2. Udumbarikasuttavaṇṇanā2. 優曇婆羅経の註解
Nigrodhaparibbājakavatthuvaṇṇanā
ニグローダ遊行者の事柄の註解
49. Udumbarikāyāti sambandhe sāmivacananti āha **‘‘udumbarikāya deviyā santake paribbājakārāme’’**ti. ‘‘Udumbarikāya’’nti vā pāṭho, tathā sati adhikaraṇe etaṃ bhummaṃ. Ayañhettha attho udumbarikāya rañño deviyā nibbattito ārāmo udumbarikā, tassaṃ udumbarikāyaṃ. Tenāha **‘‘udumbarikāya deviyā santake’’**ti. Tāya hi nibbattito tassā santako. Varaṇādipāṭhavasena cettha nibbattatthabodhakassa saddassa adassanaṃ. Sandhānoti bhinnānampi tesaṃ sandhāpanena ‘‘sandhāno’’ti evaṃ laddhanāmo. Saṃvaṇṇitoti pasaṃsito. Iriyatīti pavattati. Ariyena ñāṇenāti kilesehi ārakattā ariyena lokuttarena ñāṇena. Ariyāya vimuttiyāti suvisuddhāya lokuttaraphalavimuttiyā.
49. 「ウドゥムバリカの」とは、結合における所有格の語であるとし、「ウドゥムバリカ王妃の所有である遊行者園林において」と述べた。「ウドゥムバリカにおいて」という読みもあり、その場合は場所に関する処格である。ここでの意味は、ウドゥムバリカという王の妃によって造営された園林がウドゥムバリカであり、そのウドゥムバリカにおいて、ということである。それゆえ「ウドゥムバリカ王妃の所有の」と述べた。彼女によって造営されたからこそ彼女の所有なのである。ヴァラナなどの読み方に基づき、ここには造営の意味を表す言葉は見られない。「サンダーナ」とは、不和となった者たちをも結びつけることから「結びつける者(サンダーナ)」とこのように名を得た者。「称賛された」とは、誉め称えられた。「振る舞う」とは、活動する。「聖なる智によって」とは、煩悩から遠離しているがゆえに聖なる出世間の智によって。「聖なる解脱によって」とは、極めて清浄なる出世間の果の解脱によって。
Divā-saddo dina-saddo viya divasapariyāyo, tassa visesanabhāvena vuccamāno divā-saddo savisesaṃ divasabhāgaṃ dīpetīti āha **‘‘divasassa divā’’**tiādi. Yasmā samāpannassa cittaṃ nānārammaṇato paṭisaṃhataṃ hoti, jhānasamaṅgī ca pavivekūpagamanena saṅgaṇikābhāvato ekākiyāya nilīno viya hoti, tasmā vuttaṃ **‘‘tato tato…pe… gato’’**ti. Mano bhavanti manaso vivaṭṭanissitaṃ vaḍḍhiṃ āvahantīti manobhāvaniyāti āha **‘‘manavaḍḍhakāna’’**ntiādi. Unnamati na saṅkucati, alīnañca hotīti attho.
「divā(昼)」という語は「dina(日)」という語のように「昼間」の同義語であり、その修飾語として語られる「divā」の語は特定の昼の時間を明らかにしているとして、「昼の昼間に」等と述べた。三昧に入った者の心は様々な対象から収められており、禅定を具えた者は遠離に至ることによって喧騒を離れるゆえに、孤独の中に隠れ住むかのようであるからこそ、「あちこちから……中略……行った」と述べられた。「心を育てるもの」とは、心に輪廻からの脱出(解脱)に基づく増大をもたらすことから「心を育てるもの」であるとし、「心を増大させるものたちの」等と述べた。「高揚し」とは、縮こまらず、沈滞しない、という意味である。
51. Yāvatāti yāvantoti ayamettha atthoti āha **‘‘yattakā’’**ti. Tesanti niddhāraṇe sāmivacanaṃ. Niddhāraṇañca kenaci visesena icchitabbaṃ. Yehi ca guṇavisesehi samannāgatā bhagavato sāvakā upāsakā rājagahe paṭivasanti, ayañca tehi samannāgatoti imaṃ visesaṃ dīpetuṃ **‘‘tesaṃ abbhantaro’’**ti vuttaṃ. Tenāha **‘‘bhagavato kirā’’**tiādi.
51. 「〜の限り」とは、〜のすべて、というのがここでの意味であるとし、「どれほど多くの」と述べた。「彼らの」とは、抽出における所有格である。そして抽出は何らかの卓越性によって望まれるべきである。そして世尊の弟子である優婆塞たちが具えて王舎城に住んでいるそれらの卓越した徳を、彼もまた具えているというこの卓越性を明らかにするために「彼らの内部の者」と言われた。それゆえ「世尊の実に」等と述べられた。
52. Tesanti paribbājakānaṃ. Kathāyāti tiracchānakathāya. Dassanenāti diṭṭhidassanena. Ākappenāti vesena. Kuttenāti kiriyāya. Ācārenāti aññamaññasmiṃ ācaritabbaācārena. Vihārenāti rattindivaṃ viharitabbaviharaṇena. Iriyāpathenāti ṭhānādiiriyāpathena. Aññākāratāya aññatitthe niyuttāti aññatitthiyā. Saṅgantvā samāgantvā rāsī hutvā parehi nisinnaṭṭhāne. Araññāni ca tāni vanapatthāni cāti araññavanapatthāni. Tattha yaṃ araññakaṅganipphādakaṃ āraññakānaṃ, taṃ ‘‘arañña’’nti veditabbaṃ. Vanapatthanti gāmantaṃ atikkamitvā manussānaṃ anupacāraṭṭhānaṃ, yattha na kasīyati na vappīyati. Vuttañhetaṃ ‘‘vanapatthanti dūrānametaṃ senāsanānaṃ adhivacana’’nti ‘‘vanapatthanti vanasaṇḍānametaṃ senāsanānaṃ, vanapatthanti bhīsanakānametaṃ, vanapatthanti salomahaṃsānametaṃ, vanapatthanti pariyantānametaṃ vanapatthanti na manussūpacārānametaṃ senāsanānaṃ adhivacana’’nti (vibha. 531). Tena vuttaṃ **‘‘gāmūpacārato muttānī’’**tiādi. Pantānīti pariyantāni atidūrāni. Tenāha **‘‘dūratarānī’’**tiādi. Vihārūpacārenāti vihārassa upacārappadesena. Addhikajanassāti maggagāmino janassa. Mandasaddānīti uccāsaddamahāsaddābhāvato tanusaddāni. Manussehi samāgamma ekajjhaṃ pavattitasaddo nigghoso, tassa yasmā attho dubbibhāvito hoti, tasmā vuttaṃ **‘‘avibhāvitatthena nigghosenā’’**ti. Vigatavātānīti vigatasaddāni. **‘‘Rahassa karaṇassa yuttānī’’**ti imināpi tesaṃ ṭhānānaṃ araññalakkhaṇayuttataṃ, janavivittataṃ, vanavivittameva ca vibhāveti, tathā **‘‘ekībhāvassa anurūpānī’’**ti iminā.
52. 「彼らの」とは、遊行者たちの。「語らいによって」とは、無益な世間話によって。「見解によって」とは、邪見の観察によって。「身なりによって」とは、服装によって。「振る舞いによって」とは、所作によって。「作法によって」とは、互いに行われるべき作法によって。「住まいによって」とは、夜昼に住まわれるべき生活によって。「起居の様相によって」とは、静止などの威儀によって。「異なった様相によって他の教えに従事している」ゆえに「異教徒たち」である。「集まって」とは、合流して群れをなして他者たちの座っている場所において。「森であり、かつ人里離れた叢林であるもの」が「森林叢林」である。そこにおいて森林住の修行項目を達成させる森林住者のための場所を「森」と知るべきである。「人里離れた叢林」とは、村の境界を越えて人間の立ち寄らない場所であり、耕作も播種もされない場所である。「『人里離れた叢林』とは、遠く離れた坐臥処の名称である」「『人里離れた叢林』とは森林叢林の坐臥処の名称であり、『人里離れた叢林』とは恐ろしいものの名称であり、『人里離れた叢林』とは身の毛のよだつものの名称であり、『人里離れた叢林』とは辺境のものの名称であり、『人里離れた叢林』とは人間の立ち寄らない坐臥処の名称である」(分別論五三一)と説かれている通りである。それゆえ「村の近隣から離れた」等と述べられた。「人里離れた」とは、辺境の、遠く離れた。それゆえ「より遠方の」等と述べた。「寺院の敷地によって」とは、寺院の近隣の場所によって。「旅人の」とは、道を行く人々の。「物音の少ない」とは、高い声や大声がないことから微かな物音の。「人間が集まって一堂に発した声」が「騒音」であり、その意味は判別しがたいものであることから、「判別しがたい意味の騒音によって」と述べた。「風のない(静かな)」とは、物音のない。「密かな瞑想をなすのに適した」ということによっても、それらの場所が森林の特徴を具えていること、人から遠離していること、そしてまさに森において遠離していることを明示しており、同様に「独座に相応しい」ということによってもそうである。
53. Kenāti hetumhi, sahayoge ca karaṇavacananti āha **‘‘kena kāraṇena kena puggalena saddhi’’**nti. Ekopi hi vibhattiniddeso anekatthavibhāvano hoti, tathā taddhitatthapadasamāhāreti.
53. 「誰によって」とは、原因において、そして同伴においての具格の語であるとし、「いかなる理由によって、いかなる人物とともに」と述べた。一つの格の指示であっても多くの意義を明示するものであり、同様に二次派生語の意義と複合語の集約においてもそうである。
Saṃsandananti ālāpasallāpavasena kathāsaṃsandanaṃ. Ñāṇabyattabhāvanti byattañāṇabhāvaṃ, so pana parassa vacane uttaradānavasena, parena vā vuttauttare paccuttaradānavasena siyāti āha **‘‘uttarapaccuttaranayenā’’**ti. Yo hi parassa vacanaṃ tipukkhalena nayena rūpeti, tathā parassa rūpanavacanaṃ jātibhāvaṃ āpādeti, tassa tādisaṃ vacanasabhāvaṃ ñāṇaveyyattiyaṃ vibhāveti pākaṭaṃ karotīti. Suññāgāresu naṭṭhāti suññāgāresu nivāsesu naṭṭhā vinaṭṭhā abhāvaṃ gatā. Nāssa paññā nasseyya tehi tehi katapucchanapaṭipucchananimittaṃ nānāpaṭibhānuppattiyā visāramāpannaṃ pucchitaṃ pañhaṃ vissajjetuṃ asamatthatāya. Orodheyyāmāti nirussāhaṃ viya karontā avarodheyyāma, taṃ parassa orodhanaṃ vādajālena vinandhanaṃ viya hotīti āha **‘‘vinandheyyāmā’’**ti. Tadatthaṃ tena tucchakumbhinidassanaṃ kataṃ, taṃ byatirekamukhena dassetuṃ **‘‘pūritaghaṭo hī’’**tiādi vuttaṃ.
「突き合わせること」とは、対話による議論の突き合わせのことである。「智の明敏さ」とは、明敏な智の状態のことであり、それは他者の言葉への回答を与えることによって、あるいは他者によって語られた回答への再回答を与えることによってあり得るとして、「問答の順序によって」と述べた。他者の言葉を三通りの卓越した方法で整え、同様に他者の整えた言葉を生きたものにする者は、そのような言葉の本質が智の明敏さを明示し、明白にするのである。「空き家において滅びた」とは、空き家の住居において滅び、壊滅し、失われた。「彼の智慧は滅びないであろうか」とは、様々な人々によってなされた質問と再質問を原因として多様な弁才が生じることによって、広大さに達した問われた問いを答えることができないことによって。「封じ込めよう」とは、無力にするかのように遮断しようということであり、他者のその封じ込めは議論の網によって絡め取るようなものであるとし、「絡め取ろう」と述べた。その意味のために彼によって空の水瓶の例えがなされたが、それを反対の観点から示すために「満たされた水瓶は実に」等と述べられた。
Balaṃ dīpentoti abhūtameva attano ñāṇabalaṃ pakāsento. Asambhinnanti jātisambhedābhāvena asambhinnaṃ. Aññajātisambhede sati assatarassa assassa jātabhāvo viya sīhassapi sīhathāmābhāvo siyāti āha **‘‘asambhinnakesarasīha’’**nti. Ṭhānaso vāti taṅkhaṇe eva.
「力を示す者」とは、存在しない自身の智の力を明示する者。「混じり気のない」とは、血統の混交がないことによって混じり気のない。「他種との混交がある場合には、ラバの馬の生まれのようになるように、獅子であっても獅子の力強さがないことになるであろう」として「純粋な有髪獅子」と述べた。「たちどころに」とは、まさにその瞬間に。
54. ‘‘Sumāgadhā nāma nadī’’ti keci, taṃ micchāti dassento ‘‘sumāgadhā nāma pokkharaṇī’’ti vatvā tassā pokkharaṇibhāvassa suttantare āgatataṃ dassetuṃ **‘‘yassā tīre’’**tiādi vuttaṃ. Morānaṃ nivāpo etthāti moranivāpo. Byadhikaraṇānampi hi padānaṃ bāhiratthasamāso hotiyeva yathā ‘‘urasilomo’’ti. Atha vā nivutthaṃ etthāti nivāpo, morānaṃ nivāpo moranivāpo, morānaṃ nivāpadinnaṭṭhānaṃ. Tenāha **‘‘yattha morāna’’**ntiādi. Yasmā nigrodho tapojigucchavādo, sāsane ca bhikkhū attakilamathānuyogaṃ vajjetvā bhāvanānuyogena paramassāsappatte viharante passati, tasmā ‘‘kathaṃ nu kho samaṇo gotamo kāyakilamathena vināva sāvake vinetī’’ti sañjātasandeho ‘‘ko nāma so’’tiādinā bhagavantaṃ pucchi. Assasati anusaṅkitaparisaṅkito hoti etenāti assāso, pītisomanassanti āha **‘‘assāsappattāti tuṭṭhippattā somanassappattā’’**ti. Adhiko seṭṭho āsayo nissayo ajjhāsayoti āha **‘‘uttamanissayabhūta’’**nti. Ādibhūtaṃ purātanaṃ seṭṭhacariyaṃ ādibrahmacariyaṃ, lokuttaramagganti attho. Tathā hesa sabbabuddhapaccekabuddhasāvakehi teneva ākārena adhigato. Tenāha **‘‘purāṇa…pe… ariyamagga’’**nti. Tathā hi taṃ bhagavā ‘‘addasa purāṇaṃ maggaṃ purāṇamañjasa’’nti avoca. Pūretvā bhāvanāpāripūrivasena. ‘‘Pūretvā’’ti vā idaṃ ‘‘ajjhāsayaṃ ādibrahmacariya’’nti ettha pāṭhasesoti vadanti. ‘‘Ajjhāsayaṃ ādibrahmacariyaṃ paṭijānanti assāsappattā’’ti evaṃ vā ettha yojanā.
54. 「スママガダーとは川の名である」と言う者もいるが、それが誤りであることを示して「スママガダーとは池の名である」と述べ、その池であることの経典における記述を示すために「その岸辺において」等と述べられた。「孔雀たちの餌場がここにある」ゆえに「孔雀の餌場(モーラニヴァーパ)」である。異なる格を持つ語であっても「胸に毛のある者」のように外来の意義の複合語(所有複合語)となるのである。あるいは「そこに住まわせられた」ゆえに「餌場(給餌所)」であり、孔雀たちの餌場が「孔雀の餌場」、孔雀たちに餌が与えられる場所のことである。それゆえ「孔雀たちに……の場所」等と述べた。ニグローダは苦行嫌悪論者(苦行を尊び穢れを嫌う者)であり、仏教において比丘たちが自己苦行への専念を離れ、修習への専念によって最高の安らぎに達して住んでいるのを見て、「沙門ゴータマはいかにして身体の苦行なしに弟子たちを訓練するのか」と疑念を生じ、「それはいかなるものであるか」などと世尊に尋ねた。これによって息をつき、疑念や危惧から離れるゆえに「安らぎ」、喜悦と歓喜のことであるとし、「安らぎに達したとは、満足に達した、歓喜に達した」と述べた。卓越し最上の意向・依処が「勝れた意向」であるとし、「最上の依処となった」と述べた。原初であり古代からの最上の行いが「原初の清浄行(梵行)」であり、出世間の道という意味である。実にそれは、すべての覚者・独覚・仏弟子たちによってまさにその様態で証得されたのである。それゆえ「古の……中略……聖なる道」と述べた。世尊はそれを「私は古の道、古の小径を見た」と言われた通りである。「満たして」とは、修習を完成させることによって。「満たして」とは、「意向としての原初の梵行」における文の補足であるとも言われる。「安らぎに達した者たちが、意向としての原初の梵行を公言する」と、このようにここで構文をとることもできる。
Tapojigucchāvādavaṇṇanā
苦行嫌悪論の説の註解
55. Pakatā hutvā vicchinnā vippakatāti āha **‘‘aniṭṭhitāva hutvā ṭhitā’’**ti.
55. 「始められて中断された」のが「中途半端にされた」であるとし、「未完了のままで留まった」と述べた。
56. Vīriyena pāpajigucchanavādoti lūkhapaṭipattisādhanena vīriyena attataṇhāvinodanavasena pāpakassa jigucchanavādo. Jigucchatīti jiguccho, tabbhāvo jegucchaṃ, adhikaṃ jegucchaṃ adhijegucchaṃ, ativiya pāpajigucchanaṃ, tasmiṃ adhijegucche. Kāyadaḷhībahulaṃ tapatīti tapo, attakilamathānuyogavasena pavattaṃ vīriyaṃ, tena kāyadaḷhībahulatānimittassa pāpassa jigucchanaṃ, virajjanampi tapojigucchāti āha **‘‘vīriyena pāpajigucchā’’**ti. Ghāsacchādanasenāsanataṇhāvinodanamukhena attasnehavirajjananti attho. Upari vuccamānesu nānākāresu acelakādivatesu ekajjhaṃ samādinnānaṃ parisodhanamevettha pāripūraṇaṃ, na sabbesaṃ anavasesato samādānaṃ tassa asambhavatoti āha **‘‘paripuṇṇāti parisuddhā’’**ti. Parisodhanañca nesaṃ sakasamayasiddhena nayena paṭipajjanameva. Vipariyāyena aparisuddhatā veditabbā.
56. 「精進による悪の嫌悪を説く者」とは、粗悪な実践の成就による精進によって、自己への渇愛を遠離することに基づき悪を嫌悪することを説く者のことである。嫌悪する(jigucchati)がゆえに嫌悪(jiguccho)であり、その状態が「嫌悪性(jeguccheṃ)」であり、過度の嫌悪が「増嫌悪(adhijegucchaṃ)」であり、甚だしい悪の嫌悪のことであり、その増嫌悪においてである。肉体の強固を主として苦行する(tapati)がゆえに苦行(tapo)であり、自己の苦行の実践に基づき生起した精進であり、それによって肉体の強固さを原因とする悪を嫌悪し、離貪することをも「苦行嫌悪」と言うので「精進による悪の嫌悪」と言った。食物・衣服・住居への渇愛を遠離することを通じて自己への執着を離れること、という意味である。以下に説かれる種々の無衣行などの戒において、一括して受持されたものを清浄にすることこそがここでの「円満」であり、それらすべてを残らず受持することではない。それは不可能であるからである。それゆえ「円満とは清浄である」と言った。そしてそれらの清浄とは、自らの教義において確立された理趣に従って実践することにほかならない。その反対によって不清浄であることを知るべきである。
57. **‘‘Ekaṃ pañhampi na kathetī’’**ti paṭhamaṃ attanā pucchitapañhassa akathitattā vuttaṃ.
57. 「一つの問いにも答えない」とは、初めに自らが尋ねた問いに答えられなかったことによって言われた。
Tapanissitakoti attakilamathānuyogasaṅkhātaṃ tapaṃ nissāya samādāya vattanako. Sīhanādeti sīhanādasuttavaṇṇanāyaṃ. Yasmā tattha vitthāritanayena veditabbāni, tasmā tassā atthappakāsanāya vuttanayenapi veditabbāni.
「苦行に依存する者」とは、自己の苦行の実践と呼ばれる苦行に依存し、それを受持して生きる者のことである。「師子吼において」とは、師子吼経の釈においてである。そこには詳細な理趣によって知られるべきであるから、その意義の解明において説かれた理趣によっても知られるべきである。
Upakkilesavaṇṇanā
随煩悩の注釈
58. ‘‘Sammā ādiyatī’’ti vatvā sammā ādiyanañcassa daḷhaggāho evāti āha **‘‘daḷhaṃ gaṇhātī’’**ti. ‘‘Sāsanāvacarenāpi dīpetabba’’nti vatvā taṃ dassetuṃ **‘‘ekacco hī’’**tiādi vuttaṃ, tena dhutaṅgadharatāmattena attamanatā, paripuṇṇasaṅkappatā sammāpaṭipattiyā upakkilesoti imamatthaṃ dasseti, na yathāvuttatapasamādānadhutaṅgadharatānaṃ satipi aniyyānikatte sadisatanti daṭṭhabbaṃ.
58. 「正しく受持する」と言って、正しく受持することとは堅固に執取することにほかならないので「堅く把握する」と言った。「仏教の実践者によっても明示されるべきである」と言って、それを明かすために「ある者は実に」などと言った。それによって、頭陀行の実践者であることだけで満足し、意図が満たされたとするのは正しい実践の随煩悩であるというこの意義を示している。前述の苦行の受持と頭陀行の実践とが、出離に至らないことにおいて同等であると見なすべきではない。
‘‘Duvidhassāpīti ‘attamano hoti paripuṇṇasaṅkappo’ti ca evaṃ upakkilesabhedena vuttassa duvidhassāpi tapassino’’ti keci. Yasmā pana aṭṭhakathāyaṃ sāsanikavasenāpi attho dīpito, tasmā bāhirakassa, sāsanikassa cāti evaṃ duvidhassāpi tapassinoti attho veditabbo. Tathā ceva hi uparipi atthavaṇṇanaṃ vakkhatīti. Ettāvatāti yadidaṃ ‘‘ko añño mayā sadiso’’ti evaṃ atimānassa, aniṭṭhitakiccasseva ca ‘‘alamettāvatā’’ti evaṃ atimānassa ca uppādanaṃ, ettāvatā.
「二種のものにも」とは、「満足し意図を満たされた者となる」と、このように随煩悩の分別によって説かれた二種の苦行者のことであると言う者もいる。しかし義釈において仏教の文脈によっても意義が明示されているので、外道と仏教徒との、このように二種の苦行者という意味で理解されるべきである。実にそのように以下でも意義の注釈が説かれるからである。「これほどのことによって」とは、「誰が私に等しいだろうか」というこのような過慢、また未完了の務めに対して「これほどで十分だ」というこのような過慢を生じること、これほどのことによってである。
Ukkaṃsatīti ukkaṭṭhaṃ karoti. Ukkhipatīti aññesaṃ upari khipati, paggaṇhātīti attho. Paraṃ saṃhāretīti paraṃ saṃharaṃ nihīnaṃ karoti. Avakkhipatīti adho khipati, avamaññatīti attho.
「高挙する」とは、勝れたものとする。「持ち上げる」とは、他者の上に投じる、賞賛するという意味である。「他者を貶める」とは、他者を卑下し、劣ったものにする。「見下す」とは、下に投じる、軽蔑するという意味である。
Mānamadakaraṇenāti mānasaṅkhātassa madassa karaṇena uppādanena. Mucchito hotīti mucchāpanno hoti, sā pana mucchāpatti abhijjhāsīlabbataparāmāsakāyaganthehi gadhitacittatā, tattha ca atilaggabhāvoti āha **‘‘gadhito ajjhosanno’’**ti. Pamajjanañcettha pamajjanamevāti āha **‘‘pamādamāpajjatī’’**ti. Kevalaṃ dhutaṅgasuddhiko hutvā kammaṭṭhānaṃ ananuyuñjanto tāya eva dhutaṅgasuddhikatāya attukkaṃsanādivasena pavatteyyāti dassetuṃ **‘‘sāsane’’**tiādi vuttaṃ. Tenāha **‘‘dhutaṅgameva…pe… paccetī’’**ti.
「慢の驕りを作ることによって」とは、慢と呼ばれる驕りを作り、生じることによってである。「迷妄する」とは、迷妄に陥ることであり、その迷妄に陥るとは、貪求・戒禁取という身の結縛によって執着した心であり、そこにおいて過度に固執した状態であるので「執着し耽溺した」と言った。ここでの放逸とは実に放逸にほかならないので「放逸に陥る」と言った。ただ頭陀行の清浄のみがあって業処を修習せず、その頭陀行の清浄さによって自己を高挙すること等に基づいて振る舞うであろうことを示すために「教えにおいて」などと言った。それゆえ「頭陀行そのものに…(中略)…依存する」と言った。
59. Teyeva paccayā. Suṭṭhu katvā paṭisaṅkharitvā laddhāti ādaragāravayogena sakkaccaṃ abhisaṅkharitvā dānavasena upanayavasena laddhā. Vaṇṇabhaṇananti guṇakittanaṃ. Assāti tapassino.
59. それらの四資具である。「入念に作られ調えられて得られた」とは、恭敬と尊重を伴って丁寧に調えられ、施与によって、提供によって得られたという意味である。「称賛を語る」とは、徳を讃えることである。「彼に」とは、その苦行者に。
60. Vodāsanti byāsanaṃ, vibhajjananti attho. Taṃ panettha vibhajjanaṃ dvidhā icchitanti āha **‘‘dvebhāgaṃ āpajjatī’’**ti. Dve bhāge karoti ruccanāruccanavasena. Gedhajātoti sañjātagedho. Mucchanaṃ nāma sativippavāseneva hoti, na satiyā satīti āha **‘‘samuṭṭhassatī’’**ti. Ādīnavamattampīti gadhitādibhāvena paribhoge ādīnavamattampi na passati. Mattaññutāti paribhoge mattaññutā. Paccavekkhaṇaparibhogamattampīti paccavekkhaṇamattena paribhogampi ekavāraṃ paccavekkhitvāpi paribhuñjanampi na karoti.
60. 「分配」とは区分、分別の意味である。そこにおいてその分別は二種として望まれるので「二分に分かれる」と言った。好悪に基づいて二分にする。「貪欲を生じた」とは、貪欲が生起した。「迷妄」とは念の喪失によって生じるものであり、正念があるときには生じないため「念を忘失した」と言った。「過患のほども」とは、執着などの状態によって享受することにおける過患のほどをも見ない。「節量を知ること」とは、享受における節量を知ること。「観察による享受のほども」とは、観察するだけによる享受をも、一度観察して享受することすら行わない。
61. Vicakkasaṇṭhānāti vipulatamacakkasaṇṭhānā. Sabbassa bhuñjanato ayokūṭasadisā dantā eva dantakūṭaṃ. Apasādetīti pasādeti. Acelakādivasenāti acelakavatādivasena. Lūkhājīvinti sallekhapaṭipattiyā lūkhajīvikaṃ.
61. 「大いなる円輪の形」とは、極めて広大な車輪の形である。すべてのものを喰らうことから鉄槌に似た歯そのものが歯の槌である。「信解させる」とは、信じさせること。「無衣などの修行によって」とは、無衣の戒などの実践によって。「粗悪な生活を送る者」とは、削減の実践によって粗悪な生活を送る者のことである。
62. Tapaṃ karotīti bhāvanāmanasikāralakkhaṇaṃ tapaṃ carati caranto viya hoti. Caṅkamaṃ otarati bhāvanaṃ anuyuñjanto viya. Vihāraṅgaṇaṃ sammajjati vattapaṭipattiṃ pūrento viya.
62. 「苦行を行う」とは、修習・作意の特徴をもつ苦行を実践する、実践しているかのようになる。「経行道に下りる」とは、修習に専念しているかのようにである。「僧房の庭を掃除する」とは、義務の実践を全うしているかのようにである。
‘‘Ādassayamāno’’ti vā pāṭho.
あるいは「示しながら(ādassayamāno)」という読みもある。
Kiñci vajjanti kiñci kāyikaṃ vā vācasikaṃ vā dosaṃ. Diṭṭhigatanti viparītadassanaṃ. Aruccamānanti attano siddhante paṭikkhittabhāvena aruccamānaṃ. Ruccati meti ‘‘kappati me’’ti vadati. Anujānitabbanti tacchāviparītabhūtabhāvena ‘‘evameta’’nti anujānitabbaṃ. Savanamanohāritāya ‘‘sādhu suṭṭhū’’ti anumoditabbaṃ.
「何らかの過失」とは、何らかの身体的あるいは言語的な過失である。「悪見に陥ったこと」とは、顛倒した見解である。「好まない」とは、自らの教義において否定されていることによって好まない。「私に好ましい」とは、「私に相応しい」と言う。「承認されるべきこと」とは、真実で顛倒でない事実であることから「この通りである」と承認されるべきことである。耳に心地よく美しいために「善い、優れている」と随喜されるべきである。
63. Kujjhanasīlatāya kodhano. Vuttalakkhaṇo upanāho etassa atthīti upanāhī. Evaṃbhūto ca taṃsamaṅgī hotīti **‘‘samannāgato hotī’’**ti vuttaṃ. Esa nayo ito paresupi.
63. 怒る性質があるために「忿怒ある者」である。説かれた特徴をもつ怨恨が彼にあるため「怨恨ある者」である。このような状態となってそれを具備しているため「具備している」と言った。この理趣はこれ以降のものにも当てはまる。
Ayaṃ pana viseso – issati usūyatīti ussukī. Saṭhanaṃ asantaguṇasambhāvanaṃ saṭho, so etassa atthīti saṭho. Santadosapaṭicchādanasabhāvā māyā, māyā etassa atthīti māyāvī. Garuṭṭhāniyānampi paṇipātākaraṇalakkhaṇaṃ thambhanaṃ thaddhaṃ, tamettha atthīti thaddho. Guṇehi samānaṃ, adhikañca atikkamitvā nihīnaṃ katvā maññanasīlatāya atimānī. Asantaguṇasambhāvanatthikatāsaṅkhātā pāpā lāmakā icchā etassāti pāpiccho. Micchā viparītā diṭṭhi etassāti micchādiṭṭhiko. ‘‘Idameva saccaṃ, moghamañña’’nti (ma. ni. 187, 202, 427; 3.27, 29; udā. 55; mahāni. 20; netti. 58) evaṃ attanā attābhiniviṭṭhatāya satā diṭṭhi sandiṭṭhi, tameva parāmasatīti sandiṭṭhiparāmāsī. Aṭṭhakathāyaṃ pana ‘‘sayaṃ diṭṭhi sandiṭṭhī’’ti vatthuvasena attho vutto. Ā bāḷhaṃ viya dhīyatīti ādhānanti āha **‘‘daḷhaṃ suṭṭhu ṭhapita’’**nti. Yathāgahitaṃ gāhaṃ paṭinissajjanasīlo paṭinissaggī, tappaṭikkhepena duppaṭinissaggī. Paṭisedhattho hi ayaṃ du-saddo yathā ‘‘duppañño, (ma. ni. 1.449) dussīlo’’ti (a. ni. 5.213; 10.75; pārā. 195; dha. pa. 308) ca.
しかしこの差異がある――嫉妬し羨むゆえに「嫉妬ある者」である。欺瞞、存在しない徳を誇示することが「詭詐」であり、それが彼にあるゆえに「詭詐ある者」である。存在する過失を隠蔽する性質が「諂曲」であり、諂曲が彼にあるゆえに「諂曲ある者」である。尊ぶべき人々に対しても礼拝をしない特徴をもつ頑迷さが「頑迷」であり、それが彼にあるゆえに「頑迷な者」である。徳において同等な者、勝れた者を超えて劣ったものと見なす性質があるゆえに「過慢ある者」である。存在しない徳を誇示したいという願いと呼ばれる悪しき、卑劣な欲求が彼にあるゆえに「悪欲ある者」である。邪悪で顛倒した見解が彼にあるゆえに「邪見ある者」である。「これのみが真実であり、他は虚妄である」と、このように自ら自身で執着していることによる自らの見解が「自見」であり、それのみに執着するゆえに「自見に執着する者」である。しかし義釈では「自らの見解が自見である」と対象に基づいて意義が説かれた。極めて堅固に置かれているかのようであるゆえに「強固に把握する」と言い、「堅くしっかりと確立された」と言った。把握した執着を放棄する性質がある者が「放棄する者」であり、その否定によって「放棄しがたい者」である。この「du-」という語は「愚鈍な者(duppañño)」「破戒の者(dussīlo)」というように否定の意味であるからである。
Parisuddhapapaṭikappattakathāvaṇṇanā
清浄にして外皮に達したことに関する説の注釈
64. Idha nigrodha tapassīti yathānukkantaṃ purimapāḷiṃ nigamanavasena ekadesena dasseti. Tenāha **‘‘evaṃ bhagavā’’**tiādi. Gahitaladdhinti ‘‘acelakādibhāvo seyyo, tena ca saṃsārasuddhi hotī’’ti evaṃ gahitaladdhiṃ. Rakkhitaṃ tapanti tāya laddhiyā samādiyitvā rakkhitaṃ acelakavatāditapaṃ. **‘‘Sabbameva saṃkiliṭṭha’’**nti iminā yaṃ vakkhati parisuddhapāḷivaṇṇanāyaṃ ‘‘lūkhatapassino ceva dhutaṅgadharassa ca vasena yojanā veditabbā’’ti (dī. ni. aṭṭha. 3.64), tassa parikappitarūpassa lūkhassa tapassinoti ayamettha adhippāyoti dasseti. **‘‘Parisuddhapāḷidassanattha’’**nti ca iminā titthiyānaṃ vasena pāḷi yevettha labbhati, na pana tadatthoti dasseti. Vuttavipakkhavasenāti vuttassa atthassa paṭipakkhavasena, paṭikkhepavasenāti attho. Tasmiṃ ṭhāneti hetuatthe bhummanti tassa hetuatthena karaṇavacanena atthaṃ dassento **‘‘evaṃ so tenā’’**tiādimāha. Uttari vāyamamānoti yathāsamādinnehi dhutadhammehi aparituṭṭho, apariyositasaṅkappo ca hutvā upari bhāvanānuyogavasena sammāvāyāmaṃ karonto.
64. 「ここに、ニグローダよ、苦行者は」とは、順次に経てきた前段の経文を結語として部分的に示している。それゆえ「このように世尊は」などと言った。「受持された見解」とは、「無衣などの状態こそが優れており、それによって輪廻の清浄がある」とこのように受け入れられた見解である。「守られた苦行」とは、その見解によって受持され守られた無衣の戒などの苦行である。「すべてが汚れている」とは、これによって清浄な経文の注釈において「粗悪な苦行者と頭陀行の実践者とに基づいて適用の仕方が知られるべきである」と説かれることについて、その想定された形態の粗悪な苦行者に関するものであるということがここでの意図であると示している。そして「清浄な経文を示すため」とは、これによって異教徒たちに基づいて経文そのものがここで得られるのであって、その真の意義が得られるのではないことを示している。「説かれた反対のものに基づいて」とは、説かれた意義の対立するものに基づいて、否定するものに基づいてという意味である。「その立場において」とは原因の意味の処格であるから、その原因の意味における具格の語によって意義を示しながら「このように彼はそれによって」などと言った。「さらに努め励み」とは、受持された頭陀の諸法に満足せず、意図を完了させない者となって、さらに修習への専念に基づいて正精進を行う者のことである。
69. Ito paranti ito yathāvuttanayato paraṃ. Aggabhāvaṃ vā sārabhāvaṃ vāti tapojigucchāya aggabhāvaṃ vā sārabhāvaṃ vā ajānanto. ‘‘Ayamevassa aggabhāvo sārabhāvo’’ti maññamāno ‘‘aggappattā, sārappattā cā’’ti āha.
69. 「これより先」とは、この説かれた理趣より先のことである。「頂点あるいは真髄」とは、苦行による嫌悪の頂点あるいは真髄を知らないことである。「これこそがこれの頂点であり真髄である」と考えながら「頂点に達し、真髄に達した」と言った。
Parisuddhatacappattādikathāvaṇṇanā
清浄にして樹皮に達したことなどの説の注釈
70. Yamanaṃ saṃyamanaṃ yāmo, hiṃsādīnaṃ akaraṇavasena catubbidho yāmova cātuyāmo, so eva saṃvaro, tena saṃvuto guttasabbadvāro cātuyāmasaṃvarasaṃvuto. Tenāha **‘‘catubbidhena saṃvarena pihito’’**ti. Atipātanaṃ hiṃsananti āha **‘‘pāṇaṃ na hanatī’’**ti. Lobhacittena bhāvitaṃ sambhāvitanti katvā bhāvitaṃ nāma pañca kāmaguṇā. Ayañca tesu tesaṃyeva samudācāro maggoṭṭhāpakaṃ viyāti āha **‘‘tesaṃ saññāyā’’**ti.
70. 制止すること、よく制御することが「制止(yāma)」であり、殺生等を行わないことによる四種の制止そのものが「四種制止(cātuyāma)」であり、それこそが制御であり、それによって制御されすべての感覚の門が守られている者が「四種制止によって制御された者」である。それゆえ「四種の制御によって覆われた」と言った。殺害すること、害することであるゆえに「生類を殺さない」と言った。貪欲の心によって修習されたもの、尊ばれたものとされた修習されたものとは五つの欲望の対象のことである。そしてこれらにおいてそれら自体の現前した振る舞いが道を立ち上がらせるかのようであるゆえに「それらの想いによって」と言った。
Etanti abhiharaṇaṃ, hīnāya anāvattanañca. Tenāha **‘‘so abhiharatīti ādilakkhaṇa’’**nti. Abhiharatīti abhibuddhiṃ neti. Tenāha **‘‘uparūpari vaḍḍhetī’’**ti. Cakkavattināpi pabbajitassa abhivādanādi karīyatevāti pabbajjā seṭṭhā guṇavisesayogato, dosavirahitato ca, yato sā paṇḍitapaññattā vuttā. Gihibhāvo pana nihīno tadubhayābhāvatoti āha **‘‘hīnāya gihibhāvatthāyā’’**ti.
「これ」とは向上すること、そして劣った状態へ戻らないことである。それゆえ「彼は向上するなどという特徴」と言った。「向上する」とは、勝れた増長へと導く。それゆえ「さらに上へと増長させる」と言った。転輪王によっても出家者への礼拝などが行われるほどに出家は勝れた徳の特質を具備していること、過失を離れていることから勝れており、智者によって制定されたと説かれた。しかし在家の状態はそれら両方を欠いていることから劣っているゆえに「劣った在家の状態のために」と言った。
71. Tacappattāti tacaṃ pattā, tacasadisā hotīti attho.
71. 「樹皮に達した」とは、樹皮に達した、樹皮に似たものとなるという意味である。
74. Titthiyānaṃ vasenāti titthiyānaṃ samayavasena. Nesanti titthiyānaṃ. Tanti dibbacakkhuṃ. Sīlasampadāti sabbākārasampannaṃ catupārisuddhisīlaṃ. Tacasārasampattitoti tacatapojigucchāyāsārasampattito. Visesabhāvanti visesasabhāvaṃ.
74. 「異教徒たちに基づいて」とは、異教徒たちの教義に基づいて。「彼らに」とは、異教徒たちに。「それを」とは、天眼を。「戒の具足」とは、すべての相を備えた四種清浄戒である。「樹皮の真髄の達成によって」とは、樹皮の苦行嫌悪の真髄の達成によって。「勝れた性質」とは、殊勝な自性である。
Acelakapāḷimattampīti acelakapāḷiāgatatthamattampi natthi, tasmā mayaṃ anassāma vinaṭṭhāti attho. A-kāro vā nipātamattaṃ, nassāmāti vinassāma. Kuto parisuddhapāḷīti kuto eva amhesu parisuddhapāḷiāgatapaṭipatti. Esa nayo sesesupi. Sutivasenāpīti sotapathāgamanamattenāpi na jānāma.
「無衣の経文のほども」とは、無衣の経文に説かれた意義のほども存在しない、ゆえに我らは滅び、損なわれたという意味である。あるいは「a-」の文字は単なる不変化詞であり、「滅びる(nassāma)」とは損なわれることである。「どこに清浄な経文があるだろうか」とは、どうして我らの中に清浄な経文に説かれた実践があるだろうか。この理趣は残りのものにも当てはまる。「聞くことによってさえ」とは、耳の道に入ることだけでも知らない。
Nigrodhassapajjhāyanavaṇṇanā
ニグローダの悔恨の注釈
75. Assāti sandhānassa gahapatissa. Kakkhaḷanti pharusaṃ. Durāsadavacananti avattabbavacanaṃ. Yasmā pharusavacanaṃ yaṃ uddissa payuttaṃ, tasmiṃ khamāpite khamāpakassa paṭipākatikaṃ hoti, tasmā **‘‘ayaṃ mayī’’**tiādi vuttaṃ.
75. 「彼に」とは、サンダーナ居士に。「粗暴な」とは、荒々しい。「近づき難い言葉」とは、言うべきではない言葉である。粗暴な言葉は、それを対象として放たれた相手に謝罪させたときに謝罪させた者に元の状態に戻るがゆえに「この者は私に」などと言った。
76. Bodhatthāya dhammaṃ deseti, na attano buddhabhāvaghosanatthāya. Vādatthāyāti paravādabhañjanavādatthāya. Rāgādisamanatthāya dhammaṃ deseti, na antevāsikamyatāya. Oghanittharaṇatthāyāti caturoghanittharaṇatthāya dhammaṃ deseti sabbaso orapārātiṇṇamāvahattā desanāya. Sabbakilesaparinibbānatthāya dhammaṃ deseti kilesānaṃ lesenapi desanāya aparāmaṭṭhabhāvato.
76. 覚りのために法を説くのであって、自らの仏陀である状態を誇示するためではない。「論争のために」とは、他者の論争を論破する論争のために。「貪欲などの静まることのために」法を説くのであって、弟子を求める欲求のためではない。「激流を渡るために」とは、四つの激流を渡るために法を説くのであり、すべての点において此岸から彼岸へと渡った状態をもたらす説法であるからである。「一切の煩悩の完全な滅のために」法を説くのであり、煩悩のわずかな痕跡さえも説法によって触れられないからである。
Brahmacariyapariyosānādivaṇṇanā
清浄行の究極などの注釈
77. Idaṃ sabbampīti sattavassato paṭṭhāya yāva ‘‘sattāha’’nti padaṃ, idaṃ sabbampi vacanaṃ. Asaṭho pana amāyāvī ujujātiko tikkhapañño ugghaṭitaññūti adhippāyo. So hi taṃmuhutteneva arahattaṃ pattuṃ sakkhissatīti. Vaṅkavaṅkoti kāyavaṅkādīhipi vaṅkehi vaṅko jimho kuṭilo. **‘‘Saṭhaṃ panāhaṃ anusāsituṃ na sakkomī’’**ti na idaṃ bhagavā kilāsubhāveneva vadati, atha kho tassa abhājanabhāveneva.
77. 「これらすべてをも」とは、七歳から始まって「七日間」という語に至るまでの、これらすべての言葉のことである。しかし欺瞞なく、諂曲なく、正直な生まれで、鋭い智慧をもち、開示されたことを直ちに理解する者という意味である。彼は実にその瞬間に阿羅漢果に達することができるからである。「極めて歪んだ」とは、身体の歪み等によっても曲がり、歪み、不実な者である。「しかし私は欺瞞ある者を教誡することはできない」とは、世尊はこれを怠惰さによって語るのではなく、実にその者が法を容れる器でないことによって語るのである。
78. Pakatiyā ācariyoti yo eva tumhākaṃ ito pubbe pakatiyā ācariyo ahosi, so eva idānipi pubbāciṇṇavasena ācariyo hotu, na mayaṃ tumhe antevāsike kātukāmāti adhippāyo. Na mayaṃ tumhākaṃ uddesena atthikā, dhammatanti meva pana tumhe ñāpetukāmamhāti adhippāyo. Ājīvatoti jīvikāya vuttito. Akusalāti koṭṭhāsaṃ pattāti akusalāti taṃ taṃ koṭṭhāsataṃyeva upagatā. Kilesadarathasampayuttāti kilesadarathasahitā taṃsambandhanato. Jātijarāmaraṇānaṃ hitāti jātijarāmaraṇiyā. Saṃkileso ettha atthi, saṃkilese vā niyuttāti saṃkilesikā. Vodānaṃ vuccati visuddhi, tassa paccayabhūtattā vodāniyā. Tathābhūtā cete vodāpentīti āha **‘‘satte vodāpentī’’**ti. Sikhāppattā paññāya pāripūrivepullatā maggaphalavaseneva icchitabbāti āha **‘‘maggapaññā…pe… vepullata’’**nti. Ubhopi vā etāni pāripūrivepullāni. Yā hi tassa pāripūrī, sā eva vepullatāti. Tatoti saṃkilesadhammappahānavodānadhammābhibuddhihetu.
78. 「本来の師」とは、これ以前にあなた方の本来の師であったその者こそが、今も以前の習慣に基づいて師であれ、我らはあなた方を弟子とすることを望むのではないという意味である。我らはあなた方からの利益を求めているのではなく、ただ法の理法をあなた方に知らせたいと望んでいるのだという意味である。「生活から」とは、生活の営みから。「不善が」とは、分派に達したことが不善であり、それぞれの分派に陥ったことである。「煩悩の熱苦を伴う」とは、煩悩の熱苦を具備し、それと結びついていることからである。「生・老・死に役立つ」とは、生・老・死に属するものである。「汚れがここにある、あるいは汚れに結びついている」ゆえに「汚れに属するもの」である。清浄は「浄化」と言われ、その原因となるがゆえに「浄化に属するもの」である。そのようになったこれらは浄化させるがゆえに「生類たちを浄化させる」と言った。頂点に達した智慧の円満と広大さは聖道と聖果に基づいてのみ望まれるべきであるゆえに「道智…(中略)…広大さ」と言った。あるいはこれら両方ともが円満と広大さである。彼の円満であるもの、それこそが広大さであるからである。「それゆえ」とは、不善の諸法の放擲と浄化の諸法の増大の原因から。
79. **‘‘Yathā mārenā’’**ti nayidaṃ nidassanavasena vuttaṃ, atha kho tathābhāvakathanamevāti dassetuṃ **‘‘māro kirā’’**tiādi vuttaṃ. Athāti mārena tesaṃ pariyuṭṭhānappattito pacchā aññāsīti yojanā. Kasmā pana bhagavā pageva na aññāsīti? Anāvajjitattā. Māraṃ paṭibāhitvāti mārena tesu kataṃ pariyuṭṭhānaṃ vidhametvā, na tesaṃ sati payojane buddhānaṃ dukkaraṃ. Soti maggaphaluppattihetu. Tesaṃ paribbājakānaṃ.
79. 「魔によって〜のように」とは、これは例えとして説かれたのではなく、実にその状態の事実を語ることであると示すために「魔が実に」などと言った。「そのとき」とは、魔によって彼らが覆われた後に知ったという文脈である。ではなぜ世尊は最初から知らなかったのか。注意を向けていなかったからである。「魔を退けて」とは、魔によって彼らになされた覆いを取り除いてであり、用途があるとき仏陀たちにとってそれは困難ではない。「それ」とは、道果の生起の原因である。「それらの遊行者たちの」。
Phuṭṭhāti pariyuṭṭhānavasena phuṭṭhā. Yatrāti niddhāraṇe bhummanti āha **‘‘yesū’’**ti. Aññāṇatthanti ājānanatthaṃ, upasaggamattañcettha ā-kāroti āha **‘‘jānanattha’’**nti, vīmaṃsanatthanti attho. Cittaṃ nuppannanti ‘‘jānāma tāvassa dhamma’’nti ājānanatthaṃ ‘‘brahmacariyaṃ carissāmā’’ti ekasmiṃ divase ekavārampi tesaṃ cittaṃ nuppannaṃ. Sattāho pana vuccamāno etesaṃ kiṃ karissatīti yojanā. Sattāhaṃ pūretunti sattāhaṃ brahmacariyaṃ pūretuṃ, brahmacariyavasena vā sattāhaṃ pūretunti attho. Paravādabhindananti paravādamaddanaṃ. Sakavādasamussāpananti sakavādapaggaṇhanaṃ. Vāsanāyāti saccasampaṭivedhavāsanāya. Nesanti ca pakaraṇavasena vuttaṃ. Tadaññesampi hi bhagavato sammukhā, paramparāya ca devamanussānaṃ suṇantānaṃ vāsanāya paccayo evāti. Yaṃ panettha atthato na vibhattaṃ, taṃ suviññeyyamevāti.
「触れられた」とは、覆われることによって触れられた。「そこにおいて」とは選定における処格であるゆえに「彼らにおいて」と言った。「知るために」とは了解するためにであり、ここでの「ā-」の文字は単なる接頭辞であるゆえに「知るために」と言い、吟味するためにという意味である。「心が起こらなかった」とは、「まず彼の法を知ろう」と了解するために「清浄行を修めよう」という心が、一日に一度も彼らには起こらなかった。では説かれている七日間は彼らに何をもたらすだろうかという文脈である。「七日間を満たすために」とは、七日間の清浄行を満たすために、あるいは清浄行に基づいて七日間を満たすためにという意味である。「他者の主張を論破すること」とは、他者の主張を粉砕すること。「自らの主張を打ち立てること」とは、自らの主張を高揚させること。「習気のために」とは、真理の通達の習気のために。「彼らに」とは、主題に基づいて説かれた。これ以外の人々にとっても、世尊の面前で、また伝承によって聞く神々と人間たちの習気の原因にほかならないからである。ここで意義として解説されなかったものは、容易に理解されるべきものである。
Udumbarikasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā.
優曇婆羅経注釈における隠れた意義の解明。