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6. Pāsādikasuttavaṇṇanā6. 『歓喜経』の解説

Nigaṇṭhanāṭaputtakālaṅkiriyavaṇṇanā

ニガンタ・ナータプッタの死去の解説

164. Lakkhassa saravedhaṃ avirajjhitvāna vijjhanavidhiṃ jānantīti vedhaññā. Tenāha **‘‘dhanumhi katasikkhā’’**ti. Sippaṃ uggahaṇatthāyāti dhanusippādisippassa uggahaṇatthāya. Majjhimena pamāṇena sarapātayogyatāvasena katattā dīghapāsādo.

164. 的への矢の射的を外すことなく射る方法を知る者たちが「射術に巧みな者たち」である。それゆえに「弓において訓練を積んだ」と言った。「技術を習得するために」とは、弓の技術などの技術を習得するために。中くらいの規格によって矢を射るのに適した状態で作られたことから「長層楼」である。

Sampati kālaṃ katoti acirakālaṃ kato. Dvedhikajātāti jātadvedhikā sañjātabhedā. Dvejjhajātāti duvidhabhāvappattā. Bhaṇḍanti paribhāsanti etenāti bhaṇḍanaṃ, viruddhacittaṃ. Tanti bhaṇḍanaṃ. ‘‘Idaṃ nahānādi na kattabba’’nti paññattavattaṃ paṇṇatti. Dhammavinayanti pāvacanaṃ siddhantaṃ. Vijjhantā mukhasattīhi. Sahitaṃ meti mayhaṃ vacanaṃ sahitaṃ siliṭṭhaṃ pubbāparasambandhaṃ atthayuttaṃ kāraṇayuttaṃ. Tenāha **‘‘atthasaṃhita’’**nti. Adhiciṇṇanti āciṇṇaṃ. Viparāvattanti virodhadassanavasena parāvattitaṃ, parāvattaṃ dūsitanti attho. Tenāha **‘‘cirakālavasena paguṇaṃ, taṃ mama vādaṃ āgamma nivatta’’**nti. Pariyesamāno vicara tattha gantvā sikkhāti attho. Sace sakkosi, idāniyeva mayā veṭhitaṃ dosaṃ nibbeṭhehi. Maraṇamevāti aññamaññaghātanavasena maraṇameva. Nāṭaputtassa imeti nāṭaputtiyā, te pana tassa sissāti āha **‘‘antevāsikesū’’**ti. Purimapaṭipattito paṭinivattanaṃ paṭivānaṃ, taṃ rūpaṃ sabhāvo etesanti paṭivānarūpā. Tenāha **‘‘nivattanasabhāvā’’**ti. Kathanaṃ atthassa ācikkhanaṃ. Pavedanaṃ hetudāharaṇāni āharitvā bodhanaṃ. Tenāha **‘‘duppavediteti duviññāpite’’**ti. Na upasamāya saṃvattatīti anupasamasaṃvattanaṃ, tadeva anupasamasaṃvattanikaṃ, tasmiṃ. Samussitaṃ hutvā patiṭṭhāhetubhāvato thūpaṃ, patiṭṭhāti āha **‘‘bhinnathūpeti bhinnapatiṭṭhe’’**ti, thūpoti vā dhammassa niyyānabhāvo veditabbo aññe dhamme abhibhuyya samussitaṭṭhena, so nigaṇṭhassa samaye. Kehici abhinnasammatopi bhinno vinaṭṭho eva sabbena sabbaṃ abhāvatoti so bhinnathūpo, so eva niyyānabhāvo vaṭṭadukkhato muccitukāmānaṃ paṭisaraṇaṃ, tamettha natthīti appaṭisaraṇo, tasmiṃ bhinnathūpe appaṭisaraṇeti evamettha attho veditabbo.

「今や死没した」とは、少し前に死没した。「二派となった」とは、二つに分かれた、分裂が生じた。「二心となった」とは、二様の状態に至った。これによって互いを罵るから「論争」、敵対する心である。「それを」とは、論争を。「この入浴などはなされるべきではない」と規定された行儀が「規定」である。「法と律」とは、聖典、定説である。「口の槍によって射抜く者たち」。「私のものは結合している」とは、私の言葉は結合し、滑らかで、前後が連関し、意味を伴い、道理を伴っている。それゆえに「利益を伴う」と言った。「習熟された」とは、実践された。「覆された」とは、矛盾の提示によって覆された、覆されて損なわれた、という意味である。それゆえに「長い時間によって熟達した、その私の主張に依拠して覆された」と言った。「求めつつ歩め」とは、そこへ行って学べ、という意味である。「もしできるなら、今まさに私によって絡め取られた過失を解きほぐせ」。「まさに死を」とは、互いを殺害することによるまさに死を。「ナータプッタのこれら」とは、ナータプッタ派の者たちであり、彼らは実に彼の弟子たちであるから、「弟子たちにおいて」と言った。以前の実践から退却することが「退却」であり、そのような姿、自性を彼らは持つから「退却の姿を持つ者たち」である。それゆえに「退却する自性の」と言った。「説くこと」とは、意味を告げ知らせること。「知らしめること」とは、理由と実例を挙げて理解させること。それゆえに「悪しく説かれたにおいてとは、悪しく知らせられたにおいて」と言った。「寂静のために資さない」とは、不寂静へと導くこと、まさにその不寂静へと導くものにおいて。「高く聳え立って依止の理由となることから仏塔(支提)、依止である」として、「壊れた仏塔においてとは、壊れた依止において」と言った。あるいは仏塔とは、他の法を圧倒して高く聳え立つという意味において、法の出離の状態と知られるべきであり、それはニガンタの教義にある。一部の人々によって壊れていないと認められていても、完全にすべて存在しないことによって壊れ、滅びたものにすぎないから、それは壊れた仏塔である。まさにその出離の状態こそが輪廻の苦から脱したいと望む者たちの帰依処であるが、それがここには存在しないから「無帰依」であり、「その壊れた仏塔において、無帰依において」と、このようにここでの意味は知られるべきである。

Ācariyappamāṇanti ācariyamuṭṭhi hutvā pamāṇabhūtaṃ. Nānānīhārenāti nānākārena.

「師の基準」とは、師の奥義(師拳)となって基準となったもの。「種々の方法によって」とは、種々の様相によって。

165. Tatheva samudācariṃsu bhūtapubbagatiyā. Sāmākānanti sāmākadhaññānaṃ.

165. かつての習性によって、そのように立ち振る舞った。「稗(ひえ)の」とは、稗の穀物の。

‘‘Yenassa upajjhāyo’’ti vatvā yathāssa āyasmato cundassa dhammabhaṇḍāgāriko upajjhāyo ahosi, taṃ vitthārena dassetuṃ **‘‘buddhakāle kirā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha buddhakāleti bhūtakathanametaṃ, na visesanaṃ. Satthu parinibbānato puretarameva hi dhammasenāpati parinibbuto.

「彼の親教師の所へ」と言って、いかにしてこの尊者チュンダの親教師が法蔵の役務者(サーリプッタ)であったのか、それを詳細に示すために「仏の時代に、まことに」などが説かれた。そこにおいて「仏の時代に」とは、過去の出来事の叙述であり、限定ではない。師の完全な滅よりも前に、実に法将軍(サーリプッタ)は完全な滅に入ったからである。

Dhammaratanapūjāvaṇṇanā

法宝の供養の解説

Saddhivihārikaṃ adāsīti saddhivihārikaṃ katvā adāsi.

「共住者を与えた」とは、共住者として与えた。

Kathāya mūlanti bhagavato santikā labhitabbadhammakathāya kāraṇaṃ. Samuṭṭhāpetīti uṭṭhāpeti, dāliddiyapaṅkato uddharatīti adhippāyo. Sandhamanti sammadeva dhamanto. Ekekasmiṃ pahāreyeva tayo tayo vāre katvā divā navavāre rattiṃ navavāre. Upaṭṭhānameva gacchati buddhupaṭṭhānavasena, pañhāpucchanādivasena pana antarantarāpi gacchateva, gacchanto ca divasassa…pe… gacchati. Ñātuṃ icchitassa atthassa uddharaṇabhāvato pañhova pañhuddhāro, taṃ gahetvāva gacchati attano mahāpaññatāya, satthu ca dhammadesanāyaṃ akilāsubhāvato.

「話の根本」とは、世尊の御許から得られるべき法話の理由である。「引き上げる」とは、立ち上がらせる、貧困の泥沼から救い上げる、という意図である。「善く吹く」とは、正しく吹く。一打ごとに三度ずつ繰り返して、昼に九度、夜に九度。「給仕にのみ赴く」とは、仏への給仕としてであり、質問などのためには間々にも赴くのであり、赴きつつ一日の…略…赴く。知りたいと望む意味を引き出すものであることから、質問こそが問いの抽出であり、自らの大いなる智慧によって、また師の説法における倦怠のなさによって、それを携えてのみ赴く。

Asammāsambuddhappaveditadhammavinayavaṇṇanā

非正等覚者によって説かれた法と律の解説

166. Ārocitepi tasmiṃ atthe. Sāmiko hoti, tassa sāmikabhāvaṃ dassetuṃ **‘‘sova tassā ādimajjhapariyosānaṃ jānātī’’**ti āha. Evanti vacanasampaṭicchanaṃ. Cundattherena hi ānītaṃ kathāpābhataṃ bhagavā sampaṭicchanto **‘‘eva’’**nti āha. **‘‘Eva’’**nti durakkhāte dhammavinaye sāvakānaṃ dvedhikādibhāvena viharaṇakiriyāparāmasanañhetaṃ.

166. その意味が告げられたときにも。「所有者である」とは、その所有者である状態を示すために、「彼自身がそれの初め・中・終わりを知っている」と言った。「その通りである」とは、言葉の受諾である。チュンダ長老によってもたらされた話の進物を世尊は受諾されつつ、「その通りである」と言われた。「その通りである」とは、悪しく説かれた法と律において弟子たちが二派となるなどの状態によって住することの行為への言及である。

Yasmā …pe… pākaṭaṃ hoti byatirekamukhena ca neyyassa atthassa vibhūtabhāvāpattito. Atha yasmā…pe… pākaṭaṃ hoti dosesu ādīnavadassanena tappaṭipakkhesu guṇesu ānisaṃsassa vibhūtabhāvāpattito. Vokkammāti apasakketvā. Āmeḍitalopena cāyaṃ niddeso, vokkamma vokkammāti vuttaṃ hoti, tena tassa vokkamanassa antarantarāti ayamattho labbhatīti āha **‘‘na nirantara’’**ntiādi. Dhammānudhammapaṭipattiādayoti tena satthārā vuttamuttidhammassa anudhammaṃ appaṭipajjanādayo. Ādi-saddena pāḷiyaṃ āgatā asāmīcipaṭipadādayo ca saṅgayhanti. Manussattampīti pi-saddena ‘‘vicāraṇapaññāya asambhavo, dosesu anabhinivesitā, asandiṭṭhiparāmāsitā’’ti evamādīnaṃ saṅgaho daṭṭhabbo. ‘‘Tathā eva’’nti padehi yathākkamaṃ pakārassa kāmaṃ tirokkhatā, paccakkhatā vuccati, tathāpi yathā ‘‘tathā paṭipajjatū’’ti padena paṭipajjanākāro niyametvā vihito, tathā ‘‘evaṃ paṭipajjatū’’ti imināpīti idaṃ tassa atthadassanabhāvena vuttaṃ. Samādapitattā micchāpaṭipadāya apuññaṃ pasavati.

…略…明白となるのは、背反の立場からも知られるべき意味が明瞭な状態に至るからである。あるいは…略…明白となるのは、過失において不利益を見ることによって、それと対立する徳において功徳が明瞭な状態に至るからである。「外れて」とは、退いて。重言の省略による提示であり、「外れ外れて」と説かれたことになり、それによってその逸脱が間々になされるという、この意味が得られるので、「絶え間なくではなく」などと言った。「法の随法行など」とは、その師によって説かれた解脱の法に従う法を実践しないことなどである。「など」という言葉によって、聖典に来たる不相応な行道なども包摂される。「人間性をも」の「も」という言葉によって、「思慮の智慧の欠如、過失への非執着、自己の見解に固執しないこと」などの包摂が見られるべきである。「そのように」という言葉によって、順に様相の隠蔽、現前が確かに言われるが、それでも「そのように実践せよ」という言葉によって実践の様相が限定されて定められたように、「このように実践せよ」というこれによってもそうである、とこれはその意味を示すものとして説かれた。邪な行道に勧められたことによって、不徳を生み出す。

167. Ñāyati muttidhammo etenāti ñāyo, tena satthārā vutto dhammānudhammo, taṃ paṭipannoti ñāyappaṭipanno, so pana yasmā tassa muttidhammassa adhigame kāraṇasammato, tasmā vuttaṃ **‘‘kāraṇappaṭipanno’’**ti. Nipphādessatīti sādhessati, siddhiṃ gamissatīti vuttaṃ hoti. Dukkhanibbattakanti sampati, āyatiñca dukkhassa nibbattakaṃ. Vīriyaṃ karoti micchāpaṭipannattā.

167. これによって解脱の法が知られるから「正理(ニャーヤ)」であり、その師によって説かれた随法であり、それを実践する者が「正理を実践する者」である。しかしそれはその解脱の法の獲得において理由と認められるものであるから、「理法を実践する者」と言われた。「成就するであろう」とは、成し遂げるであろう、完成に至るであろう、と説かれたことになる。「苦を生み出すものを」とは、現世において、また来世において苦を生み出すものを。邪に実践していることから精進をなす。

Sammāsambuddhappaveditadhammavinayādivaṇṇanā

正等覚者によって善く説かれた法と律などの解説

168. Niyyātīti vattati, saṃvattatīti vā attho.

168. 「導く」とは、行われる、あるいは導く、という意味である。

170. Idha sāvakassa sammāpaṭipattiyā ekantikaapassayadassanatthaṃ satthu sammāsambuddhatā, dhammassa ca svākkhātatā kittitāti **‘‘sammāpaṭipannassa kulaputtassa pasaṃsaṃ dassetvā’’**ti vuttaṃ. Evañhi imissā desanāya saṃkilesabhāgiyabhāvena uṭṭhitāya vodānabhāgiyabhāvena yathānusandhinā pavatti dīpitā hoti. Abodhitatthāti appaveditatthā, paramatthaṃ catutthasaccapaṭivedhaṃ apāpitāti attho. Pāḷiyaṃ ‘‘assā’’ti padaṃ ‘‘sāvakā saddhamme’’ti dvīhi padehi yojetabbaṃ ‘‘assa sammāsambuddhassa sāvakā, assa saddhamme’’ti. Sabbasaṅgahapadehi katanti sabbassa sāsanatthassa saṅgaṇhanapadehi ekajjhaṃ kataṃ. Tenāha **‘‘sabbasaṅgāhikaṃ kataṃ na hotīti attho’’**ti. Pubbenāparaṃ sambandhatthabhāvena saṅgahetabbatāya vā saṅgahāni padāni katāni etassāti saṅgahapadakataṃ, brahmacariyaṃ. Tappaṭikkhepena na ca saṅgahapadakatanti yojanā. Rāgādipaṭipakkhaharaṇaṃ, yathānusiṭṭhaṃ vā paṭipajjamānānaṃ vaṭṭadukkhato paṭiharaṇaṃ nibbānapāpanaṃ paṭihāro, so eva ā-kārassa i-kāraṃ katvā paṭihiro, paṭihiro eva pāṭihiro, saha pāṭihirenāti sappāṭihiraṃ, tathā suppaveditatāya sappāṭihiraṃ katanti sappāṭihirakataṃ. Tādisaṃ pana vaṭṭato niyyāne niyuttaṃ, niyyānappayojanañca hotīti āha **‘‘niyyānika’’**nti. Devalokatoti devalokato paṭṭhāya rūpīdevanikāyato pabhuti. Suppakāsitanti suṭṭhu pakāsitaṃ. Yāva devamanussehīti vā yāva devamanussehi yattakā devā manussā ca, tāva te sabbe abhibyāpetvā suppakāsitaṃ. Anutāpāya hotīti anutappo, so pana anutāpaṃ karonto viya hotīti vuttaṃ **‘‘anutāpakaro hotī’’**ti.

170. ここで弟子の正しい実践のために絶対的な依拠を示すことを目的として、師の正等覚者であること、そして法の善く説かれた状態が称賛されたので、「正しく実践する善男子の称賛を示して」と言った。このように実に、この説法が雑染の側として生起したのに対し、清浄の側として相応する文脈によって展開することが明かされたのである。「理解されていない意味を持つ」とは、知らされていない意味を持つ、勝義である第四の真理の通達に至っていない、という意味である。聖典において「彼の」という語は、「弟子たちは正法において」という二つの語と「この正等覚者の弟子たちは、彼の正法において」と結合されるべきである。「すべての包括の句によってなされた」とは、すべての教えの意味を包摂する句によって一括してなされた。それゆえに「すべてを包括するものとしてなされたのではない、という意味である」と言った。前後の連関する意味であることによって包摂されるべきものとして、あるいは包摂する句がこれになされたから「包摂の句がなされた」清浄行である。その否定によって「包摂の句がなされていない」と解釈される。貪欲などの対立物を除去すること、あるいは教誡の通りに実践する者たちを輪廻の苦から連れ戻すこと、涅槃に至らせることが「対治(パーティハラ)」であり、まさにそれが長音āを短音iとして「パティヒラ」、パティヒラこそが「パーティヒラ」であり、対治とともにあるから「対治を伴うもの(神変あるもの)」であり、そのように善く説かれた状態によって対治を伴うものとなされたから「対治あるものとなされた」である。しかしそのようなものは輪廻からの出離に役立ち、出離を用途とするものであるから、「出離の」と言った。「天界から」とは、天界から始まって、色界の神々の集いに至るまで。「善く開示された」とは、見事に開示された。「神と人間たちに至るまで」とは、神と人間たちに至るまで、神々と人間たちが存在する限り、それらすべてに満遍なく行き渡って善く開示された。「後悔のためにある」とは、後悔すべきものであり、しかしそれは後悔を生じさせるかのようであるから、「後悔をもたらす者となる」と言われた。

172. Thiroti ṭhitadhammo kenaci asaṃhāriyo, asekkhā sīlakkhandhādayo therakārakā dhammā.

172. 「堅固な」とは、法に留まる者、何ものによっても奪われない者であり、無学の戒蘊などの長老となす諸法である。

173. Yogehi khemattāti yogehi anupaddutattā. Saddhammassāti assa saddhammassa. Assāti ca assa satthuno.

173. 「軛(束縛)から安穏であることによって」とは、軛によって害されないことによって。「正法の」とは、この正法の。「彼の」とは、この師の。

174. Upāsakā brahmacārino nāma visesato anāgāmino. Sotāpannasakadāgāminopi tādisā tathā vuccantīti ‘‘brahmacariyavāsaṃ vasamānā ariyasāvakā’’ icceva vuttaṃ.

174. 「清浄行を修める在俗信者たち」とは、格別には不還者たちである。預流者や一来者もそのような者たちとしてそのように呼ばれるので、「清浄行の生活を営む聖弟子たち」とまさに言われた。

176. Sabbakāraṇasampannanti yattakehi kāraṇehi sampannaṃ nāma hoti, tehi sabbehi kāraṇehi sampannaṃ sampattaṃ upagataṃ paripuṇṇaṃ, samannāgataṃ vā. Imameva dhammanti imameva sāsanadhammaṃ.

176. 「すべての条件を具足した」とは、それだけの条件によって具足したと呼ばれる、それらすべての条件によって具足した、到達した、至った、円満な、あるいは具備した。「まさにこの法を」とは、まさにこの教えの法を。

Udakena padesaññunā attano paññāveyyattiyataṃ dassetuṃ aniyyānike atthe payuttaṃ paheḷikasadisaṃ vacanaṃ, bhagavatā attano sabbaññutāya niyyānike atthe yojetvā dassetuṃ ‘‘udako suda’’ntiādi vuttanti taṃ dassetuṃ **‘‘so kirā’’**tiādimāha.

一端のみを知るウダカによって、自らの知恵の巧妙さを示すために、非出離の意味において用いられた謎のような言葉を、世尊が自らの一切智性によって出離の意味に結びつけて示すために、「ウダカは実に」などが説かれた、とそれを明かすために「彼が、まことに」などを言った。

Saṅgāyitabbadhammādivaṇṇanā

結集されるべき法などの解説

177. Saṅgamma samāgammāti tasmiṃyeva ṭhāne labbhamānānaṃ gativasena saṅgamma ṭhānantarato pakkosanena samāgatānaṃ vasena samāgamma. Tenāha **‘‘saṅgantvā samāgantvā’’**ti. Atthena atthanti padantare āgataatthena saha tattha tattha āgatamatthaṃ. Byañjanena byañjananti etthāpi eseva nayo. Samānentehīti samānaṃ karontehi, opammaṃ vā ānentehi. Saṅgāyitabbanti sammadeva gāyitabbaṃ kathetabbaṃ, taṃ pana saṅgāyanaṃ vācanāmaggoti āha **‘‘vācetabba’’**nti.

177. 「集まり、相集まって」とは、まさにその場所に得られる者たちの赴きによって「集まり」、他の場所から呼び集められたことによって集まった者たちによって「相集まって」である。それゆえに「集まり、相集まって」と言った。「意味と意味を」とは、他の句に来たる意味とともに、其処此処に来たる意味を。「文身(文字)と文身を」とは、ここにおいてもこれと同じ方法である。「同等にする者たちによって」とは、等しくする者たちによって、あるいは比喩をもたらす者たちによって。「結集されるべき」とは、正しくまさに唱えられるべき、語られるべきであり、しかしその結集は読誦の道であるから、「読誦されるべき」と言った。

178. Tassa vā bhāsiteti tassa bhikkhuno bhāsite atthe ceva byañjane ca. Atthamicchāgahaṇaropanāni yathā honti, taṃ dassetuṃ **‘‘cattāro satipaṭṭhānā’’**tiādi vuttaṃ. Ārammaṇaṃ ‘‘satipaṭṭhāna’’nti gaṇhāti, na satiyeva ‘‘satipaṭṭhāna’’nti. ‘‘Satipaṭṭhānānī’’ti byañjanaṃ ropeti tasmiṃ atthe, na ‘‘satipaṭṭhānā’’ti. Upapannatarānīti yuttatarāni. Allīnatarānīti siliṭṭhatarāni. Yā cevāti liṅgavipallāsena vuttaṃ, vibhattilopena vā. Puna yā cevāti liṅgavipallāseneva niddeso. Neva ussādetabboti na ukkaṃsetabbo virajjhitvā vuttattā. Na apasādetabboti na santajjetabbo vivādapariharaṇatthaṃ. Dhāraṇatthanti upadhāraṇatthaṃ sallakkhaṇatthaṃ.

178. 「あるいはその者が語ったことにおいて」とは、その比丘が語った意味においても文身においても。意味の誤った把握と設定がどのようになされるか、それを示すために「四つの念処」などが説かれた。対象を「念処」と把握し、念そのものを「念処」とは把握しない。「念処を(中性・複数)」という文身をその意味において設定し、「念処を(男性・複数)」とは設定しない。「より適切な」とは、より道理にかなった。「より密着した」とは、より滑らかな。「いずれの」とは、性の転換によって説かれたものであり、あるいは格語尾の脱落による。再び「いずれの」とは、まさに性の転換による提示である。「称賛されるべきでもない」とは、間違って説いたことから高められるべきではない。「叱責されるべきでもない」とは、論争を避けるために脅されるべきではない。「把持するために」とは、考察するために、観察するために。

181. Atthena upetanti aviparītena atthena upetaṃ taṃ ‘‘ayamettha attho’’ti upecca paṭijānitvā ṭhitaṃ. Tathārūpo ca tassa bujjhitā nāma hotīti āha **‘‘atthassa viññātāra’’**nti. Evametaṃ bhikkhuṃ pasaṃsathāti vuttanayena dhammabhāṇakaṃ amuṃ bhikkhuṃ ‘‘evaṃ lābhā no āvuso’’tiādiākārena pasaṃsatha. Idānissa pasaṃsabhāvaṃ dassetuṃ **‘‘eso hī’’**tiādi vuttaṃ. Esāti pariyattidhammassa satthukiccakaraṇato, tattha cassa sammadeva avaṭṭhitabhāvato **‘‘buddho nāma esā’’**ti vutto. ‘‘Lābhā no’’tiādinā cassa bhikkhūnaṃ piyagarubhāvaṃ vibhāvento satthā taṃ attano ṭhāne ṭhapesīti vutto.

181. 「意味を具足した」とは、倒錯なき意味を具足したそれを、「これがここでの意味である」と近づいて公認して留まる。そしてそのような者がそれの理解者と呼ばれるので、「意味の理解者を」と言った。「このようにこの比丘を称賛せよ」とは、説かれた方法によって法を説くかの比丘を「このように我らの利益である、友よ」などの様相によって称賛せよ。今や彼の称賛されるべき状態を示すために、「彼こそは実に」などが説かれた。「彼こそは」とは、教説の法が師の役割を果たすことから、またそこにおいて彼が正しくまさに確立していることから、「彼こそは仏と呼ばれる」と説かれた。「我らの利益である」などによって彼の比丘たちに対する親愛と尊敬の状態を明らかにしつつ、師は彼を自らの地位に置かれた、と説かれた。

Paccayānuññātakāraṇādivaṇṇanā

資具が許された理由などの解説

182. Tatopi uttaritaranti yā pubbe sammāpaṭipannassa bhikkhuno pasaṃsanavasena ‘‘idha pana cunda satthā ca hoti sammāsambuddho’’tiādinā (dī. ni. 3.167, 169) pavattitadesanāya upari ‘‘idha cunda satthā ca loke udapādī’’tiādinā (dī. ni. 3.170, 171) desanā vaḍḍhitā. Tatopi uttaritaraṃ savisesaṃ desanaṃ vaḍḍhento **‘‘paccayahetū’’**tiādimāha. Tattha paccayahetūti paccayasaṃvattanahetu. Uppajjanakā āsavāti paccayānaṃ pariyesanahetu ceva paribhogahetu ca uppajjanakā kāmāsavādayo. Tesaṃ diṭṭhadhammikānaṃ āsavānaṃ ‘‘idha, bhikkhave, ariyasāvako micchāājīvaṃ pahāya sammāājīvena jīvitaṃ kappetī’’ti (saṃ. ni. 5.8) ‘‘idha, bhikkhave, bhikkhu paṭisaṅkhā yoniso cīvaraṃ paṭisevatī’’tiādinā (ma. ni. 1.23; a. ni. 6.58) ca sammāpaṭipattiṃ upadisanto bhagavā paṭighātāya dhammaṃ deseti nāma. ‘‘Yo tumhesu pāḷiyā atthabyañjanāni micchā gaṇhāti, so neva ussādetabbo, na apasādetabbo, sādhukaṃ saññāpetabbo tasseva atthassa nisantiyā’’ti evaṃ pariyattidhamme micchāpaṭipanne sammāpaṭipattiyaṃ bhikkhū niyojento bhagavā bhaṇḍanahetu uppajjanakānaṃ samparāyikānaṃ āsavānaṃ paṭighātāya dhammaṃ deseti nāma. Yathā te na pavisantīti te āsavā attano cittasantānaṃ yathā na otaranti. Mūlaghātena paṭihananāyāti yathā mūlaghāto hoti, evaṃ mūlaghātavasena pajahanāya. Tanti cīvaraṃ. Yathā cīvaraṃ idamatthikatameva upādāya anuññātaṃ, evaṃ piṇḍapātādayopi.

182. 「それよりもさらに勝れた」とは、以前に正しく実践する比丘を称賛することによって「しかしチュンダよ、ここに正等覚者たる師があり」など(『長部』第3巻167, 169頁)によって展開された説法の上に、「チュンダよ、ここに師が世に出現し」など(『長部』第3巻170, 171頁)によって説法が増大された。それよりもさらに勝れた格別の説法を増大させつつ、「資具を原因として」などを言った。そこにおいて「資具を原因として」とは、資具の獲得を原因として。「生じるべき漏」とは、資具の探求を原因とし、また受用を原因として生じるべき欲漏などである。それらの現世的な漏について、「比丘たちよ、ここに聖弟子は邪命を捨てて正命によって命を営む」(『相応部』第5巻8頁)、「比丘たちよ、ここに比丘は如理に観察して衣を受用する」など(『中部』第1巻23頁、『増支部』第6巻58頁)によって正しい実践を指示しつつ、世尊は(煩悩の)制圧のために法を説かれるのである。「あなた方の中で聖典の意味と文字を邪に把握する者がいれば、その者は称賛されるべきでもなく、叱責されるべきでもなく、まさにその意味を理解させるために善く納得させられるべきである」と、このように教説の法において邪に実践する者を正しい実践へと比丘たちを導きつつ、世尊は論争を原因として生じるべき来世的な漏の制圧のために法を説かれるのである。「それらが侵入しないように」とは、それらの漏が自らの心の連続に侵入しないように。「根絶による制圧のために」とは、根絶がなされるように、このように根絶によって捨断するために。「それを」とは、衣を。衣がこの有用性のみに基づいて許されたように、托鉢霊食なども同様である。

Sukhallikānuyogādivaṇṇanā

楽行などの解説

183. Sukhitanti sañjātasukhaṃ. Pīṇitanti dhātaṃ suhitaṃ. Tathābhūto pana yasmā thūlasarīro hoti, tasmā **‘‘thūlaṃ karotī’’**ti vuttaṃ.

183. 「安楽となった」とは、安楽が生じた。「満足した」とは、満ち足りた、飽満した。しかしそのようになった者は肥満した身体となることから、「太らせる」と説かれた。

186. Naṭhitasabhāvāti anavaṭṭhitasabhāvā, evarūpāya kathāya anavaṭṭhānabhāvato sabhāvopi tesaṃ anavaṭṭhitoti adhippāyo. Tenāha **‘‘jivhā no atthī’’**tiādi. Kāmaṃ ‘‘pañcahi cakkhūhī’’ti vuttaṃ, aggahitaggahaṇena pana cattāri cakkhūni veditabbāni. Sabbaññutaññāṇañhi samantacakkhūti. Tassa vā ñeyyadhammesu jānanavasena pavattiṃ upādāya **‘‘jānatā’’**ti vuttaṃ. Hatthāmalakaṃ viya paccakkhato dassanavasena pavattiṃ upādāya **‘‘passatā’’**ti vuttaṃ. Nemaṃ vuccati thambhādīhi anupaviṭṭhabhūmippedesoti āha **‘‘gambhīrabhūmiṃ anupaviṭṭho’’**ti. Suṭṭhu nikhātoti bhūmiṃ nikhanitvā sammadeva ṭhapito. Tasminti khīṇāsave. Anajjhācāro acalo asampavedhī, yasmā ajjhācāro setughāto khīṇāsavānaṃ. Sotāpannādayoti ettha ādi-saddena gahitesu anāgāmino tāva navasupi ṭhānesu khīṇāsavā viya abhabbā, sotāpannasakadāgāmino pana ‘‘tatiyapañcamaṭṭhānesu abhabbā’’ti na vattabbā, itaresu sattasu ṭhānesu abhabbāva.

186. 「定まらぬ自性の」とは、確立しない自性の、このような言動によって確立しない状態にあることから、彼らの自性もまた定まらない、という意図である。それゆえに「舌は我らにない」などを言った。確かに「五つの眼によって」と説かれたが、把握されないものの把握によって四つの眼が知られるべきである。一切智智こそが普門眼(普眼)であるから。あるいはそれの知られるべき法において知ることによる働きに基づいて「知る者によって」と説かれた。掌の上の阿摩勒果のように直接に見ることによる働きに基づいて「見る者によって」と説かれた。柱などによって地中に深く入った敷居(土台)の場所を「礎」と言うので、「深い大地に入り込んだ」と言った。「善く掘り込まれた」とは、大地を掘って正しく置かれた。「その者において」とは、漏尽者において。非違行は不動であり、動揺しない。違行は漏尽者たちにとって橋を壊すこと(断絶)であるからである。「預流者たち」のここにおける「たち」という語によって把握されるものの中で、不還者はまず九つの箇所において漏尽者のように(違行することが)不可能であるが、預流者と一来者は「第三と第五の箇所において不可能である」とは言われるべきではなく、他の七つの箇所においてまさに不可能である。

Pañhabyākaraṇavaṇṇanā

問答の解説

187. Gihibyañjanenāti gihiliṅgena. Khīṇāsavo pana gihibyañjanena arahattaṃ pattopi na tiṭṭhati vivekaṭṭhānassa abhāvāti adhippāyo. Tassa vasenāti bhummadevattabhāve ṭhatvā arahattappattassa vasena. Ayaṃ pañhoti ‘‘abhabbo so nava ṭhānāni ajjhācaritu’’nti ayaṃ pañho āgato itarassa pabbajjāya, parinibbānena vā abhabbatāya avuttasiddhattā. Yadi evaṃ kathaṃ bhikkhugahaṇanti āha **‘‘bhinnadosattā’’**tiādi. Aparicchedanti apariyantaṃ, tayidaṃ suvipulanti āha **‘‘mahanta’’**nti. Ñeyyassa hi vipulatāya ñāṇassa vipulatā veditabbā, etena ‘‘apariccheda’’nti vuccamānampi ñeyyaṃ satthu ñāṇassa vasena paricchedamevāti dassitaṃ hoti. Vuttañhetaṃ ‘‘ñāṇapariyantikaṃ neyya’’nti (mahāni. 69, 156; cūḷani. 85; paṭi. ma. 3.5) anāgate apaññāpananti anāgate visaye ñāṇassa apaññāpanaṃ. ‘‘Paccakkhaṃ viya katvā’’ti kasmā viya-saddaggahaṇaṃ kataṃ, nanu buddhānaṃ sabbampi ñāṇaṃ attano visayaṃ paccakkhameva katvā pavattati ekappamāṇabhāvatoti? Saccametaṃ, **‘‘akkha’’**nti pana cakkhādiindriyaṃ vuccati, taṃ akkhaṃ pati vattatīti cakkhādinissitaṃ viññāṇaṃ, tassa ca ārammaṇaṃ **‘‘paccakkha’’**nti loke niruḷhametanti taṃ nidassanaṃ katvā dassento **‘‘paccakkhaṃ viya katvā’’**ti avoca, na pana bhagavato ñāṇassa appaccakkhākārena pavattanato. Tathā hi vadanti –

187. 「在家の姿形によって(Gihibyañjanena)」とは、在家の標識によってということである。漏尽者(阿羅漢)は在家の姿形のままで阿羅漢位に達したとしても、閑静な居場所がないために留まることはない、という意味である。「その者に関して(Tassa vasena)」とは、地居天の境遇に留まりながら阿羅漢位に達した者に関してのことである。「この問い(Ayaṃ pañho)」とは、「彼は九つの事柄を犯すことができない」というこの問いが、他方の出家や般涅槃によって、その不可能性が説かれずとも成就していることから生じたものである。もしそうであるなら、なぜ比丘を挙げたのかといえば、「過失を断じた者であるから(bhinnadosattā)」等と述べたのである。「際限がない(Aparicchedaṃ)」とは、無辺ということである。この智は広大であるから「大(mahantaṃ)」と述べた。実に、知るべき対象(所知)の広大さによって智の広大さが知られるべきである。これによって「際限がない」と説かれる所知も、世尊の智に関して言えば限定されたものにすぎないことが示される。実に、「知るべき対象は智の限界に等しい」と説かれている通りである。未来における「無施設(apaññāpanaṃ)」とは、未来の領域における智の無施設(説き示されないこと)である。「現前させるかのごとくにして(Paccakkhaṃ viya katvā)」において、なぜ「かのごとく(viya)」という語を用いたのか。諸仏のすべての智は、同一の基準を有することから、自らの領域をまさに現前させて生起するのではないか。それは真実である。しかし「目(akkha)」とは眼などの諸根を意味し、その目に依存して生起するがゆえに眼などに依止した識を指し、その対象は世間において「現前(paccakkha)」と慣用されるため、それを例えとして示して「現前させるかのごとくにして」と述べたのであって、世尊の智が現前しない様態で生起するからではない。実に、次のように語られている。

‘‘Āvibhūtaṃ pakāsanaṃ, anupaddutacetasaṃ;

「明らかに現れ、示されたものであり、心の妨げなき者たちにとって、

Atītānāgate ñāṇaṃ, paccakkhānaṃ vasissatī’’ti.

過去および未来における智は、現前の諸対象を支配するであろう」と。

Aññattha vihitakenāti aññasmiṃ visaye pavattitena. Saṅgāhetabbanti samaṃ katvā kathayitabbaṃ, kathanaṃ pana paññāpanaṃ nāma hotīti paññāpetabbanti attho vutto. Tādisanti satataṃ samitaṃ pavattakaṃ. Ñāṇaṃ nāma natthīti āvajjanena vinā ñāṇuppattiyā asambhavato. Ekākārena ca ñāṇe pavattamāne nānākārassa visayassa avabodho na siyā. Athāpi siyā, anirupitarūpeneva avabodho siyā, tena ca ñāṇaṃ ñeyyaṃ aññātasadisameva siyā. Na hi ‘‘idaṃ ta’’nti vivekena anavabuddho attho ñāto nāma hoti, tasmā ‘‘carato ca tiṭṭhato cā’’tiādi bālalāpanamattaṃ. Tenāha **‘‘yathariva bālā abyattā, evaṃ maññantī’’**ti.

「他に向けられたものによって(Aññattha vihitakena)」とは、他の対象において生起したものによって。「総括されるべきである(Saṅgāhetabbaṃ)」とは、等しくして語られるべきであるということである。しかし語ることこそが施設(提示)と呼ばれるため、「施設されるべきである」という意味が語られている。「そのような(Tādisaṃ)」とは、不断に常に生起するような智である。「智というものは存在しない(Ñāṇaṃ nāma natthi)」とは、作意(思惟)なしには智の生起はあり得ないからである。また、単一の様態で智が生起しているならば、多様な様態を持つ領域の覚知はあり得ない。仮にあったとしても、識別されない姿形において覚知されるだけであり、それゆえに智にとって所知は未知のものと同然となってしまう。「これはそれである」と分別して覚知されない対象は、知られたとは言えないからである。それゆえ「歩むときも、留まるときも」などは愚者の妄語にすぎない。それゆえに「無智で愚かな者たちがそのように考えるごとくである」と述べたのである。

Satiṃ anussaratīti satānusāri, satiyānuvattanavasena pavattañāṇaṃ. Tenāha ‘‘pubbenivāsānussatisampayuttaka’’nti. Ñāṇaṃ pesesīti ñāṇaṃ pavattesi. Sabbatthakameva ñeyyāvaraṇassa suppahīnattā appaṭihataṃ anivāritaṃ ñāṇaṃ gacchati pavattaticceva attho. ‘‘Bodhi vuccati catūsu maggesu ñāṇa’’nti (cūḷani. 211) vacanato catumaggañāṇaṃ bodhi, tato tassa adhigatattā uppajjanakaṃ paccavekkhaṇañāṇaṃ ‘‘bodhijaṃ ñāṇaṃ uppajjatī’’ti vuttaṃ. Bodhijaṃ bodhimūle jātaṃ catumaggañāṇaṃ, tañca kho anāgataṃ ārabbha uddissa tassa appavattiatthaṃ tathāgatassa uppajjati tassa uppannattā āyatiṃ punabbhavābhāvato. Kathaṃ tathāgato anāgatamaddhānaṃ ārabbha atīrakaṃ ñāṇadassanaṃ paññāpetīti? Atītassa pana addhuno mahantatāya atīrakaṃ ñāṇadassanaṃ tattha paññāpetīti ko ettha virodho. Titthiyā pana imamatthaṃ yāthāvato ajānantā – ‘‘tayidaṃ kiṃ su, tayidaṃ kathaṃsū’’ti attano aññāṇameva pākaṭaṃ karonti. Tasmā bhagavatā sasantatipariyāpannadhammappavattiṃ sandhāya ‘‘aññavihitakaṃ ñāṇadassana’’ntiādi vuttaṃ. Itaraṃ pana sandhāya vuccamāne sati tathārūpe payojane anāgatampi addhānaṃ ārabbha atīrakameva ñāṇadassanaṃ paññāpeyya bhagavāti anatthasaṃhitanti ayamettha atthoti āha **‘‘na idhalokatthaṃ vā paralokatthaṃ vā nissita’’**nti. Yaṃ pana sattānaṃ anatthāvahattā anatthasaṃhitaṃ, tattha setughāto tathāgatassa. **‘‘Bhāratayuddhasītāharaṇasadisa’’**nti iminā tassā kathāya yebhuyyena abhūtatthataṃ dīpeti. Sahetukanti ñāpakena hetunā sahetukaṃ. So pana hetu yena nidassanena sādhīyati, taṃ tassa kāraṇanti tena sakāraṇaṃ katvā. Yathā hi paṭiññātatthasādhanato hetu, evaṃ sādhakaṃ nidassananti. Yuttapattakāleyevāti yuttānaṃ pattakāle eva. Ye hi veneyyā tassā kathāya yuttā anucchavikā, tesaṃyeva yojane sandhāya vā kathāya patto upakārāvaho kālo, tadā eva kathetīti attho.

「念に随って思い起こす(Satiṃ anussarati)」ゆえに「念随伴者(satānusāri)」であり、念の追随によって生起した智のことである。それゆえ「宿住随念智と相応した」と述べたのである。「智を差し向けた(Ñāṇaṃ pesesi)」とは、智を生起させたということである。一切の所知障が完全に断ぜられているがゆえに、完全に無碍で遮られない智が進み生起する、という意味に他ならない。「覚り(菩提)とは四道における智をいう」という言葉から、四道の智が菩提であり、その後、それに到達したことによって生じる省察の智を「菩提より生じた智が生じる」と説かれたのである。菩提より生じたとは、菩提樹の下で生じた四道の智のことであり、それは未来に関して、未来の苦が生起しないことを目的として如来に生じるのである。それが生じたがゆえに、将来において更なる再生(輪廻)がないからである。如来はいかにして未来の時に関して窮まりなき智見を施設するのか。過去の時の広大さゆえに、過去において窮まりなき智見を施設することに何の矛盾があろうか。しかし外道たちはこの意味をありのままに知らず、「これは何であるか、これはいかにあるのか」と自らの無智を露わにするのである。それゆえ世尊は、自らの相続に含まれる諸法の生起を指して「他に向かわされた智見」等と説かれたのである。しかし他の(未来の)ことを指して説かれる場合、相応の目的があるならば、未来の時に関しても如来は窮まりなき智見を施設されるはずであるが、無益であるから施設されない、というのがここでの意味である。それゆえ「今世の利益にも他世の利益にも依存しない」と述べたのである。衆生に不利益をもたらすがゆえに無益なものに対しては、如来は橋を断ち切るように遮絶される。「バーラタの戦争やシーターの奪還の物語のごとき」とは、その物語が概して事実無根であることを示している。「理由を伴う(Sahetukaṃ)」とは、証示する理由を伴っているということである。その理由は例証によって論証されるため、それがその因(論拠)となり、それによって有因として語る。提示された主張を論証するがゆえに理由(因)であるように、論証するものが例証である。「適切で相応しい時にのみ(Yuttapattakāleyeva)」とは、適切な者たちにとって時至ったまさにその時、という意味である。その教えに相応しく適した教化されるべき衆生たちにとって、彼らの理解に関して、あるいは教えに関して益をもたらす時期が到来した、まさにその時に語る、という意味である。

188. **‘‘Tathā tatheva gadanato’’**ti iminā ‘‘tathāgato’’ti āmeḍitalopenāyaṃ niddesoti dasseti. Tathā tathevāti ca dhammaatthasabhāvānurūpaṃ, veneyyajjhāsayānurūpañcāti adhippāyo. Diṭṭhanti rūpāyatanaṃ daṭṭhabbato, tena yaṃ diṭṭhaṃ, yaṃ dissati, yaṃ dakkhati, yaṃ sati samavāye passeyyaṃ, taṃ sabbaṃ ‘‘diṭṭhaṃ’’ tveva gahitaṃ kālavisesassa anāmaṭṭhabhāvato. **‘‘Suta’’**ntiādīsupi eseva nayo. Sutanti saddāyatanaṃ sotabbato. Mutanti sanissayena ghānādiindriyena sayaṃ patvā pāpuṇitvā gahetabbaṃ. Tenāha **‘‘patvā gahetabbato’’**ti. Viññātanti vijānitabbaṃ, taṃ pana diṭṭhādivinimuttaṃ viññeyyanti āha **‘‘sukhadukkhādidhammāyatana’’**nti. Pattanti yathā tathā pattaṃ, hatthagataṃ adhigatanti attho. Tenāha **‘‘pariyesitvā vā apariyesitvā vā’’**ti. Pariyesitanti pattiyāmatthaṃ pariyiṭṭhaṃ, taṃ pana pattaṃ vā siyā appattaṃ vā ubhayathāpi pariyesitamevāti āha **‘‘pattaṃ vā appattaṃ vā’’**ti. Padadvayenāpi dvippakārampi pattaṃ, dvippakārampi pariyesitaṃ, tena tena pakārena tathāgatena abhisambuddhanti dasseti. Cittena anusañcaritanti copanaṃ apāpetvā citteneva anusaṃcaritaṃ, parivitakkitanti attho. Pītakanti ādīti ādi-saddena lohitakaodātādi sabbaṃ rūpārammaṇavibhāgaṃ saṅgaṇhāti. Sumanoti rāgavasena, lobhavasena, saddhādivasena vā sumano. Dummanoti byāpādavitakkavasena, vihiṃsāvitakkavasena vā dummano. Majjhattoti aññāṇavasena vā ñāṇavasena vā majjhatto. Eseva nayo sabbattha. Tattha tattha ādi-saddena saṅkhasaddo paṇavasaddo, pattagandho pupphagandho, pattaraso phalaraso, upādinnaṃ anupādinnaṃ, majjhattavedanā kusalakammaṃ akusalakammanti evaṃ ādīnaṃ saṅgaho daṭṭhabbo.

188. 「まさにその通りに語ることから(Tathā tatheva gadanato)」とは、「如来(Tathāgata)」という語が重複語の脱落(類語の結合)による定義であることを示している。「まさにその通りに」とは、法の意味や自性に従い、教化されるべき者の意向に従っている、という意味である。「見られた(Diṭṭhaṃ)」とは、見られるべきものであるから色処(視覚の対象)のことである。それゆえ、かつて見られたもの、現在見られているもの、未来に見られるであろうもの、因縁が揃えば見られるであろうもの、それらすべてが時間の差異に限定されないがゆえに、単に「見られた」として把握される。「聞かれた(Sutaṃ)」等の語においても同様の理趣である。「聞かれた」とは、聞かれるべきものであるから声処のことである。「覚られた(Mutaṃ)」とは、自らの依処となる鼻などの諸根によって自ら達して把握されるべきものである。それゆえ「達して把握されるべきことから」と述べた。「識られた(Viññātaṃ)」とは、識知されるべきものであり、見られたもの等を離れて了知されるべきものであるから、「苦楽などの法処(意の対象)」と述べた。「得られた(Pattaṃ)」とは、何らかの形で得られた、手に入った、到達されたという意味である。それゆえ「探求して、あるいは探求せずに」と述べた。「探求された(Pariyesitaṃ)」とは、獲得のために探し求められたものであるが、それは得られたものであれ得られなかったものであれ、いずれにしても探求されたものであるから、「得られたものであれ得られなかったものであれ」と述べた。この二つの語によって、二種の「得られたもの」と二種の「探求されたもの」が、それぞれの手法によって如来によって等しく正覚されたことが示される。「心によって巡らされた(Cittena anusañcaritaṃ)」とは、身体の動きを伴わず、心のみによって巡らされ、思惟されたという意味である。「黄色い等(Pītakanti ādi)」における「等」という語によって、赤や白などのすべての色境(視覚対象)の区分が包摂される。「喜ぶ(Sumano)」とは、貪りによって、執着によって、あるいは信心などによって喜ぶことである。「憂える(Dummano)」とは、瞋恚の思惟によって、あるいは害意の思惟によって憂えることである。「中立である(Majjhatto)」とは、無智によって、あるいは智によって中立であることである。すべての箇所においてこの理趣である。それぞれの箇所における「等」という語によって、法螺貝の音、太鼓の音、葉の香り、花の香り、葉の味、果実の味、執受されたもの(有情の身体)、非執受のもの(無情物)、不苦不楽の受、善業、不善業などの包摂が理解されるべきである。

Appattanti ñāṇena asampattaṃ, aviditanti attho. Tenāha **‘‘ñāṇena asacchikata’’**nti. Tatheva gatattāti tatheva ñātattā abhisambuddhattā. Gata-saddena ekatthaṃ buddhiatthanti attho. ‘‘Gatiatthā hi dhātavo buddhiatthā bhavantī’’ti akkharacintakā.

「達していない(Appattaṃ)」とは、智によって到達されていない、知られていないという意味である。それゆえ「智によって現証されていない」と述べた。「まさにその通りに達したことから(Tatheva gatattā)」とは、まさにその通りに知られたことから、正覚されたことからという意味である。「達した(gata)」という語は、同一の対象において「智」の意味を持つ。「行く(gati)という意味を持つ語根は、知る(buddhi)という意味にもなる」と文法学者たちは述べる。

Abyākataṭṭhānādivaṇṇanā

無記の箇所などの解説

189. ‘‘Asamataṃ kathetvā’’ti vatvā samopi nāma koci natthi, kuto uttaritaroti dassetuṃ **‘‘anuttarata’’**nti vuttaṃ. Sā panāyaṃ asamatā, anuttaratā ca sabbaññutaṃ pūretvā ṭhitāti dassetuṃ **‘‘sabbaññuta’’**nti vuttaṃ. Sā sabbaññutā saddhammavaracakkavattibhāvena loke pākaṭā jātāti dassetuṃ **‘‘dhammarājabhāvaṃ kathetvā’’**ti vuttaṃ. Tathā sabbaññubhāvena ca satthā imesu diṭṭhigatavipallāsesu evaṃ paṭipajjatīti dassento **‘‘idānī’’**tiādimāha. Tattha sīhanādanti abhītanādaṃ seṭṭhanādaṃ. Seṭṭhanādo hesa, yadidaṃ ṭhapanīyassa pañhassa ṭhapanīyabhāvadassanaṃ. Ṭhapanīyatā cassa pāḷiāruḷhā eva ‘‘na heta’’ntiādinā. Yathā upacitakammakilesena itthattaṃ āgantabbaṃ, tathā naṃ āgatoti tathāgato, satto. Tathā hi so rūpādīsu satto visattoti katvā **‘‘satto’’**ti ca vuccati. Itthattanti ca paṭiladdhattā tathā paccakkhabhūto attabhāvoti veditabbo.

189. 「比類なきことを語り」と述べて、等しい者さえ誰もいないのに、どうしてそれ以上の者がいようかということを示すために「無上性(anuttarataṃ)」と述べた。この比類なきこと、無上性は、一切知見を満たして成り立っていることを示すために「一切知(sabbaññutaṃ)」と述べた。その一切知は、勝れた正法の転輪聖王たる境地として世に顕現したことを示すために「法王の境地を語り」と述べた。このように一切知者であることによって、師(世尊)はこれら邪見への転倒に対してこのように対処されるということを示して、「今や(idānī)」等を述べた。そこでの「獅子吼」とは、恐れなき声、最上の声のことである。保留されるべき問いに対してその保留されるべき性質を示すことこそが、最上の声である。それが保留されるべきであることは、「これは正しくない」等と聖典に記されている通りである。積み重ねられた業と煩悩によってこの境遇(人間界など)へ来るべきであったように、その通りに来た(生じた)がゆえに「如来」、すなわち衆生(satta)である。実に彼は色などに執着し(satto)、愛着している(visatto)がゆえに「衆生」とも呼ばれる。「この境遇(Itthattaṃ)」とは、獲得されたものとしてそのように現前した個体(身心)であると理解されるべきである。

**‘‘Atthasaṃhitaṃ na hotī’’**ti iminā ubhayattha vidhuratādassanena niratthakavippalāpataṃ tassa vādassa vibhāveti, ubhayalokatthavidhurampi samānaṃ ‘‘kiṃ nu kho vivaṭṭanissita’’nti koci āsaṅkeyyāti tadāsaṅkānivattanatthaṃ **‘‘na ca dhammasaṃhita’’**nti vuttaṃ. Tenāha **‘‘navalokuttaradhammanissitaṃ na hotī’’**ti. Yadipi taṃ na vivaṭṭogataṃ hoti, vivaṭṭassa pana adhiṭṭhānabhūtaṃ nu khoti koci āsaṅkeyyāti tadāsaṅkānivattanatthaṃ **‘‘na ādibrahmacariyaka’’**ntiādi vuttaṃ.

「有益ではない(Atthasaṃhitaṃ na hoti)」という語によって、二つの利益(今世と他世)を欠いていることを示すことで、その説が無益な戯論であることを明らかにする。二世の利益を欠いているとしても、「もしや輪廻の解脱に依存しているのではないか」と誰かが疑うかもしれないので、その疑念を払拭するために「法にかなっていない(na ca dhammasaṃhitaṃ)」と述べた。それゆえ「九つの出世間法に依存していない」と述べたのである。たとえそれが解脱に直結していなくとも、「解脱の基礎となるものではあるのか」と誰かが疑うかもしれないので、その疑念を払拭するために「梵行の根本ではない(na ādibrahmacāriyakaṃ)」等と述べたのである。

190. Kāmaṃ taṇhāpi dukkhasabhāvattā ‘‘dukkha’’nti byākātabbā, pabhavabhāvena pana sā tato visuṃ kātabbāti **‘‘taṇhaṃ ṭhapetvā’’**ti vuttaṃ. Tenāha **‘‘tasseva dukkhassa pabhāvikā’’**tiādi. Nanu ca avijjādayopi dukkhassa samudayoti? Saccaṃ samudayo, tassā pana kammassa vicittabhāvahetuto, dukkhuppādane visesapaccayabhāvato ca sātisayo samudayaṭṭhoti sā eva suttesu tathā vuttā. Tenāha ‘‘taṇhā dukkhasamudayoti **byākata’’**nti. Ubhinnaṃ appavattīti dukkhasamudayānaṃ appavattinimittaṃ. **‘‘Dukkhaparijānano’’**tiādi maggakiccadassanaṃ, tena maggassa bhāvanatthopi atthato dassitovāti daṭṭhabbaṃ. Na hi bhāvanābhisamayena vinā pariññābhisamayādayo sambhavantīti. Saccavavatthāpanaṃ appamādapaṭipattibhāvato asammohakalyāṇakittisaddādinimittatāya yathā sātisayaṃ idhalokatthāvahaṃ, evaṃ yāva ñāṇassa tikkhavisadabhāvappattiyā abhāvena navalokuttaradhammasampāpakaṃ na hoti, tāva tattha tattha sampattibhave abbhudayasampatti anugatameva siyāti vuttaṃ **‘‘etaṃ idhalokaparalokatthanissita’’**nti. Navalokuttaradhammanissitanti navavidhampi lokuttaradhammaṃ nissāya pavattaṃ tadadhigamūpāyabhāvato. Yasmā saccasambodhaṃ uddissa sāsanabrahmacariyaṃ vussati, na aññadatthaṃ, tasmā etaṃ saccavavatthāpanaṃ ‘‘ādipadhāna’’nti vuttaṃ paṭhamataraṃ citte ādātabbato.

190. 確かに愛着(渇愛)も苦の自性を持つことから「苦」として説かれるべきであるが、苦の生起因としての性質によってそれとは区別されるべきであるから、「渇愛を除いて(taṇhaṃ ṭhapetvā)」と述べた。それゆえ「その苦を生じさせるものである」等と述べたのである。無明なども苦の集(原因)ではないのか。確かに集ではあるが、渇愛こそが業の多様性の原因であり、苦を生じさせる卓越した縁であることから、卓越した集の意味を持つため、諸経においてそのように説かれたのである。それゆえ「渇愛は苦の集であると明言された」と述べた。「両者の不生起(Ubhinnaṃ appavatti)」とは、苦と集が生起しないための因縁(涅槃)のことである。「苦を遍知すること(Dukkhaparijānanaṃ)」等は道(八正道)の働きの提示であり、それによって道の実修(修習)の意味も実質的に示されていると理解されるべきである。実に、修習の現観なしには遍知の現観などは生じ得ないからである。四聖諦の決定は不放逸の行であることから、迷いがなく美しい名声などの原因となるため、卓越して今世の利益をもたらすのと同様に、智が鋭く明瞭な状態に達しないことで九つの出世間法を獲得させるに至らない間は、至る所の善処の生において向上と栄華が随伴するであろうから、「これは今世と他世の利益に依存している」と述べた。「九つの出世間法に依存している」とは、九種の出世間法に依存して生起した、その獲得の手段であるということである。聖諦の覚知を目指して教えの清浄行(梵行)は営まれるのであり、他の目的のためではないから、この聖諦の決定は、心において最初に把握されるべきものであるがゆえに「初めの基本」と説かれたのである。

Pubbantasahagatadiṭṭhinissayavaṇṇanā

過去分に随伴する邪見の依処の解説

191. Taṃ mayā byākatamevāti taṃ mayā tathā byākatameva, byākātabbaṃ nāma mayā abyākataṃ natthīti byākaraṇāvekallena attano dhammasudhammatāya buddhasubuddhataṃ vibhāveti. Tenāha **‘‘sīhanādaṃ nadanto’’**ti. Purimuppannā diṭṭhiyo aparāparuppannānaṃ diṭṭhīnaṃ avassayā hontīti **‘‘diṭṭhiyova diṭṭhinissayā’’**ti vuttaṃ. Diṭṭhigatikāti diṭṭhigatiyo, diṭṭhippavattiyoti attho. Idameva dassanaṃ saccanti ‘‘sassato attā ca loko cā’’ti idameva dassanaṃ saccaṃ amoghaṃ aviparītaṃ. Aññesaṃ vacanaṃ moghanti ‘‘asassato attā ca loko cā’’ti evamādikaṃ aññesaṃ samaṇabrāhmaṇānaṃ vacanaṃ moghaṃ tucchaṃ, micchāti attho. Na sayaṃ kātabboti asayaṃkāroti āha **‘‘asayaṃkato’’**ti, yādicchikattāti adhippāyo.

191. 「それは私によって説き明かされた(Taṃ mayā byākatameva)」とは、それは私によってその通りに説き明かされたのであり、説き明かされるべきもので私によって説き明かされなかったものはない、ということである。明言の欠落がないことによって、自らの法の善美性による仏の正覚の善美性を明らかにする。それゆえ「獅子吼をなしつつ」と述べた。先に生じた邪見が、後々に生じる邪見の拠り所となることから、「邪見こそが邪見の依処である」と説かれた。「邪見を抱く者たち(Diṭṭhigatikā)」とは、邪見の傾向、邪見の生起という意味である。「この見解のみが真実である」とは、「我と世界は常住である」というこの見解のみが真実であり、無益でなく、謬りではないということである。「他者の言葉は無益である」とは、「我と世界は無常である」といった他の沙門やバラモンたちの言葉は無益であり、空虚で虚妄である、という意味である。自ら作られるべきではないものが「無自作」であるから「自ら作られたのではない(asayaṃkato)」と述べた。偶然によるものである、という意味である。

192. Atthi khoti ettha kho-saddo pucchāyaṃ, atthi nūti ayamettha atthoti āha ‘‘atthi **kho idaṃ āvuso vuccatī’’**tiādi. Āvuso yaṃ tumhehi ‘‘sassato attā ca loko cā’’ti vuccati, idamatthi kho idaṃ vācāmattaṃ, no natthi, tasmā vācāvatthumattato tassa yaṃ kho te evamāhaṃsu ‘‘idameva saccaṃ moghaṃ añña’’nti, taṃ tesaṃ nānujānāmīti evamettha attho ca yojanā ca veditabbā. Yaṃ panettha vattabbaṃ, taṃ brahmajālaṭīkāyaṃ (dī. ni. ṭī. 1.30) vuttameva. Diṭṭhipaññattiyāti diṭṭhiyā paññāpane ‘‘evaṃ esā diṭṭhi uppannā’’ti tassā diṭṭhiyā samudayato, atthaṅgamato, assādato, ādīnavato, nissaraṇato ca yāthāvato paññāpane. Aviparītavuttiyā samena ñāṇena samaṃ kañci neva samanupassāmi. Adhipaññattīti abhiññeyyadhammapaññāpanā. Yaṃ ajānantā bāhirakā diṭṭhipaññattiyeva allīnāti tañca paññattito ajānantā thāmasā parāmāsā abhinivissa voharanti. Ettha ca yāyaṃ ‘‘diṭṭhipaññatti nāmā’’ti vuttā diṭṭhiyā diṭṭhigatikehi evaṃ gahitatāya vibhāvanā, tattha ca bhagavato uttaritaro nāma koci natthi, svāyamattho brahmajāle (dī. ni. aṭṭha. 1.30) vibhāvito eva. ‘‘Adhipaññattī’’ti vuttā pana vibhāviyamānā lokassa nibbidāhetubhāvena bahulīkārāti tassā vasena bhagavā anuttarabhāvaṃ pavedento ‘neva attanā samasamaṃ samanupassāmī’ti sīhanādaṃ nadī’’ti keci. Aṭṭhakathāyaṃ (dī. ni. aṭṭha. 3.192) pana ‘‘yañca vuttaṃ ‘paññattiyā’ti yañca ‘adhipaññattī’ti, ubhayametaṃ atthato eka’’nti ‘‘idha pana paññattiyāti etthāpi paññatti ceva adhipaññatti ca adhippetā, adhipaññattīti etthāpī’’ti ca vuttā, ubhayassapi vasenettha bhagavā sīhanādaṃ nadīti viññāyati. Ubhayaṃ petaṃ atthato ekanti ca paññattibhāvasāmaññaṃ sandhāya vuttaṃ, na bhedābhāvato. Tenāha **‘‘bhedato hī’’**tiādi. Khandhapaññattīti khandhānaṃ ‘‘khandhā’’ti paññāpanā dassanā pakāsanā ṭhapanā nikkhipanā. ‘‘Ācikkhati dasseti paññāpeti paṭṭhapetī’’ti (saṃ. ni. 2.20, 97) āgataṭṭhāne hi paññāpanā dassanā pakāsanā paññatti nāma, ‘‘supaññattaṃ mañcapīṭha’’nti (pārā. 269) āgataṭṭhāne ṭhapanā nikkhipanā paññatti nāma, idha ubhayampi yujjati.

192. 「〜があるのか(Atthi kho)」において、「kho」という語は問いを表し、「あるのだろうか」というのがここでの意味である。それゆえ「友よ、これは存在する(atthi kho idaṃ āvuso vuccatī)」等と述べた。友よ、あなた方が「我と世界は常住である」と語るそれは、言葉の上で存在するだけであり、実在しないのではない。それゆえ言葉の事実にすぎないことから、彼らが「これのみが真実であり、他は無益である」と語ったそのことを、私は認めない、というのがここでの意味および文脈の解釈である。ここで語るべきことは、梵網経の義釈(ディーガ・ニカーヤ注)において既に説かれている通りである。「見解の施設によって(Diṭṭhipaññattiyā)」とは、見解の施設(提示)において、「このようにこの見解が生じた」と、その見解の生起、滅尽、甘味(味わい)、過患、出離をありのままに施設することにおいてである。誤りのない活動において、等しい智をもって私と等しい者を誰一人として見出さない。「卓越した施設(Adhipaññatti)」とは、勝知(証知)されるべき法の施設である。それを知らずに外道たちはまさに「見解の施設」に執着し、それを概念として知らぬまま強弁と固執によって執着して語る。そしてここで「見解の施設と呼ばれるもの」として説かれた、邪見を抱く者たちによってそのように把握された見解の開示において、世尊より勝れた者は誰も存在しない。その意味は梵網経においてすでに明らかにされている。一方、「卓越した施設」と説かれたものは、解明されるならば世間の嫌悪(離貪)の原因として多大になるがゆえに、それによって世尊は無上性を示し、「自分と全く同等の者を決して見出さない」と獅子吼をなされた、とある人々は言う。しかし義注においては、「『施設によって』と説かれたことと、『卓越した施設によって』と説かれたことの双方は、意味においては一つである」と述べ、「ここにおいて『施設によって』という箇所でも施設と卓越した施設の両方が意図されており、『卓越した施設によって』という箇所でも同様である」と説かれていることから、世尊は両方に基づいて獅子吼をなされたのだと理解される。この双方が意味において一つであるというのは、概念(施設)であることの共通性を指して言ったのであり、区別がないからではない。それゆえ「区別によるならば実に」等と述べた。「蘊の施設(Khandhapaññatti)」とは、諸蘊を「蘊」として施設すること、示すこと、明かすこと、据えること、置くことである。「告げ知らせ、示し、施設し、確立する」と説かれる箇所では、施設すること、示すこと、明かすことが「施設」と呼ばれ、「よく設えられた長椅子や腰掛け」と説かれる箇所では、据えること、置くことが「施設」と呼ばれる。ここでは両方が適うのである。

Diṭṭhinissayappahānavaṇṇanā

邪見の依処の断滅の解説

196. Pajahanatthanti accantāya paṭinissajjanatthaṃ. Yasmā tena pajahanena sabbe diṭṭhinissayā sammadeva atikkantā honti vītikkantā, tasmā **‘‘samatikkamāyāti tasseva vevacana’’**nti avoca. Na kevalaṃ satipaṭṭhānā kathitamattā, atha kho veneyyasantāne patiṭṭhāpitāti dassetuṃ ‘‘desitā’’ti vatvā ‘‘paññattā’’ti vuttanti āha **‘‘desitāti kathitā. Paññattāti ṭhapitā’’**ti. Idāni satipaṭṭhānadesanāya diṭṭhinissayānaṃ ekantikaṃ pahānāvahabhāvaṃ dassetuṃ **‘‘satipaṭṭhānabhāvanāya hī’’**tiādi vuttaṃ. Tattha satipaṭṭhānabhāvanāyāti iminā tesaṃ bhāvanāya eva nesaṃ pahānaṃ, desanā pana tadupanissayabhāvato tathā vuttāti dasseti. Sesaṃ sabbaṃ suviññeyyamevāti.

196. 「捨断のために(Pajahanaṭṭhaṃ)」とは、徹底的な放棄のために。「その捨断によってすべての邪見の依処は完全に乗越えられ、超越されるがゆえに、『超越のために、とはその同義語である』と述べたのである。四念処は単に語られただけでなく、教化されるべき者の相続(心)に確立されたことを示すために、「説かれた」と述べてから「施設された」と説かれたのだとして、「説かれたとは語られたことであり、施設されたとは確立されたことである」と述べた。今や念処の説示が邪見の依処を決定的に断滅することを示すために、「実に念処の修習によって」等を述べた。そこでの「念処の修習によって」という語によって、それらの修習によってこそそれらの断滅があるのであり、説示はその強力な依存関係(親依縁)であることからそのように説かれたのだと示している。残りはすべて容易に理解できる通りである。

Pāsādikasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā.

清信経註の顕幽提要 完。