Ganthārambhakathāvaṇṇanā論書の冒頭の釈論
Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa
世尊、応供、正等覚者に礼敬いたします。
Majjhimanikāye
中部
Mūlapaṇṇāsa-ṭīkā
根本五十経篇 複註
(Paṭhamo bhāgo)
(第一部)
1. Saṃvaṇṇanārambhe ratanattayavandanā saṃvaṇṇetabbassa dhammassa pabhavanissayavisuddhipaṭivedanatthaṃ, taṃ pana dhammasaṃvaṇṇanāsu viññūnaṃ bahumānuppādanatthaṃ, taṃ sammadeva tesaṃ uggahadhāraṇādikkamaladdhabbāya sammāpaṭipattiyā sabbahitasukhanipphādanatthaṃ. Atha vā maṅgalabhāvato, sabbakiriyāsu pubbakiccabhāvato, paṇḍitehi samācaritabhāvato, āyatiṃ paresaṃ diṭṭhānugatiāpajjanato ca saṃvaṇṇanāyaṃ ratanattayapaṇāmakiriyā. Atha vā ratanattayapaṇāmakaraṇaṃ pūjanīyapūjāpuññavisesanibbattanatthaṃ. Taṃ attano yathāladdhasampattinimittakassa kammassa balānuppadānatthaṃ. Antarā ca tassa asaṅkocanatthaṃ. Tadubhayaṃ anantarāyena aṭṭhakathāya parisamāpanatthaṃ. Idameva ca payojanaṃ ācariyena idhādhippetaṃ. Tathā hi vakkhati ‘‘iti me pasannamatino…pe… tassānubhāvenā’’ti. Vatthuttayapūjāhi niratisayapuññakkhettasaṃbuddhiyā aparimeyyapabhāvo puññātisayoti bahuvidhantarāyepi lokasannivāse antarāyanibandhanasakalasaṃkilesaviddhaṃsanāya pahoti. Bhayādiupaddavañca nivāreti. Yathāha –
1. 解説の冒頭において、三宝への礼敬を行うのは、解釈されるべき教えの出処・依処の清浄を知らせるためであり、さらにその法解釈に対して識者たちの深い敬意を生じさせるためであり、また彼らがその教えを正しく受持・把握することなどの順序によって得られるべき正行により、すべての利益と幸福を成就するためである。あるいは、吉祥であるから、あらゆる行為の事前の義務であるから、賢者たちによって実践されてきたから、そして将来において他者がその模範に従うようにするため、解説において三宝への礼敬を行うのである。あるいは、三宝への礼敬を行うのは、供養されるべき対象を供養するという特別な功徳を生み出すためである。それは、自分自身が得た能力に由来する行為の力を与えるためであり、途中でそれが縮小・停滞しないようにするためである。この両者(力と継続)によって、障礙なく義注を完成させるためである。そしてまさにこの目的こそが、ここで阿闍梨(論師)が意図したものである。実に彼は後に「このように私が清らかな心をもって……中略……その威力によって」と述べるからである。三宝の供養による無上の福田への信順を通じての功徳の卓越は量り知れない威力をもつがゆえに、多種多様な障害のあるこの世界においても、障害の因となる一切の汚れを打ち破るのに十分な力をもち、恐怖などの災厄を防ぐのである。次のように説かれている通りである。
‘‘Pūjārahe pūjayato. Buddhe yadi va sāvake’’tiādi (dha. pa. 195; apa. 1.10.1), tathā –
「供養に値する人々を供養する者、仏あるいはその弟子たちを……」(法句経195、譬喩経1.10.1)など、また次のように説かれている。
‘‘Ye, bhikkhave, buddhe pasannā, agge te pasannā, agge kho pana pasannānaṃ aggo vipāko hotī’’tiādi (itivu. 90, 91),
「比丘たちよ、仏に信を寄せる者たちは、最上のものに信を寄せたのである。最上のものに信を寄せる者たちには、最上の果報がある」(如是語経90, 91)など。
‘‘Buddhoti kittayantassa, kāye bhavati yā pīti;
「『仏』と讃嘆する者の、身に生じるその歓喜は、
Varameva hi sā pīti, kasiṇenapi jambudīpassa.
まさにその歓喜こそが、閻浮提全体(の宝)よりも勝れている。
Dhammoti kittayantassa…pe… kasiṇenapi jambudīpassa;
『法』と讃嘆する者の……中略……閻浮提全体よりも勝れている。
Saṅghoti kittayantassa…pe… kasiṇenapi jambudīpassā’’ti. (itivu. aṭṭha. 90),
『僧』と讃嘆する者の……中略……閻浮提全体よりも勝れている。」(如是語経註90)
Tathā –
また次のように説かれている。
‘‘Yasmiṃ mahānāma samaye ariyasāvako tathāgataṃ anussarati, nevassa tasmiṃ samaye rāgapariyuṭṭhitaṃ cittaṃ hoti, na dosa…pe… na mohapariyuṭṭhitaṃ cittaṃ hotī’’tiādi (a. ni. 6.10; 11.11),
「マハーナーマよ、聖弟子が如来を随念するその時、彼の心には貪によって覆われることはなく、瞋によって……中略……癡によって覆われることはない」(増支部6.10; 11.11)など、
‘‘Araññe rukkhamūle vā…pe…
「林において、あるいは樹下において……中略……
Bhayaṃ vā chambhitattaṃ vā,
恐怖や戦慄や、
Lomahaṃso na hessatī’’ti ca. (saṃ. ni. 2.249);
身の毛のよだちは生じないであろう」(相応部2.249)と。
Tattha yassa vatthuttayassa vandanaṃ kattukāmo, tassa guṇātisayayogasandassanatthaṃ **‘‘karuṇāsītalahadaya’’**ntiādinā gāthāttayamāha. Guṇātisayayogena hi vandanārahabhāvo, vandanārahe ca katā vandanā yathādhippetaṃ payojanaṃ sādhetīti. Tattha yassā desanāya saṃvaṇṇanaṃ kattukāmo. Sā na vinayadesanā viya karuṇāppadhānā, nāpi abhidhammadesanā viya paññāppadhānā, atha kho karuṇāpaññāppadhānāti tadubhayappadhānameva tāva sammāsambuddhassa thomanaṃ kātuṃ tammūlakattā sesaratanānaṃ ‘‘karuṇāsītalahadaya’’ntiādi vuttaṃ. Tattha kiratīti karuṇā, paradukkhaṃ vikkhipati apanetīti attho. Atha vā kiṇātīti karuṇā, paradukkhe sati kāruṇikaṃ hiṃsati vibādhatīti attho. Paradukkhe sati sādhūnaṃ kampanaṃ hadayakhedaṃ karotīti vā karuṇā. Atha vā kamiti sukhaṃ, taṃ rundhatīti karuṇā. Esā hi paradukkhāpanayanakāmatālakkhaṇā attasukhanirapekkhatāya kāruṇikānaṃ sukhaṃ rundhati vibandhatīti attho. Karuṇāya sītalaṃ karuṇāsītalaṃ, karuṇāsītalaṃ hadayaṃ assāti karuṇāsītalahadayo, taṃ karuṇāsītalahadayaṃ.
そこで、礼敬しようとするその三宝に対して、その卓越した徳の結合を示すために、「悲によって清涼なる心」等の三偈を説いた。卓越した徳の結合によってこそ礼敬されるに値する状態となり、礼敬に値する者に対してなされた礼敬は意図した通りの目的を達成するからである。その中で、解説しようとするその教示(経蔵)は、律の教示のように慈悲が主でもなく、阿毘達磨の教示のように智慧が主でもなく、まさに慈悲と智慧の両方が主である。したがって、その両方を主とする正等覚者への讃嘆をまず行うため、また他の宝(法と僧)の根本であるため、「悲によって清涼なる心」等と説かれた。その中で「散じる(kirati)」ゆえに「悲(karuṇā)」であり、他者の苦しみを散じ去り、除き去るという意味である。あるいは「害する(kiṇāti)」ゆえに「悲」であり、他者の苦しみがあるとき、慈悲ある者を苦しめ悩ますという意味である。あるいは他者の苦しみがあるとき、善人たちの(心を)震わせ、心の痛手を生じさせるゆえに「悲」である。あるいは「カミ(kami)」とは楽しみであり、それを遮るゆえに「悲」である。これは他者の苦しみを除こうと願う特徴をもち、自身の楽しみを顧みないことによって、慈悲深き者たちの楽しみを遮り妨げるという意味である。悲によって清涼であるものが「悲によって清涼(karuṇāsītala)」であり、悲によって清涼な心をもつ者が「悲によって清涼なる心をもつ者(karuṇāsītalahadaya)」であり、その「悲によって清涼なる心をもつ者」である。
Tattha kiñcāpi paresaṃ hitopasaṃhārasukhādiaparihānicchanasabhāvatāya, byāpādāratīnaṃ ujuvipaccanīkatāya ca parasattasantānagatasantāpavicchedanākārappavattiyā mettāmuditānampi cittasītalabhāvakāraṇatā upalabbhati, tathāpi paradukkhāpanayanākārappavattiyā parūpatāpāsahanarasā avihiṃsābhūtā karuṇāva visesena bhagavato cittassa cittapassaddhi viya sītibhāvanimittanti vuttaṃ **‘‘karuṇāsītalahadaya’’**nti. Karuṇāmukhena vā mettāmuditānampi hadayasītalabhāvakāraṇatā vuttāti daṭṭhabbaṃ. Atha vā asādhāraṇañāṇavisesanibandhanabhūtā sātisayaṃ niravasesañca sabbaññutaññāṇaṃ viya savisayabyāpitāya mahākaruṇābhāvaṃ upagatā karuṇāva bhagavato atisayena hadayasītalabhāvahetūti āha **‘‘karuṇāsītalahadaya’’**nti. Atha vā satipi mettāmuditānaṃ sātisaye hadayasītibhāvanibandhanatte sakalabuddhaguṇavisesakāraṇatāya tāsampi kāraṇanti karuṇāva bhagavato ‘‘hadayasītalabhāvakāraṇa’’nti vuttā. Karuṇānidānā hi sabbepi buddhaguṇā. Karuṇānubhāvanibbāpiyamānasaṃsāradukkhasantāpassa hi bhagavato paradukkhāpanayanakāmatāya anekānipi asaṅkhyeyyāni kappānaṃ akilantarūpasseva niravasesabuddhakaradhammasambharaṇaniratassa samadhigatadhammādhipateyyassa ca sannihitesupi sattasaṅkhārasamupanītahadayūpatāpanimittesu na īsakampi cittasītibhāvassa aññathattamahosīti. Etasmiñca atthavikappe tīsupi avatthāsu bhagavato karuṇā saṅgahitāti daṭṭhabbaṃ.
そこで、他者に利益をもたらし幸福等を減じさせないことを望む本性であり、瞋恚や不快と正反対であることによって他者の心身の連続における熱苦を断つという様態で作用するため、慈や喜にも心の清涼因性が見出されるとはいえ、他者の苦を除去する様態で作用し、他者の熱苦を忍び得ない特質をもち、不害の本質である慈悲こそが、とりわけ世尊の心にとって心の安息のような清涼化の直接の因であるため、「悲によって清涼なる心」と説かれたのである。あるいは、慈悲を代表として慈や喜にとっても心の清涼因性が説かれたと見なすべきである。あるいは、比類なき特別な智慧の根拠となり、卓越して余すところなく一切知智のように自身の領域に遍満することによって大悲となった慈悲こそが、世尊の比類なき心の清涼因であるため、「悲によって清涼なる心」と説いた。あるいは、慈や喜にも卓越した心の清涼の根拠性があるとしても、全仏徳の特別な因であることによってそれら(慈や喜)の因でもあるため、慈悲こそが世尊の「心の清涼因」と説かれたのである。実にすべての仏徳は慈悲に由来するからである。慈悲の威力によって輪廻の苦の熱悩を消し去っている世尊は、他者の苦を除去したいという願いゆえに、無数の阿僧祇劫にわたって疲労の色も見せずに、余すところなく仏と成す法を積集することに専念し、法の主権を完全に体得したため、有情や行(サンカーラ)によってもたらされた心の熱苦の要因が身近にあっても、少しもその心の清涼のあり方が変わることがなかったのである。この解釈の選択肢においては、三つの時期(過去・現在・未来、あるいは発心・修行・成道)すべてにおける世尊の慈悲が包摂されていると見なすべきである。
Pajānātīti paññā, yathāsabhāvaṃ pakārehi paṭivijjhatīti attho. Paññāva ñeyyāvaraṇappahānato pakārehi dhammasabhāvajotanaṭṭhena pajjototi paññāpajjoto. Savāsanappahānato visesena hataṃ samugghātitaṃ vihataṃ, paññāpajjotena vihataṃ paññāpajjotavihataṃ. Muyhanti tena, sayaṃ vā muyhati, mohanamattameva vā tanti moho, avijjā, sveva visayasabhāvapaṭicchādanato andhakārasarikkhatāya tamo viyāti tamo, paññāpajjotavihato mohatamo etassāti paññāpajjotavihatamohatamo, taṃ paññāpajjotavihatamohatamaṃ. Sabbesampi hi khīṇāsavānaṃ satipi paññāpajjotena avijjandhakārassa vihatabhāve saddhāvimuttehi viya diṭṭhippattānaṃ sāvakehi paccekasambuddhehi ca savāsanappahānena sammāsambuddhānaṃ kilesappahānassa viseso vijjatīti sātisayena avijjāpahānena bhagavantaṃ thomento āha **‘‘paññāpajjotavihatamohatama’’**nti.
「正しく知る(pajānāti)」ゆえに「慧(智慧、paññā)」であり、ありのままに諸々の様態によって通達するという意味である。慧そのものが知るべき対象の覆いを除去することによって諸々の様態で法の自性を照らすという意味で「ともしび(pajjota)」であり、「智慧のともしび(paññāpajjota)」である。習気(潜在的傾向)とともに断ぜられたことによって特別に破壊され、根絶され、打ち破られたものが「打ち破られた(vihata)」であり、智慧のともしびによって打ち破られたものが「智慧のともしびによって打ち破られた(paññāpajjotavihata)」である。これによって惑乱する、あるいは自ら惑乱する、あるいは惑乱することそのものであるゆえに「癡(moha、無明)」であり、それ自身が対象の自性を覆い隠すことから暗闇に似ているゆえに「闇(tamo)」のようであり、智慧のともしびによって打ち破られた癡暗をもつ者が「智慧のともしびによって癡暗を打ち破られた者(paññāpajjotavihatamohatama)」であり、その「智慧のともしびによって癡暗を打ち破られた者」である。実にすべての漏尽者(阿羅漢)にとっても、智慧のともしびによって無明の暗闇が打ち破られているとはいえ、信解脱の者に対する見至の者のように、弟子たちや独覚たちと比しても、習気とともに断ずることによって正等覚者の煩悩の断滅には特異性があるため、卓越した無明の断滅によって世尊を讃嘆して「智慧のともしびによって癡暗を打ち破られた者」と説いたのである。
Atha vā antarena paropadesaṃ attano santāne accantaṃ avijjandhakāravigamassa nibbattitattā, tathā sabbaññutāya balesu ca vasībhāvassa samadhigatattā, parasantatiyañca dhammadesanātisayānubhāvena sammadeva tassa pavattitattā bhagavāva visesato mohatamavigamena thometabboti āha **‘‘paññāpajjotavihatamohatama’’**nti. Imasmiñca atthavikappe ‘‘paññāpajjoto’’ti padena bhagavato paṭivedhapaññā viya desanāpaññāpi sāmaññaniddesena, ekasesanayena vā saṅgahitāti daṭṭhabbaṃ.
あるいは、他者の教示によることなく自身の連続において完全に無明の暗闇の消滅を生ぜしめたため、また一切知性や諸力において自在を体得したため、そして他者の連続においても説法の卓越した威力によって正しくそれを生ぜしめたため、世尊こそが格別に癡暗の消滅によって讃嘆されるべきであるとして、「智慧のともしびによって癡暗を打ち破られた者」と説いた。この解釈の選択肢において、「智慧のともしび」という語によって世尊の通達慧と同様に説法慧もまた一般的な指示により、あるいは一語残余の法によって包摂されていると見なすべきである。
Atha vā bhagavato ñāṇassa ñeyyapariyantikattā sakalañeyyadhammasabhāvāvabodhanasamatthena anāvaraṇañāṇasaṅkhātena paññāpajjotena sabbañeyyadhammasabhāvacchādakassa mohandhakārassa vidhamitattā anaññasādhāraṇo bhagavato mohatamavināsoti katvā vuttaṃ **‘‘paññāpajjotavihatamohatama’’**nti. Ettha ca mohatamavidhamanante adhigatattā anāvaraṇañāṇaṃ kāraṇūpacārena sasantāne mohatamavidhamananti daṭṭhabbaṃ. Abhinīhārasampattiyā savāsanappahānameva hi kilesānaṃ ñeyyāvaraṇappahānanti, parasantāne pana mohatamavidhamanassa kāraṇabhāvato anāvaraṇañāṇaṃ ‘‘mohatamavidhamana’’nti vuccatīti.
あるいは、世尊の智慧は知るべき対象の究極に至るものであるため、知るべきすべての法の自性を覚知できる無礙解智と呼ばれる智慧のともしびによって、知るべきすべての法の自性を覆い隠す癡暗を打ち払ったことから、世尊の癡暗の破壊は他の誰とも共通しない独自のものであるとして、「智慧のともしびによって癡暗を打ち破られた者」と説かれた。そしてここでは、癡暗の破壊の果てに体得されたものであるため、無礙解智を因の比喩的表現によって自身の連続における癡暗の破壊と見なすべきである。誓願の成就によって習気とともに煩悩を断ずることこそが知るべき対象の覆いの断滅であり、他者の連続において癡暗を打ち払う原因となることから、無礙解智が「癡暗の破壊」と呼ばれるのである。
Kiṃ pana kāraṇaṃ avijjāsamugghātoyeveko pahānasampattivasena bhagavato thomanānimittaṃ gayhati, na pana sātisayaṃ niravasesakilesappahānanti? Tappahānavacaneneva tadekaṭṭhatāya sakalasaṃkilesagaṇasamugghātassa jotitabhāvato. Na hi so tādiso kileso atthi, yo niravasesaavijjāppahānena na pahīyatīti.
では、どのような理由で無明の根絶のみが断徳の成就として世尊の讃嘆の根拠とされ、卓越した余すところなき煩悩の断滅が根拠とされないのか。それは、その(無明の)断滅を語ることによって、それと同一の対象にある一切の煩悩群の根絶が照らし出されているからである。無明が余すところなく断ぜられることによって断ぜられないような煩悩は存在しないからである。
Atha vā vijjā viya sakalakusaladhammasamuppattiyā niravasesākusaladhammanibbattiyā saṃsārappavattiyā ca avijjā padhānakāraṇanti tabbighātavacanena sakalasaṃkilesagaṇasamugghāto vuttoyeva hotīti vuttaṃ **‘‘paññāpajjotavihatamohatama’’**nti.
あるいは、明(明智)があらゆる有益な法(善法)を生じる主因であるように、無明は余すところなき有害な法(不善法)の発生と輪廻の展開の主たる原因であるため、その破壊を語ることによって一切の煩悩群の根絶が語られたことになるので、「智慧のともしびによって癡暗を打ち破られた者」と説かれた。
Narā ca amarā ca narāmarā, saha narāmarehīti sanarāmaro, sanarāmaro ca so loko cāti sanarāmaraloko. Tassa garūti sanarāmaralokagaru, taṃ sanarāmaralokagaruṃ. Etena devamanussānaṃ viya tadavasiṭṭhasattānampi yathārahaṃ guṇavisesāvahatāya bhagavato upakāritaṃ dasseti. Na cettha padhānāppadhānabhāvo codetabbo. Añño hi saddakkamo, añño atthakkamo. Edisesu hi samāsapadesu padhānampi appadhānaṃ viya niddisīyati yathā ‘‘sarājikāya parisāyā’’ti (cūḷava. 336). Kāmañcettha sattasaṅkhārokāsavasena tividho loko, garubhāvassa pana adhippetattā garukaraṇasamatthasseva yujjanato sattalokassa vasena attho gahetabbo. So hi lokīyanti ettha puññapāpāni tabbipāko cāti ‘‘loko’’ti vuccati. Amaraggahaṇena cettha upapattidevā adhippetā.
人間(nara)と神々(amara)で「人神(narāmara)」であり、人神とともにあるゆえに「人神を具えた(sanarāmara)」であり、人神を具えたその世間(loka)であるゆえに「人神ある世間(sanarāmaraloka)」である。その(世間の)尊師(garu)であるゆえに「人神ある世間の尊師(sanarāmaralokagaru)」であり、その「人神ある世間の尊師」である。これによって、神々や人間だけでなく、それ以外の有情たちに対しても、相応に特別な徳をもたらすことによる世尊の有益性を示している。そしてここで主従の関係について論難すべきではない。言葉の順序と意味の順序は異なるからである。このような複合語においては、「王を具えた大衆(sarājikā parisā)」のように、主たるものであっても従であるかのように示されるからである。確かにここでは有情・行・空間の区分によって世間は三種あるが、尊師であることが意図されているため、敬重することのできるもののみが適していることから、有情世間によって意味を理解すべきである。それこそが「この世において福徳と罪過、およびその果報が見られる(lokīyati)」ゆえに「世間(loka)」と呼ばれるのである。そしてここで神々の言及によって生天した神々(生天神)が意図されている。
Atha vā samūhattho lokasaddo samudāyavasena lokīyati paññāpīyatīti. Saha narehīti sanarā, sanarā ca te amarā cāti sanarāmarā, tesaṃ lokoti sanarāmaralokoti purimanayeneva yojetabbaṃ. Amarasaddena cettha visuddhidevāpi saṅgayhanti. Te hi maraṇābhāvato paramatthato amarā. Narāmarānaṃyeva ca gahaṇaṃ ukkaṭṭhaniddesavasena yathā ‘‘satthā devamanussāna’’nti (dī. ni. 1.157). Tathā hi sabbānatthaparihārapubbaṅgamāya niravasesahitasukhavidhānatapparāya niratisayāya payogasampattiyā sadevamanussāya pajāya accantūpakāritāya aparimitanirupamappabhāvaguṇavisesasamaṅgitāya ca sabbasattuttamo bhagavā aparimāṇāsu lokadhātūsu aparimāṇānaṃ sattānaṃ uttamagāravaṭṭhānaṃ. Tena vuttaṃ **‘‘sanarāmaralokagaru’’**nti.
あるいは、集合の意味をもつ「世間」という言葉は、集まりとして見られ、認識されるものである。「人とともに」で「人を具えた(sanarā)」であり、人を具えたそれらの神々で「人を具えた神々(sanarāmarā)」であり、彼らの世間で「人神ある世間」と前の方法に従って結合すべきである。そして神々(amara)という言葉によって清浄神(阿羅漢や仏)も包摂される。彼らは死がないため勝義において不死(amara)であるからである。そして人神のみへの言及は、「神々と人間の師(satthā devamanussānaṃ)」のように最勝のものを示したことによる。実に、一切の不利益を避けることを第一とし、余すところなき利益と幸福の実現に専心し、無上の実践の成就によって神々と人間を含む有情に対してこの上なく有益であり、無量にして無比の威力ある特別な徳を具足していることによって、一切の有情の中で最上である世尊は、無量の世界において無量の有情たちの最上の尊敬の対象である。それゆえに「人神ある世間の尊師」と説かれた。
Sobhanaṃ gataṃ gamanaṃ etassāti sugato. Bhagavato hi veneyyajanupasaṅkamanaṃ ekantena tesaṃ hitasukhanipphādanato sobhanaṃ, tathā lakkhaṇānubyañjanapaṭimaṇḍitarūpakāyatāya dutavilambita-khalitānukaḍḍhana-nippīḷanukkuṭika-kuṭilākulatādi-dosarahita-mavahasita-rājahaṃsa- vasabhavāraṇa-migarājagamanaṃ kāyagamanaṃ ñāṇagamanañca vipulanimmalakaruṇā-sativīriyādi-guṇavisesasahitamabhinīhārato yāva mahābodhiṃ anavajjatāya sobhanamevāti. Atha vā sayambhuñāṇena sakalamapi lokaṃ pariññābhisamayavasena parijānanto ñāṇena sammā gato avagatoti sugato. Tathā lokasamudayaṃ pahānābhisamayavasena pajahanto anuppattidhammataṃ āpādento sammā gato atītoti sugato, lokanirodhaṃ nibbānaṃ sacchikiriyābhisamayavasena sammā gato adhigatoti sugato, lokanirodhagāminiṃ paṭipadaṃ bhāvanābhisamayavasena sammā gato paṭipannoti sugato. ‘‘Sotāpattimaggena ye kilesā pahīnā, te kilese na puneti na pacceti na paccāgacchatīti sugato’’tiādinā (mahāni. 38; cūḷani. 27) nayena ayamattho vibhāvetabbo. Atha vā sundaraṃ ṭhānaṃ sammāsambodhiṃ, nibbānameva vā gato adhigatoti sugato. Yasmā vā bhūtaṃ tacchaṃ atthasaṃhitaṃ veneyyānaṃ yathārahaṃ kālayuttameva ca dhammaṃ bhāsati, tasmā sammā gadati vadatīti sugato da-kārassa ta-kāraṃ katvā. Iti sobhanagamanatādīhi sugato, taṃ sugataṃ.
善美なる(sobhana)歩み・行状(gata)をもつ者ゆえに「善逝(sugato)」である。世尊が導かれるべき人々に近づくことは、もっぱら彼らの利益と幸福を成就するがゆえに善美であり、また相と好によって飾られた色身をもつがゆえに、急ぎ、遅れ、つまずき、引きずり、圧迫し、爪先立ち、曲がり、乱れる等の過失を離れ、白鳥の王、牡牛、象、獅子王の歩みを嘲笑するような身の歩み、および広大無垢な慈悲・念・精進等の特別な徳を具えて誓願から大菩提に至るまで非難される余地のない智慧の歩みをもつゆえに善美である。あるいは、自覚の智慧によって全世界をも遍知の現観によって完全に知るゆえに、智慧によって正しく至った(理解した)者ゆえに「善逝」である。また世間の集起(苦の原因)を断滅の現観によって断じ、不発生の性質に至らしめつつ正しく至った(超えた)者ゆえに「善逝」であり、世間の滅である涅槃を証得の現観によって正しく至った(到達した)者ゆえに「善逝」であり、世間の滅に至る実践道を修習の現観によって正しく至った(実践した)者ゆえに「善逝」である。「預流道によって断ぜられた諸の煩悩に、それらの煩悩に再び戻らず、帰らず、逆戻りしないゆえに善逝である」(大義釈38、小義釈27)などの方法によってこの意味は明らかにされるべきである。あるいは、麗しい境地である正等覚に、あるいは涅槃そのものに至った(到達した)ゆえに「善逝」である。あるいは、真実であり、事実であり、有益であり、導かれるべき人々にとって相応しく、時に適った教えのみを語るゆえに、正しく語る(gadati)者として「善逝(sugato)」であり、d音をt音に変えたものである。このように、善美なる歩みをもつこと等によって「善逝」であり、その「善逝」である。
Puññapāpakammehi upapajjanavasena gantabbato gatiyo, upapattibhavavisesā. Tā pana nirayādivasena pañcavidhā. Tāhi sakalassapi bhavagāmikammassa ariyamaggādhigamena avipākārahabhāvakaraṇena nivattitattā bhagavā pañcahipi gatīhi suṭṭhu mutto visaṃyuttoti āha **‘‘gativimutta’’**nti. Etena bhagavato katthacipi gatiyā apariyāpannataṃ dasseti, yato bhagavā ‘‘devātidevo’’ti vuccati. Tenevāha –
善悪の業によって生まれることによって赴かれるべきものであるゆえに「趣(gati)」であり、再生する生存の差異である。それらは地獄等を初めとする五種類である。聖道を体得することによって生存に至るあらゆる業を非受報の性質としたことにより、それら(五趣)から離れたため、世尊は五趣すべてから完全に解脱し、離脱した者であるゆえに、「諸趣を解脱せる者(gativimutta)」と説いた。これによって世尊がいかなる趣にも属さないことを示している。それゆえ世尊は「天の中の天(devātideva)」と呼ばれるのである。それゆえに次のように説かれた。
‘‘Yena devūpapatyassa, gandhabbo vā vihaṅgamo;
「それによって神々に生まれ変わるであろうもの、あるいは乾闥婆や鳥となるであろうもの、
Yakkhattaṃ yena gaccheyyaṃ, manussattañca abbaje;
それによって夜叉となるであろうもの、人間となるであろうもの、
Te mayhaṃ āsavā khīṇā, viddhastā vinaḷīkatā’’ti. (a. ni. 4.36);
それらのわが諸漏(煩悩)は尽き、粉砕され、滅ぼされた」(増支部4.36)と。
Taṃtaṃgatisaṃvattanakānañhi kammakilesānaṃ aggamaggena bodhimūleyeva suppahīnattā natthi bhagavato gatipariyāpannatāti accantameva bhagavā sabbabhavayonigati-viññāṇaṭṭhiti-sattāvāsa-sattanikāyehi parimutto, taṃ gativimuttaṃ. Vandeti namāmi, thomemīti vā attho.
それぞれの趣へと導く業と煩悩が、最上の道(阿羅漢道)によって菩提樹の根元において完全に断ぜられているがゆえに、世尊には趣に属する状態が存在しないので、世尊は完全に一切の生存・胎生・趣・識住・有情居・有情群から解脱している。その「諸趣を解脱せる者」である。「礼拝す(vande)」とは、敬礼する、あるいは讃嘆するという意味である。
Atha vā gativimuttanti anupādisesanibbānadhātuppattiyā bhagavantaṃ thometi. Ettha hi dvīhi ākārehi bhagavato thomanā veditabbā attahitasampattito parahitapaṭipattito ca. Tesu attahitasampatti anāvaraṇañāṇādhigamato savāsanānaṃ sabbesaṃ kilesānaṃ accantappahānato anupādisesanibbānappattito ca veditabbā, parahitapaṭipatti lābhasakkārādinirapekkhacittassa sabbadukkhaniyyānikadhammadesanato viruddhesupi niccaṃ hitajjhāsayato ñāṇaparipākakālāgamanato ca. Sā panettha āsayato payogato ca duvidhā parahitapaṭipatti, tividhā ca attahitasampatti pakāsitā hoti. Kathaṃ? ‘‘Karuṇāsītalahadaya’’nti etena āsayato parahitapaṭipatti, sammāgadanatthena sugatasaddena payogato parahitapaṭipatti, ‘‘paññāpajjotavihatamohatamaṃ gativimutta’’nti etehi catusaccapaṭivedhatthena ca sugatasaddena tividhāpi attahitasampatti, avasiṭṭhaṭṭhena tena ‘‘paññāpajjotavihatamohatama’’nti etena cāpi sabbāpi attahitasampattiparahitapaṭipatti pakāsitā hotīti.
あるいは、「諸趣を解脱せる者」とは、無余涅槃界への到達によって世尊を讃嘆しているのである。ここで、世尊への讃嘆は自利の成就と利他の実践という二つの様態によって知られるべきである。それらのうち、自利の成就は無礙解智の体得、習気を含む一切の煩悩の完全な断滅、そして無余涅槃の到達によって知られるべきであり、利他の実践は利得や名誉などを顧みない心による一切の苦から導き出す教えの説示、敵対する者たちに対しても常に利益を願う意図、そして智慧の成熟の時期の到来によって知られるべきである。そこで、ここにおいて意図と実践による二種の利他の実践、および三種の自利の成就が明示されている。どのようにか。「悲によって清涼なる心」によって意図における利他の実践、「正しく語る」という意味の「善逝」という語によって実践における利他の実践、「智慧のともしびによって癡暗を打ち破られ、諸趣を解脱せる者」というこれらによって、また四聖諦の通達という意味の「善逝」という語によって三種の自利の成就、残りの意味をもつそれ(善逝)と「智慧のともしびによって癡暗を打ち破られた」というこれによっても、すべての自利の成就と利他の実践が明示されているのである。
Atha vā tīhi ākārehi bhagavato thomanā veditabbā – hetuto phalato upakārato ca. Tattha hetu mahākaruṇā, sā paṭhamapadena dassitā. Phalaṃ catubbidhaṃ ñāṇasampadā pahānasampadā ānubhāvasampadā rūpakāyasampadā cāti. Tāsu ñāṇapahānasampadā dutiyapadena saccapaṭivedhatthena ca sugatasaddena pakāsitā honti, ānubhāvasampadā pana tatiyapadena, rūpakāyasampadā yathāvuttakāyagamanasobhanatthena sugatasaddena lakkhaṇānubyañjanapāripūriyā vinā tadabhāvato. Upakāro anantaraṃ abāhiraṃ karitvā tividhayānamukhena vimuttidhammadesanā. So sammāgadanatthena sugatasaddena pakāsito hotīti veditabbaṃ.
あるいは、世尊への讃嘆は、因・果・恩恵という三つの様態によって知られるべきである。そこにおいて因は大悲であり、それは第一の句によって示された。果は智慧の成就、断滅の成就、威力の成就、色身の成就という四種である。それらのうち智慧と断滅の成就は第二の句によって、また聖諦の通達という意味の「善逝」という語によって明示され、威力の成就は第三の句によって、色身の成就は前述の身の歩みの善美という意味の「善逝」という語によって(明示される)。相と好の円満なしにはそれ(色身の善美)はあり得ないからである。恩恵とは、直ちに隔てなく三乗の教えを通じて解脱の法を説くことである。それは正しく語るという意味の「善逝」という語によって明示されていると知るべきである。
Tattha ‘‘karuṇāsītalahadaya’’nti etena sammāsambodhiyā mūlaṃ dasseti. Mahākaruṇāsañcoditamānaso hi bhagavā saṃsārapaṅkato sattānaṃ samuddharaṇatthaṃ katābhinīhāro anupubbena pāramiyo pūretvā anuttaraṃ sammāsambodhiṃ adhigatoti karuṇā sammāsambodhiyā mūlaṃ. ‘‘Paññāpajjotavihatamohatama’’nti etena sammāsambodhiṃ dasseti. Anāvaraṇañāṇapadaṭṭhānañhi maggañāṇaṃ, maggañāṇapadaṭṭhānañca anāvaraṇañāṇaṃ ‘‘sammāsambodhī’’ti vuccatīti. Sammāgamanatthena sugatasaddena sammāsambodhiyā paṭipattiṃ dasseti līnuddhaccapatiṭṭhānāyūhanakāmasukhallikattakilamathānuyogasassatucchedābhinivesādi antadvayarahitāya karuṇāpaññāpariggahitāya majjhimāya paṭipattiyā pakāsanato sugatasaddassa. Itarehi sammāsambodhiyā padhānāppadhānabhedaṃ payojanaṃ dasseti. Saṃsāramahoghato sattasantāraṇañhettha padhānaṃ payojanaṃ, tadaññamappadhānaṃ. Tesu padhānena parahitapaṭipattiṃ dasseti, itarena attahitasampattiṃ, tadubhayena attahitāya paṭipannādīsu catūsu puggalesu bhagavato catutthapuggalabhāvaṃ dasseti. Tena ca anuttaradakkhiṇeyyabhāvaṃ uttamavandanīyabhāvaṃ attano ca vandanakiriyāya khettaṅgatabhāvaṃ dasseti.
そこで「悲によって清涼なる心」によって、正等覚の根本を示している。大悲に促された心をもつ世尊は、輪廻の泥沼から有情たちを救い出すために誓願を立て、順を追って波羅蜜を満たして無上の正等覚を体得したのであるから、慈悲こそが正等覚の根本である。「智慧のともしびによって癡暗を打ち破られた」によって正等覚そのものを示している。無礙解智の直接の因は道智であり、道智を直接の因とする無礙解智が「正等覚」と呼ばれるからである。正しく至ったという意味の「善逝」という語によって正等覚の実践道を示している。沈滞と浮動、固執と造作、欲楽への耽溺と自己苦行への偏執、常見と断見への執着などの二つの極端を離れ、慈悲と智慧に把握された中道の実践を明らかにしていることから「善逝」の語があるからである。他の句によって正等覚の主要な目的と副次的な目的の差異を示している。輪廻の大激流から有情たちを渡すことがここでの主要な目的であり、それ以外は副次的なものである。それらのうち主要なものによって利他の実践を示し、他方によって自利の成就を示し、その両方によって自らの利益のために実践する者などの四種の人物の中で、世尊が第四の人物(自利利他を兼ねる者)であることを示している。そしてこれによって、無上の供養されるべき者であること、最上の礼拝されるべき者であること、そして自らの礼拝行為にとっての福田である状態を示している。
Ettha ca karuṇāgahaṇena lokiyesu mahaggatabhāvappattāsādhāraṇaguṇadīpanato bhagavato sabbalokiyaguṇasampatti dassitā hoti, paññāgahaṇena sabbaññutaññāṇapadaṭṭhānamaggañāṇadīpanato sabbalokuttaraguṇasampatti. Tadubhayaggahaṇasiddho hi attho ‘‘sanarāmaralokagaru’’ntiādinā vipañcīyatīti. Karuṇāgahaṇena ca upagamanaṃ nirupakkilesaṃ dasseti, paññāgahaṇena apagamanaṃ. Tathā karuṇāgahaṇena lokasamaññānurūpaṃ bhagavato pavattiṃ dasseti lokavohāravisayattā karuṇāya, paññāgahaṇena samaññāya anatidhāvanaṃ sabhāvānavabodhena hi dhammānaṃ samaññaṃ atidhāvitvā sattādiparāmasanaṃ hotīti. Tathā karuṇāgahaṇena mahākaruṇāsamāpattivihāraṃ dasseti, paññāgahaṇena tīsu kālesu appaṭihatañāṇaṃ catusaccañāṇaṃ catupaṭisambhidāñāṇaṃ catuvesārajjañāṇaṃ.
そしてここで慈悲の言及によって、世間的なものの中で広大な境地に至った卓越した徳を明かすことから、世尊の一切の世間的徳の成就が示され、智慧の言及によって、一切知智の直接の因である道智を明かすことから、一切の出世間的徳の成就が示されている。その両方の把握によって確立された意味が、「人神ある世間の尊師」等によって詳細に展開されるのである。慈悲の言及によって汚れなき接近を示し、智慧の言及によって離脱を示す。また慈悲の言及によって世間の呼称に順応した世尊の振る舞いを示す。慈悲は世間の言語慣用の領域にあるからである。智慧の言及によって呼称を行き過ぎないことを示す。諸法の自性の非覚知によってこそ呼称を行き過ぎて有情等への執着が生じるからである。また慈悲の言及によって大悲等至の住を示し、智慧の言及によって三世において無礙なる智慧、四聖諦の智慧、四無礙解の智慧、四無所畏の智慧を示す。
Karuṇāgahaṇena mahākaruṇāsamāpattiñāṇassa gahitattā sesāsādhāraṇañāṇāni, cha abhiññā, aṭṭhasu parisāsu akampanañāṇāni, dasa balāni, cuddasa buddhañāṇāni, soḷasa ñāṇacariyā, aṭṭhārasa buddhadhammā, catucattālīsa ñāṇavatthūni, sattasattatiñāṇavatthūnīti evamādīnaṃ anekesaṃ paññāpabhedānaṃ vasena ñāṇacāraṃ dasseti. Tathā karuṇāgahaṇena caraṇasampattiṃ, paññāgahaṇena vijjāsampattiṃ. Karuṇāgahaṇena attādhipatitā, paññāgahaṇena dhammādhipatitā. Karuṇāgahaṇena lokanāthabhāvo, paññāgahaṇena attanāthabhāvo. Tathā karuṇāgahaṇena pubbakāribhāvo, paññāgahaṇena kataññutā. Tathā karuṇāgahaṇena aparantapatā, paññāgahaṇena anattantapatā. Karuṇāgahaṇena vā buddhakaradhammasiddhi, paññāgahaṇena buddhabhāvasiddhi. Tathā karuṇāgahaṇena paresaṃ tāraṇaṃ, paññāgahaṇena sayaṃ taraṇaṃ. Tathā karuṇāgahaṇena sabbasattesu anuggahacittatā, paññāgahaṇena sabbadhammesu virattacittatā dassitā hoti.
慈悲の言及によって大悲等至の智が把握されているため、その他の比類なき智慧、六神通、八部衆において動揺しない諸智、十力、十四の仏智、十六の智行、十八の不共仏法、四十四の智処、七十七の智処などのこれらをはじめとする多くの智慧の分類による智慧の活動を示す。また慈悲の言及によって行履(実践)の成就を、智慧の言及によって明知の成就を示す。慈悲の言及によって自己の主権性を、智慧の言及によって法の主権性を示す。慈悲の言及によって世間の拠り所たる状態を、智慧の言及によって自己の拠り所たる状態を示す。また慈悲の言及によって先導して善をなす者たる状態を、智慧の言及によって知恩性を示す。また慈悲の言及によって他者を苦しめないことを、智慧の言及によって自己を苦しめないことを示す。あるいは慈悲の言及によって仏と成す法の成就を、智慧の言及によって仏たる状態の成就を示す。また慈悲の言及によって他者を渡すことを、智慧の言及によって自ら渡ることを示す。また慈悲の言及によって一切の有情に対する恵みの心を、智慧の言及によって一切の法に対する離欲の心を示す。
Sabbesañca buddhaguṇānaṃ karuṇā ādi tannidānabhāvato, paññā pariyosānaṃ tato uttari karaṇīyābhāvato. Iti ādipariyosānadassanena sabbe buddhaguṇā dassitā honti. Tathā karuṇāgahaṇena sīlakkhandhapubbaṅgamo samādhikkhandho dassito hoti. Karuṇānidānañhi sīlaṃ tato pāṇātipātādiviratippavattito, sā ca jhānattayasampayoginīti. Paññāvacanena paññākkhandho. Sīlañca sabbabuddhaguṇānaṃ ādi, samādhi majjhe, paññā pariyosānanti evampi ādimajjhapariyosānakalyāṇadassanena sabbe buddhaguṇā dassitā honti nayato dassitattā. Eso eva hi niravasesato buddhaguṇānaṃ dassanupāyo, yadidaṃ nayaggāhaṇaṃ. Aññathā ko nāma samattho bhagavato guṇe anupadaṃ niravasesato dassetuṃ. Tenevāha –
そして一切の仏徳の初めは慈悲である。それが根本であるからである。智慧は終わりである。それ以上に作られるべきものがないからである。このように初めと終わりを示すことによって、一切の仏徳が示されたことになる。また慈悲の言及によって戒蘊を先導とする定蘊が示されたことになる。戒は慈悲を根本とするからであり、それによって不殺生等の離止が生じ、それは三種の禅定(初禅・第二禅・第三禅)と相応するからである。智慧の言及によって慧蘊が示される。そして戒は一切の仏徳の初めであり、定は中間であり、慧は終わりである。このように初め・中間・終わりの善を示すことによって、理路に従って示されたがゆえに一切の仏徳が示されたことになる。実にこれこそが余すところなく仏徳を示す方策であり、いわゆる理路の把握である。そうでなければ、世尊の徳を一言一言余すところなく示すことのできる者など誰がいようか。それゆえに次のように説かれた。
‘‘Buddhopi buddhassa bhaṇeyya vaṇṇaṃ;
「たとえ仏が仏の徳を語るとしても、
Kappampi ce aññamabhāsamāno.
一劫の間、他のことを語ることなく(語り続けたとしても)、
Khīyetha kappo ciradīghamantare;
その間の久しく長き劫は尽きるであろうが、
Vaṇṇo na khīyetha tathāgatassā’’ti. (dī. ni. aṭṭha. 1.305; 3.141; ma. ni. aṭṭha. 2.425; udā. aṭṭha. 53; apa. aṭṭha. 2.7.20; bu. vaṃ. aṭṭha. 4.4; cariyā. aṭṭha. 3.122 pakiṇṇakakathā);
如来の徳は尽きることがない」(長部註1.305; 3.141、中部註2.425、自説経註53、譬喩経註2.7.20、仏種姓経註4.4、所行蔵註3.122 雑話)と。
Teneva ca āyasmatā sāriputtattherenapi buddhaguṇaparicchedanaṃ pati anuyuttena ‘‘no hetaṃ, bhante’’ti paṭikkhipitvā ‘‘apica me, bhante, dhammanvayo vidito’’ti (dī. ni. 2.146) vuttaṃ.
それゆえにこそ、尊者サーリプッタ長老もまた仏徳の限定について尋ねられた際、「滅相もございません、世尊よ」と否定した上で、「しかしながら私には、世尊よ、法の筋道が知られております」(長部2.146)と述べたのである。
2. Evaṃ saṅkhepena sakalasabbaññuguṇehi bhagavantaṃ abhitthavitvā idāni saddhammaṃ thometuṃ **‘‘buddhopī’’**tiādimāha. Tattha buddhoti kattuniddeso. Buddhabhāvanti kammaniddeso. Bhāvetvā sacchikatvāti ca pubbakālakiriyāniddeso. Yanti aniyamato kammaniddeso. Upagatoti aparakālakiriyāniddeso. Vandeti kiriyāniddeso. Tanti niyamanaṃ. Dhammanti vandanakiriyāya kammaniddeso. Gatamalaṃ anuttaranti ca tabbisesanaṃ.
2. このように簡潔に一切知者のあらゆる徳によって世尊を讃嘆し、今や正法を讃嘆するために「仏すらも」等を説いた。そこにおいて「仏(buddho)」とは行為者の指示である。「仏たる状態(buddhabhāvaṃ)」とは行為の対象の指示である。「修習して、現証して(bhāvetvā sacchikatvā)」とは前時動詞(先行動作)の指示である。「〜を(yaṃ)」とは不定の行為対象の指示である。「到達した(upagato)」とは後時動詞(後続動作)の指示である。「礼拝す(vande)」とは動詞の指示である。「その(taṃ)」とは限定である。「法を(dhammaṃ)」とは礼拝行為の対象の指示である。「汚れを去った(gatamalaṃ)」、「無上の(anuttaraṃ)」とはその修飾語である。
Tattha buddhasaddassa tāva ‘‘bujjhitā saccānīti buddho, bodhetā pajāyāti buddho’’tiādinā niddesanayena (mahāni. 192; cūḷani. 97) attho veditabbo. Atha vā savāsanāya aññāṇaniddāya accantavigamato, buddhiyā vā vikasitabhāvato buddhavāti buddho jāgaraṇavikasanatthavasena. Atha vā kassacipi ñeyyadhammassa anavabuddhassa abhāvena ñeyyavisesassa kammabhāvena aggahaṇato kammavacanicchāya abhāvena avagamanatthavaseneva kattuniddeso labbhatīti buddhavāti buddho yathā ‘‘dikkhito na dadātī’’ti. Atthato pana pāramitāparibhāvito sayambhuñāṇena saha vāsanāya vihataviddhastaniravasesakileso mahākaruṇāsabbaññutaññāṇādiaparimeyyaguṇagaṇādhāro khandhasantāno buddho. Yathāha –
そこで「仏(buddha)」という言葉の意味は、まず「諸諦を覚知したゆえに仏であり、有情たちを覚醒させるゆえに仏である」(大義釈192、小義釈97)などの指示の方法によって知られるべきである。あるいは、習気とともに無知の眠りが完全に去ったことから、あるいは智慧が開花した状態から、覚醒と開花の意味により「仏」である。あるいは、何ら知られるべき法で覚知されないものはないため、特定の知られるべき対象を行為対象として把握しないことから、行為対象の言葉を意図しないことによる理解の意味によってのみ行為者の指示が得られるので、「受戒せる者は施与せず」というように「覚知せる者」ゆえに「仏」である。勝義においては、波羅蜜によって薫修され、自覚の智慧によって習気とともに一切の煩悩を粉砕・破壊し根絶し、大悲や一切知智などの量り知れない徳の群れの拠り所である五蘊の連続が「仏」である。次のように説かれている通りである。
‘‘Buddhoti yo so bhagavā sayambhū. Anācariyako pubbe ananussutesu dhammesu sāmaṃ saccāni abhisambujjhi, tattha ca sabbaññutaṃ patto balesu ca vasībhāva’’nti (mahāni. 192; cūḷani. 97; paṭi. ma. 3.161).
「『仏』とは、その世尊、自ら生じた者である。師なくして、かつて聞かされなかった諸法において自ら諸諦を現等覚し、そこにおいて一切知性を得て、諸力において自在に達した者である」(大義釈192、小義釈97、無礙解道3.161)。
Api-saddo sambhāvane. Tena ‘‘evaṃ guṇavisesayutto sopi nāma bhagavā’’ti vakkhamānaguṇe dhamme sambhāvanaṃ dīpeti. Buddhabhāvanti sammāsambodhiṃ. Bhāvetvāti uppādetvā vaḍḍhetvā ca. Sacchikatvāti paccakkhaṃ katvā. Upagatoti patto, adhigatoti attho. Etassa ‘‘buddhabhāva’’nti etena sambandho. Gatamalanti vigatamalaṃ, niddosanti attho. Vandeti paṇamāmi, thomemi vā. Anuttaranti uttararahitaṃ, lokuttaranti attho. Dhammanti yathānusiṭṭhaṃ paṭipajjamāne apāyato ca saṃsārato ca apatamāne katvā dhāretīti dhammo. Ayañhettha saṅkhepattho – evaṃ vividhaguṇagaṇasamannāgato buddhopi bhagavā yaṃ ariyamaggasaṅkhātaṃ dhammaṃ bhāvetvā, phalanibbānasaṅkhātaṃ pana sacchikatvā anuttaraṃ sammāsambodhiṃ adhigato, tametaṃ buddhānampi buddhabhāvahetubhūtaṃ sabbadosamalarahitaṃ attano uttaritarābhāvena anuttaraṃ paṭivedhasaddhammaṃ namāmīti. Pariyattisaddhammassāpi tappakāsanattā idha saṅgaho daṭṭhabbo.
「すらも(api)」の語は強調・称揚のためである。それによって「このような特別な徳を具えたその世尊ですらも」と、これから説かれる徳をもつ法に対する称揚を示している。「仏たる状態を」とは正等覚を。「修習して」とは生じさせ、増大させて。「現証して」とは自ら目の当たりにして。「到達した」とは得た、体得したという意味である。これには「仏たる状態を」という言葉と関連がある。「汚れを去った」とは汚れが離れた、過失のないという意味である。「礼拝す」とは敬礼する、あるいは讃嘆する。「無上の」とは勝るもののない、出世間という意味である。「法」とは、教誡の通りに実践する者たちを、悪趣や輪廻に堕ちないようにして保持する(dhāreti)がゆえに「法(dhamma)」である。ここでの要約された意味は次の通りである。このように種々の徳の群れを具備した仏たる世尊ですら、聖道と呼ばれるその法を修習し、果と涅槃と呼ばれる法を現証して、無上の正等覚を体得されたが、その、仏たちにとっても仏たる状態の因となり、一切の過失の汚れを離れ、自らに勝るものが存在しないゆえに無上である通達正法を礼拝する、と。教説正法(教法)もそれを明かすものであるゆえに、ここに包摂されると見なすべきである。
Atha vā ‘‘abhidhammanayasamuddaṃ adhigacchi, tīṇi piṭakāni sammasī’’ti ca aṭṭhakathāyaṃ vuttattā pariyattidhammassapi sacchikiriyāsammasanapariyāyo labbhatīti sopi idha vutto evāti daṭṭhabbaṃ. Tathā ‘‘yaṃ dhammaṃ bhāvetvā saccikatvā’’ti ca vuttattā buddhakaradhammabhūtāhi pāramitāhi saha pubbabhāge adhisīlasikkhādayopi idha dhammasaddena saṅgahitāti veditabbaṃ. Tāpi hi malapaṭipakkhatāya gatamalā anaññasādhāraṇatāya anuttarā cāti. Tathā hi sattānaṃ sakalavaṭṭadukkhanissaraṇatthāya katamahābhinīhāro mahākaruṇādhivāsapesalajjhāsayo paññāvisesaparidhotanimmalānaṃ dānadamasaṃyamādīnaṃ uttamadhammānaṃ satasahassādhikāni kappānaṃ cattāri asaṅkhyeyyāni sakkaccaṃ nirantaraṃ niravasesānaṃ bhāvanāpaccakkhakaraṇehi kammādīsu adhigatavasībhāvo acchariyācinteyyamahānubhāvo adhisīlādhicittānaṃ paramukkaṃsapāramippatto bhagavā paccayākāre catuvīsatikoṭisatasahassamukhena mahāvajirañāṇaṃ pesetvā anuttaraṃ sammāsambodhiṃ abhisambuddhoti.
あるいは、義註において「阿毘達磨の論理の海を体得し、三蔵を思惟した」と説かれていることから、教説の法に対しても現証と思惟の様態が得られるので、それもまたここで説かれていると見なすべきである。また「その法を修習し現証して」と説かれていることから、仏と成す法である波羅蜜とともに、初めの段階における増上戒の修学などもここで「法」という言葉によって包摂されていると知るべきである。それらもまた汚れに対抗するものであるゆえに汚れを去ったものであり、他に共通しないものであるゆえに無上であるからである。実に、有情たちの一切の輪廻の苦からの解脱のために偉大な誓願を立て、大悲に住して清らかな意図をもち、卓越した智慧によって浄化され無垢となった布施・調伏・自制などの最上の諸法を、十万劫を超えて四阿僧祇劫にわたり恭敬して間断なく余すところなく修習し自ら目の当たりにすることによって、業などにおいて自在を体得し、驚くべき不可思議な威力をもち、増上戒や増上心において究極の頂点たる波羅蜜に達した世尊は、縁起において二十四億十万の様態で大金剛智を送り込み、無上の正等覚を現等覚されたのである。
Ettha ca ‘‘bhāvetvā’’ti etena vijjāsampadāya dhammaṃ thometi, ‘‘sacchikatvā’’ti etena vimuttisampadāya. Tathā paṭhamena jhānasampadāya, dutiyena vimokkhasampadāya. Paṭhamena vā samādhisampadāya, dutiyena samāpattisampadāya. Atha vā paṭhamena khayeñāṇabhāvena, dutiyena anuppādeñāṇabhāvena. Purimena vā vijjūpamatāya, dutiyena vajirūpamatāya. Purimena vā virāgasampattiyā, dutiyena nirodhasampattiyā. Tathā paṭhamena niyyānabhāvena, dutiyena nisssaraṇabhāvena. Paṭhamena vā hetubhāvena, dutiyena asaṅkhatabhāvena. Paṭhamena vā dassanabhāvena, dutiyena vivekabhāvena. Paṭhamena vā adhipatibhāvena, dutiyena amatabhāvena dhammaṃ thometi. Atha vā ‘‘yaṃ dhammaṃ bhāvetvā buddhabhāvaṃ upagato’’ti etena svākkhātatāya dhammaṃ thometi. ‘‘Sacchikatvā’’ti etena sandiṭṭhikatāya. Tathā purimena akālikatāya, pacchimena ehipassikatāya. Purimena vā opaneyyikatāya, pacchimena paccattaṃ veditabbatāya dhammaṃ thometi. ‘‘Gatamala’’nti iminā saṃkilesābhāvadīpanena dhammassa parisuddhataṃ dasseti, ‘‘anuttara’’nti etena aññassa visiṭṭhassa abhāvadīpanena vipulaparipuṇṇataṃ. Paṭhamena vā pahānasampadaṃ dhammassa dasseti, dutiyena sabhāvasampadaṃ. Bhāvetabbatāya vā dhammassa gatamalabhāvo yojetabbo. Bhāvanāguṇena hi so dosānaṃ samugghātako hotīti. Sacchikātabbabhāvena anuttarabhāvo yojetabbo. Sacchikiriyānibbattito hi taduttarikaraṇīyābhāvato anaññasādhāraṇatāya anuttaroti. Tathā ‘‘bhāvetvā’’ti etena saha pubbabhāgasīlādīhi sekkhā sīlasamādhipaññākkhandhā dassitā honti, ‘‘sacchikatvā’’ti etena saha asaṅkhatāya dhātuyā asekkhā sīlasamādhipaññākkhandhā dassitā hontīti.
そしてここで「修習して」によって明知の成就における法を讃嘆し、「現証して」によって解脱の成就における法を讃嘆する。また前者によって禅定の成就を、後者によって解脱(三解脱門)の成就を。あるいは前者によって三摩地の成就を、後者によって等至の成就を。あるいは前者によって尽智たる状態を、後者によって無生智たる状態を。あるいは前者によって稲妻の如きものたることを、後者によって金剛の如きものたることを。あるいは前者によって離貪の成就を、後者によって滅の成就を。また前者によって出離の道たることを、後者によって出離たることを。あるいは前者によって因たる状態を、後者によって無為たる状態を。あるいは前者によって正見たる状態を、後者によって遠離たる状態を。あるいは前者によって主権たる状態を、後者によって不死たる状態を讃嘆する。あるいは「その法を修習して仏たる状態に到達した」によって善説性において法を讃嘆し、「現証して」によって自現性において讃嘆する。また前者によって無時性において、後者によって来観性において。あるいは前者によって引導性において、後者によって各自知性において法を讃嘆する。「汚れを去った」によって煩悩の不在を示すことで法の清浄さを示し、「無上の」によって他の勝れたものが存在しないことを示すことで広大・完全さを示す。あるいは前者によって法の断滅の成就を示し、後者によって自性の成就を示す。あるいは法が「修習されるべきもの」であることによって「汚れを去った状態」を結びつけるべきである。修習の徳によってこそそれは過失を根絶するものとなるからである。「現証されるべきもの」であることによって「無上の状態」を結びつけるべきである。現証の発生からはそれ以上になされるべきことがないため、他に比類なきものゆえに無上だからである。また「修習して」によって前段階の戒などとともに有学の戒・定・慧蘊が示され、「現証して」によって無為界とともに無学の戒・定・慧蘊が示されているのである。
3. Evaṃ saṅkhepeneva sabbadhammaguṇehi saddhammaṃ abhitthavitvā idāni ariyasaṅghaṃ thometuṃ **‘‘sugatassā’’**tiādimāha. Tattha sugatassāti sambandhaniddeso, tassa ‘‘puttāna’’nti etena sambandho. Orasānanti puttavisesanaṃ. Mārasenamathanānanti orasaputtabhāve kāraṇaniddeso. Tena kilesappahānameva bhagavato orasaputtabhāve kāraṇaṃ anujānātīti dasseti. Aṭṭhannanti gaṇanaparicchedaniddeso. Tena satipi tesaṃ sattavisesabhāvena anekasahassasaṅkhābhāve imaṃ gaṇanaparicchedaṃ nātivattantīti dasseti maggaṭṭhaphalaṭṭhabhāvānātivattanato. Samūhanti samudāyaniddeso. Ariyasaṅghanti guṇavisiṭṭhasaṅghāṭabhāvaniddeso. Tena asabhipi ariyapuggalānaṃ kāyasāmaggiyaṃ ariyasaṅghabhāvaṃ dasseti diṭṭhisīlasāmaññena saṃhatabhāvato.
3. このように簡潔にすべての法の徳によって正法を讃嘆し、今や聖僧伽を讃嘆するために「善逝の」等を説いた。そこにおいて「善逝の(sugatassa)」とは所属の指示であり、それは「子らの(puttānaṃ)」という言葉に関連する。「実の(orasānaṃ)」とは子の修飾語である。「魔軍を粉砕した者たちの(mārasenamathanānaṃ)」とは実子であることの理由の指示である。これによって煩悩の断滅こそが世尊の実子であることの理由であると認めていることを示している。「八種の(aṭṭhannaṃ)」とは数の限定の指示である。これによって彼らが個別の有情としては幾千という数であるとしても、この数の限定を超えないことを示している。向(道)に住する者と果に住する者の状態を超えないからである。「集まりを(samūhaṃ)」とは集合の指示である。「聖僧伽を(ariyasaṅghaṃ)」とは徳の優れた集団であることの指示である。これによって聖者たちに身体的な同集がない場合でも、見(見解)と戒の共通性によって結合していることから聖僧伽である状態を示している。
Tattha urasi bhavā jātā saṃvaddhā ca orasā. Yathā hi sattānaṃ orasaputtā attajātatāya pitu santakassa dāyajjassa visesena bhāgino honti, evameva tepi ariyapuggalā sammāsambuddhassa dhammassavanante ariyāya jātiyā jātatāya bhagavato santakassa vimuttisukhassa ariyadhammaratanassa ca ekantabhāginoti orasā viya orasā. Atha vā bhagavato dhammadesanānubhāvena ariyabhūmiṃ okkamamānā okkantā ca ariyasāvakā bhagavato urena vāyāmajanitābhijātitāya nippariyāyena ‘‘orasaputtā’’ti vattabbataṃ arahanti. Sāvakehi pavattiyamānāpi hi dhammadesanā ‘‘bhagavato dhammadesanā’’icceva vuccati taṃmūlikattā lakkhaṇādivisesābhāvato ca.
そこで、胸(uras)から生じ、生まれ育った者が「実子(orasa)」である。実に有情たちの実子が自ら生まれたものであることによって父の財産の相続に特別にあずかるように、まったく同様にそれらの聖者たちも正等覚者の教えを聞くことの果てに聖なる生によって生まれたものであるゆえに、世尊の持ち物である解脱の楽と聖なる法宝に完全にあずかる者であるため、実子の如く実子である。あるいは世尊の説法の威力によって聖地に入りつつあり、入った聖弟子たちは、世尊の胸からの努力によって生じた高貴な生まれであるゆえに、直接に「実子」と呼ばれるに値する。弟子たちによって説かれる説法であっても、それが根本であり特徴等に差異がないことから、「世尊の説法」とまさに呼ばれるからである。
Yadipi ariyasāvakānaṃ ariyamaggādhigamasamaye bhagavato viya tadantarāya karaṇatthaṃ devaputtamāro, māravāhinī vā na ekantena apasādeti, tehi pana apasādetabbatāya kāraṇe vimathite tepi vimathitā eva nāma hontīti āha – **‘‘mārasenamathanāna’’**nti. Imasmiṃ panatthe ‘‘māramārasenamathanāna’’nti vattabbe ‘‘mārasenamathanāna’’nti ekadesasarūpekaseso katoti daṭṭhabbaṃ. Atha vā khandhābhisaṅkhāramārānaṃ viya devaputtamārassapi guṇamāraṇe sahāyabhāvūpagamanato kilesabalakāyo ‘‘senā’’ti vuccati. Yathāha ‘‘kāmā te paṭhamā senā’’tiādi (su. ni. 438; mahāni. 28, 68, 149). Sā ca tehi diyaḍḍhasahassabhedā anantabhedā vā kilesavāhinī satidhammavicayavīriyasamathādiguṇapaharaṇehi odhiso vimathitā vihatā viddhastā cāti mārasenamathanā, ariyasāvakā. Etena tesaṃ bhagavato anujātaputtataṃ dasseti.
たとえ聖弟子たちの聖道体得の時において、世尊の場合のようにその障害をなすために魔天や魔の軍勢が直接に妨害しないとしても、彼らによって妨害されるべき因(煩悩)が打ち砕かれたとき、それら(魔軍)も打ち砕かれたと名づけられるゆえに、「魔軍を粉砕した者たちの」と説いた。この意味において「魔と魔軍を粉砕した者たちの」と説くべきところを、「魔軍を粉砕した者たちの」と一部分の同形語を残して合成したものと見なすべきである。あるいは、五蘊魔や行魔(行成魔)のように魔天にとっても徳を殺すことにおける協力者となることから、煩悩の軍勢が「軍(senā)」と呼ばれる。「諸欲こそは汝の第一の軍勢である」(経集438、大義釈28, 68, 149)などと説かれている通りである。そして彼らによって千五百種あるいは無限の区分をもつ煩悩の軍勢が、念・択法・精進・止などの徳の武器によって段階的に粉砕され、打ち破られ、滅ぼされたゆえに「魔軍を粉砕した者たち」であり、聖弟子たちのことである。これによって彼らが世尊の後に生まれた子(弟子)であることを示している。
Ārakattā kilesehi, anaye na iriyanato, aye ca iriyanato ariyā niruttinayena. Atha vā sadevakena lokena ‘‘saraṇa’’nti araṇīyato upagantabbato upagatānañca tadatthasiddhito ariyā, ariyānaṃ saṅghoti ariyasaṅgho, ariyo ca so saṅgho cāti vā ariyasaṅgho, taṃ ariyasaṅghaṃ. Bhagavato aparabhāge buddhadhammaratanānampi samadhigamo saṅgharatanādhīnoti ariyasaṅghassa bahūpakārataṃ dassetuṃ idheva **‘‘sirasā vande’’**ti vuttanti daṭṭhabbaṃ.
語源解釈の方法によれば、煩悩から遠く離れている(āraka)ゆえに、悪道に行かないゆえに、善道に行くゆえに「聖者(ariya)」である。あるいは神々を含む世界によって「帰依処」として近づかれるべき(araṇīya)であるゆえに、近づいた者たちにはその目的が成就するゆえに「聖者」であり、聖者たちの集まりゆえに「聖僧伽」であり、あるいは聖なるその集まりゆえに「聖僧伽」であり、その「聖僧伽」である。世尊の後において仏宝と法宝の体得も僧宝に依存しているゆえに、聖僧伽の多大な恩恵を示すために、まさにここで「頭をもって礼敬す」と説かれたと見なすべきである。
Ettha ca ‘‘sugatassa orasānaṃ puttāna’’nti etena ariyasaṅghassa pabhavasampadaṃ dasseti, ‘‘mārasenamathanāna’’nti etena pahānasampadaṃ sakalasaṃkilesappahānadīpanato. ‘‘Aṭṭhannampi samūha’’nti etena ñāṇasampadaṃ maggaṭṭhaphalaṭṭhabhāvadīpanato. ‘‘Ariyasaṅgha’’nti etena pabhāvasampadaṃ dasseti sabbasaṅghānaṃ aggabhāvadīpanato. Atha vā ‘‘sugatassa orasānaṃ puttāna’’nti ariyasaṅghassa visuddhanissayabhāvadīpanaṃ, ‘‘mārasenamathanāna’’nti sammāujuñāyasāmīcippaṭipannabhāvadīpanaṃ, ‘‘aṭṭhannampi samūha’’nti āhuneyyādibhāvadīpanaṃ, ‘‘ariyasaṅgha’’nti anuttarapuññakkhettabhāvadīpanaṃ. Tathā ‘‘sugatassa orasānaṃ puttāna’’nti etena ariyasaṅghassa lokuttarasaraṇagamanasabbhāvaṃ dīpeti. Lokuttarasaraṇagamanena hi te bhagavato orasaputtā jātā. ‘‘Mārasenamathanāna’’nti etena abhinīhārasampadāsiddhaṃ pubbabhāge sammāpaṭipattiṃ dasseti. Katābhinīhārā hi sammāpaṭipannā māraṃ māraparisaṃ vā abhivijinanti. ‘‘Aṭṭhannampi samūha’’nti etena paṭividdhastavipakkhe sekkhāsekkhadhamme dasseti puggalādhiṭṭhānena maggaphaladhammānaṃ pakāsitattā. ‘‘Ariyasaṅgha’’nti aggadakkhiṇeyyabhāvaṃ dasseti. Saraṇagamanañca sāvakānaṃ sabbaguṇānaṃ ādi, sapubbabhāgapaṭipadā sekkhā sīlakkhandhādayo majjhe, asekkhā sīlakkhandhādayo pariyosānanti ādimajjhapariyosānakalyāṇā saṅkhepato sabbe ariyasaṅghaguṇā pakāsitā honti.
そしてここで「善逝の実子たる子らの」によって聖僧伽の出生の成就を示し、「魔軍を粉砕した者たちの」によって一切の煩悩の断滅を明かすことから断滅の成就を示す。「八種の集まりを」によって道に住する者と果に住する者の状態を明かすことから智慧の成就を示す。「聖僧伽を」によって一切の僧伽の最上たる状態を明かすことから威力の成就を示す。あるいは「善逝の実子たる子らの」は聖僧伽の清浄な依処の状態の明示であり、「魔軍を粉砕した者たちの」は正しく、直く、理にかなって、如法に実践している状態の明示であり、「八種の集まりを」は供養されるに値するなどの状態の明示であり、「聖僧伽を」は無上の福田たる状態の明示である。また「善逝の実子たる子らの」によって聖僧伽が出世間の帰依に住していることを明かす。出世間の帰依によってこそ彼らは世尊の実子となったからである。「魔軍を粉砕した者たちの」によって誓願の成就によって成し遂げられた前段階における正しい実践を示す。誓願を立てた正しく実践する者こそが魔や魔の眷属を打ち破るからである。「八種の集まりを」によって敵対するものを粉砕した有学と無学の法を示す。人格を基盤として道と果の法が明示されているからである。「聖僧伽を」は最上の布施を受けるに値する状態を示す。そして帰依は弟子たちのあらゆる徳の初めであり、前段階の実践を伴う有学の戒蘊等は中間であり、無学の戒蘊等は終わりである。このように初め・中間・終わりの善なる聖僧伽のあらゆる徳が簡潔に明示されている。
4. Evaṃ gāthāttayena saṅkhepato sakalaguṇasaṃkittanamukhena ratanattayassa paṇāmaṃ katvā idāni taṃnipaccakāraṃ yathādhippete payojane pariṇāmento **‘‘iti me’’**tiādimāha. Tattha ratijananaṭṭhena ratanaṃ, buddhadhammasaṅghā. Tesañhi ‘‘itipi so bhagavā’’tiādinā yathābhūtaguṇe āvajjentassa amatādhigamahetubhūtaṃ anappakaṃ pītipāmojjaṃ uppajjati. Yathāha –
4. このように三偈によって簡潔にあらゆる徳を称えることを通じて三宝への礼敬をなし、今やその敬礼を意図した通りの目的に振り向けて「このように私が」等を説いた。そこにおいて喜悦を生じさせるという意味で「宝(ratana)」であり、仏・法・僧のことである。「実にその世尊は……」等とそれらの真実の徳を思念する者には、不死の体得の因となる少なからぬ歓喜と悦楽が生じる。次のように説かれている通りである。
‘‘Yasmiṃ mahānāma, samaye ariyasāvako tathāgataṃ anussarati, nevassa tasmiṃ samaye rāgapariyuṭṭhitaṃ cittaṃ hoti, na dosa…pe… na mohapariyuṭṭhitaṃ cittaṃ hoti…pe… ujugatacitto kho mahānāma, ariyasāvako labhati atthavedaṃ, labhati dhammavedaṃ, labhati dhammūpasaṃhitaṃ pāmojjaṃ, pamuditassa pīti jāyatī’’tiādi (a. ni. 6.10; 11.11).
「マハーナーマよ、聖弟子が如来を随念するその時、彼の心には貪によって覆われることはなく、瞋によって……中略……癡によって覆われることはない……中略……マハーナーマよ、真っ直ぐな心をもつ聖弟子は義の霊感を得、法の霊感を得、法に伴う悦楽を得る。悦楽ある者に歓喜が生じる」(増支部6.10; 11.11)など。
Cittīkatādibhāvo vā ratanaṭṭho. Vuttañhetaṃ –
あるいは尊重されること等の状態が「宝」の意味である。実に次のように説かれている。
‘‘Cittīkataṃ mahagghañca, atulaṃ dullabhadassanaṃ;
「尊重され、価値が高く、比類なく、見ることが稀であり、
Anomasattaparibhogaṃ, ratanaṃ tena vuccatī’’ti. (dī. ni. aṭṭha. 2.33; saṃ. ni. aṭṭha. 3.5.223; khu. pā. aṭṭha. 6.3; su. ni. aṭṭha. 1.226; mahāni. aṭṭha. 50);
優れた有情によって享受されるもの、それゆえに『宝』と呼ばれる」(長部註2.33、相応部註3.5.223、小誦註6.3、経集註1.226、大義釈註50)と。
Cittikatabhāvādayo ca anaññasādhāraṇā buddhādīsu eva labbhantīti.
そして尊重されること等の状態は、他に共通せず仏たちにおいてのみ見出されるのである。
Vandanāva vandanāmayaṃ yathā ‘‘dānamayaṃ sīlamaya’’nti (dī. ni. 3.305; itivu. 60). Vandanā cettha kāyavācācittehi tiṇṇaṃ ratanānaṃ guṇaninnatā, thomanā vā. Pujjabhavaphalanibbattanato puññaṃ, attano santānaṃ punātīti vā. Suvihatantarāyoti suṭṭhu vihatantarāyo. Etena attano pasādasampattiyā ratanattayassa ca khettabhāvasampattiyā taṃ puññaṃ atthappakāsanassa upaghātakaupaddavānaṃ vihanane samatthanti dasseti. Hutvāti pubbakālakiriyā. Tassa ‘‘atthaṃ pakāsayissāmī’’ti etena sambandho. Tassāti yaṃ ratanattayavandanāmayaṃ puññaṃ, tassa. Ānubhāvenāti balena.
礼敬そのものが「礼敬より成るもの」であり、「布施より成るもの、持戒より成るもの」(長部3.305、如是語経60)というのと同様である。そしてここでの礼敬とは、身・口・意によって三宝の徳に傾倒すること、あるいは讃嘆することである。敬重されるべき生(果報)の果を生じさせるゆえに「功徳(puñña)」であり、あるいは自らの連続を清める(punāti)ゆえである。「障害を完全に取り除かれた(suvihatantarāyo)」とは、よく障害を打ち破られたということである。これによって自身の信仰の成就と三宝の福田たる成就により、その功徳は教義の開示を妨害する災厄を打ち破る力をもつことを示している。「〜となって(hutvā)」とは前時動詞(先行動作)である。これには「意味を明らかにせん」という言葉と関連がある。「その(tassa)」とは、三宝への礼敬から成るその功徳の、という意味である。「威力によって(ānubhāvena)」とは力によって、という意味である。
5. Evaṃ ratanattayassa nipaccakāre payojanaṃ dassetvā idāni yassā dhammadesanāya atthaṃ saṃvaṇṇetukāmo, tassā tāva guṇābhitthavanavasena upaññāpanatthaṃ **‘‘majjhimapamāṇasuttaṅkitassā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha majjhimapamāṇasuttaṅkitassāti nātidīghanātikhuddakapamāṇehi suttantehi lakkhitassa. Yathā hi dīghāgame dīghapamāṇāni suttāni, yathā ca saṃyuttaṅguttarāgamesu dvīsu khuddakapamāṇāni, na evaṃ idha. Idha pana pamāṇato majjhimāni suttāni. Tena vuttaṃ ‘‘majjhimapamāṇasuttaṅkitassāti nātidīghanātikhuddakapamāṇehi suttantehi lakkhitassati attho’’ti. Etena ‘‘majjhimo’’ti ayaṃ imassa atthānugatasamaññāti dasseti. Nanu ca suttāni eva āgamo, kassa pana suttehi aṅkananti? Saccametaṃ paramatthato, suttāni pana upādāya paññatto āgamo. Yatheva hi atthabyañjanasamudāye ‘‘sutta’’nti vohāro, evaṃ suttasamudāye ayaṃ ‘‘āgamo’’ti vohāro. Idhāti imasmiṃ sāsane. Āgamissanti ettha, etena etasmā vā attatthaparatthādayoti āgamo, ādikalyāṇādiguṇasampattiyā uttamaṭṭhena taṃtaṃabhipatthitasamiddhihetutāya paṇḍitehi varitabbato varo, āgamo ca so varo cāti āgamavaro. Āgamasammatehi vā varoti āgamavaro, majjhimo ca so āgamavaro cāti majjhimāgamavaro, tassa.
5. このように三宝への敬礼における目的を示し、今やその意味を解説しようと欲するその法の教示に対して、まずその徳の讃嘆を通じて紹介するために「中庸なる分量の経によって特徴づけられた」等と説かれた。そこにおいて「中庸なる分量の経によって特徴づけられた」とは、長すぎず短すぎない分量の経典によって特徴づけられた、という意味である。長阿含において長大な分量の経典があり、相応部や増支部の二つの阿含において短い分量の経典があるようには、ここではそうではない。ここでは分量において中庸な経典である。それゆえに「中庸なる分量の経によって特徴づけられたとは、長すぎず短すぎない分量の経典によって特徴づけられたという意味である」と説かれた。これによって「中庸(majjhima)」というこれが、この(経典集の)意味に合致した名称であることを示している。「経典そのものが阿含(聖典集)ではないか。なぜ経典によって特徴づけられるのか」と問うかもしれない。勝義においては確かにその通りであるが、経典に基づいて阿含と名づけられたのである。義と文字の集まりに「経」という呼称があるように、経典の集まりにこの「阿含」という呼称があるからである。「ここにおいて(idha)」とはこの仏教(教え)においてである。「この聖典において、これによって、あるいはこれより自己の利益や他者の利益等に至る(āgamissanti)」ゆえに「阿含(āgama)」であり、初めの善等の徳の成就によって最上という意味で、それぞれが願う達成の因となるゆえに賢者たちによって選ばれるべきものであるから「勝れたもの(vara)」であり、阿含であり勝れたものであるゆえに「勝阿含(āgamavara)」である。あるいは阿含として認められたものの中で勝れているゆえに「勝阿含」であり、中庸でありその勝阿含であるゆえに「中阿含(majjhimāgamavara)」であり、その(中阿含の)という意味である。
Buddhānaṃ anubuddhānaṃ buddhānubuddhā, buddhānaṃ saccapaṭivedhaṃ anugamma paṭividdhasaccā aggasāvakādayo ariyā. Tehi atthasaṃvaṇṇanāguṇasaṃvaṇṇanānaṃ vasena saṃvaṇṇitassa. Atha vā buddhā ca anubuddhā ca buddhānubuddhāti yojetabbaṃ. Sammāsambuddheneva hi vinayasuttābhidhammānaṃ pakiṇṇakadesanādivasena yo paṭhamaṃ attho vibhatto, so eva pacchā tassa tassa saṃvaṇṇanāvasena saṅgītikārehi saṅgahaṃ āropitoti. Paravādamathanassāti aññatitthiyānaṃ vādanimmathanassa, tesaṃ diṭṭhigatabhañjanassāti attho. Ayañhi āgamo mūlapariyāyasuttasabbāsavasuttādīsu diṭṭhigatikānaṃ diṭṭhigatadosavibhāvanato saccakasuttaṃ (ma. ni. 1.353) upālisuttādīsu (ma. ni. 2.56) saccakādīnaṃ micchāvādanimmathanadīpanato visesato ‘‘paravādamathano’’ti thomitoti. Saṃvaṇṇanāsu cāyaṃ ācariyassa pakati, yā taṃtaṃsaṃvaṇṇanāsu ādito tassa tassa saṃvaṇṇetabbassa dhammassa visesaguṇakittanena thomanā. Tathā hi sumaṅgalavilāsinīsāratthapakāsinīmanorathapūraṇīsu aṭṭhasālinīādīsu ca yathākkamaṃ ‘‘saddhāvahaguṇassa, ñāṇappabhedajananassa, dhammakathikapuṅgavānaṃ vicittapaṭibhānajananassa, tassa gambhīrañāṇehi ogāḷhassa abhiṇhaso nānānayavicittassa abhidhammassā’’tiādinā thomanā katā.
仏たちに従って覚った者たちが「仏に従いて覚りし者たち(buddhānubuddhā)」であり、仏たちの聖諦の通達に続いて諸諦を通達した筆頭弟子たちをはじめとする聖者たちである。彼らによって意味の解説や徳の讃嘆を通じて「讃嘆された」のである。あるいは「仏たちと、仏に従いて覚りし者たち」と結合すべきである。正等覚者によって律・経・阿毘達磨の雑多な説法等を通じて最初に分別されたその意味こそが、後にそれぞれの解説を通じて結集者たちによって結集に載せられたからである。「他説を粉砕せる」とは、他の外道たちの説を粉砕する、彼らの悪見を粉砕するという意味である。実にこの阿含は、根本法門経や一切漏経等において悪見をもつ者たちの悪見の過失を明らかにし、サッチャカ経(中部1.353)やウパーリ経(中部2.56)等においてサッチャカらの邪説を粉砕することを明示していることから、とりわけ「他説を粉砕せるもの」と讃嘆されるのである。そしてそれぞれの解説の冒頭において、その解説されるべき法の特別な徳を讃えることによって讃嘆することは、阿闍梨(論師)の慣例である。実に吉祥悦意(長部註)、顕揚真義(相応部註)、意願充足(増支部註)、勝義開覧(阿毘達磨註)等において、順に「信仰をもたらす徳をもつ」「智慧の分類を生み出す」「説法者の第一人者たちに多彩な弁才を生み出す」「深遠な智慧によって深入りされ、常に種々の論理によって多彩である阿毘達磨の」等と讃嘆がなされているのである。
6. Attho kathīyati etāyāti atthakathā, sā eva aṭṭhakathā ttha-kārassa ṭṭha-kāraṃ katvā yathā ‘‘dukkhassa pīḷanaṭṭho’’ti (paṭi. ma. 1.17; 2.8) āditotiādimhi paṭhamasaṅgītiyaṃ. Chaḷabhiññatāya paramena cittissariyabhāvena samannāgatattā jhānādīsu pañcavidhavasitāsabbhāvato ca vasino, therā mahākassapādayo. Tesaṃ satehi pañcahi. Yāti yā aṭṭhakathā. Saṅgītāti atthaṃ pakāsetuṃ yuttaṭṭhāne ‘‘ayaṃ etassa attho, ayaṃ etassa attho’’ti saṅgahetvā vuttā. Anusaṅgītā ca yasattherādīhi pacchāpi dutiyatatiyasaṅgītīsu. Iminā attano saṃvaṇṇanāya āgamanasuddhiṃ dasseti.
6. これによって意味(attha)が語られる(kathīyati)ゆえに「義釈(atthakathā)」であり、それがtha音をṭha音に変えて「義注(aṭṭhakathā)」となる。「苦の圧迫の意味」などとあるように、第一結集において(語られた)。六神通をもつことによって最高の心における自在性を具足しているため、また禅定等における五種の自在性をもつがゆえに「自在の者たち(vasino)」であり、大カッサパをはじめとする長老たちである。彼ら五百人によって。どれがというと、いかなる義注であれ。「結集された」とは、意味を明らかにするのに適切な場所において「これがこれの意味であり、これがこれの意味である」と総括して語られたということである。またヤサ長老らによって後にも第二・第三結集において「再結集された」。これによって自らの解説の伝承の清浄さを示している。
7. Sīhassa lānato gahaṇato sīhaḷo, sīhakumāro. Taṃvaṃsajātatāya tambapaṇṇidīpe khattiyānaṃ, tesaṃ nivāsatāya tambapaṇṇidīpassa ca sīhaḷabhāvo veditabbo. Ābhatāti jambudīpato ānītā. Athāti pacchā. Aparabhāge hi nikāyantaraladdhīhi asaṅkaratthaṃ sīhaḷabhāsāya aṭṭhakathā ṭhapitāti. Tena mūlaṭṭhakathā sabbasādhāraṇā na hotīti idaṃ atthappakāsanaṃ ekantena karaṇīyanti dasseti. Tenevāha **‘‘dīpavāsīnamatthāyā’’**ti. Tattha dīpavāsīnanti jambudīpavāsīnaṃ, sīhaḷadīpavāsīnaṃ vā atthāya sīhaḷabhāsāya ṭhapitāti yojanā.
7. 「獅子(sīha)を殺した(lānato)、捕えた(gahaṇato)ゆえに、シーハラ(獅子の子孫たる王子)である。その家系に生じたことによってタンバパンニ島の王統の者たち、また彼らの居住地であることによってタンバパンニ島もシーハラ(シンハラ)と呼ばれると知るべきである。「もたらされた(ābhatā)」とは、ジャンブディーパ(閻浮提・インド本土)から運ばれたということである。「そして(atha)」とは、その後にということである。実に後代において、他の部派の見解と混同しないために、シンハラ語によって義釈(アッタカター)が置かれたのである。それゆえに根本の義釈は全般に共通するものとはならず、この義の開示(註釈書の編纂)は絶対になされるべきであると示すのである。それゆえに「**島に住む者たちのために**」と言われたのである。そこにおいて、「島に住む者たちのために」とは、ジャンブディーパに住む者たちのため、あるいはシンハラ島に住む者たちのために、シンハラ語で置かれた、と解釈される。
8. Apanetvānāti kañcukasadisaṃ sīhaḷabhāsaṃ apanetvā. Tatoti aṭṭhakathāto. Ahanti attānaṃ niddisati, manoramaṃ bhāsanti māgadhabhāsaṃ. Sā hi sabhāvaniruttibhūtā paṇḍitānaṃ manaṃ ramayatīti. Tenevāha **‘‘tantinayānucchavika’’**nti, pāḷigatiyā anulomikaṃ pāḷibhāsāyānuvidhāyininti attho. Vigatadosanti asabhāvaniruttibhāsantararahitaṃ.
8. 「取り除いて(apanetvāna)」とは、上着(外皮)のようなシンハラ語を取り除いて。「そこから(tato)」とは、義釈から。「私(ahaṃ)」とは、自らを指し示している。「喜ばしい言語(manoramaṃ bhāsaṃ)」とは、マガダ語(パーリ語)のことである。実にそれは、本質的な言語表現であり、賢者たちの心を喜ばせるからである。それゆえに「**聖典の理法に相応しい**」と言われたのであり、聖典(パーリ)の流儀に順応し、パーリ語に随順するものである、という意味である。「誤りなき(vigatadosaṃ)」とは、本来の言語表現ではない他の言語を離れた、ということである。
9. Samayaṃ avilomentoti siddhantaṃ avirodhento. Etena atthadosābhāvamāha. Aviruddhattā eva hi theravādāpi idha pakāsīyissanti. Theravaṃsadīpānanti thirehi sīlakkhandhādīhi samannāgatattā therā, mahākassapādayo. Tehi āgatā ācariyaparamparā theravaṃso, tappariyāpannā hutvā āgamādhigamasampannattā paññāpajjotena tassa samujjalanato theravaṃsadīpā, mahāvihāravāsino, tesaṃ. Vividhehi ākārehi nicchīyatīti vinicchayo, gaṇṭhiṭṭhānesu khīlamaddanākārena pavattā vimaticchedanī kathā. Suṭṭhu nipuṇo saṇho vinicchayo etesanti sunipuṇavinicchayā. Atha vā vinicchinotīti vinicchayo, yathāvuttatthavisayaṃ ñāṇaṃ. Suṭṭhu nipuṇo cheko vinicchayo etesanti yojetabbaṃ. Etena mahākassapāditheraparamparābhato, tato eva ca aviparīto saṇho sukhumo mahāvihāravāsīnaṃ vinicchayoti tassa pamāṇabhūtataṃ dasseti.
9. 「教理に違背せず(samayaṃ avilomento)」とは、定立された教義に矛盾しないことである。これによって義の欠陥がないことを語っている。矛盾しないからこそ、長老たちの所説(テーラワーダ)もここに開示されるであろう。「長老の法統を照らす者たち(theravaṃsadīpānaṃ)」とは、堅固な戒蘊などを具足しているがゆえに長老(テーラ)と呼ばれる、マハーカッサパ(大迦葉)をはじめとする者たちである。彼らによって継承された師資相承が「長老の法統(テーラヴァンサ)」であり、それに属して阿含(経説)と証得(修行の成就)を兼ね備えているゆえに、智慧の灯火によってそれを輝かせることから「長老の法統を照らす者たち」、すなわち大寺派(マハーヴィハーラ)の住者たち、彼らのことである。「多様な様態によって決定される」ゆえに「決疑(vinicchaya)」であり、難解な箇所において楔を打つように働いて疑念を断ち切る議論のことである。極めて精緻で微細な決疑を持つ者たちゆえに「極めて精巧なる決疑者たち」である。あるいは「決定する」ゆえに「決疑」であり、上述の義を対象とする智慧のことである。「極めて精細で巧みな決疑を持つ者たち」と結びつけられるべきである。これによって、マハーカッサパをはじめとする長老の相承からもたらされ、それゆえに転倒することのない、大寺派の住者たちの微細で精妙な決疑こそが、権威ある規範であることを示している。
10. Sujanassa cāti ca-saddo sampiṇḍanattho. Tena ‘‘na kevalaṃ jambudīpavāsīnameva atthāya, atha kho sādhujanatosanatthañcā’’ti dasseti. Tena ca ‘‘tambapaṇṇidīpavāsīnampi atthāyā’’ti ayamattho siddho hoti uggahaṇādisukaratāya tesampi bahukārattā. Ciraṭṭhitatthanti ciraṭṭhitiatthaṃ, cirakālaṭṭhitiyāti attho. Idañhi atthappakāsanaṃ aviparītapadabyañjanasunikkhepassa atthasunayassa ca upāyabhāvato saddhammassa ciraṭṭhitiyā saṃvattati. Vuttañhetaṃ bhagavatā ‘‘dveme, bhikkhave, dhammā saddhammassa ṭhitiyā asammosāya anantaradhānāya saṃvattanti. Katame dve? Sunnikkhittañca padabyañjanaṃ attho ca sunīto’’ti (a. ni. 2.20).
10. 「また善き人々の(sujanassa ca)」の「また(ca)」という語は、包括の義である。これによって「単にジャンブディーパの住者たちのためだけではなく、実に善き人々を歓喜させるためでもある」と示している。そしてこれによって「タンバパンニ島の住者たちのためにもなる」というこの義が成立する。学習などが容易になることによって彼らにも大いに益となるからである。「永続のために(ciraṭṭhitatthaṃ)」とは、久しく存続することを目的とする、久遠の存続のために、という意味である。実にこの義の開示は、転倒なき語句・文字の正しい配置と、正しく導かれた義の手段となるがゆえに、正法の永続に資するのである。実にこれは世尊によって次のように説かれている。「比丘たちよ、これら二つの法は、正法を存続させ、混乱させず、滅失させないことに資する。いかなる二つか? 正しく配置された語句・文字と、正しく導かれた義である」(増支部2.20)と。
11. Yaṃ atthavaṇṇanaṃ kattukāmo, tassā mahattaṃ pariharituṃ **‘‘sīlakathā’’**tiādi vuttaṃ. Tenevāha ‘‘na taṃ idha vicārayissāmī’’ti. Atha vā yaṃ aṭṭhakathaṃ kattukāmo, tadekadesabhāvena visuddhimaggo gahetabboti kathikānaṃ upadesaṃ karonto tattha vicāritadhamme uddesavasena dasseti **‘‘sīlakathā’’**tiādinā. Tattha sīlakathāti cārittavārittādivasena sīlassa vitthārakathā. Dhutadhammāti piṇḍapātikaṅgādayo terasa kilesadhunanakadhammā. Kammaṭṭhānāni sabbānīti pāḷiyaṃ āgatāni aṭṭhatiṃsa, aṭṭhakathāyaṃ dveti niravasesāni yogakammassa bhāvanāya pavattiṭṭhānāni. Cariyāvidhānasahitoti rāgacaritādīnaṃ sabhāvādividhānena sahito. Jhānāni cattāri rūpāvacarajjhānāni, samāpattiyo catasso arūpasamāpattiyo. Aṭṭhapi vā paṭiladdhamattāni jhānāni, samāpajjanavasībhāvappattiyā samāpattiyo. Jhānāni vā rūpārūpāvacarajjhānāni, samāpattiyo phalasamāpattinirodhasamāpattiyo.
11. 作そうと欲する義釈の、その偉大さを表明するために「**戒の説明**」等と説かれた。それゆえに「それをここにおいて論究することはしない」と言われたのである。あるいは、作そうと欲する義釈の、その一部分として『清浄道論(ヴィスッディマッガ)』が把握されるべきであると論者たちに指南しつつ、そこにおいて論究された法を概要として「**戒の説明**」等によって示すのである。そこにおいて、「戒の説明」とは、作持(行なうべき戒)や止持(避けるべき戒)などによる戒の詳細な説明である。「頭陀の法(dhutadhammā)」とは、托鉢食者支などの十三の煩悩を払い落とす法である。「すべての業処(kammaṭṭhānāni sabbāni)」とは、パーリ聖典に来る三十八と義釈に来る二つの、欠けることのないヨーガの行(瞑想)の修習の適用対象である。「行相の分別を伴う」とは、貪行者などの性格(性行)や性質の分別を伴うということである。「禅定(jhānāni)」とは四つの色界禅であり、「等至(samāpattiyo)」とは四つの無色界等至である。あるいは、八つすべてが得られたばかりの段階では禅定であり、自在に等至する力を得た境地では等至である。あるいは、禅定とは色界・無色界禅であり、等至とは果等至・滅尽等至である。
12. Lokiyalokuttarabhedā cha abhiññāyo sabbā abhiññāyo. Ñāṇavibhaṅgādīsu (vibha. 751) āgatanayena ekavidhādinā paññāya saṃkaletvā sampiṇḍetvā nicchayo paññāsaṅkalananicchayo.
12. 世間的・出世間的に分かれる六つの神通が「すべての神通」である。『分別論』の智分別などに説かれる理趣に従い、一種類などの様態によって智慧を総括し包摂して決定することが「智慧の総括の決定」である。
13. Paccayadhammānaṃ hetādīnaṃ paccayuppannadhammānaṃ hetupaccayādibhāvo paccayākāro, tassa desanā paccayākāradesanā, paṭiccasamuppādakathāti attho. Sā pana nikāyantaraladdhisaṅkararahitatāya suṭṭhu parisuddhā, ghanavinibbhogassa sudukkaratāya nipuṇā saṇhasukhumā, ekattanayādisahitā ca tattha vicāritāti āha **‘‘suparisuddhanipuṇanayā’’**ti. Paṭisambhidādīsu āgatanayaṃ avissajjetvāva vicāritattā avimuttatantimaggā.
13. 因などの縁となる諸法の、縁から生じた諸法に対する因縁などとしてのあり方が「縁の様態」であり、その教示が「縁相の教説」、すなわち十二縁起の説明という意味である。そしてそれは、異部派の所見の混入がないために極めて清浄であり、個別の識別が極めて困難であるために精緻で微細であり、一性(同一性)の理趣などを備えてそこにおいて論究されているがゆえに、「**極めて清浄で精緻な理趣をもつ**」と言われる。無礙解道などに説かれる理趣を遺脱することなく論究されているゆえに「聖典の道筋を離れていない」のである。
14. Iti pana sabbanti iti-saddo parisamāpane, pana-saddo vacanālaṅkāre, etaṃ sabbanti attho. Idhāti imissā aṭṭhakathāya. Na taṃ vicārayissāmi punaruttibhāvatoti adhippāyo.
14. 「このように、すべてを(iti pana sabbaṃ)」において、「このように(iti)」の語は結びの義、「実に(pana)」の語は語調を整える修辞(装飾)であり、「このすべてを」という意味である。「ここにおいて(idha)」とは、この義釈において。「それを論究しない」とは、重複となるためである、というのが趣旨である。
15. Idāni tasseva avicāraṇassa ekantakāraṇaṃ niddhārento **‘‘majjhe visuddhimaggo’’**tiādimāha. Tattha ‘‘majjhe ṭhatvā’’ti etena majjhaṭṭhabhāvadīpanena visesato catunnaṃ āgamānaṃ sādhāraṇaṭṭhakathā visuddhimaggo, na sumaṅgalavilāsinīādayo viya asādhāraṇaṭṭhakathāti dasseti. ‘‘Visesato’’ti ca idaṃ vinayābhidhammānampi visuddhimaggo yathārahaṃ atthavaṇṇanā hoti evāti katvā vuttaṃ.
15. 今や、その論究を行わない絶対の理由を確定しつつ「**中央にあって清浄道論が**」等と述べた。そこにおいて「中央にあって(majjhe ṭhatvā)」とは、中立の立場を示すことによって、特に四つの阿含(ニカーヤ)に共通する義釈が『清浄道論』であり、『善吉祥荘厳(スマガラヴィラーシニー)』などのような固有の義釈ではない、と示している。また「特に」とあるのは、律や論(アビダルマ)に対しても『清浄道論』はしかるべく義釈となっているからこそ、このように言われたのである。
16. Iccevāti iti eva. Tampīti visuddhimaggampi. Etāyāti papañcasūdaniyā. Ettha ca ‘‘sīhaḷadīpaṃ ābhatā’’tiādinā aṭṭhakathākaraṇassa nimittaṃ dasseti, ‘‘dīpavāsīnamatthāya, sujanassa ca tuṭṭhatthaṃ, ciraṭṭhitatthañca dhammassā’’ti etena payojanaṃ, ‘‘majjhimāgamavarassa atthaṃ pakāsayissāmī’’ti etena piṇḍatthaṃ, ‘‘apanetvāna tatohaṃ sīhaḷabhāsa’’ntiādinā, ‘‘sīlakathā’’tiādinā ca karaṇappakāraṃ. Sīlakathādīnaṃ avicāraṇampi hi idha karaṇappakāro evāti.
16. 「このように(icceva)」とは、「iti eva」のことである。「その〜をも(tampi)」とは、『清浄道論』をも。「これによって(etāya)」とは、『破邪顕正(パパンチャスーダニー)』によって。そしてここにおいて、「シンハラ島にもたらされた」等によって義釈を作成する動機(縁由)を示し、「島に住む者たちのため、善き人を喜ばせるため、法の永続のため」によって目的を示し、「優れた中部阿含の義を開示しよう」によって総括的な趣旨を示し、「そこから私はシンハラ語を取り除いて」等、また「戒の説明」等によって作成の方法を示している。戒の説明などをここで重ねて論究しないこともまた、実に作成の方法そのものであるからである。
Ganthārambhakathāvaṇṇanā niṭṭhitā.
書の端緒の説明の註記を終わる。
Nidānakathāvaṇṇanā
序論の説明の註記
1. Vibhāgavantānaṃ sabhāvavibhāvanaṃ vibhāgadassanamukheneva hotīti paṭhamaṃ tāva paṇṇāsavaggasuttādivasena majjhimāgamassa vibhāgaṃ dassetuṃ **‘‘tattha majjhimasaṅgīti nāmā’’**tiādimāha. Tattha tatthāti yaṃ vuttaṃ ‘‘majjhimāgamavarassa atthaṃ pakāsayissāmī’’ti, tasmiṃ vacane. Yā majjhimāgamapariyāyena majjhimasaṅgīti vuttā, sā paṇṇāsādito edisāti dasseti ‘‘majjhimasaṅgīti nāmā’’tiādinā. Tatthāti vā ‘‘etāya aṭṭhakathāya vijānātha majjhimasaṅgītiyā attha’’nti ettha yassā majjhimasaṅgītiyā atthaṃ vijānāthāti vuttaṃ, sā majjhimasaṅgīti nāma paṇṇāsādito edisāti dasseti. Pañca dasakā paṇṇāsā, mūle ādimhi paṇṇāsā, mūlabhūtā vā paṇṇāsā mūlapaṇṇāsā. Majjhe bhavā majjhimā, majjhimā ca sā paṇṇāsā cāti majjhimapaṇṇāsā. Upari uddhaṃ paṇṇāsā uparipaṇṇāsā. Paṇṇāsattayasaṅgahāti paṇṇāsattayaparigaṇanā.
1. 区分を持つものたちの本質を解明することは、区分を示すことを端緒としてのみ可能であるから、まずもって五十経篇・品・経などの区分によって中部阿含の区分を示すために「**そこにおいて、中部結集とは**」等と述べた。そこにおいて「そこにおいて(tattha)」とは、「優れた中部阿含の義を開示しよう」と言われた、その言葉において、ということである。中部阿含の同義語として説かれた中部結集が、五十経篇などから見てどのようなものであるかを「中部結集とは」等によって示している。あるいは「そこにおいて」とは、「この義釈によって中部結集の義を知れ」という文脈において、「その義を知れ」と言われた中部結集とは、五十経篇などから見てどのようなものであるかを示している。五つの十経(五十)が「五十(paṇṇāsā)」であり、根源たる初めにおける五十、あるいは根本となった五十が「根本五十経篇(mūlapaṇṇāsā)」である。中央にあるものが「中部(majjhimā)」であり、中部であり五十であるから「中部五十経篇(majjhimapaṇṇāsā)」である。上(後半)にある五十が「後部五十経篇(uparipaṇṇāsā)」である。「三つの五十篇の包摂(paṇṇāsattayasaṅgahā)」とは、三つの五十篇の総計のことである。
Ayaṃ saṅgaho nāma jātisañjātikiriyāgaṇanavasena catubbidho. Tattha ‘‘yā cāvuso visākha, sammāvācā, yo ca sammākammanto, yo ca sammāājīvo, ime dhammā sīlakkhandhe saṅgahitā’’ti (ma. ni. 1.462) ayaṃ jātisaṅgaho. ‘‘Yo cāvuso visākha, sammāvāyāmo. Yā ca sammāsati, yo ca sammāsamādhi, ime dhammā samādhikkhandhe saṅgahitā’’ti ayaṃ sañjātisaṅgaho. ‘‘Yā cāvuso visākha, sammādiṭṭhi, yo ca sammāsaṅkappo, ime dhammā paññākkhandhe saṅgahitā’’ti ayaṃ kiriyāsaṅgaho. ‘‘Hañci cakkhāyatanaṃ rūpakkhandhagaṇanaṃ gacchati, tena vata re vattabbe cakkhāyatanaṃ rūpakkhandhena saṅgahita’’nti (kathā. 471) ayaṃ gaṇanasaṅgaho. Ayameva ca idhādhippeto. Tena vuttaṃ ‘‘paṇṇāsattayasaṅgahāti paṇṇāsattayaparigaṇanā’’ti.
この「包摂(saṅgaha)」には、同類・成因・作用・計算による四種類がある。そこにおいて、「友ヴィサカーよ、正語、正業、正命、これらの法は戒蘊に包摂される」(中部1.462)というのは「同類の包摂」である。「友ヴィサカーよ、正精進、正念、正定、これらの法は定蘊に包摂される」というのは「成因の包摂」である。「友ヴィサカーよ、正見、正思惟、これらの法は慧蘊に包摂される」というのは「作用の包摂」である。「もし眼処が色蘊の計算に入るならば、実にそれによって眼処は色蘊によって包摂されると言われるべきである」(論事471)というのは「計算の包摂」である。そしてここではまさにこれ(計算の包摂)が意図されている。それゆえに「三つの五十篇の包摂とは、三つの五十篇の総計である」と言われたのである。
Vaggatoti samūhato, so panettha dasakavasena veditabbo. Yebhuyyena hi sāsane dasake vaggavohāro. Tenevāha **‘‘ekekāya paṇṇāsāya pañca pañca vagge katvā’’**ti. Pannarasavaggasamāyogāti pannarasavaggasaṃyogāti attho. Keci pana samāyogasaddaṃ samudāyatthaṃ vadanti. Padatoti ettha aṭṭhakkharo gāthāpādo ‘‘pada’’nti adhippeto, tasmā ‘‘akkharato cha akkharasatasahassāni caturāsītuttarasatādhikāni catucattālīsa sahassāni ca akkharānī’’ti pāṭhena bhavitabbanti vadanti. Yasmā pana navakkharo yāva dvādasakkharo ca gāthāpādo saṃvijjati, tasmā tādisānampi gāthānaṃ vasena aḍḍhateyyagāthāsataṃ bhāṇavāro hotīti katvā **‘‘akkharato satta akkharasatasahassāni cattālīsañca sahassāni tepaññāsañca akkharānī’’**ti vuttaṃ. Evañhi padabhāṇavāragaṇanāhi akkharagaṇanā saṃsandati, netarathā. Bhāṇavāroti ca dvattiṃsakkharānaṃ gāthānaṃ vasena aḍḍhateyyagāthāsataṃ, ayañca akkharagaṇanā bhāṇavāragaṇanā ca padagaṇanānusārena laddhāti veditabbā. Imameva hi atthaṃ ñāpetuṃ suttagaṇanānantaraṃ bhāṇavāre agaṇetvā padāni gaṇitāni. Tatridaṃ vuccati –
「品(ヴァッガ)によって」とは、集まりによるということであり、それはここにおいては十経単位として知られるべきである。教団(聖教)においては概して十経ごとに「品」と呼ぶからである。それゆえに「**それぞれの五十経篇に五つずつの品を設けて**」と言われたのである。「十五の品の結合(pannarasavaggasamāyogā)」とは、十五の品の構成という意味である。ある者たちは結合(samāyoga)という語を集まり(集成)の義であると言う。「句(pada)によって」において、ここでは八文字の詩句(パーダ)が「句」として意図されている。それゆえに「文字数としては六十四万四千百八十四文字」という読誦文であるべきだ、と彼らは言う。しかしながら、九文字から十二文字に及ぶ詩句も存在するため、そのような詩(偈頌)を基準として二百五十の偈頌が一つの誦読単位(バーナワーラ)となることから、「**文字数としては七十四万五十三文字**」と説かれたのである。このようにしてこそ句数と誦読単位の計算に文字数の計算が合致するのであり、そうでなければ合致しない。誦読単位とは、三十二文字の偈頌を基準とした二百五十の偈頌のことであり、この文字数の計算および誦読単位の計算は、句数の計算に従って得られたものであると知るべきである。実にまさにこの義を知らせるために、経の総数の直後に誦読単位を数えずに、まず句数を数えたのである。これに関して次のように言われる——
‘‘Bhāṇavārā yathāpi hi, majjhimassa pakāsitā;
「実に中部のために誦読単位が 開示されたように、
Upaḍḍhabhāṇavāro ca, tevīsatipadādhiko.
半誦読単位と、 二十三句が余分にある。
Satta satasahassāni, akkharānaṃ vibhāvaye;
文字としては七十万を 解明すべきであり、
Cattālīsa sahassāni, tepaññāsañca akkhara’’nti.
四万と、 五十三文字である」と。
Anusandhitoti desanānusandhito. Ekasmiṃ eva hi sutte purimapacchimānaṃ desanābhāgānaṃ sambandho anusandhānato anusandhi. Ettha ca attajjhāsayānusandhi parajjhāsayānusandhīti duvidho ajjhāsayānusandhi. So pana katthaci desanāya vippakatāya dhammaṃ suṇantānaṃ pucchāvasena, katthaci desentassa satthu sāvakassa dhammapaṭiggāhakānañca ajjhāsayavasena, katthaci desetabbassa dhammassa vasena hotīti samāsato tippakāro. Tena vuttaṃ **‘‘pucchānusandhiajjhāsayānusandhiyathānusandhivasena saṅkhepato tividho anusandhī’’**ti. Saṅkhepeneva ca catubbidho anusandhi veditabbo. Tattha ‘‘evaṃ vutte aññataro bhikkhu bhagavantaṃ etadavoca ‘kiṃ nu kho, bhante, orimaṃ tīraṃ, kiṃ pārimaṃ tīraṃ, ko majjhe saṃsīdo, ko thale ussādo, ko manussaggāho, ko amanussaggāho, ko āvattaggāho, ko antopūtibhāvo’ti’’ (saṃ. ni. 4.241)? Evaṃ pucchantānaṃ vissajjentena bhagavatā pavattitadesanāvasena pucchānusandhī veditabbo. ‘‘Atha kho aññatarassa bhikkhuno evaṃ cetaso parivitakko udapādi ‘iti kira bho rūpaṃ anattā… vedanā… saññā… saṅkhārā… viññāṇaṃ anattā, anattakatāni kammāni kamattānaṃ phusissantī’ti. Atha kho bhagavā tassa bhikkhuno cetasā cetoparivitakkamaññāya bhikkhū āmantesi ṭhānaṃ kho panetaṃ, bhikkhave, vijjati, yaṃ idhekacco moghapuriso avidvā avijjāgato taṇhādhipateyyena cetasā satthusāsanaṃ atidhāvitabbaṃ maññeyya ‘iti kira bho rūpaṃ anattā…pe… phusissantī’ti. Taṃ kiṃ maññatha, bhikkhave, rūpaṃ niccaṃ vā aniccaṃ vā’’ti (ma. ni. 3.90) evaṃ paresaṃ ajjhāsayaṃ viditvā bhagavatā pavattitadesanāvasena parajjhāsayānusandhi veditabbo.
「文脈(anusandhi)によって」とは、説法の文脈(接続)によってということである。一つの経において、前後の説法の部分の結びつき、連結によるものが「文脈」である。そしてここにおいて、自らの意図による文脈と、他者の意図による文脈という二種の意図による文脈がある。しかしそれは、ある箇所では説法が進行している途中で法を聴聞する者たちの質問によるもの、ある箇所では説示する師、弟子、および法を受け取る者たちの意図によるもの、ある箇所では説かれるべき法そのものの性質によるものがあるため、要約すれば三種類である。それゆえに「**質問の文脈、意図の文脈、および自然の文脈により、要約すれば三種の文脈がある**」と言われたのである。また要約して四種の文脈としても知られるべきである。そこにおいて、「このように言われたとき、ある比丘が世尊にこのように申し上げた。『尊者よ、こちらの岸とは何ですか、あちらの岸とは何ですか、中央で沈むこととは何ですか、陸に打ち上げられることとは何ですか、人に捕えられることとは何ですか、非人に捕えられることとは何ですか、渦に巻き込まれることとは何ですか、内部が腐敗することとは何ですか』」(相応部4.241)と、このように質問する者たちに答えながら世尊によって行われた説法によるものを「質問の文脈」と知るべきである。「そのとき、ある比丘にこのような心の思惟が生じた。『実に、色には我がない……受には……想には……行には……識には我がない。無我によってなされた業が、いかなる我に触れるというのだろうか』と。そのとき世尊はその比丘の心の思惟を心で知って、比丘たちに呼びかけられた。『比丘たちよ、ここに愚かな者で、無知であり無明に陥り、渇愛に支配された心によって、師の教えを超越すべきだと考えて、「実に、色には我がない……(中略)……触れるというのだろうか」と考える、そのようなことがあり得る。比丘たちよ、それをどう思うか、色は常であるか、無常であるか』」(中部3.90)と、このように他者の意図を知って世尊によって行われた説法によるものを「他者の意図の文脈」と知るべきである。
‘‘Tassa mayhaṃ brāhmaṇa etadahosi ‘yaṃnūnāhaṃ yā tā rattiyo abhiññātā abhilakkhitā cātuddasī pañcadasī aṭṭhamī ca pakkhassa, tathārūpāsu rattīsu yāni tāni ārāmacetiyāni vanacetiyāni rukkhacetiyāni bhiṃsanakāni salomahaṃsāni, tathārūpesu senāsanesu vihareyyaṃ appeva nāmāhaṃ bhayabheravaṃ passeyya’nti’’ (ma. ni. 1.49) evaṃ bhagavatā, ‘‘tatrāvuso lobho ca pāpako doso ca pāpako lobhassa ca pahānāya dosassa ca pahānāya atthi majjhimā paṭipadā, cakkhukaraṇī ñāṇakaraṇī upasamāya abhiññāya sambodhāya nibbānāya saṃvattatī’’ti (ma. ni. 1.33) evaṃ dhammasenāpatinā ca attano ajjhāsayeneva pavattitadesanāvasena attajjhāsayānusandhi veditabbo. Yena pana dhammena ādimhi desanā uṭṭhitā, tassa anurūpadhammavasena vā paṭipakkhadhammavasena vā yesu suttesu upari desanā āgacchati, tesaṃ vasena yathānusandhi veditabbo. Seyyathidaṃ ākaṅkheyyasutte (ma. ni. 1.65) heṭṭhā sīlena desanā uṭṭhitā, upari abhiññā āgatā. Vatthusutte (ma. ni. 1.70) heṭṭhā kilesena desanā uṭṭhitā, upari brahmavihārā āgatā. Kosambakasutte (ma. ni. 1.491) heṭṭhā bhaṇḍanena desanā uṭṭhitā, upari sāraṇīyadhammā āgatā. Kakacūpame (ma. ni. 1.222) heṭṭhā akkhantiyā vasena desanā uṭṭhitā, upari kakacūpamā āgatāti.
「『バラモンよ、その私にこのような考えが生じた。「よく知られ、定められた夜である十四日、十五日、および月の八日に、そのような夜に、恐ろしく身の毛のよだつような林の霊樹、森の霊樹、樹木の霊樹、そのような住居に住んでみようではないか。そうすれば恐怖や戦慄を目の当たりにするかもしれない」と』」(中部1.49)とこのように世尊によって、また「『友らよ、そこにおいて貪欲も悪しきものであり、瞋恚も悪しきものである。貪欲を断ずるため、瞋恚を断ずるために中道があり、それは眼を開き、智を生じ、静寂、神通、正覚、涅槃に資するものである』」(中部1.33)とこのように法将(サーリプッタ)によって、自らの意図のみによって行われた説法によるものを「自らの意図の文脈」と知るべきである。一方、冒頭で教説が引き起こされたその法に応じて、あるいはそれに相応する法によって、あるいは対治すべき反対の法によって、後半の説法が展開されている経典における文脈を「自然の(法に応じた)文脈」と知るべきである。例えば『欲願経』(中部1.65)では、前半は戒によって説法が起こり、後半には神通が現れる。『布喩経』(中部1.70)では、前半は煩悩によって説法が起こり、後半には四無量心(梵住)が現れる。『拘睒弥経』(中部1.491)では、前半は諍いによって説法が起こり、後半には同住相応法(和敬法)が現れる。『鋸喩経』(中部1.222)では、前半は不忍耐によって説法が起こり、後半には鋸の譬喩が現れる、というがごときである。
Vitthārato panetthāti evaṃ saṅkhepato tividho catubbidho ca anusandhi ettha etasmiṃ majjhimanikāye tasmiṃ tasmiṃ sutte yathārahaṃ vitthārato vibhajitvā viññāyamānā navasatādhikāni tīṇi anusandhisahassāni honti. Yathā cetaṃ paṇṇāsādivibhāgavacanaṃ majjhimasaṅgītiyā sarūpadassanatthaṃ hoti, evaṃ pakkhepadosapariharaṇatthañca hoti. Evañhi paṇṇāsādīsu vavatthitesu tabbinimuttaṃ kiñci suttaṃ yāva ekaṃ padampi ānetvā imaṃ majjhimasaṅgītiyāti kassaci vattuṃ okāso na siyāti.
「詳細にはここにおいて」とは、このように要約して三種および四種の文脈が、ここ、この中部経典において、それぞれの経においてしかるべく詳細に区分されて理解されるならば、三千九百の文脈となる。そして、この五十経篇などの区分についての記述が、中部結集の自相(本体)を示すためであるのと同様に、偽作や混入の過失を防ぐためでもある。このように五十経篇などが確定されているならば、それから外れたいかなる経も、たとえ一言(一句)であっても付け加えて「これが中部結集のものである」と誰も言う余地がなくなるからである。
Evaṃ paṇṇāsavaggasuttabhāṇavārānusandhibyañjanato majjhimasaṅgītiṃ vavatthapetvā idāni naṃ ādito paṭṭhāya saṃvaṇṇetukāmo attano saṃvaṇṇanāya tassā paṭhamamahāsaṅgītiyaṃ nikkhittānukkameneva pavattabhāvaṃ dassetuṃ **‘‘tattha paṇṇāsāsu mūlapaṇṇāsā ādī’’**tiādimāha. Tattha yathāpaccayaṃ tattha tattha desitattā paññattattā ca vippakiṇṇānaṃ dhammavinayānaṃ saṅgahetvā gāyanaṃ kathanaṃ saṅgīti, mahāvisayattā pūjanīyattā ca mahatī saṅgītīti mahāsaṅgīti, paṭhamā mahāsaṅgīti paṭhamamahāsaṅgīti, tassā pavattitakālo paṭhamamahāsaṅgītikālo, tasmiṃ paṭhamamahāsaṅgītikāle. Nidadāti desanaṃ desakālādivasena aviditaṃ viditaṃ katvā nidassetīti nidānaṃ, yo lokiyehi ‘‘upogghāto’’ti vuccati, svāyamettha ‘‘evaṃ me suta’’ntiādiko gantho veditabbo, na pana ‘‘sanidānāhaṃ, bhikkhave, dhammaṃ desemī’’tiādīsu (a. ni. 3.126) viya ajjhāsayādidesanuppattihetu. Tenevāha **‘‘evaṃ me sutantiādikaṃ āyasmatā ānandena paṭhamamahāsaṅgītikāle vuttaṃ nidānamādī’’**ti. Kāmañcettha yassaṃ paṭhamamahāsaṅgītiyaṃ nikkhittānukkamena saṃvaṇṇanaṃ kattukāmo, sā vitthārato vattabbā. Sumaṅgalavilāsiniyaṃ (dī. ni. ṭī. 1.nidānakathāvaṇṇanā) pana attanā vitthāritattā tattheva gahetabbāti imissā saṃvaṇṇanāya mahantataṃ pariharanto **‘‘sā panesā’’**tiādimāha.
このように、五十経篇・品・経・誦読単位・文脈・文字によって中部結集を確定し、今やそれを最初から順を追って解釈することを望んで、自らの解釈が第一回大結集において置かれた順序に従って進められることを示すために「**そこにおいて、五十経篇の中では根本五十経篇が最初であり**」等と述べた。そこにおいて、それぞれの条件に従ってあちこちで説示され制定されたために散在していた法と律を、集めて誦出すること、語り合うことが「結集(サンギーティ)」であり、広大な領域を扱い恭敬されるべきものであるから「大結集(マハーサンギーティ)」であり、最初のものゆえに「第一回大結集」であり、それが執り行われた時が「第一回大結集の時」、その第一回大結集の時において、ということである。説法を場所や時間などによって未知であったものを既知として提示し指し示すゆえに「因縁・序説(ニダーナ)」であり、世俗の人々によって「緒言・導入」と呼ばれるものであるが、ここにおいては「このように私は聞いた」などの文章(経題・発起の言葉)と知るべきであり、「比丘たちよ、私は因縁(動機)をもって法を説く」(増支部3.126)などにおけるような意図などの教説発生の因のことではない。それゆえに「**『このように私は聞いた』等という、アーナンダ尊者によって第一回大結集の時に語られた序説が初めである**」と言われたのである。もちろんここにおいて、どの第一回大結集において置かれた順序に従って解釈しようとしているのか、その結集について詳細に語られるべきである。しかし『善吉祥荘厳』(長部註釈)において自身により詳しく述べられたため、そこから把握されるべきであるとして、この解釈の過大な膨張を避けつつ「**実にそれは**」等と述べたのである。
Nidānakathāvaṇṇanā niṭṭhitā.
序論の説明の註記を終わる。