Cookieを許可しますか?

Tipiṭakaではサービス提供と改善のためにCookieを使用します。 プライバシーポリシー

11. Dasuttarasuttavaṇṇanā11. 十上経釈

350. Āvuso bhikkhaveti sāvakānaṃ ālapananti sāvakānaṃ āmantanavasena ālapanasamudācāro, na kevalaṃ ‘‘bhikkhave’’ti, so pana buddhānaṃ ālapanaṃ. Tenāha **‘‘buddhā hī’’**tiādi. Satthusamudācāravasena asamudācāro evettha satthu uccaṭṭhāne ṭhapanaṃ. Sampati āgatattā katthaci na nibaddho vāso etesanti anibaddhavāsā, antevāsikā. Kammaṭṭhānaṃ gahetvā sappāyasenāsanaṃ gavesantā yaṃ kiñci disaṃ gacchantīti disāgamanīyā. Idāni tamatthaṃ vitthārato dassetuṃ **‘‘buddhakāle’’**tiādi vuttaṃ.

350. 「友よ、比丘たちよ」という弟子の呼びかけとは、弟子たちが互いに呼びかける際の慣習であり、単に「比丘たちよ」というのではない。それは仏たちの呼びかけである。それゆえに「仏たちは実に」などと言った。師の慣習に基づかないことこそが、ここでは師を高い座に据えることである。今やって来たばかりでどこにも定住していないゆえに、不定住者、すなわち弟子(アンテヴァーシカ)たちである。業処を得て適した住処を求めていかなる方角へも赴くゆえに、方角へ赴くべき者たちである。今やその意味を詳細に示すために「仏陀の時代に」などと説かれた。

Asubhakammaṭṭhānanti ekādasavidhaṃ asubhakammaṭṭhānaṃ. Tatthāpi puggalavemattataṃ ñatvā tadanurūpaṃ tadanurūpameva deti. Mohacaritassapi kāmaṃ ānāpānassatikammaṭṭhānaṃ sappāyaṃ, kammaṭṭhānabhāvanāya pana bhājanabhūtaṃ kātuṃ sammohavigamāya paṭhamaṃ uddesaparipucchādhammassavanadhammasākacchāsu niyojetabboti vuttaṃ **‘‘mohacaritassa…pe… ācikkhatī’’**ti. Saddhācaritassa visesato purimā cha anussatiyo sappāyā, tāsaṃ pana anuyuñjane ayaṃ pubbabhāgapaṭipattīti dassetuṃ **‘‘pasādanīyasuttante’’**tiādi vuttaṃ. Ñāṇacaritassāti buddhicaritassa, tassa pana maraṇassati, upasamānussati, catudhātuvavatthānaṃ, āhārepaṭikūlasaññā visesato sappāyā, tesaṃ pana upakāradhammadassanatthaṃ **‘‘aniccatādi…pe… kathetī’’**ti vuttaṃ. Tatthevāti satthu santike eva. Temāsikaṃ paṭipadanti tīhi māsehi sanniṭṭhāpetabbaṃ paṭipadaṃ.

「不浄業処」とは、十一種類の不浄業処のことである。そこでもまた人物の個性を知って、それに相応したもののみを与える。痴行の者にとっても、確かに阿那般那念(入出息念)の業処が適しているが、業処修習の器とするために、惑乱を除くべく、まず第一に教授、問訊、聴法、法談義に従事させるべきであるとされ、「痴行の者には…(略)…告げる」と説かれた。信行の者には、特に前の六随念が適しているが、それらの実践においてこれは前段階の修行であることを示すために「澄浄経において」などと説かれた。「智行の者に」とは、慧行の者のことであり、彼には死随念、寂静随念、四界分別、食厭想が特に適しているが、それらの助勢となる法を示すために「無常など…(略)…語る」と説かれた。「まさにその場で」とは、師の御前でということである。「三ヶ月の修行」とは、三ヶ月で完了すべき修行のことである。

Ime bhikkhūti imissā dhammadesanāya bhājanabhūtā bhikkhū. ‘‘Evaṃ āgantvā gacchante **pana bhikkhū’’**ti idaṃ ‘‘buddhakāle’’tiādinā taduddesikavasena vuttabhikkhū sandhāya vuttaṃ, na ‘‘ime bhikkhū’’ti anantaraṃ vuttabhikkhū. Tenāha **‘‘pesetī’’**ti. Apalokethāti āpucchatha. **‘‘Paṇḍitā’’**tiādi sevanabhajanesu kāraṇavacanaṃ. **‘‘Sotāpattiphale vinetī’’**tiādi yebhuyyavasena vuttaṃ. Āyasmā hi dhammasenāpati bhikkhū yebhuyyena sotāpattiphalaṃ pāpetvā vissajjeti ‘‘evamete niyatā sambodhiparāyaṇā’’ti. Āyasmā pana mahāmoggallāno ‘‘sabbāpi bhavūpapatti jigucchitabbāvā’’ti bhikkhū yebhuyyena uttamatthaṃyeva pāpeti.

「これらの比丘たち」とは、この法話の器となった比丘たちのことである。「このように来て去っていく比丘たち」というこれは、「仏陀の時代に」などによってその指示に基づいて説かれた比丘たちを指して言ったものであり、直前の「これらの比丘たち」を指したものではない。それゆえに「遣わす」と言った。「見よ(暇乞いをせよ)」とは、伺いを立てよということである。「賢者」などは、親近し交際すべき理由の言葉である。「預流果に導く」などは、概しての力によって説かれた。法将(サーリプッタ)尊者は実に、比丘たちを概して預流果に到達させてから「このように彼らは決定して正覚を究極とする者となった」として送り出す。しかし大目連尊者は、「すべての生存の生起は嫌悪されるべきである」として、比丘たちを概して最高位(阿羅漢果)に到達させるのである。

Sāvakehi vinetuṃ sakkuṇeyyā sāvakaveneyyā nāma na sāvakeheva vinetabbāti dassento āha **‘‘sāvakaveneyyā nāmā’’**tiādi. Dasadhā mātikaṃ ṭhapetvāti ekakato paṭṭhāya yāva dasakā dasadhā dasadhā mātikaṃ ṭhapetvā vibhattoti dasuttaro. Dasuttaro gatotipi dasuttaroti ekakato paṭṭhāya yāva dasakā dasahi uttaro adhiko hutvā gato pavattotipi dasuttaro. Ekekasmiṃ pabbeti ekakato paṭṭhāya yāva dasakā dasasu pabbesu ekekasmiṃ pabbe. Dasa dasa pañhāti ‘‘katamo dhammo bahukāro appamādo kusalesu dhammesū’’tiādinā dasa dasa pañhā. Visesitāti vissajjitā. Dasuttaraṃ pavakkhāmīti desiyamānaṃ desanaṃ nāmakittanamukhena paṭijānāti vaṇṇabhaṇanatthaṃ. Pavakkhāmīti pakārehi vakkhāmi. Tathā hettha paññāsādhikānaṃ pañcannaṃ pañhasatānaṃ vasena desanā pavattā. Dhammanti idha dhamma-saddo pariyattipariyāyo ‘‘idha bhikkhu dhammaṃ pariyāpuṇātī’’tiādīsu (a. ni. 5.73) viya. Suttalakkhaṇo cāyaṃ dhammoti āha ‘‘dhammanti **sutta’’**nti. Svāyaṃ dhammo yathānusiṭṭhaṃ paṭipajjamānassa nibbānāvaho. Tato eva vaṭṭadukkhasamucchedāya hoti, sa cāyamassa ānubhāvo sabbesaṃ khandhānaṃ pamocanupāyabhāvatoti dassento ‘‘nibbānappattiyā’’tiādimāha. Tena vuttaṃ **‘‘nibbānappattiyā’’**tiādi.

弟子たちによって教化されるべき「弟子所化」と呼ばれる者たちは、弟子たちによってのみ教化されるべきではないことを示すために「弟子所化と呼ばれる者たちは」などと言った。「十通りの要目を立てて」とは、一法から十法に至るまで十通り、十通りに要目を立てて分別されたゆえに『十上経』である。十ずつ上がって進むゆえにも十上であり、一法から十法に至るまで十ずつ上回り、多くなって進み説かれたゆえにも十上である。「各々の節において」とは、一法から十法に至るまでの十の節の中の各々の節においてという意味である。「十ずつの問い」とは、「いかなる法が多く役立つのか、善法における不放逸である」などの十ずつの問いである。「判別された」とは、解答されたということである。「十上を説くであろう」とは、説かれるべき教えを名の称揚を通じて公言するものであり、賛嘆を述べるためである。「説くであろう」とは、種々の様態で語るであろうという意味である。実にここでは、五十を加えた五百の問い(五百五十問)によって説法が行われた。「法を」とは、ここでの法という語は、「ここに比丘が法を習得する」など(増支部5.73)のように教説の名称である。この法は経の特質をもつがゆえに「法とは経である」と述べた。この法は、教誡の通りに修行する者にとって涅槃をもたらす。それゆえに輪廻の苦を断滅するためのものとなる。そしてそのこの効能は、一切の蘊からの解脱の手段となる状態ゆえであると示しつつ「涅槃の到達のために」などと言った。それゆえに「涅槃の到達のために」などと説かれた。

Uccaṃ karontoti udaggaṃ uḷāraṃ paṇītaṃ katvā dassento, paggaṇhantoti attho. Pemaṃ janentoti bhattiṃ uppādento. Idañca desanāya paggaṇhanaṃ buddhānampi āciṇṇaṃ evāti dassento **‘‘ekāyano’’**tiādimāha.

「高く掲げて」とは、高邁・広大・秀抜なものとして示し、称揚することという意味である。「愛を生じさせて」とは、信仰心を起こさせることである。そしてこのように説法を称揚することは諸仏にも習わしであることを示すために「一乗の道」などと言った。

Ekadhammavaṇṇanā

一法釈

351. (Ka) kāra-saddo upa-saddena vināpi upakāratthaṃ vadati, ‘‘bahukārā, bhikkhave, mātāpitaro puttāna’’ntiādīsu (a. ni. 2.34) viyāti āha **‘‘bahukāroti bahūpakāro’’**ti.

351. (イ)kāra(成す)という語は、upa(助)という語を伴わなくても「助けとなる」という意味を表す。「比丘たちよ、父母は子にとって多く役立つ(多くの恩がある)」など(増支部2.34)のように。それゆえに「多大に役立つとは、大いに助けとなる」と述べた。

(Kha) vaḍḍhane vutte nānantariyatāya uppādanaṃ vuttameva hotīti **‘‘bhāvetabboti vaḍḍhetabbo’’**ti vutto. Uppādanapubbikā hi vaḍḍhanāti. Nanu ca **‘‘eko dhammo uppādetabbo’’**ti uppādanaṃ pettha visuṃ gahitaṃ evāti? Aññavisayattā tassa nāyaṃ virodho. Tathā hi **‘‘eko dhammo pariññeyyo’’**ti tīhipi pariññāhi pariññeyyataṃ vatvāpi **‘‘eko dhammo pahātabbo’’**ti pahātabbatā vuttā.

(ロ)増大させることが説かれれば、無間(不可分)であるがゆえに生起させることも説かれたことになるので、「修習されるべきとは、増大されるべき」と説かれた。生起させることを前駆として増大があるからである。しかし「一の法が生起されるべきである」として、生起させることもまたここで別個に取られているのではないか。それは対象を異にするからであって、この矛盾はない。実に「一の法が遍知されるべきである」と三種の遍知によって遍知されるべき状態が説かれながらも、「一の法が捨断されるべきである」と捨断されるべき状態が説かれたようなものである。

(Ga) tīhi pariññāhīti ñātatīraṇapahānapariññāhi.

(ハ)「三種の遍知によって」とは、知遍知・審慮遍知・捨断遍知によってという意味である。

(Gha) pahānānupassanāyāti pajahanavasena pavattāya anupassanāya. Missakavasena cetaṃ anupassanāgahaṇaṃ daṭṭhabbaṃ.

(ニ)「捨断随観によって」とは、捨断の力によって生じる随観によってという意味である。そしてこの随観の把持は、世出世間の混合の力によるものとして見られるべきである。

(Ṅa) sīlasampadādīnaṃ parihānāvaho parihānāya saṃvattanako.

(ホ)戒の具足などの退減をもたらすもの、退減に資するものである。

(Ca) jhānādivisesaṃ gametīti visesagāmī.

(ヘ)禅定などの勝徳に至らせるゆえに「勝徳に至る」である。

(Cha) duppaccakkhakaroti anupacitañāṇasambhārehi paccakkhaṃ kātuṃ asakkuṇeyyo.

(ト)「現証し難い」とは、集積された智の資糧をもたない者たちには直接体験することができないという意味である。

(Jha) abhijānitabboti abhimukhaṃ ñāṇena jānitabbo.

(チ)「知られるべき」とは、智をもって直接に向き合って知られるべきという意味である。

Sabbattha mātikāsūti dukādivasena vuttāsu sabbāsu mātikāsu. Ettha ca āyasmā dhammasenāpati te bhikkhū bhāvanāya niyojetvā uttamatthe patiṭṭhāpetukāmo paṭhamaṃ tāva bhāvanāya upakāradhammaṃ uddesavasena dassento ‘‘eko dhammo bahukāro’’ti vatvā tena upakārakena upakattabbaṃ dassento ‘‘eko dhammo bhāvetabbo’’ti āha. Ayañca bhāvanā vipassanāvasena icchitāti āha ‘‘eko dhammo pariññeyyo’’ti. Pariññā ca nāma yāvadeva pahātabbapajahanatthāti āha ‘‘eko dhammo pahātabbo’’ti. Pajahantena ca hānabhāgiyaṃ nīharitvā visesabhāgiye avaṭṭhātabbanti āha ‘‘eko dhammo hānabhāgiyo, eko dhammo visesabhāgiyo’’ti. Visesabhāgiye avaṭṭhānañca duppaṭivijjhanena, duppaṭivijjhapaṭivijjhanañce ijjhati, nipphādetabbanipphādanaṃ siddhameva hotīti āha ‘‘eko dhammo duppaṭivijjho, eko dhammo uppādetabbo’’ti. Tayidaṃ dvayaṃ abhiññeyyādijānanena hotīti āha ‘‘eko dhammo abhiññeyyo’’ti. Abhiññeyyañce abhiññātaṃ, sacchikātabbaṃ sacchikatameva hotīti. Ettāvatā ca niṭṭhitakiccova hoti, nāssa uttari kiñci karaṇīyanti evaṃ tāva mahāthero ekakavasena tesaṃ bhikkhūnaṃ paṭipattividhiṃ uddisanto imāni dasa padāni iminā anukkamena uddisi.

「すべての要目において」とは、二法などの力によって説かれたすべての要目においてという意味である。そしてここで法将尊者は、それらの比丘たちを修習に従事させて最高の目的(阿羅漢果)に確立させたいと望み、まず手始めに修習の助勢となる法を要目として示して「一の法が多く役立つ」と述べ、その助勢となるものによって助けられるべきものを示して「一の法が修習されるべきである」と言った。そしてこの修習はヴィパッサナーの力によるものとして意図されているので「一の法が遍知されるべきである」と言った。そして遍知とはまさに捨断されるべきものを捨断するためのものであるから「一の法が捨断されるべきである」と言った。捨断する者は退減に属するものを除いて勝徳に属するものにとどまるべきであるから「一の法が退減に属し、一の法が勝徳に属する」と言った。そして勝徳に属するものにとどまることは証得し難いことによるのであり、もし証得し難いものを証得することが成就するなら、成就されるべきものの成就は達成されるゆえに「一の法が証得し難く、一の法が生起されるべきである」と言った。そしてこの二つは通達されるべきものなどを知ることによって生じるので「一の法が通達されるべきである」と言った。そして通達されるべきものが通達されたなら、作証されるべきものは作証されたに他ならない。これによってなすべきことを成し終えた者となり、彼にとってこれ以上になすべきことは何もない。このようにまず大長老は、一法に基づいてそれらの比丘たちに実践の方法を指示しつつ、これらの十句をこの順序によって指示したのである。

(Ka) evaṃ aniyamato uddiṭṭhadhamme sarūpato niyametvā dassetuṃ ‘‘katamo eko dhammo’’tiādinā desanaṃ ārabhi. Tena vuttaṃ **‘‘iti āyasmā sāriputto’’**tiādi. Esa nayo dukādīsu. Veḷukāroti veno. So hi veḷuvikārehi kilañjādikaraṇena ‘‘veḷukāro’’ti vutto. Anto, bahi ca sabbagatagaṇṭhiṃ nīharaṇena niggaṇṭhiṃ katvā. Ekekakoṭṭhāseti ekakādīsu dasasu koṭṭhāsesu ekekasmiṃ koṭṭhāse.

(イ)このように無規定に指示された諸法を、自相によって規定して示すために、「いかなる一の法が」などによって説法を開始した。それゆえに「このように尊者サーリプッタは」などと説かれた。この方式は二法などにおいても同様である。「竹細工師」とは、竹工のことである。彼は竹の細工によって籠などを制作することから「竹細工師」と言われた。内と外の全体にわたる節を取り除くことによって無節にする。「各々の区分において」とは、一法などの十の区分の中の各々の区分においてという意味である。

Sabbatthakaṃ upakārakanti sabbatthakameva sammā paṭipattiyā upakāravantaṃ. Idāni tamatthaṃ vitthārato dassetuṃ **‘‘ayañhī’’**tiādi vuttaṃ. Vipassanāgabbhaṃ gaṇhāpaneti yathā upari vipassanā paripaccati tikkhā visadā hutvā maggena ghaṭeti, evaṃ pubbabhāgavipassanāvaḍḍhane. Atthapaṭisambhidādīsūti atthapaṭisambhidādīsu nipphādetabbesu, tesaṃ sambhārasambharaṇanti attho. Esa nayo ito paresupi. Ṭhānāṭṭhānesūti ṭhāne, aṭṭhāne ca jānitabbe. Mahāvihārasamāpattiyanti mahatiyaṃ jhānādivihārasamāpattiyaṃ. Vipassanāñāṇādīsūti ādi-saddena manomayiddhi ādikāni saṅgaṇhāti. Aṭṭhasu vijjāsūti ambaṭṭhasutte (dī. ni. 1.279) āgatanayāsu aṭṭhasu vijjāsu.

「すべての目的において助けとなる」とは、あらゆる目的においてまさに正しい実践の助けとなるという意味である。今やその意味を詳細に示すために「実にこれこそが」などと説かれた。「ヴィパッサナーの胎を宿らせることにおいて」とは、上層のヴィパッサナーが円熟して鋭く明晰になり、道と結合するように、そのように前段階のヴィパッサナーを増大させることにおいてという意味である。「義無礙解などにおいて」とは、義無礙解などが成就されるべきとき、それらの資糧を集積することという意味である。この方式はこれ以降の箇所でも同様である。「処・非処において」とは、道理と非道理を知るべきことにおいてという意味である。「大住の等至において」とは、広大な禅定などの住・等至においてという意味である。「ヴィパッサナー智などにおいて」の「など」という語は、意所成神変などを包摂する。「八つの明において」とは、『阿摩昼経(アンバッタ・スッタ)』(長部1.279)に出てくる方式の八つの明においてという意味である。

Teneva bhagavā thometīti yojanā. Nanti appamādaṃ.

「それゆえに世尊は賞賛される」と結びつく。「それを」とは、不放逸を指す。

Thāmasampannenāti ñāṇabalasamannāgatena. Dīpetvāti ‘‘evampi appamādo kusalānaṃ dhammānaṃ sampādane bahupakāro’’ti pakāsetvā. Yaṃ kiñci anavajjapakkhikamatthaṃ appamāde pakkhipitvā kathetuṃ yuttanti dassetuṃ **‘‘yaṃ kiñcī’’**tiādi vuttaṃ.

「力強い者によって」とは、智の力を具えた者によってという意味である。「明かして」とは、「このように不放逸は善法を成就することにおいて大いに役立つ」と説き明かしてという意味である。何であれ無過失の側に属する意味を不放逸に含めて語ることが適していることを示すために「何であれ」などと説かれた。

(Kha) kāyagatāsatīti rassaṃ akatvā niddeso, niddesena vā etaṃ samāsapadaṃ daṭṭhabbaṃ. ‘‘Aṭṭhikāni puñjakitāni terovassikāni…pe… pūtīni cuṇṇikajātānī’’ti (dī. ni. 2.379) evaṃ pavattamanasikāro **‘‘cuṇṇikamanasikāro’’**ti vadanti. Apare pana bhaṇanti ‘‘cuṇṇikairiyāpathesu pavattamanasikāro’’ti. Ettha uppannasatiyāti etasmiṃ yathāvutte ekūnatiṃsavidhe ṭhāne uppannāya satiyā. Sukhasampayuttāti nippariyāyato sukhasampayuttā, pariyāyato pana catutthajjhāne upekkhāpi ‘‘sukha’’nti vattabbataṃ labhati santasabhāvattā.

(ロ)「身至念」とは、短縮せずに説かれたものであり、あるいは言説によってこれは複合語として見られるべきである。「積み重ねられ、一年以上経ち…(略)…腐乱して粉々になった白骨」(長部2.379)と、このように生じる作意を「細別作意」と言う。また他の者たちは「細かな起居振る舞いにおいて生じる作意」と言う。「ここで生じた正念によって」とは、この前述の二十九通りの境位において生じた正念によってという意味である。「楽に相応する」とは、直接的には楽受に相応するものであり、間接的には第四禅において捨受もまた寂静の自性を有するがゆえに「楽」と説かれる資格を得る。

(Ga) paccayabhūto ārammaṇādivisayopi ārammaṇabhāvena vaṇo viya āsave paggharati, so sampayogasambhavābhāvepi saha āsavehīti sāsavo. Tathā upādānānaṃ hitoti upādāniyo. Itarathā pana paccayabhāvena vidhi paṭikkhepo.

(ハ)条件(縁)となった所縁などの対象もまた、所縁の状態によって傷口のように漏(煩悩)を漏出させる。それは相応が存在しない場合であっても漏を伴うゆえに「有漏」である。同様に執着に有益であるゆえに「有取」である。そうでないならば、縁となる状態によって規定と否定がなされる。

(Gha) asmīti mānoti ‘‘asmī’’ti pavatto māno.

(ニ)「我ありという慢」とは、「我あり」と生じる慢のことである。

(Ca) vipariyāyenāti ‘‘anicce anicca’’ntiādinā nayena pavatto pathamanasikāro.

(ヘ)「転倒によって」とは、「無常を無常である」などの方式によって生じた正しい作意(如理作意)のことである。

(Cha) idha pana vipassanānantaro maggo ‘‘ānantariko cetosamādhī’’ti adhippeto. Kasmā? Vipassanāya anantarattā, attano vā pavattiyā anantaraṃ phaladāyakattā. Saddatthato pana anantaraṃ phalaṃ anantaraṃ, tasmiṃ anantare niyuttā, taṃ vā arahati, anantarapayojanoti vā ānantariko.

(ト)しかしここではヴィパッサナーの直後の道が「無間の心三昧」として意図されている。なぜか。ヴィパッサナーの直後であるから、あるいは自らの生起の直後に果を与えるからである。語義の上からは、無間の果が無間であり、その無間に結合した、あるいはそれに値する、無間の効用をもつゆえに「無間」である。

(Ja) phalanti phalapaññā. Paccavekkhaṇapaññā adhippetā akuppārammaṇatāya.

(チ)「果」とは、果智のことである。動揺しないものを所縁とするゆえに省察智が意図されている。

(Jha) attano phalaṃ āharatīti āhāro, paccayoti āha **‘‘āhāraṭṭhitikāti paccayaṭṭhitikā’’**ti. Ayaṃ eko dhammoti ayaṃ paccayasaṅkhāto eko dhammoti paccayatāsamaññena ekaṃ katvā vadati. Ñātapariññāya abhiññāyāti ñātapariññāsaṅkhātāya abhiññāya.

(リ)自らの果をもたらすゆえに食(養分)であり、条件(縁)であることから「食にとどまるものとは、条件にとどまるもの」と述べた。「この一つの法」とは、この条件と名づけられた一つの法ということであり、条件であることの共通性によって一つにして言っているのである。「知遍知としての証知によって」とは、知遍知と名づけられた証知によってという意味である。

(Ña) akuppā cetovimuttīti arahattaphalavimutti akuppabhāvena ukkaṃsagatattā. Aññathā sabbāpi phalasamāpattiyo akuppā eva paṭipakkhehi akopanīyattā.

(ヌ)「不動の心解脱」とは、不動の状態によって卓越しているゆえに阿羅漢果の解脱のことである。そうでなければ、すべての果等至もまた対治すべきものによって動揺させられないがゆえに不動そのものである。

Abhiññāyāti ‘‘abhiññeyyo’’ti ettha laddhaabhiññāya. Pariññāyāti etthāpi eseva nayo. Pahātabbasacchikātabbehīti pahātabbasacchikātabbapadehi. Pahānapariññāva kathitā pahānasacchikiriyānaṃ ekāvāratāya pariññāya saheva ijjhanato. Sacchikātabboti visesato phalaṃ kathitaṃ. Ekasmiṃyeva sattame eva pade labbhati. Phalaṃ pana anekesupi padesu labbhati paṭhamaṭṭhamanavamadasamesu labbhanato. Yasmā taṃ nippariyāyato dasame eva labbhati, itaresu pariyāyato tasmā **‘‘labbhati evā’’**ti sāsaṅkaṃ vadati.

「証知して」とは、「通達されるべき」というここにおいて得られた証知によってという意味である。「遍知して」とは、ここでもまさにこの方式である。「捨断されるべき、作証されるべきものによって」とは、捨断されるべき句と作証されるべき句によってという意味である。捨断と作証が同一の機会に遍知とともに成就するがゆえに、捨断遍知のみが説かれた。「作証されるべき」とは、特に果が説かれている。単一の、第七の句においてのみ得られる。しかし果は多くの句においても得られる。第一、第八、第九、第十の句において得られるからである。それは直接的には第十の句においてのみ得られ、他の句においては間接的に得られるがゆえに、「まさに得られる」と疑念を交えて言うのである。

Sabhāvato vijjamānāti yena bahukārādisabhāvena desitā, tena sabhāvena paramatthato upalabbhamānā. Yāthāvāti aviparītā. Tathāsabhāvāti taṃsabhāvā. Na tathā na hontīti avitathattā tathāva honti. Tato eva vuttappakārato aññathā na hontīti pañcahipi padehi tesaṃ dhammānaṃ yathābhūtameva vadati. Sammāti ñāyena. Yaṃ pana ñātaṃ, taṃ hetuyuttaṃ kāraṇayuttameva hotīti āha **‘‘hetunā kāraṇenā’’**ti. Okappanaṃ janesīti jinavacanabhāvena abhippasādaṃ uppādesi.

「自性において存在する」とは、多大に役立つなどの自性によって説かれた、その自性によって勝義において見出されるということである。「真実の」とは、転倒していないことである。「真実の自性をもつ」とは、その自性を有することである。「虚偽ではない」とは、不虚偽であるゆえに真実そのものであることである。それゆえに説かれた様態から別様ではないとし、五つの句によってそれらの諸法のありのままを述べている。「正しく」とは、理法によって。「しかし知られたことは、因を具え、理由を具えたものに他ならない」ゆえに「因によって、理由によって」と述べた。「確信を生じさせた」とは、仏の言葉であることによって至高の信解を生起させたということである。

Ekadhammavaṇṇanā niṭṭhitā.

一法釈 了。

Dvedhammavaṇṇanā

二法釈

352. (Ka) ‘‘sabbatthā’’ ti idaṃ ‘‘sīlapūraṇādīsū’’ti etena saddhiṃ sambandhitabbaṃ. **‘‘Sīlapūraṇādīsu sabbattha appamādo viya upakārakā’’**ti etena satisampajaññānampi appamādassa viya sabbattha upakārakatā pakāsitā hoti atthato nātivilakkhaṇattā tato tesaṃ. Satiavippavāso hi appamādo, so ca atthato sabbattha avijahitā sati eva, sā ca kho ñāṇasampayuttā eva daṭṭhabbā, itarāya tathārūpasamatthatābhāvato.

352. (イ)「すべてにおいて」というこれは、「戒の充足などにおいて」というこれと結びつけられるべきである。「戒の充足などにおいて、すべてにおいて不放逸のように助けとなる」というこれによって、正念と正知もまた不放逸のようにすべてにおいて助けとなる状態が明かされたことになる。意味の上からそれらは不放逸と極端に異なってはいないからである。正念の不離こそが不放逸であり、それは意味の上からはすべてにおいて離れない正念に他ならず、しかもそれは智に相応するものとしてのみ見られるべきである。それ以外のものはその種の能力を欠くからである。

(Kha) tesaṃ pañcasatamattānaṃ bhikkhūnaṃ pubbabhāgapaṭipattivasena desitattā pubbabhāgā kathitā.

(ロ)それらの約五百人の比丘たちの前段階の実践の力によって説かれたがゆえに、前段階のものが説かれた。

(Cha) ayonisomanasikāro saṃkilesassa mūlakāraṇabhāvena pavatto hetu, paribrūhanabhāvena pavatto paccayo. Yonisomanasikārepi eseva nayo. Yathā ca sattānaṃ saṃkilesāya, visuddhiyā ca paccayabhūtā ayonisomanasikāro, yonisomanasikāroti ‘‘ime dve dhammā duppaṭivijjhā’’ti ettha nīharitvā vuttā, evaṃ imehi dhammā nīharitvā vattabbāti dassento **‘‘tathā’’**tiādimāha. Tattha asubhajjhānādayo cattāro visaṃyogā nāma kāmayogādipaṭipakkhabhāvato. **‘‘Evaṃ pabhedā’’**ti iminā ‘‘avijjābhāgino dhammā, vijjābhāgino dhammā, kaṇhā dhammā, sukkā dhammā’’ti (dha. sa. 101, 104) evamādīnaṃ saṅgaho daṭṭhabbo.

(ト)不如理作意は、雑染の根本原因となる状態として生じる因であり、増大させる状態として生じる縁である。如理作意においてもまさにこの方式である。そして有情たちの雑染と清浄のための縁となった不如理作意と如理作意が、「これら二つの法は証得し難い」というここにおいて取り出して説かれたように、そのようにこれらの法から取り出して説かれるべきであることを示すために「同様に」などと言った。その中で不浄観や禅定などの四つのものは、欲の束縛などの対治となる状態ゆえに「離繋」と名づけられる。「このような分類」というこれによって、「無明に属する諸法、明に属する諸法、黒の諸法、白の諸法」(法集論101、104)などの包摂が見られるべきである。

(Jha) paccayehi samecca sambhuyya katattā pañcakkhandhā saṅkhatā dhātu. Kenaci anabhisaṅkhatattā nibbānaṃ asaṅkhatā dhātu.

(リ)諸縁が集まり結合して作られたものであるゆえに、五蘊は有為界である。何ものによっても作られていないゆえに、涅槃は無為界である。

(Ña) tisso vijjā vijjanaṭṭhena, viditakaraṇaṭṭhena ca vijjā. Vimuttīti arahattaphalaṃ paṭipakkhato sabbaso vimuttattā.

(ヌ)三明は、存在する(知る)という意味、および知らしめるという意味から「明」である。「解脱」とは、対治すべきものから完全に解脱しているゆえに阿羅漢果のことである。

Abhiññādīnīti abhiññāpaññādīni. Ekakasadisāneva purimavāre viya vibhajja kathetabbato. Maggo kathitoti ettha ‘‘maggova kathito’’ti evamatthaṃ aggahetvā ‘‘maggo kathitovā’’ti evamattho gahetabbo ‘‘anuppāde ñāṇa’’nti iminā phalassa gahitattā. Sacchikātabbapade phalaṃ kathitanti etthāpi ‘‘phalameva kathita’’nti aggahetvā ‘‘phalaṃ kathitamevā’’ti attho gahetabbo vijjāggahaṇena tadaññassa saṅgahitattā. Esa nayo ito paresupi evarūpesu ṭhānesu.

「神通など」とは、神通智などのことである。前節のように分別して語られるべきであることから、一法と同様である。「道が説かれた」というここにおいて、「道のみが説かれた」とこのように意味を取るのではなく、「道もまた説かれた」とこのように意味が取られるべきである。「不生についての智」というこれによって果が把持されているからである。「作証されるべきの句において果が説かれた」というここでもまた、「果のみが説かれた」と取るのではなく、「果もまた説かれた」と意味が取られるべきである。明の把持によってそれ以外のものが包摂されているからである。これ以降のこのような箇所においても、この方式によるべきである。

Dvedhammavaṇṇanā niṭṭhitā.

二法釈 了。

Tayodhammavaṇṇanā

三法釈

353. (Cha) soti anāgāmimaggo. Sabbaso kāmānaṃ nissaraṇaṃ samucchedavasena pajahanato. Āruppe arahattamaggo nāma arūpajjhānaṃ pādakaṃ katvā uppanno aggamaggo. Puna uppattinivāraṇatoti rūpānaṃ uppattiyā sabbaso nivāraṇato. Nirujjhanti saṅkhārā etenāti nirodho, aggamaggo. Tena hi kilesavaṭṭe nirodhite itarampi vaṭṭadvayaṃ nirodhitameva hoti. Tassa pana nirodhassa pariyosānattā aggaphalaṃ ‘‘nirodho’’ti vattabbataṃ labbhatīti āha ‘‘arahattaphalaṃ **nirodhoti adhippeta’’**nti. ‘‘Arahattaphalena hi nibbāne diṭṭhe’’ ti idaṃ arahattamaggena nibbānadassanassāyaṃ nibbattīti katvā vuttaṃ. Evañca katvā ‘‘arahattasaṅkhātanirodhassa paccayattā’’ ti idampi vacanaṃ samatthitaṃ hoti.

353. (ト)「それ」とは不還道のことである。完全に諸欲の出離となるのは、断絶による捨断によるからである。「無色における阿羅漢道」とは、無色定を拠り所として生じた最上の道のことである。「再び生じることを防ぐことから」とは、色(物質)の生起を完全に防ぐことからという意味である。諸行がこれによって滅するゆえに「滅」であり、最上の道のことである。それによって煩悩の輪転が滅せられるとき、他の二つの輪転(業と異熟)も滅せられたに他ならないからである。しかしその滅の究極であることから、最上の果が「滅」と説かれる資格を得るゆえに「阿羅漢果が滅として意図されている」と述べた。「阿羅漢果によって涅槃が見られたとき」というこれは、阿羅漢道による涅槃の覚知がこれ(阿羅漢果)の生起となることによって説かれた。このようにして、「阿羅漢と名づけられた滅の縁であるゆえに」というこの言葉も論証されるのである。

(Ja) atītaṃ sārammaṇanti atītakoṭṭhāsārammaṇaṃ ñāṇaṃ, atītā khandhāyatanadhātuyo ārabbha pavattanakañāṇanti attho. ‘‘Maggo kathitovā’’ti avadhāraṇaṃ daṭṭhabbaṃ, tathā ‘‘sacchikātabbe phalaṃ kathitamevā’’ti.

(チ)「過去を所縁とする」とは、過去の区分を所縁とする智であり、過去の蘊・処・界を対象として生じる智という意味である。「道もまた説かれた」と限定して見られるべきであり、同様に「作証されるべきにおいて果もまた説かれた」と見られるべきである。

(Ña) āsavānaṃ khaye ñāṇanti ca āsavānaṃ khayante ñāṇanti adhippāyo, aññathā maggo kathito siyā.

(ヌ)「諸漏の滅における智」とは、諸漏が滅し尽くした究極における智という趣旨である。そうでなければ、道が説かれたことになってしまうからである。

Tayodhammavaṇṇanā niṭṭhitā.

三法釈 了。

Catudhammavaṇṇanā

四法釈

354. (Ka) dārumayaṃ cakkaṃ dārucakkaṃ, tathā ratanacakkaṃ. Āṇaṭṭhena dhammo eva dhammacakkaṃ. Iriyāpathānaṃ aparāparappavattito iriyāpathacakkaṃ, tathā sampatticakkaṃ veditabbaṃ.

354. (イ)木製の輪が木輪であり、同様に宝輪である。権能の意味から法そのものが法輪である。威儀(起居振る舞い)が次々と連続して生じることから威儀輪であり、同様に具足輪(運命の輪)が知られるべきである。

Anucchavike deseti puññakiriyāya, sammāpaṭipattiyā anurūpadese. Sevanaṃ kālena kālaṃ upasaṅkamanaṃ. Bhajanaṃ bhattivasena payirupāsanaṃ. Attano sammā ṭhapananti attano cittasantānassa yoniso ṭhapanaṃ saddhādīsu nivesananti āha **‘‘sace’’**tiādi. Idamevettha pamāṇanti idameva pubbekatapuññatāsaṅkhātaṃ sampatticakkamettha etesu sampatticakkesu pamāṇabhūtaṃ itaresaṃ kāraṇabhāvato. Tenāha **‘‘yena hī’’**tiādi. So eva ca katapuñño puggalo attānaṃ sammā ṭhapeti akatapuññassa tadabhāvato. Paṭhamo lokiyova, tatthāpi kāmāvacarova. Idhāti imasmiṃ dasuttarasutte. Pubbabhāge lokiyāvāti maggassa pubbabhāge pavattanakā lokiyā eva. Tattha kāraṇaṃ vuttameva.

「適した地域に」とは、福徳の行為、正しい実践に相応しい地域にという意味である。「親近」とは、時に応じて近づくこと。「交際」とは、信奉の力によって仕えること。「自らを正しく配置する」とは、自らの心の相続を正しく配置し、信仰などに確立させることであるとし、「もし」などと言った。「これこそがここでの基準である」とは、この過去になされた福徳の状態(宿福)と名づけられた具足輪こそが、これらの具足輪の中で基準となるものである。他のものの原因となる状態だからである。それゆえに「それによって実に」などと言った。そして福徳をなしたまさにその人物が自らを正しく配置するのであり、福徳をなしていない者にはそれが存在しないからである。第一のものは世間的なものに他ならず、そこでも欲界に属するものに他ならない。「ここで」とは、この『十上経』においてという意味である。「前段階において世間的なもの」とは、道の修行の前段階において生じる世間的なものに他ならない。そこでの理由はすでに説かれた通りである。

(Ca) kāmayogavisaṃyogo anāgāmimaggo, diṭṭhiyogavisaṃyogo sotāpattimaggo, itare dve arahattamaggoti evaṃ anāgāmimaggādivasena veditabbā.

(ヘ)欲の束縛からの離繋は不還道であり、見解の束縛からの離繋は預流道であり、他の二つ(有と無明の離繋)は阿羅漢道であると、このように不還道などの力によって知られるべきである。

(Cha) paṭhamassa jhānassa lābhinti yvāyaṃ appaguṇassa paṭhamassa jhānassa lābhī, taṃ. Kāmasahagatā saññāmanasikārā samudācarantīti tato vuṭṭhitaṃ ārammaṇavasena kāmasahagatā hutvā saññāmanasikārā samudācaranti codenti tudenti. Tassa kāmānupakkhandānaṃ saññāmanasikārānaṃ vasena so paṭhamajjhānasamādhi hāyati parihāyati, tasmā **‘‘hānabhāgiyo samādhī’’**ti vutto. Tadanudhammatāti tadanurūpasabhāvo. **‘‘Sati santiṭṭhatī’’**ti idaṃ micchāsatiṃ sandhāya vuttaṃ. Yassa hi paṭhamajjhānānurūpasabhāvā paṭhamajjhānaṃ santato paṇītato disvā assādayamānā apekkhamānā abhinandamānā nikanti hoti, tassa nikantivasena so paṭhamajjhānasamādhi neva hāyati, na vaḍḍhati, ṭhitikoṭṭhāsiko hoti, tena vuttaṃ **‘‘ṭhitibhāgiyo samādhī’’**ti.

(ト)「初禅を得た者に」とは、この熟達していない初禅を得た者のことである。「欲に伴う想と作意が生じる」とは、そこから出定した者に、所縁の力によって欲に伴うものとなって想と作意が生じ、駆り立て、刺激する。欲に飛びつくそれらの想と作意の力によって、彼のその初禅の三昧は衰退し、退減する。それゆえに「退減に属する三昧」と説かれた。「それに従う法性」とは、それに相応しい自性のことである。「正念が確立する」というこれは、邪念を指して説かれた。初禅に相応しい自性をもつ者で、初禅を寂静・秀抜なものと見て味い、執着し、喜ぶ愛着がある者には、その愛着の力によってその初禅の三昧は退減もせず増大もせず、維持の区分に属するものとなる。それゆえに「維持に属する三昧」と説かれた。

Avitakkasahagatāti avitakkaṃ dutiyajjhānaṃ santato paṇītato manasi karoto ārammaṇavasena avitakkasahagatā saññāmanasikārā. Samudācarantīti paguṇapaṭhamajjhānato vuṭṭhitaṃ dutiyajjhānādhigamatthāya codenti tudenti, tassa upari dutiyajjhānupakkhandānaṃ saññāmanasikārānaṃ vasena so paṭhamajjhānasamādhi visesabhūtassa dutiyajjhānassa uppattipadaṭṭhānatāya **‘‘visesabhāgiyo samādhī’’**ti vutto. Nibbidāsahagatāti tameva paṭhamajjhānalābhiṃ jhānato vuṭṭhitaṃ nibbidāsaṅkhātena vipassanāñāṇena sahagatā. Vipassanāñāṇañhi jhānaṅgesu pabhedena upaṭṭhahantesu nibbindati ukkaṇṭhati, tasmā **‘‘nibbidā’’**ti vuccati. Samudācarantīti nibbānasacchikaraṇatthāya codenti tudenti. Virāgūpasañhitoti virāgasaṅkhātena nibbānena upasañhito. Vipassanāñāṇañhi ‘‘sakkā iminā maggena virāgaṃ nibbānaṃ sacchikātu’’nti pavattito **‘‘virāgūpasañhita’’**nti vuccati, taṃsampayuttā saññāmanasikārāpi virāgūpasañhitā eva nāma. Tassa tesaṃ saññāmanasikārānaṃ vasena so paṭhamajjhānasamādhi ariyamaggapaṭivedhassa padaṭṭhānatāya **‘‘nibbedhabhāgiyo samādhī’’**ti vutto. Sabbasamāpattiyoti dutiyajjhānādikā sabbā samāpattiyo. Attho veditabboti hānabhāgiyādiattho tāva vitthāretvā veditabbo.

「無尋に伴う」とは、尋(思考)なき第二禅を寂静・秀抜なものと作意する者に、所縁の力によって無尋に伴う想と作意が生じることである。「生じる」とは、熟達した初禅から出定した者を第二禅の獲得のために駆り立て、刺激する。上層の第二禅に飛びつくそれらの想と作意の力によって、その初禅の三昧は、勝徳たる第二禅の生起の足場(近因)となることから「勝徳に属する三昧」と説かれた。「厭離に伴う」とは、まさにその初禅を得た者が出定したとき、厭離と名づけられたヴィパッサナー智に伴うことである。ヴィパッサナー智は、禅支が諸々の差異として現れるとき厭離し、嫌悪する。それゆえに「厭離」と呼ばれる。「生じる」とは、涅槃を作証するために駆り立て、刺激する。「離貪に資する」とは、離貪と名づけられた涅槃に資することである。ヴィパッサナー智は「この道によって離貪なる涅槃を作証することができる」と生じることから「離貪に資する」と呼ばれ、それに相応する想と作意もまた離貪に資するそのものである。彼のそれらの想と作意の力によって、その初禅の三昧は聖道の通達の足場となることから「通達に属する三昧」と説かれた。「すべての等至」とは、第二禅などのすべての等至のことである。「意味が知られるべきである」とは、退減に属するなどの意味が詳細に知られるべきであるということである。

Maggo kathito catunnaṃ ariyasaccānaṃ uddhaṭattā. Phalaṃ kathitaṃ sarūpeneva.

四聖諦が提示されているゆえに道が説かれた。自相そのものによって果が説かれた。

Catudhammavaṇṇanā niṭṭhitā.

四法釈 了。

Pañcadhammavaṇṇanā

五法釈

355. (Kha) ‘‘pañcaṅgiko **sammāsamādhī’’**ti samādhiaṅgabhāvena paññā uddiṭṭhāti pītipharaṇatādivacanena hi tameva vibhajati. Tenāha **‘‘pītiṃ pharamānā uppajjatī’’**tiādi.‘‘So imameva kāyaṃ vivekajena pītisukhena abhisandetī’’tiādinā (ma. ni. 1.427) nayena pītiyā, sukhassa ca pharaṇaṃ veditabbaṃ. Sarāgavirāgatādivibhāgadassanavasena paresaṃ ceto pharamānā. Ālokapharaṇeti kasiṇālokassa pharaṇe sati teneva ālokena pharitappadese. Tassa samādhissa rūpadassanapaccayattā paccavekkhaṇañāṇaṃ paccavekkhaṇanimittaṃ.

355. (ロ)「五支を具えた正定」とは、三昧の支分(要素)となる状態によって智慧が指示されているとし、喜の充満などの言葉によってまさにそれを分別している。それゆえに「喜を満たしながら生じる」などと言った。「彼はまさにこの身を、離脱より生じた喜と楽によって潤す」などの(中部1.427)方式によって、喜と楽の充満が知られるべきである。有貪・離貪などの区分の観察を通じて他者の心を満たすこと。光明の充満においては、遍処(カシナ)の光明の充満があるとき、その光明によって満たされた場所において。その三昧の色を見る縁となることから、省察智は省察の相(対象)である。

Pītipharaṇatā sukhapharaṇatāti ārammaṇe ṭhatvā catutthajjhānassa uppādanato tā **‘‘pādā viyā’’**ti vuttā. Cetopharaṇatā ālokapharaṇatāti taṃtaṃkiccasādhanato tā **‘‘hatthā viyā’’**ti vuttā. Abhiññāpādakajjhānaṃ samādhānassa sarīrabhāvato **‘‘majjhimakāyo viyā’’**ti vuttaṃ. Paccavekkhaṇanimittaṃ uttamaṅgabhāvato **‘‘sīsaṃ viyā’’**ti vuttaṃ.

喜の充満と楽の充満は、所縁にとどまって第四禅を生じさせることから「足のようである」と説かれた。心の充満と光明の充満は、それぞれの働きを成就することから「手のようである」と説かれた。神通の足場となる禅定は、定持の身体となる状態ゆえに「胴体のようである」と説かれた。省察の相は最上の部分(頭部)となる状態ゆえに「頭のようである」と説かれた。

(Ja) sabbaso kilesadukkhadarathapariḷāhānaṃ vigatattā lokiyasamādhissa sātisayamettha sukhanti vuttaṃ **‘‘appitappitakkhaṇe sukhattā paccuppannasukho’’**ti. Purimassa purimassa vasena pacchimaṃ pacchimaṃ laddhāsevanatāya santatarapaṇītatarabhāvappatti hotīti āha **‘‘purimo purimo…pe… sukhavipāko’’**ti.

(チ)一切の煩悩の苦しみ、疲弊、熱悩が完全に消滅していることから、ここでの世間的等持の楽は極めて優れているとし、「安止したその瞬間に安楽であるゆえに現法楽である」と説かれた。前々の力によって後々のものが反復習熟されることから、より寂静でより秀抜な状態への到達があるとし、「前々の…(略)…楽の異熟である」と述べた。

Kilesapaṭippassaddhiyāti kilesānaṃ paṭippassambhanena laddhattā. Kilesapaṭippassaddhibhāvanti kilesānaṃ paṭippassambhanabhāvaṃ. Laddhattā pattattā tabbhāvaṃ upagatattā. Lokiyasamādhissa paccanīkāni nīvaraṇapaṭhamajjhānanikantiādīni niggahetabbāni, aññe kilesā vāretabbā, imassa pana arahattasamādhissa paṭippassaddhasabbakilesattā na niggahetabbaṃ, vāretabbañca atthīti maggānantaraṃ samāpattikkhaṇe ca appayogena adhigatattā, ṭhapitattā ca aparihānavasena vā ṭhapitattā **nasaṅkhāraniggayhavārivāvaṭo. ‘‘Sativepullappattattā’’**ti etena appavattamānāyapi satiyā satibahulatāya sato eva nāmāti dasseti, **‘‘yathāparicchinnakālavasenā’’**ti etena paricchindanasatiyā satoti dasseti. Sesesu ñāṇaṅgesu. Pañcañāṇikoti ettha vuttasamādhimukhena pañca ñāṇāneva uddiṭṭhāni, niddiṭṭhāni ca.

「煩悩の安静によって」とは、煩悩の静息によって得られたことによる。「煩悩の安静の状態を」とは、煩悩の静息の状態を。「得たことから」とは、到達したことから、その状態に至ったことから。「世間的三昧の敵対者たる蓋や初禅への愛着などは制伏されるべきであり、他の煩悩は防護されるべきであるが、この阿羅漢三昧は一切の煩悩が安静になっているため、制伏されるべきものも防護されるべきものも存在しない。したがって道の直後および等至の瞬間において格別の努力なしに獲得され、確立されたものであり、あるいは不退転の力によって確立されたものであるゆえに、行によって制伏し防護することに煩わされない」。「正念の増大に達していることから」というこれによって、正念が顕在化していないときであっても正念の豊かさゆえに「正念ある者」と呼ばれることを示し、「限定された時間の力によって」というこれによって、限定する正念によって正念ある者であることを示している。残りの智の支分においても同様である。「五智を具えた」とは、ここで説かれた三昧を通じて五つの智のみが指示され、解説されたのである。

Maggo kathito indriyasīsena sammāvāyāmādīnaṃ kathitattā. Phalaṃ kathitaṃ asekkhānaṃ sīlakkhandhādīnaṃ kathitattā.

根(コントロール能力)を主として正精進などが説かれたゆえに道が説かれた。無学の戒蘊などが説かれたゆえに果が説かれた。

Pañcadhammavaṇṇanā niṭṭhitā.

五法釈 了。

Chadhammavaṇṇanā

六法釈

356. Maggo kathitoti ettha vattabbaṃ heṭṭhā vuttameva.

356. 「道が説かれた」というここで説かれるべきことは、すでに下に説かれた通りである。

Sattadhammavaṇṇanā

七法釈

357. (Ña) hetunāti ādiantavantato, anaccantikato, tāvakālikato, niccapaṭikkhepatoti evaṃ ādinā hetunā. Nayenāti ‘‘yathā ime saṅkhārā etarahi, evaṃ atīte, anāgate ca aniccā saṅkhatā paṭiccasamuppannā khayadhammā vayadhammā virāgadhammā nirodhadhammā’’ti atītānāgatesu nayananayena. Kāmaṃ khīṇāsavassa sabbesaṃ saṅkhārānaṃ aniccatādi sudiṭṭhā suppaṭividdhā, taṃ pana asammohanavasena kiccato, vipassanāya pana ārammaṇakaraṇavasenāti dassento āha **‘‘vipassanāñāṇena sudiṭṭhā hontī’’**ti. Kilesavasena uppajjamāno pariḷāho vatthukāmasannissayo, vatthukāmāvassayo cāti vuttaṃ **‘‘dvepi sapariḷāhaṭṭhena aṅgārakāsu viyā’’**ti. Ninnassevāti [ninnassa (aṭṭhakathāyaṃ)] ninnabhāvasseva. Anto vuccati lāmakaṭṭhena taṇhā. Byantaṃ vigatantaṃ bhūtanti byantībhūtanti āha ‘‘niratibhūtaṃ, [niyatibhūtaṃ (aṭṭhakathāyaṃ) vigatantibhūtaṃ (?)] **Nittaṇhanti attho’’**ti. Idha sattake. Bhāvetabbapade maggo kathito bojjhaṅgānaṃ vuttattā.

357. (ヌ)「因によって」とは、始めと終わりのあることから、終極的でないことから、一時的であることから、常住を否定することからなどのこのような因によって。「方式によって」とは、「これらの諸行が現在においてそうであるように、過去においても未来においても無常であり、作られたものであり、縁りて生じたものであり、尽きる法であり、滅びる法であり、離貪の法であり、滅尽の法である」と、過去と未来に類推する方式によって。確かに漏尽者には一切の諸行の無常性などがよく見られ、よく通達されているが、それは迷妄のなさによる働きとしてであり、ヴィパッサナーの所縁とする力によるものであると示しつつ「ヴィパッサナー智によってよく見られている」と述べた。煩悩の力によって生じる熱悩は事物の欲望に依拠し、事物の欲望を拠り所とすることから「熱悩を伴うという意味で、両者ともに炭火の穴のようである」と説かれた。「傾いているまさにその」とは、傾斜した状態そのもののことである。内部の劣悪な意味から愛執を「端(限界)」と言う。尽きて限界が離れた状態となったものが「尽滅した」であるとし、「離脱したものとなった、愛執なきものとなったという意味である」と述べた。この七法において。「修習されるべきの句において道が説かれた」とは、覚支が説かれたことによる。

Paṭhamabhāṇavāravaṇṇanā niṭṭhitā.

初誦品釈 了。

Aṭṭhadhammavaṇṇanā

八法釈

358. (Ka) ādibrahmacariyikāyāti ādibrahmacariyā eva ādibrahmacariyikā yathā ‘‘vinayo eva venayiko’’ti, tassā ādibrahmacariyikāya. Kā pana sāti āha **‘‘paññāyā’’**ti. Sikkhattayasaṅgahassāti adhisīlasikkhādisikkhattayasaṅgahassa. Upacārajjhānasahagatā taruṇasamathapaññāva udayabbayānupassanāvasena pavattā taruṇavipassanāpaññā [taruṇasamathavipassanāpaññā (aṭṭhakathāyaṃ)]. Ādibhūtāyāti paṭhamāvayavabhūtāya, desanāvasena cetaṃ vuttaṃ. Uppattikāle pana natthi maggadhammānaṃ ādimajjhapariyosānatā ekacittuppādapariyāpannattā ekajjhaṃyeva uppajjanato. Pemanti daḷhabhatti, taṃ pana vallabhavasena pavattamānaṃ gehasitasadisaṃ hotīti **‘‘gehasitapema’’**nti vuttaṃ. Garukaraṇavasena pavattiyā garu cittaṃ etassāti garucitto, tassa bhāvo garucittabhāvo, garumhi garukāro. ‘‘Kilesā na uppajjantī’’ti vatvā tattha kāraṇamāha **‘‘ovādānusāsaniṃ labhatī’’**ti. Garūnañhi santike ovādānusāsaniṃ labhitvā yathānusiṭṭhaṃ paṭipajjantassa kilesā na uppajjanti. Tenāha **‘‘tasmā’’**tiādi.

358. (イ)「初梵行の」とは、「律そのものが律に関するもの」であるように、初梵行そのものが初梵行に関するものであり、その初梵行に関するもののことである。「ではそれはいかなるものか」として「智慧の」と述べた。「三学の包摂の」とは、増上戒学などの三学の包摂のことである。近行定に伴う初期の止の智慧、あるいは生滅随観の力によって生じた初期の観の智慧(初期の止観の智慧)。「初めとなった」とは、第一の構成要素となったということであり、これは教示の力によって説かれた。しかし生起の時においては、道法には初め・中間・終わりの区別はない。一念の生起に属するものであり、同時に生じるからである。「愛」とは堅固な信奉であり、それは親愛の情の力によって生じる世俗の情愛に似たものであることから「世俗に依拠した愛」と説かれた。敬重をなすことによって生じる重んじる心を具えるがゆえに「重んじる心ある者」であり、その状態が「重んじる心ある状態」であり、尊ぶべき者に対する敬重である。「諸々の煩悩が生じない」と述べて、そこでの理由を「教誡と訓戒を得る」と言った。敬重すべき師匠たちの御前で教誡と訓戒を得て、訓戒の通りに実践する者には諸々の煩悩が生じないからである。それゆえに「それゆえに」などと言った。

(Cha) petāti petamahiddhikā. Asurānanti devāsurānaṃ. Petāsurā pana petā evāti tesaṃ petehi saṅgaho avuttasiddhova. Āvāhanaṃ gacchantīti sambhogasaṃsaggamukhena peteheva asurānaṃ saṅgahaṇe kāraṇaṃ dasseti.

(ト)「餓鬼」とは、大神通力をもつ餓鬼のことである。「阿修羅たちの」とは、天界の阿修羅たちのことである。しかし餓鬼阿修羅は餓鬼そのものであるから、彼らが餓鬼に含まれることは説かれずともすでに成就している。「結びつきに至る」とは、享受と交わりの道を通じて餓鬼の中に阿修羅が含まれる理由を示している。

(Ja) appicchassāti niicchassa. Abhāvattho hettha appa-saddo ‘‘appaḍaṃsamakasavātātapā’’tiādīsu (a. ni. 10.11) viya. Paccayesu appiccho paccayaappiccho, cīvarādipaccayesu icchārahito. Adhigamaappicchoti jhānādiadhigamavibhāvane icchārahito. Pariyattiappicchoti pariyattiyaṃ bāhusaccavibhāvane icchārahito. Dhutaṅgaappicchoti dhutaṅgesu appiccho dhutaṅgavibhāvena icchārahito. Santaguṇanigūhanenāti attani saṃvijjamānānaṃ jhānādiguṇānañceva bāhusaccaguṇassa ca dhutaṅgaguṇassa ca nigūhanena chādanena. Sampajjatīti nippajjati sijjhati. No mahicchassāti mahatiyā icchāya samannāgatassa, icchaṃ vā mahantassa no sampajjati anudhammassāpi anicchanato.

(チ)「少欲の者に」とは、欲なき者に。「蚊や虻、風や日差しが少ない」など(増支部10.11)のように、ここでの少(appa)という語は非存在(無)を意味するからである。諸々の生活必需品(資具)に欲が少ないのが「資具少欲」であり、衣などの資具に欲がないことである。獲得において欲が少ないのが「獲得少欲」であり、禅定などの獲得を誇示することに欲がないことである。教説において欲が少ないのが「教説少欲」であり、教説における博識を誇示することに欲がないことである。頭陀行において欲が少ないのが「頭陀行少欲」であり、頭陀行を誇示することに欲がないことである。「現存する徳を隠すことによって」とは、自らに現に存在する禅定などの徳、博識の徳、頭陀行の徳を隠し、覆うことによってという意味である。「成就する」とは、成し遂げられる、達成されるという意味である。「大欲の者には成就しない」とは、多大な欲望を具えた者、あるいは欲望を増大させる者には、教えにかなう実践すら望まないがゆえに成就しない。

Pavivittassāti pakārehi vivittassa. Tenāha **‘‘kāyacittaupadhivivekehi vivittassā’’**ti. **‘‘Aṭṭhaārambhavatthuvasenā’’**ti etena bhāvanābhiyogavasena ekībhāvova idha ‘‘kāyaviveko’’ti adhippeto, na gaṇasaṅgaṇikābhāvamattanti dasseti. Kammanti yogakammaṃ.

「遠離した者に」とは、種々の様態で遠離した者にという意味である。それゆえに「身・心・生起の根拠(煩悩)の遠離によって遠離した者に」と言った。「八つの精進開始の事由の力によって」というこれによって、修行への専念による孤独な状態こそが、ここで「身の遠離」として意図されているのであり、単に集団との交わりがないことだけを指すのではないことを示している。「業」とは、ヨーガの修行(行法)のことである。

Sattehi kilesehi ca saṅgaṇanaṃ samodhānaṃ saṅgaṇikā, sā āramitabbaṭṭhena ārāmo etassāti saṅgaṇikārāmo, tassa. Tenāha **‘‘gaṇasaṅgaṇikāya cevā’’**tiādi. Āraddhavīriyassāti paggahitavīriyassa, tañca kho upadhiviveke ninnatāvasena ‘‘ayaṃ dhammo’’ti vacanato. Esa nayo ito paresupi. Vivaṭṭasannissitaṃyeva hi samādhānaṃ idhādhippetaṃ, tathā paññāpi. Kammassakatāpaññāya hi patiṭṭhato kammavasena ‘‘bhavesu nānappakāro anattho’’ti jānanto kammakkhayakarañāṇaṃ abhipattheti, tadatthañca ussāhaṃ karoti. Mānādayo sattasantānaṃ saṃsāre papañcenti vitthārentīti papañcāti āha **‘‘nippapañcassāti vigatamānataṇhādiṭṭhipapañcassā’’**ti.

有情たちや煩悩たちとの集まり、集合を「集会」といい、それが楽しむべきものであるという意味で楽しむところ(園林)である者が「集会を楽しむ者」であり、その者のことである。それゆえに**「会衆の集会をも」**等と言ったのである。「精進を奮い起こした者の」とは、精進を堅持した者のことであり、それもまさに依怙の遠離へと傾斜する状態によって「この法である」と説かれていることによる。この理趣はこれより後についても同様である。実に、ここでは無執着に依拠した三昧こそが意図されており、同様に智慧もそうである。なぜなら、業の自己所有性の智慧に安住する者は、業の働きによって「生存において様々な不利益がある」と知って、業の滅尽をもたらす智を熱望し、そのための努力をなすからである。慢などが有情の相続を輪廻において戯論させ、拡大させるゆえに戯論であることから、**「無戯論の者のとは、慢・渇愛・見などの戯論を離れた者の」**と言ったのである。

Maggo kathito sarūpeneva.

道は自性そのものによって説かれた。

359. (Kha) visuddhinti ñāṇadassanavisuddhiṃ, accantavisuddhimeva vā. Catupārisuddhisīlanti pātimokkhasaṃvarādinirupakkiliṭṭhatāya catubbidhaparisuddhivantaṃ sīlaṃ. Pārisuddhipadhāniyaṅganti puggalassa parisuddhiyā padhānabhūtaṃ aṅgaṃ. Tenāha **‘‘parisuddhabhāvassa padhānaṅga’’**nti. Samathassa visuddhibhāvo vodānaṃ paguṇabhāvena paricchinnanti āha **‘‘aṭṭha paguṇasamāpattiyo’’**ti. Vigatupakkilesañhi ‘‘paguṇa’’nti vattabbataṃ labbhati, na saupakkilesaṃ hānabhāgiyādibhāvappattito. Sattadiṭṭhimalavisuddhito nāmarūpaparicchedo diṭṭhivisuddhi. Paccayapariggaho addhattayakaṅkhāmalavidhamanato kaṅkhāvitaraṇavisuddhi. Yasmā nāmarūpaṃ nāma sappaccayameva, tasmā taṃ pariggaṇhantena atthato tassa sappaccayatāpi pariggahitā eva hotīti vuttaṃ **‘‘diṭṭhivisuddhīti sappaccayaṃ nāmarūpadassana’’**nti. Yasmā pana nāmarūpassa paccayaṃ pariggaṇhantena tīsu addhāsu kaṅkhāmalavitaraṇapaccayākārāvabodhavaseneva hoti, tasmā **‘‘paccayākārañāṇa’’**ntiādi vuttaṃ yathā kaṅkhāvitaraṇavisuddhi ‘‘dhammaṭṭhitiñāṇa’’nti vuccati. Maggāmagge ñāṇanti maggāmagge vavatthapetvā ṭhitañāṇaṃ. Ñāṇanti idha taruṇavipassanā kathitā tesaṃ bhikkhūnaṃ ajjhāsayavasena ‘‘ñāṇadassanavisuddhī’’ti vuṭṭhānagāminiyā vipassanāya vuccamānattā. Yadi ‘‘ñāṇadassanavisuddhī’’ti vuṭṭhānagāminivipassanā adhippetā, ‘‘paññā’’ti ca arahattaphalapaññā, maggo pana kathanti? Maggo bahukārapade virāgaggahaṇena gahito. Vakkhati hi ‘‘idha bahukārapade maggo kathito’’ti (dī. ni. aṭṭha. 3.359).

359. (カ)「清浄を」とは、智見清浄、あるいは絶対的な清浄そのものを指す。「四種清浄戒」とは、別解脱律儀などによって汚濁がないことによる四種の清浄を備えた戒である。「清浄得勝支」とは、補特伽羅(人)の清浄のための勝れた構成要素である。それゆえに**「清浄なる状態の勝要の支分」**と言ったのである。止の清浄なる状態、すなわち清浄(白法)は、習熟した状態によって限定されていることから、**「八つの習熟せる等至」**と言った。実に、随煩悩を離れたものが「習熟した」という言明を得るのであり、随煩悩を伴うものは退減に組するものなどの状態に達するためにそうではない。有情見という垢の清浄から名色の限定(分別)が「見清浄」である。縁の把握は、三世に関する疑惑という垢を打ち破ることから「度疑清浄」である。名色というものは縁を伴うものにほかならないため、それを把握する者によって、事実上その有縁性もまた把握されたことになるゆえに、**「見清浄とは、縁を伴う名色の観察である」**と説かれたのである。しかし、名色の縁を把握する者にとっては、三世における疑惑の垢を超える縁起の諸相の覚知の力によってのみ生じるがゆえに、度疑清浄が「法住智」と呼ばれるように、**「縁起の智」**等と言われたのである。「道非道における智」とは、道と非道を確定して存する智である。「智」とは、ここではそれら比丘たちの意向に基づき若い(初期の)観が説かれており、「智見清浄」とは出起に至る観によって説かれているからである。もし「智見清浄」が出起に至る観を意味し、「慧」が阿羅漢果の慧を意味するならば、道はどのように説かれたのか。道は有益の句において離欲の把握によって把握されている。実に「ここでは有益の句において道が説かれた」と述べるからである(長部注 3.359)。

(Cha) cakkhādidhātunānattanti cakkhādirūpādicakkhuviññāṇādidhātūnaṃ vemattataṃ nissāya. Cakkhusamphassādinānattanti cakkhusamphassasotasamphassaghānasamphassādisamphassavibhāgaṃ. Saññānānattanti ettha rūpasaññādisaññānānattampi labbhateva, taṃ pana kāmasaññādiggahaṇeneva gayhati. Kāmasaññādīti ādi-saddena byāpādasaññādīnaṃ gahaṇaṃ. Saññānidānattā papañcasaṅkhānaṃ ‘‘saññānānattaṃ paṭicca saṅkappanānatta’’nti vuttaṃ, ‘‘yaṃ saṅkappeti, taṃ papañcetī’’ti vacanato ‘‘saṅkappanānattaṃ paṭicca chandanānatta’’nti vuttaṃ. Chandanānattanti ca taṇhāchandassa nānattaṃ. Rūpapariḷāhoti rūpavisayo rūpābhipatthanāvasena pavatto kilesapariḷāho. Saddapariḷāhoti etthāpi eseva nayo. Kileso hi uppajjamāno appattepi ārammaṇe patto viya pariḷāhova uppajjati. Tathābhūtassa pana kilesachandassa vasena rūpādipariyesanā hotīti āha **‘‘pariḷāhanānattatāya rūpapariyesanādinānattaṃ uppajjatī’’**ti. Tathā pariyesantassa sace taṃ rūpādi labbheyya, taṃ sandhāyāha **‘‘pariyesanādinānattatāya rūpapaṭilābhādinānattaṃ uppajjatī’’**ti.

(チャ)「眼などの界の多様性」とは、眼など、色など、眼識などの界の差異に基づいている。「眼触などの多様性」とは、眼触・耳触・鼻触などの触の区分である。「想の多様性」とは、ここでは色想などの想の多様性もまた得られるが、それは欲想などの把握によってのみ捉えられる。「欲想など」とは、「など」の語によって瞋恚想などの把握を示す。想を根源とするがゆえに戯論の分類を「想の多様性を縁として思惟の多様性がある」と説き、「思惟するものを戯論する」という言説から「思惟の多様性を縁として意欲の多様性がある」と説いたのである。「意欲の多様性」とは、渇愛の意欲の多様性である。「色の熱悶」とは、色を対象とし、色を希求することによって生じた煩悩の熱悶である。「声の熱悶」という点においても、これと同じ理趣である。実に煩悩は生じるにあたって、対象に達していなくても、達したかの如く熱悶そのものとして生じる。しかし、そのような煩悩の意欲の力によって色などの探求がなされるゆえに、**「熱悶の多様性によって、色などの探求の多様性が生じる」**と言ったのである。そのように探求する者に、もしその色などが得られるならば、それを指して**「探求などの多様性によって、色などの獲得の多様性が生じる」**と言ったのである。

(Ja) maraṇānupassanāñāṇeti maraṇassa anupassanāvasena pavattañāṇe, maraṇānussatisahagatapaññāyāti attho. Āhāraṃ pariggaṇhantassāti gamanādivasena āhāraṃ paṭikkūlato pariggaṇhantassa. Ukkaṇṭhantassāti nibbindantassa katthacipi asajjantassa.

(ジャ)「死の随観の智において」とは、死を随観することによって生じた智において、死随念を伴う智慧において、という意味である。「食物を摂取する者の」とは、行歩などによって食物を嫌悪すべきものとして摂取する者のことである。「倦怠する者の」とは、嫌悪して何ものにも執着しない者のことである。

Dasadhammavaṇṇanā

十法の解説

360. (Jha) nijjarakāraṇānīti pajahanakāraṇāni. Imasmiṃ abhiññāpade maggo kathīyatīti katvā **‘‘ayaṃ heṭṭhā..pe… puna gahitā’’**ti vuttaṃ. Tathā hi vakkhati ‘‘idha abhiññāpade maggo kathito’’ (dī. ni. aṭṭha. 3.360) kiñcāpi nijjiṇṇā micchādiṭṭhīti ānetvā sambandhitabbaṃ. Yathā micchādiṭṭhi vipassanāya nijjiṇṇāpi na samucchinnāti samucchedappahānadassanatthaṃ puna gahitā, evaṃ micchāsaṅkappādayopi vipassanāya pahīnāpi asamucchinnatāya idha puna gahitāti ayamattho ‘‘micchāsaṅkappo’’tiādīsu sabbapadesu vattabboti dasseti **‘‘evaṃ sabbapadesu nayo netabbo’’**ti iminā.

360. (ジャ)「損減の因たち」とは、捨断の因たちのことである。この証知の句において道が説かれているとして、**「これは下において…中略…再び把握された」**と言ったのである。実に「ここで証知の句において道が説かれた」(長部注 3.360)と述べる通りである。「邪見は損減されたとはいえ」と持ってきて結びつけるべきである。邪見が観によって損減されたとしても断ち切られてはいないため、正断(根絶)を示すために再び把握されたように、邪思惟などもまた観によって捨てられたとしても断ち切られていないために、ここで再び把握されたというこの意味が「邪思惟」等のすべての句において語られるべきであることを、**「このようにすべての句において理趣を導くべきである」**というこれによって示している。

Ettha ti ‘‘sammāvimuttipaccayā ca aneke kusalā dhammā bhāvanāpāripūriṃ gacchantī’’ti etasmiṃ pāḷipade. Ettha ca samucchedavasena, paṭippassaddhivasena ca paṭipakkhadhammā sammadeva vimuccanaṃ sammāvimutti, tappaccayā ca maggaphalesu aṭṭha indriyāni bhāvanāpāripūriṃ upagacchantīti maggasampayuttānipi saddhādīni indriyāni uddhaṭāni. Maggavasena hi phalesu bhāvanā pāripūrī nāmāti. Abhinandanaṭṭhenāti ativiya sinehanaṭṭhenidañhi. Somanassindriyaṃ ukkaṃsagatasātasabhāvaṃ sampayuttadhamme sinehantaṃ tementaṃ viya pavattati. Pavattasantatiādhipateyyaṭṭhenāti vipākasantānassa jīvane adhipatibhāvena. **‘‘Eva’’**ntiādi vuttasseva atthassa nigamanaṃ.

「そしてここにおいて」とは、「正解脱を縁として、多くの善法が修習の円満へと赴く」というこのパーリの句においてである。そしてここにおいて、正断により、また安息により、対治すべき法から正しく解脱することが正解脱であり、それを縁として道と果において八根が修習の円満へと達するゆえに、道に相応する信などの諸根も挙げられている。実に道による果における修習が「円満」と呼ばれるからである。「大いに喜ぶという意味で」とは、極めて愛着するという意味においてである。実に喜根は、極致に達した快の自性であり、相応する諸法を愛着させ、潤すかのように働く。「相続の転回における主導という意味で」とは、異熟の相続の存続において主導者であることによる。**「このように」**等は、すでに説かれた意味の結語である。

Addhena saha chaṭṭhāni pañhasatāni, paññāsādhikāni saha pañhasatānīti attho.

「半分とともに六つの百の問い」とは、五十を加えた五百の問い(五百五十問)という意味である。

Ettha ca āyasmā dhammasenāpati ‘‘dasasu nāthakaraṇadhammesu patiṭṭhāya dasakasiṇāyatanāni bhāvento dasaāyatanamukhena pariññaṃ paṭṭhapetvā pariññeyyadhamme parijānanto dasamicchatte, dasaakusalakammapathe ca pahāya dasakusalakammapathesu ca avaṭṭhito dasasu ariyāvāsesu āvasitukāmo dasasaññā uppādento dasanijjaravatthūni abhiññāya dasaasekkhadhamme adhigacchatī’’ti tesaṃ bhikkhūnaṃ ovādaṃ matthakaṃ pāpento desanaṃ niṭṭhapesi. Pamodavasena paṭiggaṇhanaṃ abhinandananti āha **‘‘sādhu sādhūti abhinandantā sirasā sampaṭicchiṃsū’’**ti. Tāya attamanatāyāti tāya yathādesitadesanāgatāya pahaṭṭhacittatāya, tattha yathāladdhaatthavedadhammavedehīti attho. Imameva suttaṃ āvajjamānāti imasmiṃ sutte tattha tattha āgate abhiññeyyādibhede dhamme abhijānanādivasena samannāharantā. Saha paṭisambhidāhi…pe… patiṭṭhahiṃsūti attano upanissayasampannatāya, therassa ca desanānubhāvena yathāraddhaṃ vipassanaṃ ussukketvā paṭisambhidāparivārāya abhiññāya saṇṭhahiṃsūti.

そしてここにおいて、法将(舎利弗)尊者は「十の依怙となす法に安住して、十の遍処を修習し、十の処の導入によって遍知を確立して、遍知されるべき法を遍知し、十の邪性と十の不善業道を捨てて、十の善業道に確立し、十の聖なる住処に住することを望んで、十の想を生じさせ、十の損減の基盤を証知して、十の無学法を体得する」と、それら比丘たちへの教誡を頂点に至らしめて、説法を完結させた。歓喜によって受け取ることを大いに喜ぶということから、**「『善哉、善哉』と歓喜しつつ、頭部をもって丁重に受け入れた」**と言ったのである。「その満足によって」とは、その説かれた通りの説法に至った歓喜の心によって、そこにおいて得られた通りの法悦と義悦によって、という意味である。「まさにこの経を省察しつつ」とは、この経において至るところに説かれた証知されるべき法などの種々の法を、証知などによって想起しつつ。「無礙解とともに…中略…確立した」とは、自らの勝縁の具足により、また長老の説法の威力によって、始められた観を励まし、無礙解を伴う証知において確立した、ということである。

Sumaṅgalavilāsiniyā dīghanikāyaṭṭhakathāya

スマンガラヴィラーシニー・長部注釈の

Dasuttarasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā.

十上経の解説における幽玄義の解明。

Niṭṭhitā ca pāthikavaggaṭṭhakathāya līnatthappakāsanā.

そして波致迦篇注釈の幽玄義の解明は完結した。

Pāthikavaggaṭīkā niṭṭhitā.

波致迦篇複注は完結した。

Nigamanakathāvaṇṇanā

結語の解説

Therānaṃ mahākassapādīnaṃ vaṃso paveṇī anvayo etassāti theravaṃsanvayo, tena; catumahānikāyesu theriyenāti attho.

大カッサパをはじめとする長老たちの血統、伝統、系譜を引く者であるゆえに「上座の系譜に連なる者」、その者によって。四大部(四ニカーヤ)における上座部の者によって、という意味である。

Dasabalassa sammāsambuddhassa guṇagaṇānaṃ paridīpanato dasabalaguṇagaṇaparidīpanassa. Ayañhi āgamo brahmajālādīsu, mahāpadānādīsu, sampasādanīyādīsu ca tattha tattha visesato buddhaguṇānaṃ pakāsanavasena pavattoti. Tathā hi vuttaṃ ādito ‘‘saddhāvahaguṇassā’’ti (dī. ni. aṭṭha. 1.ganthārambhakathā).

十力を具えた正等覚者の功徳の集まりを解明することから「十力者の徳聚の解明の」。実にこの阿含(経蔵)は、梵網経など、大本経など、清浄信経などにおいて、至るところで特に仏の功徳を明示することによって展開されているからである。実に初めに「信仰をもたらす徳の」(長部注 1.述意)と説かれた通りである。

Mahāṭṭhakathāya sāranti dīghanikāyamahāaṭṭhakathāyaṃ atthasāraṃ.

「大注釈のエッセンスを」とは、長部大注釈における義のエッセンスを。

Ekūnasaṭṭhimattoti thokaṃ ūnabhāvato matta-saddaggahaṇaṃ.

「五十九ほど」とは、少し満たない状態であることから「ほど(約)」という語を用いている。

Mūlakaṭṭhakathāsāranti pubbe vuttaṃ dīghanikāyamahāaṭṭhakathāsārameva puna nigamanavasena vadati. Atha vā mūlakaṭṭhakathāsāranti porāṇaṭṭhakathāsu atthasāraṃ, tenetaṃ dasseti ‘‘dīghanikāyamahāaṭṭhakathāyaṃ atthasāraṃ ādāya imaṃ sumaṅgalavilāsiniṃ karonto sesamahānikāyānampi mūlakaṭṭhakathāsu idha viniyogakkhamaṃ atthasāraṃ ādāyayeva akāsi’’nti.

「根本の注釈のエッセンスを」とは、前に説かれた長部大注釈のエッセンスそのものを、再び結語として述べている。あるいは「根本の注釈のエッセンスを」とは、古代の注釈書における義のエッセンスであり、これによって「長部大注釈における義のエッセンスを取り出してこのスマンガラヴィラーシニーを著すにあたり、他の諸大部(諸ニカーヤ)の根本注釈書においても、ここに適用するにふさわしい義のエッセンスを取り出して著した」ということを示している。

**‘‘Mahāvihāravāsīna’’**nti [mahāvihāre nivāsinaṃ (aṭṭhakathāyaṃ)] ca idaṃ purimapacchimapadehi saddhiṃ sambandhitabbaṃ ‘‘mahāvihāravāsīnaṃ samayaṃ pakāsayantiṃ, mahāvihāravāsīnaṃ mūlakaṭṭhakathāsāraṃ ādāyā’’ti ca. Tena puññena. Hotu sabbo sukhī lokoti kāmāvacarādivibhāgo sabbopi sattaloko yathārahaṃ bodhittayādhigamanavasena sampattena nibbānasukhena sukhito hotūti sadevakassa lokassa accantasukhādhigamāya attano puññaṃ pariṇāmeti.

**「大寺派に住する者たちの」**[大寺に住する者たちの(注釈において)]というこれもまた、前後の語と結びつけて「大寺派に住する者たちの教義を明らかにしながら、大寺派に住する者たちの根本注釈のエッセンスを取り出して」と結びつけるべきである。「その功徳によって」。すべての世間が幸福であれとは、欲界などの区分によるすべての有情世間が、相応に三種の菩提の獲得を通じて達せられた涅槃の楽によって幸福であれ、と神々を含む世間の絶対的な幸福の体得のために自らの功徳を廻向しているのである。

Parimāṇato sādhikaṭṭhavīsasahassanavutibhāṇavārā niṭṭhitāti. Parimāṇato sādhikaṭṭhavīsasahassamattaganthena dīghanikāyaṭīkā racitācariyadhammapālena.

「分量としては、二万八千九十余の誦誦(誦品)が完結した」と。分量としては二万八千余の偈文からなる長部複注が、ダンマパーラ阿闍梨によって作成された。

Micchādiṭṭhādicorehi, sīlādidhanasañcayaṃ;

邪見などの盗賊たちから、戒などの富の蓄積を;

Rakkhaṇatthāya sakkaccaṃ, mañjūsaṃ viya kāritanti. (etthantare pāṭho pacchā likhito)

守護するために丁重に、箱の如くに作られた。(この間の文は後に書かれた)

Niṭṭhitā sumaṅgalavilāsiniyā dīghanikāyaṭṭhakathāya līnatthappakāsanā.

スマンガラヴィラーシニー・長部注釈の幽玄義の解明は完結した。

Dīghanikāyaṭīkā niṭṭhitā.

長部複注は完結した。