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2. Sīhanādavaggo2. 獅子吼品

1. Cūḷasīhanādasuttavaṇṇanā

1. 小獅子吼経注釈

139. Suttadesanāvatthusaṅkhātassa atthassa uppatti aṭṭhuppatti, sā tassa atthīti aṭṭhuppattikoti vuttovāyamattho. Lābhasakkārapaccayāti lābhasakkāranimittaṃ, bhagavato saṅghassa ca uppannalābhasakkārahetu, attano vā lābhasakkāruppādanahetu. Titthiyaparideviteti titthiyānaṃ ‘‘kiṃ bho samaṇoyeva gotamo samaṇo’’tiādinā vippalapanimittaṃ. **‘‘Mahālābhasakkāro uppajjī’’**ti vatvā samantapāsādikatthaṃ tassa uppattikāraṇaṃ dassento **‘‘catuppamāṇiko hī’’**tiādimāha. Cattāri pamāṇāni catuppamāṇāni, catuppamāṇāni etassa atthīti catuppamāṇiko. Lokoyeva saṅgamma samāgamma vasanaṭṭhena lokasannivāso, sattakāyoti attho. Pamināti uḷāratādivisesaṃ etenāti pamāṇaṃ (a. ni. ṭī. 2.4.65) rūpaṃ rūpakāyo pamāṇaṃ etassāti rūpappamāṇo. Tato eva rūpe pasannoti rūpappasanno. Sesapadesupi eseva nayo. Ghosoti pavattathutighoso (a. ni. ṭī. 2.4.65). Lūkhanti paccayalūkhatā. Dhammoti sīlādayo guṇadhammā adhippetā.

139. 経の説示の因縁とされる事柄の生起が「事の生起(因縁)」であり、それがこの経にあるため「事の生起を有するもの(因縁経)」という、これがまさに説かれた意味である。「利養と恭敬の縁によって」とは、利養と恭敬を原因として、世尊と僧伽に生じた利養と恭敬を理由として、あるいは自らに利養と恭敬を生じさせる原因として、ということである。「異学徒たちの嘆きにおいて」とは、異学徒たちの「友よ、沙門ゴータマのみが沙門なのか」などの戯論の理由においてである。「大いなる利養と恭敬が生じた」と述べて、遍浄の目的のためにその生起の因を示すものとして「四種の基準を持つ者であるから」などを説いた。四つの基準が「四量(四種の基準)」であり、四つの基準をこれに有する者を「四量者」という。世界そのものが集まり寄り合って住するという意味で「世界・住居」であり、衆生の集団という意味である。これによって崇高性などの卓越を測るゆえに「量(基準)」であり、色(容姿)すなわち色身をこの者の基準とするゆえに「色量者」という。それゆえに容姿において信をおく者を「色愛者」という。残りの句においてもこれと同じ方法である。「声」とは、流布する賛嘆の声(名声)である。「粗悪」とは、必需品の粗末さである。「法」とは、戒などの徳法が意図されている。

Tesaṃ puggalānaṃ. Ārohanti uccataṃ. Sā ca kho tasmiṃ tasmiṃ kāle pamāṇayuttā daṭṭhabbā. Pariṇāhanti nātikisanātithūlatāvasena mitapariṇāhaṃ. Saṇṭhānanti tesaṃ tesaṃ aṅgapaccaṅgānaṃ susaṇṭhitataṃ. Pāripūrinti sabbesaṃ sarīrāvayavānaṃ paripuṇṇataṃ avekallataṃ. Tattha pamāṇaṃ gahetvāti tasmiṃ rūpe rūpasampattiyaṃ pamāṇabhāvaṃ upādāya. Pasādaṃ janetīti adhimokkhaṃ uppādeti.

「それらの」人々の。「高身長」とは、背の高さである。それもその時々の適切な寸法にかなったものと見なすべきである。「円満な周囲」とは、痩せすぎず太りすぎず適切な周囲を持つことである。「端正な形状」とは、それぞれの四肢や部分が整っていることである。「完全性」とは、身体のすべての部分が円満で欠損のないことである。「そこにおいて基準を取って」とは、その容姿や容姿の円満さにおいて基準とする状態に基づいて、ということである。「信を生じさせる」とは、勝解(確信)を生じさせることである。

Paravaṇṇanāyāti ‘‘amuko ediso ca ediso cā’’ti yasaguṇavacanena. Parathomanāyāti sammukhāva parassa silāghuppādanena abhitthavanena. Parapasaṃsanāyāti parammukhā parassa guṇasaṃkittanena. Paravaṇṇahārikāyāti paramparavaṇṇahārikāya paramparāya parassa kittisaddūpasaṃhārena. Tatthāti tasmiṃ thutighose.

「他者への賛辞によって」とは、「某はかくのごとく、かくのごとき者である」と名声や徳を語ることによって。「他者への賞賛によって」とは、まさに面前で他者に賞賛の念を生じさせ讃嘆することによって。「他者への推賞によって」とは、背後で他者の徳を讃えることによって。「他者の名声の伝播によって」とは、代々伝わる名声の伝播によって、他者の名声の響きを次々に伝えることによって。「そこにおいて」とは、その賛嘆の声(名声)において。

Cīvaralūkhanti thūlajiṇṇabahutunnakatādiṃ cīvarassa lūkhabhāvaṃ. Pattalūkhanti anekaganthikāhatādiṃ pattassa lūkhabhāvaṃ. Vividhaṃ vā dukkarakārikanti dhutaṅgasevanādivasena pavattaṃ nānāvidhaṃ dukkaracariyaṃ.

「衣の粗末さ」とは、厚手で古びて継ぎ接ぎだらけであることなどの衣の粗末さである。「鉢の粗末さ」とは、多くの結び目や破損があることなどの鉢の粗末さである。「あるいは様々な難行を行うこと」とは、頭陀行の実践などによって行われる多種多様な難行の実践である。

Sīlaṃ vā passitvāti sīlapāripūrivasena visuddhaṃ kāyavacīsucaritaṃ ñāṇacakkhunā passitvā. Jhānādiadhigamasiddhaṃ samādhiṃ vā. Vipassanābhiññāsaṅkhātaṃ paññaṃ vā.

「あるいは戒を見て」とは、戒の円満さによって清浄となった身と口の善行を知見の眼(智眼)によって見て。「あるいは禅定などの獲得によって成就した定を」「あるいはヴィパッサナーや神通とされる智慧を」。

Bhagavato sarīraṃ disvāti sambandho. Rūpappamāṇopi sammāsambuddheyeva pasīdati aparimitakālasamupacitapuññānubhāvanipphannāya sabbaso anavajjāya sabbākāraparipuṇṇāvayavāya rūpakāyasampattiyā samantapāsādikattā, yassā rucirabhāvo visuddhe vigatavalāhake deve puṇṇamāsiyaṃ paripuṇṇakalābhāgamaṇḍalaṃ candamaṇḍalaṃ abhibhavitvā atirocati, pabhassarabhāvo saradasamayaṃ saṃvaddhitadiguṇatejakiraṇajālasamujjalaṃ sūriyamaṇḍalaṃ abhibhavati, sommakiraṇarasasamujjalabhāvehi tadubhayehi abhibhuyya vattamānaṃ ekasmiṃ khaṇe dasasahassilokadhātuṃ vijjotanasamatthaṃ mahābrahmuno pabhāsamudayaṃ abhivihacca bhāsate tapate virocati ca.

「世尊の身体を見て」と結びつけられる。容姿を基準とする者であっても、無量無限の時にわたって積み重ねられた功徳の威力によって成就し、完全に非の打ち所がなく、すべての相が円満に具わった色身の円満さにより、全き清浄さをもたらすものであるがゆえに、正等覚者にこそ信をおくのである。その麗しさは、清らかで雲のない天において満月の夜に完全な円相を満たした月輪を凌駕して輝き、その輝きは、秋の季節に倍加した威光の光線を放って輝く日輪を凌駕し、穏やかな光線の輝きによってその両者を凌駕して存在し、一瞬のうちに一万の諸世界を照らすことができる大梵天の光明の集まりをも圧倒して輝き、光り、燦然としている。

Satipi aṅgapariccāgādīnaṃ dānapāramibhāve pariccāgavisesabhāvadassanatthañceva sudukkarabhāvadassanatthañca aṅgapariccāgādiggahaṇaṃ, tatthāpi ca aṅgapariccāgato visuṃ nayanapariccāgaggahaṇaṃ, pariccāgabhāvasāmaññepi rajjapariccāgato puttadārapariccāgaggahaṇañca kataṃ. Ādinā nayenāti ādi-saddena pubbayogapubbacariyādihetusampattiyā, ‘‘itipi so bhagavā’’tiādinā (dī. ni. 1.157, 255) vuttāya phalasampattiyā, ‘‘so dhammaṃ desetī’’tiādinā (dī. ni. 1.255) vuttāya sattupakārakiriyāya ca saṅgaho daṭṭhabbo. Sammāsambuddheyeva pasīdati yathāvuttaguṇānaṃ anaññasādhāraṇabhāvato acchariyabbhutabhāvato ca. Sesesupi eseva nayo.

身体の放棄などが布施波羅蜜であるとしても、放棄の卓越性を示すため、また極めて行い難い状態を示すために「身体の放棄など」を取り上げ、そこにおいても身体の放棄から別に「眼の放棄」を取り上げ、放棄であることの共通性がありながらも王位の放棄から「妻子(妻子眷属)の放棄」を取り上げたのである。「などの方法によって」とは、「など」という語によって、前世の修練や前世の行業などの原因の円満さ、「かの世尊は実に……」などによって説かれた果の円満さ、「かの者は法を説く」などによって説かれた衆生への利益の行為をも包括していると見なすべきである。正等覚者にこそ信をおくのである。前述の諸徳が他者と共通しないものであり、驚異的で未曾有のものであるからである。残りの場合においてもこれと同じ方法である。

**‘‘Cīvaralūkhaṃ disvā’’**ti vatvā taṃ dassetuṃ **‘‘sace bhagavā’’**tiādi vuttaṃ. Sāṇapaṃsukūlacīvarenāti matakaḷevaraṃ paliveṭhetvā chaḍḍitena tumbamatte kimī papphoṭetvā gahitena sāṇapaṃsukūlacīvarena. Bhāriyanti garukaṃ, dukkaranti attho. Vadhuyuvatīmajjhimitthivasena, bālayobbanapurāṇavasena vā tividhanāṭakatā. Hareṇuyūsaṃ maṇḍalakalāyaraso. ‘‘Yāpessati nāmā’’ti nāma-saddaṃ ānetvā sambandho. Nāma-saddayogena hi anāgatakālassa viya payogo, yāpeti icceva attho. Appāṇakanti nirassāsaṃ nirodhitassāsapassāsaṃ.

「衣の粗末さを見て」と述べて、それを示すために「もし世尊が……」などと説かれた。「麻の糞掃衣によって」とは、死体を包んで捨てられ、一斗ほどの蛆虫を払い落として手に入れた麻の糞掃衣によって。「重い」とは、重大な、行うことが困難な、という意味である。嫁・若妻・中年女性という区分により、あるいは年少・青年・壮年という区分により、三種の踊り子(後宮の女性)がいる。「豆の煮汁」とは、丸いエンドウ豆のスープのことである。「養うだろう」とは、「実に(ナーマ)」という語を補って結びつける。実に、「ナーマ」という語の結合により、未来形のような用法となり、「養う」ということそのものが意味である。「無息の」とは、息のない、出息と入息を遮断した、ということである。

Samādhiguṇanti sādhāraṇato vuttamatthaṃ vivarati jhānādiggahaṇena. Mānadabbanimmadanena nibbisevanabhāvāpādanampi damanamevāti vuttaṃ **‘‘pāthikaputtadamanādīnī’’**ti. Ādi-saddena saccakāḷavakabakadamanādīnaṃ saṅgaho. Bāverunti evaṃnāmakaṃ visayaṃ. Sarasampannoti aṭṭhaṅgasamannāgatena sarena samannāgato. Tena brahmassaratākaravīkabhāṇitādassanena lakkhaṇahāranayena avasesalakkhaṇapāripūriṃ viya tadavinābhāvato buddhānaṃ desanāvilāsañca vibhāveti.

「禅定の徳」という一般的に説かれた意味を、禅定などを挙げることによって開示している。慢心や傲慢さを打ち砕くことによって毒気を抜かれた状態に至らせることもまた調伏であることから、「パーティカプッタの調伏など」と説かれた。「など」という語によってサッチャカ、アーラヴァカ、バカ(梵天)の調伏などが包括される。「バーヴェル」とは、そのような名前の地方である。「妙音を具えた」とは、八つの要素を具足した音声声を具えた者のことである。これによって梵天の音声や迦陵頻伽(カラヴィーカ)の鳴き声のような声を示すことにより、相の導出法に従って、残りの相の円満さを示すのと同様に、それと不可分である仏たちの説法の優美さをも明示している。

Hatappabhāti buddhānubhāvena vigatatejā. Kāḷapakkhūpameti sattānaṃ byāmohandhakārābhibhavena kāḷapakkharattūpame. Sūriyeti sūriye udayitvā obhāsenteti adhippāyo.

「光を失った」とは、仏の威力によって威光が失われた、ということである。「黒月(暗夜)に喩えられる」とは、衆生の惑溺の暗黒に圧倒された黒月の夜に喩えられる、ということである。「太陽において」とは、太陽が昇って輝く時に、という意図である。

Siṅghāṭaketi tikoṇaracchāyaṃ. Catukketi sandhiyaṃ. Paridevantīti anutthunanavasena vippalapanti. Sokādhikakato hi vacīpalāpo paridevo. Loke uppajjamāneyeva uppannāti attano diṭṭhivādassa purātanabhāvaṃ dīpenti.

「三叉路において」とは、三角の路地において。「十字路において」とは、交差点において。「嘆く」とは、追慕することによって口々に嘆きわめくことである。実に、過度の悲嘆から生じる言葉の放言が「嘆き」である。「世間に生じるまさにその時に生じた」とは、自らの見解の説の古さを明らかにしている。

Sesapadesupīti ‘‘idha dutiyo samaṇo’’tiādīsu sesavāresupi (a. ni. ṭī. 2.4.241-242) yathā hi ‘‘vivicceva kāmehī’’ti (pārā. 11; dī. ni. 1.226; saṃ. ni. 2.152; a. ni. 4.123) ettha kato niyamo ‘‘vivicca akusalehī’’ti (pārā. 11; dī. ni. 1.226; saṃ. ni. 2.152; a. ni. 4.123) etthāpi katoyeva hoti sāvadhāraṇasseva atthassa icchitabbattā, evamidhāpīti. Tenāha **‘‘dutiyādayopī’’**tiādi. Sāmaññaphalādhigamavasena nippariyāyato samaṇabhāvoti tesaṃ vasenettha cattāro samaṇā desitāti tamatthaṃ suttantarena samatthetuṃ **‘‘tenevāhā’’**tiādi vuttaṃ. Paṭipattikkamena desanākkamena ca sakadāgāmiādīnaṃ dutiyāditā vuttāti sotāpannassa paṭhamatā avuttasiddhāti na coditā. Phalaṭṭhakasamaṇāva adhippetā samitapāpasamaṇaggahaṇato. Kasmā panettha mahāparinibbāne viya maggaṭṭhā tadatthāya paṭipannā ca na gahitāti? Veneyyajjhāsayato. Tattha hi maggādhigamatthāya vipassanāpi ito bahiddhā natthi, kuto maggaphalānīti dassentena bhagavatā ‘‘ñāyassa dhammassa padesavattī, ito bahiddhā samaṇopi natthī’’ti vuttaṃ. Idha pana niṭṭhānappattameva taṃtaṃsamaṇabhāvaṃ gaṇhantena phalaṭṭhakasamaṇāva gahitā ‘‘maggaṭṭhato phalaṭṭho savisesaṃ dakkhiṇeyyo’’ti. Svāyamattho dvīsu suttesu desanābhedeneva viññāyatīti.

「残りの句においても」とは、「ここに第二の沙門……」などの残りの節においても同様である。実に「まさに諸々の欲望から離れて」においてなされた限定が、「諸々の不善から離れて」というここにおいてもまさになされているように、限定された意味こそが望まれるべきものであるからであり、ここでも同様である。それゆえに「第二のものたちも……」などと説いた。沙門果の獲得によって直接的に(無比の)沙門の状態があることから、それらに基づいてここで四つの沙門が説かれているとし、その意味を経典によって裏付けるために「それゆえに説かれた」などが説かれた。実践の順序と説法の順序によって一来者などに第二などの順序が説かれているため、預流者が第一であることは語らずとも成立しており、論及されていない。悪を静めた沙門を把握することから、果に住する沙門のみが意図されている。なぜここで大般涅槃経のように道に住する者やそのために実践している者が把握されなかったのか。教化される者の意図によるからである。実にそこでは、道の獲得のためのヴィパッサナーすらここ(仏教)の外部には存在しないのに、どこに道と果があろうか、と示す世尊によって「正しい法の一分に留まる者であり、これより外部には沙門も存在しない」と説かれた。しかしここでは、究極に至ったまさにその沙門の状態を把握することにより、「道に住する者よりも果に住する者が格別に供養に値する」として果に住する沙門のみが把握された。この意味は、二つの経における説法の相違によって知られるのである。

Rittāti vivittā. Tucchāti nissārā paṭipannakasārābhāvato. Pavadanti etehīti pavādā, diṭṭhigatikānaṃ nānādiṭṭhidīpakā samayāti āha **‘‘cattāro sassatavādā’’**tiādi. Tattha yaṃ vattabbaṃ, taṃ parato āgamissati. Teti yathāvuttasamaṇā. Etthāti ‘‘parappavādā’’ti vutte bāhirakasamaye.

「空である」とは、離れていること。「虚しい」とは、実践する実質が存在しないことから実体がないことである。「これらによって論争する」ゆえに「異論(諸説)」であり、見解にとらわれた者たちの様々な見解を明示する教義であることから、「四つの常見論」などと説いた。そこにおいて語るべきことは、後に出てくるであろう。「それら」とは、前述の沙門たちのことである。「ここに」とは、「他者の異論において」と説かれた外道の教義において。

Yanti yasmiṃ. Bhummatthe hi idaṃ paccattavacanaṃ. Ñāyo vuccati saha vipassanāya ariyamaggo. Tena hi nibbānaṃ ñāyati gammati paṭivijjhatīti. So eva nibbānasampāpakahetutāya dhammoti āha **‘‘ñāyassa dhammassā’’**ti.

「いかなる」とは、そこにおいて、ということである。実にこの主格の語は場所の意味(処格)である。「正しい道理」とは、ヴィパッサナーを伴う聖道のことである。それによって実に涅槃が知られ、到達され、通達されるからである。それこそが涅槃に到達させる原因であることから法であるとし、「正しい道理の法の」と説いた。

Tesaṃ parappavādasāsanānaṃ akhettatā khettatā ca ariyamaggassa abhāvabhāvā suparisuddhassa sīlassa suparisuddhāya samathavipassanāya abhāvato sāvato ca. Tadubhayañca durakkhātasvākkhātabhāvahetukaṃ, so ca asammāsambuddhasammāsambuddhapaveditatāyāti parājikāya satthu vipattihetutāya sāsanassa aniyyānabhāvoti dasseti.

それら他者の諸説の教えが(聖果の生じる)田地でないこと、および(仏教が)田地であることは、聖道の不存在と存在により、極めて清浄な戒と極めて清浄な止観の不存在と存在による。そしてその両者は、悪しく説かれたことと善く説かれたことを原因とし、それは正等覚者でない者によって説かれたことと正等覚者によって説かれたことによるため、敗北した師の破滅を原因として、その教えが出離をもたらさないものであることを示している。

Idāni yathāvuttamatthaṃ pariyāyato ca pāḷiyā ca samatthetuṃ **‘‘tenāha bhagavā’’**tiādinā pāḷiṃ dassetvā upamāpadesena tattha suttaṃ vibhāvento **‘‘yasmā’’**tiādimāha. Tattha yasmā ekaccānaṃ visesato sīhānaṃ purimaṃ pādadvayaṃ hatthakiccampi karoti, tasmā āha **‘‘surattahatthapādo’’**ti. Sīhassa kesā nāma kesarāyatanā khandhalomā. Gocariyahatthikulaṃ nāma pakatihatthikulaṃ, yaṃ ‘‘kālāvaka’’ntipi vuccati. Ghoṭako nāma assakhaḷuṅko. Sineruparibhaṇḍe simbalirukkhehi sañchādito paññāsayojano daho simbalidaho, taṃ parivāretvā mahantaṃ simbalivanaṃ, taṃ sandhāyāha **‘‘simbalidahavane’’**ti. Aññatitthāvāsabhūmiyaṃ imesu samaṇesu ekacco na uppajjati, īdiso panettha vikappo natthi, sabbena sabbaṃ na uppajjantevāti dassento **‘‘ekasamaṇopī’’**ti āha. Ariyamaggaparikkhateti ariyamagguppattiyā abhisaṅkhate, yadā sāsanikānaṃ sammāpaṭipattiyā ariyamaggo dibbati, tadāti attho.

今や、前述の意味を表現法と経文によって裏付けるために、「それゆえに世尊は説かれた」などによって経文を示し、譬喩の表現によってそこでの経を解明するものとして「なぜなら」などを説いた。そこにおいて、ある種の特に獅子の前脚の二つは手の役割も果たすことから、「美しい紅の手足を持つ」と説いた。獅子の毛とは、タテガミの生え際にある首の毛のことである。通常の象の群れとは、普通の象の群れのことであり、「カーラーヴァカ(黒象)」とも呼ばれる。「ゴータカ」とは、駄馬のことである。須弥山の裾野に絹綿樹(シムバリ)によって覆われた五十由旬の絹綿池があり、それを取り囲む広大な絹綿樹の林、それを指して「絹綿池の林において」と説いた。他の異端の住処の地には、これらの沙門の中のいかなる一人も生じない。ここにはいかなる例外もなく、完全に一切生じないことを示すものとして「一人の沙門すらも」と説いた。「聖道によって耕された」とは、聖道の生起のために修練された、仏教徒たちの正しい実践によって聖道が輝く時に、という意味である。

Sammāti suṭṭhu. Suṭṭhu nadanaṃ nāma hetuyuttaṃ suṭṭhu katvā kathananti āha **‘‘hetunā’’**ti. So ca hetu aviparīto eva icchitabboti āha **‘‘nayenā’’**ti, ñāyenāti attho. Evaṃbhūto ca so yathādhippetatthaṃ karoti sādhetīti dassento āha **‘‘kāraṇenā’’**ti. Yadi tiracchānasīhassa nādo sabbatiracchānaekaccamanussāmanussanādato seṭṭhattā seṭṭhanādo, kimaṅgaṃ pana tathāgatasīhanādoti āha **‘‘sīhanādanti seṭṭhanāda’’**nti. Yadi tiracchānasīhanādassa seṭṭhanādatā nibbhayatāya appaṭisattutāya icchitā, tathāgatasīhanādasseva ayamattho sātisayoti āha **‘‘abhītanādaṃ appaṭināda’’**nti. Idānissa seṭṭhanādabhāvaṃ kāraṇena paṭipādento **‘‘imesañhī’’**tiādimāha. Tena ‘‘sammā’’ti vuttamatthaṃ samattheti. Tattha atthitāyāti iminā sīhanādassa uttamatthataṃ dasseti. Bhūtaṭṭho hi uttamaṭṭho. Tāya eva bhūtaṭṭhatāya abhītanādatāti dassento **‘‘ime samaṇā…pe… nāma hotī’’**ti āha. Abhūtañhi vadato kutoci bhayaṃ vā āsaṅkā vā siyāti ‘‘idhevā’’ti niyamassa aviparītataṃ dassento **‘‘amhākampi…pe… appaṭinādo nāma hotī’’**ti āha. Yañhi aññatthāpi atthi, taṃ idhevāti avadhāretuṃ na yuttanti.

「正しく」とは、見事に。見事に吼えるとは、理由を具えて見事に語ることであるとし、「理由によって」と説いた。そしてその理由は転倒していないものとして望まれるべきであるとし、「道理によって」すなわち正理によって、と説いた。そしてそのようにあるものは意図された通りの目的を果たし、成就することを示すものとして「原因によって」と説いた。もし畜生の獅子の咆哮が、すべての畜生や一部の人間・非人間の咆哮よりも最上であることから最上の咆哮であるとするならば、まして如来の獅子吼においておや、ということで「獅子吼とは最上の咆哮である」と説いた。もし畜生の獅子の咆哮が最上の咆哮であることが無畏であり対抗者がいないことによって望まれるなら、如来の獅子吼こそがこの意味を極めて勝れて具えているとして、「無畏の咆哮、対抗なき咆哮」と説いた。今やその最上の咆哮たる状態を理由によって提示するものとして「実にこれらの……」などを説いた。これによって「正しく」と説かれた意味を裏付けている。そこにおいて「存在することによって」とは、これによって獅子吼の最高の真実性を示している。真実の意味こそが最高の意味であるからである。そのまさに真実の意味であることによって無畏の咆哮であると示すものとして「これらの沙門は……(中略)……と呼ばれる」と説いた。実に虚偽を語る者にはどこからか恐怖や疑惑が生じるであろうから、「ここにのみ」という限定の無謬性を示すものとして「我らにも……(中略)……対抗なき咆哮と呼ばれる」と説いた。実に他所にも存在するものを「ここにのみ」と限定することは適切ではないからである。

140. Khoti avadhāraṇe. Tena vijjati evāti dasseti. Yanti karaṇatthe paccattanti āha **‘‘yena kāraṇenā’’**ti. Titthaṃ nāma dvāsaṭṭhi diṭṭhiyo tabbinimuttassa kassaci diṭṭhivipphanditassa abhāvato. Pāragamanasaṅkhātaṃ taraṇaṃ diṭṭhigatikānaṃ (a. ni. ṭī. 2.3.62) tattha tattheva aparāparaṃ ummujjananimujjanavasena pilavananti āha **‘‘taranti uppalavantī’’**ti. Uppādetāti pūraṇādiko. Titthe jātāti titthiyā, yathāvuttaṃ vā diṭṭhigatasaṅkhātaṃ titthaṃ etesaṃ atthīti titthikā, titthikā eva titthiyā. Assasanti ettha, etenāti vā assāso, avassayo.

140. 「実に(コー)」とは、強調である。これによって確かに存在する、ということを示している。「いかなる」とは、具格の意味における主格であるとして、「いかなる原因によって」と説いた。「渡場(外道)」とは六十二の見解のことであり、それから離れたいかなる見解の動揺も存在しないからである。彼岸に至ることとされる渡脱が、見解にとらわれた者たちにとってはそこかしこで浮き沈みしながら漂うことであるとして、「渡り、浮き沈みする」と説いた。「生じさせた者」とは、プーラナ(カッサパ)などのことである。「渡場(外道の教義)に生まれた者たち」ゆえに「外道(ティッティヤ)」であり、あるいは前述の見解とされる渡場をこれらに有するゆえに「渡場に属する者」、渡場に属する者こそが「外道」である。ここに、あるいはこれによって息をつき、安らぐゆえに「安息所」すなわち拠り所である。

Pakatatthaniddeso yaṃ-taṃ-saddoti tassa ‘‘bhagavatā’’tiādīhi padehi samānādhikaraṇabhāvena vuttassa yena abhisambuddhabhāvena bhagavā pakato satthubhāvena adhigato supākaṭo ca, taṃ abhisambuddhabhāvaṃ saddhiṃ āgamanapaṭipadāya atthabhāvena dassento **‘‘yo so…pe… abhisambuddho’’**ti āha. Satipi ñāṇadassanasaddānaṃ idha paññāvevacanabhāve tena tena visesena nesaṃ savisaye visesappavattidassanatthaṃ (sārattha. ṭī. parivāra 3.1) asādhāraṇavisesavasena vijjāttayavasena vijjābhiññānāvaraṇavasena sabbaññutaññāṇamaṃsacakkhuvasena paṭivedhadesanāñāṇavasena ca te yojetvā dassento **‘‘tesaṃ tesa’’**ntiādimāha. Tattha āsayānusayaṃ jānatā āsayānusayañāṇena, sabbaṃ ñeyyadhammaṃ passatā sabbaññutānāvaraṇañāṇehi. Pubbenivāsādīhīti pubbenivāsaāsavakkhayañāṇehi. Anaññasādhāraṇapuññānubhāvanibbatto anuttarañāṇādhigamaladdhapurāvattako ca bhagavato rūpakāyo atikkammeva devānaṃ devānubhāvaṃ vattatīti āha **‘‘sabbasattānaṃ…pe… passatā’’**ti. Paṭivedhapaññāyāti maggapaññāya. Tāya hi sabbaso ñeyyadhammesu sammohassa vidhamitattā pacchā pavattajānanaṃ tassa jānanaṃ viya vuccati.

既知の意味の指示である「かの……それ」という語は、その「世尊によって」などの句と同格であることによって説かれた、世尊が完全に覚知した状態によって世尊として知られ、師として到達され、極めて明白となった、その完全な覚知の状態を、来住の実践(行履)とともに実質として示すものとして「かの……(中略)……正等覚者」と説いた。ここにおいて智と見の語が智慧の同義語であるとしても、それぞれの卓越性によってそれらの自らの領域における卓越した働きを示すために、不共の卓越性に基づき、三明に基づき、明と神通と無碍に基づき、一切知智と肉眼に基づき、通達と説法の智に基づいてそれらを結びつけて示すものとして「それぞれの……」などを説いた。そこにおいて意楽と随眠を知る者として「意楽随眠智」によって、一切の知るべき法を見る者として「一切知智」と「無礙智」によって。「宿住(過去世)などによって」とは、宿住智と漏尽智によって。他と共通しない功徳の威力によって生じ、無上の智の獲得によって得られた前身を持つ世尊の色身は、神々の神的な威力を超越して存在するとして、「一切の衆生の……(中略)……見る者として」と説いた。「通達の智慧によって」とは、道の智慧によって。実にそれによって、知るべき諸法における迷妄が完全に打ち破られているため、後に生じる知解はそれの知解のごとく語られるのである。

Arīnanti kilesārīnaṃ, pañcavidhamārānaṃ vā sāsanapaccatthikānaṃ vā aññatitthiyānaṃ, tesaṃ hananaṃ pāṭihāriyehi abhibhavanaṃ appaṭibhānatākaraṇaṃ ajjhupekkhanaṃ vā. Kesivinayasuttañcettha (a. ni. 4.111) nidassanaṃ. Tathā ca ṭhānāṭṭhānādīni vā jānatā, yathākammupage satte passatā, savāsanānamāsavānaṃ khīṇattā arahatā, abhiññeyyādibhede dhamme abhiññeyyādito aviparītāvabodhena sammāsambuddhena. Atha vā tīsu kālesu appaṭihatañāṇatāya jānatā, kāyakammādīnaṃ ñāṇānuparivattanena nisammakāritāya passatā, ravādīnampi (sārattha. ṭī. parivāra 3.1) abhāvasādhikāya pahānasampadāya arahatā, chandādīnaṃ ahānihetubhūtāya akkhayapaṭibhānasādhikāya sabbaññutāya sammāsambuddhena. Evaṃ dasabalaaṭṭhārasāveṇikabuddhadhammavasenapi yojanā veditabbā. Yeti caturo dhamme. Attanīti amhesu. Na rājarājamahāmattādīsu upatthambhaṃ sampassamānā, na kāyabalaṃ sampassamānāti yojanā.

「敵たちの」とは、煩悩という敵たちの、あるいは五種の魔の、あるいは教えの敵対者である他の異端者たちのことであり、それらを撃破することとは、神通変化によって屈服させ、反論できない状態にさせ、あるいは捨置することである。そしてここでは『ケーシ調御経』(増支部4.111)がその実例である。同様に、是処非処などを知る者として、業に従って赴く衆生を見る者として、習気とともに諸漏が尽きていることによる阿羅漢として、知るべきことなどの区分における諸法を知るべきことなどから転倒することなく覚知したことによる正等覚者として。あるいは、三世において妨げのない智を持つことによって知る者として、身業などが智に随転することによる熟慮ある行為によって見る者として、過失などの不存在をも成就する断の円満による阿羅漢として、意欲などの衰退しない原因となり無尽の弁才を成就する一切知性による正等覚者として。このように十力や十八不共仏法の力によっても解釈を知るべきである。「いかなる」とは、四つの法を。「自己において」とは、我々において。「王や王の大臣などの援助を期待することなく、肉体の力を頼みにすることなく」と結びつけられる。

Uppannapasādoti aveccappasādaṃ vadati. Vakkhati hi ‘‘cattāri sotāpannassa aṅgāni kathitānī’’ti (ma. ni. aṭṭha. 1.140). Kāmaṃ asekkhāpi asekkhāya samasikkhatāya sahadhammikā eva, ciṇṇabrahmacariyatāya pana sahadhammaṃ carantīti na vattabbāti asekkhavāro na gahito. Sabbepeteti ete yathāvuttā bhikkhuādayo sotāpannādayo ca puthujjanā ariyā cāti sabbepi ete taṃtaṃsikkhāhi samānadhammattā sahadhammattā **‘‘sahadhammikā’’**ti vuccanti. Idāni nibbattitaariyadhammavaseneva sahadhammike dassento **‘‘apicā’’**tiādimāha. Maggadassanamhīti pariññābhisamayādivasena saccapaṭivedhena ‘‘nava maggaṅgāni, aṭṭha bojjhaṅgānī’’tiādinā vivādo natthi. Ekadhammacāritāyāti samānadhammacāritāya. Na hi paṭividdhasaccānaṃ ‘‘mayā dhammo sudiṭṭho, tayā duddiṭṭho’’tiādinā vivādo atthi. Diṭṭhisīlasāmaññena saṅghātā hi te uttamapurisā. Imināti ‘‘sahadhammikā kho panā’’tiādivacanena. Tattha piyamanāpaggahaṇena sīlesu paripūrakāritāpadesena ekadesena gahitaṃ saṅghasuppaṭipattiṃ paripuṇṇaṃ katvā dasseti. Ye hi sampannasīlā suvisuddhadassanā, te viññūnaṃ piyā manāpāti. Ettāvatāti ‘‘atthi kho no āvuso’’tiādinayappavattena ratanattayapasādajotanena akkhātā tesu tesu suttapadesesu.

「生じた信」とは、不壊の浄信を言っている。実に「四つの預流者の支分が説かれた」(中部註解1.140)と説くであろう。確かに無学の者たちも無学の同等な学処によって同法者(法の友)であるが、すでに清浄行を修め終えているため「同法を実践している」とは言えないので、無学の節は把握されなかった。「これらすべての人々は」とは、これら前述の比丘たちや預流者たちなどの凡夫と聖者たちであり、これらすべての者たちはそれぞれの学処によって法を同じくする者、同法者であることから「同法者」と呼ばれる。今や生起した聖法の力によってのみ同法者を示すものとして「さらに……」などを説いた。「道の知見において」とは、遍知による現観などの力による聖諦の通達によって、「九つの道の支分、八つの覚支」などという論争はない。「同一の法の実践によって」とは、平等な法の実践によって。実に聖諦を通達した者たちには「私によって法は善く見られた、あなたによって悪しく見られた」などの論争はない。見解と戒の共通性によって結合された者たちこそが、それらの優れた人々である。「これによって」とは、「実に同法者たちは……」などの言葉によってである。そこにおいて愛らしく好ましいという把握によって、戒における完全な履行という表現によって一分として把握された僧伽の正しき実践を、円満なものとして示している。実に、戒を具足し極めて清浄な知見を持つ人々は、賢者たちにとって愛らしく好ましいからである。「これによって」とは、「友よ、我々には存在する……」などの方法で生起した三宝への浄信を明らかにすることによって、それらの経文の句において説かれた。

141. Satthari pasādoti pasādaggahaṇena ‘‘bhagavatā’’tiādinā vā pasādanīyā dhammā gahitā. Tena buddhasubuddhataṃ dasseti, tathā ‘‘dhamme **pasādo’’**ti iminā dhammasudhammataṃ, itarena saṅghasuppaṭipannataṃ. Yena cittena aññattha anupalabbhamānena sāsaneyeva samaṇo ito bahiddhā natthīti ayamattho, sammadeva, patiṭṭhāpitoti veditabbaṃ. Tatrāyaṃ yojanā – yasmā sammāsambuddho amhākaṃ satthā, tasmā atthi kho no, āvuso, satthari pasādo, sammāsambuddhattā cassa svākhāto dhammoti atthi dhamme pasādo, tato eva ca atthi sīlesu paripūrakāritāti sahadhammikā…pe… pabbajitā cāti evamettha satthari pasādena dhamme pasādo, tena saṅghasuppaṭipattīti ayañca nayo lesenapi parappavādesu natthīti idheva samaṇo…pe… samaṇehi aññehīti.

141. 「師への信」とは、信という把握によって「世尊によって」などによる、信をおくべき諸法が把握されている。これによって仏の善く覚知した状態を示し、同様に「法への信」というこれによって法の善く説かれた状態を、他によって僧伽の正しく実践する状態を示している。他所には見出されないいかなる心によって、教えにおいてのみ沙門が存在し、これより外部には存在しないというこの意味が、正しく確立されたと知るべきである。そこではこのような結合である——正等覚者が我らの師であるがゆえに、友よ、我らには師への信が存在し、その者が正等覚者であるがゆえに法は善く説かれたものであり、それゆえ法への信が存在し、まさにそれゆえに戒における完全な履行が存在する、ゆえに同法者たちは……(中略)……出家した者たちである、と。このようにここにおいて、師への信によって法への信があり、それによって僧伽の正しき実践があるというこの方法の片鱗すら他者の異論には存在しないため、「ここにのみ沙門が……(中略)……他の沙門たちから」と説かれたのである。

Paṭividdhasaccānaṃ pahīnānurodhānaṃ gehassitapemassa asambhavo evāti **‘‘idānī’’**ti vuttaṃ. Yadi evaṃ ‘‘upajjhāyena, bhikkhave, saddhivihārikamhi puttapemaṃ upaṭṭhapetabbaṃ’’tiādivacanaṃ (mahāva. 65) kathanti? Nayidaṃ gehassitapemaṃ sandhāya vuttaṃ, taṃsadisattā pana pemamukhena vutto mettāsneho. Na hi bhagavā bhikkhū saṃkilese niyojeti. Evarūpaṃ pemaṃ sandhāyāti pasādāvahaguṇāvahato pūraṇādīsu bhatti pasādo na hoti, pasādapatirūpakā pana lobhapavattīti daṭṭhabbā. Theroti mahāsaṅgharakkhitatthero. Yena aṭṭhakathā potthakaṃ āropitā. Ekova satthā anaññasādhāraṇaguṇattā, aññathā anacchariyattā satthulakkhaṇameva na paripūreyya. Visuṃ katvāti aññehi vivecetvā attano āveṇikaṃ katvā. ‘‘Amhākaṃ satthā’’ti byāvadantānaṃ aññesaṃ satthā na hotīti atthato āpannameva hoti, tathā ca padesavattiniṃ tassa satthutaṃ paṭijānantā paripuṇṇalakkhaṇasatthutaṃ icchantānampi tato viruddhā satthubhāvapariyesanena parājitā honti. Pariyattidhammeti adhikabrahmaguṇasuttageyyādippabhedasamaye. Tattha ajasīla…pe… kukkurasīlādīsūti idaṃ yebhuyyena aññatitthiyānaṃ tādisaṃ vatasamādānasabbhāvato vuttaṃ, ādi-saddena yamaniyamacātuyāmasaṃvarādīnaṃ saṅgahoti. Adhippayāsoti adhikaṃ payasati payujjati etenāti adhippayāso, savisesaṃ adhikattabbakiriyā (a. ni. ṭī. 2.3.117). Tenāha **‘‘adhikappayogo’’**ti.

聖諦を通達し、愛着を捨て去った者たちには家庭に基づいた愛執は生じ得ないことから、「今や」と説かれた。もしそうであるなら、「比丘たちよ、和尚は共住者に対して息子に対する愛執を起こすべきである」などの言葉(律蔵大品65)はいかに解釈されるのか。これは家庭に基づいた愛執を指して説かれたのではなく、それに似ていることから愛執という表現で説かれた慈悲の愛情である。実に世尊は比丘たちを煩悩に結びつけることはない。「このような愛執を指して」とは、信をもたらす徳をもたらすことから、プーラナなどに対する帰依は信ではなく、信に似た貪愛の働きであると見なすべきである。「長老」とは、マハーサンガラッキタ長老のことである。この長老によって註釈が書物に記された。「ただ一人の師」とは、他に共通しない徳を持つからであり、そうでなければ驚くべきことではないため、師の特相すら満たさないであろう。「別個にして」とは、他から区別して自らに固有のものとして。「我らの師」と主張する者たちにとって、他者の師ではないということは実質的に必然となり、そのように一部分のみの師であることを認めながら、完全な特相を持つ師であることを望む者たちにとっても、それと矛盾する師の状態を探求することによって敗北者となる。「教理の法において」とは、優れた梵天の徳を持つ経、応頌などの区分のある教理において。そこにおいて「山羊の戒……(中略)……犬の戒などにおいて」とは、これは大部分の他の異端者たちにそのような誓戒の受持が存在することから説かれたのであり、「など」という語によって制戒、律儀、四種律儀戒などが包括される。「過度の努力」とは、過度に励み、これによって適用されるゆえに「過度の努力」であり、格別になされる過剰な行為のことである。それゆえに「過度の適用」と説いた。

Tassa pasādassa pariyosānabhūtāti tassa satthari dhamme ca pasādassa niṭṭhānabhūtā. Niṭṭhāti mokkho. Samayavādīnañhi tasmiṃ tasmiṃ samaye tadupadesake ca pasādo yāvadeva mokkhādhigamanaṭṭho. Diṭṭhigatikā tathā tathā attano laddhivasena niṭṭhaṃ parikappenti yevāti āha **‘‘niṭṭhaṃ apaññapento nāma natthī’’**ti. Brāhmaṇānanti brāhmaṇavādīnaṃ. Tesaṃ ekacce brahmunā salokatā niṭṭhāti vadanti, ekacce tassa samīpatā, ekacce tena saṃyogo niṭṭhāti vadanti. Tattha ye salokatāvādino samīpatāvādino ca, te dvedhāvādino, itare advedhāvādino. Sabbepi te atthato brahmalokupapattiyaṃyeva niṭṭhāsaññino. Tattha hi nesaṃ niccābhiniveso yathā taṃ bakassa brahmuno. Tena vuttaṃ **‘‘brahmaloko niṭṭhā’’**ti. Brahmalokoti paṭhamajjhānabhūmi. Mahātāpasānanti vekhanasāditāpasānaṃ. Mahābrahmā viya paṭhamajjhānabhūmiyaṃ ābhassaresu eko sabbaseṭṭho natthīti **‘‘ābhassarā’’**ti puthuvacanaṃ. Paribbājakānanti sañcayādiparibbājakānaṃ. Anto ca mano ca etassa natthīti anantamānaso. Ājīvakānañhi sabbadābhāvato ananto, sukhadukkhādisamatikkamanato amānaso. Iminā aṭṭhahi lokadhammehi upakkiliṭṭhacittataṃ dasseti.

「その」信の「究極となった」とは、その師と法への信の究極となった、ということである。「究極」とは解脱のことである。実に諸々の教理を説く者たちにとって、それぞれの教理とその教授者への信は、ただ解脱を獲得することだけを目的としている。見解にとらわれた者たちは、それぞれの教義に従って究極を構想するにすぎないとして、「究極を施設しない者はいない」と説いた。「バラモンたちにとって」とは、バラモンの教義を説く者たちにとって。彼らの一部は梵天と同じ世界に住することが究極であると語り、一部はその近くにいることが、一部はそれと結合することが究極であると語る。そこにおいて同世界を説く者たちと近住を説く者たちは二元論者であり、他は非二元論者である。彼らはすべて実質的に梵天の世界に生まれることこそが究極であるという観念を持っている。実に彼らにはバカ梵天のように常住という執着があるからである。それゆえに「梵天の世界が究極である」と説かれた。「梵天の世界」とは初禅の境地のことである。「大苦行者たちにとって」とは、ヴェーカナサなどの苦行者たちにとって。大梵天のように初禅の境地において光音天(アーバッサラ)には一人の最勝の者は存在しないため、「光音天たち」と複数で表現されている。「遍歴行者たちにとって」とは、サンジャヤなどの遍歴行者たちにとって。「内部(限界)も心もこれに存在しない」ゆえに「無辺の心」である。実に邪命外道(アージーヴィカ)たちにとっては常に存在することから無辺であり、苦楽などを超越していることから無心である。これによって八つの世間法によって汚された心を示している。

Papañce yaṃ vattabbaṃ, taṃ heṭṭhā vuttameva. Taṇhādiṭṭhiyova adhippetā mamaṅkāraahaṅkāravigamassa adhippetattā. Yathā pañcasu ṭhānesu ekova kileso lobho āgato, evaṃ dvīsu ṭhānesu tayo kilesā āgatā ‘‘doso moho diṭṭhī’’ti. ‘‘Sadosassā’’ti hi vuttaṭṭhāne paṭighaṃ akusalamūlaṃ gahitaṃ, ‘‘paṭiviruddhassā’’ti virodho, ‘‘samohassā’’ti moho akusalamūlaṃ, ‘‘aviddasuno’’ti malyaṃ, asampajaññaṃ vā, ‘‘saupādānassā’’ti ‘‘natthi dinna’’ntiādinā nayena gahaṇaṃ, ‘‘papañcārāmassā’’ti papañcuppattivasena.

戯論(パパンチャ)について語るべきことは、上記で説かれた通りである。我がものとする意識(我所執)と我であるとする意識(我執)の除去が意図されているため、渇愛と見解のみが意図されている。五つの箇所においてただ一つの煩悩である貪が示されたように、二つの箇所において「瞋・痴・見」という三つの煩悩が示されている。「瞋を伴う者にとって」と説かれた箇所では不善根である瞋恚が把握され、「反撥する者にとって」では反発が、「痴を伴う者にとって」では不善根である痴が、「無知の者にとって」では垢(無明)あるいは不正知が、「執着を伴う者にとって」では「布施(の果報)はない」などの方法による執着が、「戯論を喜ぶ者にとって」では戯論の生起の力による執着が把握されている。

Ākāratoti pavattiākārato. Padantarena rāgavisesassa vuccamānattāādito vuttaṃ sarāgavacanaṃ oḷārikaṃ rāgavisayanti āha **‘‘pañcakāmaguṇikarāgavasenā’’**ti. Gahaṇavasenāti daḷhaggahaṇavasena. ‘‘Anuruddhapaṭiviruddhassā’’ti ekapadavasena pāḷiyaṃ āgatattā ekajjhaṃ paduddhāro kato. Tattha pana ‘‘anuruddhassā’’ti subhavasenāti evamattho vattabbo. Na hi paṭivirujjhanaṃ subhavasena hoti. Papañcuppattidassanavasenāti kilesakammavipākānaṃ aparāparuppattipaccayatāya saṃsārassa papañcanaṃ papañco, tassa uppattihetubhāvadassanavasena. Taṇhā hi bhavuppattiyā visesapaccayo. Taṇhāpaccayā upādānadassanavasenāti taṇhāpaccayassa upādānassa dassanavasena, yadavatthā taṇhā upādānassa paccayo, tadavatthādassanavasena. Phalena hi hetuvisesakittanametanti. Evaṃ viddhaṃsethāti kāmarāgabhavataṇhādivasena lobhaṃ kasmā evaṃ vippakiretha. Taṇhākaraṇavasenāti taṇhāyanakaraṇavasena subhākāraggahaṇavasena. Subhanti hi ārammaṇe pavatto rāgo ‘‘subha’’nti vutto.

「様相から」とは、働きの様相から。別の句によって貪の特殊性が語られていることから、最初に説かれた「貪を伴う」という言葉は粗大な貪の領域であるとして、「五欲の徳における貪の力によって」と説いた。「把握の力によって」とは、強固な把握の力によって。「順応し反撥する者にとって」と一つの句として経文に現れているため、一括して句の解釈がなされた。しかしそこにおいて「順応する者にとって」とは、浄(美しさ)の力によって、というように意味が語られるべきである。実に反撥することは浄の力によるものではないからである。「戯論の生起を示すことによって」とは、煩悩・業・異熟が次々と生起する条件となることによる輪廻の拡大が「戯論」であり、それの生起の原因となる状態を示すことによって、ということである。実に渇愛は生の生起の特別な条件である。「渇愛を縁とする取を示すことによって」とは、渇愛を縁とする取を示すことによって、いかなる状態の渇愛が取の縁となるか、その状態を示すことによって、ということである。実に結果によって原因の特殊性が讃えられるからである。「このように滅ぼせ」とは、欲愛や有愛などの力による貪をなぜこのように撒き散らすのか。「渇愛の作用の力によって」とは、渇愛をなす作用の力によって、浄の相を把握する力によって、ということである。実に、対象において生じた貪は「浄」と説かれる。

142. Vadanti etenāti vādo, diṭṭhivādo. Diṭṭhivasena hi ‘‘sassato attā ca loko ca, asassato attā ca loko cā’’ti ca diṭṭhigatikā paññapenti. Tenāha **‘‘dvemā, bhikkhave, diṭṭhiyo’’**ti (ma. ni. 1.142). Taṇhārahitāya diṭṭhiyā abhāvato taṇhāvaseneva ca attano sassatabhāvābhinivesoti katvā vuttaṃ **‘‘taṇhādiṭṭhivasenā’’**ti. Allīnāti nissitā. Upagatāti avissajjanavasena ekibhāvamiva gatā. Ajjhositāti tāya diṭṭhiyā gilitvā pariniṭṭhāpitā viya tadantogadhā. Tenāha **‘‘anupaviṭṭhā’’**ti. Yathā gahaṭṭhānaṃ kāmajjhosānaṃ vivādamūlaṃ, evaṃ pabbajitānaṃ diṭṭhajjhosānanti āha **‘‘vibhavadiṭṭhiyā te paṭiviruddhā’’**ti. Diṭṭhivirodhena hi diṭṭhigatikavirodho.

142. 「これによって語る」ゆえに「説(論)」であり、見解の説のことである。実に見解の力によって、見解にとらわれた者たちは「我と世界は常住である、我と世界は無常である」などと施設する。それゆえに「比丘たちよ、これら二つの見解がある」と説かれた(中部1.142)。渇愛を離れた見解は存在しないため、渇愛の力によってのみ自己の常住性へと執着することから、「渇愛と見解の力によって」と説いた。「執着した」とは、依存した。「近づいた」とは、離れないことによって一体となったかのようになった。「沈溺した」とは、その見解によって飲み込まれて完成されたかのようになり、その中に含まれた。それゆえに「入り込んだ」と説いた。在家者たちにとって欲望への沈溺が争いの根本であるように、出家者たちにとっては見解への沈溺がそうであるとして、「彼らは断見に反対する」と説いた。実に見解の対立によって、見解にとらわれた者たちの対立が生じるからである。

Khaṇikasamudayo uppādakkhaṇoti āha **‘‘diṭṭhīnaṃ nibbattī’’**ti. Diṭṭhinibbattiggahaṇeneva cettha yathā diṭṭhīnaṃ paṭiccasamuppannatā vibhāvitā, evaṃ diṭṭhivatthunopīti ubhayesampi aniccatā dukkhatā anattatā ca vibhāvitāti daṭṭhabbaṃ. Yāni paṭisambhidānayena (paṭi. ma. 1.122) ‘‘paccayasamudayo aṭṭha ṭhānānī’’ti vuttāni, tāni dassento **‘‘khandhāpī’’**tiādimāha. Tattha khandhāpi diṭṭhiṭṭhānaṃ ārammaṇaṭṭhena ‘‘rūpaṃ attato samanupassatī’’tiādivacanato (saṃ. ni. 3.81; 4.345). Avijjāpi diṭṭhiṭṭhānaṃ upanissayādivasena paccayabhāvato. Yathāha – ‘‘assutavā, bhikkhave, puthujjano ariyānaṃ adassāvī ariyadhammassa akovido’’tiādi (ma. ni. 1.2, 461; saṃ. ni. 3.1, 7). Phassopi diṭṭhiṭṭhānaṃ. Yathā cāha ‘‘tadapi phassapaccayā (dī. ni. 1.118-130), phussa phussa paṭisaṃvediyantī’’ti (dī. ni. 1.144) ca. Saññāpi diṭṭhiṭṭhānaṃ. Vuttañhetaṃ ‘‘saññānidānā hi papañcasaṅkhāti (su. ni. 880), pathaviṃ pathavito saññatvā’’ti (ma. ni. 1.2) ca ādi. Vitakkopi diṭṭhiṭṭhānaṃ. Vuttampi cetaṃ ‘‘takkañca diṭṭhīsu pakappayitvā, saccaṃ musāti dvayadhammamāhū’’ti (su. ni. 892; mahāni. 121) ‘‘takkī hoti vīmaṃsī’’ti (dī. ni. 1.34) ca ādi. Ayonisomanasikāropi diṭṭhiṭṭhānaṃ. Yathāha bhagavā ‘‘tasseva ayoniso manasikaroto channaṃ diṭṭhīnaṃ aññatarā diṭṭhi uppajjati, atthi me attāti assa saccato thetato diṭṭhi uppajjatī’’tiādi (ma. ni. 1.19). Samuṭṭhāti etenāti samuṭṭhānaṃ, tassa bhāvo samuṭṭhānaṭṭho, tena. Khaṇikatthaṅgamo khaṇikanirodho. Paccayatthaṅgamo avijjādīnaṃ accantanirodho. So pana yena hoti, taṃ dassento **‘‘sotāpattimaggo’’**ti āha. Cattāro hi ariyamaggā yathārahaṃ tassa tassa saṅkhāragatassa accantanirodhahetu, khaṇikanirodho pana ahetuko.

刹那的な生起とは生起の瞬間であるとして、「諸々の見解の生起」と説いた。そしてここにおいて諸見の生起を把握することによって、諸見が縁起したものであることが明らかにされたように、見解の根拠となるものもまたそうであるため、その両方の無常性・苦性・無我性が明らかにされたと見なすべきである。無礙解道の方式(無礙解道1.122)によって「条件の集起、八つの根拠」と説かれたものを示すものとして「諸蘊もまた……」などを説いた。そこにおいて、諸蘊も見解の根拠である。対象という意味において「色を我と見なす」などの言葉があるからである(相応部3.81; 4.345)。無明も見解の根拠である。親依止縁などの力によって条件となるからである。「比丘たちよ、無聞の凡夫は聖者を見ず、聖者の法に精通せず……」などと説かれている通りである(中部1.2, 461; 相応部3.1, 7)。触も見解の根拠である。「それもまた触を縁として(長部1.118-130)、触れ触れて感受される」(長部1.144)などと説かれている通りである。想も見解の根拠である。「実に想を根源として戯論の概念が生じる(スッタニパータ880)、地を地として想って……」(中部1.2)などと説かれている通りである。尋(思考)も見解の根拠である。「諸々の見解において思弁をめぐらし、真実か虚偽かという二者択一の法を語る(スッタニパータ892; 大義釈121)」「思弁する者となり、探求する者となる」(長部1.34)などと説かれている通りである。如理作意の欠如も見解の根拠である。世尊が「その如理作意なき者にとって六つの見解の中のいずれかの見解が生じる。『私には我がある』と彼にとって真実として堅固に見解が生じる……」などと説かれた通りである(中部1.19)。これによって生起するゆえに「発起」であり、その状態を発起の義といい、それによってである。刹那的な滅尽とは刹那的な止滅である。条件の滅尽とは無明などの完全な止滅である。そしてそれがいかなるものによってなされるかを示すものとして「預流道」と説いた。実に四つの聖道は相応にそれぞれの形成されたもの(行)の究極の止滅の原因であり、刹那的な止滅は無原因である。

Ānisaṃsanti udayaṃ. So pana diṭṭhadhammikasamparāyikavasena duvidho. Tattha samparāyiko duggatiparikilesatāyaādīnavapakkhiko evāti itaraṃ dassento **‘‘yaṃ sandhāyā’’**tiādimāha. Ādīnavampi diṭṭhadhammikameva dassento **‘‘diṭṭhiggahaṇamūlakaṃ upaddava’’**ntiādimāha. Sotiādīnavo. Ādīnanti ādi-saddena naggiyānasanasaṅkaṭivatādīnaṃ saṅgaho. Nissarati etenāti nissaraṇanti vuccamāne dassanamaggo eva diṭṭhīnaṃ nissaraṇaṃ siyā, tassa pana atthaṅgamapariyāyena gahitattā sabbasaṅkhatanissaṭaṃ nibbānaṃ diṭṭhīhipi nissaṭanti katvā vuttaṃ **‘‘diṭṭhīnaṃ nissaraṇaṃ nāma nibbāna’’**nti. Iminātiādīsu vattabbaṃ anuyogavatte vuttanayameva.

「功徳」とは、生起(利点)のことである。そしてそれは現世的なものと来世的なものの二種である。そこにおいて来世的なものは悪趣の苦患であることから過患の側面に他ならないため、他方を示すものとして「指して……」などを説いた。過患についても現世的なもののみを示すものとして「見解の把持を根本とする災難」などを説いた。「それ」とは過患のことである。「などの」という語によって裸形、断食、不快な誓戒などが包括される。「これによって脱出する」ゆえに「出離」と言われる時、見道こそが見解の出離となるであろうが、それは止滅の同義語として把握されているため、一切の形成されたもの(有為)から脱出した涅槃は諸見からも脱出したものであるとして、「諸見の出離とは涅槃のことである」と説いた。「これによって」などにおいて語るべきことは、問答の法則において説かれた方法と同じである。

143. Diṭṭhicchedanaṃ dassentoti sabbupādānapariññādassanena sabbaso diṭṭhīnaṃ samucchedavidhiṃ dassento. Vuttāyevāti –

「見解の切断を示す者」とは、一切の取の遍知を示すことによって、あらゆる見解の完全な断滅の方法を示す者のことである。「まさに説かれた通りである」とは——

‘‘Upādānāni cattāri, tāni atthavibhāgato;

「四つの取があり、それらを意味の区分から、

Dhammasaṅkhepavitthārā, kamato ca vibhāvaye’’ti. (visuddhi. 2.645) –

法の簡略と詳細から、そして順序から明らかにすべし」(清浄道論2.645)——

Gāthaṃ uddisitvā atthavibhāgādivasena vuttāyeva. Kāmaṃ ito bāhirakānaṃ ‘‘imāni upādānāni ettakāni cattāri, na ito bhiyyo’’ti īdisaṃ ñāṇaṃ natthi, kevalaṃ pana keci ‘‘kāmā pahātabbā’’ti vadanti, keci ‘‘natthi paro lokoti ca, micchā’’ti vadanti, apare ‘‘sīlabbatena suddhīti ca, micchā’’ti vadanti, attadiṭṭhiyā pana micchābhāvaṃ sabbaso na jānanti eva. Yattakaṃ pana jānanti, tassapi accantappahānaṃ na jānanti, tathāpi sabbassa pariññeyyassa pariññeyyaṃ paññapemaicceva tiṭṭhanti. Evaṃbhūtānaṃ pana nesaṃ tattha yādisī paṭipatti, taṃ dassento satthā **‘‘santi, bhikkhave’’**tiādimāha. Tattha santīti saṃvijjanti. Tena tesaṃ diṭṭhigatikānaṃ vijjamānatāya avicchedataṃ dasseti. Eketi ekacce. Samaṇabrāhmaṇāti pabbajjupagamanena samaṇā, jātimattena ca brāhmaṇā. Sabbesanti anavasesānaṃ upādānānaṃ samatikkamaṃ pahānaṃ. Sammā na paññapentīti yesaṃ paññapenti, tesampi sammā pariññaṃ na paññapenti. Idāni taṃ atthaṃ vitthārato dassetuṃ **‘‘kecī’’**tiādi vuttaṃ. Tattha hotika-kuṭīcaka-bahūdaka-haṃsa-paramahaṃsa-kājaka-tidaṇḍa-monavata-seva-pārupaka-pañcamarattika- somakāraka-mugabbata-carabāka-tāpasa-niganthā-jīvaka-isi-pārāyanika-pañcātapika-kāpila- kāṇāda-saṃsāramocaka-aggibhattika-magavatika-govatika-kukkuravatika-kāmaṇḍaluka- vaggulivatika-ekasāṭaka-odakasuddhika-sarīrasantāpaka-sīlasuddhika-jhānasuddhika-catubbidha- sassatavādādayo channavuti taṇhāpāsena ḍaṃsanato, ariyadhammassa vā vibādhanato pāsaṇḍā. Vatthupaṭisevanaṃ kāmanti byāpārassa vatthuno paṭisevanasaṅkhātaṃ kāmaṃ. Theyyena sevantīti paṭihatthaādisamaññāya lokassa vacanavasena sevanti. Tīṇi kāraṇānīti ‘‘natthi dinna’’ntiādinayappavattāni diṭṭhivisesabhūtāni vaṭṭakāraṇāni.

詩節を示して、意味の分別などに従って説かれたのである。確かに、この教えの外の者たちには「これらの執着はこれら四つだけであり、これ以上はない」というこのような智慧はない。ただある者たちは「諸々の欲望は捨てるべきである」と言い、ある者たちは「他世はないというのは邪である」と言い、他の者たちは「戒禁によって清浄となるというのは邪である」と言うが、我執の見解が邪であることについては全く知らないのである。しかし、彼らが知るだけのものについても、その徹底的な断滅を知らず、それでも知られるべき全ての事柄について「知られるべきものを施設する」と言って留まるのである。そのようにある彼らのそこにおける実践がどのようなものであるかを示すため、世尊は**「比丘たちよ、存在する」**等と仰せられた。そこで「存在する」とは、現に存するということである。それによって、それらの見解に陥った者たちが現存することによる不断性を示している。「ある者たち」とは一部の者たち。「沙門婆羅門たち」とは、出家をなすことによって沙門であり、生れによって婆羅門である者たち。「全ての」とは、余すところのない諸々の執着の超越・断滅を。「正しく施設しない」とは、彼らが施設する者たちに対しても、正しく遍知を施設しないということである。今、その意味を詳細に示すために**「ある者たちは」**等と説かれた。そこで、ホーティカ派、クティーチャカ派、バフードゥアカ派、ハンサ派、パラマハンサ派、カージャカ派、ティダンディン派(三杖派)、モーナヴァタ派(沈黙行派)、セーヴァ派、パールパカ派、パンチャマラッティカ派、ソーマカーラカ派、ムガッバタ派(唖行派)、チャラバーカ派、苦行者、ニガンタ派、アージーヴィカ派、仙人派、パーラーヤニカ派、パンチャータピカ派(五火苦行派)、カーピラ派(数論派)、カーナーダ派(勝論派)、サンサーラモーチャカ派(輪廻解放派)、アッギバッティカ派(事火派)、マガヴァティカ派、ゴーヴァティカ派(牛行者)、クックラヴァティカ派(狗行者)、カーマンダルカ派(水瓶派)、ヴァッグリヴァティカ派(蝙蝠行派)、エーカサータカ派(一衣派)、オダカスッディカ派(水清浄派)、サリーラサンターパカ派(身熱苦行派)、シーラスッディカ派(戒清浄派)、ジャーナスッディカ派(禅清浄派)、四種の常住論者などの九十六の異端(外道)は、渇愛の網によって噛みつくことから、あるいは聖なる教法を損なうことから、外道(パーサンダ)と呼ばれる。対象の受用である欲とは、行為の対象の受用と称される欲のことである。「盗みによって受用する」とは、手に入れられたものなどの世間の言葉の表現に従って受用する。「三つの原因」とは、「施されたものはない」などの理趣で生じる、見解の特殊性である輪廻の原因のことである。

Atthasallāpikāti atthassa sallāpikā, dvinnaṃ adhippetatthasallāpavibhāvinīti adhippāyo. Dvinnañhi vacanaṃ sallāpo. Tenāha **‘‘pathavī kirā’’**tiādi.

「義の対話者」とは、義(利益)の対話者であり、二人の意図された義の対話を解明する者という意味である。実に二人の言葉が対話である。それゆえに**「大地は実に」**等と仰せられた。

Yo titthiyānaṃ attano satthari dhamme sahadhammikesu ca pasādo vutto, tassa anāyatanagatattā appasādakabhāvadassanaṃ pasādapacchedo. Tathāpavatto vādo pasādapacchedavādo vutto. Evarūpeti īdise vuttanayena kilesānaṃ anupasamasaṃvattanike. Dhammeti dhammapatirūpake. Vinayeti vinayapatirūpake. Titthiyā hi kohaññe ṭhatvā lokaṃ vañcentā dhammaṃ kathemāti ‘‘sattime kāyā akaṭā akaṭavidhā’’tiādinā (dī. ni. 1.174) yaṃ kiñci kathetvā tathā ‘‘vinayaṃ paññapemā’’ti gosīlavaggulivatādīni paññapetvā tādisaṃ sāvake sikkhāpetvā ‘‘dhammavinayo’’ti kathenti, taṃ sandhāyetaṃ vuttaṃ ‘‘dhammavinaye’’ti. Tenāha **‘‘ubhayenapi aniyyānikaṃ sāsanaṃ dassetī’’**ti. Parittampi nāma puññaṃ kātukāmaṃ maccheramalābhibhūtatāya nivārentassa antarāyaṃ tassa karoto diṭṭheva dhamme viññūhi garahitabbatā samparāye ca duggati pāṭikaṅkhā, kimaṅgaṃ pana sakalavaṭṭadukkhanissaraṇāvahe jinacakke pahāradāyino titthakarassa tadovādakarassa cāti imamatthaṃ dassento **‘‘aniyyānikasāsanamhi hī’’**tiādimāha. Yathā so pasādo samparāye na sammaggato attano pavattivasenāti dassento **‘‘kañci kālaṃ gantvāpi pacchā vinassati yevā’’**ti āha, aveccappasādo viya accantiko na hotīti attho.

外道たちが自己の師、教法、同法者たちに対して抱く浄信が説かれたが、それらは非処に向かっているがゆえに清浄にさせない性質を示すことが「浄信の遮断」である。そのように説かれた論説が「浄信遮断の論」と説かれた。「このような」とは、説かれた理趣により煩悩の寂静に導かないような。「法において」とは、法の模造物において。「律において」とは、律の模造物において。実に外道たちは偽りの中に留まって世間を欺きながら「我らは法を説く」と言って、「これらの七つの身体は作られず、作られたもののようではなく」など(長部1.174)と何であれ語り、同様に「律を施設する」と言って牛の戒や蝙蝠の戒などを施設し、弟子たちにそのように学ばせて「法と律である」と語る。それを指して「法と律において」と説かれたのである。それゆえに**「双方によって出離しない教えを示す」**と仰せられた。わずかな功徳でもなそうと欲する者を、物惜しみの汚れに圧倒されているがゆえに妨げ、それに対する障害をなす者は、現世において智者たちから非難されるべきであり、来世においては悪趣が予期される。ましてや全輪廻の苦からの出離をもたらす勝利者の法輪に打撃を与える教祖や、その教誡を行う者においては言うまでもない、というこの意味を示して**「出離しない教えにおいては実に」**等と仰せられた。その浄信が来世において自己の働きの力によって正道に向かうものではないことを示すために**「ある時間を経ても、後には必ず滅びる」**と仰せられた。不壊の浄信のように不変至極のものではないという意味である。

Sampajjamānā yathāvidhipaṭipattiyā tiracchānayoniṃ āvahati. Kammasarikkhakena hi vipākeneva bhavitabbaṃ. Sabbampi kāraṇabhedanti sabbampi yathāvuttaṃ titthakarānaṃ sāvakānaṃ apāyadukkhāvahaṃ micchāpaṭipattisaṅkhātaṃ kāraṇavisesaṃ. So panesa pasādo na niyyāti micchattapakkhikattā surāpītasiṅgāle pasādo viya. Suraṃ parissāvetvā chaḍḍitakasaṭaṃ surājallikaṃ. Brāhmaṇā nāma dhanaluddhāti adhippāyenāha **‘‘imaṃ vañcessāmī’’**ti. Kaṃsasatāti kahāpaṇasatā.

規範通りの実践によって成就するなら畜生界をもたらす。実に業に等しい果報が生じなければならないからである。「全ての原因の差別」とは、説かれた通りの教祖や弟子たちにとって悪趣の苦をもたらす邪悪な実践と称される全ての原因の特殊性のことである。しかしその浄信は、邪性の側にあるがゆえに、酒を飲んだジャッカルに対する信のように出離させない。酒を漉して捨てられた滓が酒粕である。婆羅門とは財貨を貪るものであるという意図によって**「これを騙そう」**と仰せられた。「百のカールシャパナ」とは百の貨幣のことである。

144. Tassāti pasādassa. Sabbopi lobho kāmupādānanteva vuccatīti āha **‘‘arahattamaggena kāmupādānassa pahānapariñña’’**nti. Evarūpeti īdise sabbaso kilesānaṃ upasamasaṃvattanike. Yathānusiṭṭhaṃ paṭipajjamānānaṃ apāyesu apatanavasena dhāraṇaṭṭhena dhamme. Sabbaso vinayanaṭṭhena vinaye. Tattha bhavadukkhanissaraṇāya saṃvattane.

144. 「その」とは浄信の。すべての貪りはまさに欲執着と言われるので、**「阿羅漢道による欲執着の断遍知」**と仰せられた。「このような」とは、このように完全に煩悩の寂静に導くような。教誡された通りに実践する者たちを悪趣に堕とさないことによって保持するという意味において「法において」。完全に調伏するという意味において「律において」。そこにおいて存在の苦からの出離のために導くような。

Namassamāno aṭṭhāsi dve asaṅkhyeyyāni paccekabodhipāramīnaṃ pūraṇena tattha buddhasāsane paricayena ca bhagavati pasannacittatāya ca. **‘‘Ulūkā’’**tyādigāthā rukkhadevatāya bhāsitā. Kāluṭṭhitanti sāyanhakāle divāvihārato uṭṭhitaṃ. Duggateso na gacchatīti duggatiṃ eso na gamissati. Morajiko murajavādako. Mahābherivādakavatthuādīnipi sitapātukaraṇaṃ ādiṃ katvā vitthāretabbāni.

二つの無量劫にわたる独覚の波羅蜜の充足と、そこにおける仏教への親近と、世尊に対する澄明な心によって、礼拝しながら留まった。**「梟たちよ」**等の詩節は樹神によって語られた。「時に起きた」とは、夕刻に昼の瞑想から起きた。「悪趣に彼は行かない」とは、悪趣に彼はいかないであろう。「モーラジカ」とは太鼓打ちのことである。大太鼓打ちの事柄なども微笑を現すことを始めとして詳細に述べられるべきである。

Paramattheti lokuttaradhamme. Kiṃ pana vattabbanti dhammepi paramatthe nimittaṃ gahetvā suṇantānaṃ. Sāmaṇeravatthūti pabbajitadivaseyeva sappena daṭṭho hutvā kālaṃ katvā devalokaṃ upapannasāmaṇeravatthu.

「究極の義において」とは、出世間の法において。法において究極の義に徴表を取って聞く者たちについては何を言う必要があろうか。「沙弥の事柄」とは、出家した当日に蛇に噛まれて命を終え、天界に生じた沙弥の事柄である。

Khīrodananti khīrena saddhiṃ sammissaṃ odanaṃ. Timbarusakanti tindukaphalaṃ. Tipusasadisā ekā vallijāti timbarusaṃ, tassa phalaṃ timbarusakanti ca vadanti. Kakkārikanti khuddakaelāḷukaṃ. Mahātipusanti ca vadanti. Vallipakkanti khuddakatipusavalliyā phalaṃ. Hatthapatāpakanti mandāmukhi. Ambakañjikanti ambilakañjikaṃ. Khaḷayāguntipi vadanti. Doṇinimmajjaninti satelaṃ tilapiññākaṃ. Vidhupananti caturassabījaniṃ. Tālavaṇṭanti tālapattehi katamaṇḍalabījaniṃ. Morahatthanti morapiñchehi kataṃ makasabījaniṃ.

「乳粥」とは、乳と混ぜ合わされた飯のこと。「ティンバルサカ」とは、ティンドゥカの果実。胡瓜に似た蔓草の一種がティンバルサであり、その果実をティンバルサカとも言う。「カッカーリカ」とは、小さな青瓜。大胡瓜とも言う。「ヴァッリパッカ」とは、小胡瓜の蔓の果実。「ハッタパターパカ」とは、炉(火鉢)。「アンバカンジカ」とは、酸味のある粥。濁り粥とも言う。「ドーニニンマッジャナ」とは、油の入った胡麻かす。「ヴィドゥパナ」とは、四角い扇。「ターラヴァンタ」とは、椰子の葉で作られた丸い扇。「モーラハッタ」とは、孔雀の羽で作られた蝿払い。

Vuttanayānusārenevāti yasmā idhāpi yathāvuttaṃ sabbampi kāraṇabhedaṃ ekato katvā dassento satthā ‘‘taṃ kissa hetū’’ntiādimāha, tasmā tattha aniyyānikasāsane vuttanayassa anussaraṇavasena yojetvā veditabbaṃ.

「説かれた理趣に従ってまさに」とは、ここでも説かれた通りの全ての原因の差別を一つにして示しつつ、世尊は「それは何の理由によるのか」等と仰せられたので、そこにおいて出離しない教えで説かれた理趣の想起に従って結びつけて理解されるべきである。

145. Pariññanti pahānapariññaṃ. Tesaṃ paccayaṃ dassetunti upādānānaṃ pariññā nāma pahānapariññā. Tesaṃ accantanirodho adhippeto, so ca paccayanirodhena hotīti tesaṃ paccayaṃ mūlakāraṇato pabhuti dassetuṃ. Ayanti idāni vuccamāno ettha ‘‘ime cā’’tiādipāṭhe ‘‘kiṃ nidānā’’tiādisamāsapadānaṃ attho. Sabbapadesūti ‘‘taṇhāsamudayā’’tiādīsu sabbesu padesu. Iminā eva ca sabbaggahaṇena ‘‘phassanidānā’’tiādīnampi padānaṃ saṅgaho daṭṭhabbo. Ime aññatitthiyā upādānānampi samudayaṃ na jānanti, kuto nirodhaṃ, tathāgato pana tesaṃ tappaccayapaccayānampi samudayañca atthaṅgamañca yāthāvato jānāti, tasmā – ‘‘idheva, bhikkhave, samaṇo…pe… suññā parappavādā samaṇebhi aññehī’’ti (ma. ni. 1.139) yathāraddhasīhanādaṃ matthakaṃ pāpetvā dassento ‘‘ime ca, bhikkhave, cattāro upādānā’’tiādinā (ma. ni. 1.145) nayena desanaṃ paṭiccasamuppādamukhena otārento vaṭṭaṃ dassetvā ‘‘yato ca kho’’tiādinā vivaṭṭaṃ dassento arahattena desanāya kūṭaṃ gaṇhi, tamatthaṃ dassento **‘‘yasmā pana bhagavā’’**tiādimāha. Taṃ suviññeyyameva.

145. 「遍知」とは断遍知。「それらの縁を示すために」とは、執着の遍知とは断遍知のことである。それらの徹底的な滅尽が意図されており、それも縁の滅尽によって生じるので、それらの縁を根本原因から始めて示すために。「これは」とは、今説かれている、ここでの「これらはまた」等の本文における「何が因であるのか」等の複合語の意味である。「すべての句において」とは、「渇愛を集起とし」等のすべての句において。この「すべての」という把握によって、「触を因とし」等の句の包摂も理解されるべきである。これら他の外道たちは執着の集起すら知らず、どうして滅を知ろうか。しかし如来はそれらの縁の縁の集起も滅尽も如実に知る。それゆえに、「比丘たちよ、まさにここに沙門があり……中略……他者の教説は沙門において空である」(中部1.139)と説き始められた獅子吼を最高峰に到達させて示しつつ、「比丘たちよ、これら四つの執着がある」等(中部1.145)の理趣によって教説を縁起の教示へと導き、流転を示し、「そして実に、〜のときから」等によって還滅を示し、阿羅漢果によって教説の頂点を極めた。その意味を示すために**「しかし世尊は〜のゆえに」**等と仰せられた。それは容易に理解できることである。

Cūḷasīhanādasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

小獅子吼経の註釈の隠れた意味の解明は完結した。

2. Mahāsīhanādasuttavaṇṇanā

二 大獅子吼経の註釈

Vesālīnagaravaṇṇanā

ヴェーサーリー市の解説

146. Aparāparanti punappunaṃ. Visālībhūtatāyāti gāvutantaraṃ gāvutantaraṃ puthubhūtatāya. Tatrāti tassaṃ visālībhūtatāyaṃ. Chaḍḍitamatteti vissaṭṭhamatte. Ūmibhayādīhīti ūmikumbhīlaāvaṭṭasaṃsukābhayehi. Udakappavāhenāgatassapi ca usmā na vigacchati, usmā ca nāma īdisassa saviññāṇakatāya bhaveyyāti **‘‘siyā gabbho’’**ti cintesi. Tathā hītiādi tattha kāraṇacintā. Puññavantatāya duggandhaṃ nāhosi, sausumatāya pūtikabhāvo. Dārakānaṃ puññūpanissayato aṅguṭṭhakato cassa khīraṃ nibbatti, khīrabhattañca labhi. Carimakabhave bodhisatte kucchigate bodhisattamātu viya udaracchaviyā acchavippasannatāya nicchavi viyāti katvā āha **‘‘nicchavī ahesu’’**nti. Tesanti dvinnaṃ dārakānaṃ. Mātāpitaroti posakamātāpitaro. Abhisiñcitvā rājānaṃ akaṃsu rajjasampattiyā dāyakassa kammassa katattā, asambhinne eva rājakule uppannattā ca. Kumārassa puññānubhāvasañcoditā devatādhiggahitāti keci.

146. 「次々と」とは、度々。「広大になったことによって」とは、一ガーヴタごとに広大になったことによって。「そこにおいて」とは、その広大になったことにおいて。「捨てられたばかりのとき」とは、遺棄されたばかりのとき。「波の恐れなどによって」とは、波や鰐、渦巻きや貝殻の恐れによって。水の流れによって運ばれてきたものであっても体温は失われておらず、このようなものに体温があるのは意識があることによるものであろう、と「胎児であるかもしれない」と考えた。「実にそのように」等はそこでの理由の考察である。功徳があることによって悪臭はなく、体温があることによって腐敗しなかった。子供たちの功徳の依処によって親指から乳が生じ、乳粥を得た。最後の生にある菩薩が母胎に入ったときの菩薩の母のように、腹部の皮膚の清らかさゆえに「皮がない(リッチャヴィ)」かのようであったことから**「リッチャヴィたちとなった」**と仰せられた。「彼らの」とは、二人の子供たちの。「父母」とは、養育した父母のこと。王位の富をもたらす業をなしていたこと、また混じり気のない王族の家系に生まれたことから、灌頂して王とした。ある者たちは、王子の功徳の力に促されて諸天が守護したのだと言う。

Purassa apareti purassa aparadisāya gāvutamatte ṭhāne jīvakambavanaṃ viya sapākāramandirake. Acirapakkantoti ettha na desantarapakkamanaṃ adhippetaṃ, atha kho sāsanato apakkamananti dassento **‘‘vibbhamitvā’’**tiādimāha. Tenevāha ‘‘imasmā dhammavinayā’’ti. Parisatīti parisāyaṃ, janasamūheti attho. Janasamūhagato pana **‘‘parisamajjhe’’**ti vutto. Bhāvanāmanasikārena vinā pakatiyāva manussehi nibbattetabbo dhammoti manussadhammo, manussattabhāvāvaho vā dhammo manussadhammo, anuḷāraṃ parittakusalaṃ. Yaṃ asatipi buddhuppāde vattati, yañca sandhāyāha ‘‘hīnena brahmacariyena, khattiye upapajjatī’’ti. ‘‘Amhākaṃ buddho’’ti buddhe mamattakārino buddhamāmakā. Sesapadadvayepi eseva nayo.

「町の西方に」とは、町の西の方角の一ガーヴタほどの場所に、ジーヴァカのマンゴー園のような城壁のある館において。「去って間もない」とは、ここでは別の地方へ去ったことは意図されておらず、教団から去ったことであることを示して**「還俗して」**等と仰せられた。それゆえに「この法と律から」と仰せられた。「会衆において」とは、集会において、人々の集まりにおいてという意味である。人々の集まりに入った者は**「会衆のただ中で」**と言われた。修習の作意なしに生まれつき人間によって生み出されるべき法が「人間の法」であり、あるいは人間の状態をもたらす法が「人間の法」であり、殊勝ならざるわずかな善である。それは仏陀の出現がないときにも存在し、それを指して「劣った梵行によって刹帝利に生まれる」と言われる。「私たちの仏陀」と仏陀に執着をなす者が「仏陀を我がものとする者たち」である。残りの二つの句においてもこの理趣である。

Uttarimanussadhammādivaṇṇanā

上人法などの解説

Alaṃ ariyāya ariyabhāvāyāti alamariyo, rūpāyatanaṃ jānāti cakkhuviññāṇaṃ viya passati cāti ñāṇadassanaṃ, dibbacakkhu. Sammasanupage ca pana dhamme lakkhaṇattayañca tathā jānāti passati cāti ñāṇadassanaṃ, vipassanā. Nibbānaṃ, cattāri vā saccāni asammohapaṭivedhato jānāti passati cāti ñāṇadassanaṃ, maggo. Phalaṃ pana nibbānavaseneva yojetabbaṃ. Paccavekkhaṇā maggādhigatassa atthassa paccakkhato jānanaṭṭhena ñāṇadassanaṃ, sabbaññutā anāvaraṇatāya samantacakkhutāya ca ñāṇadassanaṃ. Lokuttaramaggo adhippeto, tasmiñhi paṭisiddhe sabbesampi buddhaguṇānaṃ asambhavoti adhippāyo. Tenāha **‘‘tañhi so bhagavato paṭisedhetī’’**ti.

聖なる境地のために充分であることから「聖なるに足る」。色処を知り眼識のように見ることから「知見」であり、天眼である。また思惟の対象となる諸法と三相をそのように知り見ることから「知見」であり、観(ヴィパッサナー)である。涅槃あるいは四聖諦を無迷妄の現観によって知り見ることから「知見」であり、道である。果は涅槃の力に従って結びつけられるべきである。省察は道によって獲得された意味を直接に知るという意味で「知見」であり、一切知性は障害がないことと一切処を見る眼であることによって「知見」である。出世間の道が意図されており、それが否定されれば全ての仏陀の徳性も存在し得ないという意図である。それゆえに**「実に彼は世尊のそれを否定している」**と仰せられた。

Sukhumaṃ dhammantaraṃ nāma jhānavipassanādikaṃ ācariyānuggahena gahitaṃ nāma natthi. Takkapariyāhatanti ‘‘iti bhavissati, evaṃ bhavissatī’’ti taṃtaṃdassetabbamatthatakkanena vitakkanamattena parito āhataṃ parivattitaṃ katvā. Tenāha **‘‘takketvā’’**tiādi. Lokiyapaññaṃ anujānāti upanisinnaparisāya anukūladhammakathanatoti adhippāyo. Tenāha **‘‘samaṇo gotamo’’**tiādi. Paṭibhātīti paṭibhānaṃ, ‘‘iti vakkhāmī’’ti evaṃpavattaṃ kathanacittaṃ, tato paṭibhānato jānanaṃ paṭibhānaṃ, āgamābhāvato sayameva upaṭṭhitattā sayaṃpaṭibhānaṃ. Tenāha **‘‘imināssa dhammesu paccakkhabhāvaṃ paṭibāhatī’’**ti. Suphusitanti nibbivaraṃ. Aphusitatte hi sukhena vacīghoso na niccharati. Dantāvaraṇanti oṭṭhadvayaṃ. Jivhāpi thaddhatāya sukhena vacīghoso na niccharatīti āha **‘‘mudukā jivhā’’**ti. Karavīkarutamañjutāya madhuro saro. Elaṃ vuccati doso, elaṃ gaḷatīti elagaḷā, na elagaḷā anelagaḷā, niddosā, na rujjhatīti attho. Sabbametaṃ rañjanasseva kāraṇaṃ dassento vadati.

深遠なる他の法、すなわち禅定や観などを師の恩恵によって会得したということはない。「推論によって打ち固められた」とは、「このようになるであろう、このようにあるであろう」と示されるべき様々な事柄を推論し、単なる思惟によって周囲を巡らせ変転させて。それゆえに**「推論して」**等と仰せられた。座している会衆に適した説法をすることから世間の智慧を認めている、という意図である。それゆえに**「沙門ゴータマは」**等と仰せられた。「閃く」とは弁才であり、「このように語ろう」とそのように生じる語る心であり、その弁才から知ることが弁才であり、伝承がないことから自ずと現れたため「自らの弁才」である。それゆえに**「これによって彼の諸法における直接覚知の状態を拒む」**と仰せられた。「よく触れ合っている」とは隙間がないこと。隙間があると発声が円滑に出ないからである。「歯の覆い」とは両唇のこと。舌も硬直していると発声が円滑に出ないことから**「柔軟な舌」**と仰せられた。迦陵頻伽の鳴き声のように愛らしいので「甘美な声」。エラーとは過失のことであり、過失が流れ出るものがエラガラであり、エラガラではないものがアネラガラ(無過失)であり、無欠点であり、滞らないという意味である。これら全てを魅了の原因としてのみ示しながら語っている。

Pañca dhammāti gambhīrañāṇacariyabhūtānaṃ khandhādīnaṃ uggahaṇa-savana-dhāraṇa-paricaya-yonisomanasikāre sandhāyāha. Takkarassa sammā dukkhakkhayāyāti ettha sammā-saddo ubhayatthāpi yojetabbo ‘‘sammā takkarassa sammā dukkhakkhayāyā’’ti. Yo hi sammā dhammaṃ paṭipajjati, tasseva sammā dukkhakkhayo hoti. Yo pana vuttanayena takkaro, tassa niyyānaṃ atthato dhammasseva niyyānanti āha **‘‘so dhammo…pe… niyyāti gacchatī’’**ti.

「五つの法」とは、深遠な智慧の行処である蘊などの学習、聴聞、受持、親近、如理作意を指して仰せられた。「それを行う者の正しく苦を滅尽するために」において、「正しく」という言葉は「正しくそれを行う者の、正しく苦を滅尽するために」と双方に結びつけられるべきである。実に正しく法を実践する者、その者こそが正しく苦を滅尽する。説かれた理趣によりそれを行う者、その者の出離は実質的に法自体の出離であることから、**「その法は……中略……出離し、至る」**と仰せられた。

147. Kodhanoti kujjhanasīlo. Yasmā pana sunakkhatto kodhavasena kurūro pharusavacano ca, tasmā āha **‘‘kodhanoti caṇḍo pharuso cā’’**ti. Tasmiṃ attabhāve maggaphalānaṃ upanissayo natthīti tasmiṃ attabhāve uppajjanārahānaṃ maggaphalānaṃ upanissayo natthi. Taṃ buddhā ‘‘moghapuriso’’ti vadanti yathā taṃ sudinnalāḷudāyiādike. Upanissaye satipi tasmiṃ khaṇe magge vā phale vā asati ‘‘moghapuriso’’ti vadanti yathā taṃ dhaniyūpasenattherādike. Samucchinnopanissaye pana vattabbameva natthi. Yathā ‘‘makkhali moghapuriso manussakhippaṃ maññe’’ti (a. ni. 1.311) tathā sunakkhattopīti āha **‘‘imassa panā’’**tiādi. Assāti etena. Kattari hidaṃ sāmivacanaṃ. Kodhenāti kodhahetunā.

147. 「怒りっぽい」とは、怒る性質のこと。スナッカッタは怒りによって残酷であり粗暴な言葉を発する者であったため、**「怒りっぽいとは獰猛で粗暴である」**と仰せられた。「その個体において道と果の依処がない」とは、その個体において生じるに値する道と果の依処がないということである。仏陀たちはそれを、スディンナやラールダーイーなどのように「空しい人」と呼ぶ。依処があってもその瞬間に道や果がなければ、ダニヤやウパセーナ長老などのように「空しい人」と呼ぶ。完全に断たれた依処を持つ者においては言うまでもない。「マッカリという空しい人は人間の罠であると私は思う」(増支部1.311)とあるように、スナッカッタもそうであることから**「しかし彼の」**等と仰せられた。「彼の」とはこれによって。これは能動における所有格である。「怒りによって」とは、怒りの原因によって。

Bhagavatoti sampadānavacanaṃ kuddhapadāpekkhāya. Pubbeti bhikkhukāle. Saddaṃ sotukāmoti so kira dibbacakkhunā tāvatiṃsabhavane devatānaṃ rūpaṃ passanto oṭṭhacalanaṃ passati, na pana saddaṃ suṇāti, tasmā tāsaṃ saddaṃ sotukāmo ahosi. Tena vuttaṃ **‘‘saddaṃ sotukāmo…pe… pucchī’’**ti. So ca atīte ekaṃ sīlavantaṃ bhikkhuṃ kaṇṇasakkhaliyaṃ paharitvā badhiramakāsi, tasmā parikammaṃ karontopi abhabbova dibbasotādhigamāya. Taṃ sandhāya vuttaṃ **‘‘upanissayo natthīti ñatvā parikammaṃ na kathesī’’**ti. Cintesīti attano micchāparivitakkitena ayoniso ummujjanto cintesi.

「世尊に」とは、「怒った」という言葉に呼応する与格である。「以前に」とは比丘であったときに。「声を聞きたかった」とは、彼は天眼によって三十三天の神々の姿を見ながら口唇の動きを見るが声を聞くことはできず、それゆえにそれらの声を聞きたいと欲したのである。それゆえに**「声を聞きたくて……中略……尋ねた」**と説かれた。そして彼は過去世において一人の有戒の比丘の耳殻を打って聾者にしたことがあり、それゆえに遍作を行っても天耳通の獲得には適していなかった。それを指して**「依処がないと知って遍作を語らなかった」**と説かれた。「考えた」とは、自らの邪推によって如理ならざる浮上をして考えた。

Niyyānikattāvabodhanato abhedopacārena **‘‘desanādhammo niyyāniko’’**ti vutto. Niyyāno vā ariyamaggo bodhetabbo etassa atthīti niyyāniko desanādhammo. Attani atthitaṃ dasseti kiccasiddhidassanena tattha tattha pākaṭīkatattā, na paṭiññāmattena. Tathā hi yathāparādhaṃ taṃtaṃsikkhāpadapaññattiyā yathādhammaṃ veneyyajjhāsayānurūpañca aviparītadhammadesanāya devamanussehi yathābhisaṅkhatapañhānaṃ tadajjhāsayānukūlaṃ ṭhānaso vissajjanena ca bhagavato sabbattha appaṭihatañāṇacārabhāvena sabbaññutaññāṇaṃ viññūnaṃ pākaṭaṃ, tathā tattha tattha yamakapāṭihāriyakaraṇādīsu iddhividhañāṇādīnīti. Tenāha **‘‘mayhañcā’’**tiādi. Anveti yathāgahitasaṅketassa anugamanavasena eti jānātīti anvayo. Tenāha **‘‘anubujjhatīti attho’’**ti. Saṅketānugamanañcettha ‘‘yathāparādhaṃ taṃtaṃsikkhāpadapaññattiyā’’tiādinā vuttanayameva. Evaṃ yojanā veditabbāti yathā sabbaññutaññāṇena yojanā katā, evaṃ ‘‘evarūpampi nāma mayhaṃ iddhividhañāṇasaṅkhātaṃ uttarimanussadhamma’’ntiādinā tattha tattha yojanā veditabbā.

出離の性質を悟らせることから、無差別の比喩によって**「教説の法は出離をもたらす」**と説かれた。あるいは出離である聖道がこれによって悟られるべきであるから「出離をもたらす教説の法」である。自らに存在することを示すのは、働きの達成を示すことによって処々において明らかにされたことによるのであり、単なる公言によるのではない。実に罪に従って種々の学処を施設すること、法に従い教化されるべき者の意向に応じた無謬の説法、神々や人間たちによって作られた質問に対する意向にかなう適切な回答によって、世尊の一切処において障害なき智慧の働きのあり方としての一切知智が智者たちに明らかであり、同様に処々における双神変の現出などにおいて神変智などがある。それゆえに**「そして私には」**等と仰せられた。「随う」とは、把握された規範に従うことによって至り知ることであり「随伴」である。それゆえに**「随知するという意味である」**と仰せられた。ここでの規範の随伴とは「罪に従って種々の学処を施設することによって」等と説かれた理趣そのものである。「このように解釈が理解されるべきである」とは、一切知智によって解釈がなされたように、このように「実に私のこのような神変智と称される上人法」等と処々において解釈が理解されるべきである。

Uttarimanussadhammādivaṇṇanā niṭṭhitā.

上人法などの解説は終了した。

Dasabalañāṇavaṇṇanā

十力智の解説

148. Yadipi ādito abhiññāttayavasena desanāya āgatattā cetopariyañāṇānantaraṃ upari tisso abhiññā vattabbā siyunti vattabbaṃ siyā, atthato pana vijjāttayaṃ yathāvuttaabhiññāttayamevāti katvā **‘‘tisso vijjā vattabbā siyu’’**nti vuttaṃ. Kasmā panettha **‘‘tāsu vuttāsu upari dasabalañāṇaṃ na paripūratī’’**ti vuttaṃ, nanu imāni ñāṇāni sesābhiññā viya attano visayassa abhijānanaṭṭhaṃ upādāya abhiññāsu vattabbāni, akampiyaṭṭhaṃ pana upatthambhanaṭṭhañca upādāya balañāṇesu yathā sammāsatiādayo indriyabalabojjhaṅgamaggaṅgesūti? Nayidamevaṃ. Tattha hi dhammānaṃ dhammakiccavisesavibhāvanaparāya desanāya vuttaṃ, idha pana satthu guṇavisesavibhāvanaparāya desanāya tathā vattuṃ na sakkā atthato anaññattā, ekaccānaṃ puthujjanānaṃ evaṃ cittaṃ uppajjeyya ‘‘kimidaṃ bhagavā heṭṭhā vuttaguṇe punapi gaṇhanto guṇādhikadassanaṃ karotī’’ti. Tasmā suvuttametaṃ ‘‘upari dasabalañāṇaṃ na paripūratī’’ti.

148. もし初めから三明の力によって説法において示されていることから他心智の直後に上位の三つの神通が説かれるべきであるとしても、実質的には三明は説かれた三神通そのものであることから、**「三明が説かれるべきである」**と説かれた。ではなぜここで**「それらが説かれた場合、上に十力智が満たされない」**と説かれたのか。これらの智慧は他の神通のように自らの領域を証知するという意味に基づいて神通において説かれるべきであり、不動の意味と支持するという意味に基づいて力智において説かれるべきではないか、ちょうど正念などが根・力・覚支・道支においてあるように、ではないのか。そうではない。そこでは諸法の特定の働きの解明を主とする説法において説かれたが、ここでは師の徳性の特殊性の解明を主とする説法において、実質的に同一であるがゆえにそのように語ることはできないからである。一部の凡夫たちに「なぜ世尊は下に説かれた徳性を再び取って徳性の増大を示すのか」という思いが生じるかもしれない。それゆえに「上に十力智が満たされない」と実によく説かれたのである。

Aññehi asādhāraṇānīti kasmā vuttaṃ (a. ni. ṭī. 3.10.21), nanu cetāni sāvakānampi ekaccānaṃ uppajjantīti? Kāmaṃ uppajjanti, yādisāni pana buddhānaṃ ṭhānāṭṭhānañāṇādīni, na tādisāni tadaññesaṃ kadācipi uppajjantīti aññehi asādhāraṇānīti. Tenāha **‘‘tathāgatasseva balānī’’**ti. Imameva hi yathāvuttalesaṃ apekkhitvā tadabhāvato āsayānusayañāṇādīsu eva asādhāraṇaguṇasamaññā niruḷhā. Kāmaṃ ñāṇabalānaṃ ñāṇasambhāro visesapaccayo, puññasambhāropi pana nesaṃ paccayo eva, ñāṇasambhārassapi vā puññasambhārabhāvato **‘‘puññussayasampattiyā āgatānī’’**ti vuttaṃ.

「他者と不共である」となぜ説かれたのか(増支部複註3.10.21)。これらは弟子たちの一部にも生じるのではないか。確かに生じるが、仏陀たちの処非処智などのようなものは、仏陀以外の者たちには決して生じないことから「他者と不共である」とされる。それゆえに**「如来だけの力である」**と仰せられた。まさにこの説かれた理由を考慮して、それがないことから性分随眠智などにこそ不共の徳性の名称が定着したのである。確かに智力には智慧の資糧が特別な縁であるが、功徳の資糧もまたそれらの縁であり、あるいは智慧の資糧も功徳の資糧であることから**「功徳の蓄積の成就によってもたらされた」**と説かれた。

Pakatihatthikulanti (saṃ. ni. 2.22) giricaranadīcaravanacarādippabhedā gocariyakālāvakanāmā sabbāpi balena pākatikā hatthijāti. Dasannaṃ purisānanti thāmamajjhimānaṃ dasannaṃ purisānaṃ. Ekassa tathāgatassa kāyabalanti ānetvā sambandho. Ekassāti ca tathā heṭṭhākathāyaṃ āgatattā desanāsotena vuttaṃ. Nārāyanasaṅghātabalanti ettha nārā vuccanti rasmiyo, tā bahū nānāvidhā ito uppajjantīti nārāyanaṃ, vajiraṃ, tasmā nārāyanasaṅghātabalanti vajirasaṅghātabalanti attho. Ñāṇabalaṃ pana pāḷiyaṃ āgatameva, na kāyabalaṃ viya aṭṭhakathāruḷhamevāti adhippāyo. **‘‘Saṃyuttake āgatāni tesattati ñāṇāni sattasattati ñāṇānī’’**ti vuttaṃ (vibha. mūlaṭī. 760), tattha pana nidānavagge sattasattati āgatāni catucattārīsañca, tesattati pana paṭisambhidāmagge (paṭi. ma. 1.73 mātikā) sutamayādīni āgatāni dissanti, na saṃyuttake. Aññānipīti etena ñāṇavatthuvibhaṅge ekakādivasena vuttāni, aññattha ca ‘‘pubbante ñāṇa’’ntiādinā (dha. sa. 1076) brahmajālādīsu (dī. ni. 1.36) ca ‘‘tayidaṃ tathāgato pajānāti, imāni diṭṭhiṭṭhānāni evaṃ gahitānī’’tiādinā vuttāni anekāni ñāṇappabhedāni saṅgaṇhāti. Yāthāvapaṭivedhato sayañca akampiyaṃ puggalañca taṃsamaṅgiṃ neyyesu adhibalaṃ karotīti āha **‘‘akampiyaṭṭhena upatthambhanaṭṭhena cā’’**ti.

「通常の象の群れ」とは(相応部2.22)、山を歩くもの、川を歩くもの、森を歩くものなどの区分があり、ゴチャリヤやカーラーヴァカなどの名を持つ、力において通常の象の種族の全てである。「十人の男の」とは、中等の強さの十人の男の。「一人の如来の身体の力」と導いて結びつける。「一人の」とは、下の話において示されているように説法の流れによって説かれた。「金剛集成力」において、「ナーラー」とは光線のことであり、それらが多数かつ多様にここから生じるので「ナーラーヤナ」、すなわち金剛であり、それゆえに金剛集成力とは金剛の集合の力という意味である。智力は聖典に示されているそのものであり、身体の力のように註釈書にのみ現れるものではないという意図である。**「相応部において示された七十三の智慧、七十七の智慧」**と説かれたが(分別論根本複註760)、そこでは因縁品に七十七と四十四が示されており、七十三は無礙解道(無礙解道1.73論母)に聞所成慧などとして現れており、相応部ではない。「他のものも」とは、これによって智事分別において一法などに従って説かれたもの、また他において「過去における智慧」等(法集論1076)や梵網経など(長部1.36)において「如来はこれを知る。これらの見解の依処はこのように把握された」等と説かれた多くの智慧の区分を包括する。如実な現観によって自らも不動であり、それを具足した人を導かれるべき者たちにおいて卓越した力を持つ者とする、ということから**「不動の意味と支持する意味によって」**と仰せられた。

Usabhassa idanti āsabhaṃ, (a. ni. ṭī. 2.4.8) seṭṭhaṃ ṭhānaṃ. Sabbaññutapaṭijānanavasena abhimukhaṃ gacchanti, aṭṭha vā parisā upasaṅkamantīti āsabhā, pubbabuddhā. Idaṃ panāti buddhānaṃ ṭhānaṃ sabbaññutameva vadati. Tiṭṭhamānovāti avadantopi (saṃ. ni. ṭī. 2.2.22) tiṭṭhamānova paṭijānāti nāmāti attho. Upagacchatīti anujānāti.

「雄牛のこれ」とは「雄牛の(至高の)」であり(増支部複註2.4.8)、最上の境地である。一切知性の公言によって立ち向かい、あるいは八つの会衆に近づくことから「雄牛のような者」、すなわち過去の仏陀たちである。「しかしこれは」とは、仏陀たちの境地である一切知性そのものを指して語っている。「留まりながらでも」とは、語らなくても(相応部複註2.2.22)留まっているだけで公言していると言われる、という意味である。「至る」とは認めることである。

Aṭṭhasu parisāsūti ‘‘abhijānāmi kho panāhaṃ, sāriputta, anekasataṃ khattiyaparisaṃ…pe… tatra vata maṃ bhayaṃ vā sārajjaṃ vā okkamissatīti nimittametaṃ, sāriputta, na samanupassāmī’’ti (ma. ni. 1.151) vuttāsu aṭṭhasu parisāsu. Abhītanādaṃ nadatīti parato dassitañāṇayogena dasabalohanti abhītanādaṃ nadati. Sīhanādasuttena khandhavagge (saṃ. ni. 3.78) āgatena.

「八つの会衆において」とは、「サーリプッタよ、私は実に何百もの刹帝利の会衆を……中略……サーリプッタよ、私に恐怖や臆病さが襲いかかるような兆候を私は全く見出さない」(中部1.151)と説かれた八つの会衆において。「無畏の声を放つ」とは、後に示される智慧の具足によって「私は十力を持つ者である」と無畏の声を放つことである。蘊品(相応部3.78)に示された獅子吼経によって。

‘‘Devamanussānaṃ catucakkaṃ vattatī’’ti (a. ni. 4.31) suttasesena sappurisūpassayādīnaṃ phalasampattipavatti, purimasappurisūpassayādiṃ upanissāya pacchimasappurisūpassayādīnaṃ sampattipavatti vā vuttāti ādi-saddena tattha ca cakka-saddassa gahaṇaṃ veditabbaṃ. Vicakkasaṇṭhānā asani eva asanivicakkaṃ. Uracakkādīsūti ādi-saddena āṇāsamūhādīsupi cakka-saddassa pavatti veditabbā. ‘‘Saṅghabhedaṃ karissāma cakkabheda’’ntiādīsu (pārā. 409; cūḷava. 343) hi āṇā ‘‘cakka’’nti vuttā, ‘‘devacakkaṃ asuracakka’’ntiādīsu (a. ni. ṭī. 2.4.8) samūhoti. Paṭivedhaniṭṭhattā arahattamaggañāṇaṃ paṭivedhoti **‘‘phalakkhaṇe uppannaṃ nāmā’’**ti vuttaṃ. Tena paṭiladdhassapi desanāñāṇassa kiccanipphatti parassa bujjhanamattena hotīti **‘‘aññātakoṇḍaññassa sotāpatti…pe… phalakkhaṇe pavattaṃ nāmā’’**ti vuttaṃ. Tato paraṃ pana yāva parinibbānā desanāñāṇappavatti tasseva pavattitassa dhammacakkassa ṭhānanti veditabbaṃ pavattitacakkassa cakkavattino cakkaratanassa ṭhānaṃ viya.

「神々と人間の四輪が転じる」(増支部4.31)という経の残りの部分によって善士への依止などの果報の富の働き、あるいは過去の善士への依止などを縁として未来の善士への依止などの富の働きが説かれたことから、「等」という言葉によってそこでも「輪」という言葉の把握が理解されるべきである。車輪の形をした落雷こそが落雷の輪である。「胸の輪などにおいて」とは、「等」という言葉によって命令や集団などにおいても「輪」という言葉の適用が理解されるべきである。「我らは僧伽を破断し、法輪を破断しよう」等(パーラージカ409、小品343)において命令が「輪」と説かれ、「神々の輪、阿修羅の輪」等(増支部複註2.4.8)においては集団である。現観の完了により阿羅漢道の智慧が現観であることから**「果の瞬間に生じたと言われる」**と説かれた。それによって得られた説法の智慧の働きの成就も、他者が覚解することによって生じることから**「阿若憍陳如の預流……中略……果の瞬間に転じたと言われる」**と説かれた。それ以降、般涅槃に至るまでの説法の智慧の働きは、転じられた法輪の定着として理解されるべきであり、転じられた輪宝を持つ転輪聖王の車輪の定着のようなものである。

**‘‘Tiṭṭhatī’’**ti vuttaṃ, kiṃ bhūmiyaṃ puriso viya? Noti āha **‘‘tadāyattavuttitāyā’’**ti. Ṭhānanti cettha attalābho dharamānatā ca, na gatinivattīti āha **‘‘uppajjati ceva pavattati cā’’**ti. Yattha panetaṃ dasabalañāṇaṃ vitthāritaṃ, taṃ dassento **‘‘abhidhamme panā’’**tiādimāha. Sesesupi eseva nayo.

**「留まる」**と説かれたが、地面の上の人のようにか。そうではない、として**「それに依存したあり方によって」**と仰せられた。ここでの「定着」とは、自らの獲得と存続のことであり、運動の停止ではないとして**「生起しもするし、転じもする」**と仰せられた。この十力智が詳細に説かれた箇所を示すために**「アビダルマにおいては」**等と仰せられた。残りのものにおいてもこの理趣である。

Samādiyantīti samādānāni, tāni pana samādiyitvā katāni hontīti āha **‘‘samādiyitvā katāna’’**nti. Kammameva vā kammasamādānanti etena samādānasaddassa apubbatthābhāvaṃ dasseti muttagatasadde gatasaddassa viya. Gatīti nirayādigatiyo. Upadhīti attabhāvo. Kāloti kammassa vipaccanārahakālo. Payogoti vipākuppattiyā paccayabhūtā kiriyā.

「受持される」ゆえに受持(業の引き受け)であり、それらは受持されてなされたものであることから**「受持してなされたものたちの」**と仰せられた。あるいは業そのものが業の受持である。これによって受持という言葉に新しい意味がないことを示している、「放たれて行った」という言葉における「行った」という言葉のように。「趣」とは地獄などの趣。「依処」とは個体。「時」とは業が成熟するのに適した時。「方便」とは果報を生じさせる縁となる行為。

Agatigāmininti nibbānagāminiṃ. Vakkhati hi ‘‘nibbānañcāhaṃ, sāriputta, pajānāmi nibbānagāmiñca maggaṃ nibbānagāminiñca paṭipada’’nti (ma. ni. 1.153). Bahūsupi manussesu ekameva pāṇaṃ ghātentesu kāmaṃ sabbesaṃ cetanā tassevekassa jīvitindriyārammaṇā, taṃ pana kammaṃ tesaṃ nānākāraṃ. Tesu (vibha. aṭṭha. 811) hi eko ādarena chandajāto karoti, eko ‘‘ehi tvampi karohī’’ti parehi nippīḷito karoti, eko samānacchando viya hutvā appaṭibāhamāno vicarati. Tesu eko teneva kammena niraye nibbattati, eko tiracchānayoniyaṃ, eko pettivisaye. Taṃ tathāgato āyūhanakkhaṇe eva – ‘‘iminā nīhārena āyūhitattā esa niraye nibbattissati, esa tiracchānayoniyaṃ, esa pettivisaye’’ti jānāti. Niraye nibbattamānampi – ‘‘esa mahāniraye nibbattissati, esa ussadaniraye’’ti jānāti. Tiracchānayoniyaṃ nibbattamānampi – ‘‘esa apādako bhavissati, esa dvipādako, esa catuppado, esa bahuppado’’ti jānāti. Pettivisaye nibbattamānampi – ‘‘esa nijjhāmataṇhiko bhavissati, esa khuppipāsiko, esa paradattūpajīvī’’ti jānāti. Tesu ca kammesu – ‘‘idaṃ kammaṃ paṭisandhimākaḍḍhissati, idaṃ aññena dinnāya paṭisandhiyā upadhivepakkaṃ bhavissatī’’ti jānāti.

「非趣に至る」とは、涅槃に至る。実に「サーリプッタよ、私は涅槃を知り、涅槃に至る道と、涅槃に至る行道を知る」(中部1.153)と説かれるからである。多くの人間たちが一つの生命を殺害するとき、確かにすべての者の思惟はその一つの命根を対象としているが、彼らのその業は多様である。彼らの中で(分別論註811)ある者は熱意をもって欲求を生じて行い、ある者は「さあ、お前もやれ」と他者に強制されて行い、ある者は同じ欲求を持つ者のようになって拒絶することなく行動する。それらの中で、ある者はその業によって地獄に生まれ、ある者は畜生界に、ある者は餓鬼界に生まれる。如来はそれを造作の瞬間において「この方法によって造作されたがゆえに、この者は地獄に生まれるであろう、この者は畜生界に、この者は餓鬼界に」と知る。地獄に生まれる者についても「この者は大地獄に生まれるであろう、この者は遊増地獄に」と知る。畜生界に生まれる者についても「この者は無足の者となるであろう、この者は二足の者、この者は四足の者、この者は多足の者」と知る。餓鬼界に生まれる者についても「この者は焼渇飢渇の餓鬼となるであろう、この者は飢渇の餓鬼、この者は他者の施与によって生きる者」と知る。そしてそれらの業の中で「この業は結生を引き寄せるであろう、この業は他によって与えられた結生の個体において成熟するであろう」と知る。

Tathā sakalagāmavāsikesu ekato piṇḍapātaṃ dadamānesu kāmaṃ sabbesampi cetanā piṇḍapātārammaṇāva, taṃ pana kammaṃ tesaṃ nānākāraṃ. Tesu hi eko ādarena karotīti sesaṃ purimasadisaṃ, tasmā tesu keci devaloke nibbattanti, keci manussaloke, taṃ tathāgato āyūhanakkhaṇeyeva jānāti – ‘‘iminā nīhārena āyūhitattā esa manussaloke nibbattissati, esa devaloke, tatthāpi esa khattiyakule, esa brāhmaṇakule, esa vessakule, esa suddakule, esa paranimmitavasavattīsu, esa nimmānaratīsu, esa tusitesu, esa yāmesu, esa tāvatiṃsesu, esa cātumahārājikesu, esa bhummadevesū’’tiādinā tattha tattha hīnapaṇītasuvaṇṇadubbaṇṇaappaparivāramahāparivāratādibhedaṃ taṃ taṃ visesaṃ āyūhanakkhaṇeyeva jānāti.

同様に村の住民全員が一緒に托鉢の食事を与えるとき、確かにすべての者の思惟は托鉢の食事を対象としているが、彼らのその業は多様である。彼らの中である者は熱意をもって行う、という残りは前と同様である。それゆえに彼らの中のある者は天界に生まれ、ある者は人間界に生まれる。如来はそれを造作の瞬間に知る。「この方法によって造作されたがゆえに、この者は人間界に生まれるであろう、この者は天界に、そこでもこの者は刹帝利の家に、この者は婆羅門の家に、この者は吠舎の家に、この者は首陀羅の家に、この者は他化自在天に、この者は化楽天に、この者は兜率天に、この者は夜摩天に、この者は三十三天に、この者は四天王天に、この者は地居天に」などと、そこかしこにおける劣等・勝妙・美貌・醜貌・少眷属・大眷属などの差異を、その造作の瞬間に知るのである。

Tathā vipassanaṃ paṭṭhapentesuyeva – ‘‘iminā nīhārena esa kiñci sallakkhetuṃ na sakkhissati, esa mahābhūtamattameva vavatthapessati, esa rūpapariggaheyeva ṭhassati, esa arūpapariggaheyeva, esa nāmarūpapariggaheyeva, esa paccayapariggahe eva, esa lakkhaṇārammaṇikavipassanāya eva, esa paṭhamaphaleyeva, esa dutiyaphale eva, esa tatiyaphale eva, esa arahattaṃ pāpuṇissatī’’ti jānāti. Kasiṇaparikammaṃ karontesupi – ‘‘imassa parikammamattameva bhavissati, esa nimittaṃ uppādessati, esa appanaṃ eva pāpuṇissati, esa jhānaṃ pādakaṃ katvā vipassanaṃ paṭṭhapetvā arahattaṃ gaṇhissatī’’ti jānāti. Tenāha **‘‘imassa cetanā’’**tiādi.

同様に観(ヴィパッサナー)を始めるまさにそのときに、「この方法によってこの者は何も把握することができないであろう、この者は四大種のみを規定するであろう、この者は色法の把握にのみ留まるであろう、この者は無色法の把握にのみ、この者は名色の把握にのみ、この者は縁の把握にのみ、この者は相を対象とする観にのみ、この者は初果にのみ、この者は第二果にのみ、この者は第三果にのみ、この者は阿羅漢果に到達するであろう」と知る。遍作(カシナ)の修行を行う者たちにおいても、「この者には遍作のみがあるであろう、この者は相を生じるであろう、この者は安止にのみ到達するであろう、この者は禅定を基礎として観を確立し阿羅漢果を把握するであろう」と知る。それゆえに**「この者の思惟は」**等と仰せられた。

Kāmanato, kāmetabbato, kāmapaṭisaṃyuttato ca kāmo dhātu kāmadhātu. Ādi-saddena byāpādadhātu-rūpadhātu-ādīnaṃ saṅgaho. Vilakkhaṇatāyāti visadisasabhāvatāya. Khandhāyatanadhātulokanti anekadhātuṃ nānādhātuṃ khandhalokaṃ āyatanalokaṃ dhātulokaṃ yathābhūtaṃ pajānātīti yojanā. ‘‘Ayaṃ rūpakkhandho nāma…pe… ayaṃ viññāṇakkhandho nāma. Tesupi ekavidhena rūpakkhandho, ekādasavidhena rūpakkhandho (vibha. 33). Ekavidhena vedanākkhandho, bahuvidhena vedanākkhandho (vibha. 34-61). Ekavidhena saññākkhandho, bahuvidhena saññākkhandho (vibha. 62-91). Ekavidhena saṅkhārakkhandho, bahuvidhena saṅkhārakkhandho (vibha. 92-120). Ekavidhena viññāṇakkhandho, bahuvidhena viññāṇakkhandho’’ti (vibha. 121-149) evaṃ tāva khandhalokassa, ‘‘idaṃ cakkhāyatanaṃ nāma…pe… idaṃ dhammāyatanaṃ nāma. Tattha dasāyatanā kāmāvacarā, dve cātubhūmakā’’tiādinā (vibha. 156-171) āyatanalokassa, ‘‘ayaṃ cakkhudhātu nāma…pe… ayaṃ manoviññāṇadhātu nāma, tattha soḷasa dhātuyo kāmāvacarā, dve cātubhūmakā’’tiādinā (vibha. 172-188) dhātulokassa anekasabhāvaṃ nānāsabhāvañca pajānāti. Na kevalaṃ upādinnakasaṅkhāralokasseva, atha kho anupādinnakasaṅkhāralokassapi – ‘‘imāya nāma dhātuyā ussannattā imassa rukkhassa khandho seto, imassa kāḷo, imassa maṭṭho, imassa sakaṇṭako, imassa bahalattaco, imassa tanuttaco, imassa pattaṃ vaṇṇasaṇṭhānādivasena evarūpaṃ, imassa pupphaṃ nīlaṃ pītaṃ lohitaṃ odātaṃ sugandhaṃ duggandhaṃ, imassa phalaṃ khuddakaṃ mahantaṃ dīghaṃ rassaṃ vaṭṭaṃ susaṇṭhānaṃ dussaṇṭhānaṃ mudukaṃ pharusaṃ sugandhaṃ duggandhaṃ madhuraṃ tittakaṃ kaṭukaṃ ambilaṃ kasāvaṃ, imassa kaṇṭako tikhiṇo kuṇṭho ujuko kuṭilo tambo kāḷo odāto hotī’’tiādinā pajānāti. Sabbaññubuddhādīnaṃ eva hi etaṃ balaṃ, na aññesaṃ.

愛欲することから、愛欲されるべきであることから、愛欲に結びついていることから「欲界」という界である。「等」という言葉によって瞋恚界、色界などが包摂される。「異相であることから」とは、類似しない自性であることから。「蘊・処・界の世間を」とは、種々の界・多様な界である蘊の世間、処の世間、界の世間を如実に知る、と結びつける。「これは色蘊である……中略……これは識蘊である。それらの中でも一種類としての色蘊、十一種類としての色蘊(分別論33)。一種類としての受蘊、多種類としての受蘊(分別論34-61)。一種類としての想蘊、多種類としての想蘊(分別論62-91)。一種類としての行蘊、多種類としての行蘊(分別論92-120)。一種類としての識蘊、多種類としての識蘊」(分別論121-149)と、このようにまず蘊の世間について、「これは眼処である……中略……これは法処である。そこにおいて十の処は欲界に属し、二つは四地に属する」等(分別論156-171)によって処の世間について、「これは眼界である……中略……これは意識界である。そこにおいて十六の界は欲界に属し、二つは四地に属する」等(分別論172-188)によって界の世間の種々の自性と多様な自性を知る。執受された(有情の)諸行の世間だけでなく、執受されない(非情の)諸行の世間についても、「この界が卓越していることによって、この樹木の幹は白く、この樹木は黒く、この樹木は滑らかで、この樹木は棘があり、この樹木は厚い樹皮を持ち、この樹木は薄い樹皮を持ち、この樹木の葉は色や形などによってこのようなものであり、この樹木の花は青、黄、赤、白で、芳香があり、悪臭があり、この樹木の果実は小さく、大きく、長く、短く、丸く、形の良いもの、形の悪いもの、柔らかく、硬く、芳香があり、悪臭があり、甘く、苦く、辛く、酸っぱく、渋く、この樹木の棘は鋭く、鈍く、まっすぐで、曲がっており、赤く、黒く、白い」などと知る。実にこれは一切知仏たちだけの力であり、他の者たちのものではない。

Nānādhimuttikatanti nānāajjhāsayataṃ. Adhimutti nāma ajjhāsayadhātu ajjhāsayasabhāvo. So pana hīnapaṇītatāsāmaññena pāḷiyaṃ dvidhāva vuttopi hīnapaṇītādibhedena anekavidhoti āha **‘‘hīnādīhi adhimuttīhi nānādhimuttikabhāva’’**nti. Tattha tattha ye ye sattā yaṃyaṃadhimuttikā, te te taṃtadadhimuttike eva sevanti bhajanti payirupāsanti dhātusabhāgato. Yathā gūthādīnaṃ dhātusabhāvo eso, yaṃ gūthādīhi eva saṃsandanti samenti, evaṃ (puggalānaṃ ajjhāsayassevesa sabhāvo, yaṃ) (vibha. mūlaṭī. 813) hīnajjhāsayā dussīlādīhi eva saṃsandanti samenti, sampannasīlādayo ca sampannasīlādīheva. Taṃ nesaṃ nānādhimuttikataṃ bhagavā yathābhūtaṃ pajānātīti.

「種々の信解のあり方」とは、種々の意向のことである。信解とは意向の界、意向の自性のことである。それは聖典において劣等と勝妙という共通性によって二種類のみで説かれているが、劣等や勝妙などの区分によって多様であるとして、**「劣等などの信解によって種々の信解を持つ状態」**と仰せられた。そこかしこにおいて、どのような有情たちがどのような信解を持つかによって、彼らは界の類似性からまさにその信解を持つ者たちに親近し、交わり、仕えるのである。糞尿などの界の自性が、糞尿などとまさに合致し調和するのと同様に(有情の意向の自性もまさにそれであり)、劣った意向を持つ者たちは破戒の者たちなどとまさに合致し調和し、具戒の者たちなどは具戒の者たちなどと調和する。世尊は彼らのその種々の信解のあり方を如実に知るのである。

Vuddhiñca hāniñcāti paccayavisesena sāmatthiyato adhikataṃ anadhikatañca. Indriyaparopariyattañāṇaniddese (vibha. 814; paṭi. ma. 1.113) ‘‘āsayaṃ jānāti anusayaṃ jānātī’’ti āsayādijānanaṃ kasmā niddiṭṭhanti? Āsayajānanādinā yehi indriyehi paroparehi sattā kalyāṇapāpāsayādikā honti, tesaṃ jānanassa vibhāvanato. Evañca katvā indriyaparopariyattaāsayānusayañāṇānaṃ visuṃ asādhāraṇatā, indriyaparopariyattanānādhimuttikatāñāṇānaṃ visuṃ balatā ca siddhā hoti. Tattha āsayanti yattha sattā nivasanti, taṃ tesaṃ nivāsaṭṭhānaṃ diṭṭhigataṃ vā yathābhūtañāṇaṃ vā āsayo. Anusayo appahīnabhāvena thāmagato kileso. Taṃ pana bhagavā sattānaṃ āsayaṃ jānanto tesaṃ tesaṃ diṭṭhigatānaṃ, vipassanāmaggañāṇānañca appavattikkhaṇepi jānāti. Vuttaṃ hetaṃ –

「増大と減退」とは、縁の特殊性による能力の卓越と非卓越のことである。根上下智の解説(分別論814、無礙解道1.113)において、「意図を知り、随眠を知る」と、なぜ意図などの知が示されたのか。意図の覚知などによって、それらの優れたり劣ったりする根により有情たちが善い意図や悪い意図などを持つようになる、それらの知を明らかにするためである。このようにして根上下智と性分随眠智の個別の不共性と、根上下智と種々信解智の個別の力性が確立される。そこにおいて「意図」とは、有情たちが住する場所、彼らの住処である見解あるいは如実の智慧が意図である。随眠とは断たれていないことによって強固となった煩悩である。世尊は有情たちの意図を知りつつ、それらの見解や観道智が働いていない瞬間においてさえも知るのである。実にこのように説かれている——

‘‘Kāmaṃ sevantaṃyeva bhagavā jānāti ‘ayaṃ puggalo kāmagaruko kāmāsayo kāmādhimutto’ti. Kāmaṃ sevantaññeva jānāti ‘ayaṃ puggalo nekkhammagaruko nekkhammāsayo nekkhammādhimutto’ti. Nekkhammaṃ sevantaññeva jānāti. Byāpādaṃ, abyāpādaṃ, thinamiddhaṃ, ālokasaññaṃ sevantaṃyeva jānāti ‘ayaṃ puggalo thinamiddhagaruko thinamiddhāsayo thinamiddhādhimutto’ti’’ (paṭi. ma. 1.113).

「欲を受用しているまさにその者を、世尊は『この人は欲を重んじ、欲を意図とし、欲に傾倒している』と知る。欲を受用しているまさにその者を、『この人は出離を重んじ、出離を意図とし、出離に傾倒している』と知る。出離を受用しているまさにその者を知る。瞋恚を、無瞋恚を、惛沈睡眠を、光明想を受用しているまさにその者を、『この人は惛沈睡眠を重んじ、惛沈睡眠を意図とし、惛沈睡眠に傾倒している』と知る」(無礙解道1.113)。

Paṭhamādīnaṃ catunnaṃ jhānānanti rūpāvacarānaṃ paṭhamādīnaṃ paccanīkajhāpanaṭṭhena ārammaṇūpanijjhānaṭṭhena ca jhānānaṃ. Catukkanayena hetaṃ vuttaṃ. Aṭṭhannaṃ vimokkhānanti ettha paṭipāṭiyā satta appitappitakkhaṇe paccanīkadhammehi vimuccanato ārammaṇe ca adhimuccanato vimokkhā nāma, aṭṭhamo pana sabbaso saññāvedayitehi vimuttattā apagamavimokkho nāma. Catukkanayapañcakanayesu paṭhamajhānasamādhi savitakkasavicāro nāma, pañcakanaye dutiyajjhānasamādhi avitakkavicāramatto, nayadvayepi upari tīsu jhānesu samādhi avitakkaavicāro, samāpattīsu paṭipāṭiyā aṭṭhannaṃ samādhītipi nāmaṃ, samāpattītipi cittekaggatāsabbhāvato, nirodhasamāpattiyā tadabhāvato na samādhīti nāmaṃ. Hānabhāgiyadhammanti appaguṇehi paṭhamajjhānādīhi vuṭṭhitassa saññāmanasikārānaṃ kāmādianupakkhandanaṃ. Visesabhāgiyadhammanti paguṇehi paṭhamajjhānādīhi vuṭṭhitassa saññāmanasikārānaṃ dutiyajjhānādipakkhandanaṃ. Iti saññāmanasikārānaṃ kāmādidutiyajjhānādipakkhandanāni hānabhāgiyavisesabhāgiyadhammāti dassitāni, tehi pana jhānānaṃ taṃsabhāvatā dhamma-saddena vuttā. Tasmāti vuttamevatthaṃ hetubhāvena paccāmasati. Vodānanti paguṇatāsaṅkhātaṃ vodānaṃ. Tañhi paṭhamajjhānādīhi vuṭṭhahitvā dutiyajjhānādiadhigamassa paccayattā **‘‘vuṭṭhāna’’**nti vuttaṃ. Ye (a. ni. ṭī. 3.10.21) pana ‘‘nirodhato phalasamāpattiyā vuṭṭhānanti pāḷi natthī’’ti vadanti, te ‘‘nirodhā vuṭṭhahantassa nevasaññānāsaññāyatanaṃ phalasamāpattiyā anantarapaccayena paccayo’’ti imāya pāḷiyā (paṭṭhā. 1.1.417) paṭisedhetabbā. Yo samāpattilābhī samāno eva ‘‘na labhāmaha’’nti, kammaṭṭhānaṃ samānaṃ eva ‘‘na kammaṭṭhāna’’nti saññī hoti, so sampattiṃyeva samānaṃ ‘‘vipattī’’ti paccetīti veditabbo.

「初めからの四つの禅定」とは、色界に属する初禅などの、障害を焼き払うという意味と対象を凝視するという意味による禅定のことである。これは四種の方法によって説かれた。「八つの解脱」において、順序に従って七つは定に入った瞬間に障害となる諸法から解脱することと対象に専心することから「解脱」と呼ばれ、第八のものは完全に想と受から解脱していることから「離去解脱」と呼ばれる。四種法と五種法において初禅の三昧は有尋有伺と呼ばれ、五種法における第二禅の三昧は無尋唯伺であり、双方の方法において上位の三つの禅定における三昧は無尋無伺であり、等至においては順序に従って八つの「三昧」という名も「等至」という名も心の一境性の存在によるものであり、滅尽定にはそれがないことから「三昧」という名はない。「退減に類する法」とは、熟達していない初禅などから出定した者の想や作意が欲などに飛び込むこと。「殊勝に類する法」とは、熟達した初禅などから出定した者の想や作意が第二禅などに飛び込むこと。このように想や作意が欲などや第二禅などに飛び込むことが退減に類する法、殊勝に類する法として示され、それらによって禅定のその自性が「法」という言葉で説かれた。「それゆえに」とは説かれた意味を原因として言及している。「清浄」とは熟達と称される清浄である。実にそれは初禅などから出定して第二禅などを獲得する縁となることから**「出定」**と説かれた。ある者たち(増支部複註3.10.21)が「滅尽定から果等至への出定という聖典はない」と言うが、彼らは「滅尽定から出定する者にとって、非想非非想処は果等至に対して無間縁によって縁となる」(発趣論1.1.417)というこの聖典によって論駁されるべきである。等至を得た者でありながら「私は得ていない」と、業処でありながら「業処ではない」と想をなす者は、まさに成就であるものを「不成就」と信じている者として理解されるべきである。

149. Appananti nigamanaṃ. Na tathā daṭṭhabbanti yathā paravādinā vuttaṃ, tathā na daṭṭhabbaṃ. Sakasakakiccameva jānātīti ṭhānāṭṭhānajānanādiṃ sakaṃ sakaṃyeva kiccaṃ kātuṃ jānāti, yathāsakameva visayaṃ paṭivijjhatīti attho. Tampīti tehi dasabalañāṇehi jānitabbampi. Kammantaravipākantaramevāti kammantarassavipākantarameva jānāti, cetanācetanāsampayuttadhamme nirayādinibbānagāminipaṭipadābhūte kammanti gahetvā āha **‘‘kammaparicchedamevā’’**ti. Dhātunānattañca dhātunānattakāraṇañca dhātunānattakāraṇanti ekadesasarūpekaseso daṭṭhabbo. Tañhi ñāṇaṃ tadubhayampi jānāti, ‘‘imāya nāma dhātuyā ussannattā’’tiādinā (vibha. aṭṭha. 812) tathā ceva saṃvaṇṇitaṃ. Saccaparicchedamevāti pariññābhisamayādivasena saccānaṃ paricchindanameva. Appetuṃ na sakkoti aṭṭhamanavamabalāni viya taṃsadisaṃ iddhividhañāṇaṃ viya vikubbituṃ. Etenassa balasadisatañca nivāreti. Jhānādiñāṇaṃ viya vā appetuṃ vikubbituñca. Yadipi hi ‘‘jhānādipaccavekkhaṇāñāṇaṃ sattamabala’’nti tassa savitakkasavicāratā vuttā, tathāpi ‘‘jhānādīhi vinā paccavekkhaṇā natthī’’ti jhānādisahagataṃ ñāṇaṃ tadantogadhaṃ katvā evaṃ vuttanti veditabbaṃ. Atha vā sabbaññutaññāṇaṃ jhānādikiccaṃ viya na sabbaṃ balakiccaṃ kātuṃ sakkotīti dassetuṃ **‘‘jhānaṃ hutvā appetuṃ na sakkoti iddhi hutvā vikubbituṃ na sakkotī’’**ti vuttaṃ, na pana kassaci balassa jhānaiddhibhāvatoti daṭṭhabbaṃ. Evaṃ kiccavisesavasenapi dasabalañāṇasabbaññutaññāṇānaṃ visesaṃ dassetvā idāni vitakkattikabhūmantaravasenapi taṃ dassetuṃ **‘‘apicā’’**tiādi vuttaṃ. Paṭipāṭiyātiādito paṭṭhāya paṭipāṭiyā.

149. 「安止」とは結論である。「そのように見なされるべきではない」とは、他論者によって説かれたように、そのように見なされるべきではない。「自らの働きのみを知る」とは、処非処の覚知など自らの働きをなすことを知る、各自の領域を如実に現観するという意味である。「それをも」とは、それらの十力智によって知られるべきことも。「業の差異と果報の差異のみ」とは、業の差異と果報の差異のみを知るのであり、思惟および思惟と相応する諸法で地獄や涅槃に至る行道となったものを「業」と取って**「業の限定のみ」**と仰せられた。「界の多様性と界の多様性の原因」とは、「界の多様性の原因」という一部分の同形異義的省略として見なされるべきである。実にその智慧はその双方を知る。「この界が卓越していることによって」等(分別論註812)とまさにそのように解釈された。「諦の限定のみ」とは、遍知や現観などの力による諦の限定そのもののことである。「安止させることはできない」とは、第八・第九の力のように、それに類似した神変智のように変化させることである。これによってそれの力との類似性を排除する。あるいは禅定などの智慧のように安止させ、変化させることである。「禅定などの省察智は第七の力である」としてそれに有尋有伺の性質が説かれたとしても、「禅定などを離れて省察はない」ことから禅定などに付随する智慧をそれに含めてこのように説かれたと理解されるべきである。あるいは、一切知智は禅定などの働きのようにすべての力の働きをなすことはできないことを示すために、**「禅定となって安止させることはできず、神通となって変化させることはできない」**と説かれたのであり、ある力が禅定や神通の性質を持つからではないと見なされるべきである。このように働きの特殊性によって十力智と一切知智の差異を示し、今度は尋の三種と地の差異によってそれを示すために**「さらにまた」**等と説かれた。「順序に従って」とは、初めから順序に従って。

Anupadavaṇṇanaṃ katvā veditabbānīti sambandho. Kilesāvaraṇaṃ niyatamicchādiṭṭhi, kilesāvaraṇassa abhāvo āsavakkhayādhigamassa ṭhānaṃ, tabbhāvo aṭṭhānaṃ, anadhigamassa pana tadubhayaṃ yathākkamaṃ aṭṭhānañca ṭhānañcāti tattha kāraṇaṃ dassento **‘‘lokiya…pe… dassanato cā’’**ti āha. Tattha lokiyasammādiṭṭhiyā ṭhiti āsavakkhayādhigamassa ṭhānaṃ kilesāvaraṇābhāvassa kāraṇattā. Sā hi tasmiṃ sati na hoti, asati ca hoti. Etena tassā aṭṭhitiyā tassa aṭṭhānatā vuttā eva. Nesaṃ veneyyasattānaṃ. Dhātuvemattadassanatoti kāmadhātuādīnaṃ pavattibhedadassanato. Yadaggena dhātuvemattaṃ jānāti, tadaggena cariyāvisesampi jānāti. Dhātuvemattadassanatoti vā dhammadhātuvemattadassanato. Sabbāpi hi cariyā dhammadhātupariyāpannā evāti. Payogaṃ anādiyitvāpi santatimahāmattādīnaṃ (dha. pa. 142) viya. Dibbacakkhuñāṇānubhāvato pattabbenāti ettha dibbacakkhunā parassa hadayavatthusannissayalohitavaṇṇadassanamukhena tadā pavattamānacittajānanatthaṃ parikammakaraṇaṃ nāma sāvakānaṃ, tañca kho ādikammikānaṃ, yato dibbacakkhuānubhāvato cetopariyañāṇassa pattabbatā siyā, buddhānaṃ pana yadipi āsavakkhayañāṇādhigamato pageva dibbacakkhuñāṇādhigamo, tathāpi tathā parikammakaraṇaṃ natthi vijjāttayasiddhiyā sijjhanato. Sesābhiññāttaye cetopariyañāṇaṃ dibbacakkhuñāṇādhigamena pattanti ca vattabbataṃ labhatīti tathā vuttanti daṭṭhabbaṃ.

「逐語の解説をなして理解されるべきである」と結びつける。煩悩の覆いとは決定邪見であり、煩悩の覆いの非存在は漏尽の獲得の処(道理)であり、その存在は非処(非道理)であり、非獲得にとってはそれら双方が順に非処と処である、とそこでの理由を示して**「世間の……中略……見解によっても」**と仰せられた。そこにおいて世間の正見の存続は、煩悩の覆いがないことの原因であるがゆえに漏尽の獲得の処である。実にそれはそれがあるときには存在せず、ないときに存在する。これによってその不存続がそれの非処であることが説かれたのである。「彼ら教化されるべき有情たちの」。「界の多様性を見ることによって」とは、欲界などの働きの差異を見ることによって。界の多様性を知る究極において、行状の特殊性をも知る。あるいは「界の多様性を見ることによって」とは、法界の多様性を見ることによって。実にすべての行状は法界に包摂されているからである。「方便を取らなくても」とは、サンタティ大勝相などのように。「天眼智の威力によって達せられるべきものによって」において、天眼によって他者の心臓の依処に依存する血液の色を見ることによってそのとき働いている心を知るための遍作をなすことは弟子たちのものであり、それも初心の者たちのものであって、それによって天眼の威力から他心智の獲得があり得るのである。しかし仏陀たちには、漏尽智の獲得よりも前に天眼智の獲得があるとしても、三明の成就によって成就するがゆえにそのような遍作をなすことはない。残りの三神通において他心智は天眼智の獲得によって達せられたと語る資格を得ることから、そのように説かれたと見なされるべきである。

Puna evarūpiṃ vācaṃ na vakkhāmīti cittaṃ uppādento taṃ vācaṃ pajahati nāma. Vācāya pana so attho pākaṭo hotīti **‘‘vadanto’’**ti vuttaṃ. Diṭṭhiṃ na gaṇhissāmīti diṭṭhiggāhapaṭikkhepo. Diṭṭhiyā anuppādanaṃ pajahanamevāti āha **‘‘pajahanto’’**ti. So ariyūpavādī niraye ṭhapitoyeva, nāssa nirayūpapattiyā koci vibandho ekaṃsiko ayamatthoti adhippāyo.

「二度とこのような言葉を語るまい」と心を生じることが、その言葉を捨てるということである。言葉によってその意味が明らかになることから**「語りつつ」**と説かれた。「見解を把持しない」とは見解の把握の拒絶である。見解を生じさせないことが捨てることそのものであることから**「捨てつつ」**と仰せられた。その聖者誹謗者はまさに地獄に投げ込まれたようであり、彼にとって地獄への再生には何の障害もなく、これは決定的な意味であるという意図である。

Assāti ekaṃsikabhāvassa. Sikkhāhi sīlasamādhipaññāhi, tadatthāya vipassanāya ca vinā aññārādhanassa asambhavato **‘‘lokiyalokuttarā sīlasamādhipaññā veditabbā’’**ti vatvā puna āsannatare sīlādike dassento **‘‘lokuttaravaseneva vinivattetumpi vaṭṭatī’’**ti āha, tasmā aggamaggapariyāpannā sīlādayo veditabbā. Aggamaggaṭṭhassa hi diṭṭheva dhamme ekaṃsikā aññārādhanā, itaresaṃ anekaṃsikāti. Sampajjanaṃ sampadā, nipphattīti attho, tasmā evaṃsampadanti evaṃavirajjhanakanipphattikanti vuttaṃ hoti. Tenāha **‘‘imampi kāraṇa’’**ntiādi. Tattha kāraṇanti yutti. Tatrāyaṃ yuttiniddhāraṇā ‘‘nirayūpago ariyūpavādī tadādāyassa avijjamānato seyyathāpi micchādiṭṭhī’’ti. Ettha ca ‘‘taṃ vācaṃ appahāyā’’tiādivacanena tadādāyassa appahānena ca ariyūpavādo antarāyiko anatthāvaho ca, pahānena pana accayaṃ desetvā khamāpanena anantarāyiko atthāvaho ca yathā taṃ vuṭṭhitā desitā ca āpattīti dasseti.

「彼の」とは決定的な状態の。「学処によって」とは戒・定・慧によってであり、そのための観なしには究極の知の達成はあり得ないことから、**「世間・出世間の戒・定・慧が理解されるべきである」**と語り、再びより直接的な戒などを示すために**「出世間の力によってのみ転じることも妥当である」**と仰せられた。それゆえに最上の道に包摂される戒などが理解されるべきである。実に最上の道に留まる者には現世において決定的な究極の知の達成があり、他の者たちには決定的ではないからである。成就することが成就であり、達成という意味である。それゆえに「このような成就を」とは、このように違犯することなき達成を持つものを、と説かれたことになる。それゆえに**「この理由をも」**等と仰せられた。そこにおいて「理由」とは論理のことである。そこでの論理の決定は、「聖者誹謗者は、それの受持が存在しないことから、邪見の者のように地獄に行く」ということである。そしてここにおいて「その言葉を捨てずに」などの言葉によって、それの受持を捨てないことによって聖者誹謗は障害となり無益をもたらし、捨てることによって過失を告白し謝罪することによって障害とならず有益をもたらすことは、あたかも出罪され告白された罪のようである、と示している。

Dasabalañāṇavaṇṇanā niṭṭhitā.

十力智の注釈を終わる。

Catuvesārajjañāṇavaṇṇanā

四無畏智の注釈

150. Byāmohabhayavasena (a. ni. ṭī. 2.4.8) saraṇapariyesanaṃ sārajjanaṃ sārado, byāmohabhayaṃ, vigato sārado etassāti visārado, tassa bhāvo vesārajjaṃ. Taṃ pana ñāṇasampadaṃ pahānasampadaṃ desanāvisesasampadaṃ khemaṃ nissāya pavattaṃ catubbidhaṃ paccavekkhaṇañāṇaṃ. Tenāha **‘‘catūsu ṭhānesū’’**tiādi. Dassitadhammesūti vuttadhammesu. Vacanamattameva hi tesaṃ, na pana dassanaṃ tādisasseva dhammassa abhāvato. Bhagavatā eva vā ‘‘ime dhammā anabhisambuddhā’’ti parassa vacanavasena dassitadhammesu. ‘‘Dhammapaṭisambhidā’’tiādīsu (vibha. 718) viya dhamma-saddo hetupariyāyoti āha **‘‘sahadhammenāti sahetunā’’**ti. Hetūti ca upapattisādhanahetu veditabbo, na kārako sampāpako ca. Appamāṇanti anidassanaṃ. Nidassanañhi anvayato byatirekato pamāṇaṅgatāya ‘‘pamāṇa’’nti vuccati. Nimittanti codanāya kāraṇaṃ. Tattha codako codanaṃ karotīti kāraṇaṃ, dhammo codanaṃ karoti etenāti kāraṇaṃ. Tenāha **‘‘puggalopī’’**tiādi. Khemanti kenaci appaṭibandhiyabhāvena anupaddutataṃ.

150. 惑乱と恐怖の力によって帰依を求めること、恥じらうこと、それが「サーラダ(臆病・羞恥)」であり、惑乱と恐怖のことである。彼においてこのサーラダが離れ去っているゆえに「無畏者(ヴィサーラダ)」であり、その状態が「無畏(ヴェーサーラッジャ)」である。それは、智の円満、断の円満、説法の勝れた円満、そして安穏に依拠して生じる四種の省察智である。それゆえに「四つの処において」などと言われた。「示された諸法において」とは、説かれた諸法においてという意味である。実に、彼ら[外道]にとっては単なる言葉だけであって、(実体としての)指示ではない。そのような法そのものが存在しないからである。あるいは、世尊によって「これらの法は等正覚されていない」という他者の言葉に基づいて示された諸法においてである。「法無礙解」などの場合と同様に、「法(ダンマ)」という語は原因(因)の同義語であるから、「正しい法によってとは、原因をもって」と言われた。そして「原因(ヘートゥ)」とは、論証を成立させる原因(理由・論拠)と知るべきであり、造作者や到達させる者ではない。「無量(証拠なし)」とは、実例(証示)がないことである。実に、実例は順応と排他によって証拠の域に達するので「証拠(量)」と呼ばれる。「根拠(原因)」とは、非難の原因である。そこにおいて、非難者が非難を行うゆえに原因であり、法がこれによって非難をなすゆえに原因である。それゆえに「補特伽羅もまた」などと言われた。「安穏」とは、何ものによっても妨げられない状態であることによる、災難のなさである。

Antarāyo etesaṃ atthi, antarāyevā yuttāti antarāyikā. Evaṃbhūtā pana te yasmā antarāyakarā nāma honti, tasmā āha **‘‘antarāyaṃ karontīti antarāyikā’’**ti. Asañcicca vītikkamo na tathā sāvajjoti katvā vuttaṃ **‘‘sañcicca vītikkantā’’**ti. Satta āpattikkhandhātiādi nidassanamattaṃ itaresampi catunnaṃ ‘‘antarāyikā’’ti vuttadhammānaṃ tabbhāve byabhicārābhāvato. Idha pana methunadhammo adhippetoti idaṃ aṭṭhuppattivasena vuttaṃ ariṭṭhasikkhāpadaṃ (pāci. 417-422) viya. Yasmā taṅkhaṇampi kāmesu (a. ni. ṭī. 2.4.8) ādīnavaṃ disvā viratto (a. ni. ṭī. 2.4.8) hoti ce, visesaṃ adhigacchati, na kāmesu āsatto, tasmā vuttaṃ **‘‘methunaṃ…pe… antarāyo hotī’’**ti. Tattha yassa kassacīti na kevalaṃ pabbajitasseva, atha kho yassa kassaci. Tathā hi vuttaṃ ‘‘methunamanuyuttassa, mussatevāpi sāsana’’nti. Tasmiṃ aniyyānikadhammeti tasmiṃ parena parikappitaaniyyānikadhammanimittaṃ. Nimittatthe hi idaṃ kammasaṃyoge bhummaṃ.

これらに「障害(アンタラーヤ)」がある、あるいは障害に結びついているゆえに「障害となるもの(アンタラーイカー)」である。このように生じたそれらは実に障害をなすものであるから、「障害をなすゆえに『障害となるもの』である」と言われた。故意でない違反はそれほど罪過が多くないとして、「故意に違反した」と言われた。「七つの犯聚」などは単なる例示にすぎず、他の四種の「障害となるもの」と説かれた諸法においても、その状態に相違がないからである。しかしここでは婬欲法が意図されているのであり、これはアリッタの戒の制定(波逸提417-422)のように、事件の生起に基づいて説かれたのである。実に、その瞬間においても諸々の欲望に過患を見て離欲するならば、勝れた境地に達するのであり、諸々の欲望に執着していては達しない。それゆえに「婬欲は……略……障害となる」と言われた。その中で「いかなる者であれ」とは、単に出家者だけでなく、実にいかなる者であれということである。そのように「婬欲に耽る者には、教えさえも失われる」と説かれているからである。「その出離に至らぬ法において」とは、他者によって構想された「出離に至らぬ法」という根拠において、という意味である。実に根拠の義において、この業の結合における処格(第七格)が用いられている。

Catuvesārajjañāṇavaṇṇanā niṭṭhitā.

四無畏智の注釈を終わる。

Aṭṭhaparisavaṇṇanā

八部衆の注釈

151. Purisassa sūratarabhāvo nāma saṅgāme pākaṭo hoti, na gehe nisinnakāle, evaṃ vesārajjañāṇassa ānubhāvo paṇḍitaparisāsu yattha katthacīti dassento **‘‘vesārajjañāṇassa baladassanattha’’**nti āha. Sannipatitvā nisinnaṭṭhānanti ṭhānasīsena sannipatitakhattiyaparisameva dasseti. Eseva nayo sabbatthāti atidesena āvibhāvitamatthaṃ dassetuṃ **‘‘mārakāyikāna’’**ntiādi vuttaṃ sadisatthavisayattā atidesassa. Yathā hi khattiyānaṃ samūho khattiyaparisāti ayamattho labbhati, na evaṃ ‘‘māraparisā’’ti ettha, mārassa parisāti pana māraparisāti ayamattho adhippeto. Tenāha **‘‘mārakāyikānaṃ…pe… na mārāna’’**nti. Mārakāyikānanti mārapakkhiyānaṃ. Uggaṭṭhānadassanavasenāti sārajjitabbaṭṭhānadassanavasena, evaṃ uggā khattiyā attano puññatejenāti adhippāyo. Brāhmaṇā tīsu vedesūti idaṃ itaresaṃ avisayadassanavasena vuttaṃ. Vede sajjhāyantāpi hi khattiyā vessā ca tadatthavicāraṇāya yebhuyyena asamatthā evāti. Kasmā panettha yāmādiparisā na gahitāti? Bhusaṃ kāmābhigiddhatāya yonisomanasikāravirahato. Yāmādayo hi uḷāruḷāre kāme paṭisevantā tatthābhigiddhatāya dhammassavanāya sabhāvena cittampi na uppādenti, mahābodhisattānaṃ pana buddhānañca ānubhāvena ākaḍḍhiyamānā kadāci tesaṃ payirupāsanādīni karonti tādise mahāsamaye. Teneva hi vimānavatthudesanāpi tannimittā bahulā nāhosi. Manussānaṃ vasenāyaṃ katā.

151. 男性の勇猛なありさまは戦場において顕著となるのであり、家の中に座っている時ではない。このように無畏智の威徳は智者の会衆においてどこであれ現れることを示すために、「無畏智の力を示すために」と言われた。「集まって座った場所」とは、場所を主として集まった刹帝利の会衆そのものを示している。「この方法がすべての箇所にあてはまる」という類推(準用)によって明らかにされた意味を示すために、「魔の眷属の」などと言われた。類推とは同等の意味の領域に及ぶからである。実に、刹帝利の集まりが「刹帝利の会衆」であるというこの意味が得られるように、「魔の会衆」においてそのようには得られず、魔の会衆とは「魔の眷属の集まり」というこの意味が意図されている。それゆえに「魔の眷属の……略……魔(単体)の会衆ではない」と言われた。「魔の眷属の」とは、魔の味方の者たちのことである。「高慢な境地を示すことによって」とは、臆病になりやすい境地を示すことによってであり、このように刹帝利たちは自らの福徳の威光によって高慢である、という意味である。「婆羅門は三ヴェーダにおいて」とは、他の者たち[刹帝利など]の領域外であることを示すために言われた。実に、ヴェーダを読誦する者であっても、刹帝利や吠舎はその意味を考察することにおいてはほとんど無能であるからである。なぜここで夜摩天などの会衆が含まれていないのか。諸々の欲望に強く耽溺しているために、如理作意(正しい思惟)を欠いているからである。実に夜摩天などは、極めて広大で豊かな欲望を享受し、そこに耽溺しているがゆえに、正法を聞こうとする心を本来起こすことさえない。しかし、大菩薩や諸仏の威徳によって引き寄せられて、そのような大集会において時に彼らに親近することなどを行う。それゆえに、天宮事の教説も彼らを機縁としては多くなされなかった。これは人間たちのために説かれたのである。

Paracakkavāḷesu ca manussānaṃ visesādhigamo natthīti pucchati **‘‘kiṃ pana bhagavā aññāni cakkavāḷānipi gacchatī’’**ti. Itaro yadipi tesaṃ ariyadhammādhigamo natthi, vāsanāya pana tattha gantvā dhammaṃ desetīti dassento **‘‘āmagacchatī’’**ti āha. Keyūraṃ nānāvidharatanaparisibbitasuvaṇṇajālavinaddhaṃ bhujābharaṇaṃ. Aṅgadaṃ nānāgandhagandhitaṃ, kevalaṃ vā suvaṇṇamayaṃ bāhuvalayaṃ. Chinnassarāti dvidhābhūtassarā (dī. ni. ṭī. 2.172) gaggarassarāti gaggarikāya viya gaggarāyamānakharassarā (dī. ni. ṭī. 2.172; a. ni. ṭī. 3.8.69). Bhāsantaranti tesaṃ bhāsaṃ (dī. ni. ṭī. 2.172; a. ni. ṭī. 3.8.69) sandhāyāha. ‘‘Vīmaṃsā **uppajjatī’’**ti saṅkhepato vuttaṃ vivarituṃ **‘‘idaṃ vuttaṃ hotī’’**tiādi vuttaṃ.

他の世界(他輪囲山)において人間たちに勝れた境地の獲得はないのかと、「世尊は他の世界にも行かれるのか」と問うている。他方、たとえ彼らに聖法の獲得はないとしても、習気(潜在的傾向)によってそこへ行って法を説くことを示して、「実に、行かれる」と言われた。「腕輪(ケーユーラ)」とは、種々の宝玉が縫い込まれた金の網で包まれた腕の装飾品である。「腕飾り(アンガダ)」とは、種々の香が薫じられた、あるいは純金製の臂輪である。「途切れた声」とは、二つに割れたような声である。「ガラガラ声」とは、水車のようにガラガラと鳴るしゃがれた声である。「異言(他の言語)」とは、彼らの言葉を指して言っている。「『思惟が生じる』と簡潔に説かれたことを詳細に説明するために、『このように言われたのである』などと言われた。

Saṅgammāti samāgantvā. Ādito lāpo ālāpo, vacanapaṭivacanavasena samaṃ lāpo sallāpo. Sammā, samaññā vā kathā saṃkathā, saṃkathāva sākacchā.

「集まって」とは、会合してである。最初からの語らいが「話しかけ(アーラーパ)」であり、問いと答えによる均等な語らいが「対話(サンラーパ)」である。正しい、あるいは世に知られた談話が「談論(サンカター)」であり、談論こそが「議論(サーカッチャー)」である。

Aṭṭhaparisavaṇṇanā niṭṭhitā.

八部衆の注釈を終わる。

Catuyonivaṇṇanā

四生の注釈

152. Yavanti tāya sattā amissitāpi samānajātitāya missitā viya hontīti yoni. Sā pana atthato aṇḍādiuppattiṭṭhānavisiṭṭho khandhānaṃ bhāgaso pavattivisesoti āha **‘‘khandhakoṭṭhāso yoni nāmā’’**ti. Aṇḍe jātāti paṭhamāya jātiyā vasena vuttaṃ, dutiyāya pana aṇḍato, aṇḍe vā bhijjamāne jātāti evamattho veditabbo. Tenāha **‘‘abhinibbhijja jāyantī’’**ti. Vināti etehi aṇḍādīhi bāhirapaccayehi vinā. Uppatitvā viyāti uppajjanavasena patitvā viya. Bāhirapaccayanirapekkhattāyeva vā upapatane sādhukārino upapātikā, te eva idha opapātikāti vuttā. Ādi-saddena gabbhamale nibbattamahāpadumakumārādīnaṃ saṅgaho. Nijjhāmataṇhikapetānaṃ niccaṃ dukkhāturatāya kāmasevanā natthi, tasmā te gabbhaseyyakā na honti, jālavantatāya na tāsaṃ kucchiyaṃ gabbho saṇṭhāti, tasmā te opapātikāyeva saṃsedajattāyapi asambhavato. Nerayikā viyāti nidassanāpadesena tesampi opapātikattaṃ dīpeti. Avasesāti nijjhāmataṇhikanerayike ṭhapetvā avasesā vinipātikā. Yakkhānaṃ cātumahārājikatāya opapātikabhāve eva āpanne taṃ nivattetuṃ **‘‘evaṃ yakkhāpī’’**ti vuttaṃ. Tathā hi te na bhummadevā na ca vinipātikāti.

152. それによって衆生たちが混ざり合っていなくても、同種の生まれであることによって混ざり合っているかのようになるゆえに「生(胎・発生源、ヨーニ)」である。そしてそれは意味の上からは、卵生などの発生場所によって区別された諸蘊の部分的な生起の差異であるから、「蘊の区分が生と呼ばれる」と言われた。「卵において生じた」とは、最初の誕生に基づいて言われたのであり、二番目の誕生においては卵から、あるいは卵が割れる時に生じたというようにこの意味を知るべきである。それゆえに「殻を破って生まれる」と言われた。「〜なしに」とは、これらの卵などの外部の縁なしに、である。「飛び立つように」とは、生じることによって現れ落ちるかのようにである。あるいは、外部の縁に依存しないことから、正しく生じるものが「化生者(ウパパーティカ)」であり、それらがここで「化生(オーパパーティカ)」と説かれた。「など」という語によって、胎内の汚れの中に生じた大蓮華王子などの包含がなされる。渇愛に焼き尽くされた餓鬼たちには、常に苦痛に苛まれているため、情欲の交わりがない。それゆえに彼らは胎生ではなく、体が網のようになっているため、その腹の中に胎児が留まることもない。それゆえに彼らは化生だけであり、湿気から生じることもあり得ないからである。「地獄の者たちのように」とは、例示の表現によって彼らもまた化生であることを示している。「残りの者たち」とは、渇愛に焼き尽くされた餓鬼と地獄の者たちを除いた、残りの悪趣に堕ちた者たちである。夜叉たちが四大王衆天に属することから化生であることのみに帰着したとき、それを否定するために「このように夜叉たちもまた」と言われた。実に彼らは地居天でもなく、悪趣に堕ちた者たちでもないからである。

Catuyonivaṇṇanā niṭṭhitā.

四生の注釈を終わる。

Pañcagativaṇṇanā

五趣の注釈

153. Gantabbāti upapajjitabbā. Yathā hi kammabhavo paramatthato asatipi kārake paccayasāmaggiyā siddho taṃsamaṅginā santānalakkhaṇena sattena katoti voharīyati, tathā upapattibhavalakkhaṇā gatiyo paramatthato asatipi gamake taṃtaṃkammavasena yesaṃ tāni kammāni, tehi gantabbāti voharīyantīti. Evaṃ saddatthato gatiṃ dassetvā atthuddhāranayenapi taṃ dassetuṃ **‘‘apicā’’**tiādi vuttaṃ. Yesu nirayādibhedesu upapattibhavesu gati-saddo nirūḷho, tato aññatthāpi gatisaddappavatti atthi, taṃ ekena gati-saddena visesetvā āha **‘‘gatigatī’’**ti yathā ‘‘dukkhadukkhaṃ, (saṃ. ni. 4.327) rūparūpa’’nti (visuddhi. 2.449) ca. Uppādāvatthāya gamanaṃ upagamananti **‘‘nibbattigatī’’**ti vuttā. Gatinti cittagatiṃ. Tenāha **‘‘ajjhāsayagati nāmā’’**ti, ajjhāsayappavattīti attho. Tadaṭṭhakathāyaṃ (ma. ni. aṭṭha. 2.503) pana ‘‘gatinti nipphatti’’nti attho vutto. Brahmanimantanasutte (ma. ni. 1.503) hi ayaṃ pāḷīti. Jutinti ānubhāvaṃ. Vibhavoti vināso. So hi vigamoti atthena gati. Teneva nibbānaṃ arahato gatīti (pari. 339) anupādisesanibbānaṃ arahato gati vigamo vibhavoti anekatthattā dhātūnaṃ. Dveyeva gatiyoti dveva nipphattiyoti atthoti āha **‘‘ayaṃ nipphattigati nāmā’’**ti.

153. 「赴くべきもの」とは、生まれるべきものである。実に業有は勝義においては行為者が存在しなくても、諸条件の集まりによって成就し、それ具備する相続を特徴とする衆生によってなされたと世俗で言われるように、受生有を特徴とする諸趣は、勝義においては赴く者が存在しなくても、それぞれの業に従って、それらの業を有する者たちによって赴くべきものとして世俗で言われるのである。このように言葉の意味から趣を示し、意味を抽出する方法によってもそれを示すために「さらにまた」などと言われた。地獄などの区別された受生有において「趣(ガティ)」という語が慣用されているが、それ以外の意味においても「趣」という語の用法がある。それを一つの「趣」という語で修飾して、「趣の趣(ガティガティ)」と言われた。それは「苦苦」や「色色」のようなものである。生起の状態への移行、すなわち到達を「生起の趣」と言う。「趣」とは心の趣(心の傾向)である。それゆえに「意趣の趣と呼ばれる」と言われた。意向の生起という意味である。しかしその注釈書(『中阿含注』)においては、「趣とは成就である」と意味が説かれている。実に梵天勧請経においてこの聖典の文があるからである。「光彩」とは威力のことである。「滅亡(ヴィバヴァ)」とは壊滅である。それは実に「離去」という意味における「趣」である。それゆえに「涅槃は阿羅漢の趣である」と、無余涅槃は阿羅漢の趣であり、離去であり、滅亡である。語根には多義性があるからである。「二つの趣のみ」とは、二つの成就のみという意味であるから、「これは成就の趣と呼ばれる」と言われた。

Yassa uppajjati, taṃ brūhento eva uppajjatīti ayo, sukhaṃ. Natthi ettha ayoti nirayo. Tato eva ramitabbaṃ assādetabbaṃ tattha natthīti dassento āha **‘‘niratiatthena nirassādaṭṭhena nirayo’’**ti. Tiriyaṃ añcitāti devamanussādayo viya uddhaṃ dīghā ahutvā tiriyaṃ dīghābhi attho. Pakaṭṭhato sukhato ayanaṃ apagamo peccabhāvo, taṃ peccabhāvaṃ pattānaṃ visayoti petayonimeva vadati. Manaso ussannattāti satisūrabhāvabrahmacariyayogyatādiguṇavasena upacitamānasatāya ukkaṭṭhaguṇacittatāyāti atto. Ayaṃ panattho nippariyāyato jambudīpavāsīvasena veditabbo. Yathāha – ‘‘tīhi, bhikkhave, ṭhānehi jambudīpikā manussā uttarakuruke manusse adhiggaṇhanti deve ca tāvatiṃse. Katamehi tīhi? Sūrā satimanto idha brahmacariyavāso’’ti (a. ni. 9.21). Tehi pana samānarūpāditāya saddhiṃ parittadīpavāsīhi itaramahādīpavāsinopi manussāteva paññāyiṃsu. Lokiyā pana ‘‘manuno apaccabhāvena manussā’’ti vadanti. Ayamettha saṅkhepo, vitthāro pana paramatthadīpaniyaṃ vimānavatthusaṃvaṇṇanāyaṃ (vi. va. aṭṭha. 3) vuttanayena gahetabbo. Ānubhāvehīti devānubhāvasaṅkhātehi iddhivisesehi. Tattha kāmā devā kāmaguṇehi ceva iddhivisesehi ca itare iddhiviseseheva dibbanti kīḷanti jotanti, saraṇanti vā gammanti, abhitthaviyantīti vā devāti.

それが生じる者において、それを増大させつつ生じるがゆえに「アヤ(利・楽)」であり、幸福のことである。ここにアヤ(幸福)がないゆえに「地獄(ニラヤ)」である。そのゆえに楽しむべきもの、味わうべきものがそこには存在しないことを示して、「楽しみがないという意味、味わいがないという意味で地獄である」と言われた。「横に曲がって歩む」とは、天人や人間などのように上に長く直立するのではなく、横に長いという意味である。卓越した幸福からの移行、離脱が死後の境遇(他界)であり、その死後の境遇に達した者たちの領域を指して、餓鬼の発生源そのものを言っている。「心が優れていることによって」とは、念(気づき)の勇猛さや梵行に適することなどの徳に基づいて積み重ねられた心を持つことによって、勝れた徳の心を持つことによって、という意味である。しかしこの意味は、厳密には閻浮提の居住者に基づいて知られるべきである。次のように説かれている通りである。「比丘たちよ、閻浮提の人間たちは三つの処において、鬱単越の人間たちと三十三天の神々を超越している。いかなる三つか。勇猛であること、念があること、ここに梵行の生活があることである」と。しかし彼らと同等の容姿などを持つことによって、小島の住民たちとともに、他の大島の住民たちもまた「人間」として知られた。しかし世間の人々は「マヌの子孫であることによって人間(マヌッサ)である」と言う。ここでの概要はこれくらいであり、詳細については『勝義解説』(天宮事註)に説かれた方法に従って理解されるべきである。「威力によって」とは、神々の威力と呼ばれる神通の卓越性によってである。その中で、欲界の神々は欲の属性と神通の卓越性によって、他の神々は神通の卓越性のみによって、輝き、戯れ、光り輝く。あるいは帰依処として赴かれる、あるいは賞賛されるがゆえに「神々(デーヴァ)」である。

Tiracchānayoniñcātiādīsūti ettha tiracchānayonipettivisayaggahaṇena khandhānaṃ eva gahaṇaṃ tesaṃ tādisassa paricchinnassa okāsassa abhāvato. Yattha vā te araññasamuddapabbatādike nibaddhavāsaṃ vasanti, tādisassa ṭhānassa vasena okāsopi gahetabbo. Nirayūpagādīhi sattehi maggitabbato maggo paṭipajjitabbā paṭipadā cāti taṃ taṃ kammameva vuttanti āha **‘‘ubhayenapī’’**tiādi. Yathā ca paṭipannoti iminā tassa kammassa katūpacitākāramāha. Ettha ca nirayagāmiñca maggaṃ nirayagāminiñca paṭipadanti iminā sādhāraṇato nirayasaṃvattaniyaṃ kammaṃ vatvā puna taṃ taṃ santānapatitatāya asādhāraṇataṃ dassetuṃ **‘‘yathāpaṭipanno’’**tiādi vuttanti daṭṭhabbaṃ. Vinipatantīti vivasā, virūpaṃ vā nipatanti. Kasmā panettha pañcagatiparicchedakañāṇaṃ dassento bhagavā ‘‘nibbānañcāha’’ntiādimāhāti anuyogaṃ sandhāyāha **‘‘idaṃ panā’’**tiādi. Na hi bhagavā attano buddhasubuddhataṃ vibhāvento sāvasesaṃ katvā desanaṃ deseti.

「傍生(畜生)の発生源を……などにおいて」とは、ここで畜生の発生源と餓鬼の領域を挙げることによって諸蘊そのものを把握しているのであり、彼らには特定された限定的な空間が存在しないからである。あるいは、彼らが森林や大海や山岳などに常住の住処として住んでいるような場所に基づいて、空間も把握される。地獄に赴く者などの衆生によって求められるべきものであるから道であり、実践されるべきものであるから実践道であり、それぞれの業そのものが説かれていることを示して、「両方によっても」などと言われた。「そしてどのように実践したか」によって、その業の作られた様態、積み重ねられた様態を述べている。そしてここで「地獄に至る道と、地獄に至る実践道」によって一般的に地獄へと導く業を説き、さらにそれが個々の相続に属していることによって特殊性を示すために「実践した通りに」などと言われたと見るべきである。「堕ちる」とは、制御を失って、あるいは無残な姿で落ちることである。なぜここで世尊は五趣を識別する智を示すにあたって「涅槃を私は知る」などと説かれたのかという問いを指して、「しかしこれは」などと言われた。実に世尊は自らの仏としての正しい覚りを明らかにするにあたって、余すところを残して教説を説かれることはないからである。

Pañcagativaṇṇanā niṭṭhitā.

五趣の注釈を終わる。

Ñāṇapavattākāravaṇṇanā

智の生起の様態の注釈

154. Ñāṇappavattākāranti ñāṇassa pavattiākāraṃ, ñāṇassa vā pavattipakāraṃ. Ekantadukkhāti ekantena dukkhā accantadukkhā. Tā pana sabbakālaṃ dukkhā sukhālayenapi asammissāti dassento āha **‘‘niccadukkhā nirantaradukkhā’’**ti. Bahalāti atanukā, mahantāti attho. Tibbāti vā tikhiṇā. Kharāti kakkhaḷā. Kaṭukāti vā aniṭṭhā. Kassati khaṇīyatīti kāsu, āvāṭo. Kasīyati cīyatīti kāsu, rāsi. Phunantīti dvīhi hatthehi aṅgārāni ukkhipitvā paṭivātaṃ ophunanti, tena tesaṃ sakalasarīraṃ ḍayhati. Tenāha **‘‘paridaḍḍhagattā’’**ti. Purisappamāṇaṃ porisaṃ. Ekapathenevāti ekamaggabhūteneva. Anukkamanīyenāti ukkamituṃ apakkamituṃ asakkuṇeyyena.

154. 「智の生起の様態」とは、智の働く様態、あるいは智の生起のあり方である。「全くの苦」とは、一向に苦であり、極限の苦である。それらは常に苦であり、幸福の片鱗とも混ざり合っていないことを示して、「不断の苦、間断なき苦」と言われた。「厚い」とは薄くないことであり、大きいという意味である。あるいは「激しい」とは鋭いことである。「粗い」とは硬いことである。あるいは「辛辣な」とは好ましくないことである。掘られるゆえに「カース(穴・坑)」であり、落とし穴のことである。積み上げられるゆえに「カース(塚)」であり、山積みのことである。「撒き散らす」とは、両手で炭火をすくい上げて風上に向かって撒き散らすことであり、それによって彼らの全身が焼かれる。それゆえに「全身を焼き尽くされた」と言われた。「人間の身の丈(ポーリサ)」とは、成人男子の身の丈である。「一本の道によってのみ」とは、一本の道となったものによってのみである。「踏み外すことのできない」とは、避けることも離れることもできない、という意味である。

Nanu ca dibbacakkhuñāṇaṃ paccuppannavaṇṇārammaṇaṃ, tena kathaṃ rūpantarasamaṅgiṃ niraye nibbattasattaṃ ‘‘ayaṃ so’’ti jānātīti codanaṃ sandhāyāha **‘‘tattha kiñcāpī’’**tiādi. Yathākammūpagañāṇena ‘‘ayaṃ so’’ti sallakkheti, tassa pana dibbacakkhuānubhāvena pattabbattā ‘‘dibbacakkhubalaṃ nāma etanti vuttaṃ.

天眼智とは現在の色(物質的形態)を対象とするものではないのか。それによってどうして別の姿態を備えて地獄に生じた衆生を「これがかの者である」と知るのか、という非難を指して、「そこにおいてたとえ……としても」などと言われた。如業報智(業に従って赴くことを知る智)によって「これがかの者である」と識別するのであるが、それは天眼の威力によって得られるべきものであるため、「これは天眼の力と呼ばれる」と言われた。

Purimanayenevāti ‘‘gūthakūpo viya tiracchānayoni daṭṭhabbā’’tiādinā aṅgārakāsupamāyaṃ vuttanayeneva. Dukkhā vedanā bahulā etāsūti dukkhabahulā. Bahalapattapalāsoti aviraḷatanuvipulapaṇṇo. Sukhaparibhogaṃ mahāpāsādaṃ dassetuṃ **‘‘dīghapāsādo’’**ti vuttaṃ caturassapāsādādīnaṃ khuddakattā. Uṇṇāmayaattharaṇenāti uṇṇāmayalohitaattharaṇena. Uttaraṃ uparibhāgaṃ chādetīti uttaracchado, vitānaṃ. Taṃ pana lohitavitānaṃ idhādhippetanti **‘‘rattavitānenā’’**ti vuttaṃ.

「以前の方法によってまさに」とは、「糞尿の穴のように畜生の生を見るべきである」などと炭火の穴の譬えにおいて説かれた方法によってまさに、という意味である。苦しい感受(苦受)がそれらにおいて多いゆえに「苦の多い」である。「繁茂した葉を持つ」とは、まばらでなく薄くもない豊かな葉を持つことである。快適に享受される大宮殿を示すために「細長い宮殿」と言われた。正方形の宮殿などは小さいからである。「羊毛の敷物によって」とは、羊毛の赤い敷物によってである。上部を覆うゆえに「天蓋(ウッタラッチャダ)」であり、天幕のことである。しかしここでは赤い天幕が意図されているため、「赤い天幕によって」と言われた。

Aparabhāgayojanāti pāḷiyaṃ ‘‘aparena samayenā’’ti vuttassa aparabhāgassa yojanā. Sā pana ekadesena purimabhāge vutte eva suviññeyyā hotīti **‘‘yathā so’’**tiādimāha. Maggāruḷhamevāti maggaṃ upagatamattameva.

「後半の結合」とは、聖典において「別の時に」と説かれた後半の接続のことである。しかしそれは一部が前半において説かれてこそ容易に理解されるものであるから、「彼がちょうど……のように」などと言われた。「道に登っただけの」とは、道に入ったばかりのという意味である。

Niyamābhāvāti ‘‘dibbacakkhunāva passatī’’ti niyamassa abhāvā. **‘‘Dibbacakkhunāpi passissatī’’**ti idaṃ na anuttarasukhānubhavanassa dibbacakkhugocarattā vuttaṃ, anāgatassa pana tassa dibbacakkhuparibhaṇḍabhūtena anāgataṃsañāṇena dassanamevāti kāraṇūpacārena vuttaṃ. Pāḷiyaṃ pana ‘‘cetasā ceto paricca pajānāmi’’cceva vuttaṃ. **‘‘Atthato pana nānā hotī’’**ti saṅkhepato vuttamatthaṃ vivarituṃ **‘‘devalokasukhaṃ hī’’**tiādiṃ vatvā yathādassitaupamāhipi ayamattho pākaṭo evāti dassento **‘‘upamāyampī’’**tiādimāha. Gotrabhuñāṇuppādato paṭṭhāya nirodhaṃ passitvā uppannamaggaphalapaccavekkhaṇavasena ceva parato phalasamāpattisamāpajjanavasena ca ariyasāvako nirodhe sayito viya hoti tadapassayeneva pavattanatoti āha **‘‘nirodhasayanavaragata’’**nti. Tenāha **‘‘nibbānā…pe… passatī’’**ti.

「決定がないことから」とは、「天眼によってのみ見る」という決定がないことからである。「天眼によっても見ることになる」とは、無上の楽の享受が天眼の対象であることから言われたのではなく、未来のそれ[楽]を天眼の付属物である未来分智によって見ることそのものを、原因の比喩的表現によって言われたのである。聖典においては「心をもって心を見抜いて知る」とだけ説かれている。「意味においては異なる」と簡潔に説かれた意味を展開するために「天界の楽は実に……」などと述べて、示された通りの譬えによってもこの意味は極めて明白であることを示すために「譬えにおいても」などと言われた。種姓智の生起以降、滅(涅槃)を見て、生じた道果の省察に基づいて、また後には果定に入定することに基づいて、聖弟子は滅(涅槃)において横たわっているかのようになる。それに依拠してのみ活動するからである。それゆえに「卓越した滅の寝所に入った」と言われた。それゆえに「涅槃から……略……見る」と言われた。

Ñāṇapavattākāravaṇṇanā niṭṭhitā.

智の生起の様態の注釈を終わる。

Dukkarakārikādisuddhivaṇṇanā

苦行等の清浄の注釈

155. Pucchānusandhiādianusandhittayato aññattā **‘‘pāṭiyekkaṃ anusandhivasenā’’**ti vuttaṃ. Na kevalaṃ ‘‘dukkarakārikāya suddhi hotī’’ti evaṃladdhiko eva, atha kho dukkaracārīsu abhippasannoti dassetuṃ **‘‘apicā’’**tiādi vuttaṃ. Catukuṇḍikoti dvīhi pādehi hatthehīti catūhi aṅgehi kuṇḍanako āhiṇḍanako. Chamānikiṇṇanti bhūmiyaṃ khittaṃ. Bhakkhasanti āhāraṃ.

155. 質問の接続などの三種の接続とは異なるため、「個別の接続に基づいて」と言われた。単に「苦行によって清浄がある」という見解を持つだけでなく、実に苦行の実践者たちに深く信順していることを示すために「さらにまた」などと言われた。「四つ這い(チャトゥクンディカ)」とは、二つの足と手という四つの肢で這う者、歩き回る者である。「地面に撒かれた」とは、大地に投げ出されたものである。「食物(バッカサ)」とは、食べ物のことである。

Macchariyamalādipāpadhammavigamanato mettādiguṇānubrūhanato ca brahmaṃ seṭṭhaṃ cariyanti brahmacariyaṃ, dānaṃ. Tathā hi taṃ bhagavatā paṇḍitapaññattaṃ vuttaṃ. Evaṃ sesesupi yathārahaṃ brahmacariyapariyāyo niddhāretvā vattabbo. Kinti kīdisaṃ. Vatanti samādinnavataṃ. Suciṇṇassāti suṭṭhu ciṇṇassa puññassa. Iddhīti ānubhāvo. Jutīti vatthābharaṇobhāsasamujjalā sarīrappabhā. Balavīriyūpapattīti kāyabalena ceva ussāhena ca samannāgamo.

物惜しみの汚れなどの悪法が離れ去ることによって、また慈しみなどの徳を増大させることによって、清浄で最上の行いであるゆえに「梵行(ブラフマチャリヤ)」であり、布施のことである。実にそれは世尊によって智者の規定されたものと説かれている。このように他のものにおいても、適宜に梵行の類語を特定して述べるべきである。「いかなる」とは、どのようなものであるか。「誓戒(ヴァタ)」とは、受持された誓いのことである。「善く修められた」とは、見事に修められた福徳のことである。「神通(イッディ)」とは威徳である。「光彩」とは、衣服や装飾品の輝きで光り輝く身体の光明である。「力と精進の具備」とは、身体の力と熱意を兼ね備えていることである。

Tena pāṇi kāmadadoti tena addhikānaṃ upagacchantānaṃ hatthaṃ pasāretvā asayhaseṭṭhino dānaṭṭhānadassanamayena puññena idāni mayhaṃ hattho kapparukkho viya kāmadado icchiticchitadāyī, kāmadado honto ca madhussavo iṭṭhavatthuvissajjanako jāto. Tena me brahmacariyenāti tena mama yathāvuttakāyaveyyāvaṭiyakammasaṅkhātena seṭṭhacariyena. Puññanti puññaphalaṃ. Tampi hi pujjasabhāvato, uttarapadalopena vā ‘‘evamidaṃ puññaṃ pavaḍḍhatī’’tiādīsu (dī. ni. 3.80) ‘‘puñña’’nti vuccati.

「それによって手は望むものを与える」とは、それによって近づいてくる旅人たちに手を差し伸べてアサイハ長者の布施の場所を示したことから生じた福徳によって、今や私の手は如意樹のように望むものを与え、欲するものを授けるものとなり、望むものを与えるものとなって甘い蜜を流し、望ましい物を放出するものとなった、ということである。「私のその梵行によって」とは、前述の身体的奉仕の業と呼ばれる私の最上の行いによって、である。「福徳(プンニャ)」とは福徳の果報である。それもまた崇敬される性質であることから、あるいは後語の脱落によって「このようにこの福徳は増大する」などの文言において「福徳」と呼ばれる。

Pañca sikkhāpadāni samāhaṭāni pañcasikkhāpadaṃ yathā ‘‘tibhavaṃ, tisakaṭa’’nti ca. Brahmacariyasminti dhammadesanāya. Sā hi vineyyānaṃ brahmabhāvāvahanato brahmaṃ seṭṭhaṃ cariyaṃ, brahmuno vā bhagavato vācasikaṃ cariyanti ‘‘brahmacariya’’nti vuccati.

五つの学処が集められたものが「五学処」であり、「三界」や「三車」というのと同じである。「梵行において」とは、法の教説においてである。実にそれは教化されるべき者たちに清浄な境地をもたらすことから清浄で最上の行いであり、あるいは梵天である世尊の言語による行いであるゆえに「梵行」と呼ばれる。

Sahassaṃ maccuhāyinanti sahassamattā arahattasamadhigamena maccuvisayātikkamena maccupahāyino jātā. Brahmacārī bhavissāmāti ettha yena brahmacariyena te brahmacārinoti vuccanti, taṃ brahmacariyaṃ niddhāretvā āha **‘‘methunavirati brahmacariyanti vuttā’’**ti.

「千人が死神を捨て去った」とは、千人ほどが阿羅漢位の完全な獲得によって、死の領域を超越することによって、死神を捨て去る者となったということである。「私たちは梵行を実践する者となるであろう」において、いかなる梵行によって彼らが「梵行者」と呼ばれるのか、その梵行を特定して「婬欲の離絶が梵行と説かれた」と言われた。

Nātikkamāmāti na aticarāma agamanīyaṭṭhānepi itaratthāpi na vītikkamāma. Tenāha **‘‘aññatra tāhi brahmacariyaṃ carāmā’’**ti. Amhanti amhākaṃ.

「私たちは越えない」とは、行ってはならない場所においても、他の場所においても違犯しないということである。それゆえに「彼女たち以外に対して私たちは梵行を修める」と言われた。「私たちの(アムハン)」とは、私たちのものである。

Attadamanavasenāti yathāpaṭiññaṃ arahantānaṃ anukaraṇākārena pavattacittadamanavasena, manacchaṭṭhānaṃ indriyānaṃ damanenāti attho. Sikhāppattaseṭṭhacariyatāya ariyamaggo brahmacariyaṃ. Brahmaṃ seṭṭhaṃ carati etenāti brahmacariyaṃ, satthusāsanaṃ.

「自己の調伏に基づいて」とは、誓約に従って阿羅漢たちの模範のあり方に従って行われた心の調伏に基づいてであり、第六の意を含む諸根の調伏によって、という意味である。絶頂に達した最上の行いであることから、聖道が「梵行」である。これによって清浄で最上の実践をなすゆえに「梵行」であり、師の教えのことである。

Ataramānānanti na taramānānaṃ desakālaṃ udikkhantānaṃ. Phalāsāva samijjhatīti sudullabhaphalepi āsā sammāpayogamanvāya samijjhati eva. Vipakkabrahmacariyosmīti visesena nipphannapaṇītajjhāsayo paripuṇṇauḷāramanoratho. So hi seṭṭhamanosamācāratāya brahmacariyapariyāyena vutto.

「焦らない者たちには」とは、急がずに時と所を見計らう者たちには、である。「果報の望みは成就する」とは、極めて得難い果報への望みであっても、正しい実践に従うことによって成就するということである。「私は円熟した梵行の者である」とは、格別に成就した勝れた意向を持ち、広大な願いを満たした者である。実に彼は最上の意の行いであることから「梵行」の同義語で説かれたのである。

Idameva suttaṃ āgataṭṭhānanti adhippāyo tepiṭake buddhavacane idameva suttapadaṃ ‘‘vīriyaṃ brahmacariya’’nti āgataṭṭhānanti attho. Vīriyañhi tasmiṃ visaye uttamaṃ paramukkaṃsagataṃ tādisacariyāhetu cāti brahmacariyanti idha vuttaṃ. Caturaṅgasamannāgatanti catubbidhadukkarakiriyāya sādhakassa catubbidhassa attano pavattiākārassa vasena caturaṅgasamannāgataṃ.

「この経典そのものが説かれた箇所である」とは、三蔵の仏典において、まさにこの経典の文句が「精進が梵行である」と説かれた箇所であるという意味である。実に、その領域において最高で究極の極限に達した精進であり、そのような行いの原因であることから、ここで「梵行」と説かれたのである。「四肢を具備した」とは、四種の苦行を達成する自らの四種のあり方に基づいて、四つの条件を備えたということである。

Koci chinnabhinnapaṭapilotikadharo dasantayuttassa vatthassa abhāvato nicceloti vattabbataṃ labheyyāti taṃ nivattento āha **‘‘naggo’’**ti. Evaṃ akāsiṃ, evampi sattapīḷā mā ahosīti adhippāyo. Yathā ‘‘abhihaṭaṃ na sādiyāmī’’tiādi (ma. ni. 1.155) bhikkhāpariyesane ukkaṭṭhacāritādassanaṃ, evaṃ ‘‘naehi bhaddantikādibhāvopī’’ti gahetabbaṃ. Purisantaragatāyāti purisasamīpagatāya. Saṃkittīyanti etāyāti saṃkitti, gāmavāsiādīhi samudāyavasena kariyamānakiriyā. Idha pana bhattasaṃkitti adhippetāti āha **‘‘saṃkittetvā katabhattesū’’**ti. Dadanti tāyāti datti. Ekāhaṃ antarabhūtaṃ etassa atthīti ekāhikaṃ. Esa nayo sesapadesupi. Ekāhavārenāti ekāhikavārena. ‘‘Ekāhika’’ntiādinā vuttavidhimeva paṭipāṭiyā pavattabhāvaṃ dassetuṃ puna vuttaṃ. Tenāha **‘‘iti evarūpa’’**ntiādi.

ある者は、破れてちぎれたボロ布を身につけていても、縁飾りのついた布がないために「無衣(裸)」と呼ばれる資格を得るかもしれない。それを排除するために「裸の」と言われた。このように私は行ったのであり、このようにしても衆生の苦難とならないように、という意図である。「運ばれてきた施物を受け取らない」など(中部1.155)が乞食における極端な行いを示すことであるように、「『来てください、尊者よ』などの状態もまた受け取らない」と理解されるべきである。「男のそばに行った者」とは、男の近くに行った女性のことである。「それによって呼び集められる」ゆえに「呼び集め(サンキッティ)」であり、村の住民などによって集団としてなされる行為である。しかしここでは食事の呼び集めが意図されているので、「呼び集めて作られた食事において」と言われた。「それによって与える」ゆえに「給食(ダッティ)」である。一日がその間に入っているゆえに「一日おき(エーカーヒカ)」である。この方法は他の語においても同様である。「一日おきに」とは、一日おきの順序でである。「一日おき」などと説かれた方法そのものに従って実践された状態を示すために、再び説かれた。それゆえに「このように、このような形態の」などと言われた。

Erakatiṇādīni vāti erakatiṇādīni ganthitvā katanivāsanāni chavadussāni, nihīnadussānīti attho. Tantāvutānanti tantaṃ pasāretvā vītānaṃ. Pakatikaṇṭaketi salākakaṇṭake.

「エラカ草など、あるいは」とは、エラカ草などを編んで作られた下着や、死者の布、すなわち粗悪な衣服という意味である。「織機で織られたものの」とは、経糸を張って織られたもののことである。「通常の棘において」とは、竹串の棘においてである。

156. Nekavassagaṇasañjātanti anekavassasamūhasañjātaṃ. Nanu ca idāneva ‘‘sāyatatiyakampi udakorohanānuyogamanuyutto’’ti vuttaṃ, ‘‘nekavassagaṇikaṃ rajojallaṃ kāye sannicita’’nti ca, tadubhayaṃ ekasmiṃ kathaṃ sambhavatīti āha **‘‘idaṃ attano rajojallakavatasamādānakālaṃ sandhāya vadatī’’**ti. Eteneva ‘‘acelako homī’’ti vuttaacelakapaṭiññā, ‘‘sāṇānipi dhāremī’’tiādinā vuttachannakapaṭiññā, tatthāpi sāṇa-masāṇa-chavadussādi-nivattha-paṭiññā ca aviruddhāti daṭṭhabbā tasmiṃ tasmiṃ kāle tathā tathā paṭipannattā. Teti acelakā. Saṅghātanti sabbaso ghātaṃ. Tenāha **‘‘vadha’’**nti. Sīlavā nāma natthi ‘‘anabhisandhikampi pāpaṃ hotī’’ti evaṃ laddhikattā. Sīlaṃ adhiṭṭhāyāti idaṃ paṭikkamanakiriyaṃ sandhāya vuttaṃ.

156. 「長年の群れから生じた」とは、多くの年の集まりから生じたものである。「たった今『夕方にも三度、水に入る実践に専念した』と説かれたばかりではないか。そして『長年にわたり積もった垢と汚れが体に堆積した』ともある。その両方が一人の者においてどのように両立するのか」という問いに対して、「これは自らが垢と汚れをまとう誓戒を受持していた時を指して言っているのである」と言われた。これによって「私は無衣の者となる」と説かれた無衣の公言や、「麻の布をも身にまとう」などと説かれた着衣の公言、またそこにおいて麻、粗麻、死者の布などを身につけたという公言も、それぞれの時期にそれぞれのように実践したからこそ矛盾しないと見なされるべきである。「彼ら」とは、それらの無衣の外道たちである。「完全な殺害」とは、あらゆる点での殺害である。それゆえに「殺害」と言われた。持戒者と呼ばれる者は存在しない。「意図しないことも罪となる」という見解を持っているからである。「戒を堅持して」とは、後退する行為を指して言われたのである。

Pāsaṇḍapariggahaṇatthāyāti pāsaṇḍesu asārasārabhāvavīmaṃsanatthāya. Taṃ pabbajjanti ājīvakapabbajjaṃ. Vikaṭabhojaneti vikatabhojane virūpabhojane. Tenāha **‘‘apakatibhojane’’**ti.

「異端の宗派を把握するために」とは、諸々の異端の宗派において無価値か有価値かの実態を吟味するために、である。「その出家を」とは、邪命外道(アージーヴァカ)の出家をである。「異様な食物において」とは、変形した食物、醜い食物においてである。それゆえに「通常でない食物において」と言われた。

157. Bhiṃsanakatasminti bhāvasādhanabhāvī idaṃ padanti āha **‘‘bhiṃsanakatasmiṃ bhiṃsanakakiriyāyā’’**ti. ‘‘Bhiṃsanakattasmi’’nti vattabbe ekassa ta-kārassa lopo daṭṭhabbo. Yebhuyyaggahaṇaṃ lomavantavasenapi yojetabbaṃ, na lomavasenāti āha **‘‘bahutarānaṃ vā’’**tiādi.

157. 「恐ろしさにおいて」とは、状態を成立させる語であるから、「恐ろしさにおいてとは、恐ろしい行為において」と言われた。「恐ろしい状態において(ビンサナカタスミン)」と言われるべきところ、一つのタ文字の脱落と見るべきである。「大部分」という表現は、毛を持つ者たちに基づいて結合されるべきであり、毛自体に基づいてではないとして、「あるいは、より多くの者たちの」などと言われた。

Su-sadde u-kārassa o-kāraṃ katvā pāḷiyaṃ ‘‘sotatto’’ti vuttanti tadatthaṃ vivaranto **‘‘sutatto’’**ti āha. Suṭṭhu avatattoti vā sotatto. Sosinnoti etthāpi eseva nayo. Suddhivasanatthāyāti saṃsārasuddhigavesanatthāya.

「ス(善く)」という語のウ音をオ音に変えて、聖典において「ソータッタ(極熱)」と説かれたのであり、その意味を解き明かして「極めて熱せられた(スタッタ)」と言われた。あるいは、見事に熱せられたゆえに「ソータッタ」である。「干からびた」においても同様の方法である。「清浄に住するため」とは、輪廻からの清浄を探求するためという意味である。

Vihārasminti paccatte bhummavacananti āha **‘‘vihāro eva hi ‘vihārasmi’nti vutto’’**ti. Teneva cāti teneva vibhattivipallāsavasena. Evaṃ atthoti ayaṃ evaṃ liṅgavipallāsavasena attho veditabbo. Dukkhappattoti ānetvā sambandho. Sabbatthāti sukhadukkhe lābhālābhādike ca. Tulitoti tulāsadiso.

「住処において」とは、主格における処格の言葉であるから、「まさに住処そのものが『住処において』と説かれたのである」と言われた。「それゆえにまた」とは、それゆえに格の転換に基づいてである。「このような意味である」とは、このように性の転換に基づいて意味が知られるべきである。「苦に達した」と補って結びつける。「すべての処において」とは、苦楽や得失などにおいてである。「秤にかけられた」とは、天秤に似た者となったことである。

Dukkarakārikādisuddhivaṇṇanā niṭṭhitā.

苦行等の清浄の注釈を終わる。

Āhārasuddhivaṇṇanā

食物による清浄の注釈

158. Sujjhitunti saṃsārato sujjhituṃ.

158. 「清浄になるために」とは、輪廻から清浄になるためにである。

159. Āsītikapabbānīti āsītikapiṭṭhipabbāni, ‘‘kāḷapabbānī’’ti vadanti. Pabbānaṃ majjhe. Unnatunnatānīti maṃse milāte dvinnaṃ sandhīnaṃ antare vātenuddhumātadhamanījālatāya unnatāni unnatānīti. Ānisadanti ānisadaṭṭhānaṃ. Nisinnaṭṭhānanti paṃsūhi, vālikāhi vā nicitaṃ nisinnaṭṭhānaṃ. Sarapoṅkhenāti sarassa poṅkhappadesena, sarapoṅkhasaññitena vā maggena. Akkantanti akkantaṭṭhānaṃ. Takkagoḷikasadisānaṃ, sarīraghaṃsanatthaṃ kata kuruvindagoḷakānaṃ vā āvaḷi vaṭṭanāhāro. Vaṃsatoti piṭṭhivaṃsato. Maṇḍaleti bhittipādānaṃ matthake ṭhapitamaṇḍalake sīsaggena patiṭṭhahanti. Na evaṃ phāsuḷiyoti yathā yathā vuttagopānasiyo papatā tiṭṭhanti, na evaṃ bodhisattassa phāsukāpi papatā ṭhitā.

159. 「八十の節」とは、八十の背骨の節のことであり、「黒い節」とも言われる。節々の間に。「極めて隆起した」とは、肉が痩せ衰えたとき、二つの関節の間に風で膨らんだ血管の網があることによって、非常に高く隆起したという意味である。「尻の肉」とは、尻の座る場所である。「座った場所」とは、塵や砂で覆われた座った場所のことである。「矢の筈によって」とは、矢の筈の箇所によって、あるいは矢の筈と呼ばれる道によってである。「踏まれた」とは、踏みつけられた場所のことである。タッカの実のようなもの、あるいは体をこするために作られたクルヴィンダの団子のようなものの連なりが、回転する食物である。「背骨から」とは、背の骨からである。「円環において」とは、壁の柱の頭上に置かれた円木の上に、頭の先で載っている。「肋骨はそのようではない」とは、前述の垂木が落ちるように立っているのに対して、菩薩の肋骨はそのように落ちるように立っているのではない、ということである。

Okkhāyikāti avakkhāyikā, heṭṭhā hutvā ninnabhāvena paññāyamānā. Evarūpāti yathāvuttarūpā, ninnatarāti attho. Yāva piṭṭhikaṇṭakaṃ allīnā hotīti mayhaṃ udaracchavi yāva piṭṭhikaṇṭakaṃ, tāva taṃ āhacca ṭhitattā allīnā hoti udariyassa parikkhayena antānañca suṭṭhumilātatāya. Bhāriyabhāriyāti garutarā. Sahaudaracchaviṃ piṭṭhikaṇṭakaṃ, sahapiṭṭhikaṇṭakaṃ udaracchavinti yojanā. Neva nikkhamati āhārasannissayaāpodhātuyā sabbaso visukkhattā. Pūtimūlānīti lomamūlānaṃ paribrūhanake maṃse lohite ca parikkhīṇe tāni sukkhāni ṭhānato bhaṭṭhāni abhāveneva ‘‘pūtimūlānī’’ti vuttāni. Tenāha **‘‘tassa panā’’**tiādi.

「深く落ちくぼんだ」とは、下に落ち込んで窪んだ状態として知られることである。「このような」とは、前述のような姿であり、より窪んでいるという意味である。「背骨に張り付くまでに至る」とは、私の腹の皮が背骨に達するほどに、それに密着して留まっていたため、胃の中のものが尽きて腸が極めて萎縮していたことから張り付いていたのである。「極めて重い」とは、より重いことである。「腹の皮とともに背骨を、背骨とともに腹の皮を」と結合する。食物を支える水界(水分)が完全に干からびていたために、決して出てこない。「根が腐った」とは、毛根を養う肉と血が尽き果てたとき、それらが乾燥して定位置から抜け落ちたために、実質的に存在しないことから「根が腐った」と言われたのである。それゆえに「しかし彼の」などと言われた。

Adhigatāti idāni adhigatā. Yathā etarahi vipassanāpaññāya adhigatattāti iminā kiñcāpi mahābodhisattā paripākagatañāṇā vasībhūtajjhānābhiññā vipassanāya parikammaṃ karonti, yathā ca nesaṃ carimabhave vipassanācāro, na tathā tadāti dasseti. Etadevāti yaṃ yena vuttaṃ atthajātaṃ, etadeva ettha etasmiṃ pāṭhapadese yuttaṃ pubbenāparaṃ avirujjhanato. Itarathāti bhikkhūhi vuttappakārena ananurūpo siyā ‘‘imissā’’ti vuttāya aññatte.

「獲得された」とは、今や獲得されたということである。「現在の観の智慧によって獲得されたように」によって、大菩薩たちはたとえ円熟した智慧を持ち、自在となった禅定と神通を持ち、観(ヴィパッサナー)の予備的修行を行うとしても、彼らの最後の生涯における観の振る舞いのようなものは、当時は存在しなかったことを示している。「まさにこれこそが」とは、ある人によって説かれたその意味内容、まさにこれこそがここにおいて、この聖典の箇所において適切である。前後の文脈と矛盾しないからである。「そうでなければ」とは、比丘たちによって説かれたような様態においては、「これの」と説かれたことの相違において不適合となるであろう。

Āhārasuddhivaṇṇanā niṭṭhitā.

食物による清浄の注釈を終わる。

Saṃsārasuddhiādivaṇṇanā

輪廻による清浄等の注釈

160. Saṃsārenāti aparāparaṃ cavanupapajjanavasena bhavesu saṃsaraṇena. Yaṃ sandhāya vuttaṃ –

160. 「輪廻によって」とは、次から次へと死んでは生まれることによる諸生存における輪廻によってである。それを指して次のように説かれた。

‘‘Khandhānañca paṭipāṭi, dhātuāyatanāna ca;

「諸蘊の連続、ならびに界と処の連続が、

Abbocchinnaṃ vattamānā, saṃsāroti pavuccatī’’ti. (visuddhi. 2.619; dī. ni. aṭṭha. 2.95; saṃ. ni. aṭṭha. 2.2.60; a. ni. aṭṭha. 2.4.199; dha. sa. aṭṭha. nidānakathā; vibha. aṭṭha. 226; su. ni. aṭṭha. 2.523; udā. aṭṭha. 39; itivu. aṭṭha. 14, 58; theragā. aṭṭha. 1.67, 99; bu. vaṃ. aṭṭha. 58; cūḷani. aṭṭha. 6; paṭi. ma. aṭṭha. 2.1.117; visuddhi. mahāṭī. 1.127; a. ni. ṭī. 2.4.9; sārattha. ṭī. 1.1);

絶え間なく続いていくこと、これが輪廻と呼ばれる」と。

Bahukanti bahukālaṃ bahukkhattuṃ. Upapajjitvāti tattha tattha bhave nibbattitvā. Āvāsenāti tasmiṃ tasmiṃ sattāvāse āvasanena nibbattitvā jīvanena. Khandhāyeva vuttā tesaṃyeva pavattivisesassa tena tena pariyāyena vuttattā. Bahuyāgeti ajasūkaragomāyvādike bahuvidhe mahāyaññe. Bahuaggīti vācāpeyyādivasena antamaso pākayaññādivasena ca bahukepi aggī paricaraṇena.

「多く」とは、長い時間、何度もである。「生まれて」とは、それぞれの生存において生まれてである。「住処によって」とは、それぞれの衆生の住処に居住することによって、生まれて生存することによってである。諸蘊そのものが説かれているのであり、それらの活動の特質そのものが、それぞれの同義語によって説かれているからである。「多くの祭祀において」とは、山羊、豚、牛、ジャッカルなどの多種多様な大規模な生贄の祭祀においてである。「多くの火」とは、ヴァーチャペーヤ祭などにより、少なくとも料理の火などの祭祀によって、多くの火に仕えることによってである。

161. Bāladārakopi ‘‘daharo’’ti vuccatīti tato visesanatthaṃ **‘‘yuvā’’**ti vuttaṃ. Atikkantapaṭhamavayā sattā sabhāvena palitasirā hontīti paṭhamavaye ṭhitabhāvaṃ dassetuṃ **‘‘susukāḷakeso’’**ti vuttaṃ. Jarājiṇṇoti jarāya jiṇṇo, na akālikena jarāya abhibhūto. Ukkaṃsagatabuddhatāya vuddho. Tenāha **‘‘vaḍḍhitvā ṭhitaaṅgapaccaṅgo’’**ti, ārohapariṇāhavasena vuddhirahitoti attho. Jātimahallakoti jātiyā mahallako, na bhogaparivārādīhīti attho. Addhagatoti ettha addha-saddo dīghakālavācīti āha **‘‘bahuaddhānaṃ gato’’**ti. Vayotiādipadalopenāyaṃ niddesoti āha **‘‘pacchimavaya’’**nti. Padasatampi…pe… samatthatāti padasatampi padasahassampi sotapathamāgacchantameva uggahaṇasamatthatā pariggahetuṃ samatthatā. Ayañca gatiyā byāpāroti sakkā viññātuṃ gahaṇamattabhāvato. Tadevāti padasatampi padasahassampi. Ādhāraṇaṃ apilāpanavasena hadaye dhāraṇaṃ. Upanibandhanaṃ yathā na pamuṭṭhaṃ hoti, tathā upecca aparāparaṃ nibandhanaṃ. Ayaṃ pana satiyā byāpāroti sakkā viññātuṃ. Pāḷiyañca ‘‘paramāya gatiyā ca satiyā ca dhitiyā cā’’ti vuttaṃ, parato ca ‘‘evaṃ adhimattagatimanto’’ti vuttaṃ. Samatthavīriyaṃ dhiti nāmāti visiṭṭhavisayaṃ dassento yathāvuttasatisamāyogaṃ tassa dīpeti. Tassāti yathāvuttagatisatidhitīhi subhadhātavacīparicitassa pariyattidhammassa āgamavasena atthadassanasamatthatā yuttivasena kāraṇadassanasamatthatā.

161. 幼い子供もまた「年少者(ダハラ)」と呼ばれるので、それと区別するために「若者(ユヴァー)」と言われた。第一の年齢(青年期)を過ぎた衆生は自然に白髪となるため、第一の年齢にある状態を示すために「艶やかな黒髪の」と言われた。「老いに朽ちた」とは、老衰によって朽ちたのであり、時ならぬ老いに圧倒されたのではない。卓越した熟慮(智恵)を持つことによって「年長者(ヴッダ)」である。それゆえに「成長して完成した四肢を持つ」と言われた。成長や体格による増大を離れているという意味である。「生まれが高齢の」とは、年齢が高齢なのであって、財産や追従者などによるのではない、という意味である。「長旅を経た」において、「アッダ(道・期間)」という語は長期間を意味するゆえに「多くの長い年月を経た」と言われた。「年齢(ヴァヤ)」などの語の脱落による解説であるから「最後の年齢(晩年)」と言われた。「百の句であれ……略……能力」とは、百の句であれ千の句であれ、耳の経路に入ってくるやいなや把握する能力、理解する能力のことである。そしてこれは、単に受け取ることだけであるゆえに「理解(ガティ)」の機能であると知ることができる。「まさにそれを」とは、百の句であれ千の句であれである。「保持すること」とは、忘れ去ることなく心に留めることである。「結びつけること」とは、忘却されないように近づけて次から次へと記憶に結びつけることである。そしてこれは「念(サティ)」の機能であると知ることができる。聖典においても「最高の理解と、念と、堅固さ(勇気)とによって」と説かれ、その後で「このように並外れた理解力を持つ者たち」と説かれている。「有能な精進が『堅固さ(ディティ)』と呼ばれる」とは、優れた対象を示しつつ、前述の念との結合を明らかにしている。「彼の」とは、前述の理解と念と堅固さによってしっかりと保持され、言葉によって親しまれた教説の法について、経典の伝承に従って意味を示す能力、論理に従って理由を示す能力のことである。

Daḷhaṃ (a. ni. ṭī. 3.9.38) thiraṃ dhanu etassāti daḷhadhanvā, so eva idha **‘‘daḷhadhammā’’**ti vutto. Paṭisattuvidhamanatthaṃ dhanuṃ gaṇhātīti dhanuggaho, so eva usuṃ saraṃ asati khipatīti issāsoti āha **‘‘dhanuṃ gahetvā ṭhito issāso’’**ti. Dvisahassapalaṃ lohādibhāraṃ vahituṃ samatthaṃ dvisahassathāmaṃ. Tenāha **‘‘dvisahassathāmaṃ nāmā’’**tiādi. Daṇḍeti dhanudaṇḍe. Yāva kaṇḍappamāṇāti dīghato yattakaṃ kaṇḍassa pamāṇaṃ, tattake dhanudaṇḍe ukkhittamatte āropito ceva hoti jiyādaṇḍo, so ca bhāro pathavito muccati, evaṃ idaṃ ‘‘dvisahassathāmaṃ nāma dhanūti daṭṭhabbaṃ. Uggahitasippoti uggahitadhanusippo. Katahatthoti thirataraṃ lakkhesu avirajjhanasarakkhepo. Īdiso pana tattha vasībhūto katahattho nāma hotīti āha **‘‘ciṇṇavasībhāvo’’**ti. Kataṃ rājakulādīsu upecca asanaṃ etena so katūpāsanoti āha **‘‘rājakulādīsu dassitasippo’’**ti. Evaṃ katanti evaṃ antosusirakaraṇādinā sallahukaṃ kataṃ.

強固で堅固な弓を持つゆえに「強弓の射手(ダルハダンヴァー)」であり、それこそがここで「強固な弓を持つ者(ダルハダンマー)」と説かれた。敵を打ち倒すために弓を執るゆえに「弓執り(ダンヌッガハ)」であり、それこそが矢を放つゆえに「射手(イッサーサ)」であるから、「弓を執って立った射手」と言われた。二千パラの鉄などの重さを支えることができるものが「二千パラの力を持つ弓」である。それゆえに「二千パラの力を持つ弓とは」などと言われた。「柄において」とは、弓の柄においてである。「矢の長さの分だけ」とは、長さにおいて矢の寸法と同じだけの弓の柄を引き上げただけで、弦が張られた状態となり、その重りが地面から離れる。このようにこれが「二千パラの力を持つ弓」と呼ばれると知るべきである。「技芸を学んだ」とは、弓の技芸を習得したことである。「手の熟練した」とは、極めて堅固に標的を外さずに矢を射ることである。このような技に習熟した者が「手の熟練した者」と呼ばれるゆえに「習熟した状態」と言われた。王家などに赴いて弓を射る技を披露したことから彼は「射術を披露した者」であるゆえに「王家などで技芸を示した」と言われた。「このように作られた」とは、このように内部を空洞にするなどして極めて軽く作られた、ということである。

Oloketīti udikkhati. Evaṃ santepi tesaṃ vāro paññāyatīti tesaṃ bhikkhūnaṃ ‘‘ayaṃ paṭhamaṃ pucchati, ayaṃ dutiya’’ntiādinā pucchanavāro tādisassa paññavato paññāyati sukhumassa antarassa labbhanato. Buddhānaṃ pana vāroti īdise ṭhāne buddhānaṃ desanāvāro aññesaṃ napaññāyanato buddhānaṃyeva paññāyati. Idāni tameva paññāyanataṃ yuttito dassento **‘‘vidatthicaturaṅgulachāya’’**ntiādimāha. Accharāsaṅghāṭamatte khaṇe aneka-koṭisahassa-cittapavattisambhavato **‘‘vidatthicaturaṅgulachāyaṃ atikkamanato puretaraṃyeva bhagavā…pe… kathetī’’**ti vatvā tato lahutarāpi satthu desanāpavatti atthevāti dassento **‘‘tiṭṭhantu vā tāva ete’’**tiādimāha. Idāni tattha kāraṇaṃ dassetuṃ **‘‘kasmā’’**tiādi vuttaṃ. Soḷasa padāni kathetīti etena lokiyajanassa ekapaduccāraṇakkhaṇe bhagavā aṭṭhavīsasatapadāni kathetīti dasseti. Idāni tassapi kāraṇaṃ dassetuṃ **‘‘kasmā’’**tiādi vuttaṃ.

「見つめる」とは、注視するである。「そうであっても彼らの順番が知られる」とは、それらの比丘たちの「この者が最初に問い、この者が二番目に問う」などの質問の順番が、そのような智慧ある者には知られる。微妙な間隙が捉えられるからである。「しかし諸仏の順番は」とは、このような場面において諸仏の説法の順番は他の者たちには知られないため、まさに諸仏にのみ知られるのである。今やその知られる状態を論理によって示すために「一スパン四指の影を」などと言われた。指を弾くほどの瞬間に幾千億もの心が生起し得ることから、「一スパン四指の影を越えるよりも前に、世尊は……略……語られる」と述べて、それよりもさらに迅速な師の説法の活動が現実に存在するのだと示すために「あるいは、それらはひとまず置くとして」などと言われた。今やそこにおける理由を示すために「なぜなら」などと言われた。「十六の句を語る」とは、これによって世間の人々が一つの句を発声する瞬間に、世尊は百二十八の句を語られるということを示している。今やそれについても理由を示すために「なぜなら」などと言われた。

Dhammoti pāḷi. Pajjati attho etenāti padaṃ, tadattho. Atthaṃ byañjetīti byañjanaṃ, akkharaṃ. Tañhi padavākyakkharabhāvehi paricchijjamānaṃ taṃ taṃ atthaṃ byañjeti pakāseti. Tenāha **‘‘dhammapadabyañjananti pāḷiyā padabyañjanaṃ, tassa tassa atthassa byañjanakaṃ akkhara’’**nti. Etena aparāparehi padabyañjanehi sucirampi kālaṃ kathentassa tathāgatassa na kadāci tesaṃ pariyādānaṃ atthīti dasseti. Pañhaṃ byākaronti etenāti pañhabyākaraṇaṃ, tathāpavattapaṭibhānaṃ. Aparikkhayapaṭibhānā hi buddhā bhagavanto, yato vuttaṃ ‘‘natthi dhammadesanāya hānī’’ti (dī. ni. ṭī. 3.141, 305; vibha. mūlaṭī. 1.suttantabhājanīyavaṇṇanā). Tenāha **‘‘iminā kiṃ dassetī’’**tiādi. Tathā āsannaparinibbānassapi bhagavato desanāya itarāya ca visesātāvoti paṭhamabuddhavacanampi majjhimabuddhavacanampi pacchimabuddhavacanampi sadisameva. Āsītikavassato paraṃ pañcamo āyukoṭṭhāso.

「法(ダンマ)」とはパーリ(聖典本文)である。これによって意味に達する(知られる)ゆえに「句(パダ)」であり、その意味のことである。意味を表現する(明らかにする)ゆえに「文字(ビャンジャナ)」である。実にそれは句や文や文字の状態によって区別されつつ、それぞれの意味を表現し、明らかにする。それゆえに「法句文字とは、聖典本文の句と文字、それぞれの意味を表現する文字のことである」と言われた。これによって、次から次へと続く句や文字をもって極めて長い時間にわたり語り続ける如来に、決してそれらの枯渇はないということを示している。これによって問いを解明するゆえに「問答(パンハビャーカラナ)」であり、そのように働く弁才のことである。実に諸仏・世尊は無尽の弁才を持つ方々であるから、「法を説くことに衰退はない」と説かれている通りである。それゆえに「これによって何を示すのか」などと言われた。同様に、完全な涅槃(パリニッバーナ)が近づいた世尊の説法とその他の説法とに差異はないので、最初の仏語も、中期の仏語も、最後の仏語も全く同様である。八十歳を過ぎてからの第五の寿命の区分である。

162. Kāmañcettha bhagavatā nāgasamālattherassa acchariyaabbhutapavedanamukhena attano lomānaṃ haṭṭhabhāvassa paveditattā **‘‘lomahaṃsanapariyāyo’’**ti nāmaṃ gahitaṃ, tathāpi sabbaññutaññāṇādi-anaññasādhāraṇañāṇānubhāva-vibhāvanādivasena soḷasasamūhato sīhanādassa nadanena desanāya pavattitattā ‘‘mahāsīhanādo’’tveva saṅgītikāramahātherehi nāmaṃ ṭhapitanti daṭṭhabbaṃ.

162. 確かにここにおいて世尊によってナーガサマーラ長老への驚くべき不思議な出来事の開示を通じて、自らの身の毛の逆立ち(身毛竪立)が開示されたことから「身毛竪立経(ローマハンサナパリヤーヤ)」という名称が取られたが、それでも一切知智などの他と共通しない智の威徳を明らかにするなどに基づいて、十六の集団からなる獅子吼を咆哮して教説が説かれたことから、結集を行った大長老たちによって「大獅子吼経(マハーシーハナーダ)」とまさに名称が定められたのだと知るべきである。

Mahāsīhanādasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

大獅子吼経の注釈の隠れた意味の解明を終わる。

3. Mahādukkhakkhandhasuttavaṇṇanā

3. 大苦蘊経の注釈

163. Tato paranti tiṇṇaṃ janānaṃ upari saṅgho catuvaggakaraṇīyādikammehi paṭikammappattattā. Gāmaṃ gatoti vuccati gāmaṃ uddissa gatattā, evaṃ sāvatthiṃ pavisituṃ vihārato nikkhantā ‘‘pavisiṃsū’’ti vuttā. Pariññanti pahānapariññaṃ. Sā hi samatikkamo, na itarā. Rūpavedanāsupīti ‘‘rūpānaṃ pariññaṃ, vedanānaṃ pariñña’’nti etthāpi. Kāmaṃ sabbesaṃ titthiyānaṃ kāmādipariññāpaññāpanahetubhūto samayo natthi, yesaṃ pana atthi, te upādāya **‘‘sakasamayaṃ jānantā’’**ti vuttaṃ. ‘‘Yato yato kho bho ayaṃ bhikkhu vivicceva kāmehi…pe… paṭhamaṃ jhānaṃ upasampajja viharati, ettāvatā kho bho kāmānaṃ pariññā hotī’’ti evaṃ sarūpato paṭhamajjhānaṃ vibhāvetuṃ asakkontāpi kevalaṃ accantappahānasaññāya kāmānaṃ pariññaṃ paññapeyyuṃ paṭhamajjhānaṃ vadamānā. Taṃ kissa hetu? Tādisassa āgamādhigamassābhāvato. Rūpavedanāpariññāsupi eseva nayo. Vuccethāti vucceyya. Dutiyapadepīti ‘‘anusāsaniyā vā anusāsani’’nti evaṃ vuttavākyepi. Te kira bhikkhū.

163. 「それより先は」とは、三人の人々を超えると、四人集まることでなされるべき僧法などの業によってサンガが是正される立場に達するからである。「村へ行った」と言われるのは、村を目指して行ったからである。このように舎衛城に入るために精舎から出た者たちが「入った」と言われた。「遍知」とは断の遍知である。実にそれこそが完全な超越であり、他[の遍知]ではない。「色や受においても」とは、「色の遍知、受の遍知」というここにおいてもである。確かにすべての外道たちに、欲などの遍知を規定する根拠となる教義は存在しないが、それ[教義]を持つ者たちに基づいて「自らの教義を知る者たち」と言われた。「友よ、この比丘が諸々の欲望から離れ……略……初禅を具足して住するとき、友よ、これによって諸々の欲望の遍知があるのだ」と、このように初禅そのものを明らかにすることはできないとしても、単に完全な断滅であるという観念によって、初禅を語りつつ欲望の遍知を規定するかもしれない。それは何の理由によるのか。そのような聖典の伝承や証得が存在しないからである。色や受の遍知においてもこの方法は同様である。「言われるであろう」とは、言われる可能性があるということである。「第二の句においても」とは、「教誡において教誡を」とこのように説かれた文句においてもである。彼らの比丘たちとのことである。

165. Na ceva sampāyissantīti na ceva sammadeva pakārehi gamessanti ñāpessanti. Tenāha **‘‘sampādetvā kathetuṃ na sakkhissantī’’**ti. Yasmā avisaye pañho pucchito hoti, tasmā āpajjissantīti yojanā. Sadevaketi arūpadevaggahaṇaṃ. Te hi lokiyadevehi dīghāyukatādinā ukkaṭṭhā. Samāraketi kāmāvacaradevaggahaṇaṃ. Sabrahmaketi rūpāvacarabrahmaggahaṇaṃ. Sassamaṇabrāhmaṇiyāti ettha samaṇaggahaṇena pabbajite, brāhmaṇaggahaṇena jātibrāhmaṇe, puna devaggahaṇena sammutideve, manussaggahaṇena avasiṭṭhamanussakāyaṃ pariyādiyati. Lokapajāggahaṇena pana payojanaṃ aṭṭhakathāyaṃ dassitameva. Aññathā ārādhanaṃ nāma natthīti iminā kāmarūpavedanāsu assādādīnaṃ yāthāvato avabodho eva ito bāhirakānaṃ natthi, kuto pavedanāti dasseti.

165. 「満足させられないであろう」とは、完全に正しい諸様態によって理解させることができない、知らせることができないということである。それゆえに「首尾よく語ることができないであろう」と言われた。自身の領域外において問いが尋ねられたゆえに「陥るであろう」と結びつけられる。「天神たちを含む世界において」とは、無色界の神々を把握している。実に彼らは世間の神々に比べて長寿などによって卓越しているからである。「魔神たちを含む世界において」とは、欲界の神々を把握している。「梵天たちを含む世界において」とは、色界の梵天たちを把握している。「沙門・婆羅門を含む」において、ここで「沙門」を挙げることによって出家者を、「婆羅門」を挙げることによって生まれによる婆羅門を、再び「天神」を挙げることによって世俗の承認による神(王族など)を、「人間」を挙げることによって残りの人間の集団をすべて包摂している。しかし「世界の衆生」を挙げることによる目的は、注釈書において示された通りである。「そうでなければ喜ばせることはない」とは、これによって欲・色・受における味わいなどの真実の悟りそのものが、これら外部の者たちには存在せず、どうして開示することができようか、ということを示している。

166. Cittārādhananti yāthāvapavedanena paresaṃ cittassa paritosanaṃ. Bandhanaṭṭhena guṇāti kāmarāgasaṃyojanassa paccayabhāvena vatthukāmesupi bandhanaṭṭho vutto, koṭṭhāsaṭṭho vā guṇaṭṭho daṭṭhabbo. Tarayantīti taramānā yanti gacchanti. Atītādibhinnapaṭhamādivayā eva cittatā rāsibhāvena vayoguṇāti gahitāti āha **‘‘rāsaṭṭho guṇaṭṭho’’**ti. Cakkhuviññeyyāti vā cakkhuviññāṇataṃdvārikaviññāṇehi vijānitabbā. Sotaviññeyyātiādīsupi eseva nayo. Iṭṭhārammaṇabhūtāti sabhāveneva iṭṭhārammaṇajātikā, iṭṭhārammaṇabhāvaṃ vā pattā. Kamanīyāti kāmetabbā. Manavaḍḍhanakāti manoharā. Etena parikappanatopi iṭṭhabhāvaṃ gaṇhāti. Piyajātikāti piyāyitabbasabhāvā. Kāmūpasaṃhitāti kāmarāgena upecca sandhāniyā sambaddhā (a. ni. ṭī. 3.6.63) kātabbāti āha **‘‘ārammaṇaṃ katvā’’**ti.

166. 「心を満足させること」とは、真実の開示によって他者の心を満足させることである。「束縛という意味で属性(グナ)」とは、欲貪の結(煩悩)の条件となることによって、対象となる欲望(事欲)においても束縛という意味が説かれたのであり、あるいは区分という意味としての属性の意味と見なされるべきである。「救い渡す」とは、急いで行く、進むという意味である。過去などの区別された第一の年齢(青年期)などの多様性そのものが集まりの状態として「年齢の属性」と把握されたゆえに、「集まりの意味が属性の意味である」と言われた。あるいは「眼によって識知されるべき」とは、眼識とその扉(感覚器官)から生じる意識によって識別されるべきものである。「耳によって識知されるべき」などにおいてもこの方法は同様である。「好ましい対象となった」とは、本質的に好ましい対象の性質を持つ、あるいは好ましい対象の状態に達したという意味である。「望ましい」とは、欲されるべきものである。「心を高揚させる」とは、魅惑的なことである。これによって構想の上からも好ましい状態を捉えている。「愛すべき性質の」とは、愛着されるべき本性を持つことである。「欲に結びついた」とは、欲貪によって近づいて結合されるべき、結びつけられるべきであるから、「対象として」と言われた。

167. Saññaṃ ṭhapetvāti ‘‘imasmiṃ aṅgulikādipabbe gahite sataṃ hoti, imasmiṃ sahassa’’ntiādinā saññāṇaṃ katvā gaṇanā. Acchiddagaṇanāti ‘‘ekaṃ dve’’tiādinā navantavidhinā nirantaragaṇanā. Piṇḍagaṇanāti saṅkalanapaṭuppādanādinā piṇḍitvā gaṇanā. Tenāha **‘‘khettaṃ oloketvā’’**tiādi. Kasanaṃ kasīti kasiggahaṇena sabbo kasipaṭibaddho jīvikūpāyo gahitoti āha **‘‘kasīti kasikamma’’**nti. Jaṅghavaṇijjāti jaṅghasatthavasena vaṇijjaṃ āha, thalavaṇijjāti sakaṭasatthavasena. Ādi-saddena nāvāpaṇādivasena vohāraṃ. Vaṇippathoti vaṇijamaggo, dānaggahaṇavasena saṃvohāroti attho. Usūnaṃ asanakammaṃ issattaṃ, dhanusippena jīvikā, idha pana issattaṃ viyāti issattaṃ, sabbaāvudhajīvikāti āha **‘‘āvudhaṃ gahetvā upaṭṭhānakamma’’**nti. Porohiccāmaccakammādi rājakammaṃ. Ādi-saddena rathasippakhattavijjāsippādi-vuttāvasesaṃ mahāsippaṃ khuddakasippañca saṅgaṇhāti. Sītassa purakkhatoti sītassa purato kato. Yo hi sītakāle jīvikāhetu sītalapadesaṃ pakkhandati, so vāḷamigādīhi viya sītena paripātiyamāno tena purato kato viya hoti. Tenāha **‘‘sītena bādhiyamāno’’**ti. Uṇhassa purakkhatoti etthāpi eseva nayo. Saritvāti saṃsappitvā. Ghaṭṭiyamānoti hiṃsiyamāno bādhiyamāno. Ābādhanaṃ ābādho, pīḷāti attho. Kāmahetunti vā bhāvanapuṃsakaniddeso yathā ‘‘visamaṃ candimasūriyā parivattantī’’ti (a. ni. 4.70). Tathā sesapadadvayepi. Tenevāha **‘‘kāmānameva hetū’’**ti. Kāmānaṃ hetūti ettha purimapadāvadhāraṇamayuttaṃ tadaññapaccayapaṭikkhepāpattito, tathā uttarapadāvadhāraṇaṃ kāmānaṃ kadāci ahetubhāvassapi sambhavato, tasmā **‘‘uppajjatiyevā’’**ti vuttaṃ.

167. 「目印を置いて」とは、「この指などの関節を数えたら百になり、これなら千になる」などと目印をつけて計算することである。「途切れなき計算」とは、「一、二」などと九つの方法によって間断なく計算することである。「一括の計算」とは、合算や繰り上げなどによって一括して計算することである。それゆえに「田畑を眺めて」などと言われた。耕作することが「農業(カシ)」であり、農業を挙げることによって農業に結びついたすべての生活手段が把握されたゆえに、「農業とは農作業のことである」と言われた。「徒歩による商業」とは、徒歩の隊商に基づく商業を言い、「陸上商業」とは牛車の隊商に基づく商業を言う。「など」という語によって、船や店舗などに基づく取引を意味する。「商業の道」とは商人の道であり、授受に基づく取引という意味である。矢を放つ行為が「弓術(イッサッタ)」であり、弓の技芸による生計であるが、ここでは弓術のようにということであり、あらゆる武器による生計であることから「武器を執って仕える仕事」と言われた。司祭や大臣の仕事などが「王の仕事」である。「など」という語によって、戦車を操る技芸や王者の学問の技芸など、説かれずに残された大いなる技芸や小さな技芸を包摂している。「寒さに直面して」とは、寒さの前に置かれてである。実に寒冷な時期に生計のために寒冷な地域へと赴く者は、猛獣などに追い立てられるかのように寒さによって打ち負かされ、それによって前に押し出されたかのようになる。それゆえに「寒さに苦しめられつつ」と言われた。「暑さに直面して」においてもこの方法は同様である。「這って進んで」とは、身を震わせてである。「衝突されつつ」とは、害されつつ、苦しめられつつである。悩まされることが「病苦(アーバーダ)」であり、苦痛という意味である。あるいは「欲の原因によって」とは、「月と太陽は不規則に運行する」のように、状態を表す中性の表現である。残りの二つの句においても同様である。それゆえにまさに「諸々の欲望そのものの原因によって」と言われた。「諸々の欲望の原因によって」において、前の語の限定(〜のみ)は不適切である。それ以外の条件を排除することになってしまうからである。同様に後の語の限定も、諸々の欲望が時に原因とならない状態もあり得るからである。それゆえに「まさに生じる」と言われた。

Uṭṭhahatoti iminā uṭṭhānavīriyaṃ vuttanti āha **‘‘ājīvasamuṭṭhāpakavīriyenā’’**ti. Taṃ vīriyanti ājīvikasamuṭṭhāpakavīriyaṃ. Pubbenāparaṃ ghaṭentassāti ārambhato paṭṭhāya nirantaraṃ pavattentassa. Citte uppannabalavasokena socatīti cittasantāpena anto nijjhāyati. Kāye uppannadukkhenāti tasseva sokassa vasena kāye uppannadukkhena. Sokuddesena taṃ taṃ vippalapento vā paridevati. Uraṃ tāḷetvāti vakkhappadesaṃ paharitvā. **‘‘Mogha’’**ntiādi paridevanākāradassanañceva sammohāpajjanākāradassanañca. Meti vatvā puna noti puthuvacanaṃ attano ubhayathāpi voharitabbato, byāmūḷhavacanaṃ vā sokavasena.

「奮起する者には」によって奮起の精進が説かれているゆえに、「生計を成り立たせる精進によって」と言われた。「その精進を」とは、生計を成り立たせる精進のことである。「最初から最後まで努力する者に」とは、開始から間断なく活動させ続ける者に、という意味である。「心に生じた強い憂いによって憂える」とは、心の焦燥によって内部で身を焦がすことである。「身体に生じた苦痛によって」とは、まさにその憂いの影響によって身体に生じた苦痛によってである。あるいは憂いの叙述によってあれこれと嘆きつつ悲嘆する。「胸を叩いて」とは、胸の部位を打ってである。「無駄であった」などは、悲嘆のあり方の提示であり、また迷乱に陥ったあり方の提示でもある。「私に」と言っておきながら再び「私たちに」と複数を用いるのは、自らを両様に表現し得るからであり、あるいは憂いの影響による混乱した言葉である。

168. Idha kāmaggahaṇena visesato vatthukāmā gahitāti kāmādiggahaṇaṃ kataṃ, nānantariyatāya pana kilesakāmopi gahito eva. Asicammanti ettha cammaggahaṇena na kevalaṃ cammamayassa, cammaparisibbitasseva vā gahaṇaṃ, atha kho sabbassapi āvudhabādhakassa gahaṇanti dassento **‘‘kheṭakaphalakādīnī’’**ti āha. Ādi-saddena sarādisaṅgaho. Dhanukalāpaṃ sannayhitvāti dhanuñceva khurappatūṇiñca sannayhitvā, dhanudaṇḍassa jiyāya tathābhāvakaraṇādipi (a. ni. ṭī. 3.5.76) dhanuno sannayhananti. Dvinnaṃ senānaṃ byūhasaṃvidhānena vā ubhatobyūḷhaṃ. Vijjotalantesūti nisitapītaphalatāya vijjotanavasena parivattamānesu.

168. ここで「諸々の欲」と取ることによって、特に事欲(対象としての欲望)が取られたのであり、それゆえ「欲など」と取られたのである。しかし間接的には煩悩欲もまた取られている。「剣と革の盾」において、「革の盾」と取ることによって、単に革製のもの、あるいは革で縫い合わされたもののみを取るのではなく、むしろあらゆる武器を防ぐ防具を取ることを示して、「**小さな盾や長盾など**」と言った。「など」という語には矢などの包含がある。「弓と矢筒を帯びて」とは、弓と矢の入った矢筒を身に着けてということであり、弓幹に弦を張ることなども(増支部復注 3.5.76)弓を帯びることである。「二つの軍勢の陣形配置によって」とは、両軍が布陣したということである。「閃いている時」とは、研ぎ澄まされて輝く切先によって、稲妻のように閃きながら回転している時ということである。

Pākārasamīpātisaṅkhāratāya pākārapādā upakāriyo, yā ‘‘uddāpā’’ti vuccanti. Satadantenāti anekasatadantakena, yassa tikhiṇadantāni anekasatāni mūlāni honti. Atibhāratāya dasavīsamattāpi janā ukkhipituṃ na sakkonti, yantavasena pana ukkhipitvā bandhitvā ṭhapenti. Tenāha **‘‘aṭṭhadantākārenā’’**tiādi. Omaddantīti oṭṭhapenti.

城壁の近傍を堅固にするため、城壁の基礎・防壁があり、それらは「擁壁」と呼ばれる。「百本の歯を持つものによって」とは、鋭い歯を持つ百本もの杭(根)がある多歯の器具によってである。極めて重いために10人や20人程度の人々では持ち上げることができず、仕掛け(機械)を用いて引き上げ、縛り付けて設置する。それゆえ「**八つの歯の形状によって**」などと言った。「踏みつぶす」とは、踏みつけることである。

169. Sandhimpi chindanti corikāya jīvitukāmā. Nillopanti nissesavilopaṃ, ekaṃ parittaṃ gāmaṃ parivāretvā tattha kiñcipi gayhūpagaṃ asesetvā karamaraggahaṇaṃ. Tenāha **‘‘mahāvilopa’’**nti. Panthaduhanakammaṃ aṭavimagge ṭhatvā addhikānaṃ vilumpanaṃ. Pahārasādhanatthaṃ (a. ni. ṭī. 2.2.1) daṇḍappahārassa sukhasiddhiatthaṃ. Kañjito nibbattaṃ kañjiyaṃ, āranālaṃ. Yaṃ ‘‘bilaṅga’’ntipi vuccati, taṃ yattha siñcati, sā kañjiyaukkhalikā. Bilaṅgathālikasadisakaraṇaṃ bilaṅgathāliyaṃ. Sīsakapālaṃ uppāṭetvāti ayoguḷapavesanappamāṇaṃ chiddaṃ katvā. Saṅkhamuṇḍakammakāraṇanti saṅkhaṃ viya muṇḍakammakāraṇaṃ.

169. 盗みによって生活しようと欲する者たちは「壁に穴をあけ(破風穿ち)」もする。「略奪」とは完全な略奪のことであり、一つの小さな村を取り囲み、そこにある取ることのできる物を余すことなく奪い取ることである。それゆえ「**大いなる略奪**」と言った。「追い剥ぎ行為」とは、森の街道に立ち塞がって旅人を略奪することである。「打撃を加えるため」(増支部復注 2.2.1)とは、棍棒による打撃を容易に果たすためである。米のとぎ汁から生じたものが粥汁(酸味のある粥液)であり、酸味の汁である。「酢汁」とも呼ばれるものを注ぎ入れる容器が、酢汁の小鍋である。酢汁の小鍋のようになる処刑具が「酢汁鍋」である。「頭蓋骨を剥ぎ取って」とは、鉄の球が入るほどの大きさの穴をあけて、ということである。「法螺貝頭の刑罰」とは、法螺貝のように(頭髪・頭皮を削ぎ落とす)頭の刑罰のことである。

Rāhumukhakammakāraṇanti rāhumukhagata-sūriyasadisa-kammakāraṇaṃ. Jotimālikanti jotimālavantaṃ kammakāraṇaṃ. Hatthapajjotikanti hatthapajjotanakammakāraṇaṃ. Erakavattakammakāraṇanti erakavattasadise sarīrato baddhe uppāṭanakammakāraṇaṃ. Cīrakavāsikakammakāraṇanti sarīrato uppāṭitabaddhacīrakāhi nivāsāpanakammakāraṇaṃ. Taṃ karontā yathā gīvato paṭṭhāya baddhe kantitvā kaṭiyameva ṭhapenti, evaṃ gopphakato paṭṭhāya kantitvā kaṭiyameva ṭhapenti. Aṭṭhakathāyaṃ pana **‘‘kaṭito paṭṭhāya kantitvā gopphakesu ṭhapentī’’**ti vuttaṃ. Eṇeyyakakammakāraṇanti eṇīmigasadisakammakāraṇaṃ. Ayavalayāni datvāti ayavalayāni paṭimuñcitvā. Ayasūlāni koṭṭentīti kapparajaṇṇukakoṭīsu ayasūlāni pavesenti. Nti taṃ tathākatakammakāraṇaṃ sattaṃ.

「ラーフの口の刑罰」とは、ラーフの口に入った太陽のような形状にする刑罰である。「火輪の刑罰」とは、火の輪をまとわせる刑罰である。「たいまつの手の刑罰」とは、手をたいまつにする刑罰である。「草巻きの刑罰」とは、エラカ草の巻物のごとく、身体から帯状に(皮を)剥ぎ取る刑罰である。「樹皮衣の刑罰」とは、身体から剥ぎ取った帯状の皮を樹皮の衣のようにまとわせる刑罰である。それを行う者たちは、首から始めて帯状に切り裂いて腰のところで留め、同様に踝から始めて切り裂いて腰のところで留める。しかし註釈書には「**腰から始めて切り裂いて踝のところで留める**」と説かれている。「羚羊の刑罰」とは、羚羊の脚のようにする刑罰である。「鉄の環をはめて」とは、鉄の輪を装着させて。「鉄の串を打ち込む」とは、肘や膝の関節に鉄の串を刺し通すことである。「その者を」とは、そのように刑罰を科された衆生を、ということである。

Baḷisamaṃsikanti baḷisehi maṃsuppāṭanakammakāraṇaṃ. Kahāpaṇikanti kahāpaṇamattaso chindanakammakāraṇaṃ. Koṭṭentīti chindanti. Khārāpatacchikanti tacchetvā khārāvasiñcanakammakāraṇaṃ. Palighaparivattikanti palighassa viya parivattanakammakāraṇaṃ. Ekābaddhaṃ karonti ayasūlassa koṭṭanena. Palālapīṭhakanti palālapīṭhassa viya sarīrassa saṃvellanakammakāraṇaṃ. Kāraṇikāti ghātanakārakā. Palālavaṭṭiṃ viya katvāti yathā palālapīṭhaṃ karontā palālavaṭṭiṃ katvā saṃvellanavasena naṃ (a. ni. ṭī. 2.2.1) veṭhenti, evaṃ karontīti attho. Chātakehīti bubhukkhitehi koleyyakasunakhehi. Balavanto hi te javayoggā sūrā ca honti. Kammavasena sampareti etthāti samparāyo, paraloko. Tattha bhavoti samparāyiko.

「魚鉤肉削ぎの刑罰」とは、釣り針のような鉤で肉を削ぎ落とす刑罰である。「貨幣切りの刑罰」とは、貨幣の大きさごとに切り刻む刑罰である。「刻む」とは、切り裂くことである。「塩水そぎの刑罰」とは、肉を削ぎ落として塩水を注ぎかける刑罰である。「閂回転の刑罰」とは、閂のように回転させる刑罰である。鉄の串を打ち込むことによって一体に固定する。「藁座の刑罰」とは、藁の座敷のように身体を丸め曲げる刑罰である。「刑吏たち」とは、処刑を行う者たちのことである。「藁束のようにして」とは、藁座を作る人々が藁束を作って丸め曲げることによってそれを束ねるように、そのように行うという意味である。「飢えた犬どもによって」とは、飢えた村犬たちによってである。それらは強力で、足が速く、獰猛だからである。業に従って赴くゆえに「他世(サンパラヤ)」、すなわち来世である。そこに存在することが「来世の」である。

170. Chandarāgo vinīyati ceva pahīyati ca etthāti nibbānaṃ chandarāgavinayo chandarāgappahānañcāti. Tenāha **‘‘nibbānañhī’’**ti. Tattha āgammāti idaṃ yo chandarāgaṃ vineti pajahati, tassa ārammaṇaṃ sandhāya vuttaṃ. Tīhi pariññāhīti iminā ñātatīraṇapariññāhi parijānissantīti netaṃ ṭhānaṃ vijjati. Ko pana vādo pahānapariññāyāti dasseti? Tathabhāvāyāti parijānanakabhāvāya.

170. 欲貪がここで調伏され、また捨て去られるゆえに、涅槃は「欲貪の調伏」「欲貪の捨断」である。それゆえ「**涅槃こそが**」と言った。そこにおいて「拠って」とは、欲貪を調伏し捨断する者が、その対象について言ったものである。「三つの遍知によって」とは、これによって知見遍知や審査遍知によって完全に知るであろうということはあり得ない。捨断遍知において言うまでもないことを示しているのではないか。「そのような状態のために」とは、完全知の状態のためである。

171. Aparittenāti ahīnena. Vipulenāti mahatā. Yadi vaṇṇasampattidassanatthaṃ, vaṇṇadasakaṃ kasmā na gahitanti āha **‘‘mātugāmassa hī’’**tiādi. Bhojanasampadādīnaṃ alābhepīti dassanatthaṃ **‘‘duggatakule nibbattassapī’’**ti vuttaṃ. Thokaṃ thokaṃ vaṇṇāyatanaṃ pasīdati maṃsassa paribrūhanato thanamaṃsāni vaḍḍhanti jāyanti. Vaṇṇeti hadayaṅgatabhāvaṃ pakāsento viya hotīti vaṇṇo. So eva sāmaggopabhogādinā nibhātīti nibhā. Tenāha **‘‘vaṇṇanibhāti vaṇṇoyevā’’**ti.

171. 「小ならざる」とは、劣っていなく。「広大なる」とは、大いなる。もし容色の美しさを示すためであるなら、なぜ容色の十箇年を取らなかったのかと言えば、「**女人においては**」などと言った。飲食の充足などが得られない場合であっても、と示すために「**貧しい家に生まれた者であっても**」と説かれた。少しずつ容色の基盤が澄み渡り、肉が増加することによって胸の肉が成長し生じる。「容色において」とは、心の内にある状態を顕示するかのようであるから「容色」である。それそのものが調和や享楽などによって輝くゆえに「輝き」である。それゆえ「**容色の輝きとは容色そのものである**」と言った。

Bhogganti ativiya vaṅkatāya bhoggaṃ. Tādisaṃ pana sarīraṃ bhaggaṃ viya hotīti āha **‘‘bhagga’’**nti. Tenāha **‘‘imināpissa vaṅkabhāvameva dīpetī’’**ti. Dantānaṃ chinnabhinnatāya ekaccānaṃ patanena ca khaṇḍitadantaṃ. Kesānaṃ setavaṇṇatāya palitanti āha **‘‘paṇḍarakesa’’**nti. Kesānaṃ mattaso siyane khallāṭavohāroti bahuso siyanaṃ sandhāyāha **‘‘mahākhallāṭasīsa’’**nti. Vassasatikakāle uppajjanatilakāni sandhāyāha **‘‘tilakāhatagatta’’**nti. Tāni pana kānici setāni honti kānici kāḷānīti āha **‘‘setakāḷatilakehī’’**ti. Byādhikanti sañcātabyādhiṃ. Bāḷhagilānanti māraṇanti kagelaññena gilānaṃ.

「曲がった」とは、極めて歪曲しているゆえに曲がっているのである。そのような身体は折れ曲がったかのようであるから「**折れた**」と言った。それゆえ「**これによってもその歪曲した状態そのものを明らかにしている**」と言った。歯が欠け損なわれ、一部が抜け落ちていることによって「欠けた歯」である。毛髪が白色であることによって白髪であるから「**白髪の**」と言った。毛髪が部分的に薄くなることを禿頭と呼ぶのであり、大部分が薄くなっていることを指して「**大きな禿頭**」と言った。百歳の時に生じる斑点を指して「**斑点に覆われた身体**」と言った。それらはあるものは白く、あるものは黒いので「**白と黒の斑点によって**」と言った。「病の」とは、病気を生じた。「重病の」とは、死に至るほどの重い病気で患っている。

173. Tasmiṃ samayeti tasmiṃ jhānaṃ upasampajja viharaṇasamaye. Na cetetīti na abhisandahati. Byābādhanaṭṭhena byābādho, byābādhova byābajjhaṃ, natthi ettha byābajjhanti abyābajjhaṃ, dukkharahitaṃ. Tenāha **‘‘niddukkhamevā’’**ti.

173. 「その時において」とは、その禅定に入って住している時において。「意図しない」とは、思念を向けない。「害することの意味によって害(ビヤーバーダ)」であり、害そのものが損害(ビヤーバッジャ)である。ここに害がないから「無害(アビヤーバッジャ)」、すなわち苦を離れたものである。それゆえ「**苦がないことそのものである**」と言った。

174. Aniccādiākāroti aniccākāro dukkhākāro vipariṇāmākāro calādiākāro ca.

174. 「無常などの相」とは、無常の相、苦の相、変易の相、動揺などの相である。

Mahādukkhakkhandhasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

大苦蘊経の注釈における深遠な意味の解明を終わる。

4. Cūḷadukkhakkhandhasuttavaṇṇanā

4. 小苦蘊経の注釈

175. Sakkesūti ettha yaṃ vattabbaṃ, taṃ satipaṭṭhānasuttavaṇṇanāyaṃ vuttanayeneva veditabbanti taṃ ekadesena dassento **‘‘so hī’’**ti āha. Tattha yena rājakumārā sakyā nāma jātā, yato tesaṃ nivāsaṭṭhānatāya janapado tathā vuccati, taṃ vattabbanti āha **‘‘sakyānaṃ pana uppatti ambaṭṭhasutte āgatāvā’’**ti. Kapilavatthūti vuttaṃ purimasaññāvasena.

175. 「釈迦族において」に関してここで語るべきことは、念処経の注釈で説かれた方法に従って知られるべきであると、その一部を示して「**彼こそは**」と言った。そこにおいて、王族たちがなぜ「釈迦(サキャ)」と名付けられたのか、それゆえ彼らの居住地であるがゆえに国土がそのように呼ばれるのか、それを語るべきであるとして「**釈迦族の起源はアンバッタ経に来ている通りである**」と言った。「カピラヴァットゥ」と説かれたのは、従来の名称に基づいている。

Nānappakārakanti ‘‘lobhadhammā’’ti bahuvacanassa nimittaṃ vadati. Lobho hi tena tena avatthāvisesena pavattiākārabhedena ‘‘chando rāgotaṇhā āsatti apekkhā’’tiādinā anekappabhedo, lubbhanalakkhaṇena pana ‘‘lobho’’tveva vuccati. Tenāha **‘‘nānappakārakaṃ lobhaṃyevā’’**ti. Tathā ‘‘doso paṭigho kodho upanāho virodho’’tiādinā, ‘‘muyhanaṃ asamapekkhanaṃ apaccavekkhaṇā dummejjhaṃ bālya’’ntiādinā (dha. sa. 390) ca dosamohānaṃ nānappakārataṃ sandhāyāha **‘‘itaresupi dvīsu eseva nayo’’**ti. Pariyādiyitvāti parito sabbaso ādāya. Gahetvāti ayamettha atthoti āha **‘‘gahaṇe āgata’’**nti. Pariyādiyatīti parikkhīṇoti. Dī-saddañhi saddavidū khayatthaṃ vadanti.

「種々の」とは、「貪の法」という複数形の理由を述べている。貪はそれぞれの状態の差異や働きの形態の違いによって、「欲、貪、渇愛、執着、期待」などの無数の分類があるが、貪るという特質においてはただ「貪」とだけ呼ばれる。それゆえ「**種々の貪そのもの**」と言った。同様に「瞋恚、怨恨、怒り、恨み、敵対」などにより、また「昏迷、無観察、無省察、愚鈍、愚かさ」などによって(法集論 390)、瞋恚と痴の多様性を指して「**他の二つにおいてもこの方法である**」と言った。「奪い尽くして」とは、周囲から完全に取って。「取って」というのがここでの意味であるから「**取ることの意味において現れている**」と言った。「尽き果てる」とは、消耗し尽くしたということである。言語学者たちは「ディー」という語を滅尽の意味であると語る。

Ekadāti āmeḍitalopena niddesoti āha **‘‘ekekasmiṃ kāle’’**ti. Lobhadosamohāti paṭhamamaggena pahīnāvasesā lobhadosamohā. Niravasesā pahīyanti, aññathā dutiyamaggena kiṃ kataṃ siyāti adhippāyo. Samudācārappattaṃ pana disvā ‘‘appahīnaṃ me atthī’’tipi jānāti. Evaṃ kathaṃ niravasesappahānasaññāti āha **‘‘appahīnakaṃ…pe… saññī hotī’’**ti. Evaṃ paṭhamamaggeneva samucchinnasaṃsayassa ‘‘ko su nāma me dhammo ajjhattaṃ appahīnoti **evaṃ sandheho kathaṃ uppajjatī’’**ti vatvā **‘‘paṇṇattiyā akovidattā’’**ti kāraṇamāha. Vinayakukkuccaṃ viya hi paṇṇattiyaṃ akusalatāya ariyānampi katthaci vimatimattaṃ uppajjati yathā taṃ sabbaso appahīnasammohānanti. Attano avisaye anabhijānanaṃ paṇṇattikosallena kimettha payojanaṃ, paccavekkhaṇāmattena ayamattho sijjhatīti dassento **‘‘kiṃ tassa paccavekkhaṇā natthī’’**ti āha. Itaro ‘‘natthī’’ti na sakkā vattunti katvā ‘‘atthī’’ti vatvā tattha labbhamānavibhāgaṃ dassento **‘‘sā panā’’**tiādimāha. Tattha ti paccavekkhaṇā. Sabbesanti sabbesaṃ ariyānaṃ. Yathā paripuṇṇā na hoti, na evaṃ sabbaso na hotīti āha **‘‘imāsu panā’’**tiādi.

「ある時には」とは、反復語の省略による説明であるから「**それぞれの時において**」と言った。「貪・瞋・痴」とは、第一の道(預流道)によって断じられた残りの貪・瞋・痴である。余すことなく断じられるのであり、そうでなければ第二の道によって何がなされたことになるのか、という趣旨である。しかし現れ出たものを見て「私には断じられていないものがある」とも知る。このようにして、どうして残らず断じられたという想いが生じるのかを示して、「**断じられていないものを……想う者となる**」と言った。このように第一の道によってすでに疑念を断ち切った者に、「いったいどのような法が私の内に断たれずに残っているのか」と「**このような疑念がどうして生じるのか**」と問い、「**概念に習熟していないため**」と理由を述べた。律の疑念のように、概念に巧みでないために聖者たちであってもある箇所で単なる疑念が生じるのであり、それは完全に無知を断じていない者のようである。自身の領域でないことへの無知に概念の巧みさが何の役に立つのか、単なる省察によってこの意味は果たされるのではないかと示して、「**彼に省察はないのか**」と言った。他方は「ない」とは言えないとして「ある」と述べ、そこで得られる区別を示して「**しかしそれは**」などと言った。その中で「それ」とは省察である。「すべての者にとって」とは、すべての聖者たちにとってである。完全ではないとしても、まったく無いわけではないとして「**しかしこれらにおいて**」などと言った。

176. Ajjhattanti niyakajjhattaṃ adhippetanti āha **‘‘tava santāne’’**ti. Appahīnoti anavasesato appahīno. Duvidheti vatthukāmakilesakāme. Kilesakāmopi hi yadaggena assādīyati, tadaggena paribhuñjīyati.

176. 「内に」とは、自身の内面が意図されているとして「**あなたの相続(心身)において**」と言った。「断たれていない」とは、余すことなく断たれてはいない。「二種の」とは、事欲と煩悩欲において。煩悩欲もまた、それによって味わわれる度合いに応じて享受されるからである。

177. Assādīyatīti assādo, sukhaṃ. Appo appamattako assādo etesūti appassādā. Tenāha **‘‘parittasukhā’’**ti. Pariyesanadukkhādihetukaṃ diṭṭhadhammikaṃ tattha duccaritacaraṇena samparāyikañca dukkhamettha kāmesu bahukanti bahudukkhā. Bahupāyāsāti bahuparikkilesā. Te pana parikkilesā vakkhamānanayena bahūyevettha diṭṭhadhammikāpīti āha **‘‘diṭṭhadhammika…pe… bahū’’**ti. Te ca parikkilesā yasmā taṃsamaṅgino hitapaṭipattiyā antarāyakarā idha ceva paraloke ca ādīnavakāraṇañca pavattanti, tasmā vuttaṃ **‘‘diṭṭhadhammika…pe… bahū’’**ti. Evaṃ cepīti evaṃ ‘‘appassādā kāmā’’tiādinā ākārena. Nayenāti dhammena. Kāraṇenāti yuttiyā. Suṭṭhu diṭṭhaṃ hotīti sambandho. Vipassanāpaññāyāti ariyamaggapaññāya. Sā cattāripi saccāni visesato passatīti vipassanāti adhippetā. Tenāha **‘‘heṭṭhāmaggadvayañāṇenāti attho’’**ti. Pītisukhanti pītisukhavantaṃ jhānadvayaṃ. Dve maggeti heṭṭhāmagge. Āvaṭṭanasīlo ābhujanasīlo na hotīti anāvaṭṭī neva hoti sabbaso appahīnakāmarāgachando. Tenāha **‘‘kasmā’’**tiādi. Orodhanāṭakā pajahanapaññāti ādīnavānupassanāñāṇamāha.

177. 「味わわれる」ゆえに味、すなわち楽である。これらにはわずかな、ほんの少しの味わいしかないゆえに「わずかな味わい」である。それゆえ「**小さな楽**」と言った。探求の苦などを原因とする現世の苦、そこでの悪行の実践による来世の苦が、ここでは諸欲において多いゆえに「多くの苦」である。「多くの悩み」とは、多くの苦悩のことである。それらの苦悩は、後述される方法によってここ現世においても多いゆえに「**現世の……多い**」と言った。そしてそれらの苦悩は、それを備えた者の利益の実践を妨げ、現世においても来世においても過患の原因として作用するがゆえに、「**現世の……多い**」と説かれたのである。「このようであっても」とは、このように「諸欲はわずかな味わいであり」などの形態によって。「理法によって」とは、法によって。「根拠によって」とは、論理によって。「よく見られている」と結びつく。「観の智慧によって」とは、聖道の智慧によってである。それは四つの聖諦をも格別に見るゆえに「観」と意図されている。それゆえ「**下の二つの道の智慧によって、という意味である**」と言った。「喜と楽」とは、喜と楽を伴う二つの禅定である。「二つの道」とは、下の二つの道(預流道・一来道)である。「向きを変える性質、傾く性質がない」とは、向きを変えないこと、完全に断たれていない欲愛の意欲が決して(後退)しないことである。それゆえ「**なぜなら**」などと言った。後宮の劇団を捨てる智慧とは、過患随観智のことを言っている。

179. Assādopi kathito, ‘‘appassādā’’ti hi iminā yāvatako kāmesu assādo, taṃ sabbaṃ anavasesato pariggahetvā cassa parittabhāvo dassitoti ādīnavopi kathito saṅkhepeneva sesassaādīnavassa dassitattā. Taṃ kathetunti taṃ nissaraṇaṃ ‘‘ekantasukhapaṭisaṃvedī’’ti iminā kathetuṃ. Imehi antehīti ‘‘pañcime, mahānāma, kāmaguṇā’’tiādinā kāmaguṇadassanamukhena kāmasukhallikānuyogaṃ ‘‘ubbhaṭṭhakā honti āsanapaṭikkhittā’’tiādinā attakilamathānuyogañca dassetvā imehi dvīhi antehi muttaṃ mama sāsananti, phalasamāpattipariyosānattā sāsanasampattiyā **‘‘upariphalasamāpattisīsena sakalasāsanaṃ dassetu’’**nti āha. Gijjhasadiso kūṭoti majjhepadalopīsamāso yathā ‘‘sākapatthivo’’ti (pāṇini. 2.1.60). Dutiye panettha gijjhavantatāya gijjhā kūṭe etassāti gijjhakūṭo. Uddhaṃyeva tiṭṭhanakā nisajjāya vuṭṭhitakālato paṭṭhāya ekaṭṭhāneneva tiṭṭhanakā. Tenāha **‘‘anisinnā’’**ti. Nigaṇṭhassāti nāṭaputtassa. Natthi etassa parisesanti aparisesaṃ. Evaṃ saṅkhābhavacanamattamassāti āha **‘‘aparisesasaṅkhāta’’**nti. Niccaṭṭhena satata-saddena abhiṇhappavatti jotitā siyāti **‘‘samita’’**nti vuttaṃ. Tena nirantarappavattiṃ dassetīti evaṃ vā ettha attho daṭṭhabbo.

179. 味わいも説かれた。「わずかな味わい」というこれによって、諸欲におけるあらゆる味わいを余すことなく捉えて、そのわずかな状態が示されたからであり、過患もまた簡潔に説かれた。残りの過患が示されたからである。「それを説くために」とは、その出離を「もっぱら楽を感受する」というこれによって説くためである。「これらの極端から」とは、「マハーナーマよ、これら五つの欲の要素がある」などと欲の要素を示すことを通じて欲楽への耽溺を、「立ち続けの者となり、座ることを拒絶し」などによって自己苦行への耽溺を示し、これら二つの極端から解き放たれた私の教えであることを、果定が教えの成就の極致であることから「**上位の果定を筆頭として全教えを示すために**」と言った。「禿鷹に似た頂」とは、「野菜の好きな王」のように中間句が省略された複合語である。第二の解釈では、禿鷹がいることから、その頂に禿鷹がいるゆえに「禿鷹の頂(霊鷲山)」である。「直立したままの者たち」とは、座ることをやめて以来、一つの場所で立ったままの者たちである。それゆえ「**座ることなく**」と言った。「ニガンタの」とは、ナーダプッタ(ニガンタ・ナータプッタ)の。「これには余りがない」ゆえに無余である。このように数えるべき言葉にすぎないとして「**残余なきものと数えられる**」と言った。「常に」という意味の「不断に」という語によって頻繁な生起が照らされるように「**常に**」と説かれた。それによって絶え間ない生起を示す、とこのようにここでの意味を解釈すべきである。

180. Yaṃ karoti, taṃ jānātīti dukkhassa nijjaraṇakhepanaṃ nāma viññūnaṃ kiccaṃ, viññunā ca purisena katākataṃ jānitabbaṃ, tasmā tumhehi purāṇānaṃ kammānaṃ byantibhāvaṃ karontehi paṭhamaṃ tāva ettakāni purāṇāni kammānīti jānitabbāni, tato ‘‘ettakaṃ kālaṃ katena tapasā ettakāni tāni byantikatāni, idāni ettakāni kātabbānī’’tiādinā ayaṃ vidhi purisena viya attanā kātabbakiccaṃ paricchinditabbanti dasseti. Tenāha **‘‘tumhehipi tathā ñātabbaṃ siyā’’**ti. Suddhantanti suddhakoṭṭhāsaṃ, āyatiṃ anavassavasiddhaṃ kammakkhayaṃ, tato vā dukkhakkhayanti attho. Suddhantaṃ patto atthīti pucchatīti iminā akusalānaṃ pahānaṃ, kusalānaṃ bhāvanā ca sabbena sabbaṃ nigaṇṭhasamaye natthi sabbaso visuddhibhāvanāya abhāvato, tasmā kuto dukkhakkhayassa sambhavoti dasseti.

180. 「彼が行うことを、彼は知る」とは、苦を滅尽し消滅させることは有智の者の役目であり、賢明な人によってなされたこととなされなかったことは知られるべきである。したがって、過去の業の滅尽を行うあなた方によって、まずこれだけの過去の業があると知られるべきであり、その後「これだけの期間行われた苦行によってそれらは滅尽され、今これだけのことがなされるべきである」などと、この手順によって人が自身のなすべき役目を決定するように限定されるべきである、と示している。それゆえ「**あなた方によってもそのように知られるべきであろう**」と言った。「清浄の極致」とは、清らかな部分であり、将来において漏れなく成就される業の滅尽、あるいはそれによる苦の滅尽という意味である。「清浄の極致に達した者がいるか、と問う」とは、これによって不善の捨断と善の修習がニガンタの教義には全く存在せず、全き清浄の修習がないことから、どこから苦の滅尽が生じ得ようか、と示している。

Evaṃ ajānanabhāve satīti ‘‘ahuvamheva maya’’ntiādinā vuttappakārassa ajānane sati, tasmiṃ tumhehi aññāyamāneti attho. Luddāti ghorā. Te pana yasmā kāyavācāhi nihīnameva karonti, tasmā vuttaṃ **‘‘luddācārā’’**ti. Lohitapāṇitveva vuccati tajjākiriyācaraṇato. Māgavikakevaṭṭacoraghātakādayo māgavikādayo. Kakkhaḷakammāti pharusakammā. Te nigaṇṭhesu pabbajantīti pubbe mahādukkhasaṃvattaniyakammassa katattā hi tumhe etarahi īdisaṃ mahādukkhaṃ paccanubhavathāti dasseti.

「このように知らない状態において」とは、「私たちはかつて存在した」などと説かれた様態を知らない場合において、それがあなた方に知られていない時に、という意味である。「残忍な者たち」とは、恐ろしい者たちである。彼らは身と口によって卑劣なことばかりを行うゆえに、「**残忍な行いの者たち**」と説かれた。その行為を行うことから「血塗られた手」と呼ばれる。「猟師、漁師、盗賊、死刑執行人など」が猟師などである。「荒々しい業の者たち」とは、粗暴な業を持つ者たちである。「彼らはニガンタたちのもとに出家する」とは、過去に大いなる苦をもたらす業をなしたために、あなた方は今このような大いなる苦を体験しているのだ、と示している。

Vādeti diṭṭhiyaṃ, samayeti attho. Sukhena sukhanti ettha sukhenāti paṭipattisukhena, sukhāya paṭipattiyāti attho. Sukhanti vimokkhasukhaṃ, idha loke sukhaṃ adhigacchantā kasivaṇijjādidukkhapaṭipattiyāva adhigacchanti, evaṃ mokkhasukhampīti adhippāyo. Sarīrāvayavasampattiyāpi bimbino sāroti bimbisāro. Te nigaṇṭhā…pe… sandhāya vadanti, na pana bhagavato accantasantapaṇītaṃ nibbānasukhapaṭivedanaṃ jānanti. Sahasāti ravā. Appaṭisaṅkhāti na paṭisaṅkhāya avicāretvā. Tenāha **‘‘sāhasaṃ katvā’’**tiādi.

「論争において」とは見解において、教義においてという意味である。「楽によって楽を」において、「楽によって」とは行いの楽によって、安楽な実践によってという意味である。「楽を」とは解脱の楽であり、この世で楽を得る者たちは農耕や商業などの苦の行いによってこそ得るが、解脱の楽も同様であるという趣旨である。身体の各部分の美しさからもビンビの精髄であるからビンビサーラである。それらのニガンタたちは……指して語るのであって、世尊の極めて静寂で殊勝な涅槃の楽の体得を知らない。「軽率に」とは、騒がしく。「よく思慮せずに」とは、思慮深くなく、考察せずに。それゆえ「**軽率に行動して**」などと言った。

Aññāhi vedanāhi avomissaṃ ekantaṃ sukhaṃ ekantasukhaṃ, tassa paṭisaṃvedī. Tenāha **‘‘nirantarasukhapaṭisaṃvedī’’**ti. Kathāpatiṭṭhāpanatthanti ‘‘ekantasukhapaṭisaṃvedī’’ti evaṃ āraddhakathāya patiṭṭhāpanatthaṃ. Rājavāreti rājānaṃ uddissa āgatadesanāvāre. Sukhaṃ pucchituṃ hotīti ‘‘yadi satta rattindivāni nappahoti, kiṃ cha rattindivāni pahotī’’tiādinā pucchanasukhaṃ hoti. ‘‘Ahaṃ kho’’tiādinā pavatto suddhavāro suddhanissandassa phalasamāpattisukhassa vasena āgatattā. Anacchariyaṃ hoti, satta rattindivāni pahontassa ekasmiṃ rattindive kiṃ vattabbanti. Uttānatthameva vuttanayattā suviññeyyattā.

他の感受(受)と混ざり合わない純粋な楽が「もっぱらなる楽」であり、それを体験する者である。それゆえ「**不断の楽を体験する者**」と言った。「説話を確立するために」とは、「もっぱらなる楽を体験する者」とこのように始められた説話を定着させるためである。「王の段において」とは、王を指して現れた教説の段において。「容易に問うことができる」とは、「もし七日七夜が十分でないなら、六日六夜は十分であるか」などと容易に問うことができる。「私は実に」などと展開された純粋な段は、純粋な結果である果定の楽の力によって現れたものであるからである。「驚くべきことではない」とは、七日七夜の間可能である者にとって、一昼夜において何を言うことがあろうか。「平易な意味そのもの」とは、説かれた筋道ゆえに容易に理解できるということである。

Cūḷadukkhakkhandhasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

小苦蘊経の注釈における深遠な意味の解明を終わる。

5. Anumānasuttavaṇṇanā

5. 比量経の注釈

181. Vuttānusārenāti ‘‘kurūsu, sakkesū’’ti ca ettha vuttanayānusārena, ‘‘bhaggā nāma jānapadino rājakumārā’’tiādinā nayena vacanattho veditabboti attho. Vatthupariggahadivaseti nagaramāpanatthaṃ vatthuvijjācariyena nagaraṭṭhānassa pariggaṇhanadivase. Athāti pacchā. Nagare nimmiteti tattha anantarāyena nagare māpite. Tameva susumāragiraṇaṃ subhanimittaṃ katvā ‘‘susumāragiri’’tvevassa nāmaṃ akaṃsu. Susumārasaṇṭhānattā susumāro nāma eko giri, so tassa nagarassa samīpe, tasmā taṃ susumāragiri etassa atthīti **‘‘susumāragirī’’**ti vuccatīti keci. Bhesakaḷāti vuccati ghammaṇḍagacchaṃ, keci ‘‘setarukkha’’nti vadanti, tesaṃ bahulatāya pana taṃ vanaṃ bhesakaḷāvananteva paññāyittha. Bheso nāma eko yakkho ayuttakārī, tassa tato gaḷitaṭṭhānatāya taṃ vanaṃ bhesagaḷāvanaṃ nāma jātanti keci. Abhayadinnaṭṭhāne jātaṃ virūḷhaṃ, saṃvaddhanti attho.

181. 「説かれた方法に従って」とは、「クル族において、釈迦族において」において説かれた方法に従って、「バッガとは地方の王子たちである」などの方法によって語義が知られるべきである、という意味である。「敷地を選定した日に」とは、都市を造営するために地相術の師によって都市の敷地が定められた日に。「その後に」とは、後で。「都市が造営された時に」とは、そこで支障なく都市が造営された時に。まさにそのススマラ(鰐)の鳴き声を瑞兆として「ススマラギラ(鰐の山)」と名付けた。鰐の形をしていることからススマラという名の一つの山があり、それがその都市の近傍にあるので、そのススマラ山がここにあるゆえに「**ススマラギラ**」と呼ばれる、とする人々もいる。「ベーサカラー」とは、日光を遮る茂みのことであり、ある人々は「白樹」と言うが、それが多いことからその林はベーサカラー林として知られた。ベーサという名の一人の夜叉が悪事を行い、彼がそこから逃げ落ちた(ガリタ)場所であることから、その林はベーサガラ林という名になったとする人々もいる。「無畏が与えられた場所に生じた」とは、繁茂し成長したという意味である。

Icchāpetīti yaṃ kiñci attani garahitabbaṃ vattuṃ sabrahmacārīnaṃ icchaṃ uppādeti, tadatthāya tesaṃ attānaṃ vissajjetīti attho. Paṭhamaṃ dinno hitūpadeso ovādo, aparāparaṃ dinno anusāsanī. Paccuppannātītavisayo ovādo, anāgatavisayo anusāsanī. Otiṇṇavatthuko ovādo, itaro anusāsanī. So cāti evaṃ pavāretā so bhikkhu. Dukkhaṃ vaco etasmiṃ vippaṭikūlaggāhe vipaccanīkasāte anādare puggaleti dubbaco. Tenāha **‘‘dukkhena vattabbo’’**ti. Upari āgatehīti ‘‘pāpiccho hotī’’tiādinā (ma. ni. 1.181) āgatehi soḷasahi pāpadhammehi. Pakārehi āvahaṃ padakkhiṇaṃ, tato padakkhiṇato gahaṇasīlo padakkhiṇaggāhī, na padakkhiṇaggāhī appadakkhiṇaggāhī. Vāmatoti apasabyato, vuttavipariyāyatoti adhippāyo.

「望ませる」とは、自分にある非難されるべき事柄を語るよう同朋の修行者たちに望みを起こさせ、そのために彼らに自身を委ねる、という意味である。最初に与えられた有益な指導が「教誡」であり、繰り返し与えられたものが「訓戒」である。あるいは現在と過去を対象とするものが教誡であり、未来を対象とするものが訓戒である。事態が生じたことに対するものが教誡であり、それ以外のものが訓戒である。「そして彼が」とは、このように自恣を行ったその比丘が。「その者にとって言葉が困難である」とは、反発して受け止め、敵対することを好み、敬意を払わない人物において「言葉を受け入れがたい(難語)」である。それゆえ「**告げることが困難な**」と言った。「後に出てくるものによって」とは、「悪しき欲を持ち」など(中部 1.181)に出てくる十六の悪しき法によってである。「右回りに受け入れる」とは適切に受け入れることであり、そこから右回りに受け取る習性の者が「正しく受け取る者」であり、正しく受け取らない者が「正しく受け取らない者」である。「左から」とは逆から、説かれたことと反対に、という趣旨である。

Asantasambhāvanapatthanānanti asantehi avijjamānehi guṇehi sambhāvanassa patthanābhūtānaṃ. Paṭi-saddo paccattikapariyāyo, pharaṇaṃ vāyamanaṃ idha tathāvaṭṭhānanti āha **‘‘paṭippharatīti paṭiviruddho paccanīko hutvā tiṭṭhatī’’**ti. Apasādetīti khipeti tajjeti. Tathābhūto ca paraṃ ghaṭṭento nāma hotīti āha **‘‘ghaṭṭetī’’**ti. Paṭiāropetīti yādisena vutto, tassa paṭibhāgabhūtaṃ dosaṃ codakassa upari āropeti.

「存在しない称賛の欲求者たちの」とは、存在しない、ありもしない徳によって称賛されることを願う者たちの。「パティ(対)」という語は敵対の同義語であり、広がり努力することがここではそのように立ちはだかることであるとして、「**立ち向かうとは、敵対し敵となって立ち塞がる**」と言った。「非難する」とは、投げつけ威嚇することである。「そのような状態となって」相手を打ち据えることになるので「**打ち据える**」と言った。「負わせる」とは、言われたことと同種の過失を告発者の上に負わせる。

Paṭicaratīti (a. ni. ṭī. 2.3.68) paṭicchādanavasena carati pavattati, paṭicchādanattho eva vā carati-saddo anekatthattā dhātūnanti āha **‘‘paṭicchādetī’’**ti. Aññenaññanti paṭicchādanākāradassananti āha **‘‘aññena kāraṇenā’’**tiādi. Tattha aññaṃ kāraṇaṃ vacanaṃ vāti yaṃ codakena cuditakassa dosavibhāvanaṃ kāraṇaṃ, vacanaṃ vā vuttaṃ, tato aññeneva kāraṇena, vacanena vā paṭicchādeti. Kāraṇenāti codanāya amūlikabhāvadīpaniyā yuttiyā. Vacanenāti tadatthabodhanena. Ko āpannotiādinā codanaṃ avissajjetvā vikkhepāpajjanaṃ aññenaññaṃ paṭicaraṇanti dasseti, bahiddhā kathāapanāmanaṃ vissajjetvāti ayameva tesaṃ viseso. Tenāha **‘‘itthannāma’’**ntiādi.

「はぐらかす」とは(増支部復注 2.3.68)、隠蔽することによって振る舞い行動すること、あるいは隠蔽することそのものが「チャラティ(振る舞う)」という語の意味である。語根には多くの意味があるからであり、「**覆い隠す**」と言った。「他の事によって他の事を」とは、覆い隠す様態を示すことであるとして「**他の理由によって**」などと言った。そこにおいて「他の理由あるいは言葉によって」とは、告発者によって告発された者の過失を明らかにすること、理由、あるいは言葉が語られた時、それとはまったく別の理由や言葉によって覆い隠すことである。「理由によって」とは、告発が無根拠であることを示す論理によって。「言葉によって」とは、その意味を知らせることによって。「誰が罪を犯したのか」などと言って告発を解明せずに混乱に陥れることが「他の事によって他の事をはぐらかすこと」であると示し、外部へと話を逸らすことが解明することである、というのがそれらの差異である。それゆえ「**某という名の**」などと言った。

Apadīyanti dosā etena rakkhīyanti, lūyanti, chijjantīti vā apadānaṃ, (a. ni. ṭī. 2.3.2) sattānaṃ sammā, micchā vā pavattapayogo. Tenāha **‘‘attano cariyāyā’’**ti.

「これによって過失が除かれ守られ、刈り取られ、断ち切られる」ゆえに行状(アパダーナ)であり(増支部復注 2.3.2)、衆生の正しく、あるいは誤って行われる実践である。それゆえ「**自身の行いによって**」と言った。

183. Anuminitabbanti anu anu minitabbo jānitabbo. Attānaṃ anuminitabbanti ca idaṃ paccatte upayogavacanaṃ. Tenāha **‘‘anuminitabbo tuletabbo tīretabbo’’**ti. Attānaṃ anuminitabbanti vā attani anumānañāṇaṃ pavattetabbaṃ. Tatrāyaṃ nayo – appiyabhāvāvahā mayi pavattā pāpicchatā pāpicchābhāvato parasmiṃ pavattapāpicchatā viya. Esa nayo sesadhammesupi. Aparo nayo – sabrahmacārīnaṃ piyabhāvaṃ icchantena pāpicchatā pahātabbā sīlavisuddhihetubhāvato attukkaṃsanādippahānaṃ viya. Sesadhammesupi eseva nayo.

183. 「推し量るべきである」とは、次々に推し量るべき、知るべきである。「自身を推し量るべきである」というこれは、主格における対格の表現である。それゆえ「**推し量るべきであり、比較すべきであり、判断すべきである**」と言った。あるいは「自身を推し量るべきである」とは、自身について比量の智慧を働かせるべきである。そこにおいてこの方法がある――「私に生じる悪しき欲は好ましくない状態をもたらす。悪しき欲という状態であることは、他者に生じる悪しき欲と同様である」。この方法は残りの法においても同様である。別の方法として――「同朋の修行者たちに愛されることを望む者は、悪しき欲を捨てるべきである。戒の清浄の原因となる状態であることは、自画自賛などの捨断と同様である」。残りの法においてもまさにこの方法である。

184. Paccavekkhitabboti ‘‘na pāpiccho bhavissāmi, na pāpikānaṃ icchānaṃ vasaṃ gato’’tiādinā pati pati divasassa tikkhattuṃ vā ñāṇacakkhunā avekkhitabbaṃ, ñāṇaṃ pavattetabbanti attho. Pāpicchatādīnaṃ pahānaṃ pati avekkhitabbaṃ, ayañca attho tabba-saddassa bhāvatthatāvasena veditabbo, kammatthatāvasena pana **aṭṭhakathāyaṃ ‘‘attāna’’**nti paccatte upayogavacanaṃ katvā vuttaṃ. Sikkhantenāti tissopi sikkhā sikkhantena. Tenāha **‘‘kusalesu dhammesū’’**ti.

184. 「省察すべきである」とは、「私は悪しき欲を持つ者にはならない、悪しき欲望の支配下には入らない」などと、個々に、あるいは一日に三度、智慧の眼によって観察すべきである、智慧を働かせるべきであるという意味である。悪しき欲などの捨断について観察すべきであり、この意味は「タッバ(〜されるべき)」という語の受動態の意味として知られるべきであるが、対象としての意味によって「**註釈書においては『自身を』**」と主格における対格の語として説かれた。「学んでいる者によって」とは、三つの学(三学)を学んでいる者によって。それゆえ「**善なる法において**」と言った。

Tilakanti kāḷatilasetatilāditilakaṃ. Sabbappahānanti sabbappakārappahānaṃ. Phale āgateti phale uppanne. Nibbāne āgateti nibbānassa adhigatattā. Bhikkhupātimokkhanti ‘‘so samaṇo, sa bhikkhū’’ti evaṃ vuttabhikkhūnaṃ pātimokkhaṃ, na upasampannānaṃ eva na pabbajitānaṃ evāti daṭṭhabbaṃ. Yasmā cidaṃ bhikkhupātimokkhaṃ, tasmā vuttaṃ **‘‘idaṃ divasassa tikkhattu’’**ntiādi. Apaccavekkhituṃ na vaṭṭati attavisuddhiyā ekantahetubhāvato.

「黒子」とは、黒い斑点や白い斑点などのことである。「すべての捨断」とは、あらゆる種類の捨断である。「果が現れた時に」とは、果が生じた時に。「涅槃が現れた時に」とは、涅槃が体得されたことによって。「比丘の波羅提木叉」とは、「かの沙門、かの比丘」とこのように説かれた比丘たちの波羅提木叉のことであり、具足戒を受けた者たちだけのものでもなく、出家者たちだけのものでもないと解釈すべきである。そしてこれは比丘の波羅提木叉であるゆえに、「**これを一日に三度**」などと説かれた。省察しないことは適切ではない。自己の清浄の絶対的な原因であるからである。

Anumānasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

比量経の注釈における深遠な意味の解明を終わる。

6. Cetokhilasuttavaṇṇanā

6. 心荒廃経の注釈

185. Ceto tehi khilayati thaddhabhāvaṃ āpajjatīti cetokhilā. Tenāha **‘‘cittassa thaddhabhāvā’’**ti. Yasmā tehi uppannehi cittaṃ uklāpījātaṃ ṭhānaṃ viya amanuññaṃ khettaṃ viya ca khāṇukanicitaṃ amahapphalaṃ hoti. Tena vuttaṃ **‘‘kacavarabhāvā khāṇukabhāvā’’**ti. ‘‘Cittassā’’ti ānetvā sambandhitabbaṃ. Cittaṃ bandhitvāti taṇhāpavattibhāvato kusalacārassa avasaracajanavasena cittaṃ baddhaṃ viya samorodhetvā. Tenāha **‘‘muṭṭhiyaṃ katvā viya gaṇhantī’’**ti. Saddatthato pana ceto virūpaṃ nibandhīyati saṃyamīyati etehīti cetaso vinibandhā yassa catubbidhaṃ sīlaṃ akhaṇḍādibhāvappattiyā suparisuddhaṃ visesabhāgiyattā appakasireneva maggaphalāvahaṃ mahāsaṅgharakkhitattherassa viya, so tādisena sīlena imasmiṃ dhammavinaye vuddhiṃ āpajjissatīti āha **‘‘sīlena vuddhi’’**nti. Yassa pana ariyamaggo uppajjanto virūḷhamūlo viya pādapo suppatiṭṭhito, so sāsane virūḷhiṃ āpannoti āha **‘‘maggena virūḷhi’’**nti. Yo sabbaso kilesanibbānappatto, so arahā sīlādidhammakkhandhapāripūriyā sativepullappatto hotīti āha **‘‘nibbānena vepulla’’**nti. Dutiyavikappe attho vuttanayānusārena veditabbo.

185. 「心」がそれらによって荒廃し硬直した状態に陥るゆえに「心の荒廃」である。それゆえ「**心の硬直した状態**」と言った。それらが生じることによって、心はゴミ捨て場のような不快な場所となり、切り株の多い実りの少ない田畑のようになるからである。それゆえ「**ゴミのような状態、切り株のような状態**」と言った。「心の」という言葉を導いて結びつけるべきである。「心を縛り付けて」とは、渇愛が生起する状態によって善の行いに機会を与えないよう、心を縛られたかのように閉じ込めて。それゆえ「**握り拳の中に入れるかのように掴む**」と言った。語義としては、心がこれらによって醜く縛られ、束縛されるゆえに「心の束縛」である。四種の戒が破られない状態などに達して清浄であり、殊勝な境地に向かうものであるゆえに、大サンガラクキタ長老のように容易に道果をもたらす者は、そのような戒によってこの法と規律において増大に至るであろうとして「**戒による増大**」と言った。また、生じる聖道が根を張った樹木のように堅固に確立した者は、教えにおいて成長を遂げたとして「**道による成長**」と言った。完全に煩悩の涅槃に達した者は阿羅漢であり、戒などの法蘊の充足によって真の広大さに達した者であるとして「**涅槃による広大**」と言った。第二の選択肢における意味は、説かれた方法に従って知られるべきである。

Buddhānaṃ dhammakāyo viya rūpakāyopi anaññasādhāraṇatāya anuttaraguṇādhiṭṭhānatāya ca apaccakkhakārīnaṃ saṃsayavatthu hotiyevāti **‘‘sarīre vā guṇe vā kaṅkhatī’’**ti vuttaṃ. Tattha yathā mahāpurisalakkhaṇena anubyañjanādayo rūpakāyaguṇā gahitā eva honti avinābhāvatoti **‘‘dvattiṃsavaralakkhaṇappaṭimaṇḍita’’**micceva vuttaṃ, evaṃ anāvaraṇañāṇena sabbepi anantāparimeyyabhedā dhammakāyaguṇā gahitā eva hontīti sabbaññutaññāṇaggahaṇameva kataṃ nānantariyabhāvatoti daṭṭhabbaṃ. Kaṅkhahīti ‘‘aho vata te guṇā na bhaveyyuṃ, bhaveyyuṃ vā’’ti patthanuppādanavasena kaṅkhati. Purimo hi viparītajjhāsayo, itaro yathābhūtañāṇajjhāsayo. Vicinantoti vicayabhūtāya paññāya te vivecetukāmo tadabhāvato kicchaṃ dukkhaṃ āpajjati, kicchappatti ca tattha nicchetuṃ asamatthatāyevāti āha **‘‘vinicchetuṃ na sakkotī’’**ti. Vigatā cikicchāti vicikicchā. Adhimokkhaṃ na paṭilabhatīti ‘‘evameta’’nti okappanavasena guṇesu vinicchayaṃ nādhigacchati. Otaritvāti ñāṇena anupavisitvā. Pasīditunti ‘‘pasannarūpadhammakāyaguṇehi bhagavā’’ti pasīdituṃ. Anāvilo akālusso hotuṃ na sakkoti. ‘‘Kaṅkhatī’’ti iminā dubbalā vimati vuttā, ‘‘vicikicchatī’’ti iminā majjhimā, ‘‘nādhimuccatī’’ti iminā balavatī, ‘‘na sampasīdatī’’ti iminā tividhāyapi vimatiyā vasena uppannacittakālussiyaṃ vuttanti daṭṭhabbaṃ.

諸仏の法身と同様に色身もまた他に共通しないものであり、無上の徳の拠り所であるゆえに、直接見ることのできない者たちにとって疑念の対象となるのは必定であるとして、「**身体において、あるいは徳において疑う**」と説かれた。そこにおいて、三十二相によって好相などの色身の徳が不可分であることからまさに含まれているように「**三十二の殊勝な相に飾られた**」とだけ説かれたのと同様に、無礙解の智慧によって無辺無量の法身の徳のすべてが含まれているゆえに、不可分であることから全知の智慧を取ることだけがなされたと解釈すべきである。「疑う」とは、「ああ、実にそれらの徳はないのではないか、あるいはあるのか」と願望を起こすことによって疑う。前者は転倒した意図であり、後者は如実知を求める意図である。「探求する者」とは、分析の智慧によってそれらを識別しようと望むが、それが存在しないために困難や苦痛に陥る。困難に陥るとは、そこにおいて決定することができないことに他ならないとして、「**判断することができない**」と言った。「治療(確信)を離れたもの」が「疑念(ヴィチキッチャー)」である。「確信を得られない」とは、「この通りである」と信順することによって諸々の徳において決定を得られないことである。「入り込んで」とは、智慧によって深く入って。「信順するために」とは、「世尊は清浄な色身と法身の徳を備えている」と信順するために。濁りのない、清らかな状態になることができない。「疑う」というこれによって微弱な疑いが説かれ、「疑念を抱く」によって中程度の疑いが、「確信しない」によって強力な疑いが、「澄み渡らない」によって三種の疑念の力によって生じた心の濁りが説かれたと解釈すべきである。

Ātappāyātiādito tapati santapati kileseti ātappaṃ, ārambhadhātu, tadatthāya. Anuyogāyāti yathā saṃkilesadhammānaṃ avasaro na hoti, evaṃ anu anu yuñjanaṃ anuyogo, nikkamadhātu, tadatthāya. Tenāha **‘‘punappunaṃ yogāyā’’**ti. Sātaccāyāti yathā uparūpari visesādhigamo hoti, tathā satatassa nirantarapavattassa anuyogassa bhāvo sātaccaṃ, parakkamadhātu, tadatthāya. Padhānāyāti santamevaṃ tividhadhātusaṃvaḍḍhitānubhāvaṃ sabbakilesaviddhaṃsanasamatthaṃ padhānasaṅkhātaṃ vīriyaṃ, tadatthāya. Ettha ca ātappāya cittaṃ na namati yathāvuttakaṅkhāvasena, pageva anuyogādiatthanti dassetuṃ cattāripi padāni gahitāni, anavasesavisesadassanatthaṃ vā. Keci pana ‘‘ātappavevacanāneva anuyogādipadānī’’ti vadanti. Ettāvatā bhagavā satthari kaṅkhāya cittassa thaddhakacavarakhāṇukabhāvena akusalabhāvādiāpādanato cetokhilabhāvaṃ dasseti. Sesesupi eseva nayo.

「熱心のために」などにおいて、煩悩を焼き、激しく焼くゆえに「熱心(アータップパ)」であり、発心界(発動の力)であり、そのために。「専念のために」とは、汚染の諸法に機会が生じないように、繰り返し専念することが専念であり、出離界(努力の力)であり、そのために。それゆえ「**繰り返しの修習のために**」と言った。「不断のために」とは、さらに上位の殊勝な境地の体得があるように、不断に絶え間なく生起する専念の状態が不断であり、勇進界(不退転の力)であり、そのために。「精進のために」とは、このように三種の発動によって増大した威力を持つ、すべての煩悩を打ち破ることのできる「精進(パダーナ)」と名付けられた精進であり、そのために。そしてここでは、前述の疑念の力によって熱心のために心が傾かないのであれば、専念などのためなどなおさら傾かない、と示すために四つの語すべてが取られたのであり、あるいは余すことのない差異を示すためである。しかしある人々は「専念などの語は熱心の同義語にすぎない」と言う。これによって世尊は、師に対する疑念によって心が硬直・ゴミ・切り株の状態となり不善の状態などに陥ることから、心の荒廃の状態を示している。残りの項目においてもまさにこの方法である。

Sikkhāggahaṇena paṭipattisaddhammassa gahitattā vuttaṃ **‘‘pariyattidhamme ca paṭivedhadhamme cā’’**ti. Pariyattidhamme yattha kaṅkhāya sambhavo, taṃ dassetuṃ **‘‘caturāsīti dhammakkhandhasahassānī’’**tiādi vuttaṃ. Tayidaṃ nidassanamattaṃ daṭṭhabbaṃ paramparāya paṭivedhāvahabhāvādivasenapi ekaccānaṃ tattha saṃsayuppattito. Yathā ca paṭivedhe kaṅkhā vuttā, evaṃ adhigamadhammepi pavattatīti veditabbā. Tathā hi ekacce ‘‘kasiṇādibhāvanāya jhānāni ijjhantī’’ti vadanti. ‘‘Kasiṇanissando āruppāti, mettādinissando catutthabrahmavihāro’’ti evamādinā kaṅkhatiyevāti. Ettha ca navalokuttaresu paññattiyaṃyeva kaṅkhāpavatti veditabbā asaṃkilesikattā lokuttaradhammānaṃ.

「学」を取ることによって実践の正法が含まれることから「**教理の法においても体得の法においても**」と説かれた。教理の法において疑念が生じる可能性のある箇所を示すために「**八万四千の法蘊**」などと説かれた。これは例示にすぎないと解釈すべきであり、伝承によって体得をもたらすか否かなどによっても一部の者に疑念が生じるからである。そして体得において疑念が説かれたように、証得の法においても生じると知られるべきである。実に一部の者は「遍処などの修習によって禅定が成就する」と言う。「遍処の果は無色界であり、慈愛などの果は第四梵住である」などと疑うのである。そしてここでは九つの出世間法においては概念においてのみ疑念が生起すると知られるべきである。出世間法は汚染され得ないものであるからである。

Evarūpanti edisaṃ suppaṭipatti-ujuppaṭipatti-ñāyappaṭipatti-sāmīcippaṭipatti-saṅkhātaṃ sammāpaṭipadaṃ. Adhisīlasikkhādayo lokuttaradhammassa anudhammabhūtā veditabbā. Evañhi maggaphalasikkhāhi imāsaṃ viseso siddho hoti. Tathā hi vuttaṃ ‘‘sikkhāggahaṇena paṭipattisaddhammassa gahitattā’’ti. Ettha ca yathā vicikicchā vatthuttayassa sikkhāya ca guṇesu anadhimuccanaasampasīdanavasena appaṭipattibhāvato cittassa thaddhabhāvo āsappanaparisappanavasena pavattiyā kacavarakhāṇukabhāvo ca, evaṃ sabrahmacārīsu āghātacaṇḍikkādivasena cittassa thaddhabhāvo ca upahananavirujjhanādivasena kacavarakhāṇukabhāvo ca veditabbo. Ariyasaṅghavisayā vicikicchā, puggalavisayā kāci natthīti saṅghavisayāva gahitā, sāsanikavasena cāyaṃ cetokhiladesanāti sabrahmacārīvisayova kopo gahito.

「このような形の」とは、このような正しき実践・直き実践・理法に適った実践・礼を尽くした実践と名付けられた正しき実践の道である。増上戒学などは出世間法に従う法であると知られるべきである。このようにして道果の学とこれらとの差異が成り立つ。実に「学を取ることによって実践の正法が含まれるから」と説かれた通りである。そしてここでは、疑念が三宝と学の徳において確信せず澄み渡らないことによって実践しない状態となることから心の硬直状態が生じ、動揺し彷徨うことによって生起することからゴミや切り株の状態となるように、同様に同朋の修行者たちに対する怨恨や激怒などによって心の硬直状態が生じ、害意や敵対などによってゴミや切り株の状態が生じると知られるべきである。聖者の僧伽を対象とする疑念であり、個人を対象とするものはないゆえに僧伽を対象とするものだけが取られたのであり、この心荒廃の説法は教団に関するものであるがゆえに、同朋の修行者を対象とする怒りだけが取られたのである。

186. Yathā vatthukāmo, evaṃ kilesakāmopi assādanīyo evāti **‘‘kilesakāmepī’’**ti vuttaṃ. Tenāha bhagavā ‘‘rūpataṇhā loke piyarūpaṃ sātarūpaṃ, etthesā taṇhā uppajjamānā uppajjati, ettha nivisamānā nivisatī’’tiādi (dī. ni. 2.400; ma. ni. 1.133; vibha. 203). Kāmaniddese (mahāni. 1) sabbepi tebhūmakā dhammā kāmanīyaṭṭhena **‘‘kāmā’’**ti vuttā, balavakāmarāgavatthubhūtāyevettha kāmaggahaṇena gahitāti. Vinibaddhavatthubhāvena yathā visuṃ attano kāyo gahito, tathā paresaṃ tathārūpā rūpadhammā samūhaṭṭhenāti āha **‘‘rūpeti bahiddhārūpe’’**ti. Yathā hi pañcakāmaguṇiko rāgo jhānādivisesādhigamassa vinibaddhāya saṃvattati, evaṃ attano kāye apekkhā bahiddhā ca sakaparikkhārañātimittādīsu apekkhāti. Keci panettha ‘‘rūpeti rūpajjhāne’’tiādinā papañcenti. Tadayuttaṃ jhānādhigamavinibaddhānaṃ sīlassa ca saṃkilesabhūtānaṃ cetovinibaddhabhāvena gahitattā.

186. 事欲と同様に煩悩欲もまた味わわれるべきものであるとして、「**煩悩欲においても**」と説かれた。それゆえ世尊は「色愛は世間において好ましく楽しい性質のものであり、この愛が生じる時はここに生じ、留まる時はここに留まる」などと説かれた(長部 2.400;中部 1.133;分別論 203)。欲の解説において(大義釈 1)、すべての三界の法が欲せられるべきものであるという意味で「**諸欲**」と説かれたが、ここでは強い欲貪の対象となるものだけが「欲」として取られている。束縛の対象として個別の自身の身体が取られたように、他者のそのような色法が集まりという意味で取られたとして「**色においてとは、外部の色において**」と言った。五つの欲の要素に対する貪りが禅定などの殊勝な境地の体得の束縛となるように、自身の身体への執着や外部の自身の資具や親族・友人などへの執着も同様である。しかしある人々はここで「色においてとは色界の禅定において」などと展開する。それは不適切である。禅定の体得に束縛されるものや戒の汚染となるものは、心の束縛として取られているからである。

Yāvadatthanti yāva attheti abhikaṅkhati, tāva. Tenāha **‘‘yattakaṃ icchati, tattaka’’**nti. Nti yāvadatthaṃ udarapūraṃ bhuttaṃ. Avadehanato pūraṇato. Seyyasukhanti seyyaṃ paṭicca uppajjanakasukhaṃ. Passasukhanti passānaṃ samparivattanena uppajjanakasukhaṃ. Niddāsukhanti niddāyanena uppajjanakasukhaṃ.

「望むだけ」とは、望む限り、欲する限り。それゆえ「**欲するだけ、それだけ**」と言った。「それを」とは、望むだけ腹を満たすほど食べたものを。「満腹するまで食べることによって」とは、満たすことによって。「臥臥の楽」とは、横たわることに基づいて生じる楽。「側臥の楽」とは、寝返りを打つことによって生じる楽。「睡眠の楽」とは、眠ることによって生じる楽である。

Sīlenātiādi patthanākāradassanaṃ. Vatasamādānanti dhutaṅgādivatānuṭṭhānaṃ. Tapoti vīriyārambho. So hi kilesānaṃ tapanaṭṭhena niggaṇhanaṭṭhena tapacaraṇanti vuttaṃ.

「戒によって」などは願望の様態を示している。「禁戒の受持」とは、頭陀行などの禁戒の実践である。「苦行」とは、精進の開始である。それは煩悩を焼き尽くす意味で、制伏する意味で苦行の実践と説かれた。

189. Chandaṃ nissāyāti chandaṃ dhuraṃ, chandaṃ jeṭṭhakaṃ, chandaṃ pubbaṅgamaṃ katvā pavattivasena chandaṃ nissāya. Jeṭṭhakaṭṭhena padhānabhūtā, padhānabhāvaṃ vā pattāti padhānabhūtā. Tehi dhammehīti chandanissayena pavattasamādhinā ceva ‘‘padhānasaṅkhāro’’ti vuttavīriyena ca. Upetanti sampayuttaṃ. Ijjhanaṭṭhena iddhi, nipphattiatthena paṭilābhaṭṭhena cāti attho, tassā iddhiyā pādaṃ pādakaṃ padaṭṭhānabhūtaṃ. Atha vā ijjhanti tāya iddhā vuddhā ukkaṃsagatā hontīti iddhi, sāva uparivisesānaṃ adhiṭṭhānabhāvato pādo. Tenāha **‘‘iddhibhūtaṃ vā pādanti iddhipāda’’**nti. Sesesupīti vīriyiddhipādādīsupi. Assāti iddhipādassa. Attho dīpitoti dīpanatthaṃ kataṃ, tasmā visuddhimaggasaṃvaṇṇanāyaṃ (visuddhi. mahāṭī. 2.369) tassa atthavicāro gahetabbo. Iddhipādānaṃ samādhipadhānattā vuttaṃ **‘‘vikkhambhanappahānaṃ kathita’’**nti. Tesaṃ tesaṃ kusaladhammānaṃ anuppannānaṃ uppādanakiriyāya uppannānaṃ paribrūhanakiriyāya ussahanato ussoḷhī, thāmappattā parakkamadhātu. Sā pana catunnaṃ iddhipādānaṃ visesapaccayabhūtā te upādāya **‘‘pañcamī’’**ti vuttā, sā ca yasmā samathavipassanābhāvanāsu tattha caādimajjhapariyosānesu sādhetabbaṃ vīriyaṃ, tasmā āha **‘‘ussoḷhīti sabbattha kattabbavīriyaṃ dassetī’’**ti. Pubbabhāgiyasamathavipassanāsādhanaṃ pahātabbadhammavibhāgena bhinditvā āha **‘‘pañca cetokhilappahānāni pañca vinibandhappahānānī’’**ti. Bhabboti yutto arahati nipphattiyā. Ñāṇenāti maggañāṇena. Kilesabhedāyāti kilesānaṃ samucchindanāya. Khemassāti anupaddavassa.

189. 「意欲に基づいて」とは、意欲を主導とし、意欲を最長とし、意欲を先導として働かせることによって、意欲に基づいている。「最長の意味で主たるものとなった、あるいは主たる状態に達した」ゆえに主たるものとなった。「それらの法によって」とは、意欲に基づいて生じる三摩地(定)と、「精進の形成」と説かれた精進によって。「具足した」とは、相応した。「成就するという意味で神足(如意足)、完成の意味で、体得の意味である」ということであり、その神足の足、基礎、足場となるもの。あるいは、それによって成功し、増大し、卓越に至るゆえに「神変(如意)」であり、それ自身がさらに上位の殊勝な境地の基礎となるゆえに「足」である。それゆえ「**神変となったものを足とする、ゆえに神足**」と言った。「他のものにおいても」とは、精進神足などにおいても。「この神足の」とは、その神足の。「意味が照らし出された」とは、解説がなされたということであり、したがって清浄道論の注釈書において(清浄道論大復注 2.369)その意味の考察を取るべきである。神足は三摩地(定)が主であるゆえに「**伏滅による捨断が説かれた**」と言った。それぞれの善なる法で未生であるものを生じさせる行為、生じたものを増大させる行為のために奮起することから「熱気(奮起)」であり、力強さに達した勇進界である。しかしそれは四神足の殊勝な条件となるものであり、それらに基づいて「**第五の**」と説かれた。そしてそれは止観の修習において、その初め・中間・終わりに果たされるべき精進であるゆえに、「**熱気とは、あらゆる場所でなされるべき精進を示す**」と言った。前段階の止観の成就を、捨断されるべき法の分類によって分けて「**五つの心荒廃の捨断、五つの心の束縛の捨断**」と言った。「可能である」とは、ふさわしく、完成に値する。「智慧によって」とは、聖道の智慧によって。「煩悩の打破のために」とは、煩悩を完全に断ち切るために。「安穏のために」とは、災難のないことのために。

Sambhāvanattheti (sārattha. ṭī. 1.11; a. ni. ṭī. 3.7.71) ‘‘api nāmevaṃ siyā’’ti vikappanattho sambhāvanattho. Evaṃ hīti evaṃ ekameva saṅkhyaṃ avatvā aparāya saṅkhyāya saddhiṃ vacanaṃ loke siliṭṭhavacanaṃ hoti yathā ‘‘dve vā tīṇi vā udakaphusitānī’’ti. Sammā adhisayitānīti pādādīhi attanā nesaṃ kiñci upaghātaṃ akarontiyā bahivātādiparissayapariharaṇatthaṃ sammadeva upari sayitāni. Utuṃ gāhāpentiyāti tesaṃ allasinehapariyādānatthaṃ attano kāyusmāvasena utuṃ gaṇhāpentiyā. Tenāha **‘‘usmīkatānī’’**ti. Sammā paribhāvitānīti sammadeva sabbaso kukkuṭavāsanāya vāsitāni. Tenāha **‘‘kukkuṭagandhaṃ gāhāpitānī’’**ti. Ayañca kukkuṭagandhaparibhāvanā sammāadhisayanasammāparisedananipphattiyā **‘‘anunipphādī’’**ti (sārattha. ṭī. 1.11) daṭṭhabbā. Tehi pana saddhiṃyeva ijjhanato vuttaṃ **‘‘tividhakiriyākaraṇenā’’**ti. Kiñcāpi na evaṃ ‘‘aho vatime’’tiādinā icchā uppajjeyya, kāraṇassa pana sampāditattā atha kho bhabbāva abhinibbhijjitunti yojanā. Kasmā bhabbāti āha **‘‘te hi yasmā tāyā’’**tiādi. Ettha yathā kapālassa tanutā ālokassa anto paññāyamānassa kāraṇaṃ, tathā kapālassa tanutāya nakhasikhāmukhatuṇḍakānaṃ kharatāya ca allasinehassa pariyādānaṃ kāraṇavacananti daṭṭhabbaṃ, tasmāti ālokassa anto paññāyamānato, sayañca paripākagatattā.

「推測の意味において」とは(善見律註復注 1.11;増支部復注 3.7.71)、「あるいはそのようであるかもしれない」という推論の意味が推測の意味である。「実にこのように」とは、このように一つの数だけを言わずに別の数と共に語ることは、世間において「二つか三つの水滴」というように滑らかな表現である。「正しく抱かれた」とは、足などによって自身でそれらに何の害も与えず、外部の風などの危険を避けるために正しくその上に伏した。「適切な温度を与えられた」とは、それらの湿気を取り除くために自身の体温によって温もりを与えられた。それゆえ「**温められた**」と言った。「正しく薫じられた」とは、完全に雌鳥の匂いで満たされた。それゆえ「**雌鳥の匂いを含ませられた**」と言った。そしてこの雌鳥の匂いで薫じることは、正しく抱き、正しく温めることの成就によって「**副次的に生じるもの**」と解釈すべきである(善見律註復注 1.11)。しかしそれらと共に成就することから「**三種の行為を行うことによって**」と説かれた。「ああ、これらが」などの願望が生じないとしても、原因が整えられているがゆえに、まさに殻を破って出ることができる、と結合される。「なぜ可能であるのか」を示して「**それらは実に、それによって**」などと言った。ここで、卵殻の薄さが内部の光の知覚される原因であるように、卵殻の薄さと爪の先や嘴の硬さにとって湿気の消失が原因の言葉であると知るべきであり、「それゆえに」とは光が内部で知覚されることから、また自ら成熟に至ったことからである。

Opammasampaṭipādananti opammatthassa upameyyena sammadeva paṭipādanaṃ. Atthenāti upameyyatthena. Yathā kukkuṭiyā aṇḍesu tividhakiriyāya karaṇaṃ kukkuṭacchāpakānaṃ aṇḍakosato nikkhamanassa mūlakāraṇaṃ, evaṃ bhikkhuno ussoḷhīpannarasāni aṅgāni avijjaṇḍakosato nikkhamanassa mūlakāraṇanti āha **‘‘tassā kukkuṭiyā…pe… samannāgatabhāvo’’**ti. Paṭicchādanasāmaññena avijjāya aṇḍakosasadisatāya balavavipassanāvasena avijjaṇḍakosassa tanubhāvo, vipassanāñāṇassa pariṇāmakālo vuṭṭhānagāminibhāvāpatti, tadā ca sā maggañāṇagabbhaṃ dhārentī viya hotīti āha **‘‘gabbhaggahaṇakālo’’**ti. Abhiññāpakkheti lokiyābhiññāpakkhe. Lokuttarābhiññā hi avijjaṇḍakosaṃ padālikāti. Gāthāya avijjaṇḍakosaṃ paharatīti desanāvilāsena vineyyasantānagataṃ avijjaṇḍakosaṃ ghaṭṭeti, yathāṭhāne ṭhātuṃ na deti.

「譬喩の適合」とは、譬喩の意味を受喩(譬えられるもの)と正しく適合させることである。「意味によって」とは、受喩の意味によって。雌鳥が卵に対して三種の行為を行うことが、雛鳥たちが卵殻から外に出る根本原因であるように、比丘の熱気を伴う十五の要素が無明の卵殻から脱出する根本原因であるとして、「**その雌鳥の……具備した状態**」と言った。覆い隠すという共通性によって無明が卵殻に似ていることから、強力な観(ヴィパッサナー)によって無明の卵殻が薄くなること、観の智慧が成熟する時期が出離に至る状態となることであり、その時それは聖道の智慧という胎児を宿しているかのようであるとして「**受胎の時期**」と言った。「神通の部門において」とは、世間的な神通の部門においてである。出世間の神通こそが無明の卵殻を打ち破るものであるからである。偈において「無明の卵殻を砕く」とは、説法の巧みさによって教化される者の心身にある無明の卵殻を打ち破り、元の場所に留まらせないことである。

Paṭisaṅkhānappahānanti tadaṅgappahānapubbakaṃ vikkhambhanappahānaṃ. Pubbabhāgiyā iddhipādā pāḷiyaṃ gahitāti **‘‘iddhipādehi vikkhambhanappahāna’’**nti vuttaṃ. ‘‘Ussoḷhipannarasaṅgasamannāgato bhikkhu bhabbo abhinibbidāyā’’tiādivacanato (ma. ni. 1.189) lokuttariddhipādā pana sambodhaggahaṇeneva gahitā. Magge āgateti ussoḷhīpannarasaṅgasamannāgatassa bhikkhuno vipassanaṃ ussukkāpayato magge āgate uppanne, pāḷiyaṃ vā abhinibbhidāsambodhaggahaṇehi magge āgate. Phale āgateti etthāpi vuttanayena attho veditabbo. Nibbānassa pana pāḷiyaṃ anāgatattā nissaraṇappahānaṃ na gahitaṃ. Sesaṃ suviññeyyameva.

「思択による捨断」とは、部分的な捨断(随分捨断)を先立たせた伏滅による捨断である。前段階の神足が経文において取られているゆえに「**神足による伏滅の捨断**」と説かれた。「熱気と十五の要素を備えた比丘は、突き破ることができる」などの言葉から(中部 1.189)、出世間の神足は等正覚(覚り)を取ることによってまさに含まれている。「道が現れた時に」とは、熱気と十五の要素を備えた比丘が観を励行して道が現れ生じた時に、あるいは経文において「突き破ること、覚り」を取ることによって道が現れた時に。「果が現れた時に」においても説かれた方法によって意味が知られるべきである。しかし涅槃は経文に現れていないため、出離による捨断(断除捨断)は取られていない。残りは容易に理解できる。

Cetokhilasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

心荒廃経の注釈における深遠な意味の解明を終わる。

7. Vanapatthapariyāyasuttavaṇṇanā

7. 森林比喩経の注釈

190. Vanīyati vivekakāmehi bhajīyati, vanute vā te attasampattiyā vasanatthāya yācanto viya hotīti vanaṃ, patiṭṭhanti ettha vivekakāmā yathādhippetavisesādhigamenāti patthaṃ, vanesu patthaṃ gahanaṭṭhāne senāsanaṃ vanapatthaṃ. Pariyāyati attano phalaṃ pariggahetvā vattatīti pariyāyo, kāraṇanti āha **‘‘vanapatthapariyāyanti vanapatthakāraṇa’’**nti. Vanapatthañhi taṃ upanissāya viharato upanissayakāraṇaṃ. Tenāha ‘‘vanapatthaṃ upanissāya viharatī’’ti. Pariyāyati desetabbamatthaṃ patiṭṭhapetīti pariyāyo, desanā. Vanapatthaṃ ārabbha pavattā desanā vanapatthadesanā, taṃ, ubhayatthāpi vanapatthaggahaṇaṃ lakkhaṇamattaṃ gāmādīnampettha kāraṇabhāvassa, desanāya visayabhāvassa ca labbhamānattā.

190. 遠離を望む者たちによって求められ(ヴァニーヤティ)、あるいは自らの豊かさによって住むために彼らを乞い求めるかのようであるから「森(ヴァナ)」であり、遠離を望む者たちが意図した通りの殊勝な境地の獲得によってここに安住するから「林(パッタ)」であり、森の中の林、人里離れた場所の住まいが「森林(ヴァナパッタ)」である。「比喩(パリヤーヤ)」とは、自らの結果を捉えて作用するゆえに「方便(方法)」、すなわち原因であるとして「**森林比喩とは森林の原因**」と言った。実に森林とは、そこに依存して住む者にとって依存の原因である。それゆえ「森林に依存して住む」と言った。あるいは「比喩」とは、説かれるべき意味を確立するゆえに説教、教説である。森林について始められた教説が森林の教説であり、それである。両者において森林を取ることは単なる例示にすぎず、村などもまたここでの原因となり、教説の対象となることが得られるからである。

191. Nissāyāti apassāya, vivekavāsassa apassayaṃ katvāti attho. Na upaṭṭhātītiādīhi tasmiṃ vanapatthe senāsanasappāyābhāvaṃ, utupuggaladhammassavanasappāyābhāvampi vā dasseti. Jīvitasambhārāti (a. ni. ṭī. 3.9.6) jīvitappavattiyā sambhārā paccayā. Samudānetabbāti sammā ñāyena anavajjauñchācariyādinā uddhaṃ uddhaṃ ānetabbā pāpuṇitabbā. Te pana tathā samudānitā samāhaṭā nāma hontīti āha **‘‘samāharitabbā’’**ti. Dukkhena uppajjantīti sulabhuppādā na honti. Etena bhojanasappāyādiabhāvaṃ dasseti. Rattibhāgaṃ vā divasabhāgaṃ vāti bhummatthe upayogavacananti āha **‘‘rattikoṭṭhāse vā divasakoṭṭhāse vā’’**ti. Rattiṃyeva pakkamitabbaṃ samaṇadhammassa tattha anipphajjanato.

191. 「依止して」とは、頼りにして、遠離の住まいを拠り所として、という意味である。「確立しない」などによって、その森林において住居の適した条件がないこと、あるいは気候・人物・聞法の適した条件がないことをも示している。「生活の資具」とは(増支部復注 3.9.6)、生活を維持するための資具、必需品である。「獲得されるべき」とは、正しく理法に適って、過失のない托鉢行などによって次々と得られるべき、達せられるべきである。そのように獲得されたものは集められたと呼ばれるので「**集められるべき**」と言った。「苦労して生じる」とは、容易に得られないということである。これによって食物の適した条件などがないことを示している。「夜の間、あるいは昼の間」とは、処格の意味における対格の表現であるとして「**夜の区切りにおいて、あるいは昼の区切りにおいて**」と言った。沙門の法がそこで成就しないことから、夜のうちにこそ立ち去るべきである。

192-3. Saṅkhāpīti ‘‘yadatthamahaṃ pabbajito, na metaṃ idha nipphajjati, cīvarādi pana samudāgacchati, nāhaṃ tadatthaṃ pabbajito, kiṃ me idha vāsenā’’ti paṭisaṅkhāyapi. Anantaravāre saṅkhāpīti ‘‘yadatthamahaṃ pabbajito, taṃ me idha nipphajjati, cīvarādi pana na samudāgacchati, nāhaṃ tadatthaṃ pabbajito’’ti paṭisaṅkhāyapīti attho. Tenāha **‘‘samaṇadhammassa nipphajjanabhāvaṃ jānitvā’’**ti.

192-3. 「思量しても」とは、「私がそのために出家した目的は、ここでは私に成就しない。しかし衣などは得られる。私はそのために出家したのではない。私がここに住んで何になろう」と思量しても。「直後の段において思量しても」とは、「私がそのために出家した目的は、ここでは私に成就する。しかし衣などは得られない。私はそのために出家したのではない」と思量しても、という意味である。それゆえ「**沙門の法が成就する状態を知って**」と言った。

195-7. So puggalo anāpucchā pakkamitabbaṃ, nānubandhitabboti ‘‘so puggalo’’ti padassa ‘‘nānubandhitabbo’’ti iminā sambandho. Yassa yena hi sambandho, dūraṭṭhenapi so bhavati. Taṃ puggalanti ‘‘so puggalo’’ti paccattavacanaṃ upayogavasena pariṇāmetvā taṃ puggalaṃ anāpucchā pakkamitabbanti attho. Atthavasena hi vibhattivipariṇāmoti. Taṃ āpucchā pakkamitabbanti etthāpi eseva nayo. Āpucchā pakkamitabbanti ca kataññutakataveditāya niyojanaṃ.

195-7. 「その人物に告げずに立ち去るべきであり、従うべきではない」とは、「その人物」という言葉が「従うべきではない」というこれと結びつく。離れた位置にあっても関係のある語と結びつくからである。「その人物を」とは、「その人物(主格)」という言葉を対格の意味に変形して、その人物に告げずに立ち去るべきである、という意味である。意味の力によって格の変形があるからである。「その者に告げて立ち去るべきである」においてもまさにこの方法である。そして「告げて立ち去るべきである」とは、恩を知り恩に報いることへの教示である。

198. Evarūpoti yaṃ nissāya bhikkhuno guṇehi vuddhiyeva pāṭikaṅkhā, paccayehi ca na parissamo, evarūpo daṇḍakammādīhi niggaṇhāti cepi, na pariccajitabboti dasseti **‘‘sacepī’’**tiādinā.

198. 「このような」とは、その者に依止することによって比丘にとって諸々の徳の増大のみが期待され、必需品による苦労もない、このような人物が罰などの行為によって叱責するとしても見捨てるべきではない、と示すために「**たとえ〜であっても**」などと言った。

Vanapatthapariyāyasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

林藪法門経義釈の暗黒解明(復注)を完結す。

8. Madhupiṇḍikasuttavaṇṇanā

8. 蜜丸経義釈

199. Jātivananti sayaṃjātaṃ vanaṃ. Tenāha **‘‘aropima’’**nti. Paṭisallānatthāyāti ekībhāvatthāya, puthuttārammaṇato vā cittaṃ paṭinivattetvā accantasante nibbāne phalasamāpattivasena allīyāpanatthaṃ. Daṇḍo pāṇimhi assāti daṇḍapāṇi. Yathā so ‘‘daṇḍapāṇī’’ti vuccati, taṃ dassetuṃ **‘‘ayañhī’’**tiādi vuttaṃ. Daṇḍavittatāyāti daṇḍe soṇḍatāya. So hi daṇḍapasuto daṇḍasippe ca sukusalo tattha pākaṭo paññāto, tasmā daṇḍaṃ gahetvāva vicarati. Jaṅghākilamathavinodanatthanti rājasabhāya ciranisajjāya uppannajaṅghāparissamassa apanayanatthaṃ. Adhiccanikkhamanoti yādicchakanikkhamano, na abhiṇhanikkhamano. Olubbhāti sannirumbhitvā ṭhito. Yathā so ‘‘olubbhā’’ti vutto, taṃ dassetuṃ **‘‘gopālakadārako viyā’’**tiādi vuttaṃ.

199. 「野生の林(Jātivana)」とは、自然に生じた林のことである。それゆえに「植えられたものではない」と言った。「静寂のために」とは、独居のため、あるいは多様な対象から心を転換させ、極めて静かな涅槃へと果定の力によって専心させるためである。「手に杖を持つ者」が杖手(ダンディパーニ)である。彼が「杖手」と呼ばれる所以を示すために、「実に彼(ayañhi)」等と説かれた。「杖に執着していること」とは、杖に対する熟達のことである。彼は杖に親しみ、杖術に熟達し、その道でよく知られ有名であったため、常に杖を手にして歩き回っていたのである。「足の疲労を除くために」とは、王宮の集会において長く座っていたことによって生じた足の疲労を除去するためである。「気まぐれに出てきた者」とは、思いつきで外出する者であり、頻繁に出てくる者ではない。「寄りかかって」とは、しっかりと支えて立ったことである。彼が「寄りかかって」と言われた所以を示すために、「牛飼いの若者のように」等と説かれた。

200. Vadanti etenāti vādo, diṭṭhīti āha **‘‘kiṃ vādīti, kiṃ diṭṭhiko’’**ti? Kimakkhāyīti kimācikkhako, kīdisadhammakatho? Acittīkārenāti anādarena. Tathāpucchane kāraṇaṃ dassento **‘‘kasmā’’**tiādimāha. Nassatetanti nassatu etaṃ kulaṃ.

200. これによって論説するので「論(vāda)」、すなわち見解(diṭṭhi)であるから、「何論者か、いかなる見解を持つ者か」と説いた。「何を説く者か」とは、何を教示する者か、どのような法を説く者か。「敬意を払わずに」とは、無礼に、である。そのような問いかけをした理由を示して「なぜか」等と説いた。「滅びよ、これ」とは、この家系は滅びてしまえ、ということである。

Atthaṃ na jānātīti atthaṃ ce ekadesena jāneyya, taṃ micchā gahetvā paṭippharitvāpi tiṭṭheyya. Tassa dīgharattaṃ ahitāya dukkhāyāti tadassa atthājānanaṃ bhagavatā icchitaṃ. Viggāhikakathanti viggahakathaṃ, sārambhakathanti attho. Nanu bhagavatā saddhiṃ loke puthū samaṇabrāhmaṇā nānāvādā santīti codanaṃ sandhāyāha **‘‘tathāgato hī’’**tiādi. Na vivadati vivādahetukānaṃ kāmadiṭṭhijjhosānānaṃ maggeneva samugghātitattā, tadabhāvato pana loko tathāgatena vivadati. Dhammavādī yathābhūtavādī dhammavādīhi na vivadati tesaṃ vivaditukāmatāya eva abhāvato, adhammavādī pana tiṇāyapi namaññamāno tehi kiñci vivadati. Tenāha **‘‘na, bhikkhave, dhammavādī kenaci lokasmiṃ vivadatī’’**ti (saṃ. ni. 3.94). Adhammavādī pana asamucchinnavivādahetukattā vivadateva. Tathā cāha **‘‘adhammavādīva kho, bhikkhave, vivadatī’’**ti.

「意味を理解しない」とは、もし意味を一端だけでも知ったならば、それを誤って受け取り、反発して居座るかもしれない。「彼の長き夜の不利益と苦しみのために」とは、彼が意味を理解しないことを世尊は望まれたのである。「抗弁する言葉」とは、論争の言葉であり、勝ち気な言葉という意味である。「世尊に対して世間には多くの沙門や婆羅門が種々の説を唱えているではないか」という詰問に対して、「如来は実に」等と説いた。如来は論争しない。なぜなら論争の原因となる欲や見解への執着が道によって根絶されているからである。しかし世間にはそれがないために如来と論争するのである。正法を説く者(法論者)、事実をありのままに語る者は、法論者たちと論争しない。彼らには論争しようとする欲求そのものがないからである。しかし無法を説く者(非法論者)は、相手を草ほどにも思わず、彼らと何かしら論争する。それゆえに「比丘たちよ、法論者は世の誰とも論争しない」(相応部 3.94)と説かれた。しかし無法を説く者は、論争の原因が根絶されていないため、まさに論争するのである。それゆえに「比丘たちよ、まさに非法論者こそが論争する」と説かれた。

Yathā ca panāti ettha yathā-saddo ‘‘yathā ca anuppannassa kāmacchandassa uppādo hoti, tañca pajānātī’’tiādīsu (a. ni. 3.122) viya kāraṇatthoti āha **‘‘yena kāraṇenā’’**ti. Kāraṇākāro vā idha yathā-saddena vutto, so pana atthato kāraṇamevāti vuttaṃ **‘‘yena kāraṇenā’’**ti. ‘‘Idaṃ kathaṃ idaṃ kathaṃ’’ti pavattanato kathaṃkathā, vicikicchā. Sā yassa natthi, so akathaṃkathī, taṃ akathaṃkathiṃ. Vippaṭisārakukkuccaṃ bhagavatā anāgāmimaggeneva chinnaṃ, hatthapādakukkuccaṃ aggamaggena āveṇikadhammādhigamato. Aparāparaṃ uppajjanakabhavo **‘‘bhavābhavo’’**ti idhādhippetoti āha **‘‘punappunabbhave’’**ti. Saṃvarāsaṃvaro phalāphalaṃ viya khuddakamahanto bhavo **‘‘bhavābhavo’’**ti vuttoti āha **‘‘hīnapaṇīte vā bhave’’**ti. Bhavo vuḍḍhippatto **‘‘abhavo’’**ti vuccati yathā ‘‘asekkhā dhammā’’ti (dha. sa. 11.tikamātikā). Kilesasaññāti kāmasaññādike vadati. Kilesā eva vā saññānāmena vuttā ‘‘saññā pahāya amataṃ eva pāpuṇātī’’tiādīsu viya. Attano khīṇāsavabhāvaṃ dīpetīti imināva paresañca tathattāya dhammaṃ desetīti ayampi attho vibhāvitoti daṭṭhabbaṃ. Nīharitvā kīḷāpetvāti nīharitvā ceva kīḷāpetvā ca, nīharaṇavasena vā kīḷāpetvā. Tivisākhanti tibhaṅgabhākuṭi viya nalāṭe jātattā nalāṭikaṃ.

「またどのようにして(Yathā ca pana)」の箇所において、「どのようにして(yathā)」という語は、「未生起の欲貪が生じるのはどのような理由によるかを了知する」(増支部 3.122)等の如く原因の意味であるから、「いかなる理由によって(yena kāraṇena)」と説いた。あるいは原因のあり様(状態)がここでは「yathā」という語で説かれており、それは実質的には原因そのものであるから「いかなる理由によって」と説いた。「これはどうしてか、どうしてか」と起こることから「疑惑(kathaṃkathā)」すなわち疑い(vicikicchā)である。それが無い者を「無疑惑者」といい、彼を「無疑惑者(akathaṃkathiṃ)」という。後悔の疑念(悪作)は世尊によって不還道によって完全に断たれ、身口の不謹慎な疑念は最上道(阿羅漢道)による固有の法の獲得によって断たれている。次から次へと生じる生存が「有中有(bhavābhava)」としてここで意図されているから、「度々の生存において」と説いた。護りと不護り、果と無果の如く、微小と莫大の生存が「有中有」と説かれたから、「劣れる有や勝れたる有において」と説いた。増大を達成した生存を「有(abhava)」と呼ぶのは、「無学位の法(asekkhā dhammā)」(法集論 11.三組母律)という如くである。「煩悩の想(kilesasaññā)」とは欲想などを言う。あるいは煩悩そのものが想という名で説かれたのは、「想を捨ててこそ不死に達する」等という如くである。「自己の漏尽の境地を照示する」とは、これによって他者のためにもそのようになるよう法を説くという意味も明らかにされていると見るべきである。「取り出して遊ばせ」とは、取り出すことと遊ばせることの両方、あるいは取り出すことによって遊ばせ。「三叉に」とは、額に生じた三つの皺のように額に生じるものである。

201. Kinti nu khoti kiṃ kāraṇenāti attho. Anusandhiṃ gahetvāti pucchānusandhiṃ uṭṭhapetvā. Yatonidānanti yaṃnidānaṃ, yaṃkāraṇāti vuttaṃ hoti. Purimapade hi vibhatti alopaṃ katvā niddeso, chaajjhattikabāhirāyatanādinidānanti ayameva attho. Saṅkhāyanti saṅkhābhāvena ñāyantīti saṅkhāti āha **‘‘saṅkhāti koṭṭhāsā’’**ti. Kāmañcettha mānopi papañco, abhinandanasabhāve eva pana gaṇhanto **‘‘taṇhāmānadiṭṭhipapañcasampayuttā’’**ti āha. Tathā hi vakkhati ‘‘abhinanditabba’’ntiādi. Samudācarantīti sabbaso uddhaṃ uddhaṃ pariyādāya pavattanti. Mariyādattho hi ayamākāro, tena ca yogena purisanti upayogavacanaṃ yathā ‘‘tathāgataṃ, bhikkhave, arahantaṃ sammāsambuddhaṃ dve vitakkā samudācarantī’’ti (itivu. 38). Taṇhādayo ca yathāsakaṃ pavattiākāraṃ avilaṅghantiyo āsevanavasena uparūpari pavattanti. Tathā hi tā ‘‘papañcasaṅkhā’’ti vuttā.

201. 「いかに(Kinti nu kho)」とは、いかなる原因によってか、という意味である。「文脈を捉えて」とは、問いの文脈を起こして。「何に因りて(Yatonidānaṃ)」とは、何に起因してか、いかなる原因によるか、ということである。前の語において格変化を無省略にして示したものであり、内六処や外六処などに起因するというまさにこの意味である。「数(saṅkhā)」とは、数(部分・範疇)として知られるものであるから、数(saṅkhā)であり、「数とは諸部分(koṭṭhāsā)である」と説いた。この文脈において慢もまた戯論であるが、歓喜の性質そのものを捉えて「愛・慢・見の戯論相応の」と説いた。実に後で「歓喜すべき」等と説かれるからである。「襲いかかる(samudācaranti)」とは、ことごとく次々に覆い尽くして生じることである。この語頭のāの形は限定・徹底の意味であり、その結合によって「人(purisaṃ)」という対格の語となる。「比丘たちよ、如来、応供、正等覚者には二つの尋が襲いかかる」(如是語 38)の如くである。愛などは各自の生起のあり様を違えず、習慣づけ(習得)の力によって次々と生じる。それゆえにそれらは「戯論想の範疇(papañcasaṅkhā)」と呼ばれるのである。

Kāraṇeti pavattipaccaye. Ekāyatanampi …pe… natthīti cakkhāyatanādi ekampi āyatanaṃ abhinanditabbaṃ abhivaditabbaṃ ajjhositabbañca natthi ce, nanu natthi eva, kasmā ‘‘natthi ce’’ti vuttanti? Saccaṃ natthi, appahīnābhinandanābhivadanaajjhosānānaṃ pana puthujjanānaṃ abhinanditabbādippakārāni āyatanāni hontīti tesaṃ na sakkā natthīti vattu, pahīnābhinandanādīnaṃ pana sabbathā natthīti ‘‘natthi ce’’ti vuttaṃ. Ahaṃ mamanti abhinanditabbanti diṭṭhābhinandanāya ‘‘aha’’nti taṇhābhinandanāya ‘‘mama’’nti rocetabbaṃ. Abhivaditabbanti abhinivisanasamuṭṭhāpanavasena vattabbaṃ. Tenāha **‘‘ahaṃ mamanti vattabba’’**nti. Ajjhositvāti diṭṭhi taṇhā vatthuṃ anupavisitvā gāhadvayaṃ anaññasādhāraṇaṃ viya katvā. Tenāha **‘‘gilitvā pariniṭṭhapetvā’’**ti. Etenāti ‘‘ettha ce natthī’’tiādivacanena. Etthāti āyatanesu. Taṇhādīnaṃ avatthubhāvadassanamukhena taṇhādīnaṃyeva appavattiṃ kilesaparinibbānaṃ kathitanti. Tenāha bhagavā **‘‘esevanto’’**tiādi, ayameva abhinandanādīnaṃ natthibhāvakaro maggo, tappaṭippassaddhibhūtaṃ phalaṃ, taṃnissaraṇaṃ vā nibbānaṃ rāgānusayādīnaṃ anto avasānaṃ appavattīti attho. Tenāha **‘‘ayaṃ …pe… anto’’**ti. Sabbatthāti ‘‘esevanto paṭighānusayānaṃ’’tiādīsu sabbapadesu.

「原因において」とは、生起の条件において。「一つの処も…中略…存在しないならば」とは、もし眼処などの一つの処であっても、歓喜すべきもの、称賛すべきもの、執着すべきものが存在しないならば、ということである。そもそも初めから存在しないのではないか、なぜ「存在しないならば」と説かれたのか。実に(聖者には)存在しないが、歓喜・称賛・執着を捨てていない凡夫たちには歓喜すべきなどの各種の処が存在するので、彼らには存在しないと言うことはできない。しかし歓喜などを捨てた者たちには全く存在しないので、「存在しないならば」と説かれたのである。「我であり、我のものであると歓喜すべき」とは、見による歓喜によって「我」と、愛による歓喜によって「我のもの」と好むべきである。「称賛すべき」とは、執着を生起させる力によって語られるべきである。それゆえに「我であり、我のものであると語られるべき」と説いた。「執着して」とは、見と愛が対象に入り込んで、二種の把持を他に共有されないものとするかの如くすることである。それゆえに「飲み込んで完成させて」と説いた。「これによって」とは、「もしここに存在しないならば」等の言葉によって。「ここにおいて」とは、諸処において。愛などの無対象性を示すことを通じて、愛などの不生起である煩悩の涅槃が語られたのである。それゆえに世尊は「これこそが究極である」等と説かれた。歓喜などの非存在をもたらす道そのもの、その鎮静である果、あるいはそれらの脱疾である涅槃こそが、貪の随眠などの終わり、終焉、不生起であるという意味である。それゆえに「これこそが…中略…終わりである」と説いた。「すべての箇所において」とは、「これこそが瞋恚の随眠の終わりである」等のすべての句においてである。

Ādiyatīti pahāradānādivasena gayhati. Matthakappattaṃ kalahanti bhaṇḍanādimatte aṭṭhatvā mukhasattīhi vitudanādivasena matthakappattaṃ kalahaṃ. Yāya karotīti sambandho. Sesapadesupi eseva nayo. Viruddhaggāhavasena nānāgāhamattaṃ, tathā viruddhavādavasena nānāvādamattaṃ. Evaṃ pavattanti garukātabbesupi gāravaṃ akatvā ‘‘tuvaṃ tuva’’nti evaṃ pavattaṃ sārambhakathaṃ, yāya cetanāya yaṃ karoti, sā tuvaṃ tuvaṃ. Nissāyāti paṭicca, nissayādipaccaye katvāti attho. Kilesānaṃ uppattinimittatā tāva āyatanānaṃ hotu tabbhāve bhāvato, nirodhanimittatā pana kathaṃ. Na hettha lokuttaradhammānaṃ saṅgaho lokiyānaṃyeva adhippetattāti codanaṃ sandhāyāha **‘‘nirujjhamānāpī’’**tiādi. Nāmamattena nimittataṃ sandhāya vuttoti dassento **‘‘yatthuppannā, tattheva niruddhā hontī’’**ti vatvā tamatthaṃ suttantarena sādhento **‘‘svāyamattho’’**tiādimāha.

「執持される」とは、打撃を与えるなどの力によって取られる。「頂点に達した争い」とは、単なる口論にとどまらず、舌剣によって突き刺すことなどの力によって頂点に達した争いである。「これによって行われる」と連結する。残りの句においてもこの方法による。相反する執着による種々の見解のみ、同様に相反する主張による種々の論説のみ。「このように行われる」とは、尊敬すべき者に対しても敬意を払わず、「お前、お前」とこのように行われる勝ち気な言葉であり、いかなる思惟によって何を行うか、それが「お前、お前」である。「依りて」とは縁として、依止などの条件として、という意味である。諸処が煩悩の生起の標識(原因)であることは、その存在によって存在することから認めるとしても、滅尽の標識であることはいかにしてか。ここでは出世間法の包摂はなく、世間法のみが意図されているからであるという詰問に対して、「滅しつつあるものも」等と説いた。名目だけの標識(原因)を意図して説かれたことを示すため、「生じた場所においてまさに滅するのである」と述べ、その意味を他の経典によって証拠立てて「そのこの意味は」等と説いた。

Tattha samudayasaccapañhenāti mahāsatipaṭṭhāne samudayasaccaniddesena. So hi **‘‘kattha uppajjamānā’’**tiādinā pucchāvasena pavattattā pañhoti vutto. Nanu tattha taṇhāya uppattinirodhā vuttā, na sabbakilesānanti īdisī codanā anavakāsāti dassento **‘‘yatheva cā’’**tiādimāha. Laddhavohāreti iminā rāgādīnaṃ appavattinimittatāya antoti samaññā nibbānassāti dasseti. Eteneva abhinandanādīnaṃ abhāvoti ca idaṃ saṃvaṇṇitanti daṭṭhabbaṃ. Kathaṃ pana sabbasaṅkhatavinissaṭe nibbāne akusaladhammānaṃ nirodhasambhavoti āha **‘‘yañhi yattha natthi, taṃ tattha niruddhaṃ nāma hotī’’**ti. Yvāyaṃ appavattiyaṃ nirodhavohāro vutto, svāyamattho nirodhapañhena dīpetabbo. Na hi tattha uppajjitvā niruddhā vitakkavicārā paṭippassaddhāti vuttā, atha kho appavattā evāti.

そこにおいて「集諦の問いによって」とは、大念処経における集諦の解説によってである。それは「どこにおいて生じ」等と問いの力によって行われているため「問い」と呼ばれる。そこでは渇愛の生起と滅尽が説かれており、一切の煩悩ではないではないか、このような詰問は余地がないことを示すために「まさに〜の如く」等と説いた。「言説を得た」とは、これによって貪などの不生起の原因であることから「終わり(境涯)」という名称が涅槃のものであることを示す。これによって歓喜などの非存在ということも注釈されたと知るべきである。では、一切の有為を離れた涅槃において、どのようにして不善法の滅が生じ得るのかという問いに対して、「何処にも存在しないものは、そこにおいて滅したと呼ばれる」と説いた。この不生起において滅という言説が説かれたその意味は、滅の問いによって明らかにされるべきである。そこにおいて生じて滅した尋や伺が静まったと説かれたのではなく、実に生起しなかったことこそがそう言われたのである。

203. Evaṃsampadanti evaṃsampajjanakaṃ evaṃ passitabbaṃ idaṃ mama ajjhesanaṃ. Tenāha **‘‘īdisanti attho’’**ti. Jānaṃ jānātīti (a. ni. ṭī. 3.10.113-116) sabbaññutaññāṇena jānitabbaṃ sabbaṃ jānāti. Ukkaṭṭhaniddesena hi avisesaggahaṇena ca ‘‘jāna’’nti iminā niravasesaṃ ñeyyajātaṃ pariggaṇhātīti tabbisayāya jānanakiriyāya sabbaññutaññāṇameva karaṇaṃ bhavituṃ yuttaṃ. Atha vā pakaraṇavasena ‘‘bhagavā’’ti saddantarasannidhānena cāyamattho vibhāvetabbo. Passitabbameva passatīti dibbacakkhu-paññācakkhu-dhammacakkhu-buddhacakkhu-samantacakkhu-saṅkhātehi ñāṇacakkhūhi passitabbaṃ passati eva. Atha vā jānaṃ jānātīti yathā aññe savipallāsā kāmarūpapariññāvādino jānantāpi vipallāsavasena jānanti, na evaṃ bhagavā. Bhagavā pana pahīnavipallāsattā jānanto jānāti eva, diṭṭhidassanassa ca abhāvā passanto passatiyevāti attho. Dassanapariṇāyakaṭṭhenāti yathā cakkhu sattānaṃ dassanatthaṃ pariṇeti, evaṃ lokassa yāthāvadassanasādhanato dassanakiccapariṇāyakaṭṭhena cakkhubhūto, paññācakkhumayattā vā sayambhuñāṇena paññācakkhuṃ bhūto pattoti vā cakkhubhūto. Ñāṇabhūtoti etassa ca evameva attho daṭṭhabbo. Dhammā vā bodhipakkhiyā tehi uppannattā lokassa ca taduppādanato, anaññasādhāraṇaṃ vā dhammaṃ pattoti dhammabhūto. Brahmā vuccati maggo tena uppannattā lokassa ca taduppādanattā, tañca sayambhuñāṇena pattoti brahmabhūto. Catusaccadhammaṃ vadatīti vattā. Ciraṃ saccapaṭivedhaṃ pavattento vadatīti pavattā. Atthaṃ nīharitvāti dukkhādiatthaṃ tatthāpi pīḷanādiatthaṃ uddharitvā. Paramatthaṃ vā nibbānaṃ pāpayitā, amatasacchikiriyaṃ sattesu uppādento amataṃ dadātīti amatassa dātā. Bodhipakkhiyadhammānaṃ tadāyattabhāvato dhammassāmī.

203. 「このように至った(Evaṃsampadaṃ)」とは、このように成就した、このように見られるべき私のこの懇願である。それゆえに「このような、という意味である」と説いた。「知る者は知る」とは(増支部復注 3.10.113-116)、一切知智によって知られるべき一切を知る。卓越した解説と無差別な把握によって「知る者」によって余すところなく一切の知られるべき対象を包摂するので、その領域の認知作用には一切知智こそが手段(原因)であるのが妥当である。あるいは文脈の力により、「世尊」という他の語の近接によってこの意味は明らかにされるべきである。「見るべきものを見る」とは、天眼・慧眼・法眼・仏眼・普眼と呼ばれる智眼によって、見るべきものをまさにそのまま見る。あるいは「知る者は知る」とは、他の顚倒した欲界や色界の偏知を説く者たちが知るといっても顚倒の力によって知るのに対し、世尊はそうではない。世尊は顚倒を捨てているために、知る者はまさに知るのであり、邪見による見の非存在から、見る者はまさにそのまま見るのであるという意味である。「見ることの指導者という意味において」とは、眼が衆生のために見ることへ導くように、世間のためにありのままの見解を成就させることから、視覚の役割の指導者という意味において「眼となった者(Cakkhubhūta)」であり、あるいは慧眼から成るがゆえに自親の智によって慧眼そのものとなった者、達した者として「眼となった者」である。「智となった者」についても同様に意味を知るべきである。あるいは法とは三十七菩提分法であり、それらによって現れた者であり、世間にそれを生じさせる者であることから、あるいは他に共通しない法に達した者として「法となった者」である。梵天とは八正道を言い、それによって現れた者であり、世間にそれを生じさせる者であり、それを自親の智によって達した者として「梵天となった者」である。四聖諦の法を説くがゆえに「説者」。久遠の聖諦の通達を行いつつ説くがゆえに「先導者」。意味を引き出すことによって、すなわち苦などの意味を、そこでも圧迫などの意味を引き出して。「あるいは勝義の涅槃へ至らしめる者、不死の現証を衆生に生じさせ、不死を与えるがゆえに不死の与え手。菩提分法が彼に依存していることから法の主。」

204. So vā uddeso attanopi hotīti thero **‘‘yaṃ kho no’’**ti āha. Sabbalokasādhāraṇā hi buddhānaṃ desanāti. Idāni yehi dvārārammaṇehi purisaṃ papañcasaññāsaṅkhā samudācaranti, tāni tāva dassento papañcasaññāsaṅkhā dassetuṃ yena saḷāyatanavibhaṅgena niddeso kato, tassa atthaṃ dassetuṃ **‘‘cakkhuñcā’’**tiādi āraddhaṃ. Tattha nissayabhāvenāti nissayapaccayabhāvena. Nissayapaccayo ca pasādacakkhuyeva hoti, na cuddasasambhāraṃ, catucattālīsasambhāraṃ vā sasambhāracakkhunti āha **‘‘cakkhupasādañca paṭiccā’’**ti. Ārammaṇabhāvenāti ārammaṇapaccayabhāvena. Ārammaṇapaccayo ca catusamuṭṭhānikarūpesu yaṃ kiñci hotīti āha **‘‘catusamuṭṭhānikarūpe ca paṭiccā’’**ti.

204. 「その総説は自身にとっても同様である」ことから、長老は「我々にとって…実に」と言った。諸仏の説法は一切世間に共通するからである。今や、いかなる感覚器官と対象によって人間に戯論想の範疇が襲いかかるか、それらをまず示し、戯論想の範疇を示すために六処の分別によって解説がなされたが、その意味を示すために「眼を縁として」等と説き始めた。そこにおいて「依止(拠り所)として」とは、依止縁として。そして依止縁となるのは浄色眼(眼の感官)だけであり、十四の要素や四十四の要素から成る積聚眼(肉眼の組織全体)ではないので、「眼の浄色を縁として」と説いた。「対象として」とは、所縁縁として。そして所縁縁となるのは四種(業・心・時節・食)から生じる色法のいずれかであるから、「四種から生じる色法を縁として」と説いた。

Ettha cakkhu ekampi viññāṇassa paccayo hoti, rūpāyatanaṃ pana anekameva saṃhatanti imassa visesassa dassanatthaṃ nissayabhāvena **‘‘cakkhupasādañca ārammaṇabhāvena catusamuṭṭhānikarūpe cā’’**ti vacanabhedo kato. Kiṃ pana kāraṇaṃ cakkhu ekampi viññāṇassa paccayo hoti, rūpaṃ pana anekamevāti? Paccayabhāvavisesato. Cakkhu hi cakkhuviññāṇassa nissayapurejātaindriyavippayuttapaccayehi paccayo hontaṃ atthibhāveneva hoti tasmiṃ sati tassa bhāvato, asati abhāvato, yato taṃ atthiavigatapaccayehissa paccayo hotīti vuccati, tannissitatā cassa na ekadesena allīyanavasena icchitabbā arūpabhāvato. Atha kho garurājādīsu sissarājapurisādīnaṃ viya tappaṭibaddhavuttitāya, itare pana paccayā tena tena visesena veditabbā.

ここで眼は一つであっても識の条件となるが、色処は実に多数が集積したものであるというこの相違を示すために、依止として「眼の浄色と、対象として四種から生じる色法と」という言葉の区別がなされた。ではなぜ眼は一つでも識の条件となり、色法は多数でなければならないのか。それは条件となるあり様の相違による。実に眼は眼識に対して依止縁・前生縁・根縁・不相応縁として条件となるとき、それがあることによって識が生じ、それがないことによって生じないという、存在していることそのものによって条件となる。それゆえにそれは存在縁・不離去縁によって識の条件となると言われる。そして識がそれに依止していることは、色法ではない(心である)がゆえに、一箇所に付着するような仕方で理解されるべきではない。むしろ重臣や王に対する弟子や従者のように、それに依存した活動によるのである。しかしその他の諸条件はそれぞれの特質によって知られるべきである。

Sacāyaṃ paccayabhāvo na ekasmiṃ na sambhavatīti ekampi cakkhu cakkhuviññāṇassa paccayo hotīti dassetuṃ pāḷiyaṃ **‘‘cakkhuñcāvuso, paṭiccā’’**ti ekavacanavasena vuttaṃ. Rūpaṃ pana yadipi cakkhu viya purejātaatthi-avigatapaccayehi paccayo hoti puretaraṃ uppannaṃ hutvā vijjamānakkhaṇe eva upakārakattā tathāpi anekameva saṃhataṃ hutvā paccayo hoti ārammaṇabhāvato. Yañhi paccayadhammaṃ sabhāvabhūtaṃ, parikappitākāramattaṃ vā viññāṇaṃ vibhāventaṃ pavattati, tadaññesañca satipi paccayabhāve so tassa sārammaṇasabhāvatāya yaṃ kiñci anālambhitvā pavattituṃ asamatthassa olubbhapavattikāraṇabhāvena ālambanīyato ārammaṇaṃ nāma, tassa yasmā yathā tathā sabhāvūpaladdhi viññāṇassa ārammaṇapaccayalābho, tasmā cakkhuviññāṇaṃ rūpaṃ ārabbha pavattamānaṃ tassa sabhāvaṃ vibhāventameva pavattati. Sā cassa indriyādhīnavuttikassa ārammaṇasabhāvūpaladdhi na ekadvikalāpagatavaṇṇavasena hoti, nāpi katipayakalāpagatavaṇṇavasena, atha kho ābhogānurūpaṃ āpāthagatavaṇṇavasenāti anekameva rūpaṃ saṃhaccakāritāya viññāṇassa paccayo hotīti dassento **‘‘rūpe ca uppajjati cakkhuviññāṇa’’**nti bahuvacanavasenāha.

もしこの条件性が一つにおいて生じ得ないのではないとすれば、単一の眼であっても眼識の条件となることを示すために、パーリ語の本文では「友よ、眼を縁として」と単数形によって説かれた。しかし色法は、眼と同様に前生・存在・不離去縁によって条件となるとしても、より前に生じて現前している瞬間にこそ役立つものであるから、やはり多数が集積して初めて所縁縁として条件となる。なぜなら、自性であるか、あるいは単なる概念化された状態であるかを問わず、識がそれを明らかにしながら生起する条件の法は、他の諸条件が存在するとしても、識が対象を持つ性質ゆえに、何かしらを対象とせずには生起できないことの依りかかる生起の原因となることによって対象(所縁)と呼ばれるのであり、識がその対象の自性をどのように認知するかが識の所縁縁の獲得であるから、眼識は色法を機縁として生起しつつ、その自性を明らかにしながら生起する。そして感官に依存する識のこの対象自性の認知は、一つや二つの微小粒子の色彩によるものではなく、数個の微小粒子の色彩によるものでもなく、注意の向け方に相応して視野に入った色彩によるものであるから、実に多数の色法が集積して作用することによって識の条件となることを示すために、「色法(複数)において眼識が生じる」と複数形によって説いたのである。

Yaṃ pana paṭṭhāne (paṭṭhā. 1.1.2 paccayaniddesa) ‘‘rūpāyatanaṃ cakkhuviññāṇadhātuyā taṃsampayuttakānañca dhammānaṃ ārammaṇapaccayena paccayo’’ti vuttaṃ, taṃ yādisaṃ rūpāyatanaṃ cakkhuviññāṇassa ārammaṇapaccayo, tādisaṃ sandhāya vuttaṃ. Kīdisaṃ pana tanti? Samuditanti pākaṭoyamattho. Evañca katvā yadeke vadanti ‘‘āyatanasallakkhaṇavasena cakkhuviññāṇādayo sallakkhaṇavisayā, na drabyasallakkhaṇavasenā’’ti, tampi suvuttameva hoti. Na cettha samudāyārammaṇatā āsaṅkitabbā samudāyābhogasseva abhāvato, samuditā pana vaṇṇadhammā ārammaṇapaccayā honti. Kathaṃ pana paccekaṃ asamatthā samuditā ārammaṇapaccayā honti. Na hi paccekaṃ daṭṭhuṃ asakkontā andhā samuditā passantīti? Nayidamekantikaṃ visuṃ visuṃ asamatthānampi sivikāvahanādīsu samatthatāya dassanato. Kesādīnañca yasmiṃ ṭhāne ṭhitānaṃ paccekaṃ vaṇṇaṃ gahetuṃ na sakkā, tasmiṃyeva ṭhāne samuditānaṃ taṃ gahetuṃ sakkāti bhiyyopi tesaṃ saṃhaccakāritā paribyattā. Etena kiṃ cakkhuviññāṇassa paramāṇurūpaṃ ārammaṇaṃ, udāhu taṃsamudāyotiādikā codanā paṭikkhittāti veditabbā. **‘‘Sotañca, āvuso, paṭiccā’’**tiādīsupi iminā nayena attho veditabbo. Cakkhuviññāṇaṃ nāmāti cakkhunissitarūpavijānanalakkhaṇaṃ cakkhuviññāṇaṃ nāma uppajjati.

発趣論(発趣論 1.1.2 縁の解説)において「色処は眼識界およびそれに相応する諸法に対して所縁縁によって条件となる」と説かれたのは、眼識の所縁縁となるような色処を意図して説かれたものである。ではそれはどのようなものか。集積したものであることは明白である。このようにして、「処の弁別により眼識などは弁別の対象であって、個々の実体の弁別によるのではない」と一部の者たちが言うことも、まさに正しく言われているのである。そしてここに全体(集合体)が対象であると疑ってはならない。集合体に対する思惟そのものは存在せず、集積した色彩の法が所縁縁となるからである。では個々には能力がないのに、集積してなぜ所縁縁となるのか。個々に視力のない盲人が集まっても見ることができないではないか、と。これは絶対的なことではない。個々には無力であっても、輿を担ぐことなどにおいては能力があることが見られるからである。また毛髪などが、個々の色彩を捉えることができない場所にあっても、集積した状態であればそれを捉えることができるように、それらの集積による作用は一層明らかである。これによって、眼識の対象は極微の色か、あるいはその集積かといった詰問は論駁されたと知るべきである。「友よ、耳を縁として」等においてもこの方法によって意味を知るべきである。「眼識と呼ばれる」とは、眼に依止して色を識別する特徴を持つ眼識と呼ばれるものが生じるということである。

Tiṇṇaṃ saṅgatiyāti cakkhu, rūpaṃ, cakkhuviññāṇanti imesaṃ tiṇṇaṃ saṅgatiyā samodhānena. Phasso nāmāti arūpadhammopi samāno ārammaṇe phusanākāreneva pavattanato phusanalakkhaṇo phasso nāma dhammo uppajjati. Sahajātādivasenāti cakkhuviññāṇasampayuttāya sahajātaaññamaññādivasena, anantarāya anantarādivasena, itarāya upanissayavasena paccayabhāvato phassapaccayā phassakāraṇā vedanā uppajjati. Anubhavanasamakālameva ārammaṇassa sañjānanaṃ hotīti **‘‘tāya vedanāya yaṃ ārammaṇaṃ vedeti, tadeva saññā sañjānātī’’**ti vuttaṃ. Cakkhudvārikā dhammā idhādhippetāti tadanusārena pana aparāparuppannānaṃ vedanādīnaṃ gahaṇe sati, yanti vā kāraṇavacanaṃ, yasmā ārammaṇaṃ vedeti, tasmā taṃ sañjānātīti attho. Na hi asati vedayite kadāci saññuppatti atthi. Sesapadesupi eseva nayo. Saññāya hi yathāsaññātaṃ vijjamānaṃ, avijjamānaṃ vā ārammaṇaṃ vitakkavasena parikappeti, yathāparikappitañca taṃ diṭṭhitaṇhāmānamaññanāhi maññamāno papañcetīti vutto. Tenevāha ‘‘pathaviṃ pathavito sañjānā’’ti, ‘‘pathaviṃ pathavito saññatvā pathaviṃ maññatī’’tiādi (ma. ni. 1.2), ‘‘takkañca diṭṭhīsu pakappayitvā, saccaṃ musāti dvayadhammamāhū’’ti (su. ni. 892; mahāni. 121) ca. Balappattapapañcavasenevāyamatthavaṇṇanā katā, aṭṭhakathāyaṃ pana paridubbalavasena.

「三者の集会により」とは、眼、色、眼識というこれら三者の集会(結合)によって。「触と呼ばれる」とは、非色法(名法)でありながら、対象において触れるような様態で生起することから、触れる特徴を持つ触と呼ばれる法が生じる。「倶生などの力により」とは、眼識に相応するものには倶生・相互などの力により、無間なるものには無間などの力により、その他のものには親依止の力によって条件となることから、触を縁として、触を原因として受が生じる。対象の感受と同時にその対象の認知(想)があることから、「その受によって受容するまさにその対象を、想が認知する」と説かれた。ここでは眼門の法が意図されているので、それに応じて次々と生じた受などを把握する場合、あるいは「何を」という原因の言葉であり、対象を受容するがゆえにそれを認知するという意味である。実に感受がなければ想の生起は決してあり得ない。残りの句においてもこの方法による。実に想によって認知されたがままに、実在する、あるいは実在しない対象を尋の力によって思構し、思構されたその対象を見・愛・慢の妄執によって妄想しつつ「戯論する」と説かれた。それゆえに「地を地と認知する」「地を地と認知して地を妄想する」等(中部 1.2)や、「諸見において思構をめぐらし、真実と虚妄の二者対立を語る」(スッタニパータ 892;大義釈 121)と説かれたのである。力の強まった戯論の力によってこの解釈はなされたが、義釈においては微弱なものの力による。

Cakkhurūpādīhi kāraṇehīti cakkhuviññāṇaphassavedanāsaññāvitakkehi kāraṇabhūtehi. Akāraṇabhūtānampi tesaṃ atthitāya kāraṇaggahaṇaṃ. Pariññātā hi te akāraṇaṃ. Tenāha **‘‘apariññātakāraṇa’’**nti. Tīhipi pariññāhi apariññātavatthukaṃ. Abhibhavantīti ajjhottharanti. Sahajātā hontīti ettha ‘‘cakkhusamphassapaccayā vedanākkhandho atthi kusalo’tiādivacanato vedanāsaññā asahajātāpi gahetabbā. Yadi evanti ‘‘papañcetī’’ti ettha yadi pañcadvārajavanasahajātā papañcasaṅkhā adhippetā tāsaṃ paccuppannavisayattā, kasmā atītānāgataggahaṇaṃ katanti codeti. Itaro **‘‘tathā uppajjanato’’**tiādinā pariharati. Tattha tathā uppajjanatoti yathā vattamānakāle, evaṃ atītakāle anāgatakāle ca cakkhudvāre papañcasaṅkhānaṃ uppajjanato atītānāgataggahaṇaṃ kataṃ, na atītesu, anāgatesu vā cakkhurūpesu cakkhudvārikānaṃ tāsaṃ uppajjanato.

「眼や色などの原因によって」とは、眼識・触・受・想・尋という原因となったものたちによって。それらが原因でない状態もあるため「原因」と特定して把握した。実に完全に知られた(遍知された)それらは(煩悩の)原因ではない。それゆえに「遍知されていない原因を」と説いた。三種の遍知によって遍知されていない基盤を持つものである。「圧倒する」とは覆い尽くす。「倶生である」の箇所において、「眼触を縁として生じる受蘊には善のものもある」等の説から、受と想は倶生でないものも把握されるべきである。「もしそうであるならば」とは、「戯論する」という箇所において、もし五門の速行に倶生する戯論想の範疇が意図されているなら、それらは現在を対象とするものであるのに、なぜ過去と未来を把握したのかと詰問する。他者は「そのように生じることから」等と答える。そこにおいて「そのように生じることから」とは、現在において生じるように、過去においても未来においても眼門において戯論想の範疇が生じることから過去と未来の把握がなされたのであり、過去や未来の眼や色において眼門のそれらが生じるからではない。

Manañjāvuso, paṭiccāti ettha duvidhaṃ manaṃ kevalaṃ bhavaṅgaṃ, sāvajjanaṃ vā. Duvidhā hi kathā. Uppattidvārakathāyaṃ dvikkhattuṃ calitaṃ bhavaṅgaṃ manodvāraṃ nāma, cakkhādi viya rūpādinā yena taṃ ghaṭṭitaṃ tattha upari viññāṇuppattiyā dvārabhāvato. Paccayakathāyaṃ sāvajjanabhavaṅgaṃ, ‘‘manosamphassapaccayā atthi kusalo’’tiādīsu hi sāvajjanamanosamphasso icchito, na bhavaṅgamanosamphasso asambhavato. Tattha paṭhamanayaṃ sandhāyāha **‘‘mananti bhavaṅgacitta’’**nti. Dhammeti tebhūmakadhammārammaṇanti iminā sabhāvadhammesu eva kilesuppattīti keci, tadayuttaṃ tadupādānāyapi paññattiyā dhammārammaṇatāya vuttattā. Idha pana tebhūmakāpi dhammā labbhantīti dassanatthaṃ **‘‘tebhūmakadhammārammaṇa’’**nti vuttaṃ, na paññattiyā anārammaṇattā. Evañcetaṃ sampaṭicchitabbaṃ, aññathā akusalacittuppādā anārammaṇā nāma siyuṃ. Uppattidvārakathāyaṃ cakkhuviññāṇādi viya āvajjanampi dvārapakkhikamevāti vuttaṃ **‘‘manoviññāṇanti āvajjanaṃ vā’’**ti. Paccayakathāyaṃ pana āvajjanaṃ gahitanti **‘‘javanaṃ vā’’**ti vuttaṃ. Nayadvaye dhammānaṃ sahajātavibhāgaṃ dassetuṃ ‘‘āvajjane **gahite’’**tiādi vuttaṃ. Yuttamevāti nippariyāyato yuttameva.

「友よ、意を縁として」の箇所において、意には純粋な有分と、転向を伴うものの二種がある。二種の説があるからである。生起門の説においては、二度動揺した有分を意門と呼ぶ。眼などが色などによって触れられるように、それによって触れられた場所においてその後の識の生起のための門となるからである。条件(縁)の説においては、転向を伴う有分である。「意触を縁として善の法がある」等においては転向を伴う意触が意図されており、純粋な有分の意触は不可能であるため意図されていない。そこにおいて第一の方法を意図して「意とは有分心である」と説いた。「法において」とは、三界に属する法を対象とすることであり、これによって自性法においてのみ煩悩が生じると主張する者もいるが、それは不当である。それらを把握するための概念(施設)も法処の対象であると説かれているからである。しかしここでは三界の法も得られることを示すために「三界の法を対象とする」と説いたのであり、概念が対象でないからではない。このようにこれは受け取られるべきである。さもなければ不善の心起が無対象となってしまうであろう。生起門の説においては、眼識などのように転向もまた門の側に属するものであることから「意識とは転向、あるいは」と説いた。しかし条件の説においては転向が把握されているので「速行、あるいは」と説いた。二種の方法において諸法の倶生の区別を示すために「転向が把握されたとき」等と説いた。「まさに妥当である」とは、直接的な意味においてまさに妥当である。

So yāva na paccayapaṭivedho sambhavati, tāva paññattimukheneva sabhāvadhammā paññāyanti paccekaṃ apaññāpaneti āha **‘‘phasso nāma eko dhammo uppajjatī’’**ti. Evaṃ phassapaññattiṃ paññapessatīti paññapetvā tabbisayadassanaṃ ñāṇaṃ uppādessati. Imasmiṃ sati idaṃ hotīti imasmiṃ cakkhuādike paccaye sati idaṃ phassādikaṃ paccayuppannaṃ hoti. Dvādasāyatanavasenāti dvādasannaṃ āyatanānaṃ vasena āgatena paṭiccasamuppādanayavasena. Dvādasāyatanapaṭikkhepavasenāti ‘‘imasmiṃ asati idaṃ na hotī’’ti paccayābhāvapaccayuppannābhāvadassanakkame dvādasannaṃ āyatanānaṃ paṭikkhepavasena.

条件の通達がまだ成り立たない間は、概念の表現を通してのみ自性法が知られ、個別に知られないので、「触という一つの法が生じる」と説いた。「このように触の概念を規定するであろう」とは、規定してその領域を見る智を生じさせるであろうということである。「これがあるとき、これがある」とは、この眼などの条件があるとき、この触などの縁生法が生じる。「十二処の力により」とは、十二処の力によって説かれた縁起の方法によって。「十二処の否定の力により」とは、「これがないとき、これはない」という条件の非存在と縁生法の非存在を示す順序において、十二処の否定による力によってである。

Sāvakena pañho kathitoti ayaṃ pañho sāvakena kathito, iti iminā kāraṇena mā nikkaṅkhā ahuvattha. Atha vā saṃkhittena vuttamatthaṃ vitthārena vibhajantena etadagge ṭhapitena mahāsāvakena pañho kathitoti iminā kāraṇena etasmiṃ pañhe mā nikkaṅkhā ahuvattha, heraññike sati kahāpaṇaṃ sayaṃ nicchinantā viya ahutvā bhagavato eva santike nikkaṅkhā hotha.

「弟子によって問いが説かれた」とは、この問いは弟子によって説かれたのであるから、この理由によって疑いを持つことがあってはならない。あるいは、簡潔に説かれた意味を詳細に分別する者として最高位に置かれた大弟子によって問いが説かれたのであるから、この理由によってこの問いにおいて疑いを持つことがあってはならない。両替商がいるときに自分で貨幣を鑑定する者のようにならず、世尊の御前においてこそ疑いを無くしなさい。

205. Ākaronti phalaṃ tāya tāya mariyādāya nibbattentīti ākārā, kāraṇāni. Pāṭiyekkakāraṇehīti channaṃ dvārānaṃ vasena visuṃ visuṃ papañcakāraṇassa niddiṭṭhattā vuttaṃ. Atha vā yadipi yattakehi dhammehi yaṃ phalaṃ nibbattati, tesaṃ samuditānaṃyeva kāraṇabhāvo sāmaggiyāva phaluppattito, tathāpi paccekaṃ tassa kāraṇamevāti katvā vuttaṃ **‘‘pāṭiyekkakāraṇehī’’**ti. Padehīti nāmādipadehi ceva taṃsamudāyabhūtehi vākyehi ca. Tenāha **‘‘akkharasampiṇḍanehī’’**ti. Akkharāniyeva hi atthesu yathāvaccaṃ padavākyabhāvena paricchijjanti. Byañjanehīti atthassa abhibyañjanato byañjanasaññitehi vaṇṇehi. Tāni pana yasmā pariyāyassa akkharaṇato ‘‘akkharānī’’ti vuccanti, tasmā āha **‘‘akkharehī’’**ti. Ettha ca imehi ākārehi imehi padabyañjanehi papañcasamudācārassa vaṭṭassa ca vivaṭṭassa ca dassanaattho vibhattoti yojanā. Paṇḍiccenāti paññāya. ‘‘Kittāvatā nu kho, bhante, paṇḍito hoti? Yato kho bhikkhu dhātukusalo ca hotī’’ti (ma. ni. 3.124) ādisuttapadavasena paṇḍitalakkhaṇaṃ dassento **‘‘catūhi vā kāraṇehī’’**tiādimāha. Saccapaṭivedhavasena paṇḍiccaṃ dassitanti paṭisambhidāvasena mahāpaññataṃ dassetuṃ **‘‘mahante atthe’’**tiādi vuttaṃ.

205. 「作る(ākaronti)」とは、それぞれの限界において結果を生じさせるものであるから、様態(ākāra)すなわち原因である。「個別の原因によって」とは、六つの門の力により個別に戯論の原因が示されているために説かれた。あるいは、どれほどの諸法によっていかなる結果が生じるとしても、それら集まったもののみが原因となるのであり、和合によってのみ結果が生じるのであるが、それでも個々がその原因であるとして「個別の原因によって」と説かれた。「句によって」とは、名句などの句や、それらの集合体である文によってである。それゆえに「文字の結合によって」と説いた。文字そのものが意味において適切に句や文として区切られるからである。「文彩(byañjana)によって」とは、意味を明白に示すことから文彩と名づけられた文字(音節)によってである。それらは表現形式が消滅しない(無壊である)ことから「文字(akkhara)」と呼ばれるので、「文字によって」と説いた。そしてここにおいて、これらの様態によって、これらの句や文字によって、戯論の生起と流転(輪廻)および還滅(解脱)を示す意味が分別された、と結びつける。「博識によって」とは、智慧によって。「大徳よ、どれほどのことによって賢者となるのでしょうか。比丘が界に巧みであるとき…」(中部 3.124)等の経典の句の力によって賢者の特徴を示し、「あるいは四つの原因によって」等と説いた。聖諦の通達による博識が示されたので、無礙解による大いなる智慧を示すために「大いなる意味において」等と説いた。

Guḷapūvanti guḷe missitvā katapūvaṃ. Baddhasattuguḷakanti madhusakkharāhi piṇḍīkataṃ sattupiṇḍaṃ. Asecitabbakaṃ madhuādinā pageva tehi samayojitabbattā. Cintakajātikoti dhammacintāya cintakasabhāvo. Sabbaññutaññāṇenevassāti sabbaññutaññāṇeneva assa suttassa guṇaṃ paricchindāpetvā nāmaṃ gaṇhāpessāmi.

「蜜の菓子」とは、糖蜜を混ぜて作った菓子。「固められた麦粉の団子」とは、蜂蜜と砂糖によって団子状にされた麦粉の団子。「注ぐ必要のないもの」とは、蜂蜜などが予めそれらと調合されているからである。「思索する性質の者」とは、法の思索において思索する性質を持つ者。「彼の一切知智によってまさに」とは、彼の一切知智によってこの経の功徳を限定させて、名前を授けさせよう、ということである。

Madhupiṇḍikasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

蜜丸経義釈の暗黒解明(復注)を完結す。

9. Dvedhāvitakkasuttavaṇṇanā

9. 双考経義釈

206. Dve dve bhāgeti dve dve koṭṭhāse katvā. Kāmañcettha ‘‘imaṃ ekaṃ bhāgamakāsiṃ, imaṃ dutiyabhāgamakāsi’’nti vacanato sabbepi vitakkā saṃkilesavodānavibhāgena dveva bhāgā katā, aparāparuppattiyā panetesaṃ abhiṇhācāraṃ upādāya pāḷiyaṃ ‘‘dvidhā katvā’’ti āmeḍitavacananti **‘‘dve dve bhāge katvā’’**ti āmeḍitavacanavaseneva vutto. Atha vā bhāgadvayassa sappaṭibhāgatāya tattha yaṃ yaṃ dvayampi kho ujuvipaccanīkaṃ, taṃ taṃ visuṃ visuṃ gahetukāmo bhagavā āha ‘‘dvidhā katvā vitakke vihareyya’’nti. Evaṃ pana cintetvā tattha micchāvitakkānaṃ sammāvitakkānañca anavasesaṃ asaṅkarato ca gahitabhāvaṃ dassento **‘‘imaṃ ekaṃ bhāgamakāsiṃ, imaṃ dutiyabhāgamakāsi’’**nti avoca. Kāmapaṭisaṃyuttoti kāmarāgasaṅkhātena kāmena sampayutto, kāmena paṭibaddho vā. Sesesupi eseva nayo. Ayaṃ pana viseso – byāpajjati cittaṃ etenāti byāpādo, doso. Vihiṃsati etāya satte, vihiṃsanaṃ vā tesaṃ etanti vihiṃsā, paresaṃ viheṭhanākārena pavattassa karuṇāpaṭipakkhassa pāpadhammassetaṃ adhivacanaṃ. Ajjhattanti ajjhattadhammārammaṇamāha. Bahiddhāti bāhiradhammārammaṇaṃ. Oḷārikoti bahalakāmarāgādipaṭisaṃyutto. Tabbipariyāyena sukhumo. Vitakko akusalapakkhikoyevāti iminā vitakkabhāvasāmaññena tatthāpi akusalabhāvasāmaññena ekabhāgakaraṇaṃ, na ekacittuppādapariyāpannatādivasenāti dasseti.

206. 「二つずつの部分に」とは、二つずつの区分にして。ここにおいて「これを一つの部分とし、これを第二の部分とした」という説示から、すべての尋は雑染と清浄の区分によって二つの部分とされたが、次々と生起することによるそれらの度重なる活動に基づいて、パーリ語本文において「二つにして」と反復された言葉を「二つずつの部分にして」と反復の言葉の力によって説いた。あるいは、二つの部分が互いに対称的であることから、そこにおいて直接に対立するいかなる二者であっても、それらを個別に把握しようと欲した世尊は「尋を二つにして住しよう」と言われた。このように思惟して、そこにおいて邪尋と正尋を余すところなく混同せずに把握した状態を示し、「これを一つの部分とし、これを第二の部分とした」と説かれた。「欲に関わる」とは、欲貪と呼ばれる欲と相応した、あるいは欲に束縛された。残りのものにおいてもこの方法による。しかしこの相違がある。これによって心が害されるので「瞋恚(byāpāda)」、すなわち怒りである。これによって衆生を害し、あるいは衆生を害することがこれにあるので「害(vihiṃsā)」であり、他者を苦しめる様態で生起する、慈愛の反対である悪法に対する名称である。「内的に」とは、内的な法を対象とすることを言う。「外的に」とは、外的な法を対象とすることである。「粗大な」とは、強烈な欲貪などに関わるものである。その反対が「微細な」である。「尋はまさに不善の側に属する」とは、これによって尋であるという共通性により、そこでも不善であるという共通性によって一つの部分としたのであり、同一の心起に包摂されることなどによるのではない、ということを示す。

Nekkhammaṃ vuccati lobhātikkantattā paṭhamajjhānaṃ, sabbākusalehi nikkhantattā sabbaṃ kusalaṃ. Idha pana kāmavitakkapaṭipakkhassa adhippetattā āha **‘‘kāmehi nissaṭo nekkhammapaṭisaṃyutto vitakko’’**ti. Soti nekkhammavitakko. Yāva paṭhamajjhānāti paṭhamasamannāhārato paṭṭhāya yāva paṭhamajjhānaṃ etthuppanno vitakko nekkhammavitakkoyeva. Paṭhamajjhānanti ca idaṃ tato paraṃ vitakkābhāvato vuttaṃ. Na byāpajjati cittaṃ etena, byāpādassa vā paṭipakkhoti abyāpādo, mettāpubbabhāgo mettābhāvanārambho. Na vihiṃsanti etāya, vihiṃsāya vā paṭipakkhoti avihiṃsā, karuṇāpubbabhāgo karuṇābhāvanārambho.

「出離」とは、貪欲を超克していることから初禅をいい、一切の不善から脱出していることから一切の善をいう。しかしここでは欲尋の反対のものが意図されているため、「諸欲を離れた出離に関わる尋」と説いた。「それ」とは出離尋である。「初禅に至るまで」とは、最初の準備の思惟から始まって初禅に至るまで、ここに生じた尋は出離尋そのものである。「初禅に至るまで」と言ったのは、それより上には尋が存在しないことから説かれた。「これによって心が害されない、あるいは瞋恚の反対である」ことから「無瞋(無恚)」であり、慈の予備段階、慈の修習の開始である。「これによって害さない、あるいは害の反対である」ことから「無害」であり、悲の予備段階、悲の修習の開始である。

Mahābodhisattānaṃ mahābhinikkhamanaṃ nikkhantakālato paṭṭhāya laddhāvasarā sammāsaṅkappā uparūpari savisesaṃ pavattantīti āha **‘‘chabbassāni…pe… pavattiṃsū’’**ti. Ñāṇassa aparipakkattā pubbavāsanāvasena satisammosato kadāci micchāvitakkalesopi hotiyevāti taṃ dassetuṃ **‘‘satisammosena…pe… tiṭṭhantī’’**ti āha. Yathā niccapihitepi gehe kadāci vātapāne vivaṭamatte laddhāvasaro vāto anto paviseyya, evaṃ guttindriyepi bodhisattasantāne satisammosavasena laddhāvasaro akusalavitakko uppajji, uppanno ca kusalavāraṃ pacchinditvā aṭṭhāsi, atha mahāsatto taṃmuhuttuppannameva paṭivinodetvā tesaṃ āyatiṃ anuppādāya ‘‘ime micchāvitakkā, ime sammāvitakkā’’ti yāthāvato te paricchinditvā micchāvitakkānaṃ avasaraṃ adento sammāvitakke parivaḍḍhesi. Tena vuttaṃ **‘‘mayhaṃ ime’’**tiādi.

「大菩薩たちが出家した時から、機会を得た正思惟は次々と特別に生起した」ことから「六年間…中略…生起した」と説いた。智が未熟であったため、過去の習気の影響によって念を忘失することから、時にはわずかな邪尋が生じることもまさにあったのであり、それを示すために「念の忘失によって…中略…生起した」と説いた。常に閉じられた家であっても、時には窓が開けられただけで機会を得た風が内部に入るように、感覚器官を護っていた菩薩の相続(心身)においても、念の忘失により機会を得た不善の尋が生じた。生じたそれは善の機会を断ち切って留まったが、大菩薩はその瞬間に生じたそれを直ちに除き去り、それらが将来生じないように「これらは邪尋であり、これらは正尋である」とありのままにそれらを分別して、邪尋に機会を与えず正尋を増大させた。それゆえに「私にとってこれらは」等と説かれた。

207. Pamādo nāma sativippavāsoti āha **‘‘appamattassāti satiyā avippavāse ṭhitassā’’**ti. Ātāpavīriyavantassāti kilesānaṃ niggaṇhanavīriyavato. Pesitacittassāti bhavavimokkhāya vissaṭṭhacittassa kāye ca jīvite ca nirapekkhassa. **‘‘Evaṃ paṭipākatiko jāto’’**ti attano attabhāvaṃ nissāya pavattaṃ somanassākāraṃ gehassitasomanassapakkhikaṃ akāsi, paññāmahantatāya sukhumadassitā.

207. 放逸とは念の離脱であるから、「不放逸な者とは、念の不離脱に留まる者のことである」と説いた。「熱心に精進する者とは」とは、煩悩を制御する精進を持つ者のことである。「心を向けた者とは」とは、生存からの解脱のために心を解き放ち、身体と生命を顧みない者のことである。「このように正常な状態となった」とは、自身の身体を拠り所として生じた喜悦の様態を、世俗に依存した喜悦の側に属するものとし、智慧の広大さゆえの微細な洞察である。

Apariññāyaṃ ṭhitassāti na pariññāyaṃ ṭhitassa, apariggahitapariññassāti attho. Vitakko…pe… etāni tīṇi nāmāni labhatīti tādisassa uppanno micchāvitakko yathārahaṃ attabyābādhako ubhayabyābādhako ca na hotīti na vattabbo taṃ sabhāvānativattanatoti adhippāyo. Anuppannānuppādauppannaparihāninimittatāya paññaṃ nirodhetīti paññānirodhiko. Tenāha **‘‘anuppannāyā’’**tiādi. Natthibhāvaṃ gacchatīti paṭisaṅkhānabalena vikkhambhanappahānamāha. Nirujjhatītiādīhipi tadeva vadati. Vigatantantiādīhi pana samūlaṃ uddhaṭaṃ viya tadā appavattanakaṃ akāsinti vadati.

「遍知に留まらない者とは」とは、遍知の中に留まらない者、遍知を把握していない者のことである。「尋は…中略…これら三つの名称を得る」とは、そのような者に生じた邪尋は、相応に自らを害し他者を害するものでないとは言えない、その本性を超えないからである、という意味である。未生起のものを生じさせず、生起したものを衰退させる原因となることから「智慧を滅ぼすもの」である。それゆえに「未生起の」等と説いた。「非存在へと至る」とは、省察の力による伏断(抑圧による放棄)を言う。「滅する」等によっても同じことを述べている。「完全に去った」等によって、根こそぎ抜かれたかの如く、その時生起しないようにしたと述べるのである。

208. Cittavipariṇāmabhāvo cittassa aññathattaṃ pakaticittavigamo. Anekaggatākāro vikkhepo. Tattha vitakkena cittaṃ vihaññamānaṃ viya hotīti āha **‘‘taṃ gahetvā vihiṃsāvitakkaṃ akāsī’’**ti. Kāruññanti paradukkhanimittaṃ cittakhedaṃ vadati. Tenevāha – ‘‘paradukkhe sati sādhūnaṃ manaṃ kampetīti karuṇā’’ti (ma. ni. ṭī. 1.1; saṃ. ni. ṭī. 1.1.1). Nti karuṇāyanavasena pavattacittapakampanaṃ sandhāya ‘‘uppajjati vihiṃsāvitakko’’ti āha, na sattesu vihiṃsā pavattatīti adhippāyo.

208. 心の変異の状態とは、心の異変、本来の心の消失である。散乱とは一点に集中しない状態である。そこにおいて尋によって心が痛めつけられるかの如くなるので、「それを捉えて害尋とした」と説いた。「憐れみ」とは、他者の苦しみを原因とする心の痛みを言う。それゆえに「他者の苦しみがあるとき、善人の心を震わせるゆえに悲である」(中部復注 1.1;相応部復注 1.1.1)と説かれた。悲しむことによって生じた心の動揺を意図して「害尋が生じる」と説いたのであり、衆生に対する加害が生起するという意味ではない。

Tena tena cassākārenāti yena yena ākārena bhikkhunā anuvitakkitaṃ anuvicāritaṃ, tena tena ākārenassa cetaso nati hoti. Tenevāha **‘‘kāmavitakkādīsū’’**tiādi. Pahāsīti kālavipallāsena vuttanti āha **‘‘pajahatī’’**ti. Pahānaṃ panassa siddhameva paṭipakkhassa siddhattāti dassetuṃ **‘‘pahāsī’’**ti vuttaṃ yathā ‘‘asāmibhoge gāmikāādīyiṃsū’’ti. Bahulamakāsīti etthāpi eseva nayo. Evamevaṃ namatīti kāmavitakkasampayogākārameva hoti, kāmavitakkasampayuttākārena vā pariṇamati. Kasanaṃ kiṭṭhaṃ, kasīti attho, tannibbattattā pana kāraṇūpacārena sassaṃ ‘‘kiṭṭha’’nti vuttanti āha **‘‘sassasambādhe’’**ti. Cattāri bhayānīti vadhabandhajānigarahāni. Upaddavanti anatthuppādabhāvaṃ. Lāmakanti nihīnabhāvaṃ. Dhandhesūti attano khandhesu. Otāranti anuppavesaṃ kilesānaṃ. Saṃkilesato visujjhanaṃ visuddhi, sā eva vodānanti āha **‘‘vodānapakkhanti idaṃ tasseva vevacana’’**nti.

「比丘がそのそれぞれの様態によって」とは、いかなる様態によって比丘が思惟し考察したか、そのそれぞれの様態によって彼の心は傾く。それゆえに「欲尋などにおいて」等と説いた。「捨てた」とは時制の転換によって説かれたものであるから、「捨てる」と説いた。しかしその放棄は反対のものが成就したことによって成就していることを示すために、「所有者のない財産を村人たちが取得した」というように「捨てた」と説かれた。「多くなした」の箇所においてもこの方法による。「そのように傾く」とは、欲尋と相応する様態そのものとなる、あるいは欲尋相応の様態に変異する。耕作することが「作物(kiṭṭha)」であり、耕作という意味であるが、それから生じるがゆえに原因の仮託によって穀物を「作物」と呼んだので、「作物の障害において」と説いた。「四つの恐怖」とは、殺害、束縛、損失、非難である。「災患」とは、不利益を生じさせる状態である。「下劣」とは、卑しい状態である。「鈍重なものにおいて」とは、自身の諸蘊において。「侵入」とは、煩悩の侵入。「雑染からの清浄が浄化であり、それこそが清白である」から、「清白の側とは、これと同義語である」と説いた。

209. Sabbakusalaṃ nekkhammaṃ sabbākusalapaṭipakkhatāya tato nissaṭattā. Nibbānameva nekkhammaṃ sabbakilesato sabbasaṅkhatato ca nissaṭattā. Kiṭṭhasambādhaṃ viya rūpādiārammaṇaṃ pamāde sati anatthuppattiṭṭhānabhāvato. Kūṭagāvo viya kūṭacittaṃ duddamabhāvato. Paṇḍitagopālako viya bodhisatto upāyakosallayogato. Catubbidhabhayaṃ viya micchāvitakkā sappaṭibhayabhāvato. Paññāya vuddhi etassa atthīti paññāvuddhiko. Vihaññati cittaṃ etenāti vighāto, cetodukkhaṃ, tappakkhiko vighātapakkhiko, na vighātapakkhikoti avighātapakkhiko. Nibbānasaṃvattaniko nibbānavaho. Ugghātīyeyyāti uddhataṃ siyā vikkhittañca bhaveyyāti attho. Saṇṭhapemīti sammadeva paṭṭhapemi. Yathā pana ṭhapitaṃ saṇṭhapitaṃ nāma hoti, taṃ dassetuṃ **‘‘sannisīdāpemī’’**tiādi vuttaṃ. Sannisīdāpemīti samādhipaṭipakkhe kilese sannisīdāpento cittaṃ gocarajjhatte sannisīdāpemi. Abyaggabhāvāpādakena ekaggaṃ karomi, yathā ārammaṇe suṭṭhu appitaṃ hoti, evaṃ sammā sammadeva ādahāmi samāhitaṃ karomi, yasmā tathāsamāhitaṃ cittaṃ suṭṭhu ārammaṇe āropitaṃ nāma hoti, na tato paripatati, tasmā vuttaṃ **‘‘suṭṭhu āropemīti attho’’**ti. Mā ugghātīyittāti mā haññittha, mā ūhataṃ atthāti attho.

209. 一切の善は出離である。一切の不善の反対であることから、それらから脱出しているからである。涅槃こそが出離である。一切の煩悩から、一切の有為から脱出しているからである。作物の障害の如きとは、放逸があるとき不利益の生起する場所となることから、色などの対象の如くである。悪牛の如きとは、御し難い性質であることから悪心の如くである。賢明な牛飼いの如きとは、巧みな手段を具えていることから菩薩の如くである。四種の恐怖の如きとは、恐怖を伴う性質であることから邪尋の如くである。智慧の増大が彼にあるので「智慧を増大させるもの」。これによって心が痛めつけられるので「苦悩」すなわち心の苦しみであり、その側に属するものが「苦悩の側」、苦悩の側でないものが「非苦悩の側」である。「涅槃へと導く」とは、涅槃をもたらすものである。「動揺するであろう」とは、高揚し散乱するであろうという意味である。「静止させる」とは、正しく確立する。どのように置かれたものが静止されたと呼ばれるかを示すために、「沈潜させる」等と説かれた。「沈潜させる」とは、三昧の反対である煩悩を鎮めつつ、心を内的対象に沈潜させることである。無散乱をもたらすものによって集中させ、対象にしっかりと専心するように、正しく、正しく配置し、安定させる。そのように安定した心は対象にしっかりと乗せられたものとなり、そこから脱落しないので、「しっかりと乗せる、という意味である」と説いた。「害されないように」とは、損なわれないように、破壊されないように、という意味である。

210. Soyeva…pe… vuttoti iminā kiñcāpi ekaṃyeva kusalavitakkaṃ maggakkhaṇe viya tividhattasambhavato tividhanāmikaṃ katvā dassitaṃ viya hoti, na kho panetaṃ evaṃ daṭṭhabbaṃ. Pabandhapavattañhi upādāya ekattanayena **‘‘soyeva byāpādapaccanīkaṭṭhenā’’**tiādi vuttaṃ. Ekajātiyesu hi kusalacittesu uppanno vitakko samānākāratāya so evāti vattabbataṃ labhati yathā ‘‘sā eva tittirī, tāni eva osadhānī’’ti (saṃ. ni. ṭī. 2.2.19). Na hi tadā mahāpurisassa asubhamettākaruṇāsannissayā te vitakkā evaṃ vuttāti.

210. 「まさにそれ…中略…と説かれた」とは、これによって道刹那におけるように一つの善尋が三種になり得ることから、三つの名を持つものとして示されたかのようであるが、このように見なされるべきではない。連続して生起することに基づいて、単一性の方法によって「まさにそれ(出離尋)が無瞋の反対という意味において」等と説かれたのである。同種の善心において生じた尋は、同様の様態であることから「まさにそれである」と言われる資格を得る。「まさにその鵞鳥であり、まさにそれらの薬草である」(相応部復注 2.2.19)という如くである。その時、大人の不浄・慈・悲に依止したそれらの尋がこのように説かれたのではない。

Samāpattiṃ nissāyāti samāpattiṃ samāpajjitvā, tato vuṭṭhahitvāti attho. Vipassanāpi taruṇāti yojanā. Kāyo kilamati samathavipassanānaṃ taruṇatāya bhāvanāya pubbenāparaṃ visesassa alabbhamānattā. Tenāha **‘‘cittaṃ haññati vihaññatī’’**ti. Vipassanāya bahūpakārā samāpatti, tathā hi vuttaṃ – ‘‘samādhiṃ, bhikkhave, bhāvetha, samāhito yathābhūtaṃ jānāti passatī’’ti (saṃ. ni. 3.5; 4.99; 5.1071).

「等至(禅定)に依りて」とは、等至に入り、そこから出定して、という意味である。「観(ヴィパッサナー)もまた未熟である」と結びつける。止と観が未熟であるため、修習において前後の卓越性が得られないことから、身体が疲労する。それゆえに「心は損なわれ、痛めつけられる」と説いた。観に対して等至は大いに役立つ。実に「比丘たちよ、三昧を修せよ。定ある者はありのままを知り、見る」(相応部 3.5; 4.99; 5.1071)と説かれている通りである。

Yathā vissamaṭṭhānaṃ yodhānaṃ parissamaṃ vinodeti, tathā parissamavinodanatthaṃ phalakehi kātabbaṃ vissamaṭṭhānaṃ phalakakoṭṭhako, samāpattiyā pana vipassanā bahukāratarā samādhiparipanthakānaṃ, sabbesampi vā kilesānaṃ vimathanena dubbalabhāvāpajjanato. Tenāha ‘‘vipassanā thāmajātā samāpattimpi rakkhati, **thāmajātaṃ karotī’’**ti. Nanu cevaṃ itarītarasannissayadoso āpajjatīti? Nayidamekantikaṃ, itarītarasannissayāpi kiccasiddhi loke labbhatīti dassetuṃ **‘‘yathā hī’’**tiādi vuttaṃ.

休息所が戦士たちの疲労を除くように、疲労を除くために板で作られるべき休息所が「板の小部屋」である。しかし等至に対して観はより多くの利益をもたらす。三昧の障害となるもの、あるいは一切の煩悩を粉砕することによってそれらを衰弱させるからである。それゆえに「強力となった観は等至をも護り、強力にする」と説かれた。しかし、それでは相互依止の過失に陥るのではないか、と。これは絶対的なことではない。世間において相互依止であっても目的の達成が得られることを示すために、「実に〜の如く」等と説いた。

Gāmantaṃ āhaṭesūti gāmasamīpaṃ upanītesu. Etāgāvoti sati uppādanamattameva kātabbaṃ yathā gāvo rakkhitabbā, tadabhāvato. Tadāti samathavipassanānaṃ thāmajātakāle. Anupassanānaṃ lahuṃ lahuṃ uppattiṃ sandhāya **‘‘ekappahāreneva āruḷhova hotī’’**ti vuttaṃ, kameneva pana anupassanāpaṭipāṭiṃ ārohati.

「村の近くに連れてこられたとき」とは、村の近傍に導かれたとき。「それらの牛は」とは、牛を護るべきであるという念を生じさせるだけでよく、それが不要となるからである。「その時」とは、止と観が強力となった時である。随観が極めて速やかに生起することを意図して「一撃のうちに登ったかの如くである」と説いたが、順序に従って随観の階梯を登るのである。

215. Evaṃ bhagavā attano appamādapaṭipadaṃ, tāya ca laddhaṃ anaññasādhāraṇaṃ visesaṃ dassento hetusampattiyā saddhiṃ phalasampattiṃ dassetvā idāni sattūpakārasampattiṃ dassetuṃ **‘‘seyyathāpī’’**tiādimāhāti evaṃ ettha anusandhi veditabbā. Araññalakkhaṇayoggamattena araññaṃ. Mahāvanatāya pavanaṃ. Pavaddhañhi vanaṃ pavanaṃ. Catūhi yogehīti jighacchāpipāsābhayapaṭipattisaṅkhātayogehi. Khemaṃ anupaddavataṃ. Suvatthiṃ anupaddavaṃ āvahatīti sovatthiko. Pītiṃ kuṭṭhiṃ gameti upanetīti pītigamanīyo. Pītaṃ pānatitthaṃ gacchatīti pītagamanīyo. Sākhādīhīti kaṇṭakasākhākaṇṭakalatāvanehi. Anāsayagāmitāya udakasanniruddhopi amaggo vutto, itarāni apītigamanīyatāyapi. Ādi-saddena gahanaṃ pariggaṇhāti. Okemigaluddakassa gocare caratīti okacaro, dīpakamigo. Araññe mige disvā tehi saddhiṃ palāyeyyāti dīgharajjubandhanaṃ.

215. このように世尊はご自身の不放逸の行道と、それによって得られた他に共通しない特質を示し、因の成就とともに果の成就を示して、今や衆生を利益する成就を示すために「たとえば」等と説き始められた、とこのようにここでの文脈は知られるべきである。森の特徴に相応しいだけのもので「荒野(森)」。大森林であることから「大森林(pavana)」。広大に成長した森が大森林である。「四つの軛によって」とは、飢え、渇き、恐怖、悪行と呼ばれる束縛によって。「安穏」とは災難のないこと。「無事をもたらす」とは、災難のなさを運ぶもの。「歓喜へと導く」とは、喜びと満足をもたらす、至らしめる。「水飲み場へ行く」とは、飲用の水場へ行く。「枝などによって」とは、刺のある枝や刺のある蔓草の茂みによって。本来の住処へ行かないことから水で遮られた道も「邪道」と説かれ、他のものは水飲み場へ行けないことによってもそうである。「など」という語によって藪を包含する。「猟師の領域で行動する」ことから「おとり(okacara)」であり、おとりの鹿である。森の鹿を見て彼らとともに逃げるかもしれないことから「長い縄で縛ること」である。

Idha vasantīti migānaṃ āsayaṃ vadati, tato āsayato iminā maggena nikkhamanti. Ettha carantīti etasmiṃ ṭhāne gocaraṃ gaṇhanti. Ettha pivantīti etasmiṃ nipānatitthe udakaṃ pivanti. Iminā maggena pavisantīti iminā maggena nipānatitthaṃ pavisanti. Maggaṃ pidhāyāti pakatimaggaṃ pidahitvā. Na tāva kiñci karoti anavasese vanamige ghātetukāmo.

「ここに住む」とは鹿たちの住処を言い、その住処からこの道によって出ていく。「ここで歩き回る」とは、この場所で餌を採る。「ここで飲む」とは、この水飲み場で水を飲む。「この道によって入る」とは、この道によって水飲み場に入る。「道を塞ぎ」とは、通常の道を塞いで。すべての森の鹿を殺そうと欲して、すぐには何もしない。

Avijjāya aññāṇā hutvāti avijjāya nivutattā ñāṇarahitā hutvā, nandīrāgena upanītā rūpārammaṇādīni ābandhitvā. Palobhanato okacaraṃ nandīrāgoti. Byāmohanato okacārikaṃ avijjāti katvā dasseti. Tesanti okacarokacārikānaṃ. Sākhābhaṅgenāti tādisena lūkhataragandhena sākhābhaṅgena. Manussagandhaṃ apanetvā tassa sākhābhaṅgassa gandhena. Sammattoti sammajjito byāmuñcho.

「無明によって無知となり」とは、無明によって覆われているため智を欠いた者となり、喜貪によって導かれ、色などの対象に縛りつけられて。誘惑することから、おとりの鹿は喜貪である。惑乱させることから、おとりの牝鹿は無明であると示す。「彼らの」とは、おとりの牡鹿と牝鹿の。「折った枝によって」とは、そのようなより荒々しい匂いを持つ折った枝によって。人間の匂いを除き去り、その折った枝の匂いによって。「整えられた」とは、清掃され、綺麗にされた。

Buddhānaṃ khemamaggavicaraṇaṃ kummaggapidhānañca sabbalokasādhāraṇampi atthato veneyyapuggalāpekkhamevāti dassento **‘‘aññātakoṇḍaññādīnaṃ bhabbapuggalāna’’**nti āha. Ūhatoti samūhato nīhatoti āha **‘‘dvedhā chetvā pātito’’**ti. Nāsitāti adassanaṃ gamitāti āha **‘‘sabbena sabbaṃ samugghāṭitā’’**ti. Hitūpacāranti sattānaṃ hitacariyaṃ.

諸仏の安穏の道の開拓と邪道の閉鎖は、一切世間に共通するものであるが、実質的には教化されるべき人々を期待したものであることを示すために、「憍陳如などの教化可能な人々にとって」と説いた。「根絶された」とは、根こそぎにされ、除去されたことから、「二つに断ち切られて倒された」と説いた。「滅ぼされた」とは、見えなくされたことから、「完全に根絶された」と説いた。「利益の実践」とは、衆生の利益となる行いである。

Dvedhāvitakkasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

双考経義釈の暗黒解明(復注)を完結す。

10. Vitakkasaṇṭhānasuttavaṇṇanā

10. 尋止息経義釈

216. Dasakusalakammapathavasenāti idaṃ nidassanamattaṃ daṭṭhabbaṃ vaṭṭapādakasamāpatticittassapi idha adhicittabhāvena anicchitattā. Tenāha **‘‘vipassanāpādakaaṭṭhasamāpatticitta’’**nti. Atha vā anuttarimanussadhammasaṅgahitameva kevalaṃ ‘‘pakaticitta’’nti vattabbanti dassento **‘‘dasakusalakammapathavasena uppannaṃ cittaṃ cittamevā’’**ti vatvā yadettha adhicittanti adhippetaṃ, taṃ tadeva dassento **‘‘vipassanāpādakaaṭṭhasamāpatticitta’’**nti āha. Itarassa panettha vidhi na paṭisedhetīti daṭṭhabbaṃ. Vipassanāya sampayuttaṃ adhicittanti keci. Anuyuttenāti anuppannassa uppādanavasena, uppannassa paribrūhanavasena anu anu yuttena. Mūlakammaṭṭhānanti pārihāriyakammaṭṭhānaṃ. Gahetvā viharantoti bhāvanaṃ anuyuñjanto. Bhāvanāya appanaṃ appattopi adhicittamanuyuttoyeva tadatthepi taṃsaddavohārato.

216. 「十善業道の力によって」とは、単なる例示と見なされるべきである。輪廻の基礎となる禅定の心もまた、ここでは増上心として望まれていないからである。それゆえに「観の基礎となる八等至の心」と説いた。あるいは、増上人間法に包摂されないものだけを「通常の心」と呼ぶべきであることを示すために、「十善業道の力によって生じた心は単なる心である」と述べて、ここで増上心として意図されているまさにそのものを示して「観の基礎となる八等至の心」と説いた。しかし他方の規定を否定するものではないと知るべきである。観に相応するものが増上心であると言う者もいる。「専念する者によって」とは、未生起のものを生起させ、生起したものを増大させる力によって、次々と専念する者によって。「根本の業処」とは、常に保持すべき業処。「把握して住する者」とは、修習に専念する者。修習において安止に達していない者であっても、まさに増上心に専念する者である。その目的においてもその語が用いられるからである。

Yehi phalaṃ nāma yathā uppajjanaṭṭhāne pakappiyamānaṃ viya hoti, tāni nimittāni. Tenāha **‘‘kāraṇānī’’**ti. Kālena kālanti ettha kālenāti bhummatthe karaṇavacananti āha **‘‘samaye samaye’’**ti. Nanu ca…pe… nirantaraṃ manasi kātabbanti kasmā vuttaṃ, nanu ca bhāvanāya vīthipaṭipannattā abbudanīharaṇavidhiṃ dassentena bhagavatā **‘‘pañca nimittāni kālena kālaṃ manasi kātabbānī’’**ti ayaṃ desanā āraddhāti? ‘‘Adhicittamanuyuttenā’’ti vuttattā avicchedavasena bhāvanāya yuttappayutto adhicittamanuyutto nāmāti codakassa adhippāyo. Itaro bhāvanaṃ anuyuñjantassaādikammikassa kadāci bhāvanupakkilesā uppajjeyyuṃ, tato cittassa visodhanatthāya yathākālaṃ imāni nimittāni manasi kātabbānīti ‘‘kālena kāla’’nti satthā avocāti dassento **‘‘pāḷiyañhī’’**tiādimāha. Tattha imānīti imāni pāḷiyaṃ āgatāni pañca nimittāni. Abbudanti upaddavaṃ.

それらによって、果が生じる場所において構想されるかのような相となる、それらが相(相好・原因)である。それゆえに「原因を」と言った。「時々に」という点について、「時に」とは処格(場所・時)の意味における具格の語であるとし、「折々に」と言った。「実に…(略)…絶え間なく作意されるべきであると、なぜ言われたのか。実に修習の道程に入った者に対して障害を取り除く方法を示される世尊によって、『五つの相を時々に作意すべきである』と、この教示が始められたのではないか」と。論難者の意図は、「増上心を修める者によって」と説かれているため、不断に修習に専心している者が増上心を修める者と呼ばれる、ということである。それに対して、他方(釈者)は、修習に専心する初学者には時に修習の汚れ(随煩悩)が生じるかもしれず、それゆえに心を浄めるために時機に応じてこれらの相を作意すべきであるとし、「時々に」と師(世尊)が説かれたのだと示すために「聖典(パーリ)において実に…」などと言った。そこにおいて「これらを」とは、聖典に現れるこれら五つの相のことである。「腫物(障害)」とは災難のことである。

Chandasahagatā rāgasampayuttāti taṇhāchandasahagatā kāmarāgasampayuttā. Iṭṭhāniṭṭhaasamapekkhitesūti iṭṭhesu piyesu, aniṭṭhesu appiyesu, asamaṃ asammā pekkhitesu. Asamapekkhananti gehassitaaññāṇupekkhāvasena ārammaṇassa ayoniso gahaṇaṃ. Yaṃ sandhāya vuttaṃ – ‘‘cakkhunā rūpaṃ disvā upekkhā bālassa mūḷhassa puthujjanassā’’tiādi (ma. ni. 3.308). Te parivitakkā. Tato nimittato aññanti tato chandūpasaṃhitādiakusalavitakkuppattikāraṇato aññaṃ navaṃ nimittaṃ. ‘‘Manasikaroto’’ti hi vuttaṃ, tasmā ārammaṇaṃ, tādiso purimuppanno cittappavattiākāro vā nimittaṃ. Kusalanissitaṃ nimittanti kusalacittappavattikāraṇaṃ manasi kātabbaṃ citte ṭhapetabbaṃ, bhāvanāvasena cintetabbaṃ, cittasantāne vā saṅkamitabbaṃ. Asubhañhi asubhanimittanti. Saṅkhāresu uppanne chandūpasaṃhite vitakketi ānetvā sambandhitabbaṃ. Evaṃ **‘‘dosūpasañhite’’**tiādīsu yathārahaṃ taṃ taṃ padaṃ ānetvā sambandhitabbaṃ. Yattha katthacīti ‘‘sattesu saṅkhāresū’’ti yattha katthaci. Pañcadhammūpanissayoti pañcavidho dhammūpasaṃhito upanissayo.

「欲を伴う、貪りに相応する」とは、渇愛の欲を伴い、欲貪に相応するということである。「好ましいもの、好ましくないもの、正しく観察されないものにおいて」とは、好ましく愛しいもの、好ましくなく愛しくないもの、不均等に、正しくなく観察されたものにおいて、ということである。「不均等な観察」とは、在家に住する無明の捨の力によって対象を如理でない仕方で把握することである。それを指して「眼によって色を見て、愚かで迷える凡夫の捨…」など(中部3.308)と説かれた。それらが悪尋である。「その相とは別の」とは、欲を伴うなどの悪尋が生じる原因とは別の、新たな相である。「作意する者に」と説かれているので、それゆえに対象、あるいはそのように以前に生じた心の働きのありさまが相である。「善に依拠した相」とは、善心の働きの原因であり、作意されるべきもの、心に留め置かれるべきもの、修習の力によって思惟されるべきもの、あるいは心相続において転送されるべきものである。実に不浄が不浄の相である。「諸行において生じた、欲を伴う尋において」と引き寄せて結合させるべきである。このように「瞋恚を伴う」などの語においても、適宜その都度の語を引き寄せて結合させるべきである。「どこにおいてであれ」とは、「有情において、あるいは諸行において」と、どこにおいてであれ、ということである。「五つの法による依止」とは、五種の法を伴う依止である。

Evaṃ **‘‘chandūpasañhite’’**tiādinā saṅkhepato vuttamatthaṃ vitthārato dassetuṃ **‘‘imassa hatthā vā sobhanā’’**tiādi āraddhaṃ. Tattha ‘‘asubhato **upasaṃharitabba’’**nti vatvā upasaṃharaṇākārassa dassanaṃ **‘‘kimhi sārattosī’’**ti. Chavirāgenāti chavirāgatāya kāḷasāmādivaṇṇanibhāya. Kuphaḷapūritoti pakkehi kuṇapaphalehi puṇṇo. ‘‘Kaliphalapūrito’’ti vā pāṭho.

このように「欲を伴う」などと要約して説かれた意味を詳細に示すため、「この者の手は美しい」などを始めた。そこにおいて「不浄として取り入れるべきである」と述べて、取り入れるありさまを示すのが「何に執着しているのか」である。「皮膚の艶によって」とは、皮膚の艶である黒褐色などの色の輝きによって。「悪果に満ちた」とは、熟した屍体の果実に満ちた。「災いの果実に満ちた」という読みもある。

Assāmikatāvakālikabhāvavasenāti idaṃ pattaṃ anukkamena vaṇṇavikārañceva jiṇṇabhāvañca patvā chiddāvachiddaṃ bhinnaṃ vā hutvā kapālaniṭṭhaṃ bhavissati. Idaṃ cīvaraṃ anupubbena vaṇṇavikāraṃ jiṇṇatañca upagantvā pādapuñchanacoḷakaṃ hutvā yaṭṭhikoṭiyā chaḍḍanīyaṃ bhavissati. Sace pana nesaṃ sāmiko bhaveyya, na nesaṃ evaṃ vinassituṃ dadeyyāti evaṃ assāmikabhāvavasena, ‘‘anaddhaniyaṃ idaṃ tāvakālika’’nti evaṃ tāvakālikabhāvavasena ca manasikaroto.

「無所有性および一時的な性質の力によって」とは、この鉢は次第に変色し老朽化して、穴だらけになるか壊れて土器のかけらとなって終わるであろう。この衣は順次に変色し老朽化して、足拭き布となって杖の先で捨てられることになるであろう。もし彼らに所有者がいるならば、これらがこのように滅びるのを放置しないであろう、とこのように無所有性の力によって、また「これは永続せず、一時的なものである」とこのように一時的な性質の力によって作意する者に対して、である。

Āghātavinaya…pe… bhāvetabbāti – ‘‘pañcime, bhikkhave, āghātapaṭivinayā. Yattha hi bhikkhuno uppanno āghāto sabbaso paṭivinetabbo’’tiādinā nayena āgatassa āghātavinayasuttassa (a. ni. 5.161) ceva kakacūpamovāda(ma. ni. 1.222-233) chavālātūpamādīnañca (itivu. 91) vasena āghātaṃ paṭivinodetvā mettā bhāvetabbā.

「怨恨の調伏…(略)…修習されるべきである」とは、「諸々の比丘よ、これら五つの怨恨の調伏がある。比丘に生じた怨恨が完全に調伏されるべき場所において…」などの方法によって示された『瞋恚調伏経』(増支部5.161)、および『鋸の譬えの教戒』(中部1.222-233)、『火葬用の薪の譬え』など(如是語91)の力によって怨恨を取り除いて慈悲が修習されるべきである、ということである。

Garusaṃvāsoti garuṃ upanissāya vāso. Uddesoti pariyattidhammassa uddisāpanañceva uddisanañca. Uddiṭṭhaparipucchananti yathāuggahitassa dhammassa atthaparipucchā. Pañca dhammūpanissāyāti garusaṃvāsādike pañca dhamme paṭicca. Mohadhātūti moho.

「師僧と同居すること」とは、尊師に依止して住することである。「誦習(提示)」とは、教説の法を説示させること、および説示することである。「誦習されたものの質問」とは、学修した通りの法の意味を尋ねることである。「五つの法に依止して」とは、師僧と同居することなどの五つの法によって、である。「癡界」とは愚癡(無明)のことである。

Upanissitabbāti upanissayitabbā, ayameva vā pāṭho. Yattappaṭiyattoti yatto ca gāmappavesanāpucchākaraṇesu ussukkaṃ āpanno sajjito ca hotīti attho. Athassa moho pahīyatīti assa bhikkhuno evaṃ tattha yuttappayuttassa pacchā so moho vigacchati. Evampīti evaṃ uddese appamajjanenapi. Puna evampīti atthaparipucchāya kaṅkhāvinodanepi. Tesu tesu ṭhānesu attho pākaṭo hotīti suyyamānassa dhammassa tesu tesu padesu ‘‘idha sīlaṃ kathitaṃ, idha samādhi, idha paññā’’ti so so attho vibhūto hoti. Idaṃ cakkhurūpālokādi imassa cakkhuviññāṇassa kāraṇaṃ, idaṃ sālibījabhūmisalilādi imassa sāliaṅkurassa kāraṇaṃ. Idaṃ na kāraṇanti tadeva cakkhurūpālokādi sotaviññāṇassa, tadeva sālibījādi kudrusakaṅkurassa na kāraṇanti ṭhānāṭṭhānavinicchaye cheko hoti.

「依止すべきである」とは依りかかるべきであるということで、まさにこの読み通りである。「配慮し準備した」とは、配慮し、村に入る際や質問をする際に熱意をもって身構えている、という意味である。「それによって彼の癡が捨てられる」とは、このようにその修習に専心したこの比丘に、後にその癡が去るということである。「このようにも」とは、このように誦習において怠らないことによっても。「さらにこのようにも」とは、意味の質問において疑惑を取り除くことによっても。「それぞれの箇所において意味が明らかとなる」とは、聞かれている法のそれぞれの文節において、「ここでは戒が説かれ、ここでは定、ここでは慧が説かれている」と、それぞれの意味が明白になることである。「この眼、色、光などがこの眼識の原因であり、この稲の種子、大地、水などがこの稲の芽の原因である。これは原因ではない」とは、まさにその眼や色や光などが耳識の原因ではなく、まさにその稲の種子などが稗の芽の原因ではないと、是処非処(道理と非道理)の判定に巧みになることである。

Ārammaṇesūti kammaṭṭhānesu. Ime vitakkāti kāmavitakkādayo. Sabbe kusalā dhammā sabbākusalapaṭipakkhāti katvā ‘‘pahīyantī’’ti vattabbe na sabbe sabbesaṃ ujuvipaccanīkabhūtāti ‘‘pahīyanti evā’’ti sāsaṅkaṃ vadati. Tenāha **‘‘imānī’’**tiādi.

「所縁(対象)において」とは、業処において。「これらの尋」とは、欲尋など。「すべての善法はすべての不善法に対治するものである」として「捨てられる」と言われるべきところを、すべてがすべての直接の対治であるわけではないので、「必ず捨てられる」と疑念を交えて述べている。それゆえに「これらを」などと言った。

Kusalanissitanti kusalena nissitaṃ nissayitabbaṃ. Kusalassa paccayabhūtanti tasseva vevacanaṃ, kusaluppattikāraṇaṃ yathāvuttaasubhanimittādimeva vadati. Sāraphalaketi candanamaye sāraphalake. Visamāṇinti visamākārena tattha ṭhitaṃ āṇiṃ. Haneyyāti pahareyya nikkhāmeyya.

「善に依拠した」とは、善によって依拠された、依拠すべきものである。「善の縁となった」とは、それと同義語であり、善の生起の原因である前述の不浄の相などまさにそのものを言っている。「良質の板において」とは、白檀でできた堅木の板において。「不揃いな楔を」とは、不揃いな形でそこに刺さっている楔を。「打つべきである」とは、打ち当てて抜き出すべきである。

217. Aṭṭoti āturo, duggandhabādhatāya pīḷito. Dukkhitoti sañjātadukkho. Imināpi kāraṇenāti akosallasambhūtatāya kusalapaṭipakkhatāya gehassitarogena sarogatāya ca ete akusalā viññugarahitabbatāya jigucchanīyatāya ca sāvajjā aniṭṭhaphalatāya nirassādasaṃvattaniyatāya ca dukkhavipākāti evaṃ tena tena kāraṇena akusalādibhāvaṃ upaparikkhato.

217. 「苦しむ者」とは病める者、悪臭の害によって悩まされた者。「苦悩する者」とは苦が生じた者。「この理由によっても」とは、不巧妙から生じたものであり善に対立するものであるため、在家の病によって病んでいるため、これらの不善法は有識者に非難されるべきものであり嫌悪されるべきものであるため過ちがあり、好ましくない果をもたらすものであり味気なさに帰結するものであるため苦の報いをもたらす、とこのようにそれぞれの理由によって不善性などを観察する者に対して、である。

‘‘Āturaṃ asuciṃ pūtiṃ, passa nande samussayaṃ;

「病み、不浄で、腐敗した、集まり(身体)を見よ、ナンダーよ。

Uggharantaṃ paggharantaṃ, bālānaṃ abhinandita’’nti. (apa. therī 2.4.157) –

漏れ出し、流れ出るものを、愚者たちは喜ぶ」(長老尼偈2.4.157)——

Evamādi kāyavicchandanīyakathādīhi vā. Ādi-saddena –

などの身体への離貪を促す言説などによって、あるいは。「など」という語によって——

‘‘Tasseva tena pāpiyo, yo kuddhaṃ paṭikujjhati;

「怒る者に対して怒り返す者は、まさにそのことによってより悪しき者となる。

Kuddhaṃ appaṭikujjhanto, saṅgāmaṃ jeti dujjaya’’nti. (theragā. 442) –

怒る者に対して怒り返さない者は、勝ち難い戦いに勝つ」(長老偈442)——

Evamādi paṭighavūpasamanakathādikāpi saṅgaṇhāti.

などの瞋恚を鎮める言説なども包摂される。

218. Na saraṇaṃ asati, ananussaraṇaṃ. Amanasikaraṇaṃ amanasikāro. Kammaṭṭhānaṃ gahetvā nisīditabbanti kammaṭṭhānamanasikāreneva nisīditabbaṃ. Uggahito dhammakathāpabandhoti kammaṭṭhānassa upakāro dhammakathāpabandho. Muṭṭhipotthakoti muṭṭhippamāṇo pārihāriyapotthako. Samannānentenāti samannāharantena. Okāso na hoti āraddhassa pariyosāpetabbato. Āraddhassa antagamanaṃ anārambhovāti theravādo. Tassāti upajjhāyassa. Pabbhārasodhanaṃ kāyakammaṃ, ārabhanto eva vitakkaniggaṇhanatthaṃ saṃyuttanikāyasajjhāyanaṃ vacīkammaṃ, dassanakiccapubbakammakaraṇatthaṃ tejokasiṇaparikammanti tīṇi kammāni ācinoti. Thero tassa āsayaṃ kasiṇañca savisesaṃ jānitvā **‘‘imasmiṃ vihāre’’**tiādimavoca. Tenassa yathādhippāyaṃ sabbaṃ sampāditaṃ. Asatipabbaṃ nāma asatiyā vitakkaniggahaṇavibhāvanato.

218. 「不念」とは念(心に留めること)の不在、追憶しないことである。「不作意」とは作意しないことである。「業処を把持して坐すべきである」とは、業処の作意によってのみ坐すべきである。「学得された法話の連続」とは、業処に役立つ法話の連続である。「拳大の小冊子」とは、拳の大きさの携帯用書物である。「遍持(想起)しつつ」とは、心に保持しつつ。「余裕がない」とは、始めたことは完成させなければならないからである。始めたことを最後までやり遂げるか、あるいは始めないか、というのが長老たちの主張である。「彼の」とは、師長(戒師)の。岩陰の清掃という身業、尋を制止するためにまさに着手して相応部経典を読誦するという口業、光明の把握の事前作業を行うための火遍の準備という意業、これら三つの行いを積み重ねる。長老は彼の意向と遍処を特別に知って「この精舎において」などと言った。それによって彼の望み通りにすべてが成就した。「不作意の章」とは、不作意による尋の制止を明らかにするがゆえにそのように名付けられる。

219. Vitakkamūlabhedaṃ pabbanti vitakkamūlassa tammūlassa ca bhedavibhāvanaṃ vitakkamūlabhedaṃ pabbaṃ. Vitakkaṃ saṅkharotīti vitakkasaṅkhāro, vitakkapaccayo subhanimittādīsupi subhādinā ayonisomanasikāro. So pana vitakkasaṅkhāro saṃtiṭṭhati etthāti vitakkasaṅkhārasaṇṭhānaṃ, asubhe subhantiādi saññāvipallāso. Tenāha **‘‘vitakkānaṃ mūlañca mūlamūlañca manasi kātabba’’**nti. Vitakkānaṃ mūlamūlaṃ gacchantassāti upaparikkhanavasena micchāvitakkānaṃ mūlaṃ uppattikāraṇaṃ ñāṇagatiyā gacchantassa. Yāthāvato jānantassa pubbe viya vitakkā abhiṇhaṃ nappavattantīti āha **‘‘vitakkacāro sithilo hotī’’**ti. Tasmiṃ sithilībhūte matthakaṃ gacchanteti vuttanayena vitakkacāro sithilabhūto, tasmiṃ vitakkānaṃ mūlagamane anukkamena thirabhāvappattiyā matthakaṃ gacchante. Vitakkā sabbaso nirujjhantīti micchāvitakkā sabbepi gacchanti na samudācaranti, bhāvanāpāripūriyā vā anavasesā pahīyanti.

219. 「尋の根本の分析の章」とは、尋の根本とそのまた根本の分析を明らかにすることから「尋の根本の分析の章」と呼ばれる。「尋を形成する」ゆえに尋行(尋の形成力)であり、尋の条件である浄相などにおいても浄であるなどとする如理でない作意である。その尋行がそこにとどまるので「尋行の安住」であり、不浄において浄であるなどとする転倒した想である。それゆえに「尋の根本とその根本の根本を作意すべきである」と言った。「尋の根本の根本へと至る者に対して」とは、観察することによって邪尋の根本である生起の原因へと智慧の歩みをもって至る者に対して。「ありのままに知る者には、以前のように尋が頻繁には生じない」ということから「尋の動きが緩やかになる」と言った。「それが緩やかになり頂点に至るとき」とは、説かれた方法によって尋の動きが緩やかになり、その尋の根本へと至ることが順次に確固たる状態に達して頂点に至るときに、である。「尋が完全に滅する」とは、すべての邪尋が去って現起しなくなる、あるいは修習の完成によって残らず捨てられるということである。

Kaṇṇamūle patitanti sasakassa kaṇṇasamīpe kaṇṇasakkhaliṃ paharantaṃ viya upapatitaṃ. Tassa kira sasakassa heṭṭhā mahāmūsikāhi khatamahāvāṭaṃ umaṅgasadisaṃ ahosi, tenassa pātena mahāsaddo ahosi. Palāyiṃsu ‘‘pathavī udrīyatī’’ti. Mūlamūlaṃ gantvā anuvijjeyyanti ‘‘pathavī bhijjatī’’ti yatthāyaṃ saso uṭṭhito, tattha gantvā tassa mūlakāraṇaṃ yaṃnūna vīmaṃseyyaṃ. Pathaviyā bhijjanaṭṭhānaṃ gate ‘‘ko jānāti, kiṃ bhavissatī’’ti saso ‘‘na sakkomi sāmī’’ti āha. Ādhipaccavato hi yācanaṃ saṇhamudukaṃ. Duddubhāyatīti duddubhāti saddaṃ karoti. Anuravadassanañhetaṃ. Bhaddanteti migarājassa piyasamudācāro, migarāja, bhaddaṃ te atthūti attho. Kimetanti kiṃ etaṃ, kiṃ tassa mūlakāraṇaṃ? Duddubhanti idampi tassa anuravadassanameva. Evanti yathā sasakassa mahāpathavībhedanaṃ ravanāya micchāgāhasamuṭṭhānaṃ amūlaṃ, evaṃ vitakkacāropi saññāvipallāsasamuṭṭhāno amūlo. Tenāha **‘‘vitakkāna’’**ntiādi.

「耳元に落ちた」とは、ウサギの耳の近くに耳殻を打つかのように落ちてきた。「そのウサギの下には大ネズミによって掘られたトンネルのような大きな穴があり、それゆえにそれが落ちたときに大きな音がしたという。「大地が裂ける」と言って逃げ去った。「根本の根本へと行って調べるべきだ」とは、「大地が壊れる」とこのウサギが飛び起きた場所へ行き、その根本原因を吟味しようではないか、ということである。大地が壊れる場所へ行こうとすると「誰が知ろうか、何が起こるか」とウサギは「行けません、主よ」と言った。主権を持つ者の懇願は実に穏やかで柔らかい。「ドゥッドゥバーヤティ」とは、「ドゥッドゥブ」という音を立てるということである。これは反響音を示すものである。「尊者よ」とは百獣の王(ライオン)に対する親愛の呼びかけであり、百獣の王よ、あなたに幸あれという意味である。「これは何か」とは、これは何か、その根本原因は何か、ということである。「ドゥッドゥブ」とは、これもまたその反響音を示したものである。「このように」とは、ウサギが大地の破滅という音に対して誤った執着を起こしたことが無根拠であるように、尋の動きもまた転倒した想から生じた無根拠なものである。それゆえに「尋の…」などと言った。

220. Abhidantanti abhibhavanadantaṃ, uparidantanti attho. Tenāha **‘‘uparidanta’’**nti. So hi itaraṃ musalaṃ viya udukkhalaṃ visesato kassaci khādanakāle abhibhuyya vattati. Kusalacittenāti balavasammāsaṅkappasampayuttena. Akusalacittanti kāmavitakkādisahitaṃ akusalacittaṃ. Abhiniggaṇhitabbanti yathā tassa āyatiṃ samudācāro na hoti, evaṃ abhibhavitvā niggahetabbaṃ, anuppattidhammatā āpādetabbāti attho. Ke ca tumhe satipi cirakālabhāvanāya evaṃ adubbalā ko cāhaṃ mama santike laddhappatiṭṭhe viya ṭhitepi idāneva appatiṭṭhe karonto iti evaṃ abhibhavitvā. Taṃ pana abhibhavanākāraṃ dassento **‘‘kāmaṃ taco cā’’**tiādinā caturaṅgasamannāgatavīriyapaggaṇhanamāha. Atthadīpikanti ekantato vitakkaniggaṇhanatthajotakaṃ. Upamanti ‘‘seyyathāpi, bhikkhave, balavā puriso’’tiādikaṃ upamaṃ.

220. 「上の歯」とは圧倒する歯、上の歯という意味である。それゆえに「上の歯を」と言った。それは他方の歯を、臼に対する杵のように、特に何かを噛むときに圧倒して働くからである。「善心によって」とは、強力な正思惟に相応する心によって。「不善心を」とは、欲尋などを伴う不善心を。「制圧すべきである」とは、それが将来に現起しないように、そのように圧倒して制止すべきであり、不生法(二度と生じない性質)に至らしめるべきである、という意味である。「長年の修習があるにもかかわらず、あなたがたはこれほど無力であり、私の近くで足場を得たかのようにとどまっていながら、今まさに足場を失わせようとしている私は何者なのか」と、このように圧倒して、である。その圧倒するありさまを示して「喜んで皮も…」などと四肢を具えた精進の発揚を説いた。「意味を明かすもの」とは、専ら尋を制止する意味を照らし出すもの。「譬えを」とは、「譬えば、諸々の比丘よ、力強い男が…」などの譬えである。

221. Pariyādānabhājanīyanti yaṃ taṃ ādito ‘‘adhicittamanuyuttena bhikkhunā pañca nimittāni kālena kālaṃ manasi kātabbānī’’ti niddiṭṭhaṃ, tattha tassa nimittassa manasikaraṇakālapariyādānassa vasena vibhajanaṃ. Nigamanaṃ vā etaṃ, yadidaṃ ‘‘yato kho, bhikkhave’’tiādi. Yathāvuttassa hi atthassa puna vacanaṃ nigamananti. Tathāpaṭipannassa vā vasībhāvavisuddhidassanatthaṃ **‘‘yato kho, bhikkhave’’**tiādi vuttaṃ. Satthācariyoti dhanubbedācariyo. Yathā hi sasanato asatthampi satthaggahaṇeneva saṅgayhati, evaṃ dhanusippampi dhanubbedapariyāpannamevāti.

221. 「尽きるまで作意すべき区分」とは、初めに「増上心を修める比丘によって、五つの相が時々に作意されるべきである」と指示されたことについて、そこにおけるその相を作意する時が尽きるまでの力による分析である。あるいはこれは結びであり、「諸々の比丘よ、実に…から」などというそれである。実に説かれた意味を再び述べるのが結びである。あるいは、そのように実践した者の自在力の清浄を示すために「諸々の比丘よ、実に…から」などが説かれた。「弓術の師」とは弓道の師である。実に矢を射ることによって武器でないものも武器という把握によって包括されるように、このように弓の技術も弓道に包括されるのである。

Pariyāyati parivitakketīti pariyāyo. Vāroti āha **‘‘vitakkavārapathesū’’**ti, vitakkānaṃ vārena pavattanamaggesu. Ciṇṇavasīti āsevitavasī. Paguṇavasīti subhāvitavasī. Sammāvitakkaṃyeva yathicchitaṃ tathāvitakkanato, itarassa panassa setughātoyevāti.

「順序(方法)」とは、思索するゆえに順序である。「順序」であるから「諸尋の順序の道において」と言ったのであり、尋が順序をもって生起する道において、ということである。「熟達した自在」とは、親しんで得た自在。「習熟した自在」とは、よく修習して得た自在。望む通りにまさに正思惟をそのように思索するからであり、他方(邪尋)については、まさにそれを断ち切ることである。

Vitakkasaṇṭhānasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

『尋止息経釈』の隠微なる意味の解明を終わる。

Niṭṭhitā ca sīhanādavaggavaṇṇanā.

そして『師子吼品釈』が終了した。