6. Pāsādikasuttavaṇṇanā6. 『阿摂和経(パーサーディカ経)』の解釈
Nigaṇṭhanāṭaputtakālaṅkiriyavaṇṇanā
ニガンタ・ナータプッタの死去の解釈
164. Evaṃ me sutanti pāsādikasuttaṃ. Tatrāyamanuttānapadavaṇṇanā – vedhaññā nāma sakyāti dhanumhi katasikkhā vedhaññanāmakā eke sakyā. Tesaṃ ambavane pāsādeti tesaṃ ambavane sippaṃ uggaṇhatthāya kato dīghapāsādo atthi, tattha viharati. Adhunā kālaṅkatoti sampati kālaṅkato. Dvedhikajātāti dvejjhajātā, dvebhāgā jātā. Bhaṇḍanādīsu bhaṇḍanaṃ pubbabhāgakalaho, taṃ daṇḍādānādivasena paṇṇattivītikkamavasena ca vaḍḍhitaṃ kalaho. ‘‘Na tvaṃ imaṃ dhammavinayaṃ ājānāsī’’tiādinā nayena viruddhavacanaṃ vivādo. Vitudantāti vijjhantā. Sahitaṃ meti mama vacanaṃ atthasañhitaṃ. Adhiciṇṇaṃ te viparāvattanti yaṃ tava adhiciṇṇaṃ cirakālāsevanavasena paguṇaṃ, taṃ mama vādaṃ āgamma nivattaṃ. Āropito te vādoti tuyhaṃ upari mayā doso āropito. Cara vādappamokkhāyāti bhattapuṭaṃ ādāya taṃ taṃ upasaṅkamitvā vādappamokkhatthāya uttari pariyesamāno vicara. Nibbeṭhehi vāti atha vā mayā āropitadosato attānaṃ mocehi. Sace pahosīti sace sakkosi. Vadhoyevāti maraṇameva. Nāṭaputtiyesūti nāṭaputtassa antevāsikesu. Nibbinnarūpāti ukkaṇṭhitasabhāvā abhivādanādīnipi na karonti. Virattarūpāti vigatapemā. Paṭivānarūpāti tesaṃ sakkaccakiriyato nivattanasabhāvā. Yathā tanti yathā durakkhātādisabhāve dhammavinaye nibbinnavirattappaṭivānarūpehi bhavitabbaṃ, tatheva jātāti attho. Durakkhāteti dukkathite. Duppavediteti duviññāpite. Anupasamasaṃvattaniketi rāgādīnaṃ upasamaṃ kātuṃ asamatthe. Bhinnathūpeti bhindappatiṭṭhe. Ettha hi nāṭaputtova nesaṃ patiṭṭhaṭṭhena thūpo. So pana bhinno mato. Tena vuttaṃ ‘‘bhinnathūpe’’ti. Appaṭisaraṇeti tasseva abhāvena paṭisaraṇavirahite.
164. 「このように私は聞いた」とは『阿摂和経(パーサーディカ経)』である。そこにおける平易でない語の解釈は以下の通りである。「弓術に巧みな釈迦族たち」とは、弓術の修練を積んだ、ヴェーダンニャと呼ばれるある釈迦族たちのことである。「彼らのアンバ林の楼閣において」とは、彼らのアンバ林に技芸を学ぶために建てられた長い楼閣があり、そこに滞在している。「最近亡くなった」とは、今しがた亡くなった、ということ。「二派に分かれた」とは、二つの派閥となり、二つに分裂した。「口論等」において、口論とは初段階の諍いであり、それが棒を手に取るなどの行為や規則違反によって増長したものが抗争である。『あなたはこの法と律を理解していない』などのやり方による対立の言葉が論争である。「突き刺しながら」とは、傷つけながら。「私の言葉は理にかなっている」とは、私の言葉は有益である。「あなたの熟知した見解は覆された」とは、あなたが長年の実践によって熟達した見解は、私の主張によって論破された。「あなたの論難は暴かれた」とは、あなたに対して私が過ちを指摘した。「論難から逃れるために歩き回れ」とは、托鉢の包みを持ってあちこちを訪ね、論難から脱するためにさらに探求して歩き回れ。「あるいは解きほぐせ」とは、あるいは私が指摘した過ちから自己を解放せよ。「もしできるなら」とは、もし可能であるなら。「殺害そのもの」とは、死そのもののことである。「ナータプッタの信奉者たちにおいて」とは、ナータプッタの弟子たちにおいて。「失望した様子で」とは、嫌気がさした状態で、礼拝等さえもしない。「離欲した様子で」とは、情愛が失われた。「退いた様子で」とは、彼らに対する恭敬の行為から退く性質となった。「かのごとく」とは、誤って説かれた等の性質を持つ法と律において失望・離欲・後退した様子であるべきその通りになった、という意味である。「誤って説かれた」とは、悪しく語られた。「誤って開示された」とは、悪しく理解された。「寂静に導かない」とは、貪欲等の寂静をもたらすことができない。「仏塔が破壊された」とは、拠り所が壊れた。実にここではナータプッタ自身が拠り所という意味で仏塔なのである。しかし彼は壊れ、死んだ。それゆえに『仏塔が破壊された』と言われたのである。「避難所がない」とは、彼自身が不在となったため、避難所を欠いていることである。
Nanu cāyaṃ nāṭaputto nāḷandavāsiko, so kasmā pāvāyaṃ kālaṅkatoti? So kira upālinā gahapatinā paṭividdhasaccena dasahi gāthāhi bhāsite buddhaguṇe sutvā uṇhaṃ lohitaṃ chaḍḍesi. Atha naṃ aphāsukaṃ gahetvā pāvaṃ agamaṃsu. So tattha kālamakāsi. Kālaṃ kurumāno ca cintesi – ‘‘mama laddhi aniyyānikā sāravirahitā, mayaṃ tāva naṭṭhā, avasesajanopi mā apāyapūrako ahosi, sace panāhaṃ ‘mama sāsanaṃ aniyyānika’nti vakkhāmi, na saddahissanti, yaṃnūnāhaṃ dvepi jane na ekanīhārena uggaṇhāpeyyaṃ, te mamaccayena aññamaññaṃ vivadissanti, satthā taṃ vivādaṃ paṭicca ekaṃ dhammakathaṃ kathessati, tato te sāsanassa mahantabhāvaṃ jānissantī’’ti.
しかし、このナータプッタはナーランダーの住人ではないのか。彼がなぜパーヴァーで亡くなったのか? 彼は、真理を悟ったウパーリ居士が十の詩偈によって語った仏陀の徳を聞いて、熱い血を吐いたという。そして人々は彼が病気になったのでパーヴァーへと連れて行った。彼はそこで息を引き取った。息を引き取るにあたって彼は考えた。『私の教義は解脱に導かず、本質を欠いている。我々はすでに滅びたが、残りの人々も悪趣を満たす者となってはならない。しかし、もし私が「私の教えは解脱に導かない」と言ったなら、彼らは信じないだろう。いっそ私が二人の弟子に同一ではないやり方で学ばせよう。彼らは私の死後に対立し合うだろう。世尊はその論争に基づいて一つの法話を語られるだろう。そこから彼らは教法の偉大さを知るだろう』と。
Atha naṃ eko antevāsiko upasaṅkamitvā āha – ‘‘bhante tumhe dubbalā, mayhampi imasmiṃ dhamme sāraṃ ācikkhatha, ācariyappamāṇa’’nti. ‘‘Āvuso, tvaṃ mamaccayena sassatanti gaṇheyyāsī’’ti. Aparopi upasaṅkami, taṃ ucchedaṃ gaṇhāpesi. Evaṃ dvepi jane ekaladdhike akatvā bahū nānānīhārena uggaṇhāpetvā kālamakāsi. Te tassa sarīrakiccaṃ katvā sannipatitvā aññamaññaṃ pucchiṃsu – ‘‘kassāvuso, ācariyo sāraṃ ācikkhī’’ti? Eko uṭṭhahitvā mayhanti āha. Kiṃ ācikkhīti? Sassatanti. Aparo taṃ paṭibāhitvā ‘‘mayhaṃ sāraṃ ācikkhī’’ti āha. Evaṃ sabbe ‘‘mayhaṃ sāraṃ ācikkhi, ahaṃ jeṭṭhako’’ti aññamaññaṃ vivādaṃ vaḍḍhetvā akkose ceva paribhāse ca hatthapādappahārādīni ca pavattetvā ekamaggena dve agacchantā nānādisāsu pakkamiṃsu.
そこで一人の弟子が彼に近づいて言った。『尊者よ、あなたは衰弱しておられます。私にもこの法の本質を教えてください。師の教えこそが基準です』。『友よ、お前は私の死後、常見を奉じるがよい』。別の弟子も近づいてきたので、彼には断見を把握させた。このように二人に対して同一の見解とせず、多くの弟子に種々のやり方で学ばせて亡くなった。彼らは遺体の処理を終えて集まり、互いに尋ね合った。『友よ、師は誰に本質を教え示されたのか?』。一人が立ち上がって『私にだ』と言った。『何を教え示されたのか?』。『常見である』。別の者がそれを遮って『私に本質を教え示された』と言った。このように皆が『私に本質を教え示された、私が年長者だ』と互いに論争を深め、罵倒し、非難し、手足で殴り合いなどを繰り広げ、同じ道を行くことなく別々の方向へと去って行った。
165. Atha kho cundo samaṇuddesoti ayaṃ thero dhammasenāpatissa kaniṭṭhabhātiko. Taṃ bhikkhū anupasampannakāle ‘‘cundo samaṇuddeso’’ti samudācaritvā therakālepi tatheva samudācariṃsu. Tena vuttaṃ – ‘‘cundo samaṇuddeso’’ti.
165. 「さて、沙弥チュンダは」とは、この長老は法将軍(サーリプッタ)の弟である。彼を比丘たちは未受戒の時に『沙弥チュンダ』と呼び習わし、長老となってからも同様に呼び習わした。それゆえに『沙弥チュンダ』と言われる。
‘‘Pāvāyaṃ vassaṃvuṭṭho yena sāmagāmo, yenāyasmā ānando tenupasaṅkamī’’ti kasmā upasaṅkami? Nāṭaputte kira kālaṅkate jambudīpe manussā tattha tattha kathaṃ pavattayiṃsu ‘‘nigaṇṭho nāṭaputto eko satthāti paññāyittha, tassa kālaṅkiriyāya sāvakānaṃ evarūpo vivādo jāto. Samaṇo pana gotamo jambudīpe cando viya sūriyo viya ca pākaṭo, sāvakāpissa pākaṭāyeva. Kīdiso nu kho samaṇe gotame parinibbute sāvakānaṃ vivādo bhavissatī’’ti. Thero taṃ kathaṃ sutvā cintesi – ‘‘imaṃ kathaṃ gahetvā dasabalassa ārocessāmi, satthā etaṃ aṭṭhuppattiṃ katvā ekaṃ desanaṃ kathessatī’’ti. So nikkhamitvā yena sāmagāmo, yenāyasmā ānando tenupasaṅkami.
『パーヴァーで雨安居を終えて、サーマガマの、尊者アーナンダのおられるところへ近づいた』とは、なぜ近づいたのか? ナータプッタが亡くなった時、閻浮提(インド)の人間たちはあちこちで次のような噂を交わしたという。『ニガンタ・ナータプッタは一人の師として知られていたが、彼の死去によって弟子たちの間にこのような論争が生じた。しかし沙門ゴータマは閻浮提において月や太陽のように広く知られ、その弟子たちも知られている。沙門ゴータマが般涅槃された後、弟子たちの論争はいかなるものになるだろうか』と。長老はその話を聞いて考えた。『この話を持って十力者(世尊)に申し上げよう。世尊はこの出来事を機縁として一つの説法を語られるだろう』と。彼は出発してサーマガマの、尊者アーナンダのおられるところへ近づいた。
Sāmagāmoti sāmākānaṃ ussannattā tassa gāmassa nāmaṃ. Yenāyasmā ānandoti ujumeva bhagavato santikaṃ agantvā yenassa upajjhāyo āyasmā ānando tenupasaṅkami.
「サーマガマ」とは、サーマカ草が生い茂っていたことによるその村の名である。「尊者アーナンダのおられるところへ」とは、直接世尊のもとへは行かず、自らの戒師である尊者アーナンダのおられるところへ近づいた。
Buddhakāle kira sāriputtatthero ca ānandatthero ca aññamaññaṃ mamāyiṃsu. Sāriputtatthero ‘‘mayā kātabbaṃ satthu upaṭṭhānaṃ karotī’’ti ānandattheraṃ mamāyi. Ānandatthero ‘‘bhagavato sāvakānaṃ aggo’’ti sāriputtattheraṃ mamāyi. Kuladārake ca pabbājetvā sāriputtattherassa santike upajjhaṃ gaṇhāpesi. Sāriputtattheropi tatheva akāsi. Evaṃ ekamekena attano pattacīvaraṃ datvā pabbājetvā upajjhaṃ gaṇhāpitāni pañca pañca bhikkhusatāni ahesuṃ. Āyasmā ānando paṇītāni cīvarādīnipi labhitvā therassa adāsi.
仏在世において、サーリプッタ長老とアーナンダ長老とは互いに敬愛し合っていたという。サーリプッタ長老は『私がなすべき師へのお世話をしてくださっている』とアーナンダ長老を敬愛した。アーナンダ長老は『世尊の弟子たちの中で最高の方である』とサーリプッタ長老を敬愛した。そして良家の子弟を出家させてはサーリプッタ長老のもとで戒師の指導を受けさせた。サーリプッタ長老も同様になさった。このように互いが自らの鉢と衣を与えて出家させ、戒師として指導を受けさせた比丘はそれぞれ五百人ずつに達した。尊者アーナンダは上等な衣などを得ても長老に差し上げた。
Dhammaratanapūjā
法宝への供養
Eko kira brāhmaṇo cintesi – ‘‘buddharatanassa ca saṅgharatanassa ca pūjā paññāyati, kathaṃ nu kho dhammaratanaṃ pūjitaṃ hotī’’ti? So bhagavantaṃ upasaṅkamitvā etamatthaṃ pucchi. Bhagavā āha – ‘‘sacepi brāhmaṇa dhammaratanaṃ pūjetukāmo, ekaṃ bahussutaṃ pūjehī’’ti. Bahussutaṃ, bhante, ācikkhathāti. Bhikkhusaṅghaṃ pucchāti. So bhikkhusaṅghaṃ upasaṅkamitvā ‘‘bahussutaṃ, bhante, ācikkhathā’’ti āha. Ānandatthero brāhmaṇāti. Brāhmaṇo theraṃ sahassagghanikena ticīvarena pūjesi. Thero taṃ gahetvā bhagavato santikaṃ agamāsi. Bhagavā ‘‘kuto, ānanda, laddha’’nti āha? Ekena, bhante, brāhmaṇena dinnaṃ, idaṃ panāhaṃ āyasmato sāriputtassa dātukāmoti. Dehi, ānandāti. Cārikaṃ pakkanto bhanteti. Āgatakāle dehīti, sikkhāpadaṃ bhante, paññattanti. Kadā pana sāriputto āgamissatīti? Dasāhamattena bhanteti. ‘‘Anujānāmi, ānanda, dasāhaparamaṃ atirekacīvaraṃ nikkhipitu’’nti sikkhāpadaṃ paññāpesi.
あるバラモンが考えたという。『仏宝と僧宝への供養は知られているが、法宝はどのように供養されるのだろうか?』と。彼は世尊のもとへ近づき、この意味を尋ねた。世尊は言われた。『バラモンよ、もし法宝を供養したいのなら、一人の多聞なる者を供養しなさい』。『尊者よ、多聞なる者をお教えください』。『比丘僧伽に尋ねなさい』。彼は比丘僧伽に近づいて『尊者たちよ、多聞なる者をお教えください』と言った。『バラモンよ、アーナンダ長老である』。バラモンは長老に千の価値のある三衣を供養した。長老はそれを受け取って世尊のもとへ赴いた。世尊は『アーナンダよ、どこで得たのか?』と言われた。『尊者よ、あるバラモンから与えられたものです。しかし私はこれを尊者サーリプッタに差し上げたいのです』。『アーナンダよ、差し上げなさい』。『尊者よ、長老は遊行に出発されました』。『戻られた時に差し上げなさい』。『尊者よ、戒則が定められています』。『サーリプッタはいつ戻るのか?』。『尊者よ、十日ほどで戻ります』。『アーナンダよ、十日を限度として余分の衣を保管することを許す』と戒則を定められた。
Sāriputtattheropi tatheva yaṃkiñci manāpaṃ labhati, taṃ ānandattherassa deti. So imampi attano kaniṭṭhabhātikaṃ therasseva saddhivihārikaṃ adāsi. Tena vuttaṃ – ‘‘yenassa upajjhāyo āyasmā ānando tenupasaṅkamī’’ti. Evaṃ kirassa ahosi – ‘‘upajjhāyo me mahāpañño, so imaṃ kathaṃ satthu ārocessati, atha satthā tadanurūpaṃ dhammaṃ desessatī’’ti. Kathāpābhatanti kathāya mūlaṃ. Mūlañhi ‘‘pābhata’’nti vuccati. Yathāha –
サーリプッタ長老も同様に、何であれ気に入ったものを得るとアーナンダ長老に差し上げた。長老はこの自らの弟をも、まさにそのアーナンダ長老の共住者として委ねられた。それゆえに『自らの戒師である尊者アーナンダのおられるところへ近づいた』と言われる。実に長老にはこのように思われたのである。『私の戒師は大いなる智慧をお持ちである。彼はこの話を師に申し上げてくださり、そうすれば師はそれに応じた法を説いてくださるだろう』と。「対話の贈り物」とは、対話の機縁(元手)のことである。実に元手(資本)のことを『贈り物(パーバタ)』と言う。次のように言われている通りである。
‘‘Appakenāpi medhāvī, pābhatena vicakkhaṇo;
『賢明で明敏なる者は、僅かな元手によっても、
Samuṭṭhāpeti attānaṃ, aṇuṃ aggiṃva sandhama’’nti. (jā. 1.1.4);
微小な火を吹き起こすように、己を立ち上がらせる』(ジャータカ1.1.4)。
Bhagavantaṃ dassanāyāti bhagavantaṃ dassanatthāya. Kiṃ panānena bhagavā na diṭṭhapubboti? No na diṭṭhapubbo. Ayañhi āyasmā divā nava vāre, rattiṃ nava vāreti ekāhaṃ aṭṭhārasa vāre upaṭṭhānameva gacchati. Divasassa pana satavāraṃ vā sahassavāraṃ vā gantukāmo samānopi na akāraṇā gacchati, ekaṃ pañhuddhāraṃ gahetvāva gacchati. So taṃ divasaṃ tena kathāpābhatena gantukāmo evamāha.
「世尊を拝謁するために」とは、世尊に謁見するためである。では、この長老は以前に世尊にお会いしたことがなかったのかといえば、お会いしたことがなかったのではない。実にこの尊者は昼に九回、夜に九回と、一日に十八回もお世話に伺っていたのである。しかし一日に百回であれ千回であれ行きたいと思っても、理由なしに行くことはなく、必ず一つの質問を携えて伺っていたのである。彼はその日、その対話の贈り物を携えて行きたいと思い、このように語ったのである。
Asammāsambuddhappaveditadhammavinayavaṇṇanā
正等覚者によって開示されていない法と律の解釈
166. Evañhetaṃ, cunda, hotīti bhagavā ānandattherena ārocitepi yasmā na ānandatthero imissā kathāya sāmiko, cundatthero pana sāmiko. Sova tassā ādimajjhapariyosānaṃ jānāti. Tasmā bhagavā tena saddhiṃ kathento ‘‘evañhetaṃ, cunda, hotī’’tiādimāha. Tassattho – cunda evañhetaṃ hoti durakkhātādisabhāve dhammavinaye sāvakā dvedhikajātā bhaṇḍanādīni katvā mukhasattīhi vitudantā viharanti.
166. 「チュンダよ、まさにその通りである」とは、世尊はアーナンダ長老から告げられたものの、アーナンダ長老はこの話の当事者ではなく、チュンダ長老こそが当事者であったからである。彼こそがその発端・中間・結末を知っている。それゆえ世尊は彼と語り合いながら「チュンダよ、まさにその通りである」等と語られた。その意味は、チュンダよ、誤って説かれた等の性質を持つ法と律においては、弟子たちが二派に分かれ、口論などをして口先を武器として互いを傷つけ合いながら過ごすということは、まさにその通りである、ということである。
Idāni yasmā aniyyānikasāsaneneva niyyānikasāsanaṃ pākaṭaṃ hoti, tasmā ādito aniyyānikasāsanameva dassento idha cunda satthā ca hoti asammāsambuddhotiādimāha. Tattha vokkamma ca tamhā dhammā vattatīti na nirantaraṃ pūreti, okkamitvā okkamitvā antarantaraṃ katvā vattatīti attho. Tassa te, āvuso, lābhāti tassa tuyhaṃ ete dhammānudhammappaṭipattiādayo lābhā. Suladdhanti manussattampi te suladdhaṃ. Tathā paṭipajjatūti evaṃ paṭipajjatu. Yathā te satthārā dhammo desitoti yena te ākārena satthārā dhammo kathito. Yo ca samādapetīti yo ca ācariyo samādapeti. Yañca samādapetīti yaṃ antevāsiṃ samādapeti. Yo ca samādapitoti yo ca evaṃ samādapito antevāsiko. Yathā ācariyena samādapitaṃ, tathatthāya paṭipajjati. Sabbe teti tayopi te. Ettha hi ācariyo samādapitattā apuññaṃ pasavati, samādinnantevāsiko samādinnattā, paṭipannako paṭipannattā. Tena vuttaṃ – ‘‘sabbe te bahuṃ apuññaṃ pasavantī’’ti. Etenupāyena sabbavāresu attho veditabbo.
今、解脱に導かない教えによってこそ解脱に導く教えが明らかとなるため、初めに解脱に導かない教えを示すべく「チュンダよ、ここに師が正等覚者ではなく……」等と語られた。そこにおいて、「その法から逸脱して実践する」とは、絶え間なく実践を満たすのではなく、途切れ途切れに間を置きながら実践する、という意味である。「友よ、あなたには利益がある」とは、あなたにはこれら法にかなう法の行道などの利益がある、ということ。「よく得られた」とは、人間として生まれたこともあなたにはよく得られた。「そのように実践せよ」とは、このように実践せよ、ということ。「あなたの師によって法が説かれたように」とは、あなたの師によって法が語られたその様態に従って、のことである。「勧める者も」とは、勧める師のこと。「勧められる者も」とは、勧められる弟子のこと。「勧められた者も」とは、そのように勧められた弟子が、師によって勧められた通りに、その目的のために実践すること。「彼ら全員が」とは、これら三者全員が、のことである。実にここでは、師は勧めたことによって不徳を生み、勧告を受け入れた弟子は受け入れたことによって、実践した者は実践したことによって不徳を生む。それゆえに『彼ら全員が多くの不徳を生む』と言われたのである。この方法によってすべての節において意味を知るべきである。
167. Apicettha ñāyappaṭipannoti kāraṇappaṭipanno. Ñāyamārādhessatīti kāraṇaṃ nipphādessati. Vīriyaṃ ārabhatīti attano dukkhanibbattakaṃ vīriyaṃ karoti. Vuttañhetaṃ ‘‘durakkhāte, bhikkhave, dhammavinaye yo āraddhavīriyo, so dukkhaṃ viharati. Yo kusīto, so sukhaṃ viharatī’’ti (a. ni. 1.318).
167. さらにここにおいて、「道理に従って実践する者」とは、理由・原因に従って実践する者のこと。「道理を達成するであろう」とは、正しい結果を成し遂げるであろう、ということ。「精進を奮い起こす」とは、自らに苦痛をもたらす精進をなすこと。実に次のように言われている通りである。『比丘たちよ、誤って説かれた法と律において精進を奮い起こす者は、苦痛のうちに過ごす。怠惰な者は安楽に過ごす』(増支部1.318)。
Sammāsambuddhappaveditadhammavinayādivaṇṇanā
正等覚者によって開示された法と律などの解釈
168. Evaṃ aniyyānikasāsanaṃ dassetvā idāni niyyānikasāsanaṃ dassento idha pana, cunda, satthā ca hoti sammāsambuddhotiādimāha. Tattha niyyānikoti maggatthāya phalatthāya ca niyyāti.
168. このように解脱に導かない教えを示した上で、今度は解脱に導く教えを示すべく「チュンダよ、しかしここに師が正等覚者であり……」等と語られた。そこにおいて、「解脱に導く」とは、道のため、果のために解脱へと導く、ということである。
169. Vīriyaṃ ārabhatīti attano sukhanipphādakaṃ vīriyaṃ ārabhati. Vuttañhetaṃ ‘‘svākkhāte, bhikkhave, dhammavinaye yo kusīto, so dukkhaṃ viharati. Yo āraddhavīriyo, so sukhaṃ viharatī’’ti (a. ni. 1.319).
169. 「精進を奮い起こす」とは、自らに安楽をもたらす精進を始めること。実に次のように言われている通りである。『比丘たちよ、よく説かれた法と律において怠惰な者は、苦痛のうちに過ごす。精進を奮い起こす者は安楽に過ごす』(増支部1.319)。
170. Iti bhagavā niyyānikasāsane sammāpaṭipannassa kulaputtassa pasaṃsaṃ dassetvā puna desanaṃ vaḍḍhento idha, cunda, satthā ca loke udapādītiādimāha. Tattha aviññāpitatthāti abodhitatthā. Sabbasaṅgāhapadakatanti sabbasaṅgahapadehi kataṃ, sabbasaṅgāhikaṃ kataṃ na hotīti attho. ‘‘Sabbasaṅgāhapadagata’’ntipi pāṭho, na sabbasaṅgāhapadesu gataṃ, na ekasaṅgahajātanti attho. Sappāṭihīrakatanti niyyānikaṃ. Yāva devamanussehīti devalokato yāva manussalokā suppakāsitaṃ. Anutappo hotīti anutāpakaro hoti. Satthā ca no loketi idaṃ tesaṃ anutāpakāradassanatthaṃ vuttaṃ. Nānutappo hotīti satthāraṃ āgamma sāvakehi yaṃ pattabbaṃ, tassa pattattā anutāpakaro na hoti.
170. このように世尊は解脱に導く教えにおいて正しく実践する良家の子への称賛を示され、さらに説法を発展させて「チュンダよ、世に師が出現し……」等と語られた。そこにおいて、「意味が理解されていない」とは、意味が悟られていないこと。「すべての包括的な句を具えていない」とは、すべての包摂的な句によってなされていない、すべてを包括するものとされていない、という意味である。『すべての包括的な句に至っていない』という読みもあり、すべての包摂的な句に達していない、一つに包括された状態になっていない、という意味である。「神変を具えたものとされた」とは、解脱に導くものとされた、ということ。「神々と人間たちに至るまで」とは、天界から人間界に至るまでよく明示された、ということ。「悔いある者となる」とは、後悔を生じさせる者となる、ということ。「そして我らの師は世において……」とは、彼らに後悔を生じさせる様相を示すために語られた。「悔いなき者となる」とは、師に頼って弟子たちによって達せられるべきものが達成されたために、後悔を生じさせる者とはならない、ということである。
172. Theroti thiro therakārakehi dhammehi samannāgato. ‘‘Rattaññū’’tiādīni vuttatthāneva. Etehi ce pīti etehi heṭṭhā vuttehi.
172. 「長老」とは、堅固であり、長老となす諸々の徳を具えた者のこと。「古参の」等はすでに述べられた意味の通りである。「これらによっても」とは、上で述べられたこれらによっても、ということ。
173. Pattayogakkhemāti catūhi yogehi khemattā arahattaṃ idha yogakkhemaṃ nāma, taṃ pattāti attho. Alaṃ samakkhātuṃ saddhammassāti sammukhā gahitattā assa saddhammaṃ sammā ācikkhituṃ samatthā.
173. 「瑜伽安穏に達した」とは、四つの瑜伽(軛)からの安穏さのゆえにここでは阿羅漢果が瑜伽安穏と呼ばれ、それに達した、という意味である。「正法を説き明かすに十分である」とは、面と向かって受け取ったため、正法を正しく説き明かすことができる、ということ。
174. Brahmacārinoti brahmacariyavāsaṃ vasamānā ariyasāvakā. Kāmabhoginoti gihisotāpannā. ‘‘Iddhañcevā’’tiādīni mahāparinibbāne vitthāritāneva. Lābhaggayasaggapattanti lābhaggañceva yasaggañca pattaṃ.
174. 「梵行者たち」とは、清浄行の生活を送っている聖弟子たちのこと。「愛欲を享受する者たち」とは、在家の預流者たちのこと。「栄え、また……」等は『大般涅槃経』においてすでに詳細に説かれた通りである。「最上の利養と最上の名声に達した」とは、最上の利養と最上の名声の双方に達した、ということ。
175. Santi kho pana me, cunda, etarahi therā bhikkhū sāvakāti sāriputtamoggallānādayo therā. Bhikkhuniyoti khemātherīuppalavaṇṇatherīādayo. Upāsakā sāvakā gihī odātavatthavasanā brahmacārinoti cittagahapatihatthakaāḷavakādayo. Kāmabhoginoti cūḷaanāthapiṇḍikamahāanāthapiṇḍikādayo. Brahmacāriniyoti nandamātādayo. Kāmabhoginiyoti khujjuttarādayo.
175. 「チュンダよ、今や私には弟子の長老比丘たちがいる」とは、サーリプッタやモッガッラーナ等の長老たちのこと。「比丘尼たち」とは、ケーマー長老尼やウッパラヴァンナー長老尼等のこと。「在家の白衣をまとう梵行者の優婆塞の弟子たち」とは、チッタ居士やハッタカ・アーラヴァカ等のこと。「愛欲を享受する者たち」とは、小アナータピンディカや大アナータピンディカ等のこと。「梵行の優婆夷たち」とは、ナンダマーター等のこと。「愛欲を享受する優婆夷たち」とは、クジュッタラー等のこと。
176. Sabbākārasampannanti sabbakāraṇasampannaṃ. Idameva tanti idameva brahmacariyaṃ, imameva dhammaṃ sammā hetunā nayena vadamāno vadeyya. Udakāssudanti udako sudaṃ. Passaṃ na passatīti passanto na passati. So kira imaṃ pañhaṃ mahājanaṃ pucchi. Tehi ‘‘na jānāma, ācariya, kathehi no’’ti vutto so āha – ‘‘gambhīro ayaṃ pañho āhārasappāye sati thokaṃ cintetvā sakkā kathetu’’nti. Tato tehi cattāro māse mahāsakkāre kate taṃ pañhaṃ kathento kiñca passaṃ na passatītiādimāha. Tattha sādhunisitassāti suṭṭhunisitassa tikhiṇassa, sunisitakhurassa kira talaṃ paññāyati, dhārā na paññāyatīti ayamettha attho.
176. 「すべての様相を具えた」とは、すべての要因を具えた、ということ。「まさにこれこそが」とは、まさにこの清浄行を、まさにこの法を、正しく根拠と理趣をもって語る者は語るであろう、ということ。「ウダカは実に」とは、ウダカ・ラーマプッタのこと。「見つつも見ない」とは、見ている者が見ていない、ということ。彼はこの問いを大衆に尋ねたという。人々から『師よ、私たちは分かりません。教えてください』と言われた彼は、『この問いは深遠であり、適した食事があるときに少し考えてから語ることができる』と言った。それから彼らが四ヶ月間にわたって大いなる歓待をした時に、その問いを語りつつ「見つつも見ないとは何か」等と言ったのである。そこにおいて、「実によく研ぎ澄まされた」とは、実によく研ぎ澄まされた鋭利な、よく研がれた剃刀の刃の平らな面は見えても、その刃先は見えない、というのがここでの意味である。
Saṅgāyitabbadhammādivaṇṇanā
結集すべき法などの解釈
177. Saṅgamma samāgammāti saṅgantvā samāgantvā. Atthena atthaṃ, byañjanena byañjananti atthena saha atthaṃ, byañjanenapi saha byañjanaṃ samānentehīti attho. Saṅgāyitabbanti vācetabbaṃ sajjhāyitabbaṃ. Yathayidaṃ brahmacariyanti yathā idaṃ sakalaṃ sāsanabrahmacariyaṃ.
177. 「集まり、相集い」とは、集まって、寄り集まって。「意味と意味を、文句と文句を」とは、意味に意味を合わせ、文句にも文句を合わせる者たちによって、という意味である。「結集されるべきである」とは、読誦されるべきであり、復誦されるべきである、ということ。「この清浄行が……のように」とは、この完全な教法の清浄行が……のように、ということ。
178. Tatra ceti tatra saṅghamajjhe, tassa vā bhāsite. Atthañceva micchā gaṇhāti, byañjanāni ca micchā ropetīti ‘‘cattāro satipaṭṭhānā’’ti ettha ārammaṇaṃ ‘‘satipaṭṭhāna’’nti atthaṃ gaṇhāti. ‘‘Satipaṭṭhānānī’’ti byañjanaṃ ropeti. Imassa nu kho, āvuso, atthassāti ‘‘satiyeva satipaṭṭhāna’’nti. Atthassa ‘‘cattāro satipaṭṭhānā’’ti kiṃ nu kho imāni byañjanāni, udāhu cattāri satipaṭṭhānānī’’ti etāni vā byañjanāni. Katamāni opāyikatarānīti imassa atthassa katamāni byañjanāni upapannatarāni allīnatarāni. Imesañca byañjanānanti ‘‘cattāro satipaṭṭhānā’’ti byañjanānaṃ ‘‘satiyeva satipaṭṭhāna’’nti kiṃ nu kho ayaṃ attho, udāhu ‘‘ārammaṇaṃ satipaṭṭhāna’’nti eso atthoti? Imassa kho, āvuso, atthassāti ‘‘ārammaṇaṃ satipaṭṭhāna’’nti imassa atthassa. Yā ceva etānīti yāni ceva etāni mayā vuttāni. Yā ceva esoti yo ceva esa mayā vutto. So neva ussādetabboti tumhehi tāva sammā atthe ca sammā byañjane ca ṭhātabbaṃ. So pana neva ussādetabbo, na apasādetabbo. Saññāpetabboti jānāpetabbo. Tassa ca atthassāti ‘‘satiyeva satipaṭṭhāna’’nti atthassa ca. Tesañca byañjanānanti ‘‘satipaṭṭhānā’’ti byañjanānaṃ. Nisantiyāti nisāmanatthaṃ dhāraṇatthaṃ. Iminā nayena sabbavāresu attho veditabbo.
178. 「そこにおいて」とは、その僧伽の集まりの中で、あるいは彼の発言において。「意味をも誤って把握し、文句をも誤って適用している」とは、『四念処』において、その対象を『念処』であると意味を把握し、『諸々の念処』と文句を適用すること。「友よ、この意味に対しては……ではないか」とは、『念そのものが念処である』という。その意味に対して『四念処(単数形)』というこれらの文句なのか、あるいは『四つの念処(複数形)』というこれらの文句なのか。「どちらがより適切であるか」とは、この意味に対してどちらの文句がより妥当であり、より合致しているか、ということ。「そしてこれらの文句に対しては」とは、『四念処』という文句に対して、『念そのものが念処である』というのがこの意味なのか、あるいは『対象が念処である』というのがその意味なのか。「友よ、この意味に対しては」とは、『対象が念処である』というこの意味に対して。「これら……」とは、私によって語られたこれら。「これ……」とは、私によって語られたこれ。「彼を称賛すべきでもなく」とは、あなた方はまず正しい意味と正しい文句に立脚すべきである。しかし彼を称賛すべきでもなく、非難すべきでもない。「理解させるべきである」とは、知らせるべきである、ということ。「その意味をも」とは、『念そのものが念処である』という意味をも。「それらの文句をも」とは、『念処』という文句をも。「受容のために」とは、熟知させるため、保持させるため、のことである。この理趣によってすべての節において意味を知るべきである。
181. Tādisanti tumhādisaṃ. Atthupetanti atthena upetaṃ atthassa viññātāraṃ. Byañjanupetanti byañjanehi upetaṃ byañjanānaṃ viññātāraṃ. Evaṃ etaṃ bhikkhuṃ pasaṃsatha. Eso hi bhikkhu na tumhākaṃ sāvako nāma, buddho nāma esa cundāti. Iti bhagavā bahussutaṃ bhikkhuṃ attano ṭhāne ṭhapesi.
181. 「そのような者を」とは、あなた方のような者を。「意味を具えた者を」とは、意味を具え、意味を正しく知る者を。「文句を具えた者を」とは、文句を具え、文句を正しく知る者を。「このようにその比丘を称賛しなさい。実にその比丘はあなた方の弟子などではなく、チュンダよ、彼は仏陀と呼ばれるべきである」と。このように世尊は多聞なる比丘をご自身の位置に据えられたのである。
Paccayānuññātakāraṇādivaṇṇanā
資具を許容された理由などの解釈
182. Idāni tatopi uttaritaraṃ desanaṃ vaḍḍhento na vo ahaṃ, cundātiādimāha. Tattha diṭṭhadhammikā āsavā nāma idhaloke paccayahetu uppajjanakā āsavā. Samparāyikā āsavā nāma paraloke bhaṇḍanahetu uppajjanakā āsavā. Saṃvarāyāti yathā te na pavisanti, evaṃ pidahanāya. Paṭighātāyāti mūlaghātena paṭihananāya. Alaṃ vo taṃ yāvadeva sītassa paṭighātāyāti taṃ tumhākaṃ sītassa paṭighātāya samatthaṃ. Idaṃ vuttaṃ hoti, yaṃ vo mayā cīvaraṃ anuññātaṃ, taṃ pārupitvā dappaṃ vā mānaṃ vā kurumānā viharissathāti na anuññātaṃ, taṃ pana pārupitvā sītappaṭighātādīni katvā sukhaṃ samaṇadhammaṃ yoniso manasikāraṃ karissathāti anuññātaṃ. Yathā ca cīvaraṃ, evaṃ piṇḍapātādayopi. Anupadasaṃvaṇṇanā panettha visuddhimagge vuttanayeneva veditabbā.
182. 今、それよりもさらに進んだ教示を広げつつ、「チュンダよ、わたしは汝らに〔法を説くのではない〕」等と仰せられた。その中で、現世的な煩悩(diṭṭhadhammikā āsavā)とは、現世において〔生活の〕資具を機縁として生じる煩悩である。来世的な煩悩(samparāyikā āsavā)とは、来世において〔教義の〕争論を機縁として生じる煩悩である。「防護のために(Saṃvarāyāti)」とは、それらが入り込まないように遮断するために。「撃退のために(Paṭighātāyāti)」とは、根絶によって打ち砕くために。「それは汝らにとって、寒さを撃退するに十分である(Alaṃ vo taṃ yāvadeva sītassa paṭighātāyāti)」とは、それは汝らにとって寒さを撃退するのに適しているということである。以下のことが言われているのである。すなわち、「わたしによって汝らに許された衣、それをまとって奢りや慢心を起こして暮らすようにと許されたのではなく、それをまとって寒さ等を撃退し、沙門の務めを安楽に行い、如理作意をなすようにと許されたのである」と。衣と同様に、托鉢の食物等についても同じである。ここでの一語一語の詳細な解釈は、『清浄道論』で説かれた通りの方法によって知られるべきである。
Sukhallikānuyogādivaṇṇanā
快楽への耽溺等の解釈
183. Sukhallikānuyoganti sukhalliyanānuyogaṃ, sukhasevanādhimuttanti attho. Sukhetīti sukhitaṃ karoti. Pīṇetīti pīṇitaṃ thūlaṃ karoti.
183. 「快楽への耽溺(Sukhallikānuyoganti)」とは、快楽主義への従事であり、快楽の享受に専念しているという意味である。「安楽にする(Sukhetīti)」とは、安楽ならしめる。「喜ばせる(Pīṇetīti)」とは、満ち足らせて肥大させる。
186. Aṭṭhitadhammāti naṭṭhitasabhāvā. Jivhā no atthīti yaṃ yaṃ icchanti, taṃ taṃ kathenti, kadāci maggaṃ kathenti, kadāci phalaṃ kadāci nibbānanti adhippāyo. Jānatāti sabbaññutaññāṇena jānantena. Passatāti pañcahi cakkhūhi passantena. Gambhīranemoti gambhīrabhūmiṃ anupaviṭṭho. Sunikhātoti suṭṭhu nikhāto. Evameva kho, āvusoti evaṃ khīṇāsavo abhabbo nava ṭhānāni ajjhācarituṃ. Tasmiṃ anajjhācāro acalo asampavedhī. Tattha sañcicca pāṇaṃ jīvitā voropanādīsu sotāpannādayopi abhabbā. Sannidhikārakaṃ kāme paribhuñjitunti vatthukāme ca kilesakāme ca sannidhiṃ katvā paribhuñjituṃ. Seyyathāpi pubbe agārikabhūtoti yathā pubbe gihibhūto paribhuñjati, evaṃ paribhuñjituṃ abhabbo.
186. 「定まっていない性質のもの(Aṭṭhitadhammāti)」とは、確固たる性質を持たないもの。「舌がある(Jivhā no atthīti)」とは、欲するままを語り、あるときは道を語り、あるときは果を、あるときは涅槃を語るという意味である。「知る者によって(Jānatāti)」とは、全知の智によって知る者によって。「見る者によって(Passatāti)」とは、五眼によって見る者によって。「深い土台を持つもの(Gambhīranemoti)」とは、深い大地に打ち込まれたもの。「よく打ち込まれた(Sunikhātoti)」とは、堅固に打ち込まれた。「まさにそのように、友よ(Evameva kho, āvusoti)」とは、このように漏尽者は九つの不善処を踏み越えることができない。彼における不可侵(不犯)は不動であり、動揺しない。その中で、故意に生き物を命から奪うこと等においては、預流者らであっても不可能である。「欲を蓄積して享受すること(Sannidhikārakaṃ kāme paribhuñjitunti)」とは、事欲と煩悩欲を蓄積して享受すること。「あたかも昔、在家であった時のように(Seyyathāpi pubbe agārikabhūtoti)」とは、昔、在家であった時のように享受することはできないということである。
Pañhabyākaraṇavaṇṇanā
問答の解釈
187. Agāramajjhe vasantā hi sotāpannādayo yāvajīvaṃ gihibyañjanena tiṭṭhanti. Khīṇāsavo pana arahattaṃ patvāva manussabhūto parinibbāti vā pabbajati vā. Cātumahārājikādīsu kāmāvacaradevesu muhuttampi na tiṭṭhati. Kasmā? Vivekaṭṭhānassa abhāvā. Bhummadevattabhāve pana ṭhito arahattaṃ patvāpi tiṭṭhati. Tassa vasena ayaṃ pañho āgato. Bhinnadosattā panassa bhikkhubhāvo veditabbo. Atīrakanti atīraṃ aparicchedaṃ mahantaṃ. No ca kho anāgatanti anāgataṃ pana addhānaṃ ārabbha evaṃ na paññapeti, atītameva maññe samaṇo gotamo jānāti, na anāgataṃ. Tathā hissa atīte aḍḍhachaṭṭhasatajātakānussaraṇaṃ paññāyati. Anāgate evaṃ bahuṃ anussaraṇaṃ na paññāyatīti imamatthaṃ maññamānā evaṃ vadeyyuṃ. Tayidaṃ kiṃ sūti anāgate apaññāpanaṃ kiṃ nu kho? Kathaṃsūti kena nu kho kāraṇena ajānantoyeva nu kho anāgataṃ nānussarati, ananussaritukāmatāya nānussaratīti. Aññavihitakena ñāṇadassanenāti paccakkhaṃ viya katvā dassanasamatthatāya dassanabhūtena ñāṇena aññatthavihitakena ñāṇena aññaṃ ārabbha pavattena, aññavihitakaṃ aññaṃ ārabbha pavattamānaṃ ñāṇadassanaṃ saṅgāhetabbaṃ paññāpetabbaṃ maññanti. Te hi carato ca tiṭṭhato ca suttassa ca jāgarassa ca satataṃ samitaṃ ñāṇadassanaṃ paccupaṭṭhitaṃ maññanti, tādisañca ñāṇaṃ nāma natthi. Tasmā yathariva bālā abyattā, evaṃ maññantīti veditabbo.
187. というのも、在家の只中に住む預流者らは、生涯にわたり在家の姿のままでとどまる。しかし漏尽者は、阿羅漢果に達するやいなや、人間の姿であるなら般涅槃するか、あるいは出家する。四王天などの欲界天においては瞬時もとどまらない。なぜか? 閑静な場所がないからである。しかし地居天の身にある者は、阿羅漢果に達してもとどまる。その点に基づいてこの問いが生じた。しかしその〔天の〕過失の滅尽に基づき、比丘の状態であると知られるべきである。「無限の(Atīrakanti)」とは、岸のない、際限のない、広大な。「未来についてはそうではない(No ca kho anāgatanti)」とは、未来の期間に関してはそのように施設されない、「沙門ゴータマは過去のみを知り、未来は知らないのだ」と〔外道らは〕思うのである。実に、彼が過去においては五百五十の過去世の記憶(本生)を有していることは知られているが、未来においてはそのように多くの追憶が知られていないからであり、この意味を思って彼らはこのように言うのである。「それはいかなることか(Tayidaṃ kiṃ sūti)」とは、未来についての施設がないのは何ゆえか? 「どのようにか(Kathaṃsūti)」とは、どのような理由によるのか、知らずして未来を追憶しないのか、追憶することを望まないがゆえに追憶しないのか、と。「他の対象に向けられた知見によって(Aññavihitakena ñāṇadassanenāti)」とは、眼前に現前させるように見る能力があることによって見るものとなった智によって、他の事柄に向けられた智によって、他の対象に関して生じた智によって、他の対象に向けて生起している知見を把握し施設すべきであると考えている。なぜなら彼らは、歩む時も立つ時も眠る時も目覚めている時も、常に絶え間なく知見が現前していると考えているが、そのような智は存在しない。したがって、愚かで未熟な者たちがそのように考えていると知られるべきである。
Satānusārīti pubbenivāsānussatisampayuttakaṃ. Yāvatakaṃ ākaṅkhatīti yattakaṃ ñātuṃ icchati, tattakaṃ jānissāmīti ñāṇaṃ pesesi. Athassa dubbalapattapuṭe pakkhandanārāco viya appaṭihataṃ anivāritaṃ ñāṇaṃ gacchati, tena yāvatakaṃ ākaṅkhati tāvatakaṃ anussarati. Bodhijanti bodhimūle jātaṃ. Ñāṇaṃ uppajjatīti catumaggañāṇaṃ uppajjati. Ayamantimā jātīti tena ñāṇena jātimūlassa pahīnattā puna ayamantimā jāti. Natthidāni punabbhavoti aparampi ñāṇaṃ uppajjati. Anatthasaṃhitanti na idhalokatthaṃ vā paralokatthaṃ vā nissitaṃ. Na taṃ tathāgato byākarotīti taṃ bhāratayuddhasītāharaṇasadisaṃ aniyyānikakathaṃ tathāgato na katheti. Bhūtaṃ tacchaṃ anatthasaṃhitanti rājakathāditiracchānakathaṃ. Kālaññū tathāgato hotīti kālaṃ jānāti. Sahetukaṃ sakāraṇaṃ katvā yuttapattakāleyeva katheti.
「念に従う(Satānusārīti)」とは、宿住随念智と相応していること。「望むだけ(Yāvatakaṃ ākaṅkhatīti)」とは、知りたいと望むだけの量を、「わたしは知ろう」と智を差し向ける。そのとき、彼の智は、脆い葉の器を突き抜ける鉄矢のように、妨げられることなく遮られることなく進み、それによって望むだけの量を追憶する。「菩提より生じた(Bodhijanti)」とは、菩提樹の根元で生じた。「智が生じる(Ñāṇaṃ uppajjatīti)」とは、四道智が生じる。「これが最後の生まれである(Ayamantimā jātīti)」とは、その智によって生(再生)の根源が断じられたがゆえに、今やこれが最後の生まれである。「もはや更なる再生はない(Natthidāni punabbhavoti)」という別の智も生じる。「無益なこと(Anatthasaṃhitanti)」とは、現世の利益にも来世の利益にも拠らないこと。「如来はそれを解明しない(Na taṃ tathāgato byākarotīti)」とは、バーラタの戦いやシーター略奪の物語のような、解脱をもたらさない言説を如来は語らない。「事実であり真実であるが無益であること(Bhūtaṃ tacchaṃ anatthasaṃhitanti)」とは、王政談義などの畜生論(無駄話)である。「如来は時を知る者である(Kālaññū tathāgato hotīti)」とは、時を知るということである。理由と根拠を備え、適切で適った時にのみ語るのである。
188. Tasmā tathāgatoti vuccatīti yathā yathā gaditabbaṃ, tathā tatheva gadanato dakārassa takāraṃ katvā tathāgatoti vuccatīti attho. Diṭṭhanti rūpāyatanaṃ. Sutanti saddāyatanaṃ. Mutanti mutvā patvā gahetabbato gandhāyatanaṃ rasāyatanaṃ phoṭṭhabbāyatanaṃ. Viññātanti sukhadukkhādidhammāyatanaṃ. Pattanti pariyesitvā vā apariyesitvā vā pattaṃ. Pariyesitanti pattaṃ vā apattaṃ vā pariyesitaṃ. Anuvicaritaṃ manasāti cittena anusañcaritaṃ. ‘‘Tathāgatena abhisambuddha’’nti iminā etaṃ dasseti, yañhi aparimāṇāsu lokadhātūsu imassa sadevakassa lokassa nīlaṃ pītakantiādi rūpārammaṇaṃ cakkhudvāre āpāthamāgacchati, ‘‘ayaṃ satto imasmiṃ khaṇe imaṃ nāma rūpārammaṇaṃ disvā sumano vā dummano vā majjhatto vā jāto’’ti sabbaṃ taṃ tathāgatassa evaṃ abhisambuddhaṃ. Tathā yaṃ aparimāṇāsu lokadhātūsu imassa sadevakassa lokassa bherisaddo mudiṅgasaddotiādi saddārammaṇaṃ sotadvāre āpāthamāgacchati. Mūlagandho tacagandhotiādi gandhārammaṇaṃ ghānadvāre āpāthamāgacchati. Mūlaraso khandharasotiādi rasārammaṇaṃ jivhādvāre āpāthamāgacchati. Kakkhaḷaṃ mudukantiādi pathavīdhātutejodhātuvāyodhātubhedaṃ phoṭṭhabbārammaṇaṃ kāyadvāre āpāthamāgacchati. ‘‘Ayaṃ satto imasmiṃ khaṇe imaṃ nāma phoṭṭhabbārammaṇaṃ phusitvā sumano vā dummano vā majjhatto vā jāto’’ti sabbaṃ taṃ tathāgatassa evaṃ abhisambuddhaṃ. Tathā yaṃ aparimāṇāsu lokadhātūsu imassa sadevakassa lokassa sukhadukkhādibhedaṃ dhammārammaṇaṃ manodvārassa āpāthamāgacchati, ‘‘ayaṃ satto imasmiṃ khaṇe idaṃ nāma dhammārammaṇaṃ vijānitvā sumano vā dummano vā majjhatto vā jāto’’ti sabbaṃ taṃ tathāgatassa evaṃ abhisambuddhaṃ.
188. 「それゆえ如来と呼ばれる(Tasmā tathāgatoti vuccatīti)」とは、語られるべき通りに、まさにその通りに語ることから、ダ音をタ音に転じて「如来(タターガタ)」と呼ばれる、という意味である。「見られたもの(Diṭṭhanti)」とは、色処(目に見える対象)。「聞かれたもの(Sutanti)」とは、声処(耳に聞こえる対象)。「嗅がれ・味わわれ・触れられたもの(Mutanti)」とは、接触して至り捉えられるべきものゆえに、香処・味処・触処。「識られたもの(Viññātanti)」とは、苦楽などの法処(心の対象)。「達せられたもの(Pattanti)」とは、探求して、あるいは探求せずに達せられたもの。「探求されたもの(Pariyesitanti)」とは、達したか未達かにかかわらず探求されたもの。「意によって巡られたもの(Anuvicaritaṃ manasāti)」とは、心によって巡り歩まれたもの。「如来によって完全に覚知された(Tathāgatena abhisambuddhaṃ)」とは、これによって次のことが示される。すなわち、無辺の世界界において、天神を伴うこの世の人々の眼門に青や黄などの色境が現れるとき、「この衆生はこの瞬間、この色境を見て、喜ぶか、憂えるか、あるいは中立となった」と、そのすべてが如来によってこのように完全に覚知されている。同様に、無辺の世界界において、天神を伴うこの世の人々の耳門に太鼓の音や鼓の音などの声境が現れるとき、鼻門に根の香や樹皮の香などの香境が現れるとき、舌門に根の味や樹幹の味などの味境が現れるとき、身門に硬さや柔らかさなどの地界・火界・風界の区別による触境が現れるとき、「この衆生はこの瞬間、この触境に触れて、喜ぶか、憂えるか、あるいは中立となった」と、そのすべてが如来によってこのように完全に覚知されている。同様に、無辺の世界界において、天神を伴うこの世の人々の意門に苦楽などの区別による法境が現れるとき、「この衆生はこの瞬間、この法境を了知して、喜ぶか、憂えるか、あるいは中立となった」と、そのすべてが如来によってこのように完全に覚知されている。
Yañhi, cunda, imesaṃ sattānaṃ diṭṭhaṃ sutaṃ mutaṃ viññātaṃ tattha tathāgatena adiṭṭhaṃ vā asutaṃ vā amutaṃ vā aviññātaṃ vā natthi. Imassa mahājanassa pariyesitvā pattampi atthi, pariyesitvā appattampi atthi. Apariyesitvā pattampi atthi, apariyesitvā appattampi atthi. Sabbampi taṃ tathāgatassa appattaṃ nāma natthi, ñāṇena asacchikataṃ nāma. ‘‘Tasmā tathāgatoti vuccatī’’ti. Yaṃ yathā lokena gataṃ tassa tatheva gatattā ‘‘tathāgato’’ti vuccati. Pāḷiyaṃ pana abhisambuddhanti vuttaṃ, taṃ gatasaddena ekatthaṃ. Iminā nayena sabbavāresu ‘‘tathāgato’’ti nigamanassa attho veditabbo, tassa yutti brahmajāle tathāgatasaddavitthāre vuttāyeva.
「チュンダよ、実にこれら衆生の、見られたもの、聞かれたもの、嗅がれ・味わわれ・触れられたもの、識られたもののうち、如来にとって見られざるもの、聞かれざるもの、嗅がれ・味わわれ・触れられざるもの、識られざるものはない」と。この多くの民衆には、探求して達したものもあれば、探求して達しないものもある。探求せずに達したものもあれば、探求せずに達しないものもある。それらのすべてにおいて、如来にとって達せられていないもの、智によって現証されていないものは何一つない。「それゆえ如来と呼ばれる」と。世間によって行かれた通りに、彼もまさにその通りに行った(理解した)がゆえに「如来」と呼ばれる。経典においては「完全に覚知された(abhisambuddhaṃ)」と説かれているが、それは「行かれた(gata)」という語と同義である。この方法によって、すべての段落における「如来」という結論の意味が知られるべきであり、その論拠は『梵網経』における「如来」という語の詳細な解説において説かれた通りである。
Abyākataṭṭhānavaṇṇanā
無記処の解釈
189. Evaṃ attano asamataṃ anuttarataṃ sabbaññutaṃ dhammarājabhāvaṃ kathetvā idāni ‘‘puthusamaṇabrāhmaṇānaṃ laddhīsu mayā aññātaṃ adiṭṭhaṃ nāma natthi, sabbaṃ mama ñāṇassa antoyeva parivattatī’’ti sīhanādaṃ nadanto ṭhānaṃ kho panetaṃ, cunda, vijjatītiādimāha. Tattha tathāgatoti satto. Na hetaṃ, āvuso, atthasaṃhitanti idhalokaparalokaatthasaṃhitaṃ na hoti. Na ca dhammasaṃhitanti navalokuttaradhammanissitaṃ na hoti. Na ādibrahmacariyakanti sikkhattayasaṅgahitassa sakalasāsanabrahmacariyassa ādibhūtaṃ na hoti.
189. このように自らの比類なき無上性、全知性、法王としてのあり方を説いてから、今や「多くの沙門・バラモンたちの見解において、わたしに知られていないもの、見られていないものは何もない。すべてはわたしの智の内を巡っている」と獅子吼を放ちつつ、「チュンダよ、このようなことは実にあり得る」等と仰せられた。その中で、「如来(tathāgato)」とは衆生のことである。「友よ、これは実に無益である(Na hetaṃ, āvuso, atthasaṃhitanti)」とは、現世と来世の利益を伴うものではない。「法を伴うものではない(Na ca dhammasaṃhitanti)」とは、九つの出世間法に拠るものではない。「清浄行の初めではない(Na ādibrahmacariyakanti)」とは、三学に包摂される教え全体の清浄行の最初となるものではない。
190. Idaṃ dukkhanti khotiādīsu taṇhaṃ ṭhapetvā avasesā tebhummakā dhammā idaṃ dukkhanti byākataṃ. Tasseva dukkhassa pabhāvikā janikā taṇhā dukkhasamudayoti byākataṃ. Ubhinnaṃ appavatti dukkhanirodhoti byākataṃ. Dukkhaparijānano samudayapajahano nirodhasacchikaraṇo ariyamaggo dukkhanirodhagāminī paṭipadāti byākataṃ. ‘‘Etañhi, āvuso, atthasaṃhita’’ntiādīsu etaṃ idhalokaparalokaatthanissitaṃ navalokuttaradhammanissitaṃ sakalasāsanabrahmacariyassa ādi padhānaṃ pubbaṅgamanti ayamattho.
190. 「これは苦である(Idaṃ dukkhanti kho)」等において、渇愛を除いた残りの三界に属する諸法が「これは苦である」と解明された。その苦を生じさせ発生させる渇愛が「苦集である」と解明された。両者の非生起が「苦滅である」と解明された。苦を遍知し、集を断じ、滅を現証する八聖道が「苦滅に至る道である」と解明された。「友よ、これは実に有益である(Etañhi, āvuso, atthasaṃhitaṃ)」等において、これは現世と来世の利益に拠り、九つの出世間法に拠り、教え全体の清浄行の初めであり、根本であり、先駆であるという意味である。
Pubbantasahagatadiṭṭhinissayavaṇṇanā
過去分に関連する見解の拠り所の解釈
191. Idāni yaṃ taṃ mayā na byākataṃ, taṃ ajānantena na byākatanti mā evaṃ saññamakaṃsu. Jānantova ahaṃ evaṃ ‘‘etasmiṃ byākatepi attho natthī’’ti na byākariṃ. Yaṃ pana yathā byākātabbaṃ, taṃ mayā byākatamevāti sīhanādaṃ nadanto puna yepi te, cundātiādimāha. Tattha diṭṭhiyova diṭṭhinissayā, diṭṭhinissitakā diṭṭhigatikāti attho. Idameva saccanti idameva dassanaṃ saccaṃ. Moghamaññanti aññesaṃ vacanaṃ moghaṃ. Asayaṃkāroti asayaṃ kato.
191. 今や、「わたしによって解明されなかったこと、それを知らずして解明しなかったのだ」とこのように考えてはならない。「わたしはまさに知っていながら、『これを解明しても利益はない』と考えて解明しなかったのである。一方、解明されるべき通りに解明されるべきことは、わたしによってまさに解明されたのである」と獅子吼を放ちつつ、さらに「チュンダよ、それらの人々もまた」等と仰せられた。その中で、見解そのものが「見解の拠り所(diṭṭhinissayā)」であり、見解に拠る者、見解に執着する者という意味である。「これのみが真実である(Idameva saccanti)」とは、この見解のみが真実である。「他は虚妄である(Moghamaññanti)」とは、他者の言葉は虚妄である。「自ら作られたものではない(Asayaṃkāroti)」とは、自らなされたのではない。
192. Tatrāti tesu samaṇabrāhmaṇesu. Atthi nu kho idaṃ āvuso vuccatīti, āvuso, yaṃ tumhehi sassato attā ca loko cāti vuccati, idamatthi nu kho udāhu natthīti evamahaṃ te pucchāmīti attho. Yañca kho te evamāhaṃsūti yaṃ pana te ‘‘idameva saccaṃ moghamañña’’nti vadanti, taṃ tesaṃ nānujānāmi. Paññattiyāti diṭṭhipaññattiyā. Samasamanti samena ñāṇena samaṃ. Yadidaṃ adhipaññattīti yā ayaṃ adhipaññatti nāma. Ettha ahameva bhiyyo uttaritaro na mayā samo atthi. Tattha yañca vuttaṃ ‘‘paññattiyāti yañca adhipaññattī’’ti ubhayametaṃ atthato ekaṃ. Bhedato hi paññatti adhipaññattīti dvayaṃ hoti. Tattha paññatti nāma diṭṭhipaññatti. Adhipaññatti nāma khandhapaññatti dhātupaññatti āyatanapaññatti indriyapaññatti saccapaññatti puggalapaññattīti evaṃ vuttā cha paññattiyo. Idha pana paññattiyāti etthāpi paññatti ceva adhipaññatti ca adhippetā, adhipaññattīti etthāpi. Bhagavā hi paññattiyāpi anuttaro, adhipaññattiyāpi anuttaro. Tenāha – ‘‘ahameva tattha bhiyyo yadidaṃ adhipaññattī’’ti.
192. 「その中で(Tatrāti)」とは、それらの沙門・バラモンたちの中で。「友よ、これは実に言われているのか(Atthi nu kho idaṃ āvuso vuccatīti)」とは、「友よ、汝らによって『我と世界は常住である』と言われているが、これは存在するのか、それとも存在しないのか」と、このようにわたしは彼らに問うという意味である。「彼らがこのように言ったとしても(Yañca kho te evamāhaṃsūti)」とは、彼らが「これのみが真実であり、他は虚妄である」と言うこと、それをわたしは彼らに認めない。「施設によって(Paññattiyāti)」とは、見解の施設によって。「同等である(Samasamanti)」とは、等しい智によって同等である。「最上の施設とは(Yadidaṃ adhipaññattīti)」とは、このいわゆる最上の施設である。ここではわたしこそがさらに優れ、さらに卓越しており、わたしと同等な者はいない。そこで、「施設によって」と言われたことと「最上の施設」と言われたこと、この両者は意味としては一つである。分類としては施設と最上の施設の二つとなる。その中で「施設」とは見解の施設である。「最上の施設」とは、蘊の施設、界の施設、処の施設、根の施設、諦の施設、個人の施設と、このように説かれた六つの施設である。しかしここでは、「施設によって」という句においても施設と最上の施設の両方が意図されており、「最上の施設」という句においても同様である。世尊は実に、施設においても無上であり、最上の施設においても無上である。それゆえに「最上の施設に関して、わたしこそがそこでより優れている」と仰せられたのである。
196. Pahānāyāti pajahanatthaṃ. Samatikkamāyāti tasseva vevacanaṃ. Desitāti kathitā. Paññattāti ṭhapitā. Satipaṭṭhānabhāvanāya hi ghanavinibbhogaṃ katvā sabbadhammesu yāthāvato diṭṭhesu ‘‘suddhasaṅkhārapuñjoyaṃ nayidha sattūpalabbhatī’’ti sanniṭṭhānato sabbadiṭṭhinissayānaṃ pahānaṃ hotīti. Tena vuttaṃ. Diṭṭhinissayānaṃ pahānāya samatikkamāya evaṃ mayā ime cattāro satipaṭṭhānā desitā paññattā’’ti. Sesaṃ sabbattha uttānatthamevāti.
196. 「断ずるために(Pahānāyāti)」とは、捨断するために。「超克のために(Samatikkamāyāti)」とは、それの同義語である。「説かれた(Desitāti)」とは、語られた。「施設された(Paññattāti)」とは、打ち立てられた。実に、念処の修習によって〔身体や心の〕塊を分解し、すべての法についてありのままに見るとき、「これは純粋な諸行の集まりであり、ここに衆生は存在しない」と確定することから、あらゆる見解の拠り所の捨断が起こる。それゆえに説かれたのである。「見解の拠り所を断ずるために、超克するために、このようにわたしによってこれら四念処が説かれ、施設されたのである」と。残りはすべて明瞭な意味である。
Sumaṅgalavilāsiniyā dīghanikāyaṭṭhakathāya
スマンガラヴィラーシニー(吉祥なる悦び)長部註解において
Pāsādikasuttavaṇṇanā niṭṭhitā.
清浄経(パーサーディカスッタ)の注釈、終わる。