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1. Mūlapariyāyavaggo一、 根本法門品

1. Mūlapariyāyasuttavaṇṇanā

一、 根本法門経の説明

Abbhantaranidānavaṇṇanā

内部因縁の説明

1. Evaṃ bāhiranidāne vattabbaṃ atidisitvā idāni abhantaranidānaṃ ādito paṭṭhāya saṃvaṇṇetuṃ **‘‘yaṃ paneta’’**ntiādi vuttaṃ. Tattha yasmā saṃvaṇṇanaṃ karontena saṃvaṇṇetabbe dhamme padavibhāgaṃ padatthañca dassetvā tato paraṃ piṇḍattādidassanavasena saṃvaṇṇanā kātabbā, tasmā padāni tāva dassento **‘‘evanti nipātapada’’**ntiādimāha. Tattha padavibhāgoti padānaṃ viseso, na padaviggaho. Atha vā padāni ca padavibhāgo ca padavibhāgo, padaviggaho ca padavibhāgo ca padavibhāgoti vā ekasesavasena padapadaviggahā padavibhāgasaddena vuttāti veditabbaṃ. Tattha padaviggaho ‘‘subhagañca taṃ vanañcāti subhagavanaṃ, sālānaṃ rājā, sālo ca so rājā ca itipi sālarājā’’tiādivasena samāsapadesu daṭṭhabbo.

1. このように外部因縁(共通の序論)において語るべきことを指示し終えて、今や内部因縁(当該経の序文)を最初から順を追って注釈するために「**しかるにこれについて**」等と述べられた。そこにおいて、注釈を行う者は注釈されるべき法について語の区分と語の意義を示し、その後に総括的な意味などを提示することによって注釈がなされるべきであるから、まず語を示すために「**『このように』とは不変化詞(接頭辞・副詞)の語であり**」等と述べた。そこにおいて「語の区分(padavibhāga)」とは諸語の品詞の識別であり、語の分析的釈義(複合語の分解)ではない。あるいは、諸語とその区分が語の区分であり、語の分析的釈義とその区分が語の区分である、というように同語重複の省略(エーカセーサ)によって、語と分析的釈義が「語の区分」という語で語られていると知るべきである。そこにおける語の分析的釈義は、「美しく(subhaga)かつその森(vana)であるから美林(subhagavana)」、「沙羅樹(sāla)の王、あるいは沙羅樹でありかつその王であるから沙羅樹の王(sālarājā)」などのように複合語において見られるべきである。

Atthatoti padatthato. Taṃ pana padatthaṃ atthuddhārakkamena paṭhamaṃ evaṃsaddassa dassento **‘‘evaṃ-saddo tāvā’’**tiādimāha. Avadhāraṇādīti ettha ādi-saddena idamatthapucchāparimāṇādiatthānaṃ saṅgaho daṭṭhabbo. Tathā hi ‘‘evaṃgatāni puthusippāyatanāni (dī. ni. 1.163), evavidho evamākāro’’ti ca ādīsu idaṃ-saddassa atthe evaṃ-saddo. Gata-saddo hi pakārapariyāyo, tathā vidhākāra-saddā ca. Tathā hi vidhayuttagata-sadde lokiyā pakāratthe vadanti. ‘‘Evaṃ su te sunhātā suvilittā kappitakesamassū āmukkamaṇikuṇḍalābharaṇā odātavatthavasanā pañcahi kāmaguṇehi samappitā samaṅgībhūtā paricārenti, seyyathāpi tvaṃ etarahi sācariyakoti. No hidaṃ, bho gotamā’’tiādīsu (dī. ni. 1.286) pucchāyaṃ. ‘‘Evaṃlahuparivattaṃ (a. ni. 1.48) evamāyupariyanto’’ti (pārā. 12) ca ādīsu parimāṇe.

「義によって(at 試験・意味から)」とは語の義からということである。その語の義を、意味を抽出する順序に従ってまず「このように(evaṃ)」という語について示すために「**『このように』という語はまず**」等と述べた。「限定など(avadhāraṇādi)」において、「など」という語によって「これ(idam)の義」「質問」「分量」などの意味の包摂が見られるべきである。実に「このように(evaṃgatāni)多種多様な技術の分野」(長部1.163)、「このような種類(evavidho)、このような様態(evamākāro)」などにおいて「このように」という語は「これ(idaṃ)」という語の意味である。「〜に至った(gata)」という語は様態の同義語であり、同様に「種類(vidha)」「様態(ākāra)」という語もそうである。実に世間の人々は「vidha」を伴う「gata」という語を様態の義として語るからである。「このように(evaṃ su)彼らはよく浴し、香油を塗り、髪と髭を整え、宝石の耳輪や装身具を身につけ、白い衣を着て、五つの欲望の対象(五欲功徳)を具足し享受して遊楽しているのか、あたかも今そなたが師と共にあるように。『ガウタマよ、そのようなことはありません』」(長部1.286)などにおいては「質問」においてである。「このように敏速に変化する(evaṃlahuparivattaṃ)」(増支部1.48)、「このような寿命の限界(evamāyupariyanto)」(波羅提木叉12)などにおいては「分量」においてである。

Nanu ca ‘‘evaṃ su te sunhātā suvilittā, evamāyupariyanto’’ti ettha evaṃ-saddena pucchanākāraparimāṇākārānaṃ vuttattā ākārattho eva evaṃ-saddoti? Na, visesasabbhāvato. Ākāramattavācako hi evaṃ-saddo ākāratthoti adhippeto yathā ‘‘evaṃ byā kho’’tiādīsu (ma. ni. 1.234, 396), na pana ākāravisesavācako. Evañca katvā ‘‘evaṃ jātena maccenā’’tiādīni upamādiudāharaṇāni upapannāni honti. Tathā hi ‘‘yathāpi…pe… bahu’’nti (dha. pa. 53) ettha puppharāsiṭṭhāniyato manussūpapatti-sappurisūpanissaya-saddhammassavana-yonisomanasikāra- bhogasampatti-ādidānādi-puññakiriyahetusamudāyato sobhā-sugandhatādiguṇayogato mālāguṇasadisiyo pahūtā puññakiriyā maritabbasabhāvatāya maccena sattena kattabbāti jotitattā puppharāsimālāguṇāva upamā, tesaṃ upamākāro yathā-saddena aniyamato vuttoti ‘‘evaṃ-saddo upamākāranigamanattho’’ti vattuṃ yuttaṃ. So pana upamākāro niyamiyamāno atthato upamāva hotīti āha **‘‘upamāyaṃ āgato’’**ti. Tathā ‘‘evaṃ iminā ākārena abhikkamitabba’’ntiādinā upadisiyamānāya samaṇasāruppāya ākappasampattiyā yo tattha upadisanākāro, so atthato upadeso evāti vuttaṃ **‘‘evaṃ te…pe… upadese’’**ti. Tathā **‘‘evametaṃ bhagavā, evametaṃ sugatā’’**ti ettha ca bhagavatā yathāvuttamatthaṃ aviparītato jānantehi kataṃ tattha saṃvijjamānaguṇānaṃ pakārehi haṃsanaṃ udaggatākaraṇaṃ sampahaṃsanaṃ. Yo tattha sampahaṃsanākāroti yojetabbaṃ.

「実に『このように彼らはよく浴し、香油を塗り』『このような寿命の限界』において、『このように』という語によって質問の様態や分量の様態が語られているのだから、『このように』という語はまさに様態の義なのではないか?」と。そうではない。特異性の有無があるからである。様態そのもののみを表す「このように」という語が様態の義として意図されているのであり、例えば「実にそのように(evaṃ byā kho)」(中部1.234, 396)などのごときであり、特定の様態を表すものではない。このようにしてこそ「このように生まれた死すべき人間によって」などの譬喩などの用例が適切となる。実に「あたかも……(中略)……多く」において、花のかたまりの場にある人間の誕生、善き人への依止、正法の聴聞、如理作意、富の成就、施しなどの功徳をなす原因の集積から、美しさや芳香などの特質を具えていることから、花輪の功徳に似た多くの功徳の行為が、死すべき性質であるがゆえに人間という存在によってなされるべきであると明かされているゆえに、花のかたまりや花輪こそが譬喩であり、それらの譬喩の様態が「あたかも(yathā)」という語によって不特定の形で語られているので、「『このように』という語は譬喩の様態の結論の義である」と言うのが妥当である。しかしその譬喩の様態は限定されるならば義としては譬喩そのものとなるゆえに「**譬喩において現れる**」と言われたのである。同様に「このように、この様態によって進み出るべきである」などとして教示されている沙門に相応しい立ち居振る舞いの成就において、そこにある教示の様態は義としては教示そのものであるゆえに「**あなたにこのように……(中略)……教示において**」と言われたのである。同様に「**世尊よ、その通りです。善逝よ、その通りです**」において、世尊によって語られた通りの義を誤りなく知る者たちによってなされた、そこに存在する功徳を種々の様態によって歓喜させること、高揚させることが大いなる歓喜(随喜・称賛)である。そこにある大いなる歓喜の様態である、と結びつけるべきである。

Evamevaṃ panāyanti ettha garahaṇākāroti yojetabbaṃ, so ca garahaṇākāro ‘‘vasalī’’tiādikhuṃsanasaddasannidhānato idha evaṃ-saddena pakāsitoti viññāyati. Yathā cettha, evaṃ upamākārādayopi upamādivasena vuttānaṃ puppharāsiādisaddānaṃ sannidhānato daṭṭhabbaṃ. Evaṃ, bhanteti pana dhammassa sādhukaṃ savanamanasikāre sanniyojitehi bhikkhūhi attano tattha ṭhitabhāvassa paṭijānanavasena vuttattā ettha evaṃ-saddo vacanasampaṭicchanattho vutto. Tena evaṃ, bhante sādhu, bhante, suṭṭhu, bhanteti vuttaṃ hoti. Evañca vadehīti ‘‘yathāhaṃ vadāmi, evaṃ samaṇaṃ ānandaṃ vadehī’’ti yo evaṃ vadanākāro idāni vattabbo. So evaṃsaddena nidassīyatīti **‘‘nidassane’’**ti vuttoti. Evaṃ noti etthāpi tesaṃ yathāvuttadhammānaṃ ahitadukkhāvahabhāve sanniṭṭhānajananatthaṃ anumatigahaṇavasena ‘‘saṃvattanti vā no vā, kathaṃ vo ettha hotī’’ti pucchāya katāya ‘‘evaṃ no ettha hotī’’ti vuttattā tadākārasanniṭṭhānaṃ evaṃ-saddena vibhāvitanti viññāyati. So pana tesaṃ dhammānaṃ ahitāya dukkhāya saṃvattanākāro niyamiyamāno avadhāraṇattho hotīti āha **‘‘evaṃ no ettha hotītiādīsu avadhāraṇe’’**ti.

「このように、このようにして実に彼女は」においては非難の様態と結びつけられるべきであり、その非難の様態は「賤民の女め」などの侮辱の言葉が近接していることから、ここで「このように」という語によって示されていると理解される。そしてここでそうであるように、譬喩の様態なども、譬喩などとして説かれた「花のかたまり」などの語が近接していることから見られるべきである。一方、「世尊よ、その通りです(尊者よ、承知いたしました)」というのは、法をよく聴聞し作意することに専念させられた比丘たちが、自らがその教示に留まっている状態を認諾することによって語られたものであるため、ここでの「このように」という語は「言葉の受諾(承諾)」の義として語られている。それによって「尊者よ、その通りです。尊者よ、善きことです。尊者よ、よくわかりました」と語られたことになる。「このように語れ」とは、「私が語るように、そのように沙門アーナンダに語れ」という、今語られるべき「このように語る様態」のことである。それは「このように」という語によって指し示されるゆえに「**例示(指小)において**」と言われたのである。「このように私たちには」において、それらの上述の諸法が無益と苦しみをもたらすものであることへの確信を生じさせるために、同意を得る形をとって「生じるであろうか、それとも否か、そなたたちにはこれについてどのように思われるか」という問いがなされたのに対し、「私たちにはこれについてこのように思われます」と語られたゆえに、その様態の確信が「このように」という語によって解明されていると理解される。そして、それらの法が無益と苦しみへと資する様態は、限定されるならば「決定(avadhāraṇa)」の義となるゆえに「**『私たちにはこれについてこのように思われます』等において決定において**」と言われたのである。

Nānānayanipuṇanti ekattanānattaabyāpāraevaṃdhammatāsaṅkhātā, nandiyāvattatipukkhalasīhavikkīḷitaaṅkusadisālocanasaṅkhātā vā ādhārādibhedavasena nānāvidhā nayā nānānayā, nayā vā pāḷigatiyo, tā ca paññattianupaññattiādivasena saṃkilesabhāgiyādilokiyāditadubhayavomissakādivasena kusalādivasena khandhādivasena saṅgahādivasena samayavimuttādivasena ṭhapanādivasena kusalamūlādivasena tikappaṭṭhānādivasena ca nānappakārāti nānānayā. Tehi nipuṇaṃ saṇhaṃ sukhumanti nānānayanipuṇaṃ. Āsayova ajjhāsayo, te ca sassatādibhedena, tattha ca apparajakkhatādibhedena aneke, attajjhāsayādayo eva vā samuṭṭhānaṃ uppattihetu etassāti anekajjhāsayasamuṭṭhānaṃ. Atthabyañjanasampannanti atthabyañjanaparipuṇṇaṃ upanetabbābhāvato, saṅkāsanapakāsana-vivaraṇa-vibhajana-uttānīkaraṇa-paññattivasena chahi atthapadehi, akkhara-padabyañjanākāraniruttiniddesavasena chahi byañjanapadehi ca samannāgatanti vā attho daṭṭhabbo.

「種々の精緻な理趣(nānānayanipuṇaṃ)」とは、一性・異性・無関与性(非動作性)・法性(自然の法則)と呼ばれるもの、あるいは歓喜の回転(ナンディヤーヴァッタ)、三の集合(ティプッカラ)、獅子の遊戯(シーハヴィッキーリタ)、鉤(アングサ)、方角の観察(ディサーローカナ)と呼ばれるもの、あるいは所依などの区分による多様な理趣が「種々の理趣」である。あるいは理趣とは聖典(パーリ)の流儀であり、それらは制定や随制定などにより、雑染に属するものなど、世間的なものなど、それら両者が混在するものなどにより、善などにより、蘊などにより、包摂などにより、時機による解脱などにより、施設などにより、善根などにより、三箇条の発趣などにより多様であるから「種々の理趣」である。それらによって精緻で微細であるから「種々の精緻な理趣」である。「意図(āsayova)」とは傾向(傾向)のことであり、それらは常見などによる区分、またそこにおいて煩悩の塵の少なさなどによる区分によって多数あり、あるいは自らの意図などがこの教説の生起の原因(契機)であるゆえに「多様な意図を生起原因とする」のである。「義と文(言葉)を完備した」とは、補うべきものがないために義と文が円満具足していること、あるいは明示・開示・解明・分別・敷衍・施設による六つの義の語句と、文字・語・文・様態・言語表現・指定による六つの文の語句を具足している、というのがその意味として見られるべきである。

Vividhapāṭihāriyanti ettha pāṭihāriyapadassa vacanatthaṃ (udā. aṭṭha. 1; itivu. aṭṭha. nidānavaṇṇanā; saṃ. ni. ṭī. 1.1.1 devatāsaṃyutta) ‘‘paṭipakkhaharaṇato, rāgādikilesāpanayanato ca **pāṭihāriya’’**nti vadanti, bhagavato pana paṭipakkhā rāgādayo na santi, ye haritabbā. Puthujjanānampi vigatūpakkilese aṭṭhaguṇasamannāgate citte hatapaṭipakkhe iddhividhaṃ pavattati, tasmā tattha pavattavohārena ca na sakkā idha **‘‘pāṭihāriya’’**nti vattuṃ. Sace pana mahākāruṇikassa bhagavato veneyyagatā ca kilesā paṭipakkhā, tesaṃ haraṇato **‘‘pāṭihāriya’’**nti vuttaṃ, evaṃ sati yuttametaṃ. Atha vā bhagavato ca sāsanassa ca paṭipakkhā titthiyā, tesaṃ haraṇato pāṭihāriyaṃ. Te hi diṭṭhiharaṇavasena diṭṭhipakāsane asamatthabhāvena ca iddhiādesanānusāsanīhi haritā apanītā hontīti. ‘‘Paṭī’’ti vā ayaṃ saddo ‘‘pacchā’’ti etassa atthaṃ bodheti ‘‘tasmiṃ paṭipaviṭṭhamhi, añño āgañchi brāhmaṇo’’tiādīsu (su. ni. 985; cūḷani. 4) viya, tasmā samāhite citte vigatūpakkilese ca katakiccena pacchā haritabbaṃ pavattetabbanti pāṭihāriyaṃ, attano vā upakkilesesu catutthajjhānamaggehi haritesu pacchā haraṇaṃ pāṭihāriyaṃ, iddhiādesanānusāsaniyo ca vigatūpakkilesena katakiccena ca sattahitatthaṃ puna pavattetabbā, haritesu ca attano upakkilesesu parasattānaṃ upakilesaharaṇāni hontīti pāṭihāriyāni bhavanti. Pāṭihāriyameva pāṭihāriyaṃ, pāṭihāriye vā iddhiādesanānusāsanisamudāye bhavaṃ ekamekaṃ pāṭihāriyanti vuccati. Pāṭihāriyaṃ vā catutthajjhānaṃ maggo ca paṭipakkhaharaṇato, tattha jātaṃ, tasmiṃ vā nimittabhūte, tato vā āgatanti pāṭihāriyaṃ. Tassa pana iddhiādibhedena visayabhedena ca bahuvidhassa bhagavato desanāyaṃ labbhamānattā āha **‘‘vividhapāṭihāriya’’**nti.

「種々の奇跡(vividhapāṭihāriyaṃ)」において、「奇跡(神変・教導・pāṭihāriya)」という語の語義釈として「反対するものを除去することから、また貪りなどの煩悩を取り除くことから奇跡(pāṭihāriya)」と語られるが、世尊には除去されるべき貪りなどの反対するものは存在しない。凡夫であっても随煩悩を離れ八つの徳性を具足した心において反対するものが打ち破られたときに神変の類が機能するのであるから、そこで通用する表現によってここにおいて「奇跡」と言うことはできない。しかしもし、大悲ある世尊の教化されるべき者たち(所化)にある煩悩こそが反対のものであり、それらを除去することから「奇跡」と言われたのであれば、そうであるならばこれは妥当である。あるいは、世尊と聖教に反対する者たちは異端(外道)の徒であり、それらを除去することから奇跡である。実に彼らは、見解を除去されることによって、また自らの見解を宣揚する能力を失うことによって、神変・他心通(記説)・教誡によって除去され取り払われるからである。あるいは「paṭi」というこの語は、「彼が後から入ったとき、別のバラモンがやって来た」(スッタニパータ985)などにおけるように「後から(pacchā)」というこの義を知らせる。それゆえに、定に入った心において随煩悩を離れ、為すべきことをなした者によって後から除去されるべきもの、機能させられるべきものであるから「奇跡(pāṭihāriya)」である。あるいは、自らの随煩悩が第四禅や道(聖道)によって除去された後に除去することが「奇跡」であり、神変・他心通・教誡は随煩悩を離れ為すべきことをなした者によって生きとし生けるものの利益のために再び機能させられるべきものであり、自らの随煩悩が除去された後に他の衆生の随煩悩を除去するものとなるから「奇跡(神変)」と呼ばれるのである。奇跡そのものが奇跡であり、あるいは奇跡、すなわち神変・他心通・教誡の集成の中に生じる一つ一つが「奇跡」と呼ばれる。あるいは、第四禅と道は反対のものを除去するから奇跡であり、そこに生じたもの、あるいはそれを原因(対象)とするもの、あるいはそこからもたらされたものが奇跡である。そしてその、神変などの区分や対象の領域の区分によって多種多様な奇跡が世尊の教説において得られるゆえに「**種々の奇跡**」と言われたのである。

Na aññathāti bhagavato sammukhā sutākārato na aññathāti attho, na pana bhagavato desitākārato. Acinteyyānubhāvā hi bhagavato desanā. Evañca katvā ‘‘sabbappakārena ko samattho viññātu’’nti idaṃ vacanaṃ samatthitaṃ bhavati, dhāraṇabaladassanañca na virujjhati sutākārāvirajjhanassa adhippetattā. Na hettha atthantaratāparihāro dvinnampi atthānaṃ ekavisayattā. Itarathā thero bhagavato desanāya sabbathā paṭiggahaṇe samattho asamattho cāti āpajjeyyāti.

「違えることなく(na aññathā)」とは、世尊の御前から聞いた様態から違えることなく、という意味であり、世尊が説示された様態から(違えることなく)ということではない。実に世尊の教説は不可思議な威信を持つものだからである。このようにしてこそ「あらゆる様態において誰が理解できようか」というこの言葉が支持されることになり、聞いた様態と相違しないことが意図されているため、受持の力を示すこととも矛盾しない。実にここでは、二つの意味が同一の対象を持つため、別の意味を排除することにはならないからである。そうでなければ長老は世尊の教説をあらゆる点で受け取ることに長けているとも、長けていないとも言えるという矛盾に陥るであろう。

‘‘Yo paro na hoti, so attā’’ti evaṃ vuttāya niyakajjhattasaṅkhātāya sasantatiyā vattanato tividhopi me-saddo kiñcāpi ekasmiṃyeva atthe dissati, karaṇasampadānasāminiddesavasena pana vijjamānaṃ bhedaṃ sandhāyāha **‘‘me-saddo tīsu atthesu dissatī’’**ti.

「他者ではないものが、自己である」とこのように説かれる、自己に属する内的なものと呼ばれる自らの相続(心身の連続)に存在することから、三種類すべての「私によって(me)」という語は、たとえ一つの意味において見られるとしても、具格(〜によって)・為格(〜のために)・属格(〜の)の指定による現存する差異を念頭に置いて「**『me』という語は三つの意味において見られる**」と言ったのである。

Kiñcāpi upasaggo kiriyaṃ viseseti, jotakabhāvato pana satipi tasmiṃ sutasaddo eva taṃ tamatthaṃ vadatīti anupasaggassa sutasaddassa atthuddhāre saupasaggassa gahaṇaṃ na virujjhatīti dassento **‘‘saupasaggo ca anupasaggo cā’’**tiādimāha. Assāti sutasaddassa. Kammabhāvasādhanāni idha sutasadde sambhavantīti vuttaṃ **‘‘upadhāritanti vā upadhāraṇanti vā attho’’**ti. Mayāti atthe satīti yadā me-saddassa kattuvasena karaṇaniddeso, tadāti attho. Mamāti atthe satīti yadā sambandhavasena sāminiddeso, tadā.

接頭辞は動詞の行為を修飾するものであるが、明示する性質を持つことから、それ(接頭辞)が存在しても「聞かれた(suta)」という語そのものがその時々の意味を語るのであるから、接頭辞のない「suta」という語の意味を抽出する際に接頭辞のある語を取り上げることは矛盾しない、と示すために「**接頭辞を伴うものと接頭辞を伴わないものと**」等と述べた。「それの(assa)」とは、「suta」という語の、ということである。所作(行為の対象)と状態の成就がここでの「suta」という語において可能であるゆえに「**把握された、あるいは把握すること、という意味である**」と言われた。「私によって」の意味においてあるときとは、「me」という語が具格(行為者)の指定であるとき、その時という意味である。「私の」の意味においてあるときとは、関係による属格(所有者)の指定であるとき、その時のことである。

Suta-saddasannidhāne payuttena evaṃ-saddena savanakiriyājotakena bhavitabbanti vuttaṃ **‘‘evanti sotaviññāṇādiviññāṇakiccanidassana’’**nti. Ādi-saddena sampaṭicchanādīnaṃ pañcadvārikaviññāṇānaṃ tadabhinīhaṭānañca manodvārikaviññāṇānaṃ gahaṇaṃ veditabbaṃ. Sabbesampi vākyānaṃ eva-kāratthasahitattā **‘‘suta’’**nti etassa sutamevāti ayamattho labbhatīti āha **‘‘assavanabhāvapaṭikkhepato’’**ti. Etena avadhāraṇena nirāsaṅkataṃ dasseti. Yathā ca sutaṃ sutamevāti niyametabbaṃ, taṃ sammā sutaṃ hotīti āha **‘‘anūnānadhikāviparītaggahaṇanidassana’’**nti. Atha vā saddantaratthāpohanavasena saddo atthaṃ vadatīti sutanti asutaṃ na hotīti ayametassa atthoti vuttaṃ **‘‘assavanabhāvapaṭikkhepato’’**ti. Iminā diṭṭhādivinivattanaṃ karoti. Idaṃ vuttaṃ hoti ‘‘na idaṃ mayā diṭṭhaṃ, na sayambhuñāṇena sacchikataṃ, atha kho sutaṃ, tañca kho sammadevā’’ti. Tenevāha – **‘‘anūnānadhikāviparītaggahaṇanidassana’’**nti. Avadhāraṇatthe vā evaṃ-sadde ayamatthayojanā karīyatīti tadapekkhassa suta-saddassa ayamattho vutto **‘‘assavanabhāvapaṭikkhepato’’**ti. Tenevāha **‘‘anūnānadhikāviparītaggahaṇanidassana’’**nti. Savanasaddo cettha kammattho veditabbo ‘‘suyyatī’’ti.

「聞かれた(suta)」という語の近接において用いられた「このように(evaṃ)」という語は、聴聞の作用を明示するものでなければならないゆえに「**『このように』とは耳の識(耳識)などの識の作用の例示である**」と言われた。「など」という語によって、受受などの五門(五感)の識と、それに引き続いて生じる意門(意識)の識の包摂と知るべきである。すべての文は「まさに(eva)」という語の限定の意味を伴っていることから、「**聞かれた**」というこれには「まさに聞かれたのだ」というこの意味が得られるゆえに「**聞かなかった状態を否定することによって**」と言われた。この限定によって疑念の余地のないことを示している。そして、聞かれたことはまさに聞かれたのだと確定されるように、それは正しく聞かれたのである、と「**過不足なく転倒なき受持の例示**」と言われた。あるいは、他の語の意味を排除することによって語は意味を語るのであるから、「聞かれた」とは「聞かれなかったのではない」というのがこれの意味である、と「**聞かなかった状態を否定することによって**」と言われたのである。これによって、見たりしたことなどを除外している。「これは私によって見られたのではなく、自力(独覚・仏の智)によって体験されたのでもなく、実に聞かれたのであり、それもまさに正しく聞かれたのである」とこれが語られているのである。それゆえに「**過不足なく転倒なき受持の例示**」と言われた。あるいは「このように」という語において決定の義があるとき、この意味の解釈がなされるため、それを受ける「聞かれた」という語のこの意味が「**聞かなかった状態を否定することによって**」と語られたのである。それゆえに「**過不足なく転倒なき受持の例示**」と言われた。ここでの「聴聞(savana)」という語は、「聞かれる」という対象(所作)の意味として知られるべきである。

Evaṃ savanahetusuṇantapuggalasavanavisesavasena padattayassa ekena pakārena atthayojanaṃ dassetvā idāni pakārantarehipi taṃ dassetuṃ **‘‘tathā eva’’**ntiādi vuttaṃ. Tattha tassāti yā sā bhagavato sammukhā dhammassavanākārena pavattā manodvāraviññāṇavīthi, tassā. Sā hi nānappakārena ārammaṇe pavattituṃ samatthā. Tathā ca vuttaṃ **‘‘sotadvārānusārenā’’**ti. Nānappakārenāti vakkhamānānaṃ anekavihitānaṃ byañjanatthaggahaṇānaṃ nānākārena. Etena imissā yojanāya ākārattho evaṃ-saddo gahitoti dīpeti. Pavattibhāvappakāsananti pavattiyā atthibhāvappakāsanaṃ. Sutanti dhammappakāsananti yasmiṃ ārammaṇe vuttappakārā viññāṇavīthi nānappakārena pavattā, tassa dhammattā vuttaṃ, na sutasaddassa dhammatthattā. Vuttassevatthassa pākaṭīkaraṇaṃ **‘‘ayañhetthā’’**tiādi. Tattha viññāṇavīthiyāti karaṇatthe karaṇavacanaṃ. Mayāti kattuatthe.

このように、聴聞の原因・聴聞する個物・聴聞の特質による三つの語の一つの様態による義の解釈を示して、今や他の様態によってもそれを示すために「**また、このように**」等と述べた。そこにおいて「それの(tassā)」とは、世尊の御前で法を聴聞する様態として生起した、その意門の意識の過程(認識路)の、ということである。実にそれは種々の様態で対象へと機能することができる。そしてそれゆえに「**耳門の経路に従って**」と言われた。「種々の様態によって」とは、後述される多様な言葉と義の把握の種々の様態によって、ということである。これによって、この解釈において「このように」という語は様態の義として把握されていると明かしている。「機能した状態の開示」とは、認識過程の生起が存在していることの開示である。「聞かれたとは法の開示である」とは、上述の様態の認識過程が種々の様態で機能した、その対象において、それが法であるゆえに言われたのであり、「聞かれた」という語が法の義を持つからではない。すでに説かれた義を明瞭にすることが「**実にここにおいて**」等である。そこにおいて「意識の過程によって」とは具格の意味における具格の語である。「私によって」とは能動(行為者)の意味においてである。

Evanti niddisitabbappakāsananti nidassanatthaṃ evaṃ-saddaṃ gahetvā vuttaṃ nidassetabbassa niddisitabbattābhāvābhāvato. Tena evaṃ-saddena sakalampi suttaṃ paccāmaṭṭhanti dasseti. Suta-saddassa kiriyāsaddattā savanakiriyāya ca sādhāraṇaviññāṇapabandhapaṭibaddhattā tattha ca puggalavohāroti vuttaṃ **‘‘sutanti puggalakiccappakāsana’’**nti. Na hi puggalavohārarahite dhammapabandhe savanakiriyā labbhatīti.

「『このように』とは指し示されるべきものの開示である」とは、例示の義として「このように」という語を把握して言われたのであり、例示されるべきものが指し示されるべきものでないことはあり得ないからである。その「このように」という語によって経全体が指し示されていると示している。「聞かれた」という語は動作を表す語であり、聴聞の作用は共通の意識の連続に依存しており、そこにおいて個物の表現(仮設)がなされるゆえに「**『聞かれた』とは個物の作用の開示である**」と言われた。実に、個物の表現を離れた純粋な法の連続において聴聞という作用は得られないからである。

Yassa cittasantānassātiādipi ākāratthameva evaṃ-saddaṃ gahetvā purimayojanāya aññathā atthayojanaṃ dassetuṃ vuttaṃ. Tattha ākārapaññattīti upādāpaññatti eva dhammānaṃ pavattiākārūpādānavasena tathā vuttā. Sutanti visayaniddesoti sotabbabhūto dhammo savanakiriyākattupuggalassa savanakiriyāvasena pavattiṭṭhānanti katvā vuttaṃ. Cittasantānavinimuttassa paramatthato kassaci kattu abhāvepi saddavohārena buddhiparikappitabhedavacanicchāya cittasantānato aññaṃ viya taṃsamaṅgiṃ katvā vuttaṃ ‘‘cittasantānena **taṃsamaṅgino’’**ti. Savanakiriyāvisayopi sotabbadhammo savanakiriyāvasena pavattacittasantānassa idha paramatthato kattubhāvato, savanavasena cittappavattiyā eva vā savanakiriyābhāvato taṃkiriyākattu ca visayo hotīti vuttaṃ **‘‘taṃsamaṅgino kattuvisaye’’**ti. Sutākārassa ca therassa sammānicchitabhāvato āha **‘‘gahaṇasanniṭṭhāna’’**nti. Etena vā avadhāraṇatthaṃ evaṃ-saddaṃ gahetvā ayamatthayojanā katāti daṭṭhabbaṃ.

「いかなる心の連続の……」等もまた、様態の義として「このように」という語を把握して、前の解釈とは別の義の解釈を示すために説かれた。そこにおいて「様態の仮設(概念)」とは、諸法の生起の様態を拠り所として把握することによってそのように言われた「因み仮設(upādāpaññatti)」そのもののことである。「『聞かれた』とは対象の指定である」とは、聞かれるべき法が、聴聞の作用をなす個物の聴聞の作用による機能の場であるとして言われた。「心の連続から離れた究極的(勝義)な行為者は何ら存在しないとしても、言葉の世俗の表現によって、思慮によって想定された差異の表現を意図して、心の連続とは別であるかのようにその具足をなして『心の連続によって**それを具足する者の**』と言われた。聴聞の作用の対象である聞かれるべき法も、聴聞の作用として機能した心の連続のここにおける究極的な行為者であることから、あるいは聴聞による心の機能そのものが聴聞の作用であることから、その行為者の対象でもあるゆえに『**それを具足する行為者の対象において**』と言われた。そして長老の聞いた様態が正しく決定されていることから『**把握の確信**』と言われた。あるいは、決定の義として『このように』という語を把握してこの意味の解釈がなされたと見られるべきである。

Pubbe sutānaṃ nānāvihitānaṃ suttasaṅkhātānaṃ atthabyañjanānaṃ upadhāritarūpassa ākārassa nidassanassa, avadhāraṇassa vā pakāsanasabhāvo evaṃ-saddoti tadākārādiupadhāraṇassa puggalapaññattiyā upādānabhūtadhammapabandhabyāpāratāya vuttaṃ – **‘‘evanti puggalakiccaniddeso’’**ti. Savanakiriyā pana puggalavādinopi viññāṇanirapekkhā natthīti visesato viññāṇabyāpāroti āha **‘‘sutanti viññāṇakiccaniddeso’’**ti. ‘‘Me’’ti saddappavattiyā ekanteneva sattavisayattā viññāṇakiccassa ca tattheva samodahitabbato **‘‘meti ubhayakiccayuttapuggalaniddeso’’**ti vuttaṃ. Avijjamānapaññattivijjamānapaññattisabhāvā yathākkamaṃ evaṃ-sadda – suta-saddānaṃ atthāti te tathārūpa-paññatti-upādānabhūta-dhammapabandhabyāpārabhāvena dassento āha – **‘‘evanti puggalakiccaniddeso, sutanti viññāṇakiccaniddeso’’**ti. Ettha ca karaṇakiriyākattukammavisesappakāsanavasena puggalabyāpāravisayapuggalabyāpāranidassanavasena gahaṇākāragāhakatabbisayavisesaniddesavasena kattukaraṇabyāpārakattuniddesavasena ca dutiyādayo catasso atthayojanā dassitāti daṭṭhabbaṃ.

「以前に聞かれた種々の経と呼ばれる言葉と意味の、把握された形の様態の例示、あるいは決定を開示する性質が『このように』という語であるゆえに、その様態などの把握が個物の概念の拠り所となった法の連続の働きであることから、『**「このように」とは個物の作用の指定である**』と言われた。しかし聴聞の作用は、個物の存在を主張する者にとっても意識を無視しては存在しないゆえに、特に意識の働きであるとして『**「聞かれた」とは識の作用の指定である**』と言われた。『私によって(me)』という語の適用は絶対的に有情(個物)を対象とし、識の作用もまたまさにそこに集約されるべきであることから『**「私によって」とは両者の作用を具えた個物の指定である**』と言われた。非実在の仮設と実在の仮設という性質がそれぞれ順に『このように』と『聞かれた』という語の意味であるゆえに、それらのそのような仮設の拠り所となった法の連続の働きとして示しつつ『**「このように」とは個物の作用の指定であり、「聞かれた」とは識の作用の指定である**』と言われた。そしてここにおいて、道具・行為・行為者・対象の特質の開示により、個物の働き・対象・個物の働きの例示により、把握の様態・把握するもの・その対象の特質の指定により、また行為者・道具・働き・行為者の指定により、第二などの四つの義の解釈が示されたと見られるべきである。

Sabbassapi saddādhigamanīyassa atthassa paññattimukheneva paṭipajjitabbattā sabbapaññattīnañca vijjamānādivasena chasu paññattibhedesu antogadhattā tesu ‘‘eva’’ntiādīnaṃ paññattīnaṃ sarūpaṃ niddhārento āha – **‘‘evanti ca meti cā’’**tiādi. Tattha ‘‘eva’’nti ca ‘‘me’’ti ca vuccamānassatthassa ākārādino dhammānaṃ asallakkhaṇabhāvato avijjamānapaññattibhāvoti āha – **‘‘saccikaṭṭhaparamatthavasena avijjamānapaññattī’’**ti. Tattha saccikaṭṭhaparamatthavasenāti bhūtatthauttamatthavasena. Idaṃ vuttaṃ hoti – yo māyāmarīciādayo viya abhūtattho, anussavādīhi gahetabbo viya anuttamattho ca na hoti, so rūpasaddādisabhāvo, ruppanānubhavanādisabhāvo vā attho saccikaṭṭho paramattho cāti vuccati, na tathā ‘‘evaṃ me’’ti padānaṃ atthoti. Etamevatthaṃ pākaṭataraṃ kātuṃ **‘‘kiñhettha ta’’**ntiādi vuttaṃ. Sutanti pana saddāyatanaṃ sandhāyāha **‘‘vijjamānapaññattī’’**ti. Teneva hi **‘‘yañhi taṃ ettha sotena upaladdha’’**nti vuttaṃ, ‘‘sotadvārānusārena upaladdha’’nti pana vutte atthabyañjanādisabbaṃ labbhati.

言葉によって理解されるべきすべての義は概念(仮設)の扉を通してのみ了解されるべきであり、すべての概念は実在などの区分によって六種の概念の区分の中に包摂されるゆえに、それらの中で「このように」等の概念の自相(本体)を確定しつつ「**『このように』とも『私によって』とも**」等と述べた。そこにおいて「このように」とも「私によって」とも語られる義は、様態などであり諸法の実体ではないため、非実在の仮設であるゆえに「**実体・勝義としては非実在の仮設である**」と言われた。そこにおいて「実体・勝義としては」とは、事実としての存在・最高の実在の義として、ということである。これが語られているのである——幻影や蜃気楼などのような非事実の存在ではなく、伝承などによって受け取られるような最高の実在でないものでもない、色や声などの自相、あるいは変壊や感受などの自相を持つ義が実体であり勝義であると言われるのであり、「このように私によって」という語の義はそのようなものではない、と。まさにこの義をより明瞭にするために「**実にここにおいて何が……**」等と述べられた。一方「聞かれた」とは声処(声の対象)を念頭に置いて「**実在の仮設である**」と言われた。それゆえにこそ「**実にここにおいて耳によって得られたもの**」と言われたのであり、「耳門の経路に従って得られたもの」と語られるならば言葉と意味などのすべてが得られることになる。

Taṃ taṃ upādāya vattabbatoti sotapathamāgate dhamme upādāya tesaṃ upadhāritākārādino paccāmasanavasena ‘‘eva’’nti, sasantatipariyāpanne khandhe upādāya ‘‘me’’ti vattabbattāti attho. Diṭṭhādisabhāvarahite saddāyatane pavattamānopi sutavohāro ‘‘dutiyaṃ tatiya’’ntiādiko viya paṭhamādīni diṭṭhamutaviññāte apekkhitvāva pavattoti āha **‘‘diṭṭhādīni upanidhāya vattabbato’’**ti asutaṃ na hotīti hi sutanti pakāsitoyamatthoti. Attanā paṭividdhā suttassa pakāravisesā ‘‘eva’’nti therena paccāmaṭṭhāti āha **‘‘asammohaṃ dīpetī’’**ti. Nānappakārapaṭivedhasamattho hotīti etena vakkhamānassa suttassa nānappakārataṃ duppaṭivijjhatañca dasseti. Sutassa asammosaṃ dīpetīti sutākārassa yāthāvato dassiyamānattā vuttaṃ. Asammohenāti sammohābhāvena, paññāya eva vā savanakālasambhūtāya taduttarakālapaññāsiddhi. Evaṃ asammosenāti etthāpi vattabbaṃ. Byañjanānaṃ paṭivijjhitabbo ākāro nātigambhīro, yathāsutadhāraṇameva tattha karaṇīyanti satiyā byāpāro adhiko, paññā tattha guṇībhūtāti vuttaṃ **‘‘paññāpubbaṅgamāyā’’**tiādi ‘‘paññāya pubbaṅgamā’’ti katvā. Pubbaṅgamatā cettha padhānatā ‘‘manopubbaṅgamā’’tiādīsu (dha. pa. 1, 2) viya. Pubbaṅgamatāya vā cakkhuviññāṇādīsu āvajjanādīnaṃ viya appadhānatte paññā pubbaṅgamā etissāti ayampi attho yujjati. Evaṃ satipubbaṅgamāyāti etthāpi vuttanayānusārena yathāsambhavamattho veditabbo. Atthabyañjanasampannassāti atthabyañjanaparipuṇṇassa, saṅkāsanapakāsanavivaraṇavibhajanauttānīkaraṇapaññattivasena chahi atthapadehi, akkharapadabyañjanākāraniruttiniddesavasena chahi byañjanapadehi ca samannāgatassāti vā attho daṭṭhabbo.

「それぞれに拠って語られるべきであるから」とは、耳の領域に来た法に拠ってそれらの把握された様態などを指し示すことによって「このように」と語られ、自らの相続に属する諸蘊に拠って「私によって」と語られるべきであるから、という意味である。見られたことなどの性質を持たない声処において機能している場合でも、「聞かれた」という表現は、「第二、第三」などの語が第一などを基準とするように、見られたこと、知られたこと、識られたことを比較の基準としてのみ機能しているゆえに「**見られたことなどを基準として語られるべきであるから**」と言われ、「聞かれなかったのではない」ということが「聞かれた」と開示されたこの義である。長老によって自ら証得された経の種々の様態が「このように」と指し示されているゆえに「**無癡(迷妄のなさ)を解明する**」と言われた。「種々の様態の証得に長けている」ということによって、後述される経が種々の様態を持ち証得しがたいものであることを示している。「聞かれたことの不忘失を解明する」とは、聞かれた様態が如実に示されているゆえに言われた。「迷妄のなさによって」とは、迷妄がないことによって、あるいはまさに聴聞の時に生じた智慧によって、その後の時の智慧が成就することである。このように「不忘失によって」というここにおいても語られるべきである。文字(文表現)について証得されるべき様態はそれほど深遠ではなく、聞かれた通りの受持のみがそこにおいてなされるべきであるため、念(記憶力)の働きが主であり、智慧はそこでは従となるゆえに、「智慧に先導された」として「**智慧に先導された念によって**」等と言われた。ここにおいて先導されることとは、「心に先導された」などにおけるように主導的であることである。あるいは先導されることによって、眼識などにおける作意(アヴァッジャナ)などのように主導的でない場合でも智慧がこれの先導である、というこの義も妥当する。このように「念に先導された」においても述べられた理趣に従って、可能性に応じて意味が知られるべきである。「義と文を完備した」とは、義と文が円満具足していること、明示・開示・解明・分別・敷衍・施設による六つの義の語句と、文字・語・文・様態・言語表現・指定による六つの文の語句を具足している、というのがその意味として見られるべきである。

Yonisomanasikāraṃ dīpeti evaṃ-saddena vuccamānānaṃ ākāranidassanāvadhāraṇatthānaṃ aviparītasaddhammavisayattāti adhippāyo. Avikkhepaṃ dīpetīti ‘‘mūlapariyāyaṃ kattha bhāsita’’ntiādipucchāvasena pakaraṇappattassa vakkhamānassa suttassa savanaṃ samādhānamantarena na sambhavatīti katvā vuttaṃ. Vikkhittacittassātiādi tassevatthassa samatthanavasena vuttaṃ. Sabbasampattiyāti atthabyañjanadesakapayojanādisampattiyā. Aviparītasaddhammavisayehi viya ākāranidassanāvadhāraṇatthehi yonisomanasikārassa, saddhammassavanena viya ca avikkhepassa yathā yonisomanasikārena phalabhūtena attasammāpaṇidhipubbekatapuññatānaṃ siddhi vuttā tadavinābhāvato, evaṃ avikkhepena phalabhūtena kāraṇabhūtānaṃ saddhammassavanasappurisūpanissayānaṃ siddhi dassetabbā siyā assutavato sappurisūpanissayarahitassa ca tadabhāvato. Na hi vikkhittacittotiādinā samatthanavacanena pana avikkhepena kāraṇabhūtena sappurisūpanissayena ca phalabhūtassa saddhammassavanassa siddhi dassitā. Ayaṃ panettha adhippāyo yutto siyā – saddhammassavanasappurisūpanissayā na ekantena avikkhepassa kāraṇaṃ bāhiraṅgattā, avikkhepo pana sappurisūpanissayo viya saddhammassavanassa ekantakāraṇanti. Evampi avikkhepena sappurisūpanissayasiddhijotanā na samatthitāva, no na samatthitā vikkhittacittānaṃ sappurisapayirupāsanābhāvassa atthasiddhattā. Ettha ca purimaṃ phalena kāraṇassa siddhidassanaṃ nadīpūrena viya upari vuṭṭhisabbhāvassa, dutiyaṃ kāraṇena phalassa siddhidassanaṃ daṭṭhabbaṃ ekantavassinā viya meghavuṭṭhānena vuṭṭhippavattiyā.

「如理作意を解明する」とは、「このように」という語によって語られる様態・例示・決定の義が、転倒なき正法を対象とするからである、というのが趣旨である。「不散乱(心の安定)を解明する」とは、「根本法門はどこで説かれたのか」などの問いによって本題となった後述の経の聴聞は、精神の集中なしにはあり得ないことから言われた。「散乱した心を持つ者の……」等は、まさにその義を支持するために述べられた。「すべての成就によって」とは、義・文・説者・目的などの成就によって、ということである。転倒なき正法を対象とすることによる様態・例示・決定の義によって如理作意が、正法の聴聞による不散乱が示されるように、結果である如理作意によって(その原因である)自らの正しい誓願と過去世の功徳の成就が、それらと不可分であることから語られたのと同様に、結果である不散乱によって原因である正法の聴聞と善き人への依止の成就が示されるべきであろう。聞くことがなく善き人への依止を欠いた者にはそれがないからである。しかし「実に散乱した心を持つ者は……」等の論証の言葉によって、原因である不散乱と善き人への依止によって、結果である正法の聴聞の成就が示された。これについて次の趣旨が妥当であろう——正法の聴聞と善き人への依止は、外的要因であるため絶対的に不散乱の原因となるわけではないが、不散乱は善き人への依止と同様に正法の聴聞の絶対的な原因である、と。このようにしても不散乱によって善き人への依止の成就を解明することは論証されないわけではなく、散乱した心を持つ者たちには善き人への親近がないということが義として成立しているからである。そしてここにおいて、前者は結果によって原因の成就を示すことであり、川の増水によって上流に雨があったと知るようなものであり、後者は原因によって結果の成就を示すことであり、必ず雨を降らせる雨雲の出現によって降雨が起こると知るようなものである、と見られるべきである。

Bhagavato vacanassa atthabyañjanapabhedaparicchedavasena sakalasāsanasampattiogāhanākāro niravasesaparahitapāripūrikāraṇanti vuttaṃ **‘‘evaṃ bhaddako ākāro’’**ti. Yasmā na hotīti sambandho. Pacchimacakkadvayasampattinti attasammāpaṇidhipubbekatapuññatāsaṅkhātaṃ guṇadvayaṃ. Aparāparavuttiyā cettha cakkabhāvo, caranti etehi sattā sampattibhavesūti vā. Ye sandhāya vuttaṃ ‘‘cattārimāni, bhikkhave, cakkāni, yehi samannāgatānaṃ devamanussānaṃ catucakkaṃ vattatī’’tiādi (a. ni. 4.31). Purimapacchimabhāvo cettha desanākkamavasena daṭṭhabbo. Pacchimacakkadvayasiddhiyāti pacchimacakkadvayassa atthitāya. Sammāpaṇihitatto pubbe ca katapuñño suddhāsayo hoti tadasuddhihetūnaṃ kilesānaṃ dūrībhāvatoti āha – **‘‘āsayasuddhi siddhā hotī’’**ti. Tathā hi vuttaṃ ‘‘sammāpaṇihitaṃ cittaṃ, seyyaso naṃ tato kare’’ti (dha. pa. 43), ‘‘katapuññosi tvaṃ ānanda, padhānamanuyuñja, khippaṃ hohisi anāsavo’’ti (dī. ni. 2.207) ca. Tenevāha **‘‘āsayasuddhiyā adhigamabyattisiddhī’’**ti. Payogasuddhiyāti yonisomanasikārapubbaṅgamassa dhammassavanapayogassa visadabhāvena. Tathā cāha **‘‘āgamabyattisiddhī’’**ti. Sabbassa vā kāyavacīpayogassa niddosabhāvena. Parisuddhakāyavacīpayogo hi vippaṭisārābhāvato avikkhittacitto pariyattiyaṃ visārado hotīti.

世尊の言葉の義(意味)と文(表現)の区別の区分によって、教え全体の成就へと入るありさまは、余すところのない他者の利益の成就の原因であることから、「このようにめでたきありさまで」と説かれた。「〜がないからである」という理由の文脈である。「後二輪の成就」とは、自らの正しい志願と過去に積んだ功徳という二つの徳のことである。次々に転ずることから車輪の状態であり、あるいは生きとし生けるものがこれらによって幸福な境涯を歩むからである。これに関して「比丘たちよ、これら四つの車輪がある。これらを具足した神々や人々に四輪が回転する」等(増支部4.31)と説かれた。ここでの前後関係は説示の順序によって理解されるべきである。「後二輪の成就により」とは、後二輪の存在による。「正しく志願し、過去に功徳を積んだ者は清らかな意図を持つ。その不清浄の原因である煩悩が遠ざかっているからである」と述べ、「意図の清浄が成就される」と言った。実に「正しく向けられた心は、それ以上の善をなす」(法句経43)、「アーナンダよ、そなたは功徳を積んできた。精進に励め、速やかに無漏となるであろう」(長部2.207)と説かれている通りである。それゆえ「意図の清浄によって証得の達者さが成就する」と言った。「実践の清浄によって」とは、如理作意を先立ちとする教えの聴聞の実践の明瞭さによってである。それゆえ「伝承の達者さの成就」と言った。あるいは、身と口のすべての実践の無過失さによってである。清浄な身口の実践を持つ者は、後悔がないことから心が散乱せず、教理において達者となるからである。

Nānappakārapaṭivedhadīpakenātiādinā atthabyañjanesu therassa evaṃsaddasuta-saddānaṃ asammohāsammosadīpanato catupaṭisambhidāvasena atthayojanaṃ dasseti. Tattha sotabbabhedapaṭivedhadīpakenāti etena ayaṃ suta-saddo evaṃ-saddasannidhānato, vakkhamānāpekkhāya vā sāmaññeneva sotabbadhammavisesaṃ āmasatīti dasseti. Manodiṭṭhikaraṇā pariyattidhammānaṃ anupekkhanasuppaṭivedhā visesato manasikārapaṭibaddhāti te vuttanayena yonisomanasikāradīpakena evaṃsaddena yojetvā, savanadhāraṇavacīparicayā pariyattidhammānaṃ visesena sotāvadhānapaṭibaddhāti te avikkhepadīpakena suta-saddena yojetvā dassento sāsanasampattiyā dhammassavane ussāhaṃ janeti. Tattha dhammāti pariyattidhammā. Manasānupekkhitāti ‘‘idha sīlaṃ kathitaṃ, idha samādhi, idha paññā, ettakā ettha anusandhiyo’’tiādinā nayena manasā anu anu pekkhitā. Diṭṭhiyā suppaṭividdhāti nijjhānakkhantibhūtāya, ñātapariññāsaṅkhātāya vā diṭṭhiyā tattha tattha vuttarūpārūpadhamme ‘‘iti rūpaṃ, ettakaṃ rūpa’’ntiādinā suṭṭhu vavatthapetvā paṭividdhā.

「種々の通達を示すことによって」等において、長老が義と文に対して「このように」「聞かれた」という言葉を用いて無癡と不忘失を示したことから、四無礙解に従って意味の結合を示している。その中で「聞かれるべきものの区別の通達を示すことによって」というこれによって、この「聞かれた」という語は「このように」という語の近接から、あるいはこれから説かれるものを考慮して、一般的に聞かれるべき教えの特質に触れていることを示している。意と見の見解によって、教理の教えの随観と正しき通達は特に作意に依存しているため、それらを説かれた理趣に従って如理作意を示す「このように」という語と結びつけ、聴聞・保持・読誦による教理の教えは特に耳を傾けることに依存しているため、それらを不散乱を示す「聞かれた」という語と結びつけて示し、教えの成就のために聴法への熱意を生じさせている。その中で「教え」とは教理の教えである。「意によって随観された」とは、「ここに戒が説かれ、ここに定が、ここに慧が、ここにこれほどの文脈の連なりがある」というような理趣によって、心で繰り返し随観されたことである。「見によってよく通達された」とは、審慮忍である見、あるいは知遍知と呼ばれる見によって、それぞれの箇所で説かれた色法・非色法を「これが色である、色とはこれだけである」等と明確に限定して通達したことである。

Sakalena vacanenāti pubbe tīhi padehi visuṃ visuṃ yojitattā vuttaṃ. Attano adahantoti ‘‘mameda’’nti attani aṭṭhapento. Asappurisabhūminti akataññutaṃ ‘‘idhekacco pāpabhikkhu tathāgatappaveditaṃ dhammavinayaṃ pariyāpuṇitvā attano dahatī’’ti (pārā. 195) evaṃ vuttaṃ anariyavohārāvatthaṃ, sā eva anariyavohārāvatthā asaddhammo. Nanu ca ānandattherassa ‘‘mamedaṃ vacana’’nti adhimānassa, mahākassapattherādīnañca tadāsaṅkāya abhāvato asappurisabhūmisamatikkamādivacanaṃ niratthakanti? Nayidamevaṃ ‘‘evaṃ me suta’’nti vadantena ayampi attho vibhāvitoti dassanato. Keci pana ‘‘devatānaṃ parivitakkāpekkhaṃ tathāvacananti edisī codanā anavakāsāvā’’ti vadanti. Tasmiṃ kira khaṇe ekaccānaṃ devatānaṃ evaṃ cetaso parivitakko udapādi ‘‘bhagavā ca parinibbuto, ayañca āyasmā desanākusalo, idāni dhammaṃ deseti sakyakulappasuto tathāgatassa bhātā cūḷapituputto, kiṃ nu kho sayaṃ sacchikataṃ dhammaṃ deseti, udāhu bhagavatoyeva vacanaṃ yathāsuta’’nti. Evaṃ tadāsaṅkitappakārato asappurisabhūmisamokkamādito atikkamādi vibhāvitanti. Appetīti nidasseti. Diṭṭhadhammikasamparāyikaparamatthesu yathārahaṃ satte netīti netti, dhammoyeva netti dhammanetti.

「全体の言葉によって」とは、以前に三つの語でそれぞれ別々に結びつけられたことから説かれた。「自らのものとせず」とは、「これは私のものである」と自分に帰属させないこと。「非善士の境地」とは、恩知らずのこと、「ここに悪比丘がいて、如来によって示された法と律を習得して自らのものとする」(波羅夷195)とこのように説かれた非聖なる慣習の状態であり、その非聖なる慣習の状態こそが悪法である。「アーナンダ長老には『これは私の言葉である』という過慢はなく、大カッサパ長老らにもその疑念はなかったのだから、非善士の境地を超越したなどという言葉は無意味ではないか」と言うかもしれないが、そうではない。「このように私によって聞かれた」と言うことによって、この意味もまた明らかにされたと見なされるからである。しかしある者たちは「神々の思惑を考慮したそのような言葉であり、このような非難は当てはまらない」と言う。伝え聞くところによれば、その瞬間、ある神々に次のような心の思惑が生じた。「世尊は完全な涅槃に入られ、この尊者は説法に長け、今や法を説いておられる。釈迦族に生まれ、如来の兄弟にして叔父の息子であるこの者は、果たして自ら現証した法を説いているのか、それとも世尊の言葉を聞いた通りに説いているのか」と。このように、彼らが疑念を抱いた様相から、非善士の境地に陥ることなどの超越が明らかにされたのである。「施す」とは例示することである。現世・来世・勝義の利益へと、しかるべく生きとし生けるものを導く(ネット)ゆえに導き手(ネッティ)であり、法こそが導き手であるから法導(ダンマネッティ)である。

Daḷhataraniviṭṭhā vicikicchā kaṅkhā. Nātisaṃsappanā matibhedamattā vimati. Assaddhiyaṃ vināseti bhagavatā desitattā, sammukhāvassa paṭiggahitattā, khalitaduruttādigahaṇadosābhāvato ca. Ettha ca paṭhamādayo tisso atthayojanā ākārādiatthesu aggahitavisesameva evaṃ-saddaṃ gahetvā dassitā, tato parā catasso ākāratthameva evaṃ-saddaṃ gahetvā vibhāvitā, pacchimā pana tisso yathākkamaṃ ākāratthaṃ nidassanatthaṃ avadhāraṇatthañca evaṃ-saddaṃ gahetvā yojitāti daṭṭhabbaṃ.

より強固に生じた疑いが「疑惑(カンカー)」である。それほど激しく動揺せず、単に考えが定まらないだけのものが「狐疑(ヴィマティ)」である。世尊によって説かれたこと、直接受け取られたこと、誤読や言い間違いなどの受容の過失がないことから、不信心を滅ぼす。そしてここでは、最初の三つの意味の解釈は様相などの意味において格別の限定を伴わない「このように」という言葉を取り上げて示され、その後の四つは様相の意味のみを持つ「このように」という言葉を取り上げて明らかにされ、最後の三つはそれぞれ順に様相の意味、例示の意味、限定の意味として「このように」という言葉を取り上げて結びつけられたと理解すべきである。

Eka-saddo aññaseṭṭhāsahāyasaṅkhyādīsu dissati. Tathā hesa ‘‘sassato attā ca loko ca, idameva saccaṃ moghamaññanti ittheke abhivadantī’’tiādīsu (ma. ni. 3.27) aññatthe dissati, ‘‘cetaso ekodibhāva’’ntiādīsu (dī. ni. 1.228) seṭṭhatthe, ‘‘eko vūpakaṭṭho’’tiādīsu (dī. ni. 1.405) asahāye, ‘‘ekova kho, bhikkhave, khaṇo ca samayo ca brahmacariyavāsāyā’’tiādīsu saṅkhyāyaṃ. Idhāpi saṅkhyāyanti dassento āha **‘‘ekanti gaṇanaparicchedaniddeso’’**ti. Kālañca samayañcāti yuttakālañca paccayasāmaggiñca khaṇoti okāso. Tathāgatuppādādiko hi maggabrahmacariyassa okāso tappaccayapaṭilābhahetuttā. Khaṇo eva ca samayo. Yo ‘‘khaṇo’’ti ca ‘‘samayo’’ti ca vuccati, so ekovāti hi attho mahāsamayoti mahāsamūho. Samayopi khoti sikkhāpadapūraṇassa hetupi. Samayappavādaketi diṭṭhippavādake. Tattha hi nisinnā titthiyā attano attano samayaṃ pavadantīti. Atthābhisamayāti hitapaṭilābhā. Abhisametabboti abhisamayo, abhisamayo attho abhisamayaṭṭhoti pīḷanādīni abhisametabbabhāvena ekībhāvaṃ upanetvā vuttāni. Abhisamayassa vā paṭivedhassa visayabhūto attho abhisamayaṭṭhoti. Tāneva tathā ekattena vuttāni. Tattha pīḷanaṃ dukkhasaccassa taṃsamaṅgino hiṃsanaṃ avipphārikatākaraṇaṃ. Santāpo dukkhadukkhatādivasena santāpanaṃ paridahanaṃ.

「一(エカ)」という言葉は、他、最上、無比、数などに用いられる。実にこれは「我と世界は常住であり、これのみが真実で他は虚妄であると、ある者たちは主張する」等(中部3.27)では「他」の意味で見られ、「心の一境性」等(長部1.228)では「最上」の意味で、「独り離れて」等(長部1.405)では「無比(独り)」において、「比丘たちよ、清浄行の実践のための機会と時は一つのみである」等では「数」において見られる。ここでも数であることを示して「『一』とは計算による限定の提示である」と言った。「時(カーラ)と時(サマヤ)を」とは、適切な時と諸条件の集まりを指す。「機会(カナ)」とは好機のことである。如来の出現などは、聖道という清浄行の好機である。その諸条件を得る原因であるからである。好機こそが「時(サマヤ)」である。「好機」とも「時」とも呼ばれるものは一つであるというのが意味である。「大集会(マハーサマヤ)」とは大集団のことである。「時(サマヤ)において」とは、学習条項を満たす原因においてもである。「異論の主張者たちにおいて」とは、見解の主張者たちにおいてである。そこに座した外道たちは、おのおの自らの教説(サマヤ)を主張するからである。「義の現観(アッタ・アビサマヤ)」とは、利益の獲得のことである。現観されるべきものが「現観(アビサマヤ)」であり、現観されるべき義が現観の意味であるから、逼迫などを現観されるべきものとして一つにまとめて説かれた。あるいは、現観すなわち通達の対象となる義が現観の意味である。それらをそのように単一のものとして説いた。その中で逼迫とは、苦諦がそれを持つ者を害し、自由を奪うことである。熱悩とは、苦苦などの性質によって焼き焦がすことである。

Tattha sahakārīkāraṇaṃ sannijjhaṃ sameti samavetīti samayo, samavāyo. Sameti samāgacchati maggabrahmacariyaṃ ettha tadādhārapuggalehīti samayo, khaṇo. Sameti ettha, etena vā saṃgacchati satto, sabhāvadhammo vā sahajātādīhi uppādādīhi vāti samayo, kālo. Dhammappavattimattatāya atthato abhūtopi hi kālo dhammappavattiyā adhikaraṇaṃ karaṇaṃ viya ca kappanāmattasiddhena rūpena voharīyatīti. Samaṃ, saha vā avayavānaṃ ayanaṃ pavatti avaṭṭhānanti samayo, samūho yathā ‘‘samudāyo’’ti. Avayavasahāvaṭṭhānameva hi samūhoti. Avasesapaccayānaṃ samāgame eti phalaṃ etasmā uppajjati pavattati cāti samayo, hetu yathā ‘‘samudayo’’ti. Sameti saṃyojanabhāvato sambandho eti attano visaye pavattati, daḷhaggahaṇabhāvato vā saṃyuttā ayanti pavattanti sattā yathābhinivesaṃ etenāti samayo, diṭṭhi; diṭṭhisaññojanena hi sattā ativiya bajjhantīti. Samiti saṅgati samodhānanti samayo, paṭilābho. Samayanaṃ, sammā vā ayanaṃ apagamoti samayo, pahānaṃ. Abhimukhaṃ ñāṇena sammā etabbo abhisametabboti abhisamayo, dhammānaṃ aviparīto sabhāvo. Abhimukhabhāvena sammā eti gacchati bujjhatīti abhisamayo, dhammānaṃ aviparītasabhāvāvabodho. Evaṃ tasmiṃ tasmiṃ atthe samaya-saddassa pavatti veditabbā. Samayasaddassa atthuddhāre abhisamayasaddassa udāharaṇaṃ vuttanayeneva veditabbaṃ. Assāti samayasaddassa. Kālo attho samavāyādīnaṃ atthānaṃ idha asambhavato, desadesakaparisānaṃ viya suttassa nidānabhāvena kālassa apadisitabbato ca.

そこにおいて、協力する原因や条件が結合する(サメーティ)、集まるゆえに「時(サマヤ)」であり、結合である。聖道という清浄行が、それを担う人々とともにここに集まる(サメーティ)ゆえに「時(サマヤ)」であり、好機である。有情あるいは自性法が、倶生するものたちや生起などとともにここに集まる(サメーティ)、これによって結びつくゆえに「時(サマヤ)」であり、時間である。法が生起するだけの状態であるため、実体としては存在しない時間であっても、法の生起の場所や手段のように、概念としてのみ成り立った形相で表現されるからである。部分が平等に、あるいはともに行くこと、生起すること、存続することが「時(サマヤ)」であり、集合である。例えば「集(サムダヤ)」のように。部分の共存こそが集まりだからである。残りの諸条件が集まるとき、これより結果が生じ(エーティ)、生起し転ずるゆえに「時(サマヤ)」であり、原因である。例えば「集起」のように。結びつきの状態であることから結合し、自らの対象において機能する(エーティ)、あるいは強固な執着ゆえに結びついた有情がこれによって執着に従って赴くゆえに「時(サマヤ)」であり、見解である。見解の結びつきによって有情は甚だしく縛られるからである。集まり、合致し、集合するゆえに「時(サマヤ)」であり、獲得である。和合して赴くこと、あるいは正しく離れ去ることが「時(サマヤ)」であり、断捨である。智によって目の前に正しく知るべきもの、現観されるべきものが「現観(アビサマヤ)」であり、諸法の狂いのない自性である。正面から正しく赴く、知る、悟るゆえに「現観」であり、諸法の狂いのない自性の覚知である。このように、それぞれの意味における「サマヤ」という語の用法を知るべきである。「サマヤ」の語釈における「アビサマヤ」の例示は、述べられた通りの理趣によって理解されるべきである。「この(アッサ)」とは「サマヤ」という語の、である。「時間」がその意味である。ここでは結合などの意味は該当せず、説処や説者や聴衆のように、経の導入部として時間が示されるべきだからである。

Kasmā panettha aniyamitavaseneva kālo niddiṭṭho, na utusaṃvaccharādivasena niyametvāti? Āha – **‘‘tattha kiñcāpī’’**tiādi. Utusaṃvaccharādivasena niyamaṃ akatvā samayasaddassa vacanena ayampi guṇo laddho hotīti dassento **‘‘ye vā ime’’**tiādimāha. Sāmaññajotanā hi visese avatiṭṭhatīti. Tattha diṭṭhadhammasukhavihārasamayo devasikaṃ jhānaphalasamāpattīhi vītināmanakālo, visesato sattasattāhāni. Suppakāsāti dasasahassilokadhātusaṃkampanaobhāsapātubhāvādīhi pākaṭā. Yathāvuttabhedesu eva samayesu ekadesaṃ pakārantarehi saṅgahetvā dassetuṃ **‘‘yo cāya’’**ntiādimāha. Tathā hi ñāṇakiccasamayo attahitapaṭipattisamayo ca abhisambodhisamayo, ariyatuṇhībhāvasamayo diṭṭhadhammasukhavihārasamayo, karuṇākiccaparahitapaṭipattidhammikathāsamayo desanāsamayo eva.

「なぜここでは季節や年などによって限定せず、不特定な形で時間を示したのか」といえば、「そこにおいて、たとえ〜であっても」等と述べた。季節や年などによる限定をせず「時(サマヤ)」という語を用いることによって、このような利点も得られることを示して「あるいはこれら…」等と述べた。一般的な表現は特定の事柄を内包するからである。その中で「現法楽住の時」とは、日々の禅定と果定の等至によって過ごす時間であり、特に(成道後の)七週間である。「極めて明白な」とは、一万の器の世界の震動や光の出現などによって明らかなことである。すでに述べた区分における時の一部を別の方法で包括して示すために、「そしてこの…」等と述べた。すなわち、智の働きの時と自利の行の時は大菩提(成道)の時であり、聖なる沈黙の時は現法楽住の時であり、大悲の働きの利他行である法話の時は説法の時そのものである。

Karaṇavacanena niddeso katoti sambandho. Tatthāti abhidhammatadaññasuttapadavinayesu. Tathāti bhummakaraṇehi. Adhikaraṇattho ādhārattho. Bhāvo nāma kiriyā, tāya kiriyantaralakkhaṇaṃ bhāvenabhāvalakkhaṇaṃ. Tattha yathā kālo sabhāvadhammaparicchinno sayaṃ paramatthato avijjamānopi ādhārabhāvena paññāto taṅkhaṇappavattānaṃ tato pubbe parato ca abhāvato ‘‘pubbaṇhe jāto, sāyanhe gacchatī’’ti ca ādīsu, samūho ca avayavavinimutto avijjamānopi kappanāmattasiddho avayavānaṃ ādhārabhāvena paññāpīyati ‘‘rukkhe sākhā, yavarāsiyaṃ sambhūto’’tiādīsu, evaṃ idhāpīti dassento āha **‘‘adhikaraṇañhi…pe… dhammāna’’**nti. Yasmiṃ kāle dhammapuñje vā kāmāvacaraṃ kusalaṃ cittaṃ uppannaṃ hoti, tasmiṃ eva kāle dhammapuñje ca phassādayopi hontīti ayañhi tattha attho. Yathā ca ‘‘gāvīsu duyhamānāsu gato, duddhāsu āgato’’ti dohanakiriyāya gamanakiriyā lakkhīyati, evaṃ idhāpi ‘‘yasmiṃ samaye, tasmiṃ samaye’’ti ca vutte ‘‘satī’’ti ayamattho viññāyamāno eva hoti padatthassa sattāvirahābhāvatoti samayassa sattākiriyāya cittassa uppādakiriyā phassādīnaṃ bhavanakiriyā ca lakkhīyati. Yasmiṃ samayeti yasmiṃ navame khaṇe, yasmiṃ yonisomanasikārādihetumhi, paccayasamavāye vā sati kāmāvacaraṃ kusalaṃ cittaṃ uppannaṃ hoti, tasmiṃyeva khaṇe, hetumhi, paccayasamavāye vā phassādayopi hontīti ubhayattha samayasadde bhummaniddeso kato lakkhaṇabhūtabhāvayuttoti dassento āha **‘‘khaṇa…pe… lakkhīyatī’’**ti.

「具格の言葉によって提示がなされた」という結びつきである。「そこにおいて」とは、阿毘達磨やその他の経の句や律において。「そのように」とは、処格(於格)と具格によってである。処格の意味は基盤(依処)の意味である。「状態(バーヴァ)」とは作用(動作)のことであり、その作用によって他の作用を特徴づけることが「状態による状態の特徴づけ」である。そこにおいて、自性法によって区切られた時間そのものは勝義としては存在しないが、その瞬間に機能しそれ以前や以後には存在しないものたちの基盤として知られ、「午前に生まれ、夕方に去る」等の表現で用いられるように、また集合体も部分を離れては存在せず概念として成り立つにすぎないが、部分の基盤として「木の枝、大麦の山に生じた」等と知らしめられるように、ここでも同様であることを示して「基盤は…乃至…諸法の」と述べた。どの時間や法の集まりにおいて欲界の善心が生じたとき、その同じ時間や法の集まりにおいて触なども存在する、というのがそこでの意味である。また、「牛たちが乳を搾られているときに出発し、搾り終えたときに帰ってきた」と言えば搾乳の動作によって出発の動作が特徴づけられるように、ここでも「ある時、その時」と言われたとき、「あるとき(存在するとき)」というこの意味が了解されるのである。語の意味には存在性が欠かせないからである。したがって時の存在の作用によって、心の生起の作用や触などの生成の作用が特徴づけられるのである。「ある時において」とは、ある第九の好機、ある如理作意などの原因、あるいは諸条件の集まりがあるとき、欲界の善心が生じる。その同じ好機、原因、諸条件の集まりにおいて触なども存在する、と両方の「時」という語に特徴づけとなる状態を伴う処格の提示がなされたことを示して、「好機…乃至…特徴づけられる」と述べた。

Hetuattho karaṇattho ca sambhavati ‘‘annena vasati, ajjhenena vasati, pharasunā chindati, kudālena khaṇatī’’tiādīsu viya. Vītikkamañhi sutvā bhikkhusaṅghaṃ sannipātāpetvā otiṇṇavatthukaṃ puggalaṃ paṭipucchitvā vigarahitvā ca taṃ taṃ vatthuṃ otiṇṇakālaṃ anatikkamitvā teneva kālena sikkhāpadāni paññapento bhagavā viharati sikkhāpadapaññattihetuñca apekkhamāno tatiyapārājikādīsu viya.

「食物によって生活する、学問によって生活する、斧で切る、鋤で掘る」などのように、原因の意味と道具(具格)の意味が成り立つ。違反を聞いて比丘僧伽を集めさせ、事を起こした人物に尋問し、叱責して、その事柄が起こった時を逃さず、その時をもって学習条項を制定しつつ世尊は住まわれ、第三波羅夷などのように学習条項制定の動機を考慮されるのである。

Accantameva ārambhato paṭṭhāya yāva desanāniṭṭhānaṃ parahitapaṭipattisaṅkhātena karuṇāvihārena. Tadatthajotanatthanti accantasaṃyogatthajotanatthaṃ. Upayogavacananiddeso kato yathā ‘‘māsaṃ ajjhetī’’ti.

始まりから説法の完了に至るまで、利他行と呼ばれる大悲の住によって完全に一貫している。「その意味を示すために」とは、完全な継続・結合(遍満)の意味を示すためである。「一ヶ月間学ぶ」というように、対格による提示がなされた。

Porāṇāti aṭṭhakathācariyā. Abhilāpamattabhedoti vacanamattena viseso. Tena suttavinayesu vibhattibyattayo katoti dasseti.

「古代の者たち」とは注釈家たちである。「表現の差異にすぎない」とは言葉の違いにすぎない。それによって経と律における格の転換がなされたことを示している。

Seṭṭhanti seṭṭhavācakaṃ vacanaṃ ‘‘seṭṭha’’nti vuttaṃ seṭṭhaguṇasahacaraṇato. Tathā uttamanti etthāpi. Gāravayuttoti garubhāvayutto garuguṇayogato, garukaraṇārahatāya vā gāravayutto. Vuttoyeva, na pana idha vattabbo visuddhimaggassa imissā aṭṭhakathāya ekadesabhāvatoti adhippāyo.

「最上の」とは、最上を意味する言葉が、最上の徳とともにあることから「最上」と言われたのである。「至高の」というのも同様である。「恭敬を備えた」とは、重々しい状態を具え、尊い徳を具足していることから、あるいは尊敬に値することから「恭敬を備えた」という。すでに(『清浄道論』等で)説かれており、ここで再び説く必要はない。清浄道論はこの注釈書の一部であるから、というのが意図である。

Aparo nayo (saṃ. ni. ṭī. 1.1.1; sārattha. ṭī. 1.vinayānisaṃsakathāvaṇṇanā; visuddhi. mahāṭī. 1.144; itivu. aṭṭha. ganthārambhakathā) – bhāgavāti bhagavā, bhatavāti bhagavā, bhāge vanīti bhagavā, bhage vanīti bhagavā, bhattavāti bhagavā, bhage vamīti bhagavā, bhāge vamīti bhagavā.

別の方法(相応部復注1.1.1、真義宝函復注1.律勝徳論釈、清浄道大復注1.144、如是語注釈序論等)によれば、「徳の分け前を持つ(バーガヴァー)」ゆえに「世尊(バガヴァー)」であり、「修め具えた(バタヴァー)」ゆえに「世尊」であり、「分け前を親しんだ(バーゲ・ヴァニー)」ゆえに「世尊」であり、「幸福を親しんだ(バゲ・ヴァニー)」ゆえに「世尊」であり、「信者を多く持つ(バッタヴァー)」ゆえに「世尊」であり、「幸福を吐き出した(バゲ・ヴァミー)」ゆえに「世尊」であり、「諸要素を吐き出した(バーゲ・ヴァミー)」ゆえに「世尊」である。

Bhagavā bhatavā bhāge, bhage ca vani bhattavā;

世尊は分け前を持ち、修め具え、分け前を、そして幸福を親しみ、信者を多く持ち、

Bhage vami tathā bhāge, vamīti bhagavā jino.

幸福を吐き出し、同様に分け前を吐き出したゆえに、勝者たる世尊と呼ばれる。

Tattha kathaṃ bhāgavāti bhagavā? Ye te sīlādayo dhammakkhandhā guṇabhāgā guṇakoṭṭhāsā, te anaññasādhāraṇā niratisayā tathāgatassa atthi upalabbhanti. Tathā hissa sīlaṃ, samādhi, paññā, vimutti, vimuttiñāṇadassanaṃ, hirī, ottappaṃ, saddhā, vīriyaṃ, sati sampajaññaṃ, sīlavisuddhi, diṭṭhivisuddhi, samatho, vipassanā, tīṇi kusalamūlāni, tīṇi sucaritāni, tayo sammāvitakkā, tisso anavajjasaññā, tisso dhātuyo, cattāro satipaṭṭhānā, cattāro sammappadhānā, cattāro iddhipādā, cattāro ariyamaggā, cattāri ariyaphalāni, catasso paṭisambhidā, catuyonipaṭicchedakañāṇaṃ, cattāro ariyavaṃsā, cattāri vesārajjañāṇāni, pañca padhāniyaṅgāni, pañcaṅgiko sammāsamādhi, pañcañāṇiko sammāsamādhi, pañcindriyāni, pañca balāni, pañca nissāraṇīyā dhātuyo, pañca vimuttāyatanañāṇāni, pañca vimuttiparipācanīyā saññā, cha anussatiṭṭhānāni, cha gāravā, cha nissāraṇīyā dhātuyo, cha satatavihārā, cha anuttariyāni, cha nibbedhabhāgiyā saññā, cha abhiññā, cha asādhāraṇañāṇāni, satta aparihāniyā dhammā, satta ariyadhammā, satta ariyadhanāni, satta bojjhaṅgā, satta sappurisadhammā, satta nijjaravatthūni, satta saññā, satta dakkhiṇeyyapuggaladesanā, satta khīṇāsavabaladesanā, aṭṭha paññāpaṭilābhahetudesanā, aṭṭha sammattāni, aṭṭha lokadhammātikkamā, aṭṭha ārambhavatthūni, aṭṭha akkhaṇadesanā, aṭṭha mahāpurisavitakkā, aṭṭha abhibhāyatanadesanā, aṭṭha vimokkhā, nava yonisomanasikāramūlakā dhammā, nava pārisuddhipadhāniyaṅgāni, nava sattāvāsadesanā, nava āghātapaṭivinayā, nava saññā, nava nānattā, nava anupubbavihārā, dasa nāthakaraṇā dhammā, dasa kasiṇāyatanāni, dasa kusalakammapathā, dasa sammattāni, dasa ariyavāsā, dasa asekkhadhammā, dasa tathāgatabalāni, ekādasa mettānisaṃsā, dvādasa dhammacakkākārā, terasa dhutaguṇā, cuddasa buddhañāṇāni, pañcadasa vimuttiparipācanīyā dhammā, soḷasavidhā ānāpānassati, soḷasa aparantapanīyā dhammā, aṭṭhārasa buddhadhammā, ekūnavīsati paccavekkhaṇañāṇāni, catucattālīsa ñāṇavatthūni, paññāsa udayabbayañāṇāni, paropaṇṇāsa kusaladhammā, sattasattati ñāṇavatthūni, catuvīsatikoṭisatasahassasaṅkhāsamāpattisañcārimahāvajirañāṇaṃ, anantanayasamantapaṭṭhānapavicayapaccavekkhaṇadesanāñāṇāni tathā anantāsu lokadhātūsu anantānaṃ sattānaṃ āsayādivibhāvanañāṇāni cāti evamādayo anantāparimāṇabhedā anaññasādhāraṇā niratisayā guṇabhāgā guṇakoṭṭhāsā saṃvijjanti upalabbhanti, tasmā yathāvuttavibhāgā guṇabhāgā assa atthīti ‘‘bhāgavā’’ti vattabbe ā-kārassa rassattaṃ katvā **‘‘bhagavā’’**ti vutto. Evaṃ tāva bhāgavāti bhagavā.

そこにおいて、どのように「分け前を持つ(バーガヴァー)」ゆえに世尊なのか。それら戒などの法蘊、徳の分け前、徳の区分は、他と共有されない無上のものとして如来に存在し、見出される。実に世尊には、戒、定、慧、解脱、解脱知見、慚、愧、信、精進、念、正知、戒清浄、見清浄、止、観、三善根、三妙行、三正尋、三無罪想、三界、四念処、四正勤、四神足、四聖道、四聖果、四無礙解、四生分別智、四聖種、四無所畏智、五勤修息、五支正定、五智正定、五根、五力、五出離界、五解脱処智、五解脱熟想、六随念処、六敬、六出離界、六恒常住、六無上、六通達想、六通、六不共智、七不退法、七聖法、七聖財、七覚支、七善士法、七滅尽処、七想、七応供人説、七漏尽力説、八獲慧因説、八正、八世間法超越、八発勤処、八非時説、八大人尋、八勝処説、八解脱、九如理作意根本法、九清浄勤修息、九有情居説、九害心調伏、九想、九種々性、九次第住、十依止法、十遍処、十善業道、十正法、十聖居、十無学法、十如来力、十一慈心功徳、十二法輪相、十三頭陀支、十四仏智、十五解脱熟法、十六種入出息念、十六不熱悩法、十八不共仏法、十九観察智、四十四智処、五十生滅智、五十以上の善法、七十七智処、二十四億十万の等至に及ぶ大金剛智、無辺の理趣による普周相応分別観察説示智、無辺の世界における無辺の有情たちの意図等を解明する智など、無数の他と共有されない無上の徳の分け前、徳の区分が存在し、見出される。それゆえ、説かれた通りの区分ある徳の分け前をこの方が持っていることから「バーガヴァー」と呼ばれるべきところ、長母音のアーを短音化して「バガヴァー(世尊)」と呼ばれる。このようにまず「分け前を持つ」ゆえに世尊である。

Yasmā sīlādayo sabbe, guṇabhāgā asesato;

戒などのすべての徳の分け前が、余すところなく善逝に存在するゆえに、世尊と呼ばれる。

Vijjanti sugate tasmā, bhagavāti pavuccatīti.

どのように「修め具えた(バタヴァー)」ゆえに世尊なのか。すべての世界の利益のために熱意を起こし、人間性などの八つの法を結集して正等覚のために大誓願を立てた大菩薩たちによって満たされるべき布施波羅蜜、戒、出離、慧、精進、忍辱、真実、決意、慈、捨の波羅蜜という十波羅蜜、十近波羅蜜、十勝義波羅蜜の三十波羅蜜、布施などの四摂事、真実などの四決意、身体の放棄・眼や財産や王位や妻子を施す五大放棄、宿世の行、過去の履歴、教法の開示、親族への利益の実践、世界への利益の実践、智慧の実践など、要するに福徳と智慧の資糧であるすべての仏を作す法を、大誓願から始まって十万劫と四阿僧祇にわたり、減退するもの、汚れとなるもの、停滞するものとならず、ますます卓越するものとなるように、恭敬して絶え間なく余すところなく修め(バタ)、蓄えられたものがこの方にあるゆえに、「バタヴァー」と呼ばれるべきところ、語源の理趣に従ってタ音をガ音に変えて「バガヴァー(世尊)」と呼ばれる。あるいは「バタヴァー」とは、それらの説かれた仏を作す法を、説かれた通りの方法で修め(バリ)、蓄え、満たしたという意味である。このように「修め具えた」ゆえにも世尊である。

Kathaṃ bhatavāti bhagavā? Ye te sabbalokahitāya ussukkamāpannehi manussattādike aṭṭha dhamme samodhānetvā sammāsambodhiyā katamahābhinīhārehi mahābodhisattehi paripūritabbā dānapāramī, sīla, nekkhamma, paññā, vīriya, khanti, sacca, adhiṭṭhāna, mettā, upekkhāpāramīti dasa pāramiyo dasa upapāramiyo dasa paramatthapāramiyoti samatiṃsa pāramiyo, dānādīni cattāri saṅgahavatthūni, saccādīni cattāri adhiṭṭhānāni, aṅgapariccāgo nayanadhanarajjaputtadārapariccāgoti pañca mahāparicāgā, pubbayogo, pubbacariyā, dhammakkhānaṃ, ñātatthacariyā, lokatthacariyā, buddhicariyāti evamādayo, saṅkhepato vā sabbe puññañāṇasambhārā buddhakaradhammā, te mahābhinīhārato paṭṭhāya kappānaṃ satasahassādhikāni cattāri asaṅkheyyāni yathā hānabhāgiyā saṃkilesabhāgiyā ṭhitibhāgiyā vā na honti, atha kho uttaruttari visesabhāgiyāva honti, evaṃ sakkaccaṃ nirantaraṃ anavasesato bhatā sambhatā assa atthīti ‘‘bhatavā’’ti vattabbe **‘‘bhagavā’’**ti vutto niruttinayena ta-kārassa ga-kāraṃ katvā. Atha vā bhatavāti teyeva yathāvutte buddhakaradhamme vuttanayeneva bhari sambhari, paripūresīti attho. Evampi bhatavāti bhagavā.

正等覚のために、布施波羅蜜をはじめとするすべての資糧を修め具えた依処なるがゆえに、世尊と知られる。

Sammāsambodhiyā sabbe, dānapāramiādike;

どのように「分け前を親しんだ(バーゲ・ヴァニー)」ゆえに世尊なのか。二十四億十万もの日々の用いるべき等至の分け前を、余すところなく世界の人々の利益のため、また自らの現法楽住のために、常に親しみ(ヴァニ)、修め、実践し、多大になしたゆえに、「分け前を親しんだ」ことから世尊である。あるいは、知るべき法である善などの法や蘊などにおいて、遍知すべきもの等による要約としての四種の現観の分け前、詳細には「眼は遍知されるべきであり、耳は…乃至…老死は遍知されるべきである」等(無礙解道1.21)と説かれる数々の遍知の分け前、「眼の集起は断じられるべきであり…乃至…老死の集起は断じられるべきである」等と説かれる断ずべき分け前、「眼の滅は…乃至…老死の滅は現証されるべきである」等と説かれる現証すべき分け前、「眼の滅に至る道」等や「四念処」等と説かれる多様な修習すべき分け前の法を、すべて親しみ、修め、しかるべく対象・修習・実践によって親しんだ。このように「分け前を親しんだ」ゆえにも世尊である。あるいは、「これら弟子たちと共通する戒などの法蘊という徳の分け前、徳の区分を、いかにして導かれるべき者たちの心相続に確立させるか」と大悲によって親しみ、希求し、その希求は意図した通りの結果をもたらした。このように「分け前を親しんだ」ゆえにも世尊である。

Sambhāre bhatavā nātho, tenāpi bhagavā matoti.

知るべきもの、等至、徳の分け前を、有情の利益のために余すところなく親しみ、希求したゆえに、それによって世尊である。

Kathaṃ bhāge vanīti bhagavā? Ye te catuvīsatikoṭisatasahassasaṅkhā devasikaṃ vaḷañjanakasamāpattibhāgā, te anavasesato lokahitatthaṃ attano ca diṭṭhadhammasukhavihāratthaṃ niccakappaṃ vani bhaji sevi bahulamakāsīti bhāge vanīti bhagavā. Atha vā abhiññeyyadhammesu kusalādīsu khandhādīsu ca ye te pariññeyyādivasena saṅkhepato vā catubbidhā abhisamayabhāgā, vitthārato pana ‘‘cakkhu pariññeyyaṃ sotaṃ…pe… jarāmaraṇaṃ pariññeyya’’ntiādinā (paṭi. ma. 1.21) aneke pariññeyyabhāgā, ‘‘cakkhussa samudayo pahātabbo…pe… jarāmaraṇassa samudayo pahātabbo’’tiādinā pahātabbabhāgā, ‘‘cakkhussa nirodho…pe… jarāmaraṇassa nirodho sacchikātabbo’’tiādinā sacchikātabbabhāgā, ‘‘cakkhussa nirodhagāminī paṭipadā’’tiādinā, ‘‘cattāro satipaṭṭhānā’’tiādinā ca anekabhedā bhāvetabbabhāgā ca dhammā, te sabbe vani bhaji yathārahaṃ gocarabhāvanāsevanānaṃ vasena sevi. Evampi bhāge vanīti bhagavā. Atha vā ‘‘ye ime sīlādayo dhammakkhandhā sāvakehi sādhāraṇā guṇabhāgā guṇakoṭṭhāsā, kinti nu kho te vineyyasantānesu patiṭṭhapeyya’’nti mahākaruṇāya vani abhipatthayi, sā cassa abhipatthanā yathādhippetaphalāvahā ahosi. Evampi bhāge vanīti bhagavā.

どのように「幸福を親しんだ(バゲ・ヴァニー)」ゆえに世尊なのか。要約すれば、功徳を積み実践を成就した者たちが自らの力に応じて親しむものが「幸福(バガ)」、すなわち世間的・出世間的な成就である。その中で世間的なものとしては、如来は成道以前の菩薩であったときに最高峰に達したものを親しみ、修め、実践し、そこに立脚して仏を作す法を余すところなく修めて仏の法を成熟させ、仏となってからはそれらの無罪の安楽を伴う他と共有されない出世間の幸福をも親しみ、修め、実践した。詳細には、一地方の王位・主権・転輪聖王の栄華・天界の王位の栄華など、また禅定・解脱・三摩地・等至・知見・道の修習・果の現証などの上人法による多様で無比の幸福を親しみ、修め、実践した。このように「幸福を親しんだ」ゆえにも世尊である。

Yasmā ñeyyasamāpattiguṇabhāge asesato;

世間にある数々の成就、また出世間の多くの成就を、正覚者はすべて親しまれた。それゆえにも世尊と知られる。

Bhaji patthayi sattānaṃ, hitāya bhagavā tatoti.

どのように「信者を多く持つ(バッタヴァー)」ゆえに世尊なのか。帰依者、強固な信仰を持つ者たち(バッタ)を多く持っているゆえに「バッタヴァー」である。如来は大悲や一切知智などの無量・無比の威信ある徳の特質を具足していることから一切の有情の中で最上であり、すべての害悪の除去を先立ちとし余すところない利益と幸福の実現に専念する無上の実践の成就により、神と人からなる人々にとって至高の恩人であり、三十二相八十種好や一尋の光明などの無比の特質で飾られた色身を持ち、事実に基づく徳によって得られた「彼こそは世尊…」等の理趣で三界に満ちわたる広大で極めて清浄な賛嘆の声を備え、最高峰の波羅蜜に達した少欲や知足などに堅固に立脚し、十力や四無所畏などの無上の徳の特質を具足していることから、容姿を基準として信順する者、声を基準として信順する者、粗末さを基準として信順する者、教法を基準として信順する者という、これら四つの基準を持つ世間の人々において、あらゆる点において信仰をもたらす性質により普周端厳であることから、神々や人間を含む無量の有情たちの敬意・尊崇・畏敬の対象であり、無上の慈愛と篤い帰依の拠り所である。世尊の教誡に立脚し揺るぎない清浄な信仰を具えた者たちの信仰と帰依は、沙門・婆羅門・神・魔・梵天の誰によっても奪うことはできない。実に彼らは自らの命を捨てることになっても、そこにおける信仰を捨てることはなく、あるいは世尊の命令を堅固な信仰のゆえに違犯しない。それゆえにこう説かれた。

Kathaṃ bhage vanīti bhagavā? Samāsato tāva katapuññehi payogasampannehi yathāvibhavaṃ bhajīyantīti bhagā, lokiyalokuttarā sampattiyo. Tattha lokiye tāva tathāgato sambodhito pubbe bodhisattabhūto paramukkaṃsagate vani bhaji sevi, yattha patiṭṭhāya niravasesato buddhakaradhamme samannānento buddhadhamme paripācesi, buddhabhūto pana te niravajjasukhūpasaṃhite anaññasādhāraṇe lokuttarepi vani bhaji sevi, vitthārato pana padesarajjaissariyacakkavattisampatti-devarajjasampattiādivasena- jhānavimokkhasamādhisamāpattiñāṇadassana-maggabhāvanāphalasacchi- kiriyādi-uttarimanussadhammavasena ca anekavihite anaññasādhāraṇe bhage vani bhaji sevi. Evampi bhage vanīti bhagavā.

「恩を知り、恩に報いる賢明な者、善友にして強固な信順を持つ者」(ジャータカ2.17.78)

Yā tā sampattiyo loke, yā ca lokuttarā puthu;

「比丘たちよ、大海が定まった法を持ち、境界を越えないように、比丘たちよ、そのように私が弟子たちのために制定した学習条項を、私の弟子たちは命のためにであっても越えることはない」(増支部8.20、自説経45、小品385)と。

Sabbā tā bhaji sambuddho, tasmāpi bhagavā matoti.

このように、語源の理趣に従って一つのタ音を脱落させ、もう一つのタ音をガ音に変えて「バッタヴァー」ゆえに「バガヴァー(世尊)」である。

Kathaṃ bhattavāti bhagavā? Bhattā daḷhabhattikā assa bahū atthīti bhattavā. Tathāgato hi mahākaruṇāsabbaññutaññāṇādiaparimitanirupamapabhāvaguṇavisesasamaṅgibhāvato sabbasattuttamo, sabbānatthaparihārapubbaṅgamāya niravasesahitasukhavidhānatapparāya niratisayāya payogasampattiyā sadevamanussāya pajāya accantūpakāritāya dvattiṃsamahāpurisalakkhaṇa-asītianubyañjana-byāmappabhādianaññasādhāraṇa- visesapaṭimaṇḍita-rūpakāyatāya yathābhucca-guṇādhigatena ‘‘itipi so bhagavā’’tiādinayappavattena lokattayabyāpinā suvipulena suvisuddhena ca thutighosena samannāgatattā ukkaṃsapāramippattāsu appicchatāsantuṭṭhiādīsu suppatiṭṭhitabhāvato dasabalacatuvesārajjādiniratisayaguṇavisesa-samaṅgibhāvato ca rūpappamāṇo rūpappasanno, ghosappamāṇo ghosappasanno, lūkhappamāṇo lūkhappasanno, dhammappamāṇo dhammappasannoti evaṃ catuppamāṇike lokasannivāse sabbathāpi pasādāvahabhāvena samantapāsādikattā aparimāṇānaṃ sattānaṃ sadevamanussānaṃ ādarabahumānagāravāyatanatāya paramapemasambhattiṭṭhānaṃ. Ye tassa ovāde patiṭṭhitā aveccappasādena samannāgatā honti, kenaci asaṃhāriyā tesaṃ pasādabhatti samaṇena vā brāhmaṇena vā devena vā mārena vā brahmunā vā. Tathā hi te attano jīvitapariccāgepi tattha pasādaṃ na pariccajanti, tassa vā āṇaṃ daḷhabhattibhāvato. Tenevāha –

無上の徳を具え、世界の利益を求める師には、多くの篤い信者がいるゆえに、それによって世尊と呼ばれる。

‘‘Yo ve kataññū katavedi dhīro;

どのように「幸福を吐き出した(バゲ・ヴァミー)」ゆえに世尊なのか。如来は菩薩であったときにも、前世において波羅蜜を満たす中で、「幸福」と呼ばれる繁栄・権力・名声を吐き出し(ヴァミ)、排出し、唾液の塊のように執着なく投げ捨てた。最後の生存においても、掌中にあった転輪聖王の栄華、天界の主権に匹敵する四大洲の統治権、転輪聖王の繁栄に基づく七宝燦然たる名声を草葉のように顧みることなく、執着なく捨てて出家し、正等覚を現証された。それゆえ、これら繁栄などの幸福を吐き出した(バゲ・ヴァミー)ことから世尊である。あるいは、「バー」とは星座(星宿)のことであり、それらとともに進み動くゆえに「幸福(バガ)」とは須弥山、持双山、鬱単越、雪山などの器世間の特質に基づく美しさのことである。劫の間存続するものであるからである。それら器世界の美しさも、そこに住む有情たちの住処を超越したことから、それらに結びついた欲求と執着の放棄によって捨て去った。このように「幸福を吐き出した」ゆえにも世尊である。

Kalyāṇamitto daḷhabhatti ca hotī’’ti. (jā. 2.17.78);

転輪聖王の栄華、名声、主権、安楽、そして世間の心を善逝は捨て去ったゆえに、それによって世尊である。

‘‘Seyyathāpi, bhikkhave, mahāsamuddo ṭhitadhammo velaṃ nātivattati, evameva kho, bhikkhave, yaṃ mayā sāvakānaṃ sikkhāpadaṃ paññattaṃ, taṃ mama sāvakā jīvitahetupi nātikkamantī’’ti (a. ni. 8.20; udā. 45; cūḷava. 385) ca.

どのように「諸要素を吐き出した(バーゲ・ヴァミー)」ゆえに世尊なのか。「バーガ」とは同類の法の区分のことであり、それらは蘊・処・界などによって、そこでも色・受などによって、地などや過去などによって多様である。世尊はすべての戯論、すべての束縛、すべての結び目、すべての結使を断ち切って不死の界に達し、それらを吐き出し、排出し、執着なく捨て去って再び戻ることはなかった。実に世尊は「すべての地、水、火、風、眼、耳、鼻、舌、身、意、色、声、香、味、触、法、眼識…乃至…意識、眼触…乃至…意触、眼触より生じる受…乃至…意触より生じる受、眼触より生じる想…乃至…意触より生じる想、眼触より生じる思…乃至…意触より生じる思、色の渇愛…乃至…法の渇愛、色の尋…乃至…法の尋、色の伺…乃至…法の伺」等の逐法分別によっても、すべての法の区分を余すところなく吐き出し、排出し、執着なき放棄によって捨て去られた。「アーナンダよ、捨てられ、吐き出され、解放され、断ぜられ、放棄されたものを、如来が再び取り戻すなどということはあり得ない」(長部2.183)と説かれている通りである。このように「諸要素を吐き出した」ゆえにも世尊である。あるいは「諸要素を吐き出した」とは、すべての善・不善、有罪・無罪、劣等・勝妙、黒白の対比される法を、聖道の智によって吐き出し、排出し、執着なく放棄し捨て去り、他者に対してもそのようになるよう法を説かれた。「比丘たちよ、あなたがたは法さえも捨てるべきである。不法については言うまでもない」(中部1.240)、「比丘たちよ、渡るためのものであって執着するためのものではない筏にたとえて法を説こう」(中部1.240)等と説かれている通りである。このように「諸要素を吐き出した」ゆえにも世尊である。

Evaṃ bhattavāti bhagavā niruttinayena ekassa ta-kārassa lopaṃ katvā itarassa ga-kāraṃ katvā.

蘊・処・界などの法の分け前、黒白の法を大仙人は吐き出されたゆえに、それによっても世尊と知られる。

Guṇātisayayuttassa, yasmā lokahitesino;

それゆえに説かれた。

Sambhattā bahavo satthu, bhagavā tena vuccatīti.

「世尊は分け前を持ち、修め具え、分け前を、そして幸福を親しみ、信者を多く持ち、

Kathaṃ bhage vamīti bhagavā? Yasmā tathāgato bodhisattabhūtopi purimāsu jātīsu pāramiyo pūrento bhagasaṅkhātaṃ siriṃ issariyaṃ yasañca vami, uggiri, kheḷapiṇḍaṃ viya anapekkho chaḍḍayi; pacchimattabhāvepi hatthāgataṃ cakkavattisiriṃ devalokādhipaccasadisaṃ catudīpissariyaṃ cakkavattisampattisannissayaṃ sattaratanasamujjalaṃ yasañca tiṇāyapi amaññamāno nirapekkho pahāya abhinikkhamitvā sammāsambodhiṃ abhisambuddho, tasmā ime siriādike bhage vamīti bhagavā. Atha vā bhāni nāma nakkhattāni, tehi samaṃ gacchanti pavattantīti bhagā, sineruyugandharauttarakuruhimavantādibhājanalokavisesasannissayā sobhā kappaṭṭhiyabhāvato, tepi bhage vami tannivāsisattāvāsasamatikkamanato, tappaṭibaddhachandarāgapahānena pajahīti. Evampi bhage vamīti bhagavā.

幸福を吐き出し、同様に分け前を吐き出したゆえに、勝者たる世尊と呼ばれる」と。

Cakkavattisiriṃ yasmā, yasaṃ issariyaṃ sukhaṃ;

「法身を眼前ならしめる」とは、「アーナンダよ、あなた方のために私が説き示した法と律、それが私の亡き後、あなた方の師である」(長部2.216)という言葉から、法が師であるという教示が存在することに配慮して述べられた。「金剛の結集に似た身体」とは、他者によって破壊されない身体であるからである。世尊の色身に何者も危害を加えることはできないからである。

Pahāsi lokacittañca, sugato bhagavā tatoti.

「このように」という例示によって、これから説かれる経全体を示すことから、説法の成就を提示している。無礙解に達し、五つの事柄において世尊から最上と定められた大弟子である私によって聞かれた、しかも私自身によって聞かれたのであり、伝聞や伝承によるのではない、というこの意味を示すことから、弟子の成就を提示している。「世尊」という言葉に近接して用いられた「時」という語によって、その時間が仏の出現で飾られていることを示すことから、時の成就を提示している。実に仏の出現こそが最高の時の成就である。それゆえこのように言われる。

Kathaṃ bhāge vamīti bhagavā? Bhāgā nāma sabhāgadhammakoṭṭhāsā, te khandhāyatanadhātādivasena, tatthāpi rūpavedanādivasena, pathaviyādiatītādivasena ca anekavidhā. Te bhagavā sabbaṃ papañcaṃ sabbaṃ yogaṃ sabbaṃ ganthaṃ sabbaṃ saṃyojanaṃ samucchinditvā amataṃ dhātuṃ samadhigacchanto vami uggiri, anapekkho chaḍḍayi na paccāgami. Tathā hesa ‘‘sabbatthameva pathaviṃ āpaṃ tejaṃ vāyaṃ, cakkhuṃ sotaṃ ghānaṃ jivhaṃ kāyaṃ manaṃ, rūpe sadde gandhe rase phoṭṭhabbe dhamme, cakkhuviññāṇaṃ…pe… manoviññāṇaṃ, cakkhusamphassaṃ…pe… manosamphassaṃ, cakkhusamphassajaṃ vedanaṃ…pe… manosamphassajaṃ vedanaṃ, cakkhusamphassajaṃ saññaṃ…pe… manosamphassajaṃ saññaṃ, cakkhusamphassajaṃ cetanaṃ…pe… manosamphassajaṃ cetanaṃ, rūpataṇhaṃ…pe… dhammataṇhaṃ, rūpavitakkaṃ…pe… dhammavitakkaṃ, rūpavicāraṃ…pe… dhammavicāra’’ntiādinā anupadadhammavibhāgavasenapi sabbeva dhammakoṭṭhāse anavasesato vami uggiri, anapekkhapariccāgena chaḍḍayi. Vuttaṃ hetaṃ ‘‘yaṃ taṃ, ānanda, cattaṃ vantaṃ muttaṃ pahīnaṃ paṭinissaṭṭhaṃ, taṃ tathāgato puna paccāgamissatīti netaṃ ṭhānaṃ vijjatī’’ti (dī. ni. 2.183). Evampi bhāge vamīti bhagavā. Atha vā bhāge vamīti sabbepi kusalākusale sāvajjānavajje hīnapaṇīte kaṇhasukkasappaṭibhāge dhamme ariyamaggañāṇamukhena vami uggiri anapekkho pariccaji pajahi, paresañca tathattāya dhammaṃ desesi. Vuttampi cetaṃ ‘‘dhammāpi vo, bhikkhave, pahātabbā, pageva adhammā (ma. ni. 1.240), kullūpamaṃ vo, bhikkhave, dhammaṃ desessāmi nittharaṇatthāya, no gahaṇatthāyā’’tiādi (ma. ni. 1.240). Evampi bhāge vamīti bhagavā.

「濁悪の劫、闘諍の時代における仏の出現は、ああ、大いなる驚嘆である。火の中より生じ、蜜に満ちた白蓮華のようだ」と。

Khandhāyatanadhātādi-dhammabhāgāmahesinā;

「世尊」とは、徳に優れた有情の最上者に対する尊称であることから、説者の成就を提示している。

Kaṇhasukkā yato vantā, tatopi bhagavā matoti.

「めでたき日、よき好機、よき星宿」とは、今日はめでたき日であり、それゆえによき星宿であり、その中でもこれはよき好機である。「逃すな」とは、夜明けを待ち望む者たちにとって夜を逃すな、という文脈で理解されるべきである。「松明が立っている(燃えている)中に建てられたゆえにウッカッター(ウッカッタカ、郁伽羅)」である(長部復注1.255、増支部復注2.4.36)。「松明が輝く中に建てられ、定立された」と、語根の変形等によって(パーニニ文法3.2.5)語の成立を知るべきである。あるいは語源の理趣により「松明が立っている中に定立された」ゆえにウッカッターである。他の者たちは、「土地の成就、人間の成就、生活資具の成就により、その町は卓越した徳を備えていることから『ウッカッター(卓越した)』という名を得た」と言っている。

Tena vuttaṃ –

「区別なく」とは、特定のあり方ではなく、単に住するという一般的な意味で、という意味である。「威儀…乃至…住処において」とは、威儀住、天住、梵住、聖住というこれら四つの住においてである。「具足を示すこと」とは、具足している状態を示すことである。「これを」とは、「住する」というこの語のことである。実にこの語は、「ここに、ある者は在家者と親交を結び、歓喜を共にし、憂いを共にして住する」等(相応部4.241)では威儀住において用いられ、「比丘たちよ、比丘が諸々の欲を離れて…乃至…初禅を具足して住するその時」等(法集論160、分別論624)では天住において、「彼は慈を伴う心をもって一方向を満たして住する」等(長部1.556等)では梵住において、「アッギヴェッサナよ、私はその説話の終わりに、まさにその以前の三摩地の相において、内なる心を静定させ、安住させ、一境となし、集中させる。それによって私は常に住している」等(中部1.387)では聖住において用いられている。

‘‘Bhāgavā bhatavā bhāge, bhage ca vani bhattavā;

そこにおいて、活動すること、振る舞うことが「威儀(イリヤー)」であり、身体の実践である。その進行の手段であることから、立つことなどが「威儀道(威儀のあり方)」である。立っている状態の者、あるいは歩くことなどにおいてその他の状態にある者が身体で何かを行うからである。あるいは、これによって身体や身体の働きが活動し進行するゆえに「威儀」であり、その進行の手段であるゆえに「道」であり、立つことなどに他ならない。そしてそれは実体としては、行くことや止まることなどの様相で進行する四つの継起する物質の流れにすぎない。住むこと、あるいはこれによって住するゆえに「住」であり、威儀そのものが住であるから「威儀住」である。天において生じるものが「天(ディッバ)」である。そこ(天界)で多く機能することから、梵衆天などの天界にあるという意味である。あるいは、そこにある天の威光、そのために資するゆえに「天」であり、あるいは神通の誓願によって大いなる境地に達していることから「天」であり、天なるものであり住であるから「天住」であり、色界の四つの等至のことである。無色界の等至もここに包括される。梵天たちの、あるいは梵天のような住が「梵住」であり、四つの無量心のことである。聖者たちの、あるいは聖なる住が「聖住」であり、四つの沙門果のことである。実にその世尊は「一つの威儀の苦痛を…」等と述べているが、世尊は一つの威儀によってであっても長い時間身体を維持することがおできになるものの、「執受された身体の本性とはこのようなものである」と示すために説かれた。あるいは世尊は、どこであれ住まわれるところで導かれるべき者たちに法を説き、種々の等至によって時間を過ごして住まわれるため、導かれるべき有情たちと自らに多様な利益と幸福をもたらし(ハラティ)、導き、生じさせる。それゆえ「多様にもたらす(ヴィハラティ)」というのがここでの意味として理解されるべきである。

Bhage vami tathā bhāge, vamīti bhagavā jino’’ti.

「麗しいことから」とは、美と愛らしさの点から美しいことである。それゆえ「素晴らしい美と素晴らしい愛らしさを持つことから」と言った。「祭礼や集会の催しにおいて」において、「祭礼(チャナ)」とはパッグナ月(二〜三月)などのウッタラパッグニー星宿等に特定された日において、従者たちを伴った人間たちの祝い事のことである。「集会(サマッジャ)」とは演劇の集会などのことである。「催し(ウッサヴァ)」とは星宿祭のことである。村や町の住民たちが三日あるいは七日間にわたり星宿祭を布告し、それぞれの身代に応じて身を飾り整えて歓楽を享受しながら星宿の遊興に興じる場所のことである。「彼らのそれがその通りになる」とは、それらの人々のその願いが、そこに住む神の威力によって多くはその通りになり、願いが叶うという意味である。「多くの人々に愛されることから」とは、これによって「素晴らしい愛らしさを持つことから」というまさにその句の意味を別の方法で明らかにしている。そこでの語義はこうである——愛らしいという意味でよく親しまれる(バジーヤティ)ゆえに「スバガ」、美しい樹木(アガ)がここにあるゆえに「スバガ」、あるいは素晴らしい名声と結びついていることから「スバガ(極美)」であると、このようにも注釈される。しかしある者たちは「スバーガヴァネ(美しき分け前の林)」と読み、「美しい土地の林」とその意味を語る。また「スバガという名の夜叉の林であり、彼に領有されていることから『スバガヴァナ(極美樹林)』である」と他の者たちは言う。「親しむ(ヴァナナ)」が信仰の意味であるとき、その信仰を起こさせるという意味で「親しませる(ヴァナヤティ)」という語の成立を知るべきである。それゆえ「自らへの愛情を生じさせる」と言った。乞い求めるという意味で「願われる(ヴァヌテ)」ゆえに「林(ヴァナ)」と比喩的な表現として「ヴァナ」の語を理解すべきである。

Dhammasarīraṃ paccakkhaṃ karotīti ‘‘yo vo, ānanda, mayā dhammo ca vinayo ca desito paññatto, so vo mamaccayena satthā’’ti (dī. ni. 2.216) vacanato dhammassa satthubhāvapariyāyo vijjatīti katvā vuttaṃ. Vajirasaṅghātasamānakāyo parehi abhejjasarīrattā. Na hi bhagavato rūpakāye kenaci sakkā antarāyo kātunti.

「まっすぐな幹」とは、まっすぐに伸びた大枝のことである。「大サーラ樹」とは大きな木のことである。「あるサーラ樹の根本で」とは、ある樹木の根本で、ということである。「樹林の主たる長老樹」とは、樹林の主となっている長老の樹木のことである。「その長老たる状態」とは、樹林の主であることから生じる最上の状態、主たる状態のことである。それゆえそれは「サーラ樹の王」と呼ばれた。近づく者たちを喜ばせる(ラञジ)という意味で王(ラージャ)であり、他のそのような木に対しても「王」という表現がなされることを示すために「よく立つ…」等と説かれた。そこにおいて「バラモンよ、法にかなう者よ」とは呼びかけである。比喩でなく、枝などを持つ集合体がしっかりと立つことを成り立たせる特定の部分に用いられるのが「根(ムーラ)」という語である。それに類似するものや、それに基づく場所に対しても慣用によって比喩的に用いられるため、「根を引き抜くべし」というここでの比喩でない根が意図されていることを一つの「根」という語で修飾して、「根の根本において見られる」と言った。例えば「苦苦」「色色」と言うように。「不共の原因において」とは、他と共有されない原因において、である。貪欲を伴う心生起に特有の、それらの堅固な成立をもたらすことから、根の意味で助けとなる条件の法において見出される、という意味である。

Desanāsampattiṃ niddisati vakkhamānassa sakalassa suttassa ‘‘eva’’nti nidassanato. Sāvakasampattiṃ niddisati paṭisambhidāppattena pañcasu ṭhānesu bhagavatā etadagge ṭhapitena mayā mahāsāvakena sutaṃ, tañca kho mayāva sutaṃ, na anussutikaṃ, na paramparābhatanti imassa atthassa dīpanato. Kālasampattiṃ niddisati bhagavā-saddasannidhāne payuttassa samaya-saddassa kālassa buddhuppādapaṭimaṇḍitabhāvadīpanato. Buddhuppādaparamā hi kālasampadā. Tenetaṃ vuccati –

「そこにおいて」とは、「ある時、世尊はウッカッターの極美樹林のサーラ樹王の根本に住まわれた」と説かれたその文において、である。「〜かもしれない」とは、ある者にそのような思惑があるかもしれない、これから述べるような形で非難するかもしれない、という意味である。「もしそこに住まわれるなら」とは、もし極美樹林のサーラ樹王の根本に住まわれるなら。「説くべきではない」とは、ウッカッターと極美樹林は異なる場所であるから、また「ある時」と説かれているから、というのが意図である。今や非難者は自らのその意図を「実に〜できない」等によって展開する。他方は、これらすべてが正しき意味を知らない者によって言われたことであることを示して、「しかしこれはそのように見るべきではない」と述べた。その中で「これ」とは、「ウッカッターの極美樹林のサーラ樹王の根本に住まわれた」というこの言葉のことである。「そのように」とは、「もし世尊が…」等とあなたによって非難されたその通りに、意味の上でそのように見るべきではない、両方の場所において同時でない住まいを示すためではない、という意味である。

‘‘Kappakasāye kaliyuge, buddhuppādo aho mahacchariyaṃ;

今や自らの意図した通りの狂いのない意味、そしてそれが前もって説かれていたこと、それゆえに反論されないことを明らかにして、「我らは…サーラ樹王の根本に、と述べたではないか」と言った。「そうであっても『極美樹林のサーラ樹王の根本に住まわれた』とだけ言うべきであり、『ウッカッターにおいて』と言うべきではない」という非難を念頭に置いて、「托鉢の村を示すため」等と述べた。

Hutāvahamajjhe jātaṃ, samuditamakarandamaravinda’’nti. (dī. ni. ṭī. 1.1; saṃ. ni. ṭī. 1.1.1; a. ni. ṭī. 1.1.1 rūpādivaggavaṇṇanā);

そしてここでは、必ず托鉢の村を称賛・言及しなければならない。実にそれは、極美樹林などに言及することが出家者を教化・受容することなどの多様な目的を持つように、托鉢の村に言及することは在家者を教化・受容することなどの多様な目的を持つことを示すために、「ウッカッターの言及によって」等と述べた。そこにおいて、必需品を受け取ることにより、近づき親しく仕える機会を与えること、説法によって三帰依や諸戒に確立させること、素質に応じてより高次の優れた境地の獲得をもたらすことによって在家者を教化・受容すること、また学習や質問、瞑想修行の専念にふさわしい住処の確保によって出家者を教化・受容することと理解すべきである。大悲による接近であり利養などのためではなく、智慧による離脱であり対立などのためではない、と接近と離脱の無穢さを示している。「法にかなう安楽」とは無罪の安楽のことである。「神々への多大な恩恵」とは人里離れた閑静さによる。実に多くの人間から離れた閑静な場所こそ、神々が近づくべき場所と考えるからである。「その目的を成就すること」とは、世界の利益を成就すること、仏陀の務めを果たすことという意味である。「等」という語によって、ウッカッターの言及からは色身の受容を示し、極美樹林などの言及からは法身の受容を示す。同様に、前者によっては他者に依存した行動をなすことを、後者によっては自らに依存した行動をなすことを示す。あるいは前者によっては大悲の働きを、後者によっては智慧の働きを示す。また前者によっては世尊が無上の哀憐を備えていることを、後者によっては無上の捨を備えていることを示している。実に世尊は一切の有情に対して無上の哀憐をもって憐れまれるが、至高の捨の状態にあるがゆえにそこに愛着の過失に陥ることはなく、また捨の状態にあっても、大いなる慈悲深さのゆえに他者の利益と安楽をもたらすことに無関心ではないからである。

Bhagavāti desakasampattiṃ niddisati guṇavisiṭṭhasattuttamagarugāravādhivacanabhāvato.

「世尊」とは、徳において卓越した最上の衆生に対する恭敬と尊崇の同義語であることから、説法者の完全な資質を示している。

Maṅgaladivaso sukhaṇo sunakkhattanti ajja maṅgaladivaso, tasmā sunakkhattaṃ, tatthāpi ayaṃ sukhaṇo. Mā atikkamīti mā rattivibhāyanaṃ anudikkhantānaṃ ratti atikkamīti evaṃ sambandho veditabbo. Ukkāsu ṭhitāsu ṭhitāti ukkaṭṭhā (dī. ni. ṭī. 1.255; a. ni. ṭī. 2.4.36). Ukkāsu vijjotalantīsu ṭhitā patiṭṭhitāti mūlavibhūjādipakkhepena (pāṇini 3.2.5) saddasiddhi veditabbā. Niruttinayena vā ukkāsu ṭhitāsu ṭhitā āsīti ukkaṭṭhā. Apare pana bhaṇanti ‘‘bhūmibhāgasampattiyā manussasampattiyā upakaraṇasampattiyā ca sā nagarī ukkaṭṭhaguṇayogato ‘ukkaṭṭhā’ti nāmaṃ labhī’’ti.

「吉祥の日、佳き時、佳き宿相」とは、今日は吉祥の日であり、それゆえに佳き宿相であり、その中でもこの時が佳き時であるという意味である。「過ぎ去らしめるな」とは、夜明けを待ち望む者たちにとって夜を徒らに過ぎ去らしめてはならない、とこのように関連づけて理解されるべきである。「松明(ウッカー)が立ち並ぶ中に築かれた」から「ウッカッタ(ウッカッカ)」と呼ばれる(長部注釈1.255、増支部注釈2.4.36)。松明が輝き照らす中に立ち並び建てられたということから、根本語根等(パーニニ文法3.2.5)の語源解釈により語の成立が知られるべきである。あるいは語源論(語源的解釈法)によれば、松明が立ち並ぶ中に建てられたがゆえにウッカッタである。しかし他の注釈家たちは、「地勢の成就、人の成就、資材の成就により、またその都市が卓越した(ウッカッタ)徳を備えていることから『ウッカッタ』という名を得た」と語っている。

Avisesenāti na visesena, vihārabhāvasāmaññenāti attho. Iriyāpatha…pe… vihāresūti iriyāpathavihāro dibbavihāro brahmavihāro ariyavihāroti etesu catūsu vihāresu. Samaṅgiparidīpananti samaṅgībhāvaparidīpanaṃ. Etanti ‘‘viharatī’’ti etaṃ padaṃ. Tathā hi taṃ ‘‘idhekacco gihīhi saṃsaṭṭho viharati sahanandī sahasokī’’tiādīsu (saṃ. ni. 4.241) iriyāpathavihāre āgataṃ; ‘‘yasmiṃ samaye, bhikkhave, bhikkhu vivicceva kāmehi…pe… paṭhamaṃ jhānaṃ upasampajja viharatī’’tiādīsu (dha. sa. 160; vibha. 624) dibbavihāre; ‘‘so mettāsahagatena cetasā ekaṃ disaṃ pharitvā viharatī’’tiādīsu (dī. ni. 1.556; 3.308; ma. ni. 1.77; 2.309; 3.230) brahmavihāre; ‘‘so kho ahaṃ aggivessana tassāyeva kathāya pariyosāne tasmiṃ eva purimasmiṃ samādhinimitte ajjhattameva cittaṃ saṇṭhapemi sannisādemi ekodiṃ karomi samādahāmi, yena sudaṃ niccakappaṃ viharāmī’’tiādīsu (ma. ni. 1.387) ariyavihāre.

「無差別によって」とは、差別(特定の意味)によらず、住すること一般の性質によって、という意味である。「威儀……等……の住において」とは、威儀住・天住・梵住・聖住というこれら四つの住において、という意味である。「具有することの開示」とは、具有している状態の開示である。「これを」とは、「住する(ヴィハラティ)」というこの語を指す。実にその語は、「ここに、ある者は在家の者たちと交わって、喜びを共にし、憂いを共にして住する」などの文脈(相応部4.241)では威儀住において用いられ、「比丘たちよ、比丘が諸々の欲望から離れ……等……初禅に入って住する時に」などの文脈(法集論160、分別論624)では天住において用いられ、「彼は慈しみを伴う心によって一方向を満たして住する」などの文脈(長部1.556、3.308、中部1.77、2.309、3.230)では梵住において用いられ、「アッギヴェッサナよ、まさにその私自身が、その話の終わりにおいて、まさに先のその三昧の相において、内なる心を安住させ、静まらせ、一境とし、定に入らしめる。それによって私は常に住するのである」などの文脈(中部1.387)では聖住において用いられているからである。

Tattha iriyanaṃ vattanaṃ iriyā, kāyappayogo. Tassā pavattanupāyabhāvato ṭhānādi iriyāpatho. Ṭhānasamaṅgī vā hi kāyena kiñci kareyya gamanādīsu aññatarasamaṅgī vā. Atha vā iriyati pavattati etena attabhāvo, kāyakiccaṃ vāti iriyā, tassā pavattiyā upāyabhāvato pathoti iriyāpatho, ṭhānādi eva. So ca atthato gatinivattiādiākārena pavatto catusantatirūpapabandho eva. Viharaṇaṃ, viharati etenāti vā vihāro, iriyāpatho eva vihāro iriyāpathavihāro. Divi bhavoti dibbo. Tattha bahulappavattiyā brahmapārisajjādidevaloke bhavoti attho. Tattha yo dibbānubhāvo, tadatthāya saṃvattatīti vā dibbo, abhiññābhinīhāravasena mahāgatikattā vā dibbo, dibbo ca so vihāro cāti dibbavihāro, catasso rūpāvacarasamāpattiyo. Āruppasamāpattiyopi ettheva saṅgahaṃ gacchanti. Brahmūnaṃ, brahmāno vā vihārā brahmavihārā, catasso appamaññāyo. Ariyānaṃ, ariyā vā vihārā ariyavihārā, cattāri sāmaññaphalāni. So hi bhagavā ekaṃ iriyāpathabādhanantiādi yadipi bhagavā ekenapi iriyāpathena cirataraṃ kālaṃ attabhāvaṃ pavattetuṃ sakkoti, tathāpi ‘‘upādinnakasarīrassa nāma ayaṃ sabhāvo’’ti dassetuṃ vuttaṃ. Yasmā vā bhagavā yattha katthaci vasanto veneyyānaṃ dhammaṃ desento, nānāsamāpattīhi ca kālaṃ vītināmento vasatīti veneyyasattānaṃ attano ca vividhaṃ hitasukhaṃ harati upaneti uppādeti, tasmā vividhaṃ haratīti evamettha attho veditabbo.

その中で、「威儀(イリヤー)」とは振る舞いであり、身の働きの適用である。それが生起するための手段であることから、立つことなどの「威儀の道(威儀のあり方)」である。立つことを具えた者が身体によって何かを行うか、あるいは歩行などを具えた者が行うからである。あるいは、これによって個人の存在や身体の働きが振る舞われ生起するから「威儀」であり、その生起のための手段であるから「道」であり、立つことなどそのものである。そしてそれは実質的には、行くことや止まることなどの様相で生起する四種の相続する色身の連続にほかならない。住すること、あるいはこれによって住するから「住」であり、威儀そのものが住であるから「威儀住」である。「天において生じるもの」が「天(ディッバ)」である。そこ(天界)で多く生じることから、梵衆天などの天界において生じるという意味である。あるいは、そこにある天の威光、そのために資するから「天」であり、あるいは神通の引き起こしによる広大な境地であるから「天」であり、天(高貴)であり住でもあるから「天住」であり、色界の四つの所定(等至)である。無色界の所定もまたここに含まれる。梵天たちの、あるいは梵天のような住が「梵住」であり、四つの無量(四無量心)である。聖者たちの、あるいは聖なる住が「聖住」であり、四つの沙門果である。実のところ、世尊は一つの威儀の苦痛を云々という点について、たとえ世尊が単一の威儀によってより長い時間その身体を存続させることができるとしても、「執受された身体の性質とはこのようなものである」と示すために語られたのである。あるいは、世尊はいかなる場所に住する時も、教化されるべき者たちに法を説き、種々の等至(三昧)によって時を過ごして住することから、教化されるべき衆生とご自身のために多様な利益と幸福をもたらし(ハラティ)、導き、生じさせるがゆえに、「多様にもたらす(ヴィヴィダン・ハラティ=ヴィハラティ)」と、このようにここでの意味が理解されるべきである。

Subhagattāti sirīkāmānavasena sobhanattā. Tenevāha **‘‘sundarasirikattā sundarakāmattā cā’’**ti. Chaṇasamajjaussaveti ettha chaṇaṃ nāma phaggunamāsādīsu uttaraphaggunādi-abhilakkhitadivasesu saparijanānaṃ manussānaṃ maṅgalakaraṇaṃ. Samajjaṃ nāma naṭasamajjādi. Ussavo nakkhattaṃ. Yattha gāmanigamavāsino tayo satta vā divase nakkhattaghosanaṃ katvā yathāvibhavaṃ alaṅkatapaṭiyattā bhoge paribhuñjantā nakkhattakīḷanaṃ kīḷanti. Tesaṃ taṃ tatheva hotīti tesaṃ manussānaṃ taṃ patthanaṃ tannivāsidevatānubhāvena yebhuyyena tatheva hoti, patthanā samijjhatīti attho. Bahujanakantatāyāti iminā ‘‘sundarakāmattā’’ti etasseva padassa pakārantarena atthaṃ vibhāveti. Tatrāyaṃ vacanattho – kamanīyaṭṭhena suṭṭhu bhajīyatīti subhagaṃ, subhā agā rukkhā etthāti vā subhagaṃ, sundarakittiyogato vā **‘‘subhaga’’**nti evampettha atthaṃ vaṇṇenti. Keci pana ‘‘subhāgavane’’ti paṭhanti, ‘‘sundarabhūmibhāge vane’’ti cassa atthaṃ vadanti. Subhagassa nāma yakkhassa vanaṃ tena pariggahitattāti ‘‘subhagavana’’nti aññe. Vananaṃ bhattītiatthe taṃ vananaṃ kāretīti etasmiṃ atthe vanayatīti padasiddhi veditabbā. Tenevāha **‘‘attani sinehaṃ uppādetī’’**ti. Yācanatthe vanute iti vananti upacārakappanāvasena vana-saddo veditabbo.

「吉祥(スバガ)であること」とは、徳や美しさのゆえに麗しいことである。それゆえに「麗しい徳を有し、麗しい魅力を有するから」と言われたのである。「祝祭や集会や祭礼において」という点について、ここで「祝祭(チャナ)」とは、ファッガナ月などの後ファッガナ星等に標示された諸日において、従者を伴う人々が行う吉祥事である。「集会(サマッジャ)」とは、俳優の集会などのことである。「祭礼(ウッサヴァ)」とは星祭である。村や町の住民たちが三日または七日間にわたり星祭を告白し、財力に応じて着飾り整えて諸々の歓楽を享受しながら星祭の遊楽に興じる場所である。「彼らにとってその通りになる」とは、それらの人々のその願いが、そこに住まう神々の威力によって大半はその通りになる、願いが成就する、という意味である。「多くの人々に好まれることによって」とは、これによって「麗しい魅力を有するから」というこの語の意味を別の様相で明らかにしている。そこでの語源解釈は次の通りである――愛らしいという意味で善く親しまれる(バジーヤティ)から「スバガ(好都合・吉祥)」であり、あるいは美しい樹木(アガ=ルッカ)がここにあるから「スバガ」であり、あるいは麗しい名声が具わっていることから「スバガ」である、とこのようにここでの意味を解説している。しかし一部の人々は「スバーガの森に」と読誦し、その意味を「麗しい土地の森に」と語る。「スバガという名の夜叉の森であり、彼によって領有されていたから『スバガの森』である」と他の者たちは言う。愛慕(ヴァナナ)が信愛であるという意味において、その愛慕を起こさせるという意味で「愛慕させる(ヴァナヤティ)」という語の成立が知られるべきである。それゆえに「自らへの愛情を生じさせる」と言われたのである。乞い求めるという意味で「願う(ヴァヌテ)」ゆえに「森(ヴァナ)」と比喩的な表現によって「ヴァナ」という語が理解されるべきである。

Ujuvaṃsāti ujubhūtaviṭapā. Mahāsālāti mahārukkhā. Aññatarasmiṃ sālamūleti aññatarassa rukkhassa mūle. Vanappatijeṭṭhakarukkhoti vanappatibhūto jeṭṭhakarukkho. Tameva jeṭṭhakabhāvanti vanappatibhāvenāgataṃ seṭṭhabhāvaṃ padhānabhāvaṃ. Tena hi so ‘‘sālarājā’’ti vutto. Upagatānaṃ rañjanaṭṭhena rājā, aññasmimpi tādise rukkhe rājavohāraṃ dassetuṃ **‘‘supatiṭṭhitassā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha brāhmaṇa dhammikāti ālapanaṃ. Nippariyāyena sākhādimato saṅghātassa suppatiṭṭhitabhāvasādhane avayavavisese pavattamāno mūla-saddo. Yasmā taṃsadisesu tannissaye padese ca ruḷhīvasena pariyāyato pavattati, tasmā ‘‘mūlāni uddhareyyā’’ti ettha nippariyāyamūlaṃ adhippetanti ekena mūla-saddena visesetvā āha **‘‘mūlamūle dissatī’’**ti yathā ‘‘dukkhadukkhaṃ (saṃ. ni. 4.327), rūparūpa’’nti (visuddhi. 2.449) ca. Asādhāraṇahetumhīti asādhāraṇakāraṇe. Lobhasahagatacittuppādānaṃ eva āveṇike nesaṃ suppatiṭṭhitabhāvasādhanato mūlaṭṭhena upakārake paccayadhamme dissatīti attho.

「真っ直ぐな幹」とは、真っ直ぐに伸びた枝幹のことである。「大娑羅樹」とは、大きな木である。「ある娑羅樹の根元において」とは、ある樹木の根元において、という意味である。「木立の中の王たる樹木」とは、樹木の中で最上の樹木となったものである。「その最上であること」とは、樹木の性質によってもたらされた最勝の状態、第一の状態のことである。それゆえにそれは「娑羅樹の王」と言われたのである。近づいてきた者を喜ばせる(ラञジ)という意味で「王(ラージャ)」であり、他の同様の樹木に対しても王という呼称を示すために「善く確立された……」等と語られた。その中で「バラモンよ、法的な」とは呼びかけである。枝などを有する集合体の善く確立された状態を成就させる特定の部位において直接の意味(無比喩)で用いられるのが「根(ムーラ)」という語である。それに類似するものやそれを支える場所に対しても慣用によって比喩的に用いられるため、「諸々の根を掘り起こすべきである」というここでの意味は直接の意味での根であることを指すとして、一つの根という語によって限定して、「根の中の根に見られる」と述べた。それは「苦の中の苦」「色の中の色」と言うのと同様である。「固有の原因において」とは、不共有の原因において、という意味である。貪欲を伴う心惹起のみに固有の、それらが善く確立する状態を成就させることから、根という意味で資助となる条件(縁)の法に見出される、という意味である。

Tatthāti ‘‘ekaṃ samayaṃ bhagavā ukkaṭṭhāyaṃ viharati subhagavane sālarājamūle’’ti yaṃ vuttaṃ vākyaṃ, tatta. Siyāti kassaci evaṃ parivitakko siyā, vakkhamānākārena kadāci codeyya vāti attho. Atha tattha viharatīti yadi subhagavane sālarājamūle viharati. Na vattabbanti nānāṭhānabhūtattā ukkaṭṭhāsubhagavanānaṃ, ekaṃ samayanti ca vuttattāti adhippāyo. Idāni codako tameva attano adhippāyaṃ **‘‘na hi sakkā’’**tiādinā vivarati. Itaro sabbametaṃ aviparītaṃ atthaṃ ajānantena vuttanti dassento **‘‘na kho panetaṃ evaṃ daṭṭhabba’’**nti āha. Tattha etanti ‘‘ukkaṭṭhāyaṃ viharati subhagavane sālarājamūle’’ti etaṃ vacanaṃ. Evanti ‘‘yadi tāva bhagavā’’tiādinā yaṃ taṃ bhavatā coditaṃ, taṃ atthato evaṃ na kho pana daṭṭhabbaṃ, na ubhayattha apubbaacarimaṃ vihāradassanatthanti attho.

「そこにおいて」とは、「ある時、世尊はウッカッタのスバガの森の娑羅樹の王の根元にお住まいであった」と述べられたその文において、という意味である。「〜かもしれない」とは、ある人にこのような疑念が生じるかもしれない、あるいは以下に述べるような形で詰問するかもしれない、という意味である。「それならそこに住している」とは、もしスバガの森の娑羅樹の王の根元に住しているならば、という意味である。「言うべきではない」とは、ウッカッタとスバガの森は異なる場所であり、また「ある時」と(単一の時として)述べられているからである、というのがその趣旨である。そこで詰問者は自身のその趣旨を「実に不可能である」等と開陳する。もう一方は、これらすべては歪みのない真意を知らない者によって言われたことであると示すために、「しかしながら、このように見なすべきではない」と述べた。その中で「これを」とは、「ウッカッタのスバガの森の娑羅樹の王の根元にお住まいであった」というこの言葉を指す。「このように」とは、「もし仮に世尊が……」等としてあなたによって詰問されたように、その意味においてこのように見なすべきではなく、両方の場所において同時期に住していることを示すためではない、という意味である。

Idāni attano yathādhippetaṃ aviparītaṃ atthaṃ, tassa ca paṭikacceva vuttabhāvaṃ, tena ca appaṭividdhattaṃ pakāsento **‘‘nanu avocumha…pe… sālarājamūle’’**ti āha. Evampi ‘‘subhagavane sālarājamūle viharatī’’cceva vattabbaṃ, na ‘‘ukkaṭṭhāya’’nti codanaṃ manasi katvā vuttaṃ **‘‘gocaragāmanidassanattha’’**ntiādi.

今や自らが意図した歪みのない意味と、それがすでに前もって語られていたこと、そしてそれゆえに(相手が)会得していなかったことを明らかにするために、「私たちは……等……娑羅樹の王の根元にと述べたではないか」と言った。このように言っても、「スバガの森の娑羅樹の王の根元にお住まいであった」とだけ言うべきであり、「ウッカッタにおいて」と言うべきではない、という詰問を念頭に置いて、「托鉢の村を示すため」等と語られたのである。

Avassaṃ cettha gocaragāmakittanaṃ kātabbaṃ. Tathā hi taṃ yathā subhagavanādikittanaṃ pabbajitānuggahakaraṇādianekappayojanaṃ, evaṃ gahaṭṭhānuggahakaraṇādivividhappayojananti dassento **‘‘ukkaṭṭhākittanenā’’**tiādimāha. Tattha paccayaggahaṇena upasaṅkamanapayirupāsanānaṃ okāsadānena dhammadesanāya saraṇesu sīlesu ca patiṭṭhāpanena yathūpanissayaṃ uparivisesādhigamāvahanena ca gahaṭṭhānaggahakaraṇaṃ, uggahaparipucchānaṃ kammaṭṭhānānuyogassa ca anurūpavasanaṭṭhānapariggahenettha pabbajitānuggahakaraṇaṃ veditabbaṃ. Karuṇāya upagamanaṃ, na lābhādinimittaṃ, paññāya apagamanaṃ, na virodhādinimittanti upagamanāpagamanānaṃ nirupakkilesataṃ vibhāveti. Dhammikasukhaṃ nāma anavajjasukhaṃ. Devānaṃ upakārabahulatā janavivittatāya. Pacurajanavivittaṃ hi ṭhānaṃ devā upasaṅkamitabbaṃ maññanti. Tadatthaparinipphādananti lokatthanipphādanaṃ, buddhakiccasampādananti attho. Evamādināti ādi-saddena ukkaṭṭhākittanato rūpakāyassa anuggaṇhanaṃ dasseti, subhagavanādikittanato dhammakāyassa. Tathā purimena parādhīnakiriyākaraṇaṃ, dutiyena attādhīnakiriyākaraṇaṃ. Purimena vā karuṇākiccaṃ, itarena paññākiccaṃ. Purimena cassa paramāya anukampāya samannāgamaṃ, pacchimena paramāya upekkhāya samannāgamaṃ dīpeti. Bhagavā hi sabbasatte paramāya anukampāya anukampati, na ca tattha sinehadosānupatito paramupekkhakabhāvato, upekkhako ca na ca parahitasukhakaraṇe apposukko mahākāruṇikabhāvato.

そしてここでは、托鉢の村を挙げることは必ずなされるべきである。実にそれは、スバガの森などを挙げることが出家者を利益することなどの多くの目的を持つように、このように(ウッカッタを挙げることが)在家の信者を利益することなどの多様な目的を持つからであると示すために、「ウッカッタを挙げることによって」等と述べた。その中で、必需品を受け取ることで(信者に功徳の機会を与え)、訪問し親近する機会を与えることによって、また教説を説き、三帰依や諸戒に確立させ、素質に応じて更なる卓越した境地の達成へ導くことによって、在家の信者を利益することが知られるべきであり、学習や質問、瞑想修行の専修に適した居住場所を受け入れることによって、ここでは出家者を利益することが知られるべきである。慈悲による接近であり利得などのためではなく、智慧による離脱であり衝突などのためではない、と接近と離脱の無汚濁性を明らかにしている。「正しい幸福」とは、過失なき幸福のことである。神々への助力の多大さは、人里離れていることによる。実に神々は、多くの人々から離れた静寂な場所こそ近づくべきであると考えるからである。「その目的を成就すること」とは、世間の利益を成就することであり、仏陀の役目を果たすことである、という意味である。「等」という言葉によって、ウッカッタを挙げることからは色身(肉身)の保護を示し、スバガの森などを挙げることからは法身の保護を示している。同様に、前者によって他者に依存する行為を行い、後者によって自己に依存する行為を行う。あるいは前者によって慈悲の働きを、後者によって智慧の働きを示す。また前者によって世尊の無上の憐れみの具備を、後者によって無上の中捨て(捨・ウペッカー)の具備を示している。世尊は実にすべての衆生を無上の憐れみによって憐れまれるが、そこにおいて愛着の過失に陥ることはない、最高の中捨ての状態にあるがゆえに。そして中捨てであっても、他者の利益と幸福をなすことに無関心ではない、大いなる慈悲の持ち主であるがゆえに。

Tassa mahākāruṇikatāya lokanāthatā, upekkhakatāya attanāthatā. Tathā hesa bodhisattabhūto mahākaruṇāya sañcoditamānaso sakalalokahitāya ussukkamāpanno mahābhinīhārato paṭṭhāya tadatthanipphādanatthaṃ puññañāṇasambhāre sampādento aparimitaṃ kālaṃ anappakaṃ dukkhamanubhosi, upekkhakatāya sammā patitehi dukkhehi na vikampi. Tathā mahākāruṇikatāya saṃsārābhimukhatā, upekkhakatāya tato nibbindanā. Tathā upekkhakatāya nibbānābhimukhatā, mahākāruṇikatāya tadadhigamo. Tathā mahākāruṇikatāya paresaṃ abhiṃsāpanaṃ, upekkhakatāya sayaṃ parehi abhāyanaṃ. Mahākāruṇikatāya paraṃ rakkhato attano rakkhaṇaṃ, upekkhakatāya attānaṃ rakkhato paresaṃ rakkhaṇaṃ. Tenassa attahitāya paṭipannādīsu catutthapuggalabhāvo siddho hoti. Tathā mahākāruṇikatāya saccādhiṭṭhānassa cāgādhiṭṭhānassa ca pāripūri, upekkhakatāya upasamādhiṭṭhānassa paññādhiṭṭhānassa ca pāripūri. Evaṃ parisuddhāsayapayogassa mahākāruṇikatāya lokahitatthameva rajjasampadādibhavasampattiyā upagamanaṃ, upekkhakatāya tiṇāyapi amaññamānassa tato apagamanaṃ. Iti suvisuddhaupagamāpagamassa mahākāruṇikatāya lokahitatthameva dānavasena sampattīnaṃ pariccajanā, upekkhakatāya cassa phalassa attano apaccāsīsanā. Evaṃ samudāgamanato paṭṭhāya acchariyabbhutaguṇasamannāgatassa mahākāruṇikatāya paresaṃ hitasukhatthaṃ atidukkarakāritā, upekkhakatāya kāyampi analaṃkāritā.

世尊は、大悲のゆえに世間の救済者(世間怙主)であり、捨(平静)のゆえに自己の救済者(自己怙主)である。実にそのように、菩薩であったとき、大悲によって心を駆り立てられ、全世間の利益のために熱意を起こし、大誓願(大本願)の時からその目的を達成するために福徳と智慧の資糧を円満にしつつ、無量の時にわたり莫大な苦しみを受け忍ばれたが、捨のゆえに、正しく降りかかった種々の苦しみにも動揺されなかった。同様に、大悲のゆえに輪廻に向かい、捨のゆえに輪廻を厭離された。同様に、捨のゆえに涅槃に向かい、大悲のゆえに涅槃を証得された。同様に、大悲のゆえに他者を害さず、捨のゆえに自ら他者を恐れなかった。大悲のゆえに他者を護りつつ自己を護り、捨のゆえに自己を護りつつ他者を護られた。それにより、彼には「自利のために行じる者」等の中における第四の人物であることが成就する。同様に、大悲のゆえに真実住持(諦決定)と捨遣住持(捨決定)の円満があり、捨のゆえに寂静住持(寂決定)と智慧住持(慧決定)の円満があった。このように清浄な志向と行持を持つ世尊は、大悲のゆえにただ世間の利益のために王位の栄華などの生存の果報に赴かれ、捨のゆえに草の一本ほどにも執着せずそこから離れ去られた。このように至極清浄に出離・進赴される世尊は、大悲のゆえに世間の利益のために布施として栄華を捨断され、捨のゆえにその果報を自己のために期待されなかった。このように〔波羅蜜の〕集起よりこのかた希有で驚くべき徳性を具備された世尊は、大悲のゆえに他者の利益と安楽のために極めて困難な行いをなし、捨のゆえに自らの身体さえも飾られなかった。

Tathā mahākāruṇikatāya carimattabhāve jiṇṇāturamatadassanena sañjātasaṃvego, upekkhakatāya uḷāresu devabhogasadisesu bhogesu nirapekkho mahābhinikkhamanaṃ nikkhami. Tathā mahākāruṇikatāya ‘‘kicchaṃ vatāyaṃ loko āpanno’’tiādinā (dī. ni. 2.57; saṃ. ni. 2.4, 10) karuṇāmukheneva vipassanārambho, upekkhakatāya buddhabhūtassa satta sattāhāni vivekasukheneva vītināmanaṃ. Mahākāruṇikatāya dhammagambhīrataṃ paccavekkhitvā dhammadesanāya apposukkataṃ āpajjitvāpi mahābrahmuno ajjhesanāpadesena okāsakaraṇaṃ, upekkhakatāya pañcavaggiyādi veneyyānaṃ ananurūpasamudācārepi anaññathābhāvo. Mahākāruṇikatāya katthaci paṭighātābhāvenassa sabbattha amittasaññāya abhāvo, upekkhakatāya katthacipi anurodhābhāvena sabbattha sinehasanthavābhāvo. Mahākāruṇikatāya gāmādīnaṃ āsannaṭṭhāne vasantassapi upekkhakatāya araññaṭṭhāne eva viharaṇaṃ. Tena vuttaṃ ‘‘purimena cassa paramāya annukampāya samannāgamaṃ, pacchimena paramāya upekkhāya samannāgamaṃ dīpetī’’ti.

同様に、最後の生において、大悲のゆえに老・病・死〔の相〕を見て戦慄(道心)を生じ、捨のゆえに神々の享楽に似た広大な享楽にも執着せず、偉大なる出家をなされた。同様に、大悲のゆえに「実にこの世間は苦難に陥っている」等と悲の門より観見を開始され、捨のゆえに仏となって後、七つの七日間をただ独座離脱の楽によって過ごされた。大悲のゆえに法の深遠さを省察して説法への熱意を休止されながらも、大梵天の勧請を機縁として〔説法の〕機会を作られ、捨のゆえに五比丘などの教化すべき者たちの不相応な振る舞いに対しても動じられることがなかった。大悲のゆえにいかなる対象にも瞋恚がないため、どこにも敵という認識がなく、捨のゆえにいかなる対象にも愛著がないため、どこにも愛着や親交がない。大悲のゆえに村などの近隣の場所に住みながらも、捨のゆえにまさに森林の閑静な場所に住まわれる。それゆえ「前段によって世尊が至高の憐愍を具足されていることを示し、後段によって至高の捨を具足されていることを示す」と言われたのである。

Tanti ‘‘tatrā’’ti padaṃ. Desakālaparidīpananti ye desakālā idha viharaṇakiriyāvisesanabhāvena vuttā, tesaṃ paridīpananti dassento **‘‘yaṃ samayaṃ…pe… dīpetī’’**ti āha. Taṃ-saddo hi vuttassa atthassa paṭiniddeso, tasmā idha kālassa, desassa vā paṭiniddeso bhavituṃ arahati, na aññassa. Ayaṃ tāva tatra-saddassa paṭiniddesabhāve atthavibhāvanā. Yasmā pana īdisesu ṭhānesu tatra-saddo dhammadesanāvisiṭṭhaṃ desaṃ kālañca vibhāveti, tasmā vuttaṃ **‘‘bhāsitabbayutte vā desakāle dīpetī’’**ti. Tena tatrāti yattha bhagavā dhammadesanatthaṃ bhikkhū ālapi abhāsi, tādise dese, kāle vāti attho. Na hītiādinā tamevatthaṃ samattheti. Nanu ca yattha ṭhito bhagavā ‘‘akālo kho tāvā’’tiādinā bāhiyassa dhammadesanaṃ paṭikkhipi, tattheva antaravīthiyaṃ ṭhito tassa dhammaṃ desetīti? Saccametaṃ, adesetabbakāle adesanāya idaṃ udāharaṇaṃ. Tenevāha **‘‘akālo kho tāvā’’**ti. Yaṃ pana tattha vuttaṃ ‘‘antaragharaṃ paviṭṭhamhā’’ti (udā. 10), tampi tassa akālabhāvasseva pariyāyena dassanatthaṃ vuttaṃ. Tassa hi tadā addhānaparissamena rūpakāye akammaññatā ahosi, balavapītivegena nāmakāye, tadubhayassa vūpasamaṃ āgamento papañcaparihāratthaṃ bhagavā ‘‘akālo kho’’ti pariyāyena paṭikkhipi. Adesetabbadese adesanāya pana udāharaṇaṃ ‘‘atha kho bhagavā maggā okkamma aññatarasmiṃ rukkhamūle nisīdi (saṃ. ni. 2.154), vihārato nikkhamitvā vihārapacchāyāyaṃ paññatte āsane nisīdī’’ti (dī. ni. 1.363) ca evamādikaṃ idha ādi-saddena saṅgahitaṃ.

「それを」とは「そこに(tatra)」という言葉を指す。「場所と時を明示するとは」とは、ここで止住の行為の限定として述べられた場所と時、それらを明示することを示しつつ、「**『いかなる時……乃至……示す』**」と述べた。「それ(taṃ)」という言葉はすでに述べられた意味を指し示すものであるため、ここにおいては時、あるいは場所の指示代名詞であるべきであり、それ以外のものではない。これはまず「そこに」という言葉が指示代名詞であることについての意味の解明である。しかし、このような箇所において「そこに」という言葉は、説法によって勝れた場所と時を明らかにするがゆえに、「**『あるいは説かれるべき相応しい場所と時を示す』**」と言われたのである。したがって、「そこに」とは世尊が説法のために比丘たちに呼びかけ、語られた、そのような場所、あるいは時において、という意味である。「実に〜ない」等によってその意味を確証する。では、世尊が留まられたまさにその場所で「バーヒヤよ、今はその時ではない」等と言ってバーヒヤに対する説法を拒絶され、まさにその街路の中に留まられた状態で彼に法を説かれたのではないか? それは真実である。これは説くべきでない時に説かないことの例証である。それゆえに「**『今はその時ではない』**」と言われたのである。そこで「家の中に入った(托鉢の最中である)」と述べられたこともまた、それが不適当な時であることの理由を示すために述べられたのである。実にその時、彼(バーヒヤ)には長旅の疲労によって色身(肉体)の堪能性がなく、強烈な喜悦の衝動によって名身(精神)の堪能性もなかったため、その両者の静まりを待ち、戯論を避けるために世尊は「今はその時ではない」と婉曲に拒絶されたのである。一方、説くべきでない場所で説かないことの例証としては、「そのとき世尊は道から外れて、ある樹の根元に座られた」「精舎から出て、精舎の背後の日陰に設けられた座に座られた」等があり、これらはここで「等」という言葉によって包含されている。

‘‘Atha kho so, bhikkhave, bālo idha pubbe rasādo idha pāpāni kammāni karitvā’’tiādīsu (ma. ni. 3.251) padapūraṇamatte kho-saddo, ‘‘dukkhaṃ kho agāravo viharati appatisso’’tiādīsu (a. ni. 4.21) avadhāraṇe, ‘‘kittāvatā nu kho, āvuso, satthu pavivittassa viharato sāvakā vivekaṃ nānusikkhantī’’tiādīsu (ma. ni. 1.31) ādikālatthe. Vākyārambheti attho. Tattha padapūraṇena vacanālaṅkāramattaṃ kataṃ hoti, ādikālatthena vākyassa upaññāsamattaṃ, avadhāratthena pana niyamadassanaṃ, tasmā āmantesi evāti āmantane niyamo dassito hotīti.

「比丘たちよ、そのときかの愚者は、かつてここで美味を貪り、ここで悪業をなして」等の句において、「実に(kho)」という言葉は単なる句の充填(添え字)であり、「無敬敬・無敬順にして住む者は苦である」等においては限定(強調)であり、「友よ、師が閑静に住まわれるとき、どれほど弟子たちは閑静を見習わないのか」等においては開始の時の意味であり、文の開始という意味である。そこにおいて、句の充填によっては単なる言葉の修飾がなされ、開始の時の意味によっては文の導入がなされるが、限定の意味によっては必然性の指示がなされる。それゆえ「まさに呼びかけられた」と、呼びかけの必然性が示されているのである。

‘‘Bhagavāti lokagarudīpana’’nti kasmā vuttaṃ, nanu pubbepi bhagavā-saddassa attho vuttoti? Yadipi pubbe vutto, taṃ panassa yathāvutte ṭhāne viharaṇakiriyāya kattuvisesadassanatthaṃ kataṃ, na āmantanakiriyāya, idha pana āmantanakiriyāya, tasmā tadatthaṃ puna ‘‘bhagavā’’ti pāḷiyaṃ vuttanti tassatthaṃ dassetuṃ **‘‘bhagavāti lokagarudīpana’’**nti āha. Kathāsavanayuttapuggalavacananti vakkhamānāya mūlapariyāyadesanāya savanayogyapuggalavacanaṃ. Catūsupi parisāsu bhikkhū eva edisānaṃ desanānaṃ visesena bhājanabhūtā, iti sātisayasāsanasampaṭiggāhakabhāvadassanatthaṃ idha bhikkhugahaṇanti dassetvā idāni saddatthaṃ dassetuṃ **‘‘apicā’’**tiādimāha.

「『世尊とは世間の指導者を示す』」となぜ言われたのか、以前にも「世尊」という言葉の意味は述べられたではないか? たとえ以前に述べられたとしても、それは上述の場所における止住の行為の主体の特性を示すためになされたのであって、呼びかけの行為のためではない。しかしここでは呼びかけの行為のためである。それゆえ、その意味のために再びパーリ本文において「世尊」と言われたのであるから、その意味を示すために「**『世尊とは世間の指導者を示す』**」と言われたのである。「教説を聞くべき相応しい人物の言葉」とは、これから説かれる根本法門の説法を聞くのに適格な人物を指す言葉である。四種の会衆(四衆)の中でも比丘たちこそがこのような説法の格別の器である。このように教え(仏教)を格別に受持する者であることを示すために、ここで「比丘」と取り上げられていることを示し、今度はその語義を示すために「**『さらにまた』**」等と述べた。

Tattha bhikkhakoti bhikkhūti bhikkhanadhammatāya bhikkhūti attho. Bhikkhācariyaṃ ajjhupagatoti buddhādīhipi ajjhupagataṃ bhikkhācariyaṃ uñchācariyaṃ ajjhupagatattā anuṭṭhitattā bhikkhū. Yo hi koci appaṃ vā mahantaṃ vā bhogakkhandhaṃ pahāya agārasmā anagāriyaṃ pabbajito, so kasigorakkhādīhi jīvikākappanaṃ hitvā liṅgasampaṭicchaneneva bhikkhācariyaṃ ajjhupagatattā bhikkhu, parapaṭibaddhajīvikattā vā vihāramajjhe kājabhattaṃ bhuñjamānopi bhikkhācariyaṃ ajjhupagatoti bhikkhu, piṇḍiyālopabhojanaṃ nissāya pabbajjāya ussāhajātattā vā bhikkhācariyaṃ ajjhupagatoti bhikkhūti evampettha attho daṭṭhabbo. Ādinā nayenāti ‘‘bhinnapaṭadharoti bhikkhu, bhindati pāpake akusale dhammeti bhikkhu, bhinnattā pāpakānaṃ akusalānaṃ dhammānaṃ bhikkhū’’tiādinā vibhaṅge (vibha. 510) āgatanayena. Ñāpaneti avabodhane, paṭivedaneti attho.

そこにおいて、「乞食する者(乞者)であるから比丘である」とは、乞食する性質を持つゆえに比丘であるという意味である。「乞食の行に入った者」とは、仏陀たちによっても実践された乞食の行、すなわち拾い集める行に入り、それを実践した者であるから比丘である。実に誰であれ、わずかであれ多大であれ財産の集積を捨てて家から出て非家に脱走(出家)した者は、農耕や牧畜等による生計の営みを捨てて〔出家の〕相好を受容することによって乞食の行に入った者であるから比丘であり、あるいは他者に依存した生活であるために精舎のただ中で天秤棒で運ばれる豪勢な食事を食べる者であっても、乞食の行に入った者であるから比丘であり、あるいは団食(托鉢の施食)に依存する出家に熱意を生じた者であるから乞食の行に入った者であるとして比丘である。このようにここにおける意味は理解されるべきである。「等の方法によって」とは、「破れ布をまとう者であるから比丘である、悪しき不善の法を破砕する者であるから比丘である、悪しき不善の法が破砕されているがゆえに比丘である」等と分別論(ヴィバンガ)において説かれた方法による。「知らしめることにおいて」とは覚知させること、通達させることにおいて、という意味である。

Bhikkhanasīlatātiādīsu bhikkhanasīlatā bhikkhanena ājīvanasīlatā, na kasivaṇijjādīhi ājīvanasīlatā. Bhikkhanadhammatā ‘‘uddissa ariyā tiṭṭhantī’’ti (paṭi. ma. 153; mi. pa. 4.5.9) evaṃ vuttabhikkhanasabhāvatā, na sambhāvanākohaññasabhāvatā. Bhikkhane sādhukāritā ‘‘uttiṭṭhe nappamajjeyyā’’ti (dha. pa. 168) vacanaṃ anussaritvā tattha appamajjanā. Atha vā sīlaṃ nāma pakatisabhāvo, idha pana tadadhiṭṭhānaṃ. Dhammoti vataṃ. Apare pana ‘‘sīlaṃ nāma vatasamādānaṃ, dhammo nāma paveṇīāgataṃ cārittaṃ, sādhukāritāti sakkaccakāritā ādarakiriyā’’ti vaṇṇenti. Hīnādhikajanasevitanti ye bhikkhubhāve ṭhitāpi jātimadādivasena uddhatā unnaḷā. Ye ca gihibhāve paresu atthikabhāvampi anupagatatāya bhikkhācariyaṃ paramakāpaññataṃ maññanti, tesaṃ ubhayesampi yathākkamaṃ ‘‘bhikkhavo’’ti vacanena hīnajanehi daliddehi paramakāpaññataṃ pattehi parakulesu bhikkhācariyāya jīvikaṃ kappentehi sevitaṃ vuttiṃ pakāsento uddhatabhāvaniggahaṃ karoti, adhikajanehi uḷārabhogakhattiyakulādito pabbajitehi buddhādīhi ājīvavisodhanatthaṃ sevitaṃ vuttiṃ pakāsento dīnabhāvaniggahaṃ karotīti yojetabbaṃ. Yasmā ‘‘bhikkhavo’’ti vacanaṃ āmantanabhāvato abhimukhīkaraṇaṃ, pakaraṇato sāmatthiyato ca sussūsājananaṃ sakkaccasavanamanasikāraniyojanañca hoti. Tasmā tamatthaṃ dassento **‘‘bhikkhavoti iminā’’**tiādimāha.

「乞食を習性とする性質」等の句において、「乞食を習性とする性質」とは乞食によって生計を立てる習性であり、農耕や商業等によって生計を立てる習性ではない。「乞食を本性とする性質」とは、「聖者たちは〔施主の前に〕目的に応じてただ立ち止まる」とこのように説かれた乞食の本性であり、名声を求めたり偽善を行ったりする本性ではない。「乞食における善美なる行持」とは、「〔托鉢の時に〕立ち止まるべきであって、怠惰であってはならない」という言葉を想起して、そこにおいて怠惰でないことである。あるいは「習性(sīla)」とは生来の性質であり、ここではその決意である。「本性(dhamma)」とは誓戒である。しかし他の註釈者たちは「習性とは誓戒の受持であり、本性とは伝統として受け継がれた作法であり、善美なる行持とは恭敬して行うこと、尊重の行為である」と解説している。「劣等な人々および卓越した人々によって実践された」とは、比丘の身分にありながらも家柄の誇り等によって高慢で思い上がっている者たち、また在家にあって他者に物を乞う境遇にもなっていないために乞食の行を極度の卑しさであると見なす者たち、それら双方に対しても、順に「比丘たちよ」という言葉によって、卑しい人々や貧者たち、極度の困窮に至って他人の家々で乞食をして生計を立てている者たちによって実践された生活様式を明かすことで高慢さを打ち砕き、卓越した人々、すなわち莫大な富を持つ刹帝利の家柄などから出家した仏陀たちによって生計の清浄のために実践された生活様式を明かすことで卑屈さを打ち砕くのである、と結びつけられるべきである。「比丘たちよ」という言葉は呼びかけであることから注意を向けさせ、文脈と能力から聴聞の意欲を生じさせ、恭敬して聴聞し作意することへと導くものである。それゆえ、その意味を示すために「**『比丘たちよ、これによって』**」等と述べた。

Tattha sādhukasavanamanasikāreti sādhukasavane sādhukamanasikāre ca. Kathaṃ pana pavattitā savanādayo sādhukaṃ pavattitā hontīti? ‘‘Addhā imāya sammāpaṭipattiyā sakalasāsanasampatti hatthagatā bhavissatī’’ti ādaragāravayogena, kathādīsu aparibhavanādinā ca. Vuttaṃ hi ‘‘pañcahi, bhikkhave, dhammehi samannāgato suṇanto saddhammaṃ bhabbo niyāmaṃ okkamituṃ kusalesu dhammesu sammattaṃ. Katamehi pañcahi? Na kathaṃ paribhoti, na kathikaṃ paribhoti, na attānaṃ paribhoti, avikkhittacitto dhammaṃ suṇāti ekaggacitto, yoniso ca manasi karoti. Imehi kho, bhikkhave, pañcahi dhammehi samannāgato suṇanto saddhammaṃ bhabbo niyāmaṃ okkamituṃ kusalesu dhammesu sammatta’’nti (a. ni. 5.151). Tenevāha **‘‘sādhukasavanamanasikārāyattā hi sāsanasampattī’’**ti. Sāsanasampatti nāma sīlādinipphatti.

そこにおいて、「善美なる聴聞と作意において」とは、善美なる聴聞において、また善美なる作意において、という意味である。では、どのように行われた聴聞等がいかによく行われたものとなるのか。「実に、この正しい実践によって教えのすべての円満が手に入ることになるだろう」という尊重と恭敬の結びつきによって、また教説等に対する軽蔑のなさ等によってである。実にこのように説かれている。「比丘たちよ、五つの法を具足して正法を聞く者は、善なる法における決定(正性決定)に入るに適している。いかなる五つか? 教説を軽蔑せず、説法者を軽蔑せず、自己を軽蔑せず、心が散乱することなく心を一つにして法を聞き、如理に作意する。比丘たちよ、実にこれら五つの法を具足して正法を聞く者は、善なる法における決定に入るに適している」と。それゆえに「**『実に善美なる聴聞と作意に教えの円満は依存しているからである』**」と言われたのである。教えの円満とは、戒などの成就のことである。

Paṭhamaṃ uppannattā adhigamavasena. Satthucariyānuvidhāyakattā sīlādiguṇānuṭṭhānena. Tiṇṇaṃ yānānaṃ vasena anudhammapaṭipattisabbhāvato sakalasāsanapaṭiggāhakattā. Santikattāti samīpabhāvato. Santikāvacarattāti sabbakālaṃ sampayuttabhāvato. Yathānusiṭṭhanti anusāsanianurūpaṃ, anusāsaniṃ anavasesato paṭiggahetvāti attho. Ekacce bhikkhūyeva sandhāyāti ye suttapariyosāne ‘‘te bhikkhū bhagavato bhāsitaṃ abhinandu’’nti vuttā pañcasatā brāhmaṇapabbajitā, te sandhāya.

「最初に生じたがゆえに」とは証得の観点からである。「師の行跡に従うがゆえに」とは戒などの徳性の実践による。「三乗の観点から随順する法の行持が存在することによって教えの全体を受持する者であるがゆえに」である。「近處にあるがゆえに」とは近くにいることからである。「近處を行じる者であるがゆえに」とは常に相応していることからである。「教誡の通りに」とは教誡に相応して、教誡を残りなく受け入れて、という意味である。「ある一部の比丘たちを指して」とは、経の結びにおいて「それらの比丘たちは世尊の説かれたことを歓喜した」と述べられた、五百名のバラモン出身の出家者たち、彼らを指してのことである。

Pubbe sabbaparisasādhāraṇattepi bhagavato dhammadesanāya ‘‘jeṭṭhaseṭṭhā’’tiādinā bhikkhūnaṃ eva āmantane kāraṇaṃ dassetvā idāni bhikkhū āmantetvāva dhammadesanāya payojanaṃ dassetuṃ **‘‘kimatthaṃ pana bhagavā’’**ti codanaṃ samuṭṭhāpesi. Tattha aññaṃ cintentāti aññavihitā. Vikkhittacittāti asamāhitacittā. Dhammaṃ paccavekkhantāti tadā hiyyo tato paradivasesu vā sutadhammaṃ pati pati manasā avekkhantā. Bhikkhū āmantetvā dhamme desiyamāne ādito paṭṭhāya desanaṃ sallakkhetuṃ sakkontīti imamevatthaṃ byatirekamukhena dassetuṃ **‘‘te anāmantetvā’’**tiādi vuttaṃ.

以前には世尊の説法がすべての会衆に共通するものでありながらも、「最年長・最勝である」等によって比丘たちだけに呼びかける理由を示し、今や比丘たちに呼びかけてから法を説くことの目的を示すために「**『では何のために世尊は』**」と問答(詰問)を提起した。そこにおいて、「他のことを考えている者」とは心を他に向けている者たちである。「心が散乱している者」とは精神が定まっていない者たちである。「法を省察している者」とはその時、前日あるいはその後の日々に聞いた法について、心の中で繰り返し観察している者たちである。比丘たちに呼びかけて法が説かれるならば、最初から説法を明確に捉えることができる。まさにこの意味を反対の観点から示すために「**『彼らに呼びかけることなく』**」等と述べられた。

Bhikkhavotīti ca sandhivasena i-kāralopo daṭṭhabbo ‘‘bhikkhavo itī’’ti. Ayaṃ hi iti-saddo hetu-parisamāpanādipadatthavipariyāya-pakārāvadhāraṇanidassanādianekatthappabhedo. Tathā hesa ‘‘ruppatīti kho, bhikkhave, tasmā ‘rūpa’nti vuccatī’’tiādīsu (saṃ. ni. 3.79) hetuatthe dissati; ‘‘tasmā tiha me, bhikkhave, dhammadāyādā bhavatha, mā āmisadāyādā, atthi me tumhesu anukampā ‘kinti me sāvakā dhammadāyādā bhaveyyuṃ, no āmisadāyādā’ti’’ādīsu parisamāpane; ‘‘iti vā, iti evarūpā naccagītavāditavisūkadassanā paṭivirato’’tiādīsu (dī. ni. 1.13) ādiatthe; ‘‘māgaṇṭhiyoti tassa brāhmaṇassa saṅkhā samaññā paññatti vohāro nāmaṃ nāmakammaṃ nāmadheyyaṃ nirutti byañjanamabhilāpo’’tiādīsu (mahāni. 73) padatthavipariyāye; ‘‘iti kho, bhikkhave, sappaṭibhayo bālo, appaṭibhayo paṇḍito, saupaddavo bālo, anupaddavo paṇḍito, saupasaggo bālo, anupasaggo paṇḍito’’tiādīsu (ma. ni. 3.124) pakāre; ‘‘atthi idappaccayā jarāmaraṇanti iti puṭṭhena satā, ānanda, atthītissa vacanīyaṃ, kiṃ paccayā jarāmaraṇanti iti ce vadeyya, jātipaccayā jarāmaraṇanti iccassa vacanīya’’ntiādīsu (dī. ni. 2.96) avadhāraṇe; ‘‘sabbamatthīti kho, kaccāna, ayameko anto, sabbaṃ natthīti kho, kaccāna, ayaṃ dutiyo anto’’tiādīsu (saṃ. ni. 2.15) nidassane. Idhāpi nidassaneva daṭṭhabbo. Bhikkhavoti hi āmantitākāro, tamesa iti-saddo nidasseti ‘‘bhikkhavoti āmantesī’’ti. Iminā nayena **‘‘bhaddante’’**tiādīsupi yathārahaṃ iti-saddassa attho veditabbo. Pubbe ‘‘bhagavā āmantesī’’ti vuttattā ‘‘bhagavato paccassosu’’nti idha ‘‘bhagavato’’ti sāmivacanaṃ āmantanameva sambandhīantaraṃ apekkhatīti iminā adhippāyena **‘‘bhagavato āmantanaṃ paṭiassosu’’**nti vuttaṃ. ‘‘Bhagavato’’ti pana idaṃ paṭissavasambandhanena sampadānavacanaṃ yathā ‘‘devadattassa paṭissuṇotī’’ti.

「比丘たちよ、と(bhikkhavoti)」とは、連声(サンディ)によって「i」音が脱落した「bhikkhavo iti」と見なされるべきである。実にこの「iti」という言葉には、理由・完結・語義の置換・様態・限定・例示など、多くの意味の区分がある。実にそのように、「比丘たちよ、変壊する(ruppati)、それゆえに『色(rūpa)』と呼ばれる」等においては理由の意味で見られる。「それゆえ比丘たちよ、私の法の相続者であれ、財の相続者であってはならない。私には『いかにして弟子たちが法の相続者となり、財の相続者とならないようにするか』という憐愍がある」等においては完結において。「このように、あるいはこのような舞踊・歌唱・音楽・観覧の遊戯から離れている」等においては「等(初め)」の意味において。「マーガンディヤとは、かのバラモンの数・呼称・施設・慣用・名・命名・名称・語源解釈・表現・言述である」等においては語義の置換において。「比丘たちよ、このように愚者は恐怖を伴い、賢者は恐怖を伴わない。愚者は災患を伴い、賢者は災患を伴わない。愚者は危険を伴い、賢者は危険を伴わない」等においては様態において。「アーナンダよ、『これ(生)を縁として老死があるのか』と問われたならば、『ある』と答えるべきである。『何を縁として老死があるのか』と問うならば、『生を縁として老死がある』と答えるべきである」等においては限定において。「カッチャーナよ、『すべてはある』というのが第一の極端であり、『すべてはない』というのが第二の極端である」等においては例示において。ここにおいてもまた例示として見なされるべきである。「比丘たちよ」とは呼びかけられた様態であり、この「iti」という言葉は「比丘たちよ、と呼びかけられた」とその様態を例示しているのである。この方法によって「**『尊き方よ』**」等においても相応に「iti」という言葉の意味が理解されるべきである。以前に「世尊は呼びかけられた」と述べられたことから、「世尊に応答した」というここでの「世尊の(bhagavato)」という属格は、まさにその呼びかけという別の関係対象を待つものであるという意図から、「**『世尊の呼びかけに応答した』**」と述べられた。しかし「世尊に(bhagavato)」というこの語は、応答することとの結びつきによって、「デーヴァダッタに応答する」というように為格(与格)の言葉である。

Yaṃ nidānaṃ bhāsitanti sambandho. Etthāha – kimatthaṃ pana dhammavinayasaṅgahe kariyamāne nidānavacanaṃ, nanu bhagavatā bhāsitavacanasseva saṅgaho kātabboti? Vuccate – desanāya ṭhitiasammosasaddheyyabhāvasampādanatthaṃ. Kāladesadesakanimittaparisāpadesehi upanibandhitvā ṭhapitā hi desanā ciraṭṭhitikā hoti asammosadhammā saddheyyā ca, desakālakattusotunimittehi upanibaddho viya vohāravinicchayo. Teneva ca āyasmatā mahākassapena ‘‘mūlapariyāyasuttaṃ āvuso, ānanda, kattha bhāsita’’ntiādinā desādipucchāsu katāsu tāsaṃ vissajjanaṃ karontena dhammabhaṇḍāgārikena ‘‘evaṃ me suta’’ntiādinā imassa suttassa nidānaṃ bhāsitaṃ. Apica satthusampattipakāsanatthaṃ nidānavacanaṃ. Tathāgatassa hi bhagavato pubbaracanānumānāgamatakkābhāvato sammāsambuddhabhāvasiddhi. Na hi sammāsambuddhassa pubbaracanādīhi attho atthi sabbattha appaṭihatañāṇacāratāya ekappamāṇattā ca ñeyyadhammesu. Tathā ācariyamuṭṭhidhammamacchariyasāsanasāvakānurodhābhāvato khīṇāsavabhāvasiddhi. Na hi sabbaso khīṇāsavassa te sambhavantīti suvisuddhassa parānuggahappavatti. Evaṃ desakasaṃkilesabhūtānaṃ diṭṭhisīlasampadādūsakānaṃ avijjātaṇhānaṃ accantābhāvasaṃsūcakehi ñāṇasampadāpahānasampadābhibyañjakehi ca sambuddhavisuddhabhāvehi purimavesārajjadvayasiddhi, tato eva ca antarāyikaniyyānikadhammesu sammohābhāvasiddhito pacchimavesārajjadvayasiddhīti bhagavato catuvesārajjasamannāgamo attahitaparahitapaṭipatti ca nidānavacanena pakāsitā hoti tattha tattha sampattapariyāya ajjhāsayānurūpaṃ ṭhānuppattikapaṭibhānena dhammadesanādīpanato, idha pana pathavīādīsu vatthūsu puthujjanānaṃ paṭipattivibhāgavavatthāpakadesanādīpanatoti yojetabbaṃ. Tena vuttaṃ ‘‘satthusampattipakāsanatthaṃ nidānavacana’’nti.

「語られた因縁(序起)を」と結びつく。ここで問う――「法と律の結集がなされるにあたって、何のために因縁の言葉があるのか。世尊によって語られた言葉そのもののみが結集されるべきではないか?」と。答えよう――「説法の持続性・不忘失性・信憑性を達成するためである」と。時・場所・説法者・機縁・聴衆の指示によって結びつけて置かれた説法は、長久に存続し、忘失しない性質をもち、信憑性のあるものとなるからである。時・場所・行為者・聴者・機縁によって結びつけられた裁判の判決のようなものである。それゆえにこそ、尊者マハーカッサパによって「友アーナンダよ、根本法門経はどこで説かれたのか」等と場所などの質問がなされたとき、それらに回答しつつ法蔵保持者(アーナンダ)は「このように私は聞いた」等とこの経の因縁を語ったのである。さらにまた、師の徳性の円満を明示するために因縁の言葉がある。実に世尊なる如来には、あらかじめ準備された作意や推論や伝承や論理的思考がないことによって、正等覚者(正遍知)であることの成就がある。実に正等覚者には、あらかじめ作意することなどの必要はない。すべての対象において障害のない智慧の働きを有し、知るべき法において唯一の正量(規準)であるからである。同様に、師の握拳(教えを隠すこと)、法の慳貪、教えの弟子への愛着がないことによって、煩悩を滅尽した者(漏尽者)であることの成就がある。実にいかなる点においても漏尽者にそれらが生じることはないため、至極清浄な他者への救済の活動がある。このように、説法者の汚濁となり見解や戒の円満を損なう無明と渇愛が完全に存在しないことを示し、智慧の円満と断徳(捨断の円満)を表す正覚と清浄の状態によって、前二つの無畏(正等覚無畏・漏尽無畏)の成就があり、まさにそれゆえに障礙となる法と出離となる法において惑いがないことが成就することから、後二つの無畏(障法無畏・出道無畏)の成就がある。このように世尊の四無畏の具足と、自利・利他の実践とが、因縁の言葉によって明示されている。それぞれの機縁に応じた意向に従って、臨機応変の弁才によって法を説くことが示されるからであり、ここでは地などの対象における凡夫の実践の分別を規定する説法が示されているからである、と結びつけられるべきである。それゆえに「師の徳性の円満を明示するために因縁の言葉がある」と言われたのである。

Tathā sāsanasampattipakāsanatthaṃ nidānavacanaṃ. Ñāṇakaruṇāpariggahitasabbakiriyassa hi bhagavato natthi niratthikā paṭipatti, attahitatthā vā. Tasmā paresaṃ eva atthāya pavattasabbakiriyassa sammāsambuddhassa sakalampi kāyavacīmanokammaṃ yathāpavattaṃ vuccamānaṃ diṭṭhadhammikasamparāyikaparamatthehi yathārahaṃ sattānaṃ anusāsanaṭṭhena sāsanaṃ, na kabyaracanā, tayidaṃ satthucaritaṃ kāladesadesakaparisāpadesehi saddhiṃ tattha tattha nidānavacanehi yathārahaṃ pakāsīyati, idha pana ‘‘pathaviyādīsu vatthūsū’’ti sabbaṃ purimasadisameva. Tena vuttaṃ ‘‘sāsanasampattipakāsanatthaṃ nidānavacana’’nti. Apica satthuno pamāṇabhāvappakāsanena sāsanassa pamāṇabhāvadassanatthaṃ nidānavacanaṃ, tañca desakappamāṇabhāvadassanaṃ heṭṭhā vuttanayānusārena ‘‘bhagavā’’ti ca iminā padena vibhāvitanti veditabbaṃ. ‘‘Bhagavā’’ti iminā tathāgatassa rāgadosamohādisabbakilesamaladuccaritādidosappahānadīpanena vacanena anaññasādhāraṇasuparisuddhañāṇakaruṇādiguṇavisesayogaparidīpanena tato eva sabbasattuttamabhāvadīpanena ayamattho sabbathā pakāsito hotīti idamettha nidānavacanappayojanassa mukhamattadassanaṃ.

同様に、教え(仏教)の徳性の円満を明示するために因縁の言葉がある。智慧と慈悲によって包摂されたすべての活動をもつ世尊には、無益な実践や、あるいは自利のための実践は存在しない。それゆえ、ただ他者の利益のためにのみ行われたすべての活動をもつ正等覚者の、身・口・意のすべての行いは、実際に行われた通りに語られるならば、現世・来世・勝義の観点から相応に有情たちを訓誡するという意味において教誡(教え)であり、詩の創作ではない。その師の行跡は、時・場所・説法者・聴衆の指示とともに、随所で因縁の言葉によって相応に明示されるが、ここにおいては「地などの対象において」というすべては前述と同様である。それゆえ「教えの徳性の円満を明示するために因縁の言葉がある」と言われたのである。さらにまた、師の正量性(規準としての正当性)を明示することによって、教えの正量性を示すために因縁の言葉があり、その説法者の正量性の提示は、上述の方法に従って「世尊」というこの言葉によって解明されていると知られるべきである。「世尊」という、如来の貪・瞋・痴などのすべての煩悩の汚れや悪行などの過失の断滅を示し、他に共通しない至極清浄な智慧や慈悲などの卓越した徳性の具足を明示し、まさにそれゆえに一切の有情の中で最上である状態を示す言葉によって、この意味はあまねく明示されている。これがここにおける因縁の言葉の目的の端的な提示である。

Abbhantaranidānavaṇṇanā niṭṭhitā.

内因縁の注釈を終える。

Suttanikkhepavaṇṇanā

経の機縁の注釈

Nikkhittassāti desitassa. Desanāpi hi desetabbassa sīlādiatthassa vineyyasantānesu nikkhipanato ‘‘nikkhepo’’ti vuccati. Suttanikkhepaṃ vicāretvā vuccamānā pākaṭā hotīti sāmaññato bhagavato desanāsamuṭṭhānassa vibhāgaṃ dassetvā ‘‘etthāyaṃ desanā evaṃsamuṭṭhānā’’ti desanāya samuṭṭhāne dassite suttassa sammadeva nidānaparijānanena vaṇṇanāya suviññeyyattā vuttaṃ. Evañhi ‘‘assutavā bhikkhave puthujjano’’tiādinā, ‘‘yopi so, bhikkhave, bhikkhu arahaṃ khīṇāsavo’’tiādinā (ma. ni. 1.8), ‘‘tathāgatopi kho, bhikkhave, arahaṃ sammāsambuddho’’tiādinā (ma. ni. 1.12) ca pavattadesanā anusandhidassanasukhatāya suviññeyyā hoti. Tattha yathā anekasataanekasahassabhedānipi suttantāni saṃkilesabhāgiyādipadhānanayavasena soḷasavidhataṃ nātivattanti, evaṃ attajjhāsayādisuttanikkhepavasena catubbidhabhāvanti āha **‘‘cattāro hi suttanikkhepā’’**ti.

「提示されたものの(説かれたものの)」とは、説かれたものの、という意味である。説法もまた、説かれるべき戒などの意味を開導されるべき者の心相続の中に提示する(置く)ことから「提示(ニッケーパ)」と呼ばれる。「経の提示(機縁)を考察して語られるとき、明瞭となる」とは、一般的な世尊の説法の起因の区分を示した上で、「ここにおいてこの説法はこのように起因した」と説法の起因が示されたとき、経の因縁を正しく徹底的に理解することによって注釈が容易に理解できるがゆえに言われたのである。実にこのように「比丘たちよ、無聞の凡夫は」等によって、「比丘たちよ、かの漏尽した阿羅漢である比丘もまた」等によって、「比丘たちよ、如来・阿羅漢・正等覚者もまた」等によって説かれた教説は、前後の文脈(接続)の提示が容易であることによって理解しやすいものとなる。そこにおいて、幾百・幾千と多様に分かれる経典であっても、雑染の部類などの主要な方法の観点から十六種を超えないように、自己の意向等による経の機縁の観点から四種であるという状態を「**『実に経の機縁には四つある』**」と述べたのである。

Ettha ca yathā attajjhāsayassa aṭṭhuppattiyā ca parajjhāsayapucchāhi saddhiṃ saṃsaggabhedo sambhavati ‘‘attajjhāsayo ca parajjhāsayo ca, attajjhāsayo ca pucchāvasiko ca, aṭṭhuppattiko ca parajjhāsayo ca, aṭṭhuppattiko ca pucchāvasiko cā’’ti ajjhāsayapucchānusandhisabbhāvato, evaṃ yadipi aṭṭhuppattiyā attajjhāsayenapi saṃsaggabhedo sambhavati, attajjhāsayādīhi pana purato ṭhitehi aṭṭhuppattiyā saṃsaggo natthīti nayidha niravaseso vitthāranayo sambhavatīti ‘‘cattāro suttanikkhepā’’ti vuttaṃ, tadantogadhattā vā sambhavantānaṃ sesanikkhepānaṃ mūlanikkhepavasena cattārova dassitā. Tathādassanañcettha ayaṃ saṃsaggabhedo gahetabboti.

そしてここにおいて、自己の意向と事件の発生(事項の生起)とが他者の意向や質問とともに結合の区分を生じるように、「自己の意向かつ他者の意向、自己の意向かつ質問によるもの、事件の発生かつ他者の意向、事件の発生かつ質問によるもの」という意向・質問・接続が存在することから、このようにたとえ事件の発生が自己の意向とも結合の区分を生じるとしても、自己の意向等に先立って存在する事件の発生との結合は存在しないため、ここにおいて余すところのない詳細な方法は生じないことから「四つの経の機縁」と言われたのであり、あるいはそれらに含まれることから、生じうる他の機縁は根本の機縁の観点から四つのみが示されたのである。そのように示されたことから、この結合の区分は把握されるべきである。

Tatrāyaṃ vacanattho – nikkhipīyatīti nikkhepo, suttaṃ eva nikkhepo suttanikkhepo. Atha vā nikkhipanaṃ nikkhepo, suttassa nikkhepo suttanikkhepo, suttadesanāti attho. Attano ajjhāsayo attajjhāsayo, so assa atthi kāraṇabhūtoti attajjhāsayo. Attano ajjhāsayo etassāti vā attajjhāsayo. Parajjhāsayepi eseva nayo. Pucchāya vaso pucchāvaso, so etassa atthīti pucchāvasiko. Suttadesanāvatthubhūtassa atthassa uppatti atthuppatti, atthuppattiyeva aṭṭhuppatti ttha-kārassa ṭṭha-kāraṃ katvā. Sā etassa atthīti aṭṭhuppattiko. Atha vā nikkhipīyati suttaṃ etenāti suttanikkhepo, attajjhāsayādi eva. Etasmiṃ pana attavikappe attano ajjhāsayo attajjhāsayo. Paresaṃ ajjhāsayo parajjhāsayo. Pucchīyatīti pucchā, pucchitabbo attho. Pucchanavasena pavattaṃ dhammapaṭiggāhakānaṃ vacanaṃ pucchāvasikaṃ, tadeva nikkhepa-saddāpekkhāya pulliṅgavasena **‘‘pucchāvasiko’’**ti vuttaṃ. Tathā aṭṭhuppatti eva aṭṭhuppattikoti evampettha attho veditabbo.

そこにおいて語義は以下の通りである。提示される(置かれる)から提示(ニッケーパ)であり、経そのものが提示であるから経の提示(経の機縁)である。あるいは提示することが提示であり、経を提示することが経の提示であり、経の説法という意味である。自己の意向(自意楽)が自発的意向であり、それがこの説法に原因として存在するから自発的意向である。あるいは自己の意向がこれにあるから自発的意向である。他者の意向(他意楽)においても同様の方法である。質問の力(問勢)が質問によるものであり、それがこれにあるから質問による機縁(問勢機縁)である。経の説法の対象となった事柄の発生が事件の発生(事項の生起)であり、「ttha」音を「ṭṭha」音にして事項生起(aṭṭhuppatti)となる。それがこれにあるから事件発生機縁(事起機縁)である。あるいは経がこれによって提示されるから経の機縁であり、自己の意向等そのものである。しかしこの別の解釈においては、自己の意向が自発的意向である。他者の意向が他発的意向である。問われるから質問であり、問われるべき意味である。質問の力によって生じた、法を受持する者たちの言葉が質問によるものであり、それそのものが「機縁(nikkhepa)」という語に準じて男性形として「**『質問によるもの(pucchāvasiko)』**」と言われた。同様に事件の発生そのものが事件発生機縁である。このようにここにおける意味は理解されるべきである。

Apicettha paresaṃ indriyaparipākādikāraṇanirapekkhattā attajjhāsayassa visuṃ suttanikkhepabhāvo yutto kevalaṃ attano ajjhāsayeneva dhammatantiṭhapanatthaṃ pavattitadesanattā. Parajjhāsayapucchāvasikānaṃ pana paresaṃ ajjhāsayapucchānaṃ desanāpavattihetubhūtānaṃ uppattiyaṃ pavattitānaṃ kathamaṭṭhuppattiyaṃ anavarodho, pucchāvasikaaṭṭhuppattikānaṃ vā parajjhāsayānurodhena pavattikānaṃ kathaṃ parajjhāsaye anavarodhoti? Na codetabbametaṃ. Paresañhi abhinīhāraparipucchādivinimuttasseva suttadesanākāraṇuppādassa aṭṭhuppattibhāvena gahitattā parajjhāsayapucchāvasikānaṃ visuṃ gahaṇaṃ. Tathā hi brahmajāla (dī. ni. 1.1) dhammadāyādasuttādīnaṃ (ma. ni. 1.29) vaṇṇāvaṇṇaāmisuppādādidesanānimittaṃ ‘‘aṭṭhuppattī’’ti vuccati. Paresaṃ pucchaṃ vinā ajjhāsayaṃ eva nimittaṃ katvā desito parajjhāsayo, pucchāvasena desito pucchāvasikoti pākaṭoyamatthoti.

さらにここにおいて、他者の根の成熟などの原因に依存しないことから、自発的意向が単独で経の機縁であることは妥当である。ただ自己の意向によってのみ法の規範を確立するために行われた説法であるからである。しかし他発的意向と質問による機縁とは、説法の起因となった他者の意向や質問が生じることにおいて行われたものであるのに、どうして事件発生機縁に含まれないのか。あるいは質問による機縁と事件発生機縁とが他者の意向に順応して行われたものであるのに、どうして他発的意向に含まれないのか? そのような詰問はなされるべきではない。実に他者の誓願や質問等から離れた説法の原因の発生のみが事件の発生として把握されているがゆえに、他発的意向と質問による機縁とは別個に把握されるのである。実にそのように梵網経や法相続経などの、称賛・非難や物質的利得の発生などの説法の機縁が「事件の発生」と呼ばれる。他者の質問なしに意向そのものを機縁として説かれたものが他発的意向であり、質問の力によって説かれたものが質問による機縁であるという、この意味は明白である。

Attano ajjhāsayeneva kathesi dhammatantiṭhapanatthanti daṭṭhabbaṃ. Sammappadhānasuttantahārakoti anupubbena nikkhittānaṃ saṃyuttake sammappadhānapaṭisaṃyuttānaṃ suttānaṃ āvaḷi. Tathā iddhipādahārakādayo.

自己の意向によってのみ法の規範を確立するために説かれた、と理解されるべきである。「正勤経群の系列」とは、相応部において正勤に関連して順次に説かれた経典の連なりである。「如意足経群の系列」等も同様である。

Vimuttiparipācanīyā dhammā saddhindriyādayo. Ajjhāsayanti adhimuttiṃ. Khantinti diṭṭhinijjhānakkhantiṃ. Mananti cittaṃ. Abhinihāranti paṇidhānaṃ. Bujjhanabhāvanti bujjhanasabhāvaṃ, paṭivijjhanākāraṃ vā.

「解脱を成熟させる諸法」とは信根などである。「意向を」とは信解(確信)を。「忍辱を」とは見解を省察する受容(見審諦忍)を。「意を」とは心を。「発願を」とは誓願を。「覚知の状態を」とは覚知の本性を、あるいは通達の様態を指す。

Uppanne māne nikkhittanti sambandho. Itthiliṅgādīni tīṇi liṅgāni. Nāmādīni cattāri padāni. Paṭhamādayo satta vibhattiyo. Muñcitvā na kiñci katheti sabhāvaniruttiyā tatheva pavattanato. Gaṇṭhibhūtaṃ padaṃ. Yathā hi rukkhassa gaṇṭhiṭṭhānaṃ dubbinibbedhaṃ duttacchitañca hoti, evamevaṃ yaṃ padaṃ atthato vivarituṃ na sakkā, taṃ ‘‘gaṇṭhipada’’nti vuccati. Anupahaccāti anuddharitvā.

「高慢が生じた時に説かれた」と結びつく。女性形などの三つの性。名詞などの四つの品詞。主格(第一格)などの七つの格。「離れて何も語らない」とは、生来の言語活動においてまさにそのように行われるからである。「難解な語(節となった語)」とは、実に樹木の節の箇所が割りにくく削りにくいように、そのように意味の観点から解明することが困難な語、それが「難解語(結語)」と呼ばれる。「損なうことなく」とは、破棄することなく。

Yena yena sambandhaṃ gacchati, tassa tassa anavasesataṃ dīpetīti iminā imassa sabba-saddassa sappadesataṃ dasseti. Sabba-saddo hi sabbasabbaṃ padesasabbaṃ āyatanasabbaṃ sakkāyasabbanti catūsu visayesu diṭṭhappayogo. Tathā hesa ‘‘sabbe dhammā sabbākārena buddhassa bhagavato ñāṇamukhe āpāthamāgacchantī’’tiādīsu (mahāni. 156; cūḷani. 85; paṭi. ma. 3.6) sabbasabbasmiṃ āgato. ‘‘Sabbesaṃ vo, sāriputta, subhāsitaṃ pariyāyenā’’tiādīsu (ma. ni. 1.345) padesasabbasmiṃ. ‘‘Sabbaṃ vo, bhikkhave, desessāmi…pe… cakkhuñceva rūpā ca…pe… mano ceva dhammā cā’’ti (saṃ. ni. 4.23) ettha āyatanasabbasmiṃ. ‘‘Sabbaṃ sabbato sañjānātī’’tiādīsu (ma. ni. 1.5) sakkāyasabbasmiṃ. Tattha sabbasabbasmiṃ āgato nippadeso, itaresu tīsupi āgato sappadeso, idha pana sakkāyasabbasmiṃ veditabbo. Tathā hi vakkhati ‘‘sakkāyapariyāpannā pana tebhūmakadhammāva anavasesato veditabbā’’ti (ma. ni. aṭṭha. 1.1 suttanikkhepavaṇṇanā).

「結びつく対象のすべてにおいて、その尽きることのない全体を示す」とは、これによってこの「すべて(sabba)」という言葉が部分的な限定を持つことを示している。実に「すべて」という言葉は、一切のすべて(一切皆)、部分のすべて(一分皆)、処のすべて(処皆)、有身のすべて(有身皆)という四つの領域において使用が見られる。実にそのように、「すべての法はあらゆる様態で仏陀・世尊の智慧の門に現前する」等においては一切のすべてにおいて説かれている。「サーリプッタよ、汝らすべての説くところは、それぞれの方便において善説である」等においては部分のすべてにおいて。「比丘たちよ、私は汝らにすべてを説こう……乃至……眼と色、意と法である」等においては処のすべてにおいて。「すべてをすべてとして認識する」等においては有身のすべてにおいてである。そこにおいて、一切のすべてにおいて説かれたものは限定のない全体(無分皆)であり、他の三つにおいて説かれたものは限定のある全体(有分皆)であるが、ここでは有身のすべてにおいて理解されるべきである。実にそのように「有身に含まれる三界の諸法のみが余すところなく理解されるべきである」と述べるからである。

Saccesūti ariyasaccesu. Ete caturo dhammāti idāni vuccamāne saccādike cattāro dhamme sandhāya vadati. Tattha saccanti vacīsaccaṃ. Ṭhitīti vīriyaṃ, ‘‘dhitī’’ti vā pāṭho, so evattho. Cāgoti alobho. Diṭṭhaṃ so ativattatīti yasmiṃ ete saccādayo dhammā upalabbhanti, so diṭṭhaṃ attano amittaṃ atikkamati, na tassa hatthataṃ gacchati, atha kho naṃ abhibhavati evāti attho. Sabhāve vattati asabhāvadhammassa kāraṇāsambhavato. Na hi nissabhāvā dhammā kenaci nibbattīyanti. Attano lakkhaṇaṃ dhārentīti yadipi lakkhaṇavinimuttā dhammā nāma natthi, tathāpi yathā diṭṭhitaṇhāparikappitākāramattā attasubhasukhasassatādayo, pakatiyādayo, dabbādayo, jīvādayo, kāyādayo lokavohāramattasiddhā gagaṇakusumādayova saccikaṭṭhaparamatthato na upalabbhanti, na evamete, ete pana saccikaṭṭhaparamatthabhūtā upalabbhanti, tato eva sattādivisesavirahato dhammamattā sabhāvavantoti dassanatthaṃ ‘‘attano lakkhaṇaṃ dhārentī’’ti vuttaṃ. Bhavati hi bhedābhāvepi sukhāvabodhanatthaṃ upacāramattasiddhena bhedena niddeso yathā ‘‘silāputtakassa sarīra’’nti. Dhārīyanti vā yathāsabhāvato avadhārīyanti ñāyantīti dhammā, kakkhaḷaphusanādayo.

「諦(真理)において」とは四聖諦において。「これら四つの法」とは、これから説かれる真実(諦)などの四つの法を指して述べている。そこにおいて「真実(sacca)」とは言語の真実である。「確立(ṭhiti)」とは精進であり、「堅固(dhiti)」という読みもあり、それも同じ意味である。「捨(cāga)」とは無貪である。「かの者は見解を超克する」とは、これらの真実などの法が見出される者は、自らの敵である見解を超越し、その手中に陥ることなく、むしろそれを完全に圧倒する、という意味である。「固有の性質(自性)において機能する」とは、固有の性質のない法には原因があり得ないからである。実に固有の性質のない法は何ものによっても生み出されない。「自らの特相を保持する」とは、特相を離れた法などは存在しないとしても、見解や渇愛によって構想された様相にすぎない「我・浄・楽・常」など、あるいは勝論の自性など、実体など、命我など、身体など、世間の慣用のみによって成立する空中の花(空華)などが、真実かつ勝義の観点からは見出されないのに対し、これら(法)はそうではなく、これらは真実かつ勝義として見出され、まさにそれゆえに有情などの特殊性を欠いた単なる法として固有の性質を有するものであると示すために「自らの特相を保持する」と言われたのである。実に区別が存在しない場合であっても、容易に理解させるために仮称によって成立した区別による提示がなされることがある。「石の息子の身体(石臼の本体)」というがごときである。あるいは、自らの固有の性質の通りに保持される、確定される、知られるから「法」であり、堅固さ(地界の相)や接触(触の相)などである。

Asādhāraṇahetumhīti asādhāraṇakāraṇe, sakkāyadhammesu tassa tassa āveṇikapaccayeti attho. Kiṃ pana tanti? Taṇhāmānadiṭṭhiyo, avijjādayopi vā. Yatheva hi pathavīādīsu maññanāvatthūsu uppajjamānā taṇhādayo maññanā tesaṃ pavattiyā mūlakāraṇaṃ, evaṃ avijjādayopi. Tathā hi ‘‘assutavā puthujjano’’tiādinā ‘‘apariññātaṃ tassāti vadāmī’’ti (ma. ni. 1.2) ‘‘nandī dukkhassa mūla’’nti (ma. ni. 1.13) ca anvayato, ‘‘khayā rāgassa…pe… vītamohattā’’ti byatirekato ca tesaṃ mūlakāraṇabhāvo vibhāvito.

「不共通の原因において」とは、不共通の起因において、すなわち有身の諸法におけるそれぞれの固有の縁において、という意味である。では、それとは何か? 渇愛・高慢・悪見、あるいは無明などである。実に地などの想念の対象において生じる渇愛などの想念が、それらの活動の根本原因であるように、無明などもまた同様である。実に「無聞の凡夫は」等から始まり「彼にとって遍知されていないと私は説く」「歓喜は苦の根本である」と順接によって、「貪の尽滅により……乃至……痴を離れたがゆえに」と逆接によって、それらの根本原因である状態が解明されている。

Pariyāyeti desetabbamatthaṃ avagameti bodhayatīti pariyāyo, desanā. Pariyāyati attano phalaṃ pariggahetvā vattati tassa vā kāraṇabhāvaṃ gacchatīti pariyāyo, kāraṇaṃ. Pariyāyati aparāparaṃ parivattatīti pariyāyo, vāro. Evaṃ pariyāyasaddassa desanākāraṇavāresu pavatti veditabbā. Yathārutavasena aggahetvā niddhāretvā gahetabbatthaṃ neyyatthaṃ. Tebhūmakā dhammāva anavasesato veditabbā maññanāvatthubhūtānaṃ sabbesaṃ pathavīādidhammānaṃ adhippetattā.

「法門(pariyāya)において」とは、説かれるべき意味を理解させる、覚知させるから法門、すなわち説法である。自らの果報を包摂して機能する、あるいはその原因となる状態に赴くから法門、すなわち原因である。次々と巡り回転するから法門、すなわち順序(回転)である。このように「法門」という言葉が説法・原因・順序において機能することが知られるべきである。文字通りに捉えるのではなく、吟味して把握されるべき意味が「意趣(引導されるべき意味)」である。想念の対象となった地などのすべての法が意図されているため、三界の諸法のみが余すところなく理解されるべきである。

Kāraṇadesananti kāraṇañāpanaṃ desanaṃ. Taṃ atthanti taṃ sabbadhammānaṃ mūlakāraṇasaṅkhātaṃ, kāraṇadesanāsaṅkhātaṃ vā atthaṃ. Tenevāha ‘‘taṃ kāraṇaṃ taṃ desana’’nti. Ekatthametanti etaṃ padadvayaṃ ekatthaṃ. Sādhu-saddo eva hi ka-kārena vaḍḍhetvā ‘‘sādhuka’’nti vutto. Teneva hi sādhusaddassa atthaṃ vadantena atthuddhāravasena sādhukasaddo udāhaṭo. Dhammarucīti puññakāmo. Paññāṇavāti paññavā. Addubbhoti adūsako, anupaghātakoti attho. Idhāpīti imasmiṃ mūlapariyāyasuttepi. Ayanti sādhukasaddo. Ettheva daḷhīkammeti sakkaccakiriyāyaṃ. Āṇattiyanti āṇāpane. ‘‘Suṇātha sādhukaṃ manasi karothā’’ti hi vutte sādhukasaddena savanamanasikārānaṃ sakkaccakiriyā viya tadāṇāpanampi vuttaṃ hoti. Āyācanatthatā viya cassa āṇāpanatthatā veditabbā.

「原因の説法を」とは、原因を知らせる説法を。「その意味を」とは、すべての法の根本原因と名づけられた意味、あるいは原因の説法と名づけられた意味を。それゆえに「その原因を、その説法を」と言われたのである。「これは同じ意味である」とは、この二つの語は同じ意味であるということである。「善美(sādhu)」という言葉そのものが「ka」音によって拡張されて「善美に(sādhukaṃ)」と言われたのである。それゆえにこそ「sādhu」という言葉の意味を述べるにあたって、意味の抽出によって「sādhuka」という言葉が引用されたのである。「法を愛好する者」とは福徳を望む者。「聡明なる者」とは智慧ある者。「害意なき者」とは損なわない者、害を与えない者という意味である。「ここにおいても」とは、この根本法門経においても。「この」とは、「善美に(sādhukaṃ)」という言葉である。「まさにここにおいて強固にすることにおいて」とは、恭敬して行うことにおいて。「命令において」とは命じることにおいて。実に「聞け、善美に作意せよ」と言われたとき、「善美に」という言葉によって聴聞と作意を恭敬して行うことと同様に、それを命じることもまた語られているのである。要請の意味であるとともに、命令の意味であると知られるべきである。

Idānettha evaṃ yojanā veditabbāti sambandho. Sotindriyavikkhepavāraṇaṃ savane niyojanavasena kiriyantarapaṭisedhanabhāvato, sotaṃ odahathāti attho. Manindriyavikkhepanivāraṇaṃ aññacintāpaṭisedhanato. Purimanti ‘‘suṇāthā’’ti padaṃ. Etthāti suṇātha, manasi karothā’’ti padadvaye, etasmiṃ vā adhikāre. Byañjanavipallāsaggāhavāraṇaṃ sotadvāre vikkhepapaṭibāhakattā. Na hi yāthāvato suṇantassa saddato vipallāsaggāho hoti. Atthavipallāsaggāhavāraṇaṃ manindriyavikkhepapaṭibāhakattā. Na hi sakkaccaṃ dhammaṃ upadhārentassa atthato vipallāsaggāho hoti. Dhammassavane niyojeti suṇāthāti vidahanato. Dhāraṇūpaparikkhāsūti upaparikkhaggahaṇena tulanatīraṇādike diṭṭhiyā ca suppaṭivedhaṃ saṅgaṇhāti.

今やここにおいて、このように解釈が知られるべきである、と結びつく。耳根の散乱を制止することは、聴聞に従事させることによって他の行為を排除する状態であることから、「耳を傾けよ」という意味である。意根の散乱を制止することは、他の考えを排除することによる。「前者を」とは「聞け」という言葉を。「ここにおいて」とは「聞け、作意せよ」という二つの言葉において、あるいはこの文脈において。文字の倒錯した把握を制止することは、耳門における散乱を遮断するからである。実に正しく聞く者には、音声から生じる倒錯した把握はないからである。意味の倒錯した把握を制止することは、意根の散乱を遮断するからである。実に恭敬して法を考察する者には、意味から生じる倒錯した把握はないからである。法の聴聞に従事させることは、「聞け」と命じることによる。「保持と観察において」とは、観察を取り上げることによって、比較や探求など、また見解による善美なる通達を包含している。

Sabyañjanoti ettha yathādhippetamatthaṃ byañjayatīti byañjanaṃ, sabhāvanirutti. Saha byañjanenāti sabyañjano, byañjanasampannoti attho. Araṇīyato upagandhabbato anuṭṭhātabbato attho, catupārisuddhisīlādiko. Saha atthenāti sāttho, atthasampannoti attho. Dhammagambhīrotiādīsu dhammo nāma tanti. Desanā nāma tassā manasā vavatthāpitāya tantiyā desanā. Attho nāma tantiyā attho. Paṭivedho nāma tantiyā tantiatthassa ca yathābhūtāvabodho. Yasmā cete dhammadesanāatthapaṭivedhā sasādīhi viya mahāsamuddo mandabuddhīhi dukkhogāḷhā alabbhaneyyapatiṭṭhā ca, tasmā gambhīrā. Tena vuttaṃ **‘‘yasmā ayaṃ dhammo…pe… sādhukaṃ manasi karothā’’**ti. Ettha ca paṭivedhassa dukkarabhāvato dhammatthānaṃ desanāñāṇassa dukkarabhāvato desanāya dukkhogāhatā, paṭivedhassa pana uppādetuṃ asakkuṇeyyattā tabbisayañāṇuppattiyā ca dukkarabhāvato dukkhogāhatā veditabbā.

「文字(表現)を具備し」のここにおいて、意図された通りの意味を表現するから文字(表現)であり、生来の言語表現である。「表現とともに」であるから表現を具備し、表現が円満であるという意味である。近づくべき、到達すべき、実践すべきものであるから意味であり、四種清浄戒などである。「意味とともに」であるから有義(意味を具備し)であり、意味が円満であるという意味である。「法は深遠である」等の句において、「法」とは教説(聖典本文)である。「説法」とは、心によって確定されたその教説を説くことである。「意味」とは教説の意味である。「通達」とは教説とその教説の意味についての如実なる覚知である。そしてこれら教説・説法・意味・通達は、ウサギなどにとっての大海のように、鈍根な者たちには沈み入りがたく足場が得られないものであるがゆえに、深遠である。それゆえ「**『この法は……乃至……善美に作意せよ』**」と言われたのである。そしてここにおいて、通達が困難であることから法と意味の難解さが、説法の智慧が困難であることから説法の難解さが知られるべきであり、通達はそれを生じさせることができず、その対象となる智慧を生じさせることが困難であることから、極めて入りがたいと知られるべきである。

Desanaṃ nāma uddisanaṃ. Tassa niddisanaṃ bhāsananti idhādhippetanti āha **‘‘vitthāratopi naṃ bhāsissāmīti vuttaṃ hotī’’**ti. Paribyattaṃ kathanaṃ vā bhāsanaṃ. Sāḷikāyiva nigghosoti sāḷikāya ālāpo viya madhuro kaṇṇasukho pemanīyo. Paṭibhānanti saddo. Udīrayīti uccārīyati, vuccati vā.

「説法」とは総説(要綱の提示)である。その詳細な解明が「語ること」であるとここで意図されていることから、「**『詳細にもそれを語ろう、と述べられたことになる』**」と言われた。あるいは明確に語ることが「語ること」である。「九官鳥(サーリカ)の鳴き声のように」とは、九官鳥のさえずりのように甘美で、耳に快く、愛らしいこと。「弁才」とは音声のこと。「発せられる」とは発音される、あるいは語られる。

Evaṃ vutte ussāhajātāti evaṃ ‘‘suṇātha sādhukaṃ manasi karotha bhāsissāmī’’ti vutte na kira satthā saṅkhepeneva desessati, vitthārenapi bhāsissatīti sañjātussāhā haṭṭhatuṭṭhā hutvā. Idhāti iminā vuccamānaadhikaraṇaṃ tassa puggalassa uppattiṭṭhānabhūtaṃ adhippetanti āha **‘‘desāpadese nipāto’’**ti. Lokanti okāsalokaṃ. Idha tathāgato loketi hi jātikhettaṃ, tatthāpi ayaṃ cakkavāḷo adhippeto. Samaṇoti sotāpanno. Dutiyo samaṇoti sakadāgāmī. Vuttañhetaṃ ‘‘katamo ca, bhikkhave, samaṇo? Idha, bhikkhave, bhikkhu tiṇṇaṃ saṃyojanānaṃ parikkhayā sotāpanno hotī’’ti (a. ni. 4.241) ‘‘katamo ca, bhikkhave, dutiyo samaṇo? Idha, bhikkhave, bhikkhu tiṇṇaṃ saṃyojanānaṃ parikkhayā rāgadosamohānaṃ tanuttā sakadāgāmī hotī’’ti ca (a. ni. 4.241). Idheva tiṭṭhamānassāti imissā eva indasālaguhāyaṃ tiṭṭhamānassa.

このように言われたとき熱意を生じたとは、このように「聞け、善美に作意せよ、語ろう」と言われたとき、「師は簡潔にのみ説かれるのではなく、詳細にも語られるだろう」と熱意を生じ、歓喜し満足して、ということである。「ここに(idha)」とは、これによって語られる場所がその人物の出生の場所となったものであると意図されていることから、「**『場所を指示する不変化詞(接辞)』**」と言われた。「世間に」とは空間としての世間(器世間)に。「ここに如来が世間に」とは出現の領域であり、そこにおいてもこの娑婆世界(輪囲世界)が意図されている。「沙門」とは預流者。「第二の沙門」とは一来者。実にこのように説かれている。「比丘たちよ、沙門とは誰か? 比丘たちよ、ここに比丘が三結の滅尽によって預流者となる」「比丘たちよ、第二の沙門とは誰か? 比丘たちよ、ここに比丘が三結の滅尽により、貪・瞋・痴の減薄によって一来者となる」と。「まさにここに留まる者の」とは、まさにこのインダサーラ洞窟に留まる者の、という意味である。

2. Assutavāti ettha (a. ni. ṭī. 1.1.51) sutanti sotadvārānusārena upadhāritaṃ, upadhāraṇaṃ vā, sutaṃ assatthīti sutavā. Vā-saddassa hi attho atthitāmattādivasena anekavidho. Tathā hi ‘‘antavā ayaṃ loko parivaṭumo’’tiādīsu (dī. ni. 1.54; paṭi. ma. 1.140) atthitāmattaṃ attho. ‘‘Dhanavā bhogavā, lābhī annassā’’ti ca ādīsu bahubhāvo. ‘‘Rogavā hoti rogābhibhūto’’tiādīsu kāyābādho. ‘‘Kuṭṭhī kuṭṭhacīvarenā’’tiādīsu nindā, ‘‘issukī maccharī saṭho māyāvino keṭubhino’’tiādīsu abhiṇhayogo. ‘‘Daṇḍī chattī alambarī’’tiādīsu (visuddhi. 1.142) saṃsaggo. ‘‘Paṇḍito vāpi tena so’’tiādīsu (dha. pa. 63) upamānaṃ, sadisabhāvoti attho. ‘‘Taṃ vāpi dhīrā muniṃ vedayantī’’tiādīsu (su. ni. 213) samuccayo. ‘‘Ke vā ime kassa vā’’tiādīsu (pārā. 296) saṃsayo. ‘‘Ayaṃ vā imesaṃ samaṇabrāhmaṇānaṃ sabbabālo sabbamūḷho’’tiādīsu (dī. ni. 1.181) vibhāvano. ‘‘Na vāyaṃ kumāro mattamaññāsī’’tiādīsu (saṃ. ni. 2.154) padapūraṇaṃ. ‘‘Ye hi keci, bhikkhave, samaṇā vā brāhmaṇā vā’’tiādīsu (ma. ni. 1.170) vikappo. ‘‘Sakyaputtassa sirīmato (dī. ni. 3.277), sīlavato sīlasampattiyā kalyāṇo kittisaddo abbhuggacchatī’’ti (dī. ni. 2.150; 3.316; a. ni. 5.213; mahāva. 285) ca ādīsu pasaṃsā. ‘‘Paññavā hoti udayatthagāminiyā paññāya samannāgato ariyāya nibbedhikāya sammā dukkhakkhayagāminiyā’’tiādīsu (dī. ni. 3.317, 355) atisayo. Idhāpi atisayo, pasaṃsā vā attho, tasmā yassa pasaṃsitaṃ, atisayena vā sutaṃ atthi, so sutavāti saṃkilesaviddhaṃsanasamatthaṃ pariyattidhammassavanaṃ, taṃ sutvā tathattāya paṭipatti ca ‘‘sutavā’’ti iminā saddena pakāsitā. Atha vā sotabbayuttaṃ sutvā kattabbanipphattivasena suṇīti sutavā, tappaṭikkhepena na sutavāti assutavā.

2. 「無聞の(assutavā)」のここにおいて、聞かれたこととは耳門に従って考察されたこと、あるいは考察することであり、聞かれたことを有する者が有聞者(sutavā)である。実に「vā(所有接尾辞)」という言葉の意味は、単なる所有などの観点から多様である。実にそのように、「この世間は有限であり、周囲を囲まれている」等においては単なる所有が意味である。「富を有し、財産を有し、食糧を得る者」等の句においては多大であることが意味である。「病を有し、病に圧倒されている」等においては身体の病苦が意味である。「癩病を患い、ぼろをまとって」等においては非難が意味であり、「嫉妬深く、物惜しみし、狡猾で、詐術を用い、偽善者である」等においては反復的な結びつきが意味である。「杖を持ち、傘を持ち、装身具を着け」等においては携帯・結合が意味である。「それによってかの者もまた賢者となる」等においては比喩、すなわち同等であることが意味である。「智慧ある者たちもまたかの者を沈黙の聖者(牟尼)と知る」等においては総括(同伴)が意味である。「彼らは誰なのか、誰の配下なのか」等においては疑念が意味である。「この者がこれら沙門・バラモンたちの中で最も愚かで、最も迷妄しているのか」等においては解明が意味である。「この王子は節度を知らなかったのではないか」等においては句の充填が意味である。「比丘たちよ、いかなる沙門であれバラモンであれ」等においては選択が意味である。「栄光ある釈迦の御子であり、戒徳ある方の戒の円満によって、素晴らしい名声が高く湧き上がる」等の句においては称賛が意味である。「生滅に至る智慧を具足し、聖なる、洞察力ある、正しく苦の滅尽に至る智慧を有する者となる」等においては卓越性が意味である。ここにおいても卓越性、あるいは称賛が意味である。それゆえ、称賛されるべき、あるいは卓越した聞(聴聞)を有する者が有聞者であり、煩悩を粉砕することのできる教説の聴聞、それを聞いてその通りの実践をなすことが「有聞者」というこの言葉によって明示されている。あるいは、聞くべき相応しいことを聞いて、なすべきことの成就によって正しく聞いた者が有聞者であり、その否定によって「聞かない者」が無聞者(assutavā)である。

Ayañhi a-kāro ‘‘ahetukā dhammā (dha. sa. 2.dukamātikā), abhikkhuko āvāso’’tiādīsu (pāci. 1046, 1047) taṃsahayoganivattiyaṃ icchito. ‘‘Apaccayā dhammā’’ti (dha. sa. 7.dukamātikā) taṃsambandhībhāvanivattiyaṃ. Paccayuppannañhi paccayasambandhīti appaccayuppannattā ataṃsambandhitā ettha jotitā. ‘‘Anidassanā dhammā’’ti (dha. sa. 9.dukamātikā) taṃsabhāvanivattiyaṃ. Nidassanañhi daṭṭhabbatā. Atha vā passatīti nidassanaṃ, cakkhuviññāṇaṃ, taggahetabbabhāvanivattiyaṃ yathā ‘‘anāsavā dhammā’’ti (dha. sa. 15.dukamātikā), ‘‘appaṭighā dhammā (dha. sa. 10.dukamātikā), anārammaṇā dhammā’’ti (dha. sa. 55.dukamātikā) taṃkiccanivattiyaṃ, ‘‘arūpino dhammā (dha. sa. 11.dukamātikā) acetasikā dhammā’’ti (dha. sa. 57.dukamātikā) tabbhāvanivattiyaṃ. Tadaññathā hi ettha pakāsitā. ‘‘Amanusso’’ti tabbhāvamattanivattiyaṃ. Manussamattaṃ natthi, aññaṃ samānanti. Sadisatā hi ettha sūcitā. ‘‘Assamaṇo samaṇapaṭiñño, anariyo’’ti (a. ni. 3.13) ca taṃsambhāvanīyaguṇanivattiyaṃ. Garahā hi idha ñāyati. ‘‘Kacci bhoto anāmayaṃ, anudarā kaññā’’ti (jā. 2.20.129) tadanappabhāvanivattiyaṃ, ‘‘anuppannā dhammā’’ti (dha. sa. 17.tikamātikā) taṃsadisabhāvanivattiyaṃ. Atītānañhi uppannapubbattā uppādidhammānañca paccayekadesanipphattiyā āraddhuppādibhāvato kālavimuttassa ca vijjamānattā uppannānukūlatā pageva paccuppannānanti tabbidūratāva ettha viññāyati ‘‘asekkhā dhammā’’ti (dha. sa. 11.tikamātikā) tadapariyosānanivattiyaṃ. Tanniṭṭhānañhi ettha pakāsitanti. Evamanekesaṃ atthānaṃ jotako. Idha pana ‘‘arūpino dhammā acetasikā dhammā’’tiādīsu viya tabbhāvanivattiyaṃ daṭṭhabbo, aññattheti attho. Etenassa sutādiñāṇavirahataṃ dasseti. Tena vuttaṃ **‘‘āgamādhigamābhāvā ñeyyo assutavā itī’’**ti.

実にこの否定辞の「a」は、「無因の法」「比丘のいない住坊」等においてはそれとの結合の否定において望まれている。「無縁の法」においてはその関係性の否定においてである。実に縁より生じたものは縁と関係するものであるから、無縁より生じたものにはそれとの関係性がないことがここで明らかにされている。「無見の法」においてはその固有の性質の否定においてである。実に可見とは見られるべきことである。あるいは見るから可見であり、眼識のことであって、それによって把握されるべき性質の否定においてであり、「無漏の法」のごときである。「無対の法」「無所縁の法」においてはその働きの否定においてであり、「非色の法」「非心相応の法」においてはその状態の否定においてである。実にそれとは別であることがここで明示されている。「非人」とはその人間である状態のみの否定においてである。単なる人間ではなく、別の類似のものである。実に類似性がここで示唆されている。「非沙門でありながら沙門を自称する者」「非聖者」においては、称賛されるべき徳性の否定においてである。実に非難がここで知られる。「尊者にとって無病であろうか」「腹の出ていない少女」においては、それが過大でないことの否定においてであり、「未生の法」においてはそれと同等である状態の否定においてである。過去のものは以前に生じたことがあり、生起すべき法も縁の一部が成就することによって生起を開始している状態であることから、また時間を超越した法(涅槃)も実在していることから、現在生じているものに順ずる性質がましてや現在生じているものにあるのに対し、それから遠く離れていることこそがここで知られる。「無学の法」においては、未完結であることの否定においてである。実にその成就がここで明示されているからである。このように多くの意味を表明するものである。しかしここにおいては「非色の法、非心相応の法」等におけるように、その状態の否定において見なされるべきであり、それ以外(欠如)という意味である。これによって彼が聴聞などの智慧を欠いていることを示している。それゆえ「**『教証と証得の欠如によって無聞者と知られるべきである』**」と言われたのである。

Idāni tassa atthaṃ vivaranto yasmā khandhadhātvādikosallenapi maññanāpaṭisedhanasamatthaṃ bāhusaccaṃ hoti. Yathāha ‘‘kittāvatā nu kho, bhante, bahussuto hoti? Yato kho bhikkhu khandhakusalo hoti dhātu, āyatana, paṭiccasamuppādakusalo hoti, ettāvatā kho bhikkhu bahussuto hotī’’ti, tasmā ‘‘yassa hi khandhadhātuāyatanasaccapaccayākārasatipaṭṭhānādīsūtiādi vuttaṃ. Tattha vācuggatakaraṇaṃ uggaho. Atthaparipucchanaṃ paripucchā. Kusalehi saha codanāpariharaṇavasena vinicchayakaraṇaṃ vinicchayo. Maggaphalanibbānāni adhigamo.

今やその意味を解き明かすにあたり、蘊や界などに対する巧みさによっても想念を制止することのできる多聞が存在するからである。このように説かれている。「尊者よ、どれほどによって多聞の者となるのでしょうか? 比丘が蘊に巧みであり、界に巧みであり、処に巧みであり、縁起に巧みであるとき、比丘よ、これによって多聞の者となるのである」と。それゆえ「実に蘊・界・処・諦・縁起の様態・念処等において」等と言われたのである。そこにおいて、口頭で暗誦することが受持である。意味を質問することが諮問である。善巧なる者たちとともに詰問と弁明によって確定することが判定である。道・果・涅槃が証得である。

Bahūnaṃ (dha. sa. mūlaṭī. 1007) nānappakārānaṃ kilesasakkāyadiṭṭhīnaṃ avihatattā tā janenti, tāhi vā janitāti puthujjanā. Avighātameva vā jana-saddo vadati. Puthu satthārānaṃ mukhamullokikāti ettha puthu janā satthupaṭiññā etesanti puthujjanāti vacanattho. Puthu sabbagatīhi avuṭṭhitāti ettha janetabbā, jāyanti vā ettha sattāti janā, nānāgatiyo, tā puthū etesanti puthujjanā. Ito pare jāyanti etehīti janā, abhisaṅkhārādayo, te etesaṃ puthū vijjantīti puthujjanā. Abhisaṅkharaṇādiattho eva vā jana-saddo daṭṭhabbo. Oghā kāmoghādayo. Rāgaggiādayo santāpā. Te eva, sabbepi vā kilesā pariḷāhā. Puthu pañcasu kāmaguṇesu rattāti ettha jāyatīti jano, rāgo gedhoti evamādiko, puthu jano etesanti puthujjanā. Puthūsu vā janā jātā rattāti evaṃ rāgādiattho eva vā janasaddo daṭṭhabbo. Rattāti vatthaṃ viya raṅgajātena cittassa vipariṇāmakarena chandarāgena rattā sārattā. Giddhāti abhikaṅkhanasabhāvena abhijjhānena giddhā gedhaṃ āpannā. Gadhitāti ganthitā viya dummocanīyabhāvena tattha paṭibaddhā. Mucchitāti kilesavasena visaññībhūtā viya anaññakiccā mucchaṃ mohamāpannā. Ajjhosannāti anaññasādhāraṇe viya katvā gilitvā pariniṭṭhapetvā ṭhitā. Laggāti vaṅkadaṇḍake viya āsattā mahāpalipe vā yāva nāsikaggā palipannapuriso viya uddharituṃ asakkuṇeyyabhāvena nimuggā, lagitāti makkaṭālepe ālaggabhāvena paccuḍḍito viya makkaṭo pañcannaṃ indriyānaṃ vasena ālaggitā. Palibuddhāti baddhā, upaddutā vā. Āvuṭāti āvunitā, nivutāti nivāritā. Ovutāti paliguṇṭhitā, pariyonaddhā vā. Pihitāti pidahitā, paṭicchannāti paṭicchāditā. Paṭikujjitāti heṭṭhāmukhajātā. Puthūnaṃ vā gaṇanapathamatītānantiādinā puthu jano puthujjanoti dasseti.

多くの、種々なる煩悩や有身見(我見)が滅せられていないためにそれらを生じさせ、あるいはそれらによって生み出されるがゆえに「凡夫(プトゥッジャナ)」である。あるいは「ジャナ」という言葉は、まさに非絶滅(生滅の連続)を意味する。「諸々の師の顔色を窺う」という点において、多くの人々(プトゥ・ジャナ)が師と公言する者たちを自らの師とするゆえに凡夫である、というのが語義である。「多くのあらゆる趣(迷いの境涯)から脱出していない」という点において、ここで生じさせられるべきもの、あるいはここで生類たちが生じるがゆえに「人々(趣)」であり、種々の趣がある。それら(多くの趣)が彼らに属するがゆえに凡夫である。あるいは、これらによって以降のものが生じるがゆえに「生じさせるもの」とは諸行などのことであり、それらが彼らに多く存在するがゆえに凡夫である。あるいは「ジャナ」という言葉は、行作などの意味とみなされるべきである。暴流とは欲の暴流などである。熱苦とは貪欲の火などである。それら自身、あるいはすべての煩悩が焦熱である。「五欲の対象に多く染着している」という点において、生じるがゆえに「生類(ジャナ)」であり、貪欲、渇望などである。多くの生類(貪欲)が彼らに属するがゆえに凡夫である。あるいは、多くのものにおいて生じ、染着しているがゆえに、このように貪欲などの意味として「ジャナ」という言葉はみなされるべきである。「染着した」とは、染料によって布が染まるように、心を変化させる欲貪によって染着し、深く執着したことである。「執着した」とは、欲求する性質によって、渇望によって執着し、貪求に陥ったことである。「緊縛された」とは、結び合わされたかのように、脱し難い状態によってそこに結びつけられたことである。「眩惑された」とは、煩悩の力によって気絶したかのようになり、他のなすべきことを失い、眩惑と迷妄に陥ったことである。「没入した」とは、他に共有されないものとするかのように、呑み込み、完全に居座っていることである。「付着した」とは、曲がった棒にかかったように、あるいは大泥沼で鼻の先まで沈んだ人のように、引き上げることができない状態に沈溺したことである。「粘着した」とは、猿黐(鳥黐)に粘着したことで引き戻された猿のように、五つの感覚器官の力によって粘着したことである。「遮蔽された」とは、縛られた、あるいは害されたことである。「覆われた」とは、貫通された、あるいは遮られたことである。「包まれた」とは、包み込まれた、あるいは取り巻かれたことである。「閉ざされた」とは、塞がれた。「隠蔽された」とは、覆い隠されたことである。「伏せられた」とは、下向きになったことである。あるいは「多くの、計算の範囲を超えた」などの文脈により、多くの生類ゆえに「凡夫」であることを示している。

‘‘Assutavā’’ti etena avijjandhatā vuttāti āha **‘‘andhaputhujjano vutto hotī’’**ti. Ārakattā (saṃ. ni. ṭī. 2.3.1) kilesehi maggena samucchinnattā. Anayeti avaḍḍhiyaṃ, anattheti attho. Anaye vā anupāye. Nairiyanato avattanato. Ayeti vaḍḍhiyaṃ, atthe, upāye vā. Araṇīyatoti payirupāsitabbato. Niruttinayena padasiddhi veditabbā purimesu atthavikappesu. Pacchime pana saddasatthavasenapi. Yadipi ariya-saddo ‘‘ye hi vo ariyā parisuddhakāyakammantā’’tiādīsu (ma. ni. 1.35) visuddhāsayapayogesu puthujjanesupi vattati. Idha pana ariyamaggādhigamena sabbalokuttarabhāvena ca ariyabhāvo adhippetoti dassento āha **‘‘buddhā’’**tiādi. Tattha **‘‘paccekabuddhā tathāgatasāvakā ca sappurisā’’**ti idaṃ ariyā sappurisāti idha vuttapadānaṃ atthaṃ asaṅkarato dassetuṃ vuttaṃ. Yasmā pana nippariyāyato ariyasappurisabhāvā abhinnasabhāvā. Tasmā **‘‘sabbeva vā’’**tiādi vuttaṃ.

「未だ聞かざる者」というこれによって無明による盲目さが説かれているがゆえに、「**盲目の凡夫が説かれているのである**」と言われる。「遠離していることから」とは、道によって煩悩から完全に断ち切られていることからである。「不道(アナヤ)において」とは、衰亡において、無益において、という意味である。あるいは「アナヤ」とは不都合な手段において、導かれないことから、向かわないことからである。「道(アヤ)において」とは、繁栄において、有益において、あるいは適切な手段においてである。「親近されるべきことから」とは、敬い仕えられるべきことからである。先の語釈においては語源的解釈(ニルッティ)の規則によって言葉の成立が理解されるべきである。しかし後者においては、文法書の規則に基づいても理解される。「聖者(アリヤ)」という言葉は、「まことに汝らのうち、身体の行いが清浄である聖者たちは」(中部1.35)などのように、清らかな意図や行為を持つ凡夫に対しても用いられることがある。しかし、ここでは聖道への到達と一切の出世間性による聖者性が意図されていることを示すために、「**諸仏**」などと言われた。その中で「**独覚と如来の弟子たち、そして善士たち**」というこれは、ここで説かれた「聖者たち」「善士たち」という言葉の意味を混同なく示すために説かれた。しかしながら、無前提(厳密な意味)においては聖者性と善士性は同一の本質である。それゆえに「**あるいは、すべてが**」などと説かれたのである。

Ettāvatā hi buddhasāvako vutto. Tassa hi ekantena kalyāṇamitto icchitabbo paratoghosamantarena paṭhamamaggassa anuppajjanato. Visesato cassa bhagavāva kalyāṇamitto adhippeto. Vuttañhetaṃ ‘‘mamañhi, ānanda, kalyāṇamittaṃ āgamma jātidhammā sattā jātiyā parimuccantī’’tiādi (saṃ. ni. 5.2). So eva ca aveccapasādādhigamena daḷhabhatti nāma. Vuttampi cetaṃ ‘‘yaṃ mayā sāvakānaṃ sikkhāpadaṃ paññattaṃ, taṃ mama sāvakā jīvitahetupi nātikkamantī’’ti (udā. 45). Kataññutādīhi paccekabuddhā buddhāti ettha kataṃ jānātīti kataññū. Kataṃ viditaṃ pākaṭaṃ karotīti katavedī. Anekesupi hi kappasatasahassesu kataṃ upakāraṃ jānanti paccekabuddhā pākaṭañca karonti satijananaāmisapaṭiggahaṇādinā, tathā saṃsāradukkhadukkhitassa sakkaccaṃ karonti kiccaṃ, yaṃ attanā kātuṃ sakkā. Sammāsambuddho pana kappānaṃ asaṅkhyeyyasahassesupi kataṃ upakāraṃ maggaphalānaṃ upanissayañca jānāti, pākaṭañca karoti, sīho viya ca evaṃ sabbattha sakkaccameva dhammadesanaṃ karonto buddhakiccaṃ karoti. Yāya paṭipattiyā diṭṭhā nāma honti, tassā appaṭipajjanabhāvo, tattha ca ādarābhāvo ariyānaṃ adassanasīlatā ca, na ca dassane sādhukāritā ca veditabbā. Cakkhunā adassāvīti etta cakkhu nāma na maṃsacakkhu eva, atha kho dibbacakkhupīti āha **‘‘dibbacakkhunā vā’’**ti. Ariyabhāvoti yehi yogato ‘‘ariyā’’ti vuccanti. Te maggaphaladhammā daṭṭhabbā.

これによって仏弟子が説かれたのである。彼にはまさに善友(善知識)が絶対的に求められるべきである。他者からの教え(声)がなければ初道(預流道)は生じないからである。特に彼にとっては世尊こそが善友として意図されている。実にこのように説かれている。「アーナンダよ、実に私という善友に依拠することによって、生を本質とする生類たちが生から完全に解脱するのである」(相応部5.2)などと。そしてまさに彼こそが、不壊の清浄な信仰(信)を獲得することによって「堅固な献身者」と呼ばれる。またこのように説かれている。「私が弟子たちに制定した戒律を、我が弟子たちは命のためであっても踏み越えることはない」(自説経45)と。「恩を知ることなどによって独覚は仏である」という点において、なされた恩を知るがゆえに「知恩者」である。なされた恩を理解し、明らかにするがゆえに「報恩者」である。実に数十万劫においてなされた恩恵を独覚たちは知り、正念を生じさせる布施の受納などによって明らかにし、そのように輪廻の苦しみに苦しむ者に対して、自らがなし得る限りの務めを丁寧に行うのである。しかし正等覚者は、無数千劫においてなされた恩恵と道果への資糧(因縁)を知り、明らかにし、獅子のようにこのようにあらゆる場所で丁寧に説法を行い、仏の務めを果たすのである。それを見る(理解する)ことになる実践、それを行わないこと、そこに対する敬意の欠如、聖者たちを見ようとしない習性、そして見ることにおいて善き行いをしないことが理解されるべきである。「眼で見ない者」という点において、眼とは肉眼だけでなく天眼も含まれることを示すために、「**あるいは天眼によって**」と言われる。「聖者性」とは、それらとの結合によって「聖者」と呼ばれるものである。それらは道果の教法としてみなされるべきである。

Tatrāti ñāṇadassanasseva dassanabhāve. Vatthūti adhippetatthañāpanakāraṇaṃ. Evaṃ vuttepīti evaṃ aññāpadesena attūpanāyikaṃ katvā vuttepi. Dhammanti lokuttaradhammaṃ, catusaccadhammaṃ vā. Ariyakaradhammā aniccānupassanādayo vipassiyamānā aniccādayo, cattāri vā ariyasaccāni.

「そこにおいて」とは、智見の見ることにおいてである。「所縁(事柄)」とは、意図された意味を知らせる原因のことである。「このように説かれたとしても」とは、このように他者の表現によって自らを引き寄せるようにして説かれたとしても、という意味である。「法」とは出世間の法、あるいは四聖諦の法である。聖者となす法とは、無常の随観など、観察される無常など、あるいは四つの聖諦である。

Avinītoti na vinīto, adhisīlasikkhādivasena na sikkhito. Yesaṃ saṃvaravinayādīnaṃ abhāvena ayaṃ avinītoti vuccati, te tāva dassetuṃ **‘‘duvidho vinayo nāmā’’**tiādimāha. Tattha sīlasaṃvaroti pātimokkhasaṃvaro veditabbo, so ca atthato kāyikavācasiko avītikkamo. Satisaṃvaroti indriyarakkhā, sā ca tathāpavattā sati eva. Ñāṇasaṃvaroti ‘‘sotānaṃ saṃvaraṃ brūmī’’ti (su. ni. 1040) vatvā ‘‘paññāyete pidhīyare’’ti vacanato sotasaṅkhātānaṃ taṇhādiṭṭhiduccaritaavijjāavasiṭṭhakilesānaṃ saṃvaro pidahanaṃ samucchedañāṇanti veditabbaṃ. Khantisaṃvaroti adhivāsanā, sā ca tathāpavattā khandhā, adoso vā. Paññāti eke, taṃ aṭṭhakathāya virujjhati. Vīriyasaṃvaro kāmavitakkādīnaṃ vinodanavasena pavattaṃ vīriyameva. Tena tena guṇaṅgena tassa tassa aguṇaṅgassa pahānaṃ tadaṅgapahānaṃ. Vikkhambhanena pahānaṃ vikkhambhanapahānaṃ. Sesapadatthayepi eseva nayo.

「未調御(アヴィニータ)」とは調御されていない者、増上戒の修習などによって修められていない者のことである。いかなる律儀調伏などの欠如によってこの者が未調御と呼ばれるのか、それらをまず示すために「**調伏(ヴィナヤ)には二種あり**」などと言われた。その中で「戒律儀」とは別解脱律儀(波羅提木叉の律儀)と知るべきであり、それは実質的には身と口の不越境(過失を犯さないこと)である。「念律儀」とは根(感覚器官)の防護であり、それはそのように機能する正念そのものである。「智律儀」とは、「諸々の流れの防護を私は説く」(経集1040)と説き、「それらは智慧によって塞がれる」という言葉から、流れと呼ばれる渇愛・見解・悪行・無明および残余の煩悩の防護・閉塞であり、断絶の智であると知るべきである。「忍辱律儀」とは耐忍であり、それはそのように機能する蘊、あるいは無瞋である。「智慧である」と一部の者は言うが、それは注釈書に反する。「精進律儀」とは、欲尋などを払い除けることによって生じる精進そのものである。それぞれの美徳の要素によって、それぞれの悪徳の要素を断ずることが「部分断(彼分断)」である。抑圧することによる断滅が「鎮伏断」である。残りの三つの句(無余断・安息断・出離断)の意味においてもこの方法による。

Iminā pātimokkhasaṃvarenātiādi sīlasaṃvarādīnaṃ vivaraṇaṃ. Tattha samupetoti ettha iti-saddo ādisattho. Tena ‘‘sahagato samupagato’’tiādinā vibhaṅge (vibha. 511) āgataṃ saṃvaravibhaṅgaṃ dasseti. Esa nayo sesesupi. Yaṃ panettha vattabbaṃ, taṃ anantarasutte āvi bhavissati.

「この別解脱律儀によって」などは戒律儀などの解説である。そこにおいて「伴った」という中の「イティ(〜など)」という言葉は、始点を表す意味である。それによって「伴った、具足した」などとして『分別論』(分別511)に出てくる律儀の分別を示している。この方法は他のものにおいても同様である。ここで語られるべきことは、次の経において明らかになるであろう。

Kāyaduccaritādīnanti dussīlyasaṅkhātānaṃ kāyavacīduccaritādīnaṃ muṭṭhassaccasaṅkhātassa pamādassa abhijjhādīnaṃ vā akkhantiaññāṇakosajjānañca. Saṃvaraṇatoti pidahanato thakanato. Vinayanatoti kāyavācācittānaṃ virūpappavattiyā vinayanato apanayanato, kāyaduccaritādīnaṃ vā vinayanato, kāyādīnaṃ vā jimhappavattiṃ vicchinditvā ujukaṃ nayanatoti attho. Paccayasamavāye uppajjanārahānaṃ kāyaduccaritādīnaṃ tathā tathā anuppādanameva saṃvaraṇaṃ vinayanañca veditabbaṃ.

「身の悪行などの」とは、破戒と呼ばれる身と口の悪行など、忘念と呼ばれる放逸、あるいは渇愛などの、不忍辱・無知・怠惰のことである。「防護することから」とは、閉ざすことから、覆うことからである。「調伏することから」とは、身・口・心の醜い活動から調御し取り除くことから、あるいは身の悪行などを調伏することから、あるいは身などの歪んだ活動を断ち切って正しく導くことから、という意味である。諸条件の集まりにおいて生じるに値する身の悪行などを、それぞれ生じさせないことこそが、防護であり調伏であると知るべきである。

Yaṃ pahānanti sambandho. **‘‘Nāmarūpaparicchedādīsu vipassanāñāṇesū’’**ti kasmā vuttaṃ, nanu nāmarūpaparicchedapaccayapariggahakaṅkhāvitaraṇāni na vipassanāñāṇāni sammasanākārena appavattanato? Saccametaṃ. Vipassanāñāṇassa pana adhiṭṭhānabhāvato evaṃ vuttaṃ. ‘‘Nāmarūpamattamidaṃ, natthi ettha attā vā attaniyaṃ vā’’ti evaṃ pavattañāṇaṃ nāmarūpavavatthānaṃ. Sati vijjamāne khandhapañcakasaṅkhāte kāye, sayaṃ vā satī tasmiṃ kāye diṭṭhīti sakkāyadiṭṭhi. ‘‘Rūpaṃ attato samanupassatī’’ti (saṃ. ni. 3.81; 4.345) evaṃ pavattā micchādiṭṭhi. Tasseva rūpārūpassa kammāvijjādipaccayapariggaṇhanañāṇaṃ paccayapariggaho. ‘‘Natthi hetu natthi paccayo sattānaṃ saṃkilesāyā’’ti (dī. ni. 1.168) ādinayappavattā ahetukadiṭṭhi. ‘‘Issarapurisapajāpatipakatiaṇukālādīhi loko pavattati nivattati cā’’ti pavattā visamahetudiṭṭhi. Tassevāti paccayapariggahasseva. Kaṅkhāvitaraṇenāti yathā etarahi nāmarūpassa kammādipaccayato uppatti, evaṃ atītānāgatesupīti tīsupi kālesu vicikicchāpanayanañāṇena. Kathaṃkathībhāvassāti ‘‘ahosiṃ nu kho ahamatītamaddhāna’’nti (ma. ni. 1.18; saṃ. ni. 2.20) ādinayappavattāya saṃsayappavattiyā. Kalāpasammasanenāti ‘‘yaṃ kiñci rūpaṃ atītānāgatapaccuppanna’’ntiādinā (ma. ni. 1.361; 2.113; 3.86, 89) khandhapañcakaṃ ekādasasu okāsesu pakkhipitvā sammasanavasena pavattena nayavipassanāñāṇena. Ahaṃ mamāti gāhassāti attattaniyagahaṇassa. Maggāmaggavavatthānenāti maggāmaggañāṇavisuddhiyā. Amagge maggasaññāyāti obhāsādike amagge ‘‘maggo’’ti uppannasaññāya.

「いかなる断滅であるか」と結びつく。「**名色の識別などのヴィパッサナー智において**」となぜ言われたのか。名色の識別、条件の把握、疑惑の克服は、思惟の様態として機能しないため、ヴィパッサナー智ではないのではないか。これは真実である。しかし、ヴィパッサナー智の基盤となるがゆえにこのように言われたのである。「これは名色にすぎず、ここに我あるいは我がものはない」とこのように生じた智が名色の確定である。存在する五蘊と呼ばれる身体、あるいは自ら存在するその身体における見解が「有身見(我見)」である。「色を我と見なす」(相応部3.81; 4.345)とこのように生じた邪見である。その色・非色の業や無明などの条件を把握する智が条件の把握(縁摂受智)である。「生類たちの汚れには原因がなく、条件もない」(長部1.168)などの様態で生じた無因見である。「主宰神、原人、生主、根本原質、原子、時間などによって世界は展開し、また消滅する」と生じた不同因見(不平等因見)である。「その」とは条件の把握そのもののことである。「疑惑の克服によって」とは、現在において名色が業などの条件から生じるように、過去や未来においても同様であると、三世における疑惑を取り除く智によってである。「どうなのだろうかという状態の」とは、「私は過去の世に存在したのだろうか」(中部1.18; 相応部2.20)などの様態で生じた疑念の活動のことである。「聚落の思惟によって」とは、「過去・未来・現在のいかなる色であれ」(中部1.361; 2.113; 3.86, 89)などのように五蘊を十一個の分類に収めて思惟することによって生じる方法ヴィパッサナー智によってである。「我、我がものという執着の」とは、我および我がものという把握のことである。「道・非道の確定によって」とは、道非道智見清浄によってである。「非道における道の認識において」とは、光明などの非道に対して「道である」と生じた認識においてである。

Yasmā sammadeva saṅkhārānaṃ udayaṃ passanto ‘‘evameva saṅkhārā anurūpakāraṇato uppajjanti, na pana ucchijjantī’’ti gaṇhāti, tasmā vuttaṃ **‘‘udayadassanena ucchedadiṭṭhiyā’’**ti. Yasmā pana saṅkhārānaṃ vayaṃ passanto ‘‘yadipime saṅkhārā avicchinnā vattanti, uppannuppannā pana appaṭisandhikā nirujjhante vā’’ti passati, tassevaṃ passato kuto sassataggāho, tasmā vuttaṃ **‘‘vayadassanena sassatadiṭṭhiyā’’**ti. Bhayadassanenāti bhayatupaṭṭhānañāṇena. Sabhayeti sabbabhayānaṃ ākarabhāvato sakaladukkhavūpasamasaṅkhātassa paramassāsassa paṭipakkhabhāvato ca sabhaye khandhapañcake. Abhayasaññāyāti ‘‘abhayaṃ khema’’nti uppannasaññāya. Assādasaññā nāma pañcupādānakkhandhesu assādavasena pavattasaññā, yā ‘‘ālayābhiniveso’’tipi vuccati. Abhiratisaññā tattheva abhirativasena pavattasaññā, yā ‘‘nandī’’tipi vuccati. Amuccitukamyatā ādānaṃ. Anupekkhā saṅkhārehi anibbindanaṃ, sālayatāti attho. Dhammaṭṭhitiyaṃ paṭiccasamuppāde paṭilomabhāvo sassatucchedaggāho, paccayākārapaṭicchādakamoho vā, nibbāne paṭilomabhāvo saṅkhāresu rati, nibbānapaṭicchādakamoho vā. Saṅkhāranimittaggāhoti yādisassa kilesassa appahīnattā vipassanā saṅkhāranimittaṃ na muñcati, so kileso, yo ‘‘saṃyogābhiniveso’’tipi vuccati. Saṅkhāranimittaggahaṇassa atikkamanameva vā pahānaṃ.

正しく諸行の生起を見る者は、「このように諸行は相応の原因から生じるのであり、断滅するのではない」と捉えるがゆえに、「**生起を見ることによって断見を[断ずる]**」と言われた。一方、諸行の消滅を見る者は、「もしこれらの諸行が途切れることなく続いていても、生起したものは再結合することなく滅する」と見る。このように見る者にどこから常見の執着があろうか。それゆえに「**消滅を見ることによって常見を[断ずる]**」と言われた。「恐怖を見ることによって」とは、怖畏現起智によってである。「恐怖あるものにおいて」とは、すべての恐怖の源泉であることから、また一切の苦の寂静と呼ばれる至高の安息の対極にあることから、恐怖ある五蘊においてである。「無畏の認識において」とは、「恐怖なき安穏である」と生じた認識においてである。「味着の認識」とは、五取蘊において美味として生じる認識のことであり、「愛着の執着」とも呼ばれる。「歓喜の認識」とは、まさにそこにおいて歓喜として生じる認識のことであり、「喜」とも呼ばれる。「脱出を望まないこと」とは執取である。「随愛」とは諸行に対して嫌悪しないことであり、愛着を持つこと、という意味である。法の持続性である縁起に対する逆行的状態とは常・断の執着であり、あるいは因果のあり方を覆い隠す迷妄である。涅槃に対する逆行的状態とは諸行における歓喜であり、あるいは涅槃を覆い隠す迷妄である。「諸行の相の把握」とは、いかなる煩悩が断たれていないことによってヴィパッサナーが諸行の相を捨てないのか、その煩悩のことであり、「結合の執着」とも呼ばれる。あるいは諸行の相を捉えることを超えることこそが断滅である。

Pavatti eva pavattibhāvo, pariyuṭṭhānanti attho. Nīvaraṇādidhammānanti ettha ādi-saddena nīvaraṇapakkhiyā kilesā vitakkavicārādayo ca gayhanti.

活動すること自体が活動状態であり、現起(顕在化)という意味である。「蓋などの諸法」という点において、「などの」という言葉によって蓋に属する煩悩や尋・伺などが含まれる。

Catunnaṃ ariyamaggānaṃ bhāvitattā accantaṃ appavattibhāvena yaṃ pahānanti sambandho. Kena pahānanti? Ariyamaggehevāti viññāyamānoyamattho tesaṃ bhāvitattā appavattivacanato. Samudayapakkhikassāti ettha cattāropi maggā catusaccābhisamayāti katvā tehi pahātabbena tena tena samudayena saha pahātabbattā samudayasabhāgattā, saccavibhaṅge ca sabbakilesānaṃ samudayabhāvassa vuttattā ‘‘samudayapakkhikā’’ti diṭṭhiādayo vuccanti. Paṭippassaddhattaṃ vupasantatā. Saṅkhatanissaṭatā saṅkhārasabhāvābhāvo. Pahīnasabbasaṅkhatanti virahitasabbasaṅkhataṃ, visaṅkhāranti attho. Pahānañca taṃ vinayo cāti pahānavinayo purimena atthena, dutiyena pana pahīyatīti pahānaṃ, tassa vinayoti yojetabbaṃ.

「四つの聖道が修習されたことによって、完全に活動しない状態となるいかなる断滅であるか」と結びつく。何によって断ずるのか。「聖道によって」と理解されるべきこの意味は、それらの修習によって活動しないと説かれているからである。「集(苦の生起)に属するものの」という点において、四つの道もまた四聖諦の現観であることから、それらによって断ぜられるべきそれぞれの集(渇愛)とともに断ぜられるべきであること、集の性質を持つこと、そして『諦分別』において一切の煩悩が集であると説かれていることから、見解などは「集に属するもの」と呼ばれる。「安息した状態」とは寂静になったことである。「有為からの離脱」とは諸行の性質がないことである。「一切の有為を断じた」とは、一切の有為を離れた、無為(離行)であるという意味である。断滅であり調伏でもあるから「断調伏」である、というのが先の意味である。第二の意味としては、断ぜられるがゆえに「断」であり、その調伏である、と結合されるべきである。

Bhinnasaṃvarattāti naṭṭhasaṃvarattā, saṃvarābhāvatoti attho. Tena asamādinnasaṃvaropi saṅgahito hoti. Samādānena hi sampādetabbo saṃvaro tadabhāve na hotīti. Evañhi loke vattāro honti ‘‘mahā vata no bhogo, so naṭṭho tathā akatattā’’ti. Ariyeti ariyo. Paccattavacanañhetaṃ. Eseseti eso so eva, atthato anaññoti attho. Tajjāteti atthato taṃsabhāvo, sappuriso ariyasabhāvo, ariyo ca sappurisasabhāvoti attho.

「律儀を破ったことから」とは、律儀を失ったことから、律儀がないことから、という意味である。これによって、律儀を受持していない者も含まれる。実に、受持によって達成されるべき律儀は、それがなければ存在しないからである。世間ではこのように言う人々がいる。「我々の財産は莫大であったが、そのように管理しなかったために失われた」と。「聖者において」とは聖者が、ということである。これは主格の表現である。「この者は彼である」とは、この者はまさにその者であり、実質的に異ならないという意味である。「同類の」とは、実質的に同一の性質の、善士は聖者の性質であり、聖者は善士の性質である、という意味である。

Taṃ atthanti ‘‘sabbadhammamūlapariyāya’’nti evaṃ vuttamatthaṃ. Kasmā panettha puggalādhiṭṭhānā desanā katāti? Yadettha vattabbaṃ, taṃ ‘‘yasmā puthujjano apariññātavatthuko’’tiādinā (ma. ni. aṭṭha. 1.2) sayameva vakkhati. Dhammo adhiṭṭhānaṃ etissāti dhammādhiṭṭhānā, sabhāvadhamme nissāya pavattitadesanā. Dhammavaseneva pavattā paṭhamā, puggalavasena uṭṭhahitvā puggalavaseneva gatā tatiyā, itarā dhammapuggalānaṃ vomissakavasena. Kasmā pana bhagavā evaṃ vibhāgena dhammaṃ desetīti? Veneyyajjhāsayena desanāvilāsena ca. Ye hi veneyyā dhammādhiṭṭhānāya dhammadesanāya sukhena atthaṃ paṭivijjhanti, tesaṃ tathā dhammaṃ deseti. Esa nayo sabbattha. Yassā ca dhammadhātuyā suppaṭividdhattā desanāvilāsappatto hoti, sāyaṃ suppaṭividdhā, tasmā desanāvilāsappatto dhammissaro dhammarājā yathā yathā icchati, tathā tathā dhammaṃ desetīti evaṃ iminā veneyyajjhāsayena desanāvilāsena ca evaṃ vibhāgena dhammaṃ desetīti veditabbo.

「その意味を」とは、「一切の法の根本の教説」とこのように説かれた意味を、ということである。なぜここで人本位の説法がなされたのか。ここで語られるべきことは、「凡夫は対象を完全に知っておらず」など(中部注釈1.2)において自ら語るであろう。法がその拠り所であるゆえに「法本位」であり、自相(固有の性質)の法に基づいて展開された説法である。法に基づいてのみ展開されたのが第一の説法であり、人に基づいて始まって人に基づいてのみ進んだのが第三の説法であり、他のものは法と人の混合に基づいている。ではなぜ世尊はこのように分類して法を説かれるのか。教化されるべき者の意図(機根)と説法の巧みさ(自在さ)によるのである。実に、法本位の説法によって容易に意味を悟る教化されるべき者たちには、そのように法を説く。この方法はすべての箇所において同様である。そして、いかなる法界が正しく完全に悟られていることによって説法の巧みさに達するのか、その法界は正しく完全に悟られている。それゆえに、説法の巧みさに達した法の主、法王は、望むがままにそのように法を説くのである。このように、教化されるべき者の機根と説法の巧みさによって、このように分類して法を説くのであると知るべきである。

Chadhāturoti pathavidhātu āpo-tejo-vāyo-ākāsadhātu viññāṇadhātūti imesaṃ channaṃ dhātūnaṃ vasena chadhāturo. ‘‘Cakkhunā rūpaṃ disvā somanassaṭṭhāniyaṃ rūpaṃ upavicaratī’’tiādinā (dī. ni. 3.324) vuttānaṃ channaṃ somanassūpavicārānaṃ, channaṃ domanassaupekkhūpavicārānañca vasena aṭṭhārasamanopavicāro. Saccādhiṭṭhānādivasena caturādhiṭṭhāno. Paññācakkhunā diṭṭhadhammikassa samparāyikassa ca atthassa adassanato andho, diṭṭhadhammikasseva dassanato ekacakkhu, dvinnampi dassanato dvicakkhu, veditabbo.

「六界の者」とは、地界・水界・火界・風界・空界・識界というこれら六つの界のあり方による六界の者である。「眼で色を見て、喜悦の拠り所となる色を考察する」(長部3.324)などのように説かれた六つの喜の考察、六つの憂と捨の考察のあり方によって「十八の意の考察の者」である。諦の確立などによって「四つの確立の者」である。智慧の眼によって現世と来世の利益を見ないがゆえに「盲目」であり、現世の利益のみを見るがゆえに「一つ眼」であり、両方の利益を見るがゆえに「二つ眼」であると知るべきである。

Svāyaṃ niddisīti sambandho. Svāyanti ca so ayaṃ, yathāvuttadesanāvibhāgakusalo bhagavāti attho. Apariññātavatthukoti tīhi pariññāhi apariññātakkhandho. Khandhā hi pariññātavatthu. Apariññāmūlikāti parijānanābhāvanimittā tasmiṃ sati bhāvato. Pariññānañhi avijjādayo kilesā paṭipakkhā tammūlikā ca sabbamaññanāti. Ariyānaṃ adassāvīti ettha iti-saddo ādiattho. Tena ‘‘ariyadhammassa akovido’’tiādikaṃ puthujanassa visesanabhāvena pavattaṃ pāḷisesaṃ gaṇhāti puthujjananiddesabhāvato. Tenāha **‘‘evaṃ puthujjanaṃ niddisī’’**ti.

「かの彼が指示した」と結びつく。「かの彼」とは、上述の説法の分類に巧みな世尊である、という意味である。「対象を完全に知っていない者」とは、三つの遍知によって五蘊を完全に知っていない者である。五蘊こそが完全に知られるべき対象である。「遍知なきことを根本とする」とは、完全なる知の欠如を原因とし、それがあるときに存在するからである。実に遍知に対して無明などの煩悩は対立するものであり、それらを根本として一切の妄想が生じるからである。「聖者たちを見ない者」という点において、「イティ(〜など)」という言葉は始点を表す意味である。それによって「聖者の法に通じていない」などの、凡夫の修飾語として生じる残りのパーリ文を、凡夫の説明であるがゆえに捉えている。それゆえに「**このように凡夫を指示した**」と言われた。

Suttanikkhepavaṇṇanā niṭṭhitā.

経の導入部の注釈を終わる。

Pathavīvāravaṇṇanā

地品の注釈

Tassāti puthujjanassa. Vasati ettha ārammaṇakaraṇavasenāti ārammaṇampi vatthūti vuccati pavattiṭṭhānabhāvatoti āha **‘‘pathavīādīsu vatthūsū’’**ti. Sakkāyadhammānampi ārammaṇādinā satipi maññanāhetubhāve maññanāhetukatteneva tesaṃ nibbattitoti vuttaṃ **‘‘sabbasakkāyadhammajanitaṃ maññana’’**nti. Ettha ca pathavīdhātu sesadhātūnaṃ sasambhārāsambhārabhāvā satipi pamāṇato samabhāve sāmatthiyato adhikānadhikabhāvena veditabbā. Sambhārantīti sambhārā, parivārā. Taṃtaṃkalāpehi lakkhaṇapathaviyā sesadhammā yathārahaṃ paccayabhāvena parivārabhāvena ca pavattanti. Tenāha **‘‘sā hi vaṇṇādīhi sambhārehi saddhiṃ pathavīti sasambhārapathavī’’**ti. Pathavitoti ettha puthulaṭṭhena puthuvī, puthuvī eva pathavī. Sā hi satipi paricchinnavuttiyaṃ sabbesaṃ sakalāpabhāvānaṃ ādhārabhāvena pavattamānā puthulā patthaṭā vitthiṇṇāti vattabbataṃ arahati, na pana taṃ anupavisitvā pavattamānā āpādayo. Sasambhārapathaviyā pana puthulabhāve vattabbameva natthi. Ārammaṇapathaviyaṃ vaḍḍhanapharaṇaṭṭhehi puthulaṭṭho, itarasmiṃ ruḷhiyāva daṭṭhabbo. Ārammaṇapathavīti jhānassa ārammaṇabhūtaṃ pathavīsaṅkhātaṃ paṭibhāganimittaṃ. Tenāha **‘‘nimittapathavītipi vuccatī’’**ti. Āgamanavasenāti pathavīkasiṇabhāvanāgamanavasena. Tathā hi vuttaṃ ‘‘āpo ca devā pathavī, tejo vāyo tadāgamu’’nti (dī. ni. 2.340).

「彼の」とは凡夫の、である。対象とすることによってここに住する(生じる)がゆえに対象もまた「所縁(基盤)」と呼ばれる、活動の場所となる性質があるからである、という意味で「**地などの所縁において**」と言われた。有身の諸法(五蘊)もまた、対象などによって妄想の原因となる性質があるとしても、妄想を原因とすることによってのみそれらは生じるがゆえに、「**一切の有身の法から生じた妄想を**」と説かれた。そしてここにおいて地界は、他の諸界が構成要素を伴うか伴わないかによって、分量において等しいとしても、能力において勝るか劣るかによって理解されるべきである。集められるがゆえに「構成要素(サンバーラ)」、すなわち伴うものである。それぞれの微粒子(カラパ)において、相としての地界に対して残りの諸法は相応の条件となり伴うものとして機能する。それゆえに「**それは色などの構成要素とともに地であるゆえに『構成要素を伴う地』である**」と言われた。「地(パタヴィー)から」という点において、広大であるという意味で「プトゥヴィー」であり、プトゥヴィーこそが「パタヴィー」である。それは限定された活動にあるとしても、すべての複合体の基盤として存在しながら、広大であり、広がっており、展開していると言われるに値するが、それに浸透して存在する水などはそうではない。構成要素を伴う地が広大であることについては言うまでもない。対象としての地においては、増大し充満するという意味から広大という意味があり、他においては慣用としてみなされるべきである。「対象としての地」とは、禅定の対象となった、地と呼ばれる似相(パティバーガニミッタ)のことである。それゆえに「**相の地とも呼ばれる**」と言われた。「到達の力によって」とは、地遍の修習の到達の力によってである。実にこのように説かれている。「水界と天たち、地界、火界、風界、それらはその時訪れた」(長部2.340)と。

Sabbāpīti catubbidhā pathavīpi. Anussavādimattaladdhā maññanā vatthu hotiyeva. Tathā hi ‘‘kakkhaḷaṃ kharigata’’ntiādinā (vibha. 173) lakkhaṇapathavīpi uddharīyati. Yaṃ paneke vadanti ‘‘lakkhaṇe diṭṭhe maññanā natthi, sañjānātīti vuttasaññā ca diṭṭhiggāhassa mūlabhūtā piṇḍaggāhitā, sā lakkhaṇe nakkhamati, tasmā lakkhaṇapathavī na gahetabbā’’ti, tadayuttaṃ lakkhaṇapaṭivedhassa idha anadhippetattā. Tenāha **‘‘lokavohāraṃ gahetvā’’**ti. Na ca sabbasaññā piṇḍaggāhikā, nāpi diṭṭhiggāhasseva mūlabhūtā, tasmā lakkhaṇapathaviyāpi kāyadvārānusārena aññathā ca upaṭṭhitāya maññanā pavattateva. Teneva ca ‘‘anussavādimattaladdhā’’ti vuttaṃ. Pathavitoti paccate nissakkavacananti dassento **‘‘pathavīti sañjānātī’’**ti āha. Yasmā catubbidhampi pathaviṃ ‘‘pathavī’ti sañjānanto tena tena nayena pathavīkoṭṭhāseneva sañjānātīti vuccati, na āpādikoṭṭhāsena, tasmā vuttaṃ **‘‘pathavibhāgena sañjānātī’’**ti. Lokavohāraṃ gahetvāti lokasamaññaṃ avijahitvā. Etena lakkhaṇapathaviyampi vohāramukhenevassā pavattīti dasseti.

「すべて」とは四種の地も、ということである。伝承などによってのみ得られた妄想もまた、対象となるのである。実に「硬いもの、剛直なもの」(分別173)などのように相としての地も取り上げられるからである。しかし一部の者が「相が見られたときには妄想はなく、『認識する』と説かれた認識は邪見の把握の根本となった全体的な把握であり、それは相においては適合しない。それゆえに相としての地は取られるべきではない」と言うが、それは不当である。相の通達はここでは意図されていないからである。それゆえに「**世間の慣用を捉えて**」と言われた。そしてすべての認識が全体を把握するわけではなく、邪見の把握の根本となるわけでもない。それゆえに相としての地も、身の感覚の器官を通じて、また他の方法によって現れたとき、妄想は生じるのである。それゆえにまさに「伝承などによってのみ得られた」と言われた。「地から」とは主格における奪格の表現であることを示して「**『地である』と認識する**」と言われた。四種の地をも「地である」と認識する者は、それぞれの方法によって地の部分としてのみ認識すると言われ、水などの部分としてではないがゆえに、「**地の区分として認識する**」と言われた。「世間の慣用を捉えて」とは、世間の呼称を捨てずに、ということである。これによって、相としての地においても世間の表現を通じてのみその認識が生じることを示している。

Yadi lokavohārena tattha pavatti, ko ettha doso, nanu ariyāpi ‘‘ayañhi bhante mahāpathavī’’tiādinā lokavohārena pavattantīti? Na ettha vohāramatte avaṭṭhānaṃ adhippetaṃ, atha kho vohāramukhena micchābhinivesoti dassento **‘‘saññāvipallāsena sañjānātī’’**ti āha. Tassattho – ayonisomanasikārasambhūtāya ‘‘subha’’ntiādinayappavattāya viparītasaññāya sañjānātīti. Etena dubbalā taṇhāmānadiṭṭhimaññanā dassitāti daṭṭhabbaṃ. Yadi evaṃ kasmā saññā gahitāti? Pākaṭabhāvato. Yathā nāma aggimhi mathiyamāne yadā dhūmo upalabbhati, kiñcāpi tadā vijjateva pāvako avinābhāvato, pākaṭabhāvato pana dhūmo jātoti vuccati, na aggi jātoti, evaṃsampadamidaṃ daṭṭhabbaṃ. Yadipi tattha maññanākiccaṃ atthi, na pana vibhūtaṃ apākaṭabhāvato saññākiccameva vibhūtaṃ, taṃ pana maññanānukūlaṃ maññanāsahitaṃ cāti āha **‘‘saññāvipallāsena sañjānātī’’**ti. Evaṃ pathavībhāgaṃ amuñcantoyeva vā sañjānātīti sambandho. Yo hi vuttappabhedāya pathaviyā pathavibhāgaṃ amuñcantoyeva avijahantoyeva sīsapiṇḍe suvaṇṇasaññī viya anattādisabhāvaṃyeva taṃ attādivasena sañjānāti, tassa vasena vuttaṃ ‘‘pathavī’’tiādi. Na vattabbaṃ puthujjanaggāhassa yuttimaggananivāraṇatoti dassento āha **‘‘ummattako viya…pe… gaṇhātī’’**ti. Ariyānaṃ adassāvitādibhedanti ariyānaṃ adassāvitādivisesaṃ vadantena bhagavatāva ettha yathāvuttasañjānane kāraṇaṃ vuttanti yojanā.

もし世間の慣用によってそこに生じるのであれば、ここに何の過失があるのか。聖者たちも「大徳よ、実にこの大地は」などのように世間の慣用によって活動するのではないか。ここでは単なる慣用に留まることが意図されているのではなく、慣用を通じて誤った執着を起こすことが示されている、という意味で「**認識の倒錯によって認識する**」と言われた。その意味は、如理作意なきこと(非如理作意)から生じた「美浄である」などの様態で生じる転倒した認識によって認識する、ということである。これによって、微弱な渇愛・慢・見解の妄想が示されているとみなされるべきである。もしそうであるなら、なぜ認識が取られたのか。明白であるからである。たとえば、火を擦り合わせるときに煙が認められる場合、そのとき火も不可分に存在するとしても、明白であることから「煙が生じた」と言われ、「火が生じた」とは言われないように、この事態もそのようにみなされるべきである。そこに妄想の働きがあるとしても、明白ではなく隠れているがゆえに、認識の働きのみが明白であり、しかしそれは妄想に適い、妄想を伴うものであるがゆえに「**認識の倒錯によって認識する**」と言われた。このように地の部分を捨てないままで認識する、と結びつく。実に、上述のように分類された地において、地の部分を捨てないまま、離れないままで、鉛の塊に黄金の認識を持つ者のように、無我などの本質であるまさにそれを我などのものとして認識する者のために、「地」などと言われたのである。凡夫の把握の論理的探求を防ぐために語られるべきではないことを示して、「**狂人のように…中略…把握する**」と言われた。「聖者たちを見ないことなどの分類を」とは、聖者たちを見ないことなどの差異を語る世尊によってこそ、ここにおいて上述のような認識における原因が説かれた、と結合される。

Evanti ‘‘pathavibhāgena sañjānātī’’tiādinā vuttappakārena. Sañjānitvāti pubbakālakiriyāniddesoti āha **‘‘aparabhāge…pe… gaṇhātī’’**ti. Papañcasaṅkhāti papañcakoṭṭhāsā. Papañcanti sattā saṃsāre cirāyanti etehīti papañcā, maññanti ‘‘etaṃ mamā’’tiādinā parikappenti etāhīti maññanāti dvīhipi pariyāyehi taṇhādayova vuttāti āha **‘‘taṇhāmānadiṭṭhipapañcehi idha maññanānāmena vuttehī’’**ti. Ajaññassa jaññato, aseyyādikassa seyyādito gahaṇato diṭṭhimaññanā viya taṇhāmānamaññanāpi aññathā gāho evāti āha **‘‘aññathā gaṇhātī’’**ti. Ārammaṇābhiniropanādinā bhinnasabhāvānampi vitakkādīnaṃ sādhāraṇo upanijjhāyanasabhāvo viya anugijjhanuṇṇatiparāmasanasabhāvānampi taṇhādīnaṃ sādhāraṇena ārammaṇaparikappanākārena pavatti maññanāti daṭṭhabbaṃ. Tenāha **‘‘tīhi maññanāhi maññatī’’**tiādi. Assāti puthujjanassa, udayabbayānupassanādīsu viya sukhumanayenapi maññanāpavatti atthīti vibhāvanasukhatāya thūlaṃyeva taṃ dassetukāmo **‘‘oḷārikanayenā’’**tiāha. Oḷārike hi vibhāge dassite sukhumavibhāvanā sukarāti dassetuṃ ayamatthayojanā vuccatīti sambandho. Ajjhattikāti indriyabaddhā sattasantānapariyāpannā niyakajjhattā vuttā vibhaṅge paṭisambhidāmagge ca.

「このように」とは、「地の区分として認識する」などのように説かれた様態で、ということである。「認識して」とは、前時動作の指示であるという意味で「**その後の段階で…中略…把握する**」と言われた。「戯論の区分」とは戯論の部分である。戯論とは、それらによって生類たちが輪廻において遅滞するがゆえに戯論であり、妄想とは「これは我がものである」などとそれらによって分別するがゆえに妄想である。二つの表現によって渇愛などが説かれているという意味で「**ここで妄想という名で説かれた渇愛・慢・見解という戯論によって**」と言われた。知られるべきでないものを知るべきものとして、優れていないものなどを優れているものとして把握することから、見解の妄想のように渇愛や慢の妄想もまた異なった把握であるという意味で「**異なって把握する**」と言われた。対象への投入などによって異なる性質を持つ尋なども、観察するという共通の性質を持つように、貪求・高慢・執着という性質を持つ渇愛なども、対象を分別するという共通の様態で機能することが妄想であるとみなされるべきである。それゆえに「**三つの妄想によって妄想する**」などと言われた。「彼の」とは凡夫の、である。生滅の随観などにおけるように、微細な方法によっても妄想の活動はあるが、解説を容易にするために粗大なものを示そうとして「**粗大な方法によって**」と言われた。実に、粗大な分類が示されれば、微細な解説は容易であることを示すために、この意味の結合が語られるのであると結びつく。「内なるもの」とは、感覚器官に結びつき、生類の相続(心身の連続)に含まれる自らの内なるものであると、『分別論』と『無礙解道』において説かれている。

Vibhaṅgeti dhātuvibhaṅge (vibha. 173). Bāhirāti anindriyabaddhā saṅkhārasantānapariyāpannā. Kakkhaḷanti thaddhaṃ. Kharigatanti pharusaṃ. Kakkhaḷabhāvo kakkhaḷattaṃ. Kakkhaḷabhāvoti kakkhaḷasabhāvo. Bahiddhāti indriyabaddhato bahiddhābhūtaṃ. Anupādinnanti na upādinnaṃ. Ayoti kāḷalohaṃ. Lohanti jātilohaṃ vijātilohaṃ kittimalohaṃ pisācalohanti catubbidhaṃ. Tattha ayo sajjhu suvaṇṇaṃ tipu sīsaṃ tambalohaṃ vekantakalohanti imāni satta jātilohāni nāma. Nāganāsikālohaṃ vijātilohaṃ nāma. Kaṃsalohaṃ vaṭṭalohaṃ ārakuṭanti tīṇi kittimalohāni nāma. Morakkhakaṃ puthukaṃ malinakaṃ capalakaṃ salakaṃ āṭalaṃ bhattakaṃ dusilohanti aṭṭha pisācalohāni nāma. Tesu vekantakalohaṃ nāma sabbalohacchedanasamatthā ekā lohajāti. Tathā hi taṃ vikantati chindatīti vikantakanti vuccati. Vikantakameva vekantakaṃ. Nāganāsikālohaṃ lohasadisaṃ lohavijāti haliddādivijāti viya. Tathā hi taṃ lohākāraṃ lohamalaṃ viya ghanasaṃhataṃ hutvā tiṭṭhati, tāpetvā tāḷitaṃ pana bhinnaṃ bhinnaṃ hutvā visarati mudu maṭṭhaṃ kammaniyaṃ vā na hoti. Tiputambe missetvā kataṃ kaṃsalohaṃ. Sīsatambe missetvā kataṃ vaṭṭalohaṃ. Jasatambe missetvā kataṃ ārakuṭaṃ. Teneva taṃ karaṇena nibbattattā kittimalohanti vuccati. Yaṃ pana kevalaṃ rasakadhātu viniggataṃ, taṃ ‘‘pittala’’ntipi vadanti. Taṃ idha nādhippetaṃ, yathāvuttaṃ missakameva katvā yojitaṃ kittimanti vuttaṃ. Morakkhakādīni evaṃnāmānevetāni. Tesu yasmā pañca jātilohāni pāḷiyaṃ visuṃ vuttāneva, tasmā vekantakalohena saddhiṃ vuttāvasesaṃ sabbaṃ idha lohanti veditabbaṃ.

『分別論』においてとは、『界分別』(分別173)においてである。「外なるもの」とは、感覚器官に結びつかず、行(有為)の相続に含まれるものである。「硬いもの」とは頑丈なものである。「剛直なもの」とは荒いものである。「硬い状態」とは硬さである。「剛直な状態」とは剛直な性質である。「外のもの」とは、感覚器官に結びついたものの外部にあるものである。「執受されないもの」とは、心身に執着・受持されていないものである。「鉄」とは黒鉄である。「金属」とは、天然の金属、変種の金属、人工の金属、鬼神の金属という四種である。その中で、鉄、銀、金、錫、鉛、銅、ヴェーカンタカ金属というこれらが七つの天然金属と呼ばれるものである。蛇鼻金属は変種の金属と呼ばれる。青銅、真鍮(黄銅)、白銅の三つが人工金属と呼ばれる。孔雀金属、プトゥカ金属、濁り金属、チャパラ金属、サラカ金属、アータラ金属、バッタカ金属、デュシ金属の八つが鬼神金属と呼ばれる。それらの中でヴェーカンタカ金属とは、すべての金属を切断することができる一つの金属の種類である。実にそれは切り裂き、切断するがゆえに「ヴィカンタカ」と呼ばれる。ヴィカンタカこそがヴェーカンタカである。蛇鼻金属は金属に似た金属の変種であり、ウコンなどの変種のようである。実にそれは金属の形をしており、金属の滓のように塊となって固まって存在するが、熱して叩くと粉々に砕け散り、柔らかく滑らかで加工に適したものとはならない。錫と銅を混ぜて作ったものが青銅である。鉛と銅を混ぜて作ったものが真鍮である。亜鉛と銅を混ぜて作ったものが白銅である。それゆえにそれは加工によって生じるがゆえに人工金属と呼ばれる。しかし、単に亜鉛鉱石から抽出されたものは「黄銅」とも呼ばれる。それはここでは意図されておらず、上述のように混合して作られたものが人工のものとして説かれた。孔雀金属などはまさにそのような名のものである。それらのうち、五つの天然金属はパーリ本文において別個に説かれているがゆえに、ヴェーカンタカ金属とともに説かれた残りのすべてがここで「金属」と知られるべきである。

Tipūti setatipu. Sīsanti kāḷatipu. Sajjhanti rajataṃ. Muttāti hatthikumbhajādikā aṭṭhavidhāpi muttā. Tathā hi hatthikumbhaṃ varāhadāṭhā bhūjaṅgasīsaṃ valāhakūṭaṃ veḷū macchasīro saṅkho sippīti aṭṭha muttāyoniyo. Tattha hatthikumbhajā pītavaṇṇā pabhāhīnā. Varāhadāṭhā varāhadāṭhavaṇṇāva. Bhujaṅgasīsajā nīlādivaṇṇā suvisuddhā vaṭṭalā ca. Valāhakajā bhāsurā dubbibhāgarūpā rattibhāge andhakāraṃ vidhamantiyo tiṭṭhanti, devūpabhogā eva ca honti. Veḷujā karakupalasamānavaṇṇā na bhāsurā, te ca veḷū amanussagocare eva padese jāyanti. Macchasīrajā pāṭhīnapiṭṭhisamānavaṇṇā vaṭṭalā laghavo ca honti pabhāvihīnā, te ca macchā samuddamajjhe eva jāyanti. Saṅkhajā saṅkhodaracchavivaṇṇā kolappamāṇāpi honti pabhāvihīnāva. Sippijā pabhāvisesayuttā honti nānāsaṇṭhānā. Evaṃ jātito aṭṭhavidhāsupi muttāsu yā macchasaṅkhasippijā, tā sāmuddikā honti, bhujaṅgajāpi kāci sāmuddikā honti, itarā asāmuddikā. Yasmā bahulaṃ sāmuddikāva muttā loke dissanti, tatthāpi sippijāva, itarā kādācikā. Tasmā sammohavinodaniyaṃ (vibha. aṭṭha. 173) ‘‘muttāti sāmuddikā muttā’’ti vuttaṃ.

「錫」とは白錫である。「鉛」とは黒鉛である。「銀」とは白銀である。「真珠」とは、象の頭頂から生じるものなど八種の真珠である。実に、象の頭頂、猪の牙、蛇の頭、雲の峰、竹、魚の頭、法螺貝、真珠貝の八つが真珠の産地である。その中で象の頭頂から生じるものは黄色で光沢に乏しい。猪の牙から生じるものは猪の牙の色である。蛇の頭から生じるものは青などの色で極めて清らかで丸い。雲から生じるものは輝かしく形状を判別し難く、夜には暗闇を払い除けて輝き、神々の享受するものとなる。竹から生じるものは雹(ひょう)のような色で輝きはなく、それらの竹は人間の行かない地域にのみ生じる。魚の頭から生じるものはパーティーナ魚の背のような色で丸く軽く、光沢に乏しく、それらの魚は海洋の真ん中にのみ生じる。法螺貝から生じるものは法螺貝の内部の皮のような色でナツメの実ほどの大きさもあり、光沢に乏しい。真珠貝から生じるものは格別の輝きを持ち、種々の形状をしている。このように産地から八種の真珠のうち、魚・法螺貝・真珠貝から生じるものは海洋性であり、蛇から生じるものも一部は海洋性であり、その他は非海洋性である。世間で見られる真珠の多くは海洋性であり、そこでも真珠貝から生じるものが大半で、他は稀である。それゆえに『迷妄撲滅』(分別注釈173)において「真珠とは海洋の真珠である」と説かれた。

Maṇīti ṭhapetvā pāḷiāgate veḷuriyādike seso jotirasādibhedo sabbopi maṇi. Veḷuriyanti vaṃsavaṇṇamaṇi. Saṅkhoti sāmuddikasaṅkho. Silāti kāḷasilā paṇḍusilā setasilādibhedā aṭṭhapi silā. Rajatanti kahāpaṇādikaṃ vuttāvasesaṃ rajatasammataṃ. Jātarūpanti suvaṇṇaṃ. Lohitaṅgoti rattamaṇi. Masāragallanti kabaramaṇi tiṇādīsu bahibhārā tālanāḷikerādayopi tiṇaṃ nāma. Antosāraṃ khadirādi antamaso dārukhaṇḍampi kaṭṭhaṃ nāma. Muggamattato yāva muṭṭhippamāṇā marumbā sakkharā nāma. Muggamattato paṭṭhāya heṭṭhā vālikā nāma. Kaṭhalanti kapālakhaṇḍaṃ. Bhūmīti sasambhārapathavī. Pāsāṇoti antomuṭṭhiyaṃ asaṇṭhahanato paṭṭhāya yāva hatthippamāṇaṃ pāsāṇaṃ, hatthippamāṇato pana paṭṭhāya upari pabbatoti. Ayaṃ ayoādīsu vibhāganiddeso. Nimittapathavīti paṭibhāganimittabhūtaṃ pathavikasiṇaṃ. Tampi hi ‘‘rūpāvacaratikacatukkajjhānaṃ kusalato ca vipākato ca kiriyato ca catutthassa jhānassa vipāko ime dhammā bahiddhārammaṇā’’ti vacanato ‘‘bāhirā pathavī’’ti vuccati. Tena vuttaṃ **‘‘yā ca ajjhattārammaṇattike nimittapathavī, taṃ gahetvā’’**ti. Uggahanimittañcettha taṃgatikameva daṭṭhabbaṃ, nimittuppattito pana pubbe bhūmiggahaṇeneva gahitanti.

「宝玉」とは、パーリ文に出てくる毘瑠璃などを除いた、残りの如意宝珠などの分類のあらゆる宝玉である。「毘瑠璃」とは竹の色の宝玉である。「法螺貝」とは海洋の法螺貝である。「石」とは黒石、黄白石、白石などの分類の八種の石である。「銀」とは銀貨など、説かれた残りの銀とされるものである。「金」とは黄金である。「紅玉」とは赤い宝玉である。「瑪瑙」とは斑(まだら)の宝玉である。草などの中で外側に重みがある椰子や椰子樹なども草と呼ばれる。内部に芯があるアカシアなど、極小の木片に至るまでも木材と呼ばれる。緑豆の大きさから一握りの大きさまでの砂利が小石と呼ばれる。緑豆の大きさより小さいものが砂と呼ばれる。「陶片」とは土器の破片である。「大地」とは構成要素を伴う地である。「岩」とは手の中に収まらない大きさから一肘の大きさまでの岩であり、一肘の大きさ以上は山である。これが鉄などにおける分類の指示である。「相の地」とは似相となった地遍のことである。それもまた「色界の三・四禅は善からも異熟からも作からも、第四禅の異熟はこれら諸法は外部の対象である」という言葉から「外の地」と呼ばれる。それゆえに「**そして自らの対象の三つ組における相の地、それを取って**」と言われた。そしてここにおいて取相もまた同じ性質のものとみなされるべきであり、相が生じる前においては大地の把握によって捉えられている。

Tīhi maññanāhīti vuttaṃ maññanāttayaṃ saparasantānesu saṅkhepato yojetvā dassetuṃ **‘‘ahaṃ pathavī’’**tiādi vuttaṃ. Tattha ahaṃ pathavītiādīnā ajjhattavisayaṃ diṭṭhimaññanaṃ mānamaññanañca dasseti attābhinivesāhaṃkāradīpanato. Mama pathavīti iminā taṇhāmaññanaṃ mānamaññanampi vā pariggahabhūtāyapi pathaviyā seyyādito mānajappanato. Sesapadadvayepi iminānayena maññanāvibhāgo veditabbo. Tattha pathavikasiṇajjhānalābhī jhānacakkhunā gahitajhānārammaṇaṃ ‘‘attā’’ti abhinivisanto tañca seyyādito dahanto atthato ‘‘ahaṃ pathavī’’ti maññati nāma, tameva ‘‘ayaṃ mayhaṃ attā’’ti gahaṇe pana ‘‘mama pathavī’’ti maññati nāma. Tathā taṃ ‘‘parapuriso’’ti vā ‘‘devo’’ti vā vādavasena ‘‘ayameva paresaṃ attā’’ti vā abhinivisanto ‘‘paro pathavī, parassa pathavī’’ti maññati nāma. Iminā nayena sesapathavīsupi yathārahaṃ catukkaṃ niddhāretabbaṃ.

「三つの妄想によって」と説かれた三つの妄想を、自己と他者の心身において簡潔に結合して示すために「**私は地である**」などと言われた。そこにおいて「私は地である」などによって、内なる対象に関する見解の妄想と慢の妄想を示す、我への執着と我執(エゴ)を明示するからである。「私の地」というこれによって、渇愛の妄想、あるいは慢の妄想を示す、所有物となった地に対しても優越感などから慢を抱くからである。残りの二つの句(「他者は地である」「他者の地」)においても、この方法によって妄想の分類が理解されるべきである。そこにおいて、地遍の禅定を得た者が、禅定の眼によって捉えた禅定の対象を「我である」と執着し、それを優れているなどと見なす場合、実質的に「私は地である」と妄想することになる。まさにそれを「これは私の我である」と把握する場合には、「私の地である」と妄想することになる。同様にそれを「他者である」とか「天神である」という主張に基づいて「これこそが他者の我である」と執着する場合、「他者は地である、他者の地である」と妄想することになる。この方法によって、残りの地においても相応に四つの組み合わせが抽出されるべきである。

Evaṃ ‘‘pathaviṃ maññatī’’ti ettha catukkavasena maññanaṃ dassetvā idāni maññanāvatthuṃ maññanāyo ca vibhajitvā anekavihitaṃ tassa maññanākāraṃ dassetuṃ **‘‘atha vā’’**tiādimāha. Tattha ayanti yathāvutto puthujjano. Chandarāganti bahalarāgaṃ. Assādetīti nikāmeti, ‘‘ime kesā mudusiniddhakuñcitanīlobhāsā’’tiādinā tattha rasaṃ vindati. Abhinandatīti sappītikāya taṇhāya abhimukho nandati pamodati. Abhivadatīti uppannaṃ taṇhābhinandanāvegaṃ hadayena sandhāretuṃ asakkonto ‘‘aho me kesā’’ti vācaṃ nicchāreti. Ajjhosāya tiṭṭhatīti balavataṇhābhinivesena gilitvā pariniṭṭhāpetvā tiṭṭhati. Aññataraṃ vā pana rajjanīyavatthunti kesādito aññataraṃ vā karacaraṇādippabhedaṃ niyakajjhattapariyāpannaṃ rāguppattihetubhūtaṃ vatthuṃ. Itīti iminā siniddhādippakārenāti patthayitabbākāraṃ parāmasati. Tattha nandiṃ samannānetīti tesu bhāvīsu kesādīsu siddhaṃ viya katvā nandiṃ taṇhaṃ samannāharati samupacāreti. Paṇidahatīti patthanaṃ ṭhapeti.

このように「地を妄想する」という点において四つの組み合わせによる妄想を示し、今や妄想の対象と諸々の妄想を分類して、彼の種々なる妄想のあり方を示すために「**あるいは**」などと言われた。そこにおいて「この者」とは上述の凡夫である。「欲貪を」とは濃厚な貪欲を、である。「味着する」とは欲求する、「これらの髪は柔らかく滑らかで縮れて青く輝いている」などとしてそこに味わいを見出す。「歓喜する」とは、喜悦を伴う渇愛によって顔をほころばせ喜び楽しむ。「称賛する」とは、生じた渇愛の歓喜の勢いを胸の中に留めておくことができず、「ああ、私の髪よ」と言葉を発する。「没入して留まる」とは、強い渇愛の執着によって呑み込み、完全に居座る。「あるいは他の執着すべき対象を」とは、髪などから他の、手足などの分類である自らの内なる相続に含まれる、貪欲の生起の原因となった対象を、ということである。「このように」とは、この滑らかさなどの様態によって、と希求すべき様態を指し示している。そこにおいて「歓喜を導く」とは、それらの将来の髪などにおいて達成されたかのようにして、歓喜すなわち渇愛を導き入れ、近づける。「願を立てる」とは、願望を据えることである。

Sampattiṃ nissāya ‘‘seyyohamasmī’’ti, vipattiṃ nissāya ‘‘hīnohamasmī’’ti mānaṃ janetīti yojanā. Pathavīkoṭṭhāsabhūtānaṃ kesādīnaṃ sampattivipattīhi mānajappanā pathaviyā maññanā hotīti āha **‘‘evaṃ ajjhattikaṃ pathaviṃ mānamaññanāya maññatī’’**ti. Avayavabyatirekena samudāyassa abhāvato samudāyo jīvābhiniveso avayavepi hotīti dassento **‘‘taṃ jīvaṃ taṃ sarīranti āgatanayena pana kesaṃ ‘jīvo’ti abhinivisatī’’**ti āha. ‘‘Kesā nāmete issaravihitā pajāpatinissitā aṇusañcayo pakatipariṇāmo’’tiādinā nayenapettha diṭṭhimaññanā veditabbā.

成功(美点)に依拠して「私は優れている」、失敗(欠点)に依拠して「私は劣っている」と慢を生じさせる、と結びつく。地の部分である髪などの成功や失敗によって慢を抱くことは地の妄想となるという意味で「**このように内なる地を慢の妄想によって妄想する**」と言われた。部分を離れて全体は存在しないがゆえに、全体に対する霊魂(命)の執着は部分に対しても生じることを示して、「**『命がそれであり、身体がそれである』という教説の方法によって、髪を『霊魂』であると執着する**」と言われた。「髪とは主宰神によって作られ、生主に依存し、原子の集積であり、根本原質の変化である」などの方法によっても、ここに見解の妄想が知られるべきである。

Imissā pavattiyāti nikantimānadiṭṭhīnaṃ pariyādānasamugghāṭappavattiyā. ‘‘Etaṃ mamā’’tiādinā yadipi tissannampi maññanānaṃ sambhavo dassito. Taṇhāmānamaññanānaṃ pana heṭṭhā dassitattā diṭṭhimaññanā evettha visesato uddhaṭāti veditabbaṃ. Tenāha **‘‘evampi ajjhattikaṃ pathaviṃ diṭṭhimaññanāya maññatī’’**ti.

「この作用によって」とは、愛着・慢・見解の徹底的な根絶の作用によって、である。「これは我がものである」などによって三つの妄想すべての成立が示されたとしても、渇愛と慢の妄想は下に示されたがゆえに、見解の妄想こそがここで特に取り上げられていると知るべきである。それゆえに「**このようにも内なる地を見解の妄想によって妄想する**」と言われた。

Bāhirampi pathaviṃ tīhi maññanāhi maññatīti yojanā. Taṃ pana maññanāvidhiṃ dassetuṃ **‘‘katha’’**nti āha. Tassattho heṭṭhā vuttanayena veditabbo.

外なる地をも三つの妄想によって妄想する、と結びつく。その妄想の規則を示すために「**どのようにか**」と言われた。その意味は、上述の方法によって理解されるべきである。

Ayaṃ jīvoti ayaṃ kāḷalohaṃ ‘‘jīvo attā’’ti abhinivisati ekacce nigaṇṭhā viya. Evaṃ bāhiraṃ pathaviṃ diṭṭhimaññanāya maññatīti etthāpi ‘‘yā ceva kho pana ajjhattikā pathavīdhātu, yā ca bāhirā pathavīdhātū’’tiādinā nayena ānetvā vattabbo.

「これが霊魂である」とは、この黒鉄を一部のニガンタ(裸形外道)のように「霊魂であり我である」と執着する。「このように外なる地を見解の妄想によって妄想する」というここにおいても、「内なる地界であれ、外なる地界であれ」などの方法によって導いて語られるべきである。

Pathavīkasiṇaṃ attato samanupassatītiādīsu yaṃ vattabbaṃ, taṃ heṭṭhā vuttameva. Ayampi ca nayo ‘‘rūpaṃ attato samanupassatī’’ti ettheva antogadhoti daṭṭhabbo kasiṇānampi rūpasamaññāsambhāvato. Pathaviṃ maññatīti ettha yādiso maññanāvatthumaññanānaṃ vitthāranayo vutto, tādiso ito paraṃ vuttanayovāti āha **‘‘ito paraṃ saṅkhepeneva kathayissāmā’’**ti, atādiso pana vitthāratopi kathayissatīti attho.

地遍を我と見なすなどのことにおいて語られるべきことは、すでに上述された通りである。この方法もまた「色を我と見なす」というまさにここに含まれるとみなされるべきである、遍(カシナ)もまた色という名称を持ち得るからである。「地を妄想する」という点において、いかなる妄想の対象と妄想の詳細な方法が説かれたか、それと同様のものがこれ以降に説かれた方法であるという意味で「**これ以降は簡潔にのみ語るであろう**」と言われた。そうでないものについては詳細にも語るであろう、という意味である。

Tasmāti yasmā ‘‘pathaviyā’’ti idaṃ bhummavacanaṃ, tasmā, so attaparattadupakaraṇānaṃ ādhārabhāvena taṃ maññanāvatthuṃ kappetīti attho. Tenāha **‘‘ahaṃ pathaviyā’’**tiādi. Nanu ca indriyabaddhānindriyabaddhapabhedassa dhammappabandhassa sasambhārapathavī ca ādhāranissayo, itarā ārammaṇanissayo tadārammaṇassāti ettha nibbirodhoti? Na, maññanāvatthuṃ nissayabhāvena parikappanato. Ayañhi ‘‘aha’’nti diṭṭhimaññanāya mānamaññanāya ca vatthubhūtassa attano pathavisannissayaṃ katvā ‘‘ahaṃ pathaviyā’’ti maññati, taṇhāmaññanāya vatthubhūtassa upakaraṇassa pathaviṃ sannissayaṃ katvā **‘‘mayhaṃ kiñcanaṃ palibodho pathaviyā’’**ti maññati. Parotiādīsupi iminā nayena attho veditabbo.

「それゆえに」とは、「地において」というこれが処格(於母陀・場所を示す格)の言葉であることから、それゆえに、彼は自己・他者・それらの資具の基盤としてその妄想の対象を想定する、という意味である。それゆえに「**私は地において**」などと言われた。しかし、感覚器官に結びつくものと結びつかないものとに分類される諸法の連続にとって、構成要素を伴う地が基盤としての依存対象であり、他方はその対象にとっての所縁の依存対象であるから、ここには矛盾がないのではないか。そうではない、妄想の対象を依存対象として想定するからである。実にこの者は、「我」という見解の妄想と慢の妄想の対象となった自らを地に依存するものとして「私は地において」と妄想し、渇愛の妄想の対象となった資具を地に依存するものとして「**私の所有物や執着は地において**」と妄想する。「他者は」などにおいても、この方法によって意味が理解されるべきである。

Yvāyaṃ atthanayoti sambandho. Vutto paṭisambhidāmagge. Eteneva nayenāti yvāyaṃ ‘‘so kho pana me attā imasmiṃ rūpe’’ti samudāyassa ādhārabhāvadīpano atthanayo vutto, eteneva nayena. Na hi avayavabyatirekena samudāyo labbhati, tasmā samudāye vuttavidhi avayavepi labbhatīti adhippāyo. Tenāha so kho pana me ayaṃ attā imissā pathaviyāti maññantoti. Tasmiṃyeva panassa attanīti ettha assāti puthujjanassa. Tasmiṃyeva attanīti ajjhattikabāhirapathavīsannissaye attani. ‘‘Pathaviyā maññatī’’ti padassāyaṃ vaṇṇanā. Evaṃ ‘‘pathaviyā maññatī’’ti ettha attavasena diṭṭhimānataṇhāmaññanaṃ dassetvā idāni paravasena dassetuṃ **‘‘yadā panā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha assāti parassa. Tadāti paravasena maññanāyaṃ. Diṭṭhimaññanā eva yujjati tattha niccābhinivesādayo sambhavantīti katvā. Avadhāraṇena mānataṇhāmaññanā nivatteti. Na hi ‘‘seyyohamasmī’’tiādinā, ‘‘mayha’’nti ca pavattalakkhaṇā mānataṇhā parasmiṃ parassa santakabhāvena gahite ca pavattantīti adhippāyo. Itarāyopīti mānataṇhāmaññanāyopi. Icchanti aṭṭhakathācariyā. Parassapi hi pathavīsannissayena sampattiissariyādikassa vasena attani seyyādibhāvaṃ dahato paṇidahato ca cittaṃ tathābhāvāya mānataṇhāmaññanā sambhavantīti ācariyānaṃ adhippāyo. ‘‘Paro pathavī parassa pathavī’’ti etthāpi ime dve pakārā sādhippāyā niddhāretabbā.

「この意味の方法」と結びつく。『無礙解道』において説かれたものである。「この方法によって」とは、「実に私のこの我はこの色の中にある」と全体の基盤たる状態を明示する意味の方法が説かれたが、まさにこの方法によって、という意味である。実に部分を離れて全体は得られない、それゆえに全体において説かれた規則は部分においても得られる、というのが意図である。それゆえに「実に私のこの我はこの地の中にある」と妄想しながら、と言われた。「まさにその彼の我において」という点において、「彼の」とは凡夫の、である。「まさにその我において」とは、内と外の地に依存する我において、である。「地において妄想する」という句のこれが解説である。このように「地において妄想する」という点において、我の力による見解・慢・渇愛の妄想を示し、今や他者の力によって示すために「**しかし、〜のとき**」などと言われた。そこにおいて「彼の」とは他者の、である。「そのとき」とは他者の力による妄想において、である。見解の妄想のみが適合する、そこには常住の執着などが生じ得るからである。限定によって慢と渇愛の妄想を排除している。実に「私は優れている」などとして、また「私のもの」として生じる特徴を持つ慢と渇愛は、他者において、他者の所有物として把握されたものにおいては生じない、というのが意図である。「他のものたちも」とは、慢と渇愛の妄想も、ということである。注釈家たちは認めている。実に他者の地に依存する繁栄や権力などの力によって、自らにおいて優れているなどの状態をみなしたり、心の中でそのような状態を希求したりする者には、慢と渇愛の妄想が生じ得る、というのが師たちの意図である。「他者は地、他者の地」というここにおいても、これら二つの様態が意図を持って抽出されるべきである。

‘‘Pathavito sañjānātī’’ti, ‘‘ādito’’ti ca ādīsu anissakkavacanepi to-saddo diṭṭhoti āha **‘‘pathavitoti nissakkavacana’’**nti. Saupakaraṇassāti hiraññasuvaṇṇagatassa dāsaporisādinā vittupakaraṇena saupakaraṇassa, attano vā parassa vā tesaṃ upakaraṇassa vāti attho. Yathāvuttappabhedatoti lakkhaṇādiajjhattikādivuttappakāravibhāgato. Uppattiṃ vā niggamanaṃ vāti ‘‘taṃ aṇḍaṃ ahosi hemamayaṃ, tasmiṃ sayaṃ brahmā uppanno’’ti brahmaṇḍavādavasena vā ‘‘dvīhi aṇūhi dviaṇuka’’nti evaṃ pavattaaṇukavādavasena vā pathavito uppattiṃ vā ‘‘sabboyaṃ loko issarato viniggato’’ti issaravādavasena issarakuttato pathavito niggamanaṃ vā maññamānoti yojanā. Pathavito vā añño āpādiko attāti adhippāyo. Ettha ca purimasmiṃ atthavikappe kārakalakkhaṇaṃ nissakkavacanaṃ, dutiyasmiṃ upapadalakkhaṇanti daṭṭhabbaṃ. Attano pariggahabhūtapathavito sukhappattiṃ tato eva ca parehi seyyādibhāvaṃ kappentassa vasenapettha taṇhāmānamaññanā veditabbā. Apareti sārasamāsācariyā. Tato aññaṃ appamāṇaṃ attānaṃ gahetvāti pubbe bhāvitaāpādiappamāṇakasiṇavasena vā kāpilakāṇādadiṭṭhivasena vā appamāṇaṃ byāpinaṃ attānaṃ gahetvā. Pathavitoti pacchā abhāvitaavaḍḍhitapathavīkasiṇasaṅkhātapathavito. Bahiddhāpi me attāti ito pathavito bahipi me attāti adhippāyo.

「地から認識する」や「初めから」などにおいて、奪格(従・起点)の意味でない場合にも「トー(〜から)」という言葉が見られることを示して「**『地から』とは奪格の言葉である**」と言われた。「資具を伴うものの」とは、金銀を手に入れた奴隷や下男などの財産の資具を伴うものの、あるいは自らや他者の、それらの資具の、という意味である。「上述のように分類されたものから」とは、相や内なるものなどの上述された分類から、である。「生起、あるいは流出を」とは、「その卵は黄金製であり、その中に自ら梵天が生じた」という梵卵説の力によって、あるいは「二つの原子から二原子分子が生じる」とこのように生じた原子説の力によって地からの生起を、あるいは「この世界全体は主宰神から流出した」という主宰神説の力によって主宰神の創造した地からの流出を妄想しながら、と結合される。あるいは地とは異なる水などが我である、というのが意図である。そしてここにおいて、先の解釈では文法的な奪格の性質であり、第二の解釈では副詞的な奪格の性質であるとみなされるべきである。自らの所有となった地から幸福の獲得を、まさにそこから他者に対して優れているなどの状態を想定する者の力によっても、ここに渇愛と慢の妄想が知られるべきである。「他の者たち」とは『精要総覧』の師たちである。「それとは異なる無量の我を把握して」とは、以前に修習された水などの無量の遍の力によって、あるいはカピラやカナーダの見解の力によって、無量で偏満する我を把握して、である。「地から」とは、後で修習されず増大していない地遍と呼ばれる地から、である。「私の我は外部にも」とは、この地から外にも私の我がある、というのが意図である。

Kevalanti anavasesaṃ. Mahāpathaviṃ taṇhāvasena mamāyati, ayañca nayo catudīpissariye ṭhitassa dīpacakkavattino ca labbheyya, maṇḍalikarājamahāmattakuṭumbikānampi vasena labbhateva tesampi yathāpariggahaṃ anavasesetvā maññanāya sambhavato. ‘‘Evaṃ mamā’’ti gāhassa ‘‘esohamasmiṃ, eso me attā’’ti gāhavidhūratāya vuttaṃ **‘‘ekā taṇhāmaññanā eva labbhatī’’**ti. Iminā nayenāti vuttamatidesaṃ vibhāvetuṃ **‘‘sā cāya’’**ntiādi vuttaṃ. Tattha sā cāyanti sā ca ayaṃ taṇhāmaññanā yojetabbāti sambandho. Yathā pana diṭṭhimaññanāmaññite vatthusmiṃ sinehaṃ mānañca uppādayato taṇhāmānamaññanā sambhavanti, evaṃ taṇhāmaññanāmaññitena vatthunā attānaṃ seyyādito dahato tañca attaniyaṃ niccaṃ tathā taṃsāmibhūtaṃ attānañca parikappentassa itaramaññanāpi sambhavantīti sakkā viññātuṃ. ‘‘Me’’ti hi iminā atthaggahaṇamukheneva attaniyasambandho pakāsīyatīti.

「あますところなく」とは、残すところなく、である。大地を渇愛の力によって我がものとする。そしてこの方法は、四大州の主権に留まる転輪聖王にも得られるであろうし、諸侯や大臣、富豪たちの力によっても得られるのである、彼らにもそれぞれの所有に応じて余すところなく妄想することが可能であるからである。「このように私のもの」という把握は、「これは私である、これは私の我である」という把握から遠く離れているがゆえに、「**ひとつの渇愛の妄想のみが得られる**」と言われた。「この方法によって」とは、説かれた類推を明らかにするために「**そしてそれは**」などと言われた。そこにおいて「そしてそれは」とは、そしてこの渇愛の妄想は結合されるべきである、と結びつく。しかし、見解の妄想によって妄想された対象において愛着や慢を生じさせる者に渇愛や慢の妄想が生じるように、渇愛の妄想によって妄想された対象によって自らを優れているなどと見なし、それを我がもの、常住のものとし、同様にその所有者となった我を想定する者には、他の妄想も生じ得ると理解することができる。「私の」というこれによって、利益の把握を通じてまさに我がものとしての関係が明示されるからである。

Abhinandatīti iminā taṇhādiṭṭhābhinivesānaṃ saṅgahitattā te dassento **‘‘assādeti parāmasati cā’’**ti āha. Diṭṭhivippayuttacittuppādavasena cetassa dvayassa asaṅkarato pavatti veditabbā, ekacittuppādepi vā adhipatidhammānaṃ viya pubbābhisaṅkhāravasena tassa tassa balavabhāvena pavatti. Etasmiṃ attheti taṇhādiṭṭhivasena abhinandanatthe. Etanti ‘‘pathaviṃ abhinandatī’’ti etaṃ padaṃ. Yesaṃ vineyyānaṃ yehi pakāravisesehi dhammānaṃ vibhāvane kate visesādhigamo hoti, tesaṃ tehi pakāravisesehi dhammavibhāvanaṃ. Yesaṃ pana yena ekeneva pakārena dhammavibhāvane kate visesādhigamo hoti, tesampi taṃ vatvā dhammissaratāya tadaññaniravasesappakāravibhāvanañca desanāvilāso. Tenāha **‘‘pubbe maññanāvasena kilesuppattiṃ dassetvā idāni abhinandanāvasena dassento’’**ti. Dhammadhātuyāti sammāsambodhiyā. Sā hi sabbañeyyadhammaṃ yathāsabhāvato dhāreti upadhāreti, sakalañca vineyyasattasaṅkhātadhammappabandhaṃ apāyadukkhasaṃsāradukkhapatanato dhāreti, sayañca aviparītapavattiākārā dhātūti dhammadhātūti idhādhippetā. Sabbaññutaññāṇapadaṭṭhānañhi maggañāṇaṃ, maggañāṇapadaṭṭhānañca sabbaññutaññāṇaṃ sammāsambodhīti. Suppaṭividdhattāti suṭṭhu paṭividdhabhāvato, sammā adhigatattāti attho. Abhikaṅkhanasampaggahaparāmasanānaṃ vasena ārammaṇe parikappanāpavatti maññanā. Tattha ‘‘mamaṃ, aha’’nti ca abhinivesanaṃ parikappanaṃ. Yena ajjhosānaṃ hoti, ayaṃ abhinandanāti ayametesaṃ viseso. Suttādiaviruddhāyeva attanomati icchitabbā, na itarāti suttena tassā saṅgahaṃ dassetuṃ **‘‘vuttañceta’’**ntiādi vuttaṃ. Desanāvilāsavibhāvanassa pana sahetukahetusampayuttadukādidesanāya nibaddhatā niddhāretabbā.

「歓喜する」とは、これにより渇愛・見解への執着が含まれるため、それらを示すものとして「味わい、執着する」と述べたのである。見解と相応しない心オカルの生起の力によって、二つの心の無混乱な生起を知るべきである。あるいは一つの心の生起であっても、主導的な法のように、過去の行の力によって各々が強大であることによる生起である。「この意味において」とは、渇愛と見解の力による歓喜という意味においてである。「これ」とは、「地を歓喜する」というこの語である。それらの教化されるべき人々に対して、いかなる特別の様態によって諸法の解明がなされるときに勝れた証得があるなら、その人々にその特別の様態によって法を解明するのである。しかし、ある一つの様態によって諸法の解明がなされるときに勝れた証得がある人々に対しても、それを説いたうえで、法の統率者であることから、それ以外の残余のない諸様態を解明することが教説の妙技である。それゆえに「先に想念の力による煩悩の生起を示し、今や歓喜の力によって示すものとして」と述べたのである。「法界によって」とは、正等覚によってである。実にそれは一切の知るべき法をその自性に従って保持し考察し、教化されるべき有情と名づけられる法の連続体を悪趣の苦・輪廻の苦の転落から保持し、それ自体も顛倒なき生起の相を持つ界であるため、法界とここで意図されている。一切知の智の近因は道智であり、道智の近因は一切知の智である正等覚である。「善く通達したことにより」とは、善く通達された状態から、正しく証得されたことからという意味である。渇望・把持・執着の力によって対象において分別が転ずるのが想念である。そこにおいて「私のもの、私」と固執することが分別である。これによって耽溺が生じる、これが歓喜である。これがこれらの相違である。経典などに矛盾しない自身の見解のみが望まれるべきであり、他方ではない。経典によってそれを含むことを示すために「またこれは説かれた」等と述べられた。しかし教説の妙技の解明については、因を有するもの、因と相応する二法などの教説において常にあることが確定されるべきである。

Tassāti tena. Ñātasaddasambandhena hetaṃ kattari sāmivacanaṃ. Tasmāti apariññātattā. ‘‘Apariññāta’’nti paṭikkhepamukhena yaṃ parijānanaṃ vuttaṃ, taṃ atthato tividhā pariññā hotīti taṃ sarūpato pavattiākārato ca vibhāvento **‘‘yo hī’’**tiādimāha.

「彼の」とは、「彼によって」である。知られたという言葉との関係により、これは能動の意味における所有格である。「それゆえに」とは、知悉されていないことからである。「知悉されていない」と否定の観点から説かれたその遍知は、意味において三種の遍知となるため、それを自体と生起の相から解明して「実に彼が……」等と述べたのである。

Tattha yāya paññāya vipassanābhūmiṃ parijānāti paricchindati, sā parijānanapaññā ñātapariññā. Sā hi tebhūmakadhammajātaṃ ‘‘ayaṃ vipassanābhūmī’’ti ñātaṃ viditaṃ pākaṭaṃ karontīyeva lakkhaṇarasādito ajjhattikādivibhāgato ca paricchijja jānāti. Idha pana pathavīdhātuvasena veditabbāti vuttaṃ **‘‘pathavīdhātuṃ parijānātī’’**tiādi. Tīraṇapariññāti kīraṇavasena parijānanakapaññā. Sā hi parivārehi aniccatādiākārehi aniccatādisabhāvassa upādānakkhandhapañcakassa tīraṇavasena sammasanavasena taṃ paricchijja jānāti. Aggamaggenāti arahattamaggena. So hi anavasesato chandarāgaṃ pajahati. Aggamaggenāti vā aggabhūtena maggena, lokuttaramaggenāti attho. Ubhayathāpi hi samucchedapahānakārī eva paññā nippariyāyena pahānapariññāti dasseti.

そこにおいて、いかなる智慧によって毘鉢舎那の基盤を知悉し、限定するか、その知悉する智慧が知遍知である。実にそれは三界の法群を「これは毘鉢舎那の基盤である」と既知とし、了解し、明白にしつつ、相や働きなどから、また内などの区分から限定して知るのである。しかしここでは地界の力によって知るべきであるとして「地界を知悉する」等と述べられた。「度遍知」とは、度量の力によって知悉する智慧である。実にそれは無常などの相の付随によって、無常などの自性を持つ五取蘊を度量する力によって、思惟する力によってそれを限定して知るのである。「最上の道によって」とは、阿羅漢道によってである。実にそれは残余なく欲貪を捨断する。あるいは「最上の道によって」とは、最高となった道によって、出世間道によってという意味である。いずれにしても、断絶捨断をなす智慧こそが無分別(直説)において断遍知であると示す。

Nāmarūpavavatthānanti etena paccayapariggahopi saṅgahitoti daṭṭhabbo nāmarūpassa hetuvavatthānabhāvato. Sopi hi hetupaccayamukhena nāmarūpassa vavatthānamevāti. Kalāpasammasanādivasena tīraṇapariññā aniccādivasena sammasanabhāvato. Tasmāti yasmā tā pariññāyo natthi, tasmā. Atha vā tasmā apariññātattāti yasmā apariññātā pathavī, tasmā apariññātattā pathaviyā taṃ pathaviṃ maññati ca abhinandati cāti.

「名色の限定」とは、これによって縁の把握も含まれると見なされるべきである。名色の因の限定であるからである。それも実に因縁の観点からの名色の限定にほかならないからである。聚思惟などの力による度遍知は、無常などの力による思惟であるからである。「それゆえに」とは、それらの遍知が存在しないがゆえに、である。あるいは「それゆえに知悉されていないことから」とは、地が知悉されていないがゆえに、地の知悉されていないことからその地を想念し、また歓喜するのである。

Pathavīvāravaṇṇanā niṭṭhitā.

地句の註解を終わる。

Āpovārādivaṇṇanā

水句等の註解

Āpaṃ āpatoti ettha appoti, appāyatīti vā āpo, yasmiṃ saṅghāte sayaṃ atthi, taṃ ābandhanavasena byāpetvā tiṭṭhati, paribrūhetīti vā attho. Atthānaṃ adhi ajjhattaṃ. Pati pati attānanti paccattaṃ. Ubhayenapi sattasantānapariyāpannameva vadati. Āpo āpogatantiādīsu ābandhanameva āpo, tadeva āposabhāvaṃ gatattā āpogataṃ, sabhāveneva āpabhāvaṃ pattanti attho. Sinehanavasena sineho, soyeva sinehanasabhāvaṃ gatattā sinehagataṃ. Bandhanattaṃ rūpassāti avinibbhogarūpassa bandhanabhāvo, avippakiraṇavasena sampiṇḍananti attho. Uggaṇhantoti yathāparicchinne āpomaṇḍale yathā uggahanimittaṃ upalabbhati, tathā nimittaṃ gaṇhanto. Vuttoti ‘‘āpasmi’’nti ettha vuttaāpo. So hi sasambhāraāpo, na ‘‘āpokasiṇa’’nti ettha vuttaāpo. Sesanti ārammaṇasammutiāpānaṃ sarūpavibhāvanaṃ. ‘‘Āpaṃ āpato pajānātī’’tiādipāḷiyā atthavibhāvanañceva tattha tattha maññanāvibhāgadassanañca pathaviyaṃ vuttasadisamevāti. Tattha ‘‘pathavīkasiṇameko sañjānātī’’tiādinā (dī. ni. 3.360; a. ni. 10.25) vuttaṃ, idha ‘‘āpokasiṇameko sañjānātī’’tiādinā vattabbaṃ. Tattha ca ‘‘pathavīti sañjānātī’’ti vuttaṃ, idha pana ‘‘āpoti sañjānātī’’tiādinā vattabbanti evamādi eva viseso. Sesaṃ tādisameva. Tena vuttaṃ ‘‘pathaviyaṃ vuttasadisamevā’’ti. Yo panettha viseso, taṃ dassetuṃ **‘‘kevala’’**ntiādi vuttaṃ. Tattha mūlarasoti mūlaṃ paṭicca nibbattaraso. Khandharasādīsupi eseva nayo. Khīrādīni pākaṭāneva. Yathā pana bhesajjasikkhāpade (pārā. 618-625), na evamidha niyamo atthi. Yaṃ kiñci khīraṃ khīrameva. Sesesupi eseva nayo. Bhummānīti āvāṭādīsu ṭhitaudakāni. Antalikkhānīti pathaviṃ appattāni vassodakāni, pattāni pana bhummāneva. Evaṃ vuttā cāti ca-saddena himodakakappavināsakaudakapathaviyāantoudakapathavīsandhārakaudakādiṃ pubbe avuttampi samuccinoti.

「水を水から」というここにおいて、達する(appoti)、あるいは満たす(appāyati)ゆえに水(āpo)である。自らが存在する結合体において、結合の力によって遍満して留まる、あるいは増大させるという意味である。自己に関してが「内なる」である。各々の自己に対してが「各自の」である。両者によっても有情の連続に含まれるもののみを言う。「水、水となったもの」などにおいて、結合そのものが水であり、それが水という自性に達したことから「水となったもの」であり、自性として水の状態に達したという意味である。潤滑の力によるものが「潤滑(sineha)」であり、それ自体が潤滑の自性に達したことから「潤滑となったもの」である。「色の結合性」とは、不相離色の結合状態であり、散乱しないことによる団塊化という意味である。「把握する者は」とは、限定された水相において、取相が得られるように、そのように相を把持する者である。「説かれた」とは、「水において」というここにおいて説かれた水である。実にそれは構成要素としての水であり、「水遍」というここにおいて説かれた水ではない。残余とは、所縁と世俗の水の自体の解明である。「水を水から知る」等の経文の意味の解明、およびそこそこの想念の区分の提示は、地において説かれたのと同様である。そこにおいて「ある者は地遍を認知する」等と説かれたが、ここでは「ある者は水遍を認知する」等と説かれるべきである。またそこにおいて「地であると認知する」と説かれたが、ここでは「水であると認知する」等と説かれるべきである、等ということが相違である。残余は同様である。それゆえに「地において説かれたのと同様である」と述べたのである。ここにおける相違を示すために「ただ……」等と述べられた。そこにおいて「根の味」とは、根に依存して生じた味である。幹の味等においてもこの方法である。乳等は明白である。しかし薬の学習条項(波羅提木叉の薬等)におけるようには、ここには限定はない。いかなる乳であれ乳そのものである。残余においてもこの方法である。「地上のもの」とは、水たまり等にある水である。「空中のもの」とは、地に達していない雨水であるが、達したものは地上のものにほかならない。「このように説かれた」とは、「また(ca)」の語によって、氷水、壊劫の水、地中の水、地を支える水など、以前に説かれなかったものをも集約する。

Tejaṃ tejatoti ettha tejanaṭṭhena tejo, tejanaṃ nāma dahanapacanādisamatthaṃ nisānaṃ, yaṃ uṇhattanti vuccati. Yena cāti yena tejogatena kupitena. Santappatīti ayaṃ kāyo samantato tappati ekāhikajarādibhāvena usumajāto hoti. Yena ca jīrīyatīti yena ayaṃ kāyo jīrīyati, indriyavekallataṃ balaparikkhayaṃ valitādibhāvañca pāpuṇāti. Yena ca pariḍayhatīti yena kupitena ayaṃ kāyo parito ḍayhati, so ca puggalo ḍayhāmīti satadhotasappigosītacandanādilepañceva tālavaṇṭavātañca paccāsīsati. Yena ca asitapītakhāyitasāyitaṃ sammā pariṇāmaṃ gacchatīti yena asitaṃ vā odanādi, pītaṃ vā pānakādi, khāyitaṃ vā piṭhakhajjakādi, sāyitaṃ vā ambapakkamadhuphāṇitādi sammadeva paripākaṃ gacchati, rasādibhāvena vivekaṃ gacchatīti attho. Ettha ca sarīrassa pakatiusumaṃ atikkamitvā uṇhabhāvo santāpo, sarīradahanavasena pavatto mahādāho paridāho, satavāraṃ tāpetvā udake pakkhipitvā uddhaṭasappi satadhotasappi, rasarudhiramaṃsamedaaṭṭhiaṭṭhimiñjasukkā rasādayo. Tattha purimā tayo tejā catusamuṭṭhānā, pacchimo kammasamuṭṭhānova.

「火を火から」というここにおいて、熱する意味によって火(tejo)である。熱するとは、燃焼や成熟などを可能にする鋭利なものであり、熱さと言われるものである。「またそれによって」とは、それによって火となったものが乱れる。「熱せられる」とは、この身体が周囲から熱せられ、一日熱病などの状態によって熱を持つ。「またそれによって老いる」とは、それによってこの身体が老い、諸根の衰損、力の滅尽、皺などの状態に達する。「またそれによって激しく焼かれる」とは、それの乱れによってこの身体が周囲から焼かれ、その人もまた「私は焼かれている」と百回洗った精製バターや白檀などの塗布、および団扇の風を待ち望む。「またそれによって食べ、飲み、噛み、味わったものが正しく消化に赴く」とは、それによって食べられた米飯等、あるいは飲まれた飲料等、あるいは噛まれた粉菓子等、あるいは味わわれた熟したマンゴー・蜂蜜・糖蜜等が正しく成熟に赴き、栄養素等の状態へと分解されるという意味である。そしてここにおいて、身体の通常の熱を超えて熱い状態が「熱変(santāpa)」であり、身体を焼くことによって生じる大きな灼熱が「遍熱(paridāha)」であり、百回熱して水に投入して取り出した精製バターが「百回洗った精製バター」であり、血漿、血液、肉、脂肪、骨、骨髄、精液が「栄養素等」である。そこにおいて前の三つの火は四種の等起(心・業・時節・食)であり、最後のものは業等起のみである。

Tejobhāvaṃ gatattā tejogataṃ. Usmāti uṇhākāro. Usmāva usmābhāvaṃ gatattā usmāgataṃ. Usumanti caṇḍausumaṃ. Tadeva usumagataṃ, sabhāveneva usumabhāvaṃ pattanti attho. Kaṭṭhaggīti kaṭṭhupādāno aggi. Sakalikaggīādīsupi eseva nayo. Saṅkāraggīti kacavaraṃ paṭicca uppannaaggi. Indaggīti asaniaggi. Santāpoti jālāya vā vītaccitaṅgārānaṃ vā santāpo. Sūriyasantāpoti ātapo. Kaṭṭhasannicayasantāpoti kaṭṭharāsiṃ paṭicca uppannasantāpo. Sesesupi eseva nayo. Evaṃ vuttā cāti. Ca-saddena petaggikappavināsakagginirayaggiādike avuttepi samuccinoti.

火の状態に達したことから「火となったもの」である。「温熱(usmā)」とは熱の様相である。温熱そのものが温熱の状態に達したことから「温熱となったもの」である。「激熱(usuma)」とは激しい熱である。それ自体が激熱となったものであり、自性として激熱の状態に達したという意味である。「木火」とは木を燃料とする火である。木片の火等においてもこの方法である。「塵芥の火」とはゴミに依存して生じた火である。「帝釈の火」とは雷火である。「熱気」とは炎の、あるいは無炎の炭火の熱気である。「太陽の熱気」とは日光である。「積木の熱気」とは薪の山に依存して生じた熱気である。残余においてもこの方法である。「このように説かれた」とは、「また(ca)」の語によって、餓鬼の火、壊劫の火、地獄の火など、説かれなかったものをも集約する。

Vāyaṃ vāyatoti ettha vāyanaṭṭhena vāyo. Kimidaṃ vāyanaṃ nāma? Vitthambhanaṃ, samudīraṇaṃ vā, vāyanaṃ gamananti eke. Uddhaṅgamā vātāti uggārahikkādipavattakā uddhaṃ ārohanavātā. Adhogamā vātāti uccārapassāvādinīharaṇatā adho orohanavātā. Kucchisayā vātāti antānaṃ bahivātā. Koṭṭhāsayā vātāti antānaṃ antovātā. Aṅgamaṅgānusārino vātāti dhamanījālānusārena sakalasarīre aṅgamaṅgāni anusaṭā samiñjanapasāraṇādinibbattakā vātā. Satthakavātāti sandhibandhanāni kattariyā chindantā viya pavattavātā. Khurakavātāti khurena viya hadayamaṃsachedanaphālanakavātā. Uppalakavātāti hadayamaṃsassa samuppāṭanakavātā. Assāsoti antopavisanakanāsikāvāto. Passāsoti bahinikkhamananāsikāvāto. Ettha ca purimā sabbe catusamuṭṭhānā, assāsapassāsā cittasamuṭṭhānāva.

「風を風から」というここにおいて、吹く(動く)という意味によって風(vāyo)である。この動くとは何か。支持すること、あるいは動揺させることである。動くとは行くことであるとする者たちもいる。「上昇する風」とは、げっぷやしゃっくり等を生じさせる上方へと昇る風である。「下降する風」とは、大便小便等を排出する下方へと降りる風である。「腹腔にある風」とは、腸の外にある風である。「腸内にある風」とは、腸の内にある風である。「四肢に随行する風」とは、血管網に従って全身の四肢に随伴し、屈伸等を生じさせる風である。「刃の風」とは、関節の結合を鋏で切断するかのように生起する風である。「剃刀の風」とは、剃刀で心臓の肉を切断し引き裂くかのような風である。「抜去の風」とは、心臓の肉を引き抜くかのような風である。「入息」とは、内に入る鼻の風である。「出息」とは、外に出る鼻の風である。そしてここにおいて、前のすべては四種の等起であり、入息・出息は心等起のみである。

Vāyogatanti vāyova vāyogataṃ, sabhāveneva vāyobhāvaṃ pattanti attho. Thambhitattaṃ rūpassāti avinibbhogarūpassa thambhitabhāvo. Puratthimā vātāti puratthimadisato āgatā vātā. Pacchimādīsupi eseva nayo. Sarajādīsu saha rajena sarajā, rajavirahitā suddhā arajā. Sītautusamuṭṭhānā, sītavalāhakantare vā jātā sītā. Uṇhautusamuṭṭhānā, uṇhavalāhakantare vā jātā uṇhā. Parittāti mandā tanukavātā. Adhimattāti balavavātā. Kāḷāti kāḷavalāhakantare samuṭṭhitā. Yehi abbhāhato chavivaṇṇo kāḷako hoti, tesaṃ etaṃ adhivacanantipi eke. Verambhavātāti yojanato upari vāyanavātā. Pakkhavātāti antamaso makkhikāyapi pakkhāyūhanavātā. Supaṇṇavātāti garuḷavātā. Kāmaṃ cetepi pakkhavātāva, ussadavasena pana visuṃ gahitā. Tālavaṇṭavātāti tālavaṇṇehi katena, aññehi vā katena kenaci maṇḍalasaṇṭhānena samuṭṭhāpitavātā. Vidhūpanavātāti bījanapattakena samuṭṭhāpitavātā. Imāni ca tālavaṇṭavidhūpanāni anuppannampi vātaṃ uppādenti, uppannampi parivattenti. Idhāpi ca-saddo udakasandhārakavātakappavināsakavātajālāpellanakavātādike avuttepi samuccinoti. Ettha ca ‘‘āpaṃ maññatī’’tiādīsu yasmā tīhi maññanāhi – ‘‘ahaṃ āpoti maññati, mama āpoti maññatī’’tiādinā pathavīvāre vuttanayena sakkā maññanāvibhāgo vibhāvetunti vuttaṃ **‘‘sesaṃ vuttanayamevā’’**ti. Tasmā tattha vuttanayānusārena imesu tīsu vāresu yathārahaṃ maññanāvibhāgo vibhāvetabbo.

「風となったもの」とは、風そのものが風となったものであり、自性として風の状態に達したという意味である。「色の支持性」とは、不相離色の支持された状態である。「東風」とは、東方から来た風である。西風等においてもこの方法である。塵を伴うもの等において、塵を伴うものが「有塵の風」であり、塵を離れた清浄なものが「無塵の風」である。冷涼な時節に等起した、あるいは冷たい雲の間から生じたものが「冷風」である。温暖な時節に等起した、あるいは温かい雲の間から生じたものが「温風」である。「小風」とは、微細で弱い風である。「大風」とは、強大な風である。「黒風」とは、黒雲の間に生起したものである。それによって雲に覆われて肌の色が黒くなる、それらの総称であるとする者たちもいる。「毘嵐風」とは、一由旬の上方を吹く風である。「翼の風」とは、ハエの羽ばたきの風にさえ及ぶものである。「金翅鳥の風」とは、ガルダの風である。確かにこれらも翼の風であるが、卓越性の力によって別個に把持された。「団扇の風」とは、タラバの葉で作られた、あるいは他のもので作られた何らかの円形の形状によって起こされた風である。「扇の風」とは、扇の葉によって起こされた風である。そしてこれらの団扇や扇は、生じていない風をも生じさせ、生じた風をも回転させる。ここにおいても「また(ca)」の語は、水を支える風、壊劫の風、炎を煽る風など、説かれなかったものをも集約する。そしてここにおいて「水を想念する」等において、三種の想念によって──「私は水であると想念する、私の水であると想念する」等の地句で説かれた方法によって想念の区分を解明することができるため、「残余は説かれた方法のとおりである」と述べられた。それゆえに、そこで説かれた方法に従って、これら三つの句において適切に想念の区分が解明されるべきである。

Ettāvatāti ettakena iminā catuvāraparimāṇena desanāvisesena. Ca-saddo byatireko. Tena vakkhamānaṃyeva visesaṃ joteti. Yvāyanti yo ayaṃ lakkhaṇo nāma hāro vuttoti sambandho. So pana lakkhaṇahāro yaṃlakkhaṇo tattha vutto, taṃ dassetuṃ **‘‘vuttamhī’’**tiādi vuttaṃ. Tattha vuttamhi ekadhammeti kusalādīsu khandhādīsu vā yasmiṃ kasmiñci ekadhamme sutte sarūpato niddhāraṇavasena vā kathite. Ye dhammā ekalakkhaṇā tenāti ye keci dhammā kusalādibhāvena, rūpakkhandhādibhāvena vā tena vuttadhammena samānalakkhaṇā. Vuttā bhavanti sabbeti sabbepi kusalādisabhāvā, khandhādisabhāvā vā dhammā sutte avuttāpi tāya samānalakkhaṇatāya vuttā bhavanti, ānetvā saṃvaṇṇanavasenāti adhippāyo.

「これだけで」とは、この四つの句の分量による教説の特別によってである。「また(ca)」の語は区別である。それにより、まさに語られるべき特異性を照らし出す。「これこそが」とは、「この相引導(lakkhaṇahāra)と呼ばれるものが説かれた」と結びつく。しかしその相引導が、いかなる相であるとそこに説かれているか、それを示すために「説かれたる……」等と述べられた。そこにおいて「説かれたる一法において」とは、善などの、あるいは蘊などのいずれか一つの法が、経において自体によって、あるいは特定の限定によって語られたとき。「その法と同一の相を有する諸法は」とは、善等の状態によって、あるいは色蘊等の状態によって、その説かれた法と同等の相を有するいかなる法であれ。「すべて説かれたことになる」とは、善等の自性、あるいは蘊等の自性を持つすべての法は、経において説かれていなくとも、その同等なる相であることによって説かれたことになるのであり、引き寄せて解釈することによるという意味である。

Ettha ca ekalakkhaṇāti samānalakkhaṇā vuttā. Tena sahacaritā samānakiccatā samānahetutā samānaphalatā samānārammaṇatāti evamādīhipi avuttānaṃ vuttānaṃ viya niddhāraṇaṃ veditabbaṃ. Itīti iminā pakārena. Tenāha **‘‘evaṃ nettiyaṃ lakkhaṇo nāma hāro vutto’’**ti, nettipāḷiyaṃ (netti. 23) pana ‘‘ye dhammā ekalakkhaṇā keci so hāro lakkhaṇo nāmā’’ti pāṭho āgato. Tassa vasenāti tassa lakkhaṇahārassa vasena. Rūpalakkhaṇaṃ anatītattāti ruppanasabhāvena samānasabhāvattā. Vadantena bhagavatā. Etāti ‘‘rūpaṃ attato samanupassatī’’ti evaṃ vuttadiṭṭhī. Ettha ca sakkāyadiṭṭhimaññanādassaneneva sakalarūpavatthukā taṇhāmānamaññanāpi dassitā evāti daṭṭhabbaṃ. Tathā hi vuttaṃ ‘‘tasmiṃyeva panassa diṭṭhimaññanāya maññite vatthusmiṃ sinehaṃ mānañca uppādayato taṇhāmānamaññanāpi veditabbā’’ti. Atha vā pathaviṃ āpaṃ tejaṃ vāyaṃ meti maññati abhinandatīti ca vadantena vuttanayeneva sakalarūpavatthukā taṇhāmaññanā tadanusārena mānamaññanāpi vuttāva hotīti evampettha itaramaññanāpi niddhāretabbā.

そしてここにおいて、「同一の相」とは「同等の相」が説かれた。それと倶行するもの、同一の作用性、同一の因性、同一の果性、同一の所縁性等のこれらによっても、説かれていないものが説かれたもののように限定されると知るべきである。「このように」とは、この様態によってである。それゆえに「このようにネッティにおいて相引導と呼ばれるものが説かれた」と述べたが、ネッティの本文(『指導論』)では「いかなる法であれ、あるものが同一の相を持つならば、その引導は相と呼ばれる」という読みが伝わっている。「それの力によって」とは、その相引導の力によってである。「色の相を超えていないことから」とは、変壊する自性によって同一の自性を持つことからである。説かれる世尊によって。「これら」とは、「色を我と見做す」とこのように説かれた見解である。そしてここにおいて、有身見の想念の提示によってのみ、すべての色を対象とする渇愛・慢の想念もまた示されたのであると見なされるべきである。実にそのように「まさにその見解の想念によって想念された対象において、愛着と慢を生じさせる者には、渇愛・慢の想念も知られるべきである」と説かれたからである。あるいは、地・水・火・風を「私のもの」と想念し歓喜すると説かれることによって、説かれた方法によってすべての色を対象とする渇愛の想念、それに従う慢の想念もまた説かれたのであると、このようにここにおいて他の想念も確定されるべきである。

Āpovārādivaṇṇanā niṭṭhitā.

水句等の註解を終わる。

Bhūtavārādivaṇṇanā

有情句等の註解

3. ‘‘Pathaviṃ maññati, pathaviyā maññatī’’tiādīhi padehi ‘‘rūpaṃ attato samanupassati, rūpasmiṃ attānaṃ samanupassatī’’tiādīnaṃ sakkāyadiṭṭhīnaṃ niddhāritattā vuttaṃ **‘‘evaṃ rūpamukhena saṅkhāravatthukaṃ maññanaṃ vatvā’’**ti. Tesu saṅkhāresu sattesupīti tadupādānesupi sattesu. Dhātūsūti pathavīādīsu catūsu dhātūsu. ‘‘Jātaṃ bhūtaṃ saṅkhata’’ntiādīsu (dī. ni. 2.207; saṃ. ni. 5.379) bhūta-saddo uppāde dissati, saupasaggo pana ‘‘pabhūtamariyo pakaroti puñña’’ntiādīsu vipule, ‘‘yebhuyyena bhikkhūnaṃ paribhūtarūpo’’tiādīsu hiṃsane, ‘‘sambhūto sāṇavāsī’’tiādīsu (cūḷava. 450) paññattiyaṃ, ‘‘abhibhūto māro vijito saṅgāmo’’tiādīsu vimathane, ‘‘parābhūtarūpo kho ayaṃ acelo pāthikaputto’’tiādīsu (dī. ni. 3.23, 25, 31, 32) parājaye, ‘‘anubhūtaṃ sukhadukkha’’ntiādīsu vediyane, ‘‘vibhūtaṃ vibhāvitaṃ paññāyā’’tiādīsu pākaṭīkaraṇe dissati. Te sabbe rukkhādīsūti. Ādi-saddena saṅgahitāti daṭṭhabbā. ‘‘Kālo ghasati bhūtānīti (jā. 1.2.190), bhūtā loke samussaya’’nti (dī. ni. 2.220; saṃ. ni. 1.186) ca ādīsu avisesena sattavācakopi bhūtasaddo, upari devādipadehi sattavisesānaṃ gahitattā idha tadavasiṭṭhā bhūtasaddena gayhantīti āha **‘‘no ca kho avisesenā’’**ti. Tenevāha – **‘‘cātumahārājikānañhi heṭṭhā sattā idha bhūtāti adhippetā’’**ti. Yo hi sattanikāyo paripuṇṇayoniko catūhipi yonīhi nibbattanāraho, tatthāyaṃ bhūtasamaññā aṇḍajādivasena bhavanato.

3. 「地を想念する、地において想念する」等の句によって、「色を我と見做す、色において我を見做す」等の有身見が確定されたため、「このように色を通じて行(サンカーラ)を対象とする想念を説いて」と述べられたのである。「それらの行において、有情においても」とは、それらを執取した有情においてもである。「界において」とは、地などの四つの界においてである。「生じたもの、生成したもの、作られたもの」等において、「bhūta」の語は「生起」に見出される。しかし接頭辞を伴うものは、「貴き者は広大な(pabhūta)功徳をなす」等では「広大」に、「多くは比丘たちに軽蔑された(paribhūta)姿」等では「侵害」に、「サンブータ(Sambhūta)行衣者」等では「概念・名辞」に、「圧倒された(abhibhūta)魔王、勝利された戦い」等では「粉砕」に、「実に敗北した(parābhūta)姿のこの無衣のパーティカの子」等では「敗北」に、「経験された(anubhūta)楽と苦」等では「感受」に、「智慧によって明確にされた(vibhūta)、解明された」等では「明白化」に見出される。それらすべては樹木等においてである。「等」の語によって含まれると見なされるべきである。「時が諸々の生類(bhūtāni)を貪り食う」「世にある生類(bhūtā)は身体を」等において、無差別には有情を表す言葉であっても、上位において天などの語によって有情の区別が把持されているため、ここではその残余が「bhūta」の語によって把持されるとして「しかし無差別にはそうではない」と述べたのである。それゆえに「実に四大王天の下の有情が、ここでは有情(bhūta)として意図されている」と述べたのである。実に満ち足りた胎生等の有情の群、四つの生類(卵生・胎生・湿生・化生)によって生じるにふさわしいもの、それにおいてこの「有情(bhūta)」という名称が、卵生などの力によって存在することから用いられる。

Bhūteti vuttadesaādesite bhūte. Bhūtato sañjānātīti iminā ‘‘bhūtā’’ti lokavohāraṃ gahetvā yathā tattha taṇhādimaññanā sambhavanti, evaṃ viparītasaññāya sañjānanaṃ pakāsīyati. Svāyamattho heṭṭhā ‘‘pathavito sañjānātī’’ti ettha vuttanayānusārena sakkā jānitunti āha **‘‘vuttanayamevā’’**ti. Yathā suddhāvāsā sabbadā abhāvato imaṃ desanaṃ nāruḷhā, evaṃ nerayikāpi sabbamaññanānadhiṭṭhānato. Eteneva ekaccapetānampettha asaṅgaho daṭṭhabbo. Apare pana ‘‘diṭṭhimaññanādhiṭṭhānato tesampettha saṅgaho icchitoyevā’’ti vadanti. ‘‘Samaṅgibhūtaṃ paricārenta’’ntiādinā sutte vuttanayena. Rajjatīti ‘‘subhā sukhitā’’ti vipallāsaggāhena tattha rāgaṃ janeti. Evamettha rajjanto ca na kevalaṃ dassanavaseneva, savanādivasenapi rajjatevāti dassento **‘‘disvāpi…pe… utvāpī’’**ti āha. Tattha ghāyanādivasena rajjanaṃ tehi anubhūtagandhamālādivasena ceva visabhāgavatthubhūtānaṃ tesaṃ paribhogavasena ca yathānubhavaṃ anussaraṇavasena ca veditabbaṃ. Evaṃ bhūte taṇhāmaññanāya maññatīti vuttanayena bhūte paṭicca chandarāgaṃ janento tesaṃ paṭipattiṃ assādento abhinandanto abhivadanto ajjhosāya tiṭṭhanto ‘‘īdisī avatthā mama anāgatamaddhānaṃ siyā’’tiādinā vā pana nayena tattha nandiṃ samannānento bhūte taṇhāmaññanāya maññatīti attho. Appaṭiladdhassa khattiyamahāsālādibhāvassa, sampattiṃ vipattinti jātivasena ukkaṭṭanihīnataṃ. Dahatīti ṭhapeti. Yo evarūpo mānoti yo eso ‘‘ayaṃ pubbe mayā sadiso, idāni ayaṃ seṭṭho ayaṃ hīnataro’’ti uppanno māno. Ayaṃ vuccati mānātimānoti ayaṃ bhārātibhāro viya purimaṃ sadisamānaṃ upādāya mānātimāno nāmāti attho.

「有情において」とは、説かれた場所で指示された有情においてである。「有情を有情から認知する」とは、これにより「有情」という世俗の表現を把持して、そこに渇愛などの想念が生じるように、このように顛倒した認知によって認知することが明らかにされる。この意味は下において「地から認知する」というここにおいて説かれた方法に従って知ることができるとして、「説かれた方法のとおりである」と述べたのである。浄居天が常に存在するわけではないことからこの教説に登らないように、地獄の者たちもすべての想念の対象とならないことからそうである。これによって一部の餓鬼もここに含まれないと見なされるべきである。しかし他の者たちは「見解の想念の対象となることから、彼らもここに含まれることが望まれるべきである」と言う。「満ち足りて、享楽する」等と経において説かれた方法によってである。「染着する」とは、「美しく、幸福である」と顛倒した把握によってそこに貪愛を生じさせる。このようにここにおいて染着する者は、ただ見る力によってのみならず、聞くなどの力によっても実に染着すると示すものとして「見ても……中略……聞いても」と述べたのである。そこにおいて嗅ぐこと等の力による染着は、彼らによって享受された香や花輪等の力によって、また異質な対象となった彼らの享受の力によって、また体験に従って随念する力によって知られるべきである。「このように有情において渇愛の想念によって想念する」とは、説かれた方法によって有情に依存して欲貪を生じさせ、彼らの振る舞いを味わい、歓喜し、称賛し、耽溺して留まり、「このような状態が未来の私の時代にあらんことを」等という方法によって、そこに歓喜を結合させつつ有情において渇愛の想念によって想念するという意味である。未獲得である刹帝利の大富豪等の状態を、成功あるいは失敗を、家柄による卓越・卑小として。「見做す」とは、置く(規定する)。「このような慢とは何か」とは、「この者は以前は私と同等であったが、今はこれが勝れ、これがより卑しい」と生じた慢である。「これは慢・過慢と呼ばれる」とは、これは過重な荷のように、以前の同等の慢に基づいて「慢・過慢」と名づけられるという意味である。

Niccātiādīsu uppādābhāvato niccā, maraṇābhāvato dhuvā, sabbadā bhāvato sassatā. Aniccapaṭipakkhato vā niccā, thirabhāvato dhuvā, sassatisamatāya sassatā, jarādivasena vipariṇāmassa abhāvato avipariṇāmadhammāti maññati. Sabbe sattāti oṭṭhagoṇagadrabhādayo anavasesā sañjanaṭṭhena sattā. Sabbe pāṇāti ‘‘ekindriyo pāṇo dvindriyo pāṇo’’tiādivasena vuttā anavasesā pāṇanaṭṭhena pāṇā. Sabbe bhūtāti anavasesā aṇḍakosādīsu bhūtā sañjātāti bhūtā. Sabbe jīvāti sāliyavagodhūmādayo anavasesā jīvanaṭṭhena jīvā. Tesu hi so virūhabhāvena jīvasaññī. Avasā abalā avīriyāti tesaṃ attano vaso vā balaṃ vā vīriyaṃ vā natthīti dasseti. Niyatisaṅgatibhāvapariṇatāti ettha niyatīti. Niyatatā, acchejjasuttāvutaabhejjamaṇi viya avijahitapakatitā. Saṅgatīti channaṃ abhijātīnaṃ tattha saṅgamo. Bhāvoti sabhāvoyeva, kaṇḍakānaṃ tikhiṇatā, kapiṭṭhaphalādīnaṃ parimaṇḍalāditā, migapakkhīnaṃ vicittavaṇṇāditāti evamādiko. Evaṃ niyatiyā ca saṅgatiyā ca bhāve ca pariṇatā nānappakārataṃ pattā. Yena hi yathā bhavitabbaṃ, so tatheva bhavati. Yena na bhavitabbaṃ, so na bhavatīti dasseti. Chasvevābhijātīsūti kaṇhābhijātiādīsu chasu eva abhijātīsu ṭhatvā sukhañca dukkhañca paṭisaṃvedenti, aññā sukhadukkhabhūmi natthīti dasseti. -saddena antādibhede diṭṭhābhinivese saṅgaṇhāti.

「常住」等において、生起がないことから「常住(nicca)」であり、死がないことから「堅固(dhuva)」であり、常に存在することから「永遠(sassata)」である。あるいは無常の反対であることから「常住」であり、確固たる状態から「堅固」であり、恒常性と等しいことから「永遠」であり、老いなどによる変異がないことから「不変異の性質(avipariṇāmadhamma)」であると想念する。「すべての有情」とは、ラクダ・牛・ロバなどの残余のない、執着するという意味によって「有情(satta)」である。「すべての息あるもの」とは、「一根の息あるもの、二根の息あるもの」等によって説かれた残余のない、呼吸するという意味によって「息あるもの(pāṇa)」である。「すべての生物」とは、卵殻等において生じた、生じた残余のない「生物(bhūta)」である。「すべての命あるもの」とは、稲・大麦・小麦などの残余のない、生きるという意味によって「命あるもの(jīva)」である。実にそれらにおいて彼は成長する状態によって命であるとの想念を持つ。「力なく、力能なく、精進なく」とは、彼らには自らの力も、力能も、精進もないことを示す。「宿命・結合・状態によって変易した」というここにおいて、「宿命(niyati)」とは宿命性であり、切れない糸に通された砕けない宝石のように、捨て去られない本来の性質である。「結合(saṅgati)」とは、六つの階級(abhijāti)のそこへの集まりである。「状態(bhāva)」とは自性にほかならず、棘の鋭利さ、カピッタ果実などの球状であること、鳥獣の多彩な色彩など、このようなものである。このように宿命と、結合と、状態において変易し、多様な様態に達した。「実にそうあるべきものは、そのようにのみある。そうあるべきでないものは、そうならない」と示す。「まさに六つの階級において」とは、黒の階級等という六つの階級においてのみ留まって楽と苦を感受するのであり、他の楽・苦の境地は存在しないことを示す。「あるいは(vā)」の語によって、辺執等の区分における見解への執着を包摂する。

Upapattinti iminā tasmiṃ tasmiṃ sattanikāye bhūtānaṃ sahabyataṃ ākaṅkhatīti dasseti. Sukhuppattinti iminā pana tattha tattha uppannassa sukhuppattiṃ. Ekacce bhūte niccātiādinā ekaccasassatikadiṭṭhiṃ dasseti. Ahampi bhūtesu aññatarosmīti iminā pana catutthaṃ ekaccasassatikavādaṃ dasseti.

「受生を」とは、これによりその時々の有情の群において、有情たちの仲間となることを欲することを示す。「楽の生起を」とは、これによってそこそこに生まれた者の楽の生起をである。「一部の有情は常住である」等によって、一部常住論の見解を示す。「私もまた有情のうちの一人である」とは、これによって第四の一部常住論を示す。

Yato kutocīti issarapurisādibhedato yato kutoci. Ekā taṇhāmaññanāva labbhatīti idhāpi heṭṭhā vuttanayena itaramaññanānampi sambhavo niddhāretabbo. Vuttappakāreyeva bhūte taṇhādiṭṭhīhi abhinandatītiādinā vattabbattā āha ‘‘vuttanayamevā’’ti. Yojanā kātabbāti ‘‘yo bhūtapaññattiyā upādānabhūte khandhe parijānāti, so tīhi pariññāhi parijānātī’’tiādinā yojanā kātabbā. Apare panettha bhūtagāmopi bhūta-saddena saṅgahitoti rukkhādivasenapi maññanāvibhāgaṃ yojetvā dassenti, tathā mahābhūtavasenapi, taṃ aṭṭhakathāyaṃ natthi.

「いずこからであれ」とは、自在神や原人などの区分から、いずこからであれである。「一つの渇愛の想念のみが得られる」とは、ここでも下で説かれた方法によって、他の想念の生起も確定されるべきである。説かれた様態そのものの有情を渇愛・見解によって歓喜する等と説かれるべきであることから「説かれた方法のとおりである」と述べたのである。「適用がなされるべきである」とは、「有情の概念の執取の対象となる蘊を知悉する者は、三種の遍知によって知悉する」等と適用がなされるべきである。しかしここにおいて他の者たちは、植物の類(bhūtagāma)も「bhūta」の語によって含まれるとして樹木等の力によっても想念の区分を適用して示し、同様に四大種の力によっても示すが、それは義釈には存在しない。

Bhūmivisesādinā bhedenāti bhūmivisesaupapattivisesādivibhāgena. Iddhiyāti puññavisesanibbattena ānubhāvena. Kiñcāpi deva-saddo ‘‘viddhe vigatavalāhake deve’’tiādīsu (saṃ. ni. 1.110; 3.102; 5.146-148; ma. ni. 1.486; a. ni. 10.15; itivu. 27) ajaṭākāse āgato, ‘‘devo ca thokaṃ thokaṃ phusāyatī’’tiādīsu meghe, ‘‘ayañhi deva kumāro’’tiādīsu (dī. ni. 2.34, 35, 36) khattiye āgato, ‘‘pañcahi kāmaguṇehi samappito samaṅgibhūto paricāreti devo maññe’’tiādīsu (dī. ni. 1.183; ma. ni. 2.211) viya idha upapattidevesu āgato, deva-saddena pana vattabbasatte anavasesato uddharitvā tato idhādhippete dassetuṃ **‘‘te tividhā’’**tiādi vuttaṃ. Sesā cha kāmāvacarā idha devāti adhippetā itaresaṃ padantarehi nivattitattāti adhippāyo. Bhūtā devāti gahitesu sattesu taṇhādimaññanānaṃ pavattākārenapi tividhalakkhaṇanti āha **‘‘bhūtavāre vuttanayena veditabbā’’**ti.

「境地の区別等による区分によって」とは、境地の区別、受生の区別等の区分によってである。「神通によって」とは、特別な功徳によって生じた威力によってである。確かに「天(deva)」という語は、「雲が散じて晴れ渡った空(deve)」等では虚空に伝わり、「雨(devo)が少しずつ降る」等では雨雲に、「実にこの王子(deva)は」等では刹帝利に伝わり、「五つの欲綱を具足し、満ち足りて享楽する天のように」等のようにここでは受生天に伝わっているが、「天」の語によって説かれるべき有情を残余なく掲げて、そこからここで意図されたものを示すために「それらは三種である」等と述べられた。残りの六つの欲界天がここでは「天」として意図されているのであり、他は他の句によって除外されているからである、というのが真意である。「有情」「天」として把持された有情において、渇愛等の想念の生起の相によっても三種の相を持つとして「有情句で説かれた方法によって知られるべきである」と述べたのである。

‘‘Aññatarassa upāsakassa pajāpati abhirūpā hotī’’tiādīsu (pārā. 168) pajāpati-saddo gharaṇiyaṃ āgato, ‘‘pajāpati kāmadāyī suvaṇṇavaṇṇā me pajā hotū’’tiādīsu diṭṭhigatikaparikappite, ‘‘pajāpatissa devarājassa dhajaggaṃ ullokeyyāthā’’tiādīsu (saṃ. ni. 1.249) devajeṭṭhake, idha pana adhipatīti vadanti, taṃ upari brahmuno gayhamānattā tesaṃ matimattaṃ. Devānanti cātumahārājikādidevānaṃ. Mahārājādīnanti ādi-saddena sakkasuyāmasantussitasunimmitavasavattino gahitā. Tesanti mahārājādīnaṃ. Sattasaṅkhātāyāti kāmabhūmiyaṃ sattasaṅkhātāya. Pajāpatinti pajāpatibhāvaṃ. Pajāpatibhāvena hi mānaṃ jappento pajāpatiṃ mānamaññanāya maññatīti vutto.

「ある優婆塞の妻(pajāpati)が容姿端麗であった」等において、「pajāpati」の語は妻に伝わり、「生類の主(pajāpati)よ、望むものを与える者よ、黄金の肌を持つ我が子とならんことを」等では見解の徒によって構想された者に、「生類の主なる天王の旗頭を仰ぎ見よ」等では天の長官に伝わっているが、ここでは支配者であると彼らは言う。それは上位において梵天が把持されていることから、彼らの意見にすぎない。「諸天の」とは、四大王天等の諸天の。「大王等の」とは、「等」の語によって帝釈天、夜摩天、兜率天、化楽天、他化自在天が把持される。「彼らの」とは、大王等の。「有情と呼ばれる」とは、欲界の境地において有情と呼ばれる。「生類の主を」とは、生類の主の状態をである。生類の主の状態によって慢を念じる者は、生類の主を慢の想念によって想念すると説かれた。

Ekā diṭṭhimaññanāva yujjatīti vuttaṃ, pajāpatino pana samipataṃ salokataṃ vā ākaṅkhato, tathābhāvāya cittaṃ paṇidahato, tathāladdhabbāya sampattiyā attano seyyādibhāvaṃ dahato ca taṇhāmānamaññanāpi sambhavantīti sakkā viññātuṃ. Ye ca dhammāti āyuvaṇṇādike vadati. Pajāpatinti etthāpi heṭṭhā vuttanayena itaramaññanānampi sambhavo veditabbo.

「一つの見解の想念のみが妥当する」と説かれたが、生類の主の近しさ、あるいは同等の世界を欲する者、そのような状態のために心を傾ける者、そのように得られるべき繁栄によって自らの勝れた状態等を規定する者にも、渇愛・慢の想念が生起すると知ることができる。「また諸々の法」とは、寿命や容色等を言う。「生類の主を」というここにおいても、下で説かれた方法によって他の想念の生起も知られるべきである。

Brūhitoti parivuddho. Guṇavisesehīti jhānādīhi visiṭṭhehi guṇehi uttarimanussadhammatāya. Brahma-saddassa satipi avisesato visiṭṭhavācakatte yattha yattha panassa guṇavisesayuttādirūpā pavatti, taṃ dassetuṃ **‘‘apicā’’**tiādi vuttaṃ. Sahassoti sahassiyā lokadhātuyā adhipatibhūto. Paṭhamābhinibbattoti paṇītena paṭhamajhānena nibbatto, paṭhamajjhānabhūmiyaṃ vā paṭhamaṃ abhinibbatto. Gahitāti veditabbā padhānaggahaṇena appadhānānampi kenaci sambandhena gahitabhāvasiddhito. Ettha ca brahmāti mahābrahmā adhippeto. So hi vaṇṇavantatāya ceva dīghāyukatāya ca brahmapārisajjādīhi mahanto brahmāti mahābrahmā, tassa pana purohitaṭṭhāne ṭhitāti brahmapurohitā, parisāyaṃ bhavā paricārakāti brahmapārisajjāti veditabbā. Ukkaṭṭhekapuggalabhāvato pajāpatismiṃ viya brahmani maññanā vattatīti vuttaṃ ‘‘pajāpativāre vuttanayeneva veditabbā’’ti. Tathā hi bahupuggalabhāvasāmaññato ābhassaravārādīnaṃ bhūtavārasadisatā vuttā.

「増大した」とは、成長した。「優れた徳によって」とは、禅定などの卓越した徳によって、上人法であることによってである。「梵天(brahma)」の語が無差別には卓越したものを表す言葉であっても、それが優れた徳と結びつく等の姿で生起する場所を示すために「また……」等と述べられた。「千の」とは、千の世界の支配者となった。「最初に生じた」とは、勝れた初禅によって生まれた、あるいは初禅の境地において最初に生まれた。「把持された」とは、主たるものの把持によって主ならざるものも何らかの関係によって把持された状態が成立することから、知られるべきである。そしてここにおいて、「梵天」とは大梵天が意図されている。実に彼は容色に優れていることによっても、長寿であることによっても、梵衆天等よりも大いなる梵天であることから大梵天であり、彼の補佐の地位にあるものが梵輔天であり、会衆にあって従者であるものが梵衆天であると知られるべきである。卓越した一人の人物であることから、生類の主におけるように梵天において想念が転ずると「生類の主の句で説かれた方法によって知られるべきである」と述べられた。実に多くの人物であるという共通性から、光音天等の句は有情句と同様であると説かれたのである。

Yathāvuttapabhāya ābhāsanasīlā vā ābhassarā. Ekatalavāsinoti idaṃ jhānantarabhūmīnaṃ viya heṭṭhuparibhāvābhāvato vuttaṃ, ṭhānāni pana nesaṃ paricchinnāneva. Ābhassarehi parittā ābhā etesanti parittābhā. Appamāṇā ābhā etesanti appamāṇābhā.

説かれたような光によって輝く習性を持つ者たち、あるいは光音天(ābhassara)である。「同一の層に住む者たち」とは、これは中間の禅定の境地のように上下の状態がないことから説かれたのであり、彼らの居所は実に限定されている。「光音天よりもわずかな光を持つ者たち」が少光天(parittābha)である。「無量の光を持つ者たち」が無量光天(appamāṇābha)である。

Subhāti sobhanā pabhā. Kañcanapiṇḍo viya sassirikā kañcanapiṇḍasassirikā. Tattha sobhanāya pabhāya kiṇṇā subhākiṇṇāti vattabbe bhā-saddassa rassattaṃ, antima-ṇa-kārassa ha-kārañca katvā **‘‘subhakiṇhā’’**ti vuttā. Subhāti ca ekagghanā niccalā pabhā vuccati, parittā subhā etesanti parittasubhā. Appamāṇā subhā etesanti appamāṇasubhā.

「浄なる(subhā)」とは、美しい光である。金の塊のように輝かしいものが「金塊の輝き」である。そこにおいて美しい光に満たされたものが「遍浄天(subhākiṇṇā)」と説かれるべきところを、「bhā」の語を短母音化し、最後の「ṇa」の文字を「ha」の文字にして「subhakiṇhā」と説かれた。「浄」とは、単一で凝固した不動の光を言い、わずかな浄なるものを持つ者たちが少浄天(parittasubhā)である。無量の浄なるものを持つ者たちが無量浄天(appamāṇasubhā)である。

Vipulaphalāti vipulasantasukhāyuvaṇṇādiphalā.

「広大な果報を持つ者たち」とは、広大で静寂なる楽、寿命、容色等の果報を持つ者たちである。

Satipi devabrahmādīnaṃ puññaphalena jhānaphalena ca paṭipakkhābhibhave yesaṃ pana puthujjanaasaññasattesu abhibhūvohāro pākaṭo niruḷho ca, tesaṃ vasenāyaṃ desanā pavattāti dassento āha **‘‘asaññabhavassetaṃ adhivacana’’**nti. Yathā pajāpativāre ‘‘idhekacco pajāpatismiṃyevā’’tiādinā maññanāpavatti dassitā, tathā idhāpi taṃ dassetuṃ sakkāti āha **‘‘sesaṃ pajāpativāre vuttanayamevā’’**ti.

天や梵天等に功徳の果報と禅定の果報によって敵対者を圧倒することがあるとしても、凡夫や無想有情において「勝者(abhibhū)」という表現が明白で定着している者たちの力によってこの教説が転じたことを示すものとして、「無想天の同義語である」と述べたのである。生類の主の句において「ここに一部の者は生類の主そのものにおいて……」等と想念の生起が示されたように、ここでもそれを示すことができるとして「残余は生類の主の句で説かれた方法のとおりである」と述べたのである。

Bhūtavārādivaṇṇanā niṭṭhitā.

有情句等の註解を終わる。

Ākāsānañcāyatanavārādivaṇṇanā

空無辺処句等の註解

4. Evaṃ sattavasena bhūmikkamadassane suddhāvāsānaṃ aggahaṇe kāraṇaṃ niddhārento **‘‘evaṃ bhagavā’’**tiādimāha. Tattha anāgāmikhīṇāsavāti anāgāmino ca khīṇāsavā ca. Kiñcāpi suddhāvāsā attheva anekakappasahassāyukā, ukkaṃsaparicchedato pana soḷasakappasahassāyukāva, na tato paranti āha **‘‘katipayakappasahassāyukā’’**ti. Kāmarūpabhavesu pavattamānāpi ākāsānañcāyatanādidhammā arūpāvacarabhāvato taṃbhūmikavohāraṃ na labhantīti **‘‘tatrūpapannāyevā’’**ti avadhāretvā vuttaṃ. Abhibhūvāre vuttanayena veditabbā yathārahanti adhippāyo. Na hettha vaṇṇavantatādi sambhavatīti. Pajāpativāre vuttanayenāti ettha ‘‘ahamasmi arūpo pahīnarūpapaṭighasañño’’tiādinā mānamaññanā veditabbā.

4. このように有情の力によって境地の順序を示すにあたり、浄居天を把持しない理由を確定して「このように世尊は……」等と述べたのである。そこにおいて「不還者と漏尽者」とは、不還者たちと漏尽者たちである。確かに浄居天は何千劫もの寿命を持つが、上限の限定からは一万六千劫の寿命にすぎず、それを超えることはないとして「数千劫の寿命を持つ」と述べたのである。欲界・色界の生存において生起するとしても、空無辺処などの法は無色界に属する状態であることから、その境地の表現を得られないとして「まさにそこに生じた者たち」と限定して述べたのである。勝者句で説かれた方法によって適切に知られるべきである、というのが真意である。実にここには容色に優れていることなどは生じ得ないからである。「生類の主の句で説かれた方法によって」とは、ここにおいて「私は無色であり、色への衝突の想念を捨て去った」等という慢の想念が知られるべきである。

Ākāsānañcāyatanavārādivaṇṇanā niṭṭhitā.

空無辺処句等の註解を終わる。

Diṭṭhasutavārādivaṇṇanā

見・聞句等の註解

5. Rūpamukhena maññanāvatthudassanaṃ saṅkhepoti katvā vuttaṃ **‘‘vitthāratopī’’**ti. Tampi hi ‘‘yattha neva pathavī, na āpo, na tejo, na vāyo, na ākāsānañcāyatana’’ntiādiggahaṇaṃ viya saṅkhepato pañcavokārabhavadassanaṃ hotīti.

5. 色を通じて想念の対象を示すことは簡略であるとして、「詳細にも」と述べられた。それも実に「地もなく、水もなく、火もなく、風もなく、空無辺処もないところ」等という把握のように、要約すれば五蘊の生存を示すことになるからである。

Diṭṭhanti yaṃ cakkhudvārena katadassanakiriyāsamāpanaṃ, yañca cakkhu dvayaṃ passati passissati sati sambhave passeyya, taṃ sabbakālanti visesavacanicchāya abhāvato diṭṭhanteva vuttaṃ yathā ‘‘duddha’’nti. Tenāha **‘‘rūpāyatanassetaṃ adhivacana’’**nti. Ayañca nayo sutādīsupi yojetabbo. Sattāti rūpādīsu sattā visattāti sattā. Sañjanaṭṭhena sāmaññasaddopi cesa satta-saddo ‘‘itthirūpe’’ti visayavisesitattā idha purisavācako daṭṭhabbo. Rattāti vatthaṃ viya raṅgajātena cittassa vipariṇāmakārakena chandarāgena rattā sārattā. Giddhāti abhikaṅkhanasabhāvena abhigijjhanena giddhā gedhaṃ āpannā. Gadhitāti ganthitā viya lobhena dummocanīyabhāvena ārammaṇe paṭibaddhā. Mucchitāti kilesavasena visaññībhūtā viya anaññakiccā mucchaṃ mohaṃ āpannā. Ajjhosannāti visaye aññasādhāraṇe viya katvā gilitvā pariniṭṭhāpetvā viya ṭhitā. Imināti suvaṇṇavaṇṇādiākārena. Maṅgalaṃ amaṅgalanti īdisaṃ diṭṭhaṃ maṅgalaṃ, īdisaṃ amaṅgalanti. Rūpasmiṃ attānaṃ samanupassananayenāti idaṃ vedanādiarūpadhamme, rūpāyatanavinimuttasabbadhamme vā attato gahetvā tato ajjhattikaṃ, bāhiraṃ vā rūpāyatanaṃ tassokāsabhāvena parikappetvā ‘‘so kho pana me ayaṃ attā imasmiṃ rūpāyatane’’ti maññanto diṭṭhasmiṃ maññatīti imaṃ nayaṃ sandhāya vuttaṃ. ‘‘Pathavito maññatī’’tiādīsu yathā ‘‘saupakaraṇassa attano vā parassa vā’’tiādimaññanāpavatti dassitā, evaṃ ‘‘diṭṭhato maññatī’’tiādīsu sakkā taṃ dassetunti āha **‘‘tesaṃ pathavīvāre vuttanayeneva veditabba’’**nti.

「見られたもの」とは、眼門によってなされた視覚作用の成就、および眼の二つが見るもの、見るであろうもの、可能であれば見るかもしれないもの、それらすべての時について特別な言葉を望まないことから、ちょうど「搾られた乳(duddha)」のように過去形(見られたもの)によって説かれたのである。それゆえに「色処の同義語である」と述べたのである。そしてこの方法は聞かれたもの等においても適用されるべきである。「執着した者たち」とは、色等に執着し、強く執着した者たちである。執着するという意味によって一般的な言葉であっても、この「執着した者(satta)」という語は、「女の色において」と対象が特定されていることから、ここでは男を意味するものと見なされるべきである。「染着した者たち」とは、染料によって布が染まるように、心の変異をもたらす欲貪によって染着し、深く染着した者たちである。「貪婪な者たち」とは、渇望する自性によって激しく貪ることにより貪婪となり、執着に陥った者たちである。「固執した者たち」とは、結ばれたかのように貪欲によって解きがたい状態として対象に束縛された者たちである。「迷妄した者たち」とは、煩悩の力によって気を失ったかのようになり、他のなすべきことがなく迷妄と迷乱に陥った者たちである。「耽溺した者たち」とは、対象において他の共通のものであるかのようにして、飲み込み、終わらせてしまったかのように留まっている者たちである。「これによって」とは、黄金色などの様相によってである。「吉兆・不吉」とは、このような見られたものが吉兆であり、このようなものが不吉であるということである。「色において我を見做す方法によって」とは、これは受などの無色の法を、あるいは色処を離れた一切の法を我と把持し、それから内なる、あるいは外なる色処をそれの場所として構想して、「実に私のこの我はこの色処にある」と想念しつつ、見られたものにおいて想念するというこの方法を指して説かれた。「地から想念する」等において「資具を伴う自己、あるいは他者の……」等と想念の生起が示されたように、「見られたものから想念する」等においてもそれを示すことができるとして「それらは地句で説かれた方法によって知られるべきである」と述べたのである。

Āhaccāti visayaṃ anvāya, patvāti attho. Tenāha ‘‘upagantvā’’ti. Aññamaññasaṃsileseti cakkhurūpasotasaddā viya dure ahutvā aññamaññaṃ alliyane.

「接触して」とは、対象に随伴して、達してという意味である。それゆえに「近づいて」と述べた。「相互の密着において」とは、眼と色、耳と声のように遠くにあるのではなく、相互に密着することにおいてである。

Manasā viññātaṃ kevalanti attho. Itarānipi hi manasā viññāyantīti. Sesehi sattahi āyatanehi paññattiyā asaṅgahitattā tampi saṅgahetvā dassetuṃ **‘‘dhammārammaṇassa vā’’**ti vuttaṃ. Dvīsupi vikappesu lokuttarānampi saṅgaho āpannoti āha **‘‘idha pana sakkāyapariyāpannameva labbhatī’’**ti. Vitthāroti maññanānaṃ pavattanākāravitthāro. Etthāti etesu sutavārādīsu.

意によって知られたもののみ、という意味である。他のものも実に意によって知られるからである。残りの七つの処によって概念が含まれないため、それをも包括して示すために「あるいは法処の所縁の」と述べられた。二つの選択肢においても出世間のものも含まれることになるとして、「しかしここでは有身に含まれるもののみが得られる」と述べた。「詳細」とは、想念の生起の様態の詳細である。「ここにおいて」とは、これら聞句等においてである。

Diṭṭhasutavārādivaṇṇanā niṭṭhitā.

見・聞句等の註解を終わる。

Ekattavārādivaṇṇanā

一性句等の註解

6. Samāpannakavārenāti samāpannakappavattiyā, rūpāvacarārūpāvacarajhānappavattiyāti attho. Sā hi ekasmiṃyeva ārammaṇe ekākārena pavattatīti katvā ‘‘ekatta’’nti vuccati, evañca katvā vipākajjhānappavattipi idha samāpannakavāraggahaṇeneva gahitāti daṭṭhabbā. Asamāpannakavārenāti kāmāvacaradhammappavattiyā. Upacārajjhānenapi hi cittaṃ na sammā ekattaṃ gatanti vuccatīti.

6. 「等至した者の句によって」とは、等至した者の生起によって、色界・無色界の禅定の生起によってという意味である。実にそれは一つの対象において一つの様態によって生起することから「一性」と言われ、このようにして異熟の禅定の生起もここでは等至した者の句の把持によって把持されたと見なされるべきである。「等至していない者の句によって」とは、欲界の法の生起によってである。近行定によっても実に心は正しく一性に達していないと言われるからである。

Yojanāti maññanāyojanā. Bhinditvāti vibhajitvā. Sāsananayenāti pāḷinayena. Tattha ‘‘ekattaṃ maññatī’’tiādīsu ‘‘vedanaṃ attato samanupassatī’’tiādinā nayena, ‘‘nānattaṃ maññatī’’tiādīsu pana ‘‘rūpaṃ attato samanupassatī’’tiādinā nayena vuttavidhiṃ anugantvā maññanā veditabbā.

「適用」とは、想念の適用である。「分割して」とは、区分して。「教説の方法によって」とは、パーリ(経文)の方法によってである。そこにおいて「一性を想念する」等では「受を我と見做す」等の方法によって、「種々性を想念する」等では「色を我と見做す」等の方法によって、説かれた規則に従って想念が知られるべきである。

Pathavīvārādīsu vuttena ca aṭṭhakathānayenāti ‘‘ahaṃ vedanāti maññati, mama vedanāti maññatī’’tiādinā, ‘‘ahaṃ rūpanti maññati, mama rūpanti maññatī’’tiādinā cāti attho. Tenāha ‘‘yathānurūpaṃ **vīmaṃsitvā’’**ti, ekattanānattabhāvesu yo yojanānayo sambhavati, tadanurūpaṃ vicāretvāti attho. Kecīti abhayagirivāsino. Apareti sārasamāsācariyā. Diṭṭhābhinivesaṃ vadantīti sambandho. Puthujjanassa maññanā nāma sakkāyaṃ bhinditvāva yathāupaṭṭhitavisayavaseneva pavattatīti na tattha ayamekattanayo ayaṃ nānattanayoti vibhāgavaseneva, ekattasaññī attā hotītiādīsu ca attano ekattanānattasaññitā vuttā, na pana ekattaṃ nānattanti evaṃ pavattassa diṭṭhābhinivesassa ekattanānattabhāvoti evamettha tadubhayassa idha anadhippetabhāvo daṭṭhabbo.

「地句等において説かれた義釈の方法によって」とは、「私は受であると想念する、私の受であると想念する」等の、また「私は色であると想念する、私の色であると想念する」等の方法によってという意味である。それゆえに「適切に考察して」と述べたのであり、一性と種々性の状態においていかなる適用の方法が生じるか、それに従って思慮してという意味である。「ある者たち」とは無畏山寺派の住人である。「他の者たち」とはサーラサマーサの指導者たちである。「見解への執着を語る」と結びつく。凡夫の想念とは有身を分割して現れた対象の力によってのみ生起するのであって、そこに「これは一性の方法である、これは種々性の方法である」という区分によるのではなく、「一の想念を持つ我となる」等において自己の一性・種々性の想念が説かれたのであり、一性・種々性とこのように生じた見解への執着が一性・種々性の状態であるのではない、このようにここにおいてその両者はここでは意図されていない状態であると見なされるべきである。

Yaṃ yathāvuttaputhujjano anavasesato gaṇhanto gahetuṃ sakkoti, taṃ tassa anavasesato gahetabbataṃ upādāya **‘‘sabba’’**nti vuccatīti dassento **‘‘tamevā’’**ti āha, sakkāyasabbanti attho. Sabbasmimpi tebhūmakadhamme ādīnavadassane asati nibbidābhāvato assādānupassanāya taṇhā vaḍḍhatevāti āha **‘‘sabbaṃ assādento sabbaṃ taṇhāmaññanāya maññatī’’**ti. Vuttañhetaṃ bhagavatā – ‘‘saṃyojaniyesu, bhikkhave, dhammesu assādānupassino viharato taṇhā pavaḍḍhatī’’ti (saṃ. ni. 2.53, 57). ‘‘Sabbamidaṃ mayā nimmita’’nti tena nimmitamaññanāya attānaṃ seyyādito dahanto tena mānena nimmitaṃ maññatiyeva nāma nimmitamaññanāya vinā tathāmānuppattiyā abhāvatoti āha **‘‘attanā nimmitaṃ maññanto sabbaṃ mānamaññanāya maññatī’’**ti. Sabbaṃ natthītiādinā nayenāti ādi-saddena niyativādādike saṅgaṇhāti. Mahā me attāti iminā sabbato attano vibhūtipavattivādaṃ dasseti. ‘‘Sabbaṃ sabbatthaka’’nti diṭṭhivasena – ‘‘ahaṃ sabbasmiṃ mayhaṃ kiñcanaṃ palibodho sabbasmiṃ, paro sabbasmiṃ parassa kiñcanaṃ palibodho sabbasmi’’ntiādinā nayenapettha maññanā sambhavatīti dassento āha **‘‘sesaṃ pathavīvāre vuttanayena veditabba’’**nti. Apica ‘‘sabboyaṃ loko purisamayo’’ti evaṃdiṭṭhiko purisasaṅkhātato sabbato, attano uppattiṃ vā niggamanaṃ vā maññanto diṭṭhimaññanāya sabbato maññati, tasmiṃyeva pana diṭṭhimaññanāya maññite vatthusmiṃ sinehaṃ mānañca uppādayato taṇhāmaññanā mānamaññanā ca veditabbā. Taṃyeva pana sabbaṃ mayhaṃ attā kattā sāmīti vā maññanto ‘‘sabbaṃ me’’ti maññati, tathāyaṃ diṭṭhitaṇhābhinandanāhi abhinandanto sabbaṃ abhinandatīti evampettha maññanānaṃ pavatti veditabbā.

説かれた凡夫が残余なく把持しつつ把持することができるものを、彼の残余なく把持されるべきことに基づいて「一切」と言うと示すものとして「まさにそれを」と述べたのであり、有身の一切という意味である。三界の法の一切において過患を見ることがないときには嫌悪がないことから、味わいを随観することによって渇愛は実に増大するとして「一切を味わいつつ、一切を渇愛の想念によって想念する」と述べたのである。実にこれは世尊によって説かれた──「比丘たちよ、結縛の対象となる諸法において味わいを随観して住する者には、渇愛が増大する」と。「このすべては私によって作られた」と、それによって作られたという想念によって自己を勝れている等と見做す者は、その慢によって作られたものを想念するのであり、作られたという想念なしにはそのような慢の生起がないことから「自らによって作られたと想念しつつ、一切を慢の想念によって想念する」と述べたのである。「一切は存在しない」等の方法によってとは、「等」の語によって宿命論等を集約する。「大いなる我が我である」とは、これにより一切からの自己の威光の生起の論を示す。「一切は一切処にある」という見解の力によって──「私は一切において、私の何らかの障害は一切において、他者は一切において、他者の何らかの障害は一切において」等の方法によってもここにおいて想念が生じ得ることを示すものとして「残余は地句で説かれた方法によって知られるべきである」と述べたのである。さらに「この世界の一切は原人からなる」とこのような見解を持つ者は、原人と名づけられる一切から、自己の生起、あるいは脱出を想念しつつ見解の想念によって一切から想念し、まさにその見解の想念によって想念された対象において愛着と慢を生じさせる者には渇愛の想念と慢の想念が知られるべきである。まさにその一切を「私の我であり、作者であり、主である」と、あるいは想念しつつ「一切は私のもの」と想念し、このように見解・渇愛の歓喜によって歓喜しつつ一切を歓喜する、このようにここにおいて想念の生起が知られるべきである。

Tanti sakkāyaṃ. Ukkaṃsagatasukhasahitañhi khandhapañcakaṃ diṭṭhadhammanibbānavādī nibbānanti maññati, taṃ panatthato sakkāyoyevāti. Ekadhāti pañcavidhampi nibbānabhāvena ekajjhaṃ katvā vuttaṃ. Yatoti yasmā. Pañcahi kāmaguṇehīti manāpiyarūpādīhi pañcahi kāmakoṭṭhāsehi, bandhanehi vā. Samappito suṭṭhu appito allīno hutvā ṭhito. Samaṅgibhūtoti samannāgato. Paricāretīti tesu kāmaguṇesu kāmakoṭṭhāsesu yathāsukhaṃ indriyāni cāreti sañcāreti ito cito ca upaneti. Atha vā laḷati ramati kīḷati. Ettha dvidhā kāmaguṇā mānusakā ceva dibbā ca. Mānusakā ca mandhātukāmaguṇasadisā, dibbā paranimmitavasavattidevarājassa kāmaguṇasadisā. Evarūpe kāme upagatānañhi te diṭṭhadhammanibbānasampattiṃ paññapenti. Tenāha **‘‘ettāvatā kho…pe… hotī’’**ti. Diṭṭhadhammoti paccakkhadhammo vuccati, tattha tattha paṭiladdhattabhāvassetaṃ adhivacanaṃ, diṭṭhadhamme nibbānaṃ imasmiṃyeva attabhāve dukkhavūpasamanaṃ diṭṭhadhammanibbānaṃ. Paramaṃ uttamaṃ diṭṭhadhammanibbānanti paramadiṭṭhadhammanibbānaṃ, taṃ patto hotīti attho. Pañcadhā āgatanti yathāvuttakāmaguṇasukhassa ceva catubbidharūpāvacarajjhānasukhassa ca vasena pāḷiyaṃ pañcappakārena āgataṃ. Nibbānaṃ assādentoti paramaṃ sukhaṃ nissaraṇanti maññanāya assādento.

「それを」とは、有身をである。極限に達した楽を伴う五蘊を、現世涅槃論者は涅槃であると想念するが、それは意味においては実に有身にほかならない。「一様として」とは、五種のものをも涅槃の状態として一つにして説かれた。「〜から」とは、〜ゆえに。「五つの欲綱によって」とは、好ましい色等という五つの欲望の区分によって、あるいは束縛によって。「具足し」とは、善く具足し密着して留まり。「満ち足りて」とは、具備して。「享楽する」とは、それらの欲綱において、欲望の区分において意のままに諸根を行かせ、巡らせ、あちこちへ導く。あるいは戯れ、楽しみ、遊ぶ。ここにおいて欲綱には人間的なものと天界のものという二種類がある。人間的なものは転輪王の欲綱に類似し、天界のものは他化自在天王の欲綱に類似する。このような欲望に達した者たちに、彼らは現世涅槃の成就を立てるのである。それゆえに「これだけで……中略……となる」と述べられた。「現世」とは直接体験される法が言われ、そこそこに得られた状態の同義語である。現世における涅槃、まさにこの自己の存在における苦の寂静が現世涅槃である。「最高無上の現世涅槃」とは最上の現世涅槃であり、それに達した者となるという意味である。「五種として伝わった」とは、説かれた欲綱の楽、および四種の色界禅の楽の力によって経において五つの様態として伝わったものである。「涅槃を味わいつつ」とは、最高の楽であり脱出であるという想念によって味わいつつ。

‘‘Imasmiṃ nibbāne patte na jāyati, na jīrati, na mīyatī’’ti evampi nibbānasmiṃ maññati. ‘‘Ito paraṃ paramassāsabhūtaṃ natthī’’ti gaṇhanto nibbānato maññati. Tayidaṃ nibbānaṃ mayā adhigataṃ, tasmā **‘‘nibbānaṃ me’’**ti maññati. Tatoyeva taṃ nibbānaṃ diṭṭhābhinandanāya abhinandati. Ayaṃ tāvettha diṭṭhimaññanā. Tasmiṃyeva pana diṭṭhimaññanāya maññite vatthusmiṃ sinehaṃ mānañca uppādayato taṇhāmānamaññanāpi niddhāretabbā.

「この涅槃に達したとき、生ぜず、老いず、死なない」とこのように涅槃において想念する。「これより他に最高の安息となったものはない」と把握する者は、涅槃から想念する。「この涅槃は私によって証得された、それゆえに『涅槃は私のもの』」と想念する。まさにそれゆえにその涅槃を見解の歓喜によって歓喜する。これはまずここにおける見解の想念である。まさにその見解の想念によって想念された対象において愛着と慢を生じさせる者には、渇愛・慢の想念も確定されるべきである。

Yādisoti yathārūpo, yehi jegucchādisabhāvehi passitabboti attho. Esāti ayaṃ. Tenassa attano suṇantānañca paccakkhasiddhatamāha. Asubhādisabhāvena saha vijjamānānaṃ rūpādidhammānaṃ kāyo samūhoti sakkāyo, upādānakkhandhā. Tathāti tassa bhāvabhūtena paṭikūlatādippakārena. Sabbamaññanāti pathavīādike sarūpāvadhāraṇādivibhāgabhinne visaye pavattiyā anekavihitā sabbā taṇhāmaññanā.

「どのような」とは、どのような姿の、いかなる嫌悪すべき等の自性によって見られるべきかという意味である。「これ」とは、これである。それにより自らと聞く者たちにとって直接体験によって成立していることを語る。不浄等の自性と共にある色などの法の集積・集まりが有身であり、取蘊である。「そのように」とは、それの状態となった嫌悪すべき等の様態によって。「すべての想念」とは、地などの自体や限定等の区分に分かれた対象における生起によって、多様なすべての渇愛の想念である。

Jegucchoti jigucchanīyo. Tenassa asubhājaññaduggandhapaṭikūlabhāvaṃ dasseti. Siduroti khaṇe khaṇe bhijjanasabhāvo. Tenassa aniccaaddhuvakhayavayapabhaṅgurasabhāvaṃ dasseti. Ayanti sakkāyo. Dukkhoti na sukho. Tenassa kicchakasirābādhadukkhavuttitaṃ dasseti. Apariṇāyakoti pariṇāyakarahito. Tenassa attasuññaasāravuttitaṃ dasseti. Tanti sakkāyaṃ. Paccanīkatoti sabhāvapaṭipakkhato, subhaniccasukhaattāditoti attho. Gaṇhanti gaṇhanto, tattha subhādigāhavasena abhinivisantoti attho.

「嫌悪すべき」とは、嫌悪されるべきである。それによりそれの不浄から生じた悪臭ある嫌悪すべき状態を示す。「崩壊するもの」とは、刹那刹那に壊れる自性である。それによりそれの無常・不安定・滅尽・衰微・脆弱の自性を示す。「これ」とは、有身である。「苦である」とは、楽ではない。それによりそれの困難・苦痛・病・苦のあり方を示す。「導く者のない」とは、導く者を欠いたものである。それによりそれの我の空・無実質性のあり方を示す。「それを」とは、有身をである。「反対から」とは、自性の反対から、美・常・楽・我等からという意味である。「把握する」とは、把握しつつ、そこにおいて美等としての把握の力によって固執しつつという意味である。

Idāni tissopi maññanā upamāhi vibhāvetuṃ **‘‘subhato’’**tiādi vuttaṃ. Tattha yathā mahāpariḷāhe vipulānatthāvahe ca aggimhi salabhassa patanaṃ subhasukhasaññāya, evaṃ tādise sakkāye salabhassa taṇhāmaññanāti imamatthaṃ dasseti **‘‘subhato…pe… taṇhāya maññanā’’**ti iminā.

今や三つの想念をも比喩によって解明するために「美として……」等と述べられた。そこにおいて、大いなる熱狂と莫大な不利益をもたらす火の中に、蛾が美しく快適であるという認知によって飛び込むように、そのような有身において蛾のような渇愛の想念があると、この意味を示すのが「美として……中略……渇愛による想念」というこれによってである。

Gūthādī kīṭako gūtharāsiṃ laddhā asampannepi tasmiṃ sampannākāraṃ pavattayamāno attānaṃ ukkaṃseti, evamanekādīnave ekantabhedini sakkāye niccasaññaṃ upaṭṭhapetvā sampattimadena tattha bālo mānaṃ jappetīti imamatthamāha **‘‘niccasaññaṃ…pe… mānena maññanā’’**ti.

糞を食う虫が糞の山を得て、完全でないそれにおいて完全であるかのように振る舞い、自らを高めるように、このように多くの過患があり完全に崩壊する有身において常住の認知を現前させて、繁栄の驕りによってそこに愚者は慢を念じる、この意味を語ったのが「常住の認知を……中略……慢による想念」というこれによってである。

Yathā bālo muddhadhātuko sammūḷho koci ādāse attano paṭibimbaṃ disvā ‘‘ayaṃ maññe ādāsasāmiko, yadi ahamimaṃ gahetvā tiṭṭheyyaṃ, anatthampi me kareyyā’’ti chaḍḍetvā palāyanto tattha avijjamānameva kiñci vijjamānaṃ katvā gaṇhi, tathūpamo ayaṃ bālo sakkāye attattaniyagāhaṃ gaṇhantoti imamatthaṃ dīpeti **‘‘attā…pe… diṭṭhiyā hoti maññanā’’**ti iminā.

あたかも愚鈍な性質の極めて迷妄したある愚者が、鏡に自らの映像を見て「これは思うに鏡の主人である。もし私がこれをつかんで留まるなら、私に不利益をもなすであろう」と投げ捨てて逃げ去り、そこに存在しないものそのものを存在するものとして把握したように、その比喩のごとくこの愚者は有身において我と我がものという把握を把持する、この意味を照らし出すのが「我は……中略……見解による想念となる」というこれによってである。

Sukhumaṃ mārabandhanaṃ vepacittibandhanatopi sukhumatarattā. Tenāha bhagavā ‘‘aho sukhumataraṃ kho, bhikkhave, mārabandhana’’nti.

微細なる魔の束縛は、ヴェーパチッティの束縛よりもさらに微細であることからである。それゆえに世尊は「比丘たちよ、ああ、魔の束縛は実にさらに微細である」と説かれたのである。

Bahunti ativiya, anekakkhattuṃ vā. Vipphandamānopi sakkāyaṃ nātivattati saṃsāraṃ nātivattanato. Yathāha ‘‘ye te, bhikkhave, samaṇā sato sattassa ucchedaṃ vināsaṃ vibhavaṃ paññapenti, te, sakkāyaṃyeva anuparidhāvanti seyyathāpi sā gaddulabandhano’’tiādi. Yathā hi sattasupi ucchedavikappesu saṃsāranāyikānaṃ taṇhādiṭṭhīnaṃ pahānaṃ sambhavati, evaṃ sassatavikappesupīti kathañci pana diṭṭhigatikassa bhavavippamokkho. Tena vuttaṃ ‘‘sakkāyaṃ nātivattatī’’ti.

「多く」とは、極めて多く、あるいは幾度もという意味である。もがいていても有身を超越しないのは、輪廻を超越しないからである。世尊が「比丘たちよ、現存する有情の断滅・壊滅・非有を説く沙門・婆羅門たちがいるならば、彼らは繋がれた犬のように、実に有身のまわりを走り巡るのである」などと説かれた通りである。実に、七種の断見の分別において輪廻を導く渇愛と見の断捨が不可能であるように、常見の分別においても同様であるのに、どうして見に執着する者が生存からの解脱を得られようか。それゆえ「有身を超越しない」と説かれたのである。

Sasoti so eso puthujjano. Niccanti sabbakālaṃ.

「彼は」とは、その凡夫のことである。「常に」とは、すべての時においてという意味である。

Tanti tasmā sakkāyamalīnassa jātiyādīnamanativattanato. Asātatoti dukkhato.

「それを」とは、それゆえに有身に固執する者が生などを超越しないからである。「不快なものとして」とは、苦としてという意味である。

Passaṃ evamimanti asubhāniccadukkhānattasabhāvaṃ taṃ sakkāyaṃ vuttappakārena yathābhūtavipassanāpaññāsahitāya maggapaññāya passanto. Pahāyāti samucchedavasena sabbā maññanāyo pajahitvā. Sabbadukkhā pamuccatīti sakalasmāpi vaṭṭadukkhato pamuccatīti.

「このようにこれを見る」とは、不浄・無常・苦・無我の本質を持つその有身を、前述の方法によって、如実なる止観の智慧を伴う道智によって見ることである。「捨てて」とは、正断の力によって一切の妄想想念を捨て去って、という意味である。「一切の苦から解脱する」とは、輪廻のすべての苦からも完全に解脱するということである。

Ekattavārādivaṇṇanā niṭṭhitā.

一性句等の釈義を終わる。

Paṭhamanayavaṇṇanā niṭṭhitā.

第一の方法の釈義を終わる。

Sekkhavāradutiyanayavaṇṇanā

有学句第二の方法の釈義

7. Adhippetassa atthassa aniyametvā vacanaṃ uddeso, niyametvā vacanaṃ niddesoti āha **‘‘yoti uddesavacanaṃ, soti niddesavacana’’**nti. Sampiṇḍanatthoti samuccayattho. Sampiṇḍanañca sabhāgatāvasena hotīti āha – **‘‘ārammaṇasabhāgenā’’**ti, ārammaṇassa sabhāgatāya sadisatāyāti attho. Sekkhaṃ dasseti sāmaññajotanāya visese avaṭṭhānato, sekkhavisayattā ca tassa vacanassa.

7. 意図された意味を特定せずに述べることを総説とし、特定して述べることを別説とするので、「『いかなる者』とは総説の語であり、『その者』とは別説の語である」と述べている。「総括の意味」とは集約の意味である。そして総括は同質性に基づいてなされるので、「所縁の共通性によって」と述べられており、所縁の共通性・類似性によって、という意味である。通性の開示によって特殊性にとどまること、およびその言葉が有学の領域に属することから、有学を示すのである。

Kenaṭṭhenāti yasmā ñāṇena araṇīyato attho sabhāvo, tasmā kenaṭṭhena kena sabhāvena kena lakkhaṇena sekkho nāma hotīti attho. Yasmā pana sekkhadhammādhigamena puggale sekkhavohārappavatti, tasmā **‘‘sekkhadhammapaṭilābhato sekkho’’**ti vuttaṃ. Sekkhadhammā nāma catūsu maggesu, heṭṭhimesu ca tīsu phalesu sammādiṭṭhiādayo. Tenāha **‘‘sekkhāya sammādiṭṭhiyā…pe… ettāvatā kho bhikkhu sekkho hotī’’**ti. Evaṃ abhidhammapariyāyena sekkhalakkhaṇaṃ dassetvā idāni suttantikapariyāyenapi taṃ dassetuṃ **‘‘apicā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha sikkhatīti iminā sikkhāttayasamaṅgī apariniṭṭhitasikkho sekkhoti dasseti. Tenāha **‘‘sikkhatī’’**tiādi. Sikkhāhi niccasamāyogadīpanatthañcettha ‘‘sikkhati sikkhatī’’ti āmeḍitavacanaṃ. Atha vā sikkhanaṃ sikkhā, sā etassa sīlanti sekkho. So hi apariyositasikkhattā tadadhimuttattā ca ekantena sikkhanasīlo, na asekkho viya pariniṭṭhitasikkho tattha paṭippassaddhussukko, nāpi vissaṭṭhasikkho pacurajano viya tattha anadhimutto. Atha vā ariyāya jātiyā tīsu sikkhāsu jāto, tattha vā bhavoti sekkho. Atha vā ikkhati etāyāti ikkhā, maggaphalasammādiṭṭhi. Saha ikkhāyāti sekkho.

「いかなる意味においてか」とは、智慧によって知られるべき本質が意味・自性であるから、いかなる意味によって、いかなる自性によって、いかなる特徴によって有学者と呼ばれるのか、という意味である。しかし、有学の法を体得することによって人において有学という呼称が通用するので、「有学の法の獲得によって有学者である」と述べられた。有学の法とは、四つの道と下位の三つの果における正見などのことである。それゆえ「有学の正見によって……(中略)……これによって実に比丘は有学者となる」と説かれたのである。このように阿毘達磨の所説によって有学の特徴を示し、今や経典の所説によってもそれを示すために「さらにまた」などと述べられた。そこにおいて「学ぶ」という語により、三学を具備し、学びを完了していない者が有学者であることを示している。それゆえ「学ぶ」などと説かれた。ここでの「学ぶ、学ぶ」という反復語は、三学との常なる結合を示すためのものである。あるいは、学ぶことが学であり、それがその人の習性であるゆえに有学者である。彼は学びを完了しておらず、それに専念しているがゆえに、専ら学ぶ性質があり、無学者のように学びを完了して努力を止めた者でもなく、また学びを放棄した多くの凡夫のようにそれに専念していない者でもない。あるいは、聖なる生まれによって三学の中に生じた者、そこに存在する者が有学者である。あるいは、これによって見るゆえに見(智慧)であり、道果の正見のことである。見(正見)と共にあるがゆえに有学者である。

Anulomapaṭipadāya paripūrakārīti yā sā sīlādikā vipassanantā dukkhanirodhagāminiyā lokuttarāya paṭipadāya anulomanato anulomapaṭipadā, tassā sampādanena paripūrakārīti. Idāni taṃ paṭipadaṃ puggalādhiṭṭhānena dassetuṃ **‘‘sīlasampanno’’**tiādi vuttaṃ. Tattha sīlasampannoti pātimokkhasaṃvarasīlena samannāgato, paripuṇṇapātimokkhasīlo vā. Pātimokkhasīlañhi idha ‘‘sīla’’nti adhippetaṃ padhānabhāvato. Rūpādiārammaṇesu abhijjhādīnaṃ pavattinivāraṇasaṅkhātena manacchaṭṭhānaṃ indriyānaṃ pidhānena indriyesu guttadvāro. Pariyesanādivasena bhojane pamāṇajānanena bhojane mattaññū. Vigatathinamiddho hutvā rattindivaṃ kammaṭṭhānamanasikāre yuttatāya jāgariyānuyogamanuyutto. Kathaṃ pana jāgariyānuyogo hotīti taṃ dassetuṃ **‘‘pubbarattā…pe… viharatī’’**ti vuttaṃ. Yathāha ‘‘kathañca pubbarattāpararattaṃ jāgariyānuyogamanuyutto hoti? Idha bhikkhu divasaṃ caṅkamena nisajjāya āvaraṇīyehi cittaṃ parisodheti, rattiyā paṭhamaṃ yāmaṃ caṅkamena…pe… sodheti, evaṃ kho bhikkhu pubbarattāpararattaṃ jāgariyānuyogamanuyutto hotī’’ti (vibha. 519). Imasmiṃ panattheti ‘‘maññati, na maññatī’’ti ca vattabbabhāvasaṅkhāte atthe. No puthujjano adhippeto ‘‘appattamānaso, anuttaraṃ yogakkhemaṃ patthayamāno’’ti ca vuttattā.

「随順の行道を完遂する者」とは、戒などに始まり止観に至る、苦の滅尽へと導く出世間の行道に随順するがゆえの随順行道であり、それを成就することによって完遂する者のことである。今やその行道を人に基づいて示すために「具戒の者」などと述べられた。そこにおいて「具戒の者」とは、別解脱律儀戒を具足した者、あるいは完全に別解脱戒を保つ者のことである。ここでは主要なものであるため別解脱戒が「戒」として意図されているからである。色などの所縁において貪欲などの生起を防御することによる、意を第六とする諸根の防護によって「諸根の門を守る者」である。探索などにおいて食事の適量を知ることによって「食事において適量を知る者」である。惛沈・睡眠を離れ、昼夜にわたり業処の作意に専心することによって「目覚めの専心に従事する者」である。どのように目覚めの専心に従事するのかを示すために「初夜……(中略)……住する」と述べられた。世尊が「どのようにして初夜と後夜において目覚めの専心に従事するのか。ここに比丘は、昼の間、経行と坐禅によって障害となる諸法から心を清め、夜の初夜には経行によって……(中略)……心を清める。このように実に比丘は初夜と後夜において目覚めの専心に従事する者となる」(分別論519)と説かれた通りである。しかし「この意味において」とは、「想念する、想念しない」と語られるべき状態という意味においてである。「未だ心を獲得せず、無上の安穏を求めている」と説かれているため、凡夫が意図されているのではない。

Sampayuttattā manasi bhavoti rāgo mānaso, mano eva mānasanti katvā cittaṃ mānasaṃ, anavasesato mānaṃ sīyati samucchindatīti aggamaggo mānasaṃ, tannibbattattā pana arahattassa mānasatā daṭṭhabbā. Janesutāti jane sakalasattaloke vissutā, patthaṭayasāti attho.

相応していることによって意にあるものが意想(貪愛)であり、意そのものが心であるから心が意想であり、慢を余すところなく砕き断ち切るがゆえに最上の道が意想であり、それによって生じるがゆえに阿羅漢果が意想であると知るべきである。「人々の間で」とは、一切の生きとし生ける世界において著名で、名声が行き渡っているという意味である。

Natthi ito uttaranti anuttaraṃ. Taṃ pana sabbaseṭṭhaṃ hontaṃ ekantato sadisarahitameva hoti, tasmā vuttaṃ ‘‘anuttaranti seṭṭhaṃ, **asadisanti attho’’**ti. Patthayamānassāti taṇhāyantassa. Pajappitānīti mānajappanāni. Yasmiñhi vatthusmiṃ taṇhāyanā patthayamānamaññanā sambhavati, tasmiṃyeva ‘‘seyyohamasmī’’tiādīni pajappitāni sambhavantīti adhippāyo. Pavedhītanti parivāsitaṃ. Pakappitesūti taṇhādiṭṭhikappehi parikappitesu ārammaṇesu. Sotanti kilesasotaṃ. Tasmiñhi chinne itarasotaṃ chinnamevāti. Viddhastanti vināsitaṃ. Tañca kho lomahaṃsamattampi asesetvāti dassento āha **‘‘vinaḷīkata’’**nti, vigatāvasesaṃ katanti attho. Adhimuttiyā idhādhippetapatthanā pākaṭā hotīti **‘‘tanninno’’**tiādi vuttaṃ, na pana kusalacchandassa adhimuttibhāvato. Adhimuccantoti okappento.

「これより勝るものはない」が無上である。そしてそれは一切の中で最上であり、絶対に比類なきものである。それゆえ「無上とは最上であり、比類なきという意味である」と述べられた。「求めている者の」とは、渇望している者のことである。「様々な懇願」とは、慢による懇願のことである。渇望し求める想念が生じるその対象においてのみ、「我は優れている」などの懇願が生じるという意味である。「遍く動揺した」とは、満たされたという意味である。「分別されたものにおいて」とは、渇愛と見の分別によって構想された所縁において、である。「流れ」とは、煩悩の流れである。それが断たれれば、他の流れも断たれたに等しい。「粉砕された」とは、滅ぼされたという意味である。しかも鳥肌の立つほどの微細なものさえ余すところなく、と示すために「打ち砕かれた」と述べており、残余をなくしたという意味である。信解によってここでの意図された願いが明らかとなるので「それに傾き」などと述べられたのであり、善なる意欲の信解状態によるのではない。「確信する」とは、確固として受け入れることである。

Sabbākāraviparītāyāti ‘‘subhaṃ sukhaṃ nicca’’ntiādīnaṃ sabbesaṃ attanā gahetabbākārānaṃ vasena tabbiparītatāya, anavasesato dhammasabhāvaviparītākāragāhiniyāti attho. Abhivisiṭṭhena ñāṇenāti asampajānanamicchājānanāni viya na dhammasabhāvaṃ appatvā nāpi atikkamitvā, atha kho avirajjhitvā dhammasabhāvassa abhimukhabhāvappattiyā abhivisiṭṭhena ñāṇena, ñātapariññādhiṭṭhānāya tīraṇapariññāya pahānapariññekadesena cāti attho. Tenāha **‘‘pathavīti…pe… vuttaṃ hotī’’**ti. Pathavībhāvanti pathaviyaṃ abhiññeyyabhāvaṃ. Lakkhaṇapathavī hi idhādhippetā, pariññeyyabhāvo panassā **‘‘aniccātipī’’**tiādinā gahitoti. Abhiññatvāti ñātatīraṇapahānapariññāhi heṭṭhimamaggañāṇehi ca abhijānitvā. Māmaññīti appahīnānaṃ maññanānaṃ vasena māti maññatīti mā, pahīnānaṃ pana vasena na maññatīti amaññī, mā ca so amaññī ca māmaññīti evamettha padavibhāgato attho veditabbo. Tattha yena bhāgena amaññī, tena maññīti na vattabbo. Yena pana bhāgena maññī, tena amaññīti na vattabboti. Evaṃ paṭikkhepappadhānaṃ atthaṃ dassetuṃ aṭṭhakathāyaṃ **‘‘maññī ca na maññī ca na vattabbo’’**ti vuttaṃ. Paṭikkhepappadhānatā cettha labbhamānānampi maññanānaṃ dubbalabhāvato veditabbā. Tenevāha – **‘‘itarā pana tanubhāvaṃ gatā’’**ti. ti ca nipātapadametaṃ, anekatthā ca nipātāti adhippāyena **‘‘etasmiñhi atthe imaṃ padaṃ nipātetvā vutta’’**nti vuttaṃ. Nipātetvāti ca pakatiādivibhāganiddhāraṇe anumānanayaṃ muñcitvā yathāvutte atthe paccakkhatova dassetvāti attho. Puthujjano viyāti etenassa uparimaggavajjhataṇhāmānavasena maññanā na paṭikkhittāti dīpeti.

「一切の様相と相反する」とは、「清浄である、楽である、常である」などと自ら把握すべき一切の様相に対してそれと相反することによって、余すところなく法の自性と相反する様相を把握するものによって、という意味である。「卓越した智慧によって」とは、無知や誤った理解のように法の自性に届かないのでも超越してしまうのでもなく、迷うことなく法の自性に直面することによって得られた卓越した智慧によってであり、知遍知に立脚する審察遍知と断遍知の一部によって、という意味である。それゆえ「地を……(中略)……説かれたのである」と述べられた。「地の状態」とは、地において証知されるべき状態である。ここでは特徴としての地が意図されており、その遍知されるべき状態は「無常であるとも」などによって捉えられている。「了知して」とは、知・審察・断の各遍知と下位の道智によって了知して、という意味である。「想念してはならない(想念しない)」とは、断ぜられていない想念の力によっては想念するから「想( mā )」であり、断ぜられたものの力によっては想念しないから「無想( amaññī )」であり、想と無想の双方であるから「 māmaññī 」であると、このように語の分析から意味を理解すべきである。そこにおいて、想念しない部分によっては想念する者と呼ぶべきではない。想念する部分によっては想念しない者と呼ぶべきではない。このように否定を主とする意味を示すために義釈において「想念する者とも想念しない者とも言うべきではない」と述べられた。否定が主とされるのは、現存する想念も微弱であることから知られるべきである。それゆえにこそ「他方は弱小化している」と述べられた。「 mā 」は不変化詞であり、不変化詞には多様な意味があるという意図から「この意味においてこの語を配置して説かれた」と述べられた。「配置して」とは、本性などの分類の決定において推論の方法を離れ、前述の意味において直接的に示して、という意味である。「凡夫のように」とは、これによって彼の上位の道によって断ぜられるべき渇愛と慢による想念が否定されていないことを示している。

Atha vā mā maññīti parikappakiriyāpaṭikkhepavacanametaṃ ‘‘mā randhayuṃ, mā jīrī’’tiādīsu viya, na maññeyyāti vuttañhoti. Yathā hi puthujjano sabbaso appahīnamaññanattā ‘‘maññati’’cceva vattabbo, yathā ca khīṇāsavo sabbaso pahīnamaññanattā na maññati eva, na evaṃ sekkho. Tassa hi ekaccā maññanā pahīnā, ekaccā appahīnā, tasmā ubhayabhāvato ubhayathāpi na vattabbo. Nanu ca ubhayabhāvato ubhayathāpi vattabboti? Na. Yā hi appahīnā, tāpissa tanubhāvaṃ gatāti tāhipi so na maññeyya vibhūtatarāya maññanāya abhāvato, pageva itarāhi. Tenāha bhagavā ‘‘mā maññī’’ti. Tena vuttaṃ ‘‘mā maññīti parikappakiriyāpaṭikkhepavacanametaṃ ‘mā randhayuṃ, mā jīrī’tiādīsu viya, na maññeyyāti vuttaṃ hotī’’ti. Ayañcassa amaññanā vatthuno pariññeyyattā, na asekkhassa viya pariññātattā. Yañhi ekantato parijānitabbaṃ parijānituṃ sakkā, na tattha tabbidhure viya puthujjanassa maññanā sambhavanti. Tenāha **‘‘pariññeyyaṃ tassāti vadāmī’’**ti.

あるいは「想念してはならない」とは、「苦しめるなかれ、老いるなかれ」などにおけるように、仮定の行為を否定する語であり、想念すべきではないと説かれているのである。凡夫は完全に想念を断じていないがゆえに「想念する」とだけ言われるべきであり、漏尽者は完全に想念を断じているがゆえに決して「想念しない」のであるが、有学者はそうではない。彼には一部の想念が断ぜられ、一部は断ぜられていないので、両方の状態があるゆえにどちらとも言えないのである。「両方の状態があるゆえに両方言われるべきではないか」と言われるかもしれないが、そうではない。断ぜられていないものも弱小化しているので、それらによって彼が想念することはない。顕著な想念が存在しないからであり、他の断ぜられたものにおいてはなおさらである。それゆえ世尊は「想念してはならない」と説かれた。それゆえ「『想念してはならない』とは仮定の行為を否定する語であり、『苦しめるなかれ、老いるなかれ』などにおけるように、想念すべきではないと説かれているのである」と述べられた。そして彼のこの非想念は、対象が遍知されるべきものであるからであり、無学者のように遍知されたからではない。完全に遍知されるべきものを遍知することが可能である場合、それと相反する凡夫の想念のようなものはそこには生じない。それゆえ「彼にとって遍知されるべきものである、と私は説く」と述べられた。

Okkantaniyāmattāti anupaviṭṭhasammattaniyāmattā, otiṇṇamaggasotattāti attho. Sambodhiparāyaṇattāti uparimaggasambodhipaṭisaraṇattā, tadadhigamāya ninnapoṇapabbhārabhāvatoti attho. Ubhayenapi tassa avassaṃbhāvinī sesapariññāti dasseti. Pariññeyyanti parijānitabbabhāvena ṭhitaṃ, pariññātuṃ vā sakkuṇeyyaṃ. Tappaṭipakkhato apariññeyyaṃ. Puthujjanassa viyāti etena idhādhippetaputhujjanassa pariññeyyabhāvāsaṅkā eva natthi anadhikāratoti dasseti. **‘‘Mābhinandī’’**ti etthāpi imināva nayena attho veditabbo.

「決定に入った者であるゆえに」とは、正性の決定に入った者であるゆえに、聖道という流れに入った者であるゆえに、という意味である。「正覚を究極の拠り所とする者であるゆえに」とは、上位の道の正覚を帰依処とする者であるゆえに、その獲得に向けて傾き、傾注し、向かっている状態であるゆえに、という意味である。これら双方によって、彼にとって残りの遍知が必然的であることが示される。「遍知されるべきもの」とは、遍知されるべき状態として存するもの、あるいは遍知することが可能なもののことである。その反対が遍知され得ないものである。「凡夫のように」とは、これによってここで意図されている凡夫には、資格がないゆえに遍知されるべき状態という疑いすら存在しないことを示している。「歓喜してはならない」という箇所においても、まさにこの方法によって意味が理解されるべきである。

Sekkhavāradutiyanayavaṇṇanā niṭṭhitā.

有学句第二の方法の釈義を終わる。

Khīṇāsavavāratatiyādinayavaṇṇanā

漏尽者句第三等の方法の釈義

8. Sabhāgo diṭṭhasaccatādisāmaññena. Ārakā kilesehi arahanti padassa niruttinayena atthaṃ vatvā taṃ pāḷiyā samānento **‘‘vuttañceta’’**ntiādimāha. Tattha pāpakāti lāmakaṭṭhena duggatisampāpanaṭṭhena ca pāpakā. Sāvajjaṭṭhena akosallasambhūtaṭṭhena ca akusalā. Saṃkilesaṃ arahanti, tattha vā niyuttāti saṃkilesikā. Punabbhavassa karaṇasīlā, punabbhavaphalaṃ arahantīti vā ponobhavikā. Saha darathena pariḷāhena pavattantīti sadarā. Dukkho kaṭuko, dukkhamo vā vipāko etesanti dukkhavipākā. Anāgate jātiyā ceva jarāmaraṇānañca vaḍḍhanena jātijarāmaraṇiyāti. Evametesaṃ padānaṃ attho veditabbo. Kāmañcāyaṃ suttantavaṇṇanā, abhidhammanayo pana nippariyāyoti tena dassento **‘‘cattāro āsavā’’**tiādimāha. Samucchinnā paṭippassaddhāti na kevalaṃ samucchinnā eva, atha kho paṭippassaddhāpīti maggakiccena sadisaṃ phalakiccampi niddhāreti.

8. 真理を直視したことなどの共通性によって「同質」である。煩悩から遠く離れている( ārakā )がゆえに阿羅漢( arahant )であるという語源解釈の方法によって意味を述べ、それを聖典の本文と照合して「またこれは説かれた」などと述べた。そこにおいて「悪しき」とは、卑小という意味において、また悪趣をもたらすという意味において悪しきものである。「過失ある」とは、罪過があるという意味において、また巧みならざることから生じたという意味において不善である。「雑染に値する」、あるいはそこに結びついているがゆえに「雑染性」である。「再生を生ぜしめる性質を持つ」、あるいは再生という結果に値するがゆえに「後有をもたらす」である。苦悩と熱悩を伴って生起するがゆえに「苦悩を伴う」である。苦しく過酷な、あるいは耐え難い異熟を持つがゆえに「苦の異熟を持つ」である。未来において生を生じさせ、老死を増大させるがゆえに「生・老・死をもたらす」である。このようにこれらの語の意味を理解すべきである。これは経典の解説であるが、阿毘達磨の方法こそが無分別(直説的)であるため、それによって示すべく「四つの漏」などと述べた。「完全に断ぜられ、静まり」とは、単に断滅しただけでなく、静止したことでもあり、道のはたらきに類似した果のはたらきをも明示している。

Sīlavisodhanādinā garūnaṃ paṭipattiyā anukaraṇaṃ garusaṃvāso. Ariyamaggapaṭipatti eva ariyamaggasaṃvāso. Dasa ariyāvāsā nāma pañcaṅgavippahīnatādayo. Ye sandhāya vuttaṃ –

戒の清浄などによって師の行いを模倣することが「師弟の同住」である。聖道の修行そのものが「聖道の同住」である。「十の聖者の住処」とは、五支を捨て去った状態などのことである。それに関して説かれたのは次の通りである。

‘‘Dasayime, bhikkhave, ariyāvāsā, ye ariyā āvasiṃsu vā āvasanti vā āvasissanti vā. Katame dasa? Idha, bhikkhave, bhikkhu pañcaṅgavippahīno hoti chaḷaṅgasamannāgato, ekārakkho, caturāpasseno, panuṇṇapaccekasacco, samavayasaṭṭhesano, anāvilasaṅkappo, passaddhakāyasaṅkhāro, suvimuttacitto, suvimuttapañño. Ime kho, bhikkhave, dasa ariyāvāsā’’ti (a. ni. 10.19).

「比丘たちよ、かつて聖者たちが住し、今住し、あるいは将来住するであろう、これら十の聖者の住処がある。いかなるものが十か。比丘たちよ、ここに比丘は五支を捨て去り、六支を具備し、一つの守護を持ち、四つの依処を持ち、個別的な真理の執着を払い除け、一切の探求を完全に放棄し、濁りなき思惟を持ち、身体の働きを静め、心よく解脱し、智慧よく解脱している。比丘たちよ、これらこそが十の聖者の住処である」(増支部10.19)。

Vussatīti vā vusitaṃ, ariyamaggo, ariyaphalañca, taṃ etassa atthīti atisayavacanicchāvasena arahā **‘‘vusitavā’’**ti vutto. Karaṇīyanti pariññāpahānabhāvanāsacchikiriyamāha. Taṃ pana yasmā catūhi maggehi catūsu saccesu kattabbattā soḷasavidhanti veditabbaṃ. Tenāha ‘‘catūhi maggehi **karaṇīya’’**nti. Sammāvimuttassāti aggamaggaphalapaññāhi samucchedapaṭippassaddhīnaṃ vasena suṭṭhu vimuttassa. Santacittassāti tato eva sabbakilesadarathapariḷāhānaṃ vūpasantacittassa. Bhinnakilesassa khīṇāsavassa bhikkhuno. Katassa pariññādikiccassa paṭicayo puna karaṇaṃ natthi, tato eva karaṇīyaṃ na vijjati na upalabbhati.

住まわれるがゆえに「住み終えたもの」とは聖道と聖果のことであり、それをこの人が持っているゆえに、卓越した表現を意図して阿羅漢は「所住を修め終えた者」と呼ばれる。「なすべきこと」とは、遍知・断捨・修習・現証の働きをいう。そしてそれは四つの道によって四諦においてなされるべきものであるから、十六種であると知るべきである。それゆえ「四つの道によってなすべきこと」と説かれた。「正しく解脱した者の」とは、最上の道と果の智慧によって、断滅と静止を通じて見事に解脱した者のことである。「静寂なる心を持つ者の」とは、それによって一切の煩悩の苦悩と熱悩が静まった心を持つ者のことである。煩悩を打ち砕いた漏尽者の比丘のことである。すでになされた遍知などの働きの再度の積み重ね、繰り返してなすことはなく、それゆえになすべきことは存在せず、見出されないのである。

Bhārāti osīdāpanaṭṭhena bhārā viyāti bhārā. Vuttañhi ‘‘bhārā have pañcakkhandhā’’tiādi (saṃ. ni. 3.22). Attano yonisomanasikārāyattanti attupanibandhaṃ, sasantānapariyāpannattā attānaṃ avijahanaṃ. Tayidaṃ yadipi sabbasmiṃ anavajjadhamme sambhavati, akuppasabhāvāparihānadhammesu pana aggabhūte arahatte sātisayaṃ, netaresūti dassento āha **‘‘attano paramatthaṭṭhena vā’’**ti, uttamaṭṭhabhāvenāti attho.

「重荷」とは、沈み込ませるという意味において重荷のようであるから重荷という。実に「実に五蘊こそが重荷である」などと説かれている通りである(相応部3.22)。「自らの如理作意に依存する」とは自己に結びついていることであり、自己の相続に属しているがゆえに自己を捨て去らないことである。これは一切の罪なき法において生じるものであるが、不壊の性質を持ち退転しない法において最上である阿羅漢果において卓越しており、他の法においてはそうではないと示すために「自己の勝義の意味によって、あるいは」と述べており、最上の境地の状態によって、という意味である。

Suttantanayo nāma pariyāyanayoti nippariyāyanayena saṃyojanāni dassento **‘‘bhavarāgaissāmacchariyasaṃyojana’’**nti āha, na pana ‘‘rūparāgo’’tiādinā. Bhavesu saṃyojantīti kilesakammavipākavaṭṭānaṃ paccayo hutvā nissarituṃ appadānavasena bandhanti. Satipi hi aññesaṃ tappaccayabhāve na vinā saṃyojanāni tesaṃ tappaccayabhāvo atthi, orambhāgiyauddhambhāgiyasaṅgahitehi ca tehi taṃtaṃbhavanibbattakakammaniyamo bhavaniyamo ca hoti, na ca upacchinnasaṃyojanassa katānipi kammāni bhavaṃ nibbattentīti tesaṃyeva saṃyojanaṭṭho daṭṭhabbo.

経典の方法は方便の説示であるため、直説の方法によって結び(結縛)を示すべく「有愛・嫉・慳の結」と述べたのであり、「色愛」などとは述べなかった。「諸有に結びつける」とは、煩悩・業・異熟の輪廻の条件となって、脱出させないことによって縛りつけることである。他のものがその条件となる場合であっても、結びなしにはそれらが条件となることはなく、下分結や上分結に含まれるこれらによってそれぞれの有を生ぜしめる業の決定と有の決定があり、結びを断ち切った者にはたとえ業がなされても有を生じさせないため、まさにこれらに結びの意味があると見るべきである。

Sammā aññāyāti ājānanabhūtāya aggamaggapaññāya sammā yathābhūtaṃ dukkhādīsu yo yathā jānitabbo, taṃ tathā jānitvā. Cittavimutti sabbassa cittasaṃkilesassa vissaggo. Nibbānādhimutti nibbāne adhimuccanaṃ tattha ninnapoṇapabbhāratā. Tanti pathavīādikaṃ. Pariññātaṃ, na puthujjanassa viya apariññātaṃ, sekkhassa viya pariññeyyaṃ vā. Tasmāti pariññātattā.

「正しく知って」とは、覚知の本質である最上の道の智慧によって、正しく如実に、苦などにおいて知られるべきように知られるべきものをそのように知って、という意味である。「心の解脱」とは、すべての心の雑染を完全に手放すことである。「涅槃への信解」とは、涅槃を確信し、そこへと傾き、傾注し、向かっている状態である。「それを」とは、地などのことである。「遍知された」とは、凡夫のように遍知されていないのでもなく、有学者のように遍知されるべきものでもない。「それゆえに」とは、遍知されたがゆえに、という意味である。

Catutthapañcamachaṭṭhavārā tattha tattha kilesanibbānakittanavasena pavattattā nibbānavārā nāma. Tattha pathavīādīnaṃ pariññātattā amaññanā, sā pana pariññā rāgādīnaṃ khayena siddhāti imassa atthassa dīpanavasena pāḷi pavattāti dassento ‘‘pariññātaṃ tassāti sabbapadehi yojetvā puna khayā rāgassa vītarāgattāti yojetabbaṃ. **Esa nayo itaresū’’**ti āha. Tattha itaresūti pañcamachaṭṭhavāresu. Yadi evaṃ kasmā pāḷi evaṃ na dissatīti āha **‘‘desanā pana ekattha vuttaṃ sabbattha vuttameva hotīti saṃkhittā’’**ti.

第四・第五・第六の句は、それぞれにおいて煩悩の寂滅を称揚することに基づいて説かれているため「涅槃句」と呼ばれる。そこにおいて地などが遍知されたことによって想念しないのであり、その遍知は貪などの滅尽によって成就されたというこの意味を明示するために聖典の本文が説かれていることを示すべく、「『それは彼によって遍知された』とすべての句に結合し、さらに『貪の滅尽によって離貪となったがゆえに』と結合すべきである。他の句においてもこの方法である」と述べた。そこにおいて「他の句において」とは、第五・第六の句においてである。もしそうであるなら、なぜ聖典の本文はそのように見えないのかといえば、「教示は一箇所で説かれたことはすべての箇所で説かれたも同然であるから、簡潔にされているのである」と述べた。

Na khayā rāgassa vītarāgo sabbaso appahīnarāgattā. Vikkhambhitarāgo hi soti. Bāhirakaggahaṇañcettha tathābhāvasseva tesu labbhanato, na tesu eva tathābhāvassa labbhanato. Idāni yā sā ‘‘pariññātaṃ tassā’’ti sabbapadehi yojanā vuttā, taṃ vināpi nibbānavāraatthayojanaṃ dassetuṃ **‘‘yathā cā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha maññanaṃ na maññatīti maññanā nappavattatīti attho. Maññanāya maññitabbattepi tassā vatthuantogadhattāti evamettha attho daṭṭhabbo.

貪の滅尽によらずに離貪であるのは、まったく貪を断じていないからである。彼は伏貪(鎮伏された貪を持つ者)であるからである。またここで外道が挙げられているのは、そのような状態が彼らにのみ見出されるからであり、彼らの中に真の離貪が見出されるからではない。今や「それは彼によって遍知された」とすべての句に結合すると述べられたことについて、それなしでも涅槃句の意味の結合を示すために「また……のように」などと述べられた。そこにおいて「想念を想念しない」とは、想念が生起しないという意味である。想念によって想念されるべきものであっても、それが対象の中に含まれているからであると、このようにここで意味を理解すべきである。

Yadipi pariññātapadaṃ aggahetvā nibbānavāradesanā pavattā, evampi ‘‘khayā’’tiādipadehi pariññāsiddhi eva pakāsīyatīti ko tesaṃ visesoti codanaṃ sandhāyāha **‘‘ettha cā’’**tiādi. Maggabhāvanāpāripūridassanatthaṃ vutto, maggakiccantā hi pariññāyoti adhippāyo. Itare…pe… veditabbā vītarāgādikittanatoti. Dvīhi vā kāraṇehīti yathāvuttakāraṇadvayena. Assāti khīṇāsavassa. Ayaṃ visesoti idāni vuccamāno viseso. Yadipi khīṇāsavo ekantena vītarāgo vītadoso vītamoho eva ca hoti, yāya pana pubbabhāgapaṭipadāya vītarāgatādayo savisesāti vattabbataṃ labhanti, taṃ dassento **‘‘tīsu hī’’**tiādimāha. ‘‘Ratto atthaṃ na jānātī’’tiādinā (netti. 11) rāge ādīnavaṃ passato ‘‘rāgo ca nāma sukhābhisaṅgena uppajjati, sukhañca vipariṇāmato dukkhaṃ. Pageva itara’’nti sahetuke rāge ādīnavadassanaṃ dukkhānupassanāya nimittaṃ, dukkhānupassanā ca paṇidhiyā paṭipakkhabhāvato appaṇihitavimokkhaṃ paripuretīti āha **‘‘rāge…pe… vītarāgo hotī’’**ti. Tathā ‘‘duṭṭho atthaṃ na jānātī’’tiādinā (itivu. 88) dose ādīnavaṃ passato ‘‘doso ca nāma dukkhaṃ paṭicca uppajjati, tañca ubhayaṃ anavaṭṭhitaṃ ittaraṃ pabhaṅgū’’ti sahetuke dose ādīnavadassanaṃ aniccānupassanāya nimittaṃ, aniccānupassanā ca niccanimittādīnaṃ paṭipakkhabhāvato animittavimokkhaṃ paripūretīti āha **‘‘dose…pe… hotī’’**ti. Tathā ‘‘mūḷho atthaṃ na jānātī’’tiādinā (itivu. 88) mohe ādīnavaṃ passato ‘‘moho nāma yathāsabhāvaggahaṇassa paribbhamanto’’ti mohassa vikkhambhanaṃ anattānupassanāya nimittaṃ, anattānupassanāya ca attābhinivesassa paṭipakkhabhāvato suññataṃ vimokkhaṃ paripūretīti āha **‘‘mohe…pe… vītamoho hotī’’**ti.

たとえ「遍知された」という語を用いずに涅槃句の教示が説かれたとしても、このように「滅尽によって」などの語によって遍知の成就そのものが明らかにされるのに、それらの違いは何であるのかという問いに関して「またここにおいて」などと述べた。道の修習の完成を示すために説かれたのであり、遍知は道の働きを究極とするからである、というのがその意図である。「他は……(中略)……離貪などの称揚によって知られるべきである」と。「あるいは二つの理由によって」とは、前述の二つの理由によって、である。「彼の」とは、漏尽者のことである。「この相違」とは、今述べられる相違のことである。漏尽者は絶対的に離貪・離瞋・離痴そのものであるが、事前の実践段階によって離貪などに相違があると語られる根拠を示すために「実に三つにおいて」などと述べた。「貪る者は利義を知らず」などによって貪の過患を見る者にとって、「貪というものは楽への執着から生じ、楽は変易するがゆえに苦である。他のものはなおさらである」と原因を伴う貪において過患を見ることは苦の随観の機縁となり、苦の随観は願求と相反するがゆえに無願解脱を満たすので、「貪において……(中略)……離貪となる」と述べた。同様に「瞋る者は利義を知らず」などによって瞋の過患を見る者にとって、「瞋というものは苦に依って生じ、その両者は不安定で一時的で崩壊しやすい」と原因を伴う瞋において過患を見ることは無常の随観の機縁となり、無常の随観は常の相などと相反するがゆえに無相解脱を満たすので、「瞋において……(中略)……となる」と述べた。同様に「痴なる者は利義を知らず」などによって痴の過患を見る者にとって、「痴とは如実なる把握の迷乱である」と痴を鎮伏することは無我の随観の機縁となり、無我の随観は我への執着と相反するがゆえに空解脱を満たすので、「痴において……(中略)……離痴となる」と述べた。

Evaṃ santeti yadi vītarāgatādayo vimokkhavibhāgena vuttā, evaṃ sante. Tasmāti yasmā vimokkhamukhavimokkhānaṃ vasena niyametvā na vuttaṃ, tasmā. Yaṃ kiñci arahato sambhavantaṃ vibhajitvā vuccatīti vārattayadesanā katāti imamatthaṃ dasseti **‘‘yaṃ arahato’’**tiādinā.

「そうであるならば」とは、もし離貪などが解脱の区分によって説かれているならば、そうであるならば、という意味である。「それゆえに」とは、解脱の門と解脱に基づいて限定して説かれたのではないから、それゆえに、という意味である。阿羅漢に生じるいかなるものも分別して説かれるので三つの句の教示がなされたというこの意味を、「阿羅漢のいかなる」などによって示している。

Evaṃ vimuttivibhāgena khīṇāsavassa vibhāgaṃ vārattayadesanānibandhanaṃ dassetvā idāni avibhāgenapi tattha pariññāvisayassa anusayavisayassa ca vibhāgaṃ tassa nibandhanaṃ dassento **‘‘avisesenā’’**tiādimāha. Tattha upekkhāvedanā visesato saṅkhāradukkhaṃ sammohādhiṭṭhānanti vuttaṃ **‘‘saṅkhāra…pe… moho’’**ti. Sesaṃ vuttanayattā suviññeyyameva.

このように解脱の区分によって漏尽者の区分を三つの句の教示の根拠として示し、今や無分別によってもそこでの遍知の対象と随眠の対象の区分をその根拠として示すために「無差別によって」などと述べた。そこにおいて捨受は特に行苦であり、迷妄の拠り所であるゆえに「行……(中略)……痴」と述べられた。残りはすでに説かれた方法によるため、実に容易に理解できる。

Khīṇāsavavāratatiyādinayavaṇṇanā niṭṭhitā.

漏尽者句第三等の方法の釈義を終わる。

Tathāgatavārasattamanayavaṇṇanā

如来句第七の方法の釈義

12. Yehi (dī. ni. abhi. ṭī. 1.7.cūḷasīlavaṇṇanā; a. ni. ṭī. 1.1.170) guṇavisesehi nimittabhūtehi bhagavati ‘‘tathāgato’’ti ayaṃ samaññā pavattā, taṃ dassanatthaṃ **‘‘aṭṭhahi kāraṇehi bhagavā tathāgato’’**tiādi vuttaṃ. Guṇanemittakāneva hi bhagavato sabbāni nāmāni. Yathāha –

12. いかなる徳の卓越性が原因となって、世尊において「如来」というこの名称が通用したのかを示すために、「八つの理由によって世尊は如来である」などと説かれた。実に世尊の一切の名号は功徳に由来するものだからである。次のように説かれている通りである。

‘‘Asaṅkhyeyyāni nāmāni, saguṇena mahesino;

「大仙(世尊)の功徳による名号は無数であり、

Guṇena nāmamuddheyyaṃ, api nāmasahassato’’ti. (dha. sa. aṭṭha. 1313; udā. aṭṭha. 53; paṭi. ma. aṭṭha. 1.76; dī. ni. abhi. ṭī. 1.7.cūḷasīlavaṇṇanā; a. ni. ṭī. 1.1.170) –

功徳に基づく名は、実に千の名をも超える」と。

Tathā āgatoti ettha ākāraniyamanavasena opammasampaṭipādanattho tathā-saddo. Sāmaññajotanā hi visese avatiṭṭhatīti paṭipādagamanattho āgata-saddo, na ñāṇagamanattho ‘‘tathalakkhaṇaṃ āgato’’tiādīsu (dī. ni. aṭṭha. 1.7; ma. ni. aṭṭha. 1.12; saṃ. ni. aṭṭha. 2.3.78; a. ni. aṭṭha. 1.1.170; udā. aṭṭha. 18; itivu. aṭṭha. 38; theragā. aṭṭha. 1.1.3; bu. vaṃ. aṭṭha. 2.bāhiranidāna; mahāni. aṭṭha. 14) viya, nāpi kāyagamanādiattho ‘‘āgato kho mahāsamaṇo, māgadhānaṃ giribbaja’’ntiādīsu (mahāva. 63) viya. Tattha yadākāraniyamanavasena opammasampaṭipādanattho tathā-saddo, taṃ karuṇāppadhānattā mahākaruṇāmukhena purimabuddhānaṃ āgamanapaṭipadaṃ udāharaṇavasena sāmaññato dassento yaṃtaṃsaddānaṃ ekantasambandhabhāvato **‘‘yathā sabbaloka…pe… āgatā’’**ti sādhāraṇato vatvā puna taṃ paṭipadaṃ mahāpadānasuttādīsu (dī. ni. 2.4) sambahulaniddesena supākaṭānaṃ āsannānañca vipassīādīnaṃ channaṃ sammāsambuddhānaṃ vasena dassento **‘‘yathā vipassī bhagavā’’**tiādimāha. Tattha yena abhinīhārenāti manussatta-liṅgasampatti-hetu-satthāradassana-pabbajjā-abhiññādiguṇasampatti-adhikāra-chandānaṃ vasena aṭṭhaṅgasamannāgatena kāyapaṇidhānamahāpaṇidhānena. Sabbesañhi sammāsambuddhānaṃ kāyapaṇidhānaṃ imināva nīhārena samijjhatīti.

「そのように来られた( tathā āgato )」において、様相の限定による比喩を成就する意味が「 tathā 」という語である。一般的な表現は特殊性にとどまるものであるから、行道を進むという意味が「 āgata 」という語であり、「如実なる特徴へと達した」などのように智慧が進むという意味ではなく、また「大沙門はマガダ国の山城へとやって来た」などのように身体の歩行などの意味でもない。そこにおいて、様相の限定による比喩を成就する意味としての「 tathā 」という語を、大悲が主であることから大悲の観点を通じて、過去の諸仏の来現の行道を実例として一般的に示すべく、相関代名詞の必然的な結合関係から「一切の世界が……(中略)……来られたように」と共通して述べて、さらにその行道を『大本経』などにおける豊富な説示によって極めて明白で身近なヴィパッシー仏ら六人の正等覚者に基づいて示すために「ヴィパッシー世尊が……のように」などと述べた。そこにおいて「いかなる誓願によって」とは、人間であること、男性であること、因縁の具足、師との出逢い、出家、神通などの功徳の成就、献身、意欲という八事を具備した身の誓願・大誓願によってである。実に一切の正等覚者の身の誓願はこの方法によってのみ成就されるからである。

Evaṃ mahābhinīhāravasena ‘‘tathāgato’’ti padassa atthaṃ vatvā idāni pāramīpūraṇavasena dassetuṃ **‘‘atha vā yathā vipassī bhagavā…pe… yathā kassapo bhagavā dānapāramiṃ pūretvā’’**tiādi vuttaṃ. Imasmiṃ pana ṭhāne suttantikānaṃ mahābodhiyānapaṭipadāya kosallajananatthaṃ pāramīkathā vattabbā, sā pana sabbākārasampannā cariyāpiṭakavaṇṇanāya (cariyā. pakiṇṇakakathā) vitthārato niddiṭṭhā, tasmā atthikehi tattha vuttanayeneva veditabbā. Yathā pana pubbe vipassīādayo sammāsambuddhā abhinīhārasampattiyaṃ patiṭṭhāya suvisuddhāya paṭipadāya anavasesato sammadeva sabbā pāramiyo paripūresuṃ, evaṃ amhākampi bhagavā paripūresīti imamatthaṃ sandhāyāha **‘‘samattiṃ sapāramiyo pūretvā’’**ti. Satipi aṅgapariccāgādīnaṃ dānapāramibhāve pariccāgavisesabhāvadassanatthañceva sudukkarabhāvadassanatthañca **‘‘pañca mahāpariccāge’’**ti visuṃ gahaṇaṃ, tatoyeva ca aṅgapariccāgato visuṃ nayanapariccāgaggahaṇampi kataṃ, pariggahapariccāgabhāvasāmaññepi dhanarajjapariccāgato puttadārapariccāgaggahaṇañca kataṃ.

このように大誓願に基づいて「如来」という語の意味を述べ、今や波羅蜜の充足に基づいて示すために「あるいは、ヴィパッシー世尊が……(中略)……カッサパ世尊が布施波羅蜜を満たして……のように」などと述べられた。しかしこの箇所において、経典に親しむ者たちに大菩提乗の行道に関する巧みな理解を生ぜしめるために波羅蜜に関する説話が語られるべきであるが、それはあらゆる様相を具足して『所行蔵』の注釈において詳細に説示されているので、それを求める者たちはそこで説かれた方法によって理解すべきである。しかし、かつてヴィパッシー仏らの正等覚者たちが誓願の成就に立脚し、極めて清浄な行道によって余すところなく正しく一切の波羅蜜を満たされたように、我らの世尊も満たされたというこの意味を意図して「三十の波羅蜜を満たして」と述べた。肢体の放棄などが布施波羅蜜に含まれるとしても、格別な放棄の状態を示すため、また極めてなし難いことであることを示すために「五つの大放棄」と別個に挙げられており、まさにそれゆえに肢体の放棄とは別個に眼の放棄も挙げられ、所有物の放棄という共通性がありながらも財産や王位の放棄とは別個に妻子を捨てることも挙げられているのである。

Gatapaccāgatikavattapūraṇādikāya pubbabhāgapaṭipadāya saddhiṃ abhiññāsamāpattinipphādanaṃ pubbayogo, dānādīsuyeva sātisayapaṭipattinipphādanaṃ pubbacariyā, sā cariyāpiṭakasaṅgahitā. Abhinīhāro pubbayogo, dānādipaṭipatti, kāyavivekavasena ekacariyā vā pubbacariyāti keci. Dānādīnañceva appicchatādīnañca saṃsāranibbānesu ādīnavānisaṃsānañca vibhāvanavasena sattānaṃ bodhittaye patiṭṭhāpanaparipācanavasena ca pavattā kathā dhammakkhānaṃ, ñātīnaṃ atthacariyā ñātatthacariyā, sāpi karuṇāya vaseneva. Ādi-saddena lokatthacariyādayo saṅgaṇhāti. Kammassakatañāṇavasena, anavajjakammāyatanasippāyatanavijjāṭṭhānaparicayavasena khandhāyatanādiparicayavasena, lakkhaṇattayatīraṇavasena ca ñāṇacāro buddhicariyā, sā pana atthato paññāpāramīyeva, ñāṇasambhāradassanatthaṃ visuṃ gahaṇaṃ. Koṭīti pariyanto, ukkaṃsoti attho.

往復の義務の履行などの事前の行道とともに神通や等至を達成することが「前世の専修( pubbayoga )」であり、布施などにおいて卓越した行いを達成することが「前世の所行( pubbacariyā )」であり、それは『所行蔵』に含まれている。誓願が前世の専修であり、布施などの修行、あるいは身の遠離による独住の修行が前世の所行であると説く者たちもいる。布施などの徳や少欲などの徳、ならびに輪廻と涅槃における過患と功徳を明らかにすることによって、また有情たちを三菩提に確立させ成熟させることによってなされた説法が「法話」であり、親族のために利益をなす行いが「親族のための所行」であり、それもまた慈悲の力によるものである。「〜など」という語によって世のための所行などを包含している。自業智の力によって、罪なき生業の領域・技術の領域・学問の領域への精通によって、蘊や処などへの精通によって、また三相の審察によって智慧を行使することが「智慧の所行」であり、それは実質的には般若波羅蜜そのものであるが、智慧の資糧を示すために別個に挙げられている。「究極」とは限界であり、最上の極致という意味である。

Cattāro satipaṭṭhāne bhāvetvā brūhetvāti sambandho. Tattha bhāvetvāti uppādetvā. Brūhetvāti vaḍḍhetvā. Satipaṭṭhānādiggahaṇena āgamanapaṭipadaṃ matthakaṃ pāpetvā dasseti. Vipassanāsahagatā eva vā satipaṭṭhānādayo daṭṭhabbā. Ettha ca ‘‘yena abhinīhārenā’’tiādinā āgamanapaṭipadāya ādiṃ dasseti, ‘‘dānapāramī’’tiādinā majjhaṃ, ‘‘cattāro satipaṭṭhāne’’tiādinā pariyosānanti veditabbaṃ.

「四念処を修習し、増大させて」と結合する。そこにおいて「修習して」とは生じさせて。「増大させて」とは発展させて、という意味である。念処などを挙げることによって、来現の行道が頂点に達したことを示している。あるいは念処などは止観を伴うものとして見るべきである。そしてここにおいて、「いかなる誓願によって」などによって来現の行道の初めを示し、「布施波羅蜜」などによって中間を示し、「四念処」などによって究極を示していると理解すべきである。

Sampatijātoti muhuttajāto manussānaṃ hatthato muttamatto, na mātukucchito nikkhantamatto. Nikkhantamattañhi mahāsattaṃ paṭhamaṃ brahmāno suvaṇṇajālena paṭiggaṇhiṃsu, tesaṃ hatthato cattāro mahārājāno ajinappaveṇiyā, tesaṃ hatthato manussā dukūlacumbaṭakena paṭiggaṇhiṃsu, manussānaṃ hatthato muccitvā pathaviyaṃ patiṭṭhitoti. Yathāha bhagavā mahāpadānadesanāyaṃ. Setamhi chatteti dibbasetacchatte. Anudhārīyamāneti dhārīyamāne. Ettha ca chattaggahaṇeneva khaggādīni pañca kakudhabhaṇṭānipi vuttānevāti daṭṭhabbaṃ. Khaggatālavaṇṭamorahatthakavālabījanīuṇhīsapaṭṭāpi hi chattena saha tadā upaṭṭhitā ahesuṃ, chattādīniyeva ca tadā paññāyiṃsu, na chattādiggāhakā. Sabbā ca disāti dasapi disā. Nayidaṃ sabbadisāvilokanaṃ sattapadavītihāruttarakālaṃ daṭṭhabbaṃ. Mahāsatto hi manussānaṃ hatthato muccitvā puratthimadisaṃ olokesi. Tattha devamanussā gandhamālādīhi pūjayamānā ‘‘mahāpurisa idha tumhehi sadisopi natthi, kuto uttaritaro’’ti āhaṃsu. Evaṃ catasso disā, catasso anudisā; heṭṭhā, uparīti sabbā disā anuviloketvā sabbattha attanā sadisaṃ adisvā ‘‘ayaṃ uttarā disā’’ti tattha sattapadavītihārena agamāsi. Āsabhinti uttamaṃ. Aggoti sabbapaṭhamo. Jeṭṭho seṭṭhoti ca tasseva vevacanaṃ. Ayamantimā jāti, natthi dāni punabbhavoti imasmiṃ attabhāve pattabbaṃ arahattaṃ byākāsi.

「生後まもなく」とは、生まれた瞬間に人々の手から離れたばかりの時のことであり、母の胎内から出たばかりの時のことではない。母胎を出たばかりの大士を、まず梵天たちが黄金の網で受け止め、彼らの手から四大天王が鹿革の敷物で受け止め、彼らの手から人々が白絹の円座で受け止め、人々の手から離れて大地に立たれたからである。世尊が『大本経』の説示において説かれた通りである。「白い傘蓋のもとで」とは、天の白傘蓋のもとで、という意味である。「かざされつつ」とは、掲げられつつ、ということである。そしてここにおいて、傘蓋を挙げることによって剣などの五つの王権の標章(五種神器)も述べられたものと知るべきである。宝剣、扇、孔雀の尾の払子、毛氈の払子、宝冠もまた傘蓋とともにその時出現したのであり、傘蓋等のみがその時見えて、傘蓋等を持つ者は見えなかったからである。「すべての方向を」とは、十方をである。この全方位を見ることは、七歩の歩行の後のことと見るべきではない。大士は人々の手から離れて東方を御覧になった。そこにおいて神々と人間たちが香や花輪などで供養しながら「偉大なる人よ、ここにあなたに並ぶ者さえおりません。どうして勝る者がおりましょうか」と申し上げた。このように四方、四維、下方、上方とすべての方向を見渡し、どこにも自分に等しい者を見出さず、「これが北の方向である」としてそこへ七歩の歩行によって歩まれた。「雄々しい言葉を」とは、最上の言葉を。「最高である」とは、誰よりも第一であるということ。「長長であり、最上である」というのもそれの同義語である。「これが最後の生まれであり、もはや再生はない」と、この生涯において達成されるべき阿羅漢果を宣言されたのである。

Anekesaṃ visesādhigamānaṃ pubbanimittabhāvenāti saṃkhittena vuttamatthaṃ **‘‘yañhī’’**tiādinā vitthārato dasseti. Tattha etthāti –

「多くの卓越した境地の獲得の前兆として」と簡潔に述べられた意味を、「実に……」などによって詳細に示している。そこにおいて「ここにおいて」とは、

‘‘Anekasākhañca sahassamaṇḍalaṃ,

「多くの枝分かれを持ち、千の輪を持つ

Chattaṃ marū dhārayumantalikkhe;

傘蓋を、神々は虚空にかざした。

Suvaṇṇadaṇḍā vītipatanti cāmarā,

黄金の柄を持つ払子が翻るが、

Na dissare cāmarachattagāhakā’’ti. (su. ni. 693);

払子や傘蓋を持つ者たちの姿は見えない」という(経集693)、

Imissā gāthāya. Sabbaññutaññāṇameva sabbattha appaṭihatacāratāya anāvaraṇañāṇanti āha **‘‘sabbaññutānāvaraṇañāṇapaṭilābhassā’’**ti. Tathā ayaṃ bhagavāpi gato…pe… pubbanimittabhāvenāti etena abhijātiyaṃ dhammatāvasena uppajjanakavisesā sabbabodhisattānaṃ sādhāraṇāti dasseti. Pāramitānissandā hi teti.

この詩句においてである。一切智智こそがすべての所縁において妨げられることなく働くことから無礙智であるので、「一切智・無礙智の獲得の」と述べている。「同様にこの世尊も進まれた……(中略)……前兆として」とは、これによって誕生に際して法の本性によって生じる卓越した特徴は、一切の菩薩に共通のものであることを示している。実にそれらは波羅蜜の果報だからである。

Vikkamīti agamāsi. Marūti devā. Samāti vilokanasamatāya samā sadisiyo. Mahāpuriso hi yathā ekaṃ disaṃ vilokesi, evaṃ sesadisāpi, na katthaci vilokane vibandho tassa ahosīti. Samāti vā viloketuṃ yuttā, visamarahitāti attho. Na hi tadā bodhisattassa virūpabībhacchavisamarūpāni viloketuṃ ayuttāni disāsu upaṭṭhahantīti.

「歩まれた」とは、行かれたという意味である。「神々」とは天のこと。「平等に」とは、見る能力が等しいがゆえに等しく、均等であるということである。大士が一つの方向を御覧になったように、他の方向も同様であり、どこを見る際にも彼に妨げはなかったからである。あるいは「平等に」とは、見るにふさわしく、偏りがないという意味である。実にその時、菩薩が見るのにふさわしくない醜悪・奇怪・不均整な姿が諸方に出現することはなかったからである。

Evaṃ ‘‘tathā gato’’ti kāyagamanaṭṭhena gata-saddena tathāgata-saddaṃ niddisitvā idāni ñāṇagamanaṭṭhena taṃ dassetuṃ **‘‘atha vā’’**tiādimāha. Tattha nekkhammenāti alobhappadhānena kusalacittuppādena. Kusalā hi dhammā idha nekkhammaṃ, na pabbajjādayo, ‘‘paṭhamajjhāna’’nti (dī. ni. abhi. ṭī. 1.7.cūḷasīlavaṇṇanā; a. ni. ṭī. 1.1.170) ca vadanti. Pahāyāti pajahitvā. Gato adhigato, paṭipanno uttarivisesanti attho. Pahāyāti vā pahānahetu, pahānalakkhaṇaṃ vā. Hetulakkhaṇattho hi ayaṃ pahāya-saddo. Kāmacchandādippahānahetukaṃ ‘‘gato’’ti hettha vuttaṃ gamanaṃ avabodho, paṭipatti eva vā kāmacchandādippahānena ca lakkhīyatīti. Esa nayo padāletvātiādīsupi. Abyāpādenāti mettāya. Ālokasaññāyāti vibhūtaṃ katvā manasikaraṇena (dī. ni. abhi. ṭī. 1.7.cūḷasīlavaṇṇanā) upaṭṭhitaālokasañcānanena. Avikkhepenāti samādhinā. Dhammavavatthānenāti kusalādidhammānaṃ yāthāvanicchayena. ‘‘Sappaccayanāmarūpavavatthānenā’’tipi vadanti.

このように「そのように行かれた( tathā gato )」と身体の歩行の意味としての「 gata 」という語によって「如来」という語を説き示し、今や智慧の歩行の意味としてそれを示すために「あるいは」などと述べた。そこにおいて「出離によって」とは、無貪を主とする善なる心の生起によって、という意味である。善なる法こそがここでの出離であり、出家などのことではなく、「初禅」であるとも言う。「捨てて」とは、放棄して。「行かれた」とは体得された、上位の卓越した境地へと進まれた、という意味である。あるいは「捨てて」とは断捨の原因、あるいは断捨の特徴である。この「捨てて」という語は原因と特徴の意味を持つからである。欲愛などの断捨を原因として「行かれた」とここで説かれる歩行は覚知であり、あるいは修行そのものであって、欲愛などの断捨によって特徴づけられるからである。この方法は「打ち破って」などにおいても同様である。「無瞋によって」とは、慈しみによって。「光明想によって」とは、明瞭にして作意することによって現前した光の想念によって。「無散乱によって」とは、三昧によって。「法の確定によって」とは、善などの法の真実の決定によって。「原因を伴う名色の確定によって」とも言う。

Evaṃ kāmacchandādinīvaraṇappahānena ‘‘abhijjhaṃ loke pahāyā’’tiādinā (vibha. 508) vuttāya paṭhamajjhānassa pubbabhāgapaṭipadāya bhagavato tathāgatabhāvaṃ dassetvā idāni saha upāyena aṭṭhahi samāpattīhi aṭṭhārasahi ca mahāvipassanāhi taṃ dassetuṃ **‘‘ñāṇenā’’**tiādimāha. Nāmarūpapariggahakaṅkhāvitaraṇānañhi vinibandhabhūtassa mohassa dūrīkaraṇena ñātapariññāyaṃ ṭhitassa aniccasaññādayo sijjhanti, tathā jhānasamāpattīsu abhiratinimittena pāmojjena. Tattha ‘‘anabhiratiyā vinoditāya jhānādīnaṃ samadhigamo’’ti samāpattivipassanānaṃ arativinodanaavijjāpadālanādīni upāyo, uppaṭipāṭiniddeso pana nīvaraṇasabhāvāya avijjāya heṭṭhā nivaraṇesupi saṅgahadassanatthanti daṭṭhabbaṃ. Samāpattivihārappavesavibandhanena nīvaraṇāni kavāṭasadisānīti āha **‘‘nīvaraṇakavāṭaṃ ugghāṭetvā’’**ti. ‘‘Rattiṃ anuvitakketvā anuvicāretvā divā kammante payojetī’’ti (ma. ni. 1.251) vuttaṭṭhāne vitakkavicārā dhūmāyanāti adhippetāti āha **‘‘vitakkavicāradhūma’’**nti. Kiñcāpi paṭhamajjhānupacāreyeva dukkhaṃ, catutthajjhānupacāre ca sukhaṃ pahīyati, atisayappahānaṃ pana sandhāyāha **‘‘catutthajjhānena sukhadukkhaṃ pahāyā’’**ti.

このように欲愛などの蓋の断捨によって「世における貪欲を捨てて」などと説かれた初禅の事前の行道により、世尊が如来であることを示し、今や方便を伴う八等至と十八の大止観によってそれを示すために「智慧によって」などと述べた。名色の把握と疑惑の克服の妨げとなる迷妄を除去することによって、知遍知にとどまる者に無常想などが成就し、同様に禅定の等至における歓喜を機縁とする喜びによって成就するからである。そこにおいて「不快が払われたときに禅定等の体得がある」と、等至と止観にとって不快の除去や無明の破砕などが方便であり、順序を逆にした説示は、蓋の性質を持つ無明が下位の諸蓋にも含まれることを示すためのものと知るべきである。等至という境地に入るのを妨げることから、諸蓋は扉のようなものであるゆえに「諸蓋の扉を開けて」と述べた。「夜に思惟し考察して、昼に仕事を実践する」と説かれた箇所において、尋と伺は煙を立てることとして意図されているゆえに「尋と伺の煙を」と述べた。初禅の近行において苦が、第四禅の近行において楽が断ぜられるのであるが、究極の断捨を意図して「第四禅によって苦楽を捨てて」と述べたのである。

Aniccassa, aniccanti ca anupassanā aniccānupassanā, tebhūmakadhammānaṃ aniccataṃ gahetvā pavattāya vipassanāyetaṃ nāmaṃ. Niccasaññanti saṅkhatadhammesu ‘‘niccā sassatā’’ti evaṃpavattamicchāsaññaṃ. Saññāsīsena diṭṭhicittānampi gahaṇaṃ daṭṭhabbaṃ. Esa nayo ito paresupi. Nibbidānupassanāyāti saṅkhāresu nibbijjanākārena pavattāya anupassanāya. Nandinti sappītikataṇhaṃ. Virāgānupassanāyāti saṅkhāresu virajjanākārena pavattāya anupassanāya. Nirodhānupassanāyāti saṅkhārānaṃ nirodhassa anupassanāya. Yathā vā saṅkhārā nirujjhantiyeva, āyatiṃ punabbhavavasena na uppajjanti, evaṃ anupassanā nirodhānupassanā. Tenevāha ‘‘nirodhānupassanāya nirodheti, no samudetī’’ti. Muccitukamyatā hi ayaṃ balappattāti. Paṭinissajjanākārena pavattā anupassanā paṭinissaggānupassanā, paṭisaṅkhāsantiṭṭhanā hi ayaṃ. Ādānanti niccādivasena gahaṇaṃ. Santatisamūhakiccārammaṇānaṃ vasena ekattaggahaṇaṃ ghanasaññā. Āyūhanaṃ abhisaṅkharaṇaṃ. Avatthāvisesāpatti vipariṇāmo. Dhuvasaññanti thirabhāvaggahaṇaṃ. Nimittanti samūhādighanavasena sakiccaparicchedatāya ca saṅkhārānaṃ saviggahaggahaṇaṃ. Paṇidhinti rāgādipaṇidhiṃ. Sā panatthato taṇhāvasena saṅkhāresu ninnatā. Abhinivesanti attānudiṭṭhiṃ.

「無常のものを無常であると随観すること」が無常随観であり、三界の諸法の無常性を捉えて生じる止観の名称である。「常想を」とは、有為法において「常であり、永遠である」とこのように生じる誤った想のことである。想を代表として見や心をも把握するものと知るべきである。この方法はこれ以降においても同様である。「厭離随観によって」とは、諸行において厭離する様相によって生じる随観によって、である。「歓喜を」とは、喜を伴う渇愛のことである。「離貪随観によって」とは、諸行において離貪する様相によって生じる随観によって。「滅随観によって」とは、諸行の滅を随観することによって。あるいは諸行が滅するばかりで、未来において再生として生じないように随観することが滅随観である。それゆえにこそ「滅随観によって滅し、生起させない」と説かれた。これは力を得た「脱出を欲する智」だからである。放棄する様相によって生じる随観が捨遣随観であり、これは省察智と立脚智である。「執持」とは、常などとして把握することである。相続・集合・機能・所縁による単一性の把握が「塊想(個体想)」である。「集起」とは形成すること。「変易」とは状態の異変に至ることである。「恒久想」とは、堅固な状態としての把握である。「相」とは、集合などの塊によること、および自らの働きの限定によって、諸行を形態あるものとして把握することである。「願求」とは、貪などの願求である。それは実質的には渇愛の力によって諸行に傾倒することである。「執着」とは、有身見のことである。

Aniccadukkhādivasena sabbadhammatīraṇaṃ adhipaññādhammavipassanā. Sārādānābhinivesanti asāresu sāraggahaṇavipallāsaṃ. Issarakuttādivasena loko samuppannoti abhiniveso sammohābhiniveso. Keci pana ‘‘ahosiṃ nu kho ahaṃ atītamaddhānantiādinā (ma. ni. 1.18; saṃ. ni. 2.20) pavattasaṃsayāpatti **sammohābhiniveso’’**ti vadanti. Saṅkhāresu leṇatāṇabhāvaggahaṇaṃ ālayābhiniveso. ‘‘Ālayaratā ālayasammuditā’’ti (dī. ni. 2.64, 67; ma. ni. 1.281; 2.337; saṃ. ni. 1.172; mahāva. 7, 8) vacanato ālayo taṇhā, sāyeva cakkhādīsu rūpādīsu ca abhinivisanavasena pavattiyā ālayābhinivesoti keci. ‘‘Evaṃvidhā saṅkhārā paṭinissajjīyantī’’ti pavattaṃ ñāṇaṃ paṭisaṅkhānupassanā. Vaṭṭato vigatattā vivaṭṭaṃ, nibbānaṃ, tattha ārammaṇakaraṇasaṅkhātena anupassanena pavattiyā vivaṭṭānupassanā, gotrabhū. Saṃyogābhinivesanti saṃyujjanavasena saṅkhāresu nivisanaṃ. Diṭṭhekaṭṭheti diṭṭhiyā sahajātekaṭṭhe pahānekaṭṭhe ca. Oḷāriketi uparimaggavajjhakilese apekkhitvā vuttaṃ, aññathā dassanena pahātabbāpi dutiyamaggavajjhehi oḷārikāti. Aṇusahagateti aṇubhūte. Idaṃ heṭṭhimamaggavajjhe apekkhitvā vuttaṃ. Sabbakileseti avasiṭṭhasabbakilese. Na hi paṭhamādimaggehi pahīnā kilesā puna pahīyantīti.

無常・苦などによって一切法を審察することが「増上慧法止観」である。「真髄の把握という執着」とは、真髄なきものに真髄を把握する転倒のことである。自在神の創造などによって世界が生起したという執着が「迷妄の執着」である。ある人たちは「『過去の世において私は存在したのだろうか』などによって生じた疑惑に陥ることが迷妄の執着である」と言う。諸行において避難所や救済所としての状態を把握することが「執着所の執着」である。「執着所に喜び、執着所に歓喜する」という言葉から、執着所とは渇愛であり、それそのものが眼などや色などへの執着として生じることから執着所の執着であると説く者たちもいる。「このような諸行は放棄される」と生じる智慧が「省察随観」である。輪廻から離れているゆえに「離繋」とは涅槃のことであり、そこを所縁とすることによる随観によって生じるゆえに「離繋随観」とは種姓智のことである。「結合の執着」とは、結合することによって諸行に執着することである。「見と同等なものにおいて」とは、見と倶生して同一の境地にあるもの、および断捨において同一の境地にあるものにおいて、である。「粗大なものにおいて」とは、上位の道によって断ぜられるべき煩悩を考慮して述べられたものであり、そうでなければ見道によって断ぜられるべきものも第二の道によって断ぜられるべきものよりは粗大である。「微細を伴うものにおいて」とは、微細となったものにおいてである。これは下位の道によって断ぜられるべきものを考慮して述べられたものである。「一切の煩悩において」とは、残余の一切の煩悩においてである。初道などによって断ぜられた煩悩が再び断ぜられることはないからである。

Kakkhaḷattaṃ kathinabhāvo. Paggharaṇaṃ dravabhāvo. Lokiyavāyunā bhastassa viya yena vāyunā taṃtaṃkalāpassa uddhumāyanaṃ, thaddhabhāvo vā, taṃ vitthambhanaṃ. Vijjamānepi kalāpantarabhūtānaṃ kalāpantarabhūtehi samphuṭṭhabhāve taṃtaṃbhūtavivittatā rūpapariyanto ākāsoti yesaṃ yo paricchedo, tehi so asamphuṭṭhova, aññathā bhūtānaṃ paricchedasabhāvo na siyā byāpībhāvāpattito, abyāpitāva asamphuṭṭhatāti yasmiṃ kalāpe bhūtānaṃ paricchedo, tehi asamphuṭṭhabhāvo asamphuṭṭhalakkhaṇaṃ. Tenāha bhagavā ākāsadhātuniddese (dha. sa. 637) ‘‘asamphuṭṭhaṃ catūhi mahābhūtehī’’ti.

「粗剛性」とは硬い状態である。「流出」とは液体の状態である。世間の風によって鞴が膨らむように、いかなる風によってそれぞれの物質群が膨張するか、あるいは強ばった状態となるか、それが「支持(緊張)」である。他の物質群に含まれる地などの要素と、別の物質群に含まれるそれらとの接触状態が存在していても、それぞれの物質群の分離性である物質の限界が空間であるから、いかなる境界を持つものも、それら(空間)とは不接触そのものである。そうでなければ物質の要素に境界という性質がなくなり、遍満してしまうことになるからである。遍満しないことこそが不接触性であるから、物質群において物質の要素の限界となるものが、それらと不接触である状態が「不接触の特徴」である。それゆえ世尊は空間界の説示において「四大種と接触しないもの」(法集論637)と説かれたのである。

Virodhipaccayasannipāte visadisuppatti ruppanaṃ. Cetanāpadhānattā saṅkhārakkhandhadhammānaṃ cetanāvasenetaṃ vuttaṃ **‘‘saṅkhārānaṃ abhisaṅkharaṇalakkhaṇa’’**nti. Tathā hi suttantabhājanīye saṅkhārakkhandhavibhaṅge (vibha. 92) ‘‘cakkhusamphassajā cetanā’’tiādinā cetanāva vibhattā. Abhisaṅkharaṇalakkhaṇā ca cetanā. Yathāha ‘‘tattha katamo puññābhisaṅkhāro? Kusalā cetanā kāmāvacarā’’tiādi. Pharaṇaṃ savipphārikatā. Assaddhiyeti asaddhiyahetu. Nimittatthe bhummaṃ. Esa nayo kosajjetiādīsu. Upasamalakkhaṇanti kāyacittapariḷāhūpasamalakkhaṇaṃ. Līnuddhaccarahite adhicitte pavattamāne paggahaniggahasampahaṃsanesu abyāvaṭatāya ajjhupekkhanaṃ paṭisaṅkhānaṃ pakkhapātupacchedato.

「相違する諸条件が集まったときに変異して生起すること」が「変壊」である。思(意志)が主であることから行蘊の諸法について思に基づいて「諸行の形成の特徴」と述べられた。実に経典の分別による行蘊の解説(分別論92)において「眼触から生じた思」などと思そのものが分別されているからである。思には形成の特徴がある。世尊が「そこにおいて、いかなるものが福行か。欲界の善なる思である」などと説かれた通りである。「充満」とは遍満性である。「不信において」とは、不信を原因として、という意味である。原因の意味における処格である。この方法は「怠惰において」などにおいても同様である。「寂静の特徴」とは、身心の熱悩が寂静となる特徴のことである。沈滞と浮躁を離れた増上心が生じているときに、励起・抑制・歓喜において無関心であることによる「捨(中立性)」は、偏りを断ち切ることによる省察である。

Musāvādādīnaṃ visaṃvādanādikiccatāya lūkhānaṃ apariggāhakānaṃ paṭipakkhabhāvato pariggāhakasabhāvā sammāvācā siniddhabhāvato sampayuttadhamme sammāvācāpaccayasubhāsitānaṃ sotārañca puggalaṃ pariggaṇhātīti tassā pariggāhalakkhaṇaṃ vuttaṃ. Kāyikakiriyā kiñci kattabbaṃ samuṭṭhāpeti, sayañca samuṭṭhahanaṃ ghaṭanaṃ hotīti sammākammanta saṅkhātāya viratiyā samuṭṭhānalakkhaṇaṃ daṭṭhabbaṃ. Sampayuttadhammānaṃ vā ukkhipanaṃ samuṭṭhāpanaṃ kāyikakiriyāya bhārukkhipanaṃ viya. Jīvamānassa sattassa, sampayuttadhammānaṃ vā jīvitindriyappavattiyā, ājīvasseva vā suddhi vodānaṃ. Sasampayuttadhammassa cittassa saṃkilesapakkhe patituṃ adatvā sammadeva paggaṇhanaṃ paggaho.

虚妄の言葉などは欺瞞などの働きを持つゆえに粗野で受容性のないものであり、それと相反することから受容性の性質を持つ正語は、円滑な性質であるゆえに、相応する諸法および正語を機縁とする善き言葉の聴手である人をも包容するがゆえに、それの「包容の特徴」が述べられた。身体の行為は何らかのなすべきことを立ち上げ、自ら立ち上がることが活動となるので、正業と呼ばれる離悪に「作動の特徴」があると知るべきである。あるいは、相応する諸法を持ち上げることが作動であり、身体の行為によって重荷を持ち上げるようなものである。生きている有情の、あるいは相応する諸法の命根の生起によって、あるいは生活そのものの清浄が「清白」である。相応する法を伴う心を雑染の側に陥らせず、正しく奮起させることが「策励」である。

‘‘Saṅkhārā’’ti idha cetanā adhippetāti vuttaṃ **‘‘saṅkhārānaṃ cetanālakkhaṇa’’**nti. Namanaṃ ārammaṇābhimukhabhāvo. Āyatanaṃ pavattanaṃ. Āyatanānaṃ vasena hi āyasaṅkhātānaṃ cittacetasikānaṃ pavatti. Taṇhāya hetulakkhaṇanti vaṭṭassa janakahetubhāvo, maggassa pana nibbānasampāpakattanti ayametesaṃ viseso.

「諸行」とは、ここでは思が意図されているゆえに「諸行の思の特徴」と述べられた。「志向」とは所縁に向かうことである。「処(生起)」とは生起することである。諸処の力によって、来入と呼ばれる心・心所の生起があるからである。「渇愛の原因の特徴」とは、輪廻を生ぜしめる原因である状態のことであり、道は涅槃へと導くものであるというのが、これら(集と道)の相違である。

Tathalakkhaṇaṃ aviparītasabhāvo. Ekaraso aññamaññānativattanaṃ anūnānadhikabhāvo. Yuganaddhā samathavipassanāva. Saddhāpaññā paggahāvikkhepātipi vadanti.

「如実の特徴」とは、転倒なき自性のことである。「一味」とは互いに超越しないことであり、過不足なき状態である。「双運」とは止観そのものである。信と慧、策励と不散乱であるとも言う。

Khīṇoti kilese khepatīti khayo, maggo. Anuppādapariyosānatāya anuppādo, phalaṃ. Passaddhi kilesavūpasamo. Chandassāti kattukāmatāchandassa. Mūlalakkhaṇaṃ patiṭṭhābhāvo. Samuṭṭhānabhāvo samuṭṭhānalakkhaṇaṃ ārammaṇapaṭipādakatāya sampayuttadhammānaṃ uppattihetutā. Samodhānaṃ visayādisannipātena gahetabbākāro, yā saṅgatīti vuccati. Samaṃ saha odahanti anena sampayuttadhammāti vā samodhānaṃ, phasso. Samosaranti sannipatanti etthāti samosaraṇaṃ. Vedanāya vinā appavattamānā sampayuttadhammā vedanānubhavananimittaṃ samosaṭā viya hontīti evaṃ vuttaṃ. Gopānasīnaṃ kūṭaṃ viya sampayuttānaṃ pāmokkhabhāvo pamukhalakkhaṇaṃ. Tato, tesaṃ vā sampayuttadhammānaṃ uttari padhānanti tatuttari, paññuttarā hi kusalā dhammā. Vimuttiyāti phalassa. Tañhi sīlādiguṇasārassa paramukkaṃsabhāvena sāraṃ. Ayañca lakkhaṇavibhāgo chadhātupañcajhānaṅgādivasena taṃtaṃsuttapadānusārena porāṇaṭṭhakathāyaṃ āgatanayena ca katoti daṭṭhabbaṃ. Tathā hi pubbe vuttopi koci dhammo pariyāyantarapakāsanatthaṃ puna dassito. Tato eva ca ‘‘chandamūlakā kusalā dhammā manasikārasamuṭṭhānā phassasamodhānā vedanāsamosaraṇā’’ti, ‘‘paññuttarā kusalā dhammā’’ti, ‘‘vimuttisāramidaṃ brahmacariya’’nti, ‘‘nibbānogadhañhi āvuso brahmacariyaṃ nibbānapariyosāna’’nti (ma. ni. 1.466) ca suttapadānaṃ vasena **‘‘chandassa mūlalakkhaṇa’’**ntiādi vuttaṃ.

「尽きた」とは、煩悩を滅尽させるがゆえに「滅尽」であり、道のことである。不生を究極とすることによって「不生」であり、果のことである。「軽安」とは煩悩の静寂である。「意欲の」とは、なすことを欲する意欲のことである。「根底の特徴」とは、立脚地である状態のことである。「作動の状態」が「作動の特徴」であり、所縁をもたらすことによって相応する諸法の生起の原因となる状態である。「集合」とは、対象などの集まりによって把握されるべき様相であり、接触と呼ばれるものである。あるいは、これによって相応する諸法が等しく共に置かれるゆえに「集合」とは触のことである。「ここに流れ込む、集まる」ゆえに「集合(帰着)」である。受なしには生起しない相応する諸法が、受を経験するために集まったかのようになるゆえに、このように述べられた。垂木に対する棟木のように、相応する諸法の主導者である状態が「主導の特徴」である。それより、あるいはそれら相応する諸法よりもさらに優れ主要であるゆえに「最勝」であり、善なる諸法は慧を最勝とするからである。「解脱の」とは、果のことである。それは戒などの功徳の真髄の究極の極致であることによって「真髄」である。そしてこの特徴の分析は、六界や五禅支などの力によって、それぞれの経典の語句に従って、古註釈に伝わる方法によってなされたものと知るべきである。実に、前に述べられた法であっても、別の観点を明らかにするために再び示されているからである。それゆえにこそ「意欲を根底とし、作意を作動とし、触を集合とし、受を帰着とする善なる諸法」「智慧を最勝とする善なる諸法」「この清浄行は解脱を真髄とする」「友よ、清浄行は涅槃へと沈潜し、涅槃を究極とする」(中部1.466)という経典の語句に基づいて「意欲の根底の特徴」などと述べられたのである。

Tathadhammā nāma cattāri ariyasaccāni aviparītasabhāvattā. Tathāni taṃsabhāvattā. Avitathāni amusāsabhāvattā. Anaññathāni aññākārarahitattā. Jātipaccayasambhūtasamudāgataṭṭhoti jātipaccayā sambhūtaṃ hutvā sahitassa attano paccayānurūpassa uddhaṃ āgatabhāvo, anupavattanaṭṭhoti attho. Atha vā sambhūtaṭṭho ca samudāgataṭṭho ca sambhūtasamudāgataṭṭho, na jātito jarāmaraṇaṃ na hoti, na ca jātiṃ vinā aññato hotīti jātipaccayasambhūtaṭṭho. Itthañca jātito samudāgacchatīti jātipaccayasamudāgataṭṭho, yā yā jāti yathā yathā paccayo hoti, tadanurūpaṃ pātubhāvoti attho. Avijjāya saṅkhārānaṃ paccayaṭṭhoti etthāpi na avijjā saṅkhārānaṃ paccayo na hoti, na ca avijjaṃ vinā saṅkhārā uppajjanti, yā yā avijjā yesaṃ yesaṃ saṅkhārānaṃ yathā yathā paccayo hoti, ayaṃ avijjāya saṅkhārānaṃ paccayaṭṭho paccayabhāvoti attho.

「如法(タタダンマ)」とは、顛倒なき自性をもつがゆえに四聖諦のことである。その自性をもつがゆえに「真実なるもの(タタ)」。虚偽なき自性をもつがゆえに「不虚妄なるもの(アヴィタタ)」。異なる様相を欠くがゆえに「無変異なるもの(アナンニャタ)」。 「生を条件として生起し到来した義」とは、生の条件から生起して、自己の条件に相応して結合したものの生起し到来した状態、すなわち随転する義である。あるいはまた、生起した義および到来した義を「生起し到来した義」という。生から老死が生じないということはなく、また生を離れて他から生じることもない、ゆえに「生を条件として生起した義」である。このように生から到来するがゆえに「生を条件として到来した義」であり、それぞれの生がそれぞれどのように条件となるか、それに相応して現れ出る義である。 「無明が諸行の条件である義」というここにおいても、無明が諸行の条件でないことはなく、また無明を離れて諸行が生じることもない。それぞれの無明がそれぞれの諸行のどのように条件となるか、これが「無明が諸行の条件である義」であり、条件たる状態の義である。

Bhagavā taṃ sabbākārato jānāti passatīti sambandho. Tenāti bhagavatā. Taṃ vibhajjamānanti yojetabbaṃ. Tanti rupāyatanaṃ. Iṭṭhāniṭṭhādīti ādi-saddena majjhattaṃ saṅgaṇhāti, tathā atītānāgatapaccuppannaparittaajjhattabahiddhātadubhayādibhedaṃ. Labbhamānakapadavasenāti ‘‘rūpāyatanaṃ diṭṭhaṃ, saddāyatanaṃ sutaṃ, gandhāyatanaṃ rasāyatanaṃ phoṭṭhabbāyatanaṃ mutaṃ, sabbaṃ rūpaṃ manasā viññāta’’nti (dha. sa. 966) vacanato diṭṭhapadañca viññātapadañca rūpārammaṇe labbhati, rūpārammaṇaṃ iṭṭhaṃ aniṭṭhaṃ majjhattaṃ parittaṃ atītaṃ anāgataṃ paccuppannaṃ ajjhattaṃ bahiddhā diṭṭhaṃ viññātaṃ rūpaṃ rūpāyatanaṃ rūpadhātu vaṇṇanibhā sanidassanaṃ sappaṭighaṃ nīlaṃ pītakanti evamādīhi anekehi nāmehi.

「世尊はそれをあらゆる様相から知り、見る」という結合関係である。「それによって」とは、世尊によって。「それを分別するにあたり」と結合されるべきである。「それ」とは色処である。「愛らしいもの、愛らしくないもの等」の「等」という語によって中庸なものが包括され、同様に過去・未来・現在、微小、内・外、その双方などの区別も包括される。「得られる語の力によって」とは、「色処は見られ、声処は聞かれ、香処・味処・触処は覚られ、すべての色は意によって識られる」(法集論966)という言葉から、色処には「見られた」という語と「識られた」という語が得られる。すなわち色処は、愛らしいもの、愛らしくないもの、中庸、微小、過去、未来、現在、内、外、見られたもの、識られたもの、色、色処、色界、色光、有対、有見、青、黄などの無数の名称によって得られる。

Terasahi vārehīti rūpakaṇḍe (dha. sa. 616) āgate terasa niddesavāre sandhāyāha. Ekekasmiñca vāre catunnaṃ catunnaṃ vavatthāpananayānaṃ vasena **‘‘dvepaññāsāya nayehī’’**ti āha. Tathameva aviparītadassitāya appaṭivattiyadesanatāya ca. **‘‘Jānāmi abhiññāsi’’**nti vattamānātītakālesu ñāṇappavattidassanena anāgatepi ñāṇappavatti vuttāyevāti daṭṭhabbā. Vidita-saddo anāmaṭṭhakālaviseso veditabbo ‘‘diṭṭhaṃ sutaṃ muta’’ntiādīsu (dha. sa. 966) viya. Na upaṭṭhāsīti attattaniyavasena na upagacchi. Yathā rūpārammaṇādayo dhammā yaṃsabhāvā yaṃpakārā ca, tathā ne passati jānāti gacchatīti tathāgatoti evaṃ padasambhavo veditabbo. Keci pana ‘‘niruttinayena pisodarādipakkhepena (pāṇini 6.3.109) vā dassi-saddassa lopaṃ, āgata-saddassa cāgamaṃ katvā **tathāgato’’**ti vaṇṇenti.

「十三の節によって」とは、色犍度(法集論616)に説かれる十三の解説節を指して言う。そして一節ごとに四つずつの規定の論理の力により、「五十二の論理によって」と言う。顛倒なき智慧によるがゆえに、また逆転させ得ない説法によるがゆえに、「まさにその通り(タタム・エヴァ)」である。「我は知り、我は了知した」と現在と過去における智の作用を示すことによって、未来においても智の作用が説かれていると知るべきである。「知られた(ヴィディタ)」という語は、「見られ、聞かれ、覚られ」などのごとく、特定の時を限定しないものと知るべきである。「現れなかった」とは、我や我所として近づかなかったということである。色処などの法がどのような自性・様相であるか、その通りにこれらを見、知り、達するがゆえに「如来(タターガタ)」であると、このように語の成り立ちを知るべきである。しかしある者たちは「語源解釈の法則、あるいはピソーダラ等の挿入法則(パーニニ 6.3.109)によって、『見者(ダッシ)』の語を脱落させ、『来者(アーガタ)』の語を添加して『如来(タターガタ)』とする」と説明している。

Niddosatāya anupavajjaṃ. Pakkhipitabbābhāvena anūnaṃ. Apanetabbābhāvena anadhikaṃ. Atthabyañjanādisampattiyā sabbākāraparipuṇṇaṃ. No aññathāti ‘‘tathevā’’ti vuttamevatthaṃ byatirekena sampādeti. Tena yadatthaṃ bhāsitaṃ, ekantena tadatthanipphādanato yathā bhāsitaṃ bhagavatā, tathevāti aviparītadesanataṃ dasseti. Gadaatthoti etena tathaṃ gadatīti tathāgatoti da-kārassa ta-kāro kato niruttinayenāti dasseti.

無過失であるがゆえに「過難なきもの」。付け加えるべきものがないがゆえに「欠けたるところなきもの」。除くべきものがないがゆえに「過剰なるところなきもの」。義と文などの成就によって「あらゆる様相において円満なるもの」。「異ならない」とは、「まさにその通り」と説かれた義そのものを背反によって成就させることである。それによって、ある目的のために語られたことは、決定的にその目的を達成するがゆえに、世尊によって語られた通りであること、まさにその通りであるという無顛倒の説法性を顕示している。「語る(ガダ)義」とは、これにより「真実(タタ)を語る(ガダティ)がゆえに如来(タターガタ)」となり、語源解釈の法則によってダ音がタ音とされたことを示している。

Tathā gatamassāti tathāgato. Gatanti ca kāyavācāpavattīti attho. Tathāti ca vutte yaṃtaṃsaddānaṃ abyabhicārisambandhitāya yathāti ayamattho upaṭṭhitoyeva hoti, kāyavacīkiriyānañca aññamaññānulomena vacanicchāyaṃ kāyassa vācā, vācāya ca kāyo sambandhībhāvena upatiṭṭhatīti imamatthaṃ dassento āha **‘‘bhagavato hī’’**tiādi. Imasmiṃ pana atthe tathāvādītāya tathāgatoti ayampi attho siddho hoti. So pana pubbe pakārantarena dassitoti āha **‘‘evaṃ tathākāritāya tathāgato’’**ti.

「そのように(タター)行った(ガタ)がゆえに如来(タターガタ)」である。「行った」とは、身口の働きの義である。「そのように」と言われたとき、関係代名詞と指示代名詞(ヤンとタン)の不離の関係性により、「どのように(ヤター)」というこの義がまさに現出するのであり、身口の行為が相互に順応することによって、言おうと欲する時に身は言葉に、言葉は身に関係する状態として立ち現れる。この義を示すために「世尊はまさに…」等と言った。この義においては「如実に語る者であるがゆえに如来」というこの義も成就する。しかしそれは先に別の様相で示されたため、「このように如実に為す者であるがゆえに如来である」と言った。

Tiriyaṃ aparimāṇāsu lokadhātūsūti etena yadeke ‘‘tiriyaṃ viya upari adho ca santi lokadhātuyo’’ti vadanti, taṃ paṭisedheti. Desanāvilāsoyeva desanāvilāsamayo yathā ‘‘puññamayaṃ, dānamaya’’ntiādīsu.

「水平に広がる無量の世界において」とは、これによってある者たちが「水平と同様に上下にも無量の世界が存在する」と言うのを否定している。「説法の巧妙さそのもの」が説法の巧妙さに満ちていることであり、それは「福徳に満ちた(プンニャマヤ)」「施与に満ちた(ダーナマヤ)」などにおけるのと同様である。

Nipātānaṃ vācakasaddasannidhāne tadatthajotanabhāvena pavattanato gata-saddoyeva avagatatthaṃ atītatthañca vadatīti āha **‘‘gatoti avagato atīto’’**ti.

不変化詞が語義を表す語と結合して存在するとき、その語の義を明示する状態として機能するがゆえに、「ガタ」という語そのものが理解された義と過去の義を語る。ゆえに「『ガタ』とは理解された(アヴァガタ)、過去の(アティーダ)である」と言った。

Atha vā abhinīhārato paṭṭhāya yāva sammāsambodhi, etthantare mahābodhiyānapaṭipattiyā hānaṭṭhānasaṃkilesanivattīnaṃ abhāvato yathā paṇidhānaṃ, tathā gato abhinīhārānurūpaṃ paṭipannoti tathāgato. Atha vā mahiddhikatāya paṭisambhidānaṃ ukkaṃsādhigamena anāvaraṇañāṇatāya ca katthacipi paṭighātābhāvato yathā ruci, tathā kāyavacīcittānaṃ gatāni gamanāni pavattiyo etassāti tathāgato. Yasmā ca loke vidha-yutta-gata-ppakāra-saddā samānatthā dissanti. Tasmā yathāvidhā vipassīādayo bhagavanto, ayampi bhagavā tathāvidhoti tathāgato, yathāyuttā ca te bhagavanto, ayampi bhagavā tathāyuttoti tathāgato. Atha vā yasmā saccaṃ tacchaṃ tathanti ñāṇassetaṃ adhivacanaṃ, tasmā tathena ñāṇena āgatoti tathāgato. Evampi tathāgata-saddassa attho veditabbo.

あるいは、大誓願を立ててから正等覚に至るまで、その間において大菩提の乗り物の実践により衰退や煩悩の退転がないがゆえに、誓願の通りに歩んだ(ガタ)、大誓願に相応して実践したゆえに如来である。あるいは、大神力によること、無礙解の最勝の獲得によること、無碍智によることによって、どこにも障害がないがゆえに、欲する通りに、その身口心の赴き(ガタ)、歩み、作用があるがゆえに如来である。また世間において、「種(ヴィダ)」「相応(ユッタ)」「至る(ガタ)」「様相(パカーラ)」の語は同義語として見られる。それゆえ、毘婆尸仏などの世尊方がいかなる様(ヤターヴィダ)であったか、この世尊もその通りの様(タターヴィダ)であるがゆえに如来であり、それらの世尊方がいかに相応(ヤターユッタ)していたか、この世尊もその通りに相応(タターユッタ)しているがゆえに如来である。あるいは、「真理、真実、如実」とは智の同義語であるから、如実なる智によって来臨された(アーガタ)がゆえに如来である。このように如来という語の義を知るべきである。

Pahāya kāmādimale yathā gatā,

欲などの汚れを捨て去って去った(ガタ)ように、

Samādhiñāṇehi vipassiādayo;

三摩地と諸々の智によって、毘婆尸仏らは。

Mahesino sakyamunī jutindharo,

偉大なる仙人、輝きを放つ釈迦牟尼も、

Tathā gato tena mato tathāgato.

そのように去られた(タター・ガタ)。それゆえ如来(タターガタ)と称される。

Tathañca dhātāyatanādilakkhaṇaṃ,

真実なる界・処などの特徴を、

Sabhāvasāmaññavibhāgabhedato;

自相と共相の分別の区別により、

Sayambhuñāṇena jino samāgato,

自覚の智によって勝者は正しく至られた(サマーガタ)。

Tathāgato vuccati sakyapuṅgavo.

釈迦の雄牛たる勝者は如来(タターガタ)と呼ばれる。

Tathāni saccāni samantacakkhunā,

如実なる四諦を普眼をもって、

Tathā idappaccayatā ca sabbaso;

如実なる此縁性をあますところなく、

Anaññaneyyena yato vibhāvitā,

他に導かれることなく明示されたがゆえに、

Yāthāvato tena jino tathāgato.

ありのままに至られた(タター・ガタ)勝者は如来である。

Anekabhedāsupi lokadhātusu,

幾重にも分かれた無数の世界においても、

Jinassa rūpāyatanādigocare;

勝者の色処などの境域において、

Vicitrabhedaṃ tathameva dassanaṃ,

多様な差異をまさにその通りに見る(タタ・ダッサナ)。

Tathāgato tena samantalocano.

それゆえ普眼ある勝者は如来(タターガタ)である。

Yato ca dhammaṃ tathameva bhāsati,

まさにその通り(タター)に法を語るがゆえに、

Karoti vācāyanulomamattano;

自らの言葉に順じて行為をなし、

Guṇehi lokaṃ abhibhuyyirīyati,

諸徳によって世間を圧倒して歩まれる。

Tathāgato tenapi lokanāyako.

それゆえにまた、世間の導師は如来(タターガタ)である。

Yathābhinīhāramato yathāruci,

大誓願の通りに歩まれ、意のままに、

Pavattavācā tanucittabhāvato;

言葉と身体と心の状態を働かせるがゆえに、

Yathāvidhā yena purā mahesino,

かつての大仙人たちがいかなる様相であったか、

Tathāvidho tena jino tathāgatoti. (itivu. aṭṭha. 38; dī. ni. ṭī. 1.7 cūḷasīlavaṇṇanā);

その通りの様相(タターヴィダ)なるがゆえに勝者は如来(タターガタ)である。(如是語経注38、長部注釈1.7小戒釈)

Ārakattātiādīnaṃ padānaṃ attho visuddhimagge (visuddhi. 1.125) buddhānussatisaṃvaṇṇanāya vuttanayeneva veditabbo. Sammā sāmañca sabbadhammānaṃ buddhattāti imināssa paropadesarahitassa sabbākārena sabbadhammāvabodhanasamatthassa ākaṅkhāpaṭibaddhavuttino anāvaraṇañāṇasaṅkhātassa sabbaññutaññāṇassa adhigamo dassito.

「遠離しているがゆえに」等の語の義は、清浄道論(清浄道論1.125)の仏随念の解説において説かれた方法によって知るべきである。「正しく、自ら一切の法を覚ったがゆえに」とは、これによって、他からの教導を離れ、あらゆる様相によって一切の法を覚知する能力をもち、意欲に応じて作用する、無礙智と呼ばれる一切知智の獲得が示されている。

Nanu ca (itivu. aṭṭha. 38) sabbaññutaññāṇato aññaṃ anāvaraṇañāṇaṃ, aññathā cha asādhāraṇañāṇāni buddhañāṇānīti vacanaṃ virujjheyyāti? Na virujjhati visayappavattibhedavasena aññehi asādhāraṇañāṇabhāvadassanatthaṃ ekasseva ñāṇassa dvidhā vuttattā. Ekameva hi taṃ ñāṇaṃ anavasesasaṅkhatāsaṅkhatasammutidhammavisayatāya sabbaññutaññāṇaṃ, tattha ca āvaraṇābhāvato nissaṅgacāramupādāya anāvaraṇañāṇanti vuttaṃ. Yathāha paṭisambhidāyaṃ (paṭi. ma. 1.119) ‘‘sabbaṃ saṅkhatāsaṅkhatamanavasesaṃ jānātīti sabbaññutaññāṇaṃ, tatthāvaraṇaṃ natthīti anāvaraṇañāṇa’’ntiādi, tasmā natthi nesaṃ atthato bhedo, ekantena cetaṃ evamicchitabbaṃ, aññathā sabbaññutānāvaraṇañāṇānaṃ sāvaraṇatā asabbadhammārammaṇatā ca āpajjeyya. Na hi bhagavato ñāṇassa aṇumatampi āvaraṇaṃ atthi, anāvaraṇañāṇassa ca asabbadhammārammaṇabhāve yattha taṃ nappavattati, tatthāvaraṇasabbhāvato anāvaraṇabhāvoyeva na siyā. Atha vā pana hotu aññameva anāvaraṇañāṇaṃ sabbaññutaññāṇato, idha pana sabbattha appaṭihatavuttitāya anāvaraṇañāṇanti sabbaññutaññāṇameva adhippetaṃ, tassa cādhigamena bhagavā sabbaññū sabbavidū sammāsambuddhoti ca vuccati, na sakimeva sabbadhammāvabodhato. Tathā ca vuttaṃ paṭisambhidāyaṃ (paṭi. ma. 1.162) ‘‘vimokkhantikametaṃ buddhānaṃ bhagavantānaṃ bodhiyā mūle saha sabbaññutaññāṇassa paṭilābhā sacchikā paññatti yadidaṃ buddho’’ti. Sabbadhammāvabodhanasamatthañāṇasamadhigamena hi bhagavato santāne anavasesadhamme paṭivijjhituṃ samatthatā ahosīti.

「一切知智と無礙智とは別のものではないのか。そうでなければ『仏陀の智には六つの不共智がある』という説と矛盾するのではないか」(如是語経注38参照)と問うかもしれない。矛盾はしない。対象の働きの違いにより他の者たちとの不共智であることを示すために、唯一の智が二通りに説かれているからである。まさにその唯一の智が、余すところなき有為・無為・世俗の法を対象とすることから「一切知智」であり、そこにおいて障害がないことから無執着の歩みに基づいて「無礙智」と呼ばれるのである。無礙解道(無礙解道1.119)に「一切の有為・無為を余すところなく知るがゆえに一切知智であり、そこにおいて障害がないがゆえに無礙智である」と説かれている通りである。それゆえ、これらは実義において違いはなく、決定的にこのように認められるべきである。そうでなければ、一切知智と無礙智に障害があること、あるいは一切法を対象としないことが帰結してしまうであろう。世尊の智には微塵の障害もなく、無礙智が一切法を対象としないならば、それが働かないところには障害が存在することになり、無礙であること自体が成り立たないであろう。 あるいは、一切知智と無礙智は別のものであるとしてもよい。しかしここにおいては、至る所で妨げられずに作用することから「無礙智」とは一切知智そのものを意図しており、それを獲得したことによって世尊は「一切知者」「一切識者」「正等覚者」と呼ばれるのであり、一度に一切法を覚知することによるのではない。無礙解道(無礙解道1.162)において次のように説かれている通りである。「仏陀・世尊方のこの菩提樹下での解脱に至る極点とは、一切知智の獲得とともに現証される施設、すなわち『仏陀』である」。一切法を覚知する能力ある智を獲得したことにより、世尊の心相続において余すところなき法を通達する能力が生じたのである。

Etthāha – kiṃ panidaṃ ñāṇaṃ pavattamānaṃ sakiṃyeva sabbasmiṃ visaye pavattati, udāhu kamenāti. Kiñcettha – yadi tāva sakiṃyeva sabbasmiṃ visaye pavattati, atītānāgatapaccuppannaajjhattabahiddhādibhedena bhinnānaṃ saṅkhatadhammānaṃ asaṅkhatasammutidhammānañca ekajjhaṃ upaṭṭhāne dūrato cittapaṭaṃ avekkhantassa viya paṭivibhāgenāvabodho na siyā, tathā ca sati ‘‘sabbe dhammā anattā’’ti vipassantānaṃ anattākārena viya sabbe dhammā anirūpitarūpena bhagavato ñāṇassa visayā hontīti āpajjati. Yepi ‘‘sabbañeyyadhammānaṃ ṭhitalakkhaṇavisayaṃ vikapparahitaṃ sabbakālaṃ buddhānaṃ ñāṇaṃ pavattati, tena te sabbavidūti vuccanti. Evañca katvā ‘caraṃ samāhito nāgo, tiṭṭhantopi samāhito’ti idampi vacanaṃ suvuttaṃ hotī’’ti vadanti, tesampi vuttadosānativatti. Ṭhitalakkhaṇārammaṇatāya hi atītānāgatasammutidhammānaṃ tadabhāvato ekadesavisayameva bhagavato ñāṇaṃ siyā, tasmā sakiṃyeva ñāṇaṃ pavattatīti na yujjati.

ここで問う、「この智が作用するとき、一度にすべての対象に作用するのか、それとも順次に作用するのか」と。ここで何が問題となるのか。もし仮に一度にすべての対象に作用するならば、過去・未来・現在、内・外などの区別によって分かたれた有為法と無為法・世俗法とが一つに現出するとき、遠くから絵画の布を見る者のように、分別による覚知が成り立たないであろう。そしてそうなれば、「一切の法は無我である」と観想する者たちの無我の様相によるように、すべての法が特定されない様相で世尊の智の対象となるという過失が生じる。 また「仏陀の智は、一切の知るべき法の現在している相を対象とし、分別を離れて常に作用しており、それゆえに仏陀は一切識者と呼ばれるのである。このように解釈してこそ『象王たる仏は歩みつつも定にあり、立ちつつも定にある』というこの言葉も正しく説かれたことになる」と言う者たちもいるが、彼らもまた前述の過失を免れない。現在している相を対象とすることによって、過去・未来・世俗の法にはそれが存在しないがゆえに、世尊の智は一分を対象とするものとなってしまうであろう。ゆえに、一度に智が作用するということは成り立たない。

Atha kamena sabbasmiṃ visaye ñāṇaṃ pavattati, evampi na yujjati. Na hi jātibhūmisabhāvādivasena disādesakālādivasena ca anekabhedabhinne neyye kamena gayhamāne tassa anavasesapaṭivedho sambhavati apariyantabhāvato ñeyyassa. Ye pana ‘‘atthassa avisaṃvādanato ñeyyassa ekadesaṃ paccakkhaṃ katvā sesepi evanti adhimuccitvā vavatthāpanena sabbaññū bhagavā, tañca ñāṇaṃ ananumānikaṃ saṃsayābhāvato. Saṃsayānubandhañhi loke anumānañāṇa’’nti vadanti, tesampi taṃ na yuttaṃ. Sabbassa hi appaccakkhabhāve atthassa avisaṃvādanena ñeyyassa ekadesaṃ paccakkhaṃ katvā sesepi evanti adhimuccitvā vavatthāpanassa asambhavato. Yañhi taṃ sesaṃ, taṃ appaccakkhanti. Atha tampi paccakkhaṃ, tassa sesabhāvo eva na siyāti? Sabbametaṃ akāraṇaṃ. Kasmā? Avisayavicāraṇabhāvato. Vuttañhetaṃ bhagavatā ‘‘buddhavisayo bhikkhave, acinteyyo na cintetabbo, yo cinteyya, ummādassa vighātassa bhāgī assā’’ti (a. ni. 4.77). Idaṃ panettha sanniṭṭhānaṃ – yaṃ kiñci bhagavatā ñātuṃ icchitaṃ sakalamekadeso vā, tattha appaṭihatavuttitāya paccakkhato ñāṇaṃ pavattati, niccasamādhānañca vikkhepābhāvato, ñātuṃ icchitassa ca sakalassa avisayabhāve tassa ākaṅkhāpaṭibaddhavuttitā na siyā, ekanteneva ca sā icchitabbā ‘‘sabbe dhammā buddhassa bhagavato āvajjanapaṭibaddhā ākaṅkhapaṭibaddhā manasikārapaṭibaddhā cittuppādapaṭibaddhā’’ti (mahāni. 69, 156; cūḷani. 85; paṭi. ma. 3.5) vacanato. Atītānāgatavisayampi bhagavato ñāṇaṃ anumānāgamatakkagahaṇavirahitattā paccakkhameva.

では、順次にすべての対象に智が作用するのかというと、これも成り立たない。生類・国土・自性などの差異により、また方角・場所・時間などの差異によって無数に分かたれた知るべき対象が順次に把握されるとき、知るべき対象が無辺であるがゆえに、それを余すところなく通達することはあり得ないからである。 さらに「義に背かないことから、知るべき対象の一分を現証して、残りの部分も同様であると確信して規定することによって世尊は一切知者であり、その智には疑いがないがゆえに推論によるものではない。世間における推論の智は疑いを伴うものである」と言う者たちもいるが、それも妥当ではない。すべてが現証されていない場合、義に背かないことによって知るべき対象の一分を現証して、残りの部分も同様であると確信して規定することは不可能だからである。その残りの部分とは現証されていないものである。もしそれも現証されているならば、それが『残り』であること自体が成り立たないのではないか。 これら(の思弁)はすべて根拠がない。なぜなら、(仏の境地は)思惟の対象外だからである。世尊はこのように説かれたではないか。「比丘たちよ、仏陀の境地は不可思議であり、思惟すべきではない。それを思惟する者は、狂気と苦悩を得るであろう」(増支部4.77)。 これについてここでの結論はこうである。世尊が知ろうと欲したものが全体であろうと一分であろうと、そこにおいて妨げられずに作用することから現証として智が作用するのであり、心の散乱がないがゆえに常に三摩地にある。そして知ろうと欲したすべてのものが対象とならないならば、その智が意欲に応じて作用するということは成り立たなくなってしまう。しかし、「仏陀・世尊の一切の法は、作意に係り、意欲に係り、心に係り、心身の生起に係っている」(大義釈69, 156、小義釈85、無礙解道3.5)という言葉から、それは決定的に認められるべきである。世尊の過去と未来を対象とする智も、推論や伝承や思弁による把握を離れているがゆえに、現証そのものなのである。

Nanu ca etasmimpi pakkhe yadā sakalaṃ ñātuṃ icchitaṃ, tadā sakiṃyeva sakalavisayatāya anirūpitarūpena bhagavato ñāṇaṃ pavatteyyāti vuttadosānativattiyevāti? Na, tassa visodhitattā. Visodhito hi so buddhavisayo acinteyyoti. Aññathā pacurajanañāṇasamānavuttitāya buddhānaṃ bhagavantānaṃ ñāṇassa acinteyyatā na siyā, tasmā sakaladhammārammaṇampi taṃ ekadhammārammaṇaṃ viya suvavatthāpiteyeva te dhamme katvā pavattatīti idamettha acinteyyaṃ, anantañca ñāṇaṃ ñeyyaṃ viya. Vuttañhetaṃ ‘‘yāvatakaṃ ñeyyaṃ, tāvatakaṃ ñāṇaṃ. Yāvatakaṃ ñāṇaṃ, tāvatakaṃ ñeyyaṃ. Ñeyyapariyantikaṃ ñāṇaṃ, ñāṇapariyantikaṃ ñeyya’’nti (mahāni. 69, 156; cūḷani. 85; paṭi. ma. 3.5). Evamekajjhaṃ, visuṃ sakiṃ, kamena vā icchānurūpaṃ sammā sāmañca sabbadhammānaṃ buddhattā sammāsambuddho.

「しかし、この立場においても、全体を知ろうと欲したときには、一度にすべての対象を捉えるがゆえに、特定されない様相で世尊の智が作用することになり、前述の過失を免れないのではないか」と問うかもしれない。いや、それは解明されている。不可思議なる仏陀の境地はまさに解明されているのである。そうでなければ、一般の常人の智と同じ働きをすることになり、仏陀・世尊方の智の不可思議さが失われてしまうであろう。それゆえ、全法を対象とするときも、一つの法を対象とする時のように、それらの法を極めて明瞭に規定して作用するのである。これこそがここでの不可思議であり、知るべき対象が無辺であるように智もまた無辺なのである。 「知るべき対象がある限り、智がある。智がある限り、知るべき対象がある。智は知るべき対象を限界とし、知るべき対象は智を限界とする」(大義釈69, 156、小義釈85、無礙解道3.5)と説かれている通りである。このように一括して、あるいは個別に、一度に、あるいは順次に、欲するままに正しく自ら一切法を覚ったがゆえに「正等覚者」なのである。

Tanti yathāvuttaṃ pathavīādibhedaṃ. Pariññātanti parito samantato sabbākārato ñātaṃ, taṃ parijānitabbabhāvaṃ kiñci asesetvā ñātanti attho. Ayameva hi attho ‘‘pariññātanta’’nti imināpi padena pakāsitoti dassento **‘‘pariññātantaṃ nāmā’’**tiādimāha. Tena tena maggena kilesappahānena viseso natthīti idaṃ taṃtaṃmaggavajjhakilesānaṃ buddhānaṃ sāvakānañca tena tena maggeneva pahātabbabhāvasāmaññaṃ sandhāya vuttaṃ, na sāvakehi buddhānaṃ kilesappahānavisesābhāvato. Tathā hi sammāsambuddhā eva savāsanakilese jahanti, na sāvakā. Ekadesamevāti attano santānagatameva. Sasantatipariyāpannadhammapariññāmattenapi hi catusaccakammaṭṭhānabhāvanā samijjhati. Tenevāha – ‘‘imasmiṃyeva byāmamatte kaḷevare sasaññimhi samanake lokañca paññapemi lokasamudayañca paññapemī’’tiādi (saṃ. ni. 1.107; a. ni. 4.45). Aṇuppamāṇampi …pe… natthi, yato chattiṃsakoṭisatasahassamukhena buddhānaṃ mahāvajirañāṇaṃ pavattatīti vadanti.

「それ」とは、前述の地などの区別のことである。「遍知された」とは、あまねく、完全に、あらゆる様相から知られたということであり、その遍知されるべき状態を何一つ残さず知られたという義である。まさにこの義が「遍知の極限」というこの語によっても明らかにされていることを示すために、「遍知の極限とは…」等を説いた。「それぞれの道によって煩悩を断ずることにおいて差異はない」とは、それぞれの道によって断じられるべき煩悩を、仏陀たちも弟子たちもそれぞれの道によってのみ断ずべきであるという共通性を指して言ったのであり、弟子たちと仏陀たちとの間に煩悩の断滅の差異がないということからではない。実に、正等覚者たちのみが習気とともに煩悩を断ずるのであり、弟子たちはそうではないからである。「一分のみを」とは、自己の心相続に属するもののみを、ということである。自己の相続に含まれる法の遍知のみによっても、四諦の業処の修習は成就するからである。それゆえに「想いあり、心あるこの一尋の身体においてこそ、世間と、世間の集起とを施設する」(相応部1.107、増支部4.45)等と説かれたのである。微塵の量も…中略…存在しない。三十六億十万の門口によって仏陀たちの大金剛智が作用するからである、と彼らは言う。

Tathāgatavārasattamanayavaṇṇanā niṭṭhitā.

如来の節の第七の論理の解説は終了した。

Tathāgatavāraaṭṭhamanayavaṇṇanā

如来の節の第八の論理の解説

13. Purimataṇhāti purimataresu bhavesu nibbattā paccuppannattabhāvahetubhūtā taṇhā. Taggahaṇeneva ca atītaddhasaṅgahā avijjāsaṅkhārā saddhiṃ upādānena saṅgahitāti daṭṭhabbā. Etthāti ‘‘bhavā jātī’’ti etasmiṃ pade. Tena upapattibhavenāti ‘‘bhavā jātī’’ti jātisīsena vuttaupapattibhavena. Bhūtassāti nibbattassa. So pana yasmā satto nāma hoti, tasmā vuttaṃ **‘‘sattassā’’**ti. Evañca jānitvāti iminā **‘‘bhūtassa jarāmaraṇa’’**nti etthāpi ‘‘iti viditvā’’ti idaṃ padaṃ ānetvā yojetabbanti dasseti.

13.「以前の愛執」とは、以前の幾多の生存において生じ、現在の生存の因となった愛執のことである。そしてそれを把握することによって、過去世に包括される無明と諸行が取とともに把握されていると知るべきである。「ここにおいて」とは、「有より生あり」というこの句において。「その生起の有によって」とは、「有より生あり」と生を首魁として説かれた生起の有によって。「生じた者の」とは、生まれた者の。しかしそれは「衆生」と呼ばれるがゆえに、「衆生の」と言った。「このように知って」とは、これによって「生じた者の老死」というここにも「このように知って」というこの句を導いて結合すべきであることを示している。

Yadipi tebhūmakā upādānakkhandhā ‘‘yaṃ kiñci rūpa’’ntiādinā (vibha. 2; ma. ni. 1.244) ekādasasu okāsesu pakkhipitabbā sammasitabbā ca, te pana yasmā bhagavatā ‘‘kimhi nu kho sati jarāmaraṇaṃ hoti, kiṃpaccayā jarāmaraṇa’’ntiādinā (dī. ni. 2.57; saṃ. ni. 2.4, 10) paṭiccasamuppādamukhena sammasitā, paṭiccasamuppādo ca pavattipavattihetubhāvato purimasaccadvayameva hoti, tasmā tadabhisamayaṃ ‘‘maññanābhāvahetu paccayākārapaṭivedho’’ti vibhāvento **‘‘yaṃ bodhirukkhamūle…pe… dassento’’**ti āha. Saṃkhippanti ettha avijjādayo viññāṇādayo cāti saṅkhepā, atīte hetuādayo ‘‘hetu, phala’’nti evaṃ saṃkhippantīti vā saṅkhepā, avijjādayo viññāṇādayo ca. Saṅkhepa-saddo bhāgādhivacananti daṭṭhabbo. Tenāha **‘‘koṭṭhāsāti attho’’**ti. Te pana atīte hetusaṅkhepo, etarahi phalasaṅkhepo, etarahi hetusaṅkhepo, āyatiṃ phalasaṅkhepoti cattāro saṅkhepā etassāti catusaṅkhepo, taṃ catusaṅkhepaṃ. Hetuphalasandhi, phalahetusandhi, puna hetuphalasandhīti evaṃ tayo sandhī etassāti tisandhi, taṃ tisandhiṃ. Atītapaccuppannānāgatabhedā tayo addhā etassāti tiyaddho, taṃ tiyaddhaṃ. Sarūpato avuttāpi tasmiṃ tasmiṃ saṅkhepe ākirīyanti avijjāsaṅkhārādiggahaṇehi pakāsīyantīti ākārā, atītahetuādīnaṃ vā pakārā ākārā, te ekekasaṅkhepe pañca pañca katvā vīsati ākārā etassāti vīsatākāro, taṃ vīsatākāraṃ.

三界に属する取蘊は「いかなる色であれ…」(分別論2、中部1.244)等により十一の箇処に投げ入れられ思惟されるべきであるが、それらは世尊によって「何があるときに老死があるのか、何を条件として老死があるのか」(長部2.57、相応部2.4, 10)等と縁起の門口によって思惟されたのであり、縁起とは生起と生起の因たる状態から前二諦そのものである。それゆえ、その現観を「想念のなき原因たる縁起の通達」として解明し、「菩提樹の根元において…中略…示す者」と言った。 「要約(サンケーパ)」とは、ここにおいて無明等と識等とが要約されることである。あるいは過去における因等と「因、果」とこのように要約されるゆえに「要約」であり、無明等と識等である。「要約(サンケーパ)」という語は部分の同義語であると知るべきである。それゆえ「区分(コッタアーサ)の義である」と言った。それらは、過去の因の要約、現在の果の要約、現在の因の要約、未来の果の要約という四つの要約をもつがゆえに「四要約」であり、その四要約である。因と果の結合、果と因の結合、再び因と果の結合という三つの結合をもつがゆえに「三結合」であり、その三結合である。過去・現在・未来の区別ある三世をもつがゆえに「三世」であり、その三世である。固有の形では説かれなくてもそれぞれの要約において散りばめられ、無明・諸行等の把握によって明示されるゆえに「様相(アーカーラ)」であり、あるいは過去の因等の様相が様相であり、それらは一要約ごとに五つずつとして二十の様相をもつがゆえに「二十様相」であり、その二十様相である。

Esa sabboti esa catusaṅkhepādipabhedo anavaseso paccayo. Paccayalakkhaṇenāti paccayabhāvena attano phalassa paṭisandhiviññāṇassa paccayabhāvena, avinābhāvalakkhaṇenāti attho. Yathā hi taṇhaṃ vinā avijjādayo viññāṇassa paccayā na honti, evaṃ taṇhāpi avijjādike vināti. Ettha dukkhaggahaṇena viññāṇanāmarūpasaḷāyatanaphassavedanānaṃ, bhavaggahaṇena ca taṇhāsaṅkhārupādānānaṃ gahitatā vuttanayā evāti na uddhaṭā.

「これらすべて」とは、この四要約などの区別ある余すところなき条件のことである。「条件の特徴によって」とは、条件たる状態によって、自己の果である結生識の条件たる状態によって、すなわち不離の特徴によって、の義である。愛執なしには無明等は識の条件とならないように、愛執もまた無明等を離れては条件とならないからである。ここにおいて「苦」の把握によって識・名色・六処・触・受が、「有」の把握によって愛・行・取が把握されていることは、既に説かれた通りの論理であるため繰り返さない。

Idāni te vīsati ākāre paṭisambhidāmaggapāḷiyā vibhāvetuṃ **‘‘evamete’’**tiādi vuttaṃ. Tattha (paṭi. ma. aṭṭha. 1.47) purimakammabhavasminti purime kammabhave, atītajātiyaṃ kammabhave kayiramāneti attho. Moho avijjāti yo tadā dukkhādīsu moho, yena mūḷho kammaṃ karoti, sā avijjā. Āyūhanā saṅkhārāti taṃ taṃ kammaṃ karonto dānupakaraṇādi sajjanādivasena yā purimacetanāyo, te saṅkhārā. Paṭiggāhakānaṃ pana hatthe deyyadhammaṃ patiṭṭhāpayato cetanā bhavo. Ekāvajjanajavanesu vā purimā cetanā āyūhanā saṅkhārā, sattamā bhavo. Yā kāci vā pana cetanā bhavo, sampayuttā āyūhanā saṅkhārā. Nikanti taṇhāti yaṃ kammaṃ karontassa upapattibhave tassa phalassa nikāmanā patthanā, sā taṇhā nāma. Upagamanaṃ upādānanti yaṃ kammabhavassa paccayabhūtaṃ ‘‘idaṃ kammaṃ katvā asukasmiṃ nāma ṭhāne kāme sevissāmi ucchijjissāmī’’tiādinā nayena pavattaṃ upagamanaṃ gahaṇaṃ parāmasanaṃ, idaṃ upādānaṃ nāma. Cetanā bhavoti dvīsu atthavikappesu vuttassa āyūhanassa avasāne vuttacetanā, tatiye pana āyūhanasampayuttacetanā bhavo. Iti ime pañca dhammā purimakammabhavasmiṃ idha paṭisandhiyā paccayāti ime yathāvuttā mohādayo pañca dhammā atītakammabhavasiddhā etarahi paṭisandhiyā paccayabhūtāti attho.

いま、それら二十の様相を無礙解道経典によって明示するために、「このようにこれらは…」等と説かれた。その中で(無礙解道注1.47)「以前の業有において」とは、以前の業有において、すなわち過去生において業有がなされる時において、の義である。「迷妄が無明である」とは、その時に苦等において生じる迷妄であり、それによって迷って業をなすもの、それが無明である。「集積が諸行である」とは、その時々の業をなしつつ施与の資具等を準備すること等による以前の思(意志)であり、それらが諸行である。しかし受者たちの手に施されるべき物を置くときの思は有である。あるいは、一つの作意の速行心において、初めの諸々の思が集積たる諸行であり、第七の思が有である。あるいは、いかなる思であれそれが有であり、相応する集積が諸行である。「愛着が愛である」とは、業をなす者に生起の有においてその果報を欲すること、願うことであり、それが愛と呼ばれる。「到達が取である」とは、業有の条件となった、「この業をなして某という場所において諸欲を享受しよう、断滅しよう」などの論理によって生じた到達、把持、執着であり、これが取と呼ばれる。「思が有である」とは、二つの解釈において説かれた集積の終わりに説かれた思であり、第三の解釈では集積と相応する思が有である。「このように、これら五つの法は以前の業有においてここでの結生の条件である」とは、これら前述の迷妄等の五つの法は過去の業有によって成就し、現在において結生の条件となっている、という義である。

Idha paṭisandhiviññāṇanti yaṃ bhavantarapaṭisandhānavasena uppannattā paṭisandhīti vuccati, taṃ viññāṇaṃ. Okkanti nāmarūpanti yā gabbhe rūpārūpadhammānaṃ okkanti āgantvā pavisantī viya, idaṃ nāmarūpaṃ. Pasādo āyatananti idaṃ cakkhādipañcāyatanavasena vuttaṃ. Phuṭṭho phassoti yo ārammaṇaṃ phuṭṭho phusanto uppanno, ayaṃ phasso. Vedayitaṃ vedanāti yaṃ paṭisandhiviññāṇena vā saḷāyatanapaccayena vā phassena sahuppannaṃ vipākavedayitaṃ, sā vedanā. Iti ime…pe… paccayāti ime viññāṇādayo pañca koṭṭhāsikā dhammā purimabhave katassa kammassa kammavaṭṭassa paccayā, paccayabhāvato taṃ paṭicca idha etarahi upapattibhavasmiṃ upapattibhavabhāvena vā hontīti attho.

「ここでの結生識」とは、他の生存へと結びつけることによって生じるがゆえに結生と呼ばれる、その識のことである。「名色の降誕」とは、母胎において精神的・物質的諸法がやって来て入るかのような降誕であり、これが名色である。「清浄なる処」とは、眼処などの五処に基づいて説かれている。「触れられた触」とは、対象に触れ、触れつつ生じるものであり、これが触である。「感受された受」とは、結生識によって、あるいは六処を条件として触とともに生じる異熟の感受されたものであり、それが受である。「このようにこれらは…中略…条件である」とは、これら識等の五つの区分の法は、前生においてなされた業という業輪転の条件であり、条件たる状態からそれに縁って、ここにおいて、現在において生起の有において、あるいは生起の有の状態として存在する、という義である。

Idha paripakkattā āyatanānaṃ mohoti paripakkāyatanassa kammakaraṇakāle asammohaṃ dasseti. Daharassa hi cittappavatti bhavaṅgabahulā yebhuyyena bhavantarajanakakammāyūhanasamatthā na hotīti. Kammakaraṇakāleti ca iminā sabbo kammassa paccayabhūto sammoho gahito, na sampayuttova. Sesaṃ vuttanayameva.

「ここにおいて諸処が成熟したことによる迷妄」とは、成熟した処をもつ者が業をなす時における無迷妄を示している。幼少の者の心の働きは有分心が大半であり、たいていは他の生存を生じさせる業を集積する能力をもたないからである。「業をなす時に」ということによって、業の条件となったすべての迷妄が把握されるのであり、相応するもののみではない。残りは既に説かれた通りの論理である。

Padayojanāyāti ‘‘tasmā’’tiādīnaṃ padānaṃ sambandhena saha. Atthanigamananti imasmiṃ aṭṭhamavāre desanatthanigamanaṃ. Nandīti evaṃ vuttānaṃ sabbataṇhānanti ‘‘nandī dukkhassa mūla’’nti evaṃ nandanatthasāmaññato ekavacanena vuttānaṃ sabbataṇhānaṃ santānārammaṇasampayuttadhammappavattiākārādibhedena anekabhedānaṃ sabbāsaṃ taṇhānaṃ. Khayavevacanānevāti samucchedapahānavevacanāneva. ‘‘Accantakkhayā’’ti hi vuttaṃ. Catumaggakiccasādhāraṇametanti catunnaṃ ariyamaggānaṃ pahānakiccassa sādhāraṇaṃ sāmaññato gahaṇaṃ etaṃ khayādivacananti attho. Tesaṃ pana maggānaṃ kamena pavattanaṃ kiccakameneva dassetuṃ **‘‘virāgā’’**tiādi vuttanti dassento ‘‘tato…pe… **yojetabba’’**nti āha. Tathā satipi khayādisaddānaṃ pahānapariyāyabhāve pahātabbāya pana visayabhedabhinnāya taṇhāya anavasesato pahīnabhāvadīpanatthaṃ khayādipariyāyantaraggahaṇaṃ katanti dassento **‘‘yāhī’’**tiādimāha. Yathāvuttasañjananādihetubhūtāya taṇhāya pahīnattā tappahānadīpanaṃ katvā vuccamānaṃ khayādivacanaṃ na kathañci dhammataṃ vilometīti vuttaṃ **‘‘na kiñci virujjhatī’’**ti.

「句の結合において」とは、「それゆえに」等の句の結合とともに、ということである。「義の結論」とは、この第八の節における説法の義の結論である。「喜悦とこのように説かれた一切の愛執の」とは、「喜悦は苦の根本である」とこのように喜ぶ義の共通性から単数形で説かれた一切の愛執の、すなわち相続・対象・相応法・作用・様相などの差異によって多種多様に分かれるすべての愛執の、ということである。「滅尽の同義語そのものである」とは、断絶による断滅の同義語そのものである、ということである。「究極の滅尽によって」と説かれているからである。「これは四つの道の実践に共通するものである」とは、四つの聖道の断滅の実践に共通する、概括的な把握である、滅尽などの言葉はそういう義である。しかしそれらの道の順次の作用をまさに実践の順序に従って示すために、「離欲により…」等と説かれたことを示そうとして、「そこから…中略…結合されるべきである」と言った。そうであっても、滅尽等の語は断滅の別表現であるが、断じられるべき対象の差異によって分かれる愛執が余すところなく断じられた状態を明示するために、滅尽等の他の別表現の把握がなされたことを示すために、「まさにそれらの…」等と言った。前述の生起等の原因となった愛執が断じられたがゆえに、その断滅を明示して語られる滅尽等の言葉は、いかようにも法性に背かない、ゆえに「何一つ矛盾しない」と言った。

Uttaravirahitanti attānaṃ uttarituṃ samatthattā uttarena adhikena virahitaṃ. Ayañcassa uttaravirahatā attano seṭṭhabhāvenāti āha **‘‘sabbaseṭṭha’’**nti. Yathā sammā-saṃ-saddā ‘‘aviparītaṃ, sāma’’nti imesaṃ padānaṃ atthaṃ vadanti, evaṃ pāsaṃsasobhanatthepīti āha **‘‘sammā sāmañca bodhiṃ pasatthaṃ sundarañca bodhi’’**nti. Bujjhi ettha paṭivijjhi cattāri ariyasaccāni, sabbampi vā neyyanti rukkho bodhi, bujjhati etenāti pana maggo bodhi, tathā sabbaññutaññāṇaṃ, nibbānaṃ pana bujjhitabbato bodhīti ayamettha sādhanavibhāgo daṭṭhabbo. Paṇṇattiyampi attheva bodhi-saddo ‘‘bodhirājakumāro’’tiādīsu (ma. ni. 2.324; cūḷava. 268). Apareti sārasamāsācariyā. Ettha ca saupasaggassa bodhi-saddassa atthuddhāre anupasaggānaṃ udāharaṇe kāraṇaṃ heṭṭhā vuttameva.

「勝るものなき」とは、自己を超越し得る能力によって、勝るもの、優れたものを欠いているということである。そしてこのものの勝るもののなさは、自己の最勝性によるがゆえに「一切の中で最勝」と言った。「サンマー(正しく)」「サン(正しく・自ら)」の語が「無顛倒に」「自ら」というこれらの句の義を語るように、称讃と端厳の義においても同様である。ゆえに「正しく自らなる菩提、称讃された美しい菩提」と言った。ここにおいて四聖諦を覚った(ブッジ)、あるいはすべての知るべき法を覚ったがゆえに樹木が菩提(ボディー)であり、これによって覚るがゆえに道が菩提であり、同様に一切知智が菩提であり、覚られるべきものであるがゆえに涅槃が菩提である。このようにここにおける語義成就の分別を知るべきである。「菩提王子」などのように施設(概念)においても菩提の語は存在する。「他の者たち」とは、要義結合の師たちである。そしてここにおいて、接頭辞を伴う菩提の語の義を抽出するにあたり、接頭辞を伴わない用例を挙げる理由は、以前に既に説かれた通りである。

Lokuttarabhāvato vā tatthāpi heṭṭhimamaggānaṃ viya tatuttarimaggābhāvato ca ‘‘siyā nu kho anuttarā bodhī’’ti āsaṅkaṃ sandhāya taṃ vidhamituṃ **‘‘sāvakāna’’**ntiādi vuttaṃ. Abhinīhārasampattiyā phalavisesabhūtehi ñāṇavisesehi ekaccehi sakalehi saddhiṃ samijjhamāno maggo ariyānaṃ taṃ taṃ ñāṇavisesādiṃ dento viya hotīti tassa asabbaguṇadāyakattaṃ vuttaṃ. Tena anaññasādhāraṇābhinīhārasampadāsiddhassa niratisaya-guṇānubandhassa vasena arahattamaggo anuttarā bodhi nāma hotīti dasseti. Sāvakapāramiñāṇaṃ aññehi sāvakehi asādhāraṇaṃ mahāsāvakānaṃyeva āveṇikaṃ ñāṇaṃ. Paccekaṃ saccāni buddhavantoti paccekabuddhā. Nanu ca sabbepi ariyā paccekameva saccāni paṭivijjhanti dhammassa paccattaṃ vedanīyabhāvatoti? Saccaṃ, nayidamīdisaṃ paṭivedhaṃ sandhāya vuttaṃ, yathā pana sāvakā aññasannissayena saccāni paṭivijjhanti paratoghosena vinā tesaṃ dassanamaggassa anuppajjanato, yathā ca sammāsambuddho aññesaṃ nissayabhāvena saccāni abhisambujjhanti, na evamete, ete pana aparaneyyā hutvā apariṇāyakabhāvena saccāni paṭivijjhanti. Tena vuttaṃ **‘‘paccekaṃ saccāni buddhavantoti paccekabuddhā’’**ti.

あるいは出世間性によること、またそこにおいても下位の諸道のようにそれを超越する道がないことからも「無上の菩提が存在するのではないか」という疑念を指して、それを打ち破るために「弟子たちの…」等と言われた。大誓願の成就による果報の卓越たる卓越した諸智とともに、ある者たち、すべての者たちとともに成就する聖道は、聖者たちにそれらの卓越した智等を与えるかのようである。ゆえにそれがあらゆる徳を与えるものではないことが説かれた。それによって、他に共通しない大誓願の成就によって成し遂げられた無比の諸徳の随伴により、阿羅漢道が無上の菩提と呼ばれることを示している。弟子の波羅蜜の智とは、他の弟子たちには共通しない、大弟子たちのみに固有の智である。「個別に(パッチェーカン)諸諦を覚った(ブッダヴァント)がゆえに辟支仏(パッチェーカブッダ)」である。「すべての聖者たちも、法は各自で覚知されるべきものであるがゆえに、個別に諸諦を通達するのではないか」と問うかもしれない。真実である。しかしそのような通達を指して説かれたのではない。弟子たちが他者に依存して諸諦を通達するように、他者からの教え(声)なしには彼らに見道が生じないように、また正等覚者が他者たちの拠り所となって諸諦を正覚するように、彼ら(辟支仏)はそのようではない。彼らは他者に導かれることなく、指導者を伴わない状態によって諸諦を通達するのである。それゆえ「個別に諸諦を覚ったがゆえに辟支仏である」と言われた。

Itīti karīyati uccārīyatīti itikāro, iti-saddo. Kāraṇattho aniyamarūpenāti adhippāyo, tasmāti vuttaṃ hoti. Tenāha **‘‘yasmā cā’’**ti. Pubbe pana iti-saddaṃ pakāratthaṃ katvā ‘‘evaṃ jānitvā’’ti vuttaṃ, idhāpi taṃ pakāratthameva katvā atho yujjati. Kathaṃ? Viditvāti hi padaṃ hetuatthe daṭṭhabbaṃ ‘‘paññāya cassa disvā’’ti (ma. ni. 1.271), ‘‘ghataṃ pivitvā balaṃ hotī’’ti ca evamādīsu viya, tasmā pakāratthepi iti-sadde paṭiccasamuppādassa viditattāti ayaṃ attho labbhateva. Paṭiccasamuppādaṃ viditvāti etthāpi hetuatthe viditvā-sadde yathāvuttā atthayojanā yujjateva. Ettha ca paṭhamavikappe paṭiccasamupādassa viditatthaṃ maññanābhāvassa kāraṇaṃ vatvā taṇhāmūlakassa paṭiccasamuppādassa dassitattā ettha taṇhāppahānaṃ sammāsambodhiyā adhigamanakāraṇaṃ uddhatanti dassitaṃ, tasmā **‘‘pathaviṃ na maññatī’’**tiādi nigamanaṃ daṭṭhabbaṃ. Dutiyavikappe pana paṭiccasamuppādavedanaṃ taṇhāppahānassa kāraṇaṃ vuttaṃ, taṃ abhisambodhiyā abhisambodhimaññanābhāvassāti ayamattho dassitoti ayametesaṃ dvinnaṃ atthavikappānaṃ viseso, tasmā ‘‘nandī dukkhassa mūla’’nti vuttaṃ.

「このように(イティ)」とは、なされる、発せられるがゆえにイティの文字、イティという語である。原因の義が無規定の様相で意図されているのであり、「それゆえに」と言われたことになる。それゆえ「そして…がゆえに」と言った。しかし以前にはイティの語を様相の義として「このように知って」と説かれたが、ここでもそれを様相の義そのものとしても義は妥当する。どのようにか。「知って」という句は、「智慧によってそれを見て」「酪を飲んで力がある」などのように原因の義と見られるべきであり、それゆえイティの語が様相の義であっても「縁起が知られたがゆえに」というこの義はまさに得られるのである。「縁起を知って」というここにおいても、原因の義において「知って」という語に前述の通りの義の結合がまさに妥当する。そしてここでの第一の解釈においては、縁起の知られた義が想念なきことの原因であると述べて、愛執を根本とする縁起が示されたことから、ここにおいて愛執の断滅が正等覚の獲得の原因として挙げられていることが示された。それゆえ「地を想念しない」等の結論と見られるべきである。第二の解釈においては、縁起の覚知が愛執の断滅の原因と説かれ、それが正覚による正覚に対する想念なきことの(原因である)というこの義が示された。これがこれら二つの義の解釈の差異であり、それゆえ「喜悦は苦の根本である」と説かれた。

Taṃ kuto labbhatīti codanaṃ sandhāyāha **‘‘yattha yattha hī’’**tiādi. Sāsanayutti ayaṃ sāsanepi evaṃ sambandho dissatīti katvā. Lokepi hi yaṃ-taṃ-saddānaṃ abyabhicārisambandhatā siddhā.

「それはどこから得られるのか」という詰問を指して「まさに至る所において…」等と言った。教理の妥当性とは、聖教においてもこのように結合関係が見られるということである。世間においても関係代名詞と指示代名詞(ヤンとタン)の不離の関係性は成就しているからである。

Evaṃ abhisambuddhoti vadāmīti abhisambuddhabhāvassa gahitattā, asabbaññunā evaṃ desetuṃ asakkuṇeyyattā ca **‘‘sabbaññutaññāṇaṃ dassento’’**tiādimāha.

「このように正等覚したと我は語る」と正等覚した状態が把握されていること、そして一切知者でない者にはこのように説くことができないことから、「一切知智を示しつつ…」等と言った。

Vicitranayadesanāvilāsayuttanti puthujjanavārādivibhāgabhinnehi vicittehi tanti nayehi, lakkhaṇakammataṇhāmaññanādivibhāgabhinnehi vicittehi atthanayehi, abhinandanapaccayākārādivisesāpadesasiddhena desanāvilāsena ca yuttaṃ. Yathā te na jānanti, tathā desesīti imināpi bhagavato desanāvilāsaṃyeva vibhāveti. Taṃyeva kira pathavinti ettha pathavīgahaṇaṃ upalakkhaṇamattaṃ āpādivasenapi, tathā ‘‘kīdisā nu kho idha pathavī adhippetā, kasmā ca bhūtarūpāniyeva gahitāni, na sesarūpānī’’tiādināpi tesaṃ saṃsayuppatti niddhāretabbā. Atha vā kathaṃ nāmidanti ettha iti-saddo pakārattho. Tena imasmiṃ sutte sabbāyapi tesaṃ saṃsayuppattiyā pariggahitattā daṭṭhabbā. Antanti mariyādaṃ, desanāya antaṃ paricchedanti attho, yo anusandhīti vuccati. Koṭinti pariyantaṃ, desanāya pariyosānanti attho. Ubhayena sutte ajjhāsayānusandhi yathānusandhīti vadati.

「多様な論理と説法の巧妙さを備えた」とは、凡夫の節などの区分によって分かれた多様な経文の論理、特徴・作用・愛執・想念などの区分によって分かれた多様な義の論理、そして歓喜や縁起の様相などの卓越した説明によって成就した説法の巧妙さを備えた、ということである。「彼らが知らぬように、そのように説いた」ということによっても、世尊の説法の巧妙さそのものを解明している。「まさにその地を」というここでの「地」の把握は、水等による場合も含めた例示にすぎず、同様に「ここにおいてどのような地が意図されているのか、なぜ四大種の色のみが把握され、残りの色は把握されないのか」等によっても彼らの疑念の生起が確認されるべきである。あるいは、「どのようにしてこれが…」というここでのイティの語は様相の義である。それにより、この経において彼らの疑念の生起のすべてによって包括されていると見られるべきである。「限界(アンタ)」とは境界であり、説法の限界、区切りという意味であり、結句(アヌサンディ)と呼ばれるものである。「究極(コーティ)」とは限界であり、説法の終極という意味である。双方によって、経における意楽の結句が結句に従う通りであると述べている。

Antarākathāti kammaṭṭhānamanasikārauddesaparipucchādīnaṃ antarā aññā ekā tathā. Vippakathāti aniṭṭhitā sikhaṃ appattā. Kaṅkhaṇānurūpenāti tasmiṃ khaṇe dhammasabhāyaṃ sannipatitānaṃ bhikkhūnaṃ ajjhāsayānurūpena. Idanti idāni vuccamānaṃ mūlapariyāyajātakaṃ.

「途中の語らい」とは、業処の作意、読誦、試問などの間における、別のひとつの語らいである。「中断された語らい」とは、完了せず、頂点に達していない語らいである。「疑念の瞬間に応じて」とは、その瞬間に法堂に集まった比丘たちの意楽に応じて、ということである。「これ」とは、今から説かれる根本法門本生のことである。

Disāpāmokkhoti paṇḍitabhāvena sabbadisāsu pamukhabhūto. Brāhmaṇoti brahmaṃ aṇatīti brāhmaṇo, mante sajjhāyatīti attho. Tiṇṇaṃ vedānanti iruveda-yajuveda-sāmavedānaṃ. Pāragūti atthaso byañjanaso ca pāraṃ pariyantaṃ gato. Saha nighaṇḍunā ca keṭubhena cāti sanighaṇḍukeṭubhā, tesaṃ. Nighaṇḍūti rukkhādīnaṃ vevacanappakāsakaṃ satthaṃ. Keṭubhanti kiriyākappavikappo, kavīnaṃ upakārāvahaṃ satthaṃ. Saha akkharappabhedenāti sākkharappabhedā, tesaṃ, sikkhāniruttisahitānanti attho. Itihāsapañcamānanti āthabbaṇavedaṃ catutthaṃ katvā ‘‘itiha asa, itiha asā’’ti īdisavacanapaṭisaṃyutto purāṇakathāsaṅkhāto itihāso pañcamo etesanti itihāsapañcamā, tesaṃ. Padaṃ tadavasesañca byākaraṇaṃ kāyati ajjheti vedeti cāti padako, veyyākaraṇo. Lokāyataṃ vuccati vitaṇḍasatthaṃ. Mahāpurisānaṃ buddhādīnaṃ lakkhaṇadīpanagantho mahāpurisalakkhaṇaṃ. Tesu anūno paripūrakārīti anavayo.

「四方で卓越した」とは、賢者であることによって四方すべてにおいて首魁となった。「バラモン」とは、梵(マントラ)を誦する(アナティ)がゆえにバラモンであり、マントラを読誦するという義である。「三ヴェーダの」とは、リグ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダの。「達人」とは、義においても文においても彼岸、究極に達した者。「語彙集と儀軌学とともに」とは、語彙集と儀軌学を伴うもの、それらの。語彙集とは、樹木等の同義語を明示する学問である。儀軌学とは、作法と規則、詩人たちに有益をもたらす学問である。「音声学の分類とともに」とは、音声学の分類を伴うもの、それらの、すなわち調声法(シクシャー)と語源学(ニルクタ)を伴う、という義である。「歴史伝説を第五とする」とは、アタルヴァ・ヴェーダを第四とし、「かつてこのようにあった、このようにあった」というこのような言葉に関連する、古代の物語と呼ばれる歴史伝説(イティハーサ)を第五とするもの、それらの。「句およびそれ以外の文法を吟味し、学び、知る者」ゆえに句文法の学者、文法家である。「順世派(ローカーヤタ)」とは、論争学(詭弁学)と呼ばれる。「大人相」とは、仏陀などの大人の特徴を解明する書物、大人の特徴である。「それらにおいて欠けることなく、完全に修めた者」ゆえに完璧な者である。

Manteti vede. Yadipi vedo ‘‘manto, brahmaṃ, kappo’’ti tividho, manto eva pana mūlavedo, tadatthavivaraṇaṃ brahmaṃ, tattha vuttanayena yaññakiriyāvidhānaṃ kappo. Tena vuttaṃ ‘‘manteti vede’’ti. Paṇḍitāti paññāvanto. Tathā hi te puthupaññātāya bahuṃ sahassadvisahassādiparimāṇaṃ ganthaṃ pākaṭaṃ katvā gaṇhanti uggaṇhanti, javanapaññatāya lahuṃ sīghaṃ gaṇhanti, tikkhapaññatāya suṭṭhu avirajjhantā upadhārenti, satinepakkasampattiyā gahitañca nesaṃ na vinassati na sammussatīti. Sabbampi sippanti aṭṭhārasavijjāṭṭhānādibhedaṃ sikkhitabbaṭṭhena sippanti saṅkhyaṃ gataṃ sabbaṃ bāhirakasatthaṃ mokkhāvahasammatampi na mokkhaṃ āvahatīti āha **‘‘diṭṭhadhammasamparāyahita’’**nti. Sampiṇḍitā hutvāti yathā mittā, tathā piṇḍitavasena sannipatitā hutvā. ‘‘Evaṃ gayhamāne ādinā virujjheyya, evaṃ antenā’’ti cintentā ñātuṃ icchitassa atthassa pubbenāparaṃ aviruddhaṃ nicchayaṃ gahetuṃ asakkontā na ādiṃ, na antaṃ addasaṃsu.

「マントラにおいて」とは、ヴェーダにおいて。ヴェーダは「マントラ、ブラーフマナ(梵書)、カルパ(祭式手引)」の三種があるが、マントラこそが根本のヴェーダであり、その義の解明がブラーフマナであり、そこに説かれた方法による祭祀行為の規定がカルパである。それゆえ「マントラにおいてとは、ヴェーダにおいて」と言った。「賢者たち」とは、智慧ある者たち。実に彼らは、広大な智慧をもつことによって、千あるいは二千の分量ある膨大な書物を顕かにして把握し、学び取る。敏速な智慧をもつことによって、速やかに、素早く把握する。鋭敏な智慧をもつことによって、見誤ることなく見事に考察する。正念と熟慮の具足によって、把握したものが失われることも忘れ去られることもない。「すべての技芸」とは、十八の学処などの区別に分かれる、学ぶべきという意味で技芸と数えられる外道の学問のすべてであり、解脱をもたらすと認められていても解脱をもたらさない。それゆえ「現世と来世の利益」と言った。「結集して」とは、友人のように、集まった状態となって。「このように解釈すれば初めと矛盾し、このように解釈すれば終わりと矛盾する」と思惟し、知ろうと欲する義の前後で矛盾のない決定を捉えることができず、初めも見出せず、終わりも見出せなかった。

Lomasānīti lomavantāni, ghanakesamassuvānīti attho. Kesāpi hi lomaggahaṇena gayhanti yathā ‘‘lomanakhaṃ phusitvā suddhi kātabbā’’ti. Kaṇṇaṃ viyāti kaṇṇaṃ, paññā, tāya sutvā kātabbakiccasādhanato vuttaṃ **‘‘kaṇṇavāti paññavā’’**ti.

「毛深い」とは、体毛をもつ、濃い頭髪や髭をもつという意味である。頭髪もまた「毛と爪に触れて清浄をなすべし」というように「毛」の把握によって把握されるからである。「耳のように」とは、耳、すなわち智慧のことであり、それによって聞いてなすべき実践を成就することから「耳ある者とは、智慧ある者である」と言った。

Yasmā sattānaṃ gacchante gacchante kāle āyuvaṇṇādiparikkhayo hoti, tasmā taṃ kālena kataṃ viya katvā vuttaṃ **‘‘nesaṃ āyu…pe… khādatīti vuccatī’’**ti.

時が経つにつれて衆生の寿命や容色などが衰退してゆくがゆえに、それを時によってなされたかのようにして「彼らの寿命を…中略…食らうと言われる」と言った。

Abhiññāyāti kusalādibhedaṃ khandhādibhedañca desetabbaṃ dhammaṃ, veneyyānañca āsayānusayacariyāvimuttiādibhedaṃ, tassa ca nesaṃ desetabbappakāraṃ yāthāvato abhijānitvā. Dhammaṃ desemīti diṭṭhadhammikasamparāyikanibbānahitāvahaṃ saddhammaṃ kathayāmi. No anabhiññāyāti yathā bāhirakā asammāsambuddhattā vuttavidhiṃ ajānantāyaṃ kiñci takkapariyāhataṃ vīmaṃsānucaritaṃ sayaṃpaṭibhānaṃ kathenti, evaṃ na desemīti attho. Sanidānanti sakāraṇaṃ, veneyyānaṃ ajjhāsayavasena vā pucchāya vā aṭṭhuppattiyā vā sanimittaṃ hetuudāharaṇasahitañcāti attho. Sappāṭihāriyanti sanissaraṇaṃ sappaṭiharaṇaṃ, paccanīkapaṭiharaṇena sappāṭihāriyameva katvā desemīti attho. Apare pana ‘‘yathārahaṃ iddhiādesanānusāsanipāṭihāriyasahita’’nti vadanti, anusāsanipāṭihāriyahitā pana desanā natthīti. Hitūpadesanā ovādo, sā eva anusāsanī. Anotiṇṇavatthuvisayo vā ovādo, otiṇṇavatthuvisayā anusāsanī. Paṭhamūpadeso vā ovādo, itarā anusāsanī. Alañca panāti yuttameva. Niṭṭhamagamāsīti atthasiddhiṃ gatā.

「了知して」とは、善などの区別、蘊などの区別ある説くべき法を、そして所化の者たちの意楽・随眠・行状・解脱などの区別を、そして彼らに説くべき様相をありのままに了知して。「法を説く」とは、現世と来世と涅槃の利益をもたらす正法を語る。「了知することなくなすのではない」とは、外道たちが正等覚者でないがゆえに説かれた規則を知らず、思弁に侵され、考察に従い、自己の思いつきを語るように、そのようには説かない、という義である。「因縁を伴って」とは、原因を伴って、所化の者たちの意楽によって、あるいは問いによって、あるいは出来事の生起によって、機縁をもち、因と実例を伴って、という義である。「神変(導く力)を伴って」とは、出離を伴って、対抗者を退けることを伴って、対立するものを退けることによって神変を伴うものとしてのみ説く、という義である。他の者たちは「相応しい神通神変・他心示現・教誡神変を伴って」と言うが、教誡神変を離れた説法はない。利益の教導が教誡(オヴァーダ)であり、それこそが教戒(アヌサーサニー)である。あるいは、未だ過失に陥っていない事柄を対象とするものが教誡であり、過失に陥った事柄を対象とするものが教戒である。あるいは、最初の教導が教誡であり、それ以外のものが教戒である。「実に十分である」とは、まさに妥当である。「結論に達した」とは、目的の成就に至った。

Tathāgatavāraaṭṭhamanayavaṇṇanā niṭṭhitā.

如来の節の第八の論理の解説は終了した。

Ayaṃ tāvettha aṭṭhakathāya līnatthavaṇṇanā.

ここまでは、この註釈における隠れた義の解説である。

Nettinayavaṇṇanā

指導論(ネッティ)の論理による解説

Idāni (dī. ni. ṭī. 1.149; saṃ. ni. ṭī. 1.1.nettinayavaṇṇanā; a. ni. ṭī. nettinayavaṇṇanā) pakaraṇanayena pāḷiyā atthavaṇṇanaṃ karissāma. Sā panāyaṃ atthavaṇṇanā yasmā desanāya samuṭṭhānapayojanabhājanesu piṇḍatthesu ca niddhāritesu sutarā hoti suviññeyyā ca, tasmā suttadesanāya samuṭṭhānādīni paṭhamaṃ niddhārayissāma. Tattha samuṭṭhānaṃ tāva pariyattiṃ nissāya mānuppādo, payojanaṃmānamaddanaṃ. Vuttañhi aṭṭhakathāyaṃ ‘‘sutapariyattiṃ…pe… ārabhī’’ti. Apica veneyyānaṃ pathavīādibhūtādibhedabhinne sakkāye puthujjanassa sekkhādiariyassa ca saddhiṃ hetunā maññanāmaññanavasena pavattivibhāgānavabodho samuṭṭhānaṃ, yathāvuttavibhāgāvabodho payojanaṃ, veneyyānañhi vuttappakāre visaye yathāvuttānaṃ puggalānaṃ saddhiṃ hetunā maññanāmaññanavasena pavattivibhāgāvabodho payojanaṃ.

今や、指導論の論理によって経文の義の解説を行おう。ところでこの義の解説は、説法の生起原因・目的・器(受者)、そして総括的な意味が確認されるとき、いっそう理解しやすく明瞭になるがゆえに、まず経の説法の生起原因などを確認することとしよう。 そこにおいて生起原因とは、聖典の学問に依拠した慢心の生起であり、目的とは慢心の粉砕である。註釈書(義疏)において「聴聞した聖典を…中略…始めた」と説かれている通りである。 さらに、所化の者たちにとって地等の四大種などの区別に分かれた有身(五蘊)において、凡夫と有学等の聖者とが原因とともに想念すること・想念しないことによって生じる作用の区別を覚知しないことが生起原因であり、前述の区別の覚知が目的である。所化の者たちにとって、説かれた通りの対象において、前述の人物たちが原因とともに想念すること・想念しないことによって生じる作用の区別を覚知することが目的であるからである。

Apica samuṭṭhānaṃ nāma desanānidānaṃ. Taṃ sādhāraṇaṃ asādhāraṇanti duvidhaṃ. Tattha sādhāraṇampi ajjhattikabāhirabhedato duvidhaṃ. Tattha sādhāraṇaṃ ajjhattikasamuṭṭhānaṃ nāma lokanāthassa mahākaruṇā. Tāya hi samussāhitassa bhagavato veneyyānaṃ dhammadesanāya cittaṃ udapādi. Taṃ sandhāya vuttaṃ ‘‘sattesu ca kāruññataṃ paṭicca buddhacakkhunā lokaṃ volokesī’’tiādi (ma. ni. 1.283; saṃ. ni. 1.172; mahāva. 9). Ettha ca hetāvatthāyapi mahākaruṇāya saṅgaho daṭṭhabbo yāvadeva saṃsāramahoghato saddhammadesanāhatthadānehi sattasantāraṇatthaṃ taduppattito. Yathā ca mahākaruṇā, evaṃ sabbaññutaññāṇaṃ dasabalañāṇādīni ca desanāya abbhantarasamuṭṭhānabhāve vattabbāni. Sabbampi hi ñeyyadhammaṃ, tesaṃ desetabbappakāraṃ, sattānañca āsayānusayādiṃ yāthāvato jānanto bhagavā ṭhānāṭṭhānādīsu kosallena veneyyajjhāsayānurūpaṃ vicittanayadesanaṃ pavattesīti. Bāhiraṃ pana sādhāraṇaṃ samuṭṭhānaṃ dasasahassabrahmaparivāritassa sahampatimahābrahmuno ajjhesanaṃ. Tadajjhesanuttarakālañhi dhammagambhīratāpaccavekkhaṇājanitaṃ appossukkataṃ paṭippassambhetvā dhammassāmī dhammadesanāya ussāhajāto ahosi. Asādhāraṇampi ambhantarabāhirabhedato duvidhameva. Tattha abbhantaraṃ yāya mahākaruṇāya yena ca desanāñāṇena idaṃ suttaṃ pavattitaṃ, tadubhayaṃ veditabbaṃ. Bāhiraṃ pana pañcasatānaṃ brāhmaṇajātikānaṃ bhikkhūnaṃ pariyattiṃ nissāya mānuppādanaṃ, vuttameva taṃ aṭṭhakathāyaṃ.

さらに、生起原因とは説法の因縁のことである。それは共通のものと不共通のものとの二種がある。そのうち共通のものも内的・外的な区別から二種がある。そこにおいて共通の内的な生起原因とは、世間の導師の大悲である。実に大悲によって奮い立たされた世尊に、所化の者たちへの法を説く心が起こったのである。それを指して「衆生への憐憫によって、仏眼をもって世間を見渡された」(中部1.283、相応部1.172、大律9)等と説かれた。そしてここにおいて、因の段階における大悲の包摂も、輪廻の大奔流から正法の説法という手を差し伸べることによって衆生を救度するためにそれが生起したことから見られるべきである。そして大悲と同様に、一切知智や十力智なども説法の内的な生起原因として語られるべきである。実に一切の知るべき法と、それらを説くべき様相と、衆生たちの意楽・随眠などをありのままに知る世尊は、処・非処などにおける巧みさによって所化の者たちの意楽に応じた多様な論理の説法を作用させたのである。 一方、共通の外的な生起原因とは、一万の梵天に取り囲まれた娑婆世界主たる大梵天の勧請である。実にその勧請の後の時に、法の深遠さの省察から生じた無関心さを静めて、法の主たる世尊は説法への意欲を生じられたのである。 不共通のものも内的・外的な区別から二種そのものである。そこにおいて内的なものとは、いかなる大悲によって、いかなる説法の智によってこの経が説かれたか、その双方と知るべきである。外的なものとは、バラモン階級の五百人の比丘たちが聖典の学問に依拠して慢心を生じさせたことであり、それは註釈書においてまさに説かれている通りである。

Payojanampi sādhāraṇaṃ asādhāraṇanti duvidhaṃ. Tattha sādhāraṇaṃ anukkamena yāva anupādāparinibbānaṃ vimuttirasattā bhagavato desanāya. Tenevāha ‘‘etadatthā tathā, etadatthā mantanā’’tiādi (pari. 366). Eteneva ca saṃsāracakkanivatti saddhammacakkappavatti sassatādimicchāvādanirākaraṇaṃ sammāvādapurekkhāro akusalamūlasamūhananaṃ kusalamūlasaṃropanaṃ apāyadvārapidahanaṃ saggamokkhadvāravivaraṇaṃ pariyuṭṭhānavūpasamanaṃ anusayasamugghātanaṃ ‘‘mutto mocessāmī’’ti (udā. aṭṭha. 18; itivu. aṭṭha. 38) purimapaṭiññāavisaṃvādanaṃ tappaṭipakkhamāramanorathavisaṃvādanaṃ titthiyadhammanimmathanaṃ buddhadhammapatiṭṭhāpananti evamādīnampi payojanānaṃ saṅgaho daṭṭhabbo. Asādhāraṇaṃ pana tesaṃ bhikkhūnaṃ mānamaddanaṃ. Vuttañcetaṃ aṭṭhakathāyaṃ (ma. ni. aṭṭha. 1.1) ‘‘desanākusalo bhagavā mānabhañjanatthaṃ ‘sabbadhammamūlapariyāya’nti desanaṃ ārabhī’’ti. Ubhayampetaṃ bāhiyameva. Sace pana veneyyasantānagatampi desanābalasiddhisaṅkhātaṃ payojanaṃ adhippāyasamijjhanabhāvato yathādhippetatthasiddhiyā yathākāruṇikassa bhagavatopi payojanamevāti gaṇheyya, iminā pariyāyenassa abbhantaratāpi veditabbā.

目的もまた共通のものと不共通のものとの二種がある。そこにおいて共通のものとは、順次に無余涅槃に至るまでのことであり、世尊の説法は解脱の味をもつがゆえである。それゆえに「このための説法であり、このための思慮である」(附随366)等と説かれた。そしてこれによって、輪廻の輪の停止、正法の車輪の回転、常住論等の邪見の排撃、正見の顕揚、不善の根本の根絶、善の根本の植え付け、悪趣の門の閉鎖、天界と解脱の門の開放、纏縛の静息、随眠の根絶、「解脱して他を解脱させよう」(自説経注18、如是語経注38)という以前の誓願への不違背、それと対立する魔羅の願望の挫折、外道の教えの粉砕、仏法の確立などの諸目的の包摂も知られるべきである。 一方、不共通の目的とは、それらの比丘たちの慢心の粉砕である。そして註釈書(中部注1.1)に「説法に巧みな世尊は、慢心を打ち砕くために『根本法門』という説法を始められた」と説かれている通りである。これら双方は外的なものにすぎない。しかしもし、所化の者たちの心相続に属する説法の力の成就と呼ばれる目的も、意図が成就することから意図された通りの義の成就により、大悲ある世尊にとっても目的そのものであると捉えるならば、この論理によってそれ(所化の覚知)もまた内的なものであると知るべきである。

Apica veneyyānaṃ pathavīādibhūtādivibhāgabhinne sakkāye puthujjanassa sekkhādiariyassa ca saddhiṃ hetunā maññanāmaññanavasena pavattivibhāgānavabodho samuṭṭhānaṃ, imassa suttassa yathāvuttavibhāgāvabodho payojananti vuttovāyamattho. Veneyyānañhi vuttappakāre visaye yathāvuttānaṃ puggalānaṃ saddhiṃ hetunā maññanāmaññanānaṃ vasena pavattivibhāgāvabodho imaṃ desanaṃ payojeti ‘‘tannipphādanaparāyaṃ desanā’’ti katvā. Yañhi desanāya sādhetabbaṃ phalaṃ, taṃ ākaṅkhitabbattā desakaṃ desanāya payojetīti payojananti vuccati. Tathā veneyyānaṃ sabbaso ekadesato ca maññanānaṃ appahānaṃ, tattha ca ādīnavādassanaṃ, niraṅkusānaṃ maññanānaṃ anekākāravohārassa sakkāye pavattivisesassa ajānanaṃ, tattha ca pahīnamaññanānaṃ paṭipattiyā ajānanaṃ, taṇhāmukhena paccayākārassa ca anavabodhoti evamādīni ca payojanāni idha veditabbāni.

さらに、所化の者たちにとって地等の四大種などの区別に分かれた有身(五蘊)において、凡夫と有学等の聖者とが原因とともに想念すること・想念しないことによって生じる作用の区別を覚知しないことが生起原因であり、この経の前述の区別の覚知が目的であるということは、既に説かれた通りの義である。所化の者たちにとって、説かれた通りの対象において、前述の人物たちが原因とともに想念すること・想念しないことによって生じる作用の区別の覚知が、「それを成就することを目的とする説法である」としてこの説法を促すからである。説法によって成就されるべき果報とは、それが望まれるべきものであるがゆえに、説く者を説法へと促すのであり、ゆえに「目的(パヨージャナ)」と呼ばれるのである。 同様に、所化の者たちが完全にあるいは一分において想念を断じていないこと、そこにおける過患を見ないこと、奔放な想念の多様な世俗の表現の有身における作用の差異を知らないこと、そこにおいて想念を断じた者たちの実践を知らないこと、愛執の門口による縁起の様相を覚知しないことなどの目的が、ここにおいて知られるべきである。

Bhūmittayapariyāpannesu asaṅkhātadhammavippakatapariññādikiccasaṅkhātadhammānaṃ sammāsambuddhassa ca paṭipattiṃ ajānantā asaddhammassavanadhāraṇaparicayamanasikāraparā saddhammassavana-dhāraṇaparicayapaṭivedhavimukhā ca veneyyā imissā desanāya bhājanaṃ. Piṇḍatthā pana ‘‘assutavā’’tiādinā ayonisomanasikārabahulīkāro akusalamūla-samāyogo olīyanātidhāvanāpariggaho upāyavinibaddhānubrūhanā micchābhinivesasamannāgamo avijjātaṇhā-parisuddhi vaṭṭattayānuparamo āsavoghayogaganthāgatitaṇhuppādupādānāviyogo cetokhila-cetovinibaddhaabhinandana-nīvaraṇasaṅgānatikkamo vivādamūlāpariccāgo anusayānupacchedo micchattānativattanaṃ taṇhāmūladhammasannissayatā akusalakammapathānuyogo sabbakilesa-pariḷāhasāraddhakāyacittatāti evamādayo dīpitā honti. ‘‘Pathaviṃ pathavito sañjānātī’’tiādinā taṇhāvicaritaniddeso mānajappanā vipariyesābhiniveso saṃkileso sakkāyapariggaho bālalakkhaṇāpadeso vaṅkattayavibhāvanānuyogo bahukārapaṭipakkhadīpanā tividhanissayasaṃsūcanā āsavakkhayakathananti evamādayo dīpitā honti.

三界に属する諸法の中で、無為法を未だ成し遂げず遍知などの働きを未だなさない諸法や正等覚者(仏陀)の行道を理解せず、不正な教えを聞き、把持し、習熟し、作意することに専念し、正法を聞き、把持し、習熟し、通達することに背を向けている所化の衆生こそが、この説法の対象(器)である。要約された意味としては、「無聞の」などの言葉により、不正作意(如理ならざる作意)の増大、不善根の結合、沈滞と暴走の執着、方便に縛られた増長、邪なる執着の成就、無明と渇愛による純粋さの欠如、三転輪の不停止、漏・暴流・軛・縛・悪趣・渇愛の発生・取からの不離、心の荒野・心の束縛・歓喜・覆い・障害を超越しないこと、諍論の根本を捨てないこと、随眠を断ち切らないこと、邪性を超越しないこと、渇愛を根本とする諸法への依拠、不善の業道の追求、一切の煩悩の熱苦に焼かれた心身の状態などが明らかにされている。「地を地と了知する」などの言葉により、渇愛の遍歴の指示、慢の誇示、顛倒の執着、煩悩の汚れ、有身の把持、愚者の特徴の指示、三つの歪みの解明への追求、多大の反面(対治すべきもの)の明示、三種の依処の提示、漏尽の説示などが明らかにされている。

Soḷasahāravaṇṇanā

十六ハーラ(導出法)の注釈

1. Desanāhāravaṇṇanā

1. 説示の導出法(デーサナー・ハーラ)の注釈

Tattha ye upādānakkhandhadhamme upādāya pathavīādibhūtādibhedā paññatti, te paññattipaṭipādanabhāvena jātijarāmaraṇavisesanadukkhapariyāyena ca vuttā taṇhāvajjā tebhūmakadhammā dukkhasaccaṃ. Maññanābhinandananandīpariyāyehi vuttā taṇhā samudayasaccaṃ. Ayaṃ tāva suttantanayo. Abhidhammanaye pana yathāvuttataṇhāya saddhiṃ ‘‘assutavā’’tiādinā dīpitā avijjādayo, maññanāpariyāyena gahitā mānadiṭṭhiyo, bhavapadena gahito kammabhavo cāti sabbepi kilesābhisaṅkhārā samudayasaccaṃ. Ubhinnaṃ appavatti nirodhasaccaṃ. Ariyadhammaggahaṇena, pariññābhikkhusekkhābhiññāgahaṇehi, rāgādikhayavacanehi, sammāsambodhigahaṇena ca maggasaccaṃ. Keci pana taṇhākkhayādivacanehi nirodhasaccaṃ uddharanti, taṃ aṭṭhakathāya virujjhati tattha taṇhākkhayādīnaṃ maggakiccabhāvassa uddhaṭattā.

そこにおいて、執取の蘊(五取蘊)たる諸法に因って、地などの諸要素などの区別ある施設(概念)が存する。それらの施設を示すことによって、生・老・死の個別相という苦の同義語によって説かれた、渇愛を除く三界の諸法が苦諦である。妄想(執着の思念)・歓喜・愛着という同義語によって説かれた渇愛が集諦である。これはまず経典の文脈(経順)である。しかし阿毘達磨の文脈においては、上述の渇愛とともに、「無聞の」などによって示された無明など、妄想という同義語によって把握された慢や悪見、有(bhava)の語によって把握された業有といった、すべての煩悩と行(サンカーラ)が集諦である。両者(苦・集)の不生滅(非生起)が無余滅たる滅諦である。聖なる法の把握によって、また遍知・比丘・有学・証知の把握によって、貪などの尽滅の言葉によって、そして正等覚の把握によって道諦が示される。しかし、渇愛の滅尽などの言葉によって滅諦を取り出す者もいるが、それは注釈書と矛盾する。そこでは渇愛の滅尽などは道(道諦)の機能であると取り出されているからである。

Tattha samudayena assādo, dukkhena ādīnavo, magganirodhehi nissaraṇaṃ, tesaṃ bhikkhūnaṃ mānabhañjanaṃ phalaṃ, tathā ‘‘yathāvuttavibhāgāvabodho’’tiādinā vuttaṃ payojanañca. Tassa nipphattikāraṇattā desanāya vicittatā catunnaṃ puggalānaṃ yāthāvato sabhāvūpadhāraṇañca upāyo, pathavīādīsu puthujjanādīnaṃ pavattidassanāpadesena pathavīādayo ekantato parijānitabbā, maññanā ca pahātabbāti ayamettha bhagavato āṇattīti. Ayaṃ desanāhāro.

そこにおいて、集(集諦)によって味わい(味)が、苦(苦諦)によって過患が、道と滅(道諦・滅諦)によって出離が示され、それらの比丘たちの慢の粉砕が果であり、同様に「上述の分別の覚知」などと説かれたことが目的である。その成就の原因であることから、説法の多様性と四種の人物の本質の如実な考察が手段であり、地などにおいて凡夫などのあり様を示すという名目で、地などは決定的に遍知されるべきであり、妄想は断ぜられるべきであるというのが、ここにおける世尊の勅命である。これが説示の導出法である。

2. Vicayahāravaṇṇanā

2. 尋求の導出法(ヴィチャヤ・ハーラ)の注釈

Maññanānaṃ sakkāyassa avisesahetubhāvato, kassacipi tattha asesitabbato ca sabbagahaṇaṃ, sabhāvadhāraṇato nissattanijjīvato ca dhammaggahaṇaṃ, patiṭṭhābhāvato āveṇikahetubhāvato ca mūlaggahaṇaṃ, kāraṇabhāvato desanatthasambhavato ca pariyāyaggahaṇaṃ, sammukhabhāvato sampadānatthasambhavato ca ‘‘vo’’ti vacanaṃ, tathārūpaguṇayogato abhimukhīkaraṇato ca ‘‘bhikkhave’’ti ālapanaṃ. Desetuṃ samatthabhāvato tesaṃ satuppādanatthañca ‘‘desessāmī’’ti paṭijānanaṃ, desetabbatāya paṭiññātabhāvato, yathāpaṭiññañca desanato ‘‘ta’’nti paccāmasanaṃ, sotabbabhāvato, savanatthassa ca ekantena nipphādanato ‘‘suṇāthā’’ti vuttaṃ. Sakkātabbato, sakkaccakiriyāya eva ca tadatthasiddhito ‘‘sādhuka’’nti vuttaṃ. Dhammassa manasikaraṇīyato tadadhīnattā ca sabbasampattīnaṃ ‘‘manasi karothā’’ti vuttaṃ yathāpariññātāya desanāya paribyattabhāvato vitthāratthasambhavato ca ‘‘bhāsissāmī’’ti vuttaṃ. Bhagavato sadevakena lokena sirasā sampaṭicchitabbavacanattā, tassa ca yathādhippetatthasādhanato ‘‘eva’’nti vuttaṃ. Satthu uttamagāravaṭṭhānabhāvato, tattha ca gāravassa uḷārapuññabhāvato ‘‘bhante’’ti vuttaṃ. Bhikkhūnaṃ tathākiriyāya nicchitabhāvato vacanālaṅkārato ca ‘‘kho’’ti vuttaṃ. Savanassa paṭijānitabbato, tathā tehi paṭipannattā ca ‘‘paccassosu’’nti vuttaṃ paccakkhabhāvato, sakalassapi ekajjhaṃ karaṇato ‘‘eta’’nti vuttaṃ.

妄想(思念)にとって有身が無差別の原因であること、またそこにおいて何者も余すところがないことから「一切」と把握され、自相を保持すること、有情でなく霊魂でないことから「法」と把握され、立脚地であり固有の原因であることから「根本」と把握され、原因であり説示の意味が生じることから「法門(方便)」と把握され、面前にあること、与格の意味が生じることから「汝らに」という言葉が用いられ、そのような徳を具足していること、面前へと向かわせることから「比丘たちよ」という呼びかけがなされる。説示する能力があること、彼らに正念を起こさせるために「説くであろう」と約束し、説くべきものとして約束されたものであること、約束通りに説くことから「それを」と指し示し、聞くべきものであること、聴聞の意味を決定的に成し遂げることから「聞け」と説かれた。恭敬すべきであること、恭敬して行うことによってのみその目的が達成されることから「よく(善く)」と説かれた。法は作意されるべきものであり、一切の成就がそれに依存していることから「作意せよ」と説かれ、正しく知られた通りの説法が明瞭であること、詳細な意味が生じることから「語るであろう」と説かれた。世尊の言葉は天人を含む世界が頭を垂れて受け入れられるべきものであり、意図された通りの意味を成就することから「その通りです」と説かれた。師が至高の敬意の対象であること、そこにおける敬意が広大な功徳であることから「尊師よ」と説かれた。比丘たちがそのように行うことが確定していること、言葉の装飾であることから「実に」と説かれた。聴聞を約束すべきであること、また彼らがそのように実践したことから「答えた」と説かれ、目前の事実であること、全体を一つにまとめることから「これを」と説かれた。

Vuccamānassa puggalassa lokapariyāpannattā lokādhārattā ca lokaṃ upādāya ‘‘idhā’’ti vuttaṃ. Paṭivedhabāhusaccābhāvato pariyattibāhusaccābhāvato ca ‘‘assutavā’’ti vuttaṃ. Puthūsu, puthu vā janabhāvato ‘‘puthujjano’’ti vuttaṃ. Anariyadhammavirahato ariyadhammasamannāgamato ca ‘‘ariyāna’’nti vuttaṃ. Ariyabhāvakarāya paṭipattiyā abhāvato, tattha kosalladamathābhāvato ‘‘ariyānaṃ adassāvī’’tiādi vuttaṃ. Asantadhammassavanato santadhammasamannāgamato sabbhi pāsaṃsiyato ca ‘‘sappurisāna’’nti vuttaṃ. Sappurisabhāvakarāya paṭipattiyā abhāvato, tattha ca kosalladamathābhāvato ‘‘sappurisānaṃ adassāvī’’tiādi vuttaṃ. Pathavīvatthukānaṃ maññanānaṃ, upari vuccamānānañcamaññanānaṃ mūlakattā papañcasaṅkhānaṃ ‘‘pathaviṃ pathavito sañjānātī’’ti vuttaṃ. Andhaputhujjanassa ahaṃkāra-mamaṃkārānaṃ katthacipi appahīnattā ‘‘pathaviṃ maññatī’’tiādi vuttaṃ.

説かれている人物が世間に属し、世間を依処としていることから、世間に因って「ここに」と説かれた。通達の多聞を欠き、教理の多聞を欠くことから「無聞の」と説かれた。多くの、あるいは多種多様な人々を産み出すことから「凡夫」と説かれた。非聖なる法を離れ、聖なる法を具備することから「聖者たちの」と説かれた。聖者たる身を生み出す実践の欠如、そこにおける巧みさと調伏の欠如から「聖者たちを見ず」などと説かれた。不善なる法を聞くことを離れ、善なる法を具え、善士たちに賞賛されることから「善士たちの」と説かれた。善士たる身を生み出す実践の欠如、そこにおける巧みさと調伏の欠如から「善士たちを見ず」などと説かれた。地を基盤とする妄想、および以降に説かれる妄想の根本である戯論の想念ゆえに「地を地と了知する」と説かれた。無明の凡夫には我執・我所執がどこにおいても断ぜられていないことから「地を妄想する」などと説かれた。

Pubbe aggahitattā, sāmaññato ca gayhamānattā, puggalassa pathavīādiārammaṇasabhāgatāya labbhamānattā ca ‘‘yopī’’ti vuttaṃ. ‘‘Yo’’ti aniyamena gahitassa niyametabbato paṭiniddisitabbato ca; ‘‘so’’ti vuttaṃ sātisayaṃ saṃsāre bhayassa ikkhanato kilesabhedanasambhavato ca ‘‘bhikkhū’’ti vuttaṃ. Sikkhāhi samannāgamato sekkhadhammapaṭilābhato ca ‘‘sekkho’’ti vuttaṃ. Manasā laddhabbassa arahattassa anadhigatattā adhigamanīyato ca ‘‘appattamānaso’’ti vuttaṃ. Aparena anuttaraṇīyato, paraṃ anucchavikabhāvena uttaritvā ṭhitattā ca ‘‘anuttara’’nti vuttaṃ. Yogena bhāvanāya kāmayogādito ca khemaṃ sivaṃ anupaddavanti ‘‘yogakkhema’’nti vuttaṃ. Chandappavattiyā ussukkāpattiyā ca ‘‘patthayamāno’’ti vuttaṃ. Tadatthassa sabbaso sabbairiyāpathavihārassa samathavipassanāvihārassa dibbavihārassa ca vasena ‘‘viharatī’’ti vuttaṃ. Sekkhassa sabbaso abhiññeyyabhāvañceva pariññeyyabhāvañca ñāṇena abhibhavitvā jānanato ‘‘abhijānātī’’ti vuttaṃ. Sekkhassa sabbaso appahīnamaññanatāya abhāvato ‘‘mā maññī’’ti vuttaṃ. Sesaṃ vuttanayānusārena veditabbaṃ. Iminā nayena ito paraṃ sabbapadesu vinicchayo kātabbo. Sakkā hi aṭṭhakathaṃ tassā līnatthavaṇṇanañca anugantvā ayamattho viññūhi vibhāvetunti ativitthārabhayena na vitthārayimha. Iti anupadavicayato vicayo hāro.

以前には取り上げられておらず、一般的に把握されるものであり、人物が地などの対象と同質のものとして得られることから「またいかなる者も」と説かれた。「いかなる」と無限定に把握されたものを限定し、指し示すべきであることから「その者は」と説かれ、輪廻における恐れを極めて鋭く見つめ、煩悩を打ち破ることが可能であることから「比丘」と説かれた。学処を具え、有学の法を体得していることから「有学者」と説かれた。心によって得られるべき阿羅漢果に未だ達しておらず、到達されるべきものであることから「未達意の者」と説かれた。他者によって超えられないこと、他者をふさわしい形で超えて立っていることから「無上の」と説かれた。専修(ヨーガ)による修習によって、欲の軛などから安穏・吉祥・無患であることから「瑜伽安穏(ヨーガッケーマ)」と説かれた。意欲の働きと熱意の生起から「希求しつつ」と説かれた。その目的のために、あらゆる威儀の住、止観の住、神聖なる住によって「住している」と説かれた。有学者が完全に知るべきこと(遍知すべきこと)を智によって超克して知ることから「証知する」と説かれた。有学者には妄想が完全に断たれていないわけではない(ある程度断たれている)ことから「妄想してはならない」と説かれた。残りは説かれた方法に従って理解されるべきである。この方法によって、これ以降のすべての語句について判定がなされるべきである。実に、註釈書とその隠れた意味の注釈(複註)に従うことによって、智者はこの意味を解明することができるため、過度な詳細を恐れて詳述しなかった。このように、一語一語の尋求によるものが尋求の導出法である。

3. Yuttihāravaṇṇanā

3. 道理の導出法(ユッティ・ハーラ)の注釈

Sakkāyassa sabbamaññanānaṃ mūlabhāvo yujjati parikappamattakattā lokavicittassa. Byāhusaccadvayarahitassa andhaputhujjanabhāvo yujjati puthukilesābhisaṅkhārajananādisabhāvattā. Yathāvuttaputhujjanassa vā vuttappakārabāhusaccābhāvo yujjati tasmiṃ sati sabbhāvato. Tattha assutavato puthujjanassa ariyānaṃ sappurisānañca adassāvitādi yujjati ariyakaradhammānaṃ ariyabhāvassa ca tena adiṭṭhattā appaṭipannattā ca tathā tassa pathaviyā ‘‘ahaṃ pathavī, mama pathavī, paro pathavī’’ti sañjānanaṃ yujjati ahaṃkāramamaṃkārānaṃ sabbena sabbaṃ appahīnattā. Tathā sañjānato cassa pathaviṃ kammādikaraṇādivasena gahetvā nānappakārato maññanāpavatti yujjati saññānidānattā papañcasaṅkhānaṃ. Yo maññati, tassa apariññātavatthukatā yujjati pariññāya vinā maññanāpahānābhāvato. ‘‘Āpaṃ āpato sañjānātī’’tiādīsupi eseva nayo. Apariyositasikkhassa appattamānasatā yujjati katakiccatābhāvato. Sekkhassa sato yogakkhemapatthanā yujjati tadadhimuttabhāvato. Tathā tassa pathaviyā abhijānanā yujjati pariññāpahānesu mattaso kāribhāvato. Tato eva cassa ‘‘mā maññī’’ti vattabbatā yujjati vatthupariññāya viya maññanāpahānassapi vippakatabhāvato. Sekkhassa pathaviyā pariññeyyatā yujjati pariññātuṃ sakkuṇeyyattā sabbaso apariññātattā ca. ‘‘Āpaṃ āpato’’tiādīsupi eseva nayo. Arahattādiyuttassa pathaviyādīnaṃ abhijānanā maññanābhāvo ca yujjati saṅkhātadhammattā, sabbaso kilesānaṃ pahīnattā, tato eva cassa vītarāgādibhāvo tato sammadeva ca paṭiccasamuppādassa paṭividdhatāti. Ayaṃ yuttihāro.

有身がすべての妄想の根本であることは理にかなっている。世界の多様性は分別構想にすぎないからである。二種の多聞を欠く者が盲目な凡夫であることは理にかなっている。多くの煩悩や行(サンカーラ)を生み出すなどの性質を持つからである。あるいは、上述の凡夫が上述の多聞を欠いていることは理にかなっている。それ(多聞)があれば(凡夫性の)存在があり得ないからである。そこにおいて、無聞の凡夫が聖者たちや善士たちを見ないことなどは理にかなっている。聖者を生み出す諸法や聖者たる状態を、彼が見ておらず、実践していないからである。同様に、彼が地について「私は地である、地は私のものである、他人は地である」と了知することは理にかなっている。我執と我所執を完全に断じていないからである。そして、そのように了知する者が地を業や作具などとして把握し、様々な形態の妄想を生じさせることは理にかなっている。想念こそが戯論の因であるからである。妄想する者において、その対象が遍知されていないことは理にかなっている。遍知なしには妄想の断滅があり得ないからである。「水を水と了知する」などにおいても同様の方法である。学を終えていない者が未達意であることは理にかなっている。作すべきことを未だ成し遂げていないからである。有学者である者が瑜伽安穏を希求することは理にかなっている。それに傾倒しているからである。同様に、彼が地を証知することは理にかなっている。遍知と断滅において相応に行じているからである。まさにそのゆえに、彼に対して「妄想してはならない」と語られるべきであることは理にかなっている。対象の遍知と同様に、妄想の断滅も未完成だからである。有学者にとって地が遍知されるべきものであることは理にかなっている。遍知することが可能であり、かつ完全に遍知し尽くしてはいないからである。「水を水と」などにおいても同様の方法である。阿羅漢果などを具えた者が地などを証知し、妄想しないことは理にかなっている。法を完全に了知し、煩悩を完全に断滅しているからであり、まさにそれゆえに貪を離れた者などであり、それゆえに正しく縁起に通達しているからである。これが道理の導出法である。

4. Padaṭṭhānahāravaṇṇanā

4. 足処(近因)の導出法(パダッターナ・ハーラ)の注釈

Kissopi maññanā sakkāyassa padaṭṭhānaṃ, maññanānaṃ ayonisomanasikāro padaṭṭhānaṃ, sutadvayaviraho andhaputhujjanabhāvassa padaṭṭhānaṃ, so ariyānaṃ adassāvitāya padaṭṭhānaṃ, sā ariyadhammassa akovidatāya padaṭṭhānaṃ, sā ariyadhamme avinītatāya padaṭṭhānaṃ. ‘‘Sappurisānaṃ adassāvī’’ti etthāpi eseva nayo. Saññāvipallāso maññanānaṃ padaṭṭhānaṃ. Saññānidānā hi papañcasaṅkhāti. Maññanāsu ca taṇhāmaññanā itaramaññanānaṃ padaṭṭhānaṃ ‘‘taṇhāgatānaṃ paritassitavipphandita’’nti, (dī. ni. 1.105-109) ‘‘taṇhāpaccayā upādāna’’nti (ma. ni. 3.126; mahāva. 1) ca vacanato, taṇhāgatasseva ca ‘‘seyyohamasmi’’ntiādinā mānajappanāsabbhāvatā. Sabbāpi vā maññanā sabbāsaṃ maññanānaṃ padaṭṭhānaṃ. ‘‘Upādānapaccayā taṇhā’’ti hi vacanato diṭṭhipi taṇhāya padaṭṭhānaṃ. ‘‘Ahamasmi brahmā mahābrahmā’’ti (dī. ni. 1.42; 3.39) ādivacanato mānopi diṭṭhiyā padaṭṭhānaṃ. Tathā ‘‘asmīti sati itthaṃsmīti hoti, evaṃsmīti hoti, aññathāsmīti hotī’’tiādivacanato mānassapi taṇhāya padaṭṭhānatā labbhateva. Sekkhā dhammā sappadesato maññanāpahānassa padaṭṭhānaṃ. Asekkhā nippadesato maññanāpahānassa padaṭṭhānaṃ. Kammabhavo ca jātiyā padaṭṭhānaṃ. Jāti jarāmaraṇassa padaṭṭhānaṃ. Paccayākārassa yathābhūtāvabodho sammāsambodhiyā padaṭṭhānanti. Ayaṃ padaṭṭhāno hāro.

いかなる妄想も有身の近因(足処)であり、諸々の妄想には不正作意が近因であり、二種の聴聞の欠如は盲目な凡夫性の近因であり、それは聖者たちを見ないことの近因であり、それは聖法に不熟であることの近因であり、それは聖法において調伏されていないことの近因である。「善士たちを見ない」というここにおいても同様の方法である。想の転倒は妄想の近因である。想こそが戯論の因であるからである。妄想の中でも、渇愛による妄想は他の妄想の近因である。「渇愛に陥った者の恐れとおののき」(長部1.105-109)、「渇愛を縁として取が生じる」(中部3.126、大品1)という言説があり、渇愛に陥った者にこそ「私は勝れている」などの慢の誇示が存在するからである。あるいは、あらゆる妄想があらゆる妄想の近因である。「取を縁として愛が生じる」という言説ゆえに、悪見もまた渇愛の近因である。「我は梵天、大梵天なり」(長部1.42、3.39)などの言説ゆえに、慢もまた悪見の近因である。同様に「『我あり』とあれば『このように我あり』となり、『このようであれ』となり、『他であれ』となる」などの言説ゆえに、慢もまた渇愛の近因となることが得られるのである。有学の法は部分的な妄想の断滅の近因である。無学の法は完全な妄想の断滅の近因である。業有は生の近因である。生は老死の近因である。縁起の如実な覚知は正等覚の近因である。これが足処の導出法である。

5. Lakkhaṇahāravaṇṇanā

5. 特徴(相)の導出法(ラッカナ・ハーラ)の注釈

‘‘Sabbadhammamūlapariyāya’’nti ettha mūlaggahaṇena mūlapariyāyaggahaṇena vā yathā taṇhāmānadiṭṭhiyo gayhanti, evaṃ dosamohādīnampi sakkāyamūladhammānaṃ saṅgaho daṭṭhabbo sakkāyassa mūlabhāvena ekalakkhaṇattā. ‘‘Assutavā’’ti iminā yathā tassa puggalassa pariyattipaṭivedhasaddhammānaṃ abhāvo gayhati, evaṃ paṭipattisaddhammassapi abhāvo gayhati saddhammabhāvena ekalakkhaṇattā. Ariyānaṃ adassanakāmatādilakkhaṇā. ‘‘Ariyadhammassa akovido’’ti iminā ariyadhammādhigamassa vibandhabhūtaṃ aññāṇaṃ. ‘‘Ariyadhamme avinīto’’ti iminā ariyavinayābhāvo. So panatthato ariyavinaye appaṭipatti eva vāti tīhipi padehi yathāvuttavisayā micchādiṭṭhi vicikicchā ca gahitāva honti. Taggahaṇena ca sabbepi akusalā dhammā saṅgahitāva honti saṃkilesalakkhaṇena ekalakkhaṇattā. ‘‘Sappurisānaṃ adassāvī’’ti etthāpi eseva nayo.

「一切法根本法門」というここにおいて、「根本」の把握により、あるいは「根本法門」の把握により、渇愛・慢・悪見が把握されるのと同様に、瞋恚・愚痴などの有身の根本法も包摂されると見なされるべきである。有身の根本であるという単一の特徴(同相)を持つからである。「無聞の」によって、その人物の教理と通達の正法の欠如が把握されるのと同様に、実践の正法の欠如も把握される。正法であるという単一の特徴を持つからである。聖者たちを見ようとしないことなどの特徴がある。「聖法に不熟」によって、聖法の体得の障害となる無知が示される。「聖法において調伏されず」によって、聖なる規律の欠如が示される。それは実質的には聖なる規律において実践しないことに他ならない。これら三つの句によって、上述の領域に関する邪見と疑惑とが把握されているのである。それらを把握することにより、一切の不善法もまた包摂されている。雑染(煩悩)の特徴という単一の特徴を持つからである。「善士たちを見ず」というここにおいても同様の方法である。

‘‘Pathaviṃ pathavito sañjānātī’’ti idaṃ diṭṭhimaññanādīnaṃ saññāya kāraṇabhāvadassanaṃ. Tattha yathā saññā, evaṃ vitakkaphassāvijjāayonisomanasikārādayopi tāsaṃ kāraṇanti atthato tesampettha saṅgaho vutto hoti maññanānaṃ kāraṇabhāvena ekalakkhaṇattā. ‘‘Maññatī’’ti iminā maññanākiccena taṇhāmānadiṭṭhiyo gahitā tāsaṃ kilesasabhāvattā. Taggahaṇeneva vicikicchādinampi saṅgaho daṭṭhabbo kilesalakkhaṇena ekalakkhaṇattā. Tathā taṇhāya hetusabhāvattā taggahaṇeneva avasiṭṭhākusalahetūnaṃ saṅgaho daṭṭhabbo hetulakkhaṇena ekalakkhaṇattā. Tathā taṇhādiṭṭhīnaṃ āsavādisabhāvattā taggahaṇeneva avasiṭṭhāsavoghayogaganthanīvaraṇādīnampi saṅgaho daṭṭhabbo āsavādisabhāvattā ekalakkhaṇattā. Tathā ‘‘pathaviṃ maññatī’’tiādinā pathavīādīnaṃ rūpasabhāvattā tabbisayānañca maññanānaṃ rūpavisayattā taggahaṇeneva sakalarūpakkhandhavisayāpi maññanā dassitā honti rūpavisayalakkhaṇena āsaṃ ekalakkhaṇattā. Evaṃ cakkhāyatanādivisayāpi maññanā niddhāretabbā. ‘‘Apariññāta’’nti pariññāpaṭikkhepena tappaṭibaddhakilesānaṃ pahānapaṭikkhepoti daṭṭhabbo maggakiccabhāvena pariññāpahānānaṃ ekalakkhaṇattā. Iminā nayena sesesupi yathārahaṃ ekalakkhaṇā niddhāretabbāti. Ayaṃ lakkhaṇo hāro.

「地を地と了知する」とは、見解による妄想などに対して想が原因であることを示すものである。そこにおいて想と同様に、尋・触・無明・不正作意などもそれらの原因であるため、意味の上ではそれらもここに包摂されて説かれていることになる。妄想の原因であるという単一の特徴を持つからである。「妄想する」というこの妄想の機能によって渇愛・慢・悪見が把握されている。それらは煩悩の自性を持つからである。それらを把握することによって疑惑なども包摂されると見なされるべきである。煩悩の特徴という単一の特徴を持つからである。同様に、渇愛は原因(因)の自性を持つため、それを把握することによって残りの不善の因も包摂されると見なされるべきである。因の特徴という単一の特徴を持つからである。同様に、渇愛や悪見は漏などの自性を持つため、それを把握することによって残りの漏・暴流・軛・縛・覆いなども包摂されると見なされるべきである。漏などの自性という単一の特徴を持つからである。同様に、「地を妄想する」などによって地などが色(物質)の自性であり、それを対象とする妄想も色の領域を対象とするため、それを把握することによって色蘊全体を対象とする妄想も示されたことになる。色を対象とする特徴という単一の特徴を持つからである。このように眼処などを対象とする妄想も抽出されるべきである。「遍知されない」とは、遍知の否定によって、それに結びついた煩悩の断滅の否定であると見なされるべきである。道の機能であるという点で、遍知と断滅とが単一の特徴を持つからである。この方法に従って、他の箇所においても相応に単一の特徴が抽出されるべきである。これが特徴の導出法である。

6. Catubyūhahāravaṇṇanā

6. 四つの配列の導出法(チャトゥビューハ・ハーラ)の注釈

Pathavīādīsu vatthūsu byañjanacchāyāya atthaṃ gahetvā dhammagambhīrataṃ asallakkhetvā asaddhammassavanādinā vañcitā hutvā saddhammassavanadhāraṇaparicayamanasikāravimukhā pathavīādīsu vatthūsu puthujjanasekkhāsekkhatathāgatānaṃ paṭipattivisesaṃ ajānantā ca veneyyā imissā desanāya nidānaṃ. Te ‘‘kathaṃ nu kho yathāvuttadosavinimuttā yathāvuttañca visesaṃ jānantā sammāpaṭipattiyā ubhayahitaparāyaṇā saveyyu’’nti ayamettha bhagavato adhippāyo. Padanibbacanaṃ niruttaṃ, taṃ ‘‘eva’’ntiādinidānapadānaṃ, ‘‘sabbadhammamūlapariyāya’’ntiādipāḷipadānañca aṭṭhakathāyaṃ, tassā līnatthavaṇṇanāyañceva vuttanayena suviññeyyattā ativitthārabhayena na vitthārayimha.

地などの対象において文字の影(皮相的な表現)によって意味を捉え、法の深遠さを洞察せず、不正な教えを聞くことなどによって欺かれ、正法を聞き、把持し、習熟し、作意することに背を向け、地などの対象における凡夫・有学・無学・如来の実践の差異を知らない所化の衆生こそが、この説法の発端(因縁)である。彼らが「いかにして上述の過失を免れ、上述の卓越した特質を知り、正しき実践によって自他両方の利益に専念する者となることができるか」というのが、ここにおける世尊の意図(意趣)である。語の語源的解釈が語源(ニルッタ)であり、それは「このように」などの発端の句、および「一切法根本法門」などのパーリ語句について、註釈書とその隠れた意味の注釈(複註)において説かれた方法によって容易に理解できるため、過度の詳細を恐れて詳述しなかった。

Padapadatthadesanānikkhepasuttasandhivasena pañcavidhā sandhi. Tattha padassa padantarena sambandho padasandhi, tathā padatthassa padatthantarena sambandho padatthasandhi, yo ‘‘kiriyākārakasambandho’’ti vuccati. Nānānusandhikassa suttassa taṃtaṃanusandhīhi sambandho, ekānusandhikassa pana pubbāparasambandho desanāsandhi. Yā aṭṭhakathāyaṃ ‘‘pucchānusandhi ajjhāsayānusandhi yathānusandhī’’ti tidhā vibhattā. Ajjhāsayo cettha attajjhāsayo parajjhāsayoti dvidhā veditabbo. Yaṃ panettha vattabbaṃ, taṃ heṭṭhā nidānavaṇṇanāyaṃ vuttameva. Nikkhepasandhi catunnaṃ suttanikkhepānaṃ vasena veditabbo. Suttasandhi idha paṭhamanikkhepavaseneva veditabbo. Kasmā panettha mūlapariyāyasuttameva paṭhamaṃ nikkhittanti? Nāyamanuyogo katthaci nappavattati, apica yasmā maññanāmūlakaṃ sakkāyaṃ, sabbamaññanā ca tattha eva anekabhedabhinnā pavattati, na tassā savisayāya lesamattampi sāraṃ atthīti pathavīādivibhāgabhinnesu maññanāsu ca sātisayaṃ nibbedhavirāgasañjananī upari sekkhāsekkhatathāgataguṇavibhāvanī ca ayaṃ desanā. Suttantadesanā ca visesato diṭṭhiviniveṭhanakathā, tasmā sanissayassa diṭṭhiggāhassa ādito asārabhāvadīpanaṃ upari ca sabbesaṃ ariyānaṃ guṇavisesavibhāvanamidaṃ suttaṃ paṭhamaṃ nikkhittaṃ. Kiñca sakkāye maññanāmaññanāmukhena pavattinivattīsu ādīnavānisaṃsavibhāvanato sabbesaṃ puggalānaṃ paṭipattivibhāgato ca idameva suttaṃ paṭhamaṃ nikkhittaṃ.

句、句の意味、説法、提示、経典の連結によって、連結(サンディ)は五種ある。そこにおいて、ある句と他の句との結合が句の連結(パダサンディ)であり、同様にある句の意味と他の句の意味との結合が句の意味の連結(パダッタサンディ)であり、それは「作用と作務の結合」と呼ばれる。多様な文脈を持つ経典のそれぞれの文脈による結合、単一の文脈を持つ経典の前後関係による結合が説法の連結(デーサナーサンディ)である。それは註釈書において「質問の連結、意図の連結、文脈通りの連結」と三種に分類されている。そしてここにおける意図は、自らの意図と他者の意図の二種として理解されるべきである。ここで語られるべきことは、すでに下方の発端の注釈において語られた通りである。提示の連結(ニッケーパサンディ)は四種の経典の提示によって理解されるべきである。経典の連結(スッタサンディ)は、ここでは最初の提示によってのみ理解されるべきである。なぜここで根本法門経が最初に置かれたのか。この問いはどこにおいても生じないわけではないが、妄想を根本とする有身があり、一切の妄想がまさにそこにおいて多種多様に展開し、その対象を伴う妄想には微塵の確固たる本質も存在しないことから、地などの分類に分かれたものや妄想に対して極めて強い嫌悪と離貪を生じさせ、上方の有学・無学・如来の徳を解明するものがこの説法である。そして経典の説法は特に見解の網を解きほぐす言説であるため、依処を伴う悪見の執着の最初からの無実質性を示し、上方においてすべての聖者たちの卓越した徳を解明するこの経が最初に提示されたのである。さらに、有身における妄想と無妄想のあり方を通じて、輪廻の継続と終息における過患と功徳を解明することから、すべての人物の実践の区分を示すために、まさにこの経が最初に提示されたのである。

Yaṃ pana ekissā desanāya desanantarena saddhiṃ saṃsandanaṃ, ayampi desanāsandhi, sā evaṃ veditabbā. ‘‘Assutavā puthujjano…pe… nibbānaṃ abhinandatī’’ti ayaṃ desanā. ‘‘Idha, bhikkhave, assutavā puthujjano…pe… sappurisadhamme avinīto manasikaraṇīye dhamme nappajānāti, amanasikaraṇīye ca dhamme nappajānāti, so manasikaraṇīye dhamme appajānanto amanasikaraṇīye ca dhamme appajānanto ye dhammā na manasikaraṇīyā, te dhamme manasi karoti…pe… anuppanno vā kāmāsavo uppajjati, uppanno vā kāmāsavo pavaḍḍhati. Anuppanno vā bhavāsavo uppajjati, uppanno vā bhavāsavo pavaḍḍhati, anuppanno vā avijjāsavo uppajjati, uppanno vā avijjāsavo pavaḍḍhatī’’ti (ma. ni. 1.17) imāya desanāya saṃsandati. Tathā ‘‘tassetaṃ pāṭikaṅkhaṃ subhanimittaṃ manasi karissati, tassa subhanimittassa manasikārā rāgo cittaṃ anuddhaṃsessati, so sarāgo sadoso samoho sāṅgaṇo saṃkiliṭṭhacitto kālaṃ karissatī’’ti (ma. ni. 1.59) imāya desanāya saṃsandati. Tathā ‘‘cakkhuñcāvuso paṭicca rūpe ca uppajjati cakkhuviññāṇaṃ, tiṇṇaṃ saṅgati phasso, phassapaccayā vedanā. Yaṃ vedeti taṃ sañjānāti, yaṃ sañjānāti taṃ vitakketi, yaṃ vitakketi taṃ papañceti, yaṃ papañceti tatonidānaṃ purisaṃ papañcasaññāsaṅkhā samudācarantī’’ti (ma. ni. 1.204) imāya desanāya saṃsandati. Tathā ‘‘idha, bhikkhave, asutavā puthujjano…pe… sappurisadhamme avinīto rūpaṃ ‘etaṃ mama, esohamasmi, eso me attā’ti samanupassati. Vedanaṃ…pe…, saññaṃ…pe…, saṅkhāre…pe…, viññāṇaṃ ‘etaṃ mama, esohamasmi, eso me attā’ti samanupassati. Yampi taṃ diṭṭhaṃ…pe… yampi taṃ diṭṭhiṭṭhānaṃ, so loko so attā so pecca bhavissāmi nicco dhuvo sassato avipariṇāmadhammo sassatisamaṃ tatheva ṭhassāmīti, tampi ‘etaṃ mama, esohamasmi, eso me attā’ti samanupassatī’’ti (ma. ni. 1.241) imāya desanāya saṃsandati.

一つの説法を他の説法と照合・統合すること、これもまた説法の連結であり、それは以下のように理解されるべきである。「無聞の凡夫は……中略……涅槃を歓喜する」というこの説法は、「比丘たちよ、ここに無聞の凡夫がいて……中略……善士の法に調伏されず、作意すべき法を知らず、作意すべからざる法を知らない。彼は作意すべき法を知らず、作意すべからざる法を知らずして、作意すべからざる法を作意する……中略……未生じた欲漏が生じ、生じた欲漏が増大する。未生じた有漏が生じ、生じた有漏が増大する。未生じた無明漏が生じ、生じた無明漏が増大する」(中部1.17)というこの説法と符合する。同様に、「彼にはこれが予期される。浄相(美しさの特徴)を作意するであろう。その浄相の作意によって貪が心を破壊するであろう。彼は貪を伴い、瞋恚を伴い、愚痴を伴い、汚れを伴い、心が汚染されて命を終えるであろう」(中部1.59)というこの説法と符合する。同様に、「友よ、眼と色とを縁として眼識が生じ、三者の集まりが触である。触を縁として受が生じる。感受するものを了知し、了知するものを思惟し、思惟するものを戯論する。戯論するものを原因として、人を戯論の想念の数が襲う」(中部1.204)というこの説法と符合する。同様に、「比丘たちよ、ここに無聞の凡夫がいて……中略……善士の法に調伏されず、色を『これは私のものである、これこそ私である、これは私の我である』と観察する。受を……中略……想を……中略……行を……中略……識を『これは私のものである、これこそ私である、これは私の我である』と観察する。見られたもの……中略……その見解の拠り所である『かの世界、かの我、かの我は死後に常住・堅固・永遠・不変の性質のものとなり、永遠と同じくまさにそのように存続するであろう』というものも、『これは私のものである、これこそ私である、これは私の我である』と観察する」(中部1.241)というこの説法と符合する。

‘‘Yopi so, bhikkhave, bhikkhu…pe… nibbānaṃ mābhinandī’’ti ayaṃ desanā. ‘‘Idha, devānaminda, bhikkhuno sutaṃ hoti ‘sabbe dhammā nālaṃ abhinivesāyā’ti, evañcetaṃ, devānaminda, bhikkhuno sutaṃ hoti ‘sabbe dhammā nālaṃ abhinivesāyā’ti, so sabbaṃ dhammaṃ abhijānāti, sabbaṃ dhammaṃ abhiññāya sabbaṃ dhammaṃ parijānāti, sabbaṃ dhammaṃ pariññāya yaṃ kiñci vedanaṃ vedeti sukhaṃ vā dukkhaṃ vā adukkhamasukhaṃ vā, so tāsu vedanāsu aniccānupassī viharati, virāgānupassī viharati, nirodhānupassī viharati, paṭinissaggānupassī viharatī’’ti (ma. ni. 1.390) imāya desanāya saṃsandati. ‘‘Yopi so, bhikkhave, bhikkhu arahaṃ…pe… abhisambuddhoti vadāmī’’ti ayaṃ desanā ‘‘sutavā ca kho, bhikkhave, ariyasāvako…pe… sappurisadhamme suvinīto rūpaṃ ‘netaṃ mama, nesohamasmi, na meso attā’ti samanupassati, vedanaṃ…pe…, saññaṃ…pe…, saṅkhāre…pe…, viññāṇaṃ ‘netaṃ mama, nesohamasmi, na meso attā’ti samanupassati. Yampi taṃ diṭṭhaṃ sutaṃ viññātaṃ pattaṃ pariyesitaṃ anuvicaritaṃ manasā, tampi ‘netaṃ mama, nesohamasmi, na meso attā’ti samanupassati. Yampi taṃ diṭṭhiṭṭhānaṃ, so loko so attā so pecca bhavissāmi ‘nicco dhuvo sassato api pariṇāmadhammo sassatisamaṃ tatheva ṭhassāmī’ti, tampi ‘netaṃ mama, nesohamasmi, na meso attā’ti samanupassati. So evaṃ samanupassanto na paritassatī’’ti (ma. ni. 1.241) evamādidesanāhi saṃsandatīti, ayaṃ catubyūho hāro.

「比丘たちよ、またいかなる比丘も……中略……涅槃を歓喜してはならない」というこの説法は、「天帝よ、ここに比丘が『一切の法は執着するに値しない』と聞くことがある。天帝よ、比丘が『一切の法は執着するに値しない』とこのように聞いたならば、彼は一切の法を証知し、一切の法を証知して一切の法を遍知し、一切の法を遍知していかなる受を感受しようとも、楽受であれ苦受であれ不苦不楽受であれ、彼はそれらの受において無常を観察して住し、離貪を観察して住し、滅を観察して住し、放棄を観察して住する」(中部1.390)というこの説法と符合する。「比丘たちよ、またいかなる比丘も阿羅漢であり……中略……正等覚したと私は説く」というこの説法は、「比丘たちよ、多聞ある聖弟子は……中略……善士の法によく調伏され、色を『これは私のものではない、これこそ私ではない、これは私の我ではない』と観察する。受を……中略……想を……中略……行を……中略……識を『これは私のものではない、これこそ私ではない、これは私の我ではない』と観察する。見られ、聞かれ、覚知され、識知され、達せられ、探求され、意によって巡らされたものも、『これは私のものではない、これこそ私ではない、これは私の我ではない』と観察する。その見解の拠り所である『かの世界、かの我、かの我は死後に常住・堅固・永遠・不変の性質のものとなり、永遠と同じくまさにそのように存続するであろう』というものも、『これは私のものではない、これこそ私ではない、これは私の我ではない』と観察する。彼はこのように観察して恐れおののくことがない」(中部1.241)などの説法と符合する。これが四つの配列の導出法である。

7. Āvattahāravaṇṇanā

7. 転回(還元)の導出法(アーヴァッタ・ハーラ)の注釈

‘‘Assutavā puthujjano’’ti iminā yonisomanasikārapaṭikkhepamukhena ayonisomanasikārapariggaho dīpito. ‘‘Ariyānaṃ adassāvī’’tiādinā sappurisūpanissayādipaṭikkhepamukhena asappurisūpanissayādipariggaho dīpito. Tesu purimanayena āsayavipatti kittitā, dutiyena payogavipatti. Purimena cassa kilesavaṭṭaṃ, tañca yato vipākavaṭṭanti sakalaṃ saṃsāracakkamāvattati. ‘‘Pathaviṃ maññatī’’tiādinā tattha tisso maññanā vuttā. Tāsu taṇhāmaññanā ‘‘etaṃ mamā’’ti taṇhāggāho, mānamaññanā ‘‘esohamasmī’’ti mānaggāho, diṭṭhimaññanā ‘‘eso me attā’’ti diṭṭhiggāho. Tattha taṇhāggāhena ‘‘taṇhaṃ paṭiccapariyesanā’’tiādikā (dī. ni. 2.103; dī. ni. 3.359; a. ni. 3.23; vibha. 963) nava taṇhāmūlakā dhammā āvattanti. Mānaggāhena ‘‘seyyohamasmī’’tiādikā nava mānavidhā āvattanti. Diṭṭhiggāhena ‘‘rūpaṃ attato samanupassatī’’tiādikā (saṃ. ni. 4.345) vīsativatthukā sakkāyadiṭṭhi āvattati. Tīsu ca gāhesu yāya saññāya taṇhāggāhassa vikkhambhanā, sā dukkhasaññā dukkhānupassanā. Yāya saññāya mānaggāhassa vikkhambhanā, sā aniccasaññā aniccānupassanā. Yāya pana saññāya diṭṭhiggāhassa vikkhambhanā, sā anattasaññā anattānupassanā. Tattha paṭhamaggāhavisabhāgato appaṇihitavimokkhamukhaṃ āvattati, dutiyaggāhavisabhāgato animittavimokkhamukhaṃ āvattati, tatiyaggāhavisabhāgato suññatavimokkhamukhaṃ āvattati.

「無聞の凡夫」によって、如理作意の否定を通じて不正作意の把持が示される。「聖者たちを見ず」などによって、善士への親近などの否定を通じて不善士への親近などの把持が示される。これらの中で、前者の方法によって意楽の過失(志向の誤り)が説かれ、後者によって加行の過失(実践の誤り)が説かれる。そして前者によって彼の煩悩の輪転が、後者によって異熟(結果)の輪転が示され、輪廻の車輪全体が転回する。「地を妄想する」などによって、そこにおける三種の妄想が説かれる。それらの中で渇愛の妄想は「これは私のものである」という渇愛の執着であり、慢の妄想は「これこそ私である」という慢の執着であり、悪見の妄想は「これは私の我である」という見解の執着である。そこにおいて渇愛の執着によって「渇愛に縁する探求」など(長部2.103、長部3.359、増支部3.23、分別論963)の九つの渇愛を根本とする法が転回する。慢の執着によって「私は勝れている」などの九種の慢が転回する。悪見の執着によって「色を我と観察する」など(相応部4.345)の二十の拠り所を持つ有身見が転回する。そして三つの執着の中で、渇愛の執着を鎮伏する想が苦の想・苦の観察である。慢の執着を鎮伏する想が無常の想・無常の観察である。悪見の執着を鎮伏する想が無我の想・無我の観察である。そこにおいて最初の執着と相容れないことから無願解脱門が転回し、第二の執着と相容れないことから無相解脱門が転回し、第三の執着と相容れないことから空解脱門が転回する。

Sekkhaggahaṇena ariyāya sammādiṭṭhiyā saṅgaho, tato ca paratoghosayonisomanasikārā dīpitā honti. Paratoghosena ca sutavā ariyasāvakoti āvattati, yonisomanasikārena nava yonisomanasikāramūlakā dhammā āvattanti, catubbidhañca sampatticakkaṃ. ‘‘Mā maññī’’ti maññanānaṃ vippakatappahānatāgahaṇena ekaccāsavaparikkhayo dīpito hoti, tena ca saddhāvimuttadiṭṭhippattakāyasakkhibhāvā āvattanti. ‘‘Arahaṃ khīṇāsavo’’tiādinā asekkhā sīlakkhandhādayo dassitā honti, sīlakkhandhādipāripūriyā ca dasa nāthakaraṇā dhammā āvattanti. ‘‘Na maññatī’’ti maññanāpaṭikkhepena pañcasu upādānakkhandhesu ‘‘netaṃ mama, nesohamasmi, na meso attā’’ti sammāpaṭipatti dassitā, tāya ca sātisayā nikantipariyādānamānasamugghāṭanadiṭṭhiugghāṭanāni pakāsitānīti appaṇihitānimitta-suññatavimokkhā āvattanti.

有学者の把握によって聖なる正見が包摂され、それゆえに他者の教え(他声)と如理作意とが示される。他者の教えによって「多聞ある聖弟子」が転回し、如理作意によって九つの如理作意を根本とする法と四種の成就の輪が転回する。「妄想してはならない」という妄想の部分的な断滅の把握によって、一部の漏の滅尽が示され、それによって信解脱・見至・身証のあり様が転回する。「阿羅漢・漏尽者」などによって無学の戒蘊などが示され、戒蘊などの充足によって十の拠り所となる法(依止法)が転回する。「妄想しない」という妄想の否定によって、五取蘊において「これは私のものではない、これこそ私ではない、これは私の我ではない」という正しき実践が示され、それによって極めて卓越した愛着の尽滅・慢の根絶・見解の根絶が明示されるため、無願・無相・空の解脱が転回する。

‘‘Tathāgato’’tiādinā sabbaññuguṇā vibhāvitāti tadavinābhāvato dasabala-catuvesārajjaasādhāraṇañāṇaāveṇikabuddhadhammā āvattanti. ‘‘Nandī dukkhassa mūla’’ntiādinā saddhiṃ hetunā vaṭṭavivaṭṭaṃ kathitanti pavattinivattitadubhayahetuvibhāvanena cattāri ariyasaccāni āvattanti. ‘‘Taṇhānaṃ khayā’’tiādinā taṇhappahānāpadesena tadekaṭṭhabhāvato diyaḍḍhassa kilesasahassassa pahānaṃ āvattati. ‘‘Sabbaso taṇhānaṃ khayā sammāsambodhiṃ abhisambuddho’’ti ca vuttattā ‘‘nandī dukkhassa mūla’’nti, ‘‘iti viditvā’’tiādinā vuttassa maññanābhāvahetubhūtassa paccayākāravedanassa sāvakehi asādhāraṇañāṇacārabhāvo dassito, tena catuvīsatikoṭisatasahassasamāpattisañcāri bhagavato mahāvajirañāṇaṃ āvattatīti. Ayaṃ āvatto hāro.

「如来」などによって一切知者の徳が解明されているため、それに不可分なものとして十力・四無畏・不共智・十八不共仏法が転回する。「歓喜は苦の根本である」などによって原因とともに輪廻と涅槃(流転と還滅)が語られているため、生起と終息およびその両者の原因の解明によって四聖諦が転回する。「渇愛の滅尽によって」などによる渇愛の断滅の指示によって、それと同一の場にある千五百の煩悩の断滅が転回する。そして「一切の渇愛の滅尽によって正等覚を覚知した」と説かれていることから、「歓喜は苦の根本である」と「このように知って」などと説かれた妄想の非存在の原因である縁起の知解が、声聞たちとは共通しない智の領域であることが示され、それによって二十四兆の等至(サマーパッティ)を行き来する世尊の大金剛智が転回する。これが転回の導出法である。

8. Vibhattihāravaṇṇanā

8. 分別の導出法(ヴィバッティ・ハーラ)の注釈

‘‘Sabbadhammamūlapariyāya’’nti ettha sabbadhammā nāma tebhūmakā dhammā sakkāyassa adhippetattā. Tesaṃ maññanā padaṭṭhānaṃ papañcasaṅkhānimittattā lokavicittassa. Tayime kusalā akusalā abyākatāti tividhā. Tesu kusalānaṃ yonisomanasikārādi padaṭṭhānaṃ, akusalānaṃ ayonisomanasikārādi, abyākatānaṃ kammabhavaāvajjanabhūtarūpādi padaṭṭhānaṃ. Tattha kusalā kāmāvacarādivasena bhūmito tividhā, tathā abyākatā cittuppādasabhāvā, acittuppādasabhāvā pana kāmāvacarāva tathā akusalā. Pariyattipaṭipattipaṭivedhasutakiccābhāvena tividho assutavā. Andhakalyāṇavibhāgena duvidho puthujjano. Sammāsambuddhapaccekabuddhasāvakabhedena tividhā ariyā. Maṃsacakkhudibbacakkhupaññācakkhūhi dassanābhāvena tividho adassāvī. Maggaphalanibbānabhedena tividho, navavidho vā ariyadhammo. Savanadhāraṇaparicayamanasikārapaṭivedhavasena pañcavidhā ariyadhammassa kovidatā. Tadabhāvato akovido. Saṃvarapahānabhedena duvidho, dasavidho vā ariyadhammavinayo, tadabhāvato ariyadhamme avinīto. Ettha padaṭṭhānavibhāgo heṭṭhā dassitoyeva. ‘‘Sappurisānaṃ adassāvī’’tiādīsupi eseva nayo. ‘‘Pathaviṃ maññatī’’tiādīsu maññanāvatthuvibhāgo pāḷiyaṃ āgatova, tathā ajjhattikabāhirādiko ca antaravibhāgo.

「一切法根本法門」というここにおいて、一切法とは有身が意図されているため三界の諸法である。世界の多様性は戯論の想念を原因とするため、それらにとって妄想が近因である。これらは善・不善・無記の三種である。それらの中で善法には如理作意などが近因であり、不善法には不正作意などが、無記法には業有・作意・四大種・色法などが近因である。そこにおいて善法は欲界などの区分によって境地(地)から三種であり、同様に無記法は心惹起の自性によるものであり、心惹起ならざる自性のもの(色法など)は欲界のものであり、不善法も同様である。教理・実践・通達の聴聞の機能の欠如によって無聞の者は三種である。盲目と有徳の区分によって凡夫は二種である。正等覚者・辟支仏・声聞の区別によって聖者は三種である。肉眼・天眼・慧眼による観察の欠如によって見ざる者は三種である。道・果・涅槃の区別によって三種、あるいは九種の聖法がある。聴聞・把持・習熟・作意・通達によって聖法の熟達は五種である。その欠如によって不熟である。防護と断滅の区別によって二種、あるいは十種の聖法の律(規律)があり、その欠如によって聖法において調伏されない者となる。ここにおける近因の分別は下方に示された通りである。「善士たちを見ず」などにおいても同様の方法である。「地を妄想する」などにおける妄想の対象の分別は本文(パーリ)にある通りであり、内・外などの内部の分別も同様である。

Maññanā pana taṇhāmānadiṭṭhivasena saṅkhepato tividhā, vitthārato pana taṇhāmaññanā tāva kāmataṇhādivasena aṭṭhasatavidhā, tathā ‘‘asmīti sati itthaṃsmīti hotī’’tiādinā. Evaṃ mānamaññanāpi. ‘‘Asmīti sati itthaṃsmīti hotī’’tiādinā papañcattayaṃ uddiṭṭhaṃ niddiṭṭhañcāti. Etena diṭṭhimaññanāyapi aṭṭhasatavidhatā vuttāti veditabbā. Apica seyyassa ‘‘seyyohamasmī’’tiādinā mānamaññanāya navavidhatā tadantarabhedena anekavidhatā ca veditabbā. Ayañca attho hīnattikatthavaṇṇanāya vibhāvetabbo. Diṭṭhimaññanāya pana brahmajāle āgatanayena dvāsaṭṭhividhatā tadantarabhedena anekavidhatā ca veditabbā. ‘‘Apariññāta’’nti ettha ñātapariññādivasena ceva rūpamukhādiabhinivesabhedādivasena ca pariññānaṃ anekavidhatā veditabbā. Tathā aṭṭhamakādivasena sekkhavibhāgo paññāvimuttādivasena asekkhavibhāgo ca. Ayamettha dhammavibhāgo. Padaṭṭhānavibhāgo ca bhūmivibhāgo ca vuttanayānusārena veditabbāti. Ayaṃ vibhattihāro.

妄想は渇愛・慢・悪見の区分によって要約すれば三種であり、詳細にはまず渇愛の妄想は欲愛などの区分によって百八種であり、同様に「『我あり』とあれば『このように我あり』となる」などによる。慢の妄想も同様である。「『我あり』とあれば『このように我あり』となる」などによって三つの戯論が提示され、指示されている。これによって悪見の妄想も百八種あると説かれていると理解されるべきである。さらに勝者の「私は勝れている」などによる慢の妄想の九種、およびその内部の区分による多様性が理解されるべきである。そしてこの意味は劣三つ組の注釈において解明されるべきである。しかし悪見の妄想については、梵網経に説かれた方法によって六十二種、およびその内部の区分による多様性が理解されるべきである。「遍知されない」というここにおいて、知遍知などの区分、色を主とする執着の区別などによって、遍知の多様性が理解されるべきである。同様に第八人などの区分による有学者の分別、慧解脱などの区分による無学者の分別がある。これがここにおける法の分別である。近因の分別および境地の分別も説かれた方法に従って理解されるべきである。これが分別の導出法である。

9. Parivattahāravaṇṇanā

9. 換言(反転)の導出法(パリヴァッタ・ハーラ)の注釈

‘‘Sabbadhammamūlapariyāya’’nti ettha ‘‘sabbadhammā’’ti pañcupādānakkhandhā gahitā, tesaṃ mūlakāraṇanti ca taṇhāmānadiṭṭhiyo. Tathā assutavā puthujjano…pe… sappurisadhamme avinītoti. Yāvakīvañca pañcasu upādānakkhandhesu subhato sukhato niccato attato samanupassanavasena ‘‘etaṃ mama, esohamasmi, eso me attā’’ti taṇhāmānadiṭṭhigāhā na samucchijjanti, tāva nesaṃ pabandhūparamo supinantepi na kenaci laddhapubbo. Yadā pana nesaṃ asubhato dukkhato aniccato anattato samanupassanavasena ‘‘netaṃ mama, nesohamasmi, na meso attā’’ti pavattamānā appaṇihitānimittasuññatānupassanā ussakkitvā ariyamaggādhigamāya saṃvattanti, atha nesaṃ pabandhūparamo hoti accantaappaññattikabhāvūpagamanato. Tena vuttaṃ ‘‘sabbadhammāti pañcupādānakkhandhā gahitā, tesaṃ mūlakāraṇanti ca taṇhāmānadiṭṭhiyo’’ti. Tathā assutavā puthujjano…pe… sappurisadhamme avinīto tīhipi maññanāhi pathaviṃ maññati yāva nibbānaṃ abhinandati, tīhipi pariññāhi tassa taṃ vatthu apariññātanti katvā. Yassa pana taṃ vatthu tīhi pariññāhi pariññātaṃ, na so itaro viya taṃ maññati. Tenāha bhagavā ‘‘sutavā ca kho, bhikkhave, ariyasāvako…pe… sappurisadhamme suvinīto rūpaṃ ‘netaṃ mama, nesohamasmi, na meso attā’ti samanupassati, vedanaṃ…pe… asati na paritassatī’’ti (ma. ni. 1.241). Sekkho pathaviṃ mā maññi, yāva nibbānaṃ mābhinandi, arahā sammāsambuddho ca pathaviṃ na maññati, yāva nibbānaṃ nābhinandati, maññanāmaññitesu vatthūsu mattaso sabbaso ca pariññābhisamayasaṃsiddhiyā pahānābhisamayanibbattito. Yassa pana tesu vatthūsu sabbaso mattaso vā pariññā eva natthi, kuto pahānaṃ, so yathāparikappaṃ niraṅkusāhi maññanāhi ‘‘etaṃ mamā’’tiādinā maññateva. Tenāha bhagavā ‘‘idha, bhikkhave, assutavā puthujjano…pe… sappurisadhamme avinīto rūpaṃ ‘etaṃ mama, esohamasmi, eso me attā’ti samanupassati, vedanaṃ…pe…, sañña…pe…’’ntiādi (ma. ni. 1.241). Ayaṃ parivatto hāro.

「一切法根本法門」というここにおいて、「一切法」とは五取蘊が把握されており、それらの根本原因とは渇愛・慢・悪見である。同様に「無聞の凡夫は……中略……善士の法において調伏されない」とある。五取蘊において清浄・楽・常・我と観察することによって「これは私のものである、これこそ私である、これは私の我である」という渇愛・慢・悪見の執着が断ち切られない限り、彼らの(輪廻の)連続の終息は夢の中においてすら何人によっても過去に得られたことはない。しかし彼らが不浄・苦・無常・無我と観察することによって「これは私のものではない、これこそ私ではない、これは私の我ではない」と生じる無願・無相・空の観察を推し進めて聖道の体得へと向かわせるとき、極限の施設なき境地へと達することによって彼らの連続の終息がある。それゆえに「一切法とは五取蘊が把握されており、それらの根本原因とは渇愛・慢・悪見である」と説かれた。同様に「無聞の凡夫は……中略……善士の法において調伏されず」三つの妄想によって地を妄想し、涅槃を歓喜することに至るまで、三つの遍知によって彼にとってその対象が遍知されていないからである。しかしその対象が三つの遍知によって遍知されている者にあっては、彼は他の者のようにそれを妄想しない。それゆえに世尊は「比丘たちよ、多聞ある聖弟子は……中略……善士の法によく調伏され、色を『これは私のものではない、これこそ私ではない、これは私の我ではない』と観察する。受を……中略……存在しないものに対して恐れおののくことがない」(中部1.241)と仰せられた。有学者は地を妄想してはならず、涅槃を歓喜してはならない。阿羅漢や正等覚者は地を妄想せず、涅槃を歓喜しない。妄想された対象において部分的・完全に遍知の現観が成就することによって、断滅の現観が生じているからである。しかしそれらの対象において完全にも部分的にも遍知そのものがない者には、どこに断滅があろうか。彼は分別構想の通りに制御なき妄想によって「これは私のものである」などと妄想するばかりである。それゆえに世尊は「比丘たちよ、ここに無聞の凡夫がいて……中略……善士の法において調伏されず、色を『これは私のものである、これこそ私である、これは私の我である』と観察する。受を……中略……想を……中略……」(中部1.241)などと仰せられた。これが換言の導出法である。

10. Vevacanahāravaṇṇanā

10. 同義語の導出法(ヴェーヴァチャナ・ハーラ)の注釈

‘‘Sabbadhammā sakaladhammā anavasesadhammā’’ti pariyāyavacanaṃ, ‘‘mūlapariyāyaṃ mūlakāraṇaṃ asādhāraṇahetu’’nti pariyāyavacanaṃ, ‘‘mūlapariyāyanti vā mūladesanaṃ kāraṇatathana’’nti pariyāyavacanaṃ, ‘‘vo tumhākaṃ tumha’’nti pariyāyavacanaṃ, ‘‘bhikkhave, samaṇā tapassino’’ti pariyāyavacanaṃ, ‘‘desessāmī kathessāmī paññapessāmī’’ti pariyāyavacanaṃ, ‘‘suṇātha sotaṃ odahatha sotadvārānusārena upadhārethā’’ti pariyāyavacanaṃ, ‘‘sādhukaṃ sammā sakkacca’’nti pariyāyavacanaṃ, ‘‘manasi karotha citte ṭhapetha samannāharathā’’ti pariyāyavacanaṃ, ‘‘bhāsissāmi byattaṃ kathessāmi vibhajissāmī’’ti pariyāyavacanaṃ, ‘‘evaṃ, bhante, sādhu suṭṭhu bhante’’ti pariyāyavacanaṃ, ‘‘paccassosuṃ sampaṭicchiṃsu sampaṭiggahesu’’nti pariyāyavacanaṃ. Iminā nayena sabbapadesu vevacanaṃ vattabbanti. Ayaṃ vevacano hāro.

「一切法・全法・無余法」は同義語である。「根本法門・根本原因・不共の因」は同義語である。「あるいは根本法門・根本の説示・原因の真理」は同義語である。「汝らに・汝らの・汝を」は同義語である。「比丘たちよ・沙門たちよ・行者たちよ」は同義語である。「説くであろう・語るであろう・施設するであろう」は同義語である。「聞け・耳を傾けよ・聴覚の門に従って観察せよ」は同義語である。「よく・正しく・恭敬して」は同義語である。「作意せよ・心に留めよ・専念せよ」は同義語である。「語るであろう・明瞭に語るであろう・分別するであろう」は同義語である。「その通りです、尊師よ・善き哉、誠に尊師よ」は同義語である。「答えた・受け入れた・受容した」は同義語である。この方法によってすべての語句において同義語が語られるべきである。これが同義語の導出法である。

11. Paññattihāravaṇṇanā

11. 施設の導出法(パンニャッティ・ハーラ)の注釈

‘‘Sabbadhammamūlapariyāya’’nti ettha sabbadhammā nāma sakkāyadhammā, te khandhavasena pañcadhā paññattā, āyatanavasena dvādasadhā, dhātuvasena aṭṭhārasadhā paññattā. ‘‘Mūla’’nti vā ‘‘mūlapariyāya’’nti vā maññanā vuttā, tā taṇhāmānadiṭṭhivasena tidhā antarabhedena anekadhā ca paññattā. Atha vā ‘‘sabbadhammā’’ti tebhūmakadhammānaṃ saṅgahapaññatti, ‘‘mūlapariyāya’’nti tesaṃ pabhavapaññatti, ‘‘vo’’ti sampadānapaññati, ‘‘desessāmi bhāsissāmī’’ti paṭiññāpaññatti, ‘‘suṇātha sādhukaṃ manasi karothā’’ti ca āṇāpanapaññatti, ‘‘assutavā’’ti paṭivedhavimukhatāpaññatti ceva pariyattivimukhatāpaññatti ca, ‘‘puthujjano’’ti anariyapaññatti, sā ariyadhammapaṭikkhepapaññatti ceva ariyadhammavirahapaññatti ca, ‘‘ariyāna’’nti asamapaññatti ceva samapaññatti ca. Tattha asamapaññatti tathāgatapaññatti, samapaññatti paccekabuddhānañceva ubhatobhāgavimuttādīnañca vasena aṭṭhavidhā veditabbā. ‘‘Ariyānaṃ adassāvī’’tiādi dassanabhāvanāpaṭikkhepapaññatti, ‘‘pathaviṃ maññatī’’tiādi pañcannaṃ upādānakkhandhānaṃ dvādasannaṃ āyatanānaṃ aṭṭhārasannaṃ dhātūnaṃ sammasanupagānaṃ indriyānaṃ nikkhepapaññatti ceva pabhavapaññatti ca, tathā vipallāsānaṃ kiccapaññatti pariyuṭṭhānaṃ dassanapaññatti kilesānaṃ phalapaññatti abhisaṅkhārānaṃ virūhanapaññatti taṇhāya assādanapaññatti diṭṭhiyā vipphandanapaññatti, ‘‘sekkhā’’ti saddhānusārīsaddhāvimuttadiṭṭhippattakāyasakkhīnaṃ dassanapaññatti ceva bhāvanāpaññatti ca ‘‘appattamānaso’’ti sekkhadhammānaṃ ṭhitipaññatti, ‘‘anuttaraṃ yogakkhemaṃ patthayamāno’’ti paññāya abhinibbidāpaññatti, ‘‘abhijānātī’’ti abhiññeyyadhammānaṃ abhiññāpaññatti, dukkhassa pariññāpaññatti, samudayassa pahānapaññatti, nirodhassa sacchikiriyāpaññatti, maggassa bhāvanāpaññatti, ‘‘mā maññī’’ti maññanānaṃ paṭikkhepapaññatti, samudayassa pahānapaññatti. Iminā nayena sesapadesupi vitthāretabbaṃ. Ayaṃ paññatti hāro.

「一切法根本法門」というここにおいて、一切法とは有身の法であり、それらは蘊の区分によって五種として施設され、処の区分によって十二種、界の区分によって十八種として施設されている。「根本」あるいは「根本法門」とは妄想が説かれており、それらは渇愛・慢・悪見の区分によって三種、内部の区分によって多種として施設されている。あるいは「一切法」とは三界の諸法の包摂の施設であり、「根本法門」とはそれらの起源の施設であり、「汝らに」とは受者の施設であり、「説くであろう、語るであろう」とは誓約の施設であり、「聞け、よく作意せよ」とは命令の施設であり、「無聞の」とは通達に背を向けた状態の施設および教理に背を向けた状態の施設であり、「凡夫」とは非聖者の施設であり、それは聖法の否定の施設および聖法の欠如の施設であり、「聖者たちの」とは無等の施設および平等の施設である。そこにおいて無等の施設とは如来の施設であり、平等の施設とは辟支仏および両面解脱などの区分による八種として理解されるべきである。「聖者たちを見ず」などは見解と修習の否定の施設であり、「地を妄想する」などは五取蘊・十二処・十八界・思惟に達する諸根の提示の施設および起源の施設であり、同様に顛倒の作用の施設、纏(現れる煩悩)の顕現の施設、煩悩の果の施設、行(サンカーラ)の成長の施設、渇愛の味の施設、悪見の動揺の施設である。「有学者」とは随信行・信解脱・見至・身証の見解の施設および修習の施設であり、「未達意の者」とは有学の法の確立の施設であり、「無上の瑜伽安穏を希求しつつ」とは智慧による厭離の施設であり、「証知する」とは知るべき諸法の証知の施設、苦の遍知の施設、集の断滅の施設、滅の作証の施設、道の修習の施設であり、「妄想してはならない」とは妄想の否定の施設、集の断滅の施設である。この方法によって残りの語句においても詳述されるべきである。これが施設の導出法である。

12. Otaraṇahāravaṇṇanā

12. 導入の導出法(オータラナ・ハーラ)の注釈

‘‘Sabbadhammamūlapariyāya’’nti ettha sabbadhammā nāma lokiyā pañcakkhandhā dvādasāyatanāni aṭṭhārasa dhātuyo dve saccāni ekūnavisati indriyāni dvādasapadiko paccayākāroti, ayaṃ sabbadhammaggahaṇena khandhādimukhena desanāya otaraṇaṃ. ‘‘Mūla’’nti vā ‘‘mūlapariyāya’’nti vā maññanā vuttā, tā atthato taṇhā māno diṭṭhi cāti tesaṃ saṅkhārakkhandhasaṅgahoti ayaṃ khandhamukhena otaraṇaṃ. Tathā ‘‘dhammāyatanadhammadhātūhi saṅgaho’’ti ayaṃ āyatanamukhena dhātumukhena ca otaraṇaṃ. ‘‘Assutavā’’ti iminā sutassa vibandhabhūtā avijjādayo gahitā, ‘‘puthujjano’’ti iminā yesaṃ kilesābhisaṅkhārānaṃ jananādinā puthujjanoti vuccati, te kilesābhisaṅkhārādayo gahitā, ‘‘ariyānaṃ adassāvī’’tiādinā yesaṃ kilesadhammānaṃ vasena ariyānaṃ adassāviādibhāvo hoti, te diṭṭhimānāvijjādayo gahitāti sabbehi tehi saṅkhārakkhandhasaṅgahoti pubbe vuttanayeneva otaraṇaṃ veditabbaṃ. ‘‘Sañjānāti maññati abhijānāti na maññatī’’ti etthāpi sañjānanamaññanāabhijānanānupassanānaṃ saṅkhārakkhandhapariyāpannattā vuttanayeneva otaraṇaṃ veditabbaṃ. Tathā sekkhaggahaṇena sekkhā, ‘‘araha’’ntiādinā asekkhā sīlakkhandhādayo gahitāti evampi khandhamukhena otaraṇaṃ, āyatanadhātādimukhena ca otaraṇaṃ veditabbaṃ. Tathā ‘‘na maññatī’’ti taṇhāgāhādipaṭikkhepena dukkhānupassanādayo gahitā, tesaṃ vasena appaṇihitavimokkhamukhādīhi otaraṇaṃ veditabbaṃ. ‘‘Pariññāta’’nti iminā parijānanakiccena pavattamānā bodhipakkhiyadhammā gayhantīti satipaṭṭhānādimukhena otaraṇaṃ veditabbaṃ. Nandiggahaṇena bhavaggahaṇena taṇhāgahaṇena ca samudayasaccaṃ, dukkhaggahaṇena jātijarāmaraṇaggahaṇena ca dukkhasaccaṃ, ‘‘taṇhānaṃ khayā’’tiādinā nirodhasaccaṃ, abhisambodhiyā gahaṇena maggasaccaṃ gahitanti ariyasaccehi otaraṇanti. Ayaṃ otaraṇo hāro.

「一切法根本法門」というここにおいて、一切法とは世間の五蘊・十二処・十八界・二諦・十九根・十二支縁起であり、これが一切法の把握による蘊などの門を通じた説法の導入である。「根本」あるいは「根本法門」とは妄想が説かれており、それらは実質的には渇愛・慢・悪見であり、それらの行蘊への包摂が蘊の門を通じた導入である。同様に「法処・法界による包摂」が処の門および界の門を通じた導入である。「無聞の」によって聴聞の障害となる無明などが把握され、「凡夫」によってそれらの煩悩と行(サンカーラ)の発生などによって凡夫と呼ばれる煩悩や行などが把握され、「聖者たちを見ず」などによってそれらの煩悩法によって聖者たちを見ないなどの状態が生じる悪見・慢・無明などが把握されるため、それらすべてによる行蘊への包摂が前に説かれた方法に従った導入として理解されるべきである。「了知する、妄想する、証知する、妄想しない」というここにおいても、了知・妄想・証知・観察が行蘊に属するため、説かれた方法に従って導入が理解されるべきである。同様に有学者の把握によって有学の戒蘊などが、「阿羅漢」などによって無学の戒蘊などが把握されるため、このように蘊の門を通じた導入、処や界などの門を通じた導入が理解されるべきである。同様に「妄想しない」という渇愛の執着などの否定によって苦の観察などが把握され、それらによって無願解脱門などによる導入が理解されるべきである。「遍知された」というこの遍知の機能によって生じる菩提分法が把握されるため、念処(念住)などの門を通じた導入が理解されるべきである。歓喜の把握、有の把握、渇愛の把握によって集諦が、苦の把握、生老死の把握によって苦諦が、「渇愛の滅尽によって」などによって滅諦が、正等覚の把握によって道諦が把握されているため、四聖諦による導入である。これが導入の導出法である。

13. Sodhanahāravaṇṇanā

13. 清浄(問答の整正)の導出法(ソーダナ・ハーラ)の注釈

‘‘Sabbadhammamūlapariyāyaṃ vo, bhikkhave…pe… idha, bhikkhave, assutavā…pe… pathaviṃ pathavito sañjānātī’’ti ārambho. ‘‘Pathaviṃ pathaviyā saññatvā pathaviṃ maññatī’’ti padasuddhi, no ārambhasuddhi. Tathā ‘‘pathaviyā maññati pathavito maññati pathaviṃ meti maññati pathaviṃ abhinandatī’’ti padasuddhi, no ārambhasuddhi. ‘‘Taṃ kissa hetu apariññātaṃ tassāti vadāmī’’ti padasuddhi ceva ārambhasuddhi ca. Sesavāresupi eseva nayoti. Ayaṃ sodhano hāro.

「比丘たちよ、汝らに一切法根本法門を……中略……比丘たちよ、ここに無聞の……中略……地を地と了知する」というのが発端(問い・提起)である。「地を地から了知して地を妄想する」というのは語の清浄(適合)であって、発端の清浄(解決)ではない。同様に「地において妄想し、地から妄想し、地を私のものと妄想し、地を歓喜する」というのは語の清浄であって、発端の清浄ではない。「それはなぜか。彼にとってそれは遍知されていないからであると私は説く」というのが語の清浄であり、かつ発端の清浄(問いの完全な解決)である。残りの区分においても同様の方法である。これが清浄の導出法である。

14. Adhiṭṭhānahāravaṇṇanā

14. 立脚の導出法(アディッターナ・ハーラ)の注釈

‘‘Sabbadhammamūlapariyāya’’nti ettha sabbadhammaggahaṇaṃ sāmaññato adhiṭṭhānaṃ. ‘‘Pathaviṃ āpa’’ntiādi pana taṃ avikappetvā visesavacanaṃ. Tathā ‘‘mūlapariyāya’’nti sāmaññato adhiṭṭhānaṃ, taṃ avikappetvā visesavacanaṃ ‘‘pathaviṃ maññati…pe… abhinandatī’’ti. ‘‘Pathaviṃ maññatī’’ti ca sāmaññato adhiṭṭhānaṃ taṇhādiggāhānaṃ sādhāraṇattā maññanāya, taṃ avikappetvā visesavacanaṃ ‘‘etaṃ mama, esohamasmi, eso me attā’’ti, evaṃ suttantarapadānipi ānetvā visesavacanaṃ niddhāretabbaṃ. Sesavāresupi eseva nayo. ‘‘Sekkho’’ti sāmaññato adhiṭṭhānaṃ, taṃ avikappetvā visesavacanaṃ ‘‘kāyasakkhī diṭṭhippatto saddhāvimutto saddhānusārī dhammānusārī’’ti. Tathā ‘‘sekkho’’ti sāmaññato adhiṭṭhānaṃ, taṃ avikappetvā visesavacanaṃ ‘‘idha, bhikkhave, bhikkhu sekkhāya sammādiṭṭhiyā samannāgato hoti…pe… sekkhena sammāsamādhinā samannāgato hotī’’ti (saṃ. ni. 5.13). ‘‘Araha’’nti sāmaññato adhiṭṭhānaṃ, taṃ avikappetvā visesavacanaṃ ‘‘ubhatobhāgavimutto paññāvimutto (pu. pa. 13.2; 15.1 mātikā), tevijjo chaḷabhiñño’’ti (pu. pa. 7.26, 27 mātikā) ca. ‘‘Khīṇāsavo’’ti sāmaññato adhiṭṭhānaṃ, taṃ avikappetvā visesavacanaṃ ‘‘kāmāsavāpi cittaṃ vimuccittha, bhavāsavāpi cittaṃ vimuccitthā’’tiādi (pārā. 14). Sesapadesupi eseva nayo. ‘‘Abhijānātī’’ti sāmaññato adhiṭṭhānaṃ, taṃ avikappetvā visesavacanaṃ ‘‘maññatī’’ti. Maññanābhāvo hissa pahānapaṭivedhasiddho, pahānapaṭivedho ca pariññāsacchikiriyābhāvanāpaṭivedhehi na vināti sabbepi abhiññāvisesā maññanāpaṭikkhepena atthato gahitāva hontīti. Tathā ‘‘araha’’nti sāmaññato adhiṭṭhānaṃ, taṃ avikappetvā visesavacanaṃ ‘‘vītarāgattā vītadosattā vītamohattā’’ti. Iminā nayena sesapadesupi sāmaññavisesaniddhāraṇā veditabbā. Ayaṃ adhiṭṭhāno hāro.

「一切法の根本の教説」という文において、「一切法」を挙げることは総括的な安立(通説)である。一方、「地、水」等と述べるのは、それを分別せずに特定して説いた特殊言明である。同様に「根本の教説」と述べるのは総括的な安立であり、それを分別せずに特定して説いたのが「地を妄想し……中略……歓喜する」という言明である。また「地を妄想する」と述べるのも、妄想が渇愛などの執着に共通するため総括的な安立であり、それを分別せずに特定して説いたのが「これは我がものであり、これこそが我であり、これこそが我がアートマン(霊我)である」という言明である。このように他の経典の文句をも引き入れて特殊言明を確定すべきである。残りの箇所でも同様の論法である。「有学」と述べるのは総括的な安立であり、それを分別せずに特定して説いたのが「身証、見至、信解脱、随信行、随法行」である。同様に「有学」と述べるのは総括的な安立であり、それを分別せずに特定して説いたのが「比丘たちよ、ここに比丘が有学の正見を具備し……中略……有学の正定を具備している」(相応部5.13)という言明である。「阿羅漢」と述べるのは総括的な安立であり、それを分別せずに特定して説いたのが「倶解脱、慧解脱(人施設論13.2; 15.1綱目)、三明、六通」(人施設論7.26, 27綱目)である。「漏尽者(煩悩の尽きた者)」と述べるのは総括的な安立であり、それを分別せずに特定して説いたのが「欲漏からも心が解脱し、有漏からも心が解脱した」(波羅提木叉14)等である。残りの語句においても同様の論法である。「遍知する」と述べるのは総括的な安立であり、それを分別せずに特定して説いたのが「妄想する」である。実にその妄想の不発生は断証(断滅による証達)によって成就され、断証は遍知証・作証・修習証を離れてはあり得ないため、妄想の否定によってすべての殊勝な勝智(直観知)が意味の上で包含されているのである。同様に「阿羅漢」と述べるのは総括的な安立であり、それを分別せずに特定して説いたのが「離貪であることによって、離瞋であることによって、離痴であることによって」である。この論法によって、残りの語句においても総相と別相の確定を理解すべきである。これが「安立の指導法(安立門)」である。

14. Parikkhārahāravaṇṇanā

14. 資具の指導法(資具門)の解釈

‘‘Sabbadhammamūlapariyāya’’nti ettha sabbadhammā nāma pariyāpannadhammā, te kusalākusalābyākatabhedena tividhā. Tesu kusalānaṃ yonisomanasikāro alobhādayo ca hetū, akusalānaṃ ayonisomanasikāro lobhādayo ca hetū, abyākatesu vipākānaṃ yathāsakaṃ kammaṃ, itaresaṃ bhavaṅgamāvajjanasamannāhārādi ca hetū. Ettha ca sappurisūpanissayādiko paccayo hetumhi eva samavaruḷho, so tattha ādi-saddena saṅgahitoti daṭṭhabbo. ‘‘Mūla’’nti vuttānaṃ maññanānaṃ hetubhāvo pāḷiyaṃ vutto eva. Maññanāsu pana taṇhāmaññanāya assādānupassanā hetu. ‘‘Saññojaniyesu dhammesu assādānupassino taṇhā pavaḍḍhatī’’ti (saṃ. ni. 2.52) hi vuttaṃ. Mānamaññanāya diṭṭhivippayuttalobho hetu kevalaṃ saṃsaggavasena ‘‘ahamasmī’’ti pavattanato. Diṭṭhimaññanāya ekattanayādīnaṃ ayāthāvaggāho hetu, assutabhāvo puthujjanabhāvassa hetu, so ariyānaṃ adassanasīlatāya, sā ariyadhammassa akovidatāya, sā ariyadhamme avinītatāya hetu, sabbā cāyaṃ hetuparamparā pathavīādīsu ‘‘etaṃ mama, esohamasmi, eso me attā’’ti tissannaṃ maññanānaṃ hetu, sekkhārahādibhāvā pana mattaso sabbaso ca maññanābhāvassa hetūti. Ayaṃ parikkhāro hāro.

「一切法の根本の教説」という文において、「一切法」とは包摂される諸法であり、それらは善・不善・無記の区分により三種となる。それらのうち、善法にとっては如理作意と無貪などが原因(因)であり、不善法にとっては非如理作意と貪などが原因であり、無記法のうち異熟にとっては各々の業が、その他の無記法にとっては有分・転向・作意などが原因である。そしてここでは、善友への親近などの縁は原因そのものに包摂されており、それらはここにおいて「等」という語によって包括されていると知るべきである。「根本」として説かれた妄想の因であることは、本文(パーリ)においてまさに説かれている。妄想のうちでも渇愛による妄想には、楽味の随観が原因である。「実に、結縛の諸法において楽味を随観する者には渇愛が増大する」(相応部2.52)と説かれているからである。慢による妄想には、見非相応の貪が原因である。単なる執着の力によって「我あり」として生起するからである。見による妄想には、一性などの論理に対する非真実の執着が原因である。聞なきこと(未聞)は凡夫であることの原因であり、それは聖者を見ない習性によるものであり、それは聖法に不熟練であることによるものであり、それは聖法において調御されていないことによるものである。そしてこれらすべての因の連鎖が、地等において「これは我がものであり、これこそが我であり、これこそが我がアートマンである」という三つの妄想の原因となる。一方、有学や阿羅漢などの状態は、部分的および完全な妄想の不発生の原因である。これが「資具の指導法(資具門)」である。

16. Samāropanahāravaṇṇanā

16. 結託の指導法(結託門)の解釈

‘‘Sabbadhammamūlapariyāya’’ntiādīsu mūlapariyāyaggahaṇena assutavāgahaṇena sañjānanamaññanāpariññāgahaṇehi ca saṃkilesadhammā dassitā, te ca saṅkhepato tividhā taṇhāsaṃkileso diṭṭhisaṃkileso duccaritasaṃkilesoti. Tattha taṇhāsaṃkileso taṇhāsaṃkilesassa, diṭṭhisaṃkilesassa, duccaritasaṃkilesassa ca padaṭṭhānaṃ, tathā diṭṭhisaṃkileso diṭṭhisaṃkilesassa, taṇhāsaṃkilesassa, duccaritasaṃkilesassa ca padaṭṭhānaṃ, duccaritasaṃkilesopi duccaritasaṃkilesassa, taṇhāsaṃkilesassa, diṭṭhisaṃkilesassa ca padaṭṭhānaṃ. Tesu taṇhāsaṃkileso atthato lobhova, yo ‘‘lobho lubbhanā lubbhitattaṃ sārāgo sārajjanā sārajjitatta’’ntiādinā (dha. sa. 389) anekehi pariyāyehi vibhatto. Tathā diṭṭhiyeva diṭṭhisaṃkileso, yo ‘‘diṭṭhigataṃ diṭṭhigahanaṃ diṭṭhikantāro diṭṭhivisūkaṃ diṭṭhivipphandita’’ntiādinā (dha. sa. 1105) anekehi pariyāyehi, ‘‘santi, bhikkhave, eke samaṇabrāhmaṇā’’tiādinā (dī. ni. 1.30) dvāsaṭṭhiyā pabhedehi ca vibhatto. Duccaritasaṃkileso pana atthato dussīlyacetanā ceva cetanāsampayuttadhammā ca, yā ‘‘kāyaduccaritaṃ vacīduccaritaṃ kāyavisamaṃ vacīvisama’’nti (vibha. 913, 924), ‘‘pāṇātipāto adinnādāna’’nti (vibha. 913) ca ādinā anekehi pariyāyehi, anekehi pabhedehi ca vibhattā.

「一切法の根本の教説」などの文において、「根本の教説」を挙げること、「聞なき凡夫」を挙げること、そして「知解・妄想・不遍知」を挙げることによって雑染法が示されている。それらは要約すると渇愛の雑染、見の雑染、悪行の雑染の三種である。そこにおいて渇愛の雑染は、渇愛の雑染、見の雑染、悪行の雑染の近因(足場)であり、同様に見の雑染は、見の雑染、渇愛の雑染、悪行の雑染の近因であり、悪行の雑染もまた、悪行の雑染、渇愛の雑染、見の雑染の近因である。それらのうち渇愛の雑染とは実質的には貪そのものであり、それは「貪、貪ること、貪る状態、染愛、染着すること、染着する状態」など(法集論389)と多くの同義語によって分別されている。同様に見こそが見の雑染であり、それは「悪見、見の深林、見の荒野、見の戯論、見の動揺」など(法集論1105)と多くの同義語により、また「比丘たちよ、一部の沙門婆羅門たちが……」(長部1.30)などと六十二の種別によって分別されている。一方、悪行の雑染とは実質的には破戒の思(意思)および思に相応する諸法であり、それは「身の悪行、口の悪行、身の不整合、口の不整合」(分別論913, 924)、「殺生、不与取」(分別論913)などと多くの同義語により、また多くの種別によって分別されている。

Tesu taṇhāsaṃkilesassa samatho paṭipakkho, diṭṭhisaṃkilesassa vipassanā, duccaritasaṃkilesassa sīlaṃ paṭipakkho. Te pana sīlādayo dhammā idha pariññāgahaṇena sekkhaggahaṇena ‘‘araha’’ntiādinā ariyatādiggahaṇena ca gahitā. Tattha sīlena duccaritasaṃkilesappahānaṃ sijjhati, tathā tadaṅgappahānaṃ vītikkamappahānañca, samathena taṇhāsaṃkilesappahānaṃ sijjhati, tathā vikkhambhanappahānaṃ pariyuṭṭhānappahānañca. Vipassanāya diṭṭhisaṃkilesappahānaṃ sijjhati, tathā samucchedappahānaṃ anusayappahānañca. Tattha pubbabhāge sīle patiṭṭhitassa samatho, samathe patiṭṭhitassa vipassanā, maggakkhaṇe pana samakālameva bhavanti. Pubbeyeva hi suparisuddhakāyavacīkammassa suparisuddhājīvassa ca samathavipassanā āraddhā gabbhaṃ gaṇhantiyo paripākaṃ gacchantiyo vuṭṭhānagāminivipassanaṃ paribrūhenti, vuṭṭhānagāminivipassanā bhāvanāpāripūriṃ gacchantī maggena ghaṭenti maggakkhaṇe samathavipassanā paripūreti. Atha maggakkhaṇe samathavipassanābhāvanāpāripūriyā anavasesasaṃkilesadhammaṃ samucchindantiyo nirodhaṃ nibbānaṃ sacchikarontīti. Ayaṃ samāropano hāro.

それらのうち、渇愛の雑染には止(サマタ)が対治であり、見の雑染には観(ヴィパッサナー)が対治であり、悪行の雑染には戒が対治である。これら戒などの諸法は、ここでは「遍知」を挙げること、「有学」を挙げること、「阿羅漢」等の聖者性を挙げることによって包括されている。そこにおいて戒によって悪行の雑染の断滅が成就し、同様に彼分断(部分的一時的断滅)と違犯断(表層的違犯の断滅)が成就する。止によって渇愛の雑染の断滅が成就し、同様に伏断(抑圧による断滅)と纏断(活動的煩悩の断滅)が成就する。観によって見の雑染の断滅が成就し、同様に断絶断(根絶による断滅)と随眠断(潜在的煩悩の断滅)が成就する。そこにおいて前段階では戒に確立した者に止が生じ、止に確立した者に観が生じるが、道(聖道)の瞬間においてはまさに同時に生じる。実に、あらかじめ極めて清浄な身業・口業を具え、極めて清浄な生計を立てている者の修め始めた止と観は、胎を宿し成熟へと向かって出離導向の観を増大させ、出離導向の観は修習の完成へと向かって道と結びつき、道の瞬間において止と観を満たす。そして道の瞬間において止観の修習が完成することにより、残余なき一切の雑染法を根絶し、滅である涅槃を作証するのである。これが「結託の指導法(結託門)」である。

Soḷasahāravaṇṇanā niṭṭhitā.

十六の指導法(十六門)の解釈が終了した。

Pañcavidhanayavaṇṇanā

五種の論理(五引導)の解釈

1. Nandiyāvaṭṭanayavaṇṇanā

1. 喜旋転の論理(喜旋引導)の解釈

‘‘Sabbadhammamūlapariyāya’’ntiādīsu sabbadhammamūlaggahaṇena maññanāgahaṇena ca taṇhāmānadiṭṭhiyo gahitā. Maññanānampi hi maññanā kāraṇanti dassitoyamattho. ‘‘Assutavā’’tiādinā avijjāmānadiṭṭhiyo gahitā, sabbepi vā saṃkilesadhammā, tathā saññāapariññātaggahaṇena. ‘‘Khīṇāsavo parikkhīṇabhavasaññojano’’ti ettha pana āsavā saññojanāni ca sarūpato gahitāni, tathā nandiggahaṇena taṇhāgahaṇena ca taṇhā, evampettha sarūpato pariyāyato ca taṇhā avijjā tappakkhiyadhammā ca gahitā. Tattha taṇhāya visesato rūpadhammā adhiṭṭhānaṃ, avijjāya arūpadhammā, te pana sabbadhammaggahaṇena pathavīādiggahaṇena ca dassitā eva. Tāsaṃ samatho vipassanā ca paṭipakkho, tesamettha gahetabbākāro heṭṭhā dassito eva. Samathassa cetovimutti phalaṃ, vipassanāya paññāvimutti. Tathā hi tā ‘‘rāgavirāgā’’tiādinā visesetvā vuccanti, imāsamettha gahaṇaṃ sammadaññāvimuttavītarāgādivacanehi veditabbaṃ. Tattha taṇhāvijjā samudayasaccaṃ, tappakkhiyadhammā pana taggahaṇeneva gahitāti veditabbā. Tesaṃ adhiṭṭhānabhūtā vuttappabhedā rūpārūpadhammā dukkhasaccaṃ, tesaṃ appavatti nirodhasaccaṃ, nirodhapajānanā paṭipadā maggasaccaṃ. Taṇhāgahaṇena cettha māyā-sāṭheyya-mānātimāna-madappamāda-pāpicchatā-pāpamittatā-ahirikānottappādivasena akusalapakkho netabbo, avijjāgahaṇena viparītamanasikāra-kodhūpanāha-makkha-paḷāsa-issā-macchariya- sārambhadovacassatā-bhavadiṭṭhi-vibhavadiṭṭhiādivasena akusalapakkho netabbo, vuttavipariyāyena amāyāasāṭheyyādiaviparītamanasikārādivasena, tathā samathapakkhiyānaṃ saddhindriyādīnaṃ vipassanāpakkhiyānaṃ aniccasaññādīnañca vasena vodānapakkho netabboti. Ayaṃ nandiyāvaṭṭassa na yassa bhūmi.

「一切法の根本の教説」等の文において、「一切法の根本」を挙げることと「妄想」を挙げることによって渇愛・慢・見が包括されている。実に妄想にとっても妄想こそが原因であるとこの意味が示されたからである。「聞なき」等によって無明・慢・見が包括され、あるいは一切の雑染法が包括され、同様に「想」「不遍知」を挙げることによっても包括されている。一方、「漏尽者、有結(存在の束縛)を滅尽した者」という文においては、漏と結が自相(直接の形)のまま包括されており、同様に「喜」を挙げることと「渇愛」を挙げることによって渇愛が包括されている。このようにここにおいて自相と異名によって渇愛・無明およびそれらに属する法が包括されている。そこにおいて渇愛にとっては特に色法が安立(対象)であり、無明にとっては非色法(名法)が安立であるが、それらは「一切法」を挙げることや「地」等を挙げることによってまさに示されている。それらに対する対治は止と観であり、ここにおけるそれらの捉え方はすでに上述された通りである。止の果は心解脱であり、観の果は慧解脱である。実にそれらは「貪の離貪により……」などと特定して説かれており、ここにおけるそれらの把握は「正智解脱」「離貪」等の言明によって理解されるべきである。そこにおいて渇愛と無明は集聖諦であり、それらに属する法はそれらを挙げること自体によって包括されていると理解されるべきである。それらの安立の拠り所となる上述の種別の色・非色法は苦聖諦であり、それらの不生起は滅聖諦であり、滅を如実に知る行道は道聖諦である。そしてここにおいて渇愛を挙げることによって、幻惑・詐術・慢・過慢・放逸・悪欲・悪友・無慚・無愧などの観点から不善の側を導くべきであり、無明を挙げることによって、顚倒作意・瞋恚・怨恨・覆・悩・嫉・慳・競勝・悪諍・有見・無有見などの観点から不善の側を導くべきである。また上述の反対として、無幻惑・無詐術などの非顚倒作意等により、同様に止に属する信根等や観に属する無常想等によって清浄の側を導くべきである。これが喜旋転の論理(喜旋引導)の領域である。

2. Tipukkhalanayavaṇṇanā

2. 三稜の論理(三稜引導)の解釈

Tathā vuttanayena sarūpato pariyāyato ca gahitesu taṇhāvijjātappakkhiyadhammesu taṇhā lobho, avijjā moho, avijjāya sampayutto lohite sati pubbo viya taṇhāya sati sijjhamāno āghāto doso, iti tīhi akusalamūlehi gahitehi, tappaṭipakkhato maññanāpaṭikkhepapariññāgahaṇādīhi ca kusalamūlāni siddhāniyeva honti. Idhāpi ‘‘lobho sabbāni vā sāsavakusalākusalamūlāni samudayasaccaṃ, tehi nibbattā, tesaṃ adhiṭṭhānagocarabhūtā ca upādānakkhandhā dukkhasacca’’ntiādinā saccayojanā veditabbā. Phalaṃ panettha tayo vimokkhā, tīhi pana akusalamūlehi tividhaduccarita-saṃkilesamala-visamaakusala-saññā-vitakkādivasena akusalapakkho netabbo. Tathā tīhi kusalamūlehi tividhasucarita-samakusala-saññā-vitakka-saddhamma-samādhi-vimokkhamukha-vimokkhā-divasena kusalapakkho netabboti. Ayaṃ tipukkhalassa nayassa bhūmi.

同様に上述の論法によって自相と異名によって包括された渇愛・無明およびそれらに属する法のうち、渇愛は貪であり、無明は痴であり、無明と相応し、血液があるときに膿が生じるように渇愛があるときに生じる忿怒は瞋である。このように三不善根が包括されることにより、その対治として妄想の否定や遍知を挙げること等によって善根がまさに確立される。ここでも「貪、あるいは有漏の善・不善のすべての根本が集聖諦であり、それらから生じ、それらの安立と境界となる取蘊が苦聖諦である」等と諦の適用を理解すべきである。ここでの果は三解脱であり、三不善根によって三種の悪行・雑染の垢・不平等の不善・想・尋などの観点から不善の側を導くべきである。同様に三善根によって三種の妙行・平等の善・想・尋・正法・三昧・解脱門・解脱などの観点から善の側を導くべきである。これが三稜の論理(三稜引導)の領域である。

3. Sīhavikkīḷitanayavaṇṇanā

3. 師子遊戯の論理(師子遊戯引導)の解釈

Tathā vuttanayena sarūpato pariyāyato ca gahitesu taṇhāvijjātappakkhiyadhammesu visesato taṇhādiṭṭhīnaṃ vasena asubhe ‘‘subha’’nti, dukkhe ‘‘sukha’’nti ca vipallāsā, avijjādiṭṭhīnaṃ vasena anicce ‘‘nicca’’nti, anattani ‘‘attā’’ti ca vipallāsā veditabbā. Tesaṃ paṭipakkhato maññanāpaṭikkhepapariññāgahaṇādisiddhehi sativīriyasamādhipaññindriyehi cattāri satipaṭṭhānāni siddhāneva honti. Tattha catūhi indriyehi cattāro puggalā niddisitabbā. Kathaṃ? Duvidho hi taṇhācarito mudindriyo tikkhindriyoti, tathā diṭṭhicarito. Tesaṃ paṭhamo asubhe ‘‘subha’’nti vipariyāsaggāhī satibalena yathābhūtaṃ kāyasabhāvaṃ sallakkhento taṃ vipallāsaṃ samugghāṭetvā sammattaniyāmaṃ okkamati. Dutiyo asukhe ‘‘sukha’’nti vipariyāsaggāhī ‘‘uppannaṃ kāmavitakkaṃ nādhivāsetī’’tiādinā (dī. ni. 3.310; ma. ni. 1.26; a. ni. 4.14, 114; a. ni. 6.58) vuttena vīriyasaṃvarabhūtena vīriyabalena taṃ vipallāsaṃ vidhamento sammattaniyāmaṃ okkamati. Tatiyo anicce ‘‘nicca’’nti ayāthāvaggāhī samādhibalena samāhitacitto saṅkhārānaṃ khaṇikabhāvasallakkhaṇena taṃ vipallāsaṃ samugghāṭento ariyabhūmiṃ okkamati. Catuttho santatisamūhakiccārammaṇaghanavañcitatāya phassādidhammapuñjamatte anattani ‘‘attā’’ti micchābhinivesī catukoṭikasuññatāmanasikārena taṃ micchābhinivesaṃ viddhaṃsento sāmaññaphalaṃ sacchikaroti.

同様に上述の論法によって自相と異名によって包括された渇愛・無明およびそれらに属する法のうち、特に渇愛と見によって不浄における「浄」、苦における「楽」という顚倒が、無明と見によって無常における「常」、無我における「我」という顚倒が生じると知るべきである。それらの対治として、妄想の否定や遍知の把握等によって確立された念・精進・定・慧の四根によって、四念処がまさに確立される。そこにおいて四根によって四種の人物が指示される。どのようにか。実に渇愛行者は鈍根と利根の二種であり、見行者も同様である。それらのうち第一の者は、不浄において「浄」と顚倒して執着するが、念の力によってありのままに身の本質を観察し、その顚倒を打破して正性決定に入滅する。第二の者は、不楽(苦)において「楽」と顚倒して執着するが、「生じた欲尋を容認しない」(長部3.310; 中部1.26; 増支部4.14, 114; 6.58)等と説かれた精進律儀となる精進の力によってその顚倒を打ち破り、正性決定に入滅する。第三の者は、無常において「常」と非真実の執着を抱くが、定の力によって集中した心となり、諸行の刹那性の観察によってその顚倒を打破し、聖者の境地に入滅する。第四の者は、相続・集聚・作用・所縁の堅固さ(相承の錯覚)に欺かれることによって触などの諸法の単なる集まりにすぎない無我において「我」と邪見に耽溺するが、四句分別による空性の作意によってその邪執を粉砕し、沙門果を作証する。

Idhāpi subhasaññāsukhasaññāhi catūhipi vā vipallāsehi samudayasaccaṃ, tesaṃ adhiṭṭhānārammaṇabhūtā pañcupādānakkhandhā dukkhasaccantiādinā saccayojanā veditabbā. Phalaṃ panettha cattāri sāmaññaphalāni, catūhi cittavipallāsehi caturāsavogha-yoga-kāyagantha-agati-taṇhuppāda-sallupādāna-viññāṇaṭṭhiti-apariññādivasena akusalapakkho netabbo. Tathā catūhi satipaṭṭhānehi catubbidhajhāna-vihārādhiṭṭhāna-sukhabhāgiyadhamma-appamaññā-sammappadhāna-iddhipādā- divasena vodānapakkho netabboti. Ayaṃ sīhavikkīḷitassa nayassa bhūmi.

ここにおいても浄想や楽想により、あるいは四つの顚倒によって集聖諦であり、それらの安立の拠り所・対象となる五取蘊が苦聖諦であるなどと諦の適用を理解すべきである。ここでの果は四沙門果であり、四つの心の顚倒によって四漏・暴流・軛・身縛・枉曲・愛生・箭・取・識住・不遍知などの観点から不善の側を導くべきである。同様に四念処によって四種禅・住の安立・順楽法・無量心・四正勤・四如意足などの観点から清浄の側を導くべきである。これが師子遊戯の論理(師子遊戯引導)の領域である。

4-5. Disālocana-aṅkusanayadvayavaṇṇanā

4-5. 方所観察・鉤の二論理(方所観察引導・鉤引導)の解釈

Imesaṃ pana tiṇṇaṃ atthanayānaṃ siddhiyā vohārena nayadvayaṃ siddhameva hoti. Tathā hi atthanayānaṃ disābhūtadhammānaṃ samālocanaṃ disālocanaṃ, tesaṃ samānayanaṃ aṅkusoti pañcapi nayā niyuttāti veditabbā.

これら三つの義の論理(実質的引導)の確立によって、世俗の語用による二つの論理(言語的引導)はまさに確立される。実に義の論理の方所(方向性)となる諸法をあまねく観察することが方所観察であり、それらを統合することが鉤であるから、五つの論理すべてが適用されていると理解すべきである。

Pañcavidhanayavaṇṇanā niṭṭhitā.

五種の論理(五引導)の解釈が終了した。

Sāsanapaṭṭhānavaṇṇanā

教説の基盤(教法発趣)の解釈

Idañca suttaṃ soḷasavidhe suttantapaṭṭhāne saṃkilesanibbedhāsekkhabhāgiyaṃ, sabbabhāgiyameva vā ‘‘sabbadhammamūlapariyāya’’nti ettha sabbadhammaggahaṇena lokiyakusalānampi saṅgahitattā. Aṭṭhavīsatividhena pana suttantapaṭṭhāne lokiyalokuttarasabbadhammādhiṭṭhānaṃ ñāṇañeyyaṃ dassanabhāvanaṃ sakavacanaṃ vissajjanīyaṃ kusalākusalaṃ anuññātaṃ paṭikkhittaṃ cāti veditabbaṃ.

そしてこの経は、十六種の経典の基盤のうち「雑染・通達・無学に属するもの」であり、あるいは「一切法の根本の教説」において「一切法」を挙げることで世間の善法をも包括しているため「すべてに属するもの」である。一方、二十八種の経典の基盤においては、世間・出世間の「一切法の安立」「智と所知」「見と修」「自説」「解答すべきもの」「善と不善」「許容されたものと否定されたもの」であると理解すべきである。

Nettinayavaṇṇanā niṭṭhitā.

導論の論理(ネッティ引導)の解釈が終了した。

Mūlapariyāyasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

『根本法門経』の註釈に対する深奥義の明示(複註)を完了する。

2. Sabbāsavasuttavaṇṇanā

2. 一切漏経の解釈

14. Apubbapadavaṇṇanāti atthasaṃvaṇṇanāvasena heṭṭhā aggahitatāya apubbassa abhinavassa padassa vaṇṇanā atthavibhajanā. ‘‘Hitvā punappunāgatamattha’’nti hi vuttaṃ. Nivāsaṭṭhānabhūtā bhūtapubbanivāsaṭṭhānabhūtā, nivāsaṭṭhāne vā bhūtā nibbattā nivāsaṭṭhānabhūtā, tattha māpitāti attho. Yathā kākandī mākandī kosambīti yathā kākandassa isino nivāsaṭṭhāne māpitā nagarī kākandī, mākandassa nivāsaṭṭhāne māpitā mākandī, kusambassanivāsaṭṭhāne māpitā kosambīti vuccati, evaṃ sāvatthīti dasseti. Upanetvā samīpe katvā bhuñjitabbato upabhogo, saviññāṇakavatthu. Parito sabbadā bhuñjitabbato paribhogo, nivāsanapārupanādi aviññāṇakavatthu. Sabbamettha atthīti niruttinayena sāvatthī-saddasiddhimāha. Satthasamāyogeti satthassa nagariyā samāgame, satthe taṃ nagaraṃ upagateti attho. Pucchite satthikajanehi.

14. 未詳語の解釈とは、意味の註解において以前に扱われなかった未詳の(新しい)語の解釈、すなわち意味の分別である。「繰り返し現れた意味を除いて」と述べられている通りである。「住処となった」とは、過去に住処となったことであり、あるいは住処において生じ、現出した住処となったことで、そこに築かれたという意味である。「カーカンディー、マーカンディー、コーサンビーの如く」とは、カーカンダ仙人の住処に築かれた都市がカーカンディー、マーカンダ仙人の住処に築かれた都市がマーカンディー、クサンバ仙人の住処に築かれた都市がコーサンビーと呼ばれるように、サーヴァッティー(舎衛城)も同様であると示す。近くに引き寄せて(親しく)享受されるべきものであるから受用(有情の財物、すなわち奴婢など)である。周囲から常に享受されるべきものであるから使用(無情の財物、すなわち衣服や装飾など)である。「ここにすべて(サッバ)が存在する(アッティ)」という語源解釈の論法によってサーヴァッティーという語の成立を説いている。「商隊の集結において」とは、商隊がその都市に集結したとき、商隊がその都市に到着したときという意味である。「商人たちに問われたとき」という意味である。

Samohitanti sannicitaṃ. Rammanti anto bahi ca bhūmibhāgasampattiyā ceva ārāmuyyānasampattiyā ca ramaṇīyaṃ. Dassaneyyanti visikhāsannivesasampattiyā ceva pāsādakūṭāgārādisampattiyā ca dassanīyaṃ passitabbayuttaṃ. Upabhogaparibhogavatthusampattiyā ceva nivāsasukhatāya ca nibaddhavāsaṃ vasantānaṃ itaresañca sattānaṃ manaṃ rametīti manoramaṃ. Dasahi saddehīti hatthisaddo, assa-ratha-bheri-saṅkha-mudiṅga-vīṇā-gīta sammatāḷasaddo, asnātha-pivatha-khādathāti-saddoti imehi dasahi saddehi. Avivittanti na vivittaṃ, sabbakālaṃ ghositanti attho.

「蓄えられた」とは、集積された。「美しい」とは、内部も外部も土地の豊かさや園林・遊園の豊かさによって心地よいこと。「見るべき」とは、街路の配置の豊かさや楼閣・高楼などの豊かさによって見事であり、見るに値すること。「受用財と使用財の豊かさにより、また居住の快適さによって、定住して暮らす人々や他の有情たちの心を楽しませる」ことから「意に快い(マノラマ)」という。「十の音によって」とは、象の音、馬・車・太鼓・法螺貝・小鼓・琵琶・歌・鐃鈸(シンバル)の音、「食べよ、飲めよ、噛めよ」という音、これら十の音によってである。「静寂でない」とは、離れて静かではなく、常に満ち満ちて響き渡っているという意味である。

Vuddhiṃ vepullataṃ pattanti tannivāsī sattavuddhiyā vuddhiṃ, tāya parivuddhitāyeva vipulabhāvaṃ pattaṃ, bahujanaṃ ākiṇṇamanussanti attho. Vittūpakaraṇasamiddhiyā iddhaṃ. Sabbakālaṃ subhikkhabhāvena phītaṃ. Antamaso vighāsāde upādāya sabbesaṃ kapaṇaddhikavanibbakayācakānampi icchi tatthanipphattiyā manuññaṃ jātaṃ, pageva issariye ṭhitānanti dassanatthaṃ puna **‘‘manorama’’**nti vuttaṃ. Aḷakamandāvāti āṭānāṭādīsu dasasu vessavaṇamahārājassa nagarīsu aḷakamandā nāma ekā nagarī, yā loke aḷākā eva vuccati. Sā yathā puññakammīnaṃ āvāsabhūtā ārāmarāmaṇeyyakādinā sobhaggappattā, evaṃ sāvatthīpīti vuttaṃ ‘‘aḷakamandāvā’’ti. Devānanti vessavaṇapakkhiyānaṃ cātumahārājikadevānaṃ.

「成長と広大さに達した」とは、そこに住む有情の増加によって繁栄し、その増大によって広大な状態に達し、多くの人々で満ちあふれているという意味である。財物や資具の豊かさによって「栄え」ている。常に食糧が豊かであることによって「繁盛し」ている。最後は残飯を食べる者に至るまで、すべての貧窮者、旅人、乞食、物乞いにとっても望みのものが成就することによって快適な状態となっており、まして権力にある者にとっては言うまでもないことを示すために、再び「意に快い」と説かれた。「アラカマンダーの如く」とは、アーターナーター等の毘沙門天王の十の都市の中にアラカマンダーという一つの都市があり、世間ではアラーカーと呼ばれる。それが福徳ある者たちの住処であり、園林の美しさ等によって最高の美しさに達しているように、舎衛城もそうであると「アラカマンダーの如く」と説かれた。「神々の」とは、毘沙門天に属する四大王衆天の神々のことである。

Jinātīti iminā sota-saddo viya kattusādhano jeta-saddoti dasseti. Raññāti pasenadikosalarājena. Rājagataṃ jayaṃ āropetvā kumāro jitavāti jetoti vutto. Maṅgalakabyatāyātiādinā ‘‘jeyyo’’ti etasmiṃ atthe ‘‘jeto’’ti vuttanti dasseti. Sabbakāmasamiddhitāyāti sabbehi upabhogaparibhogavatthūhi phītabhāvena vibhavasampannatāyāti attho. Samiddhāpi maccharino kiñci na dentīti āha **‘‘vigatamalamaccheratāyā’’**ti, rāgadosādimalānañceva macchariyassa ca abhāvenāti attho. Samiddhā amaccharinopi ca karuṇāsaddhādiguṇavirahitā attano santakaṃ paresaṃ na dadeyyunti āha **‘‘karuṇādiguṇasamaṅgitāya cā’’**ti. Tenāti anāthānaṃ piṇḍadānena. Saddatthato pana dātabbabhāvena sabbakālaṃ upaṭṭhapito anāthānaṃ piṇḍo etassa atthīti anāthapiṇḍiko. Pañcavidhasenāsanaṅgasampattiyāti ‘‘nātidūraṃ naccāsannaṃ gamanāgamanasampanna’’nti ekaṃ aṅgaṃ, ‘‘divā appākiṇṇaṃ rattiṃ appasaddaṃ appanigghosa’’nti ekaṃ, ‘‘appaḍaṃsamakasavātātapasarīsapasamphassa’’nti ekaṃ, ‘‘tasmiṃ kho pana senāsane viharantassa appakasirena uppajjanti cīvara…pe… parikkhārā’’ti ekaṃ, ‘‘tasmiṃ kho pana senāsane therā bhikkhū viharanti bahussutā’’ti ekaṃ, evametehi pañcavidhasenāsanaṅgehi sampannatāya. Yadi jetavanaṃ tathaṃ anāthapiṇḍikassa ārāmoti āha **‘‘so hī’’**tiādi.

「勝利する」という語により、「聞く者(ソータ)」という語のように「ジェータ(勝者)」という語が能動の成立(能作者)であることを示している。「王によって」とは、波斯匿拘薩羅王(パセーナディ・コーサラ王)によってである。王の勝利に結びつけられて、王子が勝利をもたらした者であることからジェータ(祇陀)と呼ばれた。「吉祥の語用によって」等により、「勝つべき」というこの意味において「ジェータ」と説かれたことを示している。「一切の欲望が満たされていることによって」とは、すべての受用財や使用財によって富んでいることにより、財産が豊かであることによるという意味である。「富んでいても、物惜しみする者は何も施さない」ことから「慳貪の垢を離れていることによって」と述べた。貪・瞋などの垢および物惜しみがないことによってという意味である。「富んでおり物惜しみしなくても、慈悲や信仰などの徳を欠く者は自分の所有物を他人に与えないであろう」ことから「慈悲などの徳を具足していることによって」と述べた。「それによって」とは、頼る者のない孤独な人々への給食(施食)によってである。言葉の意味からは、施すべきものとして常に頼る者のない孤独な人々のための給食(食塊)を設けていることから「給孤独(アナータピンディカ)」である。「五種の住居の条件の完備によって」とは、「遠すぎず近すぎず、往復の便がよい」という一つの条件、「昼は混雑せず、夜は物音や騒音が少ない」という一つの条件、「虻・蚊・風・熱・爬虫類の接触が少ない」という一つの条件、「その住居に住む者には容易に衣……中略……資具が生じる」という一つの条件、「その住居には多聞なる長老比丘たちが住んでいる」という一つの条件、このようにこれら五種の住居の条件を具備していることによる。もし祇樹が真に給孤独の園であるならば、なぜ「彼こそが……」等と説くのか。

Kītakālato paṭṭhāya anāthapiṇḍikasseva taṃ vanaṃ, atha kasmā ubhinnaṃ parikittananti āha **‘‘jetavane’’**tiādi. ‘‘Yadipi so bhūmibhāgo koṭisantharena mahāseṭṭhinā kīto, rukkhā pana jetena na vikkītāti jetavananti vattabbataṃ labhī’’ti vadanti.

購入した時からその林は給孤独のものであるのに、なぜ両者の名を称揚するのかについて、「ジェータの林において」等と述べた。「たとえその土地が大富豪(給孤独)によって金貨を敷き詰めることで買い取られたとしても、樹木はジェータによって売却されなかったため『祇樹(ジェータの林)』という名称を得た」と彼らは言う。

Kasmā idaṃ suttamabhāsīti kathetukamyatāya suttanikkhepaṃ pucchati. Sāmaññato hi bhagavato desanākāraṇaṃ pākaṭamevāti. Ko panāyaṃ suttanikkhepoti? Attajjhāsayo. Parehi anajjhiṭṭho eva hi bhagavā attano ajjhāsayena imaṃ suttaṃ desetīti ācariyā. Yasmā panesa bhikkhūnaṃ upakkiliṭṭhacittataṃ viditvā ‘‘ime bhikkhū imāya desanāya upakkilesavisodhanaṃ katvā āsavakkhayāya paṭipajjissantī’’ti ayaṃ desanā āraddhā, tasmā parajjhāsayoti apare. Ubhayampi pana yuttaṃ. Attajjhāsayādīnañhi saṃsaggabhedassa sambhavo heṭṭhā dassitovāti. Tesaṃ bhikkhūnanti tadā dhammapaṭiggāhatabhikkhūnaṃ. Upakkilesavisodhananti samathavipassanupakkilesato cittassa visodhanaṃ. Paṭhamañhi bhagavā anupubbikathādinā paṭipattiyā saṃkilesaṃ nīharitvā pacchā sāmukkaṃsikaṃ desanaṃ deseti khette khāṇukaṇṭakagumbādike avaharitvā kasanaṃ viya, tasmā kammaṭṭhānameva avatvā imāya anupubbiyā desanā pavattāti adhippāyo.

なぜこの経を説いたのかについて、説示の意図を語ることを望んで経の提起の理由を問うている。一般に世尊の説法の理由は明白であるからである。では、この経の提起の理由とは何か。自身の意向(自意楽)である。他者から要請されなくても、世尊は自らの意向によってこの経を説かれたと諸師は言う。しかし世尊が比丘たちの心が煩悩に汚れているのを知り、「これらの比丘たちはこの説法によって随煩悩を清浄にし、漏尽のために実践するであろう」としてこの説法が始められたのであるから、他者の意向(他意楽)による説法であると他の諸師は言う。両者ともに妥当である。自身の意向などの複合的な種別が生じることは上述された通りであるからである。「それらの比丘たちの」とは、当時の説法を受け取る比丘たちのことである。「随煩悩の清浄」とは、止観の随煩悩から心を清浄にすることである。実に世尊は初めには次第の説法等によって実践の雑染を除き、後から自ら体得された殊勝な法を説かれる。あたかも田畑において切り株や棘や藪などを取り除いてから耕起するように。それゆえ単に業処(瞑想主題)のみを説くのではなく、この順序によって説法が行われたというのが趣旨である。

Saṃvarabhūtanti sīlasaṃvarādisaṃvarabhūtaṃ saṃvaraṇasabhāvaṃ kāraṇaṃ, taṃ pana atthato dassanādi evāti veditabbaṃ. Saṃvaritāti pavattituṃ appadānavasena sammā, sabbathā vā vāritā. Evaṃbhūtā ca yasmā pavattidvārapidhānena pihitā nāma honti, tasmā vuttaṃ **‘‘vidahitā hutvā’’**ti. Evaṃ accantikassa saṃvarassa kāraṇabhūtaṃ anaccantikaṃ saṃvaraṃ dassetvā idāni accantikameva saṃvaraṃ dassento yasmiṃ dassanādimhi sati uppajjanārahā āsavā na uppajjanti, so tesaṃ anuppādo nirodho khayo pahānanti ca vuccamāno atthato appavattimattanti tassa ca dassanādi kāraṇanti āha **‘‘yena kāraṇena anuppādanirodhasaṅkhātaṃ khayaṃ gacchanti pahīyanti nappavattanti, taṃ kāraṇanti attho’’**ti.

「律儀となった」とは、戒律儀などの律儀となった防護の本質を持つ原因(因)であり、それは実質的には見(正見)等であると理解すべきである。「律儀された」とは、生起させないことによって正しく、あるいは完全に防がれたことである。このようにあるものは生起の扉を閉ざすことによって「閉ざされた」と呼ばれるため、「配置されて」と説かれた。このように永続的な律儀の原因となる非永続的な律儀を示した上で、今や永続的な律儀そのものを示すため、見等の実践があるときに生じるべき漏(煩悩)が生じず、その不生起・滅・尽・断と呼ばれ、実質的には単なる不生起であること、そしてその原因が見等であることを「それによって不生滅と呼ばれる尽に達し、断ぜられ、生起しない原因を意味する」と述べた。

Cakkhutopi…pe… manatopīti (dha. sa. mūlaṭī. 14-19) cakkhuviññāṇādivīthīsu tadanugatamanoviññāṇavīthīsu ca kiñcāpi kusalādīnampi pavatti atthi, kāmāsavādayo eva pana vaṇato yūsaṃ viya paggharaṇakaasucibhāvena sandanti, tasmā te eva **‘‘āsavā’’**ti vuccanti. Tattha hi paggharaṇaasucimhi niruḷho āsava-saddoti. Dhammato yāva gotrabhunti tato paraṃ maggaphalesu appavattanato vuttaṃ. Ete hi ārammaṇavasena dhamme gacchantā tato paraṃ na gacchanti. Nanu tato paraṃ bhavaṅgādīnipi gacchantīti ce? Na, tesampi pubbe ālambitesu lokiyadhammesu sāsavabhāvena antogadhattā tato paratābhāvato. Ettha ca gotrabhuvacanena gotrabhuvodānaphalasamāpattipurecārikaparikammāni vuttānīti veditabbāni. Paṭhamamaggapurecārikameva vā gotrabhu avadhinidassanabhāvena gahitaṃ, tato paraṃ pana maggaphalasamānatāya aññesu maggesu maggavīthiyaṃ samāpattivīthiyaṃ nirodhānantarañca pavattamānesu phalesu nibbāne ca āsavānaṃ pavatti nivāritāti veditabbaṃ. Savantīti gacchanti, ārammaṇakaraṇavasena pavattantīti attho. Avadhiattho ā-kāro, avadhi ca mariyādābhividhibhedato duvidho. Tattha mariyādaṃ kiriyaṃ bahi katvā pavattati yathā ‘‘āpāṭaliputtā vuṭṭho devo’’ti. Abhividhi pana kiriyaṃ byāpetvā pavattati yathā ‘‘ābhavaggā bhagavato yaso pavattatī’’ti. Abhividhiattho cāyaṃ ā-kāro idha gahitoti vuttaṃ **‘‘antokaraṇattho’’**ti.

「眼からも……中略……意からも」(法集論根本複註14-19)とは、眼識などの認識過程およびそれに続く意識の認識過程において、善法などの生起もあるが、欲漏などこそが傷口から滲み出る膿汁のように漏れ出る不浄な状態として流れるため、それらこそが「漏(アーサヴァ)」と呼ばれる。実に漏出する不浄物において「漏」という語が定着しているからである。「諸法から種姓に至るまで」とは、それ以降の道や果には生起しないことから説かれた。これら(煩悩)は対象の力によって諸法に及ぶが、それ以上には及ばない。それ以降にも有分心などが及ぶのではないかと言うならば、そうではない。それらも以前に対象とした世間法において有漏であることに包摂されており、それ以上のものではないからである。そしてここでは「種姓(ゴトラブー)」という語によって、種姓・清浄・果定に先立つ準備段階(遍作)が説かれていると理解すべきである。あるいは第一の道に先立つ種姓のみが限界を示す例として挙げられており、それ以降は道の果と等しいことから、他の道における道の認識過程、果定の認識過程、滅尽定の直後に生じる果心、および涅槃において漏の生起が防がれていると理解すべきである。「流れる」とは進むことであり、対象とすることによって生起するという意味である。「アー」という音は限界(限度)の意味であり、限界には境界(排除)と包括の二種がある。そこにおいて境界とは、行為を外部に置いて生起することであり、例えば「パータリプッタに至るまで雨が降った(パータリプッタの手前で止んだ)」という如くである。一方、包括とは、行為を行き渡らせて生起することであり、例えば「有頂天に至るまで世尊の名声が行き渡る」という如くである。そして包括の意味であるこの「アー」の音がここで取られているため、「内包する意味」と説かれた。

Madirādayoti ādi-saddena sindhavakādambarikāpotikādīnaṃ saṅgaho daṭṭhabbo. Cirapārivāsiyaṭṭho viraparivutthatā purāṇabhāvo. Avijjā nāhosītiādīti ettha ādi-saddena ‘‘purimā, bhikkhave, koṭi na paññāyati bhavataṇhāyā’’ti (a. ni. 10.62) idaṃ suttaṃ saṅgahitaṃ. Avijjāsavabhavāsavānaṃ ciraparivutthatāya dassitāya tabbhāvabhāvino kāmāsavassa ciraparivutthatā dassitāva hoti. Aññesu ca yathāvutte dhamme okāsañca ārammaṇaṃ katvā pavattamānesu mānādīsu vijjamānesu attattaniyādiggāhavasena abhibyāpanaṃ madakaraṇavasena āsavasadisatā ca etesaṃyeva, na aññesanti etesveva āsava-saddo niruḷhoti daṭṭhabbo. Na cettha diṭṭhāsavo nāgatoti gahetabbaṃ bhavataṇhāya viya bhavadiṭṭhiyāpi bhavāsavaggahaṇeneva gahitattā. Āyataṃ anādikālikattā. Pasavantīti phalanti. Na hi taṃ kiñci saṃsāradukkhaṃ atthi, yaṃ āsavehi vinā uppajjeyya. Purimāni cetthāti ettha etesu catūsu atthavitappesu purimāni tīṇi. Yatthāti yesu suttābhidhammapadesesu. Tattha yujjanti kilesesuyeva yathāvuttassa atthattayassa sambhavato. Pacchimaṃ ‘‘āyataṃ vā saṃsāradukkhaṃ savantī’’ti vuttanibbacanaṃ. Kammepi yujjati dukkhappasavanassa kilesakammasādhāraṇattā.

「酒類など」とは、「など」という語によってシンドゥ酒、カーダンバリー酒、カポーティカー酒などの包含を知るべきである。「長期間熟成されたという意味」とは、長期間とどまり古くなった状態のことである。「無明はなかった」等とは、ここにおいて「など」という語によって「比丘たちよ、有愛(存在への渇愛)の過去の究極の始めは知られない」(増支部10.62)というこの経が包括されている。無明漏と有漏の長期間の蓄積が示されることにより、それらの存在に伴って生じる欲漏の長期間の蓄積もまさに示されたことになる。そして他の上述の法や場所を対象として生起する慢などが存在するときに、我や我がものとしての執着によって覆い尽くすことや、酩酊させることによって酒に類似しているのはこれら(漏)だけであり、他にはないことから、これらにのみ「漏」という語が定着していると知るべきである。またここで見漏が含まれていないと解釈すべきではない。有愛と同様に有見も有漏を挙げることによって包含されているからである。「長く」とは、無始の時からのことである。「生み出す」とは、結実させることである。実に、漏を離れて生じるような輪廻の苦しみは一切存在しないからである。「そしてここにおける前者のもの」とは、これら四つの意味の考察のうち前者の三つである。「いずこにおいて」とは、いかなる経や論の文句においてか。「そこにおいて妥当する」とは、煩悩においてまさに上述の三つの意味が成立するからである。「後者のもの」とは、「あるいは長い輪廻の苦しみを流し出す」と説かれた語源解釈である。苦しみを生み出すことは煩悩と業に共通するため、業においても妥当する。

Diṭṭhadhammā vuccanti paccakkhabhūtā khandhā, diṭṭhadhamme bhavā diṭṭhadhammikā. Vivādamūlabhūtāti vivādassa mūlakāraṇabhūtā kodhūpanāha-makkha-paḷāsa-issā-macchariya-māyā-sāṭheyya-thambha-sārambha-mānātimānā.

「現世の法」とは、現前にある五蘊をいい、現世の法に生じるものが「現世のもの」である。「諍論の根本となったもの」とは、諍論の根本原因となった憤怒・怨恨・覆・悩・嫉・慳・幻惑・詐術・強情・競勝・慢・過慢である。

Yena devūpapatyassāti yena kammakilesappakārena āsavena devesu upapatti nibbatti assa mayhanti sambandho. Gandhabbo vā vihaṅgamo ākāsacārī assanti vibhattiṃ pariṇāmetvā yojetabbaṃ. Ettha ca yakkhagandhabbatāya vinimuttā sabbā devagati devaggahaṇena gahitā. Avasesā ca akusalā dhammāti akusalakammato avasesā akusalā dhammā āsavāti āgatāti sambandho.

「それによって神々に生じるであろう」とは、いかなる業や煩悩の様相である漏によって、私に神々の中への再生が生じるであろうかという連語である。「あるいは虚空を行く乾闥婆(ガンダッバ)となるであろう」と格を変換して適用すべきである。そしてここでは夜叉や乾闥婆を除いたすべての天界の境涯が「神々」という語によって包括されている。「そして残りの不善の諸法」とは、不善の業から残された不善の諸法が「漏」として説かれているという連語である。

Paṭighātāyāti paṭisedhanāya. Parūpavā…pe… upaddavāti idaṃ yadi bhagavā sikkhāpadaṃ na paññapeyya, tato asaddhammappaṭisevanaadinnādānapāṇātipātādihetu ye uppajjeyyuṃ parūpavādādayo diṭṭhadhammikā nānappakārā anatthā, ye ca tannimittā eva nirayādīsu nibbattassa pañcavidhabandhanakammakāraṇādivasena mahādukkhānubhavādippakārā anatthā, te sandhāya vuttaṃ. Te paneteti ete kāmarāgādikilesa-tebhūmakakammaparūpavādādiupaddavappakārā āsavā. Yatthāti yasmiṃ vinayādipāḷipadese. Yathāti yena duvidhādippakārena aññesu ca suttantesu āgatāti sambandho.

「防護のために」とは、防止のために。「他者からの非難……中略……厄難」とは、もし世尊が学処を制定されなかったならば、非違の法を犯すことや不与取や殺生などを原因として生じるであろう他者からの非難などの現世の種々の不利益、またそれらを原因として地獄等に生まれた者の五枝の緊縛の刑罰などによる大いなる苦痛の受容などの種々の不利益のことであり、それらを指して説かれた。これらとは、これら欲貪などの煩悩、三界の業、他者からの非難などの厄難の様相である漏のことである。「いずこにおいて」とは、いかなる律などの聖典の箇所においてか。「いかに」とは、いかなる二種等の様相によって他の経典に説かれているかという連語である。

Nirayaṃ gamentīti nirayagāminiyā. Chakkanipāte āhuneyyasutte. Tattha hi āsavā chadhā āgatā āsava-saddābhidheyyassa atthassa pabhedopacārena āsava-pade pabhedoti vutto, koṭṭhāsattho vā pada-saddoti āsavapadeti āsavappakāre saddakoṭṭhāse atthakoṭṭhāse vāti attho.

「地獄へ行かせる」とは、地獄へ赴かせるものによってである。六集の応供経においてである。そこでは実に漏が六種として説かれており、「漏」という語で名指される意味の種別を仮託して「漏の句において種別がある」と説かれた。あるいは「句」という語は部分の意味であり、「漏の句において」とは漏の種別において、言葉の区分において、あるいは意味の区分においてという意味である。

Tathā ti tasmā saṃvaraṇaṃ pidahanaṃ pavattituṃ appadānaṃ, teneva kāraṇenāti attho. Sīlādisaṃvare adhippete pavattituṃ appadānavasena thakanabhāvasāmaññato dvāraṃ saṃvaritvāti gehadvārasaṃvaraṇampi udāhaṭaṃ. Sīlasaṃvarotiādi heṭṭhā mūlapariyāyavaṇṇanāya vuttampi imassa suttassa atthavaṇṇanaṃ paripuṇṇaṃ katvā vattukāmo puna vadati. Yuttaṃ tāva sīlasatiñāṇānaṃ saṃvarattho pāḷiyaṃ tathā āgatattā, khantivīriyānaṃ pana kathanti āha **‘‘tesañcā’’**tiādi. Tassattho – yadipi ‘‘khamo hoti…pe… sītassa uppannaṃ kāmavitakkaṃ nādhivāsetī’’tiādiniddese khantivīriyānaṃ saṃvarapariyāyo nāgato, uddese pana sabbāsavasaṃvarapariyāyanti saṃvarapariyāyena gahitattā attheva tesaṃ saṃvarabhāvoti.

「実にその通りである」とは、それゆえに防護とは遮断すること、生起させないことであり、まさにその原因によるという意味である。戒律儀などの律儀が意図されているとき、生起させないことによって閉ざす状態が共通することから「扉を防護して」と家の扉を閉ざすことも例示された。「戒律儀」等は、以前に『根本法門経』の註釈で説かれたことであるが、この経の意味の註解を完全なものにして語ることを望んで再び述べている。戒・念・智の律儀の意味は聖典にそのように説かれているので妥当であるが、忍辱と精進についてはどうかと「それらについても……」等と述べた。その意味は――たとえ「寒さに耐え……中略……生じた欲尋を容認しない」などの詳細な説明において忍辱と精進に「律儀」という同義語が現れなくても、総説において「一切の漏の律儀の法門」と律儀の法門によって包括されているため、それらにも律儀の状態が確かに存在するということである。

Pubbe sīlasatiñāṇānaṃ pāṭhantarena saṃvarabhāvo dassitoti idāni taṃ imināpi suttena gahitabhāvaṃ dassetuṃ **‘‘apicā’’**tiādi vuttaṃ. Khantivīriyasaṃvarā vuttāyeva ‘‘khamo hoti sītassā’’tiādinā (ma. ni. 1.14) pāḷiyā dassanavasena. ‘‘Tañca anāsanaṃ, tañca agocara’’nti ayaṃ panettha sīlasaṃvaroti tañca ‘‘yathārūpe’’tiādinā vuttaṃ ayuttaṃ aniyatavatthukaṃ raho paṭicchannāsanaṃ, tañca yathāvuttaṃ ayuttaṃ vesiyādigocaraṃ, ‘‘paṭisaṅkhāyoniso parivajjetī’’ti āgataṃ yaṃ parivajjanaṃ, ayaṃ pana ettha etasmiṃ sutte āgato sīlasaṃvaroti attho. Anāsanaparivajjanena hi anācāraparivajjanaṃ vuttaṃ, anācārāgocaraparivajjanaṃ cārittasīlatāyasīlasaṃvaro. Tathā hi bhagavatā ‘‘pātimokkhasaṃvarasaṃvuto viharatī’’ti (vibha. 508) sīlasaṃvaravibhajane ācāragocarasampattiṃ dassentena ‘‘atthi anācāro, atthi agocaro’’tiādinā (vibha. 513, 514) anācārāgocarā vibhajitvā dassitā. Idañca ekadesena samudāyanidassanaṃ daṭṭhabbaṃ samuddapabbatanidassanaṃ viya.

以前に戒・念・智の律儀の状態が他のテキストによって示されたが、今やそれがこの経によっても包括されていることを示すために「さらに……」等と説かれた。忍辱律儀と精進律儀は「寒さに耐える」(中部1.14)などの聖典の記述によってまさに説かれている。「そしてその不適当な座処、その不適当な行境」というこれが、ここにおける戒律儀である。「適当な……」等によって説かれた不適切で定まっていない密かな隠れた座処、および上述の不適切な遊女などの行境を、「如理に省察して避ける」と説かれた回避のことであり、これがここにおいて、この経において説かれた戒律儀であるという意味である。不適当な座処の回避によって不適切な行儀の回避が説かれ、不適切な行儀と行境の回避は実践の戒(行持戒)であることから戒律儀である。実に世尊は「別解脱律儀によって防護して住する」(分別論508)という戒律儀の分別において、行儀と行境の具足を明示するにあたり「不適切な行儀があり、不適切な行境がある」(分別論513, 514)などと不適切な行儀と行境を分別して示された。そしてこれは一部をもって全体を示す例証であり、海や山を例示するようなものと知るべきである。

Sabbattha paṭisaṅkhā ñāṇasaṃvaroti ettha ‘‘yonisomanasikāro, paṭisaṅkhā ñāṇasaṃvaro’’ti vattabbaṃ. Na hi dassanapahātabbaniddese paṭisaṅkhāgahaṇaṃ atthi, ‘‘yoniso manasi karotī’’ti pana vuttaṃ. Yonisomanasikaraṇampi atthato paṭisaṅkhā ñāṇasaṃvaramevāti evaṃ pana atthe gayhamāne yuttametaṃ siyā. Keci pana ‘‘yattha yattha ‘idha paṭisaṅkhā yoniso’ti āgataṃ, taṃ sabbaṃ sandhāya ‘sabbattha paṭisaṅkhā ñāṇasaṃvaro’ti vutta’’nti vadanti. Tesaṃ matena ‘‘idaṃ dukkhanti yoniso manasi karotī’’tiādikassa ñāṇasaṃvarena ca asaṅgaho siyā, ‘‘dassanaṃ paṭisevanā bhāvanā ca ñāṇasaṃvaro’’ti ca vacanaṃ virujjheyya, tasmā vuttanayenevettha attho veditabbo. ‘‘Sabbattha paṭisaṅkhā ñāṇasaṃvaro’’ti iminā sattasupi ṭhānesu yaṃ ñāṇaṃ, so ñāṇasaṃvaroti parivajjanādivasena vuttā sīlādayo sīlasaṃvarādayoti ayamattho dassito. Evaṃ sati saṃvarānaṃ saṅkaro viya hotīti te asaṅkarato dassetuṃ **‘‘aggahitaggahaṇenā’’**ti vuttaṃ parivajjanavisesasaṃvarādhivāsanavinodanānaṃ sīlasaṃvarādibhāvena gahitattā, tathā aggahitānaṃ gahaṇenāti attho. Te pana aggahite sarūpato dassento **‘‘dassanaṃ paṭisevanā bhāvanā’’**ti āha.

「すべての箇所において省察は智律儀である」という文において、「如理作意、省察は智律儀である」と述べるべきである。見によって断ぜられるべきものの解説において「省察」という語は存在せず、「如理に作意する」と説かれているからである。如理作意することも実質的には省察であり智律儀そのものであると、このように意味が解釈されるならばこれは妥当であろう。しかし一部の者は「『ここに如理に省察して』と現れるすべての箇所、そのすべてを指して『すべての箇所において省察は智律儀である』と説かれた」と言う。彼らの見解によれば、「『これは苦である』と如理に作意する」等のようなものが智律儀に包括されなくなってしまい、「見、受用、修習は智律儀である」という言明と矛盾することになる。それゆえ上述の論法によってここでの意味を理解すべきである。「すべての箇所において省察は智律儀である」ということによって、七つの箇所における知(智)こそが智律儀であり、回避などによって説かれた戒などが戒律儀などであるというこの意味が示された。そうであれば律儀の混同が生じるかのようなので、それらを混同なく示すために「包括されなかったものの包括によって」と説かれた。回避・特殊な律儀・忍受・除去が戒律儀などとして包括されているため、そのように包括されなかったものを包括することによってという意味である。それら包括されなかったものを自相のまま示すために「見、受用、修習」と述べた。

Etena sīlasaṃvarādinā karaṇabhūtena, kāraṇabhūtena vā. Dhammāti kusalākusaladhammā. Sīlasaṃvarādinā hi sahajātakoṭiyā, upanissayakoṭiyā vā paccayabhūtena anuppannā kusalā dhammā uppattiṃ gacchanti uppajjanti, tathā aniruddhā akusalā dhammā nirodhaṃ gacchanti nirujjhantīti attho. Pāḷiyaṃ pana ‘‘anuppannā ceva āsavā na uppajjanti, uppannā ca āsavā pahīyantī’’ti akusaladhammānaṃ anuppādapahānāni eva vuttāni, na kusaladhammānaṃ uppādādayoti? Nayidamevaṃ daṭṭhabbaṃ, ‘‘yoniso ca kho, bhikkhave, manasikaroto’’tiādinā kusaladhammānampi uppatti pakāsitāva āsavasaṃvaraṇassa padhānabhāvena gahitattā. Tathā hi pariyosānepi ‘‘ye āsavā dassanā pahātabbā, te dassanā pahīnā hontī’’tiādinā (ma. ni. 1.28) āsavappahānameva padhānaṃ katvā nigamitaṃ.

「これによって」とは、具となった、あるいは原因となった戒律儀などによってである。「諸法」とは、善法と不善法である。戒律儀などが倶生縁の極致として、あるいは親依止縁の極致としての縁となることによって、未生の本善法が生起に至り(生じ)、同様に未滅の不善法が止滅に至る(滅する)という意味である。しかし本文においては「未生の漏が生じず、生じた漏が断ぜられる」と不善法の不生と断滅のみが説かれており、善法の生起などは説かれていないのではないか。このように見るべきではない。「比丘たちよ、如理に作意する者には……」等によって、漏の防護の主要な要素として包括されているため善法の生起も示されているのである。実に結びにおいても「見によって断ぜられるべき諸漏は、見によって断ぜられたものとなる」(中部1.28)等と漏の断滅そのものを主として結論づけられている。

15. Jānato passatoti ettha dassanampi paññācakkhunāva dassanaṃ adhippetaṃ, na maṃsacakkhunā dibbacakkhunā vāti āha **‘‘dvepi padāni ekatthānī’’**ti. Evaṃ santepīti padadvayassa ekatthatthepi. Ñāṇalakkhaṇanti ñāṇassa sabhāvaṃ, visayassa yathāsabhāvāvabodhananti attho. Tenāha **‘‘jānanalakkhaṇañhi ñāṇa’’**nti. Ñāṇappabhāvanti ñāṇānubhāvaṃ, ñāṇakiccaṃ visayobhāsananti attho. Tenevāha **‘‘ñāṇena vivaṭe dhamme’’**ti. **‘‘Jānato passato’’**ti ca jānanadassanamukhena puggalādhiṭṭhānā desanā pavattāti āha **‘‘ñāṇalakkhaṇaṃ ñāṇappabhāvaṃ upādāya puggalaṃ niddisatī’’**ti. Jānato passatoti ‘‘yoniso ca manasikāraṃ ayoniso ca manasikāra’’nti vakkhamānattā yonisomanasikāravisayajānanaṃ, ayonisomanasikāravisayadassanaṃ. Tañca kho pana nesaṃ āsavānaṃ khayūpāyasabhāvassa adhippetattā uppādanānuppādanavasena na ārammaṇamattenāti ayamattho yuttoti āha **‘‘yonisomanasikāraṃ…pe… ayamettha sāro’’**ti.

15. 「知る者に、見る者に」という文において、見ること(視ること)も慧眼による見ることのみが意図されており、肉眼や天眼によるものではないとして「二つの語ともに同じ意味である」と述べた。「そうであっても」とは、二つの語が同じ意味であっても。「知の相」とは、知の本質であり、対象をあるがままの本質として了解することという意味である。それゆえ「知は知解することを特徴とする」と述べた。「知の威光」とは、知の威力であり、対象を照らし出すという知の作用という意味である。それゆえ「知によって顕わにされた諸法において」と述べた。「知る者に、見る者に」とは、知解と洞見の側面を通じて人物に依拠した説法(人施設教)が行われているとして「知の相と知の威光に基づいて人物を指示している」と述べた。「知る者に、見る者に」とは、「如理作意と非如理作意を」と後に説かれることから、如理作意の領域を知ること、非如理作意の領域を見ることである。そしてそれもまた、それらの漏を尽滅させる手段の本質が意図されているため、生起と不生起の観点によるものであり、単に対象とすることによるのではないというこの意味が妥当であるとして、「如理作意を……中略……これがここでの要点である」と述べた。

‘‘Jānato’’ti vatvā jānanañca anussavākārapaṭivitakkamattavasena na idhādhippetaṃ, atha kho rūpādi viya cakkhuviññāṇena yonisomanasikārāyonisomanasikāre paccakkhe katvā tesaṃ uppādavasena dassananti imamatthaṃ vibhāvetuṃ ‘‘passato’’ti vuttanti evaṃ vā ettha attho daṭṭhabbo. Aññatthāpi hi ‘‘evaṃ jānato evaṃ passato (itivu. 102), jānaṃ jānāti passaṃ passati (ma. ni. 1.203), evaṃ jānantā evaṃ passantā (ma. ni. 1.407), ajānataṃ apassata’’nti ca ādīsu ñāṇakiccassa sāmaññavisesadīpanavasenetaṃ padadvayaṃ āgatanti. Kecīti abhayagirivāsisārasamāsācariyā. Te hi ‘‘samādhinā jānato vipassanāya passato jānaṃ jānāti passaṃ passati, evaṃ jānanā samatho, passanā vipassanā’’ti ca ādinā papañcenti. Teti papañcā. Imasmiṃ attheti ‘‘jānato’’tiādinayappavatte imasmiṃ suttapadaatthe niddhāriyamāne. Na yujjanti jānanadassanānaṃ yonisomanasikārāyonisomanasikāravisayabhāvassa pāḷiyaṃ vuttattā.

「知る者に」と述べて、その知ることも伝聞の様相や単なる思惟によるものはここでは意図されておらず、むしろ色などを眼識で見るように、如理作意と非如理作意を現前にしてそれらの生起の観点から見ることであるというこの意味を明らかにするために「見る者に」と説かれた、あるいはこのようにここでの意味を理解すべきである。他の箇所でも「このように知り、このように見る者に(如是語102)」「知る者は知り、見る者は見る(中部1.203)」「このように知る者たち、このように見る者たち(中部1.407)」「知らぬ者、見ぬ者に」等において、知の作用の総相と別相を解明することによってこの二つの語が現れているからである。「一部の者たち」とは、無畏山寺派の精要集成の論師たちである。彼らは「定によって知る者に、観によって見る者に、知る者は知り、見る者は見る。このように知ることは止であり、見ることは観である」などと論難(戯論)を展開する。「それらの」とは、論難である。「この意味において」とは、「知る者に」などの論法で生じるこの経の文句の意味が確定されるとき。「妥当ではない」とは、知ることと見ることが如理作意と非如理作意を領域とすることが本文において説かれているからである。

Āsavappahānaṃ āsavānaṃ accantappahānaṃ. So pana nesaṃ anuppādo sabbena sabbaṃ khīṇatā abhāvo evāti āha ‘‘āsavānaṃ accantakhayamasamuppādaṃ **khīṇākāraṃ natthibhāva’’**nti. Ujumaggānusārinoti kilesavaṅkassa kāyavaṅkādīnañca pahānena ujubhūte savipassane heṭṭhimamagge anussarantassa. Tadeva hissa sikkhanaṃ. Khayasmiṃ paṭhamaṃ ñāṇaṃ. Tato aññā anantarāti khayasaṅkhāte aggamagge tappariyāpannameva ñāṇaṃ paṭhamaṃ uppajjati, tadanantaraṃ pana aññaṃ arahattanti. Yadipi gāthāyaṃ ‘‘khayasmiṃ’’icceva vuttaṃ, samucchedavasena pana āsavehi khīṇotīti maggo khayoti vuccatīti āha **‘‘maggo āsavakkhayoti vutto’’**ti. Samaṇoti samitapāpo adhippeto. So pana khīṇāsavo hotīti **‘‘āsavānaṃ khayā’’**ti imassa phalapariyāyatā vuttā, nippariyāyena pana āsavakkhayo maggo, tena pattabbato phalaṃ. Eteneva nibbānassapi āsavakkhayabhāvo vuttoti veditabbo.

「漏の断滅」とは、諸漏の完全な断滅である。そしてそれらの不生起、完全に尽きること、非存在そのものであるとして「諸漏の完全な尽滅、不生起、尽きた様相、非存在の状態」と述べた。「直道に従う者の」とは、煩悩の歪みや身の歪みなどの断滅によってまっすぐになった、観を具えた下位の道に従う者のことである。それこそが彼の修習である。「尽滅における最初の知」とは、尽智と呼ばれる最上の道(阿羅漢道)において、それに包摂される知そのものが最初に生じる。「その直後に他者(無生智)が生じる」とは、その直後に他の阿羅漢果が生じるということである。詩節において「尽滅において」とだけ説かれていても、根絶することによって諸漏から尽きていることから道が「尽滅」と呼ばれるとして「道が漏尽と説かれた」と述べた。「沙門」とは、悪を鎮めた者が意図されている。その者は漏尽者となるため「諸漏の尽滅により」というこれに果としての表現が説かれたが、直截的な表現では漏尽とは道であり、それによって得られるべきものが果である。これによって涅槃もまた漏尽の状態であることが説かれたと知るべきである。

**‘‘Jānato passato’’**ti jānato eva passato evāti evamettha niyamo icchito, na aññathā visesābhāvato aniṭṭhasādhanato cāti tassa niyamassa phalaṃ dassetuṃ ‘‘no ajānato no **apassato’’**ti vuttanti āha **‘‘yo pana na jānāti na passati, tassa neva vadāmīti attho’’**ti. Iminā dūrīkatāyonisomanasikāro idhādhippeto, yonisomanasikāro ca āsavakkhayassa ekantikakāraṇanti dasseti. Etenāti ‘‘no ajānato no apassato’’ti vacanena. Te paṭikkhittāti ke pana teti? ‘‘Bāle ca paṇḍite ca sandhāvitvā saṃsaritvā dukkhassantaṃ karissanti (dī. ni. 1.168; ma. ni. 2.228), ahetū apaccayā sattā visujjhantī’’ti (dī. ni. 1.168; ma. ni. 2.227) evamādivādā. Tesu hi keci abhijātisaṅkantimattena bhavasaṅkantimattena ca saṃsārasuddhiṃ paṭijānanti, aññe issarapajāpatikālādivasena, tayidaṃ sabbaṃ ‘‘saṃsārādīhī’’ti ettheva saṅgahitanti daṭṭhabbaṃ.

「知る者に、見る者に」とは、知る者にのみ、見る者にのみと、このようにここでの限定が意図されており、そうでなければ差異がなくなり望ましくない結果をもたらすことから、その限定の果を示すために「知らぬ者にはなく、見ぬ者にはない」と説かれたとして、「しかし知らず、見ない者には、私は決して(漏尽を)説かないという意味である」と述べた。これによって、非如理作意を遠ざけた者がここで意図されており、如理作意こそが漏尽の絶対的な原因であることが示される。「これによって」とは、「知らぬ者にはなく、見ぬ者にはない」という言明によってである。「それらは否定された」とは、いかなる教説が否定されたのか。「愚者も賢者も輪廻を駆け巡り流転して苦の終極をなすであろう(長部1.168; 中部2.228)」「無因無縁にして有情は清浄になる(長部1.168; 中部2.227)」等の諸説である。それらのうち一部の者は生まれ変わりの移行のみによって、あるいは存在の変遷のみによって輪廻の清浄を主張し、他の者は自在天や造物主や時間などによると主張するが、これらすべては「輪廻などによって」というここに包括されていると知るべきである。

Purimena vā padadvayenāti ‘‘jānato, passato’’ti iminā padadvayena. Upāyo vutto ‘‘āsavakkhayassā’’ti adhikārato viññāyati. Imināti ‘‘no ajānato, no apassato’’ti iminā padadvayena. Anupāyo eva hi āsavānaṃ khayassa yadidaṃ yoniso ca ayoniso ca manasikārassa ajānanaṃ adassanañca, tena tathattāya appaṭipattito micchāpaṭipattito ca. Nanu ‘‘passato’’ti iminā ayonisomanasikāro yathā na uppajjati, evaṃ dassane adhippete purimeneva anupāyapaṭisedho vutto hotīti? Na hoti, ayonisomanasikārānuppādanassapi upāyabhāvato satibalena saṃvutacakkhundriyāditā viya sampajaññabaleneva niccādivasena abhūtajānanābhāvo hotīti. Tenāha **‘‘saṅkhepena…pe… hotī’’**ti. Tattha saṅkhepenāti samāsena, anvayato byatirekato ca vitthāraṃ akatvāti attho. Ñāṇaṃ…pe… dassitaṃ hoti ‘‘jānato’’tiādinā ñāṇasseva gahitattā. Yadi evaṃ ‘‘svāyaṃ saṃvaro’’tiādi kathaṃ nīyatīti? Ñāṇassa padhānabhāvadassanatthaṃ evamayaṃ desanā katāti nāyaṃ doso, tathā aññatthāpi ‘‘ariyaṃ vo bhikkhave sammāsamādhiṃ desessāmi saupanisaṃ saparikkhāra’’nti (ma. ni. 3.136) vitthāro.

「あるいは前者の二語によって」とは、「知る者に、見る者に」というこの二語によってである。手段が説かれたことは「漏尽の」という文脈から理解される。「これによって」とは、「知らぬ者にはなく、見ぬ者にはない」というこの二語によってである。如理作意と非如理作意を知らず見ないことこそが諸漏の尽滅にとっての非手段(誤った方法)であり、それによって正しく実践せず誤って実践するからである。「見る者に」というこれによって、非如理作意が生じないようにこのように見ることが意図されているならば、前者の語によってすでに非手段の否定が説かれているのではないか。そうではない。非如理作意を生じさせないことも手段であることから、念の力によって眼根などを防護した状態となるように、正知の力によってのみ常などの非真実の知が存在しなくなるからである。それゆえ「要約すると……中略……となる」と述べた。そこにおいて「要約すると」とは、簡潔に、肯定と否定による詳細を展開せずにという意味である。「知が……中略……示される」とは、「知る者に」等によって知そのものが包括されているからである。もしそうであるならば、「この律儀は……」などはどのように導かれるのか。知の主要な役割を示すためにこのように説法がなされたのであるから、この難点はない。同様に他の箇所でも「比丘たちよ、そなたたちに依止を伴い、資具を伴う聖なる正定を説こう」(中部3.136)と詳述されている通りである。

Dabbajātikoti dabbarūpo. So hi drabyoti vuccati ‘‘drabyaṃ vinassati nādrabya’’ntiādīsu. Dabbajātiko vā sārasabhāvo, sāruppasīlācāroti attho. Yathāha ‘‘na kho dabba dabbā evaṃ nibbeṭhentī’’ti (pārā. 384, 391; cūḷava. 193). Vattasīse ṭhatvāti vattaṃ uttamaṅgaṃ, dhuraṃ vā katvā. Yo hi parisuddhājīvo kātuṃ ajānantānaṃ sabrahmacārīnaṃ, attano vā vātātapādipaṭibāhanatthaṃ chattādīni karoti, so vattasīse ṭhatvā karoti nāma. Padaṭṭhānaṃ na hotīti na vattabbā nāthakaraṇadhammabhāvena upanissayabhāvato. Vuttañhi ‘‘yāni tāni sabrahmacārīnaṃ uccāvacāni kiccakaraṇīyāni, tattha dakkho hotī’’tiādi (ma. ni. 1.497).

「有能な生まれの者」とは、器量のある姿の者である。それは「器量のある物は滅び、器量なき物は滅びない」等において「器量(資質)」と呼ばれるからである。あるいは「有能な生まれの者」とは、堅実な本質を持つ者、相応しい戒律と行儀を持つ者という意味である。「実にダッバよ、有能な者たちはそのように解きほぐすことはない」(波羅提木叉384, 391; 小品193)と説かれている通りである。「義務(作法)の頂首に立って」とは、作法を最上位として、あるいは主軸として。「実に清浄な生計の者が、なすべきことを知らない同胞の修行者たちのために、あるいは自らの風や熱などを防ぐために天蓋などを作るならば、その者は義務の頂首に立って作っていると呼ばれる」。「近因とはならない」とは、頼るべき依止の法(救護法)であることによって親依止となることから、言うべきではない。「同胞の修行者たちの種々のなすべき用務において巧者となる」(中部1.497)等と説かれているからである。

Upāyamanasikāroti kusaladhammappavattiyā kāraṇabhūto manasikāro. Pathamanasikāroti tassā eva maggabhūto manasikāro. Aniccādīsu aniccantiādināti aniccadukkhaasubhaanattasabhāvesu dhammesu ‘‘aniccaṃ dukkhaṃ asubhaṃ anattā’’tiādinā eva nayena, aviparītasabhāvenāti attho. Saccānulomikena vāti saccābhisamayassa anulomavasena. Cittassa āvaṭṭanātiādinā āvaṭṭanāya paccayabhūtā tato purimuppannā manodvārikā kusalajavanappavatti phalavohārena tathā vuttā. Tassā hi vasena sā kusaluppattiyā upanissayo hoti. Āvajjanā hi bhavaṅgacittaṃ āvaṭṭayatīti āvaṭṭanā. Anu anu āvaṭṭetīti anvāvaṭṭanā. Bhavaṅgārammaṇato aññaṃ ābhujatīti ābhogo. Samannāharatīti samannāhāro. Tadevārammaṇaṃ attānaṃ anubandhitvā uppajjamānaṃ manasi karoti ṭhapetīti manasikāro. Ayaṃ vuccatīti ayaṃ upāyapathamanasikāralakkhaṇo yonisomanasikāro nāma vuccati, yassa vasena puggalo dukkhādīni saccāni āvajjituṃ sakkoti. Ayonisomanasikāre saccapaṭikūlenāti saccābhisamayassa ananulomavasena. Sesaṃ yonisomanasikāre vuttavipariyāyena veditabbaṃ.

「方便の作意」とは、善法を生起させる原因となる作意のことである。「道の作意」とは、まさにその善法への道となる作意のことである。「無常なるものなどに無常であるなどと」とは、無常・苦・不浄・無我という自性をもつ諸法において、「無常、苦、不浄、無我である」というまさにその筋道により、顛倒のない自性によって、という意味である。「あるいは真理に順ずるものによって」とは、真理の現観に順応することによる。「心の転向などによって」とは、転向の縁となる、それに先立って生じた意門の善なる速行の生起が、結果の表現によってそのように言われたのである。実にそれによって、善の生起の親依止となるからである。実に、作意(転向)は有分心を転向させるゆえに「転向」である。追って次々と転向させるゆえに「追転向」である。有分の対象とは別のものに向けられるゆえに「傾注」である。集めて持ってくるゆえに「統合」である。その同じ対象を自らに結びつけて生起しつつ、心にとどめ置くゆえに「作意」である。「これが言われる」とは、この方便と道の作意の特徴をもつ如理作意のことであり、これによって人は苦などの真理を思惟することができるのである。非如理作意における「真理に背くことによって」とは、真理の現観に順応しないことによる。残りは如理作意で述べられたことの反対として知られるべきである。

Yuttinti upapattisādhanayuttiṃ, hetunti attho. Tenevāha **‘‘yasmā’’**tiādi. Etthāti ‘‘ayoniso bhikkhave…pe… pahīyantī’’ti etasmiṃ pāṭhe. Tatthāti vākyopaññāsanaṃ. Kasmā panettha ayamuddesaniddeso parivattoti codanaṃ sandhāyāha **‘‘yoniso’’**tiādi. Tattha manasikārapadaṃ dvinnaṃ sādhāraṇanti adhippāyena **‘‘yoniso ayonisoti imehi tāva dvīhi padehī’’**ti vuttaṃ. Yonisoti hi yonisomanasikāro, ayonisoti ca ayonisomanasikāro tattha anuvattanato vakkhamānattā ca. Satipi anatthuppattisāmaññe bhavādīsu puggalassa bahulisāmaññaṃ dassetvā taṃ parivattitvā visesadassanattaṃ nāvādi upamāttayaggahaṇaṃ daṭṭhabbaṃ. Cakkayantaṃ āhaṭaghaṭīyantanti vadanti.

「論理」とは、成り立ちを論証する論理、原因という意味である。それゆえに「〜ゆえに」などと言われたのである。「ここで」とは、「比丘たちよ、如理ならざる…乃至…断ぜられる」というこの教説においてである。「そこにおいて」とは、文の提示である。しかしなぜここでこの略説と詳説が逆になっているのかという反論を念頭に置いて、「如理に」などと言われたのである。そこにおいて、作意という語は双方に共通であるという趣意により、「如理に、非如理にという、まずこれら二つの語によって」と言われたのである。実に「如理に」とは如理作意であり、「非如理に」とは非如理作意である。そこにおいて従うものであり、これから説かれるからである。不利益の生起が共通であるとしても、有などにおける人の執着の共通性を示し、それを転倒させて差異を示すために、舟などの三つの譬えが用いられたと理解すべきである。「轆轤(ろくろ)の仕掛け」とは、釣瓶(つるべ)縄の仕掛けのことであると言っている。

Anuppannāti anibbattā. Ārammaṇavisesavasena tassa anuppatti veditabbā, na rūpārammaṇādiārammaṇasāmaññena, nāpi āsavavasena. Tenāha **‘‘ananubhūtapubbaṃ ārammaṇaṃ…pe… aññathā hi anamatagge saṃsāre anuppannā nāma āsavā na santī’’**ti. Vatthunti saviññāṇakāviññāṇakappabhedaṃ āsavuppattikāraṇaṃ. Ārammaṇaṃ ārammaṇapaccayabhūtarūpādīni. Idāni āsavavasenapi anuppannapariyāyo labbhatīti dassetuṃ **‘‘anubhūtapubbepī’’**tiādi vuttaṃ. Pakatisuddhiyāti pubbacariyato kilesadūrībhāvasiddhāya suddhipakatitāya. Pāḷiyā uddisanaṃ uddeso, atthakathanaṃ paripucchā. Ajjhayanaṃ pariyatti, cīvarasibbādi navakammaṃ, samathavipassanānuyogo yonisomanasikāro. Tādisenāti yādisena ‘‘manuññavatthū’’timanasikārādinā kāmāsavādayo sambhaveyyuṃ, tādisena. Āsavānaṃ vaḍḍhi nāma pariyuṭṭhānatibbatāya veditabbā, sā ca abhiṇhuppattiyā bahulīkāratoti te laddhāsevanā bahulabhāvaṃ pattā maddantā pharantā chādentā andhākāraṃ karontā aparāparaṃ uppajjamānā ekasantānanayena ‘‘uppannā pavaḍḍhantī’’ti vuccanti. Tena vuttaṃ **‘‘punappunaṃ uppajjamānā uppannā pavaḍḍhantīti vuccantī’’**ti. Ito aññathāti ito aparāparuppannānaṃ ekattaggahaṇato aññathā vaḍḍhi nāma natthi khaṇikabhāvato.

「未生」とは、生じていないことである。対象の差異に基づいてその未生が知られるべきであり、色などの対象の共通性によるのではなく、また漏(煩悩)そのものによるのでもない。それゆえに「いまだかつて体験したことのない対象…乃至…そうでなければ、無始の輪廻において未生の漏など存在しないからである」と言われたのである。「対象事物」とは、有情・非情の区別による漏の生起の原因である。「対象」とは、対象の縁となる色などである。今や漏そのものによっても未生の解釈が得られることを示すために、「かつて体験したことがあっても」などと言われたのである。「本性の清浄によって」とは、過去の修行から煩悩が遠離していることによる清浄な本性によって、という意味である。聖典の読誦が「読誦」であり、義釈の諮問が「諮問」である。学習が「教説の学問」であり、衣を縫うことなどの「新たな作業」であり、止観の実践が「如理作意」である。「そのようなものによって」とは、「快い事物である」という作意などによって欲漏などが生じ得るような、そのようなものによって、という意味である。漏の増大とは、現起の熾盛さによって知られるべきであり、それは頻繁に生じることによって多大となるゆえに、それら(漏)は反復修習を得て多大となり、圧倒し、充満し、覆い隠し、暗黒をもたらし、次々と生起しつつ、一つの連続相の筋道によって「生起したものが増大する」と言われる。それゆえに「繰り返し生起するものが、生じて増大する、と言われる」と言われたのである。「これ以外には」とは、このように次々と生じるものの一体性の把握以外には、刹那的であるゆえに、増大というものは存在しないのである。

So ca jānātīti dhammuddhaccaviggahābhāvamāha. Kārakassevāti yuttayogasseva. Yassa panātiādinā anuddesikaṃ katvā vuttamatthaṃ purātanassa purisātisayassa paṭipattidassanena pākaṭataraṃ kātuṃ **‘‘maṇḍalārāmavāsīmahātissabhūtattherassa viyā’’**tiādi vuttaṃ. Tañhi sabrahmacārīnaṃ āyatiṃ tathāpaṭipattikāraṇaṃ hoti, yato edisaṃ vatthu vuccati. Tasmiṃ yevāti maṇḍalārāmeyeva. Ācariyaṃ āpucchitvāti attano uddesācariyaṃ kammaṭṭhānaggahaṇatthaṃ gantuṃ āpucchitvā. Ācariyaṃ vanditvāti kammaṭṭhānadāyakaṃ mahārakkhitattheraṃ vanditvā. Uddesamagganti yathāāraddhaṃ uddesapabandhaṃ. Tadā kira mukhapāṭheneva bahū ekajjhaṃ uddisāpetvā manosajjhāyavasena dhammaṃ sajjhāyanti. Tatthāyaṃ thero paññavantatāya uddesaṃ gaṇhantānaṃ bhikkhūnaṃ dhorayho, so ‘‘idānāhaṃ anāgāmī, kiṃ mayhaṃ uddesenā’’ti saṅkocaṃ anāpajjitvā dutiyadivase uddesakāle ācariyaṃ upasaṅkami. ‘‘Uppannā pahīyantī’’ti ettha uppannasadisā ‘‘uppannā’’ti vuttā, na paccuppannā. Na hi paccuppannesu āsavesu maggena pahānaṃ sambhavatīti āha **‘‘ye pana…pe… natthī’’**ti. Vattamānuppannā khaṇattayasamaṅgino. Tesaṃ paṭipattiyā pahānaṃ natthi uppajjanārahānaṃ paccayaghātena anuppādanameva tāya pahānanti.

「そして彼は知る」とは、法の上での動揺や執着のないことを言っている。「実践する者だけに」とは、瑜伽行に励む者だけに、という意味である。「しかし誰に」などと、特定の人を指さずに述べられた意味を、昔の勝れた人物の実践を示すことによってより明確にするために、「マンダラーラーマに住した大ティッサ長老のように」などと言われたのである。実にそれは同朋の修行者たちにとって将来そのような実践の原因となるので、このような話が語られるのである。「まさにその場所で」とは、マンダラーラーマにおいてである。「師に告げて」とは、自らの読誦の師に業処(瞑想の主題)を受けるために行くことを告げて、という意味である。「師を礼拝して」とは、業処を授けてくれた大ラッキタ長老を礼拝して、という意味である。「読誦の過程」とは、開始された読誦の連続のことである。当時、口伝によって多くの者たちに一斉に読誦させ、心の中での暗唱によって教法を読誦していたと伝えられる。そこでこの長老は、聡明であったため読誦を受ける比丘たちの指導者であったが、彼は「今や私は不還者(アナガーミー)である、私に読誦が何になろうか」と躊躇することなく、翌日の読誦の時に師のもとに近づいた。「生起したものが断ぜられる」において、生起したと類似するものが「生起した」と言われたのであり、現在(現前)しているものではない。現前している漏において、道によって断ぜられることはあり得ないからである。それゆえに「しかし…乃至…存在しない」と言われたのである。「現在生じているもの」とは、生・住・滅の三刹那を具足しているものである。それらには実践による断滅は存在せず、生起に値するものが縁の破壊によって生じなくなることこそが、それによる断滅なのである。

16. Yadi evaṃ dutiyapadaṃ kimatthiyanti? Padadvayaggahaṇaṃ āsavānaṃ uppannānuppannabhāvasambhavadassanatthañceva pahāyakavibhāgena pahātabbavibhāgadassanatthañca. Tenāha **‘‘idameva padaṃ gahetvā’’**ti. Aññampīti ñāṇato aññampi satisaṃvarādiṃ. Dassanāti idaṃ hetumhi nissakkavacananti dassanenāti hetumhi karaṇavacanena tadatthaṃ vivarati. Esa nayoti tamevatthaṃ atidisati. Dassanenāti sotāpattimaggena. So hi paṭhamaṃ nibbānadassanato ‘‘dassana’’nti vuccati. Yadipi taṃ gotrabhu paṭhamataraṃ passati, disvā pana kattabbakiccassa kilesappahānassa akaraṇato na taṃ dassananti vuccati. Āvajjanaṭṭhāniyañhi taṃ ñāṇaṃ maggassa, nibbānārammaṇattasāmaññena cetaṃ vuttaṃ, na nibbānapaṭivijjhanena, tasmā dhammacakkhu punappunaṃ nibbattanena bhāvanaṃ appattaṃ dassanaṃ nāma, dhammacakkhuñca pariññādikiccakaraṇavasena catusaccadhammadassanaṃ tadabhisamayoti nutthettha gotrabhussa dassanabhāvappatti. Ayañca vicāro parato aṭṭhakathāyameva (ma. ni. aṭṭha. 1.22) āgamissati. Sabbatthāti ‘‘saṃvarā pahātabbā’’tiādīsu. Saṃvarāti saṃvarena, ‘‘saṃvaro’’ti cettha satisaṃvaro veditabbo. Paṭisevati etenāti paṭisevanaṃ, paccayesu idamatthikatāñāṇaṃ. Adhivāseti khamati etāyāti adhivāsanā, sītādīnaṃ khamanākārena pavatto adoso, tappadhānā vā cattāro kusalakkhandhā. Parivajjeti etenāti parivajjanaṃ, vāḷamigādīnaṃ pariharaṇavasena pavattā cetanā, tathāpavattā vā cattāro kusalakkhandhā. Kāmavitakkādike vinodeti vitudati etenāti vinodanaṃ, kusalavīriyaṃ. Paṭhamamaggena diṭṭhe catusaccadhamme bhāvanāvasena uppajjanato bhāvanā, sesamaggattayaṃ. Na hi taṃ adiṭṭhapubbaṃ kiñci passati, evaṃ dassanādīnaṃ vacanattho veditabbo.

16. 「もしそうなら、第二の句は何のためにあるのか?」 二つの句を挙げることは、漏が生起するか生起しないかの状態を示すためであり、また断じる側の区分によって断ぜられるべきものの区分を示すためでもある。それゆえに「まさにこの句を取って」と言われたのである。「他のものも」とは、智以外の念の防護などのことも指す。「見解により」というこれは原因における奪格(〜より)の語であり、「見解によって」という原因における具格(〜によって)の語でその意味を明らかにしている。「これがその筋道である」とは、その同じ意味を適用している。「見解によって」とは、預流道によって、という意味である。実にそれは最初に涅槃を見ることから「見解(見)」と呼ばれる。たとえ種姓順次(ゴートラブー)の智がそれより先に見るとしても、見てからなされるべき働きである煩悩の断滅をなさないゆえに、それは「見」とは呼ばれない。実にその智は道の作意に相当するものであり、これは涅槃を対象とする共通性によって言われたのであって、涅槃を徹見したことによるのではない。したがって、法眼は繰り返し生起することによって修習に至っていないものが「見」と呼ばれるのであり、また法眼は遍知などの働きをなすことによって四聖諦の法を見ることであり、その現観であるから、ここで種姓順次に「見」の状態が生じることはない。そしてこの考察は、後の註釈(『中部註』1.22)において現れるであろう。「すべての箇所で」とは、「防護によって断ぜられるべき」などにおいてである。「防護によって」とは防護により、またここで「防護」とは念の防護と理解されるべきである。「これによって享受する」ゆえに享受であり、資具における必要性の智である。「これによって耐え忍ぶ、耐容する」ゆえに耐忍であり、寒さなどを耐え忍ぶ様相で生じる無瞋、あるいはそれを主とする四つの善蘊である。「これによって回避する」ゆえに回避であり、猛獣などを避けることとして生じる思(意思)、あるいはそのように生じた四つの善蘊である。「これによって欲尋などを追い払い、打ち砕く」ゆえに除去であり、善なる精進である。第一の道(預流道)によって見られた四聖諦の法において、修習によって生起するゆえに「修習」であり、残りの三つの道(一来・不還・阿羅漢道)である。実にそれ(修習)はいまだかつて見られなかったものを何か新たに見るのではない。このように見解などの言葉の意味が知られるべきである。

Dassanāpahātabbaāsavavaṇṇanā

見によって断ぜられるべき漏の解釈

17. Kusalākusaladhammehi ālambiyamānāpi ārammaṇadhammā āvajjanamukheneva tabbhāvaṃ gacchantīti dassento **‘‘manasikaraṇīye’’**ti padassa **‘‘āvajjitabbe’’**ti atthamāha. Hitasukhāvahabhāvena manasikaraṇaṃ arahantīti manasikaraṇīyā, tappaṭipakkhato amanasikaraṇīyāti āha **‘‘amanasikaraṇīyeti tabbiparīte’’**ti. Sesapadesūti ‘‘manasikaraṇīye dhamme appajānanto’’tiādīsu. Yasmā kusaladhammesupi subhasukhaniccādivasena manasikāro assādanādihetutāya sāvajjo ahitadukkhāvaho akusaladhammesupi aniccādivasena manasikāro nibbidādihetutāya anavajjo hitasukhāvaho, tasmā **‘‘dhammato niyamo natthī’’**ti vatvā **‘‘ākārato pana atthī’’**ti āha.

17. 善・不善の法によって対象とされるとしても、対象となる法は作意を通してのみその状態に至ることを示して、「作意すべきものにおいて」という語の「思惟すべきものにおいて」という意味を述べた。利益と安楽をもたらす状態によって作意に値するゆえに「作意すべきもの」であり、その反対であることから「作意すべきでないもの」であるとして、「作意すべきでないものとは、その逆のものである」と言われたのである。「残りの句において」とは、「作意すべき法を了知せず」などにおいてである。善法においても浄・楽・常などとして作意することは耽溺などの原因となるゆえに過失があり不利益と苦痛をもたらし、不善法においても無常などとして作意することは嫌悪などの原因となるゆえに過失がなく利益と安楽をもたらすからこそ、「法に基づく限定はない」と述べて、「しかし様相に基づく限定はある」と言われたのである。

Vā-saddo yebhuyyena ‘‘mamaṃ vā hi bhikkhave (dī. ni. 1.5, 6), devo vā bhavissāmi devaññataro vā’’tiādīsu (ma. ni. 1.186; ma. ni. 2.79, 80) vikappattho diṭṭho, na samuccayatthoti tattha samuccayatthe payogaṃ dassetuṃ **‘‘yathā’’**tiādi vuttaṃ. Evañca katvā samuccayatthadīpakaṃ panetaṃ suttapadaṃ samudāhaṭaṃ.

「あるいは(vā)」という語は、多くは「実に私を、比丘たちよ」「私は神となるか、あるいは神々のいずれかとなるか」などにおいて選択の意味で見出され、併合の意味ではないので、そこにおいて併合の意味での用法を示すために「〜のように」などと言われたのである。そしてこのようにして、併合の意味を示すこの経の句が引用されたのである。

Kāmāsavoti pañcakāmaguṇasaṅkhāte kāme āsavo kāmāsavo. Tenāha **‘‘pañcakāmaguṇiko rāgo’’**ti. Bhavāsavaṃ pana ṭhapetvā sabbo lobho kāmāsavoti yuttaṃ siyā. Rūpārūpabhaveti kammupapattibhedato duvidhepi rūpārūpabhave chandarāgo. Jhānanikantīti jhānassādo. ‘‘Sundaramidaṃ ṭhānaṃ niccaṃ dhuva’’ntiādinā assādentassa uppajjamāno sassatucchedadiṭṭhisahagato rāgo bhave āsavoti bhavāsavo. Evanti sabbadiṭṭhīnaṃ sassatucchedadiṭṭhisaṅgahato bhavāsaveneva diṭṭhāsavo gahito taṃsahagatarāgatāyāti adhippāyo. Apare pana ‘‘diṭṭhāsavo avijjāsavena ca saṅgahito’’ti vadanti. Ettha ca ‘‘bhavāsavo catūsu diṭṭhigatavippayuttalobhasahagatacittuppādesu uppajjatī’’ti (dha. sa. 1465) vacanato diṭṭhisampayuttarāgassa bhavāsavabhāvo vicāretabbo, atha ‘‘kāmasahagatā saññāmanasikārā’’tiādīsu (saṃ. ni. 4.332) viya ārammaṇakaraṇattho sahagatattho, evaṃ sati bhavāsave diṭṭhāsavassa samodhānagamanaṃ kataṃ na siyā. Na hi tampayogatabbhāvādike asati taṃsaṅgaho yutto, tasmā yathāvuttapāḷiṃ anusārena diṭṭhigatasampayuttalobhopi kāmāsavoti yuttaṃ siyā. Diṭṭhadhammikasamparāyikadukkhānañhi kāraṇabhūtā kāmāsavādayopi dvidhā vuttā.

「欲漏」とは、五欲の徳と呼ばれる欲における漏が欲漏である。それゆえに「五欲の徳への貪愛」と言われたのである。しかし有漏を除いて、すべての貪欲は欲漏であるとするのが妥当であろう。「色界・無色界の生存において」とは、業と再生の区別による二種の色界・無色界の生存における意欲と貪愛である。「禅定への愛着」とは、禅定の味への執着である。「この境地は素晴らしい、常住であり永遠である」などと耽溺する者に生じる、常見や断見を伴う貪愛が、生存における漏として「有漏」である。このように、すべての見解は常見と断見に包摂されるゆえに、有漏によってまさに邪見漏はそれに伴う貪愛の状態として把握されている、というのが趣意である。しかし他の者たちは「邪見漏は無明漏にも包摂される」と言っている。そしてここで、「有漏は邪見を離れた貪を伴う四つの心生起において生じる」(『法集論』1465)という説述から、邪見相応の貪愛が有漏である状態は考察されるべきである。もし「欲を伴う想と作意」などにおけるように、対象とすることが「伴う」の意味であるとするなら、その場合、有漏の中に邪見漏が統合されることにはならないであろう。実に、その適用やその状態などがないならば、それへの包摂は妥当ではないからである。したがって、述べられた聖典に従って、邪見相応の貪欲もまた欲漏であるとするのが妥当であろう。現世と来世の苦の原因となる欲漏などもまた二種類に説かれているからである。

Abhidhamme (dha. sa. 1103) ca kāmāsavaniddese ‘‘kāmesūti kāmarāgadiṭṭhirāgādīnaṃ ārammaṇabhūtesu tebhūmakesu vatthukāmesū’’ti attho sambhavati. Tattha hi uppajjamānā sā taṇhā sabbāpi na kāmacchandādināmaṃ na labhatīti. Yadi pana lobho kāmāsavabhavāsavavinimuttopi siyā, so yadā diṭṭhigatavippayuttesu cittesu uppajjati, tadā tena sampayutto avijjāsavo āsavavippayuttoti domanassavicikicchuddhaccasampayuttassa viya tassapi āsavavippayuttatā vattabbā siyā ‘‘catūsu diṭṭhigatavippayuttalobhasahagatacittuppādesu uppanno moho siyā āsavasampayutto, siyā āsavavippayutto’’ti. ‘‘Kāmāsavo aṭṭhasu lobhasahagatacittuppādesu uppajjatī’ti (dha. sa. 1465), ‘‘kāmāsavaṃ paṭicca diṭṭhāsavo avijjāsavo’’ti (paṭṭhā. 3.3.109) ca vacanato diṭṭhisahagatarāgo kāmāsavo na hotīti na sakkā vattuṃ. Kiñca abhijjhākāmarāgānaṃ viseso āsavadvayaekāsavabhāvo siyā, na abhijjhāya ca noāsavabhāvoti noāsavalobhassa sabbhāvo vicāretabbo. Na hi atthi abhidhamme ‘‘āsavo ca noāsavo ca dhammā āsavassa dhammassa āsavassa ca noāsavassa ca dhammassa hetupaccayo’’ti (paṭṭhā. 3.3.16-17) sattamo navamo ca pañho. Gaṇanāyañca ‘‘hetuyā sattā’’ti (paṭṭhā. 3.3.40) vuttaṃ, no ‘‘navā’’ti. Diṭṭhisampayutte pana lobhe noāsave vijjamāne sattamanavamāpi pañhā vissajjanaṃ labheyyuṃ, gaṇanāya ca ‘‘hetuyā navā’’ti vattabbaṃ siyā, na pana vuttaṃ. Diṭṭhivippayutte ca lobhe noāsave vijjamāne vattabbaṃ vuttameva. Yasmā pana suttantadesanā nāma pariyāyakathā, na abhidhammadesanā viya nippariyāyakathā, tasmā balavakāmarāgasseva kāmāsavaṃ dassetuṃ **‘‘kāmāsavoti pañcakāmaguṇiko rāgo’’**ti vuttaṃ, tathā bhavābhinandananti.

また『阿毘達磨』(『法集論』1103)における欲漏の解説において、「欲において、とは欲貪や見貪などの対象となる三界の欲の事物において」という意味が成り立つ。実にそこにおいて生じるその渇愛はすべて、欲愛などの名を得ないことはないからである。しかしもし貪欲が欲漏と有漏を離れたものでもあるならば、それが邪見非相応の心において生じる時、その時にそれと相応する無明漏は漏非相応となり、憂や疑や掉挙と相応する無明漏のように、それにも漏非相応性があると言わねばならず、「邪見非相応の貪を伴う四つの心生起において生じた痴は、漏相応であることもあれば、漏非相応であることもある」ということになってしまう。「欲漏は貪を伴う八つの心生起において生じる」(『法集論』1465)、「欲漏によって邪見漏と無明漏が生じる」(『発趣論』3.3.109)という説述から、邪見を伴う貪愛は欲漏ではないと言うことはできない。さらに、貪愛と欲愛の差異は二つの漏か一つの漏かという点にあるはずであり、貪愛が非漏であることによるのではないから、非漏の貪欲の存在は考察されるべきである。『阿毘達磨』には「漏の法と非漏の法は、漏の法と漏および非漏の法に対して因縁である」(『発趣論』3.3.16-17)という第七と第九の問いは存在しない。数え上げにおいても「因において七」(『発趣論』3.3.40)と言われており、「九」ではない。邪見相応の貪において非漏が存在するなら、第七と第九の問いも解答を得るはずであり、数え上げにおいても「因において九」と言われるべきであるが、言われていない。また邪見非相応の貪において非漏が存在するなら、言われるべきことは既に言われている。しかし経典の教説とは方便の説(随順の説)であり、阿毘達磨の教説のように無分別(直接的)の説ではないからこそ、強い欲愛の欲漏を示すために「欲漏とは五欲の徳への貪愛である」と言われたのであり、生存への歓喜についても同様である。

Sāmaññena bhavāsavo diṭṭhāsavaṃ antogadhaṃ katvā idha tayo eva āsavā vuttāti tassa tadantogadhataṃ dassetuṃ **‘‘evaṃ diṭṭhāsavo’’**tiādi vuttaṃ. Tathā hi vakkhati bhavāsavassa animittavimokkhapaṭipakkhataṃ. Catūsu saccesu aññāṇanti idaṃ suttantanayaṃ nissāya vuttaṃ. Suttantasaṃvaṇṇanā hesāti, tadantogadhattā vā pubbantādīnaṃ. Yathā atthato kāmāsavādayo vavatthāpitā, tathā nesaṃ uppādavaḍḍhiyo dassento **‘‘kāmaguṇe’’**tiādimāha. Assādato manasikarototi ‘‘subhasukhā’’tiādinā assādanavasena manasi karontassa. Catuvipallāsapadaṭṭhānabhāvenāti subhasaññādīnaṃ vatthubhāvena. Vuttanayapaccanīkatoti ‘‘kāmā nāmete aniccā dukkhā vipariṇāmadhammā’’tiādinā kāmaguṇesu ādīnavadassanapubbakanekkhammapaṭipattiyā chandarāgaṃ vikkhambhayato samucchindantassa ca anuppanno ca kāmāsavo na uppajjati, uppanno ca pahīyati. Tathā mahaggatadhammesu ceva sakalatebhūmakadhammesu ca ādīnavadassanapubbakaaniccādimanasikāravasena nissaraṇapaṭipattiyā anuppannā ca bhavāsavaavijjāsavā na uppajjanti, uppannā ca pahīyantīti evaṃ taṇhāpakkhe vuttassa nayassa paṭipakkhato sukkapakkhe vitthāro veditabbo.

一般的に有漏は邪見漏を包摂して、ここでは三つの漏のみが説かれているので、それ(邪見漏)がこれ(有漏)に含まれることを示すために「このように邪見漏は」などと言われたのである。実にそのように、有漏が無相解脱と対立することが説かれるであろう。「四聖諦における無知」とは、これは経典の筋道に基づいて説かれたものである。実にこれは経典の註釈であるか、あるいは過去世などがそれに包摂されているからである。実質において欲漏などが規定されたのと同様に、それらの生起と増大を示すために「欲望の諸対象において」などと言われたのである。「味(快楽)として作意する者にとって」とは、「浄・楽である」などと耽溺することによって作意する者にとって、という意味である。「四つの顛倒の足場となることによって」とは、浄想などの根拠となることによって、という意味である。「述べられた筋道と反対のことによって」とは、「欲望とは無常であり、苦であり、変易する法である」などと欲望の諸対象において過患を見ることが先立つ出離の実践により、意欲と貪愛を鎮伏し、根絶する者にとって、未生の欲漏は生じず、生じた欲漏は断ぜられる。同様に広大なる法(色界・無色界の法)やすべての三界の法において、過患を見ることが先立つ無常などの作意による離脱の実践により、未生の有漏と無明漏は生じず、生じたものは断ぜられる。このように渇愛の側で述べられた筋道の反対として、白法(善法)の側での詳細が理解されるべきである。

Tayo evāti abhidhamme viya ‘‘cattāro’’ti avatvā kasmā tayo eva āsavā idha imissaṃ dassanāpahātabbakathāyaṃ vuttā? Tattha kāmāsavassa taṇhāpaṇidhibhāvato appaṇihitavimokkhapaṭipakkhatā veditabbā. Bhavesu niccaggāhānusārato yebhuyyato bhavarāgasampattito bhavāsavassa animittavimokkhapaṭipakkhatā, bhavadiṭṭhiyā pana bhavāsavabhāve vattabbameva natthi, anattasaññāya ñāṇānubhāvasiddhito avijjāsavassa suññatavimokkhapaṭipakkhatā. Etthāti etissaṃ āsavakathāyaṃ. Vaṇṇitanti kathitaṃ. Abhedatoti sāmaññato.

「三つのみ」とは、阿毘達磨におけるように「四つ」と言わずに、なぜこの「見によって断ぜられるべき」教説において三つの漏のみが説かれたのか。そこにおいて、欲漏は渇愛の願求の状態であることから無願解脱と対立すると知られるべきである。諸々の生存において常住の把握に従うことから、大部分は有貪の成就によるため有漏は無相解脱と対立し、有の見解による有漏の状態については言うまでもなく、無我の想によって智の威力が成就することから無明漏は空解脱と対立する。「ここで」とは、この漏の説においてである。「解説された」とは、語られたという意味である。「区別しないことによって」とは、一般的に、という意味である。

18. Kāmāsavādīnanti manussalokadevalokagamanīyānaṃ kāmāsavādīnaṃ. Nirayādigamanīyā pana kāmāsavādayo ‘‘dassanā pahātabbe āsave’’ti ettheva samāruḷhā. Atha vā yadaggena so puggalodassanāpahātabbānaṃ āsavānaṃ adhiṭṭhānaṃ, tadaggena kāmāsavādīnampi adhiṭṭhānaṃ. Na hi samaññābhedena vatthubhedo atthīti dassetuṃ **‘‘ettāvatā’’**tiādi vuttaṃ. Tenevāha **‘‘sāmaññato vuttāna’’**nti. Kasmā panettha dassanāpahātabbesu āsavesu dassetabbesu ‘‘ahosiṃ nu kho aha’’ntiādinā vicikicchā dassitāti āha **‘‘vicikicchāsīsena cetthā’’**tiādi. Evanti yathā soḷasavatthukā vicikicchā uppajjati, evaṃ ayonisomanasikāroti.

「欲漏などの」とは、人間界や天界へ導く欲漏などのことである。しかし地獄などへ導く欲漏などは、「見によって断ぜられるべき漏において」まさにここに包括されている。あるいは、その人が見によって断ぜられるべき諸漏の拠り所である限りにおいて、欲漏などの拠り所でもある。実に名称の違いによって事物の違いがあるわけではないことを示すために、「これによって」などと言われたのである。それゆえに「一般的に述べられたものの」と言われたのである。しかしなぜここで、見によって断ぜられるべき諸漏が示されるべき時に、「私はあったのだろうか」などと疑いが示されたのか、その点について「疑いを筆頭として、ここで」などと言われたのである。「このように」とは、十六の対象をもつ疑いが生じるように、このように非如理作意がある、ということである。

Vijjamānataṃ avijjamānatañcāti (saṃ. ni. ṭī. 2.2.20) sassatāsaṅkaṃ nissāya ‘‘ahosiṃ nu kho ahamatītamaddhāna’’nti atīte attano vijjamānataṃ, adhiccasamuppattiāsaṅkaṃ nissāya ‘‘yato pabhuti ahaṃ, tato pubbe na nu kho ahosi’’nti atīte attano avijjamānatañca kaṅkhati. Kasmā? Vicikicchāya ākāradvayāvalambanato. Tassā pana atītavatthutāya gahitattā sassatādhiccasamuppattiākāranissayatā dassitā. Evaṃ āsappanaparisappanāpavattikaṃ katthacipi appaṭivattihetubhūtaṃ vicikicchaṃ kasmā uppādetīti na codetabbametanti dassento āha **‘‘kiṃ kāraṇanti na vattabba’’**nti. Sveva puthujjanabhāvo eva. Yadi evaṃ tassa ayonisomanasikāreneva bhavitabbanti āpannanti āha **‘‘nanu ca puthujjanopi yoniso manasi karotī’’**ti. Tatthāti yonisomanasikaraṇe.

「存在することと存在しないこと」とは、常見の懸念に基づいて「過去世において私はあったのだろうか」と過去における自己の存在を疑い、無因論(自然生起)の懸念に基づいて「私が存在し始めてから、それ以前には私は存在しなかったのだろうか」と過去における自己の非存在を疑う。なぜか? 疑いは二つの様相に拠るからである。しかしそれは過去の事物として把握されているため、常見と無因論の様相に拠ることが示されたのである。このように動揺し彷徨う働きをなし、どこにも前進しない原因となる疑いを、なぜ生じさせるのかと反論されるべきではないことを示して、「いかなる原因か、と言うべきではない」と言われたのである。「まさに彼自身の凡夫性そのもの」である。もしそうなら、彼には非如理作意のみが存在することになってしまうではないか、という疑問に対して、「凡夫もまた如理に作意するではないか」と言われたのである。「そこにおいて」とは、如理作意をなすことにおいてである。

Jātiliṅgūpapattiyoti khattiyabrāhmaṇādijātiṃ gahaṭṭhapabbajitādiliṅgaṃ devamanussādiupapattiñca. Nissāyāti upādāya.

「生まれや身分や転生」とは、王族やバラモンなどの生まれ、在家や出家などの身分、神や人間などの転生のことである。「依拠して」とは、条件として、という意味である。

Tasmiṃ kāle sattānaṃ majjhimappamāṇaṃ, tena yutto pamāṇiko, tadabhāvato, tato atītabhāvato vā appamāṇiko veditabbo. Kecīti sārasamāsācariyā. Te hi ‘‘kathaṃ nu khoti issarena vā brahmunā vā pubbakatena vā ahetuto vā nibbattoti cintetī’’ti āhu. Tena vuttaṃ **‘‘hetuto kaṅkhatīti vadantī’’**ti. Ahetuto nibbattikaṅkhāpi hi hetuparāmasanamevāti.

その当時における有情の中等の基準を具えた者が「基準に適った者」であり、それがないか、あるいはそれを超えている者が「基準を超えた者」と知られるべきである。「ある人々」とは、サーラサマーサの師たちである。実に彼らは「どのようにして、自在神によってか、梵天によってか、過去の行為によってか、無因から生じたのかと思惟する」と言っている。それゆえに「原因について疑うと言っている」と言われたのである。実に無因からの生起についての疑いもまた、原因の詮索にほかならないからである。

Paramparanti pubbāparappavattiṃ. Addhānanti kālādhivacanaṃ, tañca bhummatthe upayogavacanaṃ daṭṭhabbaṃ.

「連続」とは、前後の展開のことである。「期間」とは、時間の同義語であり、それは場所の意味での対格として見られるべきである。

Vijjamānataṃ avijjamānatañcāti sassatāsaṅkaṃ nissāya ‘‘bhavissāmi nu kho ahamanāgatamaddhāna’’nti anāgate attano vijjamānataṃ, ucchedāsaṅkaṃ nissāya ‘‘yasmiñca attabhāve ahaṃ, tato paraṃ na nu kho bhavissāmī’’ti anāgate attano avijjamānatañca kaṅkhatīti heṭṭhā vuttanayena yojetabbaṃ.

「存在することと存在しないこと」とは、常見の懸念に基づいて「未来世において私は存在するだろうか」と未来における自己の存在を疑い、断見の懸念に基づいて「そして私があるこの個体から、それ以後は存在しないのだろうか」と未来における自己の非存在を疑うと、下に述べられた筋道によって結合されるべきである。

Paccuppannamaddhānanti addhāpaccuppannassa idhādhippetattā **‘‘paṭisandhiṃ ādiṃ katvā’’**tiādi vuttaṃ. ‘‘Idaṃ kathaṃ idaṃ katha’’nti pavattanato kathaṃkathā, vicikicchā, sā assa atthīti kathaṃkathīti āha ‘‘**vicikiccho hotī’’**ti. Kā ettha cintā, ummattako viya hi bālaputhujjanoti paṭikacceva vuttanti adhippāyo. Taṃ mahāmātāya puttaṃ. Muṇḍesunti muṇḍena anicchantaṃ jāgaraṇakāle na sakkāti suttaṃ muṇḍesuṃ kuladhammatāya yathā taṃ ekacce kulatāpasā, rājabhayenāti ca vadanti.

「現在の期間」とは、期間としての現在がここで意図されているため、「結生を始めとして」などと言われたのである。「これはどうしてか、これはどうしてか」と生じることから「どうしてか(疑惑)」であり、疑いである。それをもつ者が「どうしてかと思う者(疑惑者)」であることから、「疑い深い者となる」と言われたのである。「ここで何の思惟があろうか、狂人のように愚かな凡夫である」とあらかじめ述べられている、というのが趣意である。「その大臣の息子を」。「剃髪した」とは、剃髪を好まない者を起きている時にはできないので、ある苦行者の家系のように家風として、あるいは王への恐怖から眠っている間に剃髪したのだと言っている。

Sītibhūtanti idaṃ madhurakabhāvappattiyā kāraṇavacanaṃ. ‘‘Setibhūta’’ntipi pāṭho, udake ciraṭṭhānena setabhāvaṃ pattanti attho.

「冷たくなった」とは、甘くなった状態に至る原因の言葉である。「白くなった」という読みもあり、水の中に長くあったことで白くなったという意味である。

Attano khattiyabhāvaṃ kaṅkhati kaṇṇo viya sūtaputtasaññī. Jātiyā vibhāviyamānāya ‘‘aha’’nti tassa attano parāmasanaṃ sandhāyāha ‘‘evañhi siyā kaṅkhā’’ti. Manussāpi ca rājāno viyāti manussāpi keci ekacce rājāno viyāti adhippāyo.

御者の息子だと思い込んでいたカルナのように、自分の王族性を疑う。生まれが明らかになるにつれて、「私」という彼の自己への執着を念頭に置いて、「このように疑いが生じるであろう」と言われたのである。「人間であっても諸王のように」とは、人間であってもある特定の諸王のように、というのが趣意である。

Vuttanayameva ‘‘saṇṭhānākāraṃ nissāyā’’tiādinā. Etthāti ‘‘kathaṃ nu khosmī’’ti pade. Abbhantare jīvoti paraparikappitaṃ antarattānaṃ vadati. Soḷasaṃsādīnanti ādi-saddena sarīra-parimāṇa-parimaṇḍala-aṅguṭṭhayavaparamāṇu-parimāṇatādike saṅgaṇhāti.

述べられた筋道そのままを、「形態の様相に依拠して」などによって述べている。「ここで」とは、「私はどのようにあるのだろうか」という句においてである。「内部の霊魂」とは、他者が想定した内なる自己(アートマン)のことを言っている。「十六の指の幅など」の「など」という語によって、身体の大きさ、円形、親指大、大麦粒大、原子大などの大きさを包含している。

‘‘Sattapaññatti jīvavisayā’’ti diṭṭhigatikānaṃ matimattaṃ, paramatthato pana sā attabhāvavisayāvāti āha **‘‘attabhāvassa āgatigatiṭṭhāna’’**nti, yatāyaṃ āgato, yattha ca gamissati, taṃ ṭhānanti attho.

「有情という概念は霊魂の領域である」というのは邪見の者たちの単なる考えであり、究極的真理(勝義)においてはそれは個体(自己の存在)の領域であることから、「個体の来たる場所と行く場所」と言われたのであり、どこからこれ(個体)が来たのか、そしてどこへ行くのか、その場所という意味である。

19. Yathā ayaṃ vicikicchā uppajjatīti ayaṃ vuttappabhedā vicikicchā yathā uppajjati, evaṃ ayoniso manasikaroto. Etena vicikicchāya attābhinivesasannissayatamāha. Yathā hi vicikicchā attābhinivesaṃ nissāya pavattati, yato sā sassatādhiccasamuppattisassatucchedākārāvalambinī vuttā, evaṃ attābhinivesopi taṃ nissāya pavattati ‘‘ahosiṃ nu kho aha’’ntiādinā antogadhāhaṃkārassa kathaṃkathibhāvassa attaggāhasannissayabhāvato. Tenevāha **‘‘savicikicchassa ayonisomanasikārassa thāmagatattā’’**ti. Vikappatthoti aniyamattho. ‘‘Aññatarā diṭṭhi uppajjatī’’ti hi vuttaṃ. Suṭṭhu daḷhabhāvenāti abhinivesassa ativiya thāmagatabhāvena. Tattha tatthāti tasmiṃ bhave. Paccuppannamevāti avadhāraṇena anāgate atthibhāvaṃ nivatteti, na atīte tatthapi sati atthitāya ucchedaggāhassa sabbhāvato. Atīte eva natthi, na anāgatepīti adhippāyo.

19. 「このようにこの疑いが生じる」とは、この述べられた区別の疑いがこのように生じるように、このように非如理に作意する者にとって、ということである。これによって疑いが自己への執着を根拠としていることを述べたのである。実に疑いが自己への執着に基づいて生起し、それゆえにそれは常見・無因論・常断見の様相に拠るものと説かれたように、自己への執着もまた「私はあったのだろうか」などと内包された我執の疑いの状態が自己の把握を根拠とすることから、それ(疑い)に基づいて生起するのである。それゆえに「疑いを伴う非如理作意が強化されたことによって」と言われたのである。「選択の意味」とは、不確定の意味である。「ある一つの邪見が生じる」と説かれているからである。「非常に強固な状態によって」とは、執着が極めて強化された状態によって、という意味である。「その時々に」とは、その生存においてである。「現在のみ」という限定によって、未来における存在を排除するのであり、過去においてではない。そこ(過去)に存在があるとしても断見の把握が存在するからである。過去にこそ存在しないのであり、未来においても存在しないのではない、というのが趣意である。

Saññākkhandhasīsenāti saññākkhandhapamukhena, saññākkhandhaṃ pamukhaṃ katvāti attho. Khandheti pañcapi khandhe. Attāti gahetvāti ‘‘sañjānanasabhāvo me attā’’ti abhinivissa. Pakāsetabbaṃ vatthuṃ viya, attānampi pakāsento padīpo viya, sañjānitabbaṃ nīlādiārammaṇaṃ viya attānampi sañjānātīti evaṃdiṭṭhitopi diṭṭhigatito hotīti vuttaṃ **‘‘attanāva attānaṃ sañjānāmī’’**ti. Svāyamattho saññaṃ tadaññataradhamme ca ‘‘attā anattā’’ti ca gahaṇavasena hotīti vuttaṃ **‘‘saññākkhandhasīsenā’’**tiādi. Ettha ca khandhavinimutto attāti gaṇhato sassatadiṭṭhi, khandhaṃ pana ‘‘attā’’ti gaṇhato ucchedadiṭṭhīti āha **‘‘sabbāpi sassatucchedadiṭṭhiyovā’’**ti.

「想蘊を筆頭として」とは、想蘊を中心として、想蘊を前面に出して、という意味である。「蘊を」とは、五つの蘊をである。「自己であると把握して」とは、「認識する自性が私の自己である」と執着して、という意味である。明らかにされるべき事物のように、自らをも明らかにする灯火のように、認識されるべき青などの対象のように自己自身をも認識する、というこのような見解からも邪見に陥ることから、「自己によって自己を認識する」と言われたのである。この意味は、想とそのほかの法を「自己、非自己」と把握することによって生じることから、「想蘊を筆頭として」などと言われたのである。そしてここで、蘊から離れたものが自己であると把握する者には常見が生じ、蘊を「自己である」と把握する者には断見が生じることから、「すべて常見と断見にほかならない」と言われたのである。

Abhinivesākārāti vipariyesākārā. Vadatīti iminā kārakavedakasattānaṃ hitasukhāvabodhanasamatthataṃ attano dīpeti. Tenāha **‘‘vacīkammassa kārako’’**ti. Vedetīti vediyo, vediyova vedeyyo. Īdisānañhi padānaṃ bahulā kattusādhanataṃ saddasatthavidū maññanti. Uppādavato ekanteneva vayo icchitabbo, sati ca udayabbayatte neva niccatāti **‘‘nicco’’**ti vadantassa adhippāyaṃ vivaranto āha **‘‘uppādavayarahito’’**ti. Sārabhūtoti niccatāya eva sārabhāvo. Sabbakālikoti sabbasmiṃ kāle vijjamāno. Pakatibhāvanti sabhāvabhūtaṃ pakatiṃ, ‘‘vado’’tiādinā vā vuttaṃ pakatisaṅkhātaṃ sabhāvaṃ. Sassatisamanti sassatiyā samaṃ sassatisamaṃ, thāvaraṃ niccakālanti attho. Tatheva ṭhassatīti yenākārena pubbe aṭṭhāsi, etarahi tiṭṭhati, tatheva tenākārena anāgatepi ṭhassatīti attho.

「執着の様相」とは、顛倒した様相のことである。「語る」とは、これによって作者や受者である有情たちの利益と安楽を理解させる能力が自己にあることを示している。それゆえに「言葉の行為の作者」と言われたのである。「感じる」ゆえに受者であり、受者こそが「感ずる者」である。このような言葉は能動の達成を多く含むと文法の専門家たちは考えている。生起をもつものには絶対に滅尽が認められるべきであり、生滅がある時には決して常住性はないことから、「常住である」と語る者の趣意を解釈して、「生起と滅尽を離れた」と言われたのである。「本質となった」とは、常住であることによる本質である。「すべての時の」とは、すべての時に存在する、という意味である。「本来の状態を」とは、自性である本来の状態、あるいは「語る者」などと言われた本来と呼ばれる自性をである。「永遠に等しい」とは、永遠と同等である永遠に等しいものであり、不変で永久の時、という意味である。「その通りにとどまるであろう」とは、以前にとどまった様相で、現在とどまっており、未来においてもまさにその様相でとどまるであろう、という意味である。

Paccakkhanidassanaṃ idaṃ-saddassa āsannapaccakkhabhāvaṃ katvā. Diṭṭhiyeva diṭṭhigatanti gata-saddassa padavaḍḍhanamattataṃ āha. Diṭṭhīsugatanti micchādiṭṭhīsu pariyāpannanti attho. Tenevāha **‘‘dvāsaṭṭhidiṭṭhiantogadhattā’’**ti. Diṭṭhiyā gamanamattanti diṭṭhiyā gahaṇamattaṃ. Yathā pana pabbatajalaviduggāni dunniggamanāni, evaṃ diṭṭhiggāhopīti āha **‘‘dunniggamanaṭṭhena gahana’’**nti. Taṃ nāma udakaṃ, taṃ gahetvā taṃ atikkamitabbato kantāro, nirudakavanaṃ, taṃ pavanantipi vuccati. Añño pana araññapadeso duratikkamanaṭṭhena kantāro viyāti, evaṃ diṭṭhipīti āha **‘‘duratikkamanaṭṭhenā’’**tiādi. Vinivijjhanaṃ vitudanaṃ. Vilomanaṃ vipariṇāmabhāvo. Anavaṭṭhitasabhāvatāya vicalitaṃ vipphanditanti āha **‘‘kadācī’’**tiādi. Andubandhanādi viya nissarituṃ appadānavasena aseribhāvakaraṇaṃ bandhanaṭṭho, kilesakammavipākavaṭṭānaṃ paccayabhāvena dūragatampi ākaḍḍhitvā saṃyojanaṃ saṃyojanaṭṭho, diṭṭhipi tathārūpāti vuttaṃ **‘‘diṭṭhisaṃyojana’’**nti. Bandhanatthaṃ dassento kiccasiddhiyāti adhippāyo. Tenevāha **‘‘diṭṭhisaṃyojanena…pe… muccatī’’**ti. Tattha etehīti iminā jātiādidukkhassa paccayabhāvamāha. Jātiādike dukkhadhamme sarūpato dassetvāpi ‘‘na parimuccati dukkhasmā’’ti vadantena bhagavatā diṭṭhisaṃyojanaṃ nāma sabbānatthakaraṃ mahāsāvajjaṃ sabbassapi dukkhassa mūlabhūtanti ayamattho vibhāvitoti dassetuṃ **‘‘kiṃ vā bahunā, sakalavaṭṭadukkhatopi na muccatī’’**ti vuttaṃ.

「これ」という語の身近な直接経験の状態をなしての直接の例示である。邪見そのものが「見解に陥ったもの」であり、「陥った」という語は単なる語の補足であることを言っている。「見解に属するもの」とは、邪見に包摂されるものという意味である。それゆえに「六十二の邪見に包摂されることによって」と言われたのである。「見解の歩みにすぎない」とは、見解の把握にすぎないことである。しかし山や水の難所が抜け出しがたいように、見解の把握もそうであることから、「抜け出しがたいという意味で険路である」と言われたのである。水のあるところ、それを持って通り抜けねばならないことから荒野であり、水のない森のことであり、それは「林」とも呼ばれる。しかし別の荒野の場所は通り抜けがたいという意味で荒野のようであり、見解も同様であることから、「通り抜けがたいという意味で」などと言われたのである。「貫くこと」とは突き刺すことである。「背くこと」とは変異することである。定まらない自性であることによって揺れ動くことが「身悶え」であるとして、「時に」などと言われたのである。足枷などのように脱出させないことによって自由を奪うことが「束縛」の意味であり、煩悩・業・異熟の輪廻の縁となることによって遠くへ行ったものをも引き戻して結合させることが「結(結び目)」の意味であり、邪見もそのような性質のものであることから「見結」と言われたのである。束縛の意味を示して働きの成就による、というのが趣意である。それゆえに「見結によって…乃至…解き放たれる」と言われたのである。そこにおいて「これらによって」とは、これによって生などの苦の縁となる状態を述べている。生などの苦の法を具体的に示しながらも、「苦から解き放たれない」と述べられる世尊によって、見結とはすべての不利益をもたらし、大いなる過失があり、すべての苦の根本であるというこの意味が明らかにされたことを示すために、「何を多く語る必要があろうか、全輪廻の苦からも解き放たれない」と言われたのである。

20. Nanu cettha diṭṭhisaṃyojanadassanena sīlabbataparāmāsopi dassetabbo, evañhi dassanena pahātabbā āsavā anavasesato dassitā hontīti codanaṃ sandhāyāha **‘‘yasmā’’**tiādi. Sīlabbataparāmāso kāmāsavādiggahaṇeneva gahito hoti kāmāsavādihetukattā tassa. Appahīnakāmarāgādiko hi kāmasukhatthaṃ vā bhavasuddhatthaṃ vā evaṃ bhavavisuddhi hotīti sīlabbatāni parāmasanti, ‘‘imināhaṃ sīlena vā vatena vā tapena vā brahmacariyena vā devo vā bhavissāmi devaññataro vā’’ti (ma. ni. 1.186; ma. ni. 2.79), ‘‘tattha nicco dhuvo sassato avipariṇāmadhammo sassatisamaṃ tatheva ṭhassāmī’’ti (ma. ni. 1.19), ‘‘sīlena suddhi vatena suddhi sīlabbatena suddhī’’ti (dha. sa. 1222) ca suttevuttaṃ sīlabbataṃ parāmasanti. Tattha bhavasukhabhavavisuddhiatthanti bhavasukhatthañca bhavavisuddhiatthañca. Tassa gahitattāti sīlabbataparāmāsassa diṭṭhiggahaṇena gahitattā yathā ‘‘diṭṭhigatānaṃ pahānāyā’’tiādīsu (dha. sa. 277). Tesanti dassanapahātabbānaṃ. Dassetuṃ puggalādhiṭṭhānāya desanāya. Tabbiparītassāti yonisomanasikaroto kalyāṇaputhujjanassa.

20. 「実にここで見結を示すことによって、戒禁取も示されるべきではないのか。そうすれば見によって断ぜられるべき諸漏が残すところなく示されることになるからである」という反論を念頭に置いて、「〜ゆえに」などと言われたのである。戒禁取は欲漏などを挙げることによってまさに把握されている。それは欲漏などを原因とするからである。実に断ぜられない欲貪などをもつ者は、欲の快楽のため、あるいは生存の清浄のために「このようにして生存の清浄がある」と戒禁に執着し、「私はこの戒によって、あるいは禁戒によって、あるいは苦行によって、あるいは梵行によって神となるか、あるいは神々のいずれかとなるであろう」「そこにおいて常住で堅固で永遠で不変の法として、永遠に等しくまさにその通りにとどまるであろう」「戒による清浄、禁戒による清浄、戒禁による清浄」と経典に説かれた戒禁に執着するのである。そこにおいて「生存の快楽と生存の清浄のために」とは、生存の快楽のためと生存の清浄のために、という意味である。「それが把握されたことによって」とは、戒禁取が邪見を挙げることによって把握されたことによるのであり、「邪見に陥ったものを断ずるために」などにおけるようである。「それらの」とは、見によって断ぜられるべき諸漏の、という意味である。人に基づいた教説を示すために、「その反対の者にとって」とは、如理に作意する善なる凡夫にとって、という意味である。

Tassāti ‘‘sutavā’’tiādipāṭhassa. Tāvāti ‘‘sutavā’’ti ito paṭṭhāya yāva ‘‘so idaṃ dukkha’’nti padaṃ, tāva imaṃ padaṃ avadhiṃ katvāti attho. Heṭṭhā vuttanayenāti ariyasappurisa-ariyadhamma-sappurisadhamma-manasikaraṇīya-amanasikaraṇīyapadānaṃ yathākkamaṃ mūlapariyāye idha gahetvā vuttanayena attho veditabboti sambandho. Vuttapaccanīkatoti ‘‘sutavā ariyasāvako, ariyānaṃ dassāvī, sappurisānaṃ dassāvī’’ti etesaṃ padānaṃ sabbākārena vuttaviparītato attho veditabbo, kovidavinītapadānaṃ pana na sabbappakārena vuttaviparītato. Arahā hi nippariyāyena ariyadhamme kovido ariyadhamme suvinīto ca nāma. Tenāha **‘‘paccanīkato ca sabbākārena…pe… ariyasāvakoti veditabbo’’**ti. Saṅkhārupekkhāñāṇaṃ sikhāppattavipassanā. Keci pana ‘‘bhaṅgañāṇato paṭṭhāya sikhāpattavipassanā’’ti vadanti, tadayuttaṃ. Tadanurūpena atthenāti tassa puggalassa anurūpena ariyaṭṭhena, na paṭivedhavasenāti adhippāyo. Kalyāṇaputhujjano hi ayaṃ. Yathā cassa ‘‘yopi kalyāṇaputhujjano’’ti ārabhitvā ‘‘sopi vuccati sikkhatīti sekkho’’ti pariyāyena sekkhasutte (saṃ. ni. 5.13) sekkhabhāvo vutto, evaṃ idha ariyasāvakabhāvo vutto. Vuṭṭhānagāminīvipassanālakkhaṇehi ye ariyasappurisadhammavinayasaṅkhātā bodhipakkhiyadhammā tisso sikkhā eva vā sambhavanti, tesaṃ vasena imassa ariyasāvakādibhāvo vutto. Tenāha **‘‘tadanurūpena atthenā’’**ti. Ariyassa sāvakoti vā ariyasāvakatthena eva vutto yathā ‘‘agamā rājagahaṃ buddho’’ti (su. ni. 410). Sikhāppattavipassanāggahaṇañcettha vipassanaṃ ussukkāpetvā anivattipaṭipadāyaṃ ṭhitassa gahaṇatthanti yathāvuttā atthasaṃvaṇṇanā suṭṭhutaraṃ yujjateva.

「その」とは、「よく聞く」などの教説の、という意味である。「まず」とは、「よく聞く」から始めて「彼はこの苦を」という句に至るまで、この句を限界として、という意味である。「下に述べられた筋道によって」とは、聖者、善士、聖者の法、善士の法、作意すべきもの、作意すべきでないものの句を、それぞれ『根本法門経』においてここで取り上げて述べられた筋道によって意味が知られるべきである、という関連である。「述べられたことの反対によって」とは、「よく聞く聖弟子、聖者たちを見る者、善士たちを見る者」というこれらの句は、あらゆる様相において述べられたことの反対から意味が知られるべきであるが、「熟達した、よく導かれた」という句は、あらゆる様相において述べられたことの反対からではない。実に阿羅漢は無分別(直接)に聖者の法に熟達し、聖者の法によく導かれた者と呼ばれるからである。それゆえに「そして反対からあらゆる様相において…乃至…聖弟子と知られるべきである」と言われたのである。行捨智は頂点に達した観である。しかしある人々は「壊滅の智から頂点に達した観である」と言っているが、それは妥当ではない。「それにふさわしい意味によって」とは、その人にふさわしい聖者の意味によってであり、通達によるのではない、というのが趣意である。実にこの人は善なる凡夫だからである。そして彼について、「善なる凡夫であっても」と始めて「彼もまた学んでいるから有学と呼ばれる」と方便によって『有学経』(『相応部』5.13)で有学の状態が説かれたように、このようにここで聖弟子の状態が説かれたのである。出起に至る観の特徴によって、聖者・善士の法と律と呼ばれる菩提分法や、あるいは三学が生じるのであるが、それらに基づいてこの人の聖弟子などの状態が説かれたのである。それゆえに「それにふさわしい意味によって」と言われたのである。あるいは「聖者の弟子」という意味でまさに聖弟子と言われたのであり、「仏陀は王舎城に行かれた」というようである。そしてここで頂点に達した観を挙げることは、観を奮い立たせて後戻りしない実践道にとどまる者を把握するためであり、述べられた通りの註釈が極めてよく適合するのである。

21. Yathā dhātumukhena vipassanaṃ abhiniviṭṭho dhātukammaṭṭhāniko āyatanādimukhena abhiniviṭṭho āyatanādikammaṭṭhāniko, evaṃ saccamukhena abhiniviṭṭhoti vuttaṃ **‘‘catusaccakammaṭṭhāniko’’**ti. Caturoghanittharaṇatthikehi kātabbato kammaṃ, bhāvanā. Kammameva visesādhigamassa ṭhānaṃ kāraṇanti, kamme vā yathāvuttanaṭṭhena ṭhānaṃ avaṭṭhānaṃ bhāvanārambhokammaṭṭhānaṃ, tadeva catusaccamukhena pavattaṃ etassa atthīti catusaccakammaṭṭhāniko. Ubhayaṃ nappavattati etthāti appavatti. Uggahitacatusaccakammaṭṭhānoti ca catusaccakammaṭṭhānaṃ pāḷito atthato ca uggahetvā manasikārayoggaṃ katvā ṭhito. Vipassanāmaggaṃ samāruḷhoti sappaccayanāmarūpadassane patiṭṭhāya tadeva nāmarūpaṃ aniccādito sammasanto. Samannāharatīti vipassanāvajjanaṃ sandhāyāha, tasmā yathā ‘‘idaṃ dukkha’’nti vipassanāñāṇaṃ pavattati, evaṃ samannāharati āvajjatīti attho. Kathaṃ panettha ‘‘manasi karotī’’ti iminā ‘‘vipassatī’’ti ayamattho vutto hotīti āha **‘‘ettha…pe… vuttā’’**ti. Etthāti ca imasmiṃ sutteti attho. Vipassatīti ca yathā upari visesādhigamo hoti, evaṃ ñāṇacakkhunā vipassati, oloketīti attho. Maggopi vattabbo. Purimañhi saccadvayaṃ gambhīrattā duddasaṃ, itaraṃ duddasattā gambhīraṃ.

21. 界を通して観に入った者が「界の業処をもつ者」であり、処などを通して観に入った者が「処などの業処をもつ者」であるように、諦(真理)を通して観に入ったことから「四聖諦の業処をもつ者」と言われたのである。四つの激流を乗り越えようと欲する者たちによってなされるべきであることから業(行為)であり、修習である。業そのものが勝れた証得の場所(原因)であり、あるいは業において述べられた通りの場所、確立、修習の開始が業処であり、まさにそれを四聖諦を通して行じていることがこの人にあるゆえに「四聖諦の業処をもつ者」である。そこにおいて双方が働かないゆえに「非生起(不作動)」である。「習得された四聖諦の業処をもつ者」とは、四聖諦の業処を聖典からも意味からも習得して、作意に適した状態にしてとどまっている者である。「観の道に登った」とは、有縁の名色(心と物質)の見極めに確立して、まさにその名色を無常などと観察しつつ、という意味である。「統合する」とは、観の作意を念頭に置いて言っているのであり、したがって「これは苦である」と観の智が生起するように、そのように統合し、作意する、という意味である。しかしここで「作意する」というこれによって、いかにして「観察する」というこの意味が説かれたことになるのか、その点について「ここで…乃至…説かれた」と言われたのである。「ここで」とは、この経において、という意味である。「観察する」とは、上に勝れた証得があるように、このように智の眼によって観察する、眺める、という意味である。道もまた語られるべきである。実に前の二つの真理(苦・集)は深遠であるゆえに見がたく、後のもの(滅・道)は見がたいゆえに深遠である。

Abhinivesoti vipassanābhiniveso vipassanāpaṭipatti. Tadārammaṇeti taṃ rūpakkhandhaṃ ārammaṇaṃ katvā pavatte. Yāthāvasarasalakkhaṇaṃ vavatthapetvāti aviparītaṃ attano ārammaṇaṃ sabhāvacchedanādikiccañceva aññāṇādilakkhaṇañca asaṅkarato hadaye ṭhapetvā. Iminā pubbe nāmarūpaparicchede katepi dhammānaṃ salakkhaṇavavatthāpanaṃ paccayapariggahena suvavatthāpitaṃ nāma hotīti dasseti yathā ‘‘dvikkhattuṃ baddhaṃ subaddha’’nti. Evañhi ñātapariññāya kiccaṃ siddhaṃ nāma hoti. Paccayato paccayuppannato ca vavatthāpitattā pākaṭabhāvena siddhenapi siddhabhāvo pākaṭo hotīti vuttaṃ **‘‘ahutvā hontī’’**ti. Aniccalakkhaṇaṃ āropetīti asato hi uppādena bhavitabbaṃ, na sato, uppādavantato ca nesaṃ ekantena icchitabbā paccayāyattavuttibhāvato, sati uppāde avassaṃbhāvī nirodhoti nattheva niccatāvakāsoti. Sūpaṭṭhitāniccatāya ca udayabbayadhammehi abhiṇhapaṭipīḷanato dukkhamanaṭṭhena dukkhaṃ. Tenāha **‘‘udayabbayapaṭipīḷitattā dukkhāti dukkhalakkhaṇaṃ āropetī’’**ti. Katthacipi saṅkhāragate ‘‘mā jīri mā byādhiyī’’ti alabbhanato natthi vasavattananti āha **‘‘avasavattanato anattāti anattalakkhaṇaṃ āropetī’’**ti. Paṭipāṭiyāti udayabbayañāṇādiparamparāya.

「導入」とは、観の導入、観の実践のことである。「その対象において」とは、その色蘊を対象として生じたものにおいて、という意味である。「如実な自相と共相を確定して」とは、顛倒のない自らの対象、自相の限定などの働き、そして無知などの特徴を混同することなく心にとどめて、という意味である。これによって、以前に名色の識別がなされたとしても、諸法の自相の確定は縁の把握によってよく確定されたものとなることを、「二度結ばれたものはよく結ばれている」というように示している。実にこのようにして、知られた遍知の働きが成就したことになるのである。縁から、また縁によって生じたものから確定されたことによって、明白な状態によって成就したとしても、成就した状態が明白となるゆえに、「なくて生じる」と言われたのである。「無常の相を置く」とは、非存在からこそ生起があるのであり、存在からではない。そして生起をもつものであることから、それらは絶対に滅びるべきものであり、縁に依存した状態であるゆえに、生起がある時には必然的に消滅があるのであって、常住性の余地はまったく存在しないからである。そしてよく現前した無常性によって、生滅の法によって頻繁に圧迫されることから、苦の非安穏の意味で苦である。それゆえに「生滅に圧迫されることから苦であると、苦の相を置く」と言われたのである。どこにおいても諸行の中に「老いるな、病むな」ということは得られないことから、意のままになることはないとして、「意のままにならないことから無我であると、無我の相を置く」と言われたのである。「順序によって」とは、生滅随観智などの順序によって、という意味である。

Tasmiṃ khaṇeti sotāpattimaggakkhaṇe. Ekapaṭivedhenevāti ekañāṇeneva paṭivijjhanena. Paṭivedho paṭighātābhāvena visaye nissaṅgacārasaṅkhātaṃ nibbijjhanaṃ. Abhisamayo avirajjhitvā visayassa adhigamasaṅkhāto avabodho. ‘‘Idaṃ dukkhaṃ, ettakaṃ dukkhaṃ, na ito bhiyyo’’ti paricchinditvā jānanameva vuttanayena paṭivedhoti pariññāpaṭivedho. Ayaṃ yathā ñāṇe pavatte pacchā dukkhassa sarūpādiparicchede sammoho na hoti, tathā pavattiṃ gahetvā vutto, na pana maggañāṇassa ‘‘idaṃ dukkha’’ntiādināpi vattanato. Tenāha **‘‘na hissa tasmiṃ samaye’’**tiādi. Pahīnassa puna appahātabbatāya pakaṭṭhaṃ hānaṃ cajanaṃ samucchindanaṃ pahānaṃ, pahānameva vuttanayena paṭivedhoti pahānapaṭivedho. Ayampi yena kilesena appahīyamānena maggabhāvanāya na bhavitabbaṃ, asati ca maggabhāvanāya yo uppajjeyya, tassa kilesassa padaghātaṃ karontassa anuppattidhammataṃ āpādentassa ñāṇassa tathāpavattiyā paṭighātābhāvena nissaṅgacāraṃ upādāya evaṃ vutto. Sacchikiriyā paccakkhakaraṇaṃ, anussavākāraparivitakkādike muñcitvā sarūpato ārammaṇakaraṇaṃ idaṃ tanti yathāsabhāvato gahaṇaṃ, sā eva vuttanayena paṭivedhoti sacchikiriyāpaṭivedho. Ayaṃ pana yassa āvaraṇassa asamucchindanato ñāṇaṃ nirodhaṃ ālambituṃ na sakkoti, tassa samucchindanato taṃ sarūpato vibhāvitameva pavattatīti evaṃ vutto.

「その刹那に」とは、預流道の刹那に、という意味である。「ただ一度の通達によってのみ」とは、ただ一つの智による通達によって、という意味である。通達とは、障害がないことによって対象において執着なく働くことと呼ばれる貫通である。現観とは、誤ることなく対象を獲得することと呼ばれる了解である。「これは苦である、これだけが苦である、これ以上ではない」と限定して知ることこそが述べられた筋道による通達であり、「遍知の通達」である。これは智が生じた時に、後で苦の具体的な限定において迷いが生じないように、その生起を取り上げて説かれたのであり、道智が「これは苦である」などとして働くことによるのではない。それゆえに「実に彼にはその時に…」などと言われたのである。断ぜられたものが再び断ぜられるべきではないことから、優れた捨断、放棄、根絶が断であり、断そのものが述べられた筋道による通達であって、「断の通達」である。これもまた、その煩悩が断ぜられないことには道の修習が存在し得ず、道の修習が存在しない時に生じるであろうその煩悩を打ち砕き、二度と生じない性質をもたらす智のそのように生起することによる障害のなさにより、執着のない働きに基づいてこのように説かれたのである。作証とは直接体験することであり、伝承の様相や思弁などを離れて、具体的に対象とすること、これをその通りに如実に把握することであり、それこそが述べられた筋道による通達であって、「作証の通達」である。しかしこれは、いかなる覆いを取り除かないことによって智が滅(涅槃)を対象とすることができないのか、その覆いを取り除くことによって、それ(涅槃)を具体的に明らかにして生起するゆえに、このように説かれたのである。

Bhāvanā uppādanā vaḍḍhanā ca, tattha paṭhamamagge uppādanaṭṭhena, dutiyādīsu vaḍḍhanaṭṭhena, ubhayatthāpi vā ubhayathāpi veditabbaṃ. Paṭhamamaggopi hi yathārahaṃ vuṭṭhānagāminiyaṃ pavattaṃ parijānanādiṃ vaḍḍhento pavattoti tatthāpi vaḍḍhanaṭṭhena bhāvanā sakkā viññātuṃ. Dutiyādīsupi appahīnakilesappahānato puggalantarasādhanato uppādanaṭṭhena bhāvanā, sā eva vuttanayena paṭivedhoti bhāvanā paṭivedho. Ayampi hi yathā ñāṇe pavatte pacchā maggadhammānaṃ sarūpaparicchede sammoho na hoti, tathā pavattimeva gahetvā vutto, tiṭṭhatu tāva yathādhigatamaggadhammaṃ yathāpavattesu phaladhammesupi ayaṃ yathādhigatasaccadhammesu viya vigatasammohova hoti. Tena vuttaṃ ‘‘diṭṭhadhammo pattadhammo viditadhammo pariyogāḷhadhammo’’ti (dī. ni. 1.299, 356; mahāva. 27, 57). Yato cassa dhammatāsañcoditā yathādhigatasaccadhammāvalambiniyo maggavīthito parato maggaphalapahīnāvasiṭṭhakilesanibbānānaṃ paccavekkhaṇā pavattanti. Dukkhasaccadhammā hi sakkāyadiṭṭhiādayo. Ayañca atthavaṇṇanā ‘‘pariññābhisamayenā’’tiādīsupi vibhāvetabbā. Ekābhisamayena abhisametīti vuttamevatthaṃ vibhūtataraṃ katvā dassetuṃ **‘‘no ca kho aññamaññena ñāṇenā’’**tiādi vuttaṃ.

修習とは生起させることであり、増大させることである。そこにおいて第一の道(預流道)においては生起させるという意味で、第二などの道(一来道など)においては増大させるという意味で、あるいは双方において双方の意味で知られるべきである。第一の道もまた、ふさわしく出起に至る観において生じた遍知などを増大させつつ生じるゆえに、そこにおいても増大させるという意味での修習を理解することができる。第二などの道においても、断ぜられていない煩悩を断ずることによって別の人を成就させることから生起させるという意味での修習であり、それこそが述べられた筋道による通達であって、「修習の通達」である。実にこれもまた、智が生じた時に、後で道の諸法の具体的な限定において迷いが生じないように、その生起を取り上げて説かれたのであり、獲得された道の法はさておき、そのように生じた果の諸法においても、この人は獲得された真理の諸法におけるように迷いを離れた者となるのである。それゆえに「法を見、法に達し、法を知り、法に沈潜した」と言われたのである。そして彼には法性によって促された、獲得された真理の法を拠り所とする、道の過程の後に道・果・断ぜられた煩悩・残りの煩悩・涅槃の省察が生じるからである。実に苦諦の法とは有身見などである。そしてこの註釈は、「遍知の現観によって」などにおいても明らかにされるべきである。「一つの現観によって現観する」と述べられたまさにその意味をより明瞭にして示すために、「互いに異なる智によってではなく」などと言われたのである。

Vitaṇḍavādī panāha ‘‘ariyamaggañāṇaṃ catūsu saccesu nānābhisamayavasena kiccakaraṇaṃ, na ekābhisamayavasena. Tañhi kālena dukkhaṃ pajānāti, kālena samudayaṃ pajahati, kālena nirodhaṃ sacchikaroti, kālena maggaṃ bhāveti, aññathā ekassa ñāṇassa ekasmiṃ khaṇe catukiccakaraṇaṃ na yujjati. Na hidaṃ katthaci diṭṭhampi suttaṃ atthī’’ti. So vattabbo – yadi ariyamaggañāṇaṃ nānābhisamayavasena saccāni abhisameti, na ekābhisamayavasena, evaṃ sante paccekampi saccesu nānakkhaṇeneva pavatteyya, na ekakkhaṇena, tathā sati dukkhādīnaṃ ekadesekadesameva parijānāti pajahatīti āpajjatīti nānābhisamaye paṭhamamaggādīhi pahātabbānaṃ saññojanattayādīnaṃ ekadesekadesappahānaṃ siyāti ekadesasotāpattimaggaṭṭhāditā, tato eva ekadesasotāpannāditā ca āpajjati anantaraphalattā lokuttarakusalānaṃ, na ca taṃ yuttaṃ. Na hi kālabhedena vinā so eva sotāpanno ca asotāpanno cāti sakkā viññātuṃ.

しかし論敵(異論者)は言う、「聖道智は四聖諦において別々の現観によって働きをなすのであり、一つの現観によるのではない。実にそれは、ある時には苦を了知し、ある時には集を断じ、ある時には滅を作証し、ある時には道を修習する。そうでなければ、一つの智が一つの刹那に四つの働きをなすことは妥当ではない。このようなことはどこにも見られず、聞かれたこともないからである」と。彼にはこう言われるべきである。「もし聖道智が別々の現観によって諸諦を現観するのであり、一つの現観によるのではないとするなら、そうであるならば個々の真理においても別々の刹那によって生起するのであって、一つの刹那によるのではないことになる。そうであるならば、苦などの一部分一部分のみを了知し、断ずるということになってしまう。別々の現観においては、第一の道などによって断ぜられるべき三結などの一部分一部分の断滅があることになり、一部分の預流道にとどまる者などの状態が生じ、それゆえに一部分の預流者などの状態が生じることになる。出世間の善(道)は直後の果をもたらすからである。しかしそれは妥当ではない。時間の違いなしに、まさにその同じ人が預流者であり、非預流者であるなどと理解することはできないからである」と。

Apicāyaṃ nānābhisamayavādī evaṃ pucchitabbo ‘‘maggañāṇaṃ saccāni paṭivijjhantaṃ kiṃ ārammaṇato paṭivijjhati, udāhu kiccato’’ti? Jānamāno ‘‘kiccato’’ti vadeyya, ‘‘kiccato paṭivijjhantassa kiṃ nānābhisamayenā’’ti vatvā paṭipāṭiyānidassanena saññāpetabbo. Atha ‘‘ārammaṇato’’ti vadeyya, evaṃ sante tassa ñāṇassa vipassanāñāṇassa viya dukkhasamudayānaṃ accantapariññāsamucchedā na yuttā anissaṭattā. Tathā maggadassanaṃ. Na hi maggo sayameva attānaṃ ārabbha pavattatīti yuttaṃ, maggantaraparikappanāya pana anavaṭṭhānaṃ āpajjati, tasmā tīṇi saccāni kiccato, nirodhaṃ kiccato ca ārammaṇato ca paṭivijjhatīti evaṃ asammohato paṭivijjhantassa maggañāṇassa nattheva nānābhisamayo. Vuttañhetaṃ ‘‘yo bhikkhave dukkhaṃ passati, dukkhasamudayampi so passatī’’tiādi. Na cetaṃ kālantaradassanaṃ sandhāya vuttaṃ ‘‘yo nu kho, āvuso, dukkhaṃ passati, dukkhasamudayampi …pe… dukkhanirodhagāminipaṭipadampi so passatī’’ti (saṃ. ni. 5.1100) ekaccadassanasamaṅgino aññasaccadassanasamaṅgibhāvavicāraṇāyaṃ tadatthasādhanatthaṃ āyasmatā gavampatittherena ābhatattā, paccekañca saccattayadassanassa yojitattā, aññathā purimadiṭṭhassa puna adassanato samudayādidassanamayojaniyaṃ siyā. Na hi lokuttaramaggo lokiyamaggo viya katakārībhāvena pavattati samucchedakattā, tathā yojanena ca sabbadassanaṃ dassanantaraparamanti dassanānuparamo siyāti evaṃ āgamato yuttito ca nānābhisamayo na yujjatīti saññāpetabbo. Evaṃ ce saññattiṃ gacchati, iccetaṃ kusalaṃ. No ce gacchati, abhidhamme (kathā. 274) odhisokathāya saññāpetabboti.

さらに、この別現観論者にはこのように尋ねられるべきである。「道智が諸諦を通達する時、対象として通達するのか、それとも働きとして通達するのか」と。理解している者なら「働きとして」と答えるであろう。「働きとして通達する者に、何の別々の現観があろうか」と述べて、順序の例示によって納得させるべきである。もし「対象として」と答えるなら、そうであるならばその智には、観智におけるように苦と集の完全な遍知と根絶は妥当ではない。離脱していないからである。道を見ることについても同様である。実に道が自ら自らを対象として生起することは妥当ではなく、別の道を想定することになれば無限後退に陥ってしまう。したがって、三つの真理を働きとして、滅(涅槃)を働きとしても対象としても通達するゆえに、このように迷いなく通達する道智には別々の現観など決して存在しないのである。実にこのように説かれている。「比丘たちよ、苦を見る者は、苦集をも見るのである」などと。そしてこれは別の時間に見ることを念頭に置いて説かれたのではない。「友よ、苦を見る者は、苦集をも…乃至…苦滅に至る道をも見るのである」(『相応部』5.1100)と、ある一つの真理を見ることを具えた者が他の真理を見ることを具えているかどうかの考察において、その意味を論証するために尊者ガヴァムパティによって引用されたのであり、それぞれ三つの真理を見ることが結合されているからである。そうでなければ、前に見られたものが再び見られないことから、集などを見ることが結合され得ないことになるであろう。出世間の道は世間の道のように繰り返しなされるものとして生起するのではない。根絶するものだからである。そしてそのように結合するならば、すべての見解は別の見解を最後とするものとなり、見解の終わりがなくなってしまうであろう。このように聖典からも論理からも別々の現観は妥当ではないと納得させるべきである。もしこのようにして納得するならば、それは善いことである。もし納得しないならば、『阿毘達磨』(『論事』274)の区分論によって納得させるべきである。

Nirodhaṃ ārammaṇatoti nirodhameva ārammaṇatoti niyamo gahetabbo, na ārammaṇatovāti. Tena nirodhe kiccatopi paṭivedho siddho hoti. Tasmiṃ samayeti saccānaṃ abhisamaye. Vīsativatthukātiādi ‘‘tīṇi saññojanānī’’ti vuttānaṃ sarūpadassanaṃ. Catūsu āsavesūti idaṃ abhidhammanayena vuttaṃ, na suttantanayena. Na hi sutte katthaci cattāro āsavā āgatā atthi. Yadi vicikicchā na āsavo, atha kasmā ‘‘sakkāyadiṭṭhi vicikicchā sīlabbataparāmāso, ime vuccanti, bhikkhave, āsavā dassanā pahātabbā’’ti vuttanti āha **‘‘dassanā pahātabbā’’**tiādi. Ettha pariyāpannattāti etena sammāsaṅkappassa viya paññākkhandhe kiccasabhāgatāya idha vicikicchāya āsavasaṅgaho katoti dasseti.

「滅を対象として」とは、滅のみを対象として、という限定が把握されるべきであり、対象としてではない、ということではない。これによって滅において働きによる通達も成就することになる。「その時に」とは、真理の現観の時に、という意味である。「二十の根拠をもつもの」などは、「三結」と説かれたものの具体的な提示である。「四つの漏において」とは、これは阿毘達磨の筋道によって説かれたものであり、経典の筋道によるのではない。実に経典のどこにも四つの漏は現れないからである。もし疑いが漏ではないとするなら、それではなぜ「有身見、疑、戒禁取、比丘たちよ、これらは見によって断ぜられるべき漏と呼ばれる」と説かれたのか、その点について「見によって断ぜられるべき」などと言われたのである。「ここで包摂されることによって」とは、これによって正思惟が慧蘊に包摂されるように、働きの同等性によってここで疑いが漏に包摂されたのだということを示している。

Sabbo attaggāho sakkāyadiṭṭhivinimutto natthīti vuttaṃ **‘‘channaṃ diṭṭhīnaṃ…pe… vibhattā’’**ti. Sā hi diṭṭhi ekasmiṃ cittuppāde santāne ca ṭhitaṃ ekaṭṭhaṃ, tattha paṭhamaṃ sahajātekaṭṭhaṃ, itaraṃ pahānekaṭṭhaṃ, tadubhayampi niddhāretvā dassetuṃ **‘‘diṭṭhāsavehī’’**tiādi vuttaṃ. Sabbathāpīti sabbappakārena, sahajātekaṭṭhapahānekaṭṭhappakārehīti attho. Avasesāti diṭṭhāsavato avasiṭṭhā. Tayopi āsavāti kāmāsavabhavāsavaavijjāsavā. Tathā hi pubbe ‘‘catūsu āsavesū’’ti vuttaṃ. Tasmāti yasmā bahū evettha āsavā pahātabbā, tasmā bahuvacananiddeso kato ‘‘ime vuccanti, bhikkhave, āsavā dassanā pahātabbā’’ti. Porāṇānanti aṭṭhakathācariyānaṃ, ‘‘purātanānaṃ majjhimabhāṇakāna’’nti ca vadanti.

有身見を離れたすべての我への執着は存在しないゆえに、「六つの見解が……略……分別された」と説かれた。その見解は一つの心起と相続において住する共通の意義を持つ。そのうち前者は倶生として同じ意義を持ち、後者は断除として同じ意義を持つ。その両方を区別して示すために「見漏によって」等と説かれた。「あらゆる面においても」とは、すべての様相において、すなわち倶生の一義性および断除の一義性の様相によってという意味である。「残りの」とは、見漏から残されたものである。「三つの漏もまた」とは、欲漏・有漏・無明漏である。このように実に以前に「四つの漏において」と説かれた。したがって、ここでは実に多くの漏が断ぜられるべきであるゆえに、「比丘たちよ、これらは見によって断ぜられるべき漏と呼ばれる」と複数形で示された。「古の者たちの」とは、義釈の師たちのことであり、「昔の中部誦者たちの」とも言われる。

Dassanā pahātabbātiādīsu yaṃ vattabbaṃ, taṃ heṭṭhā vuttameva.

「見によって断ぜられるべき」等の箇所において説かれるべきことは、下で説かれたとおりである。

Dassanāpahātabbaāsavavaṇṇanā niṭṭhitā.

見断漏の注釈は完結した。

Saṃvarāpahātabbaāsavavaṇṇanā

防護断漏の注釈

22. Saṃvarādīhīti saṃvarapaṭisevanaadhivāsanaparivajjanavinodanehi. Sabbesampīti catunnampi ariyamaggānaṃ. Ayanti saṃvarāpahātabbādikathā pubbabhāgapaṭipadāti veditabbā. Tathā hi heṭṭhā ‘‘upakkilesavisodhanaṃ ādiṃ katvā āsavakkhayapaṭipattidassanattha’’nti suttantadesanāya payojanaṃ vuttaṃ. Na hi sakkā ādito eva ariyamaggaṃ bhāvetuṃ, atha kho samādinnasīlo indriyesu guttadvāro ‘‘saṅkhāyekaṃ paṭisevati, saṅkhāyekaṃ adhivāseti, saṅkhāyekaṃ parivajjeti, saṅkhāyekaṃ vinodetī’’ti (dī. ni. 3.348; ma. ni. 2.168) evaṃ vuttaṃ caturāpassenapaṭipattiṃ paṭipajjamāno sammasanavidhiṃ otaritvā anukkamena vipassanaṃ ussukkāpetvā maggapaṭipāṭiyā āsave khepeti. Tenāha bhagavā ‘‘seyyathāpi, bhikkhave, mahāsamuddo anupubbaninno anupubbapoṇo anupubbapabbhāro, na āyatakeneva papāto, evaṃ kho, bhikkhave, imasmiṃ dhammavinaye anupubbasikkhā anupubbakiriyā anupubbapaṭipadā, na āyatakeneva aññāpaṭivedho’’ti (a. ni. 8.20; udā. 45; cūḷava. 385).

22. 「防護等によって」とは、防護・受用・堪忍・回避・除去によってという意味である。「すべてのも」とは、四つの聖道すべてのものである。この防護断等の説は前段階の実践(加行)として知られるべきである。事実、下で「随煩悩の清浄を初めとして、漏尽に至る実践を示すため」と経典の教示の目的が説かれている。初めから直ちに聖道を修習することは不可能であり、むしろ戒を具足し、諸根の門を守護し、「思慮して一つを受用し、思慮して一つを堪忍し、思慮して一つを回避し、思慮して一つを除去する」(長部3.348、中部2.168)とこのように説かれた四つの依処の実践を行じつつ、省察の法に入り、順次に毘鉢舎那(観)を奮起させて、道の順序によって漏を滅ぼすのである。それゆえ世尊は仰せになった。「比丘たちよ、たとえば大海が次第に傾斜し、次第に傾き、次第に深くなり、急激な断崖ではないように。比丘たちよ、そのようにまさにこの法と規律において、次第の学習があり、次第の修行があり、次第の実践があり、急激な完全な了達があるのではない」(増支部8.20、自説45、小品385)。

Idhāti ayaṃ idha-saddo sabbākārato indriyasaṃvarasaṃvutassa puggalassa sannissayabhūtasāsanaparidīpano, aññasāsanassa tathābhāvapaṭisedhano cāti vuttaṃ **‘‘imasmiṃ sāsane’’**ti. Ādīnavapaṭisaṅkhāti ādīnavapaccavekkhaṇā. Sampalimaṭṭhanti (a. ni. ṭī. 3.6.58) ghaṃsitaṃ. Anubyañjanasoti hatthapādahasitakathitavilokitādippakārabhāgaso. Tañhi ayoniso manasikaroto kilesānaṃ anu anu byañjanato ‘‘anubyañjana’’nti vuccati. Nimittaggāhoti itthipurisanimittādikassa vā kilesavatthubhūtassa vā nimittassa gāho. Ādittapariyāyanayenāti ādittapariyāye (saṃ. ni. 4.28; mahāva. 54) āgatanayena veditabbā ādīnavapaṭisaṅkhāti yojanā. Yathā itthiyā indriyanti itthindriyaṃ, na evamidaṃ, idaṃ pana cakkhumeva indriyanti cakkhundriyanti. Titthakāko viyāti titthe kāko titthakāko, nadiyā samatikkamanatitthe niyataṭṭhitiko. Āvāṭakacchapotiādīsupi eseva nayo.

「ここに」とは、この「ここに」という言葉は、あらゆる様相において諸根の防護によって防護された人の拠り所となる教えを明示し、他の教えのそのような状態を否定するものであるゆえに、「この教えにおいて」と説かれた。「過患の省察」とは、過患の観察である。「拭われた」とは、擦られたこと。「細相によって」とは、手、足、微笑み、言葉、眼差しなどの様々な部分によって。実にそれを如理ならざる作意をする者に、煩悩が次々と顕れることから「細相」と呼ばれる。「相を把握すること」とは、女相や男相などの、あるいは煩悩の基盤となる相の把握である。「燃焼経の順序によって」とは、燃焼経(相応部4.28、大品54)に説かれた順序によって過患の省察が知られるべきであるという結合である。女の機能が女性性であるように、これはそうではなく、これは実に眼そのものが機能(根)であるから「眼根」である。「渡し場の烏のように」とは、渡し場にいる烏が渡し場の烏であり、川を渡る渡し場に一定して留まるものである。「穴の亀」等の箇所においても、まさにこの順序である。

Evaṃ tappaṭibaddhavuttitāya cakkhundriye niyataṭṭhāno saṃvaro cakkhundriyasaṃvaro. Muṭṭhassaccaṃ satipaṭipakkhā akusaladhammā. Yadipi aññattha asaṅkheyyampi bhavaṅgacittaṃ nirantaraṃ uppajjati, pasādaghaṭṭanāvajjanuppādānaṃ pana antare dve eva bhavaṅgacittāni uppajjantīti ayaṃ cittaniyāmoti āha **bhavaṅge ‘‘dvikkhattuṃ uppajjitvā niruddhe’’**ti.

このように、それに結びついた作用があることによって眼根において定まった箇所の防護が眼根の防護である。「忘失念」とは、念と対立する不善法である。他の場合には無数の有分心も絶え間なく生じるが、浄色の衝突と開悟(作意)の生起の間には、実に二つの有分心のみが生じる。これが心の確定法則であるゆえに、有分が「二度生じて滅したとき」と説かれた。

Javanakkhaṇe pana sace dussīlyaṃ vātiādi (visuddhi. ṭī. 1.15; dha. sa. mūlaṭī. 1352) puna avacanatthaṃ idheva sabbaṃ vuttanti chasu dvāresu yathāsambhavaṃ yojetabbaṃ. Na hi pañcadvāre kāyavacīduccaritasaṅkhāto dussīlyasaṃvaro atthīti so manodvāravasena, itaro channampi dvārānaṃ vasena yojetabbo. Muṭṭhassaccādīnañhi satipaṭipakkhādilakkhaṇānaṃ akusaladhammānaṃ siyā pañcadvāre uppatti, na tveva kāyikavācasikavītikkamabhūtassa dussīlyassa tattha uppatti pañcadvārikajavanānaṃ aviññattijanakattāti.

「速行の瞬間に、しかしもし破戒あるいは」等(清浄道論複註1.15、法集論根本複註1352)は、再度説かないためにここで全て説かれたのであり、六つの門において適切に結合されるべきである。実に五門においては、身・口の悪行と呼ばれる破戒の防護は存在しないゆえに、それは意門の力によるものであり、他方は六つの門すべての力によるものとして結合されるべきである。念の対立等の特徴を持つ不善法の五門における生起はあるかもしれないが、身・口の逸脱である破戒のそこでの生起は決してない。五門の速行は表色を生み出さないからである。

Yathā kinti yena pakārena javane uppajjamāno asaṃvaro ‘‘cakkhudvāre asaṃvaro’’ti vuccati, taṃ nidassanaṃ kinti attho. Yathātiādinā nagaradvāre asaṃvare sati taṃsambandhānaṃ gharādīnaṃ asaṃvutatā viya javane asaṃvare sati taṃsambandhānaṃ dvārādīnaṃ asaṃvutatāti aññāsaṃvare aññāsaṃvutatāsāmaññameva nidasseti, na pubbāparasāmaññaṃ, antobahisāmaññaṃ vā. Sambandho ca javanena dvārādīnaṃ ekasantatipariyāpannatāya eva daṭṭhabbo. Paccayabhāvena purimanipphannaṃ javanakāle asantampi bhavaṅgādi phalanipphattiyā cakkhādi viya santaṃyeva nāma. Na hi dharamānaṃyeva ‘‘santa’’nti vuccati, tasmā sati dvārabhavaṅgādike pacchā uppajjamānaṃ javanaṃ bāhiraṃ viya katvā nagaradvārasamānaṃ vuttaṃ. Itarañca antonagaragharādisamānaṃ. Javanassa hi paramatthato asatipi bāhirabhāve itarassa ca abbhantarabhāve ‘‘pabhassaramidaṃ, bhikkhave, cittaṃ, tañca kho āgantukehi upakkilesehi upakkiliṭṭha’’nti (a. ni. 1.49) ādivacanato āgantukabhūtassa kadāci kadāci uppajjamānassa javanassa bāhirabhāvo, tabbidhurasabhāvassa itarassa abbhantarabhāvo ca pariyāyato veditabbo. Javane vā asaṃvare uppanne tato paraṃ dvārabhavaṅgādīnaṃ asaṃvarahetubhāvāpattito nagaradvārasadisena javanena pavisitvā dussīlyādicorānaṃ dvārabhavaṅgādīsu musanaṃ kusalabhaṇḍavināsanaṃ daṭṭhabbaṃ. Uppanne hi asaṃvare dvārādīnaṃ tassa hetubhāvo paññāyati, so ca uppajjamānoyeva dvārādīnaṃ saṃvarūpanissayabhāvaṃ paṭibāhentoyeva pavattatīti ayañhettha asaṃvarādīnaṃ pavattinayo. Pañcadvāre rūpādiārammaṇe āpāthagate yathāpaccayaṃ akusalajavane uppajjitvā bhavaṅgaṃ otiṇṇe manodvārikajavanaṃ taṃyeva ārammaṇaṃ katvā bhavaṅgaṃ otarati, puna tasmiṃyeva dvāre ‘‘itthī puriso’’tiādinā visayaṃ vavatthapetvā javanaṃ bhavaṅgaṃ otarati, puna vāre rajjanādivasena javanaṃ javati, punapi yadi tādisaṃ ārammaṇaṃ āpāthamāgacchati, taṃsadisameva pañcadvāre rūpādīsu javanaṃ uppajjati. Taṃ sandhāya vuttaṃ **‘‘evameva javane dussīlyādīsu uppannesu tasmiṃ asaṃvare sati dvārampi agutta’’**ntiādi. Ayaṃ tāva asaṃvarapakkhe atthavaṇṇanā.

「どのようにして」とは、いかなる様相によって速行に生じる不防護が「眼門における不防護」と呼ばれるのか、その例証は何かという意味である。「どのように」等により、城門において不防護があるとき、それに連なる家屋等に防護がないのと同じように、速行において不防護があるとき、それに連なる門等に防護がないというように、他における不防護による他における不防護の共通性のみを例証するのであり、前後関係の共通性や内外の共通性ではない。また、速行と門等との関係は、同一相続に属することによってのみ見なされるべきである。縁の状態として以前に成就し、速行のときには存在しない有分等も、結果の成就においては眼等のように存在するものである。現存するもののみが「存在する」と呼ばれるのではない。したがって、門や有分等が存在するとき、後に生じる速行を外部のもののようになして城門に類似するものと説かれた。そして他方は城内の家屋等に類似するものである。速行には究極的意味においては外部の状態がなく、他方には内部の状態がないとしても、「比丘たちよ、この心は輝いている。そしてそれは外来の随煩悩によって汚染されている」(増支部1.49)等の言葉から、客分となって時折生じる速行の外部性と、それと反対の性質を持つ他方の内部性は、方便(比喩)によって知られるべきである。あるいは、速行において不防護が生じたとき、それ以降、門や有分等の不防護の原因となる状態に陥ることから、城門に似た速行によって侵入し、破戒等の盗賊が門や有分等において略奪し、善の財を破壊することと見なされるべきである。実に不防護が生じたとき、門等に対するその原因の状態が知られ、またそれは生じつつまさに門等の防護の依処たる状態を妨げつつ進行するのである。これがここでの不防護等の進行の順序である。五門において色等の対象が受容範囲に来たとき、条件に応じて不善の速行が生じて有分に沈んだ後、意門の速行がその同じ対象を縁として有分に沈み、再びその同じ門において「女、男」などと対象を確定して速行が有分に沈み、再び次の機会に貪着等によって速行が駆け巡り、再度もしそのような対象が受容範囲に来るならば、まさにそれに似たものが五門において色等に対して速行が生じる。それを指して「このように速行において破戒等が生じ、その不防護があるとき、門もまた守られない」等と説かれた。これはまず不防護の側における意味の解釈である。

Saṃvarapakkhepi imināva nayena attho veditabbo. Saṃvarena samannāgato puggalo saṃvutoti vuttoti āha **‘‘upetoti vuttaṃ hotī’’**ti. Ekajjhaṃ katvāti ‘‘pātimokkhasaṃvarasaṃvuto’’ti padañca atthato abhinnaṃ samānaṃ katvā. Ayameva cettha attho sundarataro uparipāḷiyā saṃsandanato. Tenāha **‘‘tathāhī’’**tiādi. Yanti ādesoti iminā liṅgavipallāsena saddhiṃ vacanavipallāso katoti dasseti, nipātapadaṃ vā etaṃ paccattaputhuvacanatthaṃ. Vighātakarāti cittavighātakaraṇā cittadukkhanibbattakā ca. Yathāvuttakilesahetukā dāhānubandhā vipākā eva vipākapariḷāhā. Yathā panettha āsavā aññe ca vighātakarā kilesavipākapariḷāhā sambhavanti, taṃ dassetuṃ **‘‘cakkhudvārehī’’**tiādi vuttaṃ, taṃ suviññeyyameva. Ettha ca saṃvaraṇūpāyo, saṃvaritabbaṃ, saṃvaro, yato so saṃvaro, yattha saṃvaro, yañca saṃvaraphalanti ayaṃ vibhāgo veditabbo. Kathaṃ? Paṭisaṅkhā yonisoti hi saṃvaraṇūpāyo. Cakkhundriyaṃ saṃvaritabbaṃ. Saṃvaraggahaṇena gahitā sati saṃvaro. Asaṃvutassāti saṃvaraṇāvadhi. Asaṃvarato hi saṃvaraṇaṃ. Saṃvaritabbaggahaṇena siddho idha saṃvaravisayo. Cakkhundriyañhi saṃvarañāṇaṃ rūpārammaṇe saṃvarīyatīti avuttasiddhoyamattho. Āsavatannimittakilesādipariḷāhābhāvo phalaṃ. Evaṃ sotadvārādīsupi yojetabbaṃ. Sabbatthevāti manodvāre pañcadvāre cāti sabbasmiṃ dvāre.

防護の側においても、まさにこの順序によって意味が知られるべきである。防護を具足した人が防護された者と説かれるゆえに、「具足したと説かれたことになる」と言った。「一つにして」とは、「波羅提木叉の防護によって防護された」という語を意味において同一のものとして。これこそがここでの、より優れた意味であり、上位の本文と合致するからである。それゆえに「実にこのように」等と言った。「ヤン(yam)という置き換え」とは、この性(文法上の性)の転換とともに数の転換がなされたことを示す。あるいはこれは主格複数の意味を持つ不変化詞の句である。「悩乱をなす」とは、心の悩乱をなし、心の苦しみを生じさせるものである。前述の煩悩を原因とする熱苦を伴う異熟こそが異熟の熱悩である。どのようにここで漏やその他の悩乱をなす煩悩と異熟の熱悩が生じるのか、それを示すために「眼門によって」等と説かれたが、それは容易に理解できることである。そしてここにおいて、防護の手段、防護されるべきもの、防護、それによる防護、防護の場所、そして防護の果報というこの分別が知られるべきである。どのようにか。「如理に省察して」とは実に防護の手段である。「眼根」は防護されるべきものである。「防護」の把握によって把握された念が「防護」である。「防護されない者の」とは防護の境界である。不防護からの防護であるからである。「防護されるべきもの」の把握によって、ここで防護の対象が成就する。眼根という防護の智は色の対象において防護されるということは、言わずとも成就した意味である。「漏とそれを原因とする煩悩等の熱悩がないこと」が果報である。このように耳門等においても結合されるべきである。「すべてにおいて」とは、意門においておよび五門においてという、すべての門においてである。

Saṃvarāpahātabbaāsavavaṇṇanā niṭṭhitā.

防護断漏の注釈は完結した。

Paṭisevanāpahātabbaāsavavaṇṇanā

受用断漏の注釈

23. Paṭisaṅkhā yoniso cīvarantiādīsu ‘‘sītassa paṭighātāyā’’tiādinā vuttaṃ paccavekkhaṇameva yoniso paṭisaṅkhā. Īdisanti evarūpaṃ iṭṭhārammaṇaṃ. Bhavapatthanāya assādayatoti bhavapatthanāmukhena bhāvitaṃ ārammaṇaṃ assādentassa. Cīvaranti nivāsanādi yaṃ kiñci cīvaraṃ. Paṭisevatīti nivāsanādivasena paribhuñjati. Yāvadevāti payojanaparimāṇaniyamanaṃ. Sītapaṭighātādiyeva hi yogino cīvarapaṭisevane payojanaṃ. Sītassāti dhātukkhobhato vā utupariṇāmato vā uppannasītassa. Paṭighātāyāti paṭibāhanatthaṃ tappaccayassa vikārassa vinodanatthaṃ. Uṇhassāti aggisantāpato uppannassa uṇhassa. Ḍaṃsādayo pākaṭāyeva. Puna yāvadevāti niyatapayojanaparimāṇaniyamanaṃ. Niyatañhi payojanaṃ cīvarapaṭisevanassa hirikopīnapaṭicchādanaṃ, itaraṃ kadāci kadāci. Hirikopīnanti sambādhaṭṭhānaṃ. Yasmiñhi aṅge vivaṭe hirīkuppati vinassati, taṃ hiriyā kopanato hirikopīnaṃ, tassa paṭicchādanatthaṃ cīvaraṃ paṭisevati.

23. 「如理に省察して衣を」等の箇所において、「寒さを防ぐために」等によって説かれた観察そのものが如理の省察である。「このような」とは、このような望ましい対象のことである。「有(存在)への願求によって味わう者に」とは、有への願求の側面から起こされた対象を味わう者に。「衣を」とは、下着などのいかなる衣でも。「受用する」とは、着用等によって用いる。「ただ〜のためだけに」とは、目的の分量の限定である。寒さの防御等こそが、行者にとっての衣の受用の目的なのである。「寒さの」とは、四大の動揺から、あるいは気候の変異から生じた寒さの。「防ぐために」とは、退けるため、それを縁とする変状を除去するために。「暑さの」とは、火の熱から生じた暑さの。虻などは明白である。再び「ただ〜のためだけに」とは、定まった目的の分量の限定である。衣の受用の定まった目的とは羞恥と陰部の覆いであり、他方は時折のものである。「羞恥と陰部」とは恥ずべき場所のことである。覆いが解かれたときに羞恥が損なわれ失われる肢体、その羞恥を破ることから羞恥の陰部であり、それを覆うために衣を受用する。

Piṇḍapātanti yaṃ kiñci āhāraṃ. So hi piṇḍolyena bhikkhanāya patte patanato tattha tattha laddhabhikkhāpiṇḍānaṃ pāto sannipātoti ‘‘piṇḍapāto’’ti vuccati. Neva davāyāti na kīḷanāya. Na madāyāti na balamadamānamadapurisamadatthaṃ. Na maṇḍanāyāti na aṅgapaccaṅgānaṃ pīṇanabhāvatthaṃ. Na vibhūsanāyāti na tesaṃyeva sobhanatthaṃ, chavisampatiatthanti attho. Imāni ca padāni yathākkamaṃ moha-dosa-saṇṭhāna-vaṇṇa-rāgūpanissaya-pahānatthāni veditabbāni. Purimaṃ vā dvayaṃ attano attano saṃkilesuppattinisedhanatthaṃ, itaraṃ parassapi. Cattāripi kāmasukhallikānuyogassa pahānatthaṃ vuttānīti veditabbāni. Kāyassāti rūpakāyassa. Ṭhitiyā yāpanāyāti pabandhaṭṭhitatthañceva pavattiyā avicchedanatthañca cirakālaṭṭhitatthaṃ jīvitindriyassa pavattāpanatthaṃ. Vihiṃsūparatiyāti jighacchādukkhassa uparamaṇatthaṃ. Brahmacariyānuggahāyāti sāsanamaggabrahmacariyānaṃ anuggahatthaṃ. Itīti evaṃ iminā upāyena. Purāṇañca vedanaṃ paṭihaṅkhāmīti purāṇaṃ abhuttapaccayā uppajjanakavedanaṃ paṭihanissāmi. Navañca vedanaṃ na uppādessāmīti navaṃ bhuttapaccayā uppajjanakavedanaṃ na uppādessāmīti. Tassā hi anuppannāya anuppajjanatthameva āhāraṃ paribhuñjati. Ettha ca abhuttapaccayā uppajjanakavedanā nāma yathāpavattā jighacchānimittā vedanā. Sā hi abhuñjantassa bhiyyo bhiyyo pavaḍḍhanavasena uppajjati, bhuttapaccayā uppajjanakavedanāpi khudānimittāva aṅgadāhasūlādivedanā appavattā. Sā hi bhuttapaccayā anuppannāva na uppajjissatīti. Vihiṃsānimittatā cetāsaṃ vihiṃsāya viseso.

「托鉢食を」とは、いかなる食物でも。それは塊として乞うことによって鉢の中に落ちることから、あちこちで得られた托鉢の塊の落下、集まりであるゆえに「托鉢食」と呼ばれる。「戯れのためではなく」とは、遊戯のためではなく。「誇りのためではなく」とは、力の誇り、慢心の誇り、男らしさの誇りのためではなく。「装飾のためではなく」とは、手足を満腹・肥大させるためではなく。「美飾のためではなく」とは、それらを美しく見せるためではなく、皮膚の輝きのためという意味である。そしてこれらの語は順次に、痴、瞋、形状、色への愛着の依処を断除するためのものとして知られるべきである。あるいは前者の二つは自己の煩悩の生起を防ぐため、他方は他者のそれをも防ぐためである。四つとも欲楽への耽溺を断除するために説かれたと知られるべきである。「身の」とは、色身の。「存続のため、維持のため」とは、連続して保つため、そして活動を途絶えさせないため、長い時間保つために命根を進行させるためである。「加害の停止のため」とは、飢えの苦しみを停止させるためである。「清浄行の支援のため」とは、教えの道の清浄行を支援するためである。「このように」とは、このようにこの方法によって。「古き受を滅ぼし」とは、以前の未飲食を縁として生じた受を滅ぼす。「新しき受を生じさせない」とは、新しい過食を縁として生じる受を生じさせない。実にそれ(新しき受)が生じていないときに生じさせないためにこそ食物を受用するのである。そしてここで、未飲食を縁として生じる受とは、すでに起こっている飢えに起因する受である。それは実に食べない者にとってますます増大することによって生じる。過食を縁として生じる受もまた、飢えに起因するものであり、身体の熱感や激痛などの受として未だ起こっていないものである。それは実に食べることによって生じないまま生じないであろう。これらに加害の原因があることが、加害の区別である。

Yātrā ca me bhavissatīti yāpanā ca me catunnaṃ iriyāpathānaṃ bhavissati. Yāpanāyāti iminā jīvitindriyayāpanā vuttā, idha catunnaṃ iriyāpathānaṃ avicchedasaṅkhātā yāpanāti ayametāsaṃ viseso. Anavajjatā ca phāsuvihāro cāti ayuttapariyesanapaṭiggahaṇaparibhogaparivajjanena anavajjatā, parimitaparibhogena phāsuvihāro. Asappāyāparimitabhojanapaccayā aratitandīvijambhitāviññugarahādidosābhāvena vā anavajjatā, sappāyaparimitabhojanapaccayā kāyabalasambhavena phāsuvihāro. Yāvadatthaudarāvadehakabhojanaparivajjanena seyyasukhapassasukhamiddhasukhādīnaṃ abhāvato anavajjatā, catupañcālopamattaññīnabhojanena catuiriyāpathayogyatāpādanato phāsuvihāro. Vuttañhetaṃ –

「そして私の命の維持があるであろう」とは、私の四威儀の維持があるであろうということ。「維持のために」によって命根の維持が説かれ、ここでは四威儀の途絶えないことと呼ばれる維持であるという、これがこれらの区別である。「無過失と安穏な住」とは、不当な探求・受納・受用の回避によって無過失であり、適度な受用によって安穏な住である。あるいは、不適当で過度な食事を縁とする不快、倦怠、あくび、智者の非難などの過失がないことによって無過失であり、適当で適度な食事を縁とする身体の力の生起によって安穏な住である。あるいは、腹一杯に詰め込む過食を回避することによって、臥床の楽、横臥の楽、睡眠の楽などがないことから無過失であり、四・五口を残して分量を知る食事によって四威儀への適合をもたらすことから安穏な住である。実にこのように説かれた――

‘‘Cattāro pañca ālope, abhutvā udakaṃ pive;

「四口あるいは五口を、食べずに残して水を飲むべし。

Alaṃ phāsuvihārāya, pahitattassa bhikkhuno’’ti. (theragā. 983);

自己を奮励させた比丘の、安穏な住のためにこれで十分である」(長老偈983)。

Ettāvatā payojanapariggaho, majjhimā ca paṭipadā dīpitā hoti.

これによって目的の把握と、中道が明示されたことになる。

Senāsananti sayanañca āsanañca. Yattha hi vihārādike seti nipajjati, āsati nisīdati, taṃ senāsanaṃ. Utuparissayavinodanapaṭisallānārāmatthanti utuyeva parisahanaṭṭhena parissayo, sarīrābādhacittavikkhepakaro, atha vā yathāvutto utu ca sīhabyagghādipākaṭaparissayo ca rāgadosādipaṭicchannaparissayo ca utuparissayo, tassa vinodanatthañceva ekībhāvasukhatthañca. Idañca cīvarapaṭisevane hirikopīnapaṭicchādanaṃ viya tassa niyatapayojananti puna **‘‘yāvadevā’’**ti vuttaṃ.

「坐臥処を」とは、寝処と座処である。寺院等において臥し、横たわり、座り、着席する場所、それが坐臥処である。「気候の障害を除去し、閑静の楽しみのため」とは、気候そのものが耐え難いという意味で障害であり、身体の病や心の散乱をもたらすものである。あるいは、前述の気候と、獅子や虎などの明らかな障害、貪・瞋などの隠れた障害が気候の障害であり、それを除去するため、そして独処の安楽のためである。そしてこれは、衣の受用における羞恥の陰部の覆いのように、それの定まった目的であるゆえに、再び「ただ〜のためだけに」と説かれた。

Gilānapaccayabhesajjaparikkhāranti rogassa paccanīkappavattiyā gilānapaccayo, tato eva bhisakkassa anuññātavatthutāya bhesajjaṃ, jīvitassa parivārasambhārabhāvehi parikkhāro cāti gilānapaccayabhesajjaparikkhāro, taṃ. Uppannānanti jātānaṃ nibbattānaṃ. Veyyābādhikānanti byābādhato dhātukkhobhato ca tannibbattarogato ca jātānaṃ. Vedanānanti dukkhavedanānaṃ. Abyābajjhaparamatāyāti niddukkhaparamabhāvāya paṭisevāmīti yojanā. Evamettha saṅkhepeneva pāḷivaṇṇanā veditabbā. Navavedanuppādanatopīti na kevalaṃ āyatiṃ eva vipākapariḷāhā, atha kho atibhojanapaccayā alaṃsāṭakādīnaṃ viya navavedanuppādanatopi veditabbāti attho.

「病の縁たる医薬品の資具を」とは、病に対抗して作用することから病の縁であり、それゆえに医師によって許可された物であることから医薬であり、生命の従属・必需品であることから資具であるゆえに、病の縁たる医薬品の資具であり、それを。「生じた」とは、現れ、起こった。「苦痛をもたらす」とは、害傷から、四大の動揺から、そしてそれによって引き起こされた病から生じた。「受の」とは、苦受の。「無害を最上とするため」とは、苦痛のない状態を最上とするために受用するという結合である。このようにここでの簡潔な本文の注釈が知られるべきである。「新しい受を生じさせることからも」とは、将来の異熟の熱悩だけでなく、むしろ過食を縁として過食者などのように新しい受を生じさせることからも知られるべきであるという意味である。

Paṭisevanāpahātabbaāsavavaṇṇanā niṭṭhitā.

受用断漏の注釈は完結した。

Adhivāsanāpahātabbaāsavavaṇṇanā

堪忍断漏の注釈

24. Khamoti khamanako. Kammaṭṭhānikassa calanaṃ nāma kammaṭṭhānapariccāgoti āha **‘‘calati kampati kammaṭṭhānaṃ vijahatī’’**ti. Adhimattampi uṇhaṃ sahati, sahanto ca na naggasamaṇādayo viya sahati, atha kho kammaṭṭhānāvijahanenāti āha **‘‘sveva thero viyā’’**ti. Bahicaṅkameti leṇato bahi caṅkame. Uṇhabhayenevāti narakaggiuṇhabhayeneva. Tenāha **‘‘avīcimahānirayaṃ paccavekkhitvā’’**ti, tampi ‘‘mayā anekakkhattuṃ anubhūtaṃ, idaṃ pana tato mudutara’’nti evaṃ paccavekkhitvā. Etthāti etasmiṃ ṭhāne. Aggisantāpova veditabbo sūriyasantāpassa parato vuccamānattā.

24. 「耐え忍ぶ者」とは、忍耐する者。業処を行ずる者の動揺とは業処を放棄することであるゆえに、「動揺し、震え、業処を捨てる」と言った。激しい暑さをも耐え忍び、耐え忍ぶ際にも裸形の行者たちのように耐えるのではなく、むしろ業処を捨てないことによってであるゆえに、「まさにその長老のように」と言った。「外の経行処で」とは、洞窟の外の経行処で。「暑さの恐怖によってまさに」とは、地獄の火の暑さの恐怖によってまさに。それゆえ「阿鼻大地獄を省察して」と言い、それも「私によって何度も経験されたが、これはそれよりもはるかに穏やかである」とこのように省察して。「ここに」とは、この場所において。太陽の熱は後に説かれるゆえに、火の熱そのものと知られるべきである。

Parisuddhasīlohamasmīti sabbathāpi ‘‘visuddhasīlohamasmī’’ti maraṇaṃ aggahetvā avippaṭisāramūlikaṃ pītiṃ uppādesi. Saha pītuppādāti pharaṇapītiyā uppādena saheva. Visaṃ nivattitvāti pītivegena ajjhotthataṃ daṭṭhamukheneva bhassitvā. Tatthevāti sappena daṭṭhaṭṭhāneyeva. Cittekaggataṃ labhitvāti ‘‘pītimanassa kāyo passambhatī’’tiādinā (dī. ni. 1.466; 3.359; saṃ. ni. 5.376; a. ni. 3.96; 11.12) nayena samādhānaṃ pāpuṇitvā.

「私は清浄な戒を持つ者である」とは、あらゆる面において「私は純粋な戒を持つ者である」と死に執着せず、後悔なきことを根本とする喜悦を生じさせた。「喜悦の生起とともに」とは、遍満する喜悦の生起とまさに同時に。「毒が退いて」とは、喜悦の勢いに圧倒され、噛まれた傷口からまさに落ちて。「その場所でまさに」とは、蛇に噛まれたまさにその場所で。「心の一境性を得て」とは、「喜悦ある心の身は軽安となる」(長部1.466、3.359、相応部5.376、増支部3.96、11.12)等の順序によって等持に達して。

Paccayesu santoso bhāvanāya ca āramitabbaṭṭhānatāya ārāmo assāti paccayasantosabhāvanārāmo, tassa bhāvo paccaya…pe… rāmatā, tāya. Mahātheroti vuḍḍhataro thero. Vacanameva tadatthaṃ ñāpetukāmānaṃ pathoti vacanapatho.

資具に対する知足と修習に楽しむべき場所であることから、それらを楽しむ者にとって「資具の知足と修習を楽しむこと」であり、その状態が「資具……略……を楽しむこと」であり、それによって。「大長老」とは、年長の長老。「言葉そのものがその意味を知らせたい者たちの道である」ゆえに「言語の道」である。

Asukhaṭṭhena vā tibbā. Yañhi na sukhaṃ, taṃ aniṭṭhaṃ ‘‘tibba’’nti vuccati. Evaṃsabhāvoti ‘‘adhivāsanajātiyo’’ti padassa atthamāha. Muhuttena khaṇeva vāte hadayaṃ phāletuṃ āraddheyeva. Anāgāmī hutvā parinibbāyīti arahattaṃ patvā parinibbāyi.

あるいは楽ならざるという意味で激しい。実に楽でないものは望ましくなく、「激しい」と呼ばれる。「このような性質の」とは、「堪忍の生来を持つ者」という語の意味を述べたものである。「一瞬にして」とは、瞬時に風が心臓を引き裂き始めたまさにそのときに。「不還者となって入滅した」とは、阿羅漢に達して入滅した。

Evaṃ sabbatthāti ‘‘uṇhena phuṭṭhassa sītaṃ patthayato’’tiādinā sabbattha uṇhādinimittaṃ kāmāsavuppatti veditabbā, sītaṃ vā uṇhaṃ vā aniṭṭhanti adhippāyo. Attaggāhe sati attaniyaggāhoti āha **‘‘mayhaṃ sītaṃ uṇhanti gāho diṭṭhāsavo’’**ti. Sītādike upagate sahantī khamantī te attano upari vāsentī viya hotīti vuttaṃ **‘‘āropetvā vāsetiyevā’’**ti. Na nirassatīti na vidhunati. Yo hi sītādike na sahati, so te nirassanto vidhunanto viya hotīti.

このように「暑さに触れられた者が寒さを望み」等により、すべての箇所で暑さなどを原因とする欲漏の生起が知られるべきであり、寒さあるいは暑さが望ましくないものという意図である。我への執着があるとき、我がものへの執着があるゆえに、「『私の寒さ、暑さ』という執着が見漏である」と言った。寒さなどが生じたとき、耐え、忍ぶ者は、それらを自己の上に乗せているかのようであるゆえに、「載せて住まわせるまさに」と説かれた。「払い落とさない」とは、振り払わないこと。実に寒さなどに耐えられない者は、それらを払い落とし、振り払っているかのようであるからである。

Adhivāsanāpahātabbaāsavavaṇṇanā niṭṭhitā.

堪忍断漏の注釈は完結した。

Parivajjanāpahātabbaāsavavaṇṇanā

回避断漏の注釈

25. Ahaṃ samaṇoti (a. ni. ṭī. 3.6.58) ‘‘ahaṃ samaṇo, kiṃ mama jīvitena vā maraṇena vā’’ti evaṃ acintetvāti adhippāyo. Paccavekkhitvāti gāmappadesaṃ payojanādiñca paccavekkhitvā. Paṭikkamatīti hatthiādīnaṃ samīpagamanato apakkamati. Kaṇṭakā yattha tiṭṭhanti, taṃ kaṇṭakaṭṭhānaṃ. Amanussaduṭṭhānīti amanussasañcārena dūsitāni, saparissayānīti attho. Samānanti samaṃ, avisamanti attho. Akāsi vā tādisaṃ anācāraṃ.

25. 「私は沙門である」とは、「私は沙門である、私の生や死に何の意味があろうか」とこのように考えずに、という意図である。「省察して」とは、村の地域や目的などを省察して。「引き返す」とは、象などの近くへ行くことから離れること。刺が立っている場所、それが刺の場所である。「非人によって損なわれた」とは、非人の往来によって害された、危険を伴うという意味である。「平坦な」とは、等しい、険しくないという意味である。あるいはそのような不作法を行った。

Sīlasaṃvarasaṅkhātenāti ‘‘kathaṃ parivajjanaṃ sīla’’nti yadettha vattabbaṃ, taṃ heṭṭhā vuttameva. Apica ‘‘caṇḍaṃ hatthiṃ parivajjetī’’ti vacanato hatthiādiparivajjanampi bhagavato vacanānuṭṭhānanti katvā ācārasīlamevāti veditabbaṃ.

「戒の防護と呼ばれるものによって」とは、「どのように回避が戒であるのか」とここで説かれるべきことは、下で説かれたとおりである。さらに「獰猛な象を回避する」という言葉から、象などの回避も世尊の言葉の実践であるとして、行儀の戒そのものであると知られるべきである。

Parivajjanāpahātabbaāsavavaṇṇanā niṭṭhitā.

回避断漏の注釈は完結した。

Vinodanāpahātabbaāsavavaṇṇanā

除去断漏の注釈

26. Itipīti iminā kāraṇena, ayonisomanasikārasamuṭṭhitattāpi lobhādisahagatattāpi kusalapaṭipakkhatopītiādīhi kāraṇehi ayaṃ vitakko akusaloti attho. Iminā nayena sāvajjotiādīsupi attho veditabbo. Ettha ca akusalotiādinā diṭṭhadhammikaṃ kāmavitakkassa ādīnavaṃ dasseti, dukkhavipākoti iminā samparāyikaṃ. Attabyābādhāya saṃvattatītiādīsupi imināva nayena ādīnavavibhāvanā veditabbā. Uppannassa kāmavitakkassa anadhivāsanaṃ nāma puna tādisassa anuppādanaṃ, taṃ panassa pahānaṃ vinodanaṃ byantikaraṇaṃ anabhāvagamananti ca vattuṃ vaṭṭatīti pāḷiyaṃ ‘‘uppannaṃ kāmavitakkaṃ nādhivāsetī’’ti vatvā ‘‘pajahatī’’tiādi vuttanti tamatthaṃ dassento **‘‘anadhivāsento kiṃ karotīti pajahatī’’**tiādimāha. Pahānañcettha vikkhambhanameva, na samucchedoti dassetuṃ **‘‘vinodetī’’**tiādi vuttanti vikkhambhanavaseneva attho dassito.

26. 「このような理由によっても」とは、この理由によって、如理ならざる作意から生じたことによっても、貪などに伴うことによっても、善の対立であることなどによっても、この尋は不善であるという意味である。この順序によって「有罪である」等の箇所においても意味が知られるべきである。そしてここで「不善」等によって欲尋の現世の過患を示し、「苦の異熟」によって来世の過患を示す。「自己の害悪に転じる」等の箇所においても、まさにこの順序によって過患の解明が知られるべきである。生じた欲尋を堪忍しないこととは、再びそのようなものを生じさせないことであり、それはまたその断除、除去、絶滅、非存在への到達であると言うことができるゆえに、本文において「生じた欲尋を堪忍せず」と述べて「捨てる」等と説かれたのであり、その意味を示して「堪忍しない者は何をするのかというと、捨てる」等と言った。そしてここでの断除は鎮伏(伏断)にすぎず、断絶(断断)ではないことを示すために「除去する」等と説かれたのであり、鎮伏の力によってのみ意味が示された。

Kāmavitakkoti sampayogato ārammaṇato ca kāmasahagato vitakko. Tenāha ‘‘kāmapaṭisaṃyutto **takko’’**tiādi. Kāmapaṭisaṃyuttoti hi kāmarāgasaṅkhātena kāmena sampayutto vatthukāmasaṅkhātena paṭibaddho ca. Uppannuppanneti tesaṃ pāpavitakkānaṃ uppādāvatthāgahaṇaṃ vā kataṃ siyā anavasesaggahaṇaṃ vā. Tesu paṭhamaṃ sandhāyāha **‘‘upannamatte’’**ti, sampatijāteti attho. Anavasesaggahaṇaṃ byāpanicchāya hotīti dassetuṃ **‘‘satakkhattumpi uppanne’’**ti vuttaṃ. Ñātivitakkoti ‘‘amhākaṃ ñātayo sukhajīvino sampattiyuttā’’tiādinā gehassitapemavasena ñātake ārabbha uppannavitakko. Janapadavitakkoti ‘‘amhākaṃ janapado subhikkho sampannasasso ramaṇīyo’’tiādinā gehassitapemavaseneva janapadaṃ ārabbha uppannavitakko. Ukkuṭikappadhānādīhi dukkhe nijjiṇṇe samparāye attā sukhī hoti amaroti dukkarakārikāya paṭisaṃyutto amaratthāya vitakko, taṃ vā ārabbha amarāvikkhepadiṭṭhisahagato amaro ca so vitakko cāti amaravitakko. Parānuddayatāpaṭisaṃyuttoti paresu upaṭṭhākādīsu sahanandikādivasena pavatto anuddayatāpatirūpako gehassitapemena paṭisaṃyutto vitakko. Lābhasakkārasilokapaṭisaṃyuttoti cīvarādilābhena ceva sakkārena ca kittisaddena ca ārammaṇakaraṇavasena paṭisaṃyutto. Anavaññattipaṭisaṃyuttoti ‘‘aho vata maṃ pare na avajāneyyuṃ, na heṭṭhā katvā maññeyyuṃ, pāsāṇacchattaṃ viya garuṃ kareyyu’’nti uppannavitakko.

「欲尋」とは、相応からも対象からも欲を伴う尋である。それゆえ「欲に結びついた尋」等と言った。実に「欲に結びついた」とは、欲愛と呼ばれる欲と相応し、事欲と呼ばれるものに拘束されたことである。「生じるたびに」とは、それらの悪しき尋の生起の瞬間の把握がなされたか、あるいは一切残りのない把握である。そのうち前者を指して「生じたばかりのときに」と言い、現に生じたときにという意味である。一切残りのない把握は遍満の意志によって生じることを示すために「百回生じたとしても」と説かれた。「親族への尋」とは、「私たちの親族は幸福に暮らし、財産に恵まれている」などと、在家への愛着によって親族に関して生じた尋である。「国土への尋」とは、「私たちの国土は豊作で、穀物が豊かで、美しい」などと、まさに在家への愛着によって国土に関して生じた尋である。蹲踞の精進などによって苦が滅尽されたとき、来世において自己は幸福となり不死となると、難行苦行に結びついた不死のための尋、あるいはそれに関して不死不滅の迷妄見解を伴う不死でありその尋であるから「不死への尋」である。「他者への同情に結びついた」とは、他者である信者たちなどに対して歓楽をともにすることなどによって生じる、同情に似せた、在家への愛着に結びついた尋である。「利養・敬愛・名声に結びついた」とは、衣などの利養や敬愛や名声の言葉を対象とすることによって結びついたもの。「軽蔑されないことに結びついた」とは、「ああ、願わくは他者が私を軽蔑せず、卑しめず、石の傘のように重んじてくれますように」と生じた尋である。

Kāmavitakko kāmasaṅkappanasabhāvattā kāmasaṅkappapavattiyā sātisayattā ca kāmanākāroti āha **‘‘kāmavitakko panettha kāmāsavo’’**ti. Tabbisesoti kāmāsavaviseso, rāgasahavuttīti adhippāyo. Kāmavitakkādike vinodeti attano santānato nīharati etenāti vinodanaṃ, vīriyanti āha **‘‘vīriyasaṃvarasaṅkhātena vinodanenā’’**ti.

欲尋は欲の思惟を本質とすることから、また欲の思惟の働きが過剰であることから欲の様相であるゆえに、「ここでの欲尋は欲漏である」と言った。「その区別」とは、欲漏の特別なものであり、貪とともに働くという意味である。欲尋などを除去し、自己の相続からこれによって運び出すゆえに「除去」であり、精進であるゆえに「精進の防護と呼ばれる除去によって」と言った。

Vinodanāpahātabbaāsavavaṇṇanā niṭṭhitā.

除去断漏の注釈は完結した。

Bhāvanāpahātabbaāsavavaṇṇanā

修習断漏の注釈

27. ‘‘Satta bojjhaṅgā bhāvitā bahulīkatā vijjāvimuttiyo paripūrentī’’ti (saṃ. ni. 5.187) vacanato vijjāvimuttīnaṃ anadhigamo tato ca sakalavaṭṭadukkhānativatti abhāvanāya ādīnavo, vuttavipariyāyena bhagavato orasaputtabhāvādivasena ca bhāvanāya ānisaṃso veditabbo. Uparimaggattayasamayasambhūtāti dutiyādimaggakkhaṇe jātā, bhāvanādhikārato dutiyamaggādipariyāpannāti attho. Nanu ca te lokuttarā eva, kasmā visesanaṃ katanti? Nayidaṃ visesanaṃ, visesitabbaṃ panetaṃ, lokuttarabojjhaṅgā eva adhippetā, te ca kho uparimaggattayasamayasambhūtāti. Bojjhaṅgesu asammohatthanti vipassanājhānamaggaphalabojjhaṅgesu sammohābhāvatthaṃ. Missakanayena hi bojjhaṅgesu vuccamānesu tadaṅgādivivekadassanavasena vipassanābojjhaṅgādayo vibhajitvā vuccanti, na nibbattitalokuttarabojjhaṅgā evāti bojjhaṅgesu sammoho na hoti bojjhaṅgabhāvanāpaṭipattiyā ca sammadeva pakāsitattā. Idha panāti imasmiṃ sutte, imasmiṃ vā adhikāre. Lokuttaranayo eva gahetabbo bhāvanāmaggassa adhikatattā.

27. 「七覚支が修習され、多作されると、明と解脱を満たす」(相応部5.187)という言葉から、明と解脱の不獲得と、それによる一切の輪廻の苦を超越しないことが不修習の過患であり、説かれたことの逆により世尊の嫡子となることなどによって修習の功徳が知られるべきである。「上位の三道が生じる時期に生じる」とは、第二などの道の瞬間に生じたものであり、修習の資格から第二の道などに含まれるという意味である。それらは出世間そのものではないのか、なぜ修飾がなされたのか。これは修飾語ではなく、修飾されるべきものである。出世間の覚支そのものが意図されており、それらは上位の三道の時期に生じるものである。「覚支における無迷妄のために」とは、観・禅定・道・果の覚支における迷妄がないようにするためである。実に混同の順序によって覚支が説かれるとき、分位などの遠離を見る力によって観の覚支などが区分されて説かれるのであり、生起した出世間の覚支のみではないゆえに、覚支において迷妄がなく、覚支の修習の実践が正しく説かれたからである。「しかしここでは」とは、この経において、あるいはこの箇条において。出世間の順序のみが把握されるべきである。修習道が主題とされているからである。

Ādipadānanti (a. ni. ṭī. 1.1.418) ‘‘satisambojjhaṅga’’nti evamādīnaṃ tasmiṃ tasmiṃ vākye ādibhūtānaṃ padānaṃ. Atthatoti visesavasena sāmaññavasena ca padatthato. Lakkhaṇādīhīti lakkhaṇarasapaccupaṭṭhānato. Kamatoti anupubbito. Anūnādhikatoti tāvattakato. Vibhāvināti viññunā.

「初めの語たちの」とは、「念等覚支」というそれぞれの文における初めとなる語たちの。「意味によって」とは、個別的な力と共通の力による語の意味によって。「相などによって」とは、特徴・働き・現れによって。「順序によって」とは、前後の順序によって。「過不足なく」とは、その分量によって。「賢者によって」とは、智者によって。

Satisambojjhaṅgeti satisambojjhaṅgapade. Saraṇaṭṭhenāti anussaraṇaṭṭhena. Cirakatādibhedaṃ ārammaṇaṃ upagantvā ṭhānaṃ, anissajjanaṃ vā upaṭṭhānaṃ. Udake alābu viya pilavitvā gantuṃ adatvā pāsāṇassa viya niccalassa ārammaṇassa ṭhapanaṃ sāraṇaṃ asammuṭṭhatākaraṇaṃ apilāpanaṃ. Vuttampi hetaṃ milindapañhe. Bhaṇḍāgārikoti bhaṇḍagopako. Apilāpe karoti apilāpeti. Therenāti nāgasenattherena. Sammosapaccanīkaṃ kiccaṃ asammoso, na sammosābhāvamattaṃ. Gocarābhimukhabhāvapaccupaṭṭhānāti kāyādiārammaṇābhimukhabhāvapaccupaṭṭhānā.

「念等覚支において」とは、念等覚支の語において。「記憶の意味によって」とは、随念の意味によって。過去になされたことなどの区別ある対象に近づいて留まること、あるいは捨て去らないことが現前である。水の中で瓢箪のように浮き上がって流れて行かせず、石のように動かない対象に留めることが想起であり、忘失させないこと、浮き上がらせないことである。実にこのことはミリンダ王の問い(弥蘭陀王問経)でも説かれている。「宝蔵の番人」とは、財宝の守護者。「浮き上がらせないことをなす」とは、沈潜させる。「長老によって」とは、ナーガセーナ長老によって。「忘失の対立たる働きが無忘失」であり、単に忘失がないことだけではない。「境地に面した状態を現れとする」とは、身などの対象に面した状態を現れとすることである。

Bodhiyā dhammasāmaggiyā, aṅgo avayavo, bodhissa vā ariyasāvakassa aṅgo kāraṇaṃ. Patiṭṭhānāyūhanā oghataraṇasuttavaṇṇanāyaṃ (saṃ. ni. aṭṭha. 1.1.1) –

覚(さとり)の、すなわち諸法の集まりの支分(要素)であり、あるいは覚者である聖弟子の支分、原因である。「留まることと励むこと」は暴流超越経の注釈(相応部注1.1.1)において――

‘‘Kilesavasena patiṭṭhānaṃ, abhisaṅkhāravasena āyūhanā. Taṇhādiṭṭhīhi patiṭṭhānaṃ, avasesakilesābhisaṅkhārehi āyūhanā. Taṇhāvasena patiṭṭhānaṃ, diṭṭhivasena āyūhanā. Sassatadiṭṭhiyā patiṭṭhānaṃ, ucchedadiṭṭhiyā āyūhanā. Līnavasena patiṭṭhānaṃ, uddhaccavasena āyūhanā. Kāmasukhānuyogavasena patiṭṭhānaṃ, attakilamathānuyogavasena āyūhanā. Sabbākusalābhisaṅkhāravasena patiṭṭhānaṃ, sabbalokiyakusalābhisaṅkhāravasena āyūhanā’’ti –

「煩悩の力によって留まり、行の力によって励む。渇愛と見によって留まり、残りの煩悩と行によって励む。渇愛の力によって留まり、見の力によって励む。常見によって留まり、断見によって励む。沈滞の力によって留まり、掉挙の力によって励む。欲楽への耽溺の力によって留まり、苦行への耽溺の力によって励む。一切の不善の行の力によって留まり、一切の世間の善の行の力によって励む」――

Vuttesu pakāresu idha avuttānaṃ vasena veditabbā. Yā hi ayaṃ bodhīti vuccatīti yojetabbaṃ. ‘‘Bujjhatī’’ti padassa paṭibujjhatīti atthoti āha **‘‘kilesasantānaniddāya uṭṭhahatī’’**ti. Taṃ pana paṭibujjhanaṃ atthato catunnaṃ saccānaṃ paṭivedho, nibbānasseva vā sacchikiriyāti āha **‘‘cattārī’’**tiādi. Jhānaṅgamaggaṅgādayo viyāti yathā aṅgāni eva jhānamaggā, na aṅgavinimuttā, evamidhāpīti attho. Senaṅgarathaṅgādayo viyāti etena puggalapaññattiyā avijjamānapaññattibhāvaṃ dasseti.

と説かれた様相のうち、ここで説かれていないものの力によって知られるべきである。実にこの覚と呼ばれるものは、と結合されるべきである。「目覚める」という語は覚醒するという意味であるゆえに、「煩悩の相続の眠りから起き上がる」と言った。その覚醒とは、究極的意味においては四聖諦の了達であり、あるいは涅槃の現証そのものであるゆえに、「四つの」等と言った。「禅定の支分や道の支分などのように」とは、支分そのものが禅定や道であり、支分を離れたものではないように、ここでも同様であるという意味である。「軍隊の要素や車の要素などのように」とは、これによって人という施設(概念)が存在しない施設であることを示す。

Bodhāya saṃvattantīti bojjhaṅgāti idaṃ kāraṇattho aṅga-saddoti katvā vuttaṃ. Bujjhantīti bodhiyo, bodhiyo eva aṅgāti bojjhaṅgāti vuttaṃ **‘‘bujjhantīti bojjhaṅgā’’**ti. Anubujjhantīti vipassanādīnaṃ kāraṇānaṃ bujjhitabbānañca saccānaṃ anurūpaṃ bujjhanti. Paṭibujjhantīti kilesaniddāya uṭṭhahanato paccakkhabhāvena vā paṭimukhaṃ bujjhanti. Sambujjhantīti aviparītabhāvena sammā ca bujjhanti. Evaṃ upasaggānaṃ atthavisesadīpanatā daṭṭhabbā. Bodhi-saddo hi sabbavisesayuttaṃ bujjhanaṃ sāmaññena gahetvā ṭhito.

「覚りに役立つゆえに覚支である」とは、支(anga)という語が原因の意味であるとして説かれた。「目覚めるゆえに覚(bodhi)であり、覚そのものが支であるから覚支である」ゆえに、「目覚めるゆえに覚支である」と説かれた。「随覚する」とは、観などの原因と覚知されるべき諦に相応して目覚める。「覚醒する」とは、煩悩の眠りから起き上がることによって、あるいは現前することによって直接に目覚める。「正覚する」とは、誤りなき状態によって正しく目覚める。このように接頭辞が意味の特質を明示することと見なされるべきである。実に覚(bodhi)という言葉は、すべての特質を伴う覚知を包括して存立しているからである。

Vicinātīti ‘‘tayidaṃ dukkha’’ntiādinā vīmaṃsati. Obhāsanaṃ dhammānaṃ yathābhūtasabhāvapaṭicchādakassa sammohassa viddhaṃsanaṃ yathā āloko andhakārassa. Yasmiṃ dhamme sati vīro nāma hoti, so dhammo vīrabhāvo. Īrayitabbatoti pavattetabbato. Kosajjapakkhato patituṃ appadānavasena sampayuttānaṃ paggaṇhanaṃ paggaho. Upatthambhanaṃ anubalappadānaṃ. Osīdanaṃ layāpatti, tappaṭipakkhato anosīdanaṃ daṭṭhabbaṃ. Pīṇayatīti tappeti vaḍḍheti vā. Pharaṇaṃ paṇītarūpehi kāyassa byāpanaṃ. Tuṭṭhi nāma pīti. Udaggabhāvo odagyaṃ, kāyacittānaṃ ukkhipananti attho. Kāyacittadarathapassambhanatoti kāyadarathassa cittadarathassa ca passambhanato vūpasamanato. Kāyoti cettha vedanādayo tayo khandhā. Daratho sārambho, dukkhadomanassapaccayānaṃ uddhaccādikilesānaṃ, tappadhānānaṃ vā catunnaṃ khandhānaṃ adhivacanaṃ. Uddhaccādikilesapaṭipakkhabhāvo daṭṭhabbo, evañcettha passaddhiyā aparipphandanasītibhāvo daṭṭhabbo asāraddhabhāvato. Tenāha bhagavā ‘‘passaddho kāyo asāraddho’’ti (ma. ni. 1.52).

「択ぶ」とは、「これこそが苦である」などと吟味する。「照明」とは、諸法のありのままの本質を覆い隠す迷妄を打ち破ることであり、あたかも光が暗闇を破るかのようである。その法が存在するときに勇者と呼ばれる、その法が勇気(精進)である。「奮起されるべきものであることから」。「怠惰の側へ落ちて行かせないことによって、相応する諸法を向上させることが奮起である」。「支持」とは、力を与えること。「沈没」とは、沈滞に陥ることであり、その対立として沈没しないことと見なされるべきである。「満足させる」とは、満たし、あるいは増大させる。「遍満」とは、勝れた色によって身を満たすこと。「喜び」とは喜悦のことである。「高揚した状態」とは歓喜であり、身と心を奮い立たせるという意味である。「身と心の疲労を軽安にすることから」とは、身の疲労と心の疲労を軽安にし、静めることから。「身」とはここでは感受等の三つの蘊である。「疲労」とは激情であり、苦や憂いの原因である掉挙などの煩悩、あるいはそれらを主とする四蘊の同義語である。掉挙などの煩悩の対立たる状態が見なされるべきであり、このようにここでの軽安の不動揺にして清涼な状態は、激昂がないことによるものと見なされるべきである。それゆえ世尊は仰せになった。「軽安となった身は激昂がない」(中部1.52)。

Samādhānatoti sammā cittassa ādhānato ṭhapanato. Avikkhepo sampayuttānaṃ avikkhittatā, yena sasampayuttā dhammā avikkhittā honti, so dhammo avikkhepoti. Avisāro attano eva avisaraṇasabhāvo. Sampiṇḍanaṃ sampayuttānaṃ avippakiṇṇabhāvāpādanaṃ nhānīyacuṇṇānaṃ udakaṃ viya. Cittaṭṭhitipaccupaṭṭhānoti ‘‘cittassa ṭhitī’’ti (dha. sa. 11) vacanato cittassa pabandhaṭhitipaccupaṭṭhāno. Ajjhupekkhanatoti udāsīnabhāvato. ti bojjhaṅgaupekkhā. Samappavatte dhamme paṭisañcikkhati upapattito ikkhati tadākārā hutvā pavattatīti paṭisaṅkhānalakkhaṇā, evañca katvā ‘‘paṭisaṅkhā santiṭṭhanā gahaṇe majjhattatā’’ti upekkhākiccādhimattatāya saṅkhārupekkhā vuttā. Sampayuttadhammānaṃ yathāsakakiccakaraṇavasena samaṃ pavattanapaccayatā samavāhitā. Alīnānuddhatappavattipaccayatā ūnādhikatānivāraṇaṃ. Sampayuttānaṃ asamappavattihetukapakkhapātaṃ upacchindantī viya hotīti vuttaṃ **‘‘pakkhapātupacchedarasā’’**ti. Ajjhupekkhanameva majjhattabhāvo.

「等持であることから」とは、正しく心を据え、置くことから。「不散乱」とは、相応する諸法が散乱しないことであり、それによって相応する諸法が散乱しないものとなる、その法が不散乱である。「不流出」とは、それ自体の流出しない本質である。「結合」とは、相応する諸法を散り散りにならない状態にすることであり、あたかも沐浴の粉に対する水のようである。「心の安定を現れとする」とは、「心の安定」(法集論11)という言葉から、心の持続的な安定を現れとする。「等観することから」とは、無関心(平静)な状態から。「それ」とは覚支の捨である。「平等に生起した法を観察し、道理に基づいて見て、その様相となって作用する」ゆえに省察の特徴を持ち、このようにして「省察し、止住し、把握において中立であること」と、捨の働きの優越性によって行捨が説かれた。相応する諸法がそれぞれの働きをなすことによって平等に作用する条件となることが平等運行性である。沈滞せず掉挙しない作用の条件となることが過不足の防止である。相応する諸法の不平等な生起を原因とする偏りを断ち切るかのようであるゆえに、「偏頗を断つことを働きとする」と説かれた。等観することそのものが中立の状態である。

Sabbasmiṃ līnapakkhe uddhaccapakkhe ca atthikā patthanīyā icchitabbāti sabbatthikā, taṃ sabbatthikaṃ. Samānakkhaṇapavattīsu sattasupi sambojjhaṅgesu vācāya kamappavattito paṭipāṭiyā vattabbesu yaṃ kiñci paṭhamaṃ avatvā satisambojjhaṅgasseva paṭhamaṃ vacanassa kāraṇaṃ sabbesaṃ upakārakattanti vuttaṃ **‘‘sabbesa’’**ntiādi. Sabbesanti ca līnuddhaccapakkhikānaṃ, aññathā sabbepi sabbesaṃ paccayāti.

すべての沈滞の側および掉挙の側において望まれ、求められ、欲されるべきであるゆえに「一切処所的」であり、それが一切処所的である。同一の瞬間に生起する七つの覚支すべてにおいて、言葉の順序の生起から順次に説かれるべきであるとき、他のいずれかを最初に説くことなく念等覚支のみを最初に説いた理由は、すべての助けとなるからであるゆえに、「すべての」等と説かれた。そして「すべての」とは沈滞の側と掉挙の側のものたちであり、そうでなければすべてがすべてに対して条件となるからである。

**‘‘Kasmā satteva bojjhaṅgā vuttā’’**ti codako saddhālobhādīnampi bojjhaṅgabhāvaṃ āsaṅkati, itaro satiādīnaṃyeva bhāvanāya upakārataṃ dassento **‘‘līnuddhaccapaṭipakkhato sabbatthikato cā’’**tiādimāha. Tattha līnassāti atisithilavīriyatādīhi bhāvanāvīthiṃ anotaritvā saṃkuṭitassa cittassa. Tadā hi passaddhisamādhiupekkhāsambojjhaṅgā na bhāvetabbā. Tañhi etehi allatiṇādīhi viya paritto aggi dussamuṭṭhāpiyaṃ hotīti. Tenāha bhagavā ‘‘seyyathāpi, bhikkhave, puriso parittaṃ aggiṃ ujjāletukāmo assa, so tattha allāni ceva tiṇāni pakkhipeyyā’’tiādi (saṃ. ni. 5.234). Dhammavicayavīriyapītisambojjhaṅgā pana bhāvetabbā, sukkhatiṇādīhi viya paritto aggi līnaṃ cittaṃ etehi susamuṭṭhāpiyaṃ hotīti. Tena vuttaṃ **‘‘yasmiñca kho’’**tiādi. Tattha yathāsakaṃ āhāravasena dhammavicayasambojjhaṅgādīnaṃ bhāvanā veditabbā. Vuttañhetaṃ ‘‘atthi, bhikkhave, kusalākusalā dhammā…pe… pītisambojjhaṅgassa bhiyyobhāvāya…pe… saṃvattatī’’ti (saṃ. ni. 5.232). Tattha sabhāvasāmaññalakkhaṇapaṭivedhavasena pavattamanasikāro…pe… dhammavicayasambojjhaṅgādayo bhāveti nāma.

「なぜ七つの覚支のみが説かれたのか」と問う者は、信や貪なども覚支ではないかと疑念を抱き、他方は念等のみの修習における有用性を示すために「沈滞と掉挙の対立であることから、また一切処所的であることから」等と言った。その中で「沈滞した者に」とは、過度に弛緩した精進などによって修習の軌道に入らず、萎縮した心のことである。そのときには実に、軽安・等持・捨の等覚支は修習されるべきではない。実にこれらは、湿った草などによって小さな火が燃え上がりにくいのと同じであるからである。それゆえ世尊は仰せになった。「比丘たちよ、たとえば人が小さな火を燃え上がらせたいと望み、そこに湿った草を投げ入れるようなものである」等(相応部5.234)。しかし、択法・精進・喜の等覚支は修習されるべきである。乾燥した草などによって小さな火が燃え上がるように、沈滞した心はこれらによってよく奮起させられるからである。それゆえ「そして実にいずれのときに」等と説かれた。そこではそれぞれの滋養の力によって択法等覚支などの修習が知られるべきである。実にこのように説かれた。「比丘たちよ、善・不善の法があり……略……喜等覚支の増大のために……略……資する」(相応部5.232)。そこでの自相・共相の了達の力によって生じる作意が……略……択法等覚支などを修習することと呼ばれる。

Uddhaccassāti cittassa accāraddhavīriyatādīhi sītibhāvapatiṭṭhitabhāvaṃ anotiṇṇatāya, tadā dhammavicayavīriyapītisambojjhaṅgā na bhāvetabbā. Tañhi etehi sukkhatiṇādīhi viya aggikkhandho duvūpasamayaṃ hoti. Tenāha bhagavā ‘‘seyyathāpi, bhikkhave, puriso mahantaṃ aggikkhandhaṃ nibbāpetukāmo assa, so tattha sukkhāni ceva tiṇāni pakkhipeyyā’’tiādi (saṃ. ni. 5.234). Passaddhisamādhiupekkhāsambojjhaṅgā pana bhāvetabbā, allatiṇādīhi viya aggikkhandho uddhataṃ cittaṃ etehi suvūpasamayaṃ hoti. Tena vuttaṃ **‘‘yasmiñca kho’’**tiādi. Etthāpi yathāsakaṃ āhāravasena passaddhisambojjhaṅgādīnaṃ bhāvanā veditabbā. Vuttañhetaṃ ‘‘atthi, bhikkhave, kāyapassaddhi cittapassaddhi…pe… upekkhāsambojjhaṅgassa bhiyyobhāvāya saṃvattatī’’ti (saṃ. ni. 5.232). Tattha yathāssa passaddhiādayo uppannapubbā, taṃ ākāraṃ sallakkhetvā tesaṃ uppādanavasena tathā manasikarontova passaddhisambojjhaṅgādayo bhāveti nāma. Satisambojjhaṅgo pana sabbattha bahūpakāro. So hi cittaṃ līnapakkhikānaṃ passaddhiādīnaṃ vasena layāpattito, uddhaccapakkhikānañca dhammavicayādīnaṃ vasena uddhaccapātato rakkhati, tasmā so loṇadhūpanaṃ viya sabbabyañjanesu sabbakammikaamacco viya ca rājakiccesu sabbattha icchitabbo. Tenāha **‘‘satiñca khvāhaṃ, bhikkhave, sabbatthikaṃ vadāmī’’**ti (saṃ. ni. 5.234).

「掉挙した者に」とは、心の過剰に奮起した精進などによって清涼な状態・安定した状態に入らないことによるものであり、そのときには択法・精進・喜の等覚支は修習されるべきではない。実にこれらは、乾燥した草などによって大きな火の塊が鎮まりにくいのと同じである。それゆえ世尊は仰せになった。「比丘たちよ、たとえば人が大きな火の塊を消し止めたいと望み、そこに乾燥した草を投げ入れるようなものである」等(相応部5.234)。しかし、軽安・等持・捨の等覚支は修習されるべきである。湿った草などによって火の塊が消えるように、掉挙した心はこれらによってよく鎮められるからである。それゆえ「そして実にいずれのときに」等と説かれた。ここでもそれぞれの滋養の力によって軽安等覚支などの修習が知られるべきである。実にこのように説かれた。「比丘たちよ、身の軽安があり、心の軽安があり……略……捨等覚支の増大のために資する」(相応部5.232)。そこにおいて、いかに彼に軽安などが以前に生じたか、その様相に留意してそれらを生起させる力によってそのように作意する者こそが、軽安等覚支などを修習することと呼ばれる。しかし念等覚支はあらゆる場所で大いに役立つものである。それは実に心を、沈滞の側に属する軽安などによる沈没から、また掉挙の側に属する択法などによる掉挙の転落から守る。したがってそれは、すべての料理における塩や香辛料のように、また王の公務における万能の大臣のように、あらゆる場所で求められるべきである。それゆえ「比丘たちよ、実に私は念があらゆる場所で役立つと説く」(相応部5.234)と仰せになった。

Ñatvā ñātabbāti (saṃ. ni. ṭī. 1.1.129) sambandho. Vaḍḍhi nāma vepullaṃ bhiyyobhāvo punappunaṃ uppādo evāti āha **‘‘punappunaṃ janetī’’**ti. Abhivuddhiṃ pāpento nibbatteti. Vivittatāti vivittabhāvo. Yo hi vivecanīyato viviccati, yaṃ viviccitvā ṭhitaṃ, tadubhayaṃ idha vivittabhāvasāmaññena ‘‘vivittatā’’ti vuttaṃ. Tesu purimo vivecanīyato viviccamānatāya vivekasaṅkhātāya viviccanakiriyāya samaṅgī dhammasamūho tāya eva viviccanakiriyāya vasena vivekoti gahito. Itaro sabbaso tato tato vivittasabhāvatāya. Tattha yasmiṃ dhammapuñje satisambojjhaṅgo viviccanakiriyāya pavattati, taṃ yathāvuttāya viviccamānatāya vivekasaṅkhātaṃ nissāyeva pavattati, itaraṃ pana tanninnatātadārammaṇatāhīti vuttaṃ **‘‘viveke nissita’’**nti. Yathā vā vivekavasena pavattaṃ jhānaṃ ‘‘vivekaja’’nti vuttaṃ, evaṃ vivekavasena pavatto bojjhaṅgo ‘‘vivekanissito’’ti daṭṭhabbo. Nissayaṭṭho ca vipassanāmaggānaṃ vasena maggaphalānaṃ veditabbo. Asatipi pubbāparabhāve ‘‘paṭiccasamuppādā’’ti ettha paccayānaṃ samuppādanaṃ viya abhinnadhammādhārā nissayanabhāvanā sambhavantīti. Ayamevāti viveko eva. Viveko hi pahānavinayavirāganirodhā ca samānatthā.

「知って知られるべきである」という結合である。増大とは広大、増大、再三の生起そのものであるゆえに、「再三生じさせる」と言った。増大に到達させつつ生起させる。「遠離性」とは遠離の状態である。実に遠離されるべきものから遠離するもの、遠離して留まるもの、その両方がここで遠離の状態の共通性によって「遠離性」と説かれた。それらのうち前者は、遠離されるべきものから遠離することによる遠離と呼ばれる遠離の作用を具足した法の集まりが、まさにその遠離の作用の力によって遠離として把握された。他方は、あらゆる面でそこから遠離した本質であることによる。その中で、いかなる法の集まりにおいて念等覚支が遠離の作用によって生起するのか、それに関して前述の遠離されることによる遠離と呼ばれるものに依拠してまさに生じるのであり、他方はそれに傾き、それを対象とすることによるゆえに、「遠離に依拠した」と説かれた。あるいは遠離の力によって生じた禅定が「遠離より生じる」と説かれたように、このように遠離の力によって生じた覚支は「遠離に依拠した」と見なされるべきである。そして依処の意味は観と道を通じて道と果について知られるべきである。前後の状態がないとしても、「縁起」において諸条件の生起のように、同一の法を支えとして依拠と修習が成り立つからである。「これこそが」とは遠離そのものである。実に遠離とは、断除、調伏、離貪、滅尽と同義である。

Tadaṅgasamucchedanissaraṇavivekanissitataṃ vatvā paṭipassaddhivivekanissitatāya avacanaṃ ‘‘satisambojjhaṅgaṃ bhāvetī’’tiādinā bhāvetabbānaṃ bojjhaṅgānaṃ idha vuttattā. Bhāvitabbojjhaṅgassa hi ye sacchikātabbā phalabojjhaṅgā, tesaṃ kiccaṃ paṭipassaddhiviveko. Ajjhāsayatoti ‘‘nibbānaṃ sacchikarissāmī’’ti mahantaajjhāsayato. Yadipi vipassanākkhaṇe saṅkhārārammaṇaṃ cittaṃ, saṅkhāresu pana ādīnavaṃ suṭṭhu disvā tappaṭipakkhe nibbāne adhimuttatāya ajjhāsayato nissaraṇavivekanissitatā dāhābhibhūtassa puggalassa sītaninnacitattā viya. Na paṭisiddhā vipassanāpādakesu kasiṇārammaṇādijhānesu satiādīnaṃ nibbedhabhāgiyattā. Anuddharantā pana vipassanā viya bodhiyā maggassa āsannakāraṇaṃ jhānaṃ na hoti, nāpi tathā ekantikaṃ kāraṇaṃ, na ca vipassanākiccassa viya jhānakiccassa niṭṭhānaṃ maggoti katvā na uddharanti. Ettha ca kasiṇaggahaṇena tadāyattāni āruppānipi gahitānīti daṭṭhabbāni. Tānipi hi vipassanāpādakāni nibbedhabhāgiyāni ca hontīti vattuṃ vaṭṭati tanninnabhāvasabbhāvato. Yadaggena hi nibbānaninnatā, tadaggena phalaninnatāpi siyā. ‘‘Kudāssu nāmāhaṃ tadāyatanaṃ upasampajja vihareyya’’nti (ma. ni. 1.465) ādivacanampetassa atthassa sādhakaṃ.

分位の遠離、断絶の遠離、出離の遠離への依拠を説いて、鎮静の遠離への依拠を説かないのは、「念等覚支を修習する」等により、修習されるべき覚支がここで説かれているからである。修習された覚支を持つ者にとって現証されるべき果の覚支、それらの働きが鎮静の遠離である。「志向によって」とは、「涅槃を現証しよう」という大いなる志向によって。たとえ観の瞬間に心が諸行を対象としているとしても、諸行における過患をよく見て、それと対立する涅槃に確信していることによる志向から、熱苦に圧倒された人の心が冷涼へと傾くような出離の遠離への依拠である。観の基礎となる遍処の対象などの禅定における念などが決択分(洞察の一分)であることは否定されない。しかし引用しない人々は、禅定は観のように覚(さとり)の道への直接的な原因ではなく、またそのように決定的な原因でもなく、観の働きの完了のように禅定の働きの完了が道であるわけでもないとして、引用しないのである。そしてここで遍処の把握によって、それに依存する無色定も把握されたと見なされるべきである。それらもまた観の基礎となり、決択分となるゆえに、それ(涅槃)に傾く状態が存在することから語るに値する。実に涅槃への傾斜を最上とするならば、果への傾斜をも最上とするであろう。「いつの日か私はその処に達して住するであろうか」(中部1.465)等の言葉もまたこの意味を証明するものである。

Vossagga-saddo pariccāgattho pakkhandanattho cāti vossaggassa duvidhatā vuttā. Vossajjanañhi pahānaṃ, vissaṭṭhabhāvena nirāsaṅkapavati ca, tasmā vipassanākkhaṇe tadaṅgavasena, maggakkhaṇe samucchedavasena paṭipakkhassa pahānaṃ vossaggo, tathā vipassanākkhaṇe tanninnabhāvena, maggakkhaṇe ārammaṇakaraṇena vissaṭṭhasabhāvato vossaggoti veditabbaṃ. Yathāvuttena pakārenāti tadaṅgasamucchedapakārena tanninnatadārammaṇakaraṇapakārena ca. Pubbe vossagga-padasseva atthassa vuttattā āha **‘‘sakalena vacanenā’’**ti. Pariṇamantaṃ vipassanākkhaṇe, pariṇataṃ maggakkhaṇe. Pariṇāmo nāma paripākoti āha **‘‘paripaccantaṃ paripakkañcā’’**ti. Paripāko ca āsevanalābhena āhitasāmatthiyassa kilesassa pariccajituṃ nibbānañca pakkhandituṃ tikkhavisadasabhāvo. Tenāha **‘‘ayañhī’’**tiādi. Esa nayoti yvāyaṃ ‘‘tadaṅgavivekanissita’’ntiādinā satisambojjhaṅge vutto, sesesu dhammavicayasambojjhaṅgādīsupi esa nayoti evaṃ tattha netabbanti attho.

「捨遣(vossagga)」という語は放棄の意味と突入の意味を持つゆえに、捨遣の二種性が説かれた。捨遣とは実に断除であり、放棄された状態によって恐れなき進行である。したがって観の瞬間には分位の力によって、道の瞬間には断絶の力によって対立するものを断除することが捨遣であり、同様に観の瞬間にはそれに傾く状態によって、道の瞬間には対象とすることによって放棄された本質であることから捨遣であると知られるべきである。「前述の様相によって」とは、分位と断絶の様相によって、またそれに傾きそれを対象とする様相によって。「以前に捨遣の語の意味そのものが説かれたことから、「完全な言葉によって」と言った。成熟しつつあるのは観の瞬間においてであり、成熟したのは道の瞬間においてである。成熟とは円熟のことであるゆえに、「円熟しつつあるもの、そして円熟したもの」と言った。そして円熟とは、反復習練を得ることによって能力を備えた煩悩を放棄し、涅槃へと突入するための鋭く明瞭な本質である。それゆえ「実にこれこそが」等と言った。「この順序」とは、この「分位の遠離に依拠した」等によって念等覚支において説かれた順序であり、残りの択法等覚支等においてもこの順序であると、このようにそこへ導かれるべきであるという意味である。

Evaṃ ādikammikānaṃ bojjhaṅgesu asammohatthaṃ missakanayaṃ vatvā idāni nibbattitalokuttarabojjhaṅgavasena atthaṃ vibhāvetuṃ **‘‘idha panā’’**tiādi vuttaṃ. Idha panāti imasmiṃ sabbāsavasuttante. Maggo eva vossaggavipariṇāmī bhāvanāmaggassa idha adhippetattā. Tañca khoti satisambojjhaṅgaṃ. Samucchedatoti samucchindanato.

このように初学者の覚支における無迷妄のために混同の順序を述べて、今や生起した出世間の覚支の力によって意味を解明するために「しかしここでは」等と説かれた。「しかしここでは」とは、この一切漏経において。道そのものが捨遣へと成熟するものであり、修習道がここで意図されているからである。「そしてそれを」とは念等覚支を。「断絶によって」とは断ち切ることによって。

Diṭṭhāsavassa paṭhamamaggavajjhattā **‘‘tayo āsavā’’**ti vuttaṃ. Tepi anapāyagamanīyā eva veditabbā apāyagamanīyānaṃ dassaneneva pahīnattā. Satipi sambojjhaṅgānaṃ yebhuyyena maggabhāve tattha tattha sambojjhaṅgasabhāvānaṃ maggadhammānaṃ vasena vuttamaggattayasampayuttā bojjhaṅgāti paccekabojjhaṅge ‘‘bojjhaṅgabhāvanāyā’’ti iminā gaṇhanto **‘‘maggattayasampayuttāyā’’**ti āha.

見漏は第一の道によって断ぜられるべきものであるゆえに、「三つの漏」と説かれた。それらもまた悪趣に至らせないものとしてのみ知られるべきである。悪趣に至らせるものは見(預流道)によってすでに断ぜられているからである。覚支の大部分が道であるとしても、それぞれの箇所で覚支の本質を持つ道の法によって説かれた三つの道に相応する覚支であるとして、個々の覚支において「覚支の修習によって」とこれによって把握しつつ、「三つの道に相応する」と言った。

Bhāvanāpahātabbaāsavavaṇṇanā niṭṭhitā.

修習断漏の注釈は完結した。

28. Thomentoti āsavappahānassa sudukkarattā tāya eva dukkarakiriyāya taṃ abhitthavanto. Assāti pahīnāsavabhikkhuno. Ānisaṃsanti taṇhācchedādidukkhakkhayapariyosānaṃ udrayaṃ. Etehi pahānādisaṃkittanehi. Ussukkaṃ janentoti evaṃ dhammassāmināpi abhitthavanīyaṃ mahānisaṃsañca āsavappahānanti tattha ādarasahitaṃ ussāhaṃ uppādento. Dassaneneva pahīnāti dassanena pahīnā eva. Tena vuttaṃ **‘‘na appahīnesuyeva pahīnasaññī’’**ti.

28. 「称賛しつつ」とは、漏尽の達成が極めて困難であるため、そのまさに難行によってそれを讃嘆しつつ、ということである。「彼に」とは、漏尽した比丘に。「功徳を」とは、渇愛の断滅などをはじめとする苦の滅尽を究極とする果報を。「これら断滅などの称揚によって」。「熱意を生じさせつつ」とは、このように法の主(世尊)によっても讃嘆されるべきであり、大いなる功徳をもつ漏尽であるとして、そこにおいて敬意を伴った熱意を生じさせつつ、ということである。「見ることによってのみ断ぜられる」とは、まさに正見によって断ぜられるということである。それゆえに『未だ断ぜられていないのに、まさに断ぜられたという想いをもつ者ではない』と言われたのである。

Sabba-saddena āsavānaṃ, āsavasaṃvarānañca sambandhavasena dutiyapaṭhamavikappānaṃ bhedo daṭṭhabbo. Dassanābhisamayāti pariññābhisamayā pariññākiccasiddhiyā. Tenāha **‘‘kiccavasenā’’**ti, asammohapaṭivedhenāti attho. Samussayo kāyo, attabhāvo vā.

「一切の」という言葉によって、諸漏と諸漏の防護との結合に従って、第二・第一の選択肢の区別を知るべきである。「正見による現観」とは、遍知の現観であり、遍知の役目を成就することによる。「役目に従って」と言ったのは、無痴の通達によってという意味である。「集まり」とは、身体、あるいは個体(身心)である。

Anavajjapītisomanassasahitaṃ cittaṃ ‘‘attano’’ti vattabbataṃ arahati atthāvahattā, na tabbiparītaṃ anatthāvahattāti pītisampayuttacittataṃ sandhāyāha **‘‘attamanāti sakamanā’’**ti. Tenāha **‘‘tuṭṭhamanā’’**ti. Attamanāti vā pītisomanassehi gahitamanā. Yasmā pana tehi gahitatā sampayuttatāva, tasmā vuttaṃ **‘‘pītisomanassehi vā sampayuttamanā’’**ti. Yadettha atthato na vibhattaṃ, taṃ vuttanayattā suviññeyyattā cāti veditabbaṃ.

過失のない喜悦と喜びに満ちた心は、利益をもたらすものであるがゆえに『自身の心』と呼ばれるに値するのであり、それと反対の不利益をもたらすものではない。このように喜悦に相応した心であることを指して『意気揚々として、とは自身の心(満足した心)によって』と言ったのである。それゆえに『悦びの心で』と言った。「意気揚々として」とは、あるいは喜悦と喜びによって捉えられた心である。しかし、それらによって捉えられていることとはまさに相応していることであるから、『あるいは喜悦と喜びとに相応した心で』と言われた。ここで義として分別されていないものは、すでに述べられた筋道によるものであり、容易に理解できるものであるからだと知るべきである。

Sabbāsavasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

一切漏経の注釈の深奥の義の解明は完結した。

3. Dhammadāyādasuttavaṇṇanā

3. 法相続経の注釈

29. Tasmā taṃ dassetvāti yasmā suttantavaṇṇanā suttanikkhepaṃ dassetvā vuccamānā pākaṭā hoti, yasmā cassa dhammadāyādasuttassa aṭṭhuppattiko nikkhepo, tasmā taṃ nikkhepaṃ dassetvā, kathetvāti attho. Lābhasakkāreti (saṃ. ni. ṭī. 2.2.63) lābhasakkārasaṅkhātāya aṭṭhuppattiyāti keci, lābhasakkāre vā aṭṭhuppattiyāti apare. Yā hi lābhasakkāranimittaṃ tadā bhikkhūsu paccayabāhullikatā jātā, taṃ aṭṭhuppattiṃ katvā bhagavā imaṃ desesīti. Yamakamahāmeghoti heṭṭhāolambanaupariuggamanavasena satapaṭalo sahassapaṭalo yugaḷamahāmegho. Tiṭṭhanti ceva bhagavati katthaci nibaddhavāsaṃ vasante, cārikaṃ pana gacchante anubandhanti ca. Bhikkhūnampi yebhuyyena kappasatasahassaṃ tato bhiyyopi pūritadānapāramisañcayattā tadā mahālābhasakkāro uppajjīti vuttaṃ **‘‘evaṃ bhikkhusaṅghassapī’’**ti.

29. 「それゆえにそれを示して」とは、経の注釈は経の生起の因縁を示して説かれるときに明確になるものであり、この法相続経には事の生起(因縁)による説示があるから、それゆえにその因縁を示して、語って、という意味である。「利養と名声において」とは、利養と名声と呼ばれる事の生起においてとする者たちもいれば、あるいは利養と名声における事の生起においてとする他の者たちもいる。実に、利養と名声を縁として、当時、比丘たちの間に生活必需品(資具)を過剰に求める傾向が生じたので、それを契機(因縁)として世尊はこの経を説かれたのである。「双の巨雲」とは、下方へ垂れ下がり、上方へと立ち昇る百層、千層からなる一対の巨雲である。世尊がある場所に定住しておられるときにも留まり、遊行へと赴かれるときには付き従う。比丘たちにもまた、多くは十万劫あるいはそれ以上にわたって満たされた布施波羅蜜の蓄積があるため、当時、大いなる利養と名声が生じたのである。それゆえに『このように比丘僧伽にもまた』と言われた。

Sakkatoti sakkārappato. Garukatoti garukārappatto. Mānitoti bahumato manasā piyāyito ca. Pūjitoti mālādipūjāya ceva catupaccayābhipūjāya ca pūjito. Apacitoti apacāyanappatto. Yassa hi cattāro paccaye sakkatvāpi abhisaṅkhate paṇītapaṇīte upanenti, so sakkato. Yasmiṃ garubhāvaṃ paccupaṭṭhapetvā te denti, so garukato. Yaṃ manasā piyāyanti bahumaññanti ca, so bahumato. Yassa sabbametaṃ pūjāvasena karonti, so pūjito. Yassa abhivādanapaccuṭṭhānañjalikammādivasena paramanipaccakāraṃ karonti, so apacito. Bhagavati bhikkhusaṅghe ca loko evaṃ paṭipanno. Tena vuttaṃ ‘‘tena kho pana…pe… parikkhārāna’’nti. Lābhaggayasaggapattanti lābhassa ca yasassa ca aggaṃ ukkaṃsaṃ pattaṃ.

「恭敬され」とは、恭敬を受けるに至ったこと。「重んぜられ」とは、尊重を受けるに至ったこと。「敬愛され」とは、深く尊重され、心から愛慕されたこと。「供養され」とは、花などの供養によっても、また四つの資具(生活必需品)の至高の供養によっても供養されたこと。「尊崇され」とは、礼拝を受けるに至ったこと。実に、誰に対しても四つの資具を恭敬して調え、最上・最勝のものを捧げるとき、その者は「恭敬された者」である。誰に対して重んじる心を抱いてそれらを与えるとき、その者は「重んぜられた者」である。誰を心から愛慕し、深く尊重するとき、その者は「敬愛された者」である。誰に対してこれらすべてを供養として行うとき、その者は「供養された者」である。誰に対して礼拝、立ち迎え、合掌などによって至高の謙譲を行うとき、その者は「尊崇された者」である。世尊と比丘僧伽に対して、世間はこのように接した。それゆえに『実にそのとき……生活必需品を』と言われたのである。「利養の頂点と名声の頂点に達した」とは、利養と名声の頂点、極致に達したということである。

Paccayā cīvarādayo garukātabbā etesanti paccayagarukā, āmisacakkhukāti attho. Paccayesu giddhā gadhitā paccayānaṃ bahulabhāvāya paṭipannāti paccayabāhulikā. Bhagavatopi pākaṭā ahosi pakaticārittavasenāti adhippāyo aññathā apākaṭasseva abhāvato. Dhammasabhāvacintāvasena pavattaṃ sahottappañāṇaṃ dhammasaṃvego, idha pana so bhikkhūnaṃ lābhagarutādhammavasena veditabbo. Samaṇadhammavuttīti samaṇadhammakaraṇaṃ. ti dhammadāyādadesanā. Paṭibimbadassanavasena sabbakāyassa dassanayoggo ādāsoti sabbakāyikaādāso.

衣などの資具を重んじるべきものとする彼らを「資具を重んじる者たち」といい、物質的なものを目当てとする者たちという意味である。資具に貪着し、執着し、資具の豊富さのために行ずる者たちを「資具を多く求める者たち」という。世尊にも明らかであったのは、通常の振る舞いによるという意味であり、そうでなければ明らかでないことなどあり得ないからである。法の本性についての思索に基づいて生じた、畏怖(慚愧)を伴う智慧を「法の緊迫感(法慚)」というが、ここでは比丘たちの利養を重んじる性質によるものと知るべきである。「沙門法の行い」とは、沙門法を修することである。「それ」とは、法相続の説法である。鏡像を見るように全身を見るのに適した鏡を「全身鏡」という。

Pitu-dāyaṃ, tena dātabbaṃ, tato laddhabbaṃ arahabhāvena ādiyantīti dāyādā, puttā. Tañca loke āmisameva, sāsane pana dhammopīti tattha yaṃ sāvajjaṃ aniyyānikañca, taṃ paṭikkhipitvā, yaṃ niyyānikaṃ anavajjañca, tattha bhikkhū niyojento bhagavā avoca **‘‘dhammadāyādā me, bhikkhave, bhavatha, mā āmisadāyādā’’**ti. Dhammassa me dāyādāti mama dhammassa ogāhino, dhammabhāgabhāginoti attho. Tathā hi vakkhati ‘‘dhammakoṭṭhāsasseva sāmino’’ti (ma. ni. aṭṭha.1.29). Nibbattitadhammoti asaṃkilesikānuttarādibhāvena dhammasāmaññato niddhāritadhammo. Pariyāyeti sabhāvato parivattetvā ñāpeti etenāti pariyāyo, leso, lesakāraṇaṃ vā. Tadabhāvato nippariyāyadhammo maggappattiyā apāyapatanādito accantameva vāraṇato. Itaro vuttavipariyāyato pariyāyadhammo accantaṃ apāyadukkhavaṭṭadukkhapātanato paramparāya vāraṇato. Yathā hi lokiyaṃ kusalaṃ dānasīlādi vivaṭṭaṃ uddissa nibbattitaṃ, ayaṃ taṃ asampādentampi taṃ sampāpakassa dhammassa nibbattakāraṇabhāvapariyāyena pariyāyadhammo nāma hoti, evaṃ taṃ vaṭṭaṃ uddissa nibbattitaṃ, yaṃ taṇhādīhi savisesaṃ āmasitabbato āmisanti loke pākaṭaṃ acchādanabhojanādi, tassa, taṃsadisassa ca phalavisesassa nimittabhāvapariyāyena pariyāyāmisanti vuccatīti dassento āha **‘‘yaṃ panidaṃ…pe… idaṃ pariyāyāmisaṃ nāmā’’**ti.

父の遺産を、彼によって与えられるべきものを、彼から得られるべきものとして正当に受け継ぐがゆえに「相続者」、すなわち「子ら」という。そしてそれは世間においては物質的な財(財貨)にすぎないが、教法においては法でもある。そこで過失があり出離とならないものを排斥し、出離となり過失のないものへと比丘たちを導くにあたり、世尊は『比丘たちよ、わが法の相続者となるがよい。財の相続者となってはならない』と仰せられた。「わが法の相続者たち」とは、わが法に分け入る者たち、法の分け前を受ける者たちという意味である。それゆえに(注釈書に)『まさに法の分け前の主たち』と説かれるのである。「生み出された法」とは、無染汚であり無上であるなどの性質によって、一般的な法から区別された法である。「仮説において」とは、本性から転換してこれによって知らせるがゆえに「仮説(方便)」であり、言いがかり、あるいは口実の根拠である。それがないがゆえに「非仮説の法(真実の法)」であり、道への到達によって悪趣への転落などから究極的に防ぐからである。もう一方は、述べられたことと反対であることから「仮説の法」であり、究極的な悪趣の苦や輪廻の苦への転落から順次防ぐからである。実に、世間的な善である布施や持戒などが解脱を目指して生み出されたとき、これがそれを直接成就しないとしても、それを成就させる法を生み出す原因となるという方便によって「仮説の法」と呼ばれるように、このように輪廻を目指して生み出され、渇愛などによって特に執着されるべきものであるがゆえに世間で「財」として知られる衣服や食物など、それと、それに類似した果報の特質との因縁となる方便によって「仮説の財」と呼ばれることを示して、『これに対して……これは仮説の財と呼ばれる』と言ったのである。

‘‘Sakalameva hidaṃ, ānanda, brahmacariyassa yadidaṃ kalyāṇamittatā’’ti (saṃ. ni. 5.2, 3) ādivacanato sāvakehi adhigatopi lokuttaradhammo satthuyevāti vattabbataṃ arahatīti vuttaṃ **‘‘nippariyāyadhammopi bhagavatoyeva santako’’**ti. Sāvakānañhi dhammadiṭṭhipaccayassapi yonisomanasikārassa visesapaccayo paratoghoso ca tathāgatādhīnoti tehi paṭividdhopi dhammo dhammassāminoyevāti vattuṃ yuttaṃ. Tenāha **‘‘bhagavatā hī’’**tiādi. Tattha anuppannassa maggassāti kassapassa bhagavato sāsanantaradhānato pabhuti yāva imasmā buddhuppādā asambodhavasena na uppannassa ariyamaggassa. Uppādetāti nibbattetā. Taṃ panetaṃ maggassa bhagavato nibbattanaṃ, na paccekabuddhānaṃ viya sasantāneyeva, atha kho parasantānepīti dassetuṃ ‘‘asañjātassa maggassa sañjanetā, **anakkhātassa maggassa akkhātā’’**ti vuttaṃ. Tayidaṃ maggassa uppādanaṃ sañjānanañca atthato jānanaññeva asammohapaṭivedhabhāvatoti vuttaṃ **‘‘maggaññū maggavidū’’**ti. Akkhānaṃ panassa sukusalabhāvenāti vuttaṃ **‘‘maggakovido’’**ti. Satthārā yathāgataṃ maggaṃ anugacchantīti maggānugā bhagavato eva taṃ maggaṃ suṭṭhu adhigamanato. Pacchā parato sammā anu anu āgatā paṭipannāti pacchā samannāgatā.

『アーナンダよ、実にこの清浄行のすべてとは、すなわち善き友をもつことである』などの言葉から、弟子たちによって証得された出世間法であっても師のものであると呼ばれるに値することから、『非仮説の法であっても、まさに世尊のものである』と言われた。実に弟子たちの正見の縁である如理作意の特別な縁であり、他者の教え(他聞)もまた如来に依拠しているため、彼らによって通達された法であっても法の主(世尊)のものであると言うのが至当である。それゆえに『世尊によって実に……』などと言われた。そこにおいて「未だ生じていなかった道」とは、カッサパ世尊の教えの隠没からこの仏陀の出現に至るまで、正覚に達していないことによって生じていなかった聖なる道のことである。「生じせしめた者」とは、生起させた者である。しかしながら世尊によるこの道の生起とは、辟支仏(独覚)たちのように自身の相続(心身)においてのみ生じさせるのではなく、他者の相続においても生じさせることを示すために、『未だ生じていなかった道を生じさせ、未だ説かれていなかった道を説いた者』と言われた。この道を生じさせ、生じさせることとは、実質的には無痴の通達であることから知ることにほかならないため、『道を知る者、道を理解する者』と言われた。また道を説くことにおいて極めて巧みであることから『道に熟達せる者』と言われた。師によって歩まれたとおりの道に従って歩むがゆえに「道に従う者たち」であり、まさに世尊からその道を正しく証得したことによる。「後に正しく順次随って到達した者たち」とは、後に随順して具足した者たちのことである。

Jānaṃ jānātīti jānitabbameva abhiññeyyādibhedaṃ jānāti ekantahitapaṭipattito. Passaṃ passatīti tathā passitabbameva passati. Atha vā jānaṃ jānātīti sabbaññutaññāṇena jānitabbaṃ jānātiyeva. Na hi padesañāṇena jānitabbaṃ sabbaṃ ekantato jānāti. Passaṃ passatīti dibbacakkhu paññācakkhu dhammacakkhu buddhacakkhu samantacakkhusaṅkhātehi pañcahi cakkhūhi passitabbaṃ passatiyeva. Atha vā jānaṃ jānātīti yathā aññe savipallāsā kāmarūpapariññāvādino jānantāpi vipallāsavasena jānanti, na evaṃ bhagavā. Bhagavā pana pahīnavipallāsattā jānanto jānātiyeva, diṭṭhidassanassa ca abhāvā passanto passatiyevāti attho. Cakkhubhūtoti paññācakkhumayattā tassa ca pattattā sattesu ca taduppādanato dassanapariṇāyakaṭṭhena lokassa cakkhu viya bhūto. Ñāṇabhūtoti etassa ca evameva attho daṭṭhabbo. Dhammā bodhipakkhiyā, brahmā maggo, tehi uppannattā, tesaṃvā pattattā adhigatattā, lokassa ca taduppādanato ‘‘dhammabhūto, **brahmabhūto’’**ti ca veditabbo. Vattāti catusaccadhammaṃ vadatīti vattā. Ciraṃ saccappaṭivedhaṃ pavattento vadatīti pavattā. Atthassa ninnetāti dhammatāsaṅkhātaṃ paramatthaṃ nibbānañca niddhāretvā dassetā, pāpayitā vā. Amatassa dātāti amataṃ sacchikiriyaṃ sattesu uppādento amataṃ dadātīti amatassa dātā. Bodhipakkhiyadhammānaṃ tadāyattabhāvato dhammassāmī.

「知りつつ知る」とは、知るべき勝知すべきものなどの分別を、ひたすら有益な実践によってまさに知るということである。「見つつ見る」とは、そのようにまさに直視すべきものを見るということである。あるいは「知りつつ知る」とは、一切智の智慧によって知るべきものをまさに知るということである。偏頗な智(一部の知)によって知るべきすべてを絶対に知るわけではないからである。「見つつ見る」とは、天眼、慧眼、法眼、仏眼、普眼と呼ばれる五つの眼によって見るべきものをまさに直視するということである。あるいは「知りつつ知る」とは、他の顚倒を伴い欲望や物質的存在の遍知を説く者たちが知りながらも顚倒に従って知るのに対して、世尊はそうではない。世尊は顚倒を断ぜられているがゆえに知りつつまさに知るのであり、邪見による見解がないがゆえに見つつまさに直視するのである、という意味である。「眼となった者」とは、慧眼から成り立ち、それに到達し、衆生の中にそれを生じさせることから、正見の導き手という意味において世間の眼のようになった者である。「智となった者」もまた、このように同様の意味を知るべきである。「法」とは三十七道品であり、「梵」とは聖道であり、それらによって生じたがゆえに、あるいはそれらに到達し証得したがゆえに、また世間にそれを生じさせるがゆえに『法となった者、梵となった者』と知るべきである。「語る者」とは、四聖諦の法を語るがゆえに語る者である。永続する諦の通達を転じつつ語るがゆえに「転ずる者(法輪を転ずる者)」である。「義を導く者」とは、法性と呼ばれる勝義と涅槃とを判別して示し、到達させる者である。「不死を与える者」とは、不死の現証を衆生の中に生じさせつつ不死を与えるがゆえに不死を与える者である。三十七道品が世尊に依拠していることから「法の主」である。

‘‘Yā ca nibbānasampatti, sabbametena labbhati;

『またいかなる涅槃の成就も、すべてこれによって得られる。

Sukho vipāko puññānaṃ, adhippāyo samijjhati. (peṭako. 23);

諸々の功徳の異熟は楽であり、望みは成就する。

Nibbānapaṭisaṃyutto, sabbasampattidāyako’’ti –

涅槃に結びつき、すべての成就を与えるものである』と――

Evamādiṃ bhagavato vacanaṃ sutvā eva bhikkhū dānādipuññānaṃ vivaṭṭasannissayataṃ jānanti, na aññathāti vuttaṃ **‘‘pariyāyadhammopi…pe… paṭilabhatī’’**ti. ‘‘Edisaṃ paribhuñcitabba’’nti kappiyassa ca cīvarādipaccayassa bhagavato vacanena vinā paṭiggahopi bhikkhūnaṃ na sambhavati, kuto paribhogoti āha **‘‘nippariyāyāmisampī’’**tiādi.

このような世尊の言葉を聞いてこそ、比丘たちは布施などの功徳が解脱の依り所であることを知るのであり、他の方法によるのではない。それゆえに『仮説の法であっても……得られる』と言われた。『このようなものを享受すべきである』という適法な衣などの資具も、世尊の言葉なしには比丘たちにとって受納さえあり得ないのに、どうして享受などあろうか。それゆえに『非仮説の財であっても……』などと言われた。

Pariyāyāmisassa bhagavato santakabhāvo pariyāyadhammassa tabbhāveneva dīpito. Tadeva sāmibhāvaṃ dassentoti sambandho. Tasmāti attādhīnapaṭilābhapaṭiggahatāya attano santakattā ca. Tatthāti tasmiṃ dhammāmise.

仮説の財が世尊のものであることは、仮説の法が世尊のものであることによってすでに明らかにされている。まさにその所有主であることを示すにあたり……と結びつく。「それゆえに」とは、自身に依拠して獲得され受納されるものであり、自身の所有物であるからである。「そこにおいて」とは、その法と財において。

Paccayā cīvarādayo paramā pāpuṇitabbabhāvena uttamamariyādā etassa na uttarimanussadhammā appicchatādayo cāti paccayaparamo, lābhagarūti attho. Taṇhuppādesūti ‘‘cīvarahetu vā, bhikkhave, bhikkhuno taṇhā uppajjamānā uppajjati, piṇḍapātasenāsanaitibhavābhavahetu vā, bhikkhave, bhikkhuno taṇhā uppajjamānā uppajjatī’’ti (dī. ni. 3.311; a. ni. 4.9; itivu. 105) evaṃ vuttesu catūsu taṇhuppattikoṭṭhāsesu. Appicchatāsantuṭṭhisallekhapavivekādayo appicchatādayo.

衣などの資具を最高の、到達すべき究極の限界とし、過人法(人を超えた優れた法)や少欲などを最高としない者を「資具を最高とする者」といい、利養を重んじる者という意味である。「渇愛の生起において」とは、『比丘たちよ、比丘に渇愛が生じるときには、衣を原因として生じる。比丘たちよ、比丘に渇愛が生じるときには、托鉢の食物・住居・有と非有(生存の盛衰)を原因として生じる』とこのように説かれた四つの渇愛の生起の区分において、ということである。「少欲など」とは、少欲、知足、減損、遠離などのことである。

Tatthāti tasmiṃ ovāde, tesu vā dhammapaṭiggāhakesu bhikkhūsu. Bhavissati vā yesaṃ tatthāti yojanā. Imasmiṃ pakkhe tatthāti tasmiṃ ovāde icceva attho daṭṭhabbo. Adhippāyo āmisadāyādatāya uppajjanakaanatthānuppādassa dhammadāyādatāya uppajjanakaaṭṭhuppattiyā ca ākaṅkhā. Tenāha **‘‘passatī’’**tiādi. Tattha āmise upakkhalitānanti āmisahetu vippaṭipannānaṃ. Atītakāleti kassapasammāsambuddhakāle. Kapilassa bhikkhuno vatthu kapilasuttena, **‘‘saṅghāṭipiādittā hotī’’**tiādinā lakkhaṇasuttena (saṃ. ni. 2.218) ca vibhāvetabbaṃ. Āmisagaruko appagghabhāvena kūṭakahāpaṇo viya nittejo samaṇatejena anujjalato nibbutaṅgāro viya nippabho ca hotīti yojanā. Tatoti paccayagarukabhāvato. Vivattitacittoti vinivattitamānaso, sallekhavuttīti attho.

「そこにおいて」とは、その教誡において、あるいは法を受け継ぐそれらの比丘たちにおいて。あるいは「そこにおいて彼らに生じるであろう」と結びつく。この立場では「そこにおいて」とは、その教誡において、とまさに意味を知るべきである。「意図」とは、財の相続者であることによって生じる不利益が生じないことと、法の相続者であることによって生じる因縁への希求である。それゆえに『見ている』などと言われた。そこにおいて「財において過ちを犯した者たちの」とは、財のために邪行を犯した者たちの、ということである。「過去の時代において」とは、カッサパ正等覚者の時代においてである。カピラ比丘の事緒は『カピラ経』によって、また『僧伽胝(大衣)もまた燃え盛っている』などをはじめとする『相応経(ラッカナ相応)』によって明らかにされるべきである。財を重んじる者は価値がないことによって偽の金貨のように威光がなく、沙門の威光によって輝かないことから消えた消し炭のように無光である、と結びつく。「それから」とは、資具を重んじる状態から。「心が離れた」とは、心を翻した者、減損を行ずる者という意味である。

Dhammadāyādāti ettāvatā antogadhāvadhāraṇaṃ vacananti tena avadhāraṇena nivattitamatthaṃ vibhāvetuṃ **‘‘mā āmisadāyādā’’**ti paṭikkhepo dassito. Tatheva ca vibhāvetuṃ adhippāyānisaṃsavibhāvanesupi dassito, tathā ādīnavavibhāvanena dhammadāyādatāpaṭikkhepo. Apadisitabbāti heṭṭhā katvā vattabbāti. Ādiyāti ettha yasmā ā-kāro mariyādattho, tasmā dhammadāyādatāvidhurena āmisadāyādabhāvena hetubhūtena, karaṇabhūtena vā ādiyaṃ vivecanaṃ viññūhi visuṃ karaṇaṃ vavatthānassa hotīti āha **‘‘visuṃ kātabbā’’**ti. Tenāha **‘‘viññūhi gārayhā bhaveyyāthāti vuttaṃ hotī’’**ti.

「法の相続者たち」とは、これによって限定を含んだ言葉であるから、その限定によって排除された意味を解明するために『財の相続者であってはならない』という否定が示された。そのように解明するために、意図と功徳の解明においても示され、また過患の解明によって法の相続者であることの否定(財の相続者となることへの戒め)が示された。「見なされるべき」とは、低く見做して言われるべき、ということである。「受け継ぐことによって」における「アー」の文字は限度(区別)の意味であるから、法の相続者であることと相容れない財の相続者である状態を原因として、あるいは手段として、智者たちによって分別され区別されることになる。それゆえに『区別されるべきである』と言った。それゆえに『智者たちから非難されるべき者となるであろう、と言われたことになる』と言ったのである。

‘‘Atthi me tumhesu anukampā…pe… no āmisadāyādā’’ti bhikkhūsu attano karuṇāyanākittanaṃ tesaṃ mudukaraṇaṃ, ‘‘ahampi tenā’’tiādi pana tatopi savisesaṃ mudukaraṇanti āha **‘‘atīva mudukaraṇattha’’**nti.

『わたしにはあなたがたに対する憐れみがある……財の相続者ではない』と比丘たちに対する自らの慈悲を語ることは彼らを柔軟にすることであり、『わたしもまたそれによって』などはそれよりもさらに格別に柔軟にすることであるから、『大いに柔軟にするために』と言われた。

Nāḷakapaṭipadādayo nāḷakasuttādīsu (su. ni. 684-728) āgatapaṭipattiyo. Tā pana yasmā nāḷakattherādīhi paṭipannā paramasallekhavuttibhūtā atiukkaṭṭhapaṭipattiyo, tasmā idha dhammadāyādapaṭipadāya udāharaṇabhāvena uddhaṭā. Sakkhibhūtāti tāya paṭipattiyā vuccamānāya ‘‘kiṃ me vinā paṭipajjanako atthī’’ti asaddahantānaṃ paccakkhakaraṇena sakkhibhūtā. Imasminti ‘‘tumhe ca me bhikkhave dhammadāyādā’’tiādike vākye. Sesanti ‘‘tumhe ca me’’tiādikaṃ sukkapakkhe āgataṃ pāḷipadaṃ. Vuttanayapaccanīkenāti ‘‘tena dhammadāyādabhāvena no āmisadāyādabhāvenā’’ti evaṃ kaṇhapakkhe vuttanayassa paṭipakkhena.

「ナーラカの実践など」とは、『ナーラカ経』などに説かれる実践である。それらはナーラカ長老たちによって実践された究極の減損の行いであり、極めて卓越した実践であるから、ここで法相続の実践の模範として挙げられたのである。「証人となった」とは、その実践が語られるときに『わたしを除いて実践する者がいるだろうか』と信じない者たちに対して、目の当たりにさせることによって証人となったということである。「これにおいて」とは、『比丘たちよ、あなたがたはわが法の相続者であって』などの文において。「残りの」とは、『あなたがたはわが』などの白分(浄らかな側)に説かれた聖典の句のことである。「述べられた筋道と反対によって」とは、『その法の相続者であることによって、財の相続者であることによってではなく』とこのように黒分(不浄な側)に述べられた筋道の反対によって、ということである。

30. Thomanaṃ sutvāti paṭipajjanakassa puggalassa pasaṃsanaṃ sutvā yathā taṃ saparisassa āyasmato upasenassa paṭipattiyā sīlathomanaṃ sutvā. Nipātapadanti iminā idha-saddassa anatthakatamāha. Pavāritoti paṭikkhepito. Yo hi bhuñjanto bhojanena titto parivesakena upanītabhojanaṃ paṭikkhipati, so tena pavāritena paṭikkhepito nāma hoti. Tenāha **‘‘pavāritoti…pe… vuttaṃ hotī’’**ti. Pakārehi diṭṭhādīhi vāreti saṅghādike yācāpeti bhatte karoti etāyāti pavāraṇā, āpattivisodhanāya attavossaggo okāsadānaṃ. Sā pana yasmā yebhuyyena vassaṃvutthehi kātabbā vuttā, tasmā **‘‘vassaṃvutthapavāraṇā’’**ti vuttaṃ. Pavāreti paccaye icchāpeti etāyāti pavāraṇā, cīvarādīhi upanimantanā. Pakārayuttā vāraṇāti pavāraṇā, vippakatabhojanatādicaturaṅgasahito bhojanapaṭikkhepo. Sā pana yasmā anatirittabhojananimittāya āpattiyā kāraṇaṃ hoti, tasmā **‘‘anatirittapavāraṇā’’**ti vuttā. Yāvadatthabhojanassa pavāraṇā yāvadatthapavāraṇā, pariyositabhojanassa upanītāhārapaṭikkhepoti attho.

30. 「称賛を聞いて」とは、実践する人の称賛を聞いて、ということであり、それは例えば眷属を伴う尊者ウパセーナの実践に対する戒の称賛を聞いて、というようなことである。「挿入語である」とは、これによって「ここ(イド)」という言葉が意味をもたないことを語っている。「辞退した」とは、拒絶したことである。実に、食事をしながら満腹になり、給仕する者が差し出した食物を辞退する者は、その辞退によって拒絶した者と呼ばれる。それゆえに『辞退したとは……言われたことになる』と言ったのである。見解などの様々な様態によって防ぎ、僧伽などに乞わせ、食事をさせるがゆえに「自恣(受処)」であり、罪を清めるために自身を委ねて機会を与えることである。そしてそれは多くは安居を終えた者たちによってなされるべきものと説かれているため、『安居を終えた者の自恣』と言われた。資具を辞退させ、望ませるがゆえに「招請(自恣)」であり、衣などによる招請である。様々な様態を伴う遮止であるがゆえに「食の辞退(自恣)」であり、食事の中断などの四つの要素を伴う食事の辞退である。そしてそれは余食でない食事を原因とする罪の根拠となるため、『余食でない自恣』と言われた。十分な食事の辞退が「十分な自恣」であり、食事を終えた者が差し出された食物を拒絶すること、という意味である。

‘‘Bhuttāvī’’ti vacanato bhojanapāripūritā idhādhippetāti āha **‘‘paripuṇṇoti bhojanena paripuṇṇo’’**ti. Pariyositoti etthāpi eseva nayo ‘‘bhojanena bhojanakiriyāya pariyosito’’ti. Aṭṭhakathāyaṃ pana adhippetatthaṃ pākaṭaṃ katvā dassetuṃ bhojana-saddassa lopo vutto. Dhātoti titto. Sādhakānīti ñāpakāni. Pariyositabhojanaṃ suhitayāvadatthatāgahaṇehi bhuttāvitādayo, bhuttāvitādiggahaṇehi vā itare bodhitā hontīti aññamaññaṃ nesaṃ ñāpakañāpetabbataṃ dassetuṃ **‘‘yo hī’’**tiādi vuttaṃ. Evaṃ chahipi padehi udarāvadehakaṃ bhojanaṃ dassitaṃ, tañca kho parikappanāvasena. Na hi bhagavā evaṃ bhuñjati. Tenāha **‘‘sabbañcetaṃ parikappetvā vutta’’**nti.

「食事を終えた者」という言葉から、食事の充足がここで意図されていることから『満たされたとは、食物によって満たされた』と言った。「完了した」においても同様の筋道であり、「食事によって、食事の行為によって完了した」ということである。しかし注釈書においては意図された意味を明らかにして示すために「食事」という言葉の省略が説かれた。「満足した」とは、満ち足りたこと。「証拠となるもの」とは、知らせるものである。完了した食事、満ち足りたこと、十分であることの把握によって「食事を終えたこと」などが、あるいは「食事を終えたこと」などの把握によって他のものが知らされるというように、それらが互いに知らせるものと知らされるものであることを示すために『実に……』などと言われた。このように六つの言葉によって腹一杯の食事が示されたが、それも仮定によるものである。実に世尊はそのようには召し上がらないからである。それゆえに『これらすべては仮定して言われたのである』と言った。

‘‘Siyā eva, nāpi siyā’’ti ca idaṃ atthadvayampi idha sambhavatīti vuttaṃ **‘‘idha ubhayampi vaṭṭatī’’**ti. Athāti anantaraṃ, mama bhojanasamanantaramevāti attho. Taṃ pana yasmā yathāvuttakālapaccāmasanaṃ hoti, tasmā **‘‘tamhi kāle’’**ti vuttaṃ. Apparuḷhahariteti ruhamānatiṇādiharitarahite. Abhāvattho ca ayaṃ appa-saddo ‘‘appiccho’’tiādīsu (ma. ni. 1.252, 336; saṃ. ni. 2.148) viya.

『あるかもしれず、ないかもしれない』というこの二つの意味もここで成立するがゆえに、『ここでは両方とも妥当する』と言われた。「そこで」とは、その直後に、わたしの食事の直後に、という意味である。そしてそれは述べられた時間を指すものであるため、『その時に』と言われた。「草の生えていない青草のない地に」とは、生えている草などの青草のない所に。「乏しい(アッパ)」という言葉は、『少欲』などにおけるように「無」の意味である。

Kathitepīti pi-saddo avuttasamuccayattho. Tena vāpasamīkaraṇādiṃ saṅgaṇhāti. Tathā hesa vutta-saddo ‘‘no ca kho paṭivutta’’ntiādīsu (pārā. 289) vāpasamīkaraṇe dissati, ‘‘pannalomo paradattavutto’’tiādīsu (cūḷava. 332) jīvitavuttiyaṃ, ‘‘paṇḍupalāso bandhanā pavutto’’tiādīsu (pārā. 92; pāci. 666; mahāva. 129; ma. ni. 3.59) apagame, ‘‘gītaṃ pavuttaṃ samihita’’ntiādīsu (dī. ni. 1.285) pāvacanabhāvena pavattite, loke pana ‘‘vuttaṃ parāyaṇa’’ntiādīsu (mahābhāsa 7.2.26) ajjhene dissatīti.

「語られたとしても」の「〜としても(ピ)」という言葉は、説かれていないものを総括する意味である。それによって均等にすることなどを包摂する。実にその「語られた(ヴッタ)」という言葉は、『反駁されなかった』などにおいては均等にすることに見出され、『毛を落とし、他者から与えられたもので生活する』などにおいては生活の営みに、『黄色い葉が枝から離れた』などにおいては離脱に、『歌われ、語られ、祈られた』などにおいては聖典として説かれたことに、世間においては『究極の教えを唱誦した』などにおいて学習に見出されるからである。

Na ettha piṇḍapātabhojanena dhammadāyādatā nivāritā, piṇḍapātabhojanaṃ pana anādaritvā dhammānudhammapaṭipattīti ettha kāraṇaṃ dassento āha **‘‘piṇḍapātaṃ…pe… vītināmeyyā’’**ti. Tattha vītināmeyyāti kammaṭṭhānānuyogena khepeyya. Tenāha **‘‘ādittasīsūpamaṃ paccavekkhitvā’’**ti. Ādittasīsūpamantiādittasīsūpamasuttaṃ.

ここでは托鉢の食物を食べることによって法の相続者であることが妨げられるのではなく、托鉢の食物を顧みずに法に随順する法の実践をなすことである、という理由を示すにあたり『托鉢の食物を……過ごすであろう』と言った。そこにおいて「過ごすであろう」とは、業処の修習によって過ごすであろう、ということである。それゆえに『頭が燃えている喩えを省察して』と言った。「頭が燃えている喩え」とは、『頭燃経』のことである。

Kiñcāpīti ayaṃ ‘‘yadipī’’ti iminā samānattho nipāto. Nipāto ca nāma yattha yattha vākye payujjati, tena tena vattabbatthajotako hotīti idha ‘‘piṇḍapāta’’ntiādinā anuññāpasaṃsāvasena vuccamānassa atthassa jotakoti adhippāyena **‘‘anujānanapasaṃsanatthe nipāto’’**ti vuttaṃ, anuññāpasaṃsārambhe pana ‘‘asambhāvanatthe’’ti vuttaṃ siyā purimeyeva sambhāvanāvibhāvanato adhikattānulomato ca.

「たとえ〜としても(キンチャーピ)」とは、これは「もし〜としても(ヤディピ)」と同義の小辞(不変化詞)である。小辞とは、それが用いられるそれぞれの文において、それぞれの述べるべき意味を照らし出すものであるから、ここでは「托鉢の食物を」などによって許容と称賛に従って語られる意味を照らし出すものであるという意図から、『許容と称賛の意味における小辞である』と言われた。しかし許容と称賛の開始においては、前のものにおいてまさに可能性を解明することから、また過剰に従うことから『不可能性の意味において』と言われたのかもしれない。

Ekavāraṃ pavattaṃ piṇḍapātapaṭikkhipanaṃ kathaṃ dīgharattaṃ appicchatādīnaṃ kāraṇaṃ hotīti codanaṃ sandhāyāha **‘‘tassa hī’’**tiādi. Tattha atricchatāti atra icchatīti atriccho, tassa bhāvo atricchatā, atthato paralābhapatthanā. Tathā hi vuttaṃ ‘‘purimeyeva sakalābhena asantuṭṭhi, paralābhe ca patthanā, etaṃ atricchatālakkhaṇa’’nti (vibha. aṭṭha. 849). Pāpicchatāti asantaguṇasambhāvanādhippāyatā. Pāpā icchā etassāti pāpiccho, tassa bhāvo pāpicchatā. Yathāha ‘‘asantaguṇasambhāvanatā paṭiggahaṇe ca amattaññutā, etaṃ pāpicchalakkhaṇa’’nti (vibha. aṭṭha. 851). Mahantāni vatthūni icchati, mahatī vā tassa icchāti mahiccho, tassa bhāvo mahicchatā. Yaṃ sandhāya vuttaṃ ‘‘santaguṇasambhāvanatā paṭiggahaṇe ca amattaññutā, etaṃ mahicchalakkhaṇa’’nti. Paccavekkhamāno nivāressatīti yojanā. Assa bhikkhuno saṃvattissati piṇḍapātapaṭikkhepo.

一度行われた托鉢の食物の辞退が、どのようにして長きにわたる少欲などの原因となるのかという問いを指して『実に彼には……』などと言った。そこにおいて「強欲」とは、ここにおいて欲するがゆえに強欲であり、その状態が強欲さ、実質的には他者の利得を望むことである。それゆえに『そもそも自らの利得に不満足であり、他者の利得を望むこと、これが強欲の特徴である』と説かれたのである。「悪欲」とは、存在しない徳を誇示しようとする意図である。悪しき欲をもつ彼を悪欲といい、その状態が悪欲さである。『存在しない徳を誇示することと、受納において適量を知らないこと、これが悪欲の特徴である』と言われたとおりである。大いなる事物を欲し、あるいはその欲が大きい者を「大欲」といい、その状態が大欲さである。それを指して『存在する徳を誇示することと、受納において適量を知らないこと、これが大欲の特徴である』と言われた。「省察しつつ制止するであろう」と結びつく。この比丘にとって托鉢の食物の辞退は(少欲などに)資することとなるであろう。

Mahiccho puggalo yathā paccayadānavasena paccayadāyakehi bharituṃ asakkuṇeyyo, evaṃ paccayapariyesanavasena attanāpīti vuttaṃ ‘‘attanopi **upaṭṭhākānampi dubbharo hotī’’**ti. Saddhādeyyassa vinipātavasena pavattiyā aññassa ghare chaḍḍento. Rittapattovāti yesu kulesu paṭipiṇḍavasena pavattati, tesaṃ sabbapacchimaṃ attano yathāladdhaṃ datvā tattha kiñci aladdhā rittapatto vihāraṃ pavisitvā nipajjati jighacchādubbalyenāti adhippāyo. Yathāladdhapaccayaparibhogena, puna pariyesanānāpajjanena attano subharatā, yathāladdhapaccayena avaññaṃ akatvā santosāpattiyā upaṭṭhākānaṃ subharatā veditabbā.

大欲の人物が資具の施与によって施主たちに養われ難いように、資具の探求によって自身にとってもそうである、ということを『自身にとっても給仕者たちにとっても養い難い者となる』と言った。信仰による施物の浪費として振る舞い、他者の家で投げ捨てる。「空の鉢のままで」とは、托鉢のために巡る家々のうち、最後に自ら得たものを与えてそこでは何も得られず、空の鉢のまま精舎に入って飢えによる衰弱から横たわる、という意味である。得られたままの資具を享受し、再び探求に赴かないことによって自身の養いやすさを、得られたままの資具を侮ることなく満足することによって給仕者たちに対する養いやすさを知るべきである。

Kathāvatthūnīti appicchatādipaṭisaṃyuttānaṃ kathānaṃ vatthūnīti kathāvatthūni, appicchatādayo eva. Tīṇīti tīṇi kathāvatthūni. Abhisallekhikāti ativiya kilese sallikhatīti abhisallekho, appiccha tādiguṇasamudāyo, so etissā atthīti abhisallekhikā, mahicchatādīnaṃ tanubhāvāya yuttarūpā appicchatādipaṭisaṃyuttatā. Cetovinīvaraṇasappāyāti kusalacittuppattiyā nivārakānaṃ nīvaraṇānaṃ dūrībhāvakaraṇena cetovinīvaraṇasaṅkhātānaṃ samathavipassanānaṃ sappāyā. Samathavipassanācittasseva vā vibhūtibhāvakaraṇāya sappāyā upakārikāti cetovinīvaraṇasappāyā. Ekantanibbidāyātiādi yena nibbidādiānisaṃsena ayaṃ kathā abhisallekhikā cetovinīvaraṇasappāyā ca nāma hoti, taṃ dassetuṃ vuttaṃ. Tattha ekantanibbidāyāti ekaṃsena vaṭṭadukkhato nibbindanatthāya. Virāgāya nirodhāyāti tasseva virajjanatthañca nirujjhanatthañca. Upasamāyāti sabbakilesavūpasamāya. Abhiññāyāti sabbassapi abhiññeyyassa abhijānanāya. Sambodhāyāti catumaggasambodhāya. Nibbānāyāti anupādisesanibbānāya. Etesu hi ādito tīhi vipassanā vuttā, puna tīhi maggo, itarena nibbānaṃ. Tena samathavipassanā ādiṃ katvā nibbānapariyosāno ayaṃ sabbo uttarimanussadhammo dasakathāvatthulābhino sambhavatīti dasseti. Paripūressantīti taṃsabhāvato upakārato ca saṃvattissanti. Appicchatādayo hi ekavārauppannā upari tadatthāya saṃvattissanti. Kathāvatthuparipūraṇaṃ sikkhāparipūraṇañca vuttanayeneva veditabbaṃ.

「談話の根拠」とは、少欲などに結びついた談話の根拠であるから談話の根拠であり、少欲などのことである。「三つの」とは、三つの談話の根拠である。「減損に資する」とは、極めて煩悩を削ぎ落とすゆえに「徹底した減損(アビサッレーカ)」であり、少欲などの徳の集まりであり、それがこの談話にあるから「減損に資するもの」であり、大欲などを薄弱にするのに適した少欲などに結びついた性質である。「心の覆いを除くのに適した」とは、善心の生起を妨げる諸々の蓋(煩悩)を遠ざけることによって「心脱蓋」と呼ばれる止観に適したものである。あるいは止観の心そのものを清浄にするために適し、助けとなるゆえに「心の覆いを除くのに適した」である。「ひたすら厭離のために」などは、いかなる厭離などの功徳によってこの談話が減損に資するものであり、心の覆いを除くのに適したと呼ばれるのか、それを示すために言われた。そこにおいて「ひたすら厭離のために」とは、決定して輪廻の苦から厭離するためである。「離欲のために、止滅のために」とは、その輪廻の苦を離欲するため、滅尽するためである。「静寂のために」とは、一切の煩悩の静寂のためである。「勝知のために」とは、勝知されるべきすべての法を勝知するためである。「正覚のために」とは、四つの聖道の正覚のためである。「涅槃のために」とは、無余涅槃のためである。これらの中で最初の三つによってヴィパッサナー(観)が説かれ、次の三つによって聖道が、残る一つによって涅槃が説かれた。それによって、止観をはじめとして涅槃を究極とするこのすべての過人法(人を超えた優れた法)が、十の談話の根拠を得た者に生じることを示している。「満たすであろう」とは、その性質から、また助けとなることによって資するであろう、ということである。実に、一度生じた少欲などは、さらに進んでその目的のために資するのである。談話の根拠の充足と学処の充足とは、すでに述べられた筋道によって知るべきである。

Amataṃ nibbānanti anupādisesanibbānadhātuṃ. Itarā pana sekkhāsekkhadhammapāripūriyā paripuṇṇā. Nibbānapāripūri cettha tadāvahadhammapāripūrivasena pariyāyato vuttāti veditabbā. Idāni yāyaṃ appicchatādīnaṃ anukkamaparivuddhiyā guṇapāripūritā, taṃ upamāya sādhento **‘‘seyyathāpī’’**tiādimāha. Tattha pāvussakoti vassānamāse uṭṭhito. So hi cirānuppavatti hoti. Pabbatakandarā pabbatesu upaccakādhiccakāpabhavanijjharādinadiyo. Sarasākhāti yattha upariunnatapadesato udakaṃ āgantvā tiṭṭhati ceva sandati ca, te. Kusobbhā khuddakataḷākā. Kunnadiyoti pabbatapādato nikkhantā khuddakanadiyo. Tā hi mahānadiyo otarantiyo paripūrenti. Paramadhammadāyādanti paramaṃ uttamaṃ dhammadāyādabhāvaṃ, paramaṃ dhammadāyajjaṃ vā. Te bhikkhūti te dhammapaṭiggāhake bhikkhū. Sanniyojentoti mūlaguṇehi appicchatādīhi yojento.

「不死なる涅槃を」とは、無余涅槃界を。「他方のものは」有学・無学の法の充足によって満たされたものを。「涅槃の充足」もまた、ここではそれをもたらす法の充足によって方便(仮説)として説かれたものと知るべきである。今や、少欲などの漸次的な増大によって諸徳が満たされることを、喩えによって証し立てつつ『あたかも……のように』などと言った。そこにおいて「雨季の雲」とは、雨安居の月に立ち昇った雲である。それは実に長く降り続くものである。「山の洞窟」とは、山における麓や頂上から生じる谷川などの川である。「湖水や池」とは、上方の高い場所から水が流れ込んできて留まり、また流れる所である。「小池」とは、小さな池である。「小川」とは、山の麓から流れ出た小さな川である。それらは大河へと流れ込みつつ満たすのである。「至上の法相続」とは、至上の、最上の法相続であること、あるいは至高の法の継承である。「それらの比丘たちを」とは、法を受け継ぐそれらの比丘たちを。「結びつけつつ」とは、根本の徳である少欲などと結びつけつつ。

Uggahetvāti atthato byañjanato ca upadhāraṇavasena gahetvā aviparītaṃ gahetvā. Saṃsandetvāti mama desanānusārena mamajjhāsayaṃ avirajjhitvā. Yathā idheva cintesīti yathā imissā dhammadāyādadesanāya cintesi, evaṃ aññatthāpi dhammathomanatthaṃ gandhakuṭiṃ pavisanto cintesi. Ekajjhāsayāyāti samānādhippāyāya. Matiyāti paññāya. Ayaṃ desanā aggātiādi bhagavā dhammasenāpatiṃ guṇato eva paggaṇhātīti katvā vuttaṃ.

「学び取って」とは、意味と文音とから検討することによって把握し、誤りなく把握して。「照らし合わせて」とは、わたしの教えに従って、わたしの意図を損なうことなく。「まさにこのように思念したように」とは、この法相続の教えにおいて思念したように、他の場所においても法の称賛のために香室に入りながら思念した、ということである。「同一の意図において」とは、等しい意図において。「智解において」とは、智慧において。「この説法は最高である」などは、世尊が法将(サーリプッタ)をまさに徳によって称揚されたことを示している。

Cittagatiyāti cittavasena kāyassa pariṇāmanena ‘‘ayaṃ kāyo idaṃ cittaṃ viya hotū’’ti kāyassa cittena samānagatikatādhiṭṭhānena. Kathaṃ pana kāyo dandhappavattiko lahuparivattanacittena samānagatiko hotīti? Na sabbathā samānagatiko. Yatheva hi kāyavasena cittapariṇāmane cittaṃ sabbathā kāyena samānagatikaṃ na hoti. Na hi tadā cittaṃ sabhāvasiddhena attano khaṇena avattitvā dandhavuttikassa rūpadhammassa khaṇena vattituṃ sakkoti, ‘‘idaṃ cittaṃ ayaṃ kāyo viya hotū’’ti pana adhiṭṭhānena dandhagatikassa kāyassa anuvattanato yāva icchitaṭṭhānappatti, tāva kāyagatiṃ anulomentameva hutvā santānavasena pavattamānaṃ cittaṃ kāyagatikaṃ katvā pariṇāmitaṃ nāma hoti, evaṃ ‘‘ayaṃ kāyo idaṃ cittaṃ viya hotū’’ti adhiṭṭhānena pageva lahusaññāya sukhumasaññāya ca sampāditattā abhāvitiddhipādānaṃ viya dandhaṃ avattitvā yathā lahuṃ katipayacittavāreheva icchitaṭṭhānappatti hoti, evaṃ pavattamāno kāyo cittagatikabhāveneva pariṇāmito nāma hoti, na ekacittakkhaṇeneva pavattiyā. Evañca katvā bāhusamiñjanappasāraṇūpamāpi upacārena vinā suṭṭhutaraṃ yuttā hoti, aññathā dhammatāvilomitā siyā. Na hi dhammānaṃ lakkhaṇaññathattaṃ iddhibalena kātuṃ sakkā, bhāvaññathattameva pana sakkāti.

「心に従う運動によって」とは、心に従って身体を転換することによって、『この身体がこの心のようであれ』と身体が心と等しい動きをするように決意することによってである。しかし、緩慢にしか動かない身体が、どうして速やかに変化する心と等しい動きをするのであろうか。決してすべての点で等しい動きをするのではない。実に身体に従って心を転換するとき、心がすべての点で身体と等しい動きをするのではないように。実にそのとき、心は自性の本性によって定まった自らの瞬間を離れて、緩慢に作用する色法(物質)の瞬間によって作用することはできないが、『この心がこの身体のようであれ』という決意によって、緩慢に動く身体に従うことから望む場所への到達に至るまで、身体の動きに適応しつつ相続に従って生起する心は「身体に従うものとして転換された」と呼ばれるように、このように『この身体がこの心のようであれ』という決意によって、前もって軽快な想と微細な想とが成就されているため、神足通を修習していない者たちのように緩慢に作用することなく、速やかにわずか数回の心惹起の間に望む場所へ到達するように、このように生起する身体は「心に従うものとして転換された」と呼ばれるのであり、一心刹那のうちに生起することによるのではない。このように解釈してこそ、腕を屈伸する喩えもまた比喩的表現を伴わずに極めて適切に成立するのであり、そうでなければ法の本性に反することになろう。実に諸法の本質的な特徴を神通力によって変化させることはできず、ただ状態の変化のみをなし得るのであるから。

31. Bhagavato adhippāyānurūpaṃ bhikkhūnañca ajjhāsayaṃ ñatvāti vacanaseso. Desakāle viya bhājanampi oloketvā eva mahāthero dhammaṃ katheti. Pakkantassāti idaṃ anādare sāmivacananti dassento **‘‘pakkantassa sato’’**tiādimāha. Kittakenāti kena parimāṇena. Taṃ pana parimāṇaṃ yasmā parimeyyassa atthassa paricchindanaṃ hoti, tasmā **‘‘kittāvatāti paricchedavacana’’**nti āha. Nukāro pucchāyanti ayaṃ nu-saddo idheva pucchāyaṃ āgatoti katvā vuttaṃ. Nu-saddena hettha jotiyamāno attho kiṃ-saddena parimāṇo attho parimeyyattho ca. Ettha saṃkilesapakkho vivekassa ananusikkhanaṃ āmisadāyādatā, vodānapakkho tassa anusikkhanaṃ dhammadāyādatāti. Tīhi vivekehīti vivekattayaggahaṇaṃ tadantogadhattā vivekapañcakassa. Vivekapañcakaggahaṇe panassa sarūpena kāyaviveko gahito na siyā, tadāyattattā vā satthārā tadā payujjamānavivekadassanavasena **‘‘tīhi vivekehī’’**tiādi vuttaṃ. Aññatarampīti kasmā vuttaṃ. Na hi kāyavivekamattena dhammadāyādabhāvo sijjhatīti? Na, vivekadvayasannissayasseva kāyavivekassa idhādhippetattā. Evañca katvā cittavivekaggahaṇampi samatthitaṃ hoti. Na hi lokiyajjhānādhigamamattena nippariyāyato satthudhammadāyādabhāvo icchito, nibbānādhigamena pana so icchito, tasmā sabbāpi sāsane vivekānusikkhanā nibbānapoṇā nibbānapabbhārā nibbānogadhā cāti vuttaṃ **‘‘tiṇṇaṃ vivekānaṃ aññatarampī’’**ti. Asati āloke andhakāro viya asati dhammadāyādatāya ekaṃsiyā āmisadāyādatāti āha **‘‘āmisadāyādāva hontī’’**ti. Esa nayo sukkapakkhepīti kaṇhapakkhato sādhāraṇavasena labbhamānaṃ atthasāmaññaṃ atidisati, na atthavisesaṃ tassa visadisattā, atthavisesameva vā atidisati visadisūdāharaṇūpāyañāyena. ‘‘Tiṇṇaṃ vivekānaṃ aññatara’’nti idaṃ idha na labbhati. Tayopi hi vivekā, tesu eko vā itaradvayasannissayo idha labbhati.

31. 「世尊の意図に従い、比丘たちの傾向を知って」とは補足の言葉である。場所や時と同じように器(聴衆)をも見定めてこそ、長老は法を語るのである。「去られたとき」とは、これが無頓着を示す所有格であることを示して『去られたとき』などと言った。「どれほどによって」とは、いかなる分量によって。しかしその分量とは測られるべき意味を限定するものであるから、『どれほどによって、とは限定の言葉である』と言った。「疑問辞『ヌ』は問いにおいて」とは、この「ヌ」という言葉はまさにここにおいて問いとして用いられていることから言われた。実に「ヌ」という言葉によって照らし出される意味は、「何(キム)」という言葉によって量られる意味であり、量られるべき意味である。ここにおいて染汚の側とは遠離に随学しないことであり財の相続者となることであり、清浄の側とはそれに随学することであり法の相続者となることである。「三つの遠離によって」とは、三つの遠離を把握することが五つの遠離をその中に含んでいるからである。しかし五つの遠離を把握するときには、身遠離がそのままの形では把握されないことになり、あるいはそれに依拠していることから師によって当時用いられていた遠離を示すにあたり『三つの遠離によって』などと言われた。「いずれか一つをも」とはなぜ言われたのか。身遠離だけで法の相続者であることが成就するわけではないのではないか。そうではない。二つの遠離の依り所となる身遠離そのものがここで意図されているからである。このようにして心遠離を把握することも論証されたことになる。実に世間的な禅定の証得だけで真実の意味において師の法の相続者であることが望まれているのではなく、涅槃の証得によってそれが望まれているのであるから、教法におけるすべての遠離への随学は涅槃へと傾き、涅槃へと傾注し、涅槃へと没入するものであるがゆえに、『三つの遠離のいずれか一つをも』と言われた。光がないときには暗黒であるように、法の相続者であることがないときには決定して財の相続者であるから、『まさに財の相続者となるのである』と言った。この筋道は白分(浄らかな側)においても同様であるとは、黒分から共通して得られる一般的な意味を類推するのであり、異なっているがゆえに特殊な意味を類推するのではない。あるいはまさに異なった例示の手法によって特殊な意味を類推するのである。「三つの遠離のいずれか一つ」というこれは、ここ(白分)では得られない。実に三つの遠離、あるいはそれらの中で他の二つの依り所となる一つがここで得られるのである。

Dūratopīti dūraṭṭhānatopi. Tenāha **‘‘tiroraṭṭhatopī’’**tiādi. Kāmaṃ ‘‘paṭibhātū’’ti ettha paṭi-saddāpekkhāya ‘‘sāriputta’’nti upayogavacanaṃ, attho pana sāmivacanavaseneva veditabboti dassento āha **‘‘āyasmatoyeva sāriputtassā’’**ti. Bhāgo hotūti iminābhāgattho paṭi-saddoti dasseti lakkhaṇādiatthānaṃ idha ayujjanato. Tenāha **‘‘evaṃ saddalakkhaṇena sametī’’**ti. Dissatūti ñāṇena dissatu, passatūti vā attho. Upaṭṭhātūti ñāṇassa paccupatiṭṭhatu. Uggahessantīti vācuggataṃ karissanti. Vācuggatakaraṇañhi uggaho. Pariyāpuṇissantīti tasseva vevacanaṃ. Puripucchanādinā vā atthassa citte āpādanaṃ paṭṭhapanaṃ pariyāpuṇanaṃ. Kāraṇavacananti yathāvuttassa kāraṇabhāvena vacanaṃ ‘‘hetumhi karaṇavacana’’nti katvā. Vuttatthapaccāmasanaṃ taṃ-saddena karīyatīti. Tenāha **‘‘yasmā’’**tiādi.

「遠くからも」とは、遠い場所からも。それゆえに『他国からも』などと言われた。確かに「現れるがよい」において、「向かって(パティ)」という言葉に応じて「サーリプッタに」と対格になっているが、意味は所有格に従って知るべきであることを示して『まさに尊者サーリプッタに』と言った。「分け前となれ」とは、これによって「パティ」という言葉が分け前の意味であることを示している。特徴などの意味はここでは適合しないからである。それゆえに『このように言葉の規則と合致する』と言った。「見出されるがよい」とは、智慧によって見出されるがよい、あるいは直視されるがよい、という意味である。「現前するがよい」とは、智慧の前に立ち現れるがよい。「学び取るであろう」とは、口誦するであろう。実に口誦することが学び取ることである。「修得するであろう」とは、それと同義語である。あるいは質問などによって意味を心に生じさせ、確立させることが修得することである。「理由の言葉」とは、述べられたことの理由として『原因における具格の言葉』として述べられたものである。述べられた意味を指し示すことは「それ(タム)」という言葉によってなされる。それゆえに『〜であるから』などと言った。

Ekenevākārenāti āmisadāyādatāsiddhena ādiyatāsaṅkhātena ekeneva pakārena. Tameva hi ākāraṃ sandhāyāha **‘‘bhagavatā vuttamattha’’**nti. Aññathā ‘‘satthu pavivittassa viharato sāvakā vivekaṃ nānusikkhantī’ti ekeneva ākārena so attho therenapi vutto. Tīhi ākārehīti āmisadāyādapaṭipadābhūtehi tiṇṇaṃ vivekānaṃ ananusikkhanākārehi. Ettāvatāti **‘‘idhāvuso…pe… nānusikkhantī’’**ti ettakena kaṇhapakkhe uddesapāṭhena.

「一つの様態によってのみ」とは、財の相続者であることが成就することによって「受け継ぐこと」と呼ばれる一つの様態によってのみ、ということである。まさにその様態を指して『世尊によって説かれた意味を』と言った。そうでなければ『師が遠離して住まわれるのに、弟子たちは遠離に随学しない』と長老によっても一つの様態によってその意味が説かれたことになる。「三つの様態によって」とは、財相続の実践となる三つの遠離に随学しない様態によって。「これほどによって」とは、『友らよ、ここに……随学しない』というこれほどの黒分の総説の文によってである。

Vitthārato suvibhatto hoti anavasesato sammadeva niddiṭṭhattā. Nanu ca uddese satthunopi ādiyatā bhagavatā gahitā, sā na niddiṭṭhāti anuyogaṃ sandhāyāha **‘‘so ca kho’’**tiādi. Sāvake anuggaṇhantassāti ‘‘āmisadāyādā satthu sāvakā’’ti satthu parappavādapariharaṇatthampi ‘‘tumhehi dhammadāyādehi bhavitabba’’nti evaṃ sāvake anukampamānassa. Sāvakānaṃ taṃ na yuttaṃ sāmīciabhāvatoti yojanā. Esa nayoti yadidaṃ ‘‘ettāvatāyaṃ bhagavā’’tiādinā kaṇhapakkhe uddesassa atthavibhāgadassanamukhena sambandhadassanaṃ, esa nayo sukkapakkhepi sambandhadassaneti adhippāyo. Tenāha **‘‘ayaṃ tāvettha anusandhikkamayojanā’’**ti, satthārā desitāya uddesadesanāya mahātherena desitāya ca anusandhikkamena sambandhoti attho. Yathānusandhi eva cettha anusandhi veditabbo.

「詳細に美しく分別されている」とは、余すところなく正しく示されているからである。では、総説において師の受け継ぐことも世尊によって把握されたのに、それは示されていないのではないかという異論を指して『しかしそれは……』などと言った。「弟子たちを慈しむ者の」とは、『師の弟子たちは財の相続者である』という師に対する他者の非難を防ぐためにも、『あなたがたは法の相続者となるべきである』とこのように弟子たちを憐れむ者の、ということである。弟子たちにとってそれはふさわしくない、敬意に欠けるからである、と結びつく。「この筋道は」とは、『これほどによって世尊は』などによって黒分において総説の意味の分別を示すことを通じて関連を示すことであり、この筋道は白分においても関連を示すことにおいて同様である、という意味である。それゆえに『これこそがここにおける文脈の結合である』と言った。師によって説かれた総説の説法と大長老によって説かれた説法との文脈の順序による結合である、という意味である。そしてここでは文脈にかなった文脈こそを知るべきである。

Accantapavivittassāti ekantaupadhiviveko viya itarepi viveko satthu ekantikāvāti. Anusikkhanaṃ nāma anu anu pūraṇanti tappaṭikkhepena āha **‘‘na paripūrentī’’**ti, na paribrūhentīti attho, na paripūrentīti vā na paripālentīti attho. Yadaggena hi vivekaṃ nānusikkhanti, tadaggena na paribrūhenti, na paripālentīti vā vattabbataṃ labhantīti. Kasmā panettha ‘‘vivekaṃ nānusikkhantī’’ti uddese viya avisesavacane kāyavivekasseva gahaṇaṃ katanti codanaṃ sandhāyāha **‘‘yadi panā’’**tiādi. Pucchāyāti pucchāto aviseso siyā vibhāgassa alabbhamānattā vissajjanassa. Nanu ca ‘‘vivekaṃ nānusikkhantī’’ti avisesavacanato pāḷiyaṃ vibhāgo na labbhatevāti? Na, padantarena vibhāvitattā. Tenāha **‘‘yesañca dhammāna’’**ntiādi. Byākaraṇapakkhoti vissajjanapakkho. Vissajjanañca na pucchā viya avisesajotanā, atha kho yathādhippetatthavibhajananti adhippāyo. Iminā padenāti ‘‘vivekaṃ nānusikkhantī’’ti iminā padena kāyavivekaṃ aparipūriyamānaṃ dassetīti adhippāyo. Cittavivekaṃ upadhivivekanti etthāpi eseva nayo.

「徹底して遠離された方の」とは、決定した所依遠離(涅槃)のように他の遠離もまた師にとって決定的なものであるということである。「随学」とは順次に満たすことであり、その否定として『満たさない』と言った。増大させないという意味であり、あるいは満たさないとは守り育てないという意味である。実に遠離に随学しないときから、増大させない、あるいは守り育てないと呼ばれるに値するからである。ではなぜここにおいて『遠離に随学しない』という総説のように無差別の言葉において身遠離のみが把握されたのかという異論を指して『もししかし……』などと言った。「問いにおいて」とは、問いからは無差別となるであろう、回答の分別が得られないからである。では『遠離に随学しない』という無差別の言葉から、聖典において分別は得られないのではないか。そうではない。他の言葉によって明らかにされているからである。それゆえに『そしていかなる諸法を』などと言った。「解明の側」とは回答の側である。そして回答とは問いのように無差別を示すものではなく、意図された意味を分別するものである、という意味である。「この句によって」とは、『遠離に随学しない』というこの句によって身遠離が満たされていないことを示している、という意味である。心遠離と所依遠離においても同様の筋道である。

Ettha ca nappajahantīti pahātabbadhammānaṃ pahānābhāvavacanaṃ pahānalakkhaṇavivekābhāvadīpanaṃ, taṃ vatvā puna ‘‘viveke nikkhittadhurā’’ti vacanaṃ tato sātisayavivekābhāvadīpananti tadubhayavivekābhāvadassanena ‘‘yesañca dhammāna’’ntiādināva pārisesañāyena ‘‘vivekaṃ nānusikkhantī’’ti iminā vivekadvayamūlabhūtakāyavivekābhāvadassanaṃ katanti daṭṭhabbaṃ. Avigatataṇhatāya taṃ taṃ parikkhārajātaṃ bahuṃ lanti ādiyantīti bahulā, bahulā eva bāhulikā yathā ‘‘venayiko’’ti (ma. ni. 1.246; a. ni. 8.11; pārā. 8). Te pana yasmā paccayabahulabhāvāya yuttappayuttā nāma honti, tasmā āha **‘‘cīvarādibāhullāya paṭipannā’’**ti. Sikkhāya ādarabhāvābhāvato sithilaṃ adaḷhaṃ gaṇhantīti **‘‘sāthalikā’’**ti vuttaṃ. Sithilanti bhāvanapuṃsakaniddeso, sithila-saddena vā samānatthassa sāthala-saddassa vasena **‘‘sāthalikā’’**ti padasiddhi veditabbā. Avagamanaṭṭhenāti adhogamanaṭṭhena, orambhāgiyabhāvenāti attho. Upadhiviveketi sabbūpadhipaṭinissaggatāya upadhīhi vivitte. Oropitadhurāti ujjhitussāhā.

そしてここにおいて「断じない」とは、断ぜられるべき諸法の不発生を語ることであり、断滅という特徴をもつ遠離の欠如を示すことである。それを語ってさらに『遠離において重荷を下ろした』と語ることは、それよりもさらに優れた遠離の欠如を示すことであり、それら二つの遠離の欠如を示すことによって『そしていかなる諸法を』などによって残余の推論の手法により、『遠離に随学しない』というこれによって二つの遠離の根本となる身遠離の欠如が示されたと知るべきである。渇愛が離れていないことによって様々な資具の類を多く貪り取るがゆえに「過剰」であり、過剰であることそのものが「多く求める者(バーフリカ)」であり、それは『律に通じた者(ヴェーナィカ)』というようなものである。しかし彼らは資具の豊富さのために専念する者たちであるから、『衣などを多く求めることに行ずる』と言った。学処に対する敬意がないことによって緩く、固くなく受け取るがゆえに『緩慢な者たち』と言われた。「緩い(シティラ)」とは状態を示す中性の表現であり、あるいは「緩い」という言葉と同義の「緩慢(サータラ)」という言葉によって『緩慢な者たち』という語の成立を知るべきである。「退落という意味において」とは、下落するという意味においてであり、下分に属する状態であるという意味である。「所依遠離において」とは、一切の所依の放擲であることによって所依から遠離した涅槃において。「重荷を下ろした」とは、熱意を放棄したことである。

Aniyamenevāti kiñci visesaṃ anāmasitvā ‘‘sāvakā’’ti aviseseneva. Niyamento‘‘therā’’tiādinā. Dasavasse upādāyāti dasavassato paṭṭhāya. Issariyeti ‘‘seṭṭhiṭṭhānaṃ senāpatiṭṭhāna’’ntiādīsu viya. Acirakkhaṇobhāsena lakkhavedhako akkhaṇavedhi. Ṭhitiyanti avaṭṭhāne. Ṭhānasoti taṅkhaṇeyeva. Tiṭṭhatīti ādhārādheyyabhāvenāti āha **‘‘tadāyattavuttibhāvenā’’**ti. Upekkhānubrūhanā sattasaṅkhāresu udāsīnatāpi asaṅkhatādhigamassa upāyoti tabbipariyāyato cīvarādimaṇḍanā na upadhivivekapāripūriyā saṃvattatīti āha **‘‘cīvarapatta…pe… apūrayamānā’’**ti. Tatthāti theravāre. Idhāti majjhimanavakavāresu. Tathā hi **‘‘majjhimatherakāle’’**tiādi vuttaṃ.

「無限定に」とは、何ら特別な点に触れることなく『弟子たち』と無限定に、ということである。限定するとは『長老たち』などによってである。「十夏を基準として」とは、十夏(得度後十年)から始めて、ということである。「権威において」とは、『長者の地位、将軍の地位』などにおけるようにである。稲妻の閃光のように素早く的を射る者を「瞬間射手」という。「確立において」とは、定住において。「その場において」とは、まさにその瞬間に。「留まる」とは、能依と所依の関係としてであることから『それに依拠して活動する状態によって』と言った。捨(平静)の増大と衆生・諸行に対する無関心もまた無為(涅槃)の証得の手段であるから、それと反対に衣などを飾り立てることは所依遠離の充足に資することはない。それゆえに『衣・鉢……満たすことなく』と言った。「そこにおいて」とは、長老の節において。「ここにおいて」とは、中座・新参の節において。それゆえに『中座の長老の時代に』などと言われたのである。

32. Imasmiñca kaṇhapakkheti imasmiñca niddesavāre kaṇhapakkhe, na uddesavāre kaṇhapakkhe. Uddesavāre pana kaṇhapakkhe vuttavipariyāyena gahetabbattho ‘‘esa nayo sukkapakkhepī’’ti atidesena dassito. Vuttapaccanīkanayenāti ‘‘kāyavivekaṃ nānusikkhanti na paripūrentī’’tiādinā vuttassa atthassa paccanīkanayena, ‘‘kāyavivekaṃ anusikkhanti paripūrentī’’tiādinā nayena. Etthāti etasmiṃ sukkapakkhe. Saṅkhepoti atthasaṅkhepo. Yojanaparamparāyāti gāmantato dūrabhāvena ekaṃ dve tīṇīti evaṃ yojanānaṃ paṭipāṭiyā. Araññavanapatthānīti araññesu vanasaṇḍabhūtāni. Pantānīti pariyantāni. Upagantuṃ yuttakālo jarājiṇṇakālo gocaragāme dūre gamanāgamanasamatthatābhāvato. ‘‘Evaṃ guṇavantesu dinnaṃ aho sudinna’’nti paccayadāyakānaṃ pasādaṃ janenti. Pāsaṃsāti pasaṃsitabbā. Ayampi mahātherotiādi ekaṃ appamādavihārinaṃ vuddhataraṃ niddisitvā vadantānaṃ vasena vuttaṃ. Paviṭṭho vivekaṭṭhānaṃ. Sāyaṃ nikkhamati yonisomanasikāraṃ upabrūhetvāti adhippāyo. Kasiṇaparikammaṃ karoti, na yaṃ kiñci kiccantaraṃ. Samāpattiyo nibbatteti, na moghamanasikāraṃ. Sabbathātiādito tāva tadaṅgavasena kilesehi cittaṃ vivecento tato vikkhambhanavasena samucchedavasena paṭipassaddhivasenāti sabbappakārena cittavivekaṃ pūreti. Paṃsukūlāni dhāretīti iminā bāhulikatābhāvaṃ dasseti, asithilaṃ sāsanaṃ gahetvāti iminā sāthalikatābhāvaṃ, vigatanīvaraṇoti iminā okkamane nikkhittadhurataṃ, phalasamāpattintiādinā pavivekapubbaṅgamataṃ dasseti.

32. 「そしてこの黒分において」とは、この詳説の節における黒分においてであり、総説の節における黒分においてではない。しかし総説の節における黒分において述べられたことの反対として把握されるべき意味は、『この筋道は白分においても同様である』という類推によって示された。「述べられた反対の筋道によって」とは、『身遠離に随学せず、満たさない』などによって述べられた意味と反対の筋道によって、『身遠離に随学し、満たす』などの筋道によって、ということである。「ここにおいて」とは、この白分において。「要約」とは、意味の要約である。「一由旬ごとに順次」とは、村から遠いことによって一、二、三とこのように由旬を順次に重ねて。「樹林の奥地」とは、森林の中の茂みとなった所である。「辺境の」とは、限界の地にある。「赴くのに適した時」とは、老衰した時であり、遊行する村が遠くにあって往還する能力がないからである。『このように徳ある者たちに与えられた施物は、実に善く与えられたものである』と施主たちに清らかな信を生じさせる。「称賛されるべき」とは、讃嘆されるべき。「この大長老もまた」などは、ある不放逸に住する年長の者を指して語る者たちによって言われたことである。遠離の場所に入った。夕方に如理作意を増大させて出てくる、という意図である。遍処(カシナ)の準備修習を行うのであり、他のいかなる雑務も行わない。等至(禅定)を生起させるのであり、無益な思念を行わない。「すべての点において」とは、初めにはまず分断によって煩悩から心を遠離させ、それから伏鎮によって、断滅によって、安息によって、とあらゆる様態によって心遠離を満たす。「糞掃衣を身にまとう」とは、これによって過剰に求める性質のないことを示す。「教法を緩みなく受け止めて」とは、これによって緩慢さのないことを、「諸々の蓋(煩悩)を離れて」とは、これによって退落において重荷を下ろしていないことを、「果等至を」などによって遠離を先導とすることを示している。

33. Tatrāvusoti ettha iti-saddo ādiattho. Tena ‘‘lobho ca pāpako’’tiādinayappavattaṃ uparidesanaṃ anavasesato pariyādiyati. Ko anusandhīti yā sā bhagavatā saṃkilesapakkhena saha dhammadāyādapaṭipattibhāvinī ‘‘dhammadāyādā me, bhikkhave, bhavatha, mā āmisadāyādā’’tiādinā desanā uddiṭṭhā, taṃ ‘‘satthu pavivittassa viharato’’tiādinā ārabhitvā aṭṭhārasavārapaṭimaṇḍitāya niddesadesanāya vibhajitvā tato paraṃ ‘‘tatrāvuso lobho ca pāpako’’tiādinayāya uparidesanāya sambandhaṃ pucchati. Evanti saṃkilesapakkhe ‘‘nappajahantī’’ti pahānābhāvadassanavasena, vodānapakkhe ‘‘pajahantī’’ti pahānasabbhāvadassanavasenāti evaṃ. Aniddhāritasarūpā yaṃ-taṃ-saddehi dhamma-saddena sāmaññato ye pahātabbadhammā vuttā, te sarūpato dassetunti yojanā. Ime teti ettha kasmā lobhādayo eva pahātabbadhammā vuttā, nanu ito aññepi mohadiṭṭhivicikicchādayo pahātabbadhammā santīti? Saccaṃ santi, te pana lobhādīhi tadekaṭṭhatā gahitā eva hontīti vuttā. Atha vā imesaṃyevettha gahaṇe kāraṇaṃ parato āvi bhavissati.

33. 「そこにおいて友らよ」における「〜と(イティ)」という言葉は、始めを意味する。それによって『貪欲もまた悪しきものであり』などの筋道によって説かれた以降の教えを残余なく総括している。「いかなる文脈の結合があるのか」とは、世尊によって染汚の側とともに法相続の実践となるべきものとして『比丘たちよ、わが法の相続者となるがよい。財の相続者となってはならない』などによって説かれた総説を、『師が遠離して住まわれるのに』などから始めて十八の節によって飾られた詳説の説法によって分別し、それより後に『そこにおいて友らよ、貪欲もまた悪しきものであり』などの筋道による以降の説法との関連を問うているのである。「このように」とは、染汚の側において『断じない』と断滅の欠如を示すことによって、清浄の側において『断ずる』と断滅の存在を示すことによって、このように。「具体的な姿が判別されていない」とは、「いかなる・その」という言葉によって、「法」という言葉によって一般的に述べられた断ぜられるべき諸法を、具体的に示すために、と結びつく。「これらそれらは」において、なぜ貪欲などだけが断ぜられるべき諸法として説かれたのか、これら以外にも癡・邪見・疑などの断ぜられるべき諸法が存在するのではないか。確かに存在するが、それらは貪欲などと同じ意味をもつものとして把握されているからこそ説かれたのである。あるいはこれらのみがここで把握された理由は、後に明らかになるであろう。

Idāni upacayena anusandhiṃ dassetuṃ **‘‘apicā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha sāvakānaṃ yassa dhammassa dāyādabhāvo satthu abhirucito, so ‘‘cattāro satipaṭṭhāne bhāvetī’’tiādinā akatthetvā ‘‘vivekaṃ anusikkhanti, te ca dhamme pajahanti, na ca bāhulikā’’tiādinā kathitattā heṭṭhā pariyāyeneva dhammo kathitoti vuttaṃ. ‘‘Te ca dhamme nappajahanti, okkamane pubbaṅgamā’’tiādinā āmisaṃ pariyāyenapi kathitaṃ. ‘‘Siyā ca me piṇḍapāto’’tiādinā, ‘‘bāhulikā ca hontī’’tiādinā ca āmisaṃ nippariyāyenapi kathitaṃ. Atha vā yāyaṃ bhagavatā āmisadāyādapaṭikkhepanā dhammadāyādatā vuttā, yañca tadatthaṃ vibhajantena mahātherena attanā vivekānusikkhanādi vuttaṃ, tadubhayaṃ hetuvasena vibhāvetuṃ **‘‘tatrāvuso, lobho cā’’**tiādi vuttaṃ. Hetunirodhena hi saṃkilesapakkhassa, nirodhahetusampādanena ca vodānapakkhassa tappāpakatā.

今や、重層的な文脈の結合を示すために『さらにまた』などと言われた。そこにおいて、弟子たちがいかなる法の相続者となることが師の御心にかなうのか、その法は『四念処を修習する』などのように語られることなく、『遠離に随学し、それらの法を断じ、多く求める者ではない』などによって語られたため、下文において方便(仮説)によって法が語られたと言われた。『そしてそれらの法を断ぜず、退落において先頭に立ち』などによって財が方便(仮説)によっても語られた。『わたしに托鉢の食物があるかもしれない』などによって、また『多く求める者となり』などによって財が直接(非仮説)にも語られた。あるいは、世尊によって財の相続者であることが戒められて法の相続者であることが説かれ、その意味を分別する大長老によって自ら遠離への随学などが説かれたが、それら両方を原因によって解明するために『そこにおいて友らよ、貪欲もまた』などと言われた。実に原因の止滅によって染汚の側が、止滅の原因の成就によって清浄の側が、その境地に到達させるものとなるからである。

Atītadesanānidassananti atītāya therena yathādesitāya desanāya ca paccāmasanaṃ. Tenevāha **‘‘satthu pavivittassa…pe… desanāyanti vuttaṃ hotī’’**ti. Tatthāti yaṃ vuttaṃ visesato ‘‘yesaṃ dhammānaṃ satthā pahānamāhā’’ti, etasmiṃ pade. Tattha hi pahātabbadhammā lobhādayo sāmaññato vuttā. Lāmakāti nihīnā. Lobhadosā hi hetuto paccayato sabhāvato phalato nissandato saṃkiliṭṭhapakatikā, āyatiṃ dukkhassa pāpanaṭṭhena vā pāpakā. Lubbhanalakkhaṇoti ārammaṇassa abhigijjhanalakkhaṇo. Tathā hi so lubbhanti tena, sayaṃ vā lubbhati, lubbhanamattameva vā tanti ‘‘lobho’’ti vuccati. Rasādīsu abhisaṅgaraso, apariccāgapaccupaṭṭhāno, saṃyojaniyesu dhammesu assādadassanapadaṭṭhāno. Dussanalakkhaṇoti ārammaṇe byāpajjanalakkhaṇo. Tathā hi so dussanti tena, sayaṃ vā dussati, dussanamattameva vā tanti ‘‘doso’’ti vuccati. Rasādīsu visappanaraso, sanissayadahanaraso vā, dussanapaccupaṭṭhāno, āghātavatthupadaṭṭhāno.

「過去の説法の例示」とは、過去に長老によって説かれたとおりの説法を振り返ることを意味する。それゆえに「寂静なる世尊の……乃至……説法において、と言われたのである」と述べられたのである。「そこにおいて」とは、「世尊がそれらの法の捨断を説かれた」と特段に言われたその句において、である。実にそこでは、捨断されるべき貪などの法が一般的に説かれている。「劣悪な」とは、卑しいことである。実に貪と瞋は、因からも条件からも自性からも果報からも流出からも汚れた本性を有し、あるいは将来に苦をもたらすという意味で悪しきものである。「貪る特徴」とは、対象に執着する特徴のことである。実にそれによって人々が貪り、あるいは自らが貪り、あるいはまさに貪ることそのものであるがゆえに「貪(ロバ)」と呼ばれる。味覚などの対象においては固執する働きがあり、捨離しないこととして現れ、結縛をもたらす法に対して甘受を見ることが近因である。「瞋る特徴」とは、対象に対して害意を生じる特徴のことである。実にそれによって人々が損なわれ、あるいは自らが瞋り、あるいはまさに瞋ることそのものであるがゆえに「瞋(ドーサ)」と呼ばれる。味覚などの対象においては拡散する働き、あるいは依り処を焼く働きがあり、損なうこととして現れ、怨恨の根拠が近因である。

Tesūtiādinā dassanena lobhadosānaṃ ekantato pahātabbatādassanaṃ. Āmisadāyādassa paccayānaṃ lābhe hotīti idaṃ lobhassa ārammaṇaggahaṇasabhāvataṃ sandhāya vuttaṃ, taṇhāya vasena pana anugijjhanaṃ sandhāya **‘‘aladdhaṃ patthetī’’**ti āha. Alābhe paccayānaṃ āmisadāyādassa hotīti ānetvā yojanā. Alabhantoti ettha ‘‘paccaye’’ti vibhattiṃ pariṇāmetvā yojetabbaṃ. Vighātavāti ‘‘yampicchaṃ na labhati, tampi dukkha’’nti (ma. ni. 1.120; vibha. 190) vacanato icchāvighātavā. Lobho ca deyyadhamme hoti āmisadāyādassāti sambandho. Esa nayo anantarapadepi. Deyyadhammeti ca idaṃ nidassanamattaṃ sattakelāyanādivasenapi tassa lobhuppattisabbhāvato. ‘‘Taṇhaṃ paṭicca pariyesanā, pariyesanaṃ paṭicca lābho’’ti evamādayo nava taṇhāmūlakā. Paripūreti āmisadāyādoti vibhattivipariṇāmo veditabbo. Āvāsamacchariyādīni pañca macchariyāni.

「それらにおいて」などの提示によって、貪と瞋が決定的に捨断されるべきであることが示される。「財の相続者が資具を得たときにある」とは、貪が対象を捉える本性であることを指して説かれたものであるが、渇愛による執着を指して「得られないものを求める」と述べたのである。「財の相続者が資具を得られないときにある」と文脈を補って解釈される。「得られないとき」において、「資具を」という格変化を転換して解釈すべきである。「苦悩を持つ」とは、「求めても得られない、それもまた苦である」という言葉から、欲望が妨げられた苦悩を持つことである。「そして貪は、財の相続者にとって施されるべき物において生じる」と結びつけられる。この理路は直後の句でも同様である。「施されるべき物において」とは、有情への愛着などによっても貪が生じることの単なる例示にすぎない。「渇愛に縁りて追求あり、追求に縁りて利得あり」などの九つの渇愛を根本とする法がある。「満たす」においては、「財の相続者が」という格変化の転換を知るべきである。住居への物惜しみなどの五つの物惜しみがある。

Magganti ariyamaggaṃ. So hi kilese mārento gacchati, nibbānatthikehi ca maggīyati, sayaṃ vā sacchikiriyābhisamayavasena nibbānaṃ maggatīti nippariyāyena ‘‘maggo’’ti vuccati. Eko antoti itarena asammisso eko koṭṭhāso, hīnatāya vā lāmakaṭṭhena eko anto. Kāmaṃ aññepi kusaladhammā ete ante asampayogato na upenti, tehi vimuttā eva, ayaṃ pana accantavimuttiyā na upetīti āha **‘‘vimutto etehi antehī’’**ti. Tasmāti antadvayavimuttattā. Etesaṃ majjhe bhavattāti idaṃ maggassa ubhayantavimuttatāya eva vuttaṃ, na tappariyāpannatāya, vaṭṭadukkhanissaraṇatthikehi paṭipajjitabbato ca. Tathāti yathā itarena asammissaṭṭhena lāmakaṭṭhena ca lobho eko anto, tathā kāmasukhallikānuyogoti attho. Esa nayo sesesupi. Maggassa anupagamanañca nesaṃ antānaṃ sabbaso appavattikaraṇeneva daṭṭhabbaṃ. Purimanayenāti ‘‘ete dve ante na upetī’’tiādinā pubbe vuttanayena.

「道を」とは、聖なる道を意味する。実にそれは煩悩を殺して進み、涅槃を求める者たちによって求められ、あるいは自ら現証と洞察によって涅槃を求めるがゆえに、無比の表現として「道(マッガ)」と呼ばれる。「一方の極端」とは、他と混ざり合わない一区分、あるいは低劣であることによって劣悪な意味での一方の極端である。確かに他の善法もこれら極端と結合しないゆえに陥ることはなく、それらから解脱してはいるが、この道は決定的な解脱によって陥らないため、「これらの極端から解脱した」と述べられたのである。「それゆえに」とは、両極端から解脱しているがゆえにである。「それらの中間にあることによって」とは、道が両極端から解脱していることそのものについて説かれたのであり、それらに含まれているからではなく、また輪廻の苦から解脱を求める者たちによって実践されるべきであるからである。「同様に」とは、他と混ざり合わないという意味、また劣悪であるという意味で貪が一つの極端であるように、そのように欲楽への耽溺も同様であるという意味である。この理路は残りにおいても同様である。そして道がそれらに近づかないことは、それらの極端を全く機能させないことによってのみ理解されるべきである。「先の理路によって」とは、「これら二つの極端に近づかない」などと以前に説かれた理路によってである。

Saccānanti catunnaṃ ariyasaccānaṃ. Dassanapariṇāyakaṭṭhenāti dassanassa pariññābhisamayādibhedassa parito sabbathā nayanaṭṭhena pavattanaṭṭhena. Cakkhukaraṇīti dhammacakkhussa karaṇī nipphādikā. Tayidaṃ satipi paṭipadāya dhammacakkhuto anaññatte avayavavasena sijjhamāno attho samudāyena kato nāma hotīti upacāravasena vuttanti daṭṭhabbaṃ. Tathā hi vakkhati **‘‘maggoyeva hi maggatthāya saṃvattati maggena kātabbakiccakaraṇato’’**ti. Ñāṇāyāti yāthāvato jānanāya. Tenāha **‘‘viditakaraṇaṭṭhenā’’**ti. Visesañātabhāvāpādanañhi viditakaraṇaṃ. Vūpasamanatoti samucchindanavasena vūpasamanato. Dukkhādīnaṃ pariññeyyādibhāvo viya abhiññeyyabhāvopi maggavaseneva pākaṭo hotīti āha **‘‘catunnampi saccānaṃ abhiññeyyabhāvadassanato’’**ti, vibhāvanatoti attho. Sambodhoti maggo ‘‘sambujjhati etenā’’ti katvā. Tassatthāyāti maggakiccatthāya. Na hi maggato añño maggakiccakaro atthi. Tenāha **‘‘maggoyeva hī’’**tiādi. Atha vā sammādiṭṭhi uppajjamānā sahajātādipaccayabhāvena itare uppādeti, evaṃ sesamaggadhammāpīti evampi maggatthāya saṃvattanaṃ veditabbaṃ. Sacchikiriyāya paccakkhakammāyāti sacchikaraṇasaṅkhātapaccakkhakammāya. Nibbānāyāti vā anupādisesanibbānāya. Upasamāyāti iminā saupādisesanibbānaṃ gahitanti. Ayanti ‘‘sā hi saccāna’’ntiādinā yathāvutto atthanayo. Etthāti ‘‘cakkhukaraṇī’’tiādīsu padesu. Sāro sundaro anapanīto. Ito aññathāti ‘‘dukkhassa pariññāya diṭṭhivisuddhiṃ karotīti cakkhukaraṇī’’tiādinā atthavaṇṇanāpapañco kevalaṃ vitthāratthāya.

「諸真理の」とは、四聖諦のことである。「正見の導き手という意味において」とは、遍知や現観などの分類による正見を、完全にあらゆる仕方で導くという意味において、機能させるという意味においてである。「眼を生じさせる」とは、法眼を生じさせる、成就させることである。これは道が法眼と別物ではないとしても、部分によって成就される事柄が全体によってなされたと比喩的に表現されたものと知るべきである。実に「道そのものが、道によってなされるべき務めを果たすことから、道のために資する」と後述されるとおりである。「智のために」とは、あるがままに知るためにである。それゆえに「知らしめるという意味において」と述べられたのである。卓越して知られた状態をもたらすことこそが、知らしめることである。「寂静から」とは、断絶による寂静からである。苦などの遍知されるべき性質と同様に、証知されるべき性質も道によってこそ明らかになるがゆえに、「四つの真理すべてが証知されるべき性質を示すことから」と述べたのであり、明示することからという意味である。「等覚(サンボディ)」とは、「これによって覚知する」ということから道のことである。「そのために」とは、道の務めのためにである。道をおいて他に道の務めを果たすものはない。それゆえに「道そのものが実に」などと言われたのである。あるいは、正見が生じるにあたり倶生などの条件となって他を生じさせ、このように残りの道の法も同様であることから、このように道のために資することを知るべきである。「現証のために、直接の体験のために」とは、現証と呼ばれる直接の体験のために。「涅槃のために」とは、無余涅槃のために。「寂静のために」とは、これによって有余涅槃が取られたのである。「これ」とは、「実にそれは真理の」などと述べられたとおりの意義の理路である。「ここにおいて」とは、「眼を生じさせる」などの句においてである。本質的で、善美で、揺るぎないものである。「これと異なる」とは、「苦の遍知のために見清浄をなすゆえに、眼を生じさせる」などの詳細な注釈の展開であり、単なる詳解のためのものである。

Ayamevāti ettha ayanti iminā attano aññesañca tassaṃ parisāyaṃ ariyānaṃ maggassa paccakkhabhāvaṃ dasseti. Āsannapaccakkhavācī hi ayaṃ-saddo. Aññamaggapaṭisedhanatthanti aññassa nibbānagāmimaggassa atthibhāvapaṭisedhanatthaṃ. Sattāpaṭikkhepo hi idha paṭisedhanaṃ alabbhamānattā aññassa maggassa. Buddhādīnaṃ sādhāraṇabhāvo anaññatā. Tenāha brahmā sahampati –

「まさにこの」において、「この」という語によって自己およびその会衆の聖者たちにとって道が直接的なものであることを示す。実に「この」という語は、目前の直接のものを表すからである。「他の道を排除するため」とは、涅槃に至る他の道が存在することを否定するためである。存在を否定することは、他の道が見出されないことによるここでの排除である。仏陀らに共通する性質は、他と異ならないことである。それゆえに娑婆世界の主である梵天は言った――

‘‘Ekāyanaṃ jātikhayantadassī,

「生滅の尽きる境地を見極め、

Maggaṃ pajānāti hitānukampī;

衆生の利益を憐れむ者は、一筋の道を知る。

Etena maggena tariṃsu pubbe,

かつてはこの道によって(聖者たちは)渡り、

Tarissanti ye ca taranti ogha’’nti. (saṃ. ni. 5.384, 409; mahāni. 191; cūḷani. 107, 121; netti. 170);

また(未来に)渡るであろう者たちも、現に(暴流を)渡っている者たちもそうである」と。

Ārakattāti iminā niruttinayena ariya-saddasiddhimāha. Aripahānāyāti atthavacanamattaṃ. Arayo pāpadhammā yanti apagamanti etenāti ariyo. Ariyena desitoti ettha ariyassa bhagavato ayanti ariyo. Ariyabhāvappaṭilābhāyāti ettha ariyakaro ariyoti uttarapadalopena ariya-saddasiddhi veditabbā. Yasmā maggaṅgasamudāye maggavohāro hoti, samudāyo ca samudāyīhi samannāgato nāma hotīti āha **‘‘aṭṭhahi aṅgehi upetattā’’**ti, tasmā attano avayavabhūtāni aṭṭha aṅgāni etassa santīti aṭṭhaṅgiko. Yasmā pana paramatthato aṅgāniyeva maggo, tasmā vuttaṃ **‘‘na ca aṅgavinimutto’’**ti yathā ‘‘chaḷaṅgo vedo’’ti. Sadisūdāharaṇaṃ pana dassento **‘‘pañcaṅgikatūriyādīni viyā’’**ti āha. Ādi-saddena caturaṅginī senāti evamādīnaṃ saṅgaho. Mārento gacchatīti niruttinayena saddasiddhimāha. Maggatīti gavesati. Ariyamaggo hi nibbānaṃ ārammaṇaṃ karonto taṃ gavesanto viya hotīti. Maggīyati nibbānatthikehi vivaṭṭūpanissayapuññakaraṇato paṭṭhāya tadatthaṃ paṭipattito. Gammatīti etena ādiantavipariyāyena saddasiddhimāha yathā ‘‘kakū’’ti. **‘‘Seyyathidanti nipāto’’**ti vatvā tassa sabbaliṅgavibhattivacanasādhāraṇatāya **‘‘katamāni tāni aṭṭhaṅgānī’’**ti vuttaṃ. Nanu ca aṅgāni samuditāni maggo antamaso sattaṅgavikalassa ariyamaggassa abhāvatoti? Saccametaṃ saccapaṭivedhena, maggapaccayatāya pana yathāsakaṃ kiccakaraṇena paccekampi tāni maggoyevāti āha **‘‘ekamekañhi aṅgaṃ maggoyevā’’**ti, aññathā samuditānampi nesaṃ maggakiccaṃ na sambhaveyyāti. Idāni tamevatthaṃ pāḷiyā samatthetuṃ **‘‘sammādiṭṭhimaggo ceva hetu cā’’**ti vuttaṃ.

「遠離していることから」とは、この語源的解釈によって「聖なる(アリヤ)」という語の成立を説いている。「敵を断ずるために」とは、単なる意義の説明である。敵である悪しき法が、これによって去り行く(ヤンティ)がゆえに「アリヤ」である。「聖者によって説かれた」において、聖なる世尊のそれ(道)であるから「アリヤ」である。「聖者の状態を得るために」において、聖者となすものがアリヤであり、後続の語の省略によって「アリヤ」という語が成立したと知るべきである。道肢の集合体において「道」という表現が用いられ、集合体は要素を具備したものであることから、「八つの部分(支分)を具備していることから」と述べたのであり、それゆえに自己の部分である八つの支分を有するから「八支」である。しかし勝義においては支分そのものが道であるため、「六支を有するヴェーダ」というが如く、「支分から離れたものではない」と説かれたのである。同種の例を示して「五種の楽器などのように」と述べた。「など」という語によって四種からなる軍隊などが包括される。「殺して進む(マーレント・ガッチャティ)」という語源的解釈によって語の成立を説く。「求める(マッガティ)」とは、探求することである。実に聖道は涅槃を対象としながら、それを探求するかのようなものであるからである。解脱への依処となる功徳を積むことから始めて、その目的のために実践することから、涅槃を求める者たちによって求められる(マギーヤティ)。「進まれる(ガンマティ)」とは、この最初と最後の転換によって「カクー」の如く語の成立を説いている。「『すなわち(セッヤティダン)』とは不変化詞である」と述べて、それがすべての性・格・数に共通することから「それら八つの支分とは何であるか」と説かれた。しかし、支分が集まったものが道であり、少なくとも七支を欠いた聖道は存在しないのではないか。真理の通達としてはそのとおりであるが、道条件としてそれぞれ自らの務めを果たすことによって個々にもそれらは道そのものであることから、「実に個々の支分が道そのものである」と述べたのであり、そうでなければ集まったとしてもそれらに道の務めは生じないからである。今、まさにその意味を聖典によって証明するために、「正見は道であり因である」と述べられたのである。

Sammā aviparītaṃ pariññābhisamayādivasena catunnaṃ saccānaṃ dassanaṃ paṭivijjhanaṃ lakkhaṇaṃ etissāti sammādassanalakkhaṇā. Sammā aviparītaṃ sampayuttadhamme nibbānārammaṇe abhiniropanaṃ appanālakkhaṇaṃ etassāti sammāabhiniropanalakkhaṇo musāvādādīnaṃ visaṃvādanādikiccatāya lūkhānaṃ apariggāhakānaṃ paṭipakkhabhāvato siniddhasabhāvattā sampayuttadhamme, sammāvācappaccayasubhāsitasotārañca janaṃ sammadeva pariggaṇhātīti sammāvācā sammāpariggaho lakkhaṇaṃ etissāti sammāpariggahalakkhaṇā. Yathā kāyikā kiriyā kiñci kattabbaṃ samuṭṭhāpeti, sayañca samuṭṭhahanaṃ ghaṭanaṃ hoti, tathā sammākammantasaṅkhātā viratipīti sammāsamuṭṭhānalakkhaṇo sammākammanto. Sampayuttadhammānaṃ vā ukkhipanaṃ samuṭṭhānaṃ kāyikakiriyāya bhārukkhipanaṃ viya. Jīvamānassa sattassa, sampayuttadhammānaṃ vā suddhi vodānaṃ, ājīvasseva vā jīvitappavattiyā suddhi vodānaṃ etenāti sammāvodānalakkhaṇo sammāājīvo. Kosajjapakkhe patituṃ adatvā sampayuttadhammānaṃ paggaṇhanaṃ anubalappadānaṃ paggaho. Ārammaṇaṃ upagantvā ṭhānaṃ, tassa vā anissajjanaṃ upaṭṭhānaṃ. Ārammaṇe sampayuttadhammānaṃ sammā, samaṃ vā ādhānaṃ samādhānaṃ. Sammā saṅkappeti sampayuttadhamme ārammaṇe abhiniropetīti sammāsaṅkappo. Sammā vadati etāyāti sammāvācā. Sammā karoti etenāti sammākammaṃ, tadeva sammākammanto. Sammā ājīvati etenāti sammāājīvo. Sammā vāyamati ussahati etenāti sammāvāyāmo. Sammā sarati anussaratīti sammāsati. Sammā samādhiyati cittaṃ etenāti sammāsamādhīti evaṃ sammāsaṅkappādīnaṃ nibbacanaṃ veditabbaṃ.

正しく誤りなく、遍知や現観などによって四聖諦を見ること、通達することがその特徴であるから「正見の特徴」である。正しく誤りなく、相応する諸法を涅槃の対象へ導き置くこと、専念させることがその特徴であるから「正思惟の特徴」である。嘘などの偽りをなす働きのゆえに粗野で他を容認しないものと敵対することから、潤いのある性質によって相応する諸法を、また正語の条件である善説を聞く人々を正しく包容するから正語であり、正しい包容がその特徴であるから「正語の特徴」である。身体的な動作がなすべきことを引き起こし、自らも生起し結合するように、正業と呼ばれる離悪も同様であるから、正業は「正しい生起の特徴」を持つ。あるいは相応する諸法を向上させることが生起であり、身体の動作によって重荷を持ち上げるようなものである。生きてある有情の、あるいは相応する諸法を清らかにすること、あるいは生計そのものの生活の営みを清らかにすることがこれによるため、正命は「正しい清浄の特徴」を持つ。怠惰の側に落ち込ませず、相応する諸法を奮起させ援助することが奮起(精進)である。対象に向かって留まること、あるいはそれを手放さないことが現起(念)である。対象において相応する諸法を正しく、あるいは等しく置くことが定(三昧)である。正しく思惟し、相応する諸法を対象へと導き置くから「正思惟」である。これによって正しく語るから「正語」である。これによって正しく行為するから「正業」であり、それこそが正しい行為の働きである。これによって正しく生活するから「正命」である。これによって正しく努め励むから「正精進」である。正しく心に留め随念するから「正念」である。これによって心が正しく定まるから「正定」である。このように正思惟などの語義解釈を知るべきである。

Micchādiṭṭhinti sabbampi micchādassanaṃ. Tappaccanīyakileseti ettha taṃ-saddena sammādiṭṭhi. Na hi micchādiṭṭhiyā kilesā paccanīyā, atha kho sammādiṭṭhiyā. Avijjañcāti avijjāggahaṇaṃ tassā saṃkilesadhammānaṃ pamukhabhāvato. Tenāha ‘‘avijjā, bhikkhave, pubbaṅgamā akusalānaṃ dhammānaṃ samāpattiyā’’ti (saṃ. ni. 5.1). Dassananivārakassa sammohassa samugghātena asammohato. Ettha ca micchādiṭṭhiṃ…pe… pajahatīti etena pahānābhisamayaṃ, nibbānaṃ ārammaṇaṃ karotīti etena sacchikiriyābhisamayaṃ, sampayuttadhammetiādinā bhāvanābhisamayaṃ sammādiṭṭhikiccaṃ dasseti. Pariññābhisamayo pana nānantariyatāya atthato vutto eva hotīti daṭṭhabbo.

「邪見を」とは、すべての誤った見解のことである。「それと対立する煩悩を」において、「それ」という語によって正見を指す。実に邪見にとって煩悩が対立するのではなく、正見にとって対立するのである。「無明をも」とは、それが汚濁の諸法の先駆であることから無明が挙げられている。それゆえに「比丘たちよ、無明は不善の諸法の獲得において先駆をなす」と説かれたのである。正見を妨げる迷妄を根絶することによって無迷妄であることからである。そしてここにおいて、「邪見を……乃至……捨てる」ということによって捨断の現観を、「涅槃を対象とする」ということによって現証の現観を、「相応する諸法を」などによって修習の現観という正見の務めを示している。遍知の現観については、間断のないことによって実質的にすでに説かれていると知るべきである。

Kathaṃ pana ekameva ñāṇaṃ ekasmiṃ khaṇe cattāri kiccāni sādhentaṃ pavattati. Na hi tādisaṃ loke diṭṭhaṃ, na āgamo vā tādiso atthīti na vattabbaṃ. Yathā hi padīpo ekasmiṃyeva khaṇe vaṭṭiṃ dahati, snehaṃ pariyādiyati, andhakāraṃ vidhamati, ālokañca vidaṃseti, evametaṃ ñāṇanti daṭṭhabbaṃ. Maggasamaṅgissa ñāṇaṃ dukkhepetaṃ ñāṇaṃ, dukkhasamudayepetaṃ ñāṇaṃ, dukkhanirodhepetaṃ ñāṇaṃ, dukkhanirodhagāminiyā paṭipadāyapetaṃ ñāṇanti suttapadaṃ (vibha. 754) ettha udāharitabbaṃ. Yathā ca sammādiṭṭhi pubbabhāge dukkhādīsu visuṃ visuṃ pavattitvā maggakkhaṇe ekāva catunnaṃ ñāṇānaṃ kiccaṃ sādhentī pavattati, evaṃ sammāsaṅkappādayo pubbabhāge nekkhammasaṅkappādināmakā hutvā kāmasaṅkappādīnaṃ pajahanavasena visuṃ visuṃ pavattitvā maggakkhaṇe tiṇṇaṃ catunnañca kiccaṃ sādhentā pavattanti. Sammāsamādhi pana pubbabhāgepi maggakkhaṇepi nānāyeva hutvā pavattatīti kāmañcettha sammādiṭṭhiyā sabbepi pāpadhammā paṭipakkhā, ujuvipaccanīkatādassanavasena pana sammādiṭṭhiyā kiccaniddese micchādiṭṭhiggahaṇaṃ kataṃ. Teneva ca **‘‘tappaccanīyakilese cā’’**ti vuttaṃ.

では、どのようにして唯一の智が一瞬のうちに四つの務めを成し遂げて機能するのか。実にそのようなものは世間で見られず、そのような聖典の教えもない、などと言ってはならない。灯火が一瞬のうちに灯心を燃やし、油を消費し、暗闇を払い、光明を現すように、そのようにこの智も理解されるべきである。「道を具備した者の智は、苦における智であり、苦の集における智であり、苦の滅における智であり、苦の滅に至る道における智である」という経の句をここに引用すべきである。そして正見が前段階において苦などに対して個別に機能し、道の一瞬において唯一でありながら四つの智の務めを成し遂げて機能するように、そのように正思惟なども前段階において出離の思惟などと名付けられて欲の思惟などを捨てることによって個別に機能し、道の一瞬において三つや四つの務めを成し遂げて機能するのである。しかし正定は前段階においても道の一瞬においても多様に機能するのであり、ここでは正見にとってすべての悪しき法が敵対するものであるとしても、直接に対立することを示す観点から正見の務めの解説において邪見が挙げられたのである。それゆえに「それと対立する煩悩をも」と述べられたのである。

Yesaṃ kilesānaṃ anupacchindane sammādiṭṭhi na uppajjeyya, te micchādiṭṭhiyā sahajekaṭṭhatāya tadekaṭṭhāva tappaccanīyakilesā daṭṭhabbā. Sammāsaṅkappādīnaṃ kiccaniddesepi eseva nayo. Sotāpattimaggādivasena cattāro lokuttaramaggabhāvasāmaññena ekato katvā. Lobhadosā samudayasaccaṃ, yassa pana so samudayo taṃ dukkhasaccaṃ, pahānabhāvo maggasaccaṃ, yattha taṃ pahānaṃ, taṃ nirodhasaccanti imāni cattāri saccāni. Kasmā panettha lobhadosānaṃ visuṃ ādito ca gahaṇaṃ? Visuṃ gahaṇaṃ tāva tathābujjhanakānaṃ puggalānaṃ ajjhāsayavasena, imehi lobhadosehi āmisadāyādatā, tappahānena ca dhammadāyādatāti dassanatthaṃ, tadanusārena catusaccayojanāya evaṃ ekekassa niyyānamukhaṃ hotīti dassanatthañca. Sesavāresupi eseva nayo. Ādito gahaṇaṃ pana ativiya oḷārikatāya supākaṭabhāvato vakkhamānānaṃ aññesañca pāpadhammānaṃ mūlabhāvato tadekaṭṭhatāya ca veditabbaṃ.

それらの煩悩を断滅しなければ正見が生じないような煩悩は、邪見と倶生して同一の基盤にあることから、同一の基盤にある「それと対立する煩悩」と理解されるべきである。正思惟などの務めの解説においてもこの理路は同様である。預流道などによる四つの出世間道の共通の性質によって一つにまとめて解釈する。貪と瞋は集諦であり、それが集起する元となるものは苦諦であり、捨断された状態は道諦であり、その捨断があるところ(境地)は滅諦である、これら四つの真理である。では、なぜここにおいて貪と瞋が個別に、また最初に挙げられたのか。個別に挙げられたのは、まずそのように覚知する人々の意向に従って、これら貪と瞋によって財の相続者となり、その捨断によって法の相続者となることを示すためであり、それに従って四諦を配当することにより、このように個々の解脱の門となると示すためである。残りの段落でもこの理路は同様である。最初に挙げられたのは、極めて粗大であって極めて明白であること、後述される他の悪しき諸法の根本であること、それらと同一の基盤にあることによって知るべきである。

Kujjhanalakkhaṇoti kuppanasabhāvo, cittassa byāpajjanāti attho. Caṇḍikkaṃ luddatā, kururabhāvoti attho. Āghātakaraṇarasoti ‘‘anatthaṃ me acarī’’tiādinā citte āghātassa karaṇaraso. Dussanapaccupaṭṭhānoti saparasantānassa vināsanapaccupaṭṭhāno laddhokāso viya sapatto. Upanandhanaṃ nānappakārassa uparūpari nandhanaṃ viya hotīti katvā. Tathā hesa **‘‘veraappaṭinissajjanaraso, kodhānupabandhabhāvapaccupaṭṭhāno’’**ti ca vutto. Aparakāle upanāhotiādīti ādi-saddena ‘‘upanayhanā upanayhitattaṃ āṭhapanā ṭhapanā saṇṭhapanā anusaṃsandanā anuppabandhanā daḷhīkamma’’ntiādīnaṃ (vibha. 891) niddesapadānaṃ atthavaṇṇanaṃ saṅgayhati. Upanāhasamaṅgī hi puggalo verassa anissajjanato ādittapūtialātaṃ viya jalati eva, cittañcassa dhoviyamānaṃ acchacammaṃ viya, masimakkhitapilotikā viya ca na sujjhateva.

「怒る特徴」とは、憤る本性であり、心が害意を抱くという意味である。「狂暴さ」とは、残忍さ、冷酷な状態という意味である。「怨恨をなす働き」とは、「彼は私に不利益をなした」などとして心に怨恨をなす働きである。「損なうこととして現れる」とは、好機を得た敵のように、自他の相続(心身)を破滅させることとして現れることである。「怨み」とは、種々の仕方で重ね重ね結びつけるかのようであることから名付けられる。実にそれは「恨みを放棄しない働きがあり、怒りを継続させる状態として現れる」とも説かれている。「後の時に怨みとなり」などの「など」という語によって、「怨恨を結ぶこと、怨恨を結んだ状態、固着、留置、確立、結びつき、継続、堅固にすること」などの解説句の註釈が包括される。実に怨みを具備した人は、恨みを捨てないことから、燃え盛る腐った薪のように燃え上がり、その心は洗われる澄んだ革のように、墨に汚れた襤褸のように、決して清らかにはならない。

Paraguṇamakkhanalakkhaṇoti udakapuñchaniyā udakaṃ viya paresaṃ guṇānaṃ makkhanasabhāvo. Tathābhūto cāyaṃ attano kārakaṃ gūthena paharantaṃ gūtho viya paṭhamataraṃ makkheti evāti daṭṭhabbo. Tathā hessa saparasantānesu guṇaṃ makkhetīti makkhoti vuccati. Yugaggāho samadhuraggahaṇaṃ asamānassapi abhūtassa samāropanaṃ. Samabhāvakaraṇaṃ samīkaraṇaṃ. Paresaṃ guṇappamāṇena attano guṇānaṃ upaṭṭhānaṃ paccupaṭṭhapetīti āha **‘‘paresaṃ guṇappamāṇena upaṭṭhānapaccupaṭṭhāno’’**ti. Tathā hesa paresaṃ guṇe ḍaṃsitvā viya attano guṇehi same karotīti paḷāsoti vuccati.

「他人の徳を覆う特徴」とは、水拭き布が水を拭き取るように、他人の徳を覆い消す本性のことである。そのようになったこれは、汚物で攻撃する者を汚物が先により汚すように、まさに自らをなす者をまず覆い汚すと知るべきである。実にこれは自他の心身において徳を覆い消す(マッケーティ)がゆえに「覆(マッカ)」と呼ばれる。「張り合うこと」とは、同等の重荷を背負うこと、同等でないものを根拠なく同等に位置づけることである。「等しい状態にすること」とは、同等化することである。他人の徳の分量によって自己の徳を位置づけ現すことから、「他人の徳の分量によって現れることとして現れる」と述べたのである。実にこれは他人の徳を噛み砕くかのようにして、自己の徳と同等にするがゆえに「悩(パラーサ)」と呼ばれる。

Parasampattikhīyanaṃ parasampattiyā usūyanaṃ. Issati parasampattiṃ na sahatīti issā. Tathā hesā **‘‘parasampattiyā akkhamanalakkhaṇā’’**ti vuccati. Tatthāti parasampattiyaṃ. Anabhiratirasā abhiratipaṭipakkhakiccā. Vimukhabhāvapaccupaṭṭhānā parasampattiṃ passitumpi appadānato. Nigūhanalakkhaṇaṃ attano sampattiyā parehi sādhāraṇabhāvāsahanato. Asukhāyanaṃ na sukhanaṃ dukkhanaṃ, arocananti adhippāyo.

「他人の繁栄を嫌悪すること」とは、他人の繁栄を妬むことである。他人の繁栄を嫉視し、耐えられないから「嫉(イッサー)」である。実にそれは「他人の繁栄に耐えられない特徴」と呼ばれる。「そこにおいて」とは、他人の繁栄においてである。「不快の働き」とは、喜悦と対立する務めである。「顔を背ける状態として現れる」とは、他人の繁栄を見ることすらさせないことによる。「隠匿する特徴」とは、自分の繁栄が他人と共有されることに耐えられないことによる。「不快となること」とは、楽しまないこと、苦しむこと、気に入らないという趣旨である。

Katassa kāyaduccaritādipāpassa paṭicchādanaṃ katapāpapaṭicchādanaṃ. Tassa pāpassa āvaraṇabhāvena paccupatiṭṭhatīti tadāvaraṇapaccupaṭṭhānā, māyā, yāya samannāgato puggalo bhasmachanno viya aṅgāro, udakachanno viya khāṇu, pilotikapaṭicchāditaṃ viya ca satthaṃ hoti. Avijjamānaguṇappakāsanaṃ attani avijjamānasīlādiguṇavibhāvanaṃ, yena sāṭheyyena samannāgatassa puggalassa asantaguṇasambhāvanena cittānurūpakiriyāviharato ‘‘evaṃcitto, evaṃkiriyo’’ti dubbiññeyyattā kucchiṃ vā piṭṭhiṃ vā jānituṃ na sakkā. Yato –

「なされた身体の悪行などの悪を覆い隠すこと」とは、なされた悪行の隠蔽である。その悪を覆い隠すものとして現れるから「それを覆い隠すこととして現れる」のであり、「欺瞞(マーヤー)」を具備した人は、灰に覆われた炭火のように、水に隠れた杭のように、襤褸で包まれた刃物のようになる。「存在しない徳を誇示すること」とは、自分に存在しない戒などの徳を明らかにすることであり、その詐術を具備した人は、存在しない徳を誇称することによって心に合わせた行動をして暮らすため、「このような心であり、このような行動である」と知り難いことから、腹の内も背後も知ることができない。それゆえに――

‘‘Vāmena sūkaro hoti, dakkhiṇena ajāmigo;

「左から見れば猪であり、右から見れば鹿である。

Sarena nelako hoti, visāṇena jaraggavo’’ti. (dī. ni. aṭṭha. 2.296; vibha. aṭṭha. 894; mahāni. aṭṭha. 166) –

声から見れば白鳥であり、角から見れば老いぼれ牛である」と――

Evaṃ vuttayakkasūkarasadiso hoti.

このように説かれた夜叉の猪に似たものとなる。

Cittassa uddhumātabhāvo thaddhalūkhabhāvo. Appatissayavuttīti anivātavutti. Amaddavākārena paccupatiṭṭhati, amaddavataṃ vā paccupaṭṭhapetīti amaddavatāpaccupaṭṭhāno, thambho, yena samannāgato puggalo gilitanaṅgalasīso viya ajagaro, vātabharitabhastā viya ca thaddho hutvā garuṭṭhāniye ca disvā onamitumpi na icchati, pariyanteneva carati. Karaṇassa uttarakiriyā karaṇuttariyaṃ. Visesato paccanīkabhāvo vipaccanīkatā. Parena hi kismiñci kate taddiguṇaṃ karaṇavasena sārambho pavattati.

「心の肥大した状態」とは、頑固で粗野な状態である。「従順でない振る舞い」とは、謙虚でない振る舞いである。柔軟でないありさまで現れ、あるいは柔軟でない状態をもたらすから「非柔軟性として現れる」のであり、「強情(タンバ)」を具備した人は、鋤の先を飲み込んだ大蛇のように、空気で満ちた革袋のように頑固になって、敬うべき人々を見ても頭を下げようともせず、ただ遠回りに歩む。「行為のさらなる行為」とは、行為の過剰である。「特に対立する状態」とは、強い対抗意識である。実に他人によって何かがなされたとき、その倍をなすことによって「競合(サーランバ)」が生じる。

Seyyādiākārehi unnamanaṃ unnati. Omānopi hi evaṃ karaṇamukhena sampaggahavaseneva pavattati. ‘‘Ahamasmi seyyo’’tiādinā ahaṃkaraṇaṃ sampaggaho ahaṅkāro. Pare abhibhavitvā adhikaṃ unnamanaṃ abbhunnati. Yaṃ sandhāya vuttaṃ ‘‘pubbakāle attānaṃ hīnato dahati aparakāle seyyato’’ti (vibha. 877).

「優れている」などのありさまによって高慢になることが高ぶりである。卑下慢もまた、このように行為の手段を通じて自らを誇示することによって生じる。「私は優れている」などとして自己を主張することが誇示であり、我執である。他人を圧倒してさらに高く誇ることが「過慢」である。「以前には自らを劣っていると見なし、後の時には優れていると見なす」と説かれたのは、これを指している。

Mattabhāvo jātiādiṃ paṭicca cittassa majjanākāro, yassa vā dhammassa vasena puggalo matto nāma hoti, so dhammo mattabhāvo. Madaggāhaṇaraso madassa gāhaṇakicco. Mado hi attano majjanākāraṃ sampayuttadhamme gāhento viya pavattamāno taṃsamaṅgiṃ puggalampi tathā karonto viya hoti. Ahaṅkāravasena puggalaṃ aniṭṭhaṃ karonto cittassa ummādabhāvo viya hotīti ummādapaccupaṭṭhāno. Satiyā aniggaṇhitvā cittassa vossajjanaṃ cittavossaggo, sativirahitoti attho. Yathāvuttassa vossaggassa anuppadānaṃ punappunaṃ vissajjanaṃ vossaggānuppadānaṃ. Imesaṃ kodhādīnaṃ lobhādīnampi vā. Lakkhaṇādīnīti lakkhaṇarasapaccupaṭṭhānāni. Padaṭṭhānaṃ pana dhammantaratāya na gahitaṃ. Nibbacanaṃ ‘‘kujjhatīti kodho, upanayhatīti **upanāho’’**tiādinā suviññeyyamevāti na vuttaṃ, atthato pana kodho doso eva, tathā upanāho. Pavattiākāramattato hi kato nesaṃ bhedo, makkhapaḷāsasārambhā tadākārappavattā paṭighasahagatacittuppādadhammā, māyāsāṭheyyathambhamadappamādā tadākārappavattā lobhasahagatacittuppādadhammā. Thambho vā mānaviseso cittassa thaddhabhāvena gahetabbato, tathā mado. Tathā hi so ‘‘māno maññanā’’tiādinā vibhaṅge (vibha. 878) niddiṭṭho. Idha pana mānātimānānaṃ visuṃ gahitattā majjanākārena pavattadhammā eva **‘‘mado’’**ti gahetabbā. Sesānaṃ dhammantarabhāvo pākaṭo eva.

「慢に酔った状態」とは、家柄などによって心が酔い痴れるありさまであり、あるいはそれによって人が酔った者と呼ばれるその法が、慢に酔った状態である。「酔わせる働き」とは、酩酊させる務めである。実に酩酊(マダ)は自らの酔ったありさまを相応する諸法に染み込ませるように機能し、それを具備した人をもそのようにさせるかのようである。我執によって人を好ましくない状態に導くことから、心の狂気の状態のようになるため「狂気として現れる」。「正念によって制御せず心を放擲すること」が心の放擲であり、正念を欠いているという意味である。述べられた放擲を継続すること、幾度も手放すことが放擲の継続である。これら瞋などの、あるいは貪などの法について。「特徴など」とは、特徴・働き・現起のことである。近因は別の法であることから取られていない。語源的解釈は「怒るから瞋(コーダ)であり、怨みを結ぶから怨(ウパナーハ)である」などと容易に理解できるため説かれていないが、実質的には怒りは瞋そのものであり、怨みも同様である。単に機能のありさまによってそれらの区分がなされたのであり、覆・悩・競合はそのようなありさまで機能する瞋恚相応の心起因の諸法であり、欺瞞・詐術・強情・慢酔・放逸はそのようなありさまで機能する貪相応の心起因の諸法である。あるいは強情は心の頑固な状態として捉えられることから慢の一種であり、慢酔も同様である。実にそれは「慢、誇高」などと分別論において説かれている。しかしここでは慢と過慢が個別に取られているため、酔い痴れるありさまで機能する諸法そのものが「慢酔(マダ)」として取られるべきである。残りが別の法であることは明白である。

Kasmā panettha ete eva aṭṭha dukā gahitā, kimito aññepi kilesadhammā natthīti? No natthi, ime pana āmisadāyādassa savisesaṃ kilesāya saṃvattantīti taṃ visesaṃ vibhāventena āmisadāyādassa lobhādīnaṃ pavattanākāraṃ dassetuṃ **‘‘visesato’’**tiādi āraddhaṃ. Tattha etthāti etesu lobhādīsu. Alabhanto āmisanti adhippāyo. Tatuttari uppanno kodhoti ānetvā sambandhitabbaṃ. Santepīti vijjamānepi. Issatīti issaṃ janeti. Padussatīti tasseva vevacanaṃ. Tathā hi sā ‘‘issati dussati padussatī’’tiādinā niddiṭṭhā. Yasmā vā issaṃ janento ekaṃsato paduṭṭhacitto eva hoti, tasmā **‘‘padussatī’’**ti vuttaṃ. Assāti āmisadāyādassa. Evaṃ paṭipannoti evaṃ asantaguṇappakāsanaṃ paṭipadaṃ paṭipanno. Ovadituṃ asakkuṇeyyoti etena thambho nāma dovacassakaraṇo dhammoti dasseti. Kiñci vadati ovādadānavasena. Thambhena…pe… maññantoti iminā ca thambhassa mānavisesabhāvaṃ dasseti, thambhena vā hetunāti attho. Matto samānoti matto honto. Kāma…pe… pamajjatīti etena madavasena ekaṃsato pamādamāpajjatīti dasseti.

では、なぜここにおいてこれら八組の対句のみが取られたのか、これら以外に煩悩の法は存在しないのか。存在しないのではない。しかしこれらは財の相続者にとって特に煩悩へと導くものであるため、その特質を明示しつつ財の相続者の貪などの機能のありさまを示すために「特に」などと説き始めたのである。その中での「ここにおいて」とは、これら貪などにおいてである。「財を得られない」という趣旨である。「その上に生じた怒り」と補って結びつけるべきである。「存在していても」とは、ある場合でも。「嫉妬する」とは、嫉妬を生じることである。「憎悪する」とは、それの同義語である。実にそれは「嫉妬し、憎悪し、激しく憎悪する」などと説かれている。あるいは嫉妬を生じる者は決定的に損なわれた心を持つがゆえに、「憎悪する」と述べられたのである。「彼に」とは、財の相続者に。「このように実践した者」とは、このように存在しない徳を誇示する実践に赴いた者である。「訓誡することができない」とは、これによって強情とは指導し難くする法であることを示している。訓誡を与えることによって何かを述べる。「強情によって……乃至……見なして」とは、これによって強情が慢の一種であることを示しており、あるいは強情という原因によって、という意味である。「慢に酔った者となって」とは、慢に酔った状態でありながら。「愛欲に……乃至……放逸になる」とは、これによって慢に酔うことによって決定的に放逸に陥ることを示している。

Evanti iminā āmisadāyādassa lobhādīnaṃ uppattikkamadassaneneva idha pāḷiyaṃ nesaṃ desanākkamopi dassitoti daṭṭhabbo. Na kevalaṃ imeheva, atha kho aññehi ca evarūpehi pāpakehi dhammehi aparimutto hotīti sambandho. Ke pana teti? Atricchatāmahicchatādayoti. Evaṃ mahādīnavā āmisadāyādatāti tato balavataro saṃvego janetabboti ayamettha ovādo veditabbo. Etthāti etasmiṃ sutte. Sabbatthāti sabbesu vāresu. Nibbisesoyevāti eteneva paṭhamataraṃ idha dassitasaccayojanānayena sabbavāresu yojetabboti veditabbo.

「このように」とは、これによって財の相続者における貪などの生起の順序を示すことによって、ここでの聖典におけるそれらの説法の順序も示されたものと知るべきである。単にこれらのみならず、実に他のこのような悪しき法からも解脱していない、と結びつけられる。では、それらとは何であるか。過度の欲望や大欲などである。このように財の相続者であることは大いなる過患であるため、それゆえにより強い危機感を生じさせるべきである、というのがここでの訓誡として知られるべきである。「ここにおいて」とは、この経においてである。「すべての箇所において」とは、すべての段落においてである。「全く区別なく」とは、これによって最初にここで示された四諦の配当の理路によって、すべての段落において解釈されるべきであると知るべきである。

Ñāṇaparicayapāṭavatthanti maggassa aṭṭhaṅgasattaṅgatādivisesavibhāvanāya ñāṇassa āsevanaṭṭhena paricayo ñāṇaparicayo, tassa paṭubhāvatthaṃ kosallatthaṃ. Etthāti ariyamagge. Bhedoti viseso. Kamoti aṅgānaṃ desanānupubbī. Bhāvanānayoti bhāvanāvidhi. **‘‘Kadāci aṭṭhaṅgiko, kadāci sattaṅgiko’’**ti saṅkhepato vuttamatthaṃ vivaranto puna **‘‘ayaṃ hī’’**tiādimāha. Tattha lokuttarapaṭhamajjhānavasenāti lokuttarassa paṭhamajjhānassa vasena. Ettha ca keci jhānadhammā maggasabhāvāti ekantato jhānaṃ maggato visuṃ katvā vattuṃ na sakkāti ‘‘lokuttarapaṭhamajjhānasahito’’ti avatvā ‘‘lokuttarapaṭhamajjhānavasena’’icceva vuttaṃ. Atha vā lokuttarapaṭhamajjhānavasenāti lokuttarā hutvā paṭhamajjhānassa vasenāti evamettha attho veditabbo. Ariyamaggo hi vipassanāya pādakabhūtassa, sammasitassa vā paṭhamajjhānassa vasena aṭṭhaṅgiko hoti. Atha vā ajhānalābhino sukkhavipassakassa, jhānalābhino vā pādakamakatvā paṭhamajjhānassa, pakiṇṇakasaṅkhārānaṃ vā sammasane uppanno ariyamaggo aṭṭhaṅgiko hoti, svāssa aṭṭhaṅgikabhāvo paṭhamajjhānikabhāvenāti dassento **‘‘paṭhamajjhānavasenā’’**ti āha. Evaṃ **‘‘avasesajjhānavasenā’’**ti etthāti yathārahaṃ attho veditabbo.

「智の習熟の巧みさのために」とは、道の八支や七支などの差異を明らかにするための智の実践による習熟が智の習熟であり、その巧みさのため、精通のためである。「ここにおいて」とは、聖道においてである。「区分」とは、差異である。「順序」とは、支分の説法の順序である。「修習の理路」とは、修習の方法である。「ある時は八支であり、ある時は七支である」と要約して説かれた意味を開示しつつ、再び「実にこれは」などと述べた。そこでの「出世間の初禅によって」とは、出世間の初禅によることによってである。そしてここにおいて一部の禅定の法は道の自性であるため、決定的に禅定を道から別個にして語ることはできないことから、「出世間の初禅を具備して」と言わずに「出世間の初禅によって」とだけ述べたのである。あるいは「出世間の初禅によって」とは、出世間となって初禅によることによって、とこのようにここでの意味を知るべきである。実に聖道は、ヴィパッサナーの基礎となった、あるいは観察された初禅によって八支となる。あるいは禅定を得ていない乾観者、あるいは禅定を得ていても初禅を基礎とせず、雑多な諸行を観察する中で生じた聖道は八支となるのであり、その者の八支の状態は初禅の性質によるものであることを示して「初禅によって」と述べたのである。このように「残りの禅定によって」ということにおいても、相応に意味を知るべきである。

Yadi ariyamaggo sattaṅgikopi hoti, atha kasmā pāḷiyaṃ ‘‘aṭṭhaṅgiko’’icceva vuttanti āha **‘‘ukkaṭṭhaniddesato’’**tiādi. Yathā cettha paṭipadāya maggavasena aṭṭhaṅgikasattaṅgikabhedo, evaṃ bojjhaṅgavasena sattaṅgikachaḷaṅgikabhedo veditabbo appītikajjhānavasena chaḷaṅgikattā, maggavasena pana desanā āgatāti svāyaṃ bhedo aṭṭhakathāyaṃ na uddhaṭo. Ito paranti ito aṭṭhaṅgato paraṃ ukkaṃsato, avakaṃsato pana sattaṅgato paraṃ maggaṅgaṃ nāma natthīti. Nanu maggavibhaṅge (vibha. 493-502) pañcaṅgikavāre pañceva maggaṅgāni uddhaṭāni, mahāsaḷāyatane (ma. ni. 3.431) ca ‘‘yā tathābhūtassa diṭṭhi, yo tathābhūtassa saṅkappo, yo tathābhūtassa vāyāmo, yā tathābhūtassa sati, yo tathābhūtassa samādhi, svāssa hoti sammāsamādhī’’ti vatvā pubbabhāgavasena pana ‘‘pubbeva kho panassa kāyakammaṃ vacīkammaṃ ājīvo suparisuddho hotī’’ti sammāvācādayo āgatāti? Saccametaṃ, taṃ pana sammādiṭṭhiādīnaṃ pañcannaṃ kārāpakaṅgānaṃ atirekakiccadassanavasena vuttaṃ, tasmā na ariyamaggo sammāvācādivirahito atthīti **‘‘ito parañhi maggaṅgaṃ natthī’’**ti suvuttametanti daṭṭhabbaṃ.

もし聖道が七支であることもあるならば、なぜ聖典においては「八支」とだけ説かれたのかについて、「最勝の提示によることから」などと述べた。そしてここにおいて実践の道に従って八支と七支の区分があるように、七覚支に従って七支と六支の区分が、喜なき禅定によって六支となることから知られるべきであるが、道に従って説法がなされているため、その区分は註釈書において取り上げられていない。「これ以上」とは、この八支より以上は最高として、最低としても七支より以上の道肢というものは存在しない、ということである。しかし道分別において五支の段落ではまさに五つの道肢のみが挙げられ、大六処経においても「そのようになった者の見解、そのようになった者の思惟、そのようになった者の精進、そのようになった者の正念、そのようになった者の正定、それが彼の正定となる」と説いて、前段階によるものとして「実に彼の身業、口業、正命はあらかじめ極めて清浄である」と正語などが説かれているのではないか。そのとおりであるが、それは正見などの五つの主導的な支分の卓越した務めを示すことによって説かれたのであり、それゆえに聖道が正語などを欠いて存在するわけではないため、「これ以上の道肢は実に存在しない」と見事に説かれたものと理解すべきである。

Sabbakusalānanti sabbesaṃ kusaladhammānaṃ. Niddhāraṇe cetaṃ sāmivacanaṃ. Kāmāvacarādivasena taṃtaṃkusaladhammesu sā sammādiṭṭhi seṭṭhā. Tassā seṭṭhabhāvena hi ‘‘paññājīviṃ jīvitamāhu seṭṭha’’nti (saṃ. ni. 1.246; su. ni. 184) vuttaṃ, maggasammādiṭṭhiyā pana sabbaseṭṭhabhāve vattabbameva natthi. Kusalavāreti kusaluppattisamaye. Pubbaṅgamā kusalādidhammānaṃ yāthāvasabhāvabodhena sampayuttadhammānaṃ pariṇāyakabhāvato. Tenevāha **‘‘sammādiṭṭhiṃ sammādiṭṭhīti pajānātī’’**tiādi. Sā sammādiṭṭhi pabhavo etassāti tappabhavo, sammāsaṅkappo. Sammādassanavasena hi sammāsaṅkappo hoti. Tato abhinibbattānīti tappabhavābhinibbattāni. Tappabhavābhinibbattānipi ‘‘tadabhinibbattānī’’ti vuccanti kāraṇakāraṇepi kāraṇūpacāratoti āha **‘‘tappabhavābhinibbattāni sesaṅgānī’’**ti. Tenāha **‘‘sammādiṭṭhissā’’**tiādi. Yathā hi sammādassanaṃ sammāvitakkanassa visesapaccayo, evaṃ sammāvitakkanaṃ sammāpariggahassa sammāpariggaho sammāsamuṭṭhānassa, sammāsamuṭṭhānaṃ sammāvodānassa, sammāvodānaṃ sammāvāyāmassa, sammāvāyāmo sammāupaṭṭhānassa, sammāupaṭṭhānaṃ sammādhānassa visesapaccayo, tasmā ‘‘purimaṃ purimaṃ pacchimassa pacchimassa visesapaccayo hotī’’ti iminā visesapaccayabhāvadassanatthena kamena etāni sammādiṭṭhiādīni aṅgāni vuttānīti dassitāni.

「すべての善なるものの」とは、すべての善法の、である。これは限定における所有格である。欲界などのそれぞれの善法において、その正見が最勝である。それが最勝であることによって「智慧をもって生きる生命を最勝という」と説かれたのであり、道の正見の全き最勝性については言うまでもない。「善の段落において」とは、善の生起の時においてである。「先駆をなす」とは、善などの法のあるがままの自性の覚知によって、相応する諸法の導き手であることからである。それゆえに「正見を正見と知る」などと述べられたのである。その正見を根源とするものであるから「それを根源とするもの」であり、正思惟のことである。実に正しい見極めによって正しい思惟が生じるからである。「それより生じたもの」とは、それを根源として生じたものである。それを根源として生じたものも、原因の原因においても原因の比喩的表現が成り立つことから「それより生じたもの」と呼ばれるため、「それを根源として生じた残りの支分」と述べたのである。それゆえに「正見ある者の」などと言われたのである。実に正しい見極めが正しい思惟の卓越した条件であるように、正しい思惟は正しい包容の、正しい包容は正しい生起の、正しい生起は正しい清浄の、正しい清浄は正しい精進の、正しい精進は正しい現起の、正しい現起は正しい安立の卓越した条件である。それゆえに「先行するものが後続のものの卓越した条件となる」というこの卓越した条件となることを示す意味によって、順次にこれら正見などの支分が説かれたのであると示されている。

Bhāvanānayoti samathavipassanānaṃ yuganaddhabhāvena pavatto bhāvanāvidhi. Ayañhi ariyamaggakkhaṇe bhāvanāvidhi. Tassa pana pubbabhāge bhāvanānayo kassaci samathapubbaṅgamo hoti, kassaci vipassanāpubbaṅgamoti. Taṃ vidhiṃ dassetuṃ **‘‘kocī’’**tiādi āraddhaṃ. Tattha paṭhamo samathayānikassa vasena vutto, dutiyo vipassanāyānikassa. Tenāha **‘‘idhekacco’’**tiādi. Tanti samathaṃ samādhiṃ, jhānadhammeti vā attho. Taṃsampayutteti samādhisampayutte, jhānasampayutte vā dhamme. Ayañca nayo yebhuyyena samathayānikā arūpamukhena, tatthāpi jhānamukhena vipassanābhinivesaṃ karontīti katvā vutto. Vipassanaṃ bhāvayatoti paṭipadāñāṇadassanavisuddhiṃ ārabhitvā yathādhigataṃ taruṇavipassanaṃ vaḍḍhentassa. Maggo sañjāyatīti pubbabhāgiyo lokiyamaggo uppajjati. Āsevati nibbidānupassanāvasena. Bhāveti muñcitukamyatāvasena. Bahulīkaroti paṭisaṅkhānupassanāvasena. Āsevati vā bhayatūpaṭṭhānañāṇavasena. Bahulīkaroti vuṭṭhānagāminivipassanāvasena. Saṃyojanāni pahīyanti, anusayā byantī honti maggapaṭipāṭiyā.

「修習の理路」とは、止と観を車の両輪のように連動させて行う修習の方法である。実にこれは聖道の一瞬における修習の方法である。しかしその前段階における修習の理路は、ある者にとっては止が先駆となり、ある者にとっては観が先駆となる。その方法を示すために「ある者は」などと説き始めたのである。そこでの最初は止行者の観点から説かれ、二番目は観行者の観点から説かれている。それゆえに「ここに一人の者は」などと述べた。「それを」とは、止を、定を、あるいは禅定の諸法をという意味である。「それに相応する」とは、定に相応する、あるいは禅定に相応する諸法においてである。そしてこの理路は、止行者が多く無色界を入り口として、そこでも禅定を入り口としてヴィパッサナーを実践することから説かれたものである。「ヴィパッサナーを修習する者にとって」とは、行道智見清浄より始めて、獲得された未熟なヴィパッサナーを増大させる者にとってである。「道が生じる」とは、前段階の世間道が生じることである。「修習する(アーセーヴァティ)」とは、厭離随観によってである。「修習する(バーヴェーティ)」とは、解脱を欲する随観によってである。「多作する」とは、省察随観によってである。あるいは「修習する」とは怖畏現起智によってであり、「多作する」とは出起趣向ヴィパッサナーによってである。結縛が断たれ、随眠が道の順序によって根絶される。

Samathaṃ anuppādetvāvāti avadhāraṇena upacārasamādhiṃ nivatteti, na khaṇikasamādhiṃ. Na hi khaṇikasamādhiṃ vinā vipassanā sambhavati. Vipassanāpāripūriyāti vipassanāya paripuṇṇatāya vuṭṭhānagāminibhāvappattiyā. Tatthajātānanti tasmiṃ ariyamaggakkhaṇe uppannānaṃ sammādiṭṭhiādīnaṃ dhammānaṃ. Niddhāraṇe cetaṃ sāmivacanaṃ. Vavassaggārammaṇatoti vavassaggassa ārammaṇatāya. Vavassaggo vossaggo paṭinissaggoti ca apavaggoti ca atthato ekaṃ, nibbānanti vuttaṃ hoti, tasmā nibbānassa ārammaṇakaraṇenāti attho. Cittassa ekaggatāti maggasammāsamādhimāha. Ariyamaggo hi ekanta samāhito asamādhānahetūnaṃ kilesānaṃ samucchedanato. Sesaṃ vuttanayameva.

「止を生じさせることなくしてまさに」とは、強調によって近行定を排除するのであり、刹那定を排除するのではない。実に刹那定なしにはヴィパッサナーは成り立たないからである。「ヴィパッサナーの充足によって」とは、ヴィパッサナーの円満によって出起趣向の状態に達したことによる。「そこに生じた諸法の」とは、その聖道の一瞬に生じた正見などの諸法の、である。これは限定における所有格である。「放擲を対象とすることから」とは、放擲を対象とすることによる。放擲、抛棄、捨離、解脱とは実質的には同一であり、涅槃が説かれているのであり、それゆえに涅槃を対象とすることによってという意味である。「心の統一」とは、道の正定を指している。実に聖道は、散乱の原因となる煩悩を断滅することから、決定的に定まったものである。残りはすでに説かれた理路のとおりである。

Yuganaddhāva honti tadā samādhipaññānaṃ samarasatāya icchitabbato. Maggakkhaṇe hi na samathabhāvanāyaṃ viya samādhi, vipassanābhāvanāyaṃ viya ca paññā kiccato adhikā icchitabbā, samarasatāya pana aññamaññassa anativattanaṭṭhena dvepi yuganaddhā viya pavattanti. Tena vuttaṃ **‘‘samathavipassanā yuganaddhāva hontī’’**ti.

その時、定と慧が等しい味わいを持つことが望まれるため、「まさに車の両輪のように連動している」のである。実に道の一瞬においては、止の修習におけるような定や、ヴィパッサナーの修習におけるような慧が、働きとして過剰に望まれることはなく、等しい味わいによって互いを超過しないという意味で、両者ともに車の両輪のように連動して機能するのである。それゆえに「止と観はまさに車の両輪のように連動している」と説かれたのである。

Dhammadāyādasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

法相続経註の隠れた意味の解明を終わる。

4. Bhayabheravasuttavaṇṇanā

四 恐怖経註

34. Evaṃ me sutanti bhayabheravasuttaṃ. Ko nikkhepo? Keci tāva evamāhu ‘‘pucchāvasiko nikkhepo’’ti. Duvidhā hi pucchā pākaṭāpākaṭabhedato. Tattha yassā desanāya nimittabhūto ñātuṃ icchito attho kiṃ-saddapubbakena pakāsīyati, sā pākaṭā pucchā yathā ‘‘kiṃsūdha vittaṃ purisassa seṭṭha’’nti evamādi (saṃ. ni. 1.246; su. ni. 183). Yassā pana desanāya nimittabhūto ñātuṃ icchito attho kiṃ-saddarahitena kevaleneva saddapayogena pakāsīyati, sā apākaṭā pucchā. Ñātuṃ icchito hi attho ‘‘pañhā, pucchā’’ti vuccati, tasmāyeva idha ‘‘ye me bho gotamā’’tiādikā apākaṭāti ‘‘pucchāvasiko nikkhepo’’ti. Tayidaṃ akāraṇaṃ, yasmā so brāhmaṇo ‘‘yeme bho gotamā’’tiādīni vadanto na tattha kaṅkhī vicikicchī saṃsayamāpanno avoca, atha kho attanā yathānicchitamatthaṃ bhagavati pasādabhāvabahumānaṃ pavedento kathesi. Tenāha **‘‘bhagavati pasādaṃ alatthā’’**tiādi (ma. ni. aṭṭha. 1.34). Vihāreti vihārake nivāse. Avicchinneyevāti pavattamāneyeva. Padadvayassapi vasante evāti attho. Etaṃ purohitaṭṭhānaṃ uṇhīsādikakudhabhaṇḍehi saddhiṃ laddhaṃ, tathā ca ‘‘assa raññā dinna’’nti vadanti. Tenāha **‘‘taṃ tassa raññā dinna’’**nti. Brahmanti vedaṃ. So pana mantabrahmakappavasena tividho. Tattha mantā padhānaṃ mūlabhāvato, ye aṭṭhakādīhi pavuttā, itare tannissayena jātā, tena tesaṃyeva gahaṇaṃ **‘‘mante sajjhāyatī’’**ti. Te hi guttabhāsitabbatāya **‘‘mantā’’**ti vuccanti. Idameva hīti avadhāraṇena ‘‘brahmato jātā’’tiādikaṃ niruttiṃ paṭikkhipati.

三十四 「このように私は聞いた」とは恐怖経である。どのような導入の経緯か。ある者たちはまず「質問による導入である」とこのように言う。実に質問には明白なものと明白でないものの二種類がある。そこにおいて、説法の機縁となった知りたい事柄が「何」という語を先頭にして表明されるなら、それは明白な質問であり、例えば「この世で人にとって最上の財とは何か」などの如くである。しかし説法の機縁となった知りたい事柄が「何」という語を伴わず、単なる言葉の運用によって表明されるなら、それは明白でない質問である。知りたい事柄こそが「問題、質問」と呼ばれるのであり、まさにそれゆえにここにおいて「尊者ゴータマよ、これら……」などが明白でない質問であることから「質問による導入である」とする。これは根拠のないことである。なぜならそのバラモンは「尊者ゴータマよ、これら……」などと語りながら、そこに疑念を抱き、不審に思い、懐疑に陥って語ったのではなく、自らが確信した事柄を世尊に対する清らかな信と敬意を表しながら語ったからである。それゆえに「世尊に対する信を得た」などと述べたのである。「寺院において」とは、精舎の住居においてである。「絶え間なく」とは、継続しているまさにその時に、である。二つの句ともに「住んでいるまさにその時に」という意味である。この祭司の地位は、冠などの王権の象徴とともに得られたものであり、また「王によって彼に与えられた」と言われる。それゆえに「それは王によって彼に与えられた」と述べたのである。「聖なる教え」とはヴェーダのことである。それはマントラ・ブラーフマナ・カルパの区分によって三種ある。そこではアッタカらによって説かれた根本であるマントラが主であり、他はこれに依存して生じたものであるため、それらのみを取って「マントラを読誦する」としたのである。実にそれらは隠して語られるべきものであることから「マントラ」と呼ばれる。「まさにこれこそが」という強調によって、「ブラフマンから生じた」などの語源解釈を否定している。

Yena vā kāraṇenāti (sārattha. ṭī. verañjakaṇḍavaṇṇanāyaṃ 2; saṃ. ni. ṭī. 1.1.1; a. ni. ṭī. 2.2.16) hetumhi idaṃ karaṇavacanaṃ. Hetuattho hi kiriyākāraṇaṃ, na karaṇaṃ viya kiriyattho, tasmā nānappakāraguṇavisesādhigamatthā idha upasaṅkamanakiriyāti ‘‘annena vasatī’’tiādīsu viya hetuatthamevetaṃ karaṇavacanaṃ yuttaṃ, na karaṇatthaṃ tassa ayujjamānattāti vuttaṃ ‘‘yena vā kāraṇenā’’tiādi. Bhagavato satatappavattaniratisayasāduvipulāmatarasasaddhammaphalatāya sāduphalaniccaphalitamahārukkhena bhagavā upamito, sāduphalūpabhogādhippāyaggahaṇeneva hi mahārukkhassa sāduphalatā gahitāti.

「あるいはどのような理由によって」とは、原因における具格である。実に原因の意味とは行為の理由であり、手段のような行為の対象ではない。それゆえに種々の優れた徳の獲得のためにここでの訪問の行為があることから、「穀物によって住む」などにおけるように、これは原因の意味の具格こそが相応しく、手段の意味は相応しくないため、「あるいはどのような理由によって」などと述べられたのである。世尊の絶え間なく生じる比類なき美味で豊かな不死の味わいをもつ正法の果報ゆえに、世尊は美味な果実を常に実らせる大樹に例えられたのであり、美味な果実を享受する意図を把握することによってこそ、大樹の美味な果実の性質が把握されたからである。

Upasaṅkamīti upasaṅkanto. Sampattukāmatāya hi kiñci ṭhānaṃ gacchanto taṃtaṃpadesātikkamanena upasaṅkami, upasaṅkantoti vā vattabbataṃ labhati. Tenāha **‘‘gatoti vuttaṃ hotī’’**ti, upagatoti attho. Upasaṅkamitvāti pubbakālakiriyāniddesoti āha **‘‘upasaṅkamanapariyosānadīpana’’**nti. Tatoti yaṃ ṭhānaṃ patto ‘‘upasaṅkamī’’ti vutto, tato upagataṭṭhānato. Yathā khamanīyādīni pucchantoti (saṃ. ni. ṭī. 1.1.112) yathā bhagavā ‘‘kacci te brāhmaṇa khamanīyaṃ, kacci yāpanīya’’ntiādinā khamanīyādīni pucchanto tena brāhmaṇena saddhiṃ samappavattamodo ahosi pubbabhāsitāya, tadanukaraṇena evaṃ sopi brāhmaṇo bhagavatā saddhiṃ samappavattamodo ahosīti yojanā. Taṃ pana samappavattamodataṃ upamāya dassetuṃ **‘‘sītodakaṃ viyā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha sammoditanti saṃsanditaṃ. Ekībhāvanti sammodanakiriyāya samānataṃ ekarūpataṃ. Khamanīyanti ‘‘idaṃ catucakkaṃ navadvāraṃ sarīrayantaṃ khaṇabhaṅguratāya sabhāvato dussahaṃ, kacci khamituṃ sakkuṇeyya’’nti pucchati. Yāpanīyanti paccayāyattavuttikaṃ cirappabandhasaṅkhātāya yāpanāya kacci yāpetuṃ sakkuṇeyyaṃ. Sīsarogādiābādhābhāvena kacci appābādhaṃ. Dukkhajīvikābhāvena kacci appātaṅkaṃ. Taṃtaṃkiccakaraṇe uṭṭhānasukhatāya kacci lahuṭṭhānaṃ. Tadanarūpabalayogato kacci balaṃ. Sukhavihārasabbhāvena kacci phāsuvihāro atthīti tattha tattha kacci-saddaṃ yojetvā attho veditabbo.

「近づいた」とは、近寄ったことである。目的地に到達したいという願いによってある場所へ行きながら、それぞれの地域を越えることによって近づいた、あるいは近寄ったと言い表すことができる。それゆえに「行ったと言われるのである」と述べたのであり、近寄ったという意味である。「近づいて」とは、前時動作の表現であることから、「接近の完了を示すこと」と述べた。「そこから」とは、「近づいた」と説かれた到達した場所から、その近寄った場所からという意味である。「耐え難いことなどを尋ねながら」とは、世尊が「バラモンよ、そなたは耐えられているか、命を保てているか」などとして耐え難いことなどを尋ねながら、そのバラモンとともに最初の挨拶によって互いに親愛の情を交わし、それに倣ってそのようにそのバラモンも世尊とともに互いに親愛の情を交わした、と結びつけられる。そしてその互いの親愛の情の交わし合いを比喩によって示すために「冷たい水のように」などと述べられた。そこでの「交わされた」とは、合致したことである。「一体となること」とは、親愛の挨拶を交わす行為の同等性、均一性のことである。「耐え難いこと」とは、「この四つの車輪(四威儀)と九つの門(孔)をもつ身体という機械は、瞬間ごとに壊れゆく性質ゆえに本性として耐え難いものであるが、果たして耐えることができているか」と尋ねるのである。「命を保つこと」とは、資具に依存した生活によって、長期の持続と呼ばれる延命において果たして命を保つことができているか。頭痛などの病気がないことによって果たして病が少ないか。苦しい生計でないことによって果たして不安が少ないか。それぞれの務めを果たすにあたって身体の軽快さによって果たして軽快に動けるか。それに相応しい体力の具備によって果たして力があるか。安楽な生活の存在によって果たして快適な暮らしがあるか、とそれぞれにおいて「果たして(カッチ)」という語を結びつけて意味を知るべきである。

Balavappattā pīti pītiyeva. Taruṇapīti pāmojjaṃ. Sammodanaṃ janeti karotīti sammodanikaṃ, tadeva sammodanīyanti āha **‘‘sammodajananato’’**ti. Sammoditabbato sammodanīyanti imaṃ pana atthaṃ dassento **‘‘sammodituṃ yuttabhāvato’’**ti āha. Saritabbabhāvatoti anussaritabbabhāvato. ‘‘Saraṇīya’’nti vattabbe dīghaṃ katvā **‘‘sāraṇīya’’**nti vuttaṃ. Suyyamānasukhatoti āpāthamadhurataṃ āha, anussariyamānasukhatoti vimaddaramaṇīyataṃ. Byañjanaparisuddhatāyāti sabhāvaniruttibhāvena tassā kathāya vacanacāturiyamāha, atthaparisuddhatāyāti atthassa nirupakkilesataṃ. Anekehi pariyāyehīti anekehi kāraṇehi.

強力に達した喜悦こそが喜悦である。未熟な喜悦は歓喜である。喜びを生じさせる、なすものが歓喜であり、それこそが喜ばしいものであることから「歓喜を生じさせることから」と述べた。「歓喜されるべきことから喜ばしい」というこの意味を示して「歓喜するに相応しい性質であることから」と述べた。「記憶されるべき性質であることから」とは、随念されるべき性質であることからである。「記憶されるべき(サラニーヤ)」と言うべきところを長音にして「想起されるべき(サーラニーヤ)」と述べた。「聞かれるときの心地よさから」とは、耳に入るときの快さを言い、「随念されるときの心地よさから」とは、吟味されるときの美しさを言う。「文字の清浄さによって」とは、本来の語法であることによってその談話の言葉の巧みさを言い、「意味の清浄さによって」とは、意味に汚れがないことを言う。「多くの方法によって」とは、多くの理由によってである。

Abhidūraaccāsannapaṭikkhepena nātidūranāccāsannaṃ nāma gahitaṃ, taṃ pana avakaṃsato ubhinnaṃ pasāritahatthasaṅghaṭṭanena daṭṭhabbaṃ. Gīvaṃ pasāretvāti gīvaṃ parivattanavasena pasāretvā.

「遠すぎず近すぎず」とは、遠すぎることと近すぎることを否定することによって取られたものであり、それは最低でも両者が伸ばした手が触れ合わない距離として理解されるべきである。「首を伸ばして」とは、首を巡らせるように伸ばしてである。

Yemeti ettha sandhivasena ikāralopoti dassento **‘‘ye ime’’**tiādimāha. Uccākulīnatāya jātivasena abhijātā jātikulaputtā. Tenāha **‘‘uccākulappasutā’’**ti. Ācārasampattiyā abhijātā ācārakulaputtā. Tenāha **‘‘ācārasampannā’’**ti. Yattha katthaci apākaṭepi kule. Tena brāhmaṇena adhippetā bhikkhūsu duvidhāpi saṃvijjantīti āha **‘‘idha pana dvīhipi kāraṇehi kulaputtāyevā’’**ti.

「これら」において、連声によってイ文字が脱落したことを示して「これら(イメー)」などと述べた。家柄の高さによって生まれの点で貴種である者が「血統の良家の子」である。それゆえに「高貴な家柄に生まれた者」と述べた。行儀の完成によって貴種である者が「徳行の良家の子」である。それゆえに「正しい行儀を具備した者」と述べた。どこであれ名もない家柄においてもである。そのバラモンが意図したものは比丘たちにおいて二種類ともに存在することから、「ここでは二つの理由によって良家の子そのものである」と述べたのである。

Saddhāti idaṃ karaṇatthe paccattavacananti āha **‘‘saddhāyā’’**ti, saddhāti vā saddahitvāti attho. Imasmiṃ pakkhe pāḷiyaṃ ya-kāralopena niddesoti daṭṭhabbaṃ. Agāratoti agāravāsato, uttarapadalopena, nissayūpacārena vā ayaṃ niddesoti. Bhikkhanasīlatādilakkhaṇo bhikkhubhāvo pabbajjāsahacaritāya saddhiṃ bhikkhubhāvaṃ anvācinantoti āha **‘‘pabbajjaṃ bhikkhubhāvañcā’’**ti. Kammavācālakkhaṇe pana bhikkhubhāve adhippete samuccayattho ca-saddo daṭṭhabbo. Anagārassa bhāvoti etena pabbajjānissito suvisuddho sīlācāraguṇaviseso gahito, kasigorakkhādikammapaṭikkhepo idha anuppādādīhi veditabbo. Sesaggahaṇe pana saraṇagamanādivasena pabbajjāya, saraṇagamanādivasena upasampadāya ca anekabhedattā āha **‘‘sabbathāpī’’**ti, tena tena pakārenāti attho. Puratogāmitā paṭipattigamanena, na kāyagamanenāti āha **‘‘nāyako’’**ti, sammāpaṭipattiyā nibbānasampāpakoti attho. Hitakiriyāyāti diṭṭhadhammikādihitacariyāya. Gāhaṇaṃ adhisīlādīsu accantāya niyojanaṃ, na kathanamattanti dassento **‘‘gāhetā’’**ti vatvā **‘‘sikkhāpetā’’**ti āha. Diṭṭhānugatinti diṭṭhiyā anugamananti dassento **‘‘dassanānugati’’**nti vatvā sikkhāttayasaṅgahaṃ bhagavato sāsanaṃ tena diṭṭhattā diṭṭhi, tassa tasseva khamanavasena khanti, ruccanavasena ruci, taṃdiṭṭhikhantirucikāva bhagavato sāvakāti āha **‘‘yaṃdiṭṭhiko’’**tiādi.

「信によって(サッダー)」とは、これは具格の意味の主格表現であることから「信によりて(サッダーヤー)」と述べたのであり、あるいは「信」とは信じてという意味である。この立場では聖典においてヤ文字の脱落による表現と知るべきである。「家から」とは、家庭生活からであり、後続の語の脱落により、あるいは依処の比喩的表現による表現である。乞食する習性などの特徴をもつ比丘の状態が、出家に伴うものとともに比丘の状態を伴うことから「出家と比丘の状態を」と述べた。しかし羯磨の儀礼を特徴とする比丘の状態が意図される場合は、併合の意味の「また(チャ)」の語と知るべきである。「家なき状態」とは、これによって出家に依存した極めて清浄な戒律と行儀の卓越した徳が取られたのであり、耕作や牧畜などの行為の否定がここでは不発生などによって知られるべきである。残りの把握においては、三帰依などによる出家、三帰依などによる具足戒の多様な分類があることから「あらゆる仕方によっても」と述べたのであり、それぞれの様態によってという意味である。「先導すること」とは、実践によって進むことであり、身体の歩行によるのではないことから「導き手」と述べたのであり、正しい実践によって涅槃に到達させる者という意味である。「利益をなすことにおいて」とは、現世などの利益の振る舞いにおいてである。「把握させること」とは、増上戒などへの絶対的な専念であり、単に語ることではないことを示して「把握させる者」と述べて「学ばせる者」と言った。「見解に従うこと」とは、見解に追従することを示して「見に従うこと」と述べて、三学を包括する世尊の教えが、彼によって見られたがゆえに見解であり、それを受け入れることによって忍(信受)であり、好むことによって好みであり、その見解と信受と好みを同じくする者こそが世尊の弟子であることから「どのような見解を持つ者」などと述べたのである。

Esa kira alatthāti sambandho. Devaputte viyātiādi kassaci pārijuññassa abhāvadīpanato ‘‘saddhāyā’’tiādinā vuttassa pabbajitabhāvassa pākaṭīkaraṇaṃ. Saddhāya gharā nikkhamma pabbajitvāti idaṃ haṭṭhapahaṭṭhādibhāvassa kāraṇavacanaṃ. Ghāsacchādanaparamatāya santuṭṭheti idaṃ anussaṅkitāparisaṅkitatāya kāraṇavacananti daṭṭhabbaṃ.

「彼は実に得た」と結びつけられる。「天の子たちのように」などは、いかなる喪失もないことを示すことによって、「信によって」などと説かれた出家した状態を明らかにすることである。「信によって家を出て出家して」とは、歓喜に満ちた状態などの原因を示す言葉である。「最低限の衣食に満足して」とは、不安や疑念を抱かないことの原因を示す言葉であると理解されるべきである。

Evametantiādinā āmeḍitavacanaṃ sampahaṃsanavasena, pasādavasena vā katanti daṭṭhabbaṃ. Tathā hi evaṃ-saddo sampaṭicchanattho abbhanumodanattho ca vutto. Mamanti upayogatthe sāmivacanaṃ, nipātapadaṃ vā etaṃ ‘‘ma’’nti iminā samānatthanti daṭṭhabbaṃ. Ādīnīti ādi-saddena najīvikāpakatādiṃ saṅgaṇhāti īdisānaṃyevāti saddhāpabbajjāya vibhāvitaanabhijjhāluādisabhāvānaṃyeva, na itaresaṃ abhijjhālusabhāvānaṃ. Vuttañhetaṃ –

「このようにまさに」などの反復の言葉は、称賛によって、あるいは信受によってなされたものと理解されるべきである。実に「このように」という語は、受諾の意味と随喜の意味で説かれているからである。「私を(ママム)」とは、対格の意味の所有格であり、あるいはこの不変化詞の句は「私を(マン)」というこれと同義であると理解されるべきである。「など」とは、「など」という語によって「生計のために堕落したのではない」などを包括する。「まさにこのような者たち」とは、信による出家によって明らかにされた無貪などの本性を持つ者たちそのものであり、他の貪欲な本性を持つ者たちのことではない。実に次のように説かれている――

‘‘Saṅghāṭikaṇṇe cepi me, bhikkhave, bhikkhu gahetvā piṭṭhito piṭṭhito anubandho assa pade padaṃ nikkhipanto, so ca hoti abhijjhālu kāmesu tibbasārāgo byāpannacitto paduṭṭhamanasaṅkappo muṭṭhassati asampajāno asamāhito vibbhantacitto pākaṭindriyo, atha kho ārakāva mama ahañca tassā’’ti (itivu. 92).

「比丘たちよ、たとえ比丘が私の衣の端を掴み、足跡に足を重ねてすぐ後ろをついて来ようとも、彼が諸々の欲望に貪欲で強い愛着を持ち、害意ある心を抱いて思考が損なわれ、正念を失い、正知なく、心が定まらず、心が散乱して諸根が無防備であるならば、彼は私から遠く離れており、私もまた彼から遠く離れている」と。

Ajjhogāhetvā adhippetatthaṃ sambhavituṃ sādhetuṃ dukkhānīti durabhisambhavāni. Aṭṭhakathāyaṃ pana tattha nivāsoyeva dukkhoti dassetuṃ **‘‘sambhavituṃ dukkhāni dussahānī’’**ti vuttaṃ. Araññavanapatthānīti araññalakkhaṇappattāni vanasaṇḍāni. Vanapattha-saddo hi saṇḍabhūte rukkhasamūhepi vattatīti araññaggahaṇaṃ. Kiñcāpīti anujānanasambhāvanatthe nipāto. Kiṃ anujānāti? Nippariyāyato araññābhāvaṃ ‘‘gāmato bahi arañña’’nti. Tenāha **‘‘nippariyāyenā’’**tiādi. Kiṃ sambhāveti? Āraññakaṅganipphādakattaṃ. Yañhi āraññakaṅganipphādakaṃ, taṃ visesato ‘‘arañña’’nti vuttanti. Tenevāha **‘‘yaṃ taṃ pañcadhanusatika’’**ntiādi. Nikkhamitvā bahi indakhīlāti indakhīlato bahi nikkhamitvā, tato bahi paṭṭhāyāti attho. Bahi indakhīlāti yattha dve tīṇi indakhīlāni, tattha bahiddhā indakhīlato paṭṭhāya, yattha taṃ natthi, tattha tadarahaṭṭhānato paṭṭhāyāti vadanti. Yasmā bahi indakhīlato paṭṭhāya manussūpacāre bhayabheravaṃ natthi, tasmā idha nādhippetanti daṭṭhabbaṃ.

深く分け入って所期の目的を達成し成就することが困難であるから「耐え難い」というのである。しかし義釈(アッタカター)においては、そこでの居住そのものが困難であることを示すために「**成就することが困難であり、耐え難い**」と説かれた。「人里離れた深林の座処」とは、森林の特徴を備えた林のことである。「深林」という語は、密集した樹木の群れにも用いられるため、「人里離れた」という限定辞が付加された。「たとえ〜であっても」とは、許容や仮定の意味を表す不変化詞である。何を許容するのか。「村の外は森林である」という直接的・一般的な意味での森林であることである。それゆえに「**直接的な意味において**」などと述べたのである。何を仮定するのか。頭陀行の森林住の要件を満たすことである。頭陀行の森林住の要件を満たすものこそが、とりわけ「森林」と呼ばれるからである。それゆえに「**五百弓の距離にあるもの**」などと述べたのである。「町の城門を出て外へ」とは、インダキーラ(城門の敷居)の外に出て、そこから外側を出発点として、という意味である。「インダキーラの外」とは、二つまたは三つの城門敷居がある場所では最も外側の城門敷居から、それが存在しない場所ではそれに相当する場所から、と諸師は述べている。城門敷居の外であっても人間の生活圏においては恐怖や戦慄がないため、ここでは意図されていないと知るべきである。

Gāmantanti gāmasamīpaṃ. Anupacāraṭṭhānanti niccakiccavasena nupacaritabbaṭṭhānaṃ. Tenāha **‘‘yattha na kasīyati na vapīyatī’’**ti. Pantānīti iminā ‘‘pariyantāna’’nti imassa pariyāyassa idha pāḷiyaṃ gahitattā vuttaṃ **‘‘pariyantānanti imamekaṃ pariyāyaṃ ṭhapetvā’’**ti. Dūrānanti pana ayaṃ pariyāyo ṭhapetabbo siyā tassāpi ‘‘pantānī’’ti imināva atthato gahitattā, tathā sati ‘‘na manussūpacārāna’’nti edisānampi ṭhapetabbatā āpajjati, tasmā saddato eva ṭhapanaṃ daṭṭhabbaṃ. Pavivekanti pakārato, pakārehi vā vivecanaṃ, rūpādiputhuttārammaṇe pakārato gamanādiiriyāpathappakārehi attano kāyassa vivecanaṃ gacchatopi tiṭṭhatopi nisajjatopi ekasseva pavattati. Teneva hi vivecetabbānaṃ vivecanākārassa ca bhedato bahuvidhattā te ekattena gahetvā ‘‘paviveka’’nti ekavacanena vuttaṃ. Dukkaraṃ pavivekanti vā pavivekaṃ kattuṃ na sukhanti attho. Ekībhāveti ekikabhāve. Dvayaṃdvayārāmoti dvinnaṃ dvinnaṃ bhāvābhirato. Haranti viyāti saṃharanti viya vighātuppādanena. Tenāha **‘‘ghasanti viyā’’**ti, bhayasantāsuppādanena khādituṃ āgatā yakkharakkhasapisācādayo viyāti adhippāyo. Īdisassāti aladdhasamādhino. Tiṇapaṇṇamigādisaddehīti vāteritānaṃ tiṇapaṇṇādīnaṃ migapakkhiādīnañca bhiṃsanakehi bheravehi saddehi vividhehi ca aññehi khāṇuādīhi yakkhādiākārehi upaṭṭhitehi bhiṃsanakehi. Evaṃ dukkaraṃ durabhisambhavaṃ nāma karonto aho acchariyā eteti vimhito.

「村の境界」とは、村の近傍のことである。「人の出入りのない場所」とは、日常的な用務によって立ち入るべきではない場所のことである。それゆえに「**耕作されず、種も蒔かれない場所**」と述べたのである。「辺境の」という語によって「境界の」という同義語がこの聖典本文(パーリ)において採用されたため、「**境界のというこの一語の言い換えを除いて**」と述べられた。しかし「遠方の」というこの同義語も、「辺境の」という語によって意味的に含まれているため、除外されるべきであろう。もしそうであれば「人間の出入りがない」といった同義語も除外されることになってしまうため、言葉の上での除外であると理解すべきである。「遠離」とは、様々な様相から、あるいは様々な様相による遠離であり、色などの多様な対象に対して、歩行などの威儀の様相によって自らの身を遠離させることは、歩む者にも立つ者にも坐す者にも、ただ一人の者に生じる。それゆえに、遠離されるべきものと遠離の様態の区別によって多種多様であるが、それらを一つにまとめて「遠離」と単数形で説かれたのである。あるいは「遠離をなすことは困難である」とは、遠離を行うことは容易ではないという意味である。「独居において」とは、単独である状態において。「二組の交わりを楽しむ者」とは、二人二人の状態を喜ぶ者のことである。「奪い去るかのように」とは、障害を生じさせることによって打ち砕くかのようである。それゆえに「**貪り食うかのようである**」と述べたのであり、恐怖と戦慄を生じさせることによって喰らい尽くそうと現れた夜叉や羅刹や毘舎遮(ピシャーチャ)などのようである、という意味である。「このような者には」とは、定(サマーディ)を得ていない者には、ということである。「草木や野獣などの音によって」とは、風に揺れる草葉などや、野獣や鳥などの恐ろしく凄まじい物音によって、また切り株などが夜叉などの姿となって現れる様々な恐ろしい様相によって、ということである。このように困難で耐え難きことを成し遂げつつ、「ああ、実に驚くべきことだ」と感嘆したのである。

Kāyakammantavārakathāvaṇṇanā

身業の章の解説

35. Soḷasasu ṭhānesūti ‘‘ye kho kecī’’tiādinā pāḷiyaṃ vakkhamānesu soḷasasu kāraṇesu. Aparisuddhakāyakammantatādayo araññe viharantānaṃ cittutrāsanimittatāya visesato vikkhepāvahā, parisuddhakāyakammantatādayo pana tadabhāvato tesaṃ avikkhepāvahā. Tenāha **‘‘aparisuddhakāyakammantasandosahetū’’**tiādi. Soḷasasūti ca vodānapakkhaṃyeva gahetvā vuttaṃ. Saṃkilesaggahaṇampi yāvadeva vodānadassanatthanti. Ārammaṇapariggaharahitānanti aparisuddhakāyakammantādikassa araññe diṭṭhassa tassa ārammaṇassa **‘‘ye kho kecī’’**tiādinā pāḷiyaṃ āgatanayena pariggaṇhanañāṇarahitānaṃ. Ārammaṇapariggahayuttānanti ettha vuttavipariyāyena attho veditabbo. Attanāti bhagavantaṃ sandhāya vadati, sayanti attho. Tādisoti ārammaṇapariggahayutto.

35. 「十六の箇条において」とは、「実に何人かの…」などと聖典本文においてこれから説かれる十六の事柄において、ということである。不清浄な身業などを有することは、森林に住する者たちの心の恐れの徴となるため、特にはなはだしい散乱をもたらすが、清浄な身業などを有することは、その恐れがないため、彼らに無散乱をもたらす。それゆえに「**不清浄な身業の過失を原因として**」などと述べたのである。「十六の」と説かれたのは、清浄の側のみを取り上げて述べたものである。雑染の側を取り上げたのも、ひとえに清浄の側を示すためのものである。「対象の把持を欠いた者たち」とは、不清浄な身業などについて森林において見られたその対象を、「実に何人かの…」などと聖典本文に示された方法によって把持する智慧を欠いた者たちのことである。「対象の把持を具えた者たち」とは、ここで述べられたことの反対の意味として理解されるべきである。「自らによって」とは世尊を指して述べており、自ら、という意味である。「そのような者」とは、対象の把持を具えた者のことである。

Sambujjhati etenāti sambodho, ariyamaggoti āha **‘‘ariyamaggappattito’’**ti. Aggamaggādhigamādhīno buddhānaṃ sabbaññutaññāṇādhigamoti āha **‘‘anabhisambuddhassāti appaṭividdhacatusaccassā’’**ti. Anavasesato ñeyyaṃ, bujjhituṃ arahatīti bodhi, mahāvīriyatādinā tattha visesayogato sattoti āha **‘‘bujjhanakasattassā’’**ti. Tenāha **‘‘sammāsambodhi’’**ntiādi. Niyatabhāvappattito paṭṭhāya mahāsattā yathā mahābodhiyānapaṭipadā hānabhāgiyā, ṭhitibhāgiyā vā na hoti, atha kho visesabhāgiyā nibbedhabhāgiyā ca hoti, tathā paṭipajjanato bodhiyaṃ ninnagoṇapabbhārā evāti āha **‘‘bodhiyā vā sattasseva laggassevā’’**ti. Tenāha **‘‘dīpaṅkarassa hī’’**tiādi. Aṭṭhadhammasamodhānenāti –

これによって正しく覚るゆえに「正覚」であり、聖道のことである。それゆえに「**聖道の獲得によって**」と述べた。「最上の道(阿羅漢道)の獲得に依存して諸仏の一切知智の獲得がある」ゆえに、「**正覚に達していない者とは、四聖諦を洞達していない者のことである**」と述べた。余すところなく知るべきものであり、覚知されるにふさわしいゆえに「菩提(覚り)」であり、大いなる精進などによってそこに特別な結合を有することから「有情(サッタ)」である。それゆえに「**覚るべき有情**」と述べたのである。したがって「**正等覚を**」などと説かれた。決定(授記)の状態を獲得して以来、大士(ボーディサッタ)たちは、大いなる菩提の乗り物の行道が退転に属するものや停滞に属するものとはならず、勝進に属するものや決択に属するものとなるように実践したことから、菩提に向かって傾き、菩提に傾斜し、菩提に傾注しているのである。それゆえに「**あるいは菩提に執着した、執心した者**」と述べたのである。したがって「**実にディーパンカラ仏の…**」などと説かれた。「八つの条件の統合によって」とは、

‘‘Manussattaṃ liṅgasampatti, hetu satthāradassanaṃ;

「人間性、男性の具備、因縁(阿羅漢となり得る素質)、師(仏)との拝謁、

Pabbajjā guṇasampatti, adhikāro ca chandatā’’ti. (bu. vaṃ. 2.59) –

出家、徳の具備、格別の善行(身命を捧げる誓願)、そして強い意欲(志)」(仏種姓経 2.59)――

Imesaṃ abhinīhārassa aṅgabhūtānaṃ aṭṭhannaṃ dhammānaṃ samodhānena samavadhānena.

という、誓願の構成要素であるこれら八つの法の統合、結集によって、ということである。

Pabbajjūpagatāti pabbajjaṃ upagatā. Tena pabbajjāmattena samaṇā, na samitapāpatāyāti dasseti. Jātimattena idha brāhmaṇāti adhippetāti āha **‘‘bhovādino vā’’**ti. Te hi ‘‘bho bho’’ti vadanasīlā, tenāha ‘‘bhovādī nāma so hoti, sace hoti sakiñcano’’ti (dha. pa. 396; su. ni. 625). Pāṇātipātādināti ādi-saddena adinnādānaṃ abrahmacariyañca saṅgaṇhāti. Aparisuddhenāti ca visesanaṃ kāyakammantāpekkhāya, na pāṇātipātādiapekkhāya. Na hi pāṇātipātādiko tassa pubbabhāgapayogo ca koci parisuddho nāma atthi. Bhāyanaṭṭhena bhayaṃ, bhīrutāvahaṭṭhena bheravaṃ. Sandosahetūti sadosahetu. Sa-saddo hi idha sānusāro vutto. Tenāha **‘‘attano dosassa hetū’’**ti. Ekantena cittutrāsalakkhaṇassa bhayassa vasena **‘‘sāvajja’’**nti vuttaṃ. Cittutrāso hi ekantasāvajjo bhāyanaṭṭhena bhayañcāti. Akkhemanti idaṃ ubhayavasena. Cittutrāsopi hi sarīracittānaṃ anatthāvahato akkhema, tathā bhayānakārammaṇampīti. Aṭṭhakathāyaṃ pana atthadvayaṃ yathāsaṅkhyaṃ yojitaṃ. Sayaṃ parikappitabhayānakārammaṇanimittaṃ cittutrāsasamuppādanavasena ānentā bhayabheravaṃ avhāyanti viya hontīti vuttaṃ **‘‘avhāyantīti pakkosantī’’**ti. Teti māritamanussānaṃ ñātimittādayo. Gacchaṃ gahanabhūtaṃ mahantaṃ kaṇṭakasaṇḍaṃ, gumbaṃ nātimahantanti vadanti. Gacchanti pana tiṇavanaṃ veditabbaṃ, ‘‘gacche ruḷhatiṇe’’ti vuttaṃ, gumbaṃ kaṇṭakalatādibharitāviruḷhaṃ. Baddhā vadhitā viyāti baddhā hutvā tāḷiyamānā viya.

「出家に入った者」とは、出家を成した者である。これによって、出家という形ばかりによって沙門なのであり、悪を静息したことによるのではないことが示される。ここでは生まれの身分だけによって婆羅門であると意図されているゆえに、「**あるいは『ボー』と語りかける者たち**」と述べた。彼らは「ボー、ボー(君よ)」と語りかける習性があるからである。それゆえに「もし何らかの執着があるならば、彼は『ボーと語りかける者』と呼ばれる」(法句経 396; スッタニパータ 625)と説かれた。「殺生などによって」の「など」という語によって、不与取(盗み)や非梵行(不淫)が含まれる。「不清浄な」という限定辞は身業に着目したものであり、殺生などに着目したものではない。殺生などやその前段階の行為には、清浄なものなど一切存在しないからである。恐れるという意味で「恐怖」であり、臆病をもたらすという意味で「戦慄」である。「過失の原因」とは、過失を伴う原因のことである。ここでの「サ(sa-)」という接頭辞は、随伴(伴うこと)の意味で用いられている。それゆえに「**自らの過失の原因によって**」と述べたのである。専ら心の戦慄という特徴をもつ恐怖であることから、「**有罪である**」と述べられた。心の戦慄は完全に罪過を伴うものであり、恐れるという意味での恐怖であるからである。「安穏ならざる」とは、この双方によるものである。心の戦慄も心身に不利益をもたらすゆえに安穏ではなく、同様に恐ろしい対象も安穏ではないからである。しかし義釈においては、二つの意味が順序に従って結合されている。自らが分別した恐ろしい対象の徴によって心の戦慄を生起させることで、恐怖と戦慄を招き寄せるかのようであることから、「**招き寄せる、すなわち呼び寄せる**」と述べられた。「彼らは」とは、殺害された人間たちの親族や友人などのことである。「ガッチャ」とは、鬱蒼とした大きな茨の茂みのことであり、「グンバ」とは、それほど大きくない茂みのことであると言われる。しかし「ガッチャ」は草むらと解されるべきであり、「草が生い茂る茂みにおいて」と説かれている。「グンバ」とは、茨の蔓などが満ちて生い茂ったものである。「縛られ打たれた者のように」とは、縛られて打ち叩かれているかのようである、という意味である。

‘‘Na kho panāti ettha khoti avadhāraṇatthe nipāto, **panā’’**ti visesatthe. Tenetaṃ dasseti ‘‘aññe samaṇabrāhmaṇā viya ahaṃ aparisuddhakāyakammanto hutvā araññavanapatthāni pantāni senāsanāni na kho pana paṭisevāmi, parisuddhakāyakammantoyeva pana hutvā tāni paṭisevāmī’’ti. Evaṃ vā ettha atthayojanā veditabbā. ‘‘Parisuddhakāyakammantohamasmī’’ti hi tena avadhāraṇena vibhāvitatthadassanaṃ. Tesamahaṃ aññataroti tāya parisuddhakāyakammatāya tesaṃ ariyānaṃ ahaṃ aññataroti kāyakammapārisuddhiyā mahāsatto attānaṃ ariyesu pakkhipati. Paramasallekhabhāvappattā hi tadā bodhisattassa kāyakammapārisuddhi, tathā vacīkammādipārisuddhi, yato māro randhagavesī hutvā chabbassāni nirantaraṃ anubandho antaraṃ na labhati. Tenāha –

「実にそうではない」において、「実に(kho)」は限定の意味の不変化詞であり、「**しかし(pana)**」は特異性の意味である。これによって「他の沙門・婆羅門たちのように、私は不清浄な身業の持ち主となって、人里離れた深林の辺境の座処に親しむということは実にないのであり、清浄な身業の持ち主となってのみ、それらに親しむのである」ということを示している。あるいは、ここでの意味の解釈は次のように理解されるべきである。その限定によって「私は清浄な身業の持ち主である」という明確な意味が示されるからである。「私はそれらの聖者たちの一人である」とは、その清浄な身業によって「私はそれらの聖者たちの一人である」と、身業の清浄さによって大士(菩薩)は自らを聖者たちの中に数え入れるのである。当時、菩薩の身業の清浄さは、言葉の業などの清浄さと同様に、最高の削剥(清浄)の境地に達していたのであり、そのために魔王は隙を窺いながら六年間絶え間なく追随したものの、つけ入る隙を得られなかったのである。それゆえに、

‘‘Satta vassāni bhagavantaṃ, anubandhiṃ padāpadaṃ;

「七年のあいだ、私は世尊の足跡を一歩一歩追跡したが、

Otāraṃ nādhigacchissaṃ, sambuddhassa satīmato’’ti. (su. ni. 448);

正覚者にして正念ある方に、つけ入る隙を見出すことはできなかった」(スッタニパータ 448)――

Bhiyyoti adhikaṃ savisesaṃ, uparūpari vā. Bhītatasitā bhayūpaddavena chambhitasarīrā haṭṭhalomā honti, abhītātasitā pana bhayūpaddavābhāvato ahaṭṭhalomā khemena sotthinā tiṭṭhantīti tesaṃ khemappatti sotthibhāvo vā pannalomatāya pākaṭo hotīti pāḷiyaṃ ‘‘palloma’’nti vuttaṃ. Tenāha **‘‘pannalomata’’**ntiādi. Ettha ca bhiyyo pallomamāpādiṃ araññe vihārāyāti paṭiññāniddeso. Parisuddhakāyakammantohamasmīti hetudassanaṃ. **‘‘Ye hi vo ariyā’’**ti sadisūdāharaṇadassanaṃ. Ye kho keci samaṇā vā brāhmaṇā vāti visadisūdāharaṇadassanaṃ. Sesāni anvayabyatirekavibhāvanānīti daṭṭhabbanti ayamettha yuttivibhāvanā. Iminā nayena sesavāresupi yuttivibhāvanā veditabbā.

と説かれたのである。「いっそう」とは、さらに多く、格別に、あるいはますます、ということである。恐怖に脅える者たちは、危険の災難によって身を震わせ、鳥肌を立てるが、恐怖に脅えない者たちは、危険の災難がないために鳥肌を立てず、安穏無事に留まる。彼らの安穏の達成あるいは無事の状態は「毛が伏していること(平穏)」によって明らかになるため、聖典本文において「平穏」と説かれたのである。それゆえに「**毛が伏していること**」などと述べた。そしてここにおいて、「森林に住むために、いっそう平穏を得た」というのが主張の提示(宗)である。「私は清浄な身業の持ち主である」というのが根拠の提示(因)である。「**実にそれらの聖者たちは**」というのが同喩(類似の例)の提示である。「実に何人かの沙門あるいは婆羅門たち…」というのが異喩(不類似の例)の提示である。残りは適合と不適合の解明であると知るべきであり、これがここでの論理の解明である。この方法によって、残りの箇条においても論理の解明が理解されるべきである。

Kāyakammantavārakathāvaṇṇanā niṭṭhitā.

身業の章の解説、終了。

Vacīkammantavārādikathāvaṇṇanā

口業の章などの解説

36. Aparisuddhena musāvādādināti ettha yaṃ vattabbaṃ, taṃ heṭṭhā vuttanayameva. Ādi-saddena pana saṅgahitaṃ tesañca musāvādādīnaṃ pavattibhedaṃ bhayabheravāvhānamukhena dassetuṃ **‘‘katha’’**ntiādi vuttaṃ. Tattha yaṃ vattabbaṃ, taṃ heṭṭhā vuttameva.

36. 「不清浄な妄語などによって」において語られるべきことは、すでに上述された方法と同様である。しかし「など」という語によって包含された、それら妄語などの活動の違いを、恐怖と戦慄を招き寄せるという観点から示すために、「**どのように**」などと述べられた。そこにおいて語られるべきことは、すでに上述されたとおりである。

Bhaṇḍesūti saviññāṇakāviññāṇakesu bhaṇḍesu. Uppādetvāti attano pariṇāmavasena abhijjhāsaṅkhātaṃ visamalobhaṃ uppādetvā. Kujjhitvāti vināsacintāvasena parassa kujjhitvā. Evañhi nesaṃ ‘‘yesaṃ aparajjhimhā, te idāni anubandhitvā’’tiādinā pacchā āsaṅkuppatti siyā. ‘‘Ete amhākaṃ pariggahavatthuṃ gahetukāmā maññe, vināsaṃ kātukāmā maññe’’ti yathā pare parato tesaṃ abhijjhābyāpādappavattiṃ pariggaṇhanti, tādisaṃ manokammantaṃ sandhāya **‘‘te paresa’’**ntiādi vuttanti daṭṭhabbaṃ. Kāmaṃ akusalakāyakammavacīkammapavattikālepi abhijjhādayo pavattantiyeva, tadā pana te cetanāpakkhikā vā abbohārikā vāti manokammantavāre eva abhijjhādivasena yojanā katā. Atha vā dvārantare pavattānampi pāṇātipātādīnaṃ vacīkammādibhāvābhāvo viya dvārantare pavattānampi abhijjhādīnaṃ kāyakammādibhāvābhāvo, manokammabhāvo eva pana siddhoti katvā manokammantavāre eva abhijjhādayo uddhaṭā. Tathā hi vuttaṃ –

「財物において」とは、有情(奴隷や家畜)および非情(金銀や器物)の財物において、ということである。「生起させて」とは、自らの所有とする形での貪欲と呼ばれる不正な貪りを生起させて。「怒りを抱いて」とは、破滅を望む思いによって他者に対して怒りを抱いて。このようにして彼らには、「私たちが損害を与えた者たちが、今や追跡してきて…」などと、後から疑惑が生じることになる。「彼らは私たちの所有物を奪おうと望んでいるに違いない、破滅させようと望んでいるに違いない」と、他者が他方から彼らの貪欲や瞋恚の現れを感知するように、そのような意業を指して「**彼らは他者の…**」などと述べられたと知るべきである。確かに不善な身業や口業が起こる時にも貪欲などは現れるが、その時にはそれらは思(意思)の側に属するか、あるいは名目上のものであるため、意業の箇条においてのみ貪欲などによる結合がなされたのである。あるいは、他の門(身・口)において起こる殺生などが口業などとはならないように、他の門において起こる貪欲なども身業などとはならず、意業であることのみが成立するがゆえに、意業の箇条においてのみ貪欲などが挙げられたのである。実にこのように説かれている。

‘‘Dvāre caranti kammāni, na dvārā dvāracārino;

「諸々の業はそれぞれの門において機能するのであり、門が他の門において機能するのではない。

Tasmā dvārehi kammāni, aññamaññaṃ vavatthitā’’ti. (dha. sa. aṭṭha. 1.kāyakammadvāra);

それゆえに諸々の業は、それぞれの門によって互いに区別されている」(法集論義釈 1.身業門)――

Kiñcāpi aṭṭhakathāyaṃ sāsane pabbajitavasena ājīvavāre bhayabheravāvhānaṃ yojitaṃ, ‘‘ye kho keci samaṇā vā brāhmaṇā vā’’ti pana vacanato bāhirakavasena gahaṭṭhavasena ca yojanā veditabbā. Gahaṭṭhānampi hi jātidhammakuladhammadesadhammavilomanavasena aññathāpi micchājīvo labbhateva, tāya eva ca ājīvavipattiyā aññathā vā nesaṃ araññavāso sambhaveyyāti.

義釈においては仏教の教えにおいて出家した者に基づいて生計の箇条における恐怖と戦慄の招引が解釈されているが、「実に何人かの沙門あるいは婆羅門たち」という言葉から、外道に基づいて、また在家の者に基づいて解釈がなされるべきであると知るべきである。在家の者たちにも、生まれの法、家系の法、土地の法に背くことによって他の形でも邪命は確かに生じるのであり、まさにその生計の破滅によって、あるいは別の理由によって、彼らに森林生活が生じることもあり得るからである。

37. Evaṃ ājīvaṭṭhamakasīlavasena bhayabheravaṃ dassetvā tato paraṃ nīvaraṇappahānādivasena taṃ dassetuṃ desanā vaḍḍhitāti tadatthaṃ vivaranto **‘‘ito para’’**ntiādimāha. Tattha nīvaraṇavasena puna vuttāti ayamadhippāyo – evaṃ sīlavisuddhimattampi araññe viharato bhayabheravābhāvaṃ āvahati, kimaṅgaṃ pana nīvaraṇāni pahāya appanāsamādhiṃ, upacārasamādhimeva vā sampādayatoti samādhisampadāya bhayabheravābhāvahetukaṃ dassetuṃ upari desanā vaḍḍhitāti akusalamanokammantabhāvena gahitāpi abhijjhābyāpādā nīvaraṇavasena puna vuttāti adhippāyo. Abhi-pubbo jhā-saddo abhijjhāyanatthoti āha **‘‘parabhaṇḍādiabhijjhāyanasīlā’’**ti. Vatthukāmesūti rūpādīsu kilesakāmassa vatthubhūtesu kāmesu. Bahalakilesarāgāti thiramūladummocanīyatāhi ajjhosāne pabhūtakilesakāmā. Abhijjhā cettha appattavisayapatthanā, tibbasārāgo sampattivisayābhiniveso. Te hi lobhābhibhūtā puggalā attani tibbasāpekkhatāya eva lobhābhibhūtatāya avavatthitārammaṇā avinicchitavisayā araññe taṃ taṃ visayaṃ anupadhāritvā viharanti, rajjuādīni yāthāvato na sallakkhenti. Tenāha **‘‘tesa’’**ntiādi. Upaṭṭhāti santacittatāya. Tathā hi vuttaṃ **‘‘ākulacittā’’**ti. ‘‘Idānimha naṭṭhā’’ti tasanti vitasanti, āgantvā bādhiyamānā viya honti, evaṃ taṃ bhayabheravaṃ attani samāropanaṭṭhena avhāyanti pakkosantīti yojanaṃ sandhāyāha **‘‘sesaṃ tādisamevā’’**ti. **‘‘Anabhijjhāluhamasmī’’**ti pāḷipade ciraparicitaalobhajjhāsayatāya kamaladale jalabindu viya alaggamānasattā sabbattha anapekkhohamasmīti attho.

37. このように生計を第八とする戒(八戒)に基づいて恐怖と戦慄を示し、それ以降は蓋(障害)の断除などに基づいてそれを示すために教説が展開されたのであり、その意味を解き明かすために「**これ以降は**」などと述べた。そこにおいて蓋に基づいて再び説かれたことの意図は次のとおりである――このように戒の清浄さだけでも、森林に住する者に恐怖と戦慄がない状態をもたらすのであるから、ましてや蓋を断じて安止定(根本定)を、あるいは近分定(準備定)だけでも成就する者においては言うまでもない、と定の具備による恐怖と戦慄の不在の原因を示すために、さらに進んで教説が展開されたのであり、不善の意業として取り上げられた貪欲と瞋恚が、蓋に基づいて再び説かれたのである、というのがその意図である。「アビ(abhi-)」を前置した「ジャー(jhā)」という語は、熱望する意味であるゆえに「**他人の財物などを熱望する習性の者**」と述べた。「諸々の欲情の対象において」とは、色などの煩悩欲の対象となる諸々の欲において。「濃厚な煩悩の貪りをもつ者」とは、根深く脱しがたい執着によって強い煩悩欲をもつ者たちのことである。そしてここでの貪欲とは未獲得の対象に対する願望であり、強烈な貪愛とはすでに獲得した対象に対する執着である。それらの貪欲に圧倒された人々は、自らに対する強烈な愛着ゆえに貪欲に圧倒されていることから、対象が定まらず、対象を確定できずに森林においてそれぞれの対象を吟味することなく暮らし、縄などを正しく認識できない。それゆえに「**彼らの…**」などと述べたのである。「現れる」とは、取り乱した心によってである。実に「**取り乱した心をもつ者**」と説かれているとおりである。「今や私たちは破滅した」と怯え、恐れおののき、近づいて圧迫されているかのようになり、このようにしてその恐怖と戦慄を自らの上に引き受けるという意味で、招き寄せ、呼び寄せるのであるという解釈を指して「**残りは同様である**」と述べた。「**私は貪欲なき者である**」という聖典の言葉は、長く親しんだ無貪の意楽によって、蓮の葉の上の水滴のように心が執着しないことから、あらゆる場所において執着なき者であるという意味である。

38. Pakatibhāvavijahanenāti parisuddhabhāvasaṅkhātassa ca pakatibhāvassa vijahanena. Sāvajjadhammasamuppattiyā hi cittassa anavajjabhāvo jahito hotīti. Vipannacittāti kilesāsucidūsitatāya kuthitacittā. Tenāha **‘‘kilesānugataṃ…pe… pūtikaṃ hotī’’**ti. Paduṭṭhamanasaṅkappāti visasaṃsaṭṭhamuttaṃ viya dosena padūsitacittasaṅkappā. Vuttanayenevāti ‘‘te avavatthitārammaṇā hontī’’tiādinā abhijjhāluvāre vuttanayeneva. Yathā hi lobhavasena, evaṃ dosādivasenapi avavatthitārammaṇā hontīti. Sabbatthāti heṭṭhā upari cāti sabbattha ṭhānesu vaṇṇetabbā.

38. 「本性の状態を捨てることによって」とは、清浄な状態と呼ばれる本性の状態を捨てることによって、ということである。有罪の法が生起することによって、心の無罪の状態が捨てられるからである。「損なわれた心をもつ者」とは、煩悩の汚れによって濁った心をもつ者たちのことである。それゆえに「**煩悩に従ったものは…中略…腐敗したものとなる**」と述べた。「汚された意の思惟をもつ者」とは、毒の混ざった尿のように瞋恚によって汚された心の思惟をもつ者たちのことである。「すでに述べられた方法によって」とは、「彼らは対象が定まらない者たちとなる」などと、貪欲の章で述べられたのとまったく同じ方法によって、ということである。貪欲によるのと同様に、瞋恚などによっても対象が定まらなくなるからである。「すべての箇所において」とは、下においても上においても、すべての箇所において注釈されるべきである。

39. ‘‘Yā cittassa akallatā akammaññatā’’ti vacanato thinaṃ cittassa gelaññabhāvena gahaṇaṃ gacchatīti āha **‘‘cittagelaññabhūtena thinenā’’**ti. Tathā ‘‘yā kāyassa akallatā akammaññatā’’ti (dha. sa. 1163) vacanato middhaṃ visesato nāmakāyassa gelaññabhāvena gahaṇaṃ gacchatīti āha **‘‘sesanāmakāyagelaññabhūtena middhenā’’**ti. Sesaggahaṇañcettha cittanivattanatthaṃ. Idañca middhaṃ rūpakāyassapi gelaññāvahanti daṭṭhabbaṃ niddāya hetubhāvato. Tathā hi taṃ ‘‘niddā capalāyikā’’ti niddiṭṭhaṃ. Tenāha **‘‘te niddābahulā hontī’’**ti.

39. 「心の無能さ、不適格さである」という言葉から、惛沈(心の沈鬱)は心の病の状態として理解されるため、「**心の病である惛沈によって**」と述べた。同様に「身(心所)の無能さ、不適格さである」(法集論 1163)という言葉から、睡眠(心所の沈鬱)は特に名身(受・想・行の心所群)の病の状態として理解されるため、「**残りの名身の病である睡眠によって**」と述べた。ここでの「残りの」という語は、心(心王)を除外するためのものである。そしてこの睡眠は、眠気の原因となることから、色身(肉体)にも病(重さ・不調)をもたらすと知るべきである。実にそれは「眠気、居眠り」と示されている。それゆえに「**彼らは睡眠にふける者となる**」と述べたのである。

40. Uddhaccapakatikāti uddhaccasīlā anavaṭṭhitasabhāvā. Anavaṭṭhānarasañhi uddhaccaṃ. Tenāha **‘‘vipphandamānacittā’’**tiādi. Idhāti ‘‘avūpasantacittā’’ti imasmiṃ pade. Kukkuccaṃ gahetuṃ vaṭṭati saṃvaṇṇanāvasena pacchānutāpassapi cittassa avūpasamakarattā. Uddhaccaṃ pana sarūpeneva gahitanti adhippāyo.

40. 「掉挙(心の浮動)の性質をもつ者」とは、掉挙の習性があり、落ち着きのない本質をもつ者たちのことである。実に掉挙の特相は落ち着きのなさである。それゆえに「**動揺する心をもつ者たち**」などと述べた。「ここにおいて」とは、「静止せぬ心をもつ者」というこの言葉において、ということである。悪作(後悔)を含めることも妥当である。後悔もまた、注釈に従えば心を静止させない原因となるからである。しかし掉挙は、その固有の名称そのものによって取り上げられている、というのが意図である。

41. Ekamevidaṃ pañcamaṃ nīvaraṇaṃ yadidaṃ kaṅkhā vicikicchāti ca. Yadi evaṃ kasmā dvidhā katvā vuttanti āha **‘‘kiṃ nu kho’’**tiādi. Kaṅkhanatoti saṃsayanato. Vicikicchāti vuccati ‘‘dhammasabhāvaṃ vicinanto etāya kicchati, vigatā tikicchā vā’’ti katvā.

41. 疑いと疑惑とは、実に第五の蓋の同一のものである。もしそうであるなら、なぜ二つに分けて説かれたのかといえば、「**はたして…だろうか**」などと述べた。疑うことから「疑い」である。「法(真理)の自性を探求しつつこれによって苦しむ、あるいは治療(確信)を離れている」ことから「疑惑」と呼ばれる。

42. Evaṃ nīvaraṇābhāvakittanamukhena samādhisampadāya bhayabheravābhāvaṃ dassetvā idāni attukkaṃsanādiabhāvakittanamukhena paññāsampadāya bhayabheravābhāvaṃ dassetuṃ ‘‘ye kho kecī’’tiādinā upari desanā vaḍḍhitā, tadatthaṃ vivarituṃ **‘‘attukkaṃsanakā’’**tiādi vuttaṃ. Ukkaṃsenti mānavasena paggaṇhanena. Tenāha **‘‘ucce ṭhāne ṭhapentī’’**ti. Thinamiddhauddhaccakukkuccavicikicchāvāresu gayhamānaṃ abhijjhāluvārasadisanti tattha taṃ anāmasitvā attukkaṃsakavāre kiñci visadisaṃ atthīti taṃ dassetuṃ **‘‘te katha’’**ntiādi vuttaṃ.

42. このように蓋の不在を讃えることを通じて、定の具備による恐怖と戦慄の不在を示し、今度は自賛などの不在を讃えることを通じて、慧の具備による恐怖と戦慄の不在を示すために、「実に何人かの…」などとさらに教説が展開されたのであり、その意味を解き明かすために「**自らを称揚する者たち**」などと述べられた。高慢によって高く掲げることによって称揚するのである。それゆえに「**高い場所に置く**」と述べた。惛沈・睡眠・掉挙・悪作・疑いの諸章において把握される内容は貪欲の章と同様であるため、そこでは言及せず、自賛の章においては幾分異なる点があるため、それを示すために「**彼らはどのように**」などと述べられた。

43. Chambhanaṃ chambho, kāyassa chambhitattahetubhūto balavacittutrāso. So etesaṃ atthīti chambhī. Tenāha **‘‘kāyathambhanā’’**tiādi. Bhīrukajātikāti bhāyanakasīlā. Ekameva cetaṃ sāvajjabhayaṃ kāye chambhitattassa, citte ca kāye ca thaddhabhāvassa uppādanavasena ‘‘chambho bhīrutā’’ti ca vuccatīti taṃsamaṅgino samaṇabrāhmaṇā ‘‘chambhī bhīrukajātikā’’ti vuttā, idha bhayabheravaṃ sarūpeneva gahitaṃ.

43. 震えることが「戦慄」であり、身の硬直の原因となる強烈な心の恐れのことである。それをもつ者が「戦慄する者」である。それゆえに「**身の硬直…**」などと述べた。「臆病な性質の者」とは、恐れる習性をもつ者たちのことである。そしてこの有罪の恐怖は一つであるが、身に硬直を生じさせ、心と身に強張りをもたらすことから「戦慄、臆病」とも呼ばれるのであり、それを具えた沙門・婆羅門たちは「戦慄し、臆病な性質の者」と説かれた。ここでは恐怖と戦慄がその固有の性質として捉えられている。

44. Labbhati pāpuṇīyatīti lābhasaddassa kammasādhanattamāha. Sakkaccaṃ kātabbo dātabboti sakkāro. Tadatthadīpakanti lābhādiṃ pahāya araññe vasato bhayabheravāvhāyanaṃ natthīti dīpakaṃ. So kira lābhagarutāyeva piyo gāmo etassāti **‘‘piyagāmiko’’**ti nāmaṃ labhati. Kammamuttoti jarājiṇṇattā kammaṃ kātuṃ na sakkotīti sāmikehi vissaṭṭho.

44. 得られる、到達されるゆえに「利得(ラーバ)」であると、利得という語の受動的な語源を述べている。恭しくなされるべきもの、与えられるべきものが「供養(サッカラー)」である。「その意味を明示するもの」とは、利得などを捨てて森林に住む者には恐怖や戦慄の招引はないということを明示するもののことである。実に彼は利得を重んじるがゆえに村が愛しいのであり、「**村を愛する者**」という名を得る。「役務を解かれた者」とは、老衰のために労働を行うことができず、主人たちによって見放された者のことである。

45. Alasabhāvena sammāvāyāmassa akaraṇato kucchitaṃ sīdantīti kusītā. Vīrassa bhāvo, kammaṃ vā vīriyaṃ, vidhinā vā īretabbaṃ pavattetabbanti vīriyaṃ, sammāvāyāmo. Tena hīnā hīnavīriyā. Kāyaviññattiyā samuṭṭhānavasena pavattavīriyaṃ kāyikavīriyaṃ, vattakaraṇacaṅkamanādīsu daṭṭhabbaṃ. Nisajja sayitvā ca kammaṭṭhānamanasikāravasena pavattavīriyaṃ cetasikavīriyaṃ. Tattha purimaṃ visesato kosajjapaṭipakkhatāvasena, dutiyaṃ vīriyārambhatāvasena pākaṭaṃ hotīti dassento **‘‘kusītā’’**tiādimāha. Te hi hīnavīriyā alasatāyeva ārammaṇavavatthānamattampi kātuṃ na sakkonti.

45. 怠惰であることによって正精進を行わないため、卑しく沈滞するゆえに「怠惰な者(クシータ)」である。勇者の状態、あるいは行為が「精進(ヴィーリヤ)」であり、あるいは規則に従って奮い起こされるべきもの、活動させるべきものが精進であり、正精進のことである。それを欠いた者が「減退した精進の持ち主」である。身の表色(動作)の生起によって生じる精進が身の精進であり、義務の履行や経行などにおいて見られるべきである。坐り、あるいは横たわって業処を作意することによって生じる精進が心の精進である。そこにおいて前者は特に怠惰の反対として、後者は精進の開始として明らかになることを示しつつ、「**怠惰な者たち**」などと述べた。実にそれら精進の減退した者たちは、怠惰のゆえに対象を確定することすらできないのである。

46. Naṭṭhassatīti alabbhamānassati, paccayavekallena vijjamānāyapi satiyā satikiccaṃ kātuṃ asamatthatāya evaṃ vuttaṃ. Na sampajānāti asampajānā. Taṃyoganivattiyañcāyaṃ a-kāro ‘‘ahetukā dhammā (dha. sa. 2.dukamātikā), abhikkhuko āvāso’’tiādīsu (cūḷava. 76) viyāti āha **‘‘paññārahitā’’**ti. Nanu soḷasamo paññāvāro, ayaṃ sativāro, tattha kasmā saṃkilesapakkhe paññā gahitāti codanaṃ sandhāyāha **‘‘imassa cā’’**tiādi. Satibhājanīyamevetaṃ, yadidaṃ cuddasamo vāro, paññā panettha cuddasame vāre kevalā sati dubbalāti satidubbalyadīpanatthaṃ ‘‘asampajānā’’ti paṭikkhepamukhena vuttā. Idāni vuttamevatthaṃ pākaṭataraṃ kātuṃ **‘‘duvidhā hī’’**tiādi vuttaṃ.

46. 「失われた正念をもつ者」とは、正念が得られない者であり、条件の欠如によって存在していても正念の機能を果たすことができないためにこのように説かれた。「正知しない者」とは正知なき者である。この否定の「ア(a-)」は、「無因の法」「比丘のいない住居」などにおけるのと同様に、それとの結合を否定する意味であるため、「**智慧なき者**」と述べた。第十六の章が慧の章であり、この第十四の章は念の章であるのに、なぜ雑染の側に慧が含まれているのかという異論を考慮して、「**そしてこの…**」などと述べた。この第十四の章はまさに正念に属するものであり、ここでの慧は、第十四の章において正念だけでは弱いことから、正念の脆弱さを示すために「正知なき者」と否定の形で説かれたのである。今述べられた意味をより明瞭にするために、「**実に二種類の…**」などと述べられた。

47. Appanāsamādhinā, upacārasamādhinā vā cittaṃ ārammaṇe samaṃ, sammā vā āhitaṃ nāma hoti, nāññathāti dassento **‘‘asamāhitāti upacārappanāsamādhivirahitā’’**ti āha. Vibbhantacittāti anavaṭṭhitacittā. Pubbe nīvaraṇabhāvasāmaññena uddhaccaṃ gahitaṃ **‘‘uddhatā avūpasantacittā’’**ti, idha samādhānābhāvena uddhaccahetuko cittavibbhamo vutto **‘‘asamāhitā vibbhantacittā’’**ti, ayametesaṃ viseso. Pubbe vuttanayenāti pubbe ‘‘uddhaccena hi ekārammaṇe cittaṃ vipphandati dhajayaṭṭhiyaṃ vātena paṭākā viyā’’ti (ma. ni. aṭṭha. 1.40) vuttanayena. Sabbaṃ pubbasadisamevāti bhayabheravāvhāyanassa abhijjhāluvāre vuttasadisataṃ sandhāya vadati.

47. 安止定あるいは近分定によって心は対象において平等に、あるいは正しく置かれたものとなるのであり、他の方法によるのではないことを示しつつ、「**不調乱とは、近分定と安止定を欠いたことである**」と述べた。「乱れた心をもつ者」とは、定まらない心をもつ者のことである。先には蓋としての共通性によって「掉挙し、静息せぬ心をもつ者」と掉挙が取り上げられたが、ここでは統一の欠如による掉挙を原因とする心の乱れが「不調乱にして乱れた心をもつ者」と説かれたのであり、これがこれらの違いである。「先に述べられた方法によって」とは、先に「掉挙によって心は一つの対象において動揺する、風の中の旗竿の旗のように」(中部義釈 1.40)と述べられた方法によって、ということである。「すべて先と同様である」とは、恐怖と戦慄の招引について貪欲の章で述べられたのと同様であることを指して述べている。

48. Duppaññāti ettha du-saddo ‘‘dussīlo’’tiādīsu viya abhāvattho, na ‘‘duggati, duppaṭipanno’’tiādīsu viya garahatthoti dassetuṃ **‘‘nippaññānametaṃ adhivacana’’**nti vatvā **‘‘paññā pana duṭṭhā nāma natthī’’**ti vuttaṃ. Teti duppaññā. Sabbatthāti catūsupi pāṭhavikappesu. Elanti vā doso vuccati. Tenāha ‘‘yā sā vācā nelā kaṇṇasukhā’’ti. Tathā hi sīlaṃ ‘‘nelaṅga’’nti vuttaṃ. Duppaññā ca kathentā sadosameva kathaṃ kathenti apaṇḍitabhāvato. Tenevāha ‘‘dubbhāsitabhāsī’’ti. Tasmā elasabbhāvato elaṃ mukhaṃ etesanti elamūgāti vuttāti evampi vā ettha attho daṭṭhabbo. Yāya paññāya vasena ‘‘paññāsampanno’’ti vuttaṃ, taṃ byatirekamukhena dassetuṃ **‘‘no ca kho’’**tiādi vuttaṃ. Nanu ca bodhisattā bahulavipassanāpaññāya samannāgatā hontīti? Honti, tadā pana bodhisattena na vipassanārambho kato, no ca vipassanāpaññā adhippetāti vuttaṃ **‘‘no ca kho vipassanāpaññāyā’’**ti.

48. 「悪慧(無智)の者」において、「ドゥ(du-)」という語は「破戒(ドゥッシーラ)」などにおけるのと同様に不在を意味し、「悪趣(ドゥッガティ)」「邪行(ドゥッパティパンナ)」などにおけるような非難の意味ではないことを示すために、「**これは無智な者たちの同義語である**」と語り、「**しかし損なわれた智慧というものは存在しない**」と述べた。「彼らは」とは、無智な者たちのことである。「すべての箇所において」とは、四つの読誦の異本すべてにおいて、ということである。あるいは「エラ(ela)」とは過失のことをいう。それゆえに「かの言葉は過失なく(ネーラー)、耳に快い」と説かれている。実に戒は「無過失の支分(ネーランガ)」と説かれている。そして悪慧の者たちは語る時、賢者でないがゆえに過失に満ちた言葉ばかりを語る。それゆえに「悪しく語られたことを語る者」と説かれたのである。したがって過失が存在することから、過失ある口をもつ彼らのことを「啞者(エラムーガ)」と呼ぶのである、とこのようにここでの意味は理解されるべきである。どのような智慧に基づいて「慧を具足した者」と説かれたのかを、排除の観点から示すために「**しかし決して…ではない**」などと述べた。菩薩たちは豊かな毘鉢舎那(ヴィパッサナー・観)の智慧を具えているのではないのか。具えているが、その時菩薩によって観の開始はなされておらず、観の智慧は意図されていないため、「**しかし決して観の智慧によるのではない**」と述べたのである。

Keci panettha ‘‘saddhāvirahitā aparisuddhakāyakammantādayo viya bhayabheravāvhāyanassa visesakāraṇaṃ, nāpi saddhālutā pallomatāyāti saddhāvāro anuddhaṭo’’ti vadanti, taṃ akāraṇaṃ. Kammaphale hi saddahanto kammapaṭisaraṇataṃyeva nissāya bhayabheravaṃ tiṇāyapi amaññamāno pallomatamāpajjeyya. Yasmā pana vīriyādayo saddhāya vinā nappavattantīti tesaṃ upanissayabhūtā sahajātā ca sā taggahaṇeneva gahitā hotīti visuṃ na uddhaṭā. Tathā hi sā jhānassa pubbabhāgapaṭipadāyampi na uddhaṭā, kiṃ vā etāya saddhāya, addhā sā imasmiṃ ārammaṇapariggahaṭṭhāne na gahetabbāva, tato dhammassāminā idha na uddhaṭā, evaṃ aññesupi edisesu ṭhānesu nicchayo kātabbo. Yathānulomadesanā hi suttantakathāti.

しかしここである人々は、「信心を欠いた者は、不清浄な身業などを有する者のように恐怖と戦慄の招引の特別な原因とはならず、信心深いことも平穏(恐怖の克服)の原因とはならないため、信の章は挙げられなかったのである」と述べているが、それは根拠のないことである。業と果報を信じる者は、業を拠り所とすることに依拠して、恐怖と戦慄を草木ほどにも思わずに平穏に達するはずだからである。しかし精進などは信心なしには起こらないため、それらの依処であり倶生(共に生じる)である信は、精進などが取り上げられることによってすでに含まれているのであり、別個には挙げられなかったのである。実に信心は、禅定の前段階の行道においても挙げられていない。いや、この信心について何を論じることがあろうか。確かにそれは、この対象を把握する箇所において別個に取り上げるべきではないからこそ、法の主(仏陀)によってここでは挙げられなかったのである。他のこのような箇所においても、このように決定されるべきである。実に経典の説示は、相手の素因に応じた教説(順応説法)であるからである。

Vacīkammantavārādikathāvaṇṇanā niṭṭhitā.

口業の章などの解説、終了。

Soḷasaṭṭhānārammaṇapariggaho niṭṭhito.

十六の箇条における対象の把持、終了。

Bhayabheravasenāsanādivaṇṇanā

恐怖と戦慄の座処などの解説

49. Soḷasārammaṇānīti soḷasaṭṭhānāni ārammaṇāni. Evarūpāsu rattīsūti cātuddasīādikā upari vakkhamānā rattiyo sandhāya vadati. Evarūpe senāsaneti etthāpi eseva nayo. ti aniyamato uddiṭṭhānaṃ puna ‘‘tā’’ti vacanaṃ niddeso viya hotīti vuttaṃ **‘‘yā tāti ubhayametaṃ rattīnaṃyeva uddesaniddesavacana’’**nti. Abhīti lakkhaṇatthe ‘‘aññe ca abhiññātā brāhmaṇamahāsālā’’tiādīsu viya. Kathaṃ panettha lakkhaṇatthatā veditabbā? Lakkhīyati etenāti lakkhaṇanti āha **‘‘candapāripūriyā’’**tiādi. Puṇṇamāsiyaṃ candapāripūriyā amāvāsiyaṃ candaparikkhayena. Ādi-saddena candassa upaḍḍhamaṇḍalatārāhuggahatādīnaṃ saṅgaho daṭṭhabbo. Upasaggamattameva abhi-saddo lakkhitasaddeneva lakkhaṇatthassa viññāyamānattāti adhippāyo.

49. 「十六の対象」とは、十六の箇条の対象のことである。「このような夜に」とは、十四日などのこれから説かれる夜のことを指して述べている。「このような座処において」というここにおいても、同様の方法である。「かの」という不特定に提示されたものに対して、再び「それらの」と語ることは詳細な提示のようになるため、「**『かの、それらの』というこれら双方は、夜そのものの総説と別説の言葉である**」と述べられた。「アビ(abhi-)」は、「他の著名な大富豪の婆羅門たち」などにおけるのと同様に、標識(特徴)の意味である。ではここにおいて、標識の意味であるとどのように知るべきか。これによって標示されるゆえに「標識(特徴)」であることから、「**月の満ちることによって**」などと述べた。満月の日には月の満ちることによって、新月の日には月の欠け尽きることによってである。「など」という語によって、月の半円や星座との合などが含まれると知るべきである。「アビ」という語は単なる接頭辞にすぎず、「標示された」という言葉そのものによって標識の意味が理解されるからである、というのが意図である。

Paṭhamadivasato pabhutīti paṭhamapāṭipadadivasato paṭṭhāya. Yasmā codako bhagavato kāle anabhilakkhitāpi aparabhāge abhilakkhitā jātā, tasmā taṃ abhilakkhaṇīyataṃ upādāya **‘‘sabbadassinā bhagavatā pañcamī kasmā na gahitā’’**ti codeti, itaro sabbakālikāsu cātuddasīādīsu gayhamānāsu asabbakālikāya kathaṃ gahaṇanti adhippāyena **‘‘asabbakālikattā’’**ti pariharati.

「第一の日から」とは、新月または満月の翌日(第一日)から始めて、ということである。質問者は、仏陀の時代には標識とされなかった日も後代には標識とされるようになったことから、その標識とされる性質に基づいて「**一切知者なる世尊は、なぜ五日をお取りにならなかったのか**」と問い、もう一方は、常に重視される十四日などが取り上げられる中で、常には重視されない日をどうして取り上げることがあろうかという意図から、「**常に重視されるわけではないからである**」と回答しているのである。

Tathāvidhāsūti ‘‘abhiññātā’’tiādinā yathā vuttā, tathāvidhāsu. Devatādhiṭṭhitabhāvena ārāmādīnaṃ lokassa cetiyabhāvoti āha **‘‘pūjanīyaṭṭhenā’’**ti. Manussā yebhuyyena gāmādīnaṃ dvāresu tathārūpe rukkhe cetiyaṭṭhāniye katvā voharantīti āha **‘‘gāmanigamādidvāresū’’**tiādi. Dassanamattenapi savanamattenapi bhayuppādanena pākatikasatte bhiṃsentīti bhiṃsanakāni. Tenāha **‘‘bhayajanakānī’’**tiādi. Bhāyati etasmāti bhayaṃ, ativiya sappaṭibhayaṃ bheravaṃ.

「そのようなものにおいて」とは、「知られた」などと説かれたようなものにおいて、ということである。鬼神(樹神など)が宿っていることによって園林などが世間の崇拝所(チェーティヤ)となることから、「**供養に値するという意味で**」と述べた。人間たちは多くの場合、村などの門にあるそのような樹木を祠所として用いることから、「**村や町などの門において**」などと述べた。見るだけでも聞くだけでも恐怖を生じさせることによって普通の有情を戦慄させるゆえに「恐ろしいもの」である。それゆえに「**恐怖を生じさせるもの**」などと述べた。これによって恐れるゆえに「恐怖」であり、非常におびただしい恐怖を伴うものが「戦慄」である。

Āyācanaupahārakaraṇārahanti taṃtaṃbalikammapaṇidhikammakaraṇayoggaṃ. Pupphadhūpa…pe… dharaṇitalanti idaṃ yathāpaṭisūtena suppādinā upahārakaraṇadassanaṃ. Koṭṭentoti paharanto, siṅgappahārakhurappahārehi saddaṃ karontoti adhippāyo. Sabbacatuppadānaṃ idha magoti nāmaṃ, na ‘‘acchacammaṃ migacammaṃ eḷakacamma’’ntiādīsu (mahāva. 259) viya, rohitotiādi migavisesānanti adhippāyo. Cāletvāti aggamaddanena cāletvā. Moraggahaṇañcettha upalakkhaṇanti dassento āha **‘‘idha sabbapakkhigahaṇaṃ adhippeta’’**nti. Esa nayoti idaṃ yathā ‘‘moro vā’’ti ettha vā-saddo avuttavikappanattho, evaṃ ‘‘migo vā’’ti etthāpīti migasaddassa visesatthavuttitaṃ sandhāyāha. Ito pabhūtīti ‘‘yaṃnūnāhaṃ yā tā rattiyo’’tiādinā bhayabheravassa gavesanacintanato pabhuti, na gavesanārambhato pabhuti. ‘‘Appeva nāmāhaṃ bhayabheravaṃ passeyya’’nti etthāpi hi ārammaṇameva bhayabheravaṃ. Sukhārammaṇaṃ rūpaṃ sukhamiva ‘‘rūpaṃ sukhaṃ sukhānupatitaṃ sukhāvakkanta’’ntiādīsu (saṃ. ni. 3.60). Kathaṃ bhayaggahaṇena ca rūpārammaṇaggahaṇanti āha **‘‘parittassa cā’’**tiādi. ‘‘Āgacchatī’’ti vacanato gavesanārambhato pabhuti ‘‘etaṃ bhaya’’nti ārammaṇaṃ adhippetanti keci ‘‘taṃ na passeyya’’nti cakkhunā dassanassa adhippetattā, tasmā vuttanayeneva attho gahetabbo. Bhayaṃ ākaṅkhamānoti upaparikkhanavasena ahaṃ bhayavatthuṃ ākaṅkhanto viharāmi, taṃ kimatthiyaṃ, ettakopi bhayasamannāhāro mayhaṃ ayuttoti adhippāyo.

「祈願と供物の捧呈に値する」とは、それぞれの供儀や誓願の儀礼を行うにふさわしい、ということである。「花、香…中略…地面」とは、箕(み)などに載せて供物を捧げる様子を示したものである。「打ち叩きながら」とは、角で突いたり蹄で蹴ったりして音を立てながら、という意味である。ここでは四足動物全般の総称が「鹿(マガ)」であり、「熊の皮、鹿の皮、羊の皮」などにおけるような個別の鹿ではなく、赤鹿(ローヒタ)などの特定の鹿を指している、というのが意図である。「揺らして」とは、先端を踏むことによって揺らして。「孔雀」という限定は例示であることを示しつつ、「**ここではすべての鳥の包括が意図されている**」と述べた。「同様の方法である」とは、「孔雀であれ」における「あるいは(vā)」という語が説かれていない他の鳥をも例示する意味であるのと同様に、「鹿であれ」におけるここでもそうであると、「鹿」という語が特定の意味で用いられていることを指して述べたのである。「これ以降」とは、「実に私は、かの夜々に…」などと恐怖と戦慄の探求を思い立った時からであって、探求の開始からではない。「願わくは私は恐怖と戦慄に出遭いたいものだ」というここにおいても、対象そのものが恐怖と戦慄である。「色は楽であり、楽に随伴し、楽に沈潜する」などにおけるのと同様に、快い対象である色(物質)が「楽」と呼ばれるようなものである。どのように恐怖という言葉によって色の対象が把握されるのかといえば、「**微細なもの…**」などと述べた。「近づく」という言葉から、探求の開始以降、「この恐怖」という対象が意図されているとする人々もいるが、「それを見ないように」と眼で見ることが意図されているため、先に述べられた方法によって意味が把握されるべきである。「恐怖を求めつつ」とは、観察を通じて私が恐怖の対象を求めながら暮らすとして、それは何のためであろうか、これほどの恐怖への傾注すら私にはふさわしくない、というのがその意図である。

Yaṃ pakāraṃ bhūto yathābhūto, so panettha pakāro iriyāpathavasena yutto pāḷiyaṃ tathā āgatattāti āha **‘‘yena yena iriyāpathena bhūtassā’’**ti. Bhavitassāti idaṃ ‘‘bhūtassā’’ti iminā samānatthaṃ padanti daṭṭhabbaṃ. ‘‘Samaṅgībhūtassā’’ti padaṃ purimapadalopena bhūtassāti vuttanti dassento **‘‘samaṅgībhūtassa vā’’**ti āha. Bhayabheravārammaṇeti bhayabheravābhimate ārammaṇe. Neva mahāsatto tiṭṭhatītiādi ‘‘tathābhūto ca taṃ paṭivineyya’’nti yathā cintitaṃ, tathā paṭipannabhāvadassanaṃ. Iriyāpathapaṭipāṭi nāma ṭhānagamananisajjānipajjāti vadanti, uppaṭipāṭi pana paṭhamaṃ nipajjā, puna nisajjā, puna ṭhānaṃ, pacchā gamananti evaṃ veditabbā. Āsannapaṭipāṭiyāti gamanassa tāva ṭhānaṃ āsannaṃ, ṭhānassa nisajjā gamanañca, nisajjāya nipajjā ṭhānañca, nipajjāya nisajjā āsannā. Idha pana gamanassa ṭhānaṃ, ṭhānassa ca gamanaṃ, nisajjāya ca nipajjā, nipajjāya ca nisajjā āsannabhāvena gahitā, itare paramparāvasenāti veditabbā. Bhikkhussa pana iriyāpathā sampattapaṭipāṭiyā viya aparāparuppattivasena vuccanti.

どのような様相となったか、そのようになった様相のことであり、その様相はここでは威儀の観点から妥当するのであって、聖典本文にもそのように説かれていることから、「**どのような威儀においてそのようになったか**」と述べた。「生じた」とは、「存在した」というこれと同義の言葉であると知るべきである。「具足した者となった」という言葉は、前の言葉が省略されて「生じた」と説かれたことを示しつつ、「**あるいは具足した者となった**」と述べた。「恐怖と戦慄の対象において」とは、恐怖と戦慄とみなされる対象において、ということである。「大士は立ち止まることもなく…」などは、「その状態のままでそれを克服すべきである」と考えたとおりに実践した様子を示したものである。威儀の順序とは、立ち、歩み、坐り、臥すことであると言われる。逆の順序とは、まず臥し、次に坐り、次に立ち、最後に歩むことであると理解されるべきである。「近接した順序によって」とは、歩行に対してはまず立つことが近接しており、立つことに対しては坐ることと歩くことが、坐ることに対しては臥すことと立つことが、臥すことに対しては坐ることが近接している。しかしここでは、歩行に対しては立つことが、立つことに対しては歩行が、坐ることに対しては臥すことが、臥すことに対しては坐ることが近接したものとして取り上げられており、他は間接的なものとして理解されるべきである。しかし比丘の威儀は、到達した順序によるかのように、次々に生起することに基づいて説かれる。

Bhayabheravasenāsanādivaṇṇanā niṭṭhitā.

恐怖と戦慄の座処などの解説、終了。

Asammohavihāravaṇṇanā

無迷惑住の解説

50. Ayañca me sabbaso bhayabheravābhāvo visesato asammohadhammattāti dassetuṃ ‘‘santi **kho panā’’**tiādinā upari desanā vaḍḍhitāti ayaṃ vā ettha anusandhi. Jhāyīnaṃ sammohaṭṭhānesūti iminā ajjhāyīnaṃ sammohaṭṭhānesu vattabbameva natthīti dasseti. Atthīti idaṃ nipātapadaṃ puthuvacanampi hoti ‘‘atthi imasmiṃ kāye kesā’’tiādīsu (dī. ni. 2.373-374; ma. ni. 1.110; 3.154; saṃ. ni. 4.127; khu. pā. 3.dvatiṃsākāra) viyāti ‘‘santī’’ti padassa atthadassanavasena vuttaṃ. Kiṃ khaṇattayasamaṅgitāya te atthi, noti āha **‘‘saṃvijjanti upalabbhantī’’**ti, mahati lokasannivāse edisāpi saṃvijjanti ñāṇena gahetabbatāya upalabbhantīti. Odātakasiṇalābhīti appamāṇaodātakasiṇalābhī. Evaṃ hissa samantato āloko viya upaṭṭhāti. Parikammanti samāpattipubbabhāgamāha. Ettakaṃ sūriye gate vuṭṭhahāmīti, no ca kho addhānaparicchede kusalo hoti, kevalaṃ ‘‘divā eva vuṭṭhahāmī’’ti manasikāraṃ uppādesi. Visadaṃ hoti sabbaṃ ārammaṇajātaṃ, dibbacakkhunā passantassa viya vibhūtaṃ. Avisadanti ettha vuttavipariyāyena attho veditabbo. Evaṃsaññinoti rattiṃ ‘‘divā’’ti, divā ca ‘‘rattī’’ti evaṃsaññino.

50. 「そして私のこの恐怖と戦慄の完全な不在は、特に惑わされない性質によるものである」ということを示すために、「**実に…が存在する**」などとさらに教説が展開されたのであり、これがここでの文脈の連結である。「瞑想者たちの惑乱の場所において」というこれによって、瞑想しない者たちの惑乱の場所においては言うまでもないということを示している。「存在する(アッティ)」というこの不変化詞は、「この身体には髪がある」などにおけるのと同様に、複数形としても用いられることから、「存在する(サンティ)」という言葉の意味を示すために説かれた。彼らは三刹那(生・住・滅)を具えていることによって存在するのかといえば、そうではないとして「**見出される、認められる**」と述べたのであり、広大な世間においてこのような者たちも見出され、智慧によって把握されるものとして認められる、ということである。「白遍(しろ・カスィナ)を得た者」とは、無量の白遍の定を得た者のことである。実に彼には四方に光のように現れるからである。「準備修行」とは、等至(定)の前段階のことをいう。「太陽がこれほど進んだ時に出定しよう」と決めても、時間の区分に巧みではないため、単に「昼のうちに出定しよう」という作意を起こした。「すべて現れた対象が明瞭となる」とは、天眼によって見ている者のように明瞭となることである。「不明瞭である」とは、ここで述べられたことの反対の意味として理解されるべきである。「そのように認識する者たち」とは、夜を「昼」と、昼を「夜」とそのように認識する者たちのことである。

Antosenāsane rattiṃ nisinno hotīti ratti-saddo ajjhāharitabbo. Parittāsanādīhi, aññehi vā kāraṇehi. Gambhīrāya bhūmigabbhasadisāya ghanavanapaṭicchannāya bahalatarajālavanapaṭalapaṭicchannāya. Antarahitasūriyāloke kāleti eteneva divāti avuttasiddho. Sammohavihāro nāma bahuvidhoti āha **‘‘sammohavihārānaṃ aññatara’’**nti.

「座処の中に夜に坐っている」と、夜という言葉を補って解釈すべきである。小さな座席などによって、あるいは他の理由によってである。「地下の洞窟のような、鬱蒼とした森林に覆われた、厚い網のような森の覆いに遮られた深い暗闇において」。「太陽の光が失われた時に」というこれによって、昼であることが言外に成立している。惑乱の境地には多くの種類があるゆえに、「**惑乱の境地の一つ**」と述べた。

Pākaṭo bodhisattassa rattindivaparicchedo antamaso lavatuṭikhaṇassapi upādāya suvavatthitattā, tathā rattidivasakoṭṭhāsaparicchedo attanā kātabbakiccavasena kālañāṇavasena ca.

菩薩にとって昼夜の区分は、極めて短い瞬間に至るまで明確に定まっていたため明白であり、同様に昼夜の各時間の区分も、自らがなすべき務めに基づいて、また時間の知識に基づいて明白であった。

Kālathambhe laddhabbachāyāvasena dvaṅgulakāle. Yāmaghaṇṭikaṃ paharati saṅghassa taṃtaṃvattakaraṇatthaṃ. Muggaranti ghaṇṭikappaharaṇamuggaraṃ. Yāmayantaṃ patati aññehi bhikkhūhi yojitanti adhippāyo. Yāva aññe bhikkhū bhojanasālaṃ upagacchanti, tāva divāvihāraṭṭhānaṃ gantvā samaṇadhammaṃ karoti.

日時計の柱において得られるべき影に基づいて、二指の幅の時間に。僧伽のそれぞれの務めを行わせるために、時刻の鐘を打つ。「槌(つち)」とは、鐘を打つ槌のことである。他の比丘たちによって仕掛けられた時鐘の装置が落ちる、という意味である。他の比丘たちが食堂に行くまでのあいだ、昼の休息所に行って沙門の修行を行う。

Yaṃ kho tanti ettha yanti aniyamuddeso, khoti avadhāraṇe, yameva puggalanti attho. Tanti vuccamānākāravacanaṃ. Mamevāti maṃ eva. Asammohasabhāvoti sabhāvabhūtaasammoho. ‘‘Uppanno’’ti vuttattā **‘‘manussaloke’’**ti vuttaṃ. Paññāsampattiyāti yāthāvato hitassa jānanasamatthena attano paññāguṇena, na kevalaṃ ajjhāsayeneva hitesitā, atha kho payogenāti dassento **‘‘hitūpadesako’’**ti āha. Ajjhāsayena pana hitesitā **‘‘lokānukampāyā’’**ti iminā dassitā. Upakaraṇehi vinā na kadāci bhogasukhaṃ upakaraṇadānañca cāgasampattihetukanti āha **‘‘cāgasampattiyā…pe… dāyako’’**ti. Mettāsampattiyā hitūpasaṃhārena rakkhitā. Karuṇāsampattiyā dukkhāpanayanena gopāyitā. Nanu ca pubbepi vuttaṃ ‘‘hitāya sukhāyā’’ti, atha kasmā puna taṃ gahitanti codanaṃ sandhāyāha **‘‘idha devamanussaggahaṇenā’’**tiādi. Tena pubbe avisesato hitādīni dassitāni, idāni visesato saha payojanena tāni dassitānīti dīpeti. Nibbānato paro paramo attho nāma natthīti āha **‘‘paramatthattāyā’’**ti. Hinoti nibbānaṃ gacchatīti hitaṃ, maggo. Ukkaṃsato sukhatthaṃ ariyaphalanti āha **‘‘tato uttari sukhābhāvato’’**ti.

「実に彼を…」において、「彼を(ヤン)」は不特定の提示であり、「実に(コー)」は強意であり、「まさにその人を」という意味である。「彼を(タン)」とは、説かれつつある様相を指す言葉である。「私こそを」とは、私自身を、ということである。「無迷惑の性質をもつ者」とは、本性として惑乱がない者のことである。「生じた」と説かれていることから、「**人間界において**」と述べられた。「智慧の具備によって」とは、真実の利益を知ることができる自らの智慧の徳によって、単なる意図だけでなく実践によって利益を求める者であることを示しつつ、「**利益の教授者**」と述べた。意図によって利益を求める者であることは、「**世間への慈悲によって**」というこれによって示された。資具なしには決して享受の楽はなく、資具の施与は捨利(惜しみなく与えること)の具備を原因とすることから、「**捨利の具備によって…中略…施与者**」と述べた。慈愛の具備によって、利益をもたらすことで保護する者。悲愍の具備によって、苦難を取り除くことで守護する者。「先にも『利益のために、幸福のために』と説かれたのに、なぜ再びそれが取り上げられたのか」という問いを考慮して、「**ここでは神々と人間を取り上げたことによって…**」などと述べた。これによって、先には無差別(一般的)に利益などが示され、今度は特に目的とともにそれらが示された、ということを明らかにしている。涅槃より優れた究極の目的(勝義)はないことから、「**究極の目的のために**」と述べた。「導く(ヒノーティ)」、すなわち涅槃へと至らせるゆえに「利益(ヒタ)」であり、道のことである。極限としての幸福の目的とは聖なる果であることから、「**それ以上の幸福はないからである**」と述べた。

Asammohavihāravaṇṇanā niṭṭhitā.

無迷惑住の解説、終了。

Pubbabhāgapaṭipadādivaṇṇanā

前段階の行道などの解説

51. Asammohavihāranti asammohavuttiṃ, asammohasambodhinti vā attho. Tanti samathavipassanābhāvanāsaṅkhātaṃ paṭipadaṃ. Pubbabhāgato pabhutīti bhāvanāya pubbabhāgavīriyārambhādito paṭṭhāya. Kecīti uttaravihāravāsino.

51. 「無迷惑住を」とは、惑乱なき生活を、あるいは惑乱なき正等覚を、という意味である。「それを」とは、止観の修習と呼ばれる行道のことである。「前段階から」とは、修習の前段階である精進の開始などから始めて、ということである。「ある人々」とは、大寺派に対する無畏山寺派(北寺派)の者たちのことである。

Bodhimaṇḍeti (sārattha. ṭī. 1.11.verañjakaṇḍavaṇṇanā; a. ni. ṭī. 3.8.11) bodhisaṅkhātassa ñāṇassa maṇḍabhāvappatte ṭhāne. Caturaṅganti ‘‘kāmaṃ taco ca nhāru ca, aṭṭhi ca avasissatū’’tiādinā (ma. ni. 2.184; saṃ. ni. 2.237; a. ni. 2.5; 8.13; mahāni. 17, 196) vuttacaturaṅgasamannāgataṃ. Paggahitanti ārambhaṃ sithilaṃ akatvā daḷhaparakkamasaṅkhātussahanabhāvena gahitaṃ. Tenāha **‘‘asithilappavattitanti vuttaṃ hotī’’**ti. Asallīnanti asaṅkucitaṃ kosajjavasena saṅkocaṃ anāpannaṃ.

「菩提の座(ボーディマンダ)において」とは、菩提と呼ばれる智慧が精髄(円熟)に達した場所において、ということである。「四つの要素をもつ」とは、「皮と腱と骨のみが残り、肉と血が干からびようとも…」などと説かれた四つの要素を具えたものである。「奮い起こされた」とは、着手を弛ませることなく、堅固な勇猛さと呼ばれる熱意をもって把握されたものである。それゆえに「**弛みなく推し進められた、という意味である**」と述べた。「萎縮のない」とは、縮こまることがなく、怠惰によって萎縮することがないものである。

Upaṭṭhitāti ogāhanasaṅkhātena apilāpanabhāvena ārammaṇaṃ upagantvā ṭhitā. Tenāha **‘‘ārammaṇābhimukhībhāvenā’’**ti. Sammosassa viddhaṃsanavasena pavattiyā na sammuṭṭhāti asammuṭṭhā. Kiñcāpi cittamiva cittapassaddhivasena kāyapassaddhivaseneva kāyo passaddho hoti, tathāpi yasmā kāyapassaddhi uppajjamānā cittapassaddhiyā saheva uppajjati, na vinā, tasmā vuttaṃ **‘‘kāyacittapassaddhisambhavenā’’**ti. Rūpakāyopi passaddhoyeva hoti kāyapassaddhiyā ubhayesampi kāyānaṃ passambhanāvahattā. So ca kho kāyo. Vigatadarathoti vigatakilesadaratho. Nāmakāye hi vigatadarathe rūpakāyopi vūpasantadarathapariḷāho hoti. Sammā āhitanti nānārammaṇesu vidhāvanasaṅkhātavikkhepaṃ vicchinditvā ekasmiṃyeva ārammaṇe avikkhittabhāvāpādānena sammadeva āhitaṃ. Tenāha **‘‘suṭṭhu ṭhapita’’**ntiādi. Cittassa anekaggabhāvo vikkhepavasena cañcalatā, sā sati ekaggatāya na hotīti āha **‘‘ekaggaṃ acalaṃ nipphandana’’**nti. Ettāvatāti ‘‘āraddhaṃ kho panā’’tiādinā vīriyasatipassaddhisamādhīnaṃ kiccasiddhidassanena. Nanu ca saddhāpaññānampi kiccasiddhi jhānassa pubbapaṭipadāya icchitabbāti? Saccaṃ icchitabbā, sā pana nānantariyabhāvena avuttasiddhāti na gahitā. Asati hi saddhāya vīriyārambhādīnaṃ asambhavoyeva, paññāpariggahe ca nesaṃ asati paññāyārambhādibhāvo na siyā. Tathā asallīnāsammosatādayo vīriyādīnanti asallīnatādiggahaṇenevettha paññākiccasiddhi gahitāti daṭṭhabbaṃ. Jhānabhāvanāyaṃ vā samādhikiccaṃ adhikaṃ icchitabbanti dassetuṃ samādhipariyosānāva jhānassa pubbapaṭipadā kathitāti daṭṭhabbaṃ.

「現起した」とは、沈潜(明瞭な把持)と呼ばれる浮遊しない性質によって、対象に向かって確立したものである。それゆえに「**対象に正対することによって**」と述べた。忘失を打破することによって生じることから、忘失しないゆえに「忘失なき」である。心と同様に心の軽安によってのみ身の軽安が生じるとしても、身の軽安が生じる時は心の軽安とともに生じるのであって、それなしではないため、「**心身の軽安の生起によって**」と述べられた。色身(肉体)もまた、身軽安が双方の身の静息をもたらすことから、静息したものである。そしてその身は。「熱苦を離れた」とは、煩悩の熱苦を離れたものである。名身において熱苦が離れると、色身においても熱苦と熱病が静まるからである。「正しく置かれた」とは、様々な対象へ散乱することを断ち切り、一つの対象のみに散乱なき状態をもたらすことによって、正しく置かれたものである。それゆえに「**見事に確立された**」などと述べた。心の多対象性とは散乱による動揺であり、それは一境性がある時には存在しないことから、「**一境であり、不動であり、無動揺である**」と述べた。「これによって」とは、「実に奮い起こされ…」などと、精進・正念・軽安・三摩地の働きの完成を示したことによって、ということである。禅定の前段階の行道においては、信と慧の働きの完成も求められるべきではないのか。確かに求められるべきであるが、それらは必然的に伴うものとして言外に成立しているため、取り上げられなかったのである。信がなければ精進の開始などはあり得ず、慧の把握がなければそれらの慧による開始などもあり得ないからである。同様に、萎縮なきことや忘失なきことなどは精進などの性質であるため、萎縮なきことなどを取り上げたことによって、ここですでに慧の働きの完成も含まれていると知るべきである。あるいは、禅定の修習においては三摩地(定)の働きがいっそう求められるべきであることを示すために、三摩地を最後として禅定の前段階の行道が説かれたと知るべきである。

Vuttaṃ, tasmā idha na vattabbaṃ. Visuddhimaggo hi imissā saṃvaṇṇanāya ekadesabhūtoti vuttovāyamatthoti. Viharatīti āgataṃ paruddesikattā vihārassa. Idha vihāsinti āgataṃ atthuddesikattā. Idaṃ kira sabbabuddhānaṃ avijahitanti āha **‘‘ānāpānassatikammaṭṭhāna’’**nti. Rūpavirāgabhāvanāvasena (sārattha. ṭī. 1.12.nerañjakaṇḍavaṇṇanā) pavatto catubbidhopi arūpajjhānaviseso catutthajjhānasaṅgaho evāti āha **‘‘cattāri jhānānī’’**ti. Yuttaṃ tāva cittekaggatā bhavokkamanatthatā viya vipassanāpādakatāpi catunnaṃ jhānānaṃ sādhāraṇāti tesaṃ vasena ‘‘cattāri jhānānī’’ti vacanaṃ, abhiññāpādakatā pana nirodhapādakatā ca catutthasseva jhānassa āveṇikā, sā kathaṃ catunnaṃ jhānānaṃ sādhāraṇā vuttāti? Paramparādhiṭṭhānabhāvato. Padaṭṭhānapadaṭṭhānampi hi padaṭṭhānanteva vuccati, kāraṇakāraṇampi kāraṇanti yathā ‘‘tiṇehi sattaṃ siddha’’nti, evañca katvā payojananiddese aṭṭhasamāpattiggahaṇaṃ samatthitaṃ hoti. Cittekaggatatthānīti cittasamādhānatthāni, diṭṭhadhammasukhavihāratthānīti attho. Cittekaggatāsīsena hi diṭṭhadhammasukhavihāro vutto, sukkhavipassakakhīṇāsavavasena cetaṃ vuttaṃ. Tenāha **‘‘ekaggacittā sukhaṃ divasaṃ viharissāmā’’**ti. Bhavokkamanatthānīti bhavesu nibbattiatthāni.

すでに説かれたことであるため、ここでは語るべきではない。『清浄道論(ヴィスッディマッガ)』はこの注釈の一部をなすものであるから、この意味はすでに説かれたとおりである。「住する」と現在形で説かれたのは他者のための教示であるからであり、ここでは「私は住した」と過去形で説かれたのは自らの体験の提示であるからである。これは実にすべての諸仏が手放さなかったものであることから、「**出入息念(アーナーパーナサティ)の業処**」と述べた。物質への離貪の修習によって生じる四種の無色定の特異性もすべて第四禅に含まれることから、「**四つの禅定**」と述べた。心の一境性と有への転生を目的とすることと同様に、観の基礎となることも四つの禅定に共通であるため、それらに基づいて「四つの禅定」という言葉が用いられたのはもっともであるが、神通の基礎となることと滅尽定の基礎となることは第四禅のみに固有のものであるのに、なぜ四つの禅定に共通であると説かれたのか。間接的な基礎となることによる。「基礎の基礎もまた基礎と呼ばれる」のであり、原因の原因も原因であることは、「草によって粥ができた」と言うようなものである。このように解釈してこそ、目的の提示において八等至を取り上げたことが正当化されるのである。「心の一境性を目的とする」とは、心の統一を目的とする、現法楽住(今世での安楽な境地)を目的とするという意味である。心の一境性を第一として現法楽住が説かれたのであり、これは乾観(純観)の漏尽者(阿羅漢)に基づいて説かれたものである。それゆえに「**統一された心をもって安楽に一日を過ごそう**」と述べた。「有への転生を目的とする」とは、諸々の生存(天界など)に生まれることを目的とする、という意味である。

Yasmā (sārattha. ṭī. 1.12.nerañjakaṇḍavaṇṇanā) bodhisattena bodhimaṇḍūpasaṅkamanato pubbepi carimabhave catutthajjhānaṃ nibbattitapubbaṃ, tadā pana taṃ nibbattitamattameva ahosi, na vipassanādipādakaṃ, tasmā **‘‘bodhirukkhamūle nibbattita’’**nti tato visesetvā vuttaṃ. Vipassanāpādakanti vipassanārambhe vipassanāya pādakaṃ. Abhiññāpādakanti etthāpi eseva nayo. Buddhānañhi paṭhamārambhe eva pādakajjhānena payojanaṃ ahosi, na tato paraṃ uparimaggādhigamaphalasamāpattiabhiññāvaḷañjanādiatthaṃ. Abhisambodhisamadhigamato paṭṭhāya hi sabbaṃ ñāṇasamādhikiccaṃ ākaṅkhamattapaṭibaddhamevāti. Sabbakiccasādhakanti anupubbavihārādisabbakiccasādhakaṃ. Sabbalokiyalokuttaraguṇadāyakanti ettha vipassanābhiññāpādakattā eva catutthassa jhānassa bhagavato sabbalokiyalokuttaraguṇadāyakatā veditabbā. Sabbaññutaññāṇapadaṭṭhānañhi maggañāṇaṃ, maggañāṇapadaṭṭhānañca sabbaññutaññāṇaṃ abhisambodhi, tadadhigamasamakālameva bhagavato sabbe buddhaguṇā hatthagatā ahesuṃ, catutthajjhānasannissayo ca maggādhigamoti.

菩提の座に赴く以前にも、菩薩によって最後の生涯において第四禅はかつて生起させられていたが、その時は単に生起しただけであって、観などの基礎となるものではなかったため、「**菩提樹の根元において生起した**」と、それと区別して述べたのである。「観の基礎となる」とは、観の開始において観の基礎となる、ということである。「神通の基礎となる」というここにおいても、同様の方法である。諸仏にとっては、最初の着手においてのみ基礎となる禅定が必要であったのであり、それ以降の上位の道の獲得、果等至、神通の行使などのためには必要なかったからである。正等覚の獲得以降は、すべての智慧と禅定の働きは、望むことだけに依存しているからである。「一切の務めを成就するもの」とは、九次第定などの一切の務めを成就するもののことである。「一切の世間的・出世間的な徳を与えるもの」において、第四禅が観と神通の基礎となることから、世尊に一切の世間的・出世間的な徳を与えるものであると理解されるべきである。一切知智の直接の原因は道智(阿羅漢道智)であり、道智の直接の原因は一切知智としての正等覚であり、その獲得と同時に世尊にはすべての仏の徳が掌中のものとなったのであり、道の獲得は第四禅を拠り所とするからである。

Pubbabhāgapaṭipadādivaṇṇanā niṭṭhitā.

前段階の行道などの解説、終了。

Pubbenivāsakathāvaṇṇanā

宿住随念智(過去世を思い出す智慧)の解説

52. Dvinnaṃ vijjānanti pubbenivāsañāṇadibbacakkhuñāṇasaṅkhātānaṃ dvinnaṃ vijjānaṃ. Anupadavaṇṇanāti tāsaṃ vijjānaṃ niddesapāḷiyā anupadavaṇṇanā. Bhāvanānayoti uppādanavidhi. **‘‘So’’**ti paccattavacanassa ahaṃ-saddena sambandhane kāraṇaṃ dassetuṃ **‘‘abhininnāmesi’’**ntiādi vuttaṃ. Pāḷiyaṃ vā ‘‘abhininnāmesi’’nti uttamapurisassa yogoti ahaṃ-saddena ānetvā vuccamāne tadattho pākaṭo hotīti **‘‘so aha’’**nti vuttaṃ. Abhinīharinti cittaṃ jhānārammaṇato apanetvā pubbenivāsābhimukhaṃ pesesiṃ, pubbenivāsaninnaṃ pubbenivāsapoṇaṃ pubbenivāsapabbhāraṃ akāsinti attho.

52. 「二つの明知の」とは、宿住随念智と天眼智と呼ばれる二つの明知の、ということである。「逐語解説」とは、それらの明知の解説聖典に対する逐語的な解説のことである。「修習の方法」とは、生起させる方法のことである。「**その**」という主格の言葉を「私(ahaṃ)」という言葉と結びつける理由を示すために、「**向けた**」などと述べた。あるいは聖典本文において「向けた」という一人称の動詞が結合しているため、「私(ahaṃ)」という言葉を補って語る時にその意味が明瞭となることから、「**その私は**」と述べた。「向けた」とは、心を禅定の対象から離して過去世の想起へと差し向け、過去世へと傾け、過去世へと傾斜させ、過去世へと傾注させた、という意味である。

Pubbeatītajātīsu nivutthakkhandhā pubbenivāso. Nivutthāti ca ajjhāvutthā anubhūtā attano santāne uppajjitvā niruddhā, gocaranivāsena nivutthadhammā vā attano viññāṇenaviññātā, paraviññāṇaviññātāpi vā chinnavaṭumakānussaraṇādīsu, taṃ pubbenivāsaṃ yāya satiyā anussarati, tāya sampayuttaṃ ñāṇaṃ pubbenivāsānussatiññāṇaṃ. Paṭinivattantassāti pubbenivāsaṃ anussaraṇavasena yāvadicchakaṃ gantvā paccāgacchantassa. Tasmāti vuttassevatthassa kāraṇabhāvena paccāmasanaṃ, paṭinivattantassa paccavekkhaṇabhāvatoti vuttaṃ hoti. Idhūpapattiyāti idha carimabhave upapattiyā. Anantaranti atītānantaramāha. Amutrāti amukasmiṃ bhaveti attho. Udapādinti uppajjiṃ. Tāhi devatāhīti tusitādevatāhi. Ekagottoti tusitagottena ekagotto. Mahābodhisattānaṃ santānassa pariyosānāvatthāya devalokūpapattijanakaṃ nāma akusalena kammunā anupaddutameva hotīti adhippāyena **‘‘dukkhaṃ pana saṅkhāradukkhamevā’’**ti vuttaṃ. Mahāpuññānampi pana devaputtānaṃ pubbanimittuppattikālādīsu aniṭṭhārammaṇasamāyogo hotiyevāti ‘‘kadāci dukkhadukkhassapi sambhavo natthī’’ti na sakkā vattuṃ. Sattapaññāsa…pe… pariyantoti idaṃ manussānaṃ vassagaṇanāvasena vuttaṃ. Tattha devānaṃ vassagaṇanāya pana catusahassameva.

「宿住」とは、過去の諸々の生に住した諸蘊のことである。「住した」とは、住まい暮らした、経験した、自己の相続(心身の流れ)において生起して滅した、あるいは境域としての住まいによって住した諸法、すなわち自己の意識によって知られたもの、または「断絶された道筋の追想」などにおいて他者の意識によって知られたもののことである。その宿住をある念(気づき)によって随念する時、その念と相応する智が「宿住随念智(宿命智)」である。「引き返しながら」とは、宿住を追想することによって望むところまで行き、戻ってきながらということである。「それゆえに」とは、説かれた事柄の原因性によって言及することであり、引き返しながら観察することであるから、そのように言われたのである。「ここに生じたことによって」とは、ここ最後の生に生じたことによって。「直前の」とは、過去の直前(の前世)を指して言っている。「彼処に」とは、かの生存においてという意味である。「私は生じた」とは、生起した。「それらの神々とともに」とは、兜率天の神々とともに。「同じ家系」とは、兜率天の家系と同じ家系。「大菩薩たちの相続の最終段階において天界に生ずることは、不善の業によって損なわれることが決してない」という意図から、「苦とは行苦にほかならない」と説かれたのである。しかし、大功徳ある天子たちであっても、前兆が現れる時などには望ましくない対象との遭遇が必ずあるのであって、「時に苦苦の生起すら存在しない」と言うことはできない。「五十七……乃至……限度」とは、人間の年数の計算によって説かれたものである。そこでの神々の年数の計算によれば、四千年にすぎない。

Atītabhave (sārattha. ṭī. 1.12.pubbenivāsakathāyaṃ) khandhā tappaṭibaddhanāmagottāni ca sabbaṃ pubbenivāsanteva saṅgahitanti āha ‘‘kiṃ viditaṃ karoti? **Pubbenivāsa’’**nti. Moho paṭicchādakaṭṭhena ‘‘tamo’’ti vuccati ‘‘tamo viyā’’ti katvā. Obhāsakaraṇaṭṭhenāti kātabbato karaṇaṃ, obhāsova karaṇaṃ, attano paccayena obhāsabhāvena nibbattetabbaṭṭhenāti attho. Sesaṃ pasaṃsāvacananti paṭipakkhavidhamanapavattivisesānaṃ bodhanato vuttaṃ. Avijjā vihatāti etena vijjanaṭṭhena vijjāti ayampi attho dīpitoti daṭṭhabbaṃ. Yasmā vijjā uppannāti etena vijjāpaṭipakkhā avijjā, paṭipakkhatā cassā pahātabbabhāvena vijjāya ca pahāyakabhāvenāti dasseti. Esa nayo itarasmimpi padadvayeti iminā tamo vihato vinaṭṭho. Kasmā? Yasmā āloko uppannoti imamatthaṃ atidisati. Pesitattassāti yathādhippetatthasiddhiṃ pati vissaṭṭhacittassa. Yathā appamattassāti aññassapi kassaci mādisassāti adhippāyo.

過去の生存における諸蘊と、それに結びつく名や家系のすべてがまさに宿住として包摂されるゆえに、「何を明らかにするのか? 『宿住』をである」と言ったのである。癡(迷い)は覆い隠すという意味で「闇」と言われる。「闇のようなもの」と見なしてである。「光を放つという意味によって」とは、なされるべきこととしての作用、光そのものの作用、自己の条件によって光の性質として生起させるべきという意味である。「残りは賞賛の言葉である」とは、反対のものを打ち破る特別な働きの発現を教示することから説かれた。「無明は打ち破られた」ということによって、「知ること」という意味で明であるという、この意味も明らかにされたと見なされるべきである。「明が生じたことによって」ということによって、明の反対が無明であり、その反対性とは、それが断ぜられるべき性質であり、明が断ずる性質であることによって示されている。「他の二つの語においてもこの方法である」ということによって、闇は打ち破られ、滅んだ。なぜなら、光が生じたからであるという、この意味を準用している。「専心した者に」とは、意図した目的の達成に向けて心を解き放った(集中させた)者に。「怠らない者のように」とは、他の誰であっても私のような者のように、という意味である。

Pubbenivāsakathāvaṇṇanā niṭṭhitā.

宿住の説の注釈を終わる。

Dibbacakkhuñāṇakathāvaṇṇanā

天眼智の説の注釈

53. Idhāti bhayabheravasutte vuttaṃ. Idha ayaṃ visesoti yojanā. Vuttasadisameva ‘‘meti mayā’’tiādinā. Parikammakiccanti ‘‘abhiññāpādakacatutthajjhānato vuṭṭhāya sabbapacchimā nisajjā āvajjitabbā’’tiādinā, kasiṇārammaṇaṃ abhiññāpādakajjhānaṃ sabbākārena abhinīhārakkhamaṃ katvā’’tiādinā ca vuttena parikammena kiccaṃ payojanaṃ natthi. Na tena idha atthoti tena bhāvanānayena idha pāḷiyā atthavaṇṇanāyaṃ attho natthi tathābhāvanāya idha anadhippetattāti adhippāyo.

五三.「ここに」とは、『恐怖と戦慄経』において説かれた。「ここにこの差異がある」と結合される。「私によって」などと説かれたのと同様である。「遍作の働き」とは、「神通の基礎となる第四禅から出定して、最も最後の着座を作意すべきである」などと、「遍作の対象(十遍)を神通の基礎となる禅とし、あらゆる様態で引き出すことに堪えるようにして」などと説かれた遍作による働き・用途はない。「それによってここには用がない」とは、その修習のやり方によって、ここでの本文の意味の解釈においては用がない。そのような修習はここでは意図されていないからである、という意味である。

Dibbacakkhuñāṇakathāvaṇṇanā niṭṭhitā.

天眼智の説の注釈を終わる。

Āsavakkhayañāṇakathāvaṇṇanā

漏尽智の説の注釈

54. Vipassanāpādakanti (sārattha. ṭī. 1.14.āsavakkhayañāṇakathāyaṃ; dī. ni. ṭī. 1.248; a. ni. ṭī. 2.3.59) vipassanāya padaṭṭhānabhūtaṃ. Vipassanā ca tividhā vipassanakapuggalabhedena. Mahābodhisattānañhi paccekabodhisattānañca vipassanā cintāmayañāṇasaṃvaddhitattā sayambhuñāṇabhūtā, itaresaṃ sutamayañāṇasaṃvaddhitattā paropadesasambhūtā, sā ‘‘ṭhapetvā nevasaññānāsaññāyatanaṃ avasesarūpārūpajjhānānaṃ aññatarato vuṭṭhāyā’’tiādinā anekadhā arūpamukhavasena catudhātuvavatthāne vuttānaṃ tesaṃ tesaṃ dhātupariggahamukhānaṃ aññataramukhavasena anekadhāva visuddhimagge (visuddhi. 1.306) nānānayato vibhāvitā. Mahābodhisattānaṃ pana catuvīsatikoṭisatasahassamukhena pabhedagamanato nānānayaṃ sabbaññutaññāṇasannissayassa ariyamaggañāṇassa adhiṭṭhānabhūtaṃ pubbabhāgañāṇagabbhaṃ gaṇhāpentaṃ paripākaṃ gacchantaṃ paramagambhīrasaṇhasukhumataraṃ anaññasādhāraṇaṃ vipassanāñāṇaṃ hoti, yaṃ aṭṭhakathāsu mahāvajirañāṇanti vuccati. Yassa ca pavattivibhāgena catuvīsatikoṭisatasahassappabhedassa pādakabhāvena samāpajjiyamānā catuvīsatikoṭisatasahassasaṅkhā devasikaṃ satthu vaḷañjanakasamāpattiyo vuccanti, svāyaṃ buddhānaṃ vipassanācāro paramatthamañjūsāya visuddhimaggasaṃvaṇṇanāya (visuddhi. mahāṭī. 1.144) uddesato dassito, atthikehi tato gahetabboti.

五四.「観(ヴィパッサナー)の基礎」とは、観の足場(近因)となったもの。そして観は、観ずる人の区分によって三種ある。大菩薩たちと独覚菩薩たちの観は、思所成の智によって育まれたがゆえに自ら生じた智(自覚智)であり、他の者たちの観は、聞所成の智によって育まれたがゆえに他者の教示から生じたものである。それは「非想非非想処を除き、残りの色界・無色界の禅のいずれかから出定して」などと多くの方法で無色の入口により、四大の決定において説かれた様々な界の把握の入口のいずれかを通じて、『清浄道論』において様々な方法で明らかにされている。しかし大菩薩たちにおいては、二十四億十万の入口によって細分化されることに至る多様な方法であり、一切知智のよりどころとなる聖道智の足場となり、前駆の智を内包し、円熟へと向かい、極めて深遠で繊細で微細であり、他者と共有されない観智があるのであり、それは注釈書において「大金剛智」と呼ばれる。そしてその働きの区分によって二十四億十万の区分の基礎となることによって等至される二十四億十万に及ぶ日々の「仏の日常の受用三昧」と呼ばれる。この仏たちの観の境地は、『勝義の宝匣(清浄道論大疏)』において要約して示されているので、望む者はそこから把握すべきである。

Āsavānaṃ khepanato samucchindanato āsavakkhayo, ariyamaggo, ukkaṭṭhaniddesavasena arahattamaggaggahaṇaṃ. Āsavānaṃ khaye ñāṇaṃ āsavakkhayañāṇanti dassento **‘‘tatra cetaṃ ñāṇa’’**nti vatvā khayeti ca ādhāre bhummaṃ, na visayeti dassento ‘‘tappariyā pannattā’’ti āha. Idaṃ dukkhanti dukkhassa ariyasaccassa tadā paccakkhato gahitabhāvadassanaṃ. Ettakaṃ dukkhanti dukkhassa ariyasaccassa tadā paccakkhato gahitabhāvadassanaṃ. Ettakaṃ dukkhanti tassa paricchijja gahitabhāvadassanaṃ. Na ito bhiyyoti anavasesetvā gahitabhāvadassanaṃ. Tenāha ‘‘sabbampi **dukkhasacca’’**ntiādi. Sarasalakkhaṇapaṭivedhenāti sabhāvasaṅkhātassa lakkhaṇassa asammohato paṭivijjhanena. Asammohapaṭivedhoti ca yathā tasmiṃ ñāṇe pavatte pacchā dukkhassa sarūpādiparicchede sammoho na hoti, tathā pavatti. Tenāha **‘‘yathābhūtaṃ abbhaññāsi’’**nti. Yaṃ ṭhānaṃ patvāti yaṃ nibbānaṃ maggassa ārammaṇapaccayaṭṭhena kāraṇabhūtaṃ āgamma. Tadubhayavato hi puggalassa patti tadubhayassa pattīti vuttaṃ. Patvāti vā pāpuṇanahetu. Appavattinti appavattinimittaṃ. Te vā nappavattanti etthāti appavatti, nibbānaṃ. Tassāti dukkhanirodhassa. Sampāpakanti sacchikiriyāvasena sammadeva pāpakaṃ.

諸漏を尽滅し根絶することから「漏尽」すなわち聖道であり、卓越した提示によって阿羅漢道が把握されている。諸漏の尽滅における智が「漏尽智」であることを示して「そしてそこにおけるこの智」と述べ、「尽滅において」という処格はよりどころ(所依)であり、対象(境)ではないことを示して「それに含まれるがゆえに」と言った。「これ苦なり」とは、苦の聖諦がその時、現前に把握されたありさまを示す。「この苦の限度」とは、苦の聖諦がその時、現前に把握されたありさまを示す。「この苦の限度」とは、それを限定して把握したありさまを示す。「これより先はない」とは、残すところなく把握したありさまを示す。それゆえに「すべて苦諦もまた」などと言った。「固有の作用(自性)の特徴を現観することによって」とは、自性と呼ばれる特徴を迷いなく現観することによって。「無癡の現観」とは、その智が生起した時、のちに苦の自相などの限定において迷いがないように働くことである。それゆえに「あるがままに如実に知った」と言った。「ある境地に至って」とは、聖道の対象縁という意味で原因となった涅槃に依って。その両者を有する人の獲得はその両者の獲得であると説かれた。「至って」とは、あるいは到達の原因。「不現行」とは、不現行の相(条件)。あるいはそれらが現行しない場であるから「不現行」すなわち涅槃。「その」とは、苦滅(涅槃)の。「至らしめる」とは、作証によって正しく至らしめる。

Kilesavasenāti āsavasaṅkhātakilesavasena. Yasmā āsavānaṃ dukkhasaccapariyāyo tappariyāpannattā, sesasaccānañca taṃsamudayādipariyāyo atthi, tasmā vuttaṃ. **‘‘Pariyāyato’’**ti. Dassento saccānīti yojanā. Āsavānaṃyeva cettha gahaṇaṃ ‘‘āsavānaṃ khayañāṇāyā’’ti āraddhattā. Tathā hi āsavavimutti sīseneva sabbasaṃkilesavimutti vuttā. **‘‘Idaṃ dukkhanti yathābhūtaṃ abbhaññāsi’’**ntiādinā missakamaggo idha kathitoti **‘‘saha vipassanāya koṭippattaṃ maggaṃ kathetī’’**ti vuttaṃ. Ettha ca saccapaṭivedhassa tadā atītakālikattā ‘‘yathābhūtaṃ abbhaññāsi’’nti vatvāpi abhisamayakāle tassa paccuppannataṃ upādāya ‘‘evaṃ jānato evaṃ passato’’ti vattamānakālena niddeso kato. So ca kāmaṃ maggakkhaṇato paraṃ yāvajjatanā atītakāliko eva, sabbapaṭhamaṃ panassa atītakālikattaṃ phalakkhaṇena veditabbanti āha **‘‘vimuccitthāti iminā phalakkhaṇaṃ dassetī’’**ti. Jānato passatoti vā hetuniddesoyaṃ. Jānanahetu dassanahetu kāmāsavā cittaṃ vimuccitthāti yojanā. Bhavāsavaggahaṇeneva cettha bhavarāgassa viya bhavadiṭṭhiyāpi samavarodhoti diṭṭhāsavassapi saṅgaho daṭṭhabbo.

「煩悩によって」とは、漏と呼ばれる煩悩によって。諸漏の苦諦の表現はそれに含まれるがゆえであり、残りの諸諦のその集諦などの表現もあるがゆえに、「表現によって」と説かれた。「諸諦を」と結合して示す。ここにおいて諸漏のみを把握することは、「諸漏の尽滅の智のために」と始められているからである。実際、諸漏からの解脱を頭首として一切の雑染からの解脱が説かれている。「『これ苦なり』とあるがままに如実に知った」などによって混淆した道がここで説かれているので、「観とともに頂点に達した道を説く」と言われた。そしてここにおいて、諸諦の現観はその時は過去の時であったがゆえに、「あるがままに如実に知った」と述べながらも、現観の時におけるそれの現在性に基づいて「このように知り、このように見る者に」と現在時によって提示がなされた。そしてそれは確かに道刹那ののち現在に至るまで過去の時そのものであるが、何よりもまずその過去時であることは果刹那によって知られるべきであるゆえに、「『解脱した』によって果刹那を示す」と言った。あるいは「知る者に、見る者に」とは原因の提示である。知る原因によって、見る原因によって、欲漏から心が解脱した、と結合される。有漏の把握によってのみ、ここでは有愛と同様に有見の包摂もあるゆえに、見漏の包摂もまた見られるべきである。

Khīṇājātītiādīhi padehi. Tassāti paccavekkhaṇañāṇassa. Bhūmīnti pavattiṭṭhānaṃ. Na tāvassa atītā jāti khīṇā maggabhāvanāyāti adhippāyo. Tattha kāraṇamāha **‘‘pubbeva khīṇattā’’**ti. Na anāgatā assajāti khīṇāti yojanā. Na anāgatāti ca anāgatattasāmaññaṃ gahetvā lesena codeti. Tenāha **‘‘anāgate vāyāmābhāvato’’**ti, anāgataviseso panettha adhippeto, tassa ca khepane vāyāmopi labbhateva. Tenāha **‘‘yā pana maggassā’’**tiādi. Ekacatupañcavokārabhavesūti bhavattayaggahaṇaṃ vuttanayena anavasesato jātiyā khīṇabhāvadassanatthaṃ. Tanti yathāvuttaṃ jātiṃ. Soti bhagavā.

「生は尽きた」などの語句によって。「その」とは、省察智の。「境地を」とは、働きの場を。まだ彼の過去の生は道の修習によって尽きていない、というのが意図である。そこでの理由を「あらかじめ尽きていたがゆえに」と言った。「彼の未来の生は尽きていない」と結合される。「未来ではない」とは、未来の一般性を取って口実として難問をなす。それゆえに「未来においては努力の不在ゆえに」と言ったが、ここでの意図は未来の特殊性であり、それを尽滅することには努力もまた実に得られる。それゆえに「道の……ものは」などと言った。「一蘊・四蘊・五蘊の生存において」とは、説かれた方法によって残すところなく生が尽きた状態を示すために三界を把握したものである。「その」とは、上述の生を。「その」とは、世尊のことである。

Brahmacariyavāso nāma idha maggabrahmacariyassa nibbattanamevāti āha **‘‘niṭṭhita’’**nti. Sammādiṭṭhiyā catūsu saccesu pariññādikiccasādhanavasena pavattamānāya sammā saṅkappādīnampi dukkhasacce pariññābhisamayānuguṇā pavatti, itarasaccesu ca nesaṃ pahānābhisamayādivasena pavatti pākaṭā eva. Tena vuttaṃ **‘‘catūhi maggehi pariññāpahānasacchikiriyābhāvanāvasenā’’**ti. Itthattāyāti ime pakārā itthaṃ, tabbhāvo itthattaṃ, tadatthanti vuttaṃ hoti. Te pana pakārā ariyamaggabyāpārabhūtā pariññādayo idhādhippetāti āha **‘‘evaṃsoḷasakiccabhāvāyā’’**ti. Te hi maggaṃ paccavekkhato maggānubhāvena pākaṭā hutvā upaṭṭhahanti, pariññādīsu ca pahānameva padhānaṃ tadatthattā itaresanti āha **‘‘kilesakkhayāyavā’’**ti. Pahīnakilesapaccavekkhaṇavasena vā etaṃ vuttaṃ. Itthattāyāti nissakke sampadānavacananti āha **‘‘itthabhāvato’’**ti. Aparaṃ anāgataṃ. Ime pana carimattabhāvasaṅkhātā pañcakkhandhā. Pariññātā tiṭṭhantīti etena tesaṃ appatiṭṭhataṃ dasseti. Apariññāmūlakā hi patiṭṭhā. Yathāha ‘‘kabaḷīkāre ce, bhikkhave, āhāre atthi rāgo atthi nandī atthi taṇhā, patiṭṭhitaṃ tattha viññāṇaṃ virūḷha’’ntiādi (saṃ. ni. 2.64; mahāni. 7; kathā. 296). Tenevāha **‘‘chinnamūlakā rukkhā viyā’’**tiādi.

梵行の完成とは、ここでは道梵行の成就にほかならないので、「成し遂げられた」と言った。正見が四諦において遍知などの働きを成就しながら生起する時、正思惟などもまた苦諦において遍知の現観に随順して生起し、他の諸諦においてもそれらの断滅の現観などによって生起することは明白である。それゆえに「四つの道によって遍知・断滅・作証・修習のあり方によって」と説かれた。「この状態のために」とは、これらの様相が「このように」であり、その状態が「この状態」であり、その目的のために、と説かれている。しかしそれらの様相とは聖道の働きである遍知などのことであり、ここではそれらが意図されているので、「このように十六の働きの状態のために」と言った。それらは道を省察する者にとって、道の威力によって明白となって現れ、遍知などの中でも断滅こそが主であり、他のものはその目的のためであるから、「あるいは煩悩の尽滅のために」と言った。あるいは断ぜられた煩悩の省察によってこれが説かれた。「この状態のために」とは、奪格において与格の語であるので「この状態から」と言った。「他の」とは、未来の。「これら」とは、最後の身体と呼ばれる五蘊である。「遍知されて留まる」とは、これによってそれらの無住(住着しないこと)を示す。未遍知に基づく住着であるからである。「比丘たちよ、もし段食において貪りがあり、歓喜があり、渇愛があるなら、意識はそこに止住し増長する」などと説かれている通りである。それゆえに「根を断たれた樹木のように」などと言った。

Paccavekkhaṇañāṇapariggahitaṃ, na paṭhamadutiyañāṇadvayādhigamaṃ viya kevalanti adhippāyo. Dassento nigamanavasenāti adhippāyo. Sarūpato hi taṃ pubbe dassitamevāti. Pubbenivāsañāṇena atītārammaṇasabhāgatāya tabbhāvībhāvato ca atītaṃsañāṇaṃ saṅgahetvāti yojanā. Tattha atītaṃsañāṇanti atītakhandhāyatanadhātusaṅkhāte atītakoṭṭhāse appaṭihataṃ ñāṇaṃ. Dibbacakkhunāti saparibhaṇḍena dibbacakkhuñāṇena. Paccuppannaṃso ca anāgataṃso ca paccuppannānāgataṃsaṃ, tattha ñāṇaṃ paccuppannānāgataṃsañāṇaṃ. Sakalalokiyalokuttaraguṇanti etena sabbaṃ lokaṃ uttaritvā abhibhuyya ṭhitattā sabbaññutaññāṇassa viya sesāsādhāraṇañāṇassa balañāṇaāveṇikabuddhadhammādīnampi anaññasādhāraṇānaṃ buddhaguṇānaṃ saṅgaho veditabbo. Tenāha **‘‘sabbepi sabbaññuguṇe saṅgahetvā’’**ti.

省察智によって把握されたものであり、第一・第二の二つの智の獲得のように単なるもの(それだけ)ではない、というのが意図である。結語によって示す、というのが意図である。自相によってそれはすでに前述されたからである。宿住智によって過去の対象との同類性があり、その状態となることから過去分智を包摂して、と結合される。そこでの過去分智とは、過去の蘊・処・界と呼ばれる過去の部分において妨げのない智である。「天眼によって」とは、その付属物(随伴するもの)を伴う天眼智によって。現在分と未来分が現在未来分であり、そこにおける智が「現在未来分智」である。「一切の世間的・出世間的な徳」とは、これによって全世界を超越し圧倒して留まるがゆえに、一切知智と同様に、残りの不共の智、力智、十八不共仏法などの他に類を見ない仏の徳の包摂が知られるべきである。それゆえに「すべての全知の徳を包摂して」と言った。

Āsavakkhayañāṇakathāvaṇṇanā niṭṭhitā.

漏尽智の説の注釈を終わる。

Araññavāsakāraṇavaṇṇanā

林住の理由の注釈

55. Siyā kho pana te brāhmaṇāti ettha siyāti ‘‘appevā’’ti iminā samānattho nipāto, tasmā ‘brāhmaṇa, appeva kho pana te evamassā’ti attho. Yaṃ pana **aṭṭhakathāyaṃ ‘‘kadācī’’**ti vuttaṃ, tampi imamevatthaṃ sandhāya vuttaṃ akāraṇaṃ brāhmaṇena parikappitamatthaṃ paṭipakkhipitvā attano adhippetaṃ kāraṇaṃ dassento. Atthova phalaṃ tadadhīnavuttitāya vaso etassāti atthavaso, hetūti evaṃ vā ettha attho daṭṭhabbo. Attano ca diṭṭhadhammasukhavihāranti etena satthā attano vivekābhiratiṃ pakāsetīti dassento **‘‘diṭṭhadhammo nāmā’’**tiādimāha. Tattha iriyāpathavihārānanti iriyāpathapavattīnaṃ. Tappavattiyo hi ekasmiṃ iriyāpathe uppannadukkhaṃ aññena iriyāpathena vicchinditvā haraṇato vihārāti vuccanti. Pacchimañca janataṃ anukampamānoti etena yo ādito brāhmaṇena ‘‘bhavaṃ tesaṃ gotamo pubbaṅgamo…pe… diṭṭhānugatiṃ āpajjatī’’ti vutto, yo ca tathā ‘‘evametaṃ brāhmaṇā’’tiādinā attanā sampaṭicchito, tameva atthaṃ nigamanavasena dassento yathānusandhināva satthā desanaṃ niṭṭhāpesi.

五五.「バラモンよ、あなたにはあるいは……」の箇所の「あるいは(siyā)」とは、「もしかすると(appeva)」と同一の意味の不変化詞である。それゆえに「バラモンよ、もしかするとあなたにはこのようであろうか」という意味である。注釈において「あるいは」と説かれたことも、まさにこの意味を念頭に置いて説かれたものであり、バラモンによって想定された無意味な事柄を退けて、自らの意図した理由を示している。「義(目的)」そのものが果であり、それに従属して生起することから意図(支配)がこれにあるので「義利(目的の意義)」、すなわち原因であると、このようにここでの意味が見られるべきである。「そして自己の現法楽住」とは、これによって師(仏)は自らの遠離への愛楽を明らかにしていることを示して、「現法とは……」などを述べた。そこでの「威儀の住」とは、諸威儀の連続的生起のことである。それらの生起は、一つの威儀において生じた苦を他の威儀によって遮断して取り除くことから「住(暮らし)」と呼ばれる。「そして後代の人々を憐れむがゆえに」とは、これによって初めにバラモンから「尊者ゴータマは彼らの先駆者であり……乃至……見解に従う」と言われ、またそのように「その通りである、バラモンよ」などと自ら受け入れた、まさにその事柄を結語として示し、脈絡に従って師は説法を終えられた。

Araññavāsakāraṇavaṇṇanā niṭṭhitā.

林住の理由の注釈を終わる。

Desanānumodanāvaṇṇanā

説法の随喜の注釈

56. Evaṃ niṭṭhāpitāya desanāya brāhmaṇo tattha bhagavati pasādaṃ pavedento **‘‘abhikkanta’’**ntiādimāha. Abhikkantāti (sārattha. ṭī. 1.15.desanānumodanakathā; dī. ni. ṭī. 1.250; saṃ. ni. ṭī. 1.1.1; a. ni. ṭī. 2.2.16) atikkantā, vigatāti atthoti āha **‘‘khaye dissatī’’**ti. Teneva hi **‘‘nikkhanto paṭhamo yāmo’’**ti vuttaṃ. Abhikkantataroti ativiya kantataro manoramo. Tādiso ca sundaro bhaddako nāma hotīti āha **‘‘sundare dissatī’’**ti.

五六.このように説法が終えられた時、バラモンは世尊に対して清浄な信愛を表明して「素晴らしい」などを述べた。「素晴らしい(abhikkantā)」とは超越した、過ぎ去ったという意味であるゆえに、「尽滅に見られる」と言った。まさにそれゆえに「初夜が過ぎ去った(nikkhanto)」と説かれた。「より素晴らしい(abhikkantataro)」とは、極めて愛らしく好ましいもの。そしてそのようなものは美しく良きものと呼ばれるので、「美しさに見られる」と言った。

Koti devanāgayakkhagandhabbādīsu ko katamo. Meti mama. Pādānīti pāde. Iddhiyāti imāya evarūpāya deviddhiyā. Yasasāti iminā edisena parivārena parijanena. Jalanti vijjotamāno. Abhikkantenāti ativiya kantena kamanīyena abhirūpena. Vaṇṇenāti chavivaṇṇena sarīravaṇṇanibhāya. Sabbā obhāsayaṃ disāti dasapi disā obhāsento pabhāsento, cando viya sūriyo viya ca ekobhāsaṃ ekālokaṃ karontoti gāthāya attho. Abhirūpeti uḷārarūpe sampannarūpe.

「誰が」とは、天・龍・夜叉・乾闥婆などの中で誰が、どの者が。「私の」とは、私の。「諸々の足を」とは、両足を。「神通によって」とは、このような天の神通によって。「名声によって」とは、このような取り巻きや従者によって。「輝く」とは、照り輝いている。「極めて優れた」とは、極めて愛らしく魅力的な麗しい姿で。「容色によって」とは、皮膚の色、身体の色の輝きによって。「すべての四方を照らし」とは、十方をも照らし輝かせ、月のように太陽のように一つの光、一つの輝きをなして、というのが詩頌の意味である。「麗しい姿で」とは、広大なる姿で、具足した姿で。

‘‘Coro coro, sappo sappo’’tiādīsu bhaye āmeḍitaṃ. ‘‘Vijjha vijjha, pahara paharā’’tiādīsu kodhe, ‘‘sādhu sādhūtiādīsu (ma. ni. 1.327; saṃ. ni. 2.127; 3.35; 5.1085) pasaṃsāyaṃ, ‘‘gaccha gaccha, lunāhi lunāhī’’tiādīsu turite, ‘‘āgaccha āgacchā’’tiādīsu kotūhale, ‘‘buddho buddhoti cintento’’tiādīsu (bu. vaṃ. 2.44) acchare, ‘‘abhikkamathāyasmanto, abhikkamathāyasmanto’’tiādīsu (dī. ni. 3.20; a. ni. 9.11) hāse, ‘‘kahaṃ ekaputtaka, kahaṃ ekaputtakā’’tiādīsu (ma. ni. 2.353; saṃ. ni. 2.63) soke, ‘‘aho sukhaṃ aho sukha’’ntiādīsu (udā. 20; dī. ni. 3.305; cūḷava. 332) pasāde. Ca-saddo avuttasamuccayattho. Tena garahāasammānādīnaṃ saṅgaho daṭṭhabbo. Tattha ‘‘pāpo pāpo’’tiādīsu garahāyaṃ. ‘‘Abhirūpaka abhirūpakā’’tiādīsu asammāne daṭṭhabbaṃ.

「盗賊だ、盗賊だ」「蛇だ、蛇だ」などにおいては恐怖における反復(畳語)である。「刺せ、刺せ」「打て、打て」などにおいては怒り、「善い哉、善い哉」などにおいては賞賛、「行け、行け」「刈れ、刈れ」などにおいては急ぎ、「来い、来い」などにおいては好奇心、「仏だ、仏だと念じつつ」などにおいては驚嘆、「進め、尊者たちよ、進め、尊者たちよ」などにおいては喜び、「どこへ、一人息子よ、どこへ、一人息子よ」などにおいては悲嘆、「ああ幸福だ、ああ幸福だ」などにおいては信愛(歓喜)である。「また(ca)」という語は、説かれなかったものの集約の意味である。それによって非難や不敬などの包摂が見られるべきである。そこでの「悪人だ、悪人だ」などは非難においてである。「器量よしさん、器量よしさん」などは不敬において見られるべきである。

Nayidaṃ āmeḍitavasena dvikkhattuṃ vuttaṃ, atha kho atthadvayavasenāti dassento **‘‘atha vā’’**tiādimāha. Abhikkantanti vacanaṃ apekkhitvā napuṃsakaliṅgavasena vuttaṃ, taṃ pana bhagavato vacanaṃ dhammassa desanāti katvā tathā vuttaṃ. Atthamattadassanaṃ vā etaṃ, tasmā atthavasena liṅgavibhattivipariṇāmo veditabbo. Dutiyapadepi eseva nayo. Dosanāsanatoti rāgādikilesadosavidhamanato, guṇādhigamanatoti sīlādiguṇānaṃ sampāpanato. Ye guṇe desanā adhigameti, tesu padhānabhūtā dassetabbāti te padhānabhūte tāva dassetuṃ **‘‘saddhājananato paññājananato’’**ti vuttaṃ. Saddhāpamukhā hi lokiyā guṇā, paññāpamukhā lokuttarā. Sīlādiatthasampattiyā sātthato, sabhāvaniruttisampattiyā sabyañjanato. Suviññeyyasaddapayogatāya uttānapadato, saṇhasukhumabhāvena dubbiññeyyatthatāya gambhīratthato. Siniddhamudumadhurasaddapayogatāya kaṇṇasukhato, vipulavisuddhapemanīyatthatāya hadayaṅgamato. Mānātimānavidhamanena anattukkaṃsanato, thambhasārambhamaddanena aparavambhanato. Hitādhippāyapavattiyā paresaṃ rāgapariḷāhādivūpasamanena ca karuṇāsītalato, kilesandhakāravidhamanena paññāvadātato. Karavīkarutamañjutāya āpātharamaṇīyato, pubbāparāviruddhasuvisuddhatthatāya vimaddakkhamato. Āpātharamaṇīyatāya eva suyyamānasukhato, vimaddakkhamatāya hitajjhāsayappavattitatāya ca vīmaṃsiyamānahitato. Evamādīhīti ādisaddena saṃsāracakkanivattanato, saddhammacakkappavattanato, micchāvādavidhamanato, sammāvādapatiṭṭhāpanato, akusalamūlasamuddharaṇato, kusalamūlasaṃropanato, apāyadvārapidhānato, saggamaggadvāravivaraṇato, pariyuṭṭhānavūpasamanato, anusayasamugghātanatoti evamādīnaṃ saṅgaho daṭṭhabbo.

これは反復による二度の発言ではなく、二つの意味によるものであることを示して、「あるいはまた」などを述べた。「abhikkantaṃ」という言葉を考慮して中性として説かれたが、それは世尊の言葉、法の説示であると見なしてそのように説かれた。あるいはこれは意味のみの提示である。それゆえに意味に従って性や格の転換が知られるべきである。第二の語においてもこの方法である。「過失を滅することから」とは、貪りなどの煩悩の過失を打ち破ることから。「徳を獲得させることから」とは、戒などの徳を成就させることから。説法が獲得させる諸々の徳の中で、主要なものが示されるべきであるから、それら主要なものをまず示すために「信を生じさせることから、智慧を生じさせることから」と説かれた。信を首頭とするものは世間の徳であり、智慧を首頭とするものは出世間の徳である。戒などの義の成就によって「有義(意味を伴う)」であり、本性の語法の成就によって「有文(文字を伴う)」である。理解しやすい言葉の使用によって「平易な語辞」であり、繊細で精妙な性質によって理解しがたい意味を持つことから「深遠な義」である。滑らかで柔軟で甘美な言葉の使用によって「耳に快い」であり、広大で清浄で愛好すべき意味を持つことから「心に染み入る」である。慢や過慢を打ち破ることによって「自らを称揚しない」であり、強情や張り合いをくじくことによって「他者を侮蔑しない」である。利益の意図で生起することと他者の貪りの熱悩などを鎮めることによって「慈悲によって涼やか」であり、煩悩の暗闇を打ち破ることによって「智慧によって潔白」である。カラヴィーカ鳥の鳴き声のように優美であることによって「現前において快い」であり、前後で矛盾がなく極めて清浄な意味を持つことによって「検討に耐えうる」である。現前において快いことによって「聞くだけで心地よい」であり、検討に耐えうることであり、利益の意図によって説かれたことによって「探求するにつれて有益である」。これらのことによって。「などによって」という言葉の中には、輪廻の車輪を止めることから、正法の車輪を転じることから、邪説を打ち破ることから、正説を確立することから、不善の根を抜き去ることから、善の根を植え付けることから、悪趣の門を閉ざすことから、天界と解脱の道の門を開くことから、現行の煩悩を鎮めることから、随眠(潜在的煩悩)を根絶することから、などの包摂が見られるべきである。

Adhomukhaṭṭhapitanti kenaci adhomukhaṃ ṭhapitaṃ. Heṭṭhāmukhajātanti sabhāveneva heṭṭhāmukhajātaṃ. Ugghāṭeyyāti vivaṭaṃ kareyya. Hatthe gahetvāti ‘‘puratthābhimukho, uttarābhimukho vā gacchā’’tiādīni avatvā hatthe gahetvā ‘‘nissandehaṃ esa maggo, evaṃ gacchā’’ti vadeyya. Kāḷapakkhacātuddasīti kāḷapakkhe cātuddasī.

「下向きに置かれた」とは、誰かによって下向きに置かれた。「下向きになった」とは、自然に下向きになった。「開くように」とは、覆いを取り去るように。「手を取って」とは、「東に向かって行け、あるいは北に向かって行け」などと言わずに、手を取って「疑いなくこれが道である、このように行け」と言うように。「黒分の十四日」とは、新月側の十四日。

Nikujjitaṃ ādheyyassa anādhārabhūtaṃ bhājanaṃ ādhārabhāvāpādanavasena ukkujjeyya. Heṭṭhāmukhajātatāya saddhammavimukhaṃ, adhomukhaṭṭhapitatāya asaddhamme patitanti evaṃ padadvayaṃ yathārahaṃ yojetabbaṃ, na yathāsaṅkhyaṃ. Kāmaṃ kāmacchandādayopi paṭicchādakā, micchādiṭṭhi pana savisesaṃ paṭicchādikāti āha **‘‘micchādiṭṭhigahanapaṭicchanna’’**nti. Tenāha bhagavā ‘‘micchādiṭṭhiparamāhaṃ, bhikkhave, vajjaṃ vadāmī’’ti (a. ni. 1.310). Sabbo apāyagāmimaggo kummaggo ‘‘kucchito maggo’’ti katvā. Sammādiṭṭhiādīnaṃ ujupaṭipakkhatāya micchādiṭṭhiādayo aṭṭha micchattadhammā micchāmaggo. Teneva hi tadubhayapaṭipakkhataṃ sandhāya **‘‘saggamokkhamaggaṃ ācikkhantenā’’**ti vuttaṃ. Sappiādisannissayo padīpo na tathā ujjalo, yathā telasannissayoti telapajjotaggahaṇaṃ. Etehi pariyāyehīti etehi nikujjitukkujjanapaṭicchannavivaraṇādiupamopamitabbapakārehi, etehi vā yathāvuttehi soḷasārammaṇapariggahaasammohavihāradibbavihāravibhāvanapariyāyehi vijjāttayavibhāvanāpadesena attano sabbaññuguṇavibhāvanapariyāyehi ca. Tenāha **‘‘anekapariyāyena dhammo pakāsito’’**ti.

覆われた、受け入れるもの(内容物)を保持できない器を、保持できるようにすることによって起き直らせるように。下向きになったことによって正法に背を向け、下向きに置かれたことによって不正法に陥ったと、このように二つの語は適切に結合されるべきであり、順不同ではない。確かに欲貪なども覆い隠すものであるが、邪見は特に覆い隠すものであるゆえに、「邪見の茂みに覆われた」と言った。それゆえに世尊は「比丘たちよ、私は邪見に過ぎる過失を他に語らない」と仰せられた。すべての悪趣へと至る道は悪道(kummagga)であり、「忌まわしい道」と見なしてである。正見などの直接の反対であることから、邪見などの八つの邪性の法は邪道(micchāmagga)である。まさにそれゆえにその両者の反対を念頭に置いて「天界と解脱の道を教え示すことによって」と説かれた。ギー(澄ましバター)などに依存する灯火は、油に依存するものほど輝かないので「油灯火」と把握された。「これらの方法によって」とは、これらの覆われたものを起き直らせ、覆い隠されたものを開くなどの譬喩と被譬喩の諸様相によって、あるいはこれらの上述の十六の対象の把握・無癡の境地・天の境地を明らかにする方法によって、また三明を明らかにする方便によって自己の全知の徳を明らかにする方法によって。それゆえに「多様な方法によって法が説示された」と言った。

Desanānumodanāvaṇṇanā niṭṭhitā.

説法の随喜の注釈を終わる。

Pasannakāravaṇṇanā

信順の表明の注釈

Pasannakāranti pasannehi kātabbaṃ sakkāraṃ. Saraṇanti paṭisaraṇaṃ. Tenāha **‘‘parāyaṇa’’**nti. Parāyaṇabhāvo ca anatthanisedhanena atthasampaṭipādanena ca hotīti āha **‘‘aghassa tātā hitassa ca vidhātā’’**ti. Aghassāti dukkhatoti vadanti, pāpatoti pana yuttaṃ. Nissakke cetaṃ sāmivacanaṃ. Ettha ca nāyaṃ gami-saddo nī-saddādayo viya dvikammako, tasmā yathā ‘‘ajaṃ gāmaṃ netī’’ti vuccati, evaṃ ‘‘gotamaṃ saraṇaṃ gacchāmī’’ti vattuṃ na sakkā, ‘‘saraṇanti gacchāmī’’ti pana vattabbaṃ. Iti-saddo cettha luttaniddiṭṭho, tassa cāyamattho – gamanañca tadadhippāyena bhajanaṃ, tathā jānanaṃ vāti dassento **‘‘iti iminā adhippāyenā’’**tiādimāha. Tattha bhajāmītiādīsu purimassa purimassa pacchimaṃ pacchimaṃ atthavacanaṃ. Bhajanaṃ vā saraṇādhippāyena upasaṅkamanaṃ, sevanaṃ santikāvacaratā, payirupāsanaṃ vattapaṭivattakaraṇena upaṭṭhānanti evaṃ sabbathāpi anaññasaraṇataṃyeva dīpeti. **‘‘Gacchāmī’’**ti padassa kathaṃ ‘‘bujjhāmī’’ti ayamattho labbhatīti āha **‘‘yesañhī’’**tiādi.

「信順の表明」とは、信順した者たちによってなされるべき敬意。「帰依所(Saraṇa)」とは、頼るべき拠り所。それゆえに「究極の拠り所(Parāyaṇa)」と言った。そして究極の拠り所であることは、不利益の制止と利益の達成によって成り立つゆえに、「災難を防ぐ者、利益の授与者」と言った。「災難の」とは苦痛からであると言うが、悪からであるとするのが妥当である。そしてこれは奪格における属格の語である。そしてここにおいて、この「行く(gami)」という語は「導く(nī)」などの語のように二重目的語を取るものではない。それゆえ「山羊を村へ連れて行く」と言われるように「ゴータマを帰依所に私は行く」と言うことはできず、「帰依所として私は行く」と言うべきである。そしてここにおける「〜と(iti)」という語は省略されて示されており、その意味はこうである――行くこととは、その意図によって親近すること、あるいはそのように知ること・悟ることである、と示して「このような意図によって」などを述べた。そこでの「信服します」などにおいては、前の語に対して後の語がその意味の解説である。あるいは「親近する」とは帰依の意図で近づくこと、「交際する」とは身近に留まること、「礼拝する」とは作法や奉仕をなすことによって仕えることであり、このようにあらゆる点において他に拠り所を持たないことのみを明らかにしている。「私は行く(gacchāmi)」という語において、どのように「私は知る(bujjhāmi)」というこの意味が得られるのかを示すため、「実に彼らにとって……」などを述べた。

Adhigatamagge, sacchikatanirodheti padadvayenapi phalaṭṭhā eva dassitā, na maggaṭṭhāti te dassento **‘‘yathānusiṭṭhaṃ paṭipajjamāne cā’’**ti āha. Nanu ca kalyāṇaputhujjanopi yathānusiṭṭhaṃ paṭipajjatīti vuccatīti? Kiñcāpi vuccati, nippariyāyena pana maggaṭṭhā eva tathā vattabbā, na itare niyāmokkamanābhāvato. Tathā hi te eva **‘‘apāyesu apatamāne dhāretī’’**ti vuttā. Sammattaniyāmokkamanena hi apāyavinimuttisambhavo. Akkhāyatīti ettha iti-saddo ādiattho, pakārattho vā. Tena ‘‘yāvatā, bhikkhave, dhammā saṅkhatā vā asaṅkhatā vā, virāgo tesaṃ aggamakkhāyatī’’ti suttapadaṃ (a. ni. 4.34; itivu. 90) saṅgaṇhāti, vitthāroti vā iminā. Ettha ca ariyamaggo niyyānikatāya, nibbānaṃ tassa tadatthasiddhihetutāyāti ubhayamevettha nippariyāyena dhammoti vutto. Nibbānañhi ārammaṇapaccayabhūtaṃ labhitvā ariyamaggassa tadatthasiddhi, ariyaphalānaṃ ‘‘yasmā tāya saddhāya avūpasantāyā’’tiādivacanato maggena samucchinnānaṃ kilesānaṃ paṭippassaddhipahānakiccatāya niyyānānuguṇatāya niyyānapariyosānatāya ca. Pariyattidhammassa pana niyyānadhammasamadhigamahetutāyāti iminā pariyāyena dhammabhāvo labbhati eva, svāyamattho pāṭhāruḷho evāti dassento ‘‘na kevala’’ntiādimāha.

「道に達した者」「滅(涅槃)を作証した者」という両方の語によっても、果に留まる者たち(果位の聖者)のみが示されており、道に留まる者(道位の聖者)ではないので、それらを示すために「そして教示に従って実践する者たちを」と言った。「優れた凡夫であっても教示に従って実践する者と言われるのではないか?」と。たとえ言われるとしても、厳密には道に留まる者たちのみがそのように言われるべきであり、他の者は正定聚(決定位)に入っていないがゆえにそうではない。実に彼らこそが「悪趣に落ちないように支える」と言われる。正定聚に入ることによって悪趣から免れることが可能となるからである。「語られる」の箇所における「〜と(iti)」の語は例示の意味、あるいは様相の意味である。それによって「比丘たちよ、有為であれ無為であれ、諸法が存在する限り、離貪がそれらの中で最高であると語られる」という経の句を包摂し、あるいはこれによって詳述される。そしてここにおいて、聖道は解脱へ導くものであるがゆえに、涅槃はその目的を達成する原因であるがゆえにと、その両者こそがここで厳密な意味で法と説かれた。実に涅槃を対象縁として得ることで聖道はその目的を達成し、聖果は「その信仰によって鎮まらないがゆえに」などの言葉から、道によって根絶された煩悩の安息による断滅の働きを持つがゆえに、解脱への導きに随順し、解脱の究極であることによる。しかし教説の法(教法)は解脱の法(証法)の獲得の原因であるがゆえに、というこの方便によって法の性質が得られるのであり、その意味は経文に挙げられている通りであることを示して「単に……だけでなく」などを述べた。

Kāmarāgo bhavarāgoti evamādibhedo sabbopi rāgo virajjati pahīyati etenāti rāgavirāgoti maggo kathito. Ejāsaṅkhātāya taṇhāya antonijjhānalakkhaṇassa sokassa ca taduppattiyaṃ sabbaso parikkhīṇattā anejamasokanti phalaṃ kathitaṃ. Appaṭikūlanti avirodhadīpanato kenaci aviruddhaṃ, iṭṭhaṃ paṇītanti vā attho. Paguṇarūpena pavattitattā, pakaṭṭhaguṇavibhāvanato vā paguṇaṃ. Yathāha ‘‘vihiṃsasaññī paguṇaṃ na bhāsiṃ, dhammaṃ paṇītaṃ manujesu brahme’’ti. Sabbadhammakkhandhā kathitāti yojanā.

欲愛・有愛などと区分される一切の貪りがこれによって離れ、断ぜられるゆえに「離貪」として道が説かれた。動揺と呼ばれる渇愛と、内的な焦熱を特徴とする憂いが、その生起において完全に尽滅したゆえに「不動・無憂」として果が説かれた。「逆らわない」とは、矛盾のなさを明らかにするゆえに何者とも対立しないこと、あるいは望ましく優れたという意味である。熟達した姿で生起したゆえに、あるいは卓越した徳を明らかにするゆえに「熟達した」である。「害する想いのある者は、人々の間において優れた法、熟達した法を語らなかった、バラモンよ」と説かれている通りである。「すべての法蘊が説かれた」と結合される。

Diṭṭhisīlasaṅghātenāti ‘‘yāyaṃ diṭṭhi ariyā niyyānikā niyyāti takkarassa sammā dukkhakkhayāya, tathārūpāya diṭṭhiyā diṭṭhisāmaññagato viharatī’’ti (dī. ni. 3.324, 356; ma. ni. 1.492; 3.54) evaṃ vuttāya diṭṭhiyā, ‘‘yāni tāni sīlāni akhaṇḍāni acchiddāni asabalāni akammāsāni bhujissāni viññuppasatthāni aparāmaṭṭhāni samādhisaṃvattanikāni, tathārūpehi sīlehi sīlasāmaññagato viharatī’’ti (dī. ni. 3.324; ma. ni. 1.492; 3.54; a. ni. 6.12; pari. 274) evaṃ vuttānaṃ sīlānañca saṃhatabhāvena, diṭṭhisīlasāmaññenāti attho. Saṃhatoti ghaṭito. Ariyapuggalā hi yattha katthaci dūre ṭhitāpi attano guṇasāmaggiyā saṃhatā eva. Aṭṭha ca puggala dhammadasā teti te purisayugavasena cattāropi puggalavasena aṭṭheva ariyadhammassa paccakkhadassāvitāya dhammadasā. Tīṇi vatthūni saraṇanti gamanena tikkhattuṃ gamanena ca tīṇi saraṇagamanāni. Paṭivedesīti attano hadayagataṃ vācāya pavedesi.

「見解と戒の結合によって」とは、「この聖なる解脱へ導く見解、それを行う者を正しく苦の尽滅へと導く見解、そのような見解において見解の一致に達して住する」とこのように説かれた見解と、「壊れず、欠けず、斑点がなく、汚れがなく、自由であり、賢者に賞賛され、執着されず、三昧に資するそれらの戒、そのような戒において戒の一致に達して住する」とこのように説かれた戒の結びついた状態によって、すなわち見解と戒の共通性によってという意味である。「結びついた」とは、結合された。聖者たちはどこであれ遠くに留まっていても、自らの徳の合致によってまさに結合されている。そして「法の観察者である八つの人たち」とは、四双八輩の人々として聖なる法を直接見るがゆえに法の観察者である。三つの対象(三宝)へ帰依所として行くことによって、三度行くことによって三つの帰依がある。「表明した」とは、自らの心にあることを言葉で表明した。

Pasannakāravaṇṇanā niṭṭhitā.

信順の表明の注釈を終わる。

Saraṇagamanakathāvaṇṇanā

三帰依の説の注釈

Saraṇagamanassa visayapabhedaphalasaṃkilesabhedānaṃ viya kattu ca vibhāvanā tattha kosallāya hotīti ‘‘saraṇagamanesu kosallatthaṃ **saraṇaṃ…pe… veditabbo’’**ti vuttaṃ tena vinā saraṇagamanasseva asambhavato. Kasmā panettha vodānaṃ na gahitaṃ, nanu vodānavibhāvanāpi tattha kosallāvahāti? Saccametaṃ, taṃ pana saṃkilesaggahaṇeneva atthato dīpitaṃ hotīti na gahitaṃ. Yāni hi tesaṃ saṃkilesakāraṇāni aññāṇādīni, tesaṃ sabbena sabbaṃ anuppannānaṃ anuppādanena, uppannānañca pahānena vodānaṃ hotīti. Hiṃsatthassa sara-saddassa vasenetaṃ padaṃ daṭṭhabbanti **‘‘hiṃsatīti saraṇa’’**nti vatvā taṃ pana hiṃsanaṃ kesaṃ, kathaṃ, kassa vāti codanaṃ sodhento **‘‘saraṇagatāna’’**ntiādimāha. Tattha bhayanti vaṭṭabhayaṃ. Santāsanti cittutrāsaṃ. Teneva cetasikadukkhassa gahitattā dukkhanti idha kāyikaṃ dukkhaṃ. Duggatiparikilesanti duggatipariyāpannaṃ sabbaṃ dukkhaṃ. Tayidaṃ sabbaṃ parato phalakathāyaṃ āvi bhavissati. Etanti ‘‘saraṇa’’nti padaṃ.

帰依の対象・区分・果・雑染の区分と同様に、行う者の解明もまたそこにおける熟達のために資するゆえに、「三帰依における熟達のために『帰依所……乃至……知られるべきである』」と説かれた。それなしには帰依そのものが成り立たないからである。ではなぜここにおいて清浄(vodāna)が把握されなかったのか、清浄の解明もまたそこにおける熟達をもたらすのではないか? それは真実であるが、それは雑染の把握によってのみ意味において明らかにされているゆえに把握されなかったのである。それらの雑染の原因である無知などが、まだ生じていないものはまったく生じさせないことによって、生じたものは断ずることによって清浄となるからである。「害する(殺傷する)」という意味の「sara」という語によってこの語句は見られるべきであるとして、「害する(壊滅する)がゆえに帰依所である」と述べ、しかしその害することは誰の何を、どのように、誰に対してであるのかという問いを解消して「帰依した者たちの……」などを述べた。そこでの「恐怖」とは輪廻の恐怖。「戦慄」とは心の恐怖。それゆえに心的な苦が把握されているので、「苦」とはここでは身体的な苦である。「悪趣の煩悶」とは悪趣に含まれるすべての苦である。これらすべてはのちに果の説において明らかになるであろう。「これを」とは、「帰依所」という語を。

Evaṃ avisesato saraṇasaddassa atthaṃ dassetvā idāni visesato dassetuṃ **‘‘atha vā’’**tiādi vuttaṃ. Hite pavattamānenāti ‘‘sampannasīlā, bhikkhave, viharathā’’tiādinā (ma. ni. 1.64, 69) atthe niyojanena. Ahitā ca nivattanenāti **‘‘pāṇātipātassa kho pāpako vipāko pāpakaṃ abhisamparāya’’**ntiādinā ādīnavadassanādimukhena anatthato vinivattanena. Bhayaṃ hiṃsatīti hitāhitesu appavattipavattihetukaṃ byasanaṃ appavattikaraṇena vināseti. Bhavakantārā uttāraṇena maggasaṅkhāto dhammo, itaro assāsadānena sattānaṃ bhayaṃ hiṃsatīti yojanā. Kārānanti dānavasena pūjāvasena ca upanītānaṃ sakkārānaṃ. Vipulaphalapaṭilābhakaraṇena sattānaṃ bhayaṃ hiṃsati anuttaradakkhiṇeyyabhāvatoti adhippāyo. Imināpi pariyāyenāti imināpi vibhajitvā vuttena kāraṇena.

このように無差別(一般的)に帰依の語の意味を示して、今や特別に示すために「あるいはまた」などが説かれた。「利益において生起することによって」とは、「比丘たちよ、戒を具足して住しなさい」などと利益に導くことによって。「不利益から遠ざけることによって」とは、「殺生には実に悪い異熟があり、来世は悪い」などと過患を見せることなどを通じて不利益から遠ざけることによって。「恐怖を害する」とは、利益と不利益における不生起と生起を原因とする災難を、生じさせないようにすることによって滅ぼす。輪廻の荒野から救出することによって道と呼ばれる法が、他方(仏)は安らぎを与えることによって衆生の恐怖を害する、と結合される。「供養の」とは、施与や礼拝によって捧げられた供養の。広大な果の獲得をもたらすことによって衆生の恐怖を害する、無上の布施を受けるにふさわしい者であるがゆえに、というのが意図である。「この方法によっても」とは、このように区分して説かれた理由によっても。

‘‘Sammāsambuddho bhagavā, svākkhāto dhammo, suppaṭipanno saṅgho’’ti evaṃ pavatto tattha ratanattaye pasādo tappasādo, tadeva ratanattayaṃ garu etassāti taggaru, tassa bhāvo taggarutā, tappasādo ca taggarutā ca tappasādataggarutā, tāhi. Vidhutadiṭṭhivicikicchāsammohaassaddhiyāditāya vihatakileso. ‘‘Tadeva ratanattayaṃ parāyaṇaṃ gati tāṇaṃ leṇa’’nti evaṃ ākārena pavattiyā tapparāyaṇatākārapavatto cittuppādo saraṇagamanaṃ ‘‘saraṇanti gacchati etenā’’ti. Taṃsamaṅgīti tena yathāvuttacittuppādena samannāgato. Evaṃ upetīti evaṃ bhajati sevati payirupāsati, evaṃ vā jānāti bujjhatīti evamattho veditabbo. Ettha ca pasādaggahaṇena lokiyasaraṇagamanamāha. Tañhi pasādappadhānaṃ, na ñāṇappadhānaṃ. Garutāgahaṇena lokuttaraṃ. Ariyā hi ratanattayaṃ guṇābhiññātāya pāsāṇacchattaṃ viya garuṃ katvā passanti, tasmā tappasādena vikkhambhanavasena vihatakileso taggarutāya samucchedavasenāti yojetabbaṃ. Tapparāyaṇatā panettha taggatikatāti tāya catubbidhampi vakkhamānaṃ saraṇagamanaṃ gahitanti daṭṭhabbaṃ. Avisesena vā pasādagarutā jotitāti pasādaggahaṇena aveccappasādassa itarassa ca gahaṇaṃ, tathā garutāgahaṇenāti ubhayenapi ubhayaṃ saraṇagamanaṃ yojetabbaṃ.

「世尊は正等覚者であり、法は正しく説かれたものであり、僧伽は正しく実践するものである」とこのように生起した、そこにおける三宝への信愛が「その信愛」であり、その三宝を重んじる者が「それを重んじる者」であり、その状態が「それを重んじること」であり、その信愛とそれを重んじることとが「その信愛とそれを重んじること」であり、それらによって。見解・懐疑・迷い・不信などを打ち破ったことによって煩悩を撃退した者。「まさにその三宝こそが究極の拠り所であり、趣先であり、庇護であり、避難所である」とこのような様相で生起することによって、それを究極の拠り所とする様相で生起した心の生起(心所・意識)が、「これによって帰依所として行く」がゆえに「帰依」である。「それを具えた者」とは、その上述の心の生起を具足した者。「このように近づく」とは、このように信服し、交際し、礼拝する、あるいはこのように知り、悟る、とこのような意味が見られるべきである。そしてここにおいて信愛の把握によって世間の帰依を語っている。それは信愛が主であり、智が主ではないからである。敬重の把握によって出世間の(帰依を語っている)。聖者たちは三宝を、徳の卓越した認識によって石の傘のように重んじて見るゆえに、その信愛によって(煩悩の)伏没(一時的制圧)によって煩悩を撃退し、それを重んじることによって根絶によって(煩悩を撃退した)と結合されるべきである。ここでの「それを究極の拠り所とすること」とは、それに帰着することであるゆえに、それによって後述される四種の帰依もまた把握されていると見なされるべきである。あるいは無差別に信愛と敬重が示されたゆえに、信愛の把握によって不壊の信(四証浄)と他のもの(世間の信)の把握があり、同様に敬重の把握によって(世間と出世間の敬重がある)ゆえに、両者によって両方の帰依が結合されるべきである。

Maggakkhaṇe ijjhatīti yojanā. Nibbānārammaṇaṃ hutvāti etena atthato catusaccādhigamoyeva lokuttaraṃ saraṇagamananti dasseti. Tattha hi nibbānadhammo sacchikiriyābhisamayavasena, maggadhammo bhāvanābhisamayavasena paṭivijjhiyamānoyeva saraṇagamanattaṃ sādheti, buddhaguṇā pana sāvakagocarabhūtā pariññābhisamayavasena, tathā ariyasaṅghaguṇā. Tenāha **‘‘kiccato sakalepi ratanattaye ijjhatī’’**ti, ijjhantañca saheva ijjhati, na lokiyaṃ viya paṭipāṭiyā asammohapaṭivedhena paṭividdhattāti adhippāyo. Ye pana vadanti ‘‘na saraṇagamanaṃ nibbānārammaṇaṃ hutvā pavattati, maggassa adhigatattā pana adhigatameva hoti ekaccānaṃ tevijjādīnaṃ lokiyavijjādayo viyā’’ti, tesaṃ lokiyameva saraṇagamanaṃ siyā, na lokuttaraṃ, tañca ayuttaṃ duvidhassapi icchitabbattā. Tanti lokiyasaraṇagamanaṃ. Saddhāpaṭilābho ‘‘sammāsambuddho bhagavā’’tiādinā. Saddhāmūlikāti yathāvuttasaddhāpubbaṅgamā sammādiṭṭhi buddhasubuddhataṃ dhammasudhammataṃ saṅghasuppaṭipatiñca lokiyāvabodhavaseneva sammā ñāyena dassanato. ‘‘Saddhāmūlikā sammādiṭṭhī’’ti etena saddhūpanissayā yathāvuttalakkhaṇā paññā lokiyasaraṇagamananti dasseti. Tenāha **‘‘diṭṭhijukammanti vuccatī’’**ti ‘‘diṭṭhi eva attano paccayehi ujuṃ karīyatī’’ti katvā. Diṭṭhi vā ujuṃ karīyati etenāti diṭṭhijukammaṃ, tathā pavatto cittuppādo. Evañca katvā ‘‘tapparāyaṇatākārapavatto cittuppādo’’ti idañca vacanaṃ samatthitaṃ hoti. Saddhāpubbaṅgamasammādiṭṭhiggahaṇaṃ pana cittuppādassa tappadhānatāyāti daṭṭhabbaṃ. ‘‘Saddhāpaṭilābho’’ti iminā mātādīhi ussāhitadārakādīnaṃ viya ñāṇavippayuttasaraṇagamanaṃ dasseti, ‘‘sammādiṭṭhī’’ti iminā ñāṇasampayuttasaraṇagamanaṃ.

「道の刹那に成就する」と結合される。「涅槃を対象として」とは、これによって事実上、四諦の獲得そのものが出世間の帰依であることを示す。そこでは実に涅槃法は作証の現観によって、道法は修習の現観によって現観されることそのものによって帰依の状態を成就し、仏の徳は弟子の境域となった遍知の現観によって、同様に聖僧伽の徳もそうである。それゆえに「働きの点から一切の三宝において成就する」と言った。成就する時も同時に成就するのであり、世間のように順次にではなく、無癡の現観によって現観されたがゆえに、というのが意図である。しかし「帰依は涅槃を対象として生起するのではなく、道が獲得されたことによって、一部の三明者たちにおける世間の明などのように、まさに獲得されたものとなるだけである」と主張する者たちにとっては、彼らの帰依は世間のものにすぎず、出世間のものとはならないであろうが、それは不適切である。二種ともに望まれるべきであるからである。「その」とは、世間の帰依のことである。「信の獲得」とは、「世尊は正等覚者であり……」などによってである。「信を根底とする」とは、上述の信を先導とする正見が、仏の正覚の美しさ、法の正法の美しさ、僧伽の正行の美しさを、世間の理解によって正しく道理によって見る。「信を根底とする正見」とは、これによって信の強いよりどころを持つ上述の特徴の智慧が、世間の帰依であることを示す。それゆえに「見直業(見解を正しくする行為)と呼ばれる」と言った。「見解そのものが自己の諸条件によってまっすぐにされる」と見なしてである。あるいは、見解がこれによってまっすぐにされるがゆえに「見直業」であり、そのように生起した心の生起である。そしてこのようにして「それを究極の拠り所とする様相で生起した心の生起」というこの言葉も論証されたことになる。信を先導とする正見の把握は、心の生起のそれの卓越性によるものであると見なされるべきである。「信の獲得」によって、母などによって励まされた子供たちなどのように智相応でない帰依を示し、「正見」によって智相応の帰依を示す。

Tayidaṃ lokiyaṃ saraṇagamanaṃ. Attā sanniyyātīyati appīyati pariccajīyati etenāti attasanniyyātanaṃ, yathāvuttaṃ diṭṭhijukammaṃ. Taṃ ratanattayaṃ parāyaṇaṃ paṭisaraṇaṃ etassāti tapparāyaṇo, puggalo, cittuppādo vā, tassa bhāvo tapparāyaṇatā, yathāvuttadiṭṭhijukammameva. Saraṇanti adhippāyena sissabhāvaṃ antevāsikabhāvaṃ upagacchati etenāti sissabhāvūpagamanaṃ. Saraṇagamanādhippāyeneva paṇipatati etenāti paṇipāto. Sabbattha yathāvuttadiṭṭhijukammavaseneva attho veditabbo. Attapariccajananti saṃsāradukkhanittharaṇatthaṃ attano attabhāvassa pariccajanaṃ. Esa nayo sesesupi. Buddhādīnaṃyevāti avadhāraṇaṃ itaresupi saraṇagamanavisesesu yathārahaṃ vattabbaṃ. Evañhi tadaññanivattanaṃ kataṃ hoti.

これが世間の帰依である。「自己を委ねる、捧げる、放棄する、これによって」ゆえに「自己の献身」であり、上述の見直業である。その三宝が究極の拠り所、頼るべき場所である者が「それを究極の拠り所とする者」であり、人、あるいは心の生起であり、その状態が「それを究極の拠り所とすること」であり、上述の見直業そのものである。帰依所という意図で弟子としての状態、門弟としての状態にこれによって入るゆえに「弟子としての服従」である。まさに帰依の意図によってこれによって平伏するゆえに「敬礼」である。すべてにおいて上述の見直業によって意味が見られるべきである。「自己の放棄」とは、輪廻の苦を脱出するための自己の身体の放棄である。この方法は残りのものにおいても同様である。「仏たちのみへの」という限定は、他の帰依の特殊性においても適切に言われるべきである。このようにしてそれ以外のものの排除がなされたことになる。

Evaṃ attasanniyātanādīni ekena pakārena dassetvā idāni aparehipi pakārehi dassetuṃ **‘‘apicā’’**tiādi āraddhaṃ. Tena pariyāyantarehipi attasanniyyātanādi katameva hoti atthassa abhinnattāti dasseti. Āḷavakādīnanti ādi-saddena sātāgirihemavatādīnaṃ saṅgaho daṭṭhabbo. Nanu cete āḷavakādayo maggeneva āgatasaraṇagamanā, kathaṃ tesaṃ tapparāyaṇatāsaraṇagamanaṃ vuttanti? Maggenāgatasaraṇagamanehipi ‘‘so ahaṃ vicarissāmi gāmā gāma’’ntiādinā (saṃ. ni. 1.246) tehi tapparāyaṇatākārassa paveditattā tathā vuttaṃ.

このように自己の献身などを一つの方法で示して、今や他の諸方法によっても示すために「さらにまた」などが始められた。それによって他の方法によっても自己の献身などはまさにすでになされたことであり、意味に差異はないことを示している。「アーラヴァカなどの」という「など」の言葉によって、サーターギリやヘーマヴァタなどの包摂が見られるべきである。「実にこれらアーラヴァカらは道によってのみ帰依に至ったのではないか、どうして彼らにそれを究極の拠り所とする帰依が説かれたのか?」と。道によって帰依に至った者たちであっても、「その私は村から村へと巡り歩くであろう」などと(『相応部』1.246)彼らによってそれを究極の拠り所とする様相が表明されたゆえに、そのように説かれたのである。

Ñāti…pe… vasenāti ettha ñātivasena bhayavasena ācariyavasena dakkhiṇeyyavasenāti paccekaṃ ‘‘vasenā’’ti padaṃ yojetabbaṃ. Tattha ñātivasenāti ñātibhāvavasena. Evaṃ sesesupi. Dakkhiṇeyyapaṇipātenāti dakkhiṇeyyatāhetukena paṇipātena. Itarehīti ñātibhāvādivasappavattehi tīhi paṇipātehi. Itarehītiādinā saṅkhepato vuttamatthaṃ vitthārato dassetuṃ **‘‘tasmā’’**tiādi vuttaṃ. Vandatīti paṇipātassa lakkhaṇavacanaṃ. Evarūpanti diṭṭhadhammikaṃ sandhāya vadati. Samparāyikañhi niyyānikaṃ vā anusāsanaṃ paccāsīsanto dakkhiṇeyyapaṇipātameva karotīti adhippāyo. Saraṇagamanappabhedoti saraṇagamanavibhāgo.

「親族……乃至……によって」の箇所では、親族によって、恐怖によって、師によって、布施を受けるにふさわしい者によって、と個別に「によって」という語を結合すべきである。そこでの「親族によって」とは、親族としての関係によって。残りのものにおいても同様である。「布施を受けるにふさわしい者への敬礼によって」とは、布施を受けるにふさわしい性質を原因とする敬礼によって。「他のものによって」とは、親族としての関係などによって生起した三つの敬礼によって。「他のものによって」などと簡潔に説かれた意味を詳細に示すために「それゆえに」などが説かれた。「礼拝する」とは、敬礼の特徴の言明である。「このようなものを」とは、現世的なものを念頭に置いて言っている。来世的なもの、あるいは解脱へ導く教誡を期待して、布施を受けるにふさわしい者への敬礼のみをなす、というのが意図である。「帰依の区分」とは、帰依の分類である。

Ariyamaggoyeva lokuttarasaraṇagamananti āha **‘‘cattāri sāmaññaphalāni vipākaphala’’**nti. Sabbadukkhakkhayoti sakalassa vaṭṭadukkhassa anuppādanirodho. Etanti ‘‘cattāri ariyasaccāni, sammappaññāya passatī’’ti (dha. pa. 190) evaṃ vuttaṃ ariyasaccadassanaṃ.

聖道こそが出世間の帰依であるゆえに、「四つの沙門果が異熟の果である」と言った。「一切の苦の尽滅」とは、一切の輪廻の苦の不生起の滅(涅槃)である。「これを」とは、「四つの聖諦を、正しい智慧によって見る」とこのように説かれた聖諦の観察である。

Niccato anupagamanādivasenāti niccanti aggahaṇādivasena. Aṭṭhānanti hetupaṭikkhepo. Anavakāsoti paccayapaṭikkhepo. Ubhayenapi kāraṇameva paṭikkhipati. Yanti yena kāraṇena. Diṭṭhisampannoti maggadiṭṭhiyā sampanno sotāpanno. Kañci saṅkhāranti catubhūmakesu saṅkhatasaṅkhāresu ekasaṅkhārampi. Niccato upagaccheyyāti ‘‘nicco’’ti gaṇheyya. Sukhato upagaccheyyāti ‘‘ekantasukhī attā hoti arogo paraṃ maraṇā’’ti (dī. ni. 1.76) evaṃ attadiṭṭhivasena sukhato gāhaṃ sandhāyetaṃ vuttaṃ. Diṭṭhivippayuttacittena pana ariyasāvako pariḷāhavūpasamanatthaṃ mattahatthiparittāsito viya cokkhabrāhmaṇo ukkārabhūmiṃ kañci saṅkhāraṃ sukhato upagacchati. Attavāre kasiṇādipaññattisaṅgahaṇatthaṃ ‘‘saṅkhāra’’nti avatvā **‘‘kañci dhamma’’**nti vuttaṃ. Imesupi vāresu catubhūmakavaseneva paricchedo veditabbo tebhūmakavaseneva vā. Yaṃ yañhi puthujjano gāhavasena gaṇhāti, tato tato ariyasāvako gāhaṃ viniveṭheti. Mātarantiādīsu janikā mātā, janako pitā, manussabhūto khīṇāsavo arahāti adhippeto. Kiṃ pana ariyasāvako aññaṃ jīvitā voropeyyāti? Etampi aṭṭhānaṃ, puthujjanabhāvassa pana mahāsāvajjabhāvadassanatthaṃ ariyasāvakassa phaladīpanatthañcevaṃ vuttaṃ. Duṭṭhacitto vadhakacittena paduṭṭhacitto. Lohitaṃ uppādeyyāti jīvamānakasarīre khuddakamakkhikāya pivanamattampi lohitaṃ uppādeyya. Saṅghaṃ bhindeyyāti samānasaṃvāsakaṃ samānasīmāyaṃ ṭhitaṃ saṅghaṃ ‘kammena uddesena voharanto anussāvanena salākaggāhenā’’ti (pari. 458) evaṃ vuttehi pañcahi kāraṇehi bhindeyya. Aññaṃ satthāranti aññaṃ titthakaraṃ ‘‘ayaṃ me satthā’’ti evaṃ gaṇheyyāti netaṃ ṭhānaṃ vijjatīti attho.

「常であると捉えないことなどによって」とは、常であると把握しないことなどによって。「あり得ないこと(aṭṭhāna)」とは、原因の否定。「可能性がないこと(anavakāsa)」とは、条件の否定。両者によって原因そのものを否定している。「〜ということ(yaṃ)」とは、その理由によって。「見を具足した者」とは、道見を具足した預流者。「何らかの形成されたもの(諸行)を」とは、四界(四地)に属する有為の諸行の中の一つの形成されたものさえも。「常であると捉えるということは」とは、「常である」と把握するということ。「楽であると捉えるということは」とは、「死後において我は純粋に幸福であり、無病である」とこのように我見によって楽と把握することを念頭に置いてこれが説かれた。しかし見解と不相応な心によって、聖弟子は熱悩を鎮めるために、狂象に怯えた潔癖なバラモンが糞尿の地に逃げ込むように、何らかの形成されたものを楽として近づく(利用する)。「我」の項においては、遍作などの概念の包摂のために「形成されたもの」と言わずに「何らかの法を」と説いた。これらの項においても、四界によってのみ限定が知られるべきであり、あるいは三界によってである。凡夫が執着によって把握するありとあらゆるものから、聖弟子はその執着を解き放つ。「母を」などにおいて、生みの母、生みの父、人間である漏尽者(阿羅漢)が意図されている。「聖弟子が他の者を殺害することがあるだろうか?」と。これもまたあり得ないことであるが、凡夫の状態の重大な過失の性質を示すため、そして聖弟子の果を明らかにするためにこのように説かれた。「悪意ある心で」とは、殺害の心で害意を抱いた心で。「血を流させる」とは、生きている身体において小さなハエが吸うほどの血であっても流させる。「僧伽を破滅させる」とは、同一の住居に住み、同一の結界内に留まる僧伽を、「羯磨(儀軌)によって、教示によって、提唱によって、宣誓によって、籤取りによって」とこのように説かれた五つの原因によって破滅させる。「他の師を」とは、他の外道の教祖を「これが私の師である」とこのように把握することは、あり得ないという意味である。

Na te gamissanti apāyabhūminti te buddhaṃ saraṇaṃ gatā tannimittaṃ apāyabhūmiṃ na gamissanti, devakāyaṃ pana paripūressantīti attho.

「彼らは悪趣の境地へは行かないであろう」とは、仏に帰依した彼らはそれを原因として悪趣の境地へは行かず、かえって天の集団を満たすであろう、という意味である。

Dasahi ṭhānehīti dasahi kāraṇehi. Adhiggaṇhantīti adhibhavanti. Velāmasuttādivasenāpīti ettha ‘‘caturāsītisahassasaṅkhānaṃ suvaṇṇapātirūpiyapātikaṃsapātīnaṃ yathākkamaṃ rūpiyasuvaṇṇahiraññapūrānaṃ karīsassa catutthabhāvappamāṇānaṃ sabbālaṅkārapaṭimaṇḍitānaṃ caturāsītiyā hatthisahassānaṃ caturāsītiyā assasahassānaṃ caturāsītiyā rathasahassānaṃ caturāsītiyā dhenusahassānaṃ caturāsītiyā kaññāsahassānaṃ caturāsītiyā pallaṅkasahassānaṃ caturāsītiyā vatthakoṭisahassānaṃ aparimāṇassa ca khajjabhojjādibhedassa āhārassa pariccajanavasena sattamāsādhikāni satta saṃvaccharāni nirantaraṃ pavattavelāmamahādānato ekassa sotāpannassa dinnadānaṃ mahapphalataraṃ, tato sataṃ sotāpannānaṃ dinnadānato ekassa sakadāgāmissa, tato ekassa anāgāmissa, tato ekassa arahato, tato ekassa paccekabuddhassa, tato sammāsambuddhassa, tato buddhappamukhassa saṅghassa dinnadānaṃ mahapphalataraṃ, tato cātuddisaṃ saṅghaṃ uddissa vihārakaraṇaṃ, tato saraṇagamanaṃ mahapphalatara’’nti imamatthaṃ dīpentassa velāmasuttassa (a. ni. 9.20) vasena. Vuttañhetaṃ ‘‘yaṃ gahapati, velāmo brāhmaṇo dānaṃ adāsi mahādānaṃ, yo ekaṃ diṭṭhisampannaṃ bhojeyya, idaṃ tato mahapphalatara’’ntiādi (a. ni. 9.20). Velāmasuttādīti ādi-saddena aggappasādasuttādīnaṃ (a. ni. 4.34; itivu. 90) saṅgaho daṭṭhabbo.

「十の境遇によって」とは、十の理由によって。「凌駕する」とは、圧倒する。「ヴェーラーマ経などによっても」とは、ここにおいて「八万四千の金器・銀器・銅器にそれぞれ銀・金・貴金属を満たし、四分の一カリサ(面積の単位)の大きさですべての装飾で飾られた八万四千頭の象、八万四千頭の馬、八万四千両の車、八万四千頭の乳牛、八万四千人の乙女、八万四千の寝台、八万四千億の布、そして無量の硬食・軟食などの食物の施与によって、七ヶ月と七年間にわたり不断に行われたヴェーラーマの大施与よりも、一人の預流者に与えられた施与の方がはるかに大きな果をもたらし、それよりも百人の預流者に与えられた施与よりも一人の一来者に、それよりも一人の不還者に、それよりも一人の阿羅漢に、それよりも一人の独覚に、それよりも正等覚者に、それよりも仏を首頭とする僧伽に与えられた施与の方がはるかに大きな果をもたらし、それよりも四方の僧伽のために精舎を建立する方が、それよりも三帰依の方がはるかに大きな果をもたらす」というこの意味を明らかにする『ヴェーラーマ経』によって。実にこのように説かれている。「居士よ、ヴェーラーマ・バラモンが与えたあの大施与よりも、正見を具足した一人の者に食事を与えること、これがそれよりもはるかに大きな果をもたらす」などと。「ヴェーラーマ経など」の「など」という語によって、『第一信愛経』などの包摂が見られるべきである。

Aññāṇaṃ vatthuttayassa guṇānaṃ ajānanaṃ tattha sammoho, ‘‘buddho nu kho, na nu kho buddho’’tiādinā vicikicchā saṃsayo, micchāñāṇaṃ tassa guṇānaṃ aguṇabhāvaparikappanena viparītaggāho. Ādi-saddena anādarāgāravādīnaṃ saṅgaho. Na mahājutikanti na ujjalaṃ, aparisuddhaṃ apariyodātanti attho. Na mahāvipphāranti anuḷāraṃ. Sāvajjoti diṭṭhitaṇhādivasena sadoso. Lokiyaṃ saraṇagamanaṃ sikkhāsamādānaṃ viya aggahitakālaparicchedaṃ jīvitapariyantameva hoti, tasmā tassa khandhabhedena bhedoti āha **‘‘anavajjo kālakiriyāyā’’**ti. Soti anavajjo saraṇagamanabhedo. Satipi anavajjatte iṭṭhaphalopi na hotīti āha **‘‘aphalo’’**ti.

「無知」とは三宝の徳を知らないことであり、そこにおける「迷い」であり、「仏であろうか、仏ではないのだろうか」などの「懐疑」であり、「邪知」とはその徳を無徳であると想定することによる転倒した把握である。「など」の語によって、無敬意や不敬などの包摂である。「大いなる輝きがない」とは、輝きがなく、不清浄で、純白でないという意味である。「大いなる広がりがない」とは、広大でないこと。「有過失」とは、見解や渇愛などによって過失を伴うこと。世間の帰依は学処の受持のように、時間の期限を定めないものは生命の終わりまでである。それゆえにそれは諸蘊の崩壊によって崩壊するゆえに、「無過失なものは死によって」と言った。「その」とは、無過失な帰依の崩壊である。無過失であっても望ましい果を持たないゆえに、「無果である」と言った。

Saraṇagamanakathāvaṇṇanā niṭṭhitā.

三帰依の説の注釈を終わる。

Upāsakavidhikathāvaṇṇanā

優婆塞(在俗信者)の規定の説の注釈

Ko upāsakoti sarūpapucchā, tasmā kiṃlakkhaṇo upāsakoti vuttaṃ hoti. Kasmāti hetupucchā. Tena kena pavattinimittena upāsakasaddo tasmiṃ puggale niruḷhoti dasseti. Kimassa sīlanti kīdisaṃ assa upāsakassa sīlaṃ, kittakena sīlenāyaṃ sīlasampanno nāma hotīti attho. Ko ājīvoti ko assa sammāājīvo, so pana micchājīvassa parivajjanena hotīti sopi vibhajīyatīti. Kā vipattīti kā assa sīlassa, ājīvassa vā vipatti. Anantarassa hi vidhi vā paṭisedho vā. Kā sampattīti etthāpi eseva nayo.

「誰が優婆塞であるか」とは、自相の問いである。それゆえに「どのような特徴を持つ者が優婆塞であるか」と説かれたことになる。「なぜか」とは、原因の問いである。それによっていかなる生起の理由によって「優婆塞」という語がその人に定着したのかを示す。「彼の戒とは何か」とは、この優婆塞の戒はどのようなものか、どれほどの戒によってこの者は戒を具足した者と呼ばれるのか、という意味である。「生業とは何か」とは、彼の正命とは何か。それは邪命を避けることによって成り立つゆえに、それもまた分類される。「破戒(退転)とは何か」とは、彼の戒の、あるいは生業の退転とは何か。直前のものに対して規定あるいは禁止があるからである。「具足(成就)とは何か」とは、ここにおいてもこの方法である。

Yo kocīti khattiyādīsu yo koci. Tena saraṇagamanamevettha kāraṇaṃ, na jātiādivisesoti dasseti. Upāsanatoti teneva saraṇagamanena tattha ca sakkaccakāritāya ādaragāravabahumānādiyogena payirupāsanato. Veramaṇiyoti veraṃ vuccati pāṇātipātādidussīlyaṃ, tassa maṇanato hananato vināsanato veramaṇiyo, pañca viratiyo viratippadhānattā tassa sīlassa. Tenevāha tattha tattha **‘‘paṭivirato hotī’’**ti.

「誰であれ」とは、クシャトリヤなどのうちの誰であれということである。それによって、ここではただ帰依することだけが原因であり、家柄などの差異ではないことを示している。「親近することによって」とは、その帰依によって、そしてそこにおいて恭敬を尽くすことによって、敬意・尊重・崇敬などを伴って親近することによってである。「離戒」とは、殺生などの破戒を「ヴェーラ(怨恨・悪徳)」と呼び、それを粉砕し、殺戮し、滅尽することから「ヴェーラマニー(離戒)」と呼ばれる。その戒は五つの不善からの離止を主とするため、五つの離止がある。それゆえ、その所々において「離止した者となる」と説かれたのである。

Micchāvaṇijjāti na sammāvaṇijjā ayuttavaṇijjā asāruppavaṇijjā. Pahāyāti akaraṇeneva pajahitvā. Dhammenāti dhammato anapetena. Tena aññampi adhammikaṃ jīvikaṃ paṭikkhipati. Samenāti avisamena. Tena kāyavisamādiduccaritaṃ vajjetvā kāyasamādinā sucaritena jīvanaṃ dasseti. Satthavaṇijjāti āvudhabhaṇḍaṃ katvā vā kāretvā vā yathākataṃ vā paṭilabhitvā tassa vikkayo. Satthavaṇijjāti manussavikkayo. Maṃsavaṇijjāti sūnakārādayo viya migasūkarādike posetvā maṃsaṃ sampādetvā vikkayo. Majjavaṇijjāti yaṃ kiñci majjaṃ yojetvā tassa vikkayo. Visavaṇijjāti visaṃ yojetvā, visaṃ gahetvā vā tassa vikkayo. Tattha satthavaṇijjā paroparodhanimittatāya akaraṇīyā vuttā, sattavaṇijjā abhujissabhāvakaraṇato, maṃsavisavaṇijjā vadhahetuto, majjavaṇijjā pamādaṭṭhānato.

「邪命な商売」とは、正しくない商売、不相応な商売、不適切な商売のことである。「捨てて」とは、行わないことによって完全に捨離して。「法によって」とは、正法から外れることなく。これによって他の非法な生計をも退ける。「公正に」とは、不公正でなく。これによって身の不公正などの悪行を避けて、身の公正などの善行によって生活することを示す。「武器の商売」とは、武器類を自ら作り、あるいは作らせ、あるいは作られたものを手に入れてそれを売ることである。「人の商売」とは、人間を売ることである。「肉の商売」とは、屠殺者らのように鹿や豚などを飼育し、肉を調達して売ることである。「酒の商売」とは、いかなる種類であれ酒を調合してそれを売ることである。「毒の商売」とは、毒を調合し、あるいは毒を入手してそれを売ることである。その中で、武器の商売は他者を害する原因となるためになすべきではないと説かれ、人の商売は非自由人(奴隷)とするため、肉と毒の商売は殺害の原因となるため、酒の商売は放逸の根拠となるためである。

Tassevāti pañcaveramaṇilakkhaṇassa sīlassa ceva pañcamicchāvaṇijjālakkhaṇassa ājīvassa ca. Vipattīti bhedo pakopo ca. Yāyāti yāya paṭipattiyā. Caṇḍāloti upāsakacaṇḍālo. Malanti upāsakamalaṃ. Patikiṭṭhoti upāsakanihīno. Buddhādīsu kammakammaphalesu ca saddhāvipariyāyo assaddhiyaṃ micchādhimokkho. Yathāvuttena assaddhiyena samannāgato assaddho. Yathāvutta sīlavipatti ājīvavipattivasena dussīlo. ‘‘Iminā diṭṭhādinā idaṃ nāma maṅgalaṃ bhavissatī’’ti evaṃ bālajanaparikappitakotūhalasaṅkhātena diṭṭhasutamutamaṅgalena samannāgato kotūhalamaṅgaliko. Maṅgalaṃ paccetīti diṭṭhamaṅgalādibhedaṃ maṅgalameva pattiyāyati. No kammanti kammassakataṃ no pattiyāyati. Ito bahiddhāti ito sabbaññubuddhasāsanato bahiddhā bāhirakasamaye. Dakkhiṇeyyaṃ pariyesatīti duppaṭipannaṃ dakkhiṇārahasaññī gavesati. Pubbakāraṃ karotīti dānamānanādikaṃ kusalakiriyaṃ paṭhamaṃ karoti. Ettha ca dakkhiṇeyyapariyesanapubbakāre ekaṃ katvā pañca dhammā veditabbā.

「それの」とは、五つの離戒を相とする戒、ならびに五つの邪命な商売の離止を相とする生計のことである。「衰退」とは、破戒と乱れである。「それによって」とは、その実践によって。「チャンダーラ」とは、優婆塞(在家信者)の賤民である。「汚れ」とは、優婆塞の汚れである。「最下層」とは、優婆塞の劣等者である。仏などの三宝や業とその果報に対する信仰の欠如を不信仰、邪なる確信という。上述の不信仰を具足した者を「不信仰者」という。上述の戒の衰退と生計の衰退によって「破戒者」という。「この見られたものなどによって、これこれの吉兆が生じるであろう」というように、愚かな人々によって構想された好奇心と呼ばれる見聞覚知の吉兆を信じる者を「瑞祥吉兆を信じる者」という。「吉兆に頼り」とは、見聞などの吉兆の差異をまさに信じることである。「業に頼らず」とは、自らの業の所作を信じないことである。「これより外に」とは、この全知の仏の教えから外れた、外道の教義においてである。「布施にふさわしい者を求め」とは、誤った実践をする者を布施にふさわしい者と見なして探し求めることである。「先んじた供養をなす」とは、布施や尊敬などの善い行為を先に行うことである。そしてここでは、布施にふさわしい者を求めることと先んじた供養を一つとして、五つの法として理解されるべきである。

Vipattiyaṃ vuttavipariyāyena sampatti ñātabbā. Ayaṃ pana viseso – catunnampi parisānaṃ ratijananaṭṭhena upāsakova ratanaṃ upāsakaratanaṃ. Guṇasobhākittisaddasugandhatāhi upāsakova padumaṃ upāsakapadumaṃ. Tathā upāsakapuṇḍarīko.

衰退において説かれたことの反対によって、成就が知られるべきである。ただし、この差異がある――四部衆すべてに歓喜を生じさせるという意味で、優婆塞こそが宝石であり「優婆塞の宝石」である。徳の美しさや名声の芳香によって、優婆塞こそが紅蓮華であり「優婆塞の紅蓮華」である。同様に「優婆塞の白蓮華」である。

Ādimhīti ādiatthe. Koṭiyanti pariyantakoṭiyaṃ. Vihāraggenāti ovarakakoṭṭhāsena, ‘‘imasmiṃ gabbhe vasantānaṃ idaṃ nāma panasaphalaṃ pāpuṇātī’’tiādinā taṃtaṃvasanaṭṭhānakoṭṭhāsenāti attho. Ajjatanti ajjaicceva attho.

「初めに」とは、最初の意味において。「終わりに」とは、最後の限界において。「精舎の区画ごとに」とは、小部屋の割り当てによってであり、「この部屋に住む者たちには、このパラミツの実が割り当てられる」などというように、それぞれの居住場所の割り当てによって、という意味である。「今日より」とは、今日まさにという意味である。

Pāṇehi upetanti iminā tassa saraṇagamanassa āpāṇakoṭikataṃ dassento **‘‘yāva me jīvitaṃ pavattatī’’**tiādinā vatvā puna jīvitena taṃ vatthuttayaṃ paṭipūjento ‘‘saraṇagamanaṃ rakkhāmī’’ti uppannaṃ tassa brāhmaṇassa adhippāyaṃ vibhāvento **‘‘ahañhī’’**tiādimāha. Pāṇehi upetanti hi yāva me pāṇā dharanti, tāva saraṇaṃ upetaṃ, upento ca na vācāmattena, na ekavāraṃ cittuppādanamattena, atha kho pāṇe pariccajitvāpi yāvajīvaṃ upetanti evamettha attho veditabboti.

「命ある限り」とは、これによって彼の帰依が命の尽きる限界までのものであることを示しつつ、「私の命が続く限り」などと述べて、さらに命をもってその三宝を供養しつつ、「帰依を守ろう」と生じたそのバラモンの意図を明示して、「私はまことに」等と述べた。「命ある限り帰依した」とは、私の命が保たれる限り、帰依し、帰依するにあたっても言葉だけでなく、一度の発心だけでもなく、実に命を捨ててでも一生涯帰依する、とこのようにここでは意味が理解されるべきである。

Upāsakavidhikathāvaṇṇanā niṭṭhitā.

優婆塞の規定に関する解説は完結した。

Bhayabheravasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

『恐怖経』の解説における深義の解明は終了した。

5. Anaṅgaṇasuttavaṇṇanā

5. 無穢経の解説

57. Āyasmā sāriputtoti ettha iti-saddo ādiattho, evamādikanti attho. Tena ‘‘bhikkhū āmantesī’’tiādikaṃ sabbaṃ suttaṃ saṅgaṇhāti. Tenāha **‘‘anaṅgaṇasutta’’**nti. Tassa ko nikkhepo? Attajjhāsayo. Parehi anajjhiṭṭhoyeva hi mahāthero imaṃ desanaṃ ārabhi. Keci panāhu ‘‘ekacce bhikkhū saṃkiliṭṭhacitte disvā tesaṃ cittasaṃkilesappahānāya ceva ekaccānaṃ āyatiṃ anuppādanāya ca ayaṃ desanā āraddhā’’ti. Evaṃ sabbasuttesūti yathā ettha anaṅgaṇasutte, evaṃ ito paresūti sabbesupi suttesu anuttānaapubbapadavaṇṇanā eva karīyati. Tenāha **‘‘tasmā’’**tiādi. Gaṇanaparicchedoti gaṇanena paricchindanaṃ. Idañhi apparajakkhamahārajakkhatāvasena duvidhe satte paccekaṃ atthaññutānatthaññutāvasena dvidhā katvā ‘‘cattāro’’ti anavasesapariyādānaṃ. Vajjīputtakādayo viya puggalavādīti na gahetabbaṃ lokasamaññānusārena atthaṃ paṭivijjhituṃ samatthānaṃ vasena desanāya āraddhattā, ayañca desanānayo satthu nissāya evāti dassento **‘‘ayañhī’’**tiādimāha.

57. 「尊者サーリプッタは」という箇所において、「iti(〜と)」という言葉は初めの意味であり、「これこれに始まる」という意味である。これによって「比丘たちに呼びかけた」などに始まる経の全体を包摂する。それゆえ「無穢経」と言った。これはいかなる動機で説かれたのか? 自発的な意図による。実に、他者から請われることなく尊者はこの説法を始めたのである。しかし、ある者たちは「ある比丘たちの心が汚れているのを見て、彼らの心の汚れを捨断するため、またある比丘たちには将来に生じさせないために、この説法が始められた」と言う。「このようにすべての経において」とは、この『無穢経』においてと同様に、これ以降のすべての経においても、明瞭でない前例のない語の解説のみがなされる。それゆえ「それゆえ」等と言った。「数の限定」とは、数によって限定することである。これは実に、塵芥の少ない者と多い者の二種の衆生を、それぞれ義(利益)を知るか知らぬかによって二分して、「四種」として余すところなく包摂することである。跋闍子部(ヴァッジープッタカ)などのような「補特伽羅論者(個我論者)」と受け取ってはならない。世間の通称に従って義を悟ることのできる者たちに応じて説法が始められたのであり、またこの説法の趣旨は師(仏陀)に依拠したものであることを示しつつ、「これ実に」等と言った。

Sammutiparamatthadesanākathāvaṇṇanā

世俗諦と勝義諦の説法に関する解説

Tattha (a. ni. ṭī. 1.1.170) sammutiyā desanā sammutidesanā, paramatthassa desanā paramatthadesanā. Tatthāti sammutiparamatthadesanāsu, na sammutiparamatthesu. Tenāha **‘‘evarūpā sammutidesanā, evarūpā paramatthadesanā’’**ti. Tatridaṃ sammutiparamatthānaṃ lakkhaṇaṃ – yasmiṃ bhinne, buddhiyā avayavavinibbhoge vā kate na taṃsamaññā, sā ghaṭapaṭādippabhedā sammuti, tabbipariyāyato paramattho. Na hi kakkhaḷaphusanādisabhāve ayaṃ nayo labbhati, tattha rūpādidhammaṃ samūhasantānavasena pavattamānaṃ upādāya puggalavohāroti āha **‘‘puggaloti sammutidesanā’’**ti. Sesapadesupi eseva nayo. Uppādavayavanto sabhāvadhammā na niccāti āha **‘‘aniccanti paramatthadesanā’’**ti. Esa nayo sesapadesupi. Nanu khandhadesanāpi sammutidesanāva. Khandhaṭṭho hi rāsaṭṭho, koṭṭhāsaṭṭho vāti? Saccametaṃ, ayaṃ pana khandhasamaññā phassādīsu tajjāpaññatti viya paramatthasannissayā tassa āsannatarā, puggalasamaññādayo viya na dūreti paramatthasaṅgahatā vuttā, khandhasīsena vā tadupādānā sabhāvadhammā eva gahitā. Nanu ca sabhāvadhammā sabbepi sammutimukheneva desanaṃ ārohanti, na samukhenāti sabbāpi desanā sammutidesanāva siyāti? Nayidamevaṃ desetabbadhammavibhāgena desanāvibhāgassa adhippetattā, na ca saddo kenaci pavattinimittena vinā atthaṃ pakāsetīti.

そこにおいて(『増支部複註』1.1.170)、世俗に基づく説法が世俗説法であり、勝義についての説法が勝義説法である。「そこにおいて」とは、世俗説法と勝義説法においてであって、世俗と勝義においてではない。それゆえ「このようなものが世俗説法であり、このようなものが勝義説法である」と言った。その世俗と勝義の相は次の通りである――それが破壊されたり、知性によって部分に分解されたりしたときにその名称が失われるもの、それが水瓶や衣服などの世俗であり、その反対が勝義である。実に、硬さや接触などの自性においてはこの理趣は得られない。そこにおいて色などの法が集積と相続の様態として展開していることに基づいて「人(補特伽羅)」という呼称が用いられるので、「人とは世俗説法である」と言った。残りの句においてもこれと同じ理趣である。生起と消滅を持つ自性法は常住ではないので、「無常とは勝義説法である」と言った。この理趣は残りの句においても同様である。「蘊(五蘊)の説法もまた世俗説法ではないのか。蘊の意味は集積の意味、あるいは部分の意味であるから」と言うのか? それは真実であるが、この蘊という名称は触などにおける適切な概念のように勝義に依拠しており、勝義により近いのであり、人という名称などのように遠くはないため勝義の包摂と説かれたのである。あるいは蘊を主とすることによって、その依拠である自性法そのものが取られている。「しかし、すべての自性法は世俗の門口を通してのみ説法に現れるのであり、それ自体として現れるのではないから、すべての説法は世俗説法となるのではないか?」と問うなら、そうではない。説かれるべき法の区分によって説法の区分が意図されているのであり、また言葉はいかなる生起の根拠もなしに義を明らかにすることはないからである。

Sammutivasena desanaṃ sutvāti ‘‘idhekacco puggalo attantapo hoti attaparitāpānuyogamanuyutto’’tiādinā (ma. ni. 2.413; pu. pa. 10.25 mātikā) sammutimukhena pavattitaṃ desanaṃ sutamayañāṇuppādanavasena sutvā. Atthaṃ paṭivijjhitvāti tadanusārena catusaccasaṅkhātaṃ atthaṃ saha vipassanāya maggena paṭivijjhitvā. Mohaṃ pahāyāti tadekaṭṭhehi kilesehi saddhiṃ anavasesaṃ mohaṃ pajahitvā. Visesanti nibbānasaṅkhātaṃ arahattasaṅkhātañca visesaṃ. Tesanti tādisānaṃ vineyyānaṃ. Paramatthavasenāti ‘‘pañcimāni, bhikkhave, indriyānī’’tiādinā (saṃ. ni. 5.472-474) paramatthadhammavasena. Sesaṃ anantaranaye vuttasadisameva. Tatthāti tassaṃ sammutivasena paramatthavasena ca desanāyaṃ. Desabhāsākusaloti nānādesabhāsāsu kusalo. Tiṇṇaṃ vedānanti nidassanamattaṃ, tiṇṇaṃ vedānaṃ sippaganthānampīti adhippāyo sippuggahaṇañhi parato vakkhati. Sippāni vā vedantogadhe katvā **‘‘tiṇṇaṃ vedāna’’**nti vuttaṃ. Kathetabbabhāvena ṭhitāni, na katthaci sannihitabhāvenāti vedānampi kathetabbabhāveneva avaṭṭhānaṃ dīpento ‘‘guyhā tayī nihitā gayhatī’’ti micchāvādaṃ paṭikkhipati. Nānāvidhā desabhāsā etesanti nānādesabhāsā.

「世俗に基づいて説法を聞いて」とは、「ここに、ある人は自らを苦しめ、自らを苦しめる実践に専念する者である」などと、世俗の門口を通して説かれた説法を聞法による知恵を生じさせることによって聞き。「義を悟って」とは、それに従って四聖諦と呼ばれる義をヴィパッサナー(洞察)とともに道(聖道)によって悟って。「惑いを捨てて」とは、それと同等に位置する煩悩とともに残らず惑い(無明)を捨てて。「卓越した境地を」とは、涅槃と呼ばれるもの、また阿羅漢果と呼ばれる卓越した境地を(得て)。「彼らに」とは、そのような教化されるべき者たちに。「勝義に基づいて」とは、「比丘たちよ、これら五つの根(信・精進・念・定・慧)がある」などと勝義の法に基づいて。残りは直前の理趣で説かれたのと全く同様である。「そこにおいて」とは、その世俗に基づく説法と勝義に基づく説法において。「諸国の言語に巧みな者」とは、様々な国の言葉に精通した者。「三ヴェーダの」とは例示にすぎず、三ヴェーダと技芸の書物の、という意味である。技芸の習得については後で述べるからである。あるいは技芸をヴェーダの内包として「三ヴェーダの」と説かれた。語られるべきものとして存在するのであって、どこかに蓄えられたものとして存在するのではない、とヴェーダでさえ語られるべきものとしてのみ存在することを示しつつ、「秘密の三ヴェーダが隠されて伝承される」という誤った主張を退ける。種々の諸国の言語が彼らにあることから「諸国の言語」という。

Paramo uttamo attho paramattho, dhammānaṃ yathābhūtasabhāvo. Lokasaṅketamattasiddhā sammuti. Yadi evaṃ kathaṃ sammutikathāya saccatātiāha **‘‘lokasammutikāraṇā’’**ti, lokasamaññaṃ nissāya pavattanato. Lokasamaññāya hi abhinivesena vinā ñāpanā ekaccassa sutassa sāvanā viya na musā anatidhāvitabbato tassā. Tenāha bhagavā ‘‘janapadaniruttiṃ nābhiniveseyya, samaññaṃ nātidhāveyyā’’ti (ma. ni. 3.332). Dhammānanti sabhāvadhammānaṃ. Bhūtakāraṇāti yathābhūtasabhāvaṃ nissāya pavattanato. Sammutiṃ voharantassāti ‘‘puggalo satto’’tiādinā lokasamaññaṃ kathentassa.

最上の、優れた義(意味・対象)が勝義であり、諸法の真実の自性である。世間の取り決めだけで成り立つのが世俗である。「もしそうなら、どうして世俗の言説に真実性があるのか」という点について「世間の世俗を原因とするから」と言った。世間の通称に基づいて行われるからである。実に、世間の通称に対して執着することなく知らせることは、ある者が聞いたことをそのまま聞かせるように、虚妄ではない。それを逸脱すべきではないからである。それゆえ世尊は「地方の言葉に執着してはならず、通称を逸脱してはならない」と説かれた。「諸法の」とは、自性法の。「真実を原因とするから」とは、真実の自性に基づいて行われるからである。「世俗を用いて語る者」とは、「人」「衆生」などと世間の通称を語る者のことである。

Hirottappadīpanatthanti lokapālanakicce hirottappadhamme kiccato pakāsetuṃ. Tesañhi kiccaṃ sattasantāneyeva pākaṭaṃ hotīti puggalādhiṭṭhānāya kathāya taṃ vattabbaṃ. Esa nayo sesesupi. Yasmiñhi cittuppāde kammaṃ uppannaṃ, taṃsantāne eva tassa phalassa uppatti kammassakatā. Evañhi kataviññāṇanāso akatāgamo vā natthīti sā puggalādhiṭṭhānāya eva kathāya dīpetabbā. Tehi sattehi kātabbā puññādikiriyā paccattapurisakāropi santānavasena nipphādetabbato puggalādhiṭṭhānāya eva kathāya dīpetabbo.

「慚と愧を示すために」とは、世間を守る働きを持つ慚と愧の法を、その働きから明らかにするためである。実にそれらの働きは衆生の心相続においてのみ明白となるので、人を主体とする言説によってそれが語られねばならない。この理趣は残りにおいても同様である。実に、いかなる心惹起において業が生じたのか、その心相続においてのみその果報が生じることが自業相続(業自乗性)である。このようにしてなされた識の消滅や、なされざるものの到来はないので、それは人を主体とする言説によってのみ示されるべきである。それらの衆生によってなされるべき功徳などの行為、各自の人間の営みもまた、心相続を通じて達成されるべきものであるから、人を主体とする言説によってのみ示されるべきである。

Ānantariyadīpanatthanti cutianantaraṃ phalaṃ anantaraṃ nāma, tasmiṃ anantare niyuttāni, tannibbattanena anantarakaraṇasīlāni, anantarapayojanāni vāti ānantariyāni, mātughātādīni, tesaṃ dīpanatthaṃ. Tānipi hi santānavasena nipphādetabbato ‘‘mātaraṃ jīvitā voropetī’’tiādinā (paṭṭhā. 1.1.423) puggalādhiṭṭhānāya eva kathāya dīpetabbāni, tathā ‘‘so mettāsahagatena cetasā ekaṃ disaṃ pharitvā viharatī’’tiādinā (dī. ni. 1.556; 3.308; ma. ni. 1.77; 2.309; 3.230; vibha. 642, 643) ‘‘so anekavihitaṃ pubbenivāsaṃ anussarati ekampi jāti’’ntiādinā (dī. ni. 1.244, 245; ma. ni. 1.148, 384, 431; pārā. 12) ‘‘atthi dakkhiṇā dāyakato visujjhati, no paṭiggāhakato’’tiādinā (ma. ni. 3.381) ca pavattā brahmavihārapubbenivāsadakkhiṇāvisuddhikathā puggalādhiṭṭhānāya eva kathāya dīpetabbā sattasantānavisayattā. ‘‘Aṭṭha purisapuggalā (saṃ. ni. 1.249), na samayavimutto puggalo’’tiādinā (pu. pa. 1) ca paramatthaṃ kathentopi lokasammutiyā appahānatthaṃ puggalakathaṃ kathesi. Etena vuttāvasesāya kathāya puggalādhiṭṭhānabhāve payojanaṃ sāmaññavasena saṅgahitanti daṭṭhabbaṃ. Kāmañcetaṃ sabbaṃ apariññātavatthukānaṃ vasena vuttaṃ, pariññātavatthukānampi pana evaṃ desanā sukhāvahā hoti.

「無間業を示すために」とは、死の直後の果報を「無間」と名づけ、その無間に決定されたもの、それを生じさせることによって直後に結果をもたらす性質のもの、あるいは直後の利益を持つものを無間業といい、母殺しなどのことであり、それらを示すためである。それらもまた心相続を通じて達成されるべきものであるから、「母の命を奪う」などと人を主体とする言説によってのみ示されるべきである。同様に「彼が慈しみを伴う心によって一方向を満たして住する」など、「彼は種々の過去の住処(前世)を一世でも想起する」など、「布施は施者によって清浄となるが、受者によっては清浄とならないことがある」などとして展開される四無量心、宿住随念、布施の清浄に関する言説は、衆生の心相続を対象とするため、人を主体とする言説によってのみ示されるべきである。「八つの人(補特伽羅)」「一時的解脱でない人」などと勝義を語る際にも、世間の世俗を捨てないために人を主体とする言説を語られた。これによって、説かれた以外の言説において、人を主体とする形態の有用性は概括的に包摂されたと見なされるべきである。確かにこれらすべては(法の)本質を完全には理解していない者たちを念頭に置いて説かれたものであるが、本質を完全に理解している者たちにとっても、このような説法は容易な理解をもたらすものである。

Mahājanoti lokiyamahājano. Na jānāti ghanavinibbhogābhāvena dhammakiccassa asallakkhaṇena. Tattha ‘‘kiṃ nāmetaṃ, kathaṃ nāmeta’’nti saṃsayapakkhandatāya sammohaṃ āpajjati. Viruddhābhinivesitāya paṭisattu hoti. Jānāti ciraparicitatthā vohārakathāya. Tato eva na sammohamāpajjati, na paṭisattu hoti.

「一般の人々」とは、世間の多くの人々である。「知らない」とは、塊の分解がないことによって、法の働きを観察しないことによってである。そこにおいて「これは何であろうか、これはどのようであろうか」と疑念に飛び込むことによって迷妄に陥る。相反する執着によって敵対者となる。「知る」とは、世俗の言説に久しく慣れ親しんでいるためである。それゆえに迷妄に陥らず、敵対者ともならない。

Nappajahanti vohāramukhena paramatthassa dīpanato. Samaññāgahaṇavasena lokena ñāyati samaññāyati voharīyatīti lokasamaññā, tāya lokasamaññāya. Tassa tassa atthassa vibhāvane lokena nicchitaṃ, niyataṃ vā vuccati voharīyatīti lokanirutti, tassaṃ lokaniruttiyaṃ. Tathā lokena abhilapīyatīti lokasamaññatāya lokābhilāpo, tasmiṃ lokābhilāpe ṭhitāyeva appahānato. Puggalavādino viya paramatthavasena aggahetvā.

「捨てない」とは、世俗の門口を通して勝義を明らかにするからである。通称を把握することによって世間において知られ、理解され、語られるものを「世間の通称」といい、その世間の通称によって(語る)。それぞれの意味を解明するにあたり、世間によって決定され、あるいは確定されて語られるものを「世間の語法」といい、その世間の語法において(語る)。同様に世間によって表現されるものを世間の通称ゆえに「世間の表現」といい、その世間の表現に留まって、決して捨てることなく(語る)。補特伽羅論者のように勝義として把握するのではない。

Santoti ettha santasaddo ‘‘dīghaṃ santassa yojana’’ntiādīsu (dha. pa. 70) kilantabhāve āgato, ‘‘ayañca vitakko ayañca vicāro santā honti samitā’’tiādīsu (vibha. 576) niruddhabhāve āgato, ‘‘adhigato kho myāyaṃ dhammo gambhīro duddaso duranubodho santo paṇīto’’tiādīsu (dī. ni. 2.67; ma. ni. 1.281; 2.337; saṃ. ni. 2.172; mahāva. 7) santañāṇagocaratāya, ‘‘upasantassa sadā satimato’’tiādīsu (udā. 27) kilesavūpasame, ‘‘santo have sabbhi pavedayantī’’tiādīsu (dha. pa. 15) sādhūsu, ‘‘pañcime, bhikkhave, mahācorā santo saṃvijjamānā’’tiādīsu (pārā. 195) atthibhāve, idhāpi atthibhāveyeva. So ca puggalasambandhena vuttattā lokasamaññāvasenāti dassento **‘‘lokasaṅketavasena atthī’’**ti āha. Atthīti cetaṃ nipātapadaṃ daṭṭhabbaṃ ‘‘atthi imasmiṃ kāye kesā’’tiādīsu (dī. ni. 2.373-374; ma. ni. 1.110; 3.154; a. ni. 6.29; 10.60) viya. Saṃvijjamānāti padassa atthaṃ dassento **‘‘upalabbhamānā’’**ti āha. Yañhi saṃvijjati, taṃ upalabbhatīti. Aṅganti etehi taṃsamaṅgipuggalā nihīnabhāvaṃ gacchantīti aṅgaṇāni, rāgādayo. Añjati makkhetīti aṅgaṇaṃ, malādi. Añjeti tattha ṭhitaṃ ahundaratāya abhibyañjetīti aṅgaṇaṃ, vivaṭo bhūmipadeso. Dosādīnaṃ pavattiākāravisesatāya nānappakārā bahulappavattiyā tibbakilesā. Pāpakānanti lāmakānaṃ. Akusalānanti akosallasambhūtānaṃ. Icchāvacarānanti icchāvasena pavattānaṃ. Saha aṅgaṇenāti aṅgaṇanti laddhanāmena yathāvuttakilesena saha vattati.

「存在する」という語において、「サンタ(santa)」という言葉は、「疲れた者にとって一ヨージャナは長い」などの箇所では疲弊した状態の意味で現れ、「この尋とこの伺は静まり、止む」などの箇所では止滅した状態の意味で現れ、「私によって覚知されたこの法は甚深であり、見がたく、覚知しがたく、静寂であり、卓越している」などの箇所では静寂な知恵の対象であるという意味で現れ、「常に念ある寂静の者にとって」などの箇所では煩悩の静寂の意味で現れ、「実に正しい人々(善士)は善き人々と語らう」などの箇所では善士の意味で現れ、「比丘たちよ、これら五種の大盗賊が存在している」などの箇所では存在の意味で現れ、ここでもまた存在の意味である。そしてそれは人と関連して説かれているため、世間の通称によるものであることを示しつつ、「世間の取り決めに基づいて存在する」と言った。「存在する」とは、「この身体には毛髪が存在する」などのように、不変化詞として見なされるべきである。「認められる」という語の意味を示して「見出される」と言った。実に存在するものは見出されるからである。「アンガ(穢れ・不純)」とは、これらによってそれを具足する人々が下劣な状態に陥るため「アンガナ(穢れ)」といい、貪欲などのことである。塗りつける、汚すという意味で「アンガナ(汚れ)」であり、垢などのことである。そこに留まる者を覆いがないことによって露わにするという意味で「アンガナ(広場)」であり、開けた土地のことである。怒りなどの活動様態の違いによって多様であり、頻繁な活動によって激しい煩悩である。「悪しき」とは、下劣なものの。「不善の」とは、不巧緻から生じたものの。「欲望の領域にある」とは、欲望の力によって生起したものの。「穢れを伴う」とは、穢れという名を得た上述の煩悩とともに活動する。

Atthītipi na jānāti tādisassa yonisomanasikārassa abhāvā. Yesaṃ kilesānaṃ atthitā, tesaṃ sappaṭibhayatā visesato jānitabbāti dassetuṃ **‘‘ime kilesā nāmā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha kakkhaḷāti pharusā. Vāḷāti kururā. Na gahitabbāti na uppādetabbā. Yāthāvasarasatoti yathābhūtasabhāvato. Evañcāti ‘‘ime kilesā nāmā’’tiādinā vuttappakārena. Yena vā tena vāti navakammesu vā pariyattidhutaṅgādīsu vā yena vā tena vā. Tatrāti niddhāraṇe bhummaṃ. Taṃ pana niddhāraṇaṃ saṅgaṇānaṅgaṇasamudāyatoti dassento **‘‘catūsu puggalesū’’**ti vatvā puna tadekadesato dassento **‘‘tesu vā dvīsu sāṅgaṇesū’’**ti āha. Tañhi dvayaṃ paṭhamaṃ hīnaseṭṭhabhāvena niddhārīyati paṭhamaṃ uddiṭṭhattā. Niddhāraṇañhi kvaci kutoci kenaci hotīti.

「存在することさえ知らない」とは、そのような如理作意(適切な思惟)がないためである。いかなる煩悩の存在であるか、それらの恐るべき危険性が特に知られるべきであることを示すために、「これらの煩悩というものは」等と説かれた。その中で「粗野な」とは、荒々しい。「獰猛な」とは、残忍な。「執持すべきでない」とは、生じさせるべきでない。「真実の自性から」とは、ありのままの自性から。「このように」とは、「これらの煩悩というものは」等と述べられた様態によって。「何であれ、どれであれ」とは、新たな建設作業においてであれ、経典学習や頭陀行などにおいてであれ、何であれどれであれ。「その中で」とは、選択(特定)における処格(地格)である。その選択は穢れある者と穢れなき者の集団からであることを示して「四種の人の中で」と述べて、さらにその一部から示すために「あるいはそれら二種の穢れある者の中で」と言った。実にその二種が最初に優劣として選択されるのは、最初に提示されたからである。選択はどこにおいてもあるものから何らかの点によってなされるからである。

58. Kiñcāpi aññattha ‘‘janako hetu, pariggāhato paccayo, asādhāraṇo hetu, sādhāraṇo paccayo, sabhāgo hetu, asabhāgo paccayo, pubbakāliko hetu, sahappavatto paccayo’’tiādinā hetupaccayā vibhajja vuccanti, idha pana ‘‘cattāro kho, bhikkhave, mahābhūtā hetū, cattāro mahābhūtā paccayā rūpakkhandhassa paññāpanāyā’’tiādīsu (ma. ni. 3.85) viya hetupaccayasaddā samānatthāti dassetuṃ ‘‘ubhayenapi kāraṇameva **pucchatī’’**ti vuttaṃ. Tattha ubhayenāti hetupaccayavacanadvayena. Pucchati āyasmā mahāmoggallāno desanaṃ vaḍḍhetukāmo. Kiñcāpīti anujānanasambhāvanatthe nipāto. Kiṃ anujānāti? Samānepi dvinnaṃ sāṅgaṇabhāve tassā pajānanāppajānanahetukataṃ tesaṃ seṭṭhahīnataṃ. Kiṃ sambhāveti? Therassa vicittapaṭibhānatāya nānāhetūpamāhi alaṅkatvā yathāpucchitassa atthassa pākaṭakaraṇaṃ. Tenāha **‘‘nappajānātī’’**tiādi. Hetu ceva paccayo ca seṭṭhahīnabhāve. Tathāakkhātabbatāpi hi tesaṃ tannimittā evāti.

58. 他の箇所では「原因となるものを因(ヘートゥ)、把握するものを縁(パッチャヤ)、特有のものを因、共通のものを縁、同類のものを因、不同類のものを縁、先行するものを因、同時生起するものを縁」などと因と縁が区別されて説かれるが、ここでは「比丘たちよ、四大種こそが色蘊を施設するための因であり、四大種が縁である」などのように、因と縁の語は同義であることを示すために、「双方によって理由そのものを尋ねている」と説かれた。そこにおいて「双方によって」とは、因と縁の二語によってである。尊者大目犍連(マハーモッガッラーナ)は説法を発展させようと望んで尋ねている。「たとい〜であっても」とは、承認と称賛の意味の小辞である。何を承認するのか? 二者が等しく穢れを持つ状態であっても、それを知ることと知らないことを原因として、それらの優劣があることを。何を称賛するのか? 長老の多彩な弁才によって種々の因果の譬喩で飾り立て、問われた通りの意味を明確にすることを。それゆえ「如実に知らず」等と言った。優劣の状態における因であり、また縁でもある。実にそれらがそのように説かれるべきであることも、まさにそれを理由としているからである。

59. Tanti tesaṃ dvinnaṃ puggalānaṃ hīnaseṭṭhatāya kāraṇaṃ. Opammehi pākaṭataraṃ katvā dassetuṃ. Etanti sutte anantaraṃ vuccamānaṃ vīriyārambhābhāvena aṅgaṇassa appahānaṃ. Tenāha **‘‘na chandaṃ…pe… sandhāyāhā’’**ti. Kattukamyatāchandhanti kattukamyatāsaṅkhātaṃ aṅgaṇassa pahātukamyatāvasena uppajjanakakusaladhammacchandaṃ. Na janessatīti na uppādessati. Kusalo vāyāmo nāma chandato balavāti āha **‘‘tato balavataraṃ vāyāmaṃ na karissatī’’**ti, chandampi anuppādento kathaṃ tajjaṃ vāyāmaṃ karissatīti adhippāyo. Thāmagatavīriyaṃ ussoḷhībhāvappattaṃ daḷhaṃ vīriyaṃ. Sāṅgaṇaggahaṇeneva aṅgaṇānaṃ kilesavatthutāya cittassa saṃkiliṭṭhatāya saddhāya puna saṃkiliṭṭhaggahaṇaṃ savisesaṃ kiliṭṭhabhāvavibhāvananti āha **‘‘suṭṭhutaraṃ kiliṭṭhacitto’’**ti. Malinacittotiādīsupi ‘‘tehiyevā’’ti ānetvā sambandhitabbaṃ. Ukkhalipucchanacoḷakassa viya vasāpītapilotikā viya ca dummocanīyabhāvena malaggahaṇaṃ malīnatā, pīḷanaṃ hiṃsanaṃ avipphārikatākaraṇaṃ vibādhanaṃ darathapariḷāhuppādanena paridahanaṃ upatāpanaṃ, kālanti kālanaṃ, yathāgahitassa attabhāvassa khepanaṃ āyukkhayanti attho. Karissatīti pavattessati, pāpuṇissatīti vuttaṃ hoti. Tathābhūto ca pāṇaṃ cajissati nāmāti āha **‘‘marissatī’’**ti.

59. 「それを」とは、それら二種の人の優劣の理由を。譬喩によってより明白にして示すために。「これを」とは、経において直後に説かれる精進の開始がないことによる穢れの不捨断を。それゆえ「意欲を…乃至…念頭に置いて言った」と言った。「作そうとする意欲」とは、作そうとする欲求と呼ばれる、穢れを捨て去りたいという欲求に基づいて生じるべき善法への意欲のことである。「生じさせないであろう」とは、生起させないであろう。善なる努力というものは意欲よりも強力であるため、「それよりも強力な努力をなさないであろう」と言った。意欲さえ生じさせないのに、どうしてそれに適した努力をなすであろうか、という意味である。「確固たる精進」とは、不屈の状態に達した堅固な精進である。「穢れを伴う」と取ること自体によって穢れが煩悩の事柄であるために心が汚れていることが信じられるが、重ねて「汚れた」と取るのは、格別に汚れた状態を明示するためであるので、「いっそう激しく汚れた心となって」と言った。「汚れある心となって」等の句においても「まさにそれらによって」と補って結合されるべきである。鍋を拭く布のようであり、また脂肪を吸ったぼろ布のように、離脱しがたい状態によって汚れが付着することが「汚れ」であり、圧迫すること、害すること、無力にすることが「損傷」であり、苦悩と熱悶を生じさせることによって焼き尽くすことが「熱苦」であり、「時を」とは死期を、受け取った生存の消費である寿命の尽きを意味する。「なすであろう」とは、進行させるであろう、達するであろう、と説かれたことになる。そしてそのようになった者は命を捨てることになるので、「死ぬであろう」と言った。

Seyyathāpīti upamānidassane nipāto. Tadatthaṃ dassento **‘‘yathā nāmā’’**ti āha. Paṃsuādināti ādi-saddena jallādīnaṃ saṅgaho, ghaṃsanādīhīti ādi-saddena chārikāparimajjanādīnaṃ saṅgahoti. ‘‘Abhirūpāya kaññā dātabbā’’tiādīsu viya antarenapi atisayatthabodhakasaddena atisayattho ñāyatīti āha **‘‘malaggahitatarāti vuttaṃ hotī’’**ti. Paṭipucchāvacananti anumatipucchāviseso. Evaṃ kariyamānāti aparibhoga-apariyodapanarajopathanikkhipanehi kiliṭṭhabhāvaṃ āpādiyamānā. Opammaṃ sampaṭipādentoti yathūpanītaṃ upamaṃ upameyyatthena samaṃ katvā paṭipādento, saṃsandentoti attho. Sāṅgaṇo puggaloti sāṅgaṇo tasmiṃ attabhāve asujjhanakapuggalo. Āpaṇādito kulagharaṃ ānītassa malaggahitakaṃsabhājanassa tattha laddhabbāya visuddhiyā alābhato yathā anukkamena saṃkiliṭṭhatarabhāvo, evaṃ gharato nikkhantassa puggalassa pabbajjāya laddhabbāya visuddhiyā alābhato anukkamena saṃkiliṭṭhatarabhāvoti dassento **‘‘saṃkiliṭṭhakaṃsapātiyā’’**tiādimāha. Saṃkiliṭṭhatarabhāvo ca nāma pabbajitassa ājīvavipattivasena vā siyā ācāradiṭṭhisīlavipattīsu aññataravasena vāti taṃ sabbaṃ saṅgahetvā dassetuṃ **‘‘tassa puggalassā’’**tiādi vuttaṃ. Pācittiyavītikkamanaggahaṇena hi ekaccadiṭṭhivipattiyāpi saṅgaho hotīti. Ettha ṭhitassāti etissaṃ ājīvavipattiyaṃ ṭhitassa. Iminā nayena sesesupi yathārahaṃ vattabbaṃ. Sabbaparisasādhāraṇā mahātherassa desanā, tasmā gahapativasenapi yojetabbaṃ. Tattha ukkaṃsagatasaṃkiliṭṭhatarabhāvaṃ dassento **‘‘mātughātādiānantariyakaraṇa’’**nti āha. Avisodhetvāti yathā attano sīle vā diṭṭhiyā vā visuddhi hoti, evaṃ kilesamalinacittasantānaṃ avisodhetvā.

「あたかも〜のように」とは、譬喩の例示における小辞である。その意味を示して「たとえば〜のように」と言った。「塵などによって」の「など」という言葉によって汗垢などの包摂であり、「擦るなどのことによって」の「など」という言葉によって灰で磨くことなどの包摂である。「美しい乙女を与えるべきである」などのように、特に程度を表す言葉がなくても最上級の意味が知られるので、「より汚れが付着したものと言ったことになる」と言った。「問い返す言葉」とは、同意を求める問いの特別な形式である。「このようにされるなら」とは、不使用、不清掃、塵埃の道への放置によって汚れた状態にされるなら。「譬喩を適合させつつ」とは、提示された譬喩を、譬えられる事柄の意味と等しくして適合させつつ、照らし合わせつつ、という意味である。「穢れある人」とは、穢れがあってその生存において清浄にならない人のことである。市場などから名門の家に持ち込まれた汚れの付いた青銅の鉢が、そこで得られるべき清浄を得られないことによって次第により汚れた状態になるように、出家した人が出家によって得られるべき清浄を得られないことによって次第により汚れた状態になることを示しつつ、「汚れた青銅の鉢の」等と言った。そして出家者のより汚れた状態とは、生計の衰退によるか、あるいは行儀・見解・戒の衰退のいずれかによるかであるため、それらすべてを包括して示すために「その人の」等と説かれた。実に波逸提(パーチッティヤ)の越境を挙げることによって、一部の見解の衰退も包摂されるからである。「そこに留まる者の」とは、この生計の衰退に留まる者の。この理趣によって残りにおいても相応に語られるべきである。大長老の説法はすべての会衆に共通するものであるから、在家信者の観点からも適用されるべきである。そこにおいて極限に達したより汚れた状態を示して「母殺しなどの無間業をなすこと」と言った。「清めることなく」とは、自らの戒において、あるいは見解において清浄があるように、そのように煩悩に汚れた心相続を清めることなく。

Bhabbapuggaloti upanissayādisampattiyā tasmiṃ attabhāve visuddhapuggalo. Ādiṃ katvāti iminā dhovanaghaṃsanādīhi pariyodapanaṃ ādimantaṃ katvā vadati. Suddhaṭṭhānaṃ yattha vā na rajena okirīyati. Daṇḍakammaṃ katvāti ‘‘ettakā udakā, vālukā vā ānetabbā’’ti daṇḍakammaṃ katvā. Ettha ṭhitassāti parisuddhe sīle ṭhitassa. Sammāvattapaṭipattisīlehi sīlavisuddhi dassitā. Vattapaṭipattiyāpi hi aṅgaṇānaṃ vikkhambhanaṃ siyā. Tathā hissā saṃkiliṭṭhakaṃsapātiyā parisuddhapariyodātabhāvo upamābhāvena vutto. Pantasenāsanavāso kilesavikkhambhanaṃ kilesānaṃ tadaṅganivāraṇaṃ. Sotāpattiphalādhigamo…pe… arahattasacchikiriyāti sattasupi ṭhānesu ‘‘parisuddhapariyodātabhāvo viyā’’ti padaṃ ānetvā sambandhitabbaṃ. Pabbajitassa hi visuddhi nāma heṭṭhimantena sīlavisuddhiyā vā siyā kammaṭṭhānānuyogavasena vivekavāsena jhānassādhigamena vā vipassanābhāvanāya vā sāmaññaphalādhigamena vāti.

「有能な人」とは、素質などの成就によってその生存において清浄となる人のことである。「初めとして」とは、これによって洗浄や摩擦などによる清掃を初めとして語っている。「清浄な場所」とは、あるいは塵で覆われない場所である。「罰則の作業をして」とは、「これほどの水、あるいは砂を運ぶべきである」と罰則の作業をして。「そこに留まる者の」とは、清浄な戒に留まる者の。正しい行儀と実践の戒によって戒の清浄が示された。行儀の実践によっても穢れの制圧があり得るからである。そのように、その汚れた青銅の鉢の清浄で輝かしい状態が譬喩として説かれた。辺境の離れた住処に住むことは煩悩の制圧であり、煩悩の一時的排除である。「預流果の体得…乃至…阿羅漢果の実証」とは、七つのすべての段階において「清浄で輝かしい状態のように」という句を補って結合されるべきである。実に出家者の清浄とは、最低限度としては戒の清浄によるか、あるいは瞑想主題への専念による遠離の住まいによってか、禅定の体得によってか、ヴィパッサナー修行によってか、あるいは沙門果の体得によってであるからである。

Rāgaṭṭhāniyanti rāguppattihetubhūtaṃ. Visabhāgārammaṇaṃ sandhāya vadati **‘‘iṭṭhārammaṇa’’**nti. Tasminti iṭṭhārammaṇe. Vipannassatīti muṭṭhassati. Taṃ nimittanti subhanimittaṃ. Āvajjissatīti ayoniso āvajjissati. Sayameva aññena avomisso. Kusalavārapacchindanameva cettha anuddhaṃsanaṃ daṭṭhabbaṃ. Sesanti ‘‘sāṅgaṇo saṃkiliṭṭhacitto’’tiādi. Vuttanayānusārenāti paṭhamavāre vuttanayānusārena. Sabbanti mātughātādiānantariyakaraṇapariyosānaṃ sabbaṃ upamāsaṃsandanavacanaṃ.

「貪欲の生じる場所」とは、貪欲の生起の原因となるもの。「異相の対象」を念頭に置いて「好ましい対象」と言う。「それにおいて」とは、好ましい対象において。「念を失った者」とは、念を忘失した者。「その相を」とは、浄相(美惑相)を。「思念するであろう」とは、如理ならざる作意で思念するであろう。「自ら」とは、他と混ざることなく。「善の機会を断ち切ることこそが、ここでは滅びと見なされるべきである。「残りは」とは、「穢れあり、汚れた心となって」等である。「説かれた理趣に従って」とは、初めの段階で説かれた理趣に従って。「すべてを」とは、母殺しなどの無間業をなすことを最後とするすべてを、譬喩に照合する言葉である。

Ativirahābhāvatoti satisammosābhāvato, upaṭṭhitassati bhāvatoti attho. Sesanti ‘‘so arāgo’’tiādi. ‘‘Dhovanaghaṃsanasaṇhachārikāparimajjanādīhī’’tiādinā dutiyavārānusārena. ‘‘Ko nu kho’’tiādi pucchāvasena āgataṃ, idaṃ nigamanavasenāti ayameva viseso.

「過度の離脱がないことから」とは、念の忘失がないことから、念が現起している状態であることから、という意味である。「残りは」とは、「彼は貪欲なく」等である。「洗浄、摩擦、細かな灰で磨くことなどによって」などと、二度目の段階に従って。「いったい誰が」等は問いの形式で現れたものであり、これは結びの形式である、とまさにこの差異だけである。

60. Aṅgaṇanti tattha tattha nāmato eva vibhāvitaṃ, na pana sabhāvato, pabhedato vāti sabhāvādito vibhāvanaṃ sandhāyāha **‘‘nānappakārato pākaṭaṃ kārāpetukāmenā’’**ti. Icchāya avacarānanti icchāvasena avacaraṇānaṃ. Otiṇṇānanti cittasantānaṃ anupaviṭṭhānaṃ. Te pana tattha paccayavasena nibbattattā pavattā nāma hontīti āha ‘‘pavattāna’’nti. Nānappakārānanti visayabhedena pavattiākārabhedena ca nānāvidhānaṃ. Yenakāraṇena. Na kevalaṃ lābhatthikatā eva, atha kho puññavantatā sakkatagarukatā ca ettha kāraṇabhāvena gahetabbāti dassento **‘‘pakatiyāpi cā’’**tiādimāha. Tena lābhatthikopi na yo koci evaṃ cittaṃ uppādeti puññavā sambhāvanīyoti dasseti. Therā avajjapaṭicchādanabhayena majjhimānaṃ ārocenti, tathā majjhimā navakānaṃ, navakā pana attano navakabhāvena vighāsādādīnaṃ ārocenti ‘‘passatha tumhākaṃ therassa kamma’’nti. Vighāsādādayo nāma ‘‘īdisassa santike ovādatthaṃ tumhe āgatā’’ti bhikkhunīnaṃ ārocenti. Na ca maṃ bhikkhū jāneyyunti na ca vata maṃ bhikkhū jāneyyuṃ, aho vata maṃ bhikkhū na jāneyyunti yojanā. Ṭhānaṃ kho panetanti ettha kho-saddo avadhāraṇattho, pana-saddo vacanālaṅkāroti āha **‘‘atthiyevā’’**ti. Pubbe icchuppādavāravaṇṇanāya vuttanayena. Iti-saddo idha āsannakāraṇatthoti taṃ dassento **‘‘iminā kāraṇenā’’**ti āha. Idañca kopaappaccayānameva gahaṇaṃ. Tādisānanti kopaappaccayādhibhūtānanti adhippāyo.

60. 「穢れ」とは、その所々で名前だけが明らかにされ、自性や分類からは明らかにされていないので、自性などからの解明を念頭に置いて「種々の様態から明白にさせようと望んで」と言った。「欲望の領域にあるもの」とは、欲望の力によって活動するもののことである。「入り込んだもの」とは、心相続に入り込んだもののことである。それらはそこにおいて条件に応じて生じるため「生起したもの」と呼ばれるので、「生起したものの」と言った。「種々の様態の」とは、対象の違いと活動様態の違いによる種々のものの。「いかなる理由によって」。「単に利養を求めることだけでなく、実に徳があること、尊敬され重んじられていることもここでは理由として取られるべきである」と示すために「生まれつきもまた」等と言った。これによって、利養を求める者であっても誰でもがこのように心を生じさせるのではなく、徳があり称賛されるべき者である、と示す。長老たちは過失の隠蔽を恐れて中座の比丘たちに告げ、同様に中座の比丘たちは新参の比丘たちに告げるが、新参の比丘たちは自らの新参の身分ゆえに給仕人たちに「見よ、あなた方の長老の行いを」と告げる。給仕人らは「このような者のもとにあなた方は教誡を求めて来たのか」と比丘尼たちに告げる。「そして比丘たちが私を知らないように」とは、実に比丘たちが私を知らないように、ああ、願わくは比丘たちが私を知らないように、と結合される。「このことはあり得ることである」という箇所において、「kho」という言葉は限定の意味であり、「pana」という言葉は語の装飾であるので、「まさに存在する」と言った。以前の欲求の生起の段の解説において説かれた理趣による。「iti」という言葉はここでは直接的な原因の意味であるため、それを示して「この理由によって」と言った。そしてこれは怒りと不快の把握にほかならない。「そのような者たちの」とは、怒りと不快に圧倒された者たちの、という意味である。

Anurahoti anurūpe rahasi. Evameva hi atthaṃ dassetuṃ **‘‘vihārapaccante’’**tiādi vuttaṃ. Purimasadisamevāti ‘‘lābhatthiko hī’’tiādinā vuttena purimena yojanānayena sadisameva.

「密かなところで」とは、相応しい秘密の場所で。まさにその通りの意味を示すために「精舎の片隅で」等と説かれた。「以前と同様である」とは、「利養を求める者はまことに」等と説かれた以前の解釈の理趣と同様である。

Codanāya paṭipuggalabhāvo, codanā ca āpattiyāti cuditakena codakassa samānabhāvo āpattiāpannatāyāti āha **‘‘samānoti sāpattiko’’**ti. Sappaṭipuggalenevassa codanicchāya kāraṇaṃ vibhāvetuṃ **‘‘aya’’**ntiādi vuttaṃ. Na cāyaṃ sāpattikatāya eva samānataṃ icchati, atha kho aññathāpīti dassento **‘‘apicā’’**tiādimāha. Aññena vā paṭipuggalena sappaṭipuggalo. Ayañhi ‘‘sappaṭipuggalova maṃ codeyyā’’ti icchati ‘‘evāhaṃ tassa paṭipuggalehi saddhiṃ ekajjhāsayo hutvā tassa upari kiñci vattuṃ kātuṃ vā labhissāmī’’ti maññamāno. Imasmiṃ pana pakkhe no appaṭipuggaloti natthi etassa paṭipuggaloti appaṭipuggaloti evamattho veditabbo.

糾問における対等な個人の状態、そして糾問は罪に関するものであるから、被糾問者と糾問者の同等な状態は罪を犯していることによるので、「同等な」とは「罪を犯している者」と言った。対等な相手によってのみ糾問されることを望む理由を解明するために「この者は」等と説かれた。そしてこの者は罪を犯していることにおいてのみ同等であることを望むのではなく、実に他の点においてもそうであると示すために「さらにまた」等と言った。あるいは他の点で対等な相手である。実にこの者は、「対等な相手こそが私を糾問してほしい。そうすれば私は彼の敵対者たちと意気投合して、彼に対して何か言ったり行ったりする機会を得るであろう」と考えつつ望むのである。しかしこの見解においては、「対等な相手なき者ではない」とは、彼に対等な相手がいないわけではない、とこのように意味が理解されるべきである。

‘‘Aho vatā’’ti idaṃ padaṃ dissatīti sambandho, imassa puggalassa icchācāre ṭhitattā bhikkhūnaṃ dhammaṃ deseyyāti vacanato **‘‘tañca kho anumatipucchāyā’’**ti vuttaṃ. Na hesa ‘‘saccaṃ kira tvaṃ bhikkhū’’tiādinā kiñci vītikkamaṃ uddissa bhagavatā pucchitabbataṃ icchati. No maggaṃ vā phalaṃ vā vipassanaṃ vā antaraṃ katvāti maggabhāvanaṃ vā phalasacchikiriyaṃ vā sikhāppattavipassanānuyogaṃ vā nirodhasamāpajjanaṃ vā jhānasamāpajjanameva vā antaraṃ kāraṇaṃ katvā bhagavatā attānaṃ paṭipucchitabbaṃ no icchati. Niccaṃ aniccantiādinā anumatiggahaṇavasena pucchitabbaṃ icchati, uttānameva katvā pucchitabbaṃ icchatīti attho. Upaharante passatīti sambandho. Abhabbaṭṭhānabhikkhutāya niharissanti sāsanato.

「ああ、願わくは」というこの句が見られる、と結合される。この人が欲望の振る舞いに留まっていることから、「比丘たちに法を説くように」という言葉から「そしてそれも同意の問いかけにおいて」と説かれた。実にこの者は、「比丘よ、お前が〜したのは真実か」などと何らかの違反について世尊から問われることを望むのではない。「道や果や洞察を挟むことなく」とは、道の修習や果の実証、あるいは頂点に達したヴィパッサナーへの専念、あるいは滅尽定への入定、あるいは禅定への入定そのものを介在する理由とすることなく、世尊から自分自身へ問い返されることを望むのではない。「常であるか無常であるか」などと同意を得る形式によって問われることを望み、明白にして問われることを望む、という意味である。「運ぶのを見る」と結合される。資格なき比丘であることから教団から追放するであろう。

Taṃ sampattinti parivārasampattiñceva bhikkhūhi kariyamānaṃ sakkāragarukārasampattiñca. Gahetvā paribhuñjanti mayā saṃvibhāge kariyamāne. Sayameva paññāyatīti sayameva gantvā bhikkhūnaṃ purato attānaṃ dasseti, purato vasantaṃ pana bhikkhu purakkhatvā gacchantiyevāti adhippāyo.

「その繁栄を」とは、従者の繁栄、ならびに比丘たちによってなされる尊敬と尊重の繁栄を。「受け取って享受する」とは、私によって分配がなされるときに。「自ら現れる」とは、自ら行って比丘たちの前に自らの姿を示すのであり、前に住む比丘を先頭にして進むのである、という意味である。

Dakkhiṇodakanti aggato upanīyamānaṃ dakkhiṇodakaṃ. Yato eva-kāro, tato aññattha niyamo icchito. Avadhāraṇatthaṃ vā eva-kāraggahaṇanti katvā ahameva labheyyanti ahaṃ labheyyamevāti evametaṃ avadhāraṇaṃ daṭṭhabbanti adhippāyenāha **‘‘ahameva labheyyanti icchā nātimahāsāvajjā’’**ti, aññathā yathārutavasena avadhāraṇe gayhamāne ‘‘na aññe labheyyu’’nti ayamevettha attho siyāti. Pāsādiko hotīti idaṃ tassa aggāsanādipaccāsīsanāya kāraṇadassanaṃ.

「洗手水を」とは、正面から差し出される洗手水を。「eva(まさに)」という言葉があるところから、それ以外の制限が意図される。あるいは限定の意味で「eva」を取るとして、「私だけが得るように」とは、「私は必ず得るように」とこのように限定が見られるべきであるという意図で、「『私だけが得るように』という欲求は過失が極めて大きいわけではない」と言った。そうでなければ、字義通りに限定を取る場合、「他の者は得ないように」というこれだけがここでの意味となってしまうであろう。「端正である」とは、これは彼の最上席などを期待する理由を示すものである。

Anumodananti maṅgalāmaṅgalesu anumodanāvasena pavattetabbadhammakathaṃ. Khaṇḍānumodananti anumodanekadesaṃ. ‘‘Pubbe anumoditapubbo anumodatū’’ti avatvā therena vuttamatteyeva.

「随喜を」とは、吉凶の場において随喜として説かれるべき法の説話のことである。「部分的な随喜を」とは、随喜の一部分のことである。「以前に随喜したことのある者が随喜せよ」と言わずに、長老が言っただけで。

Tādisesu ṭhānesūti tādisesu pesalānaṃ bahussutānaṃ vasanaṭṭhānesu. Sabbampi ratiṃ pavattanato sabbarattikāni. Vinicchayakusalānanti anekavihitesu kaṅkhaṭṭhāniyesu kaṅkhāvinayanāya taṃ taṃ pañhānaṃ vinicchaye kusalānaṃ chekānaṃ. Tesu tesu dhammakathikesu ajjhiṭṭhesu vārena dhammaṃ kathentesu ‘‘ayaṃ byatto’’ti dhammajjhesakena ajjhiṭṭhattā okāsaṃ alabhamāno.

「そのような場所において」とは、そのような戒を愛する博学の者たちが住む場所において。「夜通し行われることから」夜通しの集会。「判定に巧みな者たちの」とは、種々の疑念の生じる事柄において疑念を除くために、それらの問いの判定に巧みな者、熟練した者たちの。「それらの説法者たちが請われて順番に法を説く中で、『この者は有能である』と説法を請う者から請われたために、機会を得られないで」。

Sakkaccañca kareyyunti bhikkhū yaṃ mama abhivādanapaccuṭṭhānañjalikammasāmīcikammādiṃ karonti. Taṃ ādareneva kareyyuṃ, yañca me parikkhārajātaṃ paṭiyādenti, tampi sundaraṃ sammadeva abhisaṅkhataṃ kareyyunti attho. Bhāriyanti pāsāṇacchattaṃ viya garukātabbaṃ. Etaṃ vidhinti etaṃ ‘‘sakkareyyu’’ntiādinā vuttasakkārādividhiṃ. Tenāti tena kāraṇena, bāhusaccādiguṇavisesavato eva sakkārādīnaṃ arahattāti attho. Evarūpanti īdisaṃ ‘‘piyo garū’’tiādinā (a. ni. 7.37) vuttappakāraṃ. Evaṃ kareyyunti evaṃ ‘‘sakkareyyu’’ntiādinā vuttappakāraṃ sakkārādiṃ kareyyuṃ. Esa nayoti yoyaṃ bhikkhuvāre vuttavidhi, eseva nayo. Ito paresu bhikkhunīvārādīsu vāresu.

「恭しくなすように」とは、比丘たちが私のために行う礼拝、出迎え、合掌、敬礼などの礼法のことである。それを敬意をもってなすように、また私のために用意する必需品類も、それを美しく完全に整えてなすように、という意味である。「重い」とは、石の傘のように重んじられるべき。「この作法を」とは、この「敬うように」等と説かれた尊敬などの作法を。「それによって」とは、その理由によってであり、博学などの徳の卓越性を持つ者こそが尊敬などに値するからである、という意味である。「このような」とは、「親しまれ、重んじられ」などと説かれた通りの。「このように行うように」とは、このように「敬うように」等と説かれた通りの尊敬などを行うように。「この理趣」とは、比丘の段で説かれたこの作法、この理趣のことである。これ以降の比丘尼の段などの諸段においても。

Ahameva lābhī assanti etthāpi heṭṭhā vuttanayeneva avadhāraṇaṃ gahetabbaṃ. Piṇḍapātassa paṇītatā upasecanādivasenāti āha **‘‘sappitelamadhusakkharādipūritāna’’**nti. Mañcapīṭhādīnanti nidassanamattaṃ utusappāyānaṃ nivātānaṃ phassitatalānaṃ pihitadvārakavāḷavātapānādīnampi paṇītasenāsanabhāvato. Ādi-saddena vā tesampi gahaṇaṃ daṭṭhabbaṃ. Sabbatthāpīti sabbesu tesu catūsupi paccayavāresu.

「私だけが得る者となるように」というここにおいても、前述の理趣によって限定が取られるべきである。托鉢の食の美味さは副食物などによることから、「生バター、油、蜂蜜、糖蜜などで満たされたものの」と言った。「寝椅子や腰掛けなどの」とは例示にすぎず、季節に適し、風がなく、床が平らで、扉や窓が閉じられるものなども上等な居所であるからである。あるいは「など」という言葉によってそれらも包摂されると見なされるべきである。「すべてにおいても」とは、これら四つの必需品のすべての段においても。

61. Kāyakammaṃ disvāti idaṃ na kāyakammaṃ cakkhuviññeyyaṃ, kāyakammunā pana saha pavattaṃ oṭṭhaparipphandanaṃ bhākuṭikaraṇaṃ kāyaṅgādidassanaṃ kāyakammadassanaṃ viya hotīti katvā vuttaṃ. Vacīkammaṃ sutvāti etthāpi eseva nayo, tasmā kāyavikārajanakā dhammā ‘‘dissantī’’ti vuttā, vacīvikārajanakā ‘‘sūyantī’’ti. Tato eva ca te paccakkhakāle sammukhakāle dissanti nāma. Tirokkhakāle asammukhakāle sūyanti nāma. Anurūpato gahaṇaṃ anuggaho. Āraññikattanti tassa bhikkhuno dhutaguṇattānurūpato gaṇhāti. Tenāha **‘‘āraññikattaṃ anuggaṇhātī’’**ti. Araññe nivāso assāti āraññiko. Pantaṃ pariyantaṃ dūrataraṃ senāsanaṃ assāti pantasenāsano. Taṃ pana atthamattena dassentena **‘‘pantasenāsane vasatī’’**ti vuttaṃ. Bhikkhāsaṅkhātānaṃ piṇḍānaṃ pāto piṇḍāpāto, taṃ piṇḍapātaṃ uñchati gavesatīti piṇḍapātiko. Piṇḍāya patituṃ carituṃ vatametassāti vā piṇḍapāti, so eva piṇḍapātiko. Dānato avakhaṇḍanato apetaṃ apadānaṃ, saha apadānena sapadānaṃ, anavakhaṇḍanaṃ. Anugharaṃ caraṇasīlo sapadānacārī. Unnatabhāvena paṃsukūlaṃ viya paṃsukūlaṃ, paṃsu viya vā kucchitabhāvaṃ ulati gacchatīti paṃsukūlaṃ, tassa dhāraṇaṃ idha paṃsukūlaṃ, taṃ sīlamassāti paṃsukūliko.

「身の行いを見て」とは、これは眼で認識される身の行いそのものではなく、身の行いに伴って生じる唇の震えや不機嫌な顔つき、身体の身振りなどを見るのが、身の行いを見るかのようであることから言われた。「言葉の行いを聞いて」とは、ここにおいてもこの理趣である。それゆえ身の変異を生じさせる諸法は「見られる」と説かれ、言葉の変異を生じさせるものは「聞かれる」と説かれた。まさにそれゆえにそれらは目前の時、対面の時には「見られる」と呼ばれ、背後の時、非対面の時には「聞かれる」と呼ばれる。相応に把握することが「賞賛」である。「森林住居者であることを」とは、その比丘の頭陀行の徳に相応して把握する。それゆえ「森林住居者であることを賞賛する」と言った。森林に住まいがある者ゆえに「森林住居者」である。人里離れた、限界の、より遠い居所がある者ゆえに「辺境離居者」である。それを意味だけで示して「人里離れた居所に住む」と言った。乞食と呼ばれる団食(食物)の施与が「托鉢食」であり、その托鉢食を拾い集め、探し求めるゆえに「托鉢者」である。あるいは団食のために進み出て歩くことがその人の誓戒であるゆえに「托鉢者」であり、それそのものが「托鉢者」である。布施から、あるいは取り分けから離れたものが「無差別」であり、無差別を伴うものが「無差別行(順次乞食)」、選り好みしないことである。家ごとに順に歩く習性のある者が「順次乞食者」である。隆起した状態によって塵の山のようなものが「糞掃衣」であり、あるいは塵のように卑しい状態に達するものが「糞掃衣」であり、それを着ることがここでは糞掃衣であり、それが習性である者ゆえに「糞掃衣を着る者」である。

Tīhi kāraṇehi lūkhaṃ veditabbaṃ agghaphassavaṇṇaparihānito apaṃsukūlampi, ko pana vādo paṃsukūlanti adhippāyo. Thūladīghasuttakenāti thūlena olambamānena dīghasuttakena. Vaṇṇenāti ettha phassenapi parihāyatīti vattabbaṃ. Tañhi tattha kharaphassampi hotiyevāti. Kasmā pana pāḷiyaṃ āraññikādiggahaṇena cattārova dhutaguṇā vuttāti? Padhānattā, taggahaṇeneva ca ito paresampi sukhaparibhogatāya gahaṇasambhavato. Yo hi āraññiko pantasenāsano, tassa abbhokāsika-rukkhamūlika-nesajjika-yathāsanthatika-sosānikaṅgāni suparipūrāni. Yo ca piṇḍapātiko sapadānacārī ca, tassa pattapiṇḍikakhalupacchābhattikaekāsanikaṅgāni. Yo pana paṃsukūliko, tassa tecīvarikaṅgaṃ supariharamevāti. Padhānattā hi bhagavatāpi ‘‘kadāhaṃ nandaṃ passeyyaṃ, āraññaṃ paṃsukūlika’’ntiādinā (saṃ. ni. 2.242; netti. 100) tattha tattha āraññikādayo eva gayhanti. Ettakāti pāḷiyaṃ āgatānaṃ paricchijja gahaṇametaṃ, na ettakā sabbepi ekassa ekaṃsato sambhavanti, nāpi ettakāyeva pāpadhammā pahātabbā. Na hi makkhapaḷāsādīnaṃ appahīnabhāvepi sabrahmacārī neva sakkaronti…pe… na pūjentīti.

三つの理由によって粗末なものと知られるべきである。価値、肌触り、色の劣化によって糞掃衣でないものでさえそうであるなら、糞掃衣については言うまでもない、という意図である。「太く長い糸によって」とは、太く垂れ下がった長い糸によって。「色によって」とは、ここでは肌触りによっても劣化する、と語られるべきである。実にそこでは粗い肌触りでもあるからである。「しかしなぜパーリ本文では森林住居者などの把握によって四つだけの頭陀行が説かれたのか?」 主要であるからであり、それらを把握することによって、これら以外のものも容易に実践できるものとして把握することが可能だからである。実に森林に住み辺境離居の者には、露地住、樹下住、常坐不臥、随処住、塚間住の頭陀行が完全に満たされる。托鉢者であり順次乞食の者には、一鉢食、後食拒逆、一座食の頭陀行が満たされる。糞掃衣を着る者には、三衣所持の頭陀行が極めてよく守られるからである。主要であることから世尊によっても「いつの日か私がナンダイ(比丘)を見ることができようか、森林に住み糞掃衣を着る者を」などと、その所々で森林住居者などだけが挙げられるのである。「これほど」とは、パーリ本文に現れたものを限定して把握したものであり、これらすべてが一人の人に決定的に存在するわけではなく、またこれらだけが悪法として捨断されるべきなのでもない。実に物惜しみや張り合いなどが捨断されていない状態であっても、同朋の修行者たちは決して敬わず…乃至…供養しないからである。

Tamatthanti ‘‘yassa kassacī’’tiādinā vuttamatthaṃ. Upamāya pākaṭaṃ karontoti anvayato byatirekato ca udāharaṇena vibhāvento. Ahikuṇapādīnaṃ atipaṭikūlajigucchanīyatā ativiya duggandhatāya. Sā ca ahīnaṃ tikhiṇakopatāya, kukkuramanussānaṃ odanakummāsūpacayatāya sarīrassa hotīti vadanti. Imesanti ahiādīnaṃ. Vaḍḍhetvāti uparūpari khipanena racitaṃ katvā. Taṃ pana vaḍḍhitaṃ tena ca bhājanaṃ pūritaṃ hotīti āha **‘‘vaḍḍhetvā paripūretvā’’**ti. Janassa dassanayogyaṃ dassanīyaṃ jaññaṃ, taṃ paramaparisuddhaṃ manoharañca hotīti āha **‘‘cokkhacokkha’’**nti. Abhinavaniviṭṭhā mahāmātā vadhukā. Sā pana puttalābhayogyataṃ upādāya maṅgalavacanena ‘‘janī’’ti vuccati, tassā niyyamānaṃ paṇṇākāraṃ janiyā haratīti jaññaṃ. Ubhayatthāti atthadvaye. Punaruttanti āmeḍitavacanamāha. Na manāpaṃ etassāti amanāpo, tassa bhāvo amanāpatā, tathāpavatto cittuppādoti āha **‘‘amanāpaṃ idanti…pe… adhivacana’’**nti. Buddhavesattā liṅgassa parisuddhakaṃsapātisadisakā. Kuṇaparacanaṃ viya icchāvacarehi santānassa bharitabhāvo. So pana tesaṃ appahīnatāyāti āha **‘‘icchāvacarānaṃ appahāna’’**nti.

「その意味を」とは、「誰であれ」等と説かれた意味を。「譬喩によって明白にしつつ」とは、順境と逆境からの実例によって解明しつつ。蛇の死骸などの極度の嫌悪感と忌避感は、極めて強い悪臭によるものである。そしてそれは蛇にとっては激しい毒の怒りによるものであり、犬や人間にとっては飯や雑穀粥で肥育された身体によるものである、と言う。「これらを」とは、蛇などの死骸を。「盛り上げて」とは、上に積み重ねることによって配置して。「そしてそれは盛り上げられ、それによって器が満たされる」ことから「盛り上げて満たして」と言った。人々が見るにふさわしい、見事な、めでたいものは、極めて清浄で魅力的であることから「極めて清浄な」と言った。新たに嫁いできた若い花嫁のことである。彼女は息子を得る資格に基づき、吉祥の言葉で「ジャニー(母となる者)」と呼ばれ、彼女に運ばれる贈り物を花嫁のために運ぶゆえに「婚姻の贈り物」という。「両方の意味において」とは、二つの意味において。「重複」とは、繰り返された言葉を言う。「彼にとって快くないもの」が「不快」であり、その状態が不快性であり、そのように生起した心惹起であることから「『不快なこれ』とは…乃至…同義語である」と言った。仏の姿をしていることから、その相貌は清浄な青銅の鉢のようである。死骸の配置のようであるのは、欲望の領域にあるものによって心相続が満たされている状態である。そしてそれはそれらが捨断されていないことによるので、「欲望の領域にあるものの不捨断」と言った。

62. ‘‘Tena gāmantavihāraṃ anuggaṇhātī’’ti vattabbe **‘‘āraññikatta’’**nti pana potthake likhitaṃ. Na hi sukkapakkhe pāḷiyaṃ āraññikaggahaṇaṃ atthi, sati ca icchāvacarappahāne gāmantavihāro ekantena na paṭikkhipitabbo, icchitabbova tādisānaṃ uttarimanussadhammapaṭicchādanato. Tathā hi vakkhati **‘‘appicchatāsamuṭṭhānehī’’**tiādi. Sālivarabhattaracanaṃ viya icchāvacarappahānaṃ manuññabhāvato tittihetuto ca.

62. 「それによって村落の住居を賞賛する」と語られるべきところを、写本には「森林住居者であることを」と書かれている。実に清浄な側(白法)においては、パーリ本文に森林住居者の把握はない。欲望の領域にあるものの捨断があるときには、村落の住居は決して退けられるべきではなく、そのような者たちの上人法(卓越した境地)を隠蔽するためにまさに望まれるべきだからである。実に「少欲から生じるものによって」等と後に述べる通りである。上質なサーリ米の飯の配置のようであるのは、欲望の領域にあるものの捨断が喜ばしいものであり満足の原因であるからである。

63. Maṃ tanti ca upayogavacanaṃ paṭi-saddayogena, attho pana sampadānamevāti āha **‘‘mayhaṃ tuyha’’**nti ca. **‘‘Samaye’’**ti bhummatthe ‘‘samaya’’nti upayogavacanaṃ. Gijjhakūṭapaṇḍavaisigilivebhāravepullapabbatānaṃ vasena samantato giriparikkhepena. Rājagaheti samīpatthe bhummavacananti āha **‘‘taṃ nissāya viharāmī’’**ti.

63. 「私を」「彼を」という対格の言葉は、「pati(対して)」という語との結合によるが、意味は為格(与格)にほかならないので「私に」「あなたに」と言った。「時に(samaye)」という処格の意味において「時を(samayaṃ)」という対格の言葉が使われている。霊鷲山、パアンダヴァ山、ヴェーシギラ山、ヴェーバーラ山、ヴィプルラ山によって周囲を山で取り囲まれていることによる。「王舎城において」とは、近接の意味の処格の言葉であることから「そこに依拠して住んでいる」と言った。

Purāṇayānakāraputtoti purāṇe pabbajitato pubbe yānakāraputto tathāpaññāto. Jimhanti gomuttakuṭilaṃ. Tenāha **‘‘sappagatamaggasadisa’’**nti. Soti paṇḍuputto. Itaroti samiti. Cintitaṭṭhānamevāti cintitacintitaṭṭhānameva tacchati, tañca kho na tassa cittānusārena, atha kho attano suttānusārena tacchanto yānakāraputto. Cittanti attano cittena mama cittaṃ jānitvā viya.

「かつての車大工の息子」とは、昔、出家する以前に車大工の息子としてそのように知られていた者のことである。「曲がった」とは、牛の尿のように曲がりくねった。それゆえ「蛇の進む道のような」と言った。「彼」とはパンドゥの息子。「もう一方」とはサミティ。「意図した箇所だけを」とは、意図し思念した箇所だけを削るのであり、それも彼の心に従ってではなく、実に自らの墨縄に従って削る車大工の息子である。「心を」とは、自らの心で私の心を知ったかのようである。

‘‘Na saddhāya pabbajito’’ti imināva kammaphalasaddhāya abhāvo nesaṃ pakāsitoti āha **‘‘assaddhāti buddhadhammasaṅghesu saddhāvirahitā’’**ti. Pabbajitānaṃ jīvikā attho etesanti jīvikatthā. Tenāha **‘‘iṇabhayādīhī’’**tiādi. Kerāṭikaṃ vuccati sāṭheyyaṃ. Saṭhānaṃ guṇavāṇijakānaṃ kammaṃ sāṭheyyanti āha **‘‘sāṭheyyañhī’’**tiādi. Tucchasabhāvena māno naḷo viyāti naḷo, mānasaṅkhāto uggato naḷo etesanti unnaḷā. Tenāha **‘‘uṭṭhitatucchamānā’’**ti. Lahukatāya vā capalā. Pharusavacanatāya kharavacanā. Tiracchānakathābahulatāya niratthakavacanapalāpino. Asaṃvutakammadvārāti idaṃ kammadvārādīnaṃ asaṃvutabhāvo uppattidvārānaṃ asaṃvutatāya eva hotīti katvā vuttaṃ. Atha vā chasu indriyesūti nimitte bhummaṃ, chasu indriyesu nimittabhūtesu asaṃvutakammadvārāti attho. Yā mattāti bhojane ayuttapariyesana-ayuttapaṭiggahaṇa-ayuttaparibhoge vajjetvā yuttapariyesana-yuttapaṭiggahaṇa-yuttaparibhogasaṅkhātā yā mattā appamattehi jānitabbā. Tenāha **‘‘yuttatā’’**ti. Jāgareti rattindivaṃ āvaraṇiyehi dhammehi cittaparisodhanasaṅkhāte jāgare. Tesaṃ jāgaritāya adhisīlasikkhāya gāravarahitānaṃ itarasikkhāsu patiṭṭhā eva natthīti dassento **‘‘sikkhāpadesu bahulagāravā na hontī’’**ti vatvā tameva gāravābhāvaṃ sarūpena vibhāvento **‘‘āpattivītikkamabahulā’’**ti āha.

「信仰によって出家したのではない」ということによって、彼らの業報への信仰の欠如が明らかにされているので、「不信仰者とは、仏・法・僧への信仰を離れた者たち」と言った。出家者の生計が彼らの目的であるゆえに「生計目的の者」である。それゆえ「借金の恐怖などによって」等と言った。「不実」とは、狡猾(詐欺)と呼ばれる。徳を商売にする狡猾な者たちの行為が狡猾であることから「狡猾さはまことに」等と言った。中身がない性質によって高慢は葦のようであるから「葦(ナラ)」といい、高慢と呼ばれる葦が高く伸びた者たちゆえに「驕慢な者(ウンナラ)」である。それゆえ「立ち上がった空虚な高慢を持つ者」と言った。あるいは軽薄さゆえに「軽薄な者」。荒々しい言葉を使うことから「粗暴な言葉の者」。無益な世間話が多いことから「無益な雑談を語る者」。「身と口の業の扉が守られていない者」とは、業の扉などの不防護は、生起の扉(六根)の不防護によってこそ生じることから言われた。あるいは「六つの感官において」とは原因における処格であり、原因となった六つの感官において業の扉が守られていない者、という意味である。「いかなる分量」とは、食事において不適切な探求、不適切な受納、不適切な享受を避けて、適切な探求、適切な受納、適切な享受と呼ばれる、放逸ならざる者たちによって知られるべき分量のことである。それゆえ「適切さ」と言った。「覚醒において」とは、昼夜にわたり(心の)障害となる法から心を清めることと呼ばれる覚醒において。それらの覚醒した、増上戒の学処への敬意を欠く者たちには、他の学処への確立など全くあり得ないことを示して「学処に対して多くの敬意を持つ者ではない」と述べて、その敬意の欠如そのものを具体的に解明して「罪の越境が多い者」と言った。

Pakatiyāpi siddhāya ratanattayasaddhāya kammaphalasaddhāya ca saddhā. Pivanti maññe yathā taṃ dravabhūtaṃ amataṃ laddhā. Ghasanti maññe yathā taṃ bahalapiṇḍikasudhābhojanaṃ laddhā. Attamanavācaṃ nicchārentā ‘‘sādhu sādhū’’ti. Tameva pana sādhukāraṃ hadaye ṭhapetvā abbhanumodantā. Ettha ca attamanavācānicchāraṇaṃ pivanasadisaṃ katvā vuttaṃ bahiddhābhāvato, manasā abbhanumodanaṃ pana abbhantarabhāvato ghasanasadisaṃ vuttaṃ. Saṅkhādanajjhoharaṇañhi ghasananti. Rassañca ekavacanaṃ hotīti āha **‘‘rasse sati sāriputtassa upari hotī’’**ti. Dīghañca bahuvacanaṃ hotīti āha **‘‘dīghe sati sabrahmacārīna’’**nti. ‘‘Upari hotī’’ti ānetvā sambandho. Ālasiyabyasanādīhīti ālasiyena vā ñātibyasanādīhi vā. **‘‘Mahānāgāti vuccantī’’**ti vatvā tattha kāraṇaṃ vibhāvento **‘‘tatrā’’**tiādimāha. Tattha ‘‘na gacchantīti nāgā, na āgacchantīti nāgā, na āguṃ karontīti nāgā’’ti yo vividho vacanattho icchito, taṃ vicāretvā dassetuṃ **‘‘chandādīhī’’**tiādi vuttaṃ, taṃ pana ñeyyāvabodhāya vacanato appamattakāraṇaṃ.

生まれつき成就している三宝への信仰と業報への信仰によって「信仰ある者」である。あたかも流動体となった不死(甘露)を得て飲むかのように思う。あたかも濃厚な固まりの天上の甘露食を得て貪り食うかのように思う。「素晴らしい、素晴らしい」と満足した言葉を発しながら。しかしその称賛の言葉を心の中に留めて深く随喜しながら。そしてここでは、満足した言葉を発することは外部にあることから飲むことに例えて説かれ、心で深く随喜することは内部にあることから貪り食うことに例えて説かれた。実に噛み砕いて飲み込むことが貪り食うことである。「短母音であり単数である」ことから「短母音であるときはサーリプッタの上にある」と言った。「長母音であり複数である」ことから「長母音であるときは同朋の修行者たちの上にある」と言った。「上にある」と補って結合される。「怠惰や災難などによって」とは、怠惰によって、あるいは親族の災難などによって。「偉大なる龍(大徳)と呼ばれる」と述べて、そこでの理由を解明しつつ「そこにおいて」等と言った。そこにおいて「進み行かない(悪に行かない)ゆえに龍(ナーガ)であり、再び来ない(迷いに戻らない)ゆえに龍であり、罪を犯さないゆえに龍である」という種々の字義が意図されるが、それを考察して示すために「愛欲などによって」等と説かれた。しかしそれは知るべきことを理解させるための言葉であるから、些細な理由にすぎない。

Sayameva āguṃ na karoti sabbathā maggena pahīnaāguttā. So kāmayogādike sabbasaṃyoge dasavidhasaṃyojanappabhedāni ca sabbabandhanāni visajja jahitvā sabbattha yakkhādīsu, sabbesu vā bhavesu kenaci saṅgena na sajjati tīhi ca vimuttīhi vimutto, tato eva iṭṭhādīsu tādibhāvappattiyā tādi, so vuttalakkhaṇena tathattā taṃsabhāvattā nāgo pavuccateti attho veditabbo. Tenāha **‘‘evamettha attho veditabbo’’**ti. Aññehi khīṇāsavanāgehi aggasāvakattā guṇavisesayogato pujjatarā ca pāsaṃsatarā ca. Samaṃ anumodisunti aññamaññassa subhāsitato sampaṭicchanena samappavattamodatāya samaṃ sadisaṃ abbhanumodiṃsu. Taṃ pana samanumodanaṃ **‘‘tatthā’’**tiādinā pāḷivaseneva dasseti.

自ら罪を犯さない。道(無漏の道)によって罪をことごとく断じているからである。彼は欲の軛などのすべての軛、十種の結び目などのあらゆる束縛を捨てて離れ、いかなる処においても、夜叉などのもとでも、あるいはすべての生存においても、いかなる執着によっても執着せず、三つの解脱によって解脱している。それゆえに、好ましいものなどに対しても如き状態(平常心)を得ているがゆえに「如き者(ターディー)」である。彼は説かれた特徴によって真実のありようを持ち、その性質をそなえているがゆえに「龍(ナーガ)」と呼ばれる、と意味を知るべきである。それゆえに「このようにここで意味を知るべきである」と言われた。他の漏尽者たる龍たちよりも、筆頭の弟子であることによって、卓越した徳が具わっているがゆえに、より供養されるべきであり、より称賛されるべきである。「等しく随喜した」とは、互いの善説を受け入れることによって等しく生じた歓喜により、等しく同様に随喜したということである。その随喜を「そこにおいて」などと聖典の言葉に従って示している。

Sammutiparamatthadesanākathāvaṇṇanā niṭṭhitā.

世俗・勝義の説示についての解釈を終わる。

Anaṅgaṇasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

無穢経の注釈に対する隠れたる意味の解明を完了する。

6. Ākaṅkheyyasuttavaṇṇanā

6. 願経の注釈

64. Sampannanti paripuṇṇaṃ, samantato pannaṃ pattanti sampannaṃ. Tenāha **‘‘idaṃ paripuṇṇasampannaṃ nāmā’’**ti. Nanti ‘‘suvā’’ti vuttaṃ suvagaṇaṃ. Sampannoti sammadeva panno gato upagato. Tenāha **‘‘samannāgato’’**ti. Sampannanti sampattiyuttaṃ. Sā panettha rasasampatti adhippetā sāmaññajotanāya visese avaṭṭhānato. Tenāha **‘‘seyyathāpi khuddamadhuṃ aneḷaka’’**nti, niddosanti attho. Tena vuttaṃ **‘‘idaṃ madhurasampannaṃ nāmā’’**ti. Sīlassa anavasesasamādānena akhaṇḍādibhāvāpattiyā ca paripuṇṇasīlā. Samādānato paṭṭhāya acchindanato sīlasamaṅgino. Samādānato hi accantavirodhidhammānuppattiyā sīlasamaṅgitā veditabbā, cetanādīnaṃ pana sīlanalakkhaṇānaṃ dhammānaṃ pavattikkhaṇe vattabbameva natthi. Visuddhimagge (visuddhi. 1.9) vuttā, tasmā tattha vuttanayeneva vitthārakathā veditabbāti adhippāyo.

64. 「具足せる」とは、円満なること、あまねく至り得られたものが具足である。それゆえに「これは円満具足と呼ばれる」と言われた。「彼を」とは、「オウム」と説かれたオウムの群れを指す。「具足せる者」とは、正しく至り、行き、近づいた者である。それゆえに「具備せる者」と言われた。「具足」とは具備を伴うことである。しかしここでの具足は味の具足が意図されている。共通の表現を示しつつ特殊な意味に留まるからである。それゆえに「たとえば小蜜が純粋であるように」と言われた。無過失であるという意味である。それゆえに「これは甘味具足と呼ばれる」と言われた。戒を余すところなく受持することによって、また欠損などのない状態に達することによって円満なる戒を有する者たちである。受持した時から断絶することがないゆえに、戒を具備せる者たちである。受持した時から極めて対立する法が生じないことによって、戒の具備と知るべきである。思などの戒の特徴をもつ諸法が生起している瞬間については、言うまでもない。『清浄道論』(Visuddhimagga 1.9)で説かれたので、そこで説かれた方法によって詳細な解説を知るべきであるというのが意図である。

Khettapāripūrīti nissitapāripūriyā nissayapāripūrimāha nissitakammavipattisampattivisayattā yathā ‘‘mañcā ukkuṭṭhiṃ karontī’’ti. Tathā hi khettena khaṇḍapūtiādidoso vutto. Khettaṃ khaṇḍaṃ hotīti aparipūraṃ hoti sassapāripūriyā abhāvato. Tenevāha **‘‘sassaṃ na uṭṭhetī’’**ti. Pādamattassapi anekambaṇaphalanato mahapphalaṃ hoti. Kisalayapalālādibahutāya mahānisaṃsaṃ. Evamevanti yathā khittaṃ bījaṃ khaṇḍādicatudosavasena aparipuṇṇaṃ hoti, tadabhāvena ca paripuṇṇaṃ, evaṃ sīlaṃ khaṇḍādicatudosavasena aparipuṇṇaṃ hoti, tadabhāvena ca paripuṇṇanti, catudosatadabhāvasāmaññameva nidassananidassitabbavipattisampattīsu dasseti. Mahapphalaṃ hoti vipākaphalena. Mahānisaṃsanti vipulānisaṃsaṃ. Svāyaṃ ānisaṃso idha pāḷiyaṃ nānappakārena vitthārīyati.

「田地の円満」とは、依止するものの円満によって依止されるものの円満を説いたものである。依止するもの(業)の不首尾や成就を対象とするからであり、たとえば「寝床が歓声を上げる」と言うがごとしである。実にそれゆえに、田地によって欠損や腐敗などの過失が説かれた。「田地が損なわれている」とは、作物の円満がないことによって円満でないことである。それゆえに「作物が育たない」と言われた。わずか一足(パーダ)の田地であっても、多くのアンバナの果実をもたらすがゆえに大果である。若芽や藁などが多いがゆえに大功徳である。「このように」とは、蒔かれた種が欠損などの四つの過失によって円満でなくなり、それらの欠如によって円満となるように、戒も欠損などの四つの過失によって円満でなくなり、それらの欠如によって円満となるという、四つの過失とその欠如の共通性のみを、譬喩と譬喩されるものの不首尾と成就において示している。「大果となる」とは、異熟の果による。「大功徳」とは、広大な功徳のことである。その功徳は、ここ聖典において様々な仕方で詳述されている。

Ettāvatā kirāti (a. ni. ṭī. 2.2.37; a. ni. ṭī. 3.10.71-74) kira-saddo arucisūcanattho. Tenettha ācariyavādassa attano aruccanabhāvaṃ dīpeti. Sampannasīlāti anāmaṭṭhavisesaṃ sāmaññato sīlasaṅkhepena gahitaṃ. Tañca catubbidhanti ācariyatthero **‘‘catupārisuddhisīlaṃ uddisitvā’’**ti āha. Tatthāti catupārisuddhisīle. Jeṭṭhakasīlanti (saṃ. ni. ṭī. 3.5.412) padhānasīlaṃ. Ubhayatthāti uddesaniddese. Idha niddese viya uddesepi pātimokkhasaṃvaro bhagavatā vutto ‘‘sampannasīlā’’ti vuttattāti adhippāyo. Sīlaggahaṇañhi pāḷiyaṃ pātimokkhasaṃvaravasena āgataṃ. Tenāha **‘‘pātimokkhasaṃvaroyevā’’**tiādi. Tattha avadhāraṇena itaresaṃ tiṇṇaṃ ekadesena pātimokkhantogadhabhāvaṃ dīpeti. Tathā hi anolokiyolokane ājīvahetu chasikkhāpadavītikkame gilānapaccayassa apaccavekkhitaparibhoge ca āpatti vihitāti. Tīṇīti indriyasaṃvarasīlādīni. Sīlanti vuttaṭṭhānaṃ nāma atthīti sīlapariyāyena tesaṃ katthaci sutte gahitaṭṭhānaṃ nāma kiṃ atthi yathā pātimokkhasaṃvaroti ācariyassa sammukhattā apaṭikkhipantova upacārena pucchanto viya vadati. Tenāha **‘‘ananujānanto’’**ti. Chadvārarakkhāmattakamevāti tassa sallahukabhāvamāha cittādhiṭṭhānamattena paṭipākatikabhāvāpattito. Itaradvayepi eseva nayo. Paccayuppattimattakanti phalena hetuṃ dasseti. Uppādanahetukā hi paccayānaṃ uppatti. Idamatthanti idaṃ payojanaṃ imassa paccayassa paribhuñjaneti adhippāyo. Nippariyāyenāti iminā indriyasaṃvarādīni tīṇi padhānassa sīlassa parivāravasena pavattiyā pariyāyasīlāni nāmāti dasseti.

「これほどまでに、と伝えられる」の「伝えられる(キラ)」という語は不同意を示す意味である。それによってここで師の説に対する自身の不同意のありようを明らかにしている。「戒を具足せる者」とは、特定の別相に触れず、概括的に戒の要約として把握されたものである。そしてそれは四種であるとして、長老尊師は「四種清浄戒を指示して」と言われた。「そこにおいて」とは、四種清浄戒において。「最勝の戒」とは主要な戒のことである。「双方において」とは、略示と詳説において。ここでは詳説におけるように、略示においても世尊によって別解脱律儀が「戒を具足せる者」と説かれたことによって説かれている、というのが意図である。聖典において戒を把握することは、別解脱律儀の観点から説かれているからである。それゆえに「別解脱律儀そのもの」などと言われた。そこにおいて限定(「そのもの」)によって、他の三者が部分的に別解脱に含まれることを明らかにしている。実に、見てはならないものを見ること、生計を理由として六つの学処を犯すこと、病気の薬を省察せずに受用することにおいて、罪が定められているからである。「三つの」とは、根律儀戒などを指す。「戒と説かれた箇所があるか」とは、戒という同義語によってそれらがどこかの経で把握された箇所が、別解脱律儀のように何かあるだろうかと、師の御前であるため直接否定せず、婉曲に問うかのように述べているのである。それゆえに「同意しないまま」と言われた。「六門を守る程度にすぎない」とは、その軽微さを示している。心の決意だけで元の正常な状態に戻るからである。他の二者についても同様の道理である。「資具が生じる程度にすぎない」とは、結果によって原因を示している。資具の生起は獲得を原因とするからである。「この目的のために」とは、この資具を受用することにこの用途がある、という意図である。「直接的に(方便によらず)」とは、これによって根律儀などの三者は主要な戒の付随として働くため、方便による戒と呼ばれることを示している。

Idāni pātimokkhasaṃvarasseva padhānabhāvaṃ byatirekato anvayato ca upamāya vibhāvetuṃ **‘‘yassā’’**tiādimāha. Tattha soti pātimokkhasaṃvaro. Sesānīti indriyasaṃvarādīni. Tassevāti ‘‘sampannasīlā’’ti ettha yaṃ sīlaṃ vuttaṃ, tasseva. Sampannapātimokkhāti ettha pātimokkhaggahaṇena vevacanaṃ vatvā taṃ vitthāretvā…pe… ādimāha. Yathā aññathāpi ‘‘idha bhikkhu sīlavā hotī’’ti (mahāni. 199) puggalādhiṭṭhānāya desanāya uddiṭṭhaṃ sīlaṃ ‘‘pātimokkhasaṃvarasaṃvuto viharatī’’ti (vibha. 508; mahāni. 199) niddiṭṭhaṃ.

いまや別解脱律儀こそが主たるものであることを、反対と順応の譬喩によって明らかにするために「彼にとって」などと述べた。そこにおいて「彼」とは、その別解脱律儀のことである。「残りのもの」とは、根律儀などを指す。「彼の」とは、「戒を具足せる者」というここで説かれた、その戒の。「別解脱を具足せる」というここでは、別解脱を把握することによって同義語を語り、それを詳述して……乃至……始めを述べた。他の箇所でも「ここに比丘がいて有戒となる」と人を中心とする説示において略示された戒が、「別解脱律儀によって護られて住する」と詳述されたのと同様である。

Pātimokkhasaṃvarasaṃvutāti yo naṃ pāti rakkhati, taṃ mokkheti moceti āpāyikādīhi dukkhehīti ‘‘pātimokkha’’nti laddhanāmena sikkhāpadasīlena pihitakāyavacīdvārā. Te pana yasmā evaṃbhūtā tena samannāgatā nāma honti, tasmā vuttaṃ **‘‘pātimokkhasaṃvarena samannāgatā’’**ti.

「別解脱律儀によって護られた者」とは、彼を護り(パーティ)、彼を悪趣などの苦しみから解脱させる(モッケティ)がゆえに「別解脱(パーティモッカ)」という名を得た学処の戒によって、身と口の門を閉ざした者たちのことである。しかし彼らはそのような者となり、それを具備した者と呼ばれるがゆえに、「別解脱律儀を具備せる者たち」と言われた。

Aparo nayo (udā. aṭṭha. 31; itivu. aṭṭha. 97) – kilesānaṃ balavabhāvato, pāpakiriyāya sukarabhāvato, puññakiriyāya ca dukkarabhāvato bahukkhattuṃ apāyesu patanasīloti pātī, puthujjano. Aniccatāya vā bhavādīsu kammavegakkhitto ghaṭīyantaṃ viya anavaṭṭhānena paribbhamanato gamanasīloti pātī, maraṇavasena vā tamhi tamhi sattanikāye attabhāvassa pātanasīloti pātī, sattasantāno, cittameva vā, taṃ pātiṃ saṃsāradukkhato mokkhetīti pātimokkhaṃ. Cittassa hi vimokkhena satto vimuttoti vuccati. Vuttañhi ‘‘cittavodānā visujjhantī’’ti, ‘‘anupādāya āsavehi cittaṃ vimutta’’nti (mahāva. 28) ca.

別の解釈(『自説経注』『如是語経注』)――煩悩が強力であること、悪業をなすことは容易であること、善業をなすことは困難であることによって、幾度も悪趣に落ちる性質(パタナシーラ)を持つがゆえに「落ちる者(パーティー)」であり、凡夫のことである。あるいは無常であることによって、生存などにおいて業の勢いに投げ込まれ、水汲み車のようにつねにとどまることなく輪廻することによって行く性質(ガマナシーラ)を持つがゆえに「行く者(パーティー)」である。あるいは死によって様々な有情の群れの中に個体(身)を落とす性質(パータナシーラ)を持つがゆえに「落とす者(パーティー)」であり、有情の相続、あるいは心そのものである。その落ちる者(パーティ)を輪廻の苦しみから解脱させる(モッケティ)がゆえに「別解脱(パーティモッカ)」である。心の解脱によってこそ有情は解脱したと呼ばれるからである。実に「心の清浄によって清浄となる」、「執着することなく漏(煩悩)から心が解脱した」と説かれている。

Atha vā avijjādinā hetunā saṃsāre patati gacchati pavattatīti pātī. ‘‘Avijjānīvaraṇānaṃ sattānaṃ taṇhāsaṃyojanānaṃ sandhāvataṃ saṃsarata’’nti (saṃ. ni. 2.125) hi vuttaṃ. Tassa pātino sattassa taṇhādisaṃkilesattayato mokkho etenāti pātimokkho. ‘‘Kaṇṭhekālo’’tiādīnaṃ viya samāsasiddhi veditabbā.

あるいは、無明などの原因によって輪廻に落ちる(パタティ)、行く、流転するがゆえに「落ちる者(パーティー)」である。実に「無明に覆われ、渇愛に結ばれて流転し輪廻する有情たちの」と説かれているからである。その落ちる者である有情が、渇愛などの三つの汚濁から解脱する(モクホ)ことがこれによる、ゆえに「別解脱(パーティモッカ)」である。「黒い喉をもつ者(カンテーカーラ)」などのように複合語の成立を知るべきである。

Atha vā pāteti vinipāteti dukkheti pāti, cittaṃ. Vuttañhi ‘‘cittena nīyati loko, cittena parikassatī’’ti (saṃ. ni. 1.62). Tassa pātino mokkho etenāti pātimokkho. Patati vā etena apāyadukkhe saṃsāradukkhe cāti pātī, taṇhādisaṃkileso. Vuttañhi ‘‘taṇhā janeti purisaṃ (saṃ. ni. 1.57), taṇhādutiyo puriso’’ti (itivu. 15, 105; a. ni. 4.9) ca ādi. Tato pātito mokkhoti pātimokkho.

あるいは、落とす(パーテーティ)、堕落させる、苦しめるがゆえに「落とす者(パーティ)」であり、心のことである。実に「世間は心によって導かれ、心によって引き回される」と説かれている。その落とすものの解脱がこれによる、ゆえに「別解脱(パーティモッカ)」である。あるいはこれによって悪趣の苦しみや輪廻の苦しみに落ちる(パタティ)がゆえに「落ちる原因(パーティー)」であり、渇愛などの汚濁である。実に「渇愛が人を生み、渇愛を道連れとする人」などと説かれている。その落ちる原因からの解脱であるゆえに「別解脱(パーティモッカ)」である。

Atha vā patati etthāti pātī, cha ajjhattikabāhirāni āyatanāni. Vuttañhi ‘‘chasu loko samuppanno, chasu kubbati santhava’’nti (saṃ. ni. 1.70; su. ni. 171). Tato ajjhattikabāhirāyatanasaṅkhātato pātito mokkhoti pātimokkho. Atha vā pāto vinipāto assa atthīti pātī, saṃsāro. Tato mokkhoti pātimokkho. Atha vā sabbalokādhipatibhāvato dhammissaro bhagavā ‘‘patī’’ti vuccati, muccati etenāti mokkho, patino mokkho tena paññattattāti pātimokkho. Pātimokkho eva pātimokkho. Sabbaguṇānaṃ vā mūlabhāvato uttamaṭṭhena pati ca so yathāvuttatthena mokkho cāti pātimokkho. Pātimokkho eva pātimokkho. Tathā hi vuttaṃ ‘‘pātimokkhantiādimetaṃ mukhametaṃ pamukhameta’’nti (mahāva. 135) vitthāro.

あるいは、これにおいて落ちるがゆえに「落ちる場所(パーティー)」であり、六つの内・外の処である。実に「六処において世間は生じ、六処において親しみをなす」と説かれている。その六処と呼ばれる落ちる場所からの解脱であるゆえに「別解脱(パーティモッカ)」である。あるいは、落ちること、堕落が彼にあるゆえに「堕落あるもの(パーティー)」であり、輪廻のことである。それからの解脱であるゆえに「別解脱(パーティモッカ)」である。あるいは、全世間の主宰者であることによって法の主たる世尊は「主(パティ)」と呼ばれ、これによって解脱するゆえに「解脱(モッカ)」であり、主の解脱が彼によって制定されたがゆえに「別解脱(パーティモッカ)」である。パーティモッカそのものが別解脱である。あるいはすべての徳の根源であることによって最高という意味で「主(パティ)」であり、かつ上述の意味において「解脱(モッカ)」であるゆえに「別解脱(パーティモッカ)」である。パーティモッカそのものが別解脱である。実に「別解脱とは、これは始めであり、これは顔(入り口)であり、これは第一である」などと詳説されている。

Atha vā pa-iti pakāre, atīti accantatthe nipāto, tasmā pakārehi accantaṃ mokkhetīti pātimokkho. Idañhi sīlaṃ sayaṃ tadaṅgavasena, samādhisahitaṃ paññāsahitañca vikkhambhanavasena, samucchedavasena ca accantaṃ mokkheti mocetīti pātimokkho. Pati pati mokkhoti vā pātimokkho, tamhā tamhā vītikkamadosato paccekaṃ mokkhoti attho. Pātimokkho eva pātimokkho. Mokkho vā nibbānaṃ, tassa mokkhassa patibimbabhūtoti pātimokkho. Sīlasaṃvaro hi nibbedhabhāgiyo sūriyassa aruṇuggamanaṃ viya nibbānassa udayabhūto tappaṭibhāgo viya hoti yathārahaṃ kilesanibbāpanatoti pātimokkho. Pātimokkhoyeva pātimokkho. Atha vā mokkhaṃ pati vattati mokkhābhimukhanti vā pātimokkhaṃ. Pātimokkhameva pātimokkhanti evamettha pātimokkhasaddassa attho veditabbo.

あるいは、「パ」は様態において、「アティ」は極限の意味における不変化詞であり、それゆえに様々な様態によって究極的に解脱させる(モッケーティ)がゆえに「別解脱(パーティモッカ)」である。この戒は自ら部分的に、また三昧や智慧を伴って抑止によって、また断絶によって究極的に解脱させ、解き放つがゆえに「別解脱」である。あるいは個々において(パティ・パティ)解脱するゆえに「別解脱」であり、それぞれの違犯の過失から個別に解脱するという意味である。パーティモッカそのものが別解脱である。あるいは解脱とは涅槃であり、その解脱の似姿となるがゆえに「別解脱」である。戒の律儀は通達に資するものであり、太陽の曙光のように涅槃の現れとなり、ふさわしい煩悩の寂滅をもたらすことによってその相似物となるがゆえに「別解脱」である。パーティモッカそのものが別解脱である。あるいは解脱に向かって(パティ)働く、解脱に向いているがゆえに「別解脱(パーティモッカ)」である。パーティモッカそのものが別解脱である。このようにここで別解脱という語の意味を知るべきである。

Ācāragocarasampannāti kāyikavācasikaavītikkamasaṅkhātena ācārena ceva navesiyagocaratādisaṅkhātena gocarena ca sampannā, sampannaācāragocarāti attho. Appamattesūti atiparittakesu anāpattigamanīyesu, dukkaṭadubbhāsitamattesūti apare. Vajjesūti gārayhesu. Te pana ekantato akusalasabhāvā hontīti āha **‘‘akusaladhammesū’’**ti. Bhayadassinoti bhayato dassanasīlā, paramāṇumattampi vajjaṃ sineruppamāṇaṃ viya katvā bhāyanasīlā. Sammā ādiyitvāti sammadeva sakkaccaṃ sabbaso ca ādiyitvā. Sikkhāpadesūti niddhāraṇe bhummanti samudāyato avayavaniddhāraṇaṃ dassento **‘‘sikkhāpadesu taṃ taṃ sikkhāpadaṃ samādiyitvā sikkhathā’’**ti atthamāha. Sikkhāpadameva hi samādātabbaṃ sikkhitabbañcāti adhippāyo. Yaṃ kiñci sikkhākoṭṭhāsesūti sikkhākoṭṭhāsesu mūlapaññattianupaññatisabbatthapaññattipadesapaññattiādibhedaṃ yaṃ kiñci sikkhitabbaṃ paṭipajjitabbaṃ pūretabbaṃ sīlaṃ. Taṃ pana dvāravasena duvidhamevāti āha **‘‘kāyikaṃ vācasikañcā’’**ti. Imasmiṃ atthavikappe sikkhāpadesūti ādhāre bhummaṃ sikkhābhāgesu kassaci visuṃ aggahaṇato. Tenāha **‘‘taṃ sabba’’**nti.

「行儀と行境を具足せる者」とは、身・口の不犯と呼ばれる行儀と、不適切な場所に行かないことなどと呼ばれる行境を具足せる者、行儀と行境を成就した者という意味である。「微小なものにおいて」とは、極めて些細な、罪過とならないようなものにおいて、あるいは悪作や悪説の程度において、と他の注釈者は言う。「罪過において」とは、非難されるべきことにおいて。それらは決定して不善の性質をもつゆえに「不善の諸法において」と言われた。「恐怖を見る者」とは、恐怖として見る性質の者、原子ほどの微小な罪過であっても須弥山の大きさのようにみなして恐れる性質の者である。「正しく受持して」とは、まさに正しく、恭敬をもって、ことごとく受持して。「諸学処において」とは、限定の処格であり、全体から部分を限定して示すために「諸学処においてその学処を受持して学ぶべし」と意味を述べた。学処こそが受持されるべきであり、学ばれるべきであるという意図である。「諸学処の区分におけるいかなるものも」とは、諸学処の区分における、根本制定・随制定・遍処制定・処所制定などの区別がある、学ぶべき、実践すべき、満たすべきいかなる戒をも指す。しかしそれは門の観点から二種にすぎないゆえに「身のものと口のもの」と言われた。この意味の解釈では「諸学処において」は依処の処格であり、学処の諸部分においていかなるものも個別に把握されないからである。それゆえに「そのすべてを」と言われた。

65. Kasmā āraddhanti (a. ni. ṭī. 3.10.71-74) desanāya kāraṇapucchā. Sīlānisaṃsadassanatthanti payojananiddeso. Ko attho kva attho kva nipātitāti? Nayidamevaṃ daṭṭhabbaṃ. Sīlānisaṃsadassanatthanti hi ettha byatirekato yaṃ sīlānisaṃsassa adassanaṃ, taṃ imissā desanāya kāraṇanti kasmā āraddhanti vineyyānaṃ sīlānisaṃsassa adassanatoti atthato āpanno eva hotīti. Tenāha **‘‘sacepī’’**tiādi. Sīlānisaṃsadassanatthanti pana imassa atthaṃ vivarituṃ **‘‘tesa’’**ntiādi vuttaṃ. Ānisaṃsoti udayo. ‘‘Sīlavā sīlasampanno kāyassa bhedā paraṃ maraṇā sugatiṃ saggalokaṃ upapajjatī’’tiādīsu (dī. ni. 2.150; 3.316; a. ni. 5.213; mahāva. 285) pana vipākaphalampi ‘‘ānisaṃso’’ti vuttaṃ. Ko visesoti ko phalaviseso. Kā vaḍḍhīti ko abbhudayo. Vijjamānopi guṇo yāthāvato vibhāvito eva abhiruciṃ uppādeti, na avibhāvito, tasmā ekantato ānisaṃsakittanaṃ icchitabbamevāti dassetuṃ visakaṇṭakavāṇijo udāhaṭo.

65. 「なぜ説き始めたのか」とは、説示の動機を問うている。「戒の功徳を示すため」とは、目的の指示である。どのような意味か、どこに意味があるのか、どこに置かれたのか。このように見るべきではない。「戒の功徳を示すため」というここでは、反対の意味からして、戒の功徳を見ないということがこの説示の動機であるゆえに、「なぜ説き始めたのか」とは、教化されるべき者たちが戒の功徳を見ないことによる、と意味の上で必然となるからである。それゆえに「たとえ〜であっても」などと言われた。しかし「戒の功徳を示すため」というこの意味を解明するために「彼らの」などと説かれた。「功徳」とは果報の増大である。「有戒にして戒を具足せる者は身壊れ死したのち、善趣・天界に生まれる」などにおいては、異熟の果もまた「功徳」と説かれている。「いかなる卓越があるか」とは、いかなる果の卓越があるか。「いかなる増大があるか」とは、いかなる繁栄があるか。存在している徳であっても、ありのままに明らかにされてこそ歓喜を生じさせ、明らかにされなければ生じさせない。それゆえに決定して功徳の称賛が望まれるべきであることを示すために、毒の棘(砂糖)を商う商人の譬喩が引かれた。

Tattha guḷo nāma ucchurasaṃ pacitvā cuṇṇādīhi missitvā sampiṇḍane piṇḍībhūtaṃ. Phāṇitaṃ apiṇḍitaṃ dravībhūtaṃ. Khaṇḍaṃ bhijjanakkhamaṃ. Sakkharā nāma phalikasadisā. Sakkharādīniti ādi-saddena macchaṇḍikānaṃ saṅgaho. Tasmiṃ kāle guḷādīsu visakaṇṭakavohāro apaccantadese pacuroti **‘‘paccantagāmaṃ gantvā’’**ti vuttaṃ. Dārake ca palāpesuṃ ‘‘visakaṇṭakaṃ mā gaṇhantū’’ti.

そこにおいて、粗糖とはサトウキビの汁を煮て粉末などと混ぜて固めた塊である。糖蜜とは固まっていない液状のものである。氷砂糖とは割ることができるものである。白砂糖とは水晶に似たものである。「白砂糖など」の「など」という語によって粒砂糖が含まれる。その当時、粗糖などに対して「毒の棘」という呼称が辺境でない地方で一般的であったため、「辺境の村に行って」と説かれた。そして子供たちを「毒の棘を取ってはならない」と逃げ去らせた。

Piyoti piyāyitabbo. Piyassa nāma dassanaṃ ekantato abhinanditabbaṃ hotīti āha **‘‘viyacakkhūhi sampassitabbo’’**ti. Pītisamuṭṭhānapasannasommarūpapariggahañhi cakkhu ‘‘piyacakkhū’’ti vuccati. Tesanti sabrahmacārīnaṃ. Manavaḍḍhanakoti pītimanassa paribrūhanato uparūpari pīticittassa uppādako. Garuṭṭhāniyoti garukaraṇassa ṭhānabhūto. Jānaṃ jānātīti ñāṇena jānitabbaṃ jānāti. Yathā vā aññe ajānantāpi jānantā viya pavattanti, na evamayaṃ, ayaṃ pana jānanto eva jānāti. Passaṃ passatīti dassanabhūtena paññācakkhunā passitabbaṃ passati, passanto eva vā passati. Evaṃ sambhāvanīyoti evaṃ viññutāya paṇḍitabhāvena sambhāvetabbo.

「愛しい」とは、愛されるべきである。「愛しい者の姿を見ることは決定して歓喜されるべきである」ゆえに、「愛眼をもって見つめられるべき」と言われた。喜悦によって生じた清らかで穏やかな色形を把握する眼を「愛眼」と呼ぶからである。「彼らの」とは、同僚の修行者たちの。「意を増大させるもの」とは、喜悦の心を増大させることから、次々に喜悦の心を生じさせるものである。「尊重すべき地位にある」とは、重んじられるべき地位にあることである。「知る者が知る」とは、智慧によって知るべきことを知る。あるいは、他の者たちが知らなくても知っているかのように振る舞うのに対し、この者はそうではなく、この者は知りつつ知るのである。「見る者が見る」とは、見解たる慧眼によって見るべきを見る、あるいは見つつ見るのである。「このように敬慕されるべき」とは、このように賢明さ、知識深さによって敬慕されるべきである。

Sīlesvevassa paripūrakārīti sīlesu paripūrakārī eva bhaveyyāti evaṃ uttarapadāvadhāraṇaṃ daṭṭhabbaṃ. Evañhi iminā padena uparisikkhādvayaṃ anivattitameva hoti. Yathā pana sīlesu paripūrakārī nāma hoti, taṃ phalena dassetuṃ **‘‘ajjhatta’’**ntiādi vuttaṃ. Vipassanādhiṭṭhānasamādhisaṃvattanikatāya hi idha sīlassa pāripūrī, na kevalaṃ akhaṇḍādibhāvamattaṃ. Tenāha ‘‘yāni kho pana tāni akhaṇḍāni…pe… samādhisaṃvattanikānī’’ti. Evañca katvā upari sikkhādvayaṃ sīlassa sambhārabhāvena gahitanti sīlassevettha padhānaggahaṇaṃ siddhaṃ hoti. Tathā hi cittekaggatāsaṅkhārapariggahānaṃ sīlassānurakkhaṇabhāvaṃ vakkhati. Yaṃ pana vakkhati ‘‘sikkhattayadesanā jātā’’ti (ma. ni. aṭṭha. 1.65), taṃ itarāsampi sikkhānaṃ idha gahitatāmattaṃ sandhāya vuttaṃ, na padhānabhāvena gahitataṃ. Yadi evaṃ kathaṃ sīlassa appamattakatāvacanaṃ. Vuttañhetaṃ ‘‘appamattakaṃ kho panetaṃ, bhikkhave, oramattaka’’nti (dī. ni. 1.7). Taṃ puthujjanagocaraṃ sandhāya vuttaṃ. Tathā hi tattha na nippadesato sīlaṃ vibhattaṃ, evaṃ katvā tattha sīlamattakanti mattaggahaṇaṃ samatthitanti daṭṭhabbaṃ. Anūnenāti akhaṇḍādibhāvena, kassaci vā ahāpanena upapannena. Ākārenāti karaṇena sampādanena. Cittasamatheti cittasamādhāne. Yuttoti aviyutto pasuto. Yo sabbena sabbaṃ jhānabhāvanaṃ ananuyutto, so taṃ bahi nīharati nāma. Yo ārabhitvā antarā saṅkocaṃ āpajjati, so taṃ vināseti nāma. Yo pana īdiso ahutvā jhānaṃ upasampajja viharati, so anirākatajjhānoti dassento **‘‘bahi anīhaṭajjhāno’’**tiādimāha.

「戒において満たす者であれ」とは、戒において満たす者そのものであるべきであると、このように後続の語の限定として見るべきである。このようにしてこの語によって、上位の二つの修行(定・慧)は否定されていないことになる。しかしどのようにして戒を満たす者となるのか、それを結果によって示すために「内なる」などと説かれた。観の拠り所となる三昧をもたらすことによってこそ、ここでの戒の円満があり、単に欠損のないことだけではないからである。それゆえに「欠損のない……乃至……三昧をもたらすところの諸々のもの」と言われた。そしてこのようにして上位の二つの修行は戒の資糧として把握されているので、戒のみがここで主要なものとして把握されたことが成立する。実に心の統一と諸行の把握が戒を護る状態となることを後に述べるからである。しかし「三学の説示となった」と後に述べるのは、他の修行もここで把握されているという程度を意図して説かれたものであり、主たるものとして把握されたことを意図したのではない。もしそうであるなら、なぜ戒が些細なものと説かれたのか。実に「比丘たちよ、これは些細な、下等なものにすぎない」と説かれている。それは凡夫の境地を意図して説かれたものである。実にそこでは限定なしに戒が分別されておらず、このようにしてそこでは「戒にすぎない」という程度の把握が妥当とされたと知るべきである。「欠けることなく」とは、欠損などがないことによって、あるいは何ものも損なわずに具備することによって。「様態によって」とは、作すこと、成就することによって。「心の静寂において」とは、心の統一(サマーディ)において。「専念せる」とは、離れることなく専心せる者。まったく禅定の修習に努めない者は、それを外へ投げ捨てる者と呼ばれる。始めて途中で縮み上がる者は、それを損なう者と呼ばれる。しかしそのような者ではなく、禅定に達して住する者は、禅定を放棄しない者であることを示して、「外に投げ捨てられない禅定をもつ」などと述べた。

Aniccassa tebhūmakadhammassa, aniccanti vā anupassanā aniccānupassanā. Tathā dukkhānupassanā anattānupassanā ca. Tasseva nibbindanākārena pavattā anupassanā nibbidānupassanā. Virajjanākārena pavattā anupassanā virāgānupassanā. Nirodhassa anupassanā nirodhānupassanā. Paṭinissajjanavasena pavattā anupassanā paṭinissaggānupassanā. Suññāgāragato bhikkhu tattha laddhakāyavivekatāya samathavipassanāvasena cittavivekaṃ paribrūhento yathānusiṭṭhaṃ paṭipattiyā lokaṃ sāsanañca attano visesādhigamaṭṭhānabhūtaṃ suññāgārañca upasobhayamāno guṇavisesādhiṭṭhānabhāvāpādanena viññūnaṃ atthato taṃ brūhento nāma hotīti vuttaṃ **‘‘brūhetā suññāgārāna’’**nti. Tenāha **‘‘ettha cā’’**tiādi. Ayameva suññāgārānubrūhanaviññuppasatthānaṃ bhājanaṃ, na senāsanapatiṭṭhāpananti dassento āha **‘‘ekabhūmakādi…pe… daṭṭhabbo’’**ti. Suññāgāraggahaṇena cettha araññarukkhamūlādi sabbaṃ padhānānuyogakkhamaṃ senāsanaṃ gahitanti daṭṭhabbaṃ.

「無常なる」三界の法、あるいは「無常である」と随観することが無常随観である。苦随観と無我随観も同様である。それに対して厭離の様相で働く随観が厭離随観である。離貪の様相で働く随観が離貪随観である。滅の随観が滅随観である。捨棄の観点から働く随観が捨棄随観である。空き家に入った比丘は、そこで得られた身の遠離によって、止と観により心の遠離を増大させ、教誡の通りの実践によって世間と教えと自らの勝得の場たる空き家を輝かせ、優れた徳の拠り所たる状態をもたらすことによって、賢者たちにとって事実上それを増大させる者となるゆえに、「空き家を増大させる者」と説かれた。それゆえに「そしてここにおいて」などと言われた。彼こそが空き家を増大させる賢者たちに称賛される器であり、精舎の建立ではないことを示して「一階建ての……乃至……見られるべきである」と述べた。そしてここでの空き家の把握によって、森林や樹下一帯の、精進の専念に適したすべての住処が把握されていると知るべきである。

Taṇhāvicaritadesanāti ‘‘ajjhattikassa upādāyā’’ti (vibha. 937) ādinayappavattaṃ taṇhāvicaritasuttaṃ. Taṇhāpadaṭṭhānattāti taṇhāsannissayattā. Na hi taṇhāvirahitā mānadiṭṭhipavatti atthi. Mānadiṭṭhiyo osaritvāti dassetabbatāya mānadiṭṭhiyo ogāhetvāti attho. Gahaṇatthameva hi desetabbadhammassa desanāya osaraṇaṃ. Taṇhāmānadiṭṭhiyo papañcattayaṃ sattasantānassa saṃsāre papañcanato anuppabandhanavasena vitthāraṇato. Sīlapadaṭṭhānattāti sīlādhiṭṭhānattā.

「渇愛の思索の説示」とは、「内なるものを拠り所として」などの方法で説かれた渇愛の思索に関する経である。「渇愛を足場(近因)とするから」とは、渇愛を拠り所とするからである。渇愛を離れた慢と見の生起はないからである。「慢と見に踏み入って」とは、示されるべきものとして慢と見に沈潜して、という意味である。把握のためこそ説かれるべき法を説示に踏み入らせるのである。渇愛・慢・見は、有情の相続を輪廻において戯論させることによって、断絶なく結びつける観点から広げるがゆえに「三つの戯論」である。「戒を足場とするから」とは、戒を拠り所とするからである。

Adhicittasikkhā vuttāti ānetvā sambandho. Vipassanāvasena suññāgāravaḍḍhaneti yojanā. Dvepi sikkhāti adhicittādhipaññāsikkhā. Saṅgahetvāti adhisīlasikkhāya saddhiṃ saṅgahetvā vuttā. Yadi evamayaṃ sikkhattayadesanā jātāti sikkhattayānisaṃsappakāsanī siyāti anuyogaṃ sandhāyāha **‘‘ettha cā’’**tiādi. Tattha yaṃ vattabbaṃ, taṃ heṭṭhā vuttameva. Indriyasaṃvaro viya pātimokkhasaṃvarassa catupārisuddhisīlassa ārakkhabhūtā cittekaggatā vipassanā ca idha gahitāti tadubhayaṃ appadhānaṃ, sīlameva pana padhānabhāvena gahitanti veditabbaṃ. Tenāha **‘‘sīlānurakkhikā evā’’**tiādi.

「増上心学が説かれた」とは、引き寄せて結合する。「観の観点から空き家を増大させることにおいて」と結合する。「二つの学も」とは、増上心学と増上昇慧学のことである。「包摂して」とは、増上記戒学とともに包摂して説かれた。もしそうならこれは三学の説示となったのであり、三学の功徳を明かすものとなるのではないか、という問いを意図して「そしてここにおいて」などと述べた。そこにおいて言われるべきことは、すでに下で述べられた通りである。別解脱律儀に対する根律儀のように、四種清浄戒の守護となる心の統一と観がここで把握されているのであり、その双方は副次的なものであり、戒こそが主要なものとして把握されたと知るべきである。それゆえに「まさに戒を護るものである」などと言われた。

Balavatarasukhanti samuppannabyādhidukkhato balavataraṃ, taṃ abhibhavituṃ samatthaṃ jhānasukhaṃ uppajjati. Balavamamattaṃ hoti, tena daḷhaattasinehena viluttahadayo kusaladhamme chaḍḍento so tathārūpesu…pe… posetā hoti. Balavamamattaṃ vā sineho na hoti ‘‘suddho saṅkhārapuñjo’’ti yāthāvadassanena ahaṃkāramamaṃkārābhāvato. Dubbhikkhabhaye khudābhibhavaṃ sandhāyāha **‘‘sacepissa antāni bahi nikkhamantī’’**ti. Byādhibhayaṃ sandhāyāha ‘‘ussussati visussanī’’ti. Ādi-saddena gahitaṃ corabhayaṃ sandhāyāha **‘‘khaṇḍākhaṇḍiko vā’’**ti. Ubhayassāti samathavipassanādvayassa. Ettha ca ‘‘ajjhattaṃ ceto…pe… suññāgārāna’’nti imehi visesanibbedhabhāgiyabhāvāpādanena sīlaṃ rakkhituṃ samatthā eva cittekaggatāvipassanā gahitā. Yasmā parato jhānavimokkhaphalābhiññāṇaadhiṭṭhānabhāvo sīlassa uddhaṭo, tasmā tassa bhiyyopi sambhārabhūtā eva cittekaggatā vipassanā tattha tattha gahitāti veditabbā.

「より強い楽」とは、生じた病苦よりも強く、それを克服しうる禅定の楽が生じる。「強い執着がある」とは、それによって強固な自己への愛着に心を奪われ、善法を投げ捨てて、彼はそのような……乃至……養う者となる。あるいは「単なる諸行の集まりにすぎない」と如実に見ることによって我執・我所執がないゆえに、強い執着や愛着がない。「飢饉の恐怖において」とは、飢えによる圧迫を意図して「もし彼の腸が外に出ても」と言われた。「病気の恐怖」を意図して「干からび、枯れ果てる」と言われた。「など」の語で把握された「盗賊の恐怖」を意図して「あるいは切れ切れにされても」と言われた。「双方の」とは、止と観の二つの。「そしてここにおいて」とは、「内なる心……乃至……空き家の」というこれらによって、勝れた通達に資する状態をもたらすことにより戒を護りうる心の統一と観だけが把握されている。後において禅定・解脱・果・神通・智慧の拠り所たる状態が戒のものとして引き出されているので、それに対してさらに資糧となる心の統一と観がそれぞれの箇所で把握されていると知るべきである。

Sīlādīti ādi-saddena yathāvuttacittekaggatāvipassanā saṅgaṇhāti, sīlassa vā mūlakāraṇabhūtaṃ sabbaṃ kammassakatañāṇañca saṅgaṇhāti kammapathasammādiṭṭhiṃ vā. Sīlañhi tadaññampi puññakiriyāvatthu teneva parisodhitaṃ mahapphalaṃ hoti mahānisaṃsanti. Lābhī assanti lābhā sāya saṃvaraṇasīlaparipūraṇaṃ pāḷiyaṃ āgataṃ kimīdisaṃ bhagavā anujānātīti? Na bhagavā sabhāvena īdisaṃ anujānāti, mahākāruṇikatāya pana puggalajjhāsayena evaṃ vuttanti dassento **‘‘na cetthā’’**tiādimāha. Tattha ghāsesanaṃ chinnakatho na vācaṃ payuttaṃ bhaṇeti chinnakatho mūgo viya hutvā obhāsaparikathānimittaviññattipayuttaṃ ghāsesanaṃ vācaṃ na bhaṇe na katheyyāti attho. Puggalajjhāsayavasenāti saṅkhepato vuttamatthaṃ vivaranto **‘‘yesañhī’’**tiādimāha. Raso sabhāvabhūto ānisaṃso rasānisaṃso.

「戒など」の「など」という語によって上述の心の統一と観を包摂し、あるいは戒の根本原因たる一切の業自相智を包摂し、あるいは業処の正見を包摂する。戒やそれ以外の福業事も、それによって清められてこそ大果・大功徳となるからである。「得る者であれ」とは、利養のために律儀戒を満たすことが聖典に説かれているが、このようなことを世尊は是認されるのか。世尊は本来このようなことを是認されないが、大悲によって個人の志向に応じてこのように説かれたことを示して、「ここにおいて〜ではない」などと述べた。そこにおいて「食を求める言葉を断ち切った者は、仕向けられた言葉を語らない」とは、言葉を断ち切った唖者のようになって、暗示や婉曲な話や合図や示唆によって仕向けられた食を求める言葉を語らない、話さないという意味である。「個人の志向に応じて」とは、簡潔に説かれた意味を解明して「実に彼らにとって」などと述べた。「味」とは本来の性質たる功徳であり、味の功徳である。

Paccayadānakārāti cīvarādipaccayavasena dānakārā. **‘‘Devānaṃ vā’’**ti vuttavacanaṃ pākaṭīkātumāha **‘‘devāpī’’**tiādi. ‘‘Pañcime gahapatayo ānisaṃsā’’tiādīsu (dī. ni. 2.150) anisaṃsasaddo phalapariyāyopi hotīti āha **‘‘ubhayametaṃ atthato eka’’**nti.

「資具の施しをなす者たち」とは、衣などの資具によって施しをなす者たちである。「諸天の、あるいは」と説かれた言葉を明白にするために「諸天もまた」などと述べた。「居士たちよ、これら五つの功徳がある」などにおいて、功徳という語は果の同義語でもあるゆえに「この双方は意味において一つである」と言われた。

Sassusasurā ca tappakkhikā ca sassusasurapakkhikā. Te ñātiyonisambandhena āvāhavivāhasambandhavasena sambandhā ñātī. Sālohitāti yonisambandhavasena. Ekalohitasambaddhāti ekena samānena lohitasambandhena sambaddhā. Peccabhāvaṃ gatāti petūpapattivasena nibbattiṃ upagatā. Te pana yasmā idha katakālakiriyā kālena katajīvitupacchedā honti, tasmā vuttaṃ **‘‘kālakatā’’**ti. Pasannacittoti pasannacittako. Kālakato pitā vā mātā vā petayoniṃ upapannoti adhikārato viññāyatīti vuttaṃ **‘‘mahānisaṃsameva hotī’’**ti, tassa tathā sīlasampannattāti adhippāyo. Ariyabhāve pana sati vattabbameva natthi. Tenāha **‘‘anekāni kappasatasahassānī’’**tiādi. Bahukāranti bahupakāraṃ. Upasaṅkamananti abhivādanādivasena upagamanaṃ. Payirupāsananti upaṭṭhānanti.

「姑・舅とその一族」とは、姑・舅の一族である。彼らは親族としての血縁関係によって、婚姻関係によって結ばれた親族である。「同血の者」とは、血統関係によるもの。「同一の血に結ばれた者」とは、一つの等しい血のつながりによって結ばれた者。「死後の状態に至った者」とは、餓鬼としての再生によって生を受けた者。しかし彼らはここで時を終えた(死んだ)、時によって生命の切断をなされた者たちであるゆえに、「死せる者たち」と言われた。「澄んだ心をもつ者」とは、澄んだ心の人。「死んだ父あるいは母が餓鬼界に生まれたと文脈から理解される」ゆえに、「大功徳そのものとなる」と説かれた。その者がそのように戒を具足しているから、というのが意図である。しかし聖者である場合には言うまでもない。それゆえに「何十万劫もの間」などと言われた。「大いなる恩恵」とは、多大な助け。「近づくこと」とは、礼拝などによって近づくこと。「親しく仕えること」とは、給仕することである。

66. Ajjhottharitāti madditā. Ukkaṇṭhāti riñcanā anabhirati ananuyogo. Sīlavā bhikkhu attano sīlakhaṇḍabhayena samāhito vipassako ca paccayaghātena aratiyā ratiyā ca sahitā abhibhavitāva hotīti āha **‘‘sīlādiguṇayuttenevā’’**tiādi.

66. 「圧倒された」とは、踏み躙られた。「嫌気」とは、怠り、不快、不専念である。有戒の比丘は自らの戒の欠損を恐れることによって、定を具え、観を具え、資具の破滅に対して、不快や快とともに圧倒する者そのものとなるゆえに、「戒などの徳を具備することによってのみ」などと言われた。

Cittutrāso bhāyatīti bhayaṃ. Ārammaṇaṃ bhāyati etasmāti bhayaṃ. Purimavārasadisattā vuttanayamevāti atidisitvāpi puna taṃ dassetuṃ **‘‘sīlādiguṇayutto hī’’**tiādi vuttaṃ. Therassa heṭṭhā nisinnattā devatāya dārakā sakabhāvena saṇṭhātuṃ sukhena vattituṃ asakkontā asamatthā.

「心の戦慄、恐れる」ゆえに「恐怖」である。「これによって対象を恐れる」ゆえに「恐怖」である。「前節と同様であるゆえに説かれた通りの方法である」と準用しつつも、再びそれを示すために「実に戒などの徳を具備せる者は」などと説かれた。長老の下に座っていたため、神の子供たちは本来の姿でとどまること、安らかに過ごすことができず、無力であった。

Adhikaṃ cetoti abhiceto, upacārajjhānacittaṃ. Tassa pana adhikatā pākatikakāmāvacaracittehi sundaratāya sapaṭipakkhato visuddhiyā cāti āha **‘‘abhikkantaṃ visuddhicitta’’**nti. Adhicittanti samādhimāha, so ca upacārasamādhi daṭṭhabbo. Vivekajaṃ pītisukhaṃ, samādhijaṃ pītisukhaṃ, apītijaṃ jhānasukhaṃ, satipārisuddhijaṃ jhānasukhanti catubbidhampi jhānasukhaṃ paṭipakkhato nikkhantataṃ upādāya ‘‘nekkhammasukha’’nti vuccatīti āha **‘‘nekkhammasukhaṃ vindantī’’**ti. Icchiticchitakkhaṇe samāpajjituṃ samatthoti iminā tesu jhānesu samāpajjanavasībhāvamāha, ‘‘nikāmalābhī’’ti pana vacanato āvajjanādhiṭṭhānapaccavekkhaṇavasiyopi vuttā evāti veditabbā. Sukheneva paccanīkadhamme vikkhambhetvāti etena tesaṃ jhānasukhakhippābhiññatañca dasseti. Vipulānanti vepullaṃ pāpitānaṃ. Jhānānaṃ vipulatā nāma subhāvitabhāvena ciratarappatti, sā ca paricchedānurūpāva icchitabbbāti ‘‘vipulāna’’nti vatvā ‘‘yathāparicchedeyeva vuṭṭhātuṃ samatthoti vuttaṃ **hotī’’**ti āha. Paricchedakālañhi appatvāva vuṭṭhahanto akasiralābhī na hoti yāvadicchakaṃ pavattetuṃ asamatthattā. Idāni teyeva yathāvutte samāpajjanādivasībhāve byatirekavasena vibhāvetuṃ **‘‘ekacco hī’’**tiādi vuttaṃ. Tattha lābhīyeva hotīti idaṃ paṭiladdhamattassa jhānassa vasena vuttaṃ. Tathāti icchiticchitakkhaṇe. Pāribandhiketi vasībhāvassa paccanīkadhamme. Jhānādhigamassa pana paccanīkadhammā pageva vikkhambhitā, aññathā jhānādhigamo eva na siyā. Kicchena vikkhambhetīti kicchena visodheti. Kāmādīnavapaccavekkhaṇādīhi kāmacchandādīnaṃ viya aññesampi samādhipāribandhikānaṃ dūrasamussāraṇaṃ idha vikkhambhanaṃ visodhanañcāti veditabbaṃ. Nāḷikāyantanti kālamānanāḷikāyantaṃ āha.

「勝れた心」とは増上心であり、近行禅の心である。その勝れていることとは、通常の欲界の心よりも優れていることと、敵対するものからの清浄によるゆえに、「勝れたる清浄の心」と言われた。「増上心」とは三昧を指し、それは近行三昧と見なされるべきである。離より生じる喜楽、定より生じる喜楽、無喜の禅定の楽、念清浄より生じる禅定の楽という四種の禅定の楽のすべてが、敵対するものから脱れ出ていることに基づいて「出離の楽」と呼ばれるゆえに、「出離の楽を享受する」と言われた。「望む時にいつでも入定しうる」とは、これによってそれらの禅定における入定自在を述べている。「意のままに得る者」という語から、尋求・決意・省察の自在もまた説かれていると知るべきである。「容易に対立する諸法を抑止して」とは、これによって彼らが禅定の楽を速やかに了知することを示している。「広大なものたちの」とは、広大さに達せしめられたものたちの。禅定の広大さとは、よく修習されたことによって極めて長く持続することであり、それは限定に応じてこそ望まれるべきであるゆえに、「広大なる」と述べて「限定の通りに出定しうる、と説かれたことになる」と言われた。限定の時に達しないまま出定する者は、望む限り持続させることができないため、苦もなく得る者ではないからである。いまやそれらの上述の入定などの自在を反対の観点から明らかにするために「ある者は実に」などと述べた。そこにおいて「まさに得る者である」とは、得たばかりの禅定の観点から説かれた。「そのように」とは、望む時にいつでも。「障害となるものにおいて」とは、自在に対立する諸法において。しかし禅定の獲得に対立する諸法は、あらかじめ抑止されている。そうでなければ禅定の獲得そのものがありえないからである。「困難を伴って抑止する」とは、困難を伴って清める。欲の過患の省察などによって欲愛などを抑止するように、他の三昧の障害となる諸法をも遠く退けることが、ここでの抑止であり清澄であると知るべきである。「水時計」とは、時間を測る水時計の器械を指す。

Visesena rūpāvacaracatutthajjhānaṃ sabbaso vasībhāvāpāditaṃ abhiññāpādakanti adhippāyenāha **‘‘abhiññāpādake jhāne vutte’’**ti. Arūpajjhānampi pana adhiṭṭhānatāya pādakameva cuddasadhā cittaparidamanena vinā tadabhāvato. ‘‘Evamabhiññāpādake rūpāvacarajjhāne vutte rūpāvacaratāya kiñcāpi abhiññānaṃ lokiyavāro āgato’’ti ayañhettha adhippāyo. Nanti abhiññāvāraṃ. Cattāri…pe… ariyamaggā sīlānaṃ ānisaṃso sampannasīlasseva lābhato. Pariyādiyitvāti gahetvā.

とりわけ色界の第四禅が、ことごとく自在にされたものが神通の基礎となるという意図によって、「神通の基礎となる禅定が説かれた時」と言われた。しかし無色界の禅もまた、確固たる拠り所となることによって基礎となる。十四の仕方で心を調御することなしにはそれがないからである。「このように神通の基礎となる色界禅が説かれた時、色界であることによって、神通の世間的な段階が説かれたとしても」というのがここでの意図である。「それを」とは、神通の段階を。「四つの……乃至……聖道は戒の功徳である」とは、戒を具足せる者のみが得るからである。「受け取って」とは、把握して。

Aṅgasantatāyāti nīvaraṇādīnaṃ paccanīkadhammānaṃ sudūratarabhāvena jhānaṅgānaṃ vūpasantatāya, nibbutasabbadarathapariḷāhatāyāti attho, yato tesaṃ jhānānaṃ paṇītatarādibhāvo. Ārammaṇasantatāyāti rūpapaṭighādivigamanena saṇhasukhumādibhāvappattasantabhāvena. Yadaggena hi nesaṃ bhāvanābhisamayasabbhāvitasaṇhasukhumākārāni ārammaṇāni santāni, tadaggena jhānaṅgānaṃ santatā veditabbā. Ārammaṇasantatāya santatā lokuttaradhammārammaṇāhi paccavekkhaṇāhi dīpetabbā. Vimuttā visesena muttā. Ye hi jhānadhammā tathāpavattapubbabhāgabhāvanāhi tabbisesatāya sātisayaṃ paṭipakkhadhammehi vimuttivasena pavattanti, tato eva tathāvimuttatāya pitu aṅke vissaṭṭhaaṅgapaccaṅgo viya kumāro nirāsaṅkabhāvena ārammaṇe adhimuttā ca pavattanti, te vimokkhāti vuccanti. Tenāha **‘‘vimokkhāti paccanīkadhammehi vimuttattā ārammaṇe ca adhimuttattā’’**ti. Yadipi ārammaṇasamatikkamavasena pattabbāni āruppāni, na aṅgātikkamavasena, tathāpi yasmā ārammaṇe avirattassa jhānasamatikkamo na hoti, samatikkantesu ca jhānesu ārammaṇaṃ samatikkantameva hoti, tasmā ārammaṇasamatikkamaṃ avatvā **‘‘rūpāvacarajjhāne atikkamitvā’’**ti icceva vuttaṃ. Atikkamma rūpeti pāḷiyaṃ ‘‘sampādetabbā, passitabbā’’ti vā kiñci padaṃ icchitabbaṃ, asutaparikappanena pana payojanaṃ natthīti **‘‘santāti padasambandho’’**ti vuttaṃ. Evañca katvā tena virāgabhāvena tesaṃ santatāti ayampi attho vibhāvito hoti. Rūpajjhānādīnaṃ viya natthi etesaṃ ārammaṇabhūtaṃ vā phalabhūtaṃ vā rūpanti arūpā. Arūpā eva āruppā. Tenāha **‘‘ārammaṇato ca vipākato ca rūpavirahitā’’**ti. Nāmakāyenāti sahajātanāmasamūhena.

「諸支が寂静であることによって」とは、蓋などの対立する諸法が極めて遠く離れていることによって禅支が寂静であること、あらゆる苦悩や熱悶が鎮まっていることによって、という意味である。それによってそれらの禅定がより勝れたものなどとなるからである。「対象が寂静であることによって」とは、物質的な反作用などが消え去ることによって微細なものなどとなった寂静の状態による。実にそれらの修習と現観によってよく修められた微細な様相の対象が寂静である度合いに応じて、禅支の寂静さも知るべきである。対象の寂静さによる寂静さは、出世間の法を対象とする省察によって明らかにされるべきである。「解脱せる」とは、勝れて解脱した。「実にそれらの禅定の諸法は、そのように生じた準備段階の修習によって、その卓越性ゆえに極めて対立する諸法から解脱することによって働くのであり、それゆえにそのように解脱したことによって、父の膝の上で手足を投げ出した子供のように、恐れのない状態で対象に傾注して働くのであり、それらは解脱(ヴィモッカ)と呼ばれる」それゆえに「対立する諸法から解脱していることによって、また対象に傾注していることによって解脱と呼ばれる」と言われた。たとえ無色定が対象の超越によって得られるべきものであり、諸支の超越によるのではないとしても、対象に離貪していない者には禅定の超越はなく、禅定を超越した者においては対象はまさに超越されているゆえに、対象の超越を語らずに「色界の禅定を超越して」とだけ説かれた。「色を超越して」という聖典の言葉において「成就されるべき、見られるべき」などの何らかの語が補われるべきであるが、聞かれない推測には意味がないので、「寂静なる、と語の結合がある」と言われた。そしてこのようにして、その離貪の状態によってそれらが寂静であるというこの意味も明らかにされる。色界の禅などのように、これらには対象となる色も結果となる色もないゆえに「無色」である。無色のものそのものが「無色定(アールッパ)」である。それゆえに「対象からも異熟からも色を離れている」と言われた。「名身によって」とは、倶生の名(精神)の集まりによって。

67. Saṃyojentīti bandhanti. Kehīti āha **‘‘khandhagatī’’**tiādi. Asamucchinnarāgādikassa hi khandhādīnaṃ āyatiṃ khandhādīhi sambandho, samucchinnarāgādikassa pana taṃ natthi katānampi kammānaṃ asamatthabhāvāpattitoti. Rāgādīnaṃ anvayato ca saṃyojanaṭṭho siddhoti āha **‘‘khandhagati…pe… vuccantī’’**ti. Parikkhayenāti samucchedena sabbaso āyatiṃ anuppajjanena. Paṭipakkhadhammānaṃ anavasesato savanato pīḷanato soto, ariyamaggoti āha **‘‘sototi ca maggassetaṃ adhivacana’’**nti. Taṃ sotaṃ ādito panno adhigacchīti sotāpanno, aṭṭhamako. Tenāha **‘‘taṃsamaṅgīpuggalassā’’**ti, paṭhamamaggakkhaṇe puggalassāti adhippāyo. Idha pana panna-saddo ‘‘phalasacchikiriyāya paṭipanno’’tiādīsu (a. ni. 8.59) viya vattamānakālikoti āha **‘‘maggena phalassa nāmaṃ dinna’’**nti. Abhītakālikatte pana sarasatova nāmalābho siyā. Virūpaṃ sadukkhaṃ saupāyāsaṃ nipātetīti vinipāto, apāyadukkhe khipanako. Dhammoti sabhāvo. Tenāha **‘‘attāna’’**ntiādi. Kasmāti avinipātadhammatāya kāraṇaṃ pucchati. Apāyaṃ gamentīti apāyagamanīyā. Sambujjhatīti sambodhi, ariyamaggo. So pana paṭhamamaggassa adhigatattā avasiṭṭho eva adhigandhabbabhāvena icchitabboti āha **‘‘uparimaggattaya’’**nti.

67. 「結びつける」とは、縛る。「何によってか」に対して「蘊や境遇……」などと言われた。実に貪りなどを断ち切っていない者には、蘊などが将来の蘊などと結びつくのであり、貪りなどを断ち切った者には、なされた業も無力となることによってそれがないからである。貪りなどの追従によって結びつきの意味が成立するゆえに「蘊や境遇……乃至……と言われる」と述べた。「滅尽によって」とは、断絶によって、将来においてまったく生じないことによって。「対立する諸法を余すところなく押し流し、圧迫することから『流れ』とは聖道のことである」ゆえに、「『流れ』とは道のことばである」と言われた。その流れに最初に入った(至った)者が預流者であり、第八(向預流)の者のことである。それゆえに「それを具備せる人の」と言われた。第一の道の瞬間の人のことである、というのが意図である。しかしここで「入った(パンナ)」という語は、「果の現証に向けて実践している(パティパンナ)」などにおけるように現在時制であるゆえに、「道によって果の名が与えられた」と言われた。過去時制であるなら、自然に名が得られるであろう。「醜悪で、苦痛と悶絶を伴うものへ落とす(ニパーテーティ)」ゆえに「堕悪趣(ヴィニパータ)」であり、悪趣の苦しみに投げ込むものである。「法(ダンマ)」とは性質のことである。それゆえに「自己を……」などと言われた。「なぜか」とは、不堕悪趣の性質である理由を問うている。「悪趣へ行かせる」とは、悪趣へ行かせるべきもの。「正しく覚る」ゆえに「正覚(サンボディ)」であり、聖道のことである。しかしそれは第一の道が得られているため、残りのものこそが得られるべきものとして意図されるべきであるゆえに「上位の三つの道」と言われた。

**Vaṇṇabhaṇanatthaṃ vuttāni,**na pahātabbānīti adhippāyo. Oḷārikānaṃ rāgādīnaṃ samucchindanavasena pavattamāno dutiyamaggo avasiṭṭhānaṃ tesaṃ tanubhāvāpattiyā uppanno nāma hotīti vuttaṃ **‘‘rāgadosamohānaṃ tanuttā’’**ti. Adhiccuppattiyāti kadāci karahaci uppajjanena. Pariyuṭṭhānamandatāyāti samudācāramudutāya. Abhiṇhaṃ na uppajjanti tajjassa ayonisomanasikārassa anibaddhabhāvato. Mandamandā uppajjanti vipallāsānaṃ tappaccayānañca mohamānādīnaṃ mudutarabhāvato. Bahalāva uppajjanti vatthupaṭisevanatoti adhippāyo. Tenāha **‘‘tathā hī’’**tiādi.

「称賛のために説かれたのであり、」断ぜられるべきではない、というのが意図である。粗大な貪りなどを断絶することによって働く第二の道は、残りのそれらを希薄にする状態に達することによって生じたものとなるゆえに、「貪・瞋・痴の希薄さによって」と説かれた。「偶然の生起によって」とは、ごくまれに生じることによって。「現行の微弱さによって」とは、振る舞いの弱さによって。それにふさわしい不正な作意が連続しないことによって、頻繁には生じない。転倒とそれらを条件とする痴や慢などがより微弱であることによって、極めて微弱に生じる。対象を経験することによって重く生じる、というのが意図である。それゆえに「実にこのように」などと言われた。

Sakiṃ āgamanadhammoti paṭisandhivasena sakiṃyeva āgamanasabhāvo. Ekavāraṃyeva…pe… āgantvāti iminā pañcasu sakadāgāmīsu cattāro vajjetvā ekoyeva gahitoti dassento **‘‘yopi hī’’**tiādimāha. Tattha yvāyaṃ pañcamako sakadāgāmī ‘‘idha maggaṃ bhāvetvā devaloke nibbatto, tattha yāvatāyukaṃ ṭhatvā puna idhūpapajjitvā parinibbāyatī’’ti vutto, tassa ekabījinā saddhiṃ kiṃ nānākaraṇanti? Ekabījissa ekā paṭisandhi, sakadāgāmissa dve paṭisandhiyoti idaṃ tesaṃ nānākaraṇaṃ. Yassa hi sotāpannassa ekaṃyeva khandhabījaṃ, na ekaṃ attabhāvaggahaṇaṃ, so ekabījīti.

「一度だけ還る性質の者」とは、結生(再生)の観点から一度だけ還る性質の者。「一度だけ……乃至……還って」とは、これによって五種の一来者のうち四者を除外して一人だけが把握されたことを示して、「実に〜の者も」などと述べた。そこにおいて「ここで道を修習して天界に生まれ、そこで寿命の限りとどまって再びここに生まれて完全な涅槃に入る」と説かれたこの第五の一来者は、一種子者(預流者の一種)と何の違いがあるのか。一種子者には一つの結生(再生)があり、一来者には二つの結生がある、というのが彼らの相違である。実に、一つの蘊の種子のみをもち、一つの個体の把握ではない預流者が一種子者である。

Heṭṭhāti ‘‘amahaggatabhūmiya’’nti heṭṭhā sambandhanena. Heṭṭhābhāgassa hitāti heṭṭhābhāgiyā, tesaṃ. Tānīti orabbhāgiyasaṃyojanāni. Kāmāvacare nibbattatiyeva ajjhattaṃ saṃyojanattā. Tathā hesa dūratopi āvattidhammo evāti dassetuṃ gilabaḷisamacchādayo upamābhāvena vuttā. Opapātikoti iminā gabbhavāsadukkhābhāvamāha. Tattha parinibbāyīti iminā sesadukkhābhāvaṃ. Tattha parinibbānatā cassa kāmaloke khandhabījassa apunārohavasenevāti dassetuṃ **‘‘anāvattidhammo’’**ti vuttaṃ.

「下において」とは、「広大ならざる境地において」と下で結合することによって。「下方の部分に適した」とは下分結であり、それらのことである。「それらは」とは、下分結のことである。内なる結びつきであることによって、欲界においてまさに生じる。実にそれゆえに遠くからでも戻る性質のものであることを示すために、針を飲み込んだ魚などが譬喩として説かれた。「化生のもの」とは、これによって母胎に宿る苦しみがないことを述べている。「そこで完全に涅槃に入る者」とは、これによって残りの苦しみがないことを述べている。そしてそこで完全に涅槃に入ることは、欲界において蘊の種子が再び生えないことによる、と示すために「還らない性質の者」と説かれた。

68. Kevalāti lokiyābhiññāhi asammissā. Lokiyapañcābhiññāyopi sīlānaṃ ānisaṃso tadavinābhāvato. Tāpi dassetuṃ ākaṅkheyya ce…pe… evamādimāhāti yojanā. Āsavānaṃ anavasesappahānato arahattamaggoyeva visesato ‘‘āsavakkhayo’’ti vattabbataṃ arahatīti vuttaṃ **‘‘āsavakkhaye kathite’’**ti, aññathā sabbāpi chaḷabhiññā āsavakkhayo evāti. Imesaṃ guṇānanti lokiyābhiññānaṃ. Yathā purisassa muṇḍitaṃ sīsaṃ sikhāvirahitattā na sobhati, evaṃ desanāya sīsabhūtāpi aggamaggakathā lokiyābhiññārahitā na sobhatīti āha **‘‘ayaṃ kathā muṇḍābhiññākathā nāma bhaveyyā’’**ti. Iddhivikubbanāti iddhi ca vikubbanā ca. Vikubbanaggahaṇena cettha vikubbaniddhimāha, iddhiggahaṇena tadaññaṃ sabbañca abhiññākiccaṃ. Yuttaṭṭhāneyevāti lokiyābhiññānaṃ nibbattanassa viya desanāya yuttaṭṭhāneyeva. Etena na kevalaṃ desanakkamenevāyaṃ desanā, atha kho paṭipattikkamenapīti dasseti. Visuddhimagge (visuddhi. 2.369) vuttā, tasmā tattha vuttanayeneva veditabbāti adhippāyo.

「純粋な」とは、世間的な神通と混ざり合わないもの。「世間的な五神通も戒の功徳である、それと不離であるから。それらをも示すために『もし望むなら……乃至……』などと述べた」と結合する。漏(煩悩)を余すところなく断じることから、阿羅漢道こそが特別に「漏尽」と呼ばれるにふさわしいゆえに、「漏尽が説かれた時」と言われた。そうでなければ六神通のすべてが漏尽そのものとなってしまうからである。「これらの徳の」とは、世間的な神通の。人が頭を剃って髷がないと美しくないように、説示の頭たる最上の道(阿羅漢道)の説示であっても、世間的な神通を欠いていては美しくないゆえに、「この説話は禿頭の神通説話と呼ばれるであろう」と言われた。「神変と変現」とは、神変と変現のことである。そしてここでの変現の把握によって変現神通を指し、神変の把握によってそれ以外のすべての神通の働きを指す。「適切な箇所においてのみ」とは、世間的な神通を生じさせるのがそうであるように、説示の適切な箇所においてのみである。これによって単に説示の順序によるだけでなく、実践の順序による説示でもあることを示している。『清浄道論』(Visuddhimagga 2.369)で説かれたので、そこで説かれた方法によって知るべきであるというのが意図である。

69. Āsavānaṃ khayāti heṭṭhimamaggena khepitāvasiṭṭhānaṃ āsavānaṃ arahattamaggena samucchindanato. Yasmā arahattamaggo na kevalaṃ āsaveyeva khepeti, atha kho avasiṭṭhe sabbakilesepi, tasmā āha **‘‘sabbakilesānaṃ khayā’’**ti. Lakkhaṇamattañhettha āsavaggahaṇaṃ, āsavānaṃ ārammaṇabhāvassapi anupagamanato anāsavaṃ. Yasmā pana tattha āsavānaṃ lesopi natthi, tasmā vuttaṃ **‘‘āsavavirahita’’**nti. Samādhi vutto cetosīsena yathā ‘‘cittaṃ paññañca bhāvaya’’nti (saṃ. ni. 1.23, 192; peṭako. 22; mi. pa. 2.1.9) adhippāyo. Rāgato vimuttattā avijjāya vimuttattāti idaṃ ujuvipaccanīkapaṭippassaddhidassanaṃ daṭṭhabbaṃ, na tadaññesaṃ pāpadhammānaṃ appaṭippassaddhattā. Idāni tameva samādhipaññānaṃ rāgāvijjāpaṭipakkhataṃ āgamena dassetuṃ **‘‘vuttaṃ ceta’’**ntiādi vuttaṃ. Samathaphalanti samathassa phalaṃ lokiyasamathabhāvanāya hi vipassanāgatāya āhitaphalassa lokuttarasamathassa sarikkhakaphalo cetovimutti. Vipassanāphalanti etthāpi eseva nayo. Attanoyevāti sutamayañāṇādinā viya parapaccayataṃ nayaggāhañca muñcitvā paratoghosānugatabhāvanādhigamabhūtatāya attanoyeva paññāya paccakkhaṃ katvā sayambhuñāṇabhūtāyāti adhippāyo. Tenāha **‘‘aparappaccayena ñatvā’’**ti.

69. 「諸漏の滅尽によって」とは、下位の道によって滅ぼされて残った諸漏を阿羅漢道によって断絶することによる。阿羅漢道は諸漏のみを滅ぼすのではなく、残るすべての煩悩をも滅ぼすゆえに、「一切の煩悩の滅尽によって」と言われた。ここでの諸漏の把握は単なる特徴づけであり、諸漏の対象となる状態にも至らないゆえに無漏である。しかしそこには諸漏のわずかな痕跡すらないゆえに、「漏を離れた」と説かれた。三昧は心の筆頭として説かれたのであり、「心と智慧を修習せよ」という意図である。「貪りから解脱したことによって、無明から解脱したことによって」とは、直接対立するものの止滅を示すものと見るべきであり、それ以外の悪法が止滅していないからではない。いまやその三昧と智慧が貪りと無明に対立するものであることを聖典によって示すために、「そしてこれは説かれた」などと述べた。「止の結果」とは、止(サマタ)の果報である。世間的な止の修習によって観に至ったものに与えられた果報である出世間の止の、相似の果報が心解脱である。「観の結果」というここにおいても同様の道理である。「自分自身で」とは、聞くことによって生じる智慧などのように他者に依存することや推論による把握を離れ、他者からの教えに従った修習の達成であることによって、自分自身の智慧によって現証して、自覚の智慧となったものである、というのが意図である。それゆえに「他者に依ることなく知って」と言われた。

Sabbampi tanti sabbampi sattarasavidhaṃ taṃ yathāvuttaṃ sīlānisaṃsaṃ. Yathā ānisaṃsavante sammadeva sampādite tadānisaṃsā dassitā eva honti tadāyattabhāvato, evaṃ ānisaṃsapadhānayogyabhāvena dassite tadānisaṃsā dassitā eva hontīti āha **‘‘sampiṇḍetvā dassento’’**ti. Vuttasseva atthassa punavacanaṃ nigamananti vuttaṃ **‘‘nigamanaṃ āhā’’**ti. Pubbeti desanārambhe. Evaṃ vuttanti ‘‘sampannasīlā’’ti evamādinā ākārena vuttaṃ. Idaṃ sabbampīti idaṃ ‘‘sampannasīlā’’tiādikaṃ sabbampi vacanaṃ. Etaṃ paṭiccāti etaṃ sampannasīlassa bhikkhuno yathāvuttasattarasavidhānisaṃsabhāgitaṃ sandhāya vuttaṃ. Idameva hi ‘‘iti yaṃ taṃ vuttaṃ, idametaṃ paṭicca vutta’’nti vacanaṃ sandhāya **‘‘sabbampi taṃ sīlānisaṃsaṃ sampiṇḍetvā dassento’’**ti vuttaṃ. Etthaādito chahi ānisaṃsehi parittabhūmikā sampatti gahitā, tadantaraṃ pañcahi lokiyābhiññāhi ca mahaggatabhūmikā, itarehi lokuttarabhūmikāti evaṃ catubhūmikasampadānisaṃsasīlaṃ nāmetaṃ mahantaṃ mahānubhāvaṃ, tasmā taṃsampādane sakkaccakāritā appamattena bhavitabbaṃ.

「そのすべてをも」とは、十七種にわたる上述の戒の功徳のすべてを。功徳をもつものが正しく成就された時、その功徳はそれに依存していることによってすでに示されているように、功徳の主要な適合性によって示された時、その功徳はまさに示されているゆえに、「総括して示すにあたり」と言われた。すでに説かれた意味を再び語るのが結語であるゆえに、「結語を述べた」と言われた。「以前に」とは、説示の始めに。「このように説かれた」とは、「戒を具足せる者」などの様態で説かれた。「このすべてをも」とは、この「戒を具足せる者」などのすべての言葉を。「これに依って」とは、戒を具足せる比丘が上述の十七種の功徳に与ることを意図して説かれた。「実に『このように説かれたそれは、これに依って説かれた』という言葉を意図して、『その一切の戒の功徳を総括して示すにあたり』と言われた」のである。ここにおいて初めの六つの功徳によって小界(欲界)の成就が把握され、その後の五つの世間的な神通によって広大(色界・無色界)の境地が、その他のものによって出世間の境地が把握されている。このように四つの境地の成就を功徳とするこの戒は、大いなるものであり、大いなる威力をもつ。それゆえにその成就において、怠ることなく恭敬をもってなす者となるべきである。

Ākaṅkheyyasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

願経の注釈に対する隠れたる意味の解明を完了する。

7. Vatthasuttavaṇṇanā

7. 布喩経の注釈

70. Chādetabbaṃ ṭhānaṃ vasati paṭicchādetīti vatthaṃ. Yaṃ samānaṃ viya na sabbaso minoti, mānassa pana samīpe, taṃ upamānaṃ. Upamīyati etāyāti upamā, upamāya bodhakavacanaṃ upamāvacanaṃ. Katthaci sutte. Atthanti upamiyatthaṃ. Paṭhamaṃ upamaṃ vatvā tadanantaraṃ atthaṃ vatvā puna upamaṃ vadanto **‘‘upamāya atthaṃ parivāretvā dassetī’’**ti vutto. Atthena upamaṃ parivāretvāti etthāpi eseva nayo. Idāni te cattāropi pakāre sutte āgatanayeneva dassento **‘‘seyyathāpissu, bhikkhave’’**tiādimāha. Tattha dve agārāti dve paṭivissakagharā. Sadvārāti sammukhadvārā.

70. 覆われるべき場所を覆う(ヴァサティ)、隠すゆえに「布(ヴァッタ)」である。等しいかのようであって完全に測るのではないが、測定の近くにあるもの、それが「譬喩(アップ・マーナ)」である。これによって比較されるゆえに「譬喩(ウパマー)」であり、譬喩を知らせる言葉が譬喩の言葉である。ある経において。「意味を」とは、譬喩される意味を。初めに譬喩を述べ、その直後に意味を述べ、再び譬喩を述べることを、「譬喩によって意味を取り囲んで示す」と述べた。「意味によって譬喩を取り囲んで」というここにおいても同様の道理である。いまやそれら四つの様態を経に説かれた方法に従って示すために、「比丘たちよ、たとえば」などと述べた。そこにおいて「二つの家」とは、隣り合う二つの家。「扉のある」とは、向かい合った扉のある。

Svāyanti so ayaṃ evaṃ upamādassanavasenapi nānānayenapi dhammadesako bhagavā. Ekaccānaṃ veneyyānaṃ atthassa sukhāvabodho paṭhamaṃ upamādassane hetu, evaṃ paṭhamaṃ atthadassane, upamāya atthaparivāraṇe, atthena upamāparivāraṇe cā’’ti imamatthaṃ dasseti **‘‘esa nayo sabbatthā’’**ti iminā. Dhammadhātuyāti sabbaññutaññāṇassa. Tañhi dhammadhātupariyāpannattā yathāvuttadhamme ca sabbepi ñeyyadhamme ca padahati yathāsabhāvato bujjhati bodheti cāti dhātu, dhīyanti vā dhammā etāya sabbākārato ñāyanti ñāpiyanti cāti dhammadhātu. Tassā pana suṭṭhu saccasampaṭivedhavasena laddhattā suppaṭividdhattāti, yadaggena vā ñeyyaṃ tāya suppaṭividdhaṃ, tadaggena sāpissa suppaṭividdhā evāti āha **‘‘suppaṭividdhattā’’**ti.

「彼その人は」とは、そのように譬喩を示すことによっても様々な方法によっても法を説く世尊のことである。ある教化されるべき者たちにとって意味が容易に理解されることが、初めに譬喩を示す理由であり、このように初めに意味を示すこと、譬喩によって意味を取り囲むこと、意味によって譬喩を取り囲むことにおいても同様である、というこの意味を「この道理はすべてにおいて同じである」というこれによって示している。「法界によって」とは、一切知智によって。実にそれは法界に含まれるがゆえに、上述の法においても知られるべきすべての法においても打ち込み、本性に従って覚り、覚らせるがゆえに「界(要素)」であり、あるいは諸法がこれによってあらゆる様態から置かれ、知られ、知らしめられるゆえに「法界」である。そしてそれは真理の正しい通達によって得られたものであるゆえに「よく通達されたものによって」であり、あるいは知られるべきものがそれによってよく通達された度合いに応じて、それもまた彼によく通達されているゆえに、「よく通達されたものによって」と言われた。

Pakatipariyodātassa cittassa āgantukehi upakkilesehi upakkiliṭṭhabhāvadassanatthaṃ saṃkiliṭṭhavatthadassananti katvā vuttaṃ **‘‘pakatiparisuddhaṃ vattha’’**nti. Rajādināti ettharajo nāma reṇu. Ādi-saddena aṇutajjāridhūmādikaṃ vatthassa aparisuddhikāraṇaṃ saṅgaṇhāti. Sabbaso kilissati vinassati visuddhi etenāti saṃkileso, tena saṃkilesena paṃsurajādinā saṃkiliṭṭhaṃ vaṇṇavināsanena vidūsitaṃ. Malaṃ masi. Jallikā vuccati loṇapaṭalādi chaviyā upari ṭhitaṃ sarīramalaṃ. Ādisaddena sarīrajallameva assukheḷasiṅghāṇikādikaṃ tadaññamalaṃ saṅgaṇhāti. Gahitattāti pariyonandhanavasena gahitattā. Rajanti sattā tenāti raṅgaṃ, raṅgameva raṅgajātaṃ yathā kopameva kopajātaṃ. Upanāmeyyāti pakkhipeyya. Nīlakatthāyāti nīlavaṇṇatthāya. Palāsanīlādiketi ādi-saddena kāḷasāmādiṃ saṅgaṇhāti. Haliddikakudhaselādike pītakaraṅge. Lākhāpattaṅgarasādike lohitakaraṅge. Mahārajanaloddakandulādike mandarattaraṅge. Duṭṭhu rajitavaṇṇaṃ apabhassaraṃ. Tenāha **‘‘aparisuddhavaṇṇamevassā’’**ti. Īdisanti durattavaṇṇaṃ. Tasmiṃ vatthe raṅgajātaṃ sayaṃ suparisuddhaṃ samānaṃ kissa hetu kena rattavaṇṇaṃ aparisuddhaṃ hotīti raṅgajātassa niddosataṃ vadati. Tenāha **‘‘yasmā panā’’**tiādi.

本質として清浄である心が、客塵の随煩悩によって汚される状態を示すために、汚れた布の例示をなして「本質的に清浄な布」と述べられた。「塵などによって」という点において、塵とは微塵のことである。「など」という語によって、煤煙などの布の不浄の原因となるものが包摂される。これによって完全に汚れ、清浄さが滅びるがゆえに汚染であり、その土埃などの汚染によって汚され、色彩の損壊によって損なわれた。垢とは汚れ(油煙)である。痂皮とは、塩分を帯びた膜などの皮膚の上に生じる身体の垢をいう。「など」という語によって、身体の垢そのものや、涙・唾液・鼻汁などのそれ以外の垢を包摂する。「染みついているため」とは、覆い包まれることによって染みついているためである。それによって有情たちが染まるがゆえに染料であり、染料そのものを染料の類という。それは怒りそのものを怒りの類というようなものである。「浸すならば」とは、投入するならばということである。「青色にするために」とは、青い色彩にするためである。「葉の青色などにおいて」の「など」という語によって、漆黒や暗褐色などを包摂する。ウコンやクダセラなどの黄色の染料において。ラックや蘇芳の汁などの赤色の染料において。ベニバナやロドラなどの薄赤色の染料において。拙く染められた色彩は輝きを欠いている。それゆえに「不純な色彩の布となる」と言われた。「このような」とは、悪く染まった色彩のことである。その布において、染料自体は極めて清浄であるのに、なぜ、何によって染まった色彩が不純となるのかと、染料自体の無過失を説く。それゆえに「しかし〜ゆえに」などと言われた。

Saṃkilesapakkhaṃ dassentena asaṃkiliṭṭhameva vatthaṃ udāharitabbanti pākaṭoyamattho, saṃkiliṭṭhavatthanidassanena pana ‘‘siyā nu kho aññopi koci viseso’’ti adhippāyena pucchati **‘‘kasmā panā’’**tiādinā. Itaro atthavisesoti dassento **‘‘vāyāmamahapphaladassanattha’’**ntiādimāha. Ettha ca saṃkiliṭṭhacittavisodhanavidhāne saṃkiliṭṭhavatthaṃ nidassatabbanti paṭiññā, vāyāmamahapphaladassanatthanti hetuattho. Yathā hītiādi anvayattho. Na tattha jātikāḷake viyātiādi byatirekattho. Sadisūdāharaṇaṃ pana malaggahitakaṃsapātiādi daṭṭhabbaṃ. Evaṃ cittampītiādi opammatthassa upameyyaupanayanaṃ. Tattha pakatiyāti akittimena sabhāvena. Tanti cittaṃ. Sāmaññaggahaṇañcetaṃ cittabhāvāvisesato. Tenāha **‘‘sakalepī’’**ti. Paṇḍarameva na saṃkiliṭṭhaṃ saṃkilesehi asamannāgatabhāvato. Nanu kiriyāmayacittehi vipākasantāne visesādhānaṃ labbhati, aññathā katavināsā katabbhāgamā āpajjeyyuṃ? Kiñcāpi labbhati, tassa saṃkileso vaṭṭupanissayo, asuddhi vā na hoti, asaṃkileso vivaṭṭupanissayo, visuddhi vā na hoti eva. Upakkiliṭṭhanti panetaṃ upakkilesanārahassa cittassa vasena vuttaṃ, na vipākapabandhassa. Tenāha **‘‘pabhassaramidaṃ bhikkhave citta’’**nti, **‘‘paṇḍaramevā’’**ti ca. Tañca khoti pana sakasantatipariyāpannatāya nesaṃ kevalaṃ ekattanayavasena vuttaṃ, na vipākadhammānaṃ kilesāsamaṅgibhāvato. Atha vā upakkiliṭṭhanti iminā upakkilesahetu tattha vijjamānaṃ visesādhānamāha, na ‘‘saṃkiliṭṭhā dhammā’’tiādīsu (dha. sa. 77.dukamātikā) viya taṃsamaṅgitanti daṭṭhabbaṃ. Visodhiyamānanti vipassanāpaññāya anukkamena sabbupakkilesehi vimociyamānaṃ. Sakkā aggamaggakkhaṇe pabhassarataraṃ kātuṃ, yato na puna upakkilissati. Evantiādi vuttassevatthassa nigamanaṃ.

汚染の側面を示す者は汚れていない布こそを例示とすべきであるというのは明白な事柄であるが、汚れた布の例示によって「あるいは何か他の特別な意味があるのだろうか」という意図から、「しかしなぜ」などと尋ねる。他方は特別な意味を示すものとして「努力の大いなる果を示すため」などと言った。そしてここで、汚れた心を清浄にする方法において、汚れた布を例示とすべきであるというのが主張(宗)であり、「努力の大いなる果を示すため」というのが理由の意義(因)である。「実に〜のように」などは同喩の意義である。「そこにおいて生まれつき黒いもののようではなく」などは異喩の意義である。同等の例示としては、垢のついた青銅の鉢などを見るべきである。「このように心もまた」などは比喩の意味を受喩へと適用することである。そこにおいて「本質によって」とは、作られたものでない本性によって、ということである。「その」とは心のことである。これは心の状態に差異がないことから総括的に捉えたものである。それゆえに「全体においても」と言われた。清浄(白色)そのものであり、汚染を具足していないがゆえに汚れていない。果たして作用の心によって異熟の相続において特殊な資質が得られるのではないか。さもなければ作られたものの滅失や作られていないものの到来が生じてしまうのではないか。たとえ得られるとしても、それへの汚染は輪廻の依処とならず、あるいは不浄とならず、無汚染は還滅の依処とならず、あるいは清浄とはならない。しかしこの「汚された」というのは、随煩悩にふさわしい心に基づく説示であって、異熟の連続に基づくものではない。それゆえに「比丘たちよ、この心は輝くものである」「清浄そのものである」と言われた。そして「それもまた」とは、自らの相続に含まれるものであることから、単に同一性という観点から述べられたものであって、異熟の諸法が煩悩を具足しているからではない。あるいは「汚された」ということによって、随煩悩を原因としてそこに存在する特殊な資質の獲得を述べているのであって、「汚染された諸法」などにおけるように、それを具足していることではないと見るべきである。「清浄にされるとき」とは、ヴィパッサナーの智慧によって次第に一切の随煩悩から解放されることである。二度と汚されることがないがゆえに、最上の道の刹那において、さらに輝くものとすることが可能である。「このように」などは、述べられた意味の結びである。

Duṭṭhagatiparipūraṇavasena paṭipajjanaṃ paṭipatti. Sā eva kilesadarathapariḷāhādivasena upāyāsadukkhā, kucchitā vā gati pavatti, duggatihetūti vā duggati, duggatiyā pana paṭipattiyā gandhabbato, tassā vā nipphannabhāvato kucchito, dukkhā ca gatīti duggati. Saṃkiliṭṭhacittoti idaṃ tassā paṭipattiyā duggatibhāvadassanatthaṃ, na visesanatthaṃ. Na hi asaṃkiliṭṭhacittassa pāṇaghātādivasena pavatti. Saṃkiliṭṭhacittoti lābhāsāya sabbaso kiliṭṭhacitto. Dūteyyapahiṇagamananti dūteyyaṃ vuccati dutakammaṃ, gihīnaṃ paṇṇaṃ vā sāsanaṃ vā gahetvā tattha tattha gamanaṃ, pahiṇagamanaṃ gharāgharaṃ pesitassa khuddakagamanaṃ, dūteyyagamanaṃ pahiṇagamanañca gacchati. Vejjakammanti ananuññāte ṭhāne lābhāsāya gahaṭṭhānaṃ bhesajjaṃ karoti. Saṅghabhedakathā parato āgamissati. Veḷudānādīhīti veḷudānapattadānapupphadānādīhi micchājīvena jīvikaṃ kappeti. Sakalampīti ‘‘atthi anācāro, atthi agocaro’’tiādinā vibhaṅge (vibha. 513, 514) āgataṃ sabbampi anācāraṃ agocarañca caraṇavasena paripūreti.

悪処を満たすことによる実践が行住(実践)である。それ自体が煩悩の懊悩や熱苦などによる激しい苦しみであり、あるいは見下げられた境遇・活動であり、あるいは悪趣の原因となるがゆえに悪趣であり、また悪趣の実践に向かうことから、あるいはそれによって達成された状態であることから、見下げられ、かつ苦しい境遇であるがゆえに悪趣である。「汚れた心を持つ者」というのは、その実践が悪趣であることを示すためのものであり、限定するためのものではない。実に、汚れていない心を持つ者が殺生などによって活動することはない。「汚れた心を持つ者」とは、利得への期待によって完全に汚れた心を持つ者のことである。「使者や使い走りの行状」とは、使者とは使者の仕事をいい、在家の手紙や言伝を持ってあちこちへ行くことであり、使い走りとは家々へと遣わされる細かな使いのことであり、使者の行状や使い走りの行状を行う。「医術の仕事」とは、許されていない場所で利得を求めて在家のために調薬を行うことである。破僧の話は後に出てくる。「竹を与えることなどによって」とは、竹の贈与、葉の贈与、花の贈与などの邪命によって生計を立てることである。「すべてを」とは、「不作法がある、非行処がある」などと『分別論』に説かれたすべての不作法と非行処を行住によって満たすことである。

‘‘Nirayampi **…pe… pettivisayampi gacchatī’’**ti vatvā tattha pettivisayagamanaṃ dassento **‘‘samaṇayakkho nāma hotī’’**tiādimāha.

「地獄にも……餓鬼の世界にも赴く」と述べて、そこにおける餓鬼の世界への赴きを示すために「沙門の夜叉と呼ばれる者となる」などと言われた。

Sukkapakkhe parisuddhanti sabbaso visuddhaṃ asaṃkiliṭṭhaṃ. Parisuddhattā eva pariyodātaṃ, pabhassaranti attho. Surattavaṇṇamevassāti suṭṭhu rattavaṇṇameva assa. Parisuddhavaṇṇamevassāti nīlavaṇṇopissa parisuddho ca bhaveyyāti evamādiṃ sandhāyāha **‘‘kaṇhapakkhe vuttapaccanīkeneva veditabbā’’**ti. Raṅgajātantiādi pana tattha vuttavaseneva veditabbaṃ. Paṭipattisugatiādīsu yaṃ vattabbaṃ, taṃ paṭipattiduggatiādīsu vuttavipariyāyena veditabbaṃ. Parisuddhacittoti suddhāsayo. Dasa kusalakammapathe paripūretīti idaṃ kaṇhapakkhe ‘‘dasa akusalakammapathe paripūretī’’ti vuttassa paṭipakkhadassanavasena vuttaṃ. Yathā hi tattha abhijjhābyāpādamicchādiṭṭhiggahaṇena kammapathasaṃsandananayena kammapathaṃ appattāya ca agāriyassa tathārūpāya micchāpaṭipattiyā saṅgaho icchito, evaṃ idhāpi anabhijjhāabyāpādasammādiṭṭhiggahaṇena alobhādosāmohavasena pavattā agāriyassa sammāpaṭipatti saṅgahitāti daṭṭhabbaṃ, na kammapathappattāvāti. Manussamahantatanti jātirūpabhogādhipateyyādivasena manussesu mahantabhāvaṃ. Dasahi ṭhānehi aññesaṃ devānaṃ abhibhavo devamahantatā. Paṭipatti sugatiyā bhājiyamānattā **‘‘anāgāmimaggaṃ bhāvetī’’**ti tathā anāgāmibhāvanaṃ pāpetvā ṭhapitā. Gahitaggahaṇena sukhānubhavaṭṭhānassa adhippetattā tadabhāvato asaññibhavaṃ anādiyanto **‘‘dasasu vā brahmabhavanesū’’**tiādimāha.

白の側面において、「清浄な」とは完全に清浄で汚れていないことである。清浄であるがゆえに汚れがなく、輝くものであるという意味である。「まことによく染まった色彩となる」とは、実に美しく染まった色彩となるということである。「不純でない色彩となる」とは、その青色も清浄となるであろうというようなことを指して「黒の側面で説かれたことと逆のものとして知られるべきである」と言われた。「染料の類」などは、そこで述べられた趣旨に従って知られるべきである。実践や善趣などにおいて述べられるべきことは、実践や悪趣などにおいて述べられたことの反対として知られるべきである。「清浄な心を持つ者」とは、純粋な意図を持つ者である。「十の善業道を全うする」というのは、黒の側面において「十の不善業道を全うする」と述べられたことの対治を示すことによって述べられたものである。実にそこにおいて貪欲・瞋恚・邪見を挙げることで業道の類推の手法により、業道に達していない在家の相応の邪なる実践の包摂が意図されたように、ここでもまた無貪・無瞋・正見を挙げることによって、無貪・無瞋・無痴により生じる在家の正しき実践が包摂されたと見るべきであり、業道に達したものだけではない。「人間の大いなる状態」とは、家柄・容姿・富・支配権などによる人間の中での偉大な状態である。十の境地によって他の神々を凌駕することが神々の大いなる状態である。実践は善趣によって区分されるものであるから「不還の道を修める」と、そのように不還の修習へと至らせて置かれた。取られたものを取ることで楽の享受の場所が意図されているため、それが存在しないことから無想有情天を取らずに「あるいは十の梵天の世界に」などと言われた。

71. Sakabhaṇḍe chandarāgo abhijjhāyanaṭṭhena abhijjhā, abhijjhāyanāti attho. Parabhaṇḍe chandarāgo visamaṃ lubbhatīti visamalobho. Evampi abhijjhāvisamalobhānaṃ viseso hotīti dassento **‘‘atha vā’’**tiādimāha. Tattha attano santakaṃ taṃsadisañca yuttaṭṭhānaṃ. Yaṃ yācitaṃ, appakasirena vā sakkā laddhuṃ, taṃ pattaṭṭhānaṃ. Paradāragarudārāti ayuttaṭṭhānaṃ. Yaṃ apatthaniyaṃ, yassa vā patthanāya byasanaṃ āpajjati, taṃ appattaṭṭhānaṃ. Theroti mahāsaṅgharakkhitatthero, yena aṭṭhakathā potthakaṃ āropitā. So hi antevāsikesu sākacchantesu evamāha. Sopi imasmiṃyeva sutte vinibbhogo na labbhati cittasaṃkilesassa adhippetattā. Tenāha **‘‘yutte vā’’**tiādi. Ayonisomanasikāravasena uppajjanato sampatti āyatiñca dukkhasseva uppādanato na koci lobho avisamo nāma. Abhijjhāyanaṭṭhenāti yassa kassaci ārammaṇassa yuttassa ayuttassa appattassa ca abhijjāyanavasena abhipatthanāvasena ca pavattā taṇhā abhijjhāti lobhato nibbisesanti dasseti. Tenāha **‘‘ekatthametaṃ byañjanameva nāna’’**nti. Dūsetīti sabhāvasantaṃ asaṃkilesaṃ vināseti avisuddhaṃ karoti. Tenāha **‘‘obhāsituṃ na detī’’**ti. ‘‘Ime sattā ucchijjantu vinassantū’’ti sattesu byāpajjanākārappavattiyā byāpādo navavidhaāghātavatthusambhavo vutto. Kodho pana saṅkhāresupi pavattanato dasavidhaāghātavatthusambhavo vutto. Ubhayampi paṭighameva, pavattanānattato bhinditvā vutto. Kujjhanavaseneva cittapariyonandhano ‘‘akkocchi maṃ avadhi ma’’ntiādinā.

71. 自分の財物への欲愛は執着するという意味で貪欲(abhijjhā)であり、執着することを意味する。他人の財物への欲愛は不当に貪るがゆえに不正な貪欲(visamalobha)である。このように貪欲と不正な貪欲には違いがあると示すために「あるいは」などと言われた。そこにおいて自らの所有物やそれに類似したものが正当な場所である。乞われたもの、あるいはわずかな苦労で得られるものが至達した場所である。他人の妻や重んずべき人の妻は不当な場所である。望むべきでないもの、あるいはそれを望むことによって破滅に至るものが不至達の場所である。長老とは、義釈(アッタカター)の書物を編纂したマハーサンガラッキタ長老のことである。実に彼が弟子たちと議論していたとき、このように述べた。彼もまた、この経において心の随煩悩が意図されているため、区別は得られないとした。それゆえに「正当であれ」などと言われた。如理作意に基づかずに生じることから、現在および将来において苦しみのみを生み出すがゆえに、不正でない貪欲というものはいかなるものも存在しない。「執着するという意味で」とは、正当であれ不当であれ未到達であれ、いかなる対象であっても執着し熱望することによって生じる渇愛が貪欲であり、貪りと無差別であることを示す。それゆえに「これは意味は一つであり、表現が異なるだけである」と言われた。「損なう」とは、本性として静寂で汚れていないものを滅ぼし、不浄にする。それゆえに「輝きを与えない」と言われた。「これらの有情は断絶せよ、滅びよ」と有情たちに対して害意のあり方で生じるがゆえに、瞋恚は九種の恨みの根拠から生じると説かれた。一方、怒り(忿)は形成された事物(諸行)に対しても生じることから、十種の恨みの根拠から生じると説かれた。双方はともに反感(瞋)であるが、生起のあり方の違いによって区別して説かれた。怒るというあり方によって心を覆い包むことは、「私を罵った、私を殴った」などによる。

Suṭṭhu kataṃ karaṇaṃ sukataṃ, tassa pubbakāritālakkhaṇassa guṇassa vināsano udakapuñchaniyā viya sarīrānugataṃ udakaṃ puñchanto makkho. Tathā hi so paresaṃ guṇānaṃ makkhanaṭṭhena ‘‘makkho’’ti vuccati. Idāni anagāriyassa vātiādinā saṅkhepena vuttatthaṃ vitthārena dassetuṃ **‘‘anagāriyopī’’**tiādi vuttaṃ. Nisinnakathāparikathādivasena dhammassa kathā dhammakathānayo, ekattādidhammanīti eva vā. Pakaraṇaṃ satta pakaraṇāni, tattha kosallaṃ dhammakathānayapakaraṇakosallaṃ. Ādi-saddena vinayakkame catūsu mahānikāyesu ca kosallaṃ saṅgaṇhāti. Acittīkatoti cittīkārarahito. Yathā cāyanti iminā yathāyaṃ makkho cittaṃ dūseti, evaṃ paḷāsopi cittaṃ dūseti, tasmā upakkilesoti dasseti. Aniyatā gati niyāmokkamanābhāvato. Ādi-saddena ‘‘rattaññū cirapabbajite puggale ajjhottharitvā ‘tvampi imasmiṃ sāsane pabbajito, ahampi pabbajito, tvampi sīlamatte ṭhito ahampī’ti’’ evamādīnaṃ saṅgaho. Yugaggāhagāhīti ‘‘tava vā mama vā ko viseso’’ti asamampi samaṃ katvā samadhuraggāhagaṇhanako. Khīyanā usūyanā. Attano sampattiyā nigūhanaṃ tassa parehi sādhāraṇabhāvāsahanena hotīti **‘‘parehi sādhāraṇabhāvaṃ asahamānaṃ’’**icceva vuttaṃ. Kāraṇe hi gahite phalampi gahitameva hotīti. Aññathā attano pavedanakapuggalo kerāṭiko, ‘‘nekatikavāṇijo’’tipi vadanti. Sappamukhā macchavālā ekā macchajāti āyatanamaccho. Tenāha **‘‘āyatanamaccho nāmā’’**tiādi. Baddhacaroti antevāsī.

善く作られた行為が善作であり、その先行して善行をなしたという特質の徳を損なうもの、雑巾が身体についた水を拭い去るように徳を拭い去るものが覆(覆蔵)である。実にそれは他者の徳を覆い隠すという意味で「覆」と呼ばれる。さて、出家者であってもというような簡潔に述べられた意味を詳細に示すために「出家者であっても」などと言われた。着座しての談話や周辺の講話などによる法の説示が法話の規範であり、あるいは一理などの法の理法そのものである。論典とは七つの論書であり、そこにおける巧みさが法話の規範と論典への熟達である。「など」という語によって、律の次第や四つの大部(ニカーヤ)における熟達を包摂する。「尊重しない者」とは、敬意を払わない者のことである。「そしてこの者が〜のように」ということによって、この覆が心を損なうように、惱(競い合い)もまた心を損なう、したがって随煩悩であると示す。決定した境地(正性離生)に入っていないため、赴く先は不定である。「など」という語によって、「夜を知る者(古参の者)、長く出家した人々に覆いかぶさり、『お前もこの教えにおいて出家し、私も出家した。お前も戒のみに留まり、私もそうだ』というようなこと」などが包摂される。「並び立とうとする者」とは、「お前と私に何の違いがあるのか」と等しくないのに等しいものとして、対等の肩書きを主張して張り合う者のことである。嘆きとは嫉妬である。自らの富を隠すことは、それが他者と共有されることに耐えられないことによって生じるため、「他者と共有することに耐えられない」とだけ述べられた。原因が捉えられれば、結果もまた捉えられたことになるからである。そうでなければ自らを偽って示す人物は詐欺師であり、「ずる賢い商人」とも呼ばれる。蛇の頭と魚の尾を持つ一種の魚がアーヤタナ魚である。それゆえに「アーヤタナ魚と呼ばれる」などと言われた。「結ばれて歩む者」とは、住み込みの弟子(共住者)のことである。

Sabbaso amadditasabhāvena vā tabharitabhattasadisassa thaddhabhāvassa anonamitadaṇḍasadisatāya paggahitasiraanivātavuttikārassa ca karaṇato vā tabharita…pe… karaṇo. Taduttarikaraṇoti yaṃ yena kataṃ duccaritaṃ vā sucaritaṃ vā, taduttari, tassa dviguṇaṃ vā karaṇo. Attano maṇḍanādiatthaṃ parena kataṃ alaṅkārādiṃ. Pariyāpuṇāti vā katheti vā attano balānurūpaṃ. Kāmaṃ nikāyadvayaggahaṇādivasena pavatto sevitabbamāno eva, tathāpissa saṃkilesapakkhattā vuttaṃ **‘‘mānaṃ anissāyā’’**ti.

完全に打ち砕かれていない本性によって、あるいは一杯に詰まった飯のように強情であること、曲がらない杖のように頭を高く持ち上げて謙虚な振る舞いをしないことをなすゆえに、一杯に……などをなす者である。「それ以上のことをなす者」とは、ある人がなした悪行あるいは善行、それ以上のこと、あるいはその倍のことをなす者である。自らを飾るなどのために他人が施した装飾など。自らの能力に応じて学習し、あるいは語る。確かに二つのニカーヤの習得などによって生じた慢心は親しむべき慢心であるが、それでも汚染の側面であるため「慢心に依存することなく」と述べられた。

Uṇṇativasenāti ‘‘seyyohamasmī’’tiādinā cittassa paggahaṇavasena. Pubbe kenaci attānaṃ sadisaṃ katvā pacchā tato adhikato dahanato uppajjanako atimāno. Madaggahaṇākāro jātiādiṃ paṭicca majjanākāro, sopi atthato māno eva. Pamādo tathāpavatto cittuppādo.

「高ぶりのあり方によって」とは、「私は勝れている」などと心を高く持ち上げることによる。以前は誰かと自分を同等としていたが、後になってそれより優れているとみなすことから生じるものが過慢である。酔い(慢醉)を帯びるあり方は家柄などによって酔いしれるあり方であり、それも実質的には慢心そのものである。放逸とは、そのように生じた心の生起である。

Tasmā lobhamādiṃ katvā dassetīti lobhassa ādito gahaṇe kāraṇaṃ vibhāvetukāmo pucchati. Paṭhamuppattitoti tattha tattha bhave sabbapaṭhamaṃ uppajjanato. Sattānañhi yathādhigataṃ jhānādivisesaṃ ārabbha paccavekkhaṇā viya yathāladdhaṃ upapatibhavaṃ ārabbha nikanti eva. Tenāha **‘‘sabbasattāna’’**ntiādi. Yathāsambhavaṃ itareti itare byāpādādayo yathāpaccayaṃ uppajjanti, lobhassa viya ādito asukassa anantaraṃ asukoti vā na nesaṃ niyamo atthīti attho. Kiṃ pana ete soḷaseva cittassa upakkilesā, udāhu aññepi santīti anuyogaṃ sandhāya aññepi santīti dassento **‘‘na ca ete’’**tiādimāha. Yadi evaṃ kasmā ettakā eva idha vuttāti. Nayadassanavasenāti dassento āha **‘‘etena pana…pe… veditabbā’’**ti. Tena thinamiddhauddhaccakukkucca-vicikicchā-attukkaṃsana-paravabbhanachambhitattā- bhīrukatā-ahirikānottappa-atticchatā-pāpicchatā-mahicchatādayo saṅgahitāti veditabbaṃ.

「それゆえに貪欲を最初にして示す」とは、貪欲を最初に挙げる理由を解明しようとして問うている。「最初の生起であることから」とは、それぞれの生存において全く最初に生じることからである。有情たちにとって、得られた禅定などの殊勝な境地に関して省察があるように、得られた再生の生存に関して愛着があるばかりである。それゆえに「すべての有情の」などと言われた。「他のものは生起に応じて」とは、他の瞋恚などは縁に応じて生じるのであり、貪欲のように最初にあるとか、これの次にこれがあるというような彼らの規則は存在しないという意味である。「果たしてこれら十六のものだけが心の随煩悩であるのか、それとも他にあるのか」という問いかけを考慮し、他にも存在することを示すために「そしてこれらだけではない」などと言われた。もしそうであるなら、なぜこれらだけがここで説かれたのか。「一例を示すことによって」と示すために「しかしこれによって……知られるべきである」と言った。これによって、惛沈、睡眠、掉挙、悪作、疑、自己称賛、他者軽蔑、恐怖、臆病、無慚、無愧、自己欲求、悪欲、大欲などが包摂されていると知るべきである。

72. Saṃkilesaṃ dassetvāti saṃkiliṭṭhavattanidassanena saṅkhepena vuttaṃ saṃkilesaṃ vibhāgena dassetvā. Vodānaṃ dassentoti etthāpi eseva nayo. Evaṃ jānitvāti ‘‘abhijjhā visamalobho ekanteneva cittassa uppakkileso’’ti sabhāvato samudayato nirodhato nirodhūpāyato ca pubbabhāgapaññāya ceva heṭṭhimamaggadvayapaññāya ca jānitvā. Pajahatīti ettha accantappahānameva adhippetanti dassento **‘‘samucchedappahānavasena ariyamaggena pajahatī’’**ti āha. Ariyamaggenāti anāgāmimaggena. Tena hi pahānaṃ idha sabbavāresu adhippetaṃ. Kilesapaṭipāṭi idha kilesānaṃ desanākkamo. Maggapaṭipāṭipana catunnaṃ ariyamaggānaṃ desanākkamopi tāya desanāya paṭipajjanakkamopi tāya paṭipattiyā uppattikkamopi. Tattha ye ye kilesā yena yena maggena pahīyanti, maggapaṭipāṭiṃ anoloketvā tesaṃ tesaṃ kilesānaṃ tena tena maggena pahānadassanaṃ kilesapaṭipāṭi na kilesānaṃ uppattikkamo idha desanākkamo cāti dassento **‘‘abhijjhā visamalobho’’**tiādimāha. Yena yena pana maggena ye ye kilesā pahīyanti maggānupubbiyā, tena tena maggena tesaṃ tesaṃ kilesānaṃ pahānadassanaṃ maggapaṭipāṭiyā pahānadassananti dassento **‘‘sotāpattimaggenā’’**tiādimāha.

72. 「汚染を示して」とは、汚れた布の例示によって簡潔に述べられた汚染を詳細に示して、ということである。「清浄を示す者は」という点においても、これと同じ方法である。「このように知って」とは、「貪欲と不正な貪欲は決定して心の随煩悩である」と、本性から、集起から、消滅から、消滅への道から、前段階の智慧によって、また下位の二つの道の智慧によって知って、ということである。「捨断する」という点において、徹底的な捨断のみが意図されていると示すために「正断による捨断によって、聖道によって捨断する」と言った。「聖道によって」とは、不還道によってということである。実にこれによる捨断が、ここでのすべての項目において意図されているからである。煩悩の順序とは、ここでの煩悩の説示の順序である。道の順序とは、四つの聖道の説示の順序であり、その説示に従って実践する順序であり、その実践によって生じる順序でもある。そこにおいて、どの煩悩がどの道によって捨断されるか、道の順序を考慮せずにそれらの煩悩がそれぞれの道によって捨断されることを示すのが煩悩の順序であり、煩悩の生起の順序ではなく、ここでの説示の順序であると示すために「貪欲と不正な貪欲」などと言われた。しかし、どの道によってどの煩悩が道の順序に従って捨断されるか、それぞれの道によってそれらの煩悩が捨断されることを示すのが道の順序による捨断の説示であると示すために「預流道によって」などと言われた。

Imasmiṃ pana ṭhāneti ‘‘sa kho so, bhikkhave, bhikkhū’’tiādinā āgato imasmiṃ pahānavāre. Ime kilesāti ime yathāvuttā kilesā. Sotāpattimaggavajjhā vā hontu sesamaggavajjhā vāheṭṭhā dassitamaggapaṭipāṭivasena. Tattha pana ye tatiyamaggavajjhā, tesaṃ anāgāmimaggeneva pahāne vattabbaṃ natthi, yesaṃ panettha heṭṭhimamaggavajjhānaṃ idha saṅgahe kāraṇaṃ pacchā vattukāmena aggamaggavajjhānaṃ anādiyitvā kasmā tatiyamaggavajjhānameva gahaṇaṃ katanti āha **‘‘ayamettha paveṇimaggāgato sambhavo’’**ti, ayaṃ imassa suttassa etasmiṃ ṭhāne ācariyapaveṇiyā kathāmaggo tato āgato atthasambhavo atthatatvanti attho. Tattha heṭṭhimamaggavajjhānaṃ idha saṅgahe kāraṇaṃ pacchā vattukāmo aggamaggavajjhānaṃ aggahaṇe yuttiṃ dassento **‘‘so cā’’**tiādimāha. Tenāti catutthamaggena. Sesānanti byāpādādīnaṃ. Yepīti makkhādike sandhāyāha. Taṃsamuṭṭhāpakacittānanti tesaṃ makkhādīnaṃ samuṭṭhāpakacittuppādānaṃ. Tattha makkha-paḷāsa-issā-macchariya-samuṭṭhāpakaṃ paṭighadvayacittaṃ, visesato pañcakāmaguṇalobhena saṭho māyāvī ca hoti, pañcakāmaguṇikarāgo ca anāgāmimaggeneva niravasesato pahīyati, tasmā vuttaṃ **‘‘taṃsamuṭṭhāpakacittānaṃ appahīnattā’’**ti. Tepi suppahīnā hontīti sambandho. Tanti paṭhamamaggeneva pahānaṃ pubbāparena na sandhiyati ‘‘yathodhi kho’’ti ettha odhivacanassa maggattayavācakattā. Ratanattaye aveccappasādo nāma ariyakantasīlaṃ viya sotāpannassa aṅgāni, te ca pahānato pacchā niddiṭṭhā, tasmā idha vuttappahānaṃ vikkhambhanapahānamevāti keci vadanti. Tesaṃ icchāmattameva yathāvuttapahānasseva vasena aveccappasādānaṃ odhiso pahānassa vibhāvitattā, svāyamattho heṭṭhā yuttitopi pakāsitoyeva.

「しかしこの箇所において」とは、「比丘たちよ、その比丘は」などと説かれたこの捨断の節において。「これらの煩悩」とは、これらの上述の煩悩のことである。預流道によって断ぜられるべきものであれ、他の道によって断ぜられるべきものであれ、下に示された道の順序による。しかしそこにおいて、第三の道(不還道)によって断ぜられるべきものについては、不還道によって捨断されることに何も言うべきことはないが、ここで下位の道によって断ぜられるべきものを包摂する理由を後から述べようとして、最上の道によって断ぜられるべきものを除外して、なぜ第三の道によって断ぜられるべきものだけを挙げたのかについて「これがここでの伝統の道から伝わったあり得べきことである」と言った。これはこの経のこの箇所における註釈家の伝統の説示の流れであり、そこから伝わった意義の根拠・真実の意味である。そこにおいて、下位の道によって断ぜられるべきものをここで包摂する理由を後で述べようとして、最上の道によって断ぜられるべきものを挙げないことの妥当性を示すために「そしてそれも」などと言われた。「それによって」とは、第四の道(阿羅漢道)によって。「残りのものの」とは、瞋恚などの。「〜のものもまた」とは、覆などを指して言っている。「それを引き起こす心の」とは、それらの覆などを引き起こす心の生起のことである。そこにおいて覆・惱・嫉・慳を引き起こすのは二つの反感の心(瞋恚心)であり、特に五つの欲望の対象(五欲)への貪りによって狡猾(詐)となり偽善的(諂)となるのであり、五欲への貪愛は不還道によってのみ残らず捨断される。それゆえに「それを引き起こす心が捨断されていないため」と言われた。「それらもまたよく捨断されたものとなる」と結びつく。「それを」とは、第一の道によってのみ捨断されることは前後の文脈と整合しない。「それぞれに応じて」という表現において、境界(オディ)という語は三つの道を表す言葉だからである。三宝に対する壊れざる清浄信は、聖者が愛する戒のように預流者の構成要素であり、それらは捨断の後に示されている。したがってここで説かれた捨断は抑圧による捨断にすぎないと主張する者たちもいる。彼らの主張は単なる憶測にすぎず、上述の捨断そのものによって壊れざる清浄信のそれぞれの境界に応じた捨断が解明されているのであり、この意味は下において論理的にも明らかにされている通りである。

74. Ekamekena padena yojetabbaṃ, yato ekamekassapi upakkilesassa sabhāvādito dassanaṃ niyyānamukhaṃ hoti, tathā ceva heṭṭhā saṃvaṇṇitaṃ. Anāgāmimaggavasena pahānaṃ vatvā pasādassa uddhaṭattā vuttaṃ **‘‘anāgāmimaggena lokuttarappasādo āgato’’**ti. Yadi evaṃ kasmā ‘‘lokiyo uppajjatī’’ti vuttanti? ‘‘Itipi so bhagavā’’tiādinayappavattassa lokiyattā. Nibbānārammaṇo eva hi lokuttaro pasādo. ‘‘Itipi so bhagavā’’tiādivacanena lokiyaṃ, aveccappasādavacanena lokuttaranti lokiyalokuttaramissakaṃ pasādaṃ dassento. Avecca ratanattayaguṇe yāthāvato ñatvā pasādo aveccappasādo. So pana yasmā maggenāgatattā kenaci akampaniyo appadhaṃsiyo ca hoti, tasmā vuttaṃ **‘‘acalena accutenā’’**ti. Tattha lokuttaro sabbaso buddhaguṇādīsu sammohaṃ viddhaṃsento tattha kiccato pavattati, itaro ārammaṇavasena te ārabbha. Taṃ vidhinti taṃ tassa uppannappakāraṃ. Anussatiṭṭhānānīti anussatikammaṭṭhānāni.

74. 一つひとつの句と結合されるべきである。なぜなら、一つひとつの随煩悩であっても、本性などから観察することが解脱への門戸となるからであり、下でもそのように解釈されている。不還道による捨断を述べて、清浄信が取り上げられているため「不還道によって出世間の清浄信が到来した」と言われた。もしそうであるなら、なぜ「世間のものが生じる」と述べられたのか。「彼、世尊はまさにこのようである」などの方法で生じるものは世間的なものだからである。実に涅槃を対象とするものこそが出世間の清浄信である。「彼、世尊はまさにこのようである」などの言葉によって世間的なものを、壊れざる清浄信という言葉によって出世間のものを示し、世間と出世間が混ざり合った清浄信を示している。壊れざる信(avecca)とは、三宝の徳を如実に知って生じる清浄信が壊れざる清浄信である。しかしそれは道によって到来したものであるがゆえに、誰によっても揺るがされず、破壊されないものである。それゆえに「不動の、不壊の」と言われた。そこにおいて出世間のものは、仏陀の徳などに対する無知を完全に打ち砕き、そこにおいて機能として働き、他方は対象としてそれらを巡って働く。「その方法を」とは、その信が生じたあり方を。「念処を」とは、随念の業処を意味する。

75. Somanassādīti ādi-saddena ñāṇādīni saṅgaṇhāti. Corānaṃ abhiṇhaṃ sañcaraṇaṭṭhānatāya paccantaggahaṇaṃ. Paccavekkhatoti ‘‘asukasmiñca ṭhāne ime cime corā evañca evañca vināsitā’’ti paccavekkhato rañño viya.

75. 「喜悦など」の「など」という語によって、智慧などを包摂する。盗賊たちが頻繁に行き交う場所であることから辺境が挙げられている。「省察する者に」とは、「どこそこの場所でこれらこれの盗賊がこのように滅ぼされた」と省察する王のように、ということである。

Yo yo odhi yathodhi. Yathā-saddo byāpanicchāyaṃ, kho saddo avadhāraṇeti dassento **‘‘sakasakaodhivasena cattameva hotī’’**tiādimāha. Tena ‘‘vanta’’ntiādīsupi avadhāretabbanti dasseti. Sakasakaodhivasenāti saṅkhepato vuttamatthaṃ vivarituṃ **‘‘dve odhī’’**tiādi āraddhaṃ. Tattha yaṃmaggavajjhāti yena maggena anavasesato pahātabbā. Anavasesappahānavasena hi taṃtaṃmaggavajjhānaṃ kilesānaṃ tadaññamaggavajjhehi asammissatā, aññathā ye sakasakaodhivasena uparimaggavajjhā, te heṭṭhimamaggehi pahīnāpāyagamanīyādisabhāvā eva tehi pahīyantīti pahānavasena sammissā siyuṃ. Tena teyeva pahīnā hontīti etthāpi eseva nayo. Tatuttaripīti tato pahānanimittasomanassuppattito uddhampi. Paṭipakkhesu odhiso pavattikiccattā odhīti heṭṭhā tayo maggā vuccanti. Te hītiādi vuttassevatthassa vivaraṇaṃ. Imassa bhikkhunoti anāgāmiṃ sandhāyāha. Tena vuttaṃ **‘‘heṭṭhāmaggattayena catta’’**nti.

それぞれの境界(区分)が「それぞれに応じて」である。「〜のように」という語は徹底的な充満を意味し、「実に」という語は限定を意味することを示すために「それぞれの境界に従って放棄されたものとなる」などと言われた。これによって「吐き出された」などにおいても限定されるべきであることを示す。「それぞれの境界に従って」という簡潔に述べられた意味を解き明かすために「二つの境界」などが始められた。そこにおいて「どの道によって断ぜられるべきか」とは、どの道によって余すところなく捨断されるべきかということである。実に残りのない捨断によって、それぞれの道で断ぜられるべき煩悩は、それ以外の道で断ぜられるべきものと混ざり合わないのであり、さもなければそれぞれの境界によって上位の道で断ぜられるべきものが、下位の道によって悪趣に赴くべき本性などを捨断されることで、それらによって捨断されることになり、捨断によって混ざり合ってしまうであろう。それゆえに「それらのみが捨断されたものとなる」という点においても、これと同じ道理である。「それ以上にも」とは、その捨断を機縁として生じた喜悦の生起の上にも。「対治するものにおいて境界(段階)として機能するものであるから境界(オディ)と呼ばれる」とは、下位の三つの道のことである。「実に彼らは」などは、述べられた意味の解説である。「この比丘の」とは、不還者を指して言っている。それゆえに「下位の三つの道によって放棄された」と言われた。

Keci cattampi gaṇhanti, nayidamevanti dassanatthaṃ **‘‘vanta’’**nti vuttaṃ. Na hi yaṃ yena vantaṃ, so puna taṃ ādiyati. Tenāha **‘‘anādiyanabhāvadassanavasenā’’**ti. Vantampi kiñci sasantatilaggaṃ siyā, nayidamevanti dassanatthaṃ **‘‘mutta’’**nti vuttaṃ. Tenāha **‘‘santatito vinimocanavasenā’’**ti. Muttampi kiñci muttabandhanā viya phalaṃ kuhiñci tiṭṭhati, na evamidanti dassanatthaṃ **‘‘pahīna’’**nti vuttaṃ. Tenāha **‘‘kvaci anavaṭṭhānadassanavasenā’’**ti. Yathā kiñci dunnissaṭṭhaṃ puna ādāya sammadeva nissaṭṭhaṃ paṭinissaṭṭhanti vuccati, evaṃ vipassanāya nissaṭṭhaṃ ādinnasadisaṃ maggena pahīnaṃ paṭinissaṭṭhaṃ nāma hotīti dassanatthaṃ **‘‘paṭinissaṭṭha’’**nti vuttaṃ. Tenāha **‘‘ādinnapubbassa paṭinissaggadassanavasenā’’**ti. Na kāpurisena viya parammukhena nissaṭṭhaṃ, atha kho abhimukheneva nissaṭṭhanti dassanatthaṃ **‘‘paṭinissaṭṭha’’**nti vuttaṃ. Tenāha **‘‘paṭimukhaṃ vā’’**tiādi. Upagantabbatoti attano hitasukhaṃ paccāsīsantena ekantena adhigantabbato. Dhāraṇatoti taṃsamaṅgīnaṃ apāyapātato sandhāraṇena. Gantho ‘‘vedo’’ti vuccati ‘‘vidanti etenā’’ti, vedehi ñāṇehi gato paṭipannoti vedagū. Abhijaññāti jāneyya. Vedajātāti uppannasomanassā. Ñāṇaṃ ‘‘vedo’’ti vuccati ‘‘veditabbaṃ vedetī’’ti. Somanassaṃ ‘‘vedo’’ti vuccati ārammaṇarasaṃ vindati anubhavatīti.

ある人々は放棄されたものをも再び取るが、これはそうではないことを示すために「吐き出された」と言われた。実に、ある人によって吐き出されたものを、その人が再び取ることはない。それゆえに「二度と取らない状態を示すことによって」と言われた。吐き出されたものであっても、自らの相続に付着していることがあるかもしれないが、これはそうではないことを示すために「脱却した」と言われた。それゆえに「相続から解放されたことによって」と言われた。脱却したものであっても、蔓から解かれた果実のようにどこかに留まることがあるが、これはそうではないことを示すために「捨断された」と言われた。それゆえに「いかなる場所にも留まらないことを示すことによって」と言われた。あたかも悪く放棄されたものを再び取って、完全に手放したものが「徹底的に放棄された」と呼ばれるように、ヴィパッサナーによって手放された、あたかも取られたかのようであったものが道によって捨断されたとき「徹底的に放棄された」と呼ばれることを示すために「徹底的に放棄された」と言われた。それゆえに「以前に取られていたものを放棄することを示すことによって」と言われた。卑劣な者のように顔を背けて手放したのではなく、実に正面から手放したのだと示すために「徹底的に放棄された」と言われた。それゆえに「あるいは正面から」などと言われた。「近づくべきであることから」とは、自らの福利と幸福を期待する者によって決定して到達されるべきであることから。「保持することから」とは、それを具足する者を悪趣への転落から保持することによって。経典は「これによって知る」がゆえに「ヴェーダ」と呼ばれ、ヴェーダ(知識・智慧)によって到達した者、実践した者が達人(vedagū)である。「了解する」とは、知るであろうということである。「歓喜を生じた者」とは、喜悦を生じた者のことである。智慧は「知るべきことを知る」がゆえに「ヴェーダ」と呼ばれる。喜悦は対象の味わいを見出し享受するがゆえに「ヴェーダ」と呼ばれる。

Uppannanti aveccappasādaṃ nissāya uppannaṃ. Vuttappakārameva vedanti ‘‘somanassaṃ somanassamayañāṇañcā’’ti evaṃ vuttappakārameva. Atthavedanti atthe hetuphale vedaṃ. Dhammavedanti dhamme hetumhi vedaṃ. Tenāha **‘‘aveccappasādassa hetu’’**ntiādi. Idha dhammatthasaddā hetuphalapariyāyāti imamatthaṃ pāḷiyā eva dassetuṃ **‘‘vuttañheta’’**ntiādi vuttaṃ. Tameva atthañca dhammañcāti attho dhammoti ca vuttaṃ aveccappasādanimittaṃ yathāvuttaṃ kilesappahānañca. Atthadhammānisaṃsabhūtaṃ vedanti yathāvuttaatthadhammānisaṃsabhūtaṃ somanassamayañāṇasaṅkhātaṃ vedañca. Pāmojjanti taruṇapītiṃ āha. Paccavekkhaṇākārappavattenāti etena paccavekkhaṇā evettha anavajjasabhāvatāya dhammoti vuttoti daṭṭhabbaṃ. Pīti jāyatīti parappaccayaṃ balavapītimāha. Pīṇitamanassāti passaddhiāvahehi uḷārehi pītivegehi tittacittassa. Kāyoti nāmakāyo. Vūpasantadarathoti kilesapariḷāhānaṃ dūrībhāvena suṭṭhu upasantadaratho. Paccavekkhaṇahetukaṃ cittassa samādhānaṃ idha adhippetanti āha **‘‘appitaṃ viya acalaṃ tiṭṭhatī’’**ti.

「生じた」とは、壊れざる清浄信を拠り所として生じた。「上述のあり方のヴェーダそのものを」とは、「喜悦と喜悦に伴う智慧とを」とこのように上述されたあり方そのものを。「義の歓喜を」とは、義において、すなわち結果において生じるヴェーダを。「法の歓喜を」とは、法において、すなわち原因において生じるヴェーダを。それゆえに「壊れざる清浄信の原因を」などと言われた。ここで法と義という言葉は因と果の同義語であるというこの意味を聖典そのものから示すために「実に述べられた」などと言われた。「その義と法とを」とは、義であり法であると述べられた、壊れざる清浄信の原因である上述の煩悩の捨断と。「義と法の功徳となった歓喜を」とは、上述の義と法の功徳となった、喜悦に伴う智慧と呼ばれるヴェーダとを。「歓喜」とは、初心の喜(ピティ)をいう。「省察のあり方で生じたことによって」ということによって、省察そのものがここでは無過失な本性であることから法と述べられていると見るべきである。「喜が生じる」とは、他を縁とする強い喜をいう。「心が満たされた者の」とは、軽安をもたらす広大な喜の衝撃によって満ち足りた心を持つ者の。「身は」とは、名身(心・心所)のことである。「懊悩が静まった者」とは、煩悩の熱苦が遠ざかることによって懊悩がよく静まった者のことである。省察を原因とする心の統一がここで意図されているため、「安止したかのように不動に留まる」と言われた。

76. Kāmaṃ ‘‘buddhe aveccappasādena samannāgatomhi, dhamme saṅghe aveccappasādena samannāgatomhī’’ti idampi tassā paccavekkhaṇāya pavattiākārapakāsanameva, idaṃ pana visesato ratanattaye uppannasomanassādippakāsanapadaṃ. ‘‘Yathodhi kho panā’’ti idampi savisesaṃ paccavekkhaṇākārappakāsanapadanti adhippāyena **‘‘idāni yathodhi…pe… pakāsetvā’’**ti vuttaṃ. Cattāropi pana vārā paccavekkhaṇākārappakāsanavasena ceva somanassādiānisaṃsadassanavasena ca vuttāti sakkā viññātuṃ ubhayatthāpi ubhayassa vuttattā. Yadipi ariyamaggo ekacittakkhaṇiko na puna uppajjati, paṭipakkhassa pana tena suppahīnattā taṃsamaṅgī aparihānadhammo taṃsīlādibhāveneva vuccatīti āha **‘‘tassa anāgāmimaggasampayuttaṃ sīlakkhandhaṃ dassetī’’**tiādi. ‘‘Evaṃdhammā te bhagavanto ahesu’’ntiādīsu (dī. ni. 2.13; ma. ni. 3.197-198; saṃ. ni. 5.378) viya idha dhamma-saddo samādhipariyāyoti āha **‘‘samādhikkhandhaṃ paññākkhandhañca dassetī’’**ti. Tathā hi so sampayuttadhamme ekārammaṇe avikkhipamāne avippakiṇṇe avisaṭe katvā samaṃ, sammā ca ādahanto tathā te dhāretīti ca vattabbataṃ arahatīti dhammoti ca vuccati. Anekarūpānanti anekappakārānaṃ. Antarāyo nāma appaṭiladdhassa vā alabbhanavasena, paṭiladdhassa vā parihānavasena, tadubhayampi idha natthīti dassento **‘‘maggassa vā’’**tiādimāha. Nevassa taṃ hoti antarāyāyāti tassa anāgāmino piṇḍapātabhojanaṃ neva hoti antarāyāya ukkaṃsagatāya paccavekkhaṇāya paccavekkhitvā paribhuñjanato. Tañcassā ukkaṃsagamanaṃ hatapaṭipakkhattāti dassento **‘‘maggena visuddhacittattā’’**ti āha.

76. 確かに「私は仏陀への壊れざる清浄信を具足している、法への、僧伽への壊れざる清浄信を具足している」というこれもまた、その省察の生起のあり方を明示するものではあるが、これは特に三宝において生じた喜悦などを明示する句である。「しかし、それぞれに応じて実に」というこれもまた、特別な省察の生起のあり方を明示する句であるという意図から、「今やそれぞれに応じて……明示して」と言われた。しかし四つの節はすべて、省察の生起のあり方を明示することによって、また喜悦などの功徳を示すことによって説かれたと知ることができる。双方において双方が説かれているからである。聖道は一瞬の心の刹那であり再び生じることはないが、対治されるべきものがそれによって完全に捨断されているため、それを具足する者は退転しない性質の者であり、まさにその戒などを有する状態と言われるため、「彼の不還道に相応する戒蘊を示す」などと言われた。「それらの世尊たちはこのような法を持っておられた」などにおけるように、ここで法という語は三昧(定)の同義語であるため、「定蘊と慧蘊とを示す」と言われた。実にそれは相応する諸法を単一の対象において散乱させず、散らばらせず、拡散させずに等しく正しく配置し、そのようにそれらを保持するからこそそう呼ばれるにふさわしく、法とも呼ばれる。「様々な」とは、多種多様な。「障害」とは、得られていないものが得られないことによるか、あるいは得られたものが失われることによるが、その双方がここには存在しないことを示すために「道の、あるいは」などと言われた。「彼にとってそれは障害とはならない」とは、その不還者にとって托鉢の食物を食べることは、極めて優れた省察によって省察して受用するがゆえに、決して障害とはならない。そしてその省察の卓越は、対治すべきものが滅ぼされているからであることを示すために「道によって清浄な心を持つがゆえに」と言った。

Etthāti etasmiṃ antarāyābhāve. Etadeva visuddhacittattameva kāraṇaṃ. Ettha ca ‘‘nevassa taṃ hoti antarāyāyā’’ti iminā heṭṭhā vuttappahānaṃ anāgāmimaggenevāti siddhaṃ hoti. Anāgāmino hi sabbaso kāmarāgo pahīno hoti, rasataṇhāya abhāvato tādisapiṇḍapātaparibhogo aggamaggādhigame kathañcipi antarāyāya na hotīti. ‘‘Seyyathāpi, bhikkhave, vattha’’nti vadanto bhagavāādimhi attanā upanītavatthūpamaṃ anusandheti. Udakassa acchabhāvo paṅkasevālapaṇakādimalābhāvena pasannatāya, tabbipariyāyato bahalatāti āha **‘‘acchanti vippasanna’’**nti. Vaṇṇanibhāya vigatasaṃkilesatāya samujjalanaṃ pabhassaratāya vatthassa, taṃ pariyodātanti vattabbataṃ labhatīti āha **‘‘pariyodātaṃ pabhassaratāyā’’**ti. Ukkaṃ bandheyyāti aṅgārakapallaṃ yathā dārughaṭikaṅgārādikena na bhijjati, evaṃ tanumattikālepādinā bandheyya. Meghapaṭalato verambhavātadhārāsaṅghaṭṭanato vijjutā viya kevalaṃ vātadhārāsaṅghaṭṭanajanitā pabhā ukkāpabhā, sā pana yasmā dvinnaṃ vātadhārānaṃ vegasambhūtasaṅghaṭṭanahetukā, tasmā kāraṇavasena **‘‘vātavego ukkā’’**ti vuttaṃ.

「ここにおいて」とは、この障害の不在において。「まさにこの清浄な心を持つことそのものが」原因である。そしてここにおいて「彼にとってそれは障害とはならない」ということによって、下で述べられた捨断は不還道によるものにほかならないということが成立する。実に不還者には一切の欲愛が捨断されており、味への渇愛が存在しないため、そのような托鉢の食物の受用が最上の道の獲得へのいかなる障害にもなり得ないからである。「比丘たちよ、例えば布が」と語りながら、世尊は冒頭において自らが持ち出した布の比喩を関連づけられる。水の清澄さは、泥や藻や水草などの汚れがないことによる澄み具合であり、その反対は濁りであることから、「澄んだとは、極めて澄み切った」と言った。色彩の輝きによって、汚れが失われたことによる輝き、布の輝き、それが汚れのない清浄と呼ばれる状態を得ることから、「汚れがないとは、輝いていることによる」と言った。「松明を結ぶならば」とは、炭の壺が木の小枝の炭などによって壊れないように、薄い粘土を塗るなどして結び合わせるということである。雲の層から吹き荒れる激しい大風の衝突によって生じる稲妻のように、単に風の層の衝突によって生じた光が松明の光であり、しかしそれは二つの風の層の激しい勢いによる衝突を原因とするものであるため、原因に基づいて「風の勢いが松明である」と言われた。

77. Yathānusandhivasenātiādimhi uṭṭhitadesanāya anurūpā anusandhi yathānusandhi, tassā vasena. Byatirekadassanaṃ viya hi sādhetabbassa ādimhi uṭṭhitadesanāya paṭipakkhadassanampi anurūpadesanāva sammadeva patiṭṭhāpanabhāvato, yathā taṃ āvattahārayojanāyaṃ visabhāgadhammāvattanti daṭṭhabbaṃ. **‘‘Yathānusandhivasena desanā āgatā’’**ti saṅkhepato vuttamatthaṃ vitthārento tappasaṅgena itarepi anusandhī dassetuṃ **‘‘tayo hī’’**tiādimāha. Bahiddhāti bāhiresu vatthūsu. Asati paritassanāti taṇhādiṭṭhiparitassanābhāvo. Vissajjitasuttavasenāti ‘‘idha bhikkhu ekaccassā’’tiādinā (ma. ni. 1.242) vissajjitasuttavasena. Yena dhammenāti sīlādivodānadhammesu akkhantiyādisaṃkilesadhammesu ca yena yena dhammena. Cha abhiññā āgatāti iminā ‘‘anurūpadhammavasena vā’’ti vuttavikappaṃ dasseti, sesehi ‘‘paṭipakkhavasena vā’’ti vuttavikappaṃ. Akkhantiyā hi kakacūpamovādo (ma. ni. 1.222) paṭipakkho, tathā diṭṭhiyā ‘‘netaṃ mama, nesohamasmi, na meso attā’’ti evaṃ paṭibhāgā suññatākārena. Sesadvayepi eseva nayo. ‘‘Citte saṃkiliṭṭhe duggati pāṭikaṅkhā’’ti (ma. ni. 1.70) heṭṭhā kilesadesanā āgatā. Sabboti anavaseso. Sabbākārenāti ādīnavānisaṃsapaccavekkhaṇapuggaladosajānanādinā sabbappakārena.

77. 「相応する文脈(順序)に従って」とは、冒頭に生じた説示に相応する文脈に従ってということである。異喩を示すことと同様に、証明されるべきことに対して冒頭に生じた説示と反対のものを示すこともまた、完全に確立させる状態であることから相応する説示にほかならず、それは転回論法(アーヴァッタハーラ)の適用における不同法転回として見られるべきである。「相応する文脈に従って説示がなされた」と簡潔に述べられた意味を敷衍し、その文脈において他の文脈をも示すために「実に三つの」などと言われた。「外に」とは、外的な対象において。「ないときの動揺」とは、渇愛や見解による動揺がないことである。「解釈された経に従って」とは、「ここに比丘が一人の」などと『解釈された経』に従って。「どのような法によって」とは、戒などの清浄の法において、また不忍などの汚染の法において、それぞれの法によって。「六つの神通が説かれた」ということによって、「相応する法に従って、あるいは」と述べられた選択肢を示し、残りによって「対治に従って、あるいは」と述べられた選択肢を示す。実に不忍に対しては鋸の比喩の教誡が対治であり、見解に対しては「これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない」と、このように対照的な空のあり方による。残りの二つにおいてもこれと同じ道理である。「心が汚れるとき、悪趣が予期される」と下に煩悩の説示がなされた。「すべての」とは、余すところない。「あらゆるあり方で」とは、過患や功徳の省察、個人の過失の知得などによってあらゆるあり方で。

78. ‘‘Mettā bhāvetabbā byāpādassa pahānāyā’’tiādivacanato (a. ni. 9.1) mettādayo byāpādavihesāratirāgānaṃ paṭipakkhā. Yasmā ‘‘so atthī’’tiādinā bhagavatā anāgāmino aggamaggādhigamanaṃ catusaccakammaṭṭhānaṃ matthakaṃ pāpetvā kathitaṃ, tasmā taṃ dassento **‘‘idānissā’’**tiādimāha.

78. 「慈しみは瞋恚を捨断するために修められるべきである」などの言葉から、慈しみなどは瞋恚、害意、不快、貪愛の対治である。「彼は存在する」などによって、世尊は不還者の最上の道の獲得を四聖諦の業処の頂点に至らせて語られたため、それを示すために「今や彼に」などと言われた。

Brahmavihāradhammeti brahmavihāre ceva brahmavihārasahagatadhamme ca. Tenāha **‘‘nāmavasenā’’**ti. Vavatthapetvāti ānetvā sambandhitabbaṃ. Nāmantipi hi īdisesu ṭhānesu cattāro arūpino khandhā vuccanti. Iminā nayenāti etena bhūtanissitānaṃ sesupādāyadhammānaṃ sabbesampi pahātabbataṇhāvajjānaṃ tebhūmakadhammānaṃ pariggahavidhiṃ ulliṅgeti. Sabhāvato vijjamānaṃ taṃ attapaccakkhaṃ katvā ñāṇena yāthāvato paṭivijjhiyamānataṃ upādāya ‘‘atthi ida’’nti yathāvavatthāpitaṃ nāmarūpaṃ. Tenevāha **‘‘ettāvatānena dukkhasaccavavatthānaṃ kataṃ hotī’’**ti. Sāvadhāraṇañcetaṃ vacanaṃ, lokasamaññāsiddhaṃ sattaitthipurisādi viya, ito bāhirakaparikappitaṃ pakatiādi drabyādi jīvādi kāyādi viya ca na paramatthato natthi, atthevāti vuttaṃ hoti. Pajānātīti pubbabhāge tāva lakkhaṇarasādivasena ceva paṭiggahavibhāgavasena ca pakārato jānāti, aparabhāge pana pariññābhisamayavasena paṭivijjhanto jānāti. Ekantahīnā nāma akusaladhammā sampati āyatiñca dukkhamūlattā, tatthāpi visesato taṇhāti āha ‘‘dukkhassa samudayaṃ paṭivijjhanto atthi hīnanti **pajānātī’’**ti. Attano paccayehi padhānabhāvaṃ nītattā paṇītanti iminā atthena ariyamaggova ‘‘paṇīta’’nti vuccatīti āha **‘‘pahānupāyaṃ vicinanto atthi paṇītanti pajānātī’’**ti. ‘‘Uttamaṭṭhena ca paṇīta’’nti vuccamāne nirodhasaccassapi saṅgaho siyā, tassa pana padantarena saṅgahitattā vuttanayenevettha attho veditabbo. Appamaññāmukhena vipassanābhinivesasseva katattā **‘‘brahmavihārasaññāgatassā’’**ti vuttaṃ. ‘‘Sabbassapi tebhūmakassa saññāgatassā’’ti vattuṃ vaṭṭatiyeva. Na cettha asaṅgaho tassāpi saññāya āgatabhāvato. Lokaṃ uttaritvā samatikkamitvā nissaritvā visaṃyuttaṃ hutvā ṭhitattā vuttaṃ **‘‘uttari nissaraṇaṃ nibbāna’’**nti.

「梵住の法を」とは、梵住と梵住に伴う法とを。それゆえに「名(精神)に従って」と言われた。「限定して」とは、持ってきて結合されるべきである。「名」とも実にこのような箇所において四つの無色の蘊が呼ばれる。「この方法によって」とは、これによって四大種に依存する残りの所造の法を、捨断されるべき渇愛を除いたすべての三界の諸法を把握する方法を指し示す。本性として存在するそれを自ら直接体験し、智慧によって如実に通達されることに基づいて、「これがある」と正しく限定された名色である。それゆえにこそ「これによって彼により苦諦の限定がなされたことになる」と言われた。そしてこれは限定を伴う言葉であり、世間の呼称によって成立している有情、女、男などのように、またこの外道の想定した根本原質(プラクリティ)など、実体(ドラヴィヤ)など、命(ジーヴァ)など、身体などのように勝義において存在しないのではなく、現実に存在するのだと述べられたことになる。「知る」とは、まず前段階においては特相や働きなどによって、また把握の区分によって詳細に知ることであり、後の段階においては遍知の現観によって通達しながら知ることである。決定して劣悪なものとは不善の法であり、現在および将来において苦しみの根源であることから、そこにおいても特に渇愛であるとして「苦の集起を通達しながら、劣悪なものがあると知る」と言った。自らの諸縁によって卓越した状態へと導かれたものであるから優れているのであり、この意味によって聖道こそが「優れている」と呼ばれるとして「捨断の手段を吟味しながら、優れたものがあると知る」と言った。「最上という意味で優れている」と言われるならば滅諦も包摂されるであろうが、それは他の句によって包摂されているため、述べられた方法によってのみここで意味が知られるべきである。無量(梵住)を窓口としてヴィパッサナーへの集中がなされたことから「梵住の想いに達した者の」と言われた。「三界のすべての想いに達した者の」と言うことも実に適切である。そしてここにおいてそれが包摂されないということはない。その想いにも達しているからである。世間を超越し、完全に踏み越え、脱出して、結合を離れて留まっていることから「さらに上にある脱出は涅槃である」と言われた。

Catūhi ākārehīti ‘‘atthi hīna’’ntiādīhi catūhi pakārehi. Anvayañāṇatāya anubodhabhūtāya vipassanāpaññāya jānanattho dhammañāṇatāya paṭivedhabhūtāya maggapaññāya dassanattho sabhāvasiddhoti dassento **‘‘vipassanāpaññāya cattāri saccāni jānanato maggapaññāya passato’’**ti vuttaṃ. Bhayabherave vuttanayenevāti bhayabheravasuttavaṇṇanāyaṃ attanā vuttaatthavacanatthapāṭhena idha pāṭhassa sadisattā atidisanto **‘‘kāmāsavāpi…pe… pajānātī’’**ti āha. Ettha ca yasmā ‘‘kāmāsavāpi cittaṃ vimuccati…pe… avijjāsavāpi cittaṃ vimuccatī’’ti ‘‘khīṇā jātī’’tiādīni vadatā bhagavatā catutthamaggo niddiṭṭho, tasmā yaṃ heṭṭhā aṭṭhakathāyaṃ vuttaṃ ‘‘so ca upari catutthamaggasseva niddiṭṭhattā yujjatī’’ti, taṃ suvuttamevāti daṭṭhabbaṃ.

「四つのあり方によって」とは、「劣悪なものがある」などの四つの方法によって。類比知(随知)であり随覚であるヴィパッサナーの智慧による知るという意味と、法知であり通達である道の智慧による見るという意味とが本性として成就していることを示すために、「ヴィパッサナーの智慧によって四聖諦を知ることから、道の智慧によって見ることから」と言われた。「『怖駭経』で述べられた方法によって」とは、『怖駭経』の註釈において自らが述べた意義の語句の読誦とここでの読誦が類似していることから敷衍して「欲の漏からも……知る」と言った。そしてここにおいて、「欲の漏からも心は解脱する……無明の漏からも心は解脱する」「生まれは尽きた」などを語られる世尊によって第四の道が示されているため、下に義釈において「そしてそれは上位の第四の道そのものが示されているがゆえに妥当である」と述べられたことは、まことによく言われたことであると見るべきである。

Tassa codanatthāyāti tassa brāhmaṇassa bhagavā attano codanatthāya ‘‘puccha maṃ tvaṃ brāhmaṇa yadettha tayā manasābhisamīhita’’nti codanāya, okāsadānatthāyāti adhippāyo. Desanāsannissayo brāhmaṇassa tathārūpo ettha ajjhāsayopi natthīti yathāvuttaanusandhittayavinimuttattā **‘‘pāṭiyekkaṃ anusandhiṃ āhā’’**ti vuttaṃ. Cittagatattā abbhantarena. Kilesavuṭṭhānasinānenāti kilesamalapavāhanena rāgapariḷāhādivūpasamakarena ca aṭṭhaṅgikaariyamaggasalilasinānena.

「彼を促すために」とは、そのバラモンのために世尊が自らを促すために、「バラモンよ、そなたがここで心に望んだことを私に問いなさい」という促しのために、機会を与えるためにという意味である。説示の依処となるようなバラモンのその種の意図もここには存在しないことから、上述の三つの文脈から離れているため「個別の文脈を述べられた」と言われた。心に達していることから内面によって。「煩悩を脱ぎ去る沐浴によって」とは、煩悩の垢を洗い流し、貪欲の熱苦などを鎮める八支聖道の水による沐浴によって。

79. Dhammasabhāmaṇḍapaṃ tāvadeva upagatattā bāhukā nadito āgataṃ viya maññamāno. Ariyaphalamaddanacuṇṇādayo telasinehassa vivecanena. Lūkhabhāvo lokaṃ, taṃ etissā atthīti lokāti sammatā. Lokkhasammataggahaṇena ‘‘tathā sā nadī loke pākaṭā’’ti evaṃ pavattaṃ attano micchāgāhaṃ dīpeti. Tenāha **‘‘visuddhabhāvaṃ detīti evaṃ sammatā’’**ti. Pāpapavāhanena samparāyikādisampattiāvahato lokassa hitā lokyā. Lokyāti sammatāti sabbaṃ purimasadisaṃ. Tenāha **‘‘seṭṭhaṃ lokaṃ gamayatīti evaṃ sammatā’’**ti. Puññasammatāti pujjabhavaphalanibbattanena sattānaṃ punanena visodhanena puññāti sammatā. Tadatthadīpanatthamevāti tassā pubbe āgatadesanāya atthadīpanatthameva. Vuttassevatthassa puna dīpanaṃ kimatthiyanti āha **‘‘gāthārucikāna’’**nti. Cuṇṇikavacanaṃ asambhāventā tathā ca vutte atthamabujjhanakā pajjavacanaṃ sambhāventā tathā ca vutte bujjhanakā gāthārucikā. Visesatthadīpanatthanti visiṭṭhadīpanatthaṃ, purimadesanāya aññadīpanatthanti attho.

79. 直ちに法堂の天幕へと近づいたため、バーフカー川からやって来たかのように思い込んで。アムラやアンマロクなどの粉末は油分の粘り気を取り除く。「粗野な状態」とは世間(ロカ)であり、それを持つがゆえに世俗(ローカー)と認められている。世俗と認められたものを挙げることによって、「その川はそのように世間で知られている」というように生じた自らの邪悪な執着を明らかにする。それゆえに「清浄な状態を与えるものとしてこのように認められている」と言われた。罪悪を洗い流すことによって来世などの富をもたらすことから、世間の人々に有益なものがローキヤー(世間にとって有益なもの)である。「ローキヤーと認められている」とは、すべて前と同様である。それゆえに「最上の世界へと行かせるものとしてこのように認められている」と言われた。「功徳と認められている」とは、尊ぶべき存在の果を生み出すことによって、有情たちを浄化し清めることによって功徳と認められている。「まさにその意味を明らかにするためである」とは、その以前になされた説示の意味を明らかにするためだけにである。既に述べられた意味をなぜ再び明らかにするのかについて「詩節(偈)を好む者たちのために」と言った。散文の言葉を評価せず、そのように説かれても意味を理解しないが、詩節の言葉を評価し、そのように説かれると理解する者たちが詩節を好む者たちである。「特別な意味を明らかにするために」とは、殊勝なものを明らかにするため、前の説示とは異なるものを明らかにするためという意味である。

‘‘Gacchati pana bhavaṃ gotamo bāhukaṃ nadiṃ sināyitu’’nti (ma. ni. 1.78) heṭṭhā vuttattā bāhukanti idameva ettha tadatthadīpakaṃ. Sesāni adhikakkādivacanāni tato visiṭṭhassa atthassa bodhanato visesatthadīpakāni. Kasmā panettha bhagavatā brāhmaṇena avuttāni adhikakkādīni gahitānīti āha **‘‘yatheva hī’’**tiādi. Kakkanti nhānapiṇḍaṃ adhippetaṃ, nhāyitvā adhikaṃ kakkaṃ ettha gaṇhantīti adhikakkaṃ. Tenāha **‘‘nhānasambhāravasenā’’**tiādi. Maṇḍalavāpisaṇṭhānanti vaṭṭapokkharaṇīsaṇṭhānaṃ. Nadiyoti visuṃ nadiyo, na adhikakkādīni viya titthamattaṃ.

「しかし尊者ゴータマはバーフカー川へ沐浴に行かれるのですか」と下に述べられているため、バーフカー川というこれこそがここではその意味を明らかにするものである。残りのアディカッカなどの言葉は、それよりも殊勝な意味を知らせることから特別な意味を明らかにするものである。しかしなぜここで世尊はバラモンによって言われていないアディカッカなどを挙げられたのかについて「実に〜のように」などと言われた。「カッカ」とは沐浴用の粉(沐浴の練り粉)が意図されており、沐浴してここで余分に粉を取る(使う)ことからアディカッカである。それゆえに「沐浴の資材によって」などと言われた。「円形の池の形」とは、丸い蓮池の形である。「川」とは別々の川のことであり、アディカッカなどのような単なる渡し場ではない。

Tīhi padehīti sundarikāpayāgabāhukāpadehi. Cattārīti adhikakkādīni cattāri. Vuttāneva hontīti lokasammatālakkhaṇena ekalakkhaṇatā brāhmaṇassa adhippāyena, paramatthato pana pāpapavāhalakkhaṇena ekalakkhaṇattā. Tenāha **‘‘tasmā’’**tiādi. Kiñci pāpasuddhiṃ na karontiyeva. Na hi naṃ sodhayeti naṃ puggalaṃ na sodhaye. Verakibbisabhāvaṃ appattā nāma kammapathabhāvaṃ appattā. Tenāha **‘‘khuddakehī’’**ti.

「三つの句によって」とは、スンダリカー、パヤーガ、バーフカーの句によって。「四つ」とは、アディカッカなどの四つである。「説かれたことになる」とは、世俗の承認という特相によって一つの特相であることがバラモンの意図であり、勝義においては罪悪を洗い流すという特相によって一つの特相であることによる。それゆえに「それゆえに」などと言われた。少しの罪の清浄をも決してなし得ない。「実に彼を清めることはない」とは、その人物を清めることはないということである。怨恨の罪悪の状態に達していないものとは、業道の状態に達していないものである。それゆえに「小さなものによって」と言われた。

Paṭihanantoti ayuttabhāvadassanena taṃ diṭṭhiṃ paṭibāhanto. Tatthāyaṃ paṭibāhanavidhi yathā yaṃ kiñci udakorohanaṃ na pāpapavāhanaṃ, evaṃ yo koci nakkhattayogo pāpahetūnaṃ paṭipakkhābhāvato. Yañhi vināseti, so tassa paṭipakkho. Yathā āloko andhakārassa vijjā ca avijjāya, na evaṃ udakorohanaṃ nakkhattayogo vā pāpahetūnaṃ lobhādīnaṃ paṭipakkho, tasmā niṭṭhamettha gantabbaṃ ‘‘na udakorohanādi pāpapavāhana’’nti. Niccaṃ phaggunīnakkhattanti suddhasīlādikassa sabbakālaṃ maṅgaladivaso evāti adhippāyo. Itaroti sīlādivasena asuddho. Niccameva uposatho ariyuposathena upavutthabhāvato. Suddhassāti parisuddhamanosamācārassa. Sucikammassāti parisuddhakāyavacīsamācārassa. Tenāha **‘‘nikkilesatāyā’’**tiādi. Kusalūpasañhitanti anavajjabhāvūpagataṃ. Vatasamādānanti dhutadhammasamādānādi sampannameva hoti, nāssa vipatti atthīti attho. Mama sāsaneyeva sināhi, yadi accantameva suddhiṃ icchasīti adhippāyo. Tenāha **‘‘sace’’**tiādi. Khematanti khemabhāvaṃ. Yathā sabbabhūtāni tapavasena khemappattāni abhayappattāni honti, evaṃ karohīti taṃ heṭṭhā dassitaṃ mettādibhāvanaṃ brāhmaṇassa saṅkhepena upadisantenassa ekaccasamādhisampadā tadavinābhāvinī paññāsampadā ca dassitāti daṭṭhabbaṃ. Tenāha **‘‘manodvārasuddhi dassitā’’**ti.

「論破しながら」とは、不当であることを示すことによってその見解を退けながら。そこにおいてこの論破の方法は、いかなる水に入ることも罪悪を洗い流すものではないのと同様に、いかなる星宿の結合も罪の原因への対治ではないことによる。実に滅ぼすものこそが、それに対する対治である。あたかも光が暗闇に対治し、明知が無明に対治するようであって、水に入ることや星宿の結合が罪の原因である貪欲などの対治であるわけではない。したがって「水に入ることなどは罪悪を洗い流すものではない」と、ここで結論に至るべきである。「常にパッグナ祭(吉祥の日)である」とは、清らかな戒などを持つ者には常に吉祥の日であるという意味である。「他方は」とは、戒などによって清らかでない者。「常に布薩である」とは、聖なる布薩によって住まわれているからである。「清らかな者の」とは、清浄な意の振る舞いを持つ者の。「清らかな業を持つ者の」とは、清浄な身と口の振る舞いを持つ者の。それゆえに「煩悩がないことによって」などと言われた。「善に結びついた」とは、過失のない状態に至った。「誓願の受持」とは、頭陀行の受持などが成就しているだけであり、彼に失敗はないという意味である。もし真の清浄を望むならば、私の教えにおいてこそ沐浴せよという意図である。それゆえに「もし」などと言われた。「安穏を」とは、安穏な状態を。すべての生き物が苦行(抑制)によって安穏に達し、無畏に達した状態となるように、そのようになせと、下に示された慈しみなどの修習をバラモンに簡潔に教示しながら、彼に特定の一部の三昧の成就と、それと不可分である智慧の成就とが示されたと見るべきである。それゆえに「意の門の清浄が示された」と言われた。

Tassa pana sampadādvayassa nissayabhūtaṃ sīlasampadaṃ dassetuṃ **‘‘sace musā na bhaṇasī’’**tiādi vuttaṃ. Ettha ca yathā ‘‘sace musā na bhaṇasī’’tiādinā musāvāda-pāṇātipāta-adinnādāna-paṭivirativacanena avasesakāyavacīduccaritaviratīpi vuttā eva hoti lakkhaṇahāranayena, evaṃ ‘‘saddahāno amaccharī’’ti saddhādidhanasampadāniyojaneneva avasesaariyadhanasampadāniyojanampi siddhameva hotīti saddhādayo vimuttiparipācanīyadhammā brāhmaṇassa pakāsitā evāti veditabbā. Tenevāha **‘‘imāya eva paṭipattiyā kilesasuddhī’’**ti. Gayā sammatatarā bāhukādīhipīti adhippāyo.

その二つの成就の依処となる戒の成就を示すために「もし嘘をつかないならば」などと言われた。そしてここにおいて「もし嘘をつかないならば」などによって、嘘・殺生・不与取からの離脱の言明により、残りの身と口の悪行からの離脱もまた特相引出の手法によって説かれたことになるのと同様に、「信じ、惜しみなく」と信などの財の成就を結びつけることによってのみ、残りの聖なる財の成就を結びつけることもまた成就しているのであるから、信などの解脱を成熟させる諸法がバラモンに明示されたのだと知るべきである。それゆえにこそ「まさにこの実践によって煩悩の清浄がある」と言われた。ガヤー川はバーフカー川などよりも優れていると認められているという意図である。

80. Ekoti asahāyo, esā panassa asahāyatā ekībhāvenāti. Na hissa tāva taṇhādutiyatā vigatā. Tenevāha **‘‘na cirassevā’’**tiādi. Ekaggahaṇeneva kāyena vūpakaṭṭhatā vuttāti āha **‘‘vupakaṭṭho cittavivekenā’’**ti. Tena ‘‘divā caṅkamena nisajjāyā’’tiādinā (ma. ni. 1.423; 3.75; vibha. 519; mahāni. 161) āgataṃ jāgariyānuyogamāha. Tathābhūtassa cassa ekādasahi aggīhi āditte tayo bhave passato yathā pamādassa lesopi nāhosi, evaṃ kammaṭṭhānaṃ brūhento sammadeva padahati. Katthaci saṅkhāragate anapekkhacitto nibbānādhimutto eva vihāsīti dassetuṃ **‘‘appamatto’’**tiādi vuttaṃ. Khīṇā jātītiādīsu yaṃ vattabbaṃ, taṃ heṭṭhā vuttameva. Sesaṃ suviññeyyameva.

80. 「一人で」とは、伴侶を持たず、しかし彼のこの無伴侶の状態は単身であることによる。実に彼にはまだ渇愛という第二の伴侶が離れていないからである。それゆえに「まもなく」などと言われた。一人の把握によってのみ身体による遠離が説かれていることから、「心の遠離によって遠離した」と言った。これによって「昼は経行と坐禅によって」などと説かれた不眠の修習を述べている。そのようになり、十一の火によって燃え盛る三界を見る彼に、放逸の隙が微塵も生じないように、そのように業処を増大させて正しく精進する。いかなる形成された事物(諸行)に対しても関心を持たない心となり、涅槃に傾倒して住したと示すために「不放逸にして」などと言われた。「生まれは尽きた」などにおいて述べられるべきことは、下で既に述べられた通りである。残りは容易に理解できる。

Vatthasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

『布喩経註』の隠れた意味の解明を完了する。

8. Sallekhasuttavaṇṇanā

8. 削減経の解説

81. ‘‘Cundo’’ti tassa mahātherassa nāmaṃ, pūjāvasena pana mahācundoti vuccati yathā **‘‘mahāmoggallāno’’**ti. Attano vā cundaṃ nāma bhāgineyyattheraṃ upādāya āyasmato sāriputtattherassa bhātā ayaṃ mahāthero **‘‘mahācundo’’**ti paññāyittha yathā ‘‘mahāpanthako’’ti. Sāyanhasamayanti bhummatthe ekaṃ upayogavacananti āha **‘‘sāyanhakāle’’**ti. Na hettha accanta saṃyogo sambhavatīti. Sattasaṅkhārehīti saddhivihārikaantevāsikaupāsakādisattehi ceva rūpārammaṇādisaṅkhārehi ca. Paṭinivattitvāti apasakkitvā. Nilīyananti vivecanaṃ kāyacittehi tato vivittatā. Ekībhāvoti hi kāyavivekamāha, pavivekoti cittavivekaṃ. Tato vuṭṭhitoti tato duvidhavivekato bhavaṅguppattiyā, sabrahmacārīhi samāgamena ca apeto. Abhivādāpetvāti abhivādaṃ kāretvā. Evanti yathāvuttaabhivādavasena. Paggayhāti unnāmetvā. Anupacchinnabhavamūlānaṃ tāva evaṃ abhivādo hotu, ucchinnabhavamūlānaṃ kimatthiyoti āha **‘‘etaṃ āciṇṇaṃ tathāgatāna’’**nti. Tena na tathāgatā samparāyikaṃyeva sattānaṃ sukhaṃ āsīsanti, atha kho diṭṭhadhammikampīti daṭṭhabbaṃ. Kasmā evaṃ tathāgatā abhivadantīti tattha kāraṇamāha **‘‘sukhakāmā hī’’**tiādi. Puthukāyāti bahū sattakāyā. Yakkhāti devā. Te hi pūjanīyatāya ‘‘yakkhā’’ti vuccanti. Abhivadantīti āsīsitamevatthaṃ ñāṇakaruṇāhi abhimukhaṃ katvā vadanti.

81. 「チュンダ」とはその長老の名であり、敬称として「マハー・チュンダ(大チュンダ)」と呼ばれる。それはあたかも「マハー・モッガッラーナ(大目犍連)」と呼ばれるのと同じである。あるいは、自身のチュンダという名の甥の長老に比して、尊者サーリプッタ(舎利弗)長老の弟であるこの大長老は、「マハー・パンタカ(大路)」と同じように「マハー・チュンダ」として知られていた。「夕刻の時に」とは、処格の意味における一つの対格表現であるとし、「夕刻に」と述べた。ここには遍満結合(持続的な時間関係)は成り立たないからである。「有情と諸行から」とは、共住者・近住者・在家信者などの有情から、また色などの対象である諸行から離れて、ということである。「退いて」とは、身を引いて、ということである。「隠退(独居)」とは、身と心による離隔、それらからの隔離である。実に「単一であること」は身の遠離を言い、「独座」は心の遠離を言う。「そこから起ち上がって」とは、その二種の遠離から有分心の生起により、また同朋の修行者たちとの集いから離れて、ということである。「礼拝させて」とは、礼拝を行わせて、ということである。「このように」とは、前述の礼拝によって、ということである。「捧げて」とは、高く掲げて、ということである。生存の根を断ち切っていない者たちへのそのような礼拝はよいとして、生存の根を断ち切った者たちには何の意味があるのか、として「これは如来たちの習いである」と述べた。それによって如来たちは、有情たちの来世の幸福のみを望むのではなく、実に現世の幸福をも望まれると知るべきである。なぜ如来たちはそのように称賛・祝福されるのかについて、その理由として「楽を望むゆえに」などと述べた。「多くの身」とは、多くの有情の集まりのことである。「夜叉」とは神々のことである。彼らは供養されるにふさわしいがゆえに「夜叉」と呼ばれる。「祝福する」とは、望まれた利益そのものを智慧と慈悲によって目前にして語ることをいう。

ti aniyamato gahitā niyamato dassento **‘‘imā’’**ti āha. Imāti ca āsannapaccakkhavacananti āha ‘‘abhimukhaṃ karonto **viyā’’**ti, taṃ taṃ diṭṭhigatikaṃ cittagataṃ sammukhā viya karontoti attho. Diṭṭhiyoti purimapadalopena pāḷiyaṃ vuttanti dassento **‘‘micchādiṭṭhiyo’’**ti āha. Sattesu diṭṭhigatacittuppādesu uppajjamānā, sattesu vā visayabhūtesu ārabbha uppajjamānā **‘‘sattesu pātubhavantī’’**ti vuttā. Attavādenāti attānaṃ ārabbha pavattena vacanena. Paṭisaṃyuttāti ‘‘atthi attā’’ti gāhe gāhaṇe ca visayabhāvena paṭisaṃyuttā. Diṭṭhigatikena diṭṭhiṃ gāhantehi gahaṇe gāhāpaṇe ca diṭṭhi diṭṭhivādassa visayoti tena paṭisaṃyuttā nāma hoti. ‘‘Atthi attā’’ti evaṃ pavattā diṭṭhi idha attavādapaṭisaṃyuttā, na tassā visayabhūto attā. Sā ca visayabhāvato tathāpavattena vādena paṭisaṃyuttā. Lokavādappaṭisaṃyuttāti etthāpi eseva nayo. Vīsati bhavanti tato paraṃ attavādavatthuno abhāvā. Pañcapi hi upādānakkhandhe paccekaṃ ‘‘attā’’ti te ca attano nissayabhāvena gaṇhato etāsaṃ diṭṭhīnaṃ sambhavo, tabbinimutto panāyaṃ visayo attaggahaṇākāro ca natthīti. Sassato attā ca loko cāti rūpādīsu aññataraṃ ‘‘attā’’ti, ‘‘loko’’ti vā gahetvā taṃ sassato sabbakālabhāvī nicco dhuvoti. Yathāha ‘‘rūpī attā ceva loko ca sassato cāti attānañca lokañca paññapetī’’tiādi. Sassatotiādīsu paṭhamo sassatavādavasena attaggāho, dutiyo ucchedavādavasena, tatiyo ekaccasassatavādavasena, catuttho takkīvādavasena pavatto, amarāvikkhepavasena vā pavatto attaggāho. Antavāti attano paricchedatāvasena. Anantavāti aparicchedatāvasena. Antavā ca anantavā cāti tadubhayavasena, itaro takkīvādavasena pavatto attaggāho. Evaṃ pavattattā aṭṭha hontīti yojanā.

「どのような」と不確定に把握されたものを確定して示すために「これらの」と述べた。「これらの」とは眼前にある直接的な言葉であるとして、「あたかも目前にするかのように」と述べた。それぞれの見解を持つ者の心にあるものを、あたかも目前にするかのように、という意味である。「見解」とは、前の語の省略によって聖典において説かれていることを示して「邪見」と述べた。有情たちにおいて邪見を生じる心の生起が生じるとき、あるいは有情という対象に縁って生じるとき、「有情たちに生起する」と説かれる。「我論によって」とは、我をめぐって起こる言葉によって、ということである。「結合した」とは、「我が存在する」という執着および執着させることにおいて、対象として結びついていることである。邪見の者が邪見を把握するとき、把持することと把持させることにおいて、見解は邪見論の対象であるゆえに、それと結合したものと呼ばれる。「我が存在する」とこのように生じる見解は、ここでは我論と結合したものであり、その対象となった我そのものではない。そしてそれは、対象であることから、そのように展開する論と結合している。「世間論と結合した」という点においても、これと同じ論法である。それ以上に我論の拠り所が存在しないため、二十となる。実に五つの取蘊のそれぞれを「我」と見なし、それらを自己の拠り所として把握する者にこれらの見解が生起するのであり、それを離れてはこの対象も我を把握する様相も存在しないからである。「我と世間は常住である」とは、色などのいずれかを「我」あるいは「世間」と把握して、それを「常住であり、一切の時に存在し、常であり、恒久である」とすることである。「色ある我および世間は常住である、と我と世間を規定する」などと説かれているとおりである。「常住である」などの中で、第一のものは常住論による我の執着であり、第二のものは断滅論によるもの、第三のものは一部常住論によるもの、第四のものは思索家の論による、あるいは不死の錯乱(詭弁論)によって起こる我の執着である。「有限である」とは、自己の限界性による。「無限である」とは、非限界性による。「有限でもあり無限でもある」とは、その双方による。他方のものは思索家の論によって生じる我の執着である。このように起こるがゆえに八つとなる、と解釈される。

Ādimevāti ādimanasikārameva. Taṃ pana sarūpato dassento **‘‘vipassanāmissakapaṭhamamanasikāramevā’’**ti āha. Appatvāpi sotāpattimagganti iminā avadhāraṇena nivattitaṃ dasseti. Nāmarūpaparicchedato pabhuti yāva udayabbayadassanaṃ, ayaṃ idha ādimanasikāroti adhippeto paññābhāvanāya ārambhabhāvato. Udayabbayānupassanāsahitatāya cassa vipassanāmissakatā vacanaṃ. Evanti imassa atthavacanaṃ ‘‘ettakeneva **upāyenā’’**ti, yathāvuttaādimanasikārenāti attho. Etāsanti yathāvuttānaṃ attavādalokavādapaṭisaṃyuttānaṃ diṭṭhīnaṃ. Kāmañca tāsaṃ tena tadaṅgavasena pahānaṃ hotiyeva, taṃ pana nādhippetaṃ, tasmā samucchedavasena pahānaṃ paṭinissaggo ca hotīti pucchati. Sabbaso samucchinnasaṃyojanatāya anadhimānikopi samāno. ‘‘Ariyadhammo adhigato’’ti māno adhimāno, so yesaṃ atthi te adhimānikā, tesaṃ udayabbayañāṇādhigamena adhimānuppatti tadavasāno ca manasikāroti adhippeto. Tena diṭṭhīnaṃ pahānaṃ na hotīti kathāpanatthaṃ ayaṃ pucchāti āha **‘‘adhimānappahānatthaṃ pucchatī’’**ti. ‘‘Ādimeva nu kho…pe… paṭinissaggo hotī’’ti anabhisametāvī viya vadanto adhimāne ṭhito viya hotīti āha **‘‘adhimāniko viya hutvā’’**ti. Soti thero. Tesaṃ atthāyāti tesaṃ attano antevāsikānaṃ bhagavatā etassa micchāgāhassa vivecanatthāya. Thero kira dhammasenāpati viya saddhiṃ attano antevāsikehi bhagavantaṃ upasaṅkami.

「最初から」とは、最初の作意においてのみ、ということである。それをありのままに示すために「ヴィパッサナー(観)の混ざった最初の作意においてのみ」と述べた。「預流道に達していなくても」とは、この限定によって除外されたものを明確にしている。名色の区別から生滅の観察に至るまで、これは智慧の修習の始まりであることから、ここで「最初の作意」として意図されている。そして生滅随観を伴っていることから、「ヴィパッサナーの混ざったもの」という表現がなされている。「このように」というこれの意味の言葉は「これほどの手立てによって」であり、前述の最初の作意によって、という意味である。「これらの」とは、前述の我論や世間論に結合した諸見解のことである。確かにそれらの見解は、それによって一時的(同分箇)には断ぜられるが、それはここで意図されたものではない。ゆえに、断滅(正断)による断除と放棄があるのかどうかを問うているのである。すべての結び目を完全に断ち切っていることによって、増上慢がない者であるにもかかわらず。「聖なる法を体得した」という慢が増上慢であり、それを有する者たちが増上慢の者である。彼らには生滅の知の獲得によって増上慢が生じ、その終極に至る作意が意図されている。それによって諸見解の断除はなされない、ということを語らせるための問いであるとして、「増上慢を断ずるために問う」と述べた。「最初から実に……乃至……放棄があるのか」と、未だ現証していない者のように語りつつ、増上慢に留まっているかのようであるとして、「増上慢の者のようになって」と述べた。「彼」とは長老のことである。「彼らのために」とは、彼ら自身の弟子たちのために、世尊によってこの誤った執着を分別・除去させるためである。長老は実に、法将軍(サーリプッタ)のように、自らの弟子たちとともに世尊のもとに近づいたのである。

82. Yatthāti visaye bhummaṃ. Diṭṭhīnañhi ārammaṇanidassanametanti. Yasmā diṭṭhīnaṃ anusayanabhūmipi samudācaraṇaṭṭhānampi khandhā eva, tasmā āha **‘‘yattha cetā diṭṭhiyo uppajjantī tiādi pañcakkhandhe sandhāya vutta’’**nti. Rūpaṃ abhinivissāti ‘‘idaṃ rūpaṃ mama attā’’ti diṭṭhābhinivesavasena abhinivisitvā ārabbha. Abhinivisamānā eva hi diṭṭhi naṃ ārammaṇaṃ katvā uppajjati. **‘‘So attā’’**tiādīsu yadidaṃ cakkhādisaṅgahaṃ rūpaṃ, sahabuddhinibandhanatāya so me attā, sukhāsukhaṃ ettha lokiyatīti so loko. ‘‘Soevāhaṃ pecca paraloke bhavissāmīti tathābhāvena nicco, thirabhāvena dhuvo, sabbadābhāvitāya sassato, nibbikāratāya avipariṇāmadhammoti attho. Yadi pañcakkhandhe sandhāya vuttaṃ, kathamekavacananti āha **‘‘ārammaṇavasenā’’**tiādi. Nānā karīyati etenāti nānākaraṇaṃ, viseso. Jātivasenāti uppattivasena. Ye hi anibbattapubbā samānāvatthā, te uppādasaṅkhātavikārasamaṅgitāya uppajjantīti samaññaṃ labhanti. Tenāha **‘‘jātivasenā’’**tiādi. Punappunaṃ āsevitāti anādimati saṃsāre aparāparuppattiyā laddhāsevanā. Etena kilesānaṃ bhāvanaṭṭhena anusayatthaṃ viseseti. Thāmagatāti thāmabhāvaṃ upagatā. Etena anusaye sabhāvato dasseti. Thāmagamananti ca kāmarāgādīnaṃ anaññasādhāraṇo sabhāvo. Tathā hi vuttaṃ ‘‘thāmagato anusaye pajahatī’’ti (paṭi. ma. 3.21). Appaṭivinītāti samucchedavinayavasena na paṭivinītā. Appahīnā hi thāmagatā kilesā anusentīti vuccanti. Etena tesaṃ kāraṇalābhe sati uppajjanārahataṃ dasseti. Samudācarantīti abhibhavanti. Etena tesaṃ vītikkamappattataṃ dasseti. Uppajjantīti pana imināva pariyuṭṭhānāvatthā dassitā.

82. 「どこにおいて」とは、対象における処格である。実にこれは諸見解の対象の例示である。諸見解の随眠する境地も現行する場所も諸蘊そのものであるから、「これらの見解が生起する場所において」などとは五蘊に関して説かれたものであると述べた。「色に固執して」とは、「この色は私の我である」という見解の執着によって固執し、それを拠り所として、ということである。実に固執しながら、見解はそれを対象として生じるのである。「それは我である」などにおいて、眼などに包摂されるこの色を、同一視の認識の結合によって「それは私の我である」とし、ここで苦楽が見られるゆえに「それは世間である」とする。「その私自身が死後、他界において存在するだろう」と、そのような状態であることから「常」であり、堅固であることから「恒」であり、常に存在するがゆえに「常住」であり、変異しない性質であることから「不変異の法」である、という意味である。もし五蘊に関して説かれたものであるなら、なぜ単数形なのか、として「対象としての観点から」などと述べた。これによって異ならせるから「差別」、すなわち特異性である。「生起の観点から」とは、発生の観点からである。未だかつて生じたことのない同じ状態のものは、生起と呼ばれる変異を具足することによって生じるという名称を得る。それゆえに「生起の観点から」などと述べた。「幾度も習熟された」とは、無始の輪廻において度々生起することによって得られた習熟のことである。これによって、煩悩の修習(増長)という意味において随眠の意味を限定している。「強固になった」とは、強固な状態に達したことである。これによって随眠の本性を明らかにしている。強固になることとは、欲貪などの他と共通しない固有の本性である。実に「強固になった随眠を捨断する」(無礙解道 3.21)と説かれているとおりである。「調伏されていない」とは、正断による調伏によって調伏されていないことである。断じられていない強固な煩悩は「随眠する」と言われる。これによって、条件を得た時にそれらが生起するにふさわしい状態を示している。「現行する」とは、圧倒することである。これによってそれらが違反に達していることを示している。「生じる」とは、これによって纏(現行)の状態が示されている。

Taṃ pañcakkhandhappabhedaṃ ārammaṇanti yaṃ taṃ ‘‘yattha cetā diṭṭhiyo uppajjantī’’tiādinā vuttaṃ rūpupādānakkhandhādipañcakkhandhapabhedaṃ diṭṭhīnaṃ ārammaṇaṃ. Etaṃ mayhaṃ na hotīti etaṃ khandhapañcakaṃ mayhaṃ santakaṃ na hoti mama kiñcanapalibodhabhāvena gahetabbatāya abhāvato. Tenassa paramatthato taṇhāvatthubhāvaṃ paṭikkhipati tāvakālikādibhāvato. Ahampi eso na asmīti eso pañcakkhandhapabhedo ahampi na asmi, ahanti so gahetabbo na hotīti attho. Etenassa mānavatthubhāvaṃ paṭikkhipati aniccadukkhajegucchādibhāvato. Eso me attāpi na hoti attasabhāvassa tattha abhāvato mamañcassa kiñcanapalibodhabhāvena gahetabbatāya abhāvato.

「その五蘊の種別である対象」とは、「これらの見解が生起する場所において」などで説かれた、色取蘊などの五蘊の種別である諸見解の対象のことである。「これは私のものではない」とは、この五蘊は私のものではない、私の障害となる執着物として把握されるべきものではないからである。それによって、一時的なものなどであることから、究極的にそれが愛着の対象であることを否定している。「私もこれではない」とは、この五蘊の種別は私でもない、私はそれとして把握されるものではない、という意味である。これによって、無常・苦・不浄などの性質であることから、それが慢の対象であることを否定している。「これは私の我でもない」とは、そこに我の本性が存在しないからであり、私にとってそれが障害となる執着物として把握されるべきものではないからである。

Taṇhāva mamanti gaṇhāti etenāti taṇhāgāho. Taṃ gaṇhantoti taṃ uppādento. Tenāha **‘‘taṇhāpapañcaṃ gaṇhātī’’**ti. Papañceti santānaṃ vitthārento satte saṃsāre cirāyatīti papañco. Yathā vuttapabhedanti aṭṭhasatataṇhāvicaritapabhedaṃ. Taṇhāpapañcaṃ paṭikkhipati khandhapañcakassa taṇhāvatthukābhāvavibhāvanenāti adhippāyo. Parato padadvayepi eseva nayo. Diṭṭhekaṭṭhāti diṭṭhiyā pahānekaṭṭhā. Tena tesaṃ paṭhamamaggavajjhataṃ dasseti. Sahajekaṭṭhā pana diṭṭhiyā taṇhā eva, na māno, sā ca kho apāyagamanīyā. Yathā atthīti yena aniccadukkhāsubhānattākārena atthi, tathā passanto yathābhūtaṃ passati nāma. Tenāha **‘‘khandhapañcakañhī’’**tiādi. Eteneva ākārenāti ruppanādianiccādiākāreneva. Gayhamānampi appahīnavipallāsehi. Tenākārenāti ‘‘etaṃ mama’’ntiādiākārena. Nevatthi yathābhūtadassanavipallāsānaṃ tadabhāvato. Suṭṭhu passantassāti yathā puna tathā na passitabbaṃ, evaṃ suṭṭhu sātisayaṃ passantassa.

渇愛そのものが「我がもの」と把握することによって「渇愛の執着」となる。それを把握するとは、それを生じさせることである。それゆえに「渇愛の戯論を把握する」と述べた。広がりを拡大し、有情を輪廻の中に長引かせるから「戯論」である。「前述の種別」とは、百八の渇愛の振る舞いの種別のことである。五蘊が渇愛の対象ではないことを明らかにすることによって渇愛の戯論を否定する、というのが意図である。以降の二つの句においても同様の解釈である。「同一の境地を見ること」とは、見解による断除と同一の境地にあることである。これによって、それらが初道(預流道)によって断じられるべきものであることを示している。しかし見解と倶生して同一の境地にあるのは渇愛のみであり、慢ではない。そしてそれは悪趣に至るものである。「あるがままに」とは、無常・苦・不浄・無我という様相において存在するように、そのように見る者は如実に観察していると呼ばれる。それゆえに「五蘊は実に」などと述べた。「まさにこの様相によって」とは、変壊などの無常等の様相によってのみ、ということである。未だ顚倒を断じていない者たちによって把握されるとしても。「その様相によって」とは、「これは我がものである」などの様相によって、ということである。如実の観察と顚倒はそれ自身が存在しないことによって、決して共存しない。「よく見ている者に」とは、再びそのように見ることがないように、そのようによく、勝れた形で観察している者に、ということである。

Na ādimanasikāreneva diṭṭhippahānaṃ hoti, adhimānikānaṃ pana adhimānamattametaṃ dassanaṃ. Maggeneva taṃ hotīti imamatthaṃ vibhāvento **‘‘sotāpattimaggena diṭṭhippahānaṃ dassetvā’’**ti āha. Vibhajantoti adhimānikānaṃ jhānāni asallekhabhāvena vibhajanto. Bālaputhujjanānaṃ neva uppajjati akārakabhāvato. Na ariyasāvakānaṃ pahīnādhimānapaccayattā. Na aṭṭhānaniyojako sappāyakammaṭṭhāneyeva niyojanato.

最初の作意だけで見解の断除が起こるのではなく、増上慢の者にとっては、この観察は増上慢にすぎない。道によってのみそれが起こる、というこの意味を解明して「預流道による見解の断除を示して」と述べた。「分類して」とは、増上慢の者たちの禅定を、漸損(削耗)ではないものとして分類して、ということである。愚かな凡夫には、行じる者ではないゆえに決して生じない。聖弟子たちには、増上慢の条件が断じられているゆえに生じない。ふさわしくない場所へと促す者ではなく、適した行処においてのみ促すからである。

Thero ‘‘yadatthaṃ saṅgho pakkosati, so attho tattha vāsīnaṃ āgatāgatānaṃ idha ijjhatī’’ti taṃ udikkhanto saṅghena yāvatatiyaṃ pahitopi na gato na agāravena. Tenāha **‘‘kimeta’’**ntiādi. Paṇḍito hi tattha attano kiccameva karotīti aññataraṃ vuḍḍhapabbajitaṃ pāhesi. Kimetanti saṅghassa āṇāya akaraṇaṃ nāma kimetanti karaṇe ādaraṃ dīpento evamāha. Saṭṭhivassātītoti appatte pattasaññī eva saṭṭhivassātīto. Yasmā pesalā pesalehi saddhiṃ saṃsandanti samānādhimuttitāya, tasmā thero **‘‘sādhāvuso’’**ti vatvā hatthimāpanādiṃ sabbaṃ akāsi.

長老は「僧伽が呼び寄せる目的、その目的はそこに住む者たちややって来る者たちにとってここで成就する」とそれを見越し、僧伽によって三度まで遣わされたが、不敬からではなく赴かなかった。それゆえに「これは何事か」などと述べた。賢者は実にそこにおいて自らの務めのみを果たすとし、ある年老いて出家した者を遣わした。「これは何事か」とは、僧伽の命に従わないとは一体何事か、と為すべきことへの尊重を示してこのように述べた。「六十臘を過ぎた」とは、未達のものを得たと思い込んでいるだけで六十臘を過ぎた者のことである。戒を愛する者たちは、同じ志向を有することによって戒を愛する者たちと打ち解け合うがゆえに、長老は「友よ、善い哉」と言って象の計測などのすべてを行った。

Tādisovāti anantaraṃ vuttattherasadisova appatte pattasaññī eva saṭṭhivassātītoti attho. Padumagumbanti kamalasaṇḍaṃ. Pāsādaṃ pāvisi vissaṭṭhaṃ olokanenassa puthujjanabhāvo attanāva paññāyissatīti. Tissamahāvihāre kira therā bhikkhū tadā ‘‘sakacittaṃ pasīdatī’’ti vacanaṃ pūjentā kālasseva cetiyaṅgaṇaṃ sammajjitvā ettakārammaṇameva buddhārammaṇapītiṃ uppādetvā divase divase tathā karonti. Tena vuttaṃ **‘‘tasmiñca samaye’’**tiādi. ‘‘Dhammadinna, idha pattacīvaraṃ ṭhapetī’’ti vattāpi paṭisanthāravasena kiñci pucchitāpi nāhosi. Guṇaṃ jānātīti nimujjanādīsu vivaradānādinā guṇaṃ jānāti viya. Tumhe pana na jānittha āgantukavattassapi akaraṇato. Satthuāṇāvilaṅghinī kīdisī sā saṅghassa katikā? Katikā ca nāma sikkhāpadāvirodhena anuvattetabbā, ettakampi ajānantehi me saṃvāso natthīti ākāse abbhukkami.

「そのような」とは、直前に述べられた長老と同様に、未達のものを得たと思い込んだまま六十臘を過ぎた、という意味である。「蓮の茂み」とは、蓮華の群生のことである。楼閣に入ったのは、見渡すことによって彼の凡夫である状態が自ずと明らかになるだろうと考えたからである。ティッサ大精舎の長老比丘たちは、当時「自らの心が澄みわたる」という言葉を尊重し、朝早くに仏塔の庭を清掃して、この対象のみによって仏を対象とする喜びを生じさせ、日々そのように行っていたという。それゆえに「そしてその時」などと説かれた。「ダンマディンナよ、ここに鉢と衣を置きなさい」と語りかける者も、挨拶として何一つ尋ねる者もいなかった。「徳を知っている」とは、潜水などにおいて隙間を与えることなどによって徳を知っているかのようである。しかしあなたがたは、客僧に対する義務さえも行わないことから知らなかった。「師の命に背くような、僧伽の取り決めとはいかなるものか。取り決めとは戒律の条項に違背することなく順守されるべきものであり、これほどのことさえ知らない者たちと私の共住はない」と言って、空へと飛び去った。

Yaṃ tassa evamassa sallekhena viharāmīti yo ‘‘paṭhamajjhānaṃ upasampajja vihareyyā’’ti vutto, tassa bhikkhuno yaṃ ‘‘paṭhamajjhānasaṅkhātaṃ paṭipattividhānaṃ kilese sallekhati, tena sallekhena ahaṃ viharāmī’’ti adhimānavasena evamassa evaṃ bhaveyya ṭhānametaṃ vijjatīti evamettha sambandho veditabbo. Taṃ na yujjatīti taṃ adhimānikassa ‘‘yathāvibhaṅgaṃ paṭhamajjhānaṃ sallekho’’ti parivitakkitaṃ na yujjati yuttaṃ na hoti. Tenāha **‘‘na hī’’**tiādi. Tattha sammā sabbaso ca kilese likhatīti sallekho, ariyamaggo. Tadupāyavipassanā sallekhapaṭipadā. Yaṃ pana jhānaṃ vipassanāpādakaṃ, tampi jhānaṃ pariyāyena maggapādakaṃ hotiyeva. Tenāha **‘‘avipassanāpādakattā’’**tiādi.

「彼がこのように『私は漸損(削耗)によって住している』と思うようなこと」とは、「初禅に入って住するであろう」と説かれたその比丘にとって、「初禅と呼ばれる実践の規律は諸々の煩悩を漸損する、その漸損によって私は住している」と増上慢によってこのように思う、このようなことがある、とここではこのように文脈を理解すべきである。「それは妥当ではない」とは、その増上慢の者にとって「分別されたとおりの初禅が漸損である」と考えられたことは妥当ではない、正しくない、ということである。それゆえに「実に〜ではない」などと述べた。そこにおいて、正しく完全に煩悩を削り取るから「漸損」であり、聖道のことである。その手段となるヴィパッサナーが「漸損の道」である。一方、ヴィパッサナーの基礎となる禅定もまた、比喩的な表現としては道の基礎となる禅定である。それゆえに「ヴィパッサナーの基礎とならないことから」などと述べた。

Jhānadhammavasenāti vitakkādipañcakajjhānadhammavasena. Cittuppādavasena anekavāraṃ pavattamānampi jhānaṃ ekāvajjanatāya ekavīthipariyāpannattā ekā samāpatti evāti **‘‘punappunaṃ samāpattivasenā’’**ti vuttaṃ. Cattāri arūpajjhānāni yathāsakaṃ ekekasmiṃyeva ārammaṇe pavattantīti āha **‘‘ārammaṇabhedābhāvato’’**ti. Purimakāraṇadvayavasenevāti ‘‘jhānadhammavasena, punappunaṃ samāpattivasenā’’ti pubbe vuttappakārakāraṇadvayavaseneva.

「禅定の法の観点から」とは、尋などの五つの禅支の法の観点からである。心の生起の観点から幾度も生起する禅定であっても、一回の作意によるものであることによって、一つの心路行程に包摂されるがゆえに一つの等至(禅定の達成)であるとして、「幾度もの等至の観点から」と述べた。四つの無色界禅はそれぞれ自らの唯一の対象において起こることから、「対象の差異がないことから」と述べた。「先の二つの理由によってのみ」とは、「禅定の法の観点から、幾度もの等至の観点から」と先に述べられた二種の理由によってのみ、ということである。

Tesaṃ arūpajjhānānaṃ kilesapariḷāhābhāvena nibbutāni aṅgāni, bhāvanāvisesavasena sukhumāni ārammaṇāni. Tasmā tānīti tesaṃ vasena tāni jhānāni santāni, tasmā **‘‘santā ete vihārā’’**ti vuttaṃ. Tesaṃ catunnampīti catunnampi tesaṃ arūpajjhānānaṃ.

それらの無色界禅の構成要素は、煩悩の熱苦がないことによって静まり、修習の卓越性によって精妙な対象となっている。それゆえにそれらは、それらの理由によって静寂な禅定であり、ゆえに「これらは静寂なる境住である」と説かれた。「それら四つもの」とは、それら四つの無色界禅のすべての、ということである。

83. Soti adhimāniko bhikkhu, añño vā ito bāhirako tāpasaparibbājakādiko na hi sammasati. Tattha adhimāniko appatte pattasaññitāya na sammasati, itaro avisayatāya. Yatthāti yasmiṃ sallekhavatthusmiṃ, avihiṃsakatādīhi catucattālīsāya ākārehi.

83. 「彼」とは、その増上慢の比丘、あるいはこの教えの外の修行者や遊行者などのことであり、実に観察を行わない。そこにおいて増上慢の者は未達のものを得たと思い込んでいるがゆえに観察せず、他の者は対象として知り得ないがゆえに観察しない。「どこにおいて」とは、不害などの四十四の様相による漸損の拠り所において、ということである。

Aṭṭha samāpattiyo nāma kilesānaṃ vikkhambhanavasena pavattā uttaruttari santapaṇītā dhammā, na tathā lokiyā avihiṃsādayo. Tattha kathaṃ avihiṃsādayo eva sallekhabhāvena vuttā, na itarāti imamatthaṃ vibhāvento codako **‘‘kasmā panā’’**tiādimāha. Itaro kāmaṃ samāpattiyo santapaṇītasabhāvā, vaṭṭapādakatāya pana kilesānaṃ sallekhapaṭipadā na honti, avihiṃsādayo pana vivaṭṭapādakā sallekhapaṭipadāti imamatthaṃ vibhāvento **‘‘lokuttarapādakattā’’**tiādimāha. Imināyeva aṭṭhasamāpattīhi avihiṃsādīnaṃ visesadīpakena suttena yathā mahapphalataraṃ hoti, taṃ pakārajātaṃ veditabbaṃ. Idañhi dakkhiṇeyyataratāya dakkhiṇāya mahapphalatarataṃ sandhāya vuttanti sambandho. Nanu tattha ‘‘sotāpattiphalasacchikiriyāya paṭipanno’’ti āgataṃ, na ‘‘saraṇagato’’ti codanaṃ sandhāyāha **‘‘saraṇagamanato paṭṭhāyā’’**tiādi. Vuttañhetaṃ aṭṭhakathāyaṃ (ma. ni. aṭṭha. 3.379) ‘‘heṭṭhimakoṭiyā tisaraṇaṃ gato upāsakopi sotāpattiphalasacchikiriyāya paṭipanno nāmā’’ti. Yo hi vaṭṭadukkhaṃ samatikkamitukāmo pasannacitto ratanattayaṃ saraṇaṃ gacchati, tassa taṃ adhisīlādīnaṃ upanissayo hutvā anukkamena dassanamaggādhigamāya saṃvatteyyāti.

八等至とは、煩悩を鎮伏することによって起こる、順次に静寂で精妙な法であり、世間の不害などはそのようではない。そこにおいて、なぜ不害などだけが漸損として説かれ、他(八等至)はそうではないのか、とこの意味を解明して非難者は「しかしなぜ」などと述べた。他方の者は、確かに八等至は静寂で精妙な性質であるが、輪廻の基礎となるがゆえに煩悩の漸損の道とはならず、一方、不害などは輪廻を脱する基礎となる漸損の道である、とこの意味を解明して「出世間の基礎となることから」などと述べた。八等至と不害などの相違を示すこの経によって、いかに大果となるか、その多様な様相を知るべきである。これは供養を受けるにふさわしい資質による布施の大果性に関して説かれたものである、と結びつけられる。「しかしそこでは『預流果の現証のために実践している者』と説かれており、『帰依した者』とは説かれていないではないか」という疑念に関して「帰依することから始まって」などと述べた。実に義注(中部義注 3.379)において「最低限として三帰依した在家信者であっても、預流果の現証のために実践している者と呼ばれる」と説かれている。実に輪廻の苦しみを越えたいと望み、澄んだ心で三宝に帰依する者にとって、それは増上戒などの強い条件となり、順次に見道(預流道)の体得へと資するのである。

Vihiṃsādivatthunti yadetaṃ vihiṃsādīnaṃ vatthuṃ vadāma, imasmiṃ vihiṃsādivatthusmiṃ. Antamicchādiṭṭhiñca micchattānaṃ ādimicchādiṭṭhiñcāti idaṃ desanākkamaṃ sandhāya vuttaṃ. Missetvāti micchādiṭṭhibhāvasāmaññena ekajjhaṃ katvā. Tathāti iminā yathā kammapathamicchattānaṃ ante ādimhi ca vuttamicchādiṭṭhiṃ missetvā ekajjhaṃ vuttaṃ, tathā tesaṃ ante vuttasammādiṭṭhīti imamatthaṃ upasaṃharati.

「害などの拠り所を」とは、私たちが害などの拠り所と呼ぶこの害などの拠り所において、ということである。「最後の邪見と諸々の邪性の最初の邪見とを」とは、この説法の順序に関して説かれたものである。「混ぜ合わせて」とは、邪見という共通性によって一つにまとめて、ということである。「そのように」とは、行為の道(業道)の邪性の最後と最初に説かれた邪見を混ぜ合わせて一つとして説いたように、それらの最後に説かれた正見も同様である、とこの意味を総括している。

Pāṇanti vohārato sattaṃ, paramatthato jīvitindriyaṃ. Atipātenti saraseneva patanasabhāvaṃ aticca antarā eva pātenti, atikkamma vā satthādīhi abhibhavitvā pātenti. Adinnanti parasantakaṃ. Ādiyantīti gaṇhanti. Sallekhatīti samaṃ lekhati, pajahatīti attho. Kammapathakathā esāti **‘‘atthabhañjanaka’’**nti vuttaṃ. Piyasuññakaraṇato pisuṇā, pisati pare satte hiṃsatīti vā pisuṇā. Pharusāti lūkhā, niṭṭhurāti attho. Niratthakanti attharahitaṃ attano paresañca hitavinimuttaṃ. Micchāti viparītā niccādivasena pavattiyā. Pāpikāti lāmikā. Ekantākusalatāya viññūhi buddhādīhi garahitā. Natthi dinnanti ādivatthukāyāti dasavatthukamicchādiṭṭhimāha. Natthikabhāvābhinivesanavasena kammapathappattiyevassā kammapathapariyāpannatā. ‘‘Rūpaṃ attā’’’tiādinayappavattā attadiṭṭhi maggantarāyakarattā aniyyānikadiṭṭhi. Aniyyānikattā eva hissā micchattapariyāpannatā. Sammāti aviparītā, tato eva sobhanā sundarā, buddhādīhi pasatthattā viññuppasatthā. Sesamettha micchādiṭṭhiyaṃ vuttanayena veditabbaṃ.

「命あるもの」とは、世俗の表現では有情であり、勝義では命根である。「殺害する」とは、自然の性質として消滅する本性のあるものを、途中で妨げて落とす、あるいは超えて刀杖などによって圧倒して落とすことである。「与えられていないもの」とは、他人の所有物のことである。「取る」とは、奪うことである。「漸損する」とは、等しく削り取る、すなわち捨断する、という意味である。「これは業道の教説である」として「有益さを打ち砕くもの」と述べた。愛着を空しくすることから「離間」、あるいは他者を傷つけ害することから「離間」である。「粗悪な」とは、荒々しく過酷な、という意味である。「無益な」とは、意味を欠き、自己と他者の利益から離れたものである。「誤った」とは、常住などの観点から生じることによる転倒である。「悪しき」とは、卑しいことである。全くの不善であることから、仏陀などの有智者たちによって非難されている。「与えられたものはない」などの事柄を根拠とするゆえに、十事の邪見を述べている。虚無であることへの執着によって業道に達することそのものが、それの業道への包摂である。「色は我である」などの論法によって生じる我見は、道の障害となるがゆえに「解脱に導かない見解」である。解脱に導かないことこそが、それの邪性への包摂である。「正しい」とは、転倒していないことであり、それゆえに端正で美しく、仏陀たちによって称賛されていることから有智者に称賛されるものである。ここにおける残りの部分は、邪見において説かれた論法によって知るべきである。

Asubhādīsu subhādiākāraggahaṇato ayāthāvaaniyyānikā ayoniso uppattiyā. Akusalāti ayāthāvāaniyyānikā akusalā saṅkappā. Esa nayoti iminā ‘‘ayāthāvā aniyyānikā akusalā vācā’’tiādinā tattha tattha ayāthāvādiatthaṃ atidisati. Vācāti cetanā adhippetā, tathā kammantājīvāsati ca. Yebhuyyena atītānussaraṇavasena pavattito **‘‘atītaṃ cintayato’’**ti vuttaṃ. Tathā hi loke evaṃ vadanti ‘‘yaṃ me pahūtaṃ dhanaṃ ahosi, taṃ pamādavasena pana bahuṃ khīṇa’’nti. Satipatirūpakenāti ‘‘cirakatampi cirabhāsitampi saritā’’ti evaṃ vuttasatuppattipatirūpakena. Uppattinti cittuppattiṃ. Tathāpavattacittuppādo hi micchāsati. Sā pana kodhavasena vā ‘‘akkocchi maṃ avadhi ma’’ntiādinā (dha. pa. 3) upanayhantassa, rāgavasena vā ‘‘yānissa tāni pubbe mātugāmena saddhiṃ hasitalapitakīḷitāni anussaratī’’ti (a. ni. 7.50) vuttanayena subhato anussarantassa, diṭṭhivasena vā ‘‘so kho pana me atto nicco dhuvo’’tiādinā micchāabhinivisantassāti evamādinā nayena pavattatīti veditabbā.

不浄なるものなどにおいて清浄などの様相を把握することから、正理にかなわず解脱に導かない、如理ならざる作意によって生起する。「不善なる」とは、正理にかなわず解脱に導かない不善の思惟である。「この論法」とは、これによって「正理にかなわず解脱に導かない不善の言葉」などと、それぞれの箇所において正理にかなわないなどの意味を適用している。「言葉」とは思(意志)が意図されており、行為・生活・念においても同様である。多くは過去の想起によって起こることから「過去を思索する者に」と述べた。実に世間においてこのように言う。「私に多くの財産があったが、放逸によって多くが尽きてしまった」と。「念に似たものによって」とは、「久しく為したことや久しく語ったことも思い出す」とこのように説かれた念の生起に似たものによって、ということである。「生起を」とは、心の生起を。「そのように生じる心の生起」こそが邪念である。しかしそれは、怒りによって「彼は私を罵った、私を打った」など(法句経 3)と怨みを結ぶ者、あるいは貪りによって「かつて女性とともに笑い、語り、戯れたことを思い出す」(増支部 7.50)と説かれた論法によって美しく思い出す者、あるいは見解によって「実に私の我は常住であり恒久である」などと誤って固執する者、このように等の論法によって生じるものと知るべきである。

Upāyacintāvasenāti khippajālakumināduhalādiupakaraṇasaṃvidhānādīsu yutticintanādivasena pāpaṃ katvā vippaṭisāranimittaṃ, **‘‘sukataṃ mayā’’**ti pāmojjanimittaṃ katvā paccavekkhaṇākārena moho aññāṇaṃ. Tattha pana ‘‘asive sivā’’ti vohāro viya ñāṇavohāro. Micchāsabhāvattā pana micchāñāṇaṃtveva vuccati. Ekūnavīsatibhedaṃ paccavekkhaṇañāṇaṃ sammā pekkhitattā sammāñāṇaṃ vuccati, itaraṃ pana jhānādipaccavekkhaṇañāṇaṃ sammādiṭṭhiyāva saṅgayhati. Rūpārūpasamāpattilābhitāmattena vaṭṭato avimuttāyeva samānā ‘‘vimuttā maya’’nti evaṃsaññino. Pakatipurisantarañāṇasaṅkhātāyaṃ, guṇaviyuttassa attano sakattani avaṭṭhānasaṅkhātāyaṃ, attano mahābrahmunā salokatā tassa samīpatāsaṃyujjanasaṅkhātāyaṃ vā avimuttiyaṃ vimuttisaññino. Ekantākusalatāya hīnattā pāpikā. Ayāthāvatāya viparītā. Yathāvuttenāti ‘‘avimuttāyeva samānā’’ti vuttappakārena. ‘‘Mayamettha sammādiṭṭhi bhavissāmā’’tiādīsu phalasammādiṭṭhiādīnipi maggasammādiṭṭhiādipakkhikānevāti adhippāyena **‘‘phalasampayuttāni…pe… veditabbā’’**ti vuttaṃ. Sabbepi pana phaladhamme vimuttikkhandhasaṅgahato ‘‘vimuttī’’ti vuccamāne na koci virodho. Ettha sammāvimuttisaṅkhāte sallekhavatthumhi.

「手段の思索によって」とは、素早い網や筌や罠などの道具の準備等において、適合する工夫を巡らすことなどによって悪を為して後悔の機縁とし、「私はうまくやった」と歓喜の機縁として、省察の様相において起こる迷妄、無知のことである。しかしそこでは「不吉なものを吉」と呼ぶような知の呼称である。邪なる本性であることから「邪知」とまさに呼ばれる。十九種の省察の知は、正しく観察することから「正知」と呼ばれ、他方の禅定などの省察の知は正見に包摂される。色界・無色界の等至の獲得者であるというだけで輪廻から未解脱であるにもかかわらず、「私たちは解脱した」とこのように認識する者たちである。原質(プラクリティ)と精神(プルシャ)の識別知と呼ばれるものにおいて、あるいは諸徳を離れた自己の内に留まることと呼ばれるものにおいて、あるいは自己が大梵天と同一の世界に住すること、あるいはその近くに結びつくことと呼ばれる未解脱において解脱の認識を持つ者たちである。全くの不善であることから卑しいゆえに「悪しき」である。正理にかなわないことから「転倒した」である。「前述のように」とは、「未解脱であるにもかかわらず」と説かれた様相によって、ということである。「私たちはここで正見となるであろう」などにおいて、果の正見なども道の正見などの側に属するものである、という意図によって「果に相応するものは……乃至……知るべきである」と述べた。しかし、すべての果の法は解脱蘊に包摂されることから「解脱」と呼ばれるとしても何の矛盾もない。ここでは、正解脱と呼ばれる漸損の拠り所においてである。

Yadi nīvaraṇavasena vuttāni, tasmā tīṇeva vuttānīti āha **‘‘abhijjhālū’’**tiādi. Pariyuṭṭhānappattā thinamiddhapariyuṭṭhitā. Yassa dhammassa atthitāya uddhatā nāma honti, so dhammo uddhaccanti āha **‘‘uddaccena samannāgatāti uddhatā’’**ti. Vicinantāti dhammoti vā adhammoti vā ādinā yaṃ kiñci sabhāvaṃ vinicchinantā. Upanāhanasīlāti parassa attano citte anubandhanasīlā. Issantīti usūyanti. Saṭhayantīti saṭhā aññathā attānaṃ aññathā pavedanakā. Te pana yasmā na yathābhūtavādino, tasmā āha **‘‘na sammā bhāsantīti vuttaṃ hotī’’**ti. Vuttapaccanīkanayenāti ‘‘na kodhanā akkodhanā’’tiādinā vuttaatthapaṭipakkhanayena.

もし蓋(障害)の観点から説かれたのであれば、なぜ三つだけが説かれたのか、として「貪欲に満ちた」などと述べた。纏(現行)に達した者は惛沈・睡眠に覆われている。いかなる法が存在することによって「掉挙した者」と呼ばれるのか、その法が掉挙であるとして「掉挙を具足した者が掉挙した者である」と述べた。「思索する」とは、法であるか非法であるかなどと、何らかの自性を判定することである。「怨みを結ぶ性質」とは、他者を自分の心の中で追及し続ける性質である。「嫉妬する」とは、妬むことである。「詐欺を働く」とは、偽る者であり、自己を実際とは異なって知らせる者である。しかし彼らはありのままに語る者ではないゆえに「正しく語らない、と説かれたことになる」と述べた。「説かれた対立の論法によって」とは、「怒りっぽくない者は不忿である」などと説かれた意味の対立する論法によって、ということである。

Dukkhaṃ vaco etesu vippaṭikūlaggāhitāya vipaccanīkagāhesūti dubbacā. Te pana vacanakkhamā na hontīti āha **‘‘vattuṃ dukkhā’’**tiādi. Hīnācāratāya dukkhassa vā sampāpakatāya pāpakā. Asaddhammavasenāti asappurisadhammavasena. Attanā visesitabbavasena kāyaviññattiādīnaṃ kāyakammadvārādibhāvo viya assaddhiyādiasaddhammasamannāgamenaasataṃ asappurisānaṃ dhammānanti tāniyeva assaddhiyādīni asaddhammā nāma, tesaṃ vasenāha **‘‘saddhā etesaṃ natthī’’**ti yathā taṃ ‘‘duppaññā’’ti. Suttageyyādi appaṃ sutaṃ etesanti appassutā, sutena anupapannā. Natthīti gahetabbanti iminā abhāvattho ayaṃ appa-saddo ‘‘appaḍaṃsamakasavātātapasarīsapasamphassāna’’ntiādīsu (a. ni. 10.11) viyāti dasseti. Sammāpaṭipattiyā anārambhanato kucchitā gārayhā sīdanti osīdanti saṃkilesapakkheti kusītā da-kārassa ta-kāraṃ katvā. Akusalānaṃ dhammānaṃ pahānāya kusalānaṃ dhammānaṃ upasampadāya āraddhaṃ paggahitaṃ vīriyaṃ etesanti āraddhavīriyā. Anuppādanena muṭṭhā naṭṭhā sati etesanti muṭṭhassatī. Duṭṭhāti dūsitā. Duppaññā nāma dūsitabhāvo paṭipakkhena vināsitabhāvoti āha **‘‘naṭṭhapaññāti vuttaṃ hotī’’**ti. Heṭṭhā sammādiṭṭhiggahaṇena kammassakatāpaññāya maggasammādiṭṭhiyā ca gahitattā subbacakalyāṇamittatāparivārāhi idha saddhādīhi vipassanāsambhārassa uddhaṭattā ca vuttaṃ **‘‘idha vipassanāpaññā veditabbā’’**ti. Tenāha **‘‘vipassanāsambhāro hī’’**tiādi. Yuttiṃ anapekkhitvāpi ayamattho gahetabboti dassento āha **‘‘porāṇānaṃ āṇā’’**ti.

言葉を受け入れることが困難であること、逆らい反発して把握することから「語り難い者」である。しかし彼らは言葉を堪え忍ぶ者ではないとして「語ることが困難である」などと述べた。卑しい行いであることから、あるいは苦しみをもたらすことから「悪しき」である。「不正な法によって」とは、正しからぬ人の法によって、ということである。自らによって特異化されるべきものとして身表などの身業の門などとなるように、無信などの不正な法を具足することによって、正しからぬ人々の法であるそれら無信などを「不正な法」と名づけ、それらの観点から「彼らには信がない」と述べた。それはあたかも「悪慧(愚者)」というのと同じである。経や応頌などの聞法が少ない者たちを「寡聞の者」、すなわち聞法を具足していない者という。「存在しないと把握すべきである」とは、これによってこの「寡」という語は、「わずかな虻・蚊・風・熱・爬虫類の接触」など(増支部 10.11)におけるのと同様に、非存在の意味であると示している。正しい実践に着手しないことから、嫌悪され非難されるべき汚濁の側に沈滞し沈み込むから「怠惰な者」であり、「ダ(d)」の文字を「タ(t)」に変えている。不善の法を断じ、善の法を具足するために精進を起こし奮起させた者たちを「精進を奮起させた者」という。生起させないことによって念を失い滅失した者たちを「失念の者」という。「損なわれた」とは、汚されたことである。悪慧とは損なわれた状態であり、対治するものによって滅失した状態であるとして「智慧が滅失した者、と説かれたことになる」と述べた。先述の箇所で正見が挙げられたことによって業所属性の知と道の正見とが把握されており、従順さや善友を伴うここでの信などによってヴィパッサナーの資糧が掲げられていることから、「ここではヴィパッサナーの智慧と知るべきである」と説かれた。それゆえに「ヴィパッサナーの資糧は実に」などと述べた。論理を考慮しなくてもこの意味は把握されるべきであると示すために「古人の教令である」と述べた。

Lokuttaraguṇānaṃ antarāyakaranti lokuttaraguṇānaṃ adhigamassa antarāyakaraṃ. Sandiṭṭhinti saṃ attano diṭṭhiṃ, yaṃ vā taṃ vā attanā yathāgahitadiṭṭhinti attho. Sabhāvaṃ atikkamitvā parato āmasanato parāmāsī. Daḷhaggāhīti ‘‘idameva sacca’’nti thiraggāhaggāhī. Paṭinissaggīti paṭinissajjanako. Kummovāti yathā kacchapo attano pādādike aṅge kenaci ghaṭṭito sabbāni aṅgāni attano kapāleyeva samodahati, na bahi nīharati, evamayampi ‘‘na sundaro tava gāho, chaḍḍehi na’’nti vutto taṃ na vissajjeti. Antoyeva attano hadaye eva ṭhapetvā taṃ vadati. Kumbhīlaggāhanti saṃsumāraggāhaṃ. Gaṇhantīti yathā saṃsumārā gahitaṃ na vissajjenti, evaṃ gaṇhanti.

「出世間の諸徳の障害となるもの」とは、出世間の諸徳の獲得の障害となるもののことである。「自らの見解を」とは、自らの見解、あるいは何であれ自らによって把握されたとおりの見解を、という意味である。自性を超えて他を把持することから「固執する者」である。「堅固に執着する」とは、「これのみが真理である」と頑なに執着して把握することである。「放棄する」とは、手放すことである。「亀のように」とは、あたかも亀が自らの足などの部位を何かに触れられたとき、すべての部位を自らの甲羅の中に引き入れ、外に出さないように、このようにこの者も「あなたの執着は良くない、それを捨てなさい」と言われてもそれを手放さない。まさに内側に、自らの心の中に留めてそれを語るのである。「ワニの執着」とは、ワニが捕らえたような執着である。「執着する」とは、あたかもワニが捕らえたものを手放さないように、そのように執着することである。

84. Evaṃ catucattālīsāya ākārehīti avihiṃsanādīhi catuadhikacattālīsappakārehi. Kasmā panettha avihiṃsā ādito vuttā? Sabbaguṇānaṃ mūlabhāvato. Avihiṃsāti hi karuṇāyetaṃ adhivacanaṃ, sā ca visesato sīlassa mūlakāraṇaṃ parūpaghātalakkhaṇā dussīlyā oramāpanato. Yathā hi pāṇātipāto parūpaghātalakkhaṇo, tathā paresaṃ sāpateyyāvaharaṇaṃ, sattippahāratopi dhanassāvahāro garutaroti. Tathā abrahmacariyaṃ gabbhadhāraṇādidukkhāvahanato, paradārātikkame pana vattabbameva natthi. Paresaṃ visaṃvādanabhedanamammaghaṭṭanānaṃ parūpaghātabhāvo pākaṭo eva, samphappalāpo atthaggāhāpanato anatthuppādanato, abhijjhā adinnādānādihetuto, byāpādo pāṇātipātādihetuto, micchādiṭṭhi sabbānatthahetuto parūpaghātalakkhaṇā, micchādiṭṭhi dhammikapaṭiññopi pāṇātipātādīni karoti, pare ca tattha niyojeti, kimaṅgaṃ pana itare. Vihiṃsalakkhaṇā dussīlyā oramā avihiṃsalakkhaṇā visesato sīlassa balavakāraṇaṃ. Sīlapadaṭṭhāno ca samādhi, samādhipadaṭṭhānā ca paññāti sabbaguṇānaṃ mūlabhūtā avihiṃsā. Apica uḷārajjhāsayānaṃ nisammakārīnaṃ dhīrānaṃ uttamapurisānaṃ sīlaṃ viya samādhipaññāpi paresaṃ hitasukhāvahāva sampajjantīti evampi karuṇā sabbaguṇānaṃ mūlanti sā ādito vuttā.

84. 「このように四十四の様相によって」とは、不害などの四十四の様相によって、ということである。しかしここでなぜ、不害が最初に説かれたのか。すべての徳の根本であるからである。実に不害とは慈悲の別名であり、それは特に、他者を害することを特徴とする破戒から遠ざけさせることから戒の根本原因である。実に殺生が他者を害することを特徴とするように、他者の財産の強奪もそうであり、槍で突くことよりも財産の強奪の方がより重大である。同様に不淫は妊娠などの苦しみをもたらすことからであり、他人の妻を侵すことについては言うまでもない。他者を欺き、仲違いさせ、急所を打つことの他者加害性は明白であり、無益な雑談は有益さを奪い無益を生じさせることから、貪欲は不与取などの原因であることから、瞋恚は殺生などの原因であることから、邪見はすべての不利益の原因であることから他者加害を特徴とし、邪見の者は宗教的誓戒を立てていても殺生などを行い、他者をもそれに従わせる、ましてや他の者たちは言うまでもない。加害を特徴とする破戒から遠ざかる不害を特徴とするものは、特に戒の強力な原因である。そして戒を足場とするのが三摩地であり、三摩地を足場とするのが智慧であるから、不害はすべての徳の根本である。さらに、高潔な志を持ち熟慮して行動する賢明な優れた人々の戒は、三摩地や智慧と同様に、他者の利益と幸福をもたらすものとして成就する。このように慈悲はすべての徳の根本であるゆえに、それが最初に説かれたのである。

Tato paraṃ visesato ‘‘avihiṃsāsamuṭṭhānā ime dhammā’’ti dassanatthaṃ kusalakammapathadhammā gahitā. Tato idaṃ guṇānaṃ mūlabhūtaṃ sīlaṃ, ettha patiṭṭhitena ime dhammā uppādetabbāti dassanatthaṃ aṭṭha sammattā gahitā. Tesaṃ visodhanāya paṭipannassa ādito evaṃ hotīti dassanatthaṃ nīvaraṇaviveko gahito, ādito nīvaraṇadvayassa aggahaṇe gahitāgahitakāraṇaṃ aṭṭhakathāya vuttameva. Kodhassa pana byāpādato bhedo vatthasuttavaṇṇanāyaṃ (ma. ni. aṭṭha. 1.71) vuttanayeneva veditabbo. Kodhādippahānena cettha sallekhasiddhīti dassanatthaṃ tato upakkilesavisuddhi gahitā. Sā ca subbacakalyāṇamittaappamattatāhi sijjhatīti dassanatthaṃ pakiṇṇakā gahitā. Sampannasovacassatādiguṇassa ime dhammā pāripūriṃ gacchanti, vipassanaṃ paribrūhetvā ariyamaggādhigamāya saṃvattantīti dassanatthaṃ saddhammā gahitā. Evaṃbhūtassa ayaṃ micchāgāho lokuttaraguṇādhigamassa antarāyakaro, tasmā so dūrato vajjetabbo, evaṃ yathāvuttāya sammāpaṭipattiyā ariyamaggaṃ adhigacchanto sallekhaṃ matthakaṃ pāpetīti dassanatthaṃ ‘‘sandiṭṭhiparāmāsī’’tiādi vuttanti evametesaṃ catucattālīsāya sallekhākārānaṃ gahaṇapayojanaṃ anupubbī ca veditabbā. Payogato sallekhapaṭipadaṃ paṭipajjituṃ asakkontānaṃ cittuppādopi bahūpakāroti āha **‘‘cittuppādassapi bahūpakārataṃ dassetu’’**nti.

その次に、特に「これらの法は不害から生じるものである」と示すために善業道の法が取られた。その次に、この徳の根本である戒、これに確立してこれらの法を生起させるべきであると示すために八つの正性が取られた。それらを浄化するために実践する者にとって、最初はこのようになる、と示すために蓋の遠離が取られた。最初において二つの蓋を取らないことに関する取捨の理由は、すでに義注において説かれたとおりである。しかし怒りの瞋恚との差異は、『衣の喩えの経の注釈』(中部義注 1.71)において説かれた論法によって知るべきである。そして怒りなどの断除によって漸損が成就することを示すために、その次に随煩悩の清浄が取られた。そしてそれは、従順・善友・不放逸によって成就することを示すために雑多な項目が取られた。豊かな従順さなどの徳を持つ者にとってこれらの法は円満に達し、ヴィパッサナーを増大させて聖道の体得へと資することを示すために正しい法が取られた。このような状態にある者にとって、この誤った執着は出世間の諸徳の体得の障害となる、ゆえにそれは遠くから避けるべきであり、このように前述の正しい実践によって聖道を体得しつつ漸損を頂点に到達させる、と示すために「自らの見解に固執する」などが説かれた。このように、これら四十四の漸損の様相の採用の目的と順序を知るべきである。実践として漸損の道を行ずることができない者たちにとっても、心の生起だけでも多大なる助けとなるとして「心の生起でさえ多大なる助けとなることを示すために」と述べた。

Kusalesu dhammesūti avihiṃsādīsu yathāvuttaanavajjadhammesu. Anuvidhiyanāti cittuppādassa kāyavācāhi anuvidhānā. Tesaṃ dhammānanti avihiṃsādidhammānaṃ, tesaṃ vā cittuppādavasena pavattadhammānaṃ. Idāni yathāvuttadhammaṃ vitthārato dassetuṃ **‘‘kasmā panā’’**tiādi āraddhaṃ. Saraṇagamanaṃ vācāya viññāpetuṃ asakkontassa vasena vuttaṃ **‘‘kāyena vā’’**ti. ‘‘Sīlaṃ kāyena samādiyatī’’ti etthāpi eseva nayo. Ettha ca tathā tathā pavattasallahukakāmāvacarakusalacittuppattiṃ upādāya tathārūpakusalakāyavacīkammānaṃ bahūpakāratā vuttāti na sabhāvato cittuppādassa bahūpakārataṃ ñāyatīti daṭṭhabbaṃ.

「善なる法において」とは、不害などの前述の過ちのない法において、ということである。「順動」とは、心の生起に身と口とが従うことである。「それらの法の」とは、不害などの法、あるいはそれらの心の生起によって起こる法のことである。今や、前述の法を詳細に示すために「しかしなぜ」などと着手された。帰依を言葉で表明することができない者の観点から「身によって、あるいは」と述べた。「戒を身によって受持する」というここにおいても同じ論法である。そしてここには、そのように生起した非常に軽快な欲界の善心の生起に縁って、そのような形態の善なる身業・口業の多大なる助けとなることが説かれているのであり、本性として心の生起の多大なる助けとなることだけが知られるわけではない、と見なされるべきである。

85. Hitādhigamāyāti diṭṭhadhammikādihitasampattiyā, ariyamaggādhigamāya eva vā. Ariyamaggo hi ekantahitattā hito nāma. Parivajjanavasena kamanaṃ pavatti parikkamananti āha **‘‘parikkamanāya parivajjanatthāyā’’**ti. Sammādassanupāyasaṃvidhānena avihiṃsā paṭiyattā sammāsambuddhena. Sukhenevāti akiccheneva. Eteneva upāyenāti eteneva avihiṃsāpade vuttena vidhinā. Sabbapadānīti sesāni tecattālīsa padāni.

85. 「利益の体得のために」とは、現世などの利益の成就のために、あるいは聖道の体得そのもののためにである。聖道は実に、絶対的な利益であるゆえに「利益」と呼ばれる。回避による進行・活動が「回避」であるとして「回避のために、避けるために」と述べた。正見の手段を整えることによって、不害は正等覚者によって備えられた。「容易に」とは、困難なくして、ということである。「まさにこの手段によって」とは、まさにこの不害の句において説かれた方法によって、ということである。「すべての句を」とは、残りの四十三の句のことである。

86. Akusalā paṭisandhiajanakā nāma uddhaccasahagatacittuppādadhammā aññepi pavattivipākamattadāyino, dinnāya paṭisandhiyā vipākajanakā, paccayavekallena vipaccituṃ aladdhokāsā ahosikammādayo vā ajanakā. Jātivasenāti akusalajātivasena. Adhobhāgaṅgamanīyāti apāyagamanīyā. Evaṃnāmāti nāmaggahaṇena sabhāvaṃ upalakkheti sati paccayasamavāye taṃsabhāvānativattanato. Tenāha **‘‘vipākakāle aniṭṭhākantavipākattā’’**ti. Vuttanayeneva kusalapakkho veditabbo. Ayaṃ pana viseso, idha paṭisandhiajanakā abhiññāsahagatadhammā, sesaṃ vuttasadisameva. Sabbe akusalāti ettha vihiṃsamekaṃ ṭhapetvā itare sabbe akusalā upamābhūtā. Vihiṃsā hi upameyyaṃ. Sabbe kusalāti etthāpi eseva nayo. Eteneva upāyenāti yathā vihiṃsānaṃ upameyyatā, tadavasesānaṃ kusalākusalānaṃ upamābhāvo vutto, iminā nayena akusalaṃ pāṇātipātādiakusalena itarena, kusalañca pāṇātipātāpaṭiviratiādikusalena itarena upametabbaṃ.

86. 結生を生じさせない不善とは、掉挙と相応する心より生じる法、あるいは転起(生存中)の異熟のみを与える他の法、与えられた結生において異熟を生じさせる法、条件の欠如によって異熟する機会を得なかった無効業(既済業)などの生じさせない法のことである。「性質の観点から」とは、不善の性質の観点からである。「下方へと赴くもの」とは、悪趣へと赴くものである。「そのような名を持つ」とは、名を取ることによって自性を特徴づけている。条件の結合があるとき、その自性を超えないからである。それゆえに「異熟の時には好ましくない、望ましくない異熟をもたらすゆえに」と述べた。説かれた論法によって善の側も知るべきである。しかしこの相違がある。ここでは結生を生じさせないものは神通と相応する法であり、残りは前述と同様である。「すべての不善は」において、害の一つを除いて他のすべての不善は喩えとなるものである。実に害は被喩物(喩えられるもの)である。「すべての善は」においても同じ論法である。「まさにこの手段によって」とは、あたかも害が被喩物であり、それ以外の善と不善が喩えとなる状態が説かれたように、この論法によって不善を殺生などの他の不善によって、また善を殺生の離退などの他の善によって喩えるべきである。

87. Parinibbāpaneti kilesapariḷāhavūpasamane. Parito limpanaṭṭhena palipaṃ vuccati mahākaddamaṃ, taṃ pana ekantato gambhīrampi hotīti ‘‘gambhīrakaddame **nimuggo’’**ti vuttaṃ. Palipaṃ viya palipanti pañca kāmaguṇā vuccanti, tasmā evaṃ idāni vuccamānena upamopameyyasaṃsandananayena ettha imasmiṃ ṭhāne atthayojanā veditabbā. Na hi taṃ kāraṇanti ettha kāraṇaṃ nāma hatthassa vā pādassa vā apalipannabhāvo, so pana natthi. Esa nayo upameyyepi.

87. 「完全なる平安(涅槃)において」とは、煩悩の熱苦の寂静においてである。四方を汚すという意味で「泥沼」とは大泥土をいい、それはまた絶対的に深いものでもあるとして「深い泥土に沈んだ」と述べた。泥沼のようであるから「泥沼」と五欲のことが言われる。ゆえに今語られる比喩と被喩物の照合の論法によって、こここの箇所における意味の解釈を知るべきである。「実にその理由は存在しない」において、理由とは手または足が泥に沈んでいない状態のことであり、しかしそれは存在しない。この論法は被喩物においても同様である。

Tattha siyā kassaci parivitakko ‘‘bhagavato desanānubhāvena bhikkhuādayo kathentī’’ti. **‘‘Bhagavāyeva hi tattha uddharatī’’**ti vatvā upamāya tadatthaṃ vibhāvetuṃ **‘‘rañño’’**tiādi vuttaṃ. Puthujjanā tāvatiṭṭhantu, sāvakasikhāppattavisesānampi ariyānaṃ desanā satthuyeva desanāti dassetuṃ **‘‘kiñcāpī’’**tiādimāha. Tathā hi tehi desitasuttāni buddhavacanameva, tesaṃ desanāya laddhavisesāpi ariyā buddhaputtāyevāti.

そこにおいて、ある人には「世尊の説法の威力によって比丘たちは語るのだ」という思索があるかもしれない。「世尊こそが実にそこにおいて引き上げるのである」と述べて、喩えによってその意味を解明するために「王の」などと述べた。凡夫はさておき、弟子の頂点に達した卓越した聖者たちの説法さえもが師の説法そのものであると示すために「たとえ〜であっても」などと述べた。実に彼らによって説かれた経典は仏説そのものであり、彼らの説法によって卓越性を得た聖者たちもまた仏子そのものであるからである。

Anibbisatāyāti anibbisevanatāya. Asikkhitavinayatāyāti pañcannaṃ vinayānaṃ sādaraṃ asikkhitabhāvena. Te pana vinayā tissannaṃ sikkhānaṃ sikkhāpanena hotīti āha **‘‘tisso sikkhā sikkhāpessatī’’**ti. Kiṃ pana tanti? ‘‘Ṭhānametaṃ vijjatī’’ti ettha vuttaṃ kiṃ pana ṭhānanti āha **‘‘apalipapalipannatta’’**ntiādi. Yasmā pāḷiyaṃ ‘‘so vata cundā’’tiādinā sāmaññatthaṃ upamābhāvena gahetvā visesattho upameyyabhāvena vutto, tasmā tamatthaṃ **‘‘evamattho veditabbo’’**tiādinā sādhāraṇato vatvā puna asādhāraṇato vivaranto **‘‘kiṃ vuttaṃ hotī’’**tiādimāha. Parassa vihiṃsācetanaṃ nibbāpessatīti idaṃ yo avihiṃsāsaṅkhātaṃ sammāpaṭipattiṃ disvā diṭṭhānugatiṃ āpajjanto dhammadesanāya paro avihiṃsako hoti, tādisaṃ sandhāya vuttaṃ. Ādesanañhi tassa vacananti. Tenāha **‘‘ayaṃ yā esā vihiṃsakassā’’**ti. Pubbe vihiṃsakassa micchāpaṭipajjantassa. Vihiṃsāpahānāya maggaṃ bhāvayatotiādinā attano eva avihiṃsāya vihiṃsāparinibbānāya saṃvattanamāha. Tenāha **‘‘parinibbuto viyā’’**tiādi. Sabbapadesūti ‘‘pāṇātipātissā’’tiādinā āgatesu tecattālīsāya padesu.

「勤修しないことによって」とは、徹底的に実践しないことによって、ということである。「調伏を学んでいないことによって」とは、五種の調伏を丁重に学んでいない状態によって、ということである。そしてそれらの調伏は三学を学ばせることによって起こるとして「三学を学ばせるであろう」と述べた。しかしそれは何か。「このようなことがある」とここで説かれたことは一体何か、として「泥に沈んでいない者が泥に沈んだ者を」などと述べた。聖典において「チュンダよ、実にそれは……」などと、共通の意味を比喩として取り、特殊な意味が被喩物として説かれているがゆえに、その意味を「このように意味は知られるべきである」などと一般的に述べて、さらに個別的に明らかにして「何が説かれたことになるのか」などと述べた。「他者の加害の思を消滅させるであろう」とは、不害と呼ばれる正しい実践を見てその見解に従い、法話によって他者が無害の者となる、そのような者を指して説かれたものである。実に彼の言葉は教示である。それゆえに「これは、害をなす者が」と述べた。かつて害をなす者であり、誤った実践をしていた者が。「害の捨断のために道を修習する者に」などによって、自身の不害によって害の完全な消滅へと資することを述べている。それゆえに「完全に平安となった者のように」などと述べた。「すべての句において」とは、「殺生をなす者にとって」などと説かれた四十三の句においてである。

88. Evanti desitākāraparāmasanaṃ. Tassāti sallekhassa. ‘‘Atthi khvesa brāhmaṇa, pariyāyo’’tiādīsu (a. ni. 8.11; pārā. 3-10) viya pariyāya-saddo kāraṇatthoti āha **‘‘sallekhakāraṇa’’**nti. Tesaṃ vasenāti sallekhānaṃ vasena. Mettāya upasaṃharaṇavasena hitaṃ esantena. Karuṇāya vasena anukampamānena. Pariggahetvāti parito gahetvā, paritvāti attho. Pariccāti parito itvā, samantato pharitvā icceva attho. Mā pamajjitthāti ‘‘jhāyathā’’ti vuttasamathavipassanānaṃ aññāṇena, aññena vā kenaci pamādakāraṇena mā pamādaṃ āpajjittha. Niyyānikasāsane hi akattabbakaraṇampi pamādoti. Vipattikāleti sattaasappāyādivipattiyuttakāle. Yathāvuttā pañca pariyāyā aññepi sabbe sāsanaguṇā idheva saṅgahaṃ gacchantīti āha **‘‘jhāyatha, mā pamādatthāti tumhākaṃ anusāsanī’’**ti.

88. 「このように」とは、説かれた様相を指し示すことである。「その」とは、漸損の、ということである。「バラモンよ、実にこの方便(理由)はある」など(増支部 8.11; 波羅夷 3-10)におけるように、「パリヤーヤ(方便・条目)」という語は原因・理由の意味であるとして「漸損の理由を」と述べた。「それらの観点から」とは、諸々の漸損の観点からである。慈しみを注ぐことによって利益を求める者として。悲しみによって憐れむ者として。「包摂して」とは、あまねく把握して、満遍なく、という意味である。「遍満して」とは、あまねく行って、周囲にあまねく行き渡って、まさにそういう意味である。「怠ってはならない」とは、「禅定を修せよ」と説かれた止観への無知によって、あるいは他のいかなる放逸の原因によっても放逸に陥ってはならない。実に解脱に導く教えにおいては、為すべからざることを為すこともまた放逸であるからである。「顚落の時において」とは、有情の不適などの顚落を伴う時においてである。前述の五つの方便や他のすべての教えの徳は、まさにここに包摂されるとして「『禅定を修せよ、怠ってはならない』とは、あなたがたへの教誡である」と述べた。

Sallekhasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

『漸損経の注釈』の深義の解明、完了。

9. Sammādiṭṭhisuttavaṇṇanā

9. 正見経の注釈

89. Kathetukamyatāpucchā evāti avadhāraṇena itarā catasso pucchā nivatteti itarāsaṃ asambhavato, tattha yathāpucchitassa atthassa vissajjanato ca ‘‘ayaṃ sammādiṭṭhī’’ti yāthāvato ajānantāpi puthujjanā bāhirakatāpasādayo attano samānasīle ṭhitaṃ sammādiṭṭhīti vadanti. Anussavādivasenāpīti anussavākāraparivitakkadiṭṭhinijjhānakkhantivasenapi. Yathāsamaṅgitākārassa atthassa evametanti nijjhānakkhamāpanato ekantato yāthāvaggāho hotīti āha **‘‘attapaccakkhenapī’’**ti, yāthāvato lakkhaṇassa paṭividdhattā attano paccakkhabhāvenāti attho. Bahunnaṃ vacanaṃ upādāyāti iminā sāsane loke ca niruḷhatāya ayaṃ āmeḍitapayogoti sāsanassa niruḷhatāya ca sampasādaṃ upādāyapi tadubhayiko āmeḍitapayogo daṭṭhabbo. Atthanti vacanatthaṃ. Lakkhaṇanti sabhāvaṃ. Upādāyāti gahetvā. Sobhanāyāti sundarāya. Pasatthāyāti pasaṃsāya. Tesu purimena dhammānaṃ yathāsabhāvāvabodhasaṅkhātaṃ sammādiṭṭhisabhāvaṃ dasseti. Tena hi sā sabbadhamme abhibhavitvā sobhati. Dutiyena sampayuttadhammesu pariṇāyikabhāvaṃ. Tena hi sā sampayuttadhamme ñāṇamaye viya taṃsamaṅginañca puggalaṃ ñāṇapiṇḍaṃ viya karoti, tassa ‘‘paṇḍito nipuṇo cheko viññū vibhāvī’’tiādinā disāsu pasaṃsā pattharati.

89. 「語りたいがための問い」とは、限定によって他の四つの問いを除外している。他の問いは成り立たず、そこにおいて問われたとおりの意味が答えられているからである。「これが正見である」と如実に知らなくても、凡夫や外道の苦行者などは、自己と同じ戒律に立つ者を「正見である」と言う。「伝承などの観点からであっても」とは、伝承や様相の思索や見解の省察の忍受の観点からであっても、ということである。具足された様相のとおりの意味について「このとおりである」と省察を忍受させることから、絶対的に如実な把握となるとして「自己の直観によっても」と述べた。如実なる特徴を体得したことによる、自らの直観の状態によって、という意味である。「多くの人々の言葉に縁って」とは、これによって教えにおいても世間においても定着していることから、これは重複の用法であるとし、教えの定着への清らかな信順に縁ってであっても、その双方による重複の用法と見なされるべきである。「語義を」とは、言葉の意味を。「特徴を」とは、自性を。「根拠として」とは、把握して。「美しい」とは、善美な。「称賛された」とは、称賛による。それらのうち前者によって、諸法の自性の如実なる覚知と呼ばれる正見の自性を示している。実にそれによって、正見はすべての法を圧倒して輝くのである。後者によって、相応する諸法における指導者たる状態を示している。実にそれによって、正見は相応する諸法を智慧から成るもののように、それを具足する人を智慧の塊のようにし、その人について「賢明で、巧みで、熟達し、有智で、聡明である」などと四方に称賛が広がるのである。

Kammassakatāñāṇanti kammaṃ sako etassāti kammassako, tassa bhāvo kammassakatā, tattha ñāṇaṃ ‘‘idaṃ kammaṃ sattānaṃ sakaṃ, idaṃ no saka’’nti evaṃ jānanañāṇaṃ. Saccānulomikañāṇanti ariyasaccānaṃ paṭivedhassa anulomato saccānulomikaṃ ñāṇaṃ, vipassanāñāṇaṃ. No saccānulomikāyāti bāhirako saccānulomikāya sammādiṭṭhiyā no sammādiṭṭhi sabbena sabbaṃ tassa abhāvato. Tattha kāraṇamāha **‘‘attadiṭṭhiparāmāsakattā’’**ti. Kammassa katādiṭṭhi pana bāhirakassa attadiṭṭhiṃ anurujjhantī pavattati ‘‘atthi dinna’’ntiādinayappavattito. Sāsaniko dvīhipīti sāsaniko puthujjano kammassakatāñāṇādīhi dvīhipi sammādiṭṭhi. Okkantasammattaniyāmattā **‘‘sekkho niyatāyā’’**ti vuttaṃ. Asekkhāya sammādiṭṭhiyā sammādiṭṭhīti ānetvā sambandhitabbaṃ. Tīsupi puggalesu sekkho idha sammādiṭṭhīti adhippetoti dassento **‘‘niyatāya niyyānikāyā’’**tiādimāha.

「業所属性の知」とは、業がこれ自身の所有であるから業所属性であり、その状態が業所属性であり、そこにおける知、すなわち「この業は有情自身の所有であり、この業は自己の所有ではない」とこのように知る知のことである。「真理に随順する知」とは、四聖諦の体得に随順することによる「真理に随順する知」であり、ヴィパッサナーの知のことである。「真理に随順する知によらない」とは、外道の者は真理に随順する正見によって正見となるのではない、全く彼にはそれが存在しないからである。そこにおける理由として「我見に固執していることから」と述べた。しかし業所属性の見解は、外道にとっても「与えられたものは存在する」などの論法によって生じることから、我見に従って展開する。「教えにある者は双方によっても」とは、教えにある凡夫は、業所属性の知などの双方によっても正見である。「決定した正性の決定に入ったことから」として「有学は決定した(正見によって)」と述べた。無学の正見によって正見である、と導き入れて結びつけるべきである。三種の人物の中でも、ここでは有学が正見であると意図されていることを示して「決定した、解脱へと導く(正見によって)」などと述べた。

Idāni yathāvuttamatthaṃ pāḷiyā vibhāvetuṃ **‘‘tenevāhā’’**tiādi vuttaṃ. Antadvayanti ‘‘sassataṃ, ucchedaṃ, kāmasukhaṃ, attakilamatha’’nti etaṃ antadvayaṃ. Līnuddhaccapatiṭṭhānāyūhanantadvayassa anupagamanaṃ atthasiddhameva. Ujubhāvenāti ujusabhāvena maggena, majjhimāya paṭipattiyāti attho. Dhamme pasādaggahaṇena satthari saṅghe ca pasādopi gahitoyeva hotīti **‘‘dhamme’’**icceva vutto tadavinābhāvato. Yasmā esa niyatāya sammādiṭṭhiyā samannāgato sammādiṭṭhīti adhippeto, tañca vaṭṭato niyyānaṃ vivaṭṭādhigamena hotīti āha **‘‘āgato imaṃ saddhamma’’**nti. Nibbānañhi santo sadā vijjamāno dhammoti katvā saddhammoti imaṃ phalehi asādhāraṇena pariyāyena vattabbataṃ labhati. Tayidamassa āgamaṃ sacchikiriyābhisamayo, so ca pahānābhisamayādīhi saheva idha ijjhatīti dassento **‘‘sabbadiṭṭhigahanānī’’**tiādimāha. Tattha sabbadiṭṭhigahanāni vinibbeṭhento sabbakilese pajahantoti padadvayena pana pahānābhisamayamāha, jātisaṃsārā nikkhamantoti iminā pariññābhisamayaṃ. Samatikkamattho hi pariññattho. Paṭipattiṃ pariniṭṭhapentoti iminā bhāvanābhisamayanti daṭṭhabbaṃ.

今や、前述の意味を聖典によって解明するために「それゆえに述べた」などと言われた。「二つの極端」とは、「常住と断滅、愛欲の快楽と自己の苦行」というこの二つの極端のことである。沈滞と掉挙、定着と企求という二つの極端に赴かないことは、意味の上からすでに確立されている。「まっすぐな状態によって」とは、まっすぐな性質の道によって、すなわち中道の実践によって、という意味である。法に対する清らかな信の把握によって、師(仏陀)と僧伽に対する清らかな信もまた把握されたことになるゆえに、それらと不可分であることから「法において」とだけ述べられた。この者は決定した正見を具足した正見者であると意図されており、そしてそれは輪廻からの解脱であり、輪廻を脱することの体得によって起こるがゆえに「この正法へと至った」と述べた。涅槃は実に寂静であり常に存在する法であることから「正法」とされ、これは果と不共の比喩的表現によって語られるべき状態を得る。そしてこの者のこの「至ること」は現証の現観であり、それは捨断の現観などとともにまさにここで成就することを示して「すべての見解の茂みを」などと述べた。そこにおいて「すべての見解の茂みを解きほぐし、すべての煩悩を捨断して」という二つの句によって捨断の現観を述べ、「生という輪廻から脱出して」というこれによって遍知の現観を述べている。実に超越するという意味が遍知の意味である。「実践を完成させて」というこれによって、修習の現観と知るべきである。

Kālaparicchedavacananti paricchijjatīti paricchedo, kālo eva paricchedo kālaparicchedo, yo so akusalapajānanādinā paricchinno maggavuṭṭhānakālo maggakkhaṇo, tassa vacananti attho. Tenāha **‘‘yasmiṃ kāle’’**ti. Akusalañcāti ca-saddo samuccayattho. Tena vakkhamānaṃ akusalamūlādiṃ samuccinoti. Dasākusalakammapathanti kutoyaṃ viseso, yāvatā aniddhāritavisesaṃ akusalaṃ gahitanti? Na sāmaññajotanāya visese avaṭṭhānato. Kiṃ vā imāya yutticintāya, yasmā paṭhamavārena uddesavasena desitassa atthassa vitthāradesanā dutiyavāro. Tenevāha **‘‘katamaṃ panāvuso’’**tiādi. Yasmā lokuttarā sammādiṭṭhi idha adhippetā, tasmā nirodhārammaṇāya pajānanāya maggapaññāya kiccavasena sammohato ‘‘idaṃ dukkha’’nti dasaakusalakammapathaṃ paṭivijjhanto **‘‘akusalaṃ pajānātī’’**ti vuccatīti attho. Tassāti akusalakammapathasaṅkhātassa dukkhassa. Teneva pakārenāti ‘‘nirodhārammaṇāya pajānanāya kiccavasenā’’ti vuttappakārena.

「時間の区切りの言葉」とは、「区切られるゆえに区切り(限定)であり、時間そのものが区切りであるから時間の区切りである。不善を了知することなどによって限定された道より出起する時、道の刹那、それを示す言葉である」という意味である。それゆえに「その時に」と述べたのである。「不善をも」という語における「も(ca)」の語は、集起(併合)の意味である。それによって、後に説かれる不善の根などを集起している。「十の不善の業道」とは、どこからこの差別が生じるのか。限定されない不善が把握されているかぎりにおいて、総相を照らすことによって差別にとどまらないからである。あるいは、このような論理の考察に何の意味があるのか。最初の巡りにおいて総説(標示)によって説かれた意味の詳細な説示が第二の巡りだからである。それゆえに「友よ、ではいかなるものが」等と述べたのである。ここでは出世間の正見が意図されているため、滅を所縁とする了知、すなわち道智の働きによって、無明惑乱から「これは苦である」と十の不善の業道を貫達しつつ「不善を了知する」と説かれる、という意味である。「それの」とは、不善の業道と名づけられた苦の、という意味である。「そのとおりの仕方で」とは、「滅を所縁とする了知の働きによって」と説かれた仕方で、という意味である。

Kusalanti etthāyaṃ vacanattho – kucchite pāpadhamme salayati calayati kampetīti kusalaṃ, kucchitena vā ākārena sayantīti kusā, pāpakā dhammā. Te kuse lunāti chindatīti kusalaṃ. Kucchitānaṃ vā sānato tanukaraṇato ñāṇaṃ kusaṃ nāma, tena lātabbaṃ gahetabbaṃ pavattetabbanti kusalaṃ. Yathā vā kuso ubhayabhāgagataṃ hatthapadesaṃ lunāti, evamidaṃ uppannānuppannavasena ubhayabhāgagataṃ saṃkilesapakkhaṃ lunāti chindati, tasmā kuso viya lunātīti kusalaṃ. Kucchitānaṃ vā sāvajjadhammānaṃ salanato saṃvaraṇato kusalaṃ. Kusaladhammavasena hi akusalā manacchaṭṭhesu dvāresu appavattiyā saṃvutā honti. Kucchite vā pāpadhamme salayati gameti apanetīti kusalaṃ. Kucchitānaṃ vā pāṇātipātādīnaṃ sānato nisānato tejanato kusā, dosalobhādayo. Sādīnavavasena cetanāya tikkhabhāvappattiyā pāṇātipātādīnaṃ mahāsāvajjatā. Te kuse lunāti chindatīti kusalaṃ. Kucchitānaṃ vā sānato antakaraṇato vināsanato kusāni, puññakiriyavasena pavattāni saddhādīni indriyāni. Tehi lātabbaṃ pavattetabbanti kusalaṃ. ‘‘Ku’’iti vā bhūmi vuccati, adhiṭṭhānabhāvena taṃsadisassa attano nissayabhūtassa rūpārūpapabandhassa sampati āyatiñca anudahena vināsanato kuṃ sasantīti kusā, rāgādayo. Te viya attano nissayassa lavanato chindanato kusalaṃ. Payogasampāditā hi kusaladhammā accantameva rūpārūpadhamme appavattikaraṇena samucchindanti. Kusalassa mūlanti kusalamūlaṃ, suppatiṭṭhitabhāvasādhanena kusalassa patiṭṭhā nidānanti attho. Akusalamūlanti etthāpi eseva nayo.

「善」について、ここに語義の解釈がある。厭うべき悪しき諸法を揺るがし、動揺させ、震動させるゆえに「善(kusala)」である。あるいは、厭うべき様態で横たわるゆえに「悪草(kusa)」、すなわち悪しき諸法である。それら悪草を刈り取り、断ち切るゆえに「善」である。あるいは、厭うべきものを尖らせる(削ぎ落とす)ゆえに智を「くさ」と名づけ、それによって取られるべきもの、把握されるべきもの、生起させられるべきものであるから「善」である。あるいは、くさ草が両側に伸びた手の部分を刈り取るように、これは生起したもの・未生のものに応じて両側にある汚濁の側を刈り取り、断ち切る。それゆえにくさ草のように刈り取るから「善」である。あるいは、厭うべき過ちを伴う諸法を防ぎ止める(制御する)ゆえに「善」である。実に、善法によって不善の諸法は意を第六とする諸門において生起しないことによって制御されるからである。あるいは、厭うべき悪しき諸法を震わせ、去らせ、除去するゆえに「善」である。あるいは、厭うべき殺生などを尖らせ、研ぎ澄まし、鋭くするゆえに「悪草(くさ)」、すなわち瞋恚や貪欲等である。過患によって思(意志)が激しい状態に達することにより、殺生などの過ちは大いなるものとなる。それら悪草を刈り取り、断ち切るゆえに「善」である。あるいは、厭うべきものを終わらせ、滅ぼすゆえに「くさ」、すなわち福業として働く信などの諸根である。それらによって取られるべきもの、生起させられるべきものであるから「善」である。あるいは、「く」とは大地(境地)を意味し、依処となることによってそれに似た、自己の依り所となった名色の相続を現世と来世において焼き尽くすことによって滅ぼすゆえに、大地を損なうものが「悪草(くさ)」、すなわち貪愛等である。それらを自己の依り所から刈り取り、断ち切るゆえに「善」である。修習によって成就された善法は、名色法を生起させないことによって徹底的に断ち切るからである。「善の根」とは善根であり、堅固に確立された状態を成就することによって善の基礎・根拠となる、という意味である。「不善の根」においても、この方法による。

Akusalanti pana na kusalaṃ akusalaṃ, kusaladhammānaṃ paṭipakkhavasena akusalanti padassa attho veditabbo. Evañhi ārogyānavajjasukhavipākakosallasambhūtaṭṭhena kusalaṃ vuccatīti. Yathā yaṃ dhammajātaṃ na arogaṃ na avajjaṃ na sukhavipākaṃ na ca kosallasambhūtaṃ, taṃ akusalanti ayamattho dassito hoti. Evaṃ yaṃ na kucchitānaṃ salanasabhāvaṃ, na kusena, kusehi vā pavattetabbaṃ, na ca kuso viya lavanakaṃ, taṃ akusalaṃ nāmāti ayampi attho dassitoti veditabbo. Vatthupajānanāti dukkhādivatthuno pajānanā paṭivedho. Tathā bujjhanakapuggalānaṃ ajjhāsayavasena desanā pavattāti āha **‘‘akusalādipajānanenāpī’’**ti. Teneva ca saṃkhittena desanā pavattā. Bhāvanāmanasikāro pana ‘‘sabbaṃ bhikkhave abhiññeyya’’nti (saṃ. ni. 4.46; paṭi. ma. 1.3) vacanato anavasesato rūpārūpadhammānaṃ pariggahavaseneva pavattati. Tenāha **‘‘desanāyevā’’**tiādi. Tattha manasikārapaṭivedhoti pubbabhāge pavattavipassanāmanasikāro ariyamaggapaṭivedho ca. Kassaci akopanato vitthāravaseneva vuttaṃ vipassanaṃ anuyuñjantā maggaṃ paṭivijjhantāpi vitthāranayeneva paṭivijjhantīti attho visuddhikkamassa abhāvato.

「不善」とは、善ではないものが不善であり、善法の反対という観点から不善という語の意味を理解すべきである。このように、健やかさ・無過失・楽の異熟・巧みさから生じたという意味で「善」と呼ばれる。何らかの法が、健やかでなく、過失があり、楽の異熟でなく、巧みさから生じたのでもないならば、それは不善であるという、この意味が示されているのである。このように、厭うべきものを揺るがす本性を欠き、知恵によって、あるいは諸々の知恵によって生起させられるべきでなく、くさ草のように刈り取るものでもないものが「不善」と呼ばれるという、この意味も示されていると理解すべきである。「事物の了知」とは、苦などの事物の了知・貫達である。そのように悟るべき人々の意向に従って教説が説かれたため、「不善等の了知によっても」と述べたのである。それゆえに、要約された教説が説かれたのである。しかし、修習の作意は「比丘たちよ、一切は証知されるべきである」という言葉のとおり、漏れなく名色法を把握することによってのみ働く。それゆえに「教説こそが」等と述べたのである。そこにおいて「作意と貫達」とは、前段階において生起した如実修行の作意と聖道の貫達である。誰の意向をも損なわないために詳細に説かれた如実修行に従事する者たちも、道を貫達する者たちも、清浄の順序が欠けることがないため、詳細な方法によってのみ貫達する、という意味である。

Bhikkhūti mahāvihāre dhammasaṅgītivasena pañcanikāyamaṇḍale nisinnabhikkhū. Theroti tattha saṅghattheroti vadanti. Vatthasuttavaṇṇanāyaṃ vuttanayena pana mahāsaṅgharakkhitattherassa antevāsikabhikkhū sandhāya **‘‘āhaṃsū’’**ti vuttaṃ. Theroti pana mahāsaṅgharakkhitatthero. So hi imasmiṃ majjhimanikāye taṃ taṃ vinicchayaṃ kathesi. Rāsitoti piṇḍato, ekajjhanti attho.

「比丘たち」とは、大寺において法結集のために五部(五ニカーヤ)の壇上に座した比丘たちである。「長老」とは、そこにおける僧伽の長老であると説かれている。しかし『布喩経』の注釈に説かれた方法によれば、大僧護長老の弟子である比丘たちを指して「彼らは言った」と述べられている。「長老」とは大僧護長老のことである。実に彼は、この中部において種々の決裁を語ったからである。「聚」とは、塊から、一まとめにして、という意味である。

Akusalakammapathavaṇṇanā

不善業道の注釈

Akosallappavattiyāti kosallapaṭipakkhato akosallaṃ vuccati aññāṇaṃ, tato pavattanato, akosallasambhūtattāti attho. Ñāṇapaṭipakkho aññāṇaṃ mittapaṭipakkho amitto viya kusalapaṭipakkho akusalaṃ kusalena pahātabbattā, na pana kusalānaṃ pahāyatattā. Kusalameva hi payogasampāditaṃ akusalaṃ pajahati. Saha avajjehi lobhādīhi vattatīti sāvajjaṃ. Dukkho aniṭṭho catukkhandha-saṅkhāto vipāko etassāti dukkhavipākaṃ. Tattha sāvajjavacanena akusalānaṃ pavattidukkhataṃ dasseti, dukkhavipākavacanena vipākadukkhataṃ. Purimañhi pavattisambhavavasena akusalassa lakkhaṇavacanaṃ, pacchimaṃ tālantare vipākuppādanasamatthatāvasena. Tathā purimena akusalassa avisuddhasabhāvataṃ dasseti, pacchimena avisuddhavipākataṃ. Purimena akusalaṃ kusalasabhāvato nivatteti, pacchimena abyākatasabhāvato savipākattadīpakattā pacchimassa. Purimena vā avajjavantatādassanato kiccaṭṭhena rasena anatthajananarasataṃ dasseti, pacchimena sampattiatthena aniṭṭhavipākarasataṃ. Purimena ca upaṭṭhānākāraṭṭhena paccupaṭṭhānena saṃkilesapaccupaṭṭhānataṃ, pacchimena phalaṭṭhena dukkhavipākapaccupaṭṭhānataṃ. Purimena ca ayonisomanasikāraṃ akusalassa padaṭṭhānaṃ pakāseti. Tato hi taṃ sāvajjaṃ jātaṃ, pacchimena akusalassa aññesaṃ padaṭṭhānabhāvaṃ vibhāveti. Tañhi dukkhavipākassa kāraṇanti. Saṃkiliṭṭhanti saṃkilesehi samannāgataṃ, dasahi kilesavatthūhi vibādhitaṃ, upatāpitaṃ vā tehi vidūsitaṃ malīnakatañcāti attho. Idañcassa dukkhavipākatañcāti atthe idañca dukkhavipākataṃ apaccakkhatāya asaddahantānaṃ paccakkhato ādīnavadassanena saṃvejanatthaṃ vuttaṃ. Sādhāraṇā sabbassapi akusalassa.

「巧みならざる働きにより」とは、巧みさの反対から無智を「巧みならざるもの」といい、それから生じることから、巧みならざるものより生じた、という意味である。智の反対が無智であり、友の反対が敵であるように、善の反対が不善である。善によって断ぜられるべきものであるが、善を断ずるものではないからである。修習によって成就された善こそが不善を断ずるのである。過失を伴う貪欲等とともに働くゆえに「過失を伴うもの」である。苦にして好ましくない四蘊と名づけられた異熟がこれにあるゆえに「苦の異熟をもつもの」である。そこにおいて「過失を伴う」という言葉によって不善の現起の苦性を示し、「苦の異熟をもつ」という言葉によって異熟の苦性を示す。実に、前者は生起の様態による不善の相を示す言葉であり、後者は時を経て異熟を生じさせる能力によるものである。同様に、前者によって不善の不清浄な自性を示し、後者によって不清浄な異熟性を示す。前者によって不善を善の自性から区別し、後者によって無記の自性から区別する。後者が異熟を伴うことを示すからである。あるいは、前者によって過失を有することを示すことによる機能(作用)の意味において無益を生じる作用性を示し、後者によって成就の意味において好ましくない異熟の作用性を示す。また、前者によって現れの様態の意味である現起において汚濁の現起性を示し、後者によって果の意味において苦の異熟の現起性を示す。また、前者によって如理ならざる作意が不善の近因(足処)であることを明示する。それによってその過失が生じるからである。後者によって不善が他の諸法の近因となることを明らかにする。それが苦の異熟の原因だからである。「汚されたもの」とは、汚濁を伴うもの、十の煩悩の事柄によって妨げられたもの、あるいは苦しめられたもの、それらによって損なわれ汚されたもの、という意味である。「そしてこれの苦の異熟性」という文脈において、この苦の異熟性をも直接に見ないがゆえに信じない者たちに対して、直接に過患を見せることによって戦慄させるために説かれたのである。すべての不善に共通するものである。

Saraseneva (dha. sa. mūlaṭī. 1) patanasabhāvassa antarā eva atīva pātanaṃ atipāto, saṇikaṃ patituṃ adatvā sīghaṃ pātananti attho. Atikkammavā satthādīhi abhibhavitvā pātanaṃ atipāto. Payogavatthumahantatādīhi mahāsāvajjatā tehi paccayehi uppajjamānāya cetanāya balavabhāvato. Ekassa hi payogassa sahasā nipphādanavasena sakiccasādhikāya bahukkhattuṃ pavattajavanehi laddhāsevanāya ca sanniṭṭhāpakacetanāya vasena payogassa mahantabhāvo. Satipi kadāci khuddake ceva mahante ca pāṇe payogassa samabhāve mahantaṃ hanantassa cetanā tibbākārā uppajjatīti vatthussa mahantabhāvo. Iti ubhayampetaṃ cetanāya balavabhāveneva hotīti. Yathāvuttapaccayapariyāyepi taṃtaṃpaccayehi cetanāya balavatāya eva mahāsāvajjabhāvo veditabbo. Payogavatthuādipaccayānañhi amahattepi hantabbassa guṇavantatāya mahāsāvajjatā, tabbipariyāyena appasāvajjatā ca vatthussa mahattāmahattesu viya daṭṭhabbā. Kilesānaṃ upakkamānaṃ dvinnañca mudutāya tibbatāya ca appasāvajjatā mahāsāvajjatāpi yojetabbā. Pāṇo pāṇasaññitā vadhakacittañca pubbabhāgiyāpi honti, upakkamo vadhakacetanāsamuṭṭhāpito. Pañca sambhārā hi pāṇātipātacetanāti sā pañcasambhāravinimuttā daṭṭhabbā. Ayañca vicāro adinnādānādīsupi yathārahaṃ vattabbo. Vijjhanapaharaṇādivasena sahatthenanibbatto sāhatthiko, āṇāpanavasena pavatto āṇattiko, ususattiyantapāsāṇādinissajjanavasena pavatto nissaggiyo, aduhalasajjanādivasena pavatto thāvaro, āthabbaṇikādīnaṃ viya mantaparijappanavasena pavatto vijjāmayo, kammavipākajiddhimayo iddhimayo dāṭhākoṭanādīni viya.

それ自体の勢いによって落ちる本性をもつものを、途中で甚だしく落とすことが「激しく落とすこと(殺傷・殺生)」であり、静かに落ちることを許さず速やかに落とす、という意味である。あるいは超越して、武器等によって圧倒して落とすことが激しく落とすことである。加行や対象の大いなることなどによって過失が大となるのは、それらの条件によって生じる思(意志)が強大であることによる。実に、一つの加行を急激に成し遂げることによって、自己の目的を果たす速行が幾度も生じることで習熟を得た決定の思によって、加行の強大性が生じる。時に小さな生命と大きな生命において加行が同等であるとしても、大きな生命を殺す者の思には激しい様態が生じるゆえに対象の強大性がある。このように、この両者は思の強大さによってのみ生じるのである。先に説いた条件の分類においても、それぞれの条件によって思が強大であることによってのみ、過失が大であることが理解されるべきである。加行や対象などの条件が大でない場合でも、殺されるべき者の徳の高さによって過失が大となり、その反対に過失が小となることも、対象の大小におけるように見なされるべきである。煩悩と加行の双方の軽微さと激しさによっても、過失の小と過失の大が適用されるべきである。「生きもの」「生きものという認識」「殺意」は前段階にも生じ、加行は殺意によって生起させられる。五つの要素が集まったものが殺生の思であるから、それは五つの要素から離れたものと見なされるべきではない。そしてこの考察は、不与取などにおいても適切に語られるべきである。刺すことや打つことなどによって自らの手で成し遂げられるものは「自手加行」、命令によって行われるものは「命令加行」、弓・槍・投石器・石などを放つことによって行われるものは「投擲加行」、落とし穴などを仕掛けることによって行われるものは「固定加行」、呪術師などのように呪文を唱えることによって行われるものは「呪文加行」、業の異熟から生じた神通によるものは「神通加行」であり、毒牙を打ち込むことなどのようである。

Yadi ‘‘mama ida’’nti parena pariggahitaṃ adinnaṃ, uttānaseyyakadārakasantake kathaṃ tassa pariggahasaññāya eva abhāvatoti āha **‘‘yattha paro’’**tiādi. Paro nāma viññū vā aviññū vā atthi tassa vatthussa sāmiko. Aviññūpi hi viññukāle yathākāmaṃ karonto adaṇḍārahoti. Mantaparijappanena parasantakaharaṇaṃ vijjāmayo, vinā mantena parasantakassa kāyavacīpayogehi parikaḍḍhanaṃ tādiseniddhivasena iddhimayo payogoti adinnādāne cha payogā sāhatthikādayo vuttā. Yathānurūpanti ettha sāhatthiko tāva pañcannampi avahārānaṃ vasena pavattati, tathā āṇattiyo nissaggiyo ca. Thāvaro theyyāvahārapasayhāvahārapaṭicchannāvahāravasena. Tathā sesāpīti daṭṭhabbaṃ.

もし「これは私のものだ」と他者によって領有されたものが与えられていないものであるなら、仰向けに寝ている幼児の所有物については、彼には領有の認識そのものがないのにどうなのか、と問うて「他者がいるところ」等と述べたのである。「他者」とは、知慮がある者であれ知慮がない者であれ、その財物の所有者である。知慮のない者であっても、知慮を得た時に意のままに用いる権利があるゆえに、罰せられるべきではないからである。呪文を唱えることによって他者の所有物を奪うのは呪文加行であり、呪文なしに他者の所有物を身・口の加行によって引き寄せるのはそのような神通の力による神通加行である、と不与取において自手加行などの六つの加行が説かれた。「相応に応じて」について、ここではまず自手加行は五つの奪取の仕方によって働き、命令加行および投擲加行も同様である。固定加行は、窃盗奪取・強奪・隠匿奪取によって働く。他のものも同様であると見なされるべきである。

Methunasamācāresūti sadārāsantosa-paradāragamanavasena duvidhesu methunasamācāresu. Ayamevahi bhedo idhādhippeto. Gottarakkhitā sagottehi rakkhitā. Dhammarakkhitā sahadhammikehi rakkhitā. Sārakkhā sasāmikā. Yassā gamane raññā daṇḍo ṭhapito, sā saparidaṇḍā. Bhariyabhāvatthaṃ dhanena kītā dhanakkītā. Chandena vasantī chandavāsinī. Bhogatthaṃ vasantī bhogavāsinī. Paṭatthaṃ vasantī paṭavāsinī. Udakapattaṃ āmasitvā gahitā odapattakinī. Cumbaṭakaṃ apanetvā gahitā obhaṭacumbaṭā. Karamarānītā dhajāhatā. Taṅkhaṇikā muhuttikā. Abhibhavitvā vītikkame micchācāro mahāsāvajjo, na tathā dvinnaṃ samānachandatāya. Abhibhavitvā vītikkamane satipi maggenamaggapaṭipattiadhivāsane purimuppannasevanābhisandhipayogābhāvato micchācāro na hoti abhibhuyyamānassāti vadanti. Sevanācitte sati payogābhāvo appamāṇaṃ yebhuyyena itthiyā sevanāpayogassa abhāvato. Tathā sati puretaraṃ sevanācittassa upaṭṭhānepi tassā micchācāro na siyā, tathā purisassapi sevanāpayogābhāveti, tasmā attano ruciyā pavattitassa vasena tayo, balakkārena pavattitassa vasena tayoti sabbepi aggahitaggahaṇena cattāro sambhārāti vuttanti veditabbaṃ.

「邪淫において」とは、自らの妻に満足することと他人の妻に通ずることという二種の淫行において、という意味である。実に、この区分のみがここで意図されている。「氏族に保護された女」とは、同族の者たちによって保護された女である。「法に保護された女」とは、同胞の宗教者たちによって保護された女である。「保護者のいる女」とは、夫のいる女である。その女に通じたなら王によって罰金が科される女を「罰則のある女」という。妻とするために財貨で買い取られた女は「財買女」である。意にかなって同居する女は「愛住女」である。富のために同居する女は「財住女」である。衣服のために同居する女は「衣住女」である。水鉢に手を入れて一緒に受け入れられた女は「水鉢女」である。頭の荷台を降ろされて妻とされた女は「降頭台女」である。捕虜として連れて来られた女は「旗破女」である。その場限りの女は「一時女」である。圧倒して犯す場合、邪淫の過失は大であり、二人の意向が一致している場合にはそのようではない。圧倒して犯される場合であっても、道に従って(正常な性器において)行われることを容認するなら、以前に生じた性交への意図と加行が存在しないため、圧倒される者には邪淫は成立しない、と彼らは言う。性交の心があるときに加行がないということは基準にはならない。多くの場合、女性には性交の加行がないからである。もしそうであるなら、前もって性交の心が生じていても、彼女には邪淫とならず、同様に男性にも性交の加行がないことになる。それゆえ、自らの欲求によって生起したことによる三要素、強制によって生起したことによる三要素というように、すべて未取得のものを把握することによって四つの要素(支分)であると説かれていると理解すべきである。

Atthabhañjakoti kammapathavasena vuttaṃ. Kammapathakathā hesāti. Assāti visaṃvādakassa. Musā vadati etenāti cetanā musāvādo, imasmiṃ pakkhe atathākārena vatthuno viññāpanapayogo musā, taṃsamuṭṭhāpikā cetanāmusāvādoti vuttattā tato aññathā vattuṃ **‘‘aparo nayo’’**tiādi vuttaṃ. Attano santakaṃ adātukāmatāyātiādi musāvādasāmaññena vuttaṃ. Hasādhippāyenapi visaṃvādanapurakkhārassa musāvādo. Parassāti visaṃvādanavasena viññāpetabbassa. Soti musāvādapayogo.

「意味を損なうもの」とは、業道の観点から説かれたものである。これは業道についての説示だからである。「彼に」とは、欺く者に、という意味である。「これによって偽りを語る」ゆえに思(意志)が妄語である。この立場においては、事実でない様態によって事物を知らせる加行が「偽り」であり、それを引き起こす思が「妄語」であると説かれているため、それとは異なる仕方で語るために「別の方法では」等と述べたのである。「自己の所有物を与えたくない欲求によって」等は、妄語の通例として説かれたものである。冗談の意図であっても欺くことを主とするなら妄語である。「他者に」とは、欺きによって知らされるべき者に、という意味である。「それ」とは、妄語の加行である。

Suññabhāvanti pītivirahitatāya rittabhāvaṃ. Pharusasaddatāya neva kaṇṇasukhā. Atthavipannatāya na hadayasukhā. Saṃkiliṭṭhacittassāti dosena, lobhena vā dūsitacittassa.

「空虚な状態」とは、喜びを欠いていることによる空っぽの状態である。粗暴な言葉であるため、耳に心地よくない。意味が破綻しているため、心に心地よくない。「汚された心の者」とは、瞋恚あるいは貪欲によって損なわれた心の者、という意味である。

Ekantapharusā cetanāti etena duṭṭhacittataṃyeva vibhāveti, duṭṭhacittatā cassa amaraṇādhippāyavasena daṭṭhabbā. Sati hi maraṇādhippāye atthasiddhi, tadabhāve pāṇātipātabyāpādā siyunti. Yaṃ paṭicca pharusavācā payujjati, tassa sammukhāva sīsaṃ eti. Parammukhāpi sīsaṃ eti evāti apare. Tatthāyaṃ adhippāyo yutto siyā – sammukhā payoge agāravādīnaṃ balavabhāvato siyā cetanā balavatī, parassa ca tadatthaviññāpanaṃ, na tathā asammukhāti. Yathā ca akkosite mate āḷahane katā khamāpanā upavādantarāyaṃ nivatteti, evaṃ parammukhā payuttā pharusavācā hotiyevāti sakkā viññātuṃ. Tassāti ekantapharusacetanāya eva pharusavācābhāvassa āvibhāvatthaṃ. Mammacchedako savanapharusatāyāti adhippāyo. Cittasaṇhātāya pharusavācā na hoti kammapathā’ppattattā, kammabhāvaṃ pana na sakkā vāretuṃ. Evaṃ anvayavasena cetanāpharusatāya pharusavācaṃ sādhetvā idāni tameva byatirekavasena sādhetuṃ **‘‘vacanasaṇhatāyā’’**tiādi vuttaṃ. Esāti pharusavācā. Kammapathabhāvaṃ appattā appasāvajjā, itarā mahāsāvajjā. Tathā kilesānaṃ mudutibbatābhedehi sabbaṃ purimasadisaṃ.

「徹底して粗暴な思」とは、これによって悪心を明示しているのであり、その悪心は殺害の意図がないことによるものと見なされるべきである。実に、殺害の意図があるなら目的の成就となり、それがないなら殺生や瞋恚(害意)となるからである。粗悪語が用いられる対象である相手の面前においてこそ極限に達する。面前でなくても極限に達するのだ、と他の者たちは言う。そこにおいては次のような意図が妥当であろう。面前における加行では不敬などが強大であるゆえに思も強大であり、他者にその意味を知らせるが、面前でない場合はそのようではない、と。また、罵倒された者が死んだ後に墓地においてなされた謝罪が非難の障害を取り消すように、面前でなく用いられた粗悪語も確かに粗悪語となる、と知ることができる。「それの」とは、徹底して粗暴な思そのものによって粗悪語が存在することを明示するためである。急所を抉るものは聞く者にとって粗暴であるから、という意図である。心が柔軟であることによって粗悪語とはならないのは業道に達しないからであるが、業であること自体を否定することはできない。このように順次によって思の粗暴さから粗悪語を論証し、今やそれを逆の順序によって論証するために「言葉の柔軟さによって」等と述べたのである。「それ」とは粗悪語のことである。業道の状態に達していないものは過失が小であり、他(業道に達したもの)は過失が大である。同様に、煩悩の軽微さと激しさの相違によって、すべて前述と同様である。

Āsevanaṃ bahulīkaraṇaṃ. Yaṃ uddissa pavattito, tena aggahite appasāvajjo, gahite mahāsāvajjo kammapathappattito. Yo koci pana samphappalāpo dvīhi sambhārehi sijjhati. Kilesānaṃ mudutibbatāvasenapi appasāvajjamahāsāvajjatā veditabbā.

「反復習熟」とは、多大にすることである。意図された相手が把握しない(理解しない)場合は過失が小であり、把握した場合は業道に達するがゆえに過失が大である。しかし、どのような綺語であっても二つの要素によって成就する。煩悩の軽微さと激しさによっても過失の小と過失の大が理解されるべきである。

Attano pariṇāmanaṃ cittenevāti veditabbaṃ. Hitasukhaṃ byāpādayatīti yo taṃ uppādeti, tassa hitasukhaṃ vināseti. Aho vatāti iminā accantavināsacintanaṃ dīpeti. Evaṃ hissa dāruṇapavattiyā kammapathappatti. Yathābhuccagahaṇābhāvenāti yāthāvaggāhassa abhāvena aniccādisabhāvassa niccādito gahaṇena. Micchā passatīti vitathaṃ passati. Samphappalāpo viyāti iminā āsevanassa mandatāya appasāvajjataṃ, mahantatāya mahāsāvajjataṃ dasseti. Gahitākāraviparītatāti micchādiṭṭhiyā gahitākārassa viparītabhāvo. Vatthunoti tassā ayathābhūtasabhāvamāha. Tathābhāvenāti gahitākāreneva tassa diṭṭhigatikassa, tassa vā vatthuno upaṭṭhānaṃ evametaṃ, na ito aññathāti.

「自己への転向」は、心によってのみなされると理解すべきである。「利益と幸福を損なう」とは、それを生じる者の利益と幸福を破壊する。「ああ、願わくは」とは、これによって徹底的な破滅を願うことを示す。このように、彼にとって残酷な働きによって業道に達するのである。「事実どおりに把握しないことによって」とは、真実の把握を欠くことによって、無常などの自性を常などとして把握することによって、という意味である。「誤って見る」とは、虚偽に見る。「綺語のように」とは、これによって反復習熟がわずかであれば過失が小であり、大であれば過失が大であることを示す。「把握した様態の転倒」とは、邪見によって把握された様態が転倒していることである。「事物の」とは、その不真実な自性を語る。「そのような状態によって」とは、把握した様態そのものによって、その見解に執着する者にとって、あるいはその事物にとって「このようであり、これと異なるものではない」と現れることである。

Dhammatoti sabhāvato. Koṭṭhāsatoti phassapañcamakādīsu cittaṅgakoṭṭhāsesu yaṃ koṭṭhāsā honti, tatoti attho. Cetanādhammāti cetanāsabhāvā.

「法として」とは、自性として。「部分として」とは、触を第五とするものなどの心所の部分において、どのような部分であるか、ということから、という意味である。「思の法」とは、思の自性をもつもの、という意味である。

Paṭipāṭiyā sattāti ettha nanu cetanā abhidhamme kammapathesu na vuttāti paṭipāṭiyā sattannaṃ kammapathabhāvo na yuttoti? Na, avacanassa aññahetukattā. Na hi tattha cetanāya akammapathattā kammapatharāsimhi avacanaṃ, kadāci pana kammapatho hoti, na sabbadāti kammapathabhāvassa aniyatattā avacanaṃ. Yadā pana kammapatho hoti, tadā kammapatharāsisaṅgaho na nivārito. Etthāha – yadi cetanāya sabbadā kammapathabhāvābhāvato aniyato kammapathabhāvoti kammapatharāsimhi avacanaṃ, nanu abhijjhādīnaṃ kammapathabhāvaṃ appattānaṃ atthitāya aniyato kammapathabhāvoti tesampi kammapatharāsimhi avacanaṃ āpajjatīti? Nāpajjati kammapathatātaṃsabhāgatāhi tesaṃ tattha vuttattā. Yadi evaṃ cetanāpi tattha vattabbā siyā? Saccametaṃ, sā pana pāṇātipātādikāti pākaṭo, tassā kammapathabhāvoti na vuttā siyā. Cetanāya hi – ‘‘cetanāhaṃ, bhikkhave, kammaṃ vadāmi (a. ni. 6.63; kathā. 539), tividhā, bhikkhave, kāyasañcetanā akusalaṃ kāyakamma’’ntiādivacanato (kathā. 539) kammabhāvo pākaṭo, kammaṃyeva ca sugatiduggatīnaṃ tattha uppajjanakasukhadukkhānañca pathabhāvena pavattaṃ kammapathoti vuccatīti pākaṭo tassā kammapathabhāvo, abhijjhādīnaṃ pana cetanāsamīhanabhāvena sucaritaduccaritabhāvo cetanājanitapiṭṭhivaṭṭakabhāvena sugatiduggatitaduppajjanakasukhadukkhānaṃ pathabhāvo cāti na tathā pākaṭo kammapathabhāvoti teyeva tena sabhāvena dassetuṃ abhidhamme cetanā kammapatharāsibhāvena na vuttā, atathājātiyakattā vā cetanā tehi saddhiṃ na vuttāti daṭṭhabbaṃ. Mūlaṃ patvāti mūladesanaṃ patvā, mūlasabhāvesu dhammesu vuccamānesūti attho.

「順序による七つ」について、ここで「阿毘達磨においては思は業道の中に説かれていないのではないか。だから順序による七つが業道であるということは妥当ではないのではないか」と問うかもしれない。そうではない。説かれないことには別の理由があるからである。そこにおいて思が業道ではないから業道の集成の中に説かれないのではなく、時として業道となるが常にそうであるとは限らないゆえに、業道の状態が不確定であることから説かれないのである。しかし、業道となる時には、業道の集成に含まれることが否定されるわけではない。ここで問う、「もし思が常に業道であるわけではないから業道であることが不確定であるとして業道の集成の中に説かれないのであれば、貪欲等も業道に達しないものがあるゆえに業道であることが不確定であり、それらも業道の集成の中に説かれないことになるのではないか」と。そのようにはならない。業道であること、それと同等であることが、それらについてはそこに説かれているからである。もしそうなら、思もそこに語られるべきではないか。それは真実であるが、思は殺生などの行為として明白であり、それが業道であることは明らかであるため説かれないのである。思については「比丘たちよ、私は思を業と説く」「比丘たちよ、身の思は三種の不善の身業である」等の言葉によって業であることが明白であり、業そのものが善趣や悪趣、およびそこに生じる楽や苦への道となることによって働くものが業道と呼ばれるゆえに、それが業道であることは明白である。しかし貪欲等については、思の働きであることによって善行や悪行となり、思によって生み出された後押しとなることによって善趣や悪趣、そこに生じる楽や苦への道となるのであり、そのように明白な業道ではない。それゆえ、それらのみをその自性によって示すために、阿毘達磨においては思は業道の集成としては説かれなかったのである。あるいは、同種のものではないゆえに、思はそれらとともに説かれなかったと見なすべきである。「根に至り」とは、根の教説に至り、根の自性をもつ諸法が語られるときに、という意味である。

Adinnādānaṃ sattārammaṇanti idaṃ ‘‘pañca sikkhāpadā parittārammaṇā eva vā’’ti imāya pañhapucchakapāḷiyā virujjhati. Yañhi pāṇātipātādidussīlyassa ārammaṇaṃ, tadeva taṃ veramaṇiyā ārammaṇaṃ. Vītikkamitabbavatthuto eva hi viratīti. Sattārammaṇanti vā sattasaṅkhātaṃ saṅkhārārammaṇameva upādāya vuttanti nāyaṃ virodho. Tathā hi vuttaṃ sammohavinodaniyaṃ (vibha. aṭṭha. 714) ‘‘yāni sikkhāpadāni ettha sattārammaṇānīti vuttāni, tāni yasmā sattoti saṅkhyaṃ gataṃ saṅkhārameva ārammaṇaṃ karontī’’ti. Visabhāgavatthuno ‘‘itthī, puriso’’ti gahetabbato sattārammaṇoti eke. ‘‘Eko diṭṭho, dve sutā’’tiādinā samphappalapane diṭṭhasutamutaviññātavasena. Tathā abhijjhāti ettha tathā-saddo ‘‘diṭṭhasutamutaviññātavasenā’’ti idampi upasaṃharati, na sattasaṅkhārārammaṇataṃ eva dassanādivasena abhijjhāyanato. ‘‘Natthi sattā opapātikā’’ti pavattamānāpi micchādiṭṭhi tebhūmakadhammavisayāvāti adhippāyenassā saṅkhārārammaṇatā vuttā. Kathaṃ pana micchādiṭṭhiyā sabbe tebhūmakadhammā ārammaṇaṃ hontīti? Sādhāraṇato. ‘‘Natthi sukatadukkaṭānaṃ kammānaṃ phalaṃ vipāko’’ti hi pavattamānāya atthato rūpārupāvacaradhammāpi gahitā eva hontīti.

「不与取は衆生を所縁とする」というこれは、「五つの学習処(戒)は狭小(欲界)のみを所縁とするのか」という問いを問う聖典と矛盾する。殺生などの悪戒の所縁であるものこそが、その離戒の所縁であるからである。犯されるべき事物からこそ離れるのであるから。あるいは「衆生を所縁とする」とは、衆生と名づけられた形成されたもの(行)を所縁とすることそのものに基づいて説かれたものであり、この矛盾はない。実に『惑乱克服(サンモーハヴィノーダニー)』において「ここに衆生を所縁とすると説かれた諸々の学習処は、衆生と名づけられた形成されたもののみを所縁とするからである」と説かれているとおりである。異なる性別の対象を「女」「男」と把握すべきであることから衆生を所縁とする、とある人々は言う。「一人が見られ、二人が聞かれた」等による綺語において、見られたこと・聞かれたこと・覚られたこと・知られたことによる。「同様に貪欲も」において、「同様に」という語は「見られたこと・聞かれたこと・覚られたこと・知られたことによる」というこれも包摂するのであり、見ることなどによって貪欲を起こすゆえに、ただ衆生と形成されたものを所縁とすることのみではない。「化生の衆生は存在しない」と働く邪見であっても、三界の法を対象とするという意図から、それが形成されたものを所縁とすることが説かれた。ではいかにして、邪見にとってすべての三界の法が所縁となるのか。共通であることからである。「善く作られた業、悪く作られた業の果報・異熟は存在しない」と働くことによって、事実として色界・無色界の法も把握されているからである。

Sukhabahulatāya rājāno hasamānāpi ‘‘coraṃ ghātethā’’ti vadanti, hāso pana tesaṃ aññavisayoti āha **‘‘sanniṭṭhāpaka…pe… hotī’’**ti.

楽が多いことから、王たちは笑いながらも「盗賊を処刑せよ」と言うが、彼らの笑いは別の対象についての笑いであるため、「決定する…略…となる」と述べたのである。

Kesañcīti sahajātānaṃ adinnādānādīnaṃ. Sampayuttapabhāvakaṭṭhenāti sampayutto hutvā uppādakaṭṭhena. Kesañcīti asahajātānaṃ. Upanissayapaccayaṭṭhenāti etena mūlaṭṭhena lobhassa upakārataṃ nivatteti. Suppatiṭṭhitabhāvasādhanaṭṭho hi mūlaṭṭho, so ca hetupaccayatāavinābhāvī, tena cettha mūlamiva mūlanti gahetabbaṃ, nippariyāyato pana pubbe ‘‘kesañcī’’ti vuttānaṃ sahajātānaṃ mūlabhāvo veditabbo. Ratto khotiādinā suttapadenapi pāṇātipātādīnaṃ akusalānaṃ lobhassa mūlakāraṇataṃ vibhāveti, na mūlaṭṭhenupakāratthaṃ avisesato tesaṃ hetupaccayattābhāvato.

「あるものにとっては」とは、倶生する不与取等にとって、という意味である。「相応して生じさせるという意味において」とは、相応して生起させるという意味において、である。「あるものにとっては」とは、不倶生のものにとって、という意味である。「強親依止縁という意味において」とは、これによって根という意味において貪欲の助力を否定する。堅固に確立された状態を成就するという意味こそが根の意味であり、それは因縁であることと不可分である。それゆえ、ここでは根のようなものであるから根であると把握されるべきであるが、無比(直説)としては、先に「あるものにとっては」と説かれた倶生するものに対する根の状態が理解されるべきである。「貪着せる者は」等の経典の句によっても、殺生などの不善に対する貪欲が根本原因であることを明らかにするのであり、根の意味によって助力を示すためではない。無差別にはそれらに因縁が存在しないからである。

Akusalakammapathavaṇṇanā niṭṭhitā.

不善業道の注釈は終了した。

Kusalakammapathavaṇṇanā

善業道の注釈

Veranti pāṇātipātādipāpadhammaṃ. So hi verahetutāya ‘‘vera’’nti vuccati, taṃ maṇati ‘‘mayi idha ṭhitāya kathamāgacchasī’’ti tajjentī viya nivāretīti veramaṇī. Tenāha **‘‘pajahatī’’**ti. ‘‘Viramaṇī’’ti vattabbe niruttinayena eva-kāraṃ katvā evaṃ vuttaṃ. Vibhaṅge (vibha. 703, 704) eva niddisanavasena evaṃ vuttā. Asamādinnasīlassa sampattato yathāupaṭṭhitavītikkamitabbavatthuto virati sampattavirati, samādānavasena uppannā virati samādānavirati, samādānavasena uppannā virati samādānavirati, kilesānaṃ samucchindanavasena pavattāvirati samucchedavirati.

「怨敵(ヴェーラ)」とは、殺生などの悪法である。実にそれは怨敵の原因であるゆえに「怨敵」と呼ばれ、それを威嚇し、「私がここに立っているのに、どうして汝は来るのか」と脅すかのように防ぎ止めるゆえに「離(ヴェラマニー)」である。それゆえに「捨断する」と述べたのである。「ヴィラマニー」と語るべきところを語源論の方法によって「エ」の音にしてこのように説いたのである。『分別論』においてもまさに指示によってこのように説かれている。戒を受持していない者が、現前に生じた犯されるべき事物から離れるのが「事至離」であり、受持することによって生じた離れが「受持離」であり、煩悩を断滅することによって生起した離れが「断滅離」である。

Jīvamānasasassa maṃsarudhirasammissatāya allasasamaṃsaṃ. Muñci sabbattha samakaruṇatāya. Saccaṃ vatvā ‘‘etena saccavajjena mayhaṃ mātu rogo sammatū’’ti adhiṭṭhāsi.

生きているウサギの肉と血が混ざり合っているゆえに「新鮮なウサギの肉」である。すべてのものに対する平等な慈悲によって放した。真実を語って「この真実の言葉によって、私の母の病が癒えるように」と誓願した。

Mahāsappoti ajagaro. Muñcitvā agamāsi sīlatejena.

「大蛇」とはニシキヘビのことである。戒の威光によって放して去った。

Kosallaṃ vuccati ñāṇaṃ, kosallena, kosallato vā pavattiyā upagamanato. Kucchitasayanatoti kucchitenākārena sayanato anusayanato, pavattanato vā. ‘‘Veramaṇikusalā’’ti vattabbāpi pucchānurūpaṃ vissajjananti ‘‘kusalā’’ti na vuttā, ‘‘kusala’’ntveva vuttā.

「巧みさ」とは智をいい、巧みさによって、あるいは巧みさから生起して到達することによる。「厭うべき様態で横たわることから」とは、厭うべき様態で横たわること、随眠すること、あるいは生起することから。「離の善」と語るべきであるが、問いに応じた回答であるため「善なるもの(女性形)」とは語られず、「善(中性形)」と語られたのである。

Kāmañcettha pāḷiyaṃ viratiyova āgatā, sikkhāpadavibhaṅge (vibha. 704) pana cetanāpi āharitvā dīpitāti tadubhayampi gaṇhanto **‘‘cetanāpi vaṭṭanti viratiyopī’’**ti āha.

ここでは聖典において離戒のみが説かれているが、『学習処分別』においては思も引用されて明示されているため、その双方を把握して「思も妥当であり、離戒も妥当である」と述べたのである。

Anabhijjhā hi mūlaṃ patvā kammapathakoṭṭhāsaṃ patvā anabhijjhāti vuttadhammo mūlato alobho kusalamūlaṃ hotīti evamattho daṭṭhabbo. Sesapadadvayepi eseva nayo.

無貪は根に至り、業道の部分に至って「無貪」と説かれた法が、根としては無貪が善根となる、このように意味が見なされるべきである。残りの二句においてもこの方法による。

Dussīlyārammaṇā tadārammaṇā jīvitindriyādiārammaṇā kathaṃ dussīlyāni pajahantīti taṃ dassetuṃ **‘‘yathā panā’’**tiādi vuttaṃ.

悪戒を所縁とし、それを所縁とする命根などを所縁とするものが、いかにして悪戒を捨断するのかを示すために「しかしどのように」等と述べたのである。

Anabhijjhā …pe… viramantassāti abhijjhaṃ pajahantassāti attho. Na hi manoduccaritato virati atthi anabhijjhādīheva tappahānasiddhito. Tesu alobhotiādīsu yaṃ vattabbaṃ, taṃ akusalamūlesu vuttanayeneva veditabbaṃ.

「無貪…略…離れる者の」とは、貪欲を捨断する者の、という意味である。無貪等によってのみその捨断が成就するゆえに、意の悪行からの離れは存在しないからである。それらの「無貪」等において語られるべきことは、不善根において説かれた方法によって理解されるべきである。

Appanāvāranti nigamanavāraṃ. Ekena nayenāti vedanādivasena arūpamukheneva anekavidhesu vipassanākammaṭṭhānesu ekena kammaṭṭhānanayena. **‘‘Ṭhapetvā abhijjhaṃ nava akusalakammapathā’’**ti vattabbaṃ. Dasāti vā idaṃ ‘‘kusalakammapathā’’ti iminā sambandhitabbaṃ ‘‘akusalakammapathā ca dasa kusalakammapathā cā’’ti. ‘‘Ṭhapetvā abhijjha’’nti hi imināva akusalakammapathānaṃ navabhāvo vutto hoti. Atha vā dasāti idaṃ ubhayathāpi sambandhitabbaṃ. Abhijjhā hi pahātabbāpi sati pariññeyyataṃ nātivattatīti. Tathā hi vuttaṃ ‘‘rūpataṇhā piyarūpaṃ sātarūpa’’ntiādi, tasmā sā tāya pariññeyyatāya dukkhasaccepi saṅgahaṃ labhateva, pahātabbaṃ pana upādāya ‘‘ṭhapetvā abhijjha’’nti vuttaṃ. Tenevāha **‘‘pariyāyena pana sabbepi kammapathā dukkhasacca’’**nti. Abhijjhālobhānaṃ pavattiākārasiddhabhedaṃ upādāya **‘‘ime dve dhammā’’**ti vuttaṃ. Suttantanayena taṇhā ‘‘samudayasacca’’nti vuttāti āha **‘‘nippariyāyena samudayasacca’’**nti. Appavattīti appavattinimittamāha yathā ‘‘rāgakkhayo dosakkhayo’’ti (saṃ. ni. 4.314). Sappaccayatāya saṅkhatasabhāve dukkhasacce gahite appaccayatāya asaṅkhataṃ nirodhasaccaṃ paṭipakkhato āvattati, ekantasāvajje ācayagāmilakkhaṇe samudayasacce gahite sāvajjā vigamanaṃ apacayagāmilakkhaṇaṃ maggasaccaṃpaṭipakkhato āvattatīti dve āvattahāravasena veditabbānīti vuttaṃ. Tenevāha nettiyaṃ (netti. 4.niddesavāra) –

「安止の巡り」とは、結論の巡りである。「一通りの方法によって」とは、受などによる無色の門によってのみ、幾多の種類の止観の業処における一通りの業処の方法によって。「貪欲を除いて九つの不善業道」と語られるべきである。あるいは「十」とは、「善業道」というこれと結びつけて「不善業道と十の善業道と」とされるべきである。「貪欲を除いて」ということによってのみ、不善業道が九つであることが説かれたことになるからである。あるいは、「十」とは双方に結びつけられるべきである。貪欲は断ぜられるべきものであっても、遍知されるべきであることを超えることはないからである。実に「愛惜すべき姿、快適な姿である色愛」等と説かれたとおりである。それゆえ、それは遍知されるべきであることによって苦諦にも包摂されるのであるが、断ぜられるべきものに基づいて「貪欲を除いて」と説かれたのである。それゆえに「方便としてはすべての業道が苦諦である」と述べたのである。貪欲と貪の働きの様態によって成就する相違に基づいて「これら二つの法」と述べたのである。経典の方法によって愛が「集諦」と説かれたため、「直説としては集諦である」と述べたのである。「非生起」とは、「貪の滅尽、瞋の滅尽」のように非生起の相を語る。縁を伴うことによって有為の自性をもつ苦諦が把握されたとき、無縁であることによって無為である滅諦が反対のものとして転向し、徹底して過失を伴い積集に至る特徴をもつ集諦が把握されたとき、過失から離れ損減に至る特徴をもつ道諦が反対のものとして転向する、という二つが転向の様式によって理解されるべきであると説かれたのである。それゆえに『指導論』において――

‘‘Ekamhi padaṭṭhāne, pariyesati sesakaṃ padaṭṭhānaṃ;

「一つの近因において、残りの近因を探し求める。

Āvattati paṭipakkhe, āvatto nāma so hāro’’ti.

反対のものへと転向する。その様式を転向と名づける」と述べられている。

Sabbākārenāti kāmarāgarūparāgādisabbappakārehi, sabbato vā apāyagamanīyādiākārato, tattha kiñcipi anavasesetvā vā. Sabbākārenevāti sabbākārato. Nīharitvāti apanetvā, samucchinditvāicceva attho. Kañci dhammaṃ anavakārīkaritvāti rūpavedanādīsu kañci ekadhammampi avinibbhogaṃ katvā, ekekato aggahetvā samūhatova gahetvāti attho. Asmīti ahamasmīti mānaggāhavasena. So pana yasmā pañcakkhandhe niravasesato gaṇhāti, tasmā vuttaṃ **‘‘samūhaggahaṇākārenā’’**ti. Yasmā cettha aggamaggacittaṃ vuccati, tasmā āha **‘‘diṭṭhisadisaṃ mānānusaya’’**nti. ‘‘Yaṃ rūpaṃ taṃ aha’’ntiādinā yathā diṭṭhi rūpādiṃ ‘‘ahamasmī’’ti gaṇhantī pavattati, evaṃ mānopi ‘‘seyyohamasmī’’tiādināti āha **‘‘mānānusayo asmīti pavattattā diṭṭhisadiso’’**ti. Paricchedakaroti osānaparicchedakaro ito paraṃ dukkhassābhāvakaraṇato. Kammapathadesanāyāti kammapathamukhena pavattacatusaccadesanāya. Manasikārappaṭivedhavasenāti vipassanāmanasikāramaggappaṭivedhavasena.

「すべての様態において」とは、欲愛・色愛などのすべての様態によって、あるいは悪趣に赴くべきなどのすべての様態から、そこにおいてわずかも残すことなく、という意味である。「すべての様態においてのみ」とは、すべての様態から。「取り出して」とは、除去して、断滅して、というだけの意味である。「いかなる法をも別個にすることなく」とは、色・受などのいかなる一つの法をも区別せず、一つずつ把握するのではなく、集合としてのみ把握して、という意味である。「ある」とは、「私がある」という慢の把握による。しかしそれは五蘊を漏れなく把握するがゆえに「集合として把握する様態によって」と述べたのである。そしてここでは最上の道(阿羅漢道)の心が説かれているため、「見解に類似した慢の随眠」と述べたのである。「その色こそが私である」等のように、見解が色などを「私がある」と把握して働くように、慢もまた「私は勝れている」等として働くため、「慢の随眠は『私がある』として働くゆえに見解に類似している」と述べたのである。「限定するもの」とは、これ以降に苦が存在しないようにするがゆえに、究極の限定をするものである。「業道の教説において」とは、業道の門を通じて説かれた四諦の教説において。「作意と貫達によって」とは、如実修行の作意と聖道の貫達によって、という意味である。

Kusalakammapathavāravaṇṇanā niṭṭhitā.

善業道の節の注釈は終了した。

Āhāravāravaṇṇanā

食の節の注釈

90. Āharatīti (saṃ. ni. ṭī. 2.2.11) āneti, uppādeti upatthambheti cāti attho. Nibbattāti pasutā. Tato paṭṭhāya hi loke jātavohāro. Paṭisandhiggahaṇato pana paṭṭhāya yāva mātukucchito nikkhamanaṃ, tāva sambhavesino. Esa tāva gabbhaseyyakesu bhūtasambhavesivibhāgo, itaresu pana paṭhamacittādivasena vutto. Sambhava-saddo cettha gabbhaseyyakānaṃ vasena pasūtipariyāyo, itaresaṃ vasena uppattipariyāyo. Paṭhamacittapaṭhamairiyāpathakkhaṇesu hi te sambhavaṃ uppattiṃ esanti upagacchanti nāma, na tāva bhūtā uppattiyā na suppatiṭṭhitattā. Bhūtāyeva sabbaso bhavesanāya samucchinnattā. Na puna bhavissantīti avadhāraṇena nivattitamatthaṃ dasseti, ‘‘yo ca kālaghaso bhūto’’tiādīsu (jā. 1.2.190) bhūta-saddassa khīṇāsavavācitā daṭṭhabbā. Vā-saddo cettha sampiṇḍanattho ‘‘agginā vā udakena vā’’tiādīsu (udā. 76) viya.

90. 「もたらす(摂取する)」とは、導き、生じさせ、支持する、という意味である。「生じたもの」とは、生まれたもの。それ以降、世間において「生まれた」という表現が使われるからである。しかし結生を把握したときから母胎から出るまでの間は「有を求めるもの(求生者)」である。これはまず胎生の者たちにおける「生じたもの」と「有を求めるもの」の区分であり、他の者たち(卵生・湿生・化生)においては最初の心などによって説かれる。そしてここでの「求生(サンバヴァ)」という語は、胎生の者たちにとっては「出産」の同義語であり、他の者たちにとっては「生起」の同義語である。最初の心、最初の威儀の刹那において、彼らは求生・生起を求め、到達するのであり、生起が堅固に確立されていないため、まだ生じたものとはいえない。完全に生じたもののみが、すべての点において生存の追求を断滅している。「再び存在することはない」という限定によって、除外された意味を示す。「時を喰らう者となったもの」等において、「生じたもの(bhūta)」という語が漏尽者(阿羅漢)を意味することを見なすべきである。そしてここでの「あるいは(vā)」という語は、「火によって、あるいは水によって」等の句におけるように、併合(総括)の意味である。

Yathāsakaṃ paccayabhāvena attabhāvassa paṭṭhapanamevetthaāhārehi kātabbaanuggahoti adhippāyenāha **‘‘vacanabhedo…pe… ekoyevā’’**ti. Sattassa uppannadhammānanti sattassasantāne uppannadhammānaṃ. Yathā ‘‘vassasataṃ tiṭṭhatī’’ti vutte anuppabandhavasena pavattatīti vuttaṃ hoti, evaṃ ṭhitiyāti anuppabandhavasena pavattiyāti attho, sā pana avicchedoti āha **‘‘avicchedāyā’’**ti. Anuppabandhadhammuppattiyā sattasantāno anuggahito nāma hotīti āha **‘‘anuppannānaṃ uppādāyā’’**ti. Etānīti ṭhitianuggahapadāni. Ubhayattha daṭṭhabbāni, na yathāsaṅkhyaṃ.

各自の条件となることによって個体(身心)を存続させることこそが、ここでの食によってなされるべき利益であるという意図から、「言葉の違い…略…同一である」と述べたのである。「衆生の生じた諸法のために」とは、衆生の相続の中に生じた諸法のために、という意味である。「百年生起する」と言ったときに相続して働くことが語られているように、「存続のために」とは相続して働くことのために、という意味であり、それは非断絶であるため「断絶しないために」と述べたのである。相続する諸法の生起によって衆生の相続が助けられたことになるゆえに、「未生のものたちを生起させるために」と述べたのである。「これら」とは、存続と利益の句である。順不同に、双方において見なされるべきである。

Vatthugatā ojā vatthu viya tena saddhiṃ āharitabbataṃ gacchatīti vuttaṃ **‘‘ajjhoharitabbato āhāro’’**ti. Nibbattitaojaṃ pana sandhāya ‘‘kabaḷīkārāhāro ojaṭṭhamakarūpāni āharatī’’ti vakkhati. Oḷārikatā appojatāya, na vatthuno thūlatāya, kathinatāya vā, tasmā yasmiṃ vatthusmiṃ parittā ojā hoti, taṃ oḷārikaṃ. Sappādayo dukkhuppādakatāya oḷārikāveditabbā. Visāṇādīnaṃ tivassachaḍḍitānaṃ pūtibhūttatā mudukatāti vadanti, taracchakheḷatemikatāya pana tathābhūtānaṃ tesaṃ mudukatā. Dhammasabhāvo hesa. Sasānaṃ āhāro sukhumo taruṇatiṇasassakhādanato. Sakuṇānaṃ āhāro sukhumo tiṇabījādikhādanato. Paccantavāsīnaṃ sukhumo, tesañhi sākapaṇṇasukkhakurapadumapattampi āhāroti. Tesaṃ paranimmitavasavattīnaṃ. Sukhumotvevāti na kiñci upādāya, atha kho sukhumo icceva niṭṭhaṃ patto tato paraṃ sukhumassa abhāvato.

事物の中にある滋養分(オージャ)が事物と同様にそれとともに摂取されるべき状態となるゆえに、「嚥下されるべきものゆえに段食である」と述べたのである。しかし生じた滋養分を指して「段食は滋養を第八とする色法をもたらす」と説くであろう。「粗大さ」は滋養分の少なさによるのであり、事物の大きさや硬さによるのではない。それゆえ、わずかな滋養分しかない事物が粗大である。蛇などは苦を生じさせるがゆえに粗大であると理解されるべきである。三年打ち捨てられた角などの腐敗した状態が軟らかさであると彼らは言うが、ハイエナの唾液で濡らされたことによってそのようになったものの軟らかさである。実にこれは法の本性である。ウサギの食は、柔らかい草の種子を食べるゆえに微細である。鳥の食は、草の種子などを食べるゆえに微細である。辺境に住む人々の食は微細であり、彼らにとっては野菜の葉、乾燥したクパドゥマの葉も食となるからである。「彼ら他化自在天の」。(他化自在天の食は)「微細そのもの」とは、何かに比較してではなく、実にそれ以上に微細なものが存在しないがゆえに微細そのものの極致に達している、という意味である。

Vatthuvasena panettha āhārassa oḷārikasukhumatā vuttā, sā cassa appojamahojatāhi veditabbāti dassetuṃ **‘‘ettha cā’’**tiādi vuttaṃ. Parissamanti khudāvasena uppannaṃ sarīrakhedaṃ. Vinodetīti vatthu tassa vinodanamattaṃ karoti. Na pana sakkoti pāletunti sarīraṃ yāpetuṃ nappahoti nissārattā. Na sakkoti parissamaṃ vinodetuṃ āmāsayassa apūraṇato.

ここでは事物によって食の粗大さと微細さが説かれたが、それは滋養分の少なさと多さによって理解されるべきであることを示すために、「そしてここにおいて」等と述べたのである。「疲労」とは、飢えによって生じた身体の疲労である。「取り除く」とは、事物はただそれを取り除くだけである。「しかし維持することはできない」とは、実質がないために身体を持続させる力がない、という意味である。「疲労を取り除くことはできない」とは、胃を満たさないからである。

Chabbidhopīti iminā kassacipi phassassa anavasesitabbatamāha. Āhārassadesanākkamenevettha phassādīnaṃ dutiyāditā, na aññena kāraṇenāti āha **‘‘desanānayo evā’’**tiādi. Manaso sañcetanā, na sattassāti dassanatthaṃ manogahaṇaṃ yathā ‘‘cittassa ṭhiti (dha. sa. 11), cetovimutti cā’’ti (ma. ni. 1.69) āha **‘‘manosañcetanāti cetanā evā’’**ti. Cittanti yaṃ kiñci cittaṃ, na vipākaviññāṇameva.

「六種のものも」とは、これによっていかなる触も残さないことを語る。食の説示の順序によってのみ、ここにおいて触などの第二以降の順序があるのであり、他の理由によるのではないことを示すために、「教説の順序そのもの」等と述べたのである。衆生の思ではなく「意の思」であることを示すための意の把握は、「心の存続」「心解脱」におけるように、「意の思とは思そのものである」と述べたのである。「心」とは、いかなる心でもあり、異熟の識のみではない。

Pubbe ‘‘āhāranti paccaya’’nti vuttattā **‘‘yadi paccayaṭṭho āhāraṭṭho’’**tiādinā codeti. Atha kasmā imeyeva cattāro vuttāti atha kasmā cattārova vuttā, ime eva ca vuttāti yojanā. Visesapaccayattāti etena yathā aññe paccayadhammā attano paccayuppannassa paccayāva honti, ime pana tathā ca honti aññathā cāti samānepi paccayatte atirekapaccayā honti, tasmā āhārāti vuttāti imamatthaṃ dasseti. Idāni taṃ atirekapaccayataṃ dassetuṃ **‘‘visesapaccayo hī’’**tiādi āraddhaṃ. Visesapaccayo rūpakāyassa kabaḷīkāro āhāro upatthambhakabhāvato. Tenāha aṭṭhakathāyaṃ (visuddhi. 2.708; paṭṭhā. aṭṭha. paccayuddesavaṇṇanā) ‘‘rūpārūpānaṃ upatthambhakattena upakārakā cattāro āhārā āhārapaccayo’’ti. Upatthambhakattañhi satipi janakatte arūpīnaṃ āhārānaṃ āhārajarūpasamuṭṭhāpakarūpāhārassa ca hoti, asati pana upatthambhakatte āhārānaṃ janakattaṃ natthīti upatthambhakattaṃ padhānaṃ. Janayamānopi hi āhāro avicchedavasena upatthambhayamāno eva janetīti upattambhakabhāvo eva āhārabhāvo. Vedanāya phasso visesapaccayo. ‘‘Phassapaccayā vedanā’’ti hi vuttaṃ. ‘‘Saṅkhārapaccayā viññāṇa’’nti (udā. 1; ma. ni. 3.126) vacanato viññāṇassamanosañcetanā. ‘‘Cetanā tividhaṃ bhavaṃ janetī’’ti hi vuttaṃ. ‘‘Viññāṇapaccayā nāmarūpa’’nti pana vacanato nāmarūpassa viññāṇaṃ visesapaccayā. Na hi okkantiviññāṇābhāve nāmarūpassa attasambhavo. Yathāha ‘‘viññāṇañca hi, ānanda, mātukucchismiṃ na okkamissatha, api nu kho nāmarūpaṃ mātukucchismiṃ samuccissathā’’tiādi (dī. ni. 2.115). Vuttamevatthaṃ suttena sādhetuṃ **‘‘yathāhā’’**tiādi vuttaṃ.

以前に「食とは条件(縁)である」と説かれたため、「もし条件の意味が食の意味であるなら」等と論難する。「ではなぜこれら四つのみが説かれたのか」とは、「ではなぜ四つのみが説かれ、これらのみが説かれたのか」という結合である。「特別な条件であるゆえに」とは、これによって、他の条件となる諸法が自己の条件から生じたものに対して単に条件となるにすぎないのに対し、これらはそのようでもあり、それ以上でもあるため、条件であることは同じでも卓越した条件である、それゆえに「食」と説かれたのだという、この意味を示す。今やその卓越した条件であることを示すために、「特別な条件である、実に」等と説き始めたのである。肉体に対する特別な条件は、支持する状態にあるゆえに段食である。それゆえ注釈において「名色を支持することによって助力となる四つの食が食縁である」と説かれたのである。支持する状態は、生起させる状態がある場合、無色の食および食から生じた色法を生起させる色食にもあるが、支持する状態がない場合には食が生起させる状態はないため、支持する状態が主である。実に、生起させるときにも食は断絶しないことによって支持しつつ生起させるのであり、支持する状態こそが食の状態である。受に対する特別な条件は触である。「触を条件として受がある」と説かれているからである。「形成(行)を条件として識がある」という言葉から、識に対する特別な条件は意思である。「思は三種の生存を生じさせる」と説かれているからである。しかし「識を条件として名色がある」という言葉から、名色に対する特別な条件は識である。結生の識がない場合、名色自体の生起はないからである。「アーナンダよ、もし識が母胎に入らないとしたら、果たして名色は母胎の中で成長するであろうか」等と説かれたとおりである。説かれた意味を経典によって論証するために、「説かれたとおり」等と述べたのである。

Evaṃ yadipi paccayaṭṭho āhāraṭṭho, visesapaccayatāya pana ime eva āhārāti vuttāti taṃ nesaṃ visesapaccayataṃ avibhāgato dassetvā idāni vibhāgato dassetuṃ **‘‘ko panetthā’’**tiādi āraddhaṃ. Mukhe ṭhapitamattoyeva asaṅkhādito, tattakenapi abbhantarassa āhārassa paccayo hoti eva. Tenāha **‘‘aṭṭha rūpāni samuṭṭhāpetī’’**ti. Sukhavedanāya hito sukhavedaniyo. Sabbathāpīti cakkhusamphassādivasena. Yattakā phassassa pakārabhedā, tesaṃ vasena sabbappakāropi phassāhāro. Yathārahaṃ tisso vedanā āharati, anāhārako natthi.

このように、条件の意味が食の意味であるとしても、特別な条件であるゆえにこれらのみが食と説かれたのであり、彼らの特別な条件であることを無差別に示し、今や差別化して示すために、「ではここにおいて何が」等と説き始めたのである。口に入れられただけで噛み砕かれていないものであっても、それだけで体内の食の条件となる。それゆえに「八つの色法を生じさせる」と述べたのである。楽受に益するものは楽受されるべきものである。「すべてのあり方においても」とは、眼触などによるものとして。触の種類の区分がどれほどあっても、それらすべての区分による触食である。相応に応じて三つの受をもたらすのであり、もたらさないものはない。

Sabbathāpīti idhāpi phassāhāre vuttanayānusārena attho veditabbo. Tisantativasenāti kāyadasakaṃ bhāvadasakaṃ vatthudasakanti tividhasantativasena. Sahajātādipaccayanayenāti sahajātādipaccayavidhinā. Paṭisandhiviññāṇañhi attanā sahajātanāmassa sahajātaaññamaññanissayavipākindriyasampayuttaatthiavigatapaccayehi paccayo hontoyeva āhārapaccayatāya taṃ āhāretī vuttaṃ, sahajātarūpesu pana vatthuno sampayuttapaccayaṃ ṭhapetvā vippayuttapaccayena, sesarūpassa aññamaññapaccayañca ṭhapetvā vuttanayenevayojanā kātabbā. Tānīti napuṃsakaniddeso anapuṃsakānampi napuṃsakehi saha vacanato.

「すべてのあり方においても」とは、ここでも触食において説かれた方法に従って意味が理解されるべきである。「三つの相続によって」とは、身十事、性十事、基十事という三種の相続によって。「倶生などの条件の方法によって」とは、倶生などの条件の規定によって。実に結生の識は、自己と倶生する名法に対して倶生・相互・依止・異熟・根・相応・存在・非離去の諸縁によって条件となりつつ、食縁であることによってそれをもたらすと説かれ、倶生の色法に対しては基(心基)の相応縁を除いて不相応縁によって、残りの色法に対しては相互縁をも除いて説かれた方法によって適用がなされるべきである。「それら(中性)」とは、非中性のものも中性のものとともに語られていることによる中性の指示である。

Sāsavā kusalākusalacetanāva vuttā. Visesapaccayabhāvadassanaṃ hetanti. Tenāha **‘‘avisesena panā’’**tiādi. Paṭisandhiviññāṇameva vuttanti etthāpi eseva nayo. Yathā tassa tassa phalassa visesato paccayatāya etesaṃ āhāraṭṭho, evaṃ avisesatopīti dassantena **‘‘avisesena panā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha taṃsampayuttataṃsamuṭṭhānadhammānanti tehi phassādīhi sampayuttadhammānañceva taṃsamuṭṭhānarūpadhammānañca. Tattha sampayuttaggahaṇaṃ yathārahato daṭṭhabbaṃ, samuṭṭhānaggahaṇaṃ pana avisesato.

「有漏の」善・不善の思のみが説かれた。特別な条件の状態を示すためである。それゆえに「無差別にはしかし」等と述べたのである。結生の識のみが説かれたということについても、この方法による。それぞれの結果に対する特別な条件であるゆえにそれらが食の意味をもつように、無差別にもそうであることを示しつつ、「無差別にはしかし」等と述べたのである。そこにおいて「それらに相応し、それらより生起する諸法の」とは、それら触等に相応する諸法およびそれらより生起する色法のことである。そこにおいて相応の把握は相応に応じて見なされるべきであり、生起の把握は無差別に見なされるべきである。

Upatthambhento āhārakiccaṃ sādhetīti upatthambhentoyeva rūpaṃ samuṭṭhāpeti, ojaṭṭhamakarūpasamuṭṭhāpaneneva panassa upatthambhanakiccasiddhi. Phusantoyevāti phusanakiccaṃ karonto eva. Āyūhamānāvāti cetayamānā eva abhisandahantī eva. Vijānantamevāti upapattiparikappanavasena vijānantameva āhārakiccaṃ sādhetīti yojanā. Sesapadadvayepi eseva nayo. Āhārakiccasādhanañca tesaṃ vedanādiuppattihetutāya attabhāvassa pavattanameva.

「支持しつつ食の機能を果たす」とは、支持しつつ色を生起させるのであり、滋養を第八とする色法を生起させることによってのみ、これの支持する機能の成就がある。「触れつつのみ」とは、触れる機能を果たしつつのみ。「形成しつつ」とは、思案しつつ、構想しつつ。「識別しつつのみ」とは、再生を構想することによって識別しつつのみ食の機能を果たす、と結合する。残りの二句においてもこの方法による。そして彼らの食の機能の成就とは、受などの生起の原因となることによって個体(身心)を存続させることそのものである。

Kāyaṭṭhapanenāti kasmā vuttaṃ? Nanu kammajādirūpaṃ kammādināva pavattatīti codanaṃ sandhāyāha **‘‘kammajanitopī’’**tiādi. Upādinnarūpasantatiyā upatthambhaneneva utucittajarūpasantatīnampi upatthambhanasiddhi hotīti **‘‘dvinnaṃ rūpasantatīna’’**nti vuttaṃ. Upatthambhanameva sandhāya **‘‘anupālako hutvā’’**ti ca vuttaṃ. Rūpakāyassa ṭhitihetutā hi yāpanā anupālanā.

「身体を維持することによって」となぜ説かれたのか。業から生じた色法などは業などによってのみ存続するのではないかという論難を念頭に置いて、「業から生じたものも」等と述べたのである。執持された(業によって把握された)色法の相続を支持することによってのみ、時節や心から生じた色法の相続も支持されることが成就するゆえに、「二つの色法の相続の」と述べたのである。支持することそのものを指して「保護者となって」とも述べたのである。肉体の存続の原因であることが、維持であり保護だからである。

Sukhādivatthubhūtanti sukhādīnaṃ pavattiṭṭhānabhūtaṃ. Ārammaṇampi hi vasati ettha ārammaṇakaraṇavasena tadārammaṇā dhammāti vatthūti vuccati. Phusantoyevāti idaṃ phassassa phusanasabhāvattā vuttaṃ. Na hi dhammānaṃ sabhāvena vinā pavatti atthi. Vedanāpavattiyā vinā sattānaṃ sandhāvanatā natthīti āha **‘‘sukhādi…pe… hotī’’**ti, na cettha saññībhavakathāyaṃ asaññībhavo dassetabbo, tassāpi vā kāraṇabhūtavedanāpavattivaseneva ṭhitiyā hetuno abyāpitā. Tathā hi **‘‘manosañcetanā…pe… bhavamūlanipphādanato sattānaṃ ṭhitiyā hotī’’**ti vuttā, tato eva ‘‘viññāṇaṃ vijānantamevāti upapattiparikappanavasena vijānantamevā’’ti vuttovāyamatthoti.

「楽などの基盤となったもの」とは、楽などの生起する場所となったもの、という意味である。所縁もまた、ここに所縁とすることによってそれを所縁とする諸法が存在するゆえに「基盤」と呼ばれる。「触れつつのみ」とは、これは触の触れる自性によるものとして説かれた。実に諸法は自性なしに生起することはないからである。受の生起なしに衆生の輪廻はないため、「楽など…略…となる」と述べたのである。そしてここでの有想の生存の説示において無想の生存は示されるべきではないが、それ(無想の生存)も原因となった受の生起によるゆえに、存続の原因が不遍であることはない。実に「意の思は…略…生存の根本を成就することから衆生の存続のためにある」と説かれており、それゆえに「識は識別しつつのみ、すなわち再生を構想することによって識別しつつのみ」と説かれたことこそがこの意味である。

Cattāri bhayāni daṭṭhabbāni ādīnavavibhāvanato. Nikantīti nikāmanā. Rasataṇhaṃ sandhāya vadati. Sā hi kabaḷīkāre āhāre balavatī. Teneva tattha avadhāraṇaṃ kataṃ. Bhāyati etasmāti bhayaṃ, nikantiyevabhayaṃ mahānatthahetuto. Upagamanaṃ visayindriyaviññāṇesu visayaviññāṇesu eva ca saṅgativasena pavatti, taṃ vedanādiuppattihetutāya **‘‘bhaya’’**nti vuttaṃ. Avadhāraṇe payojanaṃ vuttanayameva. Sesadvayepi esevanayo. Āyūhanaṃ abhisandahanaṃ, saṃvidhānantipi vadanti. Taṃ bhavūpapattihetutāya **‘‘bhaya’’**nti vuttaṃ. Abhinipāto tattha tattha bhave paṭisandhiggahaṇavasena nibbatti. So bhavūpapattihetukānaṃ sabbesaṃ anatthānaṃ mūlakāraṇattā **‘‘bhaya’’**nti vutto. Idāni nikantiādīnaṃ sappaṭibhayataṃ vitthārato dassetuṃ **‘‘kiṃkāraṇā’’**tiādi āraddhaṃ. Tattha nikantiṃ katvāti ālayaṃ janetvā, taṇhaṃ uppādetvāti attho.

四つの恐怖は、過患を明示することから見なされるべきである。「執着」とは、欲求のことである。味への愛執を指して語っている。実にそれは段食において強力である。それゆえにそこにおいて限定がなされた。「これによって恐れる」ゆえに恐怖であり、執着そのものが大いなる無益の原因であるゆえに恐怖である。「接近」とは、対象・感覚器官・認識において、また対象と認識において接触することによる生起であり、それが受などの生起の原因であるゆえに「恐怖」と説かれた。限定の目的は説かれた方法のとおりである。残りの二つにおいてもこの方法による。「形成」とは構想のことであり、計画することとも言う。それが生存における再生の原因であるゆえに「恐怖」と説かれた。「落下」とは、それぞれの生存において結生を把握することによる誕生である。それは生存における再生を原因とするすべての無益の根本原因であるゆえに「恐怖」と説かれた。今や執着などの恐るべき状態を詳細に示すために、「いかなる原因によって」等と説き始めたのである。そこにおいて「執着をなして」とは、執着を生じさせ、愛執を生起させて、という意味である。

Phassa upagacchantāti cakkhusamphassādibhedaṃ phassaṃ pavattentā. Phassassādinoti kāyasamphassavasena phoṭṭabbasaṅkhātassa phassassa assādanasīlā. Kāyasamphassavasena hi sattānaṃ phoṭṭhabbataṇhā pavattatīti dassetuṃ phassāhārādīnavadassane phoṭṭhabbārammaṇaṃ uddhaṭaṃ **‘‘paresaṃ rakkhitagopitesū’’**tiādinā. Phassassādinoti vā phassāhārassādinoti attho. Sati hi phassāhāre sattānaṃ phassārammaṇe assādo, nāsatīti. Tenāha **‘‘phassassādamūlaka’’**ntiādi.

「触に接近する者たち」とは、眼触などの種類の触を生起させる者たち。「触を味わう者」とは、身触による触覚と名づけられた触を享受する習性の者たち。身触によって衆生には触覚への愛執が生起することを示すために、触食の過患の教説において「他者の保護し守られたものにおいて」等と触覚の所縁が取り出されたのである。あるいは「触を味わう者」とは、触食を味わう者、という意味である。実に触食があるときに衆生には触の所縁における味わいがあり、ないときにはないからである。それゆえに「触の味わいを根本とする」等と述べたのである。

Jātinimittassa bhayassa abhinipātasabhāvena gahitattā **‘‘tammūlaka’’**nti vuttaṃ, kammāyūhananimittanti attho.

生の原因となる恐怖が落下の自性によって把握されているため、「それを根本とする」と述べたのであり、業の形成を原因とする、という意味である。

Abhinipatatīti abhinibbattati. Paṭhamābhinibbatti hi sattānaṃ tattha tattha aṅgārakāsusadise bhave abhinipātasadisīti. Tammūlakattāti nāmarūpanibbattimūlakattā.

「落下する」とは、誕生する、という意味である。衆生の最初の誕生は、それぞれの炭火の穴に似た生存への落下のようであるからである。「それを根本とするゆえに」とは、名色の誕生を根本とするゆえに、という意味である。

Tatrāti tāsu upamāsu. Bhūtamatthaṃ katvāti na parikappitamatthaṃ, atha kho bhūtaṃ bhūtapubbaṃ atthaṃ katvā. Pātheyyahatthesu gacchantesu pātheyyaṃ, gacchantaṃ viya hotīti vuttaṃ **‘‘gantvā pātheyyaṃ niṭṭhāsī’’**ti. Gantvāti vāgamanahetūti attho. Khuppipāsāturatāya ghanacchāyaṃ rukkhaṃ upagantuṃ asamatthā viraḷhacchāyāyaṃ nisīdiṃsu. Na dāni sakkā taṃ mayā kātuṃ atidubbalabhāvato. Parikkhalitagatitaruṇadārako khuppipāsābhibhūto ca, tasmā gacchantoyeva mato.

「そこにおいて」とは、それらの譬喩において。「事実として」とは、架空のこととしてではなく、実際に過去にあった事実として、という意味である。旅糧を持った者たちが歩んでいくとき、旅糧が尽きていくかのようであるため、「歩んでいって旅糧が尽きた」と述べたのである。あるいは「歩んでいって」とは、歩んだことが原因で、という意味である。飢えと渇きに苦しむあまり、木陰の濃い木に近づくことができず、まばらな木陰に座った。極度の衰弱ゆえに「今や私にはそれを行うことはできない」。足をもつれさせて歩む幼子は飢えと渇きに圧倒され、それゆえに歩みながら息絶えたのである。

Sajātimaṃsatāyāti (saṃ. ni. ṭī. 2.2.63) samānajātimaṃsatāya, manussamaṃsatāyāti attho. Yaṃ manussamaṃsaṃ, tañhi loke jigucchanīyattā paṭikulaṃ. Tathā hi taṃ viññūhi vajjitaṃ, manussamaṃsesupi ñātimaṃsaṃ ayuttaparibhogatāya paṭikūlaṃ, tatthāpi puttamaṃsaṃ, tatthāpi piyaputtamaṃsaṃ, tatthāpi taruṇamaṃsaṃ, tatthāpi āmakamaṃsaṃ, tatthāpi agorasābhisaṅkhataṃ, tatthāpi aloṇaṃ, tatthāpi adhūpitanti evaṃ heṭṭhimato uttaruttarassa paṭikūlatarabhāvakāraṇatā daṭṭhabbā. Puttamaṃsasadisanti paṭikūlatāupaṭṭhāpanena puttamaṃsasadisaṃ katvā passati. Tattha nikantiṃ pariyādiyatīti ariyamaggena āhāre sāpekkhaṃ khepeti.

「同種の肉であることによって」(相応部注釈2.2.63)とは、同種の肉であることによって、すなわち人間の肉であることによって、という意味である。実に、人間の肉というものは、世間において嫌悪すべきものであるがゆえに嫌悪される。実にそのように、それは有智の人々によって忌避される。人間の肉の中でも、親族の肉は食すに不適切であるがゆえに嫌悪される。その中でも息子の肉、その中でも愛する息子の肉、その中でも幼い肉、その中でも生の肉、その中でも牛の乳製品(五味)で調理されていないもの、その中でも塩のないもの、その中でも燻製されていないもの、というように、下位のものよりも上位のものの方がより嫌悪すべき性質の原因であることが見られるべきである。「息子の肉に類似する」とは、嫌悪すべき性質を心に現前させることによって、息子の肉に類似するものとして見るのである。「そこにおいて愛着を尽くす」とは、聖道によって食に対する執着を滅ぼすことである。

Sā gāvīti ‘‘seyyathāpi bhikkhave gāvī’’ti (saṃ. ni. 2.63) evaṃ sutte vuttagāvī. Uddāletvāti uppāṭetvā. Nissāya tiṭṭhatīti paṭiccapaccayaṃ katvā pavattati. Dukkhadukkhatādivasena tiṇṇampi vedayitānaṃ dukkhabhāvaṃ sandhāyāha **‘‘vedayitadukkhassā’’**ti.

「その牝牛」とは、「比丘たちよ、たとえば牝牛が」(相応部2.63)と、このように経典に説かれた牝牛のことである。「剥ぎ取って」とは、引き剥がして。「依存して立つ」とは、縁となって生起する。苦苦などの性質によって三種の感受作用(受)も苦である性質を指して「感受作用の苦の」と述べられた。

Sādhusammatāpi gati vipariṇāmasaṅkhāradukkhatāvasena kilesadukkhavasena ca mahāpariḷāhāyevāti vuttaṃ **‘‘mahāpariḷāhaṭṭhena tayo bhavā’’**ti. Yathā upakaḍḍhakā dve purisā, evaṃ kusalākusalavasena dve manosañcetanā. Yathā manosañcetanā na pavattati, tathā paṭipajjanto tattha nikantiṃ pariyādiyatīti veditabbo.

善と承認された生存(趣)であっても、壊苦・行苦の性質によって、また煩悩の苦の性質によって、大いなる熱苦に他ならないことから、「大いなる熱苦という理由で三つの生存(三有)」と説かれた。引きずる二人の男のようであるように、善と不善の力によって二つの意思作用(意思)がある。意思作用が生起しないように、そのように実践する者が「そこにおいて愛着を尽くす」と知られるべきである。

Sattisatena hatā eva upamā sattisatahatūpamā, tassaṃ sattisatahatūpamāyaṃ. Taṃ sattisataṃ. Assa purisassa. Patitokāseti purimasattīhi patitappadese. Dukkhassa pamāṇaṃ natthi anekassa aparāparaṃ uppajjanato. Khandhajanananti khandhānaṃ aparāparuppādo, paṭhamābhinibbatti pana paṭisandhi eva. Āgucārī puriso viya paṭisandhiviññāṇaṃ nānappakāradukkhuppādasannissayato, tehi ca dukkhehi upagantabbato. Sampayuttadhammānaṃ pamukhabhāvena pavattiyā ‘‘viññāṇassa dukkhuppādoti vuttā. Tathā hi vuttaṃ ‘‘manopubbaṅgamā dhammā’’ti (dha. pa. 1, 2) yathā viññāṇaṃ āyatiṃ paṭisandhivasena na pavattati, evaṃ karaṇaṃ tattha nikantipariyādānaṃ daṭṭhabbaṃ.

百の槍で突かれた譬えそのものが「百槍突の譬え」であり、その百槍突の譬えにおいてである。「その百の槍」。「その男の」。「刺さった場所に」とは、先の槍によって刺さった場所に。次から次へと無数に生じるがゆえに、苦の限界はない。「諸蘊の生成」とは諸蘊が次々と生起することであるが、最初の生起こそは実に結生である。罪人である男のように、結生識は種々の苦の生起の所依であることによって、またそれらの苦に遭遇せざるを得ないことによる。相応する諸法(心所)の首位であることによって生起することから、「識の苦の生起」と説かれた。実にそのように「諸法は心を前駆とする」(法句経1, 2)と説かれた。識が未来において結生の力によって生起しないように、このように成すことがそこにおいて愛着を尽くすことであると見られるべきである。

Pariññātaṃ vatthūti dukkhasaccamāha. Pañcakāmaguṇiko rāgoti pañcakāmaguṇārammaṇo rāgo. Pariññāto hotīti paricchijja jānanena samatikkanto hoti. Rasataṇhāya hi sammadeva vigatāya rūpataṇhādayopi vigatāyeva honti. Tathā ca sati kāmarāgasaṃyojanaṃ samucchinnameva hoti, evaṃ karaṇaṃ tattha nikantipariyādānaṃ daṭṭhabbaṃ. Pariññābhisamaye hi siddhe pahānābhisamayo siddho evāti. Pahīne ca kāmarāgasaṃyojane orambhāgiyasaṃyojanānaṃ lesopi nāvasissatīti dassento āha **‘‘natthi taṃ saṃyojana’’**ntiādi. Tena kabaḷīkārāhārapariññā anāgāmitaṃ pāpetīti dasseti. Sesāhārapariññā pana arahattaniṭṭhā evāti dassento **‘‘phasse bhikkhave’’**tiādimāha. Tattha tisso taṇhāti kāmataṇhā rūpataṇhā arūpataṇhāti imā tisso taṇhā.

「遍知された対象」とは、苦聖諦を説いている。「五妙欲の貪」とは、五つの妙欲を対象とする貪である。「遍知されたとなる」とは、限定して知ることによって超越したとなる。実に味への渇愛が完全に離れたときには、色への渇愛などもまた離れたものとなる。そしてそのようであるとき、欲貪結はまさに断絶されたものとなる。このように成すことがそこにおいて愛着を尽くすことであると見られるべきである。遍知の現観が成就したときには、断の現観も成就したに他ならないからである。そして欲貪結が断ぜられたとき、下分結には些細なものも残らないことを示して「その結び目はない」等と述べられた。それによって段食の遍知は不還果へ導くことを示している。しかし残りの食の遍知は実に阿羅漢果を究極とするものであることを示して「比丘たちよ、触において」等を述べられた。そこにおいて「三つの渇愛」とは、欲愛・有愛・無有愛というこれら三つの渇愛である。

**‘‘Purimataṇhāsamudayā’’**ti saṅkhepato vuttamatthaṃ vitthārato dassetuṃ **‘‘katha’’**ntiādi āraddhaṃ. Tattha taṇhāpaccayanibbattāti taṇhāpaccayā nibbattā. Paṭisandhikkhaṇe purimataṇhāsamudayā āhārānaṃ samudayadassaneneva pavattikkhaṇepi upādinnakaāhārasamudayo dassito hotīti taṃ anāmasitvā anupādinnakānaṃ taṇhāsamudayaṃ dassetuṃ **‘‘yasmā panā’’**tiādi vuttaṃ. Idhāti imasmiṃ sutte missitvā kathitā avisesitattā. Sahajātataṇhāpaccayanibbattoti ettha sahajātaggahaṇaṃ asahajātataṇhāpaccayanibbattopi anupādinnakaāhāro labbhatīti dassanatthaṃ. So pana asahajātataṇhāpaccayanibbattatāsāmaññenapi yathāvuttaupādinnakāhārena saṃsayaṃ janeyyāti na uddhaṭo, na ca etaṃ kāraṇaṃ ‘‘rāgaṃ upanissāya domanassaṃ uppajjatī’’ti vacanato, taṇhopanissayapaṭighacittasamuṭṭhānāya ca ojāya vasena anupādinnakaāhārassa labbhanato. Kathaṃ pana taṇhā ojāya upanissayapaccayo; na hi paṭṭhāne katthaci rūpassa upanissayapaccayo vutto atthīti. Nāyaṃ virodho ‘‘yasmiṃ sati yaṃ hoti, so tassa upanissayo’’ti suttantanayassa adhippetattā yathāvuttatthasambhavato. Tenevāha **‘‘imissā…pe… taṇhāya nirodhenā’’**ti.

「過去の渇愛の集起によって」と簡潔に説かれた意味を詳細に示すために、「どのように」等が始められた。そこにおいて「渇愛を縁として生じた」とは、渇愛を縁として生起した。「結生の瞬間に過去の渇愛の集起によって諸食の集起を示すことによって、転起(生存継続)の瞬間においても執受された(有情の身の)食の集起が示されたことになる」としてそれに言及せず、執受されない諸食の渇愛の集起を示すために「しかし、~であるゆえに」等が説かれた。「ここで」とは、この経典において、区別されないことによって混同して説かれた。「倶生の渇愛を縁として生じた」において、「倶生」と取ることは、非倶生の渇愛を縁として生じた執受されない食もまた得られることを示すためである。しかしそれは非倶生の渇愛を縁として生じた性質の共通性によっても、上述の執受された食との疑念を生じさせ得るとして挙げられなかった。また「貪に依存して憂いが生じる」という言葉から、そして渇愛を近依縁とする瞋恚心から生じる滋養分(オージャ)の力によって執受されない食が得られることから、この理由は否定されない。しかしどのように渇愛が滋養分の近依縁となるのか。発趣論においてどこにも物質(色)の近依縁は説かれていないではないか。これは矛盾ではない。「これがあるとき、これがある。それがこれの近依縁である」という経典の論理が意図されていることによって、上述の意味が成り立つからである。それゆえに「この……乃至……渇愛の止滅によって」と述べられた。

Kāraṇe sabbaso niruddhe phalampi sabbaso nirujjhatīti āha **‘‘āhāranirodho paññāyatī’’**ti. Āhārānaṃ dukkhasaccekadesattā āhāraggahaṇaṃ dukkhasaccaggahaṇameva hotīti āha **‘‘idha cattāripi saccāni sarūpeneva vuttānī’’**ti. Saccadesanā dukkhādīnaṃ yāvadeva pariññeyyādibhāvasandassanatthā, tasmā jarāmaraṇādīsu pariññeyyādibhāvo asammohato sallakkhetabboti dassento **‘‘sabbattha asammuyhantena saccāni uddharitabbānī’’**ti āha.

原因が完全に滅したとき、結果もまた完全に滅することから、「食の止滅が知られる」と述べられた。諸食は苦聖諦の一部であることから、食を取ることは苦聖諦を取ることに他ならないとして「ここで四つの聖諦も自らの形式によって説かれた」と述べられた。聖諦の説示は、苦などがまさに遍知されるべき性質などであることを明示するためのものである。それゆえに老死などにおいて遍知されるべき性質などは無迷惑に観察されるべきであることを示して「あらゆる場所において惑わされることなく聖諦が引き出されるべきである」と述べられた。

Āhāravāravaṇṇanā niṭṭhitā.

食節の注釈を終わる。

Saccavāravaṇṇanā

諦節の注釈

91. Yena yena pariyāyena byākarotīti yena yena dukkhādijarāmaraṇādipariyāyena ariyasaccāni saṅkhepato ca vitthārato ca katheti. Dukkhanti dukkhasaccaṃ dukkhaṃ, na dukkhamattaṃ.

91.「どのような様態によって解明するか」とは、どのような苦などの、老死などの様態によって聖諦を簡潔に、また詳細に説くか。「苦を」とは、苦聖諦としての苦であり、単なる苦痛ではない。

Saccavāravaṇṇanā niṭṭhitā.

諦節の注釈を終わる。

Jarāmaraṇavāravaṇṇanā

老死節の注釈

92. Tesaṃ tesanti byāpanicchāvasenāyaṃ niddeso kato, tasmā yathā ‘‘gāmo gāmo ramaṇīyo’’ti vutte ramaṇīyatāya tādisā sabbepi gāmā saṅgahaṃ gacchanti, evaṃ ‘‘tesaṃ tesaṃ sattānaṃ jātī’’ti vutte jātisaṅkhātavikāravasena sabbepi sattā saṅgahaṃ gacchanti. Tenāha **‘‘saṅkhepato anekesaṃ sattānaṃ sādhāraṇaniddeso’’**ti.

92.「それら、それらの」とは、普遍的包摂の力によってこの解説がなされたのである。それゆえに「村ごとに美しい」と言われたときに美しさによってそのようなすべての村が包含されるように、このように「それらそれらの有情の生」と言われたとき、生と呼ばれる変異の力によってすべての有情が包含される。それゆえに「要約すれば、無数の有情の共通の解説である」と述べられた。

Gatijātivasenāti (saṃ. ni. ṭī. 2.1.2) pañcagativasena, tatthāpi ekekāya gatiyā khattiyādibhummadevādihatthiādijātivasena ca. Nikiyyanti sattā ettha, etena vāti nikāyo, gottacaraṇādivibhāgo. Jarāya sabhāvo nāma vayohāni, tasmā jarāti vayohānisaṅkhātassa sabhāvassa niddeso, pākaṭajarāvasena niddeso khaṇḍiccādivasena gahaṇato. Jīraṇameva jīraṇatā, jīrantassa vā ākāro tā-saddena vutto. Tenāha **‘‘ayaṃ ākāraniddeso’’**ti. Dantādīnaṃ vasena khaṇḍaṃ jātaṃ etassāti khaṇḍito, puggalo. Tassa bhāvo khaṇḍiccaṃ. Palitaṃ etassa atthīti palito, tassa bhāvo pāliccaṃ. Vali taco etassāti valittaco, tassa bhāvo valittacatā. Ime khaṇḍiccādayo jarā. Vikārānaṃ dassanavasenāti vipattidassanavasena. Vātassāti mahato vātakkhandhassa. Khaṇḍiccādivasena gatamaggo pākaṭo, tasmā khaṇḍiccādiggahaṇaṃ jarāya kiccaniddesoti vuttanti dasseti. Na ca khaṇḍiccādīneva jarāti kalalakālato pabhuti purimarūpānaṃ jarāpattakkhaṇe uppajjamānāni pacchimarūpāni paripakkarūpānurūpāni pariṇatapariṇatāni uppajjantīti anukkamena supariṇatarūpānaṃ paripākakāle uppajjamānāni khaṇḍiccādisabhāvāni uppajjanti, tāni udakādimaggesu tiṇarukkhasaṃbhaggatādayo viya paripākagatamaggasaṅkhātesu paripakkarūpesu uppannāni ‘‘jarāya gato maggo’’icceva vuttāni, na jarāti.

「趣と生の力によって」(相応部注釈2.1.2)とは、五趣の力によって、そこにおいても一つ一つの趣におけるクシャトリヤ等、地居天等、象等の生の力によってである。有情たちがここに、あるいはこれによって集まる(住する)ことから「部類(ニカーヤ)」であり、氏族や行為などの分類である。老いの本性とはすなわち寿命の減退である。それゆえに「老い」とは寿命の減退と呼ばれる本性の解説であり、明らかな老いの力による解説は歯の脱落などの力によって取られることによる。老いることそのものが「老衰(状態)」であり、あるいは老いる者の様相が「状態」を表す語(-tā)によって説かれた。それゆえに「これは様相の解説である」と述べられた。歯などの力によって欠損が生じた者のことを「歯の欠けた者」、すなわち人物である。その状態が「歯の脱落」である。白髪がこの者にあることから「白髪の者」、その状態が「白髪化」である。皮膚に皺があることから「皺皮の者」、その状態が「皮膚の皺」である。これら歯の脱落などが老いである。「変異の顕示の力によって」とは、衰退の顕示の力によって。「風の」とは、大いなる風の塊の。歯の脱落などの力によって進んだ道が明らかである。それゆえに歯の脱落などを取ることは老いの機能の解説であると説かれたことを示している。そして歯の脱落などだけが老いなのではない。羯羅藍(受精卵)の時期から始まって、以前の物質が老いに達する瞬間に生じる以後の物質は、成熟した物質に相応し、次々と変異して生じる。したがって次第によく変異した物質の成熟の時期に生じる歯の脱落などの本性が生じる。それらは水路などにおける草木の破壊などのように、成熟の過程と呼ばれる熟した物質において生じたものであり、「老いの進んだ道」とだけ説かれたのであって、老いそのものではない。

Pakatiyāti phalavipaccanapakatiyā, jarāya vā pāpuṇitabbaṃ phalamevapakati, tāya jarā dīpitā. Suppasannānīti suṭṭhu pasannāni. Tameva suppasannataṃ kiccato dassetuṃ **‘‘sukhumampī’’**tiādi vuttaṃ. Tikkhavisadatā hi tesaṃ indriyānaṃ suppasannatā. Āluḷitānīti ākulāni. Avisadānīti abyattāni.

「本性によって」とは、果報を成熟させる本性によって。あるいは老いによって到達されるべき果報そのものが本性であり、それによって老いが明らかにされた。「極めて清浄な」とは、極めて明瞭な。その極めて明瞭であることを機能の点から示すために「微細なものをも」等が説かれた。実に鋭敏で明晰であることがそれら諸根の極めて明瞭なことである。「乱れた」とは、混濁した。「明晰でない」とは、不明瞭な。

Kāmaṃ rūpadhammesupi khaṇikajarā durupalakkhitā paṭicchannāva, sā pana yasmā santānavasena pavattiyā paribyattāva hotīti **‘‘pākaṭajarā’’**icceva vuttā. Avīci nirantarā jarā avīcijarā sati santāne sattānaṃ anuppabandhato. Tato aññesūti mandadasakādīsu pubbadasakādiparicchedato aññesu yathāvuttesu. Antarantarāti tesu eva vuttappakāresu purimadasakādito pacchimadasakādīnaṃ antarantarā. Vaṇṇavisesādīnanti vaṇṇavisesasaṇṭhānavisesasamphassavisesādīnaṃ.

確かに物質的諸法(色法)においても刹那の老いは見分け難く、隠されているが、それはしかし連続(相続)の力による転起によって極めて明白であることから「明らかな老い」とだけ説かれた。「間断なき(無間)老い」とは不断の老いであり、相続が存在するとき有情たちに絶え間なく続くことによる。「それら以外のものにおいて」とは、衰弱の十年代等において、先の十年代等の区切りから異なる上述のものたちにおいて。「合間合間に」とは、それら説かれた様態において、先の十年代等から以後の十年代等の合間合間に。「色合いの差異などの」とは、色合いの差異、形態の差異、接触の差異などの。

Vacanakavasenāti ka-kārena hi padaṃ vaḍḍhetvā vuttaṃ, tasmā cavanaṃ cutīti vuttaṃ hoti. Taṃ pana ekacatupañcavokārabhavesu cutiyā avisesato gahaṇanti āha **‘‘ekacatupañcakkhandhānaṃ sāmaññavacana’’**nti. Cavanakavasenāti vā cavanakassa puggalassa vasenāti attho. Cavanameva cavanatāti āha **‘‘bhāvavacanenā’’**ti. Lakkhaṇanidassananti vayasaṅkhātassa lakkhaṇassa nidassanaṃ. Cavantassa vā ākāro tā-saddena vutto **‘‘cavanatā’’**ti. Bhijjanaṃ bhedoti vuttaṃ **‘‘cutikkhandhānaṃ bhaṅguppattiparidīpana’’**nti. Yathā bhinnassa ghaṭassa kenaci pariyāyena ghanaghaṭabhāvena ṭhānaṃ natthi, evaṃ bhinnānaṃ khandhānanti cavanaṃ antarahitaṃ nāmāti āha **‘‘antaradhānanti…pe… paridīpana’’**nti. Yo maccūti vuccati bhedo, yañca maraṇaṃ pāṇacāgo, tadubhayaṃ ekajjhaṃ katvā vuttaṃ **‘‘maccu maraṇa’’**nti evaṃ vā ettha attho daṭṭhabbo. Kālassa antakassa kiriyāti yā loke vuccati, sā cuti, maraṇanti attho. Cavanakālo eva vā anatikkamanīyattā visesena kāloti vuttoti tassa kiriyā atthato cutikkhandhānaṃ bhedappattiyeva. ‘‘Cuti cavanatā’’tiādinā pubbe vohāramissakena niddiṭṭhaṃ.

「名詞の語尾(-ka)の力によって」とは、kaの文字によって語を増大させて説かれたのであり、それゆえに「逝くこと(cavanaṃ)が死(cuti)」と説かれたことになる。しかしそれは一蘊・四蘊・五蘊の生存における死を無差別に取ることであるとして「一・四・五蘊の共通の表現である」と述べられた。あるいは「逝く者の力によって」とは、逝く人物の力によって、という意味である。逝くことそのものが「逝去性」であるとして「状態の表現によって」と述べられた。「相の例示」とは、寿命の尽きと呼ばれる相の例示である。あるいは逝く者の様相が「状態」を表す語によって「逝去性」と説かれた。壊れることが「破滅」であるとして「死の諸蘊の破壊の生起を明示すること」と述べられた。あたかも壊れた瓶がいかなる方法によっても完全な瓶の状態として存続しないように、そのように壊れた諸蘊の死は消失と呼ばれるとして「消失とは……乃至……明示すること」と述べられた。「死神(マッチュ)」と呼ばれるものが破滅であり、また「死(マラナ)」とは生命の放棄であり、その両者を一つにして「死神・死」と説かれた。あるいはこのようにここでの意味が見られるべきである。「時(死神)をなすこと」と世間で言われるものは、逝去であり、死であるという意味である。あるいは逝去の時こそが超越できないものであるがゆえに格別に「時」と説かれたのであり、そのなすことは実質的には死の諸蘊の破滅の到達に他ならない。「逝去、逝去性」等によって以前に世俗の慣用を交えて説かれた。

Idāni nibbattitaparamatthanayeneva niddesoti dassetuṃ **‘‘paramatthena dīpetu’’**nti vuttaṃ. ‘‘Cavanakavasenā’’tiādinā hi puggalavasena ca vohārādhiṭṭhānā saṃvaṇṇanā katā. Na kiñci kaḷevaraṃ nikkhipaki opapātikānaṃ cutikkhandhānaṃ antaradhānamevahoti, tato paraṃ utusamuṭṭhānarūpasantati na pavattati. ‘‘Jātisamudayā’’tiādīsu yaṃ vattabbaṃ, taṃ ‘‘taṇhāsamudayā’’tiādīsu vuttanayaneva sakkā viññātunti na vuttaṃ.

今や確立された勝義の論理によってのみ解説することを示すために「勝義において明らかにするために」と述べられた。実に「逝く者の力によって」等によって、人物の力により、世俗に基づいた注釈がなされた。化生(の有情)は遺骸を一切残さず、死の諸蘊の消失そのものがあるのであり、それ以後に温度から生じる物質の連続は生起しない。「生の集起によって」等において説かれるべきことは、「渇愛の集起によって」等において説かれた論理によって知ることができるため、説かれなかった。

Jarāmaraṇavāravaṇṇanā niṭṭhitā.

老死節の注釈を終わる。

Jātivāravaṇṇanā

生節の注釈

93. Jāyanaṭṭhenātiādi āyatanavasena yonivasena ca dvīhi dvīhi padehi sabbasatte pariyādiyitvā jātiṃ dassetuṃ vuttaṃ. Sammohavinodaniyaṃ (vibha. aṭṭha. 191) pana ‘‘jāyamānakavasena jāti, sañjāyanavasena sañjātī’’ti vuttattā tattha ekekeneva padena sabbasatte pariyādiyitvā jātiṃ dassetīti daṭṭhabbaṃ. Sampuṇṇā jāti sañjātīti katvā **‘‘sā paripuṇṇāyatanavasena yuttā’’**ti vuttaṃ. Eteneva kevalaṃ jātisaddena vuttāya jātiyā aparipuṇṇāyatanatā daṭṭhabbā. Abhibyattā nibbatti abhinibbatti, pākaṭā nibbattīti attho. ‘‘Tesaṃ tesaṃ sattānaṃ…pe… abhinibbattī’’ti sattavasena pavattattā vohāradesanā.

93.「生まれるという意味で」等は、処の力によって、また胎生の力によって、二つずつの語によってすべての有情を包摂して生を示すために説かれた。しかし分別論注釈(191頁)においては「生まれる者の力によって生であり、生起する力によって生起である」と説かれたことから、そこでは一つ一つの語によってすべての有情を包摂して生を示していると見られるべきである。満ち足りた生が生起であるとして「それは充足した処の力によって妥当である」と述べられた。これによって、単なる生の語によって説かれた生には処が充足していない状態が見られるべきである。顕著な生成が現起であり、明らかな生成という意味である。「それらそれらの有情の……乃至……現起」とは、有情の力によって生起していることから世俗の説示である。

Tatra tatrāti ettha catuvokārabhave dvinnaṃ, ekavokārabhave dvinnaṃ, sesarūpadhātuyaṃ paṭisandhikkhaṇe uppajjamānānaṃ pañcannaṃ, kāmadhātuyaṃ vikalāvikalindriyavasena sattannaṃ navannaṃ dasannaṃ, puna dasannaṃ, ekādasannañca āyatanānaṃ vasena saṅgaho veditabbo. Yadipi cutikkhandhā anantarānaṃ paṭisandhikadhammānaṃ anantarādinā paccayā honti, ye pana samudayā ajanakā, te ettha upapattibhavoti adhippetā. Janako eva bhavoti adhippetoti dassento **‘‘jātiyā paccayabhūto kammabhavo veditabbo’’**ti āha.

「そこにおいて、そこにおいて」とは、ここで四蘊の生存における二つの、一蘊の生存における二つの、残りの色界における結生の瞬間に生じる五つの、欲界における不完全・完全な諸根の力による七つの、九つの、十の、さらに十の、十一の処の力による包摂が知られるべきである。たとえ死の諸蘊が直後の結生の諸法に対して無間縁などとなるとしても、集起でありながら生み出さないものは、ここでは受生有として意図されている。生み出すものこそが「有」として意図されていることを示して「生の縁となった業有が知られるべきである」と述べられた。

Jātivāravaṇṇanā niṭṭhitā.

生節の注釈を終わる。

Bhavavāravaṇṇanā

有節の注釈

94. Bhāvanabhavanaṭṭhena bhavo duvidho. Tattha kammabhavo ‘‘bhavati etasmā upapattibhavo’’ti bhāvanaṭṭhena bhavo. Aṭṭhakathāyaṃ pana upapattibhavaṃ ‘‘bhavatīti bhavo’’ti vatvā tassa kāraṇattā kammaṃ phalūpacārena bhavoti ayamattho vutto, ubhayatthāpi upapattibhavahetubhāvanettha kammassa kammabhavapariyāyoti dassitaṃ hoti. Sabbathāpīti bhāvanabhavanakusalākusalaupapattisampattibhavahīnapaṇītādinā sabbappakārenapi. Kāmabhavoti vuttaṃ kāmataṇhāhetukato kāmataṇhāya ārammaṇabhāvato ca. Rūpabhavūpagakammaṃ rūpabhavo, tathā arūpabhavūpagakammaṃ arūpabhavo, taṃtaṃnibbattakkhandhā rūpārūpupattibhavā, rūpārūpabhavabhāvo pana tesaṃ ‘‘kāmabhavo’’ti ettha vuttanayeneva veditabbo.

94.「生ぜしめることと生ずることという意味で有は二種である」。そこにおいて業有は「これより受生有が生じる」として生ぜしめるという意味で有である。しかし注釈書においては受生有を「生じるがゆえに有である」と述べて、その原因であることから業は結果の仮称によって有であるとこの意味が説かれた。双方においても受生有の原因となる性質こそが、ここにおいて業の業有という同義語であると示されたことになる。「あらゆる点でも」とは、生ぜしめること、生ずること、善、不善、受生、成就、生存、劣等、勝妙などによってあらゆる様態によっても。「欲有」と説かれたのは、欲愛を原因とすることから、また欲愛の対象であることによる。色界の生存に達する業が色有であり、同様に無色界の生存に達する業が無色有である。それらにおいて生じる諸蘊が色・無色界の受生有である。しかしそれらの色・無色有である性質は、「欲有」において説かれた論理によってまさに知られるべきである。

Bhavavāravaṇṇanā niṭṭhitā.

有節の注釈を終わる。

Upādānavāravaṇṇanā

執着節の注釈

95. Upādānanti catubbidhampi upādānaṃ. Yathā hi kāmassādavasena, bhavassādavasena vā taṃtaṃsugatibhavūpagaṃ kammaṃ karontassa kāmupādānaṃ, evaṃ ucchedādimicchābhinivesavasenāti cattāripi upādānāni yathārahaṃ tassa tassa kusalakammabhavassa upanissayavaseneva paccayā honti, akusalakammabhavassa asahajātassa anantarassa upanissayavasenapi ārammaṇavasenapi. Sahajātassa kāmupādānaṃ sahajāta-aññamañña-nissaya-sampayutta-atthi-avigata-hetu-vasena sattadhā, sesaupādānāni tattha hetupaccayabhāvaṃ pahāya maggapaccayaṃ pakkhipitvā sattadhāva paccayā honti. Anantarassa pana anantarasamanantaraanantarūpanissayanatthivigatāsevanavasena paccayā honti. Tassidampi sahajātādīti ādi-saddena saṅgahitanti daṭṭhabbaṃ. Vatthukāmaṃ upādiyati cittaṃ, puggalo vā etenāti attho. Tanti vatthukāmaṃ. Kāmetīti kāmo ca so upādiyatīti upādānañcāti yojanā. Vuttanayenāti abhidhamme vuttanayena.

95.「執着」とは四種の執着である。実に欲の甘味の力によって、あるいは生存の甘味の力によって、それらそれらの善趣の生存に達する業をなす者にとって欲執着があるように、このように断見などの邪悪な固執の力によって、四つの執着も相応してその時々の善の業有に対して近依縁の力によってのみ縁となる。非倶生の、直後の不善の業有に対しては近依縁の力によっても対象の力によっても縁となる。倶生の(不善の業有)に対しては、欲執着は倶生・相互・依止・相応・存在・非離去・因の力によって七種として、残りの執着はそこにおいて因縁の性質を除いて道縁を加えて七種としてまさに縁となる。しかし直後のものに対しては無間・等無間・無間近依・無・離去・親近の力によって縁となる。これに対するこれも倶生等であると、「等」という語によって包摂されると見られるべきである。対象としての欲望を、心あるいは人物がこれによって執着するという意味である。「それを」とは対象としての欲望を。「欲する」とは、欲望であり、またそれが執着されるとして執着であると結合される。「説かれた論理によって」とは、阿毘達磨において説かれた論理によって。

Sassato attāti idaṃ purimadiṭṭhiṃ upādiyamānaṃ uttaradiṭṭhiṃ nidassetuṃ vuttaṃ. Yathā esā diṭṭhi daḷhīkaraṇavasena purimaṃ purimaṃ uttarā uttarā upādiyati, evaṃ ‘‘natthi dinna’’ntiādikāpīti. Attaggahaṇaṃ pana attavādupādānanti nayidaṃ diṭṭhupādānadassananti daṭṭhabbaṃ. Loko cāti attaggahaṇavinimuttagahaṇaṃ diṭṭhupādānabhūtaṃ idha purimadiṭṭhiuttaradiṭṭhivacanehi vuttanti veditabbaṃ. Sabbadiṭṭhigatassa ‘‘diṭṭhupādāna’’nti etaṃ adhivacanaṃ ‘‘sabbāpi diṭṭhi diṭṭhupādāna’’nti vacanato.

「我は常住である」とは、これは以前の見解を執着して生じる以後の見解を例示するために説かれた。この見解が強固にすることの力によって次々と以前のものを以後のものが執着するように、「施されたものはない」等も同様である。しかし我の把持は我語執着であって、これは見執着の顕示ではないと見られるべきである。「世界もまた」とは、我の把持から離れた把持であり、見執着となったものがここで以前の見解・以後の見解という言葉によって説かれたと知られるべきである。すべての見解に陥ったものに対する「見執着」とはこの同義語であり、「すべての見解も見執着である」という言葉による。

Sīlabbataṃ upādiyantīti sīlabbataṃ ‘‘suddhimaggo’’ti upādiyanti. Etena micchābhinivesena. Sayaṃ vā taṃ micchābhinivesasahagataṃ. Sīlabbatasahacaraṇato sīlabbatañca taṃ daḷhaggāhabhāvato upādānañcāti sīlabbatupādānaṃ. Evaṃ suddhīti abhinivesatoti evaṃ gosīlagovatādicaraṇena saṃsārasuddhīti abhinivesabhāvato. Etena taṃ sahacaraṇato abhinivesassa taṃsaddārahataṃ dasseti.

「戒禁を執着する」とは、戒禁を「清浄への道である」として執着する。「この邪悪な固執によって」。あるいはそれ自身が邪悪な固執を伴う。「戒禁を実践することから戒禁であり、またそれが強固に捉える性質であることから執着である」として戒禁執着である。「このように清浄となるという固執によって」とは、このように牛の戒や牛の誓いなどの実践によって輪廻からの清浄があるという固執の性質があることによる。これによってそれに随伴することから、固執がその語に値することを示している。

Vadantīti ‘‘atthi me attā’’tiādinā voharanti. Etena diṭṭhigatena. Attavādamattamevāti attāti vācāmattameva. Etena vācāvatthumattametaṃ, yadidaṃ bāhirakaparikappito attāti dasseti.

「語る」とは、「私には我がある」等と言い習わす。「この見解に陥ったことによって」。「我という説にすぎない」とは、我とは言葉にすぎないということである。これによって、外道によって構想された我というものは、単なる言葉の対象にすぎないことを示している。

Taṇhā kāmupādānassāti ettha ‘‘tattha katamaṃ kāmupādānaṃ? Yo kāmesu kāmacchando kāmarāgo kāmanandī kāmataṇhā kāmasneho kāmapariḷāho kāmamucchā kāmajjhosānaṃ. Idaṃ vuccati kāmupādāna’’nti vacanato taṇhādaḷhattaṃ kāmupādānaṃ. Taṇhādaḷhattanti ca purimataṇhāupanissayapaccayato daḷhabhūtā uttarataṇhā eva. Keci panāhu –

「欲執着に対する渇愛」において、「そこにおいて、欲執着とは何か。諸欲における欲の意欲、欲の貪、欲の歓喜、欲の渇愛、欲の愛着、欲の熱苦、欲の眩惑、欲の固着である。これが欲執着と呼ばれる」(法集論)という言葉から、渇愛の強固さが欲執着である。そして渇愛の強固さとは、以前の渇愛を近依縁とすることから強固となった以後の渇愛に他ならない。しかしある人々はこう述べている――

‘‘Appattavisayapatthanā taṇhā andhakāre corassahatthappasāraṇaṃ viya, sampattavisayaggahaṇaṃ upādānaṃ tasseva bhaṇḍaggahaṇaṃ viyā’’ti. Appicchasantuṭṭhipaṭipakkhā ete dhammā pariyesanārakkhadukkhamūlāni, tasmā vuttalakkhaṇā taṇhā vuttalakkhaṇasseva upādānassa anānantarassa upanissayavasena paccayo, ārammaṇādivasenapi paccayo hotiyeva, anantarādīnaṃ pana anantarādivasena paccayo. Sabbassapi hi lobhassa taṇhāpariyāyopi kāmupādānapariyāyopi labbhatevāti. Avasesānanti diṭṭhupādānādīnaṃ. Sahajātādivasenāti sahajātānaṃ sahajātādivasena, asahajātānaṃ anantaraupanissayādivasenāti sabbaṃ heṭṭhā vuttanayeneva veditabbaṃ.

「未達の対象を求める渇愛は暗闇において盗賊が手を伸ばすようなものであり、到達した対象を捉える執着はその盗賊が財物を掴むようなものである」と。少欲知足に対立するこれらの法は、探索と保護の苦の根本である。それゆえに説かれた特徴を持つ渇愛は、説かれた特徴を持つ執着に対して、直後でないものには近依縁の力によって縁となり、対象などの力によっても実に縁となるが、直後のものなどに対しては無間縁などの力によって縁となる。実にすべての貪に対して渇愛という同義語も欲執着という同義語も得られるからである。「残りのものに対して」とは、見執着などに対して。「倶生等の力によって」とは、倶生のものには倶生等の力によって、非倶生のものには無間・近依等の力によってと、すべて下に説かれた論理によって知られるべきである。

Upādānavāravaṇṇanā niṭṭhitā.

執着節の注釈を終わる。

Taṇhāvāravaṇṇanā

渇愛節の注釈

96. ‘‘Cakkhusamphasso’’tiādi phassassa mātito nāmaṃ viya puttassa vatthuto tassa nissayabhāvena uppattihetuttā, ārammaṇaṃ pana kevalaṃ uppattihetūti vuttaṃ **‘‘seṭṭhi…pe… nāma’’**nti. Kāmarāgabhāvenāti vatthukāmassa rajjanavasena. Rūpaṃ assādentīti rupārammaṇaṃ taṇhābhinandanāvasena abhiramamānā eva assādentī. Niccantiādinā diṭṭhābhinandanāmukhena rūpaṃ abhiramantī. Pecca na bhavissatīti bhijjitvā na hoti puna anuppajjanato. Tathā saddakaṇhādayopīti yathā rūpataṇhā kāmarāgabhāvena sassatarāgavasena ucchedarāgavasenāti ca pavattiyā tisso taṇhā, tathā saddataṇhā gandharasaphoṭṭhabbadhammataṇhāpi. Taṇhāvicaritānīti taṇhāsamudācārā, samudācāravasena pavattataṇhāti attho.

96.「眼触」等は、触の母からの名のように息子の、根拠に基づきその依止となることによって生起の原因であるのに対し、対象は単なる生起の原因であるとして「長者の……乃至……名」と説かれた。「欲貪の性質によって」とは、対象としての欲望に染着する力によって。「色を享受する」とは、色の対象を渇愛の歓喜の力によって楽しみつつ享受する。「常住である」等によって、見解による歓喜の面から色を楽しむ。「死後には存在しないであろう」とは、壊れて以後は再び生じないことによって存在しない。「同様に声の渇愛なども」とは、色の渇愛が欲貪の性質によって、常住の貪の力によって、断滅の貪の力によって生起することによって三つの渇愛であるように、同様に声の渇愛、香・味・触・法の渇愛もそうである。「渇愛の遊戯」とは、渇愛の現行であり、現行の力によって生起した渇愛という意味である。

Ajjhattikassupādāyāti (vibha. aṭṭha. 973; saṃ. ni. ṭī. 2.2.2) ajjhattikaṃ khandhapañcakaṃ upādāya. Upayogatthe hi idaṃ sāmivacanaṃ. Asmīti hotīti yadetaṃ ajjhattaṃ khandhapañcakaṃ upādāya taṇhāmānadiṭṭhivasena samūhagāhato asmīti evaṃ hoti, tasmiṃ satīti attho. Itthasmīti hotīti khattiyādīsu ‘‘idaṃpakāro aha’’nti evaṃ taṇhāmānadiṭṭhivasena hotīti idamettha anupanidhāya gahaṇaṃ. Evamādināti ādi-saddena ‘‘evaṃsmīti, aññathāsmīti, bhavissanti, itthaṃ bhavissanti, evaṃ bhavissanti, aññathā bhavissanti, asasmīti, satasmīti, siyanti, itthaṃ siyanti, evaṃ siyanti, aññathā siyanti, apāhaṃ siyanti, apāhaṃ itthaṃ siyanti, apāhaṃ evaṃ siyanti, apāhaṃ aññathā siya’’nti (vibha. 973) imesaṃ taṇhāvicaritānaṃ gahaṇaṃ. Tattha evaṃsmīti idaṃ samato upanidhāya gahaṇaṃ, yathā ayaṃ khattiyo, yathā ayaṃ brāhmaṇo, evaṃ ahampīti attho. Aññathāsmīti idaṃ asamaṇo upanidhāya gahaṇaṃ, yathā ayaṃ khattiyo, yathā ayaṃ brāhmaṇo, tato aññathā ahaṃ hīno vā adhiko vāti attho. Iti imāni pubbe vuttāni dveti etāni paccuppannavasena cattāri taṇhāvicaritāni. Bhavissantiādīni pana cattāri anāgatavasena vuttāni. Tesaṃ purimacatukke vuttanayeneva attho veditabbo. Asasmīti asatīti asaṃ. Niccassetaṃ adhivacanaṃ, tasmā sassato asmīti attho. Satasmīti sīdatīti sataṃ. Aniccassetaṃ adhivacanaṃ, tasmā asassato asmīti attho. Iti imāni dve sassatucchedavasena vuttāni. Ito parāni siyantiādīni cattāri saṃsayaparivitakkavasena vuttāni, tāni purimacatukke vuttanayena atthato veditabbāni. Apāhaṃ siyantiādīni cattāri ‘‘api nāmāhaṃ bhaveyya’’nti evaṃ patthanākappanavasena vuttāni, tāni purimacatukke vuttanayeneva veditabbāni.

「内なるものに基づいて」(分別論注釈973頁、相応部注釈2.2.2)とは、内なる五蘊に基づいて。この所有格の語は対格の意味で用いられている。「我があるとなる」とは、この内なる五蘊に基づいて、渇愛・慢・見解の力によって集合として捉えることから「我がある」とこのように生じる、それが存在するときに、という意味である。「このように我があるとなる」とは、クシャトリヤ等において「このような様態の私である」とこのように渇愛・慢・見解の力によって生じるということであり、これはここにおいて比較せず捉えることである。「このように等によって」の「等」という語によって、「このように我がある、異なって我がある、将来あるであろう、このように将来あるであろう、このように将来あるであろう、異なって将来あるであろう、実在するものとして我がある、実在しないものとして我がある、存在するかもしれない、このように存在するかもしれない、このように存在するかもしれない、異なって存在するかもしれない、私が存在するかもしれない、私がこのように存在するかもしれない、私がこのように存在するかもしれない、私が異なって存在するかもしれない」(分別論973)というこれら渇愛の遊戯の把持である。そこにおいて「このように我がある」とは、これは同等として比較して捉えることであり、「あたかもこの者がクシャトリヤであるように、あたかもこの者がバラモンであるように、そのように私もである」という意味である。「異なって我がある」とは、これは不同等として比較して捉えることであり、「あたかもこの者がクシャトリヤであるように、あたかもこの者がバラモンであるように、それとは異なって私は劣っているか、あるいは優れているか」という意味である。このように以前に説かれた二つとこれらは、現在に関する四つの渇愛の遊戯である。「将来あるであろう」等の四つは未来に関するものとして説かれた。それらの意味は前の四つ組において説かれた論理によって知られるべきである。「実在するものとして我がある」とは、存在しないものがないことである。これは常住の同義語であり、それゆえに「常住として我がある」という意味である。「実在しないものとして我がある」とは、沈みゆくものである。これは無常の同義語であり、それゆえに「無常(非常住)として我がある」という意味である。このようにこれら二つは常見と断見の力によって説かれた。これより後の「存在するかもしれない」等の四つは疑念と推論の力によって説かれたものであり、それらは前の四つ組において説かれた論理によって意味を知られるべきである。「私が存在するかもしれない」等の四つは「願わくは私があらんことを」とこのように願望と構想の力によって説かれたものであり、それらは前の四つ組において説かれた論理によって知られるべきである。

Ettha ca sassatucchedavasena vuttā dve diṭṭhisīsā nāma, asmi, bhavissaṃ, siyaṃ, apāhaṃ siyanti ete pana cattāro suddhasīsā eva, ‘‘itthasmī’’tiādayo tayo tayoti dvādasa sīsamūlakā nāma. Evametāni dve diṭṭhisīsā, cattāro suddhasīsā, dvādasa sīsamūlakāti ajjhattikassupādāya aṭṭhārassa taṇhāvicaritāni veditabbāni.

そしてここにおいて、常見と断見の力によって説かれた二つは見解の首脳(見首)と呼ばれ、「我がある、将来あるであろう、存在するかもしれない、私が存在するかもしれない」というこれら四つは純粋な首脳(純首)であり、「このように我がある」等の三つずつは十二の首脳を根本とするもの(首根)と呼ばれる。このようにこれら二つの見首、四つの純首、十二の首根として、内なるものに基づいて十八の渇愛の遊戯が知られるべきである。

Bāhirassupādāyāti bāhiraṃ khandhapañcakaṃ upādāya. Idampi hi upayogatthe sāmivacanaṃ. Imināti iminā rupena vā…pe… viññāṇena vāti evaṃ rūpādīsu ekameva ‘‘aha’’nti, itaraṃ kiñcanapalibodhabhāvena gahetvā taṇhādivasena ‘‘asmī’’ti abhinivisati, ‘‘iminā’’ti ayamettha viseso. Asmīti iminā khaggena vā chattena vā abhisekena vā ‘‘khattiyohamasmī’’ti abhinivisati. Bāhirarūpādinissitānīti bāhirāni parasantatipariyāpannāni rūpavedanādīni nissitāni. Aṭṭhārasāti iminā ‘‘asmī’’tiādinayappavattāni aṭṭhārasa, tāni pubbe vuttanayeneva veditabbāni. ‘‘Iminā’’ti hi ayamevettha viseso, tasmā ‘‘dve diṭṭhisīsā’’tiādinā vuttanayeneva niddhāretvā veditabbā. Ubhayaṃ pana ekajjhaṃ katvā āha **‘‘chattiṃsā’’**ti.

「外なるものに基づいて」とは、外なる五蘊に基づいて。これもまた対格の意味での所有格の語である。「これによって」とは、この色によって、あるいは……乃至……識によってと、このように色等において一つのみを「我」とし、他のものを所有物・障害として捉えて、渇愛等によって「我がある」と固執する。「これによって」とはここでの差異である。「我がある」とは、この剣によって、あるいは天蓋によって、あるいは戴冠によって「私はクシャトリヤである」と固執する。「外なる色等に依存する」とは、外なる、他者の連続に属する色・受等に依存することである。「十八」とは、これによって「我がある」等の論理によって生起する十八であり、それらは前に説かれた論理によって知られるべきである。実に「これによって」というこれのみがここでの差異であり、それゆえに「二つの見首」等によって説かれた論理によって確定して知られるべきである。双方を一つにして「三十六」と述べられた。

Niddesatthenāti ‘‘chayime āvuso taṇhākāyā’’tiādiniddesapāḷiyā atthavacanena. Niddesavitthārāti tassa ca niddesassa aṭṭhasatataṇhāvicaritavasena vitthārena. Vitthārassa ca puna saṅgahatoti dvīhi ākārehi vitthāritassa aṭṭhārasataṇhāvicaritapabhedassa chaḷeva tissoyevāti ca puna saṅgahaṇato ca.

「解説の意味によって」とは、「友らよ、これら六つの渇愛の身がある」等の解説の聖典の語の意味によって。「解説の詳細によって」とは、その解説の百八の渇愛の遊戯の力による詳細によって。「詳細の再度の要約によって」とは、二つの様態によって詳細にされた十八の渇愛の遊戯の区分を、まさに六つ、まさに三つとして再度要約することによる。

Vipākavedanā adhippetā visesato attānaṃ assādetabbato. Tameva hissā assādetabbataṃ pakāsetuṃ **‘‘katha’’**ntiādi vuttaṃ. Assādanenāti abhiratiyā. Mamāyantāti dhanāyantā. Cittakārādīnanti ādi-saddena iṭṭhavaṇṇārammaṇadāyakānaṃ saṅgaho. Sippasandassanakādīnanti ādi-saddena vejjādīnaṃ saṅgaho. Vejjā hi rasāyatanojāvasena tadupatthambhitavasena ca dhammārammaṇassa dāyakā. Svāyaṃ ādi-saddo ‘‘vīṇāvādakādī’’tiādinā paccekañca yojetabbo, puttaṃ mamāyantāti puttaṃ sampiyāyantā. Putto viya cettha vedanā daṭṭhabbā, sappāyasappikhīrādīni viya vedanāya paccayabhūtāni iṭṭharūpādiārammaṇāni, dhāti viya rūpādichaḷārammaṇadāyakā cittakārādayo daṭṭhabbā.

自身を楽しませるべきものであることから、格別に異熟の感受作用(受)が意図されている。まさにその受の楽しませるべき性質を明らかにするために「どのように」等が説かれた。「楽しむことによって」とは、愛楽によって。「我がものとする者たちは」とは、財産として愛着する者たちは。「絵師等の」の「等」という語によって、望ましい色の対象を与える者たちの包摂である。「技術を示す者等の」の「等」という語によって、医者などの包摂である。実に医者らは味覚処の滋養分の力によって、またそれに支持された力によって法の対象を与える者たちである。この「等」という語は「琵琶奏者等」等によって個別に結合されるべきである。「息子を我がものとする」とは、息子を愛おしむことである。そしてここにおいて受は息子のようであると見られるべきであり、適合したギーや乳のように受の縁となった望ましい色などの対象、乳母のように色などの六つの対象を与える絵師たち等が見られるべきである。

Taṇhāvāravaṇṇanā niṭṭhitā.

渇愛節の注釈を終わる。

Vedanāvāravaṇṇanā

受節の注釈

97. Cakkhusamphassajā eva vedanā atītādibhedabhinnā rāsivasena ekajjhaṃ gahetvā eko vedanākāyo yathā vedanākkhandho, evaṃ sotasamphassajādikāti pāḷiyaṃ ‘‘chayime āvuso vedanākāyā’’ti vuttanti āha **‘‘vedanākāyāti vedanāsamūhā’’**ti. Cakkhusamphassato jātā cakkhusamphassajā vedanā. Sā pana upādinnāpi anupādinnāpi, tadubhayassapi saṅgaṇhantena atthavaṇṇanāya katattā āha **‘‘ayaṃ tāvettha sabbasaṅgāhikakathā’’**ti. Idāni ‘‘vipākavidhi aya’’nti upādinnayeva gaṇhanto **‘‘vipākavasenā’’**tiādimāha. Manodvāre manoviññāṇadhātusampayuttāti tadārammaṇamanoviññāṇadhātusampayuttā.

97.眼触から生じた受そのものが、過去などの区別に分かれた集積の力によって一つとして捉えられて一つの受身となるのは受蘊のようであり、同様に耳触から生じたもの等もそうであるとして、聖典において「友らよ、これら六つの受身がある」と説かれたことから「受身とは受の集まりである」と述べられた。眼触から生じたものが眼触生の受である。しかしそれは執受されたものでも執受されないものでもあり、その双方をも包摂して解説がなされたことから「これはまずここにおいてすべてを包摂する説示である」と述べられた。今や「これは異熟の規定である」として執受されたもののみを取って「異熟の力によって」等を述べられた。「意門において意識界と相応する」とは、彼所縁の意識界と相応する。

Avasesānanti sampaṭicchanādivedanānaṃ. Upanissayādīti ādi-saddena anantarādīnaṃ saṅgaho daṭṭhabbo. Anantarānañhi anantarādivasena, itaresaṃ upanissayavasena phasso paccayo hoti, manodvāre pana tadārammaṇavedanānaṃ manosamphasso upanissayavasena paccayo. Advārikānanti dvārarahitānaṃ. Na hi paṭisandhiādivedanānaṃ kiñci dvāraṃ atthi. Sahajātamanosamphassasamudayāti etenassa tāsaṃ sahajātakoṭiyā paccayabhāvamāha.

「残りのものに」とは、領受などの受に。「近依縁等」の「等」という語によって、無間縁などの包摂が見られるべきである。実に直後のものには無間縁などの力によって、それ以外のものには近依縁の力によって触は縁となり、意門においては彼所縁の受に対して意触は近依縁の力によって縁となる。「無門のものに」とは、門(感覚器官)のないものに。実に結生などの受にはいかなる門も存在しない。「倶生の意触の集起によって」とは、これによってそれのそれらの受に対する倶生の部類としての縁の性質を説いている。

Vedanāvāravaṇṇanā niṭṭhitā.

受節の注釈を終わる。

Phassavāravaṇṇanā

触節の注釈

98. Cakkhuṃ nissāya uppanno samphasso cakkhusamphasso. Pañcavatthukāti cakkhādipañcavatthukā cakkhādipañcavatthusannissayā. ‘‘Upādinnakakathā esā’’ti bāvīsatiggahaṇaṃ, pavattikathābhāvato lokiyaggahaṇaṃ. Vipākamanasampayuttaphassāti vipākamanoviññāṇasampayuttā phassā. Paccayuppannena viya paccayenapi upādinnakeneva bhavitabbanti **‘‘channaṃ cakkhādīnaṃ āyatanāna’’**nti vuttaṃ.

98.眼に依存して生じた触が眼触である。「五つの根拠を持つ」とは、眼などの五つの根拠を持ち、眼などの五つの根拠に依止することである。「これは執受されたものの説示である」として二十二の把持があり、転起の説示であることから世間的なものの把持がある。「異熟の心と相応する触」とは、異熟の意識と相応する諸々の触である。縁より生じたもののように縁によっても執受されたものに他ならないはずであるとして「六つの眼などの処の」と説かれた。

Phassavāravaṇṇanā niṭṭhitā.

触節の注釈を終わる。

Saḷāyatanavāravaṇṇanā

六処節の注釈

99. Nidassanamattañcetaṃ, tasmā yathā ettha arūpalokāpekkhāya chaṭṭhāyatanañca saḷāyatanañca saḷāyatananti ekaseso icchitabbo, evaṃ yesaṃ paccayuppanno upādinno, paccayo pana anupādinnotipi icchitabbo. Tesaṃ matena bāhirāyatanavasenapi ekaseso veditabbo ‘‘chaṭṭhāyatanañca saḷāyatanañca saḷāyatanañca saḷāyatana’’nti. Visuddhimaggopi imassa āgamassa atthasaṃvaṇṇanāti āha **‘‘visuddhimagge…pe… vuttanayamevā’’**ti. Esa nayo aññatthāpi visuddhimaggaggahaṇe.

99.これは例示にすぎない。それゆえにここで無色界を考慮して、第六の処と六処とで「六処」と単一残留(一余)が望まれるように、このように縁より生じたものが執受されたものであり、縁は執受されないものである者たちにとっても望まれるべきである。彼らの見解によれば外処の力によっても「第六の処と六処と六処とで六処である」と単一残留が知られるべきである。清浄道論もまたこの伝承(アーガマ)の意味の注釈であるとして「清浄道論において……乃至……説かれた論理そのもの」と述べられた。この論理は他の箇所における清浄道論の言及においても同様である。

Saḷāyatanavāravaṇṇanā niṭṭhitā.

六処節の注釈を終わる。

Nāmarūpavāravaṇṇanā

名色節の注釈

100. Namanalakkhaṇanti ārammaṇābhimukhaṃ namanasabhāvaṃ tena vinā apavattanato. Ruppanaṃ sītādivirodhipaccayasannipāte visadisuppatti. Ime pana tayotiādinā sabbacittuppādasādhāraṇavaseneva taṃsaṅkhārakkhandhaggahaṇaṃ, tasmā ye yattha asādhāraṇā, tepi atthato gahitāyevāti dasseti.

100.「傾くという相」とは、それなしには生起しないことから、対象に向かって傾く本性である。「変壊する」とは、冷たさなどの対立する縁が集まったときに異なる生起をすることである。「しかしこれら三つは」等によって、すべての心惹起に共通する力によってのみその行蘊を取ることであり、それゆえにどこにおいて不共通なものがあるとしても、それらも実質的には取られたものに他ならないことを示している。

Upādiyitvāti paccaye katvā. Paccayakaraṇameva hi paccayuppannassa paccayabhūtadhammānaṃ upādiyanaṃ. Samūhasambandhe sāmivacanaṃ etanti **‘‘samūhatthe etaṃ sāmivacana’’**nti vuttaṃ tena vinā sambandhassa abhāvato. Tenāti tasmā. Taṃ sabbampīti taṃ bhūtupādāyapabhedaṃ sabbampi sattavīsatividhaṃ. Yassa nāmassāti catuvokārabhave nāmassa. Viññāṇampi tappariyāpannameva veditabbaṃ. Rūpassāti ekavokārabhave rūpassa. Viññāṇaṃ pana pañcavokārabhave saṅkhāraviññāṇameva. Yassa pañcavokārabhave nāmarūpassa. Tassa vasenāti sahajātassa sahajātādivasena, anantarassa anantarādivasena, itarassa upanissayādivasena tassa nāmassa yathārahaṃ tassa tassa viññāṇassa paccayabhāvo veditabbo.

「執着して」とは、縁として。縁とすることこそが実に、縁より生じたものが縁となった諸法を執着することである。集合の関係においてこれは所有格の語であるとして「集合の意味においてこれは所有格の語である」と述べられた。それなしには関係が存在しないからである。「それによって」とは、それゆえに。「それらすべてをも」とは、四大種と所造色に区分される二十七種すべてを。「いかなる名に対しても」とは、四蘊の生存における名に対して。識もまたそれに属するものとして知られるべきである。「色に対して」とは、一蘊の生存における色に対して。識はしかし五蘊の生存における行識に他ならない。「いかなる五蘊の生存における名色に対して」。「その力によって」とは、倶生のものには倶生等の力によって、直後のものには無間等の力によって、それ以外のものには近依等の力によって、その名に対して相応してその時々の識の縁の性質が知られるべきである。

Nāmarūpavāravaṇṇanā niṭṭhitā.

名色節の注釈を終わる。

Viññāṇavāravaṇṇanā

識節の注釈

101. Tebhūmakavipākaggahaṇe kāraṇaṃ heṭṭhā vuttameva. Saṅkhāro yassa viññāṇassāti ettha aṭṭhavidhopi kāmāvacarapuññābhisaṅkhāro soḷasavidhassa kāmāvacaravipākaviññāṇassa, pañcavidhopi rūpāvacarapuññābhisaṅkhāro pañcavidhassa rūpāvacaravipākaviññāṇassa, dvādasavidhopi apuññābhisaṅkhāro sattavidhassa akusalavipākaviññāṇassa, catubbidhopi āneñjābhisaṅkāro catubbidhassa arūpāvacaravipākaviññāṇassa yathārahaṃ paṭisandhipavattīsu kammapaccayena ceva upanissayapaccayena ca paccayo hoti. Ayamettha saṅkhepo, vitthāro pana visuddhimagge (visuddhi. 2.620) vuttanayena veditabbo.

101.三界の異熟を取ることにおける理由は、下に説かれた通りである。「形成作用(行)がいかなる識に対して」において、八種の欲界の福行(福相応の形成作用)は十六種の欲界の異熟識に対して、五種の色界の福行は五種の色界の異熟識に対して、十二種の非福行は七種の不善異熟識に対して、四種の不動行は四種の無色界の異熟識に対して、相応して結生と転起において業縁によっても、また近依縁によっても縁となる。これがここでの要約であり、詳細は清浄道論(2.620)において説かれた論理によって知られるべきである。

Viññāṇavāravaṇṇanā niṭṭhitā.

識節の注釈を終わる。

Saṅkhāravāravaṇṇanā

形成作用(行)節の注釈

102. Abhisaṅkharaṇalakkhaṇoti abhisañcetayitasabhāvo, āyūhanalakkhaṇoti attho. Copanavasenāti kāyaviññattisaṅkhātacopanavasena. Tena pañcadvārikacetanā paṭikkhipati. Vacanabhedavasenāti vācānicchāraṇavasena. Vacīviññattisamuṭṭhāpanavasenāti attho. Yathāvuttā vīsati, nava mahaggatakusalacetanā cāti ekūnatiṃsa manosañcetanā. **‘‘Kusalānaṃ upanissayavasenā’’**ti vuttaṃ, ekaccānaṃ ārammaṇavasenapīti vattabbaṃ. Sahajātādivasenāti sahajāta-aññamañña-nissaya-sampayutta-atthi-avigatahetuvasena, anantarānaṃ anantarasamanantaraanantarūpanissayanatthivigatāsevanasena paccayo. Api-saddena upanissayaṃ saṅgaṇhāti.

102.「形成するという相」とは、思慮形成された本性であり、意図・集積するという相という意味である。「身の動作の力によって」とは、身表と呼ばれる動作の力によって。これによって五門の意思作用を除外する。「言葉の分別の力によって」とは、言葉を発する力によって。語表を生起させる力によって、という意味である。上述の二十と、九つの広大(色界・無色界)の善の意思作用で二十九の意思作用である。「善のものに対して近依縁の力によって」と説かれたが、あるものに対しては対象の力によってもと説かれるべきである。「倶生等の力によって」とは、倶生・相互・依止・相応・存在・非離去・因の力によって、直後のものには無間・等無間・無間近依・無・離去・親近の力によって縁となる。「も」という語によって近依縁を包摂する。

Saṅkhāravāravaṇṇanā niṭṭhitā.

形成作用(行)節の注釈を終わる。

Avijjāvāravaṇṇanā

無明節の注釈

103. **‘‘Dukkhasacceaññāṇa’’**nti saṅkhepato vuttamatthaṃ vivarituṃ **‘‘tatthā’’**tiādi āraddhaṃ. Tanti aññāṇaṃ. Satipi pahātabbatte pariññeyyattavasena antogadhaṃ. Dukkhasaccañcassāti vatthusaṅkhātaṃ sampayuttakhandhasaṅkhātañca dukkhasaccaṃ assa aññāṇassa. Taṃ hissa nissayapaccayo hoti. Tassāti dukkhasaccassa. Yāthāvalakkhaṇapaṭivedhanivāraṇenāti saṅkhataaviparītasabhāvapaṭivijjhanassa nivāraṇena. Etenassa pariññābhisamayasaṅkhātassa ariyamaggapaṭivedhassa vibandhakabhāvamāha. Ñāṇappavattiyāti ‘‘idaṃ dukkhaṃ, ettakaṃ dukkha’’nti anubujjhanākārāya pubbabhāgañāṇappavattiyā. Etthāti dukkhasacce. Appadānenāti avissajjanena. Etenassā anubodhañāṇassapi vibandhakatamāha.

103.「苦聖諦における無知」と簡潔に説かれた意味を解明するために「そこにおいて」等が始められた。「それを」とは無知を。断ぜられるべき性質があるとしても、遍知されるべき性質の力によって内包される。「苦聖諦がこれの」とは、根拠と呼ばれる、また相応する諸蘊と呼ばれる苦聖諦がこの無知の(根拠となる)。実にそれがこれの依止縁となるからである。「それの」とは苦聖諦の。「真実の相の通達を遮ることによって」とは、有為の転倒なき本性を貫通して知ることを遮ることによって。これによって、これの遍知の現観と呼ばれる聖道による通達に対する妨害の性質を述べている。「智慧の生起によって」とは、「これが苦である、これほどが苦である」と了解する様態の準備段階の智慧の生起によって。「ここにおいて」とは苦聖諦において。「与えないことによって」とは、解き放たないことによって。これによって、これの随覚知(了解の智慧)に対する妨害の性質をも述べている。

Tīhi kāraṇehi veditabbaṃ antogadhābhāvato. Idha sampayuttakhandhavaseneva vatthuto samudaye aññāṇaṃ daṭṭhabbaṃ. Ekenevāti itaraṃ kāraṇattayaṃ paṭikkhipati. Yadipi aññāṇaṃ nirodhamagge ārammaṇaṃ na karoti, kuto tadantogadhatabbatthutā, te pana jānitukāmassa tappaṭicchādanavasena anirodhamaggesu nirodhamaggaggāhahetutāvasena ca pavattamānaṃ **‘‘nirodhe paṭipadāyañca aññāṇa’’**nti vuccati. Tenāha **‘‘paṭicchādanato’’**tiādi. Tassattho vuttoyeva. Gambhīrattāti sabhāveneva gambhīrattā. Agādhaapatiṭṭhābhāvena taṃvisayassa ñāṇassa uppādetuṃ asakkuṇeyyattā duddasaṃ. Purimaṃ pana saccadvayaṃ. Vañcanīyaṭṭhenāti vañcakabhāvena ayāthāvabhāvena upaṭṭhānato duddasattā gambhīraṃ, na sabhāvato, tasmā taṃvisayaṃ aññāṇaṃ uppajjati. Tatthāti tasmiṃ purimasaccadvaye aniccādisabhāvalakkhaṇassa duddasattā eva niccādivipallāsavasena pavattati aññāṇanti ānetvā sambandhitabbaṃ.

内包されないことによって三つの理由によって知られるべきである。ここで相応する諸蘊の力によってのみ、根拠に基づいて集起における無知が見られるべきである。「一つのみによって」とは、他の三つの理由を否定する。たとえ無知が滅と道において対象としないとしても、どうしてそれらが内包されることやその根拠となることがあろうか。しかしそれらを知りたいと願う者に対してそれを隠蔽することの力によって、また非滅・非道において滅・道であると捉える原因となることの力によって生起しているものが「滅と道における無知」と呼ばれる。それゆえに「隠蔽することから」等と述べられた。その意味は説かれた通りである。「深遠であることから」とは、本性そのものによって深遠であることから。底がなく依拠がないことによってその対象の智慧を生じさせることができないがゆえに見難い。しかし前の二つの聖諦は。「欺瞞的であるという意味で」とは、欺く性質によって、真実でない状態として現前することから見難いことによって深遠なのであり、本性からではない。それゆえにそれを対象とする無知が生じる。「そこにおいて」とは、その前の二つの聖諦において、無常などの本性の相が見難いことによってまさに常住などの転倒の力によって無知が生じる、と引いて結合されるべきである。

Idāni niddesavibhāgenapi avijjāya saccesu pavattivibhāgaṃ dassetuṃ **‘‘apicā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha dukkheti ettakena bhummaniddesena. Saṅgahatoti pariññeyyatāya dukkhena saṅgahetabbato. Tena niddhāraṇatthaṃ dasseti. Dukkhasmiñhi avijjā niddhārīyati, na aññasmiṃ. Vatthutoti ādhāratthaṃ. Dukkhasannissayā hi avijjā. Ārammaṇatoti visayatthaṃ taṃ ārabbha pavattanato. Kiccatoti byāpanatthaṃ chādanavasena taṃ byāpetvā pavattanato. Iminā nayena sesesupi attho veditabbo. Avisesatoti visesābhāvato, vuttanayena dukkhādīsu pavattiākāravisesaṃ aggahetvāti attho. Sabhāvatoti sarasalakkhaṇato. Catunnampi saccānaṃ ajānanasabhāvā hi avijjā. Kāmarāgabhavarāgā kāmāsavabhavāsavāti āha **‘‘sahajātādivasenā’’**ti. Nanu avijjā eva avijjāsavo, so kathaṃ avijjāya paccayoti āha **‘‘pubbuppannā’’**tiādi.

今や解説の分類によっても聖諦における無明の生起の分類を示すために「さらに」等が説かれた。そこにおいて「苦において」というこれだけの処格(第七格)の解説によって。「包摂から」とは、遍知されるべき性質によって苦によって包摂されるべきであることから。これによって限定の意味を示している。実に苦において無明は限定されるのであり、他においてではない。「根拠から」とは支持(依止)の意味である。実に無明は苦に依止している。「対象から」とは対象領域の意味であり、それを対象として生起することによる。「機能から」とは遍満の意味であり、覆うことによってそれを遍満して生起することによる。この論理によって残りのものにおいても意味が知られるべきである。「無差別から」とは差異がないことから、説かれた論理によって苦などにおいて生起の様態の差異を取らないことによって、という意味である。「自性から」とは自らの固有の相から。実に無明は四つの聖諦を知らない自性である。「欲貪と有貪が欲漏と有漏である」として「倶生等の力によって」と述べられた。無明そのものが無明漏ではないのか、それがいかにして無明の縁となるのか、として「以前に生じた」等と述べられた。

Avijjāvāravaṇṇanā niṭṭhitā.

無明節の注釈を終わる。

Āsavavāravaṇṇanā

漏節の注釈

104. Āsavavāre āsava-saddattho āsavavicāro ca heṭṭhā vuttoyeva. Kasmā panāyaṃ vāro vutto, nanu avijjādikāva paṭiccasamuppādadesanāti codanaṃ sandhāya **‘‘ayaṃ vāro’’**tiādi āraddhaṃ. Paṭiccasamuppādapadesūti paṭiccasamuppādakoṭṭhāsesu. Dvādasakoṭṭhāsā hi satthu paṭiccasamuppādadesanā. Tassāpi paccayadassanavasenāti nāyaṃ kāpilānaṃ mūlapakati viya appaccayā, atha kho sappaccayāti avijjāyapi paccayadassanavasena. Āsavasamudayenāti atītabhave āsavānaṃ samudayena etarahi avijjāya samudayo, etarahi avijjāya samudayena anāgate āsavasamudayoti evaṃ āsavāvijjānaṃ paccayapaccayuppannakabhāvena aparāparaṃ pavattamānaṃ ādikoṭiabhāveneva tannimittassa saṃsārassa ādikoṭiabhāvato anamataggatāsiddhi veditabbā.

104.漏節において漏という語の意味と漏の考察は下に説かれた通りである。しかしなぜこの節が説かれたのか、実に無明から始まるものこそが縁起の説示ではないのか、という詰問を指して「この節は」等が始められた。「縁起の句において」とは、縁起の諸区分において。実に師の縁起の説示は十二の区分である。「これに対しても縁を示す力によって」とは、これは数論派の根本原質(プラクリティ)のように無縁なのではなく、実に有縁であるとして、無明に対しても縁を示す力による。「漏の集起によって」とは、過去世における諸漏の集起によって現在において無明の集起があり、現在における無明の集起によって未来において諸漏の集起がある、とこのように諸漏と無明の縁と縁生法としての性質によって次々と生起していることは、最初の極限(始点)が存在しないことによってまさにそれを標識とする輪廻の最初の極限が存在しないことから、無始性の成立が知られるべきである。

Dvattiṃsa ṭhānānīti dvattiṃsa saccappaṭivedhakāraṇāni, dvattiṃsa vā catusaccakammaṭṭhānāni. Imamhā sammādiṭṭhisuttāti yāya ariyasāvako sammādiṭṭhi nāma hoti, sā ariyā sammādiṭṭhi ettha vuttāti sammādiṭṭhisuttaṃ, ito sammādiṭṭhisuttato.

「三十二の箇所」とは、三十二の聖諦の通達の原因であり、あるいは三十二の四聖諦の業処である。「この正見経から」とは、それによって聖弟子が正見と呼ばれる、その聖なる正見がここで説かれていることから正見経であり、この正見経からである。

Catusaccapariyāyehīti catusaccādhigamakāraṇehi. Arahattapariyāyehīti ‘‘so sabbaso rāgānusayaṃ pahāyā’’tiādinā arahattādhigamakāraṇehi. Tenāha **‘‘catusaṭṭhiyā kāraṇehī’’**ti.

「四聖諦の様態によって」とは、四聖諦の証得の原因によって。「阿羅漢果の様態によって」とは、「その者は完全に貪の随眠を断じて」等による阿羅漢果の証得の原因によって。それゆえに「六十四の原因によって」と述べられた。

Āsavavāravaṇṇanā niṭṭhitā.

漏節の注釈を終わる。

Sammādiṭṭhisuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

正見経注釈の顕幽論を完了する。

10. Satipaṭṭhānasuttavaṇṇanā

10. 念処経の注釈

105. Jānapadinoti (dī. ni. ṭī. 2.95) janapadavanto, janapadassa vā issarā rājakumārā. Gottavasena kurū nāma. Tesaṃ nivāso yadi eko janapado, kathaṃ bahuvacananti āha **‘‘ruḷhīsaddenā’’**ti. Akkharacintakā hi īdisesu ṭhānesu yutte viya saliṅgavacanāni (pāṇini 1.251) icchanti, ayamettha ruḷhī yathā aññatthāpi ‘‘aṅgesu viharati, mallesu viharatī’’ti ca. Tabbisesane pana janapada-sadde jāti-sadde ekavacanameva. Aṭṭhakathācariyā panāti pana-saddo visesatthajotano. Tena puthuatthavisayatāya evaṃ taṃ bahuvacananti ‘‘bahuke panā’’tiādinā vakkhamānaṃ visesaṃ dīpeti. Sutvāti mandhātumahārājassa ānubhāvadassanānusārena paramparāgataṃ kathaṃ sutvā. Anusaṃyāyantenāti anuvicarantena. Etesaṃ ṭhānanti candimasūriyamukhena cātumahārājikabhavanamāha. Tenāha **‘‘tattha agamāsī’’**tiādi. Soti mandhātumahārājā. Tanti cātumahārājikarajjaṃ. Gahetvāti sampaṭicchitvā. Puna pucchi pariṇāyakaratanaṃ. Dovārikabhūmiyaṃ tiṭṭhanti sudhammāya devasabhāya devapurassa ca catūsu dvāresu ārakkhāya adhikatattā. Dibbarukkhasahassapaṭimaṇḍitanti idaṃ ‘‘cittalatāvana’’ntiādīsupi yojetabbaṃ.

105.「地方の住人たち」(長部注釈2.95)とは、地方を持つ人々、あるいは地方の主である王族たち。氏族の力によってクルと呼ばれる。彼らの住処がもし一つの地方であるなら、どうして複数形なのかとして「慣用語によって」と述べられた。実に文法学者らはこのような箇所において結合された通りの自らの性・数(パーニニ1.251)を望むのであり、これがここでの慣用である。あたかも他の箇所においても「アンガ国(複数)に住する、マッラ国(複数)に住する」というように。しかしその修飾語である「地方」という語、「種族」という語においては単数形のみである。「しかし注釈書諸師は」の「しかし」という語は、格別の意味を示す。それによって多くの意味の対象であることからこのように複数形であるとして「しかし多くを」等によって語られるべき差異を明らかにしている。「聞いて」とは、マンダータル大王の威光の顕示に従って伝統として伝わった話を聞いて。「巡行しつつ」とは、巡り歩きつつ。「これらの場所」とは、月と太陽を筆頭とする四大王衆天の宮殿を指している。それゆえに「そこへ行った」等と述べられた。「彼」とはマンダータル大王。「それを」とは四大王衆天の王権を。「受けて」とは、引き受けて。再び宰相宝に尋ねた。スダンマー神堂と神々の都の四つの門における護衛を任されていることから、門番の地に立っている。「千の天木で飾られた」とは、これは「多彩樹林」等においても結合されるべきである。

Pathaviyaṃ patiṭṭhāsīti bhassitvā pathaviyā āsanne ṭhāne aṭṭhāsi, ṭhatvā ca nacirasseva antaradhāyi tenattabhāvena rañño cakkavattissariyassa abhāvato. ‘‘Cirataraṃ kālaṃ ṭhatvā’’ti apare. Devabhāvo pāturahosi devaloke pavattivipākadāyino aparāpariyāyavedanīyassa kammassa katokāsattā. Avayave siddho viseso samudāyassa visesako hotīti ekampi raṭṭhaṃ bahuvacanena voharīyati.

「地上に留まった」とは、墜落して地上の近くの場所に留まり、留まってまもなく消失した。その肉体によって王の転輪聖王の主権が存在しないことによる。「より長い時間留まって」と他の者たちは言う。天界において転起の異熟を与える後後受業が機会を得たことから、天の身(天人としての状態)が現れた。部分において成立した差異が全体を差別化するものとなるとして、一つの国土であっても複数形で言い習わされる。

Da-kārena atthaṃ vaṇṇayanti niruttinayena. Kammāsoti kammāsapādo vuccati uttarapadalopena yathā ‘‘rūpabhavo rūpa’’nti. Kathaṃ pana so kammāsapādoti āha **‘‘tassa kirā’’**tiādi. Damitoti ettha kīdisaṃ damanaṃ adhippetanti āha **‘‘porisādabhāvato paṭisedhito’’**ti. Ime pana therāti majjhimabhāṇake vadati, te pana cūḷakammāsadammaṃ sandhāya tathā vadanti. Yakkhiniputto hi kammāsapādo alīnasattukumārakāle bodhisattena tattha damito, sutasomakāle pana bārāṇasirājā porisādabhāvapaṭisedhanena yattha damito, taṃ mahākammāsadammaṃ nāma. Puttoti vatvā atrajoti vacanaṃ orasaputtabhāvadassanatthaṃ.

daの文字によって語源の論理に従って意味を解説する。「カンマーサ」とは、「色有が色」であるように後続の語の脱落によってカンマーサパーダ(斑足王)と呼ばれる。しかしなぜ彼は斑足王なのかとして「彼について、実に」等と述べられた。「調伏された」において、ここではいかなる調伏が意図されているのかとして「人食いの状態から制止された」と述べられた。「しかしこれら長老たちは」とは中部誦者を指しており、彼らはしかし小カンマーサダンマを指してそのように述べている。実に夜叉の女の息子であるカンマーサパーダは、アリーナサットゥ王子の時代に菩薩によってそこにおいて調伏されたのであり、スーソーマの時代にバラナシの王が人食いの状態を制止されることによって調伏された場所、それが大カンマーサダンマと呼ばれる。「息子」と述べておきながら「自ら生んだ者」という言葉は、実子の状態を示すためである。

Yehi āvasitapadeso kururaṭṭhanti nāmaṃ labhi, te uttarakuruto āgatā manussā tattha rakkhitaniyāmeneva pañca sīlāni rakkhiṃsu, tesaṃ diṭṭhānugatiyā pacchimā janatāti, so desadhammavasena avicchedato vattamāno kuruvattadhammoti paññāyittha, ayañca attho kurudhammajātakena (jā. 1.3.76-78) dīpetabbo. So aparabhāge yattha paṭhamaṃ saṃkiliṭṭho jāto, taṃ dassetuṃ **‘‘kururaṭṭhavāsīna’’**ntiādi vuttaṃ. Yattha bhagavato vasanokāso koci vihāro na hoti, tattha kevalaṃ gocaragāmakittanaṃ nidānakathāya pakati, yathā taṃsakkesu viharati devadahaṃ nāma sakkānaṃ nigamoti imamatthaṃ dassento **‘‘avasanokāsato’’**tiādimāha.

彼らによって居住された地域がクル国という名を得たが、それら北クルから来た人間たちは、そこにおいて守られていた規定の通りに五戒を守り、彼らの見解に従って後世の人々もそうであったため、その地方の風習の力によって途切れることなく実践されているものが「クルの実践の法」として知られた。そしてこの意味はクルダルマ・ジャータカ(ジャータカ1.3.76-78)によって明らかにされるべきである。それが後の時代にどこで最初に汚染されたものとなったか、それを示すために「クル国の住民たちの」等が説かれた。世尊の滞在場所となるいかなる精舎もないところでは、単に托鉢の村を挙げるのが序説の通例であり、あたかも「釈迦族の中に住し、デーヴァダハという釈迦族の町がある」というように。この意味を示して「滞在場所のないことから」等を述べられた。

Uddesavārakathāvaṇṇanā

総説節の解説の注釈

106. Kasmā bhagavā imaṃ suttamabhāsīti asādhāraṇasamuṭṭhānaṃ pucchati, sādhāraṇaṃ pana pākaṭanti anāmaṭṭhaṃ, tena suttanikkhepo pucchitoti katvā itaro **‘‘kururaṭṭhavāsīna’’**ntiādinā aparajjhāsayoyaṃ suttanikkhepoti dasseti. Etena bāhirasamuṭṭhānaṃ vibhāvitanti daṭṭhabbaṃ. Ajjhattikaṃ pana asādhāraṇañca mūlapariyāyasuttādiṭīkāyaṃ vuttanayeneva veditabbaṃ. Kururaṭṭhaṃ kira (dī. ni. ṭī. 2.373) tadā tannivāsīnaṃ sattānaṃ yebhuyyena yonisomanasikāravantatāya pubbe ca katapuññatābalena utuādisampannameva ahosi. Tena vuttaṃ **‘‘utupaccayādisampannattā’’**ti. Ādi-saddena bhojanādisampattiṃ saṅgaṇhāti. Keci pana ‘‘pubbe kuruvattadhammānuṭṭhānavāsanāya uttarakuru viya yebhuyyena utuādisampannameva hontaṃ bhagavato kāle sātisayaṃ utusappāyādiyuttaṃ taṃ raṭṭhaṃ ahosī’’ti vadanti. Cittasarīrakallatāyāti cittassa sarīrassa ca arogatāya. Anuggahitapaññābalāti laddhupakārañāṇānubhāvā, anu anu vā āciṇṇapaññātejā. Ekavīsatiyā ṭhānesūti kāyānupassanāvasena cuddasasuṭhānesu, vedanānupassanāvasena ekasmiṃ ṭhāne, tathā cittānupassanāvasena, dhammānupassanāvasena pañcasu ṭhānesūti evaṃ ekavīsatiyā ṭhānesu. Kammaṭṭhānaṃ arahatte pakkhipitvāti catusaccakammaṭṭhānaṃ yathā arahattaṃ pāpeti, evaṃ desanāvasena arahatte pakkhipitvā. Suvaṇṇacaṅkoṭakasuvaṇṇamañjūsāsu pakkhittāni sumanacampakādinānāpupphāni maṇiputtādisattaratanāni ca yathā bhājanasampattiyā savisesaṃ sobhanti, kiccakarāni ca honti manuññābhāvato, evaṃ sīladassanādisampattiyā bhājanavisesabhūtāya kururaṭṭhavāsiparisāya desitā ca bhagavato ayaṃ desanā bhiyyosomattāya sobhati, kiccakārī ca hotīti imamatthaṃ dasseti **‘‘yathā hi puriso’’**tiādinā. Etthāti kururaṭṭhe.

106. 「世尊はなぜこの経を説かれたのか」と不共通の機縁について問うている。一方、共通の機縁は明白であるため言及されない。それゆえ、経の説示の動機が問われていると理解して、他方(注釈者)は「クル国の住民たちへの」などと述べて、他者の志向に応じたこの経の説示であることを示す。これにより、外的な機縁が明らかにされたと知るべきである。しかし、内的な機縁および不共通の機縁については、『根本法門経』などの複注で説かれた通則に従って知るべきである。クル国は(長部複注2.373)、当時その住民である有情たちの多くが如理作意を備えており、過去になされた福徳の力によって、気候などに極めて恵まれていたという。それゆえ「気候などの条件に恵まれていたため」と言われた。「など」という語によって、食事などの充実も包含される。しかしある人々は「過去のクル国の掟を実践した習気によって、北倶盧洲のように多くが気候などに恵まれており、世尊の時代には格別に気候が適し有益であった国である」と述べる。「心と身体が健やかであることによって」とは、心と身体の無病・健全さによってのことである。「助けられた智慧の力を有する」とは、得られた智慧の威力を有すること、または継続して修習された鋭い智慧を有することである。「二十一の箇所において」とは、身随観によって十四の箇所、受随観によって一の箇所、同様に心随観によって一の箇所、法随観によって五の箇所において、このように二十一の箇所においてである。「業処を阿羅漢果に到達させて」とは、四聖諦の業処が阿羅漢果に至らせるように、説示の力によって阿羅漢果に帰入させてということである。黄金の小箱や黄金の宝石箱に入れられたジャスミンやチャンパカなどの様々な花や、宝珠などの七宝が、器の素晴らしさによって格別に美しく輝き、心地よいものであるがゆえに役目を果たすように、戒や正見などの徳性を備えた特別な器であるクル国の住民の会衆に対して説かれた、世尊のこの説示は一段と美しく輝き、大きな利益をもたらすのであるというこの意味を、「あたかも人が」などによって示している。「ここに」とは、クル国においてである。

Pakatiyāti sarasato, imissā satipaṭṭhānasuttadesanāya pubbepīti adhippāyo. Anuyuttā viharanti satthu desanānusāratoti adhippāyo. Vissaṭṭhaattabhāvanāti aniccādivasena kismiñci yonisomanasikāre cittaṃ aniyojetvā rūpādiārammaṇe abhirativasena vissaṭṭhacittena bhavituṃ na vaṭṭati, pamādavihāraṃ pahāya appamattena bhavitabbanti adhippāyo.

「本来」とは、自らの本性から、この念処経の説示の前からでも、という意味である。「実践してとどまる」とは、師の説示に従って、という意味である。「放埒な身体状態を」とは、無常などの観点でいかなる如理作意にも心を向けず、色などの対象への歓喜によって放埒な心であることはふさわしくなく、放逸な生活を捨てて不放逸であるべきである、という意味である。

Ekāyanoti ettha ayana-saddo maggapariyāyo. Na kevalamayanameva, atha kho aññepi bahū maggapariyāyāti paduddhāraṃ karonto **‘‘maggassa hī’’**tiādi vatvā yadi maggapariyāyo ayana-saddo, kasmā puna maggoti vuttanti codanaṃ sandhāyāha **‘‘tasmā’’**tiādi. Tattha ekamaggoti eko eva maggo. Na hi nibbānagāmī maggo añño atthīti. Nanu satipaṭṭhānaṃ idha ‘‘maggo’’ti adhippetaṃ, tadaññe ca bahū maggadhammā atthīti? Saccaṃ atthi, te pana satipaṭṭhānaggahaṇeneva gahitā tadavinābhāvato. Tathā hi ñāṇavīriyādayo niddese gahitā. Uddese pana satiyā eva gahaṇaṃ veneyyajjhāsayavasenāti daṭṭhabbaṃ. Na dvedhāpathabhūtoti iminā imassa maggassa anekamaggatābhāvaṃ viya anibbānagāmibhāvābhāvañca dasseti. Ekenāti asahāyena. Asahāyatā ca duvidhā attadutiyatābhāvena vā, yā ‘‘vūpakaṭṭhakāyatā’’ti vuccati, taṇhādutiyatābhāvena vā, yā ‘‘pavivittacittatā’’ti vuccati. Tenāha **‘‘vūpakaṭṭhena pavivittacittenā’’**ti. Seṭṭhopi loke ‘‘eko’’ti vuccati ‘‘yāva pare ekato karosī’’tiādīsūti āha **‘‘ekassāti seṭṭhassā’’**ti. Yadi saṃsārato nissaraṇaṭṭho ayanaṭṭho aññesampi upanissayasampannānaṃ sādhāraṇo kathaṃ bhagavatoti āha **‘‘kiñcāpī’’**tiādi. Imasmiṃ khoti ettha kho-saddo avadhāraṇe, tasmā imasmiṃ yevāti attho. Desanābhedoyeva heso, yadidaṃ maggoti vā ayanoti vā. Tenāha **‘‘attho paneko’’**ti.

「一乗道(エカーヤナ)」のここにおいて、「アヤナ(進む道)」という語は道の同義語である。単にアヤナだけでなく、他にも多くの道の同義語があるという語義の解明を行って、「道の」などと述べた。「もしアヤナという語が道の同義語であるなら、なぜ再び『道(マッガ)』と言われたのか」という疑問に対して、「それゆえに」などと言った。そこにおいて「一筋の道」とは、唯一の道のことである。涅槃に至る道は他に存在しないからである。「ここで『道』と意図されているのは念処であり、それ以外の多くの道支の法が存在するのではないか」と言うかもしれない。確かに存在するが、それらは念処の把握によって把握されている。念処と不可分だからである。事実、知恵や精進などは詳細な解説(分別)において把握されている。しかし総括(経文の提示)において念(気づき)のみが把握されているのは、化導される者の志向に応じたものであると知るべきである。「二股の道ではない」とは、この道が複数の道ではないこと、また涅槃に至らない道ではないことを示す。「一者によって」とは、伴侶なき者によってである。伴侶なきことには二種あり、自己を第二の伴侶としないこと、すなわち「遠離した身体」と呼ばれるものか、渇愛を第二の伴侶としないこと、すなわち「遠離した心」と呼ばれるものである。それゆえ「遠離し、離脱した心によって」と言われた。世間でも優れた者は「唯一の人」と呼ばれ、「彼らは唯一の存在となす」などの用例があるため、「一者とは、最勝なる者への」と言われた。もし輪廻からの解脱の意味、進むという意味が、資質を備えた他の者たちにも共通であるならば、どうして世尊独自のものと言えるのか、という疑問に対して、「たとえ〜であっても」などと言った。「この」の箇所において、「コー」という語は限定の意味である。したがって「まさにこの」という意味である。道と言い、あるいはアヤナと言うのは、説示の表現の違いにすぎない。それゆえ「しかし意味は一つである」と言われた。

Nānāmukhabhāvanānayappavattoti kāyānupassanādimukhena tatthāpi ānāpānādimukhena bhāvanānayena pavatto. Ekāyananti ekagāminaṃ, nibbānagāminanti attho. Nibbānañhi adutiyattā seṭṭhattā ca ‘‘eka’’nti vuccati. Yathāha ‘‘ekañhi saccaṃ na dutīyamatthī’’ti (su. ni. 890) ‘‘yāvatā, bhikkhave, dhammā saṅkhatā vā asaṅkhatā vā, virāgo tesaṃ aggamakkhāyatī’’ti (a. ni. 4.34; itivu. 90) ca. Khayo eva antoti khayanto, jātiyā khayantaṃ diṭṭhavāti jātikhayantadassī. Avibhāgena sabbepi satte hitena anukampatīti hitānukampī. Atariṃsūti tariṃsu. Pubbeti purimakā buddhā, pubbe vā atītakāle.

「多様な観点からの修習の軌道として説かれた」とは、身随観などの観点から、さらにそこでも出入息などの観点から、修習の方法として説かれたものである。「一乗(エカーヤナ)」とは、一処へと赴くもの、すなわち涅槃へと赴くものという意味である。涅槃は無二であり最勝であることから「一」と呼ばれるからである。それは「実に真理は一つであり、第二の真理は存在しない」(スッタニパータ890)、「比丘たちよ、有為であれ無為であれ、諸法が存在する限り、離貪がそれらの中で最上であると説かれる」(増支部4.34、如是語90)と説かれている通りである。「尽きることこそが終わりである」とは、尽き終えること、生の尽きる終極を見た者ゆえに「生の終極を見る者」である。分け隔てなくすべての有情を利益をもって憐れむゆえに「利益を憐れむ者」である。「渡った」とは、超克したことである。「かつて」とは、過去の仏たち、あるいは過去の時代においてである。

Tanti taṃ tesaṃ vacanaṃ, taṃ vā kiriyāvuttivācakattaṃ na yujjati. Na hi saṅkheyyappadhānatāya sattavācino eka-saddassa kiriyāvuttivācakatā atthi. ‘‘Sakimpi uddhaṃ gaccheyyā’’tiādīsu (a. ni. 7.72) viya ‘‘sakiṃ ayano’’ti iminā byañjanena bhavitabbaṃ. Evaṃ atthaṃ yojetvāti evaṃ padatthaṃ yojetvā. Ubhayathāpīti purimanayena pacchimanayena ca. Na yujjati idhādhippetamaggassa anekavāraṃ pavattisabbhāvato. Tenāha **‘‘kasmā’’**tiādi. Anekavārampi ayatīti purimanayassa, anekañcassa ayanaṃ hotīti pacchimanayassa ca paṭikkhepo.

「それを」とは、彼らのその言葉、あるいはそれが動作の反復を表す言葉であると解釈することは妥当ではない。数えられるものを本質とする有情を表す「エカ」という語には、動作の反復を表す意味はないからである。「一度だけでも上へと赴くであろう」(増支部7.72)などのように、「一度の歩み(サキン・アヤナ)」という表現であるべきである。「このように意味を結合して」とは、このように語の意味を結合してということである。「両者においても」とは、前者の解釈においても後者の解釈においてもということである。ここで意図されている道には、何度も生起することが実際に存在するがゆえに妥当ではない。それゆえ「なぜなら」などと言われた。「何度も赴く」とは前者の解釈への否定であり、「彼の歩みは多数となる」とは後者の解釈への否定である。

Imasmiṃ padeti ‘‘ekāyano ayaṃ bhikkhave maggo’’ti imasmiṃ vākye, imasmiṃ vā ‘‘pubbabhāgamaggo lokuttaramaggo’’ti saṃsayaṭṭhāne. Missakamaggoti lokiyena missako lokuttaramaggo. Visuddhiādīnaṃ nippariyāyahetuṃ saṅgaṇhanto ācariyatthero ‘‘missakamaggo’’ti āha, itaro pariyāyahetu idhādhippetoti **‘‘pubbabhāgamaggo’’**ti.

「この句において」とは、「比丘たちよ、この道は一乗道である」というこの文において、あるいは「前行の道か出世間の道か」という疑念の箇所においてである。「混在せる道」とは、世間と混ざり合った出世間の道である。清浄などの直接的な原因を包含する立場の長老論師は「混在せる道」と述べ、他方の論師はここでは間接的な原因が意図されているとして「前行の道」と述べた。

Saddaṃ sutvāvāti ‘‘kālo, bhante, dhammassavanāyā’’ti kālārocanasaddaṃ sutvā. Evaṃ ukkhipitvāti. Evaṃ ‘‘madhuraṃ imaṃ kuhiṃ chaḍḍemā’’ti achaḍḍentā ucchubhāraṃ viya paggahetvā na vicaranti. Āluḷetīti viluḷito ākulo hotīti attho. Ekāyanamaggo vuccati pubbabhāgasatipaṭṭhānamaggoti. Ettāvatā idhādhippetatthe siddhe tasseva alaṅkāratthaṃ so pana yassa pubbabhāgamaggo, taṃ dassetuṃ **‘‘maggānaṭṭhaṅgiko’’**tiādikā gāthāpi paṭisambhidāmaggatova ānetvā ṭhapitā.

「声を聞くやいなや」とは、「尊者よ、法を聞く時です」という時を告げる声を聞いて、ということである。「このように放擲して」とは、このように「この甘いものをどこに捨てようか」と捨てられずにサトウキビの束を抱え持つようには歩き回らない。「かき乱す」とは、乱されて混乱するという意味である。「一乗道とは、前行の四念処の道であると言われる」。これによってここで意図された意味が確立されたとき、まさにそれを荘厳するため、それが何の前行の道であるかを示すために、『無礙解道』から「諸道の中の八支聖道」などの詩偈を引用して置いたのである。

Nibbānagamanaṭṭhenāti nibbānaṃ gacchati adhigacchati etenāti nibbānagamanaṃ, so eva aviparītasabhāvatāya attho, tena nibbānagamanaṭṭhena, nibbānādhigamupāyatāyāti attho. Magganīyaṭṭhenāti gavesitabbatāya, **‘‘gamanīyaṭṭhenā’’**ti vā pāṭho, upagantabbattāti attho. Rāgādīhīti. Iminā rāgadosamohānaṃyeva gahaṇaṃ ‘‘rāgo malaṃ, doso malaṃ, moho mala’’nti (vibha. 924) vacanato. ‘‘Abhijjhāvisamalobhādīhī’’ti pana iminā sabbesampi upakkilesānaṃ saṅgaṇhanatthaṃ te visuṃ uddhaṭā. Sattānaṃ visuddhiyāti vuttassa atthassa ekantikataṃ dassento **‘‘tathā hī’’**tiādimāha. Kāmaṃ ‘‘visuddhiyā’’ti sāmaññajotanā, cittavisuddhi eva panettha adhippetāti dassetuṃ **‘‘rūpamalavasena panā’’**tiādi vuttaṃ. Na kevalaṃ aṭṭhakathāvacanameva, atha kho idamettha āhaccabhāsitanti dassento **‘‘tathā hī’’**tiādimāha.

「涅槃へと赴く意味によって」とは、これによって涅槃へ行き、到達するから涅槃へと赴くことであり、それこそが顛倒なき本質であるゆえに意味であり、それゆえ涅槃へと赴く意味によって、涅槃を体証する手だてであることによって、という意味である。「探求されるべき意味によって」とは、探求されるべきことによってである。あるいは「赴かれるべき意味によって」という異読もあり、赴かれるべきことによってという意味である。「貪などの」とは、これによって貪・瞋・痴のみが把握される。「貪は汚れであり、瞋は汚れであり、痴は汚れである」(分別論924)という教説による。「貪欲や不正な貪りなどの」という表現は、すべての随煩悩を包含するためにそれらを個別に挙げたものである。「有情たちの清浄のために」と説かれた意味の確実性を示すために、「事実その通り」などと述べた。確かに「清浄のために」とは一般的な表現であるが、ここでは心の清浄こそが意図されていることを示すために、「身体の汚れの観点からは」などと述べられた。単に注釈の言葉であるだけでなく、これこそが経文に直接説かれたことであると示すために、「事実その通り」などと述べた。

Sā panāyaṃ cittavisuddhi sijjhamānā yasmā sokādīnaṃ anuppādāya saṃvattati, tasmā vuttaṃ **‘‘sokaparidevānaṃ samatikkamāyā’’**tiādi. Tattha socanaṃ ñātibyasanādinimittaṃ cetaso santāpo antonijjhānaṃ soko. Ñātibyasanādinimittameva sokādhikatāya ‘‘kahaṃ, ekaputtaka, kahaṃ, ekaputtakā’’ti paridevavasena lapanaṃ paridevo, āyatiṃ anuppajjanaṃ idha samatikkamoti āha **‘‘pahānāyā’’**ti. Taṃ panassa samatikkamāvahataṃ nidassanavasena dassento **‘‘ayaṃ hī’’**tiādimāha.

ところで、この心の清浄は、成就されるとき憂いなどを生じさせないことに資するがゆえに、「憂いと悲嘆を超克するために」などと言われた。そこにおいて「憂い」とは、親族の不幸などを原因とする心の苦悩、内なる焦燥である「憂(ソーカ)」である。まさに親族の不幸などを原因として、憂いが過剰になることによって「ああ、我が一人息子よ、どこへ行ったのか」などと悲嘆して泣き叫ぶことが「悲嘆(パリデーヴァ)」である。将来に生じないことがここでの「超克」であるとして「断滅のために」と言った。そして、それが超克をもたらすものであることを実例によって示すために、「実にこの」などと述べた。

Tattha yaṃ pubbe taṃ visodhehīti atītesu khandhesu taṇhāsaṃkilesavisodhanaṃ vuttaṃ. Pacchāti parato. Teti tuyhaṃ. Māhūti mā ahu. Kiñcananti rāgādikiñcanaṃ. Etena anāgatesu khandhesu saṃkilesavisodhanaṃ vuttaṃ. Majjheti tadubhayavemajjhe. No ce gahessasīti na upādiyissasi ce. Etena paccuppanne khandhapabandhe upādānappavatti vuttā. Upasanto carissasīti evaṃ addhattayagatasaṃkilesavisodhane sati nibbutasabbapariḷāhatāya upasanto hutvā viharissasīti arahattanikūṭena gāthaṃ niṭṭhapesi. Tenāha **‘‘imaṃ gātha’’**ntiādi.

そこにおいて「過去のそれを清めよ」とは、過去の諸蘊における渇愛の汚れの清浄を説いている。「後に」とは、以後に。「汝に」とは、汝にとって。「生じるなかれ」とは、生じないようにせよ。「何ものも」とは、貪などの障害となるもの。これによって未来の諸蘊における汚れの清浄を説いている。「中間に」とは、その両者の中間に。「もし汝が執着しないならば」とは、もし取着しないならば。これによって現在の諸蘊の連続における取(執着)の生起について説いている。「静まりて歩むであろう」とは、このように三世にわたる汚れの清浄があるとき、すべての熱苦が寂静となるがゆえに静まって生きるであろう、と阿羅漢果を頂点として詩偈を結んだ。それゆえ「この詩偈を」などと言った。

Puttāti orasā, aññepi vā ye keci. Pitāti janako. Bandhavāti ñātakā. Ayañhettha attho – puttā vā pitā vā bandhavā vā antakena maccunā adhipannassa abhibhūtassa maraṇato tāṇāya na honti, tasmā natthi ñātīsu tāṇatāti. Na hi ñātīnaṃ vasena maraṇato ārakkhā atthi, tasmā paṭācāre ‘‘ubho puttā kālakatā’’tiādinā (apa. therī 2.2.498) mā niratthakaṃ paridevi, dhammaṃyeva pana yāthāvato passāti adhippāyo.

「子ら」とは、実の子たち、あるいは他のいかなる子らであっても。「父」とは、生みの親。「親族」とは、親類たち。ここでの意味はこうである――子らも、父も、親族たちも、終焉をもたらす死神に圧倒され打ち負かされた者を死から護るものとはならない。それゆえ親族の中に救いはない。親族の力によって死から保護されることはない。それゆえパターチャーラーよ、「二人の子は死んだ」などと(長老尼譬喩2.2.498)無益に悲嘆するな、ただ法をありのままに見よ、というのが意図である。

Sotāpattiphale patiṭṭhitāti yathānulomaṃ pavattitāya sāmukkaṃsikāya dhammadesanāya pariyosāne sahassanayapaṭimaṇḍite sotāpattiphale patiṭṭhahi. Kathaṃ panāyaṃ satipaṭṭhānamaggavasena sotāpattiphale patiṭṭhāsīti āha **‘‘yasmā panā’’**tiādi. Na hi catusaccakammaṭṭhānakathāya vinā sāvakānaṃ ariyamaggādhigamo atthi. **‘‘Imaṃ gāthaṃ sutvā’’**ti pana idaṃ sokavinodanavasena pavattitāya gāthāya paṭhamaṃ sutattā vuttaṃ. Esa nayo itaragāthāyapi. Bhāvanāti paññābhāvanā. Sā hi idhādhippetā. Tasmāti yasmā rūpādīnaṃ aniccādito anupassanāpi satipaṭṭhānabhāvanā, tasmā. Tepīti santatimahāmattapaṭācārā.

「預流果に確立した」とは、順次に説かれた最勝の仏法説示の終わりに、千の観点で飾られた預流果に確立した。「では、どのようにしてこの者は念処の道によって預流果に確立したのか」と問うて、「しかしながら〜ゆえに」などと言った。四聖諦の業処の説示なしには、弟子たちが出世間の聖道に到達することはないからである。「この詩偈を聞いて」とは、憂いを払うために説かれた詩偈を最初に聞いたことによって言われた。この方法は他の詩偈においても同様である。「修習」とは、智慧の修習である。実にそれがここで意図されているからである。「それゆえ」とは、色などの無常などへの随観もまた念処の修習であるから、それゆえにである。「彼らも」とは、サンタティ大巨臣やパターチャーラーのことである。

Pañcasate coreti satasatacoraparivāre pañca core paṭipāṭiyā pesesi. Te araññaṃ pavisitvā theraṃ pariyesantā anukkamena therassa samīpe samāgacchiṃsu. Tenāha **‘‘te gantvā theraṃ parivāretvā nisīdiṃsū’’**ti. Vedanaṃ vikkhambhetvā pītipāmojjaṃ uppajjīti sambandho. Therassa hi sīlaṃ paccavekkhato suparisuddhaṃ sīlaṃ nissāya uḷāraṃ pītipāmojjaṃ uppajjamānaṃ ūruṭṭhibhedajanitaṃ dukkhavedanaṃ vikkhambhesi. Pādānīti pāde. Saññapessāmīti saññattiṃ karissāmi. Aḍḍiyāmīti jigucchāmi. Harāyāmīti lajjāmi. Vipassisanti sammasiṃ.

「五百人の盗賊を」とは、百人ずつの盗賊を従えた五組の盗賊を順次に派遣した。彼らは森に入り、長老を捜し求めて次第に長老の近くに集まった。それゆえ「彼らは行き、長老を取り囲んで座った」と言われた。「苦痛を制圧して、歓喜が生じた」というのが文のつながりである。長老が戒を省察するや、完全に清浄な戒を依りどころとして生じた広大な歓喜が、大腿骨の骨折から生じる激しい苦痛を制圧した。「両足を」とは、足を。「納得させよう」とは、理解させよう。「嫌悪する」とは、忌み嫌う。「恥じ入る」とは、恥ずかしく思う。「洞察した」とは、正しく観察した。

Pacalāyantānanti pacalāyanaṃ niddaṃ upagatānaṃ. Vatasampannoti dhutacaraṇasampanno. Pamādanti pacalāyanaṃ sandhāyāha. Oruddhamānasoti uparuddhaadhicitto. Pañjarasminti sarīre. Sarīrañhi nhārusambandhaaṭṭhisaṅghātatāya idha ‘‘pañjara’’nti vuttaṃ.

「居眠りしている者たちの」とは、うとうとと眠りに落ちた者たちの。「誓戒を具備した者」とは、頭陀行の実践を具足した者。「放逸を」とは、居眠りを指して言った。「心を制御した者」とは、増上心をしっかりと保った者。「檻の中に」とは、身体の中に。身体は筋腱で結ばれた骨の集まりであることから、ここでは「檻」と言われた。

Pītavaṇṇāya paṭākāya pariharaṇato mallayuddhacittakatāya ca pītamallo. Tīsu rajjesūti paṇḍucoḷagoḷarajjesu. Mallā sīhaḷadīpe sakkārasammānaṃ labhantīti tambapaṇṇidīpaṃ āgamma. Taṃyeva aṅkusaṃ katvāti ‘‘rūpādayo ‘mamā’ti na gahetabbā’’ti na tumhākavaggena (saṃ. ni. 3.33-34) pakāsitamatthaṃ attano cittamattahatthino aṅkusaṃ katvā. Jaṇṇukehi caṅkamati ‘‘nisinne niddāya avasaro hotī’’ti. Byākaritvāti attano vīriyārambhassa saphalatāpavedanamukhena sabrahmacārīnaṃ ussāhaṃ janento aññaṃ byākaritvā. Bhāsitanti vacanaṃ. Kassa pana tanti āha ‘‘buddhaseṭṭhassa, **sabbalokaggavādino’’**ti. Na tumhākantiādi tassa pavattiākāradassanaṃ. Tayidaṃ me saṅkhārānaṃ accantavūpasamakāraṇanti dassento **‘‘aniccā vatā’’**ti gāthaṃ āhari. Tena idānāhaṃ saṅkhārānaṃ khaṇe khaṇe bhaṅgasaṅkhātassa rogassa abhāvena arogo parinibbutoti dasseti.

黄色の旗を掲げていたことと、拳闘(武術)に巧みであったことから「ピー夕マッラ(黄色い拳闘士)」と呼ばれる。「三つの王国において」とは、パーンディヤ、チョーラ、ゴーラの諸国において。「拳闘士たちがセイロン島で敬意と待遇を得ている」と聞いて、タムバパンニ島(セイロン島)にやって来た。「まさにそれを鉤(制御具)として」とは、「色などは『我がもの』と把握すべきではない」と『汝らのものにあらざる品』(相応部3.33-34)で明らかにされた意味を、自らの心という暴走する象に対する鉤として。「膝をついて経行する」のは、「座ると眠気の隙が生じる」と考えたからである。「明言して」とは、自らの精進の開始が結実したことを告げることによって同修の比丘たちの熱意を生じさせつつ、究極の境地を明言して。「語られた」とは、言葉のことである。「では、それは誰の言葉か」と問い、「最勝の仏、全世界において最上の説者の」と言った。「汝らのものにあらざる」などは、その生起のあり方を示すものである。「これこそが私にとって諸行の究極の寂静の原因である」と示すために、「諸行は無常なり」という詩偈を引用した。これによって、「今や私は、諸行の刹那ごとの崩壊という病の不在によって、無病であり、完全に煩悩の火が消え去った」ということを示している。

Assāti sakkassa. Upapattīti devūpapatti. Punapākatikāva ahosi sakkabhāveneva upapannattā. Subrahmāti evaṃ nāmo. Accharānaṃ nirayūpapattiṃ disvā tato pabhuti satataṃ pavattamānaṃ attano cittutrāsaṃ sandhāyāha **‘‘niccaṃ utrastamidaṃ citta’’**ntiādi. Tattha utrastanti santastaṃ bhītaṃ. Ubbigganti saṃviggaṃ. Utrastanti vā saṃviggaṃ. Ubbigganti bhayavasena saha kāyena sañcalitaṃ. Anuppannesūti anāgatesu. Kicchesūti dukkhesu. Nimittatthe bhummavacanaṃ, bhāvīdukkhapavattinimittanti attho. Uppatitesūti uppannesu kicchesūti yojanā, tadā attano parivārassa uppannadukkhanimittanti adhippāyo.

「彼の」とは、帝釈天の。「生」とは、神としての生。帝釈天としての状態そのものとして生まれたため、再び元通りになった。「スブラフマー」とは、その神の名である。天女たちが地獄に落ちるのを見て、それ以来絶え間なく生じている自らの心の恐怖を指して、「常にこの心は怯え」などと言った。そこにおいて「怯え」とは、恐れ戦くこと。「動揺し」とは、強い衝撃を受けること。あるいは「怯え」とは衝撃を受けることであり、「動揺し」とは恐怖によって身体とともに震えることである。「未だ生じていないことにおいて」とは、未来のことにおいて。「困難において」とは、苦しみにおいて。処格は原因の意味であり、将来に苦痛が生起する原因において、という意味である。「降りかかったことにおいて」とは、生じた困難においてと結合され、当時に自らの従者たちに生じた苦痛の原因において、という意味である。

Bojjhāti bodhito, ariyamaggatoti attho. Aññatrāti ca padaṃ apekkhitvā nissakkavacanaṃ, tasmā bodhiṃ ṭhapetvāti attho. Esa nayo sesesupi. Tapasāti tapokammato. Tena maggādhigamassa upāyabhūtaṃ dhutaṅgasevanādisallekhapaṭipadaṃ dasseti. Indriyasaṃvarāti manacchaṭṭhānaṃ indriyānaṃ saṃvaraṇato. Etena satisaṃvarasīsena sabbampi saṃvarasīlaṃ, lakkhaṇahāranayena vā sabbampi catupārisuddhisīlaṃ dasseti. Sabbanissaggāti sabbupadhinissajjanato sabbakilesappahānato. Kilesesu hi nissaṭṭhesu kammavaṭṭaṃ vipākavaṭṭañca nissaṭṭhameva hotīti. Sotthinti khemaṃ anupaddavataṃ.

「覚り(ボージャ)」とは、覚りから、すなわち聖道からという意味である。「〜を除いて(アンニャトラ)」という語を考慮して奪格となっており、それゆえ「覚りを除いて」という意味である。この解釈は他の語においても同様である。「苦行によって」とは、熱誠なる行いによって。これによって聖道の獲得の手だてとなる頭陀行の実践などの削減の行道を示す。「根の制御によって」とは、意を第六とする諸感覚器官の制御によって。これによって、正念による制御を中心とするすべての制御戒を、あるいは特徴の抽出方法(引導法)によって四種清浄戒のすべてを示す。「一切の放擲によって」とは、すべての執着(依処)の放棄によって、すべての煩悩の断滅によって。煩悩が放擲されるとき、業の輪転と異熟の輪転もまた放擲されるからである。「平安」とは、安全であり障害なき状態である。

Ñāyati nicchayena kamati nibbānaṃ, taṃ vā ñāyati paṭivijjhīyati etenāti ñāyo, ariyamaggoti āha **‘‘ñāyo vuccati ariyo aṭṭhaṅgiko maggo’’**ti. Taṇhāvānavirahitattāti taṇhāsaṅkhātavānavivittattā. Taṇhā hi khandhehi khandhaṃ, kammunā vā phalaṃ, sattehi vā dukkhaṃ vinati saṃsibbatīti vānanti vuccati. Tayidaṃ natthi ettha vānaṃ, na vā etasmiṃ adhigate puggalassa vānanti nibbānaṃ, asaṅkhatā dhātu. Parapaccayena vinā paccakkhakaraṇaṃ sacchikiriyāti āha **‘‘attapaccakkhatāyā’’**ti.

「知られる、決定して涅槃へと進む、あるいはこれによって涅槃が知られ、体証されるがゆえに正道(ニャーヤ)である。それは八支聖道である」として、「正道とは八支聖道と呼ばれる」と言われた。「渇愛の網を離れていることから」とは、渇愛という網から離脱していることからである。渇愛は諸蘊から諸蘊を、あるいは業から果報を、あるいは有情から苦しみを織り交ぜて結びつけるがゆえに「網(ヴァーナ)」と呼ばれる。この網がここには存在せず、あるいはこれに到達した人に網が存在しないがゆえに涅槃であり、無為の要素である。他者の力によらず直接に現前させることが現証であるとして、「自ら直接体験することによって」と言われた。

Nanu ‘‘visuddhiyā’’ti cittavisuddhiyā adhippetattā visuddhiggahaṇenevettha sokasamatikkamādayopi gahitā eva honti, te puna kasmā gahitāti anuyogaṃ sandhāya **‘‘tattha kiñcāpī’’**tiādi vuttaṃ. Sāsanayuttikovideti saccapaṭiccasamuppādādilakkhaṇāyaṃ dhammanītiyaṃ cheke. Taṃ taṃ atthaṃ ñāpetīti ye ye bodhaneyyapuggalā saṅkhepavitthārādivasena yathā yathā bodhetabbā, attano desanāvilāsena bhagavā te te tathā tathā bodhento taṃ tamatthaṃ ñāpeti. Taṃ taṃ pākaṭaṃ katvā dassentoti atthāpattiṃ agaṇento taṃ taṃ atthaṃ pākaṭaṃ katvā dassento. Na hi sammāsambuddhā atthāpattiñāpakādisādhanīyavacanāti. Saṃvattatīti jāyati, hotīti attho. Yasmā anatikkantasokaparidevassa na kadāci cittavisuddhi atthi sokaparidevasamatikkamamukheneva cittavisuddhiyā ijjhanato, tasmā āha **‘‘sokaparidevānaṃ samatikkamena hotī’’**ti. Yasmā pana domanassapaccayehi dukkhadhammehi puṭṭhaṃ puthujjanaṃ sokādayo abhibhavanti, pariññātesu ca tesu te na honti, tasmā vuttaṃ **‘‘sokaparidevānaṃ samatikkamo dukkhadomanassānaṃ atthaṅgamenā’’**ti. Ñāyassāti aggamaggassa tatiyamaggassa ca. Tadadhigamena hi yathākkamaṃ dukkhadomanassānaṃ atthaṅgamo. Sacchikiriyābhisamayasahabhāvīpi itarābhisamayo tadavinābhāvato sacchikiriyābhisamayahetuko viya vutto **‘‘ñāyassādhigamo nibbānassa sacchikiriyāyā’’**ti. Phalañāṇena vā paccakkhakaraṇaṃ sandhāya vuttaṃ **‘‘nibbānassa sacchikiriyāyā’’**ti. Sampadānavacanañcetaṃ daṭṭhabbaṃ.

「『清浄のために』と心の清浄が意図されているのであるから、清浄という把握によってすでに憂いの超克なども把握されているはずであり、なぜそれらが再び挙げられているのか」という問いを考慮して、「そこにおいてたとえ〜であっても」などと言われた。「教えの道理に熟達した者」とは、四聖諦や縁起などの特徴をもつ法の理法に巧みな者である。「その時々の意味を知らせる」とは、教化されるべき人々が簡潔や詳細などに応じてどのように覚醒されるべきかに従い、自らの巧みな説示によって、世尊は彼らをそのように覚醒させつつ、その時々の意味を知らせる。「それを明白に示しながら」とは、当然の意味であることに甘んじることなく、その時々の意味を明白に示しながらということである。実に正等覚者たちは、当然の意味として推論させるような言葉を用いないからである。「資する」とは、生じる、成立するという意味である。憂いや悲嘆を超克していない者には、決して心の清浄は存在せず、憂いと悲嘆の超克を通じてのみ心の清浄は成就するがゆえに、「憂いと悲嘆の超克によって生じる」と言われた。しかし、不快の原因となる苦痛の法に触れられた凡夫を憂いなどが圧倒し、それらが遍知されたときには生じないがゆえに、「憂いと悲嘆の超克は、苦しみと不快の消滅による」と言われた。「正道の」とは、最上の道(阿羅漢道)と第三の道(不還道)のことである。それらの獲得によって、順次に苦しみと不快の消滅があるからである。現証の現観と同時に生じる他の現観も、それと不可分であるがゆえに現証の現観を原因とするかのように、「正道の獲得は、涅槃の現証のために」と説かれた。あるいは果智による直接体験を指して「涅槃の現証のために」と説かれた。これは為格の言葉であると知るべきである。

Vaṇṇabhaṇananti pasaṃsāvacanaṃ. Tayidaṃ na idheva, atha kho aññatthāpi satthā akāsiyevāti dassento **‘‘yatheva hī’’**tiādimāha. Tatthaādimhi kalyāṇaṃ, ādi vā kalyāṇaṃ etassāti ādikalyāṇaṃ. Sesapadadvayepi eseva nayo. Atthasampattiyā sātthaṃ. Byañjanasampattiyā sabyañjanaṃ. Sīlādipañcadhammakkhandhapāripūrito upanetabbassa abhāvā ca kevalaparipuṇṇaṃ. Nirupakkilesato apanetabbassa abhāvā ca parisuddhaṃ. Seṭṭhacariyabhāvato sāsana brahmacariyaṃ maggabrahmacariyañca vo pakāsessāmīti ayamettha saṅkhepo, vitthāro pana visuddhimagge (visuddhi. 1.147) vuttanayena veditabbo. Ariyavaṃsāti ariyānaṃ buddhādīnaṃ vaṃsā paveṇiyo. Aggaññāti ‘‘aggā’’ti jānitabbā sabbavaṃsehi seṭṭhabhāvato. Rattaññāti ‘‘cirarattā’’ti jānitabbā. Vaṃsaññāti ‘‘buddhādīnaṃ vaṃsā’’ti jānitabbā. Porāṇāti purātanā anadhunātanattā. Asaṃkiṇṇāti avikiṇṇā anapanītā. Asaṃkiṇṇapubbāti ‘‘kiṃ imehī’’ti ariyehi na apanītapubbā. Na saṃkīyantīti idānipi tehi na apanīyanti. Na saṃkīyissantīti anāgatepi tehi na apanīyissanti. Appaṭikuṭṭhā…pe… viññūhīti ye loke viññū samaṇabrāhmaṇā, tehi apaccakkhatā aninditā, agarahitāti attho. Visuddhiyātiādīhīti visuddhiādidīpanehi. Padehīti vākyehi, visuddhiatthatādibhedabhinnehi vā dhammakoṭṭhāsehi.

「賞賛を述べる」とは、称賛の言葉である。これはここだけでなく、他の場所でも師はなされたことを示すために、「あたかも〜のように」などと言われた。そこにおいて、「初めにおいて善く、あるいは初めが善い」ゆえに初善である。残りの二句(中善・後善)においても同様である。意味が具足しているゆえに「義を具え」。表現が具足しているゆえに「文を具え」。戒などの五分法身を充満し、付け加えるべきものがないゆえに「完全に円満し」。随煩悩がないゆえに取り除くべきものがないゆえに「清浄なる」。最勝の行いであることから「教えの清浄行と聖道の清浄行を汝らに説くであろう」というのが、ここでの要約である。詳細は『清浄道論』(清浄道論1.147)で説かれた方法によって知るべきである。「聖者の家統」とは、仏などの聖者たちの家統・伝統である。「最上と知られるべき」とは、すべての家統の中で最勝であるがゆえに最上と知られるべきこと。「古来のものと知られるべき」とは、久しい昔からのものと知られるべきこと。「家統と知られるべき」とは、仏たちの家統と知られるべきこと。「古代の」とは、昔からのものであり今始まったものではないこと。「不混雑の」とは、乱されておらず、破棄されていないこと。「かつて破棄されたことのない」とは、「これらに何の意味があるのか」と聖者たちによってかつて破棄されたことがないこと。「今も破棄されない」とは、現在も彼らによって破棄されないこと。「将来も破棄されないであろう」とは、未来においても彼らによって破棄されないであろうこと。「非難されず……智者たちに」とは、世の智者である沙門・婆羅門たちによって拒絶されず、非難されず、咎められないという意味である。「清浄のためになどの」とは、清浄などを明らかにするものによって。「句によって」とは、文によって、あるいは清浄の意義などの区分によって分かれた法の部分によってである。

Upaddaveti anatthe. Visuddhinti visujjhanaṃ saṃkilesappahānaṃ. Vācuggatakaraṇaṃ uggaho. Pariyāpuṇanaṃ paricayo. Atthassa hadaye ṭhapanaṃ dhāraṇaṃ. Parivattanaṃ vācanaṃ. Gandhārakoti gandhāradese uppanno. Pahontīti sakkonti aniyyānamaggāti micchāmaggā, micchattaniyatāniyatamaggāpi vā. Suvaṇṇanti kūṭasuvaṇṇampi vuccati. Paṇīti kācamaṇipi. Muttāti veḷujāpi. Pavāḷanti pallavopi vuccatīti rattajambunadādipadehi te visesitā.

「災厄において」とは、不利益において。「清浄を」とは、清らかになること、汚れの断滅を。「口誦することは」把握すること。「習熟することは」親しむこと。「意味を心に留めることは」保持すること。「復習することは」読誦すること。「ガンダーラ産の」とは、ガンダーラ地方で産出した。「よく〜できる」とは、可能である。「出離ならざる道」とは、誤った道、あるいは邪性決定および不定の道である。「黄金」とは、偽りの黄金もそう呼ばれる。「宝珠」とは、ガラス玉も。「真珠」とは、竹から生じるものも。「珊瑚」とは、新芽もそう呼ばれる。それゆえ、赤金などの言葉によってそれらは特定されている。

Na tato heṭṭhāti (saṃ. ni. ṭī. 2.5.367; dī. ni. ṭī. 2.373) idhādhippetakāyādīnaṃ vedanādisabhāvattābhāvā, kāyavedanācittavimuttassa tebhūmakadhammassa visuṃ vipallāsavatthantarabhāvena gahitattā ca heṭṭhāgahaṇesu vipallāsavatthūnaṃ aniṭṭhānaṃ sandhāya vuttaṃ, pañcamassa pana vipallāsavatthuno abhāvā **‘‘na uddha’’**nti āha. Ārammaṇavibhāgena hettha satipaṭṭhānavibhāgoti. Tayo satipaṭṭhānāti satipaṭṭhānasaddassa atthuddhāradassanaṃ, na idha pāḷiyaṃ vuttassa satipaṭṭhānasaddassa atthadassananti. Ādīsu hi satigocaroti ettha ādi-saddena ‘‘phassasamudayā vedanānaṃ samudayo, nāmarūpasamudayā cittassa samudayo, manasikārasamudayā dhammānaṃ samudayo’’ti satipaṭṭhānāti vuttānaṃ satigocarānaṃ pakāsake suttapadese saṅgaṇhāti. Evaṃ paṭisambhidāpāḷiyampi (paṭi. ma. 3.34) avasesapāḷippadesadassanattho ādi-saddo daṭṭhabbo. Satiyā paṭṭhānanti satiyā patiṭṭhātabbaṭṭhānaṃ. Dānādīni satiyā karontassa rūpādīni kasiṇādīni ca satiyā ṭhānaṃ hontīti taṃnivāraṇatthamāha **‘‘padhānaṃ ṭhāna’’**nti. Pa-saddo hi idha ‘‘paṇītā dhammā’’tiādīsu (dha. sa. 14 tikamātikā) viya padhānatthadīpakoti adhippāyo.

「それより下ではない」(相応部複注2.5.367、長部複注2.373)とは、ここで意図されている身などは受などの本質を持たないため、身・受・心から離れた三界の法が別に顛倒の対象として把握されていることから、下位の把握において顛倒の対象が尽きていないことを指して言われた。しかし、第五の顛倒の対象は存在しないため「それより上ではない」と言われた。対象の区分によって念処の区分があるからである。「三つの念処」とは、念処という語の意味の抽出を示すものであり、ここのパーリ語で説かれた念処という語の意味を示すものではない。「〜などにおいて念の領域」の「など」という語によって、「接触の生起により受の生起があり、名色の生起により心の生起があり、作意の生起により法の生起がある」と念処と説かれた念の対象を明らかにする経文を包含している。このように『無礙解道』(無礙解道3.34)においても、残りのパーリ経文を示すための「など」という語であると知るべきである。「念の確立(念処)」とは、念が確立すべき場所である。施しなどを念をもって行う者にとって、色などや遍処などが念の場所となるが、それを除外するために「主要な場所」と言われた。ここでの「パ」という接頭辞は、「勝れた法」(法集論14、三法論母)などのように主要な意味を示すものであるという意図である。

Ariyoti ariyaṃ sabbasattaseṭṭhaṃ sammāsambuddhamāha. Etthāti etasmiṃ saḷāyatanavibhaṅgasutte (ma. ni. 3.311). Suttekadesena hi suttaṃ dasseti. Tattha hi –

「聖者」とは、一切の有情の中で最勝である正等覚者を指して言っている。「ここにおいて」とは、この『六処分別経』(中部3.311)においてである。経の一節によって経全体を示している。実にそこにおいて――

‘‘Tayo satipaṭṭhānā yadariyo…pe… marahatīti iti kho panetaṃ vuttaṃ, kiñcetaṃ paṭicca vuttaṃ. Idha, bhikkhave, satthā sāvakānaṃ dhammaṃ deseti anukampako hitesī anukampaṃ upādāya ‘‘idaṃ vo hitāya idaṃ vo sukhāyā’ti. Tassa sāvakā na sussūsanti, na sotaṃ odahanti, na aññā cittaṃ upaṭṭhapenti, vokkamma ca satthusāsanā vattanti. Tatra, bhikkhave, tathāgato na ceva anattamano hoti, na ca anattamanataṃ paṭisaṃvedeti, anavassuto ca viharati sato sampajāno. Idaṃ, bhikkhave, paṭhamaṃ satipaṭṭhānaṃ, yadariyo…pe… arahati.

「『聖者が実践するに値する三つの念処がある……』とこのように説かれたが、これは何に縁って説かれたのか。比丘たちよ、ここに師がいて、弟子たちを憐れみ、利益を願い、慈愛を動機として『これは汝らの利益のため、これは汝らの幸福のためである』と法を説く。その弟子たちは聞こうとせず、耳を傾けず、了知するために心を確立せず、師の教えから離れて行動する。比丘たちよ、そこにおいて如来は不満を抱くこともなく、不満を経験することもなく、漏失することなく正念正知にしてとどまる。比丘たちよ、これが第一の念処であり、聖者が実践するに値するものである。

Puna caparaṃ, bhikkhave, satthā…pe… idaṃ vo sukhāyāti. Tassa ekacce sāvakā na sussūsanti…pe… vattanti. Ekacce sāvakā sussūsanti…pe… na ca vokkamma satthusāsanā vattanti. Tatra, bhikkhave, tathāgato na ceva anattamano hoti, na ca anattamanataṃ paṭisaṃvedeti, na ceva attamano hoti, na ca attamanataṃ paṭisaṃvedeti. Anattamanatañca attamanatañca tadubhayaṃ abhinivajjetvā upekkhato viharati sato sampajāno. Idaṃ vuccati, bhikkhave, dutiyaṃ satipaṭṭhānaṃ…pe… arahati.

さらにまた、比丘たちよ、師が……これは汝らの幸福のためであると説く。その一部の弟子たちは聞こうとせず……行動する。一部の弟子たちは聞き……師の教えから離れずに行動する。比丘たちよ、そこにおいて如来は不満を抱くこともなく、不満を経験することもなく、満足することもなく、満足を経験することもない。不満と満足の両者を避けて、正念正知にして捨(平静)のうちにとどまる。比丘たちよ、これが第二の念処と呼ばれ……実践するに値するものである。

Puna caparaṃ…pe… sukhāyāti. Tassa sāvakā sussūsanti…pe… vattanti. Tatra, bhikkhave, tathāgato attamano ceva hoti, attamanatañca paṭisaṃvedeti, anavassuto ca viharati sato sampajāno. Idaṃ vuccati, bhikkhave, tatiyaṃ satipaṭṭhānaṃ…pe… arahatī’’ti (ma. ni. 3.311) –

さらにまた……幸福のためであると説く。その弟子たちは聞き……行動する。比丘たちよ、そこにおいて如来は満足し、満足を経験し、しかも漏失することなく正念正知にしてとどまる。比丘たちよ、これが第三の念処と呼ばれ……実践するに値するものである」(中部3.311)――

Evaṃ paṭighānunayehi anavassutatā, niccaṃ upaṭṭhitassatitāya tadubhayavītivattatā ‘‘satipaṭṭhāna’’nti vuttā. Buddhānaṃyeva hi niccaṃ upaṭṭhitassatitā hoti āveṇikadhammabhāvato, na paccekabuddhādīnaṃ. Pa-saddo ārambhaṃ joteti, ārambho ca pavattīti katvā āha **‘‘pavattayitabbatoti attho’’**ti. Satiyā karaṇabhūtāya paṭṭhānaṃ paṭṭhapetabbaṃ satipaṭṭhānaṃ. Ana-saddo hi bahulavacanena kammatthopi hotīti.

このように、瞋恚や愛着によって心が乱されないこと、常に確立された正念によってそれら両者を超えていることが「念処」と説かれた。仏たちにのみ、固有の徳性として常に確立された正念が存在するのであり、独覚などにはない。「パ」という語は開始を示し、開始とは生起であることから、「生起させるべきという意味である」と言った。手段である念によって確立されるべきものが念処である。「アナ」という接尾辞は、多用される用法として業(対象)の意味をも持つからである。

Tathāssa kattuatthopi labbhatīti **‘‘patiṭṭhātīti paṭṭhāna’’**nti vuttaṃ. Tattha pa-saddo bhūsatthavisiṭṭhaṃ pakkhandhanaṃ dīpetīti **‘‘okkantitvā pakkhanditvā pavattatīti attho’’**ti āha. Puna bhāvatthaṃ sati-saddaṃ paṭṭhāna-saddañca vaṇṇento **‘‘atha vā’’**tiādimāha. Tena purimavikappe sati-saddo paṭṭhāna-saddo ca katthuatthoti viññāyati. Saraṇaṭṭhenāti cirakatassa cirabhāsitassa ca anussaraṇaṭṭhena. Idanti yaṃ ‘‘satiyeva satipaṭṭhāna’’nti vuttaṃ, idaṃ idha imasmiṃ suttapadese adhippetaṃ.

同様に、それには能動者(主語)の意味も得られることから、「確立するゆえに念処である」と言われた。そこにおいて「パ」という語は、強調された突入を示していることから、「入り込んで、突入して生起するという意味である」と言った。再び状態の意味として「サティ」という語と「パッターナ」という語を解説して、「あるいは」などと述べた。これによって、前の解釈では「サティ」と「パッターナ」は能動者の意味であると理解される。「記憶する意味によって」とは、久遠になされたことや久遠に語られたことを想起する意味によってである。「これを」とは、「念そのものが念処である」と説かれたこれが、この経文の箇所で意図されていることである。

Yadi evanti yadi sati eva satipaṭṭhānaṃ, sati nāma eko dhammo, evaṃ sante kasmā **‘‘satipaṭṭhānā’’**ti bahuvacananti āha **‘‘satibahuttā’’**tiādi. Yadi bahukā etā satiyo, atha kasmā ‘‘maggo’’ti ekavacananti yojanā. Maggaṭṭhenāti niyyānaṭṭhena. Niyyāniko hi maggadhammo, teneva niyyānikabhāvena ekattupagato ekantato nibbānaṃ gacchati, atthikehi ca tadatthaṃ maggīyatīti attanāva pubbe vuttaṃ paccāharati **‘‘vuttañceta’’**nti. Tattha catassopi cetāti kāyānupassanādivasena catubbidhāpi ca etā satiyo. Aparabhāgeti ariyamaggakkhaṇe. Kiccaṃ sādhayamānāti pubbabhāge kāyādīsu ārammaṇesu subhasaññādividhamanena visuṃ visuṃ pavattitvā maggakkhaṇe sakiṃyeva tattha catubbidhassapi vipallāsassa samucchedavasena pahānakiccaṃ sādhayamānā ārammaṇakaraṇavasena nibbānaṃ gacchanti. Catubbidhakiccasādhaneneva hettha bahuvacananiddeso. Evañca satīti maggaṭṭhena ekattaṃ upādāya ‘‘maggo’’ti ekavacanena ārammaṇabhedena catubbidhataṃ upādāya ‘‘cattāro’’ti ca vattabbatāya sativijjamānattā. Vacanānusandhinā ‘‘ekāyano aya’’ntiādikā desanā sānusandhikāva, na ananusandhikāti adhippāyo. Vuttamevatthaṃ nidassanena paṭipādetuṃ **‘‘mārasenappamaddana’’**nti suttapadaṃ (saṃ. ni. 5.224) ānetvā **‘‘yathā’’**tiādinā nidassanaṃ saṃsandeti. Tasmātiādi nigamanaṃ.

「もしそうであるなら」とは、もし念そのものが念処であり、念とは一つの法であるなら、そうであるのになぜ「四念処」と複数形で言われるのかと問い、「念が多数であることから」などと言った。「もしそれらの念が多数であるなら、それではなぜ『道』と単数形なのか」と結合される。「道の意味によって」とは、出離の意味によってである。実に道の法は出離をもたらすものであり、その出離性によって一つに合一して決定的に涅槃へと赴き、求める者たちによってその目的のために探求されるがゆえに、自ら以前に述べたことを「そしてこれは説かれている」と引き合いに出す。そこにおいて「これら四つのものも」とは、身随観などの観点による四種の念のことである。「後において」とは、出世間の聖道の瞬間において。「役目を果たす」とは、前行の段階において身などの対象において浄美の想などを打ち破ることによって個別に生起し、聖道の瞬間には一度にそこにおける四種の顛倒を根絶することによって断滅の役目を果たし、対象とすることによって涅槃へと赴く。四種の役目を果たすことによってこそ、ここでは複数形での表現がなされている。「そうであるならば」とは、道の意味による単一性に基づいて「道」と単数形で、対象の区分による四種性に基づいて「四つの」と表現されるべきであることから、念が存在するからである。言葉のつながりとして、「この道は一乗道である」などの説示は文脈にかなったものであり、文脈を欠いたものではない、というのが意図である。すでに説かれた意味を実例によって理解させるために、「魔王の軍勢を粉砕する」という経文(相応部5.224)を引用し、「あたかも〜のように」などと実例を照合している。「それゆえに」などは結論である。

Visesato kāyo ca vedanā ca assādassakāraṇanti tappahānatthaṃ tesu taṇhāvatthūsu oḷārikasukhumesu asubhadukkhabhāvadassanāni mandatikkhapaññehi taṇhācaritehi sukarānīti tāni tesaṃ ‘‘visuddhimaggo’’ti vuttāni tathā ‘‘niccaṃ attā’’ti abhinivesavatthutāya diṭṭhiyā visesakāraṇesu cittadhammesu aniccānattatādassanāni sarāgādivasena saññāphassādivasena nīvaraṇādivasena ca nātippabhedaatippabhedagatesu tesu tappahānatthaṃ mandatikkhapaññānaṃ diṭṭhicaritānaṃ sukarānīti tesaṃ tāni ‘‘visuddhimaggo’’ti vuttāni. Ettha ca yathā cittadhammānampi taṇhāya vatthubhāvo sambhavati, tathā kāyavedanānampi diṭṭhiyāti satipi nesaṃ catunnampi taṇhādiṭṭhiyā vatthubhāve yo yassa sātisayapaccayo, taṃdassanatthaṃ visesaggahaṇaṃ katanti daṭṭhabbaṃ. Tikkhapaññasamathayāniko oḷārikārammaṇaṃ pariggaṇhanto tattha aṭṭhatvā jhānaṃ samāpajjitvā vuṭṭhāya vedanaṃ pariggaṇhātīti vuttaṃ. **‘‘Oḷārikārammaṇe asaṇṭhahanato’’**ti. Vipassanāyānikassa pana sukhume citte dhammesu ca cittaṃ pakkhandatīti cittadhammānupassanānaṃ mandatikkhapaññāvipassanāyānikānaṃ visuddhimaggatā vuttā.

特に身と受は享楽の因であるため、それらを断滅するために、それら粗雑および微細な渇愛の対象において不浄や苦であることを見ることは、智慧の鈍い者や鋭い渇愛行の者にとって容易であるから、それらの人々のためにそれらは「清浄の道」と説かれた。同様に「常に我である」と執着する対象であるがゆえに見解(悪見)の特別な原因となる心と法において、無常や無我であることを見ることは、貪欲など、想や接触など、蓋(障害)などに応じて過度に細分化されないもの、過度に細分化されたものにおいて、それらを断滅するために智慧の鈍い者や鋭い見解行の者にとって容易であるから、それらの人々のためにそれらは「清浄の道」と説かれた。そしてここにおいて、心と法もまた渇愛の対象となり得るように、身と受も見解の対象となり得るのであるが、これら四者が渇愛と見解の対象となることがあっても、何が何に対して格別の条件となるかを示すために、特有の把握がなされたと知るべきである。智慧の鋭い止行者(奢摩他行者)は粗雑な対象を把握し、そこにとどまらずに禅定に入り、出定してから受を把握すると言われた。「粗雑な対象において安定しないことから」である。しかし観行者(毘婆舎那行者)の心は微細な心や法へと突入するため、心随観と法随観は智慧の鈍い者および鋭い観行者にとっての清浄の道であると説かれた。

Tesaṃ tatthāti ettha tattha-saddassa ‘‘pahānattha’’nti etena yojanā. Parato tesaṃ tatthāti etthāpi esevanayo. Pañca kāmaguṇā savisesā kāye labbhantīti visesena kāyo kāmoghassa vatthu, bhavesu sukhaggahaṇavasena bhavassādo hoti bhavoghassa vedanā vatthu, santatighanagahaṇavasena visesato citte attābhiniveso hotīti diṭṭhoghassa cittaṃ vatthu, dhammesu vinibbhogassa dukkarattā dhammānaṃ dhammamattatāya duppaṭivijjhattā sammoho hotīti avijjoghassa dhammā vatthu, tasmā tesaṃ pahānatthaṃ cattārova vuttā.

「彼らのそれらにおいて」のここにおいて、「それらにおいて」という語は「断滅のために」という語と結びつく。後述の「彼らのそれらにおいて」でも同様である。五つの欲功徳は特に身において得られるため、身は格別に欲暴流の対象であり、諸々の生存において楽を捉えることによって生存への執着が生じるため、受は有暴流の対象であり、連続した個体としての把握によって特に心において我への執着が生じるため、心は見暴流の対象であり、法において個別に分解することが困難であり、法は単なる法にすぎないがゆえに洞察しがたく迷妄が生じるため、法は無明暴流の対象である。それゆえ、それらを断滅するために四つのみが説かれた。

Yadaggena ca kāyo kāmoghassa vatthu, tadaggena abhijjhākāyaganthassa vatthu, dukkhāya vedanāya paṭighānusayo anusetīti dukkhadukkhavipariṇāmadukkhasaṅkhāradukkhabhūtā vedanā visesena byāpādakāyaganthassa vatthu, citte niccaggahaṇavasena sassatassa attano sīlena suddhītiādi parāmasanaṃ hotīti sīlabbataparāmāsassa cittaṃ vatthu, nāmarūpaparicchedena bhūtaṃ bhūtato apassantassa bhavavibhavadiṭṭhisaṅkhāto idaṃsaccābhiniveso hotīti tassa dhammā vatthu, sukhavedanāssādavasena paralokanirapekkho ‘‘natthi dinna’’ntiādikaṃ parāmāsaṃ uppādetīti diṭṭhupādānassa vedanā vatthu santatighanagahaṇavasena sarāgādicitte sammoho hotīti mohāgatiyā cittaṃ vatthu, dhammasabhāvānavabodhena bhayaṃ hotīti bhayāgatiyā dhammā vatthu. Ye panettha avuttā, tesaṃ vuttanayena vatthubhāvo yojetabbo. Tathā hi oghesu vuttanayā eva yogāsavesupi yojanā atthato abhinnattā. Tathā paṭhamoghatatiyacatutthaganthayojanāya vuttanayā eva kāyacittadhammānaṃ itarūpādānavatthutā yojanā, tathā kāmoghabyāpādakāyaganthayojanāya vuttanayā eva kāyavedanānaṃ chandadosāgati vatthutā yojanā vā.

そして、身が欲暴流の対象であるのと同様に、身は貪欲身繋(貪欲の結び目)の対象であり、苦受には瞋恚の随眠が随眠するがゆえに、苦苦・壊苦・行苦である受は格別に瞋恚身繋の対象であり、心において常であると捉えることによって、永遠なる自己が自らの戒律によって清浄になるなどと執着が生じるため、心は戒禁取身繋の対象であり、名色の識別によってあるがままをありのままに見ない者には、有見・無有見という「これこそが真理である」という執着が生じるため、法はその身繋の対象であり、楽受の享楽によって来世を顧みず「施しに効果はない」などの執着を生じさせるため、受は見取(見解への執着)の対象であり、連続した個体としての把握によって貪欲などの心において迷妄が生じるため、心は痴による邪道(痴悪趣)の対象であり、法の本質の無理解によって恐怖が生じるため、法は怖による邪道(怖悪趣)の対象である。ここに説かれていないものについても、説かれた方法に従って対象としての関係を結びつけるべきである。事実、暴流において説かれた方法は軛(結び)や漏(煩悩の漏出)においても結びつけられる。意味において異ならないからである。同様に、第一の暴流と第三・第四の結びの結合において説かれた方法こそが、身・心・法の他の執着の対象性との結合であり、同様に欲暴流と瞋恚身繋の結合において説かれた方法こそが、身と受の愛着・瞋恚による邪道との結合である。

‘‘Āhārasamudayā kāyasamudayo, phassasamudayā vedanāsamudayo, (saṃ. ni. 5.408) saṅkhārapaccayā viññāṇaṃ, viññāṇapaccayā nāmarūpa’’nti (ma. ni. 3.126; udā. 1; vibha. 225) vacanato kāyādīnaṃ samudayabhūtā kabaḷīkārāhāraphassamanosañcetanāviññāṇāhārā kāyādiparijānanena pariññātā hontīti āha **‘‘catubbidhāhārapariññattha’’**nti pakaraṇanayoti nettipakaraṇavasena suttantasaṃvaṇṇanānayo.

「食の生起により身の生起があり、接触の生起により受の生起があり(相応部5.408)、行の条件により識があり、識の条件により名色がある」(中部3.126、自説経1、分別論225)という教説から、身などの原因である段食・触食・意思食・識食という四食は、身などを完全に知ることによって遍知されるがゆえに、「四種の食を遍知するために」と言われた。「導論の方法によって」とは、『導論(ネッティパカラナ)』に基づく経の註解の方法である。

Saraṇavasenāti kāyādīnaṃ kusalādidhammānañca upadhāraṇavasena. Saranti gacchanti nibbānaṃ etāyāti satīti imasmiṃ atthe ekatte ekasabhāve nibbāne samosaraṇaṃ samāgamo ekattasamosaraṇaṃ. Etadeva hi dassetuṃ **‘‘yathā hī’’**tiādi vuttaṃ. Ekanibbānapavesahetubhūtā vā samānatā eko satipaṭṭhānassa bhāvo ekattaṃ, tattha samosaraṇaṃ taṃsabhāgatā ekattasamosaraṇaṃ. Ekanibbānapavesahetubhāvaṃ pana dassetuṃ **‘‘yathā hī’’**tiādimāha. Etasmiṃ atthe saraṇekattasamosaraṇāni saheva satipaṭṭhānekabhāvassa kāraṇatthena vuttānīti daṭṭhabbāni, purimasmiṃ visuṃ. Saraṇavasenāti vā ‘‘gamanavasenā’’ti atthe sati tadeva gamanaṃ samosaraṇanti, samosaraṇe vā satisaddatthavasena avuccamāne dhāraṇatāva satīti satisaddatthantarābhāvā purimaṃ satibhāvassa kāraṇaṃ, pacchimaṃ ekabhāvassāti nibbānasamosaraṇepi sahitāneva tāni satipaṭṭhānekabhāvassa kāraṇāni vuttāni honti. Cuddasavidhena, navavidhena, soḷasavidhena, pañcavidhenāti idaṃ upari pāḷiyaṃ (ma. ni. 1.107) āgatānaṃ ānāpānapabbādīnaṃ vasena vuttaṃ, tesaṃ pana antarabhedavasena tadanugatabhedavasena ca bhāvanāya anekavidhatā labbhatiyeva. Catūsu disāsu uṭṭhānakabhaṇḍasadisatā kāyānupassanāditaṃtaṃsatipaṭṭhānabhāvanānubhāvassa daṭṭhabbā.

「記憶(把握)によって」とは、身などや善などの法をしっかりと保持することによって。「これによって人々は涅槃を記憶し、涅槃へと進むゆえに念である」というこの意味において、単一性・同一の本質である涅槃へと合流すること、集まることが「単一への合流」である。まさにこれを示すために「あたかも〜のように」などと言われた。あるいは、一つの涅槃への突入の原因である平等性、念処の一つのあり方が「単一性」であり、そこへの合流、その同質性が「単一への合流」である。一つの涅槃への突入の原因であることを示すために「あたかも〜のように」などと述べた。この意味において、記憶と単一への合流は、ともに念処が一であることの原因として説かれたと知るべきであり、前者の解釈では別々である。あるいは「記憶によって」とは「進むことによって」という意味である場合、その進むこと自体が合流であり、あるいは合流において念という語の意味として語られない場合でも、保持することこそが念であるから、念という語の他の意味がないため、前者は念であることの原因、後者は一であることの原因であるとして、涅槃への合流においてもそれらは結合して念処の一であることの原因として説かれている。十四種、九種、十六種、五種とは、以下のパーリ経文(中部1.107)に現れる出入息の節などに基づいて説かれたものであるが、それらの内部の区分やそれに付随する区分によって、修習には実に多様な種類が得られる。四方に立ち上がる宝物に似ていることは、身随観などのそれぞれの念処の修習の威力として知るべきである。

‘‘Gocare, bhikkhave, caratha sake pettike visaye’’tiādivacanato (dī. ni. 3.80; saṃ. ni. 5.372) bhikkhugocarā ete dhammā, yadidaṃ kāyānupassanādayo. Tattha yasmā kāyānupassanādipaṭipattiyā bhikkhu hoti, tasmā ‘‘kāyānupassī viharatī’’tiādinā bhikkhuṃ dasseti, bhikkhumhi taṃ niyamatoti āha **‘‘paṭipattiyā bhikkhubhāvadassanato’’**ti. Satthu cariyānuvidhāyakattā sakalasāsanasampaṭiggāhakattā ca sabbappakārāya anusāsaniyā bhājanabhāvo.

「比丘たちよ、自らの父祖伝来の領域である境地を行け」(長部3.80、相応部5.372)などの教説から、これら身随観などの法は比丘の活動領域である。そこにおいて、身随観などの実践によって比丘となるがゆえに、「身を随観してとどまる」などによって比丘を示し、比丘においてそれを限定することから、「実践による比丘性の提示によって」と言われた。師の行いに従う者であり、すべての教えを受け止める者であるがゆえに、あらゆる教誡の器となるのである。

Samaṃ careyyāti kāyādivisamacariyaṃ pahāya kāyādīhi samaṃ careyya. Rāgādivūpasamena santo. Indriyadamena danto. Catumagganiyāmena niyato. Seṭṭhacaritāya brahmacārī. Kāyadaṇḍādioropanena nidhāya daṇḍaṃ. Ariyabhāve ṭhito so evarūpo bāhitapāpasamitapāpabhinnakilesatāhi brāhmaṇo samaṇo bhikkhūti veditabbo.

「平等に歩むべし」とは、身などの不平等な行いを捨てて、身などによって平等に歩むべしということである。貪などの静止によって「寂静なる者」。感覚器官の調伏によって「調御された者」。四聖道の決定によって「決定せる者」。最勝の行いゆえに「梵行者」。身による暴力などを捨てることによって「暴力を置いた者」。聖者の境地に確立したそのような者こそ、悪を排除し、悪を静め、煩悩を打ち破ったがゆえに、婆羅門であり、沙門であり、比丘であると知るべきである。

‘‘Ayañceva kāyo bahiddho ca nāmarūpa’’ntiādīsu (dī. ni. ṭī. 2.373) khandhapañcakaṃ, ‘‘sukhañca kāyena paṭisaṃvedetī’’tiādīsu (ma. ni. 1.271, 287; pārā. 11) nāmakāyo kāyoti vuccatīti tato visesanatthaṃ **‘‘kāyeti rūpakāye’’**ti āha.

「この身および外なる名色」(長部複注2.373)などにおいては五蘊が、「身をもって楽を経験する」(中部1.271, 287、波羅夷11)などにおいては名身が「身」と呼ばれるため、それらと区別するために「身においてとは、色身において」と言われた。

Asammissatoti ‘‘vedanādayopi ettha sitā ettha paṭibaddhā’’ti kāye vedanādianupassanāpasaṅgepi āpanne tato asammissatoti attho. Samūhavisayatāya cassa kāya-saddassa samudāyupādānatāya ca asubhākārassa ‘‘kāye’’ti ekavacanaṃ, tathā ārammaṇādivibhāgena anekabhedabhinnampi cittaṃ cittabhāvasāmaññena ekajjhaṃ gahetvā ‘‘citte’’ti ekavacanaṃ, vedanā pana sukhādibhedabhinnā visuṃ visuṃ anupassitabbāti dassentena ‘‘vedanāsū’’ti bahuvacanena vuttā, tatheva ca niddeso pavattito, dhammā ca paropaṇṇāsabhedā anupassitabbākārena ca anekabhedā evāti tepi bahuvacanavaseneva vuttā. Avayavīgāha-samaññātidhāvana-sārādānābhinivesanisedhanatthaṃ kāyaṃ aṅgapaccaṅgehi, tāni ca kesādīhi, kesādike ca bhūtupādāyarūpehi vinibbhujjanto **‘‘tathā na kāye’’**tiādimāha. Pāsādādinagarāvayavasamūhe avayavīvādinopi avayavīgāhaṃ na karonti, nagaraṃ nāma koci attho atthīti pana kesañci samaññātidhāvanaṃ siyāti itthipurisādisamaññātidhāvane nagaranidassanaṃ vuttaṃ. Aṅgapaccaṅgasamūho, kesalomādisamūho bhūtupādāyasamūho ca yathāvuttasamūhe tabbinimutto kāyopi nāma koci natthi, pageva itthiādayoti āha **‘‘kāyo vā…pe… dissatī’’**ti. Koci dhammoti iminā sattajīvādiṃ paṭikkhipati, avayavī pana kāyapaṭikkhepeneva paṭikkhittoti. Yadi evaṃ kathaṃ kāyādisaññābhidhānānītiāha **‘‘yathāvutta…pe… karontī’’**ti.

「混同することなく」とは、「受などもまたここに宿り、ここに結合している」と身において受などを随観する過失が生じ得るときでも、それらと混同することなく、という意味である。そしてこの「身(カーヤ)」という語は集合を対象とし、集まりを根拠とする不浄のあり方であるため「身において」と単数形であり、同様に対象などの区分によって多様に分かれる心も、心であることの共通性によって一括して捉えて「心において」と単数形である。しかし受は楽などの区分によって分かれており個別に随観されるべきであることを示すために「受において」と複数形で説かれ、解説もそのように行われた。法も五十を超えて区分され、随観されるべきあり方によっても実に多様であるため、それらもまた複数形によって説かれた。全体という把握、名称への偏執、実体視の執着を否定するために、身体を部分と部分、それらを頭髪など、頭髪などを四大種および所造色へと分解しつつ、「そのように身においてではなく」などと言った。宮殿などの都市の部分の集まりにおいて、全体実在論者たちも全体の把握を行わないが、「都市という何らかの実体がある」というような一部の人々の名称への偏執が生じるかもしれないため、男女などの名称への偏執において都市の実例が説かれた。部分の集まり、頭髪などの集まり、四大種と所造色の集まりという上述の集まりを離れて、身というものすら存在せず、まして女などは存在しないとして、「身あるいは……見られる」と言われた。「いかなる法も」とは、これによって有情や霊魂などを否定する。全体というものは、まさに身の否定によって否定されている。「もしそうなら、なぜ身などの想や名称があるのか」と問い、「上述の……なす」と言った。

Yaṃ passati itthiṃ purisaṃ vā. Nanu cakkhunā itthipurisadassanaṃ natthīti? Saccametaṃ, ‘‘itthiṃ passāmi, purisaṃ passāmī’’ti pana pavattasaññāya vasena ‘‘yaṃ passatī’’ti vuttaṃ. Micchādassanena vā diṭṭhiyā yaṃ passati, na taṃ diṭṭhaṃ, taṃ rūpāyatanaṃ na hotīti attho viparītaggāhavasena micchāparikappitarūpattā. Atha vā taṃ kesādibhūtupādāyasamūhasaṅkhātaṃ diṭṭhaṃ na hoti acakkhuviññāṇaviññeyyattā, diṭṭhaṃ vā taṃ na hoti. Yaṃ diṭṭhaṃ taṃ na passatīti yaṃ rūpāyatanaṃ kesādibhūtupādāyasamūhasaṅkhātaṃ diṭṭhaṃ, taṃ paññācakkhunā bhūtato na passatīti attho. Apassaṃ bajjhateti imaṃ attabhāvaṃ yathābhūtaṃ paññācakkhunā apassanto ‘‘etaṃ mama, esohamasmi, eso me atto’’ti kilesabandhanena bajjhati.

「見るものを」とは、女あるいは男を。「実に眼によって男女を見ることはないのではないか」と言うかもしれない。それは真実であるが、「女を見る、男を見る」と生じた想に基づいて「見るものを」と言われた。あるいは、誤った見解によって見るものは見られたものではなく、それは色処ではないという意味である。転倒した把握によって誤って構想された色であるからである。あるいは、それは頭髪などの四大種・所造色の集まりと呼ばれる見られたものではなく、眼識によって認識されるものではないからであり、あるいはそれは見られたものではない。「見られたものを見ない」とは、頭髪などの四大種・所造色の集まりと呼ばれる見られた色処を、智慧の眼によってありのままに見ないという意味である。「見ない者は縛られる」とは、この身体を智慧の眼でありのままに見ない者は、「これは我がもの、これこそ私である、これは私の自己である」と煩悩の束縛によって縛られる。

Na aññadhammānupassīti na aññasabhāvānupassī, asubhādito aññākārānupassī na hotīti attho. Kiṃ vuttaṃ hotītiādinā tamevatthaṃ pākaṭaṃ karoti. Pathavīkāyanti kesādikoṭṭhāsapathaviṃ dhammasamūhattā ‘‘kāyo’’ti vadati, lakkhaṇapathavimeva vā anekappabhedaṃ sakalasarīragataṃ pubbāpariyabhāvena ca pavattamānaṃ samūhavasena gahetvā ‘‘kāyo’’ti vadati. Āpokāyantiādīsupi eseva nayo.

「他の法を随観する者ではなく」とは、他の本質を随観する者ではなく、不浄などから離れた他のあり方を随観する者ではない、という意味である。「何が説かれたことになるのか」などによって、まさにその意味を明らかにしている。「地身を」とは、頭髪などの部分の地界を、法の集まりであるがゆえに「身」と呼ぶ。あるいは特徴としての地界そのものが多様に分かれて身体全体に行き渡り、前後関係として生起しているものを、集まりとして捉えて「身」と呼ぶ。「水身を」などにおいても同様である。

Evaṃ gahetabbassāti ‘‘ahaṃ mama’’nti evaṃ attattaniyabhāvena andhabālehi gahetabbassa. Idāni sattannaṃ anupassanākārānampi vasena kāyānupassanaṃ dassetuṃ **‘‘apicā’’**tiādi āraddhaṃ. Tattha aniccato anupassatīti catusamuṭṭhānikakāyaṃ ‘‘anicca’’nti anupassati, evaṃ passanto evaṃ cassa aniccākārampi anupassatīti vuccati. Tathābhūtassa cassa niccaggāhassa lesopi na hotīti vuttaṃ **‘‘no niccato’’**ti tathāhesa ‘‘niccasaññaṃ pajahatī’’ti (paṭi. ma. 3.35) vutto. Ettha ca ‘‘aniccato eva anupassatī’’ti eva-kāro luttaniddiṭṭhoti tena nivattitamatthaṃ dassetuṃ **‘‘no niccato’’**ti vuttaṃ. Na cettha dukkhato anupassanādinivattanamāsaṅkitabbaṃ paṭiyogīnivattanaparattā eva-kārassa, uparidesanāruḷhattā ca tāsaṃ.

「このように把握されるべきものを」とは、「私、我がもの」とこのように自己や自己に属するものとして愚者たちによって把握されるべきものを。今や七種の随観のあり方によっても身随観を示すために、「さらに」などと開始された。そこにおいて「無常と随観する」とは、四つの原因から生じる身体を「無常である」と随観し、このように見る者は、このようにこの身体の無常のあり方をも随観すると言われる。そのようになった者には常であるという執着のわずかな兆候すら存在しないことから、「常としてではなく」と言われた。事実、彼は「常の想を捨てる」(無礙解道3.35)と説かれている。そしてここにおいて、「まさに無常と随観する」という限定の辞が省略されて示されているため、それによって排除された意味を示すために「常としてではなく」と言われた。そしてここにおいて、苦と随観することなどの排除を疑ってはならない。限定の辞は対立するものの排除を目的としており、またそれらは以降の説示に現れているからである。

Dukkhato anupassatītiādīsupi eseva nayo. Ayaṃ pana viseso – aniccassa dukkhattā tameva kāyaṃ dukkhato anupassati, dukkhassa anattattā anattato anupassati. Yasmā pana yaṃ aniccaṃ dukkhaṃ anattā, taṃ anabhinanditabbaṃ, na tattha rajjitabbaṃ, tasmā vuttaṃ ‘‘nibbindati no nandati, **virajjati no rajjatī’’**ti. So evaṃ arajjanto rāgaṃ nirodheti no samudeti, samudayaṃ na karotīti attho. Evaṃ paṭipanno ca paṭinissajjati no ādiyati. Ayañhi aniccādianupassanā tadaṅgavasena saddhiṃ kāyatannissayakhandhābhisaṅkhārehi kilesānaṃ pariccajanato, saṅkhatadosadassanena tabbiparīte nibbāne tanninnatāya pakkhandanato ‘‘pariccāgapaṭinissaggo ceva pakkhandanapaṭinissaggo cā’’ti vuccati, tasmā tāya samannāgato bhikkhu vuttanayena kilese ca pariccajati, nibbāne ca pakkhandati, tathābhūto ca nibbattanavasena kilese na ādiyati, nāpi adosadassitāvasena saṅkhatārammaṇaṃ. Tena vuttaṃ **‘‘paṭinissajjati no ādiyatī’’**ti. Idānissa tāhi anupassanāhi yesaṃ dhammānaṃ pahānaṃ hoti, taṃ dassetuṃ **‘‘so taṃ aniccato anupassanto niccasaññaṃ pajahatī’’**ti. Tattha niccasaññanti ‘‘saṅkhārā niccā’’ti evaṃ pavattaviparītasaññaṃ. Diṭṭhicittavipallāsapahānamukheneva saññāvipallāsappahānanti saññāgahaṇaṃ, saññāsīsena vā tesampi gahaṇaṃ daṭṭhabbaṃ. Nandinti sappītikataṇhaṃ. Sesaṃ vuttanayemeva.

「苦と随観する」などにおいても同様である。しかしこの違いがある――無常であるものは苦であるがゆえに、まさにその身体を苦と随観し、苦であるものは無我であるがゆえに、無我と随観する。しかし、無常・苦・無我であるものは喜ぶべきではなく、そこに執着すべきではないがゆえに、「厭離して喜ばず、離貪して貪着しない」と言われた。彼はこのように貪着しないがゆえに貪りを滅ぼし、生起させず、増大させないという意味である。このように実践する者は放棄して執着しない。実にこの無常などの随観は、該当する部分によって身体およびそれに依存する諸蘊の形成とともに煩悩を放棄することから、また有為の過失を見ることによってそれと正反対の涅槃へと傾斜して突入することから、「放棄の捨離であり、突入の捨離である」と言われる。それゆえ、それを具備した比丘は説かれた方法によって煩悩を放棄し、涅槃へと突入する。そのようになった者は生起させることによって煩悩を執着せず、また過失を見ないことによって有為の対象を執着しない。それゆえ「放棄して執着しない」と言われた。今や彼にとってそれらの随観によっていかなる法が断滅されるかを示すために、「彼はそれを無常と随観しつつ常の想を捨てる」と言われた。そこにおいて「常の想」とは、「諸行は常である」とこのように生じた転倒した想である。見解と心の顛倒の断滅を通じて想の顛倒の断滅があることから想の把握がなされたのであり、あるいは想を中心としてそれらの把握もなされたと知るべきである。「歓喜を」とは、喜悦を伴う渇愛のことである。残りは説かれた通りの方法による。

Viharatīti iminā kāyānupassanāsamaṅgino iriyāpathavihāro vuttoti āha **‘‘iriyatī’’**ti iriyāpathaṃ pavattetīti attho. Ārammaṇakaraṇavasena abhibyāpanato **‘‘tīsu bhavesū’’**ti vuttaṃ, uppajjanavasena pana kilesā parittabhūmakā evāti. Yadipi kilesānaṃ pahānaṃ ātāpananti taṃ sammādiṭṭhiādīnampi attheva, ātāpa-saddo pana vīriyeyeva niruḷhoti vuttaṃ **‘‘vīriyassetaṃ nāma’’**nti. Atha vā paṭipakkhapahāne sampayuttadhammānaṃ abbhussahanavasena pavattamānassa vīriyassa sātisayaṃ tadātāpananti vīriyameva tathā vuccati, na aññe dhammā. Ātāpīti cāyamīkāro pasaṃsāya, atisayassa vā dīpakoti ātāpīgahaṇena sammappadhānasamaṅgitaṃ dasseti. Sammā, samantato, sāmañca pajānanto sampajāno, asammissato vavatthāne aññadhammānupassitābhāvena sammā aviparītaṃ, sabbākārapajānanena samantato, uparūpari visesāvahabhāvena pavattiyā sayaṃ pajānantoti attho. Yadi paññāya anupassati, kathaṃ satipaṭṭhānatāti āha **‘‘na hī’’**tiādi. Sabbatthikanti sabbattha bhavaṃ sabbattha līne uddhate ca citte icchitabbattā, sabbe vā līne uddhate ca bhāvetabbā bojjhaṅgā atthikā etāyāti sabbatthikā. Satiyā laddhūpakārāya eva paññāya ettha yathāvutte kāye kammaṭṭhāniko bhikkhu kāyānupassī viharati. Antosaṅkhepo anto olīyano, kosajjanti attho. Upāyapariggaheti ettha sīlavisodhanādi gaṇanādi uggahakosallādi ca upāyo, tabbipariyāyato anupāyo veditabbo. Yasmā ca upaṭṭhitassati yathāvuttaupāyaṃ na pariccajati, anupāyañca na upādiyati, tasmā vuttaṃ ‘‘muṭṭhassati…pe… asamattho **hotī’’**ti. Tenāti upāyānupāyānaṃ pariggahaparivajjanesu apariccāgāpariggahesu ca asamatthabhāvena assa yogino.

「住す」とは、これによって身随観を備えた者の威儀の住が説かれている。それゆえに「**振る舞う**」とは、威儀を転起させるという意味である。「三界において」と説かれたのは所縁とする力による遍満からであり、生起の力によれば煩悩は小界(欲界)のものであるにすぎない。煩悩の断滅が熱誠(熱心さ)であるとしても、それは正見などにも同様に存在するが、「熱誠」という語はまさに精進において定着しているため、「**これは精進の名である**」と説かれた。あるいは、対治すべきものの断滅において相応する諸法を奮起させることによって生じる精進の、卓越した熱誠であることから、精進のみがそのように呼ばれ、他の法は呼ばれない。「熱誠ある者(ātāpī)」におけるこの「ī」という語尾は称讃のため、あるいは卓越性を示すためのものであるから、「熱誠ある者」という把握によって正勤を備えていることを示す。 正しく、あまねく、自ら知る者が正知である。無雑の確定において他の法を観察することがないことによって「正しく」、誤りなく、すべての様態を知ることによって「あまねく」、上へ上へと勝れた境地をもたらす状態によって転起することから「自ら知る」という意味である。もし智慧によって随観するなら、どのように念処となるのかについて、「**実に〜ではない**」等と述べた。「一切の場において求められるべきもの(sabbatthika)」とは、あらゆる場所で生じるものであり、あらゆる沈滞した心と昂揚した心において望まれるべきものであるから、あるいは、沈滞した心と昂揚した心において修習されるべき一切の覚支がこれによって求められるものであるから「一切処の求め」である。念の援助を得た智慧によってのみ、修行僧はこの説かれた身において身随観して住するのである。 「内なる縮小」とは内なる沈没であり、懈怠という意味である。「方便の把握において」のここでの「方便」とは、戒の清浄等、数えること等、把握の巧みさ等であり、その反対が無方便であると知られるべきである。そして念を確立した者は説かれた方便を放棄せず、無方便を執取しないため、「念を失った者は……〜することができない**者となる**」と説かれた。「それゆえに」とは、方便と無方便の把握と回避、および不放棄と不執取において無能力であることによって、その修行者に、ということである。

Yasmā satiyevettha satipaṭṭhānaṃ vuttā, tasmāssa sampayuttā dhammā vīriyādayo aṅganti āha **‘‘sampayogaṅgañcassa dassetvā’’**ti. Aṅga-saddo cettha kāraṇapariyāyo daṭṭhabbo, satiggahaṇeneva cettha samādhissati gahaṇaṃ daṭṭhabbaṃ tassā samādhikkhandhe saṅgahitattā. Yasmā vā satisīsenāyaṃ desanā. Na hi kevalāya satiyā kilesappahānaṃ hoti, nibbānādhigamo vā, na ca kevalā sati pavattati, tasmāssa jhānadesanāyaṃ savitakkādivacanassa viya sampayogaṅgadassanatāti aṅga-saddassa avayavapariyāyatā daṭṭhabbā. Pahānaṅganti ‘‘vivicceva kāmehī’’tiādīsu (dī. ni. 1.226; ma. ni. 1.271, 287; saṃ. ni. 2.152; a. ni. 4.123; pārā. 11) viya pahātabbaṅgaṃ dassetuṃ. Yasmā ettha lokiyamaggo adhippeto, na lokuttaramaggo, tasmā pubbabhāgiyameva vinayaṃ dassento **‘‘tadaṅgavinayena vā vikkhambhanavinayena vā’’**ti āha. Tesaṃ dhammānanti vedanādidhammānaṃ. Tesañhi tattha anadhippetattā **‘‘atthuddhāranayenetaṃ vutta’’**nti vuttaṃ.

ここでは念そのものが念処と説かれているため、それに相応する精進などの諸法は支分であるとして、「**その相応の支分を示して**」と述べた。ここでの「支分」という語は原因の同義語と見なされるべきである。念の把握によってのみ定の把握もまた見なされるべきである。念は定蘊に摂められているからである。あるいは、念を首魁としてこの教示がなされたためである。実に念単独によって煩悩の断滅や涅槃の証得があるわけではなく、また念単独で生起することもないため、初禅の教示において「尋を伴う」などの言葉があるように、相応する支分の提示であることから、「支分」という語は構成要素の同義語と見なされるべきである。 「断滅の支分」とは、「まさに諸々の欲望から離れて」などにおけるように、断ぜられるべき支分を示すためである。ここでは世間道が意図されており、出世間道ではないため、前段階の調伏のみを示して「**彼分断によって、あるいは伏断によって**」と説いた。「それらの諸法の」とは、受などの諸法のことである。それらはそこでは意図されていないため、「**法の抽出の論法によってこれが説かれた**」と述べられたのである。

Avisesena dvīhipi nīvaraṇappahānaṃ vuttanti katvā puna ekekena vuttaṃ pahānavisesaṃ dassetuṃ **‘‘visesenā’’**ti āha. Atha vā ‘‘vineyya nīvaraṇānī’’ti avatvā abhijjhādomanassavacanassa payojanaṃ dassento **‘‘visesenā’’**tiādimāha. Kāyānupassanābhāvanāya hi ujuvipaccanīkānaṃ anurodhādīnaṃ pahānaṃ dassanaṃ etassa payojananti. Kāyasampattimūlakassāti rūpa-bala-yobbanārogyādi-sarīrasampadā-nimittassa. Vuttavipariyāyato kāyavipattimūlako virodho veditabbo. Kāyabhāvanāyāti kāyānupassanābhāvanāya. Sā hi idha ‘‘kāyabhāvanā’’ti adhippetā. Tenāti anurodhādippahānavacanena. Yogānubhāvo hītiādi vuttassevatthassa pākaṭakaraṇaṃ.

無差別には二つによって蓋の断滅が説かれているとし、さらに一つ一つによって説かれた断滅の特異性を示すために「**特に**」と述べた。あるいは、「蓋を調伏して」と言わずに貪欲と憂いを説いた効用を示すために「**特に**」等と述べた。身随観の修習にとって直に対立する随順などの断滅を示すことが、この効用であるからである。「身の成就を根本とする」とは、容色・力・若さ・無病などの身体の成就を因とするもの。説かれたことと逆のことから、身の不成就を根本とする反発が知られるべきである。「身の修習によって」とは身随観の修習によって。実にここではそれが「身の修習」として意図されている。「それによって」とは、随順などの断滅の説示によって。「行の実践力は〜である」等は、説かれたまさにその意味を明らかにすることである。

Satisampajaññenāti atisampajaññaggahaṇena. Sabbatthikakammaṭṭhānanti buddhānussati mettā maraṇassati asubhabhāvanā ca. Idañhi catukkaṃ yoginā parihariyamānaṃ ‘‘sabbatthikakammaṭṭhāna’’nti vuccati atisampajaññabalena avicchinnassa tassa pariharitabbattā, satiyā vā samatho vutto tassā samāddhikkhandhena saṅgahitattā.

「正念と正知によって」とは、勝れた正知の把握によって。「一切処の業処」とは、仏随念・慈・死随念・不浄観である。実にこの四種は、修行者によって受持されるとき、勝れた正知の力によって不断に受持されるべきものであるから「一切処の業処」と呼ばれる。あるいは念によって止(サマタ)が説かれた。念は定蘊に摂められているからである。

Tenāti saddatthaṃ anādiyitvā bhāvatthasseva vibhajanavasena pavattena vibhaṅgapāṭhena saha. Aṭṭhakathānayoti saddatthassapi vivaraṇavasena yathārahaṃ vutto atthasaṃvaṇṇanānayo. Yathā saṃsandatīti yathā atthato adhippāyato ca avilomento aññadatthu saṃsandati sameti, evaṃ veditabbo.

「それによって」とは、文字通りの意味を取らずに、状態の意味の分別によって転起した分別論の本文とともに。「義釈の論法」とは、文字通りの意味の解説によって適切に説かれた義の注釈の論法である。「一致するように」とは、義からも意図からも矛盾せず、まさに一致し合致するように、そのように知られるべきである。

Vedanādīnaṃ puna vacaneti ettha nissayapaccayabhāvavasena cittadhammānaṃ vedanāsannissitattā pañcavokārabhave arūpadhammānaṃ rūpapaṭibaddhavuttito ca vedanāya kāyādianupassanāpasaṅgepi āpanne tadasammissato vavatthānadassanatthaṃ ghanavinibbhogādidassanatthañca dutiyavedanāgahaṇaṃ. Tena na vedanāyaṃ kāyānupassī, cittadhammānupassī vā, atha kho vedanānupassīyevāti vedanāsaṅkhāte vatthusmiṃ vedanānupassanākārasseva dassanena asammissato vavatthānaṃ dassitaṃ hoti. Tathā ‘‘yasmiṃ samaye sukhā vedanā, na tasmiṃ samaye dukkhā adukkhamasukhā vā vedanā. Yasmiṃ vā pana samaye dukkhā adukkhamasukhā vā vedanā, na tasmiṃ samaye itarā vedanā’’ti vedanābhāvasāmaññe aṭṭhatvā taṃ taṃ vedanaṃ vinibbhujitvā dassanena ghanavinibbhogo dhuvabhāvaviveko dassito hoti. Tena tāsaṃ khaṇamattāvaṭṭhānadassanena aniccatāya tato eva dukkhatāya anattatāya ca dassanaṃ vibhāvitaṃ hoti. Ghanavinibbhogādīti ādi-saddena ayampi attho veditabbo. Ayañhi vedanāyaṃ vedanānupassīyeva, na aññadhammānupassī. Kiṃ vuttaṃ hoti – yathā nāma bālo amaṇisabhāvepi udakabubbuḷake maṇiākārānupassī hoti, na evamayaṃ ṭhitiramaṇīyepi vedayite, pageva itarasmiṃ manuññākārānupassī, atha kho khaṇabhaṅguratāya avasavattitāya kilesāsucipaggharaṇatāya ca aniccaanattaasubhākārānupassī, vipariṇāmadukkhatāya saṅkhāradukkhatāya ca visesato dukkhānupassīyevāti vuttaṃ hoti. Evaṃ cittadhammesupi yathārahaṃ puna vacane payojanaṃ vattabbaṃ. **‘‘Kevalaṃ panidhā’’**tiādinā idha ‘ettakaṃ veditabba’’nti veditabbaparicchedaṃ dasseti. Esa nayoti iminā yathā cittaṃ dhammā ca anupassitabbā, tathā tāni anupassanto ‘‘citte cittānupassī, dhammesu dhammānupassī’’ti veditabboti imamatthaṃ atidisati.

「受などの再度の言及において」というここにおいて、依止縁の状態によって心の諸法は受に依拠しており、五蘊有においては非物質的諸法(名法)は色法に結びついて機能することから、受において身などの随観が起こる可能性が生じても、それらが混同されない確定を示すため、また堅固な塊の解体等を示すために、二回目の「受」という把握がなされている。それによって受において身を随観する者でもなく、心や法を随観する者でもなく、ただ受を随観する者であると、受と呼ばれる対象において受の随観の様相のみを示すことによって、混同なき確定が示されたことになる。 同様に「楽受がある時には、苦受や不苦不楽受はない。あるいは苦受や不苦不楽受がある時には、他の受はない」と、受という単なる共通性に留まらず、個々の受を解体して示すことによって、塊の解体と常住の観念からの離脱が示されたことになる。それによってそれらの刹那的な定着のみを示すことにより、無常性、そしてそれゆえの苦性と無我性の提示が明らかにされたことになる。「塊の解体等」という等の語によって、この意味もまた知られるべきである。実にこの者は受において受を随観する者であり、他の法を随観する者ではない。何を言っているのかといえば——たとえば愚者が宝玉の本質でない水泡において宝玉の姿を観察するように、この者は持続において快い感受において、ましてやそれ以外のものにおいて好ましい姿を観察するのではなく、刹那の破壊性、非主宰性、煩悩の不浄の漏出性によって、無常・無我・不浄の姿を観察し、変壊苦性と行苦性によって特に苦を観察する者である、ということが言われているのである。このように心や法においても適切に再度の言及の効用が語られるべきである。「しかし、ここでは単に」等によって、ここで「これだけ知られるべきである」という知られるべき範囲を示している。「これがその論法である」とは、これによって心と法が随観されるべきように、それらを随観しながら「心において心を随観し、法において法を随観する」と知られるべきであるという、この意味を準用している。

Yo sukhaṃ dukkhato addāti yo bhikkhu sukhavedanaṃ vipariṇāmadukkhatāya ‘‘dukkha’’nti paññācakkhunā addakkhi. Dukkhamaddakkhi sallatoti dukkhavedanaṃ pīḷājananato antotudanato dunnīharaṇato ca sallanti addakkhi passi. Adukkhamasukhanti upekkhāvedanaṃ. Santanti sukhadukkhāni viya anoḷārikatāya paccayavasena vūpasantasabhāvatāya ca santaṃ. Aniccatoti hutvā abhāvato udayabbayavantato tāvakālikatoniccapaṭikkhepato ca ‘‘anicca’’nti yo addakkhi. Sa ve sammaddaso bhikkhu ekaṃsena paribyattaṃ vā vedanāya sammā passanakoti attho.

「楽を苦と見た者」とは、ある修行僧が楽受を変壊苦性によって「苦である」と智慧の眼で見たこと。「苦を矢と見た」とは、苦受を圧迫を生じさせること、内を刺すこと、抜き去り難いことから「矢である」と見たこと。「不苦不楽を」とは捨受を。「静けきものと」とは、楽や苦のように粗大でないことによって、また条件によって静まった本質であることから静けきものと。「無常と」とは、生じては無くなることから、生滅があることから、一時的であり常住を否定することから「無常である」と見た者。「彼は実に正見の修行僧である」とは、決定的に、あるいは明瞭に受を正しく観察する者であるという意味である。

Dukkhātipīti saṅkhāradukkhatāya dukkhā itipi. Sabbaṃ taṃ dukkhasminti sabbaṃ taṃ vedayitaṃ dukkhasmiṃ antogadhaṃ pariyāpannaṃ vadāmi saṅkhāradukkhatānativattanato. Sukhadukkhatopi cāti sukhādīnaṃ ṭhitivipariṇāmaññāṇasukhatāya vipariṇāmaṭhitiaññāṇadukkhatāya ca vuttattā tissopi sukhato, tissopi ca dukkhato anupassitabbāti attho. Rūpādi**-ārammaṇa**chandādi-**adhipati-**ñāṇādi-sahajāta- kāmāvacarādi-bhūminānattabhedānaṃ kusalākusala-taṃvipākakiriyā-nānattādibhedānañca, ādi-saddena saṅkhārikāsaṅkhārikasa-vatthukāvatthukādi-nānattabhedānañca vasenāti yojetabbaṃ. Suññatadhammassāti ‘‘dhammā hontī’’tiādinā (dha. sa. 121) suññatavāre āgatasuññatasabhāvassa vasena. **‘‘Kāmañcetthā’’**tiādinā pubbe pahīnattā puna pahānaṃ na vattabbanti codanaṃ dasseti, maggacittakkhaṇe vā ekattha pahīnaṃ sabbattha pahīnameva hotīti visuṃ visuṃ na vattabbanti. Tattha purimāya codanāya nānāpuggalaparihāro, pacchimāya nānācittakkhaṇikaparihāro. Lokiyabhāvanāya hi kāye pahīnaṃ na vedanādīsu pahīnaṃ hoti yadipi na pavatteyya, na paṭipakkhabhāvanāya tattha sā abhijjhādomanassassa appavatti hotīti puna tappahānaṃ vattabbamevāti. Ekattha pahīnaṃ sesesupi pahīnaṃ hotīti maggasatipaṭṭhānabhāvanaṃ, lokiyabhāvanāya vā sabbattha appavattimattaṃ sandhāya vuttaṃ. ‘‘Pañcapi khandhā loko’’ti hi vibhaṅge (vibha. 362, 364, 366, 373) catūsupi ṭhānesu vuttanti.

「苦であるとしても」とは、行苦性によって苦であるとしても。「それらすべては苦にある」とは、行苦性を超えないことから、それらすべての感受は苦の内に含まれ、包摂されていると私は説く。「楽と苦からも」とは、楽などの持続と変壊と知解が楽であること、変壊と持続と不知解が苦であることから説かれているため、三者とも楽として、また三者とも苦として随観されるべきであるという意味である。 「色などの**所縁**、欲などの**増上**、智などの倶生、欲界などの界の差異の区別によって、善・不善・その異熟・唯作の差異などの区別によって」、また「等」の語によって「有行・無行、有依処・無依処などの差異の区別によって」と結合されるべきである。「空性の法にとって」とは、「法が存在する」等と空性段において説かれた空性の本質によってである。「そして実にここでは」等によって、前で断滅されているため再び断滅を説くべきではないという反論、あるいは道心の刹那において一処で断滅されたものは一切処で断滅されているので別々に説くべきではないという反論を示す。 そこにおいて、前の反論には異なる人物による回答であり、後の反論には異なる心刹那による回答である。世間の修習においては身において断滅されたものは受などにおいて断滅されておらず、たとえ生起しなくても、対治の修習によってそこにおいてその貪欲と憂いの不生起があるわけではないので、再びその断滅が説かれるべきなのである。「一処で断滅されたものは残りにおいても断滅されている」とは、道の念処の修習、あるいは世間の修習における一切処での不生起のみを念頭に置いて説かれた。「実に五蘊も世間である」と分別論の四つの箇所すべてで説かれているからである。

Uddesavāravaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

総説段の注釈における隠された意味の明示が完了した。

Kāyānupassanāvaṇṇanā

身随観の注釈

Ānāpānapabbavaṇṇanā

入出息節の注釈

107. Bāhirakesupi ito ekadesassa sambhavato sabbappakāraggahaṇaṃ kataṃ **‘‘sabbappakārakāyānupassanānibbattakassā’’**ti. Tena ye ime ānāpānapabbādivasena āgatā cuddasappakārā, tadantogadhā ca ajjhattādianupassanā pakārā, tathā kāyagatāsatisutte (ma. ni. 3.154) vuttā kesādivaṇṇasaṇṭhānakasiṇārammaṇacatukkajjhānappakārā, lokiyādippakārā ca, te sabbepi anavasesato saṅgaṇhāti. Ime ca pakārā imasmiṃyeva sāsane, na ito bahiddhāti vuttaṃ **‘‘sabbappakāra…pe… paṭisedhano cā’’**ti. Tattha tathābhāvapaṭisedhanoti sabbappakārakāyānupassanānibbattakassa puggalassa aññasāsanassa nissayabhāvapaṭisedhano. Etena ‘‘idha, bhikkhave’’ti ettha idha-saddo antogadhaevasaddatthoti dasseti. Santi hi ekapadānipi sāvadhāraṇāni yathā ‘‘vāyubhakkho’’ti (dī. ni. ṭī. 2.374). Tenāha **‘‘idheva samaṇo’’**tiādi. Paripuṇṇasamaṇakaraṇadhammo hi so, yo sabbappakārakāyānupassanānibbattako. Parappavādāti paresaṃ aññatitthiyānaṃ nānappakārā vādā titthāyatanāni.

107. 外道の教えにおいてもこれの一部分が存在し得ることから、「**あらゆる様態の身随観を生じさせる者の**」とすべての様態の把握がなされた。それによって、これらの入出息節などによって説かれた十四の様態、およびそれに含まれる内などの随観の様態、また身至念経において説かれた髪などの色や形を所縁とする四種の禅定の様態、世間などの様態、それらすべてを残らず包摂する。そしてこれらの様態はこの教え(仏教)においてのみ存在し、これの外には存在しないことから、「**あらゆる様態の……〜を排除するものであり**」と説かれた。 そこにおいて「その状態の排除」とは、あらゆる様態の身随観を生じさせる人物にとって、他の教えが拠り所となる状態を排除することである。これによって「比丘たちよ、ここに(この教えにおいて)」における「ここに」という語は、内に「のみ」という意味を含んでいることを示す。実に「風を食す者」のように、限定を伴う単語も存在するからである。それゆえに「**ここにのみ沙門がある**」等と述べた。実に、あらゆる様態の身随観を生じさせる者こそが、完全な沙門を成す法を有する者だからである。「他者の説」とは、他者である他の外道たちの様々な説、異見の拠り所である。

Araññādikasseva bhāvanānurūpasenāsanataṃ dassetuṃ **‘‘imassa hī’’**tiādi vuttaṃ. Duddamo damathaṃ anupagato goṇo kūṭagoṇo. Dohanakāle yathā thanehi anavasesato khīraṃ na paggharati, evaṃ dohapaṭibandhinī kūṭadhenu. Rūpasaddādike paṭicca uppajjanakaassādo rūpārammaṇādiraso. Pubbe āciṇṇārammaṇanti pabbajjāto pubbe, anādimati vā saṃsāre paricitārammaṇaṃ.

森林などがまさに修習に適した住居であることを示すために「**実にこれにとって**」等と説かれた。調御し難く調伏されていない雄牛が悪牛である。搾乳の時に乳房から残らず乳が流れ出ないように、搾乳を妨げるのが悪牝牛である。色や声などに依存して生じる愛楽が、色などの所縁の味わいである。「以前に慣れ親しんだ所縁」とは、出家以前に、あるいは無始の輪廻において親しんだ所縁である。

Nibandheyyāti bandheyya. Satiyāti sammadeva kammaṭṭhānassa sallakkhaṇavasena pavattāya satiyā. Ārammaṇeti kammaṭṭhānārammaṇe. Daḷhanti thiraṃ, yathā satokārissa upacārappanābhedo samādhi ijjhati, tathā thāmagataṃ katvāti attho.

「繋ぎ止めるべし」とは、結びつけるべし。「念によって」とは、業処の正しい識知によって転起した念によって。「所縁において」とは業処の所縁において。「堅固に」とは強固に、念をなす者に近行定や安止定の区分が成就するように、力を得た状態にしてという意味である。

Visesādhigamadiṭṭhadhammasukhavihārapadaṭṭhānanti sabbesaṃ buddhānaṃ, ekaccānaṃ paccekabuddhānaṃ, buddhasāvakānañca visesādhigamassa, aññena kammaṭṭhānena adhigatavisesānaṃ diṭṭhadhammasukhavihārassa ca padaṭṭhānabhūtaṃ. Vatthuvijjācariyo viya bhagavā yogīnaṃ anurūpanivāsaṭṭhānupadisanato. Bhikkhu dīpisadiso araññe ekākī viharitvā paṭipakkhanimmathanena icchitatthasādhanato. Phalamuttamanti sāmaññaphalaṃ sandhāyāha. Parakkamajavayoggabhūminti bhāvanussāhajavassa yoggakaraṇabhūmibhūtaṃ.

「卓越した証得と現法楽住の足場」とは、一切の仏陀、一部の独覚、仏弟子たちの卓越した証得の、また他の業処によって卓越した境地を証得した者たちの現法楽住の足場となったものである。世尊は地相の師のようである。行者たちに適した居住地を指示されるからである。比丘は豹のようである。森の中で独り住し、敵対するものを粉砕することによって望む目的を達成するからである。「最上の果」とは、沙門果を指して述べたものである。「精進の速力を養う地」とは、修習の熱意の速力を適切にする地となったもの。

Assāsapassāsānaṃ vasena sikkhatoti assāsapassāsānaṃ dīgharassatāpajānana-sabbakāyapaṭisaṃvedana-oḷārikoḷārikapaṭippassambhanavasena bhāvanānuyogaṃ sikkhato, tathābhūto vā hutvā tisso sikkhā pavattayato. Assāsapassāsanimitteti assāsapassāsasannissayena upaṭṭhitapaṭibhāganimitte. Assāsapassāse pariggaṇhāti rūpamukhena vipassanaṃ abhinivisanto, yo ‘‘assāsapassāsakammiko’’ti vutto. Jhānaṅgāni pariggaṇhāti arūpamukhena vipassanaṃ abhinivisanto. Vatthu nāma karajakāyo cittacetasikānaṃ pavattiṭṭhānabhāvato. Añño satto vā puggalo vā natthīti visuddhadiṭṭhi ‘‘tayidaṃ dhammamattaṃ na ahetukaṃ, nāpi issarādivisamahetukaṃ, atha kho avijjādīhi eva sahetuka’’nti addhattayepi kaṅkhāvitaraṇena vitiṇṇakaṅkho ‘‘yaṃ kiñci rūpa’’ntiādinā (ma. ni. 1.361; ma. ni. 2.113; ma. ni. 3.86; a. ni. 4.181; paṭi. ma. 1.48) kalāpasammasanavasena tilakkhaṇaṃ āropetvā udayabbayānupassanādivasena vipassanaṃ vaḍḍhento anukkamena maggapaṭipāṭiyā.

「入息と出息によって学ぶ」とは、入息と出息の長短の知覚、全身体験、粗大なものの静止によって修習の専念を学ぶ者、あるいはそのようになって三学を実践する者。「入出息の相において」とは、入出息に依存して現れた似相において。色法を窓口として毘鉢舎那(ヴィパッサナー)に入る者は入出息を把握し、彼は「入出息を作為とする者」と呼ばれる。非色法(名法)を窓口として毘鉢舎那に入る者は禅支を把握する。 「基盤」とは、心と心所の発生の場であることから身体(色身)のことである。「他の有情や人物は存在しない」という清浄な見解を持ち、「この単なる法は無因ではなく、自在神などの不平等な原因によるのでもなく、実に無明などによってまさに有因である」と三世において度疑によって疑惑を超克し、「いかなる色であれ」等と群聚把握によって三相を適用し、生滅随観などによって毘鉢舎那を増大させ、順次に聖道の順序によって進む。

Parassa vā assāsapassāsakāyeti idaṃ sammasanacāravasenāyaṃ pāḷi pavattāti katvā vuttaṃ, samathavasena pana parassa assāsapassāsakāye appanānimittuppatti eva natthīti. Idaṃ ubhayaṃ na labbhatīti ‘‘ajjhattaṃ, bahiddhā’’ti ca vuttaṃ idaṃ dhammadvayaghaṭitaṃ ekato ārammaṇabhāvena na labbhati.

「あるいは他者の入息と出息の身において」とは、これは観察の働きの力によってこの聖典が説かれたものと見なして言われたことであり、止(サマタ)の力によっては他者の入出息の身において安止の相が生じることは決してない。「この両者は得られない」とは、「内に、外に」と説かれたこの二法からなるものは、一つとして所縁の状態では得られないということである。

Samudeti etasmāti samudayo, so eva kāraṇaṭṭhena dhammoti samudayadhammo, assāsapassāsānaṃ pavattihetukarajakāyādi. Tassa anupassanasīlo samudayadhammānupassī. Taṃ pana samudayadhammaṃ upamāmukhena dassento **‘‘yathā nāmā’’**tiādimāha. Tattha bhastanti ruttiṃ. Gaggaranāḷinti ukkāpanāḷiṃ. Teti karajakāyādike. Yathā assāsapassāsakāyo karajakāyādisambandhī phalabhāvena, evaṃ tepi assāsapassāsakāyasambandhino hetubhāvenāti ‘‘samudayadhammā kāyasmi’’nti vattabbataṃ labhantīti vuttaṃ **‘‘samudaya…pe… vuccatī’’**ti. Pakativācī vā dhamma-saddo ‘‘jātidhammāna’’ntiādīsu (ma. ni. 1.131; ma. ni. 3.373; paṭi. ma. 1.33) viyāti kāyassa paccayasamavāye uppajjanapakatikānupassī **‘‘samudayadhammānupassī’’**ti vutto. Tenāha – ‘‘karajakāyañcā’’tiādi. Evañca katvā kāyasminti bhummavacanañca samatthitaṃ hoti. Vayadhammānupassīti ettha ahetukattepi vināsassa yesaṃ hetudhammānaṃ abhāve yaṃ na hoti, tadabhāvo tassa abhāvassa hotu viya voharīyatīti upacārato karajakāyādiabhāvo assāsapassāsakāyassa vayakāraṇaṃ vutto. Tenāha **‘‘yathā bhastāyā’’**tiādi. Ayaṃ tāvettha paṭhamavikappavasena atthavibhāvanā. Dutiyavikappavasena pana upacārena vināyeva attho veditabbo. Ajjhattabahiddhānupassanā viya bhinnavatthuvisayatāya samudayavayadhammānupassanāpi ekakāle na labbhatīti āha **‘‘kālena samudayaṃ kālena vayaṃ anupassanto’’**ti.

これより生起するから「集起(samudaya)」であり、それが原因という意味で「法」であるから「集起法(集法)」であり、入息と出息の生起の原因である身体等である。それを随観する性質の者が「集起法随観者」である。その集起法を譬喩によって示すために「**たとえば**」等と述べた。そこにおいて「ふいご」とは皮袋。「管」とは鍛冶の吹管。「それら」とは身体等のことである。入息と出息の身が身体等に結果として関連しているように、それらもまた入息と出息の身に原因として関連していることから、「身における集起法」と言われるべき状態を得るため、「**集起……〜と呼ばれる**」と説かれた。 あるいは本質を表す「法」の語は「生ずべき本質の」などにおけるように、身の諸条件の集合において生起する本質を観察する者が「**集起法随観者**」と説かれた。それゆえに「身体を〜」等と述べた。このように解釈することで、「身において」という処格(於格)の言葉も適切に成立する。 「壊滅法随観者」について、ここでは無因であるとしても、滅壊はある原因となる諸法が存在しない時に存在しないものであり、その不在がその不在の原因であるかのように仮称されるため、比喩的に身体等の不在が入息と出息の身の壊滅の原因と説かれた。それゆえに「**ふいごが〜のように**」等と述べた。これはまず第一の解釈による意味の解明である。第二の解釈によれば、比喩を用いることなく意味が知られるべきである。内と外の随観のように対象が異なるため、集起法と壊滅法の随観も同一の時には得られないとして、「**時に集起を、時に壊滅を随観しながら**」と述べた。

Atthi kāyoti eva-saddo luttaniddiṭṭhoti **‘‘kāyova atthī’’**ti vatvā avadhāraṇena nivatthitaṃ dassento **‘‘na satto’’**tiādimāha. Tassattho – yo rūpādīsu sattavisattatāya paresañca sajjāpanaṭṭhena, satvaguṇayogato vā **‘‘satto’’**ti parehi parikappito. Tassa sattanikāyassa pūraṇato ca cavanupapajjanadhammatāya galanato ca **‘‘puggalo’’**ti. Thīyati saṃhaññati ettha gabbhoti **‘‘itthī’’**ti. Puri pure bhāge seti pavattatīti **‘‘puriso’’**ti. Āhito ahaṃmāno etthāti **‘‘attā’’**ti, attano santakabhāvena **‘‘attaniya’’**nti. Paro na hotīti katvā **‘‘aha’’**nti, mama santakanti katvā **‘‘mama’’**nti. Vuttappakāravinimutto aññoti katvā **‘‘kocī’’**ti, tassa santakabhāvena **‘‘kassacī’’**ti parikappetabbo koci natthi, kevalaṃ kāyo eva atthīti attattaniyasuññatameva kāyassa vibhāveti. Evanti ‘‘kāyova atthī’’tiādinā vuttappakārena. Ñāṇapamāṇatthāyāti kāyānupassanāñāṇaparaṃ pamāṇaṃ pāpanatthāya. Satipamāṇatthāyāti kāyapariggāhikasatipavattaṃ satiparaṃ pamāṇaṃ pāpanatthāya. Imassa hi vuttanayena ‘‘atthi kāyo’’ti aparāparuppattivasena paccupaṭṭhitā sati bhiyyoso mattāya tattha ñāṇassa satiyā ca paribrūhanāya hoti. Tenāha **‘‘satisampajaññānaṃ vaḍḍhatthāyā’’**ti.

「身がある」における限定の語(eva)は省略されて示されているため、「**身のみが存在する**」と述べ、限定によって除外されたものを示すために「**有情ではなく**」等と述べた。その意味は——色などに執着・固着することによって、また他者を執着させるという意味において、あるいは「サットヴァ(純質)」の徳と結びつくことによって他者から「**有情(サッタ)**」と構想されたもの。その有情の集まりを満たすことから、また死と再生の性質によって流転することから「**人物(プッガラ)**」と。ここに胎児が宿り結合するから「**女**」と。先に、前方において住し振る舞うから「**男**」と。我慢(我の慢心)がここに置かれるから「**我(アッター)**」と、自己の所有である状態によって「**我がもの(アッタニヤ)**」と。他者ではないとして「**私**」と、私の所有であるとして「**私のもの**」と。説かれた様態を離れた別のものであるとして「**誰か**」と、その所有である状態によって「**誰かの**」と、構想されるべき何者も存在せず、ただ身のみが存在すると、身における我と我がものの空性のみを明らかにする。 「このように」とは、「身のみが存在する」等と説かれた様態によって。「智の分量のために」とは、身随観の智を究極の量に到達させるために。「念の分量のために」とは、身を把握する念の働きを究極の量に到達させるために。実にこの説かれた論法によって「身がある」と次々に生じることによって現起した念は、そこにおける智と念をますます増大させることになる。それゆえに「**正念と正知を増大させるために**」と述べた。

Imissā bhāvanāya taṇhādiṭṭhigāhānaṃ ujupaṭipakkhattā vuttaṃ **‘‘taṇhā…pe… viharatī’’**ti. Tathābhūto ca loke kiñci ‘‘aha’’nti vā ‘‘mama’’nti vā gahetabbaṃ na passati, kuto gaṇheyya. Tenāha **‘‘na ca kiñcī’’**tiādi. Evampīti ettha pi-saddo heṭṭhā niddiṭṭhassa tādisassa atthassa abhāvato avuttasamuccayatthoti dassento **‘‘upari atthaṃ upādāyā’’**ti āha. **‘‘Eva’’**nti pana niddiṭṭhākārassa paccāmasanaṃ nigamanavasena katanti āha **‘‘iminā pana…pe… dassetī’’**ti. Pubbabhāgasatipaṭṭhānassa idhādhippetattā vuttaṃ **‘‘sati dukkhasacca’’**nti. Sā pana sati yasmiṃ attabhāve, tassa samuṭṭhāpikā taṇhā tassāpi samuṭṭhāpikā eva nāma hoti tadabhāve abhāvatoti āha **‘‘tassā samuṭṭhāpikā purimataṇhā’’**ti. Appavattīti appavattinimittaṃ, na pavattati etthāti vā appavatti. Catusaccavasenāti catusaccakammaṭṭhānavasena. Ussakkitvāti visuddhiparamparāya āruhitvā, bhāvanaṃ upari netvāti attho. Niyyānamukhanti vaṭṭadukkhato nissaraṇūpāyo.

この修習は渇愛や見解の執着に直接に対立するものであるため、「**渇愛……〜住する**」と説かれた。そしてそのようになった者は、世間において何一つ「私」あるいは「私のもの」と執着すべきものを見ず、どうして執着するだろうか。それゆえに「**何ものも〜ない**」等と述べた。「このように〜も」における「も」の語は、下で示されたそのような意味が存在しないことから、説かれていないものの集約の意味であると示すために「**上の意味に基づいて**」と述べた。一方、「**このように**」とは、示された様態を結論づけることによって言及されたものであるとして、「**しかしこれによって……〜を示す**」と述べた。 ここでは前段階の念処が意図されているため、「**念は苦諦である**」と説かれた。そしてその念が存在する個体において、それを起こさせる渇愛は念をも起こさせるものとなる。それ(渇愛)がない時には存在しないからであるとして、「**それを起こさせる以前の渇愛**」と述べた。「不転起」とは不転起の原因、あるいはこれにおいて生起しないから不転起。「四諦の力によって」とは四諦の業処の力によって。「進展して」とは清浄の階梯に登って、修習を上へと導いてという意味である。「出離の門」とは輪廻の苦からの脱出の手段である。

Ānāpānapabbavaṇṇanā niṭṭhitā.

入出息節の注釈が終了した。

Iriyāpathapabbavaṇṇanā

威儀節の注釈

108. Iriyāpathavasenāti iriyanaṃ iriyā, kiriyā, idha pana kāyikapayogo veditabbo. Iriyānaṃ patho pavattimaggoti iriyāpatho, gamanādisarīrāvatthā. Gacchanto vā hi satto kāyena kattabbakiriyaṃ kareyya ṭhito vā nisinno vā nipanno vāti. Tesaṃ vasena, iriyāpathavibhāgenāti attho. Puna caparanti puna ca aparaṃ, yathāvuttaānāpānakammaṭṭhānato bhiyyopi aññaṃ kāyānupassanākammaṭṭhānaṃ kathemi, suṇāthāti vā adhippāyo. Gacchanto vātiādi gamanādimattajānanassa gamanādigatavisesajānanassa ca sādhāraṇavacanaṃ. Tattha gamanādimattajānanaṃ idha nādhippetaṃ, gamanādigatavisesajānanaṃ pana adhippetanti taṃ vibhajitvā dassetuṃ **‘‘tattha kāma’’**ntiādi vuttaṃ. Sattūpaladdhinti satto atthīti upaladdhiṃ sattaggāhaṃ na jahati na pariccajati ‘‘ahaṃ gacchāmi, mama gamana’’nti gāhasabbhāvato. Tato eva attasaññaṃ ‘‘atthi attā kārako vedako’’ti evaṃ pavattaṃ viparītasaññaṃ na ugghāṭeti nāpaneti apaṭipakkhabhāvato, ananabrūhanato vā. Evaṃ bhūtassa cassa kuto kammaṭṭhānādibhāvoti āha **‘‘kammaṭṭhānaṃ vā satipaṭṭhānabhāvanā vā na hotī’’**ti. Imassa panātiādisukkapakkhassa vuttavipariyāyena attho veditabbo. Tameva hi atthaṃ vivarituṃ **‘‘idaṃ hī’’**tiādi vuttaṃ. Tattha ko gacchatīti gamanakiriyāya kattupucchā, sā kattubhāvavisiṭṭhaattapaṭikkhepatthā dhammamattasseva gamanasiddhidassanato. Kassa gamananti akattutāvisiṭṭhaattaggāhapaṭikkhepatthā. Kiṃkāraṇāti pana paṭikkhittakattukāya gamanakiriyāya aviparītakāraṇapucchā ‘‘gamananti attā manasā saṃyujjati, mano indriyehi, indriyāni attehī’’ti evamādigamanakāraṇapaṭikkhepanato. Tenāha **‘‘tatthā’’**tiādi.

108. 「威儀の力によって」とは、振る舞うことが威儀、働きであり、ここでは身体的な働きと知られるべきである。振る舞いの道、機能の道が威儀であり、行くことなどの身体の状態である。実に有情は行きながら、あるいは立ちながら、あるいは座りながら、あるいは横たわりながら、体によってなされるべき行為を行うであろう。それらの力によって、威儀の分別によってという意味である。「さらにまた」とは、さらにまた別のものであり、説かれた入出息の業処からさらに別の身随観の業処を私は説く、聞きなさいという意図である。「行くとき」等は、行くことなどを単に知ることと、行くことなどに含まれる特徴を知ることの双方に共通する言明である。 そこにおいて、単に行くことなどを知ることはここでは意図されておらず、行くことなどに含まれる特徴を知ることが意図されているため、それを分別して示すために「**そこにおいて確かに**」等と説かれた。「有情という認知」とは、有情が存在するという認知、有情の執着を捨てず、放棄しないことである。「私が行く、私の歩行である」という執着が存在するからである。それゆえに「我という想」、すなわち「行為し感受する我が存在する」とこのように生じた転倒した想を打破せず、除去しない。対立するものがないから、あるいは育てていないからである。そしてこのようになった者に、どうして業処などの状態があるだろうかとして、「**業処あるいは念処の修習とはならない**」と述べた。 「しかしこれにとって」等の白法(善法)の側は、説かれたことの反対によって意味が知られるべきである。実にその意味を明かすために「**実にこれは**」等と説かれた。そこにおいて「誰が行くのか」とは、歩行の行為における作者の問いであり、それは作者の状態として際立つ我を否定するためのものである。単なる法のみの歩行の成立を示すからである。「誰の歩行か」とは、無作法として際立つ我の執着を否定するためのものである。「いかなる原因によってか」とは、作者を否定された歩行の行為の無謬の原因の問いである。「歩行とは、我が意と結合し、意が諸根と、諸根が対象と結合することである」というような歩行の原因を否定するためである。それゆえに「**そこにおいて**」等と述べた。

Na koci satto vā puggalo vā gacchati dhammamattasseva gamanasiddhito tabbinimuttassa ca kassaci abhāvato. Idāni dhammamattasseva gamanasiddhiṃ dassetuṃ **‘‘cittakiriyavāyodhātuvipphārenā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha cittakiriyā ca sā vāyodhātuyā vipphāro vipphandanañcāti cittakiriyavāyodhātuvipphāro, tena. Ettha ca cittakiriyaggahaṇena anindriyabaddhavāyodhātuvipphāraṃ nivatteti, vāyodhātuvipphāraggahaṇena cetanāvacīviññattibhedaṃ cittakiriyaṃ nivatteti, ubhayena pana kāyaviññattiṃ vibhāveti. **‘‘Gacchatī’’**ti vatvā yathā pavattamāne kāye ‘‘gacchatī’’ti vohāro hoti, taṃ dassetuṃ **‘‘tasmā’’**tiādi vuttaṃ. Tanti gantukāmatāvasena pavattacittaṃ. Vāyaṃ janetīti vāyodhātuadhikaṃ rūpakalāpaṃ janeti, adhikatā cettha sāmatthiyato, na pamāṇato. Gamanacittasamuṭṭhitaṃ sahajātarūpakāyassa thambhanasandhāraṇacalanānaṃ paccayabhūtena ākāravisesena pavattamānaṃ vāyodhātuṃ sandhāyāha **‘‘vāyo viññattiṃ janetī’’**ti. Adhippāyasahabhāvī hi vikāro viññatti, yathāvuttaadhikabhāveneva ca vāyogahaṇaṃ, na vāyodhātuyā eva janakabhāvato, aññathā viññattiyā upādāyarūpabhāvo durupapādo siyā. Purato abhinīhāro puratobhāgena kāyassa pavattanaṃ, yo ‘‘abhikkamo’’ti vuccati.

いかなる有情も人物も行かない。単なる法のみの歩行が成立することから、またそれを離れた何者も存在しないからである。今や単なる法のみの歩行の成立を示すために「**心を作因とする風界の散開によって**」等と説かれた。そこにおいて、心の働きであり、かつ風界の散開・活動であるから「心作因風界散開」であり、それによってである。そしてここにおいて「心の働き」の把握によって諸根に結びついていない風界の散開を除外視し、「風界の散開」の把握によって思・語表色に分かれる心の働きを除外し、両者によって身表色を明らかにする。 「**行く**」と述べて、どのように生起している身体において「行く」という世俗表現が成り立つのか、それを示すために「**それゆえに**」等と説かれた。「それを」とは、行こうと望むことによって生じた心を。「風を生じる」とは、風界が優勢な色聚を生じることであり、ここでの優勢とは効力によるものであり、分量によるものではない。歩行の心から生じ、倶生の色身の支持・保持・運動の条件となった特別な様相によって生起している風界を指して「**風が表色を生じる**」と述べた。意図に伴って生じる変化が表色であり、説かれた優勢な状態によってのみ風の把握がなされ、風界のみが生じるわけではない。さもなければ表色が所造色である状態を証明することが困難になるからである。「前方への推進」とは、前方の部分へと身体が生起していくことであり、それは「前進」と呼ばれる。

‘‘Eseva **nayo’’**ti atidesavasena saṅkhepato vatvā tamevatthaṃ vivarituṃ **‘‘tatrāpi hī’’**tiādi vuttaṃ. Koṭito paṭṭhāyāti heṭṭhimakoṭito paṭṭhāya. Ussitabhāvoti ubbiddhabhāvo.

「**これがその論法である**」と準用によって簡潔に述べて、まさにその意味を明かすために「**そこにおいても実に**」等と説かれた。「端から」とは、下の端から。「直立した状態」とは、高くまっすぐに立った状態である。

Evaṃ pajānatoti evaṃ cittakiriyavāyodhātuvipphāreneva gamanādibhāvo hotīti pajānato tassa evaṃ pajānanāya nicchayagamanatthaṃ **‘‘evaṃ hotī’’**ti vicāraṇā vuccati loke yathābhūtaṃ ajānantehi micchābhinivesavasena, lokavohāravasena vā. Atthi panāti attano eva vīmaṃsanavasena pucchāvacanaṃ. Natthīti nicchayavasena sattassa paṭikkhepavacanaṃ. Yathā panātiādi tassevatthassa upamāya vibhāvanaṃ.

「このように知る者にとって」とは、このように心を作因とする風界の散開によってのみ歩行などの状態がある、と知るその者にとって、このように知ることによって確信に至るための「**このようになる**」という考察が、世間において如実に知らない者たちによって誤った執着によって、あるいは世間の慣習によって言われる。「しかし存在するのか」とは、自己の吟味による問いの言葉である。「存在しない」とは、確信による有情の否定の言葉である。「しかし〜のように」等は、まさにその意味を譬喩によって明らかにすることである。

Nāvā mālutavegenāti yathā acetanā nāvā vātavegena desantaraṃ yāti, yathā ca acetano tejanaṃ kaṇḍo jiyāvegena desantaraṃ yāti, tathā acetano kāyo vātāhato yathāvuttavāyunā nīto desantaraṃ yātīti evaṃ upamāsaṃsandanaṃ veditabbaṃ. Sace pana koci vadeyya ‘‘yathā nāvāya tejanassa ca pellakassa purisassa vasena desantaragamanaṃ, evaṃ kāyassāpī’’ti, hotu, evaṃ icchitovāyamattho. Yathā hi nāvā tejanānaṃ saṃhatalakkhaṇasseva purisassa vasena gamanaṃ, na asaṃhatalakkhaṇassa, evaṃ kāyassāpīti kā no hāni, bhiyyopi dhammamattatāva patiṭṭhaṃ labhati, na purisavādo. Tenāha **‘‘yantaṃ suttavasenā’’**tiādi.

「船が風の勢いによって」とは、心のない船が風の勢いによって他所へ行くように、また心のない矢が弓弦の勢いによって他所へ行くように、そのように心のない身体が風に打たれ、説かれた風によって運ばれて他所へ行く、とこのように譬喩の照合が知られるべきである。しかしもし誰かが「船や矢を推進する人の力によって他所への移動があるように、身体にもそうである」と言うなら、よい、そのように望まれたまさにその意味である。実に船や矢の移動が、結合した特徴を持つ人によるものであり、結合していない特徴を持つ人によるのではないように、身体にもそうであるとするなら、我らに何の不都合があろうか。いっそう単なる法の状態のみが根拠を得るのであり、霊魂論(個我説)が得るのではない。それゆえに「**からくり人形が糸の力によって**」等と述べた。

Tattha payuttanti heṭṭhā vuttanayena gamanādikiriyāvasena payojitaṃ. Ṭhātīti tiṭṭhati. Etthāti imasmiṃ loke. Vinā hetupaccayeti gantukāmatācitta-taṃsamuṭṭhāna-vāyodhātu-ādihetupaccayehi vinā. Tiṭṭheti tiṭṭheyya. Vajeti vajeyya gaccheyya ko nāmāti sambandho. Paṭikkhepattho cettha kiṃ-saddoti hetupaccayavirahena ṭhānagamanapaṭikkhepamukhena sabbāyapi dhammappavattiyā paccayādhīnavuttitāvibhāvanena attasuññatā viya aniccadukkhatāpi vibhāvitāti daṭṭhabbā.

そこにおいて「作動させられた」とは、下で説かれた論法によって歩行などの行為によって用いられた。「留まる」とは、立つ。「ここに」とは、この世において。「原因と条件なしに」とは、行こうと望む心、それによって生じた風界などの原因と条件なしに。「留まるだろうか」とは、立つだろうか。「歩むだろうか」とは、歩むだろうか、誰が行くだろうか、という文脈の結びつきである。そしてここでの「誰(kiṃ)」という語は否定の意味であり、原因と条件の欠如による静止と歩行の否定を通じて、すべての法の生起が条件に依存して機能することを示すことによって、我の空性と等しく、無常性と苦性もまた明らかにされたと見なされるべきである。

Paṇihitoti yathā yathā paccayehi pakārato nihito ṭhapito. Sabbasaṅgāhikavacananti sabbesaṃ catunnampi iriyāpathānaṃ saṅgaṇhanavacanaṃ, pubbe visuṃ visuṃ iriyāpathānaṃ vuttattā idaṃ tesaṃ ekajjhaṃ gahetvā vacananti attho. Purimanayo vā iriyāpathappadhāno vuttoti tattha kāyo appadhāno anunipphādīti idha kāyaṃ padhānaṃ appadhānañca iriyāpathaṃ anunipphādaṃ katvā dassetuṃ dutiyanayo vuttoti evampettha dvinnaṃ nayānaṃ viseso veditabbo. Ṭhitoti pavatto.

「配置された」とは、諸条件によってそれぞれの様態で据え置かれ、置かれた。「すべてを包摂する言葉」とは、四つの威儀すべてを包摂する言葉であり、以前には別々に威儀が説かれていたため、これはそれらを一括して捉えた言葉であるという意味である。あるいは、前の論法は威儀が主として説かれており、そこでは身体は主たるものではなく副次的に生じるものであるため、ここでは身を主とし、威儀を主ではない副次的なものとして示すために第二の論法が説かれたと、このようにここにおける二つの論法の相違が知られるべきである。「立った」とは、生起した。

Iriyāpathapariggaṇhanampi iriyāpathavato kāyasseva pariggaṇhanaṃ tassa avatthāvisesabhāvatoti vuttaṃ **‘‘iriyāpathapariggahaṇena kāye kāyānupassī viharatī’’**ti. Tenevettha rūpakkhandhavaseneva samudayādayo uddhaṭā. Esa nayo sesavāresupi. Ādināti ettha ādi-saddena yathā ‘‘taṇhāsamudayā kammasamudayā āhārasamudayā’’ti nibbattilakkhaṇaṃ passantopi rupakkhandhassa udayaṃ passatīti ime cattāro āhārā saṅgayhanti, evaṃ ‘‘avijjānirodhā rūpanirodhā’’tiādayopi pañca ākārā saṅgahitāti daṭṭhabbo. Sesaṃ vuttanayameva.

威儀を把握することもまた、威儀を持つ身そのものの把握である。それは身の特別な状態であるからであるとして、「**威儀の把握によって身において身を随観して住する**」と説かれた。それゆえにここでは色蘊の力によってのみ集起等が抽出されている。この論法は残りの節においても同様である。「等」によって、ここでは「等の語によって、『渇愛の集起によって、業の集起によって、食の集起によって』と生起の特徴を見る者も色蘊の生起を見る」とこれら四つの食(食物)が包摂されるように、「無明の滅によって、色の滅によって」などの五つの様態も包摂されていると見なされるべきである。残りは説かれた通りの論法である。

Iriyāpathapabbavaṇṇanā niṭṭhitā.

威儀節の注釈が終了した。

Catusampajaññapabbavaṇṇanā

四正知節の注釈

109. Catusampajaññavasenāti (dī. ni. ṭī. 1.284; saṃ. ni. 5.368; dī. ni. abhi. ṭī. 2.214) samantato pakārehi, pakaṭṭhaṃ vā savisesaṃ jānātīti sampajāno, sampajānassa bhāvo sampajaññaṃ, tathāpavattaṃ ñāṇaṃ. Cattāri sampajaññāni samāhaṭāni catusampajaññaṃ, tassa vasena. Abhikkamanaṃ abhikkantanti āha **‘‘abhikkantaṃ vuccati gamana’’**nti. Tathā paṭikkamanaṃ paṭikkantanti āha **‘‘paṭikkantaṃ vuccati nivattana’’**nti. Nivattananti ca nivattimattaṃ, nivattitvā pana gamanaṃ gamanameva. Abhiharantoti gamanavasena kāyaṃ upanento.

109. 「四正知の力によって」とは、あらゆる様態において、あるいは卓越して詳細に知るから「正知の者(sampajāna)」であり、正知の者の状態が「正知(sampajañña)」、そのように生起した智慧である。四つの正知が集められたものが「四正知」であり、その力によって。「前進すること」が前進であるとして「**前進とは歩行をいう**」と述べた。同様に「後退すること」が後退であるとして「**後退とは引き返すことをいう**」と述べた。「引き返すこと」とは単に戻ることであり、戻った上での歩行はまさに歩行である。「進み出ながら」とは、歩行によって身体を運ぶこと。

Sammā pajānanaṃ sampajānaṃ, tena attanā kātabbassa karaṇasīlo sampajānakārīti āha **‘‘sampajaññena sabbakiccakārī’’**ti. Sampajānasaddassa sampajaññapariyāyatā pubbe vuttāyeva. Sampajaññaṃ karotevāti abhikkantādīsu asammohaṃ uppādeti eva. Sampajānassa vā kāro etassa atthīti sampajānakārī. Dhammato vaḍḍhisaṅkhātena saha atthena pavattatīti sātthakaṃ, abhikkantādi. Sātthakassa sampajānanaṃ sātthakasampajaññaṃ. Sappāyassa attano upakārāvahassa hitassa sampajānanaṃ sappāyasampajaññaṃ abhikkamādīsu bhikkhācāragocare, aññatthāpi ca pavattesu avijahite kammaṭṭhānasaṅkhāte gocare sampajaññaṃ gocarasampajaññaṃ. Abhikkamādīsu asammuyhanameva sampajaññaṃ asammohasampajaññaṃ. Pariggaṇhitvāti paṭisaṅkhāya.

正しく知ることが正知(sampajāna)であり、それによって自らなすべきことを行う性質の者が正知を作す者(sampajānakārī)であるとして、「**正知によって一切の務めを行う者**」と述べた。sampajānaという語がsampajaññaの同義語であることは既に述べられた通りである。「正知をまさに作す」とは、前進等において不迷妄をまさに生じさせることである。あるいは正知の振る舞いがこの者にあるから「正知を作す者」である。法による増益という義(利益)とともに生起するものが「有益」であり、前進等のことである。有益なことを正知するのが「有益正知」である。適したこと、自己に援助をもたらす有益なことを正知するのが「適不適正知」であり、前進等における托鉢の境域において、また他の場所においても転起する、手放されない業処という境域における正知が「境域正知」である。前進等において迷妄しないことそのものが「不迷妄正知」である。「把握して」とは、熟慮して。

Tasminti sātthakasampajaññavasena pariggahitaatthe. Attho nāma dhammato vaḍḍhīti yaṃ sātthakanti adhippetaṃ gamanaṃ, taṃ sappāyamevāti siyā kassaci āsaṅkāti tannivattanatthaṃ **‘‘cetiyadassanaṃ tāvā’’**tiādi āraddhaṃ. Cittakammarūpakāni viyāti cittakammakatapaṭimāyo viya, yantapayogena vā vicittakammapaṭimāyo viya. Asamapekkhanaṃ gehasitaaññāṇupekkhāvasena ārammaṇassa ayoniso gahaṇaṃ. Yaṃ sandhāya vuttaṃ ‘‘cakkhunā rūpaṃ disvā uppajjati upekkhā bālassa mūḷhassa puthujjanassā’’tiādi (ma. ni. 3.308). Hatthiādisammaddena jīvitantarāyo, visabhāgarūpadassanādinā brahmacariyantarāyo.

「それにおいて」とは、有益正知の力によって把握された利益において。利益とは法による増益であるから、有益であると意図された歩行はまさに適したものである、という疑念が誰かに生じるかもしれないので、それを払拭するために「**まず塔の拝観について**」等と始めた。「絵画の像のように」とは、絵画によって描かれた像のように、あるいはからくりの仕掛けによる色彩豊かな像のように。「等閑視」とは、在家に執着した無知の捨の力によって所縁を不作意に捉えることである。「眼によって色を見て、愚かで迷妄した凡夫に捨が生じる」等と指して説かれたものである。象などの衝突によって生命の障害があり、不相応な姿を見ることなどによって清浄行の障害がある。

Pabbajitadivasato paṭṭhāya bhikkhūnaṃ anuvattanakathā āciṇṇā, ananuvattanakathā pana tassā dutiyā nāma hotīti āha **‘‘dve kathā nāma na kathitapubbā’’**ti.

出家した日から、比丘たちには追従する話が習慣となっており、追従しない話はそれに対する第二のものとなるため、「**二つの話は以前に語られたことがない**」と述べた。

Evanti ‘‘sace panā’’tiādikaṃ sabbampi vuttākāraṃ paccāmasati, na ‘‘purisassa mātugāmāsubha’’ntiādikaṃ vuccamānaṃ. Yogakammassa pavattiṭṭhānatāya bhāvanāya ārammaṇaṃ kammaṭṭhānanti vuccatīti āha **‘‘kammaṭṭhānasaṅkhātaṃ gocara’’**nti. Uggahetvāti yathā uggahanimittaṃ uppajjati, evaṃ uggahakosallassa sampādanavasena uggahetvā. Haratīti kammaṭṭhānaṃ pavatteti, yāva piṇḍapātapaṭikkamā anuyuñjatīti attho. Na paccāharatīti āhārūpabhogato yāva divāṭṭhānupasaṅkamanā kammaṭṭhānaṃ na paṭineti.

「このように」とは、「しかしもし」等と説かれたすべての様態を指し、「男にとって女は不浄である」等と語られるべきものを指すのではない。修行の行(ヨーガ)の活動の場であることから修習の所縁が業処と呼ばれるとして、「**業処と呼ばれる境域を**」と述べた。「把握して」とは、取相が生じるように、把握の巧みさを成就することによって把握して。「運ぶ」とは、業処を転起させる、托鉢からの帰還に至るまで修習を継続するという意味である。「持ち帰らない」とは、食事の受用から昼の滞在処に赴くまでの間、業処を回収しないことである。

Sarīraparikammanti mukhadhovanādisarīrapaṭijagganaṃ. Dve tayo pallaṅketi dve tayo nisajjāvāre, dve tīṇi uṇhāsanāni. Tenāha **‘‘usumaṃ gāhāpento’’**ti. Kammaṭṭhānasīsenevāti kammaṭṭhānaggeneva, kammaṭṭhānaṃ padhānaṃ katvā evāti attho. Tena ‘‘pattopi acetano’’tiādinā (ma. ni. aṭṭha. 1.109) vakkhamānaṃ kammaṭṭhānaṃ, yathāparihariyamānaṃ vā avijahitvāti dasseti. ‘‘Paribhogacetiyato sarīracetiyaṃ garutara’’nti katvā **‘‘cetiyaṃ vanditvā’’**ti pubbakālakiriyāvasena vuttaṃ. Tathā hi aṭṭhakathāyaṃ (vibha. aṭṭha. 809; ma. ni. aṭṭha. 3.128; a. ni. aṭṭha. 1.1.275) ‘‘cetiyaṃ bādhayamānā bodhisākhā haritabbā’’ti vuttā.

「身の繕い」とは、顔を洗うことなどの身の手入れである。「二、三の結跏趺坐において」とは、二、三回の坐禅の機会において、二、三の温かい座において。それゆえに「**温もりを取らせながら**」と述べた。「業処を首魁としてまさに」とは、業処を最優先として、業処を主としてまさに、という意味である。これによって「鉢もまた心なきものである」等と後述される業処を、あるいは受持されている通りに手放さずに、と示す。「受用仏塔よりも身仏塔(生身の遺骨の塔)のほうが重い」として、「**塔を礼拝して**」と前の時間の行為として説かれた。実に義注において「塔を害する菩提樹の枝は取り除かれるべきである」と説かれているからである。

Janasaṅgahatthanti ‘‘mayi akathente etesaṃ ko kathessatī’’ti dhammānuggahena janasaṅgahatthaṃ. Tasmāti. Yasmā ‘‘dhammakathā nāma kathetabbāyevā’’ti aṭṭhakathācariyā vadanti, yasmā ca dhammakathā kammaṭṭhānavinimuttā nāma natthi, tasmā. Anumodanaṃ katvāti etthāpi ‘‘kammaṭṭhānasīsenevā’’ti ānetvā sambandho. Sampattaparicchedenevāti ‘‘paricito aparicito’’tiādivibhāgaṃ akatvā sampattakoṭiyāva. Bhayeti paracakkādibhaye.

「人々の教化のために」とは、「私が語らなければ、彼らに誰が語るだろうか」と法の恩恵によって人々を教化するため。「それゆえに」とは。「法話とはまさに語られるべきものである」と義注の師たちが述べており、また法話は業処を離れたものは存在しないためである。「随喜を行って」とは、ここにおいても「業処を首魁としてまさに」と引き寄せて結びつける。「やって来た順序の通りにまさに」とは、「親しい、親しくない」などの分別をなさず、やって来た極限においてまさに。「恐怖において」とは、敵軍などの恐怖において。

Kammajatejoti gahaṇiṃ sandhāyāha. Kammaṭṭhānavīthiṃ nārohati khudāparissamena kilantakāyattā samādhānābhāvato. Avasesaṭṭhāneti yāguyā aggahitaṭṭhāne. Poṅkhānupoṅkhanti kammaṭṭhānupaṭṭhānassa avicchedadassanavacanametaṃ, yathā poṅkhānupoṅkhapavattāya sarapaṭipāṭiyā avicchedo, evametassāpīti.

「業生の熱」とは、消化器(腹中の火)を指して述べた。業処の軌道に乗らないのは、飢えと疲労によって身体が疲弊し、精神の統一がないからである。「残りの場所において」とは、粥を受け取らなかった場所において。「矢継ぎ早に」とは、業処の現起が途切れないことを示す言葉である。矢継ぎ早に放たれる矢の連続に途切れがないように、この者にもそうである、ということである。

Nikkhittadhuro bhāvanānuyoge. Vattapaṭipattiyā apūraṇena sabbavatthāni bhinditvā. ‘‘Kāme avītarāgo hoti, kāye avītarāgo, rūpe avītarāgo, yāvadatthaṃ udarāvadehakaṃ bhuñjitvā seyyasukhaṃ passasukhaṃ middhasukhaṃ anuyutto viharati, aññataraṃ devanikāyaṃ paṇidhāya brahmacariyaṃ caratī’’ti (dī. ni. 3.320; ma. ni. 1.186) evaṃ vutta pañcavidhacetokhilavinibandhacitto. Caritvāti pavattitvā.

「重荷を降ろした」とは、修習の専念において。「義務と実践の不履行によってすべての衣を破って」とは。「欲望において貪りを離れず、身体において貪りを離れず、色において貪りを離れず、腹いっぱい満腹になるまで食べて、横たわる快楽、触れ合う快楽、睡眠の快楽に耽って住し、いずれかの天界の群れを願って清浄行を実践する」とこのように説かれた五種の心荒廃の結縛を持つ心である。「歩んで」とは、生起して。

Attakāmāti attano hitasukhaṃ icchantā, dhammacchandavantoti attho. Dhammoti hi hitaṃ, tannimittakañca sukhanti. Atha vā viññūnaṃ nibbisesattā attabhāvapariyāpannattā ca attā nāma dhammo, taṃ kāmenti icchantīti attakāmā. Usabhaṃ nāma vīsati yaṭṭhiyo. Tāya saññāyāti tāya pāsāṇasaññāya, ettakaṃ ṭhānaṃ āgatāti jānantāti adhippāyo. Soyeva nayoti ‘‘ayaṃ bhikkhū’’tiādiko yo ṭhāne vutto, so eva nisajjāyapi nayo. Pacchato āgacchantānaṃ chinnabhattabhāvabhayenapi yonisomanasikāraṃ paribrūheti.

「自己を愛する者たち」とは、自己の利益と幸福を望む者たち、法への意欲を持つ者たちという意味である。法とは利益であり、それを因とする幸福だからである。あるいは、賢者たちにとって無差別であり、個体に含まれることから、自己とは法のことである。それを愛する、望む者たちであるから自己を愛する者たちである。「ウサバ(牛軛長)」とは二十尋(やっち)である。「その想いによって」とは、その岩の想いによって、これほどの場所に来たと知る者たち、という意図である。「まさにその論法である」とは、「この比丘は」等と立つことにおいて説かれたものが、まさに坐ることにおいてもその論法である。後ろから来る者たちにとって食事が断たれる状態への恐れによっても、如理作意を増大させる。

Bahāpadhānaṃ pūjessāmīti amhākaṃ atthāya lokanāthena cha vassāni kataṃ dukkaracariyaṃ evāhaṃ yathāsatti pūjessāmīti. Paṭipattipūjā hi satthupūjā, na āmisapūjā. Ṭhānacaṅkamanamevāti adhiṭṭhātabbairiyāpathavasena vuttaṃ, na bhojanādikālesu avassaṃ kattabbanisajjāya paṭikkhepavasena.

「大いなる正勤を供養しよう」とは、我らのために世の救い主によって六年間なされた難行を、まさに私は全力を尽くして供養しよう、ということである。実に実践の供養こそが師への供養であり、物質の供養ではない。「立つことと歩行のみを」とは、決意されるべき威儀の力によって説かれたものであり、食事などの時に必ずなされるべき坐ることを否定する力によるのではない。

Vīthiṃ otaritvā ito cito ca anoloketvā paṭhamameva vīthiyo sallakkhetabbāti āha **‘‘vīthiyo sallakkhetvā’’**ti. Yaṃ sandhāya vuccati ‘‘pāsādikena abhikkantenā’’ti, taṃ dassetuṃ **‘‘tattha cā’’**tiādi vuttaṃ.

通りに入ってあちこちを見回すことなく、最初から通りを観察すべきであるとして、「**通りを観察して**」と述べた。「端正な前進によって」と指して言われることを示すために「**そしてそこにおいて**」等と説かれた。

Paccekabodhiṃ sacchikaroti, yadi upanissayasampanno hotīti sambandho. Evaṃ sabbattha ito paresupi. Tattha paccekabodhiyā upanissayasampadā kappānaṃ dve asaṅkhyeyyāni satasahassañca tajjaṃ puññañāṇasambharaṇaṃ, sāvakabodhiyaṃ aggasāvakānaṃ ekaṃ asaṅkhyeyyaṃ kappasatasahassañca, mahāsāvakānaṃ kappasatasahassameva, itaresaṃ atītāsu jātīsu vivaṭṭasannissayavasena nibbattitaṃ nibbedhabhāgiyaṃ kusalaṃ. Bāhiyo dārucīriyoti bahi visaye sañjātasaṃvaḍḍhatāya bāhiyo, dārucīrapariharaṇena dārucīriyoti ca samaññāto. So hi āyasmā –

「独覚の悟りを現証する」とは、もし資糧(条件)が整っているなら、と結びつく。このようにこれ以降のすべてにおいても同様である。そこにおいて、独覚の悟りの資糧の成就とは、二阿僧祇と十万劫の間、それ相応の福徳と智慧を積集することであり、声聞の悟りにおいては、上首弟子たちは一阿僧祇と十万劫、大弟子たちは十万劫であり、その他の者たちは過去世において解脱への依存の力によって生じた、決択分に属する善根である。 「バーヒヤ・ダールチーリヤ」とは、外の地方において生まれ育ったことからバーヒヤ(外のもの)、樹皮の衣を身にまとっていたことからダールチーリヤ(樹皮衣の者)と通称された。実にその尊者は——

‘‘Tasmā tiha te, bāhiya, evaṃ sikkhitabbaṃ ‘diṭṭhe diṭṭhamattaṃ bhavissati, sute… mute… viññāte viññātamattaṃ bhavissatī’ti. Yato kho te, bāhiya, diṭṭhe diṭṭhamattaṃ bhavissati, sute… mute… viññāte viññātamattaṃ bhavissati, tato tvaṃ, bāhiya, na tena. Yato tvaṃ, bāhiya, na tena, tato tvaṃ, bāhiya, na tattha. Yato tvaṃ, bāhiya, na tattha, tato tvaṃ, bāhiya, nevidha na huraṃ na ubhayamantarena, esevanto dukkhassā’’ti (udā. 10) – ettakāya desanāya arahattaṃ sacchākāsi.

「それゆえにバーヒヤよ、汝はこのように学ぶべきである。『見られたものには見られたもののみがあるであろう。聞かれたものには……嗅がれ・味わわれ・触れられたものには……識知されたものには識知されたもののみがあるであろう』と。バーヒヤよ、汝にとって見られたものに見られたもののみがあり、聞かれたものに……嗅がれ・味わわれ・触れられたものに……識知されたものに識知されたもののみがある時、バーヒヤよ、それゆえに汝はそれによって(貪り等に染まることは)ない。バーヒヤよ、汝がそれによってない時、それゆえに汝はそこに(執着して)ない。バーヒヤよ、汝がそこにない時、それゆえに汝はここにも、向こうにも、その両者の間にもない。これこそが苦の終尽である」というこれだけの教示によって阿羅漢果を現証した。

Tanti asammuyhanaṃ. Evanti idāni vuccamānākārena veditabbaṃ. Attā abhikkamatīti iminā andhaputhujjanassa diṭṭhiggāhavasena abhikkame sammuyhanaṃ dasseti, ahaṃ abhikkamāmīti pana iminā mānaggāhavasena, tadubhayaṃ pana taṇhāya vinā na hotīti taṇhāggāhavasenapi sammuyhanaṃ dassitameva hoti. **‘‘Tathā asammuyhanto’’**ti vatvā taṃ asammuyhanaṃ yena ghanavinibbhogena hoti, taṃ dassento **‘‘abhikkamāmī’’**tiādimāha. Tattha yasmā vāyodhātuyā anugatā tejodhātu uddharaṇassa paccayo. Uddharaṇagatikā hi tejodhātūti uddharaṇe vāyodhātuyā tassā anugatabhāvo, tasmā imāsaṃ dvinnamettha sāmatthiyato adhimattatā, itarāsañca omattatāti dassento **‘‘ekeka…pe… balavatiyo’’**ti āha. Yasmā pana tejodhātuyā anugatā vāyodhātu atiharaṇavītiharaṇānaṃ paccayo. Tiriyagatikāya hi vāyodhātuyā atiharaṇavītiharaṇesu sātisayo byāpāroti tejodhātuyā tassā anugatabhāvo, tasmā imāsaṃ dvinnamettha sāmatthiyato adhimattatā, itarāsañca omattatāti dassento **‘‘tathā atiharaṇavītiharaṇesū’’**ti āha. Satipi anugamanānugantabbatāvisese tejodhātu-vāyodhātu-bhāvamattaṃ sandhāya tathā-saddaggahaṇaṃ. Tattha akkantaṭṭhānato pādassa ukkhipanaṃ uddharaṇaṃ, ṭhitaṭṭhānaṃ atikkamitvā purato haraṇaṃ atiharaṇaṃ khāṇuādipariharaṇatthaṃ, patiṭṭhitapādaghaṭṭanapariharaṇatthaṃ vā passena haraṇaṃ vītiharaṇaṃ, yāva patiṭṭhitapādo, tāva āharaṇaṃ atiharaṇaṃ, tato paraṃ haraṇaṃ vītiharaṇanti ayaṃ vā etesaṃ viseso.

「それを」とは、不迷妄を。「このように」とは、今説かれる様態によって知られるべきである。「我が前進する」とは、これによって盲目の凡夫の見解の執着による前進における迷妄を示し、「私が前進する」とは、これによって慢心の執着によるものを示し、その両者は渇愛なしには生じないため、渇愛の執着による迷妄もまた示されたことになる。 「**そのように迷妄しない者**」と述べて、その不迷妄がいかなる塊の解体によって生じるのか、それを示すために「**前進する**」等と述べた。そこにおいて、風界に伴われた火界は(足を)持ち上げることの条件である。実に火界は上への性質を持つため、持ち上げることにおいて風界がそれに伴う状態である。それゆえに、これら二つの効力による過多性と、他の二つの過少性を示すために「**個々の……〜強力である**」と述べた。 一方、火界に伴われた風界は(足を)前へ運ぶことと横へ運ぶことの条件である。実に横への性質を持つ風界は前へ運ぶことと横へ運ぶことにおいて卓越した働きを持つため、火界がそれに伴う状態である。それゆえに、これら二つの効力による過多性と、他の二つの過少性を示すために「**同様に、前へ運ぶことと横へ運ぶことにおいて**」と述べた。伴うことと伴われることの差異があっても、単に火界と風界であることのみを指して「同様に」という語の把握がある。 そこにおいて、踏みしめた場所から足を持ち上げることが「持ち上げ(うっだらな)」であり、立っていた場所を超えて前方へ運ぶことが「前へ運ぶこと(あてぃはらな)」であり、切り株などを避けるために、あるいは踏みとどまっている足にぶつかるのを避けるために横へ運ぶことが「横へ運ぶこと(ヴィーティハラナ)」である。あるいは、踏みとどまっている足のところまで持ってくることが「前へ運ぶこと」であり、それ以降に運ぶことが「横へ運ぶこと」である、というのがこれら(二者)の相違である。

Yasmā pathavīdhātuyā anugatā āpodhātu vossajjanassa paccayo. Garutarasabhāvā hi āpodhātūti vossajjane pathavīdhātuyā tassā anugatabhāvo, tasmā tāsaṃ dvinnamettha sāmatthiyato adhimattatā, itarāsañca omattatāti dassento āha **‘‘vossajjane…pe… balavatiyo’’**ti. Yasmā pana āpodhātuyā anugatā pathavīdhātu sannikkhepanassa paccayo, patiṭṭhābhāve viya patiṭṭhāpanepi tassā sātisayakiccattā āpodhātuyā tassā anugatabhāvo, tathā ghaṭṭanakiriyāya pathavīdhātuyā vasena sannirumbhanassa sijjhanato tatthāpi pathavīdhātuyā āpodhātuanugatabhāvo, tasmā vuttaṃ **‘‘tathā sannikkhepanasannirumbhanesū’’**ti. Tatthāti tasmiṃ abhikkamane, tesu vā vuttesu uddharaṇādīsu chasu koṭṭhāsesu. Uddharaṇeti uddharaṇakkhaṇe. Rūpārūpadhammāti uddharaṇākārena pavattā rūpadhammā, taṃsamuṭṭhāpakā arūpadhammā ca atiharaṇaṃ na pāpuṇanti khaṇamattāvaṭṭhānato. Tattha tatthevāti yattha yattha uppannā, tattha tattheva. Na hi dhammānaṃ desantarasaṅkamanaṃ atthi. Pabbaṃ pabbantiādi uddharaṇādikoṭṭhāse sandhāya vuttaṃ, taṃ sabhāgasantativasena vuttanti veditabbaṃ. Atiittaro hi rūpadhammānampi pavattikkhaṇo gamanassādānaṃ devaputtānaṃ heṭṭhupariyena paṭimukhaṃ dhāvantānaṃ sirasi pāde ca baddhadhuradhārāsamāgamatopi sīghataro. Yathā tilānaṃ bhajjiyamānānaṃ paṭapaṭāyanena bhedo lakkhīyati, evaṃ saṅkhatadhammānaṃ uppādenāti dassanatthaṃ **‘‘paṭapaṭāyantā’’**ti vuttaṃ. Uppannā hi ekantato bhijjantīti.

地界に伴われた水界は(足を)降ろすことの条件である。実に水界はより重い本質を持つため、降ろすことにおいて地界がそれに伴う状態である。それゆえに、これら二つの効力による過多性と、他の二つの過少性を示すために「**降ろすことにおいて……〜強力である**」と述べた。一方、水界に伴われた地界は(足を)地に置くことの条件である。足場となる状態のように、足場を置くことにおいてもそれは卓越した役割を持つため、水界がそれに伴う状態である。同様に、踏みしめる働きによって地界の力により押しつけることが成就することから、そこにおいても地界に水界が伴う状態である。それゆえに「**同様に、地に置くことと押しつけることにおいて**」と説かれた。 「そこにおいて」とは、その前進において、あるいは説かれた持ち上げなどの六つの部分において。「持ち上げにおいて」とは、持ち上げの刹那において。「色と非色の諸法」とは、持ち上げの様態として生起した色法、およびそれを起こさせた非色法(名法)であり、刹那的な定着のみであることから前へ運ぶことには到達しない。「まさにその場その場において」とは、生じたその場その場においてである。実に諸法に他所への移動はない。「節ごとに、節ごとに」等は、持ち上げなどの部分を指して説かれたものであり、それは同類の連続の力によって説かれたものと知られるべきである。実に色法であってもその生起の刹那は極めて儚く、歩行を愛好する天子たちが上下に向かい合って疾走する時の、頭と足に結ばれた轅(ながえ)の先の衝突よりも速い。 胡麻が炒られる時にパチパチと音を立てることで破裂が知られるように、そのように有為の諸法は生起によって(破壊が知られる)と示すために「**パチパチと音を立てながら**」と説かれた。実に生じたものは決定的に破壊するからである。

Saddhiṃ rūpenāti idaṃ tassa tassa cittassa nirodhena saddhiṃ nirujjhanakarūpadhammānaṃ vasena vuttaṃ, yaṃ tato sattarasamacittassa uppādakkhaṇe uppannaṃ. Aññathā yadi rūpārūpadhammā samānakkhaṇā siyuṃ, ‘‘rūpaṃ garupariṇāmaṃ dandhanirodha’’ntiādivacanehi (vibha. aṭṭha. 26) virodho siyā, tathā ‘‘nāhaṃ, bhikkhave, aññaṃ ekadhammampi samanupassāmi, yaṃ evaṃ lahuparivattaṃ, yathayidaṃ citta’’nti evamādipāḷiyā (a. ni. 1.48). Cittacetasikā hi sārammaṇasabhāvā yathābalaṃ attano ārammaṇapaccayabhūtamatthaṃ vibhāvento eva uppajjantīti tesaṃ taṃsabhāvanipphattianantaraṃ nirodho, rūpadhammā pana anārammaṇā pakāsetabbā, evaṃ tesaṃ pakāsetabbabhāvanivatti soḷasahi cittehi hotīti taṅkhaṇāyukatā tesaṃ icchitā, lahuviññāṇavisayasaṅgatimattapaccayatāya tiṇṇaṃ khandhānaṃ, visayasaṅgatimattatāya ca viññāṇassa lahuparivattitā, dandhamahābhūtapaccayatāya rūpadhammānaṃ dandhaparivattitā, nānādhātuyā yathābhūtañāṇaṃ kho pana tathāgatasseva, tena ca purejātapaccayo rūpadhammova vutto, pacchājātapaccayo ca tassevāti rūpārūpadhammānaṃ samānakkhaṇatā na yujjateva, tasmā vuttanayenevettha attho veditabbo.

「色とともに」とは、それより十七番目の心の生起の瞬間に生じた、それぞれの心の滅尽とともに滅びる色法の力によって説かれたものである。そうでなく、もし色法と非色法(心・心所)が同等の刹那であるならば、「色は変化が重く(緩慢で)、滅尽が遅い」などの言葉(『分別論註』26)と矛盾し、また「比丘たちよ、この心のように速やかに変化するものを、私は他に一つの法としても見出さない」(『増支部』1.48)などの聖典と矛盾するであろう。心・心所法は所縁を持つ自性(有所縁性)であり、自己の所縁縁となる対象を自らの力に応じて明瞭にしながら生起するため、その自性の達成の直後に滅尽する。これに対して色法は無所縁であり、明示されるべきものである。このようにそれらが明示されるべき状態の終了は十六の心によってなされるため、色法の寿命はその刹那であると認められている。素早い識の対象との接触の単なる縁性によって三蘊(受・想・行)があり、対象との接触の単なる縁性によって識の速やかな変化性がある。一方、緩慢な四大種の縁性によって色法の緩慢な変化性がある。種々の界に関する如実な知はまさに如来のものであり、如来によって前生縁は色法のみと説かれ、後生縁もまた色法のみに対して説かれている。したがって、色法と非色法の同一刹那性は成り立たず、ゆえにここに説かれた通りの意味として理解されるべきである。

Aññaṃ uppajjate cittaṃ, aññaṃ cittaṃ nirujjhatīti yaṃ purimuppannaṃ cittaṃ, taṃ aññaṃ, taṃ pana nirujjhantaṃ aparassa anantarādipaccayabhāveneva nirujjhatīti tato laddhapaccayaṃ aññaṃ uppajjate cittaṃ. Yadi evaṃ tesaṃ antaro labbheyyāti noti āha **‘‘avīcimanusambandho’’**ti, yathā vīci antaro na labbhati, tadevetanti avisesavidu maññanti, evaṃ anu anu sambandho cittasantāno rūpasantāno ca nadīsotova nadiyaṃ udakappavāho viya vattati.

「他の心が生じ、他の心が滅する」とは、先に生じた心はそれとは別であり、それが滅しつつも、後の心への無間縁などの状態となることによってのみ滅するので、そこから縁を得て他の心が生じる。もしそうであるなら、それらの間に間隙(隙間)が見出されるかといえば、そうではないとして「**不断の連続**」と述べた。波の間に隙間が見出されないように、無差別を知る者(無分別智者)は「それ(前のもの)こそがこれ(後のもの)である」と考えるが、そのように次々に相続する心相続および色相続は、あたかも川の注ぎ口における川の水の流れのように展開するのである。

Abhimukhaṃ lokitaṃ ālokitanti āha **‘‘puratopekkhana’’**nti. Yasmā yaṃdisābhimukho gacchati tiṭṭhati nisīdati vā, tadabhimukhaṃ pekkhanaṃ ālokitaṃ, tasmā tadanugataṃ vidisālokanaṃ vilokitanti āha **‘‘vilokitaṃ nāma anudisāpekkhana’’**nti. Sammajjanaparibhaṇḍādikaraṇe olokitassa, ullokaharaṇādīsu ullokitassa, pacchato āgacchantaparissayassa parivajjanādīsu apalokitassa siyā sambhavoti āha **‘‘iminā vā mukhena sabbānipi tāni gahitānevā’’**ti.

正面を見る(目の前を注視する)ことを「阿廬吉多(直視)」と呼ぶため、「**前方を注視すること**」と述べた。なぜなら、いずれかの方向を向いて歩み、立ち、あるいは座る際、その正面を見るのが直視であるからである。したがって、それに付随して斜めの方向を見るのを「微廬吉多(見回し)」と呼ぶため、「**見回しとは方角を注視すること**」と述べた。掃き掃除や床塗りなどの作業の際には「下を見ること(俯視)」があり、上方の物を取り出す際などには「上を見ること(仰視)」があり、後方から来る危険を避ける際などには「後ろを見ること(顧視)」が生じる可能性があるので、「**あるいはこの方法によって、これらすべてが含まれている**」と述べた。

Kāyasakkhinti kāyena sacchikatavantaṃ, paccakkhakārinanti attho. So hi āyasmā vipassanākāle eva ‘‘yamevāhaṃ indriyesu aguttadvārataṃ nissāya sāsane anabhiratiādivippakāraṃ patto, tameva suṭṭhu niggaṇhissāmī’’ti ussāhajāto balavahirottappo, tattha ca katādhikārattā indriyasaṃvare ukkaṃsapāramippatto, teneva naṃ satthā ‘‘etadaggaṃ, bhikkhave, mama sāvakānaṃ bhikkhūnaṃ indriyesu guttadvārānaṃ yadidaṃ nando’’ti (a. ni. 1.235) etadagge ṭhapesi.

「身証(身をもって証した者)」とは、身をもって現証した者、直接体験した者という意味である。実にその尊者は、まさにヴィパッサナーの実修時に「自分自身が諸根において不守護であったことに起因して、教団における不快(退転)などの乱れた状態に陥ったのであるから、まさにその(諸根の不守護)を徹底的に制御しよう」と熱意を起こし、強い慚愧の念(恥と恐れの心)を持ち、そこにおいて修練を積んだことによって根の防護において最高峰の究極に達した。それゆえに世尊は彼を「比丘たちよ、諸根を守護する我が声聞の比丘たちの中で、最たる者はこのナンダである」(『増支部』1.235)と、この第一の位に据えられたのである。

Sātthakatā ca sappāyatā ca ālokitavilokitassa veditabbā. Tasmāti ‘‘kammaṭṭhānāvijahanasseva gocarasampajaññabhāvato’’ti vuttamevatthaṃ hetubhāvena paccāmasati. Attano kammaṭṭhānavaseneva ālokanavilokanaṃ kātabbaṃ, khandhādikammaṭṭhānā añño upāyo na gavesitabboti adhippāyo. Ālokitādisamaññāpi yasmā dhammamattasseva pavattiviseso, tasmā tassa yāthāvato jānanaṃ asammohasampajaññanti dassetuṃ **‘‘abbhantare’’**tiādi vuttaṃ.

直視や見回しにおいて、有益性と適法性(正知)が理解されるべきである。「それゆえに」とは、「業処を捨てないことこそが境界正知の状態であるから」と説かれた意味を原因として言及している。自己の業処の力に従ってのみ直視や見回しはなされるべきであり、五蘊などの業処以外の他の手段を求めてはならない、という意味である。直視などの名称もまた単なる諸法の特定の現れにすぎないため、それを如実に知ることが無痴正知であることを示すために「**内部において**」等と述べられた。

‘‘Paṭhamajavanepi **…pe… na hotī’’**ti idaṃ pañcadvāraviññāṇavīthiyaṃ ‘‘itthī puriso’’ti rajjanādīnaṃ abhāvaṃ sandhāya vuttaṃ. Tattha hi āvajjanavoṭṭhabbanānaṃ ayoniso āvajjanavoṭṭhabbanavasena iṭṭhe itthirūpādimhi lobho, aniṭṭhe ca paṭigho uppajjati, manodvāre pana ‘‘itthī puriso’’ti rajjanādi hoti, tassa pañcadvārajavanaṃ mūlaṃ, yathāvuttaṃ vā sabbaṃ bhavaṅgādi, evaṃ manodvārajavanassa mūlavasena mūlapariññā vuttā. Āgantukatāvakālikatā pana pañcadvārajavanasseva apubbabhāvavasena ittarabhāvavasena ca vuttā. Heṭṭhupariyavasena bhijjitvā patitesūti heṭṭhimassa uparimassa ca aparāparaṃ bhaṅgappattimāha. Tanti javanaṃ. Tassa na yuttanti sambandho. Āgantuko abbhāgato. Udayabbayaparicchinno tāvatako kālo etesanti tāvakālikāni.

「最初の速行においても…中略…**生じることはない**」とは、五門の認識過程(五門心路)において「女である、男である」という執着などが存在しないことを指して説かれたものである。そこでは意門転向や確定(決定心)の如理でない(不正な)転向や確定によって、好ましい女の姿などに貪りが生じ、好ましくないものには衝突(瞋恚)が生じるが、意門においては「女である、男である」という執着などが生じる。それに対して五門の速行が根本(原因)であり、あるいは前述の有分心などのすべてが根本である。このように意門の速行の根本の力によって「根本の遍知」が説かれた。客性や一時性(客分的一時性)は、五門の速行の無前駆性と短時間性によって説かれた。「上下の順序に従って壊れて落ちる時に」とは、下のものと上のものが次々に崩壊に至ることを述べている。「それを」とは速行を指す。「彼には相応しくない」と結びつく。「客」とは訪れた者である。「生起と消滅によって限定されたそれだけの時間を持つもの」が「一時的なもの」である。

Etaṃ asammohasampajaññaṃ. Tatthāti pañcakkhandhavasena ālokanavilokane paññāyamāne tabbinimutto ko eko āloketi, ko viloketi. Upanissayapaccayoti idaṃ suttantanayena pariyāyato vuttaṃ. Sahajātapaccayoti nidassanamattametaṃ aññamañña-sampayutta-atthiavigatādipaccayānampi labbhanato.

これが無痴正知である。「そこにおいて」とは、五蘊の働きとして直視や見回しが知られている時、それから離れたいかなる一者が直視し、いかなる者が周囲を見るのか。「親依止縁」とは、経典の法門に従って方便として説かれたものである。「倶生縁」とは単なる例示にすぎず、相互縁・相応縁・有縁・不去縁などの諸縁も得られるからである。

Maṇisappo nāma ekā sappajātīti vadanti. Laḷananti kampananti vadanti, līḷākaraṇaṃ vā laḷanaṃ.

「宝珠の蛇(マニサッパ)」とは一種の蛇の種族であると彼らは言う。「揺れ動く(ララナ)」とは震えることであると言い、あるいは優美な身振りをすることを「ララナ」と言う。

Uṇhapakatiko pariḷāhabahulo. Sīlassa vidūsanena ahitāvahattā micchājīvavasena uppannaṃ asappāyaṃ. Cīvarampi acetanantiādinā cīvarassa viya **‘‘kāyopi acetano’’**ti kāyassa attasuññatāvibhāvanena **‘‘abbhantare’’**tiādinā vuttamevatthaṃ vibhāvento itarītarasantosassa kāraṇaṃ dasseti. Tenāha **‘‘tasmā’’**tiādi. Catupañcagaṇṭhikāhatoti āhatacatupañcagaṇṭhiko, catupañcagaṇṭhikāhi vā hatasobho.

熱性の体質の者は熱の苦しみが多い。戒を汚すことによって不利益をもたらすため、邪命の力によって生じたものは不適である。「衣も無心(思慮なきもの)であり」等によって、衣が無心であるように「**身体もまた無心である**」と身体が無我(我の空)であることを明示することによって、「**内部において**」等と説かれたまさにその意味を明示し、得られたものに満足すること(随得知足)の理由を示している。それゆえに「**それゆえに**」等と述べた。「四、五の節(ふし)で打たれた」とは、四つ五つの節で打たれたもの、あるいは四つ五つの節によって美しさを損なわれたものである。

Aṭṭhavidhopi atthoti aṭṭhavidhopi payojanaviseso. Pathavīsandhārakajalassa taṃsandhārakavāyunā viya paribhuttassa āhārassa vāyodhātunāva āsaye avaṭṭhānanti āha **‘‘vāyodhātuvaseneva tiṭṭhatī’’**ti. Atiharatīti yāva mukhā abhiharati. Vītiharatīti tato yāva kucchi, tāva harati. Atiharatīti vā mukhadvāraṃ atikkāmento harati. Vītiharatīti kucchigataṃ passato harati. Parivattetīti aparāparaṃ cāreti. Ettha ca āhārassa dhāraṇaparivattanasaṃcuṇṇanavisosanāni pathavīdhātusahitā eva vāyodhātu karoti, na kevalāti tāni pathavīdhātuyāpi kiccabhāvena vuttāni. Allattañca anupāletīti vāyuādīhi atisosanaṃ yathā na hoti, tathā anupāleti allaādīhi atisosanaṃ yathā na hoti, tathā anupāleti allabhāvaṃ. Tejodhātūti gahaṇīsaṅkhātā tejodhātu. Sā hi anto paviṭṭhaṃ āhāraṃ paripāceti. Añjaso hotīti āhārassa pavesanādīnaṃ maggo hoti. Ābhujatīti pariyesanajjhoharaṇajiṇṇājiṇṇatādiṃ āvajjeti, vijānātīti attho. Taṃtaṃvijānananipphādakoyeva hi payogo ‘‘sammāpayogo’’ti vutto. Yena hi payogena pariyesanādi nipphajjati, so tabbisayavijānanampi nipphādeti nāma tadavinābhāvato. Atha vā sammāpayogaṃ sammāpaṭipattiṃ anvāya āgamma ābhujati samannāharati. Ābhogapubbako hi sabbopi viññāṇabyāpāroti tathā vuttaṃ.

「八種の目的」とは、八種の特別な利益のことである。大地を支える水が、それを支える風によって保たれるように、摂取された食物が風界によってのみ胃(処)に留まることから「**風界の力によってのみ留まる**」と述べた。「運ぶ(アティハラティ)」とは口まで運ぶことである。「通過させる(ヴィーティハラティ)」とはそこから腹まで運ぶことである。あるいは「運ぶ」とは口の門を越えて運ぶことであり、「通過させる」とは腹の中に入ったものを横へ運ぶことである。「回転させる」とはあちこちへ動かすことである。そしてここで、食物の保持、回転、粉砕、乾燥は、地界を伴った風界のみが行うのであって単独で行うのではないため、これらは地界の作用としても説かれている。「湿り気を保つ」とは、風などによって過度に乾燥しないように保ち、水分などによって過度に乾燥しないように湿った状態を保つことである。「火界」とは消化を司る火界(消化熱)のことである。それは内部に入った食物を消化・熟成させる。「道となる」とは、食物の摂取などの通路となることである。「作意する(アーブジャティ)」とは、探索、嚥下、消化・未消化などを思惟し、知るという意味である。それぞれの知を達成する行使(実践)こそが「正しい行使」と説かれた。探索などを達成する行使は、それと不可分であることから、その対象の知をも達成するからである。あるいは、正しい行使、正しい実践に基づいて作意し、注意を集中する。識のすべての作用は作意を前提とするため、そのように説かれた。

Gamanatoti bhikkhācāravasena gocaragāmaṃ uddissa gamanato. Pariyesanatoti gocaragāme bhikkhatthaṃ āhiṇḍanato. Paribhogatoti āhārassa paribhuñjanato. Āsayatoti pittādiāsayato. Āsayati ettha ekajjhaṃ pavattamānopi kammabalavatthito hutvā mariyādavasena aññamaññaṃ asaṅkarato sayati tiṭṭhati pavattatīti āsayo, āmāsayassa upari tiṭṭhanako pittādiko. Mariyādattho hi ayamākāro. Nidheti yathābhutto āhāro nicito hutvā tiṭṭhati etthāti nidhānaṃ, āmāsayo. Tato nidhānato. Aparipakkatoti gahaṇīsaṅkhātena kammajatejena avipakkato. Paripakkatoti yathābhuttassa āhārassa vipakkabhāvato. Phalatoti nipphattito. Nissandatoti ito cito ca vissandanato. Sammakkhanatoti sabbaso makkhanato. Ayamettha saṅkhepo, vitthāro pana visuddhimaggasaṃvaṇṇanāya (visuddhi. mahāṭī. 1.294) gahetabbo.

「行くことから」とは、托鉢の歩みによって遊行の村を目指して行くことから。「探索することから」とは、遊行の村で托鉢のために巡り歩くことから。「受用することから」とは、食物を食べること(受用)から。「処(容器)から」とは、胆汁などの処から。ここに一箇所に生じつつも業の力によって留まり、境界線によって互いに混ざり合わずに横たわり、留まり、機能するから「処(アーサヤ)」であり、胃の上にある胆汁などである。この「アー」という文字は境界の意味である。「蓄えられる」とは、食べた食物が集積されて留まる場所であるから「蓄積所(ニダーナ)」であり、胃のことである。その蓄積所から。「未消化から」とは、消化熱と呼ばれる業生の火によって未だ熟していないことから。「消化から」とは、食べた食物が熟した状態から。「結果から」とは、達成から。「流出から」とは、あちこちへ流れ出ること(分泌)から。「塗抹から」とは、全面的に塗れることから。これがここでの要約であり、詳細は『清浄道論註』(大註1.294)において理解されるべきである。

Aññe ca rogā kaṇṇasūlabhagandarādayo. Aṭṭhāneti manussāmanussapariggahite ayutte ṭhāne khettadevāyatanādike. Nissaṭṭhattā neva attano kassaci anissajjitattā jigucchanīyattā ca na parassa. Udakatumbatoti veḷunāḷiādiudakabhājanato. Tanti chaḍḍitaudakaṃ.

「他の病気」とは、耳の痛みや痔瘻などである。「不適当な場所において」とは、人間や非人間(霊など)に占有された不適切な場所、耕作地や祠堂などのことである。「放棄されたものであるため」自分のものとして誰にも執着されず、また嫌悪されるべきものであるため他人のものでもない。「水瓶から」とは、竹筒などの水入れの器から。「それを」とは、捨てられた水のことである。

Addhānairiyāpathā cirappavattikā dīghakālikā iriyāpathā. Majjhimā bhikkhācaraṇādivasena pavattā. Cuṇṇikairiyāpathā vihāre aññatthāpi ito cito ca parivattanādivasena pavattāti vadanti. ‘‘Gateti gamane’’ti pubbe abhikkamapaṭikkamaggahaṇena gamanenapi purato pacchato ca kāyassa atiharaṇaṃ vuttanti idha gamanameva gahitanti keci.

「長途の威儀」とは、長時間持続する長期間の威儀である。「中間の威儀」とは、托鉢の行進などによって機能するもの。「細片の威儀」とは、寺院の他の場所でもあちこち向きを変えるなどによって機能するものである、と彼らは言う。「『行くにおいて』とは行くことにおいて」とは、以前に進退を挙げたことによって、行くことによっても身体を前後へ運ぶことが説かれているため、ここでは行くことのみが取られたと一部の者は言う。

Yasmā mahāsīvattheravāde anantare anantare iriyāpathe pavattarūpārūpadhammānaṃ tattha tattheva nirodhadassanavasena sampajānakāritā gahitā, idañcettha sampajaññavipassanācāravasena āgataṃ, tasmā vuttaṃ **‘‘tayidaṃ mahāsīvattherena vuttaṃ asammohadhuraṃ imasmiṃ satipaṭṭhānabhutte adhippeta’’**nti. Sāmaññaphale (dī. ni. 1.214; dī. ni. aṭṭha. 1.214; dī. ni. ṭī. 1.214) pana sabbampi catubbidhaṃ sampajaññaṃ labbhati yāvadeva sāmaññaphalavisesadassanaparattā tassā desanāya. Satisampayuttassevāti idaṃ yathā sampajaññakiccassa padhānatā, evaṃ satikiccassāpīti dassanatthaṃ, na satiyā sabbhāvamattadassanatthaṃ. Na hi kadāci satirahitā ñāṇappavatti atthi. Etāni padānīti sampajaññapadāni. Vibhattānevāti visuṃ vibhattāneva. Imināpi sampajaññassa viya satiyāpi padhānataṃyeva vibhāveti.

マハーシーヴァ長老の説においては、直前直後の威儀において生起する色法・非色法(名色)がまさにその場その場で滅尽するのを見ることによって正知を作すことが取られており、またここでの正知はヴィパッサナーの実修の力によって説かれているため、「**大シーヴァ長老によって説かれたこの無痴を首脳(主導)とするものが、この念処(の節)において意図されている**」と述べられた。しかし『沙門果経』(『長部』1.214など)においては、その説示が沙門果の殊勝さを示すことに専ら向けられている限りにおいて、四種すべての正知が得られる。「正念に相応した者の」とは、正知の作用が主であるのと同様に、正念の作用もまた主であることを示すためであり、単に念が存在することのみを示すためではない。念を欠いた智慧の働きは決して存在しないからである。「これらの句」とは正知の句である。「明確に分別された」とは、個別に分別されたということである。これによっても正知と同様に正念の主導性のみを明らかにしている。

Aparo nayo – eko bhikkhu gacchanto aññaṃ cintento aññaṃ vitakkento gacchati, eko kammaṭṭhānaṃ avissajjetvāva gacchati, tathā eko tiṭṭhanto nisīdanto sayanto aññaṃ cintento aññaṃ vitakkento sayati, eko kammaṭṭhānaṃ avissajjetvāva sayati, etthakena pana na pākaṭaṃ hotīti caṅkamanena dīpenti. Yo hi bhikkhu caṅkamanaṃ otaritvā caṅkamanakoṭiyaṃ ṭhito pariggaṇhāti ‘‘pācīnacaṅkamanakoṭiyaṃ pavattā rūpārūpadhammā pacchimacaṅkamanakoṭiṃ appatvā ettheva niruddhā, pacchimacaṅkamanakoṭiyaṃ pavattāpi pācīnacaṅkamanakoṭiṃ appatvā ettheva niruddā, caṅkamanamajjhe pavattā ubho koṭiyo appatvā ettheva niruddhā, caṅkame pavattā rūpārūpadhammā ṭhānaṃ appatvā ettheva niruddhā, ṭhāne pavattā nisajjaṃ, nisajjāya pavattā sayanaṃ appatvā etthevaniruddhā’’ti, evaṃ pariggaṇhanto pariggaṇhantoyeva cittaṃ bhavaṅgaṃ otāreti, uṭṭhahanto kammaṭṭhānaṃ gahetvāva uṭṭhahati, ayaṃ bhikkhu gatādīsu sampajānakārī nāma hoti, evampi sutte kammaṭṭhānaṃ avibhūtaṃ hoti, tasmā yo bhikkhu yāva sakkoti, tāva caṅkamitvā ṭhatvā nisīditvā sayamāno evaṃ pariggahetvā sayati ‘‘kāyo acetano, mañco acetano, kāyo na jānāti ‘‘ahaṃ mañce sayito’ti, mañco na jānāti ‘‘mayi kāyo sayito’’ti, acetano kāyo acetane mañce sayito’’ti, evaṃ pariggaṇhantoyeva cittaṃ bhavaṅgaṃ otāreti, pabujjhanto kammaṭṭhānaṃ gahetvāva pabujjhati, ayaṃ sutte sampajānakārī nāma hotīti.

別の方法を示す。ある比丘は歩きながら別のことを考え、別のことを思索して歩くが、ある比丘は業処を手放すことなく歩く。同様に、ある比丘は立ち、座り、横たわりながら別のことを考え、別のことを思索して横たわるが、ある比丘は業処を手放すことなく横たわる。しかしこれだけでは明らかではないため、経行(歩行瞑想)によって明示する。経行堂に降り立って経行の端に立ち、「東の経行の端で生じた色法・非色法は、西の経行の端に達することなくまさにここで滅した。西の経行の端で生じたものも、東の経行の端に達することなくまさにここで滅した。経行の中央で生じたものは、両端に達することなくまさにここで滅した。経行において生じた色法・非色法は、立つことに達することなくまさにここで滅した。立つことにおいて生じたものは座ることに、座ることにおいて生じたものは横たわることに達することなくまさにここで滅した」と把握する比丘は、このように把握しながらまさに心を睡眠(有分心)へと落とし、起き上がる時にも業処を把握したまま起き上がる。この比丘は歩行などにおいて正知を作す者と呼ばれる。このようにしても眠りにおいては業処が不明瞭となるため、比丘は可能な限り経行し、立ち、座り、横たわる際にもこのように把握して横たわる。「身体は無心であり、寝台も無心である。身体は『私は寝台に横たわっている』と知らず、寝台は『私の上に身体が横たわっている』と知らない。無心の身体が無心の寝台の上に横たわっているのである」と。このように把握しながら心を睡眠(有分)へと落とし、目覚める時にも業処を把握したまま目覚める。この者が眠りにおいて正知を作す者と呼ばれるのである。

Kāyādikiriyānibbattanena tammayattā āvajjanakiriyāsamuṭṭhitattā ca javanaṃ, sabbampi vā chadvārappavattaṃ kiriyāmayapavattaṃ nāma, tasmiṃ sati jāgaritaṃ nāma hotīti pariggaṇhanto jāgarite sampajānakārī nāma. Apica rattindivaṃ cha koṭṭhāse katvā pañca koṭṭhāse jaggantopi jāgarite sampajānakārī nāma hoti. Vimuttāyatanasīsena dhammaṃ desentopi bāttiṃsatiracchānakathaṃ pahāya dasakathāvatthunissitaṃ sappāyakathaṃ kathentopi bhāsite sampajānakārī nāma. Aṭṭhatiṃsāya ārammaṇesu cittaruciyaṃ manasikāraṃ pavattentopi dutiyaṃ jhānaṃ samāpannopi tuṇhībhāve sampajānakārī nāma. Dutiyañhi jhānaṃ vacīsaṅkhāravirahato visesato tuṇhībhāvo nāma. Rūpadhammasseva pavattiākāravisesā abhikkamādayoti vuttaṃ **‘‘rūpakkhandhasseva samudayo ca vayo ca nīharitabbo’’**ti. Sesaṃ vuttanayameva.

身体の動作などを生じさせることによってそれ(動作)から成り、転向の作用から生起するから速行であり、あるいは六門に生じるすべてのものが作用からなる生起と呼ばれる。それがある時を目覚め(覚醒)と呼ぶと把握する者が、覚醒において正知を作す者である。さらに昼夜を六つに分け、五つの部分において目覚めている者もまた、覚醒において正知を作す者である。解脱処を主として法を説く者も、三十二の無益な雑談を捨てて十の講話の根拠に基づいた適切な講話を語る者も、語るにおいて正知を作す者である。三十八の所縁において心の好む作意を展開する者も、第二禅を達成した者も、沈黙において正知を作す者である。第二禅は言語活動(尋・伺)を離れていることから、特に沈黙と呼ばれる。前進などは色法のみの特別な生起の様態であるため、「**色蘊の集起と消滅こそが引き出されるべきである**」と述べられた。残りはすでに説かれた通りの方法である。

Catusampajaññapabbavaṇṇanā niṭṭhitā.

四正知の節の注釈を終わる。

Paṭikūlamanasikārapabbavaṇṇanā

不浄想作意の節の注釈

110. Paṭikūlamanasikāravasenāti (dī. ni. ṭī. 2.377) jigucchanīyatāya. Paṭikūlameva paṭikūlaṃ yo paṭikūlasabhāvo paṭikūlākāro, tassa manasikaraṇavasena. Antarenapi hi bhāvavācinaṃ saddaṃ bhāvattho viññāyati yathā ‘‘paṭassa sukka’’nti. Yasmā visuddhimagge (visuddhi. 1.182-183) vuttaṃ, tasmā tattha taṃsaṃvaṇṇanāyañca vuttanayena veditabbaṃ. Vatthādīhi pasibbakākārena bandhitvā kataṃ āvaṭanaṃ putoḷi. Vibhūtākāroti paṇṇattiṃ samatikkamitvā asubhabhāvassa upaṭṭhitākāro. Iti-saddassa ākāratthataṃ dassento **‘‘eva’’**nti vatvā taṃ kāraṇaṃ sarūpato dassento **‘‘kesādipariggahaṇenā’’**ti āha.

110. 「厭逆作意(不浄想作意)の力によって」とは(『長部註』2.377)、嫌悪すべき状態によることである。厭逆なるものそのものが厭逆であり、いかなる厭逆の自性・厭逆の様相があるか、それを作意することによって。状態を表す言葉を伴わなくても「布の白さ」のように状態の意味は理解されるからである。『清浄道論』(1.182-183)に説かれているため、そこおよびその注釈に説かれた方法によって理解されるべきである。布などで袋の形に縛って作った包みが「プトリ(袋)」である。「明瞭となった様相」とは、概念を越えて不浄の状態が現れた様相のことである。「このように」という語が様相の意味であることを示し、「**このように**」と述べて、その理由を具体的に示して「**毛髪などを把握することによって**」と述べた。

Paṭikūlamanasikārapabbavaṇṇanā niṭṭhitā.

不浄想作意の節の注釈を終わる。

Dhātumanasikārapabbavaṇṇanā

界作意の節の注釈

111. Dhātumanasikāravasenāti pathavīdhātuādikā catasso dhātuyo ārabbha pavattabhāvanāmanasikāravasena, catudhātuvavatthānavasenāti attho. Dhātumanasikāro dhātukammaṭṭhānaṃ catudhātuvavatthānanti hi atthato ekaṃ. Goghātakoti jīvikatthāya gunnaṃ ghātako. Antevāsikoti kammakaraṇavasena tassa samīpavāsī. Ṭhita-saddo ‘‘ṭhito vā’’tiādīsu (dī. ni. 1.263; a. ni. 5.28) ṭhānasaṅkhātairiyāpathasamaṅgitāya, ṭhā-saddassa vā gativinivattiatthatāya aññattha ṭhapetvā gamanaṃ sesairiyāpathasamaṅgitāya bodhako, idha pana yathā tathā rūpakāyassa pavattiākārabodhako adhippetoti āha **‘‘catunnaṃ iriyāpathānaṃ yena kenaci ākārena ṭhitattā yathāṭhita’’**nti. Tattha ākārenāti ṭhānādinā rūpakāyassa pavattiākārena. Ṭhānādayo hi iriyāpathasaṅkhātāya kāyikakiriyāya patho pavattimaggoti ‘‘iriyāpatho’’ti vuccanti. Yathāṭhitanti yathāpavattaṃ. Yathāvuttaṭṭhānamevettha ‘‘paṇidhāna’’nti adhippetanti āha **‘‘yathāṭhitattā ca yathāpaṇihita’’**nti. Ṭhitanti vā kāyassa ṭhānasaṅkhātairiyāpathasamāyogaparidīpanaṃ. Paṇihitanti tadaññairiyāpathasamāyogaparidīpanaṃ. Ṭhitanti vā kāyasaṅkhātānaṃ rūpadhammānaṃ tasmiṃ tasmiṃ khaṇe sakiccavasena avaṭṭhānaparidīpanaṃ. Paṇihitanti paccayakiccavasena tehi tehi paccayehi pakārato nihitaṃ paṇihitanti evampettha attho veditabbo. Paccavekkhatīti pati pati avekkhati, ñāṇacakkhunā vinibbhujitvā visuṃ visuṃ passati.

111. 「界作意の力によって」とは、地界などの四大種を対象として生じた修習作意の力によって、四大種の限定(決定)の力によってという意味である。界作意、界の業処、四大種の限定とは、意味においては一つである。「屠牛者」とは、生計のために牛を殺す者。「弟子(内住者)」とは、作業を行うことによって彼の近くに住む者。「留まる(立つ)」という言葉は、「立っている時も」など(『長部』1.263等)においては「立ち」と呼ばれる威儀を備えていること、あるいは「立つ」という語が歩行を停止する意味であることから、歩行を除いた残りの威儀を備えていることを知らせるが、ここでは色身がどのようにあれその生起の様相を知らせることが意図されているため、「**四つの威儀のいずれかの様相によって留まっていることから『あるがままに置かれた』という**」と述べた。そこにおいて「様相によって」とは、立ちなどの色身の生起の様相によってである。立ちなどは威儀と呼ばれる身体の作用の道(生起の道)であることから「威儀」と呼ばれる。「あるがままに置かれた」とは、生起しているがままに、ということである。前述の通りの状態こそがここでは「配置」として意図されているため、「**あるがままに置かれていることから『あるがままに配置された』という**」と述べた。あるいは「置かれた」とは身体の「立ち」と呼ばれる威儀の結合を明示することである。「配置された」とはそれ以外の威儀の結合を明示することである。あるいは「置かれた」とは身体と呼ばれる色法が、その時その時の刹那に自己の作用に従って留まることを明示することである。「配置された」とは、縁の作用に従って種々の縁によって様々に置かれたことが「配置された」である、とこのようにここでの意味は理解されるべきである。「観察する」とは、繰り返し観察することであり、智慧の眼によって分析して別々に識別して見ることである。

Idāni vuttamevatthaṃ bhāvatthavibhāvanavasena dassetuṃ **‘‘yathā goghātakassā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha posentassāti maṃsūpacayaparibrūhanāya kuṇḍakabhattakappāsaṭṭhiādīhi saṃvaḍḍhentassa. Vadhitaṃ matanti hiṃsitaṃ hutvā mataṃ. Matanti ca matamattaṃ. Tenevāha **‘‘tāvadevā’’**ti. Gāvīti saññā na antaradhāyati yāni aṅgapaccaṅgāni yathāsanniviṭṭhāni upādāya gāvīsamaññā matamattāyapi gāviyā, tesaṃ taṃsannivesassa avinaṭṭhattā. Vilīyanti bhijjanti vibhujjantīti bīlā bhāgā va-kārassa ba-kāraṃ, i-kārassa ī-kāraṃ katvā. Bīlasoti bīlaṃ bīlaṃ katvā. Vibhajitvāti aṭṭhisaṅghāṭato maṃsaṃ vivecetvā, tato vā vivecitamaṃsaṃ bhāgaso katvā. Tenevāha **‘‘maṃsasaññā pavattatī’’**ti. Pabbajitassapi apariggahitakammaṭṭhānassa. Ghanavinibbhoganti santatisamūhakiccaghanānaṃ vinibbhujanaṃ vivecanaṃ. Dhātuso paccavekkhatoti ghanavinibbhogakaraṇena dhātuṃ dhātuṃ pathavīādidhātuṃ visuṃ visuṃ katvā paccavekkhantassa. Sattasaññāti attānudiṭṭhivasena pavattā saññāti vadanti, vohāravasena pavattasattasaññāyapi tadā antaradhānaṃ yuttameva yāthāvato ghanavinibbhogassa sampādanato. Evañhi sati yathāvuttaopammatthena upameyyattho aññadatthu saṃsandati sameti. Tenevāha **‘‘dhātuvaseneva cittaṃ santiṭṭhatī’’**ti. Dakkhoti cheko taṃtaṃsamaññāya kusalo, yathājāte sūnasmiṃ naṅguṭṭhakhuravisāṇādivante aṭṭhimaṃsādiavayavasamudāye avibhatte gāvīsamaññā, na vibhatte, vibhatte pana aṭṭiṃmaṃsādiavayavasamaññāti jānanako. Catumahāpatho viya catuiriyāpathoti gāviyā ṭhitacatumahāpatho viya kāyassa pavattimaggabhūto catubbidho iriyāpatho. Yasmā visuddhimagge (visuddhi. 1.306) vitthāritā, tasmā tattha taṃsaṃvaṇṇanāyañca (visuddhi. mahāṭī. 1.306) vuttanayeneva veditabbā.

さて、すでに説かれた意味をその状態の明示によって示すために「**屠牛者のように**」等と述べられた。そこにおいて「養育する者にとって」とは、肉を増やし太らせるために米糠の飯や綿の実などを与えて育てる者にとって。「殺されて死んだ」とは、傷つけられて死んだことである。「死んだ」とは、死んだばかりのことである。それゆえに「**ただちに**」と述べた。「牝牛」という想いが消滅しないのは、適切に配置された手足や部分に基づいて「牝牛」という名称があるためであり、死んだばかりの牝牛であってもそれらの配置が崩れていないからである。解体され、分割され、分けられるから「部分(ビーラ)」であり、vaをbaとし、iをīとしたものである。「各部分に」とは、部分ごとに切り分けて。「切り分けて」とは、骨の結合から肉を切り離し、あるいは切り離した肉を各部分に分けて。それゆえに「**『肉』という想いが生じる**」と述べた。業処を把握していない出家者にとっても同様である。「塊の分解」とは、相続(連続)の塊・集合の塊・作用の塊の分解・識別である。「界として観察する者にとって」とは、塊の分解を行うことによって、それぞれの界、地界などの界を別々に分けて観察する者にとって。「衆生という想い」とは、我が身を見る見解(有身見)の力によって生じる想いであると彼らは言うが、世俗の慣用に基づいて生じる衆生という想いも、その時には如実に塊の分解が達成されることによって消滅するのがまさに適理である。このようにある時、前述の比喩の意味と被比喩の意味が完全に一致し、符合する。それゆえに「**界の力によってのみ心が安定する**」と述べた。「熟練した」とは巧みで、それぞれの名称に熟達しており、屠殺場において尾・蹄・角などを持ち、骨や肉などの部分の集まりが未解体の時には「牝牛」という名称があり、解体された時にはなく、解体された時には骨や肉などの部分という名称がある、と知る者のことである。「四辻のようである四威儀」とは、牝牛が立っていた四辻のように、身体の生起の道である四種の威儀のことである。『清浄道論』(1.306)において詳細に説かれているため、そこおよびその注釈(大註1.306)に説かれた通りの方法によって理解されるべきである。

Dhātumanasikārapabbavaṇṇanā niṭṭhitā.

界作意の節の注釈を終わる。

112. Sivathikāya apaviddhauddhumātakādipaṭisaṃyuttānaṃ odhiso pavattānaṃ kathānaṃ tadabhidheyyānañca uddhumātakādiasubhabhāgānaṃ sivathikapabbānīti saṅgītikārehi gahitasamaññā. Tenāha **‘‘sivathikapabbehi vibhajitu’’**nti. Uddhaṃ jīvitapariyādānāti jīvitakkhayato upari maraṇato paraṃ. Samuggatenāti uṭṭhitena. Uddhumātattāti uddhaṃ uddhaṃ dhumātattā sūnattā. Setarattehi viparibhinnaṃ vimissitaṃ nīlaṃ vinīlaṃ, purimavaṇṇavipariṇāmabhūtaṃ vā nīlaṃvinīlaṃ, vinīlameva vinīlakanti ka-kārena padavaḍḍhanamāha anatthantarato yathā ‘‘pītakaṃ lohitaka’’nti (dha. sa. 616). Paṭikūlakattāti jigucchanīyattā. Kucchitaṃ vinīlaṃ vinīlakanti kucchanattho vā ayaṃ ka-kāroti dassetuṃ vuttaṃ yathā ‘‘pāpako kittisaddo abbhuggacchatī’’ti (dī. ni. 3.316; a. ni. 5.213; mahāva. 285). Paribhinnaṭṭhānehi kākakaṅkādīhi. Vissandamānaṃ pubbanti vissavantaṃ pubbaṃ, tahaṃ tahaṃ paggharantapubbanti attho. Tathābhāvanti vissandamānapubbabhāvaṃ.

112. 墓場に投げ捨てられた膨張死体などに関連して区切られて展開する教説と、それらによって名指されるべき膨張死体などの不浄の各区分を「墓場の節」と結集者たちによって名付けられた。それゆえに「**墓場の節によって分別するために**」と述べた。「命が尽きた後」とは、寿命の消滅の上、死後ということである。「生じたものによって」とは、現れ出たものによって。「膨張したことから」とは、上へ上へと膨らんだことから、膨張したことからである。白と赤によって損なわれ混ざり合った青黒色を「青黒(ヴィニーラ)」といい、あるいは以前の色彩が変色した青黒色を「青黒」といい、青黒色そのものを「ヴィニーラカ」とkaの文字で語を拡大して述べたのは、「黄色い(ピータカ)」「赤い(ローヒタカ)」(『法集論』616)のように意味の違いがないからである。「嫌悪すべき状態であることから」とは、厭うべき状態であることから。「忌まわしい青黒色をヴィニーラカという」と、このkaの文字は忌まわしさを表す意味であると示すために説かれたのは、「悪名が鳴り響く」(『長部』3.316等)のようである。「損なわれた箇所から」とは、カラスやハゲタカなどによって。「流れる膿汁」とは、分泌する膿汁であり、あちこちから滴り落ちる膿汁という意味である。「そのような状態」とは、膿汁が滴り落ちる状態のことである。

So bhikkhūti yo ‘‘passeyya sarīraṃ sivathikāya chaḍḍita’’nti vutto, so bhikkhu. Upasaṃharati sadisataṃ. Ayampi khotiādi upasaṃharaṇākāradassanaṃ. Āyūti rūpajīvitindriyaṃ, arūpajīvitindriyaṃ panettha viññāṇagatikameva. Usmāti kammajatejo. Evaṃpūtikasabhāvoti evaṃ ativiya pūtikasabhāvo, na āyuādīnaṃ avigame viya mattasoti adhippāyo. Ediso bhavissatīti evaṃbhāvīti āha **‘‘evaṃuddhumātādibhedo bhavissatī’’**ti.

「その比丘は」とは、「墓場に捨てられた死体を見るであろう」と説かれたその比丘のことである。類似性を引き寄せる。「この(身体)もまた」等は、引き寄せる様相を示すことである。「寿命」とは色命根であり、非色(名)の命根はここでは識のあり方に従うものである。「温もり」とは業生の火(体温)である。「このように腐敗する自性のものである」とは、このように極めて腐敗する自性のものであり、寿命などが去っていない時のようにわずかばかりのものではない、という意味である。「このようになるであろう」とは、このように変化するであろうということから「**このように膨張などの差異を持つものとなるであろう**」と述べた。

Luñcitvā luñcitvāti uppāṭetvā uppāṭetvā. Sesāvasesamaṃsalohitayuttanti sabbaso akhāditattā tahaṃ tahaṃ sesena appāvasesena maṃsalohitena yuttaṃ. Aññena hatthaṭṭhikanti avisesena hatthaṭṭhikānaṃ vippakiṇṇatā jotitāti anavasesato tesaṃ vippakiṇṇataṃ dassento **‘‘catusaṭṭhibhedampī’’**tiādimāha. Terovassikānīti tirovassaṃ gatāni. Tāni pana saṃvaccharaṃ vītivattāni hontīti āha **‘‘atikkantasaṃvaccharānī’’**ti. Purāṇatāya ghanabhāvavigamena vicuṇṇatā idha pūtibhāvoti so yathā hoti, taṃ dassento **‘‘abbhokāse’’**tiādimāha. Khajjamānatādivasena dutiyasivathikapabbādīnaṃ vavatthitatthā vuttaṃ **‘‘khajjamānādīnaṃ vasena yojanā kātabbā’’**ti.

「引き裂き引き裂いて」とは、むしり取ってむしり取って。「肉と血の残余を伴った」とは、全面的に食べ尽くされてはいないため、あちこちに残った僅かな残余の肉と血を伴った。「別の場所に手の骨を」とは、特に区別なく手の骨が散乱していることが明らかにされているため、それらの残すところのない散乱を示すために「**六十四の区分をも**」等と述べた。「年数を経た」とは、年を越えたものである。それらは一年を経過したものであるため「**一年を超過した**」と述べた。古くなったことによって塊の状態が失われ粉々になることがここでの「腐敗した状態」であり、それがいかにあるかを示すために「**風雨にさらされた場所において**」等と述べた。食べられることなどの力によって第二の墓場の節などが規定されているため、「**食べられることなどの力によって結合がなされるべきである**」と述べられた。

Navasivathikapabbavaṇṇanā niṭṭhitā.

九墓場の節の注釈を終わる。

Imāneva dveti avadhāraṇena appanākammaṭṭhānaṃ tattha niyameti aññapabbesu tadabhāvato. Yato hi eva-kāro, tato aññattha niyameti, tena pabbadvayassa vipassanākammaṭṭhānatāpi appaṭisiddhāti daṭṭhabbā aniccādidassanato. Saṅkhāresu ādīnavavibhāvanāni sivathikapabbānīti āha **‘‘sivathikānaṃ ādīnavānupassanāvasena vuttattā’’**ti. Iriyāpathapabbādīnaṃ anappanāvahatā pākaṭā evāti **‘‘sesāni dvādasāpī’’**ti vuttaṃ. Yaṃ panettha atthato avibhattaṃ, taṃ suviññeyyamevāti.

「まさにこの二つ」という限定によって、他の節にはそれがないことから、安止瞑想の業処をそこに限定している。なぜなら「まさに(エヴァ)」という語があるところから、それ以外の場所に限定するからであり、これによって二つの節(入出息念と不浄想)のヴィパッサナー業処性もまた、無常などの観察によって否定されていないと知られるべきである。諸行における過患を明らかにするものが墓場の節であることから、「**墓場(の観察)は過患の観察の力によって説かれたものであるため**」と述べた。威儀の節などが安止をもたらさないことは明白であるため、「**残りの十二もまた**」と述べられた。ここにおいて意味として分別されていないものは、極めて容易に理解されるべきものである。

Kāyānupassanāvaṇṇanā niṭṭhitā.

身随観の注釈を終わる。

Vedanānupassanāvaṇṇanā

受随観の注釈

113. Sukhaṃ vedananti ettha sukhayatīti sukhā, sampayuttadhamme kāyañca laddhassāde karotīti attho. Suṭṭhu vā khādati, khanati vā kāyikaṃ cetasikañca ābādhanti sukhā. Sukaraṃ okāsadānaṃ etissāti sukhāti apare. Vedayati ārammaṇarasaṃ anubhavatīti vedanā. Vedayamānoti anubhavamāno. Kāmantiādīsu yaṃ vattabbaṃ, taṃ iriyāpathapabbe vuttameva. Sampajānassa vediyanaṃ sampajānavediyanaṃ.

113. 「楽受」において、ここで「楽にする」から「楽(スカ)」であり、相応する諸法と身体に喜びをもたらすという意味である。あるいは、身体的・精神的な病苦をよく食い尽くし、掘り崩すから「楽」である。これに余地を与えることが容易(ス・カラ)であるから「楽」であると他の者は言う。感受する、所縁の味わいを体験するから「受(ヴェーダナー)」である。「感受しつつ」とは体験しつつ。「意欲を(カーマン)」などの語において語られるべきことは、威儀の節においてすでに述べられた通りである。正知ある者の感受が「正知による感受」である。

**‘‘Vohāramattaṃ hotī’’**ti etena ‘‘sukhaṃ vedanaṃ vedayamāno sukhaṃ vedanaṃ vedayāmī’’ti idaṃ vohāramattanti dasseti. Vatthuārammaṇāti rūpādiārammaṇā. Rūpādiārammaṇañhi vedanāya pavattiṭṭhānatāya ‘‘vatthū’’ti adhippetaṃ. Assāti bhaveyya. Dhammavinimuttassa aññassa kattu abhāvato dhammasseva kattubhāvaṃ dassento **‘‘vedanāva vedayatī’’**ti āha. Nitthunantoti. Balavato vedanāvegassa nirodhane ādīnavaṃ disvā tassa avasaradānavasena nitthunanto. Vīriyasamataṃ yojetvāti adhivāsanavīriyassa adhimattattā tassa hāpanavasena samādhinā samarasatāpādanena vīriyasamataṃ yojetvā. Saha paṭisambhidāhīti lokuttarapaṭisambhidāhi saha. Lokiyānampi vā sati uppattikāle tattha samatthataṃ sandhāyāha ‘‘saha paṭisambhidāhī’’ti. Samasīsīti vārasamasīsī hutvā, paccavekkhaṇavārassa anantaravāre parinibbāyīti attho.

「**単なる世俗の表現にすぎない**」とは、これによって「楽受を感受しつつ、楽受を感受していると知る」というこれが、単なる世俗の表現にすぎないことを示している。「質料たる所縁」とは、色などの所縁である。色などの所縁は受の生起する場所であることから「質料(ヴァットゥ)」と意図されている。「あるであろう」とは、生じるであろう。「法から離れた他の作者は存在しない」ことから、法そのものが作者である状態を示すために「**受そのものが感受する**」と述べた。「呻吟しながら」とは、強い受の激動の消滅において過患を見て、それに機会を与えることによって呻吟しながら。「精進の平等を結合して」とは、堪忍の精進が過度であるためにそれを減じることによって、三摩地と等しい味わいの状態をもたらすことによって精進の平等を結合して。「無礙解とともに」とは、出世間の無礙解とともに。あるいは世間の無礙解であっても、生起の時にそれにおける熟達を指して「無礙解とともに」と述べた。「等頭(同時の終結者)」とは、最後の瞬間と同時の者となり、省察の瞬間の直後の瞬間に入滅したという意味である。

Yathā ca sukhaṃ, evaṃ dukkhanti yathā ‘‘sukhaṃ vedayatī’’tiādinā sampajānavediyanaṃ sandhāya vuttaṃ, evaṃ dukkhampi. Tattha dukkhayatīti dukkhā, sampayuttadhamme kāyañca pīḷeti vibādhatīti attho. Duṭṭhuṃ vā khādati, khanati vā kāyikaṃ cetasikañca sātanti dukkhā. Dukkaraṃ okāsadānaṃ etissāti dukkhāti apare. Arūpakammaṭṭhānanti arūpapariggahaṃ, arūpadhammamukhena vipassanābhinivesanti attho. Rūpakammaṭṭhānena pana samathābhinivesopi saṅgayhati, vipassanābhiniveso pana idhādhippetoti dassento āha. **‘‘Rūpapariggaho arūpapariggahotipi etadeva vuccatī’’**ti. Catudhātuvavatthānaṃ kathesīti etthāpi ‘‘yebhuyyenā’’ti padaṃ ānetvā sambandhitabbaṃ. Tadubhayanti catudhātuvavatthānassa saṅkhepavitthāradvayamāha. Saṅkhepamanasikāravasena mahāsatipaṭṭhāne, vitthāramanasikāravasena rāhulovāda- (ma. ni. 2.115-117) dhātuvibhaṅgādīsu (vibha. 174-175).

「そして楽と同様に、苦もまた」とは、「楽を受容する」等によって正知による受容を指して説かれたように、苦についても同様である。そこにおいて「苦しめる」から「苦(ドゥッカ)」であり、相応する諸法と身体を圧迫し苦しめるという意味である。あるいは、身体的・精神的な快さを悪く食い尽くし、掘り崩すから「苦」である。これに余地を与えることが困難(ドゥッ・カラ)であるから「苦」であると他の者は言う。「無色の業処」とは無色の把握であり、無色法を端緒とするヴィパッサナーへの専念という意味である。色(物質)の業処によっては止(サマタ)への専念も含まれるが、ヴィパッサナーへの専念がここで意図されていることを示して「**色の把握、無色の把握ともまさにこれをいう**」と述べた。「四大種の限定を説かれた」というここにおいても、「大部分は」という言葉を導いて結びつけるべきである。「その双方」とは、四大種の限定の簡略と詳細の二つを指している。簡略な作意の力によるものは『大念処経』において、詳細な作意の力によるものは『教羅睺羅経』(『中部』2.115-117)や『界分別経』(『分別論』174-175)などにおいてである。

Yebhuyyaggahaṇena tadaññadhammavasenapi arūpakammaṭṭhānakathāya atthitā dīpitāti taṃ vibhāgena dassetuṃ **‘‘tividho hī’’**tiādi vuttaṃ. Tattha abhinivesoti anuppaveso, ārambhoti attho. Ārambhe eva hi ayaṃ vibhāgo, sammasanaṃ pana anavasesatova dhamme pariggahetvā vattati. Pariggahite rūpakammaṭṭhāneti idaṃ rūpamukhena vipassanābhinivesaṃ sandhāya vuttaṃ, arūpamukhena pana vipassanābhiniveso yebhūyyena samathayānikassa icchitabbo, so ca paṭhamaṃ jhānaṅgāni pariggahetvā tato paraṃ sesadhamme pariggaṇhāti. Paṭhamābhinipātoti sabbe cetasikā cittāyattā cittakiriyabhāvena vuccantīti phasso cittassa paṭhamābhinipāto vutto, uppannaphasso puggalo, cittacetasikarāsi vā ārammaṇena phuṭṭho phassasahajātāya vedanāya taṃsamakālameva vedeti, phasso pana obhāsassa viya padīpo vedanādīnaṃ paccayaviseso hotīti purimakālo viya vuccati, yā tassa ārammaṇābhiniropanalakkhaṇatā vuccati. Phusantoti ārammaṇassa phusanākārena. Ayañhi arūpadhammatā ekadesena anallīyamānopi rūpaṃ viya cakkhu, saddo viya ca sotaṃ cittaṃ ārammaṇañca phusanto viya saṅghaṭṭento viya ca pavattati. Tathāhesa ‘‘saṅghaṭṭanaraso’’ti vuccati.

「大部分は」という言葉によって、それ以外の諸法の力によっても無色の業処の説示が存在することが示されているため、それを区分して示すために「**実に三種である**」等と述べられた。そこにおいて「専念」とは没入であり、開始という意味である。実に開始においてのみこの区分があり、包括的な観察(思惟)は残すところなく諸法を把握して展開する。「把握された色の業処において」とは、色を端緒とするヴィパッサナーへの専念を指して説かれたものであり、無色を端緒とするヴィパッサナーへの専念は、大部分は止行者(サマタ行者)に望まれるものであり、彼はまず禅定の構成要素を把握し、その後に残りの諸法を把握する。「最初の接触」とは、すべての心所は心に従属しており心の作用として説かれるため、触は心の最初の接触と説かれ、触を生じた人物、あるいは心・心所の集まりは所縁に触れられ、触と倶生する受によってまさにそれと同時の瞬間に感受するが、触は光に対する灯火のように受などの特別な縁となるため、以前の時(先行するもの)のように説かれ、それが所縁への投入の特相と説かれる。「触れつつ」とは、所縁への接触の様相によってである。この無色の法性は、一部分において付着しないとしても、色に対する眼のように、音に対する耳のように、心と所縁に触れるかのごとく、衝突するかのごとく展開する。実にそれゆえにこれは「衝突の作用」と呼ばれるのである。

Ārammaṇaṃ anubhavantīti issaravatāya visavitāya sāmibhāvena ārammaṇarasaṃ anubhavantī. Phassādīnañhi sampayuttadhammānaṃ ārammaṇe ekadeseneva pavatti phusanādimattabhāvato, vedanāya pana iṭṭhākārasambhogādivasena pavattanato ārammaṇe nippadesato pavatti. Phusanādibhāvena hi ārammaṇaggahaṇaṃ ekadesānubhavanaṃ, vedayitābhāvena gahaṇaṃ yathākāmaṃ sabbānubhavanaṃ evasabhāvāneva tāni gahaṇānīti na vedanāya viya phassādīnampi yathāsakaṃ kiccakaraṇena sāmibhāvānubhavanaṃ codetabbaṃ. Vijānantanti paricchindanavasena visesato jānantaṃ. Viññāṇañhi minitabbavatthuṃ nāḷiyā minanto puriso viya ārammaṇaṃ paricchijja vibhāventaṃ pavattati, na saññā viya sañjānanamattaṃ hutvā. Tathā hi anena kadāci lakkhaṇattayavibhāvanāpi hoti. Imesaṃ pana phassādīnaṃ tassa tassa pākaṭabhāvo paccayavisesasiddhassa pubbābhogassa vasena veditabbā.

「所縁を体験する」とは、主権を持ち、作用の領域を持つ主人としての状態で所縁の味わいを体験することである。触などの相応する諸法は所縁において一部分のみ展開するのであり、接触などの単なる状態にすぎないからである。これに対して受は、好ましい様相の享受などの力によって展開することから、所縁において限定なく展開する。触などの状態による所縁の把握は部分的な体験であり、享受者の状態による把握は望むがままの全面的な体験であって、まさに自性的な把握であるため、受のように触などにも各自の作用をなすことによって主人としての状態の体験がある、と非難されてはならない。「識別する」とは、限定することによって特に知ることである。識は計量されるべき物を升で量る人のように、所縁を限定して明示しながら展開するのであり、想のように単なる想念にとどまるのではない。実にそれゆえにこれによって時に三相(無常・苦・無我)の明示もなされる。しかしこれら触などのそれぞれの明白な状態は、特別な縁によって達成された事前の作意の力によって理解されるべきである。

Evaṃ tassa tasseva pākaṭabhāvepi ‘‘sabbaṃ, bhikkhave, abhiññeyya’’nti (saṃ. ni. 4.46; paṭi. ma. 1.3) ‘‘sabbañca kho, bhikkhave, abhijāna’’nti (saṃ. ni. 4.26) ca evamādivacanato sabbe sammasanupagā dhammā pariggahetabbāti dassento **‘‘tattha yassā’’**tiādimāha. Tattha phassapañcamakeyevāti avadhāraṇaṃ tadantogadhattā taggahaṇeneva gahitattā catunnaṃ arūpakkhandhānaṃ. Phassapañcamakaggahaṇañhi tassa sabbacittuppādasādhāraṇabhāvato, tattha ca phassacetanāggahaṇena sabbasaṅkhārakkhandhadhammasaṅgaho cetanāpadhānattā tesaṃ. Tathā hi suttantabhājanīye saṅkhārakkhandhavibhaṅge (vibha. 12) ‘‘cakkhusamphassajā cetanā’’tiādinā cetanāva vibhattā, itare pana khandhā sarūpeneva gahitā.

このようにそれぞれが明白であるとしても、「比丘たちよ、すべては知られるべきである」(『相応部』4.46等)、「比丘たちよ、すべてを遍知しつつ」(『相応部』4.26)などの言葉があることから、包括的観察に達するすべての諸法は把握されるべきであることを示すために「**そこにおいて誰にとって**」等と述べた。そこにおいて「まさに触を第五とするものにおいて」という限定は、それに含まれることによって、それを把握することによって四つの無色蘊が把握されたことになるからである。触を第五とするものの把握は、それがすべての心の生起に共通する状態であるからであり、そこにおいて触と意思の把握によってすべての行蘊の諸法が包括されるのは、それらが意思を主とするからである。実にそれゆえに経別の行蘊の分別(『分別論』12)において「眼触から生じる意思」等と意思のみが分別され、他の蘊はそのままの形で把握されている。

Vatthuṃ nissitāti ettha vatthu-saddo karajakāyavisayoti kathamidaṃ viññāyatīti āha **‘‘yaṃ sandhāya vutta’’**ntiādi. Kattha pana vuttaṃ? Sāmaññaphale. Soti karajakāyo. Pañcakkhandhavinimuttaṃ nāmarūpaṃ natthīti idaṃ adhikāravasena vuttaṃ. Aññathā hi khandhavinimuttampi nāmaṃ atthevāti. Avijjādihetukāti avijjātaṇhupādānādihetukā. Vipassanāpaṭipāṭiyā…pe… vicaratīti iminā balavavipassanaṃ vatvā puna tassa ussukkāpanaṃ visesādhigamanañca dassento **‘‘so’’**tiādimāha.

「所依(身体)に依存した」において、ここで「所依(ヴァットゥ)」という語は肉身を対象とするものであるが、これがいかにして知られるかを示すために「**指して説かれたのは**」等と述べた。ではどこにおいて説かれたのか。『沙門果経』においてである。「それは」とは肉身のことである。「五蘊から離れた名色(心身)は存在しない」とは、文脈の力によって説かれたものである。そうでなければ、蘊から離れた名(涅槃など)も確かに存在するからである。「無明などを原因とする」とは、無明・渇愛・取などを原因とする。「ヴィパッサナーの順序によって…中略…遊行する」とは、これによって強力なヴィパッサナーを語り、再びその熱意と殊勝な達成を示すために「**彼は**」等と述べた。

Idhāti imissaṃ dutiyasatipaṭṭhānadesanāyaṃ, tassā pana vedanānupassanāvasena kathetabbattā bhagavā vedanāvasena kathesi. Yathāvuttesu ca tīsu kammaṭṭhānābhinivesesu vedanāvasena kammaṭṭhānābhiniveso sukaro vedanānaṃ vibhūtabhāvatoti dassetuṃ **‘‘phassavasena hī’’**tiādi vuttaṃ. Na pākaṭaṃ hotīti idaṃ tādise puggale sandhāya vuttaṃ, yesaṃ ādito vedanāva vibhūtatarā hutvā upaṭṭhāti. Evañhi yaṃ vuttaṃ ‘‘phasso pākaṭo hoti, viññāṇaṃ pākaṭaṃ hotī’’ti, taṃ avirodhitaṃ hoti. Vedanānaṃ uppattipākaṭatāyāti ca idaṃ sukhadukkhavedanānaṃ vasena vuttaṃ. Tāsañhi pavatti oḷārikā, na itarāya. Tadubhayaggahaṇamukhena vā gahetabbattā itarāyapi pavatti viññūnaṃ pākaṭā evāti **‘‘vedanāna’’**nti avisesaggahaṇaṃ daṭṭhabbaṃ. Yadā sukhaṃ uppajjatītiādi sukhavedanāya pākaṭabhāvavibhāvanaṃ. Neva tasmiṃ samaye dukkhaṃ vedanaṃ vedetīti tasmiṃ sukhavedanāsamaṅgisamaye neva dukkhaṃ vedanaṃ vedeti niruddhattā, anuppannattā ca yathākkamaṃ atītānāgatānaṃ, paccuppannāya pana asambhavo vuttoyeva. Sakiccakkhaṇamattāvaṭṭhānato aniccā. Sameccasambhuyya paccayehi katattā saṅkhatā. Vatthārammaṇādipaccayaṃ paṭicca uppannattā paṭiccasamuppannā. Khayavayapalujjananirujjhanapakatitāya khayadhammā…pe… nirodhadhammāti daṭṭhabbā.

「ここに」とは、この第二の念処の説示においてであり、それは受随観の力によって説かれるべきものであるため、世尊は受の力によって説かれた。前述の三種の業処への専念において、受の力による業処への専念は、受が明瞭な状態であることから容易であることを示すために「**実に触の力によって**」等と述べられた。「明白ではない」とは、最初から受こそがより明瞭となって現れるような人々を指して説かれたものである。このようにして「触が明白となり、識が明白となる」と説かれたことと矛盾しないのである。「受の生起の明白さによって」とは、楽受と苦受の力によって説かれたものである。それらの生起は粗大であり、それ以外(不苦不楽受)のものはそうではないからである。あるいはその双方を把握することを通じて把握されるべきであることから、他のものも知者には極めて明白であるため、「**受の**」という無差別の把握として見なされるべきである。「楽が生じる時」等は楽受の明白な状態の明示である。「その時には決して苦受を感受しない」とは、楽受を備えているその時には、過去と未来のものは順に滅しており、また未だ生じていないことから決して苦受を感受せず、現在のものについては不可能性がすでに説かれた通りである。自己の作用の刹那のみに留まることから無常である。縁が集まり結合して作られたことから有為である。質料や所縁などの縁に依存して生じたことから縁起したものである。消尽し、崩壊し、破壊され、滅尽する性質であることから尽法…中略…滅法であると見なされるべきである。

Kilesehi āmasitabbato āmisaṃ nāma pañca kāmaguṇā, ārammaṇakaraṇavasena saha āmisehīti āmisā. Tenāha **‘‘pañcakāmaguṇāmisanissitā’’**ti. Ito paranti ‘‘atthi vedanā’’ti evamādipāḷiṃ sandhāyāha **‘‘kāyānupassanāyaṃ vuttanayamevā’’**ti.

煩悩によって執着されるべきものであることから「世俗の財(アーミサ)」とは五つの欲望の対象(五欲)であり、所縁とすることによって世俗の財を伴うことから「有財(世俗的)」である。それゆえに「**五欲の財に依存した**」と述べた。「これ以降は」とは「受がある」などの聖典を指して「**身随観において説かれた通りの方法である**」と述べた。

Vedanānupassanāvaṇṇanā niṭṭhitā.

受随観の注釈を終わる。

Cittānupassanāvaṇṇanā

心随観の注釈

114. Sampayogavasena (dī. ni. ṭī. 2.381) pavattamānena saha rāgenāti sarāgaṃ. Tenāha **‘‘lobhasahagata’’**nti. Vītarāganti. Ettha kāmaṃ sarāgapadapaṭiyoginā vītarāgavasena bhavitabbaṃ, sammasanacārassa pana idhādhippetattā tebhūmakasseva gahaṇanti **‘‘lokiyakusalābyākata’’**nti vatvā ‘‘idaṃ panā’’tiādinā tameva adhippāyaṃ vivarati. Sesāni dve dosamūlāni, dve mohamūlānīti cattāri akusalacittāni. Tesañhi rāgena sampayogābhāvato nattheva sarāgatā, tannimittakatāya pana siyā taṃsahitatālesoti nattheva vītarāgatāpīti dukavinimuttatā evettha labbhatīti āha **‘‘neva purimapadaṃ, na pacchimapadaṃ bhajantī’’**ti. Yadi evaṃ padesikaṃ pajānanaṃ āpajjatīti? Nāpajjati dukantarapariyāpannattā tesaṃ. Akusalamūlesu saha moheneva vattatīti samohanti āha **‘‘vicikicchāsahagatañceva uddhaccasahagatañcā’’**ti. Yasmā cettha saheva mohenāti samohanti purimapadāvadhāraṇampi labbhatiyeva, tasmā vuttaṃ **‘‘yasmā panā’’**tiādi. Yathā pana atimūḷhatāya pāṭipuggalikanayena savisesaṃ mohavantatāya momūhacittanti vattabbato vicikicchuddhaccasahagatadvayaṃ visesato ‘‘samoha’’nti vuccati, na tathā sesākusalacittānīti **‘‘vaṭṭantiyevā’’**ti vuttaṃ. Sampayogavasena thinamiddhena anupatitaṃ anugatanti thinamiddhānupatitaṃ pañcavidhaṃ sasaṅkhārikākusalacittaṃ saṅkuṭitacittaṃ. Saṅkuṭitacittaṃ nāma ārammaṇe saṅkocanavasena pavattanato. Paccayavisesavasena thāmajātena uddhaccena sahagataṃ pavattaṃ saṃsaṭṭhanti uddhaccasahagataṃ, aññathā sabbampi akusalacittaṃ uddhaccasahagatamevāti. Pasaṭacittaṃ nāma sātisayaṃ vikkhepavasena pavattanato.

114. 相応の力によって(『長部註』2.381)生起する貪りを伴うことから「有貪(有貪心)」である。それゆえに「**貪に相応した**」と述べた。「離貪(離貪心)」について。ここでは確かに有貪の句の対偶として離貪の力によるものであるべきであるが、ここでは包括的観察の実修が意図されているため、三界(世間)のもののみの把握であるとして「**世間の善・無記**」と述べて、「しかしこれは」等によってまさにその意図を明らかにしている。残りの二つの瞋根(瞋恚に根ざす心)と二つの痴根(愚痴に根ざす心)の四つの不善心がある。それらには貪りとの相応がないことから決して有貪性はないが、それを原因とすることによってそれに伴うわずかな痕跡があるかもしれないため、決して離貪性もないので、ここでは二者から離れた状態のみが得られるとして「**前の句にも後の句にも属さない**」と述べた。もしそうであるなら、部分的な知に陥るのではないか。他の二者(有瞋・離瞋など)の組に含まれるため陥らない。不善の根の中でまさに愚痴とともに生じるから「有痴」であるとして「**疑に相応したもの、および掉挙に相応したもの**」と述べた。そしてここにおいて「まさに愚痴とともに」ということから「有痴」という前の句の限定も確かに得られるため、「**しかしながら**」等と述べられた。しかし極めて迷乱していることによって個別的な方法において特に愚痴を持つことから「極愚痴心」と呼ぶべきであるため、疑と掉挙に相応する二つは特に「有痴」と呼ばれるが、残りの不善心はそうではないことから「**まさに妥当である**」と述べられた。相応の力によって惛沈・睡眠に追従された、従ったものであるから「惛沈・睡眠に追従された五種の有加行(有引導)の不善心」が「縮退した心」である。縮退した心とは所縁において縮こまる力によって生じるからである。特別な縁の力によって強固となった掉挙とともに生起し、混ざり合っているから「掉挙に相応した」であり、そうでなければすべての不善心は掉挙に相応したものである。「散乱した心」とは過度に散乱する力によって生じるからである。

Kilesavikkhambhanasamatthatāya vipulaphalatāya dīghasantānatāya ca mahantabhāvaṃ gataṃ, mahantehi vā uḷāracchandādīhi gataṃ paṭipannanti mahaggataṃ. Taṃ pana rūpārūpabhūmikaṃ tato mahantassa loke abhāvato. Tenāha **‘‘rūpārūpāvacara’’**nti. Tassa cettha paṭiyogī parittamevāti āha **‘‘amahaggatanti kāmāvacara’’**nti. Attānaṃ uttarituṃ samatthehi saha uttarehīti sauttaraṃ, tappaṭipakkhena anuttaraṃ, tadubhayaṃ upādāya veditabbanti āha **‘‘sauttaranti kāmāvacara’’**ntiādi. Paṭipakkhavikkhambhanasamatthena samādhinā sammadeva āhitaṃ samāhitaṃ. Tenāha **‘‘yassā’’**tiādi. Yassāti yassa cittassa. Yathāvuttena samādhinā na samāhitanti asamāhitaṃ. Tenāha **‘‘ubhayasamādhirahita’’**nti. Tadaṅgavimuttiyā vimuttaṃ, kāmāvacaraṃ kusalaṃ. Vikkhambhanavimuttiyā vimuttaṃ, mahaggatanti tadubhayaṃ sandhāyāha **‘‘tadaṅgavikkhambhanavimuttīhi vimutta’’**nti. Yattha tadubhayavimutti natthi, taṃ ubhayavimuttirahitanti gayhamāne lokuttaracittepi siyā āsaṅkāti tannivattanatthaṃ **‘‘samuccheda…pe… okāsova natthī’’**ti āha. Okāsābhāvo ca sammasanacārassa adhippetattā veditabbo. Yaṃ panettha atthato avibhattaṃ, taṃ heṭṭhā vuttanayamevāti.

煩悩を伏没させる能力、広大な果報、長い連続性によって大なる状態に達した、あるいは偉大で広大な意欲などによって達し、実践されたものであるから「大広(大広心・大已成心)」である。そしてそれは色界・無色界のものであり、世間においてそれより大きなものは存在しないからである。それゆえに「**色界・無色界の**」と述べた。そしてここにおいてそれの対偶は狭小なもののみであることから「**非大広とは欲界の**」と述べた。自己を超えることができるもの(上位のもの)を伴っているから「有上(有上心)」であり、それに対するものとして「無上(無上心)」であり、その双方に基づいて理解されるべきであるとして「**有上とは欲界の**」等と述べた。反対のものを伏没させる能力を持つ三摩地によって正しく置かれたものが「有定(等持心)」である。それゆえに「**誰の(どの心)**」等と述べた。「誰の」とはどの心において。「前述の三摩地によって定まっていない」から「非定(非等持心)」である。それゆえに「**双方の三摩地を欠いた**」と述べた。分別の解脱によって解脱したのが欲界の善である。伏没の解脱によって解脱したのが大広(色界・無色界)であると、その双方を指して「**彼分解脱と伏没解脱によって解脱した**」と述べた。その双方の解脱が存在しないものが「双方の解脱を欠いたもの」と解釈されるならば、出世間の心においても疑念が生じる可能性があるため、それを排除するために「**断絶…中略…余地は決してない**」と述べた。余地がないことは、包括的観察の実修が意図されていることによって理解されるべきである。ここにおいて意味として分別されていないものは、以前に説かれた通りの方法である。

Cittānupassanāvaṇṇanā niṭṭhitā.

心随観の注釈を終わる。

Dhammānupassanāvaṇṇanā

法随観の注釈

Nīvaraṇapabbavaṇṇanā

蓋(障害)の節の注釈

115. Pahātabbādidhammavibhāgadassanavasena pañcadhā dhammānupassanā niddiṭṭhāti ayamattho pāḷito eva viññāyatīti tamatthaṃ ulliṅgento ‘‘pañcavidhena **dhammānupassanaṃ kathetu’’**nti vuttaṃ. Yadi evaṃ kasmā nīvaraṇādivaseneva niddiṭṭhanti? Veneyyajjhāsayato. Yesañhi veneyyānaṃ pahātabbadhammesu paṭhamaṃ nīvaraṇāni vibhāgena vattabbāni, tesaṃ vasenettha bhagavatā paṭhamaṃ nīvaraṇesu dhammānupassanā kathitā. Tathā hi kāyānupassanāpi samathapubbaṅgamā desitā, tato pariññeyyesu khandhesu āyatanesu, bhāvetabbesu bojjhaṅgesu pariññeyādivibhāgesu saccesu ca uttarā desanā desitā, tasmā cettha samathabhāvanāpi yāvadeva vipassanatthaṃ icchitā, vipassanāpadhānā vipassanābahulā ca satipaṭṭhānadesanāti tassā vipassanābhinivesavibhāgena desitabhāvaṃ vibhāvento **‘‘apicā’’**tiādimāha. Tattha khandhāyatanadukkhasaccavasena missakapariggahakathanaṃ daṭṭhabbaṃ. Saññāsaṅkhārakkhandhapariggahampīti pi-saddena sakalapañcupādānakkhandhapariggahaṃ sampiṇḍeti itaresaṃ tadantogadhattā. ‘‘Kaṇhasukkānaṃ yugandhatā natthī’’ti pajānanakāle abhāvā **‘‘abhiṇhasamudācāravasenā’’**ti vuttaṃ. Yathāti yenākārena. So pana ‘‘kāmacchandassa uppādo hotī’’ti vuttattā kāmacchandassa kāraṇākārova, atthato kāraṇamevāti āha **‘‘yena kāraṇenā’’**ti. Ca-saddo vakkhamānatthasamuccayattho.

115. 断ぜられるべき法などの区分を示すことによって法随観は五種に説示されているというこの意味は、聖典そのものから知られるため、その意味を指し示して「五種によって**法随観を説くために**」と述べられた。もしそうであるなら、なぜ蓋(五蓋)などの力によってのみ説示されたのか。教化されるべき者の意向(機根)による。断ぜられるべき諸法の中でまず諸々の蓋が分別して説かれるべき教化対象者たち、彼らのためにここにおいて世尊によってまず蓋における法随観が説かれたのである。実に身随観もまた止(サマタ)を先導として説かれ、その後に遍知されるべき蘊において、処において、修習されるべき覚支において、遍知などの区分における諦(四聖諦)において、高位の教説が説かれた。したがってここにおいて止の修習もまたヴィパッサナーのためにのみ望まれ、念処の説示はヴィパッサナーを主とし、ヴィパッサナーに富むものであるため、それがヴィパッサナーへの専念の区分によって説かれた状態であることを明示して「**さらにまた**」等と述べた。そこにおいて蘊・処・苦諦の力による混合した把握の教説が見られるべきである。「想蘊と行蘊の把握をも」とは、「も(ピ)」という言葉によって他のものがそれに含まれることから、一切の五取蘊の把握を包括している。「黒(悪)と白(善)の共存はない」ことから、知る時において存在しないため「**頻繁な現起の力によって**」と述べられた。「いかにして」とはいかなる様相によって。「欲愛の生起がある」と説かれていることから、それは欲愛の原因の様相そのものであり、意味においては原因そのものであることから「**いかなる原因によって**」と述べた。「また(チャ)」の語は、これから語られる意味を併せ集める意味である。

Tatthāti ‘‘yathā cā’’tiādinā vuttapade. Subhampīti kāmacchandopi. So hi attano gahaṇākārena **‘‘subha’’**nti vuccati, tenākārena pavattanakassa aññassa kāmacchandassa nimittattā **‘‘subhanimitta’’**nti ca. Iṭṭhaṃ, iṭṭhākārena vā gayhamānaṃ rūpādi subhārammaṇaṃ. Ākaṅkhitassa hitasukhassa anupāyabhūto manasikāro anupāyamanasikāro. Tanti ayonisomanasikāraṃ. Tatthāti nipphādetabbe ārammaṇabhūte ca duvidhepi subhanimitte. Āhāroti paccayo.

「そこにおいて」とは「いかにしてまた」等と説かれた句においてである。「清浄(浄相)をも」とは欲愛をも指す。それは自己の把握の様相によって「**清浄(スバ)**」と呼ばれ、その様相によって生じる他の欲愛の因(相)であることから「**浄相**」とも呼ばれる。好ましいもの、あるいは好ましい様相として把握される色などの好ましい所縁である。望まれる利益と安楽の非手段である作意が「非手段の作意(不正作意)」である。「それを」とは如理でない作意(不正作意)を指す。「そこにおいて」とは、生み出されるべきものと所縁となるものの双方の浄相において。「滋養(アーハーラ)」とは縁のことである。

Asubhampīti asubhajjhānampi uttarapadalopena. Taṃ pana dasasu aviññāṇakāsubhesu, kesādīsu ca pavattaṃ daṭṭhabbaṃ. Kesādīsu hi saññā asubhasaññāti girimānandasutte (a. ni. 10.60) vuttāti. Ettha ca catubbidhassa ayonisomanasikārassa yonisomanasikārassa ca gahaṇaṃ niravasesadassanatthaṃ katanti daṭṭhabbaṃ. Tesu pana asubhe ‘‘subha’’nti, ‘‘asubha’’nti ca manasikāro idhādhippeto, tadanukūlattā vā itarepīti.

「不浄をも」とは、後続の語の省略によって不浄禅をも指す。それは無情物の十の不浄において、また毛髪などにおいて展開するものと見なされるべきである。毛髪などにおける想いは不浄想であると『ギリマーナンダ経』(『増支部』10.60)において説かれているからである。そしてここにおいて四種の如理でない作意と如理の作意の把握は、残すところなく示すためになされたものと見なされるべきである。その中で不浄において「浄である」と、また「不浄である」と作意することがここで意図されており、あるいはそれに適合することから他のものも同様である。

Ekādasasu (a. ni. ṭī. 1.1.16) asubhesu paṭikūlākārassa uggaṇhanaṃ, yathā vā tattha uggahanimittaṃ uppajjati, tathā paṭipatti asubhanimittassa uggaho. Upacārappanāvahāya asubhabhāvanāya anuyuñjanaṃ asubhabhāvanānuyogo. Bhojane mattaññuno thinamiddhābhibhavābhāvā otāraṃ alabhamāno kāmacchando pahīyatīti vadanti. Bhojananissitaṃ pana āhāre paṭikūlasaññaṃ, tabbipariṇāmassa, tadādhārassa, tassa ca udariyabhūtassa asubhatādassanaṃ, kāyassa āhāraṭṭhitikatādassanañca yo sammadeva jānāti, so visesato bhojane mattaññū nāma, tassa ca kāmacchando pahīyateva. Asubhakammikatissatthero dantaṭṭhidassāvī. Abhidhammapariyāyena (dha. sa. 1159, 1503) sabbopi lobho kāmacchandanīvaraṇanti āha **‘‘arahattamaggenā’’**ti.

十一の不浄において厭逆の様相を学習すること、あるいはいかにしてそこにおいて学習の相(取相)が生じるか、そのような実践が「不浄相の学習(取)」である。近行や安止をもたらす不浄の修習に専念することが「不浄修習の専念」である。食事において適量を知る者は惛沈と睡眠の圧倒がないため、機会を得られない欲愛は捨てられる、と彼らは言う。しかし食事に依存した食物における厭逆想、それの変異、それの維持体、そして胃袋に入ったものの不浄性の観察、身体が食物によって維持される状態の観察を正しく知る者は、特に「食事において適量を知る者」と呼ばれ、彼にとっては欲愛がまさに捨てられるのである。不浄を業処とするティッサ長老は歯骨を見た者であった。阿毘達磨の法門(『法集論』1159, 1503)によれば、すべての貪りは欲愛蓋であることから「**阿羅漢道によって**」と述べた。

Paṭighampi purimuppannaṃ paṭighanimittaṃ parato uppajjanakapaṭighassa kāraṇanti katvā. Mejjati hitapharaṇavasena siniyhatīti mitto, tasmiṃ mitte bhavā, mittassa vā esāti mettā, tassā mettāya.

「瞋恚をも」とは、以前に生じた瞋恚の相が、後に生じる瞋恚の原因であるとして。「慈しみ、利益の普及の力によって親愛の情を寄せる」から「友(ミッタ)」であり、その友にあるもの、あるいは友のものであるから「慈(メッター)」であり、その慈しみにおいてである。

Mettāyanassa sattesu hitapharaṇassa uppādanaṃ pavattanaṃ mettānimittassa uggaho. Odhisakaanodhisakadisāpharaṇānanti attaatipiyasahāyamajjhattaverīvasena odhisakatā, sīmāsambhede kate anodhisakatā, ekādidisāpharaṇavasena disāpharaṇatā mettāya uggahaṇe veditabbā. Vihāraracchāgāmādivasena vā odhisakadisāpharaṇaṃ, vihārādiuddesarahitaṃ puratthimādidisāvasena anodhisakadisāpharaṇanti evaṃ vā dvidhā uggahaṇaṃ sandhāya **‘‘odhisakaanodhisakadisāpharaṇāna’’**nti vuttaṃ. Uggaho ca yāva upacārā daṭṭhabbo, uggahitāya āsevanā bhāvanā. Tattha ‘‘sabbe sattā, pāṇā, bhūtā, puggalā, attabhāvapariyāpannā’’ti etesaṃ vasena pañcavidhā, ekekasmiṃ ‘‘averā hontu, abyāpajjā, anīghā, sukhī attānaṃ pariharantū’’ti catudhā pavattito vīsatividhā anodhisakapharaṇā mettā, ‘‘sabbā itthiyo, purisā, ariyā, anariyā, devā, manussā, vinipātikā’’ti sattodhikaraṇavasena pavattā sattavidhā aṭṭhavīsatividhā vā, dasahi disāhi disodhikaraṇavasena pavattā dasavidhā ca, ekekāya vā disāya sattādiitthādiaverādibhedena asītādhikacatusatappabhedā ca odhibhopharaṇā veditabbā.

慈悲の心を持つ者が有情たちへの利益の遍満を生じさせ、継続させることが慈の相の把持(受取)である。「有辺・無辺・方角への遍満」とは、自身・極めて愛しい者・友人・中立の者・敵対者の別によるものが「有辺(限定)」であり、境界の破壊がなされたときが「無辺(無限定)」であり、一つ等の方角への遍満によるものが「方角への遍満」であると、慈の把持において知られるべきである。あるいは寺院・街路・村等によるものが有辺の方角遍満であり、寺院等の限定を離れて東方等の方角によるものが無辺の方角遍満であるという、このように二種の把持を念頭に置いて「有辺・無辺・方角への遍満」と説かれた。そして把持は近行(近行定)に至るまでと見なされるべきであり、把持されたものの反復修習が修習(開発)である。その中で「すべての有情、息ある者、生類、個物、身体に含まれる者」というこれらによる五種と、それぞれにおいて「怨みなき者であれ、害心なき者であれ、悩みなき者であれ、安楽に自己を護る者であれ」と四様に行われる二十種の無辺遍満の慈があり、「すべての女、男、聖者、凡夫、神々、人間、悪趣に堕ちた者」という七つの限定により行われる七種または二十八種、あるいは十方による方角の限定により行われる十種、あるいは一々の方角において七種等、女等、怨みなき者等の区別によって四百八十種に区分される有辺の遍満が知られるべきである。

Yena ayonisomanasikārena aratiādikāni uppajjanti, so aratiādīsu ayonisomanasikāro, tena. Nipphādetabbe hi idaṃ bhummaṃ. Esa nayo ito paresupi. Ukkaṇṭhitā pantasenāsanesu adhikusalesu dhammesu ca uppajjanabhāvariñcanā. Kāyavināmanāti kāyassa virūpenākārena nāmanā.

それによって不快感(嫌気)等が生じるような不正な作意(如理でない作意)、それが不快感等における不正な作意であり、それによって、という意味である。成就されるべきものにおいてこの処格(格変化)が用いられている。この理趣はこれ以降のものにおいても同様である。「倦怠(意気消沈)」とは、辺鄙な坐臥処や殊勝な善法において生じるべき状態を放棄することである。「身体の屈折」とは、身体を見苦しい様態で曲げることである。

Kusaladhammasampaṭipattiyā paṭṭhapanasabhāvatāya, tappaṭipakkhānaṃ visosanasabhāvatāya ca ārambhadhātuādito pavattavīriyanti āha **‘‘paṭhamārambhavīriya’’**nti. Yasmā paṭhamārambhamattassa kosajjavidhamanaṃ thāmagamanañca natthi, tasmā vuttaṃ **‘‘kosajjato nikkhantatāya tato balavatara’’**nti. Yasmā pana aparāparuppattiyā laddhāsevanaṃ uparūparivisesaṃ āvahantaṃ ativiya thāmagatameva hoti, tasmā vuttaṃ **‘‘paraṃ paraṃ ṭhānaṃ akkamanato tatopi balavatara’’**nti.

善法の完全な実践を開始する本質を有すること、およびその対治すべきもの(対立要素)を枯渇させる本質を有することから、発始界等から生じた精進を指して「最初の発始の精進」と説いた。単なる最初の発始だけでは怠惰を打ち破り力強さに至ることがないため、「怠惰から脱離していることによってそれよりも力強い」と説かれた。しかし、次々と生起することによって修習を得て、次々と上位の殊勝さを導くものは極めて力強さに至っているため、「次々と上位の境地に踏み入ることからそれよりもさらに力強い」と説かれた。

Atibhojane nimittaggāhoti atibhojane thinamiddhassa nimittaggāho, ‘‘ettake bhutte thinamiddhassa kāraṇaṃ hoti, ettake na hotī’’ti thinamiddhassa kāraṇākāraṇaggāho hotīti attho. Divā sūriyālokanti divā gahitanimittaṃ sūriyālokaṃ rattiyaṃ manasikarontassapīti evamettha attho veditabbo. Dhutaṅgānaṃ vīriyanissitattā vuttaṃ **‘‘dhutaṅganissitasappāyakathāyapī’’**ti.

「過食における相の把握」とは、過食において惛沈・睡眠の相を把握することであり、「これだけ食べれば惛沈・睡眠の原因となり、これだけならば原因とならない」と惛沈・睡眠の原因と非原因を把握することである、という意味である。「昼間の太陽光を」とは、昼間に把握した相である太陽光を夜間にも作意することであると、このようにここで意味が知られるべきである。頭陀行は精進に依存していることから、「頭陀行に依存した有益な談話によっても」と説かれた。

Kukkuccampi katākatānusocanavasena pavattamānaṃ cetaso avūpasamāvahatāya uddhaccena samānalakkhaṇamevāti **‘‘avūpasamo nāma avūpasantākāro, uddhaccakukkuccamevetaṃ atthato’’**ti vuttaṃ.

悪作(後悔)もまた、なされたこととなされなかったことの後悔として生起し、心の不動(平安)のなさをもたらすことから、掉挙と同一の特相を有するものであるため、「不動(不静寂)とは静まっていない様態のことであり、実質的には掉挙・悪作のことである」と説かれた。

Bahussutassa ganthato atthato ca suttādīni vicārentassa atthavedādipaṭilābhasabbhāvato vikkhepo na hoti, yathāvidhipaṭipattiyā yathānurūpapaṭikārappavattiyā ca katākatānusocanañca na hotīti **‘‘bāhusaccenapi…pe… uddhaccakukkuccaṃ pahīyatī’’**ti āha. Yadaggena bāhusaccena uddhaccakukkuccaṃ pahīyati, tadaggena paripucchakatāvinayapakataññutāhipi taṃ pahīyatīti daṭṭhabbaṃ. Buddhasevitā ca buddhasīlitaṃ āvahatīti cetaso vūpasamakarattā uddhaccakukkuccapahānakārī vuttā. Buddhattaṃ pana anapekkhitvā vinayadharā kukkuccavinodakā kalyāṇamittā vuttāti daṭṭhabbā. Vikkhepo ca bhikkhuno yebhuyyena kukkuccahetuko hotīti **‘‘kappiyākappiyaparipucchāmahulassā’’**tiādinā vinayanayeneva paripucchakatādayo niddiṭṭhā. Pahīne uddhaccakukkucceti niddhāraṇe bhummaṃ. Kukkuccassa domanassasahagatattā anāgāmimaggena āyatiṃ anuppādo vutto.

多聞の者が文句と意味から経典等を検討するとき、意味の理解等の獲得が存在することから動揺(散乱)が生じることはなく、正しい規則の実践と相応しい修復の実行によって、なされたこととなされなかったことの後悔も生じないため、「多聞によっても……(略)……掉挙・悪作は断ぜられる」と説いた。最高度の多聞によって掉挙・悪作が断ぜられるのと同様に、最高度の質問好きや律への精通によってもそれが断ぜられると見なされるべきである。また、仏陀(諸仏)に親しむことは仏陀の徳行をもたらすため、心の静寂をもたらすものとして掉挙・悪作を断ずる原因と説かれた。しかし仏陀の境地を顧慮することなく、律を把持し後悔を除去する善友が説かれていると見なされるべきである。また比丘の動揺は概して後悔(悪作)に起因するものであるため、「適法・不適法の質問を多くすること」等により、まさに律の理趣によって質問好き等が示されている。「断ぜられた掉挙・悪作において」とは限定の処格である。悪作は憂根(不快な感情)を伴うものであるため、不還道によって将来において不生となると説かれた。

Tiṭṭhati pavattati etthāti ṭhānīyā, vicikicchāya ṭhānīyā vicikicchāṭṭhānīyā, vicikicchāya kāraṇabhūtā dhammā. Tiṭṭhatīti vā ṭhānīyā, vicikicchā ṭhānīyā etissāti vicikicchāṭṭhānīyā, atthato vicikicchā eva. Sā hi purimuppannā parato uppajjanakavicikicchāya sabhāgahetutāya asādhāraṇaṃ.

ここに留まり(生じ)、ここに生起するから「処(基盤)」であり、疑妄の処であるから「疑妄の処となるもの」、疑妄の原因となる諸法のことである。あるいは、留まるから「処」であり、疑妄がこれの処であるから「疑妄の処となるもの」であり、実質的には疑妄そのものである。なぜなら、先に生じた疑妄は、後に生じる疑妄の同類の直接原因(同類因)としての共通ならざる原因だからである。

Kusalākusalāti kosallasambhūtaṭṭhena kusalā, tappaṭipakkhato akusalā. Ye akusalā, te sāvajjā asevitabbā hīnā ca. Ye kusalā, te anavajjā sevitabbā paṇītā ca. Kusalāpi vā hīnehi chandādīhi āraddhā hīnā, paṇītehi paṇītā. Kaṇhāti kāḷakā, cittassa apabhassarabhāvakaraṇā. Sukkāti odātā, cittassa pabhassarabhāvakaraṇā. Kaṇhābhijātihetuto vā kaṇhā, sukkābhijātihetuto sukkā. Te eva sappaṭibhāgā. Kaṇhā hi ujuvipaccanīkatāya sukkehi sappaṭibhāgā, tathā sukkāpi itarehi. Atha vā kaṇhasukkā ca sappaṭibhāgā ca kaṇhasukkasappaṭibhāgā. Sukhā hi vedanā dukkhāyavedanāya sappaṭibhāgā, dukkhā ca vedanā sukhāya vedanāya sappaṭibhāgāti.

「善・不善」とは、巧みさ(智慧)から生じたという意味で善であり、その反対であることから不善である。不善であるものは、過失があり、親しむべきでなく、劣っている。善であるものは、過失がなく、親しむべきであり、勝れている。あるいは善であっても、劣った意欲等によって始められたものは劣っており、勝れたものによるものは勝れている。「黒(暗)」とは黒いものであり、心を輝きのない状態にするものである。「白(明)」とは白い(清らかな)ものであり、心を輝きのある状態にするものである。あるいは黒い生類の境遇の原因となることから黒であり、白い生類の境遇の原因となることから白である。それらはまさに対比されるべきものである。黒は直接に対立することによって白と対比され、同様に白も他と対比される。あるいは黒と白であり、かつ対比されるものであるから「黒白の対比されるもの」である。実に楽受は苦受と対比され、苦受は楽受と対比されるからである。

Kāmaṃ bāhusaccaparipucchakatāhi aṭṭhavatthukāpi vicikicchā pahīyati, tathāpi ratanattayavicikicchāmūlikā sesavicikicchāti katvā āha **‘‘tīṇi ratanāni ārabbhā’’**ti. Ratanattayaguṇāvabodhe hi ‘‘satthari kaṅkhatī’’ti (dha. sa. 1008, 1123, 1167, 1241, 1263, 1270; vibha. 915) ādivicikicchāya asambhavoti. Vinaye pakataññutā ‘‘sikkhāya kaṅkhatī’’ti (dha. sa. 1008, 1123, 1167, 1241, 1263, 1270; vibha. 915) vuttāya vicikicchāya pahānaṃ karotīti āha **‘‘vinaye ciṇṇavasībhāvassapī’’**ti. Okappanīyasaddhāsaṅkhātaadhimokkhabahulassāti saddheyyavatthuno anupavisanasaddhāsaṅkhātaadhimokkhena adhimuccanabahulassa. Adhimuccanañca adhimokkhuppādanamevāti daṭṭhabbaṃ. Saddhāya vā ninnapoṇatā adhimutti adhimokkho.

確かに多聞や質問好きによって八事に対する疑妄も断ぜられるが、それでも三宝に対する疑妄こそが残りの疑妄の根本であるとして「三宝に関して」と説いた。三宝の功徳を覚知したときには、「師について疑う」等の疑妄は生じ得ないからである。律における精通は、「戒学について疑う」と説かれた疑妄を断ずるので、「律において自在に習熟していることによっても」と説いた。「信ずべき対象への確信と称される勝解(確信)を多くすること」とは、信ずべき対象へと深く入っていく信仰と称される勝解によって、確信することが多いことである。そして勝解することとは勝解を生じさせることにほかならないと見なされるべきである。あるいは、信仰による傾倒・専念が勝解(確信)である。

Subhanimittaasubhanimittādīsūti ‘‘subhanimittādīsu asubhanimittādīsū’’ti ādi-saddo paccekaṃ yojetabbo. Tattha paṭhamena ādi-saddena paṭighanimittādīnaṃ saṅgaho, dutiyena mettācetovimuttiādīnaṃ. Sesamettha yaṃ vattabbaṃ, taṃ vuttanayamevāti.

「浄相・不浄相等において」とは、「浄相等において、不浄相等において」と「等」の語をそれぞれに結合させるべきである。そこにおいて最初の「等」の語によって瞋恚の相(嫌悪の対象)等の包摂がなされ、第二の語によって慈心解脱等の包摂がなされる。ここで説かれるべき残りのことは、すでに説かれた理趣の通りである。

Nīvaraṇapabbavaṇṇanā niṭṭhitā.

蓋節の解説を終わる。

Khandhapabbavaṇṇanā

蘊節の解説

116. Upādānehi ārammaṇakaraṇādivasena upādātabbā vā khandhā upādānakkhandā. Iti rūpanti ettha iti-saddo idaṃ-saddena samānatthoti adhippāyenāha **‘‘idaṃ rūpa’’**nti. Tayidaṃ sarūpato anavasesapariyādānaṃ hotīti āha – **‘‘ettakaṃ rūpaṃ, na ito paraṃ rūpaṃ atthī’’**ti. Itīti vā pakāratthe nipāto, tasmā **‘‘iti rūpa’’**nti iminā bhūtupādādivasena yattako rūpassa bhedo, tena saddhiṃ rūpaṃ anavasesato pariyādiyitvā dasseti. Sabhāvatoti ruppanasabhāvato cakkhādivaṇṇādisabhāvato ca. Vedanādīsupīti ettha ‘‘ayaṃ vedanā, ettakā vedanā, na ito paraṃ vedanā atthīti sabhāvato vedanaṃ pajānātī’’tiādinā, sabhāvatoti ca anubhavanasabhāvato sātādisabhāvato cāti evamādinā yojetabbaṃ.

116. 取(執着)によって所縁とすること等を通じて執取されるべき諸蘊が取蘊である。「このように色を」における「このように(iti)」という語は、「これ(idaṃ)」という語と同義であるという趣旨から「この色を」と説いた。これは自性(本質)において余すところなく包摂することになるため、「これだけが色であり、これより他に色はない」と説いた。あるいは「iti」は様態の意味の不変化詞であり、したがって「このように色を」によって四大種や所造色等による色のあらゆる区分とともに、色を残すところなく包摂して示している。「自性から」とは、破壊される自性から、また眼等や色香等の自性からである。「受等においても」とは、ここで「これは受である、これだけが受であり、これより他に受はないと自性から受を如実に知る」等とされ、「自性から」とは感受する自性から、また快・不快等の自性からであると、このように結合されるべきである。

Khandhapabbavaṇṇanā niṭṭhitā.

蘊節の解説を終わる。

Āyatanapabbavaṇṇanā

処節の解説

117. Chasu ajjhattikabāhiresūti (dī. ni. ṭī. 2.384) ‘‘chasu ajjhattikesu chasu bāhiresu’’ti **‘‘chasū’’**ti padaṃ paccekaṃ yojetabbaṃ. Kasmā panetāni ubhayāni chaḷeva vuttāni? Chaviññāṇakāyuppattidvārārammaṇavavatthānato. Cakkhuviññāṇavīthiyā pariyāpannassa hi viññāṇakāyassa cakkhāyatanameva uppattidvāraṃ, rūpāyatanameva ca ārammaṇaṃ, tathā itarāni itaresaṃ, chaṭṭhassa pana bhavaṅgamanasaṅkhāto manāyatanekadeso uppattidvāraṃ, asādhāraṇañca dhammāyatanaṃ ārammaṇaṃ. Cakkhatīti cakkhu, rūpaṃ assādeti vibhāveti cāti attho. Suṇātīti sotaṃ. Ghāyatīti ghānaṃ. Jīvitanimittatāya raso jīvitaṃ, taṃ jīvitamavhāyatīti jivhā. Kucchitānaṃ sāsavadhammānaṃ āyo uppattidesoti kāyo. Munāti ārammaṇaṃ vijānātīti mano. Rūpayati vaṇṇavikāraṃ āpajjamānaṃ hadayaṅgatabhāvaṃ pakāsetīti rūpaṃ. Sappati attano paccayehi harīyati sotaviññeyyabhāvaṃ gamīyatīti saddo. Gandhayati attano vatthuṃ sūcetīti gandho. Rasanti taṃ sattā assādentīti raso. Phusīyatīti phoṭṭhabbaṃ. Attano lakkhaṇaṃ dhārentīti dhammā. Sabbāni pana āyānaṃ tananādiatthena āyatanāni. Ayamettha saṅkhepo, vitthāro pana visuddhimagge (visuddhi. 2.510-512) taṃsaṃvaṇṇanāya (visuddhi. mahāṭī. 2.510) ca vuttanayena veditabbo.

117. 「六つの内と外の処において」とは、「六つの内処において、六つの外処において」と「六つの」という語をそれぞれに結合させるべきである。しかしなぜこれら双方は六つずつだけ説かれたのか。六つの識身が生じる門と所縁の確定によるからである。実に眼識の心路過程に含まれる識身にとっては、眼処こそが生起の門であり、色処こそが所縁である。同様に他のものにとっても他のものがそうである。しかし第六のもの(意識)にとっては、有分心と称される意処の一部が生起の門であり、共通ならざる法処が所縁である。見る(味わう・識別する)から「眼(cakkhu)」であり、色を享受し識別するという意味である。聞くから「耳(sota)」である。嗅ぐから「鼻(ghāna)」である。生命の相であることから味は生命であり、その生命を呼び集める(受容する)から「舌(jivhā)」である。悪しき有漏の諸法の拠り所・生起の場所であるから「身(kāya)」である。知る・所縁を識別するから「意(mano)」である。色彩の変化を被りつつ胸中の状態を顕示する(変化を示す)から「色(rūpa)」である。自己の諸条件によって運ばれ耳に認識される状態に至るから「声(sadda)」である。自己の基盤を知らせるから「香(gandha)」である。有情たちがそれを味わうから「味(rasa)」である。触れられるから「所触(phoṭṭhabba)」である。自己の特相を保持するから「法(dhamma)」である。そしてすべては、生起の範囲を拡張する等の意味から「処(āyatana)」である。ここでの要約はこの通りであり、詳細については『清浄道論』およびその注釈(大疏)で説かれた理趣によって知られるべきである。

Cakkhuñca pajānātīti ettha cakkhu nāma pasādacakkhu, na sasambhāracakkhu, nāpi dibbacakkhuādikanti āha **‘‘cakkhupasāda’’**nti. Yaṃ sandhāya vuttaṃ ‘‘yaṃ cakkhu catunnaṃ mahābhūtānaṃ upādāya pasādo’’ti (dha. sa. 596-599). Ca-saddo vakkhamānatthasamuccayattho. Yāthāvasarasalakkhaṇavasenāti aviparītassa attano rasassa ceva lakkhaṇassa ca vasena, rūpesu āviñchanakiccassa ceva rūpābhighātārahabhūtapasādalakkhaṇassa ca vasenāti attho. ‘‘Cakkhuñca paṭicca rūpe cā’’tiādīsu (ma. ni. 1.204, 400; 3.421, 425-426; saṃ. ni. 2.43-45; 4.54-55; kathā. 465, 467) samuditāniyeva rūpāyatanāni cakkhuviññāṇuppattihetu, na visuṃ visunti imassa atthassa dassanatthaṃ **‘‘rūpe cā’’**ti puthuvacanaggahaṇaṃ, tāya eva ca desanāgatiyā kāmaṃ idhāpi ‘‘rūpe ca pajānātī’’ti vuttaṃ, rūpabhāvasāmaññena pana sabbaṃ ekajjhaṃ gahetvā **‘‘bahiddhā catusamuṭṭhānikarūpañcā’’**ti ekavacanavasena attho vutto. Sarasalakkhaṇavasenāti cakkhuviññāṇassa visayabhāvakiccassa ceva cakkhupaṭihananalakkhaṇassa ca vasenāti yojetabbaṃ.

「眼を如実に知る」において、眼とは浄眼(視覚機能)のことであり、肉眼(複合体としての目)ではなく、天眼等でもないとして「眼の清浄(浄色)」と説いた。「四つの四大種に依存した清浄(浄色)である眼」と念頭に置いて説かれた通りである。「また(ca)」の語は、これから説かれる意味を併せ集める意味である。「真実の作用と特相によって」とは、顛倒のない自己の作用および特相によって、という意味であり、色を引き寄せる作用と、色との衝突に適した元素の清浄という特相によって、という意味である。「眼と色とを縁として」等において、集合した色処こそが眼識の生起の原因であり、個々別々ではないというこの意味を示すために、「色をも(rūpe ca)」と複数形の表現が用いられ、まさにその説法の趣向によって確かにここでも「色をも知る」と説かれたが、色の性質の共通性によってすべてを一つにまとめて「外の四種の生起原因による色をも」と単数形によって意味が説かれた。「作用と特相によって」とは、眼識の対象となる作用および眼を打つ(衝突する)特相によって、と結合されるべきである。

Ubhayaṃ paṭiccāti cakkhuṃ upanissayapaccayavasena paccayabhūtaṃ, rūpe ārammaṇādhipatiārammaṇūpanissayavasena paccayabhūte ca paṭicca. Kāmañcāyaṃ suttantasaṃvaṇṇanā, nippariyāyakathā nāma abhidhammasannissitā evāti abhidhammanayeneva saṃyojanāni dassento **‘‘kāmarāga…pe… avijjāsaṃyojana’’**nti āha. Tattha kāmesu rāgo, kāmo ca so rāgo cāti kāmarāgo, so eva bandhanaṭṭhena saṃyojanaṃ. Ayañhi yassa saṃvijjati, taṃ puggalaṃ vaṭṭasmiṃ saṃyojeti bandhati, iti dukkhena sattaṃ, bhavādike vā bhavantarādīhi, kammunā vā vipākaṃ saṃyojeti bandhatīti saṃyojanaṃ. Evaṃ paṭighasaṃyojanādīnampi yathārahaṃ attho vattabbo. Sarasalakkhaṇavasenāti ettha pana sattassa vaṭṭato anissajjanasaṅkhātassa attano kiccassa ceva yathāvuttabandhanasaṅkhātassa lakkhaṇassa ca vasenāti yojetabbaṃ.

「両者を縁として」とは、親依止縁としての条件となった眼と、所縁増上縁および所縁親依止縁としての条件となった色とを縁として、という意味である。確かにこれは経の解説であるが、直接的(無婉曲)な説示とは阿毘達磨に基づいたものにほかならないため、阿毘達磨の理趣によって結使(煩悩の結び目)を示しつつ「欲貪……(略)……無明結」と説いた。その中で諸々の欲に対する貪り、欲であり貪りであるものが「欲貪」であり、それ自体が緊縛の意味において「結(結使)」である。実にこれを持つ者は、その人物を輪廻の中に結びつけ緊縛する。このように苦しみによって有情を、あるいは諸々の存在を他の存在等と、あるいは業によって異熟を結びつけ緊縛するから「結」である。このように瞋恚結等についても相応に意味が説かれるべきである。ここでの「作用と特相によって」とは、有情を輪廻から解放しないという自己の作用、および前述の緊縛という特相によって、と結合されるべきである。

Bhavassāda-diṭṭhissāda-nivattanatthaṃ kāmassādaggahaṇaṃ. Assādayatoti abhiramantassa. Abhinandatoti sapppītikataṇhāvasena nandantassa. Padadvayenapi balavato kāmarāgassa paccayabhūtā kāmarāguppatti vuttā. Esa nayo sesesupi. Etaṃ ārammaṇanti etaṃ evaṃsukhumaṃ evaṃdubbibhāgaṃ ārammaṇaṃ. Niccaṃ dhuvanti etaṃ nidassanamattaṃ, ‘‘ucchijjissati vinassissatīti gaṇhato’’ti evamādīnampi saṅgaho icchitabbo. Bhavaṃ patthentassāti ‘‘īdise sampattibhave yasmā amhākaṃ idaṃ iṭṭhārammaṇaṃ sulabhaṃ jātaṃ, tasmā āyatimpi sampattibhavo bhaveyyā’’ti bhavaṃ nikāmentassa. Evarūpaṃ sakkā laddhunti yojanā. Usūyatoti usūyaṃ issaṃ uppādayato. Aññassa maccharāyatoti aññena asādhāraṇabhāvakaraṇena macchariyaṃ karoto. Sabbeheva yathāvuttehi navahi saṃyojanehi.

有(存在)の味への耽溺や見解の味への耽溺を排除するために「欲の味への耽溺」が挙げられた。「味わう者」とは楽しむ者のことである。「歓喜する者」とは喜悦を伴う渇愛によって喜ぶ者のことである。二つの語によって、力強い欲貪の条件となる欲貪の生起が説かれている。この理趣は残りのものにおいても同様である。「その所縁を」とは、このように微細で、このように識別し難い所縁を、ということである。「常住にして堅固である」とは例示にすぎず、「断滅し消滅するであろうと把握する者」等の包摂も望まれる。「有を希求する者」とは、「このような福徳ある生存において、私たちにとってこの望ましい所縁が容易に得られたのだから、将来においても福徳ある生存であってほしい」と生存を熱望する者のことである。「このようなものは得ることができる」と解釈される。「嫉妬する者」とは嫉みや嫉妬を生じさせる者のことである。「他者に対して物惜しみする者」とは、他者と共有しない状態にすることによって吝嗇を行う者のことである。「前述の九つの結のすべてによって」という意味である。

Tañca kāraṇanti subhanimittapaṭighanimittādivibhāvaṃ iṭṭhāniṭṭhādirūpārammaṇañceva tajjāyonisomanasikārañcāti tassa tassa saṃyojanassa kāraṇaṃ. Avikkhambhitaasamūhatabhūmiladdhuppannataṃ sandhāya **‘‘appahīnaṭṭhena uppannassā’’**ti vuttaṃ. Vattamānuppannatā samudācāraggahaṇeneva gahitā. Yena kāraṇenāti yena vipassanāsamathabhāvanāsaṅkhātena kāraṇena. Tañhi tassa tadaṅgavasena ceva vikkhambhanavasena ca pahānakāraṇaṃ. Issāmacchariyānaṃ apāyagamanīyatāya paṭhamamaggavajjhatā vuttā. Yadi evaṃ ‘‘tiṇṇaṃ saṃyojanānaṃ parikkhayā sotāpanno hotī’’ti (a. ni. 4.241) suttapadaṃ kathanti? Taṃ suttantapariyāyena vuttaṃ. Yathānulomasāsanañhi suttantadesanā, ayaṃ pana abhidhammanayena saṃvaṇṇanāti nāyaṃ doso. Oḷārikassāti thūlassa, yato abhiṇhasamuppattipariyuṭṭhānatibbatāva hoti. Aṇusahagatassāti vuttappakāraoḷārikābhāvena aṇubhāvaṃ sukhumabhāvaṃ gatassa. Uddhaccasaṃyojanassapettha anuppādo vuttoyeva yathāvuttasaṃyojanehi avinābhāvato. Sotādīnaṃ sabhāvasarasalakkhaṇavasena pajānanā, tappaccayānaṃ saṃyojanānaṃ uppādādipajānanā ca vuttanayeneva veditabbāti dassento **‘‘eseva nayo’’**ti atidisati.

「その原因をも」とは、浄相・瞋恚の相等の現れである愛好・非愛好等の色などの所縁、およびそれに起因する不正な作意という、それぞれの結の原因のことである。抑圧されず根絶されていない基盤を得て生起した状態を念頭に置いて「断ぜられていないという意味で生起したものの」と説かれた。現に生起している状態は、現行(活動)という把握によってすでに把握されている。「いかなる原因によって」とは、止観の修習と称されるいかなる原因によって、という意味である。それはまさにそれにとって、部分的な断滅および抑圧による断滅の原因である。嫉妬と吝嗇は悪趣へ赴く原因であるため、預流道(初道)によって断ぜられるべきものと説かれた。もしそうであるなら、「三つの結の全滅によって預流者となる」という経の文言はどうなのか。それは経典の仮説的(方便的)表現によって説かれたものである。経典の教説は相手の機根に応じた教えであるが、これは阿毘達磨の理趣による解説であるため、何ら過失はない。「粗大なもの」とは大きなものであり、それゆえに頻繁な生起と纏縛(活動)の激しさを有するものである。「微細さを伴うもの」とは、前述のような粗大な状態を離れて微小な状態、微細な状態に至ったものである。ここでも掉挙結の不生は、前述の諸々の結と不可分であることからまさに説かれている。耳等の自性と作用と特相による覚知、およびそれを条件とする結の生起等の覚知も、すでに説かれた理趣によって知られるべきであると示しつつ「これと同じ理趣である」と準用している。

Attano vā dhammesūti attano ajjhattikāyatanadhammesu, attano ubhayadhammesu vā. Imasmiṃ pakkhe ajjhattikāyatanapariggahaṇenāti ajjhattikāyatanapariggaṇhanamukhenāti attho, evañca anavasesato saparasantānesu āyatanānaṃ pariggaho siddho hoti. Parassa vā dhammesūti etthāpi eseva nayo. Rūpāyatanassāti aḍḍhekādasapabhedarūpasabhāvassa āyatanassa. Rūpakkhandhe vuttanayena nīharitabbāti ānetvā sambandhitabbaṃ. Sesakhandhesūti vedanāsaññāsaṅkhārakkhandhesu. Vuttanayenāti iminā atidesena rūpakkhandhe āhārasamudayāti, viññāṇakkhandhe nāmarūpasamudayāti, sesakkhandhesu phassasamudayāti imaṃ visesaṃ vibhāveti, itaraṃ pana sabbattha samānanti. Khandhapabbe viya āyatanapabbepi lokuttaranivattanaṃ pāḷiyaṃ gahitaṃ natthīti āha **‘‘lokuttaradhammā na gahetabbā’’**ti.

「自己の諸法において」とは、自己の内処の諸法において、あるいは自己の双方の諸法において、という意味である。この立場では「内処を把握することによって」とは内処の把握を通じてという意味であり、このようにして自己と他者の心身の連続における諸処の余すところなき把握が達成される。「他者の諸法において」というここでも同じ理趣である。「色処の」とは、十種半に区分される色の自性である処の、という意味である。「色蘊において説かれた理趣によって引き出されるべきである」とは、引き寄せて結合されるべきである、という意味である。「残りの蘊において」とは、受・想・行蘊において、という意味である。「説かれた理趣によって」というこの準用によって、色蘊においては食の集起(原因)によって、識蘊においては名色の集起によって、残りの蘊においては触の集起によってというこの差異を明らかにするが、その他のことはすべてにおいて共通である。蘊節と同様に処節においても出世間法を排除することはパーリ本文において把握されていないため、「出世間法は把握されるべきではない」と説いた。

Āyatanapabbavaṇṇanā niṭṭhitā.

処節の解説を終わる。

Bojjhaṅgapabbavaṇṇanā

覚支節の解説

118. Bujjhanakasattassāti kilesaniddāya paṭibujjhanakasattassa, ariyasaccānaṃ vā paṭivijjhanakasattassa. Aṅgesūti kāraṇesu, avayavesu vā. Udayabbayañāṇuppādato paṭṭhāya sambodhipaṭipadāyaṃ ṭhito nāma hotīti āha **‘‘āraddhavipassakato paṭṭhāya yogāvacaroti sambodhī’’**ti.

118. 「目覚める有情の」とは、煩悩の眠りから目覚める有情の、あるいは四聖諦を覚知(貫通)する有情の、という意味である。「支分において」とは、諸々の原因において、または構成要素において、という意味である。生滅の智の生起から始まって、正覚への道に確立した者と呼ばれることから、「観を始めた者から始まって行者(ヨーガを行う者)が正覚である」と説いた。

**‘‘Satisambojjhaṅgaṭṭhānīyā’’**ti padassa attho ‘‘vicikicchaṭṭhānīyā’’ti ettha vuttanayena veditabbo. Tanti yonisomanasikāraṃ. Tatthāti satiyaṃ. Nipphādetabbe cetaṃ bhummaṃ.

「念等覚支の処となるもの」という句の意味は、「疑妄の処となるもの」において説かれた理趣によって知られるべきである。「それを」とは、如理作意(正しく心に留めること)を、という意味である。「そこにおいて」とは、念において、という意味である。そしてこれは成就されるべきものにおける処格である。

Sati ca sampajaññañca satisampajaññaṃ (dī. ni. ṭī. 2.385; saṃ. ni. ṭī. 2.5.232; a. ni. ṭī. 1.1.418). Atha vā satipadhānaṃ abhikkantādisātthakabhāvapariggaṇhanañāṇaṃ satisampajaññaṃ. Taṃ sabbattha satokāribhāvāvahattā satisambojjhaṅgassa uppādāya hoti. Yathā paccanīkadhammānaṃ pahānaṃ anurūpadhammasevanā ca anuppannānaṃ kusalānaṃ dhammānaṃ uppādāya hoti, evaṃ satirahitapuggalavivajjhanā, satokārīpuggalasevanā, tattha ca yuttapayuttatā satisambojjhaṅgassa uppādāya hotīti imamatthaṃ dasseti **‘‘satisampajañña’’**ntiādinā.

念と正知とが「念正知」である。あるいは念を主とし、前進等における有益性などを把握する智が念正知である。それはあらゆる場所で気づきを保持する状態をもたらすことから、念等覚支の生起のためとなる。対立する諸法の断滅と相応する諸法に親しむことが、未生起の善法を生起させるためとなるのと同様に、念を欠いた人物を避けること、気づきを保持する人物に親しむこと、そしてそこにおいて専念・没頭することが念等覚支の生起のためとなると、この意味を「念正知を」等によって示している。

Dhammānaṃ, dhammesu vā vicayo dhammavicayo, so eva sambojjhaṅgo, tassa dhammavicayasambojjhaṅgassa. **‘‘Kusalākusalā dhammā’’**tiādīsu yaṃ vattabbaṃ, taṃ heṭṭhā vuttameva. Tattha yonisomanasikārabahulīkāroti kusalādīsu taṃtaṃsabhāvarasalakkhaṇādikassa yāthāvato avabujjhanavasena uppanno ñāṇasampayuttacittuppādo. So hi aviparītamanasikāratāya ‘‘yonisomanasikāro’’ti vutto, tadābhogatāya āvajjanāpi taggatikāva, tassa abhiṇhapavattanaṃ bahulīkāro. Bhiyyobhāvāyāti punappunabhāvāya. Vepullāyāti vipulabhāvāya. Pāripūriyāti paribrūhanāya.

諸法を、あるいは諸法において択別(弁別)することが択法であり、それ自体が等覚支であるから、その択法等覚支の、という意味である。「善・不善の諸法」等において説かれるべきことは、すでに前述された通りである。そこにおいて「如理作意を多くすること」とは、善等の法においてそれぞれの自性・作用・特相等をありのままに覚知することによって生じた、智と相応した心の生起である。実にそれは顛倒のない作意であることから「如理作意」と説かれ、それへの傾注であることから思惟(注意)もそれと同類であり、それの頻繁な生起が「多くすること」である。「増大のため」とは再三の生起のためである。「広大のため」とは広大な状態のためである。「成就のため」とは円満な育成のためである。

Paripucchakatāti pariyogāhetvā pucchakabhāvo. Ācariye payirupāsitvā pañcapi nikāye saha aṭṭhakathāya pariyogāhetvā yaṃ yaṃ tattha gaṇṭhiṭṭhānabhūtaṃ, taṃ taṃ ‘‘idaṃ bhante kathaṃ, imassa ko attho’’ti khandhāyatanādiatthaṃ pucchantassa dhammavicayasambojjhaṅgo uppajjati. Tenāha **‘‘khandhadhātu…pe… bahulatā’’**ti.

「質問好き」とは、深く究明して質問する性質のことである。師に親近して五つのニカーヤを注釈とともに深く究明し、そこにおいて難解な箇所となっているものがあれば、それらについて「師よ、これはどういうことですか、これの意味は何ですか」と蘊や処等の意味を質問する者に、択法等覚支が生じる。それゆえに「蘊・界……(略)……を多くすること」と説いた。

Vatthuvisadakiriyāti ettha cittacetasikānaṃ pavattiṭṭhānabhāvato sarīraṃ, tappaṭibaddhāni cīvarādīni ca idha ‘‘vatthūnī’’ti adhippetāni. Tāni yathā cittassa sukhāvahāni honti, tathā karaṇaṃ tesaṃ visadabhāvakaraṇaṃ. Tena vuttaṃ **‘‘ajjhattikabāhirāna’’**ntiādi. Ussannadosanti vātādiussannadosaṃ. Sedamalamakkhitanti sedena ceva jallikāsaṅkhātena sarīramalena ca makkhitaṃ. Ca-saddena aññampi sarīrassa pīḷāvahaṃ saṅgaṇhāti. Senāsanaṃ vāti -saddena pattādīnaṃ saṅgaho daṭṭhabbo. Avisade sati, visayabhūte vā. Kathaṃ bhāvanamanuyuttassa tāni visayo? Antarantarā pavattanakacittuppādavasenevaṃ vuttaṃ. Te hi cittuppādā cittekaggatāya aparisuddhabhāvāya saṃvattanti. Cittacetasikesu nissayādipaccayabhūtesu. Ñāṇampīti pi-saddo sampiṇḍanattho. Tena na kevalaṃ taṃ vatthuyeva, atha kho tasmiṃ aparisuddhe ñāṇampi aparisuddhaṃ hotīti nissayāparisuddhiyā taṃnissitāparisuddhi viya visayassa aparisuddhatāya visayīnaṃ aparisuddhiṃ dasseti.

「事物(基盤)の清浄化」において、心・心所の活動の座であることから身体、およびそれに結びついた衣類等が、ここでは「事物」として意図されている。それらが心の安楽をもたらすように整えることが、それらを清浄な状態にすることである。それゆえに「内外の」等と説かれた。「増大した過失」とは、風等の増大した体液の失調のことである。「汗と垢にまみれた」とは、汗および垢と称される身体の汚れにまみれた、という意味である。「また(ca)」の語によって、身体の苦痛をもたらす他のものも包摂する。「あるいは坐臥処を」の「あるいは(vā)」の語によって、鉢等の包摂が知られるべきである。清浄でないとき、あるいは対象となっているときに、という意味である。修習に専念する者にとって、いかにしてそれらが対象となるのか。時折生じる心の生起によってこのように説かれている。それらの心の生起は、心一境性の不清浄な状態をもたらすからである。心・心所において依止等の条件となった事物において、という意味である。「智もまた」の「また(pi)」の語は結合の意味である。それによって単にその事物だけでなく、実にそれが不清浄であるときには智もまた不清浄となるのであり、依止処の不清浄によってそれに依存するものが不清浄となるのと同様に、対象の不清浄によってそれを認識する心の不清浄を示すのである。

Samabhāvakaraṇanti kiccato anūnādhikabhāvakaraṇaṃ. Yathāpaccayaṃ saddheyyavatthusmiṃ adhimokkhakiccassa paṭutarabhāvena paññāya avisadatāya vīriyādīnañca sithilatādinā saddhindriyaṃ balavaṃ hoti. Tenāha **‘‘itarāni mandānī’’**ti. Tatoti tasmā saddhindriyassa balavabhāvato itaresañca mandattā. Kosajjapakkhe patituṃ adatvā sampayuttadhammānaṃ paggaṇhanaṃ anubalappadānaṃ paggaho, paggahova kiccaṃ paggahakiccaṃ. ‘‘Kātuṃ na sakkotī’’ti ānetvā sambandhitabbaṃ. Ārammaṇaṃ upagantvā ṭhānaṃ, anissajjanaṃ vā upaṭṭhānaṃ. Vikkhepapaṭipakkho, yena vā sampayuttā avikkhittā honti, so avikkhepo. Rūpagataṃ viya cakkhunā yena yāthāvato visayasabhāvaṃ passati, taṃ dassanakiccaṃ kātuṃ na sakkoti balavatā saddhindriyena abhibhūtattā. Sahajātadhammesu indaṭṭhaṃ kārentānaṃ sahapavattamānānaṃ dhammānaṃ ekarasatāvaseneva atthasiddhi, na aññathā.

「平等な状態にすること」とは、作用において過不足のない状態にすることである。条件に応じて信ずべき対象において勝解の作用が極めて鋭敏であることによって、智慧が明晰でなく、精進等が弛緩していること等により信根が強大となる。それゆえに「他の諸根は鈍い」と説いた。「それより」とは、その信根の強大さと他の諸根の鈍さのゆえに、という意味である。怠惰の側に堕ちることを許さず、相応する諸法を奮い立たせ励ますことが策励(把握)であり、策励そのものが作用であるから策励作用である。「行うことができない」と引き寄せて結合されるべきである。所縁に近づいて留まること、あるいは放棄しないことが現起(住立)である。動揺(散乱)に対立するもの、あるいはそれによって相応する諸法が動揺しないもの、それが不散乱である。眼によって色を見るように、それによってありのままに対象の自性を見るその観察作用を、強大すぎる信根に圧倒されているがゆえに行うことができない。倶生する諸法において支配力を振るう、同時に生起する諸法の一味(調和)によってこそ目的の達成があるのであり、それ以外の方法によるのではない。

Tasmāti vuttamevatthaṃ kāraṇabhāvena paccāmasati. Tanti saddhindriyaṃ. Dhammasabhāvapaccavekkhaṇenāti yassa saddheyyavatthuno uḷāratādiguṇe adhimuccanassa sātisayappavattiyā saddhindriyaṃ balavaṃ jātaṃ, tassa paccayapaccayuppannatādivibhāgato yāthāvato vīmaṃsanena. Evañhi evaṃdhammatānayena sabhāvasarasato pariggayhamāne savipphāro adhimokkho na hoti ‘‘ayaṃ imesaṃ dhammānaṃ sabhāvo’’ti parijānanavasena paññābyāpārassa sātisayattā. Dhuriyadhammesu hi yathā saddhāya balavabhāve paññāya mandabhāvo hoti, evaṃ paññāya balavabhāve saddhāya mandabhāvo hoti. Tena vuttaṃ **‘‘taṃ dhammasabhāvapaccavekkhaṇena…pe… hāpetabba’’**nti. Tathā amanasikārenāti yenākārena bhāvanamanuyuñjantassa saddhindriyaṃ balavaṃ jātaṃ, tenākārena bhāvanāya ananuyuñjanatoti vuttaṃ hoti. Idha duvidhena saddhindriyassa balavabhāvo attano vā paccayavisesavasena kiccuttariyato vīriyādīnaṃ vā mandakiccatāya. Tattha paṭhamavikappe hāpanavidhi dassito, dutiyavikappe pana yathā manasikaroto vīriyādīnaṃ mandakiccatāya saddhindriyaṃ balavaṃ jātaṃ, tathā amanasikārena, vīriyādīnaṃ paṭukiccabhāvāvahena manasikārena saddhindriyaṃ tehi samarasaṃ karontena hāpetabbaṃ. Iminā nayena sesindriyesupi hāpanavidhi veditabbo.

「それゆえに」とは、すでに説かれた意味を原因として言及している。「それを」とは、その信根を、という意味である。「法の自性の省察によって」とは、その信ずべき対象の崇高性等の功徳に確信することの過剰な働きによって信根が強大となった場合に、その条件や条件によって生じたものの区分からありのままに吟味することによって、という意味である。このように法の本質の理趣によって自性と作用から把握されるときには、広がりすぎた確信は生じず、「これがこれら諸法の自性である」と十全に知ることによって智慧の働きが勝るからである。主導的な諸法においては、実に信仰が強大であるときに智慧が鈍くなり、智慧が強大であるときに信仰が鈍くなるからである。それゆえに「それを法の自性の省察によって……(略)……減じさせるべきである」と説いた。「そのように作意しないことによって」とは、修習に専念する者に信根が強大となるような様態で修習に専念しないことによって、と説かれていることになる。ここでは二つの方法によって信根の強大さがある。自己の条件の特殊性による作用の過剰から、あるいは精進等の作用の鈍さからである。そこにおいて最初の選択肢では減じる方法が示され、第二の選択肢では、作意する者にとって精進等の鈍い作用によって信根が強大となったその様態で作意しないことによって、精進等の鋭敏な作用をもたらす作意によって信根をそれらと等しい調和にしつつ減じさせるべきである。この理趣によって残りの諸根においても減じる方法が知られるべきである。

Vakkalittheravatthūti so hi āyasmā saddhādhimuttāya katādhikāro satthu rūpakāyadassanapasuto eva hutvā viharanto satthārā ‘‘kiṃ te, vakkali, iminā pūtikāyena diṭṭhena, yo kho, vakkali, dhammaṃ passati, so maṃ passatī’’tiādinā (saṃ. ni. 3.87) ovaditvā kammaṭṭhāne niyojitopi taṃ ananuyuñjanto paṇāmito attānaṃ vinipātetuṃ papātaṭṭhānaṃ abhiruhi. Atha naṃ satthā yathānisinnova obhāsagissajjanena atthānaṃ dassetvā –

「ヴァッカリ長老の物語」とは、その尊者は信仰による解脱への功績を積んだ者であり、師の肉身を見ることに専念して暮らしていたが、師から「ヴァッカリよ、この腐敗した身体を見てお前に何の益があろうか。ヴァッカリよ、法を見る者は私を見るのである」等と訓戒され、業処に就かされたにもかかわらずそれに専念しなかったため追い出され、身を投げるために絶壁の場所へと登った。そこで師は坐したまま光を放って姿を現し、

‘‘Pāmojjabahulo bhikkhu, pasanno buddhasāsane;

「歓喜多く、仏教に澄んだ信仰を抱く比丘は、

Adhigacche padaṃ santaṃ, saṅkhārūpasamaṃ sukha’’nti. (dha. pa. 381);

諸行の静寂なる安楽、寂静の境地に到達するであろう」

Gāthaṃ vatvā ‘‘ehivakkalī’’ti āha. So tena amateneva abhisitto haṭṭhatuṭṭho hutvā vipassanaṃ paṭṭhapesi, saddhāya pana balavabhāvato vipassanāvīthiṃ na otarati. Taṃ ñatvā bhagavā tassa indriyasamattapaṭipādanāya kammaṭṭhānaṃ sodhetvā adāsi. So satthārā dinnanayena vipassanaṃ ussukkāpetvā maggapaṭipāṭiyā arahattaṃ pāpuṇi. Tena vuttaṃ **‘‘vakkalittheravatthu cettha nidassana’’**nti.

という詩を説いて「来なさい、ヴァッカリよ」と呼びかけた。彼はそれによって不死(の甘露)を注がれたかのように歓喜し満足して観(ヴィパッサナー)を始めたが、信仰が強大であったために観の過程に入ることができなかった。それを知った世尊は、彼の諸根を平衡にするために業処を整えて授けた。彼は師から授けられた理趣によって観を奮い立たせ、聖道の順序によって阿羅漢果に到達した。それゆえに「ここにはヴァッカリ長老の物語が実例として示される」と説かれた。

Itarakiccabhedanti upaṭṭhānādikiccavisesaṃ. Passaddhādīti ādi-saddena samādhiupekkhāsambojjhaṅgānaṃ saṅgaho. Hāpetabbanti yathā saddhindriyassa balavabhāvo dhammasabhāvapaccavekkhaṇena hāyati, evaṃ vīriyindriyassa adhimattatā passaddhiādibhāvanāya hāyati samādhipakkhiyattā tassā. Tathāhi sā samādhindriyassa adhimattataṃ kosajjapātato rakkhantī vīriyādibhāvanā viya vīriyindriyassa adhimattataṃ uddhaccapātato rakkhantī ekaṃsato hāpeti. Tena vuttaṃ **‘‘passaddhādibhāvanāya hāpetabba’’**nti. Soṇattherassa vatthūti sukhumālasoṇattherassa vatthu. So hi āyasmā, satthu, santike kammaṭṭhānaṃ gahetvā sītavane viharanto ‘‘mama sarīraṃ sukhumālaṃ, na ca sakkā sukheneva sukhaṃ adhigantuṃ, kāyaṃ kilametvāpi samaṇadhammo kātabbo’’ti ṭhānacaṅkamameva adhiṭṭhāya padhānamanuyuñjanto pādatalesu phoṭesu uṭṭhitesupi vedanaṃ ajjhupekkhitvā daḷhavīriyaṃ karonto accāraddhavīriyatāya visesaṃ nibbattetuṃ nāsakkhi. Satthā tattha gantvā vīṇūpamovādena ovaditvā vīriyasamatāyojanavidhiṃ dassento kammaṭṭhānaṃ sodhetvā gijjhakūṭaṃ gato. Theropi satthārā dinnanayena vīriyasamataṃ yojetvā bhāvento vipassanaṃ ussukkāpetvā arahatte patiṭṭhāsi. Tena vuttaṃ **‘‘soṇattherassa vatthu dassetabba’’**nti. Sesesupīti satisamādhipaññindriyesupi.

「他の作用の区分」とは、現起(確立)等の作用の差異のことである。「軽安等」の「等」の語によって定・捨等覚支の包摂がなされる。「減じさせるべきである」とは、信根の強大さが法の自性の省察によって減じられるのと同様に、精進根の過剰さは軽安等の修習によって減じられる、それ(軽安等)は定の側のものであるからである。実にそれは定根の過剰さを怠惰への転落から護る精進等の修習のように、精進根の過剰さを掉挙への転落から護りつつ確実に減じさせる。それゆえに「軽安等の修習によって減じさせるべきである」と説いた。「ソーナ長老の物語」とは、繊細なソーナ長老の物語である。実にその尊者は師の御前で業処を受け取り、冷林(シータヴァナ)に住しながら「私の身体は繊細であり、安楽によって安楽に到達することはできない。身体を疲労させてでも沙門法を行うべきである」と、立位と経行のみを決意して精進に専念し、足の裏に水膨れが生じても苦痛を忍受して強固な精進をなしたが、精進が過剰であったために殊勝な境地を生じさせることができなかった。師はそこへ赴き、琴の弦の譬えの訓戒によって訓戒し、精進の平衡を整える方法を示して業処を清めて鷲峰山へと去った。長老もまた師から授けられた理趣によって精進の平衡を整えて修習し、観を奮い立たせて阿羅漢果に確立した。それゆえに「ソーナ長老の物語が示されるべきである」と説いた。「残りのものにおいても」とは、念・定・慧の諸根においても、という意味である。

Samatanti saddhāpaññānaṃ aññamaññaṃ anūnānadhikabhāvaṃ, tathā samādhivīriyānaṃ. Yathā hi saddhāpaññānaṃ visuṃ visuṃ dhuriyadhammabhūtānaṃ kiccato aññamaññānātivattanaṃ visesato icchitabbaṃ, yato nesaṃ samadhuratāya appanā sampajjati, evaṃ samādhivīriyānaṃ kosajjuddhaccapakkhikānaṃ samarasatāya sati aññamaññūpatthambhanato sampayuttadhammānaṃ antadvayapātābhāvena sammadeva appanā ijjhatīti. Balavasaddhotiādi vuttassevatthassa byatirekamukhena samatthanaṃ. Tassattho – yo balavatiyā saddhāya samannāgato avisadañāṇo, so mudhāpasanno hoti, na aveccappasanno. Tathā hi so avatthusmiṃ pasīdati seyyathāpi titthiyasāvakā. Kerāṭikapakkhanti sāṭheyyapakkhaṃ bhajati. Saddhāhīnāya paññāya atidhāvanto ‘‘deyyavatthupariccāgena vinā cittuppādamattenapi dānamayaṃ puññaṃ hotī’’tiādīni parikappeti hetupatirūpakehi vañcito, evaṃbhūto ca sukkhatakkaviluttacitto paṇḍitānaṃ vacanaṃ nādiyati, saññattiṃ na gacchati. Tenāha **‘‘bhesajjasamuṭṭhito viya rogo atekiccho hotī’’**ti. Yathā cettha saddhāpaññānaṃ aññamaññaṃ samabhāvo atthāvaho, anatthāvaho visamabhāvo, evaṃ samādhivīriyānaṃ aññamaññaṃ avikkhepāvaho samabhāvo, itaro vikkhepāvaho cāti. Kosajjaṃ adhibhavati, tena appanaṃ na pāpuṇātīti adhippāyo. Uddhaccaṃ adhibhavatīti etthāpi eseva nayo. Tadubhayanti saddhāpaññādvayaṃ samādhivīriyadvayañca. Samaṃ kātabbanti samarasaṃ kātabbaṃ.

「平衡(均等)」とは、信と慧の相互の過不足のなさであり、同様に定と精進のそれである。実に個別に主導的法となる信と慧の作用において、相互に凌駕しないことが特に望まれる。それらが等しい均衡にあることによって安止(定)が達成されるからである。同様に怠惰と掉挙の側にある定と精進が一味(調和)であるとき、相互の支持によって相応する諸法が二つの極端に堕ちることがないため、正しく安止が成就するのである。「強い信仰を持つ者は」等は、すでに説かれた意味を反対の側面から論証するものである。その意味は――強い信仰を具えながら智が明晰でない者は、根拠なく信じる者となり、確固たる信仰を持つ者とはならない。実に彼は外道の弟子たちのように、対象でないものに信仰を寄せるからである。「狡猾な側」とは、欺瞞の側に与する。信仰に欠けた智慧によって過走する者は、「布施の対象となる物を手放すことなく、単なる心の生起だけでも施しの功徳となる」等と、似非の理由に欺かれて分別し、このようになった者は乾燥した論理によって心を奪われ、賢者の言葉を聞き入れず、納得することもない。それゆえに「薬から生じた病のように治療しがたいものとなる」と説いた。そしてここで信と慧の相互の平等が有益をもたらし不平等が不利益をもたらすのと同様に、定と精進の相互の平等は不散乱をもたらし、不平等は散乱をもたらすのである。怠惰が圧倒し、それによって安止に到達しない、というのが趣旨である。「掉挙が圧倒する」というここでも同じ理趣である。「その双方を」とは、信と慧の二つ、および定と精進の二つのことである。「等しくすべきである」とは、等しい調和にすべきである、という意味である。

Samādhikammikassāti samathakammaṭṭhānikassa. Evanti evaṃ sante, saddhāya thokaṃ balavabhāve satīti attho. Saddahantoti ‘‘pathavīti manasikāramattena kathaṃ jhānuppattī’’ti acintetvā ‘‘addhā sammāsambuddhena vuttavidhi ijjhissatī’’ti saddahanto saddhaṃ janento. Okappentoti ārammaṇaṃ anupavisitvā viya adhimuccanavasena avakappento pakkhandanto. Ekaggatā balavatī vaṭṭati samādhippadhānattā jhānassa. Ubhinnanti samādhipaññānaṃ. Samādhikammikassa samādhino adhimattatāya paññāya adhimattatāpi icchitabbāti āha **‘‘samatāyapī’’**ti, samabhāvenapīti attho. Appanāti lokiyaappanā. Tathā hi **‘‘hotiyevā’’**ti sāsaṅkaṃ vadati. Lokuttarappanā pana tesaṃ samabhāveneva icchitā. Yathāha ‘‘samathavipassanaṃ yuganaddhaṃ bhāvetī’’ti (a. ni. 4.17; paṭi. ma. 2.5). Yadi visesato saddhāpaññānaṃ samādhivīriyānañca samatā icchitā, kathaṃ satīti āha **‘‘sati pana sabbattha balavatī vaṭṭatī’’**ti. Sabbatthāti līnuddhaccapakkhikesu pañcasu indriyesu. Uddhaccapakkhikekadese gaṇhanto **‘‘saddhāvīriyapaññāna’’**nti āha. Aññathā pīti ca gahetabbā siyā. Tathā hi **‘‘kosajjapakkhikena samādhinā’’**icceva vuttaṃ, na ‘‘passaddhisamādhiupekkhāhī’’ti. ti sati. Sabbesu rājakammesu niyutto sabbakammiko. Tenāti tenā sabbattha icchitabbatthena kāraṇena. Āha aṭṭhakathāyaṃ. Sabbattha niyuttā sabbatthikā, sabbena vā līnuddhaccapakkhiyena bojjhaṅgena atthetabbā sabbatthiyā, sabbatthiyāva sabbatthikā. Cittanti kusalacittaṃ. Tassa hi sati paṭisaraṇaṃ parāyaṇaṃ appattassa pattiyā anadhigatassa adhigamāya. Tenāha **‘‘ārakkhapaccupaṭṭhānā’’**tiādi.

「定を行じる者」とは、止の業処を行じる者のことである。「このように」とは、このようであるとき、信仰が少し強大であるとき、という意味である。「信じる者」とは、「『地』という作意だけでどうして禅定が生じるのか」と考えずに、「確かに正等覚者によって説かれた方法は成就するであろう」と信じ、信仰を生じさせる者のことである。「確信する者」とは、所縁に入り込むかのように勝解によって確信し、飛び込む者のことである。禅定においては定が主導的であるため、一境性が強大であることがふさわしい。「両者の」とは、定と慧の、という意味である。定を行じる者の定の過剰さに対して、智慧の過剰さも望まれるとして「平等によっても」と説いた。平等な状態によっても、という意味である。「安止」とは世間の安止のことである。実にそれゆえに「生じるのである」と懸念(留保)を込めて述べている。しかし出世間の安止は、それらがまさに平等であることによってのみ望まれる。それについて「止と観を車の両輪のように修習する」と説かれた通りである。もし特に信と慧、定と精進の平等が望まれるなら、念はどうなのかとして「しかし念はあらゆる所において強大であることがふさわしい」と説いた。「あらゆる所において」とは、沈滞と掉挙の側にある五根において、という意味である。掉挙の側の一部を取って「信・精進・慧の」と説いた。そうでなければ喜等も取られるべきであろう。実にそれゆえに「怠惰の側にある定によって」とだけ説かれ、「軽安・定・捨によって」とは説かれなかったのである。「それ(sā)」とは念のことである。すべての王の仕事に任じられた者が「全任の官吏」である。「それによって」とは、あらゆる所で望まれるという意味のゆえに、という意味である。注釈書において説いた。あらゆる場所で任じられるから「一切處(全任)」であり、あるいは沈滞と掉挙の側のあらゆる覚支によって求められるべきであるから「一切須要」であり、一切須要そのものが一切處である。「心」とは善心のことである。実に善心にとって念は保護であり帰趨であり、未到達の境地への到達のため、未獲得の境地の獲得のためのものである。それゆえに「保護を現起(特相)とする」等と説いた。

Khandhādibhede anogāḷhapaññānanti pariyattibāhusaccavasenapi khandhāyatanādīsu appatiṭṭhitabuddhīnaṃ. Bahussutasevanā hi sutamayañāṇāvahā. Taruṇavipassanāsamaṅgīpi bhāvanāmayañāṇe ṭhitattā ekaṃsato paññavā eva nāma hotīti āha **‘‘samapaññāsa…pe… puggalasevanā’’**ti. Ñeyyadhammassa gambhīrabhāvavasena tapparicchedakañāṇassa gambhīrabhāvaggahaṇanti āha **‘‘gambhīresu khandhādīsu pavattāya gambhīrapaññāyā’’**ti. Tañhi ñeyyaṃ tādisāya paññāya caritabbato gambhīrañāṇacariyaṃ, tassā vā paññāya tattha pabhedato pavatti gambhīrañāṇacariyā, tassā paccavekkhaṇāti āha **‘‘gambhīrapaññāya pabhedapaccavekkhaṇā’’**ti. Yathā sativepullappatto nāma arahā eva, evaṃ so eva paññāvepullappattopīti āha **‘‘arahattamaggena bhāvanāpāripūrī hotī’’**ti. Vīriyādīsupi eseva nayo.

「蘊等の区分に智慧が深く入っていない者たち」とは、教理の多聞によっても蘊や処等に知解が確立していない者たちのことである。多聞の者に親近することは聞所成慧をもたらすからである。若い観の修行者であっても、修所成慧に確立していることから確実に有智の者と呼ばれるため、「五十……(略)……の人物に親近すること」と説いた。知るべき対象の深遠さによって、それを限定する智の深遠さを把握することであるとして、「深遠なる蘊等において生起した深遠なる智慧によって」と説いた。実にその知るべき対象はそのような智慧によって実践されるべきであることから「深遠なる智の行(実践)」であり、あるいはその智慧のそこにおける区分による生起が「深遠なる智の行」であり、その省察であるとして「深遠なる智慧の区分の省察」と説いた。念の広大さに達した者がまさに阿羅漢であるのと同様に、彼こそが智慧の広大さに達した者でもあるとして、「阿羅漢道によって修習の成就がある」と説いた。精進等においても同じ理趣である。

‘‘Tattaṃ ayokhilaṃ hatthe gamentī’’tiādinā (ma. ni. 3.250, 267; a. ni. 3.36) pañcavidhabandhanakammakāraṇaṃ niraye nibbattasattassa yebhuyyena sabbapaṭhamaṃ karontīti devadūtasuttādīsu tassā ādito vuttattā ca āha **‘‘pañcavidhabandhanakammakāraṇato paṭṭhāyā’’**ti. Sakaṭavāhanādikāleti ādi-saddena tadaññaṃ manussehi tiracchānehi ca vibādhiyamānakālaṃ saṅgaṇhāti. Ekaṃ buddhantaranti idaṃ aparāparaṃ petesuyeva uppajjanakasattavasena vuttaṃ, ekaccānaṃ vā petānaṃ ekaccatiracchānānaṃ viya tathā dīghāyukabhāvato. Tathā hi kāḷo nāgarājā catunnaṃ buddhānaṃ adhigatarūpadassano.

「熱せられた鉄の杭を手に打ち込む」等によって、五種縛の苦刑を地獄に生じた有情に対して概して一番最初に行うこと、そして『使者経』等においてそれが最初に説かれていることから「五種縛の苦刑から始まって」と説いた。「車を引かせる等の時」の「等」の語によって、それ以外の人間や動物たちによって苦しめられる時を包摂する。「一人の仏陀の間」とは、次々と餓鬼にばかり生じる有情を念頭に置いて説かれたものであり、あるいは一部の餓鬼は一部の動物のようにそのように長寿であることから説かれたものである。実にカーラ龍王は四人の仏陀の姿を見ることを得たのである。

Evaṃ ānisaṃsadassāvinoti vīriyāyatto eva sabbo lokuttaro lokiyo ca visesādhigamoti evaṃ vīriye ānisaṃsadassanasīlassa. Gamanavīthinti sapubbabhāgaṃ nibbānagāminiṃ ariyamaggapaṭipadaṃ. Sā hi bhikkhuno vaṭṭanissaraṇāya gantabbā paṭipajjitabbā paṭipadāti katvā gamanavīthi nāma. Kāyadaḷhībahuloti yathā tathā kāyassa daḷhīkammapasuto. Piṇḍanti raṭṭhapiṇḍaṃ. Paccayadāyakānaṃ attani kārassa attano sammāpaṭipattiyā mahapphalabhāvassa karaṇena piṇḍassa bhikkhāya paṭipūjanā piṇḍāpacāyanaṃ.

「このように功徳を見る者」とは、すべての出世間および世間の殊勝な境地の獲得は精進にのみ依存していると、このように精進における功徳を見る習性のある者のことである。「行路を」とは、予備段階を伴う涅槃へと赴く聖道の行履(実践)のことである。実にそれは比丘によって輪廻の解脱のために歩まれるべき、実践されるべき道であることから「行路」と呼ばれる。「身体の強化に専念する者」とは、あれこれと身体を丈夫にすることに熱中する者のことである。「団食(托鉢の食物)」とは、国土の団食のことである。資具の施主たちへの自身の行為において、自身の正しい実践によって大果をもたらす状態とすることを通じて、団食や托鉢の食物を供養することが「団食の供養」である。

Nīharantoti pattatthavikato nīharanto. Taṃ saddaṃ sutvāti taṃ upāsikāya vacanaṃ paṇṇasāladvāre ṭhitova pañcābhiññatāya dibbasotena sutvā. Manussasampatti dibbasampatti ante nibbānasampattīti tisso sampattiyo. Dātuṃ sakkhissasīti ‘‘tayi katena dānamayena veyyāvaccamayena ca puññakammena khettavisesabhāvūpagamanena aparāparaṃ devamanussasampattiyo ante nibbānasampattiñca dātuṃ sakkhissasī’’ti thero attānaṃ pucchati. Sitaṃ karontovāti ‘‘akiccheneva mayā vaṭṭadukkhaṃ samatikkanta’’nti paccavekkhaṇāvasāne sañjātapāmojjavasena sitaṃ karonto eva.

「取り出しながら」とは、鉢の袋から取り出しながら、という意味である。「その声を聞いて」とは、その信女の言葉を草庵の戸口に立ったまま、五通の持ち主であったため天耳通によって聞いて、という意味である。人間の富、天界の富、最終的な涅槃の富という三つの富である。「与えることができるだろうか」とは、「お前に対してなされた布施や奉仕による功徳の行為によって、殊勝な福田の状態に至ることによって、次々と天界や人間の富を、そして最後には涅槃の富を与えることができるだろうか」と長老は自身に問いかける。「微笑みながら」とは、「私は苦もなく輪廻の苦しみを完全に超克した」と省察の終わりに生じた歓喜によって微笑みながら、という意味である。

Vippaṭipannanti jātidhammakuladhammādilaṅghanena asammāpaṭipannaṃ. Evaṃ yathā asammāpaṭipanno putto tāya eva asammāpaṭipattiyā kulasantānato bāhiro hutvā pitu santikā dāyajjassa na bhāgī, evaṃ kusītopi teneva kusītabhāvena asammāpaṭipanno satthu santikā laddhabbaariyadhanadāyajjassa na bhāgī. Āraddhavīriyova labhati sammāpaṭipajjanato. Uppajjati vīriyasambojjhaṅgoti yojanā. Evaṃ sabbattha.

「正しく実践しない者」とは、生来の法や家系の法等を逸脱することによって正しく実践しない者のことである。このように、正しく実践しない息子がまさにその不実践によって家系の連続から除外され、父のもとからの相続財産にあずかることができないのと同様に、怠惰な者もまたその怠惰さのゆえに正しく実践しない者として、師のもとから得られるべき聖なる財産の相続にあずかることができない。精進を開始した者こそが正しく実践するがゆえに獲得するのである。「精進等覚支が生じる」と解釈される。あらゆる場所で同様である。

Mahāti sīlādīhi guṇehi mahanto vipulo anaññasādhāraṇo. Taṃ panassa guṇamahattaṃ dasasahassilokadhātukampanena loke pākaṭanti dassento **‘‘satthuno hī’’**tiādimāha.

「大いなる」とは、戒等の功徳によって大いなる、広大な、他に共通しない、という意味である。そして彼のその功徳の偉大さは一万の文字(世界)の震動によって世界に明白であると示しつつ「師は実に」等を説いた。

Yasmā satthusāsane pabbajitassa pabbajjupagamena sakyaputtiyabhāvo sampajāyati, tasmā buddhaputtabhāvaṃ dassento **‘‘asambhinnāyā’’**tiādimāha.

師の教えにおいて出家した者は、出家を受け入れることによって釈迦の子たる状態が生じることから、仏子たる状態を示しつつ「純血の」等を説いた。

Alasānaṃ bhāvanāya nāmamattampi ajānantānaṃ kāyadaḷhībahulānaṃ yāvadatthaṃ bhuñjitvā seyyasukhādianuyuñjanakānaṃ tiracchānakathikānaṃ puggalānaṃ dūrato vajjanā kusītapuggalaparivajjanā. ‘‘Divasaṃ caṅkamena nisajjāyā’’tiādinā (ma. ni. 1.423; 3.75; saṃ. ni. 4.120; a. ni. 3.16; vibha. 519; mahāni. 161) bhāvanārambhavasena āraddhavīriyānaṃ daḷhaparakkamānaṃ kālena kālaṃ upasaṅkamanā āraddhavīriyapuggalasevanā. Tenāha – **‘‘kucchiṃ pūretvā’’**tiādi. Visuddhimagge pana jātimahattapaccavekkhaṇā sabrahmacārimahattapaccavekkhaṇāti idaṃ dvayaṃ na gahitaṃ, thinamiddhavinodanatā sammappadhānapaccavekkhaṇatāti idaṃ dvayaṃ gahitaṃ. Tattha ānisaṃsadassāvitāya eva sammappadhānapaccavekkhaṇā gahitā hoti lokiyalokuttaravisesādhigamassa vīriyāyattatādassanabhāvato. Thinamiddhavinodanaṃ tadadhimuttatāya eva gahitaṃ, vīriyuppādane yuttappayuttassa thinamiddhavinodanaṃ atthasiddhameva. Tattha thinamiddhavinodana-kusītapuggalaparivajjana-āraddhavīriyapuggalasevana-tadadhimuttatā paṭipakkhavidhamanapaccayūpasaṃhāravasena, apāyapaccavekkhaṇādayo samuttejanavasena vīriyasambojjhaṅgassa uppādakā daṭṭhabbā.

怠惰な者たち、修習の名すら知らず、身体の強化に熱中し、望むだけ食べて横たわる安楽等に専念する、無益な世間話をする者たちを遠くから避けることが「怠惰な人物を避けること」である。「一日を経行と坐禅によって」等により、修習の開始によって精進を奮い立たせ、強固な勇猛さを持つ者たちに適時近づくことが「精進を開始した人物に親近すること」である。それゆえに「腹を満たして」等と説いた。しかし『清浄道論』においては、家柄の偉大さの省察、同胞の修行者の偉大さの省察というこの二つは取られず、惛沈・睡眠の除去、正勤の省察というこの二つが取られた。そこにおいて功徳を見ることによってまさに正勤の省察は取られている、世間・出世間の殊勝な獲得が精進に依存していることを見る状態であるからである。惛沈・睡眠の除去はそれへの専念によってまさに取られている、精進の生起に専念・没頭する者にとって惛沈・睡眠の除去は目的として達成されているからである。そこにおいて惛沈・睡眠の除去、怠惰な人物を避けること、精進を開始した人物に親近すること、それへの専念は対立するものの撃破と条件の結合を通じて、悪趣の省察等は奮起させることを通じて、精進等覚支を生じさせるものとして見なされるべきである。

Purimuppannā pīti parato uppajjanakapītiyā kāraṇabhāvato **‘‘pītiyeva pītisambojjhaṅgaṭṭhānīyā dhammā’’**ti vuttā, tassā pana bahuso pavattiyā puthuttaṃ upādāya bahuvacananiddeso, yathā sā uppajjati, evaṃ paṭipatti, tassā uppādakamanasikāro.

先に生じた喜もまた、後に生じる喜の原因となることから「喜こそが喜等覚支の処となる諸法である」と説かれたが、それの頻繁な生起の多様性に基づいて複数形の提示がなされており、それが生じるように実践すること、それが生起をもたらす作意である。

Buddhānussatiyā upacārasamādhiniṭṭhattā vuttaṃ **‘‘yāva upacārā’’**ti. Sakalasarīraṃ pharamānoti pītisamuṭṭhānehi paṇītarūpehi sakalasarīraṃ pharamāno. Dhammaguṇe anussarantassapi yāva upacārā sakalasarīraṃ pharamāno pītisambojjhaṅgo uppajjatīti. Evaṃ sesaanussatīsu pasādanīyasuttantapaccavekkhaṇāyañca yojetabbaṃ tassāpi vimuttāyatanabhāvena taggatikattā. Samāpattiyā…pe… samudācarantīti idañca upasamānussatidassanaṃ. Saṅkhārānañhi sappadesavūpasamepi nippadesavūpasame viya tathā paññāya pavattito bhāvanāmanasikāro kilesavikkhambhanasamattho hutvā upacārasamādhiṃ āvahanto tathārūpapītisomanassasamannāgato pītisambojjhaṅgassa uppādāya hotīti. Pasādanīyesu ṭhānesu pasādasinehābhāvena thusasamahadayatā lūkhatā, sā tattha ādaragāravākaraṇena viññāyatīti āha **‘‘asakkaccakiriyāya saṃsūcitalūkhabhāve’’**ti.

仏随念は近行定を終極とすることから「近行に至るまで」と説いた。「全身を満たしながら」とは、喜から生じた殊勝な色法によって全身を満たしながら、という意味である。法の功徳を随念する者にも近行に至るまで全身を満たす喜等覚支が生じる。このように残りの随念において、また信仰を起こさせる経典の省察において結合されるべきである、それもまた解脱処であることから同類であるからである。「等至によって……(略)……活動する」とは、寂静随念の提示である。実に諸行の局所的な静寂においても、完全な静寂におけるようにそのように智慧によって行われた修習の作意は、煩悩を抑圧する能力を持って近行定をもたらし、相応する喜と喜悦を具えて喜等覚支の生起のためとなるからである。信仰を起こすべき対象において信仰や愛着がないことによる、籾殻のような心の状態(粗雑さ)が無情さであり、それはそこにおいて敬意や尊重をなさないことによって知られるとして「不敬な行為によって示された粗雑な状態において」と説いた。

Kāyacittadarathavūpasamalakkhaṇā passaddhi eva passaddhisambojjhaṅgo, tassa passaddhisambojjhaṅgassa.

身心の苦悩の静寂を特相とする軽安そのものが軽安等覚支であり、その軽安等覚支の、という意味である。

Paṇītabhojanasevanatāti paṇītasappāyabhojanasevanatā. Utuiriyāpathasukhaggahaṇena sappāyautuiriyāpathaggahaṇaṃ daṭṭhabbaṃ. Tañhi tividhaṃ sappāyaṃ seviyamānaṃ kāyassa kallatāpādanavasena cittassa kallataṃ āvahantaṃ duvidhāyapi passaddhiyā kāraṇaṃ hoti. Ahetukaṃ sattesu labbhamānaṃ sukhaṃ dukkhanti ayameko anto, issarādivisamahetukanti pana ayaṃ dutiyo, ete ubho ante anupagamma yathāsakaṃ kammunā hotīti ayaṃ majjhimā paṭipatti. Majjhatto payogo yassa hoti majjhattapayogo, tassa bhāvo majjhattapayogatā. Ayañhi pahāya sāraddhakāyataṃ passaddhakāyatāya kāraṇaṃ hontī passaddhidvayaṃ āvahati, eteneva sāraddhakāyapuggalaparivajjanapassaddhakāyapuggalavasenānaṃ tadāvahanatā saṃvaṇṇitāti daṭṭhabbaṃ.

「勝れた食物に親しむこと」とは、勝れた有益な食物に親しむことである。気候や威儀の安楽を把握することによって、適した気候と威儀の把握が知られるべきである。実にその三種の適したものが親しまれるとき、身体を柔軟(健全)にすることを通じて心の柔軟性をもたらし、二種の軽安の原因となる。有情たちに見出される快や苦は無原因であるというのが一つの極端であり、自在天等の不平等な原因によるというのが第二の極端であり、これら双方の極端に近づくことなく、おのおのの業によって生じるというのが中道の実践である。中立の適用を持つ者が「中立の適用の者」であり、その状態が「中立の適用(平等な実践)」である。実にこれは激越な身体の状態を捨てて静まった身体の状態の原因となり、二つの軽安をもたらすのであり、まさにこれによって激越な身体の人物を避けることと静まった身体の人物によるそれらのもたらしが解説されたと見なされるべきである。

Yathāsamāhitākārasallakkhaṇavasena gayhamāno purimuppanno samatho eva samathanimittaṃ. Nānārammaṇe paribbhamanena vividhaṃ aggaṃ etassāti byaggo, vikkhepo. Tathā hi so anavaṭṭhānaraso bhantatāpaccupaṭṭhāno ca vutto. Ekaggatābhāvato byaggapaṭipakkhoti abyaggo, samādhi. So eva nimittanti pubbe viya vattabbaṃ. Tenāha **‘‘avikkhepaṭṭhena ca abyagganimitta’’**nti.

正しく定まった様態を観察することによって把握される、先に生じた止(サマタ)こそが「止の相(サマタの対象)」である。種々の所縁を彷徨うことによって多様な先端(散乱)を持つものが「散乱」であり、動揺のことである。実にそれは不安定さを作用とし、ふらつきを現起とするものと説かれている。一境性の状態であることから散乱に対立するものが「不散乱」であり、定のことである。それ自体が相であることは前述と同様に説かれるべきである。それゆえに「不散乱という意味において不散乱の相」と説いた。

Vatthuvisadakiriyā indriyasamattapaṭipādanā ca paññāvahā vuttā, samādhānāvahāpi tā honti samādhānāvahabhāveneva paññāvahabhāvatoti vuttaṃ **‘‘vatthuvisada…pe… veditabbā’’**ti.

事物の清浄化と諸根の平衡の確立は智慧をもたらすものと説かれたが、それらは定をもたらすものでもあり、定をもたらす状態によってこそ智慧をもたらす状態となることから、「事物の清浄……(略)……知られるべきである」と説いた。

Karaṇabhāvanākosallānaṃ avinābhāvato, rakkhaṇakosallassa ca tammūlakattā **‘‘nimittakusalatā nāma kasiṇanimittassa uggahaṇakusalatā’’**icceva vuttaṃ. Kasiṇanimittassāti ca nidassanamattaṃ daṭṭhabbaṃ. Asubhanimittassādikassapi hi yassa kassaci jhānuppattinimittassa uggahaṇakosallaṃ nimittakusalatā evāti.

作ることと修習することの巧みさは不可分であることから、また保護することの巧みさはそれを根本とすることから、「相における巧みさとは遍処(カシナ)の相の把握における巧みさのことである」とだけ説かれた。そして「遍処の相の」とは例示にすぎないと見なされるべきである。不浄相等であっても、禅定を生じさせる何らかの相の把握の巧みさはまさに「相における巧みさ」だからである。

Atisithilavīriyatādīhīti ādi-saddena paññāpayogamandataṃ pamodavekallañca saṅgaṇhāti. Tassa paggahaṇanti tassa līnassa cittassa dhammavicayasambojjhaṅgādisamuṭṭhāpanena layāpattito samuddharaṇaṃ. Vuttañhetaṃ bhagavatā –

「過度に弛緩した精進等によって」の「等」の語によって、智慧の働きの鈍さや歓喜の欠如を包摂する。「それの策励」とは、その沈滞した心を択法等覚支等を生起させることによって沈滞への転落から救い出すことである。世尊によってこれは次のように説かれている――

‘‘Yasmiñca kho, bhikkhave, samaye līnaṃ cittaṃ hoti, kālo tasmiṃ samaye dhammavicayasambojjhaṅgassa bhāvanāya, kālo vīriyasambojjhaṅgassa bhāvanāya, kālo pītisambojjhaṅgassa bhāvanāya. Taṃ kissa hetu? Līnaṃ, bhikkhave, cittaṃ, taṃ etehi dhammehi susamuṭṭhāpayaṃ hoti. Seyyathāpi, bhikkhave, puriso parittaṃ aggiṃ ujjāletukāmo assa, so tattha sukkhāni ceva tiṇāni pakkhipeyya, sukkhāni ca gomayāni pakkhipeyya, sukkhāni ca kaṭṭhāni pakkhipeyya, mukhavātañca dadeyya, na ca paṃsukena okireyya, bhabbo nu kho so puriso parittaṃ aggiṃ ujjāletunti? Evaṃ sante’’ti (saṃ. ni. 5.234).

「比丘たちよ、心が沈滞している時には、択法覚支を修習する時であり、精進覚支を修習する時であり、喜覚支を修習する時である。それはなぜか。比丘たちよ、沈滞した心は、これらの法によって容易に奮起させられるからである。比丘たちよ、例えば、ある人が小さな火を燃え上がらせたいと欲して、そこに乾燥した草を投げ入れ、乾燥した牛糞を投げ入れ、乾燥した木を投げ入れ、口で息を吹きかけ、土をかぶせないとすれば、その人は小さな火を燃え上がらせることができるだろうか」「その通りでございます、世尊」(相応部5.234)。

Ettha ca yathāsakaṃ āhāravasena dhammavicayasambojjhaṅgādīnaṃ bhāvanā samuṭṭhāpanāti veditabbaṃ, sā anantaraṃ vibhāvitā eva.

そしてここでも、それぞれの資養(食)の力によって択法覚支などの修習と奮起がなされると知るべきであり、それは直後に明示された通りである。

Accāraddhavīriyatādīhīti ādi-saddena paññāpayogabalavataṃ pamoduppilāvanañca saṅgaṇhāti. Tassa niggahaṇanti tassa uddhatacittassa samādhisambojjhaṅgādisamuṭṭhāpanena uddhatāpattito nisedhanaṃ. Vuttampi cetaṃ bhagavatā –

「過度の精進などによって」という語において、「など」という語によって智慧の適用の強大さと歓喜の満ちあふれをも包括している。「それを抑制すること」とは、その掉挙した心を定覚支などを生起させることによって、掉挙の状態に陥るのを防ぐことである。このことも世尊によって次のように説かれている——

‘‘Yasmiñca kho, bhikkhave, samaye uddhataṃ cittaṃ hoti, kālo tasmiṃ samaye passaddhisambojjhaṅgassa bhāvanāya, kālo samādhisambojjhaṅgassa bhāvanāya, kālo upekkhāsambojjhaṅgassa bhāvanāya. Taṃ kissa hetu? Uddhataṃ, bhikkhave, cittaṃ, taṃ etehi dhammehi suvūpasamayaṃ hoti. Seyyathāpi, bhikkhave, puriso mahantaṃ aggikkhandhaṃ nibbāpetukāmo assa, so tattha allāni ceva tiṇāni…pe… paṃsukena ca okireyya, bhabbo nu kho so puriso mahantaṃ aggikkhandhaṃ nibbāpetunti? Evaṃ bhante’’ti (saṃ. ni. 5.234).

「比丘たちよ、心が掉挙(散乱)している時には、軽安覚支を修習する時であり、定覚支を修習する時であり、捨覚支を修習する時である。それはなぜか。比丘たちよ、掉挙した心は、これらの法によって容易に静まるからである。比丘たちよ、例えば、ある人が大きな火の塊を消したいと欲して、そこに生木や濡れた草を……(中略)……投げ入れ、土をかぶせるとすれば、その人は大きな火の塊を消すことができるだろうか」「その通りでございます、世尊」(相応部5.234)。

Etthāpi yathāsakaṃ āhāravasena passaddhisambojjhaṅgādīnaṃ bhāvanā samuṭṭhāpanāti veditabbā. Tattha passaddhisambojjhaṅgassa bhāvanā vuttā eva, samādhisambojjhaṅgassa vuccamānā, itarassa anantaraṃ vakkhati.

ここでもまた、それぞれの資養の力によって軽安覚支などの修習と生起がなされると知るべきである。そこにおいて軽安覚支の修習はすでに説かれ、定覚支の修習は今まさに説かれつつあり、他(捨覚支)についてはこの直後に説かれるであろう。

Paññāpayogamandatāyāti paññābyāpārassa appabhāvena. Yathā hi dānaṃ alobhappadhānaṃ, sīlaṃ adosappadhānaṃ, evaṃ bhāvanā amohappadhānā. Tattha yadā paññā na balavatī hoti, tadā bhāvanā pubbenāparaṃ visesāvahā na hoti, anabhisaṅkhato viya āhāro purisassa yogino cittassa abhiruciṃ na janeti, tena taṃ nirassādaṃ hoti, tathā bhāvanāya sammadeva avīthipaṭipattiyā upasamasukhaṃ na vindati, tenāpi cittaṃ nirassādaṃ hoti. Tena vuttaṃ **‘‘paññāpayoga…pe… nirassādaṃ hotī’’**ti. Tassa saṃveguppādanaṃ pasāduppādanañca tikicchananti taṃ dassento **‘‘aṭṭha saṃvegavatthūnī’’**tiādimāha. Tattha jātijarābyādhimaraṇāni yathārahaṃ sugatiyaṃ duggatiyañca hontīti tadaññameva pañcavidhabandhanādi-khuppipāsādi-aññamaññavibādhanādihetukaṃ apāyadukkhaṃ daṭṭhabbaṃ, tayidaṃ sabbaṃ tesaṃ tesaṃ sattānaṃ paccuppannabhavanissitaṃ gahitanti atīte anāgate ca kāle vaṭṭamūlakadukkhāni visuṃ gahitāni. Ye pana sattā āhārūpajīvino, tattha ca uṭṭhānaphalūpajīvino, tesaṃ aññehi asādhāraṇaṃ jīvikadukkhaṃ aṭṭhamaṃ saṃvegavatthu gahitanti daṭṭhabbaṃ. Ayaṃ vuccati samaye sampahaṃsanatāti ayaṃ sampahaṃsitabbasamaye vuttanayena tena saṃvejanavasena ceva pasāduppādanavasena ca sammadeva pahaṃsanā, saṃvegajananapubbakapasāduppādanena bhāvanācittassa tosanāti attho.

「智慧の働きの緩慢さによって」とは、智慧の働きの乏しさによって、ということである。実に、布施が無貪を主とし、持戒が無瞋を主とするように、修習は無痴を主とするのである。そこにおいて智慧が強力でない時、修習は以前から以後へと卓越した境地をもたらすことがなく、調理されていない食べ物が人の食欲をそそらないように、修行者の心に歓喜を生じさせず、それゆえにそれは無味乾燥なものとなる。同様に、修習が正しく道筋に乗って行われないために寂静の楽を得ることができず、それによっても心は無味乾燥となる。それゆえに「智慧の働き……(中略)……無味乾燥となる」と説かれたのである。その心に戦慄(厭離)と信敬(浄信)を生じさせることが治療法であることを示すために、「八つの厭離の根拠」などを説いた。そこにおいて、生・老・病・死は善趣および悪趣において相応に生じるものであるから、それ以外の五種の縛縛などや飢渇など、相互の迫害などに起因する悪趣の苦と見なすべきである。これらすべてはそれぞれの衆生の現在の生に基づいたものとして把握されているため、過去および未来における輪廻を根本とする苦は別個に把握されている。他方、食物に依存して生きる衆生、就中、自らの勤労の果によって生きる衆生にとって、他者と共通しない生計の苦が第八の厭離の根拠として把握されていると知るべきである。「これが適切な時に歓喜させることと言われる」とは、このように歓喜させるべき時に、説かれた方法に従って厭離を生じさせることと信敬を生じさせることによって正しく奮い立たせること、すなわち厭離の生成を先立たせた信敬の生起によって修習の心を喜ばせること、という意味である。

Sammāpaṭipattiṃ āgammāti līnuddhaccavirahena samathavīthipaṭipattiyā ca sammā avisamaṃ sammadeva bhāvanāpaṭipattiṃ āgamma. Alīnantiādīsu kosajjapakkhiyānaṃ dhammānaṃ anadhimattatāya alīnaṃ, uddhaccapakkhiyānaṃ anadhimattatāya anuddhataṃ, paññāpayogasattiyā upasamasukhādhigamena ca anirassādaṃ, tato eva ārammaṇe samappavattaṃ samathavīthipaṭipannañca. Tattha alīnatāya paggahe, anuddhatatāya niggahe, anirassādatāya sampahaṃsane na byāpāraṃ āpajjati, alīnānuddhatatāhi ārammaṇe samappavattaṃ, anirassādatāya samathavīthipaṭipannaṃ. Samappavattiyā vā alīnaṃ anuddhataṃ, samathavīthipaṭipattiyā anirassādanti daṭṭhabbaṃ. Ayaṃ vuccati samaye ajjhupekkhanatāti ayaṃ ajjhupekkhitabbasamaye bhāvanācittassa paggahaniggahasampahaṃsanesu byāvaṭatāsaṅkhātaṃ paṭipakkhaṃ abhibhuyya pekkhanā vuccati.

「正しい実践(正行)に至って」とは、沈滞と掉挙を離れ、止(サマタ)の道の行によって、正しく偏りなく適切に修習の実践に至ることである。「沈滞せず」などの語において、惛沈・睡眠の側の諸法が過度でないことによって沈滞せず、掉挙の側の諸法が過度でないことによって掉挙せず、智慧の働きの力と寂静の楽の獲得によって無味乾燥とならず、それゆえに対象において平等に働き、止の道に入っている。そこにおいて沈滞しないことによって策励に、掉挙しないことによって抑制に、無味乾燥でないことによって歓喜に配慮を費やすことはなく、沈滞せず掉挙しないことによって対象において平等に働き、無味乾燥でないことによって止の道に入っている。あるいは、平等な働きによって沈滞せず掉挙せず、止の道の実践によって無味乾燥でないと見なすべきである。「これが適切な時に捨置すること(見守ること)と言われる」とは、このように見守るべき時に、修習の心が策励・抑制・歓喜において思い悩むこととされる対治すべき偏りを克服して見守ることを言う。

Paṭipakkhavikkhambhanato vipassanāya adhiṭṭhānabhāvūpagamanato ca upacārajjhānampi samādānakiccanipphattiyā puggalassa samāhitabhāvasādhanamevāti tattha samadhurabhāvenāha **‘‘upacāraṃ vā appanaṃ vā’’**ti.

対治すべき煩悩を鎮伏することから、またヴィパッサナー(観)の基礎となる境地に至ることから、近行定であっても(心の)受持の役割の成就により、その人物の定の境地を成就するものであるため、そこにおいて同等な役割を持つものとして「近行定または安止定」と説いた。

Upekkhāsambojjhaṅgaṭṭhānīyā dhammāti ettha yaṃ vattabbaṃ, taṃ heṭṭhā vuttānusārena veditabbaṃ.

「捨覚支の基礎となる諸法」についてここで語るべきことは、上記で説かれた方法に準じて知るべきである。

Anurodhavirodhavippahānavasena majjhattabhāvo upekkhāsambojjhaṅgassa kāraṇaṃ tasmiṃ sati sijjhanato, asati ca asijjhanato, so ca majjhattabhāvo visayavasena duvidhoti āha **‘‘sattamajjhattatā saṅkhāramajjhattatā’’**ti. Tadubhaye ca virujjhanaṃ passaddhisambojjhaṅgabhāvanāya eva dūrīkatanti anurujjhanasseva pahānavidhiṃ dassentena **‘‘sattamajjhattatā’’**tiādi vuttaṃ. Tenevāha **‘‘sattasaṅkhārakelāyanapuggalaparivajjanatā’’**ti. Upekkhāya hi visesato rāgo paṭipakkho. Tathā cāha ‘‘upekkhā rāgabahulassa visuddhimaggo’’ti (visuddhi. 1.269).

順応(愛着)と反撥(瞋恚)の完全な捨断による中立(中捨)の状態こそが、捨覚支の因である。それが存在する時に成就し、存在しない時に成就しないからである。そしてその中立の状態は対象によって二種あるため、「衆生に対する中立、諸行に対する中立」と説いた。この両者において反撥することは、軽安覚支の修習によってすでに遠ざけられているため、愛着の捨断の方法のみを示すものとして「衆生に対する中立」などが説かれた。それゆえに「衆生や諸行を愛玩する人を遠ざけること」と説いたのである。実に、捨にとって特に貪愛が敵対するものである。それゆえに「捨は貪愛の多い者の清浄道である」(清浄道論1.269)と説かれている。

Dvīhākārehīti kammassakatāpaccavekkhaṇaṃ attasuññatāpaccavekkhaṇanti imehi dvīhi kāraṇehi. Dvīhevāti avadhāraṇaṃ saṅkhyāsamānatāya. Assāmikabhāvo anattaniyatā. Sati hi attani tassa kiñcanabhāvena cīvaraṃ aññañca kiñci attaniyaṃ nāma siyā, so pana koci natthevāti adhippāyo. Anaddhaniyanti na addhānakkhamaṃ, na ciraṭṭhāyi ittaraṃ aniccanti attho. Tāvakālikanti tasseva vevacanaṃ.

「二つの様態によって」とは、業自所有の省察と、我空(無我)の省察というこれら二つの理由によってである。「二つのみによって」という限定は、数が同等であることによる。所有者の不在とは、我の所有ではないということ(無我所性)である。実に、我(アートマン)が存在するならば、その所有物として衣やその他の何かが「我がもの」となるであろうが、そのような我は何一つ存在しない、という意味である。「耐久性のない」とは、長い時間に耐えられないこと、長続きせず束の間で無常であるという意味である。「一時的なもの」とは、それと同義語である。

Mamāyatīti mamattaṃ karoti, ‘‘mama’’nti taṇhāya pariggayha tiṭṭhati. Dhanāyantāti dhanaṃ drabyaṃ karontā.

「我がものとする」とは、我所性を作すことであり、「私のもの」と渇愛によって把握して執着することである。「財産とする者たち」とは、財宝・資産とする者たちのことである。

Ayaṃ satipaṭṭhānadesanā pubbabhāgamaggavasena desitāti pubbabhāgiyabojjhaṅge sandhāyāha **‘‘bojjhaṅgapariggāhikā sati dukkhasacca’’**nti.

この念処の教えは、初段階の道(前分道)の力によって説かれたものであるため、前段階の覚支に関して「覚支を把握する念は苦聖諦である」と説いた。

Bojjhaṅgapabbavaṇṇanā niṭṭhitā.

覚支の節の注釈を終わる。

Catusaccapabbavaṇṇanā

四聖諦の節の注釈

119. Yathāsabhāvatoti aviparītasabhāvato bādhanalakkhaṇato, yo yo vā sabhāvo yathāsabhāvo, tato, ruppanādikakkhaḷādisabhāvatoti attho. Janikaṃ samuṭṭhāpikanti pavattalakkhaṇassa dukkhassa janikaṃ nimittalakkhaṇassa samuṭṭhāpikaṃ. Purimataṇhanti dukkhanibbattito puretarasiddhaṃ taṇhaṃ.

119. 「自性に従って」とは、転倒していない自性から、迫害の相から、あるいはそれぞれの自性がその通りの自性であることから、変壊などの堅固などの自性から、という意味である。「生起させ、発起させるもの」とは、転起の相を持つ苦を生起させ、標相の相を発起させるものである。「以前の渇愛」とは、苦の生起よりも先に生じて成立している渇愛のことである。

Sasantatipariyāpannānaṃ dukkhasamudayānaṃ appavattibhāvena pariggayhamāno nirodhopi sasantatipariyāpanno viya hotīti katvā vuttaṃ **‘‘attano vā cattāri saccānī’’**ti. Parassa vāti etthāpi eseva nayo. Tenāha bhagavā – ‘‘imasmiṃyeva byāmamatte kaḷevare sasaññimhi samanake lokañca paññapemi, lokasamudayañca paññapemi, lokanirodhañca paññapemi, lokanirodhagāminipaṭipadañca paññapemī’’ti (saṃ. ni. 1.107). Kathaṃ pana ādikampiko nirodhasaccāni pariggaṇhātīti? Anussavādisiddhamākāraṃ pariggaṇhāti, evañca katvā lokuttarabojjhaṅge uddissapi pariggaho na virujjhati. Yathāsambhavatoti sambhavānurūpaṃ, ṭhapetvā nirodhasaccaṃ sesasaccavasena samudayavayā veditabbāti attho.

自己の相続に含まれる苦と集の不行(生起しないこと)として把握される滅もまた、自己の相続に含まれるもののようになることから、「自己の、あるいは四つの聖諦」と説かれた。「他者の、あるいは」という点においても、これと同じ方法である。それゆえに世尊は「まさにこの意識と心を有する一尋の身体において、私は世間を施設し、世間の集を施設し、世間の滅を施設し、世間の滅に至る実践の道を施設する」(相応部1.107)と説かれた。しかし、初心者はどのようにして滅聖諦を把握するのか。伝承などによって確立された様相を把握するのであり、このようにして出世間の覚支を対象としても、把握に矛盾はない。「生起に応じるように」とは、生起の可能性に応じてということであり、滅聖諦を除いて残りの聖諦によって生起と消滅を知るべきである、という意味である。

Catusaccapabbavaṇṇanā niṭṭhitā.

四聖諦の節の注釈を終わる。

‘‘Aṭṭhikasaṅkhalikaṃ samaṃsa’’ntiādikā satta sivathikā aṭṭhikakammaṭṭhānatāya itarāsaṃ uddhumātakādīnaṃ sabhāvenevāti navannaṃ sivathikānaṃ appanākammaṭṭhānatā vuttā. Dveyevāti ‘‘ānāpānaṃ, dvattiṃsākāro’’ti imāni dveyeva. Abhinivesoti vipassanābhiniveso, so pana sammasanīyadhamme pariggaho. Iriyāpathā ālokitādayo ca rūpadhammānaṃ avatthāvisesamattatāya na sammasanupagā viññattiādayo viya. Nīvaraṇabojjhaṅgā ādito na pariggahetabbāti vuttaṃ **‘‘iriyāpatha…pe… na jāyatī’’**ti. Kesādiapadesena tadupādānadhammā viya iriyāpathādiapadesena tadavatthā rūpadhammā pariggayhanti, nīvaraṇādimukhena ca taṃ sampayuttā taṃnissayadhammāti adhippāyena mahāsīvatthero ‘‘iriyāpathādīsupi **abhiniveso jāyatī’’**ti āha. Atthi nu kho metiādi pana sabhāvato iriyāpathādīnaṃ ādikammikassa anicchitabhāvadassanaṃ. Apariññāpubbikā hi pariññāti.

「肉の付いた骨骸」などの七つの墓場の観想は、白骨の業処であるためであり、他の膨張などの自性そのものによるためであるとして、九種の墓場の観想の安止業処性が説かれた。「二つのみ」とは、「入出息念と三十二身分」というこの二つのみである。「専念(趣入)」とはヴィパッサナーの専念であり、それは思惟されるべき諸法における把握である。威儀や顧視などは、色法の特定の状態にすぎないため、表色などのように思惟の対象とはならない。蓋や覚支は最初から把握されるべきではないため、「威儀……(中略)……生じない」と説かれた。髪などの表現によってその執着の対象となる法が把握されるように、威儀などの表現によってその状態にある色法が把握され、蓋などを通じて相応する法やそれらに依存する諸法が把握される、という意図でマハーシーヴァ長老は「威儀などにおいても専念が生じる」と説いた。「私に存在するだろうか」などは、初心者にとって自性から見て威儀などを意図しないことの提示である。実に、遍知は未遍知を先立たせるからである。

137. Kāmaṃ ‘‘idha, bhikkhave, bhikkhū’’tiādinā uddesaniddesesu tattha tattha bhikkhuggahaṇaṃ kataṃ, taṃ paṭipattiyā bhikkhubhāvadassanatthaṃ, desanā pana sabbasādhāraṇāti dassetuṃ **‘‘yo hi koci, bhikkhave’’**icceva vuttaṃ, na bhikkhuyevāti dassento **‘‘yo hi koci, bhikkhu vā’’**tiādimāha. Dassanamaggena ñātamariyādaṃ anatikkamitvā jānantī sikhāppattā aggamaggapaññā aññā nāma, tassa phalabhāvato aggaphalampīti āha **‘‘aññāti arahatta’’**nti. Appatarepi kāle sāsanassa niyyānikabhāvaṃ dassentoti yojanā.

137. 確かに「ここに、比丘たちよ、比丘は」などと略説や詳説の随所で「比丘」という把握がなされているが、それは実践による比丘たる状態を示すためであり、教えそのものは万人共通であることを示すために「比丘たちよ、実に誰であれ」と説かれたのであって、比丘のみではないことを示すために「実に誰であれ、比丘であれ……」などと説いた。見道によって知られた限界を踏み越えることなく知る、頂点に達した最勝の道の智慧が「無比の智(了知)」であり、その果であることから最勝の果でもあるとして、「無比の智とは阿羅漢果である」と説いた。わずかな時間であっても教えが出離をもたらすものであることを示すためである、と解釈される。

138. Niyyātentoti nigamento.

138. 「導き出す」とは、結論づける、ということである。

Papañcasūdaniyā majjhimanikāyaṭṭhakathāya

『破障(パパンチャ・スーダニー)』中部註解における、

Satipaṭṭhānasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

大念処経の注釈に対する幽微義の開顕(復註)を完了する。

Niṭṭhitā ca mūlapariyāyavaggavaṇṇanā.

そして根本五十経篇註解を終わる。

Paṭhamo bhāgo niṭṭhito.

第一部を終わる。

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa

世尊、応供、正等覚者に敬礼いたします。

Majjhimanikāye

Mūlapaṇṇāsa-ṭīkā

根本五十経復註

(Dutiyo bhāgo)

(第二部)