10. Saṅgītisuttavaṇṇanā10. 結集経の解説
296. Dasasahassacakkavāḷeti buddhakhettabhūte dasasahassaparimāṇe cakkavāḷe. Tattha hi imasmiṃ cakkavāḷe devamanussāyeva katādhikārā, itaresu devā visesabhāgino. Tena vuttaṃ **‘‘dasasahassacakkavāḷe ñāṇajālaṃ pattharitvā’’**ti. Ñāṇajālapattharaṇanti ca tesaṃ tesaṃ sattānaṃ āsayādivibhāvanavasena ñāṇassa pavattanameva. Tenāha **‘‘lokaṃ volokayamāno’’**ti, sattalokaṃ byavalokayamāno āsayānusayacaritādhimuttiādike visesato ogāhetvā passantoti attho. Maṅgalaṃ bhaṇāpessanti ‘‘taṃ tesaṃ āyatiṃ visesādhigamassa vijjāṭṭhānaṃ hutvā dīgharattaṃ hitāya sukhāya bhavissā’’ti. Tīhi piṭakehi sammasitvāti tipiṭakato ekakadukādinā saṅgahetabbassa saṅgaṇhanavasena sammasitvā vīmaṃsitvā. Ñātuṃ icchitā atthā pañhā, te pana imasmiṃ sutte ekakādivasena āgatā sahassaṃ, cuddasa cāti āha **‘‘cuddasapañhādhikena pañhasahassena paṭimaṇḍetvā’’**ti. Evamidha sampiṇḍetvā dassite pañhe parato suttapariyosāne ‘‘ekakavasena dve pañhā kathitā’’tiādinā (dī. ni. aṭṭha. 3.349) vibhāgena parigaṇetvā sayameva dassessati.
296.「一万世界において」とは、仏国土である一万の範囲の輪囲世界においてである。実にこの世界においては神々と人間たちこそが善根を積んだ者であり、他の世界では神々が殊勝な果報にあずかる者である。それゆえに「一万世界に智慧の網を広げて」と言われた。智慧の網を広げるとは、個々の衆生たちの傾倒などを明瞭に知ることによって智慧を働かせることにほかならない。それゆえに「世界を見渡しながら」と言った。衆生世間を見渡し、傾倒・随眠・行状・信解などを殊に深く洞察して見ながら、という意味である。「吉祥を語らせよう」とは、「それが彼らの未来における殊勝な証得の知識の拠り所となり、長きにわたり利益と幸福のためになるであろう」と考えてのことである。「三蔵によって思惟して」とは、三蔵から一法・二法などによって包摂されるべきものを包摂することによって思惟し精査して。「知りたいと望まれた意味ある問い、それらがこの経において一法などを通じて千と十四ある」ことから、「十四の問いが加えられた千の問いによって荘厳して」と言った。このようにここで一括して示された問いを、後に経の最後において「一法を通じて二つの問いが説かれた」などの区分によって数え上げて、自ら示すであろう。
Ubbhatakanavasandhāgāravaṇṇanā
ウッバタカ新会堂の解説
297. Uccādhiṭṭhānatāya taṃ sandhāgāraṃ bhūmito ubbhataṃ viyāti **‘‘ubbhataka’’**nti nāmaṃ labhati. Tenāha **‘‘uccattā vā evaṃ vutta’’**nti. Sandhāgārasālāti ekā mahāsālā. Uyyogakaraṇādīsu hi rājāno tattha ṭhatvā ‘‘ettakā purato gacchantu, ettakā pacchā’’tiādinā tattha nisīditvā sandhaṃ karonti mariyādaṃ bandhanti, tasmā taṃ ṭhānaṃ **‘‘sandhāgāra’’**nti vuccati. Uyyogaṭṭhānato ca āgantvā yāva gehaṃ gomayaparibhaṇḍādivasena paṭijagganaṃ karonti, tāva ekaṃ dve divase te rājāno tattha santhambhantītipi sandhāgāraṃ, tesaṃ rājūnaṃ saha atthānusāsanaagārantipi sandhāgāranti. Yasmā vā te tattha sannipatitvā ‘‘imasmiṃ kāle kasituṃ vaṭṭati, imasmiṃ kālevapitu’’ntiādinā gharāvāsakiccaṃ sandharanti, tasmā chiddāvachiddaṃ gharāvāsaṃ tattha sandharantītipi sandhāgāraṃ, sā eva sālāti sandhāgārasālā. Devatāti gharadevatā. Nivāsavasena anajjhāvutthattā **‘‘kenaci vā manussabhūtenā’’**ti vuttaṃ. Kammakaraṇavasena pana manussā tattha nisajjādīni kappesumeva. ‘‘Sayameva pana satthu idhāgamanaṃ amhākaṃ puññavaseneva, aho mayaṃ puññavanto’’ti haṭṭhatuṭṭhā evaṃ sammā cintesunti dassento **‘‘amhehī’’**tiādimāha.
297. 高い基礎を持つことから、その会堂は地面から高く持ち上げられた(ウッバタ)かのようであるため、「ウッバタカ」という名を得る。それゆえに「高いがゆえにこのように言われた」と言った。「会堂(サンダーガーラ)の大広間」とは、一つの大きな大広間である。出征などの際に王たちはそこに立って「これほどの者は前進せよ、これほどの者は後方に」などとそこに座して盟約(サンダー)を結び、取り決めを設ける。それゆえにその場所は「サンダーガーラ」と呼ばれる。また出征の場所から帰還して、家を牛糞で塗り清めるなどの手入れをするまでの間、一日か二日、王たちがそこで待機する(サンタンバンティ)ことからもサンダーガーラであり、それらの王たちが共に国事の教戒を行う家屋(サハ・アッタ・アヌサーサナ・アガーラ)であることからもサンダーガーラである。あるいは彼らがそこに集まって「この時期には耕作すべきである、この時期には種を蒔くべきである」などと家政の事柄を整える(サンダランティ)ことから、種々雑多な家政をそこで整えることからもサンダーガーラであり、その大広間そのものであるから会堂の大広間という。「神霊」とは、屋敷の神である。居住として住み着いていなかったことから、「あるいはいかなる人間によっても」と言われた。しかし工事の作業の都合上、人間たちはそこで座ることなどを確かにした。「しかし世尊自らのここへのお越しはまさに我々の功徳によるものである。ああ、我らは功徳ある者である」と歓喜してこのように正しく考えたことを示すために、「我らによって」などと言った。
298. Aṭṭakāti cittakammakaraṇatthaṃ baddhā mañcakā. Muttamattāti tāvadeva sandhāgāre navakammassa niṭṭhāpitabhāvamāha, tena‘‘acirakārita’’ntiādinā vuttamevatthaṃ vibhāveti. Araññaṃ ārāmo āramitabbaṭṭhānaṃ etesanti araññārāmā. Santharaṇaṃ santhari, sabbo sakalo santhari etthāti sabbasanthari, bhāvanapuṃsakaniddesoyaṃ. Tenāha **‘‘yathā sabbaṃ santhataṃ hoti, eva’’**nti.
298.「足場」とは、彩色画の作業のために組まれた足場である。「解かれたばかりの」とは、会堂における新築工事がちょうど完了した状態を述べており、それによって「造られて間もない」などで述べられたのと同じ意味を明らかにしている。「森林の園林」とは、楽しむべき場所としての林を持つ者たちのことである。「敷物」とは敷くことであり、すべての、全体に敷物が敷かれている状態を「全敷」といい、これは状態を示す中性名詞の指示である。それゆえに「すべてが敷き詰められているように、このように」と言った。
299. Samantapāsādikoti samantato sabbabhāgena pasādāvaho cāturiyaso. **‘‘Asītihatthaṃ ṭhānaṃ gaṇhātī’’**ti idaṃ buddhānaṃ kāyappabhāya pakatiyā asītihatthe ṭhāne abhibyāpanato vuttaṃ. Iddhānubhāvena pana anantaṃ aparimāṇaṃ ṭhānaṃ vijjotateva. Nīlapītalohitodātamañjaṭṭhapabhassaravasena chabbaṇṇā. Sabbe disābhāgāti sarīrappabhāya bāhullato vuttaṃ.
299.「あまねく端麗な(サマンタパーサーディカ)」とは、四方八方あらゆる側から清らかな信仰を呼び起こす見事さである。「八十肘の空間を占める」とは、諸仏の身の光が通常八十肘の空間を満遍なく覆うことから言われた。しかし神通力の威力によっては、無限・無量の空間を実に照らし出す。青・黄・赤・白・紅・輝きの六色による。「すべての方角は」とは、身の光の広大さから言われた。
Abbhamahikādīhi upakkiliṭṭhaṃ suññaṃ na sobhati, tārakācitaṃ pana antalikkhaṃ tāsaṃ pabhāhi samantato vijjotamānaṃ virocatīti āha **‘‘samuggatatārakaṃ viya gaganatala’’**nti. Sabbapāliphulloti mūlato paṭṭhāya yāva sākhaggā phullo. **‘‘Paṭipāṭiyāṭhapitāna’’**ntiādi parikappūpamā. Tathā hi viya-saddaggahaṇaṃ kataṃ. Siriyā siriṃ abhibhavamānaṃ viyāti attano sobhāya tesaṃ sobhanti attho. **‘‘Bhikkhūpi sabbevā’’**ti idaṃ nesaṃ ‘‘appicchā’’tiādinā vuttaguṇesu lokiyaguṇānaṃ vasena yojetabbaṃ. Na hi te sabbeva dasakathāvatthulābhino. Tena vuttaṃ ‘‘suttantaṃ āvajjetvā…pe… arahattaṃ pāpuṇissantī’’ti (dī. ni. aṭṭha. 3.296). Tasmā ye tattha ariyā, te sabbesampi padānaṃ vasena bodhitā honti. Ye pana puthujjanā, te lokiyaguṇadīpakehi padehīti na tathā heṭṭhā ‘‘asītimahātherā’’tiādi vuttaṃ. Pubbe arahattabhāgino gahitā.
雲や霧などに汚された何もない虚空は美しくないが、星々の散りばめられた天空はそれらの光によって四方八方に輝き照り映えることから、「星々の昇った天空のようである」と言った。「すべての枝に花咲く」とは、根元から始まって枝の先に至るまで花咲いていることである。「順序正しく配置された」などは仮定の比喩である。実に「〜のように」という言葉が用いられている。「威光によって威光を圧倒するかのように」とは、自身の美しさによって彼らの美しさを圧倒するかのように、という意味である。「比丘たちもまたすべて」とは、彼らの「少欲」などで述べられた徳の中でも世間的な徳を通じて結びつけられるべきである。実に彼ら全員が十の論題を得ているわけではない。それゆえに「経典を作意して……中略……阿羅漢果に到達するであろう」と言われた。それゆえにそこにいる聖者たちは、すべての言葉を通じて理解される。一方、凡夫たちは世間的な徳を示す言葉によってであり、それゆえに下で「八十の大長老たち」などがそのように言われていないのである。以前に阿羅漢果を得ていた者たちが挙げられている。
Rūpakāyassa asītianubyañjana-paṭimaṇḍita-dvattiṃsamahāpurisalakkhaṇakāyappabhābyāmappabhāketumālāvicittatāva (dī. ni. 2.33; 3.200; ma. ni. 2.385) buddhaveso. Chabbaṇṇā buddharasmiyo vissajjentassa bhagavato kāyassa ālokitavilokitādīsu paramukkaṃsagato buddhāveṇiko accantupasamo buddhavilāso. Assanti tassaṃ.
色身の、八十種好に飾られた三十二相の身体の光、一尋の光、炎の冠(頂上の光輪)の多彩さこそが仏陀の姿である。六色の仏の光明を放つ世尊の身体の、前を見ること見渡すこと等における最高の卓越に達した、仏陀独自の極めて静寂なる仏陀の威容である。「その中に」とは、その会堂においてである。
Sandhāgārānumodanapaṭisaṃyuttāti ‘‘sītaṃ uṇhaṃ paṭihantī’’tiādinā (cūḷava. 295, 315) nayena sandhāgāraguṇūpasañhitā sandhāgārakaraṇapuññānisaṃsabhāvinī. Pakiṇṇakakathāti saṅgītianāruḷhā suṇantānaṃ ajjhāsayānurūpatāya vividhavipulahetūpamāsamālaṅkatā nānānayavicittā vitthārakathā. Tenāha **‘‘tadā hī’’**tiādi. Ākāsagaṅgaṃ otārento viya nirupakkilesatāya suvisuddhena, vipulodāratāya aparimeyyena ca atthena suṇantānaṃ kāyacittapariḷāhavūpasamanato. Pathavojaṃ ākaḍḍhanto viya aññesaṃ sudukkaratāya, mahāsāratāya vā atthassa. Mahājambuṃ matthake gahetvā cālento viya cālanapaccayaṭṭhānavasena pubbenāparaṃ anusandhānato. Yojaniya…pe… pāyamāno viya desanaṃ catusaccayante pakkhipitvā atthavedadhammavedasseva labhāpanena sātamadhuradhammāmatarasūpasaṃharaṇato. Madhugaṇḍanti madhupaṭalaṃ.
「会堂の随喜に結びついた」とは、「寒暑を防ぎ」などの方法によって会堂の功徳に関連し、会堂建立の功徳の利益を明らかにするものである。「雑談(種々の講話)」とは、結集に編入されていない、聞く者たちの志向に応じて多様で広大な理由や比喩で美しく飾られた、種々の方法に彩られた詳細な講話である。それゆえに「その時、実に」などと言われた。天のガンジス川を降らせるかのようであるとは、煩悩の汚れがないことによる極めて清浄さ、広大で崇高であることによる無量の意味によって、聞く者たちの心身の熱苦を鎮めるからである。大地の滋養を引き出すかのようであるとは、他者には極めて成し難いことから、あるいは意味の重大さによる。大閻浮樹を梢に取って揺り動かすかのようであるとは、揺り動かす原因となる場所を通じて前後の脈絡を連結することによる。適切な……中略……飲ませるかのようであるとは、説法の四聖諦の枠組みの中に投入して、義の理解と法の理解を得させることによって美味で甘美な法の甘露の味をもたらすからである。「蜂の巣」とは、蜜の巣房である。
300. **‘‘Tuṇhībhūtaṃ tuṇhībhūta’’**nti byāpanicchāyaṃ idaṃ āmeḍitavacananti dassetuṃ **‘‘yaṃ yandisa’’**ntiādi vuttaṃ. Anuviloketvāti ettha anu-saddo ‘‘parī’’ti iminā samānattho, vilokanañcettha satthu cakkhudvayenapi icchitabbanti ‘‘maṃsacakkhunā…pe… tato tato viloketvā’’ti saṅkhepato vatvā tamatthaṃ vitthārato dassetuṃ **‘‘maṃsacakkhunā hī’’**tiādi vuttaṃ. Hatthena kucchitaṃ kataṃ hatthakukkuccaṃ kukatameva kukkuccanti katvā. Evaṃ pādakukkuccaṃ daṭṭhabbaṃ. Niccalā nisīdiṃsu attano suvinītabhāvena, buddhagāravena ca. **‘‘Ālokaṃ pana vaḍḍhayitvā’’**tiādi kadāci bhagavā evampi karotīti adhippāyena vuttaṃ. Na hi satthu sāvakānaṃ viya evaṃ payogasampādanīyametaṃ ñāṇaṃ. Tirohitavidūravattanipi rūpagate maṃsacakkhuno pavattiyā icchitattā vīmaṃsitabbaṃ. Arahattupagaṃ arahattapadaṭṭhānaṃ. Cakkhutalesu nimittaṃ ṭhapetvāti bhāvanānuyogasampattiyā sabbesaṃ tesaṃ bhikkhūnaṃ cakkhutalesu labbhamānaṃ santindriyavigatathinamiddhatākārasaṅkhātaṃ nimittaṃ attano hadaye ṭhapetvā sallakkhetvā. Kasmā āgilāyati koṭisatasahassahatthināgānaṃ balaṃ dhārentassāti codakassa adhippāyo. Ācariyo esa saṅkhārānaṃ sabhāvo, yadidaṃ aniccatā. Ye pana aniccā, te ekanteneva udayavayapaṭipīḷitatāya dukkhā eva, dukkhasabhāvesu tesu satthu kāye dukkhuppattiyā ayaṃ paccayoti dassetuṃ **‘‘bhagavato hī’’**tiādi vuttaṃ. Piṭṭhivāto uppajji, so ca kho pubbe katakammapaccayā. Svāyamattho paramatthadīpaniyaṃ udānaṭṭhakathāyaṃ āgatanayeneva veditabbo.
300.「静まり返った、静まり返った」とは、全体に行き渡ることを望む点での反復語であることを示すために、「あらゆる方角を」などと言われた。「見渡して」において、「アヌ(anu)」という言葉は「パリ(pari、あまねく)」と同じ意味であり、ここでの見渡すことは世尊の両眼(肉眼と天眼)によって望まれるべきであるから、「肉眼によって……中略……あちこちを見渡して」と簡潔に語り、その意味を詳細に示すために「実に肉眼によって」などと言われた。手によって卑しいことをなすのを手のいたずらといい、悪しき行いそのものをいたずら(悪作)という。足のいたずらも同様に解釈されるべきである。彼らは自らの善く調御された状態と仏陀への敬敬によって微動だにせず座っていた。「しかし光を増大させて」などは、世尊は時にこのようにもなされるという意図から言われた。実に世尊のこの智慧は、弟子たちのようにこのように努めて生じさせるべきものではない。隠れた遠方の事物においても肉眼の機能の働きとして望まれるため、精査されるべきである。「阿羅漢果に至る」とは、阿羅漢果の直接の原因である。「眼の表面に兆候を留めて」とは、修行の実践の成就によってそれらの比丘たちの眼の表面に見出される、感覚器官が静まり昏沈睡眠の去った様相と呼ばれる兆候を自らの心に留めて識別して。「百千倶胝の象の力を持つ者が、どうして疲労するのか」というのが反対者の意図である。先生よ、これこそが無常性という諸行の本性である。無常であるものは、例外なく生滅に圧迫されているがゆえにまさに苦であり、それらの苦の本性である世尊の身体に苦が生じるための原因がこれである、ということを示すために「実に世尊には」などと言われた。背痛が生じたが、それも過去になされた業を原因としている。この意味はまさに『勝義灯(パラマッタディーパニー)』である自説経義釈(ウダーナ・アッタカター)に見出される方法によって理解されるべきである。
Bhinnanigaṇṭhavatthuvaṇṇanā
分裂せるニガンタの事柄の解説
301. Heṭṭhā vuttameva pāsādikasuttavaṇṇanāyaṃ (dī. ni. aṭṭha. 3.164).
301. すでに下文(前文)の『清浄経(パーサーディカ・スッタ)』の解説において述べられた通りである。
302. Svākhyātaṃ dhammaṃ desetukāmoti svākhyātaṃ katvā dhammaṃ kathetukāmo, satthārā vā svākhyātaṃ dhammaṃ sayaṃ bhikkhūnaṃ kathetukāmo. Satthārā desitadhammameva hi tato tato gahetvā sāvakā sabrahmacārīnaṃ kathenti.
302.「善く説かれた法を説示することを望んで」とは、善く説かれたものとして法を語ることを望んで、あるいは師によって善く説かれた法を自ら比丘たちに語ることを望んでである。実に師によって説かれた法そのものをあちこちから取って、弟子たちは同僚の修行者たちに語るのである。
Ekakavaṇṇanā
一法集の解説
303. Samaggehi bhāsitabbanti aññamaññaṃ samaggehi hutvā bhāsitabbaṃ, sajjhāyitabbañceva vaṇṇetabbañcāti attho. Yathā pana samaggehi saṅgāyanaṃ hoti, tampi dassetuṃ **‘‘ekavacanehī’’**tiādi vuttaṃ. Ekavacanehīti virodhābhāvena samānavacanehi. Tenāha **‘‘aviruddhavacanehī’’**tiādi. Sāmaggirasaṃ dassetukāmoti yasmiṃ dhamme saṅgāyane sāmaggirasānubhavanaṃ icchitaṃ desanākusalatāya, tattha ekakadukatikādivasena bahudhā sāmaggirasaṃ dassetukāmo. Sabbe sattāti anavasesā sattā, te pana bhavabhedato saṅkhepeneva bhinditvā dassento **‘‘kāmabhavādīsū’’**tiādimāha. Byadhikaraṇānampi bāhiratthasamāso hoti yathā ‘‘urasilomo’’ti āha **‘‘āhārato ṭhiti etesanti āhāraṭṭhitikā’’**ti. Tiṭṭhati etenāti ṭhiti, āhāro ṭhiti etesanti āhāraṭṭhitikāti evaṃ vā ettha samāsaviggaho daṭṭhabbo. Āhāraṭṭhitikāti paccayaṭṭhitikā, paccayāyattavuttikāti attho. Paccayattho hettha āhāra-saddo ‘‘ayaṃ āhāro anuppannassa vā kāmacchandassauppādāyā’’tiādīsu (saṃ. ni. 5.183, 232) viya. Evañhi **‘‘sabbe sattā’’**ti iminā asaññasattāpi pariggahitā honti. Sā panāyaṃ āhāraṭṭhitikatā nippariyāyato saṅkhāradhammo, na sattadhammo. Tenevāhu aṭṭhakathācariyā ‘‘sabbe sattā āhāraṭṭhitikāti āgataṭṭhāne saṅkhāraloko veditabbo’’ti (visuddhi. 1.136; pārā. aṭṭha. verañjakaṇḍavaṇṇanā; udā. aṭṭha. 30; cūḷani. aṭṭha. 65; udā. aṭṭha. 186) yadi evaṃ ‘‘sabbe sattā’’ti idaṃ kathanti? Puggalādhiṭṭhānā desanāti nāyaṃ doso. Yathāha bhagavā ‘‘ekadhamme bhikkhave bhikkhu sammā nibbindamāno sammā virajjamāno sammā vimuccamāno sammā pariyantadassāvī sammattaṃ abhisamecca diṭṭheva dhamme dukkhassantakaro hoti, katamasmiṃ ekadhamme? Sabbe sattā āhāraṭṭhitikā’’ti (a. ni. 10.27) eko dhammoti ‘‘sabbe sattā āhāraṭṭhitikā’’ti yvāyaṃ puggalādhiṭṭhānāya kathāya sabbesaṃ saṅkhārānaṃ paccayāyattavuttitāya āhārapariyāyena sāmaññato paccayadhammo vutto, ayaṃ āhāro nāma eko dhammo. Yāthāvato ñatvāti yathāsabhāvato abhisambujjhitvā. Sammadakkhātoti teneva abhisambuddhākārena sammadeva desito.
303.「和合して語るべきである」とは、互いに和合して語るべきであり、読誦し賛嘆すべきであるという意味である。しかしどのようにして和合した結集がなされるかを同じく示すために、「同一の言葉によって」などと言われた。「同一の言葉によって」とは、矛盾のない一致した言葉によってである。それゆえに「相反しない言葉によって」などと言った。「和合の味わいを示そうと欲して」とは、結集において和合の味わいを体験することが望まれる法において、説法の巧みさによって、そこに一法・二法・三法などを通じてさまざまに和合の味わいを示そうと欲してである。「すべての衆生は」とは、余すところなき衆生であり、それらを生の差異から簡潔に区別して示すために「欲界などの生の境涯において」などと言った。異格(格の異なる語)であっても「胸に毛のある者」のように外部の事物を意味する複合語となることから、「食物によって存続する者たちを食物によって存続する者という」と言った。これによって存続するゆえに存続(ティティ)であり、食物が彼らの存続であるゆえに食物住者(食物によって存続する者)である、とこのようにここで複合語の分解が理解されるべきである。「食物によって存続する」とは、条件によって存続する、条件に依存して活動するという意味である。実にここでの「食物(アーハーラ)」という語は、「この食物は未生の欲貪の発生のためのものである」などのように条件という意味である。このように「すべての衆生は」というこれによって、無想有情(無想天の衆生)も包括される。しかしこの食物によって存続することとは、無比(直接)的には形成された法(行法)であって、衆生という法ではない。それゆえに註釈家たちは「『すべての衆生は食物によって存続する』と説かれた箇所では、有為世間(行世間)と理解されるべきである」と言った。もしそうであるなら、「すべての衆生は」というこれはどうしてなのか? 人格を主題とした説法であるから、何の過失もない。世尊が「比丘たちよ、比丘が一つの法において正しく厭離し、正しく離貪し、正しく解脱し、正しく究極を見極め、正しさを現証して現世において苦の終尽をなす。いかなる一つの法においてか? すべての衆生は食物によって存続する、という法においてである」と仰せになったように、一つの法とは、「すべての衆生は食物によって存続する」という人格を主題とした言説において、すべての行法が条件に依存して活動することから、食物という表現によって一般的に条件となる法が述べられており、この食物と呼ばれるものが一つの法である。「如実に知って」とは、ありのままの本性から現等覚して。「正しく説かれた」とは、その等覚された様相によってまさに正しく説示されたことである。
Codako vuttampi atthaṃ yāthāvato appaṭipajjamāno neyyatthaṃ suttapadaṃ nītatthato dahanto ‘‘sabbe sattā’’ti vacanamatte ṭhatvā **‘‘nanu cā’’**tiādinā codeti. Ācariyo aviparītaṃ tattha yathādhippetamatthaṃ pavedento ‘‘na virujjhatī’’ti vatvā **‘‘tesañhi jhānaṃ āhāro hotī’’**ti āha. Jhānanti ekavokārabhavāvahaṃ saññāya virajjanavasena pavattaṃ rūpāvacaracatutthajjhānaṃ. Pāḷiyaṃ pana ‘‘anāhārā’’ti vacanaṃ asaññabhave catunnaṃ āhārānaṃ abhāvaṃ sandhāya vuttaṃ, na paccayāhārassa abhāvato. **‘‘Evaṃ santepī’’**ti idaṃ sāsane yesu dhammesu visesato āhāra-saddo niruḷho, ‘‘āhāraṭṭhitikā’’ti ettha yadi te eva gayhanti, abyāpitadoso āpanno. Atha sabbopi paccayadhammo āhāroti adhippeto, imāya āhārapāḷiyā virodho āpannoti dassetuṃ āraddhaṃ. ‘‘Na virujjhatī’’ti yenādhippāyena vuttaṃ, taṃ vivaranto **‘‘etasmiñhi sutte’’**tiādimāha. Kabaḷīkārāhārādīnaṃ ojaṭṭhamakarūpāharaṇādi nippariyāyena āhārabhāvo. Yathā hi kabaḷīkārāhāro ojaṭṭhamakarūpāharaṇena rūpakāyaṃ upatthambheti, evaṃ phassādayo ca vedanādiāharaṇena nāmakāyaṃ upatthambhenti, tasmā satipi janakabhāve upatthambhakabhāvo ojādīsu sātisayo labbhamāno mukhyo āhāraṭṭhoti te eva nippariyāyena āhāralakkhaṇā dhammā vuttā. Idhāti imasmiṃ saṅgītisutte. Pariyāyena paccayo āhāroti vutto sabbo paccayo dhammo attano phalaṃ āharatīti imaṃ pariyāyaṃ labhatīti. Tenāha **‘‘sabbadhammānañhī’’**tiādi. Tattha sabbadhammānanti sabbesaṃ saṅkhatadhammānaṃ. Idāni yathāvuttamatthaṃ suttena (a. ni. 10.61) samatthetuṃ **‘‘tenevāhā’’**tiādi vuttaṃ. Ayanti paccayāhāro.
反対者は述べられた意味を如実に受け入れず、意味を導き出すべき経文を確定した意味として解釈し、「すべての衆生は」という言葉だけに固執して「〜ではないか」などと非難する。師はその点に関して誤りのない意図通りの意味を明示して「矛盾しない」と言い、「実に彼らには禅定が食物となるのである」と言った。「禅定」とは、想いを離れることによって生じ、一蘊(色蘊のみ)の生存(無想有情)をもたらす色界第四禅のことである。しかし聖典において「無食の」という言葉は、無想有情の境涯における四種の食物の欠如を念頭に置いて言われたものであり、条件としての食物の欠如によるものではない。「そうであるとしても」というこれは、教法において特に「食物」という言葉が定着している諸法があり、「食物によって存続する」においてもしそれらのみが取られるならば、不十分(非網羅)の過失に陥る。他方で、すべての条件となる法が食物であると意図されているならば、この食物に関する聖典と矛盾することになる、ということを示すために始められた。「矛盾しない」といかなる意図から言われたのかを明らかにして、「実にこの経においては」などと言った。段食などの、微細な八事(地・水・火・風・色・香・味・栄養)の物質を摂取することなどが直接的な意味での食物の状態である。実に段食が微細な八事の物質を摂取することによって色身(物質的身体)を支えるように、触などは受などを摂取することによって名身(精神的身体)を支える。それゆえに生起させる性質があるとしても、栄養素などにおいて維持・支持する性質が卓越して認められるものが主要な食物の意味であるから、それらこそが無比的に食物の特徴を持つ法として説かれている。「ここにおいて」とは、この結集経においてである。表現(法数)として条件が食物と言われたのであり、すべての条件となる法は自らの結果をもたらす(摂取する)ゆえに、この表現を得るのである。それゆえに「実にすべての法には」などと言われた。そこでの「すべての法には」とは、すべての有為法(作られた法)のことである。今や前述の意味を経典によって裏付けるために「それゆえに仰せになった」などと言われた。「これ」とは条件としての食物である。
Nippariyāyāhāropi gahitova hoti, yāvatā sopi paccayabhāveneva janako, upatthambhako ca hutvā taṃ taṃ phalaṃ āharatīti vattabbataṃ labhatīti. Tatthāti pariyāyāhāro, nippariyāyāhāroti dvīsu āhāresu. Asaññabhave yadipi nippariyāyāhāro na labbhati, paccayāhāro pana labbhati pariyāyāhāralakkhaṇo. Idāni imamevatthaṃ vitthārena dassetuṃ **‘‘anuppanne hi buddhe’’**tiādi vuttaṃ. Uppanne buddhe titthakaramatanissitānaṃ jhānabhāvanāya asijjhanato ‘‘anuppanne **buddhe’’**ti vuttaṃ. Sāsanikā tādisaṃ jhānaṃ na nibbattentīti **‘‘titthāyatane pabbajitā’’**ti vuttaṃ. Titthiyā hi upattivisese vimuttisaññino, aññāvirāgāvirāgesu ādīnavānisaṃsadassino vā hutvā asaññasamāpattiṃ nibbattetvā akkhaṇabhūmiyaṃ uppajjanti, na sāsanikā. Vāyokasiṇe parikammaṃ katvāti vāyokasiṇe paṭhamādīni tīṇi jhānāni nibbattetvā tatiyajjhāne ciṇṇavasī hutvā tato vuṭṭhāya catutthajjhānādhigamāya parikammaṃ katvā. Tenāha **‘‘catutthajjhānaṃ nibbattetvā’’**ti. Kasmā panettha vāyokasiṇeyeva parikammaṃ vuttanti? Yadettha vattabbaṃ, taṃ brahmajālaṭīkāyaṃ (dī. ni. ṭī. 1.41) vitthāritameva. Dhīti jigucchanatthe nipāto, tasmā dhī cittanti cittaṃ jigucchāmīti attho. Dhibbatetaṃ cittanti etaṃ mama cittaṃ jigucchitaṃ vata hotu. Vatāti sambhāvane, tena jigucchaṃ sambhāvento vadati. Nāmāti ca sambhāvane eva, tena cittassa abhāvaṃ sambhāveti. Cittassa bhāvābhāvesu ādīnavānisaṃse dassetuṃ **‘‘cittañhī’’**tiādi vuttaṃ. Khantiṃ ruciṃ uppādetvāti ‘‘cittassa abhāvo eva sādhu suṭṭhū’’ti imaṃ diṭṭhinijjhānakkhantiṃ, tattha ca abhiruciṃ uppādetvā.
直接的食(実質的食)もまた含まれる。それもまた縁となることによってのみ生起させ、支持するものとなって各々の果をもたらすという言説を得るからである。「その中で」とは、方便的食と直接的食という二つの食の中で、という意味である。無想定においては直接的食は得られないとしても、方便的食の特質をもつ縁としての食は得られる。さて、まさにこの意味を詳細に示すために「実に仏陀が出現しなかった時に」等と説かれた。仏陀が出現した時には外道の教説に依拠する者たちに禅定の修習が成就しないことから、「仏陀が出現しなかった時に」と説かれたのである。仏教徒はそのような禅定を生じさせないことから、「外道の門弟に出家した者」と説かれた。実に外道たちは生起の差異に解脱の想いを抱き、あるいは他の離貪と非離貪において過患と功徳を見出し、無想定を生じさせて無暇の境地に生まれるのであり、仏教徒はそうではない。風遍において準備修行(遍作)をしてとは、風遍において初禅などの三つの禅定を生じさせ、第三禅に熟達自在となり、そこから出定して第四禅の証得のために準備修行をして、ということである。それゆえ「第四禅を生じさせて」と言われた。なぜここで風遍においてのみ準備修行が説かれたのか。それに関して語られるべきことは、梵網経註釈においてまさに詳述された通りである。「恥ずべきことよ(dhī)」とは嫌悪の意味における不変化詞であり、それゆえ「恥ずべき心よ」とは「心を嫌悪する」という意味である。「恥ずべきかな、この心は」とは、実に我がこの心は嫌悪されるべきものであれ、ということである。「実に(vata)」とは強調・感嘆であり、それによって嫌悪を強調して語っている。「実に名づけられる(nāma)」もまた強調・思考であり、それによって心の非存在を思い描く。心の存在と非存在における過患と功徳を示すために「心こそは実に」等と説かれた。「忍解と好意を生じさせて」とは、「心の非存在こそが善きことであり、優れている」というこの見解の省察の忍解と、そこへの愛好を生じさせて、ということである。
Tathā bhāvitassa jhānassa ṭhitibhāgiyabhāvappattiyā aparihīnajjhānassa titthāyatane pabbajitasseva tathā jhānabhāvanā hotīti āha **‘‘manussaloke’’**ti. Paṇihito ahosīti maraṇassa āsannakāle ṭhapito ahosi. Yadi ṭhānādinā ākārena nibbatteyya, kammabalena yāva bhedā tenevākārena tiṭṭheyya vāti āha **‘‘so tena iriyāpathenā’’**tiādi.
そのように修習された禅定の住分への到達によって退転しない禅定をもつ、外道の教門に出家した者にのみそのように禅修習があることを示すために「人間界において」と言われた。「配置された」とは、死の臨終の時に保たれた、ということである。もし立ち姿などの姿勢で再生したならば、業の力によって滅びるまでまさにその姿勢で存続するだろうか、それゆえに「彼はその威儀によって」等と言われた。
Eva rūpānampīti evaṃ acetanānampi. Pi-saddena pageva sacetanānanti dasseti. Kathaṃ pana acetanānaṃ nesaṃ paccayāhārassa upakappananti codanaṃ sandhāya tattha nidassanaṃ dassento **‘‘yathā’’**tiādimāha.
「色法のようなものにも」とは、このように心なきもの(無心のもの)にも、ということである。「〜もまた(pi)」という言葉によって、心あるものには言うまでもないことを示している。では、心なきそれらにどのように縁としての食が役立つのかという反論を念頭に置いて、そこに実例を示しつつ「あたかも」等と言われた。
Ye uṭṭhānavīriyeneva divasaṃ vītināmetvā tassa nissandaphalamattaṃ kiñcideva labhitvā jīvikaṃ kappenti, te uṭṭhānaphalūpajīvino. Ye pana attano puññaphalameva upajīventi, te puññaphalūpajīvino. Nerayikānaṃ pana neva uṭṭhānavīriyavasena jīvikākappanaṃ, puññaphalassa pana lesopi natthīti vuttaṃ **‘‘ye pana te nerayikā…pe… na puññaphalūpajīvīti vuttā’’**ti. Paṭisandhiviññāṇassa āharaṇena manosañcetanāhāroti vuttā, na yassa kassaci phalassāti adhippāyena **‘‘kiṃ pañca āhārā atthī’’**ti codeti. Ācariyo nippariyāyāhāre adhippete siyā tava codanāyāvasaro, sā pana ettha anavasarāti dassetuṃ ‘‘pañca na pañcāti idaṃ na vattabba’’nti vatvā pariyāyāhārasseva panettha adhippetabhāvaṃ dassento ‘‘nanu paccayo āhāroti **vuttameta’’**nti āha. Tasmāti yassa kassaci paccayassa ‘‘āhāro’’ti icchitattā. Idāni vuttamevatthaṃ pāḷiyā samatthento **‘‘yaṃ sandhāyā’’**tiādimāha.
奮起の精進によってのみ日々を過ごし、その結果の果報をわずかに得て生計を立てる人々は、奮起の果に依存して生きる者である。一方、自らの功徳の果にのみ依存して生きる人々は、功徳の果に依存して生きる者である。しかし地獄の衆生たちには奮起の精進による生計の営みは一切なく、功徳の果の兆しすら存在しないことから、「かの地獄の衆生たちは……(中略)……功徳の果に依存して生きる者ではないと説かれる」と言われたのである。結生心をもたらすことによって意思の食(意成食)と説かれたのであり、いかなる果に対してもではないという意図で、「五つの食が存在するのか」と反論する。阿闍梨は、直接的食を意図するならば汝の反論の機会もあるだろうが、それはここでは機会がないことを示すために、「五つであるか、五つでないかは語るべきではない」と述べて、ここでは方便的食のみが意図されていることを示しつつ、「縁が食であると説かれているではないか」と言った。「それゆえ」とは、いかなる縁であれ「食」と望まれるがゆえに、である。今、説かれたまさにその意味を聖典(パーリ)によって論証しつつ「何に関して」等と言われた。
Mukhyāhāravasenapi nerayikānaṃ āhāraṭṭhitikataṃ dassetuṃ **‘‘kabaḷīkāraṃ āhāraṃ…pe… sādhetī’’**ti vuttaṃ. Yadi evaṃ nerayikā sukhapaṭisaṃvedinopi hontīti? Noti dassetuṃ **‘‘kheḷopi hī’’**tiādi vuttaṃ. Tayoti tayo arūpāhārā kabaḷīkārāhārassa abhāvato. Avasesānanti asaññasattehi avasesānaṃ. Kāmabhavādīsu nibbattasattānaṃ paccayāhāro hi sabbesaṃ sādhāraṇoti. Etaṃ pañhanti ‘‘katamo eko dhammo’’ti evaṃ coditametaṃ pañhaṃ. Kathetvāti vissajjetvā.
主要な食(実質的食)の観点からも地獄の衆生が食によって存続することを示すために、「段食を……(中略)……成し遂げる」と説かれた。もしそうであるなら、地獄の衆生もまた楽を受感する者であるのか。そうではないことを示すために「実に唾液も」等と説かれた。「三つ」とは、段食が存在しないことによる三つの非物質的食(無色食)である。「残りの者たちに」とは、無想の衆生を除いた残りの者たちに、ということである。欲界などの有に生まれた衆生にとって、縁としての食は実にすべての者に共通だからである。「この問いを」とは、「いかなる一の法であるか」とこのように問われたこの問いを、ということである。「語って」とは、答えて、ということである。
**‘‘Tattha tattha…pe… dukkhaṃ hotī’’**ti etena yathā idha paṭhamassa pañhassa niyyātanaṃ, dutiyassa uddharaṇaṃ na kataṃ, evaṃ iminā eva adhippāyena ito paresu dukatikādipañhesu tattha tattha ādipariyosānesu eva uddharaṇaniyyātanāni katvā sesesu na katanti dasseti. Paṭicca etasmā phalaṃ etīti paccayo, kāraṇaṃ, tadeva attano phalaṃ saṅkharotīti saṅkhāroti āha **‘‘imasmimpi…pe… saṅkhāroti vutto’’**ti. Āhārapaccayoti āharaṇaṭṭhavisiṭṭho paccayo. Āharaṇañcettha uppādakattappadhānaṃ, saṅkharaṇaṃ upatthambhakattappadhānanti ayametesaṃ viseso. Tenāha **‘‘ayamettha heṭṭhimato viseso’’**ti. Nippariyāyāhāre gahite ‘‘sabbe sattā’’ti vuttepi asaññasattā na gahitā eva bhavissantīti padesavisayo sabba-saddo hoti yathā ‘‘sabbe tasantidaṇḍassā’’tiādīsu (dha. pa. 130). Na hettha khīṇāsavādīnaṃ gahaṇaṃ hoti. Pākaṭo bhaveyya visesasāmaññassa visayattā pañhānaṃ. No ca gaṇhiṃsu aṭṭhakathācariyā. Dhammo nāma natthi saṅkhatoti adhippāyo. Idha dutiyapañhe **‘‘saṅkhāro’’**ti paccayo eva kathitoti sambandho.
「至る所で……(中略)……苦となる」とは、これによって、ここでの第一の問いの適用、第二の問いの提示がなされなかったように、このようにまさにこの意図によって、これ以降の二法・三法等の問いにおいて、至る所で初めと終わりにおいてのみ提示と適用をなし、その他においてはなさないことを示している。これに依存して果が生じるから縁(paccaya)であり、原因であり、まさにそれが自らの果を形成する(作為する)から行(saṅkhāra)であるとして、「この中においても……(中略)……行と説かれた」と言われた。食の縁とは、もたらすという意味で卓越した縁である。そしてここでもたらすことは生起させることを主とし、形成することは支持することを主とするというのが、これら(食と行)の差異である。それゆえ「これがここでの先行するものとの差異である」と言われた。直接的食が取られる場合、「一切の有情」と説かれても無想の衆生は含まれないことになるので、「一切」という言葉は「一切の者は杖を恐れる」(法句経130)等におけるように、特定の一部分を対象とするものとなる。実にここには煩悩を滅尽した阿羅漢などは含まれないからである。問いの対象が特殊と普遍であることから明白となるであろう。しかし註釈の諸師は(そのようには)取らなかった。形成された法(有為法)でない法は存在しないという意味である。ここでの第二の問いにおいて「行」とは縁そのものが語られたという関連である。
Yadā sammāsambodhisamadhigato, tadā eva sabbañeyyaṃ sacchikataṃ jātanti āha **‘‘mahābodhimaṇḍe nisīditvā’’**ti. Sayanti sāmaṃyeva. Addhaniyanti addhānakkhamaṃ cirakālāvaṭṭhāyi pārampariyavasena. Tenāha **‘‘ekena hī’’**tiādi. Paramparakathāniyamenāti paramparakathākathananiyamena, niyamitatthabyañjanānupubbiyā kathāyāti attho. Ekakavasenāti ekaṃ ekaṃ parimāṇaṃ etassāti ekako, pañho. Tassa ekakassa vasena. Ekakaṃ niṭṭhitaṃ vissajjananti adhippāyoti.
正等覚を完全に証得した時、まさにその時に一切の知るべきことが現証されたとして、「大菩提樹の座に座して」と言われた。「自ら」とは、まさに自力で、ということである。「永続するものを」とは、長い時間に耐えうる、伝承の順序によって長きにわたり存続するものを、ということである。それゆえ「一によって実に」等と言われた。「伝承された言説の確定によって」とは、伝承された言説を語る確定によって、という意味であり、確定された意義と文章の順序による言説によって、という意味である。「一法(一の組)の観点から」とは、一、一という分量をもつもの、問いのことである。その一法の観点から。「一法(の解説)の解答は終わった」という意味である。
Ekakavaṇṇanā niṭṭhitā.
一法の解説は終わった。
Dukavaṇṇanā
二法の解説
304. Cattāro khandhāti tesaṃ tāva nāmanaṭṭhena nāmabhāvaṃ paṭhamaṃ vatvā pacchā nibbānassa vattukāmo āha. Tassāpi hi tathā nāmabhāvaṃ parato vakkhati. ‘‘Nāmaṃ karoti nāmayatī’’ti ettha yaṃ nāmakaraṇaṃ, taṃ nāmanti āha **‘‘nāmanaṭṭhenāti nāmakaraṇaṭṭhenā’’**ti, attanovāti adhippāyo. Evañhi sātisayamidaṃ tesaṃ nāmakaraṇaṃ hoti. Tenāha ‘‘attano nāmaṃ karontāva uppajjantī’’tiādi. Idāni tamatthaṃ byatirekamukhena vibhāvetuṃ **‘‘yathā hī’’**tiādi vuttaṃ. Yassa nāmassa karaṇeneva te ‘‘nāma’’nti vuccanti, taṃ sāmaññanāmaṃ, kittimanāmaṃ, guṇanāmaṃ vā na hoti, atha kho opapātikanāmanti purimāni tīṇi nāmāni udāharaṇavasena dassetvā ‘‘na evaṃ vedanādīna’’nti te paṭikkhipitvā itaranāmameva nāmakaraṇaṭṭhena nāmanti dassento **‘‘vedanādayo hī’’**tiādimāha. ‘‘Mahāpathaviādayo’’ti kasmā vuttaṃ, nanu pathaviāpādayo idha nāmanti anadhippetā, rūpanti pana adhippetāti? Saccametaṃ, phassavedanādīnaṃ viya pana pathaviādīnaṃ opapātikanāmatāsāmaññena ‘‘pathaviādayo viyā’’ti nidassanaṃ kataṃ, na arūpadhammā viya rūpadhammānaṃ nāmasabhāvattā. Phassavedanādīnañhi arūpadhammānaṃ sabbadāpi phassādināmakattā, pathaviādīnaṃ kesakumbhādināmantarāpatti viya nāmantarānāpajjanato ca sadā attanāva katanāmatāya catukkhandhanibbānāni nāmakaraṇaṭṭhena nāmaṃ. Atha vā adhivacanasamphasso viya adhivacananāmamantarena ye anupacitasambhārānaṃ gahaṇaṃ na gacchanti, te nāmāyattaggahaṇā nāmaṃ. Rūpaṃ pana vināpi nāmasādhanaṃ attano ruppanasabhāvena gahaṇaṃ upayātīti rūpaṃ. Tenāha **‘‘tesu uppannesū’’**tiādi. Idhāpi ‘‘yathāpathaviyā’’tiādīsu vuttanayeneva attho veditabbo nidassanavasena āgatattā. **‘‘Atītepī’’**tiādinā vedanādīsu nāmasaññā niruḷhā, anādikālikā cāti dasseti.
304. 「四つの蘊」とは、まずそれらについて傾ける(名づける)という意味によって名(精神)である状態を先に語り、後に涅槃について語ることを望んで言われたのである。実にそれ(涅槃)についても同様に名である状態を後で述べるであろう。「名をなす、傾ける」というここにおいて、名を作ることが名であるとして、「傾けるという意味によってとは、名をなすという意味によって」と言われた。自らの、という意味である。このように実にこれらは卓越して名をなすこととなる。それゆえ「自らの名をなしつつ生じる」等と言われた。今、その意味を差異・対比の観点から明らかにするために「あたかも実に」等と説かれた。その名をなすことによってのみそれらが「名」と呼ばれるが、それは総称名、作為名、あるいは徳名ではなく、実に生起(化生)による名であるという前者の三つの名を実例の観点から示し、「受などについてはそうではない」とそれらを否定して、他の名こそが名をなすという意味によって名であることを示しつつ、「実に受などは」等と言われた。なぜ「大地など」と説かれたのか。実に地や水などはここでは「名」としては意図されておらず、一方「色」として意図されているのではないか。これは真実であるが、触や受などのように地などにも生起による名としての共通性によって「地などのように」と例示がなされたのであり、無色法(精神的法)のように色法に名の自性があるからではない。触や受などの無色法には常に触などの名があり、地などには毛髪や水瓶などの別の名に至るような別の名への移行がないことから、常に自らによってなされた名であるため、四蘊と涅槃は名をなすという意味によって名である。あるいは、名辞触のように名辞としての名なしには資糧を積んでいない者たちには捉えられないものが、名に依存して捉えられるゆえに名である。一方、色法は名の成立がなくても自らの変壊する自性によって捉えられるに至るから色である。それゆえ「それらが生じた時」等と言われた。ここでも「地のようである」等において説かれた方法によって意味を知るべきである。例示の観点から現れたからである。「過去においても」等によって、受などにおける名の想念は定着したものであり、無始以来のものであることを示している。
Iti atītādivibhāgavantānampi vedanādīnaṃ nāmakaraṇaṭṭhena nāmabhāvo ekantiko, tabbibhāgarahite pana ekasabhāve nicce nibbāne vattabbameva natthīti dassento **‘‘nibbānaṃ pana…pe… nāmanaṭṭhena nāma’’**nti āha. Nāmanaṭṭhenāti nāmakaraṇaṭṭhena. Namantīti ekantato sārammaṇattā tanninnā honti, tehi vinā nappavattantīti attho. Sabbanti khandhacatukkaṃ, nibbānañca. Yasmiṃ ārammaṇeyeva vedanākkhandho pavattati, taṃsampayuttatāya saññākkhandhādayopi tattha pavattantīti so ne tattha nāmento viya hoti vinā appavattanato. Esa nayo saññākkhandhādīsupīti vuttaṃ **‘‘ārammaṇe aññamaññaṃ nāmentī’’**ti. Anavajjadhamme maggaphalādike. Kāmaṃ kesuci rūpadhammesupi ārammaṇādhipatibhāvo labbhateva, nibbāne panesa sātisayo tassa accantasantapaṇītatākappabhāvatoti tadeva ārammaṇādhipatipaccayatāya **‘‘attani nāmetī’’**ti vuttaṃ. Tathā hi ariyā sakalampi divasabhāgaṃ taṃ ārabbha vītināmentāpi tittiṃ na gacchanti.
このように過去などの区分をもつ受などであっても名をなすという意味によって名である状態は絶対的であり、そのような区分を離れた唯一の自性をもつ常住の涅槃においては言うまでもないことを示しつつ、「涅槃は……(中略)……傾けるという意味によって名である」と言われた。「傾けるという意味によって」とは、名をなすという意味によって、である。「傾く」とは、絶対的に所縁をもつものであるがゆえにそれに傾倒している、それらなしには生起しないという意味である。「一切を」とは、四蘊と涅槃とを。「受蘊が生起するまさにその所縁に、それに相応するがゆえに想蘊などもそこに生起する」ので、それ(受蘊)はそれら(想蘊など)なしには生起しないことから、それらをそこに傾けているかのようである。この方法は想蘊などにおいても同様であるとして、「所縁において相互を傾ける」と説かれた。過失なき法とは、道や果などにおいてである。確かに特定の色法においても所縁の増上状態は得られるが、涅槃においてはそれが極めて静寂で殊勝な境地であることから卓越しており、まさにそれが所縁増上縁であることによって「自己へと傾ける」と説かれた。実に聖者たちは一日のすべての時間をそれ(涅槃)を対象として過ごしながらも、飽くことがないからである。
**‘‘Ruppanaṭṭhenā’’**ti etena ruppatīti rūpanti dasseti. Tattha sītādivirodhipaccayasannipāte visadisuppatti ruppanaṃ. Nanu ca arūpadhammānampi virodhipaccayasamāgame visadisuppatti labbhatīti? Saccaṃ labbhati, na pana vibhūtataraṃ. Vibhūtatarañhettha ruppanaṃ adhippetaṃ sītādiggahaṇato. Vuttañhetaṃ ‘‘ruppatīti kho bhikkhave tasmā ‘rūpa’nti vuccati. Kena ruppati? Sītenapi ruppati, uṇhenapi ruppatī’’tiādi (saṃ. ni. 3.79). Yadi evaṃ kathaṃ brahmaloke rūpasamaññāti? Tatthāpi taṃsabhāvānativattanato hotiyeva rūpasamaññā. Anuggāhakapaccayavasena vā visadisapaccayasannipāteti evamattho veditabbo. ‘‘Yo attano santāne vijjamānassayeva visadisuppattihetubhāvo, taṃ **ruppana’’**nti aññe. Imasmiṃ pakkhe rūpayati vikāramāpādetīti rūpaṃ. ‘‘Saṅghaṭṭanena vikārāpattiyaṃ ruppana-saddo niruḷho’’ti keci. Etasmiṃ pakkhe arūpadhammesu rūpasamaññāya pasaṅgo eva natthi saṅghaṭṭanābhāvato. ‘‘Paṭighato **ruppana’’**nti apare. ‘‘Tassāti rūpassā’’ti vadanti, nāmarūpassāti pana yuttaṃ. Yathā hi rūpassa, evaṃ nāmassāpi vedanākkhandhādivasena, madanimmadanādivasena ca vitthārakathā visuddhimagge (visuddhi. 2.456) vuttā evāti. Iti ayaṃ duko kusalattikena saṅgahite sabhāvadhamme pariggahetvā pavattoti.
「変壊するという意味によって」とは、これによって変壊するから色(rūpa)であることを示している。そこにおいて、冷たさなどの敵対する縁の集来において異なるありさまで生起することが変壊である。しかし無色法(精神法)にも敵対する縁の遭遇において異なるありさまで生起することが得られるのではないか。真実には得られるが、それほど顕著ではない。実にここでは冷たさなどの提示から、より顕著な変壊が意図されている。「比丘たちよ、変壊するがゆえに『色』と説かれる。何によって変壊するのか。冷たさによっても変壊し、熱さによっても変壊する」(相応部3.79)等と説かれているからである。もしそうであるなら、梵天界においてどのように色の通称があるのか。そこにおいてもその自性を超滅していないことから、実に色の通称は存在する。あるいは、助成しない縁の観点から、または敵対する縁の集来において、このように意味を知るべきである。「自らの相続において現存するまさにそれの、異なるありさまで生起する原因たる状態、それが変壊である」と他の者たちは言う。この立場では、変色させる、変異に至らしめるから色である。「衝突による変異の発生において変壊という言葉が定着している」と一部の者たちは言う。この立場では、衝突がないことから無色法における色の通称の適用は全く存在しない。「抵抗・対立(有対)が変壊である」と他の者たちは言う。「それの、とは色の」と彼らは言うが、「名色(精神と物質)の」とするのが妥当である。実に色法についてと同様に、名法についても受蘊などの観点から、また慢の粉砕などの観点から、詳細な言説が清浄道論(清浄道論2.456)においてまさに説かれているからである。このようにこの二法は、善の三法に包摂された自性法を包摂して説かれたものである。
Avijjāti avindiyaṃ ‘‘attā, jīvo, itthī, puriso’’ti evamādikaṃ vindatīti avijjā. Vindiyaṃ ‘‘dukkhaṃ, samudayo’’ti evamādikaṃ na vindatīti avijjā. Sabbampi dhammajātaṃ aviditakaraṇaṭṭhena avijjā. Antarahite saṃsāre satte javāpetīti avijjā. Atthato pana sā dukkhādīnaṃ catunnaṃ saccānaṃ sabhāvacchādako sammoho hotīti āha **‘‘dukkhādīsu aññāṇa’’**nti. Bhavapatthanā nāma kāmabhavādīnaṃ patthanāvasena pavattataṇhā. Tenāha **‘‘yo bhavesu bhavacchando’’**tiādi. Iti ‘‘ayaṃ duko vaṭṭamūlasamudācāradassanatthaṃ gahito.
無明とは、知るべからざる「我、霊魂、女、男」等のこのようなものを知る(認識する)から無明である。知るべき「苦、集」等のこのようなものを知らないから無明である。一切の生じた法を知られないものとなすという意味によって無明である。果てしない輪廻において衆生を疾走させるから無明である。実義としては、それは苦などの四聖諦の自性を覆い隠す迷妄であるとして、「苦などについての無知」と言われた。有愛とは、欲有などの存在を渇望する観点から生じる渇愛である。それゆえ「諸々の有における有への欲求であるもの」等と言われた。このように、この二法は輪廻の根本の現行を示すために取られたものである。
Bhavadiṭṭhīti khandhapañcakaṃ ‘‘attā ca loko cā’’ti gāhetvā taṃ ‘‘bhavissatī’’ti gaṇhanavasena niviṭṭhā sassatadiṭṭhīti attho. Tenāha **‘‘bhavo vuccatī’’**tiādi. Bhavissatīti bhavo, tiṭṭhati sabbakālaṃ atthīti attho. Sassatanti sassatabhāvo. Vibhavadiṭṭhīti khandhapañcakameva ‘‘attā’’ti ca ‘‘loko’’ti ca gahetvā taṃ ‘‘na bhavissatī’’ti gaṇhanavasena niviṭṭhā ucchedadiṭṭhīti attho. Tenāha **‘‘vibhavo vuccatī’’**tiādi. Vibhavissati vinassati ucchijjatīti vibhavo, ucchedo.
有見とは、五蘊を「我と世界」と執着して、それを「(永遠に)存在するであろう」と把持する観点から生じた常見であるという意味である。それゆえ「有とは説かれる」等と言われた。「存在するであろう」から有であり、常に存続し存在する、という意味である。「常住」とは常住なる状態である。非有見(断見)とは、まさに五蘊を「我」と、また「世界」と把持して、それを「存在しないであろう」と把持する観点から生じた断見であるという意味である。それゆえ「非有とは説かれる」等と言われた。「非存在となるであろう、滅びるであろう、断絶するであろう」から非有、断滅である。
Yaṃ na hirīyatīti yena dhammena taṃsampayuttadhammasamūho, puggalo vā na hirīyati na lajjati, liṅgavipallāsaṃ vā katvā yo dhammoti attho veditabbo. Hirīyitabbenāti upayogatthe karaṇavacanaṃ, hirīyitabbayuttakaṃ kāyaduccaritādidhammaṃ na jigucchatīti attho. Nillajjatāti pāpassa ajigucchanā. Yaṃ na ottappatīti etthāpi vuttanayeneva attho veditabbo. Ottappitabbenāti pana hetuatthe karaṇavacanaṃ, ottappitabbayuttakena ottappassa hetubhūtena kāyaduccaritādināti attho. Hirīyitabbenāti etthāpi vā evameva attho veditabbo. Abhāyanakaākāroti pāpato anuttāsanākāro.
「恥じないこと」とは、その法によって相応する法の集まり、あるいは人が恥じない、羞恥心をもたない、あるいは文法上の性の転換をして「恥じない法である」と意味を知るべきである。「恥ずべきことによって」とは、対格の意味における具格の語であり、恥ずべきに相応しい身の悪行などの法を嫌悪しない、という意味である。「無恥」とは悪を嫌悪しないことである。「恐れないこと」とは、ここでも説かれた方法によって意味を知るべきである。「恐るべきことによって」とは、原因の意味における具格の語であり、恐るべきに相応しい、畏怖の原因となる身の悪行などによって、という意味である。あるいは「恥ずべきことによって」というここでも同様に意味を知るべきである。「恐れない様相」とは、悪から恐怖しない様相である。
**‘‘Yaṃ hirīyatī’’**tiādīsu anantaraduke vuttanayena attho veditabbo. Niyakajjhattaṃ jātiādisamuṭṭhānaṃ etissāti ajjhattasamuṭṭhānā. Niyakajjhattato bahibhāvato bahiddhā parasantāne samuṭṭhānaṃ etissāti bahiddhā samuṭṭhānā. Attā eva adhipati attādhipati, ajjhattasamuṭṭhānattā eva attādhipatito āgamanato attādhipateyyā. Lokādhipateyyanti etthāpi eseva nayo. Lajjāsabhāvasaṇṭhitāti pāpato jigucchanarūpena avaṭṭhitā. Bhayasabhāvasaṇṭhitanti tato uttāsanarūpena avaṭṭhitaṃ. Ajjhattasamuṭṭhānāditā ca hirottappānaṃ tattha tattha pākaṭabhāvena vuttā, na pana tesaṃ kadācipi aññamaññavippayogato. Na hi lajjanaṃ nibbhayaṃ, pāpabhayaṃ vā alajjanaṃ atthīti.
「恥じること」等において、直前の二法で説かれた方法によって意味を知るべきである。「自己の内面が生起の起源であるもの」だから内面起源である。「自己の内面から外部にあることによって外側の他者の相続に生起の起源があるもの」だから外面起源である。自己そのものが主導者(増上)であるから自己増上であり、内面起源であることからまさに自己増上から生じるので「自己増上の」である。「世間増上の」というここでもこの通りの方法である。「羞恥の自性に安住する」とは、悪からの嫌悪の形として確立していることである。「畏怖の自性に安住する」とは、それ(悪)からの恐怖の形として確立していることである。また、慚と愧の内面起源などの性質は至る所で顕著であることによって説かれたのであり、それらが決して相互に分離しているからではない。実に恐れのない恥じらいや、恥じらいのない悪への恐れは存在しないからである。
Dukkhanti kicchaṃ, aniṭṭhanti vā attho. Vippaṭikūlagāhimhīti dhammānudhammapaṭipattiyā vilomagāhake. Tassā eva vipaccanīkaṃ duppaṭipatti sātaṃ iṭṭhaṃ etassāti vipaccanīkasāto, tasmiṃ vipaccanīkasāte. Evaṃbhūto ca ovādabhūte sāsanakkame ovādake ca ādarabhāvarahito hotīti āha **‘‘anādare’’**ti. Tassa kammanti tassa dubbacassa puggalassa anādariyavasena pavattacetanā dovacassaṃ. Tassa bhāvoti tassa yathāvuttassa dovacassassa atthibhāvo dovacassatā, atthato dovacassameva. Tenevāha **‘‘sā atthato saṅkhārakkhandho hotī’’**ti. Cetanāppadhānatāya hi saṅkhārakkhandhassa evaṃ vuttaṃ. Etenākārenāti appadakkhiṇaggāhitākārena. Assaddhiyadussīlyādipāpadhammayogato puggalā pāpā nāma hontīti dassetuṃ **‘‘ye te puggalā assaddhā’’**tiādi vuttaṃ. Yāya cetanāya puggalo pāpasampavaṅko nāma hoti, sā cetanā pāpamittatā, cattāropi vā arūpino khandhā tadākārappavattā pāpamittatāti dassento **‘‘sāpi atthato dovacassatā viya daṭṭhabbā’’**ti āha.
「苦」とは困難、あるいは望ましくないもの、という意味である。「反抗的に捉える者において」とは、法に随順する実践に逆らって捉える者において、という意味である。まさにそれ(正法の実践)に敵対する誤った実践が快適であり望ましい者であるから「敵対を好む者」であり、その敵対を好む者において、ということである。そしてこのような者は、訓戒である教誡の順序と訓戒を与える者に対して敬意を欠いた者となるので、「不敬において」と言われた。「その行い」とは、その諫言を聞き入れ難い人の、不敬の観点から生じる思(意思)が悪語性(聞き入れ難さ)である。「その状態」とは、その前述の悪語性の存在状態が悪語性であり、実義としては悪語そのものである。それゆえにこそ「それは実義としては行蘊である」と言われた。実に思が主導的であることによって行蘊はこのように説かれたのである。「この様相によって」とは、素直に受け入れない様相によって、である。無信、破戒などの悪法との結びつきによって人々は悪友と呼ばれることを示すために、「かの無信なる人々」等と説かれた。それによって人が悪友に親近する者と呼ばれるその意思が悪友性であり、あるいはその様相として生じる四つの無色蘊(精神の諸蘊)が悪友性であることを示しつつ、「それもまた実義としては悪語性のように見なされるべきである」と言われた。
‘‘Sukhaṃ vaco etasmiṃ padakkhiṇaggāhimhi anulomasāte sādare puggaleti subbacotiādinā, ‘‘kalyāṇā saddhādayo puggalā etassa mittāti **kalyāṇamitto’’**tiādinā ca anantaradukassa attho icchitoti āha **sovacassatā…pe… vuttapaṭipakkhanayena veditabbā’’**ti. Ubhoti sovacassatā, kalyāṇamittatā ca. Tesaṃ khandhānaṃ pavattiākāravisesā ‘‘sovacassatā, kalyāṇamittatā’’ti ca vuccanti, te lokiyāpi honti lokuttarāpīti āha **‘‘lokiyalokuttaramissakā kathitā’’**ti.
「素直に受け入れ、教えに随順することを好み、敬意をもつ人において言葉が快いから善語性(聞き入れやすさ)」等により、また「信仰などの徳をもつ善良な人々が友であるから善友」等によって、直前の二法の意味が意図されているとして、「善語性は……(中略)……説かれた対立する方法によって知られるべきである」と言われた。「両者」とは、善語性と善友性である。それらの諸蘊の生起の様相の差異が「善語性、善友性」と呼ばれ、それらは世間的でもあり出世間的でもあるとして、「世間と出世間が混ざり合ったものとして説かれた」と言われた。
Vatthubhedādinā anekabhedabhinnā taṃtaṃjātivasena ekajjhaṃ katvā rāsito gayhamānā āpattiyova āpattikkhandhā. Tā pana antarāpattīnaṃ aggahaṇe pañcapi āpattikkhandhā āpattiyo, tāsaṃ pana gahaṇe sattapi āpattikkhandhā āpattiyo. ‘‘Imā āpattiyo, ettakā āpattiyo, evañca tesaṃ āpajjanaṃ hotī’’ti jānanapaññā āpattikusalatāti āha **‘‘yā tāsa’’**ntiādi. Tāsaṃ āpattīnanti tāsu āpattīsu. Tattha yaṃ sambhinnavatthukāsu viya ṭhitāsu, duviññeyyavibhāgāsu ca āpattīsu asaṅkarato vavatthāna, ayaṃ visesato āpattikusalatāti dassetuṃ dutiyaṃ āpattiggahaṇaṃ kataṃ. Saha kammavācāyāti kammavācāya saheva. Āpattito vuṭṭhāpanapayogatāya kammabhūtā vācā kammavācā, tathābhūtā anusāvanavācā ceva ‘‘passissāmī’’ti evaṃ pavattavācā ca. Tāya kammavācāya saddhiṃ samakālameva ‘‘imāya kammavācāya ito āpattito vuṭṭhānaṃ hoti, hontañca paṭhame vā tatiye vā anusāvaneyyakārappatte, ‘saṃvarissāmī’ti vā pade pariyosite hotī’’ti evaṃ taṃ taṃ āpattīhi vuṭṭhānaparicchedaparijānanapaññā āpattivuṭṭhānakusalatā. Vuṭṭhānanti ca yathāpannāya āpattiyā yathā tathā anantarāyatāpādanaṃ, evaṃ vuṭṭhānaggahaṇeneva desanāyapi saṅgaho siddho hoti.
事柄の差異などによって多様に区別され、それぞれの部類に応じて一括され、集められて把握される罪そのものが犯戒の部類(罪聚)である。しかしそれらは、中間の罪を含めない場合は五つの罪聚も罪であり、それらを含める場合は七つの罪聚も罪である。「これらは罪である、これだけの罪である、このようにそれらを犯すことになる」と知る智慧が罪過における巧みさ(善巧)であるとして、「それらの」等と言われた。「それらの罪過の」とは、それらの罪過において、ということである。そこにおいて、混同した事柄にあるかのようで区別が分かり難い罪過において、混同することなく確定すること、これが特に罪過の善巧であることを示すために、二度目の「罪過の把握」がなされた。「作法の言葉とともに」とは、作法の言葉(羯磨文)とまさに同時に、ということである。罪からの出罪の手段であることによって行為(羯磨)となった言葉が羯磨文であり、そのようになった告知の言葉(白文)や、「私は見ます」とこのように生じた言葉などである。その作法の言葉とまさに同時に、「この作法の言葉によってこの罪から出罪する。そして初めまたは三回目の告知の言葉の段階に至った時、あるいは『私は慎みます』という言葉が終わった時に(出罪が)成就する」とこのように、それぞれの罪からの出罪の限定を完全に知る智慧が出罪の善巧である。そして「出罪」とは、犯した罪に従って何らかの形で障害のない状態をもたらすことであり、このように出罪を把握することによって(罪の)告白の包摂も成就するのである。
‘‘Ito pubbe parikammaṃ pavattaṃ, ito paraṃ bhavaṅga majjhe samāpattī’’ti evaṃ samāpattīnaṃ appanāparicchedajānanapaññā samāpattikusalatā. Vuṭṭhāne kusalabhāvo vuṭṭhānakusalatā, pageva vuṭṭhāna paricchedakaraṃ ñāṇaṃ. Tenāha **‘‘yathāparicchinnasamayavasenevā’’**tiādi. Vuṭṭhānasamatthāti vuṭṭhāpane samatthā.
「これより以前には準備修行が生じ、これより以降には有分心が生じ、中間に入定がある」とこのように等至(入定)の安止の限定を知る智慧が入定の善巧である。出定における巧みな状態が出定の善巧であり、あらかじめ出定の限定をなす知識である。それゆえ「限定された時間の通りにまさに」等と言われた。「出定する能力がある」とは、出定させる能力がある、ということである。
‘‘Dhātukusalatā’’ti ettha pathavīdhātuādayo, sukhadhātuādayo, kāmadhātuādayo ca dhātuyo etāsveva antogadhāti etāsu kosalle dassite tāsupi kosallaṃ dassitameva hotīti ‘‘aṭṭhārasa dhātuyo cakkhudhātu…pe… manoviññāṇadhātū’’ti vatvā **‘‘aṭṭhārasannaṃ dhātūnaṃ sabhāvaparicchedakā’’**ti vuttaṃ. Tattha sabhāvaparicchedakāti yathābhūtasabhāvāvabodhinī. ‘‘Savanapaññā dhāraṇapaññā’’tiādinā paccekaṃ paññā-saddo yojetabbo. Dhātūnaṃ savanadhāraṇapaññā sutamayā, itarā bhāvanāmayā. Tatthāpi sammasanapaññā lokiyā. Vipassanā paññā hi sā, itarā lokuttarā. Lakkhaṇādivasena, aniccādivasena ca manasikaraṇaṃ manasikāro, tattha kosallaṃ manasikārakusalatā. Taṃ pana ādimajjhapariyosānavasena tidhā bhinditvā dassento **‘‘sammasanapaṭivedhapaccavekkhaṇapaññā’’**ti āha. Sammasanapaññā hi tassā ādi, paṭivedhapaññā majjhe, paccavekkhaṇapaññā pariyosānaṃ.
「界における巧みさ(界善巧)」というここにおいて、地界など、楽界など、欲界などの諸界はまさにこれらに含まれるので、これらについての巧みさが示された時、それらについての巧みさも示されたことになるとして、「眼界から……(中略)……意識界までの十八界」と述べて、「十八界の自性を限定する」と説かれた。そこにおいて「自性を限定する」とは、あるがままの自性を覚知することである。「聞く智慧、保持する智慧」等により、それぞれに「智慧」という言葉を結びつけるべきである。諸界を聞き保持する智慧は聞所成慧であり、他は修所成慧である。そこでも思察する智慧は世間的である。それは実に vipassanā(観)の智慧であり、他は出世間的である。特徴などによって、また無常などによって作意することが作意であり、そこにおける巧みさが作意の善巧である。そしてそれを初め・中間・終わりの観点から三つに区分して示しつつ、「思察・通達・省察の智慧」と言われた。実に思察の智慧がそれの初めであり、通達の智慧が中間であり、省察の智慧が終わりである。
Āyatanānaṃ ganthato ca atthato ca uggaṇhanavasena tesaṃ dhātulakkhaṇādivibhāgassa jānanapaññā uggahajānanapaññā. Sammasanapaṭivedhapaccavekkhaṇavidhino jānanapaññā manasikārajānanapaññā. Yasmā āyatanānipi atthato dhātuyova manasikāro ca uggaṇhanādivasena tesameva manasikāravidhi, tasmā dhātukusalatādikā tissopi kusalatā ekadese katvā dassetuṃ **‘‘apicā’’**tiādi vuttaṃ. Savanaṃ viya uggaṇhanapaccavekkhaṇānipi parittañāṇakattukānīti āha **‘‘savana uggahaṇapaccavekkhaṇā lokiyā’’**ti. Ariyamaggakkhaṇe sammasanamanasikārānaṃ nipphatti pariniṭṭhānanti tesaṃ lokuttaratāpariyāyopi labbhatīti vuttaṃ **‘‘sammasanamanasikārā lokiyalokuttaramissakā’’**ti. Paccayadhammānaṃ hetuādīnaṃ attano paccayuppannānaṃ hetupaccayādibhāvena paccayabhāvo paccayākāro, so pana avijjādīnaṃ dvādasannaṃ paṭiccasamuppādaṅgānaṃ vasena dvādasavidhoti āha **‘‘dvādasannaṃ paccayākārāna’’**nti. Uggahādivasenāti uggahamanasikārasavanasammasanapaṭivedhapaccavekkhaṇavasena.
処(十二処)を文言と意味の観点から学習することによって、それらの界の特徴などの区分を知る智慧が学習把握の智慧である。思察・通達・省察の作法を知る智慧が作意把握の智慧である。処もまた実義としては界そのものであり、作意もまた学習などの観点からそれら(界・処)の作意の作法であるから、界善巧などの三つの善巧を一箇所にして示すために「さらにまた」等と説かれた。聞くことと同様に、学習と省察もまた小さな(世間の)知識を主体とするものであるとして、「聞き、学習し、省察することは世間的である」と言われた。聖道の一瞬において思察と作意の成就と完遂があることから、それらに出世間性という方便も得られるとして、「思察と作意は世間と出世間が混ざり合ったものである」と言われた。原因などの縁の諸法が、自らから生じる縁生法に対して原因縁などとして縁となるありさまが縁の様相であり、それは無明などの十二因縁の支分の観点から十二種であるとして、「十二の縁の様相の」と言われた。「学習などによって」とは、学習、作意、聴聞、思察、通達、省察によって、ということである。
Ṭhānañceva tiṭṭhati phalaṃ tadāyattavuttitāyāti kāraṇañca hetupaccayabhāvena karaṇato nipphādanato. Tesaṃ sotaviññāṇādīnaṃ. Etasmiṃ duke attho veditabboti sambandho. Ye dhammā yassa dhammassa kāraṇabhāvato ṭhānaṃ, teva dhammā taṃvidhurassa dhammassa akāraṇabhāvato aṭṭhānanti paṭhamanaye phalabhedena tasseva dhammassa ṭhānāṭṭhānatā dīpitā; dutiyanaye pana abhinnepi phale paccayadhammabhedena tesaṃ ṭhānāṭṭhānatā dīpitāti ayametesaṃ viseso. Na hi kadāci ariyā diṭṭhisampadā niccaggāhassa kāraṇaṃ hoti, akiriyatā pana siyā tassa kāraṇanti.
処(是処)とは、果がそれに依存して生起することによって成立する原因であり、因縁の状態として作すこと、生み出すことによる。それらの耳識などの。「この二法において意味を知るべきである」という関連である。ある法にとって原因であることによって是処(妥当)である諸法が、それと相反する法にとって原因でないことによって非処(不妥当)であるという第一の方法では、果の差異によってまさにその法の是処性と非処性が明らかにされた。しかし第二の方法では、果が同一であっても縁となる法の差異によってそれらの是処性と非処性が明らかにされたのであり、これがこれら(二つの方法)の差異である。実に聖なる見解の具足が常住の執着の原因となることは決してなく、無作用の見解こそがその原因となりうるのである。
Ujuno bhāvo ajjavaṃ, ajimhatā akuṭilatā avaṅkatāti atthoti tamatthaṃ anajjavapaṭikkhepamukhena dassetuṃ **‘‘gomuttavaṅkatā’’**tiādi vuttaṃ. Svāyaṃ anajjavo bhikkhūnaṃ yebhuyyena anesanāya, agocaracāritāya ca hotīti āha **‘‘ekacco hi…pe… caratī’’**ti. Ayaṃ gomuttavaṅkatā nāma ādito paṭṭhāya yāva pariyosānā paṭipattiyā vaṅkabhāvato. Purimasadisoti paṭhamaṃ vuttabhikkhusadiso. Candavaṅkatā nāma paṭipattiyā majjhaṭṭhāne vaṅkabhāvāpattito. Naṅgalakoṭivaṅkatā nāma pariyosāne vaṅkabhāvāpattito. Idaṃ ajjavaṃ nāma sabbatthakameva ujubhāvasiddhito. Ajjavatāti ākāraniddeso, yenākārenassa ajjavo pavattati, tadākāraniddesoti attho. Lajjatīti lajjī, hirimā, tassa bhāvo lajjavaṃ, hirīti attho. Lajjā etassa atthīti lajjī yathā ‘‘mālī, māyī’’ti ca, tassa bhāvo lajjībhāvo, sā eva lajjā.
素直な状態が質直(ajjava)であり、歪みのないこと、屈曲のないこと、曲がっていないことという意味であるとして、その意味を非質直の否定の観点から示すために「牛の尿のような曲がり」等と説かれた。この非質直は比丘たちにとって概して不正な探求や不適切な場所への出入りによって生じるとして、「実に或る者は……(中略)……歩む」と言われた。この「牛の尿のような曲がり」とは、初めから終わりまで実践が曲がっている状態によるものである。「前者に似た者」とは、最初に説かれた比丘に似た者である。「月のような曲がり」とは、実践の中間の場所で曲がった状態に至ることによる。「鋤の先のような曲がり」とは、終わりに曲がった状態に至ることによる。この「質直」とは、すべての点において素直な状態が成就することによるものである。「質直さ」とは様相の解説であり、それによって自らの質直さが生起するその様相の解説である、という意味である。恥じるから有恥(lajjī)であり、慚をもつ者であり、その状態が有恥性(lajjava)であり、慚(恥じらい)という意味である。恥じらいがこの人にあるから有恥であり、「花輪をもつ者、幻術をもつ者」というが如くであり、その状態が有恥の状態であり、それそのものが恥じらいである。
Parāparādhādīnaṃ adhivāsanakkhamaṃ adhivāsanakhanti. Sucisīlatā soraccaṃ. Sā hi sobhanakammaratatā, suṭṭhu vā pāpato oratabhāvo viratatā soraccaṃ. Tenāha **‘‘suratabhāvo’’**ti.
他者の過失などを耐え忍ぶことが堪忍(忍耐)である。清浄な戒の状態が柔和(soracca)である。実にそれは善美な行為を愛好することであり、あるいは悪から完全に退いている状態、離れていることが柔和である。それゆえ「善く楽しむ状態」と言われた。
**‘‘Nāmañca rūpañcā’’**tiādīsu ayaṃ aparo nayo – nāmakaraṇaṭṭhenāti aññaṃ anapekkhitvā sayameva attano nāmakaraṇasabhāvatoti attho. Yañhi parassa nāmaṃ karoti, tassa ca tadapekkhattā aññāpekkhaṃ nāmakaraṇanti nāmakaraṇasabhāvatā na hoti, tasmā mahājanassa ñātīnaṃ, guṇānañca sāmaññanāmādikārakānaṃ nāmabhāvo nāpajjati. Yassa ca aññehi nāmaṃ karīyati, tassa ca nāmakaraṇasabhāvatā natthīti, natthiyeva nāmabhāvo. Vedanādīnaṃ pana sabhāvasiddhattā vedanādināmassa nāmakaraṇasabhāvato nāmatā vuttā. Pathavīādi nidassanena nāmassa sabhāvasiddhataṃyeva nidasseti, na nāmabhāvasāmaññaṃ, niruḷhattā pana nāma-saddo arūpadhammesu eva vattati, na pathavīādīsūti na tesaṃ nāmabhāvo. Na hi pathavīādināmaṃ vijahitvā kesādināmehi rūpadhammānaṃ viya vedanādināmaṃ vijahitvā aññena nāmena arūpadhammānaṃ voharitabbena piṇḍākārena pavatti atthīti.
「名と色と」等において、これは別の方法である。「名をなすという意味によって」とは、他者を考慮することなく、自ら自らの名をなす自性による、という意味である。実に他者の名をなす場合、それには他者への依存があるため他者に依存した名の付与となり、名をなす自性とはならない。それゆえ、世間の人々、親族、徳などの一般的な名などをつける者たちに名(精神)である状態は生じない。また、他者によって名がつけられるものには名をなす自性が存在しないので、名である状態は全く存在しない。しかし受などは自性として成就していることから、受などの名が名をなす自性であることによって名であると説かれた。地などの実例によって名の自性の成就そのものを例示しているのであり、名である状態の共通性を例示しているのではない。しかし定着していることから「名」という言葉は無色法(精神法)においてのみ使われ、地などにおいては使われないので、それら(物質)に名である状態はない。実に地などの名を捨てて毛髪などの名によって色法を呼ぶように、受などの名を捨てて他の名によって無色法を呼ぶべき塊としての様相の生起は存在しないからである。
Atha vā rūpadhammā cakkhādayo rūpādayo ca, tesaṃ pakāsakapakāsitabbabhāvato vināpi nāmena pākaṭā honti, na evaṃ arūpadhammāti te adhivacanasamphasso viya nāmāyattaggahaṇīyabhāvena ‘‘nāma’’nti vuttā. Paṭighasamphasso ca na cakkhādīni viya nāmena vinā pākaṭoti ‘‘nāma’’nti vutto, arūpatāya vā aññanāmasabhāgattā saṅgahitoyaṃ, aññaphassasabhāgattā vā. Vacanatthopi hi rūpayatīti rūpaṃ, nāmayatīti nāmanti idha pacchimapurimānaṃ sambhavati. Rūpayatīti vināpi nāmena attānaṃ pakāsetīti attho. Nāmayatīti nāmena vinā apākaṭabhāvato attano pakāsakaṃ nāmaṃ karotīti attho. Ārammaṇādhipatipaccayatāyāti satipi rūpassa ārammaṇādhipatipaccayabhāve na taṃ paramassāsabhūtaṃ nibbānaṃ viya sātisayaṃ nāmanabhāvena paccayoti nibbānameva ‘‘nāma’’nti vuttaṃ.
あるいは、色法である眼などや色(視覚対象)などは、それらの顕示するものと顕示されるものとの関係から、名がなくても明白となるが、無色法はそのようではないので、それらは名辞触のように名に依存して把握されるべき状態によって「名」と説かれた。また対告触(有対触)も眼などのように名なしに明白となるのではないから「名」と説かれ、あるいは非物質であることによって他の名の自性と同等であるから包摂されたのであり、あるいは他の触の自性と同等であるからである。「変壊するから色、傾ける(名づける)から名」という言葉の語源的意味もまた、ここでは後者と前者に成立する。「変壊する」とは、名がなくても自らを顕示する、という意味である。「傾ける」とは、名なしには明白でない状態であることから自らを顕示する名をなす、という意味である。「所縁増上縁であることによって」とは、色法にも所縁増上縁である状態が存在するとしても、それは究極の休息である涅槃のように卓越して傾ける状態による縁ではないので、涅槃のみが「名」と説かれたのである。
‘‘Avijjā **ca bhavataṇhā cā’’**ti ayaṃ duko sattānaṃ vaṭṭamūlasamudācāradassanattho. Samudācaratīti hi samudācāro, vaṭṭamūlameva samudācāro vaṭṭamūlasamudācāro, vaṭṭamūladassanena vā vaṭṭamūlānaṃ pavatti dassitā hotīti vaṭṭamūlānaṃ samudācāro vaṭṭamūlasamudācāro, taṃdassanatthoti attho.
「無明と有愛と」というこの二法は、衆生の輪廻の根本の現行を示すためのものである。現行するから現行であり、輪廻の根本そのものが現行であるから輪廻の根本の現行であり、あるいは輪廻の根本を示すことによって輪廻の根本の生起が示されることになるので、輪廻の根本の現行であり、それを示すためのものという意味である。
Ekekasmiñca ‘‘attā’’ti ca ‘‘loko’’ti ca gahaṇavisesaṃ upādāya ‘‘attā ca loko cā’’ti vuttaṃ, ekaṃ vā khandhaṃ ‘‘attā’’ti gahetvā aññaṃ attano upabhogabhūtaṃ ‘‘loko’’ti gaṇhantassa, attano attānaṃ ‘‘attā’’ti gahetvā parassa attānaṃ ‘‘loko’’ti gaṇhantassa vā vasena ‘‘attā ca loko cā’’ti vuttaṃ.
一つ一つにおいて「我」と「世界」という執着の差異に基づいて「我と世界」と説かれ、あるいは一つの蘊を「我」と捉えて、他の自らの享受の対象となったものを「世界」と捉える者、自らの自己を「我」と捉えて、他者の自己を「世界」と捉える者の観点から「我と世界」と説かれた。
Saha sikkhitabbo dhammo sahadhammo, tattha bhavaṃ sahadhammikaṃ, tasmiṃ sahadhammike. Dovacassa-saddato āya-saddaṃ anaññattaṃ katvā **‘‘dovacassāya’’**nti vuttaṃ, dovacassassa vā ayanaṃ pavatti dovacassāyaṃ. Āsevantassāpi anusikkhanā ajjhāsayena bhajanāti āha **‘‘sevanā…pe… bhajanā’’**ti. Sabbatobhāgena bhatti sambhatti.
ともに学ぶべき法が同行(同法)であり、そこに生じる者が同法者であり、その同法者において、ということである。悪語(dovacassa)という言葉から āya という語を不変にして「悪語性(dovacassāyaṃ)」と説かれ、あるいは悪語の趣き、生起が悪語性である。「親近する者にも学び従うこと、意向によって交際すること」であるとして、「親近……(中略)……交際」と言われた。あらゆる点における信愛が敬愛である。
Saha kammavācāyāti abbhānatiṇavatthārakakammavācāya, ‘‘ahaṃ bhante itthannāmaṃ āpattiṃ āpajji’’ntiādikāya ca saheva. Saheva hi kammavācāya āpattivuṭṭhānañca paricchijjati, ‘‘paññattilakkhaṇāya āpattiyā vā kāraṇaṃ vītikkamalakkhaṇaṃ kāyakammaṃ, vacīkammaṃ vā, vuṭṭhānassa kāraṇaṃ kammavācā’’ti kāraṇena saha phalassa jānanavasena ‘‘saha kammavācāyā’’ti vuttaṃ.‘‘Saha kammavācāyā’’ti. Iminā nayena saha parikammenāti etthāpi attho veditabbo.
「作法の言葉とともに」とは、出罪羯磨(アッバーナ)や草覆羯磨の作法の言葉とともに、また「大徳よ、私は某という罪を犯しました」等の言葉とともに、ということである。実に作法の言葉とともに罪からの出罪も限定され、「あるいは制定の特徴をもつ罪の原因は違反の特徴をもつ身業、口業であり、出罪の原因は作法の言葉である」と、原因とともに果を知る観点から「作法の言葉とともに」と説かれた。「作法の言葉とともに」と。この方法によって「準備修行とともに」というここでも意味を知るべきである。
Dhātuvisayā sabbāpi paññā dhātukusalatā. Tadekadesā manasikārakusalatāti adhippāyena purimapadepi sammasanapaṭivedhapaññā vuttā. Yasmā pana nippariyāyato vipassanādipaññā eva manasikārakosallaṃ, tasmā **‘‘tāsaṃyeva dhātūnaṃ sammasanapaṭivedhapaccavekkhaṇapaññā’’**ti vuttaṃ.
界を対象とする一切の智慧が界善巧である。その一部分が作意善巧であるという意図によって、前者の句においても思察と通達の智慧が説かれた。しかし直接的には vipassanā(観)などの智慧こそが作意の巧みさであることから、「まさにそれらの界の思察・通達・省察の智慧」と説かれた。
Āyatanavisayā sabbāpi paññā āyatanakusalatāti dassento ‘‘dvādasannaṃ āyatanānaṃ uggahamanasikārajānanapaññā’’ti vatvā puna **‘‘apicā’’**tiādi vuttaṃ. Dvīsupi vā padesu vācuggatāya āyatanapāḷiyā, dhātupāḷiyā ca manasikaraṇaṃ manasikāro. Tathā uggaṇhantī, manasi karontī, tadatthaṃ suṇantī, ganthato ca atthato ca dhārentī, ‘‘idaṃ cakkhāyatanaṃ nāma, ayaṃ cakkhudhātu nāmā’’tiādinā sabhāvato, gaṇanato ca paricchedaṃ jānantī ca paññā uggahapaññādikā vuttā. Manasikārapade pana catubbidhāpi paññā uggahoti tato pavatto aniccādimanasikāro ‘‘uggahamanasikāro’’ti vutto. Tassa jānanaṃ pavattanameva, ‘‘yathā pavattaṃ vā uggahaṃ, evameva pavatto uggaho’’ti jānanaṃ uggahajānanaṃ. ‘‘Manasikāro evaṃ pavattetabbo, evañca pavatto’’ti jānanaṃ manasikārajānanaṃ. Tadubhayampi ‘‘manasikārakosalla’’nti vuttaṃ. Uggahopi hi manasikārasampayogato manasikāraniruttiṃ laddhuṃ arahati. Yo ca manasikātabbo, yo ca manasikaraṇūpāyo, sabbo so ‘‘manasikāro’’ti vattuṃ vaṭṭati, tattha kosallaṃ manasikārakusalatāti. Sammasanaṃ paññā, sā maggasampayuttā aniccādisammasanakiccaṃ sādheti niccasaññādipajahanato. Manasikāro sammasanasampayutto, so tattheva aniccādimanasikārakiccaṃ maggasampayutto sādhetīti āha **‘‘sammasanamanasikārā lokiyalokuttaramissakā’’**ti. ‘‘Iminā paccayenidaṃ hotī’’ti evaṃ avijjādīnaṃ saṅkhārādipaccayuppannassa paccayabhāvajānanaṃ paṭiccasamuppādakusalatā.
処を対象とする一切の智慧が処善巧であることを示しつつ、「十二処の学習と作意を知る智慧」と述べて、再び「さらにまた」等と説かれた。あるいは両方の句において、暗唱された処の聖典と界の聖典を作意することが作意である。そのように学習し、作意し、その意味を聞き、文言と意味の観点から保持し、「これは眼処というものであり、これは眼界というものである」等と自性と数の観点から限定を知る智慧が、学習の智慧等と説かれた。しかし作意の句において四種の智慧が学習であり、それから生じる無常などの作意が「学習の作意」と説かれた。それを知ることは生起そのものであり、「生起した学習の通りに、まさにそのように学習が生起した」と知ることが学習を知ることである。「作意はこのように生起されるべきであり、このように生起した」と知ることが作意を知ることである。その両方も「作意の巧みさ」と説かれた。実に学習も作意と相応することから作意という名称を得るに値する。そして作意されるべきものも、作意する手段も、そのすべてが「作意」と語るのが妥当であり、そこにおける巧みさが作意善巧である。思察は智慧であり、それは道と相応して常住の想念などを捨断することから無常などを思察する機能を果たす。作意は思察と相応し、それはまさにそこにおいて無常などを作意する機能を道と相応して果たすとして、「思察と作意は世間と出世間が混ざり合ったものである」と言われた。「この縁によってこれが生じる」とこのように無明などの行などの縁から生じるものに対する縁の状態を知ることが縁起の善巧である。
Adhivāsanaṃ khamanaṃ. Tañhi paresaṃ dukkaṭaṃ duruttañca paṭivirodhākaraṇena attano upari āropetvā vāsanaṃ ‘‘adhivāsana’’nti vuccati. Acaṇḍikkanti akujjhanaṃ. Domanassavasena paresaṃ akkhīsu assūnaṃ anuppādanā anassuropo. Attamanatāti sakamanatā. Cittassa abyāpanno sako manobhāvo attamanatā. Cittanti vā cittappabandhaṃ ekattena gahetvā tassa antarā uppannena pītisahagatamanena sakamanatā. Attamano vā puggalo, tassa bhāvo attamanatā, sā na sattassāti puggaladiṭṭhinivāraṇatthaṃ **‘‘cittassā’’**ti vuttaṃ. Adhivāsanalakkhaṇā khanti adhivāsanakhanti. Sucisīlatā soraccaṃ. Sā hi sobhanakammaratatā. Suṭṭhu pāpato oratabhāvo viratatā soraccaṃ. Tenāha **‘‘suratabhāvo’’**ti.
堪忍とは耐え忍ぶことである。実にそれは他者の悪行や悪言を報復しないことによって自らの上に置いて耐え忍ぶことであり、「堪忍」と呼ばれる。「獰悪でないこと」とは怒らないことである。不快の念によって他者の目に涙を生じさせないことが涙を流させないことである。「悦意(自らの心)」とは自分の心である。心の害意のない自己の精神状態が悦意である。あるいは心とは心の連続を一括して捉え、その間に生じた喜を伴う心による自己の精神状態である。あるいは喜悦した人、その状態が悦意であり、それは衆生のものではないと人見(有情の見解)を防ぐために「心の」と説かれた。耐え忍ぶ特徴をもつ忍耐が堪忍である。清浄な戒の状態が柔和である。実にそれは善美な行為を愛好することである。悪から完全に退いている状態、離れていることが柔和である。それゆえ「善く楽しむ状態」と言われた。
Sakhilo vuccati saṇhavāco, tassa bhāvo sākhalyaṃ, saṇhavācatā. Taṃ pana byatirekamukhena vibhāventī yā pāḷi pavattā, taṃ dassento **‘‘tattha katamaṃ sākhalya’’**ntiādimāha. Tattha aṇḍakāti sadosavaṇe rukkhe niyyāsapiṇḍiyo, ahicchattakādīni vā uṭṭhitāni ‘‘aṇḍakānī’’ti vadanti. Pheggurukkhassa pana kuthitassa aṇḍāni viya uṭṭhitā cuṇṇapiṇḍiyo, gaṇṭhiyo vā aṇḍakā. Idha pana byāpajjanakakkasādibhāvato aṇḍakapakatibhāvena vācā **‘‘aṇḍakā’’**ti vuttā. Padumanāḷaṃ viya sotaṃ ghaṃsayamānā pavisantī kakkasā daṭṭhabbā. Kodhena nibbattattā tassa parivārabhūtā kodhasāmantā. Pure saṃvaddhanārī porī, sā viya sukumārā mudukā vācā porī viyāti porī. Tatthāti ‘‘bhāsitā hotī’’ti vuttāya kiriyāyātipi yojanā sambhavati, tattha vācāyāti vā. **‘‘Saṇhavācatā’’**tiādinā taṃ vācaṃ pavattayamānaṃ cetanaṃ dasseti. Sammodakassa puggalassa mudukabhāvo maddavaṃ sammodakamudukabhāvo. Āmisena alabbhamānena, tathā dhammena cāti dvīhi chiddo. Āmisassa, dhammassa ca alābhena attano parassa ca antare sambhavantassa hi chiddassa vivarassa bhedassa paṭisantharaṇaṃ pidahanaṃ saṅgaṇhanaṃ paṭisanthāro. Taṃ sarūpato, paṭipattito ca pāḷidassanamukhena vibhāvetuṃ **‘‘abhidhammepī’’**tiādimāha. Aggaṃ aggahetvāti aggaṃ attano aggahetvā. Uddesadānanti pāḷiyā, aṭṭhakathāya ca uddisanaṃ. Pāḷivaṇṇanāti pāḷiyā atthavaṇṇanā. Dhammakathākathananti sarabhaññasarabhaṇanādivasena dhammakathanaṃ.
温和な者(sakhila)とは柔軟な言葉を語る者と言われ、その状態が温和(sākhalya)、柔軟な言葉を語ることである。そしてそれを差異・対比の観点から明らかにしつつ生じた聖典、それを示しつつ「そこにおいていかなるものが温和であるか」等と言われた。そこにおいて「卵のようなもの(棘のある言葉)」とは、傷のある木において樹脂の塊、あるいはキノコなどが生じたものを「卵のようなもの」と言う。しかし腐った材木に卵のように生じた粉の塊、あるいは節が卵のようなものである。しかしここでは害意をもち粗暴であることなどの状態から、卵のような性質をもつことによって言葉が「卵のようなもの」と説かれた。蓮の茎のように耳を擦りながら入っていく粗暴なものと見なされるべきである。怒りによって生じたものであるからそれの付属物となった「怒りの近隣」である。都市で育てられた女性は都会的(洗練された者)であり、彼女のように繊細で柔軟な言葉は都会的な女性のようであるから「都会的(洗練された言葉)」である。「そこにおいて」とは、「語られたのである」と説かれた動詞にも結びつきが成立し、あるいは「そこでの言葉において」ということである。「柔軟な言葉を語ること」等によって、その言葉を生じさせる意思を示している。歓談する人の柔軟な状態が柔軟さであり、歓談する柔軟な状態である。得られない利供養によって、また同様に法によってという二つによって生じた間隙である。利供養と法を得られないことによって自らと他者との間に生じる間隙、裂け目、分裂を覆い繕うこと、塞ぐこと、受け入れることが歓待(もてなし)である。それを実体から、また実践から聖典を示す観点によって明らかにするために「アビダンマにおいても」等と言われた。「最上のものを取らずに」とは、最上のものを自分のために取らずに、ということである。「読誦を与えること」とは、聖典(パーリ)と註釈を教授することである。「パーリの解説」とは、聖典の意義の解説である。「法話を語ること」とは、節をつけて唱えることなどによる法話の説示である。
Karuṇāti karuṇābrahmavihāramāha. Karuṇāpubbabhāgoti tassa pubbabhāgaupacārajjhānaṃ vadati. Pāḷipade pana yā kāci karuṇā ‘‘karuṇā’’ti vuttā, karuṇācetovimuttīti pana appanāppattāva. Mettāyapi eseva nayo. Suci-saddato bhāve yya-kāraṃ, i-kārassa ca e-kārādesaṃ katvā ayaṃ niddesoti āha **‘‘soceyyanti sucibhāvo’’**ti. Hotu tāva sucibhāvo soceyyaṃ, tassa pana mettāpubbabhāgatā kathanti āha **‘‘vuttampi ceta’’**ntiādi.
「悲」とは悲の梵住を語っている。「悲の準備段階」とは、それの準備段階の近行定を語っている。しかし聖典の句においてはいかなる悲であれ「悲」と説かれ、「悲心解脱」とは安止に達したまさにそれである。慈においてもこの通りの方法である。清浄(suci)という言葉から状態を表す yya という接尾辞をつけ、i を e に変えてこの解説がなされたとして、「清浄さとは清浄な状態である」と言われた。清浄な状態が清浄さであることはひとまず措くとして、それが慈の準備段階であることはどうしてかを示しつつ、「これもまた説かれた」等と言われた。
Muṭṭhā sati etassāti muṭṭhassati, tassa bhāvo muṭṭhassaccaṃ, satipaṭipakkho dhammo, na satiyā abhāvamattaṃ. Yasmā paṭipakkhe sati tassa vasena sativigatā vippavutthā nāma hoti, tasmā vuttaṃ **‘‘sativippavāso’’**ti. **‘‘Assatī’’**tiādīsu a-kāro paṭipakkhe daṭṭhabbo, na sattapaṭisedhe. Udake lābu viya yena cittaṃ ārammaṇe pilavantā viya tiṭṭhati, na ogāhati, sā pilāpanatā. Yena gahitampi ārammaṇaṃ sammussati na sarati, sā sammussanatā. Yathā vijjāpaṭipakkhā avijjā vijjāya pahātabbato, evaṃ sampajaññapaṭipakkhaṃ asampajaññaṃ, avijjāyeva.
正念を失った者が失念者であり、その状態が失念(忘却)であり、念に対立する法であって、単なる念の非存在ではない。対立するものが存在する時、それによって念が失われ、離れ去ったと呼ばれるがゆえに、「念の離脱」と説かれたのである。「非念」等における「非(a-)」の文字は対立するものと見なされるべきであり、単なる否定ではない。水の中の瓢箪のように、それによって心が所縁において浮遊するかのように留まり、沈潜しないこと、それが浮遊性である。それによって把握された所縁であっても忘れ去られ、思い出されないこと、それが忘却性である。明知に対立する無明が明知によって断ぜられるべきものであるように、正知に対立する不正知もまた、まさに無明である。
Indriyasaṃvarabhedoti indriyasaṃvaravināso. Appaṭisaṅkhāti apaccavekkhitvā ayoniso ca āhāraparibhoge ādīnavānisaṃse avīmaṃsitvā.
「根の防護の破綻」とは、根(感覚器官)の防護の喪失である。「省察せずに」とは、観察することなく、また如理ならざる方法で飲食の受用における過患と功徳を思慮することなく、ということである。
Appaṭisaṅkhāyāti itikattabbatāsu appaccavekkhaṇāya nāmaṃ. Aññāṇaṃ appaṭisaṅkhāta nimittaṃ. Akampanañāṇanti tāya anabhibhavanīyaṃ ñāṇaṃ, tattha tattha paccavekkhaṇāñāṇañceva paccavekkhaṇāya muddhabhūtaṃ lokuttarañāṇañca. Nippariyāyato maggabhāvanā bhāvanā nāma, yā ca tadatthā, tadubhayañca bhāventasseva icchitabbaṃ, na bhāvitabhāvanassāti vuttaṃ **‘‘bhāventassa uppannaṃ bala’’**nti. Tenāha **‘‘yā kusalānaṃ dhammānaṃ āsevanā bhāvanā bahulīkamma’’**nti.
「省察しないことによって」とは、なされるべき事柄において省察しないことの名称である。無知とは省察しないことの兆候である。「動揺しない知識」とは、それ(無知)によって圧倒されない知識であり、至る所での省察の知識と、省察の頂点となった出世間の知識である。直接的には道の修習が修習と呼ばれるものであり、またそのためのもの、その両方は修習しつつある者にのみ望まれるべきであり、修習し終えた者についてではないとして、「修習する者に生じた力」と説かれた。それゆえ「善なる諸法の反復、修習、多作であるもの」と言われた。
Kāmaṃ sampayuttadhammesu thirabhāvopi balaṭṭho eva, paṭipakkhehi pana akampanīyatā sātisayaṃ balaṭṭhoti vuttaṃ **‘‘assatiyā akampanavasenā’’**ti. Paccanīkadhammasamanato samatho samādhi. Aniccādinā vividhenākārena dassanato vipassanā paññā. Taṃ ākāraṃ gahetvāti samādhānākāraṃ gahetvā. Yenākārena pubbe alīnaṃ anuddhataṃ majjhimaṃ bhāvanāvīthipaṭipannaṃ hutvā cittaṃ samāhitaṃ hoti, taṃ ākāraṃ gahetvā sallakkhetvā. Nimittavasenāti kāraṇavasena. **‘‘Eseva nayo’’**ti iminā paggahova taṃ ākāraṃ gahetvā puna pavattetabbassa paggāhassa nimittavasena paggāhanimittanti imamatthaṃ atidisati, tassattho samathe vuttanayānusārena veditabbo. Paggāho vīriyaṃ kosajjapakkhato cittassa patituṃ adatvā paggaṇhanato. Avikkhepo ekaggatā vikkhepassa uddhaccassa paṭipakkhabhāvato. Paṭisaṅkhānakiccanibbattibhāvato lokuttaradhammānaṃ paṭisaṅkhānabalabhāvo, tathā pubbe pavattākārasallakkhaṇavasena samathapaggāhānaṃ upari pavattisabbhāvato samathanimittadukassapi missakatā vuttā.
確かに相応する諸法における堅固な状態も力という意味であるが、対立するものによって動揺させられないことが卓越して力という意味であるとして、「非念によって動揺しないことによって」と説かれた。敵対する法を静めることから止(サマタ)は三摩地である。無常などの多様な様相によって見ることによる観(ヴィパッサナー)は智慧である。「その様相を把握して」とは、精神統一の様相を把握して、ということである。それによって以前に沈滞せず、高揚せず、中道の修習の道程に入って心が集中したその様相を把握して、心に留めて。「相(兆候・因)の観点から」とは、原因の観点から。「この通りの方法である」とは、これによって策励そのものがその様相を把握して再び生起させるべき策励の原因であることによって策励の相であるというこの意味を準用するのであり、その意味は止において説かれた方法に従って知られるべきである。策励とは精進であり、懈怠の側へと心が堕ちるのを許さずに引き上げることからである。不散乱とは心一境性であり、散乱・掉挙に対立する状態であることからである。省察の機能を果たす状態であることから出世間の諸法が省察力である状態であり、同様に以前に生じた様相を心に留める観点から止と策励の更なる生起が存在することによって、止の相の二法もまた(世間と出世間が)混ざり合ったものであると説かれた。
Yathāsamādinnassa sīlassa bhedakaro vītikkamo. Sīlavināsako asaṃvaro. Sammādiṭṭhivināsikāti ‘‘atthi dinna’’ntiādi (ma. ni. 1.441; 2.94; vibha. 793) nayappavattāya sammādiṭṭhiyā dūsikā.
正しく受持された戒を破綻させるものが違反である。戒を滅失させるものが不防護である。「正見を損なうもの」とは、「布施には果報がある」等(中部1.441; 2.94; 分別論793)の方法で生じた正見を汚すものである。
Sīlassa sampādanaṃ nāma sabbabhāgato tassa anūnatāpādananti āha **‘‘sampādanato paripūraṇato’’**ti. Pāripūrattho hi sampadā-saddoti. Mānasikasīlaṃ nāma sīlavisodhanavasena abhijjhādippahānaṃ. Diṭṭhipāripūribhūtaṃ ñāṇanti atthikadiṭṭhiādisammādiṭṭhiyā pāripūribhāvena pavattaṃ ñāṇaṃ.
戒を具足するとは、あらゆる部分からそれの欠損のない状態をもたらすことであるとして、「具足することから、満たすことから」と言われた。実に満たすという意味が具足(sampadā)という言葉であるからである。意の戒とは、戒を清浄にする観点による貪欲などの捨断である。「見解の充足となった知識」とは、有見などの正見の充足として生じた知識である。
Visuddhiṃ pāpetuṃ samatthanti cittavisuddhiādiuparivisuddhiyā paccayo bhavituṃ samatthaṃ. Suvisuddhameva hi sīlaṃ tassā padaṭṭhānaṃ hotīti. Visuddhiṃ pāpetuṃ samatthaṃ dassananti ñāṇadassanavisuddhiṃ, paramatthavisuddhinibbānañca pāpetuṃ upanetuṃ samatthaṃ kammassakatāñāṇādisammādassanaṃ. Tenāha **‘‘abhidhamme’’**tiādi. Ettha ca ‘‘idaṃ akusalaṃ kammaṃ no sakaṃ, idaṃ pana kammaṃ saka’’nti evaṃ byatirekato anvayato ca kammassakatājānanañāṇaṃ kammassakatāñāṇaṃ. Tenāha **‘‘ettha cā’’**tiādi. **‘‘Parena katampī’’**ti idaṃ nidassanavasena vuttaṃ yathā parena kataṃ, evaṃ attanā katampi sakakammaṃ nāma na hotīti. Attanā vā ussāhitena parena kataṃpīti evaṃ vā attho daṭṭhabbo. Yañhi taṃ parassa ussāhanavasena kataṃ, tampi sakakammaṃ nāma hotīti ayañhettha adhippāyo. Atthabhañjanatoti diṭṭhadhammikādisabbaatthavināsanato. Atthajananatoti idhalokatthaparalokatthaparamatthānaṃ uppādanato. Ārabbhakāle ‘‘aniccaṃ dukkhaṃ anattā’’ti pavattampi vacīsaccañca lakkhaṇāni paṭivijjhantaṃ vipassanāñāṇaṃ anulometi tattheva paṭivijjhanato. Paramatthasaccañca nibbānaṃ na vilometi na virodheti ekanteneva sampāpanato.
「清浄に到達させることができる」とは、心清浄などの上位の清浄の縁となることができる、ということである。実に極めて清浄な戒こそがそれ(上位の清浄)の近因となるからである。「清浄に到達させることができる見解」とは、見清浄、そして勝義の清浄である涅槃に到達させ、導くことができる業所有智などの正見である。それゆえ「アビダンマにおいて」等と言われた。そしてここにおいて、「この不善の業は自らのものではなく、一方この業は自らのものである」とこのように背反と随順の観点から業が自己のものであると知る智慧が業所有智である。それゆえ「そしてここにおいて」等と言われた。「他者によってなされたものも」とは、これは例示の観点から説かれたのであり、他者によってなされたものと同様に、自らによってなされたものも(執着があるなら)自らの業とは呼ばれない、ということである。あるいは、自らによって勧められて他者によってなされたものも、とこのように意味は見なされるべきである。実に他者を勧めることによってなされたもの、それもまた自らの業と呼ばれるからであり、これがここでの意図である。「利益を破壊することから」とは、現世の利益などの一切の利益を滅失させることからである。「利益を生み出すことから」とは、今世の利益、来世の利益、究極の利益(解脱)を生じさせることからである。発端の時に「無常・苦・無我」と生じた言葉の真理も、特徴を通達する観の智慧は順応する。まさにそこにおいて通達するからである。そして勝義の真理である涅槃にも違背せず、矛盾しない。絶対的に到達させるからである。
Ñāṇadassananti ñāṇabhūtaṃ dassanaṃ, tena maggaṃ vadati. Taṃsampayuttameva vīriyanti paṭhamamaggasampayuttaṃ vīriyamāha. Sabbāpi maggapaññā diṭṭhivisuddhiyevāti dassetuṃ **‘‘apicā’’**tiādi vuttaṃ. Ayameva ca nayo abhidhammapāḷiyā (dha. sa. 550) sametīti dassento **‘‘abhidhamme panā’’**ti ādiṃ avoca.
「智見」とは、智そのものである見であり、それによって道(聖道)を説いている。「それ相応の精進のみ」とは、初道(預流道)に相応する精進を意味して言っている。すべての道の智慧もまた見清浄に他ならないことを示すために「さらにまた」等と説かれた。そしてこの理趣はアビダンマの本文(法集論550)と合致することを示すために「しかしアビダンマにおいては」等を述べたのである。
Yasmā saṃvego nāma sahottappañāṇaṃ, tasmā saṃvegavatthuṃ bhayato bhāyitabbato dassanavasena pavattañāṇaṃ. Tenāha **‘‘jātibhaya’’**ntiādi. Bhāyanti etasmāti bhayaṃ, jāti eva bhayaṃ jātibhayaṃ. Saṃvejanīyanti saṃvijjitabbaṃ bhāyitabbaṃ uttāsitabbaṃ. Ṭhānanti kāraṇaṃ, vatthūti attho. Saṃvegajātassāti uppannasaṃvegassa. Upāyapadhānanti upāyena pavattetabbaṃ vīriyaṃ.
なぜなら慚愧を伴う智を「悚懼(しょうく・おののき)」と呼ぶため、恐るべきもの、怖れるべきものとして悚懼の対象(悚懼処)を見ることに基づいて生起した智である。それゆえに「生の恐怖」等と言われたのである。これによって怖れるゆえに「恐怖」であり、生そのものが恐怖であるから「生の恐怖」である。「悚懼すべき」とは、驚き恐れるべき、怖れるべき、おののくべきという意味である。「処(箇処)」とは原因、対象という意味である。「悚懼の生じた者にとって」とは、悚懼が生起した者にとってのことである。「方便による精励」とは、方便によって行われるべき精進のことである。
Kusalānaṃ dhammānanti sīlādīnaṃ anavajjadhammānaṃ. Bhāvanāyāti uppādanena vaḍḍhanena ca. Asantuṭṭhassāti ‘‘alaṃ ettāvatā, kathaṃ ettāvatā’’ti saṅkocāpattivasena na santuṭṭhassa. Bhiyyokamyatāti bhiyyo bhiyyo uppādanicchā. Vosānanti saṅkocaṃ asamatthanti. Tussanaṃ tuṭṭhi santuṭṭhi, natthi etassa santuṭṭhīti asantuṭṭhi, tassa bhāvo asantuṭṭhitā. Vīriyappavāhe vattamāne antarā eva paṭigamanaṃ nivattanaṃ paṭivānaṃ, taṃ tassa atthīti paṭivānī, na paṭivānī appaṭivānī, tassa bhāvo appaṭivānitā. Sakkaccakiriyatāti kusalānaṃ karaṇe sakkaccakiriyatā ādarakiriyatā. Sātaccakiriyatāti satatameva karaṇaṃ. Aṭṭhitakiriyatāti antarā aṭṭhapetvā khaṇḍaṃ akatvā karaṇaṃ. Anolīnavuttitāti na līnappavattitā. Anikkhittachandatāti kusalacchandassa anikkhipanaṃ. Anikkhittadhuratāti kusalakaraṇe vīriyadhurassa anikkhipanaṃ. Āsevanāti ādarena sevanā. Bhāvanāti vaḍḍhanā brūhanā. Bahulīkammanti punappunaṃ karaṇaṃ.
「善き諸法」とは、戒などの罪なき諸法のことである。「修習によって」とは、生起させることと増大させることによって。「満足しない者にとって」とは、「これだけで十分だ、どうしてこれ以上必要か」と縮こまることによって満足しない者にとって、という意味である。「一層の欲求」とは、ますます多くを生起させたいという願いである。「終止」とは、縮こまり、不能であること。「満足」とは、喜悦、充足、満足であり、彼にこの満足がないことを「不満足」といい、その状態が「不満足なること」である。精進の流れが保たれている最中に、途中で後戻りすること、退転することが「退屈(後退)」であり、それを有する者が「退屈する者」、退屈しない者が「不退屈なる者」、その状態が「不退屈なること」である。「恭敬の行」とは、善をなすことにおける恭敬の行、篤敬の行である。「不断の行」とは、常に絶え間なく行うことである。「無休止の行」とは、途中で中断して途切れさせることなく行うことである。「不沈滞の振る舞い」とは、沈滞して働かないことである。「善求を捨てないこと」とは、善への意欲を投げ出さないことである。「重責を捨てないこと」とは、善をなすことにおける精進の重責を投げ出さないことである。「親近(修習)」とは、恭敬して親しむこと。「修習」とは、増大させ、繁栄させること。「多作」とは、度々繰り返して行うことである。
Tisso vijjāti pubbenivāsānussatiñāṇaṃ, dibbacakkhuñāṇaṃ āsavakkhayañāṇanti imā tisso vijjā. Paṭipakkhavijjhanaṭṭhena pubbe nivutthakkhandhādīnaṃ viditakaraṇaṭṭhena visiṭṭhā muttīti vimutti. Svāyaṃ viseso paṭipakkhavigamanena, paṭiyogivigamanena ca icchitabboti tadubhayaṃ dassetuṃ **‘‘ettha cā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha yena visesena samāpattiyo paccanīkadhammehi suṭṭhu muttā, tato nirāsaṅkatāya ārammaṇe ca abhiratā, taṃ visesaṃ upādāya tā adhikaṃ muccanato, ārammaṇe adhimuccanato ca adhimuttiyo nāmāti vuttaṃ **‘‘cittassa ca adhimuttī’’**ti. Muttattāti sabbasaṅkhārehi visesena nissaṭattā vimutti.
「三明」とは、宿住随念智、天眼智、漏尽智であり、これらが三明である。敵対するもの(無明)を突き破るという意味、過去に住した蘊などを知らしめるという意味において、卓越した解脱が「解脱」である。この卓越性は、敵対するものの除去と、妨げとなるものの除去によって望まれるべきものであるから、その両方を示すために「そしてここにおいて」等と説かれた。その中で、それによって等至(定)が敵対する諸法から完全に見事に解脱し、それゆえに疑念なきものとして対象を歓喜する、その卓越性に基づいて、それらはより一層解脱することから、また対象に信解(決裁)することから「勝解(信解・決定)」と名づけられることを、「心の勝解」と説いたのである。「解脱しているがゆえに」とは、すべての諸行から格別に離脱しているがゆえに解脱である。
Khaye ñāṇanti samucchedavasena kilese khepetīti khayo, ariyamaggo, tappariyāpannaṃ ñāṇaṃ khaye ñāṇaṃ. Paṭisandhivasenāti kilesānaṃ taṃtaṃmaggavajjhānaṃ uppannamagge khandhasantāne puna sandahanavasena. Anuppādabhūteti taṃtaṃphale. Anuppādapariyosāneti anuppādakaro maggo anuppādo, tassa pariyosāne, kilesānaṃ vā anuppajjanasaṅkhāte pariyosāne, bhaṅgeti atthoti.
「尽における智」とは、断絶の力によって諸々の煩悩を尽滅させるから「尽」であり、それは聖道であり、それに包含される智が「尽における智」である。「結生に基づいて」とは、それぞれの聖道によって断ぜられるべき煩悩が、道が生起した蘊の相続において再び結び合わされることに基づいて。「不生なるものにおいて」とは、それぞれの果において。「不生の終極において」とは、不生をなす道が「不生」であり、その終極において、あるいは煩悩が生じないことと称される終極、壊滅においてという意味である。
Dukavaṇṇanā niṭṭhitā.
二法釈、終了。
Tikavaṇṇanā
三法釈
305. Dhammato añño kattā natthīti dassetuṃ kattusādhanavasena **‘‘lubbhatīti lobho’’**ti vuttaṃ. Lubbhati tena, lubbhanamattametanti karaṇabhāvasādhanavasenapi attho yujjateva. Dussati muyhatīti etthāpi eseva nayo. Akusalañca taṃ akosallasambhūtaṭṭhena ekantākusalabhāvato mūlañca attanā sampayuttadhammānaṃ suppatiṭṭhitabhāvasādhanato, na akusalabhāvasādhanato. Na hi mūlakato akusalānaṃ akusalabhāvo, kusalādīnañca kusalādibhāvo. Tathā sati momūhacittadvaye mohassa akusalabhāvo na siyā. Tesanti lobhādīnaṃ. ‘‘Na lubbhatīti alobho’’tiādinā paṭipakkhanayena.
305. 法のほかに能作者はないことを示すために、能作語基(主動)に基づいて「執着するがゆえに貪である」と説かれた。それによって執着する、単なる執着であるという具格や状態語基に基づいても意味は妥当する。「瞋恚する」「愚痴である」という場合も同様の理趣である。そして不善とは、不巧妙(悪業)から生じたという意味で決定して不善である状態からであり、根本とは、自身と相応する諸法がよく確立する状態を成り立たせることからであって、不善の状態を成り立たせることによるのではない。根本によって不善の不善たる状態や、善などの善たる状態が作られるのではないからである。もしそうであるならば、二つの癡倶心において癡の不善たる状態がなくなってしまうであろう。「それらの」とは、貪などのことである。「執着しないがゆえに無貪である」等のように対治の理趣による。
Duṭṭhu caritānīti paccayato, sampayuttadhammato, pavattiākārato ca na suṭṭhu asammā pavattitāni. Virūpānīti bībhacchāni sampati, āyatiñca aniṭṭharūpattā. Kāyenāti kāyadvārena karaṇabhūtena. Kāyatoti kāyadvārato. **‘‘Suṭṭhu caritānī’’**tiādīsu vuttavipariyāyena attho veditabbo. Yassa sikkhāpadassa vītikkame kāyasamuṭṭhānā āpatti hoti, taṃ kāyadvāre paññattasikkhāpadaṃ. Avītikkamo kāyasucaritanti vārittasīlassa vasena vadati, cārittasīlassapi vā, yassa akaraṇe āpatti hoti. Vacīduccaritasucaritaniddhāraṇampi vuttanayānusārena veditabbaṃ. Ubhayattha paññattassāti kāyadvāre, vacīdvāre ca paññattassa. Sikkhāpadassa vītikkamova manoduccaritaṃ manodvāre paññattassa sikkhāpadassa abhāvato, tayidaṃ dvāradvaye akiriyasamuṭṭhānāya āpattiyā vasena veditabbaṃ. Avītikkamoti yathāvuttāya āpattiyā avītikkamo manosucaritaṃ. ‘‘Sabbassāpi sikkhāpadassa avītikkamo **manosucarita’’**nti keci. Tadubhayañhi cārittasīlaṃ uddissapaññattaṃ sikkhāpadaṃ, tassa avītikkamo siyā kāyasucaritaṃ, siyā vacīsucaritanti.
「悪しく行われたもの」とは、条件(縁)から、相応する諸法から、生起の様態から、正しくなく、善くなく行われたもののことである。「醜悪なもの」とは、現在において嫌悪すべきものであり、未来においても好ましくない姿であるからである。「身によって」とは、具格となる身門によって。「身から」とは、身門から。「善く行われたもの」等の意味は、説かれたことの反対によって理解されるべきである。その学処を越境するときに身所起の罪となる、それが身門において制定された学処である。「越境しないことが身妙行である」とは、止持戒に基づいて説くか、あるいはそれをなさなければ罪となる作持戒に基づいても説く。語悪行と語妙行の確定もまた説かれた理趣に従って理解されるべきである。「両所において制定されたもの」とは、身門と語門において制定されたもののことである。意門において制定された学処は存在しないため、学処を越境することそのものが意悪行であり、これは二門における不作為所起の罪に基づいて理解されるべきである。「越境しないこと」とは、前述の罪を越境しないことが意妙行である。「すべての学処を越境しないことが意妙行である」という者もいる。それら両者は作持戒を指して制定された学処であり、それを越境しないことは身妙行となることもあれば、語妙行となることもあるからである。
Pāṇo atipātīyati etāyāti pāṇātipāto, tathāpavattā cetanā, evaṃ adinnādānādayopīti āha **‘‘pāṇātipātādayo pana tisso cetanā’’**ti. Vacīdvārepi uppannā kāyaduccaritaṃ dvārantare uppannassāpi kammassa sanāmāpariccāgato yebhuyyavuttiyā, tabbahulavuttiyā ca. Tenāhu aṭṭhakathācariyā –
生類がこれによって殺害されるから「殺生」であり、そのように働く思(意思)のことである。不与取なども同様であるから、「殺生などの三つの思」と述べたのである。語門において生じたものも、他の門において生じた業であっても、その固有の名を捨てないこと、大部分の働きであること、その働きが多勢であることから、身悪行である。それゆえに義釈の諸師は言われた――
‘‘Dvāre caranti kammāni, na dvārā dvāracārino;
「業は門において働くのであって、門が門を行くのではない。
Tasmā dvārehi kammāni, aññamaññaṃ vavatthitā’’ti. (dha. sa. aṭṭha. kāmāvacarakusaladvārakathā);
それゆえに門によって、業は互いに区分される」と。(法集論注・欲界善門論)
Vacīduccaritaṃ kāyadvārepi vacīdvārepi uppannāti ānetvā sambandhitabbaṃ. Cetanāsampayuttadhammāti manokammabhūtāya cetanāya sampayuttadhammā. Kāyavacīkammabhūtāya pana cetanāya sampayuttā abhijjhādayo taṃ taṃ pakkhikā vā honti abbohārikā vāti. Cetanāsampayuttadhammā manosucaritanti etthāpi eseva nayo. Tividhassa duccaritassa akaraṇavasena pavattā tisso cetanāpi viratiyopi kāyasucaritaṃ kāyikassa vītikkamassa akaraṇavasena pavattanato, kāyena pana sikkhāpadānaṃ samādiyane sīlassa kāyasucaritabhāve vattabbameva natthi. Eseva nayo vacīsucarite.
「語悪行は身門においても語門においても生じる」と引き入れて結びつけられるべきである。「思相応の諸法」とは、意業となった思に相応する諸法のことである。しかし、身業・語業となった思に相応する貪欲などは、それぞれの側に属するか、あるいは表現上問題にならないものである。「思相応の諸法は意妙行である」というここにおいても、この理趣による。三種の悪行をなさないことに基づいて生起した三つの思も離(戒律)も、身体的な越境をなさないことに基づいて働くがゆえに身妙行であり、身によって学処を受持することにおける戒が身妙行であることは言うまでもない。語妙行においてもこの理趣である。
Kāmapaṭisaṃyuttoti ettha dve kāmā vatthukāmo ca kilesakāmo ca. Tattha vatthukāmapakkhe ārammaṇakaraṇavasena kāmehi paṭisaṃyutto vitakko kāmavitakko. Kilesakāmapakkhe pana sampayogavasena kāmena paṭisaṃyuttoti yojetabbaṃ. **‘‘Byāpādapaṭisaṃyutto’’**tiādīsu sampayogavaseneva attho veditabbo. Byāpādavatthupaṭisaṃyuttopi byāpādapaṭisaṃyuttoti gayhamāne ubhayathāpi yojanā labbhateva. Vihiṃsāpaṭisaṃyuttoti etthāpi eseva nayo. Vihiṃsanti etāya satte, vihiṃsanaṃ vā esā sattānanti vihiṃsā, tāya paṭisaṃyutto vihiṃsāpaṭisaṃyuttoti evaṃ saddattho veditabbo. Appiye amanāpe saṅkhāre ārabbha byāpādavitakkappavatti aṭṭhānāghātavasena dīpetabbā. Byāpādavitakkassa avadhiṃ dassetuṃ **‘‘yāva vināsanā’’**ti vuttaṃ. Vināsanaṃ pana pāṇātipāto evāti. ‘‘Saṅkhāro’’ hi dukkhāpetabbo nāma natthī’’ti kasmā vuttaṃ, nanu ye ‘‘dukkhāpetabbā’’ti icchitā sattasaññitā, tepi atthato saṅkhārā evāti? Saccametaṃ, ye pana indriyabaddhā saviññāṇakatāya dukkhaṃ paṭisaṃvedenti, tasmā te vihiṃsāvitakkassa visayā icchitā sattasaññitā. Ye pana na dukkhaṃ paṭisaṃvedenti vuttalakkhaṇāyogato, te sandhāya ‘‘vihiṃsāvitakko saṅkhāresu nuppajjatī’’ti vuttaṃ. Yattha pana uppajjati, yathā ca uppajjati, taṃ dassetuṃ **‘‘ime sattā’’**tiādi vuttaṃ.
「欲に相応する」において、二つの欲、すなわち事欲(対象となる欲)と煩悩欲がある。その中で事欲の側では、対象とすることに基づいて欲と相応する尋が欲尋である。しかし煩悩欲の側では、相応することに基づいて欲と相応すると結びつけるべきである。「瞋恚に相応する」等においては、相応することに基づいてのみ意味が理解されるべきである。瞋恚の対象に相応するものも「瞋恚に相応する」と受け取るならば、両様とも結合が得られる。「害に相応する」において、この理趣である。これによって衆生を害する、あるいはこれが衆生を害することであるから「害」であり、それと相応するから「害に相応する」と、このように語の意味が理解されるべきである。好ましくない、意に満たない諸行をめぐって瞋恚の尋の生起は九悩処に基づいて明らかにされるべきである。瞋恚の尋の限度を示すために「殺害に至るまで」と説かれた。殺害とはまさに殺生に他ならない。「『諸行』を苦しめるべきものなどは存在しない」となぜ説いたのか。「苦しめるべきである」と望まれる衆生と名づけられるもの、それらも実質においては諸行に他ならないではないか。これは真実であるが、根(五根)に束縛され、意識を伴うがゆえに苦を感受する者、それゆえにそれらは害尋の対象として望まれた「衆生」と名づけられるものである。しかし、述べられた特徴が適合しないために苦を感受しないもの、それらを指して「害尋は諸行には生じない」と説かれたのである。しかし、どこに生じるか、いかに生じるか、それを示すために「これらの衆生は」等と説かれた。
Nekkhammaṃ vuccati lobhato nikkhantattā alobho, nīvaraṇehi nikkhantattāpi paṭhamajjhānaṃ, sabbākusalehi nikkhantattā sabbo kusalo dhammo, sabbasaṅkhatehi pana nikkhantattā, nibbānaṃ. Upanissayato, sampayogato, ārammaṇakaraṇato ca nekkhammena paṭisaṃyuttoti nekkhammapaṭisaṃyutto. Nekkhammavitakko sammāsaṅkappo. Idāni taṃ bhūmivibhāgena dassetuṃ **‘‘so’’**tiādi vuttaṃ. Asubhapubbabhāgeti asubhajjhānassa pubbabhāge. Asubhaggahaṇañcettha kāmavitakkassa ujuvipaccanīkadassanatthaṃ kataṃ. Kāmavitakkapaṭipakkho hi nekkhammavitakkoti. Evañca katvā uparivitakkadvayassa bhūmiṃ dassentena sapubbabhāgāni mettākaruṇājhānādīni uddhaṭāni. Asubhajjhāneti asubhārammaṇe paṭhamajjhāne. Avayave hi samudāyavohāraṃ katvā niddisati yathā ‘‘rukkhe sākhā’’ti. Jhānaṃ pādakaṃ katvāti nidassanamattaṃ. Taṃ jhānaṃ sammasitvā uppannamaggaphalakālepi hi so lokuttaroti. Byāpādassa paṭipakkho, kiñcipi na byāpādeti etenāti vā abyāpādo, mettā, tāya paṭisaṃyutto abyāpādapaṭisaṃyutto. Mettājhāneti mettābhāvanāvasena adhigate paṭhamajjhāne. Karuṇājhāneti etthāpi eseva nayo. Vihiṃsāya paṭipakkho, na vihiṃsanti vā etāya satteti avihiṃsā, karuṇā.
「出離」とは、貪から出離しているがゆえに無貪をいい、蓋(障害)から出離しているがゆえに初禅をもいい、一切の不善から出離しているがゆえにすべての善法をいい、一切の有為から出離しているがゆえに涅槃をいう。依処から、相応から、対象とすることから、出離と相応するものが「出離に相応するもの」である。出離尋は正思惟である。今やそれを階位の区分によって示すために「それ」等と説かれた。「不浄の予備段階において」とは、不浄禅の予備段階においてである。ここでの不浄の把握は、欲尋の直接の対治を示すためになされた。欲尋の対治が出離尋だからである。このようにして、上二つの尋の階位を示すにあたり、予備段階を伴う慈や悲の禅定などが挙げられた。「不浄禅において」とは、不浄を対象とする初禅においてである。部分において全体の表現を用いて、「樹木における枝」のように指し示している。「禅を基礎として」とは、一例にすぎない。その禅を観察して生じた聖道や聖果の時においても、それは出世間であるからである。瞋恚の対治、あるいはこれによって何者をも瞋恚させないから「無瞋」、すなわち慈であり、それと相応するから「無瞋に相応するもの」である。「慈禅において」とは、慈の修習によって得られた初禅においてである。「悲禅において」においてもこの理趣である。害の対治、あるいはこれによって衆生を害さないから「無害」、すなわち悲である。
Nanu ca alobhādosānaṃ aññamaññāvirahato tesaṃ vasena uppajjanakānaṃ imesaṃ nekkhammavitakkādīnaṃ aññamaññaṃ asaṅkaraṇato vavatthānaṃ na hotīti? Noti dassetuṃ **‘‘yadā’’**tiādi āraddhaṃ. Alobho sīsaṃ hotīti alobho padhāno hoti. Niyamitapariṇatasamudācārādivasena yadā alobhappadhāno nekkhammagaruko cittuppādo hoti, tadā laddhāvasaro nekkhammavitakko patiṭṭhahati. Taṃsampayuttassa pana adosalakkhaṇassa abyāpādassa vasena yo tasseva abyāpādavitakkabhāvo sambhaveyya, sati ca abyāpādavitakkabhāve kassacipi aviheṭhanajātikatāya avihiṃsāvitakkabhāvo ca sambhaveyya, te itare dve. Tadanvayikāti tasseva nekkhammavitakkassa anugāmino, sarūpato adissanato ‘‘tasmiṃ sati honti, asati na hontī’’ti tadanumānaneyyā bhavanti. Sesadvayepi iminā nayena attho veditabbo. Vuttanayenevāti ‘‘kāmapaṭisaṃyutto saṅkappo **kāmasaṅkappo’’**tiādinā vitakkattike vuttanayeneva (dī. ni. 3.288) veditabbo atthato abhinnattā. Yadi evaṃ kasmā puna desanā katāti? Tathā desanāya bujjhanakānaṃ ajjhāsayavasena desanāmattamevetaṃ.
無貪と無瞋は互いに離れないのだから、それらに基づいて生起するこれらの出離尋などは、互いに混同することなく確定されることはないのではないか。そうではないことを示すために「……のとき」等を始めた。「無貪が主導となる」とは、無貪が第一となることである。決定された、成熟した現起等に基づいて、無貪が主導となって出離を重視する心が生起するとき、その時機会を得た出離尋が確立する。しかし、それと相応する無瞋の特徴をもつ非瞋恚に基づいて、その同じものの無瞋尋たる状態が生じ得るのであり、無瞋尋たる状態があるときには、何者をも悩乱しない性質によって無害尋たる状態も生じ得るのであって、それら他の二つである。「それに随伴するもの」とは、その出離尋の追随者であり、固有の形では見られないことから「それがあるときに存在し、それがないときには存在しない」と推論によって導かれるべきものとなる。残りの二つにおいてもこの理趣によって意味が理解されるべきである。「説かれた理趣によって」とは、「欲に相応する思惟が欲思惟である」等と尋三法において説かれた理趣によって(長部経3.288)理解されるべきである、実質において差異がないからである。もしそうであるなら、なぜ重ねて説法がなされたのか。そのように説くことで理解する者たちの性向に基づいて、説法がなされたにすぎない。
Kāmavitakkādīnaṃ viya uppajjanākāro veditabbo ‘‘tāsu dve sattesupi saṅkhāresupi uppajjantī’’tiādinā. Tattha kāraṇamāha **‘‘taṃsampayuttāyeva hi etā’’**ti. Tathevāti yathā nekkhammavitakkādīnaṃ **‘‘asubhapubbabhāge kāmāvacaro hotī’’**tiādinā kāmāvacarādibhāvo vutto, tatheva tāsampi nekkhammasaññādīnampi kāmāvacarādibhāvo veditabbo.
欲尋などのように、「それらの中で二つは衆生においても諸行においても生じる」等によって生起の様態が理解されるべきである。そこでの理由を「実にそれらはそれに相応するがゆえに」と述べた。「同様に」とは、欲尋などについて「不浄の予備段階において欲界に属するものとなる」等と欲界等に属する状態が説かれたように、それら出離想などについても欲界等に属する状態が理解されるべきである。
Kāmapaṭisaṃyuttoti sampayogavasena kāmena paṭisaṃyutto. Takkanavasena takko. Visesato takkanavasena vitakko. Saṅkappanaparikappanavasena saṅkappo. Aññesupi kāmapaṭisaṃyuttesu dhammesu vijjamānesu vitakke eva kāmopapado dhātu-saddo niruḷho veditabbo vitakkassa kāmasaṅkappappavattiyā sātisayattā. Esa nayo byāpādadhātuādīsu. Sabbepi akusalā dhammā kāmadhātū hīnajjhāsayehi kāmitabbadhātubhāvato kilesakāmassa ārammaṇasabhāvattāti attho. Viheṭhetīti vibādhati. Tatthāti tasmiṃ yathāvutte kāmadhātuttike. Sabbākusalasaṅgāhikāya kāmadhātuyā itarā dve saṅgahetvā kathanaṃ sabbasaṅgāhikā kathā. Tisso dhātuyo aññamaññaṃ asaṅkarato kathā asambhinnā. Itarā dve gahitāva hontīti itarā dve dhātuyo gahitā eva honti sabbepi akusalā dhammā kāmadhātū’’ti vuttattā sāmaññajotanāya savisayassa atibyāpanena. Tatoti itaradhātudvayasaṅgāhikāya kāmadhātuyā. Nīharitvāti niddhāretvā. Dassetīti evaṃ bhagavā dassetīti vattuṃ vaṭṭati. Byāpādadhātuṃ…pe… kathesi. Kasmā? Pageva apavādā abhinivisanti, tato paraṃ ussaggo pavattati, ṭhapetvā vā apavādavisayaṃ taṃ pariharantova ussaggo pavattatīti, ñāyo hesa loke niruḷhoti.
「欲に相応する」とは、相応することに基づいて欲と相応すること。「思慮すること」に基づいて思慮(尋)である。格別に思慮することに基づいて審慮(vitakka)である。「思惟し構想すること」に基づいて思惟である。欲に相応する他の諸法が存在するにもかかわらず、尋においてのみ欲を冠した「界」という語が定着していると理解されるべきである。尋における欲思惟の働きが格段に勝れているからである。この理趣は瞋界などにおいても同様である。すべての不善法は欲界である、劣悪な性向の者たちによって欲求されるべき要素である状態から、煩悩欲の対象となる性質であるからという意味である。「悩乱する」とは、苦しめることである。「そこにおいて」とは、前述の欲界の三法においてである。すべての不善を包摂する欲界によって他の二つを包含して説くことが「全包摂の説」である。三つの界が互いに混同することのない説が「不混雑の説」である。「他の二つはすでに含まれている」とは、他の二つの界はすでに含まれている、「すべての不善法は欲界である」と説かれていることから、一般的な顕示によって自身の領域を広く覆っているからである。「それから」とは、他の二界を包摂する欲界から。「取り出して」とは、区分して。「示す」とは、このように世尊が示されると言うのが妥当である。瞋界……などを説いた。なぜか。まず前もって例外的なものが確定し、その後に一般的な原則が働くか、あるいは例外的な領域を除外し、それを回避しつつ一般的な原則が働くからであり、この論理は世間に定着しているからである。
Dve kathāti ‘‘sabbasaṅgāhikā, asambhinnā cā’’ti (dī. ni. aṭṭha. 3.305) anantarattike vuttā dve kathā. Tattha vuttanayena ānetvā kathanavasena veditabbā. Tasmā tattha vuttaattho idhāpi āharitvā veditabbo ‘‘nekkhammadhātuyā gahitāya itarā dve gahitāva hontī’’tiādinā.
「二つの説」とは、「全包摂の説、そして不混雑の説」と(長部経注3.305)直前の三法において説かれた二つの説のことである。そこで説かれた理趣に従って適用して説くことに基づいて理解されるべきである。それゆえにそこで説かれた意味はここでも引き入れて、「出離界が含まれることで他の二つはすでに含まれている」等と理解されるべきである。
Suññataṭṭhenāti attasuññatāya. Kāmabhavo kāmo uttarapadalopena suññataṭṭhena dhātu cāti kāmadhātu. Brahmalokanti paṭhamajjhānabhūmisaññitaṃ brahmalokaṃ. Dhātuyā āgataṭṭhānamhīti ‘‘kāmadhātu rūpadhātū’’tiādinā dhātuggahaṇe kate. Bhavena paricchinditabbāti ‘‘kāmabhavo rūpabhavo’’tiādinā bhavavasena tadattho paricchinditabbo, na yāya kāyaci dhātuyā vasena. Yadaggena ca dhātuyā āgataṭṭhāne bhavena paricchedo kātabbo, tadaggena bhavassa āgataṭṭhāne dhātuyā paricchedo kātabbo bhavavasena dhātuyā paricchijjanato. Nirujjhati kilesavaṭṭametthāti nirodho, sā eva suññataṭṭhena dhātūti nirodhadhātu, nibbānaṃ. Niruddhe ca kilesavaṭṭe kammavipākavaṭṭā niruddhā eva honti.
「空無の意味において」とは、我の空無なることによる。「欲有」は欲であり、後句の脱落によって、空無の意味において界でもあるから欲界である。「梵天の世界」とは、初禅の境地と称される梵天の世界である。「界として説かれた箇所において」とは、「欲界、色界」等と界の把握がなされたときのことである。「有(生存)によって限定されるべきである」とは、「欲有、色有」等と有に基づいてその意味が限定されるべきであり、任意の界に基づいてではない。界として説かれた箇所において有によって限定がなされるべきであるのと同様に、有として説かれた箇所においては界によって限定がなされるべきである。有に基づいて界が限定されるからである。煩悩の輪廻がここにおいて滅するから「滅」であり、それそのものが空無の意味において界であるから滅界、すなわち涅槃である。そして煩悩の輪廻が滅するとき、業と異熟の輪廻もまさに滅するのである。
Hīnadhātuttiko abhidhamme (dha. sa. tikamātikā 14) hīnattikena paricchinditabboti vuttaṃ **‘‘hīnā dhātūti dvādasa akusalacittuppādā’’**ti. Te hi lāmakaṭṭhena hīnadhātu. Hīnapaṇītānaṃ majjhe bhavāti majjhimadhātu, avasesā tebhūmakadhammā. Uttamaṭṭhena atappakaṭṭhena ca paṇītadhātu, navalokuttaradhammā.
劣界の三法は、アビダンマにおいて(法集論・三法母胎14)劣三法によって限定されるべきであると説かれた、「劣界とは十二の不善心起である」と。それらは実に劣悪という意味で劣界である。劣と勝の中間に存在するものが「中界」であり、残りの三界に属する諸法である。最上という意味、そして熱悩なきという意味において「勝界」であり、九つの出世間法である。
Pañcakāmaguṇā visayabhūtā etassa santīti pañcakāmaguṇiko, kāmarāgo. Rūpārūpabhavesūti rūpārūpūpapattibhavesu yathādhigatesu. Anadhigatesu pana so patthanā nāma na hotīti bhavavasena patthanāti imināva gahito. Jhānanikantīti rūpārūpajjhānesu nikanti. Bhavavasena patthanāti bhavesu patthanāti. Evaṃ catūhipi padehi yathākkamaṃ mahaggatūpapattibhavavisayā, mahaggatakammabhavavisayā, bhavadiṭṭhisahagatā, bhavapatthanābhūtā ca taṇhā **‘‘bhavataṇhā’’**ti vuttā. Vibhavadiṭṭhi vibhavo uttarapadalopena, vibhavasahagatā taṇhā vibhavataṇhā. Rūpādipañcavatthu kāmavisayā balavarāgabhūtā taṇhā kāmataṇhāti paṭhamanayo, ‘‘sabbepi tebhūmakadhammā kāmanīyaṭṭhena kāmā’’ti (mahāni. 1) vacanato te ārabbha pavattā diṭṭhivippayuttā sabbāpi taṇhā kāmataṇhāti dutiyanayoti ayametesaṃ viseso.
五つの欲功徳がこれの対象となっているから「五欲功徳に属する」欲愛である。「色有と無色有において」とは、色界・無色界の生起する境地として獲得されたものにおいて。しかし未獲得のものにおいては、それは「願求」とは呼ばれないので、「有に基づく願求」というこれによってのみ捉えられる。「禅定への愛着」とは、色界・無色界の禅定に対する愛着である。「有に基づく願求」とは、諸々の有への願求である。このように四つの句によって順次に、広大(色・無色)の生有を対象とするもの、広大の業有を対象とするもの、常見を伴うもの、有への願求となった渇愛が「有愛」と説かれた。断見は「非有(虚無)」であり、後句の脱落によって、断見を伴う愛が非有愛である。色などの五つの対象である欲を対象とする強い貪となった愛が「欲愛」であるというのが第一の理趣、「すべての三界に属する諸法は愛されるべきという意味で欲である」(大義釈1)という言葉から、それらをめぐって生起した見解と相応しないすべての愛が「欲愛」であるというのが第二の理趣であり、これがこれらの相違である。
Abhidhamme panāti pana-saddo visesatthajotano, tena pañcakāmaguṇikarāgato aññopi kāmāvacaradhammavisayo lobho abhidhamme (vibha. 915) ‘‘kāmataṇhā’’ti āgatoti imaṃ visesaṃ joteti. Tikantarampi samānaṃ taṇhaṃyeva nissāya pavattitadesanānantaratāya taṃ ‘‘vāro’’ti vattabbataṃ arahatīti **‘‘iminā vārenā’’**ti vuttaṃ. Iminā vārenāti iminā pariyāyenāti attho. Rajanīyaṭṭhenāti kāmanīyaṭṭhena. Pariyādiyitvāti pariggahetvā. Tatoti kāmataṇhāya. Nīharitvāti niddhāretvā. Itarā dve taṇhāti rūpataṇhaṃ, arūpataṇhañca dasseti. Etena ‘‘kāmataṇhā’’ti sādhāraṇavacanametaṃ sabbassapi lobhassa, tassa pana ‘‘rūpataṇhā arūpataṇhā’’ti visesavacanaṃ yathā kāmaguṇikarāgo rūparāgo arūparāgoti dasseti. Nirodhataṇhāti bhavanirodhe bhavasamucchede taṇhā. Yasmā hi ucchedadiṭṭhi manussattabhāve, kāmāvacaradevattabhāve, rūpāvacaraarūpāvacarattabhāve ṭhitassa attano sammā samucchedo hotīti bhavanirodhaṃ ārabbha pavattati, tasmā taṃsahagatāpi taṇhā tameva ārabbha pavattatīti.
「しかしアビダンマにおいては」の「しかし」という言葉は格別の意味を示すものであり、それによって五欲功徳に属する貪以外の、欲界の法を対象とする貪もまたアビダンマにおいて(分別論915)「欲愛」として説かれているというこの相違を示す。他の三法も同様の愛に基づいて説かれた教説の次にあることから、それを「段(節)」と呼ぶに値することを「この段において」と説いた。「この段において」とは、この方法においてという意味である。「貪着すべきという意味において」とは、愛されるべきという意味において。「包含して」とは、包摂して。「それから」とは、欲愛から。「取り出して」とは、区分して。「他の二つの愛」とは、色愛と無色愛を示す。これによって「欲愛」とはすべての貪に共通する表現であり、それに対する「色愛、無色愛」とは、欲功徳の貪、色貪、無色貪のような特別な表現であることを示している。「滅愛」とは、有の滅、有の断絶に対する愛である。なぜなら断見は、人間としての生存、欲界の神々としての生存、色界・無色界としての生存にある自身の正しい断絶があるという、有の滅をめぐって生起するからであり、それゆえにそれに伴う愛もまたそれをめぐって生起するからである。
Vaṭṭasminti tividhepi vaṭṭe. Yathā te hi nissarituṃ appadānavasena kammavipākavaṭṭe taṃsamaṅgisattaṃ tesaṃ parāparuppattiyā paccayabhāvena saṃyojenti, evaṃ kilesavaṭṭepīti. Satīti paramatthato vijjamāne. Rūpādibhedeti rūpavedanādivibhāge. Kāyeti khandhasamūhe. Vijjamānāti satī paramatthato upalabbhamānā. Diṭṭhiyā parikappito hi attādi paramatthato natthi, diṭṭhi pana ayaṃ atthevāti. Vicinantoti dhammasabhāvaṃ vīmaṃsanto. Kicchatīti kilamati. Parāmasatīti parato āmasati. ‘‘Sīlena suddhi, vatena suddhī’’ti gaṇhanto hi visuddhimaggaṃ atikkamitvā tassa parato āmasati nāma. Vīsativatthukā diṭṭhīti rūpādi-dhamme, paccekaṃ te vā nissitaṃ, tesaṃ vā nissayabhūtaṃ, sāmibhūtaṃ vā katvā parikappanavasena pavattiyā vīsativatthukā attadiṭṭhi vīsati. Vimatīti dhammesu sammā, micchā vā mananābhāvato saṃsayitaṭṭhena amati, appaṭipajjananti attho. Vipariyāsaggāhoti asuddhimagge ‘‘suddhimaggo’’ti viparītaggāho.
「輪廻において」とは、三種の輪廻においてである。実にそれらは脱出させないことによって業と異熟の輪廻において、それを具備する衆生をそれらの次々の生起への条件となることによって結びつけるように、煩悩の輪廻においても同様である。「存在するとき」とは、勝義において存在するとき。「色などの区分において」とは、色や受などの区分において。「身において」とは、蘊の集まりにおいて。「存在する」とは、勝義において捉えられるものとしてあること。見解によって構想された我などは勝義においては存在しないが、この見解そのものは存在するのである。「探求する者」とは、法の自性を吟味する者。「苦しむ」とは、疲労困憊すること。「執着する」とは、他なるものとして把握する。「戒によって清浄となる、禁制によって清浄となる」と捉える者は、清浄の道を飛び越えて、それより他なるものに執着するのである。「二十事を根拠とする見解」とは、色などの法を、個々にそれらに依拠するもの、それらの依処となるもの、あるいはそれらの所有者として構想することに基づいて働く二十事を根拠とする有身見の二十である。「疑念」とは、諸法において正しく、あるいは誤って思惟することがないことから、疑っているという意味における無知、確信しないことという意味である。「顛倒した把握」とは、不浄の道において「清浄の道である」と逆さまに捉えることである。
Cirapārivāsiyaṭṭhenāti ciraparivutthatāya purāṇabhāvena. Āsavanaṭṭhenāti sandanaṭṭhena, pavattanaṭṭhenāti attho. Savatīti pavattati. Avadhiattho ā-kāro, avadhi ca mariyādābhividhibhedato duvidho. Tattha mariyādo kiriyaṃ bahi katvā pavattati yathā ‘‘ā pāṭaliputtā vuṭṭho devo’’ti. Abhividhi kiriyaṃ byāpetvā pavattati yathā ‘‘ā bhavaggā bhagavato yaso pavatto’’ti. Abhividhiattho ayaṃ ā-kāro veditabbo.
「久住の意味において」とは、長く滞在していること、古くからある状態による。「漏出の意味において」とは、流れるという意味であり、生起するという意味である。「漏れる」とは、生起すること。「至るまで」という意味のāの語であり、限度には限界(除外)と包含(網羅)の区分の二種類がある。その中で限界は行為を外に置いて生起する、「パータリプッタに至るまで雨が降った(パータリプッタの手前まで降った)」のように。包含は行為を覆って生起する、「有頂に至るまで世尊の名声が広がった(有頂をも含めて広がった)」のように。ここでのāの語は包含の意味であると理解されるべきである。
Katthaci dve āsavā āgatāti vinayapāḷiṃ (pārā. 39) sandhāyāha. Tattha hi ‘‘diṭṭhadhammikānaṃ āsavānaṃ saṃvarāya, samparāyikānaṃ āsavānaṃ paṭighātāyā’’ti (pārā. 39) dvidhā āsavā āgatāti. Katthacīti tikanipāte āsavasutte, (itivu. 56; saṃ. ni. 5.163) aññesu ca saḷāyatanasuttādīsu (saṃ. ni. 4.321). Saḷāyatanasuttesupi hi ‘‘tayome āvuso āsavā kāmāsavo bhavāsavo avijjāsavo’’ti tayo eva āgatāti. Nirayaṃ gamentīti nirayagāminīyā. Yasmā idha sāsavaṃ kusalākusalaṃ kammaṃ āsavapariyāyena desitaṃ, tasmā pañcagatisaṃvattanīyabhāvena āsavā āgatā. Imasmiṃ saṅgītisutte tayo āgatāti. Ettha yasmā aññesu ca ā bhavaggaṃ ā gotrabhuṃ pavattantesu mānādīsu vijjamānesu attattaniyādiggāhavasena, abhibyāpanamadakaraṇavasena āsavasadisatā ca etesaṃyeva, na aññesaṃ, tasmā etesveva āsava-saddo niruḷho daṭṭhabbo. Na cettha ‘‘diṭṭhāsavo nāgato’’ti cintetabbaṃ bhavataṇhāya, bhavadiṭṭhiyāpi bhavāsavaggahaṇeneva gahitattā. Kāmāsavo nāma kāmanaṭṭhena, āsavanaṭṭhena ca. Vuttāyeva atthato ninnānākaraṇato.
「ある箇所では二つの漏が説かれた」とは、律の本文(波羅夷39)を指して言っている。そこでは実に「現世の漏を制御するため、来世の漏を撃破するため」(波羅夷39)と二様の漏が説かれた。「ある箇所では」とは、三集の漏経(如是語56;相応部5.163)や、その他の六処相応等(相応部4.321)においてである。六処相応等においても「友よ、これら三つの漏がある。欲漏、有漏、無明漏である」とまさに三つのみが説かれている。「地獄へ行かせる」とは、地獄へ至らしめるもの。ここでは有漏の善・不善の業が漏という方法によって説かれたため、五趣に転生させる性質として漏が説かれた。この集誦経においては三つが説かれた。「ここにおいて」とは、他の有頂に至るまで、種姓地に至るまで生起する慢などが存在するときに、我や我所などの把握に基づいて、全体を覆い眩惑させることにおいて、漏に類似していることはこれらのみにあり、他にはないことから、これらにおいてのみ「漏」という語が定着していると見なされるべきである。そしてここでは「見漏が説かれていない」と考えるべきではない。有愛や常見も有漏の把握によってすでに捉えられているからである。「欲漏」とは、欲求するという意味、そして漏出するという意味においてである。実質において無差別であることからすでに説かれた通りである。
Kāme esati gavesati etāyāti kāmesanā, kāmānaṃ abhipatthanāvasena, pariyeṭṭhivasena, paribhuñjanavasena vā pavattarāgo. Bhavesanā pana bhavapatthanā, bhavābhiratibhavajjhosānavasena pavattarāgo. Diṭṭhigatikasammatassāti aññatitthiyehi parikappitassa, sambhāvitassa ca. Brahmacariyassāti tapopakkamassa. Tadekaṭṭhanti tāhi rāgadiṭṭhīhi sahajekaṭṭhaṃ. Kammanti akusalakammaṃ. Tampi hi kāmādike nibbattanādhiṭṭhānādivasena pavattaṃ ‘‘esatī’’ti vuccati. Antaggāhikā diṭṭhīti nidassanamattametaṃ. Yā kāci pana micchādiṭṭhi tapopakkamahetukā brahmacariyesanā eva.
これによって諸々の欲を求め、探索するから「欲求(欲尋求)」であり、欲への強い願いによって、追求によって、あるいは享受することによって生起した貪である。一方「有求」とは、有への願いであり、有への歓喜や有への執着によって生起した貪である。「見解に囚われた者たちによって承認された」とは、他の外道たちによって構想され、賞賛された。「梵行の」とは、苦行の手段の。「それと同一の意味のもの」とは、それら貪や見解と同時に生起し同一の意味をもつもの。「業」とは、不善業である。それもまた欲などを生じさせる決定等に基づいて働くものを「求める」と言う。「辺見(極端な見解)」とは一例にすぎない。苦行の手段を原因とするあらゆる邪見は、梵行求そのものである。
Ākārasaṇṭhānanti visiṭṭhākārāvaṭṭhānaṃ kathaṃvidhanti hi kena pakārena saṇṭhitaṃ, samavaṭṭhitanti attho. Saddatthato pana vidahanaṃ visiṭṭhākārena avaṭṭhānaṃ vidhā, vidhīyati visadisākārena ṭhapīyatīti vidhā, koṭṭhāso. Vidahanato hīnādivasena vividhenākārena dahanato upadhāraṇato vidhā, mānova. Seyyasadisahīnānaṃ vasenāti seyyasadisahīnabhāvānaṃ yāthāvā’ yāthāvabhūtānaṃ vasena. Tayo mānā vuttā seyyasseva uppajjanakā. Esa nayo sadisahīnesupi. Tenāha **‘‘ayañhi māno’’**tiādi. Idāni yathāuddiṭṭhe navavidhepi māne vatthuvibhāgena dassetuṃ **‘‘tatthā’’**tiādi vuttaṃ. Rājūnañceva pabbajitānañca uppajjati kasmā? Te visesato attānaṃ seyyato dahantīti. Idāni tamatthaṃ vitthārato dassento **‘‘rājā hī’’**tiādimāha. Ko mayā sadiso atthīti ko-saddo paṭikkhepattho, añño sadiso natthīti adhippāyo. Etesaṃyevāti rājūnaṃ, pabbajitānañca. Uppajjati seṭṭhavatthukattā tassa. ‘‘Hīnohamasmī’’ti mānepi eseva nayo.
「様態の形状」とは、卓越した様態の定立であり、どのような様態で立っているか、正しく定立しているかという意味である。語の意味としては、整えること、卓越した様態で定立することが「様態(vidhā)」であり、等しくない様態で置かれるから「区分」である。整えることから、劣などの様々な様態で評価すること、思いなすことから「慢(vidhā)」であり、慢そのものである。「勝・同・劣に基づいて」とは、勝・同・劣である状態の、事実であるか事実でないかに基づいて。三つの慢は、勝っている者にのみ生じるものとして説かれた。この理趣は同等な者や劣っている者においても同様である。それゆえに「実にこの慢は」等と言われた。今や提示された通りの九種の慢をも対象の区分によって示すために「そこにおいて」等と説かれた。国王たちや出家者たちに生じる、なぜか。彼らは格別に自身を勝れていると思いなすからである。今やその意味を詳細に示すために「実に国王は」等を述べた。「誰が私と同等であろうか」の「誰」という言葉は否定の意味であり、他に同等な者はいないという意味である。「彼らにのみ」とは、国王たちと出家者たちにのみ。対象が卓越していることから彼らに生じる。「私は劣っている」という慢においてもこの理趣である。
‘‘Ko mayā sadiso añño rājapuriso atthī’’ti vā ‘‘mayhaṃ aññehi saddhiṃ kiṃ nānākaraṇa’’nti vā ‘‘amacco ti nāmāmeva…pe… nāmāha’’nti vāti sadisassa seyyamānādīnaṃ tiṇṇaṃ pavattiākāradassanaṃ.
「私と同等な他の官吏がいるだろうか」、あるいは「私と他の者たちとの間に何の違いがあろうか」、あるいは「大臣という名は私にこそふさわしい……私は大臣である」などというのは、同等な者における勝慢などの三つの生起様態の提示である。
Dāsādīnanti ādi-saddena bhatika kammakarādīnaṃ parādhīnavuttikānaṃ gahaṇaṃ. Ādi-saddena vā gahite eva ‘‘pukkusacaṇḍālādayopī’’ti sayameva dasseti. Nanu ca māno nāmāyaṃ saṃpaggaharaso, so kathaṃ omāne sambhavatīti? Sopi avakaraṇamukhena vidhānavatthunā paggaṇhanavaseneva pavattatīti nāyaṃ virodho. Tenevāha ‘‘kiṃ dāso nāma ahanti ete māne karotī’’ti. Tathā hissa yāthāvamānatā vuttā.
「奴隷などの」の「など」という言葉によって、雇われ人や労働者などの他人に依存して生きる者たちの把握である。あるいは「など」という言葉によって捉えられたまさに「プックサやチャンダーラ(賤民)などをも」と自ら示している。慢とは実に高挙を本質とするものであり、それがどうして卑下において生じ得るのか。それもまた見下すことを通じて、判定の対象によって高挙することに基づいて生起するのであるから、この矛盾はない。それゆえに「私は奴隷などにすぎないのかと、これらの慢をなす」と言われた。そのように彼について真実の慢であることが説かれたのである。
Yāthāvamānā bhavanikanti viya, attadiṭṭhi viya ca na mahāsāvajjā, tasmā te na apāyagamanīyā. Yathābhūtavatthukatāya hi te yāthāvamānā. **‘‘Arahattamaggavajjhā’’**ti ca tassa anavasesappahāyitāya vuttaṃ. Dutiyatatiyamaggehi ca te yathākkamaṃ pahīyanti, ye oḷārikatarā, oḷārikatamā ca. Māno hi ‘‘ahaṃ asmī’’ti pavattiyā uparimaggesu sammādiṭṭhiyā ujuvipaccanīko hutvā pahīyati. Ayāthāvamānā nāma ayathābhūtavatthukatāya, teneva te mahāsāvajjabhāvena paṭhamamaggavajjhā vuttā.
真実の慢は、有への愛着のように、有身見のように大過あるものではないため、それらは悪趣へ至らしめるものではない。ありのままの対象に基づいているがゆえに、それらは真実の慢なのである。「阿羅漢道によって断ぜられるべき」とは、その残余なき断滅ゆえに説かれた。第二、第三の道によっても、より粗大なもの、最も粗大なものが順次に断ぜられる。慢は実に「我あり」と生起することによって、上の道において正見と直接に対治するものとなって断ぜられるのである。非真実の慢とは、ありのままではない対象に基づくがゆえに、まさにそのゆえにそれらは大過ある状態として初道(預流道)によって断ぜられるべきものと説かれた。
Atati satataṃ gacchati pavattatīti addhā, kāloti āha **‘‘tayo addhāti tayo kālā’’**ti. Suttantapariyāyenāti bhaddekarattasuttādīsu (ma. ni. 3.283) āgatanayena. Tattha hi ‘‘yo cāvuso mano, ye ca dhammā, ubhayametaṃ paccuppannaṃ, tasmiṃ ce paccuppanne chandarāgapaṭibaddhaṃ hoti viññāṇaṃ, chandarāgapaṭibaddhattā viññāṇassa tadabhinandati, tadabhinandanto paccuppannesu dhammesu saṃhīratī’’ti (ma. ni. 3.284) addhāpaccuppannaṃ sandhāya evaṃ vuttaṃ. Tenāha **‘‘paṭisandhito pubbe’’**tiādi. Tadantaranti tesaṃ cutipaṭisandhīnaṃ vemajjhaṃ paccuppanno addhā, yo pubbantāparantānaṃ vemajjhatāya ‘‘pubbantāparante kaṅkhati, (dha. sa. 1123) pubbantāparante aññāṇa’’nti (dha. sa. 1067, 1106, 1128) evamādīsu ‘‘pubbantāparanto’’ti ca vuccati. Bhaṅgo dhammo atītaṃsena saṅgahitoti āha **‘‘bhaṅgato uddhaṃ atīto addhā nāmā’’**ti. Tathā anuppanno dhammo anāgataṃsena saṅgahitoti āha **‘‘uppādato pubbe anāgato addhā nāmā’’**ti. Khaṇattayeti uppādo, ṭhiti, bhaṅgoti tīsu khaṇesu. Yadā hi dhammo hetupaccayassa samavāye uppajjati, yadā ca veti, iti dvīsupi khaṇesu ṭhitikkhaṇe viya paccuppannoti. Dhammānañhi pākabhāvūpādhikaṃ pattabbaṃ udayo, viddhaṃsabhāvūpādhikaṃ vayo, tadubhayavemajjhaṃ ṭhiti. Yadi evaṃ addhā nāmāyaṃ dhammo eva āpannoti? Na dhammo, dhammassa pana avatthābhedo, tañca upādāya loke kālasamaññāti dassetuṃ **‘‘atītādibhedo ca nāma aya’’**ntiādi vuttaṃ. Idhāti imasmiṃ loke. Teneva vohārenāti taṃ taṃ avatthāvisesaṃ upādāya dhammo ‘‘atīto anāgato paccuppanno’’ti yena vohārena voharīyati, dhammappavattimattatāya hi paramatthato avijjamānopi kālo tasseva dhammassa pavattiavatthāvisesaṃ upādāya teneva vohārena ‘‘atīto addhā’’tiādinā vutto.
絶えず進み、生起するから「世(時間)」であり、時であるから「三世とは三つの時である」と述べた。「経の理趣によって」とは、跋地羅帝経など(中部3.283)に出てくる理趣による。そこでは実に「友よ、意があり、諸法があり、この両者が現在である。その現在において欲貪に結縛された意識があるとき、意識が欲貪に結縛されているがゆえにそれを歓喜し、それを歓喜する者は現在における諸法において引きずられる」(中部3.284)と、世としての現在を指してこのように説かれた。それゆえに「結生の前」等と言われた。「その中間」とは、それら死と結生の中間が現在の世であり、前際と後際の中間であることから「前際と後際に疑いを持つ、前際と後際に無知である」などの箇所において「前後際」とも呼ばれる。滅壊した法は過去分に包摂されるから「滅壊より先を過去の世と名づける」と述べた。同様に、未だ生じていない法は未来分に包摂されるから「生起の前を未来の世と名づける」と述べた。「三刹那において」とは、生・住・滅の三刹那においてである。法が因縁の集合において生起するとき、そして消滅するとき、このように二つの刹那においても住の刹那と同様に現在である。諸法の顕現という付加条件に達すべきものが生起であり、崩壊という付加条件に達すべきものが消滅であり、その両者の中間が住である。もしそうであるなら、世とは法そのものということになるのではないか。法ではなく、法の状態の差異であり、それに基づいて世間における時の呼称があることを示すために「過去などの区分とはこれである」等と説かれた。「ここにおいて」とは、この世間において。「まさにその表現によって」とは、それぞれの状態の差異に基づいて、法が「過去、未来、現在」と表現されるその表現によって、法の生起にすぎないことから勝義においては存在しない時であっても、その法の生起状態の差異に基づいて、まさにその表現によって「過去の世」等と説かれたのである。
Anta-saddo loke pariyosāne, koṭiyaṃ niruḷhoti tadatthaṃ dassento **‘‘antoyeva anto’’**ti āha, koṭi antoti attho. Parabhāgoti pārimanto. Amati gacchati bhavappabandho niṭṭhānaṃ etthāti anto, koṭi. Amanaṃ niṭṭhānagamananti anto, osānaṃ. So pana ‘‘esevanto dukkhassā’’ti (ma. ni. 3.393; saṃ. ni. 2.51) vuttattā dukkhaṇṇavassa pārimantoti āha **‘‘parabhāgo’’**ti. Ammati paribhuyyati hīḷīyatīti anto, lāmako. Ammati bhāgaso ñāyatīti anto, aṃsoti āha **‘‘koṭṭhāso anto’’**ti. Santo paramatthato vijjamāno kāyo dhammasamūhoti sakkāyo, khandhā, te pana ariyasaccabhūtā idhādhippetāti vuttaṃ **‘‘pañcupādānakkhandhā’’**ti. Purimataṇhāti yesaṃ nibbattikā, tannibbattito pageva siddhā taṇhā. Appavattibhūtanti nappavattati tadubhayaṃ etthāti tesaṃ appavattiṭṭhānabhūtaṃ. Yadi ‘‘sakkāyo anto’’tiādinā aññamaññaṃ vibhattitāya dukkhasaccādayo gahitā, atha kasmā maggo na gahitoti āha **‘‘maggo panā’’**tiādi. Tattha upāyattāti upāyabhāvato, sampāpakahetubhāvatoti attho.
「辺(限界・極点)」という言葉は世間において終極、極限に定着しているため、その意味を示すために「極点こそが辺である」と述べた、極限が辺であるという意味である。「彼岸」とは向こうの端である。生存の連続がここに至り、終着へ向かうから「辺」、すなわち極限である。終着へ行くことが「辺」、すなわち終極である。しかしそれは「これこそが苦の終極(辺)である」(中部3.393;相応部2.51)と説かれていることから、苦の海における向こうの端であるから「彼岸」と述べた。見下され、軽蔑されるから「辺」、すなわち下劣なもの。部分として知られるから「辺」、すなわち部分であるから「部分が辺である」と述べた。勝義において存在する身、法の集まりが「有身(個体)」であり、五蘊であり、それらはここでは聖諦となったものが意図されているから「五取蘊」と説かれた。「以前の渇愛」とは、それらを生じさせるもの、それらの生起以前にすでに成立している渇愛である。「非生起となったもの」とは、この両者がここにおいて生起しないから、それらの非生起の場所となったものである。もし「有身が辺である」等と互いに区別されることによって苦諦などが把握されたのなら、それではなぜ道諦が把握されなかったのかと言えば、「しかし道は」等と述べた。そこにおいて「方便であることから」とは、手段である状態から、到達させる原因である状態から、という意味である。
Yadi pana hetumantaggahaṇeneva hetu gahito hoti, nanu evaṃ sakkāyaggahaṇeneva tassa hetubhūto sakkāyasamudayo gahito hotīti? Tassa gahaṇe saṅkhataduko viya, sappaccayaduko viya ca dukovāyaṃ āpajjati, na tiko. Yathā pana sakkāyaṃ gahetvā sakkāyasamudayopi gahito, evaṃ sakkāyanirodhaṃ gahetvā sakkāyanirodhupāyo gayheyya, evaṃ sati catukko ayaṃ āpajjeyya, na tiko, tasmā hetumantaggahaṇena hetuggahaṇaṃ na cintetabbaṃ. Ayaṃ panettha adhippāyo yutto siyā – idha sakkāyasakkāyasamudayā anādikālikā, asati maggabhāvanāyaṃ paccayānuparamena apariyantā ca, nibbānaṃ pana appaccayattā attano niccatāya eva sabbadābhāvīti anādikāliko, apariyanto ca. Iti imāni tīṇi saccāni mahāthero imāya sabhāgatāya ‘‘tayo antā’’ti tikaṃ katvā dasseti. Ariyamaggo pana kadāci karahaci labbhamāno na tathāti tassa ativiya dullabhapātubhāvataṃ dīpetuṃ tikato bahikatoti ayamettha attanomati.
もし原因を持つもの(結果)の把握によって原因が把握されるとするならば、このように有身の把握によってその原因である有身集(集諦)が把握されているのではないか。それを把握するなら有為二法のように、有縁二法のように、これは二法になってしまい、三法ではなくなる。しかし、有身を把握して有身集も把握されたように、有身滅を把握して有身滅の方便(道諦)も把握されるべきであり、そうであるならこれは四法になってしまい、三法ではなくなる。それゆえに結果の把握によって原因の把握を考えるべきではない。ここでの趣旨は以下が妥当であろう――ここでは有身と有身集は無始以来のものであり、道の修習がないときは縁が絶えないことによって無辺であり、涅槃は無縁であるがゆえに自らの常住性によって常に存在するものであるから無始であり、無辺である。このようにこれら三つの真理を大長老はこの共通性によって「三辺」という三法にして示している。しかし聖道は稀にしか得られないものであり、そのようではないため、その極めて得難い出現を明らかにするために三法から除外されたのである。これがここにおける私の見解である。
Dukkhatāti dukkhabhāvo, dukkhaṃyeva vā yathā devo eva devatā. Dukkha-saddo cāyaṃ adukkhasabhāvesupi sukhupekkhāsu kañci aniṭṭhatāvisesaṃ upādāya pavattatīti tato nivattento sabhāvadukkhavācinā ekena dukkha-saddena visesetvā **‘‘dukkhadukkhatā’’**ti āha. Bhavati hi ekantato taṃsabhāvepi atthe aññassa dhammassa yena kenaci sadisatālesena byabhicārāsaṅkāti visesitabbatā yathā ‘‘rūparūpaṃ tilatela’’nti (vibha. aṭṭha. pakiṇṇakathā) ca. Saṅkhārabhāvenāti saṅkhatabhāvena. Paccayehi saṅkharīyantīti saṅkhārā, adukkhamasukhavedanā. Saṅkhariyamānattā eva hi asārakatāya paridubbalabhāvena bhaṅgabhaṅgābhimukhakkhaṇesu viya attalābhakkhaṇepi vibādhappattā eva hutvā saṅkhārā pavattantīti āha **‘‘saṅkhatattā uppādajarābhaṅgapīḷitā’’**ti. Tasmāti yathāvuttakāraṇato. Aññadukkhasabhāvavirahatoti dukkhadukkhatāvipariṇāmadukkhatāsaṅkhātassa aññassa dukkhasabhāvassa abhāvato. Vipariṇāmeti pariṇāme, vigameti attho. Tenāha papañcasūdaniyaṃ ‘‘vipariṇāmadukkhāti natthibhāvo dukkha’’nti. Apariññātavatthukānañhi sukhavedanuparamo dukkhato upaṭṭhāti, svāyamattho piyavippayogena dīpetabbo. Tenāha **‘‘sukhassa hī’’**tiādi. Pubbe vuttanayo padesanissito vedanāvisesamattavisayattāti anavasesato saṅkhāradukkhataṃ dassetuṃ **‘‘apicā’’**ti dutiyanayo vutto. Nanu ca ‘‘sabbe saṅkhārā dukkhā’’ti (dha. pa. 278) vacanato sukhadukkhavedanānampi saṅkhāradukkhatā āpannāti? Saccametaṃ, sā pana sāmaññajotanāapavādabhūtena itaradukkhatāvacanena nivattīyatīti nāyaṃ virodho. Tenevāha **‘‘ṭhapetvā dukkhavedanaṃ sukhavedanañcā’’**ti.
「苦性(苦であること)」とは苦の状態、あるいは神(deva)が天女(devatā)であるように苦そのもののことである。そしてこの「苦」という語は、苦ではない性質をもつ楽や捨においても、ある種の好ましくない差異に基づいて使われるため、それと区別して自性としての苦を表す一つの苦の語によって特定し「苦苦性」と述べた。全くその自性である意味においてであっても、他の法が何らかの類似した口実によって混同される懸念があるため、「色そのもの」「胡麻油」のように特定されるべき状態が存在するからである。「諸行であることによって」とは、有為であることによって。諸縁によって作られるから「諸行」であり、不苦不楽受のことである。作られるものであるがゆえにまさに無実質であり、極めて脆弱な状態によって、滅壊に向かう刹那におけるように、自らを得る刹那(生起の瞬間)においても逼迫を受けたものとなって諸行は生起するから「有為であるがゆえに生・老・滅に苦しめられる」と述べた。「それゆえに」とは前述の理由から。「他の苦の性質を離れていることから」とは、苦苦性と壊苦性と称される他の苦の自性がないことから。「変易において」とは変化において、消滅においてという意味である。それゆえに破障清浄(中部注)において「変易の苦とは、存在しない状態が苦である」と言われた。対象を完全知していない者たちにとっては、楽受の停止が苦として現れるのであり、この意味は愛するものとの別離によって明らかにされるべきである。それゆえに「実に楽の」等と言われた。以前に述べられた理趣は受の差異のみを対象とする限定された教説に依存しているため、残余なく行苦性を示すために「さらにまた」と第二の理趣が説かれた。「一切の行は苦である」(法句経278)という言葉から、楽受や苦受にも行苦性が帰着するのではないか。これは真実であるが、それは普遍的な顕示に対する例外である他の苦性の言葉によって除外されるため、この矛盾はない。それゆえに「苦受と楽受を除いて」と言われたのである。
Micchāsabhāvoti ‘‘hitasukhāvaho me bhavissatī’’ti evaṃ āsīsitopi tathā abhāvato, asubhādīsuyeva ‘‘subha’’ntiādiviparītappavattito ca micchāsabhāvo, musāsabhāvoti attho. Mātughātakādīsu pavattamānāpi hi hitasukhaṃ icchantāva pavattantīti te dhammā ‘‘hitasukhāvahā me bhavissantī’’ti āsīsitā honti. Tathā asubhāsukhāniccānattesu subhādivipariyāsadaḷhatāya ānantariyakammaniyatamicchādiṭṭhīsu pavatti hotīti te dhammā asubhādīsu subhādiviparītappavattikā honti. Vipākadāne sati khandhabhedānantarameva vipākadānato niyato, micchatto ca so niyato cāti micchattaniyato. Anekesu ānantariyesu katesu yaṃ tattha balavaṃ, taṃ vipaccati, na itarānīti ekantavipākajanakatāya niyatatā na sakkā vattunti **‘‘vipākadāne satī’’**ti vuttaṃ. Khandhabhedānantaranti cutianantaranti attho. Cuti hi maraṇaniddese ‘‘khandhānaṃ bhedo’’ti (dī. ni. 2.390; ma. ni. 1.123; 3.373; vibha. 193) vuttā, etena vacanena sati phaladāne cutianantaro eva etesaṃ phalakālo, na aññoti phalakālaniyamena niyatatā vuttā hoti, na phaladānaniyamenāti niyataphalakālānaṃ aññesampi upapajjavedanīyānaṃ, diṭṭhadhammavedanīyānampi niyatatā āpajjati, tasmā vipākadhammadhammānaṃ paccayantaravikalatādīhi avipaccamānānampi attano sabhāvena vipākadhammatā viya balavatā ānantariyena vipāke dinne avipaccamānānampi ānantariyānaṃ phaladāne niyatasabhāvā, ānantariyasabhāvā ca pavattīti attano sabhāvena phaladānaniyameneva niyatatā, ānantariyatā ca veditabbā. Avassañca niyatasabhāvā, ānantariyasabhāvā ca tesaṃ pavattīti sampaṭicchitabbametaṃ aññassa balavato ānantariyassa abhāve cutianantaraṃ ekantena phaladānato.
「邪の自性」とは、「私に利益と幸福をもたらすであろう」とこのように期待されてもそのようにならないことから、また不浄などにおいて「浄である」などと顛倒して生起することから、邪の自性、すなわち偽りの自性という意味である。母殺しなどにおいて働く者も、利益と幸福を望みつつ働くのであり、それらの法は「私に利益と幸福をもたらすであろう」と期待されたものとなる。同様に、不浄・苦・無常・無我において、浄などの顛倒が強固であることによって無間業や定邪見の生起があるため、それらの法は不浄などにおいて浄などと顛倒して生起するものとなる。異熟を与えることにおいて、蘊の崩壊(死)の直後に異熟を与えることから「定」であり、邪性であり、かつ定であるから「邪性決定」である。多くの無間業がなされたとき、そこにおいて強力なものが異熟を生じ、他のものは生じないため、絶対に異熟を生み出すことによる決定性を言うことはできないとして「異熟を与えることにおいて」と説かれた。「蘊の崩壊の直後」とは、死の直後という意味である。死は実に死の解説において「蘊の崩壊」(長部2.390;中部1.123;3.373;分別論193)と説かれており、この言葉によって、果報を与えるときには死の直後こそがそれらの果報の時であり、他ではないという果報の時の限定による決定性が説かれたのであって、必ず果報を与えるという限定による決定性ではないことから、結果の時が定まっている他の順次受業や順現法受業にも決定性が帰着することになる。それゆえに、異熟を受ける性質の法が他の縁の欠如などによって異熟しないとしても自身の自性によって異熟の性質であるように、強力な無間業によって異熟が与えられたときに異熟しない無間業であっても、果報を与えることにおいて決定した自性であり、無間の自性として生起するのであるから、自らの自性によって果報を与える決定性によってのみ、決定であり、無間であると理解されるべきである。そして必然的にそれらは決定の自性、無間の自性として生起すると受け入れられるべきである、他のより強力な無間業がない場合には死の直後に必ず果報を与えるからである。
Nanu evaṃ aññesampi upapajjavedanīyānaṃ aññasmiṃ vipākadāyake asati cutianantarameva ekantena phaladānato ānantariyasabhāvā, niyatasabhāvā ca pavatti āpajjatīti? Nāpajjati asamānajātikena cetopaṇidhivasena, upaghātakena ca nivattetabbavipākattā anantarekantaphaladāyakattābhāvā, na pana ānantariyānaṃ paṭhamajjhānādīnaṃ dutiyajjhānādīni viya asamānajātikaṃ phalanivattakaṃ atthi sabbānantariyānaṃ avīciphalattā, na ca heṭṭhūpapattiṃ icchato sīlavato cetopaṇidhi viya uparūpapattijanakakammabalaṃ ānantariyabalaṃ nivattetuṃ samattho cetopaṇidhi atthi anicchantasseva avīcipātanato, na ca ānantariyupaghātakaṃ kiñci kammaṃ atthi. Tasmā tesaṃyeva anantarekantavipākajanakasabhāvā pavattīti. Anekāni ca ānantariyāni katāni ekante vipāke niyatattā uparatāvipaccanasabhāvāsaṅkattā nicchitāni sabhāvato niyatāneva. Cutianantaraṃ pana phalaṃ anantaraṃ nāma, tasmiṃ anantare niyuttāni, tannibbattanena anantarakaraṇasīlāni anantarapayojanāni cāti sabhāvato ānantariyāneva ca honti. Tesu pana samānasabhāvesu ekena vipāke dinne itarāni attanā kātabbakiccassa teneva katattā na dutiyaṃ tatiyañca paṭisandhiṃ karonti, na samatthatāvighātattāti natthi tesaṃ niyatānantariyatānivattīti. Na hi samānasabhāvaṃ samānasabhāvassa samatthataṃ vihanatīti. Ekassa pana aññānipi upatthambhakāni hontīti daṭṭhabbānīti. Sammāsabhāveti saccasabhāve. Niyato ekantiko anantarameva phaladānenāti sammattaniyamato. Na niyatoti ubhayathāpi na niyato. Avasesānaṃ dhammānanti kilesānantariyakammaniyyānikadhammehi aññesaṃ dhammānaṃ.
このように他の順次受業も、他に異熟を与えるものがない場合には死の直後に必ず果報を与えることから、無間の自性、決定の自性の生起が帰着するのではないか。そうはならない。同類でない心の祈願に基づいて、また妨害する業によって阻止されるべき異熟であることから、直後に必ず果報を与えるものではないからである。しかし無間業には、初禅などに対する第二禅などのように、同類でなく果報を阻止するものは存在しない、すべての無間業は阿鼻地獄を果報とするからである。そして、下層への転生を望む持戒者の心の祈願が上層への転生を生じさせる業の力を阻止するように、無間業の力を阻止することができる心の祈願は存在しない、望まない者であってもまさに阿鼻地獄に落とすからである。そして無間業を妨害するいかなる業も存在しない。それゆえにそれら(無間業)のみが直後に必ず異熟を生み出す自性として生起するのである。そして、多くの無間業がなされたとしても、必ず異熟において決定していることから、異熟が生じなくなる性質の疑いがないため、確定したものとして自性からまさに決定なのである。そして死の直後の果報が無間(直後)と名づけられ、その無間に配置され、それを生じさせることによって直後をなす性質であり、直後を目的とするものであるから、自性からまさに無間業なのである。しかしそれら同等の自性をもつものの中で、一つによって異熟が与えられたとき、他のものは自身がなすべき作用がそれによってなされたがゆえに、第二、第三の結生をなすことはないが、能力が損なわれたからではないため、それらに決定・無間たる状態の消滅はない。同等の自性が同等の自性の能力を損なうことはないからである。しかし一つの業に対して他の業も補助するものとなると見なされるべきである。「正の自性において」とは、真実の自性において。「決定」とは、直後に果報を与えることによって絶対的であることから正性決定である。「不決定」とは、両様のいずれにおいても決定していないことである。「残りの諸法」とは、煩悩、無間業、出離の法以外の諸法のことである。
Tamandhakāroti tamo andhakāroti padavibhāgo. Avijjā tamo nāma ārammaṇassa chādanaṭṭhena. Tenevāha ‘‘tamo vihato, āloko uppanno (ma. ni. 1.385; pārā. 12), tamokkhandho padālito’’ti (saṃ. ni. 1.164) ca ādi. Avijjāsīsena vicikicchā vuttā mahatā sammohena sabbakālaṃ aviyujjanato. Āgammāti patvā. Kaṅkhatīti ‘‘ahosiṃ nu kho ahaṃ atītamaddhāna’’ntiādinā (ma. ni. 1.18; saṃ. ni. 2.20) kaṅkhaṃ uppādeti saṃsayaṃ āpajjati. Adhimuccituṃ na sakkotīti pasādādhimokkhavasena adhimuccituṃ na sakkoti. Tenāha **‘‘na sampasīdatī’’**ti. Yāvattakañhi yasmiṃ vatthusmiṃ vicikicchā na vigacchati, tāva tattha saddhādhimokkho anavasarova. Na kevalaṃ saddhādhimokkho, nicchayādhimokkhopi tattha na patiṭṭhahati eva.
「暗黒」とは、闇、暗黒という言葉の区分である。無明は対象を覆い隠すという意味で闇と名づけられる。それゆえに「闇は破られ、光が生じた」「暗黒の塊は打ち破られた」等と言われた。無明を主導として疑が説かれた、大いなる迷妄と常に離れないからである。「至って」とは、到達して。「疑う」とは、「私は過去世に存在しただろうか」等によって疑いを生じさせ、疑惑に陥ることである。「信解することができない」とは、浄信による勝解(決着)に基づいて信解することができない。それゆえに「澄浄しない」と述べた。ある対象において疑いが消失しない限り、そこには信仰による勝解の入る余地は全くないからである。単に信仰による勝解のみならず、決定による勝解もまたそこには決して確立しないのである。
Na rakkhitabbānīti ‘‘imāni mayā rakkhitabbānī’’ti evaṃ katthaci rakkhākiccaṃ natthi parato rakkhitabbasseva abhāvato. Satiyā eva rakkhitānīti muṭṭhassaccassa bodhimūle eva savāsanaṃ samucchinnattā satiyā rakkhitabbāni nāma sabbadāpi rakkhitāni eva. Natthi tathāgatassa kāyaduccaritanti tathāgatassa kāyaduccaritaṃ nāma nattheva, yato suparisuddho kāyasamācāro bhagavato. No aparisuddhā, parisuddhā eva aparisuddhihetūnaṃ kilesānaṃ pahīnattā. Tathāpi vinaye apakataññutāvasena siyā tesaṃ apārisuddhileso, na bhagavatoti dassetuṃ **‘‘na panā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha vihārakāraṃ āpattinti ekavacanavasena ‘‘āpattiyo’’ti ettha āpatti-saddaṃ ānetvā yojetabbaṃ. Abhidheyyānurūpañhi liṅgavacanāni honti. Esa nayo sesesupi. **‘‘Manodvāre’’**ti idaṃ tassā āpattiyā akiriyasamuṭṭhānatāya vuttaṃ. Na hi manodvāre paññattā āpatti atthīti. Saupārambhavasenāti savattabbatāvasena, na pana duccaritalakkhaṇāpattivasena, yato naṃ bhagavā paṭikkhipati. Yathā āyasmato mahākappinassāpi ‘‘gaccheyyaṃ vāhaṃ uposathaṃ, na vā gaccheyyaṃ. Gaccheyyaṃ vāhaṃ saṅghakammaṃ, na vā gaccheyya’’nti (mahāva. 137) parivitakkitaṃ. Manoduccaritanti manodvārikaṃ appasatthaṃ caritaṃ. Satthārā appasatthatāya hi taṃ duccaritaṃ nāma jātaṃ, na sabhāvato.
「護られるべきではない」とは、「これらは私によって護られるべきである」とこのようにどこにおいても護るべき作用はない、他者から護るべきものそのものがないからである。「正念によって護られている」とは、忘念が菩提樹の根元においてすでに習気とともに完全に断滅されているがゆえに、正念によって護られるべきものは常に護られているのである。「如来には身悪行はない」とは、如来には身悪行というものは決して存在しない、世尊の身体的振る舞いは完全に清浄であるからである。「不清浄ではない、清浄そのものである」とは、不清浄の原因である煩悩が断ぜられているからである。それでも律において、無知に基づいて彼らに不清浄のわずかな兆候があるかもしれないが、世尊にはないことを示すために「しかし……ではない」等と説かれた。そこにおいて「精舎の建設の罪(僧残罪)」とは、単数形に基づいて「罪」という言葉を引き入れて結びつけるべきである。表現される対象に応じて性や数は一致するからである。この理趣は残りにおいても同様である。「意門において」とは、その罪が不作為所起であることによって説かれた。意門において制定された罪は存在しないからである。「非難を伴うことに基づいて」とは、とがめられるべき状態に基づいているのであって、悪行の特徴をもつ罪に基づくのではない、それゆえに世尊はそれを否定されるのである。尊者マハーカッピナも「私は布薩に行くべきか、行くべきではないか。私は僧伽の行為(羯磨)に行くべきか、行くべきではないか」(大品137)と思索したように。「意悪行」とは、意門に属する賞賛されない振る舞いである。師(仏)によって賞賛されないがゆえにそれは悪行と名づけられたのであって、自性によるのではない。
Yasmā mahākāruṇiko bhagavā sadevakassa lokassa hitasukhāya eva paṭipajjamāno accantavivekajjhāsayatāya tabbidhuraṃ dhammasenāpatino cittuppādaṃ paṭikkhipanto ‘‘na kho te…pe… uppādetabba’’nti avoca, tasmā so therassa cittuppādo bhagavato na pāsaṃsoti katvā manoduccaritaṃ nāma jāto, tassa ca paṭikkhepo upārambhoti āha **‘‘tasmiṃ manoduccarite upārambhaṃ āropento’’**ti. Bhagavato pana ettakampi natthi, yato pavāraṇāsutte ‘‘handa dāni, bhikkhave, pavāremi vo, na ca me kiñci garahatha kāyikaṃ vā vācasikaṃ vā’’ti (saṃ. ni. 1.215) vutto bhikkhusaṅgho ‘‘na kho mayaṃ bhante bhagavato kiñci garahāma kāyikaṃ vā vācasikaṃ vā’’ti satthu parisuddhakāyasamācārādikaṃ sirasā sampaṭicchi. Ayañhi lokanāthassa duccaritābhāvo bodhisattabhūmiyampi cariyācirānugato ahosi, pageva buddhabhūmiyanti dassento **‘‘anacchariyañceta’’**ntiādimāha.
大悲の世尊は、神々を含む世界全体の利益と幸福のために実践され、完全なる遠離の意向を持たれるがゆえに、それとは相容れない法将軍(サーリプッタ)の心の起こりを否定して、「そなたには……生じさせるべきではない」と仰せられた。それゆえ、その長老の心の起こりは世尊にとって称賛されるものではないことから意の悪行と名づけられ、その否定は非難であるとして、「その意の悪行に非難を置きつつ」と言われたのである。しかし世尊にはそのようなものは全くない。自恣経において「さあ今や、比丘たちよ、私はそなたたちに自恣する。私の身体的あるいは言葉の振る舞いについて何ら非難することはないか」と言われた比丘僧伽は、「尊師よ、私たちは世尊の身体的あるいは言葉の振る舞いについて何ら非難することはありません」と師の清浄な身の振る舞い等を恭しく受け入れた。実にこの世の導師の悪行の不存在は、菩薩の階位においても長きにわたる行いに従ったものであり、仏の階位においては言うまでもないことを示すために、「またこれは驚くべきことではない」などと言われたのである。
Buddhānaṃyeva dhammā guṇā, na aññesanti buddhadhammā. Tathā hi te buddhānaṃ āveṇikadhammāti vuccanti. Tattha **‘‘natthi tathāgatassa kāyaduccarita’’**ntiādinā kāyavacīmanoduccaritābhāvavacanaṃ yathādhikāraṃ kāyakammādīnaṃ ñāṇānuparivattitāya laddhaguṇakittanaṃ, na āveṇikadhammantaradassanaṃ. Sabbasmiñhi kāyakammādike ñāṇānuparivattini kuto kāyaduccaritādīnaṃ sambhavo. **‘‘Buddhassa appaṭihatañāṇa’’**ntiādinā vuttāni sabbaññutaññāṇato visuṃyeva tīṇi ñāṇāni catuyonipañcagatiparicchedakañāṇāni viyā’’ti vadanti. Ekaṃyeva hutvā tīsu kālesu appaṭihatañāṇaṃ nāma sabbaññutaññāṇameva. Natthi chandassa hānīti sattesu hitachandassa hāni natthi. Natthi vīriyassa hānīti khemapavivekavitakkānugatassa vīriyassa hāni natthi. ‘‘Natthi davāti khiḍḍādhippāyena kiriyā natthi. Natthi ravāti sahasā kiriyā natthī’’ti vadanti, sahasā pana kiriyā davā ‘‘aññaṃ karissāmī’’ti aññakaraṇaṃ ravā. Khalitanti virajjhanaṃ ñāṇena apphuṭaṃ. Sahasāti vegāyitattaṃ turitakiriyā. Abyāvaṭo manoti niratthako cittasamudācāro. Akusalacittanti aññāṇupekkhamāha, ayañca dīghabhāṇakānaṃ pāṭho ākulo viya. Ayaṃ pana pāṭho anākulo –
諸仏だけの法・徳であり、他者のものではないから仏法(諸仏の特質)である。実にそれらは諸仏の不共法(特有の徳)と呼ばれる。その中で「如来には身の悪行は存在しない」などと身・口・意の悪行の不存在を説くことは、身業等の知見への随順による獲得された徳を順序に応じて称賛するものであり、他の不共法を示すものではない。実にすべての身業等において知見に随順しているならば、どうして身の悪行等が生じることがあろうか。「仏の無礙の知見」などと言われるものは、一切知知見とは別に三つの知見があり、四生・五趣を判別する知見のようなものである、と彼らは言う。三世において無礙の知見とは、一つでありながら実に一切知知見そのものである。「志向の減退はない」とは、衆生に対する利益の志向の減退はないということである。「精進の減退はない」とは、安穏と遠離の思惟に随順する精進の減退はないということである。「遊戯はない」とは、戯れの意図による行為はないということである。「叫声はない」とは、軽率な行為はないということである、と彼らは言う。しかし軽率な行為が「遊戯」であり、「別のことをしよう」と別のことを為すのが「叫声」である。「誤謬」とは知見により遍満されない過誤である。「軽率」とは性急さ、急な行為である。「無関心な心」とは無益な心の活動である。「不善の心」とは無知の捨(無関心)を意味しており、この長部誦者の読誦は乱れているかのようである。しかし、こちらの読誦は乱れがない――
Atītaṃse buddhassa bhagavato appaṭihatañāṇaṃ, anāgataṃse, paccuppannaṃse. Imehi tīhi dhammehi samannāgatassa buddhassa bhagavato sabbaṃ kāyakammaṃ ñāṇapubbaṅgamaṃ ñāṇānuparivatti, sabbaṃ vacīkammaṃ, sabbaṃ manokammaṃ. Imehi chahi dhammehi samannāgatassa buddhassa bhagavato natthi chandassa hāni, natthi dhammadesanāya, natthi vīriyassa, natthi samādhissa, natthi paññāya, natthi vimuttiyā. Imehi dvādasahi dhammehi samannāgatassa buddhassa bhagavato natthi davā, natthi ravā, natthi apphuṭaṃ, natthi vegāyitattaṃ, natthi abyāvaṭamano, natthi appaṭisaṅkhānupekkhāti.
過去世において仏・世尊の無礙の知見があり、未来世において、現在世においてもある。これら三つの法を具えた仏・世尊のすべての身業は知見が先導し、知見に随順し、すべての口業も、すべての意業も同様である。これら六つの法を具えた仏・世尊には、志向の減退はなく、法を説くことの減退はなく、精進の減退はなく、三昧の減退はなく、智慧の減退はなく、解脱の減退はない。これら十二の法を具えた仏・世尊には、遊戯はなく、叫声はなく、遍満されない過誤はなく、性急さはなく、無関心な心はなく、無思慮の捨はない。
Tattha appaṭisaṅkhānupekkhāti aññāṇupekkhā. Sesaṃ vuttanayameva. Ettha ca tathāgatassa ājīvapārisuddhiṃ kāyavacīmanosamācārapārisuddhiyāva saṅgahetvā samācārattayavasena mahātherena tiko desito.
その中で「無思慮の捨」とは、無知の捨のことである。残りはすでに説かれた方法の通りである。そしてここでは、如来の生計の清浄を身・口・意の行いの清浄の中に含めて、三種の行いのあり方によって大長老により三組の法が説かれたのである。
Kiñcanāti kiñcikkhā. Ime pana rāgādayo palibundhanaṭṭhena kiñcanā viyāti kiñcanā. Tenāha **‘‘kiñcanāti palibodhā’’**ti.
「障害(キンチャナ)」とは僅かな執着である。しかしこれら貪り等は繋縛するという意味において障害のようであるから障害と呼ばれる。それゆえ「障害とは繋縛のことである」と言われた。
Anudahanaṭṭhenāti anu anu dahanaṭṭhena. Rāgādayo arūpadhammā ittarakkhaṇā kathaṃ anudahantīti āsaṅkaṃ nivattetuṃ **‘‘tattha vatthūnī’’**ti vuttaṃ, daṭṭhabbānīti vacanaseso. Tatthāti tasmiṃ rāgādīnaṃ anudahanaṭṭhe. Vatthūnīti sāsane, loke ca pākaṭattā paccakkhabhūtāni kāraṇāni. Rāgo uppanno tikhiṇakaro hutvā. Tasmā taṃsamuṭṭhānā tejodhātu ativiya tikhiṇabhāvena saddhiṃ attanā sahajātadhammehi hadayappadesaṃ jhāpesi yathā taṃ bāhirā tejodhātu sanissayaṃ. Tena sā bhikkhunī supato viya byādhi jhāyitvā matā. Tenāha **‘‘teneva jhāyitvā kālamakāsī’’**ti. Dosassa nissayānaṃ dahanatā pākaṭā evāti itaraṃ dassetuṃ **‘‘mohavasena hī’’**tiādi vuttaṃ. Ativattitvāti atikkamitvā.
「焼き尽くすという意味において」とは、順次に焼き尽くすという意味においてである。貪り等の非物質の法は一瞬のものであるのに、いかにして焼き尽くすのかという疑念を取り除くために、「そこでの事柄は」と言われた。「見られるべきである」という言葉が補われる。「そこでの」とは、その貪り等が焼き尽くすという意味においてである。「事柄」とは、教えと世間において明白であることから現前の事実となっている原因のことである。貪りが生じ、激しい熱を帯びるものとなった。それゆえ、それに起因する火の要素(火界)が極めて激しい状態となり、自分とともに生じた諸法とともに、外部の火の要素が所依を焼き尽くすかのように心臓の部位を焼き尽くした。それによりその比丘尼は、あたかも眠っているかのように病に苦しみ焼かれて亡くなった。それゆえ「それによって焼かれて死を迎えた」と言われた。怒りが所依を焼き尽くすことは明白であるので、他のものを示すために「実に愚痴によって」などと言われた。「乗り越えて」とは踏み越えて、ということである。
Kāmaṃ āhuneyyaggiādayo tayo aggī brāhmaṇehi icchitā santi, te pana tehi icchitamattā, na sattānaṃ tādisā atthasādhakā. Ye pana sattānaṃ atthasādhakā, te dassetuṃ **‘‘āhunaṃ vuccatī’’**tiādi vuttaṃ. Tattha ādarena hunanaṃ pūjanaṃ āhunanti sakkāro ‘‘āhuna’’nti vuccati, taṃ āhunaṃ arahanti. Tenāha bhagavā ‘‘āhuneyyāti bhikkhave mātāpitūnametaṃ adhivacana’’nti (itivu. 106). Yadaggena ca te puttānaṃ bahukāratāya āhuneyyāti tesu sammāpaṭipatti nesaṃ hitasukhāvahā, tadaggena tesu micchāpaṭipatti ahitadukkhāvahāti āha **‘‘tesu…pe… nibbattantī’’**ti. Svāyamatthoti yo mātāpitūnaṃ attano upari vippaṭipannānaṃ puttānaṃ anudahanassa paccayabhāvena anudahanaṭṭho, so ayamattho. Mittavindakavatthunāti mittavindakassa nāma mātari vippaṭipannassa purisassa tāya eva vippaṭipattiyā cirataraṃ kālaṃ āpāyikadukkhānubhavanadīpanena vatthunā veditabbo.
確かに供養火などの三つの火はバラモンたちによって望まれるが、それらは彼らによって望まれるだけであり、衆生にそのような利益をもたらすものではない。しかし衆生に利益をもたらすものを示すために、「供養すべきものと言われる」などと言われた。そこにおいて恭敬をもって捧げ供養することを「供養」といい、敬意あるもてなしを「供養すべきもの」と呼び、彼らはその供養を受けるに値する。それゆえ世尊は「比丘たちよ、供養を受けるに値する者とは父母の同義語である」と言われた。そして彼らが子にとって多大な恩恵があるがゆえに供養に値するように、彼らに対する正しき行いは彼らに利益と幸福をもたらし、それ相応に彼らに対する誤った行いは不利益と苦痛をもたらすとして、「彼らに対して……生じる」と言われた。「この意味」とは、自らに違背した子らを焼き尽くす原因としての焼き尽くすという意味のことであり、それがこの意味である。「ミッタヴィンダカの物語によって」とは、ミッタヴィンダカという名で母に違背した男が、まさにその違背によって極めて長い間悪処の苦痛を経験したことを解明した物語によって知られるべきである。
Idāni tamatthaṃ kassapassa bhagavato kāle pavattaṃ vibhāvetuṃ **‘‘mittavindako hī’’**tiādi vuttaṃ. Dhanalobhena, na dhammacchandenāti adhippāyo. Akutobhayaṃ kenaci anuṭṭhāpanīyatāya. Nivāresi samuddapayātā nāma bahvantarāyāti adhippāyena. Antaraṃ katvāti atikkamanavasena dvinnaṃ pādānaṃ antare katvā.
今やその事柄がカッサパ世尊の時代に生じたことを明らかにするために、「実にミッタヴィンダカは」などと言われた。財への貪欲によるものであり、法への希求によるのではない、という意味である。「恐れがない」とは、誰によっても制止され得ないことによる。「押し止めた」とは、海へ船出することは多くの障害があるという意図によるものである。「間において」とは、踏み越えることによって両足の間に置いて、ということである。
Nāvā aṭṭhāsi tassa pāpakammabalena vātassa avāyanato. Ekadivasaṃ rakkhitauposathakammānubhāvena sampattiṃ anubhavanto. Yathā purimāhi parato mā agamāsīti vutto, evaṃ aparāparāhipīti āha **‘‘tāhi ‘parato parato mā agamāsī’ti vuccamāno’’**ti. Khuracakkadharanti khuradhārūpamacakkadharaṃ ekaṃ purisaṃ. Upaṭṭhāsi pāpakammassa balena.
「船は停止した」とは、彼の悪業の力により風が吹かなくなったことによる。「一日の布薩を守った業の威力によって」富貴を享受しながら。以前の女たちから「これ以上進んではなりません」と言われたように、後々の女たちからも言われたとして、「彼女らから『これ以上、これ以上進んではなりません』と言われながら」と言われた。「剃刀の輪を持つ者」とは、剃刀の刃の形をした車輪を頭に載せている一人の男のことである。「現れた」とは、悪業の力によってである。
Catubbhīti catūhi accharāsadisīhi vimānapetīhi, sampattiṃ anubhavitvāti vacanaseso. Aṭṭhajjhagamāti rūpādikāmaguṇehi tato visiṭṭhatarā aṭṭha vimānapetiyo adhigacchi. Atricchanti atricchāsaṅkhātena atilobhena samannāgatattā atra atra kāmaguṇe icchanto. Cakkanti khuracakkaṃ. Āsadoti anatthāvahabhāvena āsādeti.
「四人によって」とは、天女に似た四人の宮殿餓鬼によって、富貴を享受して、という言葉が補われる。「八人に出会った」とは、容色などの愛欲の特質においてそれよりも優れた八人の宮殿餓鬼に出会った。「過度の欲望」とは、過剰な欲望と呼ばれる極度の貪欲を具えていることから、あちこちで愛欲の特質を欲しつつ。「車輪」とは剃刀の輪である。「近づく」とは、不利益をもたらすものとして近寄る。
Soti gehasāmiko bhattā. Purimanayenevāti anudahanassa paccayatāya.
「彼」とは家の主人である夫のことである。「前述の方法によって」とは、焼き尽くす原因であることによってである。
Aticārinīti sāmikaṃ atikkamitvā cārinī micchācārinī. Rattiṃ dukkhanti attano pāpakammānubhāvasamupaṭṭhitena sunakhena khāditabbatādukkhaṃ. Vañcetvāti taṃ ajānāpetvāva kāraṇaṭṭhānagamanaṃ sandhāya vuttaṃ. Paṭapaṭantīti paṭapaṭā katvā. Anuravadassanañhetaṃ. Muṭṭhiyogo kirāyaṃ tassa sunakhantaradhānassa, yadidaṃ kheḷapiṇḍaṃ bhūmiyaṃ niṭṭhubhitvā pādena ghaṃsanaṃ. Tena vuttaṃ ‘‘so tathā akāsi. **Sunakhā antaradhāyiṃsū’’**ti.
「不貞の女」とは、夫を踏み越えて行動する女、邪淫の女である。「夜の苦痛」とは、自らの悪業の威力によって現れた犬に食い荒らされる苦痛である。「欺いて」とは、彼に気づかれないようにして処罰の場所へ行くことを指して言われた。「パタパタと音を立てて」とは、パタパタという音を立ててである。これは反復する音を示すものである。実にその犬を消滅させる秘法とは、地面に唾の塊を吐き出し、足でこすることである。それゆえ「彼はそのようにした。犬たちは消滅した」と言われた。
Dakkhiṇāti cattāro paccayā diyyamānā dakkhanti etehi hitasukhānīti. Taṃ dakkhiṇaṃ arahatīti dakkhiṇeyyo, bhikkhusaṅgho. Revatīvatthu vimānavatthupetavatthūsu (vi. va. 861 ādayo) tesaṃ aṭṭhakathāyañca (vi. va. 977-980; pe. va. aṭṭha. 714-736) āgatanayena veditabbaṃ.
「布施の品(ダッキナー)」とは、与えられることによってこれらにより利益と幸福を見る(もたらす)四つの資具である。その布施を受けるに値するから「布施を受けるに値する者(ダッキネッヤ)」であり、比丘僧伽のことである。レヴァティーの物語は『天宮事』『餓鬼事』およびそれらの注釈書において説かれた方法によって知られるべきである。
‘‘Tividhena rūpasaṅgaho’’ti ettha nanu saṅgaho ekavidhova, so kasmā ‘‘catubbidho’’ti vuttoti? ‘‘Saṅgaho’’ti atthaṃ avatvā aniddhāritatthassa saddasseva vuttattā. ‘‘Tividhena rūpasaṅgaho’’tiādīsu (dha. sa. rūpakaṇḍa-tike) padesu saṅgaha-saddo tāva attano atthavasena catubbidhoti ayañhettha attho. Atthopi vā aniddhāritaviseso sāmaññena gahetabbataṃ patto ‘‘tividhena rūpasaṅgaho’’tiādīsu (dha. sa. rūpakaṇḍa-tike) ‘‘saṅgaho’’ti vuttoti na koci doso. Niddhārite hi visese tassa ekavidhatā siyā, na tato pubbeti. **‘‘Jātisaṅgaho’’**ti vuttepi jāti-saddassa sāpekkhasaddattā attano jātiyā saṅgahoti ayamattho viññāyateva sambandhārahassa aññassa avuttattā yathā ‘‘mātāpitu upaṭṭhāna’’nti (khu. pā. 5.6; su. ni. 265). Aṭṭhakathāyaṃ pana yathādhippetamatthaṃ aparipuṇṇaṃ katvā dassetuṃ ‘‘jātisaṅgaho’’ icceva vuttaṃ. Samānajātikānaṃ saṅgaho, samānajātiyā vā saṅgaho sajātisaṅgaho. Sañjāyati etthāti sañjāti, sañjātiyā saṅgaho sañjātisaṅgaho, sañjātidesena saṅgahoti attho. Kiriyāya evarūpāya saṅgaho kiriyāsaṅgaho. Rūpakkhandhagaṇananti ‘‘rūpakkhandho’’ti gaṇanaṃ saṅkhyaṃ gacchati ruppanasabhāvattā. Tīhi koṭṭhāsehi rūpagaṇanāti vakkhamānehi tīhi bhāgehi rūpassa saṅgaho, gaṇetabbatāti attho.
「三種の物質の包摂」というここにおいて、実に包摂は一種類のみであるのに、なぜ「四種」と言われたのか。「包摂」という言葉の意味を特定せずに、意味を限定しない語それ自体が説かれたからである。「三種の物質の包摂」などの句において、包摂という言葉はまず自らの意味に基づいて四種である、というのがここでの意味である。あるいは、意味もまた区別を特定されず一般的に把握されるべきものとして「三種の物質の包摂」などにおいて「包摂」と説かれたのであるから、何ら過失はない。区別が特定されたならば、それは一種類となるであろうが、それ以前にはそうではない。「種類の包摂」と言っても、「種類」という言葉が関係を要する語であるため、結びつくべき他のものが説かれていないことから、「父母への仕え」のように自らの種類による包摂であるというこの意味が理解されるのである。しかし注釈書では、意図された意味を未完了にして示すために「種類の包摂」とだけ説かれた。同類のものたちの包摂、あるいは同類による包摂が「同類の包摂」である。ここで生じるから「生地」であり、生地による包摂が「生地の包摂」であり、生じた場所による包摂という意味である。このような働きの包摂が「働きの包摂」である。「物質の集まりの算定」とは、破壊される性質を持つことから「色蘊」という算定、呼称を受ける。「三つの部分による物質の算定」とは、後に説かれる三つの部分による物質の包摂、算定されるべきことという意味である。
Rūpāyatanaṃ nipassati paccakkhato vijānātīti nidassanaṃ, cakkhuviññāṇaṃ, nidassatīti vā nidassanaṃ, daṭṭhabbabhāvo, cakkhuviññāṇassa gocarabhāvo, tassa ca rūpāyatanato anaññattepi aññehi dhammehi rūpāyatanaṃ visesetuṃ aññaṃ viya katvā **‘‘saha nidassanenāti sanidassana’’**nti evamettha attho veditabbo. Dhammasabhāvasāmaññena hi ekībhūtesu dhammesu yo nānattakaro sabhāvo, so añño viya katvā upacarituṃ yutto. Evañhi atthavisesāvabodho hotīti. Cakkhupaṭihananasamatthatoti cakkhuno ghaṭṭanasamatthatāya. Ghaṭṭanaṃ viya ca ghaṭṭanaṃ daṭṭhabbaṃ. Dutiyena atthavikappena daṭṭhabbabhāvasaṅkhātaṃ nāssa nidassananti anidassananti yojanā. Ettha ca dasannaṃ āyatanānaṃ yathārahaṃ sayaṃ, nissayavasena ca sampattānaṃ, asampattānañca paṭimukhabhāvo aññamaññapatanaṃ paṭihananaṃ, yena byāpārādivikārapaccayantarasannidhāne cakkhādīnaṃ visayesu vikāruppatti. Tattha byāpāro cakkhādīnaṃ savisayesu āvicchannaṃ, rūpādīnaṃ iṭṭhāniṭṭhatā, tattha ca cittassa ābhujananti ime ādisaddasaṅgahitā. Tehi vikārappattiyā paccayantarabyāpārato aññanti katvā anuggahūpaghāto vikāro. Upanissayo pana appadhānassa paccayo idha gahito. Kāraṇakāraṇampi kāraṇamevāti gayhamāne siyā tassāpi saṅgahoti. Vuttappakāranti ‘‘cakkhuviññāṇasaṅkhāta’’nti vuttappakāraṃ. Nāssa paṭighoti etthāpi ‘‘vuttappakāra’’nti ānetvā sambandho. Avasesaṃ soḷasavidhaṃ sukhumarūpaṃ.
色処をよく観察する、直接に識別するから「明示(見本)」であり、眼識のことである。あるいは見られるから「明示」であり、見られるべき状態、眼識の対象となる状態のことであり、それも色処と別個ではないが、他の法と色処を区別するために別のもののようにして「明示とともに具わるから有見」とこのようにここでの意味を知るべきである。法の本性の一致により一体となった諸法において、多様性をもたらす本性は、別のもののようにして比喩的に用いるのが適切である。このようにしてこそ独特の意味の理解が生じるからである。「眼を撃つことができることから」とは、眼に衝突する能力があることによる。そして衝突のような衝突と見られるべきである。第二の意味の解釈によれば、見られるべき状態と呼ばれる明示を持たないから「無見」であると解釈される。そしてここにおいて十の処が、それぞれ自ら、あるいは所依の力によって到達したもの、未到達のものとして向かい合うこと、互いにぶつかり合うことが「衝突(対照)」であり、それによって作用等の変異の他の条件が臨在するとき、眼等に対象における変異が生じる。そこでの作用とは、眼等の自らの対象に対する覆いなきこと、色等の望ましいこと・望ましくないことであり、そこにおける心の傾倒、これらが「等」の語に含まれる。これらによる変異の獲得は、他の条件の作用とは別であるとして、恩恵と損害という変異である。しかしここでは主たる原因ではない条件が「強い依処」として把握されている。「原因の原因もまた原因である」と把握されるならば、それも包摂されるであろう。「説かれた通りの」とは、「眼識と呼ばれる」と説かれた通りのことである。「これに対立(衝突)はない」というここでも「説かれた通りの」という言葉を導いて結びつける。残りは十六種の微細な物質である。
Saṅkharontīti sampiṇḍenti. Cetanā hi āyūhanarasatāya yathā sampayuttadhamme yathāsakaṃ kiccesu saṃvidahantī viya abhisandahantī vattamānā teneva kiccavisesena te sampiṇḍentī viya hoti, evaṃ attano vipākadhammepi paccayasamavāye saṅkharontī sampiṇḍentī viya hoti. Tenāha **‘‘sahajāta…pe… rāsī karontī’’**ti. Abhisaṅkharotīti abhivisiṭṭhaṃ katvā saṅkharoti. Puññābhisaṅkhāro hi attano phalaṃ itarassa phalato ativiya visiṭṭhaṃ bhinnaṃ katvā saṅkharoti paccayato, sabhāvato, pavattiākārato ca sayaṃ itarehi visiṭṭhasabhāvattā. Esa nayo itarehipi. Pujjabhavaphalanibbattanato, attano santānassa punanato ca puñño.
「形成する」とは、積み集めることである。実に意思は集積する働きを持つがゆえに、相応する法をそれぞれの役割に配置するかのように、結合させて機能しつつ、まさにその特別な働きによってそれらを積み集めるかのようになり、同様に自らの異熟法をも条件の結合において形成し、積み集めるかのようになる。それゆえ「倶生……積み集める」と言われた。「勝れて形成する」とは、極めて優れたものとして形成することである。実に福行(功徳の形成)は、自らの結果を他の結果から極めて優れたもの、別個のものとして形成する。条件の面からも、本性の面からも、働きの様相の面からも、自らが他よりも優れた本性を持つからである。この方法は他(の行)においても同様である。敬うべき生存の結果を生み出すことから、また自らの連続を清めることから「福(功徳)」である。
Mahācittacetanānanti asaṅkhyeyyāyunipphādanādimahānubhāvatāya mahācittesu pavattacetanānaṃ. Aṭṭheva cetanā honti, yā kāmāvacarā kusalā. ‘‘Terasapī’’ti kasmā vuttaṃ, nanu ‘‘navā’’ti vattabbaṃ. Na hi bhāvanā ñāṇarahitā yuttāti anuyogaṃ sandhāyāha **‘‘yathā hī’’**tiādi. Kasiṇaparikammaṃ karontassāti kasiṇesu jhānaparikammaṃ karontassa. ‘‘Pathavī pathavī’’tiādi bhāvanā hi kasiṇaparikammaṃ. Tassa hi parikammassa supaguṇabhāvato anuyuttassa tattha ādarākaraṇena siyā ñāṇarahitacittaṃ. Jhānapaccavekkhaṇāyapi eseva nayo. Keci maṇḍalakaraṇampi bhāvanaṃ bhajāpenti.
「大心の意思の」とは、無数の寿命を成就させるなどの広大な威力を持つことによる、大心において生じる意思のことである。欲界の善なる意思は八つだけである。「十三も」となぜ説かれたのか。「九つ」と説くべきではないか。実に修行(修習)が智慧を欠くことは適切ではない、という問いに関して「実にこのように」などと言われた。「遍作を行う者の」とは、遍作(全体瞑想)において禅定の準備修行を行う者のことである。「地、地」などの瞑想が遍作である。実にその準備修行に極めて熟練した者が実践する中で、そこへの敬意を払わないことによって智慧を欠いた心が生じることがあり得る。禅定の省察においてもこの方法は同じである。ある人々は円形を描くことさえも修行(修習)に分類する。
Dānavasena pavattacittacetasikadhammā dānaṃ, tattha byāpārabhūtā āyūhanacetanā dānaṃ ārabbha, dānañca adhikicca uppajjatīti vuttā. Evaṃ itaresupi. Ayaṃ saṅkhepadesanāti ayaṃ puññābhisaṅkhāre saṅkhepato atthadesanā, atthavaṇṇanāti attho.
布施によって生じた心・心所法が「布施」であり、そこでの作用である集積の意思が布施を対象とし、布施に基づいて生じると説かれた。他についても同様である。「これは簡潔な説示である」とは、この福行における簡潔な意味の説示、意味の解説という意味である。
Somanassacittenāti anumodanāpavattidassanamattametaṃ daṭṭhabbaṃ. Upekkhāsahagatenāpi hi anussarati evāti. Kāmaṃ niccasīlaṃ, uposathasīlaṃ, niyamasīlampi sīlameva, paripuṇṇaṃ pana sabbaṅgasampannaṃ sīlaṃ dassetuṃ **‘‘sīlapūraṇatthāyā’’**tiādi vuttaṃ. Nayadassanaṃ vā etaṃ, tasmā ‘‘niccasīlaṃ, uposathasīlaṃ, niyamasīlaṃ samādiyissāmī’’ti vihāraṃ gacchantassa, samādiyitvā samādinnasīle ca tasmiṃ, ‘‘sādhu suṭṭhū’’ti āvajjantassa, taṃ sīlaṃ sodhentassa ca pavattā cetanā sīlamayāti evamettha yojanā veditabbā.
「喜悦の心によって」とは、随喜の働きの現れを示したに過ぎないと見なされるべきである。捨(平静)を伴う心によっても実に想起するからである。確かに常戒、布薩戒、限定戒も戒そのものであるが、完全ですべての要素を備えた戒を示すために「戒を満たすために」などと言われた。あるいはこれは方法の提示である。それゆえ「常戒、布薩戒、限定戒を受持しよう」と寺院へ赴く者の、受持してその受持した戒について「素晴らしい、実によい」と省察する者の、その戒を清浄にする者の生じた意思が「戒より成るもの」であると、このようにここでの解釈を知るべきである。
Pubbe samathavasena bhāvanānayo gahitoti idāni sammasananayena taṃ dassetuṃ **‘‘paṭisambhidāyaṃ vuttenā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha aniccatoti aniccabhāvato. Dukkhato, anattatoti etthāpi eseva nayo.
以前に止(サマタ)による修行の方法が示されたので、今や思惟観察(ヴィパッサナー)による方法によってそれを示すために「無礙解道において説かれたことによって」などと言われた。そこにおいて「無常であることから」とは、無常の状態であることからである。「苦であることから」「無我であることから」というここにおいてもこの方法は同じである。
Tattha ye pañcupādānakkhandhā nāmarūpabhāvena pariggahitā, te yasmā dvārārammaṇehi saddhiṃ dvārappavattadhammavasena vibhāgaṃ labhanti, tasmā dvārachakkādivasena cha chakkā gahitā. Yasmā pana lakkhaṇesu anattalakkhaṇaṃ dubbibhāvaṃ, tasmā tassa vibhāvanāya cha dhātuyo gahitā. Tato yesu kasiṇesu ito bāhirakānaṃ attābhiniveso, tāni imesaṃ jhānānaṃ ārammaṇabhāvena upaṭṭhānākāramattāni, imāni pana tāni jhānānīti dassanatthaṃ dasa kasiṇāni gahitāni. Tato dukkhānupassanāya parivārabhāvena paṭikkūlākāravasena dvattiṃsa koṭṭhāsā gahitā. Pubbe khandhavasena saṅkhepato ime dhammā gahitā, idāni nātisaṅkhepavitthāranayena ca manasi kātabbāti dassanatthaṃ dvādasāyatanāni, aṭṭhārasa dhātuyo ca gahitā. Tesu ime dhammā satipi suññānirīhaabyāpārabhāve dhammasabhāvato ādhipaccabhāvena pavattantīti anattabhāvavibhāvanatthaṃ indriyāni gahitāni. Evaṃ anekabhedabhinnāpi ime dhammā bhūmittayapariyāpannatāya tividhāva hontīti dassanatthaṃ tisso dhātuyo gahitā. Ettāvatā nimittaṃ dassetvā pavattaṃ dassetuṃ kāmabhavādayo nava bhavā gahitā. Ettake abhiññeyyavisese pavattamanasikārakosallena saṇhasukhumesu nibbattitamahaggatadhammesu manasikāro pavattetabboti dassanatthaṃ jhānaappamaññārūpāni gahitāni. Tattha jhānāni nāma vuttāvasesārammaṇāni rūpāvacarajjhānāni. Puna paccayapaccayuppannavibhāgato ime dhammā vibhajja manasikātabbāti dassanatthaṃ paṭiccasamuppādaṅgāni gahitāni. Paccayākāramanasikāro hi sukhena, suṭṭhutarañca lakkhaṇattayaṃ vibhāveti, tasmā so pacchato gahito. Evaṃ ete sammasanīyabhāvena gahitā khandhādivasena koṭṭhāsato pañcavīsatividhā, pabhedato pana atītādibhedaṃ anāmasitvā gayhamānā dvīhi ūnāni dvesatāni honti. Idaṃ tāvettha pāḷivavatthānaṃ, atthavicāraṃ pana icchantehi paramatthamañjūsāyaṃ visuddhimaggasaṃvaṇṇanāyaṃ vuttanayeneva veditabbaṃ.
そこにおいて、名色として把握された五取蘊は、感官の門と対象とともに感官の門に生じる法として区分を得るがゆえに、六つの門の六組等として六つの六組が把握された。しかし諸特徴の中で無我の特徴は理解しがたいがゆえに、それを解明するために六界が把握された。次に、この教えの外の者たちが自己への固執を持つ遍作の対象について、それらがこれら禅定の対象としての現れの様相に過ぎず、これらこそがその禅定であることを示すために十遍が把握された。次に苦の随観の助けとなるものとして、嫌悪すべき様相によって三十二の部位が把握された。以前には蘊によって簡潔にこれらの法が把握されたが、今や過度に簡潔でも過度に詳細でもない方法によって心に留められるべきであることを示すために、十二処と十八界が把握された。それらの中でこれらの法は、空であり、無為であり、無関心な状態であっても、法の本性から主導的な状態として機能することから、無我の状態を解明するために根(諸器官・能力)が把握された。このように多様に区分されるとしても、これらの法は三界に包摂されることから三種に過ぎないことを示すために、三つの界が把握された。これによって相を示し、生起した働きを示すために欲有などの九有が把握された。これほどの知るべき対象の差異において生起する適切な作意の熟練により、微細で奥深いものとして生じた広大なる法(色界・無色界の法)において作意を生起させるべきであることを示すために、禅定・無量心・無色定が把握された。そこにおいて「禅定」とは、説かれた残りの対象を持つ色界の禅定のことである。再び条件と条件によって生じたものの区分から、これらの法を分類して作意すべきであることを示すために、縁起の支分が把握された。実に縁起の様相の作意は、容易に、またより見事に三相を解明する。それゆえそれは最後に把握された。このように、思惟観察されるべきものとして把握されたものは、蘊等による区分としては二十五種であり、詳細な分類としては過去等の区分に触れずに把握するならば百九十八となる。これはまずここでの聖典の確定であるが、意味の探求を望む者は『勝義の宝函』(清浄道論の注釈書)において説かれた方法によって知るべきである。
Na puññoti apuñño. Tassa puñña-sadde vuttavipariyāyena attho veditabbo. Santānassa iñjanahetūnaṃ nīvaraṇādīnaṃ suvikkhambhanato rūpataṇhāsaṅkhātassa iñjitassa abhāvato aniñjaṃ, aniñjameva **‘‘āneñja’’**nti vuttaṃ. Tathā hi rūpārammaṇaṃ rūpanimittārammaṇaṃ sabbampi catutthajjhānaṃ nippariyāyena ‘‘āneñja’’nti vuccati.
「福(功徳)ならざるもの」とは非福(不善)である。その意味は「福」という言葉で説かれたことの反対として知るべきである。連続の動揺の原因である蓋(障害)等を完全に取り除くことから、物質への渇愛と呼ばれる動揺がないため「無動」であり、まさに無動のものを「不動(アーネンジャ)」と言った。実に物質を対象とし、物質の相を対象とするすべての第四禅は、直接的な表現として「不動」と呼ばれる。
Cattāro maggaṭṭhā, heṭṭhimā tayo phalaṭṭhāti evaṃ sattavidho. Tisso sikkhāti adhisīlādikā tisso sikkhā. Tāsu jātoti vā sekkho, ariyapuggalo hi ariyāya jātiyā jāyamāno sikkhāsu jāyati, na yoniyaṃ. Sikkhanasīloti vā sekkho. Puggalādhiṭṭhānāya vā kathāya sekkhassa ayanti aññāsādhāraṇamaggaphalattayadhammā sekkhapariyāyena vuttā. Asekkhoti ca yattha sekkhabhāvāsaṅkā atthi, tatthāyaṃ paṭisedhoti lokiyanibbānesu asekkhabhāvanāpatti daṭṭhabbā. Sīlasamādhipaññāsaṅkhātā hi sikkhā attano paṭipakkhakilesehivippamuttā parisuddhā upakkilesānaṃ ārammaṇabhāvampi anupagamanato etā ‘‘sikkhā’’ti vattuṃ yuttā aṭṭhasupi maggaphalesu vijjanti, tasmā catumaggaheṭṭhimaphalattayasamaṅgino viya arahattaphalasamaṅgīpi tāsu sikkhāsu jātoti ca taṃsamaṅgino arahato itaresaṃ viya sekkhatte sati sekkhassa ayanti ca sikkhā sīlaṃ etassāti ca ‘‘sekkho’’ti vattabbo siyāti tannivattanatthaṃ asekkhoti yathāvuttasekkhabhāvapaṭisedho kato. Arahattaphale hi pavattamānā sikkhā pariniṭṭhitasikkhākiccattā na sikkhākiccaṃ karonti, kevalaṃ sikkhāphalabhāveneva pavattanti, tasmā na tā sikkhāvacanaṃ arahanti, nāpi taṃsamaṅgī sekkhavacanaṃ, na ca ‘‘sikkhanasīlo, sikkhāsu jāto’’ti ca vattabbataṃ arahati. Heṭṭhimaphalesu pana sikkhā sakadāgāmimaggavipassanādīnaṃ upanissayabhāvato sikkhākiccaṃ karontīti sikkhāvacanaṃ arahanti, taṃsamaṅgino ca sekkhavacanaṃ, ‘‘sikkhanasīlā, sikkhāsu jātā’’ti ca vattabbataṃ arahanti.
四つの道に立つ者と下位の三つの果に立つ者というように七種類である。「三学」とは増上戒などの三つの学びである。それらの中に生じた者が有学(セッカ)である。聖者は実に聖なる生まれによって生まれるとき、学問(戒定慧の学び)の中に生まれるのであり、母胎の中に生まれるのではない。あるいは「学ぶことを習性とする者」が有学である。あるいは人格に基づいた言説において、有学のものであるとして、他と共有されない三つの道と果の法が「有学」という表現で説かれた。「無学(アセッカ)」とは、有学であることの疑念があるところにおいて、この否定がなされるのであり、世間的な涅槃において無学の境地に至らないことを見なすべきである。実に戒・定・慧と呼ばれる学びは、自らの対治すべき煩悩から解脱し清浄であり、随煩悩の対象となる状態にも近づかないことから、これらは「学び」と呼ばれるにふさわしく、八つの道と果のすべてに存在する。それゆえ、四道と下位の三果を具えた者のように阿羅漢果を具えた者もまたそれらの学びの中に生じたのであり、それを具えた阿羅漢が他の者のように有学であるとき、「有学のものである」「学びがこの者の習性である」として「有学」と呼ばれるべきとなってしまうため、それを退けるために「無学」として上述の有学の状態の否定がなされたのである。実に阿羅漢果において生起している学びは、学びの役割を完遂したものであるがゆえに学びの働きを行わず、単に学びの結果としてのみ生起する。それゆえそれらは「学び」という名に値せず、それを具えた者も「有学」という名に値せず、「学ぶことを習性とする者」「学びの中に生じた者」と呼ばれることにも値しない。しかし下位の果における学びは、一来道のヴィパッサナー等の強い依処となることから学びの働きを行うので「学び」という名に値し、それを具えた者も「有学」という名に値し、「学ぶことを習性とする者」「学びの中に生じた者」と呼ばれることに値するのである。
‘‘Sikkhatīti sekkho’’ti ca apariyositasikkho dassitoti. Anantarameva ‘‘khīṇāsavo’’ti ādiṃ vatvā ‘‘na sikkhatīti asekkho’’ti vuttattā pariyositasikkho dassito, na sikkhārahito tassa tatiyapuggalabhāvena gahitattā. Vuddhippattasikkho vā asekkhoti etasmiṃ atthe sekkhadhammesu eva ṭhitassa kassaci ariyassa asekkhabhāvāpattīti arahattamaggadhammā vuddhippattā, yathāvuttehi ca atthehi sekkhoti katvā taṃsamaṅgino aggamaggaṭṭhassa asekkhabhāvo āpannoti? Na taṃsadisesu tabbohārato. Arahattamaggato hi ninnānākaraṇaṃ arahattaphalaṃ ṭhapetvā pariññādikiccakaraṇaṃ, vipākabhāvañca, tasmā te eva sekkhadhammā ‘‘aggaphaladhammabhāvaṃ āpannā’’ti sakkā vattuṃ, kusalasukhato ca vipākasukhaṃ santataratāya paṇītataranti, vuddhippattā ca te dhammā hontīti taṃsamaṅgī ‘‘asekkho’’ti vuccatīti.
「学ぶから有学である」とは、学びを終えていない者が示されたのである。その直後に「漏尽者(煩悩を滅尽した者)」などと言って「学ばないから無学である」と説かれたことから、学びを終えた者が示されたのであり、学びを欠いた者ではない。そのような者は第三の人物として把握されているからである。あるいは「成長を極めた学びを持つ者が無学である」というこの意味において、有学の法の中にまさに留まっているある聖者が無学の状態に至るのではないか、すなわち阿羅漢道の法は成長を極めたものであり、上述の意味によって有学であるとして、それを具えた最上の道に立つ者が無学の状態に至ったことになるのではないか? それに類似した表現は用いられないからそうではない。実に阿羅漢道から、遍知などの役割を果たすことと異熟であることとを除いて、阿羅漢果に差異はない。それゆえそれら有学の法こそが「最上の果の法の状態に至った」と言うことができる。そして善の安楽よりも異熟の安楽の方が、より静穏であるがゆえにより勝れており、それらの法は成長を極めたものとなるので、それを具えた者が「無学」と呼ばれるのである。
Jātimahallakoti jātiyā vuḍḍhataro addhagato vayoanuppatto. So hi rattaññutāya yebhuyyena jātidhammakuladhammapadesu thāvariyappattiyā jātithero nāma. Therakaraṇā dhammāti sāsane thirabhāvakarā guṇā paṭipakkhanimmadanakā. Theroti vakkhamānesu dhammesu thirabhāvappatto. Sīlavāti pāsaṃsena sātisayena sīlena samannāgato, sīlasampannoti attho, etena dussīlyasaṅkhātassa bālyassa abhāvamāha. Suttageyyādi bahu sutaṃ etenāti bahussuto, etenāssa sutavirahasaṅkhātassa bālyassa abhāvaṃ, paṭisaṅkhānabalena ca patiṭṭhitabhāvaṃ vadati. **‘‘Catunnaṃ jhānānaṃ lābhī’’**ti iminā nīvaraṇādisaṅkhātassa bālyassa abhāvaṃ, bhāvanābalena ca patiṭṭhitabhāvaṃ katheti. **‘‘Āsavānaṃ khayā’’**tiādinā avijjāsaṅkhātassa bālyassa sabbaso abhāvaṃ, khīṇāsavattherabhāvena patiṭṭhitabhāvañcassa dasseti. Na cettha samudāye vākyaparisamāpanaṃ, atha kho paccekaṃ vākyaparisamāpananti dassento **‘‘evaṃ vuttesu dhammesū’’**tiādimāha. Theranāmako vā ‘‘thero’’ti evaṃ nāmako vā.
「生まれが高齢である」とは、生まれにおいて年長であり、高齢に達し、年齢を重ねた者である。実にその者は長年の経験によって概ね生まれの法、家系の法の領域において確固たる境地に至っていることから「生まれによる長老」と呼ばれる。「長老たらしめる法」とは、教えにおいて堅固な状態をもたらす徳であり、対立するものを粉砕するものである。「長老」とは、後に説かれる法において堅固な状態に至った者である。「具戒者」とは、称賛に値する優れた戒を具えた者、戒を成就した者という意味であり、これによって不道徳と呼ばれる愚かさの不存在を述べている。「経や応頌などの多くを聞いた」ことから多聞であり、これによってこの者の聞き学びを欠くという愚かさの不存在と、如実な省察の力によって確立された状態を述べている。「四つの禅定の獲得者」によって、蓋(障害)等と呼ばれる愚かさの不存在と、修習の力によって確立された状態を語る。「漏(煩悩)の滅尽により」などによって、無明と呼ばれる愚かさの完全な不存在と、漏尽の長老としての確立された状態を示す。そしてここでは全体で文を結ぶのではなく、それぞれ個別に文を結ぶのであるということを示しつつ、「このように説かれた法において」などと言われた。あるいは長老という名を持つ者、すなわち「長老」という名を持つ者のことである。
Anuggahavasena, pūjāvasena vā attano santakaṃ parassa dīyati etenāti dānaṃ, pariccāgacetanā. Dānameva dānamayaṃ. Padapūraṇamattaṃ maya-saddo. Puññañca taṃ yathāvuttenatthena kiriyā ca kammabhāvatoti puññakiriyā. Paresaṃ piyamanāpatāsevanīyatādīnaṃ ānisaṃsānaṃ. Pubbe…pe… vasenevāti saṅkhārattike (dī. ni. 3.305; dī. ni. aṭṭha. 3.305) vuttadānamayasīlamayabhāvanāmayacetanāvaseneva. Imāni veditabbānīti sambandho. Etthāti etesu puññakiriyavatthūsu. Kāyena karontassāti attano kāyena pariccāgapayogaṃ pavattentassa. Tadatthanti dānatthaṃ. ‘‘Imaṃ deyyadhammaṃ dehī’’ti vācaṃ nicchārentassa. Dānapāramiṃ āvajjetvā vāti yathā kevalaṃ ‘‘annadānādīni demī’’ti dānakāle taṃ dānamayaṃ puññakiriyavatthu hoti, evaṃ ‘‘imaṃ dānamayaṃ sammāsambodhiyā paccayo hotū’’ti dānapāramiṃ āvajjetvā dānakālepi dānasīseneva pavattitattā. Vattasīse ṭhatvāti ‘‘etaṃ dānaṃ nāma mayhaṃ kulavaṃso kulatanti kulapaveṇī kulacāritta’’nti cārittasīle ṭhatvā dadato cārittasīlamayaṃ. Yathā deyyadhammapariccāgavasena pavattamānāpi dānacetanā vattasīse ṭhatvā dadato sīlamayaṃ puññakiriyavatthu hoti pubbābhisaṅkhārassa, aparabhāgacetanāya ca tathā pavattattā, evaṃ deyyadhamme khayato, vayato sammasanaṃ paṭṭhapetvā dadato bhāvanāmayaṃ puññakiriyavatthu hoti pubbabhāgacetanāya, deyyadhamme aparabhāgacetanāya ca tathā pavattattā.
恩恵により、あるいは供養により自らの所有物が他者にこれによって与えられるから「布施」であり、放棄の意思のことである。布施そのものが「布施より成るもの」である。「〜より成る(マヤ)」という語は単なる語句の補足に過ぎない。福(功徳)であり、また上述の意味において行為(業)であることから「福業(功徳の行為)」である。他者に愛され、好まれ、親しまれるなどの功徳の、以前に……のあり方によってのみ、とは三行(身行・口行・意行)の項目において説かれた布施より成るもの、戒より成るもの、修習より成る意思のあり方によってのみ、ということである。「これらは知られるべきである」と結びつく。「ここにおいて」とは、これら福業事(功徳の基盤)においてである。「身体によって行う者の」とは、自らの身体によって放棄の活動を生起させる者の。「そのために」とは、布施のために。「この布施の品を与えよ」と言葉を発する者の。「布施波羅蜜を省察して、あるいは」とは、単に「食糧の施し等を与える」と布施の時にそれが布施より成る福業事となるように、「この布施より成るものが無上正等覚の条件となりますように」と布施波羅蜜を省察して布施の時にも布施の主導性によって生起したことによる。「義務の主導性に立って」とは、「この布施というものは私の家系、家の掟、家の伝統、家の慣習である」と慣行の戒に立って与える者の(布施は)慣行の戒より成るものである。布施の品の放棄によって生起する布施の意思であっても、義務の主導性に立って与える者には事前の形成と後々の意思がそのように生起したことから戒より成る福業事となるように、布施の品において滅尽、衰退の観察を始めて与える者には事前の意思と布施の品における後々の意思がそのように生起したことから、修習より成る福業事となるのである。
Apacīticetanā apacitisahagataṃ apacīyati etāyāti yathā nandīrāgo eva nandīrāgasahagatā, yathāvuttāya vā apacitiyā sahagataṃ sahapavattanti apacitisahagataṃ. Apacāyanavasena pavattaṃ puññakiriyavatthu. Vayasā guṇehi ca vuḍḍhatarānaṃ vattapaṭipattīsu byāvaṭo hoti yāya cetanāya, sā veyyāvaccaṃ, veyyāvaccameva veyyāvaccasahagataṃ. Veyyāvaccasaṅkhātāya vā vattapaṭipattiyā samuṭṭhāpanavaseneva sahagataṃ pavattanti veyyāvaccasahagataṃ, tathāpavattaṃ puññakiriyavatthu. Attano santāne pattaṃ puññaṃ anuppadīyati etenāti pattānuppadānaṃ. Tathā parena anuppadinnatāya pattaṃ abbhanumodati etenāti pattabbhanumodanaṃ. Ananuppadinnaṃ pana kevalaṃ abbhanumodīyati etenāti abbhanumodanaṃ. Dhammaṃ deseti etāyāti desanā, desanāva desanāmayaṃ. Suṇāti etenāti savanaṃ, savanameva savanamayaṃ. Diṭṭhiyā ñāṇassa ujugamanaṃ diṭṭhijugataṃ. Sabbattha ‘‘puññakiriyavatthū’’ti padaṃ apekkhitvā napuṃsakaliṅgatā.
恭敬の意思、恭敬を伴うもの、これによって恭敬されるから、あたかも喜貪そのものが喜貪を伴うものであるように、あるいは上述の恭敬を伴ってともに生起するから「恭敬を伴うもの」である。敬意を払うことによって生起した福業事である。年齢や徳において年長である者たちの義務や実践に携わる意思が「給仕(奉仕)」であり、給仕そのものが給仕を伴うものである。あるいは給仕と呼ばれる義務や実践を引き起こすことによってともに生起するから「給仕を伴うもの」であり、そのように生起した福業事である。自らの連続において得られた功徳がこれによって他者に与えられるから「回向(功徳の譲渡)」である。そのように他者から与えられたことによって得られたものをこれによって大いに喜ぶから「随喜(功徳の歓喜)」である。しかし与えられていないものを単に大いに喜ぶことが「随喜」である。これによって法を説くから「説法」であり、説法そのものが説法より成るものである。これによって聞くから「聞法」であり、聞法そのものが聞法より成るものである。見解によって知見が真っ直ぐに進むことが「正見の確立(見正直)」である。すべてにおいて「福業事(功徳の基盤)」という語を考慮して中性形となっている。
Pūjāvasena sāmīcikiriyā apacāyanaṃ apaciti. Vayasā guṇehi ca jeṭṭhānaṃ gilānānañca taṃtaṃkiccakaraṇaṃ veyyāvaccaṃ. Ayametesaṃ visesoti āha **‘‘tatthā’’**tiādi. Cattāro paccaye datvā sabbasattānanti ca ekadesato ukkaṭṭhaniddeso, yaṃ kiñci deyyadhammaṃ datvā, puññaṃ vā katvā ‘‘katipayānaṃ, ekasseva vā patti hotū’’ti pariṇāmanampi pattānuppadānameva. Taṃ na mahapphalaṃ taṇhāya parāmaṭṭhattā. Paresaṃ deseti hitapharaṇena muducittenāti ānetvā sambandhitabbaṃ. Evanti evaṃ imaṃ dhammaṃ sutvā bahussuto hutvā pare dhammadesanāya anuggaṇhissāmīti hitapharaṇena muducittena dhammaṃ suṇāti. Evañhissa savanaṃ attano, paresañca sammāpaṭipattiyā paccayabhāvato mahapphalaṃ bhavissatīti. Sabbesanti sabbesampi dasannaṃ puññakiriyavatthūnaṃ. Niyamalakkhaṇanti mahapphalabhāvassa niyāmakasabhāvaṃ. Diṭṭhiyā ujubhāvenevāti ‘‘atthi, natthī’’ti antadvayassa durasamussāritatāya ‘‘atthi dinna’’ntiādi (ma. ni. 2.94; 3.136; vibha. 793) nayappavattāya sammādiṭṭhiyā ujukameva pavattiyā. Dānādīsu hi yaṃ kiñci imāya eva sammādiṭṭhiyā parisodhitaṃ mahājutikaṃ mahāvipphāraṃ bhavati.
供養による礼儀正しい振る舞いが恭敬、敬意である。年齢や徳において年長である者たちや病者たちに対して種々の役割を果たすことが給仕である。これがこれらの区別であるとして、「そこにおいて」などと言われた。「四つの資具を与えてすべての衆生に」というのは一部による最上の提示であり、何らかの布施の品を与えて、あるいは功徳を為して「何人かに、あるいは一人に功徳の分け前がありますように」と振り向けることも回向そのものである。それは渇愛に執着されているため大いなる果をもたらさない。「利益の普及を願う柔軟な心で他者に説く」と言葉を補って結びつけるべきである。「このように」とは、このようにこの法を聞いて多聞となり他者を説法によって救済しようと利益の普及を願う柔軟な心で法を聞く。実にこのように彼の聞法は自らと他者の正しい実践の条件となることから、大いなる果をもたらすものとなるであろう。「すべての」とは、十の福業事のすべてについての。「決定づける特徴」とは、大いなる果をもたらす状態を決定する本性のことである。「見解の正直さによってのみ」とは、「有る、無い」という二つの極端を遠く退けたことによる、「施しには果報が有る」などの方法で生起した正見が真っ直ぐに生起することによる。実に布施等において、どのようなものであってもこの正見によって清められたものは大いなる輝きを持ち、大いなる広がりを持つものとなる。
Purimeheva tīhīti pāḷiyaṃ āgateheva tīhi. Sīlamaye puññakiriyavatthumhi saṅgahaṃ gacchanti cārittasīlabhāvato. Dānamaye saṅgahaṃ gacchanti dānasabhāvattā, dānavisayattā ca. Kāmaṃ desanā dhammadānasabhāvato dānamaye saṅgahaṃ gacchatīti vattuṃ yuttā, kusaladhammāsevanabhāvato pana vimuttāyatanasīse ṭhatvā pavattitā viya savanena saddhiṃ bhāvanāmaye saṅgahaṃ gacchantīti vuttaṃ. ‘‘Diṭṭhijugataṃ bhāvanāmaye’’ti keci. Diṭṭhijugate eva ca attanā katassa puññassa anussaraṇaṃ, tassa ca paresaṃ atthāya pariṇāmanaṃ, guṇapasaṃsā, aññehi kariyamānāya puññakiriyāya, sammāpaṭipattiyā ca anumodanaṃ saraṇagamananti evaṃ ādayo puññavisesā saṅgahaṃ gacchanti diṭṭhijukammavaseneva tesaṃ ijjhanato.
「前の三つによってのみ」とは、パーリ聖典に説かれた通りの三つによってのみである。戒より成る福業事の中に包摂される、慣行の戒であることによる。布施より成るものの中に包摂される、布施の本性を持つこと、また布施の対象であることによる。確かに説法は法の布施の本性を持つことから布施より成るものに包摂されると言うのが適切であるが、善なる法を親しみ修めることによるため、解脱処の主導性に立って生起したかのように聞法とともに修習より成るものに包摂されると説かれた。「正見の確立は修習より成るものに」とある人々は言う。そして正見の確立においてのみ、自らの為した功徳を想起すること、それを他者の利益のために振り向けること、徳を称賛すること、他者によって為される福業や正しい実践を随喜すること、帰依することなどの功徳の差異が包摂される。正見の働きによってのみそれらが成就するからである。
Parassa paṭipattiyā sodhanattho anuyogo codanā, sā yāni nissāya pavattati, tāni codanāvatthūni diṭṭhasutaparisaṅkitāni. Tenāha **‘‘codanākāraṇānī’’**ti. Diṭṭhenāti ca hetumhi karaṇavacanaṃ, diṭṭhena hetunāti attho. Kiṃ pana taṃ diṭṭhanti āha **‘‘vītikkama’’**nti. Disvāti ca dassanahetūti ayamettha attho yathā ‘‘paññāya cassa disvā’’ti. **‘‘Sutenā’’**tiādīsupi iminā nayena attho veditabbo. Parassāti parato, parassa vā vacanaṃ sutvā. Diṭṭhaparisaṅkitenāti diṭṭhānugatena parisaṅkitena, tathā parisaṅkitena vā vītikkamena. Sesapadadvayepi eseva nayo. Codeti vatthusandassanena vā saṃvāsappaṭikkhepena vā sāmīcippaṭikkhepena vā. Imasmiṃ pana atthe vitthāriyamāne atippapañco hotīti āha **‘‘ayamettha saṅkhepo’’**ti. Vitthāraṃ pana icchantānaṃ tassa adhigamupāyaṃ dassento **‘‘vitthāro pana…pe… veditabbo’’**ti āha.
他者の実践を清めるための追及が糾弾(詰問)であり、それが何に基づいて生じるかといえば、それらは見聞疑の糾弾の根拠である。それゆえ「糾弾の根拠」と言われた。「見ることによって」とは原因における具格の表現であり、見たという原因によって、という意味である。それでは何を見たのかといえば、「違犯を」と言われた。「見て」とは見ることを原因として、というのがここでの意味であり、「智慧によってそれを見て」というのと同様である。「聞くことによって」などにおいてもこの方法によって意味を知るべきである。「他者の」とは他者から、あるいは他者の言葉を聞いて、ということである。「見て疑われたことによって」とは、見たことに伴って疑われたことによって、あるいはそのように疑われた違犯によって、ということである。残りの二つの句においてもこの方法は同じである。事柄を指摘することによって、あるいは同住を拒絶することによって、あるいは礼遇を拒絶することによって糾弾する。しかしこの意味を詳細に論じると過度の饒舌となるので、「これがここでの要約である」と言われた。詳細を望む者たちにその獲得の手段を示しつつ、「しかし詳細は……知られるべきである」と言われた。
Kāmūpapattiyoti kāmehi upapannatā, samannāgatatāti attho. Samannāgamo ca tesaṃ paṭisevanaṃ, samadhigamo cāti āha **‘‘kāmūpasevanā kāmapaṭilābhā vā’’**ti. Paccupaṭṭhitakāmāti dutiyatatiyarāsīnaṃ viya sayaṃ, parehi ca animmitā. Uṭṭhānakammaphalūpajīvibhāvato pana tadubhayavasena paccupaṭṭhitā kāmā etesanti paccupaṭṭhitakāmā. Te pana tesaṃ yebhuyyena nibaddhāni hontīti **‘‘nibaddhakāmā’’**ti vuttaṃ. Catudevalokavāsinoti cātumahārājikato paṭṭhāya yāva tusitā devā. Vinipātikāti āpāyikā. Paranimmitā kāmā etesanti paranimmitakāmā.
「欲の獲得」とは、愛欲を具えていること、具備していることという意味である。具備とはそれらを享受することと獲得することであるとして、「愛欲の享受あるいは愛欲の獲得」と言われた。「現前の愛欲を持つ者」とは、第二・第三の集まりのように自ら、あるいは他者によって創造されたのではない愛欲を持つ者である。努力による業の結果として生活する者であることから、その双方によって愛欲が現前している者たちであるから「現前の愛欲を持つ者」である。しかしそれらは彼らにとって概ね常時結びついていることから「不断の愛欲を持つ者」と説かれた。「四天王天に住む者たち」とは、四大王天から始まって兜率天までの神々のことである。「堕落せる者たち」とは悪処の者たちのことである。「他者によって創造された愛欲を持つ者たち」が他化自在天である。
Pakatisevanavasenāti anumānato jānanaṃ vadati, na paccakkhato. Vasaṃ vattentīti yathāruci pātabyataṃ āpajjanti. **‘‘Methunaṃ paṭisevantī’’**ti idaṃ pana kecivādapaṭisedhanatthaṃ vuttaṃ. Tenāha **‘‘keci panā’’**tiādi. Te ‘‘yāmānaṃ aññamaññaṃ āliṅgitamattena, tusitānaṃ hatthāmasanamattena, nimmānaratīnaṃ hasitamattena, paranimmitavasavattīnaṃ olokitamattena kāmakiccaṃ ijjhatī’’ti vadanti. ‘‘Itaresaṃ dvinnaṃ dvayaṃdvayasamāpattiyā vā’’ti vadanti tādisassa kāmesu virajjanassa tesu abhāvato, kāmānañca uttaruttari paṇītapaṇītatarapaṇītatamabhāvato. Kevalaṃ pana nissandābhāvo tesaṃ vattabbo. Kāmakiccanti taṅkhaṇikapariḷāhūpasamāvahaṃ phassasukhaṃ. Kāmāti kāmūpabhogā. Pākatikā evāti heṭṭhimehi ekasadisā eva. Ekasaṅkhātanti ekarūpaṃ samānarūpanti, samaññātaṃ samānabhāvanti vā attho.
「通常の交わりの方法によって」とは推論による知識を語っているのであり、直接の知見によるのではない。「意のままに行う」とは、意向の通りに享受することに至る。「性交を営む」というこれは、ある人々の説を否定するために説かれた。それゆえ「しかしある人々は」などと言われた。彼らは「夜摩天の神々は互いに抱擁するだけで、兜率天の神々は手を取り合うだけで、化楽天の神々は微笑み合うだけで、他化自在天の神々は視線を交わすだけで愛欲の役割は成就する」と言う。「残りの二つの天の神々は二組ずつの性交によってである」と彼らは言う。彼らにとってはそのような愛欲への離貪が存在せず、愛欲はより高次のものほど次第に勝れ、より勝れ、最高に勝れたものとなるからである。ただ彼らには精液の流出がないことだけが語られるべきである。「愛欲の役割」とは、その瞬間の熱苦の静寂をもたらす触覚の快楽である。「愛欲」とは愛欲の享受物である。「通常のものである」とは、下位の者たちと全く同様であるということである。「一つのものと称される」とは、単一の姿、同等の姿を持つこと、あるいは同一のものとして知られる状態という意味である。
Sukhapaṭilābhāti sukhasamadhigamā. Heṭṭhāti paṭhamajjhānabhūmito heṭṭhā manussesu, devesu vā. Paṭhamajjhānasukhanti kusalapaṭhamajjhānaṃ. Bhūmivasenapi heṭṭhuparibhāvo labbhateva brahmakāyikesu, brahmapurohitesu vā kusalajjhānaṃ nibbattetvā brahmapurohitesu, mahābrahmesu vā vipākasukhānubhavanassa labbhanato. Ettha ca dutiyatatiyajjhānabhūmivasena dutiyatatiyasukhūpapattīnaṃ vuccamānattā paṭhamajjhānabhūmivaseneva paṭhamajjhānasukhūpapatti vuttā. Tintāti temitā, jhānasukhena ceva jhānasamuṭṭhānapaṇītarūpaphuṭṭhakāyena ca paṇītā vittāti attho. Tenevāha **‘‘samantato tintā’’**tiādi. Yasmā kusalasukhato vipākasukhaṃ santataratāya paṇītataraṃ bahulañca pavattati, tasmā vuttaṃ **‘‘idampi vipākajjhānasukhaṃ eva sandhāya vutta’’**nti. Tesanti ābhassarānaṃ. Sappītikassa sukhassa ativiya uḷārabhāvato tena ajjhotthatacittānaṃ bhavalobho mahā uppajjati. Santamevāti vitakkavicārasaṅkhobhapītiubbilāvivigamena ativiya upasantaṃyeva. Tathā santabhāveneva hi taṃ attano paccayehi padhānabhāvaṃ nītatāya ‘‘paṇīta’’nti vuccati. Tenāha **‘‘paṇītamevā’’**ti. Atappakena sukhapāramippattena sukhena saṃyuttāya tusāya pītiyā itā pavattāti tusitā. Yasmā te tato uttari sukhassa abhāvato eva na patthenti, tasmā vuttaṃ **‘‘tato…pe… santuṭṭhā hutvā’’**ti. Tatiyajjhānasukhanti tatiyajjhānavipākasukhaṃ.
「楽の獲得」とは、安楽の達成である。「下方に」とは、初禅の階位よりも下方の人間界において、あるいは天界において。「初禅の楽」とは善なる初禅のことである。階位の面でも上下の状態は得られるのであり、梵衆天や梵輔天において善なる禅定を生じさせて、梵輔天や大梵天において異熟の楽を経験することが得られるからである。そしてここでは第二・第三禅の階位によって第二・第三の楽の獲得が説かれているため、初禅の階位によってのみ初禅の楽の獲得が説かれたのである。「潤された」とは浸されたということであり、禅定の楽によって、また禅定から生じた優れた物質に触れられた身体によって優れた歓喜を得た、という意味である。それゆえ「あまねく潤された」などと言われた。善の楽よりも異熟の楽の方が、より静穏であるがゆえにより勝れており、豊かに生起するからこそ、「これもまた異熟の禅定の楽を指して説かれたものである」と言われた。「彼らの」とは光音天の神々のことである。喜悦を伴う楽は極めて広大であるがゆえに、それによって心が圧倒された者たちには存在への大いなる執着が生じる。「静寂そのもの」とは、尋・伺の動揺や喜悦の高揚が去ったことによって極めて静まったものそのものである。実にそのように静寂であることによって、それは自らの諸条件によって卓越した状態に導かれたがゆえに「勝れたもの」と呼ばれる。それゆえ「勝れたものそのもの」と言われた。不満足をもたらさない、楽の極みに達した楽に結びついた満足の喜悦によって達し生起した者たちが「満足せる者(光音天)」である。彼らはそれ以上の楽が存在しないがゆえに求めることがないため、「それゆえ……満足して」と言われた。「第三禅の楽」とは第三禅の異熟の楽のことである。
Satta ariyapaññāti aṭṭhamakato paṭṭhāya sattannaṃ ariyānaṃ tesaṃ tesaṃ āveṇikapaññā. Ṭhapetvā lokuttaraṃ paññaṃ avasesā paññā nāma. Sabbāpi tebhūmikā paññā ‘‘sekkhā’’tipi na vattabbā, ‘‘asekkhā’’tipi na vattabbāti nevasekkhānāsekkhā, puthujjanapaññā.
「七つの聖者の智慧」とは、第八の聖者(預流向)から始まって七人の聖者のそれぞれの固有の智慧のことである。出世間の智慧を除いた残りが(世間の)「智慧」と呼ばれる。三界に属するすべての智慧は「有学」とも呼ばれるべきではなく、「無学」とも呼ばれるべきではないから「非有学非無学」であり、凡夫の智慧である。
Yogavihitesūti paññāvihitesu paññāpariṇāmitesu upāyapaññāya sampāditesu. Kammāyatanesūti ettha kammameva kammāyatanaṃ, kammañca taṃ āyatanañca ājīvādīnanti vā kammāyatanaṃ. Esa nayo sippāyatanesupi. Tattha ca duvidhaṃ kammaṃ hīnañca vaḍḍhakikammādi, ukkaṭṭhañca kasivāṇijjādi. Sippampi duvidhaṃ hīnañca naḷakārasippādi, ukkaṭṭhañca muddagaṇanādi. Vijjāva vijjāṭṭhānaṃ, taṃ dhammikameva nāgamaṇḍalaparittaphudhamanakamantasadisaṃ veditabbaṃ. Tāni panetāni ekacce paṇḍitā bodhisattasadisā manussānaṃ phāsuvihāraṃ ākaṅkhantā neva aññehi kariyamānāni passanti, na vā katāni uggaṇhanti. Na karontānaṃ suṇanti, atha kho attano dhammatāya cintāya karonti. Paññavantehi attano dhammatāya cintāya katānipi aññehi uggaṇhitvā karontehi katasadisāneva honti. Kammassakatanti ‘‘idaṃ kammaṃ sattānaṃ sakaṃ, idaṃ no saka’’nti evaṃ jānanañāṇaṃ. Saccānulomikanti vipassanāñāṇaṃ. Tañhi saccapaṭivedhassa anulomanato ‘‘saccānulomika’’nti vuccati. Idānissa pavattanākāraṃ dassetuṃ **‘‘rūpaṃ aniccanti vā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha vā-saddena aniyamatthena dukkhānattalakkhaṇānipi gahitānevāti daṭṭhabbaṃ nānantariyakabhāvato. Yañhi aniccaṃ, taṃ dukkhaṃ. Yaṃ dukkhaṃ, tadanattāti [(sijjhanato) adhikapāṭho viya dissati]. Yaṃ evarūpanti yaṃ evaṃ heṭṭhā niddiṭṭhasabhāvaṃ. **‘‘Anulomikaṃ khanti’’**ntiādīni paññāvevacanāni. Sā hi heṭṭhā vuttānaṃ kammāyatanādīnaṃ pañcannaṃ kāraṇānaṃ apaccanīkadassanena anulomanato, tathā sattānaṃ hitacariyāya maggasaccassa, paramatthasaccassa ca nibbānassa avilomanato anulometīti ca anulomikā. Sabbānipi etāni kāraṇāni khamati sahati daṭṭhuṃ sakkotīti khanti. Passatīti diṭṭhi. Rocetīti ruci. Munātīti muti. Pekkhatīti pekkhā. Te ca kammāyatanādayo dhammā nijjhāyamānā etāya nijjhānaṃ khamantīti dhammanijjhānakkhanti. Parato asutvā paṭilabhatīti aññassa upadesavacanaṃ asutvā sayameva cintento paṭilabhati. Ayaṃ vuccatīti ayaṃ cintāmayā paññā nāma vuccati. Sā panesā abhiññātānaṃ bodhisattānameva uppajjati. Tatthāpi saccānulomikañāṇaṃ dvinnameva bodhisattānaṃ antimabhavikānaṃ, sesapaññā sabbesampi pūritapāramīnaṃ mahāpaññānaṃ uppajjati.
「工夫によって整えられたものにおいて」とは、智慧によって整えられた、智慧によって変容させられた、手段の智慧によって成就されたものにおいて。「仕事の場において」というここにおいて、仕事そのものが仕事の場であり、あるいは仕事であり、また生計などの基盤であるから仕事の場である。この方法は技術の場においても同様である。そしてそこにおいて仕事には二種あり、大工仕事などの劣ったものと、農業・商業などの優れたものである。技術も二種あり、籠編みの技術などの劣ったものと、印章・計算などの優れたものである。知識(学問)そのものが知識の場であり、それは竜を操る呪文や息を吹きかける呪文のような正しいものと知られるべきである。これらは、ある賢者たちが菩薩のように人々の安らかな生活を願いつつ、他者によって行われるのを見ることもなく、為されたものを学ぶこともない。行っている者たちから聞くこともなく、ただ自らの本性としての思索によって為すのである。智慧ある者たちによって自らの本性としての思索により為されたものも、他者から学んで行う者たちによって為されたものと全く同様である。「自業性」とは、「この行為は衆生自身の所有であり、これは自身の所有ではない」とこのように知る知見である。「真理への随順」とはヴィパッサナーの知見である。それは実に真理の体得に随順することから「真理への随順」と呼ばれる。今やその生起の様相を示すために「物質は無常であると、あるいは」などと言われた。そこにおいて「あるいは」という言葉は、限定しないという意味において苦や無我の特徴もまた把握されていると見なすべきである。必然的に伴うものであるからである。実に無常であるものは苦である。苦であるものは無我である(と成立するからである、というのは付加された読誦のようである)。「このような」とは、このように下で示された本性を持つもののことである。「随順する忍耐」などは智慧の同義語である。実にそれは、下に説かれた仕事の場等の五つの事柄に対立することなく観察することによって随順するからであり、同様に衆生の利益の行いに対して、道諦と勝義諦である涅槃に対して違背しないことから随順するので「随順するもの」である。これらすべての事柄を耐え忍び、受け入れ、見ることができるから「忍耐(容認)」である。見るから「見解」である。好むから「嗜好」である。知るから「了知」である。観察するから「観察」である。そしてそれらの仕事の場等の法は、思惟されるときこれによって思惟を受け入れるから「法の思惟の忍耐」である。「他者から聞かずに獲得する」とは、他者の指導の言葉を聞くことなく自ら思索して獲得する。「これは呼ばれる」とは、これは「思惟より成る智慧」と呼ばれる。しかしこれは名高い菩薩たちにのみ生じる。そこにおいても真理に随順する知見は、最後の生存にある二人の菩薩(釈尊と弥勒)にのみ生じ、残りの智慧は波羅蜜を満たした大いなる智慧あるすべての者たちに生じる。
Parato sutvā paṭilabhatīti kammāyatanādīni parena kariyamānāni, parena katāni vā disvāpi parassa kathayamānassa vacanaṃ sutvāpi ācariyasantike uggahetvāpi paṭiladdhā sabbā parato sutvā paṭiladdhanāmāti veditabbā. Samāpannassāti samāpattisamaṅgissa, nidassanamattametaṃ. Vipassanāmaggapaññā hi idha ‘‘bhāvanāpaññā’’ti visesato icchitāti.
「他者から聞いて獲得する」とは、仕事の場等を他者によって行われているのを、あるいは他者によって為されたのを見ても、他者が語っている言葉を聞いても、師の御前で学んでも獲得されたすべてのものは他者から聞いて獲得されたものと名づけられると知るべきである。「定に入った者の」とは、等至(三昧)を具えた者のことであり、これは単なる例示である。実にここでのヴィパッサナー道における智慧は、特に「修習による智慧」として望まれているからである。
Āvudhaṃ nāma paṭipakkhavimathanatthaṃ icchitabbaṃ, rāgādisadiso ca paṭipakkho natthi, tassa ca vimathanaṃ buddhavacanamevāti ‘‘sutameva āvudha’’nti vatvā **‘‘taṃ atthato tepiṭakaṃ buddhavacana’’**nti āha. Idāni tamatthaṃ vivaranto ‘‘taṃ hī’’ti ādiṃ vatvā **‘‘sutāvudho’’**tiādinā (a. ni. 7.67) suttapadena samattheti. Tattha akusalaṃ pajahatīti tadaṅgādivasena akusalaṃ pariccajati. Kusalaṃ bhāvetīti samathavipassanādikusalaṃ dhammaṃ uppādeti vaḍḍheti ca. Suddhaṃ attānaṃ pariharatīti tena akusalappahānena, tāya ca kusalabhāvanāya rāgādisaṃkilesato visuddhaṃ attabhāvaṃ pavatteti.
武器とは実に敵対するものを粉砕するために望まれるべきものであり、貪り等のような敵対するものは他になく、それを粉砕するものは仏の言葉にほかならないとして、「学び(聞法)こそが武器である」と言って、「それは意味としては三蔵の仏の言葉である」と言われた。今やその意味を解明しつつ「それは実に」などと言って、「聞法の武器を持つ者」などの経の句によって論証する。そこにおいて「不善を捨てる」とは、部分的な断除等の方法によって不善を放棄することである。「善を修める」とは、止・観等の善なる法を生じさせ増大させることである。「清らかな自己を保つ」とは、その不善の放棄と、その善の修習によって貪り等の汚れから清らかな自己の生存を存続させることである。
Vivekaṭṭhakāyānanti gaṇasaṅgaṇikaṃ vajjetvā tato apakaḍḍhitakāyānaṃ. Svāyaṃ kāyaviveko na kevalaṃ ekākībhāvo, atha kho paṭhamajjhānādi nekkhammayogatoti āha **‘‘nekkhammābhiratāna’’**nti. Cittavivekoti kilesasaṅgaṇikaṃ pahāya tato cittassa vivittatā. Sā pana jhānavimokkhādīnaṃ vasena hotīti āha **‘‘parisuddhacittānaṃ paramavodānappattāna’’**nti. Upadhivivekoti nibbānaṃ. Tadadhigamena hi puggalassa nirupadhitā. Tenāha **‘‘nirupadhīnaṃ puggalāna’’**nti, visaṅkhāragatānaṃ adhigatanibbānānaṃ, phalasamāpattisamaṅgīnañcāti attho. Sutampi avassayaṭṭheneva āvudhaṃ vuttanti āha **‘‘ayampī’’**ti. Tathā hi vuttaṃ ‘‘tañhi nissāyā’’ti. Kāmañcettha sutapavivekāpi paññāvaseneva yathādhippetaāvudhattasādhakā, paññā pana sutena, ekaccapavivekena vā vināpi idhādhippetaāvudhattasādhanīti tato paññā sāmatthiyadassanatthaṃ visuṃ āvudhabhāvena vuttā. Tenāha **‘‘yassa sā atthi, so na kutocī’’**tiādi.
「身の遠離にある者たちの」とは、集団の交わりを避けてそこから身体を引き離した者たちのことである。この身の遠離とは単に独りであることだけでなく、初禅などの出離への専念によるものであるとして、「出離を歓喜する者たちの」と言われた。「心の遠離」とは、煩悩の交わりを捨ててそこから心が離れていることである。しかしそれは禅定や解脱等の力によるものであるとして、「清浄な心を持ち至高の清白に達した者たちの」と言われた。「執着の根拠の遠離(依遠離)」とは涅槃のことである。実にそれを獲得することによって人物は執着の根拠なき状態となる。それゆえ「執着の根拠なき人々」と言われたのであり、形成されたものを超越し、涅槃を獲得し、果定を具えた者たちという意味である。聞法もまた依拠するという意味においてのみ武器と説かれたとして、「これもまた」と言われた。実に「それに依拠して」と説かれた通りである。そしてここでは確かに、聞法と遠離も智慧の力によってのみ意図された通りの武器としての役割を果たすのであるが、智慧は聞法やある種の遠離がなくてもここで意図された武器としての役割を果たすことができるため、智慧の能力を示すために別に武器として説かれたのである。それゆえ「それを持つ者は、どこからも……ない」などと言われた。
Nāññātaṃ aviditaṃ dhammanti anamatagge saṃsāravaṭṭe na aññātaṃ aviditaṃ amatadhammaṃ, catusaccadhammameva vā jānissāmīti paṭipannassa iminā pubbābhogena uppannaṃ indriyaṃ. Yaṃ pāḷiyaṃ saṅgahavāre ‘‘nava indriyāni hontī’’ti vuttaṃ, taṃ pubbābhogasiddhaṃ pavattiākāravisesaṃ dīpetuṃ vuttaṃ, atthato pana maggasammādiṭṭhi eva sāti āha **‘‘sotāpattimaggañāṇassetaṃ adhivacana’’**nti. Aññindriyanti ājānanakaindriyaṃ, paṭhamamaggena ñātamariyādaṃ anatikkamitvā tesaṃyeva tena maggena ñātānaṃ catusaccadhammānaṃ jānanakaindriyanti vuttaṃ hoti. Tenāha **‘‘aññābhūtaṃ ājānanabhūtaṃ indriya’’**nti. Ājānātīti añño, aññassa bhūtaṃ, ājānanavasena vā bhūtanti aññabhūtaṃ. Aññātāvīsūti jānitabbaṃ catuariyasaccaṃ ājānitvā ṭhitesu. Tenāha **‘‘jānanakiccapariyosānappattesū’’**ti, pariññādibhedassa jānanakiccassa pariniṭṭhānappattesu.
「いまだ知られざる未知の法を」とは、始めなき輪廻の円環において、いまだ知られず、未知であった不死の法、すなわち四聖諦の法そのものを知ろうと実践している者において、この事前の志向によって生じた根のことである。聖典の摂論の章において「九つの根がある」と説かれたのは、その事前の志向によって成し遂げられた生起の様相の特質を示すために説かれたのである。しかし実質としては、それは道の正見そのものであるゆえに、「これは預流道の智の同義語である」と述べたのである。「未知根」とは、知る根のことであり、第一の道によって知られた限度を踏み越えることなく、その道によって知られた四聖諦の諸法を知る根のことであると説かれている。それゆえに、「完全な知となった、理解となった根」と述べたのである。知るがゆえに「知」であり、知の本質を有するもの、あるいは知の働きによって生じたものであるから「知となった」という。「すでに知った者たちにおいて」とは、知るべき四聖諦を知り尽くして住している者たちにおいて、ということである。それゆえに、「知る働きの究極に達した者たちにおいて」と述べたのであり、遍知などの区別を有する知る働きを満願・成就した者たちにおいて、という意味である。
Maṃsacakkhu cakkhupasādoti maṃsacakkhu nāma catasso dhātuyo, vaṇṇo, gandho, raso, ojā, sambhavo, saṇṭhānaṃ, jīvitaṃ, bhāvo, kāyappasādo, cakkhupasādoti evaṃ cuddasasambhāro maṃsapiṇḍo.
「肉眼とは眼の浄色である」とは、肉眼とは四大種、色、香、味、栄養素、生起、形態、命根、性、身の浄色、眼の浄色という、これら十四の集成要素からなる肉の塊のことである。
Kasiṇālokaṃ vaḍḍhetvā tattha rūpadassanato **‘‘dibbacakkhu ālokanissitaṃ ñāṇa’’**nti vuttaṃ. Dibbacakkhupaññāvinimuttā eva lokiyapaññā paññācakkhūti ayamattho avuttasiddho dibbacakkhussa visuṃ gahitattāti vuttaṃ **‘‘paññācakkhu lokiyalokuttarapaññā’’**ti.
遍作の光明を増大させて、そこにおいて色形を見ることにより、「天眼とは光明に依拠した智である」と説かれた。天眼の智慧から離れた世間の智慧のみが慧眼であるというこの意味は、天眼が別個に把握されていることから言わずとも成立しているため、「慧眼とは世間的および出世間的な智慧である」と説かれたのである。
Adhikaṃ visiṭṭhaṃ sīlanti adhisīlaṃ. Sikkhitabbatoti āsevitabbato. Adhisīlaṃ nāma anavasesakāyikavācasikasaṃvarabhāvato, maggasīlassa padaṭṭhānabhāvato ca. Adhicittaṃ maggasamādhissa adhiṭṭhānabhāvato. Adhipaññā maggapaññāya adhiṭṭhānabhāvato. Idāni nesaṃ adhisīlādibhāvaṃ kāraṇena paṭipādetuṃ **‘‘anuppannepi hī’’**tiādi vuttaṃ. Tattha anuppanneti appavatte. Adhisīlameva nibbānādhigamassa paccayabhāvato. Samāpannāti ettha ‘‘nibbānaṃ patthayantenā’’ti padaṃ ānetvā sambandhitabbaṃ.
増上にして卓越した戒を「増上戒」という。「修習されるべきことから」とは、実践されるべきことから、である。増上戒とは、身体的・言語的な抑制が一切の余りなく備わっている状態であり、道の戒の近因(足場)となる状態であることから名づけられる。増上心は、道の三昧の支持基盤となる状態であることから名づけられる。増上慧は、道の智慧の支持基盤となる状態であることから名づけられる。いま、それらの増上戒などのあり方を根拠をもって説明するために、「生じていないときでも」などと説かれたのである。その中で「生じていないときでも」とは、生起していないときでも、という意味である。増上戒そのものが涅槃の証得の機縁(条件)となる状態であるからである。「具足した」という句においては、「涅槃を欲する者によって」という言葉を補って関連づけるべきである。
‘‘Kalyāṇakārī kalyāṇaṃ, pāpakārī ca pāpakaṃ;
「善を作す者は善を、悪を作す者は悪を、
Anubhoti dvayampetuṃ, anubandhañhi kāraka’’nti. (saṃ. ni. 1.256);
受けるであろう、これら両者を。実に為す者に行為は追随する」(相応部1.256)。
Evaṃ atīte, anāgate ca vaṭṭamūlakadukkhasallakkhaṇavasena saṃvegavatthutāya vimuttiākaṅkhāya paccayabhūtā kammassakatāpaññā adhipaññā’’ti vadanti. Lokiyasīlādīnaṃ adhisīlādibhāvo pariyāyenāti nippariyāyameva taṃ dassetuṃ **‘‘sabbaṃ vā’’**tiādi vuttaṃ.
このように、過去および未来において、輪廻を根本とする苦の観察を通じて、戦慄(厭離)の対象となることから、解脱を欲する縁となった業所有性の智慧を『増上慧』であると彼らは言う。世間的な戒などが増上戒などであるというのは方便(比喩)によるものであり、それを無方便(直接・真実のあり方)として示すために「あるいはすべて」などと説かれたのである。
Pañcadvārikakāyoti pañcadvāresu kāyo phassādidhammasamūho. Kāyo ca so bhāvitabhāvena bhāvanā cāti kāyabhāvanā nāma. Yasmā khīṇāsavānaṃ aggamaggādhigamanena sabbasaṃkilesā pahīnāti pahīnakālato paṭṭhāya sabbaso āsevanābhāvato natthi tesaṃ bhāviniyāpi cakkhusotaviññeyyā dhammā, pageva kāḷakā, tasmā pañcadvārikakāyo subhāvito eva hoti. Tena vuttaṃ **‘‘khīṇāsavassa hi…pe… subhāvito hotī’’**ti. Na aññesaṃ viya dubbalā dubbalabhāvakarānaṃ kilesānaṃ sabbaso pahīnattā.
「五門の身」とは、五つの門における身、すなわち触などの諸法の集まりのことである。そしてその身は修習された状態であることにより修習であるから「身の修習」と呼ばれる。漏尽者(阿羅漢)たちは最上の道の獲得によってすべての煩悩が断ぜられているゆえに、断ぜられたときから後は一切において親近することがないため、彼らには眼や耳によって識知されるべき法が存在せず、ましてや不善の法は存在しない。それゆえに五門の身は実によく修習されているのである。それゆえに「漏尽者の…中略…よく修習されているのである」と説かれたのである。弱化をもたらす煩悩が一切において断ぜられているゆえに、他の者たちのように脆弱ではないからである。
Vipassanā dassanānuttariyaṃ aniccānupassanādivasena saṅkhārānaṃ sammadeva dassanato. Maggo paṭipadānuttariyaṃ taduttaripaṭipadāya abhāvato. Phalaṃ vimuttānuttariyaṃ akuppabhāvato. Phalaṃ vā dassanānuttariyaṃ divasampi nibbānaṃ paccakkhato disvā pavattanato. Nibbānaṃ vimuttānuttariyaṃ sabbasaṅkhatavinissaṭattā. Dassana-saddaṃ kammasādhanaṃ gahetvā nibbānassa dassanānuttariyatā vuttāti dassento **‘‘tato uttarañhi daṭṭhabbaṃ nāma natthī’’**ti āha. Natthi ito uttaranti anuttaraṃ, anuttarameva anuttariyanti āha **‘‘uttamaṃ jeṭṭhaka’’**nti.
ヴィパッサナー(内観)は見無上である。無常の随観などによって諸行を正しく見ることによる。道は行道無上である。それ以上の行道が存在しないことによる。果は解脱無上である。揺らぐことがない状態による。あるいは、果は見無上である。終日涅槃を現前と見据えて生起することによる。涅槃は解脱無上である。すべての有為から離脱していることによる。「見」という言葉を行為の対象(所見)として解釈して涅槃の見無上性が説かれたことを示すために、「実にそれ以上に観られるべきものはない」と述べたのである。これより高いものはないゆえに「無上」であり、無上そのものが最上であることから、「最上の、第一の」と述べたのである。
Sesoti vuttāvaseso pañcakanayena, catukkanayena ca tividho samādhi, iminā eva ca samādhittayāpadesena suttantesupi pañcakanayo āgato evāti veditabbaṃ. Tattha yaṃ vattabbaṃ, taṃ paramatthamañjūsāyaṃ visuddhimaggasaṃvaṇṇanāyaṃ (visuddhi. ṭī. 1.38) vuttameva, tasmā tattha vuttanayeneva veditabbaṃ.
「残りの」とは、説かれた残りの、五通りの方法および四通りの方法による三種の三昧のことである。そしてこの三昧の三組の表現によって、経典群においても五通りの方法が説示されていると知るべきである。そこにおいて語られるべきことは、『勝義の宝匣』(清浄道論大疏1.38)においてすでに説かれている通りであるから、そこで説かれた方法によって知るべきである。
Āgacchati nāmaṃ etasmāti āgamanaṃ, tato āgamanato. Saguṇatoti sarasato. Ārammaṇatoti ārammaṇadhammato. Anattato abhinivisitvāti ‘‘sabbe saṅkhārā anattā’’ti vipassanaṃ paṭṭhapetvā. Anattato disvāti paṭhamaṃ saṅkhārānaṃ ‘‘anattā’’ti anattalakkhaṇaṃ paṭivijjhitvā. Anattato vuṭṭhātīti vuṭṭhānagāminivipassanāya anattākārato pavattāya maggavuṭṭhānaṃ pāpuṇāti. Asuññatattakārakānaṃ kilesānaṃ abhāvāti attābhinivesapaccayānaṃ diṭṭhekaṭṭhānaṃ kilesānaṃ vikkhambhanato vipassanā suññatā nāma attasuññatāya yāthāvato gahaṇato. Nanu evaṃ vipassanāya saguṇato suññatā, na āgamanatoti nippariyāyato natthīti? Saccametaṃ nāmalābhe, na pana nāmadāneti nāyaṃ doso. Atha vā suttantakathā nāma pariyāyakathā, na abhidhammakathā viya nippariyāyāti bhiyyopi na koci doso.
これによって名が生じるゆえに「来住(生起の通路)」であり、その生起の通路から、ということである。「自己の本質から」とは、自身の働きから。「対象から」とは、対象となる法から。「無我として執受して」とは、「一切の諸行は無我である」と内観を立ち上げて。「無我として見て」とは、最初に諸行の「無我である」という無我の相を洞察して。「無我から出起する」とは、出起に至る内観によって無我の様相から生起して、道の出起に達する。「非空性を生じさせる煩悩が存在しないことから」とは、自我への執着の縁となる見解と同等の諸煩悩が鎮伏されることにより、内観は自我の空性をありのままに把握することから『空』と呼ばれるのである。では、このように内観が自己の本質から空であり、生起の通路からではないとすれば、無方便(直説)においては成り立たないのではないか? それは名の獲得においては真実であるが、名の付与においてはそうではないため、何ら不都合はない。あるいは、経典の説示とは方便の説示(比喩的説示)であり、アビダンマの説示のように無方便(厳密な直説)ではないため、なおさら何らの過失もない。
Yasmā saguṇato, ārammaṇato ca nāmalābhe saṅkaro hoti ekasseva nāmantaralābhasambhavato. Āgamanato pana nāmalābhe saṅkaro natthi nāmantaralābhābhāvato, asambhavato ca, tasmā **‘‘aparo’’**tiādi vuttaṃ. Nimittakārakakilesābhāvāti niccanimittādiggāhakapaccayānaṃ kilesānaṃ vikkhambhanato. Kāmañcāyaṃ vipassanā niccanimittādiṃ ugghāṭentī pavattati, saṅkhāranimittassa pana avissajjanato na nippariyāyato animittanāmaṃ labhatīti. Pariyāyena panetaṃ vuttaṃ. Tathā hi nippariyāyadesanattā abhidhamme maggassa animittanāmaṃ uddhaṭaṃ. Sutte ca –
自己の本質から、および対象から名を得る場合には、同一のものに別の名が生じる可能性があって混同が生じる。しかし、生起の通路から名を得る場合には、別の名の獲得がなく、また生じ得ないゆえに混同がない。それゆえに「別の」などと説かれたのである。「相を生じさせる煩悩の不在から」とは、常住の相などを把握する縁となる煩悩の鎮伏による。思うに、この内観は常住の相などを取り除きつつ生起するが、諸行の相を捨て去るわけではないため、無方便(厳密な意味)においては『無相』という名を得ることはない。しかし方便(比喩的)としてこれが説かれたのである。実に、無方便の教説であるゆえに、アビダンマにおいては道に対する無相という名が挙げられている。また経典においても——
‘‘Animittañca bhāvehi, mānānusayamujjaha;
「無相を修習し、慢の随眠を捨て去れ。
Tato mānābhisamayā, upasanto carissasī’’ti. (su. ni. 344; saṃ. ni. 1.212);
それより慢を現観して、静まりて歩むであろう」(スッタニパータ344、相応部1.212)。
Animittapariyāyo āgato. Paṇidhikārakakilesābhāvāti sukhapaṇidhiādipaccayānaṃ kilesānaṃ vikkhambhanato.
無相の方便が説かれている。「願を生じさせる煩悩の不在から」とは、楽への願求などの縁となる煩悩の鎮伏による。
Rāgādīhi suññattāti samucchedavasena pajahanato rāgādīhi vivittattā. Rāgādayo eva rāganimittādīni. Purimuppannā hi rāgādayo parato uppajjanakarāgādīnaṃ kāraṇaṃ hoti. Rāgādayo eva tathā paṇidhānassa paccayabhāvato rāgapaṇidhiādayo. Nibbānaṃ visaṅkhārabhāveneva sabbasaṅkhāravinissaṭattā rāgādīhi suññaṃ, rāgādinimittapaṇidhivirahitañcāti daṭṭhabbaṃ. Ettha ca saṅkhārupekkhā sānulomā vuṭṭhānagāminivipassanā, sā suññato vipassantī ‘‘suññatā’’ti vuccati, dukkhato passantī taṇhāpaṇidhisosanato ‘‘appaṇihitā’’ti. Sā maggādhigamāya āgamanapaṭipadāṭhāne ṭhatvā maggassa ‘‘suññataṃ animittaṃ appaṇihita’’nti nāmaṃ deti. Āgamanato ca nāme laddhe saguṇato ca ārammaṇato ca nāmaṃ siddhameva hoti, na pana saguṇārammaṇehi nāmalābhe sabbattha āgamanato nāmaṃ siddhaṃ hotīti paripuṇṇanāmasiddhihetuttā, ‘‘saguṇārammaṇehi sabbesampi nāmattayayogo, na āgamanato’’ti vavatthānakarattā ca nippariyāyato āgamanatova nāmalābho padhānaṃ, na itarehi, pariyāyato pana tidhā nāmalābho icchitabboti aṭṭhakathāyaṃ ‘‘tividhā kathā’’tiādinā ayaṃ vicāro katoti daṭṭhabbaṃ.
「貪などを空じていることから」とは、断絶による捨断によって貪などから離れていることによる。貪などこそが貪の相などである。先に生じた貪などは、後に生じる貪などの原因となるからである。貪などこそがそのように願求の縁となることから、貪の願求などである。涅槃は非諸行(無為)の状態そのものによってすべての諸行から離脱しているがゆえに、貪などを空じており、貪などの相や願求を離れていると見なされるべきである。そしてここにおいて、行捨智と順応智を伴う出起に至る内観は、空として内観するとき『空』と呼ばれ、苦として見るとき渇愛の願求を枯渇させることから『無願』と呼ばれる。それは道の証得のための生起の通路(実践)の境地に立って、道に対して『空・無相・無願』という名を与える。そして生起の通路から名が得られたときには、自己の本質からも対象からも名は確立しているのであり、しかし自己の本質と対象から名を得たとしても、すべての場合に生起の通路から名が確立するわけではない。完全な名の確立の原因となることから、また『自己の本質と対象からはすべてのものに三種の名が結合するが、生起の通路からはそうではない』と決定づけるものであることから、無方便(厳密)においては生起の通路から名を得ることこそが主であり、他のではない。しかし方便(広義)においては三通りに名を得ることが望まれるべきであると、註釈書において『三通りの説示』などとしてこの考察がなされたと見なされるべきである。
Sucibhāvoti kilesāsucivigamena suddhabhāvo asaṃkiliṭṭhabhāvo. Tenāha **‘‘tiṇṇaṃ sucaritānaṃ vasena veditabbo’’**ti.
「清浄である状態」とは、煩悩の不浄が離れることによる清浄な状態、汚れていない状態のことである。それゆえに「三つの善行の力によって知られるべきである」と述べたのである。
Munino etānīti moneyyāni. Yehi dhammehi ubhayahitamunanato muni nāma hoti, te evaṃ vuttāti āha **‘‘munibhāvakarā moneyyapaṭipadā dhammā’’**ti. Tattha yasmā kāyena akattabbassa akaraṇaṃ, kattabbassa ca karaṇaṃ, ‘‘atthi imasmiṃ kāye kesā’’tiādinā (dī. ni. 2.377; ma. ni. 1.110; 3.153; a. ni. 6.29; 10.60; vibha. 356; khu. pā. 3.1; netti. 47) kāyasaṅkhātassa ārammaṇassa jānanaṃ, kāyassa ca samudayato atthaṅgamato assādato ādīnavato nissaraṇato ca yāthāvato parijānanaṃ, tathā parijānanavasena pavatto vipassanāmaggo, tena ca kāye chandarāgassa pajahanaṃ, kāyasaṅkhāraṃ nirodhetvā pattabbasamāpatti cāti sabbe ete kāyamukhena pavattā moneyyapaṭipadā dhammā kāyamoneyyaṃ nāma. Tasmā tamatthaṃ dassetuṃ **‘‘tividhakāyaduccaritassa pahāna’’**ntiādinā pāḷi āgatā. Sesadvayepi eseva nayo. Tattha copanavācañceva saddavācañca ārabbha pavattā paññā vācārammaṇe ñāṇaṃ. Tassa vācāya samudayādito parijānanaṃ vācāpariññā. Ekāsītividhaṃ lokiyacittaṃ ārabbha pavattañāṇaṃ manārammaṇe ñāṇaṃ. Tassa samudayādito parijānanaṃ manopariññāti ayameva viseso.
「聖者(ムニ)のこれら」であるゆえに聖者性(モーネイヤ)である。諸法によって自他の二つの利益を沈思熟慮する(ムナナ)がゆえに聖者(ムニ)と呼ばれるのであり、それらの法がこのように説かれたゆえに「聖者の状態をなす聖者性の実践の法」と述べたのである。そこにおいて、身体によってなすべからざることをなさず、なすべきことをなすこと、「この身体には毛髪がある」などによって身と呼ばれる対象を知ること、身の生起・消滅・味・過患・出離をありのままに遍知すること、そのように遍知することによって生起した内観の道、それによって身体への欲貪を捨断すること、身行を止滅させて得られるべき等至(サマーパッティ)という、これら身体を窓口として生起した聖者性の実践の法をすべて『身の聖者性』と名づける。それゆえにその意味を示すために「三種の身体の悪行を捨てること」などの聖典が説かれたのである。残りの二つにおいても同様の方法である。その中で、身振りを伴う言葉および声としての言葉を対象として生起した智慧を「言葉の対象における智」という。その言葉を生起などから遍知することを「言葉の遍知」という。八十一通りの世間的心を対象として生起した智慧を「心の対象における智」という。それを生起などから遍知することを「心の遍知」という。これのみが違いである。
Ayanti ito sampattiyoti āyo, kusalānaṃ dhammānaṃ abhibuddhīti āha **‘‘āyoti vuḍḍhī’’**ti. Apenti sampattiyo etenāti apāyo, kusalānaṃ dhammānaṃ hānīti āha **‘‘apāyoti avuḍḍhī’’**ti. Tassa tassāti āyassa ca apāyassa ca. Kāraṇaṃ upāyo upeti upagacchati etena āyo, apāyo cāti. Tattha duvidhā vuḍḍhi anatthahānito, atthuppattito ca, tathā avuḍḍhi atthahānito, anatthuppattito ca. Tesaṃ pajānanāti tesaṃ āyāpāyasaññitānaṃ yathāvuttappabhedānaṃ vuḍḍhiavuḍḍhīnaṃ yāthāvato pajānanā. Kosallaṃ kusalatā nipuṇatā. Tadubhayampi pāḷivaseneva dassetuṃ **‘‘vuttañheta’’**ntiādi vuttaṃ.
これによって諸々の成就へと到る(進む)ゆえに「益(生起)」であり、善なる諸法の増大であるゆえに「益とは増大である」と述べたのである。これによって諸々の成就が去る(減じる)ゆえに「損(衰退)」であり、善なる諸法の衰退であるゆえに「損とは非増大である」と述べたのである。「それぞれにおいて」とは、益と損において、である。手段とは原因であり、これによって益と損へと赴く(到達する)。そこにおいて増大には二種あり、不利益の減失によるものと、利益の生起によるものとである。同様に非増大も、利益の減失によるものと、不利益の生起によるものとである。「それらを了知すること」とは、益と損と名づけられた上述の分類による増大と非増大とを、ありのままに了知することである。「巧みさ」とは、巧妙さ、精妙さのことである。その両方を聖典に従って示すために「実にこれは説かれている」などと述べたのである。
Tattha idaṃ vuccatīti yā imesaṃ akusaladhammānaṃ anuppattinirodhesu, kusaladhammānañca uppattibhiyyobhāvesu paññā, idaṃ āyakosallaṃ nāma vuccati. Idāni apāyakosallampi pāḷivaseneva dassetuṃ **‘‘tattha katama’’**ntiādi vuttaṃ. Tattha idaṃ vuccatīti yā imesaṃ kusaladhammānaṃ anuppajjananirujjhanesu, akusaladhammānañca uppattibhiyyobhāvesu paññā, idaṃ apāyakosallaṃ nāma vuccatīti. Etthāhaāyakosallaṃ tāva paññā hotu, apāyakosallaṃ kathaṃ paññā nāma jātāti evaṃ maññati ‘‘apāyuppādanasamatthatā apāyakosallaṃ nāmā’’ti, taṃ pana tassa matimattaṃ. Paññavā eva hi ‘‘mayhaṃ evaṃ manasi karoto anuppannā kusalā dhammā nuppajjanti, uppannā nirujjhanti. Anuppannā akusalā dhammā uppajjanti, uppannā vaḍḍhantī’’ti pajānāti, so evaṃ ñatvā anuppanne akusale dhamme na uppādeti, uppanne pajahati. Anuppanne kusale dhamme uppādeti, uppanne bhāvanāpāripūriṃ pāpeti. Evaṃ apāyakosallampi paññā evāti. Sabbāpīti āyakosallapakkhikāpi apāyakosallapakkhikāpi. Tatrupāyāti tatra tatra karaṇīye upāyabhūtā.
そこにおいて「これが言われる」とは、これら不善の諸法の不生起・止滅、および善なる諸法の生起・増大における智慧、これが「益の巧みさ」と呼ばれるということである。いまや損の巧みさをも聖典に従って示すために「そこにおいてどれか」などと述べたのである。そこにおいて「これが言われる」とは、これら善なる諸法の不生起・止滅、および不善の諸法の生起・増大における智慧、これが「損の巧みさ」と呼ばれるということである。ここで次のように言う者がいるかもしれない。「益の巧みさが智慧であることはよいとして、損の巧みさがどうして智慧と呼ばれるのか」と。このように「損(悪道・衰退)を生じさせる能力が損の巧みさと呼ばれる」と考えるのであるが、それは彼の単なる思い込みにすぎない。実に智慧ある者こそが、「私がこのように作意するとき、未生起の善なる諸法は生起せず、生じたものは止滅する。未生起の不善の諸法は生起し、生じたものは増大する」と了知するのである。彼はこのように知って、未生起の不善の法を生じさせず、生じたものを捨断する。未生起の善なる法を生じさせ、生じたものを修習の円満へと至らせる。このように損の巧みさもまた実に智慧なのである。「すべてをも」とは、益の巧みさの側も、損の巧みさの側も、である。「その場の手段」とは、それぞれのなすべきことにおける手段となったもの、である。
Tassa tikicchanatthanti accāyikassa kiccassa, bhayassa vā pariharaṇatthaṃ ṭhānuppattiyakāraṇajānanavasenevāti ṭhāne taṅkhaṇe eva uppatti etassa atthīti ṭhānuppattikaṃ, ṭhānaso uppajjanakakāraṇaṃ, tassa jānanavaseneva.
「それを処置するために」とは、緊急の務め、あるいは恐怖を回避するために、臨機応変に生じる原因を知ることによって、である。「場に、その瞬間にまさに生じること」がこれにあるゆえに臨機応変であり、その場で生じる原因をまさに知ることによって、ということである。
Majjanākāravasena pavattamānāti attano vatthuno madanīyatāya madassa āpajjanākārena pavattamānā uṇṇatiyo. Nirogoti arogo. Mānakaraṇanti mānassa uppādanaṃ. Yobbane ṭhatvāti yobbane patiṭṭhāya, yobbanaṃ apassāyāti attho. Sabbesampi jīvitaṃ nāma maraṇapabhaṅguraṃ dukkhānubandhañca, tadubhayaṃ anoloketvā, pabandhaṭṭhitipaccayā sulabhatañca nissāya uppajjanakamado jīvitamadoti dassetuṃ **‘‘ciraṃ jīvi’’**ntiādi vuttaṃ.
「酔狂の様相をもって生起している」とは、自己の境遇の陶酔性によって、慢心の生じる様相をもって生起している高慢のことである。「無病」とは、病がないこと。「慢心をなすこと」とは、慢心を生じさせること。「若さに立脚して」とは、若さに安住して、若さを頼みとして、という意味である。すべての者にとって生命とは死によって崩壊するものであり、苦に付きまとわれているものであるが、その両方を顧みず、持続的な存続の条件と得やすさに依拠して生じる慢心が「生命の慢心」であることを示すために「長く生きた」などと述べたのである。
Adhipati vuccati jeṭṭhako, issaroti attho. Tato adhipatito āgataṃ ādhipateyyaṃ. Kiṃ taṃ? Pāpassa akaraṇaṃ. Tenāha **‘‘ettakomhī’’**tiādi. Tattha sīlādayo lokiyā eva daṭṭhabbā, tasmā vimuttiyāti lokiyavimuttiyā. Jeṭṭhakanti issaraṃ, garunti attho. Ettha ca attānaṃ, dhammañca adhipatiṃ katvā pāpassa akaraṇaṃ hiriyā vasena veditabbaṃ. Lokaṃ adhipatiṃ katvā akaraṇaṃ ottappassa vasena.
「増上」とは主長、統率者という意味である。その増上から生じたものを「増上性」という。それは何か? 悪をなさないことである。それゆえに「これほどの者である」などと述べたのである。そこにおいて戒などは世間的なものとして見なされるべきであり、したがって「解脱によって」とは世間的な解脱によって、である。「主長」とは統率者、尊崇されるべき者という意味である。そしてここにおいて、自己と法とを主長として悪をなさないことは恥(慚)の働きによって知られるべきである。世間を主長として悪をなさないことは恐れ(愧)の働きによる。
Kathāvatthūnīti kathāya pavattiṭṭhānāni. Yasmā tehi vinā kathā nappavattati, tasmā **‘‘kathākāraṇānī’’**ti vuttaṃ. Addhāna-saddassa attho heṭṭhā vutto eva, so panatthato dhammappavattimattaṃ. Dhammā cettha khandhā eva, tabbinimuttā ca tesaṃ gati natthīti āha **‘‘atītaṃ dhammaṃ, atītakkhandheti attho’’**ti. Ayañca addhā nāma disādi viya atthato dhammappavattiṃ upādāya paññattimattaṃ, na upādā na bhūtadhammoti tamatthaṃ dassetuṃ **‘‘apicā’’**tiādi vuttaṃ.
「論事」とは、談論が生起する拠り所のことである。それらなしには談論が生起しないがゆえに、「談論の原因」と説かれたのである。「世(時・道)」という言葉の意味は下で説かれている通りであるが、実質としては法の生起の持続にすぎない。そしてここでの法とは五蘊そのものであり、それらから離れてそれらの境地は存在しないゆえに、「過去の法とは、過去の蘊という意味である」と述べたのである。そしてこの世とは、方角などのように、実質としては法の生起に依拠した単なる概念(施設)であり、所造物質でも実在の法でもないというその意味を示すために、「さらにまた」などと説かれたのである。
‘‘Tamavijjhanaṭṭhena viditakaraṇaṭṭhenā’’ti saṅkhepato vuttamatthaṃ vivarituṃ **‘‘pubbenivāsā’’**tiādi vuttaṃ. Pubbenivāsanti pubbe nivutthakkhandhe. Tamanti mohatamaṃ. Vijjhatīti vihanati, pajahatīti attho. Teneva ca paṭicchādakatamavijjhanena pubbenivāsañca viditaṃ pākaṭaṃ karotīti vijjāti. Tanti cutūpapātaṃ.
「暗闇を突き破る意味、知らしめる意味によって」と要約して説かれた意味を開示するために、「前世の住処」などと述べたのである。「前世の住処」とは、過去に住した五蘊のことである。「暗闇」とは、癡(無明)の暗闇である。「突き破る」とは、打ち破る、捨断するという意味である。そして覆い隠す暗闇を突き破ることによって前世の住処を知られたもの、明白なものとするゆえに「明(智)」である。「それを」とは、死生(死と再生)を、である。
Upapattidevavisesabhāvāvaho vihāroti katvā dibbo vihāro. Nanu evaṃ aññamaññānampi dibbavihārabhāvo āpajjatīti? Na tāsaṃ sattesu hitūpasaṃhārādivasena pavattiyā savisesaṃ niddosaṭṭhena, seṭṭhaṭṭhena ca brahmavihārasamaññāya niruḷhabhāvato. Suvisuddhito paṭipakkhasamucchindanavasena araṇīyato pattabbato, ariyabhāvappattiyā vā anantaraṃ ariyo. Ariyānaṃ ayanti vā ariyo vihāro.
天界への受生という卓越した状態をもたらす住まいであることから「天の住まい」である。では、このようにそれぞれ互いにも天の住まいとなるのではないか? いや、それら(慈悲喜捨)は衆生への利益の誘導などとして生起することにより、際立って無過失であるという意味において、また最上であるという意味において『梵住』という名称が定着しているからである。極めて清浄であることから、対治すべきものを断絶することによって到達されるべきものであることから、あるいは聖者の境地に達した直後にあることから「聖なる」である。あるいは聖者たちのこれであるから「聖なる住まい」である。
Sesaṃ heṭṭhā vuttanayameva.
残りは前に述べた通りの方法である。
Tikavaṇṇanā niṭṭhitā.
三集の註釈が完了した。
Catukkavaṇṇanā
四集の註釈
306. Pubbeti heṭṭhā mahāsatipaṭṭhānavaṇṇanāyaṃ.
306. 「先に」とは、前述の大念処経の註釈において、である。
Yo chandoti yo chandiyanavasena chando. Chandikatāti chandabhāvo, chandikaraṇākāro vā. Kattukamyatāti kattukāmatā. Kusaloti cheko kosallasambhūto. Dhammacchandoti sabhāvacchando. Ayañhi chando nāma taṇhāchando, diṭṭhichando, vīriyachando, dhammacchandoti bahuvidho. Idha kattukamyatākusaladhammacchando adhippeto. Chandaṃ janetīti taṃ chandaṃ uppādeti. Taṃ pavattento hi janeti nāma. Vāyāmaṃ karotīti payogaṃ parakkamaṃ karoti. Vīriyaṃ ārabhatīti kāyikacetasikavīriyaṃ pavatteti. Cittaṃ upatthambhetīti teneva sahajātavīriyena cittaṃ ukkhipati. Padahatīti padhānaṃ vīriyaṃ karoti. Paṭipāṭiyā panetāni padāni uppādanāsevanābhāvanābahulīkammasātaccakiriyāhi yojetabbāni. Vitthāraṃ pariharanto **‘‘ayamettha saṅkhepo’’**tiādimāha.
「意欲」とは、欲求する働きによる意欲である。「意欲の状態」とは、意欲のあり方、あるいは意欲をなす様相のことである。「作そうとすること」とは、なすことを欲する性質のことである。「巧みな」とは、熟練した、巧みさから生じた。「法への意欲」とは、自性への意欲である。実にこの意欲とは、渇愛の意欲、見解の意欲、精進の意欲、法への意欲と多種多様である。ここでは作そうとする性質である巧みな法への意欲が意図されている。「意欲を生じさせる」とは、その意欲を生み出すことである。それを生起させることが実に生じさせることと呼ばれるからである。「努力をなす」とは、取り組み、励みをなすことである。「精進を起こす」とは、身体的・精神的な精進を生起させることである。「心を奮い立たせる」とは、その倶生する精進によって心を高揚させることである。「励む」とは、正しい励みである精進をなすことである。順序としては、これらの句は生起・親近・修習・多修・不断の行為と結びつけられるべきである。詳細を避けて、「これがここでの要約である」などと述べたのである。
Chandaṃ nissāyāti ‘‘chandavato cetosamādhi hoti, mayhaṃ evaṃ hotī’’ti evaṃ chandaṃ nissāya chandaṃ dhuraṃ jeṭṭhakaṃ pubbaṅgamaṃ katvā pavatto samādhi chandasamādhi. Padhānabhūtāti padhānajātā, padhānabhāvaṃ vā pattā. Saṅkhārāti catukiccasādhakaṃ sammappadhānavīriyaṃ vadati. Tehi dhammehīti yathāvuttasamādhivīriyehi upetaṃ sampayuttaṃ. Iddhiyā pādanti nipphattipariyāyena ijjhanaṭṭhena, ijjhanti etāya sattā iddhā vuddhā ukkaṃsagatā hontīti iminā vā pariyāyena ‘‘iddhī’’ti saṅkhyaṃ gatānaṃ upacārajjhānādikusalacittasampayuttānaṃ chandasamādhipadhānasaṅkhārānaṃ adhiṭṭhānaṭṭhena pādabhūtaṃ. Yasmā purimā iddhi pacchimāya iddhiyā pādo pādakaṃ padaṭṭhānaṃ hoti, tasmā **‘‘iddhibhūtaṃ vā pāda’’**nti ca vuttaṃ. Sesesupīti dutiyaiddhipādādīsu. Kāmañcettha janavasabhasuttepi iddhipādavicāro āgato, sopi saṅkhepato evāti āha **‘‘vitthāro pana…pe… dīpito’’**ti.
「意欲に依拠して」とは、「意欲ある者に心の三昧が生じる、私にこのように生じる」と、このように意欲に依拠して、意欲を首領・主長・先導として生起した三昧が意欲三昧である。「励みとなった」とは、主たる励みとして生じた、あるいは主たる励みの状態に達した。「行」とは、四つの働きを成就する正勝の精進を指して言う。「それらの法と」とは、上述の三昧と精進を具備した、相応した。「神足(神変の基礎)」とは、成就の方便による達成という意味において、あるいは、これによって衆生が栄え、増大し、卓越した境地に達するゆえにこの方便によって「神変(威力)」と数えられる、近分定などの善心に相応する意欲三昧と正勝行の、支持基盤という意味での足(基礎)である。前者の神変が後者の神変の足、基礎、足場となるがゆえに、「神変となった基礎」とも説かれたのである。「他のものにおいても」とは、第二の神足などにおいても、である。思うにここにおいて、闍尼沙経においても神足の考察が説かれているが、それもまた要約にすぎないゆえに、「詳細は…中略…示されている」と述べたのである。
307. Diṭṭhadhammo vuccati paccakkhabhūto attabhāvoti āha **‘‘imasmiṃyeva attabhāve’’**ti. Sukhavihāratthāyāti nikkilesatāya nirāmisena sukhena viharaṇatthāya. Phalasamāpattijhānānīti cattāripi phalasamāpattijhānāni. Aparabhāgeti āsavakkhayādhigamato aparabhāge. Nibbattitajjhānānīti adhigatarūpārūpajjhānāni.
307. 「現法」とは、現前にある自己の生存状態をいうゆえに、「まさにこの自己の生存状態において」と述べたのである。「安楽に住するために」とは、煩悩を離れていることによる無執着の安楽をもって住するために、である。「果定の諸禅定」とは、四つの果定の諸禅定のことである。「後の段階において」とは、漏尽の証得より後の段階において。「生じさせた諸禅定」とは、証得した色界・無色界の諸禅定のことである。
Sūriyacandapajjotamaṇiādīnanti pajjotaggahaṇena padīpaṃ vadati. Ādi-saddena ukkāvijjulatādīnaṃ saṅgaho. Ālokoti manasi karotīti sūriyacandālokādiṃ divā, rattiñca upaladdhaṃ yathāladdhavaseneva manasi karoti citte ṭhapeti. Tathāva naṃ manasi karoti, yathāssa subhāvitālokakasiṇassa viya kasiṇāloko yadicchakaṃ yāvadicchakaṃ. So āloko rattiyaṃ upatiṭṭhati, yena tattha divāsaññaṃ ṭhapeti divā viya vigatathinamiddho hoti. Tenāha **‘‘yathā divā tathā ratti’’**nti. Yathā rattiṃ āloko diṭṭhoti yathā rattiyā candālokādiāloko diṭṭho upaladdho. Evameva divā manasi karotīti rattiṃ diṭṭhākāreneva divā taṃ ālokaṃ manasi karoti citte ṭhapeti. Apihitenāti thinamiddhapidhānena na pihitena. Anaddhenāti asañchāditena. Saobhāsanti sañāṇobhāsaṃ. Thinamiddhavinodanaālokopi vā hotu kasiṇālokopi vā parikammālokopi vā, upakkilesāloko viya sabbāyaṃ āloko ñāṇasamuṭṭhāno vāti. Ñāṇadassanapaṭilābhatthāyāti dibbacakkhuñāṇapaṭilābhatthāya. Dibbacakkhuñāṇañhi rūpagatassa dibbassa, itarassa ca dassanaṭṭhena idha ‘‘ñāṇadassana’’nti adhippetaṃ. ‘‘Ālokasaññaṃ manasi karotī’’ti ettha vuttaāloko thinamiddhavinodanaāloko. Parikammaālokoti dibbacakkhuñāṇāya parikammakaraṇavasena pavattitaāloko. Tattha purimassa vasena **‘‘khīṇāsavassā’’**ti visesetvā vuttaṃ. Tassa hi thinamiddhaṃ suppahīnaṃ hoti, na aññesaṃ. Dutiyassa vasena **‘‘tasmiṃ vā āgatepī’’**tiādi vuttaṃ. Tattha tasminti dibbacakkhuñāṇe. Āgatepīti paṭiladdhepi. Anāgatepīti appaṭiladdhepi. Yasmā tathārūpassa pādakajjhānasseva vasena parikammaālokassa sambhavo, yato taṃ parisuddhapariyodātatādiguṇavisesupasaṃhitaṃ, tasmā āha **‘‘pādaka…pe… bhāvetīti vutta’’**nti.
「太陽・月・灯火・宝珠などの」とは、「灯火」の把握によってランプを指して言う。「など」という言葉によって松明や稲妻などの包摂である。「光明を作意する」とは、太陽や月の光などを昼および夜に得られた通りに作意し、心に留めることである。それは、あたかもよく修習された光明遍の修行者の遍作の光明のように、望むままに、望むだけ心に作意される。その光明は夜にも現前し、それによってそこに昼の想いを据え、昼のように昏沈睡眠が離れた者となる。それゆえに「昼のように夜も」と述べたのである。「夜に光明が見られたように」とは、夜に月の光などの光明が見られ、得られたように、ということである。「まさにそのように昼に作意する」とは、夜に見られた通りの様相で昼にその光明を作意し、心に留めることである。「開かれた」とは、昏沈睡眠の覆いによって覆われていない。「覆われていない」とは、遮られていない。「輝きを伴う」とは、智の輝きを伴う。昏沈睡眠を払う光明であれ、遍作の光明であれ、随煩悩の光明のようにこれらすべての光明は智から生じたものである。「智見の獲得のために」とは、天眼智の獲得のために、である。天眼智とは、物質的領域に属する天界の、あるいはその他のものを見るという意味において、ここで「智見」として意図されている。「光明の想いを作意する」というここで説かれた光明は、昏沈睡眠を払う光明である。「遍作の光明」とは、天眼智のために予備的訓練(遍作)をなすことによって生起させられた光明のことである。そこにおいて前者の力によって「漏尽者の」と限定して説かれた。彼には実に昏沈睡眠が完全に断ぜられており、他の者たちにはそうではないからである。後者の力によって「それがあるときにも」などと説かれたのである。そこにおいて「それに」とは、天眼智において。「あるときにも」とは、得られたときにも。「ないときにも」とは、いまだ得られていないときにも。そのような基礎となる禅定の力によってのみ遍作の光明が生起可能であり、そこからそれが極めて清浄で純白な徳の特質を具備していることから、「基礎となる…中略…修習すると説かれた」と述べたのである。
Sattaṭṭhānikassāti ‘‘abhikkante paṭikkante sampajānakārī hotī’’tiādinā (dī. ni. 1.214; 2.69; ma. ni. 1.102) vuttassa sattaṭṭhānikassa. Satipi sekkhānaṃ pariññātabhāve ekantato pariññātavatthukā nāma arahanto evāti vuttaṃ **‘‘khīṇāsavassa vatthu viditaṃ hotī’’**tiādi. Vatthārammaṇaviditatāyāti vatthuno, ārammaṇassa ca yāthāvato viditabhāvena. Yathā hi sappapariyesanaṃ carantena tassa āsaye vidite sopi vidito eva ca hoti mantāgadabalena tassa gahaṇassa sukarattā, evaṃ vedanāya āsayabhūte vatthumhi, ārammaṇe ca vidite ādikammikassapi vedanā viditā eva hoti salakkhaṇato, sāmaññalakkhaṇato ca tassā gahaṇassa sukarattā, pageva pariññātavatthukassa khīṇāsavassa. Tassa hi uppādakkhaṇepi ṭhitikkhaṇepi bhaṅgakkhaṇepi vedanā viditā pākaṭā honti. Tenāha **‘‘evaṃ vedanā uppajjantī’’**tiādi. Nidassanamattañcetaṃ, yadidaṃ pāḷiyaṃ vedanāsaññāvitakkaggahaṇanti dassento **‘‘na kevala’’**ntiādimāha, tena avasesato sabbadhammānampi uppādādito viditabhāvaṃ dasseti.
「七処の巧者において」とは、「進むときも退くときも正知をもってなす者である」などによって説かれた七処の巧者において、である。有学たちにも遍知された状態はあるものの、完全に基盤が遍知された者とは実に阿羅漢たちのみであるゆえに、「漏尽者には基盤が知られている」などと説かれたのである。「基盤と対象が知られていることによって」とは、基盤と対象とがありのままに知られた状態であることによって、である。実に蛇を探し求める者がその棲み処を知ったときには、呪文や薬の力によってそれを捕獲することが容易であることから蛇そのものも知られたものとなるように、そのように受の棲み処となった基盤と対象とが知られたときには、初心者にとっても受は自相からも共相からも把握が容易であることから知られたものとなるのであり、基盤を遍知した漏尽者においては言うまでもない。彼には実に生起の瞬間にも、持続の瞬間にも、崩壊の瞬間にも受は知られ、明白となっているのである。それゆえに「このように受が生起する」などと述べたのである。そしてこれは単なる例示にすぎず、聖典において受・想・尋が挙げられていることを示すために「単に…だけでなく」などと述べたのであり、それによって残りの一切の諸法もまた生起などから知られた状態であることを示している。
Idāni na kevalaṃ khaṇato eva, atha kho paccayatopi aniccāditopi na kevalaṃ khīṇāsavānaṃyeva vasena, atha kho ekaccānaṃ sekkhānampi vasena vedanādīnaṃ viditabhāvaṃ dassetuṃ **‘‘apicā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha avijjāsamudayāti avijjāya uppādā, atthibhāvāti attho. Nirodhavirodhī hi uppādo atthibhāvavācakopi hotīti tasmā purimabhavasiddhāya avijjāya sati imasmiṃ bhave vedanāya uppādo hotīti attho. Avijjādīhi atītakālikādīhi tesaṃ sahakāraṇabhūtāni uppādādīnipi gahitānevāti veditabbaṃ. Vedanāya pavattipaccayesu phassassa balavabhāvato so eva gahito **‘‘phassasamudayā’’**ti. Tasmiṃ pana gahite pavattipaccayatāsāmaññena vatthārammaṇādīnipi gahitāneva hontīti sabbassāpi vedanāya anavasesato paccayato udayadassanaṃ vibhāvitanti daṭṭhabbaṃ. **‘‘Nibbattilakkhaṇa’’**ntiādinā khaṇavasena udayadassanamāha. Uppajjati etasmāti uppādo, uppajjanaṃ uppādoti paccayalakkhaṇaṃ, khaṇalakkhaṇañca ubhayaṃ ekajjhaṃ gahetvā āha **‘‘evaṃ vedanāya uppādo vidito hotī’’**ti.
いまや瞬間からだけでなく、縁からも、無常などからも、単に漏尽者たちの力によってだけでなく、ある有学たちの力によっても受などが知られた状態であることを示すために、「さらにまた」などと説かれたのである。そこにおいて「無明の集起から」とは、無明の生起から、存在から、という意味である。止滅に対立する生起とは存在を表す言葉でもあるゆえに、過去世において確立された無明が存在するとき、今世において受の生起がある、という意味である。過去時に属する無明などによって、それらの共同原因となった生起などもまた把握されていると知るべきである。受の生起の諸縁の中で触の力が強力であることから、それのみが「触の集起から」と把握された。しかしそれが把握されたときには、生起の縁としての共通性によって基盤や対象なども把握されたことになるゆえに、受の全体が余すところなく縁から生起を見る(観察する)ことが明らかにされたと見なされるべきである。「生起の相」などによって瞬間による生起の観察を述べた。これより生じるゆえに「生起」であり、生じることが生起であると、縁の相と瞬間の相の双方を一つにまとめて「このように受の生起が知られている」と述べたのである。
Aniccato manasi karototi vedanā nāmāyaṃ anaccantikatāya ādiantavatī udayabbayaparicchinnā khaṇabhaṅgurā tāvakālikā, tasmā ‘‘aniccā’’ti aniccato manasi karoto. Tassā khayato, vayato ca upaṭṭhānaṃ viditaṃ pākaṭaṃ hoti. Dukkhato manasi karototi aniccattā eva vedanā udayabbayapaṭipīḷitatāya, dukkhamatāya, dukkhavatthutāya ca ‘‘dukkhā’’ti manasi karoto bhayato bhāyitabbato tassā upaṭṭhānaṃ viditaṃ pākaṭaṃ hotīti. Tathā aniccattā, dukkhattā eva ca vedanā attarahitā asārā nissārā avasavattinī tucchāti vedanaṃ anattato manasi karoto suññato rittato asāmikato upaṭṭhānaṃ viditaṃ pākaṭaṃ hoti. **‘‘Khayato’’**tiādi vuttasseva atthassa nigamanaṃ. Tasmā vedanaṃ khayato bhayato suññato jānātīti atthavasena vibhattipariṇāmo veditabbo. Avijjānirodhā vedanānirodhoti aggamaggena avijjāya anuppādanirodhato vedanāya anuppādanirodho hoti paccayābhāve abhāvato. Sesaṃ samudayavāre vuttanayānusārena veditabbaṃ. Idha samādhibhāvanāti sikhāppattā ariyānaṃ vipassanāsamādhibhāvanā. Tassā pādakabhūtā jhānasamāpatti veditabbā.
「無常として作意するとき」とは、受とは永遠でないがゆえに始終があり、生滅によって限定され、刹那に崩壊する一時的なものであるから「無常である」と無常として作意するとき、である。その消滅と衰退から、現前することが知られ、明白となる。「苦として作意するとき」とは、まさに無常であることから受は生滅によって脅かされ、苦に満ち、苦の根拠であることから「苦である」と作意するとき、恐怖から、恐れるべきものとして、その現前が知られ、明白となる。「このように無常であり、苦であることから」受は我を欠き、実質がなく、無力で、意のままにならず、空虚であると、受を無我として作意するとき、空として、空虚として、所有者なきものとして現前することが知られ、明白となる。「消滅から」などは、すでに説かれた意味の結論である。それゆえに受を消滅から、恐怖から、空から知るという、意味に従って格の転換が知られるべきである。「無明の止滅から受の止滅がある」とは、最上の道によって無明の不生起の止滅があることから、縁の不在によって受の不生起の止滅があるということである。残りは集起の章で説かれた方法に従って知られるべきである。ここでの三昧の修習とは、頂点に達した聖者たちの内観三昧の修習である。その基礎となった禅定の等至が知られるべきである。
Vuttanayameva mahāpadāne (dī. ni. 2.62).
すでに説かれた方法は、大本経(長部2.62)における通りである。
308. Pamāṇaṃ aggahetvāti asubhabhāvanā viya padesaṃ aggahetvā. Ekasmimpi satte pamāṇāggahaṇena anavasesapharaṇena. Natthi etāsaṃ gahetabbaṃ pamāṇanti hi appamāṇā, appamāṇā eva appamaññā.
308. 「限定を設けることなく」とは、不浄観のように一部の領域に限定することなく、ということである。一人の衆生に対しても限定を設けないことによって、余すところなく遍満することによる。これらには把握されるべき限定がないゆえに「無量」であり、無量そのものが「無量(四無量心)」である。
Apassayitabbaṭṭhena apassenāni, idha bhikkhu yāni apassāya tisso sikkhā sikkhituṃ samattho hoti, tesameva adhivacanaṃ. Tāni panetāni paccayānaṃ saṅkhāya sevitā adhivāsanakkhanti, vajjanīyavajjanaṃ, vinodetabbavinodanañca. Tenāha ‘‘saṅkhāyekaṃ adhivāsetī’’tiādi. Tattha sammadeva khāyati upaṭṭhāti paṭibhātīti saṅkhā, ñāṇanti āha **‘‘saṅkhāyāti ñāṇenā’’**ti. Saṅkhāya sevitā nāma yaṃ sevato akusalā dhammā parihāyanti, kusalā dhammā abhivaḍḍhanti, tassa sevanāti āha **‘‘sevitabbayuttakameva sevatī’’**ti. Adhivāsanādīsupi eseva nayo. Anto pavisitunti abbhantare attano citte pavattituṃ na deti.
依拠されるべきという意味によって「依拠(依処)」であり、ここでは比丘がこれらに依拠して三学を修めることができる、まさにそれらの同義語である。そしてそれらは、諸々の受用物を思慮して受用すること、堪忍すべきことを堪忍すること、避けるべきことを避けること、除去すべきことを除去することである。それゆえに「思慮して一つを受忍し」などと説かれたのである。そこにおいて正しく見え、現前し、閃くゆえに思慮であり、智であることから「思慮してとは智によって」と述べたのである。思慮して受用するとは、それを受用するときに不善の法が減少し、善なる法が増大する、そのような受用のことであるゆえに「受用すべきに相応しいもののみを受用する」と述べたのである。堪忍などにおいてもこの方法である。「内に入らせることを」とは、内側にある自己の心の中に生起することを許さない、ということである。
Ariyavaṃsacatukkavaṇṇanā
聖種四集の註釈
309. Vaṃsa-saddo ‘‘piṭṭhivaṃsaṃ atikkamitvā nisīdatī’’tiādīsu dvinnaṃ dvinnaṃ gopānasīnaṃ sandhānaṭṭhāne ṭhapetabbadaṇḍake āgato.
309. 「種(血統・竹・家系)」という言葉は、「棟木を越えて座る」などにおいては、二つずつの垂木の接合部に置くべき横木(棟木)として用いられている。
‘‘Vaṃso visālova yathā visatto,
「広大なる竹が絡み合っているように、
Puttesu dāresu ca yā apekkhā;
子らや妻たちに対する執着がある。
Vaṃse kaḷīrova asajjamāno,
竹林における筍のように執着することなく、
Eko care khaggavisāṇakappo’’tiādīsu. (apa. 1.1.94);
犀の角のようにただ独り歩め」(譬喩経1.1.94)などにおいては、
Akaṇḍake. ‘‘Bherisaddo mudiṅgasaddo vaṃsasaddo kaṃsatāḷasaddo’’tiādīsu tūriyavisese, yo ‘‘veṇū’’ tipi vuccati. ‘‘Abhinnena piṭṭhivaṃsena mato hatthī’’tiādīsu hatthiādīnaṃ piṭṭhivemajjhe padese. ‘‘Kulavaṃsaṃ ṭhapessāmī’’tiādīsu (dī. ni. 3.267) kulavaṃse. ‘‘Vaṃsānurakkhako paveṇīpālako’’tiādīsu (visuddhi. 1.42) guṇānupubbiyaṃ guṇānaṃ pabandhappavattiyaṃ. Idha pana catupaccayasantosabhāvanārāmatāsaṅkhātaguṇānaṃ pabandhe daṭṭhabbo. Tassa pana vaṃsassa kulanvayaṃ, guṇanvayañca nidassanavasena dassetuṃ **‘‘yathā hī’’**tiādi vuttaṃ. Tattha khattiyavaṃsoti khattiyakulanvayo. Eseva nayo sesapadesupi. Samaṇavaṃso pana samaṇatanti samaṇapaveṇī. Mūlagandhādīnanti ādi-saddena yathā sāragandhādīnaṃ saṅgaho, evamettha gorasādīnampi saṅgaho daṭṭhabbo. Dutiyena pana ādi-saddena kāsikavatthasappimaṇḍādīnaṃ. Ariya-saddo amilakkhūsupi manussesu vattati, yesaṃ pana nivāsanaṭṭhānaṃ ‘‘ariyaṃ āyatana’’nti vuccati. Yathāha ‘‘yāvatā, ānanda, ariyaṃ āyatana’’nti (dī. ni. 2.152; udā. 76) lokiyasādhujanesupi ‘‘ye hi vo ariyā parisuddhakāyakammantā…pe… tesaṃ ahaṃ aññataro’’tiādīsu (ma. ni. 1.35). Idha pana ye ‘‘ārakā kilesehī’’tiādinā laddhanibbacanā paṭividdhaariyasaccā, te eva adhippetāti dassetuṃ ‘‘ke pana te ariyā’’ti pucchaṃ katvā **‘‘ariyā vuccantī’’**tiādi vuttaṃ.
節(竹)においてである。「太鼓の音、小太鼓の音、笛(竹管)の音、銅鑼の音」などにおいては、「竹笛」とも呼ばれる楽器の特質においてである。「背骨が折れることなく死んだ象」などにおいては、象などの背の中央の部位(脊椎)においてである。「家系を存続させよう」など(長部3.267)においては、家柄・血統においてである。「家系を守る者、伝統を保つ者」など(清浄道論1.42)においては、徳の継承、徳の持続的な生起においてである。しかしここでは、四つの受用物への満足と修習の愛楽と呼ばれる諸徳の持続において見なされるべきである。そしてその種(血統)の家柄の継承と徳の継承とを例示によって示すために、「実にこのように」などと説かれたのである。そこにおいて「王族の種」とは、王族の家柄の継承のことである。残りの語においても同様の方法である。しかし「沙門の種」とは、沙門の伝統、沙門の系譜である。「根の香などの」とは、「など」という言葉によって芯の香などが包摂されるように、ここにおいて乳製品などもまた包摂されると見なされるべきである。しかし第二の「など」という言葉によっては、カーシー産の布や上等なバターオイルなどが包摂される。「聖なる」という言葉は、未開人でない人間たちにも用いられ、彼らの居住地は「聖なる境域」と呼ばれる。「アーナンダよ、聖なる境域の及ぶ限り」(長部2.152、自説経76)と説かれている通りである。世間の善人たちにおいても、「実に汝らの中で清浄な身の行為を有する聖者たち…中略…彼らの中で私はその一人である」など(中部1.35)において用いられている。しかしここでは、「煩悩から遠く離れているゆえに」などとして語源が得られ、四聖諦を洞察した者たち、まさに彼らこそが意図されていることを示すために、「では、それら聖者とは誰か」と問いを立てて、「聖者と呼ばれるのは」などと述べたのである。
Tattha ye mahāpaṇidhānakappato paṭṭhāya yāvāyaṃ kappo, etthantare uppannā sammāsambuddhā, te tāva sarūpato dassetvā tadaññepi sammāsambuddhe, paccekabuddhe, buddhasāvake ca saṅgahetvā anavasesato ariye dassetuṃ **‘‘apicā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha yāva sāsanaṃ na antaradhāyati, tāva satthā dharati eva nāmāti imameva bhagavantaṃ, ye cetarahi buddhasāvakā, te ca sandhāya paccuppannaggahaṇaṃ. Tasmiṃ tasmiṃ vā kāle te te paccuppannāti ce, atītānāgataggahaṇaṃ na kattabbaṃ siyā. Idāni yathā bhagavā ‘‘dhammaṃ vo, bhikkhave, desessāmi ādikalyāṇaṃ majjhekalyāṇaṃ pariyosānakalyāṇaṃ sātthaṃ sabyañjanaṃ kevalaparipuṇṇaṃ parisuddhaṃ brahmacariyaṃ pakāsessāmi, yadidaṃ chachakkānī’’ti chakkadesanāya (ma. ni. 3.420) aṭṭhahi padehi vaṇṇaṃ abhāsi, evaṃ mahāariyavaṃsadesanāya ariyānaṃ vaṃsānaṃ ‘‘cattārome, bhikkhave, ariyavaṃsā aggaññā rattaññā vaṃsaññā porāṇā asaṃkiṇṇā asaṃkiṇṇapubbā na saṅkīyanti na saṅkīyissanti appaṭikuṭṭhā samaṇehi brāhmaṇehi viññūhī’’ti (a. ni. 4.28) yehi navahi padehi vaṇṇaṃ abhāsi, tāni tāva ānetvā thomanāvaseneva vaṇṇento ‘‘te kho panete’’tiādimāha. Aggāti jānitabbā sabbavaṃsehi seṭṭhabhāvato, seṭṭhabhāvasādhanato ca. Dīgharattaṃ pavattāti jānitabbā rattaññūhi, buddhādīhi tehi ca tathā anuṭṭhitattā. Vaṃsāti jānitabbā buddhādīnaṃ ariyānaṃ vaṃsāti jānitabbā. Porāṇāti purātanā. Na adhunuppattikāti na adhunātanā. Asaṃkiṇṇāti na khittā na chaḍḍitā. Tenāha ‘‘anapanītā’’ti. Na apanītapubbāti na chaḍḍitapubbā tissannaṃ sikkhānaṃ paripūraṇūpāyabhāvato na paricattapubbā. Tato eva idānipi na apanīyanti, anāgatepi na apanīyissanti. Ye dhammasabhāvassa vijānaneva viññū samitapāpasamaṇā ceva bāhitapāpabrāhmaṇā ca, tehi appaṭikuṭṭhā appaṭikkhittā. Ye hi na paṭikkositabbā, te aninditabbā agarahitabbā. Apariccajitabbatāya appaṭikkhipitabbā hontīti.
そこにおいて、大いなる誓願の劫より始まってこの劫に至るまでの間に生じた正等覚者たちを、まずは具体的に示し、それ以外の正等覚者たち、辟支仏(独覚)たち、仏弟子たちをも包摂して余すところなく聖者たちを示すために、「さらにまた」などと説かれたのである。そこにおいて、教えが滅尽しない限りは世尊はましましていると言えるがゆえに、この世尊と、現に存在する仏弟子たちとを念頭に置いて「現在」の把握がなされたのである。それぞれの時代においてそれぞれの者たちが現在であるとするならば、過去・未来の把握をする必要がなくなってしまうであろう。いまや、世尊が「比丘たちよ、初めも善く、中ほども善く、終わりも善く、義を備え、文を具足し、完全に円満で純一無雑な清浄なる梵行を説き明かそう。すなわち六六である」と六六経(中部3.420)において八つの言葉によって称讃を説かれたように、大聖種経において聖者たちの種について「比丘たちよ、これら四つの聖種は、第一にして、長き伝統を有し、血統を知られ、古来のものであり、混じりけがなく、かつて混じりけがなく、混じることもなく、混じることもなく、沙門・バラモン・知識人たちによって非難されることのないものである」(増支部4.28)と称讃を述べられたその九つの言葉を引用し、賛嘆をもって称讃しつつ「それらこれらは」などと述べたのである。「第一」とは、すべての種の中で最上である状態から、また最上の境地を成し遂げることから、知られるべきである。「長きにわたり生起した」とは、長き伝統を知る仏たちによって、また彼らによってそのように実践されてきたことから、知られるべきである。「種(血統)」とは、仏などの聖者たちの種として知られるべきである。「古来の」とは、古代のものである。「最近生じたものではない」とは、現代のものではない。「混じりけがない」とは、投げ捨てられず、放棄されていない。それゆえに「除かれていない」と述べたのである。「かつて除かれたことがない」とは、三学を満たすための手段であることから、かつて放棄されたことがない、ということである。それゆえに現在においても除かれることはなく、未来においても除かれることはない。法の自性をよく知る知識人たち、悪を静めた沙門たち、悪を遠ざけたバラモンたちによって非難されず、拒絶されない。実に非難されるべきでないものは、咎められるべきでなく、嘲笑されるべきでない。放棄されるべきでないがゆえに、拒絶されるべきではないのである。
Santuṭṭhoti ettha yathādhippetasantosameva dassento **‘‘paccayasantosavasena santuṭṭho’’**ti vuttaṃ. Jhānavipassanādivasenapi idha bhikkhuno santuṭṭhatā hotīti. Itarītarenāti itarena itarena. Itara-saddoyaṃ aniyamavacano, dvikkhattuṃ vuccamāno yaṃkiñci-saddehi samānattho hotīti vuttaṃ **‘‘yena kenacī’’**ti. Svāyaṃ aniyamavācitāya eva yathā thūlādīnaṃ aññataravacano, evaṃ yathāladdhādīnampi aññataravacanoti tattha dutiyapakkhasseva idha icchitabhāvaṃ dassento **‘‘atha kho’’**tiādimāha. Nanu ca yathāladdhādayopi thūlādayo eva? Saccametaṃ, tathāpi atthi viseso. Yo hi yathāladdhesu thūlādīsu santoso, so yathālābhasantoso eva, na itaro. Na hi so paccayamattasannissayo icchito, atha kho attano kāyabalasāruppabhāvasannissayopi. Thūladukādayo ca tayopi cīvare labbhanti. Majjhimo catupaccayasādhāraṇo, pacchimo pana cīvare, senāsane ca labbhatīti daṭṭhabbaṃ. **‘‘Ime tayo santose’’**ti idaṃ sabbasaṅgāhikavasena vuttaṃ. Ye hi parato gilānapaccayaṃ piṇḍapāte eva pakkhipitvā cīvare vīsati, piṇḍapāte pannarasa, senāsane pannarasāti samapaṇṇāsasantosā vuccanti, te sabbepi yathārahaṃ imesu eva tīsu santosesu saṅgahaṃ samosaraṇaṃ gacchantīti.
「満足した」というこの語において、意図された通りの満足そのものを示すために「受用物の満足によって満足した」と説かれたのである。禅定や内観などによっても、ここでの比丘には満足があるからである。「何であれこれであれ」とは、これとこれによって、である。この「他の(何であれ)」という言葉は不特定の言葉であり、二度繰り返されるときは「何であれどのようなものであれ」という言葉と同義であるゆえに、「どのようなものであれ」と述べたのである。この不特定を示す性質そのものによって、粗末なものなどのいずれかを示す言葉であるように、得られたものなどのいずれかを示す言葉でもあるため、そこにおいて後者の側こそがここで望まれていることを示すために、「実に」などと述べたのである。では、得られたものなども粗末なものなどにすぎないのではないか? それは真実であるが、それでも差異はある。実に得られた粗末なものなどに対する満足とは、所得に対する満足そのものであり、他のではない。実にそれは単なる受用物への依拠として望まれているだけでなく、自己の身体の活力や適性に適した依拠としても望まれているからである。そして粗末なものなどの三種は衣において得られる。中間のものは四つの受用物に共通であり、最後のものは衣と居所において得られると見なされるべきである。「これら三つの満足」とは、すべてを包摂する力によって説かれたものである。実に後に病の受用物を托鉢の食物の中に含めて、衣において二十、托鉢の食物において十五、居所において十五という、合計五十の満足が説かれるが、それらはすべて相応に従ってこれら三つの満足の中に包摂され、帰入するのである。
Cīvaraṃ jānitabbanti ‘‘idaṃ nāma cīvaraṃ kappiya’’nti jātito cīvaraṃ jānitabbaṃ. Cīvarakkhettanti cīvarassa uppattikkhettaṃ. Paṃsukūlanti paṃsukūlacīvaraṃ, paṃsukūlalakkhaṇappattaṃ cīvaraṃ jānitabbanti attho. Cīvarasantosoti cīvare labbhamāno sabbo santoso jānitabbo. Cīvarapaṭisaṃyuttāni dhutaṅgāni jānitabbāni, yāni tosanto cīvarasantosena sammadeva santuṭṭho hotīti. Khomakappāsikakoseyyakambalasāṇabhaṅgāni khomādīni. Tattha khomaṃ nāma khomasuttehi vāyitaṃ khomapaṭacīvaraṃ, tathā sesānipi. Sāṇanti sāṇavākasuttehi katacīvaraṃ. Bhaṅganti pana khomasuttādīni sabbāni ekaccāni vomissetvā katacīvaraṃ. ‘‘Bhaṅgampi vākamayamevā’’ti keci. Chāti gaṇanaparicchedo. Yadi evaṃ ito aññā vatthajāti natthīti? No natthi, sā pana etesaṃ anulomāti dassetuṃ **‘‘dukūlādīnī’’**tiādi vuttaṃ. Ādi-saddena paṭṭuṇṇaṃ, somārapaṭṭaṃ, cīnapaṭṭaṃ, iddhijaṃ, devadinnanti etesaṃ saṅgaho. Tattha dukūlaṃ sāṇassa anulomaṃ vākamayattā. Paṭṭuṇṇadese sañjātavatthaṃ paṭṭuṇṇaṃ. ‘‘Paṭṭuṇṇaṃ koseyyaviseso’’ti hi amarakose vuttaṃ. Somāradese, cīnadese ca jātavatthāni somāracīnapaṭṭāni. Paṭṭuṇṇādīni tīṇi koseyyassa anulomāni pāṇakehi katasuttamayattā. Iddhijaṃ ehibhikkhūnaṃ puññiddhiyā nibbattaṃ cīvaraṃ, taṃ khomādīnaṃ aññataraṃ hotīti tesameva anulomañca. Devatāhi dinnaṃ cīvaraṃ devadinnaṃ, taṃ kapparukkhe nibbattaṃ jāliniyā devakaññāya anuruddhattherassa dinnavatthasadisaṃ, tampi khomādīnaṃyeva anulomaṃ hoti tesu aññatarabhāvato. Imānīti antogadhāvadhāraṇavacanaṃ, imāni evāti attho. Buddhādīnaṃ paribhogayogyatāya kappiyacīvarāni.
「衣は知られるべきである」とは、「これという衣は適格である」と種類から衣が知られるべきである。「衣の田」とは、衣の生起の田(獲得の機会)である。「糞掃衣」とは、糞掃衣のことであり、糞掃衣の特質を備えた衣が知られるべきである、という意味である。「衣への満足」とは、衣において得られるべきすべての満足が知られるべきである。衣に関連する頭陀行(清貧の実践)が知られるべきであり、それらを満たす者は衣への満足によって正しく満足するのである。麻・木綿・絹・羊毛・粗麻・混紡が「麻など」である。そこにおいて「麻」とは、麻の糸で織られた麻布の衣のことであり、他も同様である。「粗麻」とは、粗麻の繊維の糸で作られた衣である。「混紡」とは、麻の糸などをすべて一部混ぜ合わせて作られた衣である。「混紡もまた樹皮繊維製にすぎない」とする者たちもいる。「六つ」とは、数の限定である。もしそうであれば、これら以外の布の種類はないのか? ないわけではないが、それはこれらに準ずるものであることを示すために、「杜鵑布(高級麻布)など」と説かれたのである。「など」という言葉によって、絹織物、ソーマーラ地方の絹、中国絹、神変から生じたもの、天より与えられたものが包摂される。そこにおいて杜鵑布は、樹皮繊維製であることから粗麻に準ずる。パッタウンナ地方で生じた布が絹織物である。「パッタウンナとは絹の特異なものである」とアマラコーシャ(辞書)に説かれているからである。ソーマーラ地方および中国地方で生じた布が、ソーマーラ絹および中国絹である。絹織物などの三つは、昆虫によって作られた糸製であることから絹に準ずる。神変から生じたものは「来たれ比丘」と呼ばれる者たちの功徳の神変によって生じた衣であり、それは麻などのいずれかであるゆえにそれらに準ずる。神々によって与えられた衣は天より与えられたものであり、如意樹に生じ、ジャーリニー天女によってアヌルッダ長老に与えられた布のようなものであり、それもまたそれら(麻など)のいずれかであることから麻などに準ずるのである。「これらを」とは、限定を含んだ決定の言葉であり、「これらのみを」という意味である。仏たちなどの受用に相応しいゆえに、適格な衣である。
Idāni avadhāraṇena nivattitāni ekadesena dassetuṃ **‘‘kusacīra’’**ntiādi vuttaṃ. Tattha kusatiṇehi, aññehi vā tādisehi tiṇehi katacīvaraṃ kusacīraṃ. Potakīvākādīhi vākehi katacīvaraṃ vākacīraṃ. Catukkoṇehi, tikoṇehi vā phalakehi katacīvaraṃ phalakacīraṃ. Manussānaṃ kesehi katakambalaṃ kesakambalaṃ. Cāmarīvālaassavālādīhi kataṃ vālakambalaṃ. Makacitantūhi vāyito potthako. Cammanti migacammādi yaṃ kiñci cammaṃ. Ulūkapakkhehi ganthetvā katacīvaraṃ ulūkapakkhaṃ. Bhujatacādimayaṃ rukkhadussaṃ, tirīṭakanti attho. Sukhumatarāhi latāvākehi vāyitaṃ latādussaṃ. Erakavākehi kataṃ erakadussaṃ. Tathā kadalidussaṃ. Sukhumehi veḷuvilīvehi kataṃ veḷudussaṃ. Ādi-saddena vakkalādīnaṃ saṅgaho. Akappiyacīvarāni titthiyaddhajabhāvato.
いまや限定によって排除されたものを一部示すために、「草の衣」などと説かれたのである。そこにおいて、吉祥草(クシャ草)や他のそのような草で作られた衣が草の衣である。ポータキー樹の皮などの樹皮で作られた衣が樹皮の衣である。四角形あるいは三角形の板(小木片)で作られた衣が板の衣である。人間の毛髪で作られた毛織物が毛髪の毛織物である。シャクシカ(ヤク)の尾毛や馬の尾毛などで作られたものが尾毛の毛織物である。マカチャの繊維で織られたものが粗布である。「皮」とは、鹿の皮などいかなる皮であれそのことである。フクロウの羽を編んで作られた衣がフクロウの羽の衣である。樹皮などで作られた樹木の布、すなわちティリータカ樹の衣のことである。極めて細い蔓の樹皮で織られたものが蔓の布である。エラカ草の皮で作られたものがエラカ布である。同様にバナナの繊維の布である。細い竹のへぎで作られたものが竹の布である。「など」という言葉によって樹皮衣などが包摂される。外道たちの旗印であるゆえに、不適格な衣である。
Aṭṭhannañca mātikānaṃ vasenāti ‘‘sīmāya deti, katikāya detī’’tiādinā (mahāva. 379) āgatānaṃ aṭṭhannaṃ cīvaruppattimātikānaṃ vasena. Cīvarānaṃ paṭilābhakkhettadassanatthañhi bhagavatā ‘‘aṭṭhimā, bhikkhave, mātikā’’tiādinā mātikā ṭhapitā. Mātikāti hi mātaro cīvaruppattijanikāti. Sosānikanti susāne patitakaṃ. Pāpaṇikanti āpaṇadvāre patitakaṃ. Rathiyanti puññatthikehi vātapānantarena rathikāya chaḍḍitacoḷakaṃ. Saṅkārakūṭakanti saṅkāraṭṭhāne chaḍḍitacoḷakaṃ. Sinānanti nhānacoḷaṃ, yaṃ bhūtavejjehi sīsaṃ nhāpetvā ‘‘kāḷakaṇṇīcoḷaka’’nti chaḍḍetvā gacchanti. Titthanti titthacoḷakaṃ sinānatitthe chaḍḍitapilotikā. Aggidaḍḍhanti agginā daḍḍhappadesaṃ. Tañhi manussā chaḍḍenti. Gokhāyitakādīni pākaṭāneva. Tānipi hi manussā chaḍḍenti.
「八つの母条(獲得の機会)に従って」とは、「結界において与える、取り決めによって与える」など(大品379)によって説かれた八つの衣の生起の母条に従って、である。実に衣の獲得の田を示すために、世尊によって「比丘たちよ、これら八つの母条がある」などとして母条が定められた。母条(マーティカー)とは、衣の生起を生み出す母たちという意味である。「墓場のもの」とは、墓場に落ちていたもの。「店先のもの」とは、店舗の戸口に落ちていたもの。「辻のもの」とは、功徳を欲する者たちによって風通しの隙間から辻に捨てられた布切れ。「ゴミ捨て場のもの」とは、ゴミ捨て場に捨てられた布切れ。「沐浴のもの」とは、沐浴の布のことであり、祈祷師たちが頭部を沐浴させて「不吉な布」として捨てて立ち去るもの。「水場のもの」とは、水場の布のことであり、沐浴の水場に捨てられた襤褸布。「火に焼かれたもの」とは、火によって焼かれた部分のことである。それを実に人々は捨てる。「牛に食われたものなど」は明白である。それらをも実に人々は捨てるからである。
Dhajaṃ ussāpetvāti nāvaṃ ārohantehi vā yuddhaṃ pavisantehi vā dhajayaṭṭhiṃ ussāpetvā tattha baddhaṃ pārutacīvaraṃ, tehi chaḍḍitanti adhippāyo.
「旗を掲げて」とは、船に乗る者たち、あるいは戦闘に入る者たちが旗竿を掲げてそこに結びつけた覆いの衣のことであり、彼らによって捨てられたもの、という意味である。
Sādakabhikkhunāti gahapaticīvarassa sādiyanabhikkhunā. Ekamāsamattanti cīvaramāsasaññitaṃ ekamāsamattaṃ. Vitakketuṃ vaṭṭati, na tato paranti adhippāyo. Sabbassāpi hi taṇhāniggahatthāya sāsane paṭipattīti. Paṃsukūliko addhamāseneva karotīti aparapaṭibaddhattā paṭilābhassa. Itarassa pana parapaṭibaddhattā māsamattaṃ anuññātaṃ. Iti māsaddha…pe… vitakkasantoso vitakkanassa parimitakālikattā.
「受納する比丘によって」とは、居士の衣を受納する比丘によって、である。「一ヶ月ほど」とは、衣の月と名づけられた一ヶ月ほどのことである。思案することは許されるが、それ以上は許されないという意味である。実にすべての実践は、教団において渇愛を制御するためのものである。「糞掃衣の行者は半月で行う」とは、他者に依存しない獲得であることによる。しかし他方(居士の衣)は他者に依存するゆえに一ヶ月ほどが許されている。このように月や半月…中略…思案の満足とは、思案することが限定された期間であることによる。
Mahātheraṃ tattha attano sahāyaṃ icchantopi garugāravena gāmadvāraṃ ‘‘bhante gamissāmi’’ iccevamāha. Mahātheropissa ajjhāsayaṃ ñatvā **‘‘ahaṃ pāvuso gamissāmī’’**ti āha. ‘‘Imassa bhikkhuno vitakkassa avasaro mā hotū’’ti pañhaṃ pucchamāno gāmaṃ pāvisi. Uccārapalibuddhoti uccārena pīḷito. Tadā bhagavato dukkarakiriyānussaraṇamukhena tathāgate uppannapītisomanassavegassa balavabhāvena kilesānaṃ vikkhambhitattā tasmiṃyeva…pe… tīṇi phalāni patto.
大長老をそこでの自らの同伴者として望みながらも、深い敬意ゆえに村の入り口で「尊者よ、私は行きます」とこのように言った。大長老もまた彼の胸中を知って、「友よ、私が行こう」と言った。「この比丘に思案の隙間が生じないように」と問いを尋ねながら村に入った。「大便に悩まされた」とは、大便の便意に苦しめられた。「そのとき世尊の苦行を想起することを通じて、如来に対して生じた歓喜と喜悦の勢いが強力であったことにより諸々の煩悩が鎮伏されたため、まさにその…中略…三つの果(預流・一来・不還)に達した。
‘‘Kattha labhissāmī’’ti cintanāpi lābhāsāpubbikāti tathā **‘‘acintetvā’’**ti vuttaṃ, ‘‘sundaraṃ labhissāmi, manāpaṃ labhissāmī’’ti evamādicintanāya kā nāma kathā. Kathaṃ pana vattabbanti āha **‘‘kammaṭṭhānasīseneva gamana’’**nti, tena cīvaraṃ paṭicca kiñcipi na cintetabbaṃ evāti dasseti.
「どこで得られるだろうか」という思案もまた獲得への期待を先立たせるものであるゆえに、そのように「思案することなく」と説かれた。「素晴らしいものを得よう、好ましいものを得よう」などという思案については言うまでもない。では、どのように振る舞うべきかと言えば、「業処(瞑想の主題)を主眼とした歩み」と述べたのであり、それによって衣に関して何一つ思案すべきではないということを示している。
Apesalo appatirūpāyapi pariyesanāya paccayo bhaveyyāti **‘‘pesalaṃ bhikkhuṃ gahetvā’’**ti vuttaṃ.
戒を愛しない者は不適切な探索の機縁にもなり得るゆえに、「戒を愛する比丘を伴って」と説かれたのである。
Āhariyamānanti susānādīsu patitakaṃ vatthaṃ ‘‘ime bhikkhū paṃsukūlapariyesanaṃ carantī’’ti ñatvā kenaci purisena tato ānīyamānaṃ.
「運ばれてくるものを」とは、墓場などに落ちていた布を、「これらの比丘たちは糞掃衣の探索を行っている」と知って、ある人によってそこから運ばれてくるものを、ということである。
Evaṃ laddhaṃ gaṇhantassāpīti evaṃ paṭilābhasantosaṃ akopetvāva laddhaṃ gaṇhantassāpi. Attano pahonakamattenevāti yathāladdhānaṃ paṃsukūlavatthānaṃ ekapaṭṭadupaṭṭānaṃ atthāya attano pahonakapamāṇeneva, avadhāraṇena uparipaccāsaṃ nivatteti.
「このように得られたものを受け取る者であっても」とは、このように所得への満足を損なうことなく得られたものを受け取る者であっても、ということである。「自らに十分な量のみによって」とは、得られた糞掃衣の布が単衣や二重衣のために自らに十分な量のみによって、限定によってそれ以上の期待を排除する。
Gāme bhikkhāya āhiṇḍantena sapadānacārinā viya dvārapaṭipāṭiyā caraṇaṃ loluppavivajjanaṃ nāma cīvaraloluppassa dūrasamussāritattā.
村で托鉢に巡る者が一軒一軒順を追って歩むように、戸口の順序に従って歩むことは「貪欲の回避」と呼ばれる。衣への貪欲が遠くへ退けられているからである。
Yāpetunti attabhāvaṃ pavattetuṃ.
「維持するために」とは、自己の身体の存続を保つために、である。
Dhovanupagenāti dhovanayoggena.
「洗濯に耐えるものによって」とは、洗濯に適したものによって、である。
Paṇṇānīti ambajambādipaṇṇāni.
「木の葉」とは、マンゴーやフトモモなどの木の葉のことである。
Akopetvāti santosaṃ akopetvā. Pahonakanīhārenevāti antaravāsakādīsu yaṃ kātukāmo, tassa pahonakaniyāmeneva yathāladdhaṃ thūlasukhumādiṃ gahetvā karaṇaṃ.
「損なうことなく」とは、満足(知足)を損なうことなく、ということである。「十分な方法によってのみ」とは、下衣などの中で作ろうと欲するものに対して、それに十分であるという規定のままに、得られた粗いものや細かいものなどを取って作ることである。
Timaṇḍalapaṭicchādanamattassevāti ‘‘nivāsanaṃ ce nābhimaṇḍalaṃ; jāṇumaṇḍalaṃ, itaraṃ ce galavāṭamaṇḍalaṃ, jāṇumaṇḍala’’nti evaṃ timaṇḍalapaṭicchādanamattasseva karaṇaṃ; taṃ pana atthato tiṇṇaṃ cīvarānaṃ heṭṭhimantena vuttaparimāṇameva hoti.
「三輪を覆う程度のみ」とは、「もし内衣であるなら臍輪と膝輪を、他の(上衣・大衣)であるなら喉輪と膝輪を〔覆う〕」というように、三輪を覆う程度のみを作ることである。しかしそれは義としては、三衣の最小限度として説かれた分量そのものである。
Avicāretvāti na vicāretvā.
「思慮することなく」とは、あれこれ詮索しないことである。
Kusibandhanakāleti maṇḍalāni yojetvā sibbanakāle. Sattavāreti sattasibbanavāre.
「縁を縫い合わせる時に」とは、布片を繋ぎ合わせて縫う時に。「七巡において」とは、七回の縫製の巡りにおいて。
Kappabinduapadesena kassaci vikārassa akaraṇaṃ kappasantoso.
点浄という口実によっていかなる変異も加えないことが、「点浄における満足」である。
Sītapaṭighātādi atthāpattito sijjhatīti mukhyameva cīvaraparibhoge payojanaṃ dassetuṃ **‘‘hirikopīnapaṭicchādanamattavasenā’’**ti vuttaṃ. Tenāha bhagavā ‘‘yāvadeva hirikopīnapaṭicchādanattha’’nti (ma. ni. 1.23; a. ni. 6.68; mahāni. 162).
寒さの防護などは意味の必然性から成就するので、衣の受用における主たる目的を示すために「**恥辱と陰部を覆う程度によって**」と説かれた。それゆえ世尊は「ただ恥辱と陰部を覆う目的のために」(中・一・二三、増・六・六八、大義釈一六二)と仰せられた。
Vaṭṭati, na tāvatā santoso kuppati sambhārānaṃ, dakkhiṇeyyānañca alābhato.
正当である。資具や供養を受けるに値する人々が得られないからといって、それだけで満足が損なわれることはない。
Sāraṇīyadhamme ṭhatvāti sīlavantehi bhikkhūhi sādhāraṇato paribhoge ṭhatvā.
「同住(和合)の法にとどまって」とは、戒ある比丘たちと平等に共有して受用することにとどまって、ということである。
**‘‘Itī’’**tiādinā paṭhamassa ariyavaṃsassa paṃsukūlikaṅgatecīvarikaṅgānaṃ, tesañca tassa paccayataṃ dassento iti ime dhammā aññamaññassa samuṭṭhāpakā, upatthambhakā cāti dīpeti. Esa nayo ito paratopi.
「**このように**」等の句によって、第一の聖種(頭陀行の衣に関する満足)における糞掃衣住者性や三衣所持者性、およびそれらとこの聖種との条件関係(縁性)を示し、「このようにこれらの法は互いに生起させ、支え合うものである」と説き明かしている。この規範はこれ以降においても同様である。
‘‘Santuṭṭho hoti vaṇṇavādī’’ti ettha catukkoṭikaṃ sambhavati, tattha catutthoyeva pakkho satthārā vaṇṇito thomitoti mahātherena tathā desanā katā. Eko santuṭṭho hoti, santosassa vaṇṇaṃ na katheti seyyathāpi thero nālako (suttanipāte nālakasutte vitthāro) eko na santuṭṭho hoti, santosassa vaṇṇavādī seyyathāpi upanando sakyaputto (pārā. 515, 527, 532, 537 vākyakhandhesu vitthāro). Eko neva santuṭṭho hoti, na santosassa vaṇṇaṃ katheti. Seyyathāpi thero lāḷudāyī (theragā. aṭṭha. 2.udāyittheragāthāvaṇṇanā) eko santuṭṭho ceva hoti, santosassa ca vaṇṇavādī seyyathāpi thero mahākassapo.
「『満足しており、賞賛を語る』」というここには四句分別が成り立つ。その中で第四の立場こそが師(仏陀)によって賞賛され、称讃されているので、長老(サーリプッタ)はそのように説法をなされた。一人は満足しているが、満足の賞賛を語らない。たとえばナーラカ長老のように(経集のナーラカ経に詳細がある)。一人は満足していないが、満足の賞賛を語る。たとえば釈迦族のウパナンダのように(波羅提木叉の五一五、五二七、五三二、五三七節に詳細がある)。一人は満足しておらず、満足の賞賛も語らない。たとえばラールダーイー長老のように(長老偈注二・ウダーイー長老偈釈)。一人は満足しており、しかも満足の賞賛を語る。たとえば摩訶迦葉長老のように。
Anesananti ayuttaṃ esanaṃ. Tenāha **‘‘appatirūpa’’**nti, sāsane ṭhitānaṃ na patirūpaṃ asāruppaṃ ayogyaṃ. Kohaññaṃ karontoti cīvaruppādanimittaṃ paresaṃ kuhanaṃ vimhāpanaṃ karonto. Uttasatīti taṇhāsantāsena uparūpari tasati. Paritasatīti parito tasati. Yathā sabbe kāyavacīpayogā tadatthā eva jāyanti, evaṃ sabbabhāgehi tasati. Gadhitaṃ vuccati gaddho, so cettha abhijjhālakkhaṇo adhippeto. Gadhitaṃ etassa natthīti agadhitoti āha **‘‘agadhito…pe… lobhagiddho’’**ti. Mucchanti taṇhāvasena muyhanaṃ, tassa vā samussayaṃ adhigataṃ. Anāpanno anupagato. Anotthatoti anajjhotthato. Apariyonaddhoti taṇhāchadanena acchādito. Ādīnavaṃ passamānoti diṭṭhadhammikaṃ, samparāyikañca dosaṃ passanto. Gadhitaparibhogato nissarati etenāti nissaraṇaṃ, idamatthikatā, taṃ pajānātīti nissaraṇapañño. Tenāha **‘‘yāvadeva…pe… pajānanto’’**ti.
「邪求」とは、正しくない求めのことである。それゆえ「**不相応な**」と説かれた。教法にとどまる者にとって相応しくなく、不適当で、不適応なことである。「詐術を行って」とは、衣を得るために他人を欺き、眩惑させることである。「恐れる」とは、渇愛の恐怖によって次第に恐れること。「強く恐れる」とは、周りじゅうを恐れること。すべての身口の働きがその目的のために生じるように、あらゆる方面から恐れることである。「執着」とは貪欲のことであり、ここでは貪愛を本質とするものが意図されている。この人に執着がないことを「不執着」というので、「**執着せず……〔中略〕……貪欲に耽溺せず**」と説かれた。「眩惑」とは、渇愛によって迷妄すること、あるいはその集積に達したことである。「陥らない」とは、至らないこと。「覆われない」とは、圧倒されないこと。「覆い包まれない」とは、渇愛の覆いによって覆われていないこと。「過患を見ながら」とは、現世の、また来世の過失を見ながら。「これによって執着した受用から脱出する」ゆえに出離であり、これは有用性(本来の目的)のことである。それを知るゆえに「出離の智慧ある者」という。それゆえ「**ただ……〔中略〕……知る者**」と説かれた。
Nevattānukkaṃsetīti attānaṃ neva ukkaṃseti na ukkhipati na ukkaṭṭhato dahati. **‘‘Aha’’**ntiādi ukkaṃsanākāradassanaṃ. Na vambhetīti na hīḷayati nihīnato na dahati. Tasmiṃ cīvarasantoseti tasmiṃ yathāvutte vīsatividhe cīvarasantose. Kāmañcettha vuttappakārasantosaggahaṇena cīvarahetu anesanāpajjanādipi gahitameva tasmiṃ sati tassa bhāvato, asati ca abhāvato, vaṇṇavāditānattukkaṃsanā paravambhanāni pana gahitāni na hontīti **‘‘vaṇṇavāditādīsu vā’’**ti vikappo vutto. Ettha ca **‘‘dakkho’’**tiādi yesaṃ dhammānaṃ vasenassa yathāvuttasantosādi ijjhati, taṃ dassanaṃ. Tattha **‘‘dakkho’’**ti iminā tesaṃ samuṭṭhāpanapaññaṃ dasseti, **‘‘analaso’’**ti iminā paggaṇhanavīriyaṃ, **‘‘sampajāno’’**ti iminā pāṭihāriyapaññaṃ **‘‘paṭissato’’**ti iminā tattha asammosavuttiṃ dasseti.
「自己を称揚しない」とは、自己を高めず、持ち上げず、優れた者と見なさないことである。「**私は**」等の句は、称揚する有様を示すものである。「他者を軽蔑しない」とは、侮らず、卑しい者と見なさないことである。「その衣に関する満足において」とは、前述の二十種の衣に関する満足において、ということである。確かにここでは、述べられた種類の満足を把握することによって、衣のための邪求に陥ることなども、それ(満足)があるときには(邪求の)非存在となり、それがないときには(邪求の)存在となるため、把握されてはいるが、賞賛を語ることや自己の不称揚、他者の不軽蔑などは(単なる満足のみでは)把握されないので、「**あるいは賞賛を語ること等において**」と選択肢が説かれた。そしてここでの「**巧みであり**」等の句は、それらの法によって前述の満足等が成就する、その法を示すものである。その中で「**巧みであり**」によってはそれらを生起させる智慧を示し、「**怠惰でなく**」によっては精進の奮起を示し、「**正知あり**」によっては方便の智慧を示し、「**正念あり**」によってはそこでの不忘失の行を示している。
Piṇḍapāto jānitabboti pabhedato piṇḍapāto jānitabbo. Piṇḍapātakkhettanti piṇḍapātassa uppattiṭṭhānaṃ. Piṇḍapātasantoso jānitabboti piṇḍapāte santoso pabhedato jānitabbo. Idha bhesajjampi piṇḍapātagatikameva. Āharitabbato hi sappiādīnampi gahaṇaṃ kataṃ.
「托鉢食は知られるべきである」とは、区分によって托鉢食が知られるべきであるということ。「托鉢食の場」とは、托鉢食が生じる場所のこと。「托鉢食に関する満足は知られるべきである」とは、托鉢食における満足が区分によって知られるべきであるということ。ここでの薬も托鉢食に準じるものである。運ばれるべきものであることから、ギーなどの把握もなされているからである。
Piṇḍapātakkhettaṃ piṇḍapātassa uppattiṭṭhānaṃ. Khettaṃ viya khettaṃ. Uppajjati ettha, etenāti ca uppattiṭṭhānaṃ. Saṅghato vā hi bhikkhuno piṇḍapāto uppajjati uddesādivasena vā. Tattha sakalassa saṅghassa dātabbaṃ bhattaṃ saṅghabhattaṃ. Katipaye bhikkhū uddisitvā uddesena dātabbaṃ bhattaṃ uddesabhattaṃ. Nimantetvā dātabbaṃ bhattaṃ nimantanaṃ. Salākadānavasena dātabbaṃ bhattaṃ salākabhattaṃ. Ekasmiṃ pakkhe ekadivasaṃ dātabbaṃ bhattaṃ pakkhikaṃ. Uposathe dātabbaṃ bhattaṃ uposathikaṃ. Pāṭipadadivase dātabbaṃ bhattaṃ pāṭipadikaṃ. Āgantukānaṃ dātabbaṃ bhattaṃ āgantukabhattaṃ. Dhuragehe eva ṭhapetvā dātabbaṃ bhattaṃ dhurabhattaṃ. Kuṭiṃ uddissa dātabbaṃ bhattaṃ kuṭibhattaṃ. Gāmavāsīādīhi vārena dātabbaṃ bhattaṃ vārabhattaṃ. Vihāraṃ uddissa dātabbaṃ bhattaṃ vihārabhattaṃ. Sesāni pākaṭāneva.
「托鉢食の場」とは、托鉢食が生じる場所のことである。田畑(クシェートラ)のようなものだから「場(田)」という。ここに、これによって生じるから「生起の場」という。実に、比丘には僧伽から、あるいは指名などによって托鉢食が生じる。その中で、僧伽全体に与えられるべき食事を「僧伽食」という。数名の比丘を指定して、指名によって与えられるべき食事を「指名食」という。招待して与えられるべき食事を「招待食」という。籤を配ることによって与えられるべき食事を「籤食」という。半月(一期)に一日に与えられるべき食事を「半月食」という。布薩の日に与えられるべき食事を「布薩食」という。月初(第一日)に与えられるべき食事を「初日食」という。来訪者のために与えられるべき食事を「来訪者食」という。常施の家において配膳して与えられるべき食事を「常設食」という。庵を指定して与えられるべき食事を「庵食」という。村人たち等によって当番制で与えられるべき食事を「当番食」という。寺院を指定して与えられるべき食事を「寺院食」という。残りは明白である。
Vitakketi ‘‘kattha nu kho ahaṃ ajja piṇḍāya carissāmī’’ti. ‘‘Kattha piṇḍāya carissāmā’’ti therena vutte ‘‘asukagāme bhante’’ti kāmametaṃ paṭivacanadānaṃ, yena pana cittena ‘‘cintetvā’’ti vuttaṃ, taṃ sandhāyāha **‘‘ettakaṃ cintetvā’’**ti. Tato paṭṭhāyāti vitakkamāḷake ṭhatvā vitakkitakālato paṭṭhāya. **‘‘Tato paraṃ vitakkento ariyavaṃsā cuto hotī’’**ti idaṃ tiṇṇampi ariyavaṃsikānaṃ vasena gahetabbaṃ, na ekacārikasseva. Sabbopi hi ariyavaṃsiko ekavārameva vitakketuṃ labhati, na tato paraṃ. Paribāhiroti ariyavaṃsikabhāvato bahibhūto. Svāyaṃ vitakkasantoso kammaṭṭhānamanasikārena na kuppati, visujjhati ca. Ito paresupi eseva nayo. Tenevāha **‘‘kammaṭṭhānasīsena gantabba’’**nti.
分別するとは、「私は今日、どこへ托鉢に行こうか」と〔考えることである〕。「どこへ托鉢に行きましょうか」と長老によって言われたときに、「大徳よ、某村です」と返答することは確かに差し支えないが、「考えて」と言われた、その心に言及して「**これほどを思慮して**」と説かれた。「それ以降」とは、分別の堂に立って分別した時以降のことである。「**それ以降に思慮する者は、聖種から外れた者となる**」というこれは、(頭陀行を行う)三種の聖種の実践者の立場から把握されるべきであり、単独で遊行する者のみのことではない。すべての聖種の実践者は一度だけ思慮することを得るのであり、それ以降は得ないからである。「外れた者」とは、聖種の実践者である状態から外に出た者のことである。この「分別の満足」は業処の作意によって損なわれず、清浄となる。これ以降のものにおいてもこの規範による。それゆえ「**業処を第一として行くべきである**」と説かれた。
Gahetabbamevāti aṭṭhānappayutto eva-saddo. Yāpanamattameva gahetabbanti yojetabbaṃ.
「受納すべきである」という「エヴァ(~のみ)」の言葉は、不適切な箇所に用いられている。「生命を維持する分量のみを受納すべきである」と解釈されるべきである。
Etthāti etasmiṃ piṇḍapātapaṭiggahaṇe. Appanti attano yāpanapamāṇatopi appaṃ. Gahetabbaṃ dāyakassa cittārādhanatthaṃ. Pamāṇenevāti attano yāpanappamāṇeneva appaṃ gahetabbaṃ. ‘‘Pamāṇena gahetabba’’nti ettha kāraṇaṃ dassetuṃ **‘‘paṭiggahaṇasmiñhī’’**tiādi vuttaṃ. Makkhetīti viddhaṃseti apaneti. Vinipātetīti vināseti aṭṭhānaviniyogena. Sāsananti satthu sāsanaṃ anusiṭṭhiṃ. Na karoti nappaṭipajjati.
「ここに」とは、この托鉢食の受納において。「少なく」とは、自身の維持量よりも少なく。施者の心を喜ばせるために受納すべきである。「分量によってのみ」とは、自身の維持量の分量によってのみ少なく受納すべきである。「分量によって受納すべきである」というここでの理由を示すために「**受納において実に……**」等と説かれた。「損なう」とは、破壊する、無駄にする。「破滅させる」とは、不適切な用途によって損なうこと。「教誡」とは、師(仏陀)の教え、教誡のこと。「実践しない」とは、行わないことである。
Sapadānacārino viya dvārapaṭipāṭiyā caraṇaṃ loluppavivajjanasantosoti āha **‘‘dvārapaṭipāṭiyā gantabba’’**nti.
平等に家々を巡る者のように、門の順序に従って巡ることが「貪欲を捨離する満足」であるので、「**門の順序に従って行くべきである**」と説かれた。
Harāpetvāti adhikaṃ apanetvā.
「運ばせて」とは、余剰を取り除いて。
Āhāragedhato nissarati etenāti nissaraṇaṃ. Jighacchāya paṭivinodanatthaṃ kathā, kāyassaṭhitiādipayojanaṃ pana atthāpattito āgataṃ evāti āha **‘‘jighacchāya…pe… santoso nāmā’’**ti.
これによって食物への執着から脱出するゆえに「出離」という。飢えを除去するための説示であり、身体の維持などの目的は意味の必然性から導かれたものにすぎないとして、「**飢えを……〔中略〕……満足と名づける**」と説かれた。
Nidahitvā na paribhuñjitabbaṃ tadahupīti adhippāyo. Itaratthā pana sikkhāpadeneva vāritaṃ. Sāraṇīyadhamme ṭhitenāti sīlavantehi bhikkhūhi sādhāraṇabhogibhāve ṭhitena.
蓄えてその日のうちに受用してはならない、というのが趣旨である。他の場合については、まさに学処(戒律)によって禁じられている。「同住(和合)の法にとどまる者によって」とは、戒ある比丘たちと平等に共有する状態にとどまる者によって、ということである。
Senāsanenāti sayanena, āsanena ca. Yattha yattha hi mañcādike, vihārādike ca seti, taṃ senaṃ. Yattha yattha pīṭhādike āsati, taṃ āsanaṃ. Tadubhayaṃ ekato katvā ‘‘senāsana’’nti vuttaṃ. Tenāha **‘‘mañco’’**tiādi. Tattha mañco masārakādi, tathā pīṭhaṃ. Mañcabhisi, pīṭhabhisīti duvidhā bhisi. Vihāro pākāraparicchinno sakalo āvāso. ‘‘Dīghamukhapāsādo’’ti keci. Aḍḍhayogoti dīghapāsādo. ‘‘Ekapassacchadanakasenāsana’’nti keci. Pāsādoti caturassapāsādo. ‘‘Āyatacaturassapāsādo’’ti keci. Hammiyaṃ muṇḍacchadanapāsādo. Guhāti kevalā pabbataguhā. Leṇaṃ dvārabandhaṃ. Aṭṭo bahalabhittikaṃ gehaṃ, yassa gopānasiyo aggahetvā iṭṭhakāhi eva chadanaṃ hoti. ‘‘Aṭṭālakākārena kariyatī’’tipi vadanti. Māḷo ekakūṭasaṅgahito anekakoṇo patissayaviseso ‘‘vaṭṭākārena katasenāsana’’nti keci.
「坐臥処によって」とは、臥所と、坐所とによって。寝台などの上、あるいは精舎などの上において横たわる、それぞれの場所が臥所(セーナ)である。椅子などの上において坐る、それぞれの場所が坐所(アーサナ)である。その両方を一つにして「坐臥処(セーナーサナ)」という。それゆえ「**寝台**」等と説かれた。その中で寝台とはマサーラカ型寝台などであり、椅子も同様である。寝台用の敷物、椅子用の敷物というように、敷物には二種類ある。精舎とは、垣根で区切られた全寺院のことである。「長い前庭を持つ楼閣」という者もいる。アッダヨーガとは、長大な楼閣のことである。「片側に屋根のある坐臥処」という者もいる。宮殿(長堂)とは、四角い楼閣のことである。「長方形の楼閣」という者もいる。平頂楼閣とは、平らな屋根を持つ楼閣である。洞窟とは、純粋な岩窟のことである。隠れ家とは、戸口のついたものである。高楼とは、分厚い壁を持つ家であり、垂木を用いずに煉瓦のみで屋根としたものである。「望楼の形で作られる」とも言う。円堂とは、一つの頂点を持ち多数の角がある特殊な住居のことであり、「円形に作られた坐臥処」という者もいる。
Piṇḍapāte vuttanayenevāti ‘‘sādako bhikkhu ‘ajja kattha vasissāmī’ti vitakketī’’tiādinā yathārahaṃ piṇḍapāte vuttanayena veditabbā, ‘‘tato paraṃ vitakkento ariyavaṃsā cuto hoti paribāhiro’’ti, ‘‘senāsanaṃ gavesantenāpi’kuhiṃ labhissāmī’ti acintetvā kammaṭṭhānasīseneva gantabba’’nti ca evamādi sabbaṃ purimanayeneva.
「托鉢食において説かれた規範によって」とは、「有徳の比丘が『今日、私はどこに住まおうか』と分別する」等の句によって、適切に托鉢食において説かれた規範に従って知られるべきであり、「それ以降に思慮する者は、聖種から外れた者となる」ということ、また「坐臥処を探し求める者であっても、『どこで得られるだろうか』と考えずに、業処を第一として行かねばならない」ということなど、すべて前の規範によるべきである。
Kasmā panettha paccayasantosaṃ dassentena mahātherena gilānapaccayasantoso na gahitoti? Na kho panetaṃ evaṃ daṭṭhabbanti dassento **‘‘gilānapaccayo pana piṇḍapāte eva paviṭṭho’’**ti āha, āharitabbatāsāmaññenāti adhippāyo. Yadi evaṃ tattha piṇḍapāte viya vitakkasantosādayopi pannarasa santosā icchitabbāti? Noti dassento āha **‘‘tatthā’’**tiādi. Nanu cettha dvādaseva dhutaṅgāni viniyogaṃ gatāni, ekaṃ pana nesajjikaṅgaṃ na katthaci viniyuttanti āha **‘‘nesajjikaṅgaṃ bhāvanārāmaariyavaṃsaṃ bhajatī’’**ti. Ayañca attho aṭṭhakathāruḷho evāti dassento **‘‘vuttampi ceta’’**ntiādimāha.
なぜここで資具の満足を示すにあたり、大長老は病人用資具の満足を取り上げなかったのか。いや、そのように見るべきではないと示すために「**病人用資具は実に托鉢食の中に包摂されている**」と述べたのであり、運ばれるべきものであるという共通性による、というのが趣旨である。もしそうであるなら、そこ(病人用資具)においても托鉢食と同様に分別の満足などの十五の満足が望まれるべきか。そうではないと示すために「**そこにおいて……**」等と述べた。実にここでは十二の頭陀行のみが適用され、一つの常坐不臥者性のみがどこにも適用されていないではないか、という問いに対して「**常坐不臥者性は修習を好む聖種に属する**」と述べた。そしてこの意義はまさに義釈に基づいていると示すために「**またこれも説かれている**」等と述べた。
‘‘Pathaviṃ **pattharamāno viyā’’**tiādi ariyavaṃsadesanāya sudukkarabhāvadassanaṃ mahāvisayatāya tassā desanāya. Yasmā nayasahassapaṭimaṇḍitā hoti ariyamaggādhigamāya vitthārato pavattiyamānā desanā yathā taṃ cittuppādakaṇḍe, ayañca bhāvanārāmaariyavaṃsakathā ariyamaggādhigamāya vitthārato pavattiyamānā evaṃ hotīti vuttaṃ **‘‘sahassanayappaṭimaṇḍitaṃ…pe… desanaṃ ārabhī’’**ti. Paṭipakkhavidhamanato abhimukhabhāvena ramaṇaṃ āramaṇaṃ ārāmoti āha **‘‘abhiratīti attho’’**ti. Byadhikaraṇānampi padānaṃ vasena bhavati bāhiratthasamāso yathā ‘‘urasilomo, kaṇṭhekāḷoti āha **‘‘pahāne ārāmo assāti pahānārāmo’’**ti. Āramitabbaṭṭhena vā ārāmo, pahānaṃ ārāmo assāti pahānārāmoti evamettha samāsayojanā veditabbā. **‘‘Pajahanto ramatī’’**ti etena pahānārāmasaddānaṃ kattusādhanataṃ, kammadhārayasamāsañca dasseti. ‘‘Bhāvento ramatī’’ti vuttattā bhāvanārāmoti etthāpi eseva nayo.
「**大地を広げるかのように**」等の句は、その説法が広大な領域を持つがゆえに、聖種の説法が極めて困難である有様を示すものである。聖道の獲得のために詳細に展開される説法は、心生起章におけるように千の規範によって飾られているのであり、この修習を好む聖種に関する教示も、聖道の獲得のために詳細に展開されるときにはそのようになることから、「**千の規範によって飾られた……〔中略〕……説法を開始した**」と説かれた。対治すべきものを打ち破ることから、正面に向き合って楽しむことが楽しむこと(アーラマナ)、歓喜(アーラーマ)であるとして、「**愛楽という意味である**」と説いた。異なる格の語格同士であっても、「胸に毛がある者(urasilomo)」「喉が黒い者(kaṇṭhekāḷo)」のように、外部の対象を示す複合語(有財釈)が成立するので、「**断ずることがその人の楽しみであるゆえに断楽者である**」と説いた。あるいは、楽しまれるべきものであるという意味で楽しみ(アーラーマ)であり、断ずることがその人の楽しみであるゆえに断楽者である、とこのようにここでの複合語の構成は知られるべきである。「**捨て去りながら楽しむ**」というこれによって、断楽者という言葉が能動の達成(能作)であること、および限定複合語(持業釈)であることを示している。「修習しながら楽しむ」と説かれていることから、修習を好む者(修楽者)というここにおいても同様の規範である。
Kāmaṃ ‘‘nesajjikaṅgaṃ bhāvanārāmaariyavaṃsaṃ bhajatī’’ti vuttaṃ bhāvanānuyogassa anucchavikattā, nesajjikaṅgavasena pana nesajjikassa bhikkhuno ekaccāhi āpattīhi anāpattibhāvoti tampi saṅgaṇhanto ‘‘terasannaṃ dhutaṅgāna’’nti vatvā ‘‘vinayaṃ patvā garuke ṭhātabba’’nti icchitattā sallekhassa apariccajanavasena paṭipatti nāma vinaye ṭhitassevāti āha **‘‘terasannaṃ…pe… kathitaṃ hotī’’**ti. Kāmaṃ suttābhidhammapiṭakesupi (dī. ni. 1.7.194; vibha. 508) tattha tattha sīlakathā āgatā eva, yehi pana guṇehi sīlassa vodānaṃ hoti, tesu kathitesu yathā sīlakathābāhullaṃ vinayapiṭakaṃ kathitaṃ hoti, evaṃ bhāvanākathābāhullaṃ suttantapiṭakaṃ, abhidhammapiṭakañca catutthena ariyavaṃsena kathitameva hotīti vuttaṃ **‘‘bhāvanārāmena avasesaṃ piṭakadvayaṃ kathitaṃ hotī’’**ti. ‘‘So nekkhammaṃ bhāvento ramatī’’ti nekkhammapadaṃ ādiṃ katvā tattha desanāya pavattattā, sabbesampi vā samathavipassanāmaggadhammānaṃ yathāsakaṃpaṭipakkhato nikkhamanena nekkhammasaññitānaṃ tattha āgatattā so pāṭho **‘‘nekkhammapāḷī’’**ti vuccatīti āha **‘‘nekkhammapāḷiyā kathetabbo’’**ti. Tenāha aṭṭhakathāyaṃ ‘‘sabbepi kusalā dhammā nekkhammanti pavuccare’’ti (itivu. aṭṭha. 109). Dasuttarasuttanta pariyāyenāti dasuttarasuttantadhammena, dasuttarasuttante (dī. ni. 3.350) āgatanayenāti vā attho. Sesadvayepi eseva nayo.
確かに「常坐不臥者性は修習を好む聖種に属する」と説かれたのは、修習の専念に相応しいからであるが、常坐不臥者性という点において、常坐不臥の比丘はある種の罪に問われないという状態があるため、それも包含して「十三の頭陀行の」と述べ、「律に至っては重く受け止めるべき立場にとどまるべし」と望まれていることから、頭陀の行を放棄しないことによる実践とはまさに律にとどまる者のみのものであるとして、「**十三の……〔中略〕……説かれたことになる**」と述べた。確かに経蔵や論蔵(長・一・七・一九四、分別五〇八)においても至る所に戒に関する説示は説かれているが、戒を清浄にする徳性が説かれるとき、戒の説示が多い律蔵が説かれたことになるように、修習の説示が多い経蔵および論蔵は、第四の聖種によってまさに説かれたことになるので、「**修習を好むことによって残りの二蔵が説かれたことになる**」と説かれた。「その人は出離を修習しながら楽しむ」と出離という句を初めとしてそこでの説法が展開されているため、あるいはすべての止観と道の諸法はそれぞれの敵対するものから脱出することによって「出離」と名づけられ、それらがそこに含まれているため、その聖典テキストは「**出離経**」と呼ばれるとして、「**出離経によって説かれるべきである**」と述べた。それゆえ義釈において「すべての善法も出離と呼ばれる」(如是語注一〇九)と説かれている。「十上経の方式によって」とは、十上経の法によって、あるいは十上経(長・三・三五〇)に説かれた規範によって、という意味である。残りの二つにおいてもこの規範による。
Soti jāgariyaṃ anuyutto bhikkhu. Nekkhammanti kāmehi nikkhantabhāvato nekkhammasaññitaṃ paṭhamajjhānūpacāraṃ. ‘‘So abhijjhaṃ loke pahāyā’’tiādinā (vibha. 508, 538) āgatā paṭhamajjhānassa pubbabhāgabhāvanāti idhādhippetā, tasmā **‘‘abyāpāda’’**ntiādīsupi evameva attho veditabbo. Yaṃ panettha vattabbaṃ, taṃ brahmajālaṭīkāyaṃ vuttanayena veditabbaṃ. Saupāyāsānañhi aṭṭhannaṃ samāpattīnaṃ, aṭṭhārasannaṃ mahāvipassanānaṃ, catunnaṃ ariyamaggānañca vasenettha desanā pavattāti.
「その人」とは、不眠の修行に専念する比丘のこと。「出離」とは、諸々の欲望から脱出した状態であることから出離と名づけられた、初禅の近行のことである。「その人は世における貪欲を捨て去って」等(分別五〇八、五三八)によって説かれた初禅の前段階の修習がここで意図されている。したがって「**無瞋**」等の句においても同様に意味が知られるべきである。ここで言及されるべきことは、梵網経義疏において説かれた規範によって知られるべきである。実に、苦艱を伴う八つの等至、十八の大観、および四つの聖道の立場から、ここでの説法は展開されているからである。
**‘‘Ekaṃ dhammaṃ bhāvento ramati, ekaṃ dhammaṃ pajahanto ramatī’’**ti ca na idaṃ dasuttarasutte āgataniyāmena vuttaṃ, tattha pana ‘‘eko dhammo bhāvetabbo, eko dhammo pahātabbo’’ti (dī. ni. 3.351) ca desanā āgatā. Evaṃ santepi yasmā atthato bhedo natthi, tasmā paṭisambhidāmagge nekkhammapāḷiyaṃ (paṭi. ma. 1.24, 3.41) āgatanīhāreneva ‘‘ekaṃ dhammaṃ bhāvento ramati, ekaṃ dhammaṃ pajahanto ramatī’’ti vuttaṃ. Esa nayo sesavāresupi. Yasmā cāyaṃ ariyavaṃsadesanā nāma satthu paññattāva satthārā hi desitaṃ desanaṃ āyasmā dhammasenāpati sāriputtatthero saṅgāyanavasena idhānesi, tasmā mahāariyavaṃsasutte satthudesanānīhārena nigamanaṃ dassento **‘‘evaṃ kho, bhikkhave, bhikkhu bhāvanārāmo hotī’’**ti āha. Eseva nayo ito paresu satipaṭṭhānapariyāyaabhidhammaniddesapariyāyesupi. Kāmañcettha kāyānupassanāvaseneva saṅkhipitvā yojanā katā, ekavīsatiyā pana ṭhānānaṃ vasena vitthārato yojanā veditabbā. ‘‘Aniccato’’ (visuddhi. ṭī. 2.698) tiādīsu yaṃ vattabbaṃ, taṃ visuddhimaggasaṃvaṇṇanāsu vuttanayena veditabbaṃ.
「**一つの法を修習しながら楽しみ、一つの法を捨て去りながら楽しむ**」ということは、十上経に説かれた規定のままに説かれたのではない。そこでは「一つの法は修習されるべきであり、一つの法は捨て去られるべきである」(長・三・三五一)という説法がなされている。そうであるにもかかわらず、義としては差異がないため、無礙解道の出離経(無礙一・二四、三・四一)に説かれた方法のままに「一つの法を修習しながら楽しみ、一つの法を捨て去りながら楽しむ」と説かれた。この規範は残りの節においても同様である。また、この聖種の説法というものはまさに師(仏陀)によって制定されたものであり、師によって説かれた説法を法将サーリプッタ長老が結集によってここにもたらしたのであるから、大聖種経における師の説法の方式による結語を示すために、「**比丘たちよ、このようにして比丘は修習を好む者となる**」と説かれた。これ以降の念処の方式や阿毘達磨分別論の方式等においてもこの規範による。確かにここでは身随観の立場のみによって要約して解釈がなされたが、二十一の箇所によって詳細に解釈が知られるべきである。「無常として」(清浄道論復注二・六九八)等の句において言及されるべきことは、清浄道論の諸注釈において説かれた規範によって知られるべきである。
310. Saṃvarādīnaṃ sādhanavasena padahati ettha, etehīti ca padhānāni. Uttamavīriyānīti seṭṭhavīriyāni visiṭṭhassa atthassa sādhanato. Saṃvarantassa uppannavīriyanti yathā abhijjhādayo na uppajjanti, evaṃ satiyā upaṭṭhāpane cakkhādīnaṃ pidahane analasassa uppannavīriyaṃ. Pajahantassāti vinodentassa. Uppannavīriyanti tasseva pajahanassa sādhanavasena pavattavīriyaṃ. Bhāventassa uppannavīriyanti etthāpi eseva nayo. Samādhinimittanti samādhi eva. Purimuppannasamādhi hi parato uppajjanakasamādhipavivekassa kāraṇaṃ hotīti ‘‘samādhinimitta’’nti vuttaṃ.
三一〇。律儀などの成就の力によって、これにおいて、これらによって努力する(勤める)ゆえに正勤(努力)である。「最上の精進」とは、優れた目的を成就することから勝れた精進のことである。「律儀をなす者に生じる精進」とは、貪欲などが生じないように正念を現前させ、眼などを防護することにおいて怠惰でない者に生じた精進のこと。「断ずる者に」とは、除去する者に。「生じる精進」とは、その断ずることの成就の力によって働いた精進のこと。「修習する者に生じる精進」というここにおいてもこの規範による。「三摩地の相」とは、三摩地そのもののことである。以前に生じた三摩地は、後に生じるべき三摩地の遠離の因となるので、「三摩地の相」と説かれた。
Upadhivivekattāti khandhūpadhiādiupadhīhi vivittattā vinissaṭattā. Taṃ āgammāti taṃ nibbānaṃ maggena adhigamahetu. Rāgādayo virajjanti ettha, etenāti vā virāgo. Evaṃ nirodhopi daṭṭhabbo. Yasmā idha bojjhaṅgā missakavasena icchitā, tasmā **‘‘ārammaṇavasena adhigantabbavasena vā’’**ti vuttaṃ. Tattha adhigantabbavasenāti taṃninnatāvasena. Vossaggapariṇāminti vossajjanavasena pariṇāmitaṃ pariccajanavasena ceva pakkhandanavasena ca pariṇamanasīlaṃ. Tenāha **‘‘dve vossaggā’’**tiādi. Khandhānaṃ pariccajanaṃ nāma tappaṭibaddhakilesappahānavasenāti yenākārena vipassanā kilese pajahati, tenevākārena taṃnimittake, khandhe ca ‘‘pajahatī’’ti vattabbataṃ arahatīti āha **‘‘vipassanā…pe… pariccajatī’’**ti. Yasmā vipassanā vuṭṭhānagāminibhāvaṃ pāpuṇantī ninnapoṇapabbhārabhāvena ekaṃsato nibbānaṃ ‘‘pakkhandatī’’ti vattabbataṃ labhati, maggo ca samucchedavasena kilese, khandhe ca pariccajati, tasmā yathākkamaṃ vipassanāmaggānaṃ vasena pakkhandanapariccāgavossaggāpi veditabbā. Vossaggatthāyāti pariccāgavossaggatthāya ceva pakkhandanavossaggatthāya ca. Pariṇamatīti paripaccati. Taṃ pariṇamanaṃ vuṭṭhānagāminibhāvappattiyā ceva ariyamaggabhāvappattiyā ca icchitanti āha **‘‘vipassanābhāvañceva maggabhāvañca pāpuṇātī’’**ti. Sesapadesūti ‘‘dhammavicayasambojjhaṅgaṃ bhāvetī’’tiādīsu sesasambojjhaṅgakoṭṭhāsesu.
「依処(執着の基盤)からの遠離であるがゆえに」とは、五蘊などの依処から離脱し、脱出しているがゆえに。「それに依拠して」とは、その涅槃に聖道によって到達することを目的にして。「これにおいて、これによって貪欲などが離れる」ゆえに離欲である。滅についても同様に見られるべきである。ここでの覚支は(世間・出世間の)混合の立場から意図されているため、「**所縁の立場から、あるいは到達すべきもの(目標)の立場から**」と説かれた。その中で「到達すべきものの立場から」とは、そこへと傾注する立場からである。「放捨へと成熟した」とは、放捨によって成熟させられた、放棄によって、また跳入(没入)によって成熟する性質を持つもの。それゆえ「**二つの放捨**」等と説かれた。諸蘊の放棄とは、それに結びついた煩悩の断除によるものであるから、ヴィパッサナーが煩悩を捨てるその態様によって、それを原因とする諸蘊をも「捨てる」と言われるに値するとして、「**ヴィパッサナーは……〔中略〕……放棄する**」と説いた。ヴィパッサナーは出起随順に達するにあたり、傾き、傾注し、屈入する状態によって必然的に涅槃へと「跳入する」と言われる立場を得るものであり、道は断絶によって煩悩と諸蘊を放棄するので、順次にヴィパッサナーと道との立場から、跳入の放捨と放棄の放捨も知られるべきである。「放捨のために」とは、放棄の放捨のためにも、跳入の放捨のためにも。「成熟する」とは、円熟すること。その成熟は、出起随順の状態への到達によっても、聖道の状態への到達によっても望まれているとして、「**ヴィパッサナーの状態と道の状態とに到達する**」と説かれた。「残りの句において」とは、「択法覚支を修習する」等の残りの覚支の区分において、ということである。
Bhaddakanti abhaddakānaṃ nīvaraṇādipāpadhammānaṃ vikkhambhanena rāgavidhamanena ekantahitattā, dullabhattā ca bhaddakaṃ sundaraṃ. Na hi aññaṃ samādhinimittaṃ evaṃdullabhaṃ, rāgassa ca ujuvipaccanīkabhūtaṃ atthi. Anurakkhatīti ettha anurakkhanā nāma adhigatasamādhito yathā na parihāni hoti, evaṃ paṭipatti, sā pana tappaṭipakkhavidhamanenāti āha **‘‘samādhī’’**tiādi. Aṭṭhikasaññādikāti aṭṭhikajjhānādikā. Saññāsīsena hi jhānaṃ vadati.
「幸いなるもの(吉祥)」とは、蓋などの不善の悪法を鎮伏し、貪欲を打ち破ることによって専ら有益であり、得難いものであるから吉祥であり、素晴らしいものである。このように得難く、貪欲と正反対に対立する他の三摩地の相は存在しないからである。「護持する」というここにおいて、護持とは得られた三摩地から衰退しないように実践することであり、それはその対立するものを打ち破ることによるとして、「**三摩地……**」等と述べた。「白骨観など」とは、白骨の禅定などのことである。想を第一として禅定を語っているのである。
Ekapaṭivedhavasena catusaccadhamme ñāṇanti catūsu ariyasaccesu ekābhisamayavasena pavattañāṇaṃ, maggañāṇanti attho. Catusaccantogadhattā catusaccabbhantare nirodhadhamme nibbāne ñāṇaṃ, tena phalañāṇaṃ vadati. Yasmā maggānantarassa phalassa maggānuguṇā pavatti, yato taṃsamudayapakkhiyesu dhammesu paṭippassaddhippahānavasena pavattati, tasmā nirodhasaccepi yo maggassa sacchikiriyābhisamayo, tadanuguṇā pavattīti phalañāṇasseva dhamme ñāṇatā vuttā, na yassa kassaci nibbānārammaṇassa ñāṇassa. Tena vuttaṃ **‘‘yathāhā’’**tiādi. Ettha ca maggapaññā tāva catusaccadhammassa paṭivijjhanato dhammeñāṇaṃ nāma hotu, phalapaññā pana kathanti codanā sodhitā hoti nirodhadhammaṃ ārabbha pavattanato. Duvidhāpi hi paññā aparappaccayatāya attapaccakkhato ariyasaccadhamme kiccato ca ārammaṇato ca pavattattā ‘‘dhammeñāṇa’’nti veditabbā. Ariyasaccesu hi ayaṃ dhamma-saddo tesaṃ aviparītasabhāvattā, saṅkhatappavaro vā ariyamaggo, tassa ca phaladhammo. Tattha paññā taṃsahagatā dhammeñāṇaṃ.
「一の通達による四諦の法における知」とは、四聖諦における一箇の現観によって働いた知のことであり、道知という意味である。四諦に包摂されることから、四諦の内部における滅法である涅槃における知であり、それによって果知を語っている。道の直後の果の働きは道に随順するものであり、それ(四諦)を生起させる側の諸法において静息による断除として働くことから、滅諦においても道の現証現観である、それに随順する働きであるため、果知にこそ法智性が説かれたのであり、いかなる涅槃を所縁とする知にも当てはまるわけではない。それゆえ「**仰せられたように**」等と説かれた。そしてここでは、道智はまず四諦の法を通達することから「法智」と呼ばれるとして、果智はどのようにしてそうなるのかという異論に対して、滅法を対象として働くことから解決される。実に二種の智慧ともに、他に依存しない自己の現量によって四聖諦の法に作用からも所縁からも働くことから、「法智」と知られるべきである。実に四聖諦において、この「法」という言葉はそれらの無顛倒の本性によるものであり、あるいは作られたもの(有為)の中で最勝の聖道と、その果の法のことである。そこにおける、それに相応する智慧が法智である。
Anvayeñāṇanti anugamanañāṇaṃ. Paccakkhato disvāti cattāri saccāni maggañāṇena paccakkhato paṭivijjhitvā. Yathā idānīti yathā etarahi pañcupādānakkhandhā dukkhasaccaṃ, evaṃ atītepi anāgatepi pañcupādānakkhandhā dukkhasaccamevāti ca sarikkhaṭṭhena vuttaṃ. Esa nayo samudayasacce, maggasacce ca. Ayamevāti avadhāraṇe. Nirodhasacce pana sarikkhaṭṭho natthi tassa niccattā, ekasabhāvattā ca. Evaṃ tassa ñāṇassa anugatiyaṃ ñāṇanti tassa dhammeñāṇassa ‘‘evaṃ atītepī’’tiādinā anugatiyaṃ anugamane anvaye ñāṇaṃ. Idaṃ anvaye ñāṇanti yojanā. **‘‘Tenāhā’’**tiādinā yathāvuttamatthaṃ pāḷiyā vibhāveti. Soti dhammañāṇaṃ patvā ṭhito bhikkhu. Iminā dhammenāti dhammagocarattā gocaravohārena ‘‘dhammo’’ti vuttenamaggañāṇena, upayogatthe vā karaṇavacanaṃ, iminā dhammena ñātenāti imaṃ catusaccadhammaṃ ñāṇena jānitvā ṭhitena maggañāṇenāti attho. Diṭṭhenāti dassanena saccadhammaṃ passitvā ṭhitena. Pattenāti saccānaṃ patvā ṭhitena. Viditenāti saccāni viditvā ṭhitena. Pariyogāḷhenāti catusaccadhammaṃ pariyogāhetvā ṭhitenāti evaṃ tāvettha abhidhammaṭṭhakathāyaṃ (vibha. aṭṭha. 796) attho vutto. Duvidhampi pana maggaphalañāṇaṃ dhammeñāṇaṃ. Paccavekkhaṇāya ca mūlaṃ, kāraṇañca nayanayanassāti duvidhenāpi tena dhammenāti na na yujjati. Tathā catusaccadhammassa ñātattā, maggaphalasaṅkhātassa vā dhammassa saccapaṭivedhasampayogaṃ gatattā nayanayanaṃ hotīti tena iminā dhammena ñāṇavisayabhāvena, ñāṇasampayogena vā ñātenāti ca attho na na yujjatīti. Atītānāgate nayaṃ netīti atīte, anāgate ca nayaṃ neti harati peseti. Idaṃ pana na maggañāṇassa kiccaṃ, paccavekkhaṇañāṇakiccaṃ, satthārā pana maggañāṇaṃ atītānāgate nayanayanasadisaṃ kataṃ maggamūlakattā. Bhāvitamaggassa hi paccavekkhaṇā nāma hoti. Nayidaṃ aññaṃ ñāṇuppādanaṃ nayanayanaṃ, ñāṇasseva pana pavattivisesoti.
「類智」とは、追随する知のことである。「現量として見て」とは、四つの真理を道知によって現量として通達して。「今において~であるように」とは、現在において五取蘊が苦諦であるように、過去においても未来においても五取蘊は苦諦そのものである、というように類似の意味で説かれている。この規範は集諦と道諦においても同様である。「これのみ」とは限定である。しかし滅諦には類似の意味はない。それは常住であり、一なる自性を持つからである。このように「その知の追随における知」とは、その法智の「過去においてもこのように」等による追随、追行、類推における知のことである。「これが類智である」と解釈される。「**それゆえ仰せられた**」等の句によって、前述の意義を聖典テキストによって解明している。「その人」とは、法智に達してとどまる比丘のこと。「この法によって」とは、法の境地であることから境地の表現によって「法」と説かれた道知によって、あるいは対格の意味における具格の表現であり、この法を知恵によって知ってとどまる道知によって、という意味である。「見られたことによって」とは、見ることによって諦法を見てとどまることによって。「達したことによって」とは、真理に達してとどまることによって。「了解されたことによって」とは、真理を了解してとどまることによって。「窮められたことによって」とは、四諦の法を窮めてとどまることによって、とまずここでは阿毘達磨の義釈(分別注七九六)において意味が説かれている。しかし道と果の二種の智慧ともに法智である。また反省(省察)の根本であり、類推を導く因であることから、その二種の法によってという意味でも不適切ではない。同様に四諦の法が知られたことによって、あるいは道果と呼ばれる法が諦の通達との相応に至ったことによって類推が導かれるのであるから、これによって、この法を知の対象である状態によって、あるいは知との相応によって知られたことによって、という意義も不適切ではない。「過去と未来において類推を導く」とは、過去と未来において類推を導き、運び、向けることである。しかしこれは道知の作用ではなく、省察知の作用であるが、師(仏陀)は道知を過去と未来における類推の誘導に等しいものとされた。道が根本にあるからである。実に修習された道を持つ者にこそ省察があるのである。これは別の知を生じさせる類推ではなく、知そのものの働きの特殊性である。
Paresaṃ cetaso parito ayanaṃ paricchindanaṃ pariyo, tasmiṃ pariye. Tenāha **‘‘paresaṃ cittaparicchede’’**ti. Avasesaṃ sammutimhiñāṇaṃ nāma ‘‘ñāṇa’’nti sammatattā. Vacanatthato pana sammutimhi ñāṇanti sammutimhiñāṇaṃ. Dhammeñāṇādīnaṃ viya hi sātisayassa paṭivedhakiccassa abhāvā visayobhāsanasaṅkhātajānanasāmaññena ‘‘ñāṇa’’nti sammatesu antogadhanti attho. Sammutivasena vā pavattaṃ sammutimhiñāṇaṃ sammutidvārena atthassa gahaṇato. Avasesaṃ vā itarañāṇattayavisabhāgaṃ ñāṇaṃ tabbisabhāgasāmaññena sammutimhiñāṇamhi paviṭṭhattā sammutimhiñāṇaṃ nāma hotīti.
他者の心を巡り、区切ることが周知(パリヤ)であり、その周知において。それゆえ「**他者の心の限定において**」と説かれた。残りは「知」と公認されていることから世俗智と呼ばれる。語義からは、世俗における知が世俗智である。法智などのような際立った通達の作用がないため、対象を照らすという一般的な知覚によって「知」と公認されたものの中に含まれる、という意味である。あるいは世俗の力によって働いた世俗智であり、世俗の門によって対象を把握するからである。あるいは残りの三つの知と性質を異にする知が、その異質性という共通点によって世俗智の中に包摂されることから世俗智と呼ばれる。
Kāmaṃ sotāpattimaggañāṇādīni dukkhañāṇādīniyeva, ukkaṭṭhaniddesena panevamāha ‘‘arahattaṃ **pāpetvā’’**ti. Vaṭṭato niggacchati etenāti niggamanaṃ, catusaccakammaṭṭhānaṃ. Purimāni dve saccāni vaṭṭaṃ pavattipavattihetubhāvato. Itarāni pana dve vivaṭṭaṃ nivattinivattihetubhāvato. Abhinivesoti vipassanābhiniveso hoti lokiyassa ñāṇassa visabhāgūpagamanato. No vivaṭṭeti vivaṭṭe abhiniveso no hoti avisayabhāvato. Pariyattīti kammaṭṭhānatanti. Uggahetvāti vācuggataṃ katvā. Uggahetvāti vā pāḷito, atthato ca yathārahaṃ savanadhāraṇaparipucchanamanasānupekkhanādivasena cittena uddhaṃ uddhaṃ gaṇhitvā. Kammaṃ karotīti nāmarūpapariggahādikkamena yogakammaṃ karoti.
確かに預流道智などは苦智そのものであるが、最高峰を示すことによってこのように「**阿羅漢果に至らせて**」と説かれた。これによって輪廻から脱出するゆえに出離であり、四諦の業処のことである。前の二つの真理は輪廻である。生起と流転の原因であるからである。しかし後の二つは脱輪廻(解脱)である。退滅と脱出の原因であるからである。「確執(専念)」とは、世間の知の異質性(対象の相違)に至ることから生じるヴィパッサナーの専念のことである。「解脱においてはなく」とは、対象の範囲外であることから解脱においては専念がないことである。「教説」とは、業処の聖典伝承のこと。「学んで」とは、暗唱して。あるいは「学んで」とは、聖典テキストから、また義から、適切に聴聞・保持・質問・作意による観察等によって心で高みへと把握して。「業をなす」とは、名色の把握などの順序によって修行の業(実践)をなすことである。
Yadi purimesu dvīsu eva vipassanābhiniveso, tesu eva uggahādi, kathamidaṃ catusaccakammaṭṭhānaṃ jātanti āha **‘‘dvīsū’’**tiādi. Kāmaṃ pacchimānipi dve saccāni abhiññeyyāni, pariññeyyatā pana tattha natthīti na vipassanābyāpāro. Kevalaṃ pana anussavamatte ṭhatvā accantapaṇītabhāvato iṭṭhaṃ, ātappakanirāmisapītisañjananato kantaṃ, uparūpari abhirucijananena manassa vaḍḍhanato manāpanti manasikāraṃ pavatteti. Tenāha **‘‘nirodhasaccaṃ nāmā’’**tiādi. Dvīsu saccesūti dvīsu saccesu visayabhūtesu, tāni ca uddissa asammohapaṭivedhavasena pavattamāno hi maggo te uddissa pavatto nāma hotīti. Tīṇi dukkhasamudayamaggasaccāni. Kiccavasenāti asammuyhanavasena. Ekanti nirodhasaccaṃ. Ārammaṇavasenāti ārammaṇakaraṇavasenapi asammuyhanakiccavasenapi tattha paṭivedho labbhateva. Dve saccānīti dukkhasamudayasaccāni. Duddasattāti daṭṭhuṃ asakkuṇeyyattā. Oḷārikā hi dukkhasamudayā, tiracchānagatānampi dukkhaṃ, āhārādīsu ca abhilāso pākaṭo. Pīḷanādiāyūhanādivasenapi ‘‘idaṃ dukkhaṃ, idaṃ assa kāraṇa’’nti yāthāvato ñāṇena ogāhituṃ asakkuṇeyyattā tāni gambhīrāni. Dveti nirodhamaggasaccāni. Tāni saṇhasukhumabhāvato sabhāveneva gambhīratāya yāthāvato ñāṇena durogāhattā **‘‘duddasānī’’**ti.
もし前の二つにおいてのみヴィパッサナーの専念があり、それらにおいてのみ学習等があるなら、どうしてこれが四諦の業処となったのか、という問いに対して「**二つにおいて……**」等と述べた。確かに後の二つの真理も勝知されるべきものであるが、そこには遍知されるべき性質がないため、ヴィパッサナーの働きはない。ただ伝承のみにとどまって、極めて優れていることから望ましく、熱意ある無執着の歓喜を生じさせることから愛らしく、次第に意欲を生じさせることによって心を増大させることから好ましい、と作意を働かせるのである。それゆえ「**滅諦とは……**」等と説かれた。「二つの真理において」とは、対象となっている二つの真理において、ということであり、それらを目的にして無癡の通達によって働く道は、それらを目的にして働いたと呼ばれるからである。三つとは、苦・集・道の諸諦である。「作用の力によって」とは、迷妄しないことの力によって。「一つを」とは、滅諦のこと。「所縁の力によって」とは、所縁とすることの力によっても、迷妄しない作用の力によっても、そこにおいて通達は得られるのである。「二つの真理」とは、苦・集の二諦のこと。「見難いことから」とは、見る(知る)ことができないことからである。実に苦と集とは粗大であり、畜生たちにも苦しみや食物等への欲望は明白である。圧迫や集積などの立場からも、「これが苦であり、これがその原因である」と事実のままに智慧によって深入りすることができないため、それらは深遠である。「二つ」とは、滅・道の二諦のことである。それらは微細であることから本性として深遠であり、事実のままに智慧によって深入りし難いことから「**見難い**」とされる。
Sotāpattiyaṅgādicatukkavaṇṇanā
預流支等四法釈
311. Soto nāma ariyasoto purimapadalopena, tassa ādito sabbapaṭhamaṃ pajjanaṃ sotāpatti, paṭhamamaggapaṭilābho. Tassa aṅgāni adhigamūpāyabhūtāni kāraṇāni sotāpattiyaṅgāni. Tenāha **‘‘sotā…pe… attho’’**ti. Santakāyakammāditāya santadhammasamannāgamato, santadhammapavedanato ca santo purisāti sappurisā. Tattha yesaṃ vasena catusaccasampaṭivedhāvahaṃ saddhammassavanaṃ labbhati, te eva dassento **‘‘buddhādīnaṃ sappurisāna’’**nti āha. Santo sataṃ vā dhammoti saddhammo. So hi yathānusiṭṭhaṃ paṭipajjamāne apāyadukkhe, saṃsāradukkhe ca apatante dhāretīti evamādi guṇātisayayogavasena santo saṃvijjamāno, pasattho, sundaro vā dhammo, sataṃ vā ariyānaṃ dhammo, tesaṃ vā tabbhāvasādhako dhammoti saddhammo, ‘‘idha bhikkhu dhammaṃ pariyāpuṇātī’’tiādinā (a. ni. 5.73) vuttā pariyatti. Sā pana mahāvisayatāya na sabbā sabbassa visesāvahāti tassa tassa anucchavikameva dassento āha **‘‘sappāyassa tepiṭakadhammassa savana’’**nti. Yonisomanasikāro heṭṭhā vutto eva. Pubbabhāgapaṭipattiyāti vipassanānuyogassa.
三一一。「流れ」とは、前語の省略によって聖なる流れのこと、それへの最初の一番初めの参入が預流(入流)であり、第一の道の獲得である。その支分であり、到達の手段となる諸条件が預流支である。それゆえ「**預流……〔中略〕……意味である**」と説かれた。穏やかな身の行い等を持つことによって静穏な法を具備していることから、また静穏な法を教示することから、静穏な人を善士(サップリサ)という。その中で、それらによって四諦の通達をもたらす正法の聴聞が得られる人々そのものを示すために、「**仏陀などの善士の**」と述べた。善なる、あるいは賢者の法であるから「正法」という。実にそれは、教示の通りに実践する者を悪趣の苦しみや輪廻の苦しみに堕ちないように保持するなどの優れた徳性を備えていることから、実在する、称賛された、あるいは美しい法であり、あるいは賢者である聖者たちの法であり、あるいは彼らのその状態を成就させる法であるから正法であり、「ここに比丘が法を学習する」等(増・五・七三)に説かれた教説のことである。しかしそれは広大な領域を持つため、すべてのものがすべての人に卓越した果をもたらすわけではないので、それぞれに相応しいもののみを示すために「**適した三蔵の法の聴聞**」と述べた。「如理作意」は以前に説かれた通りである。「前段階の実践によって」とは、ヴィパッサナーの専念によって、ということである。
Aveccappasādenāti saccasampaṭivedhavasena buddhādīnaṃ guṇe ñatvā uppannappasādena, so pana pasādo devādīsu kenacipi akampiyatāya niccaloti āha **‘‘acalappasādenā’’**ti. Etthāti etasmiṃ catukkattaye āhāracatukke. Lūkhapaṇītavatthuvasenāti odanakummāsādikassa lūkhassa ceva paṇītassa ca vatthuno vasena. Sā panāyaṃ āhārassa oḷārikasukhumatā ‘‘kumbhilānaṃ āhāraṃ upādāya morānaṃ āhāro sukhumo’’tiādinā (saṃ. ni. aṭṭha. 2.2.11) aṭṭhakathāyaṃ vitthārato āgatā eva.
「不壊の清浄な信によって」とは、真理の通達によって仏陀などの徳を知って生じた浄信のことであり、その浄信は神々などのいかなる者によっても動揺させられないため不動であるとして、「**不動の浄信によって**」と説かれた。「ここに」とは、この三つの四法における食の四法において。「粗い、あるいは優れた対象の力によって」とは、飯や雑穀米などの粗い、また優れた対象の力によって、ということである。この食物の粗大さと微細さとは、「ワニの食物に比してクジャクの食物は微細である」等(相注二・二・一一)と義釈において詳細に説かれている通りである。
Ārammaṇaṭṭhitivasenāti ārammaṇasaṅkhātassa pavattipaccayaṭṭhānassa vasena. Tiṭṭhati etthāti ṭhiti, ārammaṇameva ṭhiti ārammaṇaṭṭhiti. Tenevāha ‘‘rūpārammaṇa’’ntiādi. Ārammaṇattho cettha upatthambhanattho veditabbo, na visayalakkhaṇova. Upatthambhanabhūtaṃ rūpaṃ upetīti rūpūpāyaṃ. Tenāha **‘‘rūpaṃ upagataṃ hutvā’’**tiādi. Rūpakkhandhaṃ nissāya tiṭṭhati tena vinā appavattanato. Tanti rūpakkhandhaṃ nissāya ṭhānappavattanaṃ. Etanti ‘‘rūpūpāya’’nti etaṃ vacanaṃ. Rūpakkhandho gocaro pavattiṭṭhānaṃ paccayo etassāti rūpakkhandhagocaraṃ rūpaṃ sahakārīkāraṇabhāvena patiṭṭhā etassāti rūpappatiṭṭhaṃ. Iti tīhi padehi abhisaṅkhāraviññāṇaṃ pati rūpakkhandhassa sahakārīkāraṇabhāvoyevettha vutto. Upasittaṃ viya upasittaṃ, yathā byañjanehi upasittaṃ sinehitaṃ odanaṃ rucitaṃ, pariṇāmayogyañca, evaṃ nandiyā upasittaṃ sinehitaṃ kammaviññāṇaṃ abhirucitaṃ hutvā vipākayogyaṃ hotīti. Itaranti dosasahagatādiakusalaṃ, kusalañca upanissayakoṭiyā upasittaṃ hutvāti yojanā. Evaṃ pavattamānanti evaṃ rūpūpāyanti desanābhāvena pavattamānaṃ. Vipākadhammatāya vuddhiṃ…pe… āpajjati. Tatthāpi nippariyāyaphalanibbattanavasena vuddhiṃ, pariyāyaphalanibbattanavasena viruḷhiṃ, nissandaphalanibbattanavasena vepullaṃ. Diṭṭhadhammavedanīyaphalanibbattanena vā vuddhiṃ, upapajjavedanīyaphalanibbattanavasena viruḷhiṃ, aparāpariyāyaphalanibbattanavasena vepullaṃ āpajjatīti yojanā. Ekantato vedanupāyādivasena patti nāma arūpabhave yevāti āha **‘‘imehi panā’’**tiādi. Evañca katvā pāḷiyaṃ kataṃ vā-saddaggahaṇañca samatthitaṃ hoti. ‘‘Rūpūpāya’’ntiādinā yathā abhisaṅkhāraviññāṇassa upanissayabhūtā rūpādayo gayhanti, evaṃ tena nibbattetabbāpi te gayhantīti adhippāyena **‘‘catukkavasena…pe… na vutta’’**nti āha. Vipākopi hi dhammo vipākadhammaviññāṇaṃ upagataṃ nāma hoti tathā nandiyā upasittattā. Tenāha ‘‘nandūpasecana’’nti. Vitthāritāneva siṅgālasutte.
「所縁としての住立の力によって」とは、所縁と呼ばれる働きの依処の力によって、ということである。これにとどまるゆえに「住立」であり、所縁そのものが住立であるから「所縁の住立」という。それゆえ「色を所縁とする」等と説かれた。ここでの所縁の意味は支持の意味と知られるべきであり、単なる対象の特質ではない。支持となる色に近づくゆえに「色に近づくもの」である。それゆえ「**色に近づいて**」等と説かれた。色蘊に依拠してとどまる。それなしには働かないからである。「それを」とは、色蘊に依拠してとどまり働くことを。「これを」とは、「色に近づくもの」というこの言葉を。色蘊が境地であり、働きの場所であり、これの条件であるから色蘊を境地とし、色が補助の原因となる状態によってこれの基盤となるから「色に安住するもの」である。このように三つの句によって、行識に対する色蘊の補助の原因となる状態そのものがここで説かれている。潤されたかのようであるから「潤された」といい、あたかも副食物によって潤され油の回った飯が美味しく消化に適しているように、喜悦によって潤され油の回った業識は喜ばしいものとなって異熟に適したものとなる。他方(他の識)は、瞋恚を伴うなどの不善であり、善もまた強い依存状態によって潤されて、と解釈される。「このように働くものを」とは、このように色に近づくものという教説の現れとして働くものを、ということである。異熟の法であることから増大し……〔中略〕……に至る。そこでも無限定の果を生じることによって増長し、限定された果を生じることによって成長し、等流果を生じることによって広大となる。あるいは順現法受業の果を生じることによって増長し、順次生受業の果を生じることによって成長し、順後次受業の果を生じることによって広大に至る、と解釈される。もっぱら受に近づくものなどの力による到達とはまさに無色界においてのみであるとして、「**しかしこれらによって……**」等と述べた。このようにして聖典テキストにおいてなされた「あるいは(vā)」という言葉の把握も成立させられる。「色に近づくもの」等によって、行識の依存状態となった色などが把握されるように、それによって生み出されるべきそれらもまた把握される、という趣旨によって「**四法の力によって……〔中略〕……説かれていない**」と述べた。実に異熟の法もまた、そのように喜悦によって潤されていることから異熟の法識に近づいたものと呼ばれるからである。それゆえ「喜悦の潤い」と説かれた。シンガーラ経において詳細に説かれている。
Bhavati etena ārogyanti bhavo, gilānapaccayo. Parivuddho bhavo abhavo. Vuddhiattho hi ayaṃ akāro yathā ‘‘saṃvarāsaṃvaro, (pārā. paṭhamamahāsaṅgītikathā; dī. ni. aṭṭha. 1.paṭhamamahāsaṅgītikathāvaṇṇanā; dha. sa. aṭṭha. nidānakathā) phalāphalaṃ’’ti ca. Telamadhuphāṇitādīnīti ādi-saddena sappinavanītānaṃ gahaṇaṃ, telādīnaṃ gahaṇañcettha nidassanamattaṃ. Sabbassāpi gilānapaccayassa saṅgaho daṭṭhabbo. Atha vā bhavābhavoti khuddako ceva mahanto ca upapattibhavo veditabbo. Evañca sati ‘‘imesaṃ panā’’tiādivacanaṃ samatthitaṃ hoti. Bhavūpapattipahānattho hi visesato catutthaariyavaṃso. Taṇhuppādānanti taṇhuppattīnaṃ, cīvarādihetu uppajjanakataṇhānanti attho. Padhānakaraṇakāleti bhāvanānuyogakkhaṇe. Sītādīni na khamatīti bhāvanāya pubbabhāgakālaṃ sandhāya vuttaṃ. Khamatīti sahati abhibhavati. Vitakkasamananti nidassanamattaṃ. Sabbesampi kilesānaṃ samanavasena pavattā paṭipadā.
これによって無病(健康)が生じるゆえに有(バヴァ)であり、病人用資具のことである。増大した有が非有(アバヴァ)である。実にこの「ア」の文字は、「律儀と非律儀(増大した律儀)」「果実(増大した果実)」におけるように増大の意味である。「油、蜂蜜、糖蜜など」とは、「など」という言葉によってギーや生バターを把握することであり、油などの把握はここでは単なる例示である。すべての病人用資具の包摂と見なされるべきである。あるいは「有非有」とは、小なる、また大なる再生の生存と知られるべきである。そうであれば「しかしこれらの……」等の言葉も成立させられる。生存への再生を断ずることが、とりわけ第四の聖種の目的だからである。「渇愛の生起の」とは、渇愛の生起することの、衣などを原因として生じる渇愛の、という意味である。「努力をなす時に」とは、修習に専念する瞬間に。「寒さなどを耐え忍ばない」とは、修習の前段階の時を指して説かれた。「耐え忍ぶ」とは、耐える、克服することである。「分別の静息」とは単なる例示である。すべての煩悩の静息の力によって働いた実践のことである。
Samādhijhānādibhedo dhammo pajjati paṭipajjīyati etenāti dhammapadaṃ. Anabhijjhāva dhammapadaṃ anabhijjhādhammapadaṃ. Ayaṃ tāva alobhapakkhe nayo, itarapakkhe pana anabhijjhāpadhāno dhammakoṭṭhāso anabhijjhādhammapadaṃ. Akopoti adoso, mettāti attho. Suppaṭṭhitasatīti kāyādīsu sammadeva upaṭṭhitā sati. Satisīsenāti satipadhānamukhena. Samādhipadhānattā jhānānaṃ **‘‘samāpatti vā’’**ti vuttaṃ. Kāmaṃ saviññāṇakaasubhepi jhānabhāvanā alobhappadhānā hoti kāyassa jigucchanena, paṭikkūlākāraggahaṇavasena ca pavattanato, sattavidhauggahakosallādivasena panassā pavatti satipadhānāti tatiyadhammapadeneva naṃ saṅgaṇhitukāmo **‘‘dasa asubhavasena vā’’**ti āha. Hitūpasaṃhārādivasena pavattanato brahmavihārabhāvanā byāpādavirodhinī abyāpādappadhānāti āha **‘‘catubrahma…pe… dhammapada’’**nti. Tattha adhigatāni jhānādīnīti yojanā. Gamanādito āhārassa paṭikkūlabhāvasallakkhaṇaṃ saññāya thirabhāveneva hoti tassā thirasaññāpadaṭṭhānattāti āhāre paṭikkūlasaññāpi tatiyadhammapade eva saṅgahaṃ gatā. Āruppasamādhiabhiññānaṃ adhiṭṭhānabhāvato kasiṇabhāvanā, sattavidhabojjhaṅgavijjāvimuttipāripūrihetuto ānāpānesu paṭhamaānāpānabhāvanā visesato samādhipadhānāti sā catutthadhammapadena saṅgahitā. Catudhātuvavatthānavasena adhigatānipi ettheva saṅgahetabbāni siyuṃ, paññāpadhānatāya pana na saṅgahitāni.
三摩地や禅定などの区分を持つ法が、これによって歩まれる、実践されるゆえに「法句(法の足跡・支分)」である。無貪そのものが法句であるから「無貪法句」である。これはまず無貪の側における規範であるが、他の側においては、無貪を主とする法の区分が無貪法句である。「無瞋」とは無瞋恚であり、慈悲という意味である。「よく確立された正念」とは、身などにおいてまさしく現前した正念のこと。「正念を第一として」とは、正念を主とする方便によって。禅定は三摩地を主とすることから「**等至、あるいは……**」と説かれた。確かに有情の不浄(死体)における禅定の修習も、身体の嫌悪や不浄の相の把握の力によって働くことから無貪を主とするものであるが、七種の把握の巧みさなどの力によるその働きは正念を主とするものであるため、第三の法句によってそれを包摂しようと欲して「**十の不浄の力によって、あるいは……**」と述べた。利益の導入などの力によって働くことから梵住の修習は瞋恚と矛盾し、無瞋を主とするものであるとして、「**四梵住……〔中略〕……法句である**」と述べた。そこにおいて得られた禅定など、と解釈される。行くことなどからの食物の嫌悪性の観察は、想の堅固さによってこそ生じるのであり、それは堅固な想を直接の因とするものであるから、食物における不浄想もまた第三の法句の中にこそ包摂された。無色界の三摩地や神通の基盤となることから遍処の修習は、また七種の覚支と明・解脱を充足させる因となることから出入息における最初の出入息の修習は、とりわけ三摩地を主とするものであるから、それは第四の法句によって包摂された。四大の限定の力によって得られたものもここに含まれるべきであるが、智慧を主とするものであるため包摂されていない。
Dhammasamādānesu paṭhamaṃ acelakapaṭipadā etarahi ca dukkhabhāvato, anāgatepi apāyadukkhavaṭṭadukkhāvahato. Acelakapaṭipadāti ca nidassanamattaṃ daṭṭhabbaṃ channaparibbājakānampi ubhayadukkhāvahapaṭipattidassanato. Dutiyaṃ…pe… brahmacariyacaraṇaṃ etarahi satipi dukkhe āyatiṃ sukhāvahattā. Kāmesu pātabyatā yathākāmaṃ kāmaparibhogo. Alabhamānassāpīti pi-saddena ko pana vādo labhamānassāti dasseti.
法の受納において、第一のものは無衣(裸形)の実践であり、現在においても苦であり、未来においても悪趣の苦や輪廻の苦をもたらすからである。「無衣の実践」とは単なる例示と見なされるべきであり、衣を着る遊行者たちにも双方の苦をもたらす実践が見られるからである。「第二のものは……〔中略〕……清浄行の実践」とは、現在において苦があろうとも将来において楽をもたらすからである。「欲望における耽溺」とは、欲するままの欲望の受用である。「得られない者にとっても」という「~にとっても(api)」の言葉によって、ましてや得られる者にとっては言うまでもない、ということを示している。
Dussīlyādipāpadhammānaṃ khambhanaṃ paṭibandhanaṃ khandhaṭṭho, so pana sīlādi evāti āha **‘‘guṇaṭṭho khandhaṭṭho’’**ti. Guṇavisayatāya khandha-saddassa guṇatthatā veditabbā. Vimuttikkhandhoti paṭipakkhato suṭṭhu vimuttā guṇadhammā adhippetā, na avimuttā, nāpi vimuccamānāti tehi saha desanaṃ āruḷhā sīlakkhandhādayopi tayoti āha **‘‘phalasīlaṃ adhippetaṃ, catūsupi ṭhānesu phalameva vutta’’**nti ca. Eteneva cettha vimuttikkhandhoti phalapariyāpannā sammāsaṅkappavāyāmasatiyo adhippetāti veditabbaṃ.
破戒などの悪法を制止し妨げるものが蘊(集積)の意味であり、それはまさに戒などであるとして、「**徳性の意味が集積の意味である**」と述べた。徳性を対象とすることから、蘊という言葉が徳性の意味であると知られるべきである。「解脱蘊」とは、対立するものから完全に解脱した徳の法が意図されているのであり、解脱していないものでも、解脱しつつあるものでもないから、それらと共に説法に上った戒蘊などの三つもそうであるとして、「**果の戒が意図されており、四つの箇所すべてにおいて果そのものが説かれている**」と述べた。これによってここでの解脱蘊とは、果に含まれる正思惟・正精進・正念が意図されていると知られるべきである。
Upatthambhanaṭṭhena sampayuttadhammānaṃ tattha thirabhāvena pavattanato, eteneva ahirikaanottappānampi savisaye balaṭṭho siddho veditabbo. Na hi tesaṃ paṭipakkhehi akampiyaṭṭho ekantiko. Hirottappānañhi akampiyaṭṭho sātisayo kusaladhammānaṃ mahābalabhāvato, akusalānañca dubbalabhāvato. Tenāha bhagavā ‘‘abalā naṃ balīyanti, maddante naṃ parissayā’’ti (su. ni. 776; mahāni. 5; netti. paṭiniddesavāre 5) bodhipakkhiyadhammavasenāyaṃ desanāti **‘‘samathavipassanāmaggavasenā’’**ti vuttaṃ.
支持の意味によって、相応する諸法がそこにおいて堅固な状態として働くことから、これによって無慚と無愧にもそれぞれの領域において力の意味が成就すると知られるべきである。実にそれらには対立するものによって動揺させられないという意味は絶対的ではない。慚と愧には動揺させられないという意味が際立っている。善法には大いなる力があり、不善法には力がないからである。それゆえ世尊は「力のなき彼らを〔諸悪が〕圧倒し、諸々の危難が彼らを踏みにじる」(経集七七六、大義釈五、導論・再説節五)と仰せられた。菩提分法の力によるこの説法であるとして、「**止観の道の力によって**」と説かれた。
Adhīti upasaggamattaṃ, na ‘‘adhicitta’’ntiādīsu (dha. pa. 185) viya adhikārādiatthaṃ. Karaṇādhikaraṇabhāvasādhanavasena adhiṭṭhāna-saddassa atthaṃ dassento ‘‘tena **vā’’**tiādimāha. Tena adhiṭṭhānena tiṭṭhanti attano sammāpaṭipattiyaṃ guṇādhikā purisā, te eva tattha adhiṭṭhāne tiṭṭhanti sammāpattiyā, ṭhānameva adhiṭṭhānameva sammāpaṭipattiyanti yojanā. Paṭhamena adhiṭṭhānena. Aggaphalapaññāti ukkaṭṭhaniddesoyaṃ. Kilesūpasamoti kilesānaṃ accantavūpasamo. Paṭhamena nayena adhiṭṭhānāni ekadesatova gahitāni, na nippadesatoti nippadesatova tāni dassetuṃ **‘‘paṭhamena cā’’**tiādi vuttaṃ. **‘‘Ādiṃ katvā’’**ti etena jhānābhiññāpaññañceva maggapaññañca saṅgaṇhāti. Vacīsaccaṃ ādiṃ katvāti ādi-saddena viratisaccaṃ saṅgaṇhāti. Tatiyena ādi-saddena kilesānaṃ vītikkamapariccāgaṃ, pariyuṭṭhānapariccāgaṃ, heṭṭhimamaggehi anusayapariccāgañca saṅgaṇhāti. **‘‘Vikkhambhite kilese’’**ti etena samāpattīhi kilesānaṃ vikkhambhanavasena vūpasamaṃ vatvā ādi-saddena heṭṭhimamaggehi kātabbaṃ tesaṃ samucchedavasena vūpasamaṃ saṅgaṇhāti. Arahattaphalapaññā kathitā ukkaṭṭhaniddesatova, aññathā vacīsaccādīnampi gahaṇaṃ siyā. Nibbānañca asammosadhammatāya uttamaṭṭhena saccaṃ, sabbasaṃkilesapariccāganimittatāya cāgo, sabbasaṅkhārūpasamabhāvato upasamoti ca visesato vattabbataṃ arahatīti therassa adhippāyo. Pakaṭṭhajānanaphalatāya paññā, anavasesato kilesānañcajante ca vūpasante ca uppannattā cāgo, upasamoti ca visesato aggaphalañāṇaṃ vuccatīti thero āha **‘‘sesehi arahattaphalapaññā kathitā’’**ti.
「アディ」とは単なる接頭辞であり、「増上心(adhicitta)」等(法句一八五)におけるような卓越などの意味ではない。手段(能作)および場所(所作)の成就の力によって住処(アディッターナ)という言葉の意味を示して、「**それによって、あるいは……**」等と述べた。その住処によって、徳において優れた人々が自己の正しい実践にとどまる。彼ら自身がその住処において正しい実践によってとどまるのであり、その場所そのもの、住処そのものが正しい実践のためのものである、と解釈される。「第一の住処によって」。「最勝の果の智慧」とは、最高峰を示す表現である。「煩悩の静息」とは、煩悩の完全な静息のことである。第一の規範によっては住処が一部分からのみ把握されており、無余(全体)からではないので、無余としてそれらを示すために「**第一のものによっても……**」等と説かれた。「**初めとして**」というこれによって、禅定や神通の智慧、および道の智慧を包含している。「口の真実を初めとして」とは、「初めとして」という言葉によって離(不邪語)の真実を包含している。第三の「初めとして」という言葉によって、煩悩の超越の放棄(違犯の放棄)、現起の放棄、および下位の道による随眠の放棄を包含している。「**鎮伏された煩悩において**」というこれによって、等至による煩悩の鎮伏による静息を語り、「初めとして」という言葉によって、下位の道によってなされるべきそれらの断絶による静息を包含している。阿羅漢果の智慧が説かれたのは最高峰を示す表現によるものであり、そうでなければ口の真実などの把握もなされるはずである。また涅槃は不忘失の法であることから最上の意味において真実であり、すべての煩悩を放棄する目標であることから捨であり、すべての諸行の静息であることから静息であると、とりわけ言われるに値する、というのが長老の趣旨である。卓越した知解の果であることから智慧であり、余すところなく煩悩を捨てる者において、また静息した者において生じたものであるから捨であり、静息であると、とりわけ最勝の果の知を言うのであるとして、長老は「**残りのものによって阿羅漢果の智慧が説かれた**」と述べた。
Pañhabyākaraṇādicatukkavaṇṇanā
問答釈等四法釈
312. Kāḷakanti malīnaṃ, cittassa apabhassarabhāvakaraṇanti attho. Taṃ panettha kammapathappattameva adhippetanti āha **‘‘dasaakusalakammapathakamma’’**nti. Kaṇhābhijātihetuto vā kaṇhaṃ. Tenāha ‘‘kaṇhavipāka’’nti. Apāyūpatti, manussesu ca dobhaggiyaṃ kaṇhavipāko. Ayaṃ tassa tamabhāvo vutto. Nibbattanatoti nibbattāpanato. Paṇḍaranti odātaṃ, cittassa pabhassarabhāvakaraṇanti attho. Sukkābhijātihetuto vā sukkaṃ. Tenāha ‘‘sukkavipāka’’nti. Saggūpapatti, manussesu sobhaggiyañca sukkavipāko. Ayaṃ tassa jotibhāvo vutto. Ukkaṭṭhaniddesena pana **‘‘sagge nibbattanato’’**ti vuttaṃ, nibbattāpanatoti attho. Missakakammanti kālena kaṇhaṃ, kālena sukkanti evaṃ missakavasena katakammaṃ. **‘‘Sukhadukkhavipāka’’**nti vatvā tattha sukhadukkhānaṃ pavattiākāraṃ dassetuṃ **‘‘missakakammañhī’’**tiādi vuttaṃ. Kammassa kaṇhasukkasamaññā kaṇhasukkābhijātihetutāyāti apacayagāmitāya tadubhayaviddhaṃsakassa kammakkhayakarakammassa idha sukkapariyāyopi na icchitoti āha **‘‘ubhaya…pe… ayamettha attho’’**ti. Tattha ubhayavipākassāti yathādhigatassa ubhayavipākassa. Sampattibhavapariyāpanno hi vipāko idha ‘‘sukkavipāko’’ti adhippeto, na accantaparisuddho ariyaphalavipāko.
312. 「黒」とは汚れたものであり、心を輝きのない状態にさせることという意味である。ここでそれはまさに業道に至ったもののみが意図されているので、「十不善業道の業」と述べられている。あるいは黒き種族の原因となることから黒である。それゆえ「黒の異熟」と言う。悪趣への再生や、人間界における不幸が黒の異熟である。これがそれの闇の状態であると説かれた。「生じることから」とは生じさせることからである。「白」とは清浄なものであり、心を輝く状態にさせることという意味である。あるいは白き種族の原因となることから白である。それゆえ「白の異熟」と言う。天界への再生や、人間界における幸運が白の異熟である。これがそれの光明の状態であると説かれた。しかし、勝れたものの指示によって「天界に生じることから」と説かれており、生じさせることからという意味である。「混じり合った業」とは、ある時は黒、ある時は白というように、混じることによってなされた業である。「楽と苦の異熟」と述べて、そこにおける楽と苦の現れのありさまを示すために「混じり合った業はまさに」等と説かれた。業の黒と白という名称は黒と白の種族の原因性によるものであり、減退に向かうことでその双方を滅ぼす業の尽滅をなす業に対しては、ここにおいて白という同義語も望まれないので、「双方……(略)……これがここでの意味である」と述べた。その中で「双方の異熟の」とは、証得された通りの双方の異熟のということである。なぜなら、成就した生存に属する異熟がここにおいて「白の異熟」と意図されているのであり、完全に清浄なる聖果の異熟ではないからである。
Pubbenivāso sattānaṃ cutūpapāto ca paccakkhakaraṇena sacchikātabbā; itare paṭilābhena asammohapaṭivedhavasena paccakkhakaraṇena ca sacchikātabbā. Nanu ca paccavekkhaṇāpettha paccakkhato pavattatīti? Saccaṃ paccakkhato pavattati sarūpadassanato, na pana paccakkhakaraṇavasena pavattati paccakkhakārīnaṃ piṭṭhivattanato. Tenāha **‘‘kāyenā’’**tiādi.
宿住(過去世の記憶)と有情の死生の知は現前化(直観)によって現証されるべきであり、他(漏尽通など)は証得と無痴の通達の力、および現前化によって現証されるべきである。「ここでは観察もまた現前として働くのではないか」と問うなら、確かに現前として働く。自相を見るからである。しかし、現前化の力によって働くのではない。現前をなす者たちの背後に続くからである。それゆえ「身をもって」等と述べた。
Ohanantīti heṭṭhā katvā hananti gamenti. Tathābhūtā ca adho sīdenti nāmāti āha **‘‘osīdāpentī’’**ti. Kāmanaṭṭhena kāmo ca so yathāvuttenatthena ogho cāti, kāmesu oghoti vā kāmogho. Bhavogho nāma bhavarāgoti dassetuṃ **‘‘rūpārūpabhavesū’’**tiādi vuttaṃ. Tattha paṭhamo upapattibhavesu rāgo, dutiyo kammabhavesu, tatiyo bhavadiṭṭhisahagato. Yathā rañjanaṭṭhena rāgo, evaṃ ohanaṭṭhena ‘‘ogho’’ti vutto.
「押し流す(ohananti)」とは、下にして打ち倒し、運ぶことである。そのようになった者たちはまさに下へと沈むので「沈ませる」と言った。愛求の意味によって欲であり、かつそれは前述の通りの意味で暴流であるから、欲の暴流である。有暴流とは有愛であると示すために「色界や無色界の生存において」等と述べられた。そこにおいて、最初のものは受生としての生存における愛であり、第二のものは業としての生存におけるものであり、第三のものは有見(常見)を伴うものである。染着の意味によって貪愛であるように、押し流す意味によって「暴流」と説かれた。
Yojentīti kammaṃ vipākena, bhavādiṃ bhavantarādīhi dukkhe satte yojenti ghaṭṭentīti yogā. Oghā viya veditabbā atthato kāmayogādibhāvato.
「結びつける(yojenti)」とは、業を異熟と、生存などを次の生存などとともに、有情を苦しみに結びつけ、衝突させるので軛(がく)である。意味としては欲の軛などの状態であることから暴流のように知られるべきである。
Visaṃyojentīti paṭipannaṃ puggalaṃ kāmayogādito viyojenti. Saṃkilesakaraṇaṃ yojanaṃ yogo, ganthikaraṇaṃ (ganthakaraṇaṃ dha. sa. mūlaṭī. 20-25), saṅkhalikacakkalikānaṃ viya paṭibaddhatākaraṇaṃ vā ganthanaṃ gantho, ayaṃ etesaṃ viseso. Palibundhatīti nissarituṃ appadānavasena na muñceti vibandhati. Idamevāti attano yathāupaṭṭhitaṃ sassatavādādikaṃ vadati. Saccanti bhūtaṃ.
「解き放つ(visaṃyojenti)」とは、修行する人を欲の軛などから引き離すことである。汚れをなす結びつきが軛(yoga)であり、結び目をなすこと、あるいは鎖と環のように結合させることをなす結びが縛(gantha)であり、これがこれら(軛と縛)の相違である。「妨げる(palibundhati)」とは、出離させないことによって解き放たず、遮ることである。「これのみが」とは、自己に現れた通りの常見などを語る。「真実」とは、事実である。
Bhusaṃ, daḷhañca ārammaṇaṃ ādīyati etehīti upādānāni. Yaṃ pana tesaṃ tathāgahaṇaṃ, tampi atthato ādānamevāti āha **‘‘upādānānīti ādānaggahaṇānī’’**ti. Gahaṇaṭṭhenāti kāmanavasena daḷhaṃ gahaṇaṭṭhena. Puna gahaṇaṭṭhenāti micchābhinivisanavasena daḷhaṃ gahaṇaṭṭhena. Imināti iminā sīlavatādinā. Suddhīti saṃsārasuddhi. Etenāti etena diṭṭhigāhena. **‘‘Attā’’**ti paññāpento vadati ceva abhinivesanavasena upādiyati ca.
激しく、強固に所縁がこれらによって執取されるので取(執着)である。それらのそのように捉えること、それもまた意味としては執取そのものであるので、「取とは執取し捉えること」と言った。「捉える意味によって」とは、愛欲の力によって強固に捉える意味によってである。「再び捉える意味によって」とは、邪悪な執着の力によって強固に捉える意味によってである。「これによって」とは、この戒禁などによってである。「清浄」とは、輪廻からの清浄である。「これによって」とは、この見解の把持によってである。「我」と施設しつつ語り、また執着の力によって執取するのである。
Yavanti tāhi sattā amissitāpi samānajātitāya missitā viya hontīti yoniyo, tā pana atthato aṇḍādiuppattiṭṭhānavisiṭṭhā khandhānaṃ bhāgaso pavattivisesāti āha **‘‘yoniyoti koṭṭhāsā’’**ti. Sayanasminti pupphasantharādisayanasmiṃ. Tattha vā te sayitā jāyantīti sayanaggahaṇaṃ. Tayidaṃ manussānaṃ, bhummadevānañca vasena gahetabbaṃ. Pūtimacchādīsu kimayo nibbattanti. Upapatitā viyāti upapajjavasena patitā viya. Bāhirapaccayanirapekkhatāya vā upapatane sādhukārino opapātino, te eva idha **‘‘opapātikā’’**ti vuttā. Devamanussesūti ettha ye deve sandhāya devaggahaṇaṃ, te dassento **‘‘bhummadevesū’’**ti āha.
それらによって有情たちが混ざり合っていなくても同類の生によって混ざり合っているかのようになるので胎生(胎・生類・母胎)であり、それらは意味としては卵などの発生場所に区分された諸蘊の部門ごとの特別な現れであるので、「胎生とは区分である」と言った。「寝所において」とは、花を敷いた寝所などにおいてである。あるいは彼らはそこに横たわって生まれるので寝所の把持がある。これは人間および地居天の力によって捉えられるべきである。腐った魚などに蛆虫が生じる。「化生したかのように」とは、化生の力によって落ちてきたかのようにである。あるいは外的条件に頼らないことから、突如現れるにおいて巧みになすものが化生であり、それらこそがここにおいて「化生のもの」と説かれた。「天や人間において」というここにおいて、いかなる天を指して天の把持があるのかを、それらを示すべく「地居天において」と言った。
Attano satisammosena āhārappayogena maraṇato **‘‘paṭhamo khiḍḍāpadosikavasenā’’**ti vuttaṃ. Attano parassa ca manopadosavasena maraṇato **‘‘tatiyo manopadosikavasenā’’**ti vuttaṃ. Neva attasañcetanāya maranti, na parasañcetanāya kevalaṃ puññakkhayeneva maraṇato, tasmā catuttho…pe… veditabbo.
自己の念の忘失による食物の中断によって死ぬことから、「最初のものは戯れの損壊による」と説かれた。自己と他者の意の損壊によって死ぬことから、「第三のものは意の損壊による」と説かれた。自己の思念によって死ぬのでもなく、他者の思念によってでもなく、単に功徳の尽滅によってのみ死ぬことから、第四のものは……(略)……知られるべきである。
Dakkhiṇāvisuddhādicatukkavaṇṇanā
布施の清浄等の四法釈
313. Dānasaṅkhātā dakkhiṇā, na deyyadhammasaṅkhātā. Visujjhanā mahājutikatā, sā pana mahāphalatāya veditabbāti āha **‘‘mahapphalā hontī’’**ti.
313. 施しと称されるものが布施(供養)であり、施されるべき物と称されるものではない。清浄であることとは大いなる光輝を有することであり、それは大果であることによって知られるべきであるので、「大果となる」と言った。
Anariyānanti asādhūnaṃ. Te pana nihīnācārā hontīti āha **‘‘lāmakāna’’**nti. Vohārāti sabbohārā abhilāpā vā, atthato tathāpavattā cetanā. Tenāha **‘‘ettha cā’’**tiādi.
「非聖なる者たちの」とは、善からぬ者たちの。「しかし彼らは下劣な行いをする者たちである」ということで「劣悪な者たちの」と言った。「言説」とは、あらゆる言説あるいは発話であり、意味としてはそのように生じた思(意思)である。それゆえ「そしてここにおいて」等と述べた。
Attantapādicatukkavaṇṇanā
自らを苦しめる者等の四法釈
314. Tesu acelakoti nidassanamattaṃ channaparibbājakānampi attakilamathaṃ anuyuttānaṃ labbhanato.
314. それらの中で「無衣の者」とは単なる例示である。着衣の遍歴行者であっても自己を苦しめる行に従事する者たちも見出されるからである。
Na sīlādisampannoti sīlādīhi guṇehi aparipuṇṇo.
「戒などを具足していない」とは、戒などの徳によって満たされていないということである。
Tamoti appakāsabhāvena tamobhūto. Tenāha **‘‘andhakārabhūto’’**ti, andhakāraṃ viya bhūto jāto appakāsabhāvena, andhakārattaṃ vā pattoti attho. Tamamevāti vuttalakkhaṇaṃ tamameva. Paraṃ parato ayanaṃ gati niṭṭhāti attho. **‘‘Nīce…pe… nibbattitvā’’**ti etena tassa tamabhāvaṃ dasseti, **‘‘tīṇi duccaritāni paripūretī’’**ti etena tamaparāyanabhāvaṃ appakāsabhāvāpattito. Tathāvidho hutvāti nīce…pe… nibbattetvā. **‘‘Tīṇi sucaritāni paripūretī’’**ti etena tassa jotiparāyanabhāvaṃ dasseti pakāsabhāvāpattito. Itaradvaye vuttanayānusārena attho veditabbo.
「闇」とは、顕現しないことによって闇となったものである。それゆえ「暗黒となった」と言った。暗黒のようになった、顕現しないことによって生じた、あるいは暗黒の状態に至ったという意味である。「闇そのもの」とは、説かれた特徴の闇そのものである。「後(paraṃ)」とはその後に赴くこと、趣処、帰結という意味である。「低き……(略)……に生まれて」というこれによってその者の闇の状態を示し、「三つの悪行を満たす」というこれによって、顕現しない状態に至ることから闇を帰向とする状態を示す。「そのようになって」とは、低き……(略)……に生まれて。「三つの善行を満たす」というこれによって、顕現する状態に至ることから光を帰向とする状態を示す。他の二つについては説かれた方法に従って意味が知られるべきである。
Ma-kāro padasandhimattaṃ ‘‘aññamañña’’ntiādīsu (su. ni. 605) viya. Catūhi vātehīti catūhi disāhi uṭṭhitavātehi. Parappavādehīti paresaṃ diṭṭhigatikānaṃ vādehi. ‘‘Akampiyo’’ti vatvā tattha kāraṇamāha **‘‘acalasaddhāyā’’**ti, maggenāgatasaddhāya. Patanubhūtattāti ettha dvīhi kāraṇehi patanubhāvo veditabbo adhiccuppattiyā, pariyuṭṭhānamandatāya ca. Sakadāgāmissa hi vaṭṭānusārimahājanassa viya kilesā abhiṇhaṃ na uppajjanti, kadāci karahaci uppajjanti. Uppajjamānā ca vaṭṭānusārimahājanassa viya maddantā abhibhavantā na uppajjanti, dvīhi pana maggehi pahīnattā mandā mandā tanukākārā uppajjanti. Iti kilesānaṃ patanubhāvena guṇasobhāya guṇasoraccena sakadāgāmī samaṇapadumo nāma. Rāgadosānaṃ abhāvāti guṇavikāsavibandhānaṃ sabbaso rāgadosānaṃ abhāvena. Khippameva pupphissatīti aggamaggavikasanena nacirasseva anavasesaguṇasobhāpāripūriyā pupphissati. Tasmā **anāgāmī samaṇapuṇḍarīko nāma. ‘‘Puṇḍarīka’’**nti hi rattakamalaṃ vuccati. Taṃ kira lahuṃ pupphissati. **‘Paduma’**nti setakamalaṃ, taṃ cirena pupphissatī’’ti vadanti. Ganthakārakilesānanti cittassa baddhabhāvakarānaṃ uddhambhāgiyakilesānaṃ sabbaso abhāvā samaṇasukhumālo nāma samaṇabhāvena paramasukhumālabhāvappattito.
マの字は「互いに(aññamaññaṃ)」等(『経集』605)におけるのと同様に単なる連声である。「四方の風によって」とは、四方から起こった風によって。「他者の異論によって」とは、他者の見解を持つ者たちの論争によって。「動揺しない」と述べて、そこにおける理由を「不動の信仰によって」と言った。道によって得られた信仰によってである。「微薄となったことから」というここにおいて、二つの理由によって微薄となった状態が知られるべきである。不意の発生と、現れの軽微さによってである。なぜなら、一来者には輪廻に従う多くの人々のように煩悩が頻繁に生じることはなく、たまに生じるにすぎないからである。生じる場合も、輪廻に従う多くの人々のように圧倒し打ち負かして生じるのではなく、二つの道によって断ぜられていることから、微弱で微小な形で生じる。このように煩悩が微薄となったことによる徳の輝きによって、徳の優美さによって、一来者は沙門の紅蓮華と呼ばれる。「貪と瞋の不存在によって」とは、徳の開花を妨げる貪と瞋が完全に存在しないことによって。「速やかに開花するであろう」とは、最上の道の開花によって遠からずあますところなき徳の輝きの充足によって開花するであろう。それゆえ「不還者は沙門の白蓮華と呼ばれる。『プンダリーカ』とは赤蓮華と呼ばれる。それは実に速やかに開花する。『パドゥマ』とは白蓮華であり、それは時間をかけて開花する」と語る者たちもいる。「縛りをなす煩悩の」とは、心を束縛された状態にする上分結が完全に存在しないことから、沙門としてのあり方によって極めて微細な境地に至っているため、沙門の極微細者と呼ばれる。
Catukkavaṇṇanā niṭṭhitā.
四法釈は終了した。
Niṭṭhitā ca paṭhamabhāṇavāravaṇṇanā.
そして第一の誦品釈も終了した。
Pañcakavaṇṇanā
五法釈
315. Saccesu viya ariyasaccāni khandhesu upādānakkhandhā antogadhāti khandhesu lokiyalokuttaravasena vibhāgaṃ dassetvā itaresu tadabhāvato **‘‘upādānakkhandhā lokiyā vā’’**ti āha.
315. 諸諦の中に聖諦が含まれるように、諸蘊の中に取蘊が含まれるので、諸蘊において世間と出世間の力による区分を示し、他(取蘊)にはそれがないことから「取蘊は世間的である、あるいは」と言った。
Gantabbāti upapajjitabbā. Yathā hi kammabhavo paramatthato asatipi kārake paccayasāmaggiyā siddho ‘‘taṃsamaṅginā santānalakkhaṇena sattena kato’’ti voharīyati, evaṃ upapattibhavalakkhaṇā gatiyo paramatthato asatipi gamake taṃtaṃkammavasena yehi tāni kammāni ‘‘katānī’’ti vuccanti, tehi ‘‘gantabbā’’ti voharīyanti. Yassa uppajjati, taṃ brūhanto eva uppajjatīti ayo, sukhaṃ. Natthi ettha ayoti nirayo. Tato eva assādetabbamettha natthīti **‘‘nirassādo’’**ti āha. Avīciādiokāsepi nirayasaddo niruḷhoti āha **‘‘sahokāsena khandhā kathitā’’**ti. Sūriyavimānādi okāsavisesepi loke deva-saddo niruḷhoti āha **‘‘catutthe okāsopī’’**ti.
「赴かれるべき」とは、受生されるべき。まことに勝義において為す者が存在しなくても条件の集合によって成就した業の生存が「それに相応する相続を特徴とする有情によってなされた」と世間的に語られるように、受生の生存を特徴とする趣もまた勝義において赴く者が存在しなくても、それぞれの業の力によってそれらの業が「なされた」と言われる者たちによって「赴かれるべき」と世間的に語られるのである。それが生じる者に、それを増大させつつまさに生じるので「アヤ(歓喜・利益)」、すなわち楽である。ここにはアヤが存在しないので「地獄(ニラヤ)」である。まさにそれゆえ、ここには享受されるべきものが何もないので「無味(nirassāda)」と言った。阿鼻などの場所にも地獄という言葉は通用しているので「場所を伴う諸蘊が説かれた」と言った。太陽の宮殿などの特定の場所にも世間では天という言葉が通用しているので「第四のものにおいては場所もまた」と言った。
Āvāseti visaye bhummaṃ. Peto vā ajagaro vā hutvā nibbattati laggacittatāya, hīnajjhāsayatāya ca. Tehi tehi kāraṇehi ādīnavaṃ dassetvā yathā aññe na labhanti, evaṃ karoti attano visamanissitatāya, balavanissitatāya ca. Vaṇṇamacchariyena attano eva vaṇṇaṃ vaṇṇeti, paresaṃ vaṇṇo ‘‘kiṃ vaṇṇo eso’’ti taṃ taṃ dosaṃ vadati. Paṭivedhadhammo ariyānaṃyeva hoti, te ca taṃ na maccharāyanti macchariyassa sabbaso pahīnattāti tassa asambhavo evāti āha **‘‘pariyattidhamme’’**tiādi. ‘‘Ayaṃ imaṃ dhammaṃ uggahetvā aññathā atthaṃ viparivattetvā nassessatī’’ti dhammānuggahena na deti. ‘‘Ayaṃ imaṃ dhammaṃ uggahetvā uddhato unnaḷo avūpasantacitto apuññaṃ pasavissatī’’ti puggalānuggahena na deti. Na taṃ adānaṃ macchariyaṃ macchariyalakkhaṇasseva abhāvato.
「住処において」とは領域における処格である。執着する心や、下劣な意図によって餓鬼あるいは大蛇となって生まれる。様々な理由によって過失を示して他者が得られないようにし、そのように自己の不平等に依拠することと、強情に依拠することによってなす。名誉の物惜しみによって自己の称賛のみを称賛し、他者の名誉については「それの何が名誉か」と様々な非難を語る。通達の法(証得)は聖者たちのみのものであり、彼らは物惜しみを完全に断じていることからそれを物惜しみすることはないので、それ(証得の物惜しみ)は不可能なことであるとして「教説の法において」等と言った。「この者がこの法を学んで、誤って意味を歪めて滅ぼしてしまうだろう」と法の恩顧によって与えない。「この者がこの法を学んで、傲慢になり驕り高ぶり心が静まらずに不徳を生み出すだろう」と人物への恩顧によって与えない。その与えないことは物惜しみの特徴そのものがないので物惜しみではない。
Cittaṃ nivārentīti jhānādivasena uppajjanakaṃ kusalacittaṃ nisedhenti tathāssa uppajjituṃ na denti. Nīvaraṇappattoti nīvaraṇāvattho. **‘‘Arahattamaggavajjho’’**ti etena bhavarāgānusayassapi nīvaraṇabhāvaṃ anujānāti, taṃ vicāretabbaṃ. Kimettha vicāretabbaṃ? ‘‘Āruppe kāmacchandanīvaraṇaṃ paṭicca thinamiddhanīvaraṇa’’nti (paṭṭhā. 3.nīvaraṇagocchake 8) ādivacanato na yidaṃ ‘‘pariyāyena vutta’’nti sakkā vattuṃ, sabbesampi tebhūmakadhammānaṃ kāmanīyaṭṭhena kāmabhāvato bhavarāgassapi kāmacchandabhāvassa icchitattā. Tasmā ‘‘kāmacchando nīvaraṇappatto’’ti bhavarāgānusayamāha. So hi arahattamaggavajjho. ‘‘Yā tasmiṃ samaye cittassa akalyatā’’ti (dha. sa. 1162) ādivacanato thinaṃ cittagelaññaṃ. Tathā ‘‘yā tasmiṃ samaye vedanākkhandhassā’’ti (dha. sa. 44) ādivacanato middhaṃ khandhattayagelaññaṃ. Ettha ca cittagelaññena cittasseva akalyatā, khandhattayagelaññena pana rūpakāyassapi thinamiddhassa niddāhetuttā. Tathā uddhaccanti uddhaccassa arahattamaggavajjhataṃ upasaṃharati tathā-saddena, na ubhayataṃ. Na hi tassa tādisī ubhayatā atthi. Yaṃ pana keci vadanti ‘‘puthujjanasantānavutti sekkhasantānavuttī’’ti, taṃ idha anupayogi sekkhasantānavuttino eva cettha adhippetattā.
「心を遮る」とは、禅定などの力によって生じるべき善心を制止し、そのようにそれが生じることを許さない。「蓋に至った」とは、蓋(障害)の状態にあることである。「阿羅漢道によって断ぜられるべき」というこれによって、有愛の随眠もまた蓋である状態を認めているが、それは考察されるべきである。ここにおいて何を考察すべきなのか。「無色界において欲貪蓋によって惛沈睡眠蓋が」等という(『発趣論』)言葉があることから、これを「方便によって説かれた」と言うことはできない。なぜなら一切の三界の法も愛求されるべき意味によって欲であることから、有愛もまた欲貪の状態であることが望まれているからである。それゆえ「蓋に至った欲貪」とは有愛の随眠を語っている。なぜならそれは阿羅漢道によって断ぜられるべきだからである。「その時において心に健全さがないこと」等という(『法集論』1162)言葉から、惛沈とは心の病気である。同様に「その時において受蘊に……」等という(『法集論』44)言葉から、睡眠とは三蘊の病気である。そしてここにおいて心の病気によって心そのものの不健全さがあり、三蘊の病気によって色身にもまた惛沈睡眠が睡眠の原因となるからである。同様に「掉挙」とは、掉挙が阿羅漢道によって断ぜられるべきであることを「同様に」という言葉によって適用するのであり、双方性ではない。なぜならそれにはそのような双方性はないからである。ある人々が「異生(凡夫)の相続に現れるものと、有学の相続に現れるもの」と語るが、それはここにおいては無用である。なぜならここにおいては有学の相続に現れるもののみが意図されているからである。
Tehīti saṃyojanehi. ‘‘Orambhāgiyāni uddhambhāgiyānī’’ti visesaṃ anāmasitvā ‘‘saṃyojanānī’’ti sādhāraṇato paduddhāro idāni vuccamānacatukkānucchavikatāvasena, kassacipi kilesassa avikkhambhitattā kathañcipi avinipāteyyatāmutto kāmabhavo ajjhattaggahaṇassa visesapaccayattā imesaṃ sattānaṃ abbhantaraṭṭhena anto nāma. Rūpārūpabhavo tabbipariyāyato bahi nāma. Tathā hi yassa orambhāgiyāni saṃyojanāni appahīnāni, so ajjhattasaṃyojano vutto, yassa tāni pahīnāni, so bahiddhāsaṃyojano, tasmā anto asamucchinnabandhanatāya, bahi ca pavattamānabhavaṅgasantānatāya antobaddhā bahisayitā nāma. Nirantarappavattabhavaṅgasantānavasena hi sayitavohāro. Kāmaṃ nesaṃ bahibandhanampi asamucchinnaṃ, antobandhanassa pana thūlatāya evaṃ vuttaṃ. Tenāha **‘‘tesañhi kāmabhave bandhana’’**nti. Iminā nayena sesadvayepi attho veditabbo. Asamucchinnesu ca orambhāgiyasaṃyojaniyesu laddhappaccayesu uddhambhāgiyasaṃyojanāni agaṇanūpagāni hontīti. Ariyānaṃyeva vasenettha catukkassa uddhaṭattā labbhamānāpi puthujjanā na uddhaṭā.
「それらによって」とは、結(束縛)によって。「下分結、上分結」と特定のものを指示せずに「結」と一般的に提示したのは、今まさに説かれようとしている四法にふさわしいことによる。いかなる煩悩も鎮伏されていないことから、どのようにしても悪趣に堕ちることを免れていない欲界の生存は、内なる執着の特別な条件であることから、これら有情の内にあるという意味で「内」と呼ばれる。色界・無色界の生存はその反対であることから「外」と呼ばれる。実に、下分結が断たれていない者は「内結の者」と説かれ、それらが断たれた者は「外結の者」と説かれる。それゆえ内において束縛が断たれていないことによって、外において生じている有分(潜在意識)の連続によって「内に縛られ外に横たわる」と呼ばれる。絶え間なく生じる有分の連続の力によってまさに「横たわる」という表現がなされるのである。確かに彼らには外の束縛も断たれていないが、内の束縛が粗大であることからこのように説かれた。それゆえ「実に彼らにとって欲界における束縛は」と言った。この方法によって残りの二つにおいても意味が知られるべきである。そして下分結に属するものが断たれずに条件を得ている時、上分結は数えるに足りないものとなる。聖者たちのみの力によってここにおいて四法が提示されているので、見出されるとしても異生(凡夫)は提示されていない。
Sikkhākoṭṭhāsoti sikkhitabbabhāgo. Pajjati sikkhā etenāti sikkhāpadaṃ, sikkhāya adhigamupāyoti. Āgatāyeva, tasmā tattha āgatanayeneva veditabbāti adhippāyo.
「学習の区分」とは、学ばれるべき部分である。これによって学習に赴く(達する)ので学習箇処(戒条)であり、学習の証得の手段であるということである。すでに出ているものであり、それゆえそこに出ている方法によってまさに知られるべきである、というのが意趣である。
Abhabbaṭṭhānādipañcakavaṇṇanā
不可能な事柄等の五法釈
316. Desanāsīsamevāti desanāpadeso eva, tasmā sotāpannādayopi abhabbā. Yadi evaṃ kasmā tathā desanāti āha **‘‘puthujjanakhīṇāsavāna’’**ntiādi.
315. 「説法の主題そのもの」とは、説法の一端にすぎず、それゆえ預流者たちなどもまた不可能である。もしそうであるなら、なぜそのように説かれたのかと問うなら、「異生と漏尽者の」等と言った。
Ñātibyasane yesaṃ ñātīnaṃ vināso, tesaṃ hitasukhaṃ viddhaṃseti, tasmā byasatīti byasanaṃ. Bhogabyasanepi eseva nayo. Rogabyasanādīsu pana ‘‘yassa rogo’’tiādinā yojetabbaṃ. Neva akusalāni asaṃkiliṭṭhasabhāvattā. Na tilakkhaṇāhatāni abhāvadhammattā. Itaraṃ pana vuttavipariyāyato akusalaṃ, tilakkhaṇāhatañca.
親族の不幸において、親族の破滅がある者たちにとって、彼らの利益と幸福を破壊する。それゆえ身を滅ぼすので不幸(喪失)である。財産の不幸においてもこの方法である。しかし病気の不幸などにおいては「病気がある者にとって」等と適用されるべきである。汚れた本性を持たないことから不善ではない。非存在の法であることから三相に冒されたものではない。しかし他方は説かれたことの反対であることから不善であり、三相に冒されたものである。
Guṇehi samiddhabhāvā sampadā.
徳によって成就している状態であることから具足(成就)である。
Vatthusandassanāti yasmiṃ vatthusmiṃ tassa āpatti, tassa sarūpato dassanā. Āpattisandassanāti yaṃ āpattiṃ so āpanno, tassā dassanā. Saṃvāsapaṭikkhepoti uposathapavāraṇādisaṃvāsassa paṭikkhipanaṃ akaraṇaṃ. Sāmīcipaṭikkhepo abhivādanādisāmīcikiriyāya akaraṇaṃ. Codayamānenāti codentena. Cuditakassa kāloti cuditakassa puggalassa codetabbakālo. Puggalanti codetabbaṃ puggalaṃ. Upaparikkhitvāti ‘‘ayaṃ cuditakalakkhaṇe tiṭṭhati, na tiṭṭhatī’’ti vīmaṃsitvā. Ayasaṃ āropeti ‘‘ime maṃ abhūtena abbhācikkhantā anayabyasanaṃ āpādentī’’ti bhikkhūnaṃ ayasaṃ uppādeti.
「事柄の開示」とは、いかなる事柄において彼の罪があるのか、その事柄をありのままに示すこと。「罪の開示」とは、彼が犯したいかなる罪があるのか、その罪を示すこと。「共住の拒否」とは、布薩や自恣などの共住を拒絶すること、行わないこと。「礼敬の拒否」とは、礼拝などの礼敬の行為を行わないこと。「告発する者によって」とは、告発する者によって。「告発されるべき者の時」とは、告発されるべき人物を告発すべき時。「人物を」とは、告発されるべき人物を。「観察して」とは、「この者は告発されるべき者の特徴にとどまっているか、とどまっていないか」と吟味して。「不名誉を負わせる」とは、「彼らは私を事実無根のことで非難し、破滅と不幸に陥れている」と比丘たちに不名誉を生じさせる。
Padhāniyaṅgapañcakavaṇṇanā
精進の支分たる五法釈
317. Padahatīti padahano; bhāvanaṃ anuyutto yogī, tassa bhāvo bhāvanānuyogo padahanabhāvo. Padhānaṃ assa atthīti padhāniko, ka-kārassa ya-kāraṃ katvā **‘‘padhāniyo’’**ti vuttaṃ. ‘‘Abhinīhārato paṭṭhāya āgatattā’’ti vuttattā paccekabodhisattasāvakabodhisattānampi paṇidhānato pabhuti āgatā saddhā āgamanasaddhā eva, ukkaṭṭhaniddesena pana **‘‘sabbaññubodhisattāna’’**nti vuttaṃ. Adhigamato samudāgatattā aggamaggaphalasampayuttāpi adhigamanasaddhā nāma, yā sotāpannassa aṅgabhāvena vuttā. Acalabhāvenāti paṭipakkhena anabhibhavanīyattā niccalabhāvena. Okappananti okkantitvā pakkhanditvā adhimuccanaṃ. Pasāduppatti pasādanīye vatthusmiṃ pasīdanameva. Suppaṭividdhanti suṭṭhu paṭividdhaṃ, yathā tena paṭivedhena sabbaññutaññāṇaṃ hatthagataṃ ahosi, tathā paṭividdhaṃ. Yassa buddhasubuddhatāya saddhā acalā asampavedhī, tassa dhammasudhammatāya, saṅghasuppaṭipannatāya ca saddhā na tathāti aṭṭhānametaṃ anavakāso. Tenāha bhagavā ‘‘yo, bhikkhave, buddhe pasanno, dhamme so pasanno, saṅghe so pasanno’’tiādi. Padhānavīriyaṃ ijjhati ‘‘addhā imāya paṭipadāya jarāmaraṇato muccissāmī’’ti sakkaccaṃ padahanato.
317. 「精進する(padahati)」とは精進する者であり、修習に従事する行者であり、そのあり方、修習への従事が精進の状態である。精進(padhāna)が彼にあるのでpadhānikaであり、カの文字をヤの文字にして「精進の(padhāniya)」と説かれた。「本願から始まって伝わったことから」と説かれたことから、独覚や声聞の菩薩たちにとっても誓願から始まって伝わった信仰はまさに伝来の信仰であるが、勝れたものの指示によって「一切知の菩薩たちの」と説かれた。証得から生じたことから、最上の道の果と相応したものであっても証得の信仰と呼ばれ、それは預流者の支分として説かれた。「不動の状態によって」とは、反対のものによって圧倒されないことから動揺しない状態によってである。「確信」とは、入り込んで飛び込んで信順すること。「信順の生起」とは、信順すべき対象においてまさに信順することである。「よく通達された」とは、見事に通達された、その通達によって一切知の智が手中にあるようになったように、そのように通達されたということである。仏の正等覚者たる状態への信仰が不動で動揺しない者にとって、法の正法たる状態や僧伽の正行たる状態への信仰がそのようでないということは、あり得ないことであり根拠がない。それゆえ世尊は「比丘たちよ、仏に信順する者は法に信順し、僧伽に信順する」等と述べられた。「実にこの道によって老死から解脱するであろう」と恭敬して精進することから、精進の努力が成就する。
Appa-saddo abhāvattho ‘‘appa-saddassa…pe… kho panā’’tiādīsu viyāti āha **‘‘arogo’’**ti. Samavepākiniyāti yathābhuttaṃ āhāraṃ samākāreneva paccanasīlāya. Daḷhaṃ katvā paccantī hi gahaṇī ghorabhāvena pittavikārādivasena rogaṃ janeti, sithilaṃ katvā paccantī mandabhāvena vātavikārādivasena. Tenāha **‘‘nātisītāya nāccuṇhāyā’’**ti. Gahaṇītejassa mandatikkhatāvasena sattānaṃ yathākkamaṃ sītuṇhasahagatāti āha **‘‘atisītagahaṇiko’’**tiādi. Yāthāvato accayadesanā attano āvikaraṇaṃ nāmāti āha **‘‘yathābhūtaṃ attano aguṇaṃ pakāsetā’’**ti. Udayatthagāminiyāti saṅkhārānaṃ udayaṃ, vayañca paṭivijjhantiyāti ayamettha atthoti āha **‘‘udayañcā’’**tiādi. Parisuddhāyāti nirupakkilesāya. Nibbijjhituṃ samatthāyāti tadaṅgavasena avasesaṃ pajahituṃ samatthāya. Tassa tassa dukkhassa khayagāminiyāti yaṃ dukkhaṃ imasmiṃ ñāṇe anadhigate pavattārahaṃ, adhigate na pavattati, taṃ sandhāya vadati. Tathā hesa yogāvacaro ‘‘cūḷasotāpanno’’ti vuccati.
「appa」という語は「appaの語は……(略)……まさに」等におけるように非存在の意味であるので、「無病である」と言った。「消化が均等であることによって」とは、食べた食物をまさに均等な状態で消化する性質によってである。強烈にして消化する熱は激しさによって胆汁の異常などによる病気を生じさせ、緩慢にして消化する熱は微弱さによって風の異常などによる病気を生じさせる。それゆえ「冷たすぎず、熱すぎず」と言った。消化の熱の微弱さと強烈さの力によって有情には順に冷気と熱気が伴うので、「極冷の消化熱を持つ者」等と言った。如実なる過失の告白は自己の開示と呼ばれるので、「ありのままに自己の過失を明かす者」と言った。「生滅に向かう(智)によって」とは、諸行の生起と消滅を通達することによって、これがここでの意味であるとして「生起と……」等と言った。「完全に清浄であることによって」とは、随煩悩がないことによって。「貫通することができることによって」とは、その部分の力によって残りを捨断することができることによって。「それぞれの苦の尽滅に向かうことによって」とは、この智が証得されていない時には生じるにふさわしく、証得された時には生じない苦を指して語っている。実にそのようにこの瑜伽行者は「小預流者」と呼ばれる。
Suddhāvāsādipañcakavaṇṇanā
浄居天等の五法釈
318. ‘‘Suddhā **āvasiṃsū’’**tiādinā addhattayepi tesaṃ suddhāvāsapariyāyo abyabhicārīti dasseti. Kilesamalarahitāti nāmakāyaparisuddhiṃ vadanto eva rūpakāyaparisuddhimpi atthato dasseti. Tenāha **‘‘anāgāmikhīṇāsavā’’**ti.
318. 「清浄なる者たちが住した」等によって、三世においても彼らの浄居という表現は誤りがないことを示す。「煩悩の汚れを離れた」とは、名身(心)の清浄を語りつつ、まさに色身(肉体)の清浄をも意味として示す。それゆえ「不還者たる漏尽者たち」と言った。
Āyuno majjhanti avihādīsu yattha yattha uppanno, tattha tattha āyuno majjhaṃ anatikkamitvā. Antarā vāti tassa antarāva orameva. Majjhaṃ upahaccāti āyuno majjhaṃ aticca. Tenāha **‘‘atikkamitvā’’**ti. Appayogenāti anussahanena. Akilamantoti akilanto. Sukhenāti akicchena. Uddhaṃ vāhibhāvena uddhaṃ assa taṇhāsotaṃ, vaṭṭasotañcāti uddhaṃsoto; uddhaṃ vā gantvā paṭilabhitabbato uddhaṃ assa maggasotanti uddhaṃsoto. Akaniṭṭhaṃ gacchatīti akaniṭṭhagāmī. Sodhetvāti tattha tattha uppajjanto te te devaloke sodhento viya hotīti vuttaṃ **‘‘cattāro devaloke sodhetvā’’**ti. Tattha tattha vā uppajjitvā puna anuppajjanārahabhāveneva tatopi gacchanto devūpapattibhavasaññite attano khandhaloke bhavarāgamalaṃ visodhetvā vikkhambhetvā. Ayañhi avihesu kappasahassaṃ vasanto arahattaṃ pattuṃ asakkuṇitvā atappaṃ gacchati, tatthāpi dve kappasahassāni vasanto arahattaṃ pattuṃ asakkuṇitvā sudassaṃ gacchati, tatthāpi cattārikappasahassāni vasanto arahattaṃ pattuṃ asakkuṇitvā sudassiṃ gacchati, tatthāpi aṭṭhakappasahassāni vasanto arahattaṃ pattuṃ asakkuṇitvā akaniṭṭhaṃ gacchati, tattha vasanto aggamaggaṃ adhigacchati.
「寿命の中途」とは、無煩天などにおいてどこに生じても、そこにおいて寿命の中途を超えずに。「あるいは中途で」とは、その中途のまさに手前で。「中途を損なって」とは、寿命の中途を過ぎて。それゆえ「超えて」と言った。「無行によって」とは、特別な努力なしに。「苦しまずに」とは、疲労困憊せずに。「安楽に」とは、困難なく。「上に向かって流れる状態によって、上に彼の渇愛の流れと輪廻の流れがある」ので上流水であり、あるいは「上に行って得られるべきことから、上に彼の道の流れがある」ので上流水である。「阿迦膩吒天(色究竟天)に赴く」ので阿迦膩吒行者である。「浄化して」とは、あちこちに生まれつつそれぞれの天界を浄化するかのようなので「四つの天界を浄化して」と説かれた。あるいはあちこちに生まれて再び生じないにふさわしい状態そのものによってそこからも赴き、天界への受生の生存と名付けられた自己の諸蘊の世界において有愛の汚れを清浄にし、鎮伏して。なぜならこの者は無煩天に千劫住して阿羅漢に達することができずに無熱天に赴き、そこでも二千劫住して阿羅漢に達することができずに善見天に赴き、そこでも四千劫住して阿羅漢に達することができずに善現天に赴き、そこでも八千劫住して阿羅漢に達することができずに色究竟天に赴き、そこに住して最上の道を証得するからである。
Cetokhilapañcakavaṇṇanā
心荒廃の五法釈
319. Cetokhilā nāma atthato vicikicchā kodho ca, te pana yasmiṃ santāne uppajjanti, tassa kharabhāvo kakkhaḷabhāvo hutvā upatiṭṭhanti, pageva attanā sampayuttacittassāti āha **‘‘cittassa thaddhabhāvo’’**ti. Yathā lakkhaṇapāripūriyā gahitāya sabbā satthurūpakāyasirī gahitāva nāma hoti, evaṃ sabbaññutāya sabbā dhammakāyasirī’’ gahitā eva nāma hotīti tadubhayavatthukameva kaṅkhaṃ dassento **‘‘sarīre kaṅkhamāno’’**tiādimāha. Ātapati kileseti ātappaṃ, sammāvāyāmoti āha **‘‘ātappāyāti vīriyakaraṇatthāyā’’**ti. Punappunaṃ yogāyāti bhāvanaṃ punappunaṃ yuñjanāya. Satatakiriyāyāti bhāvanāya nirantarappayogāya. ‘‘Paṭivedhadhamme kaṅkhamāno’’ti ettha kathaṃ lokuttaradhamme kaṅkhā pavattatīti? Na ārammaṇakaraṇavasena, anussavākāraparivitakkaladdhe parikappitarūpe kaṅkhā pavattatīti dassento āha **‘‘vipassanā…pe… vadanti, taṃ atthi nu kho natthīti kaṅkhatī’’**ti. Sikkhāti cettha pubbabhāgasikkhā veditabbā. ‘‘Kāmañcettha visesuppattiyā mahāsāvajjatāya ceva saṃvāsanimittaghaṭṭanāhetu abhiṇhuppattikatāya ca ‘sabrahmacārīsū’ti kopassa visayo visesetvā vutto, tato aññatthāpi pana kopo ‘na cetokhilo’ti na sakkā viññātu’’nti keci. Yadi evaṃ vicikicchāyapi ayaṃ nayo āpajjati, tasmā yathārutavaseneva gahetabbaṃ.
319. 「心荒廃(cetokhila)」とは、意味としては疑いと怒りであり、それらはある相続において生じる時、その粗暴さ、頑固さとなって現れ、ましてやそれと相応した心においてはなおさらであるので、「心の頑迷さ」と言った。相の完全性を捉えることによって師の肉身の輝きがすべて捉えられたことになるように、一切知性によって法身の輝きがすべて捉えられたことになるので、その双方を対象とする疑いを示すべく「身体に疑いを持ち」等と述べた。煩悩を焼き尽くす(ātapati)ので熱誠(ātappa)であり、正精進であるので、「熱誠のためにとは、精進をなすために」と言った。「度々の瑜伽のために」とは、修習を度々結びつけるために。「不断の修行のために」とは、修習の絶え間なき適用によるために。「通達の法に疑いを持ち」というここにおいて、いかにして出世間の法に疑いが働くのか。所縁となす力によるのではなく、伝承のありさまの思索によって得られた構想されたありさまにおいて疑いが働くことを示して、「ヴィパッサナー……(略)……と語るが、それは果たして存在するのか存在しないのかと疑う」と言った。そしてここにおいて「学習」とは、事前の修習の学習と知られるべきである。「確かにここにおいて、卓越した境地の発生や大きな過失性、さらには同住の契機の衝突を原因とする頻繁な発生のために『同朋たちにおいて』と怒りの領域が限定されて説かれたが、それ以外の場所における怒りも『心荒廃ではない』と理解することはできない」と語る者たちもいる。もしそうであるなら疑いにおいてもこの方法が帰結することになるので、言葉の通りの力によってまさに捉えられるべきである。
Cetasovinibandhādipañcakavaṇṇanā
心緊縛等の五法釈
320. Pavattituṃ appadānavasena kusalacittaṃ vinibandhantīti cetasovinibandhā. Taṃ pana vinibandhantā muṭṭhigāhaṃ gaṇhantī viya hontīti āha **‘‘cittaṃ bandhitvā’’**tiādi. Kāmagiddho puggalo vatthukāme viya kilesakāmepi assādeti abhinandatīti vuttaṃ **‘‘vatthukāmepi kilesakāmepī’’**ti. Attano kāyeti attano karajakāye, attabhāve vā. Bahiddhārūpeti paresaṃ kāye, anindriyabaddharūpe ca. Udaraṃ avadihati upacinoti paripūretīti udarāvadehakaṃ. Seyyasukhanti seyyāya sayanavasena uppajjanakasukhaṃ. Saṃparivattakanti saṃparivattetvā. Paṇidhāyāti taṇhāvasena paṇidahitvā. Iti pañcavidhopi lobhaviseso eva cetovinibandho vuttoti veditabbo.
320. 働くことを許さないことによって善心を縛るので心緊縛(cetasovinibandha)である。それらはそれを縛りつつ、拳で握りしめるかのようになるので、「心を縛って」等と言った。欲に貪着した人物は事物の欲(所縁)においてと同様に煩悩の欲においても享受し歓喜するので、「事物の欲においても煩悩の欲においても」と説かれた。「自己の身体において」とは、自己の肉体において、あるいは自己の存在において。「外部の形態において」とは、他者の身体において、および非情物の形態において。「腹を詰め込む」とは、積み上げる、満腹にするということで「腹を詰め込むまで」である。「臥位の楽」とは、臥位で横たわることによって生じる楽。「転がり回ること」とは、転がり回って。「願って」とは、渇愛の力によって願って。このように五種類とも貪愛の特異なものこそが心緊縛と説かれたと知られるべきである。
Lokiyāneva kathitāni rūpindriyānaṃyeva kathitattā. Paṭhamadutiyacatutthāni lokiyāni parittabhūmakattā. Tatiyapañcamāni kāmarūpaggabhūmikattā, kāmarūpārūpaggabhūmikattā ca. Lokiyalokuttarāni kathitānīti ānetvā yojanā. ‘‘Samathavipassanāmaggaphalavasenā’’ti vattabbaṃ. **‘‘Samathavipassanāmaggavasenā’’**ti vuttaṃ.
世間的なもののみが説かれた。物質的な根(器官)のみが説かれたからである。第一、第二、第四のものは狭小な境地のものであることから世間的である。第三と第五のものは欲界・色界の最上の境地のものであり、欲界・色界・無色界の最上の境地のものであるからである。「世間的・出世間的なものが説かれた」と引き戻して適用する。「止観と道果の力によって」と語られるべきである。「止観と道の力によって」と説かれた。
Nissaraṇiyapañcakavaṇṇanā
出離の五法釈
321. Nissarantīti nissaraṇīyāti vattabbe rassaṃ katvā niddeso. Kattari hesa anīya-saddo yathā ‘‘niyyānikā’’ti. Tenāha **‘‘nissaṭā’’**ti. Kuto pana nissaṭāti? Yathāsakaṃ paṭipakkhato. Nijjīvaṭṭhena dhātuyoti āha **‘‘attasuññasabhāvā’’**ti. Atthato pana dhammadhātumanoviññāṇadhātuvisesā. Tādisassa bhikkhuno kilesavasena kāmesu manasikāro nāma natthīti āha **‘‘vīmaṃsanattha’’**nti. ‘‘Nekkhammanissitaṃ idāni me cittaṃ, kiṃ nu kho kāmavitakkopi uppajjatī’’ti vīmaṃsantassāti attho. Pakkhandanaṃ nāma anuppaveso, so pana tattha natthīti āha **‘‘na pavisatī’’**ti. Pasādaṃ nāma abhirucisantiṭṭhānaṃ, vimuccanaṃ adhimuccananti taṃ sabbaṃ pakkhipanto vadati **‘‘pasādaṃ nāpajjatī’’**tiādi. Evaṃbhūtaṃ panassa cittaṃ tattha kathaṃ tiṭṭhatīti āha **‘‘yathā panā’’**tiādi. Tanti paṭhamajjhānaṃ. Assāti bhikkhuno. Cittaṃ pakkhandatīti parikammacittena saddhiṃ jhānacittaṃ ekaṭṭhavasena ekajjhaṃ gahetvā vadati. Gocare gatattāti attano ārammaṇe eva pavattattā. Ahānabhāgiyattāti ṭhitibhāgiyattā, visesabhāgiyattā vā. Suṭṭhu vimuttanti vikkhambhanavimuttiyā sammadeva vimuttaṃ. Cittassa kāyassa ca hananato vighāto, dukkhaṃ. Paridahanato pariḷāho, kāmadaratho. Na vedayati anuppajjanato. Nissaranti tatoti nissaraṇaṃ. Ke nissaranti? Kāmā. Evañca katvā kāmānanti kattari sāmivacanaṃ suṭṭhu yujjati. Yadaggena kāmā tato ‘‘nissaṭā’’ti vuccanti, tadaggena jhānampi kāmato ‘‘nissaṭa’’nti vattabbataṃ labhatīti vuttaṃ **‘‘kāmehi nissaṭattā’’**ti. Evaṃ vikkhambhanavasena kāmanissaraṇaṃ vatvā idāni samucchedavasena accantatova nissaraṇaṃ dassetuṃ **‘‘yo panā’’**tiādi vuttaṃ.
321. 「出離する(nissaranti)」ことから出離すべきもの(nissaraṇīyā)と語られるべきところを短縮して提示した。実に能動の意味でのanīyaという語は「出離へと導く(niyyānikā)」におけるようなものである。それゆえ「出離した」と言った。では、どこから出離したのか。それぞれの反対のものからである。無霊魂の意味によって諸界であるので、「無我の本質」と言った。意味としては法界や意識界の特異なものである。そのような比丘には煩悩の力によって欲において作意するということは存在しないので、「吟味のために」と言った。「今や私の心は出離に依拠しているが、果たして欲の尋も生じるだろうか」と吟味する者のためにという意味である。「躍入すること」とは入り込むことであり、しかしそれはそこには存在しないので「入らない」と言った。「信順」とは好みの確立であり、「解脱」とは信順であるとそれらすべてを含めて「信順に至らない」等と語る。では、そのようになった彼の心はそこにおいてどのようにとどまるのかについて「しかしどのように」等と言った。「それを」とは、初禅を。「彼にとって」とは、比丘にとって。「心が躍入する」とは、準備段階の心とともに禅定の心を同一の対象の力によって一つにまとめて語る。「境地に至ったことから」とは、自己の所縁においてのみ働いたことから。「退転しない部分のものであることから」とは、定住の部分のものであることから、あるいは殊勝な部分のものであることから。「よく解脱した」とは、鎮伏解脱によって実によく解脱したこと。「心の、そして身体の害毒」とは苦である。「激しく焼くこと」とは熱悩、欲の熱苦である。「生じないことから経験しない」。「それから出離する」ので出離である。何が出離するのか。諸欲である。そしてこのようにして「諸欲の」という能動における属格の表現が実によく合致する。諸欲がそれから「出離した」と言われるその時から、禅定もまた欲から「出離した」と語られるべき資格を得るので「諸欲から出離したことから」と説かれた。このように鎮伏の力による欲の出離を語って、今や断絶の力による究極の出離を示すために「しかし……の者は」等と説かれた。
Sesapadesūti sesakoṭṭhāsesu. Ayaṃ pana visesoti visesaṃ vadantena ‘‘taṃ jhānaṃ pādakaṃ katvā’’tiādiko avisesoti vatvā dutiyatatiyavāresu sabbaso anāmaṭṭho, catutthavāre pana ayampi visesoti dassetuṃ **‘‘accantanissaraṇe cettha arahattaphalaṃ yojetabba’’**nti vuttaṃ.
「残りの句において」とは、残りの部分において。「しかしこの相違」とは、相違を語る者によって「その禅定を基礎として」等の相違のないことが語られて、第二・第三の段においては全く指示されず、第四の段においてはこの相違もあると示すために「そしてここにおける究極の出離においては阿羅漢果が適用されるべきである」と説かれた。
Yasmā arūpajjhānaṃ pādakaṃ katvā aggamaggaṃ adhigantvā arahatte ṭhitassa cittaṃ sabbaso rūpehi nissaṭaṃ nāma hoti. Tassa hi phalasamāpattito vuṭṭhāya vīmaṃsanatthaṃ rūpābhimukhaṃ cittaṃ pesentassa idamakkhātanti samathayānikānaṃ vasena heṭṭhā cattāro vārā kathitā, idaṃ pana sukkhavipassakassa vasenāti āha **‘‘suddhasaṅkhāre’’**tiādi. Puna sakkāyo natthīti uppannanti idāni me sakkāyappabandho natthīti vīmaṃsantassa uppannaṃ.
なぜなら無色定を基礎として最上の道を証得して阿羅漢にとどまった者の心は完全に色(物質)から出離したものとなるからである。実に彼にとって果定から出定して吟味のために物質に向かって心を送る者のためにこれが説かれたと、止行者たちの力によって下の四段が説かれたが、これは乾観者(純粋ヴィパッサナー行者)の力によるとして「純粋な諸行を」等と言った。「再び有身は存在しないと生じた」とは、今や私には有身の連続は存在しないと吟味する者に生じたということである。
Vimuttāyatanapañcakavaṇṇanā
解脱処の五法釈
322. Vimuttiyā vaṭṭadukkhato vimuccanassa āyatanāni kāraṇāni vimuttāyatanānīti āha **‘‘vimuccanakāraṇānī’’**ti. Pāḷiatthaṃ jānantassāti ‘‘idha sīlaṃ āgataṃ, idha samādhi, idha paññā’’tiādinā taṃ taṃ pāḷiatthaṃ yāthāvato jānantassa. Pāḷiṃ jānantassāti tadatthajotanaṃ pāḷiṃ yāthāvato upadhārentassa. Taruṇapītīti sañjātamattā mudukā pīti jāyati. Kathaṃ jāyati? Yathādesitadhammaṃ upadhārentassa tadanucchavikameva attano kāyavacīmanosamācāraṃ pariggaṇhantassa somanassappattassa pamodalakkhaṇaṃ pāmojjaṃ jāyati. Tuṭṭhākārabhūtā balavapītīti purimuppannāya pītiyā vasena laddhāsevanattā ativiya tuṭṭhākārabhūtā kāyacittadarathapassambhanasamatthāya passaddhiyā paccayo bhavituṃ samatthā balappattā pīti jāyati. Yasmā nāmakāye passaddhe rūpakāyopi passaddho eva hoti, tasmā ‘‘nāmakāyo paṭipassambhati’’ icceva vuttaṃ. Sukhaṃ paṭilabhatīti vakkhamānassa cittasamādhānassa paccayo bhavituṃ samatthaṃ cetasikaṃ nirāmisaṃ sukhaṃ paṭilabhati vindati. ‘‘Samādhiyatī’’ti ettha na yo koci samādhi adhippeto, atha kho anuttarasamādhīti dassento **‘‘arahatta phalasamādhinā samādhiyatī’’**ti āha. **‘‘Ayañhī’’**tiādi tassā desanāya tādisassa puggalassa yathāvuttasamādhipaṭilābhassa kāraṇabhāvavibhāvanaṃ. Tassa vimuttāyatanabhāvo. Osakkitunti nayituṃ. Samādhiyeva samādhinimittanti kammaṭṭhānapāḷiāruḷho samādhiyeva parato uppajjanakabhāvanāsamādhissa kāraṇabhāvato samādhinimittaṃ. Tenāha **‘‘ācariyasantike’’**tiādi.
322. 解脱のために、輪廻の苦しみから解脱するための処(原因)が解脱処であるので、「解脱の原因」と言った。「聖典の意味を知る者にとって」とは、「ここに戒が説かれ、ここに定が、ここに慧が」等とそれぞれの聖典の意味をありのままに知る者にとって。「聖典を知る者にとって」とは、その意味を照らし出す聖典をありのままに思慮する者にとって。「生まれたばかりの喜悦」とは、生じたばかりの微細な喜悦が生じる。どのように生じるのか。説かれた通りの法を思慮する者にとって、それにふさわしい自己の身口意の振る舞いを観察する、歓喜に至った者の歓喜を特徴とする悦びが生じる。「満足のありさまとなった強い喜悦」とは、以前に生じた喜悦の力によって習熟を得たことから、極めて満足のありさまとなった、身心の熱苦を静めることができる軽安の条件となりうる、力を得た喜悦が生じる。名身(心)が静まる時、色身(肉体)もまたまさに静まるので、「名身が静まる」とだけ説かれた。「楽を得る」とは、後に説かれる心の定まりの条件となりうる、心的な世俗を離れた楽を得る、享受する。「定まる」というここにおいて、いかなる定であっても意図されているのではなく、無上の定であると示すべく「阿羅漢果の定によって定まる」と言った。「実にこれこそが」等は、その説法がそのような人物にとって前述の定の獲得の原因である状態の解明である。それが解脱処たる状態である。「導くために」とは、もたらすために。「定そのものが定の対象(相)」とは、業処の聖典に依拠した定そのものが、後に生じる修習の定の原因であることから定の対象である。それゆえ「師の御許で」等と言った。
Vimutti vuccati arahattaṃ sabbaso kilesehi paṭippassaddhivimuttīti katvā. Paripācentīti sādhenti nipphādenti. Aniccānupassanāñāṇe nissayapaccayabhūte uppannasaññā, tena ñāṇena sahagatāti attho. Sesesupi eseva nayo. Yaṃ panettha vattabbaṃ, taṃ visuddhimaggasaṃvaṇṇanāyaṃ (visuddhi. ṭī. 1.37, 306) vuttanayena veditabbaṃ.
「解脱」とは、煩悩を完全に静めることによる解脱であることから阿羅漢が説かれる。「成熟させる」とは、成就させる、完成させる。無常随観の智において依止の条件となった時に生じた想であり、その智を伴うものという意味である。残りのものにおいてもこの方法である。ここにおいて語られるべきことは、『清浄道論釈』において説かれた方法によって知られるべきである。
Pañcakavaṇṇanā niṭṭhitā.
五法釈は終了した。
Chakkavaṇṇanā
六法釈
323. Attānaṃ adhi ajjhattā, adhi-saddo samāsavisaye adhikāratthaṃ, pavattiatthañca gahetvā pavattatīti attānaṃ adhikicca uddissa pavattā ajjhattā; ajjhattesu bhavāni ajjhattikānīti niyakajjhattesupi abbhantarāni cakkhādīni vuccanti, tāni pana yena ajjhattabhāvena ‘‘ajjhattikānī’’ti vuccanti, tamatthaṃ pākaṭaṃ katvā dassento **‘‘ajjhattikānī’’**ti āha. Saddatthato pana ajjhattajjhattāniyeva ajjhattajjhattikāni yathā ‘‘venayiko’’ti (ma. ni. 1.246; a. ni. 8.11; pārā. 8) daṭṭhabbaṃ. Tato ajjhattatoti tato ajjhattajjhattato, yāni ajjhattikāni vuttāni. Ajjhattikānañhi paṭiyogīni bāhirāni ajjhattadhammānaṃ viya bahiddhādhammā. ‘‘Ajjhattikānī’’ti hi saparasantānikāni cakkhādīni vuccanti, tathā rūpādīni ‘‘bāhirānī’’ti. Ajjhattāni pana sasantānikā eva cakkhurūpādayo, tato aññeva bahiddhāti. ‘‘Viññāṇasamūhā’’ti ettha yadipi tesaṃ viññāṇānaṃ samodhānaṃ natthi bhinnakālikattā, cittena pana ekajjhaṃ abhisaṃyūhanavasena samūhatā vuttā yathā ‘‘vedanākkhandho’’ti. Cakkhupasādanissitanti cakkhupasādaṃ nissāya paccayaṃ labhitvā uppannaṃ kusalākusalavipākaviññāṇaṃ cakkhuviññāṇatāsāmaññena ekajjhaṃ katvā vuttaṃ. Cakkhusannissito samphasso, na cakkhudvāriko. Ime dasa samphasseti ime pasādavatthuke dasa vipākasamphasse ṭhapetvā. Eteneva nayenāti etena phasse vutteneva nayena. Taṇhāchakke taṇhaṃ ārabbha pavattāpi taṇhā dhammataṇhāti veditabbā.
323. 自己に関するので内(ajjhatta)であり、「adhi」という語は複合語の領域において優位の意味と、生起の意味を取って働くので、自己に関して目指して生じたものが内である。内にあるものが内的なもの(ajjhattika)であり、自己の内部にある眼などが説かれるが、それらは内なる状態によって「内的なもの」と説かれるその意味を明確にして示すべく「内的なもの」と言った。語の意味からは内そのものが内的なもの(内自)であり、「venayika(律に通じた者)」におけるように見られるべきである。「その内から」とは、その内そのものから、内的なものとして説かれたものたちからである。なぜなら内的なものに対立する外的なものは、内的な法に対する外的な法のようなものである。「内的なもの」とは自己と他者の相続に属する眼などが説かれ、同様に色などが「外的なもの」と説かれる。しかし内とは自己の相続に属する眼や色などであり、それ以外のものが外である。「識の集まり」というここにおいて、それらの識には異なる時に生じることから集まりはないとしても、心によって一括して統合する力によって「受蘊」におけるように集まりの状態が説かれた。「眼の浄色に依拠した」とは、眼の浄色を依処として条件を得て生じた善・不善の異熟の識を、眼識という共通性によって一つにまとめて説いた。眼に依拠した接触(触)であり、眼門の接触ではない。「これら十の接触において」とは、これら浄色を依処とする十の異熟の接触を除いて。「まさにこの方法によって」とは、この触において説かれた通りの方法によって。渇愛の六組において渇愛を対象として生じたものもまた法愛と知られるべきである。
Appaṭissayoti appaṭissavo, va-kārassa ya-kāraṃ katvā niddeso. Garunā kismiñci vutte gāravavasena paṭissavanaṃ paṭissavo, paṭissavabhūtaṃ, taṃsabhāgañca yaṃ kiñci gāravaṃ, natthi etasmiṃ paṭissavoti appaṭissavo, gāravarahito. Tenāha **‘‘anīcavuttī’’**ti. Yathā cetiyaṃ uddissa kataṃ satthu katasadisaṃ, evaṃ cetiyassa purato kataṃ satthu purato katasadisaṃ evāti āha **‘‘parinibbute panā’’**tiādi. Sakkaccaṃ na gacchatīti ādaraṃ gāravaṃ uppādetvā na upasaṅkamati. Yathā sikkhāya ekadese kopite, agārave ca kate sabbā sikkhā kuppati, sabbattha ca agāravaṃ kataṃ nāma hoti samudāyato saṃvarasamādānaṃ avayavato bhedoti. Evaṃ ekabhikkhusmiṃpi…pe… agāravo katova hoti. Anādariyamattenapi sikkhāya aparipūriyevāti āha **‘‘apūrayamānova sikkhāya agāravo nāmā’’**ti. Appamādalakkhaṇaṃ sammāpaṭipatti. Duvidhanti dhammāmisavasena duvidhaṃ.
「敬意なき者(appaṭissayo)」とは敬意なき者(appaṭissavo)であり、ヴァの文字をヤの文字にして提示した。尊者によって何かが語られた時に敬意の力によって聞き従うことが聞き従い(paṭissava)であり、聞き従いとなった、それに類するいかなる敬意も、この者に聞き従いがないので敬意なき者であり、敬意を欠いた者である。それゆえ「卑下の振る舞いをしない者」と言った。仏塔を目指してなされたことが師になされたことと同等であるように、仏塔の前でなされたことは師の前でなされたことと同等であるとして「しかし入滅された時には」等と言った。「恭敬して行かない」とは、配慮と敬意を生じさせて近づかない。「戒の一部分が破られ、不敬がなされた時、すべての戒が破られ、すべての場所において不敬がなされたことになる。全体の自制と受持から、一部分への違反が生じるからである」というように、一人の比丘に対しても……(略)……不敬はなされたことになる。「配慮しないだけでも戒を満たさないことそのものである」として「満たさない者こそが戒に対する不敬と呼ばれる」と言った。不放逸を特徴とするのが正しき修行である。「二種類」とは、法と財の力によって二種類である。
Somanassūpavicārāti somanassasahagatā vicārā adhippetā, upasaddo ca nipātamattanti āha **‘‘somanassasampayuttā vicārā’’**ti. Tathā hissa abhidhamme (dha. sa. 8) ‘‘cāro vicāro…pe… upavicāro’’ti niddeso pavatto. Somanassakāraṇabhūtanti sabhāvato, saṅkappatopi somanassassa uppattiyā paccayabhūtaṃ. Kāmaṃ parittabhūmakā vitakkavicārā aññamaññamaviyogino, kiriyābhedato pana paṭhamābhinipātatāya vitakkassa byāpāro sātisayo. Tato paraṃ vicārassāti taṃ sandhāya ‘‘vitakketvā’’ti pubbakālakiriyāvasena vatvā **‘‘vicārena paricchindatī’’**ti vuttaṃ. Laddhapubbāsevanassa vicārassa byāpāro paññā viya hoti. Tathā hi ‘‘vicāro vicikicchāya paṭipakkho’’ti peṭake vuttaṃ. **‘‘Diṭṭhisāmaññagato’’**ti ettha yāya diṭṭhiyā puggalo diṭṭhisāmaññaṃ gato vutto, sā paṭhamamaggasammādiṭṭhi kosambakasutte adhippetoti āha **‘‘kosambakasutte paṭhamamaggo kathito’’**ti. Idhāti imasmiṃ sutte. Catūsupi maggesu sammādiṭṭhi diṭṭhiggahaṇena gahitāti āha **‘‘cattāropi maggā kathitā’’**ti.
「喜の随伺(somanassūpavicārā)」とは、喜を伴う伺(思索)が意図されており、upaという語は単なる接頭辞であるとして「喜と相応した伺」と言った。実に彼(世尊)のアビダルマ(『法集論』8)において「行、伺……(略)……随伺」と説明がなされている。「喜の原因となった」とは、本性からも、思惟からも喜の生起の条件となった。「確かに狭小な境地の尋と伺は互いに離れないが、働きの違いによって最初の衝突であることから尋の働きが勝れている。その後に伺の働きがある」とそれを指して「尋ねて」と前時の行為の力によって述べて、「伺によって識別する」と説かれた。以前の習熟を得た伺の働きは慧のようになる。実に「伺は疑いの反対である」とペータカに説かれている。「正見の共通性に達した」というここにおいて、いかなる見解によって人物が見解の共通性に達したと説かれるのか、その最初の道の正見が拘睒弥経において意図されているとして「拘睒弥経において最初の道が説かれた」と言った。「ここにおいて」とは、この経において。四つの道における正見が「見解」の把持によって捉えられているとして「四つの道も説かれた」と言った。
Vivādamūlachakkavaṇṇanā
諍論の根本たる六法釈
325. Kodhanoti kujjhanasīlo. Yasmā so appahīnakodhatāya vigatakodhano nāma na hoti, tasmā **‘‘kodhena samannāgato’’**ti āha. Upanāho etassa atthi, upanayhanasīloti vā upanāhī. Vivādo nāma uppajjamāno yebhuyyena paṭhamaṃ dvinnaṃ vasena uppajjatīti vuttaṃ **‘‘dvinnaṃ bhikkhūnaṃ vivādo’’**ti. So pana yathā bahūnaṃ anatthāvaho hoti, taṃ nidassanamukhena dassento **‘‘katha’’**ntiādimāha. Abbhantaraparisāyāti parisabbhantare.
325. 「怒りっぽい者」とは、怒る性質の者。その者は怒りを断じていないことから怒りを離れた者ではないので、「怒りを具足した」と言った。怨恨(恨み)がこの者にある、あるいは恨む性質の者であるので「怨恨を抱く者」。諍論と呼ばれるものは生じる時、多くは最初に二人の力によって生じるので「二人の比丘の諍論」と説かれた。しかしそれがいかにして多くの人々に不利益をもたらすのかを、例示の口によって示すべく「どのように」等と述べた。「内部の集会において」とは、集会の内部において。
Paraguṇamakkhanāya pavattopi attano kārakaṃ gūthena paharantaṃ gūtho viya paṭhamataraṃ makkhetīti makkho, so etassa atthīti makkhī. Palāsatīti palāso, parassa guṇe ḍaṃsitvā viya apanetīti attho, so etassa atthīti palāsī. Palāsī puggalo hi dutiyassa dhuraṃ na deti, samaṃ pasāretvā tiṭṭhati. Tenāha **‘‘yugaggāhalakkhaṇena palāsena samannāgato’’**ti. **‘‘Issukī’’**tiādīnaṃ padānamattho heṭṭhā vuttanayattā suviññeyyova. Kammapathappattāya micchādiṭṭhiyā vasenettha micchādiṭṭhi veditabbāti āha **‘‘natthikavādī ahetukavādī akiriyavādī’’**ti.
他者の徳を覆い隠すために生じる場合であっても、糞を投げつける者を糞が最初に覆い隠すように、自己の行為者をより最初に覆い隠すので覆(覆い隠し)であり、それがこの者にあるので「覆い隠す者(makkhī)」。張り合う(palāsati)ので競勝(palāsa)であり、他者の徳を噛み砕くかのように奪い去るという意味であり、それがこの者にあるので「競い勝とうとする者(palāsī)」。実に競勝の人物は第二の者に荷を譲らず、同等に張り合ってとどまる。それゆえ「同等の把持を特徴とする競勝を具足した」と言った。「嫉妬深い」等の語の意味は下に説かれた方法によるので極めて容易に理解される。業道に至った邪見の力によってここにおいて邪見が知られるべきであるとして「虚無論者、無因論者、無作論者」と言った。
Nissaraṇiyachakkavaṇṇanā
出離の六法釈
326. Hāpetvāti kusalacittaṃ parihāpetvā pavattitumeva appadānavasena. Abhūtaṃ byākaraṇaṃ byākaroti ‘‘mettā hi kho me cetovimutti bhāvitā’’tiādinā (a. ni. 6.13) attani avijjamānaṃ guṇabyāhāraṃ byāharati. Cetovimutti-saddaṃ apekkhitvā **‘‘nissaṭā’’**ti vuttaṃ. Puna byāpādo natthīti idāni mama byāpādo nāma natthi sabbaso natthīti ñatvā.
326. 「損なって」とは、善心を損なわせて働くことそのものを許さないことによって。「事実無根の告白を告白する」とは、「実に私の慈の心解脱は修習された」等(『増支部』6.13)によって、自己に存在しない徳の言説を語る。「心解脱」という言葉を考慮して「出離した」と(女性形で)説かれた。「再び害意はない」とは、今や私には害意というものは全く存在しないと知って。
‘‘Animittā’’ti vatvā yesaṃ nimittānaṃ abhāvena arahattaphalasamāpattiyā animittatā, taṃ dassetuṃ **‘‘sā hī’’**tiādi vuttaṃ. Tattha rāgassa nimittaṃ, rāgo eva vā nimittanti rāganimittaṃ. Ādi-saddena dosanimittādīnaṃ saṅgaho daṭṭhabbo. Rūpavedanādisaṅkhāranimittaṃ rūpanimittādi. Tesaññeva niccādivasena upaṭṭhānaṃ niccanimittādi. Tayidaṃ nimittaṃ yasmā sabbena sabbaṃ arahattaphale natthi, tasmā vuttaṃ **‘‘sā hi…pe… animittāti vuttā’’**ti. Nimittaṃ anusaratīti taṃ nimittaṃ anugacchati ārabbha pavattati.
「無相」と述べて、いかなる相の不存在によって阿羅漢果定の無相性があるのかを示すために「実にそれは」等と説かれた。そこにおいて貪りの相、あるいは貪りそのものが相であるので貪りの相。等という語によって瞋恚の相などの包含が見られるべきである。色や受などの諸行の相が色の相などである。それらそのものを常などとして現れることが常の相などである。この相は阿羅漢果には一切合切存在しないことから、「実にそれは……(略)……無相と説かれた」と述べられた。「相に従う」とは、その相に随行する、対象として働く。
Asmimānoti ‘‘asmī’’ti pavatto attavisayo māno. Ayaṃ nāma ahaṃ asmīti rūpalakkhaṇo, vedanādīsu vā aññataralakkhaṇo ayaṃ nāma attā ahaṃ asmi. ‘‘Asmī’’ti māno samugghāṭīyati etenāti asmimānasamugghāto, arahattamaggo. Puna asmimāno natthīti tassa anuppattidhammatāpādanaṃ kittento samugghātattameva vibhāveti.
「我が慢」とは、「我あり」と生じた自己を対象とする慢である。これこれの我があるとは色の特徴、あるいは受などのいずれかの特徴を持つこれこれの我があるということ。「我あり」という慢がこれによって根絶されるので我が慢の根絶であり、阿羅漢道である。「再び我が慢はない」とは、それが生じない性質に至ったことを称賛しつつ根絶されたことそのものを解明する。
Anuttariyādichakkavaṇṇanā
無上等の六法釈
327. Natthi etesaṃ uttarāni visiṭṭhānīti anuttarāni, anuttarāni eva anuttariyāni yathā anantameva ānantariyanti āha **‘‘anuttariyānīti anuttarānī’’**ti. Dassanānuttariyaṃ nāma anuttaraphalavisesāvahattā. Esa nayo sesesupi. Sattavidhaariyadhanalābhoti sattavidhasaddhādilokuttaradhanalābho. Sikkhattayapūraṇanti adhisīlasikkhādīnaṃ tissannaṃ sikkhānaṃ paripūraṇaṃ. Tattha paripūraṇaṃ nippariyāyato asekkhānaṃ vasena veditabbaṃ. Kalyāṇaputhujjanato paṭṭhāya hi satta sekkhā tisso sikkhā pūrenti nāma, arahā pana paripuṇṇasikkhoti. Iti imāni anuttariyāni lokiyalokuttarāni kathitāni.
327. これらに勝れた(uttara)、卓越したものが存在しないので無上(anuttara)であり、無上そのものが無上なるもの(anuttariya)である。無間そのものが無間なるもの(ānantariya)であるのと同様であるとして、「無上なるものとは無上なもの」と言った。見無上とは、無上の勝れた果をもたらすことからである。この方法は残りのものにおいても同様である。「七種の聖財の獲得」とは、七種の信仰などの出世間の財の獲得。「三学の充足」とは、増上戒学などの三学の充足である。そこにおいて充足とは、厳密には無学たちの力によって知られるべきである。善き異生から始まって七種の有学が三学を満たすと呼ばれるが、阿羅漢こそが満たされた学を持つ者である。このようにこれら無上なるものが世間的・出世間的なものとして説かれた。
Anussatiyo eva diṭṭhadhammikasamparāyikādihitasukhānaṃ kāraṇabhāvato ṭhānānīti anussatiṭṭhānāni. Evaṃ anussaratoti yathā buddhānussati visesādhigamassa ṭhānaṃ hoti, evaṃ ‘‘itipi so bhagavā’’tiādinā (dī. ni. 1.157, 255) buddhaguṇe anussarantassa. Upacārakammaṭṭhānanti paccakkhato upacārajjhānāvahaṃ kammaṭṭhānaṃ, paramparāya pana yāva arahattā lokiyalokuttaravisesāvahaṃ.
随念そのものが現世や来世などの利益と幸福の原因であることから処(境地)であるので、随念処である。「このように随念する者にとって」とは、仏随念が殊勝な証得の処となるように、このように「かの世尊はまた……」等(『長部』1.157, 255)によって仏の徳を随念する者にとって。「近行の業処」とは、直観的に近行定をもたらす業処であり、順次には阿羅漢に至るまでの世間的・出世間の殊勝さをもたらすものである。
Satatavihārachakkavaṇṇanā
常住の六法釈
328. Niccavihārāti sabbadā pavattanakavihārā. Ṭhapetvā hi samāpattivelaṃ, bhavaṅgavelañca khīṇāsavā imināva chaḷaṅgupekkhāvihārena sabbakālaṃ viharanti. Cakkhunā rūpaṃ disvāti nissayavohārena vuttaṃ. Sasambhārakathā hesā yathā ‘‘dhanunā vijjhatī’’ti. Tasmā nissayasīsena nissitassa gahaṇaṃ daṭṭhabbanti āha **‘‘cakkhuviññāṇena disvā’’**ti. Iṭṭhe arajjantoti iṭṭhe ārammaṇe rāgaṃ anuppādento maggena samucchinnattā. Neva sumano hoti gehasitapemavasenapi. Na dummano pasādaññathattavasenapi. Asamapekkhaneti iṭṭhepi aniṭṭhepi majjhattepi ārammaṇe na samaṃ na sammā ayoniso gahaṇe. Yo akhīṇāsavānaṃ moho uppajjati, taṃ anuppādento maggeneva tassa samugghāṭitattā. Ñāṇupekkhāvaseneva upekkhako viharati majjhatto. Ayañcassa paṭipattivepullappattiyā, paññāvepullappattiyā vāti āha **‘‘satiyā’’**tiādi. Chaḷaṅgupekkhāti chasu dvāresu pavattā satisampajaññassa vasena chāvayavā upekkhā. Ñāṇasampayuttacittāni labbhanti tehi vinā sampajānatāya asambhavato. Mahācittānīti aṭṭhapi mahākiriyacittāni labbhanti. Satatavihārāti ñāṇuppattipaccayarahitakālepi pavattibhedanato. Dasa cittānīti aṭṭha mahākiriyacittāni hasituppādavoṭṭhabbanacittehi saddhiṃ dasa cittāni labbhanti. Arajjanādussanavasena pavatti tesampi sādhāraṇāti.‘‘Upekkhako viharatī’’ti vacanato chaḷaṅgupekkhāvasena āgatānaṃ imesaṃ satatavihārānaṃ ‘‘somanassaṃ kathaṃ labbhatī’’ti codetvā **‘‘āsevanato labbhatī’’**ti sayameva pariharatīti. Kiñcāpi khīṇāsavo iṭṭhāniṭṭhepi ārammaṇe majjhatte viya bahulaṃ upekkhako viharati attano parisuddhapakatibhāvāvijahanato, kadāci pana tathā cetobhisaṅkhārābhāve yaṃ taṃ sabhāvato iṭṭhaṃ ārammaṇaṃ, tattha yāthāvasabhāvaggahaṇavasenapi arahato cittaṃ somanassasahagataṃ hutvā pavattateva, tañca kho pubbāsevanavasena. Tenāha ‘‘āsevanato labbhatī’’ti.
328. 「常に住するもの」とは、常に生起している住することである。実に、等至の時と有分(潜在意識)の時を除いて、諸の漏尽者(阿羅漢)はまさにこの六分捨の住によって常に住している。「眼によって色を見て」とは、所依(感覚器官)の慣用表現によって説かれたものである。これは「弓によって射る」というような、具縁の語りである。それゆえ、所依を名目として所依に依るもの(心)の把取と見るべきであるとし、「眼識によって見て」と述べた。「好ましいものに執着せず」とは、好ましい対象において貪愛を生じさせないことである。道によって断絶されているからである。「在家に依拠する愛の力によっても、心が歓喜することはない」。また澄浄の変異の力によっても心が不快になることはない。「等しく観察しないことにおいて」とは、好ましい対象にも好ましくない対象にも中立の対象にも、等しくなく、正しくなく、如理でない把取においてである。諸の非漏尽者に生じるようなその迷妄を生じさせないことである。まさに道によってそれが根絶されているからである。智の捨の力によってのみ、捨ある者、中立の者として住する。そしてこの者のこれは実践の広大さに達したため、あるいは智慧の広大さに達したためであるとし、「念によって」等と述べた。「六分捨」とは、六門において生起した、正念・正知の力による六つの肢分からなる捨である。智相応の諸心が該当する。それらを離れては正知であることが不可能だからである。「大心」とは、八つの大唯作心も該当する。「常住」とは、智の生起の縁を欠いた時であっても、生起の区別があるからである。「十の心」とは、八つの大唯作心に生笑心と推度心を加えた十の心が得られる。非執着・非瞋恚の力による生起は、それらにも共通だからである。「『捨ある者として住する』という言葉から、六分捨の力によって説かれたこれらの常住の諸心に『いかにして喜悦が得られるのか』」と問い詰めて、「修習によって得られる」と自ら回答している。たとえ漏尽者が好ましくない対象においても中立の対象におけるかのように多く捨ある者として住するとしても、自身の極めて清浄な本性を捨てないがゆえに、しかし時にはそのように心の形成がない時、本来的に好ましい対象において、事実のありのままの把取の力によっても阿羅漢の心は喜悦倶行となって実に生起する。しかもそれは過去の修習の力によるのである。それゆえに「修習によって得られる」と述べた。
Abhijātichakkavaṇṇanā
生種六法釈
329. ‘‘Abhijātiyo’’ti ettha abhi-saddo upasaggamattaṃ, na atthavisesajotakoti āha **‘‘jātiyo’’**ti. Abhijāyatīti etthāpi eseva nayo. Jāyatīti ca antogadhahetuatthapadaṃ, uppādetīti attho. Jātiyā, taṃnibbattakakammānañca kaṇhasukkapariyāyatāya yaṃ vattabbaṃ, taṃ heṭṭhā vuttameva. Paṭippassambhanavasena kilesānaṃ nibbāpanato nibbānaṃ sace kaṇhaṃ bhaveyya yathā taṃ dasavidhaṃ dussīlyakammaṃ. Sace sukkaṃ bhaveyya yathā taṃ dānasīlādikusalakammaṃ. Dvinnampi kaṇhasukkavipākānaṃ. Arahattaṃ adhippetaṃ ‘‘abhijāyatī’’ti vacanato. Taṃ kilesanibbānante jātattā nibbānaṃ yathā rāgādīnaṃ khayante jātattā rāgakkhayo dosakkhayo mohakkhayoti.
329. 「生種」において、ここでの「アビ(abhi-)」の語は単なる接頭辞であり、特別な意味を照らし出すものではないとし、「諸々の生」と述べた。「生じる」という語においても、まさにこの方法である。また「生じる」とは、内包された原因の意味を持つ句であり、「生起させる」という意味である。生種と、それを生じさせる諸業の黒白の区分に関して説かれるべきことは、既に上で説かれた通りである。寂静化の力によって諸々の煩悩を消滅させることから、寂滅(涅槃)が、もしあの十種の不持戒の業のように黒であるならば。もしあの布施や持戒等の善業のように白であるならば。二つの黒白の異熟(果報)の。阿羅漢果が意図されている。「生じる」という言葉があるからである。それは煩悩の寂滅の極みにおいて生じるがゆえに寂滅であり、貪愛等の滅尽の極みにおいて生じるがゆえに「貪愛の滅尽、瞋恚の滅尽、愚痴の滅尽」と呼ばれるようなものである。
Nibbedhabhāgiyachakkavaṇṇanā
決抉分六法釈
Nibbedho vuccati nibbānaṃ maggañāṇena nibbijjhitabbaṭṭhena, paṭivijjhitabbaṭṭhenāti attho. Nirodhānupassanāñāṇeti nirodhānupassanāñāṇe nissayapaccayabhūte uppannā saññā, tena sahagatāti attho.
「決抉」とは涅槃を指し、道智によって貫かれるべきという意味において、通達されるべきという意味においてである。「滅随観智において」とは、滅随観智が所依の縁となったときに生じた想であり、それと倶行しているという意味である。
Chakkavaṇṇanā niṭṭhitā.
六法釈の解説を終わる。
Sattakavaṇṇanā
七法釈
330. Sampattipaṭilābhaṭṭhenāti sīlasampattiādīnaṃ sammāsambodhipariyosānānaṃ sampattīnaṃ paṭilābhāpanaṭṭhena, sampattīnaṃ vā paṭilābho sampattipaṭilābho, tassa kāraṇaṃ sampattipaṭilābhaṭṭho, tena sampattipaṭilābhaṭṭhena. Tenevāha ‘‘sampattīnaṃ paṭilābhakāraṇato’’ti. Saddhāva ubhayahitatthikehi dhanāyitabbaṭṭhena dhanaṃ saddhādhanaṃ. Etthāti etesu dhanesu. Sabbaseṭṭhaṃ sabbesaṃ paṭilābhakāraṇabhāvato, tesañca saṃkilesavisodhanena mahājutikamahāvipphārabhāvāpādanato. Tenāha **‘‘paññāya hī’’**tiādi. Tattha paññāya ṭhatvāti kammassakatāpaññāya patiṭṭhāya sucaritādīni pūretvā saggūpagā honti. Tattha ceva pāramitā paññāya ca ṭhatvā sāvakapāramiñāṇādīni paṭivijjhanti.
330. 「達成の獲得の意味において」とは、戒の達成等から正等覚を究極とする達成を獲得させるという意味において、あるいは諸々の達成の獲得が「達成の獲得」であり、その原因が「達成獲得の意味」であって、その達成獲得の意味においてである。それゆえに「諸々の達成を獲得する原因であることから」と述べた。信のみが自他の両者の利益を求める者たちによって財産とされるべきという意味において財であり、信財である。「ここにおいて」とは、これらの財において。「すべての中で最勝である」とは、すべての獲得の原因であること、そしてそれらの汚れを清めることによって大いなる輝きと大いなる広がりを持つ状態をもたらすことからである。それゆえに「智慧によって実に」等と述べた。そこにおいて「智慧に留まって」とは、業処の智慧に立脚して善行等を満たし、天界へ赴く者となる。そこにおいて、また波羅蜜の智慧に留まって、声聞の波羅蜜の智などを通達する。
Samādhiṃ parikkharonti abhisaṅkharontīti samādhiparikkhārā, samādhissa sambhārabhūtā sammādiṭṭhiādayo. Idha pana sahakārīkāraṇabhūtā adhippetāti āha **‘‘samādhiparivārā’’**ti.
三昧を資備する、調えるがゆえに「三昧の資具」であり、三昧の資糧となった正見等である。しかしここでは、協力する原因となったものが意図されているとし、「三昧の眷属」と述べた。
Asataṃ asādhūnaṃ dhammā tesaṃ asādhubhāvasādhanato. Asantāti asundarā gārayhā. Tenāha **‘‘lāmakā’’**ti. ‘‘Vipassakasseva kathitā’’ti vatvā tassa vipassanānibbattiṃ dassetuṃ **‘‘tesupī’’**tiādi vuttaṃ. Catunnampi hi saccānaṃ visesena dassanato maggapaññā sātisayaṃ ‘‘vipassanā’’ti vattabbā, taṃsamaṅgī ca ariyo vipassanakoti.
正しくない者たち、善からぬ者たちの法であり、彼らの善からぬ状態をもたらすからである。「正しくない」とは、美しくなく非難されるべきである。それゆえに「劣悪な」と述べた。「まさに観行者のみに説かれた」と述べて、その者の観の生起を示すために「それらにおいても」等と説かれた。実に四つの聖諦を特別に見ることから、道の智慧はとりわけ「観(ヴィパッサナー)」と呼ばれるべきであり、それを具足した聖者が観行者である。
Sappurisānaṃ dhammāti sappurisānaṃyeva dhammā, na asappurisānaṃ. Dhammānudhammapaṭipattiyā eva hi dhammaññuādibhāvo, na pāḷidhammapaṭhanādimattena. Bhāsitassāti suttageyyādibhāsitassa ceva tadaññassa ca attatthaparatthabodhakassa padassa. Atthakusalatāvasena atthaṃ jānātīti atthaññū. Attānaṃ jānātīti yāthāvato attano pamāṇajānanavasena attānaṃ jānāti. Paṭiggahaṇaparibhogamattaññutāhi eva pariyesanavissajjanamattaññutāpi bodhitā hontīti ‘‘paṭiggahaṇaparibhogesu’’ icceva vuttaṃ. Evañhi tā anavajjā hontīti. Yogassa adhigamāyāti bhāvanāya anuyuñjanassa. Atisambādhanti atikhuddakaṃ atikkhapaññassa tāvatā kālena tīretuṃ asakkuṇeyyattā. Aṭṭhavidhaṃ parisanti khattiyaparisādikaṃ aṭṭhavidhaṃ parisaṃ. Bhikkhuparisādikaṃ catubbidhaṃ khattiyaparisādikaṃ manussaparisaṃyeva puna catubbidhaṃ gahetvā aṭṭhavidhaṃ vadanti apare. ‘‘Imaṃ me sevantassa akusalā dhammā parihāyanti, kusalā dhammā abhivaḍḍhanti, tasmā sevitabbo, vipariyāyato tadañño asevitabbo’’ti evaṃ sevitabbāsevitabbaṃ puggalaṃ jānātīti puggalaññū. Evaṃ tesaṃ puggalānampi bodhanaṃ ukkaṭṭhaṃ, nihīnaṃ vā jānāti nāma.
「善士の諸法」とは、まさに善士たちのみの諸法であり、非善士の法ではない。法に随う法の行いによってのみ、知法等の状態があるのであり、単に聖典の教えを読誦すること等によるのではない。「説かれたことの」とは、修多羅や祇夜など説かれたもの、およびそれ以外の自利・利他を覚らせる句の。「義に巧みであることの力によって義を知る」ゆえに知義である。「自己を知る」とは、事実に基づいて自身の度量を覚知することによって自己を知る。受容と享受における節知によってのみ、探求や放棄における節知もまた照らし出されるため、「受容と享受において」とだけ説かれた。このようにしてそれらは過失なきものとなるからである。「専修を体得するために」とは、修行に専念することのために。「極めて偏狭な」とは、極めて小さいために、極めて鋭い智慧の者であってもその時間内には完結させることができないからである。「八種の会衆」とは、刹帝利の会衆をはじめとする八種の会衆である。比丘の会衆等の四種と、刹帝利の会衆等の人間界の会衆のみをさらに四種として捉えて八種と説く者たちもいる。「この人に親近する私には不善の法が減少し、善なる法が増大する。それゆえ親近すべきである。その反対に、それ以外の人は親近すべきではない」と、このように親近すべき人と親近すべからざる人を知るがゆえに知人である。このように、それらの人々の教化が優れているか、あるいは劣っているかを知るのである。
331. **‘‘Niddasavatthūnī’’**ti. ‘‘Ādi-saddalopenāyaṃ niddeso’’ti āha **‘‘niddasādivatthūnī’’**ti. Natthi dāni imassa dasāti niddaso. Pañhoti ñātuṃ icchito attho. Puna dasavasso na hotīti tesaṃ matimattanti dassetuṃ **‘‘so kirā’’**ti kirasaddaggahaṇaṃ. ‘‘Niddaso’’ti cetaṃ desanāmattaṃ, tassa nibbīsādibhāvassa viya ninnavādibhāvassa ca icchitattāti dassetuṃ **‘‘na kevalañcā’’**tiādi vuttaṃ. Gāme vicarantoti gāme piṇḍāya vicaranto.
331. 「十無学法(無学事)」。「等(など)」という語の省略によってこれが指し示されているとし、「無学等の事」と述べた。今やこの者には学ぶべき十(有学法)がないので「無学」である。「問い」とは、知りたいと望まれる意味である。再び十歳(十年目の比丘)にはならないというのは彼らの単なる意見であることを示すために、「そうであると伝えられる」として「キラ(伝聞)」の語を用いた。またこの「無学」というのは単なる説示にすぎず、彼の二十歳以上の状態などのように、九歳以上の状態なども望まれていることを示すために、「単に〜のみならず」等と述べた。「村を遊行する」とは、村へ托鉢のために巡ることである。
Na idaṃ titthiyānaṃ adhivacanaṃ tesu tannimittassa abhāvā. Sāsanepi sekkhassāpi na idaṃ adhivacanaṃ, kimaṅgaṃ pana puthujjanassa. Yassa panetaṃ adhivacanaṃ, yena ca kāraṇena, taṃ dassetuṃ **‘‘khīṇāsavasseta’’**ntiādi vuttaṃ. Appaṭisandhikabhāvo hissa paccakkhato kāraṇaṃ. Paramparāya itarāni, yāni pāḷiyaṃ āgatāni.
これは外道たちの名称ではない。彼らにはその徴表がないからである。仏教の中にあっても、有学の者の名称でもない。まして凡夫においてはなおさらである。しかしそれが誰の名称であり、いかなる理由によるのかを示すために、「これは漏尽者のことである」等と述べた。実に、結生(再生)なき状態がこの者の直接的な原因である。聖典に現れるその他のものは、間接的な原因である。
Sikkhāya sammadeva ādānaṃ sikkhāsamādānaṃ, taṃ panassā pāripūriyā veditabbanti āha **‘‘sikkhattayapūraṇe’’**ti. Sikkhāya vā sammadeva ādito paṭṭhāya rakkhaṇaṃ sikkhāsamādānaṃ, tañca atthato pūraṇe paricchinnaṃ arakkhaṇe sabbena sabbaṃ abhāvato, rakkhaṇe ca paripūraṇato. Bahalacchandoti daḷhacchando. Āyatinti anantarānāgatadivasādikālo adhippeto, na anāgatabhavoti āha **‘‘anāgate punadivasādīsupī’’**ti. Sikkhaṃ paripūrentassa tattha niviṭṭhaatthitā avigatapematā, tebhūmakadhammānaṃ aniccādivasena sammadeva nijjhānaṃ dhammanisāmanāti āha **‘‘vipassanāyetaṃ adhivacana’’**nti. Taṇhāvinayaneti virāgānupassanādivipassanāñāṇānubhāvasiddhe taṇhāvikkhambhane. Ekībhāveti gaṇasaṅgaṇikākilesasaṅgaṇikāvigamasiddhe vivekabhāve. Vīriyārambheti sammappadhānavīriyassa paggaṇhane, taṃ pana sabbaso vīriyassa paribrūhanaṃ hotīti āha **‘‘kāyikacetasikassa vīriyassa pūraṇe’’**ti. Satiyañceva nepakkabhāve cāti satokāritāya ceva sampajānakāritāya ca. Satisampajaññabaleneva vīriyārambho ijjhati. Diṭṭhipaṭivedheti sammādiṭṭhiyā paṭivijjhane. Tenāha **‘‘maggadassane’’**ti. Saccasampaṭivedhe hi ijjhamāne maggasammādiṭṭhi siddhā eva hoti.
戒律の正しい受持が「戒の受持」であり、しかしそれはその充足によって知られるべきであるとし、「三学の充足において」と述べた。あるいは初めから正しく戒を守護することが「戒の受持」であり、それも実質的には充足において限定される。守護しない場合には完全に存在せず、守護する場合には満たされるからである。「強固な意欲」とは、堅固な意欲である。「将来」とは、直近の未来の日時等の時間が意図されており、来世のことではないとし、「未来の翌日等においても」と述べた。学処を満たす者の、そこへの確固たる専念、離れることのない親愛、三界の諸法を無常等として正しく省察することが「法の観察」であるとし、「これは観(ヴィパッサナー)の名称である」と述べた。「渇愛の調伏において」とは、離貪随観などの観智の威力によって成就された、渇愛の鎮伏においてである。「独住において」とは、衆人との集団性や煩悩の集団性を離れることによって成就された遠離の状態においてである。「精進の開始において」とは、正断の精進の奮起においてであるが、それは精進を全面的に増大させることであるとし、「身心の精進の充足において」と述べた。「正念と賢明さにおいて」とは、念を働かせること、および正知を働かせることにおいてである。正念・正知の力によってのみ、精進の開始は成就する。「見の通達において」とは、正見による通達においてである。それゆえに「道の観察において」と述べた。実に四諦の通達が成就される時、道の正見はまさに確立しているのである。
Asubhānupassanāñāṇeti dasavidhassa, ekādasavidhassāpi vā asubhassa anupassanāvasena pavattañāṇe. Idañhi dukkhānupassanāya paricayañāṇaṃ. Ādīnavānupassanāñāṇeti saṅkhārānaṃ aniccadukkhavipariṇāmatāsaṃsūcitassa ādīnavassa anupassanāvasena pavattañāṇe. Appahīnaṭṭhenāti maggena asamucchinnabhāvena. Anusentīti santāne anu anu sayanti. Kāraṇalābhe hi sati uppannārahā kilesā santāne anu anu sayitā viya honti, tasmā te tadavatthā ‘‘anusayā’’ti vuccanti. Thāmagatoti thāmappatto. Thāmagamanañca aññehi asādhāraṇo kāmarāgādīnameva āveṇiko sabhāvo daṭṭhabbo. Tathā hi vuttaṃ abhidhamme ‘‘thāmagatānusayaṃ pajahatī’’ti. Kāmarāgo eva anusayo kāmarāgānusayo. Ye pana ‘‘kāmarāgassa anusayo kāmarāgānusayo’’ti vadanti, taṃ tesaṃ matimattaṃ. Na hi kāmarāgavinimutto kāmarāgānusayo nāma koci atthi. Yadi ‘‘tassa bīja’’nti vadeyyuṃ, tampi tabbinimuttaṃ paramatthato na upalabbhatevāti. Eseva nayo sesesupi.
「不浄随観智において」とは、十種あるいは十一種の不浄の随観の力によって生起した智においてである。実にこれは苦随観智の習熟智である。「過患随観智において」とは、諸行の無常・苦・変易の性質によって示された過患の随観の力によって生起した智においてである。「未断の意味において」とは、道によって根絶されていない状態においてである。「随眠する」とは、心相続において次々と横たわることである。原因が得られた時にまさに生起するにふさわしい煩悩が、心相続において次々と横たわっているかのようである。それゆえにそれらの状態のものは「随眠」と呼ばれる。「強力となった」とは、力を得たことである。そして強力となることは、他に共通しない欲貪等自体の固有の本性と見なされるべきである。実にアビダンマにおいて「強力となった随眠を捨断する」と説かれている通りである。欲貪そのものが随眠であるから「欲貪随眠」である。しかし「欲貪の随眠が欲貪随眠である」と説く者たちがいるが、それは彼らの単なる憶測にすぎない。実に、欲貪を離れた欲貪随眠なるものは何も存在しないからである。もし「その種子である」と言うならば、それもまたそれを離れては勝義(究極)において決して得られないのである。残りのものにおいてもまさにこの方法である。
Adhikaraṇasamathasattakavaṇṇanā
滅諍七法釈
Adhikarīyanti etthāti adhikaraṇāni. Ke adhikarīyanti? Samathā. Kathaṃ adhikarīyantīti? Samanavasena, tasmā te tesaṃ samanavasena pavattantīti āha **‘‘adhikaraṇāni samentī’’**tiādi. Uppannānaṃ uppannānanti uṭṭhitānaṃ uṭṭhitānaṃ. Samathatthanti samanatthaṃ.
これにおいて処理されるがゆえに「諍事(訴訟事件)」である。何が処理されるのか?止滅(滅諍法)である。どのように処理されるのか?鎮静の力によってである。それゆえにそれらはそれらの鎮静の力によって生起するとして、「諸々の諍事を鎮静する」等と述べた。「生起した、生起したものの」とは、立ち現れた、立ち現れたものの。「鎮静のために」とは、静めるためにという意味である。
**‘‘Aṭṭhārasahi vatthūhī’’**ti lakkhaṇavacanametaṃ yathā ‘‘yadi me byādhī dāheyyuṃ dātabbamidamosadha’’nti, tasmā tesu aññataraññatarena vivadantā ‘‘aṭṭhārasahi vatthūhi vivadantī’’ti vuccanti. Upavadanāti akkoso. Codanāti anuyogo.
「十八の事柄によって」とは、例えば「もし私に病の熱が生じるなら、この薬を与えるべきである」というような規定の言葉である。それゆえに、それらのいずれか一つによって論争する者たちが「十八の事柄によって論争する」と呼ばれる。「誹謗」とは罵倒である。「糾弾」とは問責である。
Adhikaraṇassa sammukhāva vinayanato sammukhāvinayo. Sannipatitaparisāya dhammavādīnaṃ yebhuyyatāya yebhuyyasikakammassa karaṇaṃ yebhuyyasikā. Ayanti ayaṃ yathāvuttā catubbidhā sammukhatā sammukhāvinayo nāma.
諍事の面前において調伏することから「現前毘尼」である。集まった会衆の中で、如法を語る者たちの多数決によって多数決羯磨を行うことが「多覓毘尼」である。この述べられた四種の現前性こそが「現前毘尼」と呼ばれる。
Saṅghasāmaggivasena sammukhībhāvo, na yathā tathā kārakapuggalānaṃ sammukhātā. Bhūtatāti tacchatā. Saccapariyāyo hi idha dhamma-saddo ‘‘dhammavādī’’tiādīsu (dī. ni. 1.9, 194) viya. Vineti etenāti vinayo, tassa tassa adhikaraṇassa vūpasamanāya bhagavatā vuttavidhi, tassa vinayassa sammukhatā vinayasammukhatā. Tenāha **‘‘yathā taṃ…pe… sammukhatā’’**ti. Yenāti yena puggalena. Vivādavatthusaṅkhāte atthe paccatthikā atthapaccatthikā. Saṅghasammukhatā parihāyati sammatapuggaleheva vūpasamanato.
僧伽の和合の力による現前性であり、単に実行する個々人の対面ではない。「真実性」とは事実性である。実にここでの「法」の語は、「如法を語る者」等におけるのと同様に、真実の同義語である。「これによって調伏する」がゆえに律(毘尼)であり、それぞれの諍事を鎮静するために世尊によって説かれた手続きのことであり、その律の面前であることが「律の現前」である。それゆえに「そのように…中略…現前性」と述べた。「これによって」とは、その人によって。諍論の事柄とされる対象において対立する者たちが「当事者」である。僧伽の面前は、指名された人物たちによってのみ鎮静されることによって免除される。
Nanti vivādādhikaraṇaṃ. ‘‘Na chandāgatiṃ gacchatī’’tiādinā vuttaṃ pañcaṅgasamannāgataṃ. Guḷhakādīsu alajjussannāya parisāya guḷhako salākaggāho kātabbo lajjussannāya vivaṭako, bālussannāya sakaṇṇajappako. Yassā kiriyāya dhammavādino bahutarā, sā yebhuyyasikāti āha **‘‘dhammavādīnaṃ yebhuyyatāyā’’**tiādi.
「それを」とは、諍論の諍事を。「愛執に赴かない」等と説かれた五つの肢分を具足した者である。秘密等の投票において、無恥な者が多い会衆には秘密の投票(取籌)がなされるべきであり、有恥な者が多い会衆には公然の投票、愚者が多い会衆には耳打ちの投票がなされるべきである。その行為によって如法を語る者が多数となるもの、それが多覓毘尼であるとし、「如法を語る者の多数性によって」等と述べた。
‘‘Catūhi **samathehi sammatī’’**ti idaṃ sabbasaṅgāhikavasena vuttaṃ. Tattha pana dvīhi dvīhi eva vūpasamanaṃ daṭṭhabbaṃ. Evaṃ vinicchitanti sace āpatti natthi, ubho khamāpetvā, atha atthi, āpattiṃ dassetvā ropanavasena vinicchitaṃ. Paṭikammaṃ pana āpattādhikaraṇasamathe parato āgamissati.
「四つの滅諍法によって鎮静される」とは、すべてを包含する力によって説かれたものである。そこではしかし、二つずつの滅諍法によって鎮静されると見るべきである。「このように判定された」とは、もし罪がないならば両者を和解させ、あるいは罪があるならば罪を示して糾問することの力によって判定されたということである。しかし償いの行為は、のちに犯戒の諍事の鎮静において登場するであろう。
Na samaṇasāruppaṃ assāmaṇakaṃ, samaṇehi akattabbaṃ, tasmiṃ. Ajjhācāre vītikkame sati.
沙門に相応しくないのが「非沙門的」であり、沙門たちによって為されるべきではないこと、それにおいてである。「越軌」とは、違反があることである。
Paṭicaratoti paṭicchādentassa. Pāpussannatāya pāpiyo, puggalo, tassa kattabbakammaṃ tassa pāpiyasikaṃ. Sammukhāvinayeneva vūpasamo natthi paṭiññāya tathārūpāya, khantiyā vā vinā avūpasamanato.
「覆い隠す者において」とは、隠蔽する者の。「悪行の増大によって悪人である」人物、その者に対して為されるべき羯磨が「罪処置毘尼(覓罪処釈)」である。現前毘尼のみによって鎮静することはない。しかるべき承認、あるいは忍受なしには鎮静しないからである。
Etthāti āpattidesanāya. Paṭiññāte āpannabhāvādike karaṇaṃ kiriyā ‘‘āyatiṃ saṃvareyyāsī’’ti, parivāsadānādivasena ca pavattaṃ vacīkammaṃ paṭiññātakaraṇaṃ.
「ここにおいて」とは、罪の告白において。「犯した状態等において承認された」ことに対する処置・行為であり、「将来において自制せよ」ということ、および別住(謹慎)の付与等の力によって行われた言語的行為が「自言治毘尼」である。
Yathānurūpanti ‘‘dvīhi samathehi catūhi tīhi ekenā’’ti evaṃ vuttanayena yathānurūpaṃ. Etthāti imasmiṃ sutte, imasmiṃ vā samathavicāre. Vinicchayanayoti vinicchaye nayamattaṃ. Tenāha **‘‘vitthāro panā’’**tiādi. Samantapāsādikāyaṃ vinayaṭṭhakathāya (cūḷava. aṭṭha. 184-187) vutto, tasmā vuttanayeneva veditabboti adhippāyo.
「相応しく」とは、「二つの滅諍法により、四つにより、三つにより、一つにより」とこのように説かれた方法にしたがって相応しく、ということである。「ここにおいて」とは、この経において、あるいはこの滅諍の考察において。「判定の方法」とは、判定における単なる指針である。それゆえに「詳説はしかし」等と述べた。『サマンタパーサーディカー(律注釈)』の律義疏において説かれており、それゆえに説かれた方法によって知られるべきである、というのが意図である。
Sattakavaṇṇanā niṭṭhitā.
七法釈の解説を終わる。
Niṭṭhitā ca dutiyabhāṇavāravaṇṇanā.
また、第二の誦品の解説を終わる。
Aṭṭhakavaṇṇanā
八法釈
333. Ayāthāvāti na yāthāvā. Aniyyānikatāya micchāsabhāvā. Viparītavuttikatāya yāthāvā. Niyyānikatāya sammāsabhāvā aviparītavuttikā.
333. 「事実でない」とは、真実でないことである。出離をもたらさないがゆえに邪悪な本性である。「転倒したあり方であることによって」事実でないのである。出離をもたらすがゆえに正しき本性であり、転倒していないあり方である。
334. Kucchitaṃ sīdatīti kusīto da-kārassa ta-kāraṃ katvā. Yassa dhammassa vasena puggalo ‘‘kusīto’’ti vuccati, so kusītabhāvo idha kusīta-saddena vutto. Vināpi hi bhāvajotanaṃ saddaṃ bhāvattho viññāyati yathā ‘‘paṭassa sukka’’nti, tasmā kusītabhāvavatthūnīti attho. Tenāha **‘‘kosajjakāraṇānīti attho’’**ti. Kammaṃ nāma samaṇasāruppaṃ īdisanti āha **‘‘cīvaravicāraṇādī’’**ti. Vīriyanti padhānavīriyaṃ, taṃ pana caṅkamanavasena karaṇe ‘‘kāyika’’ntipi vattabbataṃ labhatīti āha **‘‘duvidhampī’’**ti. Pattiyāti pāpuṇanatthaṃ. Osīdananti bhāvanānuyoge saṅkoco. Māsehi ācitaṃ nicitaṃ viyāti māsācitaṃ, taṃ maññe. Yasmā māsā tintāvisesena garukā honti, tasmā **‘‘yathā tintamāso’’**tiādi vuttaṃ. Vuṭṭhito hoti gilānabhāvāti adhippāyo.
334. 「見苦しく沈滞する」ゆえに懈怠(怠惰)であり、daの字をtaの字に変えて作られている。ある法(性質)によってその人が「懈怠者」と呼ばれる、その懈怠の状態がここでは「懈怠」という語で説かれている。実に状態を示す言葉がなくても状態の意味は知られる、「布の白さ」というように。それゆえ懈怠の状態の事柄(懈怠事)という意味である。それゆえに「怠惰の原因という意味である」と述べた。沙門に相応しい行為とはこのようなものであるとし、「衣の調整等」と述べた。「精進」とは正断の精進であり、しかしそれは経行などの力によって行われる際、「身体的」とも呼ばれうるとして、「二種ともに」と述べた。「達成のために」とは、到達するためという意味である。「沈滞」とは、修行への専念における躊躇である。小豆(マーサ)で満たされ、積み重ねられたかのようであるのが「小豆の積載」であり、そのようであると考える。なぜなら、小豆は湿ることによってとりわけ重くなるからであり、それゆえに「濡れた小豆のように」等と述べた。「病気の状態から起き上がったばかりである」というのが意図である。
335. Tesanti ārambhavatthūnaṃ. Imināva nayenāti iminā kusītavatthūsu vutteneva nayena. ‘‘Duvidhampi vīriyaṃ ārabhatī’’tiādinā, ‘‘idaṃ paṭhamanti idaṃ handāhaṃ vīriyaṃ ārabhāmīti evaṃ bhāvanāya abbhussahanaṃ paṭhamaṃ ārambhavatthū’’tiādinā ca attho veditabbo. Yathā tathā paṭhamaṃ pavattaṃ abbhussahanañhi upari vīriyārambhassa kāraṇaṃ hoti. Anurūpapaccavekkhaṇāsahitāni hi abbhussahanāni, tammūlakāni vā paccavekkhaṇāni aṭṭha ārambhavatthūni veditabbāni.
335. 「それらの」とは、精進開始の事柄(発始事)の。「まさにこの方法によって」とは、これら懈怠事において説かれたのとまさに同じ方法によってである。「二種の精進を開始する」等により、「これが第一である。すなわち『さあ、私は精進を開始しよう』とこのように修行に奮起することが第一の発始事である」等によって意味が知られるべきである。いかなる形であれ最初に生じた奮起こそが、その後の精進の開始の原因となるからである。実に相応しい省察を伴う奮起、あるいはそれらを根本とする省察が、八つの発始事として知られるべきである。
336. Āsajjāti yassa deti, tassa āmodanahetu tena samāgamanimittaṃ. Tenāha **‘‘ettha āsādanaṃ dānakāraṇaṃ nāmā’’**ti. Bhayāti bhayahetu. Nanu bhayaṃ nāma laddhukāmatā rāgādayo viya cetanāya avisuddhikaraṃ, taṃ kasmā idha gahitanti? Na idaṃ tādisaṃ corabhayādiṃ sandhāya vuttanti dassetuṃ **‘‘tatthā’’**tiādi vuttaṃ. Adāsi meti yaṃ pubbe kataṃ upakāraṃ cintetvā dīyati, taṃ sandhāya vuttaṃ. Dassati meti paccupakārāsīsāya yaṃ dīyati, taṃ sandhāya vadati. Sāhu dānanti ‘‘dānaṃ nāmetaṃ paṇḍitapaññatta’’nti sādhusamācāre ṭhatvā deti. Alaṅkāratthanti upasobhanatthaṃ. Parivāratthanti parikkhāratthaṃ. Dānañhi datvā taṃ paccavekkhantassa pāmojjapītisomanassādayo uppajjanti, lobhadosaissāmaccherādayo vidūrī bhavanti. Idāni dānaṃ anukūladhammaparibrūhanena, paccanīkadhammavidūrībhāvakaraṇena ca bhāvanācittassa upasobhanāya ca parikkhārāya ca hotīti ‘‘alaṅkāratthaṃ, parivāratthañca detī’’ti vuttaṃ. Tenāha **‘‘dānañhi cittaṃ mudukaṃ karotī’’**tiādi. Muducitto hoti laddhā dāyake ‘‘iminā mayhaṃ saṅgaho kato’’ti, dātāpi laddhari. Tena vuttaṃ **‘‘ubhinnampi cittaṃ mudukaṃ karotī’’**ti.
336. 「相手に接して(随遇)」とは、施しを与える相手を喜ばせる原因として、その者との出会いを機縁としてである。それゆえに「ここにおいて遭遇することが布施の原因と呼ばれる」と述べた。「恐怖から」とは、恐怖を原因としてである。いったい恐怖とは、得たいという欲求や貪愛等の如く、思(意図)を不純にするものではないか、それがなぜここで取り上げられているのか?これはそのような盗賊の恐怖などを意図して説かれたのではないことを示すために、「そこにおいて」等と述べた。「私に与えてくれた」とは、過去になされた恩恵を思って与えられるもの、それを意図して説かれている。「私に与えてくれるだろう」とは、返礼の恩恵を期待して与えられるもの、それを意図して述べている。「布施は善いことである」とは、「布施とは賢者が定めたものである」と善なる行いに立脚して与える。「装飾のために」とは、美しく飾るためという意味である。「資具のために」とは、資糧とするためという意味である。実に布施を与えてそれを省察する者には歓喜・喜悦・喜などの感情が生じ、貪欲・瞋恚・嫉妬・物惜しみ等が遠ざかる。今や布施は順応する法を増大させ、敵対する法を遠ざけることによって、修習する心を美しく飾り、また資糧とするためになるので、「装飾のため、また資具のために与える」と説かれた。それゆえに「実に布施は心を柔軟にする」等と述べた。施主に対して受者は「この人は私に施しをしてくれた」と心が柔軟になり、施主もまた受者に対して柔軟になる。それゆえ「両者の心を柔軟にする」と述べた。
Adantadamananti adantā anassavāpissa dānena dantā assavā honti vase vattanti. Adānaṃ dantadūsakanti adānaṃ pana pubbe dantānaṃ assavānampi vighātuppādanena cittaṃ dūseti. Unnamanti dāyakā, piyaṃvadā ca paresaṃ garucittīkāraṭṭhānatāya. Namanti paṭiggāhakā dānena, piyavācāya laddhasaṅgahā saṅgāhakānaṃ.
「調伏されていない者を調伏すること」とは、未調伏で従順でない者も、布施によって調伏され従順となり、意のままに従う。「不施は調伏された者を損なうこと」とは、布施をしないことは、過去に調伏され従順であった者たちさえも、不快を生じさせることによって心を損なう。施主たちは、また愛語を語る者たちは、他者から重んじ敬われる境遇となることによって向上する。受者たちは布施によって、愛語によって恩恵を受けた恩恵者たちに対して頭を垂れる。
Cittālaṅkāradānameva uttamaṃ anupakkiliṭṭhatāya, suparisuddhatāya, guṇavisesapaccayatāya ca.
心荘厳の布施のみが、煩悩に汚されていないこと、極めて清浄であること、特別な徳の条件となることによって最高である。
337. Dānapaccayāti dānakāraṇā, dānamayapuññassa katattā upacitattāti attho. Upapattiyoti manussesu, devesu ca nibbattiyo. Ṭhapetīti ekavārameva anuppajjitvā yathā uparūpari tenevākārena pavattati, evaṃ ṭhapeti. Tadeva casa adhiṭṭhānanti āha **‘‘tasseva vevacana’’**nti. Vaḍḍhetīti brūheti, na hāpeti. Vimuttanti adhimuttaṃ, ninnaṃ poṇaṃ pabbhāranti attho. Vimuttanti vā visiṭṭhaṃ. Nippariyāyato uttari nāma paṇītaṃ majjhepi hīnamajjhimavibhāgassa labbhanatoti vuttaṃ **‘‘uttari abhāvitanti tato upari maggaphalatthāya abhāvita’’**nti. Saṃvattati tathā paṇihitaṃ dānamayacittaṃ. Yaṃ pana pāḷiyaṃ ‘‘tañca kho’’tiādi vuttaṃ, taṃ tatrūpapattiyā vibandhakāradussīlyābhāvadassanaparaṃ daṭṭhabbaṃ, na dānamayassa puññassa kevalassa taṃsaṃvattanatādassanaparanti daṭṭhabbaṃ.
337. 「布施の縁によって」とは、布施を原因として、布施からなる功徳が作られ積み立てられたことによって、という意味である。「再生」とは、人間界や天界における生起である。「据える」とは、一度だけ生じるのではなく、次々とその様相のままに生起するように、このように据えるのである。まさにそれこそが誓願であるとして、「それの同義語である」と述べた。「増大させる」とは、育成し、損なわせないことである。「傾注した」とは、志向し、傾き、傾倒し、向けられたという意味である。あるいは「傾注した」とは、優れたという意味である。文字通りの意味において「さらに上」とは勝妙なものであり、中間においても劣・中・優の区分が得られることから、「さらに上には修習されていないとは、それより上の道果のために修習されていないこと」と説かれた。そのように配置された布施の心は(天界への再生へと)向かう。しかし聖典において「しかもそれは」等と説かれたのは、そこへの再生を妨げる不持戒の不在を示すことを主眼としていると見るべきであり、単に布施からなる功徳のみがその方向に向かわせることを示す主眼ではないと見るべきである。
Samucchinnarāgassāti samucchinnakāmarāgassa. Tassa hi siyā brahmaloke upapatti, na samucchinnabhavarāgassa. Vītarāgaggahaṇena cettha kāmesu vītarāgatā adhippetā, yāya brahmalokūpapatti siyā. Tenāha **‘‘dānamattenevā’’**tiādi. Yadi evaṃ dānaṃ tattha kiṃ atthiyanti āha **‘‘dānaṃ panā’’**tiādi. Dānena muducittoti baddhāghāte verīpuggalepi attano dānasampaṭicchanena mudubhūtacitto.
「貪愛を断絶した者の」とは、欲貪を断絶した者のことである。実にその者には梵天界への再生がありうるのであり、有貪(生存への執着)を断絶した者(阿羅漢)のことではない。またここで「離貪の者」という言葉で、欲に対する離貪の状態が意図されており、それによって梵天界への再生がありうる。それゆえに「単なる布施によってのみ」等と述べた。もしそうであるなら、そこにおいて布施に何の意味があるのかとして、「しかし布施は」等と述べた。「布施によって心が柔軟になった」とは、怨恨を抱いた敵対者に対しても、自身の布施を受け入れることによって心が柔軟になった者のことである。
Parisīdati parito ito cito ca samāgacchatīti parisā, samūho.
「周囲に座る、あちこちから周囲に集まる」ゆえに会衆であり、集団である。
Lokassa dhammāti sattalokassa avassambhāvī dhammā. Tenāha **‘‘etehi mutto nāma natthī’’**tiādi. Yasmā te lokadhammā aparāparaṃ kadāci lokaṃ anupatanti, kadāci te loko, tasmā tañcettha atthaṃ dassento ‘‘aṭṭhime’’ti suttapadaṃ (a. ni. 8.6) āhari. Ghāsacchādanādīnaṃ laddhi lābho, tāni eva vā laddhabbato lābho. Tadabhāvo alābho. Lābhaggahaṇena cettha tabbisayo anurodho gahito, alābhaggahaṇena virodho. Yasmā lohite sati tadupaghātavasena pubbo viya anurodhe sati virodho laddhāvasaro eva hoti, tasmā vuttaṃ **‘‘lābhe āgate alābho āgato evā’’**ti. Esa nayo yasādīsupi.
「世間の法(世間法)」とは、衆生の世間において必ず生じる諸法である。それゆえに「これらから解脱した者は存在しない」等と述べた。それらの世間法は次々と、時には世間を追い、時には世間がそれらを追うがゆえに、そしてその意味をここで示すために「これら八つの」という経の句(増支部8.6)を引用した。衣服や食物などの獲得が「利得」であり、あるいはまさに獲得されるべきものであるから利得である。その不在が「損失」である。そしてここで利得を取り上げることで、その対象への執着(順応)が捉えられ、損失を取り上げることで反発(違背)が捉えられている。血があるときにその損傷によって膿が生じるように、執着があるときには反発は機会を得たものとなるがゆえに、「利得が来たとき、損失はすでに来ている」と説かれた。この方法は名誉等においても同様である。
Aṭṭhakavaṇṇanā niṭṭhitā.
八法釈の解説を終わる。
Navakavaṇṇanā
九法釈
340. Vasati tattha phalaṃ tannimittakatāya pavattatīti vatthu, kāraṇanti vuttovāyamattho. Tenāha **‘‘āghātavatthūnīti āghātakāraṇānī’’**ti. Kopo nāmāyaṃ yasmiṃ vatthusmiṃ uppajjati, na tattha ekavārameva uppajjati, atha kho punapi uppajjatevāti vuttaṃ **‘‘bandhatī’’**ti. Atha vā yo paccayavisesena uppajjamāno āghāto savisaye baddho viya na vigacchati, punapi uppajjeyyeva, taṃ sandhāyāha **‘‘āghātaṃ bandhatī’’**ti. Taṃ panassa paccayavasena nibbattanaṃ uppādanamevāti vuttaṃ **‘‘karoti uppādetī’’**ti.
340. 果報がそこに留まる、それを機縁として生起するがゆえに「事(基盤)」であり、原因であるとすでにこの意味は説かれた。それゆえに「恨みの事柄とは恨みの原因である」と述べた。怒りというものは、ある事柄において生じる時、そこに一度だけ生じるのではなく、さらに再び生じるのであるとして、「結ぶ」と説かれた。あるいは、特別な縁によって生じる怨恨が、自身の対象に縛られたかのようになって消えず、再び生じるであろうこと、それを意図して「恨みを結ぶ」と述べた。しかしその縁による発生とはまさに生起させることであるとして、「行う、生起させる」と説かれた。
Taṃ kutettha labbhāti ettha tanti kiriyāparāmasanaṃ, padajjhāhārena ca attho veditabboti dassento **‘‘taṃ anatthacaraṇaṃ mā ahosī’’**tiādimāha. Kena kāraṇena laddhabbaṃ niratthakabhāvato. Kammassakā hi sattā, te kassa ruciyā dukkhitā, sukhitā vā bhavanti, tasmā kevalaṃ tasmiṃ mayhaṃ kujjhanamattaṃ evāti adhippāyo. Atha vā taṃ kopakaraṇamettha puggale kuto labbhā paramatthato kujjhitabbassa, kujjhanakassa ca abhāvato. Saṅkhāramattañhetaṃ, yadidaṃ khandhapañcakaṃ. Yaṃ ‘‘satto’’ti vuccati, te saṅkhārā ittarakālā khaṇikā, kassa ko kujjhatīti attho. Lābhā nāma ke siyuṃ aññatra anuppattito.
「それがここにおいてどうして得られようか」において、「それを」とは行為を指示するものであり、言葉を補うことによって意味が知られるべきであることを示しつつ、「その無益な行いがなかったらよかったのに」等を述べた。「いかなる理由によって得られるべきか、無意味であることから」。実に衆生は各自の業を所有する者であり、彼らは誰の望みによって苦しんだり幸福になったりするのか、それゆえ単にそれにおいて私が怒るだけのことである、というのが意図である。あるいは、その怒りを起こすことはこの人物においてどうして得られようか。勝義(究極)において怒られるべき対象も怒る主体も存在しないからである。実にこれは単なる諸行、すなわち五蘊にすぎない。「衆生」と呼ばれるそれらの諸行は束の間の一時的なものであり、誰に対して誰が怒るのかという意味である。生じないこと以外に、得られるものなど何があろうか。
341. Sattā āvasanti etesūti sattāvāsā. Nānattakāyā nānattasaññī ādibhedā sattanikāyā. Yasmā te te sattanikāyā tappariyāpannānaṃ sattānaṃ tāya eva tappariyāpannatāya ādhāro viya vattabbataṃ arahanti samudāyādhāratāya avayavassa yathā ‘‘rukkhe sākhā’’ti, tasmā **‘‘sattānaṃ āvāsā, vasanaṭṭhānānīti attho’’**ti vuttaṃ. Suddhāvāsāpi sattāvāsova ‘‘na so, bhikkhave, sattāvāso sulabharūpo, yo mayā anāvutthapubbo iminā dīghena addhunā aññatra suddhāvāsehi devehī’’ti vacanato. Yadi evaṃ kasmā idha na gahitāti tattha kāraṇamāha **‘‘asabbakālikattā’’**tiādi. Vehapphalo pana catutthaṃyeva sattāvāsaṃ bhajatīti daṭṭhabbaṃ.
341. 「衆生がこれらに住する」ゆえに衆生居(有情居)である。別々の身体で別々の想を持つもの等を初めとする区別のある衆生の群れである。それらの種々の衆生の群れは、それに属する衆生たちの、まさにその所属する状態によって、全体が部分の拠り所となることにおいて、あたかも「木の枝」というように基盤と呼ばれるに値するがゆえに、「衆生たちの住居、居住場所という意味である」と説かれた。浄居天もまた衆生の住居である。「比丘たちよ、この長い年月において私がかつて住んだことのないあの衆生の住居は、浄居天の神々を除いては容易には得られない」という言葉があるからである。もしそうなら、なぜここで取り上げられないのかについて、その理由を「常時のものではないことから」等と述べた。しかし広果天は、第四の衆生居にまさに属すると見なされるべきである。
342. Opasamikoti vaṭṭadukkhassa upasamāvaho, taṃ pana vaṭṭadukkhaṃ kilesesu upasantesu upasamati, na aññathā, tasmā **‘‘kilesūpasamakaro’’**ti vuttaṃ. Takkaraṃ sambodhaṃ gametīti sambodhagāmī.
342. 「寂静をもたらすもの」とは、輪廻の苦しみの寂静をもたらすものであるが、その輪廻の苦しみは煩悩が寂静した時に寂静するのであり、それ以外ではない。それゆえに「煩悩の寂静をなすもの」と説かれた。それをなす正覚へと至らせるゆえに「正覚に導くもの」である。
Yasmiṃ devanikāye dhammadesanā na viyujjati savanasseva abhāvato, so pāḷiyaṃ ‘‘dīghāyuko devanikāyo’’ti adhippetoti āha **‘‘asaññabhavaṃ vā arūpabhavaṃ vā’’**ti.
聴聞自体が存在しないために、法話が説かれることのない神々の群れ、それが聖典において「長寿の神々の群れ」として意図されているとし、「無想法(無想天)あるいは無色界」と述べた。
343. Anupubbato viharitabbāti anupubbavihārā. Anupaṭipāṭiyāti anukkamena. Samāpajjitabbavihārāti samāpajjitvā samaṅgino hutvā viharitabbavihārā.
343. 順序にしたがって住すべきものであるから「次第住」である。「順序にしたがって」とは、段階的に。「等至して住すべきもの」とは、等至してそれを具足する者となって住すべき住のことである。
344. Anupubbanirodhāti anupubbena anukkamena pavattetabbanirodhā. Tenāha **‘‘anupaṭipāṭiyā nirodhā’’**ti.
344. 「次第滅」とは、順序にしたがって段階的に生起させるべき滅のことである。それゆえに「順序にしたがった諸滅」と述べた。
Navakavaṇṇanā niṭṭhitā.
九法釈の解説を終わる。
Dasakavaṇṇanā
十法釈
345. Yehi sīlādīhi samannāgato bhikkhu dhammasaraṇatāya dhammeneva nāthati īsati abhibhavatīti nāthoti vuccati, te tassa nāthabhāvakarā dhammā **‘‘nāthakaraṇā’’**ti vuttāti āha **‘‘sanāthā…pe… patiṭṭhākarā dhammā’’**ti. Tattha attano patiṭṭhākarāti yassa nāthabhāvakarā, tassa attano patiṭṭhāvidhāyino. Appatiṭṭho anātho, sappatiṭṭho sanāthoti patiṭṭhattho nāthattho.
345. これら戒等を具足した比丘が、法を帰依処とすることによって、まさに法によって護り、支配し、圧倒するがゆえに「依処(ナータ)」と呼ばれる、それらの彼を依処のある状態にする諸法が「依処をなす法」と説かれたとして、「依処ある…中略…拠り所を作る諸法」と述べた。そこにおいて「自身の拠り所を作る」とは、彼を依処ある状態にする、その者の自身の拠り所を設ける諸法のことである。拠り所なき者が無依(拠り所なし)であり、拠り所ある者が有依(依処あり)であるから、拠り所の意味が依処の意味である。
Kalyāṇaguṇayogato kalyāṇāti dassento **‘‘sīlādiguṇasampannā’’**ti āha. Mijjanalakkhaṇā mittā etassa atthīti mitto, so vuttanayena kalyāṇo assa atthīti tassa atthitāmattaṃ kalyāṇamittapadena vuttaṃ. Assa tena sabbakālaṃ avijahitavāsoti taṃ dassetuṃ ‘‘kalyāṇasahāyo’’ti vuttanti āha **‘‘tevassā’’**tiādi. Tevassāti te eva kalyāṇamittā assa bhikkhuno. Saha ayanatoti saha vattanato. Asamodhāne cittena, samodhāne pana cittena ceva kāyena ca sampavaṅko.
善なる徳との結合から「善なる」であることを示し、「戒などの徳を具足した」と述べた。親愛を特徴とする友をこの者が持っているゆえに「友」であり、その述べられた方法による善友をこの者が持っているとして、その存在のみが「善友」という句で説かれた。この者にはその友と常に離れることのない同住があることを示すために「善なる仲間」と説かれたとし、「彼らこそがこの比丘の」等と述べた。「彼らこそがこの比丘の」とは、それらの善友こそがこの比丘の仲間である。「共に行くことから」とは、共に行動することからである。離れているときには心によって、共にいるときには心と身体の両方によって親密である。
Sukhaṃ vaco etasmiṃ anukūlagāhimhi ādaragāravavati puggaleti suvaco. Tenāha **‘‘sukhena vattabbo’’**tiādi. Khamoti khantā, tamevassa khamabhāvaṃ dassetuṃ **‘‘gāḷhenā’’**tiādi vuttaṃ. Vāmatoti micchā, ayoniso vā gaṇhāti. Paṭippharatīti paṭāṇikabhāvena tiṭṭhati. Padakkhiṇaṃ gaṇhātīti sammā yoniso vā gaṇhāti.
言葉を受け入れる従順な者、敬意と尊重を持つ人物において言葉が心地よい(素直に受け入れられる)ので「受順(従順な者)」である。それゆえに「容易に語りかけられるべき」等と述べた。「堪能である」とは耐える者であり、まさにその者の忍耐の状態を示すために「厳しく」等と説かれた。「左から」とは、誤って、あるいは如理でなく把握することである。「反論する」とは、敵対的な態度で立ちふさがることである。「右回りに把握する」とは、正しく、如理に把握することである。
Uccāvacānīti vipulakhuddakāni. Tatrupagamanīyāti tatra tatra mahante, khuddake ca kamme sādhanavasena upāyena upagacchantiyā, tassa tassa kammassa nipphādanena samatthāyāti attho. Tatrupāyāyāti vā tatra tatra kamme sādhetabbe upāyabhūtāya.
「高低の」とは、大小さまざまな。「そこで役立つ」とは、そこかしこの大きな、また小さな作業において、達成の力によって巧みな手段で近づく、それぞれの作業を成し遂げる能力があるという意味である。あるいは「そのための手段において」とは、そこかしこで成し遂げるべき作業における手段となったものにおいてである。
Dhamme assa kāmoti dhammakāmoti byadhikaraṇānaṃpi bāhirattho samāso hotīti katvā vuttaṃ. Kāmetabbato vā piyāyitabbato kāmo, dhammo; dhammo kāmo assāti dhammakāmo. Dhammoti pariyattidhammo adhippetoti āha **‘‘tepiṭakaṃ buddhavacanaṃ piyāyatīti attho’’**ti. Samudāharaṇaṃ kathanaṃ samudāhāro, piyo samudāhāro etassāti piyasamudāhāro. Sayañcāti ettha ca-saddena ‘‘sakkacca’’nti padaṃ anukaḍḍhati, tena sayañca sakkaccaṃ desetukāmo hotīti yojanā. Abhidhammo sattappakaraṇāni adhiko abhivisiṭṭho ca pariyattidhammoti katvā. Vinayo ubhatovibhaṅgā vinayanato kāyavācānaṃ. Abhivinayo khandhakaparivārā visesato ābhisamācārikadhammakittanato. Ābhisamācārikadhammapāripūrivaseneva hi ādibrahmacariyakadhammapāripūrī. Dhammo eva piṭakadvayassāpi pariyattidhammabhāvato. Maggaphalāni abhidhammo nibbānadhammassa abhimukhoti katvā. Kilesavūpasamakāraṇaṃ pubbabhāgiyā tisso sikkhā saṅkhepato vivaṭṭanissito samatho vipassanā ca. Bahulapāmojjoti balavapāmojjo.
法への欲求がこの者にあるので「大法(法を愛する者)」であり、異格の関係であっても外部の意味を持つ複合語となるとして説かれた。あるいは欲求されるべきもの、愛好されるべきものであるから「愛(欲求)」であり、法である。法を愛する者がこの者であるから「法を愛する者」である。「法」とは教法が意図されているとし、「三蔵の仏語を愛好するという意味である」と述べた。「口頭で述べること、語ること」が口誦であり、心地よい口誦を持つ者がこの者であるから「心地よい口誦を持つ者」である。「自らもまた」において、ここでの「また(ca)」の語によって「恭しく」という句を引き寄せ、それによって「自らも恭しく説くことを望む者となる」と結びつける。「阿毘達磨」とは七論のことであり、増大し極めて優れた教法であることからである。「律」とは両部経分別であり、身口を調伏することからである。「阿毘奈耶」とは犍度と附随であり、とりわけ細行の法を説き明かすことからである。実に細行の法の充足の力によってのみ、初梵行の法の充足があるからである。「法」こそは二蔵(経・律)の教法の状態でもある。「道果」が阿毘達磨であり、涅槃の法に向かっていることからである。「煩悩の寂静の原因」とは、事前の段階の三学であり、要約すれば輪廻を脱することに依拠した止と観である。「大いなる歓喜ある」とは、強い歓喜あることである。
Kāraṇattheti nimittatthe. Kusaladhammanimittaṃ hissa vīriyārambho. Tenāha **‘‘tesaṃ adhigamatthāyā’’**ti. Kusalesu dhammesūti vā nipphādetabbe bhummaṃ yathā ‘‘cetaso avūpasame ayonisomanasikārapadaṭṭhāna’’nti.
「原因の意味において」とは、機縁の意味においてである。実に善法を機縁としてこの者の精進の開始があるからである。それゆえに「それらの体得のために」と述べた。あるいは「諸の善法において」とは、成し遂げられるべきことにおける処格(場所)であり、「心の不寂静において如理でない作意が近因である」というようなものである。
346. Sakalaṭṭhenāti nissesaṭṭhena, anavasesapharaṇavasena cettha sakalaṭṭho veditabbo, asubhanimittādīsu viya ekadese aṭṭhatvā anavasesato gahetabbaṭṭhenāti attho. Tadārammaṇānaṃ dhammānanti taṃ kasiṇaṃ ārabbha pavattanakadhammānaṃ. Khettaṭṭhenāti uppattiṭṭhānaṭṭhena. Adhiṭṭhānaṭṭhenāti pavattiṭṭhānabhāvena. Yathā khettaṃ sassānaṃ uppattiṭṭhānaṃ vaḍḍhiṭṭhānañca, evametaṃ jhānaṃ taṃsampayuttānaṃ dhammānanti, yogino vā sukhavisesānaṃ kāraṇabhāvena. ‘‘Paricchinditvā’’ ti idaṃ uddhaṃ adhoti etthāpi yojetabbaṃ. Paricchinditvā eva hi sabbattha kasiṇaṃ vaḍḍhetabbaṃ. Tena tena vā kāraṇenāti tena tena upariādīsu kasiṇavaḍḍhanakāraṇena. Yathā kinti āha **‘‘ālokamiva rūpadassanakāmo’’**ti. Yathā dibbacakkhunā uddhaṃ ce rūpaṃ daṭṭhukāmo, uddhaṃ ālokaṃ pasāreti, adho ce adho, samantato ce rūpaṃ daṭṭhukāmo samantato ālokaṃ pasāreti; evamayaṃ kasiṇanti attho.
346. 「全体という意味において」とは、余すところがないという意味においてであり、残余なく遍満することの力によってここでの全体の意味は知られるべきである。不浄相等におけるように一部に留まるのではなく、余すところなく捉えられるべきという意味においてである。「それを対象とする諸法の」とは、その遍処を対象として生起する諸法の。「田地という意味において」とは、生起の場所という意味においてである。「立脚地という意味において」とは、生起する場所の状態としてである。あたかも田地が穀物の生起の場所であり増大の場所であるように、このようにこの禅定は相応する諸法にとっての、あるいは修行者の特別な楽の諸原因の状態としてである。「限定して」というこれは、上方・下方においてここでも結びつけられるべきである。限定してこそ実にすべての場所において遍処を増大させるべきだからである。「種々の原因によって」とは、それぞれの上方などにおいて遍処を増大させる原因によってである。どのようであるかとして、「色を見ることを望む者が光を放つように」と述べた。あたかも天眼によって上方の色を見たいと望むなら上方に光を広げ、下方なら下方に、全周囲の色を見たいと望むなら全周囲に光を広げるように、このようにこの遍処を、という意味である。
Ekassāti pathavīkasiṇādīsu ekekassa. Aññabhāvānupagamanatthanti aññakasiṇabhāvānupagamanadīpanatthaṃ, aññassa vā kasiṇabhāvānupagamanadīpanatthaṃ, na hi aññena pasāritakasiṇaṃ tato aññena pasāritakasiṇabhāvaṃ upagacchati, evampi nesaṃ aññakasiṇasambhedābhāvo veditabbo. Na aññaṃ pathavīādi. Na hi udake ṭhitaṭṭhāne sasambhārapathavī atthi. Añño kasiṇasambhedoti āpokasiṇādinā saṅkaro. Sabbatthāti sabbesu sesakasiṇesu. Ekadese aṭṭhatvā anavasesapharaṇaṃ pamāṇassa aggahaṇato appamāṇaṃ. Teneva hi nesaṃ kasiṇasamaññā. Tathā cāha **‘‘tañhī’’**tiādi. Cetasā pharantoti bhāvanācittena ārammaṇaṃ karonto. Bhāvanācittañhi kasiṇaṃ parittaṃ vā vipulaṃ vā sakalameva manasi karoti, na ekadesaṃ.
「一つの」とは、地遍等のそれぞれ一つの。「他の状態に至らないことを示すために」とは、他の遍処の状態に至らないことを明らかにするため、あるいは他者の遍処の状態に至らないことを明らかにするためである。実に他者によって広げられた遍処が、それ以外の他者によって広げられた遍処の状態に至ることはなく、このようにそれらの他の遍処との混同がないことが知られるべきである。水のある場所に具縁の地はないからである。「他の遍処の混同」とは、水遍等との混同である。「すべての場所において」とは、すべての残りの遍処においてである。一部に留まることなく余すところなく遍満することは、量(限界)を捉えないことから「無量」である。それゆえに実にそれらには「遍処(カシナ)」という総称がある。そしてそのように「実にそれを」等と述べた。「心によって遍満しつつ」とは、修習の心によって対象としながらである。実に修習の心は、遍処が狭小であれ広大であれ、その全体を作意するのであり、一部ではない。
Kasiṇugghāṭimākāse pavattaviññāṇaṃ pharaṇaappamāṇavasena **‘‘viññāṇakasiṇa’’**nti vuttaṃ. Tathā hi taṃ ‘‘viññāṇañca’’nti vuccati. Kasiṇavasenāti yathāugghāṭitakasiṇavasena. Kasiṇugghāṭimākāse uddhaṃadhotiriyatā veditabbā. Yattakañhi ṭhānaṃ kasiṇaṃ pasāritaṃ, tattakaṃ ākāsabhāvanāvasena ākāso hotīti; evaṃ yattakaṃ ṭhānaṃ ākāsaṃ hutvā upaṭṭhitaṃ, tattakaṃ sakalameva pharitvā viññāṇassa pavattanato āgamanavasena viññāṇakasiṇepi uddhaṃadhotiriyatā vuttāti āha ‘‘kasiṇugghāṭiṃ ākāsavasena tattha pavattaviññāṇe uddhaṃadhotiriyatā veditabbā’’ti.
遍処を取り去った空間に生起した意識が、遍満が無量であることの力によって「識遍処」と説かれた。実にそれゆえにそれは「識無辺」と呼ばれる。「遍処の力によって」とは、取り去られた遍処のあり方の力によってである。遍処を取り去った空間において上方・下方・斜めが知られるべきである。実に遍処が広げられた広さの分だけ、空間の修習の力によって空間となるのであり、このように空間となって現れた広さの分だけ、全体に遍満して意識が生起することから、到達の力によって識遍処においても上方・下方・斜めが説かれたとして、「遍処を取り去った空間の力によって、そこに生起した意識において上方・下方・斜めが知られるべきである」と述べた。
Akusalakammapathadasakavaṇṇanā
不善業道十法釈
347. Pathabhūtattāti tesaṃ pavattanupāyattā maggabhūtattā. Methunasamācāresūti sadārasantosaparadāragamanavasena duvidhesu methunasamācāresu. Tepi hi kāmetabbato kāmā nāma. Methunavatthūsūti methunassa vatthūsu tesu sattesu. Micchācāroti gārayhācāro. Gārayhatā cassa ekantanihīnatāya evāti āha **‘‘ekantanindito lāmakācāro’’**ti. Asaddhammādhippāyenāti asaddhammasevanādhippāyena.
347. 「道となったことから」とは、それらの生起の手段であることから、道となったことからである。「婬行の実践において」とは、自己の妻で満足することと他人の妻に通ずることの力による二種の婬行の実践においてである。それらもまた欲求されるべきものであるから「欲」と呼ばれる。「婬行の対象において」とは、婬行の対象であるそれらの衆生たちにおいてである。「邪行」とは、非難されるべき行いである。そしてそれの非難されるべき性質とは、一向に劣悪であることによるとして、「一向に非難された劣悪な行い」と述べた。「非法の意図によって」とは、非法の実践の意図によってである。
Sagottehi rakkhitā gottarakkhitā. Sahadhammikehi rakkhitā dhammarakkhitā. Sassāmikā sārakkhā. Yassā gamane raññā daṇḍo ṭhapito, sā saparidaṇḍā. Bhariyābhāvatthaṃ dhanena kītā dhanakkītā. Chandena vasantī chandavāsinī. Bhogatthaṃ vasantī bhogavāsinī. Paṭatthaṃ vasantī paṭavāsinī. Udakapattaṃ āmasitvā gahitā odapattakinī. Cumbaṭaṃ apanetvā gahitā obhatacumbaṭā. Karamarānītā dhajāhaṭā. Taṅkhaṇikā muhuttikā. Abhibhavitvā vītikkame micchācāro mahāsāvajjo, na tathā dvinnaṃ samānacchandatāya. ‘‘Abhibhavitvā vītikkamane satipi maggenamaggapaṭipattiadhivāsane purimuppannasevanābhisandhipayogābhāvato micchācāro na hoti abhibhuyyamānassā’’ti vadanti. Sevanacitte sati payogābhāvo appamāṇaṃ yebhuyyena itthiyā sevanapayogassa abhāvato. Tasmiṃ asati puretaraṃ sevanacittassa upaṭṭhāpanepi tassā micchācāro na siyā, tathā purisassapi sevanapayogābhāveti. Tasmā attano ruciyā pavattitassa vasena tayo balakkārena pavattitassa vasena tayoti sabbepi aggahitaggahaṇena **‘‘cattāro sambhārā’’**ti vuttaṃ.
同じ氏族の者たちによって護られている者は「氏族に護られた女」である。同胞の宗教者たちによって護られている者は「法に護られた女」である。夫を持つ者は「夫に護られた女」である。彼女に通ずる者には王によって罰が定められている者は「刑罰を伴う女」である。妻とするために財貨によって買われた者は「財買の女」である。自らの意志で同居している者は「好意同居の女」である。財物のために同居している者は「財産同居の女」である。衣類のために同居している者は「衣類同居の女」である。水桶に手を入れて契りを交わして娶られた者は「水桶の契りの女」である。頭の荷台を降ろされて娶られた者は「荷を降ろされた女」である。捕虜として連れてこられた者は「旗に連れられた女」である。その時だけ雇われた者は「一時的な女」である。力ずくで犯す場合、邪淫は重罪であり、両者が同意している場合はそうではない。「力ずくで犯される場合であっても、交わりの受け入れに際して以前に生じた実践の意図の試行がないため、犯される者には邪淫とはならない」と彼らは言う。実践の心があるとき、試行の不在は基準とはならない。往々にして女性には実践の試行がないからである。それ(実践の心)がない場合、事前に実践の心を起こしていたとしても彼女には邪淫とはならず、同様に男性においても実践の試行がないからである。それゆえに自身の意志によって生起した力によって三つ、暴力によって生起した力によって三つと、すべて非受容の把取によって「四つの要素」と説かれた。
Upasaggavasena atthavisesavācino dhātusaddāti **‘‘abhijjhāyatī’’**ti padassa **‘‘parabhaṇḍābhimukhī’’**tiādinā attho vutto. Tattha tanninnatāyāti tasmiṃ parabhaṇḍe lubbhanavasena ninnatāyāti ayamettha adhippāyo veditabbo. Abhipubbo vā jhā-saddo lubbhane niruḷho daṭṭhabbo. Upasaggavasena atthavisesavācino eva dhātusaddā. Adinnādānassa appasāvajjamahāsāvajjatā brahmajālavaṇṇanāyaṃ (dī. ni. aṭṭha. cūḷasīlavaṇṇanā) vuttāti āha **‘‘adinnādānaṃ viya appasāvajjā, mahāsāvajjā cā’’**ti. Tasmā ‘‘yassa bhaṇḍaṃ abhijjhāyati, tassa appaguṇatāya appasāvajjatā, mahāguṇatāya mahāsāvajjatā’’tiādinā appasāvajjamahāsāvajjavibhāgo veditabbo. Attano pariṇāmanaṃ cittenevāti veditabbaṃ.
接頭辞の力によって特別な意味を表す語根の言葉であるとして、「欲心(貪欲)を起こす」という句の「他人の財物に向かう」等によって意味が説かれた。そこにおいて「それへの傾倒によって」とは、その他人の財物に貪着する力によって傾倒することによって、とここでの意図は知られるべきである。あるいは「アビ(abhi-)」を前置した「ジャー(jhā-)」の語は、貪着において定着したものと見るべきである。接頭辞の力によってまさに特別な意味を表す語根の言葉である。不与取の軽罪と重罪の別は『梵網経註』の小戒釈において説かれているとし、「不与取のように軽罪であり、また重罪である」と述べた。それゆえに「誰の財物を貪るのか、その者の徳の少なさによって軽罪となり、徳の多さによって重罪となる」等によって、軽罪と重罪の区分が知られるべきである。自身のものとすることは、心によってのみであると知られるべきである。
Hitasukhaṃ byāpādayatīti yo naṃ uppādeti, tassa yaṃ pati cittaṃ uppādeti, tassa tassa sati samavāye hitasukhaṃ vināseti. Pharusavācāya appasāvajjamahāsāvajjatā brahmajālavaṇṇanāyaṃ vibhāvitāti āha **‘‘pharusavācā viyā’’**tiādi. Tasmā ‘‘yaṃ pati cittaṃ byāpādeti, tassa appaguṇatāya appasāvajjo, mahāguṇatāya mahāsāvajjo’’tiādinā tadubhayavibhāgo veditabbo. **‘‘Aho vatā’’**ti iminā parassa accantāya vināsacintanaṃ dīpeti. Evañhi ssa dāruṇappavattiyā kammapathappavatti.
「利益と幸福を損なう」とは、それを生じさせる者が、その者に対して心を起こす、そのそれぞれの相手に対して条件が揃った時に利益と幸福を破壊する。粗悪語の軽罪と重罪の別は『梵網経註』において明らかにされているとし、「粗悪語のように」等と述べた。それゆえに「誰に対して瞋恚の心を起こすのか、その者の徳の少なさによって軽罪となり、徳の多さによって重罪となる」等によって、その両者の区分が知られるべきである。「ああ、願わくは」というこれによって、他者に対する絶対的な破滅の思念を示している。このようにして彼にとって過酷な生起によって業道の生起となる。
Yathābhuccagahaṇābhāvenāti yāthāvagahaṇassa abhāvena aniccādisabhāvassa niccādito gahaṇena. Micchā passatīti vitathaṃ passati. **‘‘Samphappalāpo viyā’’**ti iminā āsevanassa mandatāya appasāvajjataṃ, mahantatāya mahāsāvajjataṃ dasseti. Gahitākāraviparītatāti micchādiṭṭhiyā gahitākāraviparītabhāvo. Vatthunoti tassa ayathābhūtasabhāvamāha. Tathābhāvenāti gahitākāreneva viparītākāreneva. Tassa diṭṭhigatikassa, tassa vā vatthuno upaṭṭhānaṃ, ‘‘evametaṃ na ito aññathā’’ti.
「事実のままの把握がないことによって」とは、ありのままの把握がないことにより、無常等の本性を常等として把握することによってである。「誤って見る」とは、虚妄に見ることである。「無駄話のように」というこれによって、習熟の少なさによって軽罪となり、多さによって重罪となることを示している。「把握された様相の転倒」とは、邪見によって把握された様相の転倒した状態である。「対象の」とは、その事実でない本性を説いている。「その状態として」とは、まさに把握された様相として、転倒した様相としてである。その悪見を抱く者にとって、あるいはその対象に対して「これはこの通りであって、これと異なることはない」と現れることである。
Dhammatoti sabhāvato. Koṭṭhāsatoti phassapañcamakādīsu cittaṅgakoṭṭhāsesu ye koṭṭhāsā honti, tatoti attho.
「法として」とは、本性として。「区分として」とは、触を第五とするもの等の心相応の区分において、いずれの区分となるか、それからという意味である。
Cetanādhammāti cetanāsabhāvā.
「思(意図)の諸法」とは、思の本性を持つものたちである。
‘‘Paṭipāṭiyā sattā’’ti ettha nanu cetanā abhidhamme kammapathesu na vuttāti paṭipāṭiyā sattannaṃ kammapathabhāvo na yuttoti? Na, avacanassa aññahetukattā. Na hi tattha cetanāya akammapathappattattā (dha. sa. mūlaṭī. akusalakammapathakathāvaṇṇanā) kammapatharāsimhi avacanaṃ, kadāci pana kammapatho hoti, na sabbadāti kammapathabhāvassa aniyatattā avacanaṃ. Yadā pana kammapatho hoti, tadā kammapatharāsisaṅgaho na nivārito.
「順序における七つの」において、いったい思はアビダンマにおいて業道の中に説かれていないではないか、順序における七つのものが業道の状態であるというのは妥当ではないのでは?そうではない、説かれていないことには別の理由があるからである。実にそこにおいて思が非業道に達しているから業道の集まりにおいて説かれていないのではなく、時には業道となり、常にではないから業道の状態が不確定であることによって説かれていないのである。しかし業道となる時には、業道の集まりへの包摂は妨げられない。
Etthāha – yadi cetanāya sabbadā kammapathabhāvābhāvato aniyato kammapathabhāvoti kammapatharāsimhi avacanaṃ, nanu abhijjhādīnampi kammapathabhāvaṃ appattānaṃ atthitāya aniyato kammapathabhāvoti tesampi kammapatharāsimhi avacanaṃ āpajjatīti? Nāpajjati kammapathatātaṃsabhāgatā hi tesaṃ tattha vuttattā. Yadi evaṃ cetanāpi tattha vattabbā siyāti? Saccametaṃ, sā pana pāṇātipātādikāvāti pākaṭo tassā kammapathabhāvoti na vuttaṃ siyā. Cetanāya hi ‘‘cetanāhaṃ, bhikkhave, kammaṃ vadāmi (a. ni. 6.63; kathā. 539), tividhā, bhikkhave, kāyasañcetanā akusalaṃ kāyakamma’’nti (kathā. 539) vacanato kammabhāvo pākaṭo; kammaṃyeva ca sugatiduggatīnaṃ, taduppajjanasukhadukkhānañca pathabhāvena pavattaṃ ‘‘kammapatho’’ti vuccatīti pākaṭo tassā kammapathabhāvo. Abhijjhādīnaṃ pana cetanāsamīhanabhāvena sucaritaduccaritabhāvo, cetanājanitabhāvena [cetanājanitataṃbandhatibhāvena (dha. sa. anuṭī. akusalakammapathāvaṇṇanā)] sugatiduggatitaduppajjanasukhadukkhānaṃ pathabhāvo cāti na tathā pākaṭo kammapathabhāvoti te eva tena sabhāvena dassetuṃ abhidhamme cetanā kammapathabhāve na vuttā, atathājātiyattā vā cetanā tehi saddhiṃ na vuttāti daṭṭhabbaṃ. Mūlaṃ patvāti mūladesanaṃ patvā, mūlasabhāvesu dhammesu desiyamānesūti attho.
ここで問う――もし思が常に業道であるわけではないことから不確定な業道の状態であるとして業道の集まりにおいて説かれないのなら、貪欲等もまた業道の状態に達していないものが存在することによって不確定な業道の状態であるから、それらもまた業道の集まりにおいて説かれないという結果になるのではないか?そうはならない。業道の状態とそれらの同等性が、実にそれらについてそこ(アビダンマ)で説かれているからである。もしそうなら、思もまたそこで説かれるべきではないか?それは真実であるが、しかしそれは殺生等であるから、それにとって業道の状態が明白であるゆえに説かれなかったのかもしれない。実に思については「比丘たちよ、私は思を業と説く。比丘たちよ、三種の身の思が不善の身業である」という言葉から業の状態が明白である。そして業そのものが善趣・悪趣の、またそこに生じる楽や苦の道となることによって生起したものが「業道」と呼ばれるのであるから、それにとって業道の状態は明白である。しかし貪欲等は思の衝動の状態によって善行・悪行の状態となり、思によって生み出された状態によって善趣・悪趣やそこに生じる楽や苦の道となるのであって、そのように業道の状態が明白ではない。それゆえにそれらのみをその本性によって示すためにアビダンマにおいて思は業道の状態において説かれなかったのか、あるいは同種のものではないがゆえに思はそれらと共に説かれなかったと見るべきである。「根本に至って」とは、根本の教説に至って、根本の本性を持つ諸法が説かれる時において、という意味である。
**‘‘Adinnādānaṃ sattārammaṇa’’**nti idaṃ ‘‘pañcasikkhāpadā parittārammaṇā evā’’ti imāya pañhapucchakapāḷiyā (vibha. 715) virujjhati. Yañhi pāṇātipātādidussīlyassa ārammaṇaṃ, tadeva taṃveramaṇiyā ārammaṇaṃ. Vītikkamitabbavatthuto eva hi viratīti. Sattārammaṇanti vā sattasaṅkhātasaṅkhārārammaṇaṃ, tameva upādāya vuttanti na koci virodho. Tathā hi vuttaṃ sammohavinodaniyaṃ ‘‘yāni sikkhāpadāni ettha ‘sattārammaṇānī’ti vuttāni, tāni yasmā sattoti saṅkhaṃ gate saṅkhāreyeva ārammaṇaṃ karontī’’ti. (Vibha. aṭṭha. 714) esa nayo ito paresupi. Visabhāgavatthuno ‘‘itthī puriso’’ti gahetabbato ‘‘sattārammaṇo’’ti eke. ‘‘Eko diṭṭho, dve sutā’’tiādinā samphappalāpena diṭṭhasutamutaviññātavasena. Tathā abhijjhāti ettha tathā-saddo ‘‘diṭṭhasutamutaviññātavasenā’’ tidampi upasaṃharati, na sattasaṅkhārārammaṇatameva dassanādivasena abhijjhāyanato. ‘‘Natthi sattā opapātikā’’ti (dī. ni. 1.171) pavattamānāpi micchādiṭṭhi tebhūmakadhammavisayā evāti adhippāyenassā saṅkhārārammaṇatā vuttā. Kathaṃ pana micchādiṭṭhiyā sabbe tebhūmakadhammā ārammaṇaṃ hotīti? Sādhāraṇato. ‘‘Natthi sukatadukkaṭānaṃ kammānaṃ phalaṃ vipāko’’ti (dī. ni. 1.171; ma. ni. 2.94) pavattamānāya atthato rūpārūpāvacaradhammāpi gahitā eva hontīti.
「不与取は有情を所縁とする」というこれは、「五つの学処は微小(欲界)の所縁のみである」というこの問尋聖典(分別論715)と矛盾する。殺生などの破戒の所縁であるまさにそのものが、それからの離絶(離)の所縁となるからである。犯されるべき対象からこそ離れるのである。「有情を所縁とする」とは、有情と名づけられた諸行を所縁とすることであり、まさにそれに基づいて説かれたのであるから、何の矛盾もない。実に『迷惑払拭(サモーハヴィノーダニー)』においても、「ここで『有情を所縁とする』と説かれた学処は、有情という名称を得た諸行のみを所縁とするがゆえにそう説かれたのである」(分別論註714)と説かれている通りである。これ以降の箇所でもこの方式によるべきである。相違する対象を「女」「男」と把持することから「有情を所縁とする」と言う者たちもいる。「一人が見られた、二人が聞かれた」などの無益話によって、見・聞・覚・識の力によるのである。「同様に貪欲」というここでの「同様に」という語は、「見・聞・覚・識の力による」というこれをも包摂するのであり、見ることなどによって貪欲を生じるがゆえに、単に有情や諸行を所縁とすることのみではない。「化生の有情は存在しない」(長部1.171)と生じる邪見も、三界の法を対象とするものに他ならないという趣旨から、それ(邪見)の諸行を所縁とすることが説かれた。しかし、邪見にとっていかにして一切の三界の法が所縁となるのか。普遍的(共通)であることによる。「善行・悪行の業の果・異熟は存在しない」(長部1.171、中部2.94)と生じる邪見においては、意味の上から色界・無色界に属する諸法も把持されているのである。
Sukhabahulatāya rājāno hasamānāpi ‘‘ghātethā’’ti vadanti, hāso pana nesaṃ attavūpasamādiaññavisayoti āha **‘‘sanniṭṭhāpaka…pe… hotī’’**ti. Majjhattavedano na hoti, sukhavedanova ettha sambhavatīti. Musāvādo lobhasamuṭṭhāno sukhavedano vā siyā majjhattavedano vā, dosasamuṭṭhāno dukkhavedano vāti musāvādo tivedano. Iminā nayena sesesupi yathārahaṃ vedanābhedo veditabbo.
楽の多さゆえに、諸王は笑いながらも「殺せ」と言うが、彼らの笑いは自らの静息などの他の対象によるものであるとし、「決定をなす…(略)…である」と述べた。中捨の受(捨受)ではなく、ここには楽受のみが生じるのである。妄語は、貪より生じたものであれば楽受か中捨の受であり、瞋より生じたものであれば苦受である。したがって妄語は三つの受を伴う。この方式によって、残りのものにおいても相応に応じて受の相違が知られるべきである。
Dosamohavasena dvimūlakoti sampayuttamūlameva sandhāya vuttaṃ. Tassa hi mūlaṭṭhena upakārakabhāvo. Nidānamūle pana gayhamāne ‘‘lobhamohavasenapī’’ti vattabbaṃ siyā. Āmisakiñjakkhahetupi pāṇaṃ hananti. Tenevāha – ‘‘lobho nidānaṃ kammānaṃ samudayāyā’’tiādi (a. ni. 3.34). Sesesupi eseva nayo.
瞋・痴の力によるゆえに「二つの根(根本)をもつ」というのは、相応する根本のみを指して説かれたのである。それこそが根本の義として助勢する状態だからである。しかし動機となる根本(遠因)が取られるならば、「貪・痴の力によっても」と説かれるべきであろう。物質的な利得の理由によっても生命を殺すからである。それゆえに「貪は業の集起のための機縁である」など(増支部3.34)と説かれたのである。残りのものにおいてもまさにこの方式である。
Kusalakammapathadasakavaṇṇanā
十善業道釈
Pāṇātipātā …pe… veditabbāni lokiyalokuttaramissakavasenettha kusalakammapathānaṃ desitattā. Verahetutāya verasaññitaṃ pāṇātipātādipāpadhammaṃ maṇati ‘‘mayi idha ṭhitāya kathaṃ āgacchasī’’ti tajjantī viya nīharatīti veramaṇī, viramati etāyāti vā ‘‘viramaṇī’’ti vattabbe niruttinayena **‘‘veramaṇī’’**ti vuttaṃ. Samādānavasena uppannā virati samādānavirati. Asamādinnasīlassa sampattato yathāupaṭṭhitavītikkamitabbavatthuto virati sampattavirati. Kilesānaṃ samucchindanavasena pavattā maggasampayuttā virati samucchedavirati. Kāmañcettha pāḷiyaṃ viratiyeva āgatā, sikkhāpadavibhaṅge (vibha. 703) pana cetanāpi āharitvā dassitāti tadubhayampi gaṇhanto **‘‘cetanāpi vattanti viratiyopī’’**ti āha. Anabhijjhā hi mūlaṃ patvāti kammapathakoṭṭhāse ‘‘anabhijjhā’’ti vuttadhammo mūlato alobho kusalamūlaṃ hotīti evamettha attho daṭṭhabbo. Sesapadadvayepi eseva nayo.
「殺生から…(略)…知られるべきである」とは、世間と出世間が混ざった力によって、ここで善業道が説かれていることによる。怨敵の因であることから怨敵と名づけられた殺生などの悪法を「私がここに立っているのに、なぜお前が来るのか」と叱責するように除去する(maṇati)がゆえに離(veramaṇī)である。あるいは、これによって離れる(viramati)から離(viramaṇī)と説かれるべきところを、語源解釈の方式によって「離(veramaṇī)」と説かれた。受持の力によって生じた離を受持離という。戒を受持していない者が、現前に至った犯されるべき対象から離れることを現前離という。煩悩を断絶することによって生じた道に相応する離を断絶離という。ここでの聖典本文には離(自制)のみが説かれているが、学処分別(分別論703)においては思(意志)も引いて示されているので、その双方を取って「思も生じ、離も生じる」と述べた。「無貪が根本に至る」とは、業道の区分において「無貪」と説かれた法が、根本(善根)としては無貪善根となる。このようにここで意味が見出されるべきである。残りの二句においてもまさにこの方式である。
Dussīlyārammaṇā tadārammaṇajīvitindriyādiārammaṇā kathaṃ dussīlyāni pajahantīti taṃ dassetuṃ **‘‘yathā panā’’**tiādi vuttaṃ. Pajahantīti veditabbā pāṇātipātādīhi viramaṇavaseneva pavattanato. Atha tadārammaṇabhāve, na so tāni pajahati. Na hi tadeva ārabbha taṃ pajahituṃ sakkā tato avinissaṭabhāvato.
破戒の所縁を所縁とし、その所縁である命根などを所縁とする者たちが、どのように破戒を捨てるのか、それを示すために「しかしどのように…」などが説かれた。捨てるということは、殺生などから離れることによってのみ生じるものとして知られるべきである。もしそれを所縁とする状態であるなら、彼はそれらを捨ててはいない。まさにそれ自体を対象としてそれを捨てることはできず、そこから脱していない状態だからである。
Anabhijjhā…pe… viramantassāti abhijjhaṃ pajahantassāti attho. Na hi manoduccaritato virati atthi anabhijjhādīheva tappahānasiddhito.
「無貪…(略)…離れる者にとって」とは、貪欲を捨てる者にとってという意味である。意の悪行からの離(自制)は存在しない。無貪などによってこそそれ(意の悪行)の断滅が成就するからである。
Ariyavāsadasakavaṇṇanā
十聖居釈
348. Ariyānameva vāsāti ariyavāsā anariyānaṃ tādisānaṃ asambhavato. Ariyāti cettha ukkaṭṭhaniddesena khīṇāsavā gahitā, te ca yasmā tehi sabbakālaṃ avirahitavāsā eva, tasmā vuttaṃ **‘‘ariyā eva vasiṃsu vasanti vasissantī’’**ti. Tattha vasiṃsūti nissāya vasiṃsu. Pañcaṅgavippahīnattādayo hi ariyānaṃ apassayā. Tesu pañcaṅgavippahānapaccekasaccapanodanaesanāsamavayavissajjanāni ‘‘saṅkhāyekaṃ paṭisevati, adhivāseti, parivajjeti, vinodetī’’ti vuttesu apassenesu vinodanañca maggakiccāneva, itare maggeneva samijjhanti.
348. 「聖者たちだけの住まう処」ゆえに聖居である。非聖者たちにはそのような状態が存在しないからである。またここで「聖者」とは、最上の言及によって漏尽者(阿羅漢)たちが取られている。そして彼らはそれらの住まいを常に離れない者たちであるからこそ、「聖者たちこそが住した、住している、住するであろう」と説かれた。その中で「住した」とは、拠って住したということである。五支を捨て去った状態などは実に聖者たちの依処である。それらの中で五支の捨断、個別的真理の排除、探求の完全な静止は、「思慮して一つを享受し、忍受し、回避し、除去する」と説かれた依処の中の除去すること、そして道の働きに他ならない。他のものはまさに道によって成就する。
Ñāṇādayoti ñāṇañceva taṃsampayuttadhammā ca. Tenāha **‘‘ñāṇanti vutte’’**tiādi. Tattha vattabbaṃ heṭṭhā vuttameva.
「智など」とは、智およびそれに相応する諸法である。それゆえに「智と説かれるとき」などと言った。そこで説かれるべきことは、すでに下に説かれた通りである。
Ārakkhakiccaṃ sādheti sativepullappattattā. **‘‘Carato’’**tiādinā niccasamādānaṃ dasseti, taṃ vikkhepābhāvena daṭṭhabbaṃ.
正念の増大に達しているがゆえに守護の働きを成就する。「歩むとき」などによって常時の受持を示している。それは心の散乱がないこととして見られるべきである。
Pabbajjupagatāti yaṃ kiñci pabbajjaṃ upagatā, na samitapāpā. Bhovādinoti jātimattabrāhmaṇe vadati. Pāṭekkasaccānīti tehi tehi diṭṭhigatikehi pāṭiyekkaṃ gahitāni ‘‘idameva sacca’’nti (ma. ni. 2.187, 203, 427; 3.27; udā. 55; netti. 59) abhiniviṭṭhāni diṭṭhisaccādīni. Diṭṭhigatānipi hi ‘‘idameva sacca’’nti (ma. ni. 2.187, 202, 427; 3.27, 29; netti. 59) gahaṇaṃ upādāya ‘‘saccānī’’ti voharīyanti. Tenāha **‘‘idamevā’’**tiādi. Nīhaṭānīti attano santānato nīharitāni apanītāni. Gahitaggahaṇassāti ariyamaggādhigamato pubbe gahitassa diṭṭhigāhassa. Vissaṭṭhabhāvavevacanānīti ariyamaggena sabbaso pariccāgabhāvassa adhivacanāni.
「出家に至った者たち」とは、何らかの出家に至った者たちであり、悪を静息させた者たちではない。「尊者と語る者」とは、生まれだけのバラモンを言っている。「個別的真理」とは、種々の見解を持つ者たちによって個別に把握され、「これのみが真理である」(中部2.187、203、427;3.27;自説経55;導論59)と執着された見解の真理などのことである。種々の見解もまた「これのみが真理である」という把握に基づいて「真理」と世用される。それゆえに「これのみが」などと言った。「取り除かれた」とは、自らの相続から取り出され、除去されたことである。「執着された把握の」とは、聖道の獲得以前に把握されていた見解の執着のことである。「放棄された状態の同義語」とは、聖道によって完全に捨断された状態の名称である。
Natthi etāsaṃ vayo vekalyanti avayāti āha **‘‘anūnā’’**ti, anavasesāti attho. Esanāti heṭṭhā vuttakāmesanādayo.
「これらには減損(欠陥)がない、欠損がない」ゆえに「欠けていない」と述べた。余すところがないという意味である。「探求」とは、下に説かれた欲の探求などのことである。
Maggassa kiccanipphatti kathitā rāgādīnaṃ pahīnabhāvadīpanato.
貪などの断ぜられた状態を明かすことによって、道の働きの成就が説かれた。
Paccavekkhaṇāya phalaṃ kathitanti paccavekkhaṇamukhena ariyaphalaṃ kathitaṃ. Adhigate hi aggaphale sabbaso rāgādīnaṃ anuppādadhammataṃ pajānāti, tañca pajānanaṃ paccavekkhaṇañāṇanti.
「省察の果が説かれた」とは、省察を通じて聖果が説かれたということである。最上の果を獲得したとき、一切の貪などの不生法性を完全に知るのであり、その完全なる知こそが省察智である。
Asekkhadhammadasakavaṇṇanā
十無学法釈
Phalañca te sampayuttadhammā cāti phalasampayuttadhammā, ariyaphalasabhāvā sampayuttā dhammāti attho. Phalasampayuttadhammāti phaladhammā ceva taṃsampayuttadhammā cāti evamettha attho veditabbo. Dvīsupi ṭhānesu paññāva kathitā sammā dassanaṭṭhena sammādiṭṭhi, sammā jānanaṭṭhena sammāñāṇanti ca. Atthi hi dassanajānanānaṃ savisaye pavattiākāraviseso, svāyaṃ heṭṭhā dassito eva. Phalasamāpattidhammāti phalasamāpattiyaṃ dhammā, phalasamāpattisahagatadhammāti attho. Ariyaphalasampayuttadhammāpi hi sabbaso paṭipakkhato vimuttataṃ upādāya ‘‘vimuttī’’ti vattabbataṃ labhanti. Kenaci pana yathā asekkhā phalapaññā dassanakiccaṃ upādāya ‘‘sammādiṭṭhī’’ti vuttā, jānanakiccaṃ upādāya ‘‘sammāñāṇa’’ntipi vuttā eva; evaṃ ariyaphalasamādhi samādānaṭṭhaṃ upādāya ‘‘sammāsamādhī’’ti vutto, vimuccanaṭṭhaṃ upādāya ‘‘sammāvimuttī’’ tipi vutto. Evañca katvā ‘‘anāsavaṃ cetovimutti’’nti dutiyavimuttiggahaṇañca samatthitaṃ hotīti.
「果およびそれ相応の諸法」ゆえに果相応法であり、聖果の本質を備えた相応する諸法という意味である。「果相応法」とは、果法およびそれ相応の諸法であると、このようにここで意味が知られるべきである。二つの箇所において智慧のみが説かれており、正しく見るという意味から正見であり、正しく知るという意味から正智である。自らの対象において見る働きと知る働きには働きの様態の差異があり、それはすでに下に示された通りである。「果等至法」とは、果等至における諸法であり、果等至に伴う諸法という意味である。聖果に相応する諸法もまた、一切の対治すべきものから解脱したことに基づいて「解脱」と説かれる資格を得る。しかしある場合には、無学の果の智慧が見る働きに基づいて「正見」と説かれ、知る働きに基づいて「正智」とも説かれたように、そのように聖果の三昧も定持(精神統一)の意味に基づいて「正定」と説かれ、解脱の意味に基づいて「正解脱」とも説かれた。このようにして、「無漏の心解脱」という第二の解脱の把持も論証されるのである。
Dasakavaṇṇanā niṭṭhitā.
十法釈 了。
Pañhasamodhānavaṇṇanā
問集約釈
Samodhānetabbāti samāharitabbā.
「集約されるべき」とは、総括して集められるべきという意味である。
349. Okappanāti balavasaddhā. Āyatiṃ bhikkhūnaṃ avivādahetubhūtaṃ tattha tattha bhagavatā desitānaṃ atthānaṃ saṅgāyanaṃ saṅgīti, tassa ca kāraṇaṃ ayaṃ suttadesanā tathā pavattattāti vuttaṃ **‘‘saṅgītipariyāyanti sāmaggiyā kāraṇa’’**nti. Samanuñño satthā ahosi ‘‘paṭibhātu ta,ṃ sāriputta, bhikkhūnaṃ dhammiṃ kathā’’ti ussāhetvā ādito paṭṭhāya yāva pariyosānā suṇanto, sā panettha bhagavato samanuññatā ‘‘sādhu, sādhū’’ti anumodanena pākaṭā jātāti vuttaṃ **‘‘anumodanena samanuñño ahosī’’**ti. Jinabhāsito nāma jāto, na sāvakabhāsito. Yathā hi rājayuttehi likhitapaṇṇaṃ yāva rājamuddikāya na lañjitaṃ hoti, na tāva ‘‘rājapaṇṇa’’nti saṅkhyaṃ gacchati, lañjitamattaṃ pana rājapaṇṇaṃ nāma hoti. Evameva ‘‘sādhu, sādhu sāriputtā’’tiādi anumodanavacanasaṃsūcitāya samanuññāsaṅkhātāya jinavacanamuddāya lañjitattā ayaṃ suttanto jinabhāsito nāma jāto āhaccavacano. Yaṃ panettha atthato na vibhattaṃ, taṃ suviññeyyamevāti.
349. 「確信」とは、強力な信である。将来における比丘たちの不論争の因となる、随所で世尊によって説かれた諸義の合誦が結集(サンギーティ)であり、その因となるのがこの経の説示である。そのように行われたことから「結集の法門とは、和合の因である」と説かれた。「師は同意された」とは、「サーリプッタよ、比丘たちに法話を思い巡らすがよい」と励まし、初めから終わりまで聴聞されていた。ここでの世尊の同意は、「善いかな、善いかな」という随喜によって明白となったがゆえに、「随喜によって同意された」と説かれた。仏の説かれたもの(勝者所説)と名づけられ、弟子所説ではない。王の役人たちによって書かれた文書は、王の印章で押印されない限りは「王の文書」という名称を得ず、押印されて初めて王の文書と呼ばれるようなものである。まったく同様に、「善いかな、善いかな、サーリプッタよ」などの随喜の言葉によって示された同意という勝者の言葉の印章によって押印されたがゆえに、この経は勝者所説と名づけられ、確固たる言葉となったのである。ここで意味の上から分別されなかったものは、容易に理解されるべきものである。
Saṅgītisuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā.
『集誦経釈』の深義の解明 了。