuttaramaggo. Visuddhiādīnaṃ nippariyāyahetukaṃ saṅgaṇhanto ācariyatthero **‘‘missakamaggo’’**ti āha. Itaro pariyāyahetu idhādhippetoti **‘‘pubbabhāgamaggo’’**ti avoca.
「この句において」とは、「比丘たちよ、この道は一乗である」というこの文において、あるいは「前段階の道、出世間の道」という規定の句において。「複合の道」とは、世間的なものと混ざり合った出世間の道のことである。清浄などの直接的な原因を包摂して長老論師は「複合の道」と言われた。もう一方は、間接的な原因がここで意図されているとして「前段階の道」と言われた。
Saddaṃ sutvāti ‘‘kālo bhante dhammasavanāyā’’ti kālārocanasaddaṃ paccakkhato, paramparāya ca sutvā. Evaṃ ukkhipitvāti evaṃ ‘‘sundaraṃ manoharaṃ imaṃ kathaṃ chaḍḍemā’’ti achaḍḍentā ucchubhāraṃ viya paggahetvā na vicaranti. Āluḷetīti viluḷito ākulo hotīti attho. Ekāyanamaggo vuccati pubbabhāgasatipaṭṭhānamaggoti ettāvatā idhādhippetatthe siddhe tasseva alaṅkāratthaṃ so pana yassa pubbabhāgamaggo, taṃ dassetuṃ **‘‘maggānaṭṭhaṅgiko’’**tiādikā gāthāpi paṭisambhidāmaggatova ānetvā ṭhapitā.
「声を聞いて」とは、「大徳よ、聞法の時です」という時を告げる声を直接に、また伝え聞いて。「このように掲げて」とは、このように「この美しく麗しい説法を投げ捨ててしまおう」と投げ捨てることもなく、サトウキビの束のように担ぎ上げて歩き回ることはしない。「乱す」とは、乱されて混乱するという意味である。一乗の道とは前段階の念処の道のことであると、これによってここで意図された意味が成就した上で、まさにそれの装飾のために、それが何のの前段階の道であるかを示すべく、「諸道のうち八支聖道が…」などの詩偈も無礙解道から引いて提示された。
Nibbānagamanaṭṭhenāti nibbānaṃ gacchati adhigacchati etenāti **nibbānagamanaṃ,**soyeva aviparītasabhāvatāya attho, tena nibbānagamanaṭṭhena, nibbānādhigamūpāyatāyāti attho. Magganīyaṭṭhenāti gavesitabbatāya. ‘‘Gamanīyaṭṭhenā’’ti vā pāṭho, upagantabbatāyāti attho. **‘‘Rāgādīhī’’**ti iminā rāgadosamohānaṃyeva gahaṇaṃ ‘‘rāgo malaṃ, doso malaṃ, moho mala’’nti (vibha. 924) vacanato. **‘‘Abhijjhāvisamalobhādīhī’’**ti pana iminā sabbesampi upakkilesānaṃ saṅgaṇhanatthaṃ te visuṃ uddhaṭā. ‘‘Sattānaṃ visuddhiyā’’ti vuttassa atthassa ekantikataṃ dassento **‘‘tathā hī’’**tiādimāha. Kāmaṃ ‘‘visuddhiyā’’ti sāmaññajotanā, cittasseva pana visuddhi idhādhippetāti dassetuṃ **‘‘rūpamalavasena panā’’**tiādi vuttaṃ. Na kevalaṃ aṭṭhakathāvacanameva, atha kho idaṃ ettha āhacca bhāsitanti dassento **‘‘tathā hī’’**tiādimāha.
「涅槃へ赴くという意味によって」とは、これによって涅槃へ赴く、到達するから「涅槃への赴き」であり、まさにそれが誤りなき本質であるという意味であり、その涅槃へ赴くという意味によって、涅槃到達の手段であることによって、という意味である。「探求されるべきという意味によって」とは、探求されるべきであることによって。「赴かれるべきという意味によって」という読みもあり、近づかれるべきであることによって、という意味である。「貪りなどによって」というこれによって、「貪りは垢であり、瞋恚は垢であり、愚痴は垢である」(分別論924)という言葉から、貪・瞋・痴のみが把握される。「貪欲や不正な貪りなどによって」というこれによって、すべての随煩悩をも包摂するために、それらは別個に挙げられた。「衆生の清浄のために」と説かれた意味の確実性を示すために、「事実…」などと言われた。「清浄のために」とは一般的な表現であるが、心の清浄こそがここで意図されていることを示すために、「色身の垢によるものとしては…」などと説かれた。単に義釈の言葉のみならず、これはここで直接に説かれたものであることを示すために、「事実…」などと言われた。
Sā panāyaṃ cittavisuddhi sijjhamānā yasmā sokādīnaṃ anuppādāya saṃvattati, tasmā vuttaṃ **‘‘sokaparidevānaṃ samatikkamāyā’’**tiādi. Tattha socanaṃ ñātibyasanādinimittaṃ cetaso santāpo antonijjhānaṃ soko. Ñātibyasanādinimittameva sokāvatiṇṇato ‘‘kahaṃ ekaputtaka kahaṃ ekaputtakā’’tiādinā (ma. ni. 2.353, 354; saṃ. ni. 2.63) paridevanavasena vācāvippalāpo paridavanaṃ paridevo. Āyatiṃ anuppajjanaṃ idha samatikkamoti āha **‘‘pahānāyā’’**ti. Taṃ panassa samatikkamāvahataṃ nidassanavasena dassento **‘‘ayañhī’’**tiādimāha.
そしてこの心の清浄が達成されると、憂いなどが生じないことへと資するゆえに、「憂いと嘆きを超克するために」などと説かれた。そこにおいて憂いとは、親族の不幸などを原因とする心の苦悩、内なる焦慮が「憂い」である。親族の不幸などを原因としてまさに憂いに沈んだことから、「どこへ行ったのか、わが一人息子よ、どこへ行ったのか、わが一人息子よ」などと(中部2.353, 354、相応部2.63)嘆くことによる言葉の狂乱、泣き叫ぶことが「嘆き」である。将来生じないことがここでの超克であるゆえに、「断滅のために」と言われた。そしてその超克をもたらす性質を例示によって示すために、「これこそが…」などと言われた。
Tattha yaṃ pubbe, taṃ visodhehīti atītesu khandhesu taṇhāsaṃkilesavisodhanaṃ vuttaṃ. Pacchāti parato. Teti tuyhaṃ. Māhūti mā ahu. Kiñcananti rāgādikiñcanaṃ, etena anāgatesu khandhesu saṃkilesavisodhanaṃ vuttaṃ. Majjheti tadubhayavemajjhe. No ce gahessasīti na upādiyissasi ce, etena paccuppanne khandhappabandhe upādānappavatti vuttā. Upasanto carissasīti evaṃ addhattayagatasaṃkilesavisodhane sati nibbutasabbapariḷāhatāya upasanto hutvā viharissasīti arahattanikūṭena gāthaṃ niṭṭhapesi. Tenāha **‘‘imaṃ gātha’’**ntiādi.
そこにおいて「かつてあったものを清めよ」とは、過去の諸蘊における渇愛の汚れの清浄が説かれている。「後にあるものを」とは、未来のものを。「汝に」とは、そなたに。「生じるなかれ」とは、生じないようにせよ。「いかなる執着も」とは、貪りなどの執着であり、これによって未来の諸蘊における汚れの清浄が説かれている。「中間に」とは、その両者の中間において。「もし執着しないならば」とは、もし把持しないならばということであり、これによって現在における諸蘊の連続への執着の生起が説かれている。「心静まりて歩むであろう」とは、このように三世に属する汚れの清浄があるとき、すべての熱苦が消え去って心静かな者となって住するであろう、と阿羅漢果を頂点として詩偈を結ばれた。それゆえ「この詩偈を…」などと言われた。
Puttāti orasā, aññepi vā dinnakakittimādayo ye keci. Pitāti janako, aññepi vā pituṭṭhāniyā. Bandhavāti ñātakā. Ayañhettha attho – puttā vā pitā vā bandhavā vā antakena maccunā adhipannassa abhibhūtassa maraṇato tāṇāya na honti. Kasmā? Natthi ñātīsu tāṇatāti. Na hi ñātīnaṃ vasena maraṇato ārakkhā atthi, tasmā paṭācāre ‘‘ubho puttā kālaṅkatā’’tiādinā (apa. therī 1.498) mā niratthakaṃ paridevi, dhammaṃyeva pana yāthāvato passāti adhippāyo. Sotāpattiphale patiṭṭhitāti yathānulomaṃ pavattitāya sāmukkaṃsikāya dhammadesanāya pariyosāne sahassanayapaṭimaṇḍite sotāpattiphale patiṭṭhahi. Kathaṃ panāyaṃ satipaṭṭhānamaggavasena sotāpattiphale patiṭṭhāsīti āha **‘‘yasmā panā’’**tiādi. Na hi catusaccakammaṭṭhānakathāya vinā sāvakānaṃ ariyamaggādhigamo atthi. **‘‘Imaṃ gāthaṃ sutvā’’**ti panidaṃ sokavinodanavasena pavattitāya gāthāya paṭhamaṃ sutattā vuttaṃ, sāpi hi saccadesanāya parivārabandhā eva aniccatākathāti katvā. Itaragāthāyaṃ pana vattabbameva natthi. Bhāvanāti paññābhāvanā. Sā hi idha adhippetā. Tasmāti yasmā rūpādīnaṃ aniccādito anupassanāpi satipaṭṭhānabhāvanāva, tasmā. Tepīti santatimahāmattapaṭācārāpi.
「子ら」とは実子、あるいは養子などの他のどのような子らであれ。「父」とは生みの親、あるいは父の立場にある他の者であれ。「親族」とは血縁の者たちである。ここでの意味はこういうことである――子らも父も親族たちも、終焉をもたらす死神に圧倒され打ち負かされた者を、死から救うことはできない。なぜなら、親族たちの中に救済の力はないからである。親族たちによって死から身を護ることはできない、それゆえパターチャーラーよ、「二人の子は息絶えた」などと(長老尼偈1.498)無益に嘆くことなく、法こそをありのままに見よ、という趣旨である。「預流果に確立した」とは、機根に応じて説かれた、仏みずからの卓越した説法の終わりに、千の理路に飾られた預流果に確立した。「では、いかにしてこの者は念処の道によって預流果に確立したのか」に対して、「しかし…ゆえに」などと言われた。四聖諦の業処の説法なしには、弟子たちに出世間の道の到達はないからである。「この詩偈を聞いて」とは、憂いを払うために説かれた詩偈を最初に聞いたことから言われたのであり、それもまた諦の説法の前提となる無常の説法であるからである。もう一つの詩偈においては言うまでもない。「修行」とは智慧の修行である。それこそがここで意図されているからである。「それゆえ」とは、色などの無常などによる随観もまた念処の修行に他ならないゆえに、である。「彼らもまた」とは、サンタティ大巨頭やパターチャーラーもまた、という意味である。
Pañcasate coreti satasatacoraparivāre pañcacore paṭipāṭiyā pesesi, te araññaṃ pavisitvā theraṃ pariyesantā anukkamena therassa samīpe samāgacchiṃsu. Tenāha **‘‘te gantvā theraṃ parivāretvā nisīdiṃsū’’**ti. Vedanaṃ vikkhambhetvāti ūruṭṭhibhedapaccayaṃ dukkhavedanaṃ amanasikārena vinodetvā. Pītipāmojjaṃ uppajji vippaṭisāralesassapi asambhavato. Tenāha **‘‘parisuddhaṃ sīlaṃ nissāyā’’**ti. Therassa hi sīlaṃ paccavekkhato parisuddhaṃ sīlaṃ nissāya uḷāraṃ pītipāmojjaṃ uppajjamānaṃ ūruṭṭhibhedajanitaṃ dukkhavedanaṃ vikkhambhesi. Tiyāmarattinti accantasaṃyoge upayogavacanaṃ, tenassa vipassanāyaṃ appamādaṃ, paṭipattiussukkāpanañca dasseti. Pādānīti pāde. Saṃyamessāmīti saññapessāmi, saññattiṃ karissāmīti attho. Aṭṭiyāmīti jigucchāmi. Harāyāmīti lajjāmi. Vipassisanti sampassiṃ.
「五百の盗賊たち」とは、百人ずつの盗賊の取り巻きのうち五人の盗賊を順次に派遣し、彼らは森に入って長老を探し求め、やがて長老の近くに集まった。それゆえ「彼らは行って長老を取り囲んで座った」と言われた。「苦痛を制止して」とは、大腿骨の破断を条件とする苦受を、作意しないことによって退けて。「歓喜と喜びが生じた」とは、後悔の念の微塵すら存在し得ないからである。それゆえ「清浄な戒に依拠して」と言われた。長老が戒を省察すると、清浄な戒に依拠して広大な歓喜と喜びが生じ、それが大腿骨の破断によって生じた苦受を制止したのである。「夜の三等分の間」とは、時間の持続を示す対格であり、それによって彼のヴィパッサナーにおける不放逸と、実践への奮起を示している。「両足を」とは、足を。「制止しよう」とは、教え諭そう、納得させようという意味である。「嫌悪する」とは、忌み嫌う。「恥じる」とは、恥ずかしく思う。「観察した」とは、正しく観察した。
Pacalāyantānanti pacalāyikānaṃ niddaṃ upagatānaṃ. Agatinti agocaraṃ. Vatasampannoti dhutaguṇasampanno. Pamādanti pacalāyanaṃ sandhāyāha. Oruddhamānasoti uparuddhaadhicitto. Pañjarasminti sarīre. Sarīrañhi nhārusambandhaaṭṭhisaṅghāṭatāya idha ‘‘pañjara’’nti vuttaṃ.
「居眠りする者たちの」とは、うつらうつらして眠りに落ちた者たちの。「行くべからざる境地」とは、非対象の領域。「頭陀の徳を具えた者」とは、頭陀行の功徳を具えた者。「放逸を」とは、居眠りを指して言われた。「心を制御された者」とは、増上心をしっかりと保った者。「檻において」とは、身体において。身体は筋腱で結ばれた骨の集まりであることから、ここでは「檻」と言われた。
Pītavaṇṇāya pana paṭākāya kāyaṃ pariharaṇato, mallayuddhacittakatāya ca ‘‘pītamallo’’ti paññāto pabbajitvā pītamallatthero nāma jāto. Tīsu rajjesūti paṇḍucoḷagoḷarajjesu. ‘‘Sabbamallā sīhaḷadīpe sakkārasammānaṃ labhantī’’ti tambapaṇṇidīpaṃ āgamma. Taṃyeva aṅkusaṃ katvāti ‘‘rūpādayo ‘mamā’ti na gahetabbā’’ti natumhākavaggena pakāsitamatthaṃ attano cittamattahatthino aṅkusaṃ katvā. Pādesu avahantesūti ativelaṃ caṅkamanena akkamituṃ asamatthesu. Jaṇṇukehi caṅkamati ‘‘nisinne niddāya avasaro hotī’’ti. Byākaritvāti attano vīriyārambhassa saphalatāpavedanamukhena sabrahmacārīnaṃ tattha ussāhaṃ janento aññaṃ byākaritvā. Bhāsitanti vacanaṃ, kassa pana tanti āha **‘‘buddhaseṭṭhassa sabbalokaggavādino’’**ti. **‘‘Na tumhāka’’**ntiādi tassa pavattiākāradassanaṃ. Tayidaṃ me saṅkhārānaṃ accantavūpasamakāraṇanti dassento **‘‘aniccā vatā’’**ti gāthamāhari, tena idānāhaṃ saṅkhārānaṃ khaṇe khaṇe bhaṅgasaṅkhātassa rogassa abhāvena arogo parinibbutoti dasseti.
黄色の旗で身体を覆っていたこと、また拳闘の試合を好んだことから「黄色い拳闘士(ピータマッラ)」として知られ、出家してピータマッラ長老と名づけられた。「三つの王国において」とは、パーンディヤ、チョーラ、ゴーラの三王国において。「すべての拳闘士はシンハラ島で歓待と名誉を受ける」と聞いて、タンバパンニ島(スリランカ)にやって来て。「それをまさに鉤として」とは、「色などは『わがもの』と捉えるべきではない」と『汝らのものにあらず経』で明らかにされた意味を、自身の心という狂象を御する鉤として。「両足が運べなくなったとき」とは、過度の経行によって歩むことができなくなったとき。「膝で経行した」とは、「座れば眠りの機会が生じる」と考えたからである。「答えて」とは、自らの精進の開始が実を結んだことを知らせることを通じて、同胞の修行者たちに熱意を生じさせつつ、阿羅漢果の宣言をして。「語られたこと」とは言葉のことであり、誰の言葉かを示して、「諸々の仏の中で最上なる、一切世間の最高峰を説く方の」と言われた。「汝らのものにあらず」などは、その生起の様相を示すものである。「これはわたしにとって諸行の究極の寂静の原因である」と示すために、「諸行は無常なり…」という詩偈を引用し、これによって「今やわたしは、諸行の刹那刹那の破壊と名づけられる病がないことによって、病なき者となり、完全な静寂に入った」と示している。
Assāti sakkassa. Upapattīti devūpapatti. Puna pākatikāva ahosi sakkabhāveneva upapannattā.
「彼の」とは、帝釈天の。「生起」とは、神としての転生。「再び元通りとなった」とは、まさに帝釈天としての状態に生じたからである。
Subrahmāti evaṃnāmo. Accharānaṃ nirayūpapattiṃ disvā tato pabhuti satataṃ pavattamānaṃ attano cittutrāsaṃ sandhāyāha **‘‘niccaṃ utrastamidaṃ citta’’**ntiādi. Tattha utrastanti santastaṃ bhītaṃ. Ubbigganti saṃviggaṃ. Utrastanti vā saṃviggaṃ. Ubbigganti bhayavasena saha nissayena sañcalitaṃ. Anuppannesūti anāgatesu. Kiccesūti tesu tesu itikattabbesu. **‘‘Kicchesū’’**ti vā pāṭho, dukkhesūti attho, nimittatthe cetaṃ bhummaṃ, bhāvidukkhanimittanti attho. Uppatitesūti uppannesu kiccesūti yojanā. Tadā attano parivārassa uppannaṃ dukkhaṃ sandhāya vadati.
「スブラフマー」とは、そのような名の天子である。天女たちが地獄に落ちるのを見て以来、絶え間なく生じる自らの心の恐怖を指して、「常に怯えているこの心は…」などと言われた。そこにおいて「怯えている」とは、恐れおののいている、怖がっている。「戦慄している」とは、恐怖している。あるいは「怯えている」とは恐怖していること。「戦慄している」とは、恐怖によって依拠するものとともに動揺していること。「未だ生じていないことにおいて」とは、未来のことにおいて。「なすべきことにおいて」とは、それぞれのなすべき事柄において。「苦難において」という読みもあり、苦しみにおいてという意味であり、これは原因の意味を表す処格で、未来の苦しみを原因として、という意味である。「降りかかったことにおいて」とは、生じたなすべきことにおいて、と結合される。当時自らの従者たちに生じた苦しみを指して語っている。
Bojjhāti bodhito, ariyamaggatoti attho. **‘‘Aññatrā’’**ti ca padaṃ apekkhitvā nissakkavacanaṃ, bodhiṃ ṭhapetvāti attho. Sesesupi eseva nayo. Tapasāti tapokammato, tena maggādhigamassa upāyabhūtaṃ sallekhapaṭipadaṃ dasseti. Indriyasaṃvarāti manacchaṭṭhānaṃ indriyānaṃ saṃvaraṇato, etena satisaṃvarasīsena sabbampi saṃvarasīlaṃ, lakkhaṇahāranayena vā sabbampi catupārisuddhisīlaṃ dasseti. Sabbanissaggāti sabbassapi nissajjanato sabbakilesappahānato. Kilesesu hi nissaṭṭhesu kammavaṭṭaṃ, vipākavaṭṭañca nissaṭṭhameva hotīti. Sotthinti khemaṃ anupaddavataṃ.
「菩提の諸支」とは、菩提による、聖道による、という意味である。「〜を除いては」という語を考慮して奪格が用いられており、菩提を除いては、という意味である。他の句においても同様の理路である。「苦行によって」とは、苦行の行為によるものであり、それによって道の獲得の手段となる減損の実践を示している。「根の制御によって」とは、意を第六とする諸根を制御することによるものであり、これによって念の制御を中心とするすべての律儀戒、あるいは特質把握の理路によってすべての四種清浄戒を示している。「一切の放下によって」とは、すべてのものの放棄による、すべての煩悩の断滅によるものであり、煩悩が放棄されたときには、業の輪転も異熟の輪転もまさに放棄されたものとなるからである。「安穏」とは、無事であり災厄なき状態である。
Ñāyati nicchayena kamati nibbānaṃ, taṃ vā ñāyati paṭivijjhīyati etenāti ñāyo, ariyamaggoti āha **‘‘ñāyo vuccati ariyo aṭṭhaṅgiko maggo’’**ti. Taṇhāvānavirahitattāti taṇhāsaṅkhātavānavivittattā. Taṇhā hi khandhehi khandhaṃ, kammunā phalaṃ, sattehi ca dukkhaṃ vinati saṃsibbatīti ‘‘vāna’’nti vuccati, tayidaṃ natthi ettha vānaṃ, na vā etasmiṃ adhigate puggalassa vānanti nibbānaṃ, asaṅkhatā dhātu. Parappaccayena vinā paccakkhakaraṇaṃ sacchikiriyāti āha **‘‘attapaccakkhatāyā’’**ti.
正理(ニャーヤ)とは、涅槃へと決定して進むこと、あるいはそれによって涅槃が知られ、悟られるものであるから正理であり、聖道のことであるゆえに、「正理とは八支聖道のことである」と言われた。「愛執の網(ヴァーナ)を離れていることから」とは、渇愛と名づけられる縫い合わせるものを離れていることからである。渇愛は蘊から蘊へ、業によって果へ、衆生によって苦へと縫い合わせ、織りなすゆえに「ヴァーナ(縫糸)」と呼ばれ、ここにはその縫糸が存在せず、あるいはこれに到達した人に愛執がないことから、涅槃、すなわち無為界である。他者の教示によることなく直接に体験することが現証であるゆえに、「自らの直接体験によって」と言われた。
Nanu ‘‘visuddhiyā’’ti cittavisuddhiyā adhippetattā visuddhiggahaṇenevettha sokasamatikkamādayopi gahitā eva honti, te puna kasmā gahitāti anuyogaṃ sandhāya **‘‘tattha kiñcāpī’’**tiādi vuttaṃ. Sāsanayuttikovideti saccapaṭiccasamuppādādilakkhaṇāyaṃ dhammanītiyaṃ cheke. Taṃ tamatthaṃ ñāpetīti ye ye bodhaneyyapuggalā saṅkhepavitthārādivasena yathā yathā bodhetabbā, attano desanāvilāsena bhagavā te te tathā tathā bodhento taṃ tamatthaṃ ñāpeti. Taṃ taṃ pākaṭaṃ katvā dassentoti atthāpattiṃ agaṇento taṃ tamatthaṃ pākaṭaṃ katvā dassento. Na hi sammāsambuddho atthāpattiñāpakādisādhanīyavacanāti. Saṃvattatīti jāyati, hotīti attho. Yasmā anatikkantasokaparidevassa na kadāci cittavisuddhi atthi sokaparidevasamatikkamanamukheneva cittavisuddhiyā ijjhanato, tasmā āha **‘‘sokaparidevānaṃ samatikkamena hotī’’**ti. Yasmā pana domanassapaccayehi dukkhadhammehi phuṭṭhaṃ puthujjanaṃ sokādayo abhibhavanti, pariññātesu ca tesu te na honti, tasmā vuttaṃ **‘‘sokaparidevānaṃ samatikkamo dukkhadomanassānaṃ atthaṅgamenā’’**ti. Ñāyassāti aggamaggassa, tatiyamaggassa ca. Tadadhigamena hi yathākkamaṃ dukkhadomanassānaṃ atthaṅgamo. Sacchikiriyābhisamayasahabhāvīpi itarābhisamayo tadavinābhāvato sacchikiriyābhisamayahetuko viya vutto. Ñāyassādhigamo nibbānassa sacchikiriyāyāti phalañāṇena vā paccakkhakaraṇaṃ sandhāya vuttaṃ, **‘‘nibbānassa sacchikiriyāyā’’**ti sampadānavacanañcetaṃ daṭṭhabbaṃ.
「清浄のために」とは心の清浄が意図されているのであるから、清浄という言葉の中に憂いの超克なども包摂されているのではないか、それらがあらためてなぜ挙げられたのかという疑問に対して、「そこにおいて、いかに…」などと言われた。「教えの道理に巧みな方」とは、四聖諦や縁起などを特徴とする法の理路に熟達した方のことである。「それぞれの意味を知らせる」とは、教化されるべきそれぞれの人物が、簡潔にであれ詳細にであれ、導かれるべき様態に応じて、世尊は自らの巧みな説法によって彼らをそのように覚醒させつつ、それぞれの意味を知らせるのである。「それぞれを明白にして示す」とは、言外の含意に頼ることなく、それぞれの意味を明白にして示すことである。正等覚者は言外の含意によって知らせるなどという言葉を用いる方ではないからである。「資する」とは生じる、成り立つという意味である。憂いと嘆きを超克していない者には決して心の清浄はなく、憂いと嘆きの超克を通じてのみ心の清浄が成就するゆえに、「憂いと嘆きの超克によって成り立つ」と言われた。しかし、不快の原因となる苦の法に触れられた凡夫を憂いなどが圧倒するのであり、それらが遍知されたときにはそれらが生じないゆえに、「憂いと嘆きの超克は、苦と不快の消滅による」と説かれた。「正理の」とは、最上の道(阿羅漢道)および第三の道(不還道)のことである。それらの到達によって、それぞれ順に苦と不快が消滅するからである。現証の現観と同時に生じる他の現観も、それと不可分であることから、現証の現観を原因とするかのように説かれた。「正理の獲得、涅槃の現証のために」とは、果智による直接体験を指して説かれたのであり、「涅槃の現証のために」とは為格の表現であると知るべきである。
Vaṇṇabhaṇananti pasaṃsāvacanaṃ. Tayidaṃ na idheva, atha kho aññatthāpi satthu āciṇṇaṃ evāti dassento ‘‘yatheva hī’’tiādimāha. Tattha ādimhi kalyāṇamādi vā kalyāṇaṃ etassāti ādikalyāṇaṃ. Sesapadadvayepi eseva nayo. Atthasampattiyā sātthaṃ. Byañjanasampattiyā sabyañjanaṃ. Sīlādipañcadhammakkhandhapāripūrito, upanetabbassa abhāvato ca kevalaparipuṇṇaṃ. Nirupakkilesato apanetabbassa ca abhāvato parisuddhaṃ. Seṭṭhacariyabhāvato sāsanabrahmacariyaṃ, maggabrahmacariyañca vo pakāsessāmīti. Ayamettha saṅkhepo, vitthāro pana visuddhimagge (visuddhi. 1.147) vuttanayeneva veditabbo. Ariyavaṃsāti ariyānaṃ buddhādīnaṃ vaṃsā paveṇiyo. Aggaññāti aggāti jānitabbā sabbavaṃsehi seṭṭhabhāvato. Rattaññāti cirarattāti jānitabbā. Vaṃsaññāti buddhādīnaṃ vaṃsāti jānitabbā. Porāṇāti purātanā anadhunātanattā. Asaṅkiṇṇāti avikiṇṇā anapanītā. Asaṅkiṇṇapubbāti ‘‘kiṃ imehī’’ti ariyehi na apanītapubbā. Na saṅkīyantīti idānipi tehi na apanīyanti. Na saṅkīyissantīti anāgatepi tehi na apanīyissanti. Appaṭikuṭṭhā…pe… viññūhīti ye loke viññū samaṇabrāhmaṇā, tehi appaccakkhatā aninditā, agarahitāti attho. ‘‘Visuddhiyā’’tiādīhīti visuddhiādidīpanehi. Padehīti vākyehi, visuddhiatthatādibhedabhinnehi vā dhammakoṭṭhāsehi. Upaddaveti anatthe. Visuddhinti visujjhanaṃ saṃkilesappahānaṃ. Vācuggatakaraṇaṃ uggaho. Pariyāpuṇanaṃ paricayo. Atthassa hadaye ṭhapanaṃ dhāraṇaṃ. Parivattanaṃ vācanaṃ.
「徳を説く(Vaṇṇabhaṇana)」とは賞賛の言葉のことである。そしてこれは、ここだけでなく他の場所でも師(世尊)の常なる実践であったことを示すために、「まさにそのように(yatheva hī)」などの言葉を述べられた。その中で、初めにおいて善いこと、あるいはその初めが善いものを「初善(ādikalyāṇa)」という。残りの二つの語(中善・後善)においても同様の趣意である。意味の具足によって「義あり(sātthaṃ)」であり、表現の具足によって「文あり(sabyañjanaṃ)」である。戒などの五つの法蘊の成就により、また付加すべきものがないことから「純一円満(kevalaparipuṇṇaṃ)」であり、随煩悩がないことから、また除去すべきものがないことから「清浄(parisuddhaṃ)」である。崇高な実践であることから「教えの梵行(sāsanabrahmacariya)」であり、また「道の梵行をあなた方に示そう」ということである。ここでの要約はこれであり、詳細については『清浄道論』(visuddhi. 1.147)で説かれた通りの方法で知られるべきである。 「聖者の血統(Ariyavaṃsā)」とは、諸仏をはじめとする聖者たちの血統、伝統のことである。「第一のものと知られる(Aggaññā)」とは、あらゆる血統よりも優れていることから最上であると知られるべきことである。「古くから知られる(Rattaññā)」とは、久しい夜(長い年月)を経て知られるべきことである。「血統として知られる(Vaṃsaññā)」とは、諸仏らの血統であると知られるべきことである。「古代の(Porāṇā)」とは、新しいものではないため古来のものであるということである。「混じりけのない(Asaṅkiṇṇā)」とは、散乱せず、取り去られていないことである。「かつて混じりけのなかった(Asaṅkiṇṇapubbā)」とは、「これらに何の意味があるのか」と言って聖者たちによってかつて取り去られたことがないということである。「混じりけが生じることはない(Na saṅkīyanti)」とは、今も彼らによって取り去られないということである。「将来も混じりけが生じることはない(Na saṅkīyissanti)」とは、未来においても彼らによって取り去られることはないということである。「非難されず…中略…智者たちによって(Appaṭikuṭṭhā…pe… viññūhīti)」とは、世の智者である沙門・婆羅門たちによって拒絶されず、非難されず、責められないという意味である。 「清浄によって(Visuddhiyā)」等とは、清浄などを示すものによってということである。「句によって(Padehī)」とは、文句によって、あるいは清浄の目的などの差異によって区分された法の部分によってということである。「厄難において(Upaddave)」とは、無益においてということである。「清浄(Visuddhi)」とは、清らかになること、染汚を捨断することである。「暗唱すること(Vācuggatakaraṇa)」が受持(uggaha)である。「完全に習熟すること(Pariyāpuṇana)」が熟知(paricaya)である。「意味を心に留めること」が保持(dhāraṇa)である。「繰り返すこと」が誦読(vācana)である。
Gandhārakoti gandhāradese uppanno. Pahontīti sakkonti. Aniyyānikamaggāti micchāmaggā, micchattaniyatāniyatamaggāpi vā. Suvaṇṇanti kūṭasuvaṇṇampi vuccati. Maṇīti kācamaṇipi, muttāti veḷujāpi, pavāḷanti pallavopi vuccatīti rattajambunadādipadehi te visesitā.
「ガンダーラの人(Gandhārako)」とは、ガンダーラ地方に生まれた者のことである。「能う(Pahonti)」とは、できるということである。「出離に至らない道(Aniyyānikamaggā)」とは、邪道、あるいは邪性定聚の道のことである。「黄金(Suvaṇṇa)」とは、偽の黄金も指される。「摩尼宝珠(Maṇi)」とはガラス玉も、「真珠(muttā)」とは竹から生じるものも、「珊瑚(pavāḷa)」とは若葉も指されるため、「赤きジャンブー河の金(rattajambunada)」などの言葉によってそれらは特定されている。
Na tato heṭṭhāti idhādhippetakāyādīnaṃ vedanādisabhāvattābhāvā, kāyavedanācittavimuttassa tebhūmakadhammassa visuṃ vipallāsavatthantarabhāvena gahitattā ca heṭṭhā gahaṇesu vipallāsavatthūnaṃ aniṭṭhānaṃ sandhāya vuttaṃ, pañcamassa pana vipallāsavatthuno abhāvā **‘‘na uddha’’**nti āha. Ārammaṇavibhāgena hettha satipaṭṭhānavibhāgoti. Tayo satipaṭṭhānāti satipaṭṭhāna-saddassa atthuddhāradassanaṃ, na idha pāḷiyaṃ vuttassa satipaṭṭhāna-saddassa atthadassananti. Ādīsu hi satigocaroti ettha ādi-saddena ‘‘phassasamudayā vedanānaṃ samudayo, nāmarūpasamudayā cittassa samudayo, manasikārasamudayā dhammānaṃ samudayo’’ti (saṃ. ni. 5.408) ‘‘satipaṭṭhānā’’ti vuttānaṃ sabhigocarānaṃ pakāsake suttappadese saṅgaṇhāti. Evaṃ **‘‘paṭisambhidāpāḷiya’’**mpi (paṭi. ma. 2.34) avasesapāḷippadesadassanattho ādi-saddo daṭṭhabbo. Satiyā paṭṭhānanti satiyā patiṭṭhātabbaṭṭhānaṃ. Dānādīni karontassa rūpādīni satiyā ṭhānaṃ hontīti taṃnivāraṇatthamāha **‘‘padhānaṃ ṭhāna’’**nti. Pa-saddo hi idha ‘‘paṇītā dhammā’’tiādīsu (dha. saṃ. mātikā 14) viya padhānatthadīpakoti adhippāyo.
「それ以下ではない(Na tato heṭṭhā)」とは、ここで意図されている身などが受などの自性を欠いていること、また身・受・心から離れた三界の法が別に顛倒の他の対象として把握されていることから、それ以下の把握における顛倒の対象の未完了を指して説かれたものであるが、第五の顛倒の対象は存在しないため「それ以上ではない(na uddhaṃ)」と述べられた。ここでの念処の分類は、所縁の区分によるからである。「三つの念処(Tayo satipaṭṭhānā)」とは、「念処」という言葉の意味の抽出を示したものであり、ここの本文で説かれた「念処」という言葉の意味を示したものではない。実に「等」という語において「念の領域」とあるが、ここでの「等(ādi)」という語によって、「触の集起によって受の集起がある。名色の集起によって心の集起がある。作意の集起によって法の集起がある」(相応部 5.408)と説かれた、念処と呼ばれる自己の領域を明かす経の箇所を包含している。このように『無礙解道』本文(paṭi. ma. 2.34)においても、残りの本文の箇所を示すための「等」の語と見なされるべきである。 「念の確立(Satiyā paṭṭhānaṃ)」とは、念が確立すべき場所のことである。布施などを行う者にとって色などは念の場所となるため、それを排除するために「主要な場所(padhānaṃ ṭhānaṃ)」と述べられた。ここでの「pa」という接頭辞は、「勝れた法(paṇītā dhammā)」(法集論 標綱 14)などにおけるように、主要な意味を示すものであるという趣旨である。
Ariyoti ariyaṃ sabbasattaseṭṭhaṃ sammāsambuddhamāha. Etthāti etasmiṃ saḷāyatanavibhaṅgasutte.(Ma. ni. 3.310) suttekadesena hi suttaṃ dasseti. Tattha hi –
「聖者(Ariyo)」とは、一切の生類の中で最上なる正等覚者のことを指している。「ここにおいて(Etthā)」とは、この六処分別経(中部 3.310)においてということである。経の一部分によって経全体を示しているのである。そこでは以下のように説かれているからである——
‘‘Tayo satipaṭṭhānā yadariyo…pe… arahatīti iti kho panetaṃ vuttaṃ, kiñcetaṃ paṭicca vuttaṃ. Idha, bhikkhave, satthā sāvakānaṃ dhammaṃ deseti anukampako hitesī anukampaṃ upādāya ‘idaṃ vo hitāya idaṃ vo sukhāyā’ti. Tassa sāvakā na sussūsanti. Na sotaṃ odahanti, na aññā cittaṃ upaṭṭhapenti, vokkamma ca satthu sāsanā vattanti. Tatra, bhikkhave, tathāgato na ceva anattamano hoti, na ca anattamanataṃ paṭisaṃvedeti, anavassuto ca viharati sato sampajāno. Idaṃ, bhikkhave, paṭhamaṃ satipaṭṭhānaṃ. Yadariyo sevati…pe… arahati.
「比丘たちよ、聖者が親近すべき三つの念処がある…中略…比丘たちよ、師が憐れみ深く利益を望む者として、憐れみを起こして弟子たちに『これはあなた方の利益のため、これはあなた方の幸福のためである』と法を説く。しかし彼の弟子たちは聞こうとせず、耳を傾けず、了知のために心を確立せず、師の教えから外れて行動する。比丘たちよ、そこにおいて如来は不快になることもなく、不快さを覚えることもなく、執着することなく、正念正知にして住する。比丘たちよ、これが聖者が親近すべき第一の念処である…中略…阿羅漢である。
Puna caparaṃ, bhikkhave, satthā…pe...idaṃ vo sukhāyāti. Tassa ekacce sāvakā na sussūsanti…pe… na ca vokkamma satthu sāsanā vattanti. Tatra, bhikkhave, tathāgato na ceva anattamano hoti, na ca anattamanataṃ paṭisaṃvedeti, na ca attamano hoti, na ca attamanataṃ paṭisaṃvedeti, anattamanatā ca attamanatā ca tadubhayaṃ abhinivajjetvā upekkhako viharati sato sampajāno. Idaṃ vuccati, bhikkhave, dutiyaṃ.
比丘たちよ、さらにまた、師が…中略…『これはあなた方の幸福のためである』と法を説く。その一部の弟子たちは聞こうとせず…中略…師の教えから外れて行動しない。比丘たちよ、そこにおいて如来は不快になることもなく、不快さを覚えることもなく、喜ぶこともなく、喜びを覚えることもなく、不快さと喜びの両方を避けて、正念正知にして平静に住する。比丘たちよ、これが第二の念処と呼ばれる。
Puna caparaṃ, bhikkhave…pe… sukhāyāti, tassa sāvakā sussūsanti…pe… vattanti. Tatra, bhikkhave, tathāgato attamano ceva hoti, attamanatañca paṭisaṃvedeti, anavassuto ca viharati sato sampajāno. Idaṃ vuccati, bhikkhave, tatiya’’nti (ma. ni. 3.311).
比丘たちよ、さらにまた…中略…『幸福のためである』と法を説く。彼の弟子たちは聞こうとし…中略…行動する。比丘たちよ、そこにおいて如来は喜び、喜びを覚え、執着することなく、正念正知にして住する。比丘たちよ、これが第三の念処と呼ばれる」(中部 3.311)。
Evaṃ paṭighānunayehi anavassutatā, niccaṃ upaṭṭhitassatitāya tadubhayavītivattatā ‘‘satipaṭṭhāna’’nti vuttā. Buddhānaṃyeva hi niccaṃ upaṭṭhitassatitā hoti āveṇikadhammabhāvato, na paccekabuddhādīnaṃ. Pa-saddo ārambhaṃ joteti, ārambho ca pavattīti katvā āha **‘‘pavattayitabbatoti attho’’**ti. Satiyā karaṇabhūtāya paṭṭhānaṃ paṭṭhapetabbaṃ satipaṭṭhānaṃ. Ana-saddo hi bahulaṃvacanena kammatthopi hotīti. Tathāssa kattuatthopi labbhatīti **‘‘paṭṭhātīti paṭṭhāna’’**nti vuttaṃ. Paṭṭhātīti ettha pa-saddo bhusatthavisiṭṭhaṃ pakkhandanaṃ dīpetīti **‘‘okkanditvā pakkhanditvā pattharitvā pavattatīti attho’’**ti āha. Puna bhāvatthaṃ sati, saddaṃ, paṭṭhānasaddañca vaṇṇento **‘‘atha vā’’**tiādimāha, tena purimavikappe sati, saddo, paṭṭhāna-saddo ca kattuatthoti viññāyati. Saraṇaṭṭhenāti cirakatassa, cirabhāsitassa ca anussaraṇaṭṭhena. Idanti yaṃ ‘‘satiyeva satipaṭṭhāna’’nti vuttaṃ, idaṃ. Idha imasmiṃ suttapadese adhippetaṃ.
このように、瞋恚と随順において執着がないこと、常に念が現起していることによってその両者を超えていることが「念処」と説かれた。諸仏にのみ、不共法であることから常に現起した念が存在するのであり、辟支仏らにはそうではない。「pa」の語は開始(発動)を照らし、開始とは生起・展開であることから、「展開されるべきものという意味である」と述べられた。手段(能作)となった念によって確立(確立されるべきもの)されるべきものが「念処」である。「ana」という接尾辞は多用される語言として所作(対象)の意味にもなるからである。同様にそれには能作者の意味も得られることから、「確立するゆえに確立(念処)」と説かれた。「確立する(paṭṭhāti)」において、「pa」の語は強力な意味において際立った投入(跳入)を示すことから、「飛び込み、飛び入り、広がりつつ生起するという意味である」と述べられた。 さらに状態の意味における「念」の語と「確立」の語を解釈して「あるいは(atha vā)」等と述べられた。それにより、前の解釈における「念」の語と「確立」の語は能作者の意味であると知られる。「記憶の意味において(Saraṇaṭṭhenāti)」とは、久しくなされたこと、久しく話されたことを随念する意味においてである。「これ(Idaṃ)」とは、「念そのものが念処である」と説かれた、これのことである。ここではこの経の箇所において意図されている。
Yadi evanti. Yadi sati eva satipaṭṭhānaṃ, sati nāma eko dhammo, evaṃ sante kasmā ‘‘satipaṭṭhānā’’ti bahuvacananti āha **‘‘satibahuttā’’**tiādi. Yadi bahukā tā satiyo, atha kasmā ‘‘maggo’’ti ekavacananti yojanā. Maggaṭṭhenāti niyyānaṭṭhena. Niyyāniko hi maggadhammo, teneva niyyānikabhāvena ekattūpagato ekantato nibbānaṃ gacchati, atthikehi ca tadatthaṃ maggīyatīti āha **‘‘vuttañheta’’**nti, attanāva pubbe vuttaṃ paccāharati. Tattha catassopi cetāti kāyānupassanādivasena catubbidhāpi ca etā satiyo. Aparabhāgeti ariyamaggakkhaṇe. Kiccaṃ sādhayamānāti pubbabhāge kāyādīsu subhasaññādividhamanavasena visuṃ visuṃ pavattitvā maggakkhaṇe satiyeva tattha catubbidhassapi vipallāsassa samucchedavasena pahānakiccaṃ sādhayamānā ārammaṇakaraṇavasena nibbānaṃ gacchati. Catukiccasādhaneneva hettha bahuvacananiddeso. Evañca satīti evaṃ maggaṭṭhena ekattaṃ upādāya ‘‘maggo’’ti ekavacanena, ārammaṇabhedena catubbidhataṃ upādāya ‘‘cattāro’’ti ca vattabbatāya sati vijjamānattā. Vacanānusandhinā ‘‘ekāyano aya’’ntiādikā desanā sānusandhikāva, na ananusandhikāti adhippāyo. Vuttamevatthaṃ nidassanena paṭipādetuṃ **‘‘mārasenappamaddana’’**nti (saṃ. ni. 5.224) suttapadaṃ ānetvā **‘‘yathā’’**tiādinā nidassanaṃ saṃsandati. **‘‘Tasmā’’**tiādi nigamanaṃ.
「もしそうであるなら(Yadi evaṃ)」とは、もし念そのものが念処であり、念とは一つの法であるなら、そうであるのに、なぜ「諸々の念処」と複数形で説かれるのかということであり、「念が多数であることから」等と述べている。もしそれらの念が多数であるなら、それではなぜ「道(maggo)」と単数形なのか、という構文である。「道という意味において(Maggaṭṭhena)」とは、出離の意味においてである。実に出離の性質を持つのが道の法であり、まさにその出離の性質によって単一性に達し、決定して涅槃へと赴き、求める者たちによってその目的のために探求(歩行)されることから、「実にこれは説かれた」と述べており、自らが以前に説いたことを引証している。 その中で「これら四つとも(catassopi cetā)」とは、身随観などの区分による四種のこれらの念のことである。「後段において(Aparabhāge)」とは、聖道刹那においてである。「役目を果たしつつ(Kiccaṃ sādhayamānā)」とは、前段において身などにおいて浄相の想などを打破することによって別々に生起し、道刹那における念そのものが、そこでの四種の顛倒の断滅による捨断の役目を果たしつつ、所縁とすることによって涅槃へと赴くのである。実に四つの役目を果たすことによってこそ、ここでは複数形での指示がなされている。「そうであるならば(Evañca satī)」とは、このように道という意味によって単一性に基づいて「道」と単数形で、所縁の区分によって四種性に基づいて「四つの」と語られるべきであるという事実が存在するからである。 語の接続によって「この(道は)一つの赴く道である」などの教説は、脈絡のあるものであり、脈絡のないものではないという趣旨である。説かれた意味を実例によって示すために、「魔軍を粉砕するもの(mārasenappamaddanaṃ)」(相応部 5.224)という経の句を引いて、「あたかも〜のように(yathā)」等によって実例を照合している。「それゆえに(Tasmā)」等は結論である。
Visesato kāyo, vedanā ca assādassa kāraṇanti tappahānatthaṃ tesu taṇhāvatthūsu oḷārikasukhumesu asubhadukkhabhāvadassanāni mandatikkhapaññehi taṇhācaritehi sukarānīti tāni tesaṃ ‘‘visuddhimaggo’’ti vuttāni. Tathā ‘‘niccaṃ attā’’ti abhinivesavatthutāya diṭṭhiyā visesakāraṇesu cittadhammesu aniccānattatādassanāni sarāgādivasena, saññāphassādivasena, nīvaraṇādivasena ca nātippabhedātippabhedagatesu tesu tappahānatthaṃ mandatikkhapaññānaṃ diṭṭhicaritānaṃ sukarānīti tesaṃ tāni ‘‘visuddhimaggo’’ti vuttāni. Ettha ca yathā cittadhammānampi taṇhāya vatthubhāvo sambhavati, tathā kāyavedanānampi diṭṭhiyāti satipi nesaṃ catunnampi taṇhādiṭṭhivatthubhāve yo yassā sātisayapaccayo, taṃ dassanatthaṃ visesaggahaṇaṃ katanti daṭṭhabbaṃ. Tikkhapaññasamathayāniko oḷārikārammaṇaṃ pariggaṇhanto tattha aṭṭhatvā jhānaṃ samāpajjitvā uṭṭhāya vedanaṃ pariggaṇhātīti vuttaṃ **‘‘oḷārikārammaṇe asaṇṭhahanato’’**ti. Vipassanāyānikassa pana sukhume citte, dhammesu ca cittaṃ pakkhandatīti cittadhammānupassanānaṃ mandatikkhapaññavipassanāyānikānaṃ visuddhimaggatā vuttā.
特に身と受は享楽の因であるため、それを捨断するために、それらの貪愛の対象である粗大および微細なものにおいて不浄・苦の状態を見ることは、鈍慧および利慧の貪行者にとって容易であるため、それらは彼らにとっての「清浄道」と説かれた。同様に「常・我」と執着する対象であるため、邪見の特別な因である心と法において無常・無我性を見ることは、貪欲などにより、想・触などにより、蓋などによって、それほど多様でないものと極めて多様なものにおいて、それらを捨断するために鈍慧および利慧の見行者にとって容易であるため、それらは彼らにとっての「清浄道」と説かれた。 そしてここにおいて、心と法にも貪愛の対象となることがあり得、身と受にも邪見の対象となることがあり得るように、それら四つすべてに貪愛・邪見の対象性があるとしても、どれがどれに対して卓越した条件となるかを示すために、特別な限定がなされたと知るべきである。利慧の止行者は粗大な所縁を把握しつつ、そこに留まらず禅定に入り、出定して受を把握することから、「粗大な所縁に留まらないことから」と述べられた。しかし観行者にとっては微細な心と法において心が飛び込むため、心随観と法随観は鈍慧および利慧の観行者にとっての清浄道であると説かれた。
Tesaṃ tatthāti ettha tattha-saddassa **‘‘pahānattha’’**nti etena yojanā. Parato tesaṃ tatthāti etthāpi eseva nayo. Pañca kāmaguṇā savisesā kāye labbhantīti visesena kāyo kāmoghassa vatthu, bhavesu sukhaggahaṇavasena bhavassādo hotīti bhavoghassa vedanā vatthu, santatighanaggahaṇavasena visesato citte attābhiniveso hotīti diṭṭhoghassa cittaṃ vatthu, dhammesu vinibbhogassa dukkarattā, dhammānaṃ dhammamattatāya duppaṭivijjhattā ca sammoho hotīti avijjoghassa dhammā vatthu, tasmā tesu tesaṃ pahānatthaṃ cattārova vuttā.
「それらのそこにおいて(Tesaṃ tattha)」において、ここの「そこにおいて(tattha)」という言葉は、「捨断のために(pahānatthaṃ)」という言葉と結びつく。その後の「それらのそこにおいて」においても同様の趣意である。五つの妙欲は格別に身において得られるため、身は特に欲暴流の対象であり、諸々の生存における楽の把握によって有の享楽があるため、受は有暴流の対象であり、相続の塊(一貫性)の把握によって特に心において我の執着があるため、心は見暴流の対象であり、諸々の法における識別が困難であり、諸法は法そのものにすぎないため覚知しがたいことから無知(迷妄)が生じるため、諸法は無明暴流の対象である。それゆえにそれらにおいて、それらを捨断するために四つのみが説かれたのである。
Evaṃ kāyādīnaṃ kāmoghādivatthubhāvakathaneneva kāmayogakāmāsavādīnampi vatthubhāvo dīpito hoti oghehi tesaṃ atthato anaññattā. Yadaggena ca kāyo kāmoghādīnaṃ vatthu, tadaggena abhijjhākāyaganthassa vatthu. ‘‘Dukkhāya vedanāya paṭighānusayo anusetī’’ti dukkhadukkhavipariṇāmadukkhasaṅkhāradukkhabhūtā vedanā visesena byāpādakāyaganthassa vatthu. Citte niccaggahaṇavasena sassatassa attano sīlena suddhīti ādi parāmasanaṃ hotīti sīlabbataparāmāsassa cittaṃ vatthu. Nāmarūpaparicchedena bhūtaṃ bhūtato apassantassa bhavavibhavadiṭṭhisaṅkhāto idaṃsaccābhiniveso hotīti tassa dhammā vatthu. Kāyassa kāmupādānavatthutā vuttanayāva. Yadaggena hi kāyo kāmoghassa vatthu, tadaggena kāmupādānassapi vatthu atthato abhinnattā. Sukhavedanassādavasena paralokanirapekkho ‘‘natthi dinna’’ntiādikaṃ (dī. ni. 1.171; ma. ni. 1.445; 2.95, 225; 3.91, 116; saṃ. ni. 3.210; dha. sa. 1221; vibha. 938) parāmāsaṃ uppādetīti diṭṭhupādānassa vedanā vatthu. Cittadhammānaṃ itarupādānavatthutā tatiyacatutthaganthayojanāyaṃ vuttanayā eva. Kāyavedanānaṃ chandadosāgativatthutā kāmoghabyāpādakāyaganthayojanāyaṃ vuttanayā eva. Santatighanaggahaṇavasena sarāgādicitte sammoho hotīti mohāgatiyā cittaṃ vatthu. Dhammasabhāvānavabodhe bhayaṃ hotīti bhayāgatiyā dhammā vatthu.
このように身などの欲暴流などの対象性を説くことによって、欲軛・欲漏などの対象性も示されたことになる。暴流とそれらとは意味において別ではないからである。そして身が欲暴流などの対象である度合いに応じて、身縛である貪の対象でもある。「苦の受には瞋恚の随眠が随眠する」ことから、苦苦・壊苦・行苦となった受は、特に身縛である瞋の対象である。心において常であると把握することによって、「常住なる自己の戒によって清浄となる」などの執着が生じるため、心は戒禁取の対象である。名色の限定によって真実を真実のままに見ない者には、常見・断見と呼ばれる「これのみが真実である」という執着が生じるため、法はその対象である。 身が欲取の対象であることはすでに説かれた通りである。身が欲暴流の対象である度合いに応じて、意味において同一であることから欲取の対象でもあるからである。楽受の享楽によって他世を顧みず「施しはない」等(長部 1.171、中部 1.445等)の執着を生じさせるため、受は見取の対象である。心と法がその他の取(我語取など)の対象であることは、第三・第四の身縛の適用において説かれた通りである。身と受が愛執・瞋恚による邪道(悪行)の対象であることは、欲暴流・身縛の瞋の適用において説かれた通りである。相続の塊の把握によって貪欲などの心において迷妄が生じるため、心は痴による邪道の対象である。法の自性を覚知しないときに恐怖が生じるため、法は恐怖による邪道の対象である。
Āhārasamudayā kāyassa samudayā, phassasamudayā vedanānaṃ samudayo, (saṃ. ni. 5.408) saṅkhārapaccayā viññāṇaṃ, viññāṇapaccayā nāmarūpanti (ma. ni. 3.126; udā. 1; vibha. 225) vacanato kāyādīnaṃ samudayabhūtā kabaḷīkāraphassamanosañcetanāviññāṇāhārā kāyādiparijānanena pariññātā hontīti āha **‘‘catubbidhāhārapariññattha’’**nti. Pakaraṇanayoti nettipakaraṇavasena suttantasaṃvaṇṇanānayo.
「段食の集起によって身の集起があり、触の集起によって受の集起があり」(相応部 5.408)、「行の条件によって識があり、識の条件によって名色がある」(中部 3.126、自説経 1等)という言葉から、身などの集起となった段食・触・意思・識という四食は、身などを完全に知ることによって遍知されることから、「四種の食を遍知するため」と述べられた。「導論の規範(Pakaraṇanayo)」とは、『導論(ネッティパカラナ)』の方式による経の註釈の規範のことである。
Saraṇavasenāti kāyādīnaṃ, kusalādidhammānañca upadhāraṇavasena. Saranti gacchanti nibbānaṃ etāyāti satīti imasmiṃ atthe ekatte ekasabhāve nibbāne samosaraṇaṃ samāgamo ekattasamosaraṇaṃ. Etadeva hi dassetuṃ **‘‘yathā hī’’**tiādi vuttaṃ.
「記憶の働きによって(Saraṇavasenāti)」とは、身など、および善などの法を心に留める働きによってということである。これによって涅槃を記憶する(思い起こして赴く)ゆえに「念」であるというこの意味において、単一性・一の自性である涅槃へと集入すること・合流することが「単一への集入(ekattasamosaraṇa)」である。まさにこれを示すために「あたかも〜のように(yathā hi)」等と述べられた。
Ekanibbānapavesahetubhūto vā samānatāya eko satipaṭṭhānasabhāvo ekattaṃ, tattha samosaraṇaṃ ekattasamosaraṇaṃ, taṃsabhāgatāva, ekanibbānapavesahetubhāvaṃ pana dassetuṃ **‘‘yathā’’**tiādimāha. Etasmiṃ atthe saraṇekattasamosaraṇāni saheva satipaṭṭhānekabhāvassa kāraṇattena vuttānīti daṭṭhabbāni, purimasmiṃ visuṃ. Saraṇavasenāti vā gamanavasenāti atthe sati tadeva gamanaṃ samosaraṇanti, samosaraṇe vā sati-saddatthavasena avuccamāne dhāraṇatāva satīti sati-saddatthantarābhāvā purimaṃ satibhāvassa kāraṇaṃ, pacchimaṃ ekabhāvassāti nibbānasamosaraṇepi sahitāneva tāni satipaṭṭhānekabhāvassa kāraṇāni vuttāni honti.
あるいは、一つの涅槃に入る原因となった、同等性による単一の念処の自性が「単一(ekatta)」であり、そこへの集入が「単一への集入」であり、それは同等性そのものである。一つの涅槃に入る原因であることを示すために「あたかも(yathā)」等と述べられた。この意味において、記憶・単一・集入は一体として念処の単一性の原因として説かれたものと見なされるべきであり、前の意味においては別々である。あるいは「行くことの働きによって」という意味がある場合、まさにその行くことが集入である。あるいは集入において「念」という言葉の意味として語られない場合、保持することこそが「念」であり、念の言葉に他の意味がないことから、前者は念であることの原因、後者は単一性の原因であり、涅槃への集入においてもそれらは結びついて念処の単一性の原因として説かれている。
‘‘Cuddasavidhena, navavidhena, soḷasavidhena, pañcavidhenā’’ti idaṃ upari pāḷiyaṃ (dī. ni. 2.374) āgatānaṃ ānāpānapabbādīnaṃ vasena vuttaṃ, tesaṃ pana anantarabhedavasena, tadanugatabhedavasena ca bhāvanāya anekavidhatā labbhatiyeva, catūsu disāsu uṭṭhānakabhaṇḍasadisatā kāyānupassanāditaṃtaṃsatipaṭṭhānabhāvanānubhāvassa daṭṭhabbā.
「十四種によって、九種によって、十六種によって、五種によって」とは、後述の本文(長部 2.374)に出てくる入出息節などに基づいて説かれたものであるが、それらの直接の区分により、またそれに従う区分によって、修習の多様性は実に得られるのであり、四方からの財貨の集まりに似ていることが、身随観などのそれぞれの念処修習の威力として見なされるべきである。
Kathetukamyatāpucchā itarāsaṃ pucchānaṃ idha asambhavato, niddesādivasena desetukamyatāya ca tathā vuttattā. **‘‘Idhā’’**ti vuccamānapaṭipattisampādakassa bhikkhuno sannissayadassanaṃ, so cassa sannissayo sāsanato añño natthīti vuttaṃ **‘‘idhāti imasmiṃ sāsane’’**ti. Dhamma…pe… lapanametaṃ tesaṃ attano sammukhābhimukhabhāvakaraṇatthaṃ, tañca dhammassa sakkaccasavanatthaṃ. ‘‘Gocare bhikkhave caratha sake pettike visaye’’tiādi (dī. ni. 3.80; saṃ. ni. 5.372) vacanato bhikkhugocarā ete dhammā, yadidaṃ kāyānupassanādayo. Tattha yasmā kāyānupassanādipaṭipattiyā bhikkhu hoti, tasmā ‘‘kāyānupassī viharatī’’tiādinā bhikkhuṃ dasseti bhikkhumhi taṃniyamatoti āha **‘‘paṭipattiyā bhikkhubhāvadassanato’’**ti. Satthucariyānuvidhāyakattā, sakalasāsanasampaṭiggāhakattā ca sabbappakārāya anusāsaniyā bhājanabhāvo. Tasmiṃ gahiteti bhikkhumhi gahite. Bhikkhuparisāya jeṭṭhabhāvato rājagamanañāyena itarā parisāpi atthato gahitāva hontīti āha **‘‘sesā’’**tiādi. Evaṃ paṭhamaṃ kāraṇaṃ vibhajitvā itarampi vibhajituṃ **‘‘yo ca ima’’**ntiādi vuttaṃ.
「説示を望む問い(Kathetukamyatāpucchā)」とは、他の種類の問いがここには該当せず、解説などによって説示を望むことによってそのように述べられたからである。「ここに(Idha)」とは、説かれる実践を成就する比丘の依処を示すものであり、その依処は教え(仏教)のほかに存在しないことから、「ここにおいてとは、この教えにおいて」と述べられた。 「諸法の…中略…」という呼びかけは、彼らを自分自身に直面させるためのものであり、また法を恭敬して聴聞させるためのものである。「比丘たちよ、自己の父祖伝来の領域である境涯を歩め」(長部 3.80、相応部 5.372)などの言葉から、これら身随観などの法は比丘の境涯である。そこにおいて、身随観などの実践によって比丘となることから、「身を随観して住する」等によって、比丘においてそれを限定することから比丘を示しているため、「実践によって比丘であることの提示から」と述べられた。師の実践に随順する者であること、全教法を受け入れる者であることから、あらゆる形態の訓戒の器(受け手)となるのである。 「それが把握されたとき」とは、比丘が把握されたときのことである。比丘が会衆の中で最上位であることから、王の通行の法理によって他の会衆も事実上把握されていることになるため、「残りの…」等と述べられた。このように第一の理由を分析し、他をも分析するために「そして誰であれこれを…」等と説かれた。
Samaṃ careyyāti kāyādi visamacariyaṃ pahāya kāyādīhi samaṃ careyya. Rāgādivūpasamena santo, indriyadamena danto, catumagganiyāmena niyato, seṭṭhacaritāya brahmacārī, sabbattha kāyadaṇḍādioropanena nidhāya daṇḍaṃ. Ariyabhāve ṭhito so evarūpo bāhitapāpasamitapāpabhinnakilesatāhi **‘‘brāhmaṇo, samaṇo, bhikkhū’’**ti ca veditabbo.
「正しく行ずる(Samaṃ careyya)」とは、身などの不正な行いを捨てて、身などによって正しく行ずるということである。貪欲などの静息によって「寂静」であり、諸根の調御によって「調御された者」であり、四道の決定によって「決定した者」であり、最上の行いによって「梵行者」であり、あらゆる場所で身体の杖(暴力)などを下ろすことによって「暴力(罰)を捨てた者」である。聖者の位に留まるそのような者は、悪を退け、悪を静め、煩悩を断じたことによって「婆羅門、沙門、比丘」とも知られるべきである。
‘‘Ayañceva kāyo, bahiddhā ca nāmarūpa’’ntiādīsu khandhapañcakaṃ, tathā ‘‘sukhañca kāyena paṭisaṃvedetī’’tiādīsu (ma. ni. 1.271, 287; pārā. 11), ‘‘yā tasmiṃ samaye kāyassa passaddhi paṭippassaddhī’’tiādīsu ca vedanādayo cetasikā khandhā kāyoti vuccantīti tato visesanatthaṃ **‘‘kāyeti rūpakāye’’**ti āha. Kesādīnañca dhammānanti kesādisaññitānaṃ bhūtupādādhammānaṃ. Evaṃ ‘‘cayaṭṭho sarīraṭṭho kāyaṭṭho’’ti saddanayena kāya-saddaṃ dassetvā idāni niruttinayenapi taṃ dassetuṃ **‘‘yathā cā’’**tiādi vuttaṃ. Āyantīti uppajjanti.
「この身と、外なる名色」などにおいては五蘊が、同様に「また身によって楽を感受する」(中部 1.271等)、「その時、身の軽安があり、完全な軽安がある」などにおいては受などの心所蘊が「身(kāya)」と呼ばれるため、それらから区別するために「身においてとは、色身において」と述べられた。また「髪などの法」とは、髪などと呼ばれる四大種および所造色(派生色)のことである。このように「積集の意味、身体の意味が身の意味である」と語論の規範によって「身」の語を示し、今や語源の規範によってもそれを示すために「またあたかも〜のように(yathā cā)」等と説かれた。「来る(Āyanti)」とは、生起するということである。
Asammissatoti vedanādayopi ettha sitā, ettha paṭibaddhāti kāye vedanādianupassanāpasaṅgepi āpanne tato asammissatoti attho. Samūhavisayatāya cassa kāya-saddassa, samudāyupādānatāya ca asubhākārassa **‘‘kāye’’**ti ekavacanaṃ, tathā ārammaṇādivibhāgena anekabhedabhinnampi cittaṃ cittabhāvasāmaññena ekajjhaṃ gahetvā **‘‘citte’’**ti ekavacanaṃ, vedanā pana sukhādibhedabhinnā visuṃ visuṃ anupassitabbāti dassentena **‘‘vedanāsū’’**ti bahuvacanena vuttā, tatheva ca niddeso pavattito, dhammā ca paropaṇṇāsabhedā, anupassitabbākārena ca anekabhedā evāti tepi bahuvacanavaseneva vuttā.
「混同されないことから(Asammissato)」とは、受などもここ(身)に依拠し、ここに繋縛されていることから、身において受などの随観の機会が生じたとしても、それと混同されないことからという意味である。そしてこの「身」という言葉が集まりを対象とすることから、また不浄の相が集積に基づいていることから、「身において(kāye)」と単数形であり、同様に所縁などの区分によって多くの差異に分かれている心も、心の状態という共通性によって一つにまとめて「心において(citte)」と単数形である。しかし受は楽などの差異に分かれて別々に随観されるべきであることを示すために「諸々の受において(vedanāsu)」と複数形で説かれ、解説もそのように行われており、諸法は五十以上の差異があり、随観されるべき様相においても実に多様であるため、それらもまた複数形によって説かれている。
Avayavīgāhasamaññātidhāvanasārādānābhinivesanisedhanatthaṃ kāyaṃ aṅgapaccaṅgehi, tāni ca kesādīhi, kesādike ca bhūtupādāyarūpehi vinibbhuñjanto **‘‘tathā na kāye’’**tiādimāha. Pāsādādinagarāvayavasamūhe avayavīvādinopi avayavīgāhaṃ na karonti, ‘‘nagaraṃ nāma koci attho atthī’’ti pana kesañci samaññātidhāvanaṃ siyāti itthipurisādisamaññātidhāvane nagaranidassanaṃ vuttaṃ. Aṅgapaccaṅgasamūho, kesalomādisamūho, bhūtupādāyasamūho ca yathāvuttasamūho, tabbinimutto kāyopi nāma koci natthi, pageva itthiādayoti āha **‘‘kāyo vā itthī vā puriso vā añño vā koci dhammo dissatī’’**ti. **‘‘Koci dhammo’’**ti iminā sattajīvādiṃ paṭikkhipati, avayavī pana kāyapaṭikkhepeneva paṭikkhittoti. Yadi evaṃ kathaṃ kāyādisamaññātidhāvanānīti āha **‘‘yathāvuttadhamma…pe… karontī’’**ti. Tathā tathāti kāyādiākārena.
全体(有分)への執着、名札(概念)への過度の傾倒、実体視の執着を制止するために、身を部分と小部分に、それらを髪などに、髪などを四大種と所造色に分析しつつ、「そのように身においてはなく」等と述べられた。宮殿などの都市の部分の集まりにおいて、全体論者たちも全体への執着をなさないが、「都市という何らかの実体がある」というように、ある者たちには概念への過度の傾倒があり得るため、女・男などの概念への過度の傾倒において「都市」の実例が説かれたのである。 部分と小部分の集まり、髪や毛などの集まり、四大種と所造色の集まりが、説かれた通りの集まりであり、それらから離れた「身」と呼ばれる実体は何一つ存在せず、いわんや女などがあるはずもないことから、「身あるいは女あるいは男、あるいは他のいかなる法が見られるだろうか」と述べられた。「いかなる法(koci dhammo)」によって有情や霊魂などを否定しているが、全体(有分)は身の否定によってすでに否定されている。もしそうであるなら、どうして身などの概念への過度の傾倒があるのかといえば、「説かれた通りの法を…中略…なす」と述べられた。「そのようにそのように」とは、身などの様相によってということである。
Yaṃ passatīti yaṃ itthiṃ, purisaṃ vā passati. Nanu cakkhunā itthipurisadassanaṃ natthīti? Saccametaṃ, ‘‘itthiṃ passāmi, purisaṃ passāmī’’ti pana pavattasaññāya vasena ‘‘yaṃ passatī’’ti vuttaṃ micchādassanena vā diṭṭhiyā yaṃ passati, na taṃ diṭṭhaṃ taṃ rūpāyatanaṃ na hotīti attho viparītaggāhavasena micchāparikappitarūpattā. Atha vā taṃ kesādibhūtupādāyasamūhasaṅkhātaṃ diṭṭhaṃ na hoti, acakkhuviññāṇaviññeyyattā diṭṭhaṃ vā taṃ na hoti. Yaṃ diṭṭhaṃ, taṃ na passatīti yaṃ rūpāyatanaṃ kesādibhūtupādāyasamūhasaṅkhātaṃ diṭṭhaṃ, taṃ paññācakkhunā bhūtato na passatīti attho. Apassaṃ bajjhateti imaṃ attabhāvaṃ yathābhūtaṃ paññācakkhunā apassanto ‘‘etaṃ mama, eso hamasmi, eso me attā’’ti kilesabandhanena bajjhati.
「見るものを(Yaṃ passati)」とは、見る対象である女や男のことである。「眼によって女や男を見ることはないのではないか」と言うかもしれない。それは真実であるが、「私は女を見る、男を見る」と生じた想に基づいて「見るものを」と述べられたのであり、あるいは邪見である見解によって見るものを指す。見られたそれは色処ではないという意味であり、転倒した把握によって誤って構想された色であるからである。あるいは、髪などの四大種と所造色の集まりと呼ばれるそれは見られたものではない。眼識によって識知されるものではないため、それは見られたものではないのである。 「見られたものを、見ない(Yaṃ diṭṭhaṃ, taṃ na passati)」とは、髪などの四大種と所造色の集まりと呼ばれる見られた色処を、智慧の眼によって事実のままに見ないという意味である。「見ない者は縛られる(Apassaṃ bajjhate)」とは、この自己の存在を智慧の眼によって事実のままに見ない者は、「これは私のものであり、これが私であり、これが私の自己である」と煩悩の束縛によって縛られるということである。
Na aññadhammānupassīti na aññasabhāvānupassī, asubhādito aññākārānupassī na hotīti attho. **‘‘Kiṃ vuttaṃ hotī’’**tiādinā taṃ evatthaṃ pākaṭaṃ karoti. Pathavīkāyanti kesādikoṭṭhāsaṃ pathaviṃ dhammasamūhattā ‘‘kāyo’’ti vadati, lakkhaṇapathavimeva vā anekappabhedaṃ sakalasarīragataṃ, pubbāpariyabhāvena ca pavattamānaṃ samūhavasena gahetvā ‘‘kāyo’’ti vadati. **‘‘Āpokāya’’**ntiādīsupi eseva nayo.
「他の法を随観する者ではなく(Na aññadhammānupassī)」とは、他の自性を随観する者ではなく、不浄などから離れた他の相を随観する者ではないという意味である。「何を語っていることになるのか(Kiṃ vuttaṃ hoti)」等によって、まさにその意味を明らかにしている。「地身(Pathavīkāyaṃ)」とは、髪などの部分である地(大種)を、法の集まりであることから「身」と呼んでいるのであり、あるいは特徴としての地大そのものが多様に分かれて全身に行き渡り、前後の連続として生起しているものを集まりとして捉えて「身」と呼んでいる。「水身(Āpokāyaṃ)」等においても同様の趣意である。
Evaṃ gahetabbassāti ‘‘ahaṃ mama’’nti evaṃ attattaniyabhāvena andhabālehi gahetabbassa.
「このように把握されるべきもの(Evaṃ gahetabbassa)」とは、「私、私のもの」と、このように盲目の愚者たちによって自己および自己に属するものとして把握されるべきもののことである。
Idāni sattannaṃ anupassanākārānampi vasena kāyānupassanaṃ dassetuṃ **‘‘apicā’’**tiādi āraddhaṃ. Tattha aniccato anupassatīti catusamuṭṭhānikaṃ kāyaṃ ‘‘anicca’’nti anupassati, evaṃ passanto evañcassa aniccākārampi ‘‘anupassatī’’ti vuccati. Tathābhūtassa cassa niccaggāhassa lesopi na hotīti vuttaṃ **‘‘no niccato’’**ti. Tathā hesa ‘‘niccasaññaṃ pajahatī’’ti (paṭi. ma. 3.35) vutto. Ettha ca ‘‘aniccato eva anupassatī’’ti eva-kāro luttaniddiṭṭhoti tena nivattitamatthaṃ dassetuṃ ‘‘no niccato’’ti vuttaṃ. Na cettha dukkhato anupassanādinivattanaṃ āsaṅkitabbaṃ paṭiyogīnivattanaparattā eva-kārassa, upari desanāruḷhattā ca tāsaṃ. **‘‘Dukkhato anupassatī’’**tiādīsupi eseva nayo. Ayaṃ pana viseso – aniccassa dukkhattā tameva ca kāyaṃ dukkhato anupassati, dukkhassa anattattā anattato anupassati. Yasmā pana yaṃ aniccaṃ dukkhaṃ anattā, na taṃ abhinanditabbaṃ, yañca na abhinanditabbaṃ, na tattha rañjitabbaṃ, tasmā vuttaṃ **‘‘nibbindati, no nandati. Virajjati, no rajjatī’’**ti. So evaṃ arajjanto rāgaṃ nirodheti, no samudeti samudayaṃ na karotīti attho. Evaṃ paṭipanno ca paṭinissajjati, no ādiyati. Ayañhi aniccādianupassanā tadaṅgavasena saddhiṃ kāyaṃ tannissayakhandhābhisaṅkhārehi kilesānaṃ pariccajanato, saṅkhatadosadassanena tabbiparīte nibbāne tanninnatāya pakkhandanato ‘‘pariccāgapaṭinissaggo ceva pakkhandanapaṭinissaggo cā’’ti vuccati, tasmā tāya samannāgato bhikkhu vuttanayena kilese pariccajati, nibbāne ca pakkhandati, tathābhūto ca nibbattanavasena kilese na ādiyati, nāpi adosadassitāvasena saṅkhatārammaṇaṃ, tena vuttaṃ ‘‘paṭinissajjati, no ādiyatī’’ti. Idānissa tāhi anupassanāhi yesaṃ dhammānaṃ pahānaṃ hoti, taṃ dassetuṃ **‘‘aniccato anupassanto niccasaññaṃ pajahatī’’**tiādi vuttaṃ. Tattha niccasaññanti ‘‘saṅkhārā niccā’’ti evaṃ pavattaṃ viparītasaññaṃ. Diṭṭhicittavipallāsappahānamukheneva saññāvipallāsappahānanti saññāggahaṇaṃ, saññāsīsena vā tesampi gahaṇaṃ daṭṭhabbaṃ. Nandinti sappītikataṇhaṃ. Sesaṃ vuttanayameva.
今や七種の随観の様相に基づいても身随観を示すために、「さらにまた(apicā)」等と説き始められた。その中で「無常と随観する」とは、四つの原因から生じる身を「無常である」と随観することであり、このように見る者は、その無常の様相をも「随観する」と言われる。そのようになった者には常であるという把握の偏見すらなくなることから、「常としてではなく(no niccato)」と述べられた。実に彼は「常の想いを捨てる」(無礙解道 3.35)と説かれているからである。 そしてここにおいて「無常としてのみ随観する」という限定詞(eva)が省略されて示されているため、それによって排除される意味を示すために「常としてではなく」と述べられた。またここにおいて苦としての随観などの排除を疑うべきではない。限定詞は反対のものを排除することを目的にしており、それら(苦などの随観)は後述の教説で示されているからである。「苦として随観する」等においても同様の趣意である。しかしこの特別な点がある——無常のものは苦であることから、まさにその身を苦として随観し、苦のものは無我であることから無我として随観する。しかし、無常・苦・無我であるものは歓喜されるべきではなく、歓喜されるべきでないものには執着すべきではないため、「厭離し、歓喜しない。離貪し、執着しない」と述べられた。このように執着しない者は貪りを滅し、生起させず、集起させないという意味である。 このように実践する者は捨棄し、執取しない。実にこの無常などの随観は、分相(一時的捨断)によって身およびそれを支える蘊の形成物とともに煩悩を放棄することから、また作られたものの過患を見ることによってその反対である涅槃に傾倒して飛び込むことから、「放棄による捨棄、跳入による捨棄」と呼ばれる。それゆえにそれを備えた比丘は説かれた方法によって諸煩悩を放棄し、涅槃へと飛び込むのであり、そのようになった者は再生の力によって煩悩を執取せず、また無過患と見ることによって作られた所縁を執取しないため、「捨棄し、執取しない」と述べられた。今やそれらの随観によって捨断される諸法を示すために、「無常と随観する者は常の想いを捨てる」等と述べられた。 その中で「常の想い(niccasaññaṃ)」とは、「諸行は常である」とこのように生じた転倒した想いのことである。見解と心の顛倒の捨断を通じて想の顛倒が捨断されることから想が挙げられているのであり、あるいは想を首長としてそれら(見・心)の把握もなされたと見なされるべきである。「歓喜(Nandi)」とは、喜悦を伴う貪愛のことである。残りはすでに説かれた通りの趣意である。
**‘‘Viharatī’’**ti iminā kāyānupassanāsamaṅgino iriyāpathavihāro vuttoti āha **‘‘iriyatī’’**ti, iriyāpathaṃ pavattetīti attho. Ārammaṇakaraṇavasena abhibyāpanato **‘‘tīsu bhavesū’’**ti vuttaṃ, uppajjanavasena pana kilesā parittabhūmakā evāti. Yadipi kilesānaṃ pahānaṃ ātāpananti taṃ sammādiṭṭhiādīnampi attheva, ātappa-saddo viya pana ātāpasaddo vīriyeyeva niruḷhoti vuttaṃ **‘‘vīriyassetaṃ nāma’’**nti. Atha vā paṭipakkhappahāne sampayuttadhammānaṃ abbhussahanavasena pavattamānassa vīriyassa sātisayaṃ tadātāpananti vīriyameva tathā vuccati, na aññe dhammā. Ātāpīti cāyamīkāro pasaṃsāya, atisayassa vā dīpakoti ātāpīgahaṇena sammappadhānasamaṅgitaṃ dasseti. Sammā, samantato, sāmañca pajānanto sampajāno, asammissato vavatthāne aññadhammānupassitābhāvena sammā aviparītaṃ, sabbākārapajānanena samantato, uparūpari visesāvahabhāvena pavattiyā sāmaṃ pajānantoti attho. Yadi paññāya anupassati, kathaṃ satipaṭṭhānatāti āha **‘‘na hī’’**tiādi. Sabbatthikanti sabbattha bhavaṃ sabbattha līne, uddhate ca citte icchitabbattā. Sabbe vā līne, uddhate ca bhāvetabbā bojjhaṅgā atthikā etāyāti sabbatthikā. Satiyā laddhupakārāya eva paññāya ettha yathāvutte kāye kammaṭṭhāniko bhikkhu kāyānupassī viharati. Anto saṅkhepo antoolīyano, kosajjanti attho. Upāyapariggaheti ettha sīlavisodhanādi, gaṇanādi, uggahakosallādi ca upāyo, tabbipariyāyato anupāyo veditabbo. Yasmā ca upaṭṭhitassati yathāvuttaṃ upāyaṃ na pariccajati, anupāyañca na upādiyati, tasmā vuttaṃ ‘‘muṭṭhassatī **…pe… asamattho hotī’’**ti. Tenāti upāyānupāyānaṃ pariggahaparivajjanesu, pariccāgāpariggahesu ca asamatthabhāvena. Assa yogino.
「住する(Viharatī)」によって、身随観を具足した者の威儀の維持(生活)が説かれていることから、「行住する(iriyatī)」と述べており、威儀を生起させるという意味である。所縁とすることによって遍満することから「三界において」と述べられたが、生起することにおいては煩悩は欲界(小界)のものである。煩悩を捨断することが「熱誠(ātāpana)」であり、それは正見などにも確かに存在するが、「熱心(ātappa)」の語と同様に「熱誠(ātāpa)」の語は精進そのものに定着していることから、「これは精進の名称である」と述べられた。 あるいは、対治すべきものの捨断において相応する諸法を奮起させることによって生起する精進の、卓越した熱誠であることから、精進そのものがそのように呼ばれるのであり、他の諸法ではない。「熱誠ある者(Ātāpī)」のこの「ī」という接尾辞は賞賛、あるいは卓越性を示すものであるため、「熱誠ある者」という表現によって四正勤を具足していることを示している。「正しく、完全に、自ら知る者」が正知(sampajāno)であり、混同されずに確定することにおいて他の法を随観することがないため「正しく(aviparītaṃ)」であり、一切の様相を知ることによって「完全に(samantato)」であり、より高い勝れた境地をもたらすものとして生起することによって「自ら」知る者という意味である。 もし智慧によって随観するのなら、なぜ「念処」と呼ばれるのかといえば、「実にそうではない(na hī)」等と述べられた。「一切において役立つもの(Sabbatthikaṃ)」とは、あらゆる場所で存在するものであり、あらゆる場所において沈滞した心、浮動した心において望まれるものであるからである。あるいは、沈滞した心、浮動した心において修習されるべき一切の覚支がこれを求めるゆえに「一切に役立つもの」である。念の助力を得た智慧によってこそ、この説かれた身において修行を行う比丘は身を随観して住するのである。「内なる縮減(Anto saṅkhepo)」とは内なる沈滞であり、懈怠(怠惰)という意味である。「手段の把握において(Upāyapariggahe)」において、戒の清浄など、計数など、受持の巧妙さなどが「手段(upāya)」であり、その反対が無手段(anupāya)と知られるべきである。そして現起した念を持つ者は説かれた通りの手段を放棄せず、無手段を把握しないことから、「念を失った者は…中略…無能となる」と述べられた。「それによって(Tenāti)」とは、手段と無手段の把握と回避、および放棄と不把握において無能であることによって、ということである。「この修行者の(Assa yogino)」。
Yasmā satiyevettha satipaṭṭhānaṃ vuttaṃ, tasmāssa sampayuttadhammā vīriyādayo aṅganti āha **‘‘sampayogaṅgañcassa dassetvā’’**ti. Aṅga-saddo cettha kāraṇapariyāyo daṭṭhabbo. Satiggahaṇeneva cettha samādhissāpi gahaṇaṃ daṭṭhabbaṃ tassā samādhikkhandhe saṅgahitattā. Yasmā vā satisīsenāyaṃ desanā. Na hi kevalāya satiyā kilesappahānaṃ sambhavati, nibbānādhigamo vā, nāpi kevalā sati pavattati, tasmāssa jhānadesanāyaṃ savitakkādivacanassa viya sampayogaṅgadassanatāti aṅga-saddassa avayavapariyāyatā daṭṭhabbā. Pahānaṅganti ‘‘vivicceva kāmehī’’tiādīsu (dī. ni. 1.226; ma. ni. 1.271, 287, 297; saṃ. ni. 2.152; a. ni. 4.123; pārā. 11) viya pahātabbaṅgaṃ dassetuṃ. Yasmā ettha lokiyamaggo adhippeto, na lokuttaramaggo, tasmā pubbabhāgiyameva vinayaṃ dassento **‘‘tadaṅgavinayena vā vikkhambhanavinayena vā’’**ti āha. Tesaṃ dhammānanti vedanādidhammānaṃ. Tesañhi tattha anadhippetattā **‘‘atthuddhāranayenetaṃ vutta’’**nti vuttaṃ. Tatthāti vibhaṅge. Etthāti ‘‘loke’’ti etasmiṃ pade.
ここでは念そのものが念処と説かれているため、それに相応する精進などの法はその要素(支分)であることから、「その相応の要素を示して」と述べられた。ここでの「支(aṅga)」という言葉は原因の同義語と見なされるべきである。また念を挙げることによって定も挙げられていると見なされるべきであり、念は定蘊に包含されているからである。あるいは、念を首長としてこの教説がなされているからである。実に単なる念だけで煩悩の捨断や涅槃の証得が成立することはなく、また単なる念だけで生起することもないため、禅定の教説における有尋などの言葉のように、相応の要素を示すものであることから、「支」の語は部分(構成要素)の同義語と見なされるべきである。 「捨断の要素(Pahānaṅgaṃ)」とは、「諸欲からまさに離れて」(長部 1.226等)などにおけるように、捨断されるべき要素を示すためである。ここでは世間の道が意図されており、出世間の道ではないため、前段階の調伏を示して「分相調伏によって、あるいは鎮伏調伏によって」と述べられた。「それらの法の(Tesaṃ dhammānaṃ)」とは、受などの諸法のことである。実にそれらはそこでは意図されていないため、「意味の抽出の規範によってこれは説かれた」と述べられた。「そこにおいて(Tatthā)」とは分別論においてである。「ここにおいて(Etthā)」とは、「世において(loke)」というこの語においてである。
Avisesena dvīhipi nīvaraṇappahānaṃ vuttanti katvā puna ekekena vuttaṃ pahānavisesaṃ dassetuṃ **‘‘visesenā’’**ti āha. Atha vā ‘‘vineyya nīvaraṇānī’’ti avatvā abhijjhādomanassavinayavacanassa payojanaṃ dassento **‘‘visesenā’’**tiādimāha. Kāyānupassanābhāvanāya hi ujuvipaccanīkānaṃ anurodhavirodhādīnaṃ pahānadassanaṃ etassa payojananti. Kāyasampattimūlakassāti rūpabalayobbanārogyādisarīrasampadānimittassa. Vuttavipariyāyato kāyavipattimūlako virodho veditabbo. Kāyabhāvanāyāti kāyānupassanābhāvanāya. Sā hi idha kāyabhāvanāti adhippetā. Subhasukhabhāvādīnanti ādi-saddena manuññaniccatādisaṅgaho daṭṭhabbo. Asubhāsukhabhāvādīnanti ettha pana ādi-saddena amanuññaaniccatādīnaṃ. Tenāti anurodhādippahānavacanena. **‘‘Yogānubhāvo hī’’**tiādi vuttassevatthassa pākaṭakaraṇaṃ. Yogānubhāvo hi bhāvanānubhāvo. Yogasamatthoti yogamanuyuñjituṃ samattho. Purimena hi ‘‘anurodhavirodhavippamutto’’tiādivacanena bhāvanaṃ anuyuttassa ānisaṃso vutto, dutiyena bhāvanaṃ anuyuñjantassa paṭipatti. Na hi anurodhavirodhādīhi upaddutassa bhāvanā ijjhati.
無差別には二つ(貪愛と憂い)によって五蓋の捨断が説かれていることから、さらに個別に説かれた捨断の特質を示すために「特に(visesenā)」と述べられた。あるいは「諸蓋を調伏して」と言わずに「貪愛と憂いを調伏して」と述べられた用向を示すために「特に」等と述べられた。身随観の修習にとって直に対立する順応(愛着)と反撥(瞋恚)などの捨断を示すことが、この(表現の)用向であるからである。 「身の充足を根本とするもの(Kāyasampattimūlakassa)」とは、容姿・体力・若さ・無病などの身体の充足を原因とするもののことである。説かれたことの反対から、身体の不調を根本とする反撥が知られるべきである。「身の修習によって(Kāyabhāvanāyā)」とは、身随観の修習によってということである。実にそれがここでは身の修習として意図されている。「浄・楽の状態などの(Subhasukhabhāvādīnaṃ)」の「等」という語によって、快・常などの包含が見なされるべきである。「不浄・苦の状態などの(Asubhāsukhabhāvādīnaṃ)」における「等」の語によって、不快・無常などの包含が見なされるべきである。「それによって(Tenā)」とは、順応などの捨断の言葉によってということである。 「修習の威力実に(Yogānubhāvo hī)」等は、説かれた通りの意味を明確にすることである。修習の威力とは、実践の力のことである。「修行に堪えうる(Yogasamattho)」とは、修行に専念することができるということである。実に前の「順応と反撥から解き放たれた」などの言葉によって修行に専念した者の功徳が説かれ、第二の言葉によって修行に専念している者の実践が説かれた。実に順応や反撥などに悩まされている者には修習は成就しないからである。
Anupassīti etthāti ‘‘anupassī’’ti etasmiṃ pade labbhamānāya anupassanāya anupassanājotanāya kammaṭṭhānaṃ vuttanti evamattho daṭṭhabbo, aññathā ‘‘anupassanāyā’’ti karaṇavacanaṃ na yujjeyya. Anupassanā eva hi kammaṭṭhānaṃ, na ettha ārammaṇaṃ adhippetaṃ, yujjati vā. Kāyapariharaṇaṃ vuttanti sambandho. Kammaṭṭhānapariharaṇassa cettha atthasiddhattā **‘‘kāyapariharaṇa’’**ntveva vuttaṃ. Kammaṭṭhānikassa hi kāyapariharaṇaṃ yāvadeva kammaṭṭhānaṃ pariharaṇatthanti. Kammaṭṭhānapariharaṇassa vā ‘‘ātāpī’’tiādinā (dī. ni. 2.373) vuccamānattā **‘‘kāyapariharaṇa’’**ntveva vuttaṃ. Kāyaggahaṇena vā nāmakāyassāpi gahaṇaṃ, na rūpakāyasseva, teneva kammaṭṭhānapariharaṇampi saṅgahitaṃ hoti, evañca katvā ‘‘viharatīti ettha vuttavihārenā’’ti etthaggahaṇañca samatthitaṃ hoti ‘‘kāyānupassī viharatī’’ti vihārassa visesetvā vuttattā. **‘‘Ātāpī’’**tiādi pana saṅkhepato vuttassa kammaṭṭhānapariharaṇassa saha sādhanena vitthāretvā dassanaṃ. Ātāpenāti ātāpaggahaṇena. **‘‘Satisampajaññenā’’**tiādīsupi eseva nayo. Sabbatthakakammaṭṭhānanti buddhānussati, mettā, maraṇassati, asubhabhāvanā ca. Idañhi catukkaṃ yoginā parihariyamānaṃ ‘‘sabbatthakakammaṭṭhāna’’nti vuccati, sabbattha kammaṭṭhānānuyogassārakkhabhūtattā satisampajaññabalena avicchinnassa pariharitabbattā satisampajaññaggahaṇena tassa vuttatā vuttā. Satiyā vā samatho vutto tassā samādhikkhandhena saṅgahitattā.
「随観する(Anupassī)」の「ここにおいて(etthā)」とは、「随観する」というこの語において得られる随観により、随観を照らすことによって業処が説かれたと、このように意味が見なされるべきである。そうでなければ「随観によって」という具格の言葉が適合しないであろう。実に随観そのものが業処であり、ここでは所縁が意図されているのではなく、適合するのである。 「身の維持が説かれた」と結びつく。そして業処の維持の意味が成就していることから、「身の維持」とまさに説かれた。実に修行者にとっての身の維持は、業処を維持するためのものに他ならないからである。あるいは業処の維持が「熱誠ある」等(長部 2.373)によって説かれていることから、「身の維持」とまさに説かれた。あるいは身を挙げることによって名身(精神の集まり)も挙げられており、色身(肉体)だけが挙げられているのではないため、それによって業処の維持も包含されていることになり、このように解釈して「住するにおいて説かれた住まいによって」というここでの把握も、「身を随観して住する」と住まいを特定して説かれていることから論証される。 「熱誠ある(Ātāpī)」等は、要約して説かれた業処の維持を、その達成手段とともに詳細に示したものである。「熱誠によって(Ātāpenā)」とは、熱誠を挙げることによってということである。「正念正知によって」等においても同様の趣意である。「一切に役立つ業処(Sabbatthakakammaṭṭhānaṃ)」とは、仏随念、慈悲、死随念、および不浄の修習である。実にこの四つは修行者によって維持されるとき「一切に役立つ業処」と呼ばれ、あらゆる場所で業処への専念の護りとなることから、正念正知の力によって途切れることなく維持されるべきであるため、正念正知を挙げることによってそれが説かれたと述べられた。あるいは念によって止(サマタ)が説かれたのであり、念は定蘊に包含されているからである。
Vibhaṅge(vibha. kāyānupassanāniddese) pana attho vuttoti yojanā. Tenāti saddatthaṃ anādiyitvā bhāvatthasseva vibhajanavasena pavattena vibhaṅgapāṭhena saha. Aṭṭhakathānayoti saddatthassāpi vivaraṇavasena yathārahaṃ vutto atthasaṃvaṇṇanānayo. Yathā saṃsandatīti yathā atthato, adhippāyato ca avilomento aññadatthu saṃsandati sameti, evaṃ veditabbo.
『分別論』(分別論・身随観の解説)において意味が説かれた、という構文である。「それによって(Tenā)」とは、語義にこだわらず状態の意味そのものを分析することによって生起した『分別論』の本文とともに、ということである。「註釈の規範(Aṭṭhakathānayo)」とは、語義をも解明することによって適切に説かれた義解の規範のことである。「照合するように(Yathā saṃsandatīti)」とは、意味においても意図においても矛盾せず、ひたすら照合し一致するように、このように知られるべきである。
Vedanādīnaṃ puna vacaneti ettha nissayapaccayabhāvavasena cittadhammānaṃ vedanāsannissitattā, pañcavokārabhave arūpadhammānaṃ rūpapaṭibaddhavuttito ca vedanāya kāyādianupassanāppasaṅgepi āpanne tato asammissato vavatthānaṃ dassanatthaṃ, ghanavinibbhogādidassanatthañca dutiyaṃ vedanāggahaṇaṃ, tena na vedanāyaṃ kāyānupassī, cittadhammānupassī vā, atha kho vedanānupassī evāti vedanāsaṅkhāte vatthusmiṃ vedanānupassanākārasseva dassanena asammissato vavatthānaṃ dassitaṃ hoti. Tathā ‘‘yasmiṃ samaye sukhā vedanā, na tasmiṃ samaye dukkhā, adukkhamasukhā vā vedanā, yasmiṃ vā pana samaye dukkhā, adukkhamasukhā vā vedanā, na tasmiṃ samaye itarā vedanā’’ti vedanābhāvasāmaññe avatvā taṃ taṃ vedanaṃ vinibbhujjitvā dassanena ghanavinibbhogo dhuvabhāvaviveko dassito hoti, tena tāsaṃ khaṇamattāvaṭṭhānadassanena aniccatāya, tato eva dukkhatāya, anattatāya ca dassanaṃ vibhāvitaṃ hoti. Ghanavinibbhogādīti ādi-saddena ayampi attho veditabbo. Ayañhi vedanāyaṃ vedanānupassī eva, na aññadhammānupassī. Kiṃ vuttaṃ hoti – yathā nāma bālo amaṇisabhāvepi udakapubbuḷake maṇiākārānupassī hoti, na evaṃ ayaṃ ṭhitiramaṇīyepi vedayite, pageva itarasmiṃ manuññākārānupassī, atha kho khaṇapabhaṅguratāya, avasavattitāya kilesāsucipaggharaṇatāya ca aniccaanattaasubhākārānupassī, vipariṇāmadukkhatāya, saṅkhāradukkhatāya ca visesato dukkhānupassī yevāti. Evaṃ citta dhammesupi yathārahaṃ punavacane payojanaṃ vattabbaṃ. Lokiyā eva sammasanacārassa adhippetattā. **‘‘Kevalaṃ panidhā’’**tiādinā ‘‘idha ettakaṃ veditabba’’nti veditabbaparicchedaṃ dasseti. **‘‘Esa nayo’’**ti iminā yathā cittaṃ, dhammā ca anupassitabbā, tathā tāni anupassanto citte cittānupassī, dhammesu dhammānupassīti veditabboti imamatthaṃ atidisati. Dukkhatoti dukkhasabhāvato, dukkhanti anupassitabbāti attho. Sesapadadvayepi eseva nayo.
「受などの再度の言及において」において、依止縁となることによって心と法が受に依拠していること、五蘊の生存において非物質の法(名法)が物質(色法)に繋縛されて生起することから、受において身などの随観の機会が生じたとしても、それと混同されない確定を示すため、また塊(一貫性)の解体などを明かすために二回目の受の言及がなされている。それによって受において身を随観する者でも、心や法を随観する者でもなく、実に受を随観する者であると、受と呼ばれる対象において受の随観の様相のみを示すことによって混同されない確定が示されたことになる。 同様に「楽受がある時、その時には苦受や不苦不楽受はなく、苦受や不苦不楽受がある時、その時には他の受はない」と、受という共通性において語るのではなく、それぞれの受を解体して示すことによって塊の解体、常住性の分離が示されたことになり、それによってそれらの刹那的な存続のみを示すことによって無常性が、それゆえに苦性と無我性の提示が明らかにされたことになる。 「塊の解体など(Ghanavinibbhogādī)」の「等」という言葉によって、この意味も知られるべきである。実にこの者は受において受を随観する者であって、他の法を随観する者ではない。何を語っていることになるのかといえば——あたかも愚者が宝石の自性のない水泡において宝石の相を随観するように、この者は存続が快い感受においてさえ、いわんや他のものにおいて好ましい相を随観するのではなく、刹那に崩壊すること、意のままにならないこと、煩悩という不浄を漏出することによって無常・無我・不浄の相を随観し、壊苦性や行苦性によって特に苦を随観する者なのである。このように心と法においても適切に再度の言及の用向が語られるべきである。 思惟の領域が意図されているため、世間的なものに他ならない。「しかしここでは単に(Kevalaṃ panidhā)」等によって、「ここではこれだけが知られるべきである」という知られるべき範囲を示している。「この方法である(Esa nayo)」によって、心と法が随観されるべきであるように、そのようにそれらを随観する者は心において心を随観する者であり、諸法において法を随観する者であると知られるべきであるというこの意味を適用している。「苦として(Dukkhato)」とは、苦の自性からであり、苦であると随観されるべきであるという意味である。残りの二つの語(無常・無我)においても同様の趣意である。
Yo sukhaṃ dukkhato addāti yo bhikkhu sukhaṃ vedanaṃ vipariṇāmadukkhatāya ‘‘dukkhā’’ti paññācakkhunā addakkhi. Dukkhaṃ addakkhi sallatoti dukkhaṃ vedanaṃ pīḷājananato, antotudanato, dunnīharaṇato ca sallato addakkhi passi. Adukkhamasukhanti upekkhāvedanaṃ. Santanti sukhadukkhāni viya anoḷārikatāya, paccayavasena vūpasantasabhāvatāya ca santaṃ. Aniccatoti hutvāabhāvato, udayavayavantato, tāvakālikato, niccapaṭipakkhato ca ‘‘anicca’’nti yo addakkhi. Sa ve sammaddaso bhikkhu ekaṃsena, paribyattaṃ vā vedanāya sammāpassanakoti attho.
「楽を苦として見た者(Yo sukhaṃ dukkhato addā)」とは、楽受を変壊苦であることから「苦である」と智慧の眼によって見た比丘のことである。「苦を矢として見た(Dukkhaṃ addakkhi sallato)」とは、苦受を痛迫を生じさせること、内を刺すこと、抜きがたいことから矢として見た、観察したということである。「不苦不楽を(Adukkhamasukhaṃ)」とは、捨受のことである。「寂静であると(Santaṃ)」とは、楽や苦のように粗大ではないことから、また諸条件によって静息した自性を持つことから寂静であると。「無常であると(Aniccato)」とは、生じては消滅すること、生起と破壊を持つこと、一時的であること、常住と対立することから「無常である」と見た者である。「彼こそ正しく見る比丘である(Sa ve sammaddaso bhikkhu)」とは、決定して、あるいは明瞭に受を正しく見る者であるという意味である。
Dukkhātipīti saṅkhāradukkhatāya dukkhā itipi. Taṃ dukkhasminti sabbaṃ taṃ vedayitaṃ dukkhasmiṃ antogadhaṃ pariyāpannaṃ vadāmi saṅkhāradukkhatānativattanato. Sukhadukkhatopi cāti sukhādīnaṃ ṭhitivipariṇāmañāṇasukhatāya, vipariṇāmaṭhitiaññāṇadukkhatāya ca vuttattā tissopi ca sukhato, tissopi ca dukkhato anupassitabbāti attho. Satta anupassanā heṭṭhā pakāsitā eva. Sesanti yathāvuttaṃ sukhādivibhāgato sesaṃ sāmisanirāmisādibhedaṃ vedanānupassanāyaṃ vattabbaṃ.
「苦であるとしても(Dukkhātipī)」とは、行苦性によって苦であるとしても、ということである。「その苦において(Taṃ dukkhasmiṃ)」とは、そのすべての感受は行苦性を超えないことから、苦において包摂され、属していると私は説く。「楽と苦としても(Sukhadukkhatopi cā)」とは、楽などの存続・変壊・知解が楽であり、変壊・存続・不知が苦であると説かれていることから、三つの受すべてを楽としても、三つの受すべてを苦としても随観されるべきであるという意味である。七つの随観はすでに以前に明かされた通りである。「残りを(Sesaṃ)」とは、説かれた楽などの区分から残りの、有染・無染などの差異を受随観において語るべきである。
Ārammaṇa…pe… bhedānanti rūpādiārammaṇanānattassa nīlāditabbhedassa, chandādiadhipatinānattassa hīnāditabbhedassa, ñāṇajhānādisahajātanānattassa sasaṅkhārikāsaṅkhārikasavitakkāditabbhedassa, kāmāvacarādibhūminānattassa ukkaṭṭhamajjhimāditabbhedassa, kusalādikammanānattassa devagatisaṃvattaniyatāditabbhedassa, kaṇhasukkavipākanānattassa diṭṭhadhammavedanīyatāditabbhedassa, parittabhūmakādikiriyānānattassa tihetukāditabbhedassa vasena anupassitabbanti yojanā. Ādi-saddena savatthukāvatthukādinānattassa puggalattayasādhāraṇāditabbhedassa ca saṅgaho daṭṭhabbo. Salakkhaṇasāmaññalakkhaṇānanti phusanāditaṃtaṃlakkhaṇānañceva aniccatādisāmaññalakkhaṇānañca vasenāti yojanā. Suññatadhammassāti anattatāsaṅkhātasuññatāsabhāvassa. Yaṃ vibhāvetuṃ abhidhamme‘‘tasmiṃ kho pana samaye dhammā honti, khandhā hontī’’tiādinā (dha. sa. 121) suññatāvāradesanā pavattā, taṃ pahīnameva pubbe pahīnattā, tasmā tassa tassa puna pahānaṃ na vattabbaṃ. Na hi kilesā pahīyamānā ārammaṇavibhāgena pahīyanti anāgatānaṃyeva uppajjanārahānaṃ pahātabbattā, tasmā abhijjhādīnaṃ ekattha pahānaṃ vatvā itarattha na vattabbaṃ evāti imamatthaṃ dasseti **‘‘kāmañcetthā’’**tiādinā. Atha vā maggacittakkhaṇe ekattha pahīnaṃ sabbattha pahīnameva hotīti visuṃ visuṃ pahānaṃ na vattabbaṃ. Maggena hi pahīnāti vattabbataṃ arahanti. Tattha purimāya codanāya nānāpuggalaparihāro, na hi ekassa pahīnaṃ tato aññassa pahīnaṃ nāma hoti. Pacchimāya nānācittakkhaṇikaparihāro. Nānācittakkhaṇeti hi lokiyamaggacittakkhaṇeti adhippāyo. Pubbabhāgamaggo hi idhādhippeto. Lokiyabhāvanāya ca kāye pahīnaṃ na vedanādīsu vikkhambhitaṃ hoti. Yadipi nappavatteyya, paṭipakkhabhāvanāya suppahīnattā tattha sā ‘‘abhijjhādomanassassa appavattī’’ti na vattabbā, tasmā punapi tappahānaṃ vattabbameva. Ekattha pahīnaṃ sesesupi pahīnaṃ hotīti lokuttarasatipaṭṭhānabhāvanaṃ, lokiyabhāvanāya vā sabbattha appavattimattaṃ sandhāya vuttaṃ. ‘‘Pañcapi khandhā upādānakkhandhā loko’’ti (vibha. 362, 364, 366) hi vibhaṅgecatūsupi ṭhānesu vuttanti.
「所縁…中略…諸々の差異の(Ārammaṇa…pe… bhedānaṃ)」とは、色などの所縁の多様性、青などのその差異、志求などの増上の多様性、劣などのその差異、智・禅などの倶生の多様性、有尋有伺・無尋無伺などのその差異、欲界などの界の多様性、最上・中間などのその差異、善などの業の多様性、天界への趣きなどのその差異、黒・白の異熟の多様性、現法受などのその差異、欲界などの作(無記作)の多様性、三因などのその差異に基づいて随観されるべきであるという構文である。 「等」という語によって、有事・無事などの多様性、三種の人物の共通性などのその差異の包含が見なされるべきである。「自相と共相の(Salakkhaṇasāmaññalakkhaṇānaṃ)」とは、触などのそれぞれの特徴、および無常などの共通の特徴に基づいて、という構文である。「空なる法の(Suññatādhammassa)」とは、無我性と呼ばれる空の自性のことである。それを明らかにするために阿毘達磨において「その時、諸法があり、諸蘊がある」(法集論 121)などによって空門の教説が生起したのである。 それは以前に捨断されたことによってすでに捨断されているため、その都度の再度の捨断は語られるべきではない。実に諸煩悩は捨断されるにあたって所縁の区分によって捨断されるのではなく、生起するはずの未来のもののみが捨断されるべきであるため、貪愛などの一つの場所での捨断を語ったなら、他の場所では語られるべきではないというこの意味を、「確かにここにおいて(kāmañcetthā)」等によって示している。 あるいは、道心の刹那において一箇所で捨断されたものはあらゆる場所ですでに捨断されているため、別々の捨断は語られるべきではない。実に道によって捨断されたものは(一度で)語られるに値するからである。そこにおいて前の詰問に対しては種々の人物による回答であり、実に一人の捨断がそれ以外の者の捨断となることはない。後の詰問に対しては種々の心刹那による回答である。種々の心刹那においてとは、世間の道心の刹那においてという意味である。前段階の道がここでは意図されているからである。そして世間の修習において身において捨断されたものは、受などにおいて鎮伏されているわけではない。たとえ生起しないとしても、対治の修習によって完全に捨断されていることから、そこでのそれを「貪愛と憂いの不生起」と語るべきではないため、再びその捨断は語られるべきである。 一箇所で捨断されたものが残りにおいても捨断されているとは、出世間の念処修習、あるいは世間の修習におけるあらゆる場所での単なる不生起を指して説かれたものである。「五つの取蘊も世間である」(分別論 362, 364, 366)と実に『分別論』において四箇所すべてで説かれているからである。
Uddesavāravaṇṇanāya līnatthappakāsanā.
標綱の解説における深遠なる意味の解明。
Kāyānupassanā
身随観
Ānāpānapabbavaṇṇanā
入出息節の解説
374. Ārammaṇavasenāti anupassitabbakāyādiārammaṇavasena. Catudhā bhinditvāti uddesavasena catudhā bhinditvā. Tato catubbidhasatipaṭṭhānato ekekaṃ satipaṭṭhānaṃ gahetvā kāyaṃ vibhajantoti pāṭhaseso.
374. 「所縁の働きによって(Ārammaṇavasenāti)」とは、随観されるべき身などの所縁の働きによってということである。「四種に区分して(Catudhā bhinditvā)」とは、標綱に基づいて四種に区分してということである。それら四種の念処から一つ一つの念処を取り上げて身を分析しつつ、と補読される。
Kathañcāti ettha kathanti pakārapucchā, tena niddisiyamāne kāyānupassanāpakāre pucchati. Ca-saddo byatireko, tena uddesavārena apākaṭaṃ niddesavārena vibhāviyamānaṃ visesaṃ joteti. Bāhirakesupi ito ekadesassa sambhavato sabbappakāraggahaṇaṃ kataṃ **‘‘sabbappakārakāyānupassanānibbattakassā’’**ti, tena ye ime ānāpānapabbādivasena āgatā cuddasappakārā, tadantogadhā ca ajjhattādianupassanāppakārā, tathā kāyagatāsatisutte (ma. ni. 3.153) vuttā kesādivaṇṇasaṇṭhānakasiṇārammaṇacatukkajjhānappakārā, lokiyādippakārā ca, te sabbepi anavasesato saṅgaṇhāti. Ime ca pakārā imasmiṃyeva sāsane, na ito bahiddhāti vuttaṃ **‘‘sabbappakāra…pe… paṭisedhano cā’’**ti. Tattha tathābhāvapaṭisedhanoti sabbappakārakāyānupassanānibbattakassa puggalassa aññasāsanassa nissayabhāvapaṭisedhano, etena idha bhikkhaveti ettha idha-saddo antogadhaevasaddatthoti dasseti. Santi hi ekapadānipi avadhāraṇāni yathā ‘‘vāyubhakkho’’ti. Tenāha ‘‘idheva bhikkhave **samaṇo’’**tiādi. Paripuṇṇasamaṇappakaraṇadhammo hi so puggalo, yo sabbappakārakāyānupassanānibbattako. Parappavādāti paresaṃ aññatitthiyānaṃ nānappakārā vādā titthāyatanāni.
「いかにしてか」において、「いかに」とは様態についての問いであり、それによって示される身随観の様態を問うている。「また(ca)」という語は区別を示すものであり、それによって総説において明瞭でなかった事柄が、別説によって明らかにされる差異を明示している。外教の者たちにもこの一部が存在しうることから、「あらゆる様態の身随観を生じさせる者のために」とすべての様態を包括して述べられている。それゆえ、出入息節などによって説かれた十四の様態、およびそれに含まれる内などの随観の様態、また『身至念経』に説かれた髪などの色・形・遍の所縁・四禅の様態、世間的な様態など、それらすべてを余すところなく包摂している。そして、これらの様態はこの教えの中にのみあり、ここから外にはないということを示すために、「あらゆる様態の…(中略)…否定し」と述べられた。そこで、「その状態を否定する」とは、あらゆる様態の身随観を生じさせる人にとって、他の教えに依処となる性質を否定することである。これによって、「比丘たちよ、ここに」という文における「ここに」という語は、限定(「〜のみ」)の意味を含んでいることを示している。実に、「風を食す者」のように、単一の語であっても限定を表すことがあるからである。それゆえに「比丘たちよ、ここにのみ沙門があり…」などと説かれたのである。実に、あらゆる様態の身随観を生じさせる人こそが、完全なる沙門の徳目を備えた人だからである。「他者の教説」とは、他の異教徒たちの種々の説や異教の立場のことである。
Araññādikasseva bhāvanānurūpasenāsanataṃ dassetuṃ **‘‘imassahī’’**tiādi vuttaṃ. Duddamo damathaṃ anupagato goṇo kūṭagoṇo. Dohanakāle yathā thanehi anavasesato khīraṃ na paggharati, evaṃ dohapaṭibandhinī kūṭadhenu. Rūpa-saddādike paṭicca uppajjanakaassādo rūpārammaṇādiraso. Pubbe āciṇṇārammaṇanti pabbajjato pubbe, anādimati vā saṃsāre paricitārammaṇaṃ. Nibandheyyāti bandheyya. Satiyāti sammadeva kammaṭṭhānassa sallakkhaṇavasena pavattāya satiyā. Ārammaṇeti kammaṭṭhānārammaṇe. Daḷhanti thiraṃ, yathā satokārissa upacārappanābhedo samādhi ijjhati, tathā thāmagataṃ katvāti attho.
森林などがまさに修習に適した住処であることを示すために、「実にこの者のために…」などと述べられた。「調御しがたい牛」とは、調伏されていない頑固な雄牛のことである。乳搾りの時に乳房から余すところなく乳が流れ出ないように、乳搾りを拒む頑固な雌牛のようなものである。色や声などに起因して生じる味わいが、色などの所縁の味わいである。「以前に親しんだ所縁」とは、出家する以前に、あるいは無始の輪廻において親しんだ所縁のことである。「結びつけるべきである」とは、つなぎ留めるべきであるという意味である。「念によって」とは、業処を正しく把握することによって生じる念によって、ということである。「所縁に」とは、業処の所縁に、ということである。「堅固に」とは確かに、すなわち念を保つ者に近行定や安止定という区別の定が成就するように、力強く確固たるものにして、という意味である。
Visesādhigamadiṭṭhadhammasukhavihārapadaṭṭhānanti sabbesaṃ buddhānaṃ, ekaccānaṃ paccekabuddhānaṃ, buddhasāvakānañca visesādhigamassa aññena kammaṭṭhānena adhigatavisesānaṃ diṭṭhadhammasukhavihārassa padaṭṭhānabhūtaṃ.
「勝れた証得や現法楽住の足場」とは、一切の仏たち、一部の独覚たち、そして仏弟子たちの勝れた証得のための、また他の業処によって勝れた境地を証得した者たちの現法楽住の足場となるもの、という意味である。
Vatthuvijjācariyo viya bhagavā yogīnaṃ anurūpanivāsaṭṭhānupadisanato. Bhikkhu dīpisadiso araññe ekako viharitvā paṭipakkhanimmathanavasena icchitatthasādhanato phalamuttamanti sāmaññaphalaṃ sandhāya vadati. Parakkamajavayoggabhūminti bhāvanussāhajavassa yoggakaraṇabhūmibhūtaṃ.
世尊は、修行者たちに適した住処を教示されることから、相地師(風水師)のようである。比丘は、森で一人で住し、対治すべき煩悩を打ち砕くことによって望むべき目的を達成することから、豹に似ている。「最上の果」とは、沙門果を指して言っている。「精進の速さを発揮するのに適した地」とは、修習への意欲の速さを発揮するのに適した地盤となったもの、という意味である。
Addhānavasena pavattānaṃ assāsapassāsānaṃ vasena dīghaṃ vā assasanto, ittaravasena pavattānaṃ assāsapassāsānaṃ vasena rassaṃ vā assasantoti yojanā. Evaṃ sikkhatoti assāsapassāsānaṃ dīgharassatāpajānanasabbakāyappaṭisaṃvedanaoḷārikoḷārikapaṭippassambhanavasena bhāvanaṃ sikkhato, tathābhūto vā hutvā tisso sikkhā pavattayato. Assāsapassāsanimitteti assāsapassāsasannissayena upaṭṭhitapaṭibhāganimitte. Assāsapassāse pariggaṇhāti rūpamukhena vipassanaṃ abhinivisanto, yo ‘‘assāsapassāsakammiko’’ti vutto. Jhānaṅgāni pariggaṇhāti arūpamukhena vipassanaṃ abhinivisanto. Vatthu nāma karajakāyo cittacetasikānaṃ pavattiṭṭhānabhāvato. Añño satto vā puggalo vā natthīti visuddhidiṭṭhi ‘‘tayidaṃ dhammamattaṃ, na ahetukaṃ, nāpi issarādivisamahetukaṃ, atha kho avijjādihetuka’’nti addhāttayepi kaṅkhāvitaraṇena vitiṇṇakaṅkho. ‘‘Yaṃ kiñci bhikkhu rūpa’’ntiādinā (ma. ni. 1.361; 2.113; 3.86, 89; paṭi. ma. 1.54) nayena kalāpasammasanavasena tilakkhaṇaṃ āropetvā. Udayavayānupassanādivasena vipassanaṃ vaḍḍhento. Anukkamena maggapaṭipāṭiyā.
「長い時間をかけて生じる出入息によって長く息を吸い、短い時間で生じる出入息によって短く息を吸い」と結びつけられる。「このように学ぶ」とは、出入息の長短を知ること、全身を体験すること、粗雑な息を静止させることによって修習を学ぶ者、あるいはそのようになって三学を行ずる者のことである。「出入息の相において」とは、出入息に依拠して現れた似相において、ということである。「出入息を把握する」とは、色法を入口として毘鉢舎那(洞察)に入る者のことであり、彼を「出入息を作務とする者」と呼ぶ。「禅支を把握する」とは、名法(無色法)を入口として毘鉢舎那に入る者のことである。「所依」とは、心・心所の生じる場であることから、色身(肉体)のことである。「他の有情や人は存在しない」という見清浄、すなわち「これらは単なる諸法にすぎず、無因ではなく、自在神などの不適切な因によるものでもなく、無明などの因によるものである」と三世において疑いを克服することで疑いを越えた者となる。「比丘よ、およそどのような色であれ…」などの方法によって、色・受・想・行・識の聚の思惟によって三相(無常・苦・無我)を適用し、生滅随観などによって毘鉢舎那を増大させ、順次に聖道の階梯によって進むのである。
**‘‘Parassa vā assāsapassāsakāye’’**ti idaṃ sammasanavāravasenāyaṃ pāḷi pavattāti katvā vuttaṃ, samathavasena pana parassa assāsapassāsakāye appanānimittuppatti eva natthi. Aṭṭhapetvāti antarantarā na ṭhapetvā. Aparāparaṃ sañcaraṇakāloti ajjhattabahiddhādhammesupi nirantaraṃ vā bhāvanāya pavattanakālo kathito. Ekasmiṃ kāle panidaṃ ubhayaṃ na labbhatīti ‘‘ajjhattaṃ, bahiddhā’’ti ca vuttaṃ idaṃ dhammadvayaṃ ghaṭitaṃ ekasmiṃ kāle ekato ārammaṇabhāvena na labbhati, ekajjhaṃ ālambituṃ na sakkāti attho.
「あるいは他者の出入息の身において」とは、これは思惟の階梯による経文であるとして述べられたものであり、止(サマタ)の立場からは他者の出入息の身に安止定の相が生じることは決してない。「置くことなく」とは、合間を空けることなく、ということである。「相互に行き来する時」とは、内と外の法においても間断なく修習が行われる時を説いたものである。しかし「一時にこの両者は得られない」とは、「内」と「外」と説かれたこの二つの法が組み合わさって、一時に同時に一つの所縁として得られることはなく、一箇所に同時に所縁とすることはできない、という意味である。
Samudeti etasmāti samudayo, so eva kāraṇaṭṭhena dhammoti samudayadhammo. Assāsapassāsānaṃ uppattihetu karajakāyādi, tassa anupassanasīlo samudayadhammānupassī, taṃ pana samudayadhammaṃ upamāya dassento **‘‘yathā nāmā’’**tiādimāha. Tattha bhastanti ruttiṃ. Gaggaranāḷinti ukkāpanāḷiṃ. Teti karajakāyādike. Yathā assāsapassāsakāyo karajakāyādisambandhī taṃnimittatāya, evaṃ karajakāyādayopi assāsapassāsakāyasambandhino taṃnimittabhāvenāti ‘‘samudayadhammā kāyasmi’’nti vattabbataṃ labhantīti vuttaṃ **‘‘samudaya…pe… vuccatī’’**ti. Pakativācī vā dhamma-saddo ‘‘jātidhammāna’’ntiādīsu (ma. ni. 1.131; 3.310; paṭi. ma. 1.33) viyāti kāyassa paccayasamavāye uppajjanakapakatikāyānupassī vā ‘‘samudayadhammānupassī’’ti vutto. Tenāha ‘‘karajakāyañcā’’tiādi. Evañca katvā kāyasminti bhummavacanaṃ suṭṭhutaraṃ yujjati.
「これより生起する」ゆえに生起(samudaya)であり、それ自体が原因という意味で法であるから「生起法(samudayadhamma)」である。出入息の生起の原因は色身などであり、それを観察する性質がある者を「生起法随観者」という。その生起法を譬喩によって示すために「例えば…」などと述べた。そこで「鞴(ふいご)」とは皮袋のことである。「鞴の管」とは火吹き竹(ノズル)のことである。「それらは」とは、色身などのことである。出入息の身が色身などと関係しているのがその因縁によるものであるように、色身なども出入息の身と関係しているのはその因縁となることによるのであり、それゆえ「身における生起法」と呼ぶにふさわしいことから、「生起…(中略)…と言われる」と述べられた。あるいは、「生起する性質の法」などのように、「法(dhamma)」という語が本性を表すものとして用いられているように、身の諸条件の集合において生じる本性である身を随観する者を「生起法随観者」と呼んだのである。それゆえ「色身を…」などと述べた。このように解釈すると、「身において(kāyasmiṃ)」という処格(於格)の言葉が極めて適切に合致する。
Vayadhammānupassīti ettha ahetukattepi vināsassa yesaṃ hetudhammānaṃ abhāve yaṃ na hoti, tadabhāvo tassa abhāvassa hetu viya voharīyatīti upacārato karajakāyādiabhāvo assāsapassāsakāyassa vayakāraṇaṃ vutto. Tenāha **‘‘yathā bhastāyā’’**tiādi. Ayaṃ tāvettha paṭhamavikappavasena atthavibhāvanā. Dutiyavikappavasena upacārena vināyeva attho veditabbo.
「滅壊法随観者」について、ここでは滅壊が無因であるとしても、それらの原因となる法が存在しないときに存在しなくなるものがあり、その原因の不在がその滅壊の原因であるかのように表現されるため、比喩的に色身などの不在が出入息の身の滅壊の原因として説かれている。それゆえ「例えば鞴が…」などと述べられた。これはまず、第一の解釈による意味の解明である。第二の解釈によれば、比喩によることなく直接に意味を理解すべきである。
Ajjhattabahiddhānupassanā viya bhinnavatthuvisayatāya samudayavayadhammānupassanāpi ekakāle na labbhatīti āha **‘‘kālena samudayaṃ kālena vayaṃ anupassanto’’**ti. ‘‘Atthi kāyo’’ti eva-saddo luttaniddiṭṭhoti **‘‘kāyova atthī’’**ti vatvā avadhāraṇena nivattitaṃ dassento **‘‘na satto’’**tiādimāha. Tassattho – yo rūpādīsu sattavisattatāya, paresañca sajjāpanaṭṭhena, satvaguṇayogato vā **‘‘satto’’**ti parehi parikappito, tassa sattanikāyassa pūraṇato ca cavanupapajjanadhammatāya galanato ca **‘‘puggalo’’**ti, thīyati saṃhaññati ettha gabbhoti **‘‘itthī’’**ti, puri pure bhāge seti pavattatīti **‘‘puriso’’**ti, āhito ahaṃ māno etthāti **‘‘attā’’**ti, attano santakabhāvena **‘‘attaniya’’**nti, paro na hotīti katvā **‘‘aha’’**nti, mama santakanti katvā **‘‘mamā’’**ti, vuttappakāravinimutto aññoti katvā **‘‘kocī’’**ti, tassa santakabhāvena **‘‘kassacī’’**ti, vikappetabbo koci natthi, kevalaṃ **‘‘kāyo eva atthī’’**ti. Dasahipi padehi attattaniyasuññatameva kāyassa vibhāveti. Evanti ‘‘kāyova atthī’’tiādinā vuttappakārena.
内外の随観のように、対象の相違により、生起法と滅壊法の随観も一時に得られることはないため、「時に生起を、時に滅壊を随観しながら」と述べた。「身がある」において、「〜のみ(eva)」という語が省略されて示されているため、「身のみがある」と述べて限定によって否定されたものを示すために「有情ではなく…」などと述べた。その意味は、色などに執着・固着することから、また他者を執着させることから、あるいは有情(satva)の徳を備えることから、他者によって「有情(satta)」と構想されたもの、その有情の集団を満たすことから、また死んで転生する性質により流転することから「人(puggala)」と、ここに胎児が宿り集まることから「女(itthī)」と、前方に進み活動することから「男(purisa)」と、ここに我執(エゴ)が置かれることから「我(attā)」と、自分のものであることから「我がもの(attaniya)」と、他者ではないとして「私(ahaṃ)」と、私のものであるとして「私のもの(mama)」と、前述の様態を離れた他者として「誰か(koci)」と、その人のものであることから「誰かの(kassaci)」と構想されるべき何者も存在せず、ただ「身のみが存在する」ということである。これら十の語によっても、身における「我」および「我がもの」の空性のみを明らかにしている。「このように」とは、「身のみがある」などと述べられた様態によって、ということである。
Ñāṇapamāṇatthāyāti kāyānupassanāñāṇaṃ paraṃ pamāṇaṃ pāpanatthāya. Satipamāṇatthāyāti kāyapariggāhikaṃ satiṃ pavattanasatiṃ paraṃ pamāṇaṃ pāpanatthāya. Imassa hi vuttanayena ‘‘atthi kāyo’’ti aparāparuppattivasena paccupaṭṭhitā sati bhiyyoso mattāya tattha ñāṇassa, satiyā ca paribrūhanāya hoti. Tenāha **‘‘satisampajaññānaṃ vuḍḍhatthāyā’’**ti. Imissā bhāvanāya taṇhādiṭṭhiggāhānaṃ ujupaṭipakkhattā vuttaṃ **‘‘taṇhā…pe… viharatī’’**ti. Tathābhūto ca loke kiñcipi ‘‘aha’’nti vā ‘‘mama’’nti vā gahetabbaṃ na passati, kuto gaṇheyyāti āha **‘‘na ca kiñcī’’**tiādi. Evampīti ettha pi-saddo heṭṭhā niddiṭṭhassa tādisassa atthassa abhāvato avuttasamuccayatthoti dassento **‘‘upari atthaṃ upādāyā’’**ti āha yathā ‘‘antamaso tiracchānagatāyapi, ayampi pārājiko hotī’’ti. (Pārā. 42) evanti pana niddiṭṭhākārassa paccāmasanaṃ nigamanavasena katanti āha **‘‘iminā pana…pe… dassetī’’**ti.
「智の量のため」とは、身随観の智をさらに高き限度に至らせるためである。「念の量のため」とは、身を把握する念、生起している念をさらに高き限度に至らせるためである。実に、述べられた方法によって「身がある」と繰り返し生起することによって現前した念は、そこにおける智と念とをさらに大いに増大させることになる。それゆえ「念と正知の増大のため」と述べられた。この修習は渇愛や悪見の執着と正反対に対立するものであるため、「渇愛…(中略)…住する」と述べられた。そしてそのようになった者は、世間において何一つとして「私」とか「私のもの」と捉えるべきものを見出さないのに、どうして執着しようかという意で「何ものにも…」などと述べた。「このようにしてもまた」における「〜もまた(pi)」という語は、前に示されたそのような意味が存在しないことから、述べられていないものを併合する意味であることを示して、「上の意味に基づいて」と述べた。例えば「下は畜生の牝にいたるまで、この者もまた波羅夷となる」というがごとしである。一方、「このように」とは、示された様態を結論として振り返ってなされたものであることを示して、「これによって…(中略)…示す」と述べた。
Pubbabhāgasatipaṭṭhānassa idha adhippetattā vuttaṃ **‘‘sati dukkhasacca’’**nti. Sā pana sati yasmiṃ attabhāve, tassa samuṭṭhāpikā taṇhā, tassāpi samuṭṭhāpikā eva nāma hoti tadabhāve abhāvatoti āha **‘‘tassā samuṭṭhāpikā purimataṇhā’’**ti, yathā ‘‘saṅkhārapaccayā’’ti (ma. ni. 3.126; udā. 1; vibha. 484). Taṃviññāṇabījataṃsantatisambhūto sabbopi lokiyo viññāṇappabandho ‘‘saṅkhārapaccayā viññāṇaṃ’’ tveva vuccati suttantanayena. Appavattīti appavattinimittaṃ, ubhinnaṃ appavattiyā nimittabhūtoti attho. Na pavattati etthāti vā **appavatti. ‘‘Dukkhaparijānano’’**tiādi ekantato catukiccasādhanavaseneva ariyamaggassa pavattīti dassetuṃ vuttaṃ. Avuttasiddho hi tassa bhāvanāpaṭivedho. Catusaccavasenāti catusaccakammaṭṭhānavasena. Ussakkitvāti visuddhiparamparāya āruhitvā, bhāvanaṃ upari netvāti attho. Niyyānamukhanti vaṭṭadukkhato nissaraṇūpāyo.
ここでは前駆の念処が意図されているため、「念は苦聖諦である」と説かれた。その念が存する個体(身心)を立ち上げるものは渇愛であり、それ(念)を立ち上げるものでもある。なぜなら渇愛が存在しなければ存在しないからである。それゆえ「それを生起させる以前の渇愛」と述べた。例えば「行の縁によって」というがごとしである。その意識の種子、その相続から生じた一切の世間的な意識の連続は、経の教理によれば「行の縁によって意識が生じる」と説かれる。「不行」とは、不行の相、すなわち両者(苦と集)の不行の因となるものの意味である。あるいは、これにおいて生起しないことから「不行(涅槃)」である。「苦を遍知する」などは、聖道が四諦の働きを確実に果たすことによってのみ生起することを示すために述べられた。実に、その修習による通達は、言わずとも成就しているからである。「四諦によって」とは、四諦の業処によって、ということである。「向上して」とは、清浄の階梯を登って、修習をさらに上に導いて、という意味である。「出離の道」とは、輪廻の苦からの脱出の手段のことである。
Ānāpānapabbavaṇṇanā niṭṭhitā.
出入息節の註解を終わる。
Iriyāpathapabbavaṇṇanā
威儀路節の註解
375. Iriyāpathavasenāti iriyanaṃ iriyā, kiriyā, idha pana kāyikapayogo veditabbo. Iriyānaṃ patho pavattimaggoti iriyāpatho, gamanādivasena pavattā sarīrāvatthā. Gacchanto vā hi satto kāyena kātabbakiriyaṃ karoti ṭhito vā nisinno vā nipanno vāti, tesaṃ iriyāpathānaṃ vasena, iriyāpathavibhāgenāti attho. Puna caparanti puna ca aparaṃ, yathāvuttaānāpānakammaṭṭhānato bhiyyopi aññaṃ kāyānupassanākammaṭṭhānaṃ kathemi, suṇāthāti vā adhippāyo. **‘‘Gacchanto vā’’**tiādi gamanādimattajānanassa, gamanādigatavisesajānanassa ca sādhāraṇavacanaṃ, tattha gamanādimattajānanaṃ na idha nādhippetaṃ, gamanādigatavisesajānanaṃ pana adhippetanti taṃ vibhajitvā dassetuṃ **‘‘tattha kāma’’**ntiādi vuttaṃ. Sattūpaladdhinti ‘‘satto atthī’’ti upaladdhiṃ sattaggāhaṃ. Na pajahati na pariccajati ‘‘ahaṃ gacchāmi, mama gamana’’nti gāhasabbhāvato. Tato eva attasaññaṃ ‘‘atthi attā kārako vedako’’ti evaṃ pavattaṃ viparītasaññaṃ na ugghāṭeti nāpaneti appaṭipakkhabhāvato, ananubrūhanato vā. Evaṃ bhūtassa cassa kuto kammaṭṭhānādibhāvoti āha **‘‘kammaṭṭhānaṃ vā satipaṭṭhānabhāvanā vā na hotī’’**ti. **‘‘Imassa panā’’**tiādi sukkapakkho, tassa vuttavipariyāyena attho veditabbo. Tameva hi atthaṃ vivarituṃ **‘‘idañhī’’**tiādi vuttaṃ.
375. 「威儀路によって」について、振る舞うことが威儀(iriyā)であり、動作である。しかしここでは身体的な働きと理解されるべきである。威儀の路、生起の道が威儀路(iriyāpatha)であり、歩行などによって生じる身体の状態である。実に有情は、歩きながら、あるいは立ちながら、座りながら、横たわりながら、身体によってなされるべき動作を行う。それらの威儀路によって、すなわち威儀路の区分によって、という意味である。「さらにまた」とは、さらにまた別の、前述の出入息の業処からさらに他の身随観の業処を説くので聞きなさい、という意図である。「歩きながら…」などは、単に歩行などを知ることと、歩行などにおける特質を知ることの双方に通じる言葉であるが、ここでは単に歩行などを知ることが意図されているのではなく、歩行などにおける特質を知ることが意図されているのであり、それを区分して示すために「そこにおいて確かに…」などと述べられた。「有情の認識」とは、「有情が存在する」という認識、有情の執着である。「私は歩く、私の歩行である」という執着が存在するため、それを捨てず、手放さない。それゆえに「行為者であり享受者である我(アートマン)が存在する」というように生じた転倒した想を打破せず、除去しない。対治するものがなく、育てられないからである。このような状態にある者にどうして業処などがありえようか、という意で「業処にも念処の修習にもならない」と述べた。「一方、この者には…」などは清浄の側であり、その意味は述べられたことの反対として理解されるべきである。実にその意味を解き明かすために「これ実に…」などと述べられた。
Tattha ko gacchatīti sādhanaṃ, kiriyañca avinibbhuttaṃ katvā gamanakiriyāya kattupucchā, sā kattubhāvavisiṭṭhaattapaṭikkhepatthā dhammamattasseva gamanasiddhidassanato. Kassa gamananti tamevatthaṃ pariyāyantarena vadati sādhanaṃ, kiriyañca vinibbhuttaṃ katvā gamanakiriyāya akattusambandhībhāvavibhāvanato. Paṭikkhepatthañhi antonītaṃ katvā ubhayatthaṃ kiṃ-saddo pavatto. Kiṃ kāraṇāti pana paṭikkhittakattukāya gamanakiriyāya aviparītakāraṇapucchā. Idañhi gamanaṃ nāma attā manasā saṃyujjati, mano indriyehi, indriyāni attehīti evamādi micchākāraṇavinimuttaanurūpapaccayahetuko dhammānaṃ pavattiākāraviseso. Tenāha **‘‘tatthā’’**tiādi.
そこで、「誰が歩くのか」とは、手段(主語)と動作とを未分化にして歩行の動作の行為者を問うものであり、それは行為者という特質を持つ我(アートマン)を否定することを目的とし、単なる諸法のみの歩行の成就を示すためである。「誰の歩行か」とは、同じ意味を別の表現で述べたものであり、手段と動作とを区別して歩行の動作に行為者との関係がないことを明らかにするためである。否定の意味を内包させて、両者において「何(kiṃ)」という語が用いられている。「何の理由によってか」とは、行為者を否定された歩行の動作の無転倒なる原因についての問いである。実にこの歩行とは、「我(アートマン)が意と結びつき、意が諸根と結びつき、諸根が対象と結びつく」といった誤った原因を離れた、適切な条件・原因による諸法の生起の特殊な様態である。それゆえ「そこにおいて…」などと述べた。
Na koci satto vā puggalo vā gacchati dhammamattasseva gamanasiddhito, tabbinimuttassa ca kassaci abhāvato. Idāni dhammamattasseva gamanasiddhiṃ dassetuṃ **‘‘cittakiriyāvāyodhātuvipphārenā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha cittakiriyā ca sā, vāyodhātuyā vipphāro vipphandanañcāti cittakiriyāvāyodhātuvipphāro, tena. Ettha ca cittakiriyaggahaṇena anindriyabaddhavāyodhātuvipphāraṃ nivatteti, vāyodhātuvipphāraggahaṇena cetanāvacīviññattibhedaṃ cittakiriyaṃ nivatteti, ubhayena pana kāyaviññattiṃ vibhāveti. **‘‘Gacchatī’’**ti vatvā yathā pavattamāne kāye ‘‘gacchatī’’ti vohāro hoti, taṃ dassetuṃ **‘‘tasmā’’**tiādi vuttaṃ. Tanti gantukāmatāvasena pavattacittaṃ. Vāyaṃ janetīti vāyodhātuadhikaṃ rūpakalāpaṃ uppādeti, adhikatā cettha sāmatthiyato, na pamāṇato. Gamanacittasamuṭṭhitaṃ sahajātarūpakāyassa thambhanasandhāraṇacalanānaṃ paccayabhūtena ākāravisesena pavattamānaṃ vāyodhātuṃ sandhāyāha **‘‘vāyo viññattiṃ janetī’’**ti. Adhippāyasahabhāvī hi vikāro viññatti. Yathāvuttaadhikabhāveneva ca vāyogahaṇaṃ, na vāyodhātuyā eva janakabhāvato, aññathā viññattiyā upādāyarūpabhāvo durupapādo siyā. Purato abhinīhāro puratobhāgena kāyassa pavattanaṃ, yo ‘‘abhikkamo’’ti vuccati.
何らの有情も人も歩くことはない。単なる諸法のみの歩行が成就するからであり、それらを離れた何ものも存在しないからである。今、単なる諸法のみの歩行の成就を示すために、「心作風界の拡散によって…」などと述べられた。そこにおいて、心作であり、かつ風界の拡散・振動であることから「心作風界の拡散」であり、それによって、ということである。そしてここでは、「心作」という言葉によって根(感覚器官)に拘束されない風界の拡散を除外し、「風界の拡散」という言葉によって思・語表色という種類の心作を除外し、両者によって身表色を明らかにしている。「歩く」と述べて、身体が機能しているときにどのように「歩く」という世間の表現がなされるかを示すために、「それゆえに…」などと述べた。「それを」とは、歩こうとする意図によって生じた心のことである。「風を生じる」とは、風界が優勢な色聚(物質単位)を生じさせることであり、ここでの優勢とは力によるものであって量によるものではない。歩行の心から生じ、同時に生じた色身を支え、維持し、動かす条件となった特殊な様態で生じる風界を指して「風が表色を生じさせる」と述べた。意図に伴う変異が表色だからである。また前述のように優勢であることによってのみ風の把握があるのであり、風界のみが生じさせるのではない。そうでなければ、表色が開現色(所造色)であることが論証しにくくなるであろう。「前方への運搬」とは、前方へ身体が進むことであり、それが「前進」と呼ばれる。
**‘‘Eseva nayo’’**ti atidesena saṅkhepato vatvā tamatthaṃ vivarituṃ **‘‘tatrāpi hī’’**tiādi vuttaṃ. Koṭito paṭṭhāyāti heṭṭhimakoṭito paṭṭhāya pādatalato paṭṭhāya. Ussitabhāvoti ubbiddhabhāvo.
「この方法が同じである」と類推によって簡潔に述べて、その意味を解き明かすために「そこにおいても実に…」などと述べた。「端から」とは、下端から、すなわち足の裏から、ということである。「直立した状態」とは、真っ直ぐに立った状態のことである。
Evaṃ pajānatoti evaṃ cittakiriyavāyodhātuvipphāreneva gamanādi hotīti pajānato. Tassa evaṃ pajānanāya nicchayagamanatthaṃ **‘‘evaṃ hotī’’**ti vicāraṇā vuccati loke yathābhūtaṃ ajānantehi micchābhinivesavasena, lokavohāravasena vā. Atthi panāti attano evaṃ vīmaṃsanavasena pucchāvacanaṃ. Natthīti nicchayavasena sattassa paṭikkhepavacanaṃ. **‘‘Yathā panā’’**tiādi tasseva atthassa upamāya vibhāvanaṃ, taṃ suviññeyyameva.
「このように知る者」とは、このように心作の風界の拡散によってのみ歩行などが起こると知る者のことである。そのように知る者にとって、確信に至るために「このようにあるのか」という考察が、世間においてあるがままを知らない者たちによる誤った執着によって、あるいは世俗の表現によって語られる。「しかし、存在するのか」とは、自身のこのような吟味による問いの言葉である。「存在しない」とは、確信による有情の否定の言葉である。「しかし、例えば…」などは、その意味を譬喩によって明らかにするものであり、それは極めて理解しやすい。
Nāvā mālutavegenāti yathā acetanā nāvā vātavegena desantaraṃ yāti, yathā ca acetano tejanaṃ kaṇḍo jiyāvegena desantaraṃ yāti, tathā acetano kāyo vātāhato yathāvuttavāyunā nīto desantaraṃ yātīti evaṃ upamāsaṃsandanaṃ veditabbaṃ. Sace pana koci vadeyya ‘‘yathā nāvātejanānaṃ pellakassa purisassa vasena desantaragamanaṃ, evaṃ kāyassāpī’’ti, hotu, evaṃ icchito vāyamattho yathā hi nāvātejanānaṃ saṃhatalakkhaṇasseva purisassa vasena gamanaṃ, na asaṃhatalakkhaṇassa, evaṃ kāyassāpīti. Kā no hāni, bhiyyopi dhammamattatāva patiṭṭhaṃ labhati, na purisavādo. Tenāha **‘‘yantasuttavasenā’’**tiādi.
「風の力による舟」とは、例えば無心の舟が風の力によって他所へ行くように、また無心の矢が弓弦の力によって他所へ行くように、そのように無心の身体が風に打たれ、前述の風によって運ばれて他所へ行く、とこのように譬喩の照合を理解すべきである。しかし、もし誰かが「舟や矢がそれを推進する人の力によって他所へ行くように、身体もまたそうである」と言うならば、よし、そのように望まれたとしても、舟や矢が集合の特質を持つ人によってのみ進むのであって、非集合の特質によるのではないように、身体もまたそうである。我らに何の損害があろうか。いっそう単なる法にすぎないことのみが成立するのであり、人(アートマン)の説が成立するのではない。それゆえ「からくり人形の綱の力によって…」などと述べた。
Tattha payuttanti heṭṭhā vuttanayena gamanādikiriyāvasena paccayehi payojitaṃ. Ṭhātīti tiṭṭhati. Etthāti imasmiṃ loke. Vinā hetupaccayeti gantukāmatācittataṃsamuṭṭhānavāyodhātuādihetupaccayehi vinā. Tiṭṭheti tiṭṭheyya. Vajeti vajeyya gaccheyya ko nāmāti sambandho. Paṭikkhepattho cettha kiṃ-saddoti hetupaccayavirahena ṭhānagamanapaṭikkhepamukhena sabbāyapi dhammappavattiyā paccayādhīnavuttitāvibhāvanena attasuññatā viya aniccadukkhatāpi vibhāvitāti daṭṭhabbā.
そこにおいて「用いられた」とは、前述の方法によって歩行などの動作によって諸条件に駆動された、ということである。「立つ」とは、静止することである。「ここに」とは、この世において、ということである。「原因や条件なしに」とは、歩こうとする意図の心やそれから生じる風界などの原因・条件なしに、ということである。「立つであろうか」とは、立つだろうか。「歩むであろうか」とは、歩むだろうか、歩くだろうか、一体誰が、と結びつけられる。ここでの「何(kiṃ)」という語は否定の意味であり、原因や条件なしに立つことや歩行することを否定することを通じて、一切の法の生起が条件に依存して機能することを明らかにすることにより、無我性とともに無常・苦性も明らかにされたと見なされるべきである。
Paṇihitoti yathā yathā paccayehi pakārehi nihito ṭhapito. Sabbasaṅgāhikavacananti sabbesampi catunnaṃ iriyāpathānaṃ ekajjhaṃ saṅgaṇhanavacanaṃ, pubbe visuṃ visuṃ iriyāpathānaṃ vuttattā idaṃ nesaṃ ekajjhaṃ gahetvā vacananti attho. Purimanayo vā iriyāpathappadhāno vuttoti tattha kāyo appadhāno anunipphādīti idha kāyaṃ padhānaṃ, apadhānañca iriyāpathaṃ anunipphādiṃ katvā dassetuṃ dutiyanayo vuttoti evampettha dvinnaṃ nayānaṃ viseso veditabbo. Ṭhitoti pavatto.
「置かれた」とは、諸条件や様態によって置かれた、配置された、ということである。「すべてを包摂する言葉」とは、四つの威儀路のすべてを一括して包摂する言葉であり、以前には個別に威儀路が説かれたため、これはそれらを一括して捉えた言葉である、という意味である。あるいは、前の方法は威儀路が主であると説かれたため、そこでは身体は従であり副次的に生じるものであるが、ここでは身体を主とし、副次的なものとして威儀路を生じるものとして示すために第二の方法が説かれた、とこのようにこの二つの方法の差異を理解すべきである。「とどまった」とは、生起した、ということである。
Iriyāpathapariggaṇhanampi iriyāpathavato kāyasseva pariggaṇhanaṃ tassa avatthāvisesabhāvatoti vuttaṃ **‘‘iriyāpathapariggaṇhanena kāye kāyānupassī viharatī’’**ti. Tenevettha rūpakkhandhavaseneva samudayādayo uddhaṭā. Esa nayo sesavāresupi. Ādināti ettha ādi-saddena yathā ‘‘taṇhāsamudayā kammasamudayā āhārasamudayā’’ti nibbattilakkhaṇaṃ passantopi rūpakkhandhassa udayaṃ passatīti ime cattāro ākārā saṅgayhanti, evaṃ ‘‘avijjānirodhā’’ti ādayopi pañca ākārā saṅgahitāti daṭṭhabbā. Sesaṃ vuttanayameva.
威儀路の把握もまた、威儀路を持つ身体自体の把握である。それは身体の特定の状態だからである。それゆえ「威儀路の把握によって身において身を随観して住する」と述べられた。それゆえにここでは色蘊の立場からのみ生起などが抽出されている。この方法は他の節においても同様である。「〜などによって」において、「など」という語によって、「渇愛の生起により、業の生起により、食の生起により」と生起の特質を見る者も色蘊の生起を見る、というこれら四つの様態が包摂されるように、「無明の止滅により…」などの五つの様態も包摂されていると見なされるべきである。残りはすでに述べられたとおりである。
Iriyāpathapabbavaṇṇanā niṭṭhitā.
威儀路節の註解を終わる。
Catusampajaññapabbavaṇṇanā
四正知節の註解
376. Catusampajaññavasenāti samantato pakārehi, pakaṭṭhaṃ vā savisesaṃ jānātīti sampajāno, sampajānassa bhāvo sampajaññaṃ, tathāpavattaṃ ñāṇaṃ, hatthavikārādibhedabhinnattā cattāri sampajaññāni samāhaṭāni catusampajaññaṃ, tassa vasena. ‘‘Abhikkante’’tiādīni sāmaññaphale (dī. ni. aṭṭha. 1.214; dī. ni. ṭī. 1.214 vākyakhandhepi) vaṇṇitāni, na puna vaṇṇetabbāni, tasmā taṃtaṃsaṃvaṇṇanāya līnatthappakāsanāpi tattha vihitanayeneva gahetabbā. ‘‘Abhikkante paṭikkante sampajānakārī hotī’’tiādi vacanato abhikkamādigatacatusampajaññapariggaṇhanena rūpakāyassevettha samudayadhammānupassitādi adhippetoti āha ‘‘rūpakkhandhasseva samudayo ca vayo ca **nīharitabbo’’**ti. Rūpadhammānaṃyeva hi pavattiākāravisesā abhikkamādayoti. Sesaṃ vuttanayameva.
376. 「四正知によって」について、あまねく様態において、あるいは勝れて特別に知るゆえに正知(sampajāno)であり、正知である人の状態が正知(sampajañña、明らかな知解)、そのように生起した智である。手の動作などの区分によって分けられることから四つの正知が集められて四正知であり、それによって、ということである。「行くとき…」などは『沙門果経』において説明されており、再び説明される必要はない。したがって、それぞれの註釈における深遠な意味の解明も、そこで規定された方法に従って理解されるべきである。「行くとき、退くときに正知をなす者となる…」などの言葉から、前進などにおける四正知を把握することによって、ここでは色身自体の生起法の随観などが意図されているのであり、それゆえ「色蘊の生起と滅壊のみが導き出されるべきである」と述べた。実に色法の生起の特殊な様態こそが前進などだからである。残りはすでに述べられたとおりである。
Catusampajaññapabbavaṇṇanā niṭṭhitā.
四正知節の註解を終わる。
Paṭikkūlamanasikārapabbavaṇṇanā
厭逆作意節の註解
377. Paṭikkūlamanasikāravasenāti jigucchanīyatāya paṭikūlameva paṭikkūlaṃ, yo paṭikkūlasabhāvo paṭikkūlākāro, tassa manasi karaṇavasena. Antarenāpi hi bhāvavācinaṃ saddaṃ bhāvattho viññāyati yathā ‘‘paṭassa sukka’’nti. Yasmā visuddhimagge (visuddhi. 1.182) vuttaṃ, tasmā tattha, taṃsaṃvaṇṇanāyañca (visuddhi. ṭī. 1.182 ādayo) vuttanayena ‘‘imameva kāya’’nti ādīnamattho veditabbo.
377. 「厭逆作意によって」について、嫌悪すべきものであることから厭逆そのものが厭逆(paṭikkūla)であり、厭逆なる本性・厭逆の様相を作意することによって、ということである。実に、状態を表す言葉を伴わなくても「布の白さ」のように状態の意味は理解される。『清浄道論』に説かれているので、そこにおいて、またその註釈において説かれた方法によって「まさにこの身を…」などの意味を理解すべきである。
Vatthādīhi pasibbakākārena bandhitvā kataṃ āvāṭanaṃ putoḷi. Nānākārā ekasmiṃ ṭhāne sammissāti ettāvatā nānāvaṇṇānaṃ kesādīnañca upameyyatā. Vibhūtakāloti paṇṇattiṃ samatikkamitvā kesādīnaṃ asubhākārassa upaṭṭhitakālo. Iti-saddassa ākāratthataṃ dassento ‘‘eva’’nti vatvā taṃ ākāraṃ sarūpato dassento **‘‘kesādipariggaṇhanenā’’**tiādimāha. Kesādisaññitānañhi asucibhāvānaṃ paramaduggandhajegucchapaṭikkūlākārassa samudayato anupassanā idha kāyānupassanāti. Sesaṃ vuttanayameva.
布などで袋の形に縛って作った覆いが包み(putoḷi)である。「種々のものが一箇所に混ざり合っている」というこれによって、種々の色の髪などの被喩物が示される。「明瞭となった時」とは、概念(施設)を超越して髪などの不浄の様相が現前した時のことである。「〜と(iti)」という語が様態の意味であることを示すために「このように」と述べて、その様態を具体的に示すために「髪などを把握することによって…」などと述べた。実に、髪などと名づけられた不浄なるものの、極めて悪臭を放ち嫌悪すべき厭逆の様相を生起から随観することが、ここでの身随観である。残りはすでに述べられたとおりである。
Paṭikkūlamanasikārapabbavaṇṇanā niṭṭhitā.
厭逆作意節の註解を終わる。
Dhātumanasikārapabbavaṇṇanā
界作意節の註解
378. Dhātumanasikāravasenāti pathavīdhātuādikā catasso dhātuyo ārabbha pavattabhāvanāmanasikāravasena, catudhātuvavatthānavasenāti attho. Dhātumanasikāro, dhātukammaṭṭhānaṃ, catudhātuvavatthānanti hi atthato ekaṃ. Goghātakoti jīvikatthāya gunnaṃ ghātako. Antevāsikoti kammakaraṇavasena tassa samīpavāsī taṃ nissāya jīvanako. Vinivijjhitvāti ekasmiṃ ṭhāne aññamaññaṃ vinivijjhitvā. Mahāpathānaṃ vemajjhaṭṭhānasaṅkhāteti catunnaṃ mahāpathānaṃ tāya eva vinivijjhanaṭṭhānatāya vemajjhasaṅkhāte. Yasmā te cattāro mahāpathā catūhi disāhi āgantvā tattha samohitā viya honti, tasmā taṃ ṭhānaṃ catumahāpathaṃ, tasmiṃ catumahāpathe. Ṭhita-saddo ‘‘ṭhito vā’’tiādīsu (dī. ni. 1.263; a. ni. 5.28) ṭhānasaṅkhātairiyāpathasamaṅgitāya, ṭhā-saddassa vā gatinivattiatthatāya aññattha ṭhapetvā gamanaṃ sesairiyāpathasamaṅgitāya bodhako, idha pana yathā tathā rūpakāyassa pavattiākārabodhako adhippetoti āha **‘‘catunnaṃ iriyāpathānaṃ yena kenaci ākārena ṭhitattā yathā ṭhita’’**nti. Tattha ākārenāti ṭhānādinā rūpakāyassa pavattiākārena. Ṭhānādayo hi iriyāpathasaṅkhātāya kiriyāya patho pavattimaggoti ‘‘iriyāpatho’’ti vuccantīti vutto vāyamattho. Yathāṭhitanti yathāpavattaṃ, yathāvuttaṃ ṭhānamevettha paṇidhānanti adhippetanti āha **‘‘yathā ṭhitattā ca yathāpaṇihita’’**nti. **‘‘Ṭhita’’**nti vā kāyassa ṭhānasaṅkhātairiyāpathasamāyogaparidīpanaṃ, **‘‘paṇihita’’**nti tadaññairiyāpathasamāyogaparidīpanaṃ. **‘‘Ṭhita’’**nti vā kāyasaṅkhātānaṃ rūpadhammānaṃ tasmiṃ tasmiṃ khaṇe sakiccavasena avaṭṭhānaparidīpanaṃ, paṇihitanti paccayavasena tehi tehi paccayehi pakārato nihitaṃ paṇihitanti evampettha attho veditabbo. Paccavekkhatīti pati pati avekkhati, ñāṇacakkhunā vinibbhujjitvā visuṃ visuṃ passati.
378. 「界作意によって」について、地界などの四大界を対象として生じる修習作意によって、すなわち四大界の分別によって、という意味である。界作意、界の業処、四大界の分別とは、実質的に同一である。「牛殺し」とは、生計のために牛を屠殺する者のことである。「弟子」とは、作業をすることによって彼の近くに住み、彼に依存して生計を立てる者のことである。「交差させて」とは、一つの場所で互いに交差させて、ということである。「大路の中央と呼ばれる場所において」とは、四大路がまさに交差する場所であることから中央と呼ばれる場所において、ということである。それら四つの大路が四方からやって来てそこで合流しているようであるため、その場所を四衢(十字路)といい、その十字路において、ということである。「とどまる」という語は、「立っているか…」などにおいて、静止と呼ばれる威儀路を備えていること、あるいは動詞「立(ṭhā)」が移動を停止する意味であることから、歩行を除いた他の威儀路を備えていることを示すものであるが、ここでは色身のどのような生起の様相であれそれを示すものとして意図されているため、「四つの威儀路のいずれかの様相によってとどまっていることから、とどまるがままに」と述べた。そこにおいて「様相によって」とは、静止などの色身の生起の様相によって、ということである。静止などは威儀路と呼ばれる動作の路、生起の道であることから「威儀路」と呼ばれる、とこの意味はすでに述べられた。「とどまるがままに」とは生起するがままに、であり、前述の静止そのものがここでの配置であると意図されているので、「とどまるがままに、また置かれたるがままに」と述べた。あるいは、「とどまる」とは身体の静止と呼ばれる威儀路の結合を明示し、「置かれた」とはそれ以外の威儀路の結合を明示する。あるいは、「とどまる」とは身と呼ばれる色法がその時々の瞬間において自らの働きによってとどまることを明示し、「置かれた」とは諸条件によって、それらの諸条件により種々の様態で置かれたものを配置されたという、とこのようにもここでの意味を理解すべきである。「省察する」とは、繰り返し省察する、知恵の眼によって分別して個別に観察する、ということである。
Idāni vuttamevatthaṃ bhāvatthavibhāvanavasena dassetuṃ **‘‘yathā goghātakassā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha posentassāti maṃsūpacayaparibrūhanāya kuṇḍakabhattakappāsaṭṭhiādīhi saṃvaḍḍhentassa. Vadhitaṃ matanti hiṃsitaṃ hutvā mataṃ. Matanti ca matamattaṃ. Tenevāha **‘‘tāvadevā’’**ti. Gāvīti saññā na antaradhāyatīti yāni aṅgapaccaṅgāni yathāsanniviṭṭhāni upādāya gāvīsamaññā matamattāyapi gāviyā tesaṃ taṃsannivesassa avinaṭṭhattā. Vilīyanti bhijjanti vibhujjantīti bīlā, bhāgā va-kārassa ba-kāraṃ, ikārassa ca īkāraṃ katvā. Bīlasoti bīlaṃ bīlaṃ katvā. Vibhajitvāti aṭṭhisaṅghātato maṃsaṃ vivecetvā, tato vā vivecitaṃ maṃsaṃ bhāgaso katvā. Tenevāha **‘‘maṃsasaññā pavattatī’’**ti. Pabbajitassāpi apariggahitakammaṭṭhānassa. Ghanavinibbhoganti santatisamūhakiccaghanānaṃ vinibbhujjanaṃ vivecanaṃ. Dhātuso paccavekkhatoti ghanavinibbhogakaraṇena dhātuṃ dhātuṃ pathavīādidhātuṃ visuṃ visuṃ katvā paccavekkhantassa. Sattasaññāti attānudiṭṭhivasena pavattā sattasaññāti vadanti, vohāravasena pavattasattasaññāyapi tadā antaradhānaṃ yuttameva yāthāvato ghanavinibbhogassa sampādanato. Evañhi sati yathāvuttaopammatthena upameyyattho aññadatthu saṃsandati sameti. Tenevāha **‘‘dhātuvaseneva cittaṃ santiṭṭhatī’’**ti. Dakkhoti cheko taṃtaṃsamaññāya kusalo ‘‘yathājāte sūnasmiṃ naṅguṭṭhakhuravisāṇādivante aṭṭhimaṃsādiavayavasamudāye avibhatte gāvīsamaññā, na vibhatte. Vibhatte pana aṭṭhimaṃsādiavayavasamaññā’’ti jānanato. Catumahāpatho viya catuiriyāpathoti gāviyā ṭhitacatumahāpatho viya kāyassa pavattimaggabhūto catubbidho iriyāpatho yasmā visuddhimagge (visuddhi. 1.305) vitthāritā, tasmā tattha, taṃsaṃvaṇṇanāyañca (visuddhi. ṭī. 1.306) vuttanayena veditabbo. Sesaṃ vuttanayameva.
今、述べられた意味を状態の解説によって示すために、「例えば牛殺しが…」などと述べられた。そこにおいて「養う者にとって」とは、肉を増やし肥育するために糠や飯や綿の実などで飼育する者にとって、ということである。「殺されて死んだ」とは、害されて死んだ、ということである。「死んだ」とは、死んだばかりの、ということである。それゆえに「その時までは」と述べた。「牝牛であるという想いは消え去らない」とは、それらが配置されていることに基づいて「牝牛」という名称が与えられる手足などの部分が、死んだばかりの牝牛であってもそれらの配置が壊れていないからである。切り分けられ、分割され、分けられるから「部分(bīla)」であり、v音をb音とし、i音をī音としている。「部分ごとに」とは、部分部分に分けて、ということである。「切り分けて」とは、骨の集まりから肉を切り離して、あるいはそこから切り離した肉を各部分にして、ということである。それゆえに「肉という想いが生じる」と述べた。出家者であっても業処を把握していない者にとって(同様である)。「塊の解体」とは、相続の塊・集合の塊・機能の塊を解体し、分別することである。「界として省察する者」とは、塊の解体をなすことによって、界ごとに、地界などの界を個別に分けて省察する者のことである。「有情という想い」とは、我が身への執着によって生じた有情想であると説かれるが、世俗の表現によって生じた有情想も、その時に正しく塊の解体がなされることによって消滅することは実に妥当である。このようにしてこそ、前述の譬喩の意味と被喩物の意味とがまさに一致し、符合するからである。それゆえに「界としてのみ心が定まる」と述べた。「巧みな」とは、熟達した、それぞれの名称に精通した者のことであり、「屠殺場にそのまま置かれ、尾・蹄・角などを持ち、骨・肉などの部分の集まりが分別されていないときには『牝牛』という名称があるが、分別されたときにはない。分別されたときには骨・肉などの部分の名称となる」と知る者だからである。四衢が四威儀路のようであるとは、牝牛が立っている四衢のように身体の生起の道である四種の威儀路のことであり、『清浄道論』において詳説されているので、そこにおいて、またその註釈において説かれた方法によって理解されるべきである。残りはすでに述べられたとおりである。
Dhātumanasikārapabbavaṇṇanā niṭṭhitā.
界作意節の註解を終わる。
Navasivathikapabbavaṇṇanā
九墓場節の註解
379. Sivathikāya apaviddhauddhumātakādipaṭisaṃyuttānaṃ odhiso pavattānaṃ kathānaṃ, tadabhidheyyānañca uddhumātakādiasubhabhāgānaṃ sivathikapabbānīti saṅgītikārehi gahitasamaññā. Tenāha **‘‘sivathikapabbehi vibhajitu’’**nti. Maritvā ekāhātikkantaṃ ekāhamataṃ. Uddhaṃ jīvitapariyādānāti jīvitakkhayato upari maraṇato paraṃ. Samuggatenāti samuṭṭhitena. Uddhumātattāti uddhaṃ uddhaṃ dhumātattā sūnattā. Setarattehi viparibhinnaṃ vimissitaṃ nīlaṃ vinīlaṃ, purimavaṇṇavipariṇāmabhūtaṃ vā nīlaṃ vinīlaṃ. Vinīlameva vinīlakanti ka-kārena padavaḍḍhanaṃ anatthantarato yathā ‘‘pītakaṃ lohitaka’’nti (dha. sa. 616). Paṭikkūlattāti jigucchanīyattā. Kucchitaṃ vinīlanti vinīlakanti kucchanattho vā ayaṃ ka-kāroti dassetuṃ vuttaṃ yathā ‘‘pāpako kittisaddo abbhuggacchatī’’ti. (Dī. ni. 3.316; a. ni. 5.213; mahāva. 285) paribhinnaṭṭhānehi kākakaṅkādīhi. Vissandamānapubbanti vissavantapubbaṃ, tahaṃ tahaṃ paggharantapubbanti attho. Tathābhāvanti vissandamānapubbabhāvaṃ.
379. 墓場に投げ捨てられた膨張死体などに関連して区分して説かれた言説、およびそれによって示されるべき膨張死体などの不浄の各部分について、結集の編纂者たちによって「墓場節」という名称が採用された。それゆえ「墓場節によって区分するために」と述べた。「死後一日が経過した」とは、一日前に死んだ、ということである。「命の尽きた後」とは、命の滅びの後、死の後、ということである。「生じた」とは、現れた、ということである。「膨張したことによって」とは、上へ上へと膨らんだことによって、膨らんでいることによって、ということである。白と赤によって変色し混ざり合った青黒色が「変青色」であり、あるいは元の色が変質した青黒色が「変青色」である。変青色そのものが変青(vinīlaka)であり、ka音による語の拡張は、「黄色(pītaka)」「赤色(lohitaka)」のように意味の違いはない。「厭逆であることから」とは、嫌悪すべきものであることから、ということである。嫌悪すべき変青色を変青(vinīlaka)という、あるいはこのka音は嫌悪の意味である、と示すために「悪しき評判が立ち上る」というがごとしであると述べた。「破られた場所から」とは、カラスや禿鷹などによって(破られた場所から、ということである)。「流れ出る膿」とは、流れる膿、あちこちから滴り落ちる膿、という意味である。「その状態」とは、膿が流れ出ている状態のことである。
So bhikkhūti yo ‘‘passeyya sarīraṃ sivathikāya chaḍḍita’’nti vutto, so bhikkhu. Upasaṃharati sadisataṃ. **‘‘Ayampi kho’’**tiādi upasaṃharaṇākāradassanaṃ. Āyūti rūpajīvitindriyaṃ, arūpajīvitindriyaṃ panettha viññāṇagatikameva. Usmāti kammajatejo. Evaṃ pūtikasabhāvoyevāti evaṃ ativiya duggandhajegucchapaṭikkūlapūbhikasabhāvo eva, na āyuādīnaṃ avigame viya mattasoti adhippāyo. Ediso bhavissatīti evaṃbhāvīti āha **‘‘evaṃ uddhumātādibhedo bhavissatī’’**ti.
「その比丘は」とは、「墓場に捨てられた死体を見るであろう」と説かれた、その比丘のことである。「引き比べる」とは、相似性を比べることである。「まさにこの(身も)…」などは、引き比べる様相を示すものである。「寿命」とは、色命根のことであり、ここでの無色命根は識の動きに含まれる。「温もり」とは、業生の火界のことである。「このように腐敗する本性そのものである」とは、このように極めて悪臭を放ち、嫌悪すべき厭逆な膿の本性そのものであり、寿命などが失われていないときのようにわずかばかりではない、という意図である。「このようになるであろう」とは、このようになる運命にある、ということであり、それゆえ「このように膨張などの状態になるであろう」と述べた。
Luñcitvā luñcitvāti uppāṭetvā uppāṭetvā. Sāvasesamaṃsalohitayuttanti sabbaso akhāditattā tahaṃ tahaṃ sesena appāvasesena maṃsalohitena yuttaṃ. ‘‘Aññena hatthaṭṭhika’’nti avisesena hatthaṭṭhikānaṃ vippakiṇṇatā jotitāti anavasesato tesaṃ vippakiṇṇataṃ dassento **‘‘catusaṭṭhibhedampī’’**tiādimāha.
「引きちぎり、引きちぎって」とは、引き裂き、引き裂いて、ということである。「肉と血の残りを伴う」とは、完全に食い尽くされていないため、あちこちにわずかに残った肉と血を伴っている、ということである。「あちらには手の骨」と無差別に手の骨が散乱していることが示されているため、それらが余すところなく散乱していることを示すために「六十四の区分までも…」などと述べた。
Terovassikānīti tirovassaṃ gatāni, tāni pana saṃvaccharaṃ vītivattāni hontīti āha **‘‘atikkantasaṃvaccharānī’’**ti. Purāṇatāya ghanabhāvavigamena vicuṇṇatā idha pūtibhāvoti so yathā hoti, taṃ dassento **‘‘abbhokāse’’**tiādimāha. Terovassikānevāti saṃvaccharamattātikkantāni eva. Khajjamānatādivasena dutiyasivathikapabbādīnaṃ vavatthāpitattā vuttaṃ **‘‘khajjamānatādīnaṃ vasena yojanā kātabbā’’**ti.
「一年を超えた」とは、雨期を越えたものであり、それらは一年を経過したものであるため、「一年を経過した」と述べた。年月が経って緻密さが失われることによる粉末化が、ここでの腐敗した状態であり、それがどのようになるかを示すために「吹きさらしの野外において…」などと述べた。「一年を超えたばかりのもの」とは、一年余りを経過したもののみ、ということである。第二の墓場節などは、食い荒らされていることなどによって規定されているため、「食い荒らされていることなどによって適用がなされるべきである」と述べられた。
Navasivathikapabbavaṇṇanā niṭṭhitā.
九墓場節の註解を終わる。
Imāneva dveti avadhāraṇena appanākammaṭṭhānaṃ tattha niyameti aññapabbesu tadabhāvato. Yato hi eva-kāro, tato aññattha niyameti, tena pabbadvayassa vipassanākammaṭṭhānatāpi appaṭisiddhā daṭṭhabbā aniccatādidassanato. Saṅkhāresu ādīnavavibhāvanāni sivathikapabbānīti āha **‘‘sivathikānaṃ ādīnavānupassanāvasena vuttattā’’**ti. Iriyāpathapabbādīnaṃ appanāvahatā pākaṭā evāti **‘‘sesāni dvādasapī’’**ti vuttaṃ. Yaṃ panettha atthato avibhattaṃ. Taṃ suviññeyyameva.
「まさにこれら二つのみ」という限定によって、安止定の業処をそこに限定している。他の節にはそれがないからである。実に限定辞(eva)があるところから、それ以外のものへと限定するのであり、それによって二つの節が毘鉢舎那の業処であることも、無常などの観察から否定されないと見なされるべきである。墓場節は諸行における過患を明らかにするものであるため、「墓場節は過患の随観によって説かれているため」と述べた。威儀路節などが安止定をもたらさないことは明白であるため、「残りの十二もまた」と述べられた。そこで意味において区別されていないものは、極めて理解しやすい。
Kāyānupassanāvaṇṇanā niṭṭhitā.
身随観の註解を終わる。
Vedanānupassanāvaṇṇanā
受随観の註解
380. Sukhaṃ vedananti ettha sukhayatīti sukhā. Sampayuttadhamme, kāyañca laddhassāde karotīti attho. Suṭṭhu vā khādati, khanati vā kāyikaṃ, cetasikañcābādhanti sukhā. ‘‘Sukaraṃ okāsadānaṃ etissāti **sukhā’’**ti apare. Vedayati ārammaṇarasaṃ anubhavatīti vedanā. Vedayamānoti anubhavamāno. **‘‘Kāma’’**ntiādīsu yaṃ vattabbaṃ, taṃ iriyāpathapabbe vuttanayameva. Sampajānassa vediyanaṃ sampajānavediyanaṃ.
380. 「楽受」において、楽にさせる(喜ばせる)から楽(sukhā)である。相応する法と身体に快感を得させる、という意味である。あるいは、身体的・精神的な苦痛を完全に取り除く(食い尽くす)、掘り起こすから楽である。「これにとって領域を与えることが容易であるから楽である」とする者たちもいる。感受する、所縁の味わいを体験するから受(vedanā)である。「感受しながら」とは、体験しながら、ということである。「確かに…」などにおいて説くべきことは、威儀路節において述べられた方法のとおりである。正知ある者の感受が「正知感受」である。
Vatthuārammaṇāti rūpādiārammaṇā. Rūpādiārammaṇañhettha vedanāya pavattiṭṭhānatāya ‘‘vatthū’’ti adhippetaṃ. Assāti bhaveyya. Dhammavinimuttassa kattu abhāvato dhammasseva kattubhāvaṃ dassento **‘‘vedanāva vedayatī’’**ti āha. **‘‘Vohāramattaṃ hotī’’**ti etena ‘‘sukhaṃ vedanaṃ vedayamāno sukhaṃ vedanaṃ vedayāmī’’ti idaṃ vohāramattanti dasseti.
「所依と所縁」とは、色などの所縁のことである。色などの所縁は、受の生起する場所であることから、ここでは「所依」として意図されている。「彼にとって」とは、あるならば、ということである。法を離れた行為者は存在しないことから、法そのものに行為者の性質があることを示すために「受そのものが感受する」と述べた。「単なる世俗の表現である」とは、これによって「楽受を感受しながら、楽受を感受していると知る」ということは、単なる世俗の表現であることを示している。
Nitthunantoti balavato vedanāvegassa nirodhane ādīnavaṃ disvā tassa avasaradānavasena nitthunanto. Vegasandhāraṇe hi atimahantaṃ dukkhaṃ uppajjatīti aññampi vikāraṃ uppādeyya, tena thero aparāparaṃ parivattati. Vīriyasamathaṃ yojetvāti adhivāsanavīriyassa adhimattattā tassa hāpanavasena samādhinā samarasatāpādanena vīriyasamathaṃ yojetvā. Saha paṭisambhidāhīti lokuttarapaṭisambhidāhi saha. Ariyamaggakkhaṇe hi paṭisambhidānaṃ asammohavasena adhigamo, atthapaṭisambhidāya pana ārammaṇakaraṇavasenapi. Lokiyānampi vā sati uppattikāle tattha samatthataṃ sandhāyāha **‘‘saha paṭisambhidāhī’’**ti. Samasīsīti vārasamasīsī hutvā, paccavekkhaṇavārassa anantaravāre parinibbāyīti attho.
「呻きながら」とは、強烈な受の衝撃を制止することの過患を見て、それに発散の機会を与えることによって呻きながら、ということである。衝撃を抑制すると極めて大きな苦痛が生じるため、他の異常を引き起こす可能性があり、そのため長老はあちこちへと寝返りを打ったのである。「精進と止(静寂)とを結びつけて」とは、耐え忍ぶ精進が過度であったため、それを緩めることによって三昧と等しいバランスをもたらし、精進と止とを調和させて、ということである。「無礙解とともに」とは、出世間の無礙解とともに、ということである。聖道の瞬間において無礙解は無痴(明瞭な知)によって証得され、義無礙解は所縁とすることによっても証得される。あるいは世間の無礙解であっても生起した時にそこにおいて能力があることを指して「無礙解とともに」と述べた。「等頭(とうず)として」とは、次第の等頭となって、省察の瞬間の次の瞬間に完全な涅槃(パリニッバーナ)に入った、という意味である。
Yathā ca sukhaṃ, evaṃ dukkhanti yathā ‘‘sukhaṃ ko vedayatī’’tiādinā sampajānavediyanaṃ sandhāya vuttaṃ, evaṃ dukkhampi. Tattha dukkhayatīti dukkhā, sampayuttadhamme, kāyañca pīḷeti vibādhatīti attho. Duṭṭhuṃ vā khādati, khanati kāyikaṃ, cetasikañca sātanti dukkhā. ‘‘Dukkaraṃ okāsadānaṃ etissāti **dukkhā’’**ti apare. Arūpakammaṭṭhānanti arūpapariggahaṃ, arūpadhammamukhena vipassanābhinivesananti attho. Na pākaṭaṃ hoti phassassa, cittassa ca avibhūtākārattā. Tenāha **‘‘andhakāraṃ viya khāyatī’’**ti. ‘‘Na pākaṭaṃ **hotī’’**ti ca idaṃ tādise puggale sandhāya vuttaṃ, tesaṃ ādito vedanāva vibhūtatarā hutvā upaṭṭhāti. Evañhi yaṃ vuttaṃ sakkapañhavaṇṇanā dīsu ‘‘phasso pākaṭo hoti, viññāṇaṃ pākaṭaṃ hotī’’ti, (dī. ni. aṭṭha. 2.359) taṃ avirodhitaṃ hoti. Vedanāvasena kathiyamānaṃ kammaṭṭhānaṃ pākaṭaṃ hotīti yojanā. **‘‘Vedanānaṃ uppattipākaṭatāyā’’**ti ca idaṃ sukhadukkhavedanānaṃ vasena vuttaṃ. Tāsañhi pavatti oḷārikā, na itarāya. Tadubhayaggahaṇamukhena vā gahetabbattā itarāyapi pavatti viññūnaṃ pākaṭā evāti ‘‘vedanāna’’nti avisesaggahaṇaṃ daṭṭhabbaṃ. Sakkapañhe vuttanayeneva veditabbo, tasmā tattha vattabbo atthaviseso tattha līnatthappakāsaniyaṃ vuttanayeneva gahetabbo.
楽と同様に苦もまた、「誰が楽を感受するのか」などによって正知感受を指して述べられたように、苦についても同様である。そこで、苦しめるから苦(dukkhā)であり、相応する法と身体を圧迫し、害する、という意味である。あるいは、身体的・精神的な快楽を悪しく取り除く(食い尽くす)、掘り起こすから苦である。「これにとって領域を与えることが困難であるから苦である」とする者たちもいる。「無色の業処」とは、無色の把握であり、無色法(精神現象)を入口として毘鉢舎那に入ること、という意味である。触と心は様相が明瞭でないため、はっきり現れない。それゆえ「暗闇のように感じられる」と述べた。「はっきり現れない」とは、そのような人を指して述べられたものであり、彼らにとっては最初から受こそがより明瞭になって現れるのである。このように解釈してこそ、『帝釈所問経』の註釈などに「触が明瞭となり、識が明瞭となる」と述べられていることと矛盾しない。「受によって説かれる業処が明瞭となる」と結びつけられる。「受の生起の明瞭さによって」とは、楽受と苦受に関して述べられたものである。それらの生起は粗大であるが、他(不苦不楽受)はそうではないからである。あるいはその両方を把握することを通じて把握されるべきであることから、他者の生起も智者たちには明瞭であるため、「受の」と無差別に把握されていると見なされるべきである。『帝釈所問経』に説かれた方法によって理解されるべきであり、したがってそこで説かれるべき特別な意味は、その深遠な意味の解明において述べられた方法に従って理解されるべきである。
Pubbe ‘‘vatthuṃ ārammaṇaṃ katvā vedanāva vedayatī’’ti vedanāya ārammaṇādhīnavuttitāya ca anattatāya ca pajānanaṃ vuttaṃ, idāni tassā aniccatādipajānanaṃ dassento **‘‘ayaṃ aparopi pajānanapariyāyo’’**ti āha. Yathā ekasmiṃ khaṇe cittadvayassa asambhavo ekajjhaṃ anekantapaccayābhāvato, evaṃ vedanādvayassa visiṭṭhārammaṇavuttito cāti āha **‘‘sukhavedanākkhaṇe dukkhāya vedanāya abhāvato’’**ti. Nidassanamattañcetaṃ tadā upekkhāvedanāyapi abhāvato, tena sukhavedanākkhaṇe bhūtapubbānaṃ itaravedanānaṃ hutvāabhāvapajānanena sukhavedanāyapi hutvā abhāvo ñāto eva hotīti tassā pākaṭabhāvameva dassento ‘‘imissā ca sukhāya vedanāya ito paṭhamaṃ **abhāvato’’**ti āha, eteneva ca tāsampi vedanānaṃ pākaṭabhāvo dassitoti daṭṭhabbaṃ. Tenāha **‘‘vedanā nāma aniccā adhuvā vipariṇāmadhammā’’**ti. Aniccaggahaṇena hi vedanānaṃ viddhaṃsanabhāvo dassito viddhaste aniccatāya suviññeyyattā. Adhuvaggahaṇena pākaṭabhāvo tassa asadābhāvitādibhāvanato. Vipariṇāmaggahaṇena dukkhabhāvo tassa aññathattadīpanato, tena sukhāpi vedanā dukkhā, pageva itarāti tissannampi vedanānaṃ dukkhatā dassitā hoti. Iti ‘‘yadaniccaṃ dukkhaṃ, taṃ ekantato anattā’’ti tīsupi vedanāsu lakkhaṇattayapajānanā jotitāti daṭṭhabbaṃ. Tenāha **‘‘itiha tattha sampajāno hotī’’**ti.
以前に「所依を所縁として受そのものが感受する」と、受が所縁に依存して機能することと無我であることの理解が説かれたが、今やその無常などの理解を示すために「これは知解のいまひとつの方法である」と述べた。一瞬において二つの心が同時に多様な条件を持たないために生じ得ないように、二つの受も特定の所縁に機能することから生じ得ないため、「楽受の瞬間には苦受が存在しないことから」と述べた。そしてこれは単なる一例にすぎず、その時には不苦不楽受も存在しないことから、楽受の瞬間に過去にあった他の受が存在した後に無くなったと知ることによって、楽受もまた存在した後に無くなるとまさに知られるのであり、その明白さを示すために「そしてこの楽受がこれより以前には存在しなかったことから」と述べた。これによって、それらの受の明白さも示されたと見なされるべきである。それゆえ「受とは無常であり、不変ではなく、変易する性質のものである」と述べた。実に、「無常」という言葉によって受の破壊される性質が示されている。破壊されたものにおいて無常性は容易に知られるからである。「不変ではない」という言葉によってその明白さが示されている。それが常に存在するものではないことなどが明らかにされるからである。「変易する性質」という言葉によって苦である性質が示されている。それが変化することを示すからであり、それによって楽受も苦であり、他の受はなおさらであると、三つの受の苦性が示されたことになる。このように「無常なるものは苦であり、それは決定して無我である」と、三つの受においても三相の知解が明示されたと見なされるべきである。それゆえ「このように、そこにおいて正知ある者となる」と述べた。
Idāni tamatthaṃ suttena (ma. ni. 2.205) sādhetuṃ **‘‘vuttampi ceta’’**ntiādimāha. Tattha neva tasmiṃ samaye dukkhaṃ vedanaṃ vedetīti tasmiṃ sukhavedanāsamaṅgisamaye neva dukkhaṃ vedanaṃ vedeti niruddhattā, anuppannattā ca yathākkamaṃ atītānāgatānaṃ. Paccuppannāya pana asambhavo vutto eva. Sakiccakkhaṇamattāvaṭṭhānato aniccā. Samecca sambhuyya paccayehi katattā saṅkhatā. Vatthārammaṇādipaccayaṃ paṭicca uppannattā paṭiccasamuppannā. Khayavayapalujjananirujjhanapakatitāya khayadhammā vayadhammā virāgadhammā nirodhadhammāti daṭṭhabbā.
今、その意味を経によって論証するために「またこれも説かれている…」などと述べた。そこにおいて「その時には決して苦受を感受しない」とは、その楽受を備えている時には、過去と未来の苦受はそれぞれ滅したため、また未生であるために決して苦受を感受しない、ということである。現在において生起し得ないことはすでに述べられた。自らの働きの瞬間のみにとどまることから「無常」である。条件が集まり合わさって作られたことから「有為」である。所依や所縁などの条件に依存して生じたことから「縁生」である。尽き、衰退し、崩壊し、止滅する本性であることから、「尽法」「衰法」「離貪法」「滅法」であると見なされるべきである。
Kilesehi āmasitabbato āmisaṃ nāma, pañca kāmaguṇā, ārammaṇakaraṇavasena saha āmisehīti sāmisaṃ. Tenāha **‘‘pañcakāmaguṇāmisanissitā’’**ti.
煩悩によって執着されるべきものであることから「物質的執着(āmisa)」とは五つの欲の対象のことであり、所縁とすることによって物質的執着を伴うものが「有物質(sāmisa)」である。それゆえ「五欲の物質的執着に依拠した」と述べた。
Ito paranti ‘‘atthi vedanā’’ti evamādi pāḷiṃ sandhāyāha **‘‘kāyānupassanāyaṃ vuttanayamevā’’**ti.
「これより先は」とは、「受が存在する」などの経文を指して「身随観において述べられた方法のとおりである」と述べた。
Vedanānupassanāvaṇṇanā niṭṭhitā.
受随観の註解を終わる。
Cittānupassanāvaṇṇanā
心随観の註解
381. Sampayogavasena pavattamānena saha rāgenāti sarāgaṃ. Tenāha **‘‘lobhasahagata’’**nti. Vītarāganti ettha kāmaṃ sarāgapadapaṭiyoginā vītarāgapadena bhavitabbaṃ, sammasanacārassa pana adhippetattā tebhūmakasseva gahaṇanti **‘‘lokiyakusalābyākata’’**nti vatvā **‘‘idaṃ panā’’**tiādinā tameva adhippāyaṃ vivarati. Sesāni dve dosamūlāni, dve mohamūlānīti cattāri akusalacittāni. Tesañhi rāgena sampayogābhāvato nattheva sarāgatā, taṃnimittakatāya pana siyā taṃsahitakāle soti nattheva vītarāgatāpīti dukkhavinimuttatā evettha labbhatīti āha **‘‘neva purimapadaṃ na pacchimapadaṃ bhajantī’’**ti. Yadi evaṃ padesikaṃ pajānanaṃ āpajjatīti? Nāpajjati, dukantarapariyāpannattā tesaṃ. Ye pana ‘‘paṭipakkhabhāve agayhamāne sampayogābhāvo evettha pamāṇaṃ ekaccaabyākatānaṃ viyā’’ti icchanti, tesaṃ matena sesākusalacittānampi dutiyapadasaṅgaho veditabbo. Dutiyadukepi vuttanayena attho veditabbo. Akusalamūlesu saha moheneva vattatīti samohanti āha **‘‘vicikicchāsahagatañceva uddhaccasahagatañcā’’**ti. Yasmā cettha ‘‘saheva mohenāti samoha’’nti purimapadāvadhāraṇampi labbhatiyeva, tasmā vuttaṃ **‘‘yasmā panā’’**tiādi. Yathā pana atimūḷhatāya pāṭipuggalikanayena savisesamohavantatāya ‘‘momūhacitta’’nti vattabbato vicikicchāuddhaccasahagatadvayaṃ visesato ‘‘samoha’’nti vuccati, na tathā sesākusalacittānīti **‘‘vaṭṭantiyevā’’**ti sāsaṅkaṃ vadati. Sampayogavasena thinamiddhena anupatitaṃ anugatanti thinamiddhānupatitaṃ, pañcavidhaṃsasaṅkhārikākusalacittaṃ saṅkucitacittaṃ, saṅkucitacittaṃ nāma ārammaṇe saṅkocanavasena pavattanato. Paccayavisesavasena thāmajātena uddhaccena sahagataṃ saṃsaṭṭhanti uddhaccasahagataṃ, aññathā sabbampi akusalacittaṃ uddhaccasahagatamevāti. Pasaṭacittaṃ nāma ārammaṇe savisesaṃ vikkhepavasena visaṭabhāvena pavattanato.
381. 相応によって生起する貪り(rāga)とともにあるから「有貪(sarāga)」である。それゆえ「貪に相応する」と述べた。「離貪」において、確かに有貪の語に対立する離貪の語であるべきであるが、思惟の領域が意図されているため、三界(欲界・色界・無色界)のもののみが把握されるのであり、「世間の善および無記」と述べて、「しかしこれは…」などによってその意図を解き明かしている。残りの二つの瞋根心、二つの痴根心という四つの不善心がある。それらは貪りとの相応がないため有貪では決してなく、しかしそれを原因としてそれらを伴う時には生じうるため、離貪でも決してないのであり、ここでは苦を離れていることのみが得られるため、「前の語にも後の語にも属さない」と述べた。もしそうであるなら、部分的な知解に陥るのではないか。そうではない。それらは二組の対句の間に含まれるからである。しかし、「対治の状態が取られない場合、一部の無記心のように相応の不在のみがここでの基準である」と主張する者たちによれば、彼らの見解では残りの不善心も第二の語(離貪)に含まれると理解されるべきである。第二の対句(有瞋・離瞋)においても述べられた方法によって意味が理解されるべきである。不善の根本の中で痴(moha)とのみ生起するから「有痴(samoha)」であるとして、「疑に相応するもの、および掉挙に相応するもの」と述べた。そしてここにおいて、「痴そのものとともにあるから有痴である」と前の語の限定もまた得られるため、「しかし…ゆえに」などと述べた。しかし、極めて迷妄していることによって個別の方法に従って特別に痴を持つことから「愚痴心」と呼ばれるべきであるため、疑と掉挙に相応する二つの心が特に「有痴」と呼ばれるのであり、残りの不善心はそうではない、として「含まれるのである」と疑念を交えて述べている。相応によって惛沈・睡眠に覆われ、従っているから「惛沈・睡眠に覆われた」であり、五種の有加行の不善心が縮退した心であり、縮退した心とは所縁において縮こまることによって生じるからである。特定の条件によって強大となった掉挙と相応し、結合しているから「掉挙に相応する」であり、そうでなければ一切の不善心は掉挙に相応するものである。散乱した心とは、所縁において特に散漫によって拡散した状態で生じるからである。
Kilesavikkhambhanasamatthatāya vipulaphalatāya ca dīghasantānatāya ca mahantabhāvaṃ gataṃ, mahantehi vā uḷāracchandādīhi gataṃ paṭipannanti mahaggataṃ, taṃ pana rūpārūpabhūmigataṃ tato mahantassa loke abhāvato. Tenāha **‘‘rūpārūpāvacara’’**nti. Tassa cettha paṭiyogī parittaṃ evāti āha **‘‘amahaggatanti kāmāvacara’’**nti. Attānaṃ uttarituṃ samatthehi saha uttarehīti sauttaraṃ. Tappaṭipakkhena anuttaraṃ. Tadubhayaṃ upādāyupādāya veditabbanti āha ‘‘sauttaranti kāmāvacarantiādi. Paṭipakkhavikkhambhanasamatthena samādhinā sammadeva āhitaṃ samāhitaṃ. Tenāha **‘‘yassā’’**tiādi. Yassāti yassa cittassa. Yathāvuttena samādhinā na samāhitanti asamāhitaṃ. Tenāha **‘‘ubhayasamādhirahita’’**nti. Tadaṅgavimuttiyā vimuttaṃ, kāmāvacarakusalacittaṃ, vikkhambhanavimuttiyā vimuttaṃ, mahaggatacittanti tadubhayaṃ sandhāyāha **‘‘tadaṅgavikkhambhanavimuttīhi vimutta’’**nti. Yattha tadubhayavimutti natthi, taṃ ubhayavimuttirahitanti gayhamāne lokuttaracittepi siyāsaṅkāti taṃ nivattanatthaṃ **‘‘samuccheda…pe… okāsova natthī’’**ti āha. Okāsabhāvo ca sammasanacārassa adhippetattā veditabbo. Yaṃ panettha atthato avibhattaṃ, taṃ heṭṭhā vuttanayattā uttānameva.
煩悩を伏在させる(鎮伏する)能力があること、広大な果報をもつこと、そして持続が長いことによって偉大なる状態へと達したもの、あるいは偉大なる広大な意欲等によって赴き達したものであるから「大劇(広大)」である。しかしそれは、世界においてそれより偉大なものが存在しないことから、色界・無色界の境地に至ったものである。それゆえに「色界・無色界の」と言われたのである。そして、ここでのそれに対する対照物は微小なもの(欲界)にほかならないことから、「大劇ならざるものとは欲界の」と言われた。自らを超え出る能力をもつ優れたものと共にあるから「有上」である。それに対立するものによって「無上」である。その両者は相対的に理解されるべきであるから、「有上とは欲界の…」等と言われた。敵対するものを鎮伏する能力ある三昧によって正しく置かれた(専注された)ものが「等持せるもの(定心)」である。それゆえに「いずれの…」等と言われた。「いずれの」とは、いずれの心のことである。上述の三昧によって等持されていないものが「等持せざるもの(非定心)」である。それゆえに「両三昧を欠いた」と言われた。彼分断(部分的一時的な解脱)によって解脱した欲界の善心、伏在断(鎮伏による解脱)によって解脱した広大な心、その両者を指して「彼分断と伏在断の解脱によって解脱した」と言われた。その両者の解脱が存在しない場合、それを両解脱を欠いたものとして把握すると出世間の心にも当てはまるのではないかという疑念が生じるので、それを退けるために「断滅…乃至…機会すら存在しない」と言われた。そして、その機会が存在しないことは遍察(思惟)の領域が意図されていることによると知るべきである。ここで意味として分別されていないものは、すでに述べられた方法によるため明白である。
Cittānupassanāvaṇṇanā niṭṭhitā.
心随観の註解を終わる。
Dhammānupassanā
法随観
Nīvaraṇapabbavaṇṇanā
蓋節の註解
382. Pahātabbādidhammavibhāgadassanavasena pañcadhā dhammānupassanā niddiṭṭhāti ayamattho pāḷito eva viññāyatīti tamatthaṃ ulliṅgento **‘‘pañcavidhena dhammānupassanaṃ kathetu’’**nti āha. Yadi evaṃ kasmā nīvaraṇādivaseneva niddiṭṭhanti? Vineyyajjhāsayato. Yesañhi veneyyānaṃ pahātabbadhammesu paṭhamaṃ nīvaraṇāni vibhāgena vattabbāni, tesaṃ vasenettha bhagavatā paṭhamaṃ nīvaraṇesu dhammānupassanā kathitā. Tathā hi kāyānupassanāpi samathapubbaṅgamā desitā, tato pariññeyyesu khandhesu, āyatanesu ca bhāvetabbesu bojjhaṅgesu, pariññeyyādivibhāgesu saccesu ca uttarā desanā, tasmā cettha samathabhāvanāpi yāvadeva vipassanatthā icchitā. Vipassanāpadhānā, vipassanābahulā ca satipaṭṭhānadesanāti tassā vipassanābhinivesavibhāgena desitabhāvaṃ vibhāvento **‘‘apicā’’**tiādimāha. Tattha khandhāyatanadukkhasaccavasena missakapariggahakathanaṃ daṭṭhabbaṃ. Saññāsaṅkhārakkhandhapariggahampīti pi-saddena sakalapañcupādānakkhandhapariggahaṃ sampiṇḍeti itaresaṃ tadantogadhattā.
382. 断ずべき法などの区分を示すことによって、法随観は五種に示されているというこの意味は本文(パーリ)自体から知られるのであり、その意味を指し示して「五種において法随観を説くために」と言われた。もしそうであるなら、なぜ蓋等によってのみ示されたのか。教化されるべき者の意向による。教化されるべき者たちのうち、断ずべき法において最初に蓋を詳細に説くべき者たち、その者たちのために、ここで世尊によって最初に蓋における法随観が説かれたのである。実に同様に身随観も止水(サマタ)を先導として説かれ、そこから知悉されるべき蘊や処において、修習されるべき覚支において、知悉されるべき等の区分における諦において、さらに高度な教説がなされる。それゆえに、ここでも止水の修習すらもただ観(ヴィパッサナー)のためにこそ望まれたのである。念処の教説は観を主とし、観を豊富とするものであるから、それが観への専念の区分によって説かれた状態を明らかにしながら「さらにまた…」等と言われた。そこにおいて、蘊・処・苦諦によって混合的な把握の教説と見なされるべきである。「想蘊と行蘊の把握をも」という語の中の「〜をも(api)」によって、一切の五取蘊の把握を包括している。他のものはその中に含まれるからである。
‘‘Kaṇhasukkadhammānaṃ yuganandhatā natthī’’ti pajānanakāle abhāvā **‘‘abhiṇhasamudācāravasenā’’**ti vuttaṃ. Saṃvijjamānanti attano santāne upalabbhamānaṃ. Yathāti yenākārena, so pana **‘‘kāmacchandassa uppādo hotī’’**ti vuttattā kāmacchandassa kāraṇākārova, atthato kāraṇamevāti āha **‘‘yena kāraṇenā’’**ti. Ca-saddo vakkhamānatthasamuccayattho.
「黒白の法(不善と善の法)が結合することはない」と了知する時には存在しないことから、「頻繁な現起によって」と言われた。「存在する」とは、自身の相続において見出されることである。「いかにして」とは、いかなる様態によってということであり、しかしそれは「欲貪が生じる」と説かれていることから、欲貪の原因の様態そのものであり、意味としては原因にほかならないことから、「いかなる原因によって」と言われた。「また(ca)」という語は、これから説かれる意味を併せて集める意味である。
Tatthāti ‘‘yathā cā’’tiādinā vuttapade. Subhampīti kāmacchandopi. So hi attano gahaṇākārena **‘‘subha’’**nti vutto, tenākārena pavattanakassa aññassa kāmacchandassa nimittattā **‘‘nimitta’’**nti ca. Iṭṭhaṃ, iṭṭhākārena vā gayhamānaṃ rūpādi subhārammaṇaṃ. Ākaṅkhitassa hitasukhassa pattiyā anupāyabhūto manasikāro anupāyamanasikāro. Tanti ayonisomanasikāraṃ. Tatthāti tasmiṃ sabhāgahetubhūte, ārammaṇabhūte ca duvidhe subhanimitte. Āhāroti paccayo attano phalaṃ āharatīti katvā.
「そこにおいて」とは、「いかにしてまた…」等の語によって説かれた箇所において。「浄相をも」とは、欲貪をも意味する。実にそれは自らの把握の様態によって「浄(美)」と言われ、その様態によって生起する他の欲貪の起因(相)となることから「相」とも言われる。好ましいもの、あるいは好ましい様態として把握される色などの好ましい対象が浄相である。望まれる利益と幸福の獲得のための手段とならない作意が、非手段的作意(不正作意)である。「それを」とは、その不正作意を。「そこにおいて」とは、同類の原因となり対象となる二種の浄相において。「滋養(食)となる」とは、自らの果報をもたらすという意味において条件(縁)であるということである。
Asubhanti asubhajjhānaṃ uttarapadalopena, taṃ pana dasasu aviññāṇakaasubhesu ca kesādīsu saviññāṇakaasubhesu ca pavattaṃ daṭṭhabbaṃ. Kesādīsu hi saññā ‘‘asubhasaññā’’ti girimānandasutte (a. ni. 10.60) vuttā. Ettha ca catubbidhassa ayonisomanasikārassa, yonisomanasikārassa ca gahaṇaṃ niravasesadassanatthaṃ katanti daṭṭhabbaṃ, tesu pana asubhesu ‘‘subha’’nti, ‘‘asubha’’nti ca manasikāro idhādhippeto, tadanukūlattā pana itare pīti.
「不浄」とは、後続の語の省略によって不浄禅のことであり、しかしそれは十種の無情の不浄と、頭髪などの十種の有情の不浄において生起するものと見なされるべきである。実に頭髪等における想は、ギリマーナンダ経において「不浄想」と説かれている。そしてここにおいて、四種の不正作意と正作意の把握は、残余なき提示のために成されたと見なされるべきであるが、それらの不浄において「浄である」「不浄である」という作意がここで意図されており、それに従うものであることから他のものも同様である。
Ekādasasu asubhesu paṭikkūlākārassa uggaṇhanaṃ, yathā vā tattha uggahanimittaṃ uppajjati, tathā paṭipatti asubhanimittassa uggaho. Upacārappanāvahāya asubhabhāvanāya anuyuñjanā asubhabhāvanānuyogo. ‘‘Bhojane mattaññuno mitāhārassa thinamiddhābhibhavābhāvā otāraṃ alabhamāno kāmacchando pahīyatī’’ti vadanti, ayameva ca attho niddesepi vuccati. Yo pana bhojanassa paṭikkūlataṃ, tabbipariṇāmassa tadādhārassa tassa ca upanissayabhūtassa ativiya jegucchataṃ, kāyassa ca āhāraṭṭhitikattaṃ sammadeva jānāti, so sabbaso bhojane pamāṇassa jānanena bhojanemattaññū nāma. Tādisassa hi kāmacchando pahīyateva.
十一の不浄において嫌悪の様態を習得すること、あるいはそこにおいて取相が生じるように実践することが、不浄相の習得である。近行定や安止定をもたらす不浄の修習に努めることが、不浄修習の専修である。「食事において適量を知り、節制した食事をとる者は、惛沈・睡眠に圧倒されることがないため、侵入の機会を得られない欲貪は捨て去られる」と述べられており、まさにこの意味は分別説(ニッデーサ)でも説かれている。しかし、食事の嫌悪性や、その変容、その支え、そしてその依処となるものの極めて忌まわしい性質を、また身体が食物によって維持されるものであることを正しく知る人、その人はあらゆる点において食事の限度を知ることによって「食事における適量を知る者」と呼ばれる。そのような人においては、まさに欲貪は断ぜられるのである。
Asubhakammikatissatthero dantaṭṭhidassāvī. Pahīnassāti vikkhambhanavasena pahīnassa. Ito paresupi evarūpesu ṭhānesu eseva nayo. Abhidhammapariyāyena (dha. sa. 1159, 1503) sabbopi lobho kāmacchandanīvaraṇanti āha **‘‘arahattamaggenā’’**ti.
不浄業処のティッサ長老は、歯の骨を見た者である。「断ぜられた」とは、鎮伏によって断ぜられたことである。これより後におけるこのような箇所でも、この方法が同じである。阿毘達磨の法門によれば、あらゆる貪求(愛執)も欲貪蓋であることから、「阿羅漢道によって」と言われた。
Paṭighampi purimuppannaṃ paṭighanimittaṃ parato uppajjanakassa paṭighassa kāraṇanti katvā.
「瞋恚をも」とは、先に生じた瞋恚の対象(瞋相)が、後に生じる瞋恚の原因となるという意味においてである。
Mejjati siniyhatīti mitto, hitesī puggalo, tasmiṃ mitte bhavā, mittassa vā esāti mettā, hitesitā, tassā mettāya. Appanāpi upacāropi vaṭṭati sādhāraṇavacanabhāvato. **‘‘Cetovimuttī’’**ti vutte appanāva vaṭṭati appanaṃ appattāya paṭipakkhato suṭṭhu muccanassa abhāvato. Tanti yonisomanasikāraṃ. Tatthāti mettāya. Bahulaṃ pavattayatoti bahulīkāravato.
愛着する(親しむ)、潤うゆえに「友(ミッタ)」であり、利益を望む人のことである。その友にあるもの、あるいは友に属するものが「慈(メッター)」であり、利益を望む心であり、その慈のことである。安止定も近行定も、共通の言葉であることから適格である。「心解脱」と言われた時は、安止定に達していないものには敵対するものからの完全な解脱が存在しないことから、安止定のみが適格である。「それを」とは、その如理作意を。「そこにおいて」とは、慈において。「頻繁に生起させる者には」とは、多修することによって。
Sattesu mettāyanassa hitūpasaṃhārassa uppādanaṃ pavattanaṃ mettānimittassa uggaho, paṭhamuppanno mettāmanasikāro parato uppajjanakassa kāraṇabhāvato mettāmanasikārova mettānimittaṃ. Kammameva sakaṃ etesanti kammassakā, sattā, tabbhāvo kammassakatā, kammadāyādatā. Dosamettāsu yāthāvato ādīnavānisaṃsānaṃ paṭisaṅkhānaṃ vīmaṃsā idha paṭisaṅkhānaṃ. Mettāvihārikalyāṇamittavantatā idha kalyāṇamittatā. Odissakaanodissakadisāpharaṇānanti (odhisakaanodhisakadisāpharaṇānaṃ ma. ni. aṭṭha. 1.115) attaatipiyasahāyamajjhattaverivasena odissakatā, sīmāsambhede kate anodissakatā. Ekādidisāpharaṇavasena disāpharaṇatā mettāya uggahaṇe veditabbā. Vihāraracchāgāmādivasena vā odissakadisāpharaṇaṃ. Vihārādiuddesarahitaṃ puratthimādidisāvasena anodissakadisāpharaṇanti evaṃ dvidhā uggahaṇaṃ sandhāya **‘‘odissakaanodissakadisāpharaṇāna’’**nti vuttaṃ. Uggahoti ca yāva upacārā daṭṭhabbo. Uggahitāya āsevanā bhāvanā. Tattha sabbe sattā, pāṇā, bhūtā, puggalā, attabhāvapariyāpannāti etesaṃ vasena pañcavidhā, ekekasmiṃ averā hontu, abyāpajjhā, anīghā, sukhī attānaṃ pariharantūti catudhā pavattito vīsatividhā anodissakapharaṇā mettā. Sabbā itthiyo, purisā, ariyā, anariyā, devā, manussā, vinipātikāti sattodhikaraṇavasena pavattā sattavidhā, aṭṭhavīsati vidhā vā, dasahi disāhi disodhikaraṇavasena pavattā dasavidhā, ekekāya vā disāya sattādiitthādiaverādibhedena asītādhikacatusatappabhedā ca odhiso pharaṇā veditabbā.
衆生に対して慈しむこと、利益を注ぎ込むことを生じさせ生起させることが、慈相の習得である。最初に生じた慈の作意は、後に生じるものの原因となることから、慈の作意そのものが慈相である。業のみを自己のものとするゆえに「業を自己のものとする者」であり、衆生のことである。その状態が「業を自己のものとする性質」「業の相続性」である。瞋恚と慈における過患と功徳の真実なる思索、探究が、ここでの思索(省察)である。慈に住する善友をもつことが、ここでの善友性である。「特定的・非特定的な方角への遍満」とは、自身・極めて愛しい者・友人・中立の者・敵対する者の区分によるものが特定的であり、境界が打破された時が非特定的である。一などの方角への遍満の区分による方角への遍満性は、慈の習得において知られるべきである。あるいは寺院・街路・村などの区分による特定的方角遍満である。寺院などの指定なき東方等の方角の区分による非特定的方角遍満である。このように二種の習得を指して「特定的・非特定的な方角への遍満」と言われた。そして「習得」とは近行定に至るまでと見なされるべきである。習得されたものの習熟が修習である。そこにおいて、一切の衆生、息ある者、生類、人、個体の範疇に含まれる者、これらによって五種あり、それぞれにおいて「怨みなき者であれ、害心なき者であれ、苦しみを受けるなき者であれ、幸福に自らを護れ」と四様に生起することから二十種の非特定的遍満の慈となる。一切の女性、男性、聖者、非聖者、神々、人間、悪趣に堕ちた者という七つの区分によって生起する七種、あるいは二十八種、十方によって方角の区分によって生起する十種、あるいはそれぞれの方角において七種などの女性等の怨みなき者等の区分によって四百八十の区分をもつ特定的遍満が知られるべきである。
Yena ayonisomanasikārena aratiādikāni uppajjanti, so aratiādīsu ayonisomanasikāro. Tena nipphādetabbe hi idaṃ bhummaṃ. Esa nayo ito paresupi. Ukkaṇṭhitā pantasenāsanesu, adhikusaladhammesu ca uppajjanabhāvariñcanā. Kāyavinamanāti karajakāyassa virūpenākārena namanā. Līnākāroti saṅkocāpatti.
いかなる不正作意によって不快(無歓喜)等が生じるのか、それが不快等における不正作意である。それによって成し遂げられるべきものであることから、これは処格(於格)である。この方法はこれ以降も同様である。「不快」とは、閑静な住処や卓越した善法において生じる状態からの逸脱である。「身の傾き」とは、業生の身体が見苦しい様態に傾くことである。「沈滞の様態」とは、収縮に陥ることである。
Kusaladhammapaṭipattiyā paṭṭhapanasabhāvatāya, tappaṭipakkhānaṃ visosanasabhāvatāya ca ārambhadhātuādito pavattavīriyanti āha **‘‘paṭhamārambhavīriya’’**nti. Yasmā paṭhamārambhamattassa kosajjavidhamanaṃ, thāmagamanañca natthi, tasmā vuttaṃ **‘‘kosajjato nikkhantatāya tato balavatara’’**nti. Yasmā pana aparāparuppattiyā laddhāsevanaṃ uparūpari visesaṃ āvahantaṃ ativiya thāmagatameva hoti, tasmā vuttaṃ **‘‘paraṃ paraṃ ṭhānaṃ akkamanato tatopi balavatara’’**nti.
善法の実践を確立する性質をもち、それに対立するものを枯渇させる性質をもつことから、発起界等から生起した精進であるとし、「初発の精進」と言われた。単なる初発だけでは怠惰を払拭し堅固さに達することがないことから、「怠惰から脱したことによってそれよりも強力である」と言われた。しかし、度重なる生起によって習熟を得て、次々と優れた特質をもたらすものは極めて堅固さに達したものであることから、「次なる境地へと踏み出すことによってそれよりもさらに強力である」と言われた。
Atibhojane nimittaggāhoti atibhojane thinamiddhassa nimittaggāho, ettake bhutte taṃ bhojanaṃ thinamiddhassa kāraṇaṃ hoti, ettake na hotīti thinamiddhassa kāraṇākāraṇagāho hotīti attho. Byatirekavasena cetaṃ vuttaṃ, tasmā ‘‘ettake bhutte taṃ bhojanaṃ thinamiddhassa kāraṇaṃ na hotī’’ti bhojane mattaññutā ca atthato dassitāti daṭṭhabbaṃ. Tenāha **‘‘catupañca…pe… na hotī’’**ti. Divā sūriyālokanti divā gahitanimittaṃ sūriyālokaṃ rattiyaṃ manasi karontassāpīti evamettha attho veditabbo. Dhutaṅgānaṃ vīriyanissitattā vuttaṃ **‘‘dhutaṅganissitasappāyakathāyapī’’**ti.
「過食における相の把握」とは、過食において惛沈・睡眠の相を把握することであり、これほど食べればその食事は惛沈・睡眠の原因となり、これほどであれば原因とならない、というように惛沈・睡眠の原因と非原因を把握することであるという意味である。そしてこれは消極的(反語的)方法によって述べられたのであり、それゆえに「これほど食べればその食事は惛沈・睡眠の原因とならない」という食事における適量を知ることも意味として示されたと見なされるべきである。それゆえに「四、五口…乃至…ならない」と言われた。「昼の太陽の光を」とは、昼に把握された相である太陽の光を夜に作意する者にも、というようにここでの意味は理解されるべきである。頭陀行は精進に依存するものであることから、「頭陀行に依存した適当な談話においても」と言われた。
Kukkuccampi katākatānusocanavasena pavattamānaṃ cetaso avūpasamāvahatāya uddhaccena samānalakkhaṇamevāti **‘‘avūpasamo nāma avūpasantākāro, uddhaccakukkuccamevetaṃ atthato’’**ti vuttaṃ.
悪作(後悔)も、為したこと為さなかったことへの悔恨によって生起し、心の不静寂をもたらすことから、掉挙と同様の特相をもつので、「不静寂とは不静寂の様態であり、これは意味としては掉挙と悪作そのものである」と言われた。
Bahussutassa ganthato, atthato ca suttādīni vicārentassa tabbahulavihārino atthavedādipaṭilābhasabbhāvato vikkhepo na hotīti, yathāvidhipaṭipattiyā, yathānurūpapatikārappavattiyā ca katākatānusocanañca na hotīti **‘‘bāhusaccenapi…pe… uddhaccakukkuccaṃ pahīyatī’’**ti āha. Yadaggena bāhusaccena uddhaccakukkuccaṃ pahīyati, tadaggena paripucchakatāvinayapakataññutāhipi taṃ pahīyatīti daṭṭhabbaṃ. Vuddhasevitā ca vuddhasīlitaṃ āvahatīti cetovūpasamakarattā uddhaccakukkuccappahānakārī vuttā. Vuddhattaṃ pana anapekkhitvā kukkuccavinodakā vinayadharā kalyāṇamittā vuttāti daṭṭhabbā. Vikkhepo ca pabbajitānaṃ yebhuyyena kukkuccahetuko hotīti ‘‘kappiyākappiyaparipucchābahulassā’’tiādinā vinayanayeneva paripucchakatādayo niddiṭṭhā. Pahīne uddhaccakukkucceti niddhāraṇe bhummaṃ. Kukkuccassa domanassasahagatattā anāgāmimaggena āyatiṃ anuppādo vutto.
多聞の人が教本から、また意味から経典等を思索し、それを多く行じる人には意味の理解等を得ることが存在するため散乱が生じず、規定通りの実践によって、また相応しい治療の生起によって為したこと為さなかったことへの悔恨も生じないことから、「多聞によっても…乃至…掉挙と悪作は断ぜられる」と言われた。多聞によって掉挙と悪作が断ぜられるのと同様に、質問することや律の確定を知ることによってもそれが断ぜられると見なされるべきである。そして長老(徳高き者)に仕えることは長老の徳行をもたらすので、心を静寂にさせるものであることから掉挙と悪作を断じるものと説かれた。しかし長老であることを考慮せずとも、悪作を晴らす律保持者たちが善友として説かれたと見なされるべきである。そして出家者の散乱は多くの場合悪作を原因とするものであることから、「適法・不適法の質問を多くする者」等の律の方法によって質問すること等が示された。「掉挙と悪作が断ぜられた時」における格は限定の処格である。悪作は憂(ドーマナッサ)を伴うものであるため、不還道によって将来生じないことが説かれた。
Tiṭṭhati pavattati etthāti ṭhānīyā vicikicchāya ṭhānīyā vicikicchāṭhānīyā, vicikicchāya kāraṇabhūtā dhammā, tiṭṭhatīti vā ṭhānīyā, vicikicchā ṭhānīyā etissāti vicikicchāṭhānīyā, atthato vicikicchā eva. Sā hi purimuppannā parato uppajjanakavicikicchāya sabhāgahetutāya asādhāraṇaṃ kāraṇaṃ.
ここに留まる、ここに生起するゆえに「処(依処となるもの)」であり、疑いの依処となるものが「疑いの依処となるもの(疑処法)」であり、疑いの原因となる諸法のことである。あるいは、留まるゆえに「処」であり、疑いがその処であるゆえに「疑処法」であり、意味としては疑いそのものである。実にそれは先に生じたものが後に生じる疑いの同類の原因となることから、共通ならざる原因である。
Kusalākusalāti kosallasambhūtaṭṭhena kusalā, tappaṭipakkhato akusalā. Ye akusalā, te sāvajjā, asevitabbā, hīnā ca. Ye kusalā, te anavajjā, sevitabbā, paṇītā ca. Kusalā vā hīnehi chandādīhi āraddhā hīnā, paṇītehi paṇītā. Kaṇhāti kāḷakā cittassa apabhassarabhāvakaraṇā. Sukkāti odātā cittassa pabhassarabhāvakaraṇā. Kaṇhābhijātihetuto vā kaṇhā. Sukkābhijātihetuto sukkā. Te eva sappaṭibhāgā. Kaṇhā hi ujuvipaccanīkatāya sukkasappaṭibhāgā, tathā sukkāpi itarehi. Atha vā kaṇhasukkā ca sappaṭibhāgā ca kaṇhasukkasappaṭibhāgā. Sukhā hi vedanā dukkhāya vedanāya sappaṭibhāgā, dukkhā ca vedanā sukhāya vedanāya sappaṭibhāgāti.
「善と不善」とは、巧みさから生じたという意味で善であり、それに対立することから不善である。不善であるものは、過失あり、親しむべきでなく、劣っている。善であるものは、過失なく、親しむべきであり、勝れている。あるいは、善は劣った欲求等によって始められたものは劣り、勝れたものによるものは勝れている。「黒」とは黒いものであり、心を清浄ならざるものとすることによる。「白」とは白いものであり、心を清浄な輝くものとすることによる。あるいは黒い生因によるゆえに黒であり、白い生因によるゆえに白である。それらそのものが「対照的なもの」である。実に黒は直接に対立することによって白と対照的であり、同様に白も他のものと対照的である。あるいは黒と白であり、かつ対照的なものが「黒白の対照的なもの」である。実に楽受は苦受と対照的であり、苦受は楽受と対照的である。
Kāmaṃ bāhusaccaparipucchakatāhi sabbāpi aṭṭhavatthukā vicikicchā pahīyati, tathāpi ratanattayavicikicchāmūlikā sesavicikicchāti katvā āha **‘‘tīṇi ratanāni ārabbhā’’**ti. Ratanattayaguṇāvabodhe ‘‘satthari kaṅkhatī’’tiādi (dha. sa. 1008, 1123, 1167, 1241, 1263, 1270; vibha. 915) vicikicchāya asambhavoti. Vinaye pakataññutā ‘‘sikkhāya kaṅkhatī’’ti vuttāya vicikicchāya pahānaṃ karotīti āha **‘‘vinaye ciṇṇavasībhāvassāpī’’**ti. Okappaniyasaddhāsaṅkhātaadhimokkhabahulassāti saddheyyavatthuno anupavisanasaddhāsaṅkhātaadhimokkhena adhimuccanabahulassa, adhimuccanañca adhimokkhuppādanamevāti daṭṭhabbaṃ, saddhāya vā ninnapoṇatāadhimutti adhimokkho.
たしかに多聞や質問することによって八事の疑いはすべて断ぜられるが、それでも三宝への疑いを根本として他の疑いがあるとして、「三宝について」と言われた。三宝の徳の理解があれば、「師において疑う」等の疑いは不可能である。律における確定した知識は「戒において疑う」と説かれた疑いを断ずることから、「律における修熟した自在性をもつ者にも」と言われた。「決定的な信仰と呼ばれる勝解(確信)を多くもつ者」とは、信仰すべき対象に入り込む信仰と呼ばれる勝解によって確信することを多くもつ者のことであり、確信することとは勝解を生じさせることにほかならないと見なされるべきであり、あるいは信仰の傾倒・専念の勝解がここでの勝解である。
Samudayavayāti samudayavayadhammā. Subhanimittaasubhanimittādīsūti ‘‘subhanimittādīsu asubhanimittādīsū’’ti ādi-saddo paccekaṃ yojetabbo. Tattha paṭhamena ādi-saddena paṭighanimittādīnaṃ saṅgaho, dutiyenamettācetovimuttiādīnaṃ. Sesamettha yaṃ vattabbaṃ, taṃ vuttanayameva.
「生滅」とは、生滅の性質のことである。「浄相・不浄相等において」とは、「浄相等において、不浄相等において」と「〜等(ādi)」という語をそれぞれに結合すべきである。そこにおいて最初の「〜等」によって瞋相等の包摂であり、第二の語によって慈心解脱等の包摂である。ここで語られるべき残余のことは、すでに述べられた方法の通りである。
Nīvaraṇapabbavaṇṇanā niṭṭhitā.
蓋節の註解を終わる。
Khandhapabbavaṇṇanā
蘊節の註解
383. Upādānehi ārammaṇakaraṇādivasena upādātabbā vā khandhā upādānakkhandhā.
383. 執着(取)によって対象とすること等を通して執着されるべき諸蘊が「取蘊」である。
Iti rūpanti ettha iti-saddo idaṃ-saddena samānatthoti adhippāyenāha **‘‘idaṃ rūpa’’**nti. Tayidaṃ sarūpaggahaṇabhāvato anavasesapariyādānaṃ hotīti āha **‘‘ettakaṃ rūpaṃ, na ito paraṃ rūpaṃ atthī’’**ti. Itīti vā pakāratthe nipāto, tasmā **‘‘iti rūpa’’**nti iminā bhūtupādādivasena yattako rūpassa pabhedo, tena saddhiṃ rūpaṃ anavasesato pariyādiyitvā dasseti. Sabhāvatoti ruppanasabhāvato, cakkhādivaṇṇādisabhāvato ca. Vedanādīsupīti ettha ‘‘ayaṃ vedanā, ettakā vedanā, na ito paraṃ vedanā atthīti sabhāvato vedanaṃ pajānātī’’tiādinā, sabhāvatoti ca ‘‘anubhavanasabhāvato, sātādisabhāvato cā’’ti evamādinā yojetabbaṃ. Sesaṃ vuttanayattā suviññeyyameva.
「かく色なり」のここにおいて、「かく(iti)」という語は「これ(idaṃ)」という語と同じ意味であるという意図から、「これが色である」と言われた。そしてこれは自相の把握があることから残余なき包摂となるので、「これだけが色であり、これより他に色はない」と言われた。あるいは「かく(iti)」とは様態の意味における不変化詞であり、それゆえに「かく色なり」によって、四大種や所造色等の区分による色の全範囲を、それとともに色を残余なく包摂して示すのである。「本性から」とは、変壊する本性から、また眼などの色などの本性から。「受等においても」のここにおいて、「これが受であり、これだけの受であり、これより他に受はないと本性から受を了知する」等のように、また「本性から」とは「感受する本性から、快などの本性から」等のように結合されるべきである。残余のことは述べられた方法によるため、極めて容易に理解できる。
Khandhapabbavaṇṇanā niṭṭhitā.
蘊節の註解を終わる。
Āyatanapabbavaṇṇanā
処節の註解
384. Chasu ajjhattikabāhiresūti ‘‘chasu ajjhattikesu chasu bāhiresū’’ti ‘‘chasū’’ti padaṃ paccekaṃ yojetabbaṃ. Kasmā panetāni ubhayāni chaḷeva vuttāni? Chaviññāṇakāyuppattidvārārammaṇavavatthānato. Cakkhuviññāṇavīthiyā pariyāpannassa hi viññāṇakāyassa cakkhāyatanameva uppattidvāraṃ, rūpāyatanameva ca ārammaṇaṃ, tathā itarāni itaresaṃ, chaṭṭhassa pana bhavaṅgamanasaṅkhāto manāyatanekadeso uppattidvāraṃ, asādhāraṇañca dhammāyatanaṃ ārammaṇaṃ. Cakkhatīti cakkhu, rūpaṃ assādeti, vibhāveti cāti attho. Suṇātīti sotaṃ. Ghāyatīti ghānaṃ. Jīvitanimittatāya raso jīvitaṃ, taṃ jīvitaṃ avhāyatīti jivhā. Kucchitānaṃ sāsavadhammānaṃ āyo uppattidesoti kāyo. Munāti ārammaṇaṃ vijānātīti mano. Rūpayati vaṇṇavikāraṃ āpajjamānaṃ hadayaṅgatabhāvaṃ pakāsetīti rūpaṃ. Sappati attano paccayehi harīyati sotaviññeyyabhāvaṃ gamīyatīti saddo. Gandhayati attano vatthuṃ sūcetīti gandho. Rasanti taṃ sattā assādentīti raso. Phusīyatīti phoṭṭhabbaṃ. Attano sabhāvaṃ dhārentīti dhammā. Sabbāni pana āyānaṃ tananādiatthena āyatanāni. Ayamettha saṅkhepo, vitthāro pana visuddhimaggasaṃvaṇṇanāyaṃ (visuddhi. 2.510, 511, 512; visuddhi. ṭī. 2.510) vuttanayeneva veditabbo.
384. 「六つの内と外において」とは、「六つの内なるものにおいて、六つの外なるものにおいて」と「六つの」という語をそれぞれに結合すべきである。それではなぜこれら両者は六つずつのみ説かれたのか。六識身の生起の門と対象が確定していることによる。実に眼識の認識過程に含まれる識身にとって、眼処こそが生起の門であり、色処こそが対象である。同様に他のものは他のものにとってであり、しかし第六のものにとっては有分心と呼ばれる意処の一部分が生起の門であり、共通ならざる法処が対象である。見開くゆえに「眼(チャック)」であり、色を味わい、判別するという意味である。聞くゆえに「耳(ソータ)」である。嗅ぐゆえに「鼻(ガーナ)」である。生命の起因となることから味は生命であり、その生命を呼び集めるゆえに「舌(ジヴハー)」である。嫌悪すべき有漏の諸法の来集(アーヤ)、生起の場所であるゆえに「身(カーヤ)」である。思慮する、対象を了知するゆえに「意(マノ)」である。色彩の変異を被りつつ胸中の状態を現すゆえに「色(ルーパ)」である。動く、自らの条件によって運ばれ聴覚によって了知される状態に達するゆえに「声(サッダ)」である。自らの拠り所を告げ知らせるゆえに「香(ガンダ)」である。味わう、それを衆生が賞味するゆえに「味(ラサ)」である。触れられるゆえに「所触(ポットッバ)」である。自らの自性を保持するゆえに「法(ダンマ)」である。そしてすべてのものは来集を広げるなどの意味において「処(アーヤタナ)」である。ここでの要約はこの通りであり、詳細については『清浄道論』の解説(註解)において述べられた方法に従って理解されるべきである。
Cakkhuñca pajānātīti (dī. ni. 2.384; ma. ni. 1.117) ettha cakkhu nāma pasādacakkhu, na sasambhāracakkhu, nāpi dibbacakkhuādikanti āha cakkhupasādanti. Yaṃ sandhāya vuttaṃ ‘‘yaṃ cakkhu catunnaṃ mahābhūtānaṃ upādāya pasādo’’ti. (Dha. sa. 596) ca-saddo vakkhamānatthasamuccayattho. Yāthāvasarasalakkhaṇavasenāti aviparītassa attano rasassa ceva lakkhaṇassa ca vasena, rūpesu āviñchanakiccassa ceva rūpābhighātārahabhūtapasādalakkhaṇassa ca daṭṭhukāmatānidānakammasamuṭṭhānabhūtapasādalakkhaṇassa ca vasenāti attho. Atha vā yāthāvasarasalakkhaṇavasenāti yāthāvasarasavasena ceva lakkhaṇavasena ca, yāthāvasarasoti ca aviparītasabhāvo veditabbo. So hi rasīyati aviraddhapaṭivedhavasena assādīyati ramīyatīti ‘‘raso’’ti vuccati, tasmā salakkhaṇavasenāti vuttaṃ hoti. Lakkhaṇavasenāti aniccādisāmaññalakkhaṇavasena.
「眼をも了知す」のここにおいて、眼とは浄色眼(視覚機能)のことであり、肉眼(塊としての眼)ではなく、また天眼等でもないことから「眼の浄色を」と言われた。「四大種を因とする浄色である眼」と意図して説かれたものである。「また(ca)」という語は、これから説かれる意味を併せて集める意味である。「真実なる自作用と特相によって」とは、倒錯なき自らの作用と特相の力によってであり、色において引き寄せる働きと、色の衝突に適した四大種の浄色という特相と、見たいという欲求を原因とする業から生じた四大種の浄色という特相の力によって、という意味である。あるいは「真実なる自作用と特相によって」とは、真実なる自作用によって、また特相によってのことであり、「真実なる自作用」とは倒錯なき自性と理解されるべきである。実にそれは味わわれる、誤りのない通達によって享受され喜ばれることから「味(作用・ラサ)」と呼ばれる。したがって「自相によって」と述べられたことになる。「特相によって」とは、無常などの共通の相(共相)によってである。
‘‘Cakkhuñca paṭicca rūpe ca uppajjati cakkhuviññāṇa’’ntiādīsu (ma. ni. 1.204, 400; ma. ni. 3.421, 425, 426; saṃ. ni. 2.43, 45; 2.4.60) samuditāniyeva rūpāyatanāni cakkhuviññāṇuppattihetu, na visuṃ visunti imassa atthassa jotanatthaṃ ‘‘rūpe cā’’ti puthuvacanaggahaṇaṃ, tāya eva ca desanāgatiyā kāmaṃ idhāpi ‘‘rūpe ca pajānātī’’ti vuttaṃ, rūpabhāvasāmaññena pana sabbaṃ ekajjhaṃ gahetvā bahiddhā catusamuṭṭhānikarūpañcāti ekavacanavasena attho. Sarasalakkhaṇa vasenāti cakkhuviññāṇassa visayabhāvakiccassa vasena ceva cakkhupaṭihananalakkhaṇassa vasena cāti yojetabbaṃ.
「眼と色とを縁として眼識が生じる」等において、集合した色処こそが眼識の生起の原因であり、個々別々ではないというこの意味を明らかにするために「色をも」と複数形が用いられている。まさにその説法の流れによって、たしかにここでも「色をも了知す」と説かれたが、色であることの共通性によってすべてを一括して把握し、「外なる四種(業・心・時節・食)から生じた色をも」と単数形によって意味が示されている。「自作用と特相によって」とは、眼識の対象となる働きによって、また眼を打つという特相によって、と結合されるべきである。
Ubhayaṃ paṭiccāti cakkhuṃ upanissayapaccayavasena paccayabhūtaṃ, rūpe ārammaṇādhipatiārammaṇūpanissayavasena paccayabhūte ca paṭicca. Kāmaṃ ayaṃ suttantasaṃvaṇṇanā, nippariyāyakathā nāma abhidhammasannissitā evāti abhidhammanayeneva saṃyojanāni dassento **‘‘kāmarāga…pe… avijjāsaṃyojana’’**nti āha. Tattha kāmesu rāgo, kāmo ca so rāgo cāti vā kāmarāgo. So eva bandhanaṭṭhena saṃyojanaṃ. Ayañhi yassa saṃvijjati, taṃ puggalaṃ vaṭṭasmiṃ saṃyojeti bandhati iti dukkhena sattaṃ, bhavādike vā bhavantarādīhi, kammunā vā vipākaṃ saṃyojeti bandhatīti saṃyojanaṃ. Evaṃ paṭighasaṃyojaṃādīnampi yathārahamattho vattabbo. Sarasalakkhaṇavasenāti ettha pana sattassa vaṭṭato anissajjanasaṅkhātassa attano kiccassa ceva yathāvuttabandhanasaṅkhātassa lakkhaṇassa ca vasenāti yojetabbaṃ.
「両者を縁として」とは、親依止縁としての条件となった眼と、対象縁・増上縁・親依止縁としての条件となった色とを縁として、ということである。たしかにこれは経典の註解であるが、無方便の厳密な説話は阿毘達磨に基づいていることから、まさに阿毘達磨の方法によって結縛(煩悩)を示しながら「欲貪…乃至…無明の結縛」と言われた。そこにおいて、諸々の欲における貪、あるいは欲であり貪であるものが「欲貪」である。それそのものが縛るという意味において「結縛」である。実にこれが存在する人を、それは輪廻の中に結びつける、縛る。このように苦によって衆生を、あるいは生存等を他の生存等と、あるいは業によって異熟を結びつける、縛るゆえに「結縛」である。このように瞋恚の結縛等にも相応に意味が語られるべきである。「自作用と特相によって」のここにおいては、衆生を輪廻から解放しないという自らの働きと、上述の束縛という特相の力によって、と結合されるべきである。
Bhavassādadiṭṭhissādanivattanatthaṃ kāmassādaggahaṇaṃ. Assādayatoti abhiramantassa. Abhinandatoti sappītikataṇhāvasena nandantassa. Padadvayenāpi balavato kāmarāgassa paccayabhūtā kāmarāguppatti vuttā. Esa nayo sesesupi. Aniṭṭhārammaṇeti ettha ‘‘āpāthagate’’ti vibhattivipariṇāmanavasena ‘‘āpāthagata’’nti padaṃ ānetvā sambandhitabbaṃ. Etaṃ ārammaṇanti etaṃ evaṃsukhumaṃ evaṃdubbibhāgaṃ ārammaṇaṃ. **‘‘Niccaṃ dhuva’’**nti idaṃ nidassanamattaṃ. ‘‘Ucchijjissati vinassissatīti gaṇhato’’ti evamādīnampi saṅgaho icchitabbo. Paṭhamāya sakkāyadiṭṭhiyā anurodhavasena **‘‘satto nu kho’’**ti, itarāya anurodhavasena **‘‘sattassa nu kho’’**ti vicikicchato. Attattaniyādigāhānugatā hi vicikicchā diṭṭhiyā asati abhāvato. Bhavaṃ patthentassāti ‘‘īdise sampattibhave yasmā amhākaṃ idaṃ iṭṭhaṃ rūpārammaṇaṃ sulabhaṃ jātaṃ, tasmā āyatimpi ediso, ito vā uttaritaro sampattibhavo bhaveyyā’’ti bhavaṃ nikāmentassa. Evarūpanti evarūpaṃ rūpaṃ. Taṃsadise hi tabbohāravasenevaṃ vuttaṃ. Bhavati hi taṃsadisesu tabbohāro yathā ‘‘sā eva tittirī, tāni eva osadhānī’’ti. Usūyatoti usūyaṃ issaṃ uppādayato. Aññassa maccharāyatoti aññena asādhāraṇabhāvakaraṇena macchariyaṃ karoto. Sabbeheva yathāvuttehi navahi saṃyojanehi.
有愛の享受と見愛の享受を退けるために「欲愛の享受」が把握されている。「味わう者には」とは、楽しむ者には。「歓喜する者には」とは、喜を伴う渇愛によって喜ぶ者には。二つの語によって、強力な欲貪の条件となる欲貪の生起が説かれた。この方法は他のものにおいても同様である。「好ましくない対象において」のここにおいて、「現前した」という格変化によって「現前した」という語を補って結びつけるべきである。「その対象を」とは、このように微細でこのように分別しがたい対象を。「常であり堅固である」とは、これは単なる例示である。「断滅し消滅するであろうと把握する者」等の包摂も望まれるべきである。第一の有身見(我見)に従うことによって「衆生であろうか」、他に従うことによって「衆生のことであろうか」と疑う。実に我や我がもの等の執着に追随する疑いは、見が存在しない時には存在しないからである。「生存(果報)を希求する者には」とは、「このような富貴な生存において、私たちにとってこの好ましい色の対象が容易に得られたのだから、未来においてもこのような、あるいはこれ以上に勝れた富貴な生存があるように」と生存を熱望する者には。「このような」とは、このような色のことである。それに類似するものにおいて、その呼称の力によってこのように言われたのである。実にそれに類似するものにおいて、「まさにその鶉、まさにそれらの薬草」というように、その呼称が使われるからである。「嫉妬する者には」とは、嫉妬を生じさせる者には。「他者に物惜しみする者には」とは、他者にとって非共通の状態とすることによって物惜しみをする者には。まさに上述のすべての九つの結縛によってである。
Tañca kāraṇanti subhanimittapaṭighanimittādivibhāgaṃ iṭṭhāniṭṭhādirūpārammaṇañceva tajjāyonisomanasikārañcāti tassa tassa saṃyojanassa kāraṇaṃ. Avikkhambhitāsamūhatabhūmiladdhuppannaṃ taṃ sandhāya **‘‘appahīnaṭṭhena uppannassā’’**ti vuttaṃ. Vattamānuppannatā samudācāraggahaṇeneva gahitā. Yena kāraṇenāti yena vipassanāsamathabhāvanāsaṅkhātena kāraṇena. Tañhi tassa tadaṅgavasena ceva vikkhambhanavasena ca pahānakāraṇaṃ. Issāmacchariyānaṃ apāyagamanīyatāya paṭhamamaggavajjhatā vuttā. Yadi evaṃ ‘‘tiṇṇaṃ saṃyojanānaṃ parikkhayā sotāpanno hotī’’ti (a. ni. 4.241) suttapadaṃ kathanti? Taṃ suttantapariyāyena vuttaṃ. Yathānulomasāsanā hi suttantadesanā, ayaṃ pana abhidhammanayena saṃvaṇṇanāti nāyaṃ dosoti. Oḷārikassāti thūlassa, yato abhiṇhasamuppattipariyuṭṭhānatibbatāva hoti. Aṇusahagatassāti vuttappakārābhāvena aṇubhāvaṃ sukhumabhāvaṃ gatassa. Uddhaccasaṃyojanassapettha anuppādo vuttoyevāti daṭṭhabbo yathāvuttasaṃyojanehi avinābhāvato. Ekatthatāya sotādīnaṃ sabhāvasarasalakkhaṇavasena pajānanā, tappaccayānaṃ saṃyojanānaṃ uppādādipajānanā ca vuttanayeneva veditabbāti dassento **‘‘eseva nayo’’**ti atidisati.
「その原因をも」とは、浄相・瞋相等の区分である好ましい対象・好ましくない対象等の色、そしてそこから生じる不正作意という、それぞれの結縛の原因のことである。鎮伏されず根絶されていない領域において生起を得たそれを指して「未断という意味において生じた」と言われた。現在生起している状態は、現起を把握することによって把握された。「いかなる原因によって」とは、観と止の修習と呼ばれるいかなる原因によって。「実にそれは、それ(結縛)にとって部分的な断滅と鎮伏による断滅の原因である。嫉妬と物惜しみは悪趣へ赴かせるものであることから、初道(預流道)によって断じられることが説かれた。もしそうであるなら、「三結が全滅することによって預流者となる」という経典の句はどうなるのか。それは経典の法門によって説かれたのである。実に経典の教説は相手の機根に応じた教えであり、しかしこれは阿毘達磨の方法による註解であるから、この過失はない。「粗大なものの」とは、粗大であり、それによって頻繁な生起と纏縛の激しさが生じるもののことである。「微細なものに伴われた」とは、上述の様態がないことによって微小となり微細となったもののことである。ここにおいて掉挙の結縛の不生も説かれたと見なされるべきである。上述の結縛と不離であるからである。同一の目的をもつことから、耳等の自性・自作用・特相による了知、その条件となる結縛の生起等の了知も、述べられた方法によって理解されるべきであることを示しながら「この方法が同じである」と敷衍している。
Attano vā dhammesūti attano ajjhattikāyatanadhammesu, attano ubhayadhammesu vā. Imasmiṃ pakkhe ajjhattikāyatanapariggaṇhanenāti ajjhattikāyatanapariggaṇhanamukhenāti attho. Evañca anavasesato saparasantānesu āyatanānaṃ pariggaho siddho hoti. Parassa vā dhammesūti etthāpi eseva nayo. Rūpāyatanassāti aḍḍhekādasappabhedassa rūpasabhāvassa āyatanassa rūpakkhandhe ‘‘vuttanayena nīharitabbo’’ti ānetvā sambandhitabbaṃ. Sesakkhandhesūti vedanāsaññāsaṅkhārakkhandhesu. Vuttanayenāti iminā atidesena rūpakkhandhe ‘‘āhārasamudayā’’ti viññāṇakkhandhe ‘‘nāmarūpasamudayā’’ti sesakhandhesu ‘‘phassasamudayā’’ti imaṃ visesaṃ vibhāveti, itaraṃ pana sabbattha samānanti khandhapabbe viya āyatanapabbepi lokuttaranivattanaṃ pāḷiyaṃ gahitaṃ natthīti vuttaṃ **‘‘lokuttaradhammā na gahetabbā’’**ti. Sesaṃ vuttanayameva.
「自らの法において、あるいは」とは、自らの内なる処の法において、あるいは自らの両者の法において。この立場において「内なる処を把握することによって」とは、内なる処を把握することを通じて、という意味である。そしてこのようにして、残余なく自己と他者の相続における処の把握が成就することになる。「他者の法において、あるいは」のここにおいても、この方法が同じである。「色処の」とは、十一半の区分をもつ色の自性である処のことであり、色蘊において「述べられた方法によって導き出されるべきである」と補って結びつけるべきである。「残りの蘊において」とは、受・想・行蘊において。「述べられた方法によって」というこの敷衍によって、色蘊においては「食の集起によって」、識蘊においては「名色の集起によって」、残りの蘊においては「触の集起によって」というこの差異を明らかにする。他のものはすべての箇所で同一であることから、蘊節のように処節でも出世間の排除は本文(パーリ)において把握されていないため、「出世間の法は把握されるべきではない」と言われた。残余のことは述べられた通りのことである。
Āyatanapabbavaṇṇanā niṭṭhitā.
処節の註解を終わる。
Bojjhaṅgapabbavaṇṇanā
覚支節の註解
385. Bujjhanakasattassāti kilesaniddāya paṭibujjhanakasattassa, ariyasaccānaṃ vā paṭivijjhanakasattassa. Aṅgesūti kāraṇesu, avayavesu vā. Udayavayañāṇuppattito paṭṭhāya sambodhipaṭipadāyaṃ ṭhito nāma hotīti āha **‘‘āraddhavipassakato paṭṭhāya yogāvacaroti sambodhī’’**ti. Suttantadesanā nāma pariyāyakathā, ayañca satipaṭṭhānadesanā lokiyamaggavasena pavattāti vuttaṃ ‘‘yogāvacaroti sambodhī’’ti, aññathā ‘‘ariyasāvako’’ti vadeyya.
385. 「覚る衆生にとっての」とは、煩悩の眠りから覚める衆生にとっての、あるいは四聖諦を通達する衆生にとっての。「諸支において」とは、原因において、あるいは構成要素において。「生滅の智慧が生じた時から、等覚への実践道に立つ者と呼ばれる」ことから、「観を始めた者から始まって行者(ヨーガを行う者)は等覚である」と言われた。経典の教説は方便の説話であり、この念処の教説は世間の道として生起したものであることから「行者は等覚である」と言われたのであり、そうでなければ「聖弟子」と言うであろう。
**‘‘Satisambojjhaṅgaṭṭhānīyā’’**ti padassa attho ‘‘vicikicchāṭṭhānīyā’’ti ettha vuttanayena veditabbo. Tanti yonisomanasikāraṃ. Tatthāti satiyaṃ, nipphādetabbe cetaṃ bhummaṃ.
「念等覚支の依処となるもの」という句の意味は、「疑いの依処となるもの」のここにおいて述べられた方法によって理解されるべきである。「それを」とは、その如理作意を。「そこにおいて」とは、念においてであり、成し遂げられるべきものにおける処格である。
Sati ca sampajaññañca satisampajaññaṃ. Atha vā satippadhānaṃ abhikkantādisātthakabhāvapariggaṇhanañāṇaṃ satisampajaññaṃ. Taṃ sabbattha satokārībhāvāvahattā satisambojjhaṅgassa uppādāya hoti. Yathā paccanīkadhammappahānaṃ, anurūpadhammasevanā ca anuppannānaṃ kusalānaṃ dhammānaṃ uppādāya hoti, evaṃ satirahitapuggalavivajjanā, satokārīpuggalasevanā, tattha ca yuttappayuttatā satisambojjhaṅgassa uppādāya hotīti imamatthaṃ dasseti **‘‘satisampajañña’’**ntiādinā. Tissadattatthero nāma, yo bodhimaṇḍe suvaṇṇasalākaṃ gahetvā ‘‘aṭṭhārasasu bhāsāsu katarabhāsāya dhammaṃ kathemī’’ti parisaṃ pavāresi. Abhayattheroti dattābhayattheramāha.
正念と正知が「正念正知」である。あるいは、正念を主とする、前進等の有益性の把握の智慧が正念正知である。それはあらゆる箇所で念慮ある状態をもたらすことから、念等覚支の生起のためにある。敵対する法の断除と相応しい法の修習が未生起の善法の生起のためにあるように、念を欠いた人物を避けること、念慮ある人物に親しむこと、そこにおいて専心専念することが念等覚支の生起のためにあるというこの意味を「正念正知…」等によって示している。ティッサダッタ長老とは、菩提道場において黄金の筆(棒)を手に取り、「十八の言語のうちどの言語で法を説きましょうか」と会衆に呼びかけた人のことである。「アバヤ長老」とは、ダッタアバヤ長老のことを言っている。
Dhammānaṃ, dhammesu vā vicayo dhammavicayo, so eva sambojjhaṅgo, tassa **dhammavicayasambojjhaṅgassa. ‘‘Kusalākusalā dhammā’’**tiādīsu yaṃ vattabbaṃ, taṃ heṭṭhā vuttanayameva. Tattha yonisomanasikārabahulīkāroti kusalādīnaṃ taṃtaṃsabhāvasarasalakkhaṇaādikassa yāthāvato avabujjhanavasena uppanno ñāṇasampayuttacittuppādo. So hi aviparītamanasikāratāya ‘‘yonisomanasikāro’’ti vutto, tadābhogatāya āvajjanāpi taggatikā eva, tassa abhiṇhaṃ pavattanaṃ bahulīkāro. Bhiyyobhāvāyāti punappunaṃ bhāvāya. Vepullāyāti vipulabhāvāya. Pāripūriyāti paribrūhanāya.
諸法の、あるいは諸法における選択(思索)が「択法」であり、それそのものが等覚支であるから、その「択法等覚支の」である。「善・不善の法」等において語られるべきことは、すでに下に述べられた方法の通りである。そこにおいて「如理作意の多修」とは、善などのそれらの自性・自作用・特相等を真実の通りに了知することによって生じた、智相応の心の生起のことである。実にそれは倒錯なき作意であることから「如理作意」と言われ、それに注意を向けることによる開悟も同類のものであり、それの頻繁な生起が多修である。「増大のために」とは、幾度も生じることのために。「広大のために」とは、広大なる状態のために。「円満のために」とは、充実させるために。
Paripucchakatāti pariyogāhetvā pucchakabhāvo. Ācariye payirupāsitvā pañcapi nikāye saha aṭṭhakathāya pariyogāhetvā yaṃ yaṃ tattha gaṇṭhiṭṭhānabhūtaṃ, taṃ taṃ ‘‘idaṃ bhante kathaṃ, imassa ko attho’’ti khandhāyatanādiatthaṃ pucchantassa dhammavicayasambojjhaṅgo uppajjati. Tenāha **‘‘khandhadhātu…pe… bahulatā’’**ti. Vatthūnaṃ visadabhāvakaraṇanti ettha cittacetasikānaṃ pavattiṭṭhānabhāvato sarīraṃ, tappaṭibaddhāni cīvarāni ca ‘‘vatthūnī’’ti adhippetāni, tāni yathā cittassa sukhāvahāni honti, tathā karaṇaṃ tesaṃ visadabhāvakaraṇaṃ. Tena vuttaṃ **‘‘ajjhattikabāhirāna’’**ntiādi. Ussannadosanti vātādiussannadosaṃ. Sedamalamakkhitanti sedena ceva jallikāsaṅkhātena sarīramalena ca makkhitaṃ. Ca-saddena aññampi sarīrassa, cittassa ca pīḷāvahaṃ saṅgaṇhāti. Senāsanaṃ vāti vā-saddena pattādīnaṃ saṅgaho daṭṭhabbo. Avisade sati, visayabhūte vā. Kathaṃ bhāvanamanuyuttassa tāni visayo? Antarantarā pavattanakacittuppādavasenevaṃ vuttaṃ. Te hi cittuppādā cittekaggatāya aparisuddhabhāvāya saṃvattanti. Cittacetasikesu nissayādipaccayabhūtesu. Ñāṇampīti pi-saddo sampiṇḍanattho, tena na kevalaṃ taṃ vatthuyeva, atha kho tasmiṃ aparisuddhe ñāṇampi aparisuddhaṃ hotīti nissayāparisuddhiyā taṃnissitāparisuddhi viya visayassa aparisuddhatāya visayino aparisuddhiṃ dasseti.
「質問すること」とは、徹底的に究明して質問する状態である。師に親近して五つの阿含(ニカーヤ)を註釈書とともに究明し、そこにおいて難解な箇所となったそれぞれのところを、「大徳よ、これはどういうことですか、これの意味は何ですか」と蘊や処などの意味を質問する者に、択法等覚支が生じる。それゆえに「蘊・界…乃至…豊富であること」と言われた。「事物の清浄化」のここにおいて、心・心所の生起の場所となることから、身体とそれに付属する衣類が「事物(所依)」と意図されており、それらを心が安楽をもたらすように整えることがそれらの清浄化である。それゆえに「内と外の…」等と言われた。「過多な病素」とは、風などの過多な病素のことである。「汗と垢に汚れた」とは、汗と垢と呼ばれる身体の汚れで汚れたことである。「また(ca)」という語によって、身体と心に苦痛をもたらす他のものをも包摂している。「あるいは住処を」という語の「あるいは(vā)」によって、鉢等の包摂と見なされるべきである。清浄でない時、あるいは対象となっている時。いかにして修習に専念する者にそれらが対象となるのか。時折生起する心の生起によってこのように言われたのである。実にそれらの心の生起は、心一境性の不清浄のために資するからである。心・心所にとって依止縁等の条件となったものにおいて。「智慧をも」という「〜をも(api)」は集約の意味であり、それによって単にその事物だけでなく、実にそれが不清浄である時、智慧もまた不清浄になるのであり、所依の不清浄によってそれに依存するものの不清浄となるように、対象の不清浄によって対象をもつ主体の不清浄を示すのである。
Samabhāvakaraṇanti kiccato anūnādhikabhāvakaraṇaṃ. Saddheyyavatthusmiṃ paccayavasena adhimokkhakiccassa paṭutarabhāvena, paññāya avisadatāya, vīriyādīnañca sithilatādinā saddhindriyaṃ balavaṃ hoti. Tenāha **‘‘itarāni mandānī’’**ti. Tatoti tasmā saddhindriyassa balavabhāvato, itaresañca mandattā. Kosajjapakkhe patituṃ adatvā sampayuttadhammānaṃ paggaṇhanaṃ anubalappadānaṃ paggaho, paggahova kiccaṃ paggahakiccaṃ, ‘‘kātuṃ na sakkotī’’ti ānetvā sambandhitabbaṃ. Ārammaṇaṃ upagantvā ṭhānaṃ, anissajjanaṃ vā upaṭṭhānaṃ. Vikkhepapaṭikkhepo, yena vā sampayuttā avikkhittā honti, so avikkhepo. Rūpagataṃ viya cakkhunā yena yāthāvato visayasabhāvaṃ passati, taṃ dassanakiccaṃ. Kātuṃ na sakkoti balavatā saddhindriyena abhibhūtattā. Sahajātadhammesu hi indaṭṭhaṃ kārentānaṃ sahapavattamānānaṃ dhammānaṃ ekarasatāvaseneva atthasiddhi, na aññathā. Tasmāti vuttamevatthaṃ kāraṇabhāvena paccāmasati. Tanti saddhindriyaṃ. Dhammasabhāvapaccavekkhaṇenāti yassa saddheyyassa vatthuno uḷāratādiguṇe adhimuccanassa sātisayappavattiyā saddhindriyaṃ balavaṃ jātaṃ, tassa paccayapaccayuppannatādivibhāgato yāthāvato vīmaṃsanena. Evañhi evaṃdhammatānayena sabhāvasarasato pariggayhamāne savipphāro adhimokkho na hoti ‘‘ayaṃ imesaṃ dhammānaṃ sabhāvo’’ti parijānanavasena paññābyāpārassa sātisayattā. Dhuriyadhammesu hi yathā saddhāya balavabhāve paññāya mandabhāvo hoti, evaṃ paññāya balavabhāve saddhāya mandabhāvo hotīti. Tena vuttaṃ **‘‘taṃ dhammasabhāvapaccavekkhaṇena vā, yathā vā manasikaroto balavaṃ jātaṃ, tathā amanasikārena hāpetabba’’**nti. Tathā amanasikārenāti yenākārena bhāvanaṃ anuyuñjantassa saddhindriyaṃ balavaṃ jātaṃ, tenākārena bhāvanāya ananuyuñjanatoti vuttaṃ hoti. Idha duvidhena saddhindriyassa balavabhāvo attano vā paccayavisesena kiccuttariyato, vīriyādīnaṃ vā mandakiccatāya. Tattha paṭhamavikappe hāpanavidhi dassito. Dutiyakappe pana yathā manasi karoto vīriyādīnaṃ mandakiccatāya saddhindriyaṃ balavaṃ jātaṃ, tathā amanasikārena, vīriyādīnaṃ paṭukiccabhāvāvahena manasikārena saddhindriyaṃ tehi samarasaṃ karontena hāpetabbaṃ. Iminā nayena sesindriyesupi hāpanavidhi veditabbo.
「平等にすること」とは、作用において過不足なき状態にすることである。信ずべき対象において条件によって勝解(確信)の作用が過度に鋭敏になることによって、智慧の不明瞭さによって、また精進などの弛緩等によって信根が強力になる。それゆえに「他のものは微弱である」と言われた。「それゆえに」とは、その信根の強力な状態から、また他のものの微弱さから。怠惰の側に堕ちることを許さず、相応する諸法を策励し支援することが策励であり、策励こそが作用である策励作用を「為すことができない」と補って結びつけるべきである。対象に赴いて留まること、あるいは離れないことが現前(確立)である。散乱の否定、あるいはそれによって相応するものが散乱しないことが無散乱である。眼によって色を見るように、それによって真実に対象の自性を見るものが照見作用である。強力な信根によって圧倒されているため為すことができない。実に同時に生じた諸法において主導権を行使する共生する諸法は、同一の機能(同味)によることによってのみ目的の達成があり、別ではないからである。「それゆえに」とは、まさに述べられた意味を原因として言及している。「それを」とは、信根を。「法の自性の省察によって」とは、信ずべき対象の卓越した徳等に確信することが過度に生起することによって信根が強力となった、その対象の原因や結果などの区分から真実の通りに探究することによって。実にこのように諸法の道理によって自性と自作用から把握される時、「これがこれら諸法の自性である」と了知することによって智慧の働きが勝れているため、動揺を伴う勝解は存在しない。実に主導的な諸法において、信仰が強力である時に智慧が微弱となるように、智慧が強力である時に信仰が微弱となる。それゆえに「それを法の自性の省察によって、あるいは作意する者において強力となったように、そのようには作意しないことによって減じられるべきである」と言われた。「そのようには作意しないことによって」とは、いかなる様態によって修習に専念する者に信根が強力となったのか、その様態によって修習に専念しないことによって、と言われたことになる。ここで二様に信根が強力となる。自らの特別な条件によって作用が勝ることによるか、精進などの作用が微弱であることによる。そこにおいて第一の場合には減じる方法が示された。しかし第二の場合には、作意する者において精進などの微弱な作用によって信根が強力となったように、そのようには作意しないことによって、精進などの鋭敏な作用をもたらす作意によって、信根をそれらと等しい機能にしながら減じられるべきである。この方法によって残りの諸根においても減じる方法が知られるべきである。
Vakkalittheravatthūti. So hi āyasmā saddhādhimuttatāya katādhikāro satthu rūpakāyadassanappasuto eva hutvā viharanto satthārā ‘‘kiṃ te vakkali iminā pūtikāyena diṭṭhena, yo kho vakkali dhammaṃ passati, so maṃ passatī’’tiādinā (saṃ. ni. 3.87; dī. ni. aṭṭha. 1.paṭhamamahāsaṅgītikathā; a. ni. aṭṭha. 1.1.208; dha. pa. aṭṭha. 2.380; paṭi. ma. aṭṭha. 2.2.130; dha. sa. aṭṭha. 1007; theragā. aṭṭha. 2.vakkalittheragāthāvaṇṇanā) ovaditvā kammaṭṭhāne niyojitopi taṃ ananuyuñjanto paṇāmito attānaṃ vinipātetuṃ papātaṭṭhānaṃ abhiruhi, atha naṃ satthā yathānisinnova obhāsaṃ vissajjanena attānaṃ dassetvā –
「ヴァッカリ長老の物語」とは。実にその尊者は信仰に傾倒していたために善根を積んでおり、師(仏陀)の肉身を見ることにのみ専念して暮らしていたが、師から「ヴァッカリよ、この悪臭を放つ身体を見て何になろう。ヴァッカリよ、実に法を見る者は私を見るのである」等と訓戒され、業処に専念させられたにもかかわらずそれに専念しなかったため立ち去らされ、自らを崖から落とそうと絶壁に登った。そこで師は座ったまま光を放って自らの姿を現し、
‘‘Pāmojjabahulo bhikkhu, pasanno buddhasāsane;
「歓喜を多くもつ比丘は、仏陀の教えに澄心し、
Adhigacche padaṃ santaṃ, saṅkhārūpasamaṃ sukha’’nti. (dha. pa. 381) –
寂静の境地、諸行の寂止の安楽に達するであろう」
Gāthaṃ vatvā ‘‘ehi vakkalī’’ti āha. So tena amateneva abhisitto haṭṭhatuṭṭho hutvā vipassanaṃ paṭṭhapesi. Saddhāya balavabhāvato vipassanāvīthiṃ na otarati, taṃ ñatvā bhagavā tassa indriyasamattapaṭipādanāya kammaṭṭhānaṃ sodhetvā adāsi. So satthārā dinnanaye ṭhatvā vipassanaṃ ussukkāpetvā maggappaṭipāṭiyā arahattaṃ pāpuṇi. Tenetaṃ vuttaṃ ‘‘vakkalittheravatthu cettha nidassana’’nti. Etthāti saddhindriyassa adhimattabhāve sesindriyānaṃ sakiccākaraṇe.
という詩を説いて「来なさい、ヴァッカリよ」と言われた。彼はその不死の甘露によって注がれたように歓喜し満足して、観を確立した。信仰が強力であったため観の道に入ることができず、それを知った世尊は彼の諸根の平等の確立のために業処を整えて与えられた。彼は師によって与えられた方法に立って観を奮起させ、道の順序に従って阿羅漢果に達した。それゆえに「ここにおいてヴァッカリ長老の物語が例証として示されるべきである」と言われた。「ここにおいて」とは、信根が過度になり残りの諸根が自らの作用を為さないことにおいて。
Itarakiccabhedanti upaṭṭhānādikiccavisesaṃ. Passaddhādīti ādi-saddena samādhiupekkhāsambojjhaṅgānaṃ saṅgaho daṭṭhabbo. Hāpetabbanti yathā saddhindriyassa balavabhāvo dhammasabhāvapaccavekkhaṇena hāyati, evaṃ vīriyindriyassa adhimattatā passaddhiādibhāvanāya hāyati samādhipakkhiyattā tassā. Tathā hi samādhindriyassa adhimattataṃ kosajjapātato rakkhantī vīriyādibhāvanā viya vīriyindriyassa adhimattataṃ uddhaccapātato rakkhantī ekaṃsato hāpeti. Tena vuttaṃ **‘‘passaddhaādibhāvanāya hāpetabba’’**nti. Soṇattherassa vatthūti sukumārasoṇattherassa vatthu. (Mahāva. 242; a. ni. aṭṭha. 1.1.205) so hi āyasmā satthu santike kammaṭṭhānaṃ gahetvā sītavane viharanto ‘‘mama sarīraṃ sukhumālaṃ, na ca sakkā sukheneva sukhaṃ adhigantuṃ, kilametvāpi samaṇadhammo kātabbo’’ti taṃ ṭhānacaṅkamameva adhiṭṭhāya padhānaṃ anuyuñjanto pādatalesu phoṭesu uṭṭhitesupi vedanaṃ ajjhupekkhitvā daḷhaṃ vīriyaṃ karonto accāraddhavīriyatāya visesaṃ nibbattetuṃ nāsakkhi. Satthā tattha gantvā vīṇūpamovādena ovaditvā vīriyasamatāyojanavīthiṃ dassento kammaṭṭhānaṃ sodhetvā gijjhakūṭaṃ gato. Theropi satthārā dinnanayena vīriyasamataṃ yojetvā bhāvento vipassanaṃ ussukkāpetvā arahatte patiṭṭhāsi. Tena vuttaṃ **‘‘soṇattherassa vatthu dassetabba’’**nti. Sesesupīti satisamādhipaññindriyesupi.
「他の作用の区分を」とは、確立などの作用の差異のことである。「軽安等」の「〜等」によって、定覚支・捨覚支の包摂と見なされるべきである。「減じられるべきである」とは、信根の強力な状態が法の自性の省察によって減じるように、精進根の過度な状態は軽安等の修習によって減じる。それは三昧の側にあるものだからである。実に三昧根の過度な状態を怠惰への転落から護る精進等の修習のように、精進根の過度な状態を掉挙への転落から護るものは確実にそれを減じさせる。それゆえに「軽安等の修習によって減じられるべきである」と言われた。「ソーナ長老の物語」とは、繊細なソーナ長老の物語である。実にその尊者は師の御前で業処を受けて冷林(シータヴァナ)に住し、「私の身体は繊細であり、快楽によって快楽に達することはできない。苦労してでも沙門の法を実践すべきである」と、その場所の経行のみを決意して修行に専念し、足の裏に水ぶくれが生じてもその苦痛を忍んで堅固な精進をなしたが、過度な精進によって卓越した境地を生じさせることができなかった。師はそこへ赴き、琴の譬えの訓戒によって教え諭し、精進の平等の結合の道を示し、業処を整えて霊鷲山へと戻られた。長老もまた師によって与えられた方法によって精進の平等を結合して修習し、観を奮起させて阿羅漢果に確立した。それゆえに「ソーナ長老の物語が示されるべきである」と言われた。「残りのものにおいても」とは、念・定・慧根においても。
Samatanti saddhāpaññānaṃ aññamaññaṃ anūnānadhikabhāvaṃ, tathā samādhivīriyānaṃ. Yathā hi saddhāpaññānaṃ visuṃ visuṃ dhuriyadhammabhūtānaṃ kiccato aññamaññaṃ nātivattanaṃ visesato icchitabbaṃ, yato nesaṃ samadhuratāya appanā sampajjati, evaṃ samādhivīriyānaṃ kosajjuddhaccapakkhikānaṃ samarasatāya sati aññamaññūpatthambhanato sampayuttadhammānaṃ antadvayapātābhāvena sammadeva appanā ijjhati. **‘‘Balavasaddho’’**tiādi byatirekamukhena vuttasseva atthassa samatthanaṃ. Tassattho yo balavatiyā saddhāya samannāgato avisadañāṇo, so mudhappasanno hoti, na aveccappasanno. Tathā hi avatthusmiṃ pasīdati seyyathāpi titthiyasāvakā. Kerāṭikapakkhanti sāṭheyyapakkhaṃ bhajati. Saddhāhīnāya paññāya atidhāvanto ‘‘deyyavatthupariccāgena vinā cittuppādamattenapi dānamayaṃ puññaṃ hotī’’tiādīni parikappeti hetupatirūpakehi vañcito, evaṃbhūto ca sukkhatakkaviluttacitto paṇḍitānaṃ vacanaṃ nādiyati saññattiṃ na gacchati. Tenāha **‘‘bhesajjasamuṭṭhito viya rogo atekiccho hotī’’**ti. Yathā cettha saddhāpaññānaṃ aññamaññaṃ visamabhāvo na atthāvaho, anatthāvahova, evaṃ, samādhivīriyānaṃ aññamaññaṃ visamabhāvo na atthāvaho, anatthāvahova, tathā na avikkhepāvaho, vikkhepāvahovāti. Kosajjaṃ abhibhavati, tena appanaṃ na pāpuṇātīti adhippāyo. Uddhaccaṃ abhibhavatīti etthāpi eseva nayo. Tadubhayanti saddhāpaññādvayaṃ, samādhivīriyadvayañca. Samaṃ kātabbanti samarasaṃ kātabbaṃ.
「平等」とは、信と慧が互いに過不足なき状態であり、同様に定と慧のことである。実に信と慧という個々に主導的である法が、作用において互いを超過しないことが特に望まれるべきであり、それらの均等な均衡によって安止定が成就するからである。このように定と精進が怠惰と掉挙の側にあるものとして同等の機能をもつ時に、互いを支え合うことによって相応する諸法が二つの極端に堕ちることがないため、正しく安止定が成就する。「信が強力な者は…」等は、消極的(反語的)方法によって述べられた意味の証明である。その意味は、強力な信仰を具えながら智慧が不明瞭な者は、盲信の者となり、不壊の澄心をもつ者とはならない。実に根拠なきものにおいて信順する、あたかも外道の弟子のようである。「狡猾の側に」とは、詐欺の側に従う。信仰を欠いた智慧によって逸脱する者は、「施物を手放すことなしに、心の生起だけでも布施からなる功徳となる」等と原因に似たものに欺かれて思索し、このようになった者は乾燥した論理によって心が奪われ、賢者の言葉を受け入れず納得しない。それゆえに「薬から生じた病のように治療不可能となる」と言われた。そしてここにおいて信と慧の互いの不平等が利益をもたらさず、不利益のみをもたらすように、定と精進の互いの不平等も利益をもたらさず、不利益のみをもたらし、同様に無散乱をもたらさず、散乱のみをもたらすのである。怠惰が圧倒し、それによって安止定に達しないという意味である。「掉挙が圧倒する」のここにおいても、この方法が同じである。「その両者を」とは、信と慧の二つ、また定と精進の二つを。「等しくすべきである」とは、等しい機能にすべきである。
Samādhikammikassāti samathakammaṭṭhānikassa. Evanti evaṃ sante, saddhāya thokaṃ balavabhāve satīti attho. Saddahantoti ‘‘pathavī pathavīti manasikaraṇamattena kathaṃ jhānuppattī’’ti acintetvā ‘‘addhā sammāsambuddhena vuttavidhi ijjhissatī’’ti saddahanto saddhaṃ janento. Okappentoti ārammaṇaṃ anupavisitvā viya adhimuccanavasena avakappento pakkhandanto. Ekaggatā balavatī vaṭṭati samādhippadhānattā jhānassa. Ubhinnanti samādhipaññānaṃ. Samādhikammikassa samādhino adhimattatāya paññāya adhimattatāpi icchitabbāti āha **‘‘samatāyapī’’**ti, samabhāvenāpīti attho. Appanāti lokiyappanā. Tathā hi **‘‘hotiyevā’’**ti sāsaṅkaṃ vadati. Lokuttarappanā pana tesaṃ samabhāveneva icchitā. Yathāha ‘‘samathavipassanaṃ yuganandhaṃ bhāvetī’’ti (a. ni. 4.170; paṭi. ma. 2.5).
「三昧の行者にとって」とは、止水の業処を行う者にとって。「このように」とは、このようである時、信仰が少し強力である状態において、という意味である。「信ずる者は」とは、「地、地と作意するだけでどのように禅定が生じるのか」と考えずに、「たしかに正等覚者によって説かれた方法は成就するであろう」と信じて信仰を生じさせる者。「確信(勝解)する者は」とは、対象に入り込むかのように確信することによって確信し飛び込む者。心一境性が強力であることが適格である。禅定においては三昧が主導的であるからである。「両者の」とは、定と慧の。「三昧の行者にとって三昧が過度であることにより、智慧の過度な状態も望まれる」ことから、「平等によっても」と言われたのであり、等しい状態によっても、という意味である。「安止定」とは世間の安止定である。実に「生じるのである」と疑念を伴って述べている。しかし出世間の安止定は、それらの平等な状態によってのみ望まれる。「止と観を双運して修習する」と説かれている通りである。
Yadi visesato saddhāpaññānaṃ, samādhivīriyānañca samatāva icchitā, kathaṃ satīti āha **‘‘sati pana sabbattha balavatī vaṭṭatī’’**ti. Sabbatthāti līnuddhaccapakkhikesu pañcasu indriyesu. Uddhaccapakkhikekadese gaṇhanto **‘‘saddhāvīriyapaññāna’’**nti āha. Aññathā pīti ca gahetabbā siyā. Tathā hi ‘‘kosajjapakkhikena samādhinā’’ icceva vuttaṃ, na ‘‘passaddhisamādhiupekkhāhī’’ti. Sāti sati. Sabbesu rājakammesu niyutto sabbakammiko. Tenāti tena sabbattha icchitabbaṭṭhena kāraṇena. Āha aṭṭhakathāyaṃ. Sabbattha niyuttā sabbatthikā sabbattha līne, uddhate ca citte icchitabbattā, sabbe vā līne, uddhate ca citte bhāvetabbā bojjhaṅgā atthikā etāyāti sabbatthikā. Cittanti kusalaṃ cittaṃ. Tassa hi sati paṭisaraṇaṃ parāyaṇaṃ appattassa pattiyā anadhigatassa adhigamāya. Tenāha **‘‘ārakkhapaccupaṭṭhānā’’**tiādi.
もし特に信と慧、三摩地と精進の均等性のみが望まれるなら、念についてはどうかと問い、「しかし念は一切処において強力であることが求められる」と述べた。「一切処において」とは、沈滞側・掉挙側に属する五根においてである。掉挙側の一分を取って「信・精進・慧」と述べた。そうでなければ喜も取られるべきであろう。実にそのように「懈怠の側に属する三摩地とともに」とだけ説かれ、「軽安・三摩地・捨とともに」とは説かれなかったからである。「彼女」とは念である。すべての王の用務に任命された者を一切業務官という。「それによって」とは、それによって一切処において望まれるべき意義であるという理由による。義釈において述べている。一切処に任命されたので「一切処的(サッバッティカー)」であり、一切の沈滞した心および掉挙した心において望まれるべきものであるから、あるいは、沈滞した心および掉挙した心において修習されるべきすべての覚支を欲する(必要とする)ものであるから「サッバッティカー」である。「心」とは善心である。実にその心にとって、念は未到達の到達のため、未証得の証得のための帰依処であり、趣向処である。それゆえに「守護の現起(守護を特徴とする)」などと述べた。
Khandhādibhede anogāḷhapaññānanti pariyattibāhusaccavasenapi khandhāyatanādīsu appatiṭṭhitabuddhīnaṃ. Bahussutasevanā hi sutamayañāṇāvahā. Taruṇavipassanāsamaṅgīpi bhāvanāmayañāṇe ṭhitattā ekaṃsato paññavā eva nāma hotīti āha **‘‘samapaññāsa lakkhaṇapariggāhikāya udayabbayapaññāya samannāgatapuggalasevanā’’**ti. Ñeyyadhammassa gambhīrabhāvavasena tapparicchedakañāṇassa gambhīrabhāvaggahaṇanti āha **‘‘gambhīresu khandhādīsu pavattāya gambhīrapaññāyā’’**ti. Tañhi ñeyyaṃ tādisāya paññāya caritabbato gambhīrañāṇacariyaṃ, tassā vā paññāya tattha pabhedato pavatti gambhīrañāṇacariyā, tassā paccavekkhaṇāti āha **‘‘gambhīrapaññāya pabhedapaccavekkhaṇā’’**ti. Yathā sativepullappatto nāma arahā eva, evaṃ paññāvepullappattotipi so evāti āha **‘‘arahattamaggena bhāvanāpāripūrī hotī’’**ti. Vīriyādīsupi eseva nayo.
「蘊などの区分に沈潜しない慧を持つ人々」とは、教理の多聞の力によっても蘊や処などに知性が定着していない人々のことである。実に多聞の者に親近することは聞所成の智をもたらすからである。初期のヴィパッサナーを備えた者もまた、修所成の智にとどまっているため、間違いなく慧者と呼ばれるに値するとして「五十相を把握する生滅随観の慧を具えた人に親近すること」と述べた。知るべき法(所知法)の深遠性によって、それを限定・規定する智の深遠性を捉えて「深遠なる蘊等において生起した深遠なる慧によって」と述べた。実にその知るべき法は、そのような慧によって行ぜられるべきものであるから深遠なる智の行境であり、あるいはその慧がそこにおいて詳細に生起することが深遠なる智の行境であり、それの省察であるとして「深遠なる慧の詳細の省察」と述べた。念の増大(円満)に達した者がまさに阿羅漢であるように、慧の増大に達した者もまた彼(阿羅漢)であるとして「阿羅漢道によって修習の成就がある」と述べた。精進等においてもこの方法による。
‘‘Tattaṃ ayokhilaṃ hatthe gamentī’’tiādinā (ma. ni. 3.250, 267; a. ni. 3.36) vuttapañcavidhabandhanakammakāraṇā niraye nibbattasattassa yebhuyyena sabbapaṭhamaṃ karontīti, devadūtasuttādīsu tassa ādito vuttattā ca āha **‘‘pañcavidhabandhanakammakāraṇato paṭṭhāyā’’**ti. Sakaṭavahanādikāleti ādi-saddena tadaññamanussehi, tiracchānehi ca vibādhiyamānakālaṃ saṅgaṇhāti. **‘‘Ekaṃ buddhantara’’**nti idaṃ aparāparaṃ petesu eva uppajjanakasattavasena vuttaṃ, ekaccānaṃ vā petānaṃ ekaccatiracchānānaṃ viya tathā dīghāyukatāpi siyāti tathā vuttaṃ. Tathā hi ‘‘kālo nāgarājā catunnaṃ buddhānaṃ sammukhībhāvaṃ labhitvā ṭhito metteyyassapi bhagavato sammukhībhāvaṃ labhissatī’’ti vadanti, yaṃ tassa kappāyukatā vuttā.
「灼熱した鉄の杭を手に通す」等(中部3.250, 267;増支部3.36)によって説かれた五種束縛の業刑を、地獄に生じた有情に対して大部分において一番最初に行うからであり、また天使経などにおいてそれが最初に説かれていることから「五種束縛の業刑から始めて」と述べた。「車を引かせる等の時」において、「等」という言葉によって、それ以外の人間たちや畜生たちによって苦しめられる時をも包摂する。「一仏中間」とは、次から次へと餓鬼にのみ生じる有情に関して述べられたか、あるいは一部の餓鬼には一部の畜生のように同様の長寿性もあるかもしれないとして、そのように述べられたのである。実にそのように「カーラ竜王は四仏の面前に留まり、メッテイヤ世尊の面前をも得るであろう」と言われるのは、彼に一劫の寿命が説かれているからである。
Ānisaṃsadassāvinoti ‘‘vīriyāyatto eva sabbo lokuttaro, lokiyo ca visesādhigamo’’ti evaṃ vīriye ānisaṃsadassanasīlassa. Gamanavīthinti sapubbabhāgaṃ nibbānagāminiṃ paṭipadaṃ, saha vipassanāya ariyamaggapaṭipāṭi, sattavisuddhiparamparā vā. Sā hi bhikkhuno vaṭṭaniyyānāya gantabbā paṭipadāti katvā gamanavīthi nāma. Kāyadaḷhībahuloti yathā tathā kāyassa daḷhīkammappasuto. Piṇḍanti raṭṭhapiṇḍaṃ. Paccayadāyakānaṃ attani kārassa attano sammāpaṭipattiyā mahapphalabhāvassa karaṇena piṇḍassa bhikkhāya paṭipūjanā piṇḍāpacāyanaṃ.
「功徳を見る者」とは、「一切の出世間および世間の勝徳の証得は精進に依存している」と、このように精進における功徳を見る性質の者のことである。「進行路」とは、前段階を伴う涅槃へと導く実践道、ヴィパッサナーを伴う聖道の階梯、あるいは七清浄の連続である。実にそれは比丘が輪転からの脱出のために進むべき道であることから「進行路」と名づけられる。「身体の強化を専らとする者」とは、身体を強化することに何としても専念する者のことである。「摶食(塊食)」とは、国土の施食である。資具の施主たちが自身に対してなした行為を、自身の正しき実践によって大果ならしめることによって、団食・托鉢の施食を供養することが「施食への敬意」である。
Nīharantoti pattathavikato nīharanto. Taṃ saddaṃ sutvāti taṃ upāsikāya vacanaṃ attano vasanapaṇṇasāladvāre ṭhitova pañcābhiññatāya dibbasotena sutvā. Manussasampatti, dibbasampatti, nibbānasampattīti imā tisso sampattiyo. Dātuṃ sakkhissasīti ‘‘tayi katena dānamayena, veyyāvaccamayena ca puññakammena khettavisesabhāvūpagamanena aparāparaṃ devamanussasampattiyo, ante nibbānasampattiñca dātuṃ sakkhissasī’’ti thero attānaṃ pucchati. Sitaṃ karonto vāti ‘‘akiccheneva mayā vaṭṭadukkhaṃ samatikkanta’’nti paccavekkhaṇāvasāne sañjātapāmojjavasena sitaṃ karonto eva.
「取り出す時」とは、鉢の袋から取り出す時。「その声を聞いて」とは、その優婆夷の言葉を、自らの住まう草庵の戸口に立ったまま、五通の具足による天耳によって聞いてのこと。「人間としての富裕、天界の富裕、涅槃の富裕」というこれら三つの富裕。「与えることができるであろうか」とは、「そなたに対してなされた布施成・給仕成の福業によって、殊勝なる福田たる境地に至ることにより、次々に天界・人間の富裕を、最後には涅槃の富裕をも与えることができるであろうか」と長老は自問する。「微笑しながら」とは、「私は輪転の苦しみを難なく超え出た」と省察の終わりに生じた歓喜の力によって、まさに微笑みながらのことである。
Vippaṭipannanti jātidhammakuladhammādilaṅghanena asammāpaṭipannaṃ. Evaṃ yathā asammāpaṭipanno putto tāya eva asammāpaṭipattiyā kulasantānato bāhiro hutvā pitu santikā dāyajjassa na bhāgī, evaṃ. Kusītopi tena kusītabhāvena asammāpaṭipanno satthu santikā laddhabbaariyadhanadāyajjassa na bhāgī. Āraddhavīriyova labhati sammāpaṭipajjanato. Uppajjati vīriyasambojjhaṅgoti yojanā, evaṃ sabbattha.
「邪行の者」とは、生類としての法や家柄の法などを踏み越えることによって正しく行わない者のことである。このように、正しく行わない子がまさにその邪行によって家系から除外され、父のもとからの相続分にあずからないのと同様である。怠惰な者もまたその怠惰さによって正しく行わない者であり、師のもとから得られるべき聖財の相続分にあずからない。精進を奮い起こした者のみが、正しく実践するがゆえに得るのである。「精進覚支が生じる」と結合される。他の一切の箇所でも同様である。
Mahāti sīlādīhi guṇehi mahanto vipulo anaññasādhāraṇo. Taṃ panassa guṇamahattaṃ dasasahassilokadhātukampanena loke pākaṭanti dassento **‘‘satthuno hī’’**tiādimāha.
「大いなる」とは、戒などの徳によって大いなる、広大な、他に共通しないものである。しかし彼のその徳の大いなることは、一万の世界を震動させることによって世に明白であると示すために「師の実に……」などを述べた。
Yasmā satthusāsane pabbajitassa pabbajjūpagamena sakyaputtassabhāvo sampajāyati, tasmā buddhaputtabhāvaṃ dassento **‘‘asambhinnāyā’’**tiādimāha.
師の教えにおいて出家した者には、出家の受得によって釈迦の子たる状態が生じるため、仏子たる状態を示すために「混じりけのない……」などを述べた。
Alasānaṃ bhāvanāya nāmamattampi ajānantānaṃ kāyadaḷhībahulānaṃ yāvadatthaṃ bhuñjitvā seyyasukhādianuyuñjanakānaṃ tiracchānakathikānaṃ puggalānaṃ dūrato vajjanā kusītapuggalaparivajjanā. ‘‘Divasaṃ caṅkamena nisajjāyā’’tiādinā (ma. ni. 1.423; 3.65; saṃ. ni. 4.120; mahāni. 161) bhāvanāraddhavasena āraddhavīriyānaṃ daḷhaparakkamānaṃ kālena kālaṃ upasaṅkamanā āraddhavīriyapuggalasevanā. Tenāha **‘‘kucchiṃ pūretvā’’**tiādi. Visuddhimagge (visuddhi. 1.64) pana jātimahattapaccavekkhaṇā, sabrahmacārīmahattapaccavekkhaṇāti idaṃ dvayaṃ na gahitaṃ, thinamiddhavinodanatā, sammappadhānapaccavekkhaṇatāti idaṃ dvayaṃ gahitaṃ. Tattha ānisaṃsadassāvitāya eva sammappadhānapaccavekkhaṇā gahitā hoti lokiyalokuttaravisesādhigamassa vīriyāyattatādassanabhāvato. Thinamiddhavinodanaṃ tadadhimuttatāya eva gahitaṃ hoti, vīriyuppādane yuttappayuttassa thinamiddhavinodanaṃ atthasiddhameva. Tattha thinamiddhavinodanakusītapuggalaparivajjanaāraddhavīriyapuggalasevana- tadadhimuttatāpaṭipakkhavidhamanapaccayūpasaṃhāravasena, apāyabhayapaccavekkhaṇādayo samuttejanavasena vīriyasambojjhaṅgassa uppādakā daṭṭhabbā.
怠惰で、修習の名すら知らず、身体の強化を専らとし、思う存分食べては横たわる楽などを事とし、無益な世間話を語る人々を遠く避けることが「怠惰な人の回避」である。「昼は経行と坐禅によって」等(中部1.423; 3.65; 相応部4.120; 大義釈161)により、修習の開始によって精進を奮い起こし、堅固なる勇猛心をもつ人々に時々近づくことが「精進を奮い起こした人の親近」である。それゆえに「腹を満たして……」等と述べた。しかし清浄道論(清浄道1.64)においては、種姓の大いなることの省察、同梵行者の大いなることの省察というこの二つは取られず、惛沈・睡眠の払拭、正勤の省察というこの二つが取られている。そこでは、功徳を見る性質そのものによって正勤の省察が取られている。世間・出世間の勝徳の証得が精進に依存していることを見るからである。惛沈・睡眠の払拭は、それへの傾注そのものによって取られている。精進の生起に専念精励する者にとって惛沈・睡眠の払拭は自ずと成就するからである。そこにおいて、惛沈・睡眠の払拭、怠惰な人の回避、精進を奮い起こした人の親近、それへの傾注は、対治の除去と相応する条件の導入によって、また悪趣の恐怖の省察などは奮起させることによって、精進覚支を生起させるものとして見られるべきである。
Purimuppannā pīti parato uppajjanakapītiyā visesakāraṇasabhāgahetubhāvato **‘‘pītiyeva pītisambojjhaṅgaṭṭhānīyā dhammā’’**ti vuttā, tassā pana bahuso pavattiyā puthuttaṃ upādāya bahuvacananiddeso. Yathā sā uppajjati, evaṃ paṭipatti tassā uppādakamanasikāro.
先に生じた喜は、後に生じる喜に対して殊勝な原因・同等の因となる状態であることから、「喜そのものが喜覚支の処(基盤)たる諸法である」と述べられた。しかしそれ(喜)が度々生起することの多数性に基づいて複数形の提示がなされた。それが生じるような実践が、それ(喜覚支)を生じさせる作意である。
‘‘Buddhānussatī’’tiādīsu vattabbaṃ visuddhimagge (visuddhi. 1.123) vuttanayeneva veditabbaṃ.
「仏随念」等において語られるべきことは、清浄道論(清浄道1.123)で説かれた方法そのものによって知られるべきである。
Buddhānussatiyā upacārasamādhiniṭṭhattā vuttaṃ **‘‘yāva upacārā’’**ti. Sakalasarīraṃ pharamānoti pītisamuṭṭhānehi paṇītarūpehi sakalasarīraṃ pharamāno. Dhammaguṇe anussarantassāpi yāva upacārā sakalasarīraṃ pharamāno pītisambojjhaṅgo uppajjatīti yojanā, evaṃ sesaanussatīsu. Pasādanīyasuttantapaccavekkhaṇāyañca yojetabbaṃ tassāpi vimuttāyatanabhāvena taggatikattā. Saṅkhārānaṃ sappadesavūpasamepi nippadesavūpasame viya tathā paññāya pavattito bhāvanāmanasikāro kilesavikkhambhanasamattho hutvā upacārasamādhiṃ āvahanto tathārūpapītisomanassasamannāgato pītisambojjhaṅgassa uppādāya hotīti āha **‘‘samāpattiyā…pe… paccavekkhantassāpī’’**ti. Tattha ‘‘vikkhambhitā kilesā’’ti pāṭho. Te hi na samudācarantīti. Iti-saddo kāraṇattho, yasmā na samudācaranti, tasmā taṃ nesaṃ asamudācāraṃ paccavekkhantassāti yojanā. Na hi kilese paccavekkhantassa bojjhaṅguppatti yuttā. Pasādanīyesu ṭhānesu pasādasinehābhāvena thūsasamahadayatā lūkhatā, sā tattha ādaragāravākaraṇena viññāyatīti āha **‘‘asakkaccakiriyāya saṃsūcitalūkhabhāve’’**ti.
仏随念は近行定を終極とするため、「近行(定)に至るまで」と述べた。「全身を満たしながら」とは、喜より生じる勝れた色(物質)によって全身を満たしながら。「法の徳を随念する者にもまた、近行定に至るまで全身を満たす喜覚支が生じる」と結合される。残りの随念においても同様である。浄信を起こすべき経文の省察においても結合されるべきである。それもまた解脱処であることにより、その部類に属するからである。諸行の部分的な止息においても、全体的な止息におけるように、そのように慧が生起することによる修習の作意は、煩悩を伏没させることができ、近行定をもたらし、そのような喜と歓喜を具足して喜覚支の生起のために役立つとして「等至の……略……省察する者にも」と述べた。そこでは「伏没された諸煩悩」という読みである。それらは実に現行しないからである。「〜と(iti)」という語は原因の意味であり、現行しないがゆえに、それらの現行しない状態を省察する者に、と結合される。煩悩を省察する者に覚支が生起するのは正しくないからである。浄信を起こすべき対象において、浄信と愛着がないことによる糠のような心、荒んだ状態、それはそこにおいて敬意と尊重を払わないことによって知られるとして「不敬の行為によって示された荒んだ状態において」と述べた。
Kāyacittadarathavūpasamalakkhaṇā passaddhi eva yathāvuttabodhiaṅgabhūto passaddhisambojjhaṅgo, tassa passaddhisambojjhaṅgassa evaṃ uppādo hotīti yojanā.
身心の熱悩の止息を特徴とする軽安そのものが、既に述べられた覚の支分たる軽安覚支であり、その軽安覚支の生起はこのようにある、と結合される。
Paṇītabhojanasevanatāti paṇītasappāyabhojanaseva natā. Utuiriyāpathasukhaggahaṇena sappāyautuiriyāpathaggahaṇaṃ daṭṭhabbaṃ. Tañhi tividhampi sappāyaṃ seviyamānaṃ kāyassa kallatāpādanavasena cittassa kallataṃ āvahantaṃ duvidhāyapi passaddhiyā kāraṇaṃ hoti. Ahetukaṃ sattesu labbhamānaṃ sukhadukkhanti ayameko anto, issarādivisamahetukanti pana ayaṃ dutiyo. Ete ubho ante anupagamma yathāsakaṃ kammunā hotīti ayaṃ majjhimā paṭipatti. Majjhatto payogo yassa so majjhattapayogo, tassa bhāvo majjhattapayogatā. Ayañhi pahāya sāraddhakāyataṃ passaddhakāyatāya kāraṇaṃ hontī passaddhidvayaṃ āvahati, eteneva sāraddhakāyapuggalaparivajjanapassaddhakāyapuggalasevanānaṃ tadāvahanatā saṃvaṇṇitāti daṭṭhabbaṃ.
「勝れた食物の親近」とは、勝れて適度な食物を摂取すること。「気候・威儀の快適さの把握」によって、適度な気候・威儀の受用と見なされるべきである。実にこの三種の適度なものが受用されると、身体の壮健さをもたらすことを通じて心の壮健さをもたらし、二種の軽安の因となる。「有情に見られる苦楽は無因である」というのが第一の極端であり、「自在天等の不平等な因による」というのが第二である。これら両極端に近づかず、「自らの業によって生じる」というのが中道の実践である。偏りのない実践を持つ者を中正の実践者といい、その状態が「中正の実践」である。実にこれは激発した身体の状態を捨てて軽安した身体の状態の因となり、二種の軽安をもたらす。これによって、激発した身体の人の回避と、軽安した身体の人の親近が、それをもたらすものであると讃えられたと見なされるべきである。
Yathāsamāhitākārasallakkhaṇavasena gayhamāno purimuppanno samatho eva samathanimittaṃ. Nānārammaṇe paribbhamanena vividhaṃ aggaṃ etassāti byaggo, vikkhepo. Tathā hi so anavaṭṭhānaraso, bhantatāpaccupaṭṭhāno ca vutto, ekaggatābhāvato byaggapaṭipakkhoti abyaggo, samādhi. So eva nimittanti pubbe viya vattabbaṃ. Tenāha **‘‘avikkhepaṭṭhena ca abyagganimitta’’**nti.
正しく定まった有様を観察することによって把握される、先に生じた止そのものが「止の相」である。多様な対象において彷徨うことによって、種々にその先端が分かれているものを「散乱(ビャッガ)」、心の散乱という。実にそれは非安定を本質(作用)とし、動揺を現起とすると説かれており、心一境性であることから散乱に対立するものを「不散乱(アビャッガ)」、三摩地という。それそのものが「相」であることは前述の通りに語られるべきである。それゆえに「非散乱の意義によって不散乱の相を」と述べた。
Vatthuvisadakiriyā, indriyasamattapaṭipādanā ca paññāvahā vuttā, samādhānāvahāpi tā honti samādhānāvahabhāveneva paññāvahabhāvatoti vuttaṃ **‘‘vatthuvisada…pe… veditabbā’’**ti.
「基礎の清浄」と「諸根の均等性の保持」は慧をもたらすものと説かれたが、それらは集中をもたらすものでもあり、集中をもたらす状態によってこそ慧をもたらす状態となることから、「基礎の清浄……略……知られるべきである」と述べた。
Karaṇabhāvanākosallānaṃ avinābhāvato, rakkhanakosallassa ca taṃmūlakattā ‘‘nimittakusalatā nāma kasiṇanimittassa uggahaṇakusalatā’’ icceva vuttaṃ. Kasiṇanimittassāti ca nidassanamattaṃ daṭṭhabbaṃ. Asubhanimittassāpi hi yassa kassaci jhānuppattinimittassa uggahaṇakosallaṃ nimittakusalatā evāti. Atisithilavīriyatādīhīti ādi-saddena paññāpayogamandataṃ, pamodavekallañca saṅgaṇhāti. Tassa paggaṇhananti tassa līnassa cittassa dhammavicayasambojjhaṅgādisamuṭṭhāpanena layāpattito samuddharaṇaṃ. Vuttañhetaṃ bhagavatā –
作成と修習の巧みさは不離であること、および保持の巧みさはそれを根本とすることから、「相の巧みさとは、遍作相を把握する巧みさである」とだけ説いた。「遍作相」とは一例にすぎないと見なされるべきである。不浄相などであっても、禅定の生起の因となるいかなる相であれ、それを把握する巧みさはまさに相の巧みさだからである。「過度に緩んだ精進等によって」の「等」という言葉によって、慧の用向の鈍さや、歓喜の欠如を包摂する。「それを策励すること」とは、その沈滞した心を択法覚支などを奮起させることによって、沈滞に陥ることから救い上げることである。これは世尊によって以下のように説かれている――
‘‘Yasmiñca kho, bhikkhave, samaye līnaṃ cittaṃ hoti, kālo tasmiṃ samaye dhammavicayasambojjhaṅgassa bhāvanāya, kālo vīriyasambojjhaṅgassa bhāvanāya, kālo pītisambojjhaṅgassa bhāvanāya. Taṃ kissa hetu? Līnaṃ, bhikkhave, cittaṃ taṃ etehi dhammehi susamuṭṭhāpayaṃ hoti. Seyyathāpi, bhikkhave, puriso parittaṃ aggiṃ ujjālitukāmo assa, so tattha sukkhāni ceva tiṇāni pakkhipeyya, sukkhāni gomayāni pakkhipeyya, sukkhāni kaṭṭhāni pakkhipeyya, mukhavātañca dadeyya, na ca paṃsukena okireyya, bhabbo nu kho so puriso parittaṃ aggiṃ ujjālitunti. Evaṃ bhante’’ti (saṃ. ni. 5.234).
「諸比丘よ、心が沈滞している時には、その時に択法覚支を修習すべき時であり、精進覚支を修習すべき時であり、喜覚支を修習すべき時である。それはなぜか。諸比丘よ、沈滞した心は、これらの法によって容易に奮起させられるからである。諸比丘よ、たとえば人が小さな火を燃え立たせようとして、そこに乾燥した草を投げ入れ、乾燥した牛糞を投げ入れ、乾燥した薪を投げ入れ、口で息を吹きかけ、土をかぶせないなら、その人は小さな火を燃え立たせることができるであろうか」「その通りです、世尊よ」(相応部5.234)。
Ettha ca yathāsakaṃ āhāravasena dhammavicayasambojjhaṅgādīnaṃ bhāvanāsamuṭṭhāpanāti veditabbā, sā anantaraṃ vibhāvitā eva. Āraddhavīriyatādīhīti ādi-saddena paññāpayogabalavataṃ, pamodubbilāvanañca saṅgaṇhāti. Tassa niggaṇhananti tassa uddhatassa cittassa samādhisambojjhaṅgādisamuṭṭhāpanena uddhatāpattito nisedhanaṃ. Vuttampi cetaṃ bhagavatā –
ここでもまた、各自の滋養(食物)に応じて択法覚支などの修習の奮起があると知るべきであり、それは直後に解明される。「奮い起こされた精進等によって」の「等」という言葉によって、慧の用向の強力さや、過度の歓喜を包摂する。「それを制御すること」とは、その掉挙した心を軽安覚支などを奮起させることによって、掉挙に陥ることから制止することである。これもまた世尊によって以下のように説かれている――
‘‘Yasmiñca kho, bhikkhave, samaye uddhataṃ cittaṃ hoti, kālo tasmiṃ samaye passaddhisambojjhaṅgassa bhāvanāya, kālo samādhisambojjhaṅgassa bhāvanāya, kālo upekkhāsambojjhaṅgassa bhāvanāya. Taṃ kissa hetu? Uddhataṃ, bhikkhave, cittaṃ taṃ etehi dhammehi suvūpasamayaṃ hoti. Seyyathāpi, bhikkhave, puriso mahantaṃ aggikkhandhaṃ nibbāpetukāmo assa, so tattha allāni ceva tiṇāni…pe… paṃsukena ca okireyya, bhabbo nu kho so puriso mahantaṃ aggikkhandhaṃ nibbāpetunti. Evaṃ bhante’’ti (saṃ. ni. 5.234).
「諸比丘よ、心が掉挙している時には、その時に軽安覚支を修習すべき時であり、定覚支を修習すべき時であり、捨覚支を修習すべき時である。それはなぜか。諸比丘よ、掉挙した心は、これらの法によって容易に静められるからである。諸比丘よ、たとえば人が大きな火の塊を消そうとして、そこに湿った草を投げ入れ……略……土をかぶせるなら、その人は大きな火の塊を消すことができるであろうか」「その通りです、世尊よ」(相応部5.234)。
Etthāpi yathāsakaṃ āhāravasena passaddhisambojjhaṅgādīnaṃ bhāvanāsamuṭṭhāpanāti veditabbā, tattha passaddhisambojjhaṅgassa bhāvanā vuttā eva. Samādhisambojjhaṅgassa anantaraṃ vakkhati. Paññāpayogamandatāyāti paññābyāpārassa appabhāvena. Yathā hi dānaṃ alobhapadhānaṃ, sīlaṃ adosapadhānaṃ, evaṃ bhāvanā amohapadhānā. Tattha yadā paññā na balavatī hoti, tadā bhāvanā pubbenāparaṃ visesāvahā na hoti, anabhisaṅkhato viya āhāro purisassa yogino cittassa abhiruciṃ na janeti, tena taṃ nirassādaṃ hoti, tathā bhāvanāya sammadeva avīthipaṭipattiyā upasamasukhaṃ na vindati, tenāpi cittaṃ nirassādaṃ hoti. Tena vuttaṃ **‘‘paññāpayoga…pe… nirassādaṃ hotī’’**ti. Tassa saṃveguppādanaṃ, pasāduppādanañca tikicchananti taṃ dassento **‘‘aṭṭha saṃvegavatthūnī’’**tiādimāha. Tattha jātijarābyādhimaraṇāni yathārahaṃ sugatiyaṃ, duggatiyañca hontīti tadaññameva pañcavidhabandhanādikhuppipāsādi aññamaññaṃ vibādhanādihetukaṃ apāyadukkhaṃ daṭṭhabbaṃ, tayidaṃ sabbaṃ tesaṃ tesaṃ sattānaṃ paccuppannabhavanissitaṃ gahitanti atīte anāgate ca kāle vaṭṭamūlakadukkhāni visuṃ gahitāni. Ye pana sattā āhārūpajīvino, tattha ca uṭṭhānaphalūpajīvino, tesaṃ aññehi asādhāraṇaṃ jīvikādukkhaṃ aṭṭhamaṃ saṃvegavatthu gahitanti daṭṭhabbaṃ. Ayaṃ vuccati samaye sampahaṃsanāti ayaṃ bhāvanācittassa sampahaṃsitabbasamaye vuttanayena saṃvegajananavasena ceva pasāduppādanavasena ca sammadeva pahaṃsanā, saṃvegajananapubbakapasāduppādanena tosanāti attho.
ここでもまた、各自の滋養に応じて軽安覚支などの修習の奮起があると知るべきであり、そこにおいて軽安覚支の修習は既に説かれた。定覚支については直後に述べるであろう。「慧の用向の鈍さによって」とは、慧の働きの少なさによってである。実に、布施が無貪を主とし、持戒が無瞋を主とするように、修習は無痴を主とする。そこにおいて慧が強力でない時、その修習は前にも増して勝徳をもたらすことはなく、調理されていない食物のように瑜伽行者の心に歓びを生じさせず、それゆえにそれは無味乾燥なものとなり、同様に修習において正しく道の階梯に従わないことによって寂静の楽を得られず、それによっても心は無味乾燥となる。それゆえに「慧の用向……略……無味乾燥となる」と述べた。その(心に)戦慄(厭離)を生じさせ、浄信を生じさせることが治療であると示すために、「八つの厭離の対象」などを述べた。そこにおいて生・老・病・死は然るべく善趣にも悪趣にもあるため、それ以外の五種束縛等の飢渇などをはじめとする相互の加害等を原因とする悪趣の苦と見なされるべきであり、これらすべてはそれぞれの有情の現在世に属するものとして把握されたため、過去と未来の時における輪転を根本とする苦は別個に把握された。さらに、食物に依存して生きる有情、そこにおいて勤労の果によって生きる有情たちにとって、他と共通しない生活苦が第八の厭離の対象として把握されたと見なされるべきである。「適時に鼓舞することと言われる」とは、修習の心が鼓舞されるべき時に、述べられた方法によって厭離を生じさせることを通じても、浄信を生じさせることを通じても、正しく歓喜させること、厭離の生起を前駆とする浄信の生起によって満足させることという意味である。
Sammāpaṭipattiṃ āgammāti līnuddhaccavirahena, samathavīthipaṭipattiyā ca sammā avisamaṃ sammadeva bhāvanāpaṭipattiṃ āgamma. **‘‘Alīna’’**ntiādīsu kosajjapakkhikānaṃ dhammānaṃ anadhimattatāya alīnaṃ, uddhaccapakkhikānaṃ anadhimattatāya anuddhataṃ, paññāpayogasampattiyā, upasamasukhādhigamena ca anirassādaṃ, tato eva ārammaṇe samappavattaṃ samathavīthipaṭipannaṃ. Tattha alīnatāya paggahe, anuddhatatāya niggahe, anirassādatāya sampahaṃsane na byāpāraṃ āpajjati. Alīnānuddhatatā hi ārammaṇe samappavattaṃ, anirassādatāya samathavīthipaṭipannaṃ, samappavattiyā vā alīnaṃ anuddhataṃ. Samathavīthipaṭipattiyā anirassādanti daṭṭhabbaṃ. Ayaṃ vuccati samaye ajjhupekkhanatāti ayaṃ ajjhupekkhitabbasamaye bhāvanācittassa paggahaniggahasampahaṃsanesu abyāvaṭatāsaṅkhātaṃ paṭipakkhaṃ abhibhuyya pekkhanā vuccati. Paṭipakkhavikkhambhanato, vipassanāya adhiṭṭhānabhāvūpagamanato ca upacārajjhānampi samādhāna kiccanipphattiyā puggalassa samāhitabhāvasādhanaṃ evāti tattha samadhurabhāvenāha **‘‘upacāraṃ vā appanaṃ vā’’**ti.
「正しい実践に依って」とは、沈滞と掉挙を離れることによって、また止の道の階梯の実践によって、正しく偏りなく、十全に修習の実践に依って。「沈滞せず」等において、懈怠の側に属する諸法が過度でないことによって沈滞せず、掉挙の側に属する諸法が過度でないことによって掉挙せず、慧の用向の成就と寂静の楽の証得によって無味乾燥でなく、それゆえに対象において等しく生起し、止の道の階梯に赴いている。そこにおいて、沈滞していないことによって策励に、掉挙していないことによって制御に、無味乾燥でないことによって鼓舞に専念することはない。実に沈滞せず掉挙していないことは対象において等しく生起することであり、無味乾燥でないことによって止の道の階梯に赴き、あるいは等しく生起することによって沈滞せず掉挙しないのである。止の道の階梯の実践によって無味乾燥でないと見なされるべきである。「適時に見守ること(等捨)と言われる」とは、見守るべき時に修習の心が策励・制御・鼓舞に不関与であるという反対の作用を克服して静観することをいう。対治すべきものを伏没させることから、またヴィパッサナーの基礎となる状態に至ることから、近行定もまた集中作用の成就によって、人の定まった状態(定心)を達成するものであるとして、そこに対等の意義によって「近行あるいは安止」と述べた。
Upekkhāsambojjhaṅgaṭṭhānīyā dhammāti ettha yaṃ vattabbaṃ, taṃ heṭṭhā vuttanayānusārena veditabbaṃ. Anurodhavirodhavippahānavasena majjhattabhāvo upekkhāsambojjhaṅgassa kāraṇaṃ tasmiṃ sati sijjhanato, asati ca asijjhanato. So ca majjhattabhāvo visayavasena duvidhoti āha **‘‘sattamajjhattatā saṅkhāramajjhattatā’’**ti. Tadubhaye ca virujjhanaṃ passaddhisambojjhaṅgabhāvanāya eva dūrīkatanti anurujjhanasseva pahānavidhiṃ dassetuṃ ‘‘sattamajjhattatā’’tiādi vuttaṃ. Tenāha **‘‘sattasaṅkhārakelāyanapuggalaparivajjanatā’’**ti. Upekkhāya hi visesato rāgo paṭipakkho. Tathā cāha ‘‘upekkhā rāgabahulassa visuddhimaggo’’ti (visuddhi. 1.267). Dvīhākārehīti kammassakatāpaccavekkhaṇaṃ, attasuññatāpaccavekkhaṇanti imehi dvīhi kāraṇehi. Dvīhevāti avadhāraṇaṃ saṅkhyāsamānatādassanatthaṃ. Saṅkhyā evettha samānā, na saṅkhyeyyaṃ sabbathā samānanti. Assāmikabhāvo anattaniyatā. Sati hi attani tassa kiñcanabhāvena cīvaraṃ, aññaṃ vā kiñci attaniyaṃ nāma siyā, so pana koci natthevāti adhippāyo. Anaddhaniyanti na addhānakkhamaṃ na ciraṭṭhāyi, ittaraṃ aniccanti attho. Tāvakālikanti tasseva vevacanaṃ.
「捨覚支の処たる諸法」とは、ここで語られるべきことは、以下に述べられた方法に従って知られるべきである。随順(愛着)と違背(嫌悪)を捨離することによる中正なる状態が捨覚支の因である。それがある時に成就し、ない時には成就しないからである。そしてその中正なる状態は対象の力によって二種であるとして「有情に対する中正性と、行(諸形成物)に対する中正性」と述べた。その両者に対する嫌悪は、軽安覚支の修習によってすでに遠ざけられているため、愛着そのものの捨断の方法を示すために「有情に対する中正性」等と述べた。それゆえに「有情や行を愛惜する人の回避」と述べた。実に捨に対しては特に貪愛が敵対するからである。そのように「捨は貪愛の多い者の清浄道である」(清浄道1.267)と述べている。「二つの様相によって」とは、業自有の省察、我の空性の省察というこれら二つの原因によって。「二つのみによって」という限定は、数の同一性を示すためである。ここでは数のみが同一であり、数えられる内容が全面的に同一なのではない。「所有者のない状態」とは非我性である。実に我があるならば、その所有物として衣やその他の何かが我所と呼ばれるであろうが、そのような我など存在しないという意味である。「非持続性」とは長期間耐えられないこと、長続きしないこと、束の間の一時的な無常であるという意味である。「一時的(仮初め)」とはその同義語である。
Mamāyatīti mamattaṃ karoti ‘‘mamā’’ti taṇhāya pariggayha tiṭṭhati.
「執着する」とは、我がものとし、「我がもの」と愛着によって執着して留まることである。
Mamāyantāti mānaṃ dabbaṃ karontā.
「執着する者たち」とは、慢心して重んじる者たちのことである。
Ayaṃ satipaṭṭhānadesanā pubbabhāgamaggavasena desitāti pubbabhāgiyabojjhaṅge sandhāyāha **‘‘bojjhaṅgapariggāhikā sati dukkhasacca’’**nti. Sesaṃ vuttanayattā suviññeyyameva.
この念処の教説は前段階の道の力によって説かれたものであるため、前段階の覚支に関して「覚支を包摂する念は苦諦である」と述べた。残りはすでに説かれた方法によるため、極めて理解しやすい。
Bojjhaṅgapabbavaṇṇanā niṭṭhitā.
覚支の節の注釈を終わる。
Paṭhamabhāṇavāravaṇṇanā niṭṭhitā.
第一誦唱分の注釈を終わる。
Catusaccapabbavaṇṇanā
四諦の節の注釈
386. Yathāsabhāvatoti aviparītasabhāvato. Bādhanakkhaṇato yo yo vā sabhāvo yathāsabhāvo, tato, ruppanādi kakkhaḷādisabhāvatoti attho. Janikaṃ samuṭṭhāpikanti pavattalakkhaṇassa dukkhassa janikaṃ nimittalakkhaṇassa samuṭṭhāpikaṃ. Purimataṇhanti yathāpariggahitassa dukkhassa nibbattito puretaraṃ siddhaṃ taṇhaṃ. Siddhe hi kāraṇe tassa phaluppatti. Ayaṃ dukkhasamudayoti pajānātīti yojanā. Ayaṃ dukkhanirodhoti etthāpi eseva nayo. Ubhinnaṃ appavattinti dukkhaṃ, samudayo cāti dvinnaṃ appavattinimittaṃ, tadubhayaṃ na pavatti etāyāti appavatti, asaṅkhatā dhātu. Dukkhaṃ dukkhasaccaṃ parijānāti pariññābhisamayavasena paricchindatīti dukkhaparijānano, ariyamaggo, taṃ dukkhaparijānanaṃ. Sesapadadvayepi iminā nayena attho veditabbo.
386. 「自性に従って」とは、顛倒していない自性に従って。あるいは迫害の瞬間からのいかなる自性も自性に従うものであり、それによって、破壊等の粗大などの自性に従ってという意味である。「生ぜしめるもの、生起させるもの」とは、転変の相をもつ苦を生ぜしめるもの、相の徴表を生起させるもの。「過去の愛」とは、観察された苦が生じる以前にすでに成立している愛のことである。実に原因が成立してこそ、その結果が生じるからである。「これが苦集であると了知する」と結合される。「これが苦滅である」というここにおいても同様の方法である。「両者の不転起」とは、苦と集という二つの不転起の相であり、それら両者がこれによって転起しないので不転起、無為界である。苦を、苦諦を遍知し、遍知現観の力によって限界を定めるので「苦を遍知する者」とは聖道であり、その「苦を遍知すること」である。残りの二句においてもこの方法によって意味が知られるべきである。
Dukkhasaccaniddesavaṇṇanā
苦諦の解説の注釈
388. Evaṃ vuttāti evaṃ uddesavasena vuttā. Sabbasattānaṃ pariyādānavacanaṃ byāpanicchāvasena āmeḍitaniddesabhāvato. Sattanikāyeti sattānaṃ nikāye, sattaghaṭe sattasamūheti attho. Devamanussādibhedāsu hi gatīsu bhummadevādikhattiyādihatthiādikhuppipāsikāditaṃtaṃjātivisiṭṭho sattasamūho sattanikāyo. Nippariyāyato khandhānaṃ paṭhamābhinibbatti jātīti katvā ‘‘jananaṃ jātī’’ti vatvā svāyaṃ uppādavikāro aparinipphanno yesu khandhesu icchitabbo, te teneva saddhiṃ dassetuṃ **‘‘savikārāna’’**ntiādi vuttaṃ. Savikārānanti uppādasaṅkhātena vikārena savikārānaṃ. Jātiādīni hi tīṇi lakkhaṇāni dhammānaṃ vikāravisesāti. **‘‘Upasaggamaṇḍitavevacana’’**nti iminā kevalaṃ upasaggena padavaḍḍhanaṃ katanti dasseti. Anupaviṭṭhākārenāti aṇḍakosaṃ, vatthikosañca ogāhanākārena. Nibbattisaṅkhātenāti āyatanānaṃ pāripūrisaṃsiddhisaṅkhātena.
388. 「このように説かれた」とは、このように総説の力によって説かれた。「すべての有情を包括する言葉」とは、遍満を欲する力によって反復された解説であることによる。「有情の部類において」とは、有情の集団において、有情の集まりにおいて、有情の群れにおいてという意味である。実に天や人間などの区別ある趣において、地居天など、王族など、象など、飢渇の者などのそれぞれの種族によって区別された有情の集まりが有情の部類である。無差別には諸蘊の最初の生起が生であることから「生ずることを生という」と述べ、この生起の変異は、未だ完成していない諸蘊において求められるべきものであるが、それらをまさにそれに伴って示すために「変異を伴う諸蘊の……」等と述べた。「変異を伴う諸蘊の」とは、生起と名づけられた変異を伴う諸蘊の、という意味である。実に生などの三相は諸法の特殊な変異だからである。「接頭辞で飾られた同義語」とは、これによって単に接頭辞によって語を拡張したことを示している。「入り込む様相によって」とは、卵殻や子宮の中に入り込む様相によって。「完成と名づけられた」とは、諸処の充満の成就と名づけられたものによって。
Atha vā jananaṃ jātīti aparipuṇṇāyatanaṃ jātimāha. Sañjātīti sampuṇṇāyatanaṃ. Sampuṇṇā hi jāti sañjāti. Okkamanaṭṭhena okkantīti aṇḍajajalābujavasena jāti. Te hi aṇḍakosaṃ, vatthikosañca okkamantā pavisantā viya paṭisandhiṃ gaṇhanti. Abhinibbattanaṭṭhena abhinibbattīti saṃsedajaopapātikavasena. Te hi pākaṭā eva hutvā nibbattanti. Abhibyattā nibbatti abhinibbatti. ‘‘Jananaṃ jātī’’tiādi āyatanavasena, yonivasena ca dvīhi dvīhi padehi sabbasatte pariyādiyitvā jātiṃ dassetuṃ vuttaṃ. ‘‘Tesaṃ tesaṃ sattānaṃ…pe… abhinibbattī’’ti sattavasena vuttattā sammutikathā. Pātubhāvoti ettha iti-saddo ādiattho, pakārattho vā, tena ‘‘āyatanānaṃ paṭilābho’’ti imassa padassa saṅgaho daṭṭhabbo. Ayampi hi paramatthakathāti. Ekavokārabhavādīsūti ekacatupañcavokārabhavesu. Tasmiṃ khandhānaṃ pātubhāve sati. Āyatanānaṃ paṭilābhoti ekacatuvokārabhavesu dvinnaṃ dvinnaṃ āyatanānaṃ vasena, sesesu rūpadhātuyaṃ paṭisandhikkhaṇe uppajjamānānaṃ pañcannaṃ, kāmadhātuyaṃ vikalāvikalindriyānaṃ vasena sattannaṃ, navannaṃ, dasannaṃ, punadasannaṃ, ekādasannañca āyatanānaṃ vasena saṅgaho daṭṭhabbo. Pātubhavantāneva, na kutoci āgatāni. Paṭiladdhāni nāma honti sattasantānassa tassa saṃvijjamānattā. Āyatanānaṃ paṭilābhoti vā āyatanānaṃ attalābho veditabbo.
あるいは「生ずることを生という」とは、不完全な処の生をいう。「誕生」とは完全な処である。実に完全な生が誕生である。「下降の意義による入胎」とは、卵生・胎生の力による生である。実にそれらは卵殻や子宮に下降し、入り込むようにして結生を捉えるからである。「出現の意義による出現」とは、湿生・化生の力によるものである。実にそれらは明白となって生じるからである。顕著な生起が出現である。「生ずることを生という」等は処の力によって、胎生の力によって、二つずつの句によってすべての有情を包摂して生を示すために説かれた。「それらそれらの有情の……略……出現」とは有情の力によって説かれたため世俗の説である。「出現」において、「〜と(iti)」の語は「等」の意味、あるいは「様相」の意味であり、それによって「諸処の獲得」というこの句の包摂と見なされるべきである。これもまた勝義の説だからである。「一蘊等の有において」とは、一蘊・四蘊・五蘊の有においてである。そこにおいて諸蘊の出現がある時。「諸処の獲得」とは、一蘊・四蘊の有において二つずつの処の力によって、残りの色界において結生の瞬間に生じる五つの処の力によって、欲界において器官の欠損・不欠損の力によって七つ、九つ、十、再び十、十一の諸処の力によって包摂が見なされるべきである。出現するだけであり、どこからかやって来たのではない。有情の相続においてそれが存在するがゆえに「得られた」と呼ばれる。あるいは「諸処の獲得」とは、諸処の自体の獲得と知られるべきである。
389. Sabhāvaniddesoti sarūpaniddeso. Sarūpañhetaṃ jiṇṇatāya, yadidaṃ ‘‘jarā’’ti, ‘‘vayohānīti vā. Jīraṇameva jīraṇatā, jīrantassa vā ākāro tā-saddena vuttoti āha **‘‘ākārabhāvaniddeso’’**ti. Khaṇḍitadantā khaṇḍitā nāma uttarapadalopena. Yassa vikārassa vasena satto ‘‘khaṇḍito’’ti vuccati, taṃ khaṇḍiccaṃ. Tathā palitāni assa santīti ‘‘palito’’ti vuccati, taṃ pāliccaṃ. Valittacatāya vā vali taco assāti valittaco.
389. 「自性の解説」とは、自相の解説である。実にこれは老いたることの自相であり、すなわち「老」あるいは「衰老」である。老いることそのものが老い(状態)であり、あるいは老いる者の様相が「状態(tā)」という言葉によって説かれたとして「様相・状態の解説」と述べた。歯の折れた者を「歯牙脱落」といい、後節の省略による。有情がその変異によって「歯の抜けた者」と呼ばれるその状態が歯牙脱落である。同様に、彼に白髪があることによって「白髪の者」と呼ばれるその状態が白髪である。あるいは皮膚にしわがあることによって「しわ皮の者」である。
Phalūpacārenāti phalavohārena.
「果への比喩的適用によって」とは、果の呼称によって。
390. Cavanameva cavanatā, cavantassa vā ākāro tā-saddena vutto. Khandhā bhijjantīti ekabhavapariyāpannassa khandhasantānassa pariyosānabhūtā khandhā bhijjanti, teneva bhedena nirodhanaṃ adassanaṃ gacchanti, tasmā bhedo antaradhānaṃ maraṇaṃ. Maccumaraṇanti maccusaṅkhātaṃ ekabhavapariyāpannajīvitindriyupacchedabhūtaṃ maraṇaṃ. Tenāha **‘‘na khaṇikamaraṇa’’**nti. ‘‘Maccu maraṇa’’nti samāsaṃ akatvā yo ‘‘maccū’’ti vuccati bhedo, yañca maraṇaṃ pāṇacāgo, idaṃ vuccati maraṇanti visuṃ sambandho na na yujjati. Kālakiriyāti maraṇakālo, anatikkamanīyattā visesena ‘‘kālo’’ti vuttoti tassa kiriyā, atthato cutikhandhānaṃ bhedappattiyeva, kālassa vā antakassa kiriyāti yā loke vuccati, sā cuti, maraṇanti attho. Ayaṃ sabbāpi sammutikathāva ‘‘yaṃ tesaṃ tesaṃ sattāna’’ntiādinā sattavasena vuttattā. Ayaṃ paramatthakathā paramatthato labbhamānānaṃ ruppanādisabhāvānaṃ dhammānaṃ vinassanajotanābhāvato.
390. 没することそのものが没すること(状態)であり、あるいは没する者の様相が「状態(tā)」という言葉によって説かれた。「諸蘊が壊滅する」とは、一世の存在に包摂される蘊の相続の終極となった諸蘊が壊滅し、まさにその壊滅によって消滅・不可視へと至る。それゆえに壊滅、消滅が死である。「死没」とは、死と呼ばれる一世の存在に包摂される命根の断絶となった死である。それゆえに「刹那死ではない」と述べた。「死」「没」と複合語を作らずに、「死」と呼ばれる壊滅、および命を捨てることである死、これが死と呼ばれる、と別々に結びつけることも不当ではない。「臨終(時の行為)」とは死の時であり、超越できないがゆえに特に「時」と説かれたのであり、それの行為(時をなすこと)、事実上は没する諸蘊の壊滅に達することそのものであり、あるいは世間において死神の行為と呼ばれるものが死没であり死であるという意味である。これらすべては「それらそれらの有情の……」等によって有情の力によって説かれているため、世俗の説である。これは勝義においては得られる破壊などの自性をもつ諸法の消滅を明らかにするものではないからである。
Attāti bhavati ettha cittanti attabhāvo, khandhasamūho, tassa nikkhepo nikkhipanaṃ, pātanaṃ vināsoti attho. Aṭṭhakathāyaṃpana **‘‘maraṇaṃ pattassā’’**tiādinā nikkhepahetutāya patanaṃ ‘‘nikkhepo’’ti phalūpacārena vuttanti dasseti. ‘‘Khandhānaṃ bhedo’’ti pabandhavasena pavattamānassa dhammasamūhassa vināsajotanāti ekadesato paramatthakathā, ‘‘jīvitindriyassa upacchedo’’ti panettha na koci vohāraleso pīti āha **‘‘jīvitindriyassa upacchedo pana sabbākārato paramatthato maraṇa’’**nti. Evaṃ santepi yassa khandhabhedassa pavattattā ‘‘tisso mato, phusso mato’’ti vohāro hoti, so bhedo khandhappabandhassa anupacchinnatāya ‘‘sammutimaraṇa’’nti vattabbataṃ arahatīti āha **‘‘etadeva sammutimaraṇantipi vuccatī’’**ti. Tenāha **‘‘jīvitindriyupacchedameva hī’’**tiādi. Sabbaso pabandhasamucchedo hi samucchedamaraṇanti.
「自体」とは、これにおいて心が存続するから自体(身体)であり、蘊の集まりである。それの遺棄とは投げ捨てること、投げ落とすこと、破滅という意味である。しかし義釈においては「死に達した者の……」等によって、遺棄の原因であることによって投げ落とすことを「遺棄」と果の比喩的適用によって説いたのだと示している。「諸蘊の壊滅」とは連続として生起している法集の破滅を明らかにすることであるから一分において勝義の説であり、「命根の断絶」というここには何の世俗の表現の痕跡もないとして「命根の断絶は、あらゆる様相において勝義における死である」と述べた。そうであっても、いかなる蘊の壊滅が生起したことによって「ティッサは死んだ、プッサは死んだ」という世俗の表現がなされるのか、その壊滅は蘊の連続が断絶していないことから「世俗の死」と呼ばれるに値するとして「これそのものが世俗の死とも呼ばれる」と述べた。それゆえに「実に命根の断絶そのものを……」等と述べた。完全に連続が断絶することが断絶死だからである。
391. Byasanenāti anatthena. ‘‘Dhammapaṭisambhidā’’tiādīsu (vibha. 721) viya dhamma-saddo hetupariyāyoti āha **‘‘dukkhakāraṇenā’’**ti. Socananti lakkhitabbatāya socanalakkhaṇo. Socitassa socanakassa puggalassa, cittassa vā bhāvo socitabhāvo. Abbhantareti attabhāvassa anto. Attano lūkhasabhāvatāya sosento. Thāmagamanena samantato sosanavasena parisosento.
391. 「不幸によって」とは、無益なこと(災難)によって。「法無礙解」等(分別論721)におけるように、「法」という言葉は原因の同義語であるとして「苦の原因によって」と述べた。「憂えること」とは、特徴づけられるべきものであることによって憂える特徴をもつ。「憂えること」とは、憂えている人、あるいは心の状態が憂えたる状態である。「内部において」とは、身体の内部において。自らの荒んだ自性によって焦がしながら。強烈な進行によって全体的に焦がすことによって焼き焦がしながら。
392. **‘‘Ādissa ādissa devanti paridevanti etenāti ādevo’’**ti ādevana-saddaṃ katvā assumocanādivikāraṃ āpajjantānaṃ tabbikārāpattiyā so saddo kāraṇabhāvena vutto. Taṃ taṃ vaṇṇanti taṃ taṃ guṇaṃ. Tassevāti ādevaparidevasseva. Bhāvaniddesāti ‘‘ādevitattaṃ paridevitatta’’nti bhāvaniddesā.
392. 「あれこれと挙げて歎き、これによって悲嘆するゆえに悲歎である」と悲歎という言葉をなして、涙を流す等の変異に陥る者たちの、その変異に陥ることによって、その言葉が原因として説かれた。「その都度の美辞」とは、その都度の徳(美点)である。「まさにそれの」とは、その歎き・悲歎そのものの。「状態の解説」とは、「歎いたること、悲嘆したること」という状態の解説である。
393. Nissayabhūto kāyo etassa atthīti kāyikaṃ. Tenāha **‘‘kāyapasādavatthuka’’**nti. Dukkaraṃ khamanaṃ etassāti dukkhamanaṃ, so eva attho sabhāvoti dukkhamanaṭṭho, tena. Sātavidhuratāya asātaṃ.
393. 拠り所となる身体がこれにあるので「身体的」である。それゆえに「身清浄(身根)を基盤とする」と述べた。これを耐え忍ぶことが困難であるから「耐え難いこと」であり、まさにその意義が自性であるから耐え難い意義であり、それによって。「快楽を欠くことによって不快である」。
394. Cetasi bhavanti cetasikaṃ, taṃ pana yasmā cittena samaṃ pakārehi yuttaṃ, tasmā āha **‘‘cittasampayutta’’**nti.
394. 心において生じるゆえに「心的」であり、しかしそれは心と同じ様相で結合していることから「心相応の」と述べた。
395. Sabbavisayapaṭipattinivāraṇavasena samantato sīdanaṃ saṃsīdanaṃ. Uṭṭhātumpi asakkuṇeyyatākaraṇavasena atibalavaṃ, virūpaṃ vā sīdanaṃ visīdanaṃ. Cittakilamathoti visīdanākārena cittassa parikhedo. Upāyāso, sayaṃ na dukkho dosattā, saṅkhārakkhandhapariyāpannadhammantarattā vā. Ye pana domanassameva ‘‘upāyāso’’ti vadeyyuṃ, te ‘‘upāyāso tīhi khandhehi ekenāyatanena ekāya dhātuyā sampayutto, ekena khandhena ekenāyatanena ekāya dhātuyā kehici sampayutto’’ti (dhātu. 249). Imāya pāḷiyā paṭikkhipitabbā. Upa-saddo bhusatthoti āha **‘‘balavataraṃ āyāso upāyāso’’**ti. Dhammamattatādīpano bhāvaniddeso dhammato aññassa kattuabhāvajotano, asati ca kattari tena kattabbassa, pariggahetabbassa ca abhāvo evāti āha **‘‘attattaniyābhāvadīpakābhāvaniddesā’’**ti.
395. 一切の対象への実践を阻害することによって全体的に沈み込むことが沈衰である。起き上がることすらできないようにすることによって過度に強力な、あるいは無残な沈み込みが悶絶である。「心の疲弊」とは、悶絶の様相による心の極度の疲労である。絶望は、それ自体は瞋恚であることによって、あるいは行蘊に包摂される別の法であることによって苦ではない。しかし憂そのものを「絶望」と言う者たちには、「絶望は三蘊と一処と一界に相応し、一蘊と一処と一界とあるものにおいて相応する」(界論249)というこの聖典によって論破されるべきである。「激しい(upa-)」という接頭辞は甚だしいという意味であるとして「より強力なる疲弊が絶望である」と述べた。法にすぎないことを示す状態の解説は、法以外の能作者が存在しないことを明らかにし、能作者が存在しない時にはそれによって作られるべきもの、把握されるべきものも存在しないとして「我および我所の不在を示す状態の解説である」と述べた。
398. Jātidhammānanti ettha dhamma-saddo pakatipariyāyoti āha **‘‘jātisabhāvāna’’**nti, jāyanapakatikānanti vuttaṃ hoti. Maggabhāvanāya maggabhāvanicchāhetukatā icchitabbāti tādisaṃ icchaṃ nivattento **‘‘vinā maggabhāvana’’**nti āha. Aparo nayo na kho panetanti yametaṃ ‘‘aho vata mayaṃ na jātidhammā assāma, na ca vata no jāti āgaccheyyā’’ti evaṃ pahīnasamudayesu ariyesu vijjamānaṃ ajātidhammattaṃ, parinibbutesu ca vijjamānaṃ jātiyā anāgamanaṃ icchitaṃ, taṃ icchantassāpi maggabhāvanāya vinā appattabbato, anicchantassāpi bhāvanāya pattabbato na icchāya pattabbaṃ nāma hotīti evamettha attho daṭṭhabbo. Vakkhamānatthasampiṇḍanattho pi-saddoti āha **‘‘upari sesāni upādāya pi-kāro’’**ti. Yanti hetuatthe karaṇe paccattavacananti āha **‘‘yenapi dhammenā’’**ti. Hetuattho hi ayaṃ dhamma-saddo, alabbhaneyyabhāvo ettha hetu veditabbo. Tanti vā icchitassa vatthuno alabbhanaṃ, evamettha ‘‘yampīti yenapī’’ti vibhattivipallāsena attho vutto. Yadā pana yaṃ-saddo ‘‘iccha’’nti etaṃ apekkhati, tadā alābhavisiṭṭhā icchā vuttā hoti. Yadā pana ‘‘na labhatī’’ti etaṃ apekkhati, tadā icchāvisiṭṭho alābho vutto hoti, so pana atthato añño dhammo natthi, tathāpi alabbhaneyyavatthugatā icchāva vuttā hoti. Sabbatthāti ‘‘jarādhammāna’’ntiādinā āgatesu sabbavāresu.
398. 「生ずる性質の者たちの」において、「法(性質)」という言葉は生得の性質の同義語であるとして「生ずる自性の者たちの」と述べた。生ずることを本性とする者たちの、と説かれたことになる。道の修習にとって道の修習への欲求が原因であると望まれるべきであるため、そのような欲求を否定して「道の修習なしには」と述べた。別の方法は、「実にこれはそうではない」とは、「ああ、我らが生ずる性質の者でなく、我らに生がやって来ないように」と、このように集を断じた聖者たちに存在する不生性、および般涅槃した者たちに存在する生の不来が望まれるが、それを欲する者であっても道の修習なしには達し得ないものであり、欲しない者であっても修習によって達し得るものであるから、欲求によって得られるべきものではない、とこのようにここでの意味は見なされるべきである。これから語られる意味を集約する意義が「〜もまた(pi)」という言葉であるとして「後段の残りを取って『〜もまた』という言葉がある」と述べた。「〜こと」とは原因の意味における具格の主格表現であるとして「いかなる法によっても」と述べた。実にこの「法」という言葉は原因の意味であり、得られない状態がここでの原因と知られるべきである。あるいは「その」とは欲する対象が得られないことであり、このようにここでは「得られないこともまた=いかなるものによっても」と格の転換によって意味が説かれた。しかし「〜こと(yaṃ)」という言葉が「欲求」というこれを顧みる時には、得られないことによって特徴づけられた欲求が説かれたことになる。しかし「得られない」というこれを顧みる時には、欲求によって特徴づけられた不獲得が説かれたことになるが、それは実質的には別の法ではなく、それでも得られない対象に向かう欲求そのものが説かれたことになる。「一切処において」とは、「老いる性質の者たちの」等によって現れる一切の場面においてである。
Samudayasaccaniddesavaṇṇanā
集諦の解説の注釈
400. Punabbhavakaraṇaṃ punobbhavo uttarapadalopaṃ katvā mano-saddassa viya purimapadassa o-kārantatā daṭṭhabbā. Atha vā sīlanaṭṭhena ika-saddena gamitatthattā kiriyāvācakassa saddassa adassanaṃ daṭṭhabbaṃ yathā ‘‘asūpabhakkhanasīlo asūpiko’’ti. Sammohavinodaniyaṃ pana ‘‘punabbhavaṃ deti, punabbhavāya saṃvattati, punappunaṃ bhave nibbattetīti ponobbhavikā’’ti (vibha. aṭṭha. 203) attho vutto so ‘‘taddhitā’’ iti bahuvacananiddesato, vicittattā vā taddhitavuttiyā, abhidhānalakkhaṇattā vā taddhitānaṃ tesupi atthesu ponobbhavikasaddasiddhi sambhaveyyāti katvā vutto. Tattha kammunā sahajātā punabbhavaṃ deti, asahajātā kammasahāyabhūtā punabbhavāya saṃvattati, duvidhāpi punappunaṃ bhave nibbattetīti daṭṭhabbā. Nandanaṭṭhena, rañjanaṭṭhena ca nandīrāgo, yo ca nandīrāgo, yā ca taṇhāyanaṭṭhena taṇhā, ubhayametaṃ ekatthaṃ, byañjanameva nānanti taṇhā **‘‘nandīrāgena saddhiṃ atthato ekattameva gatā’’**ti vuttā. Tabbhāvattho hettha saha-saddo ‘‘sanidassanā dhammā’’tiādīsu (dha. sa. dukamātikā 9) viya. Tasmā nandīrāgasahagatāti nandīrāgabhāvaṃ gatā sabbāsupi avatthāsu nandīrāgabhāvassa apaccakkhāya vattanatoti attho. Rāgasambandhena uppannassāti vuttaṃ. Rūpārūpabhavarāgassa visuṃ vuccamānattā kāmabhave eva bhavapatthanuppatti vuttāti veditabbā.
400. 再び有を生ぜしめることが再生(後有)であり、後節の省略をして、「意(mano)」という言葉のように前節がo語尾となる状態が見なされるべきである。あるいは習性の意味の「ika」という接頭語によって意味が理解されるため、「スープを食べる習性のある者をスーピカという」ように動作を表す言葉の非表示が見なされるべきである。しかし無痴勝解(分別論義釈203)においては「再び有を与える、再び有へと導く、度々有において生ぜしめるがゆえに再生をもたらすもの(ポノーバヴィカー)」と意味が説かれている。それは「二次派生名詞である」という複数形の提示から、あるいは二次派生名詞の用法の多様性から、あるいは二次派生名詞の語義の特徴から、それらの意味においても再生をもたらすものという言葉の成立が可能であろうとして説かれたのである。そこにおいて業倶生のものは再生を与え、非倶生で業の友となったものは再生へと導き、二種ともに度々有において生ぜしめる、と見なされるべきである。喜ばせる意義によって、また執着させる意義によって喜貪であり、喜貪であるもの、また渇愛する意義によって渇愛であるもの、これら両者は同一の意義であり、表現のみが異なるとして、渇愛は「喜貪とともに実質的には同一性に達した」と述べられた。ここでの「とともに(saha)」という言葉は、「顕示を伴う諸法」等(法集論二法標記9)におけるようにその状態にあるという意味である。それゆえに「喜貪を伴う」とは、喜貪の状態に至った、あらゆる状態においても喜貪の状態を捨てずに転起するから、という意味である。「貪との結びつきによって生じたものの」と述べられた。色・無色有への貪は別個に説かれているため、欲有においてのみ有への希求の生起が説かれたと知るべきである。
Tasmiṃ tasmiṃ piyarūpe paṭhamuppattivasena **‘‘uppajjatī’’**ti vuttaṃ, punappunaṃ pavattivasena **‘‘nivisatī’’**ti. Pariyuṭṭhānānusayavasena vā uppattinivesā yojetabbā. Sampattiyanti manussasobhagge, devatte ca. Attano cakkhunti savatthukaṃ cakkhuṃ vadati, sapasādaṃ vā maṃsapiṇḍaṃ. Vippasannaṃ pañcapasādanti parisuddhasuppasannanīlapītalohitakaṇhaodātavaṇṇavantaṃ. Rajatapanāḷikaṃ viya chiddaṃ abbhantare odātattā. Pāmaṅgasuttaṃ viya ālambakaṇṇabaddhaṃ. Tuṅgā uccā dīghā nāsikā tuṅganāsā, evaṃ laddhavohāraṃ attano ghānaṃ. ‘‘Laddhavohārā’’ti vā pāṭho, tasmiṃ sati tuṅgā nāsā yesaṃ te tuṅganāsā, evaṃ laddhavohārā sattā attano ghānanti yojanā kātabbā. Jivhaṃ…pe… maññanti vaṇṇasaṇṭhānato, kiccato ca. Kāyaṃ…pe… maññanti ārohapariṇāhasampattiyā. Manaṃ…pe… maññanti atītādiatthacintanasamatthaṃ. Attanā paṭiladdhāni ajjhattañca sarīragandhādīni, bahiddhā ca vilepanagandhādīni. Uppajjamānā uppajjatīti yadā uppajjamānā hoti, tadā ettha uppajjatīti sāmaññena gahitā uppādakiriyā lakkhaṇabhāvena vuttā, visayavisiṭṭhā ca lakkhitabbabhāvena. Na hi sāmaññavisesehi nānattavohāro na hotīti. Uppajjamānāti vā anicchito uppādo hetubhāvena vutto, uppajjatīti nicchito phalabhāvena yadi uppajjamānā hoti, ettha uppajjatīti.
その都度の愛すべき対象において最初の生起の力によって「生じる」と説かれ、度重なる生起の力によって「定着する」と説かれた。あるいは纏と随眠の力によって生起と定着が結合されるべきである。「富裕において」とは、人間の美、天界の状態において。「自らの眼」とは、基盤を伴う眼を言い、あるいは清浄部を伴う肉の塊を言う。「極めて清浄な五つの清浄」とは、極めて清浄で極めて澄んだ青・黄・赤・黒・白の色を持つもの。「銀の筒のように」とは、内部が白いことによって空洞であること。「耳飾りの紐のように」とは、垂れ下がった耳に結ばれていること。「高貴で、高く、長い鼻」が高鼻であり、このように世間的呼称を得た自らの鼻。「世間的呼称を得た者たち」という読みもあり、その時には高い鼻をもつ者たちが高鼻であり、このように世間的呼称を得た有情たちが自らの鼻を、と結合がなされるべきである。「舌を……略……思う」とは色彩と形態から、また機能から。「身体を……略……思う」とは身長と周囲の充実から。「意を……略……思う」とは過去などの対象を思惟する能力から。「自ら獲得した」とは、内には身体の芳香など、外には塗香の香りなど。「生じる時に生じる」とは、生じる時であるならば、その時にここで生じるとして一般的に把握された生起の作用が特徴として説かれ、対象によって限定されたものが特徴づけられるべきものとして説かれた。実に一般的・特殊的によって多様性の世俗呼称がないわけではないからである。あるいは「生じる時に」とは未確定の生起が原因として説かれ、「生じる」とは確定した結果として説かれており、もし生じる時であるならば、ここで生じるということである。
Nirodhasaccaniddesavaṇṇanā
滅諦の解説の注釈
401. ‘‘Sabbāni nibbānavevacanānevā’’ti vatvā tamatthaṃ pākaṭataraṃ kātuṃ **‘‘nibbānañhī’’**tiādi āraddhaṃ. Tattha āgammāti nimittaṃ katvā. Nibbānahetuko hi taṇhāya asesavirāganirodho. Khayagamanavasena virajjati. Appavattigamanavasena nirujjhati. Anapekkhatāya cajanavasena, hānivasena vā cajīyati. Puna yathā nappavattati, tathā dūra khipanavasena paṭinissajjīyati. Bandhanabhūtāya mocanavasena muccati. Asaṃkilesavasena na allīyati. Kasmā panetaṃ nibbānaṃ ekameva samānaṃ nānānāmehi vuccatīti? Paṭipakkhanānatāyāti dassento **‘‘ekameva hī’’**tiādimāha. Saṅkhatadhammavidhurasabhāvattā nibbānassa nāmānipi guṇanemittikattā saṅkhatadhammavidhurāneva hontīti vuttaṃ **‘‘sabbasaṅkhatānaṃ nāmapaṭipakkhavasenā’’**ti. Asesaṃ virajjati taṇhā etthāti asesavirāgoti. Esa nayo sesesupi. Ayaṃ pana viseso – natthi etassa uppādo, na vā etasmiṃ adhigate puggalassa uppādoti anuppādo, asaṅkhatadhammo. **‘‘Appavatta’’**ntiādīsupi iminā nayena attho veditabbo. Āyūhanaṃ samudayo, tappaṭipakkhavasena anāyūhanaṃ.
401. 「すべては涅槃の同義語そのものである」と述べて、その意味をより明白にするために「実に涅槃は……」等を始めた。そこにおいて「拠って」とは、対象(機縁)として。実に涅槃を原因として愛の無余の離貪・消滅があるからである。滅尽に至ることによって離貪する。不転起に至ることによって消滅する。顧みないことによって捨てること、あるいは放棄によって捨てられる。再び生起しないように遠くへ投げ捨てることによって完全に投げ捨てられる。束縛となったものから解き放つことによって解脱する。汚染されないことによって執着しない。しかしなぜこの涅槃は一なるものであるのに種々の名によって呼ばれるのか。対治の多様性によってであると示すために「一なるものこそ実に……」等を述べた。為作された法と相容れない自性であることから、涅槃の名もまた徳に起因するものであるため、為作された法と相容れないものそのものとなるとして「一切の為作された法の名の対治の力によって」と述べた。完全にここで愛が離れるので「無余離貪」である。この方法は残りのものにおいても同様である。しかしこの差異がある――これには生起がない、あるいはこれを証得した人に生起がないので「不生」、無為法である。「不転起」等においてもこの方法によって意味が知られるべきである。蓄積が集であり、それに対立することによって「無蓄積」である。
Taṇhā appahīne sati yattha uppajjati, pahāne pana sati tattha tatthevassā abhāvo sudassitoti āha **‘‘tattheva abhāvaṃ dassetu’’**nti. Apaññattinti apaññāpanaṃ, ‘‘titta alābu atthī’’ti vohārābhāvaṃ vā. Tittaalābuvalliyā appavattiṃ icchanto puriso viya ariyamaggo, tassa tassā appavattininnacittassa mūlacchedanaṃ viya maggassa nibbānārammaṇassa taṇhāya pahānaṃ, tadappavatti viya taṇhāya appavattibhūtaṃ nibbānaṃ daṭṭhabbaṃ.
愛が未断である時にどこにおいて生じるか、しかし断ぜられた時にはまさにその場所においてそれの不在が明白に示されるとして「まさにそこにおいて不在を示すために」と述べた。「名づけられないこと」とは知られないこと、あるいは「苦いヒョウタンがある」という表現がないことである。苦いヒョウタンの蔓の不転起を望む人のようなものが聖道であり、その不転起に心を傾けた彼の根を断つことのようなものが涅槃を対象とする道の愛の捨断であり、それの不転起のようなものが愛の不転起となった涅槃であると見なされるべきである。
Dutiyaupamāyaṃ dakkhiṇadvāraṃ viya nibbānaṃ, coraghātakā viya maggo. Dakkhiṇadvāre ghātitāpi corā pacchā ‘‘aṭaviyaṃ corā ghātitā’’ti vuccanti, evaṃ nibbānaṃ āgamma niruddhāpi taṇhā ‘‘cakkhādīsu niruddhā’’ti vuccati tattha kiccakaraṇābhāvatoti daṭṭhabbaṃ. Purimā vā upamā maggena niruddhāya ‘‘piyarūpasātarūpesu niruddhā’’ti vattabbatādassanatthaṃ vuttā, pacchimā nibbānaṃ āgamma niruddhāya ‘‘piyarūpasātarūpesu niruddhā’’ti vattabbatādassanatthaṃ vuttāti ayaṃ etāsaṃ viseso.
第二の譬喩においては、南門のようなものが涅槃であり、盗賊を殺す者たちのようなものが道である。南門で殺された盗賊も、後には「森で盗賊が殺された」と言われるように、このように涅槃に拠って滅した愛も、そこにおいて作用をなすことがないことから「眼等において滅した」と言われると見なされるべきである。あるいは前の譬喩は道によって滅した愛について「愛すべきもの・快いものにおいて滅した」と語られるべきことを示すために説かれ、後の譬喩は涅槃に拠って滅した愛について「愛すべきもの・快いものにおいて滅した」と語られるべきことを示すために説かれたというのが、これら(二つの譬喩)の相違である。
Maggasaccaniddesavaṇṇanā
道諦の解説の注釈
402. Aññamaggapaṭikkhepanatthanti titthiyehi parikappitassa maggassa dukkhanirodhagāminipaṭipadābhāvapaṭikkhepanatthaṃ, aññassa vā maggabhāvapaṭikkhepo aññamaggapaṭikkhepo, tadatthaṃ. **‘‘Aya’’**nti pana attano, tesu ca bhikkhūsu ekaccānaṃ paccakkhabhāvato āsannapaccakkhavacanaṃ. Ārakattāti niruttinayena ariyasaddasiddhimāha. Ariyabhāvakarattāti ariyakaraṇo ariyoti uttarapadalopena, puggalassa ariyabhāvakarattā ariyaṃ karotīti vā ariyo, ariyaphalapaṭilābhakarattā vā ariyaṃ phalaṃ labhāpeti janetīti ariyo. Purimena cettha attano kiccavasena, pacchimena phalavasena ariyanāmalābho vuttoti daṭṭhabbo. Catusaccapaṭivedhāvahaṃ kammaṭṭhānaṃ catusaccakammaṭṭhānaṃ, catusaccaṃ vā uddissa pavattaṃ bhāvanākammaṃ yogino sukhavisesānaṃ ṭhānabhūtanti catusaccakammaṭṭhānaṃ. Purimāni dve saccāni vaṭṭaṃ pavattihetubhāvato. Pacchimāni vivaṭṭaṃ nivattitadadhigamupāyabhāvato. Vaṭṭe kammaṭṭhānābhiniveso sarūpato pariggahasabbhāvato. Vivaṭṭe natthi avisayattā, visayatte ca payojanābhāvato. Purimāni dve saccāni uggaṇhitvāti sambandho. Kammaṭṭhānapāḷiyā hi tadatthasallakkhaṇena vācuggatakaraṇaṃ uggaho. Tenāha **‘‘vācāya punappunaṃ parivattento’’**ti. Iṭṭhaṃ kantanti nirodhamaggesu ninnabhāvaṃ dasseti, na abhinandanaṃ, tanninnabhāvoyeva ca tattha kammakaraṇaṃ daṭṭhabbaṃ.
402. 「他の道を排除するため」とは、異教徒たちによって構想された道が苦滅に至る実践道ではないと排除するため、あるいは他のものが道である状態を排除することが他の道の排除であり、そのためのことである。「この」とは自らにとって、またそれらの比丘たちの中のある者たちにとって明白であることから、身近な現前を示す言葉である。「遠く離れていることから」とは、語源解釈の方法によって聖(アリア)という言葉の成立を述べている。「聖なる状態をなすことから」とは、聖をなすものが聖であると後節の省略によって、あるいは人に聖なる状態をなすから「聖をなす」、あるいは聖果の獲得をなさしめるから聖なる果を得させる、生じさせるから「聖」である。ここにおいて前者は自らの機能の力によって、後者は果の力によって聖なる名を得ることが説かれたと見なされるべきである。四諦の通達をもたらす業処が四諦の業処であり、あるいは四諦を目指して生起した修習の業が瑜伽行者の殊勝な楽の拠り所となることから四諦の業処である。前の二つの真理は、生起の因であることから輪転である。後ろの二つは、止滅とそれの証得の手段であることから還滅(脱輪転)である。輪転において業処の傾注があるのは、自相において把握が存在するからである。還滅においては(業処の傾注は)存在しない、対象でないからであり、対象であっても用がないからである。「前の二つの真理を学んで」と結合される。実に業処の聖典によってその意味を観察しながら口頭で暗誦することが「学習」である。それゆえに「言葉によって幾度も反復しながら」と述べた。「好ましいもの、愛らしいもの」とは滅道への傾倒を示しており、執着ではなく、その傾倒こそがそこにおいてなされるべきことであると見なされるべきである。
Ekapaṭivedhenevāti ekañāṇeneva paṭivijjhanena. Paṭivedho paṭighātābhāvena visaye nissaṅgacārasaṅkhātaṃ nibbijjhanaṃ. Abhisamayo avirajjhitvā visayassa adhigamasaṅkhāto avabodho. ‘‘Idaṃ dukkhaṃ, ettakaṃ dukkhaṃ, na ito bhiyyo’’ti paricchinditvā jānanameva vuttanayena paṭivedhoti pariññāpaṭivedho, tena. Idañca yathā tasmiṃ ñāṇe pavatte pacchā dukkhassa sarūpādiparicchede sammoho na hoti, tathā pavattiṃ gahetvā vuttaṃ, na pana maggañāṇassa ‘‘idaṃ dukkha’’ntiādinā (ma. ni. 2.484; 3.104) pavattanato. Pahīnassa puna appahātabbatāya pakaṭṭhaṃ hānaṃ cajanaṃ samucchindanaṃ, pahānameva vuttanayena paṭivedhoti pahānapaṭivedho, tena. Ayampi yasmiṃ kilese appahīyamāne maggabhāvanāya na bhavitabbaṃ, asati ca maggabhāvanāya yo uppajjeyya, tassa kilesassa paṭighātaṃ karontassa anuppattidhammataṃ āpādentassa ñāṇassa tathāpavattiyaṃ paṭighātābhāvena nissaṅgacāraṃ upādāya evaṃ vutto. Sacchikiriyā paccakkhakaraṇaṃ anussavākāraparivitakkādike muñcitvā sarūpato ārammaṇakaraṇaṃ ‘‘idaṃ ta’’nti yathāsabhāvato gahaṇaṃ, sā eva vuttanayena paṭivedhoti sacchikiriyāpaṭivedho, tena. Ayaṃ panassa āvaraṇassa asamucchindanato ñāṇaṃ nirodhaṃ ālambituṃ na sakkoti, tassa samucchindanato taṃ sarūpato vibhāventameva pavattatīti evaṃ vutto. Bhāvanā uppādanā, vaḍḍhanā ca. Tattha paṭhamamagge uppādanaṭṭhena, dutiyādīsu vaḍḍhanaṭṭhena, ubhayatthāpi vā ubhayathāpi veditabbaṃ. Paṭhamamaggepi hi yathārahaṃ vuṭṭhānagāminiyaṃ pavattaṃ parijānanādiṃ vaḍḍhento pavattoti vaḍḍhanaṭṭhena bhāvanā sakkā viññātuṃ. Dutiyādīsupi appahīnakilesappahānato, puggalantarabhāvasādhanato ca uppādanaṭṭhena bhāvanā sakkā viññātuṃ, sā eva vuttanayena paṭivedhoti bhāvanāpaṭivedho, tena. Ayampi hi yathā ñāṇe pavatte pacchā maggadhammānaṃ sarūpaparicchede sammoho na hoti, tathā pavattimeva gahetvā vutto.
「ただ一度の通達によって」とは、ただ一つの智慧による通達によって、という意味である。通達とは、対象において障害がないことによる無執着な活動と呼ばれる完全な洞察である。現観とは、対象を誤ることなく獲得することと呼ばれる覚知である。「これが苦である。これほどが苦であり、これより多くはない」と限定して知ることこそが、述べられた理趣による通達であり、知の通達である。それによって〔通達する〕。またこれは、その智慧が生じたときに、後になって苦の本質などの限定において迷いが生じないように、その生起を捉えて説かれたものであり、道智が「これが苦である」等として生起するからではない。断ぜられたものが再び断ぜられるべきでないことによる、卓越した捨断・放棄・根絶こそが、述べられた理趣による通達であり、断の通達である。それによって〔通達する〕。これもまた、ある煩悩が断ぜられないならば道修習が存在し得ず、道修習が存在しないならば生じるであろうその煩悩を撃破し、不生起の性質に至らしめる智慧が、そのように生起する際に障害がないことによって無執着に活動することに基づいて、このように説かれたのである。作証とは、伝聞の態様による思索などを離れて、本質から所縁とし、「これがそれである」と真実のありのままに捉える直接体験であり、それこそが述べられた理趣による通達であり、作証の通達である。それによって〔通達する〕。しかしながらこれは、その覆いを根絶しないことによって智慧が滅を所縁とすることができず、それを根絶することによってその本質を明らかにしながら生起するのである、とこのように説かれた。修習とは生起させることであり、増大させることである。そこにおいて、第一の道においては生起させるという意味によって、第二などの道においては増大させるという意味によって、あるいは両方において両様の意味で知られるべきである。第一の道においても、相応に出起に至る〔行〕において生じた遍知などを増大させつつ生起するがゆえに、増大させるという意味によって修習を知ることができ、第二などの道においても、未断の煩悩を断ずることにより、また別の人物の状態を達成することによって、生起させるという意味によって修習を知ることができる。それこそが述べられた理趣による通達であり、修習の通達である。それによって〔通達する〕。これもまた、智慧が生じたときに、後になって道諸法の本質の限定において迷いが生じないように、まさにその生起を捉えて説かれたのである。
Tiṭṭhantu tāva yathādhigatā maggadhammā, yathāpavattesu phaladhammesupi ayaṃ yathādhigatasaccadhammesu viya vigatasammohova hoti. Tenevāha ‘‘diṭṭhadhammo pattadhammo viditadhammo pariyogāḷhadhammo’’ti (mahāva. 18; dī. ni. 1.299; ma. ni. 2.69) yato sacassa dhammatāsañcoditā yathādhigatasaccadhammālambaniyo maggavīthito parato maggaphalapahīnāvasiṭṭhakilesanibbānānaṃ paccavekkhaṇā pavattanti, dukkhasaccammopi sakkāyadiṭṭhiādayo. Ayañca atthavaṇṇanā **‘‘pariññābhisamayenā’’**tiādīsupi vibhāvetabbā. Ekābhisamayena abhisametīti etthāha vitaṇḍavādī ‘‘ariyamaggañāṇaṃ catūsu saccesu nānābhisamayavasena kiccakara’’nti, so abhidhamme (kathā. 274) odhisokathāya saññāpetabbo. Idāni tameva ekābhisamayaṃ vitthāravasena vibhāvetuṃ **‘‘evamassā’’**tiādi vuttaṃ. ‘‘Pubbabhāge…pe… paṭivedho hotī’’ti kasmā vuttaṃ, nanu paṭivedho pubbabhāgiyo na hotīti? Saccametaṃ nippariyāyato, idha pana uggahādivasena pavatto avabodho pariyāyato tathā vutto. Paṭivedhanimittattā vā uggahādivasena pavattaṃ dukkhādīsu pubbabhāge ñāṇaṃ ‘‘paṭivedho’’ti vuttaṃ, na paṭivijjhanasabhāvaṃ. Kiccatoti pubbabhāgehi dukkhādiñāṇehi kātabbakiccassa idha nipphattito, imasseva vā ñāṇassa dukkhādippakāsanakiccato, pariññāditoti attho. Ārammaṇapaṭivedhoti sacchikiriyāpaṭivedhamāha. Sāti paccavekkhaṇā. Idhāti imasmiṃ ṭhāne. Uggahādīsu vuccamānesu na vuttā anavasarattā. Adhigame hi sati tassā siyā avasaro.
獲得された通りの道法はしばらくおくとして、生起した通りの果法においても、この者は獲得された真理の法におけるがごとく、実に迷いを離れた者となる。それゆえに「法を見、法に達し、法を知り、法に分け入った」と説かれたのである。なぜなら、もしその法性に促されて、獲得された真理の法を所縁とする省察が道過程の後に、道・果・断ぜられた煩悩・残余の煩悩・涅槃について生起するならば、苦諦や有身見なども〔生起する〕からである。そしてこの釈義は、「遍知現観によって」等においても明らかにされるべきである。「一の現観によって現観する」ということに関して、論争者は「聖道智は四諦において異なる現観によって役目を果たす」と言うが、彼はアビダンマ(論事)の局所的な説示において納得させられるべきである。今、まさにその一の現観を詳細に明らかにするために、「このように彼には」等と説かれた。「前段階において……(略)……通達となる」となぜ説かれたのか。通達は前段階のものではないのではないか? これは無差別(究極的)には真実であるが、ここでは学習などによって生じた覚知が世俗的表現(方便)としてそのように説かれたのである。あるいは、通達の兆候であるがゆえに、学習などによって生じた苦などに関する前段階の智慧が「通達」と説かれたのであり、通達そのものの本性ではない。「役目から」とは、前段階の苦などの智慧によってなされるべき役目がここで達成されることから、あるいはこの智慧の苦などを顕示する役目から、遍知などからという意味である。「所縁の通達」とは作証の通達を指して言っている。「それ」とは省察である。「ここで」とはこの箇所において。学習などが説かれている時には、機会がないがゆえに説かれなかった。実に獲得があってこそ、それに機会があるであろう。
Taṃyeva hi anavasaraṃ dassetuṃ **‘‘imassa cā’’**tiādi vuttaṃ. Pubbe pariggahatoti kammaṭṭhānapariggahato pubbe. Uggahādivasena saccānaṃ pariggaṇhanañhi pariggaho. Tathā tāni pariggaṇhanato manasikāradaḷhatāya pubbabhāgiyā dukkhapariññādayo honti yevāti āha **‘‘pariggahato paṭṭhāya hotī’’**ti. Aparabhāgeti maggakkhaṇe. Duddasattāti attano pavattikkhaṇavasena pākaṭānipi pakatiñāṇena sabhāvarasato daṭṭhuṃ asakkuṇeyyattā. Gambhīreneva ca bhāvanāñāṇena, tathāpi matthakappattena ariyamaggañāṇeneva yāthāvato passitabbattā gambhīrāni. Tenāha **‘‘lakkhaṇapaṭivedhato pana ubhayampi gambhīra’’**nti. Itarāni asaṃkiliṭṭhaasaṃkilesikatāya accantasukhappattāya anuppattibhavatāya, anuppannapubbatāya ca pavattivasena apākaṭattā ca paramagambhīrattā, tathā paramagambhīrañāṇeneva passitabbatāya pakatiñāṇena daṭṭhuṃ na sakkuṇeyyānīti duddasāni. Tenāha **‘‘itaresaṃ panā’’**tiādi. Payogoti kiriyā, vāyāmo vā. Tassa mahantatarassa icchitabbataṃ, dukkarataratañca upamāhi dasseti **‘‘bhavaggaggahaṇattha’’**ntiādinā. Paṭivedhakkhaṇeti ariyassa maggassa catusaccasampaṭivedhakkhaṇe. Ekameva taṃ ñāṇanti dukkhādīsu pariññādikiccasādhanavasena ekameva taṃ maggañāṇaṃ hoti.
まさにその機会のなさを指し示すために「そしてこれの」等と説かれた。「以前の把握から」とは、業処の把握以前から、という意味である。学習などによって真理を把握することこそが把握である。そのようにそれらを把握することから、作意の堅固さによって前段階の苦遍知などがまさに存在するがゆえに、「把握から始まって存在する」と述べたのである。「後の段階において」とは道の一瞬において。「見難いことによって」とは、自身の生起の瞬間としては顕著であっても、通常の智慧によっては自性の味わいから見ることができないことによる。そして深遠な修習智によってのみ、さらに言えば頂点に達した聖道智によってのみ、ありのままに見られるべきであるがゆえに深遠である。それゆえに「しかし相の通達からは、両者ともに深遠である」と述べたのである。他のものは、非雑染・非雑染性によって、絶対の安楽に達していることによって、未得の存在状態であることによって、かつて生じたことがないことによって生起の点からは顕著でなく極めて深遠であるがゆえに、そのように極めて深遠な智慧によってのみ見られるべきものであり、通常の智慧によっては見ることができないがゆえに見難いのである。それゆえに「しかし他の者たちにとっては」等と述べた。「実践」とは行為、あるいは努力である。それのより広大な望ましさと、より困難であることを、「有頂の把握のために」等によって譬喩をもって示す。「通達の瞬間に」とは、聖なる道の四諦完全通達の瞬間に。「唯一のその智慧」とは、苦などにおいて遍知などの役目を果たすことによって、唯一のその道智となる。
Imesu tīsu ṭhānesūti imesu viramitabbatāvasena jotitesu tīsu kāmabyāpādavihiṃsāvitakkavatthūsu. Visuṃ visuṃ uppannassa tividhaakusalasaṅkappassa. Padapacchedatoti ettha gatamaggo ‘‘pada’’nti vuccati, yena ca upāyena kāraṇena kāmavitakko uppajjati, so tassa gatamaggoti tassa pacchedo ghāto padapacchedo, tato padapacchedato. Anuppattidhammatāpādanaṃ anuppattisādhanaṃ, tassa vasena. Maggakiccasādhanena maggaṅgaṃ pūrayamāno ekova tividhakiccasādhano kusalasaṅkappo uppajjati. Tividhākusalasaṅkappasamucchedanameva hettha tividhakiccasādhanaṃ daṭṭhabbaṃ. Iminā nayena **‘‘imesu catūsu ṭhānesū’’**tiādīsupi attho veditabbo.
「これら三つの箇所において」とは、これら離れるべきこととして照らし出された欲・瞋恚・害の三つの尋の根拠において、という意味である。別々に生じた三種の不善なる思惟の、「足跡の切断によって」とは、ここで行くべき道が「足」と言われ、いかなる手段や原因によって欲尋が生じるか、それがそれの行くべき道であり、それの切断・破壊が足跡の切断であり、その足跡の切断によって、という意味である。不生起の性質に至らしめることとは、不生起を成就することであり、それによってである。道の役目を果たすことによって道支を満たしつつ、唯一の三種の役目を果たす善なる思惟が生じる。三種の不善なる思惟の根絶こそが、ここでは三種の役目の成就と見なされるべきである。この理趣によって、「これら四つの箇所において」等においても意味が理解されるべきである。
Musāvādāveramaṇiādayoti ettha yasmā sikkhāpadavibhaṅge (vibha. 703) viraticetanā, sabbe sampayuttadhammā ca sikkhāpadānīti āgatānīti tattha padhānānaṃ viraticetanānaṃ vasena ‘‘viratiyopi honti cetanāyopī’’ti (vibha. aṭṭha. 703) sammohavinodaniyaṃ vuttaṃ, tasmā keci ‘‘ādi-saddena na kevalaṃ pisuṇavācā veramaṇiādīnaṃyeva saṅgaho, atha kho tādisānaṃ cetanānampi saṅgaho’’ti vadanti, taṃ pubbabhāgavasena vuccamānattā yujjeyya, musāvādādīhi viramaṇakāle vā viratiyo, subhāsitādivācābhāsanādikāle ca cetanāyo yojetabbā, maggakkhaṇe pana viratiyova icchitabbā cetanānaṃ amaggaṅgattā. Ekassa ñāṇassa dukkhādiñāṇatā viya, ekāya viratiyā musāvādādiviratibhāvo viya ca ekāya cetanāya sammāvācādikiccattayasādhanasabhāvābhāvā sammāvācādibhāvāsiddhito, taṃsiddhiyaṃ aṅgattayatāsiddhito ca.
「妄語からの離止など」とは、ここにおいて学処分別において離止の思、およびすべての相応法が学処であると説かれていることから、そこにおいて主たる離止の思によって「離止もまた存在し、思もまた存在する」と『疑惑消滅(サッモーハヴィノーダニー)』に説かれた。それゆえに一部の人々は「『など』という語によって、ただ悪口からの離止などの包摂のみならず、実にそのような思の包摂でもある」と言う。それは前段階として説かれることによるなら妥当であろう。妄語などから離れる時には離止が、善説などの言葉を語る時などには思が相応されるべきであるが、道の一瞬においては思は道支ではないがゆえに離止のみが望まれるべきである。一つの智慧が苦などの智慧であるように、一つの離止が妄語などの離止の状態であるように、一つの思によって正語などの三つの役目を成就する自性が存在しないがゆえに正語などの状態は成り立たず、その成就において三支の状態が成り立たないからである。
Bhikkhussa ājīvahetukaṃ kāyavacīduccaritaṃ nāma ayoniso āhārapariyesanahetukameva siyāti āha **‘‘khādanīya…pe… duccarita’’**nti. Kāyavacīduccaritaggahaṇañca kāyavacīdvāreyeva ājīvapakopo, na manodvāreti dassanatthaṃ. Tenāha **‘‘imesuyeva sattasu ṭhānesū’’**ti.
比丘にとって生計を原因とする身・口の悪行とは、理にかなわない食物の探求を原因とするものだけであるはずだ、ということで「飲食……(略)……悪行」と述べた。そして身・口の悪行の把握は、身・口の門においてのみ生計の乱れがあり、意の門においてではないことを示すためである。それゆえに「まさにこれら七つの箇所において」と述べたのである。
Anuppannānanti asamudācāravasena vā ananubhūtārammaṇavasena vā anuppannānaṃ. Aññathā hi anamatagge saṃsāre anuppannā pāpakā akusalā dhammā nāma na santi. Tenāha **‘‘ekasmiṃ bhave’’**tiādi. Yasmiṃ bhave ayaṃ imaṃ vīriyaṃ ārabhati, tasmiṃ ekasmiṃ bhave. Janetīti uppādeti. Tādisaṃ chandaṃ kurumāno evaṃ chandaṃ janeti nāma. Vāyāmaṃ karotīti payogaṃ parakkamaṃ karoti. Vīriyaṃ pavattetīti kāyikacetasikavīriyaṃ pakārato vatteti. Vīriyena cittaṃ paggahitaṃ karotīti teneva sahajātavīriyena cittaṃ ukkhipento kosajjapātato nisedhanena paggahitaṃ karoti. Padahanaṃ pavattetīti padhānaṃ vīriyaṃ karoti. Paṭipāṭiyā panetāni cattāri padāni āsevanābhāvanābahulīkammasātaccakiriyāhi yojetabbāni.
「未生のもの」とは、現勢化していないことによって、あるいは体験されていない所縁によることによって未生のものである。そうでなければ、始まりの知られない輪廻において、未生の悪なる不善の諸法などは存在しないからである。それゆえに「一つの生存において」等と述べた。この者がこの精進を起こすその一つの生存において。「生じる」とは生起させることである。そのような意欲を起こしつつ、このように意欲を生じさせるという。 「努力をなす」とは実践・奮闘をなすことである。 「精進を起こす」とは身・心の精進を十分に活動させることである。「精進によって心を奮い起こす」とは、まさにその倶生せる精進によって心を引き上げ、怠惰への転落を防ぐことによって奮い起こすことである。「専念を起こす」とは最勝の精進をなすことである。順序としては、これら四つの句は親近・修習・多作・不断の実践と結びつけられるべきである。
Uppannapubbānanti sadisavohārena vuttaṃ. Bhavati hi taṃsadisesu tabbohāro yathā ‘‘sā eva tittiri, tāni eva osadhānī’’ti. Tenāha **‘‘idāni tādise’’**ti. Uppannānanti ‘‘anuppannā’’ti avattabbataṃ āpannānaṃ. Pahānāyāti pajahanatthāya. Anuppannānaṃ kusalānanti ettha kusalāti uttarimanussadhammā adhippetā, tesañca uppādo nāma adhigamo paṭilābho, tappaṭikkhepena anuppādo appaṭilābhoti āha **‘‘appaṭiladdhānaṃ paṭhamajjhānādīna’’**nti. ‘‘Ṭhitiyā vīriyaṃ ārabhatī’’ti vutte na khaṇaṭhiti adhippetā tadatthaṃ vīriyārabbhena payojanābhāvato, atha kho pabandhaṭhiti adhippetāti āha **‘‘punappunaṃ uppattipabandhavasena ṭhitattha’’**nti. Sammussanaṃ paṭipakkhadhammavasena adassanamupagamananti tappaṭikkhepena asammussanaṃ asammosoti āha **‘‘asammosāyāti avināsanattha’’**nti. Bhiyyobhāvo punappunaṃ bhavanaṃ, so pana uparūpari uppattīti āha **‘‘uparibhāvāyā’’**ti. Vepullaṃ abhiṇhappavattiyā paguṇabalavabhāvāpattīti vuttaṃ **‘‘vepullāyāti vipulabhāvāyā’’**ti, mahantabhāvāyāti attho. Bhāvanāya paripūraṇatthanti jhānādibhāvanāparibrūhanatthaṃ.
「かつて生じたもの」とは、類似の世俗的表現によって説かれたものである。「まさにその雉であり、まさにそれらの薬草である」というように、それに類似するものに対してその表現が存在するからである。それゆえに「今、そのようなもの」と述べた。「生じたもの」とは「未生」と言い得ない状態に達したもののことである。「断ずることのために」とは捨断のためである。「未生の善法」とは、ここにおいて善法とは勝人法(卓越した境地)が意図されており、それらの生起とは獲得・取得のことであり、その反対として未生とは未取得のことである、ということで「未得の初禅などの」と述べた。「安住のために精進を起こす」と言ったとき、瞬間の安住が意図されているのではない。そのための精進の開始には目的がないからである。そうではなく、連続の安住が意図されている、ということで「何度も生起する連続によって安住するために」と述べた。忘失とは敵対する法によって見えなくなる状態に至ることであり、その反対として不忘失とは忘失しないことである、ということで「不忘失のために、とは滅失させないため」と述べた。さらなる増大とは何度も生じることであり、それは上へ上へと生起することである、ということで「上の状態のために」と述べた。広大さとは頻繁な生起によって熟達し強力な状態に至ることである、ということで「広大のために、とは広大な状態のために」と説かれ、偉大なる状態のためにという意味である。「修習を円満にするために」とは禅定などの修習を増大させるためである。
Catūsu ṭhānesūti anuppannākusalānuppādanādīsu catūsu ṭhānesu. Kiccasādhanavasenāti catubbidhassapi kiccassa ekajjhaṃ nipphādanavasena.
「四つの箇所において」とは、未生の不善を生じさせないことなどの四つの箇所において、という意味である。「役目の成就によって」とは、四種の役目を一挙に達成することによって、という意味である。
Jhānāni pubbabhāgepi maggakkhaṇepi nānāti yadipi samādhiupakārakehi abhiniropanānumajjanasampiyāyanabrūhanasantasukhasabhāvehi vitakkādīhi sampayogabhedato bhāvanātisayappavattānaṃ catunnaṃ jhānānaṃ vasena sammāsamādhi vibhatto, tathāpi vāyāmo viya anuppannākusalānuppādanādicatuvāyāmakiccaṃ, sati viya ca asubhāsukhāniccānattesu kāyādīsu subhādisaññāppahānacatusatikiccaṃ, eko samādhi catujhānasamādhikiccaṃ na sādhetīti pubbabhāgepi paṭhamajjhānasamādhi eva maggakkhaṇepi, tathā pubbabhāgepi catutthajjhānasamādhi eva maggakkhaṇe pīti attho. Nānāmaggavasenāti paṭhamamaggādinānāmaggavasena jhānāni nānā. Dutiyādayopi maggā dutiyādīnaṃ jhānānaṃ. Ayaṃ panassāti ettha maggabhāvena catubbidhampi ekattena gahetvā ‘‘assā’’ti vuttaṃ, assa maggassāti attho. Ayanti pana ayaṃ jhānavasena sabbasadisasabbāsadisekaccasadisatā viseso.
禅定は前段階においても道の一瞬においても多様である。たとえ三摩地を補助する、専注・推察・喜受・増大・寂静・安楽の本質をもつ尋などとの相応の差異から、修習の卓越性によって生起した四つの禅定によって正定が分別されているとしても、精進が未生の不善を生じさせないことなどの四つの精進の役目を果たすように、また念が不浄・苦・無常・無我なる身などにおいて浄などの想を捨断する四つの念の役目を果たすように、一つの三摩地が四禅の三摩地の役目を成就することはない。それゆえ前段階における初禅の三摩地こそが道の一瞬にもあり、同様に前段階における第四禅の三摩地こそが道の一瞬にもある、という意味である。「異なる道によって」とは、第一の道などの異なる道によって禅定は多様である。第二などの道もまた第二などの禅定のものである。しかし「この者の」とは、ここにおいて道という性質によって四種を一体として捉えて「彼の」と言ったのであり、この道の、という意味である。「この」とは、禅定による一切類似・一切非類似・一部類似という特異性のことである。
Pādakajjhānaniyamena hotīti idha pādakajjhānaniyamaṃ dhuraṃ katvā vuttaṃ, yathā cettha, evaṃ sammohavinodaniyampi (vibha. aṭṭha. 205). Aṭṭhasāliniyaṃ (dha. sa. aṭṭha. 350) pana vipassanāniyamo vutto sabbavādāvirodhato, idha pana sammasitajjhānapuggalajjhāsayavādanivattanato pādakajjhānaniyamo vutto. Vipassanāniyamo pana sādhāraṇattā idhāpi na paṭikkhittoti daṭṭhabbo. Aññe ca ācariyavādā parato vakkhamānā vibhajitabbāti yathāvuttameva tāva pādakajjhānaniyamaṃ vibhajanto āha **‘‘pādakajjhānaniyamena tāvā’’**ti. Paṭhamajjhāniko hoti, yasmā āsannapadese vuṭṭhitasamāpatti maggassa attano sadisabhāvaṃ karoti bhūmivaṇṇo viya godhāvaṇṇassa. Paripuṇṇāneva hontīti aṭṭha satta ca hontīti attho. Satta honti sammāsaṅkappassa abhāvato. Cha honti pītisambojjhaṅgassa abhāvato. Maggaṅgabojjhaṅgānaṃ sattachabhāvaṃ atidisati **‘‘esa nayo’’**ti. Arūpe catukkapañcakajjhānaṃ…pe… vuttaṃ aṭṭhasāliniyanti adhippāyo. Nanu tattha ‘‘arūpe tikacatukkajjhānaṃ uppajjatī’’ti (dha. sa. aṭṭha. 350) vuttaṃ, na ‘‘catukkapañcakajjhāna’’nti? Saccametaṃ, yesu pana saṃsayo atthi, tesaṃ uppattidassanena, tena atthato ‘‘catukkapañcakajjhānaṃ uppajjatī’’ti vuttameva hotīti evamāhāti veditabbaṃ. Samudāyañca apekkhitvā **‘‘tañca lokuttaraṃ, na lokiya’’**nti āha ‘‘avayavekattaṃ liṅgasamudāyassa visesakaṃ hotī’’ti. Catutthajjhānameva hi tattha lokiyaṃ uppajjati, na catukkaṃ, pañcakaṃ vāti. Ettha kathanti pādakajjhānassa abhāvā kathaṃ daṭṭhabbanti attho. Taṃjhānikāvassa tattha tayo maggā uppajjanti, tajjhānikaṃpaṭhamaphalādiṃ pādakaṃ katvā uparimaggabhāvanāyāti adhippāyo. Tikacatukkajjhānikaṃ pana maggaṃ bhāvetvā tattha uppannassa arūpacatutthajjhānaṃ, tajjhānikaṃ phalañca pādakaṃ katvā uparimaggabhāvanāya aññajhānikāpi uppajjantīti, jhānaṅgādiniyāmikā pubbābhisaṅkhārasamāpattipādakaṃ, na sammasitabbāti phalassāpi pādakatā daṭṭhabbā.
「基礎となる禅定の規則によって存在する」とは、ここでは基礎となる禅定の規則を主として説かれたものであり、ここにおけるように『疑惑消滅』においても同様である。しかし『殊勝義(アッタサーリニー)』においては、すべての説と矛盾しないことから観の規則が説かれたが、ここでは思惟された禅定の人物の意趣の説を退けることから基礎となる禅定の規則が説かれた。しかし観の規則は普遍的であるがゆえにここでも否定されていないと見なされるべきである。そして後に説かれる他の諸論師の説も分別されるべきである、ということで、述べられた通りの基礎となる禅定の規則をまず分別しつつ「まず基礎となる禅定の規則によって」と述べた。初禅のものとなる。なぜなら近接した領域から出定した等至は、地面の色がトカゲの色に対するように、道を自身と類似した状態にするからである。「完全に満たされたものとなる」とは、八つと七つになるという意味である。七つとなるのは正思惟がないことによる。六つとなるのは喜等覚支がないことによる。道支と覚支の七つや六つの状態を「この理趣である」と準用している。「無色界における四種・五種の禅定……(略)……『殊勝義』に説かれた」というのが趣旨である。そこでは「無色界において三種・四種の禅定が生じる」と説かれており、「四種・五種の禅定」ではないのではないか? これは真実であるが、疑いのある者たちに対してそれらの生起を示すことによって、それゆえ意味の上からは「四種・五種の禅定が生じる」と説かれたも同然である、とこのように言ったと知られるべきである。そして全体を考慮して「そしてそれは出世間であり、世間ではない」と述べた。「部分の一体性が特徴の集合を際立たせるものとなる」からである。そこでは第四禅のみが世間として生じるのであり、四種や五種ではない。ここにおいて「いかにして」とは、基礎となる禅定がないのにどのように見なされるべきか、という意味である。その禅定の者には、そこにおいて三つの道が生じる。その禅定の第一果などを基礎として、さらに上位の道の修習のためとなる、というのが趣旨である。しかし三種・四種の禅定の道を修習してそこに生じた者にとって、無色の第四禅とその禅定の果を基礎としてさらに上位の道の修習のために他の禅定のものも生じる。禅支などの規則は前段階の作意による等至を基礎とするのであり、思惟されるべきものではないことから、果もまた基礎となる性質をもつと見なされるべきである。
Keci panāti moravāpīmahādattattheraṃ sandhāyāha. Puna kecīti tipiṭakacūḷābhayattheraṃ. Tatiyavāre kecīti ‘‘pādakajjhānameva niyametī’’ti evaṃ vādinaṃ tipiṭakacūḷanāgattherañceva anantaraṃ vutte dve ca there ṭhapetvā itare there sandhāya vadati.
「しかし一部の者たちは」とは、モラヴァーピー・マハーダッタ長老を指して言っている。「さらに一部の者たちは」とは、三蔵チューラーバヤ長老を指している。「三度目に一部の者たちは」とは、「基礎となる禅定のみを規定する」とこのように説く三蔵チューラナーガ長老、および直前に述べられた二人の長老を除いて、他の長老たちを指して言っている。
403. Sasantatipariyāpannānaṃ dukkhasamudayānaṃ appavattibhāvena pariggayhamāno nirodhopi sasantatipariyāpanno viya hotīti katvā vuttaṃ **‘‘attano vā cattāri saccānī’’**ti. Parassa vāti etthāpi eseva nayo. Tenāha bhagavā ‘‘imasmiṃyeva byāmamatte kaḷevare sasaññimhi samanake lokañca paññāpemi, lokasamudayañca paññāpemi, lokanirodhañca paññāpemi, lokanirodhagāminipaṭipadañca paññāpemī’’ti (saṃ. ni. 1.107; a. ni. 4.45) kathaṃ pana ādikammiko nirodhamaggasaccāni pariggaṇhātīti? Anussavādisiddhamākāraṃ pariggaṇhāti. Evañca katvā lokuttarabojjhaṅge uddissāpi pariggaho na virujjhati. Yathāsambhavatoti sambhavānurūpaṃ, ṭhapetvā nirodhasaccaṃ sesasaccavasena samudayavayāti veditabbāti attho.
403. 自身の相続に属する苦・集の不生起の状態として把握される滅もまた、自身の相続に属するかのようなものとなる、ということから「自身の、あるいは四つの真理を」と説かれた。「他者の、あるいは」ということにおいても、まさにこの理趣である。それゆえに世尊は「実にこの想いあり心ある一尋ばかりの身体において、世間を施設し、世間の集を施設し、世間の滅を施設し、世間の滅に至る実践を施設する」と説かれたのである。それでは初心者はどのようにして滅諦と道諦を把握するのか? 伝聞などによって確立された様相を把握するのである。そしてこのようにして、出世間の覚支を対象としても把握は矛盾しない。「生起に従って」とは生起の相応に従って、という意味であり、滅諦を除いて残りの諦によって生起と衰滅とが知られるべきである、という意味である。
Catusaccapabbavaṇṇanā niṭṭhitā.
四諦の節の注釈は終了した。
Dhammānupassanāvaṇṇanā niṭṭhitā.
法随観の注釈は終了した。
404. ‘‘Aṭṭhikasaṅkhalikaṃ samaṃsa’’ntiādikā satta sivathikā aṭṭhikakammaṭṭhānatāya itarāsaṃ uddhumātakādīnaṃ sabhāvenevāti navannaṃ sivathikānaṃ appanākammaṭṭhānatā vuttā. Dveyevāti ānāpānaṃ, dvattiṃsākāroti imāni dveyeva. Abhinivesoti vipassanābhiniveso, so pana sammasaniyadhammapariggaho. Iriyāpathā, ālokitādayo ca rūpadhammānaṃ avatthāvisesamattatāya na sammasanupagā viññattiādayo viya. Nīvaraṇabojjhaṅgā ādito na pariggahetabbāti vuttaṃ **‘‘iriyāpatha…pe… na jāyatī’’**ti. Kesādiapadesena tadupādānadhammā viya iriyāpathādiapadesena tadavatthā rūpadhammā pariggayhanti, nīvaraṇādimukhena ca taṃsampayuttā, taṃnissayadhammāti adhippāyena mahāsivatthero ca iriyāpathādīsupi **‘‘abhiniveso jāyatī’’**ti avoca. **‘‘Atthi nu kho me’’**tiādi pana sabhāvato iriyāpathādīnaṃ ādikammikassa anicchitabhāvadassanaṃ. Apariññāpubbikā hi pariññāti.
404. 「骨格の連なり、肉のついた」などの七つの墓場の観察は、骨の業処であることによって、他の膨張した死体などの自性そのものによるものである、ということで九つの墓場の観察の安止業処性が説かれた。「二つのみ」とは、出入息と三十二様相のこれら二つのみである。「専念」とは毘鉢舎那の専念であり、それは思惟すべき法の把握である。威儀や観察などは色法の特殊な状態にすぎないがゆえに、表色などのように思惟の対象とはならない。蓋や覚支は最初には把握されるべきではない、ということで「威儀……(略)……生じない」と説かれた。頭髪などの表現によってそれらの所造法が把握されるように、威儀などの表現によってそれらの状態にある色法が把握され、蓋などを通じてそれらに相応する法やそれらに依存する法が把握される、という意趣によって、マハーシーヴァ長老は威儀などにおいても「専念が生じる」と述べた。しかし「果たして私にあるのか」などは、本来的に初心者が威儀などを望まない状態を示すものである。実に無遍知を先行とするのが遍知であるからである。
Kāmaṃ ‘‘idha bhikkhave bhikkhū’’tiādinā uddesaniddesesu tattha tattha bhikkhuggahaṇaṃ kataṃ taṃpaṭipattiyā bhikkhubhāvadassanatthaṃ, desanā pana sabbasādhāraṇāti dassetuṃ ‘‘yo hi koci bhikkhave’’ icceva vuttaṃ, na bhikkhu yevāti dassento **‘‘yo hi koci bhikkhu vā’’**tiādimāha. Dassanamaggena ñātamariyādaṃ anatikkamitvā jānantī sikhāppattā aggamaggapaññā aññā nāma, tassa phalabhāvato aggaphalaṃ pīti āha **‘‘aññāti arahatta’’**nti.
確かに「ここに比丘たちよ、比丘は」等と挙示や解説の各所において比丘の把握がなされたのは、その実践による比丘たる状態を示すためであるが、説示は万人に共通するものであることを示すために「実に比丘たちよ、いかなる者であれ」とまさに説かれたのであり、比丘のみではないことを示しつつ「実にいかなる者であれ、比丘であれ」等と述べた。見道によって知られた限界を踏み越えずに知る、頂点に達した最上の道の智慧を勝智(アンニャー)と呼び、それの果の状態であることから最上の果(阿羅漢果)をも意味する、ということで「勝智とは阿羅漢果である」と述べた。
Appatarepi kāle sāsanassa niyyānikabhāvaṃ dassentoti yojanā. Niyyātentoti nigamento.
より短い時間においても教えの出離性を指し示す、と解釈する。「導き出す」とは完結させることである。
Mahāsatipaṭṭhānasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā.
大念処経注釈における隠微なる意味の解明。