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3. Opammavaggo3. 譬喩品

1. Kakacūpamasuttavaṇṇanā

1. 鋸喩経釈

222. Moḷinti kesaracanaṃ. Vehāyasanti ākāse. Ratanacaṅkoṭavarenāti ratanasilāmayavaracaṅkoṭakena sahassanetto sirasā paṭiggahi. ‘‘Suvaṇṇacaṅkoṭakavarenā’’tipi (bu. vaṃ. aṭṭha. 23 dūrenidānakathā; jā. aṭṭha. 1.2 avidūrenidānakathā) pāṭho.

222. 「髻」とは髪の結び目のことである。「空中に」とは大空に。「優れた宝の箱によって」とは、千の目を持つ者(帝釈天)が宝の石でできた優れた箱によって頭上で受け取った。「優れた黄金の箱によって」という読みもある。

ti moḷi. Moḷi etassa atthīti moḷiko, moḷiko eva moḷiyo. Phaggunoti pana nāmaṃ. Saṅkhāti samaññā. Velīyati khaṇamuhuttādivasena upadisīyatīti velā, kāloti āha **‘‘tāyaṃ velāyaṃ…pe… ayaṃ kālavelā nāmā’’**ti. Velayati paricchedavasena tiṭṭhatīti velā, sīmā. Velayati saṃkilesapakkhaṃ cālayatīti velā, sīlaṃ. Anatikkamanaṭṭhopi cassa saṃkilesadhammanimittaṃ acalanameva. Viññupurisābhāve chapañcavācāmattaṃ ovāde pamāṇaṃ nāma. Davasahagataṃ katvāti kīḷāsahitaṃ katvā.

「それ」とは髻である。髻がこの者にあるから髻者(モーリヤ)であり、髻者こそがモーリヤである。ファッグナとは名前である。「名称」とは通称である。「区切られる」とは刹那や須臾などの力によって示されるから時(ヴェーラー)であり、時であるから「その時に…(略)…これが時の限度と呼ばれる」と言った。「境界を定める」とは限界の力によってとどまるから境界(ヴェーラー)である。「動かす」とは汚濁の側を動揺させるから戒(ヴェーラー)である。また、それを越えないという意味も、汚濁の法を理由として動揺しないことそのものである。有識の人がいない場合、五、六言の教戒が限度と呼ばれる。「戯れを伴うものとして」とは、遊びを交えて。

Missībhūtoti ananulomikasaṃsaggavasena missībhūto. **‘‘Avaṇṇaṃ bhāsatī’’**ti saṅkhepato vuttaṃ vivarituṃ ‘‘tāpanapacanakoṭṭanādīnī’’tiādi vuttaṃ. Adhikaraṇampi karotīti ettha yathā so adhikaraṇāya parisakkati, taṃdassanaṃ **‘‘imesaṃ bhikkhūna’’**ntiādi. Adhikaraṇaṃ ākaḍḍhatīti adhikaraṇaṃ uddissa te bhikkhū ākaḍḍhati, adhikaraṇaṃ vā tesu uppādento ākaḍḍhati. Uddesapadaṃ vāti padaso uddesamattaṃ vā. Neva piyakamyatāyāti neva attani satthuno piyabhāvakāmatāya. Na bhedādhippāyenāti na satthuno tena bhikkhunā bhedādhippāyena. Atthakāmatāyāti moḷiyaphaggunassa hitakāmatāya.

「親しく交わった」とは、ふさわしくない交わりの力によって親しく交わった。「悪口を言う」と要約して説かれたことを詳細に述べるために「熱すること、煮ること、打つことなど」と言われた。「論争をも起こす」という点について、彼がどのように論争へと画策するか、それを示すのが「これらの比丘たちに…」などである。「論争を引き寄せる」とは、論争をめがけてそれらの比丘たちを引き寄せる、あるいは論争を彼らの中に生じさせながら引き寄せる。「句の提示」とは、句ごとの提示だけのことである。「愛されたいという欲求によるのではなく」とは、自分自身を師(世尊)に愛されたいという欲求によるのではない。「破僧を意図したものではなく」とは、師がその比丘によって破僧を意図したのではない。「利益を願うことによる」とは、モーリヤファッグナの利益を願うことによる。

224. Avaṇṇabhāsaneti bhikkhunīnaṃ aguṇakathane. Chandādīnaṃ vatthubhāvato kāmaguṇā gehaṃ viya gehaṃ, te ca te sitā nissitāti gehassitāti vuttā. Taṇhāchandāpi tāsaṃ kattukāmatāpīti ubhayepi taṇhāchandā, paṭighachandā pana tesaṃ kattukāmatā eva. Phalikamaṇi viya pakatipabhassarassa cittasantānassa upasaṅgo viya vipariṇāmakāraṇaṃ rāgādayoti āha **‘‘rattampi cittaṃ vipariṇata’’**ntiādi. Hitānukampīti karuṇāya paccupaṭṭhāpanamāha. ‘‘Yassantarato na santi kopā’’tiādīsu (udā. 20) viya antara-saddo cittapariyāyoti āha **‘‘dosantaroti dosacitto’’**ti.

224. 「悪口を言うことにおいて」とは、比丘尼たちの非難を述べることにおいて。欲などの対象となることから諸々の欲情は家のようなものであり、それらに依りかかり執着しているから「在家に住する」と説かれた。「渇愛の欲も、彼女たちに対する行為の欲も」とは、双方ともに渇愛の欲であるが、瞋恚の欲は彼女たちに対する行為の欲そのものである。水晶の珠のような本来清浄な心相続に対する付着物のような変質の原因が貪りなどであるから「貪った心も変質した…」などと言った。「利益を憐れむ者」とは、慈悲の現起を述べている。「その人の内面に怒りがない」など(自説経20)におけるように、「内面」という語は心の同義語であるから「瞋恚を内面にもつとは、瞋恚の心をもつことである」と言った。

225. Dubbacatāya ovādaṃ asampaṭicchanto citteneva paṭiviruddho aṭṭhāsi. Gaṇhiṃsu cittaṃ, hadayagāhiniṃ paṭipajjiṃsūti attho. Pūrayiṃsu ajjhāsayanti attho. Ekasmiṃ samaye paṭhamabodhiyaṃ. Ekāsanaṃ bhojanassa ekāsanabhojanaṃ, ekavelāyameva bhojanaṃ. Tañca kho pubbaṇhe evāti āha **‘‘ekaṃ purebhattabhojana’’**ntiādi. Sattakkhattuṃ bhuttabhojanampi imasmiṃ sutte ekāsanabhojananteva adhippetaṃ, na ekāsanikatāya ekāya eva nisajjāya bhojanaṃ. ‘‘Appaḍaṃsa…pe… samphassa’’ntiādīsu viya appa-saddo abhāvatthoti āha **‘‘nirābādhataṃ, niddukkhata’’**nti. Padhānādivasena sallahukaṃ akicchaṃ uṭṭhānaṃ sallahukauṭṭhānaṃ. Na ekappahārenāti na ekavārena, na ekasmiṃyeva kāleti adhippāyo. Dve bhojanānīti ‘‘aparaṇhe rattiya’’nti kālavasena dve bhojanāni. Pañca guṇeti appābādhādike pañca ānisaṃse. Satuppādakaraṇīyamattamevāti satuppādamattakaraṇīyameva, nivāretabbassa punappunaṃ samādapanañca nāhosi.

225. 剛情であるために教誡を受け入れず、まさに心によって反抗してとどまった。「心を捉えた」とは、胸に刺さる言葉を受け入れたという意味である。「意向を満たした」という意味である。「ある時に」とは初成道の時に。「一坐の食事」とは一坐食であり、一日のうち一度の食事である。しかもそれは午前中だけであるから「午前の一度の食事を」などと言った。七度食べる食事もこの経典においては一坐食として意図されており、一坐食者としての単なる一度の着座による食事ではない。「微少の害…(略)…接触」などにおけるように、「微少」という語は無の意味であるから「無病であること、無苦であること」と言った。正勤などの力によって軽やかに難なく起き上がることが「軽やかな起床」である。「一度の打撃によるのではなく」とは一度きりではなく、同一の時においてではない、という意味である。「二度の食事」とは「午後に、夜に」と時による二度の食事である。「五つの功徳を」とは、少病などの五つの利益を。「念を起こすことだけがなされるべきことである」とは、念を起こすことだけがなされるべきであり、制止されるべき者に対して何度も勧め励ますことはなかった。

Maṇḍabhūmīti ojavantabhūmi, yattha parisiñcanena vinā sassāni kiṭṭhāni sampajjanti. Yuge yojetabbāni yoggāni, tesaṃ ācariyo yoggācariyo, tesaṃ sikkhāpanako. Gāmaṇihatthiādayopi ‘‘yoggā’’ti vuccantīti āha pāḷiyaṃ **‘‘assadammasārathī’’**ti. Catūsu maggesu yena yena maggena icchati. Javasamagādibhedāsu gatīsu yaṃ yaṃ gatiṃ. Taṃ taṃ maggaṃ āruḷhāva otiṇṇāyeva. Neva vāretabbā rasmiviniggaṇhanena. Na vijjhitabbā patodalaṭṭhiyā. Gamanamevāti ime yuttā mama icchānurūpaṃ mandaṃ gacchanti, samaṃ gacchanti, sīghaṃ gacchantīti khuresu nimittaggahaṇaṃ paṭṭhapetvā sārathinā tesaṃ gamanameva passitabbaṃ hoti, na tattha niyojanaṃ. Tehipi bhikkhūhi. Pajahiṃsu pajahitabbaṃ. Sāladūsanāti sālarukkhavisanāsakā. Aññā ca valliyo sālarukkhe vinandhitvā ṭhitā. Bahi nīharaṇenāti sālavanato bahi chaḍḍanena. Susaṇṭhitāti saṇṭhānasampannā, mariyādaṃ bandhitvāti ālavālasampādanavasena mariyādaṃ bandhitvā. Kipillapuṭakaṃ tambakipillakapuṭakaṃ. Sukkhadaṇḍakaharaṇaṃ ālavālabbhantarā.

「肥沃な土地」とは滋養のある土地であり、そこでは水を撒くことなしに穀物や作物が実る。軛につなぐべきものが輓用獣であり、それらの調教師が調教師、それらを訓練する者である。村長や象なども「輓用獣」と呼ばれることから、聖典では「調御されるべき馬の御者」と言った。四つの道の中で望むところの道によって。速歩や並歩などの異なる歩行の中で望むところの歩行を。そのそれぞれの道に乗っただけで、まさに進み入っただけで。手綱を引いて制止されるべきでもない。鞭の杖で打たれるべきでもない。「進むことだけを」とは、これら軛につながれた馬たちは私の望む通りに遅く進み、均等に進み、速く進むと、蹄において特徴を把握し始めて、御者はそれらの歩行を見るだけでよく、そこでの指示は必要ない。それらの比丘たちによっても。捨てるべきものを捨てた。「沙羅樹を害するもの」とは、沙羅樹の毒となる破壊者である。また他の蔓草も沙羅樹に絡みついて生えている。「外へ運び出すことによって」とは、沙羅樹の林の外へ捨てることによって。「形正しく整えられた」とは、整った形を具えたことであり、「堤を築いて」とは水受けの穴を整えることによって堤を築いて、ということである。「蟻の巣」とは赤蟻の巣。「枯れ枝を取り除くこと」とは水受けの穴の内側から、である。

226. Videharaṭṭhe jātasaṃvaḍḍhatāya vedehikā. Paṇḍā vuccati paññā, tāya itā gatā pavattāti paṇḍitā. Gahapatānīti gehasāminī. Soraccenāti saṃyamena. Nivātavuttīti paṇipātakārī. Nibbutāti nibbutaduccaritapariḷāhā. Uṭṭhāhikāti uṭṭhānavīriyavatī. Kibbisāti kurūrā.

226. ヴェーデハ国で生まれ育ったことからヴェーデヒカー。「パンダー」とは智慧を指し、それによって達し、至り、活動するから賢明(パンディター)である。「女主人」とは家の主である。「柔和さによって」とは自制によって。「謙虚な振る舞い」とは礼拝を行うこと。「静まった」とは悪行の熱苦しさが静まったこと。「勤勉な」とは精進の奮起を持つこと。「残忍な」とは残酷な。

227. Evaṃ akkhantiyā dosaṃ dassetvāti ‘‘guṇavanto’’ti loke patthaṭakittisaddānampi akkhantinimittaṃ ayasuppattiguṇaparihāniādiṃ akkhamatāyaādīnavaṃ pakāsetvā. Vacanapatheti vacanamagge yuttakālādike. Saṇhābhāvopi hi vacanassa pavattiākāroti katvā ‘‘vacanapatho’’ tveva vutto. Tesaṃyeva kālādīnaṃ. Mettā etassa atthīti mettaṃ, uppannaṃ mettacittaṃ etesanti uppannamettacittā. Puna ‘‘kālena vā, bhikkhave’’tiādi (pari. 362, 363) pāḷi dhammasabhāvadassanavasena pavattā ‘‘paraṃ codanāvasena vadantā nāma imehi ākārehi vadantī’’ti. Adhimuñcitvāti abhirativasena tasmiṃ puggale bhāvanācittaṃ muñcitvā vissajjetvā. So puggalo ārammaṇaṃ etassāti tadārammaṇaṃ, mettacittaṃ. Yadi evaṃ padesavisayaṃ taṃ kathaṃ nippadesavisayaṃ viya hotīti codento **‘‘kathaṃ tadārammaṇaṃ sabbāvantaṃ lokaṃ karotī’’**ti āha, itaro **‘‘pañca vacanapathe’’**tiādinā pariharati. Idha tadārammaṇañcāti tasseva mettacittassa ārammaṇaṃ katvāti pāḷiyaṃ vacanaseso daṭṭhabbo. Tenāha **‘‘puna tassevā’’**tiādi. Sabbā sattakāyasaṅkhātā pajā etassa atthīti sabbāvantoti imamatthaṃ dassento **‘‘sabbāvanta’’**nti āha. Vipulenāti mahājanārammaṇena. Mahantapariyāyo hi vipula-saddo, mahattañcettha bahukabhāvo. Tenāha **‘‘anekasattārammaṇenā’’**ti. Tañca puggalanti pañca vacanapathe gahetvā āgatapuggalaṃ. Cittassāti mettāsahagatacittassa. Ettha ca mettāsahagatena cetasā viharissāmāti sambandho. Tattha kathanti āha **‘‘tañca puggalaṃ sabbañca lokaṃ tassa cittassa ārammaṇaṃ katvā adhimuccitvā’’**ti.

227. このように不忍辱の過失を示して、「有徳の人」と世間で名声が広がっている人々であっても、不忍辱のために不名誉が生じ徳が失われることなどの、不忍辱の危険性を明らかにして、である。「言葉の道において」とは、適切な時などの言葉の道において。穏やかであることも言葉の働きのありさまであるとして、「言葉の道」とだけ説かれた。それらの時などのことである。慈悲がこの者にあるから「慈」であり、慈心が起こった者たちであるから「慈心を起こした者たち」である。さらに「時に応じて、あるいは、諸々の比丘よ」など(波羅提木叉分別362, 363)の聖典は、法の本性を示すことによって、「他者を非難することによって語る者は、これらのありさまで語る」と展開されている。「確信して」とは、愛着の力によってその人に対して修習の心を放ち、向けて。「その人が対象である」から「それを対象とする慈心」である。もしそうであるなら、特定の一部分を領域とするものが、どうして全体を領域とするかのようになるのかと論難して、「どのようにそれを対象として全世界を対象とするのか」と言ったのに対し、他方は「五つの言葉の道において」などによって答える。ここで「それを対象とし」とは、まさにその慈心の対象として、と聖典の残りの言葉を理解すべきである。それゆえに「さらにまさにその…」などと言った。すべての有情の集まりと呼ばれる生類がこれにあるから「一切を含む」であり、この意味を示して「一切を含む」と言った。「広大なるものによって」とは、多くの人々を対象とすることによって。実に「広大」という語は偉大と同義であり、ここでの偉大とは多数であることである。それゆえに「無数の有情を対象とすることによって」と言った。「そしてその人を」とは、五つの言葉の道をもって近づいてきた人を。「心の」とは、慈を伴う心のことである。そしてここでの結合は「慈を伴う心をもって住するであろう」である。そこにおいてどのようにするかといえば、「その人と全世界をその心の対象として確信して」と言った。

228. Tadatthadīpikanti yā mettaṃ cetovimuttiṃ sammadeva bhāvetvā ṭhitassa nibbikārato kenaci vikāraṃ na āpādetabbatā, tadatthajotikaṃ. Apathavinti pathavī na hotīti apathavī. Nippathavinti sabbena sabbaṃ pathavībhāvābhāvaṃ. Tiriyaṃ pana aparicchinnāti kasmā vuttaṃ, nanu cakkavāḷapabbatehi taṃ taṃ cakkavāḷaṃ paricchindati? Na, tadaññacakkavāḷapathaviyā ekābaddhabhāvato. Tiṇṇañhi cakkānaṃ antarasadise tiṇṇaṃ tiṇṇaṃ lokadhātūnaṃ antareyeva pathavī natthi lokantaranirayabhāvato. Cakkavāḷapabbatantarehi sambaddhaṭṭhāne pathavī ekābaddhāva. Vivaṭṭakāle hi saṇṭhahamānāpi pathavī yathāsaṇṭhitapathaviyā ekābaddhāva saṇṭhahati. Tenāha **‘‘tiriyaṃ pana aparicchinnā’’**ti. Imināva gambhīrabhāvena vuttaparimāṇato paraṃ natthīti dīpitaṃ hoti.

228. 「その意味を明かすもの」とは、慈の心解脱を正しく修習してとどまる者の無変化から、何ものによっても変化させられないこと、その意味を照らし出すものである。「非大地」とは大地ではないから非大地。「無大地」とは完全にまったく大地性が存在しないこと。「しかし横方向には際限がない」とはなぜ言われたのか、実に輪囲山によってそれぞれの世界は区切られているのではないか。そうではない、それ以外の世界の地と一つに結ばれているからである。実に三つの車輪の間の隙間のように、三つずつの世界(世間界)の間にだけ大地が存在せず、世界間地獄となっているからである。輪囲山の間で結ばれた場所では、大地は一つに結ばれている。実に世界の展開期(成劫)に形成される時も、大地は既に形成されている大地と一つに結ばれて形成される。それゆえに「しかし横方向には際限がない」と言った。この深遠さによって、説かれた量を超えて存在しないことが明らかにされるのである。

229. Haliddīti haliddivaṇṇaṃ adhippetanti āha **‘‘yaṃ kiñci pītakavaṇṇa’’**nti. Vaṇṇasaṅkhātaṃ rūpaṃ assa atthīti rūpī, na rūpīti arūpīti āha **‘‘arūpo’’**ti. Tenevāha **‘‘sanidassanabhāvapaṭikkhepato’’**ti.

229. 「鬱金(ターメリック)」とは鬱金の色が意図されているとして「何であれ黄色いもの」と言った。色と呼ばれる物質(色法)がこれにあるから色(物質)であり、物質を持たないから無色であるとして「無形のもの」と言った。それゆえに「見ることができる性質の否定によって」と言った。

230. Pañca yojanasatānīti himavantato samuddaṃ paviṭṭhaṭṭhānavasena vuttaṃ, na anotattadahamukhato. Aññā nadiyo upādāya labbhamānaṃ gambhīrataṃ appameyyaudakatañca gahetvā **‘‘gambhīrā appameyyā’’**ti vuttaṃ. Aṭṭhakathāyaṃ pana tiṇukkāya tāpetabbattābhāvadassanaparametanti vuttaṃ **‘‘etena payogenā’’**tiādi.

230. 「五百由旬」とは、雪山(ヒマラヤ)から大海に入り込む場所の力によって説かれたのであり、無熱池の出口からではない。他の河川と比べて得られる深さと計り知れない水量を踏まえて「深く、計り知れない」と説かれた。しかし義釈においては、草の松明によって熱することができないことを示すことを主眼として「この方法によって」などと説かれた。

231. Tūlinī viya tūlinīti āha **‘‘simbalitūlalatātūlasamānā’’**ti. Sassaranti evaṃpavatto saddo sassarasaddo. Anuravadassanañhetaṃ. Tathā bhabbharasaddo. Sabbametaṃ mettāvihārino cittassa dūsetuṃ asakkuṇeyyabhāvadassanaparaṃ. Ayañhettha saṅkhepattho – yathā mahāpathavī kenaci purisena apathaviṃ kātuṃ na sakkā, yathā ākāse kiñci rūpaṃ paṭṭhapetuṃ na sakkā, yathā gaṅgāya udakaṃ tiṇukkāya tāpetuṃ na sakkā, yathā ca biḷārabhastaṃ thaddhaṃ pharusañca samphassaṃ kātuṃ na sakkā, evamevaṃ mettāya cetovimuttiyā āsevitāya bhāvitāya bahulīkatāya pañca vacanapathe gahetvā āgatapurisena kenaci pariyāyena cittassa aññathattaṃ kātuṃ na sakkāti.

231. 「綿の入ったもののように綿の入ったもの」とは「絹綿樹の綿や蔓草の綿のような」と言った。「サラサラと」とこのように生じる音がサラサラという音である。これは反響音を示すものである。同様に「ガサガサ」という音もそうである。これらはすべて、慈に住する者の心を害することができないことを示すことを主眼としている。ここでの要約された意味はこうである——譬えば大地をいかなる男も大地でなくすることはできず、譬えば空中にいかなる形も描き出すことはできず、譬えばガンジス河の水を草の松明で熱することはできず、譬えば猫の皮袋をごわごわと粗い手触りにすることはできないように、まったく同様に、親しみ、修習し、多作された慈の心解脱に対して、五つの言葉の道をもってやって来た男がいかなる方法によっても心を変質させることはできない、ということである。

232. Ocarakāti parūpaghātavasena hīnakammakārino. Tenāha **‘‘nīcakammakārakā’’**ti. Anadhivāsanenāti akkhamanena. Mayhaṃ ovādakaro na hotīti paramhi anatthakārimhi cittapadosanena āghātuppādanena mama sāsane sammāpaṭipajjamāno nāma na hoti.

232. 「盗賊」とは他者を害することによって卑しい行為を行う者たちである。それゆえに「卑しい行為を行う者たち」と言った。「耐え忍ばないことによって」とは忍耐しないことによって。「私の教えに従う者ではない」とは、他者が不利益をなしたことに対して心を汚し怨恨を生じさせることによって、私の教えにおいて正しく実践する者とは言えない、ということである。

233. Aṇunti appakaṃ tanu parittakaṃ. Thūlanti mahantaṃ oḷārikaṃ. Vacanapathassa pana adhippetattā taṃ sāvajjavibhāgena gahetabbanti āha **‘‘appasāvajjaṃ vā mahāsāvajjaṃ vā’’**ti. Khantiyā idaṃ bhāriyaṃ na hotīti avocuṃ **‘‘anadhi…pe… passāmā’’**ti. Dīgharattanti cirakālaṃ, accantamevāti attho. Accantañca hitasukhaṃ nāma aññādhigamenevāti āha **‘‘arahattena kūṭaṃ gaṇhanto’’**ti.

233. 「微細な」とはわずかな、薄い、小さなもの。「粗大な」とは大きな、粗大なもの。しかし言葉の道が意図されているため、それを罪の大小の区分によって把握すべきであるとして、「小さな罪のある、あるいは大きな罪のある」と言った。「忍耐によってこれは重荷ではない」と彼らは「耐え忍ばない…(略)…見るであろう」と言った。「長夜(長い夜)」とは長い間、永遠に、という意味である。そして究極の利益と幸福とは阿羅漢果の獲得によってのみであるとして「阿羅漢果をもって頂点を極めつつ」と言った。

Kakacūpamasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

『鋸喩経釈』の隠微なる意味の解明を終わる。

2. Alagaddūpamasuttavaṇṇanā

2. 蛇喩経釈

234. Bādhayiṃsūti (sārattha. ṭī. pācittiya 3.417) haniṃsu. Taṃtaṃsampattiyā vibandhanavasena sattasantānassa antare vemajjhe eti āgacchatīti antarāyo, diṭṭhadhammikādianattho, anatikkamanaṭṭhena tasmiṃ antarāye niyuttā, antarāyaṃ vā phalaṃ arahanti, antarāyassa vā karaṇasīlāti antarāyikā. Tenāha **‘‘antarāyaṃ karontīti antarāyikā’’**ti. Ānantariyadhammāti ānantariyasabhāvacetanādhammā. Tatrāyaṃ vacanattho – cutianantaraphalaṃ anantaraṃ nāma, tasmiṃ anantare niyuttā, tannibbattanena anantarakaraṇasīlā, anantarapayojanāti vā ānantarikā, te eva ānantariyāti vuttā. Kammāni eva antarāyikāti kammantarāyikā. Mokkhasseva antarāyaṃ karoti, na saggassa micchācāralakkhaṇābhāvato. Na hi bhikkhuniyā dhammarakkhitabhāvo atthi. Pākatikabhikkhunīvasena cetaṃ vuttaṃ, ariyāya pana pavattaṃ apāyasaṃvattaniyameva. Nandamāṇavako cettha nidassanaṃ. Ubhinnaṃ samānacchandatāvasena vā asaggantarāyikatā, mokkhantarāyikatā pana mokkhatthapaṭipattiyā vidūsanato, abhibhavitvā pana pavattiyaṃ saggantarāyikatāpi na sakkā nivāretunti. Ahetukadiṭṭhiakiriyadiṭṭhinatthikadiṭṭhiyova niyatabhāvaṃ pattā niyatamicchādiṭṭhidhammā. Paṭisandhidhammāti paṭisandhicittuppādamāha. Paṇḍakādiggahaṇañcettha nidassanamattaṃ sabbāyapi ahetukapaṭisandhiyā vipākantarāyikabhāvato. Yā hi ariye upavadati, sā cetanā ariyūpavādadhammā. Tato paranti khamāpanato upari. Yaṃ panettha vattabbaṃ, taṃ mahāsīhanādassa līnatthapakāsane vuttameva. Yāva bhikkhubhāvaṃ paṭijānāti pārājikaṃ āpanno. Na vuṭṭhāti sesaṃ garukāpattiṃ. Na deseti lahukāpattiṃ.

234. 「害した」とは殺した。それぞれの達成を妨げることによって、有情の相続の内部に、中間に至り入るから障害(アンタラーヤ)であり、現世などの不利益である。越えられないという意味においてその障害に結びついている、あるいは障害という果を受けるに値する、あるいは障害をなす習性があるから「障害をなすもの(アンタラーイカ)」である。それゆえに「障害をなすから障害をなすものである」と言った。「無間業の法」とは無間の本質を持つ意志などの法である。そこにおける語の意味はこうである——死の直後の果が無間と呼ばれるものであり、その無間に結びついている、それを生じさせることによって無間をなす習性がある、あるいは無間を目的とするから「無間のもの」であり、それらこそが無間業の法と呼ばれる。業そのものが障害をなすものであるから「業の障害」である。解脱に対してのみ障害をなし、天界に対してではない。邪淫の特相がないからである。実に比丘尼には法によって護られた身分はないからである。またこれは通常の比丘尼に関して説かれたのであり、聖者に対して行われたものは悪趣に赴かせるものそのものである。ナンダイケメン(ナンダ青年)がここでの例である。あるいは両者の合意による場合は天界への障害とならないが、解脱への障害となるのは解脱を目的とする実践を損なうからであり、しかし制圧して行われる場合は天界への障害となることも防ぐことはできない、と。無因見、無作見、無有見(虚無見)だけが定まった状態に達したものが「定邪見の法」である。「結生(再生)の法」とは結生心の生起のことを言う。またここでの黄門(性未分化者)などの言及は単なる例示であり、すべての無因の結生にとって果報の障害となるからである。実に聖者を誹謗する、その思惟が「聖者誹謗の法」である。「それ以降」とは謝罪させた後である。ここで説かれるべきことは、『大師子吼経』の隠微なる意味の解明において既に説かれた。波羅夷罪に陥りながら比丘としての身分を公言している間は。残りの重罪から出罪しない。軽罪を告白しない。

Ayaṃ bhikkhu ariṭṭho. Rasena rasaṃ saṃsanditvāti anavajjena paccayaparibhuñjanarasena sāvajjaṃ kāmaguṇaparibhogarasaṃ samānetvā. Upanento viyāti bandhanaṃ upanento viya. ‘‘Ghaṭento viyā’’tipi pāṭho. Upasaṃharanto viyāti sadisataṃ upasaṃharanto viya ekantasāvajje anavajjabhāvapakkhepena. Pāpakanti lāmakaṭṭhena duggatisampāpanaṭṭhena ca pāpakaṃ. Setukaraṇavasena mahāsamuddaṃ bandhantena viya. Sabbaññutaññāṇena ‘‘sāvajja’’nti diṭṭhaṃ ‘‘anavajja’’nti gahaṇena tena paṭivirujjhanto. Ekantato anantarāyikanti gahaṇena vesārajjañāṇaṃ paṭibāhanto. Kāmakaṇṭakehi ariyamaggasammāpaṭipatti na upakkilissatīti vadanto ‘‘ariyamagge khāṇukaṇṭakādīni **pakkhipanto’’**ti vutto. Paṭhamapārājikasikkhāpadasaṅkhāte, ‘‘abrahmacariyaṃ pahāyā’’ti (dī. ni. 1.8, 194) ādidesanāsaṅkhāte ca āṇācakke.

この比丘アリッタ。「味と味とを照らし合わせて」とは、罪のない必需品の受用という味わいと、罪のある諸欲の受用という味わいとを同一視して。「結びつきをもたらすかのように」とは、束縛をもたらすかのように。「結合させるかのように」という読みもある。「適用するかのように」とは、まったく罪のあるものに罪のない性質を投げ入れることによって類似性を適用するかのように。「悪しき」とは下劣であるという意味から、また悪趣に至らしめるという意味から悪しき。「橋を架けることによって大海を堰き止める者のように」。一切知の智慧によって「罪がある」と見られたものを「罪がない」と把握することによって、それに反逆して。「絶対に障害とならない」と把握することによって無畏の智を拒絶して。欲という刺によって聖道への正しい実践は汚されないと主張して、「聖道に杭や刺などを投げ入れる者」と言われた。第一波羅夷の学習条項と呼ばれるもの、および「不浄行を捨てて」など(長部1.8, 194)の教示と呼ばれる教誡の権能において。

Pucchamānā samanuyuñjanti nāma. Pucchā hi anuyogoti. Tenādhigatāya laddhiyā anuvajjanatthaṃ paccanubhāsanena puna paṭijānāpanaṃ patiṭṭhāpanaṃ, taṃ panassa ādāya samādāpanaṃ viya hotīti āha **‘‘samanugāhanti nāmā’’**ti. Tassā pana laddhiyā anuyuñjitāya vuccamānampi kāraṇaṃ kāraṇapatirūpakamevāti tassa pucchanaṃ samanubhāsanaṃ. Anudahanaṭṭhena anupāyapaṭipattiyā sampati āyatiñca anudahanaṭṭhena. Mahābhitāpanaṭṭhena anavaṭṭhitasabhāvatāya. Ittarapaccupaṭṭhānaṭṭhena muhuttaramaṇīyatāya. Tāvakālikaṭṭhena parehi abhibhavanīyatāya. Sabbaṅgapaccaṅgapalibhañjanaṭṭhena chedanabhedanādiadhikaraṇabhāvena. Ugghāṭasadisatāya adhikuṭṭanaṭṭhena. Avaṇe vaṇaṃ uppādetvā anto anupavisanasabhāvatāya vinivijjhanaṭṭhena. Diṭṭhadhammikasamparāyikaanatthanimittatāya sāsaṅkasappaṭibhayaṭṭhena. Diṭṭhithāmenāti tassā diṭṭhiyā thāmagatabhāvena. Diṭṭhiparāmāsenāti diṭṭhisaṅkhātaparāmasanena. Diṭṭhiyeva hi dhammasabhāvaṃ atikkamitvā parato āmasanena parāmāso. Abhinivissāti taṇhābhinivesapubbaṅgamena diṭṭhābhinivesena ‘‘idamevettha tatha’’nti abhinivisitvā. **Yasmā hi abhinivesanaṃ tattha abhiniviṭṭhaṃ nāma hoti.**Tasmā āha **‘‘adhiṭṭhahitvā’’**ti.

問いただすことが「詰問する」と呼ばれる。質問こそが詰問だからである。彼によって獲得された見解を追及するために反論することによって再び言明させ、確立させること、それは彼にとってそれを受け入れさせることのようになるから「問い詰めるという」と言った。その見解が詰問されて述べられる理由も、理由に似せたものにすぎないから、その質問が「問い詰めること」である。焼き尽くすという意味において、誤った手段の実践によって現在および将来において焼き尽くすという意味において。大いに熱苦しめるという意味において、定まらない本質を持つからである。一時の現起という意味において、束の間の歓楽であるからである。一時的なものであるという意味において、他者に圧倒されるべきものであるからである。すべての肢体や小肢体を粉砕するという意味において、切断や破壊などの係争となるからである。引き抜かれるものに似ていることから、まな板(拷問台)の意味において。傷のないところに傷を生じさせて内部に入り込む性質があることから、突き刺すという意味において。現世および来世の不利益の原因となることから、疑惑と恐怖を伴うという意味において。「見解の強さによって」とは、その見解の頑迷な性質によって。「見解への執着によって」とは、見解と呼ばれる執着によって。実に自らの見解だけが法の本性を越えて他を撫で回す(執着する)ことから執着(パラマーサ)である。「固執して」とは、渇愛による固執を先立てた見解による固執によって「これこそが真実である」と固執して。「実に固執することが、そこに固執したと呼ばれるからである」。それゆえに「堅持して」と言った。

235. Natthīti vattukāmopīti attano laddhiṃ niguhetukāmatāya avajānitukāmopi. Sampaṭicchati paṭijānāti. Dve kathāti visaṃvādanakathaṃ sandhāya vadati. Abhūtakathā hi pubbe pavattā bhūtakathāya vasena dve kathāti vuccati.

235. 「『ない』と言いたい者も」とは、自らの見解を隠したい、否定したい者も。「認める」とは是認する。「二つの言葉」とは欺瞞の言葉を指して言っている。実に以前に語られた不実の言葉が、真実の言葉との関係において「二つの言葉」と呼ばれる。

236. Kassa kho nāmāti iminā satthā ‘‘na mama tuyhaṃ tādisassa atthāya dhammadesanā nāma bhūtapubbā’’ti dasseti. Tenāha **‘‘khattiyassa vā’’**tiādi.

236. 「実に誰に対して」というこれによって、師は「私がお前のような者のために法を説いたことはかつてない」と示す。それゆえに「刹帝利(王族)であれ…」などと言った。

Ñāṇamayā usmā etassa atthīti usmī, tathārūpehi paccayehi anusmīkato tasmiṃ attabhāve paṭivedhagabbhoapi usmīkatoti vikatabhāvato paññābījamassa imasmiṃ dhammavinaye api nu atthīti bhagavā bhikkhū pucchati. Te paṭikkhipantā vadanti ṭhānagatena duccaritena ñāṇupahatabhāvaṃ sampassantā. Nittejabhūtoti nittejaṃ bhūto tejohānippatto. Tato eva bhikkhūnampi sammukhā oloketuṃ asamatthatāya pattakkhandho adhomukho. Sahadhammikaṃ kiñci vattuṃ avisahanato appaṭibhāno. Sampattūpaganti sampattiāvahaṃ. Paṭippassambhentoti paṭisedhento.

知性による熱がこの者にあるから「熱ある者」であり、そのような条件によって無熱にされた、その生存において通達の胎芽さえも無熱にされたから、変質した状態によって智慧の種子がこの者のこの法と律において果たしてあるだろうか、と世尊は比丘たちに問う。彼らは否定して述べる。決定的な悪行によって知性が損なわれた状態を見て。「輝きを失った者」とは無気力になった者、威光の衰退に達した者。それゆえに比丘たちの前でも顔を上げることができず、肩を落とし、うつむいている。法にかなったことを何一つ言うことができないため、弁舌に窮している。「幸運に至る」とは幸運をもたらす。「鎮める」とは制止する。

237. Antarāyakaraladdhiyā sabhāvavibhāvanena parisaṃ sodheti. Nissāreti nīharati avisuddhadiṭṭhitāya. Kassaci buddhānubhāvaṃ ajānantassa. Tassa hi evaṃ bhaveyya ‘‘sahasā kathita’’nti. Na hi kadāci buddhānaṃ sahasā kiriyā nāma atthi. Assāti ‘‘kassacī’’ti vuttabhikkhussa. Sutvāpi tuṇhībhāvaṃ āpajjeyyāti athāpi siyāti sambandho. Taṃ sabbanti ‘‘sace hī’’tiādinā vuttaṃ sabbaṃ parikappanaṃ. Na karissantīti parisāya laddhiṃ sodhetīti sambandho. Laddhiṃ pakāsentoti mahāsāvajjatāvasena pakāsento. Saññāvitakkehīti subhanimittānubyañjanaggāhādivasena pavattehi saññāvitakkehi. Tenāha **‘‘kilesakāmasampayuttehī’’**ti. Methunasamācāranti idaṃ adhikāravasena vuttaṃ. Tadaññampi pana – ‘‘apica kho mātugāmassa ucchādanaṃ parimaddanaṃ nahāpanaṃ sambāhanaṃ sādiyatī’’tiādinā (a. ni. 7.50) āgataṃ visabhāgavatthuvisayaṃ āmisaparibhogaṃ. ‘‘Aññatreva kāmehi aññatra kāmasaññāhi aññatra kāmavitakkehi samācarissatī’’ti netaṃ ṭhānaṃ vijjati.

237. 障害をなす見解の本性を明らかにすることによって会衆を清める。「追放する」とは、不浄な見解の持ち主であるために連れ出すことである。仏の威力を知らない誰かにとって。「彼にはこのように思われるかもしれない、『軽率に語られた』と」。実に決して仏たちに軽率な行為など存在しない。「彼に」とは「誰かに」と説かれた比丘に。「聞いていても沈黙に陥るかもしれない」とは、それもまたあり得ることだ、と結びつく。「そのすべてを」とは「もしそうなら…」などと説かれたすべての邪推である。「しないであろう」とは、会衆の見解を清める、と結びつく。「見解を表明しつつ」とは、大きな罪があることによって表明しつつ。「想と尋によって」とは、浄相や細部の把握などの力によって生じた想と尋によって。それゆえに「煩悩の欲に相応する」と言った。「淫行の行状を」とは、これは文脈の力によって説かれた。それ以外のものも——「また実に、女性による塗抹、摩擦、入浴、按摩を喜んで受け入れる」など(増支部7.50)に現れる異性の対象に関する利養の享受である。「諸欲を離れて、欲の想を離れて、欲の尋を離れてそれを行うであろうということは、あり得ない」。

238. Yoniso paccavekkhaṇena natthi ettha chandarāgoti nicchandarāgo, taṃ nicchandarāgaṃ. Kadāci uposathikabhāvena samādinnasīlāpi honti kadāci noti anibaddhasīlānaṃ gahaṭṭhānaṃ. Sīlasamādānabhāvato antarāyakaraṃ. Vatthukāmānaṃ sacchandarāgaparibhogañca. Apaccavekkhaṇena bhikkhūnaṃ āvaraṇakaraṃ. Paccayānaṃ sacchandarāgaparibhogañca. Ayaṃ ariṭṭho duggahitāya pariyattiyā vasena amhe ceva abbhācikkhati, attānañca khanati, bahuñca apuññaṃ pasavatīti evaṃ saññā mā hontūti duggahitāya pariyattiyā dosaṃ dassento āha. Uggaṇhantīti sajjhāyanti ceva vācuggataṃ karontā dhārenti cāti attho.

238. 如理の観察によってここに欲貪がないから「無欲貪」であり、その無欲貪を。時に布薩を行う者としての受戒した戒もあるが、時にそうではないと、定まっていない戒を持つ在家人たちにとって。戒の受持がないことから障害をなすものとなる。事欲(物質的欲望)の欲貪を伴う受用をも。観察しないことによって比丘たちにとって障害となる。必需品の欲貪を伴う受用をも。「このアリッタは誤って把握された教説の力によって私たちを誹謗し、自らを掘り崩し、多くの不徳を生み出している」と、このように思われないようにと、誤って把握された教説の過失を示して言った。「学ぶ」とは読誦し、口誦して記憶する、という意味である。

Suttantiādinā navappabhedampi pariyattidhammaṃ pariyādiyati. Kathaṃ suttaṃ navappabhedaṃ? Sagāthakañhi suttaṃ geyyaṃ, niggāthakaṃ suttaṃ veyyākaraṇaṃ, tadubhayavinimuttañca suttaṃ udānādivisesasaññāvirahitaṃ natthi, yaṃ suttaṅgaṃ siyā, maṅgalasuttādīnañca suttaṅgasaṅgaho na siyā gāthābhāvato dhammapadādīnaṃ viya, geyyaṅgasaṅgaho vā siyā sagāthakattā sagāthāvaggassa viya, tathā ubhatovibhaṅgādīsu sagāthakappadesānanti? Vuccate –

「契経(スッタ)」などによって九分教の教説の法をも包括する。どのように契経が九つの区分となるのか。実に偈を含む契経は応頌(ゲーヤ)であり、偈を含まない契経は記説(ヴェイヤーカーラナ)であり、その双方から離れて感興語などの特別な名称を持たない契経は存在せず、それが契経肢となるはずであり、吉祥経などは偈の形をとるために法句経などのように契経肢への包摂とならないか、あるいは偈を含むために有偈品のように応頌肢への包摂となるはずであり、同様に両部分別などにおける偈を含む部分もそうではないか、と。これに対して言われる——

Suttanti sāmaññavidhi, visesavidhayo pare;

「契経とは一般的な規定であり、他のものは特別な規定である。

Sanimittā nirūḷhattā, sahatāññena naññato. (dī. ni. ṭī. 1.nidānakathāvaṇṇanā; a. ni. ṭī. 2.4.6; sārattha. ṭī. 1.bāhiranidānakathā);

根拠があり慣用されているがゆえに、他と共にあることによって別のものではない」(長部経典注疏1.縁起説釈、増支部経典注疏2.4.6、勝義灯1.外的縁起説)

Sabbassapi hi buddhavacanassa suttanti ayaṃ sāmaññavidhi. Tenevāha āyasmā mahākaccāno nettiyaṃ (netti. 1.saṅgahavāra) ‘‘navavidhasuttantapariyeṭṭhī’’ti. ‘‘Ettakaṃ tassa bhagavato suttāgataṃ suttapariyāpannaṃ (pāci. 655, 1242), sakavāde pañca suttasatānī’’ti (dha. sa. aṭṭha. nidānakathā; kathā. aṭṭha. nidānakathā) evamādi ca etassa atthassa sādhakaṃ. Tadekadesesu pana geyyādayo visesavidhayo tena tena nimittena patiṭṭhitā. Tathā hi geyyassa sagāthakattaṃ tabbhāvanimittaṃ. Lokepi hi sasilokaṃ sagāthakaṃ vā cuṇṇiyaganthaṃ ‘‘geyya’’nti vadanti. Gāthāvirahe pana sati pucchaṃ katvā vissajjanabhāvo veyyākaraṇassa tabbhāvanimittaṃ. Pucchāvissajjanañhi ‘‘byākaraṇa’’nti vuccati, byākaraṇameva veyyākaraṇaṃ.

実にすべての仏の言葉にとって「契経」とはこの一般的な規定である。それゆえに大カッチャーナ尊者は『指導論』(文脈の包摂)において「九種の契経の探究」と言った。「これほどがその世尊の契経に現れ、契経に包括される」(波羅提木叉655, 1242)、「自らの主張において五百の契経がある」(法集論注疏縁起説、論事注疏縁起説)などのこのような言葉もこの意味を証明するものである。その一部分において、応頌などはそれぞれの根拠によって特別な規定として確立された。実にそうであるように、応頌にとって偈を含むことがその名称の根拠である。世間でも詩や偈を含む散文の書物を「応頌(歌謡)」と言う。しかし偈が存在しない場合、質問をなして答える状態が記説にとってその名称の根拠である。実に質問と回答が「記説(解説)」と呼ばれ、記説こそが解説である。

Evaṃ sante sagāthakādīnampi pucchaṃ katvā vissajjanavasena pavattānaṃ veyyākaraṇabhāvo āpajjatīti? Nāpajjati geyyādisaññānaṃ anokāsabhāvato, ‘‘gāthāvirahe satī’’ti visesitattā ca. Tathā hi dhammapadādīsu kevalaṃ gāthābandhesu, sagāthakattepi somanassañāṇamayikagāthāyuttesu, ‘‘vuttañheta’’nti (itivu. 1) ādivacanasambandhesu, abbhutadhammapaṭisaṃyuttesu ca suttavisesesu yathākkamaṃ gāthā-udāna-itivuttaka-abbhutadhamma-saññā patiṭṭhitā, tathā satipi gāthābandhabhāve bhagavato atītāsu jātīsu cariyānubhāvappakāsakesu jātakasaññā, satipi pañhavissajjanabhāve sagāthakatte ca kesuci suttantesu vedassa labhāpanato vedallasaññā patiṭṭhitāti evaṃ tena tena sagāthakattādinā nimittena tesu tesu suttavisesesu geyyādisaññā patiṭṭhitāti visesavidhayo suttaṅgato pare geyyādayo. Yaṃ panettha geyyaṅgādinimittarahitaṃ, taṃ suttaṅgaṃ visesasaññāparihārena sāmaññasaññāya pavattanatoti. Nanu ca sagāthakaṃ suttaṃ geyyaṃ, niggāthakaṃ suttaṃ veyyākaraṇanti suttaṅgaṃ na sambhavatīti codanā tadavatthā evāti? Na tadavatthā sodhitattā. Sodhitañhi pubbe ‘‘gāthāvirahe sati pucchāvissajjanabhāvo veyyākaraṇassa tabbhāvanimitta’’nti.

そうであるならば、偈を含むものなどであっても質問をなして答える形式で展開されたものは記説となるのではないか、と。そうはならない、応頌などの名称の余地がないわけではなく、「偈が存在しない場合」と限定されているからである。実に法句経などの単なる偈の集成において、偈を含んでいても喜悦と知性からなる偈を伴うものにおいて、「実にこのように説かれた」などの言葉の結合において、また不可思議な法に関連するものにおける特定の契経において、順次に偈・感興語・如是語・未曾有法という名称が確立されたのであり、同様に偈の集成であっても世尊の過去世における行いや威力を明らかにするものには本生(ジャータカ)という名称が、質問と回答の形式があり偈を含んでいても一部の契経において智慧・歓喜を得させることから方広(ヴェーダルラ)という名称が確立された、とこのようにそれぞれの偈を含むことなどの根拠によって、それらの特定の契経に応頌などの名称が確立されたのであり、特別な規定は契経肢以外の応頌などである。ここにおいて応頌などの根拠を欠いたものが、特別な名称を避けて一般的な名称によって展開されることから契経肢である。実に、偈を含む契経は応頌であり、偈を含まない契経は記説であるから契経肢は成立しない、という非難はそのままであるのではないか、と。その非難はあたらない、論破されたからである。実に以前に「偈が存在しない場合、質問と回答の状態が記説にとってその名称の根拠である」と論破されたからである。

Yañca vuttaṃ ‘‘gāthābhāvato maṅgalasuttādīnaṃ suttaṅgasaṅgaho na siyā’’ti (khu. pā. 5.1; su. ni. 261), taṃ na, niruḷhattā. Niruḷho hi maṅgalasuttādīnaṃ suttabhāvo. Na hi tāni dhammapadabuddhavaṃsādayo viya gāthābhāvena paññātāni, kintu suttabhāveneva. Teneva hi aṭṭhakathāyaṃ ‘‘suttanāmaka’’nti nāmaggahaṇaṃ kataṃ. Yaṃ pana vuttaṃ ‘‘sagāthakattā geyyaṅgasaṅgaho siyā’’ti, tadapi natthi, yasmā sahatāññena. Saha gāthāhīti hi sagāthakaṃ, sahabhāvo ca nāma atthato aññena hoti, na ca maṅgalasuttādīsu gāthāvinimutto koci suttapadeso atthi, yo ‘‘saha gāthāhī’’ti vucceyya, na ca samudāyo nāma koci atthi. Yadapi vuttaṃ ‘‘ubhatovibhaṅgādīsu sagāthakappadesānaṃ geyyaṅgasaṅgaho siyā’’ti, tadapi na aññato. Aññā eva hi tā gāthā jātakādipariyāpannattā, ato na tāhi ubhatovibhaṅgādīnaṃ geyyaṅgabhāvoti. Evaṃ suttādīnaṃ aṅgānaṃ aññamaññasaṅkarābhāvo veditabbo.

また「偈の形をとるために吉祥経などは契経肢への包摂とならない」と言われたことも、そうではない、慣用されているからである。実に吉祥経などが契経であることは慣用されている。実にそれらは法句経や仏種姓などのように偈として知られているのではなく、契経としてのみ知られているからである。それゆえに義釈において「契経という名」と名指しされたのである。また「偈を含むために応頌肢への包摂となるはずだ」と言われたことも、それもない。他と共にあることによるからである。実に「偈と共に」あるから偈を含むのであり、共にあることとは実際には別のものと共にあることであり、吉祥経などにおいて「偈と共に」と言われるような偈から離れたいかなる契経の部分も存在せず、また全体というものも存在しないからである。また「両部分別などにおける偈を含む部分が応頌肢への包摂となるはずだ」と言われたことも、それも他からではない。実にそれらの偈は本生などに包括されるために別のものであり、したがってそれらによって両部分別などが応頌肢となることはない。このように契経などの各分教が互いに混同されないことを知るべきである。

Atthatthanti atthabhūtaṃ yathābhūtaṃ atthaṃ. Anatthampi keci vipallāsavasena ‘‘attho’’ti gaṇhantīti ‘‘atthattha’’nti visesetvā vuttaṃ. Kāraṇatthanti kāraṇabhūtaṃ atthaṃ, sīlaṃ samādhissa kāraṇaṃ, samādhi vipassanāyāti evaṃ tassa tassa kāraṇabhūtaṃ atthaṃ. Tenāha **‘‘imasmiṃ ṭhāne sīla’’**ntiādi. Tenetaṃ dasseti – imasmiṃ ṭhāne sīlaṃ kathitaṃ, tañca yāvadeva samādhatthaṃ, samādhi vipassanattho, vipassanā maggatthā, maggo phalattho, vaṭṭaṃ kathitaṃ yāvadeva vivaṭṭādhigamatthanti jānituṃ na sakkontīti. Evaṃ pāḷiyaṃ ‘‘attha’’nti iminā bhāsitatthapayojanatthānaṃ gahitatā veditabbā. Na pariggaṇhantīti na vicārenti, nijjhānapaññākkhamā na honti, nijjhāyitvā paññāya rocetvā gahetabbā na hontīti adhippāyo. Iti evaṃ etāya pariyattiyā vādappamokkhānisaṃsā attano upari parehi āropitavādassa niggahassa mokkhapayojanā hutvā dhammaṃ pariyāpuṇanti. Vādappamokkho vā nindāpamokkho. Yassa cāti yassa ca sīlādipūraṇena pattabbassa, maggassa vā tadadhigamena pattabbassa, phalassa vā tadadhigamena pattabbassa, anupādāvimokkhassa vā atthāya. Dhammaṃ pariyāpuṇanti, ñāyena pariyāpuṇantīti adhippāyo. Nānubhonti na vindanti. Tesaṃ te dhammā duggahitā upārambhamānadappamakkhapaḷāsādihetubhāvena dīgharattaṃ ahitāya dukkhāya saṃvattanti.

「真実の意味を」とは、真実であるありのままの意味を。無益なことさえも転倒によって「意味(利益)」と把握する者がいるため、「真実の意味を」と限定して説いた。「原因となる意味を」とは原因である意味であり、戒は定の原因であり、定は内観(ヴィパッサナー)の原因である、とこのようにそれぞれの原因となる意味を。それゆえに「この場所において戒が…」などと言った。これによってこれを示している——この場所において戒が説かれ、それもただ定のためであり、定は内観のためであり、内観は道のためであり、道は果のためであり、輪廻が説かれたのはただ輪廻を超越した解脱の獲得のためである、と知ることができない、ということである。このように聖典において「意味」というこれによって、説かれた意味と目的の意味が把握されていると知るべきである。「吟味しない」とは思索しない、審察忍可(思索して納得すること)がない、思索して智慧によって好んで把握すべきものとならない、という意味である。このようにこの教説によって論争からの解脱という利益、他者から自分に対して投げかけられた論難の制圧からの解脱を目的として法を学ぶ。あるいは論争からの解脱とは非難からの解脱である。「そしてその者のために」とは、戒などを満たすことによって達せられるべきもの、あるいはその獲得によって達せられるべき道、あるいはその獲得によって達せられるべき果、あるいは無取着の解脱のために。「法を学ぶ」とは正しい理法によって学ぶ、という意味である。「享受しない」とは体験しない。彼らにとってそれらの誤って把握された法は、論難、慢心、傲慢、侮辱などの原因となることによって、長い夜(長い間)にわたって不利益と苦しみをもたらすことになる。

239. Alaṃ pariyatto gado assāti alagaddo anunāsikalopaṃ da-kārāgamañca katvā. Vaṭṭadukkhakantārato nittharaṇatthāya pariyatti nittharaṇapariyatti. Bhaṇḍāgāre niyutto bhaṇḍāgāriko, bhaṇḍāgāriko viya bhaṇḍāgāriko, dhammaratanānupālako. Aññaṃ atthaṃ anapekkhitvā bhaṇḍāgārikasseva sato pariyatti bhaṇḍāgārikapariyatti. ‘‘Vaṃsānurakkhakovā’’ti avadhāraṇaṃ sīhāvalokanañāyena tantidhārakova paveṇipālakovāti purimapadadvayepi yojetabbaṃ.

239. 「十分に(アラム)満ち足りた毒(ガダ)がこれにあるから」蛇(アラガッダ)であり、鼻音の脱落とダの文字の挿入がなされている。輪廻の苦の荒野から脱出するための教説が「出離の教説」である。宝物倉(倉庫)に任命された者が倉番であり、倉番のような者が倉番であり、法宝を守護する者である。他の意味を顧みずに倉番そのものである者の教説が「倉番の教説」である。「あるいは家系を守る者」という限定は、獅子顧向の理(前方を振り返る獅子の視線)によって、「伝統の保持者のみ、血統の守護者のみ」と前の二つの語にも適用されるべきである。

Yadi tantidhāraṇādiatthaṃ buddhavacanassa pariyāpuṇanaṃ bhaṇḍāgārikapariyatti, kasmā ‘‘khīṇāsavassā’’ti visesetvā vuttaṃ, nanu ekaccassa puthujjanassapi ayaṃ nayo labbhatīti anuyogaṃ sandhāyāha **‘‘yo panā’’**tiādi. Attano ṭhāneti nittharaṇaṭṭhāne. Kāmaṃ puthujjano ‘‘paveṇiṃ pālessāmī’’ti ajjhāsayena pariyāpuṇāti. Attano pana bhavakantārato anittiṇṇattā tassa sā pariyatti nittharaṇapariyatti eva nāma hotīti adhippāyo. Tenāha **‘‘puthujjanassā’’**tiādi.

もし聖典の保持などのために仏の言葉を学ぶことが蔵宝の聖典学習であるとするなら、なぜ「漏尽者の」と限定して言われたのか。ある凡夫にもこの理路は得られるのではないかという問いに関連して、「しかるに、ある者は」等と説かれたのである。「自らの境地において」とは、済度(解脱)の境地においてという意味である。凡夫は確かに「血統・伝統を守ろう」という志向をもって学ぶ。しかし、自らが輪廻の荒野から脱出していないため、その者にとっては、その聖典学習は済度のための聖典学習にほかならないという意味である。それゆえに「凡夫の」等と言われたのである。

Nijjhānaṃ khamantīti nijjhānapaññaṃ khamanti. Tattha tattha āgate sīlādidhamme nijjhāyitvā paññāya rocetvā yāthāvato gahetabbā honti. Tenāha **‘‘idha sīla’’**ntiādi. Na kevalaṃ suggahitaṃ pariyattiṃ nissāya maggabhāvanāphalasacchikiriyā, paravādaniggahasakavādapatiṭṭhāpanādīnipi ijjhantīti dassetuṃ **‘‘paravāde’’**tiādi vuttaṃ. Tenāha ‘‘uppannaṃ parappavādaṃ sahadhammena suniggahaṃ niggahitvā’’tiādi (dī. ni. 2.268). Icchiticchitaṭṭhānanti diṭṭhiviniveṭhanādivasena icchitaṃ icchitaṃ pāḷipadesaṃ. Mocetunti apanetuṃ. Ahitāya dukkhāya asaṃvattanampi tadabhāve uppajjanakahitasukhassa kāraṇameva tasmiṃ sati bhāvatoti. Suggahitaalagaddassapi hitāya sukhāya saṃvattanatā daṭṭhabbā.

「熟考に耐える」とは、熟考の智慧に耐えるという意味である。そこかしこに説かれた戒などの法を熟考し、智慧をもって好んで、あるがままに把握されるべきものとなる。それゆえに「ここに戒を」等と言われたのである。善く把持された聖典学習に依って道修習や果の現証が成就するだけでなく、他宗の論破や自説の確立なども成就することを示すために、「他宗において」等と言われた。それゆえに「生じた他者の論争を法によって善く論破して」等と言われたのである。「所望の場所」とは、見解の解縛等によって所望された聖典の個所のことである。「解き放つために」とは、取り除くために。「無益で苦痛にならないこと」もまた、それ(無益等)の不在において生じるべき有益さと安楽の原因にほかならない。それがあるときに生じるからである。善く把持された蛇もまた、有益と安楽をもたらすと見なされるべきである。

240. Uttaranti etenāti uttaro, sinanti bandhantīti setu, uttaro ca so setu cāti uttarasetu. Kūlaṃ paratīraṃ vahati pāpetīti kullaṃ. Kalāpaṃ katvā baddhoti veḷunaḷādīhi kalāpavasena baddho. Aṇunti idaṃ aṭṭhasamāpattiārammaṇaṃ saññojanaṃ sandhāya vadati. Thūlanti itaraṃ. Diṭṭhinti yathābhūtadassanaṃ, vipassananti attho. Evaṃ parisuddhaṃ evaṃ pariyodātanti tebhūmakesu dhammesu ñātaṃ ‘‘netaṃ mama, nesohamasmi, na meso attā’’ti, evaṃ taṇhādiṭṭhisaṃkilesābhāvena sabbaso visuddhaṃ, parisuddhattā eva pariyodātaṃ. Na allīyethāti nikantivasena na nissayetha. Na kelāyethāti na mamāyetha. Na dhanāyethāti dhanaṃ drabyaṃ na kayirātha. Ubhayatthāti samathe vipassanāya ca.

240. 「これによって渡る(ウッタランティ)」ゆえに渡し舟(ウッタラ)であり、「結ぶ・繋ぐ」ゆえに橋(セートゥ)であり、渡し舟であり橋であるから「渡し橋(ウッタラセートゥ)」である。「岸、すなわち彼岸へと運ぶ、到達させる」ゆえに筏(クッラ)である。「束ねて結ばれた」とは、竹や葦などによって束ねる形で結ばれたことである。「微細なもの」とは、八等至の対象となる結びつき(結)を指して言っている。「粗大なもの」とは、その他のものである。「見」とは、如実の観察、すなわち毘鉢舎那(ヴィパッサナー)という意味である。「このように清浄であり、このように純白である」とは、三界に属する法について「これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない」と知られ、このように渇愛や見解の汚濁がないことによって完全に清浄であり、清浄であるからこそ純白である。「執着してはならない」とは、愛着によって依拠してはならない。「惜しんではならない」とは、我がものとして執着してはならない。「財宝としてはならない」とは、富や財物としてはならない。「両者において」とは、止(サマタ)と観(ヴィパッサナー)においてである。

Asaddhammetiādīsu asataṃ hīnajjhāsayānaṃ dhammoti asaddhammo. Gāmavāsīnaṃ dhammoti gāmadhammo. Kilesānaṃ vassanasabhāvatāya vasaladhammo. Kilesehi dūsitattā thūlattā ca duṭṭhullo. Udakasuddhipariyosānatāya odakantiko. ‘‘Dhammāpi vo pahātabbā’’ti imināpi ovādena bhikkhū uddissa kathentopi ariṭṭhaṃyeva niggaṇhāti.

「不善法において」等において、正しからぬ者たち、劣悪な志向を持つ者たちの法であるから「不善法」である。村の住民たちの法であるから「村法」である。煩悩を雨降らせる(生じさせる)性質があるから「下賎の法」である。煩悩によって損なわれ、粗大であるから「悪粗(粗悪)」である。水による清めを最後とするから「水終(水際)」である。「諸法すらも汝らによって捨て去られるべきである」というこの教誡によっても、比丘たちを指して語りつつ、まさにアリッタを論難しているのである。

241. Tividhaggāhavasenāti taṇhāmānadiṭṭhiggāhavasena. Yadi evaṃ **‘‘ahaṃ mamāti gaṇhātī’’**ti gāhadvayameva kasmā vuttanti? Nayidamevaṃ tatthāpi gāhattayasseva vuttattā. ‘‘Aha’’nti hi iminā mānadiṭṭhiggāhā vuttā ‘‘ahamasmī’’ti gāhasāmaññato. Diṭṭhipi diṭṭhiṭṭhānaṃ purimuppannāya diṭṭhiyā uttaradiṭṭhiyā sakkāyadiṭṭhiyā sassatadiṭṭhiyā ca kāraṇabhāvato. Ārammaṇaṃ pañca khandhā, rūpārammaṇādīni ca. Diṭṭhiyā paccayo avijjā-phassa-saññā-vitakka-ayonisomanasikāra-pāpamittaparatoghosādiko diṭṭhiyā upanissayādipaccayo. Vuttañhetaṃ paṭisambhidāyaṃ (paṭi. ma. 1.124)‘‘katamāni aṭṭha diṭṭhiṭṭhānāni avijjāpi phassopi saññāpi vitakkopi ayonisomanasikāropi pāpamittopi paratoghosopi diṭṭhiṭṭhāna’’ntiādi. Rūpārammaṇāti ruppanasabhāvadhammārammaṇā. Rūpaṃ pana attāti na vattabbaṃ idha ‘‘rūpaṃ attato samanupassatī’’ti (saṃ. ni. 3.81, 345) imassa gāhassa anadhippetattā. So hi ‘‘yampi taṃ diṭṭhiṭṭhāna’’ntiādinā parato vuccati. Idha pana ‘‘rūpavantaṃ attānaṃ samanupassati, attani rūpaṃ, rūpasmiṃ attāna’’nti ime tayo gāhā adhippetāti keci, tadayuttaṃ. Yasmā rūpaṃ attā na hoti, attaggāhassa pana ālambanaṃ hoti, attasabhāveyeva vā rūpādidhamme ārabbha attadiṭṭhi uppajjati, na attānaṃ tassa paramatthato anupalabbhanato, tasmā rūpādiārammaṇāva attadiṭṭhīti katvā vuttaṃ, rūpaṃ pana ‘‘attā’’ti na vattabbanti ayamettha attho. ‘‘Yampi taṃ diṭṭhiṭṭhāna’’ntiādinā pana vipassanāpaṭivipassanā viya diṭṭhianupassanā nāma dassitā.

241. 「三種の把持によって」とは、渇愛・慢・見の把持によってである。もしそうであるなら、「『私である、私のものである』と把持する」となぜ二種の把持のみが語られたのか。それはそうではない。そこでもまた三種の把持がまさに語られているからである。実に「私」というこれによって、「私がある」という把握の共通性から慢と見の把持が語られている。見もまた、以前に生じた見解が後の見解、有身見、常見の原因となることから見処である。対象は五蘊であり、色などの対象である。見の縁とは、無明・触・想・尋・不正思惟・悪友・他者の声などの、見に対する依止縁などである。実にこれは無礙解道において説かれている。「八つの見処とは何か。無明も、触も、想も、尋も、不正思惟も、悪友も、他者の声も見処である」等と。「色を対象とする」とは、破壊される性質を持つ法を対象とすることである。しかし色を「我」と語るべきではない。ここでは「色を我として観察する」というこの把持は意図されていないからである。それは実に「またその見処であるところの」等によって後で説かれる。しかしここでは「色ある我を観察する、我の中に色を、色の中に我を」というこれら三つの把持が意図されているとある者は言うが、それは妥当ではない。色は我ではないが、我の把持の対象となるからであり、あるいは我の性質において色などの法を原因として我見が生じるのであって、我自体は勝義としては得られないからである。それゆえに色などを対象とするものこそが我見であるとして説かれたのであり、色そのものを「我」と語るべきではない、というのがここでの意味である。「またその見処であるところの」等によっては、観と再観のように、見の随観と呼ばれるものが示されている。

Gandharasaphoṭṭhabbāyatanānaṃ sampattagāhindriyavisayatāya patvā gahetabbatā. Tañhi tassa attano visayaṃ paribhutvā sambandhaṃ hutvā gaṇhāti. Avasesāni sattāyatanāni viññātaṃ nāma manasā viññātabbato. Aññathā itaresampi viññātatā siyā. Pattanti adhigataṃ. Pariyesitanti gavesitaṃ. Anuvicaritanti cintitaṃ. Tenāha **‘‘manasā’’**ti. Ettha ca pattapariyesanānaṃ apaṭikkhepassa, visuṃ, ekajjhaṃ paṭikkhepassa ca vasena catukkoṭikaṃ dassetvā pattapariyesitehi anuvicaritassa bhedaṃ dassetuṃ **‘‘lokasmiñhī’’**tiādi vuttaṃ. Pariyesitvā pattaṃ paṭhamaṃ cetasā pacchā kāyena pattattā pattaṃ nāma. Pariyesitvā nopattaṃ pariyesitaṃ nāma kevalaṃ pariyesitabhāvato. Apariyesitvā pattañca nopattañca manasā anuvicaritabbato manasānuvicaritaṃ nāma.

香・味・触処は、到達して把握する諸根の対象であることから、到達して把持されるべき性質である。それは実に、それ自らの対象を享受し、結合して把持するからである。残りの七つの処は、意によって知覚されるべきものであることから「知覚されたもの」と呼ばれる。そうでなければ、他のものも知覚されたものとなってしまうであろう。「得られたもの」とは、達成されたもの。「探求されたもの」とは、探し求められたもの。「思索されたもの」とは、思惟されたもの。それゆえに「意によって」と言われた。そしてここにおいて、得ることと探求することの非否定、個別の否定、一括の否定によって四句分別を示し、得られ探求されたものと、思索されたものとの差異を示すために、「世間において実に」等と言われた。探求して得られたものは、初めに心によって、後に身体によって得られたものであるから「得られたもの」と呼ばれる。探求して得られなかったものは、単に探求された状態であることから「探求されたもの」と呼ばれる。探求せずに得られたものと得られなかったものは、意によって思索されるべきものであることから「意によって思索されたもの」と呼ばれる。

Ayañca vikappo ākulo viyāti **‘‘atha vā’’**tiādi vuttaṃ. Pattaṭṭhenāti pattabhāvena pattatāsāmaññena. Apariyesitvā nopattaṃ manasānuvicaritaṃ nāma pattiyā pariyesanāya ca abhāvato. Sabbaṃ vā etanti ‘‘pariyesitvā pattampī’’tiādinā vuttaṃ catubbidhampi. Imināti ‘‘yampi taṃ diṭṭhiṭṭhānaṃ’’tiādivacanena. Viññāṇārammaṇā taṇhāmānadiṭṭhiyo kathitā pārisesañāyena. Evaṃ pārisesañāyapariggahe kiṃ payojananti āha **‘‘desanāvilāsenā’’**tiādi. Yesaṃ vineyyānaṃ desetabbadhammassa sarūpaṃ anāmasitvā ārammaṇakicca-sampayuttadhamma-phalavisesādi-pakārantaravibhāvanena paṭivedho hoti, tesaṃ tappakārabhedehi dhammehi, yesaṃ pana yena ekeneva pakārena sarūpeneva vā vibhāvane kate paṭivedho hoti, tesaṃ taṃ vatvā dhammissarattā tadaññaṃ niravasesākāravibhāvanañca desanāvilāso. Tenāha **‘‘diṭṭhādiārammaṇavasena viññāṇaṃ dassita’’**nti.

そしてこの分別は乱雑であるかのようであるため、「あるいはまた」等と言われた。「得られたという意味において」とは、得られた状態によって、得られたことの共通性によってである。探求せずに得られなかったものは、獲得も探求もないことから「意によって思索されたもの」と呼ばれる。あるいは「探求して得られたものも」等によって語られた四種すべてが「これらすべて」である。「これによって」とは、「またその見処であるところの」等の言葉によってである。識を対象とする渇愛・慢・見が、剰余の理路によって語られた。このように剰余の理路を把握することにどのような利害があるのかといえば、「説法の妙技によって」等と言われた。説かれるべき法の自相に触れることなく、対象の作用・相応する法・勝れた果などの他の態様を解明することによって通達が生じる教化対象たちには、それらの態様の差異による諸法によって、しかし、ただ一つの態様によって、あるいは自相そのものによって解明がなされたときに通達が生じる者たちには、それを説いて、法主であることからそれ以外のすべての態様を余すところなく解明することが説法の妙技である。それゆえに「見られたものなどを対象とすることによって識が示された」と言われたのである。

Diṭṭhiṭṭhānanti diṭṭhi eva diṭṭhiṭṭhānaṃ, taṃ heṭṭhā vuttanayameva. Yaṃ rūpaṃ esā diṭṭhi ‘‘loko ca attā cā’’ti gaṇhāti. Taṃ rūpaṃ sandhāya ‘‘so loko so attā’’ti vacanaṃ vuttanti yojanā. So pecca bhavissāmīti uddhamāghātanikavādavasenāyaṃ diṭṭhīti āha **‘‘so ahaṃ paralokaṃ gantvā nicco bhavissāmī’’**tiādi. Dhuvoti thiro. Sassatoti sabbadābhāvī. Avipariṇāmadhammoti jarāya maraṇena ca avipariṇāmetabbasabhāvo, nibbikāroti attho. Tampi dassananti tampi tathāvuttaṃ diṭṭhidassanaṃ attānaṃ viya taṇhādiṭṭhiggāhavisesena gaṇhāti. Tenāha **‘‘etaṃ mamā’’**tiādi. Diṭṭhārammaṇāti diṭṭhivisayā. Kathaṃ pana diṭṭhi diṭṭhivisayā hotīti āha **‘‘vipassanāyā’’**tiādi. Paṭivipassanākāleti yamakato sammasanādikālaṃ sandhāyāha. Tattha akkharacintakānaṃ sadde viya, vedajjhāyīnaṃ vedasatthe viya ca diṭṭhiyaṃ diṭṭhigatikānaṃ diṭṭhiggāhappavatti daṭṭhabbā.

「見処」とは、見そのものが見処であり、それは下で説かれた通りの理路である。この見解が「世間であり我である」と把握するその色。その色を指して「その世間、その我」という言葉が語られた、と結びつけられる。「その私は死後に存在するであろう」とは、死後有論の説によるこの見解であるとし、「その私は他世に行って常住となるであろう」等と言われた。「常(ドゥヴァ)」とは、堅固なこと。「常住(サッサタ)」とは、常に存在するということ。「不変異法」とは、老いと死によって変異させられない性質、無変化という意味である。「その見解をも」とは、そのように語られた見解の観察をも、我であるかのように渇愛や見解の特別な把持によって把握する。それゆえに「これは私のものである」等と言われた。「見られたものを対象とする」とは、見解を対象とすることである。ではどのようにして見解が見解の対象となるのかといえば、「毘鉢舎那において」等と言われた。「再観の時に」とは、対にして把捉することなどの時を指して言っている。そこでは文字を思索する者たちにおける音声のように、ヴェーダを学習する者たちにおけるヴェーダの論書のように、見解における見解論者たちの見解の把持の働きが見られるべきである。

Samanupassatīti padassa ca tasso samanupassanā atthoti yojanā. Tena samanupassanā nāma catubbidhāti dasseti. Tattha ñāṇaṃ tāva samavisamaṃ sammā yāthāvato anupassatīti samanupassanā. Itarā pana saṃkilesavasena anu anu passantīti samanupassanā. Yadi evaṃ hotu tāva diṭṭhisamanupassanā micchādassanabhāvato, kathaṃ taṇhāmānāti? Taṇhāyapi sattānaṃ pāpakaraṇe upāyadassanavasena paññāpatirūpikā pavatti labbhateva, yāya vañcananikatisāciyogā sambhavanti. Mānopi seyyādinā dassanavaseneva tathā attānaṃ ūhatīti taṇhāmānānaṃ samanupassanāpatirūpikā pavatti labbhatīti daṭṭhabbaṃ. Avijjamāneti ‘‘etaṃ mamā’’ti evaṃ gahetabbe taṇhāvatthusmiṃ ajjhattakhandhapañcake anupalabbhamāne vinaṭṭhe. Na paritassati bhayaparittāsataṇhāparittāsānaṃ maggena samugghātitattā.

「観察する」という言葉には、その観察がある、と結びつけられる。これによって観察とは四種であると示される。その中でまず智慧は、平等のものと不平等のものを正しく如実に観察するから観察である。他のもの(渇愛・慢・見)は、汚濁によって次々と観察するから観察である。もしそうなら、見の観察は邪見であることからそうであるとして、渇愛と慢はどうしてそうなのか。渇愛においても、衆生が悪事をなす際の手立てを観察することによって智慧に似た働きが確かに得られ、それによって詐欺や欺瞞や不正な企てが生じる。慢もまた勝れているなどと観察することによってそのように自己を高く見積もる。ゆえに渇愛と慢にも観察に似た働きが得られると知るべきである。「存在しないときに」とは、「これは私のものである」とそのように把持されるべき渇愛の対象である内なる五蘊が見出されず、滅失したときに。「恐れ戦かない」とは、恐怖による恐れ戦きと渇愛による恐れ戦きが道によって根絶されているからである。

242. Catūhi kāraṇehīti ‘‘asati na paritassatī’’ti vuttampi itarehi tīhi saha gahetvā vuttaṃ. Catūhi kāraṇehīti catukkoṭikasuññatākathanassa kāraṇehi. Bahiddhā asatīti bāhire vatthusmiṃ avijjamāne. Sā panassa avijjamānatā laddhavināsena vā aladdhālābhena vāti pāḷiyaṃ – ‘‘ahu vata me, taṃ vata me natthi, siyā vata me, taṃ vatāhaṃ na labhāmī’’ti vuttanti tadubhayaṃ parikkhāravasena vibhajitvā tattha paritassanaṃ dassetuṃ **‘‘bahiddhā parikkhāravināse’’**tiādi vuttaṃ. Tattha yānaṃ ‘‘ratho vayha’’nti evamādi. Vāhanaṃ hatthiassādi.

242. 「四つの原因によって」とは、「存在しないときに恐れ戦かない」と語られたことも他の三つとともに把握して語られた。「四つの原因によって」とは、四句の空の説法の原因によってである。「外なるものが存在しないときに」とは、外なる事物が見出されないときに。しかしその者の存在しないこととは、得ていたものの滅失によって、あるいは得ていないものの不獲得によるものであり、聖典には「実に私にあったものが、今や私にはない。実に私にあるはずのものが、それを私は得られない」と説かれているため、その両者を資具として分別し、そこでの恐れ戦きを示すために「外なる資具の滅失において」等と言われた。その中で乗り物とは「車、輿」等である。乗用獣とは象や馬などである。

Yehi kilesehīti yehi asantapatthanādīhi kilesehi. Evaṃ bhaveyyāti evaṃ ‘‘ahu vata me’’tiādinā codanādi bhaveyya. Diṭṭhiṭṭhānādhiṭṭhānapariyuṭṭhānābhinivesānusayānanti ettha aparāparaṃ pavattāsu diṭṭhīsu yā parato uppannā diṭṭhiyo, tāsaṃ purimuppannā diṭṭhiyo kāraṇaṭṭhena diṭṭhiṭṭhānāni. Adhikaraṇaṭṭhena diṭṭhādhiṭṭhānāni, pariyuṭṭhānappattiyā sabbāpi diṭṭhipariyuṭṭhānāni. ‘‘Idameva saccaṃ moghamañña’’nti (ma. ni. 2.202, 427; 3.27-29; udā. 55; mahāni. 20; netti. 59) pavattiyā abhinivesā. Appahīnabhāvena santāne sayantīti anusayāti evaṃ diṭṭhiṭṭhānādīnaṃ padānaṃ vibhāgo veditabbo. Taṇhādīhi kampaniyatāya sabbasaṅkhārāva iñjitānīti sabbasaṅkhāraiñjitāni. Sesapadadvayepi eseva nayo. Upadhīyati ettha dukkhanti upadhi, khandhāva upadhi khandhūpadhi. Esa nayo sesesupi. Tadeva ca āgamma taṇhā khīyati virajjati nirujjhatīti yojanā. Ucchijjissāmi nāmassūtiādīsu nipātamattaṃ, saṃsaye vā. Tāsoti attaniyābhāvaṃ paṭicca taṇhāparittāso ceva bhayaparittāso ca. Tenāha **‘‘tāso heso’’**tiādi. No cassaṃ, no ca me siyāti ‘‘aha’’nti kira koci no cassaṃ, ‘‘me’’ti ca kiñci no siyāti. Tāsappatīkāradassanañhetaṃ.

「いかなる煩悩によって」とは、存在しないものを望むことなどのいかなる煩悩によって。「このようになるであろう」とは、このように「実に私にあったものが」等という非難などが生じるであろう。「見処・住着・現行・執着・随眠の」において、次々に生じる見解の中で後に生じる見解に対して、以前に生じた見解は原因という意味において「見処」である。依処という意味において「見住着」であり、現行に達することによってすべて「見現行」である。「これのみが真実であり、他は虚妄である」と生じることによって「執着」である。断ぜられない状態として相続の中に眠っている(潜勢している)から「随眠」である。このように見処等の諸語の区分が知られるべきである。渇愛等によって揺り動かされるべきものであるから一切の諸行こそが「動揺」であり、一切の諸行の動揺である。残りの二句においてもこの理路である。ここに苦が置かれる(積載される)から「依処(ウパディ)」であり、五蘊こそが依処であり蘊依処である。この理路は残りのものにも当てはまる。そしてまさにそれに依って渇愛は尽き、離貪し、滅するという結びつきである。「私は断滅するのではないか」等における語は不変化詞にすぎず、あるいは疑念を表す。「戦慄」とは、自己の非存在についての渇愛の戦慄および恐怖の戦慄である。それゆえに「戦慄とはまさにこれである」等と言われた。「私自身が存在せず、私のものでも存在しないように」とは、「私」という者が何一つ存在せず、「私のもの」というものも何一つ存在しないように、ということである。これは戦慄の対治を示すものである。

243. Ettāvatāti ‘‘evaṃ vutte’’tiādinā, pucchānusandhivasena pavattāya ‘‘chayimāni, bhikkhave, diṭṭhiṭṭhānānī’’tiādinā (ma. ni. 1.241) vā. Sāpi hi ajjhattakhandhavināse paritassanakaṃ dassetvā aparitassanakaṃ dassentī pavattāti tassanakassa suññatādassanaṃ akiccasādhakampi suññatādassanamevāti imesaṃ vasena **‘‘catukkoṭikā suññatā kathitā’’**ti vuttaṃ. Bahiddhā parikkhāranti bāhiraṃ saviññāṇakaṃ aviññāṇakañca sattopakaraṇaṃ. Tañhi jīvitavuttiyā parikkhārakaṭṭhena ‘‘parikkhāro’’ti vuttaṃ. Pariggahaṃ nāma katvāti ‘‘mama ida’’nti pariggahetabbatāya pariggahitaṃ nāma katvā. Sabbopi diṭṭhiggāho ‘‘attā nicco dhuvo sassato, attā ucchijjati vinassatī’’tiādinā attadiṭṭhisannissayoyevāti vuttaṃ **‘‘sakkāyadiṭṭhipamukhā dvāsaṭṭhidiṭṭhiyo’’**ti. Ayāthāvaggāhinā abhinivesanapaññāpanānaṃ upatthambhabhāvato diṭṭhi eva nissayoti diṭṭhinissayo. Pariggaṇheyyāti niccādivisesayuttaṃ katvā pariggaṇheyya. Kimevaṃ pariggahetuṃ sakkuṇeyya? Sabbatthāti ‘‘taṃ, bhikkhave, attavādupādānaṃ upādiyetha, taṃ, bhikkhave, diṭṭhinissayaṃ nissayethā’’ti etesupi.

243. 「これほどによって」とは、「このように説かれたときに」等によって、あるいは質問の脈絡によって説かれた「比丘たちよ、これら六つの見処がある」等によってである。それもまた内なる五蘊の滅失において恐れ戦く者を示し、恐れ戦かない者を示しつつ説かれたものであるから、恐れ戦く者の空の観察は無益な結果をもたらすものであっても空の観察そのものであるとして、これらによって「四句の空が語られた」と言われたのである。「外なる資具」とは、外なる有情・無情の有情の生活道具である。それは実に生活の維持のための具備という意味で「資具」と呼ばれる。「我がものと執着して」とは、「これは私のものである」と把握されるべきものとして執着されたものとして。「我は常住であり、堅固であり、永遠である。我は断滅し、消失する」等によるすべての見解の把持は我見に依止するものにほかならないことから、「有身見を初めとする六十二見」と言われた。不実を把持するものによる執着と施設を支えるものであるから、見解こそが依処であり「見依処」である。「執受するであろう」とは、常住などの特徴を具えたものとして執受するであろう。このように執受することができようか。「すべての箇所において」とは、「比丘たちよ、その我語取を執取せよ。比丘たちよ、その見依処に依拠せよ」というこれらにおいてもである。

244. Attani vā satīti yassa attano santakabhāvena kiñci attaniyanti vucceyya, tasmiṃ attani sati, so eva pana attā paramatthato natthīti adhippāyo. Sakkā hi vattuṃ bāhirakaparikappito attā ‘‘paramattho’’ti? Siyā khandhapañcakaṃ ñeyyasabhāvattā yathā taṃ ghaṭo, yadi pana tadaññaṃ nāma kiñci abhavissa, na taṃ niyamato viparītaṃ siyāti? Na ca so paramatthato atthi pamāṇehi anupalabbhamānattā turaṅgamavisāṇaṃ viyāti. Attaniye vā parikkhāre satīti ‘‘idaṃ nāma attano santaka’’nti tassa kiñcanabhāvena nicchite kismiñci vatthusmiṃ sati. Attano idanti hi attaniyanti. Ahanti satīti ‘‘ahaṃ nāmāya’’nti ahaṃkāravatthubhūte paramatthato niddhāritasarūpe kismiñci sati tassa santakabhāvena mamāti kiñci gahetuṃ yuttaṃ bhaveyya. **Mamāti sati ‘‘aha’’**nti etthāpi eseva nayo. Iti paramatthato attano anupalabbhamānattā attaniyaṃ kiñci paramatthato natthevāti sabbasaṅkhārānaṃ anattatāya anattaniyataṃ, anattaniyatāya ca anattakataṃ dasseti. Bhūtatoti bhūtatthato. Tathatoti tathasabhāvato. Thiratoti ṭhitasabhāvato nibbikārato.

244. 「我が存在するときに」とは、その我の所有物として何かが『我所』と呼ばれるはずの、その我が存在するときにという意味であるが、その我そのものが勝義としては存在しないという意味である。外道によって想定された我を「勝義」と語ることができようか。五蘊は知られるべき性質を持つことから瓶のようなものであり、もしそれ以外の何らかのものが存在したならば、それは必然的に反対のものではあり得ないのではないか。そしてそれは、諸々の量(認識手段)によって得られないことから、馬の角のように勝義としては存在しない。「あるいは我所である資具が存在するときに」とは、「これは我の所有物である」とその者の財産として確定された何らかの事物が存在するときに。我のものが我所であるからである。「私であると存在するときに」とは、「私はこれである」と自我意識の対象となった勝義において規定された自相の何かが存在するときに、その所有物として『私のものである』と何かを把持することが妥当であろう。「私のものであると存在するときに『私』」ということにおいてもこの理路である。このように勝義として我が見出されないことから、我所なるものは勝義としては何一つ存在しないのであり、一切の諸行の無我性によって無我所性を、無我所性によって我によって作られたものではないことを示している。「真実から」とは、真実の事実から。「如実から」とは、如実の本性から。「確固たることから」とは、安定した本性から、無変化であることから。

Yasmā hutvā na hotīti yasmā pubbe asantaṃ paccayasamavāyena hutvā uppajjitvā puna bhaṅgupagamena na hoti, tasmā na niccanti aniccaṃ, adhuvanti attho. Tato eva uppādavayavattitoti uppajjanavasena nirujjhanavasena ca pavattanato. Sabhāvavigamo idha vipariṇāmo, khaṇikatā tāvakālikatā, niccasabhāvābhāvo eva niccapaṭikkhepo. Aniccadhammā hi teneva attano aniccabhāvena atthato niccataṃ paṭikkhipanti nāma. Tathā hi vuttaṃ ‘‘na niccanti anicca’’nti. Uppādajarābhaṅgavasena rūpassa nirantarabādhatāti paṭipīḷanākārenassa dukkhatā. Santāpo dukkhadukkhatādivasena santāpanaṃ paridahanaṃ, tato evassa dussahatāya dukkhamatā. Tissannaṃ dukkhatānaṃ saṃsāradukkhassa ca adhiṭṭhānatāya dukkhavatthukatā. Sukhasabhāvābhāvo eva sukhapaṭikkhepo. Vipariṇāmadhammanti jarāya maraṇena ca vipariṇamanasabhāvaṃ. Yasmā idaṃ rūpaṃ paccayasamavāyena uppādaṃ, uppādānantaraṃ jaraṃ patvā avassameva bhijjati, bhinnañca bhinnameva, nāssa kassaci saṅkamoti bhavantarānupagamanasaṅkhātena saṅkamābhāvena vipariṇāmadhammataṃ pākaṭaṃ kātuṃ **‘‘bhavasaṅkanti upagamanasabhāva’’**nti vuttaṃ. Pakatibhāvavijahanaṃ sabhāvavigamo nirujjhanameva. Nti aniccaṃ dukkhaṃ vipariṇāmadhammaṃ rūpaṃ. Imināti ‘‘no hetaṃ, bhante’’ti rūpassa taṇhādiggāhānaṃ vatthubhāvapaṭikkhepena. Rūpañhi uppannaṃ ṭhitiṃ mā pāpuṇātu, ṭhitippattaṃ mā jīratu, jarappattaṃ mā bhijjatu, udayabbayehi mā kilamiyatūti na ettha kassaci vasībhāvo atthi, svāyamassa avasavattanaṭṭho anattatāsallakkhaṇassa kāraṇaṃ hotīti āha **‘‘avasavattanākārena rūpaṃ, bhante, anattāti paṭijānantī’’**ti. Nivāsikārakavedakaadhiṭṭhāyakavirahena tato suññatā suññaṭṭho, sāmibhūtassa kassaci abhāvo assāmikaṭṭho, yathāvuttavasavattibhāvābhāvo anissaraṭṭho, paraparikappitaattasabhāvābhāvo eva attapaṭikkhepaṭṭho.

「生じてから存在しなくなるゆえに」とは、以前には存在しなかったものが諸縁の集まりによって生起し、再び崩壊に至ることで存在しなくなるゆえに、「常ではない」ゆえに無常であり、不変ではないという意味である。それゆえに生起と衰滅の働きを持つことから、生起と滅尽によって作用するからである。本性の喪失がここでの変異であり、刹那性、一時的であること、常住なる本性の不在こそが常住の否定である。無常の諸法は実に自らの無常性によって意味の上で常住性を否定するのである。実に「常ならざるものは無常である」と説かれている通りである。生起・老い・崩壊によって色が絶え間なく圧迫されることが、圧迫の様態による苦性である。「熱悩」とは、苦苦性などによる熱悩・焼灼であり、それゆえに耐え難いことから苦痛性である。三種の苦性と輪廻の苦の依処であることから苦の対象性である。楽の本性の不在こそが楽の否定である。「変異法」とは、老いと死によって変異する性質のことである。この色は諸縁の集まりによって生起し、生起の直後に老いに達して必ず崩壊し、崩壊したものは崩壊したままであり、何ものも他の存在へと移行することはないから、他の生存への移行がないこととしての移行の不在によって変異法性を示すために「有への移行という到達の性質」と言われた。本来の状態の放棄が本性の喪失であり、滅尽にほかならない。「と」は、無常・苦・変異法である色を。「これによって」とは、「大徳よ、そうではありません」と色の渇愛等の把持の対象性を否定することによってである。実に生じた色は静止に達するな、静止に達したものは老いるな、老いに達したものは崩壊するな、生起と衰滅によって衰弱するな、ということはここにおいて誰の支配力にもない。そのこの意のままにならないという意味が無我性の特徴づけの原因となるのであり、「大徳よ、意のままにならない様態によって、色は無我であると認める」と言われたのである。居住者・作業者・受者・主宰者の不在によってそれから空である性質が空の意味であり、主となる者の不在が無主の意味であり、上述の意のままになる状態の不在が無自在の意味であり、他者によって想定された我の本性の不在こそが我の否定の意味である。

Yasmā aniccalakkhaṇena viya dukkhalakkhaṇaṃ, tadubhayena anattalakkhaṇaṃ suviññāpayaṃ, na kevalaṃ, tasmā tadubhayenettha anattalakkhaṇavibhāvanaṃ katanti dassento ‘‘bhagavā hī’’tiādimāha. Tattha aniccavasenāti aniccatāvasena. Dukkhavasenāti dukkhatāvasena. Na upapajjatīti na yujjati. Tameva ayujjamānataṃ dassetuṃ **‘‘cakkhussa uppādopī’’**tiādi vuttaṃ. Yasmā attavādī attānaṃ niccaṃ paññapeti, cakkhuṃ pana aniccaṃ, tasmā cakkhu viya attāpi anicco āpanno. Tenāha **‘‘yassa kho panā’’**tiādi. Tattha vetīti vigacchati nirujjhati. Iti cakkhu anattāti cakkhussa udayabbayavantatāya aniccatā, attano ca attavādinā aniccatāya anicchitattā cakkhu anattā.

無常相によって苦相が、それら両者によって無我相が善く理解されるだけでなく、それゆえにそれら両者によってここにおいて無我相の解明がなされたことを示しつつ、「世尊は実に」等と言われた。そこにおいて「無常によって」とは、無常性によって。「苦によって」とは、苦性によって。「成立しない」とは、妥当しない。その妥当しないことを示すために「眼の生起も」等と言われた。我論者は我を常住であると規定するが、しかし眼は無常である。それゆえに眼のように我もまた無常ということになってしまう。それゆえに「しかるに、その者の」等と言われた。そこにおいて「失われる」とは、消滅する、滅びる。このように「眼は無我である」とは、眼が生滅を持つことによる無常性、そして我は我論者によって無常であることが望まれないことから眼は無我である。

Kāmaṃ anattalakkhaṇasutte (saṃ. ni. 3.59; mahāva. 20) – ‘‘yasmā ca kho, bhikkhave, rūpaṃ anattā, tasmā rūpaṃ ābādhāya saṃvattatī’’ti rūpassa anattatāya dukkhatā vibhāvitā viya dissati, tathāpi ‘‘yasmā rūpaṃ ābādhāya saṃvattati, tasmā anattā’’ti pākaṭatāya sābādhatāya rūpassa attasārābhāvo vibhāvito, tato eva ca ‘‘na labbhati rūpe evaṃ me rūpaṃ hotu, evaṃ me rūpaṃ mā ahosī’’ti rūpe kassaci anissaratā, tassa ca avasavattanākāro dassitoti āha ‘‘dukkhavasena anattataṃ **dassetī’’**ti. Yadaniccaṃ taṃ dukkhanti yaṃ vatthu aniccaṃ, taṃ dukkhaṃ udayabbayapaṭipīḷitattā, yaṃ pana niccaṃ tadabhāvato, taṃ sukhaṃ yathā taṃ nibbānanti adhippāyo. Yaṃ tanti kāraṇaniddesovāyaṃ, yasmā rūpaṃ aniccaṃ, taṃ tasmāti attho. Yaṃ dukkhaṃ tadanattāti ettha vuttanayeneva attho veditabbo. Aniccanti iminā ghaṭādi viya paccayuppannattā rūpaṃ aniccanti imamatthaṃ dasseti. Imināva nayena ‘‘anattā’’ti vattuṃ labbhamānepi ‘‘anattā’’ti vattā nāma natthi. Evaṃ dukkhanti vadantīti etthāpi yathārahaṃ vattabbaṃ ‘‘akkhisūlādivikārappattakāle viya paccayuppannattā dukkhaṃ rūpa’’ntiādinā. Duddasaṃ duppaññāpanaṃ. Tathā hi sarabhaṅgādayopi satthāro nāddasaṃsu, kuto paññāpanā. Tayidaṃ anattalakkhaṇaṃ.

確かに無我相経において「比丘たちよ、色は無我であるからこそ、色は病苦へと導く」と色の無我性によって苦性が解明されているかのように見えるが、それでも「色は病苦へと導くゆえに無我である」と明らかな病苦性によって色の我という本質の不在が解明され、それゆえに「色において『私の色はこうであれ、私の色はこうであってはならない』ということは得られない」と色に対する何人の不主宰性、そしてその意のままにならない様態が示されているとして、「苦によって無我性を示す」と言われたのである。「無常なるものは苦である」とは、無常である事物は生滅に圧迫されているから苦であり、常住であるものはそれが不在であるから楽である、たとえば涅槃のように、という意味である。「それであるところのもの」とは原因の指示であり、色が無常であるゆえに、それゆえに、という意味である。「苦であるものは無我である」とは、ここで説かれた理路によって意味が知られるべきである。「無常」とはこれによって、瓶などのように縁より生じたものであるから色は無常であるというこの意味を示す。まさにこの理路によって「無我」と語られる余地があるにもかかわらず、「無我」と語る者は存在しない。「このように苦であると言う」ということにおいても、相応に「眼痛などの変異に達した時のように、縁より生じたものであるから色は苦である」等と語られるべきである。見難く、施設し難い。実にサラバンガなどの導師たちすら見なかったのであるから、どうして施設できようか。これがその無我相である。

Tasmātihātiādinā tiyaddhagatarūpaṃ lakkhaṇattayaṃ āropetvā vuttanti āha **‘‘etarahi aññadāpī’’**ti. Taṃ pana yādisaṃ tādisampi tathā vuttanti ajjhattādivisesopi vattabbo. Pi-saddena vā tassāpi saṅgaho daṭṭhabbo.

「それゆえに」等によって三世に属する色に三相を適用して語られたとし、「今も他の時も」と言われた。しかしそれはどのようなものであってもそのように語られたのであり、内なるものなどの区別も語られるべきである。「も」という語によってそれもまた包含されていると見なされるべきである。

245. Ukkaṇṭhatīti nābhiramati. Aññattha ‘‘nibbidā’’ti balavavipassanā vuccati, sānulomā pana saṅkhārupekkhā ‘‘vuṭṭhānagāminī’’ti, sā idha kathaṃ nibbidā nāma jātāti āha **‘‘vuṭṭhānagāminivipassanāya hī’’**tiādi. Iminā sikhāpattanibbedatāya vuṭṭhānagāminī idha nibbidānāmena vuttāti dasseti.

245. 「嫌悪する」とは、喜ばないこと。他の箇所では「厭離」とは強力な毘鉢舎那を指し、順適を伴う行捨が「出起導向」であるが、それがここではいかにして厭離と呼ばれるようになったのかといえば、「実に、出起導向の毘鉢舎那によって」等と言われた。これによって絶頂に達した厭離であることから、出起導向がここでは厭離という名で語られたことを示している。

‘‘So anupubbena saññaggaṃ phusatī’’ti (dī. ni. 1.414, 415) vatvā ‘‘saññā kho poṭṭhapāda paṭhamaṃ uppajjati, pacchā ñāṇa’’nti (dī. ni. 1.416) vuttattā saññagganti vuttā lokiyāsu pahānasaññāsu sikhāpattabhāvato. Dhammaṭṭhitiñāṇanti vuttā idappaccayatādassanassa matthakappattīti katvā. Tato parañhi asaṅkhatārammaṇaṃ ñāṇaṃ hoti. Tenāha – ‘‘pubbe kho susima dhammaṭṭhitiñāṇaṃ, pacchā nibbāne ñāṇa’’nti (saṃ. ni. 2.70). Pārisuddhipadhāniyaṅganti vuttā maggādhigamassa paripanthabhūtasabbasaṃkilesavisuddhi padhānikassa yogino, padhānabhāvanāya vā jātaṃ aṅganti katvā. Paṭipadāñāṇadassanavisuddhīti vuttā paramukkaṃsagatapaṭipadāñāṇadassanavisuddhibhāvato. Atammayatanti ettha tammayatā nāma taṇhā, kāmataṇhādīsu tāya tāya nibbattattā tammayaṃ nāma tebhūmikappavattaṃ, tassa bhāvoti katvā. Tassā taṇhāya pariyādānato vuṭṭhānagāminivipassanā atammayatāti vuccati. Nissāyāti taṃ atammayataṃ paccayaṃ katvā. Āgammāti tasseva vevacanaṃ. Nānattāti nānāsabhāvā bahū anekappakārā. Nānattasitāti nānārammaṇanissitā rūpādivisayā. Ekattāti ekasabhāvā. Ekattasitāti ekaṃyeva ārammaṇaṃ nissitā. Taṃ nissāyāti taṃ ekattasitaṃ upekkhaṃ paccayaṃ katvā. Etissāti etissā upekkhāya. Pahānaṃ hotīti aññāṇupekkhato pabhuti sabbaṃ upekkhaṃ pajahitvā ṭhitassa ‘‘atammayatā’’ti vuttāya vuṭṭhānagāminivipassanāya arūpāvacarasamāpattiupekkhāya vipassanupekkhāya ca pahānaṃ hotīti pariyādānanti vuttāti. Sabbasaṅkhāragatassa muñcitukamyatāpaṭisaṅkhānassa sikhāpattabhāvato vuṭṭhānagāminī muñcitukamyatā paṭisaṅkhānanti ca vuttā. Mudumajjhādivasena pavattiākāramattaṃ, atthato ekatthā muñcitukamyatādayo, byañjanameva nānaṃ. Dvīhi nāmehīti gotrabhu, vodānanti imehi dvīhi nāmehi.

「彼は次第に想の頂点に触れる」と説き、「ポッタパーダよ、想がまず生じ、後に智慧が生じる」と説かれていることから、世間的な断想における絶頂に達した状態であることから「想頂」と言われた。此縁性の観察の頂点に達したものであるとして「法住智」と言われた。実にそれ以降は無為を対象とする智慧となる。それゆえに「スシマよ、先に法住智があり、後に涅槃における智慧がある」と説かれたのである。道への到達の障害となる一切の煩悩の清浄が勤勉な修行者において、あるいは勤修によって生じた支分であるとして「清浄勤修支」と言われた。最高度に達した道智見清浄であることから「行道智見清浄」と言われた。「無愛著(アタンマヤター)」において、ここに愛著(タンマヤター)とは渇愛のことであり、欲愛等においてそれぞれ生み出されたものであるから愛著とは三界の流転であり、その状態であるとして。その渇愛を尽くすことから出起導向の毘鉢舎那は無愛著と呼ばれる。「依処として」とは、その無愛著を縁として。「依って」とはそれと同義語である。「種々の」とは、種々の性質を持つ、多くの多様な形態の。「種々に依止した」とは、種々の対象に依止した、色などの対象を持つ。「唯一の」とは、単一の性質を持つ。「唯一に依止した」とは、ただ一つの対象に依止した。「それに依処として」とは、その唯一に依止した捨を縁として。「これの」とは、この捨の。「断滅がある」とは、無知の捨から始まってすべての捨を捨て去って確立した者の、「無愛著」と語られた出起導向の毘鉢舎那によって、無色界の定の捨と観の捨の断滅があるから「尽滅」と言われたのである。一切の諸行に属する解脱欲と再思惟の絶頂に達した状態であることから、出起導向は解脱欲・再思惟とも語られた。軟・中等による働きの様態の違いにすぎず、意味の上では解脱欲等は同一義であり、表現のみが異なる。「二つの名によって」とは、種姓(ゴートラブー)と清浄(ヴォーダーナ)というこれら二つの名によってである。

Virāgoti maggo, accantameva virajjati etenāti virāgo, tena. Maggena hetubhūtena. Vimuccatīti paṭippassaddhivimuttivasena vimuccati. Tenāha **‘‘phalaṃ kathita’’**nti.

「離貪」とは道であり、これによって徹底的に離貪するゆえに離貪であり、それによって。原因となった道によって。「解脱する」とは、安息による解脱によって解脱する。それゆえに「果が語られた」と言われたのである。

Mahākhīṇāsavoti pasaṃsāvacanaṃ yathā ‘‘mahārājā’’ti. Tathā hi taṃ pasaṃsanto satthā **‘‘ayaṃ vuccati, bhikkhave, bhikkhu ukkhittapaligho itipī’’**tiādimāhāti. Tadatthaṃ vivarituṃ **‘‘idāni tassā’’**tiādi vuttaṃ. Yathābhūtehīti yāthāvato bhūtehi. Durukkhipanaṭṭhenāti pacurajanehi ukkhipituṃ asakkuṇeyyabhāvena. Nibbānanagarappavese vibandhanena paligho viyāti palighoti vuccati. Matthakacchinno tālo pattaphalādīnaṃ anaṅgato tālāvatthu asive ‘‘sivā’’ti samaññā viya. Tenāha **‘‘sīsacchinnatālo viya katā’’**ti. Punabbhavassa karaṇasīlo, punabbhavaṃ vā phalaṃ arahatīti ponobhaviko. Evaṃbhūto pana punabbhavaṃ deti nāmāti āha **‘‘punabbhavadāyako’’**ti. Punabbhavakhandhānaṃ paccayoti iminā jātisaṃsāroti phalūpacārena kāraṇaṃ vuttanti dasseti. Parikkhāti vuccati santānassa parikkhipanato. Saṃkiṇṇattāti sabbaso kiṇṇattā vināsitattā. Gabbhīrānugataṭṭhenāti gambhīraṃ anupaviṭṭhaṭṭhena. Luñcitvāti uddharitvā. Etānīti kāmarāgasaññojanādīni. Aggaḷāti vuccanti avadhāraṇaṭṭhena. Aggamaggena patito mānaddhajo etassāti patitamānaddhajo. Itarabhāroropanassa purimapadehi pakāsitattā **‘‘mānabhārasseva oropitattā pannabhāroti adhippeto’’**ti vuttaṃ. Mānasaṃyogeneva visaṃyuttattāti etthāpi eseva nayo. Pañcapi khandhe avisesato asmīti gahetvā pavattamāno ‘‘asmimāno’’ti adhippetoti vuttaṃ **‘‘rūpe asmīti māno’’**tiādi.

「大漏尽者」とは、「大王」というような称賛の言葉である。実に彼を称賛しつつ導師は「比丘たちよ、この比丘は関門を上げた者とも言われる」等と言われた。その意味を明かすために「今やその者の」等と言われた。「如実なるものによって」とは、真実にあるがままのものによって。「持ち上げ難いという意味において」とは、一般の人々には持ち上げることができない状態によって。涅槃の城への進入を遮る障害として閂(かんぬき)のようであるから「閂(関門)」と言われる。頭部を切られた多羅樹は葉や果実などが生じないため、多羅樹の根株が無吉祥であるのに「吉祥(シヴァ)」と名づけられるようなものである。それゆえに「頭部を切られた多羅樹のようにされた」と言われた。再びの生存をもたらす習性がある、あるいは再びの生存という果にふさわしいから「後有をもたらすもの」である。このようなものは再びの生存を与える者であるとして「後有の供与者」と言われた。「後有の諸蘊の縁」とは、これによって生・輪廻という果の仮設によって原因が語られたことを示している。相続を巡らし囲むことから「壕」と言われる。「埋められたことによって」とは、完全に撒き散らされ破壊されたことによって。「深奥に入ったという意味によって」とは、深く入り込んだという意味によって。「引き抜いて」とは、根こそぎにして。「これらを」とは、欲愛の結びつき(結)などを。「閂」とは、固定するという意味において言われる。最上の道(阿羅漢道)によって慢の旗が落ちた者であるから「慢の旗を落とした者」である。他の重荷の下ろされたことは前の語によって明らかにされているため、「慢の重荷のみが下ろされたことによって『荷を下ろした者』と意図されている」と言われた。「慢の束縛からまさに離れていることによって」ということにおいてもこの理路である。五蘊についても無差別に「私がある」と把握して生じるものが「我有慢」として意図されているとして、「色において私があるという慢」等と言われた。

Nagaradvārassa parissayapaṭibāhanatthañceva sobhanatthañca ubhosu passesu esikatthambhe nikhaṇitvā ṭhapentīti āha **‘‘nagaradvāre ussāpite esikatthambhe’’**ti. Pākāraviddhaṃsaneneva parikkhāya bhūmisamakaraṇaṃ hotīti āha **‘‘pākāraṃ bhindanto parikkhaṃ saṃkiritvā’’**ti. Evantiādi upamāsaṃsandanaṃ. Santo saṃvijjamāno kāyo dhammasamūhoti sakkāyo, upādānakkhandhapañcakaṃ. Dvattiṃsa kammakāraṇā dukkhakkhandhe āgatā. Akkhirogasīsarogādayo aṭṭhanavuti rogā. Rājabhayādīni pañcavīsati mahābhayāni.

城門の障害を防ぐため、そして美装のために両側に柱(インドラ柱)を掘って立てることから、「城門に立てられた柱」と言われた。城壁を破壊することによってのみ壕を平地にすることが行われるから、「城壁を崩して壕を埋めて」と言われた。「このように」等は譬喩の対比である。存在し、見出される身、諸法の集まりが「有身」であり、五取蘊のことである。三十二の業苦(刑罰)が苦蘊において説かれている。眼病や頭痛などの九十八の病。国王の恐怖などの二十五の大恐怖。

246. Anadhigamanīyaviññāṇatanti ‘‘idaṃ nāma nissāya iminā nāma ākārena pavattatī’’ti evaṃ duviññeyyacittataṃ. Anvesanti paccatte ekavacananti āha **‘‘anvesanto’’**ti. Sattopi tathāgatoti vuccati ‘‘tathāgato paraṃ maraṇā’’tiādīsu (dī. ni. 1.65) viya. Satto hi yatheko kammakilesehi itthattaṃ āgato, tathā aparopi āgatoti ‘‘tathāgato’’ti vuccati. Uttamapuggaloti bhagavantaṃ sandhāya vadati. Khīṇāsavopīti yo koci khīṇāsavopi ‘‘tathāgato’’ti adhippeto. Sopi hi yatheko catūsu satipaṭṭhānesu sūpaṭṭhitacitto satta bojjhaṅge yathābhūtaṃ bhāvetvā anuttaraṃ arahattaṃ āgato adhigato, tathā aparopi āgatoti ‘‘tathāgato’’ti vuccati. Asaṃvijjamānoti paramatthato anupalabbhanīyo. Avindeyyoti na vinditabbo, duviññeyyoti attho.

246. 「知り難い識を持つこと」とは、「これに依って、このような様態で生じる」というように知ることが困難な心境のことである。「探し求める(アンヴェーサン)」とは主格の単数形であるとして、「探し求めつつ」と言われた。衆生もまた「如来は死後に」等におけるように「如来(タターガタ)」と言われる。衆生は実に、一者が業と煩悩によって人間状態に来たように、他の者もまた来たから「如来」と呼ばれる。「最上人」とは世尊を指して言っている。「漏尽者もまた」とは、いかなる漏尽者もまた「如来」として意図されている。彼もまた、一者が四念処において心を善く確立し、七覚支を如実に修習して無上の阿羅漢果に来た、到達したように、他の者もまた来たから「如来」と呼ばれる。「存在しない」とは、勝義としては得られないこと。「見出されない」とは、見出されるべきでない、知ることが困難であるという意味である。

Tathāgato satto puggaloti na paññapemi paramatthato sattasseva abhāvatoti adhippāyo. Kiṃ paññapessāmi paññattiupādānassapi dharamānakassa abhāvato. ‘‘Anuppādo khemaṃ, anuppatti khema’’ntiādinā asaṅkhatāya dhātuyā pakkhandhanavasena pavattaṃ aggaphalasamāpattiatthaṃ vipassanācittaṃ vā.

如来という衆生・個人を私は施設しない。勝義としては衆生そのものが存在しないからである、という意味である。施設のための拠り所も現存するものとして存在しないのに、何を施設するというのか。「生じないことは安穏、生起しないことは安穏」等によって無為の界へと跳入することによって生じる最上の果定のための毘鉢舎那の心、あるいは。

Tucchāti karaṇe nissakkavacananti āha **‘‘tucchakenā’’**ti. Vinayatīti vinayo, so eva venayiko. Tathā manti tathābhūtaṃ maṃ. Paramatthato vijjamānassa hi sattassa abhāvaṃ vadanto sattavināsapaññāpako ca nāma siyā, ahaṃ pana paramatthato avijjamānaṃ taṃ ‘‘natthī’’ti vadāmi. Yathā ca loko voharati, tatheva taṃ voharāmi, tathābhūtaṃ maṃ ye samaṇabrāhmaṇā ‘‘venayiko samaṇo gotamo’’ti vadantā asatā tucchā musā abhūtena abbhācikkhantīti yojanā. Appaṭisandhikassa khīṇāsavassa carimacittaṃ nirupādānato anupādāno viya jātavedo parinibbutaṃ idaṃ nāma nissitanti na paññāyatīti vadanto kimettāvatā ucchedavādī bhaveyya, nāhaṃ kadācipi atthi, nāpi koci atthīti vadāmi. Evaṃ sante kiṃ nissāya te moghapurisā sato sattassa nāma ucchedaṃ vināsaṃ vibhavaṃ paññapetīti vadantā asatā…pe… abbhācikkhantīti ayamettha adhippāyo.

「空(虚無)」とは具格・奪格の語であるとして、「空虚なことによって」と言われた。「導く・除滅する」ゆえに調伏(ヴィナヤ)であり、まさにそれが破滅論者(ヴェーナイカ)である。「ありのままの私を」とは、その通りである私を。実に勝義として存在する衆生の非存在を語る者は、衆生の破滅を施設する者となるであろうが、私は勝義として存在しないものを「存在しない」と語る。そして世間が呼称するように、その通りにそれを呼称する。そのようにある私を、一部の沙門・婆羅門たちが「沙門ゴータマは破滅論者である」と言って、不実・空虚・虚偽・事実無根によって中傷している、と結びつけられる。結生のない漏尽者の最後の心は、取(執着の燃料)がないことから燃料のない火のように完全に滅したものであり、何かに依拠しているとは知られないと語る者が、これほどによってどうして断滅論者になろうか。私はいついかなる時も『我がある』とも語らず、何者かが存在するとも語らない。そうであるのに、それらの愚人たちは何を根拠として、現存する衆生の断滅・破壊・滅亡を施設していると言って、不実に……中傷するのか、というのがここでの意味である。

Mahābodhimaṇḍamhīti bodhimaṇḍaggahaṇena sattasattāhamāha. Tena dhammacakkapavattanato (saṃ. ni. 5.1081; mahāva. 13; paṭi. ma. 2.30) pubbe vuttaṃ tantidesanaṃ vadati. Catusaccameva paññapemīti etena saccavimuttā satthudesanā natthīti dasseti. Ettha ca – ‘‘pubbe ceva etarahi ca dukkhañceva paññapemi dukkhassa ca nirodha’’nti vadanto bhagavā nāhaṃ kadācipi ‘‘attā ucchijjati, vinassatī’’ti vā, ‘‘attā nāma koci atthī’’ti vā vadāmi. Evaṃ sante kiṃ nissāya te moghapurisā ‘‘sato sattassa ucchedaṃ vināsaṃ vibhavaṃ paññapetī’’ti asatā tucchena abbhācikkhantīti dasseti. Pareti amāmakā, mama ovādassa abhājanabhūtāti atthoti āha **‘‘saccāni…pe… asamatthapuggalā’’**ti. Adhippāyenāti iminā tesaṃ adhippāyamattaṃ, rosanavihesanāni pana tathāgatassa ākāsassa vilikhanaṃ viya na sambhavantiyevāti dasseti. Āhanati cittanti āghāto. Appatītā honti etenāti appaccayo. Cittaṃ na abhirādhayatīti anabhiraddhi. Atuṭṭhīti tuṭṭhipaṭipakkho tathāpavatto cittuppādo, kodho eva vā.

「大菩提樹の座において」とは、菩提樹の座を把握することによって七週間を指して言っている。それによって転法輪の前に語られた聖典の説法を言っている。「四聖諦のみを私は施設する」とは、これによって聖諦から離れた導師の説法はないことを示している。そしてここにおいて、「以前にも今も、私は苦と、苦の滅のみを施設する」と語る世尊は、私はいついかなる時も「我は断滅する、消失する」とも、「我なる何者かが存在する」とも語らない。そうであるのに、それらの愚人たちは何を根拠として「現存する衆生の断滅・破壊・滅亡を施設している」と不実・空虚によって中傷するのかということを示している。「他者たち」とは、私に従わない者たち、私の教誡の器ではない者たちという意味であるとし、「真理を……通達できない人々」と言われた。「意図によって」とは、これによって彼らの意図にすぎず、如来に対する憤慨や加害などは虚空に傷をつけるようなものであり、決して生じることはないことを示している。心を打つゆえに「憤激(アーガータ)」である。これによって不満となるから「不快(アッパッチャヤ)」である。心を喜ばせないから「不悦(アナビラッディ)」である。「不満」とは、満足の反対としてそのように生じた心の生起であり、怒りそのものである。

Pareti aññe ekacce. Ānandanti pamodanti etenāti ānando, pītiyā evetaṃ adhivacanaṃ. Sobhanamanatā somanassaṃ, cetasikasukhassetaṃ adhivacanaṃ. Uppilati purimāvatthāya bhijjati visesaṃ āpajjatīti uppilaṃ, tadeva uppilāvitaṃ, tassa bhāvo uppilāvitattaṃ. Yāya uppannāya kāyacittaṃ vātapūritabhattā viya uddhumāyanākārappattaṃ hoti, tassā gehassitāya odaggiyapītiyā etaṃ adhivacanaṃ. Saccāni paṭivijjhituṃ asamatthāti dukkhameva uppajjati nirujjhati ca, na añño satto nāma atthīti evaṃ jānituṃ asamatthā ‘‘attā nāma atthī’’ti evaṃdiṭṭhino appahīnavipallāsā. Uttamaṃ pasādanīyaṭṭhānaṃ tathāgatampi akkosanti, kimaṅgaṃ pana bhikkhūti adhippāyo.

「他者たち」とは、他のある者たち。「歓喜する、歓喜させる」ゆえに歓喜であり、これは喜(ピーティ)の同義語である。「善き心であること」が喜悦(ソーマナッサ)であり、これは心的な楽の同義語である。「浮き上がる、以前の状態を破って特別な状態に達する」ゆえに浮動であり、それが浮動性であり、その状態が浮揚性である。それが生じることによって、身体と心が風で満たされた革袋のように膨張した状態となる、家庭にまつわる高揚した喜の同義語である。「真理を通達することができない」とは、苦のみが生じ、滅するのであって、他の衆生なるものは存在しないとこのように知ることができず、「我なるものが存在する」というこのような見解を持ち、転倒を捨て去っていない者たちのことである。最上の信敬の対象である如来すらも罵倒するのだから、まして比丘たちにおいては言うまでもない、という意味である。

247. Anattaniyepi khandhapañcake micchāgāhavasena attaniyasaññāya pavattassa chandarāgassa pahānaṃ. Amhākaṃ neva attāti yasmā rūpavedanādiyeva attaggāhavatthu tabbinimuttassa lobhaneyyassa abhāvato. Etaṃ tiṇakaṭṭhasākhāpalāsaṃ na amhākaṃ rūpaṃ, na viññāṇaṃ, tasmā amhākaṃ neva attāti yojanā. Ajjhattikassa vatthuno neva attāti paṭikkhittattā bāhiravatthu attaniyabhāvena paṭikkhittaṃ hotīti āha **‘‘amhākaṃ cīvarādiparikkhāropi na hotī’’**ti. Khandhapañcakaṃyevāti bāhiravatthuṃ nidassanaṃ katvā khandhapañcakaṃyeva na tumhākanti pajahāpeti. Na uppāṭetvā kandaṃ viya. Na luñcitvā vā kese viyāti. Iminā rūpādīnaṃ nāmamukhena pahānaṃ icchanti. Ulliṅgitamatthaṃ chandarāgavinayena pajahāpetīti sarūpato dasseti.

247. 我所ではない五蘊に対しても、誤った把握によって我所であるという想いをもって生じる欲愛の放棄である。「私たちの我ではない」とは、色や受などこそが我の把握の対象であり、それから離れた執着すべき対象は存在しないからである。これら草木や小枝や葉は私たちの色ではなく、識でもない。それゆえに私たちの我ではない、と結びつけられる。内なる事物が我ではないと否定されたことによって、外なる事物も我所としての性質が否定されたことになるとして、「私たちの衣などの資具でもない」と言われた。「五蘊そのものを」とは、外なる事物を例証として、五蘊そのものが汝らのものではないと捨て去らせるのである。根を引き抜くようにではない。髪を引き抜くようにでもない。これによって色などの名目のもとに放棄することを望んでいる。暗示された意味を、欲愛の調伏によって捨て去らせると具体的に示している。

248. ‘‘Taṃ kiṃ maññatha, bhikkhave, rūpaṃ niccaṃ vā’’tiādi desanā tiparivaṭṭaṃ. Yāva imaṃ ṭhānanti ‘‘evaṃ svākkhāto’’ti yāvāyaṃ pāḷipadeso. Suviññeyyabhāvena akkhātattāpi svākkhātoti āha **‘‘sukathitattā eva uttāno vivaṭo pakāsito’’**ti. Tiriyaṃ vidāraṇena chinnaṃ, dīghaso phālanena bhinnaṃ, tato eva tattha tattha sibbitagaṇṭhikatajiṇṇavatthaṃ pilotikā, tadabhāvato chinnapilotiko, pilotikarahitoti attho. Iriyāpatha-saṇṭhapanaavijjamānajhāna-vipassanāni chinnāya avijjamānāya paṭipattiyā sibbanagaṇṭhikaraṇasadisāni, tādisaṃ idha natthīti āha **‘‘na hettha…pe… atthī’’**ti. Patiṭṭhātuṃ na labhatīti pesalehi saddhiṃ saṃvāsavasenapi patiṭṭhātuṃ na labhati, visesādhigamavasena pana vattabbameva natthi.

248. 「比丘たちよ、それをどう思うか、色は常であるか」等の説法は三転(三相の考察)である。「この境地に至るまで」とは、「このように善く説かれた」というこの聖典の個所までのことである。善く知られやすい状態として説かれたことによっても善説であるとして、「善く語られたからこそ、明白であり、開示され、顕示されている」と言われた。横に裂くことによって断たれ、縦に割ることによって破れ、それゆえにそこかしこを縫い合わせ結び目を作った古着がボロ布(ピローティカー)であり、それが存在しないことから「縫い目のない」、ボロ布を離れたという意味である。威儀の保持や、存在しない禅定・毘鉢舎那は、破れた存在しない実践を縫い合わせ結び目を作ることと似ており、そのようなものはここには存在しないとして、「ここには……ない」と言われた。「留まることを得ない」とは、戒を愛する者たちとの同住による留まることも得られないのであり、勝れた徳の獲得によることについては言うまでもない。

Kāraṇḍavaṃ niddhamathāti vipannasīlatāya kacavarabhūtaṃ puggalaṃ kacavaramiva nirapekkhā apanetha. Kasambuñcāpakassathāti kasaṭabhūtañca naṃ khattiyādīnaṃ majjhagataṃ sambhinnaṃ paggharitakuṭṭhaṃ caṇḍālaṃ viya apakassatha nikkaḍḍhatha. Kiṃ kāraṇaṃ? Saṅghārāmo nāma sīlavantānaṃ kato, na dussīlānaṃ, yato etadeva. Tato palāpe vāhetha, assamaṇe samaṇamānineti yathā palāpā antosārarahitā ataṇḍulā bahi thusena vīhi viya dissanti, evaṃ pāpabhikkhū antosīlarahitāpi bahi kāsāvādiparikkhārena bhikkhū viya dissanti, tasmā ‘‘palāpā’’ti vuccanti, te palāpe vāhetha odhunātha vidhamatha. Paramatthato assamaṇe vesamattena samaṇamānine evaṃ niddhamitvāna…pe… patissatāti. Tattha kappayavhoti kappetha, karothāti vuttaṃ hoti. Patissatāti pati pati satā sampajānantā suṭṭhu pajānantā. Patissatā vā sappatissā aññamaññaṃ sagāravā. Athevaṃ suddhā suddhehi saṃvāsaṃ kappentā diṭṭhisīlasāmaññena samaggā. Anukkamena paripākagatapaññatāya nipakā. Sabbassevimassa dukkhavaṭṭassa antaṃ karissatha, parinibbānaṃ pāpuṇissathāti attho.

「塵芥を吹き払え」とは、破戒であることによってゴミとなった者を、ゴミのように顧みることなく排除せよ。「汚物を引きずり出せ」とは、屑となったその者を、王族などの中に入り込んだ皮膚が破れ膿を流す悪疾の旃陀羅のように引きずり出せ、追い払え。なぜなら、僧伽の住坊は持戒の者たちのために作られたのであり、破戒の者たちのためではないからである。「そこから籾殻を吹き飛ばせ、非沙門でありながら沙門を気取る者たちを」とは、籾殻が内部の実がなく米粒がないのに外見は籾殻によって稲のように見えるように、悪比丘たちも内部に戒がないのに外見は袈裟などの資具によって比丘のように見えるのであり、それゆえに「籾殻」と呼ばれるのであり、それら籾殻を吹き飛ばせ、払いのけよ、滅尽せよ。勝義において非沙門であり、姿かたちだけで沙門を自認する者たちをこのように吹き払って……「心づかいある者となれ」と。そこにおいて「営め」とは、整えよ、なせ、ということである。「心づかいある者」とは、それぞれに気づきがあり、正知し、善く知る者たち。あるいは「心づかいある者」とは敬意を持ち、互いに敬い合う者たち。このように清浄な者たちが清浄な者たちと同住を営み、見解と戒の共通性によって和合し。次第に円熟した智慧を持つことによって賢明となり。「このすべての苦の輪廻の終極をなすであろう、完全な涅槃に達するであろう」という意味である。

Vaṭṭaṃ tesaṃ natthi paññāpanāya sabbaso samucchinnavaṭṭamūlakattā.

彼らには施設するための輪廻は存在しない。輪廻の根源が完全に断ち切られているからである。

Dhammaṃ anussaranti, dhammassa vā anussaraṇasīlāti dhammānusārino. Evaṃ saddhānusārinopi veditabbā. Paṭipannassāti paṭipajjamānassa, sotāpattimaggaṭṭhopi adhippeto. Adhimattanti balavaṃ. Paññāvāhīti paññaṃ vāheti, paññā vā imaṃ puggalaṃ vahatīti paññāvāhītipi vadanti. Paññāpubbaṅgamanti paññaṃ purecārikaṃ katvā. Ayaṃ vuccatīti ayaṃ evarūpo puggalo paññāsaṅkhātena dhammena sarati anussaratīti dhammānusārī. Saddhāvāhīti saddhaṃ vāheti, saddhā vā imaṃ puggalaṃ vahatīti saddhāvāhītipi vadanti. Saddhāpubbaṅgamanti saddhaṃ purecārikaṃ katvā. Ayaṃ vuccatīti ayaṃ evarūpo puggalo saddhāya sarati anussaratīti saddhānusārī. Saddhāmattanti ‘‘itipi so bhagavā’’tiādinā buddhasubuddhatāya saddahanamattaṃ. Matta-saddena aveccappasādaṃ nivatteti. Pemamattanti yathāvuttasaddhānusārena uppannaṃ tuṭṭhimattaṃ. Sinehoti keci. Evaṃ vipassanaṃ paṭṭhapetvā nisinnānanti kalāpasammasanādivasena āraddhavipassanānaṃ. Ekā saddhāti vipassanānusārena svākkhātadhammatā siddhā, tato eva ekā seṭṭhā uḷārā saddhā uppajjati. Ekaṃ pemanti etthāpi eseva nayo. Sagge ṭhapitā viya hontīti tesaṃ saddhāpemānaṃ saggasaṃvattaniyatāya abyabhicārībhāvamāha. Cūḷasotāpannoti vadanti ekadesena saccānubodhe ṭhitattā. Sesaṃ suviññeyyameva.

法を随念する、あるいは法を随念する習性がある者たちが「随法行者」である。同様に随信行者も知られるべきである。「実践する者の」とは、実践しつつある者のことであり、預流道に留まる者も意図されている。「強大に」とは、強力に。「智慧を運ぶ」とは、智慧を運ばせる、あるいは智慧がこの人物を運ぶゆえに「智慧を運ぶ者」とも言う。「智慧を先導として」とは、智慧を先導役として。「この者は言われる」とは、このような人物は智慧と呼ばれる法によって思い起こし随念するから「随法行者」である。「信を運ぶ」とは、信を運ばせる、あるいは信がこの人物を運ぶゆえに「信を運ぶ者」とも言う。「信を先導として」とは、信を先導役として。「この者は言われる」とは、このような人物は信によって思い起こし随念するから「随信行者」である。「信のみ」とは、「かの世尊はまさに」等によって仏の正等覚に対する信じることだけである。「のみ」という語によって不壊の浄信を除外している。「愛のみ」とは、上述の信に従って生じた満足だけである。「情愛である」とある者は言う。「このように毘鉢舎那を確立して座している者たちの」とは、蘊の総括的な把捉等によって毘鉢舎那を始めた者たちのことである。「類まれなる信」とは、毘鉢舎那に従って善説の法性が成就し、それゆえに類まれなる最上の広大な信が生じる。「類まれなる愛」ということにおいてもこの理路である。「天界に置かれたかのようになる」とは、それらの信と愛が天界へ導くことにおいて間違いのない状態であることを言っている。「小預流者」と呼ぶ。一部分において真理の理解に留まっているからである。残りは容易に理解できる。

Alagaddūpamasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

蛇譬喩経の註釈における隠れた意味の解明が完了した。

3. Vammikasuttavaṇṇanā

3. 蟻塚経の註釈

249. Piyavacananti piyasamudācāro. Viññujātikā hi paraṃ piyena samudācarantā ‘‘bhava’’nti vā, ‘‘devānaṃ piyo’’ti vā, ‘‘āyasmā’’ti vā samudācaranti, tasmā sammukhā sambodhanavasena ‘‘āvuso’’ti, tirokkhaṃ ‘‘āyasmā’’ti ayampi samudācāro. Mahākassapauruvelakassapādayo aññepi kassapanāmakā atthīti **‘‘katarassa kassapassā’’**ti pucchanti. Raññāti kosalaraññā. **‘‘Sañjāniṃsū’’**ti saṅkhepato vuttamatthaṃ vivarituṃ **‘‘ayaṃ panā’’**tiādi āraddhaṃ. Assāti kumārakassapassa, ‘‘sañjāniṃsū’’ti vuttasañjānanassa vā. Puññāni karontoti kappasatasahassaṃ devesu ca manussesu ca nibbattitvā dānādīni puññāni bhāvento. Osakkanteti parihāyamāne. Paṭhamanti kumārikākāle. Satthā upālittheraṃ paṭicchāpesi taṃ adhikaraṇaṃ vinayakammenevassā bhikkhuniyā pabbajjāya arogabhāvaṃ.

249. 「愛語」とは、親愛なる挨拶である。知識階級の者たちは他者に対して親愛をもって挨拶するとき、「尊者」あるいは「神々に愛されたる者」あるいは「長老」と挨拶するのであり、それゆえに対面での呼びかけとして「友よ」、間接的に「尊者」というこれもまた挨拶である。摩訶迦葉や優楼頻螺迦葉などの他の迦葉という名の者たちも存在するとして、「どの迦葉にか」と問うている。「王によって」とは、コーサラ王によって。「認識した」と簡潔に語られた意味を明かすために「しかるにこの者は」等と始められた。「彼の」とは、童子迦葉の、あるいは「認識した」と語られた認識の。「福徳をなしつつ」とは、十万劫の間、天界と人間界に生まれて布施などの福徳を修習しつつ。「後退するときに」とは、衰退するときに。「初めに」とは、少女の時に。導師は優波離長老にその訴訟事務を委ね、律の手続きによってその比丘尼の出家が無罪であることを(確定させた)。

Paññattivibhāvanāti ‘‘andhavana’’ntveva paññāyamānassa vibhāvanā. Olīyatīti saṅkucati saṇikaṃ vattati. Bhāṇakoti sarabhāṇako. Yaṃ atthi, taṃ gahetvāti idāni pariyesitabbaṭṭhānaṃ natthi, yathāgataṃ pana yaṃ atthi, taṃ gahetvā. Balavaguṇeti adhimattaguṇe. Kassapabhagavato kāle niruḷhasamaññāvasena vacanasantatiyā avicchedena ca imasmimpi buddhuppāde taṃ ‘‘andhavana’’ntveva paññāyittha, uparūparivaḍḍhamānāya pathaviyā upari rukkhagacchādīsu sañjāyantesupīti. Sekkhapaṭipadanti sekkhabhāvāvahaṃ visuddhipaṭipattiṃ.

「施設の解明」とは、「盲人の森」としてのみ知られているものの解明である。「退く」とは、縮こまる、静かに動く。「朗詠者」とは、節をつけて唱える者。「あるものを受け取って」とは、今は探し求めるべき場所はなく、伝承された通りのあるものを受け取って。「強大な徳において」とは、過度の徳において。迦葉仏の時代に定着した呼称により、言葉の連続性が途切れないことによって、この仏の出現においてもそれは「盲人の森」としてのみ知られたのであり、次第に高くなる地面の上に樹木や低木等が生じる中においてもである。「有学の実践」とは、有学の状態をもたらす清浄の実践である。

Aññatara-saddo apākaṭe viya pākaṭepi vattati eka-saddena samānatthattāti dassetuṃ **‘‘abhijānātī’’**tiādi vuttaṃ. Bhayabheravadassitampi abhikkanta-saddassa atthuddhāraṃ idha dassento evaṃ heṭṭhā tattha tattha katā atthasaṃvaṇṇanā parato tasmiṃ tasmiṃ suttapadese yathārahaṃ vattabbāti nayadassanaṃ karoti. Kañcanasannibhattacatā suvaṇṇavaṇṇaggahaṇena gahitāti adhippāyenāha **‘‘chaviya’’**nti. Chavigatā pana vaṇṇadhātu eva ‘‘suvaṇṇavaṇṇo’’ti ettha vaṇṇaggahaṇena gahitāti apare. Vaṇṇīyati kittīyati ugghosananti vaṇṇo, thuti. Vaṇṇīyati asaṅkarato vavatthapīyatīti vaṇṇo, kulavaggo. Vaṇṇīyati phalaṃ etena yathāsabhāvato vibhāvīyatīti vaṇṇo, kāraṇaṃ. Vaṇṇanaṃ dīgharassādivasena saṇṭhahananti vaṇṇo, saṇṭhānaṃ. Vaṇṇīyati aṇumahantādivasena pamīyatīti vaṇṇo, pamāṇaṃ. Vaṇṇeti vikāramāpajjamānaṃ hadayaṅgatabhāvaṃ pakāsetīti vaṇṇo, rūpāyatanaṃ. Evaṃ tena tena pavattinimittena vaṇṇa-saddassa tasmiṃ tasmiṃ atthe pavatti veditabbā.

「ある(アニャタラ)」という語は、非顕著なものと同様に顕著なものにも使われる。「一つ(エーカ)」という語と同義であるからであることを示すために「了知する」等と言われた。恐怖経において示された「殊勝な(アビッカンタ)」という語の語義の抽出をここに示すにあたり、このように先立ってそこかしこでなされた意味の注釈は、後にもそれぞれの経文の個所において相応に語られるべきであるという手引きを示す。黄金のような皮膚の持ち主であることが「金色」の把握によって把握されたという意図をもって「肌において」と言われた。しかし肌に属する色彩の要素こそが「金色」のここでの色の把握によって把握されたと他の者たちは言う。称賛される、讃えられる、布告されるゆえに「容色(ヴァンナ)」であり、称賛である。分別される、混同なく規定されるゆえに「身分(ヴァンナ)」であり、種姓の区分である。これによって果があるがままに解明されるゆえに「原因(ヴァンナ)」である。長短などによって形作られる記述であるゆえに「形状(ヴァンナ)」であり、形態である。微細・広大などによって測られるゆえに「分量(ヴァンナ)」であり、尺度である。変化を被る心中の状態を表現するゆえに「色彩(ヴァンナ)」であり、色処である。このようにそれぞれの生起の原因によって「ヴァンナ」という語のそれぞれの意味における用法が知られるべきである。

Anavasesattaṃ sakalatā kevalatā. Kevalakappāti ettha keci īsaṃ asamattā kevalā kevalakappāti vadanti, evaṃ sati anavasesattho eva kevala-saddo siyā. Anatthantarena pana kappa-saddena padavaḍḍhanaṃ katvā kevalā eva kevalakappā. Tathā vā kappanīyattā paññapetabbattā kevalakappā. Yebhuyyatā bahulabhāvo. Abyāmissatā vijātiyena asaṅkaro suddhatā. Anatirekatā taṃmattatā visesābhāvo. Kevalakappanti kevalaṃ daḷhaṃ katvāti attho. Kevalaṃ vuccati nibbānaṃ sabbasaṅkhatavivittattā. Tenāha **‘‘visaṃyogādianekattho’’**ti. Kevalaṃ etassa adhigataṃ atthīti kevalī, sacchikatanirodho khīṇāsavo.

「無余性」とは全体性、完全性である。「完全なる(ケーヴァラカッパ)」において、ある者たちは、わずかに不完全なものが完全であり完全なるものであると言うが、そうであるなら完全という語は無余の意味にほかならないであろう。しかし意味の違いのない「カッパ」という語によって言葉を敷衍して、「完全」こそが「完全なるもの」である。あるいはそのように想定されるべきものであるから、規定されるべきものであるから「完全なるもの」である。「大多数性」とは多さのこと。「非混淆性」とは異種との無混同、純粋性である。「非超過性」とはそれだけであること、特別さの不在である。「完全なる」とは、完全に堅固にして、という意味である。「完全」とは涅槃を指す。一切の有為から離れているからである。それゆえに「離繋などの多くの意味を持つ」と言われた。「完全なものがこの者に到達されている」ゆえに完全者(ケーヴァリー)であり、滅を現証した漏尽者のことである。

Kappa-saddo panāyaṃ saupasaggo anupasaggo cāti adhippāyena okappanīyapade labbhamānaṃ okappasaddamattaṃ nidasseti, aññathā kappa-saddassa atthuddhāre okappanīyapadaṃ anidassanameva siyā. Samaṇakappehīti vinayasiddhehi samaṇavohārehi. Niccakappanti niccakālaṃ. Paññattīti nāmaṃ. Nāmañhetaṃ tassa āyasmato, yadidaṃ kappoti. Kappitakesamassūti kattarikāya cheditakesamassu. Dvaṅgulakappoti majjhanhikavelāya vītikkantāya dvaṅgulatāvikappo. Lesoti apadeso. Anavasesaṃ pharituṃ samatthassapi obhāsassa kenaci kāraṇena ekadesapharaṇampi siyā, ayaṃ pana sabbasova pharīti dassetuṃ samantattho kappa-saddo gahitoti āha **‘‘anavasesaṃ samantato’’**ti.

「カッパ(kappa)」という語は、接頭辞を伴う場合(saupasagga)と接頭辞を伴わない場合(anupasagga)の意図によって、「信解すべき語(okappanīyapada)」において見出される単なる「オカッパ(okappa:信解・帰投)」という語を示している。そうでなければ、「カッパ」という語の意味を抽出する際に、「信解すべき語」が例示されないことになってしまう。「沙門に相応しい作法によって(Samaṇakappehi)」とは、律によって成就された沙門の慣行・作法によってということである。「常に(Niccakappaṃ)」とは、常に・いつでもということである。「施設(Paññatti)」とは名前のことである。実に「カッパ」とは、その尊者の名前である。「調髪し剃髭した(Kappitakesamassu)」とは、鋏で切り整えた髪と髭のことである。「二指の規定(Dvaṅgulakappa)」とは、正午の時限を二指幅だけ過ぎたことに関する許容・規定である。「口実(Leso)」とは、名目のことである。完全に遍満する能力がある光明であっても、何らかの原因によって一部分だけの遍満となることもあるが、これは全体として遍満したことを示すために、あまねくという意味を持つ「カッパ」の語が用いられたのであり、それゆえに「**あますところなく、あまねく(anavasesaṃ samantato)**」と言われたのである。

Samaṇasaññāsamudācārenāti ‘‘ahaṃ samaṇo’’ti evaṃ uppannasaññāsamuṭṭhitena samudācārena, tannimittena vā tabbohārena. Pubbayogeti pubbayogakathāyaṃ. Papañco esāti eso tumhesu āgatesu yathāpavatto paṭisanthāro kathāsamudācāro ca amhākaṃ papañco. Ettakampi akatvā samaṇadhammameva karomāti adhippāyo.

「沙門の想の振る舞いによって(Samaṇasaññāsamudācārena)」とは、「私は沙門である」と生じた想から起こった立ち居振る舞いによって、あるいはそれを原因とする慣用表現によってということである。「過去の因縁において(Pubbayoge)」とは、過去の宿縁を語る話において。「これは戯論である(Papañco eso)」とは、あなた方が来られた時に行われたような歓迎の挨拶や世間話の応酬は、私たちの戯論(妨げ)であるということである。これっぽっちのこともしないで、沙門の法(修行)だけを行おうという趣旨である。

Ariyabhūmiṃ pattoti anāgāmiphalaṃ adhigato. Pakkusātikulaputtaṃ sandhāya vadati. Vibhajitvāti vibhāgaṃ katvā. Turitālapanavasenāti turitaṃ ālapanavasena. Tena dullabho ayaṃ samaṇo, tasmā sīghamassa pañho kathetabbo, iminā ca sīghaṃ gantvā satthā pucchitabboti turitaṃ ālapīti dasseti. **‘‘Yathā vā’’**tiādinā pana vacanālaṅkāravasena dvikkhattuṃ ālapati. Evamāhāti ‘‘bhikkhu bhikkhū’’ti evaṃ dvikkhattuṃ avoca.

「聖者の境地に達した(Ariyabhūmiṃ patto)」とは、不還果に達したということである。パックサーティ良家の子を指して言っている。「分別して(Vibhajitvā)」とは、区分を行って。「急いで語りかけることによって(Turitālapanavasena)」とは、速やかに呼びかけることによってである。それにより、この沙門に会うことは稀であり、それゆえに彼には速やかに問いを語るべきであり、彼も速やかに行って世尊にお尋ねすべきであるとして、急いで語りかけたことを示している。しかし「**あるいは〜のように(Yathā vā)**」以下では、言葉の修飾として二度呼びかけている。「このように言った(Evamāha)」とは、「比丘よ、比丘よ」とこのように二度言ったということである。

Vammikapariyāyena karajakāyaṃ paccakkhaṃ katvā dassentī devatā **‘‘ayaṃ vammiko’’**ti āha. Tāya pana bhāvatthassa abhāsitattā saddatthameva dassento **‘‘purato ṭhitaṃ…pe… ayanti āhā’’**ti avoca. Sesesupi eseva nayo. Maṇḍūkanti thalamaṇḍūkaṃ. So hi uddhumāyikāti vuccati, na udakamaṇḍūko. Tassa nivāsato vāto mā kho bādhayitthāti **‘‘uparivātato apagammā’’**ti vuttaṃ. Kathaṃ panāyaṃ devatā iminā nīhārena ime pañhe therassa ācikkhīti? Keci tāva āhu – yathāsutamatthaṃ upamābhāvena gahetvā attano paṭibhānena upameyyatthaṃ manasā cintetvā taṃ bhagavāva imassa ācikkhissati. Sā ca desanā atthāya hitāya sukhāya hotīti ‘‘ayaṃ vammiko’’tiādinā upamāvaseneva pannarasa pañhe therassa ācikkhi. Kassapasammāsambuddhakāle kira bārāṇasiyaṃ eko seṭṭhi aḍḍho mahaddhano mahantaṃ nidhānaṃ nidahitvā palighādiākārāni kānicipi laṅgāni tattha ṭhapesi. So maraṇakāle attano sahāyassa brāhmaṇassa ārocesi – ‘‘imasmiṃ ṭhāne mayā nidhānaṃ nidahitaṃ, taṃ mama puttassa viññutaṃ pattassa dassetī’’ti vatvā kālamakāsi. Brāhmaṇo sahāyakaputtassa viññutaṃ pattakāle taṃ ṭhānaṃ dassesi. So nikhanitvā sabbapacchā nāgaṃ passi, nāgo attano puttaṃ disvā ‘‘sukheneva dhanaṃ gaṇhatū’’ti apagacchi. Svāyamattho tadā loke pākaṭo jāto. Ayaṃ pana devatā tadā bārāṇasiyaṃ gahapatikule nibbattitvā viññutaṃ patto satthari parinibbute uraṃ datvā sāsane pabbajito pañcahi sahāyakabhikkhūhi saddhiṃ samaṇadhammamakāsi. Ye sandhāya vuttaṃ ‘‘pañca bhikkhū nisseṇiṃ bandhitvā’’tiādi. Tena vuttaṃ ‘‘yathāsutamatthaṃ upamābhāvena gahetvā’’tiādi. Apare pana ‘‘devatā attano paṭibhānena ime pañhe evaṃ abhisaṅkharitvā therassa ācikkhī’’ti vadanti. Devaputte nissakkaṃ devaputtapañhattā tassa atthassa.

蟻塚の比喩(Vammikapariyāyena)によって、生身の体を目前に示しながら、天子は「**この蟻塚(ayaṃ vammiko)**」と言った。しかし天子は状態としての意味を語らなかったため、語の意味そのものを示して「**前方に立っている…(中略)…これであると言った**」と述べた。その他の箇所でもこの方法が適用される。「蛙(Maṇḍūka)」とは、陸の蛙のことである。それはウッドゥマーイカー(膨らむもの)と呼ばれるのであり、水の蛙ではない。その住処からの風が妨げとならないように、「**風上から離れて(uparivātato apagammā)**」と言われた。では、なぜこの天子はこの方法でこれらの問いを長老に告げたのか。ある人々はまずこう言っている――「聞いた通りの意味を比喩として受け取り、自身の智慧のひらめきによって比喩されるべき意味を心で思索し、それを世尊がまさにこの長老に説き明かされるであろう。そしてその教えは利益と幸福と安楽のためになるであろう」と考え、「この蟻塚」などの比喩によって十五の問いを長老に告げたのであると。伝え聞くところによれば、迦葉正等覚者の時代、バーラーナシーに一人の裕福で大財産を持つ長者がおり、大きな財宝を埋蔵して、かんぬき等の形状をした何らかの標識をそこに置いた。彼は臨終の時、友人のバラモンに告げた。「この場所に私は財宝を埋蔵した。それを私の息子が分別のある分別盛りの年齢に達したなら示してやってほしい」と言って亡くなった。バラモンは友人の息子が成人した時にその場所を示した。息子が掘り起こすと、最後に龍(大蛇)を見た。龍は自分の息子(前世の息子)を見て、「安らかに財宝を取るがよい」と言って去った。その出来事は当時、世間で有名になった。この天子は当時、バーラーナシーの居士の家に生まれ、成人し、世尊(迦葉仏)が入滅されると身を捧げて教団に出家し、五人の仲間の比丘たちと共に沙門の法(修行)を修めた。それらの人々を指して「五人の比丘が梯子を架けて」などと言われたのである。それゆえに「聞いた通りの意味を比喩として受け取り」などと言われた。しかし他の人々は、「天子が自身のひらめきによってこれらの問いをこのように構成して長老に告げたのである」と言っている。天子自身による創作である。その意味が天子の命名・設定によるものだからである。

251. Catūhi mahābhūtehi nibbattoti cātumahābhūtiko. Tenāha **‘‘catumahābhūtamayassā’’**ti. Vamati uggiranto viya hotīti attho. Vantakoti ucchaḍḍako. Vantussayoti upacikāhi vantassa mattikāpiṇḍassa ussayabhūto. Vantasinehasambaddhoti vantena kheḷasinehena sampiṇḍito. Asucikalimalaṃ vamatīti ettha mukhādīhi pāṇakānaṃ niggamanato pāṇake vamatīti ayampi attho labbhateva. Ariyehi vantakoti kāyabhāvasāmaññena vuttaṃ. Dukkhasaccapariññāya vā sabbassapi tebhūmakadhammajātassa pariññātattā sabbopi kāyo ariyehi chandarāgappahānena vanto eva. Taṃ sabbanti yehi tīhi aṭṭhisatehi ussito, yehi nhārūhi sambaddho, yehi maṃsehi avalitto, yena allacammena pariyonaddho, yāya chaviyā rañjito, taṃ aṭṭhiādisabbaṃ accantameva jigucchitvā virattatāyavantameva. **‘‘Yathā cā’’**tiādinā vattabbopamatopi vammiko viya vammikoti imamatthaṃ dasseti.

251. 「四大種から生じた(Catūhi mahābhūtehi nibbatto)」とは、四大種から成るもの(四大所造)である。それゆえに「**四大種より成るものの(catumahābhūtamayassa)**」と言った。「吐き出す(Vamati)」とは、嘔吐しているかのようであるという意味である。「吐き出すもの(Vantako)」とは、排泄するもの。「吐き出されたものの集積(Vantussayo)」とは、白蟻によって吐き出された土の塊の集積である。「吐き出された粘液で結ばれた(Vantasinehasambaddo)」とは、吐き出された唾液の粘りによって固められたということである。「不浄の垢や汚れを吐き出す」という点について、ここでは口などから虫たちが出てくることから、虫を吐き出すという意味もまた確かに得られる。「聖者たちによって吐き出されたもの(Ariyehi vantako)」とは、肉体という存在の共通性によって言われている。あるいは苦聖諦の遍知によって、三界に属するすべての法が遍知されたがゆえに、一切の身体は聖者たちによって欲貪を捨断することによってまさに吐き出された(放棄された)のである。「そのすべてを」とは、三百の骨によって支えられ、腱によって結ばれ、肉によって塗られ、生皮によって覆われ、表皮によって彩られている、それら骨などのすべてを徹底的に嫌悪して、離貪した状態によってまさに吐き出された(放棄された)のである。「**そして〜のように(Yathā cā)**」以下によって、語られるべき比喩からも蟻塚のようなものであるから蟻塚であるという、この意味を示している。

Sambhavati etasmāti sambhavo, mātāpettiko sambhavo etassāti mātāpettikasambhavo. Tassa. Upaciyati etenāti upacayo’ odanakummāsaṃ upacayo etassāti odanakummāsūpacayo. Tassa. Adhuvasabhāvatāya aniccadhammassa, sedagūtha-pitta-semhādi-dhātukkhobha-garubhāvaduggandhānaṃ vinodanāya ucchādetabbadhammassa, parito sambāhanena parimadditabbadhammassa, khaṇe khaṇe bhijjanasabhāvatāya bhedanadhammassa, tato eva vikiraṇasabhāvatāya viddhaṃsanadhammassāti dhamma-saddo paccekaṃ yojetabbo. Tanuvilepanenāti kāyāvalepanena ucchādanavilepanena. Aṅgapaccaṅgābādhavinodanatthāyāti tādisasamuṭṭhāna-sarīravikāravigamāya. Yasmā sukkasoṇitaṃ āhāro, ucchādanaṃ parimaddanañca yathārahaṃ uppādassa, vuḍḍhiyā ca paccayo, tasmā āha **‘‘mātāpettika…pe… kathito’’**ti. Uccāvacabhāvoti yathārahaṃ yojetabbo – odanakummāsūpacaya-ucchādanaparimaddanaggahaṇehi uccabhāvo, vaḍḍhī. Mātāpettikasambhavaggahaṇena samudayo. Itarehi avacabhāvo, parihāni, atthaṅgamo pakāsito. Aṅgapaccaṅgānaṃ saṇṭhapanampi hi vaṭṭapaccayattā vaṭṭanti.

これより生じる(Sambhavati etasmā)ゆえに生起(sambhavo)であり、父母を原因とする生起を持つゆえに「父母を起源とするもの(mātāpettikasambhavo)」であり、その身体のことである。これによって増長する(Upaciyati etenā)ゆえに養育・増長(upacayo)であり、飯や粥によって増長するゆえに「飯粥によって養育されたもの(odanakummāsūpacayo)」であり、その身体のことである。不安定な性質であることによる「無常の法(aniccadhammassa)」、汗や糞尿・胆汁・粘液などの諸要素の乱れ、重苦しさ、悪臭を除去するために「香油を塗られるべき法(ucchādetabbadhammassa)」、周囲を揉みほぐすことによって「擦られるべき法(parimadditabbadhammassa)」、刹那刹那に壊れていく性質であることによる「破壊の法(bhedanadhammassa)」、それゆえに散り散りになる性質であることによる「散滅の法(viddhaṃsanadhammassa)」というように、「法(dhamma)」という語をそれぞれに結びつけて解釈すべきである。「身体に塗ることによって(Tanuvilepanena)」とは、体に塗布すること、すなわち香油を塗ることによってである。「手足や身体の諸部分の苦痛を除去するために(Aṅgapaccaṅgābādhavinodanatthāya)」とは、そうした原因から生じる身体の異常を消滅させるためである。精血が食物となり、香油を塗ることや揉みほぐすことがそれぞれ適切に発生と成長の条件となるがゆえに、「**父母の…(中略)…と説かれた**」と言ったのである。「高低・増減の状態(Uccāvacabhāvo)」とは、適切に結びつけられるべきである――飯粥による養育、香油を塗ること、揉みほぐすことの把握によって高い状態、すなわち増長が示される。父母を起源とすることの把握によって生起が示される。その他のものによって低い状態、衰退、滅尽が明らかにされている。手足の配置・保持もまた輪廻の条件であるため、輪廻(有為)なのである。

Kodho dhūmoti ettha dhūmapariyāyena kodhassa vuttattā dhūma-saddo kodhe vattatīti vuttaṃ **‘‘dhūmo viya dhūmo’’**ti. Bhasmanīti bhasmaṃ. Mosavajjanti musāvādo. Dhūmo eva dhūmāyitaṃ. Icchā dhūmāyitaṃ etissāti icchādhūmāyitā, pajā. Icchādhūmāyitasaddassa taṇhāya vutti vuttanayo eva. Dhūmāyantoti vitakkasantāpena saṃtappento, vitakkentoti attho. Palipoti dukkaramahākaddamaṃ. Timūlanti tīhi mūlehi patiṭṭhitaṃ viya acalaṃ pavattanti vuttaṃ. Rajo ca dhūmo ca mayā pakāsitāti rajasabhāvakaraṇaṭṭhena ‘‘rajo’’ti ca dhūmasabhāvakaraṇaṭṭhena ‘‘dhūmo’’ti ca mayā pakāsitā. Pakatidhūmo viya aggissa kilesaggijālassa paññāṇabhāvato. Dhammadesanādhūmo ñāṇaggisandhīpanassa pubbaṅgamabhāvato. Ayaṃ rattiṃ dhūmāyanāti yā divā kattabbakammante uddissa rattiyaṃ anuvitakkanā, ayaṃ rattiṃ dhūmāyanā.

「怒りは煙である」という点において、煙の同義語として怒りが説かれていることから、「煙」という語は怒りを意味しているとして「**煙のような煙(dhūmo viya dhūmo)**」と言われた。「灰の中に(Bhasmani)」とは、灰の中に。「虚偽の言葉(Mosavajjaṃ)」とは、妄語のことである。煙そのものが煙を立てること(dhūmāyitaṃ)である。「欲望がその煙を立てる原因である(Icchā dhūmāyitaṃ etissā)」ゆえに、欲望によって煙を立てるもの(icchādhūmāyitā)であり、それは人々のことである。「欲望によって煙を立てる」という語が渇愛を意味することは、すでに述べられた通りの方法である。「煙を立てている(Dhūmāyanto)」とは、尋(思考)の熱苦によって苦悩している、すなわち思い巡らしているという意味である。「泥沼(Palipo)」とは、渡り難い大泥沼のことである。「三つの根を持つ(Timūlaṃ)」とは、三つの根によって確立されているかのように不動に存在していると言われている。「塵と煙は私によって明らかにされた」とは、塵の性質をなすという意味で「塵」と、煙の性質をなすという意味で「煙」と、私によって明らかにされたということである。自然の煙が火の兆候であるように、煩悩の火の炎の兆候であることによる。法を説くことの煙は、智慧の火を燃え上がらせることに先行するものであることによる。「これが夜に煙を立てることである」とは、昼間に行うべき作業を目指して夜間にあれこれと思考すること、これが夜に煙を立てることである。

Sattannaṃ dhammānanti idaṃ sutte (cūḷani. mettagūmāṇavapucchāniddesa 28) āgatanayena vuttaṃ. Suttañca tathā ārādhanaveneyyajjhāsayavasena. Tadekaṭṭhatāya vā tadaññakilesānaṃ. Sundarapaññoti ñātatīraṇapahānapariññāya paññāya sundarapañño.

「七つの法(Sattannaṃ dhammānaṃ)」とは、これは経(小義釈・メッタグー学童所問釈 28)に現れる方法に従って説かれたものである。そしてその経もまた、化導されるべき人々の志向に適うことによる。あるいはそれらと同じ意味を持つことによって、それ以外の煩悩のことである。「優れた智慧を持つ者(Sundarapañño)」とは、知遍知・審察遍知・断遍知という遍知の智慧によって、優れた智慧を持つ者のことである。

Etanti ‘‘sattha’’nti etaṃ adhivacanaṃ saṃkilesadhammānaṃ sasanato samucchindanato. Nti vīriyaṃ. Paññāgatikameva paññāya hitasseva adhippetattā. Lokiyāya paññāya ārambhakāle lokiyavīriyaṃ gahetabbaṃ, lokuttarāya paññāya pavattikkhaṇe lokuttaravīriyaṃ gahetabbanti yojanā. Atthadīpanāti upameyyatthadīpanī upamā.

「これ(Etaṃ)」とは、「刀剣(sattha)」というこの言葉は、雑染の法を切り伏せること、断絶することからの表現である。「刀剣(Nti)」とは精進のことである。智慧に従うものに他ならない。智慧にとって有益なものだけが意図されているからである。世間的な智慧を始める時には世間的な精進を取るべきであり、出世間的な智慧が働く刹那には出世間的な精進を取るべきである、と解釈される。「意味の開示(Atthadīpanā)」とは、比喩されるべき意味を開示する比喩のことである。

Gāmatoti attano vasanagāmato. Manteti āthabbanamante. Te hi brāhmaṇā araññe eva vācenti ‘‘mā aññe assosu’’nti. Tathā akāsīti cattāro koṭṭhāse akāsi. Evamettha vammikapañhasseva vasena upamā āgatā, sesānaṃ vasena heṭṭhā vuttanayena veditabbā.

「村から(Gāmato)」とは、自分が住む村から。「呪文を(Mante)」とは、アタルヴァンの呪文を。それらのバラモンたちは「他人が聞いてはならない」として、まさに森林でのみ唱えさせるからである。「そのようにした(Tathā akāsi)」とは、四つの部分に分けたということである。このようにここでは蟻塚の問いに関してのみ比喩が示されたが、残りのものに関しては下に述べられた方法に従って理解されるべきである。

Laṅganaṭṭhena nivāraṇaṭṭhena laṅgī, paligho. Ñāṇamukheti vipassanāñāṇavīthiyaṃ. Patatīti pavattati. Kammaṭṭhānauggahaparipucchāvasenāti catusaccakammaṭṭhānassa uggaṇhanena tassa atthaparipucchāvasena ceva vipassanāsaṅkhāta-atthavinicchaya-paripucchāvasena ca. Sabbaso ñātuṃ icchā hi paripucchā. Vipassanā ca aniccādito sabbatebhūmakadhammānaṃ ñātuṃ icchati. Evaṃ vipassanāvasena avijjāpahānamāha, uparikattabbasabbhāvato na tāva maggavasena.

遮る(laṅgana)という意味、妨げる(nivāraṇa)という意味によって「かんぬき(laṅgī)」であり、障害(paligho)である。「智慧の入り口において(Ñāṇamukhe)」とは、ヴィパッサナーの智慧の過程において。「落ちる(Patati)」とは、生じるということである。「修行課題の習得と質問によって(Kammaṭṭhānauggahaparipucchāvasena)」とは、四聖諦の修行課題を習得することによって、その意味を質問することによって、またヴィパッサナーと呼ばれる意味の判定に関する質問によって、ということである。徹底的に知ろうと望むことこそが質問だからである。そしてヴィパッサナーは無常などからすべての三界の法を知ろうと望むのである。このようにヴィパッサナーの力による無明の捨断を説いたのであり、さらに上に行うべきことが存在するため、まだ聖道による捨断ではない。

Valliantare vāti -saddo paṃsuantare vā mattikantare vāti avuttavikappattho. Cittāvilamattakovāti cittakkhobhamattakova. Aniggahitoti paṭisaṅkhānabalena anivārito. Mukhavikulanaṃ mukhasaṅkoco. Hanusañcopanaṃ pāpeti antojappanāvatthāyaṃ. Disā vilokanaṃ pāpeti yattha bādhetabbo ṭhito, taṃdassanatthaṃ nivārakaparivāraṇatthaṃ. Daṇḍasatthābhinipātanti daṇḍasatthānaṃ parassa upari nipātanāvatthaṃ. Yena kodhena aniggahitena mātādikaṃ aghātetabbaṃ ugghātetvā ‘‘ayuttaṃ vata mayā kata’’nti attānampi hanati, taṃ sandhāyetaṃ vuttaṃ **‘‘paraghātanampi attaghātanampi pāpetī’’**ti. Yena vā parassa haññamānassa vasena ghātakopi ghātanaṃ pāpuṇāti, tādisassa vasenāyamattho veditabbo. Kodhasāmaññena hetaṃ vuttaṃ **‘‘paraṃ ghātetvā attānaṃ ghātetī’’**ti. Paramussadagatoti paramukkaṃsagato. Daḷhaṃ parissayamāvahatāya kodhova kodhūpāyāso. Tenāha **‘‘balavappatto’’**tiādi.

「蔓草の間において、あるいは(Valliantare vā)」の「あるいは(vā)」という語は、土の間において、あるいは粘土の間においてという、言及されていない選択肢の意味である。「単なる心の濁り(Cittāvilamattako vā)」とは、単なる心の動揺にすぎないことである。「制御されないもの(Aniggahito)」とは、如実な省察の力によって制止されていないことである。「顔の歪み」とは顔をしかめること。「顎を動かすこと」に至るのは、内面でぶつぶつと呟く段階においてである。「四方を睨み回すこと」に至るのは、害を加えるべき相手が立っている、それを見るためであり、邪魔する者たちを遠ざけるためである。「杖や刀剣を振り下ろすこと」とは、杖や刀剣を相手の上に打ち下ろす段階である。制御されない怒りによって、母などを殺害してはならないのに殺害し、「ああ、私は不当なことをしてしまった」と自分自身をも殺害するに至る、それを指して「**他人の殺害にも自分自身の殺害にも至らせる(paraghātanampi attaghātanampi pāpeti)**」と言われたのである。あるいは、他人が殺害されることによって殺害した者もまた死刑に至る、そのようなことによってこの意味は理解されるべきである。怒り一般について、「**他人を殺害させて、自分自身を殺害させる**」と言われたのである。「極度の上昇に至った(Paramussadagato)」とは、最高の激しさに達したということである。強い苦悩をもたらすことから、怒りそのものが怒りの激化(kodhūpāyāsa)である。それゆえに「**強力な力に達した(balavappatto)**」などと言ったのである。

Dvedhāpathasamā hoti appaṭipattihetubhāvato.

「二股の道に似ている(Dvedhāpathasamā)」とは、実践しないことの原因となる状態による。

Kusaladhammo na tiṭṭhati nīvaraṇehi nivāritaparamattā. Samathapubbaṅgamaṃ vipassanaṃ bhāvayato paṭhamaṃ samathena nīvaraṇavikkhambhanaṃ hoti, vipassanā pana tadaṅgavaseneva tāni nīharatīti vuttaṃ **‘‘vikkhambhanatadaṅgavasenā’’**ti.

「善法は留まらない」とは、蓋(障害)によって最高の意味が遮られているからである。止水(サマタ)を先導として内観(ヴィパッサナー)を修習する者には、まず止水によって蓋の抑止(鎮伏)があり、一方、内観は各部分の力によってそれらを取り除くのであり、それゆえに「**抑止と各部分の力によって(vikkhambhanatadaṅgavasenā)**」と言われたのである。

‘‘Kummova aṅgāni sake kapāle’’tiādīsu (saṃ. ni. 1.17) kummassa aṅgabhāvena visesato pādasīsāni eva vuccantīti āha **‘‘pañceva aṅgāni hontī’’**ti. Vipassanācārassa vuccamānattā adhikārato sammasanīyānameva dhammānaṃ idha gahaṇanti **‘‘sabbepi saṅkhatā dhammā’’**ti visesaṃ katvāva vuttaṃ. Tenāha bhagavā ‘‘pañcannetaṃ upādānakkhandhānaṃ adhivacana’’nti.

「亀が自らの甲羅の中に手足を(Kummova aṅgāni sake kapāle)」など(相応部 1.17)において、亀の手足としては特に四肢と頭部のみが言われるため、「**五つの部分だけとなる(pañceva aṅgāni honti)**」と言ったのである。ヴィパッサナーの実践領域が説かれているため、文脈から判断して、まさに観察・思惟されるべき法のみをここで把握するとして、「**すべての有為の法もまた(sabbepi saṅkhatā dhammā)**」と特定して述べられた。それゆえに世尊は「これは五取蘊の名称である」と言われたのである。

Sunanti koṭṭanti etthāti sūnā, adhikuṭṭananti āha **‘‘sūnāya uparī’’**ti. Asināti maṃsakantanena. Ghātiyamānāti haññamānā vibādhiyamānā. Vatthukāmānaṃ upari katvāti vatthukāmesu ṭhapetvā te accādhānaṃ katvā. Kantitāti chinditā. Koṭṭitāti bilaso vibhajitā. Chandarāgappahānanti chandarāgassa vikkhambhanappahānaṃ.

ここで刻み、叩く(Sunanti koṭṭanti ettha)ゆえに「屠殺台(sūnā)」であり、まな板(adhikuṭṭana)のことであるとして、「**屠殺台の上に(sūnāya uparī)**」と言った。「刀によって(Asinā)」とは、肉を切る刃物によって。「殺される(Ghātiyamānā)」とは、打たれ、苦しめられることである。「諸々の欲の対象の上に置いて(Vatthukāmānaṃ upari katvā)」とは、欲の対象の上に配置して、それらを重ね合わせて。「切り刻まれた(Kantitā)」とは、切断された。「細かく叩かれた(Koṭṭitā)」とは、部分ごとに切り分けられた。「欲貪の捨断(Chandarāgappahānaṃ)」とは、欲貪の抑止による捨断のことである。

Sammattāti mucchitā sammūḷhā. Nandīrāgaṃ upagamma vaṭṭaṃ vaḍḍhentīti sammūḷhattā evaādīnavaṃ apassantā nandīrāgassa ārammaṇaṃ upagantvā taṃ paribrūhenti. Nandīrāgabaddhāti nandīrāge laggattā tena baddhā. Vaṭṭe laggantīti tebhūmake vaṭṭe sajjanti. Tattha sajjattā eva dukkhaṃ patvāpi na ukkaṇṭhanti na nibbindanti. Idha anavasesappahānaṃ adhippetanti āha **‘‘catutthamaggena nandīrāgappahānaṃ kathita’’**nti.

「酔いしれた(Sammattā)」とは、気を失い、完全に惑わされた。「喜貪に近づいて輪廻を増大させる」とは、完全に惑わされているがゆえに過失を見ず、喜貪の対象に近づいてそれを増大させるということである。「喜貪に縛られた(Nandīrāgabaddhā)」とは、喜貪に執着しているがゆえに、それによって縛られたということである。「輪廻に執着する(Vaṭṭe lagganti)」とは、三界の輪廻に固執することである。そこに固執しているがゆえに、苦しみに遭っても嫌悪せず、厭離しない。ここでは完全な捨断が意図されているとして、「**第四の道(阿羅漢道)によって喜貪の捨断が説かれた(catutthamaggena nandīrāgappahānaṃ kathitaṃ)**」と言ったのである。

Anaṅgaṇasutte (ma. ni. aṭṭha. 1.63) pakāsito eva ‘‘chandādīhi na gacchantī’’tiādinā. **‘‘Buddho so bhagavā’’**tiādi ‘‘namo karohī’’ti (ma. ni. 1.249, 251) vuttanamakkārassa karaṇākāradassanaṃ. Bodhāyāti catusaccasambodhāya. Tathā damathasamathataraṇaparinibbānāni ariyamaggavasena veditabbāni. Samathaparinibbānāni pana anupādisesavasenapi yojetabbāni. Kammaṭṭhānaṃ ahosīti vipassanākammaṭṭhānaṃ ahosi. Etassa pañhassāti etassa pannarasamassa pañhassa attho. Evaṃ itaresupi vattabbaṃ vipassanākammaṭṭhānaṃ khīṇāsavaguṇehi matthakaṃ pāpento yathānusandhināva desanaṃ niṭṭhapesi, na pucchitānusandhināti adhippāyo. Nanu ca pucchāvasenāyaṃ desanā āraddhāti? Saccaṃ āraddhā, evaṃ pana ‘‘pucchāvasiko nikkhepo’’ti vattabbaṃ, na ‘‘pucchānusandhivasena niṭṭhapitā’’ti. Antarapucchāvasena desanāya aparivattitattā ārambhānurūpameva pana desanā niṭṭhapitā.

無穢経(中阿含注釈 1.63)において、「欲などによって行かない」などの言葉で明らかにされている。「**その世尊は覚者であり(Buddho so bhagavā)**」以下は、「礼拝をなしなさい」と言われた礼拝の行い方を示すものである。「覚りのために(Bodhāya)」とは、四聖諦の完全な覚りのためにである。同様に、調御・寂静・渡脱・完全なる涅槃も、聖道によって理解されるべきである。しかし寂静と完全なる涅槃は、無余涅槃によっても結びつけられるべきである。「修行課題となった(Kammaṭṭhānaṃ ahosi)」とは、ヴィパッサナーの修行課題となったということである。「この問いの(Etassa pañhassa)」とは、この第十五の問いの意味である。このように他の問いについても語られるべきヴィパッサナーの修行課題を漏尽者(阿羅漢)の徳によって頂点に導きながら、適切な文脈に従って教えを締めくくったのであり、質問された文脈のままに締めくくったのではない、というのが趣旨である。「しかし、この説法は質問を動機として始められたのではないか」と言うかもしれない。確かに始められたのは事実であるが、その場合は「質問を動機とする提示である」と言うべきであって、「質問の文脈に従って締めくくられた」と言ってはならない。中間の問いの順序によって教えが変更されなかったため、発端にふさわしい形で教えは締めくくられたのである。

Vammikasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

蟻塚経の注釈における隠された意味の開示は完了した。

4. Rathavinītasuttavaṇṇanā

4. 伝車経の解説

252. Mahāgovindena pariggahitatākittanaṃ tadā magadharājena pariggahitūpalakkhaṇaṃ. Tassa hi so purohito. Mahāgovindoti purātano eko magadharājāti keci. Gayhatīti gaho, rājūnaṃ gaho rājagahaṃ. Nagara-saddāpekkhāya napuṃsakaniddeso. Aññepettha pakāreti rājūhi disvā sammā patiṭṭhāpitattā tesaṃ gahaṃ gehabhūtantipi rājagahaṃ. Ārakkhasampattiādinā anatthuppattihetutāya upagatānaṃ paṭirājūnaṃ gahaṃ gahabhūtantipi rājagahaṃ, ārāmarāmaṇīyakādīhi rājate, nivāsasukhatādinā sattehi mamattavasena gayhati, pariggayhatīti vā rājagahanti evamādike pakāre. Buddhakāle ca cakkavattikāle cāti idaṃ yebhuyyavasena vuttaṃ. Veḷūhi parikkhittaṃ ahosi, na pana kevalaṃ kaṭṭhakapavanameva. Rañño uyyānakāle patiṭṭhāpitaaṭṭālakavasena aṭṭālakayuttaṃ.

252. 大典尊(マハーゴーヴィンダ)によって領有されたことの言及は、当時のマガダ王によって領有されていたことの暗示である。実に彼はその王の国師(バラモン)であったからである。「大典尊とは、昔のあるマガダ王である」とある人々は言う。掌握される(Gayhati)ゆえに「掌握(gaho)」であり、諸王の掌握・領有した場所が王舎城(Rājagaha)である。「都市(nagara)」という中性名詞を考慮した中性形での指示である。「その他の点においても」とは、諸王によって見出され正しく建設されたがゆえに、彼らの館(居城)となった場所もまた王舎城である。堅固な防備などによって不利な事態が生じる原因となるため、近づいてきた敵対する王たちを捕らえる場所(gahabhūta)となったことも王舎城である。園林の美しさなどによって輝き(rājate)、居住の快適さなどによって生きとし生けるものから愛着の対象として掌握され、領有される(pariggayhati)がゆえに王舎城である、などの諸点においてである。「仏陀の時代にも転輪聖王の時代にも」とは、概ねの傾向として述べられたものである。竹林によって囲まれていたのであり、単なる柴の林だけであったわけではない。王の遊覧の時代に築かれた高楼の存在によって、高楼を備えたものとなった。

Jananaṃ jāti, jātiyā bhūmi jātibhūmaṃ, jāyi vā mahābodhisatto etthābhi jāti, sā eva bhūmīti jātibhūmaṃ, sā imesaṃ nivāsoti jātibhūmakāti āha **‘‘jātibhūmakāti jātibhūmivāsino’’**ti. Kassa panāyaṃ jātibhūmīti āha **‘‘taṃ kho panā’’**tiādi. Tena anaññasādhāraṇāya jātiyā adhippetattā sadevake loke supākaṭabhāvato visesanena vināpi visiṭṭhavisayova idha jāti-saddo viññāyatīti dasseti. Tenāha **‘‘sabbaññubodhisattassa jātaṭṭhānasākiyajanapado’’**ti. Tatthapi kapilavatthusannissayo padesoti āha **‘‘kapilavatthāhāro’’**ti.

生まれることが誕生(jāti)であり、誕生の土地が「生誕地(jātibhūmaṃ)」である。あるいは大菩薩がここで生まれたゆえに誕生であり、それそのものが土地であるから生誕地であり、それがこれらの人々の住処であるゆえに「生誕地の人々(jātibhūmakā)」であるとして、「**生誕地の人々とは生誕地に住む人々である**」と言った。「では、これは誰の生誕地なのか」について、「**実にその…**」以下を述べた。それによって、他と共有されない特別な誕生が意図されているため、神々を含む世界において極めて明白であることから、特別な修飾語がなくても際立った対象のみがここで「誕生(jāti)」という語によって理解されることを示している。それゆえに「**一切知の大菩薩の生誕地である釈迦の国土**」と言ったのである。そこでもカピラヴァットゥに依拠した地域であるとして、「**カピラヴァットゥ領(kapilavatthāhāro)**」と言った。

Garudhammabhāvavaṇṇanā

正法を敬重する状態の解説

Sākiyamaṇḍalassāti sākiyarājasamūhassa. Dasannaṃ appicchakathādīnaṃ vatthu dasakathāvatthu, appicchatādi. Tattha suppatiṭṭhitatāya tassa lābhī dasakathāvatthulābhī. Tatthāti dasakathāvatthusmiṃ.

「釈迦族の集まりの(Sākiyamaṇḍalassa)」とは、釈迦族の諸王の集まりの。「少欲の説などの十の対象」が十の話頭(十の語るべき事柄)であり、少欲などである。そこに堅固に確立されていることによって、それを獲得した者が「十の話頭を獲得した者」である。「そこにおいて(Tattha)」とは、十の話頭において。

Garukaraṇīyatāya dhammo garu etassāti dhammagaru, tassa bhāvo dhammagarutā, tāya. **‘‘Ajjhāsayena veditabbo’’**ti vatvā na kevalaṃ ajjhāsayeneva, atha kho kāyavacīpayogehipi veditabboti dassento **‘‘dhammagarutāyeva hī’’**tiādimāha. Tiyāmarattiṃ dhammakathaṃ katvāti ettha ‘‘kumbhakārassa nivesane tiyāmarattiṃ vasanto dhammakathaṃ katvā’’ti evaṃ vacanasesavasena attho veditabbo. Aññathā yathālābhavasena atthe gayhamāne tiyāmarattiṃ dhammakathā katāti āpajjati, na ca taṃ atthi. Vakkhati hi ‘‘bahudeva rattinti diyaḍḍhayāmamatta’’nti. Dasabalādiguṇavisesā viya dhammagāravahetukā parahitapaṭipattipi sabbabuddhānaṃ majjhe bhinnasuvaṇṇaṃ viya sadisā evāti imassa bhagavato dhammagāravakittane **‘‘kassapopi bhagavā’’**tiādinā kassapabhagavato dhammagāravaṃ dasseti.

敬重されるべきものとしての法(dhammo)を重んじる(garu)者であるゆえに「法を重んじる者(dhammagaru)」であり、その状態が「法を重んじること(dhammagarutā)」であり、それによって。「**志向によって知られるべきである**」と述べて、単に志向だけでなく、まさに身と口の働きによっても知られるべきであることを示して、「**実に法を重んじることによってこそ**」以下を述べた。「三交代の夜を通じて法話をなして」という点について、ここでは「陶師の家で三交代の夜を過ごしながら法話をなして」と、このように省略された言葉を補うことによって意味が理解されるべきである。そうでなければ、得られた言葉のままに意味を受け取ると、三交代の夜すべてを使って法話がなされたということになってしまうが、そうではない。「夜の大部分(bahudeva rattiṃ)とは、一交代半(約四時間半)ほどである」と後で述べるからである。十力などの特別な徳と同様に、法への恭敬を原因とする利他の実践もまた、一切の仏陀たちの間で純金のように等しいものであることを、この世尊の法への恭敬を称賛するにあたり、「**迦葉仏もまた**」以下によって迦葉世尊の法への恭敬を示している。

Cārikaṃ nikkhamīti janapadacārikaṃ carituṃ nikkhami. Janapadacārikāya akāle nikkhantattā kosalarājādayo vāretuṃ ārabhiṃsu. Pavāretvā hi caraṇaṃ buddhāciṇṇaṃ. Puṇṇāya sammāpaṭipattiṃ paccāsīsanto bhagavā **‘‘kiṃ me karissasī’’**ti āha.

「遊行に出発した(Cārikaṃ nikkhami)」とは、地方への遊行を行うために出発した。地方への遊行にふさわしくない時期に出発したため、コーサラ王たちは引き止めようとし始めた。自恣(雨安居の終わりの儀式)を済ませてから巡歴するのが仏陀たちの慣行だからである。プンナ長老の正しい実践を期待しながら、世尊は「**私に何をしてくれるというのか**」と言われた。

Anahātovāti dhammasavanussukkena sāyanhe buddhāciṇṇaṃ nhānaṃ akatvāva. Attahitaparahitapaṭipattīsu ekissā dvinnañca atthitāsiddhā catubbidhatā paṭipattikatā eva nāma hotīti vuttaṃ **‘‘paṭipannako ca nāma…pe… catubbidho hotī’’**ti. Paṭikkhepapubbakopi hi paṭipanno atthato paṭipannattho evāti. Kāmaṃ attahitāya paṭipanno tāya sammāpaṭipattiyā sāsanaṃ sobhati, na pana sāsanaṃ vaḍḍheti appossukkabhāvato, na ca kāruṇikassa bhagavato sabbathā manorathaṃ pūreti. Tathā hi bhagavā paṭhamabodhiyaṃ ekasaṭṭhiyā ca arahantesu jātesu – ‘‘caratha, bhikkhave, bahujanahitāyā’’tiādinā (dī. ni. 2.86-88; mahāva. 32) bhikkhū parahitapaṭipattiyaṃ niyojesi. Tena vuttaṃ **‘‘evarūpaṃ bhikkhuṃ bhagavā na pucchati, kasmā? Na mayhaṃ sāsanassa vuḍḍhipakkhe ṭhito’’**ti.

「沐浴もせずに(Anahātovā)」とは、法の聴聞に熱心であったため、夕方に仏陀の慣行である沐浴をせずに行かれた。「自利と利他の実践において、一方のみ、あるいは双方の実践が存在することによって成り立つ四種の実践は、まさに実践者によってなされたものと呼ばれる」として、「**実践者とは…(中略)…四種である**」と言われた。拒絶を前提とする実践者であっても、実質的には実践した者という意味だからである。確かに、自利のために実践する者はその正しい実践によって教えを輝かせるが、関心を持たない(自分だけの)状態であるため教えを増大させることはなく、慈悲深き世尊の願いを完全に満たすこともない。事実、世尊は初転法輪の時期に六十一人の阿羅漢が生じた時、「比丘たちよ、多くの人々の利益のために遍歴せよ」など(長部 2.86-88、大品 32)と、比丘たちを利他の実践へと導かれた。それゆえに「**このような比丘を世尊はお尋ねにならない。なぜなら、私の教えの増大の側に立っていないからである**」と言われたのである。

Samudāyo appakena ūnopi anūno viya hotīti bākulattheraṃ catuttharāsito bahi katvāpi **‘‘asītimahātherā viyā’’**ti vuttaṃ. Asītimahātherasamaññā vā avayavepi aṭṭhasamāpattisāmaññā viya daṭṭhabbā. Īdise ṭhāne bahūnaṃ ekato kathanaṃ mahatā kaṇṭhena ca kathanaṃ satthu cittārādhanamevāti tehi bhikkhūhi tathā paṭipannanti dassento **‘‘te bhikkhū meghasaddaṃ sutvā’’**tiādimāha. Guṇasambhāvanāyāti vakkhamānaguṇahetukāya sambhāvanāya sambhāvito, na yena kenaci kiccasamatthatādinā.

全体はごくわずかに欠けていても欠けていないかのようであるとして、バークラ長老を第四の集団から除外しても「**八十人の大長老たちのように(asītimahātherā viyā)**」と言われた。あるいは八十人の大長老という総称は、一部分であっても八等至(八定)の総称のように見なされるべきである。このような場面において、多くの者が一斉に語ること、そして大声で語ることは世尊の御心に適うことであるとして、それらの比丘たちがそのように行動したことを示し、「**それらの比丘たちは雷鳴を聞いて**」以下を述べた。「徳への称賛によって(Guṇasambhāvanāya)」とは、後述される徳を原因とする称賛によって称えられたのであり、何らかの用務の有能さなどによるのではない。

Garudhammabhāvavaṇṇanā niṭṭhitā.

正法を敬重する状態の解説は終了した。

Appicchatādivaṇṇanā

少欲などの解説

Appa-saddassa parittapariyāyataṃ manasi katvā āha **‘‘byañjanaṃ sāvasesaṃ viyā’’**ti. Tenāha **‘‘na hi tassā’’**tiādi. Appa-saddo panettha abhāvatthoti sakkā viññātuṃ ‘‘appābādhatañca sañjānāmī’’tiādīsu (ma. ni. 1.225; 2.134) viya.

「わずかな(appa)」という語が微小の同義語であることを念頭に置いて、「**残り物のおかずのように(byañjanaṃ sāvasesaṃ viyā)**」と言った。それゆえに「**彼には…ない**」などと言った。しかしここでの「わずかな」という語は、「病がわずかであることを覚知する」など(中部 1.225; 2.134)のように、無(存在しないこと)の意味であると知ることができる。

Atricchatā nāma (a. ni. ṭī. 1.1.63) atra atra icchāti katvā. Asantaguṇasambhāvanatāti attani avijjamānaṃ guṇānaṃ vijjamānānaṃ viya paresaṃ pakāsanā. Saddhoti maṃ jano jānātūti vattapaṭipattikārakavisesalābhīti jānātu ‘‘vattapaṭipattiāpāthakajjhāyitā’’ti evamādinā. Santaguṇasambhāvanāti icchācāre ṭhatvā attani vijjamānasīladhutadhammādiguṇavibhāvanā. Tādisassa hi paṭiggahaṇe amattaññutāpi hoti.

「大欲(Atricchatā)」とは、あれにもこれにも欲望を持つことである。「存在しない徳の誇示(Asantaguṇasambhāvanatā)」とは、自身に存在しない徳を存在するかのように他人に開示することである。「信者であると人々が私を知ってほしい」とは、作法や実践をなす特別な境地を得た者であると知ってほしいということであり、「作法や実践の対象に専念する禅定者」などと知られることである。「存在する徳の誇示(Santaguṇasambhāvanā)」とは、欲望の振る舞いに留まりながら、自身に存在する戒や頭陀行などの徳を顕示することである。そのような者には受納にあたって限度を知らないこと(無節量)も生じる。

Gaṇhantoyeva ummujji aññesaṃ ajānantānaṃyevāti adhippāyo.

受け取りながら水面に現れたのは、他の人々が気づかないうちにであった、というのが趣旨である。

Appicchatāpadhānaṃ puggalādhiṭṭhānena catubbidhaṃ icchāpabhedaṃ dassetvā punapi puggalādhiṭṭhānena catubbidhaṃ icchāpabhedaṃ dassento ‘‘aparopi catubbidho **appiccho’’**tiādimāha. Dāyakassa vasanti dāyakassa cittavasaṃ. Deyyadhammassa vasanti deyyadhammassa appabahubhāvaṃ. Attano thāmanti attano yāpanamattakathāmaṃ.

少欲を第一とする人物に基づいた四種の欲望の区分を示した上で、さらにまた人物に基づいた四種の欲望の区分を示して、「**別の四種の少欲者(aparopi catubbidho appiccho)**」以下を述べた。「施主の意図(Dāyakassa vasaṃ)」とは、施主の心の意図。「布施の品の状況(Deyyadhammassa vasaṃ)」とは、布施の品の多少の状態。「自身の能力(Attano thāmaṃ)」とは、自分自身の生命を維持するだけの能力。

Ekabhikkhupi na aññāsi sosānikavatte sammadeva vuttittā. Abbokiṇṇanti avicchedaṃ. Dutiyo maṃ na jāneyyāti dutiyo sahāyabhūtopi yathā maṃ jānituṃ na sakkuṇeyya, tathā saṭṭhi vassāni nirantaraṃ susāne vasāmi, tasmā ahaṃ aho sosānikuttamo.

「一人の比丘も気づかなかった」とは、塚間住の作法を極めて正しく実践していたからである。「間断なく(Abbokiṇṇaṃ)」とは、途切れることなく。「第二の者が私を知らないように」とは、第二の仲間となる者であっても私を知ることができないように、そのように六十年の間絶え間なく墓地に住んでいる、それゆえに私はああ、最高の塚間住者である、ということである。

Dhammakathāya janataṃ khobhetvāti lomahaṃsanasādhukāradānacelukkhepādivasena sannipatitaṃ itarañca ‘‘kathaṃ nu kho ayyassa santikeva dhammaṃ sossāmā’’ti kolāhalavasena mahājanaṃ khobhetvā. Gatoti ‘‘ayaṃ so, tena rattiyaṃ dhammakathā katā’’ti jānanabhayena pariyattiappicchatāya pariveṇaṃ gato.

「法話によって人々を感動させて(Dhammakathāya janataṃ khobhetvā)」とは、身の毛もよだつほどの感動や歓喜の賛嘆、衣を投げることなどによって集まった人々やその他の人々を、「どうすれば尊者の御前で法を聞くことができるだろうか」という騒然たる熱狂によって群衆を感動させて、ということである。「立ち去った(Gato)」とは、「この人こそが、夜に法話をした人だ」と知られることを恐れ、教理(学識)における少欲のゆえに自室へ去った。

Tayo kulaputtā viyāti pācīnavaṃsadāye samaggavāsaṃ vutthā tayo kulaputtā viya. Pahāyāti pubbabhāge tadaṅgādivasena pacchā aggamaggeneva pajahitvā.

「三人の良家の子のように(Tayo kulaputtā viyā)」とは、東竹林園において和合して暮らしていた三人の良家の子(アヌルッダ、ナンディヤ、キンビラ)のように。「捨断して(Pahāya)」とは、前段階においては部分的な捨断などによって、後には最高の道(阿羅漢道)によって完全に捨断して。

Appicchatādivaṇṇanā niṭṭhitā.

少欲などの解説は終了した。

Dvādasavidhasantosavaṇṇanā

十二種の知足の解説

Pakatidubbalādīnaṃ garucīvarādīni naphāsubhāvāvahāni sarīrakhedāvahāni ca hontīti payojanavasena naatricchatādivasena tāni parivattetvā lahukacīvaraparibhogo na santosavirodhīti āha **‘‘lahukena yāpentopi santuṭṭhova hotī’’**ti. Mahagghacīvaraṃ, bahūni vā cīvarāni labhitvāpi tāni vissajjetvā tadaññassa gahaṇaṃ yathāsāruppanaye ṭhitattā na santosavirodhīti āha **‘‘tesaṃ…pe… dhārentopi santuṭṭhova hotī’’**ti. Evaṃ sesapaccayesupi yathābalayathāsāruppasantosaniddesesu apisaddaggahaṇe adhippāyo veditabbo. Yathāsāruppasantosoyeva aggo alobhajjhāsayassa ukkaṃsanato.

生まれつき虚弱な者たちなどにとって、重い衣などは不快さをもたらし身体の疲労をもたらすものであるため、必要性に基づいて、大欲などのためではなくそれらを交換して軽い衣を受用することは知足に反しないとして、「**軽いもので過ごす者もまた知足の者である**」と言った。高価な衣や多くの衣を得ても、それらを手放して他の(質素な)衣を受け取ることは、適正さに従った方法に立脚しているため知足に反しないとして、「**それらの…(中略)…身につけている者もまた知足の者である**」と言った。このように残りの資具においても、能力に応じた知足や適正さに応じた知足の解説において、「〜もまた(api)」という語の把握における趣旨が理解されるべきである。適正さに応じた知足こそが最高である。無貪の志向を高めるからである。

Dvādasavidhasantosavaṇṇanā niṭṭhitā.

十二種の知足の解説は終了した。

Tividhapavivekavaṇṇanā

三種の遠離の解説

Ekoti ekākī. Gacchatīti cuṇṇikairiyāpathavasena vuttaṃ. Caratīti vihārato bahi sañcāravasena, viharatīti divāvihārādivasena. Kāyavivekoti ca nekkhammādhimuttassa bhāvanānuyogavasena vivekaṭṭhakāyatā, na jhānavivekamattaṃ. Tenāha **‘‘nekkhammābhiratāna’’**nti. Parisuddhacittānanti nīvaraṇādisaṃkilesato visuddhacittānaṃ. Paramavodānappattānanti vitakkāditaṃtaṃjhānapaṭipakkhavigamena paramaṃ uttamaṃ vodānaṃ pattānaṃ. Nirupadhīnanti kilesupadhiādīnaṃ vigamena nirupadhīnaṃ.

「一人で(Eko)」とは、独りきりで。「行く(Gacchati)」とは、歩行などの細かな所作に基づいて言われている。「歩行する(Carati)」とは、寺院の外を巡歴することに基づき、「住まう(Viharati)」とは、昼間の滞在などに基づく。「身の遠離(Kāyaviveko)」とは、出離に専念する者の修習の専心による遠離に留まる身体の状態であり、単なる禅定の遠離だけではない。それゆえに「**出離を歓喜する者たちの(nekkhammābhiratānaṃ)**」と言った。「清浄なる心を持つ者たちの(Parisuddhacittānaṃ)」とは、蓋などの雑染から清浄になった心を持つ者たちの。「最高の清白に達した者たちの(Paramavodānappattānaṃ)」とは、尋などの個々の禅定の対治すべきものの消滅によって最高の優れた清白に達した者たちの。「執着の基盤なき者たちの(Nirupadhīnaṃ)」とは、煩悩の基盤などの消滅によって執着の基盤がなくなった者たちの。

Tividhapavivekavaṇṇanā niṭṭhitā.

三種の遠離の解説は終了した。

Pañcavidhasaṃsaggavaṇṇanā

五種の交わりの解説

Saṃsīdati etenāti saṃsaggo, rāgo. Savanahetuko, savanavasena vā pavatto saṃsaggo savanasaṃsaggo. Esa nayo sesesupi. Kāyasaṃsaggo pana kāyaparāmāso. Itthī vāti vadhū, yuvatī vā. Sandhānetunti pubbenāparaṃ ghaṭetuṃ. Sotaviññāṇavīthivasenāti idaṃ mūlabhūtaṃ savanaṃ sandhāya vuttaṃ, tassa piṭṭhivattakamanodvārikajavanavīthīsu uppannopi rāgo savanasaṃsaggoyeva. Dassanasaṃsaggepi eseva nayo. Anitthigandhabodhisatto parehi kathiyamānavasena pavattasavanasaṃsaggassa nidassanaṃ. Tissadaharo attanā suyyamānavasena. Tattha paṭhamaṃ jātake veditabbanti itaraṃ dassento **‘‘daharo kirā’’**tiādimāha. Kāmarāgena viddhoti rāgasallena hadaye appito anto anuviddho.

これによって沈滞する(Saṃsīdati etenā)ゆえに「交わり(saṃsaggo)」であり、貪愛のことである。聴聞を原因とし、あるいは聴聞によって生じた交わりが「聴聞による交わり」である。この方法は残りのものにおいても同様である。しかし「身体の交わり」とは身体の接触のことである。「女性であれ(Itthī vā)」とは、人妻であれ若い娘であれ。「連続させるために(Sandhānetuṃ)」とは、前後の文脈を結合させるために。「耳の識の過程によって(Sotaviññāṇavīthivasenā)」とは、根本となった聴聞を指して言ったものであり、その後に続く意の扉の速行の過程において生じた貪愛もまた、聴聞による交わりに他ならない。見ることによる交わりにおいてもこの方法は同じである。「女の匂いなき者」と呼ばれた大菩薩は、他者によって語られることを通じて生じた聴聞による交わりの実例である。ティッサ年少比丘は、自身によって聞くことを通じての実例である。そのうち最初のものは本生譚において知られるべきであるとして、もう一方を示して「**年少比丘は実に…**」以下を述べた。「欲貪に射られた(Kāmarāgena viddho)」とは、貪愛の矢によって心臓を射抜かれ、内部まで貫かれたということである。

Soti dassanasaṃsaggo. Evaṃ veditabboti vatthuvasena pākaṭaṃ karoti. Tasmiṃ kira gāme yebhuyyena itthiyo abhirūpā dassanīyā pāsādikā, tasmā thero **‘‘sace antogāme na carissasī’’**ti āha. Kālasseva paviṭṭhattā yāguṃ adāsi, tasmā yāgumeva gahetvā gacchantaṃ ‘‘nivattatha, bhante, bhikkhaṃ gaṇhāhī’’ti āhaṃsu. Yācitvāti ‘‘na mayaṃ, bhante, bhikkhaṃ dātukāmā nivattema, apica idaṃ bhante kāraṇa’’nti yācitvā.

「それ(So)」とは、見ることによる交わりである。「このように知られるべきである」とは、事例によって明白にするものである。伝え聞くところによれば、その村では概ね女性たちが美しく見目麗しく魅力的であったため、長老は「**もし村の中に入らないのであれば**」と言ったのである。早い時間に村に入ったため粥を与えられ、それゆえに粥だけを受け取って立ち去る長老に、「尊者よ、戻ってください、食事の施しをお受け取りください」と言った。「懇願して(Yācitvā)」とは、「尊者よ、私たちは食事を与えたくなくて引き止めるのではありません、しかし尊者よ、これこれの理由があるのです」と懇願して。

Ādito lapanaṃ ālāpo, vacanapaṭivacanavasena pavatto lāpo sallāpo. Bhikkhuniyāti idaṃ nidassanamattaṃ. Yāya kāyacipi itthiyā santakaparibhogavasena uppannarāgopi sambhogasaṃsaggova.

最初からの語りかけが「発話(ālāpo)」であり、言葉と返答のやりとりによって生じる語らいが「談話(sallāpo)」である。「比丘尼の(Bhikkhuniyā)」とは、これは単なる例示にすぎない。いかなる女性であれ、その所有物を受用することによって生じる貪愛もまた、受用による交わりに他ならない。

Pañcavidhasaṃsaggavaṇṇanā niṭṭhitā.

五種の交わりの解説は終了した。

Gāhagāhakādivaṇṇanā

受容者・被受容者などの解説

Bhikkhuno bhikkhūhi kāyaparāmāso kāyasambāhanādivasena. Kāyasaṃsagganti kāyaparāmāsasaṃsaggaṃ. Gāhagāhakoti gaṇhanakānaṃ gaṇhanakoti attho. Gāhamuttakoti ayoniso āmisehi saṅgaṇhanakehi sayaṃ muccanako. Muttagāhakoti yathāvuttasaṅgahato muttānaṃ saṅgaṇhanako. Muttamuttakoti muccanakehi sayampi muccanako. Gahaṇavasena saṅgaṇhanavasena. Upasaṅkamanti tato kiñci lokāmisaṃ paccāsīsantā, na dakkhiṇeyyavasena. Bhikkhupakkhe gahaṇavasenāti paccayalābhāya saṅgaṇhanavasenāti yojetabbaṃ. Vuttanayenāti ‘‘āmisenā’’tiādinā vuttanayena.

比丘の比丘たちによる身体の接触とは、身体を揉みほぐすことなどによる。「身体の交わりを(Kāyasaṃsaggaṃ)」とは、身体の接触による交わりを。「受容を受容する者(Gāhagāhako)」とは、受容する者たちを受容する者という意味である。「受容から解き放たれた者(Gāhamuttako)」とは、如実ならざる物質的利得をもって包摂(受容)する者たちから、自ら解き放たれている者のことである。「解き放たれた者を受容する者(Muttagāhako)」とは、前述の包摂から解き放たれた者たちを包摂する者のことである。「解き放たれた者から解き放たれた者(Muttamuttako)」とは、解き放たれている者たちから、自分自身もまた解き放たれている者のことである。「把握することによって(Gahaṇavasena)」とは、包摂することによって。「近づく」とは、そこから何らかの世俗の利得を期待してのことであり、布施を受けるにふさわしい対象としてではない。「比丘の側における把握によって」とは、資具の獲得のために包摂することによって、と解釈されるべきである。「述べられた方法によって」とは、「物質的利得によって」などと述べられた方法によってである。

Ṭhānanti attano ṭhānāvatthaṃ. Pāpuṇituṃ na deti uppannameva taṃ paṭisaṅkhānabalena nīharanto vikkhambheti. Tenāha **‘‘mantenā’’**tiādi. Yathā jīvitukāmo puriso kaṇhasappena, amittena vā saha na saṃvasati, evaṃ khaṇamattampi kilesehi saha na saṃvasatīti attho.

「立場を(Ṭhānaṃ)」とは、自分自身の立場の状況を。「至ることを許さない」とは、生じたまさにその煩悩を如実な省察の力によって排除し、鎮伏する。「それゆえに『**呪文によって…**』などと言った」のである。生きたいと願う人間が毒蛇や敵と共に同居しないように、そのように刹那の間であっても煩悩と共に同居しないという意味である。

Catupārisuddhisīlaṃ lokiyaṃ lokuttarañca. Tathā samādhipi. Vipassanāya pādakā vipassanāpādakāti aṭṭhasamāpattiggahaṇena yathā lokiyasamādhi gahito, evaṃ vipassanāpādakā etesanti vipassanāpādakāti aṭṭhasamāpattiggahaṇeneva lokuttaro samādhi gahito. Yathā hi cattāri rūpajjhānāni adhiṭṭhānaṃ katvā pavatto maggasamādhi vipassanāpādako, evaṃ cattāri arūpajjhānāni adhiṭṭhānaṃ katvā pavattopi. Samāpattipariyāyo pana pubbavohārena veditabbo. Paṭipakkhasamucchedanena sammā āpajjanato vā yathā ‘‘sotāpattimaggo’’ti. Evamettha sīlasamādhīnampi missakabhāvo veditabbo, na paññāya eva. Vimuttīti ariyaphalanti vuttaṃ ‘‘vimuttisampanno’’ti vuttattā. Tañhi nipphādanaṭṭhena sampādetabbaṃ, na nibbānanti.

四種清浄戒は世間的なものと出世間的なものがある。三摩地(定)も同様である。「ヴィパッサナーの基礎となるもの(Vipassanāpādakā)」とは、八等至を把握することによって世間的な三摩地が取られたように、このように「ヴィパッサナーの基礎となるものを持つ者たち」として八等至の把握そのものによって出世間的な三摩地が取られたのである。四つの色界禅を基盤として生じた道の三摩地がヴィパッサナーの基礎となるように、四つの無色界禅を基盤として生じたものもまたそうである。しかし等至という表現は、以前の慣習的な用法によって理解されるべきである。あるいは、対治すべきものを断絶することによって正しく到達することから、例えば「預流道」と呼ばれるようなものである。このようにここにおいて、戒と定もまた混合した状態(世間と出世間)であると理解されるべきであり、智慧だけに限らない。「解脱(Vimutti)」とは聖果であると言われている。「解脱を具足した者」と言われているからである。実にそれは成就させるという意味で達成されるべきものであり、涅槃ではないからである。

Ettha ca appicchatāya laddhapaccayena paritussati, santuṭṭhatāya laddhā te agadhito amucchitoādīnavadassī nissaraṇapañño paribhuñjati, evaṃbhūto ca katthaci alaggamānasatāya pavivekaṃ paribrūhento kenaci asaṃsaṭṭho viharati gahaṭṭhena vā pabbajitena vā. So evaṃ ajjhāsayasampanno vīriyaṃ ārabhati appattassa pattiyā, anadhigamassa adhigamāya. Ārabhanto ca yathāsamādinnaṃ attano sīlaṃ paccavekkhati, tassa sīlassa suparisuddhataṃ nissāya uppajjati avippaṭisāro, ayamassa sīlasampadā. Tassa avippaṭisāramūlakehi pāmojjapītipassaddhisukhehi sammā brūhitaṃ cittaṃ sammadeva samādhiyati, ayamassa samādhisampadā. Tato yathābhūtaṃ jānaṃ passaṃ nibbindati, nibbindaṃ virajjati, virāgā vimuccati, ayamassa paññāsampadā. Vimuttacittatā panassa vimuttisampadā, tato vimuttito ñāṇadassananti etesaṃ dasannaṃ kathāvatthūnaṃ anupubbī veditabbā. Tassa yo dasahi kathāvatthūhi samannāgamo, ayaṃ attahitāya paṭipatti. Yā nesaṃ paresaṃ saṃkittanaṃ, ayaṃ parahitāya paṭipatti. Tāsu purimā ñāṇapubbaṅgamā ñāṇasampayuttā ca, itarā karuṇāpubbaṅgamā karuṇāsampayuttā cāti sabbaṃ ñāṇakaruṇākaṇḍaṃ vattabbaṃ.

そしてここにおいて、少欲のゆえに得られた資具によって満足し、知足のゆえに得られたそれらの資具に執着せず、惑わされず、過失を見、出離の智慧を持って受用し、このような者となって何ものにも執着しない心によって遠離を増大させ、在家者であれ出家者であれ誰とも交わらずに住まう。彼のように志向を具足した者は、未だ達していない境地に達するために、未だ体得していない境地を体得するために精進を開始する。そして精進を開始しながら、正しく受持した自らの戒を省察し、その戒の極めて清浄であることに依拠して後悔なき心(無追悔)が生じる。これが彼の「戒の具足」である。その無追悔を根本とする歓喜・喜悦・軽安・安楽によって正しく育まれた心は、極めて正しく定まる。これが彼の「定の具足」である。そこから如実に知り見ることによって厭離し、厭離して離貪し、離貪によって解脱する。これが彼の「慧の具足」である。そして彼の解脱した心の状態が「解脱の具足」であり、その解脱からの智慧と見解(解脱知見)があるというように、これら十の話頭の順序は理解されるべきである。その十の話頭の成就は、自利のための実践である。それらを他人に説き示すことは、利他のための実践である。それらのうち前者は智慧を先導とし智慧と相応したものであり、後者は慈悲を先導とし慈悲と相応したものであるというように、すべては智慧と慈悲の区分として語られるべきである。

Dasahi kathāvatthūhi karaṇabhūtehi bhikkhūnaṃ ovādaṃ deti, ‘‘bhikkhunā nāma atricchatādike dūrato vajjetvā sammadeva appicchena bhavitabba’’ntiādinā taṃ taṃ kathāvatthuṃ bhikkhūnaṃ upadisatīti attho. Upadisanto hi tāni ‘‘tehi bhikkhū ovadatī’’ti vutto. Ovadatiyeva sarūpadassanamattena. Sukhumaṃ atthaṃ parivattetvāti evampi appicchatā hoti evampīti appicchatādivasena aparāparaṃ appicchatāvuttiṃ dassetvā tattha sukhumanipuṇaṃ appicchatāsaṅkhātaṃ atthaṃ jānāpetuṃ na sakkoti. Viññāpetīti yathāvuttehi visesehi viññāpeti. Kāraṇanti yena kāraṇena appicchatā ijjhati, taṃ pana ‘‘mahicchatādīsu ete dosā, appicchatāya ayamānisaṃso’’tiādīnavānisaṃsadassanaṃ daṭṭhabbaṃ. Sammā hetunā appicchataṃ dassetīti sandassako. Gāhetunti yathā gaṇhati, tathā kātuṃ, tattha paṭṭhapetunti attho. Ussāhajananavasenāti yathā taṃ samādānaṃ niccalaṃ hoti, evaṃ ussoḷhiyā uppādanavasena sammadeva uttejetīti samuttejako. Ussāhajāteti appicchatāya jātussāhe. Vaṇṇaṃ vatvā tattha sampattiṃ āyatiñca labbhamānaguṇaṃ kittetvā sampahaṃseti sammadeva pakārehi tosetīti sampahaṃsako. Evaṃ santuṭṭhiādīsu yathārahaṃ yojanā kātabbā.

手段となった十の話頭によって比丘たちに訓誡を与える。「比丘たる者は大欲などを遠くから避けて、極めて正しく少欲であるべきである」などと、個々の話頭を比丘たちに教授するという意味である。実にそれらを教授しながら「それらの話頭によって比丘たちを訓誡する」と言われている。そのものを示すだけでもまさに訓誡するのである。「微細な意味を巡らせて(Sukhumaṃ atthaṃ parivattetvā)」とは、「このようにしても少欲であり、このようにしても少欲である」と少欲などに基づいて次々と少欲のあり方を示しながら、そこにある少欲と呼ばれる微細で深遠な意味を理解させることができない。「理解させる(Viññāpeti)」とは、前述の特質によって理解させるということである。「理由を(Kāraṇaṃ)」とは、どのような理由によって少欲が達成されるのか、すなわち「大欲などにはこれらの過失があり、少欲にはこのような功徳がある」という過失と功徳を見ることとして理解されるべきである。正しい理由によって少欲を示すゆえに「教示する者(sandassako)」である。「把握させるために(Gāhetuṃ)」とは、受け入れるように、そのように実践させるために、そこに確立させるためにという意味である。「熱意を生じさせることによって(Ussāhajananavasena)」とは、その受持が不動となるように、そのように熱意を生じさせることによって極めて正しく奮い立たせるゆえに「勧奨する者(samuttejako)」である。「熱意が生じた時に」とは、少欲に対する熱意が生じた時に。「賞賛を語り」とは、そこにおける達成と将来に得られる徳を称賛して、「歓喜させる」とは、極めて正しい方法によって満足させるゆえに「歓喜させる者(sampahaṃsako)」である。このように知足などにおいても、適切に解釈がなされるべきである。

Gāhagāhakādivaṇṇanā niṭṭhitā.

受容者・被受容者などの解説は終了した。

Pañcalābhavaṇṇanā

五つの獲得の解説

253. Satthu sammukhā evaṃ vaṇṇo abbhuggatoti. Iminā tassa vaṇṇassa yathābhūtaguṇasamuṭṭhitataṃ dasseti. Mandamando viyāti ati viya acheko viya. Abalabalo viyāti ati viya abalo viya. Bhākuṭikabhākuṭiko viyāti ati viya dummukho viya. Anumassāti anumasitvā, dasa kathāvatthūni sarūpato visesato ca anupariggahetvāti attho. Pariggaṇhanaṃ pana nesaṃ anupavisanaṃ viya hotīti vuttaṃ **‘‘anupavisitvā’’**ti. Sabrahmacārīhi vaṇṇabhāsanaṃ eko lābhoti yojanā. Evaṃ sesesupi. Patthayamāno evamāha dhammagarutāyāti adhippāyo.

253. 「世尊の御前においてこのように名声が高まった」と。これによって、その名声が事実に基づいた徳から生じたものであることを示している。「極めて鈍重であるかのように(Mandamando viya)」とは、極めて無知であるかのように。「極めて無力であるかのように(Abalabalo viya)」とは、極めて力がないかのように。「極めて不機嫌そうであるかのように(Bhākuṭikabhākuṭiko viya)」とは、極めて不快な顔をしているかのように。「触れて(Anumassa)」とは、吟味して、十の話頭をその本質からも特別な性質からも順次に把握して、という意味である。それらの把握はまるでその中に入り込むかのようであるため、「**入り込んで(anupavisitvā)**」と言われた。同僚の修行僧たちによって名声を語られることが一つの獲得(利益)である、と解釈される。残りのものにおいても同様である。「熱望しながらこのように言った」のは、正法を敬重するがゆえである、というのが趣旨である。

Pañcalābhavaṇṇanā niṭṭhitā.

五つの獲得の解説は終了した。

Cārikādivaṇṇanā

遊行などの解説

254. Abhiramanaṃ abhirataṃ, tadeva anunāsikalopaṃ akatvā vuttaṃ **‘‘abhiranta’’**nti. Bhāvanapuṃsakañcetaṃ. Anabhirati nāma natthi, abhiramitvā ciravihāropi natthi sammadeva pariññātavatthukattā. Sabbasahā hi buddhā bhagavanto asayhalābhino.

254. 楽しむこと(abhiramanaṃ)が「歓喜(abhirataṃ)」であり、その鼻音(濁点)の脱落をなさずに「**歓喜(abhirantaṃ)**」と言われた。これは状態を表す中性名詞である。不歓喜などは存在せず、楽しんで長く留まることも存在しない。対象を極めて正しく遍知しているからである。実に仏陀世尊たちはすべてを耐え忍び、抗しがたい利得を持つ方々である。

Pubbe dhammagarutākittanapasaṅgena gahitaṃ aggahitañca mahākassapapaccuggamanādiṃ ekadesena dassetvā vanavāsitissasāmaṇerassa vatthuṃ vitthāretvā janapadacārikaṃ kathetuṃ **‘‘bhagavā hī’’**tiādi āraddhaṃ. Ākāsagāmīhi saddhiṃ gantukāmo **‘‘chaḷabhiññānaṃ ārocehī’’**ti āha. Saṅghakammena sijjhamānāpi upasampadā satthu āṇāvaseneva sijjhanato **‘‘buddhadāyajjaṃ te dassāmī’’**ti vuttanti vadanti. Apare ‘‘aparipuṇṇavīsativassasseva tassa upasampadaṃ anujānanto satthā ‘buddhadāyajjaṃ te dassāmī’ti avocā’’ti vadanti. Upasampādetvāti dhammasenāpatinā upajjhāyena upasampādetvā.

先に正法を敬重することの称賛の文脈で取り上げられたこと、あるいは取り上げられなかった大迦葉長老への出迎えなどを一部分示し、森林住のティッサ沙弥の事跡を詳しく語って、地方への遊行を語るために「**実に世尊は…**」以下を開始した。虚空を行く者たちと共に行こうと望み、「**六神通を持つ者たちに告げよ**」と言われた。僧伽の儀式(僧伽羯磨)によって成就する具足戒であっても、世尊の命令によってのみ成就することから、「**そなたに仏陀の相続財産を与えよう**」と言われたのだと人々は言っている。他の人々は、「二十歳に満たない彼に具足戒を許可しながら、世尊は『そなたに仏陀の相続財産を与えよう』と言われたのである」と言っている。「具足戒を受けさせて(Upasampādetvā)」とは、法の将軍(サーリプッタ)を和尚(戒師)として具足戒を受けさせて。

Navayojanasatikaṃ majjhimadesapariyāpannameva, tato paraṃ nādhippetaṃ dandhatāvasena gamanato. Samantāti gatagataṭṭhānassa catūsu passesu. Aññenapi kāraṇenāti bhikkhūnaṃ samathavipassanātaruṇabhāvato aññenapi majjhimamaṇḍale veneyyānaṃ ñāṇaparipākādikāraṇena nikkhamati, antomaṇḍalaṃ otarati. Sattahi vātiādi **‘‘ekaṃ māsaṃ vā’’**tiādinā vuttānukkamena yojetabbaṃ.

「九百由旬」とは中インド(中国)に含まれる範囲だけであり、それ以上は意図されていない。ゆっくりとした速度で歩行するためである。「四方に(Samantā)」とは、訪れた場所の四方において。「他の理由によっても(Aññenapi kāraṇena)」とは、比丘たちの止水と内観が未熟であることによる理由からだけでなく、中インドの教化されるべき人々の智慧の成熟などの理由によっても出発し、領域の内部へと入って行く。「七日であれ」などは、「**一ヶ月であれ…**」などに述べられた順序に従って結びつけられるべきである。

Sarīraphāsukatthāyāti ekasmiṃyeva ṭhāne nibaddhavāsena ussannadhātukassa sarīrassa virecanena phāsubhāvatthāya. Aṭṭhuppattikālābhikaṅkhanatthāyāti aggikkhandhūpamasutta (a. ni. 7.72) maghadevajātakādidesanānaṃ (jā. 1.1.9) viya dhammadesanāya aṭṭhuppattikālassa ākaṅkhanena. Surāpānasikkhāpadapaññāpane (pāci. 326) viya sikkhāpadapaññāpanatthāya. Bodhaneyyasatte aṅgulimālādike bodhanatthāya. Nibaddhavāsañca puggalaṃ uddissa cārikā nibaddhacārikā.

「身体の快適さのために(Sarīraphāsukatthāya)」とは、一つの場所に定住することによって身体の諸要素(体液)が増大した身体を、運動・下剤によって快適にするためである。「教えを説く契機となる事の発生を待望するために(Aṭṭhuppattikālābhikaṅkhanatthāya)」とは、大火聚譬経(増支部 7.72)や摩竭陀王本生譚(ジャータカ 1.1.9)などの説法のように、法を説くための契機となる事限を待望することによってである。飲酒の戒条の制定(波逸提 326)におけるように、戒条を制定するためである。教化されるべき人々であるアングリマーラなどを覚醒させるためである。定住している特定の人物を目指す遊行が「定時遊行(nibaddhacārikā)」である。

255. Apariggahabhāvaṃ katthaci alaggabhāvaṃ dassetuṃ **‘‘yūthaṃ pahāya…pe… mattahatthī viyā’’**ti vuttaṃ. Asahāyakiccoti sahāyakiccarahito sīho viya. Tenassa ekavihāritaṃ tejavantatañca dasseti. Tadā pana kāyaviveko na sakkā laddhunti idamettha kāraṇaṃ daṭṭhabbaṃ. Bahūhītiādi pana sabhāvadassanavasena vuttaṃ. Therassa parisā suvinītā ciṇṇagaruvāsā garuno icchānurūpameva vattati.

255. 何の執着もない状態、いかなる場所にも固執しない状態を示すために、「**群れを離れて…(中略)…発情した象のように**」と言われた。「同伴者の用務なき者(Asahāyakicco)」とは、同伴者の助けを必要としないライオンのようである。それによって彼の独住のあり方と威勢の強さを示している。しかしその当時は身の遠離を得ることができなかったというのが、ここでの理由として見なされるべきである。「多くの者たちによって」などは、自然のあり方を示すことによって語られた。長老の会衆はよく訓練されており、師との同居の作法に習熟しており、師の望み通りに行動するからである。

Vuttakāraṇayutte addhānagamane cārikānaṃ vohāro sāsane niruḷhoti āha **‘‘kiñcāpī’’**tiādi. Kenacideva nimittena kismiñci atthe pavattāya saññāya tannimittarahitepi aññasmiṃ pavatti ruḷhī nāma. Vijitamārattā saṅgāmavijayamahāyodho viya. Aññaṃ sevitvāti ‘‘mama āgatabhāvaṃ satthu ārocehī’’ti ārocanatthaṃ aññaṃ bhikkhuṃ sevitvā.

前述の理由を備えた長旅において「遊行(cārikā)」という表現は教団において定着しているとして、「**たとえ〜であっても(kiñcāpi)**」以下を述べた。何らかの理由によって特定の意味において生じた概念が、その理由がない他の場合においても生じることを「慣用定着(ruḷhī)」と呼ぶ。魔羅に勝利したことから、戦いに勝利した大戦士のようである。「他の者に頼んで(Aññaṃ sevitvā)」とは、「私が来たことを世尊にお知らせください」とお知らせを頼むために他の比丘に頼んで。

Bhagavā dhammaṃ desento taṃtaṃpuggalajjhāsayānurūpaṃ tadanucchavikameva dhammiṃ kathaṃ karotīti dassento **‘‘cūḷagosiṅgasutte’’**tiādimāha. Tattha sāmaggirasānisaṃsanti ‘‘kacci pana vo, anuruddhā, samaggā sammodamānā’’tiādinā (ma. ni. 1.326) sāmaggirasānisaṃsaṃ kathesi. Āvasathānisaṃsanti ‘‘sītaṃ uṇhaṃ paṭihanatī’’tiādinā (cūḷava. 295, 315) āvasathapaṭisaṃyuttaṃ ānisaṃsaṃ. Satipaṭilābhikanti jotipālatthere lāmakaṃ ṭhānaṃ otiṇṇamatte mahābodhipallaṅke pana sabbaññutaṃ paṭivijjhituṃ patthanaṃ katvā pāramiyo pūrento āgato. Tādisassa nāma pamādavihāro na yuttoti yathā kassapo bhagavā bodhisattassa satiṃ paṭilabhituṃ dhammiṃ kathaṃ kathesi, tathā ayaṃ bhagavā tameva pubbenivāsapaṭisaṃyuttakathaṃ bhikkhūnaṃ ghaṭikārasuttaṃ (ma. ni. 2.282) kathesi. Cattāro dhammuddeseti – ‘‘upanīyati loko addhuvo, atāṇo loko anabhissaro, assako loko sabbaṃ pahāya gamanīyaṃ, ūno loko atitto taṇhādāso cā’’ti (ma. ni. 2.305) ime cattāro dhammuddese kathesi. Kāmañcete dhammuddesā raṭṭhapālasutte (ma. ni. 2.304) āyasmatā raṭṭhapālattherena rañño korabyassa kathitā, te pana bhagavato eva āharitvā therena tattha kathitāti vuttaṃ **‘‘raṭṭhapālasutte’’**tiādi. Tathā hi vuttaṃ sutte – ‘‘atthi kho, mahārāja, tena bhagavatā jānatā passatā arahatā sammāsambuddhena cattāro dhammuddesā uddiṭṭhā’’tiādi (ma. ni. 2.305) pānakānisaṃsakathanti ‘‘aggihuttaṃ mukhaṃ yaññā’’tiādinā (ma. ni. 2.400; su. ni. 573) anumodanaṃ vatvā puna pakiṇṇakakathāvasena pānakapaṭisaṃyuttaṃ ānisaṃsakathaṃ kathesi. Ekībhāve ānisaṃsaṃ kathesi, yaṃ sandhāya vuttaṃ ‘‘atha kho bhagavā āyasmantaṃ bhaguṃ dhammiyā kathāya sandassesī’’tiādi (ma. ni. 3.238). Anantanayanti aparimāṇadesanānayaṃ appicchatādipaṭisaṃyuttaṃ dhammiṃ kathaṃ. Tenāha **‘‘puṇṇa, ayampi appicchakathāyevā’’**tiādi bahūhi pariyāyehi nānānayaṃ deseti. Kathaṃ tathā desitaṃ thero aññāsīti āha **‘‘paṭisambhidāpattassa…pe… ahosī’’**ti.

世尊は法を説かれる際、個々の人物の志向に適った、それにふさわしい法話をなさることを示して、「**小牛角経において**」以下を述べた。そこにおいて「和合の味わいの功徳」とは、「アヌルッダたちよ、お前たちは和合して互いに歓喜し合っているか」など(中部 1.326)によって和合の味わいの功徳を説かれた。「住処の功徳」とは、「寒さや暑さを防ぐ」など(小品 295, 315)によって住処に関する功徳のことである。「念(気づき)を取り戻させるもの」とは、ジョーティパーラ長老が劣悪な境遇に陥った時に、大菩提の座において一切知性を体得しようと誓願を立て、波羅蜜を満たしてやって来た、そのような者が怠惰に過ごすのは正しくないとして、迦葉世尊が菩薩に念を取り戻させるために法話を説かれたように、この世尊もまたその宿住に関する話を比丘たちに陶師経(中部 2.282)として説かれたのである。「四つの法講要において」とは――「世間は流転して無常であり、世間は避難所なく守り手もなく、世間は自己のものではなくすべてを捨てて去らねばならず、世間は不完全であって飽くことなく渇愛の奴隷である」(中部 2.305)という、これら四つの法講要を説かれた。確かにこれらの法講要は頼咤惒羅経(中部 2.304)において尊者ラッタパーラ長老によってコーラヴィヤ王に語られたものであるが、それらは世尊から引用して長老がそこで語ったものであるため、「**頼咤惒羅経において**」などと言われたのである。事実、経典において「大王よ、知り見る者、阿羅漢、正等覚者である世尊によって、四つの法講要が説示されたのである」など(中部 2.305)と説かれている。「飲料の功徳に関する話」とは、「火への祭祀は供犠の筆頭であり」など(中部 2.400; スッタニパータ 573)によって随喜を述べて、さらに雑多な話として飲料に関する功徳の話を説かれた。独住における功徳を説かれたが、それを指して「その時、世尊は尊者バグに法話によって教えを示し」など(中部 3.238)と言われた。「無数の方法を(Anantanayaṃ)」とは、無量の説法の筋道を持つ少欲などに関する法話のことである。それゆえに「**プンナよ、これもまた少欲に関する説話である**」などと、多くの手段によって様々な筋道を説かれた。そのように説かれたことを長老はどうして知ったのかについて、「**無碍解に達した者には…(中略)…あった**」と言った。

Cārikādivaṇṇanā niṭṭhitā.

遊行などの解説は終了した。

Sattavisuddhipañhavaṇṇanā

七清浄の問いの解説

256. Tato paṭṭhāyāti. Yadā jātibhūmakā bhikkhū satthu sammukhā therassa vaṇṇaṃ bhāsiṃsu, tato paṭṭhāya. Sīsānulokī hutvā piṭṭhito piṭṭhito anubandhanaṃ therena samāgame ādaravasena katanti daṭṭhabbaṃ. Tathā hi vuttaṃ pāṭhe ‘‘appeva nāmā’’tiādi, ‘‘taramānarūpo’’ti ca. Yaṃ pana vuttaṃ **aṭṭhakathāyaṃ ‘‘ekasmiṃ ṭhāne nilīna’’**ntiādi, taṃ akāraṇaṃ. Na hi dhammasenāpati tassa therassa nisinnaṭṭhānaṃ abhiññāñāṇena jānituṃ na sakkoti. ‘‘Kacci nu kho maṃ adisvāva gamissatī’’ti ayampi cintā ādaravasenevāti yuttaṃ. Na hi satthāraṃ daṭṭhuṃ āgato sāvako api āyasmā aññātakoṇḍañño satthukappaṃ dhammasenāpatiṃ tattha vasantaṃ adisvāva gacchanako nāma atthi. Divāvihāranti sampadāne upayogavacananti āha **‘‘divāvihāratthāyā’’**ti.

256. 「その時から(Tato paṭṭhāya)」とは、生誕地の比丘たちが世尊の御前で長老の徳を称賛した、その時から。「頭部を見つめながら後ろからついて行った」のは、長老との出会いへの敬意によってなされたと見なされるべきである。事実、本文において「あるいは〜かもしれない」などと、また「急ぐ様子で」と説かれているからである。しかし**注釈において「一つの場所に隠れていた」**などと述べられているのは、理由のないことである。法の将軍(サーリプッタ)がその長老の座っている場所を神通の智慧によって知ることができないはずはないからである。「もしかしたら私に会わずに立ち去ってしまうのではないか」というこの思いもまた、敬意によるものであると解釈するのが妥当である。世尊にお目にかかるためにやって来た弟子であって、尊者阿若憍陳如のような者であっても、仏陀に匹敵する法の将軍がそこに住んでいるのに、彼に会わずに立ち去るような弟子は決して存在しないからである。「昼の休息のために(Divāvihāraṃ)」とは、為視(目的を表す為格)における対格の言葉であるとして、「**昼の休息のために(divāvihāratthāya)**」と言った。

257. Purimakathāyāti paṭhamālāpe. Appatiṭṭhitāyāti nappavattitāya. Pacchimakathā na jāyatīti pacchā vattabbakathāya avasaro na hoti. Satta visuddhiyo pucchi diṭṭhasaṃsandanavasena. Ñāṇadassanavisuddhi nāma ariyamaggo. Yasmā tato uttarimpi pattabbaṃ attheva, tasmā **‘‘catupārisuddhisīlādīsu ṭhitassapi brahmacariyavāso matthakaṃ na pāpuṇātī’’**ti vuttaṃ. Tasmāti brahmacariyavāsassa matthakaṃ appattattā. Sabbaṃ paṭikkhipīti sattamampi pañhaṃ paṭikkhipi, itaresu vattabbameva natthi.

257. 「最初の話において(Purimakathāya)」とは、最初の会話において。「確立していない時に(Appatiṭṭhitāya)」とは、行われていない時に。「後の話は生じない」とは、後に語られるべき話の機会がなくなるということである。見解を照合するために七つの清浄について質問した。「智見清浄」とは聖道のことである。それよりさらに上にも到達すべき境地が確かに存在するがゆえに、「**四種清浄戒などに留まる者であっても、清浄行の暮らしは頂点には達しない**」と言われたのである。「それゆえに」とは、清浄行の暮らしの頂点に達していないがゆえに。「すべてを否定した(Sabbaṃ paṭikkhipi)」とは、第七の問いをも否定したということであり、その他の問いについては言うまでもないことである。

Appaccayaparinibbānanti anupādisesanibbānamāha. Idāni pakārantarenapi anupādāparinibbānaṃ dassetuṃ **‘‘dvedhā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha gahaṇūpādānanti daḷhaggahaṇabhūtaṃ upādānaṃ. Tenāha **‘‘kāmupādānādika’’**nti. Paccayūpādānanti yaṃ kiñci paccayamāha. So hi attano phalaṃ upādiyati upādānavasena gaṇhatīti upādānanti vuccati. Tenāha **‘‘paccayūpādānaṃ nāma…pe… paccayā’’**ti. ‘‘Anupādāya āsavehi cittaṃ vimuccatī’’ti vacanato (mahāva. 28, 30) arahattaphalaṃ anupādāparinibbānanti kathenti. Na ca upādānasampayuttanti upādānehi etaṃ na sahitaṃ nāpi upādānehi saha pavatti hutvā. Na ca kañci dhammaṃ upādiyatīti kassaci dhammassa ārammaṇakaraṇavasena na upādiyati. Parinibbutanteti aggamaggena kātabbakilesaparinibbānapariyosānante jātattā. Amatadhātumeva anupādāparinibbānaṃ kathenti, kathentānañca yathā tassa koci paccayo nāma natthi, evaṃ adhigatopi yathā koci paccayo nāma na hoti, tathā parinibbānaṃ apaccayaparinibbānanti dassento **‘‘ayaṃ anto’’**tiādimāha. Puna pucchaṃ ārabhi anupādāparinibbānaṃ sarūpato patiṭṭhāpetukāmo.

「無縁の完全なる涅槃(無縁般涅槃)」とは、無余依涅槃のことを指している。今や別の方法によっても無取般涅槃を示すために「二様に」などと説かれた。その中で「執取(把握)」とは強固な執着となった取のことである。それゆえ「欲取など」と説かれた。「縁取」とは何らかの縁(条件)のことである。それ(縁)は己の果を取し、取の力によって把握するゆえに取と呼ばれる。それゆえ「縁取とは……中略……縁である」と説かれた。「取を離れて諸々の漏(煩悩)から心が解脱する」という聖句(大品 28, 30)から、阿羅漢果を「無取般涅槃」と語る。また「取と相応しない」とは、これ(涅槃)が取とともに存在せず、また取とともに生起することもないということである。「いかなる法をも取しない」とは、いかなる法をも対象(所縁)とすることによって執取しないということである。「般涅槃した」とは、最上の道(阿羅漢道)によってなされるべき煩悩の般涅槃の究極において生じたからである。不死の界(涅槃界)そのものを無取般涅槃と語り、それを語る人々にとっても、これにいかなる縁(条件)も存在しないように、また証得されたとしてもいかなる縁ともならないように、そのように涅槃は無縁般涅槃であることを示しつつ、「これが究極である」などと説いた。無取般涅槃をその自相によって確立させようとして、重ねて問いを始めたのである。

258. Sabbaparivattesūti sabbesu pañhaparivattanesu, pañhavāresūti attho. Sagahaṇadhammamevāti ‘‘etaṃ mamā’’tiādinā gaṇhatīti gahaṇaṃ, saha gahaṇenāti sagahaṇaṃ, upādāniyanti attho. Vivaṭṭasannissitassa abhāvato vaṭṭameva anugatoti vaṭṭānugato. Tenāha **‘‘catupārisuddhisīlamattassapi abhāvato’’**ti. Yo pana catubbidhe vivaṭṭūpanissaye sīle ṭhito, sopi **‘‘aññatra imehi dhammehī’’**ti vattabbataṃ arahati.

258. 「すべての転回において」とは、すべての問いの転回において、すなわち問いの巡りにおいてという意味である。「有執取の法のみを」とは、「これは我がものである」などとして把握するゆえに「執取」であり、執取を伴うゆえに「有執取」であり、取の対象となり得るもの(有取)という意味である。出世間(輪廻からの解脱)に依存する法が存在しないことから、輪廻そのものに従うゆえに「輪廻に従うもの」である。それゆえ「四遍浄戒の程度すら存在しないことから」と説かれた。しかしながら、四種の出世間の依処たる戒に住する者もまた、「これらの法を離れて」と言われるに値する。

Sattavisuddhipañhavaṇṇanā niṭṭhitā.

七清浄問の註解、終了。

Sattarathavinītavaṇṇanā

七車相応釈(七車経註解)

259. Nissakkavacanametaṃ ‘‘yāva heṭṭhimasopānakaḷevarā’’tiādīsu viya. Atthoti payojanaṃ. Cittavisuddhi hettha sīlavisuddhiṃ payojeti tassa tadatthattā. Sīlavisuddhikiccaṃ kataṃ nāma hoti samādhisaṃvattanato. Samādhisaṃvattanikā hi sīlavisuddhi nāma. Sabbapadesūti ‘‘cittavisuddhi yāvadeva diṭṭhivisuddhatthā’’tiādīsu sabbapadesu, diṭṭhivisuddhiyaṃ ṭhitassa cittavisuddhakiccaṃ kataṃ nāma hotītiādinā yojetabbaṃ.

259. これは、「最下の階段の構造に至るまで」などにおけるのと同様に、従格(奪格)の言葉である。「目的」とは用(果)のことである。実にここで心清浄は戒清浄を用となす。それがそれ(心清浄)の目的だからである。戒清浄の働きは、三摩地(定)をもたらすことによってなされたものとなる。実に戒清浄とは三摩地をもたらすものであるからである。「すべての句において」とは、「心清浄はただ見清浄のための目的である」などのすべての句において、「見清浄に住する者にとって心清浄の働きがなされたものとなる」などと結合されるべきである。

Sāvatthinagaraṃ viya sakkāyanagaraṃ atikkamitabbattā. Sāketanagaraṃ viya nibbānanagaraṃ pāpuṇitabbattā. Accāyikassa kiccassa uppādakālo viya navameneva khaṇena pattabbassa abhisamayakiccassa upādakālo. Yathā rañño sattamena rathavinītena sākete antepuradvāre oruḷhassa na tāva kiccaṃ niṭṭhitaṃ nāma hoti, saṃvidhātabbasaṃvidhānaṃ ñātimittagaṇaparivutassa surasabhojanaparibhoge niṭṭhitaṃ nāma siyā, evametaṃ ñāṇadassanavisuddhiyā kilese khepetvā tesaṃyeva paṭippassaddhipahānasādhakaariyaphalasamaṅgikāle abhisamayakiccaṃ niṭṭhitaṃ nāma hoti. Tenāha **‘‘yogino…pe… kālo daṭṭhabbo’’**ti. Tattha paropaṇṇāsa kusaladhammā nāma cittuppādapariyāpannā phassādayo paropaṇṇāsa anavajjadhammā. Nirodhasayaneti nibbānasayane.

舎衛城のように有身(五蘊)の城は超越されるべきものであるからである。娑枳多城のように涅槃の城は到達されるべきものであるからである。緊急の用務が生じた時のように、第九の刹那によって獲得されるべき現観の働きが生じる時である。あたかも王が第七の車によって娑枳多城の内裏の門に降り立ったときには、まだ用務が完結したとは言えず、親族や友人の群れに取り囲まれて美味な食事を享受するときに用務が完結したとされるように、このように智見清浄によって煩悩を滅尽し、それらの静止と断滅を成し遂げる聖果を備えた時に現観の働きは完結したとされる。それゆえ「行者の……中略……時と見なされるべきである」と説かれた。その中で「五十余の善法」とは、心生起に包摂される触などの五十余の無過失の法のことである。「滅尽の床に」とは、涅槃の床にという意味である。

‘‘Visuddhiyo’’ti vā ‘‘kathāvatthūnī’’ti vā atthato ekaṃ, byañjanameva nānanti tesaṃ atthato anaññabhāvaṃ dassetuṃ **‘‘itī’’**ti āraddhaṃ. Āyasmā puṇṇo dasa kathāvatthūni vissajjesīti satta visuddhiyo nāma vissajjantopi dasa kathāvatthūni vissajjesi tesaṃ atthato anaññattā. Eteneva dhammasenāpati sāriputtatthero satta visuddhiyo pucchanto dasa kathāvatthūni pucchīti ayampi attho vuttovāti veditabbo. Nti pañhaṃ. Kiṃ jānitvā pucchīti visuddhipariyāyena kathāvatthūni pucchāmīti kiṃ jānitvā pucchi. Dasakathāvatthulābhinaṃ theraṃ visuddhiyo pucchanto pucchitaṭṭhāneyeva pucchanena kiṃ titthakusalo vā pana hutvā visayasmiṃ pucchi, udāhu pānīyatthikamatitthehi chinnataṭehi pātento viya atitthakusalo hutvā apucchitabbaṭṭhāne avisayasmiṃ pucchīti yojanā. Iminā nayena vissajjanapakkhepi atthayojanā veditabbā. Yadatthamassa vicāraṇā āraddhā, taṃ dassentena **‘‘titthakusalo hutvā’’**tiādiṃ vatvā visuddhikathāvatthūnaṃ atthato anaññattepi ayaṃ viseso veditabboti dassetuṃ **‘‘yaṃ hī’’**tiādi vuttaṃ. Tadamināti yaṃ ‘‘saṃkhittaṃ, vitthiṇṇa’’nti ca vuttaṃ, taṃ iminā idāni vuccamānena nayena vidhinā veditabbaṃ.

「清浄」と言おうと「論事(説処)」と言おうと意味においては一つであり、表現のみが異なるのであって、それらの意味における無差別性を示すために「このように」と始められた。尊者プンナは十の論事を答えたとは、七つの清浄を答えたとしても、それらが意味において異ならないことから十の論事を答えたということである。これによって法将軍サーリプッタ長老が七つの清浄を問いながら十の論事を問うたという、この意味もまた説かれたと知るべきである。「〜と」とは問いである。「何を知って問うたのか」とは、清浄の観点によって諸々の論事を問おうと何を知って問うたのかということである。十の論事を得た長老に諸々の清浄を問うにあたり、問われるべき適切な場所で問うことによって、あるいは渡し場に巧みな者となって適切な領域で問うたのか、あるいは水を求める者を渡し場でない崖から落とすように渡し場に不案内な者となって問うてはならない不適切な領域で問うたのか、という構文である。この方法によって答える側においても意味の結合は理解されるべきである。何のためにこの究明が始められたのか、それを示すものとして「渡し場に巧みな者となって」などを語り、清浄と論事が意味において無差別であってもこの差異は知られるべきであると示すために「実に何が」などが説かれた。「これによって」とは、「簡略に、また詳細に」と説かれたことを、今説かれつつあるこの方法・規約によって知るべきであるということである。

Ekā sīlavisuddhīti visuddhīsu visuṃ ekā sīlavisuddhi. Dasasu kathāvatthūsu cattāri kathāvatthūni hutvā āgatā appicchatādīhi vinā sīlavisuddhiyā asambhavato. Appicchakathātiādīsu kathāsīsena dasakathāvatthu gahitaṃ. Kathetabbattā vā vatthu kathāvatthūti vuttaṃ. Evañca upakārato, sabhāvato vā catunnaṃ kathāvatthūnaṃ sīlavisuddhisaṅgaho daṭṭhabbo. Tiṇṇaṃ kathāvatthūnaṃ cittavisuddhisaṅgahepi eseva nayo. Pañca visuddhiyoti nāmarūpaparicchedo diṭṭhivisuddhi, sappaccayanāmarūpadassanaṃ kaṅkhāvitaraṇavisuddhi, vipassanupakkilese pahāya uppannaṃ vipassanāñāṇaṃ maggāmaggañāṇadassanavisuddhi, udayabbayañāṇādi navavidhañāṇaṃ paṭipadāñāṇadassanavisuddhi, ariyamaggañāṇaṃ ñāṇadassanavisuddhīti imā pañca visuddhiyo.

「一つの戒清浄」とは、諸々の清浄の中で別個の一つの戒清浄のことである。少欲などの諸徳がなくては戒清浄は不可能であることから、十の論事の中で四つの論事となって現れる。「少欲に関する説」などにおいては、説の頭(題目)によって十の論事が取られている。あるいは語られるべきものであるがゆえに事(論事)が「説処(論事)」と説かれた。このように助益によって、あるいは自性によって、四つの論事の戒清浄への包摂が見なされるべきである。三つの論事の心清浄への包摂においてもこの方法と同じである。「五つの清浄」とは、名色の区別が見清浄であり、縁を伴う名色の観察が度疑清浄であり、瞑想の染汚(十の随煩悩)を捨てて生じたヴィパッサナー智が道非道智見清浄であり、生滅随観智などの九種の智が行諦智見清浄であり、聖道智が智見清浄であるという、これら五つの清浄である。

Sattarathavinītavaṇṇanā niṭṭhitā.

七車相応釈、終了。

260. Sammoditunti anantaraṃ vuccamānena sammodituṃ. Aṭṭhānaparikappenāti akāraṇassa vatthuno parikappanena tadā asambhavantaṃ atthaṃ parikappetvā vacanena. Abhiṇhadassanassāti niccadassanassa, niyatadassanassāti attho.

260. 「歓喜するために」とは、直後に説かれることによって歓喜するために。「不当な想定によって」とは、根拠のない事柄を想定することによって、当時あり得ない事柄を想定して語ることによって。「常に観察すること」とは、常に観察すること、すなわち定まった観察のことである。

Ukkhipīti guṇato kathitabhāvena ukkaṃseti. Therassāti āyasmato puṇṇattherassa. Imasmiṃ ṭhāne imasmiṃ kāraṇe ekapadeneva sāvakavisaye anaññasādhāraṇaguṇāvikaraṇanimittaṃ. Idāni tamevatthaṃ pākaṭataraṃ kātuṃ **‘‘amaccañhī’’**tiādi vuttaṃ. Apacāyamānoti pūjayanto.

「称揚した」とは、徳性の点から語られた状態によって称賛することである。「長老の」とは、尊者プンナ長老のことである。「この場において」とは、この事由において、一声で声聞の領域における他に共通しない徳を顕示するためである。今その意味をより明白にするために「実に大臣を」などが説かれた。「敬意を払いながら」とは、供養しながらという意味である。

‘‘Anumassa anumassa pucchitā’’ti vuttattā vicāraṇavasenāha **‘‘kiṃ pana pañhassa pucchanaṃ bhāriyaṃ udāhu vissajjana’’**nti. Sahetukaṃ katvāti yuttāyuttaṃ katvā. Sakāraṇanti tasseva vevacanaṃ. Pucchanampīti evaṃ sahadhammena pucchitabbamatthaṃ sayaṃ sampādetvā pucchanampi bhāriyaṃ dukkaraṃ. Vissajjanampīti sahadhammena vissajjanampi dukkaraṃ. Evañhi vissajjento viññūnaṃ cittaṃ ārādhetīti. Yathānusandhināva desanā niṭṭhitāādito saparikkhāraṃ sīlaṃ, majjhe samādhiṃ, ante vasībhāvappattaṃ paññaṃ dassetvā desanāya niṭṭhāpitattāti.

「一つ一つ随って問われた」と説かれたことから、思索の力によって「では、問いを問うことが重い(困難な)ことなのか、それとも答えることなのか」と語った。「因縁を伴って」とは、当・不当を考慮して。「根拠を伴って」とは、その同義語である。「問うことすらも」とは、このように法にかなって問われるべき意味を自ら整えて問うことすらも重く、困難である。「答えることすらも」とは、法にかなって答えることもまた困難である。このように答える者は賢者たちの心を満足させるからである。教示の脈絡通りに教説は完結したとは、初めに具足(準備)を伴う戒を示し、中ほどに定を示し、終わりに自在に達した慧を示して、教説を完結させたからである。

Rathavinītasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

車引経(七車経)註の幽微な意味の解明、完結。

5. Nivāpasuttavaṇṇanā

5. 餌食経釈(伏魔経註解)

261. Nivappatīti nivāpo, nivāpaṃ vatteti, nivāpabhojanaṃ vā etassāti nevāpiko, nivāpena mige palobhetvā gaṇhanakamāgaviko. Tiṇabījānīti nivāpatiṇabījāni. Vappanti sassaṃ viya vapitabbaṭṭhena vappaṃ. ‘‘Mayaṃ viya aññe ke īdisaṃ labhissantī’’ti mānamadaṃ āpajjissanti. Vissaṭṭhasatibhāvanti anussaṅkitaparisaṅkitabhāvaṃ. Tiracchānā hi vijātiyabalavatiracchānavasanaṭṭhānesu sāsaṅkā ubbiggahadayā appamattā honti visesato māgavikādimanussūpacāre, rasataṇhāya pana baddhā pamādaṃ āpajjassanti. Nivapati etthāti nivāpo, nivāpabhūmi nivāpaṭṭhānaṃ. Tenāha **‘‘nivāpaṭṭhāne’’**ti. ‘‘Yathākāmakaraṇīyā’’ti vuttamatthaṃ vivarituṃ **‘‘ekaṃ kirā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha nīvāravanaṃ viyāti nīvārassa samūho viya. Nīvāro nāma araññe sayaṃjātavīhijāti. Meghamālā viyāti meghaghaṭā viya. Ekagghananti ekajjhaṃ viya aviraṭṭhaṃ. Pakkamantīti āsaṅkaparisaṅkā hutvā pakkamanti. Kaṇṇe cālayamānāti anāsaṅkantānaṃ pahaṭṭhākāradassanaṃ. Maṇḍalagumbanti maṇḍalakākārena ṭhitaṃ gumbaṃ.

261. 「撒かれる(置かれる)」ゆえに「餌食(nivāpa)」であり、餌食を配給する者、あるいは餌食による食を持つ者が「狩人(nevāpika)」であり、餌食によって鹿を誘惑して捕らえる猟師のことである。「草の種子」とは、餌食となる草の種子のことである。「撒かれるもの」とは、穀物のように蒔かれるべきものであるという意味で撒かれるものである。「我らのように他の誰がこのようなものを得るだろうか」と慢心と傲慢に陥るであろう。「正念を放擲した状態」とは、疑惑や懸念を失った状態のことである。実に動物たちは、異種の強力な動物が住む場所においては疑惑を抱き怯えた心で油断がないものであり、特に猟師などの人間が近づく場所ではそうであるが、味への渇愛に束縛されると放逸に陥るのである。ここに餌が撒かれるゆえに「餌食」であり、餌食の場所、餌場のことである。それゆえ「餌食の場所に」と説かれた。「意のままにされるべきもの」と説かれた意味を開示するために「実に或る……」などが説かれた。その中で「野生の稲の林のように」とは、野生の稲の群れのようである。野生の稲とは、森に自生する稲の種である。「雲の帯のように」とは、雲の群れのようである。「一つの塊のように」とは、一体となって散らばらないようである。「立ち去る」とは、疑惑や懸念を抱いて立ち去るのである。「耳を動かしながら」とは、疑いを持たない者たちの喜ばしい様相を示すことである。「円形の茂み」とは、円形をなして立っている茂みのことである。

262. Kappetvāti upamābhāvena parikappetvā. Mige attano vase vattāpanaṃ vasībhāvo. So eva ijjhanaṭṭhena iddhi, pabhāvanaṭṭhena ānubhāvo.

262. 「見立てて」とは、譬喩として想定して。鹿たちを己の意のままに従わせることが「自在」である。それそのものが達成されるという意味で「神通(神力)」であり、威力を発揮するという意味で「威力」である。

263. Bhayena bhogatoti bhayena saha sabhayaṃ nivāpaparibhogato. Balavīriyanti kāyabalañca uṭṭhānavīriyañca. Aṭṭhakathāyaṃ pana balameva vīriyaṃ. Balanti ca sarīrabalaṃ, tañca atthato manasikāramaggehi aparāparaṃ sañcaraṇakavātoti vuttaṃ **‘‘aparāparaṃ sañcaraṇavāyodhātū’’**ti.

263. 「恐怖を伴う享受から」とは、恐怖を伴う恐ろしい餌食の享受から。「体力と気力」とは、身体の力と活動の精進のことである。しかし義釈(註釈)においては、力そのものが気力である。「力」とは身体の力であり、それは意味の上では注意の経路を通じてあちこちに行き来する風(気)であることから、「あちこちに行き来する風界」と説かれた。

264. Sikkhitakerāṭikāti paricitasāṭheyyā, vañcakāti attho. Iddhimanto viya ānubhāvavanto viya. Pacurajanehi parabhūtā jātāti parajanā, mahābhūtā. Tenāha **‘‘yakkhā’’**ti. Samantā sappadesanti samantato padesavantaṃ vipulokāsasannivāsaṭṭhānaṃ. Tassa pana sappadesatā mahāokāsatāyāti vuttaṃ **‘‘mahantaṃ okāsa’’**nti.

264. 「熟練した狡猾な者たち」とは、詐欺に慣れた者たち、すなわち詐欺師という意味である。神通ある者のように、威力ある者のように。「一般の人々によって他者となった者たち」が「他者(異人)」であり、大いなる鬼神である。それゆえ「夜叉たち」と説かれた。「四方に広がりを持つ」とは、四方に広大な空間の住処を持つということである。その広がりを持つこととは、広大なる空間性によるものであることから、「大いなる空間」と説かれた。

265. Ghaṭṭessantīti ‘‘sabhayasamuṭṭhāna’’nti saññādānavasena cittaṃ cetessanti, tāsessantīti attho. Pariccajissantīti nibbisissanti. Mahallakoti jātiyā mahallako jiṇṇo. Dubbaloti byādhivasena, pakatiyā vā balavirahito.

265. 「打撃を与えるであろう」とは、「恐怖の生起」という想いを与えることによって心を動揺させる、脅迫するという意味である。「放棄するであろう」とは、逃げ去るであろう。「老いた者」とは、生まれつき年老いて衰えた者。「衰弱した者」とは、病気の力により、あるいは生まれつき力のない者。

267. Nivāpasadisatāya nivāpoti vā. Lokapariyāpannaṃ hutvā kilesehi āmasitabbatāya lokāmisānīti vā. Vaṭṭe āmisabhūtattā vaṭṭāmisabhūtānaṃ. Vasaṃ vattetīti kāmaguṇehi kāmaguṇe giddhe satte tasseva gedhassa vasena attano vase vattetīti. Tenāha –

267. 餌食に類似していることによって「餌食」である。あるいは、世間に包摂されて煩悩によって触れられるべきものであることから「世間の餌食(世俗の欲望)」である。輪廻における餌食となったものゆえに「輪廻の餌食となったものたち」である。「意のままに従わせる」とは、諸々の欲望によって欲望に貪着した衆生を、その貪着の力によって己の支配下に従わせるということである。それゆえ、こう説かれた――

‘‘Antalikkhacaro pāso, yvāyaṃ carati mānaso;

「虚空を行く罠、これ即ち心において動くもの、

Tena taṃ bādhayissāmi, na me samaṇa mokkhasī’’ti. (saṃ. ni. 1.151; mahāva. 33);

それによって汝を捕らえん。沙門よ、汝は我が手から逃れ得じ」(相応部 1.151; 大品 33)と。

Ayanti paṭhamamigajātūpamā. Vānapatthassa satova papañcaparadattikādisaputtadāranikkhamanaṃ sandhāyāha **‘‘saputtabhariyapabbajjāyā’’**ti.

これが第一の鹿の群れの譬えである。林住者でありながら、戯論や他からの施与などを原因として子や妻とともに出家することを指して「子や妻を伴う出家によって」と説いた。

268. Kāmato cittassa vimutti idha cetovimuttīti adhippetāti āha **‘‘cetovimutti nāma…pe… uppannaajjhāsayo’’**ti. Kāme vissajjetvā puna tattha nimuggatāya dutiyasamaṇabrāhmaṇā dutiyamigajātūpamā vuttā.

268. 欲望からの心の解脱がここでは「心解脱」として意図されていることから、「心解脱とは……中略……生じた意向である」と説かれた。欲望を放棄した後に再びそこに沈溺したことから、第二の沙門・バラモンたちは第二の鹿の群れの譬えとして説かれた。

269. Tatiyasamaṇabrāhmaṇā yathāpariccatte kāme pariccajitvā evaṃ ṭhitā, na dutiyā viya tattha nimuggāti adhippāyena **‘‘kiṃ pana te akaṃsū’’**ti pucchati. Itare kāmaṃ ujukaṃ kāmaguṇesu na nimuggā, pariyāyena pana nimuggā diṭṭhijālena ca ajjhotthaṭāti dassento **‘‘gāmanigamajanapadarājadhāniyo’’**tiādimāha. Diṭṭhijālampi taṇhājālānugatamevāti āha **‘‘mārassa pāpimato diṭṭhijālena parikkhipitvā’’**ti.

269. 第三の沙門・バラモンたちは、放棄した欲望をまさに放棄したまま留まっており、第二の者たちのようにそこに沈溺してはいないという意図から、「では、彼らは何をなしたのか」と問うている。他の者たちは確かに直接的には欲望に沈溺してはいないが、間接的に沈溺し、邪見の網に覆われていることを示しつつ、「村々、町々、地方、王都」などを説いた。邪見の網もまた渇愛の網に従うものに他ならないことから、「悪魔波旬の邪見の網によって取り囲まれて」と説かれた。

271. Khandhakilesābhisaṅkhāramārā vā idha māraggahaṇena gahitāti daṭṭhabbaṃ. Akkhīni bhindi daṭṭhuṃ asamatthabhāvāpādanena. Tenāha **‘‘vipassanāpādakajjhāna’’**ntiādi. Kiñcāpi māro yaṃ kiñci jhānaṃ samāpannassapi bhikkhuno cittaṃ imaṃ nāma ārammaṇaṃ nissāya vattatīti na jānāti, idhādhippetassa pana bhikkhuno vasena **‘‘vipassanāpādakajjhāna’’**nti vuttaṃ. Teneva pariyāyenāti ‘‘na mārassa akkhīni bhindī’’ti evamādinā yathāvuttapariyāyena. Adassanaṃ gatoti etthāpi eseva nayo. Cakkhussa padaṃ patiṭṭhāti ca idha ārammaṇaṃ adhippetaṃ taṃ pariggayha pavattanatoti āha **‘‘appatiṭṭhaṃ nirārammaṇa’’**nti. Soti māro. Disvāti dassanahetu. Yasmā maggena catusaccadassanahetu āsavā na parikkhīṇā. Phalakkhaṇe hi te khīṇāti vuccantīti.

271. あるいは蘊魔、煩悩魔、行魔がここで悪魔の把握によって取られていると見なされるべきである。見ることができない状態にすることによって「目を潰した」。それゆえ「ヴィパッサナーの基礎となる禅定」などと説かれた。たとえ悪魔が、いかなる禅定に入定した比丘の心であっても「これこれの対象に依存して生起している」と知ることができないとしても、ここで意図された比丘の力によって「ヴィパッサナーの基礎となる禅定」と説かれた。「まさにその方法によって」とは、「悪魔の目を潰したのではない」などという、すでに述べられた方法によってである。「見えなくなった」というここにおいても同じ方法である。「眼の足場・依処」とは、ここでは対象が意図されており、それを把握して生起することから「足場のない、対象のない」と説かれた。「彼」とは悪魔である。「見て」とは見る原因である。なぜなら道によって四聖諦を見ることが原因で諸漏は滅尽していないからである。実に果の刹那においてそれらは滅尽したと説かれるのである。

Loketi sattaloke saṅkhāraloke ca. Sattavisattabhāvenāti laggabhāvena ceva savisesaṃ āsattabhāvena ca. Atha vātiādinā niddesanayavasena (mahāni. 3, cūḷani. mettagūmāṇavapucchāniddesa 22, 23; cūḷani. khaggavisāṇasuttaniddesa 124) visattikāpadaṃ niddisati. Visatāti vitthaṭā rūpādīsu tebhūmakadhammesu byāpanavasena visaṭāti purimavacanameva takārassa ṭakāraṃ katvā vuttaṃ. Visālāti vipulā. Visakkatīti parisakkati sahati. Ratto hi rāgavatthunā pādena tāliyamānopi sahati. Osakkanaṃ, vipphandanaṃ vā visakkanantipi vadanti. Visaṃharatīti yathā tathā kāmesu ānisaṃsaṃ dassentī vividhehi ākārehi nekkhammābhimukhappavattito cittaṃ saṃharati saṅkhipati, visaṃ vā dukkhaṃ, taṃ harati upanetīti attho. Visaṃvādikāti aniccādiṃ niccādito gaṇhāpentī visaṃvādikā hoti. Dukkhanibbattakassa kammassa hetubhāvato visamūlā, visaṃ vā dukkhadukkhādibhūtā vedanā mūlaṃ etissāti visamūlā. Dukkhasamudayattā visaṃ phalaṃ etissāti visaphalā. Taṇhāya rūpādikassa dukkhasseva paribhogo hoti, na amatassāti sā **‘‘visaparibhogā’’**ti vuttā. Sabbattha niruttivasena saddasiddhi veditabbā. Yo panettha padhāno attho, taṃ dassetuṃ puna **‘‘visālā vā panā’’**tiādi vuttaṃ. Nittiṇṇo uttiṇṇoti upasaggavasena padaṃ vaḍḍhitaṃ. Niravasesato vā tiṇṇo nittiṇṇo. Tena tena maggena uddhamuddhaṃ tiṇṇo uttiṇṇo. Yaṃ panettha atthato avibhattaṃ, taṃ suviññeyyameva.

「世間において」とは、衆生世間と行(諸形成)世間において。「執着し絡みつく状態によって」とは、執着した状態、さらには特別に執心した状態によって。あるいは……などとして義釈の方法(大義釈 3, 小義釈・メッタグー学童問釈 22, 23; 小義釈・犀角経釈 124)に従って「ヴィサッティカー(愛執)」という句を解説する。「広がった」とは、広大に色などの三界の法に行き渡るという意味で広がったことであり、先の言葉のt音をṭ音にして説いたものである。「大いなる」とは広大な。「忍従する」とは、忍び寄る、耐え忍ぶ。実に貪愛に染まった者は、貪愛の対象に足で打たれても耐え忍ぶ。後退すること、あるいは身もだえすることもまた「忍従」と言う。「集奪する」とは、あれこれの欲望において利点を顕示し、多様な様相で出離に向かう働きから心を奪い、縮小させることである。あるいは「ヴィサ」とは苦であり、それを奪い、もたらすという意味である。「欺瞞の」とは、無常などを常などと把握させて欺瞞するものとなる。「苦を生じさせる業の原因であることから毒根であり」、あるいは苦苦などとなった感受がこれの根本であることから「毒根」である。「苦の集起であることから毒がこれの果であるゆえに毒果である」。渇愛によって色などの苦そのものの享受があり、不死(涅槃)の享受はないことから、それ(渇愛)は「毒の享受」と説かれた。すべての箇所において語源解釈の力によって言葉の成立を知るべきである。その中で何が主要な意味であるかを示すために、重ねて「あるいは広大にして……」などが説かれた。「渡り切った、超越した」とは、接頭辞によって語を増広したものである。あるいは余すところなく渡ったのが「渡り切った」である。それぞれの道によって上へ上へと渡ったのが「超越した」である。ここで意味において区別されていないものは、容易に理解されるべきものである。

Nivāpasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

餌食経釈の幽微な意味の解明、完結。

6. Pāsarāsisuttavaṇṇanā

6. 罠の群れ経釈(聖求経註解)

272. Sādhumayanti ettha sādhu-saddo āyācanattho, na ‘‘sādhāvuso’’tiādīsu (saṃ. ni. 1.246; su. ni. 182) viya abhinandanādiatthoti āha **‘‘āyācantā’’**ti. Tenāha pāḷiyaṃ ‘‘labheyyāmā’’tiādi vuttaṃ. Na sakkonti, kasmā? Buddhā hi garū honti, paramagarū uttamaṃ gāravaṭṭhānaṃ, na yathā tathā upasaṅkamanīyā. Tenāha **‘‘ekacāriko sīho’’**tiādi.

272. 「どうか(願わくは)」というここでの「sādhu」という語は懇願の意味であり、「友よ、よろしい」など(相応部 1.246; スッタニパータ 182)におけるような歓喜などの意味ではないことから、「懇願しつつ」と説いた。それゆえパーリ本文で「得られんことを」などと説かれた。彼らは近づくことができない、なぜか?諸仏は実に重んずべき方であり、至高の尊敬すべき方、最上の敬重の対象であって、軽々しく近づくべき方ではないからである。それゆえ「独り歩む獅子」などと説かれた。

**‘‘Pākaṭakiriyāyā’’**ti saṅkhepena vuttaṃ vivarituṃ **‘‘yaṃ hī’’**tiādi vuttaṃ. Bhagavā sabbakālaṃ kimevamakāsīti? Na sabbakālamevamakāsi. Yadā pana akāsi, taṃ dassetuṃ **‘‘bhagavā paṭhamabodhiya’’**ntiādi vuttaṃ. Manussattabhāveti iminā purisattabhāvaṃ ulliṅgeti. Dhanapariccāgo kato nāma natthi bhagavato dharamānakāleti adhippāyo.

「明白な行為によって」と簡潔に説かれたことを開示するために「実に何が」などが説かれた。世尊は常にこのようにされたのか?常にこのようにされたのではない。しかしながら、なされた時を示そうとして「世尊は初成道の時に」などが説かれた。「人間としての状態において」とは、これによって男性としての状態を示す。世尊が在世の時に財物の放棄がなされたことはない、というのが意図である。

Mālākacavaranti milātamālākacavaraṃ. Rajojallaṃ na upalimpati acchatarachavibhāvato. Vuttañhetaṃ ‘‘sukhumattā chaviyā kāye rajojallaṃ na limpatī’’ti. Yadi evaṃ kasmā bhagavā nahāyatīti āha **‘‘utuggahaṇattha’’**nti.

「花屑」とは、萎れた花の屑である。塵埃は極めて清浄な肌の状態ゆえに付着しない。実に「肌が微細であるゆえに、身体に塵埃は付着しない」と説かれている。もしそうなら、なぜ世尊は入浴されるのか、それゆえ「季節(気候)を調整するため」と説かれた。

Vihāroti jetavanavihāro. Vīsatiusabhaṃ gāvutassa catuttho bhāgoti vadanti. Kadācīti kasmiñci buddhuppāde. Acalamevāti aparivattameva anaññabhāvato, mañcānaṃ pana appamahantatāhi pādānaṃ patiṭṭhitaṭṭhānassa hānivaḍḍhiyo hontiyeva.

「精舎」とは祇樹給孤独園精舎である。二十牛歩(ウスバ)は一ガヴータの四分の一であると言う。「ある時は」とは、ある仏の出現の時に。「不動のまま」とは、他の状態にならないことから不変のままであるが、寝台の大小によって脚の立つ場所の伸縮はある。

Yantanāḷikāhi paripuṇṇasuvaṇṇarasadhārāhi. Nhānavattanti ‘‘pabbajitena nāma evaṃ nhāyitabba’’nti nahānacārittaṃ dassetvā. Yasmā bhagavato sarīraṃ sudhantacāmīkarasamānavaṇṇaṃ suparisodhitapavāḷarucirakaracaraṇāvaraṃ suvisuddhanīlaratanāvaḷisadisakesatanuruhaṃ, tasmā tahaṃ tahaṃ vinissatajātihiṅgulakarasūpasobhitaṃ upari mahaggharatanāvaḷisañchāditaṃ jaṅgamamiva kanakagirisikharaṃ virocittha. Tasmiñca samaye dasabalassa sarīrato nikkhamitvā chabbaṇṇarasmiyo samantato asītihatthappamāṇe padese ādhāvantī vidhāvantī ratanāvaḷiratanadāma-ratanacuṇṇa-vippakiṇṇaṃ viya, pasāritaratanacittakañcanapaṭṭamiva, āsiñcamānalākhārasadhārā-citamiva, ukkāsatanipātasamākulamiva, nirantaraṃ vippakiṇṇa-kaṇikāra-kiṅkiṇika-pupphamiva, vāyuvegasamuddhata-cinapiṭṭhacuṇṇa-rañjitamiva, indadhanu-vijjulatā-vitānasanthatamiva, gaganatalaṃ taṃ ṭhānaṃ pavanañca sammā pharanti. Tena vuttaṃ **‘‘vaṇṇabhūmi nāmesā’’**tiādi. Atthanti upameyyatthaṃ. Upamāyoti ‘‘īdiso ca hotī’’ti yathārahaṃ tadanucchavikā upamā. Kāraṇānīti upamupameyyasambandhavibhāvanāni kāraṇāni. Pūretvāti vaṇṇanaṃ paripuṇṇaṃ katvā. Thāmo veditabbo ‘‘atitthe pakkhando’’ti avattabbattā.

筒の仕掛けによる満ち足りた黄金の液体の流れによって。「入浴の作法」とは、「出家者はこのように入浴すべきである」という入浴の規定を示して。世尊の身体はよく精錬された黄金のような色をしており、よく浄化された珊瑚のように美しい手足を具え、極めて清浄な青い宝石の列に似た頭髪と体毛を持っていたがゆえに、あちこちから流れ出た生まれつきの辰砂の液体に飾られ、上部は高価な宝石の列に覆われた、動く黄金の山頂のように輝いた。そしてその時、十力(仏)の身体から六色の光明が放たれ、四方八十肘の範囲の場所に走りめぐり、宝石の列、宝石の首飾り、宝石の粉が散りばめられたかのように、広げられた宝石で飾られた黄金の板のように、注がれるラック樹液の流れで彩られたかのように、百の松明の光が交錯するかのように、絶え間なく散り散りになったカニカーラ花やキンキニカ花のように、突風で巻き上げられた中国の粉末で染められたかのように、虹や稲妻の天蓋が張り巡らされたかのように、虚空の広がりとその場所と風を正しく満たした。それゆえ「これは讃嘆の場と呼ばれる」などと説かれた。「意味を」とは譬喩されるべき意味を。「譬喩によって」とは、「このようなものである」と相応しい適切な譬喩によって。「理由を」とは譬喩と被譬喩の結合を解明する理由を。「満たして」とは解説を十全にして。「力量が知られるべきである」とは、「渡し場でないところに飛び込んだ」と言われないためである。

273. Kaṇṇikāti sarīragatabindukatāni maṇḍalāni. Parikkhārabhaṇḍanti uttarāsaṅgaṃ saṅghāṭiñca sandhāya vadati. Kiṃ panāyaṃ nayo buddhānampi sarīre hotīti? Na hoti, vattadassanatthaṃ panetaṃ katanti dassetuṃ **‘‘buddhānaṃ panā’’**tiādi vuttaṃ. Gamanavasena kāyassābhinīharaṇaṃ gamanābhihāro. Yathādhippāyāvattanaṃ adhippāyakopanaṃ.

273. 「花飾り(耳飾り状のもの)」とは、身体にある滴状の斑点のことである。「必需品(資具)」とは、上衣(鬱多羅僧)と大衣(僧伽梨)を指して言っている。では、この方法は諸仏の身体にもあるのか?ない。しかし作法を示すためにこれがなされたと示すために「しかし諸仏の……」などが説かれた。歩行によって身体を運ぶことが「歩行の推進」である。意図のままに運ぶことが「意図の推進」である。

Aññatarāya pāramiyāti nekkhammapāramiyā. Vīriyapāramiyāti apare. Mahābhinikkhamanassāti mahantassa carimabhave abhinikkhamanassa. Tañhi mahantaṃ bhogakkhandhaṃ mahantañca ñātiparivaṭṭaṃ mahantañca cakkavattisiriṃ pajahitvā sadevakassa lokassa samārakassa ca acinteyyāparimeyyabhedassa mahato atthāya hitāya sukhāya pavattattā mahanīyatāya ca mahantaṃ abhinikkhamananti vuccati.

「ある一つの波羅蜜によって」とは、出離波羅蜜によって。「精進波羅蜜によって」とは他の者たちの説である。「偉大なる出家」とは、最後の生涯における偉大なる出家のことである。実にそれは、莫大な財産の蓄積と、広大な親族の輪と、広大なる転輪聖王の栄華を捨て去り、神々を含み悪魔を含む世間の、不可思議で無量な区別を持つ大いなる利益と福祉と安楽のために行われたものであり、称賛されるべきものであることから「偉大なる出家」と呼ばれる。

Purimoti ‘‘katamāya nu kathāya sannisinnā bhavathā’’ti evaṃ vuttaattho. Kā ca pana voti ettha ca-saddo byatireke. Tena yathāpucchitāya kathāya vakkhamānaṃ vippakatabhāvaṃ joteti. Pana-saddo vacanālaṅkāre. Yāya hi kathāya te bhikkhū sannisinnā, sā eva antarākathābhūtā vippakatā visesena puna pucchīyati. Aññāti antarā-saddassa atthamāha. Aññattho hi ayaṃ antarā-saddo ‘‘bhūmantaraṃ (dha. sa. aṭṭha. nidānakathā) samayantara’’ntiādīsu viya, antarāti vā vemajjheti attho. Dasakathāvatthunissitāti ‘‘kiṃ sīlaṃ nāma, kathañca pūretabbaṃ, kāni cassa saṃkilesavodānānī’’tiādinā appicchādinissitā sīlādinissitā ca kathā. Ariyoti niddoso. Atha vā atthakāmehi araṇīyoti ariyo, ariyānaṃ ayanti vā ariyoti. Bhāvanāmanasikāravasena tuṇhī bhavanti, na ekaccabāhirakapabbajitā viya mūgabbatasamādānena. Dutiyajjhānampi ariyo tuṇhībhāvo vacīsaṅkhārapahānato. Mūlakammaṭṭhānanti pārihāriya kammaṭṭhānampi. Jhānanti dutiyajjhānaṃ.

「前の」とは、「どのような話のために集まっていたのか」とこのように説かれた意味である。「また、あなた方のいかなる……」のここでの「ca(また)」という語は差異を示す。それによって問われた通りの説話について、語られるべき中途半端な状態を照らし出している。「pana(一体)」という語は語調を整える修辞である。実に比丘たちが集まっていたその話こそが中途の話となって中絶していたのであり、重ねて特別に問われているのである。「別の」とは「antarā(中間・別)」という語の意味を語っている。実にこの「antarā」という語は「別の地(法集論註・緒論)」「別の機会」などにおけるように「別の」という意味を持ち、あるいは「antarā」とは中間においてという意味である。「十の論事に依拠した」とは、「戒とは何か、どのように満たされるべきか、その染汚と清浄とは何か」などとして少欲などに依拠し、戒などに依拠した説話である。「聖なる」とは無過失の。あるいは利益を望む者たちによって到達されるべきものであるゆえに「聖なる」であり、聖者たちのものであるゆえに「聖なる」である。修習と作意の力によって沈黙するのであり、一部の外道の出家者のように唖の誓いを守ることによるのではない。第二禅もまた言語活動(尋・伺)を断滅したことから「聖なる沈黙」である。「根本の業処」とは、維持すべき業処でもある。「禅定」とは第二禅のことである。

274. ‘‘Sannipatitānaṃ vo, bhikkhave, dvaya’’nti (ma. ni. 1.273; udā. 12, 28, 29) aṭṭhuppattivasena desanā pavattāti tassā uparidesanāya sambandhaṃ dassetuṃ **‘‘dvemā, bhikkhave, pariyesanāti ko anusandhī’’**ti anusandhiṃ pucchati. Ayaṃ tumhākaṃ pariyesanāti yā mahābhinikkhamanapaṭibaddhā dhammī kathā, sā tumhākaṃ dhammapariyesanā dhammavicāraṇā ariyapariyesanā nāma. Apāyamagganti anatthāvahaṃ maggaṃ. Uddesānukkamaṃ bhinditvāti uddesānupubbiṃ laṅghitvā. Dhamma-saddo ‘‘amosadhammaṃ nibbāna’’ntiādīsu viya pakatipariyāyo. Jāyanasabhāvoti jāyanapakatikoti attho. Sesapadesupi eseva nayo.

274. 「比丘たちよ、集まった汝らには二つのこと(法話か聖なる沈黙か)がある」(中部 1.273; 自説経 12, 28, 29)と事の生起によって教説が生起したため、その後の教説との結びつきを示すために「比丘たちよ、これら二つの探求がある、とはどのような脈絡か」と脈絡を問うている。「汝らのこの探求」とは、偉大なる出家に関わる法話であり、それは汝らの法の探求、法の考察、聖なる探求と呼ばれるものである。「悪道への道を」とは、無益をもたらす道を。「総説の順序を破って」とは、総説の順序を飛び越えて。「法(dhamma)」という語は「虚妄ならざる法たる涅槃」などにおけるように本性の同義語である。「生ずる性質のもの」とは、生ずる本性を持つものという意味である。残りの句においてもこの方法と同じである。

Sabbatthāti yathā ‘‘puttabhariya’’nti dvandasamāsavasena ekattaṃ, esa nayo sabbattha ‘‘dāsidāsa’’ntiādīsu sabbapadesu. Parato vikāraṃ anāpajjitvā sabbadā jātarūpameva hotīti jātarūpaṃ, suvaṇṇaṃ. Dhavalasabhāvatāya rañjīyatīti rajataṃ, rūpiyaṃ. Idha pana suvaṇṇaṃ ṭhapetvā yaṃ kiñci upabhogaparibhogārahaṃ rajataṃteva gahitaṃ. Upadhīyati ettha dukkhanti upadhayo. Cutīsaṅkhātaṃ maraṇanti ekabhavapariyāpannaṃ khandhanirodhasaṅkhātaṃ maraṇamāha. Khaṇikanirodho pana khaṇe khaṇe. Tenāha **‘‘sattānaṃ viyā’’**ti. Saṃkilissatīti dūsavisena viya attānaṃ dūsissati. Tenāha bhagavā – ‘‘pañcime, bhikkhave, jātarūpassa upakkilesā ayo loha’’ntiādi (a. ni. 5.23). Malaṃ gahetvāti yehi sahayogato malinaṃ hoti, tesaṃ malinabhāvapaccayānaṃ vasena malaṃ gahetvā. Jīraṇato jarādhammavāre jātarūpaṃ gahitanti yojanā. Ye pana jātidhammavārepi jātarūpaṃ na paṭhanti, tesaṃ itaresaṃ viya jīraṇadhammavāre sarūpato anāgatampi upadhiggahaṇena gahitamevāti daṭṭhabbaṃ. Pariggahe ṭhitānaṃ pana vasena vuccamāne apākaṭānampi jātijarāmaraṇānaṃ vasena yojanā labbhateva. Jātarūpasīsena cettha sabbassapi anindriyabaddhassa gahaṇaṃ daṭṭhabbaṃ, puttabhariyādiggahaṇena viya mittāmaccādiggahaṇaṃ.

「すべてにおいて」とは、「子と妻」と相違複合法(ドヴァンドヴァ)によって単数とされるように、この方法が「奴婢と僕」などのすべての句において当てはまる。他からの変異に陥ることなく常に金そのものであるゆえに「生色(jātarūpa)」、すなわち黄金である。白い本性を持つことによって染められるゆえに「白銀(rajata)」、すなわち銀である。しかしここでは黄金を除いて、あらゆる享受・使用に値する銀そのものが取られている。ここに苦が蓄積されるゆえに「取(upadhi、執着の依処)」である。「死と呼ばれる死」とは、一回の一生の生存に包摂される諸蘊の滅尽と呼ばれる死のことを言っている。しかし刹那の滅は刹那刹那にある。それゆえ「衆生たちのように」と説かれた。「汚される」とは、毒蛇の毒のように自らを汚すであろう。それゆえ世尊は説かれた――「比丘たちよ、黄金のこれら五つの随煩悩がある。鉄、銅……」など(増支部 5.23)。「垢を取って」とは、それらとの結合によって汚れるところの、それら汚染の諸条件の力によって垢を取って。「老いることから老法(老いる性質のもの)の段において黄金が取られた」という構文である。しかし生法(生ずる性質のもの)の段においても黄金を読まない人々にとっては、他のものたちのように老法の段において明確には現れなくても、執着の依処の把握によって取られたに他ならないと見なされるべきである。しかし執着に住する者たちの力によって説かれる場合、明白でない生・老・死の力によっても構文は得られるのである。そしてここでは黄金を筆頭としてすべての非情物に結びついたものの把握が見なされるべきであり、子や妻などの把握によって友人や大臣などの把握がなされるのと同様である。

275. Ariyehi pariyesanā, ariyānaṃ pariyesanāti vā ariyapariyesanāti samāsadvayaṃ dasseti **‘‘ayaṃ, bhikkhave’’**tiādinā.

275. 聖者たちによる探求、あるいは聖者たちの探求が「聖なる探求」であるという二つの複合語の意味を「比丘たちよ、これである」などによって示している。

276. Mūlato paṭṭhāyāti yaṃ mahābhinikkhamanassa mūlabhāvesuādīnavadassanaṃ, tato paṭṭhāya. Yasmā te bhikkhū tattha mahābhinikkhamanakathāya sannisinnā, sā ca nesaṃ antarākathā vippakatā, tasmā bhagavā tesaṃ mūlato paṭṭhāya mahābhinikkhamanakathaṃ kathetuṃ ārabhi. Ahampi pubbeti visesavacanaṃ aparipakkañāṇena sayaṃ carimabhave tīsu pāsādesu tividhanāṭakaparivārassa dibbasampattisadisāya mahāsampattiyā anubhavanaṃ, abhinikkhamitvā padhānapadahanavasena attakilamathānuyogañca sandhāyāha. Anariyapariyesanaṃ pariyesinti etthāpi eseva nayo. Pañcavaggiyāpīti yathāsakaṃ gihibhogaṃ anuyuttā taṃ pahāya pabbajitvā attakilamathānuyoge ṭhitā satthu dhammacakkapavattanadesanāya (saṃ. ni. 5.1081; mahāva. 13; paṭi. ma. 2.30) tampi pahāya ariyapariyesanaṃ pariyesiṃsūti.

276. 「根本から」とは、偉大なる出家の根本である諸々の過患の観察、そこから。「実にそれらの比丘たちはそこで偉大なる出家の話のために集まっており、その彼らの中途の話は中絶していたため、世尊は彼らのために根本から偉大なる出家の話を語り始めた」のである。「私もまた以前は」という特別な言葉は、未熟な智慧によって自ら最後の生涯において三つの宮殿で三種の劇団に囲まれ、天界の繁栄に似た大いなる繁栄を享受したこと、出家して精励・奮闘によって苦行に専念したことを指して言ったのである。「非聖なる探求を探求した」というここにおいても同じ方法である。「五比丘たちもまた」とは、おのおの世俗の享受に従っていたが、それを捨てて出家し、苦行の実践に住していたが、師の初転法輪の教説(相応部 5.1081; 大品 13; 無礙解道 2.30)によってそれをも捨てて聖なる探求を探求した、ということである。

277. Kāmaṃ dahara-saddo ‘‘daharaṃ kumāraṃ mandaṃ uttānaseyyaka’’nti (ma. ni. 1.496) ettha bāladārake āgato, ‘‘bhadrena yobbanena samannāgato’’ti pana vakkhamānattā yuvāvatthā idha dahara-saddena vuttāti āha **‘‘taruṇova samāno’’**ti. Paṭhamavayena ekūnatiṃsavayattā. Jātiyā hi yāva tettiṃsavayā paṭhamavayo. Anādaratthe sāmivacanaṃ yathā ‘‘devadattassa rudantassa pabbajī’’ti. Kāmaṃ assumuccanaṃ rodanaṃ, taṃ assumukhānanti iminā pakāsitaṃ, taṃ pana vatvā **‘‘rudantāna’’**nti vacanaṃ balavasokasamuṭṭhānaṃ ārodanavatthuṃ pakāsetīti āha **‘‘kanditvā rodamānāna’’**nti. Kiṃ kusalanti gavesamānoti kinti sabbaso avajjarahitaṃ ekanta niyyānikaṃ pariyesamāno. Varapadanti vaṭṭadukkhanissaraṇatthikehi ekantena varaṇīyaṭṭhena varaṃ, pajjitabbaṭṭhena padaṃ. Tuṅgasarīratāya dīgho, piṅgalacakkhutāya piṅgaloti dīghapiṅgalo. Dhammoti vinayo, samayoti attho. Sutvāva uggaṇhinti tena vuccamānassa savanamatteneva uggaṇhiṃ vācuggataṃ akāsiṃ.

277. 確かに「dahara(若い・幼い)」という語は「幼い少年、愚かで仰向けに寝ている者」(中部 1.496)というここにおいては幼子として現れているが、「恵まれた青春を具足した」と後に説かれることから、青年期がここでは「dahara」という語で説かれているとして「若くして」と言った。「第一の年齢によって」とは、二十九歳の年齢であったことから。実に生まれてから三十三歳までが第一の年齢(青年期)である。不敬の意味における属格の表現は「デーヴァダッタが泣いているのに出家した」というのと同様である。確かに涙を流すことが泣くことであり、それは「涙に濡れた顔で」というこれによって示されているが、それを語った上で「泣き叫ぶ」という言葉は、強烈な悲嘆の生起という号泣の事由を示すことから「泣き叫び嘆く者たちの」と説いた。「何が善であるかを探求しつつ」とは、何が完全に過失を離れ、決定的に解脱へと導くものであるかを探求しつつ。「最上の境地」とは、輪廻の苦からの脱出を求める者たちによって絶対的に選ばれるべきものであるという意味で「最上(vara)」であり、到達されるべきものであるという意味で「境地(pada)」である。長身であることから「長身(dīgha)」であり、金褐色の目を持つことから「金褐色(piṅgala)」であるゆえに「長身にして金褐色の目の者(dīghapiṅgala)」である。「法」とは律、教えという意味である。「聞くや否や学んだ」とは、彼によって説かれることを聞くだけで学び、暗唱した。

Paṭilapanamattakenāti puna lapanamattakena. Jānātīti ñāṇo, ñāṇoti vādo ñāṇavādo, taṃ ñāṇavādaṃ. ‘‘Vadāmī’’ti āgatattā **aṭṭhakathāyaṃ ‘‘jānāmī’’**ti uttamapurisavasena attho vutto. Aññepi bahūti aññepi bahū mama tathābhāvaṃ jānantā ‘‘ayaṃ imaṃ dhammaṃ jānātī’’ti, ‘‘akampanīyatāya thiro’’ti vā evaṃ vadanti. Lābhīti aññāsīti dhammassa uddisanena mahāpaññatāya ‘‘ayaṃ attanā gatamaggaṃ pavedeti, na anussutiko’’ti aññāsi. Assāti bodhisattassa. Etadahosīti etaṃ ‘‘na kho āḷāro kālāmo’’tiādi manasi ahosi, cintesīti attho.

「口先だけの繰り返しによって」とは、ただ再び口にすることだけによって。「知る」ゆえに「智」であり、「智」という主張が「智論」であり、その智論のことである。「語る」と現れていることから、註釈書においては「知る」と一人称(自分)の力によって意味が説かれた。「他の多くの者たちも」とは、他の多くの者たちも私のその状態を知って「この人はこの法を知っている」「揺るぎないがゆえに堅固である」とこのように言う。「得た者」とは知ったということである。法の指示によって大いなる智慧を持つことから「この人は自ら歩んだ道を説いているのであり、伝承を聞いただけの者ではない」と知った。「彼に」とは菩薩に。「このように思われた」とは、「実にアーラーラ・カーラーマは……」などと心に生じた、すなわち考えたという意味である。

Heṭṭhimasamāpattīhi vinā uparimasamāpattīnaṃ sampādanassa asambhavato **‘‘satta samāpattiyo maṃ jānāpesī’’**ti āha. Payogaṃ kareyyanti bhāvanaṃ anuyuñjeyyanti attho. Evamāhāti evaṃ ‘‘ahaṃ, āvuso’’tiādimāha, sattannaṃ samāpattīnaṃ adhigamaṃ paccaññāsīti attho.

下位の等至(禅定)なしには上位の等至の成就はあり得ないことから、「七つの等至を私に知らせた」と言った。「実践をなすべきである」とは、修習に専念すべきであるという意味である。「このように語った」とは、このように「友よ、私は……」などと語り、七つの等至の証得を告白したという意味である。

Anusūyakoti anissukī. Tena mahāpurise pasādaṃ pavedesi. Bodhisattassa tā samāpattiyo nibbattetvā ṭhitassa purimajātiparicayena ñāṇassa ca mahantatāya tāsaṃ gati ca abhisamparāyo ca upaṭṭhāsi. Tena ‘‘vaṭṭapariyāpannā evetā’’ti nicchayo udapādi. Tenāha **‘‘nāyaṃ dhammo nibbidāyā’’**tiādi. Ekaccānaṃ virāgabhāvanāsamatikkamāvahopi neva tesampi accantāya samatikkamāvaho, sayañca vaṭṭapariyāpannoyeva, tasmā neva vaṭṭe nibbindanatthāya, yadaggena na nibbidāya, tadaggena na virajjanatthāya, rāgādīnaṃ pāpadhammānaṃ na nirujjhanatthāya, na upasamatthāya, tasmā taṃ abhiññeyyadhammaṃ na abhijānanatthāya…pe… saṃvattatīti yojanā.

「嫉妬のない者」とは、妬まない者のことである。それによって大人物への信順を表明した。菩薩がそれらの等至を生じさせて留まっていたとき、過去生での実践経験と智慧の大いなることによって、それら(禅定)の行く末と来世のあり様とが現前した。それによって「これらはまさに輪廻に包摂されるものに他ならない」という決定が生じた。それゆえ「この法は嫌悪(厭離)のためにならず……」などと説かれた。一部の者たちにとって離貪の修習の超越をもたらすとしても、それらの者たちにとっても究極の超越をもたらすものではなく、それ自体が輪廻に包摂されたものに他ならない。それゆえ輪廻において厭離するためにならず、厭離のためにならない以上、離貪のためにもならず、貪りなどの悪法が滅尽するためにもならず、静止のためにもならず、それゆえ知られるべき法を証知するためにもならず……中略……導かない、という構文である。

Yāvadeva ākiñcaññāyatanupapattiyāti sattasu samāpattīsu ukkaṭṭhaṃ gahetvā vadati. Uṭṭhāya samuṭṭhāya acutidhammaṃ pariyesituṃ yuttattā tañca anatikkantajātidhammamevāti mahāsatto pajahatīti āha **‘‘yañca ṭhānaṃ pāpetī’’**tiādi. Tato paṭṭhāyāti yadā samāpattidhammassa gatiñca abhisamparāyañca abbhaññāsi, tato paṭṭhāya. Makkhikāvasenāti bhojanassa makkhikāmissatāvasena. Manaṃ na uppādeti bhuñjitunti adhippāyo. Mahantena ussāhenāti idaṃ katipāhaṃ tattha bhāvanānuyogamattaṃ sandhāya vuttaṃ, na aññesaṃ viya kasiṇaparikammādikaraṇaṃ. Na hi antimabhavikabodhisattānaṃ samāpattinibbattane bhāriyaṃ nāma. Analaṅkaritvāti anu anu alaṃkatvā punappunaṃ ‘‘iminā na kiñci payojana’’nti katvā.

「ただ無所有処への再生のためだけになる」とは、七つの等至の中で最上のものを取って語っている。「立ち上がって」とは、奮起して不死の法を探求するのが当然であり、それ(無所有処)もまた生ずる性質のものを超えていないに他ならないことから、大士(菩薩)は放棄するとして「導くところの境地をも……」などと説いた。「それ以来」とは、等至という法の行く末と来世のあり様とを知った時、それ以来。「蠅の理由によって」とは、食事が蠅の混ざった状態であることによって。「食べる気を起こさない」というのが意図である。「大いなる努力によって」とは、これは数日間のそこでの瞑想の実践のみを指して説かれたものであり、他の者たちのように遍処(カシナ)の準備作業などを行うことではない。実に最後の生涯にある菩薩たちにとって等至を生じさせることは困難なことではないからである。「飾り立てることなく」とは、次々と飾り立てて「これには何の役にも立たない」と何度もして。

278. Vācāya uggahitamattovāti ettha pubbe vuttanayānusārena attho veditabbo.

278. 「言葉によって学んだだけで」というここにおいては、以前に説かれた方法に従って意味が知られるべきである。

279. Mahāvelā viya mahāvelā, vipulavālikapuñjatāya mahanto velātaṭo viyāti attho. Tenāha **‘‘mahāvālikarāsīti attho’’**ti. Uru maru sikatā vālukā vaṇṇu vālikāti ime saddā samānatthā, byañjanameva nānaṃ.

「大いなる砂浜のように」とは、大いなる砂浜、広大な砂の山があることによって大いなる海浜の岸のようであるという意味である。それゆえ「大いなる砂の山という意味である」と説かれた。uru、maru、sikatā、vālukā、vaṇṇu、vālikāというこれらの語は同義語であり、表現のみが異なる。

Senā nigacchi nivisi etthāti senānigamo, senāya niviṭṭhaṭṭhānaṃ. Senānigāmoti pana ayaṃ samaññā aparakālikā. Gocaragāmanidassanañcetaṃ. Uparisuttasminti mahāsaccakasutte. Idha pana bodhipallaṅko adhippeto ariyapariyesanāya vuccamānattā.

軍隊がここに宿営した、駐屯したゆえに「軍営町(セーナーニガマ)」、すなわち軍隊が駐屯した場所である。しかし「セーナーニガーマ」というこの名称は後代のものである。そしてこれは托鉢村の例示である。「後の経において」とは大サッチャカ経においてである。しかしここでは聖なる探求が説かれつつあることから菩提樹下の座(金剛座)が意図されている。

280. ‘‘Ñāṇadassana’’nti ca ekajjhaṃ gahitapadadvayavisayavisesassa anāmaṭṭhattā ‘‘me’’ti ca gahitattā anavasesañeyyāvabodhanasamatthameva ñāṇavisesaṃ bodheti, na ñāṇamattaṃ, na dassanamattanti āha **‘‘sabbadhammadassanasamatthañca me sabbaññutaññāṇaṃ udapādī’’**ti. Akuppatāyāti vimokkhantatāya sabbaso paṭipakkhadhammehi asaṅkhobhanīyatāya. Tenāha ‘‘rāgādīhi **na kuppatī’’**ti. Ārammaṇasantatāyapi tadārammaṇānaṃ atthi viseso yathā taṃ ‘‘āneñjavihāre’’ti āha **‘‘akuppārammaṇatāya cā’’**ti. Paccavekkhaṇañāṇampīti na kevalaṃ sabbaññutaññāṇameva, atha kho yathādhigate paṭivedhasaddhamme ekūnavīsatividhapaccavekkhaṇañāṇampi.

280. 「智見」と一括して取られた二つの語の対象の差異が触れられておらず、「私に」と取られていることから、余すところなく知られるべき対象を覚知し得る特別な智そのものを覚らせるのであり、単なる智ではなく、単なる見でもないとして「一切法を見るに堪える私の一切知智が生じた」と説いた。「不動であることによって」とは、解脱の究極性によって、完全に対治すべき法(煩悩)によって動揺させられないことによる。それゆえ「貪りなどによって動揺しない」と説かれた。対象の静寂性によっても、それらの対象には差異がある。あたかも「不動の境地において」と言われるように「不動の対象であることによっても」と説いた。「省察の智もまた」とは、単に一切知智だけでなく、実に証得された通りの通達正法における十九種の省察の智をも指す。

281. Paṭividdhoti (dī. ni. ṭī. 2.64; saṃ. ni. ṭī. 1.1.172; sārattha. ṭī. mahāvagga 3.7) sayambhuñāṇena ‘‘idaṃ dukkha’’ntiādinā paṭimukhaṃ nibbijjhanavasena patto, yathābhūtaṃ avabuddhoti attho. Gambhīroti mahāsamuddo viya makasatuṇḍasūciyā aññatra samupacitaparipakkañāṇasambhārehi aññesaṃ ñāṇena alabbhaneyyapatiṭṭho. Tenāha **‘‘uttānabhāvapaṭikkhepavacanameta’’**nti. Yo alabbhaneyyapatiṭṭho, so ogāhitumasakkuṇeyyatāya sarūpato ca passituṃ na sakkāti āha **‘‘gambhīrattāva duddaso’’**ti. Dukkhena daṭṭhabboti kicchena kenacideva daṭṭhabbo. Yaṃ pana daṭṭhumeva na sakkā, tassa ogāhetvā anu anu bujjhane kathā eva natthīti āha **‘‘duddasattāva duranubodho’’**ti. Dukkhena avabujjhitabbo avabodhassa dukkarabhāvato. Imasmiṃ ṭhāne – ‘‘taṃ kiṃ maññatha, bhikkhave, katamaṃ nu kho dukkarataraṃ vā durabhisambhavataraṃ vā’’ti suttapadaṃ (saṃ. ni. 5.1115) vattabbaṃ. Santārammaṇatāya vā santo. Nibbutasabbapariḷāhatāya nibbuto. Padhānabhāvaṃ nītoti vā paṇīto. Atittikaraṭṭhena atappako sādurasabhojanaṃ viya. Ettha ca nirodhasaccaṃ santaṃ ārammaṇanti santārammaṇaṃ, maggasaccaṃ santaṃ santārammaṇañcāti santārammaṇaṃ. Anupasantasabhāvānaṃ kilesānaṃ saṅkhārānañca abhāvato nibbutasabbapariḷāhatāya santapaṇītabhāveneva ca asecanakatāya atappakatā daṭṭhabbā. Tenāha **‘‘idaṃ dvayaṃ lokuttarameva sandhāya vutta’’**nti. Uttamañāṇavisayattā na takkena avacaritabbo, tato eva nipuṇañāṇagocaratāya ca saṇho. Sukhumasabhāvattā ca nipuṇo, bālānaṃ avisayattā paṇḍitehi eva veditabboti paṇḍitavedanīyo. Ālīyanti abhiramitabbaṭṭhena sevīyantīti ālayā, pañca kāmaguṇā. Ālayanti allīyantī abhiramaṇavasena sevantīti ālayā, taṇhāvicaritāni. Ramantīti ratiṃ vindanti kīḷanti laḷanti. Ālayaratāti ālayaniratā.

281. 「通達された」とは、自覚の智によって「これは苦である」などと真正面から突き刺すように到達した、ありのままに覚知されたという意味である。「深遠なる」とは、大海が蚊の針のような嘴では測れないように、積み重ねられ成熟した智慧の資糧を持つ者を除いて、他の者たちの智慧によっては足場を得られないものである。それゆえ「これは浅薄であることの否定の言葉である」と説かれた。足場を得られないものは、沈潜することができないことによって、その本質を見ることもできないとして「深遠であるがゆえに見難い」と説いた。「困難を伴って見られるべき」とは、辛うじて誰かによって見られるべきものである。しかし見ることすらできないものを、沈潜して次々に覚知することなど論外であるとして「見難いがゆえに覚知し難い」と説いた。「困難を伴って覚知されるべき」とは、覚知することが困難であることによる。この箇所において、「比丘たちよ、汝らはどう思うか、どちらがより困難であり、より達成し難いか」という経の句(相応部 5.1115)が語られるべきである。静寂なる対象を持つことによって、あるいは「静寂なる」。すべての熱苦が寂静したことによって「寂静なる」。最上の状態に達したことによって、あるいは「勝妙なる」。美味な食事のように飽きさせないという意味で「飽くことなき」。そしてここで滅諦は静寂なる対象であるゆえに「静寂なる対象」であり、道諦は静寂であり静寂なる対象を持つゆえに「静寂なる対象」である。静止しない性質の煩悩と諸行が存在しないことから、すべての熱苦が寂静したことによって静寂にして勝妙なる状態そのものによって、混じりけのないことによる飽くことなき状態が見なされるべきである。それゆえ「この二つは出世間そのものを指して説かれた」と説かれた。最上の智の領域であるゆえに思索(論理)によって推し量られるべきではなく、それゆえに微細な智の境域であることから「精緻な」。微細な性質を持つゆえに「深妙な」、愚者たちの領域ではないことから賢者たちによってのみ知られるべきであるゆえに「賢者によって知られるべき」である。執着する、歓喜すべきものとして親しまれるゆえに「愛執(アーラヤ)」、すなわち五つの欲望である。愛執に執着する、歓喜することによって親しむゆえに「愛執」、すなわち渇愛の働きである。楽しむとは、歓喜を見出し、戯れ、喜ぶことである。「愛執を楽しむ者たち」とは、愛執に熱中する者たちのことである。

Ṭhānaṃ sandhāyāti ṭhāna-saddaṃ sandhāya. Atthato pana ṭhānanti ca paṭiccasamuppādo eva adhippeto. Tiṭṭhati phalaṃ tadāyattavuttitāyāti ṭhānaṃ, saṅkhārādīnaṃ paccayabhūtā avijjādayo. Imesaṃ saṅkhārādīnaṃ paccayāti idappaccayā, avijjādayova. Idappaccayā eva idappaccayatā yathā ‘‘devo eva devatā’’ti, idappaccayānaṃ vā avijjādīnaṃ attano phalaṃ pati paccayabhāvo uppādanasamatthatā idappaccayatā. Tena samatthapaccayalakkhaṇo paṭiccasamuppādo dassito hoti. Paṭicca samuppajjati phalaṃ etasmāti paṭiccasamuppādo. Padadvayenapi dhammānaṃ paccayaṭṭho eva vibhāvito. Tenāha **‘‘saṅkhārādipaccayānaṃ etaṃ adhivacana’’**nti. Ayamettha saṅkhepo, vitthāro pana visuddhimaggasaṃvaṇṇanāyaṃ (visuddhi. mahāṭī. 2.572-573) vuttanayena veditabbo.

「根拠を指して」とは、「根拠(ṭhāna)」という語を指して。しかし意味においては根拠とはまさに縁起そのものが意図されている。果がそれ(縁)に依存して生起することによって存在するゆえに「根拠」であり、諸行などの縁となった無明などである。これら諸行などの縁であるゆえに「これら(ida)の縁(paccaya)」であり、無明などに他ならない。これら(ida)の縁そのものが「これ(ida)を縁とする性(idappaccayatā)」であり、あたかも「deva(神)そのものがdevatā(神性)」であるように、あるいはこれら(無明など)の縁が自らの果に対して縁となる状態、生起させる能力を持つことが「これを縁とする性」である。これによって能力ある縁を特徴とする縁起が示されたことになる。縁によって果がここから生起するゆえに「縁起」である。二つの語によっても諸法の縁としての意味そのものが解明された。それゆえ「諸行などの縁の、これが別名である」と説かれた。これがここでの要約であり、詳細は清浄道論の大註解(2.572-573)に説かれた方法によって知られるべきである。

Sabbasaṅkhārasamathotiādi sabbanti sabbasaṅkhārasamathādisaddābhidheyyaṃ sabbaṃ atthato nibbānameva. Idāni tassa nibbānabhāvaṃ dassetuṃ **‘‘yasmā hī’’**tiādi vuttaṃ. Nti nibbānaṃ. Āgammāti paṭicca ariyamaggassa ārammaṇapaccayabhāvahetu. Sammantīti appaṭisandhikūpasamavasena sammanti. Tathā santā savisesaṃ upasantā nāma hontīti āha **‘‘vūpasammantī’’**ti. Etena ‘‘sabbe saṅkhārā sammanti etthāti sabbasaṅkhārasamatho, nibbāna’’nti dasseti. Sabbasaṅkhatavisaṃyutte ca nibbāne sabbasaṅkhāravūpasamapariyāyo heṭṭhā vuttanayeneva veditabbo. Sesapadesupi eseva nayo. Paṭinissaṭṭhāti samucchedavasena pariccattā honti. Sabbā taṇhāti aṭṭhasatappabhedā sabbāpi taṇhā. Sabbe kilesarāgāti kāmarāgarūparāgādibhedā sabbepi kilesabhūtā rāgā, sabbepi vā kilesā idha ‘‘kilesarāgā’’ti veditabbā, na lobhavisesā eva cittassa vipariṇatabhāvāpādanato. Yathāha ‘‘rattampi cittaṃ vipariṇataṃ, duṭṭhampi cittaṃ vipariṇataṃ, mūḷhampi cittaṃ vipariṇata’’nti (pārā. 271). Virajjantīti palujjanti.

「一切行の静止」などのすべてとは、一切行の静止などの語によって表現されるべきすべてのものは、意味においては涅槃そのものである。今その涅槃たる状態を示すために「実に何ゆえに」などが説かれた。「それを」とは涅槃を。「よって」とは、縁として、聖道の対象の縁となる状態を原因として。「静まる」とは、再生を伴わない静止によって静まる。そのように静まったものは特別に静止したものと呼ばれるとして「寂静となる」と説いた。これによって「すべての行がここで静まるゆえに一切行の静止、すなわち涅槃である」と示す。そしてすべての有為から離れた涅槃において一切行の静止の観点は、先に説かれた方法によって知られるべきである。残りの句においてもこの方法と同じである。「遺棄された」とは、断滅によって放棄されたものとなる。「すべての渇愛」とは、百八種に分類されるすべての渇愛のことである。「すべての煩悩の貪り」とは、欲貪や色貪などに分類されるすべての煩悩となった貪りのことであり、あるいはすべての煩悩がここでは心の変質した状態をもたらすことから「煩悩の貪り」と知られるべきであって、特定の貪欲だけではない。あたかも「貪りに染まった心も変質したものであり、怒りに染まった心も変質したものであり、迷いに染まった心も変質したものである」(波羅提木叉 271)と説かれる通りである。「離れる」とは崩壊する。

Ciranisajjācirabhāsanehi piṭṭhiāgilāyanatālugalasosādivasena kāyakilamatho ceva kāyavihesā ca veditabbā. Sā ca kho desanāya atthaṃ ajānantānaṃ vasena vuttā, jānantānaṃ pana desanāya kāyaparissamopi satthu aparissamova. Tenāha bhagavā – ‘‘na ca maṃ dhammādhikaraṇaṃ vihesesī’’ti (udā. 10). Tenevāha **‘‘yā ajānantānaṃ desanā nāma, so mama kilamatho assā’’**ti. Ubhayanti cittakilamatho ceva cittavihesā cāti ubhayampetaṃ buddhānaṃ natthi bodhimūleyeva samucchinnattā.

長時間の着座や長時間の説法による背中の疲労や喉・口の渇きなどによる身体の疲労と身体の困憊とが知られるべきである。そしてそれは説法の意味を理解しない者たちに関して説かれたものであり、理解する者たちへの説法においては身体の疲労も師にとっては無疲労に等しい。それゆえ世尊は説かれた――「法に関する事柄が私を困憊させることはなかった」(自説経 10)と。それゆえ「理解しない者たちへの説法こそが、私の疲労となるであろう」と説いた。「両方」とは心の疲労と心の困憊であり、この両方とも諸仏には菩提樹の下で完全に断たれているがゆえに存在しない。

Anubrūhanaṃ sampiṇḍanaṃ. Soti ‘‘apissū’’ti nipāto. Manti paṭi-saddayogena sāmiatthe upayogavacananti āha **‘‘mamā’’**ti. Vuddhippattā vā acchariyā anacchariyā. Vuddhiatthopi hi a-kāro hoti yathā ‘‘asekkhā dhammā’’ti (dha. sa. 11.tikamātikā). Kappānaṃ satasahassaṃ cattāri ca asaṅkhyeyyāni sadevakassa lokassa dhammasaṃvibhāgakaraṇatthameva pāramiyo pūretvā idāni adhigatadhammarajjassa tattha appossukkatāpattidīpanatā, gāthātthassa acchariyatā, tassa vuddhippatti cāti veditabbaṃ. Atthadvārena hi gāthānaṃ anacchariyatā. Gocarā ahesunti upaṭṭhahesuṃ. Upaṭṭhānañca vitakketabbatāti āha **‘‘parivitakkayitabbataṃ pāpuṇiṃsū’’**ti.

「増強すること」とは集積すること。「それ」とは「実に〜さえも」という不変化詞である。「私に」とは「pati」という語との結合によって属格の意味における対格の言葉であるとして「私の」と言った。「増大に達した」あるいは「驚くべき、前代未聞の」。実に増大の意味においても「a-」の音はあるのであり、あたかも「無学の諸法(増大した諸法)」における通りである。十万劫と四阿僧祇の間、神々を含む世間に法を分け与えるためだけに波羅蜜を満たし、今や法王の位を獲得したにもかかわらず、そこにおいて無関心に陥ったことの開示、詩偈の意味の驚くべきこと、その増大に達したこと、と知られるべきである。実に意味の扉によって詩偈の前代未聞さがある。「境域となった」とは現前した。現前することとは思索されるべきことであるとして「思索されるべき状態に至った」と説いた。

Yadi sukhāpaṭipadāva, kathaṃ kicchatāti āha **‘‘pāramīpūraṇakāle panā’’**tiādi. Evamādīni duppariccajāni dentassa. Ha-iti vā ‘‘byatta’’nti etasmiṃ atthe nipāto. Ekaṃsattheti keci. Ha byattaṃ, ekaṃsena vā alaṃ nippayojanaṃ evaṃ kicchena adhigatassa dhammassa desitanti yojanā. Halanti vā ‘‘ala’’nti iminā samānatthaṃ padaṃ ‘‘halanti vadāmī’’tiādīsu (dī. ni. ṭī. 2.65; saṃ. ni. ṭī. 1.1.172) viya. Rāgadosapariphuṭṭhehīti phuṭṭhavisena viya sappena rāgena dosena ca samphuṭṭhehi abhibhūtehi. Rāgadosānugatehīti rāgena ca dosena ca anubandhehi.

もし楽な実践(楽通行)であるなら、どうして困難があるのか、それゆえ「しかし波羅蜜を満たす時には」などが説かれた。これらのような放棄し難いものを施す者にとって。「ha」とは、あるいは「明らかに」というこの意味における不変化詞である。「確実な意味において」とする者もいる。「ha」とは明らかに、あるいは確実に無用であり、このように困難を伴って証得された法を説くことは、という構文である。あるいは「halaṃ」とは「alaṃ(十分・無用)」というこれと同義の語であり、「十分であると言う」などにおけるのと同様である。「貪りと怒りに満たされた者たちによって」とは、毒蛇の毒に触れたように、貪りと怒りによって触れられ、圧倒された者たちによって。「貪りと怒りに従う者たちによって」とは、貪りと怒りに付き従われた者たちによって。

Kāmarāgarattā bhavarāgarattā ca nīvaraṇehi nivutatāya, diṭṭhirāgarattā viparītābhinivesena. Na dakkhantīti yāthāvato dhammaṃ na paṭivijjhissanti. Evaṃ gāhāpetunti ‘‘anicca’’ntiādinā sabhāvena yāthāvato dhammaṃ jānāpetuṃ. Rāgadosaparetatāpi nesaṃ sammūḷhabhāvenevāti āha **‘‘tamokhandhena āvuṭā’’**ti.

欲貪に染まった者たち、また有貪に染まった者たちは蓋(五蓋)によって覆われていることによって、見貪に染まった者たちは転倒した執着によって。「見ないであろう」とは、ありのままに法を通達しないであろう。「このように把握させることは」とは、「無常である」などと自性によってありのままに法を理解させることは。「彼らが貪りと怒りに圧倒されていることも、まさに完全に惑わされた状態によるものである」として「暗黒の塊によって覆われて」と説いた。

282. Dhammadesanāya appossukkatāpattiyā kāraṇaṃ vibhāvetuṃ **‘‘kasmā panā’’**tiādinā sayameva codanaṃ samuṭṭhāpeti. Tattha aññātavesenāti imassa bhagavato sāvakabhāvūpagamanena aññātarūpena. Tāpasavesenāti keci. So pana arahattādhigameneva vigaccheyya. Tividhaṃ kāraṇaṃ appossukkatāpattiyā paṭipakkhassa balavabhāvo, dhammassa gambhīratā, tattha ca sātisayaṃ gāravanti, ta dassetuṃ **‘‘tassa hī’’**tiādi āraddhaṃ. (Tattha paṭipakkhā nāma rāgādayo kilesā sammāpaṭipattiyā antarāyakarattā. Tesaṃ balavabhāvato ciraparibhāvanāya sattasantānato dubbisodhiyatāya te satte mattahatthino viya dubbalapurisaṃ adhibhavitvā ajjhottharitvā anayabyasanaṃ āpādentā anekasatayojanāyāmavitthāraṃ sunicitaṃ ghanasannivesaṃ kaṇṭakaduggampi adhisenti. Dūrappabhedaducchejjatāhi dubbisodhiyataṃ pana dassetuṃ **‘‘athassā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha ca anto amaṭṭhatāya kañjiyapuṇṇā lābu. Cirapārivāsikatāya takkabharitā cāṭi. Snehatintadubbalabhāvena vasāpītapilotikā. Telamissitatāya añjanamakkhitahattho dubbisodhanīyā vuttā, hīnūpamā cetā rūpapabandhabhāvato acirakālikattā ca malīnatāya, kilesasaṃkileso eva pana dubbisodhanīyataro anādikālikattā anusayitattā ca. Tenāha **‘‘atisaṃkiliṭṭhā’’**ti. Yathā ca dubbisodhanīyataratāya, evaṃ gambhīraduddasaduranubodhānampi vuttaupamā hīnūpamāva).

282. 法の説示への無関心に陥ったことの理由を解明するために「しかしなぜ」などと自ら疑問を提起している。その中で「無名の姿で」とは、この世尊の声聞(弟子)としての状態に赴くことによって無名の姿で。「苦行者の姿で」とする者もいる。しかしそれは阿羅漢果の獲得そのものによって去るであろう。無関心に陥ることの三種の理由とは、敵対するもの(煩悩)の強大さ、法の深遠さ、そこ(法)への格別の敬重であり、それを示すために「実にその……」などが始められた。(その中で敵対するものとは、貪りなどの煩悩が正しい実践の障害となるからである。それらの強大さから、久しい薫習によって衆生の心相続から浄化し難いことから、それら(煩悩)は衆生を発狂した象が力なき人間を圧倒し踏みにじって破滅と災難に陥れるように、数百由旬の広がりを持つ、密集して厚く折り重なった茨の要害にすら横たわらせる。遠大な差別と切断し難さによって浄化し難いことを示すために「さて彼に」などが説かれた。そしてその中で内部が擦られていないことによって粥で満たされた夕顔の器。長期間放置されたことによって酪乳(酸乳)で満たされた壺。脂油に浸り弱くなったことによって脂肪を吸ったぼろ布。油が混ざったことによって墨の塗られた手は浄化し難いと説かれたが、これらは物質の連続した状態であり、汚染が生じてからの時間が浅いことから劣った譬喩であり、煩悩の染汚こそが無始の時からのものであり随眠(潜在)しているがゆえにより一層浄化し難いのである。それゆえ「甚だしく染汚された」と説かれた。そしてより一層浄化し難いことによるのと同様に、深遠・見難・覚知し難いことに対しても、説かれた譬喩は劣った譬喩に他ならない)。

Paṭipakkhavigamanena gambhīropi dhammo supākaṭo bhaveyya. Paṭipakkhavigamanaṃ pana sammāpaṭipattipaṭibaddhaṃ, sā saddhammassavanādhīnā. Taṃ satthari dhamme ca pasādāyattaṃ, so garuṭṭhāniyānaṃ ajjhesanahetukoti panāḷikāya sattānaṃ dhammasampaṭipattiyā brahmayācanānimittanti taṃ dassento **‘‘apicā’’**tiādimāha.

敵対するものが消え去ることによって、深遠な法も極めて明白になるであろう。しかし敵対するものの消滅は正しい実践に依存しており、それ(実践)は正法を聞くことに依存している。それ(聞法)は師と法への信順に依存し、それ(信順)は尊敬すべき立場にある者たちの懇請を原因とする、という一連の筋道によって、衆生の法への正しい実践は梵天の懇請を機縁とすることを示すものとして「さらにまた」などが説かれた。

Upakkilesabhūtaṃ appaṃ rāgādirajaṃ etassāti apparajaṃ, apparajaṃ akkhi paññācakkhu yesaṃ te taṃsabhāvāti katvā apparajakkhajātikāti ayamattho vibhāvito **‘‘paññāmaye’’**tiādinā. Appaṃ rāgādirajaṃ yesaṃ taṃsabhāvā apparajakkhajātikāti evampi saddattho sambhavati. Dānādidasapuññakiriyavatthūni saraṇagamanaparahitapariṇāmanehi saddhiṃ (dvādasa hontīti) **‘‘dvādasapuññakiriyavasenā’’**ti vuttaṃ.

随煩悩である貪りなどの塵垢が少ない者を「塵垢の少ない者(apparaja)」という。智慧の眼という眼において塵垢の少ない者たち、そのような本性を持つ者たちゆえに「塵垢の少ない本性の者(apparajakkhajātika)」という。この意味が「智慧に満ちた」などの語によって明らかにされている。あるいは、貪りなどの塵垢が少なく、そのような本性を持つ者が「塵垢の少ない本性の者」である、というように語義が成り立つ。布施などの十福業事(十善業道)に、三帰依と他者への廻向(功徳の振り向け)を加えることで十二となるゆえに、「十二の福業事によって」と説かれた。

Rāgādimalena samalehi pūraṇādīhi chahi satthārehi satthupaṭiññehi kabbaracanāvasena cintākaviādibhāve ṭhatvā takkapariyāhataṃ vīmaṃsānucaritaṃ sayaṃpaṭibhānaṃ cintito. Te kira buddhakolāhalānussavena sañjātakutūhalaṃ lokaṃ vañcetvā kohaññe ṭhatvā sabbaññutaṃ paṭijānantā yaṃ kiñci adhammaṃyeva dhammoti dīpesuṃ. Tenāha **‘‘te hi puretaraṃ uppajjitvā’’**tiādi. Apāpuretanti etaṃ kassapassa bhagavato sāsanantaradhānato pabhuti pihitaṃ nibbānanagarassa mahādvāraṃ ariyamaggaṃ saddhammadesanāhatthena apāpura vivara.

貪りなどの汚れによって汚れた、プーラナをはじめとする六人の師たちであり、自ら師であると言い張り、詩作を通して思慮深き詩人などの境地に立って、思索により打撃を受け、考察に伴う自己の弁舌を思索した。彼らは実に、仏陀が出現するという噂の喧騒によって好奇心の生じた世間を欺き、偽善に立って全知性を主張し、いかなる非法をもまさに法であると示した。それゆえに「彼らは実に先立って生じて」などと説かれた。「開かれたまえ」とは、カッサパ世尊の教えが消滅して以来、閉ざされていた涅槃の都の大いなる門である聖なる道を、正法を説くという御手によって開き給え、という意味である。

Selapabbato ucco hoti thiro ca, na paṃsupabbato missakapabbato cāti āha **‘‘sele yathā pabbatamuddhanī’’**ti. Dhammamayaṃ pāsādanti lokuttaradhammamāha. So hi sabbaso pasādāvaho, sabbadhamme atikkamma abbhuggataṭṭhena pāsādasadiso ca. Paññāpariyāyo vā idha dhamma-saddo. Sā hi abbhuggataṭṭhena ‘‘pāsādo’’ti abhidhamme (dha. sa. aṭṭha. 16) niddiṭṭhā. Tathā cāha –

岩山は高く堅固であり、土山や混じり合った山ではない。それゆえに「岩の山の頂の上に立つがごとく」と説かれた。「法で成る高楼」とは出世間法を指す。なぜなら、それはあらゆる面で浄信をもたらし、すべての法を超えてそびえ立つという意味で高楼(宮殿)に似ているからである。あるいは、ここでの「法」という言葉は智慧の同義語である。智慧は実にそびえ立つという意味で、アビダルマ(『法集論註』16)において「高楼」と示されている。次のように説かれている通りである。

‘‘Paññāpāsādamāruyha, asoko sokiniṃ pajaṃ;

「智慧の高楼に登り、憂いなき者は憂いある人びとを、

Pabbataṭṭhova bhūmaṭṭhe, dhīro bāle avekkhatī’’ti. (dha. pa. 28);

山頂に立つ者が地上の人々を見下ろすごとく、賢者は愚者たちを観察する」(『法句経』28)と。

Uṭṭhehīti vā dhammadesanāya appossukkatāsaṅkhātasaṅkocāpattito kilāsubhāvato uṭṭhaha.

「立ち上がりたまえ」とは、あるいは法を説くことへの無関心と呼ばれる消極性に陥り、疲労の状態にあることから立ち上がりたまえ、ということである。

283. Garuṭṭhāniyaṃ payirupāsitvā garutaraṃ payojanaṃ uddissa abhipatthanā ajjhesanā, sāpi atthato yācanāva hotīti āha **‘‘ajjhesananti yācana’’**nti. Padesavisayaṃ ñāṇadassanaṃ ahutvā buddhānaṃyeva āveṇikabhāvato idaṃ ñāṇadvayaṃ ‘‘buddhacakkhū’’ti vuccatīti āha **‘‘imesañhi dvinnaṃ ñāṇānaṃ buddhacakkhūti nāma’’**nti. Tiṇṇaṃ maggañāṇānanti heṭṭhimānaṃ tiṇṇaṃ maggañāṇānaṃ **‘‘dhammacakkhū’’**ti nāmaṃ catusaccadhammadassanamattabhāvato. Yato tāni ñāṇāni vijjūpamabhāvena vuttāni, aggamaggañāṇaṃ pana ñāṇakiccassa sikhāppattiyā na dassanamattaṃ hotīti ‘‘dhammacakkhū’’ti na vuccati, tato taṃ vajirūpamabhāvena vuttaṃ. Vuttanayenāti ‘‘apparajakkhā’’ti ettha vuttanayena. Yasmā mandakilesā **‘‘apparajakkhā’’**ti vuttā, tasmā bahalakilesā **‘‘mahārajakkhā’’**ti veditabbā. Paṭipakkhavidhamanasamatthatāya tikkhāni sūrāni visadāni, vuttavipariyāyena mudūni. Saddhādayo ākārāti saddahanādippakāre vadati. Sundarāti kalyāṇā. Sammohavinodaniyaṃ (vibha. aṭṭha. 814) pana ‘‘yesaṃ āsayādayo koṭṭhāsā sundarā, te svākārā, viparītā dvākārā’’ti vuttaṃ, taṃ imāya atthavaṇṇanāya aññadatthu saṃsandati sametīti daṭṭhabbaṃ. Kāraṇaṃ nāma paccayākāro, saccāni vā.

283. 重んずべき師に近づいて仕え、より重大な目的のために切望することが「勧請(ajjhesanā)」であり、それも実質的には懇願であるゆえに「勧請とは乞うことである」と説かれた。特定の領域のみを対象とする知見ではなく、諸仏固有の独自のものであるがゆえに、これら二つの知は「仏眼」と呼ばれるのであり、それゆえに「これら二つの知に仏眼という名がある」と説かれた。「三つの道智」とは、下位の三つの道智のことであり、四聖諦の法をただ見るだけのものであることから「法眼」と名づけられる。それらの知は電光に譬えられるものとして説かれたが、最上の道智(阿羅漢道智)は知の働きが頂点に達しているため単なる観察にとどまらず、「法眼」とは呼ばれず、それゆえに金剛(ダイヤモンド)に譬えられるものとして説かれた。「説かれた方法によって」とは、「塵垢の少ない者たち」において説かれた方法によって、ということである。煩悩の微小な者が「塵垢の少ない者」と説かれたのであるから、煩悩の濃厚な者は「塵垢の多い者」と知るべきである。反対の要素を打ち破る能力があることによって鋭く、勇気があり、明晰であり、その逆によって鈍い。「信仰などの相(ākāra)」とは、信ずるなどの諸相をいう。「善き相(sundara)」とは美しい相のことである。しかし『迷妄の打破(ヴィバンガ註)』では、「意楽などの要素が美しい者を善相の者(svākāra)、逆の者を悪相の者(dvākāra)という」と説かれており、それもこの註解の意味と全く合致し一致すると見なすべきである。「因(kāraṇa)」とは縁起の諸相、あるいは諸々の真理(諦)のことである。

Ayaṃ panettha pāḷīti ettha apparajakkhādipadānaṃ atthavibhāvane ayaṃ tassatthassa vibhāvanī pāḷi. Saddhādīnaṃ vimuttiparipācakadhammānaṃ balavabhāvo tappaṭipakkhānaṃ pāpadhammānaṃ dubbalabhāveneva hoti, tesañca balavabhāvo saddhādīnaṃ dubbalabhāvenāti vimuttiparipācakadhammānaṃ atthitānatthitāvasena apparajakkhamahārajakkhatādayo pāḷiyaṃ vibhajitvā dassitā. Khandhādayo eva lujjanapalujjanaṭṭhena loko. Sampattibhavabhūto loko sampattibhavaloko, sugatisaṅkhāto upapattibhavo. Sampatti sambhavati etenāti sampattisambhavaloko. Sugatisaṃvattaniyo kammabhavo. Duggati saṅkhātaupapattibhavaduggati saṃvattaniyakammabhavā vipattibhavalokavipattisambhavalokā.

「ここにこのパーリがある」とは、ここでの塵垢の少ない者などの諸語の意味を解明するにあたり、その意味を明らかにするこの聖典(パーリ)があるということである。信仰などの解脱を成就させる法(解脱成熟法)の強力さは、その反対である悪しき法が弱力であることによってのみ生じ、それらの強力さは信仰などの弱力さによるため、解脱を成熟させる諸法の有無のあり方に応じて、塵垢の少なさや多さなどが聖典において分別して示された。五蘊などがまさに崩壊し破壊されるという意味で「世間(世)」である。果報の生存状態となった世間が「具足有世間(sampattibhavaloka)」であり、善趣と呼ばれる受生有(生じる生存)である。これによって具足が生じるゆえに「具足生起世間」であり、善趣へと導く業有(業の生存)である。悪趣と呼ばれる受生有と、悪趣へと導く業有が、「破壊有世間」と「破壊生起世間」である。

Puna ekakadukādivasena lokaṃ vibhajitvā dassetuṃ **‘‘eko loko’’**tiādi vuttaṃ. Āhārādayo viya hi āhāraṭṭhitikā saṅkhārā lujjanapalujjanaṭṭhena lokoti. Ettha eko loko sabbe sattā āhāraṭṭhitikāti yāyaṃ puggalādhiṭṭhānāya kathāya sabbasaṅkhārānaṃ paccayāyattavutti, tāya sabbe saṅkhārā ekova loko ekavidho pakārantarassa abhāvato. Dve lokātiādīsupi iminā nayena attho veditabbo. Nāmaggahaṇena cettha nibbānassa aggahaṇaṃ tassa alokasabhāvattā. Nanu ca āhāraṭṭhitikāti ettha paccayāyattavuttitāya maggaphalānampi lokatā āpajjatīti? Nāpajjati pariññeyyānaṃ dukkhasaccadhammānaṃ idha ‘‘loko’’ti adhippetattā. Atha vā na lujjati na palujjatīti yo gahito tathā na hoti, so lokoti taṃ-gahaṇarahitānaṃ lokuttarānaṃ natthi lokatā. Upādānānaṃ ārammaṇabhūtā khandhā upādānakkhandhā. Dasāyatanānīti dasa rūpāyatanāni. Sesamettha suviññeyyameva.

さらに一法、二法などの区分によって世間を分別して示すために、「一の世間」などと説かれた。食物のように、食によって維持される諸行は崩壊し破壊されるという意味で世間である。ここで「一の世間とは、すべての衆生は食によって存続する」という、人を主体とした説法によって、すべての諸行は条件に依存して維持されるとされ、その意味においてすべての諸行は、他の種類のあり方がないために、単一の世間、一種類のものである。「二の世間」などにおいても、この方法によって意味を知るべきである。またここで「名(心・心所)」と取ることによって涅槃が含まれないのは、涅槃は非世間の本性を持つからである。「食によって存続する」ということにおいて、条件に依存して生起することから道や果も世間性を持つことになるのではないか? そのようなことにはならない。なぜなら、ここでは遍知されるべき苦諦の諸法が「世間」として意図されているからである。あるいは、崩壊せず破壊されないと把握されたものはそうではない、それが世間である、ゆえにそのような把握から離れた出世間の諸法には世間性は存在しない。執着の対象となった諸蘊が執取蘊(取蘊)である。「十の処」とは十の色処である。これ以外の残りの部分は容易に理解できる。

Vivaṭṭajjhāsayassa adhippetattā tassa ca sabbaṃ tebhūmakakammaṃ garahitabbaṃ vajjitabbañca hutvā upaṭṭhātīti vuttaṃ **‘‘sabbe abhisaṅkhārā vajjaṃ, sabbe bhavagāmikammā vajja’’**nti. Apparajakkhamahārajakkhādīsu pañcasu dukesu ekekasmiṃ dasa dasa katvā **‘‘paññāsāya ākārehi imāni pañcindriyāni jānātī’’**ti vuttaṃ. Atha vā anvayato byatirekato ca saddhādīnaṃ indriyānaṃ paropariyattaṃ jānātīti katvā tathā vuttaṃ. Ettha ca apparajakkhādibhabbādivasena āvajjentassa bhagavato te sattā puñjapuñjāva hutvā upaṭṭhahanti, na ekekā.

生死の輪廻を離れる意楽(離繋意楽)が意図されており、その者にとっては三界のすべての業が非難されるべきもの、避けるべきものとして現れるため、「すべての行(作られたもの)は過失であり、すべての生存へ赴く業は過失である」と説かれた。塵垢の少ない者・塵垢の多い者などの五つの二項対立において、それぞれに十ずつを配して「五十の相によってこれら五つの諸根を知る」と説かれた。あるいは順次と逆次の観点から、信仰などの諸根の勝劣を知るゆえにそのように説かれた。そしてここで、塵垢の少ない者や化導可能な者などの観点から心に念じる世尊には、それらの衆生は個々としてではなく、集団の塊として現れるのである。

Uppalāni ettha santīti uppalinī, gacchopi jalāsayopi, idha pana jalāsayo adhippetoti āha **‘‘uppalavane’’**ti. Yāni udakassa anto nimuggāneva hutvā pusanti vaḍḍhanti, tāni antonimuggaposīni. Dīpitānīti aṭṭhakathāyaṃ pakāsitāni, idheva vā ‘‘aññānipī’’tiādinā bhāsitāni.

青蓮華がここにあるゆえに「青蓮華池(uppalinī)」であり、茂みでもあり水池でもあるが、ここでは水池が意図されているゆえに「青蓮華の林の中に」と説かれた。水の中に完全に沈んだままで養われ成長するものが「水中に没して成長するもの」である。「明かされた」とは、註釈書(義釈)において明示された、あるいはまさにここで「他のものもまた」などの語によって語られた、ということである。

Ugghaṭitaññūti ugghaṭitaṃ nāma ñāṇugghaṭanaṃ, ñāṇe ugghaṭitamatte eva jānātīti attho. Vipañcitaṃ vitthāritameva atthaṃ jānātīti vipañcitaññū. Uddesādīhi netabboti neyyo. Saha udāhaṭavelāyāti udāhāre udāhaṭamatteyeva. Dhammābhisamayoti catusaccadhammassa ñāṇena saddhiṃ abhisamayo. Ayaṃ vuccatīti ayaṃ ‘‘cattāro satipaṭṭhānā’’tiādinā nayena saṃkhittena mātikāya ṭhapiyamānāya desanānusārena ñāṇaṃ pesetvā arahattaṃ gaṇhituṃ samattho puggalo **‘‘ugghaṭitaññū’’**ti vuccati. Ayaṃ vuccatīti ayaṃ saṃkhittena mātikaṃ ṭhapetvā vitthārena atthe vibhajiyamāne arahattaṃ pāpuṇituṃ samattho puggalo **‘‘vipañcitaññū’’**ti vuccati. Uddesatoti uddesahetu, uddisantassa, uddisāpentassa vāti attho. Paripucchatoti atthaṃ paripucchantassa. Anupubbena dhammābhisamayo hotīti anukkamena arahattappatti hoti. Na tāya jātiyā dhammābhisamayo hotīti tena attabhāvena maggaṃ vā phalaṃ vā antamaso jhānaṃ vā vipassanaṃ vā nibbattetuṃ na sakkoti. Ayaṃ vuccati puggalo padaparamoti ayaṃ puggalo byañjanapadameva paramaṃ assāti padaparamoti vuccati.

「開口了解者(ugghaṭitaññū)」とは、開口とは智の開口(提示)であり、智が開かれた瞬間に直ちに了解する者という意味である。「広説了解者(vipañcitaññū)」とは、詳説され展開された意味を了解する者のことである。「所導者(neyya)」とは、要説などによって導かれるべき者のことである。「提示された時に」とは、言葉が提示されたまさにその瞬間に、ということである。「法の現観」とは、知解によって四聖諦の法を現観することである。「この者は〜と呼ばれる」とは、「四念住」などの方法によって要約して主題が提示される時に、説法に従って智を向けて阿羅漢果を得ることができる人物を「開口了解者」と呼ぶ。「この者は〜と呼ばれる」とは、要約して主題を提示した上で、詳細に意味が分別される時に阿羅漢果に到達できる人物を「広説了解者」と呼ぶ。「要説によって」とは、要説を原因として、自ら読誦し、あるいは他者に読誦させることによって、という意味である。「質問することによって」とは、意味を質問することによって、という意味である。「順次に法の現観がある」とは、次第に阿羅漢果の獲得がある、ということである。「その生涯においては法の現観がない」とは、その身体(個体存在)においては道や果、さらには禅定やヴィパッサナー(内観)さえも生じさせることができない、ということである。「この人物は文句第一者と呼ばれる」とは、この人物は言葉の表現そのもの(文字)を第一・最上とする者ゆえに「文句第一者(padaparama)」と呼ばれる。

Kammāvaraṇenāti (vibha. aṭṭha. 826) pañcavidhena ānantariyakammena. Vipākāvaraṇenāti ahetukapaṭisandhiyā. Yasmā pana duhetukānampi ariyamaggapaṭivedho natthi, tasmā duhetukā paṭisandhipi ‘‘vipākāvaraṇamevā’’ti veditabbā. Kilesāvaraṇenāti niyatamicchādiṭṭhiyā. Assaddhāti buddhādīsu saddhārahitā. Acchandikāti kattukamyatākusalacchandarahitā. Uttarakurukā manussā acchandikaṭṭhānaṃ paviṭṭhā. Duppaññāti bhavaṅgapaññāya parihīnā. Bhavaṅgapaññāya pana paripuṇṇāyapi yassa bhavaṅgaṃ lokuttarassa paccayo na hoti, sopi duppañño eva nāma. Abhabbā niyāmaṃ okkamituṃ kusalesu dhammesu sammattanti kusalesu dhammesu sammattaniyāmasaṅkhātaṃ maggaṃ okkamituṃ adhigantuṃ abhabbā. Na kammāvaraṇenātiādīni vuttavipariyāyena veditabbāni.

「業障によって」(『迷妄の打破』826)とは、五つの無間業によって。「異熟障によって」とは、無因の結生によって。しかし、二因の者たちにも聖道への証入はないため、二因の結生もまた「異熟障そのものである」と知るべきである。「煩悩障によって」とは、決定邪見によって。「無信」とは、仏陀らに対する信仰を欠いた者。「無意欲」とは、善をなそうと欲する善法への意欲(欲)を欠いた者。北倶盧洲の人々は無意欲の境遇に入っている。「悪慧」とは、有分識の智慧(生得の智慧)を欠いた者。しかし、有分識の智慧が充足していても、その有分識が出世間法の条件(契機)とならない者もまた、まさに悪慧と呼ばれる。「善なる諸法における正性の決定(正性決定)に入ることに堪えない」とは、善なる諸法における正性決定と呼ばれる聖道に入り、到達することに適さない、ということである。「業障によらず」などは、説かれたことの反対として知るべきである。

Nibbānassa dvāraṃ pavisanamaggo. Vivaritvā ṭhapito mahākaruṇūpanissayena sayambhuñāṇena adhigatattā. Saddhaṃ pamuñcantūti attano saddhaṃ pavesentu, saddahanākāraṃ upaṭṭhapentūti attho. Sukhena akicchena pavattanīyatāya suppavattitaṃ. Na bhāsiṃ na bhāsissāmīti cintesiṃ.

「涅槃の門」とは、入るべき道である。大いなる慈悲に依拠した自覚の知によって到達されたがゆえに、「開いて置かれた」のである。「信仰を放て」とは、自らの信仰を解き放て、信順のあり方を現前させよ、という意味である。容易に苦もなく転ぜられるがゆえに「善く転ぜられた」。「説かなかった」とは、説くまいと思念した、ということである。

284. Dhammaṃ desessāmīti evaṃ pavattitadhammadesanāpaṭisaṃyuttassa vitakkassa sattamasattāhato paraṃ aṭṭhamasattāheyeva uppannattā vuttaṃ **‘‘aṭṭhame sattāhe’’**ti. Na itarasattāhāni viya paṭiniyatakiccalakkhitassa aṭṭhamasattāhassa nāma pavattitassa sabbhāvā.

284. 「法を説こう」という、このように生じた説法に関する思惟は、第七の七日の後、実に第八の七日に生じたものであるゆえに「第八の七日に」と説かれた。他の七日のように特定の果たすべき行為によって特徴づけられた第八の七日と呼ばれる期間の存在が存在したからである。

Vivaṭanti devatāviggahena vivaṭaaṅgapaccaṅganiddāya janānaṃ pākaṭaṃ vippakāranti attho. ‘‘Buddhattaṃ anadhigantvā na paccāgamissāmī’’ti uppannavitakkātisayahetukena pathavīparivattanacetiyaṃ nāma dassetvā. Sākiyakoliyamallarajjavasena tīṇi rajjāni. Rukkhamūleti nigrodhamūle. Vatvā pakkāmi, pakkamantiyā cassā mahāsatto ākāraṃ dassesi suvaṇṇathālaggahaṇāya, sā ‘‘tumhākaṃ taṃ pariccattamevā’’ti pakkāmi.

「身をさらす」とは、神々の身体によって四肢を露出して眠り、人々に明瞭に醜態をさらす、という意味である。「仏陀の境地を達成することなくして立ち去ることはない」と生じた強い決意を原因とする大地転倒の霊塔を示して。「釈迦族、拘利族、末羅族の統治に基づき三つの王国」。「樹の根元にて」とは、尼拘律樹の根元にて。「語って去った」、そして彼女が立ち去る時、大士(菩薩)は黄金の鉢を受け取るための身ぶりを示し、彼女は「それはあなた様に捧げられたものです」と言って立ち去った。

Divāvihāraṃ katvāti nānāsamāpattiyo samāpajjanena divāvihāraṃ viharitvā. ‘‘Kāmaṃ taco ca nhāru ca, aṭṭhi ca avasissatu, upasussatu sarīre maṃsalohita’’ntiādinā sutte (ma. ni. 2.184; saṃ. ni. 2.237; a. ni. 2.5; 8.13; mahāni. 17, 196) āgatanayena caturaṅgavīriyaṃ adhiṭṭhahitvā.

「昼の安息を行って」とは、様々な等至(三昧)に入ることを通して昼の安息を過ごして。「皮膚と腱と骨のみが残り、身体の肉と血が干からびようとも」などと経典(『中部』2.184、『相応部』2.237、『増支部』2.5; 8.13、『大義釈』17, 196)に説かれた方法に従って、四肢の精進を誓願して。

Navayojananti ubbedhato vuttaṃ, puthulato dvādasayojanā, dīghato yāva cakkavāḷā āyatāti vadanti. Ajjhottharanto upasaṅkamitvā – ‘‘uṭṭhehi so, siddhattha, ahaṃ imassa pallaṅkassa anucchaviko’’ti vatvā tattha sakkhiṃ otārento attano parisaṃ niddisi. Ekappahāreneva – ‘‘ayameva anucchaviko, ayameva anucchaviko’’ti kolāhalamakāsi, taṃ sutvā mahāsatto…pe… hatthaṃ pasāreti. Yaṃ sandhāya vuttaṃ –

「九由旬」とは高さについて言われたものであり、幅は十二由旬、長さは輪囲山(世界を取り囲む山脈)に至るまで伸びている、と語られている。圧倒しながら近づいて「立ち上がれ、シッダッタよ、私はこの宝座にふさわしい」と言い、そこで証拠を挙げるために自らの軍勢を指し示した。一斉に「この方こそふさわしい、この方こそふさわしい」と大歓声を上げ、それを聞いて大士は……乃至……手を伸ばす。それについて説かれた通りである。

‘‘Acetanāyaṃ pathavī, aviññāya sukhaṃ dukhaṃ;

「意識なきこの大地は、苦楽を知ることもないが、

Sāpi dānabalā mayhaṃ, sattakkhattuṃ pakampathā’’ti. (cariyā. 1.124);

その大地すらも我が布施の力により、七度激しく震動した」(『所行蔵』1.124)と。

Pubbenivāsañāṇaṃ visodhetvāti ānetvā sambandho sīhāvalokanañāyena. Vaṭṭavivaṭṭaṃ sammasitvāti catusaccamanasikāraṃ sandhāyāha. Imassa pallaṅkassa atthāyāti pallaṅkasīsena adhigatavisesaṃ dasseti. Tattha hi sikhāppattavimuttisukhaṃ avijahanto antarantarā ca paṭiccasamuppādaṅgaṃ manasikaronto ekapallaṅkena nisīdi. Ekaccānanti yā adhigatamaggā sacchikatanirodhā ekadesena ca buddhaguṇe jānanti, tā ṭhapetvā tadaññesaṃ devatānaṃ. Aññepi buddhattakarāti visākhāpuṇṇamato paṭṭhāya rattindivaṃ evaṃ niccasamāhitabhāvahetukānaṃ buddhaguṇānaṃ upari aññepi buddhattasādhakā, ‘‘ayaṃ buddho’’ti buddhabhāvassa paresaṃ vibhāvanā dhammā kiṃ nu kho atthīti yojanā.

「宿住智を清浄にして」とは、獅子の振り返りの論理によって連結される。「輪廻と解脱を観察して」とは、四聖諦を心に作意することを指して言っている。「この宝座のために」とは、宝座を筆頭として達成された卓越性を示している。そこにおいて実に、頂点に達した解脱の楽を捨てることなく、合間合間に縁起の支分を作意しながら、ひとつの結跏趺坐で座られた。「ある神々」とは、聖道に達して滅を現証し、部分的に仏の徳を知る神々を除いた、それ以外の他の神々のことである。「他の仏陀を成就する法」とは、ヴィサーカー月の満月の日以来、昼夜を問わずこのように常に定に入っている状態を原因とする仏の徳のほかに、さらに他の仏陀を成ぜしめるもの、「この方は仏陀である」と仏陀である状態を他者に明示する法が果たして存在するのか、という文脈である。

Animisehīti dhammapītivipphāravasena pasādavikasitaniccalatāya nimesarahitehi. Ratanacaṅkameti devatāhi māpite ratanamayacaṅkame. Ratanabhūtānaṃ sattannaṃ pakaraṇānaṃ tattha ca anantanayassa dhammaratanassa sammasanena taṃ ṭhānaṃ ratanagharacetiyaṃ nāma jātantipi vadanti. Evanti vakkhamānākārena. Chabbaṇṇānaṃ rasmīnaṃ dantehi nikkhamanato chaddantanāgakulaṃ viyāti nidassanaṃ vuttaṃ.

「まばたきすることなく」とは、法の歓喜の広がりによって、澄んだ喜びから見開かれたまま静止し、まばたきをしないことによって。「宝の経行処にて」とは、神々によって創り出された宝石で成る経行処において。宝である七つの論書(アビダルマ)と、そこにおける無限の理法である法宝を観察したことによって、その場所が「宝房の霊塔」と呼ばれるようになった、とも語られている。「このように」とは、これから語られるあり方によって。「六色の光明が牙から放射することから、六牙の白象の群れのごとく」という譬えが説かれた。

Heṭṭhā lohapāsādappamāṇoti navabhūmakassa sabbapaṭhamassa lohapāsādassa heṭṭhā lohapāsādappamāṇo. Khandhakaṭṭhakathāyaṃ (mahāva. aṭṭha. 5) pana tattha ‘‘bhaṇḍāgāragabbhappamāṇa’’nti vuttaṃ.

「下の銅宮殿の広さ」とは、九層からなる最初の銅宮殿の下層の銅宮殿の広さのことである。しかし律の註釈書(『大品註』5)においては、そこは「宝物庫の部屋の広さ」と説かれている。

Paccaggheti abhinave. Paccekaṃ mahagghatāya paccaggheti keci, taṃ na sundaraṃ. Na hi buddhā bhagavanto mahagghaṃ paṭiggaṇhanti paribhuñjanti vā. Piṇḍapātanti ettha manthañca madhupiṇḍikañca sandhāya vadati. Ayaṃ vitakkoti – ‘‘kassa nu kho ahaṃ paṭhamaṃ dhammaṃ deseyya’’nti ayaṃ parivitakko.

「極めて清浄な」とは、新鮮な。「個々に高価であることから極めて清浄である」とする者もいるが、それは善くない。諸仏・世尊が高価なものを受け取ったり受用したりすることはないからである。「団飯(托鉢の食物)」とは、ここでは炒り麦と蜜団子を指して言っている。「この思惟」とは、「私は誰に最初に法を説くべきか」というこの思索のことである。

Paṇḍiccenāti samāpattipaṭilābhasaṃsiddhena adhigamabāhusaccasaṅkhātena paṇḍitabhāvena. Veyyattiyenāti samāpattipaṭilābhapaccayena pārihāriyapaññāsaṅkhātena byattabhāvena. Medhāvīti tihetukapaṭisandhipaññāsaṅkhātāya taṃtaṃitikattabbatāpaññāsaṅkhātāya ca medhāya samannāgatoti evampettha attho daṭṭhabbo. Mahājāniyoti mahāparihāniko. Āgamanapādāpi natthīti idaṃ paṭhamaṃ vattabbaṃ, athāhaṃ tattha gaccheyyaṃ, gantvā desiyamānaṃ dhammampissa sotuṃ sotapasādopi natthīti yojanā. Kiṃ pana bhagavatā attano buddhānubhāvena te dhammaṃ ñāpetuṃ na sakkāti? Āma, na sakkā. Na hi parato ghosaṃ antarena sāvakānaṃ dhammābhisamayo sambhavati, aññathā itarapaccayarahitassapi dhammābhisamayena bhavitabbaṃ, na ca taṃ atthi. Vuttañhetaṃ – ‘‘dveme, bhikkhave, paccayā sammādiṭṭhiyā uppādāya parato ca ghoso ajjhattañca yonisomanasikāro’’ti (a. ni. 2.127). Pāḷiyaṃ rāmasseva samāpattilābhitā āgatā, na udakassa, taṃ tassa bodhisattena samāgatakālavasena vuttaṃ. So hi pubbepi tattha yuttappayutto viharanto mahāpurisena khippaññeva samāpattīnaṃ nibbattitabhāvaṃ sutvā saṃvegajāto mahāsatte tato nibbijja pakkante ghaṭento vāyamanto nacirasseva aṭṭha samāpattiyo nibbattesi. Tena vuttaṃ **‘‘nevasaññānāsaññāyatane nibbattoti addasā’’**ti. Ete aṭṭha brāhmaṇāti sambandho. Chaḷaṅgavāti chaḷaṅgaviduno. Mantanti mantapadaṃ. ‘‘Nijjhāyitvā’’ti vacanaseso, mantetvāti attho. Viyākariṃsūti kathesuṃ.

「賢明さによって」とは、等至(三昧)の獲得によって達成された、証得の多聞と呼ばれる賢者であることによって。「明敏さによって」とは、等至の獲得を条件とする、身を処する智慧と呼ばれる明敏さによって。「聡明な者」とは、三因の結生の智慧と呼ばれるものと、それぞれのなすべきことに対する智慧と呼ばれる聡明さを具足した者、とこのようにここでの意味を解釈すべきである。「大いなる損失を被った者」とは、大いなる退転を被った者のことである。「赴くための足もない」とは、これが最初に語られるべきことであり、「さらに私がそこへ赴いたとしても、赴いて説かれる法を彼が聞くための耳の浄色器官さえもない」と文脈を補う。世尊は自らの仏の威力によって彼らに法を知らせることができなかったのか? そう、できなかったのである。他者からの音声(説法)なしには弟子たちに法の現観が生じることはあり得ず、そうでなければ他の条件を欠いた者にも法の現観が生じなければならなくなるが、そのようなことはあり得ない。実にこのように説かれている。「比丘たちよ、正見を生じさせるための二つの条件がある。他者からの音声と、内なる如理作意である」(『増支部』2.127)と。パーリ聖典において等至の獲得者として現れるのはラーマであり、ウッダカではないが、それは彼が菩薩と出会った時期によるものとして説かれている。彼(ウッダカ)は実に、以前にもそこで修練に励んで暮らしていたが、大士によって速やかに諸々の等至が生み出されたことを聞いて戦慄し、大士がそこから厭離して立ち去った後に精進努力して、程なくして八等至を生み出した。それゆえに「非想非非想処に生じたのを見た」と説かれた。「これら八人のバラモン」という繋がりである。「六支に通じた者」とは、六つのヴェーダの補助学に通じた者のことである。「詩文」とは、マントラの句のことである。「よく考察して」という言葉が補われるべきであり、相談して、という意味である。「説明した」とは、語ったということである。

Yathāmantapadanti lakkhaṇamantasaṅkhātavedavacanānurūpaṃ. Gatāti paṭipannā. ‘‘Dveva gatiyo bhavanti anaññā’’ti (dī. ni. 2.33; 3.199-200; ma. ni. 2.384, 398) vuttaniyāmena nicchinituṃ asakkontā brāhmaṇā vuttameva paṭipajjiṃsu, na mahāpurisassa buddhabhāvappattiṃ paccāsīsiṃsu. Ime pana koṇḍaññādayo pañca ‘‘ekaṃsato buddho bhavissatī’’ti jātanicchayattā mantapadaṃ atikkantā. Puṇṇapattanti tuṭṭhidānaṃ. Nibbitakkāti nibbikappā, na dvedhā takkā.

「マントラの句の通りに」とは、相を説くマントラと呼ばれるヴェーダの言葉に従って。「赴いた」とは、実践した。「二つの道のみがあり、他はない」(『長部』2.33; 3.199-200、『中部』2.384, 398)と説かれた定めによって決定することができなかったバラモンたちは、説かれた通りのことのみを実践し、大士が仏陀の境地に達することを期待しなかった。しかし、これらコンダンニャら五人は「間違いなく仏陀となられるであろう」と決定を生じていたため、マントラの句を超えていた。「満杯の器」とは、満足の贈り物(祝儀)のことである。「疑念なき者たち」とは、分別を超えて二心のない者たちのことである。

Vappakāleti vapanakāle. Vapanatthaṃ bījāni nīharaṇantena tattha aggaṃ gahetvā dānaṃ bījaggadānaṃ nāma. Lāyanaggādīsupi eseva nayo. Dhaññaphalassa nātipariṇatakāle puthukakāle. Lāyaneti sassalāyane. Yathā lūnaṃ hatthakaṃ katvā veṇivasena bandhanaṃ veṇikaraṇaṃ. Veṇiyo pana purisabhāravasena bandhanaṃ kalāpo. Khale kalāpānaṃ ṭhapanadivase aggaṃ gahetvā dānaṃ khalaggaṃ. Madditvā vīhīnaṃ rāsikaraṇadivase aggaṃ gahetvā dānaṃ bhaṇḍaggaṃ. Koṭṭhāgāre dhaññassa pakkhipanadivase dānaṃ koṭṭhaggaṃ. Uddharitvāti khalato dhaññassa uddharitvā. Navannaṃ aggadānānaṃ dinnattāti idaṃ tassa rattaññūnaṃ aggabhāvatthāya katābhinīhārānurūpaṃ pavattitasāvakapāramiyā ciṇṇante pavattitattā vuttaṃ. Tiṇṇampi hi bodhisattānaṃ taṃtaṃpāramiyā sikhāppattakāle pavattitaṃ puññaṃ apuññaṃ vā garutaravipākameva hoti, dhammassa ca sabbapaṭhamaṃ sacchikiriyāya vinā kathaṃ rattaññūnaṃ aggabhāvasiddhīti. Bahukārā kho ime pañcavaggiyāti idaṃ pana upakārānussaraṇamattakameva paricayavasena āḷārudakānussaraṇaṃ viya.

「種蒔きの時に」とは、種を蒔く時期に。種蒔きのために種子を運び出し、その中で最上のものを取って施すことを「種子初穂の施し」という。刈り取りの初穂などにおいてもこの方法である。穀物の実がまだ熟しきっていない、平たい穀粒の時期に。「刈り取りにおいて」とは、作物の刈り取りにおいて。刈り取られたものを一握りにして、編み紐のように束ねることを「編み束ね」という。編まれた束を男一人の荷として束ねるものが「一束」である。脱穀場に束を置く日に、最上のものを取って施すのが「脱穀初穂」。籾を脱穀して穀物の山とする日に、最上のものを取って施すのが「穀物山初穂」。倉に穀物を入れる日に施すのが「穀倉初穂」。「取り分けて」とは、脱穀場から穀物を取り分けて。「九つの初穂の施しがなされたことから」とは、彼が長老(古参者)の第一となるために行った請願に相応して行われた、弟子としての波羅蜜が実践された末期に行われたことから説かれた。三種の菩薩たちにおいても、それぞれの波羅蜜が頂点に達した時になされた功徳あるいは不善は、実に極めて重大な異熟(果報)をもたらすのであり、法を誰よりも最初に現証することなしに、どうして長老の第一であることが成就しようか。「この五比丘たちは実に恩恵が大きい」とは、親交があったことによるアーラーラやウッダカの追想のように、単に恩恵を追想しただけのことである。

285. Vivareti majjhe. Tenāha **‘‘tigāvutantare ṭhāne’’**ti. Ayojiyamāne upayogavacanaṃ na pāpuṇāti sāmivacanassa pasaṅge antarā-saddayogena upayogavacanassa icchitattā. Tenāha **‘‘antarāsaddena pana yuttattā upayogavacanaṃ kata’’**nti.

285. 「狭間に」とは、中間に。それゆえに「三ガヴータの間にある場所において」と説かれた。結びつかない場合、対格(目的格)にはならず、属格(所有格)が期待される文脈において、「間(antarā)」という語との結合によって対格が求められる。それゆえに「しかしantarāという語と結合しているため、対格とされた」と説かれた。

Sabbaṃ tebhūmakadhammaṃ abhibhavitvā pariññābhisamayavasena atikkamitvā. Catubhūmakadhammaṃ anavasesaṃ ñeyyaṃ sabbaso ñeyyāvaraṇassa pahīnattā sabbaññutaññāṇena avediṃ. Rajjanadussanamuyhanādinā kilesena. Appahātabbampi kusalābyākataṃ tappaṭibaddhakilesamathanena pahīnattā na hotīti āha **‘‘sabbaṃ tebhūmakadhammaṃ jahitvā ṭhito’’**ti. Ārammaṇatoti ārammaṇakaraṇavasena.

「三界のすべての法を克服して」とは、遍知の現観によって超越して。四界の法において余すところのない知るべき対象を、全知の障礙があらゆる面で断じられているがゆえに、全知の智慧によって知った。執着・怒り・迷いなどの煩悩によって。「断じられるべきでない善や無記の法も、それに付随する煩悩を粉砕することによって断ぜられているため、存在しない」という意味から、「三界のすべての法を捨てて立った」と説かれた。「対象として」とは、対象とすることによって。

Kiñcāpi lokiyadhammānampi yādiso lokanāthassa adhigamo, na tādiso adhigamo parūpadeso atthi, lokuttaradhamme panassa lesopi natthīti āha **‘‘lokuttaradhamme mayhaṃ ācariyo nāma natthī’’**ti. Paṭibhāgapuggaloti sīlādīhi guṇehi paṭinidhibhūto puggalo. Sahetunāti sahadhammena sapāṭihīrakatāya. Nayenāti abhijānanatādividhinā. Cattāri saccānīti idaṃ tabbinimuttassa ñeyyassa abhāvato vuttaṃ. Sayaṃ buddhoti sayameva sayambhuñāṇena buddho. Vigatapariḷāhatāya sītibhūto. Tato eva nibbuto. Āhañchanti āhanissāmi. Veneyyānaṃ amatādhigamāya ugghosanādiṃ katvā satthu dhammadesanā amatadundubhīti vuttā.

世間的な諸法においても、世の救い主(仏陀)の到達されたような境地は他者からの教示によるものではないが、出世間法においては彼には他者の教示など微塵もないゆえに、「出世間法において我が師と呼ぶべき者は存在しない」と説かれた。「匹敵する人物」とは、戒などの徳において対等となる人物のことである。「理由を伴って」とは、如法であり、神通力を伴っていることによって。「方法によって」とは、勝知などの規範によって。「四つの真理(四聖諦)」とは、これらから離れた知るべき対象は存在しないことから説かれた。「自ら覚った者」とは、自ら自然の智慧によって覚った者のことである。熱苦しさが去ったことによって「清涼となった者」。それゆえに「涅槃に入った者」。「打ち鳴らそう」とは、打ち鳴らすであろう。化導されるべき者たちに不死(涅槃)を獲得させるために宣言などを行って、師が法を説くことが「不死の太鼓」と説かれた。

Anantañāṇo jitakilesoti anantajino. Evampi nāma bhaveyyāti evaṃvidhe nāma rūparatane īdisena ñāṇena bhavitabbanti adhippāyo. Ayaṃ hissa pabbajjāya paccayo jāto, katādhikāro cesa. Tathā hi bhagavā tena samāgamatthaṃ padasāva taṃ maggaṃ paṭipajji.

「無限の知を持ち、煩悩に勝利した者」とは、無限の勝者(無勝者)のことである。「このようであり得るだろうか」とは、このような麗しい姿の宝において、このような智慧が存在するはずだ、という意図である。これこそが彼の出家の契機となり、彼は善根を積んだ者であった。実にそれゆえに、世尊は彼と出会うために徒歩でその道を進まれたのである。

Koṭṭhāsasampannāti aṅgapaccaṅgasaṅkhātaavayavasampannā. Aṭṭīyatīti aṭṭo hoti, domanassaṃ āpajjatīti attho.

「肢体を具足した者」とは、大小の四肢と呼ばれる部分を完全に備えた者。「苦しむ」とは、苦悩し、憂いに沈むという意味である。

Avihaṃ upapannāseti avihesu nibbattā. Vimuttāti aggaphalavimuttiyā vimuttā. Te hitvā mānusaṃ dehaṃ, dibbayogaṃ upajjhagunti te upakā dayo mānusaṃ attabhāvaṃ jahitvā orambhāgiyasaṃyojanappahānena avihesu nibbattamattāva aggamaggādhigamena dibbayogaṃ uddhambhāgiyasaṃyojanaṃ samatikkamiṃsu.

「無煩天に生じた者たち」とは、無煩天(アヴィハ)に生まれた者たち。「解脱した」とは、最上の果の解脱(阿羅漢果)によって解脱した。「彼らは人間の身体を捨てて、天の軛(絆)を超越した」とは、ウパカらは人間の個体存在を捨て、下分結の断滅によって無煩天に生まれたまさにその時に、最上の道の獲得によって天の軛である上分結を超越した、ということである。

286. Saṇṭhapesunti ‘‘neva abhivādetabbo’’tiādinā (mahāva. 12) saṇṭhaṃ kiriyākāraṃ akaṃsu. Tenāha **‘‘katikaṃ akaṃsū’’**ti. Padhānatoti pubbe anuṭṭhitadukkaracaraṇato. Pabhāvitanti vācāsamuṭṭhānaṃ, vacīnicchāraṇanti attho. ‘‘Ayaṃ na kiñci visesaṃ adhigamissatī’’ti anukkaṇṭhanatthaṃ. ‘‘Mayaṃ yattha katthaci gamissāmā’’ti mā vitakkayittha. Obhāsoti vipassanobhāso. Nimittanti kammaṭṭhānanimittaṃ. Ekapadenevāti ekavacaneneva. ‘‘Anena pubbepi na kiñci micchā vuttapubba’’nti satiṃ labhitvā. Yathābhūtavādīti uppannagāravā.

286. 「取り決めた」とは、「決して礼拝すべきではない」など(『大品』12)と、冷淡な行動様式を定めた。それゆえに「協定を結んだ」と説かれた。「精進から」とは、過去に行われた苦行の実践から。「発せられた」とは、言葉を原因として生じるもの、言葉を発することという意味である。「この者は何の卓越した境地も得られないだろう」と侮るのをやめさせるために。「私たちはどこかへ行ってしまおう」などと思い巡らすな。「光明」とは、ヴィパッサナーの光明。「相(形象)」とは、瞑想対象(業処)の相。「ただ一言によって」とは、ひとつの言葉によって。「この方は過去にも虚偽を語ったことなど一度もなかった」と気づきを得て。「如実を語る者」とは、敬敬の念を生じた者。

Antovihāreyeva ahosi daharakumāro viya tehi bhikkhūhi pariharito. Maleti saṃkilese. Gāmato bhikkhūhi nīhaṭaṃ upanītaṃ bhattaṃ etassāti nīhaṭabhatto, tena nīhaṭabhattena bhagavatā. Ettakaṃ kathāmagganti – ‘‘dvemā, bhikkhave, pariyesanā’’ti ārabhitvā yāva – ‘‘natthi dāni punabbhavo’’ti padaṃ, ettakaṃ desanāmaggaṃ. Kāmañcettha – ‘‘tumhepi mamañceva pañcavaggiyānañca maggaṃ ārūḷhā, ariyapariyesanā tumhākaṃ pariyesanā’’ti aṭṭhakathāvacanaṃ. Tena pana – ‘‘so kho ahaṃ, bhikkhave, attanā jātidhammo samāno…pe… asaṃkiliṭṭhaṃ anuttaraṃ yogakkhemaṃ nibbānaṃ ajjhagamanti, atha kho, bhikkhave, pañcavaggiyā bhikkhū mayā evaṃ ovadiyamānā…pe… anuttaraṃ yogakkhemaṃ nibbānaṃ ajjhagamaṃsu…pe… natthi dāni punabbhavo’’ti imasseva suttapadassa attho vibhāvitoti katvā vuttaṃ **‘‘bhagavā yaṃ pubbe avaca tumhepi mamañceva pañcavaggiyānañca maggaṃ āruḷhā, ariyapariyesanā tumhākaṃ pariyesanāti. Imaṃ ekameva anusandhiṃ dassento āharī’’**ti.

寺院の内部にとどまり、まるで幼い子供のようにそれら(五人の)比丘たちに世話をされた。「汚れにおいて」とは、煩悩の汚れにおいて。村から比丘たちによって運ばれ、差し出された食事を持つ者ゆえに「運ばれた食事を持つ者」であり、その運ばれた食事を摂られる世尊によって。「これほどの説法の道筋を」とは、「比丘たちよ、これら二つの探求がある」と始めて、「今や再生はない」という句に至るまでの、これほどの説法の道筋を。確かにここにおいて、「そなたたちも私と五比丘の道に乗ったのであり、聖なる探求こそがそなたたちの探求である」という註釈書の言葉がある。しかしそれによって、「比丘たちよ、その私は自らが生の法(老病死すべき本性)でありながら……乃至……汚れなき無上の安穏である涅槃に到達した。そして比丘たちよ、五比丘たちは私によってこのように教誡されながら……乃至……無上の安穏である涅槃に到達した……乃至……今や再生はない」という、まさにこの経文の意味が解明されたとして、「世尊は以前に『そなたたちも私と五比丘の道に乗ったのであり、聖なる探求こそがそなたたちの探求である』と説かれた。この唯一の脈絡を示しながら導かれた」と説かれた。

287. Anagāriyānampīti pabbajitānampi. Pañcakāmaguṇavasena anariyapariyesanā hoti gadhitādibhāvena paribhuñjanato. Micchājīvavasenapi anariyapariyesanā hotīti tato visesanatthaṃ **‘‘pañcakāmaguṇavasenā’’**ti vuttaṃ sacchandarāgaparibhogassa adhippetattā. Idāni catūsu paccayesu kāmaguṇe niddhāretuṃ **‘‘tatthā’’**tiādi vuttaṃ. Paribhogarasoti paribhogapaccayapītisomanassaṃ. Ayaṃ pana rasasamānatāvasena gahaṇaṃ upādāya ‘‘raso’’ti vutto, na sabhāvato. Sabhāvena gahaṇaṃ upādāya pītisomanassaṃ dhammārammaṇaṃ siyā, na rasārammaṇaṃ. Appaccavekkhaṇaparibhogoti paccavekkhaṇarahito paribhogo, idamatthitaṃ anissāya gadhitādibhāvena paribhogoti attho. Gadhitāti taṇhāya baddhā. Mucchitāti mucchaṃ mohaṃ pamādaṃ āpannā. Ajjhogāḷhāti adhiogāḷhā, taṃ taṃ ārammaṇaṃ anupavisitvā ṭhitā. Ādīnavaṃ apassantāti sacchandarāgaparibhoge dosaṃ ajānantā. Apaccavekkhitaparibhogahetuādīnavaṃ nissarati atikkamati etenāti nissaraṇaṃ, paccavekkhaṇañāṇaṃ.

287. 「出家者たちにとっても」とは、出家した者たちにとっても。五欲の徳を通して非聖なる探求が存在するのは、執着などの状態によって受用するからである。邪命(不正な生活)を通しても非聖なる探求が存在するため、それと区別するために「五欲の徳を通して」と説かれたのであり、自己の欲求・貪りによる受用が意図されているからである。今、四つの資具における五欲の徳を抽出して示すために「そこにおいて」などと説かれた。「受用の味」とは、受用を条件として生じる喜悦と歓喜のことである。しかしこれは味との類似性に基づいて捉えることによって「味(rasa)」と説かれたのであり、本性からではない。本性による把握に基づけば、喜悦と歓喜は法処の対象(法境)であり、味覚の対象(味境)ではない。「無省察の受用」とは、省察を欠いた受用であり、この資具の目的性に依拠せず、執着などの状態によって受用することである。「執着した」とは、渇愛に縛られた。「眩惑した」とは、眩惑・迷妄・放逸に陥った。「沈溺した」とは、深く沈み込み、それぞれの対象に入り込んで留まっている。「過患を見ない」とは、自己の欲求・貪りによる受用における過失を知らない。「無省察の受用を原因とする過患を逃れ、超越するこれによって」ゆえに出離(脱出)であり、省察の智慧のことである。

Pāsarāsinti pāsasamudāyaṃ. Luddako hi pāsaṃ oḍḍento na ekaṃyeva, na ca ekasmiṃyeva ṭhāne oḍḍeti, atha kho taṃtaṃmigānaṃ āgamanamaggaṃ sallakkhetvā tattha tattha oḍḍento bahūyeva oḍḍeti, tasmā te cittena ekato gahetvā **‘‘pāsarāsī’’**ti vuttaṃ. Vāgurassa vā pāsapadesānaṃ bahubhāvato **‘‘pāsarāsī’’**ti vuttaṃ.

「罠の山」とは、罠の集まりのことである。狩人は罠を仕掛ける際、一つだけを仕掛けるのではなく、また一箇所だけに仕掛けるのでもなく、様々な鹿たちのやって来る道を観察して、あちこちに仕掛けて実に多くを仕掛ける。それゆえに、それらを心の中で一つにまとめて「罠の山」と説かれた。あるいは、網の罠の網目が多数であることから「罠の山」と説かれた。

Pāsarāsisuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

罠の山経の註解における隠れた意味の解明を終わる。

7. Cūḷahatthipadopamasuttavaṇṇanā

7. 象跡喩小経の註解

288. Setaparivāroti setapaṭicchado, setavaṇṇālaṅkāroti attho. Pubbe pana ‘‘setālaṅkārā’’ti assālaṅkāro gahito, idha cakkapañjarakubbarādirathāvayavesu kātabbālaṅkāro. Evaṃ vuttenāti evaṃ ‘‘setāya suda’’ntiādinā pakārena saṃyuttamahāvagge (saṃ. ni. 5.4) vuttena. Nātimahā yuddhamaṇḍale sañcārasukhatthaṃ. Yodho sārathīti dvinnaṃ, paharaṇadāyakena saddhiṃ tiṇṇaṃ vā.

288. 「白の付属具」とは、白い覆いのことであり、白色の装飾という意味である。以前には「白い装飾」として馬の装飾が取られたが、ここでは車輪の枠、轅などの車輪の構成部分に施されるべき装飾である。「このように説かれたことによって」とは、このように『相応部・大篇』(5.4)において「白い馬車の」などの形で説かれたことによって。戦場において移動を容易にするために「あまり大きくない」。「戦士と御者」という二人、あるいは武器を渡す者を加えて三人。

Nagaraṃ padakkhiṇaṃ karoti nagarasobhanatthaṃ. Idaṃ kira tassa brāhmaṇassa jāṇussoṇiṭṭhānantaraṃ jātisiddhaṃ paramparāgataṃ cārittaṃ. Tenāha **‘‘ito ettakehi divasehī’’**tiādi. Cārittavasena nagaravāsinopi tathā tathā paṭipajjanti. Puññavādimaṅgalakathane niyuttā māṅgalikā. Suvatthipattanāya sovatthikā. Ādi-saddena vandīādīnaṃ saṅgaho. Yasasirisampattiyāti yasasampattiyā sirisampattiyā ca, parivārasampattiyā ceva vibhavasobhāsampattiyā cāti attho.

都市を右回りに巡るのは、都市を美しく飾るためである。これは実にそのバラモン・ジャーヌッソーニの地位に特有の、生まれながらにして定まり、代々受け継がれてきた慣習である。それゆえに「ここからこれほどの日数において」などと説かれた。慣習に従って都市の住民たちもそのように振る舞う。功徳を語り吉祥の言葉を述べることに従事する者たちが「吉祥を祝う者」。幸福の祈願を行う者たちが「幸運を祈る者」。「など」という言葉によって、賛美者たちなどが総括される。「名声と繁栄の具足によって」とは、名声の具足と繁栄の具足によってであり、従者の具足と富・美の具足によって、という意味である。

Nagarābhimukho pāyāsi attano bhikkhācāravelāya. Paṇḍito maññeti ettha maññeti idaṃ ‘‘maññatī’’ti iminā samānatthaṃ nipātapadaṃ. Tassa iti-saddaṃ ānetvā atthaṃ dassento **‘‘paṇḍitoti maññatī’’**ti āha. Anumatipucchāvasena cetaṃ vuttaṃ. Tenevāha **‘‘udāhu no’’**ti. ‘‘Taṃ kiṃ maññati bhavaṃ vacchāyano samaṇassa gotamassa paññāveyyattiya’’nti hi vuttamevatthaṃ puna gaṇhanto **‘‘paṇḍito maññe’’**ti āha. Tasmā vuttaṃ **‘‘bhavaṃ vacchāyano, samaṇaṃ gotamaṃ paṇḍitoti maññati, udāhu no’’**ti, yathā te khameyya, tathā naṃ kathehīti adhippāyo.

「都市に向かって出発した」とは、自らの托鉢の時間に。「賢者と思うか」のここでの「思う(maññe)」とは、「思っている(maññati)」と同じ意味の不変化士である。それに「〜と(iti)」という語を補って意味を示し、「賢者であると思っているのか」と説いた。これは同意を求める質問の形として語られたものである。それゆえに「それともそうではないのか」と説かれた。「尊者ヴァッチャーヤナは、沙門ゴータマの智慧の明敏さについてどう思われるか」とすでに語られた意味を再び取り上げて「賢者と思うか」と語ったのである。それゆえに「尊者ヴァッチャーヤナよ、沙門ゴータマを賢者と思われるか、それともそうではないのか」、あなたが納得できるようにそれを語りたまえ、という意図である。

Ahaṃ ko nāma, mama avisayo esoti dasseti. Ko cāti hetunissakke paccattavacananti āha **‘‘kuto cā’’**ti. Tathā cāha **‘‘kena kāraṇena jānissāmī’’**ti, yena kāraṇena samaṇassa gotamassa paññāveyyattiyaṃ jāneyyaṃ, taṃ kāraṇaṃ mayi natthīti adhippāyo. Buddhoyeva bhaveyya, abuddhassa sabbathā buddhañāṇānubhāvaṃ jānituṃ na sakkāti. Vuttañhetaṃ – ‘‘appamattakaṃ kho panetaṃ, bhikkhave, oramattakaṃ sīlamattakaṃ, yena puthujjano tathāgatassa vaṇṇaṃ vadamāno vadeyya (dī. ni. 1.7), atthi, bhikkhave, aññeva dhammā gambhīrā duddasā duranubodhā …pe… yehi tathāgatassa yathābhuccaṃ vaṇṇaṃ sammā vadamāno vadeyyā’’ti (dī. ni. 1.28) ca. Etthāti ‘‘sopi nūnassa tādisovā’’ti etasmiṃ pade. Pasattha pasatthoti pasatthehi attano guṇeheva so pasattho, na tassa kittinā, pasaṃsāsabhāveneva pāsaṃsoti attho. Tenāha **‘‘sabbaguṇāna’’**ntiādi. Maṇiratananti cakkavattino maṇiratanaṃ. Sadevake loke pāsaṃsānampi pāsaṃsoti dassetuṃ **‘‘pasatthehi vā’’**ti dutiyavikappo gahito.

「私ごときが何者であろうか、これは私の及ぶ領域ではない」ということを示している。「何者であろうか(ko ca)」とは、理由と離格の意味を持つ体言であるゆえに「どうして〜か(kuto cā)」と説かれた。同様に「いかなる理由によって知り得ようか」、沙門ゴータマの智慧の明敏さを知り得るような理由は私には存在しない、という意図である。「まさに仏陀でなければならない」、仏陀でない者には仏陀の智慧の威力を完全に知ることはできないからである。実に次のように説かれている。「比丘たちよ、凡夫が如来の徳を語るにあたって語るようなものは、わずかなもの、取るに足らないもの、単なる戒の程度にすぎない(『長部』1.7)。比丘たちよ、如来の真実の徳を正しく語る者が語るべき、深遠で見難く覚知し難い……乃至……他の法が存在する」(『長部』1.28)と。「ここにおいて」とは、「彼もまた実にそのような方であろう」というこの句において。「称賛された者たちに称賛された」とは、称賛された自らの諸徳によってこそ彼は称賛されたのであり、他者からの名声によってではなく、称賛に値する本性によって称賛されるべきである、という意味である。それゆえに「すべての徳の」などと説かれた。「宝珠」とは、転輪聖王の宝珠のことである。神々を含む世間において称賛されるべき者たちにとっても称賛されるべき方であることを示すために、「あるいは称賛された者たちによって」という第二の解釈が取られた。

Araṇīyato attho, so eva vasatīti vasoti atthavaso, tassa tassa payogassa ānisaṃsabhūtaṃ phalanti āha **‘‘atthavasanti atthānisaṃsa’’**nti. Attho vā vuttalakkhaṇo vaso etassāti atthavaso, kāraṇaṃ. Nāgavanavāsikoti hatthināgānaṃ vicaraṇavane tesaṃ gahaṇatthaṃ vasanako. Anuggahitasippoti asikkhitahatthisippo āyatavitthatassa padamattassa dassanena ‘‘mahā vata, bho nāgo’’ti niṭṭhāgamanato. Parato pana bhagavatā vuttaṭṭhāne. Uggahitasippo puriso nāgavanikoti āgato āyatavitthatassa padassa uccassa ca nisevitassa byabhicārabhāvaṃ ñatvā tattakena niṭṭhaṃ agantvā mahāhatthiṃ disvāva niṭṭhāgamanato. Ñāṇaṃ pajjati etthāti ñāṇapadāni, khattiyapaṇḍitādīnaṃ dhammavinaye vinītattā vinayehi adhigatajjhānādīni. Tāni hi tathāgatagandhahatthino desanāñāṇena akkantaṭṭhānāni. Cattārīti pana vineyyānaṃ idha khattiyapaṇḍitādivasena catubbidhānaṃyeva gahitattā.

達せられるべきものであるから「義(利益・目的)」であり、それ自身が従うゆえに「従属」であり、これが「義に従うこと(atthavasa)」であり、それぞれの努力の功徳となる結果であるゆえに「義に従うこととは利益の功徳である」と説かれた。あるいは、説かれた特徴を持つ「義」がこれに従属しているゆえに「義の従属(理由・動機)」である。「象の林に住む者」とは、大象(巨象)たちの徘徊する林に、それらを捕獲するために住んでいる者のことである。「象の技術を学んでいない者」とは、象を扱う技芸を習得していない者であり、長く広がった足跡を見るだけで「おお、実に大きな象だ」と結論に至るからである。しかし後において世尊によって説かれた箇所における、「象の技術を学んだ象の林の男」として現れる者は、長く広がった足跡や、高くに擦られた跡の不確定性を知って、それだけでは結論に達せず、大象を実際に見て初めて結論に達する。「知がここに達する」ゆえに「知覚の足跡(智の足跡)」であり、刹帝利の賢者らが仏法僧の教えにおいて導かれたことによって、律(教え)によって獲得された諸々の禅定などのことである。それらは実に、如来という芳香の巨象が説法の智慧によって踏みしめた足跡である。「四つ」とは、ここで化導されるべき者たちが刹帝利の賢者など四種類のみとして把握されているからである。

289. Puggalesu paññāya ca nipuṇatā paṇḍitasamaññā nipuṇatthassa dassanasamatthatāvasenevāti āha **‘‘sukhumaatthantarapaṭivijjhanasamatthe’’**ti. Kata-saddo idha nipphannapariyāyo. Pare pavadanti ettha, etenāti parappavādo, parasamayo. Parehi pavadanaṃ parappavādo, viggāhikakathāya paravādamaddanaṃ. Tadubhayampi ekato katvā pāḷiyaṃ vuttanti āha **‘‘viññātaparappavāde ceva parehi saddhiṃ katavādaparicaye cā’’**ti, parasamayesu paravādamaddanesu ca nipphanneti attho. Vālavedhirūpeti vālavedhipatirūpe. Tenāha **‘‘vālavedhidhanuggahasadise’’**ti. Vālanti anekadhā bhinnassa vālassa aṃsusaṅkhātaṃ vālaṃ. Bhindantā viyāti ghaṭādiṃ saviggahaṃ muggarādinā bhindantā viya, diṭṭhigatāni ekaṃsato bhindantāti adhippāyo. ‘‘Atthaṃ guyhaṃ paṭicchannaṃ katvā pucchissāmā’’ti saṅkhataṃ padapañhaṃ pucchantīti dassetuṃ **‘‘dupadampī’’**tiādi vuttaṃ. Vadanti etenāti vādo, doso. Pucchīyatīti pañho, attho. Pucchati etenāti pañho, saddo. Tadubhayaṃ ekato gahetvā āha **‘‘evarūpe pañhe’’**tiādi. **‘‘Evaṃ puccheyya, evaṃ vissajjeyyā’’**ti ca pucchāvissajjanānaṃ sikhāvagamanaṃ dasseti. Seyyoti uttamo, paramo lābhoti adhippāyo.

289. 人々において智慧の精妙さがあること、すなわち賢者という名称は、精妙な意味を見抜く能力によるものに他ならないゆえに、「深遠にして精妙な意味を洞察する能力がある者において」と説かれた。「なされた(kata)」という語は、ここでは熟達したことの同義語である。「他者がこれにおいて、これによって説く」ゆえに他者の主張(他論)であり、他者の教義である。「他者によって論ずること」が他論であり、論争的な議論において他者の主張を粉砕することである。聖典においてその両方が合わされて説かれているゆえに、「他者の教義を熟知し、他者との論争の修練を積んだ者において」と説かれたのであり、他者の教義において、また他論の粉砕において熟達した者において、という意味である。「毛髪を射るような者において」とは、毛髪を射る射手に似た者において。それゆえに「毛髪を射る射手のような者において」と説かれた。「毛髪(vālam)」とは、幾重にも裂かれた毛髪の先端と呼ばれる毛のことである。「打ち砕くかのごとく」とは、水瓶などの実体をハンマーなどで粉砕するかのごとく、諸々の見解(邪見)を決定的に粉砕する、という意図である。「意味を秘密にし、隠蔽して質問しよう」と作られた言葉の問いを問うことを示すために、「二言であっても」などと説かれた。「これによって論難する」ゆえに論難(vādo)であり、過失のことである。「問われるもの」ゆえに問い(pañho)であり、意味のことである。「これによって問う」ゆえに問いであり、言葉のことである。その両方を一つに捉えて「このような問いにおいて」などと説かれた。「このように問い、このように答えるであろう」とは、問いと答えの頂点を極めることを示している。「最勝」とは、最も優れ、最高の利得であるという意図である。

Evaṃ attano vādavidhamanabhayenapi pare bhagavantaṃ pañhaṃ pucchituṃ na visahantīti vatvā idāni vādavidhamanena vināpi na visahanti evāti dassetuṃ **‘‘apicā’’**tiādi āraddhaṃ. Cittaṃ pasīdati pare attano attabhāvampi vissatthaṃ niyyādetukāmā honti odhisakamettāpharaṇasadisattā tassa mettāyanassa. Dassanasampannāti daṭṭhabbatāya sampannā dassanānuttariyabhāvato, ativiya dassanīyāti attho.

このように、自らの主張が粉砕される恐れによっても他者は世尊に質問することを敢えてしないと述べて、今や論争の粉砕がなくとも、実に敢えて立ち向かえないことを示すために、「さらにまた」などと説き始めた。「心が澄む」とは、他者は自らの身体すらも安心して委ねたいと願うようになるのであり、その慈愛の広がりは対象を限定した慈愛の遍満に似ているからである。「見目麗しい」とは、見るべき価値を具足していることであり、観察の無上性があることから、極めて見るに値する、という意味である。

Saraṇagamanavasena sāvakāti lokiyasaraṇagamanena sāvakā, lokuttarasaraṇagamanena pana sāvakattaṃ parato āgamissati, tañca pabbajitavasena vuccati, idha gahaṭṭhavasena, ubhayatthāpi saraṇagamanena sāvakattaṃ veditabbaṃ. Te hi paralokavajjabhayadassāvino kulaputtā, ācārakulaputtāpi tādisā bhavanti. Thokenāti iminā ‘‘manaṃ anassāmā’’ti padassatthaṃ vadati.

「三帰依によって弟子となる」とは、世間的な三帰依によって弟子となることであり、出世間の三帰依による弟子である状態は後において説かれるが、それは出家者の観点から説かれるのに対し、ここでは在家の観点から説かれており、どちらにおいても三帰依によって弟子となる状態と知るべきである。彼らは実に他世における過失の恐怖を見る良家の男子たちであり、礼儀正しい良家の男子たちも同様である。「わずかに」というこれによって、「私たちは少し損なわれた」という句の意味を述べている。

290. Udāharīyati ubbegapītivasenāti, tathā vā udāharaṇaṃ udānaṃ. Tenāha **‘‘udāhāraṃ udāharī’’**ti. Assa dhammassāti assa paṭipattisaddhammapubbakassa paṭivedhasaddhammassa. Soti hatthipadopamo hatthipadopamabhāvena vuccamāno dhammo. Ettāvatāti ettakena paribbājakena vuttakathāmaggamattena. Kāmaṃ tena vuttakathāmaggenapi hatthipadopamabhāvena vuccamāno dhammo paripuṇṇova arahattaṃ pāpetvā paveditattā, so ca kho saṅkhepato, na vitthāratoti āha **‘‘na ettāvatā vitthārena paripūro hotī’’**ti. Yadi yathā vitthārena hatthipadopamo paripūro hoti, tathā desanā āraddhā, atha kasmā kusaloti na vuttoti codanā.

290. 抑えきれない歓喜の力によって声に出される、あるいはそのように語り出すことが「感興の言葉(udāna)」である。それゆえに「感興の言葉を発した」と説かれた。「この法について」とは、実践の正法を前駆とするこの証得の正法について。「その法は」とは、象の足跡の譬えとして説かれる法のことである。「これほどによって」とは、遍歴行者によって語られたこれほどの説法の道筋の程度によって。確かに、彼によって語られた説法の道筋によっても、象の足跡の譬えとして説かれる法は阿羅漢果に到達させて説き明かされたものであるため完全ではあるが、それは要約によるものであり、詳細によるものではないゆえに、「これほどによって詳細に満たされるのではない」と説かれた。もし詳細に象の足跡の譬えが満たされるように説法が始められたのであるなら、なぜ「熟練した者」と説かれなかったのか、という詰問である。

291. Āyāmatopīti pi-saddena ubbedhenapi rassāti dasseti. Nīcakāyā hi tā honti. Uccāti uccakā. Nisevanaṃ, nisevati etthāti vā nisevitaṃ. Nisevanañcettha kaṇḍuyitavinodanatthaṃ ghaṃsanaṃ. Tenāha **‘‘khandhappadese ghaṃsitaṭṭhāna’’**nti. Uccāti anīcā, ubbedhavantiyoti attho. Kāḷārikāti viraḷadantā, visaṅgatadantāti attho. Tenāha **‘‘dantāna’’**ntiādi. Kaḷāratāyāti viraḷatāya. Ārañjitānīti rañjitāni, vilikhitānīti attho. Kaṇerutāyāti kuṭumalasaṇṭhānatāya. Ayaṃ vāti ettha -saddo saṃsayitanicchayattho yathā aññatthāpi ‘‘ayaṃ vā imesaṃ samaṇabrāhmaṇānaṃ sabbabālo sabbamūḷho’’tiādīsu (dī. ni. 1.181).

291. 「長さにおいても」という「〜も(pi)」という語によって、高さにおいても低いことを示している。それらは実に身体が低いからである。「高い」とは、背が高いこと。「擦る場所、あるいはここに擦りつける」ゆえに「擦り跡」である。ここでの「擦ること」とは、痒みを紛らわせるために擦りつけることである。それゆえに「肩のあたりで擦りつけた場所」と説かれた。「高い」とは、低くないこと、高さを持っているという意味である。「隙間のある歯を持つ者」とは、まばらな歯を持つ者、不揃いな歯を持つ者という意味である。それゆえに「歯の」などと説かれた。「隙間があることによって」とは、まばらであることによって。「刻まれた」とは、染められた、引っ掻かれたという意味である。「小象の体型であることによって」とは、蕾のような形態であることによって。「あるいはこれ」のここでの「あるいは(vā)」という語は、他の箇所で「あるいはこれら沙門・バラモンたちの中で最も愚かで最も迷える者」(『長部』1.181)などとあるように、疑念を伴う確信の意味である。

Nāgavanaṃ viyāti mahāhatthino vāmanikādīnañca padadassanaṭṭhānabhūtaṃ nāgavanaṃ viya. Ādito paṭṭhāya yāva nīvaraṇappahānā dhammadesanā tathāgatassa bāhiraparibbājakādīnañca padadassanabhāvato. Ādito paṭṭhāyāti ca ‘‘taṃ suṇāhī’’ti padato paṭṭhāya. Kusalo nāgavaniko viya yogāvacaro pariyesanavasena pamāṇaggahaṇato. Matthake ṭhatvāti imassa suttassa pariyosāne ṭhatvā. Imasmimpi ṭhāneti ‘‘evameva kho brāhmaṇā’’tiādinā upameyyassa atthassa upaññāsanaṭṭhānepi.

「象の林のごとく」とは、大象や雌の小象などの足跡が見られる場所である象の林のごとく。最初から五蓋の断滅に至るまでの説法は、如来や外部の遍歴行者などの足跡を見る場所であるからである。「最初から」とは、「それを聞きなさい」という語から始めて、ということである。「熟練した象の林の男のごとく」とは、修行僧(瑜伽行者)が探求によって確証を得るからである。「頂点に立って」とは、この経の最後に立って。「この場所においても」とは、「バラモンよ、まさにこのように」などの譬えられるべき意味を提示する場所においても、ということである。

Svāyanti (dī. ni. ṭī. 1.190) idha-saddamattaṃ gaṇhāti, na yathāvisesitabbaṃ idha-saddaṃ. Tathā hi vakkhati ‘‘katthaci padapūraṇamattamevā’’ti. Lokaṃ upādāya vuccati loka-saddena samānādhikaraṇabhāvena vuttattā. Sesapadadvaye pana saddantarasannidhānamattena taṃ taṃ upādāya vuttatā daṭṭhabbā. Okāsanti kañci padesaṃ indasālaguhāya adhippetattā. Padapūraṇamattameva okāsāpadisanassapi asambhavato.

「この者は」とは(『長部複註』1.190)、ここでは「ここ(idha)」という語そのものを取っているのであり、修飾されるべき「ここ」ではない。実にそのように「ある場所では単なる語調を整える語にすぎない」と述べるからである。「世間」に依拠して説かれるのは、「世間」という語と同格関係として説かれているからである。しかし残りの二つの語においては、他の語が近接して存在することのみによって、それぞれに依拠して説かれたものと知るべきである。「場所」とは特定の領域のことであり、インダサーラ洞窟が意図されているからである。単なる語調を整える語にすぎないのは、場所を指し示すことも不可能だからである。

Tathāgata-saddādīnaṃ atthaviseso mūlapariyāyaṭṭhakathā(ma. ni. aṭṭha. 1.12) visuddhimaggasaṃvaṇṇanāsu vutto eva. Tathāgatassa sattanikāyantogadhatāya **‘‘idha pana sattaloko adhippeto’’**ti vatvā tatthāyaṃ yasmiṃ sattanikāye, yasmiñca okāse uppajjati, taṃ dassetuṃ **‘‘sattaloke uppajjamānopi cā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha imasmiṃyeva cakkavāḷeti imissā eva lokadhātuyā. ‘‘Aṭṭhānametaṃ, bhikkhave, anavakāso, yaṃ ekissā lokadhātuyā dve arahanto sammāsambuddho apubbaṃ acarimaṃ uppajjeyyu’’nti (dī. ni. 3.161; ma. ni. 3.129; a. ni. 1.278; netti. 57; mi. pa. 5.1.1) ettha jātikhettabhūtā dasasahassilokadhātu ‘‘ekissā lokadhātuyā’’ti vuttā. Idha pana imaṃyeva lokadhātuṃ sandhāya ‘‘imasmiṃyeva cakkavāḷe’’ti vuttaṃ. Tisso hi saṅgītiyo āruḷhe tepiṭake buddhavacane visayakhettaṃ āṇākhettaṃ jātikhettanti tividhe khette ṭhapetvā imaṃ cakkavāḷaṃ aññasmiṃ cakkavāḷe buddhā uppajjantīti suttaṃ natthi, na uppajjantīti pana atthi. Kathaṃ? ‘‘Na me ācariyo atthi, sadiso me na vijjati (ma. ni. 1.285; 2.341; mahāva. 11; kathā. 405; mi. pa. 4.5.11), ekomhi sammāsambuddho’’ti (ma. ni. 1.285; 2.341; kathā. 405; mahāva. 11) evamādīni imissā lokadhātuyā ṭhatvā vadantena bhagavatā – ‘‘kiṃ panāvuso, sāriputta, atthetarahi añño samaṇo vā brāhmaṇo vā bhagavatā samasamo sambodhiyanti evaṃ puṭṭhāhaṃ, bhante, noti vadeyya’’nti vatvā tassa kāraṇaṃ dassetuṃ – ‘‘aṭṭhānametaṃ anavakāso, yaṃ ekissā lokadhātuyā dve arahanto sammāsambuddhā’’ti imaṃ suttaṃ dassentena dhammasenāpatinā ca buddhānaṃ uppattiṭṭhānabhūtaṃ imaṃ lokadhātuṃ ṭhapetvā aññattha anuppatti vuttā hotīti.

「如来」などの諸語の特別な意味は、『根本講門経註』(『中部註』1.12)や『清浄道論』の解説においてすでに説かれている。如来が衆生の集団(衆生界)に含まれることから、「しかしここでは衆生世間が意図されている」と述べた上で、そこにおいてこの如来がいかなる衆生の集団に、いかなる場所に生じるのかを示すために、「衆生世間に生じるといっても」などと説かれた。その中で「この輪囲世界においてのみ」とは、まさにこの世界(世界軸)において、ということである。「比丘たちよ、一つの世界において、二人の阿羅漢・正等覚者が前後することなく同時に出現するということは、あり得ないことであり、起こり得ないことである」(『長部』3.161、『中部』3.129、『増支部』1.278、『導論』57、『ミリンダ王の問い』5.1.1)における「一つの世界において」とは、誕生の領域である一万の世界(一万世界)を指して説かれたものである。しかしここでは、まさにこの世界を指して「この輪囲世界においてのみ」と説かれた。三度の結集に登載された三蔵の仏典において、対象の領域(所縁境)、権能の領域(威力境)、誕生の領域(生処境)という三種の領域を措定して、この輪囲世界を除いた他の輪囲世界に仏陀が出現するという経典は存在せず、出現しないという経典なら存在する。いかにしてか?「我に師はなく、我に等しき者は存在しない(『中部』1.285; 2.341、『大品』11、『論事』405、『ミリンダ王の問い』4.5.11)、我は唯一の正等覚者である」(『中部』1.285; 2.341、『論事』405、『大品』11)などとこの世界に立って語られた世尊により、また「友サーリプッタよ、今、世尊と正等覚において同等である他の沙門あるいはバラモンが存在するだろうか。このように問われたなら、尊者よ、私は存在しないと答えるでしょう」と述べ、その理由を示すために「一つの世界において、二人の阿羅漢・正等覚者が……ということはあり得ない」というこの経を示した法将(サーリプッタ)によって、諸仏の出現の場所であるこの世界を除いて、他所には出現しないということが説かれているのである。

Sujātāyātiādinā vuttesu catūsu vikappesu paṭhamo vikappo buddhabhāvāya āsannatarapaṭipattidassanavasena vutto. Āsannatarāya hi paṭipattiyaṃ ṭhito **‘‘uppajjatī’’**ti vuccati uppādassa ekantikattā, pageva paṭipattiyā matthake ṭhito. Dutiyo buddhabhāvāvahapabbajjato paṭṭhāya āsannapaṭipattidassanavasena, tatiyo buddhakaradhammapāripūrito paṭṭhāya buddhabhāvāya paṭipattidassanavasena. Na hi mahāsattānaṃ tusitabhavūpapattito paṭṭhāya bodhisambhārasambharaṇaṃ nāma atthi. Catuttho buddhakaradhammasamārambhato paṭṭhāya. Bodhiyā niyatabhāvāpattito pabhuti hi viññūhi **‘‘buddho uppajjatī’’**ti vattuṃ sakkā uppādassa ekantikattā, yathā pana ‘‘tiṭṭhanti pabbatā, sandanti nadiyo’’ti tiṭṭhanasandanakiriyānaṃ avicchedamupādāya vattamānapayogo, evaṃ uppādatthāya paṭipajjanakiriyāya avicchedamupādāya catūsu vikappesu **‘‘uppajjati nāmā’’**ti vuttaṃ. Sabbapaṭhamaṃ uppannabhāvanti sabbehi upari vuccamānehi visesehi paṭhamaṃ tathāgatassa uppannatāsaṅkhātaṃ atthitāvisesaṃ.

「スジャーターの……」などの語によって説かれた四つの解釈のうち、第一の解釈は仏陀の境地へと極めて近接した実践を示す観点から説かれた。極めて近接した実践に立つ者は、出現することが確実であるゆえに「出現する」と言われ、実践の頂点に立っている者なら尚更である。第二は、仏陀の境地をもたらす出家から始めて、近接した実践を示す観点からであり、第三は、仏陀を成ぜしめる法の充足(波羅蜜の完成)から始めて、仏陀の境地への実践を示す観点からである。大士たちが兜率天の生存に生じてから後に、ボーディ(覚り)の資糧を積集するということは存在しないからである。第四は、仏陀を成ぜしめる法への着手から始めてである。覚りが確実な状態となって以来、賢者たちによって「仏陀が出現する」と言うことができるのは、出現が確実であるからであり、例えば「山々は聳え立ち、河川は流れる」というように、静止し流れる作用が中断しないことに基づいて現在形が用いられるように、出現のための実践の作用が中断しないことに基づいて、四つの解釈において「出現すると名づけられる」と説かれたのである。「誰よりも先に出現した状態」とは、後で語られるすべての卓越性に先立って、如来が出現したという存在の卓越性のことである。

So bhagavāti (a. ni. ṭī. 2.3.64) yo ‘‘tathāgato araha’’ntiādinā kittitaguṇo, so bhagavā. Imaṃ lokanti nayidaṃ mahājanassa sammukhāmattaṃ lokaṃ sandhāya vuttaṃ, atha kho anavasesaṃ pariyādāyāti dassetuṃ **‘‘sadevaka’’**ntiādi vuttaṃ. Tenāha **‘‘idāni vattabbaṃ nidassetī’’**ti. Pajātattāti yathāsakaṃ kammakilesehi nibbattattā. Pañcakāmāvacaradevaggahaṇaṃ pārisesañāyena itaresaṃ padantarehi saṅgahitattā. Sadevakanti ca avayavena viggaho samudāyo samāsattho. Chaṭṭhakāmāvacaradevaggahaṇaṃ paccāsattiñāyena. Tattha hi so jāto tannivāsī ca. Brahmakāyikādibrahmaggahaṇanti etthāpi eseva nayo. Paccatthikapaccāmittasamaṇabrāhmaṇaggahaṇanti nidassanamattametaṃ apaccatthikānaṃ asamitābāhitapāpānañca samaṇabrāhmaṇānaṃ sassamaṇabrāhmaṇivacanena gahitattā. Kāmaṃ ‘‘sadevaka’’ntiādivisesanānaṃ vasena sattavisayo loka-saddoti viññāyati tulyayogavisayattā tesaṃ, ‘‘salomako sapakkhako’’tiādīsu pana atulyayogepi ayaṃ samāso labbhatīti byabhicāradassanato pajāgahaṇanti āha **‘‘pajāvacanena sattalokaggahaṇa’’**nti.

「その世尊は」とは(『増支部複註』2.3.64)、「如来、応供」などの語によって称えられた徳を持つ、その世尊のことである。「この世間を」とは、多くの人々の目の前にあるだけの世間を指して言ったのではなく、余すところなく包摂してのことであると示すために、「神々を含む」などと説かれた。それゆえに「今や語るべきことを例示する」と説かれた。「衆生であることによって」とは、おのおのの業と煩悩によって生じた者であることから。「五欲界の神々を把握すること」は、残りの部分を他の語によって包括していることから、残余の論理によるものである。「神々を含む」とは、部分による分析であり、全体が複合語(サンバーサ)の意味である。「第六の欲界の神(他化自在天)を把握すること」は、近接の論理による。そこにおいて実に彼(魔羅)は生まれ、そこに住んでいるからである。「梵衆天などの梵天を把握すること」においてもこの方法である。「対立者・敵対者たる沙門・バラモンを把握すること」とは、単なる例示にすぎず、対立者でなく、悪を静め排除していない沙門・バラモンたちも「沙門・バラモンを含む」という言葉によって把握されているからである。確かに「神々を含む」などの修飾語によって、「世間」という語が衆生を対象としていることが理解されるが、それはそれらが同等の関係にある対象だからであり、しかし「毛を持つもの、翼を持つもの」などにおいては同等でない関係においてもこの複合語が成り立っているのが見られるため、表現の不確定性を避けて衆生を把握するのであり、それゆえに「衆生という言葉によって衆生世間を把握する」と説かれた。

Arūpino sattā attano āneñjavihārena viharantā ‘‘dibbantīti **devā’’**ti imaṃ nibbacanaṃ labhantīti āha **‘‘sadevakaggahaṇena arūpāvacaradevaloko gahito’’**ti. Tenevāha ‘‘ākāsānañcāyatanūpagānaṃ devānaṃ sahabyata’’nti (a. ni. 3.117). Samārakaggahaṇena chakāmāvacaradevaloko gahito tassa savisesaṃ mārassa vase vattanato. Rūpī brahmaloko gahito arūpībrahmalokassa visuṃ gahitattā. Catuparisavasenāti khattiyādicatuparisavasena. Itarā pana catasso parisā samārakādiggahaṇena gahitā evāti. Avasesasabbasattaloko nāgagaruḷādibhedo.

無色の衆生たちは自らの不動の境地によって暮らしており、「遊戯する(楽しむ)ゆえに神々(devā)である」というこの語源解釈を得るゆえに、「神々を含むという把握によって無色界の神々の世界が把握されている」と説かれた。それゆえに「空無辺処に達した神々との同棲」(『増支部』3.117)と説かれた。「魔羅を含むという把握によって」六欲界の神々の世界が把握されるのであり、それはそこが特に魔羅の支配下にあるからである。有色(色界)の梵天の世界が把握されるのは、無色の梵天の世界が別個に把握されているからである。「四つの集まり(四衆)の観点から」とは、刹帝利などの四つの集まりの観点からである。しかし他の四つの集まりは、「魔羅を含む」などの把握によってすでに把握されている。「残りのすべての衆生世間」とは、龍や金翅鳥(ガルダ)などの区分である。

Ettāvatā bhāgaso lokaṃ gahetvā yojanaṃ dassetvā idāni tena tena visesena abhāgasova lokaṃ gahetvā yojanaṃ dassetuṃ **‘‘apicetthā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha ukkaṭṭhaparicchedatoti ukkaṃsagabhivijānanena. Pañcasu hi gatīsu devalokova seṭṭho. Tatthāpi arūpino ‘‘dūrasamussāritakilesadukkhatāya, santapaṇītaāneñjavihārasamaṅgitāya, ativiya dīghāyukatāyā’’ti evamādīhi visesehi ativiya itarehi ukkaṭṭhā. Brahmā mahānubhāvotiādiṃ dasasahassiyaṃ mahābrahmuno vasena vadati. ‘‘Ukkaṭṭhaparicchedato’’ti hi vuttaṃ. Anuttaranti seṭṭhaṃ navalokuttaraṃ. Bhāvānukkamo bhāvavasena paresaṃ ajjhāsayavasena ‘‘sadevaka’’ntiādīnaṃ padānaṃ anukkamo. Tīhākārehīti devamārabrahmasahitatāsaṅkhātehi tīhi pakārehi. Tīsu padesūti ‘‘sadevaka’’ntiādīsu tīsu padesu. Tena tenākārenāti sadevakattādinā tena tena pakārena. Tedhātukameva pariyādinnanti porāṇā panāhūti yojanā.

ここまでに世界を部分ごとに捉えて結合を示し、今やその時々の特質によって全体としての世界を捉えて結合を示すために、「またここにおいて」等と説かれた。その中で「最勝の限定により」とは、卓越した知解によるということである。実際、五趣の中では神々の世界こそが最勝である。そこにおいても非色界の者たちは「煩悩の苦しみから遠く離れていること、静寂で勝れた不動の境地に安住していること、極めて長寿であること」などの特質によって、他の者たちよりも極めて優れている。「偉大な威光ある梵天」等は、一万の世界の統治者たる大梵天の観点から説いている。実に「最勝の限定により」と説かれているからである。「無上の」とは最勝なる九種の出世間法である。「状態の順序」とは、状態の観点から、他者の志向に応じて「神々を含む」等の言葉の順序である。「三つの様相によって」とは、神・魔・梵天を伴うことと呼ばれる三つの様相によって。「三つの言葉において」とは、「神々を含む」等の三つの言葉において。「その時々の様相によって」とは、神々を含むこと等、その時々の様相によって。「三界の全体が含まれていると古代の注釈者たちは言う」と結合される。

Abhiññāti ya-kāralopenāyaṃ niddeso, abhijānitvāti ayamettha atthoti āha **‘‘abhiññāya, adhikena ñāṇena ñatvā’’**ti. Anumānādipaṭikkhepoti anumānaupamānaatthāpattiādipaṭikkhepo ekappamāṇattā. Sabbattha appaṭihatañāṇācāratāya hi sabbapaccakkhā buddhā bhagavanto. Anuttaraṃ vivekasukhanti phalasamāpattisukhaṃ. Tena vītimissāpi kadāci bhagavato dhammadesanā hotīti āha **‘‘hitvāpī’’**ti. Bhagavā hi dhammaṃ desento yasmiṃ khaṇe parisā sādhukāraṃ vā deti, yathāsutaṃ vā dhammaṃ paccavekkhati, taṃ khaṇaṃ pubbabhāgena paricchinditvā phalasamāpattiṃ samāpajjati, yathāparicchedañca samāpattito vuṭṭhāya ṭhitaṭṭhānato paṭṭhāya dhammaṃ deseti.

「証知して(abhiññā)」とは、yaの文字の脱落による表現であり、証知した後に(abhijānitvā)というのがここでの意味であるとし、「証知して、より勝れた智によって知って」と言った。「推論等の否定」とは、唯一の基準(現量)によるがゆえに、推論・比喩・義準などの否定である。あらゆる処において遮られることのない智慧の行態を有するため、諸々の仏陀世尊はすべてを直接現量とするからである。「無上の離れる楽」とは、果等至の楽である。それと混じり合っても時には世尊の説法があることを示して、「捨てても」と言った。世尊は法を説かれる際、会衆が歓呼の声を上げる刹那、あるいは説かれた法を省察する刹那をあらかじめ限っておいて果等至に入定され、その限定どおりに等至から出定して、留まっていた箇所から引き続き法を説かれるのである。

Desakāyattena āṇādividhinā atisajjanaṃ pabodhanaṃ desanāti sā pariyattidhammavasena veditabbāti āha **‘‘desanāya tāva catuppadikāyapi gāthāyā’’**tiādi. Sāsitabbapuggalagatena yathāparādhādisāsitabbabhāvena anusāsanaṃ tadaṅgavinayādivasena vinayanaṃ sāsananti taṃ paṭipattidhammavasena veditabbanti āha **‘‘sīlasamādhivipassanā’’**tiādi. Kusalānanti maggakusalānaṃ, kusalānanti vā anavajjānaṃ. Tena phaladhammānampi saṅgaho siddho hoti. Ādibhāvo sīladiṭṭhīnaṃ tammūlakattā uttarimanussadhammānaṃ. Tasmiṃ tasmiṃ atthe kathāvadhisaddappabandho gāthāvasena suttavasena ca vavatthito pariyattidhammo, yo idheva ‘‘desanā’’ti vutto. Tassa pana attho visesena sīlādi evāti āha **‘‘bhagavā hi dhammaṃ desento…pe… nibbānaṃ dassetī’’**ti. Tattha sīlaṃ dassetvāti sīlaggahaṇena sasambhāraṃ sīlaṃ gahitaṃ. Tathā maggaggahaṇena sasambhāro maggoti tadubhayena anavasesato pariyattiatthaṃ pariyādiyati. Tenāti sīlādidassanena. Atthavasena hi idha desanāya ādikalyāṇādibhāvo adhippeto. Kathikasaṇṭhitīti kathikassa saṇṭhānaṃ kathanavasena samavaṭṭhānaṃ.

説示の主体として命令等の作法により授けること、目覚めさせることが説法(desanā)であり、それは教説法(教理)の観点から知られるべきであるとして、「説法においては、まず四句の詩偈であっても」等と言った。教誡されるべき人々の犯した過ちなどに応じた教誡のあり方として訓誡すること、彼分断などの観点からの調伏が教え(sāsana)であり、それは実践法の観点から知られるべきであるとして、「戒・定・観」等と言った。「善きものたちの」とは、道における善きものたちの、あるいは無過失な法たちのことである。それによって果の諸法も包摂されることが成立する。「初めであること」とは、戒や見は上位の人間の法(殊勝法)の根本であることによる。それぞれの意味において、詩偈や経の形式で確定された言葉の連なりが教説法であり、それがまさにここで「説法」と説かれている。しかしその意味は、特に戒などに他ならないとして、「世尊は法を説きつつ……涅槃を示す」と言った。そこにおいて「戒を示して」とは、戒の限定によって資糧を伴う戒が取られている。同様に「道の限定」によって資糧を伴う道が取られており、その双方によって余すところなく教説の意味を包括している。「それによって」とは、戒などを示すことによってである。意味の観点から、ここでは説法が初めも善いことなどが意図されている。「語り手の確立」とは、語り手としての定着、語ることによる確立である。

Na so sātthaṃ deseti niyyānatthavirahato tassā desanāya. Ekabyañjanādiyuttā vāti sithilādibhedesu byañjanesu ekappakāreneva, dvippakāreneva vā byañjanena yuttā vā damiḷabhāsā viya. Sabbattha niroṭṭhaṃ katvā vattabbatāya sabbaniroṭṭhabyañjanā vā kirātabhāsā viya. Sabbattheva vissajjanīyayuttatāya sabbavissaṭṭhabyañjanā vā yavanabhāsā viya. Sabbattheva sānusāratāya sabbaniggahitabyañjanā vā pārasikādimilakkhabhāsā viya. Sabbāpesā ekadesabyañjanavaseneva pavattiyā aparipuṇṇabyañjanāti katvā **‘‘abyañjanā’’**ti vuttā. Amakkhetvāti apalicchetvā avināsetvā, ahāpetvāti vā attho.

彼は義を備えて説くのではない。その説法に出離の義(目的)が欠けているからである。「あるいは一の文字等を具えた」とは、軟音などの分類における文字において、一種類のみ、あるいは二種類の文字のみを具えたタミル語のようなものである。あるいは至る所で無唇音化して語られるべきであることによる、全無唇音文字のキラ―タ語のようなものである。あるいは至る所でヴィサルガ(気声)を伴うことによる、全気声文字のギリシャ語のようなものである。あるいは至る所でアヌスヴァーラ(鼻音)を伴うことによる、全鼻音文字のペルシャ語などの未開語のようなものである。これらはすべて部分的な文字の働きによるがゆえに不完全な文字であり、「文字(表現)を具えない」と説かれた。「損なうことなく」とは、削ることなく、損なうことなく、あるいは減じることなくという意味である。

Bhagavā yamatthaṃ ñāpetuṃ ekagāthampi ekavākyampi deseti, tamatthaṃ tāya desanāya sabbaso paripuṇṇameva katvā deseti, evaṃ sabbatthāti āha **‘‘ekadesanāpi aparipuṇṇā natthī’’**ti. Ullumpanasabhāvasaṇṭhitenāti saṃkilesapakkhato vaṭṭadukkhato ca uddharaṇasabhāvāvaṭṭhitena cittena. Tasmāti yasmā sikkhāttayasaṅgahaṃ sakalaṃ sāsanaṃ idha ‘‘brahmacariya’’nti adhippetaṃ, tasmā. Brahmacariyanti iminā samānādhikaraṇāni sabbapadāni yojetvā atthaṃ dassento **‘‘so dhammaṃ deseti…pe… pakāsetīti evamettha attho daṭṭhabbo’’**ti āha.

世尊は或る義を知らせるために、一つの詩偈であっても、一つの文章であっても説かれるが、その説法によってその義を完全に満たして説かれるのであり、あらゆる処でこのようにあるとして、「ひとつの説法であっても不完全なものはない」と言った。「救済の本質に確立した(心によって)」とは、雑染の側から、また輪廻の苦しみから引き上げる本質に留まった心によって。「それゆえに」とは、三学を包摂するすべての教えがここで「梵行」と意図されているがゆえに、それゆえにである。「梵行」とこれら同格のすべての言葉を結びつけて義を示しつつ、「彼は法を説き……明示する、このようにここでの義は見られるべきである」と言った。

Dūrasamussāritamānasseva sāsane sammāpaṭipatti sambhavati, na māna jātikassāti āha **‘‘nihatamānattā’’**ti. Ussannattāti bahulabhāvato. Bhogārogyādivatthukā madā suppaheyyā honti nimittassa anavaṭṭhānato’ na tathā kulavijjāmadāti khattiyabrāhmaṇakulīnānaṃ pabbajitānampi jātivijjā nissāya mānajappanaṃ duppajahanti āha **‘‘yebhuyyena hi…pe… mānaṃ karontī’’**ti. Vijātitāyāti nihīnajātitāya. Patiṭṭhātuṃ na sakkontīti suvisuddhiṃ katvā sīlaṃ rakkhituṃ na sakkonti. Sīlavasena hi sāsane patiṭṭhāti. Patiṭṭhātunti vā saccapaṭivedhena lokuttarāya patiṭṭhāya patiṭṭhātuṃ. Yebhuyyena hi upanissayasampannā sujātā eva honti, na dujjātā.

慢心を遠く排除した者にこそ教えにおける正しき実践が可能であり、生まれによる慢心を持つ者にはそうではないとして、「慢心を打ち砕いたゆえに」と言った。「盛んであるゆえに」とは、豊富であることからである。財産や健康などを根拠とする高慢は、その対象が不定であるため容易に捨てられるが、家柄や学識による高慢はそうではない。王族やバラモンの家柄の出家者であっても、生まれや学識に依拠する慢心の執着は捨て難いことを示して、「実に多くの場合……慢心をなす」と言った。「低賤な生まれであることによって」とは、卑しい家柄であることによって。「確立することができない」とは、完全に清浄にして戒を保つことができないということである。実に戒の力によって教えの中に確立するからである。あるいは「確立する」とは、真理の現観による出世間の確立によって確立することである。多くの場合、資質に恵まれた者は良き家柄の生まれであり、卑しい生まれではない。

Parisuddhanti rāgādīnaṃ accantameva pahānadīpanato nirupakkilesatāya sabbaso visuddhaṃ. Saddhaṃ paṭilabhatīti pothujjanikasaddhāvasena saddahati. Viññujātikānañhi dhammasampattigahaṇapubbikā saddhāsiddhi dhammapamāṇadhammappasannabhāvato. Jāyampatikā vasantīti kāmaṃ ‘‘jāyampatikā’’ti vutte gharasāmikagharasāminivasena dvinnaṃyeva gahaṇaṃ viññāyati. Yassa pana purisassa anekā pajāpatiyo honti, tattha kiṃ vattabbaṃ? Ekāyapi tāya vāso sambādhoti dassanatthaṃ **‘‘dve’’**ti vuttaṃ. Rāgādinā sakiñcanaṭṭhena, khettavatthuādinā sapalibodhaṭṭhena. Rāgarajādīnaṃ āgamanapathatāpi uppajjanaṭṭhānatā evāti dvepi vaṇṇanā ekatthā, byañjanameva nānaṃ. Alagganaṭṭhenāti asajjanaṭṭhena appaṭibaddhabhāvena. Evaṃ akusalakusalappavattīnaṃ ṭhānabhāvena gharāvāsapabbajjānaṃ sambādhabbhokāsataṃ dassetvā idāni kusalappavattiyā eva aṭṭhānaṭhānabhāvena tesaṃ taṃ dassetuṃ **‘‘apicā’’**tiādi vuttaṃ.

「清浄な」とは、貪りなどを完全に断滅することを示すことによる、随煩悩なき完全な清浄である。「信を得る」とは、凡夫としての信の力によって信じることである。賢者たる生まれの者たちにとっては、法の勝徳を捉えることが先行する信の成就であり、法を基準とし、法に澄明な心を持つ者であるからである。「夫婦が暮らす」とは、確かに「夫婦」と言えば家の主人と女主人という二人のみを捉えると理解される。しかし一人の男性に多くの妻がいる場合、そこについて何を言うべきであろうか。一人であっても彼女との同居は狭苦しいことを示すために「二つの」と説かれた。貪りなどによる所有の執着という意味で、また田畑や屋敷などによる障害という意味である。貪りの塵などの到来する道であることも生じる場所であることと同じであり、二つの解釈も同じ意味であって表現の違いにすぎない。「執着しない意味で」とは、捉われない意味で、縛られない状態であることによって。このように不善と善の働きの場であることによって、在家の生活と出家の生活が狭小と開かれた空間であることを示し、今や善の働きにとっての不適地と適地であることによってそれらを示すために、「また」等と説かれた。

Saṅkhepakathāti visuṃ visuṃ paduddhāraṃ akatvā saṅkhepato atthavaṇṇanā. Ekampi divasanti ekadivasamattampi. Akhaṇḍaṃ katvāti dukkaṭamattassapi anāpajjanena akhaṇḍitaṃ katvā. Kilesamalena amalīnanti taṇhāsaṃkilesādivasena asaṃkiliṭṭhaṃ katvā. Paridahitvāti nivāsetvā ceva pārupitvā ca. Agāravāso agāraṃ uttarapadalopena, tassa vaḍḍhiāvahaṃ agārassa hitaṃ. Bhogakkhandhoti bhogarāsi bhogasamudāyo. Ābandhanaṭṭhenāti ‘‘putto nattā’’tiādinā pemavasena saparicchedaṃ sambandhanaṭṭhena. ‘‘Amhākamete’’ti ñāyantīti ñātī. Pitāmahapituputtādivasena parivattanaṭṭhena parivaṭṭo.

「要約した語り」とは、個別の句節を挙げることなく、要約して意味を注釈すること。「一日であっても」とは、一日の間だけでも。「破損することなく」とは、悪作罪(軽微な罪)のわずかさえも犯さないことによって破損させずに。「煩悩の汚れによって汚れることなく」とは、渇愛の雑染などによって汚されることなく。「纏って」とは、下衣を着て、上衣をまとって。「在家の生活」とは家であり、後節の脱落による表現であって、その増大をもたらす在家の利益である。「財の集積」とは、財の堆積、財の集まり。「結びつける意味で」とは、「息子や孫」などと愛着によって境界を定めて結びつけるという意味で。「『私たちのこれらは』と知られる」ゆえに親族である。祖父・父・子などの順で巡るという意味で巡回である。

292. Sāmaññavācīpi sikkhā-saddo sājīva-saddasannidhānato upari vuccamānavisesāpekkhāya ca visesaniviṭṭhova hotīti vuttaṃ **‘‘yā bhikkhūnaṃ adhisīlasaṅkhātā sikkhā’’**ti. Sikkhitabbaṭṭhena sikkhā. Saha ājīvanti etthāti sājīvo. Sikkhanabhāvenāti sikkhāya sājīve ca sikkhanabhāvena. Sikkhaṃ paripūrentoti sīlasaṃvaraṃ paripūrento. Sājīvañca avītikkamantoti – ‘‘nāmakāyo padakāyo niruttikāyo byañjanakāyo’’ti (pārā. aṭṭha. 39) vuttasikkhāpadaṃ bhagavato vacanaṃ avītikkamanto hutvāti attho. Idameva ca dvayaṃ ‘‘sikkhana’’nti vuttaṃ. Tattha sājīvānatikkamo sikkhāpāripūriyā paccayo. Tato hi yāva maggā sikkhāpāripūrī hotīti.

292. 一般名詞であっても「学処」という言葉は、「生計」という言葉と隣接していること、また後述される特質を期待していることから、特定の限定を持つものとなるとし、「諸比丘の増上戒と呼ばれる学処」と言った。学ばれるべきであるという意味で学処である。生計とともにあること、ここに生計が共にあることである。「学ぶことによって」とは、学処と生計において学ぶことによって。「学処を満たし」とは、戒の制御を満たしつつ。「生計を越えず」とは、「名身・句身・言辞身・文章身」と説かれた学処たる世尊の言葉を越えない者となって、という意味である。そしてこの二つこそが「学ぶこと」と説かれた。そこにおいて生計を越えないことは、学処の成就のための条件である。そこから実に道に至るまで学処の成就があるからである。

Pajahitvāti samādānavasena pariccajitvā. Pahīnakālato paṭṭhāya…pe… viratovāti etena pahānassa viratiyā ca samānakālataṃ dasseti. Yadi evaṃ ‘‘pahāyā’’ti kathaṃ purimakālaniddesoti? Tathā gahetabbataṃ upādāya. Dhammānañhi paccayapaccayuppannabhāve apekkhite sahajātānampi paccayapaccayuppannabhāvena gahaṇaṃ purimapacchimabhāveneva hotīti gahaṇapavattiākāravasena paccayabhūtesu hirottappañāṇādīsu pahānakiriyāya purimakālavohāro, paccayuppannāsu ca viratīsu viramaṇakiriyāya aparakālavohāro ca hotīti ‘‘pahāya paṭivirato hotī’’ti vuttaṃ. Pahāyāti vā samādānakālavasena vuttaṃ, pacchā vītikkamitabbavatthusamāyogavasena paṭiviratoti. Pahāyāti vā –

「捨て去って」とは、受持によって放棄して。「断滅した時から始まって……離れた」とは、これによって断滅と離止が同時であることを示している。もしそうであるなら、なぜ「捨て去って」と過去形の表現がなされるのか。そのように把握されるべきことに基づいているからである。諸法が原因と結果の状態において期待されるとき、倶生する(同時に生じる)ものであっても原因と結果の状態による把握は前後関係として生じる。したがって把握の働きの様相によって、原因となる慚・愧・智などにおける断滅の作用には過去の表現がなされ、結果として生じる離止において離れる作用には後時の表現がなされるので、「捨て去って離れた者となる」と説かれた。あるいは「捨て去って」とは受持の時の観点から説かれ、後に犯すべき対象に出会った観点から「離れた」と説かれた。あるいは「捨て去って」とは――

‘‘Nihantvāna tamokhandhaṃ, uditoyaṃ divākaro;

「暗黒の塊を打ち破って、この太陽は昇った。

Vaṇṇapabhāya bhāseti, obhāsetvā samuggato’’ti ca. (visuddhi. mahāṭī. 2.578) –

輝く光によって照らし、照らし出してから昇った」などにおけるように、

Evamādīsu viya samānakālavasena veditabbo. Atha vā pāṇo atipātīyati etenāti pāṇātipāto, pāṇaghātahetubhūto ahirikānottappadosamohavihiṃ sādiko cetanāpadhāno saṃkilesadhammo, taṃ samādānavasena pahāya. Tato…pe… viratova hotīti avadhāraṇena tassā viratiyā kālādivasena apariyantataṃ dasseti. Yathā hi aññe samādinnaviratikāpi anavaṭṭhitacittatāya lābhajīvikādihetu samādānaṃ bhindanteva, na evamayaṃ. Ayaṃ pana pahīnakālato paṭṭhāya orato viratoti. Adinnādānaṃ pahāyātiādīsupi iminā nayena attho veditabbo.

同時であることの観点から知られるべきである。あるいは、これによって命が奪われるがゆえに殺生(生命を害すること)であり、生命を害する原因となる無慚・無愧・瞋恚・愚痴・加害などの思(意志)を中心とする雑染の法であり、それを受持によって捨て去って。そこから「……離れた者である」という限定によって、その離止が時間などによって無限定であることを示している。実に他の受持による離止をなす者であっても、心が定まらないために利得や生計などの原因によって受持を破ってしまうことがあるが、この者はそうではない。この者は断滅した時から始まって以降、離れた者なのである。「与えられないものを取ることを捨て去って」等においても、この方法によって義が知られるべきである。

Daṇḍanaṃ daṇḍanipātanaṃ daṇḍo. Muggarādipaharaṇavisesopi idha paharaṇavisesoti adhippeto. Tenāha **‘‘ṭhapetvā daṇḍaṃ sabbampi avasesaṃ upakaraṇa’’**nti. Daṇḍanasaṅkhātassa paraviheṭhanassa parivajjitabhāvadīpanatthaṃ daṇḍasatthānaṃ nikkhepavacananti āha **‘‘parūpaghātatthāyā’’**tiādi. Vihiṃsanabhāvatoti vibādhanabhāvato. Lajjīti ettha vuttalajjāya ottappampi vuttanti daṭṭhabbaṃ. Na hi pāpajigucchanapāputtāsarahitaṃ, pāpabhayaṃ vā alajjanaṃ atthi. Yassa vā dhammagarutāya dhammassa ca attādhīnattā attādhipatibhūtā lajjākiccakārī, tassa lokādhipatibhūtaṃ ottappaṃ kiccakaranti vattabbameva natthīti ‘‘lajjī’’icceva vuttaṃ. Dayaṃ mettacittataṃ āpannoti kasmā vuttaṃ, nanu dayā-saddo ‘‘adayāpanno’’tiādīsu karuṇāya vattatīti? Saccametaṃ, ayaṃ pana dayā-saddo anurakkhaṇatthaṃ antonītaṃ katvā pavattamāno mettāya ca karuṇāya ca pavattatīti idha mettāya pavattamāno vutto. Mijjati siniyhatīti mettā, sā etassa atthīti mettaṃ, mettaṃ cittaṃ etassa atthīti mettacitto, tassa bhāvo mettacittatā, mettāicceva attho.

打撃を加えること、杖を下ろすことが杖である。棍棒などの打撃具の区別もここでは打撃具の区別と意図されている。それゆえに「杖を除いてすべての残りの道具をも」と言った。打撃と呼ばれる他者への加害を回避した状態を示すために杖や刀剣を捨てるという言葉があるとし、「他者を殺害するために」等と言った。「加害することから」とは、苦しめることからである。「恥じる者」とは、ここで説かれた恥(慚)によって愧(悪を恐れること)も説かれていると見なされるべきである。悪を嫌悪し悪を恐れることのない恥や、悪の恐れのない恥は存在しないからである。あるいは、法を重んじることによって法が自己に従属しているため自己を主とする者として慚の働きをなす者にとって、世間を主とする愧が働くことは言うまでもないことであり、「恥じる者」とだけ説かれた。「慈しみ、慈愛の心に至った」とはなぜ説かれたのか。実に「非情になった」等において「慈しみ(dayā)」という言葉は悲(karuṇā)に用いられるのではないか。それは真実であるが、この「慈しみ」という言葉は保護するという意味を内に含んで働き、慈(mettā)と悲(karuṇā)の双方に働くので、ここでは慈に働くものとして説かれた。親愛を感じる、潤うゆえに慈(mettā)であり、それがこの者にあるゆえに慈愛ある者であり、慈愛ある心がこの者にあるゆえに慈心ある者であり、その状態が慈心であること、すなわち慈そのものの意味である。

Sabbapāṇabhūtahitānukampīti etena tassā viratiyā sattavasena apariyantataṃ dasseti. Pāṇabhūteti pāṇajāte. Anukampakoti karuṇāyanako. Yasmā pana mettā karuṇāya visesapaccayo hoti, tasmā vuttaṃ **‘‘tāya eva dayāpannatāyā’’**ti. Evaṃ yehi dhammehi pāṇātipātā virati sampajjati, tehi lajjāmettākaruṇādhammehi samaṅgibhāvo dassito, saddhiṃ piṭṭhivaṭṭakadhammehīti daṭṭhabbaṃ. Etthāha – kasmā ‘‘pāṇātipātaṃ pahāyā’’ti ekavacananiddeso kato, nanu niravasesānaṃ pāṇānaṃ atipātato virati idhādhippetā? Tathā hi vuttaṃ ‘‘sabbapāṇabhūtahitānukampī viharatī’’ti. Teneva hi aṭṭhakathāyaṃ ‘‘sabbe pāṇabhūte hitena anukampako’’ti puthuvacananiddesoti? Saccametaṃ, pāṇabhāvasāmaññavasena panettha pāḷiyaṃ ādito ekavacananiddeso kato, sabbasaddasannidhānena puthuttaṃ viññāyamānamevāti sāmaññaniddesaṃ akatvā bhedavacanicchāvasena dassetuṃ aṭṭhakathāyaṃ bahuvacanavasena attho vutto. Kiñca bhiyyo – sāmaññato saṃvarasamādānaṃ, tabbisesato saṃvarabhedoti imassa visesassa dassanatthaṃ ayaṃ vacanabhedo katoti veditabbaṃ. Viharatīti vuttappakāro hutvā ekasmiṃ iriyāpathe uppannaṃ dukkhaṃ aññena iriyāpathena vicchinditvā attabhāvaṃ harati pavattetīti attho. Tenāha **‘‘iriyati pāletī’’**ti.

「すべての生きとし生けるものの利益を憐れむ者」とは、これによってその離止が衆生に関して無限定であることを示している。「生きとし生けるものにおいて」とは、生類において。「憐れむ者」とは、悲の心を持つ者である。しかし慈は悲の特別な条件となるがゆえに、「その慈しみに至った状態によって」と説かれた。このように、それらの法によって殺生からの離止が成就するところの、慚・慈・悲の諸法を具備した状態が示されたのであり、背後で支える諸法とともに見られるべきである。ここで問う、なぜ「殺生を捨てて」と単数形の表現がなされたのか、実に余すところない生命の殺害からの離止がここで意図されているのではないか。実に「すべての生きとし生けるものの利益を憐れむ者として住する」と説かれているではないか。それゆえにこそ義釈において「すべての生きとし生けるものを利益をもって憐れむ者」と複数形の表現がなされているのではないか。それは真実であるが、生命であることの共通性の観点からここでは経文の冒頭において単数形の表現がなされ、「すべての」という言葉の隣接によって多数であることが理解されるので、一般的な表現をなさず個別の表現を意図して示すために、義釈においては複数形の観点から意味が説かれたのである。さらに言えば、一般論として抑制を受持すること、その個別性から抑制の差異が生じるという、この差異を示すためにこの表現の差異がなされたと知られるべきである。「住する」とは、説かれたあり方となって一つの威儀(姿勢)において生じた苦しみを他の威儀によって遮断し、生存を運び、維持するという意味である。それゆえに「行動する、保つ」と言った。

Na kevalaṃ kāyavacīpayogavasena ādānameva, atha kho ākaṅkhapissa pariccattavatthuvisayāvāti dassetuṃ **‘‘cittenapī’’**tiādi vuttaṃ. Theneti theyyaṃ karotīti theno, coro. Sucibhūtenāti ettha sucibhāvo adhikārato saddantarasannidhānato ca theyyasaṃkilesaviramaṇanti āha **‘‘athenattāyeva sucibhūtenā’’**ti. Kāmañcettha ‘‘lajjī dayāpanno’’tiādi na vuttaṃ, adhikāravasena pana atthato vā vuttamevāti veditabbaṃ. Yathā hi lajjādayo pāṇātipātapahānassa visesapaccayo, evaṃ adinnādānapahānassapīti, tasmā sāpi pāḷi ānetvā vattabbā. Esa nayo ito paresupi. Atha vā sucibhūtenāti etena hirottappādīhi samannāgamo, ahirikādīnañca pahānaṃ vuttamevāti ‘‘lajjī’’tiādi na vuttanti daṭṭhabbaṃ.

身や口の働きによる受納だけでなく、実に彼の望みもまた放棄された対象に関わるものであることを示すために、「心によっても」等と説かれた。盗む、盗みをなすゆえに盗賊、泥棒である。「清浄となった者として」とは、ここでの清浄であることは文脈から、また他の言葉の隣接から盗みの雑染から離れることであるとし、「盗まないことによってまさに清浄となった者として」と言った。確かにここには「恥じる者、慈しみある者」等とは説かれていないが、文脈の観点から意味の上では説かれていると知られるべきである。実に慚などが殺生の断滅の特別な条件であるのと同様に、不与取の断滅にとってもそうであるから、その経文も援用して説かれるべきである。この方法はこれ以降のものにおいても同様である。あるいは「清浄となった者として」によって慚や愧などを具備していること、無慚などの断滅が説かれているので、「恥じる者」等とは説かれなかったと見なされるべきである。

Aseṭṭhacariyanti aseṭṭhānaṃ cariyaṃ, aseṭṭhaṃ vā cariyaṃ. Mithunānaṃ vuttākārena sadisabhūtānaṃ ayanti mithuno, yathāvutto durācāro. Ārācārī methunāti etena – ‘‘idha brāhmaṇa, ekacco…pe… na heva kho mātugāmena saddhiṃ dvayaṃdvayasamāpattiṃ samāpajjati, apica kho mātugāmassa ucchādanaparimaddananhāpanasambāhanaṃ sādiyati, so tadassādeti, taṃ nikāmeti, tena ca vittiṃ āpajjatī’’tiādinā (a. ni. 7.50) vuttā sattavidhamethunasaṃyogāpi paṭivirati dassitāti daṭṭhabbaṃ.

「非凡な行い」とは、劣った者たちの行い、あるいは劣った行いである。対となる者たち、説かれた様相によって類似した者たちによるこれ(行為)が対(methuna)であり、前述の悪しき行いである。「性交から遠く離れて行う」とは、これによって、「ここにバラモンよ、或る者は……女性と性交の交わりを行わないが、しかし女性の塗油、按摩、入浴、擦身を喜び、それを甘受し、それを望み、それによって満足を得る」等と説かれた七種の性的な結びつきからの離止もまた示されていると見なされるべきである。

Saccena saccanti purimena vacīsaccena pacchimaṃ vacīsaccaṃ sandahati asaccena anantarikattā. Tenāha **‘‘yo hī’’**tiādi. Haliddirāgo viya na thirakato hotīti ettha kathāya anavaṭṭhitabhāvena haliddirāgasadisatā veditabbā, na puggalassa. Pāsāṇalekhā viyāti etthāpi eseva nayo. Saddhā ayati pavattati etthāti saddhāyo, saddhāyo eva saddhāyiko yathā ‘‘venayiko’’ti (ma. ni. 1.246; a. ni. 8.11; pārā. 8), saddhāya vā ayitabbo saddhāyiko, saddheyyoti attho. Vattabbataṃ āpajjativisaṃvādanatoti adhippāyo.

「真実によって真実を」とは、前の言語的真実によって後の言語的真実をつなぎ合わせること、不真実によって間断がないことである。それゆえに「実に〜する者は」等と言った。「ウコン染めのように定着しないものとはならない」とは、ここでの会話の不安定さによってウコン染めに似ていると知られるべきであり、人物のことではない。「岩に刻んだ文字のように」とは、ここにおいても同様の方法である。信がそこに至る、生じるゆえに信じるに足る(saddhāyo)であり、信じるに足る者こそが信頼できる者(saddhāyiko)である、「律に通じた者(venayiko)」のようなものである。あるいは信によって至られるべき者が信頼できる者、信用すべき者という意味である。言うべき状態に至る、欺くことのない状態から、というのが趣旨である。

Anuppadātāti (dī. ni. ṭī. 1.9; a. ni. ṭī. 2.4.198) anubalappadātā, anuvattanavasena vā padātā. Kassa pana anuvattanaṃ padānañcāti? ‘‘Sahitāna’’nti vuttattā sandhānassāti viññāyati. Tenāha **‘‘sandhānānuppadātā’’**ti. Yasmā pana anuvattanavasena sandhānassa padānaṃ ādhānaṃ, rakkhaṇaṃ vā daḷhīkaraṇaṃ hoti. Tena vuttaṃ **‘‘dve jane samagge disvā’’**tiādi. Āramanti etthāti ārāmo, ramitabbaṭṭhānaṃ. Yasmā pana ā-kārena vināpi ayamattho labbhati, tasmā vuttaṃ **‘‘samaggarāmotipi pāḷi, ayamevettha attho’’**ti.

「与える者」とは、後援を与える者、あるいは追従することによって与える者である。しかし誰への追従であり付与であるのか。「結束した者たち」と説かれていることから結合(和合)へのことであると理解される。それゆえに「和合の後援を与える者」と言った。しかし追従することによって結合の付与、維持、あるいは保護、強固にすることがある。それゆえに「和合した二人の人を見て」等と言った。人々がここで楽しむゆえに園(ārāma)、楽しむべき場所である。しかしāの文字がなくてもこの意味は得られるため、「和合を楽しむ(samaggarāmo)という経文もあり、これこそがここでの意味である」と言った。

Etthāti

ここにおいて――

‘‘Nelaṅgo setapacchādo, ekāro vattatī ratho;

「清浄なる部分を持ち、白い覆いのある、一輪の車が進む。

Anīghaṃ passa āyantaṃ, chinnasotaṃ abandhana’’nti. (saṃ. ni. 4.347; udā. 65; peṭako. 25;dī. ni. ṭī. 1.9) –

流れを断ち、束縛なき、苦患なき者が来るのを見よ」と。――

Imissā gāthāya. Sīlañhettha ‘‘nelaṅga’’nti vuttaṃ. Tenevāha – citto gahapati, ‘‘nelaṅganti kho, bhante, sīlānametaṃ adhivacana’’nti (saṃ. ni. 4.347; dī. ni. ṭī. 1.9). Sukumārāti apharusatāya mudukā. Purassa esāti ettha pura-saddo tannivāsīvācako daṭṭhabbo ‘‘gāmo āgato’’tiādīsu (dī. ni. ṭī. 1.9) viya. Tenevāha **‘‘nagaravāsīna’’**nti. Manaṃ appāyati vaḍḍhetīti manāpā. Tena vuttaṃ **‘‘cittavuddhikarā’’**ti.

この詩偈においてである。実にここにおいて戒が「清浄なる部分」と説かれている。それゆえにこそチッタ居士は「大徳よ、『清浄なる部分』とは戒の同義語です」と言った。「優美な」とは、粗暴でないことによる柔軟さである。「都市の」とは、ここでの「都市」という言葉は、「村がやって来た」等におけるように、そこに住む者を意味すると見なされるべきである。それゆえに「都市の住民たちの」と言った。心を喜ばせる、増大させるゆえに好ましい。それゆえに「心を増大させる」と言った。

Kālavādītiādi samphappalāpāpaṭiviratassa paṭipattidassanaṃ. Atthasaṃhitāpi hi vācā ayuttakālapayogena atthāvahā na siyāti anatthaviññāpanavācaṃ anulometi, tasmā samphappalāpaṃ pajahantena akālavāditā pariharitabbāti vuttaṃ ‘‘kālavādī’’ti. Kāle vadantenapi ubhayānatthasādhanato abhūtaṃ parivajjetabbanti āha **‘‘bhūtavādī’’**ti. Bhūtañca vadantena yaṃ idhaloka-paraloka-hitasampādakaṃ, tadeva vattabbanti dassetuṃ **‘‘atthavādī’’**ti vuttaṃ. Atthaṃ vadantenapi lokiyadhammasannissitameva avatvā lokuttaradhammasannissitaṃ katvā vattabbanti dassanatthaṃ **‘‘dhammavādī’’**ti vuttaṃ. Yathā ca attho lokuttaradhammasannissito hoti, taṃdassanatthaṃ **‘‘vinayavādī’’**ti vuttaṃ. Pañcannañhi saṃvaravinayānaṃ, pañcannañca pahānavinayānaṃ vasena vuccamāno attho nibbānādhigamahetubhāvato lokuttaradhammasannissito hotīti. Evaṃ guṇavisesayuttova attho vuccamāno desanākosalle sati sobhati, kiccakaro ca hoti, na aññathāti dassetuṃ **‘‘nidhānavatiṃ vācaṃ bhāsitā’’**ti vuttaṃ. Idāni taṃ desanākosallaṃ vibhāvetuṃ **‘‘kālenā’’**tiādimāha. Pucchādivasena hi otiṇṇavācāvatthusmiṃ ekaṃsādibyākaraṇavibhāgaṃ sallakkhetvā ṭhapanāhetuudāharaṇaṃ saṃsandanādiṃ taṃtaṃkālānurūpaṃ vibhāventiyā parimitaparicchinnarūpāya vipulatara-gambhīrodāra-paramattha-vitthārasaṅgāhikāya kathāya ñāṇabalānurūpaṃ pare yāthāvato dhamme patiṭṭhāpento ‘‘desanākusalo’’ti vuccatīti evamettha atthayojanā veditabbā.

「時宜にかなったことを語る者」等は、無益な雑談から離れた者の実践の提示である。実に有益な言葉であっても、不適切な時に用いられるなら利益をもたらさないことがあり、無益を知らせる言葉に同調してしまう。それゆえに無益な雑談を捨てる者は時宜を得ない語りを避けるべきであるとして「時宜にかなったことを語る者」と説かれた。時宜にかなって語る者であっても、双方にとっての不利益を成し遂げることから、事実でないことを避けるべきであるとして「真実を語る者」と言った。そして真実を語るとしても、現世と来世の利益を成就するものこそを語るべきであることを示すために「有益なことを語る者」と説かれた。有益なことを語るとしても、世間的な法に依存したものだけを語るのではなく、出世間法に依存させて語るべきであることを示すために「法を語る者」と説かれた。そしていかにしてその意味が出世間法に依存するものとなるか、それを示すために「律を語る者」と説かれた。実に五種の制御の律と五種の断滅の律の観点から説かれる意味は、涅槃の達成の原因となることから出世間法に依存するものとなるからである。このように特別な徳を具えた意味こそが語られるとき、説法の巧みさがあるならば輝き、所期の役目を果たすのであって、それ以外ではないことを示すために「心に留めるべき言葉を語る者」と説かれた。今やその説法の巧みさを明らかにするために「適切な時に」等と言った。実に問いなどによって生じた論点において、一概に答えるべきか等の分類を考慮し、論題の設定・理由・実例・照合などをその時々に相応しく明示する、限定され区分された形態を持ち、広大・深遠・崇高・勝義の詳説を包摂する語りによって、智慧の力に応じて他者を正しく法に確立させる者が「説法に巧みな者」と呼ばれる、このようにここでの意味の結合は知られるべきである。

293. Evaṃ paṭipāṭiyā satta mūlasikkhāpadāni vibhāvetvā satipi abhijjhādipahānaindriyasaṃvarasatisampajaññajāgariyānuyogādike uttaradesanāyaṃ vibhāvetuṃ taṃ pariharitvā ācārasīlasseva vibhajanavasena pāḷi pavattāti tadatthaṃ vivarituṃ **‘‘bījagāmabhūtagāmasamārambhā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha bījānaṃ gāmo samūho bījagāmo. Bhūtānaṃ jātānaṃ nibbattānaṃ rukkhagacchalatādīnaṃ samūho bhūtagāmo. Nanu ca rukkhādayo cittarahitatāya na jīvā, cittarahitatā ca paripphandābhāvato chinne viruhanato visadisajātikabhāvato catuyoniapariyāpannato ca veditabbā, vuḍḍhi pana pavāḷasilālavaṇānampi vijjatīti na tesaṃ jīvabhāve kāraṇaṃ, visayaggahaṇañca nesaṃ parikappanāmattaṃ supanaṃ viya ciñcādenaṃ, tathā dohaḷādayo, tattha kasmā bījagāmabhūtagāmasamārambhā paṭivirati icchitāti? Samaṇasāruppato tannivāsisattānurakkhaṇato ca. Tenevāha – ‘‘jīvasaññino hi moghapurisa manussā rukkhasmi’’ntiādi (pāci. 89).

293. このように順序に従って七つの根本学処を明らかにし、貪りなどの断滅、根の制御、正念正知、目覚めの修行等があるにもかかわらず、後の説示においてそれらを明らかにするためにそれを差し控え、所行の戒(威儀戒)の分別として経文が展開した。その意味を解き明かすために「種子の集まりや植物の集まりを害することから」等と説かれた。その中で種子の群れ、集まりが種子の集まり(種子類)である。生じた、生い茂った樹木・低木・蔓草などの集まりが植物の集まり(生類類)である。しかし樹木などは心を持たないがゆえに生命ではなく、心を持たないことは脈動がないこと、伐採されても芽吹くこと、異質な種類であること、四種の胎生などに属さないことから知られるべきであり、成長することは珊瑚・岩石・塩にも見られるから、それらに生命であることの根拠はなく、それらの対象認識は夢のような単なる仮構であり、タマリンドの葉が閉じるようなものであり、同様に樹木の開花への欲望などもそうであるのに、なぜ種子の集まりや植物の集まりを害することからの離止が求められるのか。沙門に相応しいこと、およびそこに住まう生類を保護するためである。それゆえにこそ「実に愚人よ、人間たちは樹木に生命の認識を持っている」等と説かれた。

Mūlameva bījaṃ mūlabījaṃ, mūlabījaṃ etassātipi mūlabījaṃ. Sesesupi eseva nayo. Phaḷubījanti pabbabījaṃ. Paccayantarasamavāye sadisaphaluppattiyā visesakāraṇabhāvato viruhaṇasamatthe sāraphale niruḷho bījasaddo tadatthasaṃsiddhiyā mūlādīsupi kesuci pavattatīti mūlādito nivattanatthaṃ ekena bīja-saddena visesetvā vuttaṃ **‘‘bījabīja’’**nti ‘‘rūparūpaṃ (visuddhi. 2.449), dukkhadukkha’’nti (saṃ. ni. 4.327; 5.165; netti. 11) ca yathā. Kasmā panettha bījagāmabhūtagāmaṃ uddharitvā bījagāmo eva niddiṭṭhoti? Na kho panetaṃ evaṃ daṭṭhabbaṃ, nanu avocumha – ‘‘mūlameva bījaṃ mūlabījaṃ, mūlabījaṃ etassātipi mūlabīja’’nti. Tattha purimena bījagāmo niddiṭṭho, dutiyena bhūtagāmo, duvidhopesa mūlabījañca mūlabījañca mūlabījanti sāmaññaniddesena, ekasesanayena vā uddiṭṭhoti veditabbo. Tenevāha **‘‘pañcavidhassā’’**tiādi. Nīlatiṇarukkhādikassāti allatiṇassa ceva allarukkhādikassa ca. Ādi-saddena osadhigacchalatādīnaṃ saṅgaho.

根そのものが種子であるから根種子であり、根がこれの種子であるから根種子である。残りのものにおいてもこの方法による。「節種子」とは節の種子である。他の条件が集まったときに類似した果実が生じることへの特別な原因であることから、発芽する能力のある堅固な果実において「種子」という言葉は慣用されているが、その意味の成就により根などにおいても一部使われるため、根などから区別するためにひとつの「種子」という言葉で修飾して「種子の種子(実種子)」と説かれた、「色そのものの色」「苦そのものの苦」のようなものである。しかしなぜここで種子の集まりと植物の集まりを挙げておきながら、種子の集まりのみが示されているのか。これはそのように見られるべきではない。実に我々は言ったではないか、「根そのものが種子であるから根種子であり、根がこれの種子であるから根種子である」と。そこにおいて前者によって種子の集まりが示され、後者によって植物の集まりが示されており、この二重のものが「根種子と、根種子と、根種子」という一般的な提示により、あるいは一残同順の規則によって挙げられていると知られるべきである。それゆえに「五種の」等と言った。「青草や樹木などの」とは、生の草および生の樹木などのことである。「など」という言葉によって薬草・低木・蔓草などが包摂される。

Ekaṃ bhattaṃ ekabhattaṃ, taṃ assa atthīti ekabhattiko. So pana rattibhojanenapi siyāti tannivattanatthaṃ āha **‘‘rattūparato’’**ti. Evampi aparaṇhabhojīpi siyā ekabhattikoti tannivattanatthaṃ **‘‘virato vikālabhojanā’’**ti vuttaṃ. Aruṇuggamanakālato paṭṭhāya yāva majjhanhikā ayaṃ buddhādīnaṃ ariyānaṃ āciṇṇasamāciṇṇo bhojanassa kālo nāma, tadañño vikālo. Aṭṭhakathāyaṃ pana dutiyapadena rattibhojanassa paṭikkhittattā **‘‘atikkante majjhanhike yāva sūriyatthaṅgamanā bhojanaṃ vikālabhojanaṃ nāmā’’**ti vuttaṃ.

一回の食事、一度の食事がこれにあるゆえに一食主義者である。しかしそれは夜の食事によってもあるかもしれないので、それを排除するために「夜の食事を断ち」と言った。このようにしても午後食べる者も一食主義者であるかもしれないので、それを排除するために「時ならぬ食事から離れ」と説かれた。夜明けの時から始まって正午に至るまで、これが仏陀をはじめとする聖者たちの慣行であり承認された食事の時と呼ばれ、それ以外が時ならぬ時である。義釈においては第二の句によって夜の食事が否定されているため、「正午を過ぎて日没に至るまでの食事が時ならぬ食事と呼ばれる」と説かれた。

‘‘Sabbapāpassa akaraṇa’’ntiādinayappavattaṃ (dī. ni. 2.90; dha. pa. 183; netti. 30, 50, 116, 124) bhagavato sāsanaṃ accantarāguppattiyā naccādidassanaṃ na anulometīti āha **‘‘sāsanassa ananulomattā’’**ti. Attanā payojiyamānaṃ, parehi payojāpiyamānañca naccaṃ naccabhāvasāmaññena pāḷiyaṃ ekeneva nacca-saddena gahitaṃ, tathā gītavādita-saddena cāti āha **‘‘naccananaccāpanādivasenā’’**ti. Ādi-saddena gāyanagāyāpanavādanavādāpanāni saṅgayhanti. Dassanena cettha savanampi saṅgahitaṃ virūpekasesanayena. Yathāsakaṃ visayassa ālocanasabhāvatāya vā pañcannaṃ viññāṇānaṃ savanakiriyāyapi dassanasaṅkhepasabbhāvato **‘‘dassanā’’**icceva vuttaṃ. Tenāha ‘‘pañcahi viññāṇehi na kañci dhammaṃ paṭivijānāti aññatra abhinipātamattā’’ti. Avisūkabhūtassa gītassa savanaṃ kadāci vaṭṭatīti āha **‘‘visūkabhūtā dassanā’’**ti. Tathā hi vuttaṃ paramatthajotikāyaṃ khuddakaṭṭhakathāyaṃ (khu. pā. aṭṭha. 2.pacchimapañcasikkhāpadavaṇṇanā) ‘‘dhammūpasaṃhitaṃ gītaṃ vaṭṭati, gītūpasaṃhito dhammo na vaṭṭatī’’ti. Yaṃ kiñcīti ganthitaṃ vā aganthitaṃ vā yaṃ kiñci pupphaṃ. Gandhajātanti gandhajātikaṃ. Tassapi ‘‘yaṃ kiñcī’’ti vacanato pisitassa apisitassapi yassa kassaci vilepanādi na vaṭṭatīti dasseti.

「諸悪をなさず」などの方法で説かれた世尊の教えは、過度な貪りを生じるがゆえに舞踊などの見物を認めることはないとして、「教えに適合しないがゆえに」と言った。自ら行うもの、他者に行わせる舞踊は、舞踊であることの共通性によって経文において一つの「舞踊」という言葉で取られており、歌詠や器楽という言葉においても同様であるとして、「自ら踊ることや他者に踊らせることなどによって」と言った。「など」という言葉によって自ら歌うこと、歌わせること、自ら奏でること、奏でさせることなどが包摂される。見ることによってここには聞くこともまた異形一残の規則によって包摂されている。あるいはそれぞれ自らの対象を観察する本質を持つことによって、五つの認識において聞く作用であっても見ることに要約して存在することから「見ること」とだけ説かれた。それゆえに「五つの認識によって接触の瞬間を除いていかなる法をも識別しない」と言った。害とならない歌を聞くことは時には許されるとして、「害となる見物から」と言った。実に『勝義明示』小誦義釈において「法に関連した歌は許されるが、歌に関連した法は許されない」と説かれているとおりである。「いかなるものも」とは、編まれたもの、あるいは編まれていないいかなる花も。「香の種類」とは、香の性質を持つもの。それについても「いかなるものも」という言葉から、粉砕されたものも粉砕されていないものも、誰であれ塗香などは許されないことを示している。

Uccāti ucca-saddena samānatthaṃ ekaṃ saddantaraṃ. Seti etthāti sayanaṃ. Uccāsayanaṃ mahāsayanañca samaṇasārupparahitaṃ adhippetanti āha **‘‘pamāṇātikkantaṃ akappiyattharaṇa’’**nti. Āsanañcettha sayaneneva saṅgahitanti daṭṭhabbaṃ. Yasmā pana ādhāre paṭikkhitte tadādhārā kiriyā paṭikkhittāva hoti, tasmā ‘‘uccāsayanamahāsayanā’’icceva vuttaṃ, atthato pana tadupabhogabhūtanisajjānipajjanehi virati dassitāti daṭṭhabbaṃ. Atha vā uccāsayanamahāsayanañca uccāsayanamahāsayanañca uccāsayanamahāsayananti etasmiṃ atthe ekasesena ayaṃ niddeso kato yathā ‘‘nāmarūpapaccayā saḷāyatana’’nti (ma. ni. 3.126; saṃ. ni. 2.1; udā. 1), āsanakiriyāpubbakattā vā sayanakiriyāya sayanaggahaṇena āsanampi gahitanti veditabbaṃ.

「高い」とは、「高い」という言葉と同義の別の言葉である。ここに臥すゆえに寝台(床座)である。高い寝台と大きな寝台とは沙門に相応しくないものが意図されているとして、「規定を超過した、不適切な敷物」と言った。そしてここでの座席も寝台によって包摂されていると見なされるべきである。しかし支持するものが否定されるとき、それを支持するもの(座ること)の行為も否定されるがゆえに、「高大の寝台から」とだけ説かれたのであり、意味の上からはそれを使用する座ることや横たわることから離れることが示されていると見なされるべきである。あるいは「高い寝台と大きな寝台、高い寝台と大きな寝台、高大寝台」というこの意味において、一残によってこの提示がなされた、「名色を縁として六処」のようなものである。あるいは座る行為が先行して横たわる行為があることから、寝台を取ることによって座席も取られていると知られるべきである。

Dārumāsakoti ye vohāraṃ gacchantīti iti-saddena evaṃpakāre dasseti. Aññehi gāhāpane upanikkhittasādiyane ca paṭiggahaṇattho labbhatīti āha **‘‘neva naṃ uggaṇhāti, na uggaṇhāpeti, na upanikkhittaṃ sādiyatī’’**ti. Atha vā tividhaṃ paṭiggahaṇaṃ kāyena vācāya manasāti. Tattha kāyena paṭiggahaṇaṃ uggaṇhanaṃ, vācāya paṭiggahaṇaṃ uggahāpanaṃ, manasā paṭiggahaṇaṃ sādiyananti tividhampi paṭiggahaṇaṃ ekajjhaṃ gahetvā ‘‘paṭiggahaṇā’’ti vuttanti āha **‘‘neva naṃ uggaṇhātī’’**tiādi. Esa nayo āmakadhaññapaṭiggahaṇātiādīsupi. Nīvārādiupadhaññassa sāliādimūladhaññantogadhattā vuttaṃ **‘‘sattavidhassā’’**ti. ‘‘Anujānāmi, bhikkhave, pañca vasāni bhesajjāni acchavasaṃ macchavasaṃ susukāvasaṃ sukaravasaṃ gadrabhavasa’’nti (mahāva. 262) vuttattā idaṃ odissa anuññātaṃ nāma, tassa pana ‘‘kāle paṭiggahita’’nti (mahāva. 262) vuttattā paṭiggahaṇaṃ vaṭṭati. Sati paccayeti āha **‘‘aññatra odissa anuññātā’’**ti.

「木の硬貨」とは、流通するものであることを「など」という言葉によってこのような種類を示す。他者に受け取らせること、差し置かれたものを容認することにおいても受納の意味が得られるとして、「自らそれを受け取らず、受け取らせず、差し置かれたものを容認しない」と言った。あるいは身・口・意による三種の受納がある。そこにおいて身による受納は受け取ること、口による受納は受け取らせること、心による受納は容認することであり、三種の受納を一つにまとめて「受納から」と説かれたとして、「自らそれを受け取らず」等と言った。この方法は生穀物の受納などにおいても同様である。野性の米などの副穀物は米などの主穀物に含まれるがゆえに「七種の」と説かれた。「諸比丘よ、五つの脂肪の薬、すなわち熊の脂肪、魚の脂肪、ワニの脂肪、豚の脂肪、ロバの脂肪を許す」と説かれていることから、これは特別に許されたものと呼ばれ、それについては「適切な時に受納されたもの」と説かれているゆえに受納は許される。理由がある場合にとし、「特別に許されたものを除いて」と言った。

Sarūpena vañcanaṃ rūpakūṭaṃ, patirūpena vañcanāti attho. Aṅgena attano sarīrāvayavena vañcanaṃ aṅgakūṭaṃ. Gahaṇavasena vañcanaṃ gahaṇakūṭaṃ. Paṭicchannaṃ katvā vañcanaṃ paṭicchannakūṭaṃ. Akkamatīti nippīḷeti, pubbabhāge akkamatīti sambandho.

形状によって欺くことが形状の偽造であり、外見で欺くという意味である。部分、自らの身体の部位によって欺くことが部位の偽造である。掴み方によって欺くことが把持の偽造である。覆い隠して欺くことが隠匿の偽造である。「踏みつける」とは圧迫する、前もって踏みつけると結合される。

Hadayanti nāḷiādīnaṃ mānabhājanānaṃ abbhantaraṃ. Tilādīnaṃ nāḷiādīhi minanakāle ussāpitasikhāyeva sikhā. Sikhābhedo tassāhāpanaṃ.

「中心部」とは、升などの計量器の内側である。胡麻などを升などで量る時に高く盛り上げられた先端こそが「山」である。「山を崩すこと」とはそれを減らすことである。

Kecīti sārasamāsācariyā, uttaravihāravāsino ca. Vadhoti muṭṭhipahārakasātāḷanādīhi vihesanaṃ, vibādhananti attho. Viheṭhanatthopi hi vadha-saddo dissati ‘‘attānaṃvadhitvā vadhitvā rodatī’’tiādīsu (pāci. 879, 881). Yathā hi apariggahabhāvasāmaññe satipi pabbajitehi appaṭiggahitabbavatthuvibhāgasandassanatthaṃ itthikumāridāsidāsādayo vibhāgena vuttā. Evaṃ parassa haraṇabhāvato adinnādānabhāvasāmaññe satipi tulākūṭādayo adinnādānavisesabhāvadassanatthaṃ vibhāgena vuttā, na evaṃ pāṇātipātapariyāyassa vadhassa puna gahaṇe payojanaṃ atthi, tattha sayaṃkāro, idha paraṃkāroti ca na sakkā vattuṃ ‘‘kāyavacīpayogasamuṭṭhāpikā cetanā chappayogā’’ti vacanato. Tasmā yathāvutto evettha attho yutto. Aṭṭhakathāyaṃ pana **‘‘vadhoti māraṇa’’**nti vuttaṃ, tampi pothanameva sandhāyāti ca sakkā viññātuṃ māraṇa-saddassapi vihiṃsane dissanato.

「或る者たち」とは、要義集成の師たち、および大精舎の住人たちである。「殺害(加害)」とは拳による打撃や鞭打ちなどによる加害、苦しめることという意味である。実に妨害の意味においても「自らを打ち据えて泣く」などにおいて「打つ(加害する)」という言葉が見られる。実に無所有であることの共通性があるにもかかわらず、出家者が受納すべきでない対象の分類を示すために女性・少女・女奴隷・男奴隷などが個別的に説かれたのと同様である。このように他者のものを奪うことによる不与取であることの共通性があるにもかかわらず、秤の不正などが不与取の特殊性を示すために個別的に説かれたのであり、殺生の同義語である殺害を再び取ることには用をなさない。そこには自らなすこと、ここには他者になさせることであるなどと言うことはできない。「身と口の働きを起こす思(意志)には六つの働きがある」と説かれているからである。それゆえに前述の通りの意味こそが妥当である。しかし義釈においては「殺害とは殺すことである」と説かれており、それもまた打撃を加えることを意図したものであると理解することも可能である。「殺す」という言葉も加害することに見られるからである。

294. Cīvarapiṇḍapātānaṃ yathākkamaṃ kāyakucchipariharaṇamattajotanāyaṃ avisesato aṭṭhannaṃ parikkhārānaṃ antare tappayojanatā sambhavatīti dassento **‘‘te sabbepī’’**tiādimāha. Etepīti navaparikkhārikādayopi appicchāva santuṭṭhāva. Na hi tatthakena mahicchatā, asantuṭṭhitā vā hotīti.

294. 袈裟と托鉢の食事がそれぞれ身体と腹部を維持するだけのものであることを示すにあたり、区別なく八種の必需品の間にもその用途が生じることを示しつつ、「それらすべてをも」等と言った。「これらもまた」とは、九種の必需品を持つ者たちなども少欲であり知足である。実にそれだけのものによって大欲や不知足が生じることはないからである。

Catūsu disāsu sukhaṃ viharati, tato eva sukhavihāraṭṭhānabhūtā catasso disā assa santīti vā cātuddiso. Tattha cāyaṃ satte vā saṅkhāre vā bhayena na paṭihaññatīti appaṭigho. Dvādasavidhassa santosassa vasena santussanako santussamāno. Itarītarenāti uccāvacena. Parissayānaṃ bāhirānaṃ sīhabyagghādīnaṃ, abbhantarānañca kāmacchandādīnaṃ kāyacittupaddavānaṃ abhibhavanato parissayānaṃ sahitā. Thaddhabhāvakarabhayābhāvena acchambhī. Eko asahāyo. Tato eva khaggamigasiṅgasadisatāya khaggavisāṇakappo careyyāti attho.

四方において安楽に住する、それゆえに安楽に住する場所となる四方を持つ者、すなわち四方に行く者である。そしてそこにおいてこの者は、生類や諸行に対して恐れによって妨げられないゆえに障害なき者である。十二種の知足の力によって満足する者、満足しつつある者。「手に入るもので」とは、高貴なものや粗末なもので。「危難を」とは、外部の獅子や虎など、内部の貪欲などの身心の障害に打ち勝つことから危難を忍従する者。「硬直させる恐れがないことによって」動揺しない者。「一人で」とは同伴者なく。それゆえに犀の角に似ていることから、犀の角のように歩むべきであるという意味である。

Chinnapakkho, asañjātapakkho vā sakuṇo gantuṃ na sakkotīti **‘‘pakkhī sakuṇo’’**ti pakkhi-saddena visesetvā sakuṇo pāḷiyaṃ vuttoti āha **‘‘pakkhayutto sakuṇo’’**ti. Yassa sannidhikāraparibhogo kiñci ṭhapetabbaṃ sāpekkhāya ṭhapanañca natthi, tādiso ayaṃ bhikkhūti dassento **‘‘ayaṃ panettha saṅkhepattho’’**tiādimāha. Ariyanti apenti tato dosā, tehi vā ārakāti ariyoti āha **‘‘ariyenāti niddosenā’’**ti. Ajjhattanti attani. Niddosasukhanti nirāmisasukhaṃ kilesavajjarahitattā.

羽を切られた、あるいは羽の生えていない鳥は飛ぶことができないゆえに、「有翼の鳥」と翼という言葉で修飾して鳥が経文において説かれたとし、「翼を具えた鳥」と言った。貯蔵して使用する蓄えるべき何ものもなく、執着をもって置くこともない、そのような者がこの比丘であることを示しつつ、「ここにおける要約された意味はこれである」等と言った。「聖なる」とは、そこから過失が去っている、あるいはそれらから遠く離れているゆえに聖者であるとし、「聖なることによって、すなわち無過失なことによって」と言った。「内なる」とは自己において。「無過失の楽」とは、煩悩の過失を離れていることによる無執着の楽である。

295. Yathāvutte sīlasaṃvare patiṭṭhitasseva indriyasaṃvaro icchitabbo tadadhiṭṭhānato, tassa ca paripālakabhāvatoti vuttaṃ **‘‘so iminā ariyena sīlakkhandhena samannāgato bhikkhū’’**ti. Sesapadesūti ‘‘na nimittaggāhī hotī’’tiādīsu padesu. Yasmā visuddhimagge (visuddhi. 1.15) vuttaṃ, tasmā tassa līnatthappakāsiniyaṃ saṃvaṇṇanāyaṃ (visuddhi. mahāṭī. 1.15) vuttanayeneva veditabbaṃ. Rūpādīsu nimittādiggāhaparivajjanalakkhaṇattā indriyasaṃvarassa kilesehi anavasittasukhatā avikiṇṇasukhatā cassa vuttā.

295. 前述の戒の制御に確立した者にこそ根(感覚器官)の制御は求められるべきであり、それを基礎とすることから、またそれの保護者となることから、「その聖なる戒蘊を具えたこの比丘は」と説かれた。「残りの言葉において」とは、「相(特徴)を捉える者とならない」等の言葉においてである。『清浄道論』において説かれたことから、その『隠れた意味を明かすもの』(大疏)の注釈において説かれた方法によって知られるべきである。色などにおいて相などを捉えることを避ける特徴を持つことから、根の制御について煩悩に汚されない楽、散乱しない楽が説かれている。

296. Paccayasampattinti paccayapāripūriṃ. Ime cattāroti sīlasaṃvaro santoso indriyasaṃvaro satisampajaññanti ime cattāro araññavāsassa sambhārā. Tiracchānagatehi vattabbataṃ āpajjati isisiṅgassa pituādayo viya. Vanacarakehīti vanacarakamātugāmehi. Bheravasaddaṃ sāventi, tāvatā apalāyantānaṃ hatthehi sīsaṃ…pe… karonti. Paṇṇattivītikkamasaṅkhātaṃ kāḷakaṃ vā. Micchāvitakkasaṅkhātaṃ tilakaṃ vā. Tanti pītiṃ vibhūtabhāvena upaṭṭhānato khayato sammasanto.

「資材の成就」とは、資材の充足である。「これら四つ」とは、戒の制御、知足、根の制御、正念正知というこれら四つの阿蘭若(森林)住の資糧である。畜生たちによって言うべき状態に至る、イシシンガの父などのように。「森を行く者たちによって」とは、森を行く女性たちによって。恐ろしい音を聞かせ、それによって逃げない者たちの頭を……手で触れるなどする。規則の違反と呼ばれる黒点、あるいは邪悪な思惟と呼ばれる斑点。それを、すなわち喜(歓喜)を明瞭な状態として現前することから、消滅の観点から思惟しつつ。

Vivittanti janavivittaṃ. Tenāha **‘‘suñña’’**nti. Sā ca vivittatā nissaddabhāvena lakkhitabbāti āha **‘‘appasaddaṃ appanigghosa’’**nti. Āvasathabhūtaṃ senāsanaṃ viharitabbaṭṭhena vihārasenāsanaṃ. Masārakādi mañcapīṭhaṃ tattha attharitabbaṃ bhisiupadhānañca mañcapīṭhasambandhito mañcapīṭhasenāsanaṃ. Cimilikādi bhūmiyaṃ santharitabbatāya santhatasenāsanaṃ. Rukkhamūlādi paṭikkamitabbaṭṭhānaṃ caṅkamanādīnaṃ okāsabhāvato okāsasenāsanaṃ.

「離れた」とは、人々のいない。それゆえに「空虚な」と言った。そしてその隔離は静寂であることによって特徴づけられるべきであるとし、「音の少ない、騒音のない」と言った。住居となった座臥処、住むべき場所という意味で精舎の座臥処。組み脚などの寝台や椅子、そこに敷くべき敷物や枕など、寝台や椅子に関連することから寝台と椅子の座臥処。敷物などを地面に敷くべきであることから敷物の座臥処。樹木の根元など退くべき場所であり、経行などの場所であることから空間の座臥処。

‘‘Anucchavikaṃ **dassento’’**ti vatvā tameva anucchavikabhāvaṃ vibhāvetuṃ **‘‘tattha hī’’**tiādi vuttaṃ. Acchannanti iṭṭhakachadanādinā antamaso rukkhasākhāhipi na channaṃ.

「相応しいものを示しつつ」と言って、まさにその相応しい状態を解明するために「そこにおいて実に」等と説かれた。「覆いのない」とは、煉瓦の屋根などによって、極めて樹木の枝によってさえも覆われていない。

Bhattassa pacchatoti bhattabhuñjanassa pacchato. Ūrubaddhāsananti ūrūnaṃ adhobandhanavasena nisajjaṃ. Heṭṭhimakāyassa anujukaṭṭhapanaṃ nisajjāvacaneneva bodhitanti. Ujuṃ kāyanti ettha kāya-saddo uparimakāyavisayoti āha **‘‘uparimaṃ sarīraṃ ujukaṃ ṭhapetvā’’**ti. Taṃ pana ujukaṭṭhapanaṃ sarūpato payojanato ca dassetuṃ **‘‘aṭṭhārasā’’**tiādi vuttaṃ. Na paṇamantīti na oṇamanti. Na paripatatīti na vigacchati, vīthiṃ na vilaṅgheti. Tato eva pubbenāparaṃ visesappattiyā kammaṭṭhānaṃ vuddhiṃ phātiṃ upagacchati. Mukhasamīpeti mukhassa samīpe nāsikagge vā uttaroṭṭhe vā. Idha pari-saddo abhi-saddena samānatthoti āha **‘‘kammaṭṭhānābhimukha’’**nti, bahiddhā puthuttārammaṇato nivāretvā kammaṭṭhānaṃyeva purakkhatvāti attho. Parīti pariggahaṭṭho ‘‘pariṇāyikā’’tiādīsu (dha. sa. 16) viya. Niyyānaṭṭho paṭipakkhato niggamanaṭṭho, tasmā pariggahitaniyyānasatinti sabbathā gahitāsammosaṃ pariccattasammosaṃ satiṃ katvā, paramaṃ satinepakkaṃ upaṭṭhapetvāti attho.

「食事の後に」とは、食事を摂った後に。「結跏趺坐して」とは、大腿を下で組むことによる座法である。下半身を真っ直ぐにすることは座るという言葉そのものによって知らされる。「身体を真っ直ぐにして」とは、ここでの「身体」という言葉は上半身を指すとし、「上半身を真っ直ぐに保って」と言った。しかしその真っ直ぐに保つことを形状と効用から示すために「十八の」等と説かれた。「曲がらない」とは、前屈みにならない。「倒れない」とは、失われない、軌道を外れない。それゆえに前後において卓越した境地に至ることによって、瞑想の対象(業処)は増大し発展に至る。「口の近くに」とは、口の近辺、鼻先あるいは上唇において。ここでのpariの言葉はabhiの言葉と同義であるとし、「業処に向けて」と言った。外部の雑多な対象から遮断して、業処そのものを前にして、という意味である。「周りの(pari)」とは、「導き手(pariṇāyikā)」等におけるように包摂の意味である。出離の意味とは、対立するものからの脱出の意味であり、それゆえに包摂された出離の念とは、完全に忘却を排除し、忘却を捨て去った念をなし、至高の念の堅固さを現前させて、という意味である。

Vikkhambhanavasenāti ettha vikkhambhanaṃ anuppādanaṃ appavattanaṃ na paṭipakkhena suppahīnatā. Pahīnattāti ca pahīnasadisataṃ sandhāya vuttaṃ jhānassa anadhigatatā. Tathāpi nayidaṃ cakkhuviññāṇaṃ viya sabhāvato vigatābhijjhaṃ, atha kho bhāvanāvasena. Tenāha **‘‘na cakkhuviññāṇasadisenā’’**ti. Eseva nayoti yathā cakkhuviññāṇaṃ sabhāvena vigatābhijjhaṃ abyāpannañca, na bhāvanāya vikkhambhitattā, na evamidaṃ. Idaṃ pana cittaṃ bhāvanāya parisodhitattā abyāpannaṃ vigatathinamiddhaṃ anuddhataṃ nibbicikicchañcāti attho. Idaṃ ubhayanti satisampajaññamāha.

「鎮伏によって」とは、ここでの鎮伏とは不発生、不現行であり、対治するものによって完全に断滅されたのではない。「断滅されたゆえに」とは、断滅されたものに類似していることを意図して説かれた禅定の未獲得の状態である。それでもこれは眼識のように本性として貪りを離れているのではなく、修習の力によるのである。それゆえに「眼識に類似したものではなく」と言った。「この方法である」とは、眼識が本性として貪りを離れ、害意なきものであり、修習によって鎮伏されたのではないのと同様に、これはそうではない。しかしこの心は修習によって清浄にされたがゆえに害意なく、惛沈・睡眠を離れ、掉挙なく、疑いなきものであるという意味である。「これら両方」とは正念と正知を指して言っている。

297. Ucchinditvā pātentīti ettha ucchindanaṃ pātanañca tāsaṃ paññānaṃ anuppannānaṃ uppajjituṃ appadānameva. Iti mahaggatānuttarapaññānaṃ ekaccāya ca parittapaññāya anuppattihetubhūtā nīvaraṇā dhammā itarāya ca samatthataṃ vihanantiyevāti paññāya dubbalīkaraṇā vuttā. Idampi paṭhamajjhānaṃ veneyyasantāne patiṭṭhāpiyamānaṃ ñāṇaṃ pajjati etthāti ñāṇapadaṃ. Ñāṇaṃ vaḷañjeti etthāti ñāṇavaḷañjaṃ.

297. 「根絶して打ち倒す」とは、ここでの根絶と打ち倒すこととは、それらの智慧が未発生のものとして生じることを許さないことに他ならない。このように広大なる無上の智慧および一部の限定された智慧の不発生の原因となる蓋(障害)の諸法であり、他の智慧の能力をも損なうのであるから、智慧を弱めるものと説かれた。この初禅も教化されるべき者の相続(心身)に確立されるとき、智慧がそこに至るゆえに智の足場である。智慧がそこを行動するゆえに智の領域である。

299. Na tāva niṭṭhaṃ gato bāhirakānaṃ ñāṇena akkantaṭṭhānānipi siyunti. Yadi evaṃ anaññasādhāraṇe maggañāṇapade kathaṃ na niṭṭhaṅgatoti āha **‘‘maggakkhaṇepī’’**tiādi. Tīsu ratanesu niṭṭhaṃ gato hotīti buddhasubuddhataṃ dhammasudhammataṃ saṅghasuppaṭipattitañca ārabbha ñāṇena niṭṭhaṃ nicchayaṃ upagato hoti. Kāmañcettha paṭhamamaggeneva sabbaso vicikicchāya pahīnattā sabbassapi ariyasāvakassa kaṅkhā vā vimati vā natthi, tattha pana yathā paññāvepullappattassa arahato savisaye ñāṇaṃ savisesaṃ ogāhati, na tathā anāgāmiādīnanti ratanattaye sātisayaṃ ñāṇanicchayagamanaṃ sandhāya ‘‘aggamaggavasena tatthaniṭṭhāgamanaṃ vutta’’nti vuttaṃ. Yaṃ panettha avibhattaṃ, taṃ suviññeyyamevāti.

299. 「まだ確信に至っていない」とは、外道の智慧によって到達される境地もあるかもしれないからである。もしそうなら、他者と共通しない道智の足場において、なぜ確信に至らないのかとして、「道の刹那においても」等と言った。「三宝において確信に至った者となる」とは、仏陀が正しく覚ったこと、法が正しく説かれたこと、僧伽が正しく修行したことに関して、智慧によって確信と決定に至っていることである。確かにここにおいて最初の道(預流道)によって完全に疑いが断滅されているがゆえに、すべての聖弟子に疑惑や迷いは存在しないが、そこにおいて智慧の広大さを極めた阿羅漢が自らの領域において智慧が特別に深く沈潜するように、不還者などにはそうではないことから、三宝における卓越した智慧の決定への到達を意図して、「最上の道によってそこでの確信への到達が説かれた」と説かれた。ここにおいて分別されなかったことは、容易に理解されるべきことである。

Cūḷahatthipadopamasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

象跡喩小経の注釈に対する『隠れた意味の解明』を完結する。

8. Mahāhatthipadopamasuttavaṇṇanā

八 象跡喩大経の注釈

300. Jaṅgalānanti ettha yo nipicchalena amuduko nirudakatāya thaddhalūkhabhūmippadeso, so ‘‘jaṅgalo’’ti vuccati. Tabbahulatāya pana idha sabbo bhūmippadeso jaṅgalo, tasmiṃ jaṅgale jātā, bhavāti vā jaṅgalā, tesaṃ jaṅgalānaṃ. Evañhi nadīcarānampi hatthīnaṃ saṅgaho kato hoti. Samodhātabbānaṃ viya hi samodhāyakānampi jaṅgalaggahaṇena gahetabbato. Pathavītalacārīnanti iminā jalacārino na nivatteti adissamānapādattā. Pāṇānanti sādhāraṇavacanampi ‘‘padajātānī’’ti saddantarasannidhānena visesaniviṭṭhameva hotīti āha **‘‘sapādakapāṇāna’’**nti. ‘‘Muttagata’’ntiādīsu (ma. ni. 2.119; a. ni. 9.11) gata-saddo anatthantaro viya, jāta-saddo anatthantaroti āha **‘‘padajātānīti padānī’’**ti. Samodhānanti samavarodhaṃ, antogamaṃ vā. Mahantattenāti vipulabhāvena.

300. 「密林の(森林の)」とは、ここにおいて滑らかでなく柔軟でなく、水がないことによって硬く荒れた土地、それが「密林(森林)」と呼ばれる。しかしその多さによってここではすべての土地が森林であり、その森林に生じた、あるいは存在するものが森林の(生類)であり、それら森林のものたちのである。このようにして川を行く象たちも包摂されたことになる。まとめられるべきものたちと同様に、まとめるものたちも森林という把握によって捉えられるべきであるからである。「地表を行く者たちの」とは、これによって水を行く者たちを排除するのではない、足が見えないからである。「生類たちの」という一般的な言葉であっても、「足跡の集まり」という他の言葉の隣接によって特別な限定を持つものとなるとし、「有足の生類たちの」と言った。「尿に行き着いた」等における「行き着いた」という言葉が格別の意味を持たないのと同様に、「生じた(集まり)」という言葉も格別の意味を持たないとし、「足跡の集まりとは足跡である」と言った。「集めること」とは包括すること、あるいは包摂すること。「偉大であることによって」とは広大であることによって。

Kusalā dhammāti anavajjasukhavipākā dhammā, na anavajjamattadhammā. Kusalattike āgatanayena hi idha kusalā dhammā gahetabbā, na bāhitikasutte āgatanayena. Catubbidho saṅgahoti kasmā vuttaṃ, nanu ekavidhovettha saṅgaho adhippetoti? Na, atthaṃ aggahetvā aniddhāritatthassa saddasseva gahitattā. Saṅgaha-saddo tāva attano atthavasena catubbidhoti ayañhettha attho. Atthopi vā aniddhāritaviseso sāmaññena gahetabbataṃ patto ‘‘saṅgahaṃ gacchatī’’ti ettha saṅgaha-saddena vacanīyataṃ gatoti na koci doso, niddhārite visese tassa ekavidhatā siyā, na tato pubbeti. Sajātisaṅgahoti samānajātiyā, samānajātikānaṃ vā saṅgaho. Dhātukathāvaṇṇanāyaṃ pana **‘‘jātisaṅgaho’’**icceva vuttaṃ, taṃ jāti-saddassa sāpekkhasaddattā jātiyā saṅgahoti vutte attano jātiyāti viññāyati sambandhārahassa aññassa avuttattāti katvā vuttaṃ. Idha pana rūpakaṇḍavaṇṇanāyaṃ (dha. sa. aṭṭha. 594) viya pākaṭaṃ katvā dassetuṃ **‘‘sajātisaṅgaho’’**icceva vuttaṃ. Sañjāyanti etthāti sañjāti, sañjātiyā saṅgaho sañjātisaṅgaho, sañjātidesavasena saṅgahoti attho. ‘‘Sabbe rathikā’’ti vutte sabbe rathayodhā rathena yujjhanakiriyāya ekasaṅgahoti. ‘‘Sabbe dhanuggahā’’ti vutte sabbe issāsā dhanunā vijjhanakiriyāya ekasaṅgahoti āha **‘‘evaṃ kiriyavasena saṅgaho’’**ti. Rūpakkhandhena saṅgahitanti rūpakkhandhena ekasaṅgahaṃ rūpakkhandhoteva gaṇitaṃ, gahaṇaṃ gatanti attho.

「善法」とは、無過失で楽の異熟(結果)をもたらす諸法であり、単に過失なきだけの法ではない。「善の三法」に説かれた方法によって、ここでは善法が取られるべきであり、「バーヒティカ経」に説かれた方法によるのではない。「四種の包摂」とはなぜ説かれたのか、実に一種類の包摂こそがここで意図されているのではないか。そうではない、意味を捉えずに限定されない意味の言葉そのものが取られているからである。「包摂」という言葉はまず自らの意味の観点から四種である、これがここでの意味である。あるいは意味もまた限定された特質を持たず、一般性によって捉えられるべき状態に至り、「包摂に至る」というここにおいて「包摂」という言葉で表現されるべき状態に至ったのであるから、いかなる過失もない。特質が限定されたとき、それの一種類であることがあり得るのであり、それに先立ってはそうではない。「同種の包摂」とは、同一の種による、あるいは同一の種に属する者たちの包摂である。しかし『界論』の注釈においては「種の包摂」とだけ説かれたが、それは「種」という言葉が相関的な言葉であることから、「種による包摂」と言われたとき、自らの種によると理解され、結合に値する他のものが説かれていないことによるものとして説かれた。しかしここでは『色蘊の解説』におけるように明白にして示すために「同種の包摂」とだけ説かれた。ここに生まれ出るゆえに生処(sañjāti)であり、生処による包摂が生処包摂であり、生処の場所の観点による包摂という意味である。「すべての戦車兵」と言われたとき、すべての戦車兵は戦車によって戦う行為においてひとつの包摂である。「すべての弓兵」と言われたとき、すべての射手は弓によって射る行為においてひとつの包摂であるとし、「このように行為の観点による包摂である」と言った。「色蘊によって包摂された」とは、色蘊と一つの包摂である、色蘊としてのみ数えられた、把握に至ったという意味である。

Diyaḍḍhameva saccaṃ bhajati maggasaccadukkhasaccekadesabhāvato. Saccekadesantogadhampi saccantogadhameva hotīti āha **‘‘saccānaṃ antogadhattā’’**ti. Idāni tamatthaṃ sāsanato ca lokato ca upamaṃ āha ritvā dīpetuṃ **‘‘yathā hī’’**tiādi vuttaṃ. Tattha sādhikamidaṃ, bhikkhave, diyaḍḍhasikkhāpadasatanti idaṃ yasmiṃ kāle taṃ suttaṃ desitaṃ, tadā paññattasikkhāpadavasena vuttaṃ, tato paraṃ pana sādhikāni dvesatāni sikkhāpadānīti. Sikkhānaṃ antogadhattā adhisīlasikkhāya. Ettha ca ‘‘sīlaṃ sikkhantopi tisso sikkhā sikkhatī’’ti visamoyaṃ upaññāso. Tattha hi yo pahātabbaṃ pajahati, saṃvaritabbato saṃvaraṃ āpajjati, ayamassa adhisīlasikkhā. Yo tattha cetaso avikkhepo, ayamassa adhicittasikkhā. Yā tattha vīmaṃsā, ayamassa adhipaññāsikkhā. Iti so kulaputto sarūpato labbhamānā eva tisso sikkhā sikkhatīti dīpito, na sikkhānaṃ antogadhatāmattena. Tenāha aṭṭhakathāyaṃ ‘‘yo tathābhūtassa saṃvaro, ayamettha adhisīlasikkhā, yo tathābhūtassa samādhi, ayamettha adhicittasikkhā, yā tathābhūtassa paññā, ayaṃ adhipaññāsikkhā. Imā tisso sikkhā tasmiṃ ārammaṇe tāya satiyā tena manasikārena sikkhati āsevati bhāveti bahulīkarotī’’ti. Idha pana saccānaṃ antogadhattā sacca-saddābhidheyyatāmattena catūsu saccesu gaṇanantogadhā hontīti? Na, tatthāpi hi nippariyāyato adhisīlasikkhāva labbhati, itarā pariyāyatoti katvā **‘‘sikkhānaṃ antogadhattā’’**ti vuttaṃ.

道諦と苦諦の一部分の性質であることから、まさに一箇半の諦に属する。諦の一部分に包摂されたものもまた、まさに諦に包摂されたものであるとして、「諦に包摂されることによって」と述べた。今、その意味を聖教と世間から比喩を引いて示すために「あたかも〜のように」等と説かれた。その中で、「比丘たちよ、百五十余りの学処」というこれは、その経が説かれた時に制定されていた学処の観点から説かれたものであり、それ以降には二百余りの学処となった。「学処に包摂されることによって」とは、増上戒学に包摂されることによる。そしてここで「戒を学ぶ者も三学を学ぶ」というのは不均等な提示である。というのも、そこにおいて断ずべきものを断じ、防護すべきものから防護に至るなら、これが彼の増上戒学である。そこにおける心の無散乱、これが彼の増上心学である。そこにおける考察、これが彼の増上慧学である。このように、その善男子は自性として得られるまさに三学を学ぶと示されたのであり、単に学処に包摂されることによってのみではない。それゆえ義釈において「そのようである者の防護、これがここにおける増上戒学である。そのようである者の三昧、これがここにおける増上心学である。そのようである者の智慧、これが増上慧学である。これら三学を、その所縁において、その念によって、その作意によって学び、親近し、修習し、多作する」と述べられた。しかしここで、諦に包摂されることによって、諦という語で名指されることだけで四諦の中に数え入れられるのであろうか。否、そこにおいても直接的な意味では増上戒学のみが得られ、他は比喩的表現によるとして、「学処に包摂されることによって」と説かれたのである。

Catūsu ariyasaccesu saṅgahaṃ gacchantīti ca tato amuccitvā tasseva antogadhataṃ sandhāya vuttaṃ. Evañca katvā ‘‘yathā ca ekassa hatthipadassā’’tiādinā dassitā hatthipadopamā samatthitā daṭṭhabbā. Ekasmimpi dvīsupi tīsupi saccesu gaṇanaṃ gatā dhammāti idaṃ na kusalattikavaseneva veditabbaṃ, atha kho tikadukesu yathārahaṃ labbhamānapadavasena veditabbaṃ. Tattha ekasmiṃ sacce gaṇanaṃ gato dhammo asaṅkhatadhammo daṭṭhabbo, dvīsu saccesu gaṇanaṃ gatā kusalā dhammā, tathā akusalā dhammā, abyākatā ca dhammā, tīsu saccesu gaṇanaṃ gatā saṅkhatā dhammā, evaṃ aññesampi tikadukapadānaṃ vasena ayamattho yathārahaṃ vibhajitvā vattabbo. Tenāha **‘‘ekasmimpi…pe… gatāva hontī’’**ti. Ekadeso hi samudāyantogadhattā viseso viya sāmaññena samūhena saṅgahaṃ labhati. Tenāha **‘‘saccānaṃ antogadhattā’’**ti. Desanānukkamoti ariyasaccāni uddisitvā dukkhasaccaniddesavasena pañcannaṃ upādānakkhandhānaṃ vibhajanaṃ. Tattha ca rūpakkhandhaniddesavasenaādito ajjhattikāya pathavīdhātuyā vibhajananti. Ayaṃ imissā desanāya anukkamo.

「四聖諦に包摂される」とは、そこから外れることなく、まさにそれに包摂されていることを指して説かれた。このようにして、「あたかも一頭の象の足跡のように」等によって示された象の足跡の比喩が成立していると見なされるべきである。「一あるいは二あるいは三の諦において数え入れられた法」というこれは、単に善の三つ組の観点からのみ知られるべきではなく、三つ組や二つ組において相応しく得られる句の観点から知られるべきである。そこにおいて、一つの諦において数え入れられた法とは無為法と見なされるべきであり、二つの諦において数え入れられた法とは善の法、同様に不善の法、無記の法であり、三つの諦において数え入れられた法とは有為法である。このように他の三つ組や二つ組の句の観点によっても、この意味は相応しく区分して語られるべきである。それゆえ「一においても…(中略)…数え入れられるのである」と述べた。一部分は全体に包摂されることによって、特殊が一般によって、部分集合が全体集合によって包摂を得るようなものである。それゆえ「諦に包摂されることによって」と述べた。「説示の順序」とは、聖諦を掲げて、苦諦の解説の観点から五取蘊を区分することである。そしてそこにおいて、色蘊の解説の観点から最初に内なる地界を区分することである。これがこの説示の順序である。

301. Taṃ panetaṃ upamāhi vibhāvetuṃ **‘‘yathā hī’’**tiādi vuttaṃ. Tattha sujātanti sundaraṃ, susaṇṭhitaṃ supariṇatañcāti adhippāyo. Pesiyoti vilīve. Mudubhāvato kucchibhāgaṃ ādāya. Itare ca cattāro koṭṭhāseti pañcadhā bhinnakoṭṭhāsesu itare ca cattāro koṭṭhāse. Itare ca tayo koṭṭhāsetiādito catudhā bhinnakoṭṭhāsesu itare ca tayo koṭṭhāse.

301. ところでそれを比喩によって明らかにするために「あたかも〜のように」等と説かれた。その中で、「善く生まれた」とは美しく、整っており、十分に熟しているという意味である。「細片に」とは竹の薄片に。「柔軟であることから」とは腹部を取って。「他の四つの部分に」とは五つに分割された部分の中の他の四つの部分に。「他の三つの部分に」とは最初に四つに分割された部分の中の他の三つの部分に。

Rājaputtūpamāyāti rañño jeṭṭhaputtaupamāya. Nti piḷandhanaṃ. Ure vāyāmajanitaariyajātiyā oraso. Mukhato jātoti mukhato niggatadhammadesanāya jāto, buddhānaṃ vā dhammakāyassa mukhabhūtaariyadhammato jāto. Tato eva dhammajo dhammanimmito. Satthu dhammadāyādasseva gahitattā dhammadāyādo. Tenāha **‘‘no āmisadāyādo’’**ti. Nti ‘‘bhagavato putto’’tiādivacanaṃ. Mahāpaññatādiguṇehi sātisayaṃ anupubbabhāve ṭhitattā sammā yathābhūtaṃ vadamāno vattuṃ sakkonto vadeyya.

「王子の比喩によって」とは、王の長子の比喩によって。「彼に」とは装飾品を。「胸における努力から生じた聖なる生まれによって胸から生まれた真実の子」である。「口から生まれた」とは、口から出た法専修の説示によって生まれた、あるいは諸仏の法身の口に相当する聖なる法から生まれた。「まさにそれゆえに法から生まれ、法によって形作られた」のである。「師の法の相続者としてのみ受け取られたことによって法の相続者」である。それゆえ「財の相続者ではない」と述べた。「彼を」とは「世尊の息子」等の言葉である。大いなる智慧などの徳によって並外れた順序において留まっていることから、正しくありのままに語りつつ、語ることができる者として語るであろう。

Akutobhayaṃ nibbānaṃ nibbānagāminiñca. Rāgarajādīnaṃ vigamena vigatarajaṃ dhammaṃ desentaṃ sugataṃ sammāsambuddhaṃ bhikkhūnaṃ parosahassaṃ payirupāsatīti yojanā.

「何ものからも恐れなき」とは、涅槃と涅槃に至る道である。「貪などの塵の消滅によって塵を離れた法を説かれる、善逝・正自覚者に、千人を超える比丘たちが近侍する」と文脈を構成する。

**‘‘Sevetha bhajathā’’**ti vatvā tattha kāraṇamāha **‘‘paṇḍitā bhikkhū anuggāhakā’’**ti. Paṇḍitāpi samānā na appassutā, atha kho ovādānusāsanīhi anuggāhakāti purimā upamā therasseva vasena udāhaṭā, dutiyā pana bhagavato bhikkhusaṅghassapi vasena udāhaṭā.

「親近し、交際せよ」と言って、そこにおける理由を「賢明な比丘たちは助成者である」と述べた。賢明でありながら少聞ではなく、実に教誡や教授によって助成する者である。最初の比喩はまさに長老の観点から引き合いに出され、第二の比喩は世尊と比丘僧伽の観点から引き合いに出された。

302. Ajjhattikāti sattasantānapariyāpannā. Ajjhattaṃ paccattanti padadvayenapi taṃtaṃpāṭipuggalikadhammā vuccantīti āha **‘‘ubhayampetaṃ niyakādhivacanamevā’’**ti. Sasantatipariyāpannatāya pana attāti gahetabbabhāvūpagamanavasena attānaṃ adhikicca uddissa pavattaṃ ajjhattaṃ, taṃtaṃsattasantānapariyāpannatāya paccattaṃ. Tenāha aṭṭhakathāyaṃ (visuddhi. 1.307) ‘‘attani pavattattā ajjhattaṃ, attānaṃ paṭicca paṭicca pavattattā paccatta’’nti. Kakkhaḷanti kathinaṃ. Yasmā taṃ thaddhabhāvena sahajātānaṃ patiṭṭhā hoti, tasmā **‘‘thaddha’’**nti vuttaṃ. Kharigatanti kharasabhāvesu gataṃ tappariyāpannaṃ, kharasabhāvamevāti attho. Yasmā pana kharasabhāvaṃ pharusākārena upaṭṭhānato pharusākāraṃ hoti, tasmā vuttaṃ **‘‘pharusa’’**nti. Upādinnaṃ nāma sarīraṭṭhakaṃ. Tattha yaṃ kammasamuṭṭhānaṃ, taṃ nippariyāyato **‘‘upādinna’’**nti vuccati, itaraṃ anupādinnaṃ. Tadubhayampi idha taṇhādīhi ādinnagahitaparāmaṭṭhavasena upādinnamevāti dassetuṃ **‘‘sarīraṭṭhakañhī’’**tiādi vuttaṃ. Tattha ādinnanti abhiniviṭṭhaṃ. Mamanti gahitaṃ. Ahanti parāmaṭṭhaṃ. Dhātukammaṭṭhānikassāti catudhātuvavatthānavasena dhātukammaṭṭhānaṃ pariharantassa. Etthāti etasmiṃ dhātukammaṭṭhāne. Tīsu koṭṭhāsesūti tippakāresu koṭṭhāsesu. Na hi te tayo cattāro koṭṭhāsā.

302. 「内なる」とは、有情の相続に属する。「内なる」「各自の」という両句によって、それぞれの個々人の法が語られているとして、「これら両者ともにまさに自己を意味する同義語である」と述べた。しかし、自己の相続に属することによって「我」と把握されるべき状態に至る観点から、自己を対象として起こったものが「内なる」であり、それぞれの有情の相続に属することによるものが「各自の」である。それゆえ義釈において(清浄道論 1.307)「自己において生起するから内なるであり、自己に依って依って生起するから各自のである」と述べられた。「硬い」とは堅固な。それが強固な状態によって共生する諸法の拠り所となることから、「強固な」と述べた。「荒々しさの状態に至った」とは、荒々しい性質の中に入り、それに属する、荒々しい性質そのものという意味である。荒々しい性質は粗い相として現れることから、「粗い」と述べた。「執受されたもの」とは身体に属するもののことである。その中で業から生じたものは、直接的な意味で「執受されたもの」と呼ばれ、それ以外は非執受である。それら両者もまた、ここでは渇愛などによって受け取られ、把握され、執着された観点から執受されたものに他ならないことを示すために「身体に属するものというのは」等と説かれた。その中で「受け取られた」とは固執された。「私のもの」と把握された。「私である」と執着された。「界の業処を修習する者にとって」とは、四界差別によって界の業処を保つ者にとって。「ここにおいて」とは、この界の業処において。「三つの部分において」とは、三種の部分において。それらは三つ四つの部分ではない。

Vuttappakārāti ‘‘kesā lomā’’tiādinā vuttappakārā. Nānāsabhāvatoti satipi kakkhaḷabhāvasāmaññe sasambhāravibhattito pana kesādisaṅghātagatanānāsabhāvato. Ālayoti apekkhā. Nikantīti nikāmanā. Patthanāti taṇhāpatthanā. Pariyuṭṭhānanti taṇhāpariyuṭṭhānaṃ. Gahaṇanti kāmupādānaṃ. Parāmāsoti parato āmasanā micchābhiniveso. Na balavā ālayādi. Yadi evaṃ kasmā vibhaṅge bāhirāpi pathavīdhātu vitthāreneva vibhattāti? Yathādhammadesanattā tattha vitthāreneva desanā pavattā, yathānulomadesanattā panettha vuttanayena desanā saṃkhittā.

「説かれた様相」とは、「頭髪、体毛」等によって説かれた様相である。「多様な性質から」とは、硬い性質が共通しているとしても、要素の区分によって頭髪などの集合体に属する多様な性質から。「執着」とは期待。「愛着」とは愛念。「願求」とは渇愛による願求。「現起」とは渇愛の現起。「把握」とは欲取。「執着」とは他を撫でること、誤った固執。執着などは強くはない。もしそうなら、なぜ分別論において外なる地界も詳細に区分されたのか。法のありのままの説示であることからそこでは詳細に説示が行われ、順応した説示であることからここにおいては述べられた方法によって要約して説かれたのである。

Yojetvā dassetīti ekajjhaṃ katvā dasseti. ti ajjhattikā pathavīdhātu. Sukhapariggaho hoti ‘‘na me so attā’’ti. Siddhe hi anattalakkhaṇe dukkhalakkhaṇaṃ aniccalakkhaṇañca siddhameva hoti saṅkhatadhammesu tadavinābhāvatoti. Visūkāyatīti visūkaṃ virūpakiriyaṃ pavatteti. Sā pana atthato vipphandanamevāti āha **‘‘vipphandatī’’**ti. Assāti ajjhattikāya pathavīdhātuyā. Acetanābhāvo pākaṭo hoti dhātumattatāya dassanato. Taṃ ubhayampīti taṃ pathavīdhātudvayampi.

「結びつけて示す」とは、一つにして示す。「それは」とは内なる地界である。「『それは私の我ではない』と容易に把握される」のである。実に無我相が成立するとき、苦相と無常相もまた有為法においてはそれと不可分であることから必ず成立している。「変形する」とは、不調和で奇異な作用を起こす。しかしそれは実際には動揺に他ならないとして「動揺する」と述べた。「彼の」とは内なる地界の。「思慮なき状態が明らかとなる」とは、単なる界にすぎないことを見る者にとって。「それら両者もまた」とは、その地界の両者もまた。

Tato visesatarenāti tato bāhiramahāpathavito visesavantatarena, lahutarenāti attho. Kuppatīti luppati. Vilīyamānāti pakatiudake loṇaṃ viya vilayaṃ gacchantī. Udakānugatāti udakaṃ anugatā udakagatikā. Tenāha **‘‘udakameva hotī’’**ti. Abhāvo eva abhāvatā, na bhavatīti vā abhāvo, tathāsabhāvo dhammo. Tassa bhāvo abhāvatā. Vayo vināso dhammo sabhāvo etassāti vayadhammo, tassa bhāvo vayadhammatā, atthato khayo eva. Sesapadesupi eseva nayo. Tenāha **‘‘sabbehipi imehi padehi aniccalakkhaṇameva vutta’’**nti. Viddhaṃsanabhāvassa pana paveditabbattā kāmaṃ aniccalakkhaṇameva vuttaṃ sarūpato, itarānipi atthato vuttānevāti dassento āha **‘‘yaṃ panā’’**tiādi.

「それよりも際立って」とは、その外なる大地よりも際立って、より軽微にという意味である。「損なわれる」とは滅びる。「溶解して」とは、自然の水における塩のように溶解に至って。「水に従う」とは、水に従い、水の境遇にある。それゆえ「まさに水となる」と述べた。「非存在そのものが非存在性」であり、あるいは存在しないから非存在であり、そのような性質の法である。その状態が非存在性である。衰滅・破壊がその性質・自性であるから衰滅法であり、その状態が衰滅法性であり、意味としてはまさに消滅である。残りの句においてもこれと同じ方法である。それゆえ「これらすべての句によって無常相そのものが説かれた」と述べた。しかし破壊される性質が知られるべきであることから、確かに無常相そのものが自性として説かれたのであり、他のものも意味としては説かれていることを示して「しかしながら…」等と述べた。

Mattaṃ khaṇamattaṃ tiṭṭhatīti mattaṭṭho, appamattaṭṭho mattaṭṭhako, atiittarakhaṇikoti attho. Tenāha **‘‘parittaṭṭhitikassā’’**ti. Ṭhitiparittatāyāti ekacittapavattimattatāṭhānalakkhaṇassa itarabhāvena. Ekassa cittassa pavattikkhaṇamatteneva hi sattānaṃ paramatthato jīvanakkhaṇo paricchinno. Tenāha **‘‘ayaṃ hī’’**tiādi.

「ほんのわずかな瞬間だけ存在する」から限定的存在であり、極めてわずかな存在を極小限定的存在といい、極めて儚い瞬間的なものという意味である。それゆえ「持続の極めてわずかなものの」と述べた。「持続のわずかさによって」とは、一心の生起の瞬間だけの持続の相という別の状態によって。実に一つの心の生起の瞬間だけで、有情の究極的な意味での寿命の瞬間は限定されている。それゆえ「これこそが…」等と述べた。

Jīvitanti jīvitindriyaṃ. Sukhadukkhāti sukhadukkhā vedanā. Upekkhāpi hi sukhadukkhāsveva antogadhā iṭṭhāniṭṭhabhāvato. Attabhāvoti jīvitavedanāviññāṇāni ṭhapetvā avasiṭṭhadhammā vuttā. Kevalāti attaniccabhāvena avomissā. Ekacittasamāyuttāti ekena cittena sahitā ekacittakkhaṇikā. Lahuso vattate khaṇoti tāya eva ekakkhaṇikatāya lahuko atiittaro jīvitādīnaṃ khaṇo vattati vītivattatīti attho. Idanti gāthāvacanaṃ.

「生命」とは命根。「苦楽」とは苦楽の受。捨もまた望ましい・望ましくない状態であることから苦楽の中に包摂される。「個体」とは生命・受・識を除いた残りの法を指す。「純粋に」とは、常住な我の性質と混ざり合わずに。「一の心と相応して」とは、一つの心に伴い、一心の瞬間の。「素早く瞬間がめぐる」とは、まさにその一瞬性によって、生命などの軽微で極めて儚い瞬間がめぐり、過ぎ去るという意味である。これは偈文の言葉である。

Yasmā sattānaṃ jīvitaṃ assāsapassāsānaṃ aparāparasañcaraṇaṃ labhamānameva pavattati, na alabhamānaṃ, tasmā assāsapassāsūpanibaddhaṃ. Tathā mahābhūtānaṃ samavuttitaṃ labhamānameva pavattati. Pathavīdhātuyā hi āpodhātuādīnaṃ vā aññatarapakopena balasampannopi puriso patthaddhakāyo vā, atisārādivasena kilinnapūtikāyo vā, mahāḍāhapareto vā, sañchijjamānasandhibandhano vā hutvā jīvitakkhayaṃ pāpuṇāti. Kabaḷīkārāhārānaṃ yuttakāle labhantasseva jīvitaṃ pavattati, alabhantassa parikkhayaṃ gacchati, viññāṇe pavattamāneyeva ca jīvitaṃ pavattati, na tasmiṃ appavattamāne. Jīvitanti ettha iti-saddena iriyāpathūpanibaddhatāsītuṇhūpanibaddhatādīnaṃ saṅgaho. Catunnañhi iriyāpathānaṃ samavuttitaṃ labhamānameva jīvitaṃ pavattati, aññatarassa pana adhimattatāya āyusaṅkhārā upacchijjanti, sītuṇhānampi samavuttitaṃ labhamānameva pavattati, atisītena pana atiuṇhena vā abhibhūtassa vipajjatīti.

有情の生命は、入息と出息の絶え間ない往来を得てこそ生起し、得られなければ生起しないことから、入息と出息に縛られている。同様に四大種の均等な活動を得てこそ生起する。実に地界あるいは水界などのいずれかが乱れることによって、力に満ちた人であっても身体が硬直したり、下痢などによって身体が湿り腐敗したり、激しい熱狂に襲われたり、関節の結合が切断されたりして命の終焉に至る。段食を適切な時に得る者だけに生命は生起し、得られない者には衰滅に至り、識が生起している時にのみ生命は生起し、それが生起しない時には生起しない。「生命」というここにおける「〜など」という語によって、威儀に縛られていること、寒熱に縛られていることなどが包摂される。実に四つの威儀の均等な活動を得てこそ生命は生起し、どれか一つが過度になれば寿行は断絶し、寒熱の均等な活動を得てこそ生起し、過度の寒さや過度の暑さに圧倒された者には損なわれる。

Taṇhupādinnassāti iminā hi paccayuppannatākittanena sarasapabhaṅgutaṃyeva vibhāveti. Dukkhānupassanāya taṇhāggāhassa aniccānupassanāya mānaggāhassa anattānupassanāya diṭṭhiggāhassa ujuvipaccanīkabhāvato ekaṃseneva tīhi anupassanāhi gāhāpi vigacchantīti āha **‘‘noteva hotī’’**ti. Ekaṃyeva āgataṃ bāhirāya pathavīdhātuyā antaradhānadassanapavattajotanāya.

「渇愛によって執受されたものにとって」とは、この縁より生じたものであることの言及によって、本性としての壊滅性をこそ明らかにする。苦の観察によって渇愛の執着が、無常の観察によって慢の執着が、無我の観察によって見の執着が正反対に対立することから、三つの観察によって確実に執着もまた消滅するとして「決してそうはならない」と述べた。外なる地界の消失を示す生起を照らし出すために、ただ一つだけ説かれた。

Pariggahanti dhātupariggahaṇaṃ. Paṭṭhapentoti ārabhanto desento. Sotadvāre balaṃ dassetīti yojanā. Kammaṭṭhānikassa baladassanāpadesena kammaṭṭhānassa ānubhāvaṃ dasseti. Vācāya ghaṭṭanameva vuttaṃ sotadvāre baladassanabhāvato. Balanti ca bāhirāya viya ajjhattikāyapi pathavīdhātuyā acetanābhāvadassanena rukkhassa viya akkosantepi paharantepi nibbikāratā. Sampativattamānuppannabhāvenāti tadā paccuppannabhāvena. Samudācāruppannabhāvenāti āpāthagate tasmiṃ aniṭṭhe saddārammaṇe ārammaṇakaraṇasaṅkhātauppattivasena sotadvāre javanavedanā dukkhāti vacanato. Tathā hi **‘‘upanissayavasenā’’**ti vuttaṃ. Vedanādayopīti ‘‘vedanā aniccā’’ti ettha vuttavedanā ceva saññādayo ca. Te hi phassena samānabhūmikā na pubbe vuttavedanā. Dhātusaṅkhātameva ārammaṇanti yathāpariggahitaṃ pathavīdhātusaṅkhātameva visayaṃ. Pakkhandatīti vipassanācittaṃ aniccantipi dukkhantipi anattātipi sammasanavasena anupavisati. Etena bahiddhāvikkhepābhāvamāha, pasīdatīti pana iminā kammaṭṭhānassa vīthipaṭipannataṃ. Santiṭṭhatīti iminā uparūpari visesāvahabhāvena avatthānaṃ paṭipakkhābhibhavena niccalabhāvato. Vimuccatīti iminā taṇhāmānadiṭṭhiggāhato visesena muccanaṃ. Aṭṭhakathāyaṃ pana samuṭṭhānavasena attho vutto **‘‘adhimokkhaṃ labhatī’’**ti. Sotadvāramhi ārammaṇe āpāthagateti idaṃ mūlapariññāya mūladassanaṃ. Sotadvārehi āvajjanavoṭṭhabbanānaṃ ayoniso āvajjayato voṭṭhabbanavasena iṭṭhe ārammaṇe lobho, aniṭṭhe ca paṭigho uppajjati, manodvāre pana ‘‘itthī, puriso’’ti rajjanādi hoti, tassa pañcadvārajavanaṃ mūlaṃ, sabbaṃ vā bhavaṅgādi. Evaṃ manodvārajavanassa mūlavasena pariññā. Āgantukatāvakālikapariññā pana pañcadvārajavanasseva apubbabhāvavasena itarabhāvavasena ca veditabbā. Ayamettha saṅkhepo, vitthāro pana satipaṭṭhānasaṃvaṇṇanāyaṃ vutto eva.

「把握」とは界の把握。「開始しつつ」とは、着手し説示しつつ。「耳門において力を示す」と文脈を構成する。業処を修習する者の力を示すという名目で、業処の威力の大きさを示す。耳門における力を示す性質から、言葉による衝突のみが説かれた。「力」とは、外なるもののように内なる地界に対しても思慮なき状態を見ることによって、樹木のように罵倒されても殴打されても動じないことである。「今まさに生じている状態によって」とは、その時に現在している状態によって。「慣行として生じた状態によって」とは、受容されたその好ましくない音声の所縁において、所縁とすることを特徴とする生起の観点から耳門において速行の受は苦であるという言葉による。それゆえ「所依の力によって」と説かれた。「受などもまた」とは、「受は無常である」というここにおいて説かれた受および想などである。それらは触と同等の境地のものであり、以前に説かれた受ではない。「界と呼ばれる所縁そのもの」とは、把握された通りの地界と呼ばれる対象そのものである。「飛び込む」とは、観の心が無常であるとも苦であるとも無我であるとも思念する観点から深く入る。これによって外部への散乱がないことを述べ、「清澄になる」というこれによって業処が過程に入ったことを述べる。「安定して留まる」というこれによって、上へ上へと卓越した境地をもたらす状態として留まることであり、敵対するものに圧倒されることなく不動であることによる。「解脱する」というこれによって、渇愛・慢・見の執着から殊勝に解脱することである。しかし義釈においては、生起の観点から「勝解を得る」とその意味が説かれた。「耳門において所縁が受容された時に」というこれは、根本の遍知のための根本の提示である。耳門において转向と確定が如理に作意しない者にとって、確定の観点から好ましい所縁には貪りが、好ましくない所縁には怒りが生じるが、意門においては「女、男」と愛着などが生じ、それには五門の速行が根本であり、あるいは有分などがすべて根本である。このように意門の速行の根本の観点からの遍知である。客塵性・一時的遍知は五門の速行そのものの未曾有の状態とそうでない状態の観点から知られるべきである。これがここにおける要約であり、詳細はまさに念処の注釈において説かれている。

Yāthāvato dhātūnaṃ pariggaṇhanavasena katapariggahassapi anādikālabhāvanāvasena ayoniso āvajjanaṃ sacepi uppajjati. Voṭṭhabbanaṃ patvāti voṭṭhabbanakiccataṃ patvā. Ekaṃ dve vāre āsevanaṃ labhitvā, na āsevanapaccayaṃ. Na hi upekkhāsahagatāhetukacittaṃ āsevanapaccayabhūtaṃ atthi. Yadi siyā, paṭṭhāne kusalattike paṭiccavārādīsu ‘‘na maggapaccayā āsevane dve, āsevanapaccayā na magge dve’’ti ca vattabbaṃ siyā, ‘‘na maggapaccayā āsevane ekaṃ (paṭṭhā. 1.1.221), āsevanapaccayā na magge eka’’nti (paṭṭhā. 1.1.152) ca pana vuttaṃ. Ekaṃ dve vāreti ettha ca ekaggahaṇaṃ vacanasiliṭṭhatāya vasena vuttaṃ. Na hi dutiye moghavāre ekavārameva voṭṭhabbanaṃ pavattati. Dvikkhattuṃ vā tassa pavattiṃ sandhāya ekavāraggahaṇaṃ, tikkhattuṃ pavattiṃ sandhāya dvevāraggahaṇaṃ. Tattha dutiyaṃ tatiyañca pavattamānaṃ laddhāsevanaṃ viya hoti. Yasmā pana ‘‘voṭṭhabbanaṃ patvā ekaṃ dve vāreāsevanaṃ labhitvā cittaṃ bhavaṅgameva otaratī’’ti idaṃ dutiyamoghavāravasena vuttaṃ bhaveyya. So ca ārammaṇadubbalatāya eva hotīti abhidhammaṭṭhakathāyaṃ niyamito. Idha pana tikkhānupassanānubhāvena akusaluppattiyā asambhavavasena ayonisova āvajjato ayoniso vavatthānaṃ siyā, na yoniso, tasmiñca pavatte mahati atimahati vā ārammaṇe javanaṃ na uppajjeyyāti ayamattho vicāretvā gahetabbo.

ありのままに界を把握することによって把握をなした者であっても、無始の時からの習習の観点から如理でない作意がもし生じたとしても。「確定に至って」とは、確定の役割に至って。「一、二回親近を得て」とは、親近縁ではなく。捨倶行の無因の心が親近縁となることはないからである。もしそうであるなら、発趣論の善の三つ組の縁起の章などにおいて「道縁ならざるものから親近に二、親近縁から道ならざるものに二」と語られるべきであろうが、「道縁ならざるものから親近に一、親近縁から道ならざるものに一」と説かれている。「一、二回」というここにおいて、一を取ることは言葉の滑らかさの観点から説かれた。第二の無効過程において一度だけ確定が生起することはないからである。あるいはそれが二度生起することを指して一度取ることとし、三度生起することを指して二度取ることとする。そこにおいて二度目と三度目に生起するものが親近を得たかのようになる。しかしながら「確定に至って一、二回親近を得て心は有分へと没入する」というこれは、第二の無効過程の観点から説かれたものとなろう。そしてそれは所縁の微弱さによってのみ生じると勝法義釈において規定されている。しかしここでは、鋭い観察の力によって不善が生じることはあり得ないことから、如理でなく作意する者には如理でない確定が生じるのであって如理な確定ではなく、それが生起した時には大あるいは極大の所縁において速行は生じないであろうと、この意味は検討して受け取られるべきである。

Etasseva vā satipi duvidhatāparikappane so ca yadi anulome vedanāttike paṭiccavārādīsu ‘‘āsevanapaccayā na magge dve, na maggapaccayā āsevane dve’’ti ca vuttaṃ siyā, (labbheyya), na ca vuttaṃ. Yadi pana voṭṭhabbanampi āsevanapaccayo siyā, kusalākusalānampi siyā. Na hi āsevanapaccayaṃ laddhuṃ yuttassa āsevanapaccayatāpi dhammo āsevanapaccayo hotīti avutto atthi, voṭṭhabbanassa pana kusalākusalānaṃ āsevanapaccayabhāvo avutto – ‘‘kusalaṃ dhammaṃ paṭicca kusalo dhammo uppajjati nāsevanapaccayā. Akusalaṃ…pe… nāsevanapaccayā’’ti (paṭṭhā. 1.1.93-94) vacanato paṭikkhitto ca. Athāpi siyā asamānavedanānaṃ vaseneva vuttanti ca, evamapi yathā – ‘‘āvajjanā kusalānaṃ khandhānaṃ akusalānaṃ khandhānaṃ anantarapaccayena paccayo’’ti (paṭṭhā. 1.1.417) vuttaṃ, evaṃ ‘‘āsevanapaccayena paccayo’’tipi vattabbaṃ siyā. Taṃ jātibhedā na vuttanti ce? Bhūmibhinnassa kāmāvacarassa rūpāvacarādīnaṃ āsevanapaccayabhāvo viya jātibhinnassapi bhaveyyāti vattabbo eva siyā, abhinnajātikassa ca vasena yathā – ‘‘āvajjanā sahetukānaṃ khandhānaṃ anantarapaccayena paccayo’’ti vuttaṃ, evaṃ ‘‘āsevanapaccayena paccayo’’tipi vattabbaṃ siyā, na ca vuttaṃ. Tasmā vedanāttikepi ‘‘āsevanapaccayā na magge ekaṃ, na maggapaccayā āsevane eka’’nti evaṃ gaṇanāya niddhāriyamānāya voṭṭhabbanassa āsevanapaccayattassa abhāvā ayaṃ moghavāro upaparikkhitvā gahetabbo.

あるいはこれについて二重の想定があるとしても、それにおいてもし順次の受の三つ組の縁起の章などにおいて「親近縁から道ならざるものに二、道縁ならざるものから親近に二」と説かれていたなら(得られるであろうが)、説かれてはいない。もし確定もまた親近縁となるなら、善や不善の親近縁ともなるはずである。実に親近縁を得るのに相応しいものの親近縁性という法が親近縁となると説かれていないことはなく、確定が善や不善の親近縁となることは説かれておらず、「善の法に縁って善の法が非親近縁から生じる。不善の…(中略)…非親近縁から」という言葉によって否定されてもいる。さらに、不均等な受の観点からのみ説かれたのだとしても、このように「转向は善の蘊、不善の蘊に無間縁によって縁となる」と説かれたように、同様に「親近縁によって縁となる」とも語られるべきであろう。それが種類の違いから説かれなかったのだと言うなら、界の異なる欲界のものが色界などの親近縁となるように、種類の異なるものにもなるはずだと語られるべきであり、同種類のものについては「转向は有因の蘊に無間縁によって縁となる」と説かれたように、同様に「親近縁によって縁となる」とも語られるべきであるが、説かれてはいない。それゆえ受の三つ組においても「親近縁から道ならざるものに一、道縁ならざるものから親近に一」とこのように数量が確定されていることから、確定には親近縁性がないため、この無効過程は吟味して受け取られるべきである。

Voṭṭhabbanaṃ pana vīthivipākasantatiyā āvaṭṭanato āvajjanā, tato visadisassa javanassa karaṇato manasikāroti ca vattabbataṃ labheyya, evañca katvā paṭṭhāne ‘‘voṭṭhabbanaṃ kusalānaṃ khandhānaṃ anantarapaccayena paccayo’’tiādi na vuttaṃ, ‘‘āvajjanā’’icceva (paṭṭhā. 1.1.417) vuttaṃ, tampi voṭṭhabbanato paraṃ catunnaṃ pañcannaṃ vā javanānaṃ ārammaṇapurejātaṃ bhavituṃ asakkontaṃ rūpādiṃ ārabbha pavattamānaṃ voṭṭhabbanaṃ javanaṭṭhāne ṭhatvā bhavaṅgaṃ otarati. Javanaṭṭhāne ṭhatvāti ca javanassa uppajjanaṭṭhāne dvikkhattuṃ pavattitvāti attho, na javanabhāvenāti. Āsevanaṃ labhitvāti cettha āsevanaṃ viya āsevananti vuttovāyamattho. Vipphārikattā cassa dvikkhattuṃ vā tikkhattuṃ vā pavattiyeva cettha āsevanasadisatā. Vipphārikatāya hi viññattisamuṭṭhāpakatā cassa vuccati. Vipphārikampi javanaṃ viya anekakkhattuṃ appavattiyā asuppatiṭṭhitatāya ca na nippariyāyato āsevanabhāvena vattatīti na imassa āsevanatthaṃ vuttaṃ. Aṭṭhakathāyaṃ pana phalacittesu maggapariyāyo viya pariyāyavasena vuttaṃ.

しかし確定は、過程の果報の相続から転換することから转向であり、それとは異なる速行をなすことから作意であると語られる資格を得るであろう。このようにして発趣論において「確定は善の蘊に無間縁によって縁となる」等とは説かれず、「转向」とだけ説かれた。それもまた確定の後に四つまたは五つの速行の所縁前生となることができず、色などを対象として生起する確定は速行の場所に留まって有分へと没入する。「速行の場所に留まって」とは、速行が生起する場所に二度生起してという意味であり、速行としての性質によってではない。「親近を得て」というここにおいて、親近に似たものを親近と述べたのがまさにこの意味である。そしてその活動的な性質から、二度あるいは三度生起することこそがここにおける親近との類似性である。活動的な性質によって、表色を生起させる性質がこれに語られる。活動的であっても、速行のように何度も生起しないことと十分に安定していないことから、直接的な意味での親近性としては存在しないため、これに親近の意味は説かれなかった。しかし義釈においては、果心における道の比喩表現のように、比喩的表現の観点から説かれたのである。

Ayanti ‘‘sacepī’’tiādinā vutto ekavārampi rāgādīnaṃ anuppādanavasena vipassanāya kammaṃ karonto yogāvacaro. Koṭippattoti matthakaṃ patto. Paṭipakkhehi anabhibhūtattā visadavipassanāñāṇatāya tikkhavipassako. Ārammaṇaṃ pariggahitameva hoti ‘‘evaṃ me javanaṃ javita’’nti sārammaṇassa javanassa hutvā abhāvavavatthāpanassa kammaṭṭhānabhāvato, tathā āvajjanavasena vā taṃ ārammaṇaṃ vissajjetvā tāvadeva mūlakammaṭṭhānabhūtaṃ ārammaṇaṃ pariggahitameva hoti. Dutiyassa pana vasenāti ‘‘aparassa rāgādivasena ekavāraṃ javanaṃ javatī’’tiādinā vuttassa nātitikkhavipassakassa vasena ‘‘tassa dhātārammaṇameva cittaṃ pakkhandatī’’tiādinā imasmiṃ sutte āgatattā. ‘‘Tamenaṃ upadhipahānāya paṭipannaṃ upadhipaṭinissaggāya kadāci karahaci satisammosā upadhipaṭisaṃyuttā sarasaṅkappā samudācaranti. Dandho udāyi satuppādo, atha kho naṃ khippameva pajahati vinodeti byantīkaroti anabhāvaṃ gametī’’ti laṭukikopame. Tassa hi aṭṭhakathāyaṃ ‘‘sotāpannādayo tāva pajahantu, puthujjano kathaṃ pajahatī’’ti codanaṃ paṭṭhapetvā ‘‘āraddhavipassako hi satisammosena sahasā kilese uppanne ‘mādisassa nāma bhikkhuno kileso uppanno’ti saṃvegaṃ katvā vīriyaṃ paggayha vipassanaṃ vaḍḍhetvā maggena kilese samugghāteti, iti so pajahati nāmā’’ti attho vutto. Tena vuttaṃ – ‘‘tassa dhātārammaṇameva cittaṃ pakkhandatītiādinā imasmiṃ sutte āgatattā’’tiādi. Indriyabhāvane ca majjhimassa vasena ayamattho veditabbo.

「これは」とは、「もし〜であっても」等によって説かれた、一度も貪などを生じさせないことによって観の働きをなす瑜伽行者である。「究極に達した」とは頂点に達した。敵対するものに圧倒されないことから明瞭な観智を持つことによる鋭い観者である。「所縁は把握されたままである」とは、「このように私の速行は走った」と、所縁を持つ速行が存在して非存在となることを確定することが業処であることから、あるいはそのように转向の観点からその所縁を手放して直ちに根本業処である所縁が把握されたままである。「第二の者の観点から」とは、「他の者は貪などの観点から一度速行が走る」等によって説かれた、それほど鋭くない観者の観点から「彼の界の所縁そのものへと心が飛び込む」等とこの経において説かれていることによる。「この者が所依を断ずるために実践し、所依を放棄するために実践している時、時折、念の忘失によって所依に相応する衝動的な思惟が生起する。ウダーイよ、念の生起は鈍いが、しかし彼はそれを速やかに断じ、除き、終わらせ、非存在へと至らしめる」と鶉の比喩において説かれている。実にその義釈において「預流者などはともかく断ずるとして、凡夫はどうして断ずるのか」という問いを立てて、「実に熱心な観者は念の忘失によって急に煩悩が生じた時、『私のような比丘に煩悩が生じた』と危機感を抱いて精進を奮い起こし、観を増長させて道によって煩悩を根絶する。このようにして彼は断ずるのである」とその意味が説かれた。それゆえ「彼の界の所縁そのものへと心が飛び込む等とこの経において説かれていることによる」等と述べた。根の修習においても中位の者の観点からこの意味は知られるべきである。

Pariggahavasenāti dhātupariggahavasena. Mammacchedanādivasena pavattaakkosanādiṃ aniṭṭhaṃ ārammaṇaṃ patvā sotadvāre kilamati puggalo, tathā pothanapaharaṇādikaṃ aniṭṭhaṃ ārammaṇaṃ patvā kāyadvāre kilamati.

「把握の観点から」とは、界の把握の観点から。急所を突くなどの観点から起こる罵倒などの好ましくない所縁に出会って耳門において人は苦しみ、同様に打擲や殴打などの好ましくない所縁に出会って身門において苦しむ。

Samudācarantīti sabbaso uddhaṃ ācaranti. Tayidaṃ amanāpehi samudācaraṇaṃ nāma pothanapaharaṇādivasena upakkamanamevāti āha **‘‘upakkamantī’’**ti, bādhantīti attho. Tathāsabhāvoti yathā pāṇippahārādīhi ghaṭṭitamatto vikāraṃ āpajjati, tathāsabhāvo. ‘‘Ubhatodaṇḍakena cepi, bhikkhave, kakacenā’’tiādinā (ma. ni. 1.232) ovādadānaṃ nāma anaññasādhāraṇaṃ buddhānaṃyeva āveṇikanti āha **‘‘vuttaṃ kho panetaṃ bhagavatāti anussarantopi…pe… kakacūpamovādaṃ anussarantopī’’**ti vuttaṃ. Tassapi pariyattidhammabhāvatoti keci. Yaṃ pana kakacokantakesupi manussesu appadussanaṃ nibbikāraṃ, taṃ satthusāsanaṃ anussarantopi sammāpaṭipattilakkhaṇaṃ dhammaṃ anussaratiyevāti evaṃ vā ettha attho veditabbo. Bhikkhuno guṇanti ariyadhammādhigamanasiddhaṃ guṇamāha. So ca sabbesampi ariyānaṃ guṇoti taṃ anussarantopi saṅghaṃ anussarati evāti vuttaṃ.

「振る舞う」とは、ことごとく激しく振る舞う。好ましくない者たちによるこの振る舞いとは、打擲や殴打などの観点からの攻撃に他ならないとして「攻撃する」と述べた、損なうという意味である。「そのような性質の」とは、手の平での打撃などによって触れられただけで動揺をきたすような、そのような性質の。「比丘たちよ、たとえ両側に柄のある鋸によって…」等の教誡を与えることは、他者と共通しない諸仏だけの固有のものであるとして、「『世尊によってこのように説かれた』と随念する者も…(中略)…鋸の比喩の教誡を随念する者も」と説かれた。それもまた教法であることからである、とする者たちもいる。しかし鋸で挽く人々に対しても怒ることなく動じないという、その師の教えを随念する者も正しき実践を特徴とする法を随念しているのであると、このようにここでの意味は知られるべきである。「比丘の徳」とは、聖なる法の獲得によって達成された徳を指す。そしてそれはすべての聖者たちの徳でもあることから、それを随念する者も僧伽を随念しているのであると述べられた。

Vipassanupekkhā adhippetā, tasmā upekkhā kusalanissitā na saṇṭhātīti vipassanāvasena sabbasmimpi saṅkhāragate ajjhupekkhanaṃ na labhatīti attho. Chaḷaṅgupekkhāti chaḷaṅgupekkhā viya chaḷaṅgupekkhā iṭṭhāniṭṭhesu nibbikāratāsāmaññena. Tenāha **‘‘sā panesā’’**tiādi. Chaḷaṅgupekkhāṭhāne ṭhapeti ‘‘lābhā vata me, suladdhaṃ vata me’’tiādinā attamanataṃ āpajjanto.

観の捨が意図されており、それゆえ「善に依拠した捨が安定しない」とは、観の観点からすべての形成されたものに対する捨を得ることができないという意味である。「六支の捨」とは、好ましいもの・好ましくないものにおいて動じない性質が共通していることから六支の捨のようである六支の捨である。それゆえ「それは実に…」等と述べた。「私にとって実に利得である、私にとって実に善き獲得である」などと歓喜に至りつつ、六支の捨の境地に据える。

303. Āpogatanti ābandhanavasena āpo, tadeva āposabhāvaṃ gatattā āpogataṃ, sabhāveneva āpobhāvaṃ vā pattanti attho. Yasmā pana so āpobhāvasaṅkhāto allayūsabhāvo sasambhārapathavīsasambhāraudakādigate sabbasmimpi āpasmiṃ vijjati, tasmā vuttaṃ **‘‘sabbaāpesu gataṃ allayūsabhāvalakkhaṇa’’**nti, dravabhāvalakkhaṇanti attho. ‘‘Pakuppatī’’ti pākatikapakopaṃ sandhāyāha **‘‘oghavasena vaḍḍhatī’’**ti. Tenāha **‘‘ayamassa pākatiko pakopo’’**ti. Itaraṃ pana dassetuṃ **‘‘āposaṃvaṭṭakāle panā’’**tiādi vuttaṃ. Ogacchantīti ettha ogamananti pariyādānaṃ adhippetaṃ, na adhogamanamattanti āha **‘‘uddhane…pe… pāpuṇantī’’**ti.

303. 「水の状態に至った」とは、結合の観点から水であり、まさにその水の性質に至ったことから水の状態に至った、あるいは自性として水の状態に達したという意味である。しかし、水の状態と呼ばれるその湿潤な液体の性質は、要素としての地や要素としての水などに属するすべての水において存在することから、「すべての水に行き渡った湿潤な液体の性質という相」と述べた、流動性の相という意味である。「激しく乱れる」とは通常の荒廃を指して「洪水となって増大する」と述べた。それゆえ「これがこれの通常の荒廃である」と述べた。しかし他を示すために「水による壊滅の時には…」等と説かれた。「沈む」というここにおいて、沈むとは枯渇することが意図されており、単に下へ沈むことだけではないとして「かまどにおいて…(中略)…至る」と述べた。

304. Sabbatejesu gatanti indhanādivasena anekabhedesu sabbesu tejokoṭṭhāsesu gataṃ pavattaṃ. Yathā pīti eva pītigataṃ, evaṃ tejo eva tejogataṃ, tejanavasena pavattimattanti attho. Evaṃ āpogataṃ, vāyogatañca veditabbanti āha **‘‘purime’’**tiādi. Ekāhikajarādibhāvenāti ekāhikādijarābhedena. Usumajātoti usmābhibhūto. Jīratīti jiṇṇo hoti. Tejodhātuvasena labbhamānā imasmiṃ kāye jarāpavatti pākaṭajarāvasena veditabbāti dassetuṃ **‘‘indriyavekallatta’’**ntiādi vuttaṃ. Valipalitādibhāvanti valitapalitabhāvaṃ, aṅgapaccaṅgānaṃ sithilabhāvañca. Kuppitenāti khubhitena. Satakkhattuṃ tāpetvā tāpetvā sītūdake pakkhipitvā uddhaṭasappi satadhotasappīti vadanti. Sarīre pakatiusumaṃ atikkamitvā uṇhabhāvo santāpo, sarīrassa dahanavasena pavatto mahādāho paridāhoti ayameva tesaṃ viseso. Asitanti suttaṃ. Khāyitanti khāditaṃ. Sāyitanti assāditaṃ. Sammā paripākaṃ gacchatīti samavepākiniyā gahaṇiyā vasena vuttaṃ. Asammāparipākopi visamapākiniyā gahaṇiyā vasena veditabbo. Rasādibhāvenāti rasarudhiramaṃsamedanhāruaṭṭhiaṭṭhimiñjasukkabhāvena. Vivekanti puthubhāvaṃ aññamaññaṃ visadisabhāvaṃ. Asitādibhedassa āhārassa pariṇāme raso hoti, taṃ paṭicca rasadhātu uppajjatīti attho. Evaṃ rasassa pariṇāme ‘‘rudhira’’ntiādinā sabbaṃ netabbaṃ.

304. 「すべての火に行き渡った」とは、燃料などの観点から多様に区分されるすべての火の部分に行き渡り、生起した。黄色そのものが黄色に至ったものであるように、このように火そのものが火に至ったものであり、燃焼の観点からの生起にすぎないという意味である。このように水の状態に至ったもの、風の状態に至ったものも知られるべきであるとして「以前の…」等と述べた。「一日の熱病などの状態によって」とは、一日ごとの熱病などの区分によって。「熱を生じた」とは熱に圧倒された。「老いる」とは老朽化する。火界の観点からこの身体において得られる老いの生起は、明白な老いの観点から知られるべきであることを示すために「諸根の損傷」等と説かれた。「皺や白髪などの状態を」とは、皺や白髪の状態、四肢や各器官の弛緩の状態を。「激しく乱れたものによって」とは動揺したものによって。百回加熱しては冷水に投入して取り出したギーを「百回洗ったギー」と呼ぶ。身体において通常の熱を超えた熱さを「発熱」といい、身体を焼く観点から生じた激しい熱さを「熱狂」といい、これがそれらの違いである。「食べられたもの」とは液状の食物。「噛まれたもの」とは固形の食物。「味わわれたもの」とは嗜好品。「正しく消化に至る」とは、均等に消化する胃腸の観点から説かれた。正しくない消化も、不均等に消化する胃腸の観点から知られるべきである。「消化液などの状態によって」とは、消化液、血液、肉、脂肪、筋、骨、骨髄、精液の状態によって。「分離を」とは個別の状態、互いに異なる状態を。食べられたものなどの区分を持つ食物が変化する時に消化液となり、それに依って消化液の界が生じるという意味である。このように消化液の変化において「血液」等とすべて導かれるべきである。

Haritantanti haritameva, anta-saddena padavaḍḍhanaṃ kataṃ yathā ‘‘vanantaṃ suttanta’’nti. Cammanillekhanaṃ cammaṃ likhitvā chaḍḍitakasaṭaṃ.

「青々としたもの」とは青いものそのものであり、「〜端」という語によって「森の端、経の端」のように語の拡張がなされた。「皮の削りかす」とは、皮を削って捨てられたかす。

305. Uggārahikkārādīti ettha ādi-saddena uddekakhīpanādipavattakavātānaṃ saṅgaho daṭṭhabbo. Uccārapassāvādīti ādi-saddena pittasemhalasikādinīharaṇavātassa ceva usumavātassa ca saṅgaho veditabbo. Yadipi kucchi-saddo udarapariyāyo, koṭṭha-saddena pana abbhantarassa vuccamānattā tadavasiṭṭho udarapadeso idha kucchi-saddena vuccatīti āha **‘‘kucchisayā vātāti antānaṃ bahivātā’’**ti. Samiñjanapasāraṇādīnīti ādi-saddena ālokanavilokanauddharaṇādikā sabbā kāyikakiriyā saṅgahitā. Avasavati udakaṃ etasmāti ossavanaṃ, chadananto. Idhāti imasmiṃ ṭhāne.

305. 「ゲップやしゃっくりなど」というここにおける「〜など」という語によって、嘔吐やくしゃみなどを起こす風の包摂が見られるべきである。「大便や小便など」という「〜など」という語によって、胆汁・痰・関節滑液などを排出する風と熱の風の包摂が知られるべきである。「腹」という語は胃の同義語であるが、「内臓」という語によって内部のものが語られていることから、その残りの腹部の領域がここでは「腹」という語によって語られているとして「腹に宿る風とは腸の外の風である」と述べた。「屈伸など」という「〜など」という語によって、見ること、見回すこと、持ち上げることなどのすべての身体的動作が包摂される。水がそこから流れ落ちるから雨滴受け、軒先。ここにおいて、この場所において。

306. Nissattabhāvanti anattakataṃ. Yathādassitā hi catasso dhātuyo anattaniyaṃ kevalaṃ dhātumattā nissattanijjīvāti imamatthaṃ dasseti. Parivāritoti parivāritabhāvena ṭhito parivuto. Tenāha **‘‘etānī’’**tiādi, kaṭṭhādīni sannivesavisesavasena ṭhapitānīti adhippāyo. Aññathā agārasamaññāya bhāvato. Tenāha **‘‘kaṭṭhādīsu panā’’**tiādi. Yadatthaṃ pāḷiyaṃ ‘‘seyyathāpi, āvuso’’tiādi āraddhaṃ, tamatthaṃ pākaṭaṃ katvā dassetuṃ **‘‘yathā kaṭṭhādīnī’’**tiādi vuttaṃ.

306. 「無我の状態を」とは、我によって作られたのではないことを。実に示された通りの四つの界は、我がなく、単なる界にすぎず、有情ではなく命ではないというこの意味を示す。「囲まれた」とは、囲まれた状態で留まっている、取り囲まれた。それゆえ「これらを」等と述べた、木材などが特定の配置の観点から配置されたという意味である。そうでなければ家という名称が存在することになるからである。それゆえ「しかし木材などにおいて…」等と述べた。経において「友よ、あたかも〜のように」等が始められたその意味を、明らかにして示すために「あたかも木材などが…」等と説かれた。

Kāmaṃ heṭṭhā ‘‘mattaṭṭhakassa kāyassā’’tiādinā (ma. ni. 1.302) avibhāgena ekadesena ca upādārūpampi kathitaṃ, tathā vedanādayo khandhabhāvena pariggahetvā na kathitā, tathā taṇhāpi samudayasaccabhāvena. Itarāni pana saccāni sabbena sabbaṃ na kathitāni. Tenevāha **‘‘heṭṭhā…pe… na kathitānī’’**ti. Cakkhupasāde niruddheti cakkhupasāde vinaṭṭhe. Upahateti pubbakimiādīhi upaddute. Palibuddheti pubbādiuppattiyā vinā paṭicchādite. Tajjoti tassānurūpo, cakkhuviññāṇuppattiyā anurūpoti attho. Cakkhussa rūpārammaṇe āpāthagate uppajjanamanasikāro hadayasannissayopi cakkhumhi sati hoti, asati na hotīti katvā **‘‘cakkhuṃ paṭicca uppajjanamanasikāro’’**ti vutto. Bhavaṅgāvaṭṭanaṃ tassa yathā ārammaṇapaccaye, evaṃ pasādapaccayepi hotīti vuttaṃ **‘‘cakkhuñca rūpe ca paṭiccā’’**ti. Nti cakkhudvāre kiriyamanodhātucittaṃ. Aññavihitassāti aññārammaṇapasutassa. Tadanurūpassāti tesaṃ cakkhurūpatadābhogānaṃ anurūpassa.

確かに下において「限定された身体の」等によって(中部 1.302)未区分で一部の所造色も語られ、同様に受などは蘊としての性質によって把握されて語られず、同様に渇愛も集諦としての性質によって語られなかった。しかし他の諦は完全に語られなかった。まさにそれゆえ「下において…(中略)…語られなかった」と述べた。「眼の清澄が滅した時に」とは、眼の清澄が損なわれた時に。「損なわれた時に」とは、膿や虫などによって冒された時に。「遮られた時に」とは、膿などの発生なしに覆われた時に。「それに相応する」とはそれに適した、眼識の生起に適したという意味である。眼の、色という所縁が受容された時に生起する作意は、心臓を所依とするとしても眼がある時に存在し、ない時には存在しないことから、「眼に縁って生起する作意」と説かれた。有分の転換はそれが所縁縁においてあるように、同様に清澄縁においても存在することから「眼と色とに縁って」と説かれた。「彼に」とは眼門における唯作の意界の心。「他のことに専念している者の」とは他の所縁に没頭している者の。「それに相応するものの」とはそれら眼・色・それらへの注意に適したものの。

Cattāri saccāni dasseti sarūpato atthāpattito cāti adhippāyo. Tappakāro bhūto, tappakāraṃ vā patto tathābhūto, tassa, yathā cakkhuviññāṇaṃ uppajjati, tādisassa paccayākārasamavetassāti attho. Tisamuṭṭhānarūpanti utukammāhārasamuṭṭhānarūpaṃ. Idañca satipi tadā bhavaṅgāvaṭṭanacittasamuṭṭhānarūpe kevalaṃ cakkhuviññāṇasamuṭṭhitarūpassa abhāvamattaṃ gahetvā vuttaṃ. Saṅgahaṃ gacchatīti nagaraṃ viya rajje rūpakkhandhe saṅgahetabbataṃ gahetabbataṃ gacchati. ‘‘Tathābhūtassā’’ti vuttattā vedanādayo cakkhuviññāṇasampayuttāva, viññāṇampi cakkhuviññāṇameva. Saṅkhārāti cetanāva vuttā cetanāpadhānattā saṅkhārakkhandhassāti adhippāyo. Tattha pana phassajīvitindriyamanasikāracittaṭṭhitiyopi saṅkhārakkhandhadhammāva. Ekato saṅgaho ‘‘pañcakkhandhā’’ti ekato gaṇanā. Samāgamoti yathāsakaṃ paccayavasena samodhānaṃ. Samavāyoti aññamaññassa paccayabhāvena samavetatāya samuditabhāvo.

四諦を自性として、また意味の必然性から示すという意味である。その様相となった、あるいはその様相に達した者を「そのようである者」といい、彼の、眼識が生起するような、そのような縁の様相を備えたという意味である。「三種から生じた色」とは、時節・業・食から生じた色である。そしてこれは、その時に有分を転換する心から生じた色が存在するとしても、単に眼識から生じた色が存在しないことだけを取って説かれた。「包摂される」とは、王国における都市のように色蘊に包摂されるべきもの、受け取られるべきものとなる。「そのようである者の」と説かれたことから、受などは眼識と相応するものだけであり、識もまたまさに眼識である。「行」とは思そのものが説かれたのであり、思が行蘊の主導的なものであることからという意味である。しかしそこにおいて、触・命根・作意・心の持続もまた行蘊の法である。「一括して包摂される」とは「五蘊」と一括して数え入れられることである。「集合」とはそれぞれの縁の観点からの集まりである。「結合」とは互いに縁となることによって結びついていることから集合した状態である。

Paccayuppannadhammo paṭicca samuppajjati etasmāti paṭiccasamuppādo, paccayākāro. Paccayadhamme passantopi paccayuppannadhamme passati, te passantopi paccayadhamme passatīti vuttaṃ **‘‘yo paṭiccasamuppāda’’**ntiādi. Chandakaraṇavasenāti taṇhāyanavasena. Ālayakaraṇavasenāti apekkhākaraṇavasena. Anunayakaraṇavasenāti anurajjanavasena. Ajjhogāhitvāti ārammaṇaṃ anupavisitvā viya gilitvā viya niṭṭhapetvā viya daḷhaggahaṇavasena. Chandarāgo vinayati pahīyati etthāti chandarāgavinayo chandarāgapahānañcāti vuccati nibbānaṃ. Āharitvāti pāḷiyaṃ sarūpato anāgatampi atthato ānetvā saṅgaṇhanavasena gahetabbaṃ. Āharaṇavidhiṃ pana dassento **‘‘yā imesū’’**tiādimāha. Imesu tīsu ṭhānesūti yathāvuttesu sukhadukkhādīsu tīsu abhisamayaṭṭhānesu. Diṭṭhīti pariññābhisamayādivasena pavattā sammādiṭṭhi yāthāvadassanaṃ. Evaṃ saṅkappādayopi yathārahaṃ veditabbā. Bhāvanāpaṭivedhoti bhāvanāvasena paṭivedho, na ārammaṇakaraṇamattena. Ayaṃ maggoti ayaṃ catunnaṃ ariyasaccānaṃ paṭivijjhanavasena pavatto aṭṭhaṅgiko maggo. Ettāvatāpīti evaṃ ekasmiṃ cakkhudvāre vatthu pariggahamukhenapi catusaccakammaṭṭhānassa matthakaṃ pāpanena bahuṃ vipulaṃ paripuṇṇameva bhagavato sāsanaṃ kataṃ anuṭṭhitaṃ hoti.

縁より生じた法がこれに縁って共に生起するから「縁起」、縁の様相である。縁の法を見る者も縁より生じた法を見、それらを見る者も縁の法を見るとして「縁起を見る者は…」等と説かれた。「意欲をなす観点から」とは渇愛をなす観点から。「執着をなす観点から」とは期待をなす観点から。「愛着をなす観点から」とは愛念をなす観点から。「深く入り込んで」とは、所縁に深く入るかのように、飲み込むかのように、完成させるかのように強く把握することによって。欲貪が除かれ、断ぜられる場所であるから欲貪の調伏、欲貪の断滅と呼ばれ、涅槃のことである。「引いて」とは、経において自性として説かれていなくても意味として引き寄せて包摂することによって受け取られるべきである。引き寄せる方法を示して「これらにおけるところの…」等と述べた。「これら三つの場所において」とは、前述の苦楽などの三つの現観の場所において。「見」とは遍知現観などの観点から生じた正見、ありのままの観察である。このように思惟なども相応しく知られるべきである。「修習による通達」とは修習の観点からの通達であり、単に所縁とすることによってではない。「この道は」とは、この四聖諦を通達する観点から生じた八支聖道である。「これだけでも」とは、このように一つの眼門において物質を把握することを通じても、四諦の業処を頂点に至らしめることによって、世尊の教えは大いに、広大に、完全に実践されたのである。

Uppajjitvā niruddhameva bhavaṅgacittaṃ āvajjanacittassa paccayo bhavatīti vuttaṃ **‘‘taṃ niruddhampī’’**ti. Mandathāmagatamevāti mahatiyā niddāya abhibhūtassa vasena vuttaṃ, kapimiddhaparetassa pana bhavaṅgacittaṃ kadāci āvajjanassa paccayo bhaveyyāti. Bhavaṅgasamayenevāti bhavaṅgasseva pavattanasamayena paguṇajjhānapaguṇakammaṭṭhānapaguṇaganthesu tesaṃ paguṇabhāveneva ābhogena vināpi manasikāro pavattati. Tathā hi paguṇaṃ ganthaṃ paguṇabhāveneva nirantaraṃ viya ajjhayamāne aññavihitatāya ‘‘ettako gantho gato, ettako avasiṭṭho’’ti sallakkhaṇā na hoti. Catusamuṭṭhānampīti sabbaṃ catusamuṭṭhānarūpaṃ, na pubbe viya tisamuṭṭhānamevāti adhippāyo. Pubbaṅgamattā oḷārikattā ca phassacetanāva saṅkhārakkhandhoti gahitā, na aññesaṃ abhāvā. Ekadesameva sammasantoti yathāuddiṭṭhaṃ atthaṃ heṭṭhā anavasesato aniddisitvā ekadesameva niddisanavasena desanāya āmasanto. Imasmiṃ ṭhāneti yathāuddiṭṭhassa atthassa ‘‘ajjhattikañceva, āvuso, cakkhu’’ntiādinā (ma. ni. 1.306) chadvāravasena niddisanaṭṭhāne. Heṭṭhā parihīnadesananti – ‘‘yaṃ upādārūpaṃ cattāro arūpino khandhā upari tīṇi ariyasaccānī’’ti niddesavasena parihīnaṃ atthajātaṃ sabbaṃ. Taṃtaṃdvāravasenāti cakkhudvārādikaṃ taṃtaṃdvāravasena. Catusaccavasena āraddhā desanā catusacceneva pariyosāpitāti āha **‘‘yathānusandhināva suttantaṃ niṭṭhapesī’’**ti.

生起して滅した有分の心そのものが转向の心の縁となるとして「それは滅したとしても」と述べた。「微弱な力に至ったものだけ」とは、深い眠りに圧倒された者の観点から説かれたものであり、浅い眠りに囚われた者の有分の心は時に转向の縁となり得る。「有分の時においてのみ」とは、有分の生起の時においてのみ、熟練した禅定、熟練した業処、熟練した聖典において、それらの熟練性によって注意なしでも作意は生起する。実に熟練した聖典を熟練していることによって絶え間なく暗唱している時、他のことに専念していても「これだけの聖典が進み、これだけが残っている」という分別はなされない。「四種から生じるものもまた」とは、すべて四種から生じる色であり、以前のように三種から生じるものだけではないという意味である。主導的なものであり粗大なものであることから、触と思がまさに行蘊として受け取られたのであり、他のものが存在しないからではない。「一部分だけを思念しつつ」とは、提示された意味を下において余すところなく解説せずに一部分だけを解説する観点から説示において触れつつ。「この場所において」とは、提示された意味を「友よ、内なる眼と…」等によって(中部 1.306)六門の観点から解説する場所において。「下において省略された説示を」とは、「所造色、四つの無色の蘊、上の三つの聖諦」という解説の観点から省略されたすべての意味の集まりを。「それぞれの門の観点から」とは、眼門などのそれぞれの門の観点から。四諦の観点から始められた説示は四諦によってこそ完結されたとして「文脈の通りに経を完結させた」と述べた。

Mahāhatthipadopamasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

大象跡喩経注釈の深義解説は完結した。

9. Mahāsāropamasuttavaṇṇanā

9. 大心材喩経注釈

307. Nacirapakkanteti na ciraṃ pakkante, pakkantassa sato na cirasseva. Saliṅgenevāti muṇḍiyakāsāyaggahaṇādinā attano purimaliṅgeneva. Pāṭiyekke jāteti vipannācāradiṭṭhitāya pakāsanīyakammakaraṇato paraṃ aññatitthiyasadise visuṃ bhūte. Kulaputtoti jātimattena kulaputto. Asambhinnāyāti sambhedarahitāya, jātisaṅkaravirahitāyāti atto. Jātisīsena idha jātivatthukaṃ dukkhaṃ vuttanti āha **‘‘otiṇṇoti yassa jāti anto anupaviṭṭhā’’**ti. Jāto hi satto jātakālato paṭṭhāya jātinimittena dukkhena anto anupaviṭṭho viya vibādhīyati. Jarāyātiādīsupi eseva nayo. Cattāro paccayā labbhantīti lābhā, catunnaṃ paccayānaṃ labbhamānānaṃ sukatabhāvo suṭṭhu abhisaṅkhatabhāvo. Vaṇṇabhaṇananti guṇakittanaṃ. Apaññātāti sambhāvanāvasena na paññātā. Lābhādinibbattiyābhāvadassanañhetaṃ. Tenāha **‘‘ghāsacchādanamattampi na labhantī’’**ti. Appesakkhāti appānubhāvā. Sā pana appesakkhatā adhipateyyasampattiyā ca parivārasampattiyā ca abhāvena pākaṭā hoti. Tattha parivārasampattiyā abhāvaṃ dassento **‘‘appaparivārā’’**ti āha.

307. 「去って間もない時に」とは、去って久しくない時に、去った者となって間もなく。「自身の相貌そのものによって」とは、剃髪や袈裟の着用などによる自己の以前の相貌そのものによって。「別個となった時に」とは、行儀や見解の破綻によって布告の業を行って以降、他の外道と同じく別個となった時に。「善男子」とは生まれの観点だけで善男子。「混じり気のない」とは混同のない、家系の混乱のないという意味である。生まれを筆頭としてここでは生まれを原因とする苦が説かれたとして「陥ったとは、その者に生まれが内に入り込んだ」と述べた。実に生を受けた有情は生まれた時から、生まれを原因とする苦によって内に入り込まれたかのように苦しめられる。「老いによって」などにおいてもこれと同じ方法である。「四つの資具が得られる」とは利得であり、得られる四つの資具の善き状態、善く調えられた状態である。「称賛を語ること」とは徳を称えること。「知られていない」とは高貴なものとして知られていない。これは利得などが生じないことを示すことである。それゆえ「飲食や衣服のわずかなものさえ得られない」と述べた。「小権力者」とは威力の乏しい者。その小権力性とは、支配力の成就と眷属の成就がないことによって明らかとなる。そこにおいて眷属の成就がないことを示して「眷属が少ない」と述べた。

Sārenapi keci ajānanena aññālābhena vā asārabhūtampi kattabbaṃ karontīti tato visesanatthaṃ ‘‘sārena sārakaraṇīya’’nti vuttanti taṃ dassento **‘‘akkhacakkayuganaṅgalādika’’**nti āha. Brahmacariyassāti sikkhāttayasaṅgahassa sāsanabrahmacariyassa. Mahārukkhassa maggaphalasārassa ñāṇadassanapheggukassa samādhitacassa sīlapapaṭikassa cañcalasabhāvā saṃsappacārīti ca cattāro paccayā sākhāpalāsaṃ nāma. Tenevāti lābhasakkārasilokanibbattaneneva. Sāro me pattoti imasmiṃ sāsane adhigantabbasāro nāma iminā lābhādinibbattanena anuppattoti vosānaṃ niṭṭhitakiccaṃ āpanno.

心材によっても、ある者は無知や他のものの欠如によって心材でないものをもなすべきものとするため、それと区別するために「心材によってなすべきこと」と説かれたのであり、それを示して「車軸や車輪や軛や鋤など」と述べた。「清浄行の」とは、三学を包摂する聖教の清浄行の。「大樹の、道果という心材、智見という辺材、三昧という外皮、戒という甘皮、動揺する性質を持ち這って進む四つの資具という枝葉」である。「それによってのみ」とは、利得・敬愛・名声を生じさせることによってのみ。「心材を私は得た」とは、この教えにおいて獲得されるべき心材と呼ばれるものを、この利得などを生じさせることによって獲得したと、途中で終わる行為に陥ったのである。

310. Ñāṇadassananti ñāṇabhūtaṃ dassanaṃ visayassa sacchikaraṇavasena pavattaṃ abhiññāñāṇaṃ. Sukhumaṃ rūpanti devādīnaṃ, aññampi vā sukhumasabhāvaṃ rūpaṃ. Tenāha **‘‘antamaso…pe… viharantī’’**ti, dibbacakkhu hi idha ukkaṭṭhaniddesena ‘‘ñāṇadassana’’nti gahitaṃ.

310. 「智見」とは、智である見、対象の現証の観点から生じた神通智。「微細な色」とは神々などの、あるいは他の微細な性質の色。それゆえ「少なくとも…(中略)…住する」と述べた、実に天眼がここでは最上の解説として「智見」と受け取られている。

311. Asamayavimokkhaṃ ārādhetīti ettha adhippetaṃ asamayavimokkhaṃ pāḷiyā eva dassetuṃ **‘‘katamo asamayavimokkho’’**tiādi vuttaṃ. Aṭṭhannañhi samāpajjanasamayopi atthi asamayopi, maggavimokkhena pana vimuccanassa samayo vā asamayo vā natthi. Yassa saddhā balavatī, vipassanā ca āraddhā, tassa gacchantassa tiṭṭhantassa nisīdantassa bhuñjantassa ca maggaphalapaṭivedho nāma na hotīti na vattabbaṃ, iti maggavimokkhena vimuccantassa samayo vā asamayo vā natthīti so asamayavimokkho. Tenāha **‘‘lokiyasamāpattiyo hī’’**tiādi.

311. 「一時的でない解脱を達成する」というここにおいて意図された一時的でない解脱を経によって示すために「一時的でない解脱とはいかなるものか」等と説かれた。実に八つのものには等至すべき時もあり時でない時もあるが、道による解脱によって解脱する者には時も時でない時もない。信仰が強く、観に着手した者にとって、歩行し、立ち、座り、食事をしている時にも道果の通達がないということはあり得ず、このように道による解脱によって解脱する者には時も時でない時もないから、それは一時的でない解脱である。それゆえ「世間的な等至は実に…」等と述べた。

Na kuppati, na nassatīti akuppā, kadācipi aparihānasabhāvā. Sabbasaṃkilesehi paṭippassaddhivasena cetaso vimuttīti cetovimutti. Tenāha **‘‘arahattaphalavimuttī’’**ti. Ayamattho payojanaṃ etassāti etadatthaṃ, sāsanabrahmacariyaṃ, tassa esā paramakoṭi. Yathāraddhassa sāropamena phalena desanā niṭṭhāpitāti āha **‘‘yathānusandhināva desanaṃ niṭṭhapesī’’**ti. Yaṃ panettha atthato avibhattaṃ, taṃ suviññeyyameva.

乱れず、滅びないから「不動の」、いかなる時にも衰退しない性質の。すべての煩悩からの静止の観点による心の解脱であるから「心解脱」。それゆえ「阿羅漢果の解脱」と述べた。この意味が目的であるから「このための」、教えの清浄行であり、それにとってこれが究極の頂点である。始められた通りの心材の比喩による果によって説示が完結されたとして「文脈の通りに説示を完結させた」と述べた。ここにおいて意味として解説されなかったものは、容易に理解されるべきものである。

Mahāsāropamasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

大心材喩経注釈の深義解説は完結した。

10. Cūḷasāropamasuttavaṇṇanā

10. 小心材喩経注釈

312. Piṅgaladhātukoti piṅgalasabhāvo piṅgalacchaviko, piṅgalakkhoti vā attho. Pabbajitasamūhasaṅkhāto saṅgho, na sīlādiguṇehi saṅgahitabbabhāvena. Saṅgho etesaṃ atthi parivārabhūtoti saṅghino. Svevāti so eva pabbajitasamūhasaṅkhāto. Ācārasikkhāpanavasenāti attanā parikappitaacelavatādiācārasikkhāpanavasena. Paññātāti yathāsakaṃ samādinnavatavasena ceva viññātaladdhivasena ca paññātā. Laddhikarāti tassā micchādiṭṭhiyā uppādakā. Bahujanassāti puthujanassa. Tassa pana āgamasampadāpi nāma natthi, kuto adhigamoti ekaṃsato andhaputhujjano evāti āha **‘‘assutavato andhabālaputhujjanassā’’**ti. Na hi viññū appasādanīye pasīdanti. Maṅgalesu kātabbadāsakiccakaro dāso maṅgaladāso.

312. 「赤茶けた色の」とは、赤茶けた性質の、赤茶けた皮膚の、あるいは赤茶けた眼のという意味である。「出家者の集まりと呼ばれる僧伽」であり、戒などの徳によって包摂されるべき性質によってではない。「僧伽が彼らに眷属として存在する」から僧伽を持つ者たち。「彼こそが」とは、まさにその出家者の集まりと呼ばれる者である。「作法を教える観点から」とは、自身で構想した無衣の誓戒などの作法を教える観点から。「知られた」とは、各自が受持した誓戒の観点から、また理解された教義の観点から知られた。「教義の創始者」とは、その邪見を生じさせた者たち。「多くの人々に」とは凡夫に。彼には教理の成就すらなく、どうして獲得があろうか、確実に盲目の愚かな凡夫に他ならないとして「聞くことなき盲目の愚かな凡夫に」と述べた。実に賢者は信仰すべきでないものに信仰を起こさない。「吉祥の際に果たすべき召使いの役割を果たす召使い」が吉祥の召使いである。

Tantāvutānanti tante pasāretvā vītānaṃ. Gaṇṭhanakilesoti saṃsāre bandhanakileso. Evaṃ vāditāyāti evaṃ paṭiññatāya, evaṃ diṭṭhitāya vā. Niyyānikāti niyyānagatisappāṭihīrakā anupārambhabhūtattāti adhippāyo. No ce niyyānikāti ānetvā yojanā. Tesaṃ sabbaññupaṭiññāya abhūtattā tassā abhūtabhāvakathanena tassa brāhmaṇassa na kāci atthasiddhīti āha **‘‘nesaṃ aniyyānikabhāvakathanena atthābhāvato’’**ti.

「機織りによって織られたもの」とは、機に張って織られたもの。「結びつける煩悩」とは輪廻に縛りつける煩悩。「このように主張することによって」とは、このように公言することによって、あるいはこのような見解を持つことによって。「出離をもたらす」とは、出離の境地と奇跡を伴う、非難の余地なきものであることからという意味である。「もし出離をもたらすものでないなら」と引き寄せて文脈を構成する。彼らの全知者の公言が真実でないことから、その真実でない状態を語ることによってそのバラモンには何の利益の達成もないとして「彼らが出離をもたらさないことを語っても利益がないことから」と述べた。

318. Nihīnalokāmise līno ajjhāsayo etassa, na pana nibbāneti. Līnajjhāsayo. Sāsanaṃ sithilaṃ katvā gaṇhāti sikkhāya na tibbagāravattā.

318. 卑小な世間の利得に沈滞した志向をこの者は持ち、涅槃には持たない。沈滞した志向を持つ者。学処に対して強い敬意を持たないことから、教えを緩めて受け取る。

323. Heṭṭhāti anantarātītasutte mahāsāropame. Paṭhamajjhānādidhammā vipassanāpādakāti vipassanāya padaṭṭhānabhūtā. Idhāti imasmiṃ cūḷasāropame āgatā. Nirodhapādakāti anāgāmino, arahanto vā nirodhasamāpattiṃ samāpajjituṃ samatthā. Tasmāti nirodhapādakattā. Paṭhamajjhānādidhammā ñāṇadassanato uttaritarāti veditabbā.

323. 「下において」とは、直前の大心材喩経において。「初禅などの法は観の基礎となる」とは、観の近因となる。「ここにおいて」とは、この小心材喩経において説かれた。「滅尽定の基礎となる」とは、不還者や阿羅漢は滅尽定に等至することができる。「それゆえに」とは滅尽定の基礎となることから。初禅などの法は智見よりもさらに勝れたものとして知られるべきである。

Cūḷasāropamasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

小心材喩経注釈の深義解説は完結した。

Niṭṭhitā ca opammavaggavaṇṇanā.

そして譬喩品注釈は完結した。