1. Pāthikasuttavaṇṇanā第一 波梨迦経注釈
Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa
世尊・応供・正等覚者に敬礼いたします。
Dīghanikāye
Pāthikavaggaṭṭhakathā
波梨迦品義釈
Sunakkhattavatthuvaṇṇanā
善星事注釈
1. Evaṃ me sutaṃ…pe… mallesu viharatīti pāthikasuttaṃ. Tatrāyaṃ apubbapadavaṇṇanā. Mallesu viharatīti mallā nāma jānapadino rājakumārā, tesaṃ nivāso ekopi janapado ruḷhīsaddena ‘‘mallā’’ti vuccati, tasmiṃ mallesu janapade. ‘‘Anupiyaṃ nāma mallānaṃ nigamo’’ti anupiyanti evaṃnāmako mallānaṃ janapadassa eko nigamo, taṃ gocaragāmaṃ katvā ekasmiṃ chāyūdakasampanne vanasaṇḍe viharatīti attho. Anopiyantipi pāṭho. Pāvisīti paviṭṭho. Bhagavā pana na tāva paviṭṭho, pavisissāmīti nikkhantattā pana pāvisīti vutto. Yathā kiṃ, yathā ‘‘gāmaṃ gamissāmī’’ti nikkhanto puriso taṃ gāmaṃ apattopi ‘‘kuhiṃ itthannāmo’’ti vutte ‘‘gāmaṃ gato’’ti vuccati, evaṃ. Etadahosīti gāmasamīpe ṭhatvā sūriyaṃ olokentassa etadahosi. Atippago khoti ativiya pago kho, na tāva kulesu yāgubhattaṃ niṭṭhitanti. Kiṃ pana bhagavā kālaṃ ajānitvā nikkhantoti? Na ajānitvā. Paccūsakāleyeva hi bhagavā ñāṇajālaṃ pattharitvā lokaṃ volokento ñāṇajālassa anto paviṭṭhaṃ bhaggavagottaṃ channaparibbājakaṃ disvā ‘‘ajjāhaṃ imassa paribbājakassa mayā pubbe katakāraṇaṃ samāharitvā dhammaṃ kathessāmi, sā dhammakathā assa mayi pasādappaṭilābhavasena saphalā bhavissatī’’ti ñatvāva paribbājakārāmaṃ pavisitukāmo atippagova nikkhami. Tasmā tattha pavisitukāmatāya evaṃ cittaṃ uppādesi.
一、「このように〔私によって聞かれました〕……乃至……マッラ国にとどまっていた」とは波梨迦経のことである。そこにおける未解説の語の注釈は次の通りである。「マッラ国にとどまっていた」とは、マッラとは地方の王子たちのことであり、彼らの住まう一つの地方も慣用表現として「マッラ族」と呼ばれる。そのマッラ族の地方において、ということである。「アヌピヤという名のマッラ族の町」とは、アヌピヤという名を持つマッラ国の或る町のことである。そこを行乞の村として、木陰と水に恵まれた一角の森林にとどまっていたという意味である。「アノーピヤ」という読みもある。「入った」とは入ったということである。しかし世尊はまだ入っておられず、「入ろう」として出発されたことから「入った」と言われる。何に譬えられるかと言えば、ちょうど「村へ行こう」と出発した人が、まだその村に到着していなくても、「某はどこにいるか」と尋ねられた際に「村へ行った」と言われるようなものである。「このように考えられた」とは、村の近くに立ち、太陽を見上げた時にこのように考えられたということである。「極めて朝早くに」とは、非常に早い時間であり、家々ではまだ粥や飯の用意ができていないということである。では、世尊は時間を知らずに出発されたのかといえば、知らずに出発されたのではない。実に夜明けの時に、世尊は智慧の網を広げて世界を観察され、その智慧の網の内に入ったバッガヴァ氏族の出家遊行者を見て、「今日、私はこの遊行者のために、過去に私がなした因縁を集めて法を説こう。その説法は、彼が私に信順を得ることによって実りあるものとなるであろう」と知られた上で、遊行者の園に入ろうとして極めて朝早くに出発されたのである。それ故に、そこに入りたいという思いから、このように心を起こされたのである。
2. Etadavocāti bhagavantaṃ disvā mānathaddhataṃ akatvā satthāraṃ paccuggantvā etaṃ etu kho, bhantetiādikaṃ vacanaṃ avoca. Imaṃ pariyāyanti imaṃ vāraṃ, ajja imaṃ āgamanavāranti attho. Kiṃ pana bhagavā pubbepi tattha gatapubboti? Na gatapubbo, lokasamudācāravasena pana evamāha. Lokiyā hi cirassaṃ āgatampi anāgatapubbampi manāpajātikaṃ āgataṃ disvā ‘‘kuto bhavaṃ āgato, cirassaṃ bhavaṃ āgato, kathaṃ te idhāgamanamaggo ñāto, kiṃ maggamūḷhosī’’tiādīni vadanti. Tasmā ayampi lokasamudācāravasena evamāhāti veditabbo. Idamāsananti attano nisinnāsanaṃ papphoṭetvā sampādetvā dadamāno evamāha. Sunakkhatto licchaviputtoti sunakkhatto nāma licchavirājaputto. So kira tassa gihisahāyo hoti, kālena kālaṃ tassa santikaṃ gacchati. Paccakkhātoti ‘‘paccakkhāmi dānāhaṃ, bhante, bhagavantaṃ na dānāhaṃ, bhante, bhagavantaṃ uddissa viharissāmī’’ti evaṃ paṭiakkhāto nissaṭṭho pariccatto.
二、「このように言った」とは、世尊を見て慢心を起こすことなく、師を出迎え、「尊者よ、来てください」等の言葉を述べたことを指す。「この順序を(この機会を)」とは、この機会、すなわち「今日のこの来訪の機会を」という意味である。では、世尊は以前にもそこへ行かれたことがあったのかといえば、かつて行かれたことはない。しかし世俗の慣習によってこのように言ったのである。世俗の人々は、久しく訪れていなかったり、未だかつて訪れたことがない親しい者がやって来たのを見て、「尊者はどこから来られたのか、尊者は久しぶりに来られた、どのようにしてここへ来る道を知られたのか、道に迷われたのか」などと言う。それ故に、この者も世俗の慣習によってこのように言ったと知るべきである。「これが座処です」とは、自分が座っていた座を払い、整えて提供しながらこのように言ったのである。「リッチャヴィの子スナッカッタ」とは、スナッカッタという名のリッチャヴィ族の王子のことである。伝え聞くところによると、彼はかの遊行者の在俗時代の友人であり、時折そのもとを訪れていた。「捨て去られた」とは、「尊者よ、私は今、世尊を捨て去ります。尊者よ、私はもはや世尊を拠り所として暮らすことはありません」とこのように拒絶し、見捨て、放棄したということである。
3. Bhagavantaṃ uddissāti bhagavā me satthā ‘‘bhagavato ahaṃ ovādaṃ paṭikaromī’’ti evaṃ apadisitvā. Ko santo kaṃ paccācikkhasīti yācako vā yācitakaṃ paccācikkheyya, yācitako vā yācakaṃ. Tvaṃ pana neva yācako na yācitako, evaṃ sante, moghapurisa, ko santo ko samāno kaṃ paccācikkhasīti dasseti. Passa moghapurisāti passa tucchapurisa. Yāvañca te idaṃ aparaddhanti yattakaṃ idaṃ tava aparaddhaṃ, yattako te aparādho tattako dosoti evāhaṃ bhaggava tassa dosaṃ āropesinti dasseti.
三、「世尊を拠り所として」とは、「世尊は私の師であり、私は世尊の教誡に従う」とこのように指定することである。「何者であるあなたが、誰を拒むのか」とは、乞う者が乞われた者を拒むか、あるいは乞われた者が乞う者を拒むかのいずれかである。しかしあなたは乞う者でもなく、乞われた者でもない。そうであるのに、空虚な人よ、いかなる身分であり、何者であるあなたが、誰を拒むというのか、と示している。「見よ、空虚な人よ」とは、見よ、虚しい人よ、ということである。「これほどまでにあなたの過ちがある」とは、あなたの過ちがこれほどまでにあり、あなたの罪責の分だけ過失がある、とこのように私はバッガヴァよ、彼の過失を指摘したのである、と示している。
4. Uttarimanussadhammāti pañcasīladasasīlasaṅkhātā manussadhammāuttari. Iddhipāṭihāriyanti iddhibhūtaṃ pāṭihāriyaṃ. Kate vāti katamhi vā. Yassatthāyāti yassa dukkhakkhayassa atthāya. So niyyāti takkarassāti so dhammo takkarassa yathā mayā dhammo desito, tathā kārakassa sammā paṭipannassa puggalassa sabbavaṭṭadukkhakkhayāya amatanibbānasacchikiriyāya gacchati, na gacchati, saṃvattati, na saṃvattatīti pucchati. Tatra sunakkhattāti tasmiṃ sunakkhatta mayā desite dhamme takkarassa sammā dukkhakkhayāya saṃvattamāne kiṃ uttarimanussadhammā iddhipāṭihāriyaṃ kataṃ karissati, ko tena katena attho. Tasmiñhi katepi akatepi mama sāsanassa parihāni natthi, devamanussānañhi amatanibbānasampāpanatthāya ahaṃ pāramiyo pūresiṃ, na pāṭihāriyakaraṇatthāyāti pāṭihāriyassa niratthakataṃ dassetvā ‘‘passa, moghapurisā’’ti dutiyaṃ dosaṃ āropesi.
四、「人法を越えた」とは、五戒や十戒と呼ばれる人々の法を超越したことである。「神通の奇跡」とは、神通による驚くべきことである。「なされたとしても」とは、行われたとしても、ということである。「それのために」とは、苦の滅尽という目的のために、である。「それは実践する者を導くか」とは、その法は、私が説いた通りに行い正しく実践する人にとって、すべての輪廻の苦の滅尽のため、不死なる涅槃の現証のために赴くのか赴かないのか、資するのか資さないのか、と尋ねている。「そこで、スナッカッタよ」とは、スナッカッタよ、私が説いたその法が、それを実践する者にとって正しく苦の滅尽に資するものであるならば、人法を超えた神通の奇跡を行って何になろうか、それを行ったとして何の利益があるのか。それが行われようが行われまいが、私の教えに損減はない。実に私は、神々と人間たちを不死なる涅槃に至らしめるために波羅蜜を満たしたのであり、奇跡を行うためにではない、と奇跡の無益さを示して、「見よ、空虚な人よ」と第二の過失を指摘されたのである。
5. Aggaññanti lokapaññattiṃ. ‘‘Idaṃ nāma lokassa agga’’nti evaṃ jānitabbampi aggaṃ mariyādaṃ na taṃ paññapetīti vadati. Sesamettha anantaravādānusāreneva veditabbaṃ.
五、「根源」とは、世界の施設(起源の教説)のことである。「これこそが世界の根源である」とこのように知られるべき最高の境界をも、彼は施設しない、と述べている。ここでの残りの部分は、直前の説示に準じて理解されるべきである。
6. Anekapariyāyena khoti idaṃ kasmā āraddhaṃ. Sunakkhatto kira ‘‘bhagavato guṇaṃ makkhessāmi, ‘‘dosaṃ paññapessāmī’’ti ettakaṃ vippalapitvā bhagavato kathaṃ suṇanto appatiṭṭho niravo aṭṭhāsi.
六、「実に様々な方法で」とは、なぜこれが説き起こされたのか。伝え聞くところによると、スナッカッタは「世尊の徳を覆い隠し、過失を暴いてやろう」とこれほどまでに妄言を吐いたものの、世尊の説教を聞くうちに足場を失い、沈黙して立ち尽くした。
Atha bhagavā – ‘‘sunakkhatta, evaṃ tvaṃ makkhibhāve ṭhito sayameva garahaṃ pāpuṇissasī’’ti makkhibhāve ādīnavadassanatthaṃ anekapariyāyenātiādimāha. Tattha anekapariyāyenāti anekakāraṇena. Vajjigāmeti vajjirājānaṃ gāme, vesālīnagare no visahīti nāsakkhi. So avisahantoti so sunakkhatto yassa pubbe tiṇṇaṃ ratanānaṃ vaṇṇaṃ kathentassa mukhaṃ nappahoti, so dāni teneva mukhena avaṇṇaṃ katheti, addhā avisahanto asakkonto brahmacariyaṃ carituṃ attano bālatāya avaṇṇaṃ kathetvā hīnāyāvatto. Buddho pana subuddhova, dhammo svākkhātova, saṅgho suppaṭipannova. Evaṃ tīṇi ratanāni thomentā manussā tuyheva dosaṃ dassessantīti. Iti kho teti evaṃ kho te, sunakkhatta, vattāro bhavissanti. Tato evaṃ dose uppanne satthā atītānāgate appaṭihatañāṇo, mayhaṃ evaṃ doso uppajjissatīti jānantopi puretaraṃ na kathesīti vattuṃ na lacchasīti dasseti. Apakkamevāti apakkamiyeva, apakkanto vā cutoti attho. Yathā taṃ āpāyikoti yathā apāye nibbattanāraho satto apakkameyya, evameva apakkamīti attho.
そこで世尊は、「スナッカッタよ、このように他人の徳を覆い隠す状態にとどまるなら、お前自身が非難を受けることになるであろう」と、覆毒の過患を示すために「様々な方法で」等を説かれた。そこでの「様々な方法で」とは、多くの理由によって、ということである。「ヴァッジの村で」とは、ヴァッジの諸王の村、ヴェーサーリーの都において、「耐え得なかった」とは、耐えることができなかった、ということである。「彼は耐え得ずに」とは、かつて三宝の美徳を語る際には口が足りないほどであったそのスナッカッタが、今ではその同じ口で悪口を語っており、まさに耐え切れず、清浄な行いを実践することができず、自らの愚かさによって悪口を語り、劣等な状態に堕ちたのである。しかし仏陀は実に正しく覚った方であり、法は正しく説かれたものであり、僧伽は正しく実践するものである。このように三宝を称賛する人々は、あなた自身の過失を指摘するであろう、と。「このようにあなたに」とは、スナッカッタよ、このようにあなたに言う人々が現れるであろう、ということである。そのように過失が生じたとき、師は過去と未来において妨げのない智慧を持ち、私にこのような過失が生じることを知っていながら、前もって語らなかった、とは言わせないために示されたのである。「立ち去った」とは、立ち去ったこと、あるいは離脱した、脱落したという意味である。「悪趣に堕ちるべき者が」とは、地獄などの悪趣に生まれるにふさわしい者が立ち去るように、まさにそのように立ち去ったという意味である。
Korakkhattiyavatthuvaṇṇanā
拘羅刹帝利事注釈
7. Ekamidāhanti iminā kiṃ dasseti? Idaṃ suttaṃ dvīhi padehi ābaddhaṃ iddhipāṭihāriyaṃ na karotīti ca aggaññaṃ na paññapetīti ca. Tattha ‘‘aggaññaṃ na paññapetī’’ti idaṃ padaṃ suttapariyosāne dassessati. ‘‘Pāṭihāriyaṃ na karotī’’ti imassa pana padassa anusandhidassanavasena ayaṃ desanā āraddhā.
七、「かつて私は」とは、これによって何を示すのか。この経は「神通の奇跡を行わない」ということと、「根源を施設しない」という二つの句に結びついている。そのうち「根源を施設しない」という句は経の結びにおいて示されるであろう。一方、「奇跡を行わない」というこの句の脈絡を示すために、この教説が始められたのである。
Tattha ekamidāhanti ekasmiṃ ahaṃ. Samayanti samaye, ekasmiṃ kāle ahanti attho. Thūlūsūti thūlū nāma janapado, tattha viharāmi. Uttarakā nāmāti itthiliṅgavasena uttarakāti evaṃnāmako thūlūnaṃ janapadassa nigamo, taṃ nigamaṃ gocaragāmaṃ katvāti attho. Aceloti naggo. Korakkhattiyoti antovaṅkapādo khattiyo. Kukkuravatikoti samādinnakukkuravato sunakho viya ghāyitvā khādati, uddhanantare nipajjati, aññampi sunakhakiriyameva karoti. Catukkuṇḍikoti catusaṅghaṭṭito dve jāṇūni dve ca kappare bhūmiyaṃ ṭhapetvā vicarati. Chamānikiṇṇanti bhūmiyaṃ nikiṇṇaṃ pakkhittaṃ ṭhapitaṃ. Bhakkhasanti bhakkhaṃ yaṃkiñci khādanīyaṃ bhojanīyaṃ. Mukhenevāti hatthena aparāmasitvā khādanīyaṃ mukheneva khādati, bhojanīyampi mukheneva bhuñjati. Sādhurūpoti sundararūpo. Ayaṃ samaṇoti ayaṃ arahataṃ samaṇo ekoti. Tattha vatāti patthanatthe nipāto. Evaṃ kirassa patthanā ahosi ‘‘iminā samaṇena sadiso añño samaṇo nāma natthi, ayañhi appicchatāya vatthaṃ na nivāseti, ‘esa papañco’ti maññamāno bhikkhābhājanampi na pariharati, chamānikiṇṇameva khādati, ayaṃ samaṇo nāma. Mayaṃ pana kiṃ samaṇā’’ti? Evaṃ sabbaññubuddhassa pacchato carantova imaṃ pāpakaṃ vitakkaṃ vitakkesi.
そこでの「かつて私は」とは、ある時に私が、ということである。「ある時」とは、ある時期に私が、という意味である。「トゥールー国において」とは、トゥールーという名の地方であり、そこに滞在していた。「ウッタラカーという名の」とは、女性名詞形によるウッタラカーという名の、トゥールー地方の或る町であり、その町を行乞の村として、という意味である。「無着者」とは裸形のことである。「拘羅刹帝利」とは、膝が内側に曲がった王族出身者である。「犬の誓戒者」とは、犬の行を誓受し、犬のように嗅いで食べ、かまどの間に横たわり、その他のことも犬の振る舞いばかりを行う者のことである。「四つん這いになって」とは、両膝と両肘の四つを地面につけて歩き回る者のことである。「地面に投げ出されたものを」とは、地面にばら撒かれ、置かれたものを。「食物を」とは、硬食であれ軟食であれ、いかなる食物をも。「口だけで」とは、手で触れることなく口だけで硬食を噛み、軟食も口だけで食べるということである。「見事な姿の」とは、美しい姿の。「この沙門こそは」とは、この者こそ阿羅漢である沙門の一人である、ということである。そこでの「実に」とは、願望の意味の不変化詞である。伝え聞くところによると、彼にはこのような願望があった。「この沙門に匹敵する他の沙門はいない。実にこの人は欲が少ないために衣服を身につけず、『これは煩わしい』と考えて托鉢の鉢さえ持たず、地面に投げ出されたものだけを食べる。この人こそ沙門と呼ばれるにふさわしい。それに引き換え、我々はどうして沙門と言えようか」と。このように全知の仏陀の後ろを歩きながら、彼はこのような邪悪な思いを巡らせていた。
Etadavocāti bhagavā kira cintesi ‘‘ayaṃ sunakkhatto pāpajjhāsayo, kiṃ nu imaṃ disvā cintesī’’ti? Athevaṃ cintento tassa ajjhāsayaṃ viditvā ‘‘ayaṃ moghapuriso mādisassa sabbaññuno pacchato āgacchanto acelaṃ arahāti maññati, idheva dānāyaṃ bālo niggahaṃ arahatī’’ti anivattitvāva etaṃ tvampi nāmātiādivacanamavoca. Tattha tvampi nāmāti garahatthe pikāro. Garahanto hi naṃ bhagavā ‘‘tvampi nāmā’’ti āha. ‘‘Tvampi nāma evaṃ hīnajjhāsayo, ahaṃ samaṇo sakyaputtiyoti evaṃ paṭijānissasī’’ti ayañhettha adhippāyo. Kiṃ pana maṃ, bhanteti mayhaṃ, bhante, kiṃ gārayhaṃ disvā bhagavā ‘‘evamāhā’’ti pucchati. Athassa bhagavā ācikkhanto ‘‘nanu te’’tiādimāha. Maccharāyatīti ‘‘mā aññassa arahattaṃ hotū’’ti kiṃ bhagavā evaṃ arahattassa maccharāyatīti pucchati. Na kho ahanti ahaṃ, moghapurisa, sadevakassa lokassa arahattappaṭilābhameva paccāsīsāmi, etadatthameva me bahūni dukkarāni karontena pāramiyo pūritā, na kho ahaṃ, moghapurisa, arahattassa maccharāyāmi. Pāpakaṃ diṭṭhigatanti na arahantaṃ arahāti, arahante ca anarahantoti evaṃ tassa diṭṭhi uppannā. Taṃ sandhāya ‘‘pāpakaṃ diṭṭhigata’’nti āha. Yaṃ kho panāti yaṃ etaṃ acelaṃ evaṃ maññasi. Sattamaṃ divasanti sattame divase. Alasakenāti alasakabyādhinā. Kālaṅkarissatīti uddhumātaudaro marissati.
「このように言った」とは、世尊はこのように思われた。「このスナッカッタは邪悪な志向を持っているが、これを見て何を考えたのだろうか」と。そのように考えながら彼の意図を知り、「この空虚な男は、私のような全知者の後ろについて来ながら、裸形者を阿羅漢であると思っている。今ここでこの愚者を打ち懲らすべきである」と、立ち止まることなく、「お前のような者でさえ」等の言葉を述べられた。そこでの「お前のような者でさえ」の「〜さえ」は非難の意味である。実に世尊は彼を非難して「お前のような者でさえ」と仰せられたのである。「お前のような劣った志向を持つ者でさえ、『私は釈迦の御子の沙門である』と公言するのか」というのがここでの意図である。「尊者よ、私に何が」とは、尊者よ、世尊は私のいかなる非難すべき点をご覧になって「このように仰せられたのか」と尋ねているのである。そこで世尊は彼に説明して「あなたには〜ではないか」等を仰せられた。「惜しむのか」とは、「他人に阿羅漢の境地を得させてはならない」と、世尊は阿羅漢の境地を惜しんでおられるのか、と尋ねている。「私は決してそうではない」とは、空虚な人よ、私は神々を含む世界のすべてが阿羅漢の境地を得ることこそを待ち望んでいるのであり、このことのために私は多くの苦難を行いながら波羅蜜を満たしたのである。空虚な人よ、私は阿羅漢の境地を惜しむことなどない。「悪しき見解」とは、阿羅漢でない者を阿羅漢と思い、阿羅漢である者を阿羅漢でないと思う、このように彼に生じた見解のことである。それを指して「悪しき見解」と仰せられたのである。「さらに〜について」とは、あなたがそのように思っているその裸形者についてのことである。「七日目に」とは、七日目に。「消化不良によって」とは、消化不良の病気によって。「命を終えるであろう」とは、腹が膨れ上がって死ぬであろう、ということである。
Kālakañcikāti tesaṃ asurānaṃ nāmaṃ. Tesaṃ kira tigāvuto attabhāvo appamaṃsalohito purāṇapaṇṇasadiso kakkaṭakānaṃ viya akkhīni nikkhamitvā matthake tiṭṭhanti, mukhaṃ sūcipāsakasadisaṃ matthakasmiṃyeva hoti, tena oṇamitvā gocaraṃ gaṇhanti. Bīraṇatthambaketi bīraṇatiṇatthambo tasmiṃ susāne atthi, tasmā taṃ bīraṇatthambakanti vuccati.
「黒迦稚迦」とは、それらの阿修羅の名である。彼らは三ガヴータの身体を持ち、肉と血が極めて少なく、枯れ葉のようであり、蟹のように目が飛び出して頭の上にあり、口は針の穴のようであって頭の上にあり、それによって身をかがめて食物を摂るという。「毘羅那の草株において」とは、その墓地に毘羅那の草株があることから、「毘羅那の草株」と呼ばれる。
Tenupasaṅkamīti bhagavati ettakaṃ vatvā tasmiṃ gāme piṇḍāya caritvā vihāraṃ gate vihārā nikkhamitvā upasaṅkami. Yena tvanti yena kāraṇena tvaṃ. Yasmāpi bhagavatā byākato, tasmāti attho. Mattaṃ mattanti pamāṇayuttaṃ pamāṇayuttaṃ. ‘‘Mantā mantā’’tipi pāṭho, paññāya upaparikkhitvā upaparikkhitvāti attho. Yathā samaṇassa gotamassāti yathā samaṇassa gotamassa micchā vacanaṃ assa, tathā kareyyāsīti āha. Evaṃ vutte acelo sunakho viya uddhanaṭṭhāne nipanno sīsaṃ ukkhipitvā akkhīni ummīletvā olokento kiṃ kathesi ‘‘samaṇo nāma gotamo amhākaṃ verī visabhāgo, samaṇassa gotamassa uppannakālato paṭṭhāya mayaṃ sūriye uggate khajjopanakā viya jātā. Samaṇo gotamo amhe, evaṃ vācaṃ vadeyya aññathā vā. Verino pana kathā nāma tacchā na hoti, gaccha tvaṃ ahamettha kattabbaṃ jānissāmī’’ti vatvā punadeva nipajji.
「そこへ近づいた」とは、世尊がこれだけのことを語り、その村で行乞をして精舎へ戻られた後、精舎を出て彼のもとへ近づいたということである。「あなたが〜のために」とは、あなたが〜という理由のために、世尊によって予言されたが故に、という意味である。「適量を」とは、分量を適切に、ということである。「慎重に」という読みもあり、智慧をもってよく観察して、という意味である。「沙門ゴータマの〔言葉が偽りとなるように〕」とは、沙門ゴータマの言葉が誤りとなるように、そのようにしなさいと語ったのである。このように言われた裸形者は、犬のようにかまどの場所に横たわり、首を持ち上げて目を開けて見やりながら、「沙門ゴータマは我らの敵であり反対者である。沙門ゴータマが出現して以来、我らは太陽が昇ったときの蛍のようになってしまった。沙門ゴータマが我々についてこのように語ろうと別のように語ろうと、敵の言葉が真実であるはずがない。お前は立ち去れ、私はここでなすべきことを弁えている」と言って、再び横たわった。
8. Ekadvīhikāyāti ekaṃ dveti vatvā gaṇesi. Yathā tanti yathā asaddahamāno koci gaṇeyya, evaṃ gaṇesi. Ekadivasañca tikkhattuṃ upasaṅkamitvā eko divaso atīto, dve divasā atītāti ārocesi. Sattamaṃ divasanti so kira sunakkhattassa vacanaṃ sutvā sattāhaṃ nirāhārova ahosi. Athassa sattame divase eko upaṭṭhāko ‘‘amhākaṃ kulūpakasamaṇassa ajja sattamo divaso gehaṃ anāgacchantassa aphāsu nu kho jāta’’nti sūkaramaṃsaṃ pacāpetvā bhattamādāya gantvā purato bhūmiyaṃ nikkhipi. Acelo disvā cintesi ‘‘samaṇassa gotamassa kathā tacchā vā atacchā vā hotu, āhāraṃ pana khāditvā suhitassa me maraṇampi sumaraṇa’’nti dve hatthe jaṇṇukāni ca bhūmiyaṃ ṭhapetvā kucchipūraṃ bhuñji. So rattibhāge jīrāpetuṃ asakkonto alasakena kālamakāsi. Sacepi hi so ‘‘na bhuñjeyya’’nti cinteyya, tathāpi taṃ divasaṃ bhuñjitvā alasakena kālaṃ kareyya. Advejjhavacanā hi tathāgatāti.
八、「一つ、二つと」とは、「一日、二日」と言って数えたことである。「そのように」とは、信じていない者が数えるように、そのように数えた。そして一日に三度近づいては、「一日が過ぎた、二日が過ぎた」と告げた。「七日目に」とは、伝え聞くところによると、彼はスナッカッタの言葉を聞いて七日間絶食していた。そこで七日目に、ある給仕者が「我らの親しい沙門が、今日で七日間も家に来られないが、何か不都合でも生じたのだろうか」と豚肉を調理させ、飯を持って行って彼の前の地面に置いた。裸形者はこれを見て、「沙門ゴータマの言葉が真実であろうと不実であろうと知ったことか。食物を食べて満腹になって死ぬのなら、それも良き死である」と考え、両手と両膝を地面について腹一杯に食べた。彼は夜半にそれを消化することができず、消化不良によって命を終えた。仮に彼が「食べるまい」と考えたとしても、やはりその日に食べて消化不良で命を終えたであろう。実に如来の言葉は二重(嘘)にならないからである。
Bīraṇatthambaketi titthiyā kira ‘‘kālaṅkato korakkhattiyo’’ti sutvā divasāni gaṇetvā idaṃ tāva saccaṃ jātaṃ, idāni naṃ aññattha chaḍḍetvā ‘‘musāvādena samaṇaṃ gotamaṃ niggaṇhissāmā’’ti gantvā tassa sarīraṃ valliyā bandhitvā ākaḍḍhantā ‘‘ettha chaḍḍessāma, ettha chaḍḍessāmā’’ti gacchanti. Gatagataṭṭhānaṃ aṅgaṇameva hoti. Te kaḍḍhamānā bīraṇatthambakasusānaṃyeva gantvā susānabhāvaṃ ñatvā ‘‘aññattha chaḍḍessāmā’’ti ākaḍḍhiṃsu. Atha nesaṃ valli chijjittha, pacchā cāletuṃ nāsakkhiṃsu. Te tatova pakkantā. Tena vuttaṃ – ‘‘bīraṇatthambake susāne chaḍḍesu’’nti.
「毘羅那の草株において」とは、外道たちは「拘羅刹帝利が死んだ」と聞いて日数を数え、「これはひとまず本当になってしまった。今こそ彼を別の場所に捨てて、『沙門ゴータマは嘘をついた』と論破してやろう」と行き、彼の遺体を蔓で縛って引きずりながら、「ここに捨てよう、ここに捨てよう」と進んだ。しかし彼らが行く所行く所、ことごとく平坦な広場となってしまった。彼らは引きずりながら毘羅那の草株のある墓地へと行き着いて、そこが墓地であると知り、「別の場所に捨てよう」と引っ張った。その時、彼らの蔓が切れ、その後は動かすことができなくなった。彼らはそこから立ち去った。それ故に「毘羅那の草株の墓地に捨てた」と言われたのである。
9. Tenupasaṅkamīti kasmā upasaṅkami? So kira cintesi ‘‘avasesaṃ tāva samaṇassa gotamassa vacanaṃ sameti, matassa pana uṭṭhāya aññena saddhiṃ kathanaṃ nāma natthi, handāhaṃ gantvā pucchāmi. Sace katheti, sundaraṃ. No ce katheti, samaṇaṃ gotamaṃ musāvādena niggaṇhissāmī’’ti iminā kāraṇena upasaṅkami. Ākoṭesīti pahari. Jānāmi āvusoti matasarīraṃ uṭṭhahitvā kathetuṃ samatthaṃ nāma natthi, idaṃ kathaṃ kathesīti? Buddhānubhāvena. Bhagavā kira korakkhattiyaṃ asurayonito ānetvā sarīre adhimocetvā kathāpesi. Tameva vā sarīraṃ kathāpesi, acinteyyo hi buddhavisayo.
九、「そこへ近づいた」とは、なぜ近づいたのか。彼は「沙門ゴータマの残りの言葉は一致したが、死者が起き上がって他人と話すことなどあり得ない。よし、私が行って尋ねてみよう。もし語るならば素晴らしいことだ。もし語らないならば、沙門ゴータマを虚妄の罪で論破してやろう」と考え、この理由によって近づいたのである。「叩いた」とは、打ったということである。「知っている、友よ」とは、死体が起き上がって語ることなどできるはずがないのに、いかにしてこれを語ったのか。仏陀の威力によるのである。世尊が拘羅刹帝利を阿修羅の境涯から連れて来て、遺体に憑依させて語らせたのである。あるいはその遺体そのものに語らせたのであり、実に仏陀の領域は不可思議である。
10. Tatheva taṃ vipākanti tassa vacanassa vipākaṃ tatheva, udāhu noti liṅgavipallāso kato, tatheva so vipākoti attho. Keci pana ‘‘vipakka’’ntipi paṭhanti, nibbattanti attho.
十、「その通りにその果報を」とは、その言葉の報いがその通りになったのか、あるいはそうではないのかと、性別の転倒(文法的な変化)がなされているが、「その通りにその報いがあった」という意味である。一部の人々は「成熟した」とも読み、生じたという意味である。
Ettha ṭhatvā pāṭihāriyāni samānetabbāni. Sabbāneva hetāni pañca pāṭihāriyāni honti. ‘‘Sattame divase marissatī’’ti vuttaṃ, so tatheva mato, idaṃ paṭhamaṃ pāṭihāriyaṃ. ‘‘Alasakenā’’ti vuttaṃ, alasakeneva mato, idaṃ dutiyaṃ. ‘‘Kālakañcikesu nibbattissatī’’ti vuttaṃ, tattheva nibbatto, idaṃ tatiyaṃ. ‘‘Bīraṇatthambake susāne chaḍḍessantī’’ti vuttaṃ, tattheva chaḍḍito, idaṃ catutthaṃ. ‘‘Nibbattaṭṭhānato āgantvā sunakkhattena saddhiṃ kathessatī’’ti vutto, so kathesiyeva, idaṃ pañcamaṃ pāṭihāriyaṃ.
ここで立ち止まり、奇跡の数々を集約すべきである。これらはすべて合わせて五つの奇跡となる。「七日目に死ぬであろう」と言われ、彼がその通りに死んだこと、これが第一の奇跡である。「消化不良によって」と言われ、消化不良によって死んだこと、これが第二である。「黒迦稚迦の阿修羅に生まれるであろう」と言われ、まさにそこに生まれたこと、これが第三である。「毘羅那の草株の墓地に捨てられるであろう」と言われ、まさにそこに捨てられたこと、これが第四である。「生まれた場所から戻って来てスナッカッタと語るであろう」と言われ、彼が語ったこと、これが第五の奇跡である。
Acelakaḷāramaṭṭakavatthuvaṇṇanā
裸形迦羅羅摩吒迦事注釈
11. Kaḷāramaṭṭakoti nikkhantadantamattako. Nāmameva vā tassetaṃ. Lābhaggappattoti lābhaggaṃ patto, aggalābhaṃ pattoti vuttaṃ hoti. Yasaggappattoti yasaggaṃ aggaparivāraṃ patto. Vatapadānīti vatāniyeva, vatakoṭṭhāsā vā. Samattānīti gahitāni. Samādinnānīti tasseva vevacanaṃ. Puratthimena vesālinti vesālito avidūre puratthimāya disāya. Cetiyanti yakkhacetiyaṭṭhānaṃ. Esa nayo sabbattha.
十一、「迦羅羅摩吒迦」とは、突き出た歯だけを持つ者のことである。あるいはそれが彼の固有名詞である。「最高の利養を得た」とは、利養の頂点に達した、最大の利養を得たということである。「最高の名声を得た」とは、名声の頂点、最高の従者を従えたということである。「誓戒の条項を」とは、誓戒そのもの、あるいは誓戒の箇条のことである。「完全に」とは、受け入れたということである。「誓受した」とは、それと同義語である。「ヴェーサーリーの東方に」とは、ヴェーサーリーから遠くない東の方角に。「霊廟」とは、夜叉の霊廟の場所である。このやり方はすべての箇所において同様である。
12. Yena acelakoti bhagavato vattaṃ katvā yena acelo kaḷāramaṭṭako tenupasaṅkami. Pañhaṃ apucchīti gambhīraṃ tilakkhaṇāhataṃ pañhaṃ pucchi. Na sampāyāsīti na sammā ñāṇagatiyā pāyāsi, andho viya visamaṭṭhāne tattha tattheva pakkhali. Neva ādiṃ, na pariyosānamaddasa. Atha vā ‘‘na sampāyāsī’’ti na sampādesi, sampādetvā kathetuṃ nāsakkhi. Asampāyantoti kabarakkhīni parivattetvā olokento ‘‘asikkhitakassa santike vuṭṭhosi, anokāsepi pabbajito pañhaṃ pucchanto vicarasi, apehi mā etasmiṃ ṭhāne aṭṭhāsī’’ti vadanto. Kopañca dosañca appaccayañca pātvākāsīti kuppanākāraṃ kopaṃ, dussanākāraṃ dosaṃ, atuṭṭhākārabhūtaṃ domanassasaṅkhātaṃ appaccayañca pākaṭamakāsi. Āsādimhaseti āsādiyimha ghaṭṭayimha. Mā vata no ahosīti aho vata me na bhaveyya. Maṃ vata no ahosītipi pāṭho. Tattha manti sāmivacanatthe upayogavacanaṃ, ahosi vata nu mamāti attho. Evañca pana cintetvā ukkuṭikaṃ nisīditvā ‘‘khamatha me, bhante’’ti taṃ khamāpesi. Sopi ito paṭṭhāya aññaṃ kiñci pañhaṃ nāma na pucchissasīti. Āma na pucchissāmīti. Yadi evaṃ gaccha, khamāmi teti taṃ uyyojesi.
十二、「裸形者のいる所へ」とは、世尊への務めを果たした後、裸形の迦羅羅摩吒迦がいる所へと近づいたことである。「質問を尋ねた」とは、三相(無常・苦・無我)に触れる深遠な質問を尋ねた。「答えられなかった」とは、正しく智慧の働きによって進むことができず、盲人が険しい場所でここかしこにつまずくように、最初も最後も見出すことができなかった。あるいは「答えられなかった」とは、整えることができず、整えて語ることができなかった。「答えられずに」とは、斑点のある目をぐるぐる回して見回しながら、「未熟な者のもとで育ったお前は、見当違いの場所でも出家者として質問を尋ねて歩き回っている。立ち去れ、この場所に立つな」と言い放ちながら。「怒りと怨恨と不快感を露わにした」とは、怒りの態様である忿怒、害意の態様である怨恨、不満の態様である憂いと呼ばれる不快感をあらわにしたということである。「我らは触れてしまった」とは、我らは犯してしまった、刺激してしまったということである。「決して私に生じないように」とは、ああ、どうか私に生じないように、ということである。「私に決して」という読みもある。そこでの「私を」とは所有格の意味における対格の語であり、「実に私にあったのか」という意味である。このように考えて、しゃがみ込んで「尊者よ、私をお許しください」と彼に許しを請うた。彼も「今後は他のいかなる質問も尋ねないか」と言い、「はい、尋ねません」と答えた。「そうであるなら行け、私はお前を許す」と彼を送り出した。
14. Parihitoti paridahito nivatthavattho. Sānucārikoti anucārikā vuccati bhariyā, saha anucārikāya sānucāriko, taṃ taṃ brahmacariyaṃ pahāya sabhariyoti attho. Odanakummāsanti surāmaṃsato atirekaṃ odanampi kummāsampi bhuñjamāno. Yasā nihīnoti yaṃ lābhaggayasaggaṃ patto, tato parihīno hutvā. ‘‘Kataṃ hoti uttarimanussadhammā iddhipāṭihāriya’’nti idha sattavatapadātikkamavasena satta pāṭihāriyāni veditabbāni.
十四、「衣服を着て」とは、衣服を身にまとい、着帯して。「妻を伴い」とは、従う女とは妻のことであり、従う女を伴って妻を連れ、その清浄行を捨てて妻帯して、という意味である。「米飯と麦粉を」とは、酒と肉のほかに、米飯や麦粉をも食べながら。「名声を失い」とは、かつて得ていた最高の利養と名声から凋落して、ということである。「人法を超えた神通の奇跡がなされた」とは、ここでは七つの誓戒の条項を破ったことによる七つの奇跡として理解されるべきである。
Acelapāthikaputtavatthuvaṇṇanā
裸形波梨迦の子事注釈
15. Pāthikaputtoti pāthikassa putto. Ñāṇavādenāti ñāṇavādena saddhiṃ. Upaḍḍhapathanti yojanaṃ ce, no antare bhaveyya, gotamo aḍḍhayojanaṃ, ahaṃ aḍḍhayojanaṃ. Esa nayo aḍḍhayojanādīsu. Ekapadavārampi atikkamma gacchato jayo bhavissati, anāgacchato parājayoti. Te tatthāti te mayaṃ tattha samāgataṭṭhāne. Taddiguṇaṃ taddiguṇāhanti tato tato diguṇaṃ diguṇaṃ ahaṃ karissāmi, bhagavatā saddhiṃ pāṭihāriyaṃ kātuṃ asamatthabhāvaṃ jānantopi ‘‘uttamapurisena saddhiṃ paṭṭhapetvā asakkuṇantassāpi pāsaṃso hotī’’ti ñatvā evamāha. Nagaravāsinopi taṃ sutvā ‘‘asamattho nāma evaṃ na gajjati, addhā ayampi arahā bhavissatī’’ti tassa mahantaṃ sakkāramakaṃsu.
十五、「波梨迦の子」とは、波梨迦の息子のことである。「知見の説をもって」とは、知見の主張をもって、ということである。「半分の道のりを」とは、もし我らの間が一ヨージャナであるなら、ゴータマが半ヨージャナ、私が半ヨージャナ進む。半ヨージャナ等の場合もこれに準じる。一歩でも多く進む者に勝利があり、来ない者には敗北がある、と。「そこで彼らは」とは、我らはそこで出会う場所において。「その倍を、その倍を私は」とは、そこから二倍、二倍のことを私は行おう、ということである。世尊とともに奇跡を行うことができないことを知りながらも、「優れた人物を相手に競い合えば、及ばなくても称賛される」と知ってこのように語ったのである。都の人々もこれを聞いて、「力のない者がこのように豪語するはずがない。きっとこの人も阿羅漢に違いない」と、彼に莫大な供養をなした。
16. Yenāhaṃ tenupasaṅkamīti ‘‘sunakkhatto kira pāthikaputto evaṃ vadatī’’ti assosi. Athassa hīnajjhāsayattā hīnadassanāya cittaṃ udapādi.
十六、「私がいる所へ近づいた」とは、スナッカッタが「波梨迦の子がこのように言っている」と聞いた。そこで彼は劣った志向を持っていたため、劣った者を見たいという心が起こった。
So bhagavato vattaṃ katvā bhagavati gandhakuṭiṃ paviṭṭhe pāthikaputtassa santikaṃ gantvā pucchi ‘‘tumhe kira evarūpiṃ kathaṃ kathethā’’ti? ‘‘Āma, kathemā’’ti. Yadi evaṃ ‘‘mā bhāyittha vissatthā punappunaṃ evaṃ vadatha, ahaṃ samaṇassa gotamassa upaṭṭhāko, tassa visayaṃ vijānāmi, tumhehi saddhiṃ pāṭihāriyaṃ kātuṃ na sakkhissati, ahaṃ samaṇassa gotamassa kathetvā bhayaṃ uppādetvā taṃ aññato gahetvā gamissāmi, tumhe mā bhāyitthā’’ti taṃ assāsetvā bhagavato santikaṃ gato. Tena vuttaṃ ‘‘yenāhaṃ tenupasaṅkamī’’ti. Taṃ vācantiādīsu ‘‘ahaṃ abuddhova samāno buddhomhīti vicariṃ, abhūtaṃ me kathitaṃ nāhaṃ buddho’’ti vadanto taṃ vācaṃ pajahati nāma. Raho nisīditvā cintayamāno ‘‘ahaṃ ‘ettakaṃ kālaṃ abuddhova samāno buddhomhī’ti vicariṃ, ito dāni paṭṭhāya nāhaṃ buddho’’ti cintayanto taṃ cittaṃ pajahati nāma. ‘‘Ahaṃ ‘ettakaṃ kālaṃ abuddhova samāno buddhomhī’ti pāpakaṃ diṭṭhiṃ gahetvā vicariṃ, ito dāni paṭṭhāya imaṃ diṭṭhiṃ pajahāmī’’ti pajahanto taṃ diṭṭhiṃ paṭinissajjati nāma. Evaṃ akaronto pana taṃ vācaṃ appahāya taṃ cittaṃ appahāya taṃ diṭṭhiṃ appaṭinissajjitvāti vuccati. Vipateyyāti bandhanā muttatālapakkaṃ viya gīvato pateyya, sattadhā vā pana phaleyya.
彼は世尊への務めを果たし、世尊が香室に入られた後、波梨迦の子のもとへ行って「あなた方は本当にこのような言葉を語っているのか」と尋ねた。「そうだ、語っている」と。そうであるなら「恐れることなく、確信を持って何度もこのように語りなさい。私は沙門ゴータマの給仕者であり、彼の能力を知っている。彼はあなた方と共に奇跡を行うことはできないだろう。私は沙門ゴータマに告げて恐怖を起こさせ、彼を別の場所へ連れて行こう。あなた方は恐れるな」と彼を安心させてから世尊のもとへ行った。それ故に「私がいる所へ近づいた」と言われたのである。「その言葉を」等において、「私は仏陀でないのに仏陀であるとして振る舞った。私が語ったことは事実ではなく、私は仏陀ではない」と語ることによって、その言葉を捨てるという。一人静かに座って思索し、「私はこれほどの期間、仏陀でないのに仏陀であると思って振る舞ってきたが、今後はもう仏陀ではない」と考えることによって、その心を捨てるという。「私はこれほどの期間、仏陀でないのに仏陀であるという悪しき見解を抱いて振る舞ってきたが、今後はこの見解を捨てる」と捨てることによって、その見解を放棄するという。このようにしないことを、「その言葉を捨てず、その心を捨てず、その見解を放棄することなく」と言うのである。「落ちるであろう」とは、ヘタから外れたヤシの実のように首から落ちるか、あるいは頭が七つに裂けるであろう、ということである。
17. Rakkhatetanti rakkhatu etaṃ. Ekaṃsenāti nippariyāyena. Odhāritāti bhāsitā. Acelo ca, bhante, pāthikaputtoti evaṃ ekaṃsena bhagavato vācāya odhāritāya sace acelo pāthikaputto. Virūparūpenāti vigatarūpena vigacchitasabhāvena rūpena attano rūpaṃ pahāya adissamānena kāyena. Sīhabyagghādivasena vā vividharūpena sammukhībhāvaṃ āgaccheyya. Tadassa bhagavato musāti evaṃ sante bhagavato taṃ vacanaṃ musā bhaveyyāti musāvādena niggaṇhāti. Ṭhapetvā kira etaṃ na aññena bhagavā musāvādena niggahitapubboti.
十七、「これを守れ」とは、これを守るように、ということである。「断定的に」とは、無条件に。「述べられた」とは、語られた。「尊者よ、裸形の波梨迦の子は」とは、このように断定的に世尊の言葉が述べられたのに、もし裸形の波梨迦の子が。「異なった姿で」とは、元の姿を失い、自らの本性を変えた姿で、自らの姿を捨てて見えない身体で、あるいは獅子や虎などの様々な姿となって現前にやって来たらどうなるのか。「その時、世尊のその言葉は虚偽となる」とは、そうなれば世尊のその言葉は嘘になるではないか、と虚言の罪で論難している。伝え聞くところによると、これを除いて世尊が他者から虚言の罪で論難されたことはかつてないという。
18. Dvayagāminīti sarūpena atthibhāvaṃ, atthena natthibhāvanti evaṃ dvayagāminī. Alikatucchanipphalavācāya etaṃ adhivacanaṃ.
十八、「二通りに通じる」とは、言葉の上では有るようでありながら、意味の上では無いという、このように二通りに通じることである。これは虚妄で空虚で無益な言葉の同義語である。
19. Ajitopi nāma licchavīnaṃ senāpatīti so kira bhagavato upaṭṭhāko ahosi, so kālamakāsi. Athassa sarīrakiccaṃ katvā manussā pāthikaputtaṃ pucchiṃsu ‘‘kuhiṃ nibbatto senāpatī’’ti? So āha – ‘‘mahāniraye nibbatto’’ti. Idañca pana vatvā puna āha ‘‘tumhākaṃ senāpati mama santikaṃ āgamma ahaṃ tumhākaṃ vacanamakatvā samaṇassa gotamassa vādaṃ patiṭṭhapetvā niraye nibbattomhī’’ti paroditthāti. Tenupasaṅkami divāvihārāyāti ettha ‘‘pāṭihāriyakaraṇatthāyā’’ti kasmā na vadati? Abhāvā. Sammukhībhāvopi hissa tena saddhiṃ natthi, kuto pāṭihāriyakaraṇaṃ, tasmā tathā avatvā ‘‘divāvihārāyā’’ti āha.
十九、「リッチャヴィの将軍アジタ」とは、伝え聞くところによると、彼は世尊の信奉者であったが、命を終えた。そこで彼のために葬儀を行った後、人々は波梨迦の子に「将軍はどこに転生したのか」と尋ねた。彼は「大地獄に転生した」と言った。さらにこう言って、再び言った。「あなた方の将軍は私のところへやって来て、『私はあなた方の言葉に従わず、沙門ゴータマの教説を奉じたために地獄に転生してしまった』と泣き叫びました」と。「昼の休息のために近づいた」とは、ここではなぜ「奇跡を行うために」と言わないのか。それが存在しないからである。実に彼と対面することさえなかったのに、どうして奇跡を行うことがあろうか。それ故にそう言わずに「昼の休息のために」と言ったのである。
Iddhipāṭihāriyakathāvaṇṇanā
神通の奇跡の説示の注釈
20. Gahapatinecayikāti gahapati mahāsālā. Tesañhi mahādhanadhaññanicayo, tasmā ‘‘necayikā’’ti vuccanti. Anekasahassāti sahassehipi aparimāṇagaṇanā. Evaṃ mahatiṃ kira parisaṃ ṭhapetvā sunakkhattaṃ añño sannipātetuṃ samattho natthi. Teneva bhagavā ettakaṃ kālaṃ sunakkhattaṃ gahetvā vicari.
二十、「富裕な資産家たち」とは、長者たち、大富豪たちである。彼らには莫大な財産と穀物の蓄えがあるため、「蓄積者」と呼ばれる。「数千の」とは、千によっても数え切れないほどの数である。伝え聞くところによると、スナッカッタを除いて、これほどの大衆を集めることができる者はいなかった。それ故に世尊はこれほどの期間、スナッカッタを連れて歩まれたのである。
21. Bhayanti cittutrāsabhayaṃ. Chambhitattanti sakalasarīracalanaṃ. Lomahaṃsoti lomānaṃ uddhaggabhāvo. So kira cintesi – ‘‘ahaṃ atimahantaṃ kathaṃ kathetvā sadevake loke aggapuggalena saddhiṃ paṭiviruddho, mayhaṃ kho panabbhantare arahattaṃ vā pāṭihāriyakaraṇahetu vā natthi, samaṇo pana gotamo pāṭihāriyaṃ karissati, athassa pāṭihāriyaṃ disvā mahājano ‘tvaṃ dāni pāṭihāriyaṃ kātuṃ asakkonto kasmā attano pamāṇamajānitvā loke aggapuggalena saddhiṃ paṭimallo hutvā gajjasī’ti kaṭṭhaleḍḍudaṇḍādīhi viheṭhessatī’’ti. Tenassa mahājanasannipātañceva tena bhagavato ca āgamanaṃ sutvā bhayaṃ vā chambhitattaṃ vā lomahaṃso vā udapādi. So tato dukkhā muccitukāmo tindukakhāṇukaparibbājakārāmaṃ agamāsi. Tamatthaṃ dassetuṃ atha kho bhagavātiādimāha. Tattha upasaṅkamīti na kevalaṃ upasaṅkami, upasaṅkamitvā pana dūraṃ aḍḍhayojanantaraṃ paribbājakārāmaṃ paviṭṭho. Tatthapi cittassādaṃ alabhamāno antantena āvijjhitvā ārāmapaccante ekaṃ gahanaṭṭhānaṃ upadhāretvā pāsāṇaphalake nisīdi. Atha bhagavā cintesi – ‘‘sace ayaṃ bālo kassacideva kathaṃ gahetvā idhāgaccheyya, mā nassatu bālo’’ti ‘‘nisinnapāsāṇaphalakaṃ tassa sarīre allīnaṃ hotū’’ti adhiṭṭhāsi. Saha adhiṭṭhānacittena taṃ tassa sarīre allīyi. So mahāaddubandhanabaddho viya chinnapādo viya ca ahosi.
二十一、「恐怖」とは、心の驚愕による恐れである。「戦慄」とは、全身の震えである。「身の毛のよだち」とは、毛が逆立つことである。伝え聞くところによると、彼はこう考えた。「私は途方もなく大きな大風呂敷を広げて、神々を含む世界で最も優れた方に対抗してしまった。しかし私自身の内部には阿羅漢の境地も奇跡を起こす力もない。一方、沙門ゴータマは奇跡を行うだろう。そして人々は彼の奇跡を見て、『お前は今、奇跡を行うこともできないのに、なぜ自分の分をわきまえず、世の至高の方を相手に対戦者となって吠えたのか』と、木切れや土塊や杖などで危害を加えるだろう」と。そのために彼は、大衆の集結と世尊の来訪を聞いて、恐怖や戦慄や身の毛のよだちが生じたのである。彼はその苦しみから逃れたいと願い、ティンドゥカ樹の切り株のある遊行者園へと逃げ込んだ。その意味を示すために「そこで世尊は」等と言われた。そこでの「近づいた」とは、単に近づいただけでなく、近づいてから半ヨージャナも離れた遠くの遊行者園に入り込んだことである。そこでも心の安らぎを得られず、あちこちを巡って園の端にある深い茂みを見つけ、石の平たい板の上に座った。その時、世尊はこう思われた。「もしこの愚者が誰かの言葉に乗せられてここへ来ることがあれば、愚者が破滅してはならない」と、「座っている石板が彼の身体に張り付くように」と決意された。決意の心とともに、それは彼の身体に張り付いた。彼は太い鎖で縛られた者のようになり、両足を切り落とされた者のようになった。
Assosīti ito cito ca pāthikaputtaṃ pariyesamānā parisā tassa anupadaṃ gantvā nisinnaṭṭhānaṃ ñatvā āgatena aññatarena purisena ‘‘tumhe kaṃ pariyesathā’’ti vutte pāthikaputtanti. So ‘‘tindukakhāṇukaparibbājakārāme nisinno’’ti vuttavacanena assosi.
「聞いた」とは、あちこちで波梨迦の子を捜し求めていた群衆が、彼の足跡を追って座っている場所を知り、やって来た或る男に「あなた方は誰を捜しているのか」と尋ねられて「波梨迦の子を」と答えた。その男が「ティンドゥカの切り株のある遊行者園に座っている」と言った言葉によって聞いたのである。
22. Saṃsappatīti osīdati. Tattheva sañcarati. Pāvaḷā vuccati ānisadaṭṭhikā.
二十二、「身もだえする」とは、沈み込むことである。その場で身動きする。尻の骨のことを「座骨」という。
23. Parābhūtarūpoti parājitarūpo, vinaṭṭharūpo vā.
二十三、「打ち負かされた姿の」とは、敗北した姿の、あるいは破滅した姿の、ということである。
25. Goyugehīti goyuttehi satamattehi vā sahassamattehi vā yugehi. Āviñcheyyāmāti ākaḍḍheyyāma. Chijjeyyunti chindeyyuṃ. Pāthikaputto vā bandhaṭṭhāne chijjeyya.
二十五、「牛の軛によって」とは、牛を繋いだ百組、あるいは千組ほどの軛によって。「引き抜こうとしても」とは、引っ張ろうとしても、ということである。「切れるであろう」とは、断ち切れるであろう。あるいは波梨迦の子が縛られている場所でちぎれるであろう。
26. Dārupattikantevāsīti dārupattikassa antevāsī. Tassa kira etadahosi ‘‘tiṭṭhatu tāva pāṭihāriyaṃ, samaṇo gotamo ‘acelo pāthikaputto āsanāpi na vuṭṭhahissatī’ti āha. Handāhaṃ gantvā yena kenaci upāyena taṃ āsanā vuṭṭhāpemi. Ettāvatā ca samaṇassa gotamassa parājayo bhavissatī’’ti. Tasmā evamāha.
二十六、「木鉢の弟子」とは、木鉢という行者の弟子のことである。彼にはこのような思いがあった。「奇跡のことはひとまず置くとして、沙門ゴータマは『裸形の波梨迦の子は座から立ち上がることさえできないだろう』と言った。よし、私が行って何らかの手段で彼を座から立ち上がらせてやろう。そうすればそれだけで沙門ゴータマの敗北となるだろう」と。それ故にこのように言ったのである。
27. Sīhassāti cattāro sīhā tiṇasīho ca kāḷasīho ca paṇḍusīho ca kesarasīho ca. Tesaṃ catunnaṃ sīhānaṃ kesarasīho aggataṃ gato, so idhādhippeto. Migaraññoti sabbacatuppadānaṃ rañño. Āsayanti nivāsaṃ. Sīhanādanti abhītanādaṃ. Gocarāya pakkameyyanti āhāratthāya pakkameyyaṃ. Varaṃ varanti uttamuttamaṃ, thūlaṃ thūlanti attho. Mudumaṃsānīti mudūni maṃsāni. ‘‘Madhumaṃsānī’’tipi pāṭho, madhuramaṃsānīti attho. Ajjhupeyyanti upagaccheyyaṃ. Sīhanādaṃ naditvāti ye dubbalā pāṇā, te palāyantūti attano sūrabhāvasannissitena kāruññena naditvā.
二十七、「獅子の」とは、草獅子、黒獅子、黄獅子、有髪獅子の四種の獅子がある。これら四種の獅子のうち、有髪獅子が最高のものであり、ここではそれが意図されている。「百獣の王の」とは、すべての四足獣の王の、ということである。「住み処を」とは、住まいを。「獅子吼を」とは、恐れなき咆哮を。「獲物を求めて出かける」とは、食を求めて出かける。「極上のものを」とは、最上のものを、大柄なものを、という意味である。「柔らかな肉を」とは、柔らかい肉を。「甘美な肉を」という読みもあり、美味な肉を、という意味である。「口にする」とは、近づいて食べる。「獅子吼を轟かせて」とは、弱い生き物たちが逃げ去るようにと、自らの勇猛さに根ざした慈悲の心によって咆哮して。
28. Vighāsasaṃvaḍḍhoti vighāsena saṃvaḍḍho, vighāsaṃ bhakkhitā tirittamaṃsaṃ khāditvā vaḍḍhito. Dittoti dappito thūlasarīro. Balavāti balasampanno. Etadahosīti kasmā ahosi? Asmimānadosena.
二十八、「残飯で育った」とは、残飯によって養われた、食べ残しを食べ、余った肉を食べて成長した。「傲慢な」とは、驕り高ぶって身体が肥えた。「力強い」とは、力に満ちた。「このように考えた」とは、なぜ考えたのか。慢心の過ちによってである。
Tatrāyaṃ anupubbikathā – ekadivasaṃ kira so sīho gocarato nivattamāno taṃ siṅgālaṃ bhayena palāyamānaṃ disvā kāruññajāto hutvā ‘‘vayasa, mā bhāyi, tiṭṭha ko nāma tva’’nti āha. Jambuko nāmāhaṃ sāmīti. Vayasa, jambuka, ito paṭṭhāya maṃ upaṭṭhātuṃ sakkhissasīti. Upaṭṭhahissāmīti. So tato paṭṭhāya upaṭṭhāti. Sīho gocarato āgacchanto mahantaṃ mahantaṃ maṃsakhaṇḍaṃ āharati. So taṃ khāditvā avidūre pāsāṇapiṭṭhe vasati. So katipāhaccayeneva thūlasarīro mahākhandho jāto. Atha naṃ sīho avoca – ‘‘vayasa, jambuka, mama vijambhanakāle avidūre ṭhatvā ‘viroca sāmī’ti vattuṃ sakkhissasī’’ti. Sakkomi sāmīti. So tassa vijambhanakāle tathā karoti. Tena sīhassa atireko asmimāno hoti.
これについての因縁話は以下の通りである。ある日、その獅子が狩りから戻る途中、その野干が恐れて逃げていくのを見て哀れに思い、「友よ、恐れるな、止まれ。お前の名は何というのか」と言った。「私の名はジャンプカ(野干)と申します、旦那様」と。「友ジャンプカよ、今日から私に仕えることができるか」と。「お仕えいたします」と。彼はそれ以来仕えるようになった。獅子は狩りから戻ると、大きな肉の塊を持って帰ってきた。野干はそれを食べて、近くの岩山の上に住んだ。彼は数日を経るうちに、肥満した身体と太い首を持つようになった。そこで獅子は彼に言った。「友ジャンプカよ、私が伸びをする時に近くに立って『旦那様、輝いてください』と言うことができるか」と。「できます、旦那様」と。彼は獅子が伸びをする時にそのようにした。それによって獅子にはこの上ない満足の思いが生じた。
Athekadivasaṃ jarasiṅgālo udakasoṇḍiyaṃ pānīyaṃ pivanto attano chāyaṃ olokento addasa attano thūlasarīratañceva mahākhandhatañca. Disvā ‘jarasiṅgālosmī’ti manaṃ akatvā ‘‘ahampi sīho jāto’’ti maññi. Tato attanāva attānaṃ etadavoca – ‘‘vayasa, jambuka, yuttaṃ nāma tava iminā attabhāvena parassa ucchiṭṭhamaṃsaṃ khādituṃ, kiṃ tvaṃ puriso na hosi, sīhassāpi cattāro pādā dve dāṭhā dve kaṇṇā ekaṃ naṅguṭṭhaṃ, tavapi sabbaṃ tatheva, kevalaṃ tava kesarabhāramattameva natthī’’ti. Tassevaṃ cintayato asmimāno vaḍḍhi. Athassa tena asmimānadosena etaṃ ‘‘ko cāha’’ntiādi maññitamahosi. Tattha ko cāhanti ahaṃ ko, sīho migarājā ko, na me ñāti, na sāmiko, kimahaṃ tassa nipaccakāraṃ karomīti adhippāyo. Siṅgālakaṃyevāti siṅgālaravameva. Bheraṇḍakaṃyevāti appiyaamanāpasaddameva. Ke ca chave siṅgāleti ko ca lāmako siṅgālo. Ke pana sīhanādeti ko pana sīhanādo siṅgālassa ca sīhanādassa ca ko sambandhoti adhippāyo. Sugatāpadānesūti sugatalakkhaṇesu. Sugatassa sāsanasambhūtāsu tīsu sikkhāsu. Kathaṃ panesa tattha jīvati? Etassa hi cattāro paccaye dadamānā sīlādiguṇasampannānaṃ sambuddhānaṃ demāti denti, tena esa abuddho samāno buddhānaṃ niyāmitapaccaye paribhuñjanto sugatāpadānesu jīvati nāma. Sugatātirittānīti tesaṃ kira bhojanāni dadamānā buddhānañca buddhasāvakānañca datvā pacchā avasesaṃ sāyanhasamaye denti. Evamesa sugatātirittāni bhuñjati nāma. Tathāgateti tathāgataṃ arahantaṃ sammāsambuddhaṃ āsādetabbaṃ ghaṭṭayitabbaṃ. Atha vā ‘‘tathāgate’’tiādīni upayogabahuvacanāneva. Āsādetabbanti idampi bahuvacanameva ekavacanaṃ viya vuttaṃ. Āsādanāti ahaṃ buddhena saddhiṃ pāṭihāriyaṃ karissāmīti ghaṭṭanā.
そしてある日、年老いた野干は水たまりの水を飲みながら、自らの影を見て、自らの肥満した身体と太い首を見た。見て「自分は老いた野干である」とは思わず、「私も獅子になったのだ」と思い込んだ。そして自ら自分にこのように言った。「友ジャンプカよ、お前がこれほどの身体を持ちながら他人の食べ残しの肉を食べるのは相応しくない。お前は雄ではないのか。獅子にも四つの足、二本の牙、二つの耳、一本の尾があり、お前にもすべて同様にある。ただお前には豊かな鬣がないだけだ」と。このように考えるうちに彼の慢心は増大した。そしてその慢心の過ちによって、「私は何者か」等と考えたのである。そこでの「私は何者か」とは、私は何者か、百獣の王の獅子は何者か、私の親族でも主でもない、どうして私が彼に平伏しなければならないのか、という意図である。「野干の声を」とは、野干の鳴き声だけを。「不快な声を」とは、嫌悪される不快な声だけを。「卑しい野干に何があるのか」とは、卑しい野干に何の価値があるのか。「獅子吼に何があるのか」とは、獅子吼と野干の間に何の関わりがあるのか、という意図である。「善逝の行跡において」とは、善逝の特徴において。善逝の教えから生じた三学において。では、彼はいかにしてそこで暮らすのか。彼に四つの必需品を与える人々は、「戒律などの徳を備えた正覚者たちに施す」として施すのであり、それによって彼は仏陀でないのに、仏陀のために定められた必需品を享受しながら、善逝の行跡によって暮らしていると言われるのである。「善逝の余り物を」とは、彼らに食事を施す人々は、仏陀と仏弟子たちに施した後に、残りを夕刻に与えるという。このようにして彼は善逝の余り物を食べるのである。「如来に対して」とは、応供・正等覚者である如来を侵犯すべき、攻撃すべき。「如来たちに」等は対格複数形である。「挑むべき」というのも単数のように説かれているが複数形である。「挑むこと」とは、私は仏陀と共に奇跡を行おうとして攻撃することである。
29. Samekkhiyānāti samekkhitvā, maññitvāti attho. Amaññīti puna amaññittha kotthūti siṅgālo.
二十九、「観察して」とは、よく見て、思いなして、という意味である。「思った」とは、再び思った。「野干」とは、狐のことである。
30. Attānaṃ vighāse samekkhiyāti soṇḍiyaṃ ucchiṭṭhodake thūlaṃ attabhāvaṃ disvā. Yāva attānaṃ na passatīti yāva ahaṃ sīhavighāsasaṃvaḍḍhitako jarasiṅgāloti evaṃ yathābhūtaṃ attānaṃ na passati. Byagghoti maññatīti sīhohamasmīti maññati, sīhena vā samānabalo byagghoyeva ahanti maññati.
三十、「残飯によって肥えた己を観察して」とは、水たまりの濁り水の中に肥えた己の身体を見て。「己自身を見ない限り」とは、私が獅子の残飯で育った年老いた野干であると、このようにありのままに己自身を見ない限り。「虎であると思う」とは、私は獅子であると思い、あるいは獅子に匹敵する力を持つ虎であると思い込む。
31. Bhutvāna bheketi āvāṭamaṇḍūke khāditvā. Khalamūsikāyoti khalesu mūsikāyo ca khāditvā. Kaṭasīsu khittāni ca koṇapānīti susānesu chaḍḍitakuṇapāni ca khāditvā. Mahāvaneti mahante vanasmiṃ. Suññavaneti tucchavane. Vivaḍḍhoti vaḍḍhito. Tatheva so siṅgālakaṃ anadīti evaṃ saṃvaḍḍhopi migarājāhamasmīti maññitvāpi yathā pubbe dubbalasiṅgālakāle, tatheva so siṅgālaravaṃyeva aravīti. Imāyapi gāthāya bhekādīni bhutvā vaḍḍhitasiṅgālo viya lābhasakkāragiddho tvanti pāthikaputtameva ghaṭṭesi.
三十一、「蛙を食らい」とは、穴の蛙を食べて。「脱穀場の鼠を」とは、脱穀場の鼠を食べて。「墓地に捨てられた死体を」とは、墓地に捨てられた屍肉を食べて。「大森林において」とは、広大な森林において。「空虚な森において」とは、人のいない森において。「育ち」とは、成長して。「その通りに彼は野干の声をあげた」とは、このように育ち、我こそは百獣の王であると思いなしても、かつて弱小な野干であった頃のように、まさにその通りに野干の鳴き声をあげるだけであった、ということである。この詩によっても、蛙などを食べて育った野干のように、利養と名声に貪欲なあなたである、と波梨迦の子を論難したのである。
Nāgehīti hatthīhi. Mahābandhanāti mahatā kilesabandhanā mocetvā. Mahāviduggāti mahāviduggaṃ nāma cattāro oghā. Tato uddharitvā nibbānathale patiṭṭhapetvā.
「象たちによって」とは、象たちによって。「大いなる束縛から」とは、大いなる煩悩の束縛から解き放って。「大いなる難所から」とは、大いなる難所とは四つの奔流のことである。そこから救い出して、涅槃の岸辺に立たせて。
Aggaññapaññattikathāvaṇṇanā
根源の施設定義の注釈
36. Iti ‘‘bhagavā ettakena kathāmaggena pāṭihāriyaṃ na karotī’’ti padassa anusandhiṃ dassetvā idāni ‘‘na aggaññaṃ paññāpetī’’ti imassa anusandhiṃ dassento aggaññañcāhanti desanaṃ ārabhi. Tattha aggaññañcāhanti ahaṃ, bhaggava, aggaññañca pajānāmi lokuppatticariyavaṃsañca. Tañca pajānāmīti na kevalaṃ aggaññameva, tañca aggaññaṃ pajānāmi. Tato ca uttaritaraṃ sīlasamādhito paṭṭhāya yāva sabbaññutaññāṇā pajānāmi. Tañca pajānaṃ na parāmasāmīti tañca pajānantopi ahaṃ idaṃ nāma pajānāmīti taṇhādiṭṭhimānavasena na parāmasāmi. Natthi tathāgatassa parāmāsoti dīpeti. Paccattaññeva nibbuti viditāti attanāyeva attani kilesanibbānaṃ viditaṃ. Yadabhijānaṃ tathāgatoti yaṃ kilesanibbānaṃ jānanto tathāgato. No anayaṃ āpajjatīti aviditanibbānā titthiyā viya anayaṃ dukkhaṃ byasanaṃ nāpajjati.
三十六、このように「世尊はこれほどの説話の道筋によって『奇跡を行わない』という句の脈絡を示され、今度は『根源を施設しない』というこの句の脈絡を示すために、『根源をも私は知る』という教説を始められた。そこでの『根源をも私は知る』とは、バッガヴァよ、私は根源をも、世界の生成の次第をも熟知している、ということである。『そしてそれを知る』とは、単に根源だけでなく、その根源を熟知している。『そしてそれ以上のことを』とは、戒や定から始まって全知の智慧に至るまでを知っている。『それを知りながら執着しない』とは、それらを知りながらも、『私はこれこれを知っている』と渇愛・見解・慢心によって執着しない。如来には執着が存在しないことを明らかにしている。『己自身において寂静が知られている』とは、自分自身において煩悩の寂滅が知られているということである。『それを知るが故に如来は』とは、その煩悩の寂滅を知る如来は。『災厄に陥ることがない』とは、涅槃を知らない外道たちのように、災難や苦しみや破滅に陥ることがない、ということである。
37. Idāni yaṃ taṃ titthiyā aggaññaṃ paññapenti, taṃ dassento santi bhaggavātiādimāha. Tattha issarakuttaṃ brahmakuttanti issarakataṃ brahmakataṃ, issaranimmitaṃ brahmanimmitanti attho. Brahmā eva hi ettha ādhipaccabhāvena issaroti veditabbo. Ācariyakanti ācariyabhāvaṃ ācariyavādaṃ. Tattha ācariyavādo aggaññaṃ. Aggaññaṃ pana ettha desitanti katvā so aggaññaṃ tveva vutto. Kathaṃ vihitakanti kena vihitaṃ kinti vihitaṃ. Sesaṃ brahmajāle vitthāritanayeneva veditabbaṃ.
三十七、今や、外道たちが施設する根源を示そうとして「バッガヴァよ、存在する」等を説かれた。そこでの「主宰神による創造、梵天による創造」とは、主宰神によって作られた、梵天によって作られた、主宰神に変現された、梵天に変現された、という意味である。実にここでは梵天こそが統治権を持つという意味で主宰神であると知るべきである。「師の伝統」とは、師の立場、師の学説のことである。そこでの師の学説が根源である。しかしここでは根源が説かれていることから、それは根源とだけ言われる。「どのように定められたか」とは、誰によって定められ、何と定められたか、ということである。残りは梵網経において詳述された方法によって理解されるべきである。
41. Khiḍḍāpadosikanti khiḍḍāpadosikamūlaṃ.
四十一、「戯れに惑溺した者」とは、戯れによる堕落を根本とする者のことである。
47. Asatāti avijjamānena, asaṃvijjamānaṭṭhenāti attho. Tucchāti tucchena antosāravirahitena. Musāti musāvādena. Abhūtenāti bhūtatthavirahitena. Abbhācikkhantīti abhiācikkhanti. Viparītoti viparītasañño viparītacitto. Bhikkhavo cāti na kevalaṃ samaṇo gotamoyeva, ye ca assa anusiṭṭhiṃ karonti, te bhikkhū ca viparītā. Atha yaṃ sandhāya viparītoti vadanti, taṃ dassetuṃ samaṇo gotamotiādi vuttaṃ. Subhaṃ vimokkhanti vaṇṇakasiṇaṃ. Asubhantvevāti subhañca asubhañca sabbaṃ asubhanti evaṃ pajānāti. Subhantveva tasmiṃ samayeti subhanti eva ca tasmiṃ samaye pajānāti, na asubhaṃ. Bhikkhavo cāti ye te evaṃ vadanti, tesaṃ bhikkhavo ca antevāsikasamaṇā viparītā. Pahotīti samattho paṭibalo.
四十七、「存在しないことによって」とは、実在しないことによって、実在しないという意味においてである。「虚しい」とは、内実のない空虚なことによって。「偽り」とは、虚言によって。「事実でない」とは、真実の義を欠いたことによって。「誹謗する」とは、そしるということである。「転倒した」とは、顛倒した想いを持ち、顛倒した心を持った者。「比丘たちも」とは、沙門ゴータマだけでなく、彼の教導に従う比丘たちもまた転倒しているということである。では、何を指して転倒していると言うのか、それを示すために「沙門ゴータマは」等が説かれた。「浄なる解脱」とは、色遍(色に基づく瞑想)のことである。「不浄であるとだけ」とは、浄なるものも不浄なるものもすべて不浄であると、このように了知する。「その時において浄であるとだけ」とは、その時には浄であるとだけ了知し、不浄とは了知しない。「比丘たちも」とは、そのように語る彼らの比丘たち、弟子である沙門たちも転倒しているということである。「堪能である」とは、能力があり適任であるということである。
48. Dukkaraṃ khoti ayaṃ paribbājako yadidaṃ ‘‘evaṃpasanno ahaṃ, bhante’’tiādimāha, taṃ sāṭheyyena kohaññena āha. Evaṃ kirassa ahosi – ‘‘samaṇo gotamo mayhaṃ ettakaṃ dhammakathaṃ kathesi, tamahaṃ sutvāpi pabbajituṃ na sakkomi, mayā etassa sāsanaṃ paṭipannasadisena bhavituṃ vaṭṭatī’’ti. Tato so sāṭheyyena kohaññena evamāha. Tenassa bhagavā mammaṃ ghaṭṭento viya ‘‘dukkaraṃ kho etaṃ, bhaggava tayā aññadiṭṭhikenā’’tiādimāha. Taṃ poṭṭhapādasutte vuttatthameva. Sādhukamanurakkhāti suṭṭhu anurakkha.
四十八、「実に困難である」とは、この遊行者が「尊者よ、私はこのように信順しました」などと言ったのは、偽りとおもねりによって言ったのである。伝え聞くところによると、彼にはこう思われた。「沙門ゴータマは私のためにこれほどの説法をしてくれた。それを聞きながらも私は出家することができない。私は彼の教えを実践している者らしく振る舞うべきである」と。そこで彼は偽りとおもねりによってこのように言ったのである。そのために世尊は彼の急所を突くかのように、「バッガヴァよ、異なる見解を持つあなたにとってそれは実に困難である」等を説かれた。それは布吒婆楼経で説かれた通りの意味である。「よく守りなさい」とは、しっかりと保ちなさい、ということである。
Iti bhagavā pasādamattānurakkhaṇe paribbājakaṃ niyojesi. Sopi evaṃ mahantaṃ suttantaṃ sutvāpi nāsakkhi kilesakkhayaṃ kātuṃ. Desanā panassa āyatiṃ vāsanāya paccayo ahosi. Sesaṃ sabbattha uttānatthamevāti.
このように世尊は、信順の心を保つことだけに遊行者を導かれた。彼もまた、これほどの大いなる経を聞きながらも、煩悩を滅することはできなかった。しかしその説法は、彼の未来の薫習の機縁となった。残りはすべての箇所において平易な意味である。
Sumaṅgalavilāsiniyā dīghanikāyaṭṭhakathāya
吉祥悦意長部注釈において
Pāthikasuttavaṇṇanā niṭṭhitā.
波梨迦経注釈 完