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3. Cakkavattisuttavaṇṇanā3. 転輪王経の注釈

Attadīpasaraṇatāvaṇṇanā

自島・自帰依の注釈

80. Uttānaṃ vuccati pākaṭaṃ, tappaṭikkhepena anuttānaṃ apākaṭaṃ, paṭicchannaṃ, apacuraṃ, duviññeyyañca. Anuttānānaṃ padānaṃ vaṇṇanā anuttānapadavaṇṇanā. Uttānapadavaṇṇanāya payojanābhāvato anuttānaggahaṇaṃ. **‘‘Mātulā’’**ti itthiliṅgavasena laddhanāmo eko rukkho, tassā āsannappadese māpitattā nagarampi ‘‘mātulā’’ tveva paññāyittha. Tena vuttaṃ **‘‘mātulāyanti evaṃ nāmake nagare’’**ti. Avidūreti tassa nagarassa avidūre.

80. 「明白な」とは公然たることであり、その反対によって「不明白な」とは非公然で、隠され、稀であり、理解し難いことである。不明白な語句の注釈が「不明白句釈」である。明白な語句の注釈には用途がないことから、不明白なものを把握したのである。「マートゥラー」とは女性名詞として名を得た一本の樹木であり、その近くの場所に建設されたことから都市も「マートゥラー」として知られた。それゆえ「マートゥラーにおいてとは、このような名の都市において」と言った。「遠からぬ所に」とは、その都市の遠からぬ所に。

Kāmañcettha sutte ‘‘bhūtapubbaṃ, bhikkhave, rājā daḷhanemi nāma ahosī’’tiādinā atītavaṃsadīpikā kathā ādito paṭṭhāya āgatā, ‘‘aḍḍhateyyavassasatāyukānaṃ manussānaṃ vassasatāyukā puttā bhavissantī’’tiādinā pana savisesaṃ anāgatatthapaṭisaṃyuttā kathā āgatāti vuttaṃ **‘‘anāgatavaṃsadīpikāya suttantakathāyā’’**ti. Anāgatatthadīpanañhi acchariyaṃ, tatthāpi anāgatassa sammāsambuddhassa paṭipattikittanaṃ acchariyatamaṃ. Samāgamenāti sannipātena.

もっともこの経において「かつて、比丘たちよ、ダルハネーミという王がいた」などと過去の系譜を明かす説話が冒頭から説かれ、「二百五十歳の寿命をもつ人間たちに百歳の寿命をもつ息子たちが生まれるであろう」などと特に未来の意義に結びついた説話が説かれているので、「未来の系譜を明かす経典説話において」と言った。未来の意義を明かすことは実に驚くべきことであり、そこにおいても未来の正等覚者の実践を称賛することは最も驚くべきことである。「集まりによって」とは、会合によって。

**‘‘Bhattaggaṃ amanāpa’’**ntiādi kevalaṃ tesaṃ parivitakkamattaṃ. Amanāpanti amanuññaṃ. Buddhesu kato appakopi aparādho appako kāro viya garutaravipākoti āha **‘‘buddhehi saddhiṃ…pe… sadisaṃ hotī’’**ti. Tatrāti tasmiṃ mātulanagarassa samīpe, tassaṃ vā parisāyaṃ.

「不快な食事処」などは、単なる彼らの思惑にすぎない。「不快な」とは、意に満たないこと。仏陀たちになされた過失はわずかであっても、わずかな行為が重い報いをもたらすように重い結果となるので「仏陀たちとともに…(中略)…同等となる」と言った。「そこにおいて」とは、そのマートゥラー都市の近くにおいて、あるいはその集会において。

Attadīpāti ettha kāmaṃ yo paro na hoti, so attāti sasantāno ‘‘attā’’ti vuccati, hitasukhesibhāvena pana attanibbisesattā dhammo idha **‘‘attā’’**ti adhippeto. Tenāha **‘‘attā nāma lokiyalokuttaro dhammo’’**ti. Dvidhā āpo gato etthāti dīpo, oghena anajjhotthato bhūmibhāgo. Idha pana kāmoghādīhi anajjhottharaṇīyattā dīpo viyāti dīpo, attā dīpo patiṭṭhā etesanti attadīpā. Tenāha **‘‘attānaṃ dīpa’’**ntiādi. Dīpabhāvo cettha paṭisaraṇatāti āha **‘‘idaṃ tasseva vevacana’’**nti. Aññasaraṇapaṭikkhepavacananti aññasaraṇabhāvapaṭikkhepavacanaṃ. Idañhi na aññaṃ saraṇaṃ katvā viharaṇasseva paṭikkhepavacanaṃ, atha kho aññassa saraṇasabhāvasseva paṭikkhepavacanaṃ tappaṭikkhepe ca tena itarassāpi paṭikkhepasiddhito. Tenāha **‘‘na hī’’**tiādi. Idāni tamevatthaṃ suttantarena sādhetuṃ **‘‘vuttampi ceta’’**ntiādi. Yadi ettha pākatiko attā icchito, kathaṃ tassa dīpasaraṇabhāvo, tasmā adhippāyiko ettha attā bhaveyyāti pucchati **‘‘ko panettha attā nāmā’’**ti. Itaro yathādhippetaṃ attānaṃ dassento **‘‘lokiyalokuttaro dhammo’’**ti. Dutiyavāropi paṭhamavārasseva pariyāyabhāvena desitoti dassetuṃ **‘‘tenāhā’’**tiādi vuttaṃ.

「自らを島とし」とは、ここでもっとも他者でない者が自己であり、自らの心相続が「自己」と呼ばれるが、利益と幸福を求めるものであることによって自己と無差別であることから、法がここでは「自己」として意図されている。それゆえ「自己とは世間的・出世間的な法である」と言った。二方に水が去る場所が「島」であり、激流に沈められない土地の部分である。しかしここでは欲の激流などによって沈められないものであることから島のようなので「島」であり、自己という島・拠り所をもつ者たちが「自らを島とする者たち」である。それゆえ「自らを島とし」などと言った。そしてここでの島の状態とは帰依処であることであるゆえに「これはそれの同義語である」と言った。「他の帰依の否定の言葉」とは、他の帰依であることの否定の言葉である。これは他を帰依として生きることのみの否定の言葉ではなく、実に他が帰依の性質そのものであることの否定の言葉であり、それを否定することによって他方の否定も成立するからである。それゆえ「実に〜ない」などと言った。今やその同じ意義を他の経典によって証拠立てるために「またこれも説かれている」などと言った。もしここで世俗的な自己が意図されているなら、どうしてそれに島や帰依の状態があるだろうか、それゆえ意図された自己がここにあるはずであると「ではここでの自己とは何か」と問う。他方は意図された通りの自己を示して「世間的・出世間的な法である」と言った。第二の説示も第一の説示の言い換えとして説かれたことを示すために「それゆえ言った」などと述べた。

Gocareti bhikkhūnaṃ gocaraṭṭhānabhūte. Tenāha **‘‘carituṃ yuttaṭṭhāne’’**ti. Saketi kathaṃ panāyaṃ bhikkhūnaṃ sakoti āha **‘‘pettike visaye’’**ti. Pitito sammāsambuddhato āgatattā ‘‘ayaṃ tumhākaṃ gocaro’’ti tena uddiṭṭhattā pettike visayeti. Carantanti sāmiatthe upayogavacananti āha **‘‘ayamevattho’’**ti, carantānanti ca attho, tenāyaṃ vibhattivipallāsenapi vacanavipallāsenapīti dasseti. Kilesamārassa otārālābheneva itaramārānampi otārālābho veditabbo. Ayaṃ panatthoti gocare caraṇaṃ sandhāyāha, vatthu pana byatirekamukhena āgataṃ.

「境地において」とは、比丘たちの境地となる場所において。それゆえ「歩むのに相応しい場所において」と言った。「自らの」とは、ではどうしてこれが比丘たちの自らのものなのかと言えば「父祖の領域において」と言った。父たる正等覚者から伝わったものであることから「これはあなた方の境地である」と彼によって指示されたゆえに「父祖の領域において」である。「歩む者を」とは所有の意味での対格であるゆえに「これこそが意義である」と言い、「歩む者たちの」という意味でもあり、それによってこれは格の転換によっても数の転換によってもあることを示している。煩悩魔の侵入の機会がないことによってのみ、他の魔たちの侵入の機会もないことが知られるべきである。「この意義」とは境地において歩むことを指して言ったのであり、しかし事例は反対の側面を通じて説かれた。

Sakuṇe hantīti sakuṇagghi, mahāsenasakuṇo. Ajjhappattāti abhibhavanavasena pattā upagatā. Na myāyanti me ayaṃ sakuṇagghi nālaṃ abhavissa. Naṅgalakaṭṭhakaraṇanti naṅgalena kasitappadeso. Leḍḍuṭṭhānanti leḍḍūnaṃ uṭṭhapitaṭṭhānaṃ. Sake baleti attano balahetu. Apatthaddhāti avagāḷhatthambhā sañjātatthambhā. Assaramānāti avhāyantī.

「小鳥を捕える」ゆえに「ハヤブサ」であり、大軍の鳥である。「急襲した」とは、圧倒することによって到達し、近づいた。「私を〜ない」とは、私をこのハヤブサは捉えることができなかったであろう。「鋤の耕作地」とは、鋤によって耕された場所。「土塊の場所」とは、土塊が積み上がった場所。「自らの力において」とは、自らの力ゆえに。「頑として動じず」とは、しっかりと立ちすくみ、動じなくなった。「呼びかけながら」とは、招きながら。

Mahantaṃ leḍḍunti naṅgalena bhinnaṭṭhāne sukkhatāya tikhiṇasiṅgaayoghanasadisaṃ mahantaṃ leḍḍuṃ. Abhiruhitvāti tassa adhobhāgena attanā pavisitvā nilīnayoggappadesaṃ sallakkhetvā tassupari caṅkamanto **assaramāno aṭṭhāsi. ‘‘Ehi kho’’**tiādi tassa assaramānākāradassanaṃ. Sannayhāti vātaggahaṇavasena ubho pakkhe samaṃ ṭhapetvā. Paccupādīti pāvisi. Tatthevāti yattha pubbe lāpo ṭhito, tattheva leḍḍumhi. Uranti attano urappadesaṃ. Paccatāḷesīti pati atāḷesi sārambhavasena vegena gantvā paharaṇato vidhārentī patāḷesi. Ārammaṇanti paccayaṃ. ‘‘Avasara’’nti keci.

「大きな土塊」とは、鋤で砕かれた場所で乾燥しているために鋭い角をもつ鉄塊のような大きな土塊のことである。「登って」とは、その下部に自ら入り込んで身を隠すのに適した場所を見定め、その上を歩きながら「呼びかけながら立っていた」。「来い」などは、彼が呼びかける態様を示したものである。「身を縮めて」とは、風を捉えることによって両翼を等しく揃えて。「飛び込んだ」とは、突入した。「まさにそこに」とは、以前ウズラが立っていた、まさにその土塊において。「胸を」とは、自らの胸の部位を。「激突させた」とは、向かって打ち当たったのであり、勢いによって速やかに進んで打撃することから、胸を突き破って激突させた。「拠り所」とは原因のこと。「機会」と言う者もいる。

‘‘Kusalāna’’nti evaṃ pavattāya desanāya ko anusandhi? Yathāanusandhi eva. Ādito hi ‘‘attadīpā, bhikkhave, viharathā’’tiādinā (dī. ni. 3.80) yeva attadhammapariyāyena lokiyalokuttaradhammā gahitā, te yevettha kusalaggahaṇena gahitāti. Anavajjalakkhaṇānanti avajjapaṭipakkhasabhāvānaṃ. ‘‘Avajjarahitasabhāvāna’’nti keci. Tattha purime atthavikappe vipākadhammadhammā eva gahitā, dutiye pana vipākadhammāpi. Yadi evaṃ, kathaṃ tesaṃ samādāya vattananti? Na kho panetaṃ evaṃ daṭṭhabbaṃ ‘‘vipākadhammā sīlādi viya samādāya vattitabbā’’ti. Samādānanti pana attano santāne sammā ādānaṃ paccayavasena pavatti yevāti daṭṭhabbaṃ. Vipākadhammā hi paccayavisesehi sattasantāne sammadeva āhitā āyuādisampattivisesabhūtā uparūparikusalavisesuppattiyā upanissayā hontīti vadanti. Puññaṃ pavaḍḍhatīti ettha puññanti uttarapadalopenāyaṃ niddesoti āha **‘‘puññaphalaṃ vaḍḍhatī’’**ti. Puññaphalanti ca ekadesasarūpekasesena vuttaṃ ‘‘puññañca puññaphalañca puññaphala’’nti āha **‘‘uparūpari puññampi puññavipākopi veditabbo’’**ti.

「善の」とこのように展開した説法の連結詞は何か。適切な連結そのものである。初めから「比丘たちよ、自らを島として住せよ」などによって、まさに自己と法という言い換えによって世間的・出世間的な諸法が把握され、それらこそがここでの「善」という把握によって把握されているからである。「過失なき特徴をもつもの」とは、過失と対立する性質をもつもののことである。「過失を離れた性質をもつもの」と言う者もいる。そこにおいて前の解釈では異熟を生じる法のみが把握され、後の解釈では異熟の法も把握される。もしそうなら、どうしてそれらを受持して生きるのか。「異熟の法は戒などのように受持して実践されるべきである」とこのように見なされるべきではない。しかし「受持」とは自らの心相続において正しく受持し、条件に基づいて生起することにほかならないと見なすべきである。異熟の法は勝れた諸条件によって生類の心相続において正しく置かれ、寿命などの勝れた円満となって、さらに上々の勝れた善の生起のための親依止となるからである、と言われる。「功徳が増大する」とは、ここでの「功徳」とは後続の語の省略による表現であるゆえに「功徳の果報が増大する」と言った。「功徳の果報」とは一部分と同形の省略によって「功徳と功徳の果報とを功徳の果報」と言ったので「上々の功徳も功徳の異熟も知られるべきである」と言った。

**‘‘Mātāpitūna’’**ntiādi nidassanamattaṃ, tasmā aññampi evarūpaṃ hetūpanissayaṃ kusalaṃ daṭṭhabbaṃ. Sinehavasenāti upanissayabhūtassa sinehassa vasena, na sampayuttassa. Na hi sinehasampayuttaṃ nāma kusalaṃ atthi. Mudumaddavacittanti mettāvasena ativiya maddavantaṃ cittaṃ. Yathā matthakappattaṃ vaṭṭagāmikusalaṃ dassetuṃ ‘‘mātāpitūnaṃ …pe… mudumaddavacitta’’nti vuttaṃ, evaṃ matthakappattameva vivaṭṭagāmikusalaṃ dassetuṃ **‘‘cattāro sati…pe… bodhipakkhiyadhammā’’**ti vuttaṃ. Tadaññepi pana dānasīlādidhammā vaṭṭassa upanissayabhūtā vaṭṭagāmikusalaṃ vivaṭṭassa upanissayabhūtā vivaṭṭagāmikusalanti veditabbā. Pariyosānanti phalavisesāvahatāya phaladāya koṭi sikhāppatti, devaloke ca pavattisirivibhavoti pariyosānaṃ **‘‘manussaloke’’**ti visesitaṃ, manussalokavaseneva cāyaṃ desanā āgatāti. Maggaphalanibbānasampatti pariyosānanti yojanā. Vivaṭṭagāmikusalassa vipākaṃ suttapariyosāne dassissati ‘‘atha kho, bhikkhave, saṅkho nāma rājā’’tiādinā (dī. ni. 3.108).

「父母への」などは単なる例示である。それゆえ他のこのような因縁・親依止となる善も知られるべきである。「愛情によって」とは、親依止となった愛情によってであり、相応した愛情によってではない。実に愛情と相応した善などというものは存在しないからである。「柔軟で穏やかな心」とは、慈しみによって極めて柔軟さをもつ心である。頂点に達した輪廻に赴く善を示すために「父母への…(中略)…柔軟で穏やかな心」と説かれたように、このように頂点に達した解脱に赴く善を示すために「四念住…(中略)…三十七菩提分法」と説かれた。しかしそれ以外の布施・戒などの法も輪廻の親依止となったものは輪廻に赴く善であり、解脱の親依止となったものは解脱に赴く善であると知られるべきである。「究極」とは勝れた果報をもたらすことによる果報の極致、頂点への到達であり、天界における栄華と富の生起であることから、究極が「人間界において」と限定されたのであり、人間界に基づいてこの説法は説かれたのである。「道・果・涅槃の達成が究極である」と結びつけられる。解脱に赴く善の異熟を経の結びにおいて「そのとき、比丘たちよ、サンハという王が」などと示すであろう。

Daḷhanemicakkavattirājakathāvaṇṇanā

ダルハネーミ転輪王の説話の注釈

81. Idhāti imasmiṃ ‘‘kusalānaṃ, bhikkhave, dhammāna’’ntiādinā (dī. ni. 3.110) suttadesanāya āraddhaṭṭhāne vaṭṭavivaṭṭagāmibhāvena sādhāraṇe kusalaggahaṇe. Tattha vaṭṭagāmikusalānusandhivasena ‘‘bhūtapubbaṃ bhikkhave’’ti desanaṃ ārabhi, ārabhanto ca desiyamānamattaṃ. Dhammapaṭiggāhakānaṃ bhikkhūnaṃ saṅkhepato evaṃ dīpetvā ārabhīti dassetuṃ **‘‘bhikkhave’’**tiādi vuttaṃ, paṭhamaṃ tathā adīpentopi bhagavā atthato dīpeti viyāti adhippāyo.

81. 「ここに」とは、この「比丘たちよ、善なる諸法の」などの経の説法の開始された場所において、輪廻と解脱に赴く状態として共通する善の把握においてである。そこにおいて輪廻に赴く善の連結に基づいて「かつて、比丘たちよ」と説法を開始し、開始しながら説かれるべきことのすべてを、法を受け取る比丘たちに要約してこのように明かして開始したことを示すために「比丘たちよ」などと言った。最初は直接明かさなくても、世尊は意義において明かすかのようであるという意味である。

82. Īsakampīti appamattakampi. Avasakkitanti ogatabhaṭṭhaṃ. Nemiabhimukhanti nemippadesassa sammukhā. Bandhiṃsu cakkaratanassa osakkitānosakkitabhāvaṃ jānituṃ. Tadetanti yathāvuttaṭṭhānā cavanaṃ. Atibalavadoseti rañño balavati anatthe upaṭṭhite sati.

82. 「わずかにも」とは、ほんの少しでも。「滑り落ちた」とは、下へ外れ落ちた。「輪縁に向かい合って」とは、輪縁の場所の正面に。「輪宝が後退したか後退しないかの状態を知るために結びつけた」。「それこれ」とは、前述の場所から逸脱すること。「極めて強い過失があるとき」とは、王に強い不利益が生じたとき。

Appamattoti rañño āṇāya pamādaṃ akaronto.

「不放逸な者」とは、王の命令において怠りを作らない者である。

Ekasamuddapariyantamevāti jambudīpameva sandhāya vadati. So uttarato assakaṇṇapabbatena paricchinnaṃ hutvā attānaṃ parikkhipitvā ṭhitaekasamuddapariyanto. Puññiddhivasenāti cakkavattibhāvāvahāya puññiddhiyā vasena.

「一重の海を限界とする」とは、閻浮提(ジャンブーディパ)のみを指して語っている。それは北側をアッサカンナ山によって区切られ、自らを囲んで位置する一重の海を限界としている。「功徳の神通力によって」とは、転輪王の状態をもたらす功徳の神通力によって。

83. Evaṃ katvāti kāsāyāni vatthāni acchādetvā. Sukataṃ kammanti dasakusalakammapathameva vadati.

83. 「このようにして」とは、袈裟の衣を着て。「善く作られた業」とは、十善業道そのものを言っている。

**‘‘Dasavidhaṃ, dvādasavidha’’**nti ca vuttavibhāgo parato āgamissati. Pūrentenevāti pūretvā ṭhiteneva. Niddoseti cakkavattivattassa paṭipakkhabhūtānaṃ dosānaṃ apagamane niddose. Cakkavattīnaṃ vatteti cakkavattirājūhi vattitabbavatte. Bhāvini bhūte viya hi upacāro yathā ‘‘agamā rājagahaṃ buddho’’ti (su. ni. 410). Adhigatacakkavattibhāvāpi hi te tattha vattantevāti tathā vuttaṃ.

「十種、十二種」と説かれた区分は後に出てくるであろう。「満たしながら」とは、満たして立ちながら。「無過失において」とは、転輪王の義務に対立する過失が去った無過失において。「転輪王たちの義務において」とは、転輪王たちによって実践されるべき義務において。未来のことを過去のことのように表現する比喩であり、「仏陀は王舎城へ行かれた」というようなものである。実に転輪王の状態に達した彼らもそこで実践するからこそ、そのように言われた。

Cakkavattiariyavattavaṇṇanā

転輪王の聖なる義務の注釈

84. Aññathā vattituṃ adento so dhammo adhiṭṭhānaṃ etassāti tadadhiṭṭhānaṃ, tena tadadhiṭṭhānena cetasā. Sakkarontoti ādarakiriyāvasena karonto. Tenāha **‘‘yathā’’**tiādi. Garuṃ karontoti pāsāṇacchattaṃ viya garukaraṇavasena garuṃ karonto. Tenevāha **‘‘tasmiṃ gāravuppattiyā’’**ti. Mānentoti sambhāvanāvasena manena piyāyanto. Tenāha **‘‘tamevā’’**tiādi. Evaṃ pūjayato apacāyato evañca yathāvuttasakkārādisambhavoti taṃ dassetuṃ **‘‘taṃ apadisitvā’’**tiādi vuttaṃ. **‘‘Dhammādhipatibhūto āgatabhāvenā’’**ti iminā yathāvuttadhammassa jeṭṭhakabhāvena purimapurimataraattabhāvesu sakkacca samupacitabhāvaṃ dasseti. **‘‘Dhammavaseneva sabbakiriyānaṃ karaṇenā’’**ti etena ṭhānanisajjādīsu yathāvuttadhammaninnapoṇapabbhārabhāvaṃ dasseti. Assāti rakkhāvaraṇaguttiyā. Paraṃ rakkhanto aññaṃ diṭṭhadhammikādianatthato rakkhanto teneva paratthasādhanena khantiādiguṇena attānaṃ tato eva rakkhati. Mettacittatāti mettacittatāya. Nivāsanapārupanagehādīnaṃ sītuṇhādipaṭibāhanena āvaraṇaṃ. Anto janasminti abbhantarabhūte puttadārādijane.

84. 異なる振る舞いをすることを許さないその法が、この者の拠り所であるゆえに「その拠り所」であり、その拠り所をもつ心によって。「敬重する者」とは、尊重の行為に基づいて行う者のことである。それゆえ「どのように」などと言った。「尊重する者」とは、石の傘のように重んじることによって重んじる者のことである。それゆえ「それに対する敬意の生起によって」と言った。「尊崇する者」とは、尊崇することによって心で大切にする者のことである。それゆえ「それそのものを」などと言った。このように供養し敬う者には、このように前述の敬重などが生じるのであり、それを示すために「それを拠り所として」などと言った。「法を主とする者となって至ったことによって」とは、これによって前述の法を最勝のものとして、過去のより以前の生存において恭敬して積み集めてきた状態を示している。「法に基づいてのみすべての行為を行うことによって」とは、これによって起居・着座などにおいて前述の法へ傾き、向かい、傾注している状態を示している。「彼に」とは、防護と遮断と守護のための。「他者を保護する」とは、他者を現世などの不利益から保護し、まさにそのことによって他者の利益を成就する忍辱などの徳によって、自己をそこから保護する。「慈心であること」とは、慈心によってである。下衣・上衣・家屋などによる寒暑などを防ぐことによる遮断である。「内部の人々において」とは、内部の親族である妻子などの人々において。

**‘‘Sīlasaṃvare patiṭṭhāpehī’’**ti iminā rakkhaṃ dasseti, **‘‘vatthagandhamālādīni dehī’’**ti iminā āvaraṇaṃ, itarena guttiṃ. Bhattavetanasampadānenapīti pi-saddena sīlasaṃvare patiṭṭhāpanādīni sampiṇḍeti. Eseva nayo ito paresupi pi-saddaggahaṇesu. Nigamo nivāso etesanti negamā, evaṃ jānapadāti āha **‘‘nigamavāsino’’**tiādi.

「戒律の制御に確立させよ」とは、これによって防護を示し、「衣服・香・花などを与えよ」とは、これによって遮断を、他によって守護を示している。「給与や手当の支給によっても」とは、「も(pi)」の語によって戒律の制御に確立させることなどを総括している。これ以降の「も」の語の把握においても同じ理趣である。町(nigama)が居住地(nivāsa)である者たちが町民(negama)であり、同様に地方の人々であるゆえに「町の住民たち」などと言った。

Navavidhā mānamadāti ‘‘seyyohamasmī’’tiādi (saṃ. ni. 4.108; dha. sa. 1121; vibha. 866; mahāni. 21, 178) nayappavattiyā navavidhā mānasaṅkhātā madā. Māno eva hettha pamajjanākārena pavattiyā mānamado. Sobhane kāyikavācasikakamme ratoti sūrato u-kārassa dīghaṃ katvā, tassa bhāvo soraccaṃ, kāyikavācasiko avītikkamo, sabbaṃ vā kāyavacīsucaritaṃ. Suṭṭhu oratoti sorato, tassa bhāvo soraccaṃ, yathāvuttameva sucaritaṃ. Rāgādīnanti rāgadosamohamānādīnaṃ. Damanādīhīti damanasamanaparinibbāpanehi. Ekamattānanti ekaṃ cittaṃ, ekaccaṃ attano cittanti attho. Rāgādīnañhi pubbabhāgiyaṃ damanādipaccekaṃ icchitabbaṃ, na maggakkhaṇe viya ekajjhaṃ paṭisaṅkhānamukhena pajahanato. Ekamattānanti vā vivekavasena ekaṃ ekākinaṃ attānaṃ. Kāle kāleti tesaṃ santikaṃ upasaṅkamitabbe kāle kāle.

「九種の慢の驕り」とは、「私は勝れている」などの理趣の展開による九種の慢と呼ばれる驕りのことである。ここでの慢こそが放逸の様相によって生起することから「慢の驕り」である。美しい身体的・言語的行為を好むゆえに「柔和(sūrato)」の「u」の文字を長くして、その状態が「柔和(soraccaṃ)」であり、身体的・言語的な逸脱がないこと、あるいはすべての身口の善行である。よく楽しむ(suṭṭhu orato)ゆえに「柔和」であり、その状態が「柔和」であり、前述の通りの善行である。「貪欲などの」とは、貪欲・瞋恚・愚痴・慢などのことである。「調伏などによって」とは、調伏・鎮静・完全な消滅によって。「一つの心」とは、一つの心、自己のある一つの心という意味である。実に貪欲などの前段階における調伏などは個々に望まれるべきであり、道刹那におけるように一括して観察することを通じて断じるのではないからである。あるいは「一つの心」とは、遠離によって一つとなった、独りの自己のことである。「時々に」とは、彼らのもとへ近づくべき時々に。

Idha ṭhatvāti ‘‘idaṃ kho, tāta, ta’’nti evaṃ nigamanavasena vuttaṭṭhāne ṭhatvā. Vattanti ariyacakkavattivattaṃ. Samānetabbanti ‘‘dasavidhaṃ, dvādasavidha’’nti ca heṭṭhā vuttagaṇanāya ca samānaṃ kātabbaṃ anūnaṃ anadhikaṃ katvā dassetabbaṃ. Adhammarāgassāti ayuttaṭṭhāne rāgassa. Visamalobhassāti yuttaṭṭhānepi ativiya balavabhāvena pavattalobhassa.

「ここにとどまり」とは、「息子よ、これこそがそれである」とこのように結論として説かれた場所にとどまり。「義務」とは、聖なる転輪王の義務のことである。「合致させるべきである」とは、「十種、十二種」と下に説かれた数とも合致させるべきであり、過不足なくして示すべきである。「不法の貪欲」とは、不相応な場所における貪欲のことである。「不当な貪欲」とは、相応しい場所であっても極めて強く生起した貪欲のことである。

Cakkaratanapātubhāvavaṇṇanā

輪宝の出現の注釈

85. Vattamānassāti paripuṇṇe cakkavattivatte vattamānassa, no aparipuṇṇeti āha **‘‘pūretvā vattamānassā’’**ti. Kittāvatā panassa pāripūrī hotīti? Tattha ‘‘katādhikārassa tāva heṭṭhimaparicchedena dvādasahipi saṃvaccharehi pūrati, pañcavīsatiyā, paññāsāya vā saṃvaccharehi. Ayañca bhedo dhammacchandassapi tikkhamajjhamudutāvasena, itarassa tato bhiyyopī’’ti vadanti.

85. 「実践している者に」とは、円満な転輪王の義務を実践している者にであり、不円満な者においてではないゆえに「満たして実践している者に」と言った。ではどれほどによって彼の円満があるのか。そこにおいて「過去に功徳を積んだ者には、まず最低限の限定として十二年によっても満たされ、あるいは二十五年、五十年によって満たされる。そしてこの差異は法への意欲の鋭さ・中間・鈍さの度合いによるものであり、その他の者にはそれ以上でもある」と言われる。

Dutiyādicakkavattikathāvaṇṇanā

第二代以降の転輪王の説話の注釈

90. Attano matiyāti paramparāgataṃ purāṇaṃ tantiṃ paveṇiṃ laṅghitvā attano icchitākārena. Tenāha **‘‘porāṇaka’’**ntiādi.

90. 「自らの考えによって」とは、代々伝わってきた古くからの規範や伝統を破り、自らの望む様相によってである。それゆえ「古くからの」などと言った。

Na pabbantīti samiddhiyā na pūrenti, phītā na hontīti attho. Tenāha **‘‘na vaḍḍhantī’’**ti. Tathā cāha **‘‘katthaci suññā hontī’’**ti. Tattha tattha rājakicce raññā amā saha vattantīti amaccā, yehi vinā rājakiccaṃ nappavattati. Paramparāgatā hutvā rañño parisāya bhavāti pārisajjā. Tenāha **‘‘parisāvacarā’’**ti. Tasmiṃ ṭhānantare ṭhapitā hutvā rañño āyaṃ, vayañca yāthāvato gaṇentīti gaṇakā. Jātikulasutācārādivasena puthuttaṃ gatattā mahatī mattā etesanti mahāmattā, te pana mahānubhāvā amaccā evāti āha **‘‘mahāamaccā’’**ti. Ye rañño hatthānīkādīsu avaṭṭhitā, te anīkaṭṭhāti āha **‘‘hatthiācariyādayo’’**ti. Mantaṃ paññaṃ asitā hutvā jīvantīti mantassājīvino, matisajīvāti attho, ye tattha tattha rājakicce upadesadāyino. Tenāha **‘‘mantā vuccati paññā’’**tiādi.

「繁栄しない」とは、繁栄によって満ちず、豊かにならないという意味である。それゆえ「増長しない」と言った。そして同様に「ある場所では空虚になる」と言った。それぞれの王の公務において王とともに(amā)常にあるゆえに「大臣(amaccā)」であり、彼らなしには王の公務は行われない。代々受け継がれて王の臣下となった者たちが「会衆(pārisajjā)」である。それゆえ「会衆に属する者たち」と言った。その役職に置かれて王の収入と支出とを正しく計算するゆえに「計理官(gaṇakā)」である。生まれ、家柄、学識、行いなどによって多数に達したことから大いなる分量(mahatī mattā)をもつ者たちが「大官(mahāmattā)」であり、彼らは大いなる威厳をもつ大臣にほかならないので「大いなる大臣」と言った。王の象軍などに配置されている者たちが「軍隊に属する者」であるゆえに「象の調教師など」と言った。呪文や智慧(manta)に依存して生活するゆえに「助言者(mantassājīvino)」であり、智慧によって生きる者という意味であり、それぞれの王の公務において助言を与える者たちである。それゆえ「呪文とは智慧と言われる」などと言った。

Āyuvaṇṇādiparihānikathāvaṇṇanā

寿命・美貌などの衰退の説話の注釈

91. Balavalobhattāti ‘‘imasmiṃ loke idāni daliddamanussā nāma bahū, tesaṃ sabbesaṃ dhane anuppadiyamāne mayhaṃ kosassa parikkhayo hotī’’ti evaṃ uppannabalavalobhattā. Uparūparibhūmīsūti chakāmasaggasaṅkhātāsu uparūparikāmabhūmīsu. Kammassa phalaṃ aggaṃ nāma, taṃ panettha uddhagāmīti āha **‘‘uddhaṃ aggaṃ assā’’**ti. Sagge niyuttā, saggappayojanāti vā sovaggikā. Dasannaṃ visesānanti dibbaāyuvaṇṇayasasukhaādhipateyyānañceva dibbarūpādīnañca phalavisesānaṃ. Vaṇṇaggahaṇena cettha sako attabhāvavaṇṇo gahito, rūpaggahaṇena bahiddhā rūpārammaṇaṃ.

91. 「強烈な貪欲ゆえに」とは、「この世界には今や貧しい人間が多く、彼らすべてに財物を与えるなら、私の国庫が尽きてしまう」とこのように生じた強烈な貪欲ゆえに。「上々の諸階層において」とは、六欲天と呼ばれる上々の欲望の諸階層において。業の果報は最勝と言われ、それはここでは上方へ赴くものであるゆえに「上方がそれの最勝である」と言った。天界に結びついた、あるいは天界を用途とするゆえに「天界に属する」である。「十種の勝れた特質」とは、天上の寿命・美貌・名声・安楽・主権、そして天上の色(姿)などの勝れた果報の特質のことである。そしてここでの「美貌(vaṇṇa)」という把握によって自らの身体の美しさが把握され、「色(rūpa)」という把握によって外部の色の対象が把握される。

92. Suṭṭhu nisiddhanti yathāyaṃ iminā attabhāvena adinnaṃ ādātuṃ na sakkoti, evaṃ sammadeva tato nisedhitaṃ katvā. Mūlahatanti jīvitā voropanena mūle eva hataṃ.

92. 「固く禁じられた」とは、この者がこの身体によって与えられていないものを取ることができないように、このようにしっかりとそこから禁止されて。「根絶された」とは、命を奪うことによって根底から絶たれた。

96. Rāgavasena caraṇaṃ carittaṃ, carittameva cārittaṃ, methunanti adhippāyo, taṃ pana ‘‘paresaṃ dāresū’’ti vuttattā **‘‘micchācāra’’**nti āha.

96. 貪欲に基づいて振る舞うことが振る舞い(caritta)であり、振る舞いこそが行状(cāritta)であり、性交という意味であるが、それは「他人の妻たちにおいて」と説かれていることから「邪淫」と言った。

100. Paccanīkadiṭṭhīti ‘‘atthi dinna’’ntiādikāya (ma. ni. 1.441; 2.94; vibha. 793) sammādiṭṭhiyā paṭipakkhabhūtā diṭṭhi.

100. 「対立する見解」とは、「施しには果報がある」などという正見に対立する見解のことである。

101. Mātucchādikā upari sayameva vakkhati. Atibalavalobhoti ativiya balavā bahalakileso, yena akāle, adese ca pavattati. Micchādhammoti micchā viparīto avisabhāgavatthuko lobhadhammo. Tenāha **‘‘purisāna’’**ntiādi.

101. 伯母・叔母などについては、以下で自ら説くであろう。「極めて強烈な貪欲」とは、甚だしく強く濃厚な煩悩であり、それによって時ならぬ時に、相応しからぬ場所において生起する。「不法の法」とは、不正で顛倒した、不相応な対象に関する貪欲の法である。それゆえ「男たちの」などと言った。

Tassa bhāvoti yena mettākaruṇāpubbaṅgamena cittena puggalo ‘‘matteyyo’’ti vuccati, so tassa yathāvuttacittuppādo, taṃsamuṭṭhānā ca kiriyā matteyyatā. Tenāha **‘‘mātari sammā paṭipattiyā etaṃ nāma’’**nti. Yā sammā pajjitabbe sammā appaṭipatti, sopi doso agāravakiriyādibhāvato. Vippaṭipattiyaṃ pana vattabbameva natthīti āha **‘‘tassā abhāvo ceva tappaṭipakkhatā ca amatteyyatā’’**ti. Kule jeṭṭhānanti attano kule vuddhānaṃ mahāpitucūḷapitujeṭṭhakabhātikādīnaṃ.

「その状態」とは、慈悲を先立たせた心によって人が「母を敬う者」と呼ばれるその者の前述の心の生起であり、それによって生じた行為が「母への敬愛」である。それゆえ「母における正しい実践にこの名がある」と言った。正しく実践されるべき相手において正しく実践しないこともまた、不敬の行為などの状態であることから過失である。誤った実践においては実に言うまでもないゆえに「その欠如およびその対立が母への不敬愛である」と言った。「家督の長たる者たちに」とは、自らの家系における年長者たち、伯父、叔父、長兄などのことである。

Dasavassāyukasamayavaṇṇanā

十歳寿命の時代の注釈

103. **‘‘Ya’’**nti iminā samayo āmaṭṭho, bhummatthe cetaṃ paccattavacananti āha **‘‘yasmiṃ samaye’’**ti. Alaṃ patinoti alaṃpateyyā. Tassā pariyattatā bhariyābhāvenāti āha **‘‘dātuṃ yuttā’’**ti. Aggarasānīti madhurabhāvena, bhesajjabhāvena ca aggabhūtarasāni.

103. 「〜のとき」とは、これによって時代が指し示されており、処格の意味における主格の語であるゆえに「その時代において」と言った。「夫にふさわしい」とは、結婚に適した。妻としての状態によって彼女が適していることゆえに「嫁がせるのに相応しい」と言った。「最上の美味」とは、甘美であることによって、また薬となることによって最上となった味のことである。

Dippissantīti paṭipakkhabhāvena samujjalissanti. Tenāha ‘‘kusalantipi na bhavissatī’’ti. Aho purisoti mātādīsupi īdiso, aññesaṃ kesaṃ kiṃ vissajjessati, aho tejavapurisoti.

「輝くであろう」とは、対立するものとして極めて輝くであろう。それゆえ「善ということさえ存在しないであろう」と言った。「おお、男よ」とは、母などに対してもこのようであるなら、他の誰を容赦するだろうか、おお、気概ある男よ、と。

Gehe mātugāmaṃ viyāti attano gehe dāsibhariyābhūtamātugāmaṃ viya. Missībhāvanti mātādīsu bhariyāya viya cārittasaṅkaraṃ.

「家の中の婦人のように」とは、自分の家の女奴隷や妻となった婦人のように。「混合」とは、母などにおいて妻におけるような行状の乱れのことである。

Balavakopoti hantukāmatāvasena uppattiyā balavakopo. Āghātetīti āhanati, attano kakkhaḷapharusabhāvena cittaṃ vibādhatīti attho. Nissayadahanaraso hi doso. Byāpādetīti vināseti, manopadūsanato manassa pakopanato. Tibbanti tikkhaṃ, sā panassa tikkhatā sarīre avahantepi sinehavatthuṃ laṅghitvāpi pavattiyā veditabbāti āha **‘‘piyamānassapī’’**tiādi.

「激しい怒り」とは、殺害したいという欲求に基づいて生起することによる激しい怒りである。「害する」とは、打ち倒すことであり、自らの荒々しく粗暴な状態によって心を痛めつけるという意味である。実に瞋恚とは依拠するものを焼き尽くす作用をもつからである。「殺意を抱く」とは、破滅させることであり、心を汚すことから、心を激怒させることからである。「強烈な」とは、鋭いことであり、その鋭さは身体において害がないときにも、愛情の対象を乗り越えて生起することによって知られるべきであるゆえに「愛する者に対しても」などと言った。

104. Kappavināso kappo uttarapadalopena, antarāva kappo antarakappo. Taṇhādibhedo kappo etassa atthīti kappo, sattalokoti āha **‘‘antarāva lokavināso’’**ti. Svāyaṃ antarakappo katividho, kathañcassa sambhavo, kiṃ gatikoti antogadhaṃ codanaṃ sandhāyāha **‘‘antarakappo ca nāmā’’**tiādi. Lobhussadāyāti lobhādhikāya pajāya vattamānāya.

104. 劫の破滅が「劫」であり、後続の語の省略によって、中間における劫が「中間劫」である。渇愛などの分別ある劫がこれにあるゆえに「劫」であり、生類の世界であるゆえに「中間の世界の破滅」と言った。この中間劫は何種類あり、どのように生じるのか、どのような行末をもつのかという内なる問いを指して「中間劫とは」などと言った。「貪欲の増大した」とは、貪欲の甚だしい民衆が生きているときに。

Evaṃ cintayiṃsūti pubbe yathānussavānussaraṇena, attano ca āyuvisesassa labhanato. Gumbalatādīhi gahanaṃ ṭhānanti gumbalatādīhi sañchannatāya gahanabhūtaṃ ṭhānaṃ. Rukkhehi gahananti rukkhehi nirantaranicitehi gahanabhūtaṃ. Nadīvidugganti chinnataṭāhi nadīhi orato, pārato ca viduggaṃ. Tenāha **‘‘nadīna’’**ntiādi. Pabbatehi visamaṃ pabbatantaraṃ. Pabbatesu vā chinnataṭesu durārohaṃ visamaṭṭhānaṃ. Sabhāgeti jīvanavasena samānabhāge sadise karissanti.

「このように考えた」とは、以前の言い伝えを想起することによって、また自らの寿命の特異性を得ることからである。「茂みや蔓草などによって険しい場所」とは、茂みや蔓草などによって覆われていることによって険しくなった場所のことである。「樹木によって険しい」とは、樹木が絶え間なく密集していることによって険しくなったことである。「河川の難所」とは、切り立った岸をもつ河川によって手前からも向こうからも険しいことである。それゆえ「河川の」などと言った。「山々によって険しい」とは、山と山の間である。あるいは山々の切り立った岸において登り難い険しい場所である。「同類において」とは、生活に基づいて等しい仲間において、同じような者たちを作るであろう。

Āyuvaṇṇādivaḍḍhanakathāvaṇṇanā

寿命・美貌などの増長の説話の注釈

105. Āyatanti vā dīghaṃ cirakālikaṃ. Maraṇavasena hi ñātikkhayo āyato apunarāvattanato, na rājabhayādinā ukkamanavasena punarāvattiyāpi tassa labbhanato. Osakkeyyāmāti orameyyāma. Viramaṇampi atthato pajahanameva pariccajanabhāvatoti āha **‘‘pajaheyyāmāti attho’’**ti. Sīlagabbhe vaḍḍhitattāti mātu, pitu ca sīlavantatāya tadavayavabhūte gabbhe vaḍḍhi ‘‘sīlagabbhe vaḍḍhitā’’ti vuttā, etena utuāhārassa viya tadaññassāpi bāhirassa paccayassa vasena sattasantānassa visesādhānaṃ hotīti dasseti. Yaṃ panettha vattabbaṃ, taṃ brahmajālaṭīkāyaṃ (dī. ni. ṭī. 1.7) vuttameva. Khettavisuddhiyāti adhiṭṭhānabhūtavatthuvisuddhiyā. Nanu ca taṃ visesādhānaṃ jāyamānaṃ rūpasantatiyā eva bhaveyyāti? Saccametaṃ, rūpasantatiyā pana tathā āhitavisesāya arūpasantatipi laddhūpakārā eva hoti tappaṭibaddhavuttibhāvato. Yathā kabaḷīkārāhārena upatthambhite rūpakāye sabbopi attabhāvo anuggahito eva nāma hoti, yathā pana rañño cakkavattino puññavisesaṃ upanissāya tassa itthiratanādīnaṃ anaññasādhāraṇā te te visesā sambhavanti tabbhāve bhāvato, tadabhāve ca abhāvato, evameva tasmiṃ kāle mātāpitūnaṃ yathāvuttapuññavisesaṃ upanissāya tesaṃ puttānaṃ jāyamānānaṃ dīghāyukatā khettavisuddhiyāva hotīti veditabbā saṃvegadhammachandādisamupabrūhitāya tadā tesaṃ kusalacetanāya tathā uḷārabhāvena samuppajjanato. Etthāti imasmiṃ manussaloke, tatthāti yathāvuttaṃ kusaladhammaṃ samādāya vattamāne sattanikāye. Tatthevāti tasmiṃyeva sattanikāye. **‘‘Attanova sīlasampattiyā’’**ti vuttaṃ sasantatipariyāpannassa dhammassa tattha visesappaccayabhāvato. Khettavisuddhipi pana idhāpi paṭikkhipituṃ na sakkā.

105. 「長大な」とは、長く持続的な。実に死による親族の喪失は二度と戻らないことから長大であり、王の恐怖などによる避難のように再び戻ることがあり得るのとは異なるからである。「退こう」とは、離れよう。「離れること」も意義においては放棄することにほかならず、捨離する状態であるゆえに「放棄しようという意味である」と言った。「戒の胎内で成長したことによって」とは、母と父の持戒の状態によってその一部となった胎内での成長を「戒の胎内で成長した」と説いたのであり、これによって気候や食物のようにそれ以外の外部の条件によっても生類の心相続に勝れた特質の付与があることを示している。ここで説かれるべきことは梵網経注(義釈)において既に説かれた通りである。「福田の清浄によって」とは、拠り所となった基礎の清浄によってである。「では、生じるその勝れた特質の付与は物質的連続(色相続)にのみあるのではないか」と問うかもしれない。それは真実であるが、物質的連続がそのように勝れた特質を与えられることで精神的連続(名相続)もまた恩恵を得るものとなる。それに依存して生起する状態であるからである。段食によって支えられた物質的な身体において自己の全体が助けられると言われるように、また転輪王の勝れた功徳に依存して彼の玉女宝などに他に共有されないそれぞれの勝れた特質が生じるように、その存在があるときに存在し、その存在がないときには存在しないことから、このようにその時代において父母の前述の勝れた功徳に依存して、彼らに生まれる息子たちの長寿は福田の清浄によってこそ生じるものと知られるべきである。畏怖や法への意欲などによって増強されたそのときの彼らの善の思が、そのように勝れた状態として生起するからである。「ここにおいて」とは、この人間界において。「そこにおいて」とは、前述の善法を受持して生きる生類の集まりにおいて。「まさにそこにおいて」とは、まさにその生類の集まりにおいて。「自らの戒の具足によって」とは、自らの心相続に属する法がそこにおいて勝れた条件となることから説かれた。しかし福田の清浄もここにおいて否定することはできない。

Koṭṭhāsāti cattārīsavassāyukātiādayo asītivassasahassāyukapariyosānā ekādasa koṭṭhāsā. Adinnādānādīhīti ādi-saddena kule jeṭṭhāpacāyikāpariyosānānaṃ dasannaṃ pāpakoṭṭhāsānaṃ gahaṇaṃ.

「区分」とは、四十歳の寿命をもつ者たちから始まって八万歳の寿命をもつ者に至る十一の区分である。「不与取などによって」とは、「など」の語によって、家系における年長者を敬う者たちに至る十の悪の区分の把握である。

Saṅkharājauppattivaṇṇanā

サンハ王の出現の説話の注釈

106. Evaṃ uppajjanakataṇhāti evaṃ vacībhedaṃ pāpanavasena pavattā bhuñjitukāmatā. Anasananti kāyikakiriyāasamatthatāhetubhūto sarīrasaṅkoco. Tenāha **‘‘avipphārikabhāvo’’**tiādi. Ghananivāsatanti gāmanigamarājadhānīnaṃ ghananiviṭṭhataṃ aññamaññassa nātidūravattitaṃ. Nirantarapūritoti nirantaraṃ viya puṇṇo tatrupagānaṃ sattānaṃ bahubhāvato.

106. 「このように生じる渇愛」とは、このように言葉の破綻(悪言)に至らせる働きによって生じた、食べたいという欲望のことである。「絶食」とは、身体的な活動ができないことの原因となった肉体の萎縮である。それゆえ「無気力な状態」などと言われたのである。「密な居住」とは、村々や町や王都がびっしりと建て並び、互いにそれほど遠く離れていないことである。「隙間なく満ちている」とは、そこに赴く有情たちが多数であるために、あたかも隙間がないかのように満ちているということである。

Metteyyabuddhuppādavaṇṇanā

弥勒仏の出現の解説

107. Kiñcāpi pubbe vaḍḍhamānakavasena desanā āgataṃ, idaṃ pana na vaḍḍhamānakavasena vuttaṃ. Kasmāti ce āha **‘‘na hī’’**tiādi. Sattānaṃ vaḍḍhamānāyukakāle buddhā na nibbattanti saṃsāre saṃvegassa dubbibhāvanīyattā. Tato vassasatasahassato orameva buddhuppādakālo.

107. 前には(寿命が)増大していく経過に基づいて教説が説かれたが、これは増大していく経過に基づいて説かれたものではない。なぜなら「実にそうではない」等と言われているからである。有情の寿命が増大している時代には、輪廻における嫌気(厭離)が生じにくいために、仏陀たちは出現されない。それゆえ、十万歳以下になってからこそが仏陀出現の時なのである。

108. Samussitaṭṭhena yūpo viyāti yūpo, yūpanti ettha sattā anekabhūmikūṭāgārovarakādivantatāyāti yūpo, pāsādo. Rañño hetubhūtenāti hetuatthe karaṇavacanantidassetiussāhasampattiādinā. Mahatā rājānubhāvena, mahatā ca kittisaddena samannāgatattā catūhi saṅgahavatthūhi mahājanassa rañjanato mahāpanādo nāma rājā jāto. Jātaketi mahāpanādajātake (jā. 1.3.40 mahāpanādajātake).

108. 高くそびえ立つという意味で「柱のようなもの」が柱(ユパ)である。「柱」とは、ここでは有情たちにとって幾層もの楼閣や部屋などを持つものであることから、柱、すなわち宮殿のことである。「王が原因となって」とは、原因の意味における具格の語であり、熱意の成就などによって示される。偉大な王の威光と偉大な名声を具えていたため、四摂事によって民衆を喜ばせたことから、マハーパナーダ(大歓喜)という名の王となった。「本生において」とは、マハーパナーダ本生(ジャータカ 1.3.40)においてである。

Panādo nāma so rājāti ‘‘atīte panādo nāma so rājā assosī’’ti attabhāvantaratāya attānaṃ paraṃ viya niddisati. Āyasmā hi bhaddajitthero attanā ajjhāvutthapubbaṃ suvaṇṇapāsādaṃ dassetvā evamāha. Yassa yūpo suvaṇṇayoti yassa rañño ayaṃ yūpo pāsādo suvaṇṇayo suvaṇṇamayo. Tiriyaṃ soḷasubbedhoti vitthārato soḷasasarapātappamāṇo, so pana aḍḍhayojanappamāṇo hoti. Ubbhamāhu sahassadhāti ubbhaṃ uccabhāvaṃ assa pāsādassa sahassadhā sahassakaṇḍappamāṇaṃ āhu, so pana yojanato pañcavīsatiyojanappamāṇo hoti. Keci panettha gāthāsukhatthaṃ ‘‘āhū’’ti dīghaṃ kataṃ, ahu ahosīti atthaṃ vadanti.

「パナーダという名のその王」とは、「過去においてパナーダという名のその王がいた」と、別の生存(前世)であることによって自分自身を他人のように示しているのである。実にバッダジ長老は、かつて自分が住んでいた黄金の宮殿を示してこのように語ったのである。「その宮殿が黄金製であった」とは、その王のこの柱、すなわち宮殿が黄金でできていた、黄金製であったということである。「横幅は十六(矢の射程)」とは、幅において十六本の矢の飛距離の規模であり、それは半由旬(半ヨージャナ)の規模である。「高さは千倍であったと言う」とは、その宮殿の高さ(階層)は千の区画の規模であると言われ、それは由旬で言えば二十五由旬の規模である。これについてある者たちは、詩偈の調子を整えるために「アーフー」と長音にされたのであり、「アहु(存在した)」という意味であると述べている。

Sahassakaṇḍoti sahassabhūmiko, ‘‘sahassakhaṇḍo’’ tipi pāṭho, so eva attho. Satageṇḍūti anekasataniyūhako. Dhajālūti tattha tattha niyūhasikharādīsu patiṭṭhapitehi sattidhajavīraṅgadhajādīhi dhajehi sampanno. Haritāmayoti cāmīkarasuvaṇṇamayo. Keci pana haritāmayoti ‘‘haritamaṇiparikkhaṭo’’ti vadanti. Gandhabbāti naṭā. Chasahassāni sattadhāti chamattāni gandhabbasahassāni sattadhā tassa pāsādassa sattasu ṭhānesu rañño abhiramāpanatthaṃ nacciṃsūti attho. Te evaṃ naccantāpi kira rājānaṃ hāsetuṃ nāsakkhiṃsu. Atha sakko devarājā devanaṭaṃ pesetvā samajjaṃ kāresi, tadā rājā hasīti.

「千の区画」とは千階建てのことであり、「千の破片」という読みもあり、意味は同じである。「百の突出部」とは、数百の突出した楼閣があることである。「旗を掲げた」とは、あちこちの突出部の頂上などに立てられた武器の旗や英雄の旗などの旗々を具えていることである。「緑色(黄金)の」とは、純金製のことである。ある者たちは「緑色の」とは「エメラルドで覆われた」ことであると述べている。「乾闥婆(ガンダッバ)」とは舞踊手(役者)のことである。「六千が七通りに」とは、およそ六千人の舞踊手たちが七通りにその宮殿の七箇所で王を楽しませるために踊った、という意味である。彼らはそのように踊っても、王を笑わせることができなかったという。そこで帝釈天王が天の舞踊手を遣わして宴会を開かせ、その時に王は笑ったということである。

Koṭigāmo nāma māpito. Vatthūti bhaddajittherassa vatthu. Taṃ theragāthāvaṇṇanāyaṃ (theragā. aṭṭha. bhaddajittheragāthāvaṇṇanāya) vitthārato āgatameva. Itarassāti naḷakāradevaputtassa. Ānubhāvāti puññānubhāvanimittaṃ.

コーティガーマという名(の村)が作られた。「事脈」とはバッダジ長老の物語である。それは長老偈の注釈(テーラガーター注・バッダジ長老偈注)に詳しく説かれている通りである。「他の者」とはナラカーラ天子のことである。「威光から」とは、功徳の威光を原因として、ということである。

Dānavasena datvāti taṃ pāsādaṃ attano pariggahabhāvaviyojanena dānamukhe niyojetvā. Vissajjetvāti citteneva pariccajanavasena datvā puna dakkhiṇeyyānaṃ santakabhāvakaraṇena nirapekkhapariccāgavasena vissajjetvā. Ettakenāti ‘‘bhūtapubbaṃ bhikkhave’’ti ādiṃ katvā yāva ‘‘pabbajissatī’’ti padaṃ ettakena desanāmaggena.

「布施として与えて」とは、その宮殿に対する自己の所有意識を離れることによって布施の対象に差し出し。「手放して」とは、心において放棄することによって与え、さらに布施を受けるべき者たちの所有物とすることによって、執着なき放棄として手放して。「これだけで」とは、「比丘たちよ、かつてあったことである」を初めとして「出家するであろう」という句に至るまでの、これだけの教説の道筋によって、ということである。

Bhikkhuno āyuvaṇṇādivaḍḍhanakathāvaṇṇanā

比丘の寿命や美貌などの増大についての説の解説

110. Idaṃ bhikkhuno āyusminti āyusmiṃ sādhetabbe idaṃ bhikkhuno icchitabbaṃ cirajīvitāya hetubhāvatoti. Tenāha **‘‘idaṃ āyukāraṇa’’**nti.

110. 「比丘の寿命においてこれを」とは、寿命が成就されるべき時に、長寿の原因となることから、比丘にとってこれが望まれるべきであるということである。それゆえ「これが寿命の原因である」と言われたのである。

Sampannasīlassa avippaṭisārapāmojjapītipassaddhisukhasamādhiyathābhūtañāṇādisambhavato taṃsamuṭṭhānapaṇītarūpehi kāyassa phuṭattā sarīre vaṇṇadhātu vippasannā hoti, kalyāṇo ca kittisaddo abbhuggacchatīti āha **‘‘sīlavato hī’’**tiādi.

戒を具足した者には、後悔のなさ、歓喜、喜悦、軽安、安楽、三昧、如実知見などが生じることから、それに起因する勝れた色法(身体的要素)によって身体が満たされるため、身体において皮膚の色艶が極めて清らかになり、善き名声が高く広がる。それゆえ「戒ある者には実に」などと言われたのである。

Vivekajaṃ pītisukhādīti ādi-saddena samādhijaṃ pītisukhaṃ, apītijaṃ kāyasukhaṃ, satipārisuddhijaṃ upekkhāsukhañca saṅgaṇhāti.

「遠離より生じる喜楽など」の「など」という言葉によって、定より生じる喜楽、無喜の身楽、念清浄より生じる捨楽が含まれる。

Appaṭikkūlatāvahoti appamāṇānaṃ sattānaṃ, attano ca tesu appaṭikkūlabhāvato. Hitūpasaṃhārādivasena pavattiyā sabbadisāsu pharaṇaappamāṇavasena sabbadisāsu vipphārikatā.

「嫌悪のなさをもたらす」とは、無量の有情たちにとって、また自分自身にとっても、彼らに対して嫌悪の感情がないことによる。利益の供与などによって生じる活動によって、一切の方角への無量の遍満に基づいて、一切の方角に広がり行き渡ることである。

**‘‘Arahattaphalasaṅkhātaṃ bala’’**nti vuttaṃ tassa akuppadhammatāya kenaci anabhibhavanīyabhāvato.

「阿羅漢果と呼ばれる力」と言われたのは、それが動揺しない性質であることによって、何ものにも圧倒されない状態だからである。

**‘‘Loke’’**ti idaṃ yathā **‘‘ekabalampī’’**ti iminā sambandhīyati, evaṃ ‘‘duppasahaṃ durabhisambhava’’nti imehipi sambandhitabbaṃ. Lokapariyāpanneheva hi dhammehi tesaṃ balassa duppasahatā, durabhisambhavatā, na lokuttarehīti. Etthevāti etasmiṃ arahattaphale eva, tadatthanti attho.

「世間において」というこれは、「一つの力であっても」というこれと結びつけられるのと同様に、「耐え難く、克服し難い」というこれらとも結びつけられるべきである。世間に属する法によってこそ彼らの力は耐え難く、克服し難いのであり、出世間の法によってではないからである。「まさにここにおいて」とは、この阿羅漢果においてこそ、という意味であり、その目的のために、という意味である。

Lokuttarapuññampīti lokuttarapuññampi puññaphalampi. Yāva āsavakkhayā pavaḍḍhati vivaṭṭagāmikusaladhammānaṃ samādānahetūti yojanā. Amatapānaṃ piviṃsu heṭṭhimamaggaphalasamadhigamavasenāti adhippāyo.

「出世間の功徳も」とは、出世間の功徳も、功徳の果報も、ということである。「煩悩の滅尽に至るまで増大する」とは、輪廻を脱することに向かう善法を実践することが原因である、と解釈される。「甘露の甘露水を飲んだ」とは、下位の道果の達成によって、という意味である。

Cakkavattisuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā.

転輪聖王経の注釈における深遠な意味の解明(釈義)は終了した。