7. Lakkhaṇasuttavaṇṇanā7. 三十二相経註
Dvattiṃsamahāpurisalakkhaṇavaṇṇanā
三十二大人相の解説
199. Abhinīhārādiguṇamahattena mahanto purisoti mahāpuriso, so lakkhīyati etehīti mahāpurisalakkhaṇāni. Taṃ mahāpurisaṃ byañjayanti pakāsentīti mahāpurisabyañjanāni. Mahāpuriso nimīyati anumīyati etehīti mahāpurisanimittāni. Tenāha **‘‘ayaṃ…pe… kāraṇānī’’**ti.
199. 発願などの徳の広大さによって偉大なる人であるから「大人(mahāpurisa、偉人)」であり、彼がこれらによって特徴づけられる(認識される)がゆえに「大人相(mahāpurisalakkhaṇāni)」である。その大人を顕示し、明らかにするがゆえに「大人の標識(mahāpurisabyañjanāni)」である。大人であることがこれらによって測られ、推し量られるがゆえに「大人の徴候(mahāpurisanimittāni)」である。それゆえ「これらが…(中略)…原因である」と述べた。
200. Dhārentīti lakkhaṇapāṭhaṃ dhārenti, tena lakkhaṇāni te sarūpato jānanti, na pana samuṭṭhānatoti dasseti. Tenāha **‘‘no ca kho’’**tiādi, tena anaññasādhāraṇametaṃ, yadidaṃ mahāpurisalakkhaṇānaṃ kāraṇavibhāvananti dasseti. Kasmā āhāti yathāvuttassa suttassa samuṭṭhānakāraṇaṃ pucchati, ācariyo ‘‘aṭṭhuppattiyā anurūpattā’’ti vatvā tamevassa aṭṭhuppattiṃ vitthārato dassetuṃ **‘‘sā panā’’**tiādimāha. Sabbapāliphulloti sabbaso samantato vikasitapuppho. Vikasanameva hi pupphassa nipphatti. Pāricchattako viyāti anussavaladdhamattaṃ gahetvā vadanti. Uppajjatīti labbhati, nibbattatīti attho.
200. 「保持している(Dhārenti)」とは、相に関する聖典文を保持しているということであり、それによって彼らは相をその姿形として知っているのであって、その生起因から知っているのではない、ということを示している。それゆえ「しかし決して…ではない」等を述べて、これによって大人相の原因の開示は他と共通しない独自のものであることを示している。「なぜ語ったのか」とは、上述の経の生起の因を問うているのである。阿闍梨は「事の生起に相応しているからである」と述べて、その事の生起を詳細に示すために「実にそれは」等を述べた。「すべてが満開となった(Sabbapāliphullo)」とは、全体として四方八方に花開いたということである。実に開花することこそが花の完成である。「波利質多羅樹(天界の花樹)のごとく」とは、伝承によって得られたことだけに基づいて語る。「生じる(Uppajjati)」とは、得られる、生起するという意味である。
Yena kammenāti yena kusalakammunā. Yaṃ nibbattanti yaṃ yaṃ lakkhaṇaṃ nibbattaṃ. Dassanatthanti tassa tassa kusalakammassa sarūpato, kiccato, pavattiākāravisesato, paccayato, phalavisesato ca dassanatthaṃ, eteneva paṭipāṭiyā uddiṭṭhānaṃ lakkhaṇānaṃ asamuddesakāraṇavibhāvanāya kāraṇaṃ dīpitaṃ hoti samānakāraṇānaṃ lakkhaṇānaṃ ekajjhaṃ kāraṇadassanavasenassa pavattattā. Evamāhāti ‘‘bāhirakāpi isayo dhārentī’’tiādinā iminā iminā pakārena āha.
「いかなる業によって(Yena kammena)」とは、いかなる善業によって。「いかなる相が生じたか(Yaṃ nibbattaṃ)」とは、それぞれいかなる相が生じたか。「示すために(Dassanatthaṃ)」とは、それぞれの善業をその姿形、働き、生起の様態の差異、条件(縁)、果報の差異から示すためである。これによって、順序に従って提示された諸相が(経の冒頭の)概説の順序に従わずに示されている理由が解き明かされる。同一の原因を持つ諸相が、同一の箇所において原因が示されることに従って生起しているからである。「このように述べた(Evamāha)」とは、「外道の仙人たちも保持している」等のように、このような様態で述べたということである。
Suppatiṭṭhitapādatālakkhaṇavaṇṇanā
足裏平満相(足が安立せる相)の解説
201. ‘‘Purimaṃ jātinti purimāyaṃ jātiyaṃ, bhummatthe etaṃ upayogavacana’’nti vadanti. ‘‘Pubbe nivutthakkhandhasantāne ṭhito’’ti vacanato accantasaṃyoge vā upayogavacanaṃ. Yattha yattha hi jātiyaṃ mahāsatto puññakammaṃ kātuṃ ārabhati, ārabhato paṭṭhāya accantameva tattha puññakammappasuto hoti. Tenāha ‘‘daḷhasamādāno’’tiādi. Sesapadadvayepi eseva nayo. Nivutthakkhandhā ‘‘jātī’’ti vuttā khandhavinimuttāya jātiyā abhāvato, nibbattilakkhaṇassa ca vikārassa idha anupayujjanato. Jātavasenāti jāyanavasena. **‘‘Tathā’’**ti iminā ‘‘pubbe nivutthakkhandhā’’ti imaṃ padaṃ upasaṃharati. Bhavanavasenāti paccayato nibbattanavasena. Nivutthavasenāti nivusitatāvasena. Ālayaṭṭhenāti āvasitabhāvena. Nivāsattho hi niketattho.
201. 「前世において(Purimaṃ jātiṃ)」とは、以前の転生においてということであり、処格(於格)の意味における対格の言葉であると語られる。「かつて住した蘊の相続に留まった」という言葉から、徹底した結合における対格の言葉であるとも言える。実に大士(菩薩)がいずれの転生において福業(功徳の行い)をなし始めたとしても、始めると同時にそこで徹底して福業に専念するからである。それゆえ「堅固に受持した」等と述べた。残る二つの句においても同様の理趣である。住した蘊が「生」と説かれたのは、蘊を離れた生というものは存在せず、また生起の特質という状態変化はここには適用されないからである。「生じたことによって(Jātavasena)」とは、生まれることによって。「そのように(Tathā)」という語によって、「かつて住した蘊」というこの句を結びつける。「生じたことによって(Bhavanavasena)」とは、縁から生じたことによって。「住したことによって(Nivutthavasena)」とは、住まわれたことによって。「住処の意味によって(Ālayaṭṭhena)」とは、居住された状態によってである。住まいの意味とはまさに住処の意味である。
Tatthāti devalokādimhi. Ādi-saddena ekaccaṃ tiracchānayoniṃ saṅgaṇhāti. Na sukaranti devagatiyā ekantasukhatāya, duggatiyā ekantadukkhatāya, dukkhabahulatāya ca puññakiriyāya okāso na sulabharūpo paccayasamavāyassa dullabhabhāvato, uppajjamānā ca sā uḷārā, vipulā ca na hotīti gativasenāpi khettavisesatā icchitabbā ‘‘tiracchānagate dānaṃ datvā sataguṇā dakkhiṇā pāṭikaṅkhitabbā, puthujjanadussīle dānaṃ datvā sahassaguṇā dakkhiṇā pāṭikaṅkhitabbā’’ti (ma. ni. 3.379) vacanato. Manussagatiyā pana sukhabahulatāya puññakiriyāya okāso sulabharūpo paccayasamavāyassa ca yebhuyyena sulabhabhāvato. Yañca tattha dukkhaṃ uppajjati, tampi visesato puññakiriyāya upanissayo hoti, dukkhūpanisā saddhāti. Yathā hi ayoghanena satthake nipphādiyamāne tassa ekantato aggimhi tāpanaṃ, udakena vā temanaṃ chedanakiriyāsamatthatāya na visesapaccayo, tāpetvā pana samānayogato udakatemanaṃ tassā visesapaccayo, evameva sattasantānassa ekantadukkhasamaṅgitā dukkhabahulatā ekantasukhasamaṅgitā sukhabahulatā ca puññakiriyāsamatthatāya na visesapaccayo, sati pana samānayogato dukkhasantāpane, sukhumabrūhane ca laddhūpanissayā puññakiriyā samatthatāya sambhavati, tathā sati uppajjamānā puññakiriyā mahājutikā mahāvipphārā paṭipakkhacchedanasamatthā hoti. Tasmā manussabhāvo puññakiriyāya visesapaccayo. Tena vuttaṃ **‘‘tattha na sukaraṃ, manussabhūtasseva sukara’’**nti.
「そこにおいて(Tattha)」とは、天界などにおいて。「など」という語によって、一部の畜生界も包摂される。「容易ではない(Na sukaraṃ)」とは、天界の境遇は専ら楽であり、悪趣の境遇は専ら苦であり、また苦が多大であるために、条件の結合が得難いことから福業の機会が容易には得られず、また生じる功徳も勝れ広大なものとはならないため、趣(境遇)の点からも福田の卓越性が望まれるべきである。「畜生に施しを与えて百倍の布施の報いが期待されるべきであり、破戒の凡夫に施しを与えて千倍の布施の報いが期待されるべきである」と説かれている通りである。これに対して人間界の境遇においては、楽が多大であるために福業の機会が容易に得られ、条件の結合も概して得やすいためである。そしてそこで生じる苦もまた、特に福業の強力な条件(親依縁)となる。「苦を拠り所として信仰が生じる」からである。鉄塊から小刀が作られるとき、それを専ら火で熱すること、あるいは水で濡らすことだけでは切断能力の卓越した条件とはならず、熱した上で適切な配合によって水で冷ますことが切断能力の卓越した条件となるように、衆生の相続において専ら苦を具えていることや苦が多大であること、あるいは専ら楽を具えていることや楽が多大であることは、福業の能力にとっての卓越した条件とはならない。しかし適切な配合において苦の熱惱があり、微細な楽の増大があるときに得られた拠り所(親依縁)ある福業は、能力あるものとして生じる。そうであるならば、生じる福業は偉大な輝きと偉大な威力を持ち、敵対する煩悩を断ち切る能力を持つ。それゆえ人間の境遇こそが福業の卓越した条件である。それゆえ「そこでは容易ではなく、人間となった者にこそ容易である」と述べたのである。
Atha ‘‘manussabhūtassā’’ti ettha ko vacanattho? ‘‘Manassa ussannatāya manussāti, sūrabhāvasatimantatābrahmacariyayogyatādiguṇavasena upacitamanakā ukkaṭṭhaguṇacittāti attho. Ke pana te? Jambudīpavāsino sattavisesā. Tenāha bhagavā –
さて、「人間となった者に(manussabhūtassa)」における言葉の意味(語源)は何か。「心が優れている(高揚している)ことから人間(manussa)である」と言われ、勇猛さ、正念、梵行への適性などの徳によって高められた心を持ち、卓越した徳ある心を持つ者たち、という意味である。それは誰かといえば、閻浮提(インド)に住む特別な衆生たちである。それゆえ世尊は次のように説かれた。
‘Tīhi, bhikkhave, ṭhānehi jambudīpakā manussā uttarakuruke ca manusse adhiggaṇhanti deve ca tāvatiṃse. Katamehi tīhi? Sūrā satimanto idha brahmacariyavāso’ti (a. ni. 9.21; kathā. 271).
「比丘たちよ、閻浮提の人間たちは三つの事柄において、北倶盧洲の人間たちおよび三十三天の神々をも凌駕している。いかなる三つか。勇猛であること、正念あること、ここで清浄行(梵行)が営まれることである」と。
Tathā hi buddhā bhagavanto, paccekabuddhā, aggasāvakā, mahāsāvakā, cakkavattino, aññe ca mahānubhāvā sattā tattheva uppajjanti. Te hi samānarūpāditāya pana saddhiṃ parittadīpavāsīhi itaramahādīpavāsinopi manussā tveva paññāyiṃsū’’ti keci. Apare pana bhaṇanti ‘‘lobhādīhi, alobhādīhi ca sahitassa manassa ussannatāya manussā. Ye hi sattā manussajātikā, tesu visesato lobhādayo, alobhādayo ca ussannā, te lobhādiussannatāya apāyamaggaṃ, alobhādiussannatāya sugatimaggaṃ, nibbānagāmimaggañca paripūrenti, tasmā lobhādīhi, alobhādīhi ca sahitassa manassa ussannatāya parittadīpavāsīhi saddhiṃ catudīpavāsino sattavisesā manussāti vuccantī’’ti. Lokiyā pana ‘‘manuno apaccabhāvena **manussā’’**ti vadanti. Manu nāma paṭhamakappiko lokamariyādāya ādibhūto sattānaṃ hitāhitavidhāyako kattabbākattabbatāsu niyojanatāvasena pituṭṭhāniyo, yo sāsane ‘‘mahāsammato’’ti vuccati amhākaṃ mahābodhisatto, paccakkhato, paramparā ca tassa ovādānusāsaniyaṃ ṭhitā sattā puttasadisatāya ‘‘manussā, mānusā’’ti ca vuccanti. Tato eva hi te ‘‘mānavā, manujā’’ti ca voharīyanti. Manussabhūtassāti manussesu bhūtassa jātassa, manussabhāvaṃ vā pattassāti attho. Ayañca nayo lokiyamahājanassa vasena vutto. Mahābodhisattānaṃ pana santānassa mahābhinīhārato paṭṭhāya kusaladhammapaṭipattiyaṃ sammadeva abhisaṅkhatattā tesaṃ sugatiyaṃ, attano uppajjanaduggatiyañca nibbattānaṃ kusalakammaṃ garutaramevāti dassetuṃ **‘‘akāraṇaṃ vā eta’’**ntiādi vuttaṃ.
実に諸仏・世尊、辟支仏、上首弟子、大弟子、転輪聖王、およびその他の大威力ある衆生たちはまさにそこに生じる。彼らは姿形などが似通っていることから、小島に住む者たちと共に他の大洲に住む者たちも単に「人間」として知られているのだ、とある人々は言う。また他の人々は「貪り等、あるいは無貪等に伴う心が際立っていることから人間である。実に人間という種族である衆生たちにおいて、特に貪り等や無貪等が際立っており、彼らは貪り等の増盛によって悪趣への道を、無貪等の増盛によって善趣への道や涅槃へと至る道を全うする。それゆえ貪り等や無貪等に伴う心が際立っていることから、小島に住む者たちと共に四大洲に住む特別な衆生たちが人間と呼ばれるのである」と語る。しかし世俗の者たちは「マヌの子孫であることから人間(manussa)である」と語る。マヌとは、最初の劫において世間の秩序の創始者となり、衆生の利害を定め、なすべきこととなすべからざることに従わせることから父の立場にある者であり、仏教において「マハーサンマタ(大合意王、大恭高王)」と呼ばれる我らの大菩薩のことである。直接に、あるいは代々その教誡と訓戒の中に留まった衆生たちは、子に似ていることから「マヌッサ(manussa)」あるいは「マーヌサ(mānusa)」と呼ばれる。まさにそのことから彼らは「マーナヴァ(māṇava)」や「マヌジャ(manuja)」とも呼ばれる。「人間となった者に(manussabhūtassa)」とは、人間の中に生じた者、あるいは人間の境遇に達した者に、という意味である。そしてこの理趣は世俗の一般衆生に関して説かれたものである。しかし大菩薩たちの相続(心身)においては、偉大なる発願の時から善法の修習において正しく整えられているため、彼らが善処に、あるいは自らが生じた悪趣において成し遂げた善業は極めて重厚なものであることを示すために「あるいはこれは理由にならない」等を述べたのである。
Evarūpe attabhāveti hatthiādiattabhāve. Ṭhitena katakammaṃ na sakkā sukhena dīpetuṃ loke appaññātarūpattā. Sukhena dīpetuṃ ‘‘asukasmiṃ dese asukasmiṃ nagare asuko nāma rājā, brāhmaṇo hutvā imaṃ kusalakammaṃ akāsī’’ti evaṃ suviññāpayabhāvato. Thiraggahaṇoti asithilaggāhī thāmappattaggahaṇo. Niccalaggahaṇoti acañcalaggāhī tattha kenacipi asaṃhāriyo. Paṭikuṭatīti saṃkuṭati, jigucchanavasena vivaṭṭati vā. Pasāriyatīti vitthataṃ hoti vepullaṃ pāpuṇāti.
「このような個体(身心)において(Evarūpe attabhāve)」とは、象などの個体において。「留まる者によってなされた業は、世間においてあまり知られていない姿形であるために容易には示し得ない。『某国の某都市において某という名の王やバラモンとなってこの善業をなした』というように容易に理解させることができないからである。「堅固に把握する(Thiraggahaṇo)」とは、緩みなく把握する者、力強さに達した把握を持つ者。「不動の把握(Niccalaggahaṇo)」とは、揺らぎなき把握を持つ者、そこにおいて何ものによっても動かされない者。「縮こまる(Paṭikuṭati)」とは、収縮する、あるいは嫌悪によって退くことである。「広げられる(Pasāriyati)」とは、広大になり、増大に達することである。
Taveso mahāsamuddasadisoti eso udakogho teva mahāsamuddasadiso.
「あなたのそれは大海のごとし」とは、その水の奔流はまさに大海のごとし、ということである。
Dīyati etenāti dānaṃ, pariccāgacetanā. Diyyanavasenāti deyyadhammassa pariyattaṃ katvā pariccajanavasena dānaṃ. Saṃvibhāgakaraṇavasenāti tasseva attanā saddhiṃ parassa saṃvibhajanavasena saṃvibhāgo, tathāpavattā cetanā. Sīlasamādāneti sīlassa sammadeva ādāne, gahaṇe pavattaneti attho. Taṃ pavattikālena dassento **‘‘pūraṇakāle’’**ti āha. Mātu hito matteyyo, yassa pana dhammassa vasena so ‘‘matteyyo’’ti vuccati, so matteyyatāti āha **‘‘mātu kātabbavatte’’**ti. Eseva nayo **‘‘petteyyatāyā’’**tiādīsu. Aññataraññataresūti aññamaññavisiṭṭhesu aññesu, te pana kusalabhāvena vuttā kusalāti āha **‘‘evarūpesū’’**ti. Adhikusalesūti abhivisiṭṭhesu kusalesu, sā pana abhivisiṭṭhatā upādāyupādāya hoti. Yaṃ panettha ukkaṃsagataṃ adhikusalaṃ, tadukkaṃsanayena idhādhippetanti taṃ dassetuṃ **‘‘atthi kusalā, atthi adhikusalā’’**tiādi vuttaṃ. Nanu paññāpāramisaṅgahañāṇasambhārabhūtā kusalā dhammā nippariyāyena sabbaññutaññāṇapaṭilābhapaccayā kusalā nāma, ime pana mahāpurisalakkhaṇanibbattakā puññasambhārabhūtā kasmā tathā vuttāti? Sabbesampi mahābodhisattasantānagatānaṃ pāramidhammānaṃ sabbaññutaññāṇapaṭilābhapaccayabhāvato. Mahābhinīhārato paṭṭhāya hi mahāpuriso yaṃ kiñci puññaṃ karoti, sabbaṃ taṃ sammāsambodhisamadhigamāyeva pariṇāmeti. Tathā hi sasambhārābyāso, dīghakālābyāso, nirantarābyāso, sakkaccābyāsoti cattāro abyāsā caturadhiṭṭhānaparipūritasambandhā anupubbena mahābodhiṭṭhānā sampajjanti.
「これによって与えられる」ゆえに布施(dāna)であり、喜捨の思(意志)である。「与えることによって」とは、施すべき物を整えて放棄することによる布施である。「分かち与えることによって」とは、その施物を自らと共に他者に分かち与えることによる配分であり、そのように生起した思(意志)である。「戒を受持することにおいて」とは、戒を正しく受領し、把握して実践することにおいて、という意味である。それを実践の時によって示して「成就の時に」と述べた。母にとって有益な者が孝子(matteyya)であり、ある法に基づいて彼が「孝子」と呼ばれる、その法が孝順(matteyyatā)であることから「母に対してなすべき務めにおいて」と述べた。「父への孝順において」等においても同様の理趣である。「それぞれの(Aññataraññataresu)」とは、互いに際立った他の者たちにおいてであり、それらは善であることから善と説かれたので「このようなものにおいて」と述べた。「さらに優れた善(Adhikusalesu)」とは、際立って優れた善においてであり、その卓越性は比較によって成り立つ。ここで最上となった卓越した善が、その最上の理趣によってここで意図されていることを示すために「善があり、さらに優れた善がある」等を述べた。智の資糧となり慧波羅蜜に包摂される善法こそが無条件に一切知見の智を獲得する縁となる善法であり、これらの大人相を生じさせる功徳の資糧となる法が、なぜそのように説かれたのか。大菩薩たちの相続に属するすべての波羅蜜法は、一切知見の智を獲得する縁となる性質を持つからである。実に偉大なる発願の時から、大人はなすいかなる功徳であっても、そのすべてを無上正等覚の獲得のためにのみ回向する。実に、資糧の修習、長期の修習、不断の修習、恭敬の修習という四つの修習が、四つの決意によって満たされて結びつき、順次、大いなる覚りの境位として成就するのである。
Sakimpīti pi-saddena anekavārampi kataṃ vijātiyena antaritaṃ saṅgaṇhāti. Abhiṇhakaraṇenāti bahulīkārena. Upacitanti uparūpari vaḍḍhitaṃ. Piṇḍīkatanti piṇḍaso kataṃ. Rāsīkatanti rāsibhāvena kataṃ. Anekakkhattuñhi pavattiyamānaṃ kusalakammaṃ santāne tathāladdhaparibhāvanaṃ piṇḍībhūtaṃ viya, rāsībhūtaṃ viya ca hoti. Vipākaṃ pati saṃhaccakāribhāvattā cakkavāḷaṃ atisambādhaṃ bhavaggaṃ atinīcaṃ, sace pane taṃ rūpaṃ siyāti adhippāyo. Vipulattāti mahantattā. Yasmā pana taṃ kammaṃ mettākaruṇāsatisampajaññāhi pariggahitatāya durasamussāritaṃ pamāṇakaraṇadhammanti pamāṇarahitatāya ‘‘appamāṇa’’nti vattabbataṃ arahati, tasmā **‘‘appamāṇattā’’**ti vuttaṃ.
「一度でも(Sakiṃpi)」における「〜でも(pi)」という語によって、異種の(不善の)心に遮られながらも何度もなされた行為を包摂する。「頻繁になすことによって(Abhiṇhakaraṇena)」とは、多修することによって。「蓄積された(Upacitaṃ)」とは、次々と増大させられた。「塊とされた(Piṇḍīkataṃ)」とは、ひとかたまりにされた。「堆積された(Rāsīkataṃ)」とは、積み重ねられた状態にされた。実に何度も生起させられる善業は、相続においてそのように得られた熏習によって、塊となったかのようであり、堆積となったかのようでもある。異熟(果報)に対して共に結集して働く性質があることから、もし仮にそれが形体を持つならば、世界輪(宇宙)は極めて狭く、有頂天は極めて低すぎるであろう、という意味である。「広大であることから(Vipulattā)」とは、広大であることによる。そしてその業は、慈・悲・念・正知によって把握されていることから、限界を定める法(煩悩や悪条件)を遠く退けているため、限界がないことから「無量」と呼ばれるに値するので、「無量であることから」と述べたのである。
Adhibhavatīti phalassa uḷārabhāvena abhibhuyya tiṭṭhati. Atthato paṇītapaṇītānaṃ bhogānaṃ paṭilābho evāti āha **‘‘atirekaṃ labhatī’’**ti. Adhigacchatīti vindati, nibbattamānova tena samannāgato hotīti attho. Ekadesena aphusitvā sabbappadesehi phusanato sabbappadesehi phusantiyo etesaṃ pādatalānaṃ santīti **‘‘sabbāvantehi pādatalehī’’**ti vuttaṃ. Yathā nikkhipane sabbe pādatalappadesā saṃhaccakārino aninnatāya samabhāvato, evaṃ uddharaṇepīti vuttaṃ **‘‘samaṃ phusati, samaṃ uddharatī’’**ti. Idāni imassa mahāpurisalakkhaṇassa samadhigamena laddhabbanissandaphalavibhāvanamukhena ānubhāvaṃ vibhāvetuṃ **‘‘sacepi hī’’**tiādi vuttaṃ. Tattha narakanti āvāṭaṃ. Anto pavisati samabhāvāpattiyā. ‘‘Cakkalakkhaṇena **patiṭṭhātabbaṭṭhāna’’**nti idaṃ yaṃ bhūmippadesaṃ pādatalaṃ phusati, tattha cakkalakkhaṇampi phusanavasena patiṭṭhātīti katvā vuttaṃ. Tassa pana tathā patiṭṭhānaṃ suppatiṭṭhitapādatāya evāti suppatiṭṭhitapādatāya ānubhāvakittane ‘‘lakkhaṇantarānayanaṃ kimatthiya’’nti na cintetabbaṃ. Sīlatejenāti sīlappabhāvena. Puññatejenāti kusalappabhāvena. Dhammatejenāti ñāṇappabhāvena. Tīhipi padehi bhagavato buddhabhūtassa dhammā gahitā, **‘‘dasannaṃ pāramīna’’**nti iminā buddhakaradhammā gahitā.
「凌駕する(Adhibhavati)」とは、果報の広大さによって凌駕して留まるということである。実質的には極めて勝れた諸々の富の獲得に他ならないことから、「余計に得る」と述べた。「到達する(Adhigacchati)」とは、得る、生まれながらにしてそれを具えた者となる、という意味である。「一部分で触れるのではなく、すべての部分で触れることから、すべての部分で触れる足裏を彼らは持っている」ことから、「すべての部分を有する足裏によって」と述べた。下ろすときにすべての足裏の部位が平坦であるために同時に触れるのと同様に、上げるときもそうであることから、「等しく触れ、等しく上げる」と述べた。今やこの大人相の獲得によって得られるべき等流果(結果の恩恵)を明らかにする形で威力を解明するために、「もし…であっても」等を述べた。そこでの「落とし穴(Narakaṃ)」とは、穴のことである。平坦な状態になることによって内側へ(平らに)入る。「千輻輪相によって安立すべき場所」とは、足裏が触れるその土地の場所に、千輻輪相もまた触れることによって安立する、ということから述べられた。しかしそれがそのように安立することは、まさに足裏平満相によるものであるから、足裏平満相の威力を称えるにあたって「なぜ他の相を持ち出すのか」と疑ってはならない。「戒の威光によって」とは、戒の威力によって。「功徳の威光によって」とは、善業の威力によって。「法の威光によって」とは、智の威力によって。これら三つの句によって仏となった世尊の法が把握され、「十波羅蜜の」という語によって仏をつくる法(菩薩の修行)が把握される。
202. Mahāsamuddova sīmā sabbabhūmissarabhāvato. **‘‘Akhilamanimittamakaṇṭaka’’**nti tīhipi padehi theyyābhāvova vuttoti āha **‘‘niccora’’**ntiādi. Kharasamphassaṭṭhenāti ghaṭṭanena dukkhasamphassabhāvena khilāti. Upaddavapaccayaṭṭhenāti anatthahetutāya nimittāti. **‘‘Akhila’’**ntiādinā ekacārīhi corābhāvo vutto, **‘‘nirabbuda’’**nti iminā pana gaṇabandhavasena vicaraṇacorābhāvo vuttoti dassetuṃ **‘‘gumbaṃ gumbaṃ hutvā’’**tiādi vuttaṃ. Avikkhambhanīyoti na vibandhanīyo kenaci appaṭibāhanīyo ṭhānato anikkaḍḍhanīyo. Paṭipakkhaṃ aniṭṭhaṃ atthetīti paccatthiko, etena pākaṭabhāvena virodhaṃ akaronto veripuggalo vutto. Paṭiviruddho amitto paccāmitto, etena pākaṭabhāvena virodhaṃ karonto veripuggalo vutto. Vikkhambhetuṃ nāsakkhiṃsu, aññadatthu sayameva vighātabyasanaṃ pāpuṇiṃsu ceva sāvakattañca pavedesuṃ.
202. 全ての土地の主であることから、大海こそが境界である。「敵なく、兆候なく、刺なき(Akhilamanimittamakaṇṭakaṃ)」という三つの句によって、盗賊の不在のみが説かれていることから、「盗賊なき」等を述べた。「荒地(硬い感触)の意味によって」とは、衝突による苦の感触であることから荒地(khila)である。「災難の条件の意味によって」とは、不利益の原因であることから兆候(nimitta)である。「敵なき」等によって単独で行動する盗賊の不在が説かれ、「平穏な(nirabbudaṃ)」という語によって集団を組んで徘徊する盗賊の不在が説かれていることを示すために、「徒党を組んで」等を述べた。「挫かれない(Avikkhambhanīyo)」とは、妨げられない、何ものによっても阻まれない、その地位から引きずり降ろされない。「敵対する不快なものを意図する」ゆえに仇敵(paccatthika)であり、これによって公然と敵対しない怨敵が説かれる。敵対する不倶戴天の者が仇敵(paccāmitta)であり、これによって公然と敵対する怨敵が説かれる。彼らは挫くことができず、かえって自ら挫折と破滅に至り、弟子(帰依者)であることを告白したのである。
**‘‘Kamma’’**ntiādīsu kammaṃ nāma buddhabhāvaṃ uddissa katūpacito lakkhaṇasaṃvattaniyo puññasambhāro. Tenāha **‘‘satasahassakappādhikānī’’**tiādi. Kammasarikkhakaṃ nāma tasseva puññasambhārassa karaṇakāle kenaci akampanīyassa daḷhāvatthitabhāvassa anucchaviko suppatiṭṭhitapādatāsaṅkhātassa lakkhaṇassa parehi avikkhambhanīyatāya ñāpakanimittabhāvo, svāyaṃ nimittabhāvo tasseva lakkhaṇassāti aṭṭhakathāyaṃ **‘‘kammasarikkhakaṃ nāma…pe… mahāpurisalakkhaṇa’’**nti vuttaṃ. Ṭhānagamanesu pādānaṃ daḷhāvatthitabhāvo lakkhaṇaṃ nāma. Pādānaṃ bhūmiyaṃ samaṃ nikkhipanaṃ, pādatalānaṃ sabbabhāgehi phusanaṃ, samameva uddharaṇaṃ, tasmā suṭṭhu samaṃ sabbabhāgehi patiṭṭhitā pādā etassāti suppatiṭṭhitapādo, tassa bhāvo suppatiṭṭhitapādatāti vuccati lakkhaṇaṃ. Suṭṭhu samaṃ bhūmiyā phusaneneva hi nesaṃ tattha daḷhāvatthitabhāvo siddho, yaṃ ‘‘kammasarikkhaka’’nti vuttaṃ. Lakkhaṇānisaṃsoti lakkhaṇapaṭilābhassa udrayo, lakkhaṇasaṃvattaniyassa kammassa ānisaṃsaphalanti attho. Nissandaphalaṃ pana heṭṭhā bhāvitameva.
「業(Kammaṃ)」等の語において、「業」とは仏たる境地を目指して作られ蓄積された、大人相をもたらす功徳の資糧のことである。それゆえ「十万劫に加えて」等を述べた。「業の類似(Kammasarikkhakaṃ)」とは、その功徳の資糧をなす時に、何ものにも動揺させられない堅固な確立状態に相応しい、足裏平満相と呼ばれる相の、他者によって挫かれないことの証示となる徴候のことであり、この徴候という性質はその相そのもののものであることから、義注において「業の類似とは…(中略)…大人相である」と述べられた。立つことや歩むことにおける足の堅固な確立状態が相と呼ばれる。足が大地に等しく下ろされ、足裏のすべての部分で触れ、等しく上げられることから、見事に等しくすべての部分で安立した足を持つ者が「足裏平満者(suppatiṭṭhitapādo)」であり、その状態が「足裏平満相」と呼ばれる相である。大地に実に見事に等しく触れることによってこそ、彼らのそこでの堅固な確立状態が成就するのであり、それが「業の類似」と説かれたのである。「相の功徳(Lakkhaṇānisaṃso)」とは、相の獲得の果報であり、相をもたらす業の恩恵の果報という意味である。等流果(直接の結果)については、すでに先で説かれた通りである。
203. Kammādibhedeti kammakammasarikkhakalakkhaṇa lakkhaṇānisaṃsavisaññite vibhāge. Gāthābandhaṃ sandhāya vuttaṃ, attho pana apubbaṃ natthīti adhippāyo. Porāṇakattherāti aṭṭhakathācariyā. Vaṇṇanāgāthāti thomanāgāthā vuttamevatthaṃ gahetvā thomanāvasena pavattattā. Aparabhāge therā nāma pāḷiṃ, aṭṭhakathañca potthakāropanavasena samāgatā mahātherā, ye sāṭṭhakathaṃ piṭakattayaṃ potthakāruḷhaṃ katvā saddhammaṃ addhaniyaciraṭṭhitikaṃ akaṃsu. Ekapadikoti **‘‘daḷhasamādāno ahosī’’**tiādipāṭhe ekekapadagāhī. Atthuddhāroti tadatthassa sukhaggahaṇatthaṃ gāthābandhavasena uddharaṇato atthuddhārabhūto, tayidaṃ pāḷiyaṃ āgatapadāni gahetvā gāthābandhavasena tadatthavicāraṇabhāvadassanaṃ, na pana dhammabhaṇḍāgārikena ṭhapitabhāvapaṭikkhipananti daṭṭhabbaṃ.
203. 「業などの区分において」とは、業、業の類似、相、相の功徳と呼ばれる区分においてである。詩節の結合(偈頌)を指して説かれたのであり、意味としては新しいものはない、というのが趣旨である。「古の長老たち」とは、義注の阿闍梨たちのことである。「賛述の詩節(Vaṇṇanāgāthā)」とは、すでに説かれた意味を取り上げて称賛することによって生起したものであるから、称賛の詩節である。「後代の長老たち」とは、聖典文と義注を書写・結集するために集まった大長老たちのことであり、彼らは義注を伴う三蔵を書物に記録して、正法を長く持続するものとした。「一節ずつの(Ekapadiko)」とは、「堅固に受持した」などの本文において一節ずつを取り上げる者である。「意味の抽出(Atthuddhāro)」とは、その意味を容易に理解するために詩節の形式によって抽出されたことから、意味の抽出となったものであり、これは聖典に現れる語句を取り上げて詩節の形式によってその意味を考察したものであることを示すのであって、法蔵を預かる者(阿難など)によって置かれたものであることを否定するものではない、と理解されるべきである。
Kusaladhammānaṃ vacīsaccassa bahukārataṃ, tappaṭipakkhassa ca musāvādassa mahāsāvajjataṃ dassetuṃ anantarameva kusalakammapathadhamme vadantopi tato vacīsaccaṃ nīharitvā katheti sacceti vā sannidhāneva ‘‘dhamme’’ti vuccamānā kusalakammapathadhammā eva yuttāti vuttaṃ **‘‘dhammeti dasakusalakammapathadhamme’’**ti. Gobalībaddañāyena vā ettha attho veditabbo. Indriyadamaneti indriyasaṃvare. Kusalakammapathagghaṇenassa vārittasīlameva gahitanti itarampi saṅgahetvā dassetuṃ saṃyamasseva gahaṇaṃ katanti **‘‘saṃyameti sīlasaṃyame’’**ti vuttaṃ. Suci vuccati puggalo yassa dhammassa vasena, taṃ soceyyaṃ, kāyasucaritādi. Etasseva hi vibhāgassa dassanatthaṃ vuttampi cetaṃ puna vuttaṃ, manosoceyyaggahaṇena vā jhānādiuttarimanussadhammānampi saṅgaṇhanatthaṃ soceyyaggahaṇaṃ. Ālayabhūtanti samathavipassanānaṃ adhiṭṭhānabhūtaṃ. Uposathakammanti uposathadivase samādiyitvā samācaritabbaṃ puññakammaṃ uposatho sahacaraṇañāyena. ‘‘Avihiṃsāyāti sattānaṃ aviheṭhanāyā’’ti vadanti, taṃ pana sīlaggahaṇeneva gahitaṃ. Tasmā avihiṃsāyāti karuṇāyāti attho. Avihiṃsāggahaṇeneva cettha appamaññāsāmaññena cattāropi brahmavihārā upacārāvatthā gahitā lakkhaṇahāranayena. Sakalanti anavasesaṃ paripuṇṇaṃ. Evamettha kāmāvacarattabhāvapariyāpannattā lakkhaṇassa taṃsaṃvattanikakāmāvacarakusaladhammā eva pāramitāsaṅgahapuññasambhārabhūtakāyasucaritādīhi dvādasadhā vibhattā eva. Gāthāyaṃ ‘‘sacce’’tiādinā dasadhā saṅgayha dassitā. Esa nayo sesalakkhaṇepi.
善法の中でも真実の言葉(口の真実)が多大な恩恵をもたらすこと、そしてその反対である虚妄語が大きな過失であることを示すために、直後に十善業道の法を説きながらも、そこから真実の言葉を取り出して説いた。あるいは「真実において」とは、まさにその場において「法において」と説かれる十善業道の法こそが相応しいことから、「法においてとは、十善業道の法においてである」と述べた。あるいは「牛と牡牛の論理(一般名と特殊名の併用)」によってここでの意味は理解されるべきである。「諸根の制御において」とは、根の防護においてである。十善業道を挙げることによって遮止の戒(悪を止める戒)のみが把握されたため、他方(作持の戒)をも包摂して示すために「制御」そのものを挙げたのだとして、「制御においてとは、戒の制御においてである」と述べた。ある法によって人が「清浄」と呼ばれる、その法が清浄性であり、身の善行などのことである。この区分を示すために、説かれたことであっても重ねて説かれたのである。あるいは意の清浄性を挙げることによって、禅定などの上位の人間の法(過人法)をも包摂するために「清浄性」を挙げたのである。「拠り所となった(Ālayabhūtaṃ)」とは、止(サマタ)と観(ヴィパッサナー)の基礎となったということである。「布薩の行い」とは、布薩の日に受持して実践されるべき功徳の行いであり、付随の論理によって布薩と呼ばれる。「不害によってとは、衆生を害さないことによってである」と語られるが、それは戒を挙げることによって既に把握されている。それゆえ「不害によって」とは、慈悲によってという意味である。また不害を挙げることによって、無量(四無量心)の共通性から四つの梵住の近行の段階もすべて把握されたと、相を導く理趣によって理解される。「完全な(Sakalaṃ)」とは、余すところなく満ち足りたということである。このようにここでは、欲界の個体に属する相であることから、それをもたらす欲界の善法のみが、波羅蜜に包摂される功徳の資糧となった身の善行などによって十二種類に区分されたのである。偈頌においては「真実において」等によって十種に包摂して示されている。この理趣は残りの相においても同様である。
Aṃnubhīti gāthāsukhatthaṃ akāraṃ sānunāsikaṃ katvā vuttaṃ. Byañjanāni lakkhaṇāni ācikkhantīti veyañjanikā. Vikkhambhetabbanti paṭibāhitabbaṃ tassāti mahāpurisassa, tassa vā mahāpurisalakkhaṇassa. Lakkhaṇasīsena cettha taṃsaṃvattanikapuññasambhāro vuccati.
「アンヌビー(Aṃnubhī)」とは、偈頌の韻律を整えるために「ア(a)」の音を鼻音化して述べたものである。姿形や相を説き明かす者たちが「相占い師(veyañjanikā)」である。「挫かれるべき(Vikkhambhetabbaṃ)」とは、阻まれるべきということであり、「彼の」とは大人の、あるいはその大人相のことである。そしてここでは相を主として挙げることによって、それをもたらす功徳の資糧が説かれている。
Pādatalacakkalakkhaṇavaṇṇanā
足裏千輻輪相の解説
204. Bhayaṃ nāma bhīti, taṃ pana ubbijjanākārena, uttasanākārena ca pavattiyā duvidhanti āha **‘‘ubbegabhayañceva uttāsabhayañcā’’**ti. Tadubhayampi bhayaṃ vibhāgena dassetuṃ **‘‘tatthā’’**tiādi vuttaṃ. Apanūditāti yathā corādayo viluppanabandhanādīni parassa na karonti, katañca paccāharaṇādinā paṭipākatikaṃ hoti, evaṃ yathā ca caṇḍahatthiādayo dūrato parivajjitā honti, aparivajjite tassa yathā ṭhāne ṭhitehi abhibhavo na hoti, evaṃ apanūditā. Ativāhetīti atikkāmeti. Taṃ ṭhānanti taṃ sāsaṅkaṭṭhānaṃ. Asakkontānanti upayogatthe sāmivacanaṃ, asakkonteti attho. Asakkontānanti vā anādare sāmivacanaṃ. Saha parivārenāti saparivāraṃ. Tattha kiñci deyyadhammaṃ dento yadā tassa parivārabhāvena aññampi deyyadhammaṃ deti, evaṃ tassa taṃ dānamayaṃ puññaṃ saparivāraṃ nāma hoti.
204. 「恐怖(Bhayaṃ)」とは恐れのことであり、それは動揺の様態によるものと、戦慄の様態によるものの二種があることから、「動揺の恐怖と戦慄の恐怖」と述べた。その双方の恐怖を区分して示すために「そこにおいて」等を述べた。「追い払われた(Apanūditā)」とは、盗賊などが他者への略奪や監禁などを行わず、行われたとしても奪還などによって元通りになるように、また凶暴な象などが遠くへ避けられ、避けられない場合でもそこに留まる者たちによって圧倒されることがないように、そのように追い払われたということである。「通過させる(Ativāheti)」とは、越えさせるということである。「その場所を」とは、その危険な場所を。「能わざる者たちの(Asakkontānaṃ)」とは、対格の意味における属格の言葉であり、能わざる者を、という意味である。あるいは「能わざる者たちをよそにして」という軽蔑(無関係)における属格の言葉である。「従者を伴って(Saha parivārena)」とは、従者を伴う(付随物を伴う)ということである。そこである施物を施すとき、その付随物として他の施物をも与えるならば、このように彼のその施からなる功徳は「従者を伴うもの」と呼ばれる。
Tamatthaṃ vitthārena dassetuṃ **‘‘tattha anna’’**ntiādi vuttaṃ. Tattha yathā deyyadhammaṃ tassa annadānassa parivāro, evaṃ tassa sakkaccakaraṇaṃ pīti dassento **‘‘atha kho’’**tiādimāha. Yāgubhattaṃ datvāva adāsīti yojanā. Esa nayo ito paratopi. Suttaṃ vaṭṭetīti cīvarassa sibbanasuttakaṃ duvaṭṭativaṭṭādivasena vaṭṭitaṃ akāsi. Rajananti alliādirajanavatthuṃ. Paṇḍupalāsanti rajanupagameva paṇḍuvaṇṇaṃ palāsaṃ.
その意味を詳細に示すために「そこにおいて食物を」等を述べた。そこにおいて、施物がその食物の施しの付随物であるように、それを恭敬して行うこともまたそうであることを示して、「実にそれだけでなく」等を述べた。「粥や飯を与えてから与えた」と結びつける。これ以降の箇所においてもこの理趣である。「糸を撚る(Suttaṃ vaṭṭeti)」とは、衣を縫うための糸を二重・三重などに撚り合わせた。「染料(Rajanaṃ)」とは、木皮などの染料の材料。「黄葉(Paṇḍupalāsaṃ)」とは、染色に適した黄色い葉のことである。
Heṭṭhimānīti annādīni cattāri. Nisadaggahaṇeneva nisadapotopi gahito. Cīnapiṭṭhaṃ sindhurakacuṇṇaṃ. Kojavanti uddalomiekantalomiādikojavattharaṇa. Suvibhattaantarānīti suṭṭhu vibhattaantarāni, etena cakkāvayavaṭṭhānānaṃ suparicchinnataṃ dasseti.
「下位の四つ(Heṭṭhimāni)」とは、食物などの四つのことである。すり鉢を挙げることによってすりこぎも把握される。「支那粉(Cīnapiṭṭhaṃ)」とは、辰砂の粉のことである。「毛織の敷物(Kojavaṃ)」とは、両面に毛のあるものや片面に毛のある敷物のことである。「よく区分された間隔を持つ(Suvibhattaantarāni)」とは、美しく区分された間隔を持つということであり、これによって車輪の各部分の配置が見事に区切られていることを示している。
Laddhābhisekā khattiyā attano vijite visavitāya brāhmaṇādike catūhi saṅgahavatthūhi rañjetuṃ sakkonti, na itarāti āha **‘‘rājānoti abhisittā’’**ti. Rājato yathāladdhagāmanigamādiṃ issaravatāya bhuñjantīti bhojakā, tādiso bhogo etesaṃ atthi, tattha vā niyuttāti bhogikā, te eva **‘‘bhogiyā’’**ti vuttā. Saparivāraṃ dānanti vuttanayena saparivāradānaṃ. Jānātūti ‘‘sadevako loko jānātū’’ti iminā viya adhippāyena nibbattaṃ cakkalakkhaṇanti lakkhaṇasseva kammasarikkhatā dassitā. Evaṃ sati tikameva siyā, na catukkaṃ, tasmā cakkalakkhaṇassa mahāparivāratāya ñāpakanimittabhāvo kammasarikkhakaṃ nāma. Tenevāha ‘‘saparivāraṃ…pe… jānātūti nibbatta’’nti. ‘‘Dīghāyukatāya taṃ nimitta’’nti (dī. ni. 3.207) ca vakkhati, tathā ‘‘taṃ lakkhaṇaṃ bhavati tadatthajotaka’’nti (dī. ni. 3.221) ca. Nissandaphalaṃ pana paṭipakkhābhibhavo daṭṭhabbo. Tenevāha gāthāyaṃ ‘‘sattumaddano’’ti.
灌頂を受けた刹帝利(王族)は自らの領土において権能を持つことから、バラモンたちを四摂事によって喜ばせることができるが、他の者はそうではないことから、「王たちとは、灌頂を受けた者たちである」と述べた。王から賜った村や町などを領主として享受する者たちが「享受者(bhojakā)」であり、そのような領地(bhoga)を持つ者たち、あるいはそこに任命された者たちが「領主(bhogikā)」であり、彼らこそが「地方領主たち(bhogiyā)」と説かれている。「従者を伴う施し」とは、説かれた理趣による従者を伴う施しのことである。「知るがよい(Jānātu)」とは、「神々を含む世間が知るがよい」というこのような意図によって千輻輪相が生じたかのように、相そのものの業との類似が示されている。そうであるならば(業・相・果の)三つになってしまい四つ(業・類似・相・功徳)にはならない。それゆえ、千輻輪相が大いなる眷属を持つことの証示となる徴候であることが「業の類似」と呼ばれる。それゆえ「従者を伴う…(中略)…知るがよいとして生じた」と述べたのである。また「長寿であることのための徴候である」と後に説かれる通りであり、同様に「その相は、その意味を照らし出すものとなる」とも説かれる通りである。等流果としては、敵対者を圧倒することであると理解されるべきである。それゆえ偈頌において「敵を打ち砕く者」と述べたのである。
205. Etanti etaṃ gāthābandhabhūtaṃ vacanaṃ, taṃ panatthato gāthā evāti āha **‘‘imā tadatthaparidīpanā gāthā vuccantī’’**ti.
205. 「これらを(Etaṃ)」とは、この詩節の形となった言葉のことであり、それは実質的には偈頌に他ならないことから、「これらの、その意味を明らかにする偈頌が説かれる」と述べたのである。
Puratthāti vā ‘‘pure’’ti vuttatopi pubbe. Yasmā mahāpuriso na atītāya ekajātiyaṃ, nāpi katipayajātīsu, atha kho purimapurimatarāsu tathāva paṭipanno, tasmā tattha paṭipattiṃ dassetuṃ ‘‘pure puratthā’’ti vuttaṃ. Imissāpi jātiyaṃ atītakālavasena ‘‘purepuratthā’’ti vattuṃ labbhāti tato visesanatthaṃ ‘‘purimāsu jātīsū’’ti vuttanti āha **‘‘imissā’’**tiādi. Keci ‘‘imissā jātiyā pubbe tusitadevaloke katakammapaṭikkhepavacana’’nti vadanti, taṃ tesaṃ matimattaṃ tattha tādisassa katakammassa abhāvato. Apanūdanoti apanetā. Adhimuttoti yuttapayutto.
「東(puratthā)」とは、あるいは「以前に(pure)」と言われたものよりも前のことである。大士(菩薩)は過去の一生においてのみならず、数生においてでもなく、実にそれ以前の生々世々においてそのように実践されたので、そこでの実践を示すために「以前に、古(いにしえ)に(pure puratthā)」と述べられた。今生においても過去の時に基づいて「以前に、古に」と言うことができるため、そこから区別する意味で「過去の諸々の生において」と述べられたのだとし、「今生の」等と述べた。ある人々は「今生より前の兜率天においてなされた行為を否定する言葉である」と言うが、それは彼らの単なる憶測に過ぎず、そこ(兜率天)にはそのようななされた行為が存在しないからである。「駆逐する者(apanūdano)」とは排除する者である。「信解した者(adhimutto)」とは専心・従事した者である。
Puññakammenāti dānādipuññakammena. Evaṃ santeti satamattena puññakammena ekekaṃ lakkhaṇaṃ nibbatteyya, evaṃ sati. Na rocayiṃsūti kevalaṃ satamattena puññakammena lakkhaṇanibbattiṃ na rocayiṃsu aṭṭhakathācariyā. Kathaṃ pana rocayiṃsūti āha **‘‘anantesu panā’’**tiādi. Ekekaṃ kammanti ekekaṃ dānādipubbakammaṃ. Ekekaṃ sataguṇaṃ katvāti anantāsu lokadhātūsu yattakā sattā, tehi sabbehi paccekaṃ satakkhattuṃ katāni dānādipuññakammāni yattakāni, tato ekekaṃ puññakammaṃ mahāsattena sataguṇaṃ kataṃ ‘‘sata’’nti adhippetaṃ, tasmā idha sata-saddo bahubhāvapariyāyo, na saṅkhyāvacanoti dasseti ‘‘satagghi sataṃ devamanussā’’tiādīsu viya. Tenāha **‘‘tasmā satapuññalakkhaṇoti imamatthaṃ rocayiṃsū’’**ti.
「功徳の行為によって(puññakammena)」とは、布施などの功徳の行為によって、ということである。「そうであるならば(evaṃ sante)」とは、百の量だけの功徳の行為によって一つ一つの相を生じさせる、そうであるならば、ということである。「好まなかった(na rocayiṃsu)」とは、注釈書の師たちは、単に百の量だけの功徳の行為による相の生起を好まなかった。「ではどのように好んだのか」と述べ、「無数の(anantesu pana)」等と言った。「一つ一つの行為(ekekaṃ kammaṃ)」とは、一つ一つの布施などの過去の行為である。「一つ一つを百倍として(ekekaṃ sataguṇaṃ katvā)」とは、無数の世界においてどれほどの衆生が存在しようとも、彼ら全員によって個々に百回なされた布施などの功徳の行為がどれほどあろうとも、それらの功徳の行為の一つ一つを大士(菩薩)が百倍にしたものを「百」と意図されている。したがって、ここでの「百(sata)」という語は多数の同義語であり、数量詞ではないことを、「神々や人間の百人分もの価値がある(satagghi sataṃ devamanussā)」などの場合のように示している。それゆえ「それゆえに百の功徳の相であるという、この意味を好んだ」と言ったのである。
Āyatapaṇhitāditilakkhaṇavaṇṇanā
長踵相等の三相の解説
206. Sarasacuti nāma jātassa sattassa yāvajīvaṃ jīvitvā pakatiyā maraṇaṃ. Ākaḍḍhajiyassa dhanudaṇḍassa viya pādānaṃ antomukhaṃ kuṭilatāya antovaṅkapādatā. Bahimukhaṃ kuṭilatāya bahivaṅkapādatā. Pādatalassa majjhe ūnatāya ukkuṭikapādatā. Aggapādena khañjanakā aggakoṇḍā. Paṇhippadesena khañjanakā paṇhikoṇḍā. Unnatakāyenāti anonatabhāvena samussitasarīrena. Muṭṭhikatahatthāti āvudhādīnaṃ gahaṇatthaṃ katamuṭṭhihatthā. Phaṇahatthakāti aññamaññaṃ saṃsaṭṭhaṅgulihatthā. Idamettha kammasarikkhakanti idaṃ imesaṃ tiṇṇampi lakkhaṇānaṃ tathāgatassa dīghāyukatāya ñāpakanimittabhāvo ettha āyatapaṇhitā, dīghaṅgulitā brahmujugattatāti etasmiṃ lakkhaṇattaye kammasarikkhakattaṃ. Nissandaphalaṃ pana anantarāyatādi daṭṭhabbaṃ.
206. 「自寿による没(sarasacuti)」とは、生まれた衆生がその寿命の限り生きて自然に死ぬことである。弦を引いた弓の幹のように、足が内側に向かって曲がっている状態を「内曲足(antovaṅkapādatā)」という。外側に向かって曲がっている状態を「外曲足(bahivaṅkapādatā)」という。足の裏の中央が窪んでいる状態を「高足(ukkuṭikapādatā)」という。足先でびっこを引く者を「前跛者(aggakoṇḍā)」という。踵の部分でびっこを引く者を「踵跛者(paṇhikoṇḍā)」という。「直立した身体によって(unnatakāyena)」とは、屈曲していない状態の、聳え立つ身体によって、ということである。「拳を握った手(muṭṭhikatahatthā)」とは、武器などを把持するために拳を握った手のことである。「扇状の手(phaṇahatthakā)」とは、指が互いに密着している手のことである。「ここにおける行為に類似するもの(idamettha kammasarikkhakaṃ)」とは、これら三つの相が如来の長寿の報知の標相であるという点において、長踵、長指、身体の端直というこれら三相における行為への類似性である。しかし、その余波の果(等流果)としては、無障害性などと見なされるべきである。
207. Bhāyitabbavatthunimittaṃ uppajjamānampi bhayaṃ attasinehahetukaṃ pahīnasinehassa tadabhāvatoti āha **‘‘yathā mayhaṃ maraṇato bhayaṃ mama jīvitaṃ piya’’**nti. Suciṇṇenāti suṭṭhu katūpacitena sucaritakammunā.
207. 恐るべき対象を機縁として生じる恐れであっても、自己への愛着を原因とするものであり、愛着を捨て去った者にはそれが存在しないことから、「あたかも我が身が死を恐れ、我が命を愛するように」と言った。「善く修習されたものによって(suciṇṇena)」とは、善くなされ積み重ねられた善行によって、ということである。
Cavitvāti saggato cavitvā. **‘‘Sujātagatto subhujo’’**ti ādayo sarīrāvayavaguṇā imehi lakkhaṇehi avinābhāvinoti dassetuṃ vuttā. Cirayapanāyāti attabhāvassa cirakālaṃ pavattanāya. Tenāha **‘‘dīghāyukabhāvāyā’’**ti. Tatoti cakkavattī hutvā yāpanato. Vasippattoti jhānādīsu vasībhāvañceva cetovasibhāvañca patto hutvā, kathaṃ iddhibhāvanāya iddhipādabhāvanāyāti attho. Yāpeti cirataranti yojanā.
「没して(cavitvā)」とは、天界から没して、ということである。「善く生じた身体、善き腕(sujātagatto subhujo)」などの身体の各部の徳は、これらの相と不可分であることを示すために述べられた。「長く生存するために(cirayapanāya)」とは、自己の身体(個体)を長期間維持するために、ということである。それゆえ「長寿であることのために」と言った。「それよりも(tato)」とは、転輪聖王となって生存するよりも、ということである。「自在を得た(vasippatto)」とは、禅定などにおける自在性と心自在性を得た者となって、どのようにかといえば、神足の修習(神通の基礎の修習)によって、という意味である。「より長く生存する(yāpeti cirataraṃ)」と解釈される。
Sattussadatālakkhaṇavaṇṇanā
七処隆満相の解説
208. Raso jāto etesanti rasitāni, mahārasāni. Tenāha **‘‘rasasampannāna’’**nti. Piṭṭhakhajjakādīnīti pūpasakkhalimodakādīni. Ādi-saddena pana kadaliphalādiṃ saṅgaṇhāti. Piṭṭhaṃ pakkhipitvā pacitabbapāyasaṃ piṭṭhapāyasaṃ. Ādi-saddena tathārūpabhojjayāguādiṃ saṅgaṇhāti.
208. それらに味わいが生じたものを「美味なるもの(rasitāni)」、すなわち極上の味覚という。それゆえ「味覚を備えたものの」と言った。「粉の菓子など(piṭṭhakhajjakādīni)」とは、焼き菓子、揚げ菓子、団子菓子などである。「など」の語によって、バナナの果実などを包含する。粉を入れて煮るべき乳粥を「粉乳粥」という。「など」の語によって、そのような種類の粥食などを包含する。
Idha kammasarikkhakaṃ nāma sattussadatālakkhaṇassa paṇītalābhitāya ñāpakanimittabhāvo. Iminā nayena tattha tattha lakkhaṇe kammasarikkhakaṃ niddhāretvā yojetabbaṃ.
ここにおいて「行為に類似するもの」とは、七処隆満相の、殊勝なものを得る性質に対する報知の標相である。この方法によって、それぞれの相において行為に類似するものを抽出し、結びつけるべきである。
209. Uttamo aggarasadāyakoti sabbasattānaṃ uttamo lokanātho aggānaṃ paṇītānaṃ rasānaṃ dāyako. Uttamānaṃ aggarasānanti paṇītesupi paṇītarasānaṃ. Khajjabhojjādijotakanti khajjabhojjādilābhajotakaṃ. Lābhasaṃvattanikassa kammassa phalaṃ **‘‘lābhasaṃvattanika’’**nti kāraṇūpacārena vadati. Tadatthajotakanti vā tassa paṇītabhojanadāyakattasaṅkhātassa atthassa jotakaṃ. Tadādhigacchatīti ettha ā-kāro nipātamattanti āha **‘‘taṃ adhigacchatī’’**ti. Lābhiruttamanti ra-kāro padasandhikaro.
209. 「最上にして至上の味を与える者(uttamo aggarasadāyako)」とは、すべての衆生の最上者である世尊が、至上の殊勝な味を与える者であるということである。「最上にして至上の味の(uttamānaṃ aggarasānaṃ)」とは、殊勝なものの中でも極めて殊勝な味わいの、ということである。「食餌等を示す(khajjabhojjādijotakaṃ)」とは、食餌等の獲得を示すものである。「利得をもたらす行為の果」を、原因の転用(借辞)によって「利得をもたらすもの(lābhasaṃvattanika)」と言う。あるいは「その意味を示す」とは、その「殊勝な食事を与える者であること」と呼ばれる意味を示すものである。「それを獲得する(tadādhigacchati)」における「ā」の音は単なる不変化詞(接頭辞)であるため、「それを獲得する(taṃ adhigacchati)」と言った。「至上の利得を(lābhiruttamaṃ)」の「r」の音は語の連結詞(連声)である。
Karacaraṇādilakkhaṇavaṇṇanā
手足等の相の解説
210. Pabbajitaparikkhāraṃ pattacīvarādiṃ gihiparikkhāraṃ vatthāvudhayānasayanādiṃ.
210. 出家者の必需品とは鉢や衣などであり、在家者の必需品とは衣服、武器、乗り物、寝具などである。
Sabbanti sabbaṃ upakāraṃ. Makkhetvā nāseti makkhibhāve ṭhatvā. Telena viya makkhetīti satadhotatelena makkheti viya. Atthasaṃvaḍḍhanakathāyāti hitāvahakathāya. Kathāgahaṇañcettha nidassanamattaṃ. Paresaṃ hitāvaho kāyapayogopi atthacariyā. Aṭṭhakathāyaṃ pana vacīpayogavaseneva atthacariyā vuttā.
「すべてを(sabbaṃ)」とは、すべての恩恵を、ということである。「塗り消して損なう」とは、恩知らず(覆過)の立場に立って損なうことである。「油で塗るかのように(telena viya makkheti)」とは、百回洗った油で塗るかのようである。「利益を増大させる語らいによって(atthasaṃvaḍḍhanakathāya)」とは、利益をもたらす語らいによって、ということである。ここでの語らいの把握は単なる例示に過ぎない。他者に利益をもたらす身体的行為(身業)も利行である。しかし注釈書においては、言語的行為(口業)によってのみ利行が述べられている。
Samānattatāyāti sadisabhāve samānaṭṭhāne ṭhapanena, taṃ panassa samānaṭṭhāne ṭhapanaṃ attasadisatākaraṇaṃ, sukhena ekasambhogatā, attano sukhuppattiyaṃ; tassa ca dukkhuppattiyaṃ tena attano ekasambhogatāti āha **‘‘samānasukhadukkhabhāvenā’’**ti. Sā ca samānasukhadukkhatā ekato nisajjādinā pākaṭā hotīti taṃ dassento **‘‘ekāsane’’**tiādimāha. Na hi sakkā ekaparibhogo kātuṃ jātiyā hīnattā. Tathā akariyamāne ca so kujjhati bhogena adhikattā, tasmā dussaṅgaho. Na hi so ekaparibhogaṃ icchati jātiyā hīnabhāvato. Na akariyamāne ca kujjhati bhogena hīnabhāvato. Ubhohīti jātibhogehi. Sadisopi susaṅgaho ekasadisabhāveneva itarena saha ekaparibhogassa paccāsīsāya, akaraṇe ca tassa kujjhanassābhāvato. Adīyamānepi kismiñci āmise akariyamānepi saṅgahe. Na pāpakena cittena passati pesalabhāvato. Tato eva paribhogopi…pe… hoti. Evarūpanti gihī ce, ubhohi sadisaṃ; pabbajito ce, sīlavantanti adhippāyo.
「同事(samānattatā)」とは、同等である状態、同じ立場に置くことによってであり、その同じ立場に置くこととは、自己と同等にすること、快楽を共に享受すること、自らの幸福が生じたときに、また彼の苦痛が生じたときに、彼と自らの享受を等しくすることであるとし、「苦楽を同じくする状態によって(samānasukhadukkhabhāvena)」と言った。その苦楽を同じくすることは、同一の座に座ることなどによって明らかになるため、それを示すために「同一の座に」等と言った。生まれ(家柄)が低い者とは、生まれが低いがゆえに同等の享受をなすことはできない。そしてそのようになされない場合、その者は財産が多いがゆえに腹を立てるため、摂受し難い。なぜなら彼は生まれが低いことから同等の享受を望まないからである。またなされない場合でも、財産が少ないことから腹を立てることはない。「双方によって(ubhohi)」とは、家柄と財産の双方によって、ということである。同等の者もまた善く摂受しやすい。まったく同等の状態によって他者と等しく享受することを期待し、それがなされない場合にも彼が腹を立てることはないからである。何らの物質的施しが与えられないときでも、摂受がなされないときでも、親しみやすい状態であるゆえに邪悪な心で見ない。それゆえに享受もまた……(中略)……となる。「このような者(evarūpaṃ)」とは、在家者であれば双方において同等の者、出家者であれば戒徳ある者、という意味である。
Susaṅgahitāva hontīti suṭṭhu saṅgahitā eva honti daḷhabhattibhāvato. Tenāha **‘‘na bhijjantī’’**ti.
「善く摂受される(susaṅgahitāva honti)」とは、確固たる献身の状態があるがゆえに、まさに善く摂受されるということである。それゆえ「分裂しない」と言った。
Dānādisaṅgahakammanti dānādibhedaṃ parasaṅgaṇhanavasena pavattaṃ kusalakammaṃ.
「布施等の摂受の行為(dānādisaṅgahakammaṃ)」とは、布施等の種類からなる、他者を摂受することに基づいて行われた善行為である。
211. Anavaññātena aparibhūtena sambhāvitena. Pamodo vuccati hāso, na appamodenāti ettha paṭisedhadvayena so eva vutto. So ca odagyasabhāvattā na dīno dhammūpasañhitattā na gabbhayuttoti āha **‘‘na dīnena na gabbhitenāti attho’’**ti. Sattānaṃ agaṇhanaguṇenāti yojanā.
211. 「軽んじられない(anavaññātena)」とは、侮られない、尊ばれたということである。「歓喜(pamodo)」とは歓笑と言われ、「無歓喜によらない(na appamodena)」においては二重否定によってまさにそれが述べられている。そしてそれは高揚した性質であるゆえに卑屈ではなく、法に相応しているゆえに傲慢を伴わないとし、「卑屈によらず、傲慢によらず、という意味である」と言った。「衆生を摂受しないことのない徳によって」と解釈される。
Atiruciranti ativiya rucirakataṃ, taṃ pana passantānaṃ pasādāvahanti āha **‘‘supāsādika’’**nti. Suṭṭhu chekanti ativiya sundaraṃ. Vidhātabboti vidhātuṃ sandisituṃ sakkuṇeyyo. Piyaṃ vadatīti piyavadū yathā ‘‘sabbavidū’’ti. Sukhameva sukhatā, taṃ sukhataṃ. Dhammañca anudhammañcāti lokuttaradhammañceva tassa anurūpapubbabhāgadhammañca.
「極めて麗しい(atiruciraṃ)」とは、この上なく麗しく作られたということであり、それは見る者に信順をもたらすとし、「極めて端正な(supāsādikaṃ)」と言った。「善く巧みな(suṭṭhu chekaṃ)」とは、極めて優れた、ということである。「配置されるべき(vidhātabbo)」とは、配置し、指示し得るべきである、ということである。「愛語を語る(piyaṃ vadati)」とは、愛語を語る者(piyavadū)であり、あたかも「全知者(sabbavidū)」というがごときである。安楽そのものが「安楽なること(sukhatā)」であり、その安楽なることである。「法と随法(dhammañca anudhammañca)」とは、出世間法と、それに適った前段階の法(加行)のことである。
Ussaṅkhapādādilakkhaṇavaṇṇanā
湧踝相等の解説
212. **‘‘Atthūpasaṃhita’’**nti iminā vaṭṭanissitā dhammakathā vuttāti āha **‘‘idhalokaparalokatthanissita’’**nti. **‘‘Dhammūpasaṃhita’’**nti iminā vivaṭṭanissitā, tasmā dasakusalakammapathā vivaṭṭasannissayā veditabbā. Nidaṃsesīti sandassesi te dhamme paccakkhe katvā pakāsesi. Nidaṃsanakathanti pākaṭakaraṇakathaṃ. Jeṭṭhaṭṭhena aggo, pāsaṃsaṭṭhena seṭṭho, pamukhaṭṭhena pāmokkho, padhānaṭṭhena uttamo, hitasukhatthikehi pakārato varaṇīyato rajanīyato pavaroti evaṃ atthavisesavācīnampi ‘‘aggo’’tiādīnaṃ padānaṃ bhāvatthassa bhedābhāvato **‘‘sabbāni aññamaññavevacanānī’’**ti āha.
212. 「義(利益)を具足した(atthūpasaṃhitaṃ)」というこれによって、輪廻に依拠した法の説示が述べられたとし、「現世と来世の利益に依拠した」と言った。「法を具足した(dhammūpasaṃhitaṃ)」というこれによって、輪廻を超脱することに依拠したものであり、したがって十善業道は輪廻超脱の依処であると知られるべきである。「示した(nidaṃsesi)」とは、教示し、それらの法を現前させて明らかにした。「例示の説示(nidaṃsanakathaṃ)」とは、明白にする説示のことである。年長の意味で最上位(agga)、賞賛されるべき意味で最勝(seṭṭha)、首長の意味で首位(pāmokkha)、主要の意味で最上(uttama)、利益と幸福を望む者たちによって選ばれるべき、愛されるべき意味で勝妙(pavara)である。このように特別な意味を表す「最上位」などの諸語であっても、その本質的な意味に差異はないことから、「すべては互いに同義語である」と言った。
Uddhaṅgamanīyāti suṇantānaṃ uparūpari visesaṃ gamentīti uddhaṅgamanīyā. Saṅkhāya adho piṭṭhipādasamīpe eva patiṭṭhitattā adhosaṅkhā pādā etassāti adhosaṅkhapādo. Saṅkhāti ca gopphakānamidaṃ nāmaṃ.
「向上に向かうべきもの(uddhaṅgamanīyā)」とは、聞く者たちをさらに上へと高みに至らせるものであるから、向上に向かうべきものである。「踝(骨)の下に、足の甲の近くにのみ定着していることから、足首が低い足を持つ」者を「低踝足(adhosaṅkhapādo)」という。そして「骨(saṅkhā)」とは足首の骨(踝)の名称である。
213. Dhammadānayaññanti dhammadānasaṅkhātaṃ yaññaṃ.
213. 「法施の祭祀(dhammadānayaññaṃ)」とは、法施と呼ばれる祭祀のことである。
Suṭṭhu saṇṭhitāti sammadeva saṇṭhitā. Piṭṭhipādassa upari pakatiaṅgulena caturaṅgule jaṅghāpadese nigūḷhā apaññāyamānarūpā hutvā ṭhitāti attho.
「善く位置づけられた(suṭṭhu saṇṭhitā)」とは、正しく位置づけられたということである。足の甲の上、通常の指で四指の脹脛の部位に隠れ、見えない形状となって位置しているという意味である。
Eṇijaṅghalakkhaṇavaṇṇanā
伊尼延鹿腨相の解説
214. Sippanti sikkhitabbaṭṭhena ‘‘sippa’’nti laddhanāmaṃ sattānaṃ jīvikāhetubhūtaṃ ājīvavidhiṃ. Jīvikatthaṃ, sattānaṃ upakāratthañca veditabbaṭṭhena vijjā, mantasatthādi. Caranti tena sugatiṃ, sukhañca gacchantīti caraṇaṃ. Kammassakatāñāṇaṃ uttarapadalopena **‘‘kamma’’**nti vuttanti āha **‘‘kammanti kammassakatājānanapaññā’’**ti. Tāni cevāti pubbe vuttahatthiādīni ceva. Satta ratanānīti muttādīni satta ratanāni. Ca-saddena rañño upabhogabhūtānaṃ vatthaseyyādīnaṃ saṅgaho. Rañño anucchavikānīti rañño paribhuñjanayogyāni. Sabbesanti ‘‘rājārahānī’’tiādinā vuttānaṃ sabbesaṃyeva ekajjhaṃ gahaṇaṃ. Buddhānaṃ parisā nāma odhiso anodhiso ca samitapāpā, tathatthāya paṭipannā ca hotīti vuttaṃ **‘‘samaṇānaṃ koṭṭhāsabhūtā catasso parisā’’**ti.
214. 「技術(sippaṃ)」とは、習得されるべき意味において「技術」という名を得た、衆生の生活の資糧となる生計の方法である。生活のため、また衆生の扶助のために知られるべき意味において「知識(学問)」、すなわち呪文の学処などである。それによって善趣や安楽へと歩むゆえに「実践(caraṇaṃ)」である。「業所有智(kammassakatāñāṇaṃ)」は、後続の語の省略によって「業(kamma)」と述べられたとし、「業とは、業が自己のものであると知る智慧である」と言った。「それらをも(tāni ceva)」とは、前述の象などのことである。「七宝(satta ratanāni)」とは、真珠などの七宝である。「また(ca)」の語によって、王の受用物である衣服や寝具などの包含である。「王に相応しい(rañño anucchavikāni)」とは、王が受用するに適したものである。「すべての(sabbesaṃ)」とは、「王に値する」等によって述べられたすべてを一括して把握することである。諸仏の会衆とは、個別的にも普遍的にも悪を静めた者たちであり、その目的のために実践した者たちであることから、「沙門の構成部分である四部の会衆」と述べられた。
Sippādivācananti sippānaṃ sikkhāpanaṃ. Pāḷiyampi hi ‘‘vācetā’’ti vācanasīsena sikkhāpanaṃ dassitaṃ. Ukkuṭikāsananti taṃtaṃveyyāvaccakaraṇena ukkuṭikassa nisajjā. Payojanavasena gehato gehaṃ gāmato gāmaṃ jaṅghāyo kilametvā pesanaṃ jaṅghapesanikā. Likhitvā pātitaṃ viya hoti aparipuṇṇabhāvato. Anupubbauggatavaṭṭitanti gopphakaṭṭhānato paṭṭhāya yāva jāṇuppadesā maṃsūpacayassa anukkamena samantato vaḍḍhitattā anupubbena uggataṃ hutvā suvaṭṭitaṃ. Eṇijaṅghalakkhaṇanti saṇṭhānamattena eṇimigajaṅghāsadisajaṅghalakkhaṇaṃ.
「技術などを教えること(sippādivācanaṃ)」とは、技術を習得させることである。聖典本文においても「教える者(vācetā)」と教えることを主として習得させることが示されている。「蹲踞(ukkuṭikāsanaṃ)」とは、種々の雑務を行うことによる蹲踞の座である。用務のために家から家へ、村から村へと脚を疲労させて使い走りすることを「脚使(jaṅghapesanikā)」という。削り落とされたかのようになるのは、肉付きが豊満でないからである。「次第に高まり丸みを帯びた(anupubbauggatavaṭṭitaṃ)」とは、踝の場所から膝の部位に至るまで、筋肉の盛り上がりが順を追って均等に増大したことにより、次第に高まって美しく丸みを帯びていることである。「伊尼延鹿腨相(eṇijaṅghalakkhaṇaṃ)」とは、形状のみにおいて伊尼延鹿の脹脛に類似した脹脛の相である。
215. **‘‘Yatupaghātāyā’’**ti ettha ta-kāro padasandhikaro, anunāsikalopena niddesoti āha **‘‘ya’’**ntiādi. ‘‘Uddhaggalomā **sukhumattacotthatā’’**ti vuttattā codakena ‘‘kiṃ pana aññena kammena aññaṃ lakkhaṇaṃ nibbattatī’’ti codito, ācariyo ‘‘na nibbattatī’’ti vatvā ‘‘yadi evaṃ idha kasmā lakkhaṇantaraṃ kathita’’nti antolīnameva codanaṃ pariharanto **‘‘yaṃ pana nibbattatīti…pe… idha vutta’’**nti āha. Tattha yaṃ pana nibbattatīti yaṃ lakkhaṇaṃ vuccamānalakkhaṇanibbattakena kammunā nibbattati. Taṃ anubyañjanaṃ hotīti taṃ lakkhaṇaṃ vuccamānassa lakkhaṇassa anukūlalakkhaṇaṃ nāma hoti. Tasmā tena kāraṇena idha eṇijaṅghalakkhaṇakathane ‘‘uddhaggalomā sukhumattacotthatā’’ti lakkhaṇantaraṃ vuttaṃ.
215. 「~を害するために(yatupaghātāya)」における「t」の音は語の連結詞であり、鼻音(ṃ)の脱落による指示であるとし、「~を(yaṃ)」等と言った。「毛が上に向かって生え、微細な皮膚で覆われている」と述べられたことから、反対者によって「別の行為によって別の相が生じるのか」と反論されたとき、師は「生じない」と言った上で、「もしそうであるなら、なぜここで別の相が語られたのか」という内に秘められた疑問を解決しつつ、「しかし生じるものが……(中略)……ここに述べられた」と言った。そこにおいて「しかし生じるものが」とは、説かれている相を生じさせる行為によって生じる相のことである。「それは随好となる(taṃ anubyañjanaṃ hoti)」とは、その相は説かれている相に順応する相となる、ということである。それゆえ、その理由によって、ここでの伊尼延鹿腨相の説示において「毛が上に向かって生え、微細な皮膚で覆われている」という別の相が述べられたのである。
Sukhumacchavilakkhaṇavaṇṇanā
細薄皮膚相の解説
216. Samitapāpaṭṭhena samaṇaṃ, na pabbajjāmattena. Bāhitapāpaṭṭhena brāhmaṇaṃ, na jātimattena.
216. 悪を静めたという意味で沙門であり、単に出家しただけによるのではない。悪を排除したという意味でバラモンであり、単なる生まれによるのではない。
Mahantānaṃ atthānaṃ pariggaṇhanato mahatī paññā etassāti mahāpañño. Sesapadesupi eseva nayoti āha **‘‘mahāpaññādīhi samannāgatoti attho’’**ti. Nānattanti yāhi mahāpaññādīhi samannāgatattā bhagavā ‘‘mahāpañño’’tiādinā kittīyati, tāsaṃ mahāpaññādīnaṃ idaṃ nānattaṃ ayaṃ vemattatā.
偉大な意味(法)を把握することから、彼には大いなる智慧があるゆえに「大慧(mahāpañño)」である。残りの語においても同様の理趣であるとし、「大慧等を備えた者、という意味である」と言った。「多様性(nānattaṃ)」とは、大慧等を備えていることによって世尊が「大慧者」などと称讃される、それらの大慧などのこの多様性、この差異のことである。
Yassa kassaci visesato arūpadhammassa mahattaṃ nāma kiccasiddhiyā veditabbanti tadassā kiccasiddhiyā dassento **‘‘mahante sīlakkhandhe pariggaṇhātīti mahāpaññā’’**tiādimāha. Tattha hetumahantatāya, paccayamahantatāya, nissayamahantatāya, pabhedamahantatāya, kiccamahantatāya, phalamahantatāya, ānisaṃsamahantatāya ca sīlakkhandhassa mahantabhāvo veditabbo. Tattha hetu alobhādayo. Paccayo hirottappasaddhāsativīriyādayo. Nissayo sāvakabodhipaccekabodhisammāsambodhiniyatatā, taṃsamaṅgino ca purisavisesā. Pabhedo cārittavārittādivibhāgo. Kiccaṃ tadaṅgādivasena paṭipakkhavidhamanaṃ. Ānisaṃso piyamanāpatādi. Ayamettha saṅkhepo, vitthāro pana visuddhimagge, (visuddhi. 1.6) ākaṅkheyyasuttādīsu (ma. ni. 1.65) ca āgatanayeneva veditabbo. Iminā nayena samādhikkhandhādīnampi mahantatā yathārahaṃ vitthāretvā veditabbā. Ṭhānāṭhānānaṃ pana mahāvisayatāya, sā bahudhātukasutte āgatanayena veditabbā. Vihārasamāpattiyo samādhikkhandhaniddhāraṇanayena veditabbā. Ariyasaccānaṃ sakalasāsanasaṅgahato, so saccavibhaṅga- (vibha. 189) taṃsaṃvaṇṇanāsu (vibha. aṭṭha. 189) āgatanayena, satipaṭṭhānā dīnaṃ satipaṭṭhānavibhaṅgādīsu, (vibha. 355) taṃsaṃvaṇṇanāsu (vibha. aṭṭha. 355) ca āgatanayena, sāmaññaphalānaṃ mahato hitassa, mahato sukhassa, mahato atthassa, mahato yogakkhemassa nibbattibhāvato, santapaṇītanipuṇaatakkāvacarapaṇḍitavedanīyabhāvato ca; abhiññānaṃ mahāsambhārato, mahāvisayato, mahākiccato, mahānubhāvato, mahānibbattito ca, nibbānassa madanimmadanādimahattasiddhito mahantatā veditabbā.
いかなるものにとっても、特に非物質的な法(無色法)の偉大さとは作用の達成によって知られるべきであるとし、その作用の達成を示すために「大いなる戒蘊を把握するがゆえに大慧である」等と言った。そこにおいて、因の偉大さ、縁の偉大さ、依処の偉大さ、区分の偉大さ、作用の偉大さ、果の偉大さ、功徳の偉大さによって、戒蘊の偉大さは知られるべきである。そこでの因とは無貪などである。縁とは慚、愧、信、念、精進などである。依処とは声聞菩提、独覚菩提、正等覚の決定性、およびそれらを具備した殊勝な人物である。区分とは作持・止持などの分類である。作用とは分断などによる反対勢力の打破である。功徳とは愛され好まれることなどである。これがここでの要約であり、詳細については『清浄道論』(清浄道論1.6)や『願経』等(中部1.65)に説かれる理趣によって知られるべきである。この方法によって、定蘊などの偉大さも相応に詳細に知られるべきである。処非処の智慧の大いなる対象領域については、『多界経』に説かれる理趣によって知られるべきである。住等至については、定蘊の抽出の理趣によって知られるべきである。四聖諦については、全教説を包摂することから『諦分別』(分別論189)およびその注釈(分別論注189)に説かれる理趣によって、念処等については『念処分別』等(分別論355)およびその注釈(分別論注355)に説かれる理趣によって、沙門果については、大いなる利益、大いなる安楽、大いなる義、大いなるヨーガからの安穏を生じさせるものであり、寂静、勝妙、微細、思惟を超えた、賢者によって知られるべきものであることによって、神通については、大いなる資糧、大いなる対象領域、大いなる作用、大いなる威力、大いなる達成によることによって、涅槃については、驕慢の粉砕などの偉大さの達成によって、その偉大さは知られるべきである。
Puthupaññāti etthāpi vuttanayānusārena attho veditabbo. Ayaṃ pana viseso – nānākhandhesu ñāṇaṃ pavattatīti ‘‘ayaṃ rūpakkhandho nāma…pe… ayaṃ viññāṇakkhandho nāmā’’ti evaṃ pañcannaṃ khandhānaṃ nānākaraṇaṃ paṭicca ñāṇaṃ pavattati. Tesupi ‘‘ekavidhena rūpakkhandho, ekādasavidhena rūpakkhandho. Ekavidhena vedanākkhandho, bahuvidhena vedanākkhandho. Ekavidhena saññākkhandho. Ekavidhena saṅkhārakkhandho. Ekavidhena viññāṇakkhandho, bahuvidhena viññāṇakkhandho’’ti evaṃ ekekassa khandhassa atītādibhedavasenāpi nānākaraṇaṃ paṭicca ñāṇaṃ pavattati. Tathā ‘‘idaṃ cakkhāyatanaṃ nāma…pe...idaṃ dhammāyatanaṃ nāma. Tattha dasāyatanā kāmāvacarā, dve catubhūmakā’’ti evaṃ āyatanānaṃ nānattaṃ paṭicca ñāṇaṃ pavattati. Nānādhātūsūti ‘‘ayaṃ cakkhudhātu nāma…pe… ayaṃ manoviññāṇadhātu nāma. Tattha soḷasa dhātuyo kāmāvacarā, dve dhātuyo catubhūmikā’’ti evaṃ nānādhātūsu ñāṇaṃ pavattati, tayidaṃ upādinnakadhātuvasena vuttaṃ. Paccekabuddhānampi hi dvinnañca aggasāvakānaṃ upādinnakadhātūsu evaṃ nānākaraṇaṃ paṭicca ñāṇaṃ pavattati, tañca kho ekadesatova, na nippadesato. Anupādinnakadhātūnaṃ pana lakkhaṇādimattameva jānanti, na nānākaraṇaṃ. Sabbaññubuddhānameva pana ‘‘imāya nāmadhātuyā ussannattā imassa rukkhassa khandho seto, imassa kāḷo, imassa maṭṭho, imassa bahalattaco, imassa tanutaco. Imassa pattaṃ vaṇṇasaṇṭhānādivasena evarūpaṃ. Imassa pupphaṃ nīlaṃ, imassa pītakaṃ, lohitakaṃ, odātaṃ, sugandhaṃ, duggandhaṃ. Phalaṃ khuddakaṃ, mahantaṃ, dīghaṃ, vaṭṭaṃ, susaṇṭhānaṃ, dussaṇṭhānaṃ, maṭṭhaṃ, pharusaṃ, sugandhaṃ, duggandhaṃ, madhuraṃ, tittakaṃ, ambilaṃ, kaṭukaṃ, kasāvaṃ. Kaṇṭako tikhiṇo, atikhiṇo, ujuko, kuṭilo, kaṇho, nīlo, odāto hotī’’ti dhātunānattaṃ paṭicca ñāṇaṃ pavattati.
「広慧(puthupaññā)」においても、述べられた理趣に従って意味が知られるべきである。しかしこの差異がある——種々の蘊において智慧が働くとは、「これは色蘊である……(中略)……これは識蘊である」というように、五蘊の多様性に基づいて智慧が働く。それらにおいても、「一種類の色蘊、十一種類の色蘊。一種類の受蘊、多種類の受蘊。一種類の想蘊。一種類の行蘊。一種類の識蘊、多種類の識蘊」というように、一つ一つの蘊の過去などの区分によっても、多様性に基づいて智慧が働く。同様に「これは眼処である……(中略)……これは法処である。そこにおいて十処は欲界に属し、二処は四地に属する」というように、諸処の多様性に基づいて智慧が働く。「種々の界において」とは、「これは眼界である……(中略)……これは意識界である。そこにおいて十六界は欲界に属し、二界は四地に属する」というように、種々の界において智慧が働くのであり、これは執受された界(有情の身体を構成する要素)に基づいて述べられた。実に独覚仏たちや二大声聞にとっても、執受された界においてこのように多様性に基づいて智慧が働くが、それも一部分においてのみであり、余すところなくではない。執受されていない界(無情の物質)については、単に相などを知るのみであり、多様性を知るのではない。ただ一切知仏のみが、「この名を持つ界が優勢であることによって、この樹木の幹は白く、この樹木は黒く、この樹木は滑らかで、この樹木は樹皮が厚く、この樹木は樹皮が薄い。この樹木の葉は色や形状などにおいてこのようなものである。この樹木の花は青く、この樹木の花は黄色く、赤く、白く、芳香があり、悪臭がある。果実は小さく、大きく、長く、丸く、形状が美しく、形状が醜く、滑らかで、粗く、芳香があり、悪臭があり、甘く、苦く、酸っぱく、辛く、渋い。棘は鋭く、極めて鋭く、真っ直ぐで、曲がり、黒く、青く、白い」というように、界の多様性に基づいて智慧が働くのである。
Nānāpaṭiccasamuppādesūti ajjhattabahiddhābhedato ca nānāpabhedesu paṭiccasamuppādaṅgesu. Avijjādiaṅgāni hi paccekaṃ paṭiccasamuppādasaññitāni. Tenāha saṅkhārapiṭake ‘‘dvādasa paccayā dvādasa paṭiccasamuppādā’’ti. Nānāsuññatamanupalabbhesūti nānāsabhāvesu niccasārādivirahitesu suññatabhāvesu tato eva itthipurisaattattaniyādivasena anupalabbhanasabhāvesu pakāresu. Ma-kāro hettha padasandhikaro. Nānāatthesūti atthapaṭisambhidāya visayabhūtesu paccayuppannādivasena nānāvidhesu atthesu. Dhammesūti dhammapaṭisambhidāya visayabhūtesu paccayādivasena nānāvidhesu dhammesu. Niruttīsūti tesaṃyeva atthadhammānaṃ niddhāraṇavacanasaṅkhātesu nānāniruttīsu. Paṭibhānesūti atthapaṭisambhidādīsu visayabhūtesu ‘‘imāni ñāṇāni idamatthajotakānī’’ti (vibha. 726, 729, 731, 732, 734, 736, 739) tathā tathā paṭibhānato upatiṭṭhanato ‘‘paṭibhānānī’’ti laddhanāmesu nānāñāṇesu. **‘‘Puthunānāsīlakkhandhesū’’**tiādīsu sīlassa puthuttaṃ vuttameva, itaresaṃ pana vuttanayānusārena suviññeyyattā pākaṭameva. Yaṃ pana abhinnaṃ ekameva nibbānaṃ, tattha upacāravasena puthuttaṃ gahetabbanti āha **‘‘puthujjanasādhāraṇe dhamme samatikkammā’’**ti, tenassa madanimmadanādipariyāyena puthuttaṃ paridīpitaṃ hoti.
「種々の縁起において」とは、内と外の区分による種々の区分における縁起の支分においてである。実に無明などの支分は、個々に縁起と名づけられている。それゆえ行蔵において「十二の縁は十二の縁起である」と言われた。「種々の空性、非獲得において」とは、永遠の実体等を欠いた種々の本性である空性の状態において、それゆえに女、男、我、我がものなどとして獲得されない(実在しない)性質の様態において、ということである。「m」の音はここでは語の連結詞である。「種々の義において」とは、義無礙解の対象領域となる、縁によって生じたもの等に基づく種々の義においてである。「法において」とは、法無礙解の対象領域となる、因等に基づく種々の法においてである。「語(辞)において」とは、それらの義や法を定義する言葉と呼ばれる種々の語においてである。「弁(応答)において」とは、義無礙解等の対象領域となる、「これらの智慧はこれこれの意味を照らし出すものである」(分別論726, 729, 731, 732, 734, 736, 739)と、その時々に弁舌として現れ臨むことから「弁」という名を得た種々の智慧においてである。「種々の広大な戒蘊において」等において、戒の広大さはすでに述べられた通りであり、その他のものについても述べられた理趣に従って容易に理解できるため、明白である。しかし無差別であり唯一である涅槃においては、比喩的な表現(仮設)に基づいて広大さを把握すべきであるとし、「凡夫に共通する法を超越して」と言った。これによって、その驕慢の粉砕などの同義語による広大さが明らかに示されたのである。
Evaṃ visayavasena paññāya mahattaṃ, puthuttaṃ dassetvā idāni sampayuttadhammavasena hāsabhāvaṃ, pavattiākāravasena javanabhāvaṃ, kiccavasena tikkhādibhāvaṃ dassetuṃ **‘‘katamā hāsapaññā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha hāsabahuloti pītibahulo. Sesapadāni tasseva vevacanāni. Sīlaṃ paripūretīti haṭṭhapahaṭṭho udaggudaggo hutvā ṭhapetvā indriyasaṃvaraṃ tassa visuṃ vuttattā anavasesasīlaṃ paripūreti. Pītisomanassasahagatā hi paññā abhirativasena ārammaṇe phullitavikasitā viya pavattati, na evaṃ upekkhāsahagatā. Puna sīlakkhandhanti ariyasīlakkhandhamāha. **‘‘Samādhikkhandha’’**ntiādīsupi eseva nayo.
このように対象領域に基づいて智慧の偉大さ、広大さを示し、今や相応する法に基づいて喜悦の状態を、働きの様態に基づいて敏速の状態を、作用に基づいて鋭利等の状態を示すために、「喜悦の智慧とはいかなるものか」等と述べられた。そこにおいて「喜悦が多い(hāsabahulo)」とは、喜悦(pīti)が多いということである。残りの語はそれ自体の同義語である。「戒を満たす」とは、極めて歓喜し大いに高揚して、根律儀戒は別に説かれているためそれを除き、残りの戒を余すところなく満たすことである。実に喜悦と歓喜を伴う智慧は、愛楽の働きによって対象において花咲き開いたかのように働くのであり、捨(ウペッカー)を伴う智慧はそのようには働かない。再び「戒蘊を」とは、聖なる戒蘊のことを言っている。「定蘊を」等においてもこの理趣である。
Sabbaṃ taṃ rūpaṃ aniccato khippaṃ javatīti yā rūpadhamme ‘‘aniccā’’ti sīghavegena pavattati, paṭipakkhadūrabhāvena pubbābhisaṅkhārassa sātisayattā indena vissaṭṭhavajiraṃ viya lakkhaṇaṃ avirajjhantī adandhāyantī rūpakkhandhe aniccalakkhaṇaṃ vegasā paṭivijjhati, sā javanapaññā nāmāti attho. Sesapadesupi eseva nayo. Evaṃ lakkhaṇārammaṇikavipassanāvasena javanapaññaṃ dassetvā balavavipassanāvasena dassetuṃ **‘‘rūpa’’**ntiādi vuttaṃ. Tattha khayaṭṭhenāti yattha yattha uppajjati, tattha tattheva bhijjanato khayasabhāvattā. Bhayaṭṭhenāti bhayānakabhāvato. Asārakaṭṭhenāti asārakabhāvato attasāravirahato, niccasārādivirahato ca. Tulayitvāti tulanabhūtāya vipassanāpaññāya tuletvā. Tīrayitvāti tāya eva tīraṇabhūtāya tīrayitvā. Vibhāvayitvāti yāthāvato pakāsetvā paccakkhaṃ katvā. Vibhūtaṃ katvāti pākaṭaṃ katvā. Rūpanirodheti rūpakkhandhanirodhahetubhūte nibbāne ninnapoṇapabbhārabhāvena. Idāni sikhāppattavipassanāvasena javanapaññaṃ dassetuṃ puna **‘‘rūpa’’**ntiādi vuttaṃ. ‘‘Vuṭṭhānagāminivipassanāvasenā’’ti keci.
「そのすべての物質(色)は無常であると速やかに馳せる」とは、物質的な法において「無常である」と速い速度で働き、反対勢力が遠ざかっていることによって過去の形成力(行)が卓越しているため、帝釈天が放った金剛のように特徴(相)を外すことなく、遅滞することなく、色蘊における無常の相を急速に洞察する、それが敏捷の智慧(javanapaññā)と呼ばれる、という意味である。残りの語においてもこの理趣である。このように相を対象とする観(ヴィパッサナー)に基づいて敏捷の智慧を示し、強力な観に基づいて示すために「物質(色)を」等と述べられた。そこにおいて「滅尽の意味によって」とは、生じる場所その場所において破壊されるがゆえに滅尽する性質であることからである。「恐怖の意味によって」とは、恐るべき性質であることからである。「無実義の意味によって」とは、実質のない性質であることから、我という実質を欠き、常住という実質などを欠いていることからである。「量って(tulayitvā)」とは、比較考量となる観の智慧によって量って、ということである。「判定して(tīrayitvā)」とは、まさにその判定となるものによって判定して、ということである。「明らかにして(vibhāvayitvā)」とは、あるがままに明示して現前させて、ということである。「明瞭にして(vibhūtaṃ katvā)」とは、明白にして、ということである。「色の滅において」とは、色蘊の滅の因となる涅槃へと傾斜し、傾き、向かう状態によって、ということである。今や頂点に達した観に基づいて敏捷の智慧を示すために、再び「物質(色)を」等と述べられた。「出起に至る観に基づいてである」と言う人々もいる。
Ñāṇassa tikkhabhāvo nāma savisesaṃ paṭipakkhapahānena veditabboti. ‘‘Khippaṃ kilese chindatīti tikkhapaññā’’ti vatvā te pana kilese vibhāgena dassento **‘‘uppannaṃ kāmavitakka’’**ntiādimāha. Tikkhapañño khippābhiñño hoti, paṭipadā cassa na calatīti āha **‘‘ekasmiṃ āsane cattāro ariyamaggā…pe… adhigatā hontī’’**tiādi.
智慧の鋭利さとは、格別に反対勢力を断ち切ることによって知られるべきである。「速やかに煩悩を断ち切るがゆえに鋭利の智慧である」と言い、それらの煩悩を区分して示すために「生じた欲尋を」等と述べた。鋭利の智慧を持つ者は速やかな直観(速疾通)を得る者であり、その実践は動揺しないとし、「一つの座において四つの聖道が……(中略)……獲得される」等と言った。
‘‘Sabbe saṅkhārā aniccā dukkhā vipariṇāmadhammā, saṅkhatā paṭiccasamuppannā khayadhammā vayadhammā virāgadhammā nirodhadhammā’’ti yāthāvato dassanena saccappaṭivedho ijjhati, na aññathāti kāraṇamukhena nibbedhikapaññaṃ dassetuṃ **‘‘sabbasaṅkhāresu ubbegabahulo hotī’’**tiādi vuttaṃ. Tattha ubbegabahuloti vuttanayena sabbasaṅkhāresu abhiṇhapavattasaṃvego. Uttāsabahuloti ñāṇuttāsavasena sabbasaṅkhāresu bahuso utrāsamānaso, etena ādīnavānupassanamāha. **‘‘Ukkaṇṭhanabahulo’’**ti pana iminā nibbidānupassanamāha, **‘‘aratibahulo’’**tiādinā tassā eva aparāparuppattiṃ. Bahimukhoti sabbasaṅkhārato bahibhūtaṃ nibbānaṃ uddissa pavattañāṇamukho, tathā vā pavattitavimokkhamukho. Nibbijjhanaṃ nibbedho, so etissā atthi, nibbijjhatīti vā nibbedhikā, sā eva paññā nibbedhikapaññā. Yaṃ panettha atthato avibhattaṃ, taṃ heṭṭhā vuttanayattā, uttānatthattā ca suviññeyyameva.
「すべての形成されたもの(諸行)は無常であり、苦であり、変易する性質であり、作られたものであり、縁りて生じたものであり、滅尽する性質であり、衰退する性質であり、離貪の性質であり、止滅する性質である」とあるがままに見ることによって真理の洞察が成就するのであり、それ以外ではない、という原因の観点から決択の智慧(nibbedhikapaññā)を示すために、「すべての行において戦慄が多い者となる」等と述べられた。そこにおいて「戦慄が多い(ubbegabahulo)」とは、述べられた理趣によって、すべての行において絶え間なく生じる戦慄(出離の畏れ)のことである。「恐怖が多い(uttāsabahulo)」とは、智慧の恐怖によってすべての行においてしばしば恐怖する心を持つことであり、これによって過患随観を言っている。しかし「厭離が多い(ukkaṇṭhanabahulo)」というこれによっては厭逆随観を言っている。「不歓喜が多い」等によっては、まさにその度重なる生起を言っている。「外に向かう(bahimukho)」とは、すべての行の外にある涅槃を目指して働く智慧を前面にする者、あるいはそのように働かせた解脱の門を持つ者である。貫き通すこと(洞察)が決択(nibbedha)であり、それがこの智慧にある、あるいは貫き通す(洞察する)がゆえに決択的であり、まさにその智慧が決択の智慧である。ここにおいて意味として分別されていないものは、すでに述べられた理趣によるものであり、明瞭な意味であるため、極めて容易に理解できる。
217. Pabbajitaṃ upāsitāti ettha yādisaṃ pabbajitaṃ upāsato paññāpaṭilābho hoti, taṃ dassetuṃ **‘‘paṇḍitaṃ pabbajita’’**nti vuttaṃ. Upāsanañcettha upaṭṭhānavasena icchitaṃ, na upanisīdanamattenāti āha **‘‘payirupāsitā’’**ti. Atthanti hitaṃ. Abbhantaraṃ karitvāti abbhantaragataṃ katvā. Tenāha **‘‘atthayutta’’**nti. Bhāvanapuṃsakaniddeso cāyaṃ, hitūpasañhitaṃ katvāti attho. Antara-saddo vā cittapariyāyo ‘‘yassantarato na santi kopā’’tiādīsu (udā. 20) viya. Tasmā atthantaroti hitajjhāsayoti attho.
217. 「出家者に仕えた」において、どのような出家者に仕えることによって智慧の獲得があるのかを示すために、「賢明な出家者に」と述べられた。ここでの「仕えること」とは給仕に基づいて望まれているのであり、単に近くに座ることによるのではないとし、「親近した(payirupāsitā)」と言った。「利益を(atthaṃ)」とは、有益なことを、ということである。「心に留めて(abbhantaraṃ karitvā)」とは、内部に入ったものとして、ということである。それゆえ「利益に適った」と言った。これは動作の性質を表す中性形の表現であり、利益に相応したものとして、という意味である。あるいは「内部(antara)」という語は、「その者の内には怒りが存在しない」などの場合のように、心の同義語である。したがって「利益を内に持つ者(atthantaro)」とは、利益を志向する心を持つ者、という意味である。
Paṭilābhatthāya gatenāti paṭilābhatthāya pavattena, paṭilābhasaṃvattaniyenāti attho. Uppāde ca nimitte ca chekāti uppādavidhimhi ceva nimittavidhimhi ca kusalā. Uppādanimittakovidatāsīsena cettha lakkhaṇakosallameva dasseti. Atha vā sesalakkhaṇānaṃ nibbattiyā buddhānaṃ, cakkavattīnañca uppādo anumīyati, yāni tehi laddhabbaānisaṃsāni nimittāni, tasmiṃ uppāde ca nimitte ca anuminanādivasena chekā nipuṇāti attho. Ñatvā passissatīti ñāṇena jānitvā passissati, na cakkhuviññāṇenāti adhippāyo.
「獲得のために赴いたものによって」とは、獲得のために働いたものによって、獲得をもたらすものによって、という意味である。「誕生と兆相に巧みである」とは、誕生の法則と兆相の法則の双方に熟達しているということである。誕生と兆相に熟達していることを主として、ここでは相への巧みさのみを示している。あるいは、残りの相の生起によって諸仏や転輪聖王の出現が推論され、彼らによって得られるべき功徳である諸々の兆相、その誕生と兆相において推論などによって巧みであり精通している、という意味である。「知って見るであろう」とは、智慧によって知って見るであろうということであり、眼の識別(眼識)によってではない、という意味である。
Atthānusāsanīsūti atthānaṃ hitānaṃ anusāsanīsu. Yasmā anatthapaṭivajjanapubbikā sattānaṃ atthapaṭipatti, tasmā anatthopi paricchijja gahetabbo, jānitabbo cāti vuttaṃ **‘‘atthānatthaṃ pariggāhakāni ñāṇānī’’**ti, yato ‘‘āyupāyakosallaṃ viya apāyakosallampi icchitabba’’nti vuttaṃ.
「利益の教誡において(atthānusāsanīsu)」とは、利益となる教誡において、ということである。衆生の利益の実践は、不利益を回避することを前進(前提)とするがゆえに、不利益もまた限定して把握されるべきであり、知られるべきであることから、「利益と不利益を把握する智慧」と述べられた。「進退(利益をもたらす手段)の巧みさのように、退歩(不利益をもたらす手段)の巧みさも望まれるべきである」と言われたからである。
Suvaṇṇavaṇṇalakkhaṇavaṇṇanā
金色相の解説
218. Paṭisaṅkhānabalena kodhavinayena akkodhano, na bhāvanābalenāti dassetuṃ **‘‘na anāgāmimaggenā’’**tiādi vuttaṃ. Evaṃ akkodhavasikattāti evaṃ maghamāṇavo viya na kodhavasaṃ gatattā. Nābhisajjīti kujjhanavaseneva na abhisajji. Yañhi kodhassa uppattiṭṭhānabhūte ārammaṇe upanāhassa paccayabhūtaṃ kujjhanavasena abhisajjanaṃ, taṃ idhādhippetaṃ, na lubbhanavasena. Tenāha **‘‘kuṭilakaṇṭako viyā’’**tiādi. So hi yattha laggati, taṃ khobhento eva laggati. Tattha tatthāti tasmiṃ tasmiṃ mammaṭṭhāne. Mammanti phuṭṭhamattepi rujjanaṭṭhānaṃ. Pubbuppattikoti paṭhamuppanno. Tato balavataro byāpādo laddhāsevanatāya cittassa byāpajjanato. Tato balavatarā patitthiyanāti sātisayaṃ laddhāsevanatāya tato byāpādāvatthāyapi balavatarā patitthiyanā paccatthikabhāvena thāmappattito.
218. 観察の力によって怒りを調伏することによる不瞋恚であり、修習の力によるのではないことを示すために、「不還道によってではなく」等と述べられた。このように怒りの支配を受けないことから、マカ青年(帝釈天の前世)のように怒りの支配を受けなかったからである。「激怒しなかった(nābhisajjī)」とは、怒りによって執着しなかった、ということである。実に怒りの生じる場所である対象において、怨恨の条件となる、怒りによる執着、それがここで意図されているのであり、貪欲による執着ではない。それゆえ「曲がった棘のように」等と言った。実にそれは刺さる場所において、その部位を激しく傷つけつつ刺さるのである。「其処此処に(tattha tattha)」とは、それぞれの急所においてである。「急所(mammaṃ)」とは、触れただけでも痛む場所である。「先に生じるもの(pubbuppattiko)」とは、最初に生じたもの(瞋恚)である。それよりも強力なものが、習習を得ることによって心が害意に陥るゆえに「害意(byāpādo)」である。それよりも強力なものが、格段に習習を得ることによって、その害意の段階よりも強力な「敵対心(patitthiyanā)」であり、敵対者としての強固さに達しているからである。
Sukhumattharaṇādīti ādi-saddena paṇītabhojanīyādīnampi saṅgaho daṭṭhabbo bhojanadānassapi vaṇṇasampadānimittabhāvato. Tenāha bhagavā ‘‘bhojanaṃ bhikkhave dadamāno dāyako paṭiggāhakānaṃ…pe… āyuṃ deti, vaṇṇaṃ detī’’ti (a. ni. 5.37) tathā ca vakkhati ‘‘āmisadānena vā’’ti.
「微細な敷物など(sukhumattharaṇādi)」の「など」の語によって、殊勝な食物などの包含もまた見なされるべきである。食物の施しもまた美貌(色身の成就)の原因となるからである。それゆえ世尊は「比丘たちよ、食事を与える施主は、受者に……(中略)……寿命を与え、美貌を与える」(増支部5.37)と言われ、また後に「あるいは物質的な施しによって」と説かれる通りである。
219. Ti adāsi. Devoti megho, pajjunno eva vā. Varataroti uttamataro. Pabbajjāya visadisāvatthādi bhāvato na pabbajjāti apabbajjā, gihibhāvo. Acchādenti kopīnaṃ paṭicchādenti etehīti acchādanāni, nivāsanāni, tesaṃ acchādanānañceva sesa vatthānañca kojavādi uttamapāvuraṇānañca. Vināsoti katassa kammassa avipaccitvā vināso.
219. 「与えた(ti adāsi)」。天とは雨雲、あるいは雨神そのものである。「より優れた(varataro)」とは、より至上な、ということである。出家とは異なる状態などであることから、出家ではないものを「非出家(apabbajjā)」、すなわち在家状態という。恥部を覆い隠すもの(nivāsana)を「被覆(acchādanāni)」といい、それらの下着類および残りの衣服類、また毛織物などの至上の上着類のことである。「破滅(vināso)」とは、なされた行為が実を結ぶことなく損なわれることである。
Kosohitavatthaguyhalakkhaṇavaṇṇanā
陰蔵相の解説
220. Samānetāti sammadeva ānetā samāgametā. Rajje patiṭṭhitena sakkā kātuṃ bahubhatikasseva ijjhanato. Kattā nāma natthīti vajjaṃ paṭicchādentīti ānetvā sambandho, karonti vajjapaṭicchādanakammanti vā. Nanu vajjapaṭicchādanakammaṃ nāma sāvajjanti? Saccaṃ sāvajjaṃ saṃkiliṭṭhacittena paṭicchādentassa, idaṃ pana asaṃkiliṭṭhacittena parassa uppajjanakaanatthaṃ pariharaṇavasena pavattaṃ adhippetaṃ. **‘‘Ñātisaṅgahaṃ karontenā’’**ti etena ñātatthacariyāvasena taṃ kammaṃ pavattatīti dasseti.
220. 「統合する者(samānetā)」とは、正しくもたらす者、集わせる者である。王位に就いた者によってなすことが可能である。多くの従者を持つ者にのみ成就するからである。「作者は存在しない」とは、過失を覆い隠すという文脈に引き入れて結びつけるか、あるいは過失を覆い隠す行為を行う、ということである。「過失を覆い隠す行為とは有罪(過失あること)ではないのか」と。確かに汚れた心で覆い隠す者にとっては有罪であるが、しかしこれは汚れていない心で、他者に生じるであろう不利益を回避することに基づいて行われたことが意図されている。「親族の摂受をなすことによって」というこれによって、親族への利行に基づいてその行為が行われることを示している。
221. Amittatāpanāti amittānaṃ tapanasīlā, amittatāpanaṃ hotu vā mā vā evaṃsabhāvāti attho. Na hi cakkavattino puttānaṃ amittā nāma keci honti, ye te bhaveyyuṃ, cakkānubhāveneva sabbepi khattiyādayo anuvattakā tesaṃ bhavanti.
221. 「敵を苦しめる者(amittatāpanā)」とは、敵を苦しめる性質の者、敵の苦悩となろうとならなかろうと、そのような性質を持つ者、という意味である。実に転輪聖王の王子たちには、敵となるような者はいかなる者も存在しない。存在するかもしれない者たちであっても、輪宝の威光によってすべての王族(クシャトリヤ)などが彼らに従う者となるのである。
Paṭhamabhāṇavāravaṇṇanā niṭṭhitā.
第一誦分の解説の終了。
Parimaṇḍalādilakkhaṇavaṇṇanā
大円満相等の解説
222. Samanti samānaṃ. Tena tena loke viññātaguṇena samaṃ samānaṃ jānāti, yato tattha paṭipajjanavidhināva itarasmiṃ paṭipajjati. Sayaṃ jānātīti aparaneyyo hutvā sayameva jānāti. Purisaṃ jānātīti vā ‘‘ayaṃ seṭṭho, ayaṃ majjhimo, ayaṃ nihīno’’ti taṃ taṃ purisaṃ yāthāvato jānāti. Purisavisesaṃ jānātīti tasmiṃ tasmiṃ purise vijjamānaṃ visesaṃ jānāti, yato tattha tattha anurūpadānapadānādipaṭipattiyā yuttapattakārī hoti. Tenāha **‘‘ayamidamarahatī’’**tiādi.
222. 「平等に(samaṃ)」とは、同等に、ということである。世間で知られたそれぞれの徳によって等しく同等であると知るのであり、それゆえにそこにおいて実践する方法によって他者に対しても実践する。「自ら知る(sayaṃ jānāti)」とは、他者に導かれることなく自ら知るということである。あるいは「人を知る」とは、「この者は最上であり、この者は中位であり、この者は下位である」とその人をあるがままに知ることである。「人の卓越性を知る」とは、それぞれの人物に存在する卓越した徳を知ることであり、それゆえに其処此処において相応しい施しを与えるなどの実践により、適切かつ相応しいことを行う者となる。それゆえ「この者はこれに値する」等と言った。
Sampattipaṭilābhaṭṭhenāti diṭṭhadhammikādisampattīnaṃ paṭilābhāpanaṭṭhena. Samasaṅgahakammanti samaṃ jānitvā tadanurūpaṃ tassa tassa saṅgaṇhanakammaṃ.
「成就の獲得という意味において」とは、現世などの成就を獲得させるという意味において、ということである。「平等の摂受の行為」とは、平等に知った上で、それに応じてその人を摂受する行為のことである。
223. Tulayitvāti tīrayitvā. Paṭivicinitvāti vīmaṃsitvā. Nipuṇayogato nipuṇā, ativiya nipuṇā atinipuṇā, sā pana tesaṃ nipuṇatā saṇhasukhumā paññāti āha **‘‘sukhumapaññā’’**ti.
223. 「量って(tulayitvā)」とは、判定して、ということである。「考察して(paṭivicinitvā)」とは、思量して、ということである。精妙な専心によるがゆえに「精妙(nipuṇā)」であり、極めて精妙であるゆえに「極めて精妙(atinipuṇā)」である。彼らのその精妙さとは微細で精妙な智慧であるとし、「微細な智慧(sukhumapaññā)」と言った。
Sīhapubbaddhakāyādilakkhaṇavaṇṇanā
師子上半身相等の解説
224. Khemakāmoti anupaddavakāmo. Kammassakatāñāṇaṃ sattānaṃ vaḍḍhiāvahaṃ sabbasampattividhāyakanti āha **‘‘paññāyāti kammassakatāpaññāyā’’**ti.
224. 「平安を望む者(khemakāmo)」とは、災難のないことを望む者である。業所有智は衆生に成長をもたらし、すべての成就を成し遂げるものであるとし、「智慧によってとは、業所有の智慧によってである」と言った。
Samantaparipūrānīti samantato sabbabhāgehi paripuṇṇāni. Tato eva ahīnāni anūnāni. Dhanādīhīti dhanadhaññādīhi.
「完全に円満な(samantaparipūrāni)」とは、周囲のすべての部分において満ち足りていることである。それゆえに減じることなく、欠けることがない。「財産などによって」とは、財貨や穀物などによって、ということである。
225. Okappanasaddhā saddheyyavatthuṃ okkanditvā pakkhanditvā saddahanasaddhā. Sā eva pasādanīyavatthusmimpi abhippasīdanavasena pavattiyā pasādasaddhā. Pariyattisavanenāti sattānaṃ hitasukhāvahāya pariyattiyā savanena. Dhāraṇaparicayādīnaṃ taṃmūlakattā tathā vuttaṃ. Etesanti saddhādīnaṃ. Saha hānadhammenāti sahānadhammo, na sahānadhammoti asahānadhammo, tassa bhāvo asahānadhammatā, taṃ asahānadhammataṃ, aparihāniyasabhāvanti attho.
225. 「確信の信仰(okappanasaddhā)」とは、信ずべき対象に飛び込み、沈潜して信じる信仰である。まさにそれが浄信すべき対象においても大いに澄み清まることに基づいて働くことから「浄信の信仰(pasādasaddhā)」である。「教えの聴聞によって」とは、衆生の利益と幸福をもたらす教説の聴聞によって、ということである。記憶や習熟などがそれを根本としていることから、そのように述べられた。「これらの(etesanti)」とは、信仰などのことである。「退転の性質を伴うもの(sahānadhammo)」の反対が「退転の性質を伴わないもの(asahānadhammo)」であり、その状態が「非退転性(asahānadhammatā)」であり、その非退転性を、すなわち退転しない性質を、という意味である。
Rasaggasaggitālakkhaṇavaṇṇanā
最上味覚相の解説
226. Tilaphalamattampi bhojanaṃ. Sabbattha pharatīti sabbā rasāharaṇiyo anussarantaṃ sabhāvena sabbasmiṃ kāye pharati. Samā hutvā vahantīti avisamā ujukā hutvā pavattanti.
226. 胡麻の粒ほどのわずかな食事であっても、「あまねく行き渡る」とは、すべての味覚を運ぶ脈管を伝って、自然とその全身に行き渡るということである。「等しく流れる」とは、不均等でなく真っ直ぐになって機能する、ということである。
Ārogyakaraṇakammanti arogabhāvakaraṃ sattānaṃ aviheṭhanakammaṃ. Madhurādibhedaṃ rasaṃ gasati harati etehi, sayameva vā taṃ gasanti gilanti anto pavesentīti rasaggasā, rasaggasānaṃ aggā rasaggasaggā, te ettha santīti rasaggasaggī, tadeva lakkhaṇaṃ. Bhavati hi abhinnepi vatthusmiṃ taggatavisesāvabodhanatthaṃ bhinnaṃ viya katvā vohāro yathā ‘‘silāputtakassa sarīra’’nti. Rasaggasaggitāsaṅkhātaṃ vā lakkhaṇaṃ rasaggasaggilakkhaṇaṃ.
「無病をもたらす行為」とは、無病の状態をもたらす、衆生を害さない行為のことである。甘味などの種々の味をこれらによって飲み込み、吸収する、あるいは自らそれらを飲み込み、嚥下し、内部へと入れるがゆえに「味を吸う脈管(rasaggasā)」といい、味を吸う脈管の最上なるものを「最上の味の脈管(rasaggasaggā)」といい、それらがここにあるがゆえに「最上味覚を有するもの(rasaggasaggī)」であり、まさにそれが相である。実に区別のない対象であっても、そこにある卓越した性質を理解させるために、あたかも「石臼の身体」というように、区別されたかのように表現されることがあるからである。あるいは最上味覚相と呼ばれる相を「最上味覚相」という。
227. Vadha-saddo ‘‘attānaṃ vadhitvā vadhitvā rodatī’’tiādīsu (pāci. 879) bādhanatthopi hotīti tato visesanatthaṃ **‘‘māraṇavadhenā’’**ti vuttaṃ, māraṇasaṅkhātena vadhenāti attho. Bādhanattho eva vā vadha-saddo, māraṇena, bādhanena cāti attho. Ubbādhanāyāti bandhanāgāre pakkhipitvā uddhaṃ uddhaṃ bādhanena. Tenāha **‘‘bandhanāgārappavesanenā’’**ti.
227. 「殺害・打擲(vadha)」という語は、「自らを打ち叩いては泣く」などの場合のように、苦しめるという意味にもなるため、それと区別するために「命を奪う殺害によって」と述べられたのであり、命を奪うことと呼ばれる殺害によって、という意味である。あるいは「vadha」の語は単に苦しめるという意味であり、命を奪うことによって、また苦しめることによって、という意味である。「過激に苦しめることによって(ubbādhanāya)」とは、牢獄に投げ入れて極度に苦しめることによって、ということである。それゆえ「牢獄に入れることによって」と言った。
Abhinīlanettādilakkhaṇavaṇṇanā
紺青眼相等の解説
228. Visaṭanti kujjhanavasena vinisaṭaṃ katvā. Tenāha **‘‘kakkaṭako viyā’’**tiādi. Visācīti virūpaṃ sācitakaṃ, vijimhanti attho. Tenāha **‘‘vaṅkakkhikoṭiyā’’**ti, kuṭilaakkhikoṭipātenāti attho. Viceyya pekkhitāti ujukaṃ anoloketvā diṭṭhipātaṃ vicāretvā oloketvā. Tenāha **‘‘yo kujjhitvā’’**tiādi. Paroti kujjhito. Na oloketi taṃ sammukhā gacchantaṃ kujjhitvā na oloketi, parammukhā. Viteyyāti virūpaṃ tiriyaṃ, viññūnaṃ olokanakkamaṃ vītikkamitvāti attho. Jimhaṃ anoloketvā ujukaṃ olokanaṃ nāma kuṭilabhāvakarānaṃ pāpadhammānaṃ abhājanaujukatacittatasseva hotīti āha **‘‘ujumano hutvā ujuṃ pekkhitā’’**ti. Yathā ca ujuṃ pekkhitā hotīti ānetvā sambandho. Pasaṭanti ummīlanavasena sammadeva patthaṭaṃ. Vipulaṃ vitthatanti tasseva vevacanaṃ. Piyaṃ piyāyitabbaṃ dassanaṃ olokanaṃ etassāti piyadassano.
228. 「見開かれた(visaṭaṃ)」とは、怒りによって見開かれた状態にして、ということである。それゆえ「蟹のように」等と言った。「歪んだ(visācī)」とは、醜く斜めになった、歪んだ、という意味である。それゆえ「曲がった目尻によって」と言い、曲がった目尻を向けることによって、という意味である。「仔細に観察して見る者(viceyya pekkhitā)」とは、真っ直ぐに見ず、視線を巡らせて見ることである。それゆえ「怒った者が」等と言った。「他者(paro)」とは、怒られた者である。「見ない」とは、彼が正面から歩んでくるときに怒って見ず、顔を背けることである。「横目に(viteyyā)」とは、醜く斜めに、賢者たちの注視の作法を踏み外して、という意味である。歪んで見ることなく真っ直ぐに見ることは、曲がった状態をもたらす悪法を容れない端直な心を持つ者にのみ生じるため、「端直な心となって真っ直ぐに見る者」と言った。「そして真っ直ぐに見る者となるように」と文脈を引き入れて結びつける。「広がった(pasaṭaṃ)」とは、目を開くことによって正しく広がったことである。「広大で拡張した」とはそれ自体の同義語である。「愛らしく、愛されるべき眼差し、注視をその人は持つ」ゆえに「愛らしい眼差しを持つ者(piyadassano)」である。
Kāṇoti akkhīni nimmīletvā pekkhanako. Kākakkhīti kekarakkho. Vaṅkakkhīti jimhapekkhanako. Āvilakkhīti ākuladiṭṭhipāto. Nīlapītalohitasetakāḷavaṇṇānaṃ vasena pañcavaṇṇo. Tattha pītalohitavaṇṇā setamaṇḍalagatarājivasena, nīlasetakāḷavaṇṇā pana taṃtaṃmaṇḍalavaseneva veditabbā. ‘‘Pasādoti pana tesaṃ vaṇṇānaṃ pasannākāraṃ sandhāya vutta’’nti keci. Pañcavaṇṇo pasādoti pana yathāvuttapañcavaṇṇaparivāro, tehi vā paṭimaṇḍito pasādoti attho. Nettasampattikarānīti ‘‘pañcavaṇṇapasādatā tirohitavidūragatadassanasamatthatā’’ti evamādi cakkhusampadāya kāraṇāni. Lakkhaṇasatthe yuttāti lakkhaṇasatthe āyuttā sukusalā.
「一眼の者(kāṇo)」とは、目を閉じて見る者である。「烏眼の者(kākakkhī)」とは、斜視の目を持つ者である。「曲眼の者(vaṅkakkhī)」とは、歪んで見る者である。「濁眼の者(āvilakkhī)」とは、乱れた視線を向ける者である。青、黄、赤、白、黒の色彩によって「五色」である。そこにおいて黄と赤の色彩は白目の輪にある筋に基づいており、青、白、黒の色彩はそれぞれの輪に基づいて知られるべきである。「清浄(澄明)とは、それらの色彩の清らかな様態を指して述べられたものである」と言う人々もいる。「五色の澄明」とは、前述の五色に取り囲まれた、あるいはそれらによって飾られた澄明、という意味である。「眼の成就をもたらすもの」とは、「五色の澄明さ、遮られたものや遠くにあるものを見る能力」といった、眼の成就の原因となるもののことである。「相の学問に従事する者(lakkhaṇasatthe yuttā)」とは、相の学問に専心し、極めて熟達した者たちである。
Uṇhīsasīsalakkhaṇavaṇṇanā
肉髻相の解説
230. Pubbaṅgamoti ettha pubbaṅgamatā nāma pamukhatā, jeṭṭhaseṭṭhakabhāvo bahujanassa anuvattanīyatāti āha **‘‘gaṇajeṭṭhako’’**tiādi.
230. 「先導者(pubbaṅgamo)」において、先導者であることとは首位であること、最年長・最上位の状態であり、多くの人々によって従われるべきことであるとし、「集団の長(gaṇajeṭṭhako)」等と言った。
Pubbaṅgamatāti pubbaṅgamassa kammaṃ. Yassa hi kāyasucaritādikammassa vasena mahāpuriso bahujanassa pubbaṅgamo ahosi, tadassa kammaṃ ‘‘pubbaṅgamatā’’ti adhippetaṃ, na pubbaṅgamabhāvo. Tenāha **‘‘idha kammaṃ nāma pubbaṅgamatā’’**ti. Pītipāmojjena paripuṇṇasīsoti pītiyā, pāmojjena ca sampuṇṇapaññāsīso bahulaṃ somanassasahagatañāṇasampayuttacittasamaṅgī eva hutvā vicarati. Mahāpurisoti mahāpurisajātiko.
「先導者であること(pubbaṅgamatā)」とは、先導者の行為のことである。実に大士がそれに基づいて多くの人々の先導者となった身の善行などの行為、その彼の行為が「先導者であること」と意図されているのであり、先導者である状態そのものではない。それゆえ「ここでの行為とは先導者であることである」と言った。「喜悦と歓喜によって頭部が満たされた者」とは、喜悦と、歓喜によって満たされた智慧の頭部を持ち、多くは喜悦を伴う智慧と相応した心を具足した者となって歩む。「大士(mahāpuriso)」とは、偉大な人物の生まれの者である。
231. Bahujananti sāmiatthe upayogavacananti āha **‘‘bahujanassā’’**ti. Paribhuñjanaṭṭhena paṭibhogo, upayogavatthu paṭibhogo, tassa hitāti paṭibhogiyā. Desakālaṃ ñatvā tadupakaraṇūpaṭṭhānādi veyyāvaccakarā sattā. Abhiharantīti byāharanti. Tassa tassa veyyāvaccassa paṭiharaṇato pavattanakaraṇato paṭihāro, veyyāvaccakaro, tassa bhāvo paṭihārakanti āha **‘‘veyyāvaccakarabhāva’’**nti. Visavanaṃ visavo, kāmakāro vasitā, so etassa atthīti visavīti āha **‘‘ciṇṇavasī’’**ti.
231. 「多くの人々を(bahujanaṃ)」とは、主格(あるいは所有格)の意味における対格表現であるとし、「多くの人々の」と言った。享受するという意味で「受用物(paṭibhogo)」、使用する品物が受用物であり、それに有益であるゆえに「受用に適した者たち(paṭibhogiyā)」である。場所や時を知って、その道具や給仕などの用務を行う衆生である。「持参する(abhiharanti)」とは、言い表すことである。それぞれの用務を果たし、行わせることから「用務を果たす者(paṭihāro)」、すなわち雑務を行う者であり、その状態を用務を果たすこととし、「雑務を行う者の状態」と言った。自由自在に振る舞うことが「自在性(visavo)」であり、意のままになること、自在力であり、それがこの人にあるゆえに「自在の者(visavī)」であるとし、「自在を修めた者」と言った。
Ekekalomatādilakkhaṇavaṇṇanā
一毛一孔相等の解説
232. Upavattatīti anukūlabhāvaṃ upecca vattati. Tenāha **‘‘ajjhāsayaṃ anuvattatī’’**ti.
232. 「順応する(upavattati)」とは、順応する状態に至って振る舞うことである。それゆえ「意向に従う」と言った。
Ekekalomalakkhaṇanti ekekasmiṃ lomakūpe ekekalomatālakkhaṇaṃ. Ekekehi lomehīti aññesaṃ sarīre ekekasmimpi lomakūpe anekānipi lomāni uṭṭhahanti, na tathāgatassa. Tehi puna paccekaṃ lomakūpesu ekekeheva uppannehi kuṇḍalāvattehi padakkhiṇāvattakajātehi nicitaṃ viya sarīraṃ hotīti vuttaṃ ‘‘ekekalomūpacitaṅgavā’’ti.
「一毛相(ekekalomalakkhaṇaṃ)」とは、一つ一つの毛孔に一本ずつの毛が生えている相のことである。「一本ずつの毛によって(ekekehi lomehi)」とは、他の人々の身体においては一つの毛孔にも多くの毛が生えるが、如来にはそうではない。それら個々の毛孔に一本ずつ生じ、右巻きに渦巻いて生じた毛によって、身体が満たされているかのようであることから、「一本ずつの毛で覆われた身体を持つ者」と述べられた。
Cattālīsādilakkhaṇavaṇṇanā
四十歯相等の解説
234. Abhinditabbaparisoti parehi kenaci saṅgahena saṅgahetvā, yuttikāraṇaṃ dassetvā vā na bhinditabbapariso.
234. 「会衆を破られない者(abhinditabbapariso)」とは、他者たちによっていかなる摂受をもって摂受されても、また論理的な理由を示されても、会衆を破られることのない者である。
Apisuṇavācāyāti upayogatthe sāmivacanaṃ, pesuññassa paṭipakkhabhūtaṃ kusalakammaṃ. Pisuṇā vācā etassāti pisuṇavāco, tassa pisuṇavācassa puggalassa. Aparipuṇṇāti cattārīsato ūnabhāvena na paripuṇṇā. Viraḷāti savivarā.
「離間語のない言葉によって(apisuṇavācāya)」とは、対格の意味における所有格表現であり、離間語の反対となる善行のことである。離間語を語る言葉をその人が持つゆえに「離間語を語る者(pisuṇavāco)」であり、その離間語を語る人物のことである。「満ちていない(aparipuṇṇā)」とは、四十に満たない状態によって満ちていないことである。「隙間のある(viraḷā)」とは、間隙があることである。
Pahūtajivhādilakkhaṇavaṇṇanā
広長舌相等の解説
236. Ādeyyavācoti ādaragāravavasena ādātabbavacano. ‘‘Evameta’’nti gahetabbavacano sirasā sampaṭicchitasāsano.
236. 「受け入れられるべき言葉を持つ者(ādeyyavāco)」とは、敬意と尊重に基づいて受け入れられるべき言葉を持つ者である。「その通りである」と受け取られるべき言葉を持ち、頭上に受け入れられる教えを持つ者である。
Baddhajivhāti yathā sukhena parivattati, evaṃ sirādīhi palibuddhajivhā. Gūḷhajivhāti rasabahalatāya gūḷhagaṇḍasadisajivhā. Dvijivhāti agge kappabhāvena dvidhābhūtajivhā. Mammanāti apparippuṭatalāpā. Kharapharusakakkasādivasena saddo bhijjati bhinnakāro hoti. Vicchinditvā pavattassaratāya chinnassarā vā. Anekākāratāya bhinnassarā vā. Kākassa viya amanuññassaratāya kākassarā vā. Madhuroti iṭṭhe, kammaphalena vatthuno suvisuddhattā. Pemanīyoti pītisañjanano, piyāyitabbo vā.
「縛られた舌(baddhajivhā)」とは、容易に動くことができないように筋などで縛られた舌のことである。「隠れた舌(gūḷhajivhā)」とは、味蕾が厚いことによって隠れた瘤のようになっている舌のことである。「二股の舌(dvijivhā)」とは、先端で切れて二つに分かれている舌のことである。「吃りの者(mammanā)」とは、不明瞭に語る者たちである。粗悪で、荒々しく、ざらざらしていることなどによって声が壊れ、かすれた状態となる。途切れ途切れに生じる声であることから「途切れた声(chinnassarā)」、あるいは多様な様態であることから「かすれ声(bhinnassarā)」である。烏のように不快な声であることから「烏声(kākassarā)」である。「甘美である(madhuro)」とは、望ましいものであり、行為の果によって声の基盤が極めて清浄であるからである。「親愛の念を起こさせる(pemanīyo)」とは、歓喜を生じさせる、あるいは愛されるべき、ということである。
237. Akkosayuttattāti akkosupasañhitattā akkosavatthusahitattā. Ābādhakarinti ghaṭṭanavasena paresaṃ pīḷāvahaṃ. Bahuno janassa avamaddanato, pamaddābhāvakaraṇato vā bahujanappamaddanaṃ. Abāḷhanti vā ettha a-kāro vuddhiattho ‘‘asekkhā dhammā’’tiādīsu (dha. sa. tikamātikā 11) viya, tasmā ativiya bāḷhaṃ pharusaṃ giranti evamettha attho veditabbo. Na bhaṇīti cettha ‘‘na abhaṇi na bhaṇī’’ti saralopena niddeso. Susaṃhitanti suṭṭhu saṃhitaṃ. Kena pana suṭṭhu saṃhitaṃ? ‘‘Madhura’’nti anantarameva vuttattā madhuratāyāti viññāyati, kā panassa madhuratāti āha **‘‘suṭṭhu pemasaṃhita’’**nti. Upayogaputhuttavisayo yaṃ vācā-saddoti āha **‘‘vācāyo’’**ti, sā cassā upayogaputhuttavisayatā ‘‘hadayagāminiyo’’ti padena samānādhikaraṇatāya daṭṭhabbā. **‘‘Kaṇṇasukha’’**nti pāṭhe bhāvanapuṃsakaniddesoyanti dassetuṃ **‘‘yathā’’**tiādi vuttaṃ. Vedayathāti kālavipallāsenāyaṃ niddesoti āha **‘‘vedayitthā’’**ti. Brahmassaratanti seṭṭhassarataṃ, brahmuno sarasadisassarataṃ vā. Bahūnaṃ bahunti bahūnaṃ janānaṃ bahuṃ subhaṇitanti yojanā.
237. 「罵倒を伴うがゆえに(akkosayuttattā)」とは、罵倒を具足し、罵倒の根拠を伴うがゆえに、ということである。「苦痛をもたらすものを(ābādhakariṃ)」とは、衝突することによって他者に苦痛をもたらすものを、ということである。多くの人々を踏みにじることから、あるいは制圧されない状態をなくすことから「多くの人々を踏みにじるもの(bahujanappamaddanaṃ)」である。あるいは「激しくない(abāḷhaṃ)」における「a」の音は、「無学の法(asekkhā dhammā)」などの場合のように増大の意味であり、したがって「極めて激しく荒々しい言葉を」と、このようにここでの意味は理解されるべきである。「語らなかった(na bhaṇi)」における表現は、「na abhaṇi(語らなかった)」の母音の脱落による指示である。「善く調和した(susaṃhitaṃ)」とは、見事に調和した、ということである。「では何によって善く調和したのか」と言えば、直前に「甘美なる」と述べられていることから、甘美さによってであると知られる。ではその甘美さとは何かといえば、「善く慈愛に調和した」と言った。対格の複数形の対象領域であるこの「言葉(vācā)」という語について、「諸々の言葉を(vācāyo)」と言った。その対格複数形の対象領域であることは、「心に至るもの(hadayagāminiyo)」という語と同格であることによって見なされるべきである。「耳に快い(kaṇṇasukhaṃ)」という読誦において、これは動作の性質を表す中性形の表現であることを示すために、「~のように」等と述べられた。「知らせた(vedayatha)」とは、時制の転倒(過去形の意味)による指示であるとし、「知らせた(vedayittha)」と言った。「梵音(brahmassaratā)」とは、最上の声、あるいは梵天の声に類似した声のことである。「多くの人々に多くのことを」とは、多くの人々に多くの善き説示を、と解釈される。
Sīhahanulakkhaṇavaṇṇanā
師子頬相の解説
238. Appadhaṃsikoti appadhaṃsiyo. Ya-kārassa hi ka-kāraṃ katvā ayaṃ niddeso yathā ‘‘niyyānikā dhammā’’ti (dha. sa. dukamātikā 97) guṇatoti attanā adhigataguṇato. Ṭhānatoti yathāṭhitaṭṭhānantarato.
238. 「損なわれ得ない者(appadhaṃsiko)」とは、損なうことができない者である。「ya」の音を「ka」の音にしてこの指示がなされているのであり、あたかも「出離の法(niyyānikā dhammā)」というがごときである。「徳によって」とは、自ら獲得した徳によって、ということである。「地位によって」とは、正しく就いている地位によって、ということである。
Palāpakathāyāti samphappalāpakathāya. Antopaviṭṭhahanukā ekato, ubhato vā saṃkucitavisukā. Vaṅkahanukā ekapassena kuṭilavisukā. Pabbhārahanukā purato olambamānavisukā.
「無益な言辞によって(Palāpakathāya)」とは、無駄話(綺語)の言辞によってということである。「内に入り込んだ顎」とは、一方または両方が縮んで歪んだものである。「曲がった顎」とは、片側へと曲がり歪んだものである。「垂れ下がった顎」とは、前方へと垂れ下がって歪んだものである。
239. Vikiṇṇavacanā nāma samphappalāpino, tappaṭikkhepena avikiṇṇavacanā mahābodhisattā. Vācā eva tadatthādhigamupāyatāya **‘‘byāppatho’’**ti vuttāti āha **‘‘avikiṇṇa…pe… vacanapatho assā’’**ti. **‘‘Dvīhi dvīhī’’**ti nayidaṃ āmeḍitavacanaṃ asamānādhikaraṇato, atha kho dvīhi diguṇatādassananti āha **‘‘dvīhi dvīhīti catūhī’’**ti. Tasmā ‘‘dvidugamā’’ti catugamā vuttāti āha **‘‘catuppadāna’’**nti. Tathāsabhāvoti yathāssa vuttanayena kenaci appadhaṃsiyatā hoti guṇehi, tathāsabhāvo.
239. 「乱れた言辞を語る者たち(Vikiṇṇavacanā)」とは無駄話を語る者たちのことであり、その反対として、大菩薩たちは「乱れない言辞を語る者たち」である。言葉そのものがその意味を獲得する手段であることから「言葉の道(byāppatho)」と言われたのである。それゆえに「その人の言葉の道は乱れず…乃至…」と言われたのである。「二つずつ二つずつ(Dvīhi dvīhi)」とは、同格ではないため畳語(反復)ではなく、二つの二倍であることを示すものである。それゆえに「二つずつ二つずつとは、四つによってということである」と言われたのである。したがって、「二つの歩み難きもの」とは四つの歩行が語られたのである。それゆえに「四足の者たちの」と言われたのである。「そのような性質のもの(Tathāsabhāvo)」とは、彼が説かれた通りのあり方により、何者にもその徳によって侵害されないような、そのような性質のものということである。
Samadantādilakkhaṇavaṇṇanā
齊歯相などの相の解説
240. Visuddhasīlācāratāya parisuddhā samantato sabbathā vā suddhā puggalā parivārā etassāti parisuddhaparivāro.
240. 清浄な戒律と行儀を備えていることによって清らかであり、四方から、あるいはあらゆる意味で清らかな人々を従者(眷属)として持つ者であるから「清浄な従者を持つ者(parisuddhaparivāro)」という。
241. Pahāsīti tadaṅgavasena, vikkhambhanavasena ca pariccaji. Tidivaṃ tāvatiṃsabhavanaṃ puraṃ nagaraṃ etesanti tidivapurā, tāvatiṃsadevā, tesaṃ varo tidivapuravaro, indo. Tena tidivapuravarena. Tenāha **‘‘sakkenā’’**ti. Lapanti kathenti etenāti lapanaṃ, mukhanti āha **‘‘lapanajanti mukhaja’’**nti. Suṭṭhu dhavalatāya sukkā, īsakampi asaṃkiliṭṭhatāya suci. Sundarasaṇṭhānatāya suṭṭhu bhāvanato, vipassanato ca sobhanā. Kāmaṃ janānaṃ manussānaṃ nivāsanaṭṭhānādibhāvena patiṭṭhābhūto desaviseso ‘‘janapado’’ti vuccati, idha pana saparivāracatumahādīpasaññito sabbo padeso tathā vuttoti āha **‘‘cakkavāḷaparicchinno janapado’’**ti. Nanu ca yathāvutto padeso samuddaparicchinno, na cakkavāḷapabbataparicchinnoti? So padeso cakkavāḷaparicchinnopi hotīti tathā vuttaṃ. Ye vā samuddanissitā, cakkavāḷapādanissitā ca sattā, tesaṃ te te padesā patiṭṭhāti tepi saṅgaṇhanto **‘‘cakkavāḷaparicchinno’’**ti avoca. Cakkavāḷaparicchinnoti ca cakkavāḷena paricchinnoti evamettha attho daṭṭhabbo. Tassāti tassa cakkavattino. Puna tassāti tassa janapadassa. Bahujana sukhanti ettha paccattabahuvacanalopena bahujanaggahaṇanti āha **‘‘bahujanā’’**ti. Yathā pana te hitasukhaṃ caranti, taṃ vidhiṃ dassetuṃ **‘‘samānasukhadukkhā hutvā’’**ti vuttaṃ. Vigatapāpoti sabbaso samucchindanena viniddhutapāpadhammo. Daratho vuccati kāyiko, cetasiko ca pariḷāho. Tattha cetasikapariḷāho ‘‘vigatapāpo’’ti imināva vuttoti āha **‘‘vigatakāyikadarathakilamatho’’**ti. Rāgādayo yasmiṃ santāne uppannā, tassa malīnabhāvakaraṇena malā. Kacavarabhāvena khilā. Sattānaṃ mahānatthakarattā visesato doso kalīti vuttaṃ **‘‘dosakalīnañcā’’**ti. Panūdehīti samucchindanavasena sasantānato nīhārakehi, pajahanakehīti attho. Sesaṃ suviññeyyameva.
241. 「捨て去った(Pahāsī)」とは、彼分(一時的)によって、また鎮伏によって放棄したということである。「ティディヴァ(Tidiva)」とは三十三天の住処である都市(都)のことであり、その都を持つ者たちが三十三天の神々(tidivapurā)である。彼らの中で最勝の者が「三十三天の都の勝者(tidivapuravaro)」すなわちインドラ(帝釈天)である。その三十三天の都の勝者によって、ということである。それゆえに「帝釈天によって」と言われたのである。これによって話し、語るゆえに「口(lapanaṃ)」であり、口のことである。それゆえに「口に生じた(lapanajaṃ)とは、口に生じたことである」と言われたのである。十分に白いことから「白く」、微塵も汚れがないことから「清らか」である。美しい形をしていることから、美しく現れ、見栄えが良いことから「美しく輝く」のである。確かに、人々の居住地などとして拠り所となる特定の地域は「国土(janapado)」と呼ばれるが、ここでは四方の大洲とその眷属(島々)と名づけられた全領域がそのように言われているのである。それゆえに「輪囲山に区切られた国土」と言われたのである。「しかし、説かれた地域は海に区切られているのであって、輪囲山に区切られているのではないのではないか」と問うなら、その地域は輪囲山に区切られたものでもあるので、そのように説かれたのである。あるいは、海に依存する生きとし生けるもの、輪囲山の麓に依存する生きとし生けるもの、彼らのそれぞれの地域が拠り所であるため、それらをも包摂して「輪囲山に区切られた」と言ったのである。「輪囲山に区切られた」とは、輪囲山によって区切られたという意味であると理解されるべきである。「彼の(Tassa)」とは、その転輪聖王の。「再び彼の(tassa)」とは、その国土の。「多くの人々の幸福(Bahujana sukhaṃ)」という箇所では、主格複数語尾の脱落によって「多くの人々(bahujanā)」と把握される。それゆえに「多くの人々」と言われたのである。しかし、彼らがどのように利益と幸福を実践するのか、その方法を示すために「苦楽を共にして」と言われたのである。「悪を離れた者(Vigatapāpo)」とは、完全に根絶することによって悪の法を払い落とした者のことである。「苦悶(daratho)」とは、身体的および精神的な熱悩(苦しみ)をいう。そのうち、精神的な熱悩は「悪を離れた者」という語によってすでに語られている。それゆえに「身体的な苦悶と疲労を離れた者」と言われたのである。貪りなどの煩悩は、生じた相続(心相続)を汚すことによって「汚れ(垢)」である。塵芥(ごみ)であることによって「荒地(心の荒廃)」である。有情たちに大きな無益をもたらすことから、特に怒り(瞋恚)は「不運・禍(kali)」と言われ、「瞋恚という禍をも」と言われたのである。「打ち払う者たちによって(Panūdehi)」とは、根絶することによって自らの心相続から取り除く者たち、捨断する者たちによってという意味である。残りは容易に理解できる。
Ettha ca yasmā sabbesampi lakkhaṇānaṃ mahāpurisasantānagatapuññasambhārahetukabhāvena sabbaṃyeva taṃ puññakammaṃ sabbassa lakkhaṇassa kāraṇaṃ visiṭṭharūpattā phalassa. Na hi abhinnarūpakāraṇaṃ bhinnasabhāvassa phalassa paccayo bhavituṃ sakkoti, tasmā yassa yassa lakkhaṇassa yaṃ yaṃ puññakammaṃ visesakāraṇaṃ, taṃ taṃ vibhāgena dassentī ayaṃ desanā pavattā. Tattha yathā yādisaṃ kāyasucaritādipuññakammaṃ suppatiṭṭhitapādatāya kāraṇaṃ vuttaṃ, tādisameva ‘‘uṇhīsasīsatāya’’ kāraṇanti na sakkā vattuṃ daḷhasamādānatāvisiṭṭhassa tassa suppatiṭṭhitapādatāya kāraṇabhāvena vuttattā, itarassa ca pubbaṅgamatāvisiṭṭhassa vuttattā, evaṃ yādisaṃ āyatapaṇhitāya kāraṇaṃ, na tādisameva dīghaṅgulitāya, brahmujugattatāya ca kāraṇaṃ visiṭṭharūpattā phalassa. Na hi abhinnarūpakāraṇaṃ bhinnasabhāvassa phalassa paccayo bhavituṃ sakkoti. Tattha yathā ekeneva kammunā cakkhādinānindriyuppattiyaṃ avatthābhedato, sāmatthiyabhedato vā kammabhedo icchitabbo. Na hi yadavatthaṃ kammaṃ cakkhussa kāraṇaṃ, tadavatthameva sotādīnaṃ kāraṇaṃ hoti abhinnasāmatthiyaṃ vā, tasmā pañcāyatanikattabhāvapatthanābhūtā purimanipphannā kāmataṇhā paccayavasena visiṭṭhasabhāvā kammassa visiṭṭhasabhāvaphalanibbattanasamatthatāsādhanavasena paccayo hotīti ekampi anekavidhaphalanibbattanasamatthatāvasena anekarūpataṃ āpannaṃ viya hoti, evamidhāpi ‘‘ekampi pāṇātipātā veramaṇivasena pavattaṃ kusalakammaṃ āyatapaṇhitādīnaṃ tiṇṇampi lakkhaṇānaṃ nibbattakaṃ hotī’’ti vuccamānepi na koci virodho. Tena vuttaṃ ‘‘so tassa kammassa katattā…pe… imāni tīṇi mahāpurisalakkhaṇāni paṭilabhatī’’ti nānākammunā pana tesaṃ nibbattiyaṃ vattabbameva natthi, pāḷiyaṃ pana ‘‘tassa kammassā’’ti ekavacananiddeso sāmaññavasenāti daṭṭhabbo. Evañca katvā satapuññalakkhaṇavacanaṃ samatthitaṃ hoti. ‘‘Imāni dve mahāpurisalakkhaṇāni paṭilabhatī’’tiādīsupi eseva nayoti.
そしてここで、すべての相は偉大なる人の心相続にある功徳の資糧を原因としているため、そのすべての功徳の行為がすべての相の原因である。なぜなら果が卓越した姿をとるからである。無差別な原因が、異なった本質を持つ果の条件となることはできない。それゆえに、それぞれの相に対してどの功徳の行為が特別な原因であるかを、区別して示す教えが展開されたのである。そこにおいて、身の善行などの功徳の行為が、堅固に立つ足の相の原因であると説かれたように、まったく同じものが「肉髻相(頭頂の隆起)」の原因であるとは言えない。堅固に受持することに特化した行為が、堅固に立つ足の相の原因として説かれており、他方は首導者となることに特化した行為として説かれているからである。このように、長い踵の相の原因であるものが、指が長いことや、身体が直立していることのまったく同じ原因となるわけではない。果が卓越した姿をとるからである。無差別な原因が、異なった本質を持つ果の条件となることはできない。そこにおいて、単一の業によって眼などの異なる諸根が生じる場合にも、状態の違いや能力の違いによって業の違いが承認されるべきであるのと同じである。眼の原因となる業の状態そのものが、耳などの原因となる状態と同じであるわけではなく、能力が無差別であるわけでもない。それゆえに、五つの処(感覚器官)を持つ身体を願う、以前に成就された欲愛が、条件の力によって卓越した性質となり、業に対して卓越した性質の果を生み出す能力を達成することによって条件となるのであり、単一の業であっても多種多様な果を生み出す能力によって多様な姿をとるかのようになる。これと同様に、ここでも「不殺生の実践として行われた単一の善業が、長い踵などの三つの相を生み出すものとなる」と説かれても、何の矛盾もない。それゆえに「彼がその業をなしたことによって…乃至…これら三つの偉大なる人の相を獲得する」と説かれたのである。別々の業によってそれらが生じることについては、言うまでもない。聖典において「その業の」と単数で示されているのは、総括(普遍的な表現)によるものであると理解されるべきである。このように解釈してこそ、百の功徳の相という言葉が論証されるのである。「これら二つの偉大なる人の相を獲得する」などの箇所においても、同様の道理である。
Lakkhaṇasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā.
『相経』の註解における隠れた意味の解明を終える。