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4. Aggaññasuttavaṇṇanā4. 起世経(アッガンニャ・スッタ)の解説

Vāseṭṭhabhāradvājavaṇṇanā

ヴァーセッタとバーラドヴァージャの解説

111. Etthāti ‘‘pubbārāme, migāramātupāsāde’’ti etasmiṃ padadvaye. Koyaṃ pubbārāmo, kathañca pubbārāmo, kā ca migāramātā, kathañcassā pāsādo ahosīti etasmiṃ antolīne anuyoge. Ayaṃ idāni vuccamānā anupubbikathā ādito paṭṭhāya saṅkhepeneva anupubbikathā. Padumuttaraṃ bhagavantaṃ ekaṃ upāsikaṃ aggupaṭṭhāyikaṭṭhāne ṭhapentiṃ disvāna tattha sañjātagāravabahumānā tamevatthaṃ purakkhatvā bhagavantaṃ nimantetvā. Meṇḍakaputtassāti meṇḍakaseṭṭhiputtassa. Sotāpannā ahosi tathā katādhikārattā.

111. 「ここにおいて」とは、「東園の鹿母講堂において」というこの二つの句においてである。この東園とは何か、どのようにして東園なのか、また鹿母(ミガーラマーター=ヴィサーカー)とは誰か、どのようにして彼女の講堂が存在したのかという、この内に秘められた問いにおいてである。今から語られるこの順序立った物語は、最初から要約された順序の物語である。パドゥムッタラ世尊が一人の優婆夷を第一の給仕の地位に据えられるのを見て、そこに生じた敬意と尊崇から、そのこと自体を目的として世尊をお招きし……。「メンダカの子に」とは、メンダカ長者の子に、ということである。そのように善行を積んでいたために預流者となった。

Mātuṭṭhāne ṭhapesi attano sīlācārasampattiyā garuṭṭhāniyattā. Upayoganti tattha tattha appetabbaṭṭhāne appanāvasena viniyogaṃ agamaṃsu. Aññehi ca veḷuriyalohitaṅkamasāragallādīhi. Bhassatīti otarati. Suddhapāsādova na sobhatīti kevalo ekapāsādo eva vihāro na sobhati. Niyūhāni bahūni nīharitvā kattabbasenāsanāni ‘‘duvaḍḍhagehānī’’ti vadanti. Majjhe gabbho samantato anupariyāyatoti evaṃ dvikkhattuṃ vaḍḍhetvā katasenāsanāni duvaḍḍhagehāni. Cūḷapāsādāti khuddakapāsādā.

自身の戒律と所作の成就によって敬うべき地位にあったため、(舅であるミガーラ長者は彼女を)母の地位に据えた。「用途に」とは、あちこちの然るべき場所に配置することによって充当していった。「その他のラピスラズリ、赤珠、瑪瑙などによっても」。「降りる」とは下りてくることである。「単なる宮殿だけでは美しくない」とは、ただ一つの宮殿だけの寺院では美しくないということである。多くの突出した部屋を引き出して作られるべき居所を「二重建築」と呼ぶ。中央に部屋があり、四方に回廊があるというように、二重に増築して作られた居所が二重建築である。「小宮殿」とは小さな宮殿のことである。

Uttaradevīvihāro nāma nagarassa pācīnadvārasamīpe katavihāro.

「ウッタラーデーヴィー寺院」とは、都市の東門の近くに建てられた寺院のことである。

Titthiyaliṅgassa aggahitattā neva titthiyaparivāsaṃ vasanti. Anupasampannabhāvato āpattiyā āpannāya abhāvato na āpattiparivāsaṃ vasanti. Bhikkhubhāvanti upasampadaṃ. Tevijjasuttanti imasmiṃ dīghanikāye tevijjasuttaṃ sutvā.

異教徒の標識(出家の特徴)を取っていなかったため、異教徒の別住(見習い期間)を過ごすことはない。受具足戒を受けていない状態であり、罪を犯したことがないため、罪に対する別住を過ごすこともない。「比丘の状態」とは具足戒のことである。「三明経」とは、この長部(ディーガ・ニカーヤ)における三明経を聞いて、ということである。

113. Anuvattamānā caṅkamiṃsu ananucaṅkamane yathādhippetassa atthassa pucchanādīnaṃ asakkuṇeyyattā. Tesanti tesaṃ dvinnaṃ. Tenāha **‘‘paṇḍitataro’’**ti. Atthāti bhavattha. Kulasampannāti sampannakulā uditodite brāhmaṇakule uppannā. Brāhmaṇakulāti kenaci pārijuññena anupaddutā eva brāhmaṇakulā. Tenāha **‘‘bhogādisampanna’’**ntiādi. Ime brāhmaṇā uccā hutvā ‘‘imaṃ vasalaṃ pabbajjaṃ pabbajiṃsū’’tiādinā jātiādīni ghaṭṭentā akkosanti. Paribhāsantīti paribhavitvā bhāsanti. Attano anurūpāyāti attano ajjhāsayassa anurūpāya. Antarantarā vicchijja pavattiyamānā paribhāsā paripuṇṇā nāma na hoti khaṇḍabhāvato, tabbipariyāyato paripuṇṇā nāma hotīti āha **‘‘antarā’’**tiādi.

113. 意図された意味についての質問などが(後ろについて経行しなければ)できないため、「付き従って経行した」のである。「彼らの」とは、その二人のことである。それゆえ「より賢明な者」と言われたのである。「あり」とは「存在する」という意味である。「家柄の優れた」とは、豊かな家柄の、代々高名なバラモンの家柄に生まれた、ということである。「バラモンの家柄」とは、いかなる没落にも損なわれていない純粋なバラモンの家柄のことである。それゆえ「財宝などに恵まれた」などと言われたのである。これらのバラモンたちは身分が高いのに、「この卑しい出家をなした」などと言って、生まれなどを非難して罵倒する。「罵る」とは、軽蔑して言うことである。「自分にふさわしい」とは、自分の意図にふさわしい、ということである。合間合間に途切れて行われる罵倒は、不完全な状態であるため完全とは言えず、その逆であるから完全であると言えるので、「間断なく」などと言われたのである。

Appatiṭṭhatāyāti apassayarahitattā. Vibhinnoti vinaṭṭho.

「よりどころがないことによって」とは、支えがないことによってである。「崩壊した」とは、滅びたということである。

Itare tayo vaṇṇāti khattiyādayo vaṇṇā hīnā. Nanu khattiyāva seṭṭhā vaṇṇā yathā buddhā etarahi khattiyakule eva uppannāti? Saccametaṃ, te pana attano micchābhimānena, micchāgāhena ca ‘‘brāhmaṇova seṭṭho vaṇṇo’’ti vadanti, taṃ tesaṃ vacanamattaṃ. ‘‘Sujjhantīti suddhā honti, na nindaṃ garahaṃ pāpuṇantī’’ti vadanti. Sujjhanti vā saṃsārato sujjhanti, na sesā vaṇṇā asukkajātikattā, mantajjhenābhāvato cāti. Brahmuno mukhato jātā vedavacanato jātāti mukhato jātā. Tato eva brahmuno mahābrahmuno vedavacanato vijātāti brahmajā. Tena duvidhenāpi nimmitāti brahmanimmitā. Vedavedaṅgādibrahmadāyajjaṃ arahantīti brahmadāyādā. Muṇḍake samaṇaketi ettha ka-kāro garahāyanti āha **‘‘nindantā jigucchantā vadantī’’**ti. Ibbheti sudde, te pana gharabandhanena baddhā nihīnatarāti āha **‘‘gahapatike’’**ti. Kaṇheti kaṇhajātike. Bandhanaṭṭhena bandhu, kassa pana bandhūti āha **‘‘mārassa bandhubhūte’’**ti. Pādāpacceti pādato jātāpacce. Ayaṃ kira brāhmaṇānaṃ laddhi ‘‘brāhmaṇā brahmuno mukhato jātā, khattiyā urato, ūrūhi vessā, pādato suddā’’ti.

「他の三つの階級」とは、刹帝利(王族)などの階級は卑しいということである。「仏陀たちが現今では刹帝利の家柄にこそお生まれになっているように、まさに刹帝利こそが最上の階級ではないのか」と言うのか。それは真実であるが、彼らは自身の誤った慢心と誤った執着によって「バラモンこそが最上の階級である」と言うのであり、それは彼らの単なる言葉にすぎない。「清浄であるとは、清らかであり、非難や叱責を受けないということである」と彼らは言う。あるいは、輪廻から清められるのであり、残りの階級は白い生まれではなく、ヴェーダのマントラの誦習がないため清められない、ということである。「梵天の口から生まれた」とは、ヴェーダの言葉から生まれたので「口から生まれた」という。まさにその梵天、大梵天のヴェーダの言葉から生み出されたので「梵天より生まれた」という。そのように二重の意味で作られたので「梵天に作られた」という。ヴェーダやヴェーダ補助学などの梵天の遺産を受けるに値するので「梵天の相続人」という。「剃髪した小沙門」の「小(カ)」の文字は軽蔑を表すため、「非難し、忌み嫌って言う」と言われたのである。「召使い」とは首陀羅(奴隷階級)のことであり、彼らは家の束縛に縛られたさらに卑しい者たちであるため、「在家者」と言われたのである。「黒い」とは黒い生まれのことである。束縛するという意味で「親族」であるが、誰の親族かといえば「悪魔(マーラ)の親族となった者たち」と言われた。「足の末裔」とは足から生まれた子孫のことである。実にバラモンたちの教義は「バラモンは梵天の口から生まれ、刹帝利は胸から、吠舎は腿から、首陀羅は足から生まれた」というものである。

114. Yasmā paṭhamakappikakāle catuvaṇṇavavatthānaṃ natthi, sabbeva sattā ekasadisā, aparabhāge pana tesaṃ payogabhedavasena ahosi, tasmā vuttaṃ **‘‘porāṇaṃ…pe… ajānantā’’**ti. Laddhibhindanatthāyāti ‘‘brāhmaṇā brahmuno puttā orasā mukhato jātā’’ti evaṃ pavattāya laddhiyā viniveṭhanatthaṃ. Puttappaṭilābhatthāyāti ‘‘evaṃ mayaṃ pettikaṃ iṇaṃ sodhessāmā’’ti laddhiyaṃ ṭhatvā puttappaṭilābhāya. Ayañhettha dhammikānaṃ brāhmaṇānaṃ ajjhāsayo. Sañjātapupphāti rajassalā. Itthīnañhi kumāribhāvappattito paṭṭhāya pacchimavayato oraṃ asati vibandhe aṭṭhame aṭṭhame sattāhe gabbhāsayasaññite tatiye āvatte katipayā lohitapīḷakā saṇṭhahitvā aggahitapupphā eva bhijjanti, tato lohitaṃ paggharati, tattha utusamaññā, pupphasamaññā ca. Nesanti brāhmaṇānaṃ. Saccavacanaṃ siyāti ‘‘brahmuno puttā’’tiādivacanaṃ saccaṃ yadi siyā, brāhmaṇīnaṃ…pe… mukhaṃ bhaveyya, na cetaṃ atthi.

114. 最初の劫(世界の始まり)の時代には四階級の区別はなく、すべての有情はみな等しく同じであり、後の時代になって彼らの行為の違いによって生じたのであるから、「太古の……(中略)……知らずに」と言われたのである。「教説を打破するために」とは、「バラモンは梵天の真の息子であり、胸から生じ、口から生まれた」というように信じられていた教説を打破するためである。「子を得るために」とは、「このようにして我らは父祖の負債を清算しよう」という教義にとどまって、子を得るためである。実にこれがここにおける法にかなったバラモンたちの意図である。「花(経血)が生じた」とは月経のある女性のことである。実に女性たちには、少女期に達した時から更年期に至るまでの間、障害がない限り、八週間ごとに子宮と呼ばれる第三の腔処にいくつかの血の吹き出物が生じ、受精しないまま破れ、そこから血液が流出する。そこに「季節」という名称や「花」という名称が使われる。「彼らの」とはバラモンたちのことである。「真実の言葉であるならば」とは、「梵天の息子たち」などの言葉がもし真実であるならば、バラモンの女たちの……(中略)……口となるはずであるが、そのようなことはない。

Catuvaṇṇasuddhivaṇṇanā

四階級の清浄についての解説

115. Mukhacchedakavādanti ‘‘brāhmaṇā mahābrahmuno mukhato jātā’’ti vādassa chedakavādaṃ. Ariyabhāve asamatthāti anariyabhāvāvahā. Pakatikāḷakāti sabhāveneva na suddhā. Kaṇhoti kiliṭṭho upatāpako. Tenāha **‘‘dukkhoti attho’’**ti.

115. 「口を封じる論説」とは、「バラモンは大梵天の口から生まれた」という論説を打ち破る論説のことである。「聖者の境地には無能である」とは、非聖者の境地をもたらすということである。「本質的に黒い」とは、その本性自体が清らかでないということである。「黒」とは汚れており、苦悩をもたらすものである。それゆえ「苦痛であるという意味である」と言われたのである。

Sukkabhāvo nāma parisuddhatāti āha **‘‘nikkilesabhāvena paṇḍarā’’**ti. Sukkoti na kiliṭṭho anupatāpakoti vuttaṃ **‘‘sukhoti attho’’**ti.

「白であること」とは清浄のことであるため、「煩悩なき状態によって白い」と言われたのである。「白」とは汚れておらず、苦悩をもたらさないものであるため、「安楽であるという意味である」と言われた。

116. Ubhayavokiṇṇeti vacanavipallāsena vuttanti āha **‘‘ubhayesu vokiṇṇesū’’**ti. Missībhūtesūti ‘‘kadāci kaṇhā dhammā, kadāci sukkā dhammā’’ti evaṃ ekasmiṃ santāne, ekasmiṃyeva ca attabhāve pavattiyā missībhūtesu, na pana ekajjhaṃ pavattiyā. Etthāti anantaravuttadhammāva anvādhiṭṭhāti āha **‘‘kaṇhasukkadhammesū’’**ti. Yasmā ca te brāhmaṇā na ceva te dhamme atikkantā, yāya ca paṭipadāya atikkameyyuṃ, sāpi tesaṃ paṭipadā natthi, tasmā vuttaṃ **‘‘vattamānāpī’’**ti. Nānujānanti ayathābhuccavādabhāvato. Anujānanañca nāma abbhanumodananti tadabhāvaṃ dassentena **‘‘nānumodanti, na pasaṃsantī’’**ti vuttaṃ. Catunnaṃ vaṇṇānanti niddhāraṇe sāmivacanaṃ. Tesanti pana sambandhepi vā sāmivacanaṃ. Te ca brāhmaṇā na evarūpā na edisā, yādiso arahā ekadesenāpi tena tesaṃ sadisatābhāvato, tasmā tena kāraṇena nesaṃ brāhmaṇānaṃ ‘‘brāhmaṇova seṭṭho vaṇṇo’’ti vādaṃ viññū yathābhūtavādino buddhādayo ariyā nānujānanti.

116. 「両者が混ざり合っていることにおいて」とは、語の転換によって説かれたものであるため、「両者の中に混ざり合っていることにおいて」と言われたのである。「入り混じっていることにおいて」とは、「ある時には黒い法があり、ある時には白い法がある」というように、一つの連続体(個体)において、またまさに一つの生存において生起することによって入り混じっているのであり、一箇所に同時に生起することによってではない。「ここにおいて」とは、直前に説かれた法にほかならないという根拠に基づいて「黒と白の法において」と言われたのである。そしてそれらのバラモンたちは、それらの法を超越しておらず、それによって超越するであろうその実践道も彼らには存在しないため、「存在していても」と言われたのである。事実に基づかない論説であるため「容認しない」のである。容認することとは随喜(賞賛)することであり、それがないことを示すために「随喜せず、称賛しない」と言われたのである。「四つの階級の」とは、限定を表す属格の語である。「彼らの」とは、関係を表す属格の語でもある。そしてそれらのバラモンたちは、阿羅漢がいかなる者であるかというような境地に一部分たりとも似ていないため、その理由によって、それらのバラモンたちの「バラモンこそが最上の階級である」という論説を、有識者であり如実を語る者である仏陀などの聖者たちは容認しないのである。

Ārakattādīhīti ettha kilesānaṃ ārakattā pahīnabhāvato dūrattā arahaṃ, kilesārīnaṃ hatattā arahaṃ, saṃsāracakkassa arānaṃ hatattā arahaṃ, paccayādīnaṃ arahattā arahaṃ, pāpakaraṇe rahābhāvena arahanti evamattho veditabbo. Ayamettha saṅkhepo, vitthāro pana visuddhimagge (visuddhi. 1.125 ādayo), taṃ saṃvaṇṇanāsu (visuddhi. ṭī. 1.124) ca vuttanayena veditabbo. Āsavānaṃ khīṇattāti catunnampi āsavānaṃ anavasesato pahīnattā. Brahmacariyavāsanti maggabrahmacariyavāsaṃ. Tassa vāsassa pariyositattā vutthavāso, dasannampi vā ariyavāsānaṃ vutthattā vutthavāso. Vuttañhetaṃ –

「遠く離れていることなどによって」とは、ここにおいて煩悩から遠く離れていること、捨て去られた状態であること、遠隔であることから阿羅漢(アラハン)であり、煩悩という敵を討ち滅ぼしたことから阿羅漢であり、輪廻の車の輻(や)を打ち破ったことから阿羅漢であり、必需品などの供養を受けるに値することから阿羅漢であり、悪事をなすにあたって隠れた場所がない(秘密がない)ことから阿羅漢である、このように意味が理解されるべきである。これがここでの要約であり、詳細は清浄道論(清浄道論 1.125以下)やその注釈(清浄道論複注 1.124)に説かれた方法によって理解されるべきである。「煩悩が尽きたことによって」とは、四つの煩悩(漏)が余すところなく捨て去られたことによってである。「梵行の完成」とは、道における梵行の完成のことである。その修行が完了したことから「修行を完成した者」であり、あるいは十の聖者の住処に住み終えたことから「修行を完成した者」である。実にこのように説かれている——

‘‘Dasayime, bhikkhave, ariyāvāsā, yadariyā āvasiṃsu vā āvasanti vā āvasissanti vā. Katame dasa? Idha, bhikkhave, bhikkhu pañcaṅgavippahīno hoti chaḷaṅgasamannāgato ekārakkho caturāpasseno panuṇṇapaccekasacco samavayasaṭhesano anāvilasaṅkappo passaddhakāyasaṅkhāro suvimuttacitto suvimuttapañño. Ime kho, bhikkhave, dasa ariyāvāsā’’ti (a. ni. 10.19).

「比丘たちよ、これら十の聖者の住処があり、それによって聖者たちはかつて住し、今住し、あるいは将来住するであろう。十とは何か。比丘たちよ、ここに比丘がいて、五つの要素を完全に捨て去り、六つの要素を具え、一つの防護を持ち、四つの依拠を持ち、個別の執着を払拭し、完全に探求を静め、濁りのない思惟を持ち、身体の形成作用を静め、心が正しく解脱し、智慧が正しく解脱している。比丘たちよ、これらが実に十の聖者の住処である」(増支部 10.19)。

Vussatīti vā vusitaṃ, ariyamaggo, ariyaphalañca, taṃ etassa atthīti atisayavacanicchāvasena arahā **‘‘vusitavā’’**ti vutto. Karaṇīyaṃ nāma pariññāpahānasacchikiriyābhāvanā dukkhassantaṃ kātukāmehi ekantato kattabbattā, taṃ pana yasmā catūhi maggehi paccekaṃ catūsu saccesu kātabbaṃ kataṃ, tasmā vuttaṃ **‘‘catūhi…pe… katakaraṇīyo’’**ti. Osīdāpanaṭṭhena bhārā viyāti bhārā, kilesā, khandhā ca. Vuttañhi ‘‘bhārā have pañcakkhandhā’’ti (saṃ. ni. 3.22) ohāritoti apanīto. Sako attho sadatthoti ettha da-kāro padasandhikaro. Kāmaṃ diṭṭhiādayopi saṃyojanāni eva, tathāpi taṇhāya bhavasaṃyojanaṭṭho sātisayo. Yathāha ‘‘avijjānīvaraṇānaṃ sattānaṃ taṇhāsaṃyojanāna’’nti. (Saṃ. ni. 2.125, 126, 127, 132, 134, 136, 142; 3.5.520; kathā. 75) tato sā eva sutte (dī. ni. 2.400; ma. ni. 1.93, 133; 3.373; saṃ. ni. 3.1081; paṭi. ma. 1.34 ādayo) samudayasaccabhāvena vuttā, tasmā vuttaṃ **‘‘bhavasaṃyojanaṃ vuccati taṇhā’’**ti. Sammadaññā vimuttoti sammā aññāya jānanabhūtāya aggamaggapaññāya sammā yathābhūtaṃ yaṃ yathā jānitabbaṃ, taṃ tathā jānitvā vimutto. Imasmiṃ loketi imasmiṃ sattaloke. Idhattabhāveti imasmiṃ attabhāve, parattabhāveti parasmiṃ attabhāve, idhaloke, paraloke cāti attho.

あるいは、住まわれた(修められた)ものが「修習されたもの」、すなわち聖道と聖果であり、それがこの者にあることから、卓越した表現を欲することによって、阿羅漢は「修習を完成した者」と呼ばれる。「なすべきこと」とは遍知・断・作証・修習のことであり、苦しみの終尽を望む者たちによって絶対に果たされるべきものであることから、四つの道によってそれぞれ四つの真理においてなされるべきことがなされたため、「四つによって……(中略)……なすべきことをなした者」と言われたのである。沈み込ませるという意味で重荷のようなものであるため「重荷」とは、煩悩と五蘊のことである。「実に五蘊こそが重荷である」(相応部 3.22)と説かれている通りである。「下ろされた」とは取り除かれたことである。「真の目的(己の目的)」とは自己の目的のことであり、ここでの「ダ」の文字は語の結合(連声)をなすものである。確かに見解などもまさに結び目(結)であるが、それでも渇愛には生存への結び目としての意味が卓越している。「無明に覆われ、渇愛に結ばれた有情たちの」(相応部 2.125等)と説かれている通りである。それゆえそれ(渇愛)こそが経典(長部 2.400等)において集諦として説かれたのであり、それゆえ「生存の結び目とは渇愛と呼ばれる」と言われたのである。「正知によって解脱した」とは、正しく知ることである最上の道の智慧によって、正しくありのままに知られるべきことをそのように知って解脱した、ということである。「この世において」とは、この有情の世界においてである。「この生存において」とは、この自己の生存においてであり、「他者の生存において」とは、他者の生存において、すなわち現世と来世において、という意味である。

117. Antaravirahitāti vibhāgavirahitā. Tenāha **‘‘attano kulena sadisā’’**ti. Anuyantīti anuyantā, anuyantā eva ānuyantā, anuvattakā. Tenāha **‘‘vasavattino’’**ti.

117. 「区別がない」とは、差異がないことである。それゆえ「自らの家柄と同等である」と言われたのである。「従う者たち」とは付き従う者たちのことであり、従う者こそが付随者、すなわち追従者である。それゆえ「意のままに従う者たち」と言われたのである。

118. Niviṭṭhāti saddheyyavatthusmiṃ anupavisanavasena niviṭṭhā. Tato eva tasmiṃ adhikaṃ nivisanato abhiniviṭṭhā. Acalaṭṭhitāti acalabhāve ṭhitā.

118. 「確立した」とは、信じるべき対象の中に入り込むことによって確立したのである。まさにそのことから、その対象にさらに深く入り込むことによって「深く確立した」のである。「不動に立った」とは、動揺しない状態に立ったということである。

Yanti yaṃ kathetabbadhammaṃ anupadhāretvā, tadatthañca appaccakkhaṃ katvā kathanaṃ, etaṃ aṭṭhānaṃ akāraṇaṃ tassa bodhimūleyeva samucchinnattā. Vicchindajananatthanti ratanattayasaddhāya vicchindassa uppādanatthaṃ, aññathattāyāti attho. Soti māro. Musāvādaṃ kātuṃ nāsakkhīti āgataphalassa ariyasāvakassa purato musā vattuṃ na visahi, tasmā āma mārosmīti paṭijāni. Silāpathaviyanti ratanamayasilāpathaviyaṃ. Sineruṃ kira parivāretvā ṭhito bhūmippadeso sattaratanamayo, ‘‘suvaṇṇamayo’’ti keci, sā vitthārato, ubbedhato anekayojanasahassaparimāṇā ativiya niccalā. Kiṃ tvaṃ etthāti kiṃ kāraṇā tvaṃ ettha. ‘‘Ṭhito’’ti accharaṃ pahari. Ṭhātuṃ asakkontoti ariyasāvakassa purato ṭhātuṃ asakkonto. Ayañhi ariyadhammādhigamassa ānubhāvo, yaṃ māropi nāma mahānubhāvo ujukaṃ paṭipparituṃ na sakkoti.

「……ということ」とは、語るべき教えを熟慮せず、その意味を直接体験することなく語るようなことであり、そのようなことはあり得ないし根拠がない。なぜならそれは菩提樹の根元においてすでに根絶されているからである。「分断を生じさせるため」とは、三宝への信仰に分裂を生じさせるため、すなわち変心させるため、という意味である。「彼」とは悪魔(マーラ)である。「嘘をつくことができなかった」とは、果に達した聖弟子を前にして嘘を言う勇気がなく、それゆえ「そうだ、私は悪魔である」と認めたのである。「岩盤の大地において」とは、宝でできた岩盤の大地においてである。須弥山を取り囲んで存在する土地は七宝でできており、ある者たちは「黄金製である」と言い、それは幅と高さにおいて数千由旬の規模であり、極めて不動である。「あなたは何のためにここにいるのか」とは、いかなる理由であなたはこの場所にいるのか、ということである。「そこに立った」と指を鳴らした。「立つことができず」とは、聖弟子の前に立つことができず、ということである。実にこれが聖なる法の獲得の威光であり、かの大いなる威光を持つ悪魔でさえも、真正面から立ち向かうことができないのである。

Maggo eva mūlaṃ maggamūlaṃ, tassa. Sañjātattā uppannattā. Tena maggamūlena patiṭṭhitasantāne laddhapatiṭṭhā. Bhagavato desanādhammaṃ nissāya ariyāya jātiyā jāto **‘‘bhagavantaṃ nissāya ariyabhūmiyaṃ jāto’’**ti vutto. **‘‘Ure vasitvā’’**ti idaṃ dhammaghosassa urato samuṭṭhānatāya vuttaṃ. Ure vāyāmajanitābhijātitāya vā oraso. Mukhato jātena jāto **‘‘mukhato jāto’’**ti vutto. Kāraṇakāraṇepi hi kāraṇe viya vohāro hoti ‘‘tiṇehi bhattaṃ siddha’’nti. Keci pana ‘‘vimokkhamukhassa vasena jātattā mukhato jāto’’ti vadanti, tatthāpi vuttanayeneva attho veditabbo. Purimenatthena yonijo, sedajo, mukhajoti tīsu sambandhesu mukhajena sambandhena bhagavato puttabhāvo vibhāvito. Atthadvayenāpi dhammajabhāvoyeva dīpito. Ariyadhammappattito laddhaviseso hutvā pavatto taduttarakāliko khandhasantāno ‘‘ariyadhammato jāto’’ti veditabbo, ariyadhammaṃ vā maggaphalaṃ nissāya, upanissāya ca jāto sabbopi dhammappabandho ‘‘ariyadhammato jāto’’ti gahetabbo. Tesaṃ pana ariyadhammānaṃ apariyositakiccatāya ariyabhāvena abhinibbattimattaṃ upādāya **‘‘ariyadhammato jātattā’’**ti vuttaṃ. Pariyositakiccatāya tathā nibbattipāripūriṃ upādāya **‘‘nimmitattā’’**ti vuttaṃ, yato ‘‘dhammajo dhammanimmito’’ti vuttaṃ. ‘‘Navalokuttaradhammadāyaṃ ādiyatīti dhammadāyādo’’ tipi pāṭho. Assāti ‘‘bhagavatomhiputto’’tiādinā vuttassa vākyassa. Atthaṃ dassentoti bhāvatthaṃ pakāsento. Tathāgatassa anaññasādhāraṇasīlādidhammakkhandhassa samūhanivesavasena dhammakāyatāya na kiñci vattabbaṃ atthi, satthuṭṭhāniyassa pana dhammakāyataṃ dassetuṃ ‘‘kasmā tathāgato dhammakāyoti vutto’’ti sayameva pucchaṃ samuṭṭhāpetvā **‘‘tathāgato hī’’**tiādinā tamatthaṃ vissajjeti. Hadayena cintetvāti ‘‘imaṃ dhammaṃ imassa desessāmī’’ti tassa upagatassa veneyyajanassa bodhanatthaṃ cittena cintetvā. Vācāya abhinīharīti saddhammadesanāvācāya karavīkarutamañjunā brahmassarena veneyyasantānābhimukhaṃ tadajjhāsayānurūpaṃ hitamatthaṃ nīhari upanesi. Tenāti tena kāraṇena evaṃsaddhammādhimuttibhāvena. Assāti tathāgatassa. Dhammamayattāti dhammabhūtattā. Idhādhippetadhammo seṭṭhaṭṭhena brahmabhūtoti āha **‘‘dhammakāyattā eva brahmakāyo’’**ti. Sabbaso adhammaṃ pajahitvā anavasesato dhammo eva bhūtoti dhammabhūto. Tathārūpo ca yasmā sabhāvato dhammo evāti vattabbataṃ arahatīti āha **‘‘dhammasabhāvo’’**ti.

道そのものが根本であるから「道の根本」であり、その根本のことである。「生じたことから」とは、生起したことからである。その道の根本によって確立された相続において足場を得たのである。世尊の教説の法に依拠して聖なる生まれによって生まれたので、「世尊に依拠して聖なる境地に生まれた」と言われる。「胸の中に住んで」というこれは、法の教えの響きが胸から生じることによって言われたものである。あるいは胸における努力によって生じた高貴な生まれであることから「胸から生まれた実子」である。口から出た教えによって生まれたので「口から生まれた」と言われる。原因の原因であっても「草によって飯が炊けた」と言うように、原因そのもののように表現されるからである。ある者たちは「解脱の口(解脱門)によって生まれたことから、口から生まれたと言う」と述べており、そこにおいても説かれた通りの方法によって意味が理解されるべきである。前者の意味においては胎生、湿生、口生という三つの関係のうち、口から生まれたという関係によって世尊の息子である状態が明らかにされた。二つの意味のいずれによっても、法から生まれた状態そのものが示されている。聖なる法を達成したことによって卓越性を得て生起した、その後の時代の五蘊の連続体は「聖法から生まれた」と理解されるべきであり、あるいは聖法、すなわち道果に依拠し、支えられて生じたすべての法の連鎖は「聖法から生まれた」と理解されるべきである。しかしそれらの聖法は、まだ果たすべき務めを終えていないことから、聖者の状態として単に生じたことだけに基づいて「聖法から生まれたことから」と言われたのである。務めを終えたことによってそのように完全に生じ終えたことに基づいて「作られたことから」と言われたのであり、それゆえ「法から生まれ、法によって作られた」と言われたのである。「九つの出世間の法の遺産を受け取るから法の相続人である」という読みもある。「その句の」とは、「私は世尊の息子である」などと説かれた文章のことである。「意味を示す者」とは、本質的な意味を解明する者である。如来の比類なき戒などの法蘊の集積の配置に基づいた法身であることについては何も言うべきことはないが、師の立場にある者の法身であることを示すために、「なぜ如来は法身と呼ばれるのか」と自ら問いを起こして、「如来は実に……」などとその意味を答えているのである。「心で思索して」とは、「この法をこの者に説こう」と、その近づいてきた教化されるべき人々の覚醒のために心で思索して、ということである。「言葉によって表し出された」とは、正しい教えを説く言葉によって、カラヴィーカ鳥の鳴き声のように美しい梵天の声によって、教化されるべき者の心の流れに向かって、その意図にふさわしい有益な意味を表し出し、もたらしたのである。「それによって」とは、そのような理由によって、このように正しい法を信順する状態によって、ということである。「その者の」とは、如来の、ということである。「法でできていることから」とは、法そのものとなったことからである。ここで意図されている法は、最上という意味で梵天そのものとなったものであるため、「法身であることによってまさに梵身である」と言われた。完全に非法を捨て去り、余すところなく法そのものとなったので「法そのものとなった者」である。そのような者は本性からして法そのものであると語られるにふさわしいことから、「法の本性を持つ者」と言われたのである。

119. Seṭṭhacchedakavādanti ‘‘brāhmaṇova seṭṭho vaṇṇo’’ti (dī. ni. 3.116) evaṃ vuttaseṭṭhabhāvacchedakavādaṃ. Aparenapi nayenāti yathāvuttaseṭṭhacchedakavādato aparenapi porāṇakalokuppattidassananayena. Seṭṭhaccheda…pe… dassetunti sopi hi ‘‘brāhmaṇova seṭṭho vaṇṇo, hīnā aññe vaṇṇā’’ti, ‘‘brāhmaṇā brahmuno puttā orasā mukhato jātā brahmajā’’ti (dī. ni. 3.114) ca evaṃ pavattāya micchādiṭṭhiyā viniveṭhano jātibrāhmaṇānaṃ seṭṭhabhāvassa chedanato seṭṭhacchedanavādo nāma hotīti dassetunti attho.

119. 「最上性を打ち破る論説」とは、「バラモンこそが最上の階級である」(長部 3.116)というように説かれた最上性を打ち破る論説のことである。「別の方法によっても」とは、先述の最上性を打ち破る論説とは別の、太古の世界の出現を示す方法によっても、ということである。「最上性を打ち破る……(中略)……示すため」とは、それもまた「バラモンこそが最上の階級であり、他の階級は卑しい」「バラモンは梵天の真の息子であり、胸から生じ、口から生まれた梵天の子である」(長部 3.114)というように広まっていた邪見を打破し、生まれによるバラモンたちの最上性を打ち破ることから「最上性を打ち破る論説」と呼ばれるのである、ということを示すためである、という意味である。

Itthabhāvanti imaṃ pakārataṃ manussabhāvaṃ. Sāmaññajotanā hi visese avatiṭṭhati, pakaraṇavasena vā ayamattho avacchinno daṭṭhabbo. Maneneva nibbattāti bāhirapaccayena vinā kevalaṃ upacārajhānamanasāva nibbattā. Yāya upacārajjhānacetanāya te tattha nibbattā, nīvaraṇavikkhambhanādinā uḷāro tassā pavattiviseso, tasmā jhānaphalakappo tassā phalavisesoti āha **‘‘brahmaloke viyā’’**tiādi. **‘‘Sayaṃpabhā’’**ti padānaṃ tattha sūriyālokādīhi vinā andhakāraṃ vidhamantā sayameva pabhāsantīti sayaṃpabhā, antalikkhe ākāse carantīti antalikkhacarā, tadaññakāmāvacarasattānaṃ viya sarīrassa vicaraṇaṭṭhānassa asubhatābhāvato subhaṃ, subheva tiṭṭhantīti subhaṭṭhāyinoti attho veditabbo.

「このような状態に」とは、この人間の状態というありさまに、ということである。一般的な表現は特殊なものにとどまるのであり、あるいは文脈に基づいてこの意味が限定されていると見なされるべきである。「心によってのみ生じた」とは、外的な条件なしに、ただ近行定の心によってのみ生じたということである。彼らがそこに生じるもととなったその近行定の思念によって、蓋(煩悩)の抑止などによるその活動の卓越性は広大であり、それゆえ禅定の果報に等しいものがその卓越した果報であるため、「梵天の世界におけるように」などと言われたのである。「自ら光を放ち」などの語の意味については、そこでは太陽の光などなしに暗闇を打ち払い、自ら光り輝くので「自ら光を放ち」、虚空を移動するので「空中を歩み」、他の欲界の有情たちのように身体や歩く場所が不浄ではないため清浄であり、清浄なままでとどまるので「清浄にとどまる者たち」と意味が理解されるべきである。

Rasapathavipātubhāvavaṇṇanā

地味(地のエッセンス)の出現の解説

120. Sabbaṃ cakkavāḷanti anavasesaṃ koṭisatasahassaṃ cakkavāḷaṃ. Samatanīti sañchādentī vipphari, sā pana tasmiṃ udake patiṭṭhitā ahosīti āha **‘‘patiṭṭhahī’’**ti. Vaṇṇena sampannāti sampannavaṇṇā. Makkhikaṇḍakarahitanti makkhikāhi ca tāsaṃ aṇḍakehi ca rahitaṃ.

120. 「すべての世界(輪囲山)」とは、余すところのない無数の世界のことである。「一面に広がり」とは、覆い尽くして行き渡り、しかもそれはその水の上に定着したということから「定着した」と言われたのである。「色を具足した」とは、優れた美しい色を持つということである。「ハエの卵のない」とは、ハエやその卵のない、ということである。

Atītānantarepi kappe loloyeva. Kasmā? Evaṃ ciraparicitalolatāvasena sabbapaṭhamaṃ tathā akāsīti dasseti. Kimevidanti ‘‘vaṇṇato, gandhato ca tāva ñātaṃ, rasato pana kimevidaṃ bhavissatī’’ti saṃsayajāto vadati. Tiṭṭhatīti aṭṭhāsi.

直前の過去の劫においてもまさに貪欲であった。なぜか。このように長い間慣れ親しんだ貪欲さによって、一番最初にそのようにしたのである、ということを示している。「これは一体何であろうか」とは、「色と香りからはまず分かったが、味としては一体何であろうか」と疑問を生じて言ったのである。「とどまった」とは、立ち止まったということである。

Candimasūriyādipātubhāvavaṇṇanā

月や太陽などの出現の解説

121. Āluppakārakanti ettha ālopapariyāyo āluppa-saddoti āha **‘‘ālopaṃ katvā’’**ti. Paccakkhabhūtānampi candimasūriyānaṃ pavattiyaṃ lokiyānaṃ sammoho hoti, taṃ vidhamituṃ **‘‘ko pana tesa’’**ntiādinā aṭṭha pañhāvissajjanāni gahitāni. Tattha tesanti candimasūriyānaṃ. Kasminti kasmiṃ ṭhāne. **‘‘Ko uparī’’**ti eteneva ko heṭṭhāti ayamattho vuttoyeva. Tathā **‘‘ko sīghaṃ gacchatī’’**ti iminā ko saṇikaṃ gacchatīti ayampi attho vuttoyeva. Vīthiyoti gamanavīthiyo. Ekatoti ekasmiṃ khaṇe pātubhavanti. Sūriyamaṇḍale pana atthaṅgate candamaṇḍalaṃ paññāyittha. Chandaṃ ñatvā vāti ruciṃ ñatvā viya.

121. 「一口大にすること」において、「アールッパ」という語は一口(アーローパ)の同義語であるため、「一口にして」と言われたのである。目に見える存在である月や太陽の動きに対しても世間の人々の混乱があるため、それを打ち払うために「では、彼らの誰が……」などと八つの問いの解答が提示された。そこにおいて「彼らの」とは月と太陽のことである。「どこにおいて」とは、いかなる場所において。「誰が上に」というこれによって、誰が下にかというこの意味もすでに説かれている。同様に「誰が速く進むのか」というこれによって、誰が遅く進むのかというこの意味もすでに説かれている。「軌道」とは運行の道筋のことである。「同時に」とは、同一の瞬間に出現するということである。しかし太陽の円盤が沈んだ時に、月の円盤が現れた。「望みを知ってかのように」とは、好意を知ったかのようである。

Ubhayanti anto, bahi ca.

「両方」とは、内部と外部である。

Ujukanti āyāmato, vitthārato, ubbedhato ca. Parimaṇḍalatoti parikkhepato.

「まっすぐに」とは、長さ、幅、高さにおいてである。「円形に」とは、周囲の巡りにおいてである。

Ujukaṃ saṇikaṃ gacchati amāvāsiyaṃ sūriyena saddhiṃ gacchanto divase divase thokaṃ thokaṃ ohīyanto puṇṇamāsiyaṃ upaḍḍhamaggameva ohīyanato. Tiriyaṃ sīghaṃ gacchati ekasmimpi māse kadāci dakkhiṇato, kadāci uttarato dassanato. **‘‘Dvīsu passesū’’**ti idaṃ yebhuyyavasena vuttaṃ. Candassa purato, pacchato, samañca tārakā gacchantiyeva. Attano ṭhānanti attano gamanaṭṭhānaṃ. Na vijahanti attano vīthiyāva gacchanato. Sūriyassa ujukaṃ gamanassa sīghatā candassa gamanaṃ upādāya veditabbā. Tiriyaṃ gamanaṃ dakkhiṇadisato uttaradisāya, uttaradisato ca dakkhiṇadisāya gamanaṃ dandhaṃ chahi chahi māsehi ijjhanato. Soti sūriyo. Kāḷapakkhauposathatoti kāḷapakkhe uposathe candena saheva gantvā tato paraṃ. Pāṭipadadivaseti sukkapakkhapāṭipadadivase. Ohāya gacchati attano sīghagāmitāya, tassa ca dandhagāmitāya. Lekhā viya paññāyati pacchimadisāyaṃ. Yāva uposathadivasāti yāva sukkapakkhauposathadivasā. **‘‘Cando anukkamena vaḍḍhitvā’’**ti idaṃ uparibhāgato patitasūriyālokatāya heṭṭhato pavattāya sūriyassa dūrabhāvena divase divase anukkamena parihāyamānāya attano chāyāya vasena anukkamena candamaṇḍalappadesassa vaḍḍhamānassa viya dissamānatāya vuttaṃ, tasmā anukkamena vaḍḍhitvā viya. Uposathadivase puṇṇamāyaṃ paripuṇṇo hoti, paripuṇṇamaṇḍalo hutvā dissatīti attho. Dhāvitvā gaṇhāti candassa dandhagatitāya, attano ca sīghagatitāya. Anukkamena hāyitvāti ettha ‘‘anukkamena vaḍḍhitvā’’ti ettha vuttanayena attho veditabbo. Tattha pana chāyāya hāyamānatāya maṇḍalaṃ vaḍḍhamānaṃ viya dissati, idha chāyāya vaḍḍhamānatāya maṇḍalaṃ hāyamānaṃ viya dissati.

新月の日には太陽とともに進みながら、日ごとに少しずつ遅れ、満月の日には半行程も遅れるため、まっすぐには遅く進む。一か月の間であっても、ある時は南から、ある時は北から見えるため、横方向には速く進む。「二つの側面において」というこれは、大体において言われたことである。月の前方、後方、そして同じ位置にも星々はまさに進んでいる。「自分の場所を」とは、自分の運行の場所を、ということである。自分の軌道だけを進むことから「捨て去らない」のである。太陽がまっすぐに進む速度の速さは、月の進行と比較して理解されるべきである。横方向への運行、すなわち南から北へ、北から南への運行は、六か月ごとに成し遂げられるため遅いのである。「それ」とは太陽のことである。「黒分(新月に向かう半月)の布薩の日から」とは、黒分の布薩の日に月とともに進んで、それ以降のことである。「白分の第一日において」とは、白分(満月に向かう半月)の初日においてである。自らは速く進む性質があり、月は遅く進む性質があるため、「置き去りにして進む」のである。西の方角に「線のように」現れる。「布薩の日まで」とは、白分の布薩の日まで、ということである。「月が次第に増大して」というこれは、上部から降り注ぐ太陽光によって下部に生じる太陽の距離の隔たりにより、日ごとに次第に減少していく自らの影によって、月の円盤の部分が次第に増大していくかのように見えることに基づいて言われたものであり、それゆえ次第に増大するかのように見えるのである。布薩の日である満月の日には「満ちる」のであり、完全な円盤となって見える、という意味である。月が遅く進み、自らは速く進む性質があるため、「追いかけて捕らえる」のである。「次第に減少して」において、「次第に増大して」において説かれた方法によって意味が理解されるべきである。ただしあちらでは影が減少することによって円盤が増大するように見え、こちらでは影が増大することによって円盤が減少するように見えるのである。

Yāya vīthiyā sūriye gacchante vassavalāhakā devaputtā sūriyābhitāpasantattā attano vimānato na nikkhamanti, kīḷāpasutā hutvā na vicaranti, tadā kira sūriyassa vimānaṃ pakatimaggato adho otaritvā vicarati, tassa oruyha caraṇeneva candavimānampi adho oruyha carati taggatikattā, tasmā sā vīthi udakābhāvena ajānurūpatāya **‘‘ajavīthī’’**ti samaññaṃ gatā. Yāya pana vīthiyā sūriye gacchante vassavalāhakā devaputtā sūriyābhitāpābhāvato abhiṇhaṃ attano vimānato bahi nikkhamitvā kīḷāpasutā ito cito ca vicaranti, tadā kira sūriyavimānaṃ pakatimaggato uddhaṃ āruhitvā vicarati, tassa uddhaṃ āruyha caraṇeneva candavimānampi uddhaṃ āruyha carati taggatikattā, taggatikatā ca samānagatinā vātamaṇḍalena vimānassa phellitabbattā, tasmā sā vīthi udakabahubhāvena nāgānurūpatāya **‘‘nāgavīthī’’**ti samaññaṃ gatā. Yadā sūriyo uddhamanāruhanto, adho ca anotaranto pakatimaggeneva gacchati, tadā vassavalāhakā yathākālaṃ, yathāruci ca vimānato nikkhamitvā sukhena vicaranti, tena kālena kālaṃ vassanato loke utusamatā hoti, tāya utusamatāya hetubhūtāya sā candimasūriyānaṃ gati gavānurūpatāya **‘‘govīthī’’**ti samaññaṃ gatā. Tena vuttaṃ **‘‘ajavīthī’’**tiādi.

太陽が進む軌道において、雨雲を司る天子たちが太陽の熱に焼かれて自らの宮殿から出ず、遊興にふけって歩き回らない時、その時は太陽の宮殿が通常の軌道よりも下方に降りて運行し、それが降りて運行することによって月の宮殿もそれに従う性質があるために下方に降りて運行する。それゆえその軌道は水がないことによって山羊にふさわしいことから「山羊の軌道(アジャヴィーティー)」という名称を得た。一方、太陽が進む軌道において、雨雲を司る天子たちが太陽の熱がないために頻繁に自らの宮殿から外に出て、遊興にふけってあちこち歩き回る時、その時は太陽の宮殿が通常の軌道よりも上方に昇って運行し、それが昇って運行することによって月の宮殿もそれに従う性質があるために上方に昇って運行する。それに従う性質があること、そして同じ速度の風の円盤によって宮殿が押し動かされるべきであることから、その軌道は水が豊富であることによって象(竜)にふさわしいことから「象の軌道(ナーガヴィーティー)」という名称を得た。太陽が上にも昇らず、下にも降りずに通常の軌道を進む時、その時は雨雲を司る天子たちが時節に応じて、望むままに宮殿から出て安楽に歩き回り、それによって時折雨が降ることで世間に季節の調和が生じる。その季節の調和の原因となることから、その月と太陽の運行は牛にふさわしいことから「牛の軌道(ゴーヴィーティー)」という名称を得た。それゆえ「山羊の軌道」などと言われたのである。

Evaṃ ‘‘kati nesaṃ vīthiyo’’ti pañhaṃ vissajjetvā ‘‘kathaṃ vicarantī’’ti pañhaṃ vissajjetuṃ **‘‘candimasūriyā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha sineruto bahi nikkhamantīti sinerusamīpena taṃ padakkhiṇaṃ katvā gacchantā tato gamanavīthito bahi attano tiriyagamanena cakkavāḷābhimukhā nikkhamanti. Anto vicarantīti evaṃ cha māse khaṇe khaṇe sineruto apasakkanavasena tato nikkhamitvā cakkavāḷasamīpaṃ pattā, tatopi cha māse khaṇe khaṇe apasakkanavasena nikkhamitvā sinerusamīpaṃ pāpuṇantā anto vicaranti. Idāni tamevatthaṃ saṅkhepena vuttaṃ vivarituṃ **‘‘tehī’’**tiādi vuttaṃ. Sinerussa, cakkavāḷassa ca yaṃ ṭhānaṃ vemajjhaṃ, tassa, sinerussa ca yaṃ ṭhānaṃ vemajjhaṃ, tena gacchantā ‘‘sinerusamīpena **vicarantī’’**ti vuttā, na sinerussa aggāḷindaallīnā. Cakkavāḷasamīpena caritvāti etthāpi eseva nayo. Majjhenāti sinerussa, cakkavāḷassa ca ujukaṃ vemajjhena maggena. Citramāse majjhenāti etthāpi eseva nayo.

このように「彼らの軌道はいくつあるのか」という問いに答えて、「どのように運行するのか」という問いに答えるために「月と太陽は……」などと言われた。そこにおいて「須弥山から外に出る」とは、須弥山の近くを通ってそれを右回りに巡りながら進み、その運行の軌道から外れて自らの横方向への進行によって輪囲山(世界の境界)に向かって出て行くことである。「内部を運行する」とは、このように六か月間、刻一刻と須弥山から離れることによってそこから出て輪囲山の近くに達し、そこからも六か月間、刻一刻と離れることによって出て須弥山の近くに達しながら内部を運行することである。今、その同じ意味を要約して説かれたものを解明するために「彼らによって」などと言われた。須弥山と輪囲山の中間の地点、その地点と須弥山との中間の地点、そこを進みながら「須弥山の近くを運行する」と言われたのであり、須弥山の最上部の縁に密着してではない。「輪囲山の近くを運行して」というここにおいても同じ方法である。「中央を」とは、須弥山と輪囲山のまっすぐ中間の道によって、ということである。「チトラ月(三〜四月頃)に中央を」というここにおいても同じ方法である。

Ekappahārenāti ekavelāya, ekeneva vā attano ekappahārena. Majjhanhikoti ṭhitamajjhanhiko kālo hoti. Tadā hi sūriyamaṇḍalaṃ uggacchantaṃ hutvāpi imasmiṃ dīpe ṭhitassa upaḍḍhameva dissati, uttarakurūsu ṭhitassa ogacchantaṃ hutvā. Evañhi ekavelāyameva tīsu dīpesu ālokakaraṇaṃ.

「一度に」とは、同一の時刻に、あるいは自らの一度の働きによって、ということである。「真昼である」とは、真昼にとどまる時である。実にその時、太陽の円盤は昇りつつあっても、この大陸(閻浮提)にいる者には半分だけ見え、北倶盧洲にいる者には沈みつつある状態で見える。このように実に同一の時刻に三つの大陸において光をもたらすのである。

Yesu kattikādinakkhattasamaññā, tānipi tārakarūpāni yevāti vuttaṃ **‘‘sesatārakarūpāni cā’’**ti, nakkhattasaññitatārakarūpato avasiṭṭhatārakarūpānīti attho. Ubhayānipi tāni devatānaṃ vasanakavimānānīti veditabbāni. Rā-saddo tiyati chijjati etthāti ratti, sattānaṃ saddassa vūpasamanakāloti attho. Dibbanti sattā kīḷanti jotanti etthāti divā. Sattānaṃ āyuṃ minanto viya siyati antaṃ karotīti māso. Taṃ taṃ kiriyaṃ arati vattetīti utu. Taṃ taṃ sattaṃ, dhammappavattiñca saṅgamma vadanto viya sarati vattetīti saṃvaccharo.

クリッティカー(昴)などの星座の名称を持つ星々も、すべて星の姿にほかならないことから「残りの星々の姿も」と言われたのであり、星座と呼ばれる星の姿から残された星々の姿、という意味である。その両方とも天人たちの住む宮殿であると理解されるべきである。ラッティ(夜)とは、ラーという言葉がここで途切れ、断ち切られることから夜であり、有情たちの声が静まる時間、という意味である。ディヴァー(昼)とは、ここで有情たちが遊び(ディッバンティ)、輝くことから昼である。有情たちの寿命を測る(ミナント)かのように終わらせる(シヤティ)ことから月(マーサ)である。それぞれの活動に赴き(アラティ)、進行することから季節(ウトゥ)である。それぞれの有情や法の生起に寄り添って語るかのように記憶し(サラティ)、進行することから年(サンヴァッチャラ)である。

122. Vivajjanaṃ vivajjo, so eva vevajjaṃ, vaṇṇassa vevajjaṃ vaṇṇavevajjaṃ, vaṇṇasampattiyā vigamo, tassa pana atthitā **‘‘vaṇṇavevajjatā’’**ti vuttā. Tenāha **‘‘vivajjabhāvo’’**ti. Tesanti vaṇṇavantānaṃ sattānaṃ. Atimānappaccayāti dubbaṇṇavambhanavasena atikkamma attano vaṇṇaṃ paṭicca mānapaccayā, mānasampaggaṇhananimittanti attho. Sātisayo raso etissā atthīti rasāti laddhamānāya, anubhāsiṃsūti anurodhavasena bhāsiṃsu. Lokuppattivaṃsakathanti lokuppattivaṃsajaṃ paveṇīkathaṃ, ādikāle uppannaṃ paveṇīāgatakathanti attho. ‘‘Anupatantī’’tipi pāṭho, so evattho.

122. 変化することが変化であり、それこそが異相(ヴェーヴァッジャ)であり、容色の異相が容色の変化であり、容色の美しさが失われることであり、それが存在することが「容色の差異」と言われた。それゆえ「変化した状態」と言われたのである。「彼らの」とは、美しい容色を持つ有情たちの、ということである。「過度の慢心を原因として」とは、醜い者を侮辱することによって度を越して自らの容色に執着した慢心を条件として、すなわち慢心を増長させたことを原因として、という意味である。卓越した美味をそれ自身が持っていることから「美味(ラサ)」という名を得たものについて、「語り合った」とは追従して語り合った、ということである。「世界の出現の起源の物語」とは、世界の出現の起源から生じた伝統の物語、太古の時代に生じて伝統として伝わった物語、という意味である。「追随する」という読みもあり、意味は同じである。

Bhūmipappaṭakapātubhāvādivaṇṇanā

地餅(地面のキノコ状の食物)の出現などの解説

123. Ediso hutvāti ahicchattakasadiso hutvā.

123. 「このようになって」とは、キノコのようになって、ということである。

124. Padālatāti **‘‘padā’’**ti evaṃnāmā ekā latā, sā pana yasmā sampannavaṇṇagandharasā, tasmā **‘‘bhaddalatā’’**ti vuttā. Nāḷikāti nāḷivalli. Ahāyīti nassi.

124. 「パダーの蔓」とは、「パダー」という名の一つの蔓草のことであり、それは美しい容色と香りと味を具えていたことから「美蔓(バッダラター)」と言われた。「ナーリカ」とは管状の蔓草のことである。「滅びた」とは消失したということである。

125. Akaṭṭhapākoti akaṭṭheyeva ṭhāne uppajjitvā paccanako, nīvāro viya sañjāto hutvā nippajjanakoti attho. Kaṇo ‘‘kuṇḍaka’’nti ca vuccati. Thusanti taṇḍulaṃ pariyonandhitvā ṭhitattaco, tadabhāvato **‘‘akaṇo, athuso’’**ti sāli vutto. **‘‘Paṭivirūḷha’’**nti idaṃ pakkabhāvassa kāraṇavacanaṃ. Paṭivirūḷhato hi taṃ pakkanti. Yasmiṃ ṭhāne sāyaṃ pakko sāli gahito, tadeva ṭhānaṃ dutiyadivase pāto pakkena sālinā paripuṇṇaṃ hutvā tiṭṭhatīti āha **‘‘sāyaṃ gahitaṭṭhānaṃ pāto pakkaṃ hotī’’**tiādi. Alāyitanti lāyitaṭṭhānampi tesaṃ kammappaccayā alāyitameva hutvā anūnaṃ paripuṇṇameva paññāyati, na kevalaṃ paññāyanameva, atha kho tathābhūtameva hutvā tiṭṭhati.

125. 「耕さずに熟する」とは、耕されていない場所にまさに生じて熟するものであり、野生の稲のように自生して実を結ぶものである、という意味である。果皮(カノ)は「米ぬか(クンダカ)」とも呼ばれる。「籾殻」とは米を覆って包んでいる皮のことであり、それがないことから「糠がなく、籾殻がない」米と言われた。「再び成長する」というこれは、熟した状態の原因を語る言葉である。再び成長することによってそれが熟するからである。夕方に熟した米を収穫した場所は、翌朝にはまさに熟した米で満たされて存在するようになることから、「夕方に収穫した場所は朝には熟している」などと言われたのである。「刈り取られていない」とは、刈り取られた場所も彼らの業(カルマ)を条件として、刈り取られていない状態そのものとなって減ることなく完全に満ちた状態として現れ、単に現れるだけでなく、実際にそのような状態となって存在するのである。

Itthipurisaliṅgādipātubhāvavaṇṇanā

男女の性別などの出現の解説

126. **‘‘Manussakāle’’**ti idaṃ pubbe manussabhūtānaṃyeva tattha idāni nikantivasena uppatti hotīti katvā vuttaṃ, devatānampi purimajātiyaṃ itthibhāve ṭhitānaṃ tattha virāgādipurisattappaccaye asati tadā itthiliṅgameva pātubhavati. Purisattapaccayeti ‘‘attanopi anissaratā, sabbakālaṃ parāyattavuttitā, rajassalatā vañcatā, gabbhadhāraṇaṃ, paṭhamāya pakatiyā nihīnapakatitā, sūravīratābhāvo, ‘appakā janā’ti ‘hīḷetabbatā’ti evamādi ādīnavapaccavekkhaṇapubbakampi itthibhāve ‘alaṃ itthibhāvena, na hi itthibhāve ṭhatvā cakkavattisiriṃ, na sakkamārabrahmasiriyo paccanubhavituṃ, na paccekabodhiṃ, na sammāsambodhiṃ adhigantuṃ sakkā’ti evaṃ itthibhāvavirajjanaṃ, ‘yathāvuttaādīnavavirahato uttamapakatibhāvato sampadamidaṃ purisattaṃ nāma seṭṭhaṃ uttamaṃ, ettha ṭhatvā sakkā etā sampattiyo sampāpuṇitu’nti evaṃ purisattabhāve sambhāvanāpubbakaṃ patthanāṭhapanaṃ, ‘tattha ninnapoṇapabbhāracittatā’ti’’ evamādike purisabhāvassa paccayabhūte dhamme. Pūretvā vaḍḍhetvā. Paccakkhaṃ bhūtaṃ, sadisañca diṭṭhadhammikaṃ, samparāyikañca suvipulaṃ anatthaṃ acintetvā purisassa kāmesu micchācaraṇaṃ kevalaṃ itthiyaṃ āsāpatti phalenevāti āsāāpatti itthibhāvāvahāpi hotiyeva. Tanninnapoṇapabbhārabhāvena tannikantiyā nimittabhāvāpattitoti vuttaṃ **‘‘puriso itthattabhāvaṃ labhanto kāmesumicchācāraṃ nissāya labhatī’’**ti. Tadāti yathāvutte paṭhamakappikakāle. Pakatiyāti sabhāvena. Mātugāmassāti purimattabhāve mātugāmabhūtassa. Purisassāti etthāpi ‘‘pakatiyā’’ti padaṃ ānetvā sambandhitabbaṃ. Upanijjhāyatanti upecca nijjhāyantānaṃ. Yathā aññamaññasmiṃ sārāgo uppajjati, evaṃ sāpekkhabhāvena olokentānaṃ. Rāgapariḷāhoti rāgajo pariḷāho.

126. 「人間の時代に」というこれは、かつて人間であった者たちだけがそこに今、執着によって生まれる、ということに基づいて言われたことであり、前世において女性の境地にいた天人たちであっても、そこに離欲などの男となる条件がない時には、その時にまさに女性の身体的特徴が出現するのである。「男となる条件において」とは、「自分自身に主権がなく、常に他人に依存して生き、月経があり、欺瞞があり、妊娠し、生まれつき劣等な性質であり、勇敢さや勇気に欠け、『取るに足らない人々だ』と『軽蔑されるべきである』などの過患を省察した上で、女性の境地に対して『女性の境地などもう十分だ。実に女性の境地にとどまっていては転輪聖王の栄華も、帝釈天・魔王・梵天の栄華も享受することはできず、辟支仏(独覚)の覚りも、正等覚(完全な覚り)も獲得することはできない』とこのように女性の境地を嫌悪し、『前述の過患がなく、優れた本性であることから、この男という身分は実に最上であり卓越しており、ここにとどまればこれらの栄華を達成することができる』とこのように男性の境地を尊び賞賛した上で願望を立てること、『そこへ傾斜し、傾注し、傾倒する心を持つこと』」などの男性の境地の原因となる法において、ということである。「満たして」とは増大させて、ということである。現実に存在し、明白であり、現世においても来世においても極めて広大な不利益を顧みることなく、男性が諸々の欲望において邪淫を行うことは、単に女性に対する愛着と執着の果報によってこそ、愛着への到達が女性の境地をもたらすことにもなるのである。そこへ傾斜し傾倒することによって、その執着が原因となって生じることから、「男性が女性の境地を得るにあたっては、諸々の欲望における邪淫に依拠して得るのである」と言われたのである。「その時」とは、前述の最初の劫の時代においてである。「生まれつき」とは本性によってである。「女の」とは、前世において女であった者のことである。「男の」というここにおいても「生まれつき」という語を持ってきて結びつけるべきである。「凝視する者たちに」とは、近づいて凝視する者たちに、ということである。互いに強い愛着が生じるように、そのように執着を持って見つめる者たちのことである。「愛欲の熱病」とは、愛欲から生じた激しい熱病のことである。

Nibbuyhamānāyāti pariṇatā hutvā niyyamānāya.

「嫁がされる時に」とは、成人して連れて行かれる時に、ということである。

Methunadhammasamācāravaṇṇanā

不浄行(性行為)の慣行の解説

127. Gomayapiṇḍamattampi nālatthāti sammadeva vivāhakammaṃ nālatthāti adhippāyena vadanti. Pātabyatanti tasmiṃ asaddhamme kilesakāmena pivitabbataṃ kiñci pivitabbavatthuṃ pivantā viya ativiya tosetvā paribhuñjitabbataṃ āpajjiṃsu, pātabyatanti vā paribhuñjanakataṃ āpajjiṃsu upagacchiṃsu. Paribhogattho hi ayaṃ -saddo, kattusādhano ca tabya-saddo, yathāruci paribhuñjiṃsūti attho.

127. 「牛糞の塊さえも得られなかった」とは、正式な結婚式をまったく得られなかった、という意味で言っているのである。「飲むべきものとなった」とは、その不浄な行為において煩悩の愛欲によって飲まれるべき状態、何らかの飲み物を飲むかのように大いに満足して享受されるべき状態に陥った、あるいは「飲むべきもの」とは享受することに陥った、達したということである。実にこの「パー」という語は享受するという意味であり、「タッバ」という語は能動を表し、意のままに享受した、という意味である。

Sannidhikārakanti sannidhikāraṃ, ka-kāro padavaḍḍhanamattanti āha **‘‘sannidhiṃ katvā’’**ti. Apadānanti avakhaṇḍanaṃ. Ekekasmiṃ ṭhāneti yattha yattha vahitaṃ, tasmiṃ tasmiṃ ekekasmiṃ ṭhāne. Gumbagumbāti puñjapuñjā.

「蓄えることをする」における「カ」の文字は単なる語の拡張であるため、「蓄えをなして」と言われたのである。「切り取ること」とは分割することである。「それぞれの場所において」とは、播種されたそれぞれの場所において、ということである。「株ごとに」とは、群がりごとに、ということである。

Sālivibhāgavaṇṇanā

米の分配の解説

128. Sīmaṃ ṭhapeyyāmāti ‘‘ayaṃ bhūmibhāgo asukassa, ayaṃ bhūmibhāgo asukassā’’ti evaṃ paricchedaṃ kareyyāma. Taṃ aggaṃ katvāti taṃ ādiṃ katvā.

128. 「境界を定めよう」とは、「この土地の区画は誰それのもの、この土地の区画は誰それのもの」とこのように区分をしよう、ということである。「それを最初にして」とは、それを発端として、ということである。

Mahāsammatarājavaṇṇanā

マハーサンマタ(大合意)王の解説

130. Pakāsetabbanti dosavasena pakāsetabbaṃ. Khipitabbanti khepaṃ kātabbaṃ. Tenāha **‘‘hāretabba’’**nti, sattanikāyato nīharitabbaṃ.

130. 「示すべき」とは、過失として明らかにすべき、ということである。「追放すべき」とは、追放をなすべき、ということである。それゆえ「放逐すべき」と言われたのであり、有情の集団から排除すべきである、ということである。

Nesanti niddhāraṇe sāmivacanaṃ.

「彼らの」とは、限定を表す属格の語である。

131. Akkharanti niruttiṃ. Sā hi mahājanena sammatoti niddhāretvā vattabbato nirutti, tasmiṃyeva nirūḷhabhāvato, aññattha asañcaraṇato akkharanti ca vuccati, tathā saṅkhātabbato saṅkhā, samaññāyatīti samaññā, paññāpanato paññatti, voharaṇato vohāro. Uppannoti pavatto. Na kevalaṃ akkharamevāti na kevalaṃ samaññākaraṇameva. Khettasāminoti taṃ taṃ bhūmibhāgaṃ pariggahetvā ṭhitasattā. Tīhi saṅkhehīti tividhakiriyābhisaṅkhatehi tīhi saṅkhehi khattiyādīhi tīhi vaṇṇehi pariggahitehi. ‘‘Khattiyānuyantabrāhmaṇagahapatikanegamajānapadehi tīhi gahapatīhi pariggahitehī’’ti ca vadanti. Agganti ñātenāti aggaṃ kulanti ñātena. Khattiyakulañhi loke sabbaseṭṭhaṃ. Yathāha ‘‘khattiyo seṭṭho janetasmiṃ, ye gottapaṭisārino’’ti, (dī. ni. 1.277; 3.140; ma. ni. 2.30; saṃ. ni. 1.182, 245) abhedopacārena pana akkharassa khattiyasaddassapi seṭṭhatāti pāḷiyaṃ ‘‘aggaññena akkharenā’’ti vuttaṃ. Idāni abhedopacārena vinā eva atthaṃ dassetuṃ **‘‘agge vā’’**tiādi vuttaṃ.

131. 「文字(語)」とは語源(呼称)のことである。実にそれは「大衆によって合意された者」と限定して語られるべきであることから語源(呼称)であり、そのことにおいて定着していることから、他へ移り変わらないことから「文字」とも呼ばれ、同様に計算されるべきものであることから「名称(数)」、知られることから「呼称」、理解させることから「概念」、日常で用いられることから「慣用」と呼ばれる。「生じた」とは広まった、ということである。「単に文字だけではない」とは、単に呼称を作ることだけではない、ということである。「田畑の主たち」とは、それぞれの土地の区画を所有してとどまる有情たちのことである。「三つの集まりによって」とは、三種類の行為によって作られた三つの集まり、すなわち刹帝利などの三つの階級に受け入れられたことによってである。「刹帝利に従うバラモン、資産家、商人、地方民という三種の資産家たちに受け入れられたことによって」とも述べている。「最上と知られたことによって」とは、最上の家柄として知られたことによってである。刹帝利の家柄は実に世間において最も優れている。「家系を重視する人々の間では、刹帝利が最上である」(長部 1.277等)と説かれている通りである。しかし無分別の比喩によって文字、すなわち「刹帝利」という語の卓越性でもあるため、パーリ語本文では「最上の文字(語)によって」と説かれたのである。今、比喩によらずに意味を示すために「最上において、あるいは……」などと言われた。

Brāhmaṇamaṇḍalādivaṇṇanā

バラモンの集団などの解説

132. Yena anārambhabhāvena bāhitākusalā ‘‘brāhmaṇā’’ti vuttā, tameva tāva dassetuṃ pāḷiyaṃ ‘‘vītaṅgārā’’tiādi vuttanti tadatthaṃ dassento **‘‘pacitvā’’**tiādimāha. Tamenanti vacanavipallāsena niddesoti āha **‘‘te ete’’**ti. Abhisaṅkharontāti cittamantabhāvena aññamaññaṃ abhivisiṭṭhe karontā, brāhmaṇākappabhāvena saṅkharontā ca. Vācentāti paresaṃ kathentā, ye tathā ganthe kātuṃ na jānanti. Acchantīti āsanti, upavisantīti attho. Tenāha **‘‘vasantī’’**ti. Acchentīti kālaṃ khepenti. Hīnasammataṃ jhānabhāvanānuyogaṃ chaḍḍetvā ganthe pasutatādīpanato. Seṭṭhasammataṃ jātaṃ ‘‘vedadharā sottiyā subrāhmaṇāti evaṃ seṭṭhasammataṃ jātaṃ.

132. いかなる殺生や危害を行わないことによって、悪を排除した者たちが「バラモン」と呼ばれたのか、まずそれそのものを示すためにパーリ語本文で「燃え殻を離れた」などと説かれたのであり、その意味を示すために「料理して」などと述べたのである。「それらを」とは、語の転換による指示であるため、「これらそれらの者たち」と言われたのである。「作製しながら」とは、心に刻むべきマントラとして互いに卓越したものを作りながら、またバラモンの所作として作り上げながら、ということである。「読誦させながら」とは、そのように書物を自ら作ることができない他者たちに教え語りながら、ということである。「座っている」とは座ることであり、着席する、という意味である。それゆえ「住んでいる」と言われたのである。「過ごす」とは時間を費やすことである。劣等とみなされる禅定修法の専念を捨てて、書物に熱中していることを示すためである。「最上とみなされるようになった」とは、「ヴェーダを保持する者、学識ある者、良きバラモンである」とこのように最上とみなされるようになった。

133. Methunadhammaṃ samādiyitvāti jāyāpatikabhāvena dvayaṃ dvayaṃ nivāsaṃ ajjhupagantvā. Vāṇijakammādiketi ādi-saddena kasikammādiṃ saṅgaṇhāti.

133. 「不浄行(夫婦関係)を受け入れて」とは、夫婦としての状態により二人ずつ同居生活に入って、ということである。「商業などの仕事において」の「など」という言葉によって、農業などの仕事が含まれる。

134. Luddācārakammakhuddācārakammunāti paraviheṭhanādiluddācārakammunā, naḷakāradārukammādikhuddācārakammunā ca. Suddanti ettha su-iti sīghatthe nipāto. -iti garahaṇattheti āha **‘‘suddaṃ suddaṃ lahuṃ lahuṃ kucchitaṃ gacchantī’’**ti.

134. 「粗暴な行いの業と卑小な行いの業によって」とは、他者を害することなどの粗暴な行いの業と、葦細工や木工などの卑小な行いの業によって、ということである。「スッダ(首陀・奴隷)」という語において、「ス」とは迅速の意味の不変化詞であり、「ダ」とは軽蔑の意味である。それゆえ「清らかでなく、軽薄で、卑しいところへ赴く」と言われる。

135. Ahūti kālavipallāsavasena vuttanti dassento **‘‘hoti kho’’**ti āha. Imināti ‘‘imehi kho, vāseṭṭha, catūhi maṇḍalehi samaṇamaṇḍalassa abhinibbatti hotī’’ti iminā vacanena. Imaṃ dassetīti samaṇamaṇḍalaṃ nāma…pe… suddhiṃ pāpuṇantīti imaṃ atthajātaṃ dasseti. Yadi imehi…pe… abhinibbatti hoti, evaṃ sante imāneva cattāri maṇḍalāni padhānāni, samaṇamaṇḍalaṃ appadhānaṃ tato abhinibbattattāti? Nayidamevanti dassetuṃ **‘‘imānī’’**tiādi vuttaṃ. Samaṇamaṇḍalaṃ anuvattanti guṇehi visiṭṭhabhāvato. Guṇo hi viññūnaṃ anuvattanahetu, na kolaputtiyaṃ, vaṇṇapokkharatā, vākkaraṇamattaṃ vā. Tenāha **‘‘dhammeneva anuvattanti, no adhammenā’’**ti. So dhammo ca lokuttarova adhippeto, yena saṃsārato visujjhati, tasmā samaṇamaṇḍalanti ca sāsanikameva samaṇagaṇaṃ vadatīti daṭṭhabbaṃ. Tenāha **‘‘samaṇamaṇḍalañhī’’**tiādi.

135. 「生じた」とは、時制の倒置によって語られたことを示して「実に有る」と述べた。「これによって」とは、「ヴァーセッタよ、実にこれら四つの階級によって沙門の階級の出現が有る」というこの言葉による。「これを示す」とは、沙門の階級とは……中略……清浄に達するというこの意味の事柄を示す。「もしこれらから……中略……出現するならば、そうであればこれら四つの階級こそが主たるものであり、沙門の階級はそこから生じるため主たるものではないのではないか」という疑問に対し、「そうではない」と示すために「これらを」などと説かれた。徳において卓越しているがゆえに、人々は沙門の階級に従うのである。実に徳こそが智者たちが従う原因であり、家柄の良さや容姿の美しさ、あるいは弁舌の巧みさではない。それゆえ「法によってのみ従うのであり、不法によってではない」と言われる。その法とは、それによって輪廻から清められるところの出世間法のみが意図されている。したがって「沙門の階級」とは教法に属する沙門の集いを指していると知るべきである。それゆえ「沙門の階級は実に」などと述べられた。

Duccaritādikathāvaṇṇanā

悪行などの話の注釈

136. Micchādiṭṭhivasena samādinnakammaṃ nāma ‘‘ko anubandhitabbo. Ajotaggisoṭṭhimiso’’tiādinā yaññavidhānādivasena pavattitaṃ hiṃsādipāpakammaṃ. Micchādiṭṭhikammassāti ‘‘esa saddhādhigato devayāno, yena yanti puttino visokā’’tiādinā pavattitassa micchādiṭṭhisahagatakammassa. Samādānaṃ tassa tathā pavattanaṃ, tassā vā diṭṭhiyā upagamanaṃ.

136. 「邪見によって受持された業」とは、「誰に従うべきか。火神の祭祀などの儀礼」などによる祭儀の規定などによって行われた、殺生などの悪業のことである。「邪見の業の」とは、「これこそが信仰によって達せられた神々の道であり、それによって子を持つ者たちは憂いなく行く」などによって行われた邪見相応の業のことである。「受持」とは、それをそのように行うこと、あるいはその見解に近づくことである。

137. Dvayakārīti kusalākusaladvayassa kattā. Tayidaṃ dvayaṃ yasmā ekajjhaṃ nappavattati, tasmā āha **‘‘kālenā’’**tiādi. Ekakkhaṇe ubhayavipākadānaṭṭhānaṃ nāma natthi ekasmiṃ khaṇe cittadvayūpasañhitāya sattasantatiyā abhāvato. Yathā pana dvayakārino sukhadukkhapaṭisaṃveditā sambhavati, taṃ dassetuṃ **‘‘yena panā’’**tiādi vuttaṃ. Evaṃbhūtoti vikalāvayavo. Dvepihi kusalākusalakammāni katūpacitāni sabhāvato balavantāneva honti, tasmā maraṇakāle upaṭṭhahanti. Tesu akusalaṃ balavataraṃ hoti paccayalābhato. Nikantiādayo hi paccayavisesā akusalasseva sabhāgā, na kusalassa, tasmā katūpacitabhāvena samānabalesupi kusalākusalesu paccayalābhena vipaccituṃ laddhokāsatāya kusalato akusalaṃ balavataraṃ hotīti, tathābhūtampi taṃ yathā vipākadāne laddhokāsassa kusalassāpi avasaro hoti, tathā laddhapaccayaṃ paṭisandhidānābhimukhaṃ kusalaṃ paṭibāhitvā paṭisandhiṃ dentaṃ tiracchānayoniyaṃ nibbattāpetīti. ‘‘Akusalaṃ balavataraṃ hotī’’ti ettha ‘‘akusalaṃ ce balavataraṃ hoti, taṃ kusalaṃ paṭibāhitvā’’ti vuttanayeneva atthaṃ vatvā tesu kusalaṃ ce balavataraṃ hoti, tañca akusalaṃ paṭibāhitvā manussayoniyaṃ nibbattāpeti, akusalaṃ pavattivedanīyaṃ hoti, atha naṃ taṃ kāṇampi karoti khujjampi pīṭhasappimpi kucchirogādīhi vā upaddutaṃ. Evaṃ so pavattiyaṃ nānappakāraṃ dukkhaṃ paccanubhavatīti idaṃ sandhāya vuttaṃ ‘‘sukhadukkhappaṭisaṃvedī hotī’’ti. Tatrāyaṃ vinicchayo – vuttakāle vā kārena samānabalesu kusalākusalakammesu upaṭṭhahantesu maraṇassa āsannavelāyaṃ yadi balavatarāni kusalajavanāni javanti, yathāupaṭṭhitaṃ akusalaṃ paṭibāhitvā kusalaṃ vuttanayena paṭisandhiṃ deti. Atha balavatarāni akusalajavanāni javanti, yathāupaṭṭhitaṃ kusalaṃ paṭibāhitvā akusalaṃ vuttanayeneva paṭisandhiṃ deti. Taṃ kissa hetu? Ubhinnaṃ kammānaṃ samānabalavabhāvato, paccayantarasāpekkhato cāti, sabbaṃ vīmaṃsitvā gahetabbaṃ.

137. 「両者をなす者」とは、善と不善の両者をなす者のことである。これら両者は同時に働くことはないため、「時に応じて」などと述べられた。同一の瞬間において二つの心に結びつく衆生の相続は存在しないため、一瞬のうちに両者の異熟(結果)を与える場所というものはない。しかし、両者をなす者にどのようにして苦楽の受動が生じるかを示すために、「しかしそれによって」などと説かれた。「このようになった者」とは、諸器官に欠損のある者のことである。実に善業と不善業の二つとも、積集されたものは本質的に強力であり、それゆえ臨終の時に現れる。それらのうち、条件を得ることによって不善業のほうがより強力となる。愛着などの特殊な条件は実に不善と同類であって、善と同類ではない。それゆえ、積集されたことによって善と不善の力が同等であっても、条件を得て成熟する機会を得たことによって、善よりも不善のほうがより強力となる。そのようになったとしても、結果を与える機会を得た善にも余地があるように、条件を得て結生(再生)を与えようとする善を退けて、結生を与える不善が動物(畜生)の胎内に生まれさせる。「不善がより強力となる」という点について、「もし不善がより強力であれば、その善を退けて」と述べられた方法によって意味を語り、それらのうち善がより強力であるならば、その不善を退けて人間の胎内に生まれさせ、不善は生存期間中に受けるべきものとなり、そこでその人を盲目、背骨の曲がった者、不具者、あるいは腹痛などの病気に苦しむ者とする。このようにして、その者は生存期間中に様々な苦しみを経験するのであり、これを意図して「苦楽を受動する者となる」と言われる。ここでの判定は以下の通りである。説かれた時において、あるいは原因によって同等の力を持つ善悪の業が現れるとき、臨終の近づいた時に、もしより強力な善の速行心が走るならば、現れていた不善を退けて善が説かれた方法で結生を与える。もしより強力な不善の速行心が走るならば、現れていた善を退けて不善が説かれた方法で結生を与える。それは何が原因か。両者の業の力が同等であること、および他の条件に依存することによる。すべてを熟慮して理解されるべきである。

Bodhipakkhiyabhāvanāvaṇṇanā

菩提分法の修習の注釈

138. Bodhi vuccati maggasammādiṭṭhi, cattāri ariyasaccāni bujjhatīti katvā, sabhāvato, taṃsabhāvato ca tassā pakkhe bhavāti bodhipakkhiyā, sativīriyādayo dhammā, tesaṃ bodhipakkhiyānaṃ. Paṭipāṭiyāti bodhipakkhiyadesanāpaṭipāṭiyā. Bhāvanaṃ anugantvāti anukkamena pavattaṃ bhāvanaṃ patvā. Tenāha **‘‘paṭipajjitvā’’**ti. Saupādisesāya nibbānadhātuyā vasena khīṇāsavassa seṭṭhabhāvaṃ lokassa pākaṭaṃ katvā dassetuṃ sakkā, na itarāya sabbaso apaññattibhāvūpagamane tassa adassanatoti vuttaṃ **‘‘parinibbātīti kilesaparinibbānena parinibbāyatī’’**ti. Vinivattetvāti tato catuvaṇṇato nīharitvā.

138. 「菩提」とは、四聖諦を覚知するということから道正見のことと称される。その本質、またその本質であることから、その側に属するものを「菩提分法」といい、念や精進などの法のことである。「それら菩提分法の」とは、「順序によって」とは、菩提分法の教示の順序によって、ということである。「修習に従って」とは、順次に生じた修習に達して、ということである。それゆえ「実践して」と言われる。有余依涅槃界によって煩悩を滅尽した者(阿羅漢)の卓越性を世間に明確に示しうるのであり、完全に施設(名辞)のない状態に達した場合にはその者が見られないため、他方(無余依涅槃)によるのではない。それゆえ「入滅するとは煩悩の完全な滅によって滅度する」と説かれた。「離脱させて」とは、その四階級から引き離して、ということである。

140. Tamevatthanti ‘‘khīṇāsavova devamanussesu seṭṭho’’ti vuttamevatthaṃ.

140. 「その意味を」とは、「煩悩を滅尽した者こそが神々と人間の中で最上である」と説かれたその通りの意味を、ということである。

Seṭṭhacchedakavādamevāti jātibrāhmaṇānaṃ seṭṭhabhāvasamucchedakameva kathaṃ. Dassetvā bhāsitvā. Suttantaṃ vinivattetvāti pubbe lokiyadhammasandassanavasena pavattaṃ aggaññasuttaṃ ‘‘sattannaṃ bodhipakkhiyānaṃ dhammānaṃ bhāvanamanvāyā’’tiādinā tato vinivattetvā nīharitvā tena asaṃsaṭṭhaṃ katvā. Āvajjantāti samannāharantā. Anumajjantāti pubbenāparaṃ atthato vicarantāti.

「最上性を打ち破る論説を」とは、生まれによるバラモンたちの最上性を完全に断滅する説のみを、ということである。「示して」とは、語って。「経を転換して」とは、以前は世間法の提示として説かれていた『起世経』を、「七つの菩提分法の修習に従って」などによってそこから転換し、取り出し、それと混交しないようにして、ということである。「思いめぐらす者たちは」とは、留意する者たち。「推究する者たちは」とは、前後の意味から考察する者たち、ということである。

Aggaññasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā.

『起世経』の注釈における深義の開示を終える。