8. Siṅgālasuttavaṇṇanā8. 『シンガーラ経』の解説
Nidānavaṇṇanā
序分の解説
242. Pākārena parikkhittanti padaṃ ānetvā sambandho. Gopuraṭṭālakayuttanti dvārapāsādena ceva tattha tattha pākāramatthake patiṭṭhāpitaaṭṭālakehi ca yuttaṃ. Veḷūhi parikkhittattā, abbhantare pupphūpagaphalūpagarukkhasañchannattā ca nīlobhāsaṃ. Chāyūdakasampattiyā, bhūmibhāgasampattiyā ca manoramaṃ.
242. 「城壁によって(Pākārena)」という語を補って結びつける。「城門と物見櫓を備えた」とは、城門の楼閣や、城壁の各所の頂に設置された物見櫓を備えていることである。竹林で囲まれ、内部は花をつける木々や実をつける木々に覆われているため「青緑の光を放つ」。木陰と水の豊かさ、土地の良さによって「心を楽しませる」。
Kāḷakavesenāti kalandakarūpena. Nivāpanti bhojanaṃ. Tanti uyyānaṃ.
「黒い姿をして(Kāḷakavesenā)」とは、栗鼠(リス)の姿をして、ということである。「餌(Nivāpaṃ)」とは食物である。「そこへ(Taṃ)」とは、その園林へ、ということである。
**‘‘Kho panā’’**ti vacanālaṅkāramattametanti tena samayenāti atthavacanaṃ yuttaṃ. Gahapati mahāsāloti gahapatibhūto mahāsāro, ra-kārassa la-kāraṃ katvā ayaṃ niddeso. Vibhavasampattiyā mahāsārappatto kuṭumbiko. **‘‘Putto panassa assaddho’’**tiādi aṭṭhuppattiko yaṃ suttanikkhepoti taṃ aṭṭhuppattiṃ dassetuṃ āraddhaṃ. Kammaphalasaddhāya abhāvena assaddho. Ratanattaye pasādābhāvena appasanno. Evamāhāti evaṃ idāni vuccamānākārena vadati.
「さて、しかし(Kho pana)」とは、単なる言葉の飾り(修辞)であり、「その時(tena samayena)」という意の言葉が適切である。「富裕な家長(Gahapati mahāsālo)」とは、家長にして大きな富(大財)を持つ者であり、rの字をlの字に変えてこのように示されている。財産の豊かさによって大財に達した資産家である。「しかし彼の息子は不信であり(Putto panassa assaddho)」などの記述は、この経が説かれるに至った起因を示すために始められたものである。業と果に対する信がないために「不信」である。三宝に対する清らかな信がないために「信なき者」である。「このように言った(Evamāhā)」とは、今から説かれるような仕方で言ったということである。
Yāvajīvaṃ anussaraṇīyā hoti hitesitāya vuttā pacchimā vācāti adhippāyena. Puthudisāti visuṃ visuṃ disā, tā pana anekāti āha **‘‘bahudisā’’**ti.
利益を願って語られた最後の言葉は、生涯にわたって心に留められるべきである、という意図からである。「諸方(Puthudisā)」とは別々の方向のことであり、それらは多数あるので「多くの方向(bahudisā)」と言われたのである。
243. **‘‘Na tāva paviṭṭho’’**tiādīsu vattabbaṃ heṭṭhā vuttameva. Na idānevāti na imāya eva velāya. Kiṃ carahīti āha **‘‘paccūsasamayepī’’**tiādi. Gihivinayanti gihīnaṃ gahaṭṭhānaṃ vinayatantibhūtaṃ ‘‘gihinā evaṃ vattitabba’’nti gahaṭṭhācārassa gahaṭṭhavattassa anavasesato imasmiṃ sutte savisesaṃ katvā vuttattā. Tathevāti yathā buddhacakkhunā diṭṭhaṃ, tatheva passi. Namassati vattavasena kattabbanti gahetvā ṭhitattā.
243. 「まだ入らずに(Na tāva paviṭṭho)」などの箇所で語られるべきことは、すでに上述の通りである。「今だけでない(Na idāneva)」とは、この時だけではないということである。「ではいつか」と言えば、「夜明けの時にも」などと言われたのである。「在家者の戒律(Gihivinayaṃ)」とは、在家の者たちの規律の規範となるものであり、「在家の者はこのように振る舞うべきである」という在家者の行儀と義務が、この経において余すところなく格別に説かれているからである。「その通りに(Tathevā)」とは、仏眼によって見られた通りに、そのまま見たのである。「礼拝する(Namassati)」とは、義務としてなされるべきことであると受け止めて行っているからである。
Chadisādivaṇṇanā
六方などの解説
244. Vacanaṃ sutvāva cintesi buddhānubhāvena attasammāpaṇidhānanimittena puññabalena ca codiyamāno. Na kira tā etāti tā cha disā etā idāni mayā namassiyamānā puratthimādikā na honti kirāti. Nipātamattanti anatthakabhāvaṃ tassa vadati. Pucchāpadanti pucchāvacanaṃ.
244. その言葉を聞くや否や、仏の威力と、自己の正しい誓願を原因とする功徳の力に促されて考えた。「これらはそれらではないのだ(Na kira tā etā)」とは、これら六方とは、今私が礼拝している東などの方向のことではないのだ、ということである。「単なる助詞(Nipātamattaṃ)」とは、その無意味さのことを言っている。「質問の句(Pucchāpadaṃ)」とは、質問の言葉のことである。
Bhagavā gahapatiputtena namassitabbā cha disā pucchito desanākusalatāya ādito eva tā akathetvā tassa tāva paṭipattiyā naṃ bhājanabhūtaṃ kātuṃ vajjanīyavajjanatthañceva sevitabbasevanatthañca ovādaṃ dento **‘‘yato kho gahapatiputtā’’**tiādinā desanaṃ ārabhi. Tattha kammakilesāti kammabhūtā saṃkilesā. Kilissantīti kiliṭṭhā malīnā viya ṭhitā, upatāpitā ca hontīti attho. Tasmāti kilissananimittattā. Yadipi surāpānaṃ pañcaverabhāvena upāsakehi parivajjanīyaṃ, tassa pana apāyamukhabhāvena parato vattukāmatāya pāṇātipātādike eva sandhāya ‘‘cattāro’’ti vuttaṃ, na ‘‘pañcā’’ti. ‘‘Visuṃ akammapathabhāvato cā’’ti apare. ‘‘Surāpānampi ‘surāmerayapānaṃ, bhikkhave, āsevitaṃ bhāvitaṃ bahulīkataṃ nirayasaṃvattanika’ntiādi (a. ni. 8.40) vacanato visuṃ kammapathabhāvena āgataṃ. Tathā hi taṃ duccaritakammaṃ hutvā duggatigāmipiṭṭhivattakabhāvena niyata’’nti keci, tesaṃ matena ekādasa kammapathā siyuṃ. Tasmā yathāvuttesveva kammapathesu upakārakattasabhāgattavasena anuppaveso daṭṭhabboti ‘‘visuṃ akammapathabhāvato cā’’ti suvuttametaṃ. Surāpānassa bhogāpāyamukhabhāvena vattukāmatāya ‘‘cattāro’’ tveva avoca. Tiṭṭhati ettha phalaṃ tadāyattavuttitāyāti ṭhānaṃ, hetūti āha **‘‘ṭhānehīti kāraṇehī’’**ti. Apenti apagacchanti, apeti vā etehīti apāyā, apāyānaṃ, apāyā eva vā mukhāni dvārānīti apāyamukhāni. Vināsamukhānīti etthāpi eseva nayo.
世尊は、家長の息子から礼拝すべき六方について尋ねられたが、説法の巧みさゆえに、最初からそれらを語ることはせず、まず彼を行儀の実践の器とするため、避けるべきことを避け、親しむべきことに親しませるための教戒を与えようと、「家長の息子よ、〜の時から(yato kho gahapatiputta)」と説法を始められた。そこにおいて、「業の汚れ(kammakilesā)」とは、業であるところの汚れのことである。「汚す(Kilissanti)」とは、汚れて汚濁したようになり、また苦しめるという意味である。「それゆえに」とは、汚す原因であることからである。酒類を飲むことは五つの恨み(五戒の対象)として在家信徒が避けるべきものであるが、後に「財産滅亡の門」として語ることを望まれたため、不殺生などを指して「四つ」と言われたのであり、「五つ」とは言われなかったのである。「別個の業道ではないからである」と言う者もいる。またある人々は、「『比丘たちよ、飲酒・酩酊の飲料を習熟し、修習し、頻繁に行うことは、地獄へと導くものである』などの経文(増支部8.40)から、飲酒も別個の業道として伝わっている。実際、それは悪行の業であり、悪趣に赴く業に随伴するものとして定まっている」と述べているが、彼らの見解によれば業道は十一となってしまう。したがって、すでに述べられた業道の中に、それを助ける性質として組み入れられると理解されるべきであり、「別個の業道ではないからである」という説明は適切である。飲酒を財産滅亡の門として語ることを望まれたため、「四つ」とだけ言われたのである。果がこれに依存して生じるためにここに立つ(成立する)ゆえに「処(ṭhānaṃ)」であり、原因のことである。それゆえに「処によってとは、原因によってということである」と言われたのである。離れ去る、あるいはこれらによって離れ去るゆえに「滅亡(apāyā)」であり、滅亡の、あるいは滅亡そのものである門(入口)ゆえに「滅亡の門(apāyamukhāni)」である。「破滅の門(Vināsamukhāni)」という語においても同様の道理である。
Kiñcāpi ‘‘ariyasāvakassā’’ti pubbe sādhāraṇato vuttaṃ, visesato pana paṭhamāya bhūmiyaṃ ṭhitasseva vakkhamānanayo yujjatīti **‘‘soti so sotāpanno’’**ti vuttaṃ. Pāpaka-saddo nihīnapariyāyoti **‘‘lāmakehī’’**ti vuttaṃ. Apāyadukkhaṃ, vaṭṭadukkhañca pāpentīti vā pāpakā, tehi pāpakehi. Cha disā paṭicchādentoti tena tena bhāgena dissantīti ‘‘disā’’ti saññite cha bhāge satte yathā tehi saddhiṃ attano chiddaṃ na hoti, evaṃ paṭicchādento paṭisandhārento. Vijinanatthāyāti abhibhavanatthāya. Yo hi diṭṭhadhammikaṃ, samparāyikañca anatthaṃ parivajjanavasena abhibhavati, tato eva tadubhayatthaṃ sampādeti, so ubhayalokavijayāya paṭipanno nāma hoti paccatthikaniggaṇhanato, sakatthasampādanato ca. Tenāha **‘‘ayañceva loko’’**tiādi. Pāṇātipātādīni pañca verāni verappasavanato. Āraddho hotīti saṃsādhito hoti, tayidaṃ saṃsādhanaṃ kittisaddena idha sattānaṃ cittatosanena, verābhāvāpādanena ca hotīti āha **‘‘paritosito ceva nipphādito cā’’**ti. Puna pañca verānīti pañca veraphalāni uttarapadalopena.
以前には「聖なる弟子(ariyasāvako)」と一般的に説かれていたが、特に第一の階位(預流果)に立つ者にこそ、これから説かれる論理が適合するため、「彼(so)とは、その預流者である」と言われたのである。「悪しき(Pāpaka)」という語は低劣の同義語であるため、「下劣な(lāmakehi)」と言われたのである。あるいは、悪趣の苦しみや輪廻の苦しみに至らしめる(pāpenti)ゆえに「悪しきものたち(pāpakā)」であり、それらの悪しきものたちによって、ということである。「六方を覆い守り(Cha disā paṭicchādento)」とは、それぞれの領域として見られることから「方向」と名づけられた六つの領域の有情たちに対し、彼らとの間に自分自身の欠陥(破綻)が生じないように覆い守り、保護することである。「征服するために(Vijinanatthāya)」とは、打ち勝つために、ということである。現世の、そして来世の不利益を回避することによって打ち勝ち、それによってその両方の利益を成就する者は、敵対者を制圧し、自らの利益を成就することから、「両世に勝利するために実践する者」と呼ばれるのである。それゆえに「この世をも…」などと言われたのである。不殺生などの五つの恨み(罪悪)は、怨恨を生じさせるものである。「成就される(Āraddho hoti)」とは、完全に達成されるということであり、この達成は、世評の言葉により、この世の有情たちの心を満足させ、怨恨のない状態をもたらすことによってなされる。それゆえに「大いに満足させ、成就させた」と言われたのである。「再び五つの怨恨(pañca verāni)」とは、後部要素の脱落により「五つの怨恨の果報」のことである。
Katamassāti katame assa. Kilesasampayuttattā kilesoti taṃyogato taṃsadisaṃ vadati yathā ‘‘pītisukhaṃ paṭhamaṃ jhānaṃ, (dī. ni. 1.226; ma. ni. 1.271, 287, 297; saṃ. ni. 2.152; a. ni. 4.123; 5.28; pārā. 11; dha. sa. 499; vibha. 508) nīlaṃ vattha’’nti ca. Sampayuttatā cettha tadekaṭṭhatāya veditabbā, na ekuppādāditāya. Evañca katvā pāṇātipātakammassa diṭṭhimānalobhādīhipi kiliṭṭhatā siddhā hoti, micchācārassa dosādīhi kiliṭṭhatā. Tenāha **‘‘saṃkilesoyevā’’**tiādi. Pubbe vuttaatthavasena pana sammukhenapi nesaṃ kilesapariyāyo labbhateva. Etadatthaparidīpakamevāti yo ‘‘pāṇātipāto kho’’tiādinā vutto, etassa atthassa paridīpakameva. Yadi evaṃ kasmā puna vuttanti āha **‘‘gāthābandha’’**nti, tassa atthassa sukhaggahaṇatthaṃ bhagavā gāthābandhaṃ avocāti adhippāyo.
「どれらの(Katamassa)」とは、「それらのうちのどれが」ということである。煩悩と相応していることから「煩悩(kileso)」というのであり、それと結合していることから、それに類似したものとして語られる。「喜と楽を伴う初禅」「青い布」と言うのと同様である。ここでの相応とは、同一の対象にあることとして理解されるべきであり、同時に生じることなどによるのではない。このように解釈することで、不殺生の業が見解(悪見)・慢・貪などによって汚されることも、邪淫が怒りなどによって汚されることも成立する。それゆえに「実に汚れである」などと言われたのである。しかし、以前に説かれた意味に従えば、直接的にもそれらが煩悩の同義語であることは得られる。「この意味を明らかにするためにのみ(Etadatthaparidīpakameva)」とは、「不殺生とは…」などと説かれたその意味を明らかにするためだけである。もしそうであるなら、なぜ再び説かれたのかと言えば、「詩節の集成(gāthābandhaṃ)」と言われたのであり、その意味を容易に理解させるために世尊は詩節の集成を語られた、という意図である。
Catuṭhānādivaṇṇanā
四処などの解説
246. ‘‘Pāpakammaṃ karotī’’ti kasmā ayaṃ uddesaniddeso pavattoti antolīnacodanaṃ sandhāya **‘‘idaṃ bhagavā’’**tiādi vuttaṃ. Sukkapakkhavasena hi uddeso kato, kaṇhapakkhavasena ca niddeso āraddho. Kāraketi pāpakammassa kārake. Akārako pākaṭo hoti yathā paṭipajjanto pāpaṃ karoti nāma, tathā appaṭipajjanato. Saṃkilesadhammavivajjanapubbakaṃ vodānadhammapaṭipattiācikkhanaṃ idha desanākosallaṃ. Paṭhamataraṃ kārakaṃ dassento āha yathā ‘‘vāmaṃ muñca dakkhiṇaṃ gaṇhā’’ti (dha. sa. aṭṭha. 498) tathā hi bhagavā aṭṭhatiṃsa maṅgalāni dassento ‘‘asevanā ca bālāna’’nti (khu. pā. 5.3; su. ni. 262) vatvā ‘‘paṇḍitānañca sevanā’’ti (khu. pā. 5.3; su. ni. 262) avoca. Chandāgatinti ettha sandhivasena saralopoti dassento āha **‘‘chandena pemena agati’’**nti. Chandāti hetumhi nissakkavacananti āha **‘‘chandenā’’**ti. Chanda-saddo cettha taṇhāpariyāyo, na kusalacchandādipariyāyoti āha **‘‘pemenā’’**ti. Parapadesūti ‘‘dosāgatiṃ gacchanto’’tiādīsu vākyesu. **‘‘Eseva nayo’’**ti iminā ‘‘dosena kopenā’’ti evamādi atthavacanaṃ atidisati. Mittoti daḷhamitto, sambhattoti attho. Sandiṭṭhoti diṭṭhamattasahāyo. Pakativeravasenāti pakatiyā uppannaveravasena, cirakālānubandhavirodhavasenāti attho. Tenevāha **‘‘taṅkhaṇuppannakodhavasena vā’’**ti. Yaṃ vā taṃ vā ayuttaṃ akāraṇaṃ vatvā. Visame corādike, visamāni vā kāyaduccaritādīni samādāya vattanena nissito visamanissito.
246. 「悪業をなす」というこの総説と詳説は、なぜ展開されたのかという内心の疑問を指して、「これを世尊は…」などと言われたのである。白分(善の側)によって総説がなされ、黒分(悪の側)によって詳説が始められたからである。「為す者において(Kārake)」とは、悪業をなす者において、ということである。悪をなさない者は明らかである。なぜなら、そのように実践する者は悪をなすと言われるが、そのように実践しないからである。汚染の法を遠ざけることを先立たせて、清浄の法の実践を教示することが、ここでの説法の巧みさである。より先に為す者を示すために、「左(悪)を捨てて右(善)を取れ」と言われたように、世尊は三十八の吉祥を示す際にも「愚者に親しまず」と言ってから「賢者に親しむこと」と語られたのである。「愛執による偏頗に赴くこと(Chandāgatiṃ)」という箇所では、結合(サンディ)による母音の脱落であることを示して、「好意・愛情によって偏頗(agatin)に赴くこと」と言われたのである。「愛執から(Chandā)」とは、原因を表す奪格であるため、「好意から(chandena)」と言われたのである。ここでの「愛執(chanda)」という語は渇愛の同義語であり、善なる意欲などの同義語ではないため、「愛情によって(pemena)」と言われたのである。「他の句において(Parapadesu)」とは、「怒りによる偏頗に赴く者」などの文脈においてである。「同様の道理である(Eseva nayo)」とは、これによって「怒り・憤りによって」などの語義解釈を準用するものである。「友(Mitto)」とは堅固な友であり、親しい友という意味である。「知人(Sandiṭṭho)」とは見知っただけの仲間である。「生来の敵意によって(Pakativeravasenā)」とは、生来生じた敵意によって、すなわち長期間にわたる対立によってという意味である。それゆえに「その瞬間に生じた怒りによって、あるいは」と言われたのである。何であれ不当なこと、根拠のないことを語って、ということである。「不正な(Visame)」とは、盗賊などにおいて、あるいは身体の悪行などを引き受けて振る舞うことによって執着しているゆえに「不正に執着した者」である。
Chandāgatiādīni na gacchati maggeneva catunnampi agatigamanānaṃ pahīnattā, agatigamanānīti ca tathāpavattā apāyagamanīyā akusalacittuppādā veditabbā agati gacchati etehīti.
愛執による偏頗などに赴かないのは、道(聖道)によって四つの偏頗に赴くこと(私情・瞋恚・恐怖・無知による偏頗)が断ぜられているからである。偏頗に赴くこととは、そのように働いて悪趣に赴かせる不善の心の発生として知られるべきである。これらによって偏頗へと赴くからである。
Yassati tena kittīyatīti yaso, thutighoso. Yassati tena purecarānucarabhāvena parivārīyatīti yaso, parivāroti āha **‘‘kittiyasopi parivārayasopī’’**ti. Parihāyatīti pubbe yo ca yāvatake labbhati, tato parito hāyati parikkhayaṃ gacchati.
彼がこれによって称賛されるゆえに「名声(yaso)」すなわち賞賛の響きである。彼がこれによって前駆者や追従者として取り巻かれるゆえに「名声(yaso)」すなわち眷属である。それゆえに「名声の誉れも、眷属の誉れも」と言われたのである。「衰退する(Parihāyati)」とは、以前に得ていたすべてのものから、四方へと衰退し、滅尽へと向かうということである。
Chaapāyamukhādivaṇṇanā
六つの破滅の門などの解説
247. Pūve bhājane pakkhipitvā tajjaṃ udakaṃ datvā madditvā katā pūvasurā. Evaṃ sesasurāpi. Kiṇṇāti pana tassā surāya bījaṃ vuccati, ye ‘‘surāmodakā’’ tipi vuccanti, te pakkhipitvā katā kiṇṇapakkhittā. Harītakīsāsapādinānāsambhārehi saṃyojitā sambhārasaṃyuttā. Madhukatālanāḷikerādipuppharaso cirapārivāsiko pupphāsavo. Panasādiphalaraso phalāsavo. Muddikāraso madhvāsavo. Ucchuraso guḷāsavo. Harītakāmalakakaṭukabhaṇḍādinānāsambhārānaṃ raso cirapārivāsiko sambhārasaṃyutto. Taṃ sabbampīti taṃ sabbaṃ dasavidhampi. Madakaraṇavasena majjaṃ pivantaṃ madayatīti katvā. Surāmerayamajje pamādaṭṭhānaṃ surāmerayamajjapamādaṭṭhānaṃ. Anu anu yogoti punappunaṃ taṃsamaṅgitā. Tenāha **‘‘punappunaṃ karaṇa’’**nti, aparāparaṃ pavattananti attho. Uppannā ceva bhogā parihāyanti pānabyasanena byasanakaraṇato. Anuppannā ca nuppajjanti pamattassa kammantesu ñāyakaraṇābhāvato. Bhogānanti bhuñjitabbaṭṭhena ‘‘bhogā’’ti laddhanāmānaṃ kāmaguṇānaṃ. Apāyamukha-saddassa attho heṭṭhā vutto eva. Avelāyāti ayuttavelāya. Yadā vicarato attharakkhādayo na honti. Visikhāsu cariyāti racchāsu vicaraṇaṃ.
247. 穀類を器に入れ、適量の水を加えて揉んで作られたものが「穀酒(pūvasurā)」である。残りの酒も同様である。「酵母(Kiṇṇā)」とはその酒の種(麹)のことであり、「酒麹」とも呼ばれるものを投入して作ったものが「酵母入りの酒」である。訶梨勒(カロー)や芥子などの種々の原料を調合したものが「調合酒」である。マドゥーカ(トゲナシマドゥカ)、椰子、ココナッツなどの花の汁を長期間発酵させたものが「花酒(pupphāsavo)」である。パラミツ(ジャックフルーツ)などの果物の汁が「果実酒」である。葡萄の汁が「葡萄酒(madhvāsavo)」である。サトウキビの汁が「糖蜜酒(guḷāsavo)」である。訶梨勒、阿摩勒(アムラ)、香辛料などの種々の原料の汁を長期間発酵させたものが「薬用調合酒」である。「それらすべてをも(Taṃ sabbampi)」とは、それら十種すべてをも、ということである。酩酊させる作用によって「酒(majjaṃ)」であり、飲む者を酔わせることからそう呼ばれる。酒類(穀酒・発酵酒)と酩酊の飲料による放逸の立場が「酒類・酩酊の飲料による放逸の立場」である。「専従(Anuyogo)」とは、何度もそれに従事することである。それゆえに「何度も行うこと」と言われたのであり、次々と行い続けるという意味である。すでに生じた財産は、飲酒の悪習によって破滅させられるゆえに衰退する。まだ生じていない財産は、放逸な者が業務において正当な方法をとらないために生じない。「財産の(Bhogānaṃ)」とは、享受されるべきものであるという意味から「財(bhogā)」と名づけられた諸々の欲情のことである。「滅亡の門(Apāyamukha)」という語の意味はすでに上述の通りである。「不適切な時に(Avelāya)」とは、ふさわしくない時に、ということである。徘徊する時に財産の保護などがない時のことである。「路地を徘徊すること(Visikhāsu cariyā)」とは、街路を歩き回ることである。
Samajjā vuccati maho, yattha naccānipi payojīyanti, tesaṃ dassanādiatthaṃ tattha abhirativasena caraṇaṃ upagamanaṃ samajjābhicaraṇaṃ. Naccādidassanavasenāti naccādīnaṃ dassanādivasenāti ādisaddalopo daṭṭhabbo, dassanena vā savanampi gahitaṃ virūpekasesanayena. Ālocanasabhāvatāya vā pañcaviññāṇānaṃ savanakiriyāyapi dassanasaṅkhepasambhavato ‘‘dassanavasena’’ icceva vuttaṃ. Idha cittālasiyatā akāraṇanti **‘‘kāyālasiyatā’’**ti vuttaṃ. Yuttappayuttatāti tappasutatā atirekataratāya.
「見世物(Samajjā)」とは祭りのことであり、そこでは舞踊なども演じられる。それらを見ることなどを目的として、そこに歓楽を求めて行くこと、赴くことが「見世物に通うこと」である。「舞踊などを観覧することによって」とは、舞踊などの観覧などによってということであり、「など」という語の脱落であると理解されるべきである。あるいは、見る(観覧する)ことによって聞くことも含まれる。異形の単一残余の規則によるか、あるいは五つの識が観察する性質を持つことから、聞く行為に対しても観覧に要約することが可能であるため、「観覧することによって」とだけ言われたのである。ここでの「心の怠惰」は原因ではないため、「身体の怠惰」と言われたのである。「熱中していること(Yuttappayuttatā)」とは、過剰にそれに没頭していることである。
Surāmerayassa chaādīnavādivaṇṇanā
飲酒の六つの過患などの解説
248. Sayaṃ daṭṭhabbanti sandiṭṭhaṃ. Sandiṭṭhameva sandiṭṭhikaṃ, dhanajānisaddāpekkhāya pana itthiliṅgavasena niddeso, diṭṭhadhammikāti ayamettha atthoti āha **‘‘idhalokabhāvinī’’**ti. Samaṃ, sammā passitabbāti vā sandiṭṭhikā, pānasamakālabhāvinīti attho. Kalahappavaḍḍhanī mittassa kalahe anādīnavadassibhāvato. Khettaṃ uppattiṭṭhānabhāvato. Āyatananti vā kāraṇaṃ, ākaro vāti attho. Paraloke akittiṃ pāpuṇanti akittisaṃvattaniyassa kammassa pasavanato. Kopīnaṃ vā pākaṭabhāvena akattabbarahassakammaṃ. Surāmadamattā ca pubbe attanā kataṃ tādisaṃ kammaṃ amattakāle chādentā vicaritvā mattakāle paccatthikānampi vivaranti pākaṭaṃ karonti, tena tesaṃ sā surā tassa kopīnassa nidaṃsanato **‘‘kopīnanidaṃsanī’’**ti vuccatīti evamettha attho daṭṭhabbo. Kammassakatāpaññanti nidassanamattaṃ daṭṭhabbaṃ. ‘‘Yaṃ kiñci lokiyaṃ paññaṃ dubbalaṃ karotiyevā’’ti hi sakkā viññātuṃ. Tathā hi byatirekamukhena tamatthaṃ patiṭṭhapetuṃ **‘‘maggapaññaṃ panā’’**tiādi vuttaṃ. **‘‘Antomukhameva na pavisatī’’**ti iminā surāya maggapaññādubbalakaraṇassa durasamussāritabhāvamāha. Nanu cevaṃ surāya tassā paññāya dubbalīkaraṇe sāmatthiyavighāto acodito hoti ariyānaṃ anuppayogasseva coditattāti? Nayidaṃ evaṃ upayogopi nāma sadā tesaṃ natthi, kuto kiccakaraṇanti imassa atthassa vuttattā. Atha pana aṭṭhānaparikappavasenassā kadāci siyā upayogo, tathāpi so tassā dubbaliyaṃ īsakampi kātuṃ nālameva sammadeva paṭipakkhadūrībhāvena suppatiṭṭhitabhāvato. Tenāha ‘‘maggapaññaṃ pana dubbalaṃ kātuṃ na sakkotī’’ti. Maggasīsena cettha ariyānaṃ sabbassāpi lokiyalokuttarāya paññāya dubbalabhāvāpādāne asamatthatā dassitāti daṭṭhabbaṃ. Pajjati etena phalanti padaṃ, kāraṇaṃ.
248. 自ら見られるべきものであるから「現世の(sandiṭṭhaṃ)」である。現世のものそのものが「現世に属するもの(sandiṭṭhikaṃ)」であるが、「財産の損失」という語を考慮して女性形として示されており、「現世に生じるもの」というのがここでの意味である。それゆえに「現世に生じるもの」と言われたのである。あるいは、直ちに、正しく見られるべきものであるから「現世の」であり、飲むと同時に生じるという意味である。友人の喧嘩において過患を見なくなることから「争いを増大させるもの」である。発生の場所であることから「田地」である。あるいは「処(āyatanaṃ)」とは原因、または鉱山(源泉)という意味である。「来世において悪評を得る」とは、悪評をもたらす業を生み出すからである。あるいは「恥部(kopīnaṃ)」とは、公然となることでなすべきではない秘密の行為のことである。酒に酔った者たちは、以前に自分がなしたそのような行為を、素面の時には隠して過ごしていたのに、酔った時には敵対者にさえ暴露し、公然としてしまう。それゆえに、それらの酒は恥部を露わにすることから「恥部を露わにするもの」と呼ばれるのであり、このようにここでの意味は理解されるべきである。「業所有智」とは、単なる一例として理解されるべきである。「いかなる世間的な智慧であれ、弱めるに決まっている」と知ることができるからである。実際、背反の立場からその意味を確立するために「しかし道の智慧を…」などと言われたのである。「口の内にさえ入らない」ということによって、酒が道の智慧を弱めることなど遠く排除されていることを述べている。「しかし、このように酒がその智慧を弱める能力を妨げることが論難されないのは、聖者たちにはその使用がないことのみが論難されているからではないか」と問うなら、そうではない。彼らには常にそのような使用自体が存在しないのだから、どうして作用をなすことがあろうか、というこの意味が説かれているからである。仮に不可能な仮定として、彼らにいつか使用があったとしても、それでも酒はその智慧を微塵も弱めることはできない。反対のものが完全に遠ざかっていることによって、極めて堅固に確立されているからである。それゆえに「しかし道の智慧を弱めることはできない」と言われたのである。そしてここでは、「道」を筆頭として、聖者たちの世間的・出世間的なあらゆる智慧を弱める能力がないことが示されたと理解されるべきである。これによって果へと至る(pajjati)ゆえに「処(padaṃ)」であり、原因のことである。
249. Attāpissa akālacārissa agutto sarasato arakkhito upakkamatopi parivajjanīyānaṃ aparivajjanato. Tenāha **‘‘avelāya caranto hī’’**tiādi. Kaṇṭakādīnipīti pi-saddena sobbhādike saṅgaṇhāti. Verinopīti pi-saddena corādikā saṅgayhanti. Puttadārāti ettha puttaggahaṇena puttīpi gahitāti āha **‘‘puttadhītaro’’**ti. Bahi patthananti kāmapatthanāvasena antogehassitato nibaddhavatthuto bahiddhā patthanaṃ katvā. Aññehi katapāpakammesūti parehi katāsu pāpakiriyāsu. Saṅkitabbo hoti akāle tattha tattha caraṇato. Ruhati yasmiṃ padese corikā pavattā, tattha parehi diṭṭhattā. Vattuṃ na sakkāti ‘‘ettakaṃ dukkhaṃ, ettakaṃ domanassa’’nti paricchinditvā vattuṃ na sakkā. Taṃ sabbampi vikālacārimhi puggale āharitabbaṃ tassa upari pakkhipitabbaṃ hoti. Kathaṃ? Aññasmiṃ puggale tathārūpe āsaṅkitabbe asati. Itīti evaṃ. Soti vikālacārī. Purakkhato purato attano upari āsaṅkante katvā carati.
249. そのような時に徘徊する者は、自らも守られず、本質的に護られず、避けるべきものを避けないという手段の面からも護られない。それゆえに「不適切な時に徘徊する者は実に…」などと言われたのである。「棘なども(Kaṇṭakādīnipi)」という箇所の「も(pi)」という語によって、落とし穴などを包摂する。「敵たちも(Verinopi)」という箇所の「も」という語によって、盗賊などが包摂される。「妻子(Puttadārā)」という箇所では、「息子(putta)」という語の把握によって娘も含まれる。それゆえに「息子や娘たち」と言われたのである。「外への願望(Bahi patthanaṃ)」とは、愛欲の願望によって、家の中にいて恒常的にある対象から離れて、外部への願望を抱くことである。「他者がなした悪業において(Aññehi katapāpakammesu)」とは、他者がなした悪しき行為において、ということである。不適切な時にあちこちを徘徊することから「疑われる者となる」。盗難が起こった場所に、他者によって目撃されているから「疑いが向けられる」。「言うことはできない」とは、「これほどの苦しみ、これほどの憂い」と限定して言うことはできないということである。そのすべてが、夜間に徘徊する人物に負わされ、その者の上に投げかけられることになる。どのようにか。他にそのように疑われるべき人物がいない時に、である。「このように(Iti)」とは、このようにして。「彼(So)」とは、その夜間に徘徊する者である。「優先させて(Purakkhato)」とは、自らの上に疑いを抱かせながら徘徊するということである。
250. Naṭanāṭakādinaccanti naṭehi nāṭakehi naccitabbanāṭakādinaccavidhi. Ādi-saddena avasiṭṭhaṃ sabbaṃ saṅgaṇhāti. ‘‘Tattha gantabbaṃ hotī’’ti vatvā tatthassa gamanena yathā anuppannānaṃ bhogānaṃ anuppādo, uppannānañca vināso hoti, taṃ dassetuṃ **‘‘tassā’’**tiādi vuttaṃ. Gītanti saragataṃ, pakaraṇagataṃ, tāḷagataṃ, apadhānagatanti gandhabbasatthavihitaṃ aññampi sabbaṃ gītaṃ veditabbaṃ. Vāditanti vīṇāveṇumudiṅgādivādanaṃ. Akkhānanti bhāratayuddhasītāharaṇādiakkhānaṃ. Pāṇissaranti kaṃsatāḷaṃ, ‘‘pāṇitāḷa’’ntipi vadanti. Kumbhathūnanti caturassaambaṇakatāḷaṃ. ‘‘Kuṭabherisaddo’’ti keci. **‘‘Eseva nayo’’**ti iminā ‘‘kasmiṃ ṭhāne’’tiādinā nacce vuttamatthaṃ gītādīsu atidisati.
250. 「舞踏家や役者などの舞踊」とは、舞踏家や役者たちによって踊られるべき舞踊などの演舞の作法である。「など」という語によって、残りのすべてを包摂する。「そこへ行くことになる」と言って、彼がそこへ行くことによって、いかに未だ生じていない財産が生じず、すでに生じた財産が滅びるかを示すために「彼の…」などと言われたのである。「歌(Gītaṃ)」とは、旋律に基づくもの、楽曲に基づくもの、拍子に基づくもの、舞踊の伴奏に基づくものなど、ガンダルヴァの書(音楽論)に規定された他のすべての歌も知られるべきである。「演奏(Vāditaṃ)」とは、琵琶・笛・太鼓などの演奏である。「物語(Akkhānaṃ)」とは、バーラタの戦いやシーターの略奪などの物語である。「手拍子(Pāṇissaraṃ)」とはシンバル(青銅の拍子木)であり、「手の拍子」とも言う。「壺太鼓(Kumbhathūnaṃ)」とは四角い鉢の拍子である。「壺の太鼓の音」と言う者もいる。「同様の道理である」とは、これによって「どの場所で」などの舞踊において説かれた意味を、歌などに準用するものである。
251. Jayanti jūtaṃ jinanto. Veranti jitena kīḷakapurisena jayanimittaṃ attano upari veraṃ virodhaṃ pasavati uppādeti. Tañhissa verapasavanaṃ dassetuṃ **‘‘jitaṃ mayā’’**tiādi vuttaṃ. Jinoti jūtaparājayāpannāya dhanajāniyā jino. Tenāha **‘‘aññena jito samāno’’**tiādi. Vittaṃ anusocatīti taṃ jinaṃ vittaṃ uddissa anutthunati. Vinicchayaṭṭhāneti yasmiṃ kismiñci aṭṭavinicchayaṭṭhāne. Sakkhipuṭṭhassāti sakkhibhāvena puṭṭhassa. Akkhasoṇḍoti akkhadhutto. Jūtakaroti jūtapamādaṭṭhānānuyutto. Tvampi nāma kulaputtoti kulaputto nāma tvaṃ, na mayaṃ tayi kolaputtiyaṃ idāni passāmāti adhippāyo. Chinnabhinnakoti chinnabhinnahirottappo, ahiriko anottappīti attho. Tassa kāraṇāti tassa atthāya.
251. 「勝利を(Jayaṃ)」とは、賭博に勝つことである。「怨恨を(Veraṃ)」とは、負けた遊技者(対戦相手)が、勝利を原因として、勝者に対して怨恨や敵意を生み出し、発生させることである。彼のその怨恨の発生を示すために「私が勝った」などと言われたのである。「敗者(Jino)」とは、賭博の敗北に陥ったことによる財産の喪失によって「負けた者」である。それゆえに「他者に負かされた者は」などと言われたのである。「財を嘆き悲しむ(Vittaṃ anusocati)」とは、その失われた財をめぐって嘆き悲しむことである。「裁判の場で(Vinicchayaṭṭhāne)」とは、何らかの訴訟裁判の場において。「証人として問われた時(Sakkhipuṭṭhassa)」とは、証人の立場として問われた時。「賽子に溺れる者(Akkhasoṇḍo)」とは、賭博狂のことである。「賭博の徒(Jūtakataro)」とは、賭博という放逸の立場に専従する者である。「お前のような良家の息子が(Tvampi nāma kulaputto)」とは、「良家の息子と呼ばれるお前が、我々は今のお前の中に良家の息子のあり方を見ていない」という意図である。「恥と良心を失った者(Chinnabhinnako)」とは、恥と良心が断ち切られ損なわれた者、無慚・無愧の者という意味である。「彼のために(Tassa kāraṇā)」とは、彼のために、ということである。
Anicchitoti na icchito. Positabbā bhavissati jūtaparājayena sabbakālaṃ rittatucchabhāvato.
「望まれない(Anicchito)」とは、望まれないということである。「養われることになる」とは、賭博の敗北によって常に空虚で無一文の状態になるからである。
Pāpamittatāya chaādīnavādivaṇṇanā
悪友を持つことの六つの過患などの解説
252. Akkhadhuttāti akkhesu dhuttā, akkhanimittaṃ atthavināsakā. Itthisoṇḍāti itthīsu soṇḍā, itthisambhoganimittaṃ ātappanakā. Tathā bhattasoṇḍādayo veditabbā. Pipāsāti uparūpari surāpipāsā. Tenāha **‘‘pānasoṇḍā’’**ti. Nekatikādayo heṭṭhā vuttā eva. Mettiuppattiṭṭhānatāya mittā honti. Tasmāti pāpamittatāya.
252. 「賭博狂たち(Akkhadhuttā)」とは、賽子に熱中する者たち、賭博のために財産を破滅させる者たちである。「女狂いたち(Itthisoṇḍā)」とは、女性に溺れる者たち、女性との交わりのために熱中する者たちである。同様に、大食漢(食物に溺れる者)なども知られるべきである。「渇望(Pipāsā)」とは、次から次への飲酒の渇望である。それゆえに「飲酒狂たち(pānasoṇḍā)」と言われたのである。詐欺師などはすでに上述の通りである。親愛の生じる立場であることから「友たち(mittā)」である。「それゆえに」とは、悪友を持つことによって、ということである。
253. Kammantanti kammaṃ, yathā suttaṃyeva suttanto, evaṃ kammaṃyeva kammanto, taṃ kātuṃ gacchāmāti vutto. Kammaṃ vā anto niṭṭhānaṃ gacchati etthāti kammanto, kammakaraṇaṭṭhānaṃ, taṃ gacchāmāti vutto.
253. 「仕事(Kammantaṃ)」とは業務のことであり、ちょうどスッタ(経)そのものがスッタンタ(経典)であるように、業そのものが業務(kammanta)である。「それをしに行こう」と言われたのである。あるいは、業務がそこで成就(完成)へと至るゆえに「業務(kammanto)」すなわち仕事をする場所であり、「そこへ行こう」と言われたのである。
Pannasakhāti suraṃ pātuṃ panne paṭipajjante eva sakhāti pannasakhā. Tenāha **‘‘ayamevattho’’**ti. ‘‘Sammiyasammiyo’’ti vacanamettha atthīti sammiyasammiyo. Tenāha **‘‘sammasammāti vadanto’’**ti. Sahāyo hotīti sahāyo viya hoti. Otārameva gavesatīti randhameva pariyesati anatthamassa kātukāmo. Verappasavoti parehi attani verassa pasavanaṃ anupavattanaṃ. Tenāha **‘‘verabahulatā’’**ti. Paresaṃ kariyamāno anattho ettha atthīti anattho, tabbhāvo anatthatāti āha **‘‘anatthakāritā’’**ti. Yo hi paresaṃ anatthaṃ karoti, so atthato attano anatthakāro nāma, tasmā anatthatāti ubhayānatthakāritā. Ariyo vuccati satto, kucchito ariyo kadariyo. Yassa dhammassa vasena so ‘‘kadariyo’’ti vuccati, so dhammo kadariyatā, macchariyaṃ. Taṃ pana dubbisajjanīyabhāve ṭhitaṃ sandhāyāha ‘‘suṭṭhu kadariyatā thaddhamacchariyabhā’’voti. Avipaṇṇasabhāvato uṭṭhātuṃ asakkonto ca iṇaṃ gaṇhanto saṃsīdantova iṇaṃ vigāhati nāma. Sūriye anuggate eva kammante anārabhanto rattiṃ anuṭṭhānasīlo.
「酒場の友(Pannasakhā)」とは、酒を飲むために至った(陥った)時にのみ友であるゆえに「酒場の友」である。それゆえに「まさにこの意味である」と言われたのである。「親友よ、親友よ(Sammiyasammiyo)」という言葉がここにあるゆえに「親友と呼ぶ者」である。それゆえに「『親友よ、親友よ』と言いながら」と言われたのである。「友となる(Sahāyo hoti)」とは、友のようになるということである。「隙ばかりをうかがう(Otārameva gavesati)」とは、彼に損害を与えようと望んで、欠陥(弱み)ばかりを探し求めることである。「怨恨の発生(Verappasavo)」とは、他者たちが自分に対して怨恨を生じさせ、継続させることである。それゆえに「怨恨が多いこと」と言われたのである。他者になされる無益がここにあるゆえに「無益」であり、その状態が無益性であることから「無益をもたらすこと(anatthakāritā)」と言われたのである。他者に無益をなす者は、実際には自分自身に無益をなす者と呼ばれる。それゆえに「無益性」とは、自他両方に無益をもたらすことである。「貴人(Ariyo)」とは有情のことであり、卑しい貴人が「守銭奴(kadariyo)」である。ある性質によって人が「守銭奴」と呼ばれるが、その性質が守銭奴性、すなわち物惜しみ(慳貪)である。それが容易に捨て去れない状態にあることを指して「甚だしい守銭奴性、強固な物惜しみの状態」と言われたのである。失敗した状態から立ち上がることができず、借金を重ねる者は、沈み込みながら借金に溺れるという。太陽が昇っても仕事を始めない者は、夜に起き上がらない性質の者である。
Atthāti dhanāni. Atikkamantīti apagacchanti. Atha vā atthāti kiccāni. Atikkamantīti atikkantakālāni honti, tesaṃ atikkamopi atthato dhanānameva atikkamo. Iminā kathāmaggenāti iminā ‘‘yato kho gahapatiputtā’’tiādi (dī. ni. 3.244) nayappavattena kathāsaṅkhātena hitādhigamūpāyena. Ettakaṃ kammanti cattāro kammakilesā, cattāri agatigamanāni, cha bhogānaṃ apāyamukhānīti evaṃ vuttaṃ cuddasavidhaṃ pāpakammaṃ.
「財産が(Atthā)」とは富のことである。「過ぎ去る(Atikkamanti)」とは離れ去るということである。あるいは「目的が(atthā)」とは諸々の用務のことである。「過ぎ去る」とは時機を逸することであり、それらの逸脱も実際には財産の喪失そのものである。「この説法の道筋によって(Iminā kathāmaggena)」とは、「家長の息子よ、〜の時から」などの方法で説かれた、教説と呼ばれる利益獲得の手段によって、ということである。「これだけの行為を(Ettakaṃ kammaṃ)」とは、四つの業の汚れ、四つの偏頗に赴くこと、六つの財産滅亡の門としてこのように説かれた十四種の悪業のことである。
Mittapatirūpakavaṇṇanā
友の偽善者の解説
254. Anatthoti ‘‘bhogajāni, āyasakyaṃ, parisamajjhe maṅkubhāvo, sammūḷhamaraṇa’’nti evaṃ ādiko diṭṭhadhammiko ‘‘duggatiparikileso, sugatiyañca appāyukatā, bahvābādhatā, atidaliddatā, appannapānatā’’ti evaṃ ādiko ca anattho uppajjati. Yāni kānici bhayānīti attānuvādabhayaparānuvādabhayadaṇḍabhayādīni loke labbhamānāni yāni kānici bhayāni. Upaddavāti antarāyā. Upasaggāti sarīrena saṃsaṭṭhāni viya uparūpari uppajjanakāni byasanāni. Aññadatthūti ekantenāti etasmiṃ atthe nipāto ‘‘aññadatthudaso’’tiādīsu (dī. ni. 1.42) viyāti vuttaṃ **‘‘ekaṃsenā’’**ti. Yaṃ kiñci gahaṇayogyaṃ haratiyeva gaṇhātiyeva. Vācā eva paramā etassa kammanti vacīparamo. Tenāha **‘‘vacanamattenevā’’**tiādi. Anuppiyanti takkanaṃ, yaṃ vā ‘‘rucī’’ti vuccati yehi surāpānādīhi bhogā apenti vigacchanti, tesu tesaṃ apāyesu byasanahetūsu sahāyo hoti.
254. 「無益(Anattho)」とは、「財産の喪失、不名誉、会衆の中での狼狽、昏迷した死」などの現世の無益や、「悪趣の苦しみ、善趣における短命、多病、極貧、飲食の不足」などの来世の無益が生じることである。「いかなる恐怖であれ(Yāni kānici bhayāni)」とは、自己の非難の恐怖、他者の非難の恐怖、処罰の恐怖など、世間に見られるいかなる恐怖であれ、ということである。「厄災(Upaddavā)」とは障害のことである。「災難(Upasaggā)」とは、身体にまとわりつくかのように次々と生じる破滅のことである。「ひたすら(Aññadatthu)」とは「もっぱら」というこの意味における不変化詞であり、「もっぱら見る者」などの用例と同様である。それゆえに「もっぱら(ekaṃsenā)」と言われたのである。受け取るに値するいかなるものであれ、ただ奪い取り、受け取るだけである。言葉だけがその人の最上の行為であるゆえに「言葉だけの者(vacīparamo)」である。それゆえに「言葉だけで…」などと言われたのである。「迎合(Anuppiyaṃ)」とは推測して合わせることであり、あるいは「歓心」と呼ばれるものである。飲酒などによって財産が離れ去り、消滅するが、それらの滅亡において、破滅の原因において仲間となるのである。
255. Hārakoyeva hoti, na dāyako, tamassa ekaṃsato hārakabhāvaṃ dassetuṃ **‘‘sahāyassā’’**tiādi vuttaṃ. Yaṃ kiñci appakanti pupphaphalādi yaṃ kiñci parittaṃ vatthuṃ datvā, bahuṃ pattheti bahuṃ mahagghaṃ vatthayugādiṃ paccāsīsati. Dāso viya hutvā mittassa taṃ taṃ kiccaṃ karonto kathaṃ amitto nāma jātoti āha **‘‘aya’’**ntiādi. Yassa kiccaṃ karoti anatthaparihāratthaṃ, attano mittabhāvadassanatthañca, taṃ sevati. Atthakāraṇāti vaḍḍhinimittaṃ, ayametesaṃ bhedo.
255. 奪う者であるだけで与える者ではない。彼のその絶対的な強奪者としてのあり方を示すために「友の…」などと言われたのである。「何であれ僅かなものを(Yaṃ kiñci appakaṃ)」とは、花や果物などの僅かな物を与えて、「多くを望む」とは、多くの高価な衣服の一対などを期待することである。奴隷のようになって友のあれこれの用務をしながら、どうして「敵」となったのかと言えば、「これ(ayaṃ)…」などと言われたのである。不利益を回避するため、また自らの友情を示すためにその用務をなす相手に親しむのである。「自己の利益のために(Atthakāraṇā)」とは、自らの繁栄を原因として、ということであり、これが彼らの区別である。
256. Pareti paradivase. Na āgato sīti āgato nāhosi. Khīṇanti tādisassa, asukassa ca dinnattā. Sassasaṅgaheti sassato kātabbadhaññasaṅgahe kate.
256. 「明日に(Pare)」とは翌日に。「来なかった(Na āgato si)」とは、来ることがなかったということである。「尽きた(Khīṇaṃ)」とは、そのような人や某人に与えてしまったために、ということである。「穀物の収穫の際に(Sassasaṅgahe)」とは、穀物からなされるべき作物の収穫がなされた時に、ということである。
257. ‘‘Dānādīsu yaṃ kiñci karomā’’ti vutte ‘‘sādhu samma karomā’’ti anujānātīti imamatthaṃ **‘‘kalyāṇepi eseva nayo’’**ti atidisati. Nanu evaṃ anujānanto ayaṃ mitto eva, na amitto mittapatirūpakoti? Anuppiyabhāṇīdassanamattametaṃ. Sahāyena vā desakālaṃ, tasmiṃ vā kate uppajjanakavirodhādiṃ asallakkhetvā ‘‘karomā’’ti vutte yo taṃ jānanto eva ‘‘sādhu samma karomā’’ti anuppiyaṃ bhaṇati, taṃ sandhāya vuttaṃ ‘‘kalyāṇaṃ pissa anujānātī’’ti. Tena vuttaṃ ‘‘kalyāṇepi eseva nayo’’ti.
257. 「布施などを何であれ行おう」と言われた時に、「良き友よ、善い哉、共に行おう」と同意するというこの意味を、「善事においても同様の道理である」と準用する。「しかし、このように同意する者はまさに友であって、敵である友の偽善者ではないのではないか」と問うなら、そうではない。これは迎合して語る者の単なる例示である。あるいは、仲間が場所や時間、あるいはそれがなされた時に生じる対立などを考慮せずに「行おう」と言った時に、それを知りながら「良き友よ、善い哉、行おう」と迎合して語る者のことを指して、「善事においても彼に同意する」と説かれたのである。それゆえに「善事においても同様の道理である」と言われたのである。
259. Mittapatirūpakā ete mittāti evaṃ jānitvā.
259. 「これらは友の偽善者である」とこのように知って、ということである。
Suhadamittavaṇṇanā
心ある友の解説
260. Sundarahadayāti pemassa atthivasena bhaddacittā.
260. 「麗しい心を持つ者たち(Sundarahadayā)」とは、愛情の力によって善き心を持つ者たちである。
261. Pamattaṃ rakkhatīti ettha pamādavasena kiñci ayutte kate tādise kāle rakkhaṇaṃ ‘‘bhītassa saraṇaṃ hotī’’ti imināva taṃ gahitanti tato aññameva pamattassa rakkhaṇavidhiṃ dassetuṃ **‘‘majjaṃ pivitvā’’**tiādi vuttaṃ. Gehe ārakkhaṃ asaṃvihitassa bahigamanampi pamādapakkhikamevāti **‘‘sahāyo bahigato vā hotī’’**ti vuttaṃ. Bhayaṃ harantoti bhayaṃ paṭibāhanto. Bhogahetutāya phalūpacārena dhanaṃ **‘‘bhoga’’**nti vadati. Kiccakaraṇīyeti khuddake, mahante ca kātabbe uppanne.
261. 「放逸な者を守る(Pamattaṃ rakkhati)」という箇所において、放逸によって何か不当なことがなされたような時に守ることは、「恐れる者の拠り所となる」という語によってすでに把握されているため、それとは異なる放逸な者の保護の作法を示すために「酒を飲んで…」などと言われたのである。家の中に警備を配置せずに外出することもまた放逸の側であるため、「友が外出した時、あるいは」と言われたのである。「恐怖を取り除く者(Bhayaṃ haranto)」とは、恐怖を撃退する者である。財産の原因であることから、果の比喩によって富を「財(bhogaṃ)」と呼ぶ。「なすべき用務がある時に(Kiccakaraṇīye)」とは、小規模な、あるいは大規模ななすべきことが生じた時に、ということである。
262. Nigūhituṃ yuttakathanti nigūhituṃ chādetuṃ yuttakathaṃ, nigūhituṃ vā yuttā kathā etassāti nigūhituṃ yuttakathaṃ, attano kammaṃ. Rakkhatīti anāvikaronto chādeti. Jīvitampīti pi-saddena kimaṅgaṃ pana aññaṃ pariggahitavatthunti dasseti.
262. 「隠すべき話を(Nigūhituṃ yuttakathaṃ)」とは、隠し覆うべき話を、あるいは隠すべき話を持つ彼自身の行為を、ということである。「守る(Rakkhati)」とは、公言せずに隠すことである。「命をも(Jīvitampi)」という箇所の「も(pi)」という語によって、まして他の所有物においては言うまでもないことを示している。
263. Passantesu passantesūti āmeḍitavacanena nivāriyamānassa pāpassa punappunaṃ karaṇaṃ dīpeti. Punappunaṃ karonto hi pāpato visesena nivāretabbo hoti. Saraṇesūti saraṇesu vattassu abhinnāni katvā paṭipajja, saraṇesu vā upāsakabhāvena vattassu. Nipuṇanti saṇhaṃ. Kāraṇanti kammassakatādibhedayuttaṃ. Idaṃ kammanti imaṃ dānādibhedaṃ kusalakammaṃ. ‘‘Kamma’’nti sādhāraṇato vuttassāpi tassa ‘‘sagge nibbattantī’’ti padantarasannidhānena saddhāhirottappālobhādiguṇadhammasamaṅgitā viya kusalabhāvo jotito hoti. Saddhādayo hi dhammā saggagāmimaggo. Yathāha –
263. 「見ている時ごとに、見ている時ごとに(Passantesu passantesu)」という畳語(反復)によって、制止されている悪が繰り返し行われることを示している。繰り返し行う者は、悪から格別に制止されるべきだからである。「帰依処において(Saraṇesu)」とは、帰依処において遵守し、損なわずに実践せよ、あるいは帰依処において優婆塞(在家信徒)として振る舞え、ということである。「巧みに(Nipuṇaṃ)」とは、微細に。「原因を(Kāraṇaṃ)」とは、自業所有智などの区別を備えたものを。「この行為を(Idaṃ kammaṃ)」とは、この布施などの種類の善業を、ということである。「業」と一般的に説かれているものの、「天界に生まれる」という他の語が隣接していることによって、信・恥・良心・無貪などの徳の法を備えていることのような、善なる状態が明らかにされている。信などの法こそが天界へ赴く道だからである。次のように説かれている通りである――
‘‘Saddhā hiriyaṃ kusalañca dānaṃ,
「信と、恥と、善なる布施、 これらの法は善人たちに従われる。
Dhammā ete sappurisānuyātā;
実にこれを神聖な道と呼び、
Etañhi maggaṃ diviyaṃ vadanti,
これによって天界へと赴くのである」(増支部8.32)。
Etena hi gacchati devaloka’’nti. (a. ni. 8.32);
264. Bhavanaṃ sampattivaḍḍhanaṃ bhavoti attho, tappaṭikkhepena abhavoti āha **‘‘abhavena avuḍḍhiyā’’**ti. Pārijuññanti jāni. Anattamano hotīti attamano na hoti anukampakabhāvato. Aññadatthu taṃ abhavaṃ attani āpatitaṃ viya maññati. Idāni taṃ bhavaṃ sarūpato dassetuṃ **‘‘tathārūpa’’**ntiādi vuttaṃ. Virūpoti bībhaccho. Na pāsādikoti tasseva vevacanaṃ. Sujātoti sundarajātiko jātisampanno.
264. 「存在・繁栄(Bhavanaṃ)」とは幸福の増大であり、繁栄(bhava)という意味である。その反対として「不繁栄・衰退」であることから「繁栄・増大しないことによって」と言われたのである。「破滅(Pārijuññaṃ)」とは損失である。「喜ばない(Anattamano hoti)」とは、同情する者であるために喜ばないということである。むしろその衰退を、自分自身に降りかかったかのように思うのである。今やその繁栄を具体的に示すために「そのような…」などと言われたのである。「醜悪な(Virūpo)」とは、見るに堪えないことである。「喜ばしくない」とは、それの同義語である。「良家に生まれた(Sujāto)」とは、善き家柄の生まれであり、家柄の良さを備えた者である。
265. Jalanti jalanto. Aggīvāti aggikkhandho viya. Bhāsatīti virocati. Yasmāssa bhagavatā savisesaṃ virocanaṃ loke pākaṭabhāvañca dassetuṃ ‘‘jalaṃ aggīva bhāsatī’’ti vuttaṃ, tasmā yadā aggi savisesaṃ virocati, yattha ca ṭhito dūre ṭhitānampi paññāyati, taṃ dassanādivasena tamatthaṃ vibhāvetuṃ **‘‘ratti’’**ntiādi vuttaṃ.
265. 「燃え上がりながら(Jalaṃ)」とは、燃え盛りながら。「火のように(Aggīva)」とは、火炎の塊のように。「輝く(Bhāsati)」とは、光り輝く。世尊によって彼の格別な輝きと世間における明白さが示されるために「燃える火のように輝く」と言われたのであり、それゆえに火が格別に輝く時、遠くにいる者たちにも見える場所に立っていることを、見ることなどを通じてその意味を解明するために「夜に…」などと言われたのである。
‘‘Bhamarasseva irīyato’’ti etenevassa bhogasaṃharaṇaṃ dhammikaṃ ñāyopetanti dassento **‘‘attānampī’’**tiādimāha. Rāsiṃ karontassāti yathāssa dhanadhaññādibhogajātaṃ sampiṇḍitaṃ rāsibhūtaṃ hutvā tiṭṭhati, evaṃ irīyato āyūhantassa ca. Cakkappamāṇanti rathacakkappamāṇaṃ. Nicayanti vuḍḍhiṃ parivuḍḍhiṃ. ‘‘Bhogā sannicayaṃ yantī’’ti keci paṭhanti.
「蜂が飛び回るように」というこれによって、彼の財の集積が正当で道理にかなったものであることを示して、「自らをも…」などと言われたのである。「山と積む者にとって(Rāsiṃ karontassa)」とは、彼の富や穀物などの財産が集約されて山積みとなって存在するようになる、そのように活動し蓄積する者にとって、ということである。「車輪の大きさ(Cakkappamāṇaṃ)」とは、荷車の車輪の大きさである。「増大を(Nicayaṃ)」とは、増大、大いなる増大を。「財は集積へと赴く(Bhogā sannicayaṃ yantī)」と読む者もいる。
Samāhatvāti saṃharitvā. Alaṃ-saddo ‘‘alameva sabbasaṅkhāresu nibbindituṃ, alaṃ virajjitu’’ntiādīsu (dī. ni. 2.272; saṃ. ni. 2.124, 129, 134, 143) yuttanti imamatthaṃ joteti, ‘‘alamariyañāṇadassanavisesa’’ntiādīsu (ma. ni. 1.328) pariyattanti. Yo veṭhitattotiādīsu (su. ni. 217) viya atta-saddo sabhāvapariyāyoti taṃ sabbaṃ dassento **‘‘yuttasabhāvo’’**tiādimāha. Saṇṭhapetunti sammā ṭhapetuṃ, sammadeva pavattetunti attho.
「集めて(Samāhatvā)」とは、集積して。「十分(Alaṃ)」という語は、「すべての形成されたものに嫌悪するに十分であり、離欲するに十分である」などの箇所では「適切である」というこの意味を明らかにし、「聖なる知見の卓越に十分である」などの箇所では「十分である」という意味である。「自己を制した者」などの箇所と同様に、「自己(atta)」という語は本質の同義語であるため、それらすべてを示して「適切な性質の」などと言われたのである。「確立するために(Saṇṭhapetuṃ)」とは、正しく据えるために、正しく営むためにという意味である。
Evaṃ vibhajantoti evaṃ vuttanayena attano dhanaṃ catudhā vibhajanto vibhajanahetu mittāni ganthati soḷasa kalyāṇamittāni mettāya ajīrāpanena pabandhati. Tenāha **‘‘abhejjamānāni ṭhapetī’’**ti. Kathaṃ pana vuttanayena catudhā bhogānaṃ vibhajanena mittāni ganthatīti āha **‘‘yassa hī’’**tiādi. Tenāha bhagavā ‘‘dadaṃ mittāni ganthatī’’ti (saṃ. ni. 1.246). Bhuñjeyyāti upabhuñjeyya, upayuñjeyya cāti attho. Samaṇabrāhmaṇakapaṇaddhikādīnaṃ dānavasena ceva adhivatthadevatādīnaṃ petabalivasena, nhāpitādīnaṃ vetanavasena ca viniyogopi upayogo eva. Tathā hi vakkhati ‘‘imesu panā’’tiādi āyo nāma heṭṭhimantena vayato catugguṇo icchitabbo, aññathā vayo avicchedavasena na santāneyya, nidheyya, bhājeyya ca asambhateti vuttaṃ **‘‘dvīhi kammaṃ payojaye’’**ti. Nidhetvāti nidahitvā, bhūmigataṃ katvāti attho. Rājādivasenāti ādi-saddena aggiudakacoradubbhikkhādike saṅgaṇhāti. Nhāpitādīnanti ādi-saddena kulālarajakādīnaṃ saṅgaho.
「このように分配する者は(Evaṃ vibhajanto)」とは、このように説かれた方法によって自らの財産を四分し、分配を理由として友を結び、十六の善友を慈しみによって衰えさせることなく結びつける。それゆえに「破綻なきものとして保つ」と言われたのである。では、どのようにして説かれた方法で財産を四分することによって友を結ぶのかと言えば、「実にその人には…」などと言われたのである。それゆえに世尊は「与える者が友を結びつける」(相応部1.246)と説かれたのである。「享受すべきである(Bhuñjeyya)」とは、享受し、用いるべきであるという意味である。沙門・バラモン・貧者・旅人などへの布施として、また屋敷神などの祖霊祭(鬼神への供養)として、散髪師などへの給金としての支出もまた「使用」である。実際、「しかしこれらにおいて…」と後に述べる通りである。収入というものは、最低でも支出の四倍であることが望まれる。そうでなければ、支出を中断することなく継続させ、貯蓄し、蓄えのない時に分配することができないからである。それゆえに「二分をもって仕事を営むべし」と言われたのである。「蓄えて(Nidhetvā)」とは、埋蔵して、地中に納めてという意味である。「王などのために(Rājādivasena)」という箇所の「など」という語によって、火災・水害・盗賊・飢饉などを包摂する。「散髪師などの(Nhāpitādīnaṃ)」という箇所の「など」という語によって、陶工や洗濯師などが包摂される。
Chaddisāpaṭicchādanakaṇḍavaṇṇanā
六方を覆い守る章の解説
266. Catūhi kāraṇehīti na chandagamanādīhi catūhi kāraṇehi. Akusalaṃ pahāyāti ‘‘cattāro kammakilesā’’ti vuttaṃ akusalañceva agatigamanākusalañca pajahitvā. Chahi kāraṇehīti surāpānādīsu ādīnavadassanasaṅkhātehi chahi kāraṇehi. Surāpānānuyogādibhedaṃ chabbidhaṃ bhogānaṃ apāyamukhaṃ vināsamukhaṃ vajjetvā. Soḷasa mittānīti upakārādivasena cattāro, pamattarakkhaṇādikiccavisesavasena paccekaṃ cattāro cattāro katvā soḷasavidhe kalyāṇamitte sevanto bhajanto. Satthavāṇijjādimicchājīvaṃ pahāya ñāyeneva vattanato dhammikena ājīvena jīvati. Namassitabbāti upakāravasena, guṇavasena ca namassitabbā sabbadā natena hutvā vattitabbā. Disā-saddassa attho heṭṭhā vutto eva. Āgamanabhayanti tattha sammā appaṭipattiyā, micchāpaṭipattiyā ca uppajjanakaanattho. So hi bhāyanti etasmāti ‘‘bhaya’’nti vuccati. Yena kāraṇena mātāpituādayo puratthimādibhāvena apadiṭṭhā, taṃ dassetuṃ **‘‘pubbupakāritāyā’’**tiādi vuttaṃ, tena atthasarikkhatāya nesaṃ puratthimādibhāvoti dasseti. Tathā hi mātāpitaro puttānaṃ puratthimabhāvena tāva upakāribhāvena dissanato, apadissanato ca puratthimā disā. Ācariyā antevāsikassa dakkhiṇabhāvena, hitāhitaṃ patikusalabhāvena dakkhiṇārahatāya ca vuttanayena dakkhiṇā disā. Iminā nayena **‘‘pacchimā disā’’**tiādīsu yathārahaṃ attho veditabbo. Gharāvāsassa dukkhabahulatāya te te ca kiccavisesā yathāuppatitadukkhanittharaṇatthāti vuttaṃ **‘‘te te dukkhavisese uttaratī’’**ti. Yasmā dāsakammakarā sāmikassa pādānaṃ payirupāsanavasena ceva tadanucchavikakiccasādhanavasena ca yebhuyyena santikāvacarā, tasmā vuttaṃ **‘‘pādamūle patiṭṭhānavasenā’’**ti. Guṇehīti uparibhāvāvahehi guṇehi. Upari ṭhitabhāvenāti saggamagge mokkhamagge ca patiṭṭhitabhāvena.
266. 「四つの原因によって(Catūhi kāraṇehi)」とは、愛執による偏頗などの四つの原因によらずに、ということである。「不善を捨てて(Akusalaṃ pahāya)」とは、「四つの業の汚れ」と説かれた不善と、偏頗に赴く不善とを捨て去って、ということである。「六つの原因によって(Chahi kāraṇehi)」とは、飲酒などにおける過患を見ることと呼ばれる六つの原因によって、ということである。飲酒への専従などを始めとする六種の財産滅亡の門、破滅の門を避けて、ということである。「十六の友を(Soḷasa mittāni)」とは、助けとなることなどによって四種あり、放逸な者を守ることなどの特別な用務によってそれぞれ四種ずつとして、十六種の善友に親しみ仕えて、ということである。武器商人などの邪な生活手段を捨て、正しい道理によってのみ生活することから、正当な生活手段によって生きるのである。「礼拝されるべき(Namassitabbā)」とは、恩恵と徳のゆえに礼拝されるべきであり、常に謙虚になって仕えるべきであるということである。「方向(Disā)」という語の意味はすでに上述の通りである。「来たるべき恐怖(Āgamanabhayaṃ)」とは、そこにおいて正しく実践しないこと、誤って実践することによって生じる不利益のことである。実に、これによって恐れるがゆえに「恐怖」と呼ばれる。どのような理由によって父母などが東方などとして示されたのか、そのことを示すために「最初の恩恵者であることから…」などと言われたのであり、それによって意味の類似性から彼らが東方などであると示している。実際、父母は子供たちにとって、まず東方(最初)の恩恵者として見られることから、そして最初に現れることから「東方」である。師匠は弟子にとって南(dakkhiṇa、右・施しを受けるに値する)であり、利益と不利益に対して巧みであることから、布施(dakkhiṇā)を受けるに値することから、説かれた方法によって「南方」である。この道理によって、「西方」などの箇所においても適切に意味が理解されるべきである。在家の生活は苦しみが多いものであり、それぞれの特別な用務は、生じた苦しみを乗り越えるためのものであるため、「それら種々の苦しみを乗り越える」と言われたのである。召使や労働者たちは、主人の足元に仕えることによって、またそれにふさわしい用務を成就することによって、おおむね身近に行動する者たちであるため、「足元に立つことによって」と言われたのである。「徳によって(Guṇehi)」とは、上位の状態をもたらす諸徳によって。「上方に立つことによって(Upari ṭhitabhāvena)」とは、天界の道や解脱の道に確立していることによって、ということである。
267. Bhatoti posito, taṃ pana bharaṇaṃ jātakālato paṭṭhāya sukhapaccayūpaharaṇena dukkhapaccayāpaharaṇena ca tehi pavattitanti dassetuṃ **‘‘thaññaṃ pāyetvā’’**tiādi vuttaṃ. Jaggitoti paṭijaggito. Teti mātāpitaro.
267. 「養われた(Bhato)」とは、養育されたことであり、その養育が生れた時から幸福の条件をもたらし、苦しみの条件を取り除くことによって彼らによってなされたことを示すために「乳を飲ませて…」などと言われたのである。「保護された(Jaggito)」とは、世話されたことである。「彼らは(Te)」とは、その父母のことである。
Mātāpitūnaṃ santakaṃ khettādiṃ avināsetvā rakkhitaṃ tesaṃ paramparāya ṭhitiyā kāraṇaṃ hotīti **‘‘taṃ rakkhanto kulavaṃsaṃ saṇṭhapeti nāmā’’**ti vuttaṃ. Adhammikavaṃsatoti ‘‘kulappadesādinā attanā sadisaṃ ekaṃ purisaṃ ghaṭetvā vā gīvāyaṃ vā hatthe vā bandhamaṇiyaṃ vā hāretabba’’nti evaṃ ādinā pavattaadhammikapaveṇito. Hāretvāti apanetvā taṃ gāhaṃ vissajjāpetvā. Mātāpitaro tato gāhato vivecaneneva hi āyatiṃ tesaṃ paramparāhārikā siyā. Dhammikavaṃseti hiṃsādiviratiyā dhammike vaṃse dhammikāya paveṇiyaṃ. Ṭhapentoti patiṭṭhapento. Salākabhattādīni anupacchinditvāti salākabhattadānādīni avicchinditvā.
父母の所有である田畑などを破滅させずに保護することが、彼らの伝統の存続の原因となることから、「それを守る者は家系を確立する者と呼ばれる」と言われたのである。「非道な伝統から(Adhammikavaṃsato)」とは、「家柄や地域などによって自分と同等の男と結びつけ、首や手に結びつけた宝玉を奪うべし」などのように行われていた非道な慣習から、ということである。「離れさせて(Hāretvā)」とは、取り除いて、その執着を放棄させて、ということである。父母をその執着から離れさせることによってのみ、将来にわたって彼らの伝統を受け継ぐ者となるからである。「正しい家系において(Dhammikavaṃse)」とは、不殺生などの善なる家系、正道な伝統において。「確立する者(Ṭhapento)」とは、定着させる者。「割符の食事などを絶やさずに(Salākabhattādīni anupacchinditvā)」とは、割符の食事の布施などを中断することなく、ということである。
Dāyajjaṃ paṭipajjāmīti ettha yasmā dāyapaṭilābhassa yogyabhāvena vattamānoyeva dāyajjaṃ paṭipajjati nāma, na itaro, tasmā tamatthaṃ dassetuṃ **‘‘mātāpitaro’’**tiādi vuttaṃ. Dāraketi putte. Vinicchayaṃ patvāti ‘‘puttassa cajavissajjana’’nti evaṃ āgataṃ vinicchayaṃ āgamma. Dāyajjaṃ paṭipajjāmīti vuttanti ‘‘dāyajjaṃ paṭipajjāmī’’ ti idaṃ catutthaṃ vattanaṭṭhānaṃ vuttaṃ. Tesanti mātāpitūnaṃ. Tatiyadivasato paṭṭhāyāti matadivasato tatiyadivasato paṭṭhāya.
「遺産を受け継ぐ(Dāyajjaṃ paṭipajjāmi)」という箇所において、遺産の獲得にふさわしい者として振る舞う者だけが遺産を受け継ぐのであり、そうでない者は受け継がないため、その意味を示すために「父母は…」などと言われたのである。「子供において(Dārake)」とは、息子において、ということである。「決断に至って(Vinicchayaṃ patvā)」とは、「息子の追放」などと伝えられる決断に基づいて、ということである。「遺産を受け継ぐと言われた」とは、「遺産を受け継ぐ」というこの第四の義務の条項が説かれたということである。「彼らのために(Tesaṃ)」とは、その父母のために。「三日目から(Tatiyadivasato paṭṭhāya)」とは、亡くなった日の三日後から、ということである。
Pāpato nivāraṇaṃ nāma anāgatavisayaṃ. Sampattavatthutopi hi nivāraṇaṃ vītikkame anāgate eva siyā, na vattamāne. Nibbattitā pana pāpakiriyā garahaṇamattapaṭikārāti āha **‘‘katampi garahantī’’**ti. Nivesentīti patiṭṭhapenti. Vuttappakārā mātāpitaro anavajjameva sippaṃ sikkhāpentīti vuttaṃ **‘‘muddāgaṇanādisippa’’**nti. Rūpādīhīti ādi-saddena bhogaparivārādiṃ saṅgaṇhāti. Anurūpenāti anucchavikena.
「悪から遠ざけること」とは、未来の領域に関するものである。現前に生じた事柄からであっても、遠ざけることは未来の過失においてのみ成り立ち、現在においてではない。しかし、すでに生じてしまった悪行に対しては、非難することのみが対処法であるため、「なされたことさえも非難する」と述べられたのである。「住まわせる」とは、確立させることである。前述のような両親は、過ちのない技術のみを学ばせるため、「印顆や計算などの技術」と述べられた。「容色などによって」の「など」という言葉によって、財産や従者などが包括される。「相応しい」とは、適したということである。
Niccabhūto samayo abhiṇhakaraṇakālo. Abhiṇhattho hi ayaṃ nicca-saddo ‘‘niccapahaṃsito niccapahaṭṭho’’tiādīsu viya. Yuttapattakālo eva samayo **kālasamayo. ‘‘Uṭṭhāya samuṭṭhāyā’’**ti imināssa niccameva dāne tesaṃ yuttapayuttataṃ dasseti. Sikhāṭhapanaṃ dārakakāle. Āvāhavivāhaṃ puttadhītūnaṃ yobbanappattakāle.
「常なる時」とは、頻繁に行う時のことである。「常(nicca)」という言葉は、「常に喜悦し、常に歓喜している」などにおけるのと同様に、頻繁という意味だからである。相応しく到達した時こそが時であり、「時宜(適切な時)」である。「起きては、立ち起きては」という語句によって、彼らが常に施しにおいて熱心に従事していることを示している。髷を結うことは幼少期になされ、婚姻は息子や娘たちの青春期に達した時になされる。
Taṃ bhayaṃ yathā nāgacchati, evaṃ pihitā hoti ‘‘puratthimā disā’’ti vibhattiṃ pariṇāmetvā yojanā. Yathā pana taṃ bhayaṃ āgaccheyya, yathā ca nāgaccheyya, tadubhayaṃ dassetuṃ **‘‘sace hī’’**tiādi vuttaṃ. Vippaṭipannāti ‘‘bhato ne bharissāmī’’tiādinā uttasammāpaṭipattiyā akāraṇena ceva tappaṭipakkhamicchāpaṭipattiyā akaraṇena ca vippaṭipannā puttā assu. Etaṃ bhayanti etaṃ ‘‘mātāpitūnaṃ appatirūpāti viññūnaṃ garahitabbatābhayaṃ, paravādabhaya’’nti evamādi āgaccheyya puttesu. Puttānaṃ nānurūpāti ettha ‘‘puttāna’’nti padaṃ etaṃ bhayaṃ puttānaṃ āgaccheyyāti evaṃ idhāpi ānetvā sambandhitabbaṃ. Tādisānañhi mātāpitūnaṃ puttānaṃ ovādānusāsaniyo dātuṃ samatthakālato paṭṭhāya tā tesaṃ dātabbā evāti katvā tathā vuttaṃ. Puttānañhi vasenāyaṃ desanā anāgatā sammāpaṭipannesu ubhosu attano, mātāpitūnañca vasena uppajjanakatāya sabbaṃ bhayaṃ na hoti sammāpaṭipannattā. Evaṃ paṭipannattā eva paṭicchannā hoti tattha kātabbapaṭisanthārassa sammadeva katattā. Khemāti anupaddavā. Yathāvuttasammāpaṭipattiyā akaraṇena hi uppajjanakaupaddavā karaṇena na hontīti.
その恐怖が来ないように、このように「東の方角」が覆い塞がれる、と格を変化させて解釈される。しかし、どのようにしてその恐怖が訪れるのか、またどのようにして訪れないのか、その双方を示すために「実に、もしも……」などと述べられた。「誤った行いをする」とは、「養われたのだから養おう」などのように述べられた正しい実践を行わないことによって、またその反対である誤った実践を行うことによって、息子たちが誤った行いをする者となることである。「その恐怖」とは、「両親に相応しくないという、識者たちから非難されるべき恐怖、他者からの非難の恐怖」などの恐怖が息子たちに生じることである。「息子たちに相応しくない」という箇所において、「息子たちに」という語を「この恐怖が息子たちに訪れるかもしれない」とここにも持ってきて連結させるべきである。そのような両親に対して息子たちが教誡や訓戒を与えることができる時以降、それらが彼ら(両親)に与えられるべきであるからこそ、そのように述べられたのである。この教示は息子たちを主眼として説かれたものであり、双方が正しく実践しているときには、自己と両親の関わりによって生じるすべての恐怖は、正しく実践しているがゆえに生じない。このように実践されているがゆえに、そこにおいてなされるべきもてなしが正しくなされているため、(方角は)覆い塞がれているのである。「安穏」とは、災難がないことである。前述の正しい実践を行わないことによって生じる災難は、行うことによって生じないからである。
‘‘Na kho te’’tiādinā vutto saṅgītianāruḷho bhagavatā tadā tassa vutto paramparāgato attho veditabbo. Tenāha **‘‘bhagavā siṅgālakaṃ etadavocā’’**ti. Ayañhīti ettha hi-saddo avadhāraṇe. Tathā hi **‘‘no aññā’’**ti aññadisaṃ nivatteti.
「実に、あなたには……」などと述べられ、結集には編入されなかったが、世尊によってその時に彼に説かれた、伝承されてきた意味として知られるべきである。それゆえに「世尊はシンガーラカにこのように仰せになった」と述べられた。「実にこの方角こそ」における「実に(hi)」という語は、強調・限定を意味する。それゆえに「他の方角ではない」と他の方角を退けているのである。
268. Ācariyaṃ dūratova disvā uṭṭhānavacaneneva tassa paccuggamanādisāmīcikiriyā avuttasiddhāti taṃ dassento **‘‘paccuggamanaṃ katvā’’**tiādimāha. Upaṭṭhānenāti payirupāsanena. Tikkhattuṃupaṭṭhānagamanenāti pāto, majjhanhike, sāyanti tīsu kālesu upaṭṭhānatthaṃ upagamanena. Sippuggahaṇatthaṃ pana upagamanaṃ upaṭṭhānantogadhaṃ payojanavasena gamanabhāvatoti āha **‘‘sippuggahaṇa…pe… hotī’’**ti. Sotuṃ icchā sussūsā, sā pana ācariye sikkhitabbasikkhe ca ādaragāravapubbikā icchitabbā ‘‘addhā iminā sippena sikkhitena evarūpaṃguṇaṃ paṭilabhissāmī’’ti. Tathābhūtañca taṃ savanaṃ saddhāpubbaṅgamaṃ hotīti āha **‘‘saddahitvā savanenā’’**ti. Vuttamevatthaṃ byatirekavasena dassetuṃ **‘‘asaddahitvā…pe… nādhigacchatī’’**ti vuttaṃ. Tasmā tassattho vuttapaṭipakkhanayena veditabbo. Yaṃ sandhāya ‘‘avasesakhuddakapāricariyāyā’’ti vuttaṃ, taṃ vibhajanaṃ anavasesato dassetuṃ **‘‘antevāsikena hī’’**tiādi vuttaṃ. Paccupaṭṭhānādīnīti ādi-saddena āsanapaññāpanaṃ bījananti evamādiṃ saṅgaṇhāti. Antevāsikavattanti antevāsikena ācariyamhi sammāvattitabbavattaṃ. Sippapaṭiggahaṇenāti sippaganthassa sakkaccaṃ uggahaṇena. Tassa hi suṭṭhu uggahaṇena tadanusārenassa payogopi sammadeva uggahito hotīti. Tenāha **‘‘thokaṃ gahetvā’’**tiādi.
268. 師を遠くから見つめ、立ち上がって迎えるという言葉だけで、出迎えなどの礼を尽くす振る舞いは言わずとも成就していることを示すため、「出迎えをして」などと述べられた。「給仕によって」とは、親しく仕えることによってである。「三度給仕に赴くことによって」とは、朝、昼、夕の三時に給仕のために赴くことによってである。しかし、技術習得のために赴くことは、目的を伴う赴きであるため、給仕に含まれる。それゆえ「技術を習得し……略……となる」と述べられた。「聴聞を望むこと」が聴従(熱心に聴くこと)であり、それは師と学ぶべき教えに対して、「実にこの技術を学ぶことによって、このような徳を得るであろう」という敬意と尊重を先立たせた望みであるべきである。そのような聴聞は信を先導とするものであるため、「信じて聴聞することによって」と述べられた。すでに述べられた意味を反対の側面から示すために、「信じないで……略……得られない」と述べられた。したがって、その意味は述べられたことの反対の筋道として知られるべきである。「その他の細かな奉仕によって」と述べられた内容について、その詳細を残りなく示すために「実に弟子どもによって……」などと述べられた。「近侍することなど」の「など」という言葉によって、座席を整えることや団扇で扇ぐことなどが包括される。「弟子としての務め」とは、弟子によって師に対して正しく行われるべき務めのことである。「技術を受け取ることによって」とは、技術の教本を敬意をもって学ぶことによってである。それをよく学ぶことによって、それに応じてその実践もまた正しく習得されるからである。それゆえに「少しずつ学んで」などと述べられた。
Suvinītaṃ vinentīti idha ācāravinayo adhippeto. Sippasmiṃ pana sikkhāpanavinayo ‘‘suggahitaṃ gāhāpentī’’ti imināva saṅgahitoti vuttaṃ **‘‘evaṃ te nisīditabba’’**ntiādi. Ācariyā hi nāma antevāsike na diṭṭhadhammike eva vinenti, atha kho samparāyikepīti āha **‘‘pāpamittā vajjetabbā’’**ti. Sippaganthassa uggaṇhanaṃ nāma yāvadeva payogasampādanatthanti āha **‘‘payogaṃ dassetvā gaṇhāpentī’’**ti. Mittāmaccesūti attano mittāmaccesu. Paṭiyādentīti pariggahetvā naṃ mamattavasena paṭiyādenti. ‘‘Ayaṃ amhākaṃ antevāsiko’’tiādinā hi attano pariggahitadassanamukhena ceva ‘‘bahussuto’’tiādinā tassa guṇapariggaṇhanamukhe ca taṃ tesaṃ paṭiyādenti. Sabbadisāsu rakkhaṃ karonti cātuddisabhāvasampādanenassa sabbattha sukhajīvibhāvasādhanato. Tenāha **‘‘uggahitasippo hī’’**tiādi. Sattānañhi duvidhā sarīrarakkhā abbhantaraparissayapaṭighātena, bāhiraparissayapaṭighātena ca. Tattha abbhantaraparissayo khuppipāsādibhedo, so lābhasiddhiyā paṭihaññati tāya tajjāparihārasaṃvidhānato. Bāhiraparissayo coraamanussādihetuko, so vijjāsiddhiyā paṭihaññati tāya tajjāparihārasaṃvidhānato. Tena vuttaṃ **‘‘yaṃ yaṃ disa’’**ntiādi.
「よく訓練し導く」とは、ここでは立ち居振る舞いの訓練を意味している。一方、技術における教育指導の訓練は、「しっかりと学ばせる」という語によって包括されているため、「このように汝は座るべきである」などと述べられた。師たちは弟子たちを現世においてのみ訓練するのではなく、来世においても訓練するのである。それゆえ「悪友は避けるべきである」と述べられた。技術の教本を学ぶことは、実に実践を成就させるためだけのものであるため、「実践を示して学ばせる」と述べられた。「友や同僚たちに」とは、自分の友人や同僚たちに、ということである。「紹介する」とは、受け入れて彼を親愛の情をもって紹介することである。「この者は私たちの弟子である」などと、自らの受容した弟子であることを示すことによって、また「博学である」などと、その徳を評価することによって、彼を彼らに紹介するのである。「あらゆる方角において守護をなす」とは、彼を四方に通暁する者として成就させることにより、あらゆる場所で安楽に生活できるようにすることである。それゆえ「技術を習得した者は実に……」などと述べられた。生きとし生けるものの身体の守護には、内部の障害の除去と、外部の障害の除去の二種類がある。そのうち、内部の障害とは飢えや渇きなどの類であり、それは利得の成就によって、それ相応の養生を手配することによって除去される。外部の障害とは盗賊や非人などを原因とするものであり、それは学問・技術の成就によって、それ相応の防御を手配することによって除去される。それゆえ「赴く方角ごとに……」などと述べられた。
Pubbe **‘‘uggahitasippo hī’’**tiādinā sippasikkhāpaneneva lābhuppattiyā disāsu parittāṇakaraṇaṃ dassitaṃ, idāni ‘‘yaṃ vā so’’tiādinā tassa uggahitasippassa nipphattivasena guṇakittanamukhena paggaṇhanenapi lābhuppattiyāti ayametesaṃ vikappānaṃ bhedo. Sesanti ‘‘paṭicchannā hotī’’tiādikaṃ pāḷiāgataṃ, ‘‘evañca pana vatvā’’tiādikaṃ aṭṭhakathāgatañca. Etthāti etasmiṃ dutiyadisāvāre. Purimanayenevāti pubbe paṭhamadisāvāre vuttanayeneva.
先に「技術を習得した者は実に……」などによって、技術を学ばせることそのものによる利得の発生によって方角における保護をなすことが示されたが、今度は「あるいは彼が……」などによって、その習得した技術の成就に基づき徳を称賛することを通じて引き立てることによっても利得が発生することが示される。これがこれらの選択肢の相違である。「残りは」とは、「覆い塞がれる」などのパーリ本偈に見られるものや、「そしてこのように語って」などの義注に見られるものである。「ここにおいて」とは、この第二の方角の段においてである。「前述の筋道によってまさに」とは、先に第一の方角の段において述べられた筋道によってまさに、ということである。
269. Sammānanā nāma sambhāvanā, sā pana atthacariyālakkhaṇā ca dānalakkhaṇā ca catutthapañcamaṭṭhāneheva saṅgahitāti piyavacanalakkhaṇaṃ taṃ dassetuṃ **‘‘sambhāvitakathākathanenā’’**ti vuttaṃ. Vigatamānanā vimānanā, na vimānanā avimānanā, vimānanāya akaraṇaṃ. Tenāha **‘‘yathā dāsakammakarādayo’’**tiādi. Sāmikena hi vimānitānaṃ itthīnaṃ sabbo parijano vimānetiyeva. Paricarantoti indriyāni paricaranto. Taṃ aticarati nāma taṃ attano gihiniṃ atimaññitvā agaṇetvā vattanato. Issariyavossaggenāti ettha yādiso issariyavossaggo gihiniyā anucchaviko, taṃ dassento **‘‘bhattagehe vissaṭṭhe’’**ti āha. Gehe eva ṭhatvā vicāretabbampi hi kasivāṇijjādikammaṃ kulitthiyā bhāro na hoti, sāmikasseva bhāro, tato āgatasāpateyyaṃ pana tāya suguttaṃ katvā ṭhapetabbaṃ hoti. **‘‘Sabbaṃ issariyaṃ vissaṭṭhaṃ nāma hotī’’**ti etā maññantīti adhippāyo. Itthiyo nāma puttalābhena viya mahagghavipulālaṅkāralābhenapi na santussantevāti tāsaṃ tosanaṃ alaṅkāradānanti āha **‘‘attano vibhavānurūpenā’’**ti.
269. 「敬重」とは尊ぶことであり、それは利行の特徴と布施の特徴を帯び、第四・第五の項目に包括されているため、愛語の特徴を帯びたそれを示すために「敬意を込めた言葉を語ることによって」と述べられた。敬重を失うことが軽蔑であり、軽蔑しないことが不軽蔑、すなわち軽蔑しないことである。それゆえ「下僕や労働者たちのように」などと述べられた。夫から軽蔑された妻は、家のすべての召使いからも軽蔑されてしまうからである。「楽しむ者」とは、諸々の感覚器官を楽しませる者である。「彼女を不倫する(裏切る)」とは、自らの主婦を軽視し、尊重せずに行動することである。「主権を委ねることによって」について、ここで主婦に相応しい主権の委任とはどのようなものかを示すために、「炊事場を委ねられたときに」と述べられた。家に留まって差配すべき耕作や商業などの仕事であっても、良家の妻の負担ではなく、夫自身の負担である。しかし、そこから得られた財産は、彼女によって厳重に保管され置かれるべきである。「すべての主権が委ねられた」と彼女たちが思うようになる、というのが意図である。女性とは息子の獲得によって満ち足りないのと同様に、高価で豊富な装飾品の獲得によっても満足しきることがないため、彼女たちを喜ばせることは装飾品の贈与であるとし、「自らの財力に応じて」と述べられた。
Kulitthiyā saṃvihitabbakammantā nāma āhārasampādanavicārappakārāti āha **‘‘yāgubhattapacanakālādīnī’’**tiādi. Sammānanādīhi yathārahaṃ piyavacanehi ceva bhojanadānādīhi ca paheṇakapesanādīhi aññato, tattheva vā uppannassa paṇṇākārassa chaṇadivasādīsu pesetabbapiyabhaṇḍehi ca saṅgahitaparijanā. Gehasāminiyā antogehajano niccaṃ saṅgahito evāti vuttaṃ **‘‘idha parijano nāma…pe… ñātijano’’**ti. Ābhatadhananti bāhirato antogehaṃ pavesitadhanaṃ. Gihiniyā nāma paṭhamaṃ āhārasampādane kosallaṃ icchitabbaṃ, tattha ca yuttapayuttatā, tato sāmikassa itthijanāyattesu kiccākiccesu, tato puttānaṃ parijanassa kātabbakiccesūti āha **‘‘yāgubhattasampādanādīsū’’**tiādi. ‘‘Nikkosajjā’’ti vatvā tameva nikkosajjataṃ byatirekato, anvayato ca vibhāvetuṃ **‘‘yathā’’**tiādi vuttaṃ. Idhāti imasmiṃ tatiyadisāvāre. Purimanayenevāti paṭhamadisāvāre vuttanayeneva. Iti bhagavā ‘‘pacchimā disā puttadārā’’ti uddisitvāpi dāravaseneva pacchimaṃ disaṃ vissajjesi, na puttavasena. Kasmā? Puttā hi dārakakāle attano mātu anuggaṇhaneneva anuggahitā honti anukampitā, viññutaṃ pattakāle pana yathā tepi tadā anuggahetabbā, svāyaṃ vidhi ‘‘pāpā nivārentī’’tiādinā paṭhamadisāvāre dassito evāti kiṃ puna vissajjanenāti. Dānādisaṅgahavatthūsu yaṃ vattabbaṃ, taṃ heṭṭhā vuttamevāti.
良家の妻が差配すべき仕事とは、食事の調理や管理の方法であるため、「粥や飯を炊く時間など」と述べられた。敬重などによって相応しく愛語をかけ、また食事の給仕などや贈り物の送付などによって、他所から、あるいはまさにその場所で生じた贈り物を祭礼の日などに送るべき愛しい品物によって、従者たちを包容した者となる。女主人にとっては家の中の人々は常に包容されているため、「ここで従者とは……略……親族である」と述べられた。「もたらされた財産」とは、外部から家の中に入れられた財産である。主婦にとっては、まず食事の準備における巧みさが望まれるべきであり、そこでの熱心な従事、次に夫の女性たちに委ねられた諸々の用件、次に息子たちや従者たちに対してなされるべき用件が望まれる、ということで「粥や飯の準備などにおいて」などと述べられた。「怠惰でないこと」と述べて、その怠惰でないことを反対の側面および順序の側面から明らかにするために、「〜のように」などと述べられた。「ここにおいて」とは、この第三の方角の段においてである。「前述の筋道によってまさに」とは、第一の方角の段で述べられた筋道によってまさに、ということである。このように世尊は「西方とは妻子である」と提示されたにもかかわらず、妻の観点のみによって西方を解き明かし、息子の観点によってではなかった。なぜか。息子たちは幼少期には自らの母を保護することによって保護され慈しまれるが、分別ある年齢に達したときには、彼らもまたその時に保護されるべきであり、その方法は「悪から遠ざける」などによって第一の方角の段においてすでに示されているため、重ねて解き明かす必要があろうか。布施などの摂事において述べるべきことは、下にすでに述べられた通りである。
270. Cattāripi ṭhānāni laṅghitvā pañcamameva ṭhānaṃ vivarituṃ **‘‘avisaṃvādanatāyā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha yassa yassa nāmaṃ gaṇhātīti sahāyo atthikabhāvena yassa yassa vatthuno nāmaṃ katheti. Avisaṃvādetvāti ettha duvidhaṃ avisaṃvādanaṃ vācāya, payogena cāti taṃ duvidhampi dassetuṃ **‘‘idampī’’**tiādi vuttaṃ. **‘‘Dānenā’’**ti ca idaṃ nidassanamattaṃ daṭṭhabbaṃ itarasaṅgahavatthuvasenapi avisaṃvādetvā saṅgaṇhanassa labbhanato, icchitabbato ca. Aparā pacchimā pajā aparapajā, aparāparaṃ uppannā vā pajā aparapajā. Paṭipūjanā nāma mamāyanā, sakkārakiriyā cāti tadubhayaṃ dassetuṃ **‘‘kelāyantī’’**tiādi vuttaṃ. Mamāyantīti mamattaṃ karonti.
270. 四つの項目を飛び越えて、第五の項目のみを明らかにするために「欺かないことによって」などと述べられた。そこにおいて「その都度その名を挙げる」とは、友が求めていることによってその都度その物の名を語るということである。「欺かずに」について、ここでは言葉による不欺瞞と、実践による不欺瞞の二種類があり、その双方を示すために「これもまた……」などと述べられた。「布施によって」というこれもまた単なる例示として見られるべきであり、他の摂事の観点によっても欺かずに包容することが得られ、また望まれるからである。「後の子孫」とは、後から生まれた子孫、あるいは次々に生まれた子孫のことである。「恭敬」とは愛惜と敬意を払う行いであり、その双方を示すために「大切にし」などと述べられた。「我がものとする」とは、親愛の情を寄せることである。
271. Yathābalaṃ kammantasaṃvidhānenāti dāsakammakarānaṃ yathābalaṃ balānurūpaṃ tesaṃ tesaṃ kammantānaṃ saṃvidahanena vicāraṇena, kārāpanenāti attho. Tenāha **‘‘daharehī’’**tiādi. Bhattavetanānuppadānenāti tassa tassa dāsakammakarassa anurūpaṃ bhattassa, vetanassa ca padānena. Tenevāha **‘‘ayaṃ khuddakaputto’’**tiādi. Bhesajjādīnīti ādi-saddena sappāyāhāravasanaṭṭhānādiṃ saṅgaṇhāti. Sātabhāvo eva rasānaṃ acchariyatāti āha **‘‘acchariye madhurarase’’**ti. Tesanti dāsakammakarānaṃ. Vossajjanenāti kammakaraṇato vissajjanena. Velaṃ ñatvāti ‘‘pahārāvaseso, upaḍḍhapahārāvaseso vā divaso’’ti velaṃ jānitvā. Yo koci mahussavo chaṇo nāma. Kattikussavo, phagguṇussavoti evaṃ nakkhattasallakkhito mahussavo nakkhattaṃ. Pubbuṭṭhāyitā, pacchānipātitā ca mahāsudassane vuttā evāti idha anāmaṭṭhā.
271. 「能力に応じた仕事の割り当てによって」とは、下僕や労働者たちの能力に応じて、彼らの体力に見合ったそれぞれの仕事を割り当て、管理し、行わせることによって、という意味である。それゆえ「幼い者たちには……」などと述べられた。「食事と給与の支給によって」とは、それぞれの奴婢や労働者に相応しい食事と報酬を与えることによってである。それゆえに「この者は幼い子である」などと述べられた。「薬など」の「など」という言葉によって、適切な食事や住居などが包括される。美味であることこそが諸々の味の素晴らしさであるため、「素晴らしく甘美な味覚において」と述べられた。「彼らの」とは、下僕や労働者たちのことである。「暇を与えることによって」とは、労働から解放することによってである。「時を知って」とは、「一打(四分の一日)残っている、あるいは半打残っている日である」と時を知って、ということである。いかなる盛大な祭りであれ、それは「祝祭」と呼ばれる。カッティカー祭、パッグナ祭など、このように星宿によって特徴づけられる大祭が「星宿祭」である。早起きすること、遅く就寝することは『大善見王経』においてすでに述べられているため、ここでは触れられていない。
Dinnādāyinoti pubbapadāvadhāraṇavasena sāvadhāraṇavacananti avadhāraṇena nivattitaṃ dassetuṃ **‘‘corikāya kiñci aggahetvā’’**ti vuttaṃ. Tenāha **‘‘sāmikehi dinnasseva ādāyino’’**ti. Na mayaṃ kiñci labhāmāti anujjhāyitvāti paṭisedhadvayena tehi laddhabbassa lābhaṃ dasseti. **‘‘Kiṃ etassa kammena katenāti anujjhāyitvā’’**ti idaṃ tuṭṭhahadayatāya kāraṇadassanaṃ paṭipakkhadūrībhāvato. Tuṭṭhahadayatādassanampi kammassa sukatakāritāya kāraṇadassanaṃ. Kitti eva vaṇṇo kittivaṇṇo, taṃ kittivaṇṇaṃ guṇakathaṃ haranti, taṃ taṃ disaṃ upāharantīti kittivaṇṇaharā. Tathā tathā kittetabbato hi kitti, guṇo, tesaṃ vaṇṇanaṃ kathanaṃ vaṇṇo. Tenāha **‘‘guṇakathāhārakā’’**ti.
「与えられたものを受け取る者」とは、前の一語の限定による限定表現であり、限定によって除外されたものを示すために「盗みによって何一つ取ることなく」と述べられた。それゆえ「主人たちによって与えられたもののみを受け取る者たち」と述べられた。「私たちは何も得られない」と不平を言わずに、という二重の否定によって、彼らが得るべき利得を示している。「『この者のなした仕事によって何になろうか』と不平を言わずに」とは、反対のものが遠ざかっていることによる、満足した心であることの理由づけを示している。満足した心を示すこともまた、仕事がよくなされたことの理由を示すことである。称賛こそが名声であり、これが「称誉」である。その称誉や徳の語りを運ぶ者、あちこちの方角へ届ける者たちが「称誉を運ぶ者たち」である。このように様々に称賛されるべきものであるから「称賛」、すなわち徳であり、それらを称揚し語ることが「名声」である。それゆえ「徳の語りを伝える者たち」と述べられた。
272. Kāraṇabhūtā mettā etesaṃ atthīti mettāni, kāyakammādīni. Yāni pana tāni yathā yathā ca sambhavanti, taṃ dassetuṃ **‘‘tatthā’’**tiādi vuttaṃ. **‘‘Vihāragamana’’**ntiādīsu ‘‘mettacittaṃ paccupaṭṭhāpetvā’’ti padaṃ āharitvā yojetabbaṃ. Anāvaṭadvāratāyāti ettha dvāraṃ nāma alobhajjhāsayatā dānassa mukhabhāvato. Tassa sato deyyadhammassa dātukāmatā anāvaṭatā evañhi gharamāvasanto kulaputto gehadvāre pihitepi anāvaṭadvāro eva, aññathā apihitepi gharadvāre āvaṭadvāro evāti. Tena vuttaṃ **‘‘tatthā’’**tiādi. Vivaritvāpi vasantoti vacanaseso. Pidahitvāpīti etthāpi eseva nayo. **‘‘Sīlavantesū’’**ti idaṃ paṭiggāhakato dakkhiṇavisuddhidassanatthaṃ vuttaṃ. Karuṇākhettepi dānena anāvaṭadvāratā eva. **‘‘Santaññevā’’**ti iminā asantaṃ natthivacanaṃ pucchitapaṭivacanaṃ viya icchitabbaṃ evāti dasseti viññūnaṃ atthikānaṃ cittamaddavakaraṇato. **‘‘Purebhattaṃ paribhuñjitabbaka’’**nti idaṃ yāvakālike eva āmisabhāvassa niruḷhatāya vuttaṃ.
272. 原因となる慈しみがこれらにあるため「慈しみある」身の行いなどである。しかし、それらがどのようなものであり、どのように生じるのかを示すために「そこにおいて」などと述べられた。「寺院への赴き」などにおいて、「慈しみの心を現前させて」という句を補って連結させるべきである。「閉ざされない扉であることによって」について、ここで「扉」とは、布施の入り口である無貪の意向のことである。現にある施すべき物を施したいと望むことが「閉ざされていないこと」であり、このようにして家に住む良家の子は、家の扉が閉ざされていてもまさに「開かれた扉」なのであり、そうでなければ家の扉が開いていても「閉ざされた扉」なのである。それゆえ「そこにおいて」などと述べられた。「(扉を)開いて住んでいる者であっても」という言葉が補われる。「閉ざしていても」というここにおいても同様の筋道である。「持戒の者たちに対して」とは、受者による布施の清浄を示すために述べられたものである。慈悲の対象である悲田においても、布施によってまさに扉は開かれているのである。「あるものだけを」によって、無いという否定の言葉は、問われた返答のようにまさに望まれるべきものであることを示している。識者である困窮者の心を和らげるからである。「午前中に享受されるべきもの」とは、時限性の食物(日午前中のもの)にのみ食肉などの物質性が確立していることから述べられた。
**‘‘Sabbe sattā’’**ti idaṃ tesaṃ samaṇabrāhmaṇānaṃ ajjhāsayasampattidassanaṃ pakkhapātābhāvadīpanato, odhiso pharaṇāyapi mettābhāvanāya labbhanato. Yāya kusalābhivaḍḍhiākaṅkhāya tesaṃ upaṭṭhākānaṃ, tathā nesaṃ gehapavisanaṃ, taṃ sandhāyāha **‘‘pavisantāpi kalyāṇena cetasā anukampanti nāmā’’**ti. Sutassa pariyodāpanaṃ nāma tassa yāthāvato atthaṃ vibhāvetvā vicikicchātamavidhamanena visodhananti āha **‘‘atthaṃ kathetvā kaṅkhaṃ vinodentī’’**ti. Savanaṃ nāma dhammassa yāvadeva sammāpaṭipajjanāya asati tasmiṃ tassa niratthakabhāvato, tasmā sutassa pariyodāpanaṃ nāma sammāpaṭipajjāpananti āha **‘‘tathattāya vā paṭipajjāpentī’’**ti.
「すべての生きとし生けるもの」とは、彼ら沙門・バラモンたちの意向の円満さを示すものであり、偏りがないことを明らかにするためである。限界を設けて遍満する慈心の修習においても得られるからである。それら給仕者たちの善の増大を望むことによって、彼らの家に入ることがそのようである。そのことを指して「入る際にも善美なる心をもって慈しむのである」と述べた。「聞いたことの清浄化」とは、その真実の意味を明らかにして疑念の闇を払うことによって清らかにすることであるため、「意味を説いて疑念を晴らす」と述べられた。「聴聞」とは、教えを正しく実践するためだけのものであり、それがないならばそれは無益なものとなる。それゆえ、聞いたことの清浄化とは、正しく実践させることであるため、「そのように実践させる」と述べられた。
273. Alamattoti samatthasabhāvo, so ca atthato samattho evāti **‘‘agāraṃ ajjhāvasanasamattho’’**ti vuttaṃ. Disānamassanaṭṭhāneti yathāvuttadisānaṃ paccupaṭṭhānasaññite namassanakāraṇe. Paṇḍito hutvā kusalo cheko labhate yasanti yojanā. Saṇhaguṇayogato saṇho, saṇhaguṇoti panettha sukhumanipuṇapaññā, muduvācāti dassento **‘‘sukhuma…pe… bhaṇanena vā’’**ti vuttaṃ. Disānamassanaṭṭhānenāti yena ñāṇena yathāvuttā cha disā vuttanayena paṭipajjanto namassati nāma, taṃ ñāṇaṃ disānamassanaṭṭhānaṃ, tena paṭibhānavā. Tena hi taṃtaṃkiccayuttapattavasena paṭipajjanto idha ‘‘paṭibhānavā’’ti vutto. Nivātavuttīti paṇipātasīlo. Atthaddhoti na thaddho thambharahitoti cittassa uddhumātalakkhaṇena thambhitabhāvena virahito. Uṭṭhānavīriyasampannoti kāyikena vīriyena samannāgato. Nirantarakaraṇavasenāti āraddhassa kammassa satatakāritāvasena. Ṭhānuppattiyā paññāyāti tasmiṃ tasmiṃ atthakicce upaṭṭhite ṭhānaso taṅkhaṇe eva uppajjanakapaññāya.
273. 「よく堪えうる者」とは能力ある性質の者であり、それは実質においてまさに有能な者であるため、「家を統率する能力ある者」と述べられた。「方角を礼拝する立場において」とは、前述の方角の現前として知られる礼拝の原因において、ということである。賢者となって巧みで熟達した者が名声を得る、と連結される。滑らかな徳の具備によって「温和な者」であり、「滑らかな徳」とは、ここでは微細で精妙な智慧と柔和な言葉を示すため、「微細な……略……語ることによって」と述べられた。「方角を礼拝する立場によって」とは、いかなる智慧によって前述の六方について述べられた筋道に従って実践しながら礼拝するのか、その智慧が方角を礼拝する立場であり、それによって「機転が利く者」となる。それによって、それぞれの仕事に適切に従事することによって実践する者が、ここで「機転が利く者」と述べられたのである。「謙虚に振る舞う者」とは、礼拝する性質の者である。「傲慢でない」とは、頑固でなく高慢がないことであり、心の膨張した特徴である高慢な状態を離れていることである。「立ち上がる精進を具えた者」とは、身体的な精進を具足した者である。「絶え間なく行うことによって」とは、開始した仕事を常に継続して行うことによってである。「状況に応じて生じる智慧によって」とは、それぞれの目的や用件が生じた際、その場その瞬間に生じる智慧によってである。
Saṅgahakaroti yathārahaṃ sattānaṃ saṅgaṇhanako. Mittakaroti mittabhāvakaro, so pana atthato mitte pariyesanako nāma hotīti vuttaṃ **‘‘mittagavesano’’**ti. Yathāvuttaṃ vadaṃ vacanaṃ jānātīti vadaññūti āha **‘‘pubbakārinā vuttavacanaṃ jānātī’’**ti. Idāni tamevatthaṃ saṅkhepena vuttaṃ vitthāravasena dassetuṃ **‘‘sahāyakassā’’**tiādi vuttaṃ. Pubbe yathāpavattāya vācāya jānane vadaññutaṃ dassetvā idāni ākārasallakkhaṇena appavattāya vācāya jānanepi vadaññutaṃ dassetuṃ **‘‘apicā’’**tiādi vuttaṃ. **‘‘Yena yena vā panā’’**tiādinā vacanīyatthataṃ vadaññū-saddassa dasseti. Netāti yathādhippetamatthaṃ paccakkhato pāpetā. Tenāha **‘‘taṃ tamatthaṃ dassento paññāya netā’’**ti. Neti taṃ tamatthanti ānetvā sambandho. Punappunaṃ netīti anu anu neti, taṃ tamatthanti ānetvā yojanā.
「包容する者」とは、相応しく生きとし生けるものを包容する者である。「友をつくる者」とは、友人関係をつくる者であるが、それは実質において友人を求める者であるため、「友を求める者」と述べられた。述べられた言明、すなわち言葉を知るゆえに「言を解する者(好意を理解する者)」であるとし、「先になされた善意の言葉を知る」と述べられた。今やその意味を簡潔に述べられたものを詳細に示すために「友人の……」などと述べられた。以前に発せられた言葉を知ることにおける「言を解すること」を示した上で、今度は態度の観察によって発せられない言葉を知ることにおいても「言を解すること」を示すために、「さらに……」などと述べられた。「あるいは、どのようなことによってであれ」などによって、「言を解する者」という言葉の語源的な意味を示している。「導く者」とは、意図された意味へと直接到達させる者である。それゆえ「その都度の意味を示しながら智慧によって導く者」と述べられた。その都度の意味を導く、と持ってきて連結する。「繰り返し導く」とは、次々に導くことであり、その都度の意味を、と持ってきて解釈する。
Tasmiṃ tasminti tasmiṃ tasmiṃ dānādīhi saṅgahehi saṅgahetabbe puggale. Āṇiyāti akkhasīsagatāya āṇiyā. Yāyatoti gacchato. Puttakāraṇāti puttanimittaṃ. Puttahetukañhi puttena kattabbaṃ mānaṃ vā pūjaṃ vā.
「それぞれの者において」とは、布施などの包容によって包容されるべきそれぞれの人物において、ということである。「楔(くさび)によって」とは、車軸の先端にある楔によってである。「走る車」とは、進んでいく車のことである。「子息を理由として」とは、子息が原因で、ということである。子息を原因として、子息によってなされるべき敬意や供養のことである。
Upayogavacaneti upayogatthe. Vuccatīti vacanaṃ, attho. Upayogavacane vā vattabbe. Paccattanti paccattavacanaṃ. Sammā pekkhantīti sammadeva kātabbe pekkhanti. Pasaṃsanīyāti pasaṃsitabbā. Bhavanti ete saṅgahetabbe tattha puggale yathārahaṃ pavattentāti adhippāyo.
「対格の言葉において」とは、対格の意味においてである。「述べられる」とは言葉であり、意味である。あるいは、対格の言葉において語られるべきである。「主格を」とは、主格の言葉である。「正しく観察する」とは、まさになされるべきことにおいて観察するということである。「称賛されるべきである」とは、称揚されるべきであるということである。彼らは包容されるべきそれらの人々において、相応しく振る舞う者となる、というのが意図である。
274. **‘‘Iti bhagavā’’**tiādi nigamanaṃ. Yā disāti yā mātāpituādilakkhaṇā puratthimādidisā. Namassāti namasseyyāsīti attho ‘‘yathā kathaṃ panā’’tiādikāya gahapatiputtassa pucchāya vasena desanāya āraddhattā **‘‘pucchāya ṭhatvā’’**ti vuttaṃ. Akathitaṃ natthi gihīhi kattabbakamme appamādapaṭipattiyā anavasesato kathitattā. Mātāpituādīsu hi tehi ca paṭipajjitabbapaṭipattiyā niravasesato kathaneneva rājādīsupi paṭipajjitabbavidhi atthato kathito eva hotīti. Gihino vinīyanti, vinayaṃ upenti etenāti gihivinayo. Yathānusiṭṭhanti yathā idha satthārā anusiṭṭhaṃ gihicārittaṃ, tathā tena pakārena taṃ avirādhetvā. Paṭipajjamānassa vuddhiyeva pāṭikaṅkhāti diṭṭhadhammikasamparāyikaparamatthehi vuddhiyeva icchitabbā avassambhāvinīti.
274. 「このように世尊は……」などは結びである。「いかなる方角」とは、父母などを特徴とする東方などの方角のことである。「礼拝すべし」とは、礼拝すべきであるという意味であり、「では、どのように……」などの長者の息子の問いに基づいて教示が始められたため、「問いに立脚して」と述べられた。在家の者たちによってなされるべき仕事において、不放逸の実践が余すところなく語られたため、語られなかったことは何もない。父母などにおいて彼らによって実践されるべき実践を残すところなく語ることによって、国王などに対して実践されるべき作法もまた実質的に語られたことになるからである。在家の者が訓練される、これによって規律に赴くため「在家の規律」である。「訓戒された通りに」とは、ここで師によって訓戒された在家の行儀の通りに、そのようにその様態を違えることなく、ということである。「実践する者には増大こそが期待される」とは、現世、来世、究極の目的において、増大こそが望まれるべきであり、必然的なものである、ということである。
Siṅgālasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā.
シンガーラ経の注釈における深奥な意味の解明(釈義)を終わる。