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4. Mahāyamakavaggo4. 大双品

1. Cūḷagosiṅgasuttavaṇṇanā

1. 小牛角樹林経注釈

325. Ñātīnaṃ (a. ni. ṭī. 3.6.19) nivāsaṭṭhānabhūto gāmo ñātiko, so eva nātiko. So kira gāmo yesaṃ santako, tesaṃ pubbapurisena attano ñātīnaṃ sādhāraṇabhāvena nivesito, tena ‘‘nātiko’’ti paññāyittha. Atha pacchā tattha dvīhi dāyādehi dvidhā vibhajitvā paribhutto. Tenāha **‘‘dvinnaṃ cūḷapitimahāpitiputtānaṃ dve gāmā’’**ti. Giñjakā vuccanti iṭṭhakā, giñjakāhiyeva kato āvasatho giñjakāvasatho. Tasmiṃ kira padese mattikā sakkharamarumbavālikādīhi asammissā akaṭhinā saṇhā sukhumā, tāya katāni kulālabhājanānipi silāmayāni viya daḷhāni, tasmā te upāsakā tāya mattikāya dīghaputhulaiṭṭhakā kāretvā tāhi ṭhapetvā dvārabāhavātapānakavāṭatulāyo sesaṃ sabbaṃ dabbasambhārena vinā iṭṭhakāhi eva pāsādaṃ kāresuṃ. Tenāha **‘‘iṭṭhakāhevā’’**tiādi.

325. 親族(ニャーティ)たちの居住場所となった村がニャーティカであり、それがナーティカです。伝えられるところによれば、その村の所有者である人々の先祖によって、自身の親族たちの共有として創設されたため、「ナーティカ」と知られました。その後、そこにおいて二人の相続人によって二分されて利用されました。それゆえに「叔父と伯父の二人の息子の二つの村」と言われたのです。ギンジャカー(煉瓦)とは、煉瓦のことです。煉瓦によってのみ造られた住処が煉瓦堂(ギンジャカーヴァサタ)です。聞くところによれば、その地方の粘土は小石や砂利や砂などが混ざっておらず、硬くなく、滑らかで微細であり、それで作られた陶器さえも石造りのように堅固でした。それゆえに、それらの優婆塞(信徒)たちはその粘土で長くて幅の広い煉瓦を作らせ、それらを積み上げ、扉の枠、窓、扉、梁を除いて、他のすべてを木材などの建築資材なしに煉瓦だけで高楼を造らせました。それゆえに「煉瓦によってのみ」などと言われたのです。

Gosiṅgasālavanadāyanti gosiṅgasālavananti laddhanāmaṃ rakkhitaṃ araññaṃ. Jeṭṭhakarukkhassāti vanappatibhūtassa sālarukkhassa. Sāmaggirasanti samaggabhāvādiguṇaṃ vivekasukhaṃ. Uparipaṇṇāsake upakkilesasutte (ma. ni. 3.237-238) puthujjanakālo kathito, idha cūḷagosiṅgasutte khīṇāsavakālo kathito. Katakiccāpi hi te mahātherā attano diṭṭhadhammasukhavihāraṃ paresaṃ diṭṭhānugatiṃ āpajjanañca sampassantā paramañca vivekaṃ anubrūhantā sāmaggirasaṃ anubhavamānā tattha viharanti. Tadāti tasmiṃ upakkilesasuttadesanākāle. Teti anuruddhappamukhā kulaputtā. Laddhassādāti vipassanāya vīthipaṭipattiyā adhigatassādā. Vipassanā hi pubbenāparaṃ visesaṃ āvahantī pavattamānā sātisayaṃ pītisomanassaṃ āvahati. Tenāha bhagavā –

牛角沙羅林の園(ゴーシンガサーラヴァナダーヤ)とは、牛角沙羅林という名を得た保護された森林のことです。長老樹の、とは、森林の主となった沙羅樹のことです。和合の味わいとは、和合した状態などの徳である遠離の楽のことです。『後分五十経篇』の「随煩悩経」(中部第128経)においては凡夫の時期が語られ、この「小牛角経」においては漏尽者(阿羅漢)の時期が語られています。なぜなら、為すべきことを為し終えたそれらの大長老たちも、自身の現法楽住と他者の見習うべき模範となることを見据え、至高の遠離を増大させ、和合の味わいを享受しつつそこに住まわれていたからです。その時とは、その随煩悩経の説法の時のことです。彼らとは、アヌルッダを筆頭とする良家の子たちです。歓喜を得たとは、ヴィパッサナー(内観)の道の実践によって歓喜に達したということです。実にヴィパッサナーは、前々から後々へと卓越した境地をもたらしつつ展開し、極めて優れた喜悦と歓喜をもたらすからです。それゆえに世尊は仰せられました――

‘‘Yato yato sammasati, khandhānaṃ udayabbayaṃ;

「いずこより諸蘊の生滅を思惟観察するや否や、

Labhati pītipāmojjaṃ, amataṃ taṃ vijānata’’nti. (dha. pa. 374);

彼は喜悦と歓喜を得る。それを知る者にとって、それは不死(涅槃)である」(法句経374)と。

Laddhapatiṭṭhā maggaphalādhigamanena. Sati hi maggaphalādhigame sāsane patiṭṭhā laddhā nāma hoti, no aññathā.

拠り所を得たとは、道と果の達成によってです。実に、道と果の達成があるときにこそ、教えにおける拠り所を得たと言われるのであり、それ以外の方法ではありません。

Kāmaṃ sāriputtamoggallānāpi mahāsāvakapariyāpannāva, aggasāvakabhāvena pana nesaṃ visesadassanatthaṃ **‘‘dhammasenāpatimahāmoggallānattheresu vā’’**ti visuṃ gahaṇaṃ. Satipi hi sāmaññayoge visesavanto visuṃ gayhanti yathā ‘‘brāhmaṇā āgatā, vāsiṭṭhopi āgato’’ti. Tesu pana visuṃ gahitesupi **‘‘asītimahāsāvakesū’’**ti asītiggahaṇaṃ appakaṃ ūnamadhikaṃ vā gaṇanupagaṃ na hotīti. Antamasoti idaṃ dhammabhaṇḍāgārikassa upaṭṭhākabhāvena āsannacāritāya vuttaṃ. Anīkāti hatthānīkā, hatthānīkato hatthisamūhatoti attho. Kāḷasīho yebhuyyena yūthacaroti katvā vuttaṃ **‘‘yūthā nissaṭo kāḷasīho viyā’’**ti. Kesarī pana ekacarova. Vātacchinno valāhako viyāti vātacchinno pabbatakūṭappamāṇo valāhakacchedo viya. Tesaṃ paggaṇhanatoti yathā nāma jighacchitassa bhojane, pipāsitassa pānīye, sītena phuṭṭhassa uṇhe, uṇhena phuṭṭhassa sīte, dukkhitassa sukhe abhiruci uppajjati, evamevaṃ bhagavato kosambake bhikkhū aññamaññaṃ vivādāpanne disvā apare samaggāvāsaṃ vasante āvajjitassa ime tayo kulaputtā āpāthaṃ āgamiṃsu, atha ne paggaṇhitukāmo upasaṅkami, evāyaṃ paṭipattianukkamena kosambakānaṃ bhikkhūnaṃ vinayanupāyo hotīti. Tenāha ‘‘tesaṃ paggaṇhanato’’ti. Eteneva pacchimajanataṃ anukampanatoti idampi kāraṇaṃ ekadesena saṃvaṇṇitanti daṭṭhabbaṃ. Ukkaṃsitvāti yathābhūtehi guṇehi sampahaṃsanena visesetvā visiṭṭhe katvā pasaṃsāvasena cetaṃ āmeḍitavacanaṃ.

確かに、サーリプッタやモッガッラーナも大弟子に含まれますが、首席弟子の立場として彼らの卓越性を示すために「あるいは法将軍(サーリプッタ)や大モッガッラーナ長老たちにおいて」と別個に取り上げられたのです。実に、一般的な共通性があるとしても、卓越した者たちは「バラモンたちがやって来た。ヴァーシッタもまたやって来た」というように別個に取り上げられるからです。しかし、彼らが別個に取り上げられたとしても、「八十人の大弟子たちにおいて」という八十という数え上げには、僅かな不足や超過は算入されないのです。最後に至るまでとは、法蔵保持者(アーナンダ)が給仕者としての立場から身近に行動していたことによって言われたものです。軍勢(アニーカ)とは象軍のことであり、象軍から、すなわち象の群れからという意味です。黒獅子は多くの場合において群れで行くことから、「群れを離れた黒獅子のように」と言われました。しかし、有鬣の獅子は単独で行くものです。風に裂かれた雲のようにとは、風に裂かれた山頂ほどの大きさの雲の断片のようです。彼らを慈しむことからとは、あたかも飢えた者には食物に、渇いた者には飲み物に、寒さに触れた者には温かさに、暑さに触れた者には涼しさに、苦しむ者には楽に強い愛着が生じるように、まさにそのように、世尊が互いに論争に陥ったコーサンビーの比丘たちを見て、他に和合して住んでいる者たちを思念されたとき、これら三人の良家の子たちが心に浮かび、そこで彼らを慈しもうとして近づかれたのです。このように、この実践の順序によってコーサンビーの比丘たちを調伏する方策となるのです。それゆえに「彼らを慈しむことから」と言われました。これによって、「後の人々を憐憫することから」というこの理由も一部説明されたと見なすべきです。称賛して(ウッカカンシトヴァー)とは、事実に基づいた諸々の徳によって歓喜させることで卓越させ、傑出したものとして讃嘆することによる重ね言葉です。

Taṃ araññaṃ rakkhati vanasāminā āṇatto. Rakkhitagopitaṃ vanasaṇḍaṃ, na mahāvanādi viya apariggahitaṃ. Sīlādippabhedāya attatthāya paṭipannā attakāmā, na apariccattasinehāti āha **‘‘attano hitaṃ kāmayamānā’’**ti. Tenāha **‘‘yo hī’’**tiādi. Bhindeyyāti vināseyya.

その森林を森の所有者から命じられて警備しています。保護され守られた森林区画であり、大森林などのように所有者のいないものではありません。戒などの分類からなる自らの利益のために実践する者を自己を愛する者といい、執着を捨てていない者ではないので、「自らの利益を望む者」と言いました。それゆえに「実に〜する者は」などと言われたのです。害するとは、損なうということです。

Dubbalamanussāti paññāya dubbalā aviddasuno manussā. Tānīti abhijātiādīsu uppannapāṭihāriyāni. Cīvaragabbhena paṭicchādetvāti cīvarasaṅkhāte ovarake nigūhitvā viya. Na hi cīvarapārupanamattena buddhānubhāvo paṭicchanno hoti. ‘‘Mā sudha kocimaṃ buddhānubhāvaṃ aññāsī’’ti pana tathārūpena iddhābhisaṅkhārena taṃ chādetvā gato bhagavā tathā vutto. Tenāha **‘‘aññātakavesena agamāsī’’**ti.

智慧の弱い人々とは、智慧において弱く、知恵のない人々です。それらをとは、誕生などの際に生じた神通の奇跡をです。衣の奥に覆い隠してとは、衣と呼ばれる小部屋の中に隠したかのようであって、単に衣を着けただけで仏の威光が隠されるわけではありません。しかし、「決して誰も私のこの仏の威光を知ることがないように」と、そのような神通の働きによってそれを覆って行かれた世尊について、そのように言われたのです。それゆえに「身元を隠した姿で行かれた」と言われました。

Abhikkamathāti padaṃ abhimukhabhāvena vidhimukhena vadatīti āha **‘‘ito āgacchathā’’**ti. Buddhānaṃ kāyo nāma suvisuddhajātimaṇi viya sobhano, kiñci malaṃ apanetabbaṃ natthi, kimatthaṃ bhagavā pāde pakkhālesīti āha **‘‘buddhāna’’**ntiādi.

進み来なさい(アビッカマタ)という言葉は、向き合うあり方として肯定的な表現で述べているので、「こちらへ来なさい」と言いました。諸仏の御身は極めて清浄な生来の宝玉のように美しく、取り除くべきいかなる汚れもありませんが、なぜ世尊は足を洗われたのかというと、「諸仏の」などと言われたのです。

326. Anuruddhāti vā ekasesanayena vuttaṃ virūpekasesassapi icchitabbattā, evañca katvā bahuvacananiddesopi samatthito hoti. Iriyāpatho khamatīti sarīrassa lahuṭṭhānatāya catubbidhopi iriyāpatho sukhappavattiko. Jīvitaṃ yāpetīti yāpanālakkhaṇaṃ jīvitaṃ imaṃ sarīrayantaṃ yāpeti sukhena pavatteti. Uḷuṅkayāguṃ vā kaṭacchubhikkhaṃ vāti idaṃ makaravuttiyā missakabhattena yāpanaṃ vattanti katvā vuttaṃ. Tenāha **‘‘bhikkhācāravattaṃ pucchatī’’**ti.

326. アヌルッダたちよ、とは、単数形による総称(一残存法)によって言われたのであり、異形態の一残存も意図されているため、このようにして複数形の表現も成立するのです。威儀が耐えうるかとは、身体の身軽さによって四種の威儀がいずれも心地よく営まれていることです。命を保っているかとは、存続を特徴とする命がこの身体という仕掛けを維持し、安楽に存続させていることです。一柄の杓の粥や、一杓の施食かとは、この雑食によって命を保つことを規律として言われたものです。それゆえに「托鉢の行儀について尋ねられている」と言われました。

Aññamaññaṃ saṃsandatīti satipi ubhayesaṃ kalāpānaṃ paramatthato bhede pacurajanehi duviññeyyanānattaṃ khīrodakasammoditaṃ accantameva saṃsaṭṭhaṃ viya hutvā tiṭṭhati. Tenāha **‘‘visuṃ na hoti, ekattaṃ viya upetī’’**ti. Piyabhāvadīpanāni cakkhūni piyacakkhūni. Piyāyati, piyāyitabboti vā piyoti. Samaggavāsassa yaṃ ekantakāraṇaṃ, taṃ pucchanto bhagavā **‘‘yathā kathaṃ panā’’**tiādimāhāti **‘‘kathanti kāraṇapucchā’’**ti vuttaṃ. Yo nesaṃ mettāsahitānaṃyeva kammādīnaṃ aññamaññasmiṃ paccupaṭṭhānākāro, taṃ sandhāya **‘‘katha’’**nti pucchā. Tathā hi parato ‘‘evaṃ kho mayaṃ, bhante’’tiādinā therehi vissajjanaṃ kathitaṃ.

互いに融和しているとは、両者の要素(蘊の集まり)には勝義(究極的実在)としては区別があるとしても、多くの人々には識別し難い差異として、乳と水が溶け合うように、全く混ざり合っているかのようになって存在していることです。それゆえに「別々ではなく、一つのようになっている」と言われました。慈愛の念を示す眼差しが愛眼です。愛する、あるいは愛されるべきであるから愛しい(ピヤ)です。和合して住むことの唯一の根本原因を尋ねられつつ、世尊は「しかし、どのようにして」などと仰せられたので、「どのようにしてとは、原因を尋ねる問いである」と言われました。彼らの慈愛を伴う行為などが互いに対して現れる様相、それを指して「どのようにして」という問いがあるのです。実にそれゆえに、後において「実にこのように、私たちは、主よ」などと長老たちによって回答が語られているのです。

Mittaṃ etassa atthīti mettaṃ, kāyakammaṃ. Āvīti pakāsaṃ. Rahoti appakāsaṃ. Yañhi uddissa mettaṃ kāyakammaṃ paccupaṭṭhapeti, taṃ tassa sammukhā ce, pakāsaṃ hoti, parammukhā ce, appakāsaṃ. Tenāha **‘‘āvi ceva raho cāti sammukhā ceva parammukhā cā’’**ti. Itarānīti parammukhā kāyavacīkammāni. **‘‘Tatthā’’**tiādinā saṅkhepato vuttamatthaṃ vivarituṃ **‘‘yaṃ hī’’**tiādi vuttaṃ. Sammajjanādivasena paṭijaggitabbayuttaṃ ṭhānaṃ vā. Tathevāti yathā sammukhā kate mettākāyakamme vuttaṃ, tatheva. ‘‘Kacci khamanīya’’nti evamādikā kathā sammodanīyakathā. Yathā parehi saddhiṃ attano chiddaṃ na hoti, tathā paṭisanthāravasena pavattā kathā paṭisanthārakathā. ‘‘Aho tadā therena mayhaṃ dinno ovādo, dinnā anusāsanī’’ti evaṃ kālantare saritabbayuttā, chasāraṇīyapaṭisaṃyuttā vā kathā sāraṇīyakathā. Suttapadaṃ nikkhipitvā tassa atthaniddesavasena sīlādidhammapaṭisaṃyuttā kathā dhammīkathā. Sarena suttassa uccāraṇaṃ sarabhaññaṃ. Pañhassa ñātuṃ icchitassa atthassa pucchanaṃ pañhapucchanaṃ. Tassa yathāpucchitassaādisanaṃ pañhavissajjanaṃ. Evaṃ samannāharatoti evaṃ manasikaroto, evaṃ mettaṃ upasaṃharatoti attho.

これに友愛(ミッタ)があるから慈(メッタ)であり、身業のことです。公然ととは、顕わにです。陰でとは、人知れずです。実に、それを対象として慈の身業を現前させるとき、それが彼の面前であれば顕わであり、彼の背後であれば人知れずです。それゆえに「公然と、また陰でとは、面前でもあり背後でもある」と言われました。それ以外のものとは、背後における身業と口業です。「そこにおいて」などによって要約して述べられた意味を解明するために、「実に〜」などと言われました。あるいは、掃き掃除などによって手入れされるべき適切な場所のことです。そのようにとは、面前でなされた慈の身業について語られたように、まさにそのようにです。「耐えうるか」というような言葉のやり取りが歓喜させる語らいです。他者と自分の間に隙間(不和)が生じないように、親睦の挨拶としてなされた語らいが交歓の語らいです。「ああ、あの時、長老によって私に教誡が与えられた、訓戒が与えられた」と後になって想起されるべき適切な、あるいは六種の憶念すべき法に関連した語らいが憶念の語らいです。経の句を提示して、その意味の解説によって戒などの法に関連した語らいが法話です。美声による経の朗誦が声誦です。知りたいと望む意味を尋ねることが質問です。その尋ねられた通りに指し示すことが回答です。このように留意する者にとは、このように作意し、このように慈しみを注ぐ者に、という意味です。

Ekato kātuṃ na sakkā, tasmā nānā. Hitaṭṭhenāti attano viya aññamaññassa hitabhāvena. Nirantaraṭṭhenāti antarābhāvena bhedābhāvena. Aviggahaṭṭhenāti avirodhabhāvena. Samaggaṭṭhenāti sahitabhāvena. Paribhaṇḍaṃ katvāti bahalatanumattikālepehi limpetvā. Cīvaraṃ vā dhovantīti attano cīvaraṃ vā dhovanti. Paribhaṇḍaṃ vāti attano paṇṇasālāya paribhaṇḍaṃ vā karonti.

一緒に行うことはできないため、別々です。利益という意味においてとは、自身のためであるように互いの利益となる状態によってです。間断なき意味においてとは、隙間がないことによって、分裂がないことによってです。争いのない意味においてとは、対立がない状態によってです。和合の意味においてとは、結びついている状態によってです。塗り固めてとは、厚く薄く粘土を塗布してです。衣を洗うとは、自身の衣を洗うことです。あるいは塗り固めるとは、自身の草庵の床や壁を塗り固めることです。

327. Paṭiviruddhā evāti etthāpi ‘‘yebhuyyenā’’ti padaṃ ānetvā sambandhitabbaṃ. Tesaṃ appamādalakkhaṇanti tesaṃ appamajjanasabhāvaṃ. Kacci pana vo anuruddhā samaggāti etthāpi voti nipātamattaṃ, paccattavacanaṃ vā, kacci tumheti evamattho veditabbo. Samuggapātinti samuggapuṭasadisaṃ pātiṃ.

327. 対立している(パティヴィルッダー)とは、ここでも「多くの場合」という語を補って結びつけるべきです。彼らの不放逸の特徴とは、彼らの怠らない性質のことです。「アヌルッダたちよ、あなたがたは和合しているか」における「ヴォー」も単なる不変化詞であり、あるいは主格の語であり、「あなたがたは〜か」というようにその意味を理解すべきです。小箱のような鉢とは、蓋付きの小箱に似た鉢のことです。

Paṇṇasālāyaṃ anto bahi ca sammajjanena sodhitaṅgaṇatā vattapaṭipatti. Paṭivisamattamevāti attano yāpanapaṭivisamattameva. Osāpetvāti pakkhipitvā. Pamāṇamevāti attano yāpanapamāṇameva. Vuttanayena jahitvāti pāḷiyaṃ vuttanayena jahitvā.

草庵の内部と外部を掃き掃除によって清められた庭とすることが義務の実践です。自身の分量だけをとは、自身の命を維持する分量だけをです。投げ入れてとは、投入してです。量だけをとは、自身の維持に適した量だけをです。説かれた方法によって捨ててとは、パーリ(経文)に説かれた方法によって捨ててです。

Hatthena hatthaṃ saṃsibbantāti attano hatthena itarassa hatthaṃ daḷhaggahaṇavasena bandhantā. Vilaṅgheti desantaraṃ pāpeti etenāti vilaṅghako, hattho. Hattho eva vilaṅghako hatthavilaṅghako, tena hatthavilaṅghakena.

手と手を結び合わせてとは、自分の手で他方の手を固く握ることによって繋ぎ合わせてです。これによって越えさせる、別の場所へと運ぶから越えさせるもの(ヴィランガカ)であり、手のことです。手こそが越えさせるものであるから手の合図(ハッタヴィランガカ)であり、その手の合図によってです。

Taṃ akhaṇḍaṃ katvāti taṃ tīsupi divasesu dhammassavanaṃ pavattanavasena akhaṇḍikaṃ katvā. Etanti ‘‘pañcāhikaṃ kho panā’’tiādivacanaṃ. Pañcame pañcame ahani bhavatīti pañcāhikaṃ. Bhagavatā pucchitena anuruddhattherena. Pamādaṭṭhānesuyevāti aññesaṃ pamādaṭṭhānesuyeva. **‘‘Pamādaṭṭhānesuyevā’’**ti vuttamevatthaṃ pākaṭataraṃ kātuṃ **‘‘aññesañhī’’**tiādi vuttaṃ. Papañcakaraṇaṭṭhānānīti kathāpapañcassa karaṇaṭṭhānāni vissaṭṭhakathāpavattanena kammaṭṭhāne pamajjanaṭṭhānāni. Tatthāpi ‘‘mayaṃ, bhante, kammaṭṭhānaviruddhaṃ na paṭipajjāmā’’ti sikhāppattaṃ attano appamādalakkhaṇaṃ thero dasseti. Ettakaṃ ṭhānaṃ muñcitvāti pana idaṃ tadā vihārasamāpattīnaṃ vaḷañjābhāvena vuttaṃ.

それを途切れなくしてとは、その三日間を通じた聴聞を継続させることによって、中断することなくしてです。それとは、「実に五日ごとに」などの言葉です。五日ごとに生じるので五日ごとのものです。世尊に尋ねられたアヌルッダ長老によってです。怠惰の場においてのみとは、他者にとってはまさに怠惰の場においてです。「怠惰の場においてのみ」と述べられたまさにその意味をより明らかにするために、「実に他者にとっては」などと言われました。戯論(言葉の無駄話)をなす場所とは、雑談をなす場所、放縦な語らいを行うことによって瞑想主題(業処)において怠惰になる場所のことです。そこにおいても「主よ、私たちは瞑想主題に反することは実践いたしません」と、頂点に達した自身の不放逸の特徴を長老は示しています。これほどの時間を除いてとは、その時の定住の安楽の境地の受用のなさによって言われたものです。

328. Jhānassa adhippetattā **‘‘alamariyañāṇadassanaviseso’’**icceva vuttaṃ. Attano sammāpaṭipannatāya satthu cittārādhanatthaṃ tassa ca visesādhigamassa satthu paccakkhabhāvato thero **‘‘kiñhi no siyā, bhante’’**ti āha. Yāvadevāti yattakaṃ kālaṃ ekaṃ divasabhāgaṃ vā sakalarattiṃ vā yāva satta vā divase.

328. 禅定が意図されているため、「聖なる知見の卓越した境地(過人法)」とまさに言われました。自身の正しい実践によって師の御心を喜ばせるため、またその卓越した境地の達成が師にとって明白な事実であることから、長老は「主よ、どうして私たちにないことがありましょうか」と言ったのです。どれほどかの間とは、一日のある時間、あるいは夜の全体、あるいは七日間までのどれほどかの時間のことです。

329. Samatikkamāyāti sammadeva atikkamanāya. Sati hi upari visesādhigame heṭṭhimajjhānaṃ samatikkantaṃ nāma hoti paṭippassaddhi ca. Tenāha **‘‘paṭippassaddhiyā’’**ti. Ñāṇadassanavisesoti kāraṇūpacārena vuttoti veditabbo. Vedayitasukhatoti vedanāsahitajjhānasukhato vā phalasukhato vā. Avedayitasukhanti nibbānasukhaṃ viya vedanārahitaṃ sukhaṃ. Avedayitasukhanti ca nidassanamattametaṃ, taṃ pana aphassaṃ asaññaṃ acetananti sabbacittacetasikarahitameva. Tato ca satipi rūpadhammappavattiyaṃ tassa acetanattā sabbaso saṅkhāradukkhavirahitatāya santatarā paṇītatarā ca nirodhasamāpattīti vuccate. Tenāha **‘‘avedayitasukhaṃ santataraṃ paṇītataraṃ hotī’’**ti. Tena vuttaṃ ‘‘imamhā cā’’tiādi.

329. 超克のためにとは、正しく超克するためにです。実に、上位の卓越した境地の達成があるとき、下位の禅定は超克されたと言われ、静止(止滅)されます。それゆえに「止滅のために」と言われました。知見の卓越とは、原因の比喩的表現によって言われたものと理解すべきです。受(感覚)を伴う楽からとは、受を伴う禅定の楽から、あるいは果の楽からです。受を伴わない楽とは、涅槃の楽のように受を離れた楽のことです。また受を伴わない楽とは、単なる例示であり、それは触がなく、想がなく、思がない、すべての心・心所を離れたものに他なりません。それゆえ、色法(物質)の展開があるとしても、それは思(意志)がないため、一切の行苦(形成された苦)を離れていることから、滅尽定はより静寂であり、より勝れていると言われるのです。それゆえに「受を伴わない楽は、より静寂であり、より勝れている」と言われました。それゆえに「これよりもまた」などと言われたのです。

330. Sāmaggirasānisaṃsameva nesaṃ bhagavā kathesi ajjhāsayānukūlattā tassa. Anusāvetvāti anupagamanavasena sammadeva ārocetvā. ‘‘Anusaṃsāvetvā’’ti vā pāṭho, so evattho. Tato paṭinivattitvāti etarahi bhagavato ekavihāre ajjhāsayoti satthu manaṃ gaṇhantā ‘‘idheva tiṭṭhathā’’ti vissajjitaṭṭhānato nivattitvā. Pabbajjādīnīti ādi-saddena upasampadā-visuddhi-dhutakammaṭṭhānānuyoga-jhānavimokkha-samāpatti-ñāṇadassana-maggabhāvanā-phalasacchikiriyādike saṅgaṇhāti. Adhigantvāpīti pi-saddena yathādhigatānampi. Attano guṇakathāya aṭṭiyamānāti bhagavantaṃ nissāya adhigantvāpi dhammādhikaraṇaṃ satthuvihesābhāvadīpane bhagavato pākaṭaguṇānaṃ kathāya aṭṭiyamānāpīti yojanā. Devatāti taṃtaṃsamāpattilābhiniyo devatā. Mukhaṃ me sajjanti mukhaṃ me kathane samatthaṃ, kathane yogyanti attho.

330. 和合の味わいの功徳のみを、彼らに世尊は語られました。それが彼らの意向にかなっていたからです。告知してとは、順次赴くことによって正しく知らせてです。「広く知らせて」という読みもあり、意味は同じです。そこから引き返してとは、「今、世尊は独座を望んでおられる」と師の御心を汲み取り、「ここに留まりなさい」と立ち去ることを許された場所から引き返してです。出家などとは、「など」という語によって受具、清浄、頭陀行の瞑想の実践、禅定、解脱、等至、知見、道の修習、果の現証などを総括します。達成してもなおとは、「なお(ピ)」という語によって、達成された境地についても同様であることを示します。自らの徳が語られることを恥じらいつつとは、世尊に依拠して達成したとしても、法を巡る事柄において師への煩わしさがないことを示す中で、世尊の顕著な徳が語られることを恥じらいつつも、と結びつきます。天女たちとは、それぞれの等至(禅定)を得ている天女たちです。私の口は適しているとは、私の口は語る能力がある、語るのに相応しい、という意味です。

331. Evaṃ āgatoti evaṃ āṭānāṭiyasutte āgato. Paliveṭhenteti codente. Maccharāyantīti attano guṇānaṃ bhagavatopi ārocanaṃ asahamānā maccharāyantīti so cintetīti katvā vuttaṃ.

331. このように現れたとは、このように『アーターンナータ経』に現れたということです。責め立てるときにとは、叱責するときにです。惜しんでいるとは、自身の徳を世尊に知らせることさえも耐えられずに惜しんでいるのだと彼(夜叉)が考えている、として言われたものです。

01\ Tesaṃ lābhāti tesaṃ vajjirājūnaṃ vajjiraṭṭhavāsīnañca manussattaṃ, patirūpadesavāsādiko, bhagavato tiṇṇañca kulaputtānaṃ dassanavandanadānadhammassavanādayo lābhā. Suladdhā lābhāti yojanā. Pasannacittaṃ anussareyyāti taṃ kulañhetaṃ sīlādiguṇe cittaṃ pasādetvā anussareyya. Vuttaṃ tesaṃ ‘‘anussaraṇampāhaṃ, bhikkhave, tesaṃ bhikkhūnaṃ bahūpakāraṃ vadāmī’’ti (itivu. 104; saṃ. ni. 5.184).

01\ 彼らの利得とは、それらのヴァッジの王たちやヴァッジ国の住民たちの人間としての生、適した国土への居住など、世尊と三人の良家の子たちへの拝謁、礼拝、布施、聴聞などの利得のことです。得難き利得を得た、と結びつきます。清らかな心で念じるであろうとは、その一族は戒などの徳に対して心を清浄にして念じるであろうということです。彼らについて、「比丘たちよ、私はそれらの比丘たちを念じることさえも、大いなる恩恵であると説く」(如是語経104、相応部5.184)と説かれています。

Cūḷagosiṅgasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

小牛角経の注釈の深層義の解明は完結した。

2. Mahāgosiṅgasuttavaṇṇanā

2. 大牛角経の注釈

332. Kocidevāti gosiṅgasālavanasāmantato niviṭṭhesu yo koci gāmo gocaragāmo bhavissati, tasmā anibaddhabhāvato gocaragāmo na gahito, vasanaṭṭhānameva paridīpitaṃ, tato eva araññanidānakaṃ nāmetaṃ. Sabbatthāti devaloke manussaloke ca. Thirakārakehīti sāsane thirabhāvakārakehi. Savanante jātattāti catusaccagabbhassa dhammassavanassa pariyosāne ariyāya jātiyā jātattā. Yathā paṭivedhabāhusaccaṃ ijjhati, tathā dhammassa savanato sāvakā. Sūriyo viya bhāsuraguṇaraṃsitāya mohandhakāravidhamanato. Cando viya ramaṇīyamanoharasītalaguṇatāya kilesapariḷāhavūpasamato. Sāgaro viya gambhīrathiravipulānekaguṇatāya ṭhitadhammasabhāvato. Guṇamahantatāya therassa abhiññātatā, guṇamahantatā ca suttesu āgatanayeneva ñātabbāti taṃ vitthārato dassetuṃ **‘‘na kevala’’**ntiādi vuttaṃ. Sīhanādasuttanti majjhimanikāye āgataṃ mahāsīhanādasuttaṃ (ma. ni. 1.146). Therapañhasuttanti suttanipāte aṭṭhakavagge āgataṃ sāriputtasuttaṃ (su. ni. 961-981). Therasīhanādasuttanti imassa ca therassa janapadacārikāya satthu sammukhā sīhanādasuttaṃ. Abhinikkhamananti therasseva mahatā ñātiparivaṭṭena mahatā ca bhogaparivaṭṭena saha gharāvāsapariccāgo abhinikkhamanaṃ. Esa nayo ito paresupi. Yadidanti nipāto, yo ayanti attho.

332. いずれかのとは、牛角沙羅林の周辺に位置するいずれかの村が行くべき村(托鉢の村)となるであろうから、定まっていないことによって托鉢の村は取り上げられず、居住の場所のみが示されており、それゆえに森林を発端とするものという名を持つのです。至る所においてとは、天界においても人間界においてもです。教えを堅固にする者たちによってとは、教えにおいて堅固な状態をもたらす者たちによってです。聴聞の末に生まれたことからとは、四聖諦を胎内に宿す法の聴聞の終了時に、聖なる生によって生まれたことからです。通達と多聞が成就するように法を聴聞することから、弟子(サーヴァカ)と呼ばれます。太陽のように輝かしい徳の光線によって迷妄の暗黒を払いのけることから。月のように喜ばしく愛らしく涼やかな徳によって煩悩の熱苦を鎮めることから。大海のように深遠で堅固で広大な数々の徳によって確固たる法の本性を持つことから。徳の偉大さによって長老が著名であること、そして徳の偉大さは諸経に説かれた方法によって知られるべきであることを詳細に示すために、「単に〜だけでなく」などと言われました。「師子吼経」とは、『中部』に説かれた「大師子吼経」(中部第12経)のことです。「長老問経」とは、『経集』の「義品」に説かれた「サーリプッタ経」(経集961-981)のことです。「長老師子吼経」とは、この長老が地方の遊行において師の御前で行った師子吼の経のことです。出家とは、長老自身の広大な親族の輪と広大な財産の輪を伴う在家生活の放棄が出家です。この方法はこれ以降のものについても同様です。「すなわち(ヤディダン)」とは不変化詞であり、「これである」という意味です。

Mahāpaññe bhikkhū gahetvāti āyasmato kira sāriputtattherassa parivārabhikkhūpi mahāpaññā eva ahesuṃ. Dhātuso hi sattā saṃsandanti. Sayaṃ iddhimātiādīsupi eseva nayo. Ayaṃ panattho dhātusaṃyuttena (saṃ. ni. 2.99) dīpetabbo – gijjhakūṭapabbate gilānaseyyāya nisinno bhagavā ārakkhatthāya parivāretvā vasantesu sāriputtamoggallānādīsu ekamekaṃ attano parisāya saddhiṃ caṅkamantaṃ voloketvā bhikkhū āmantesi – ‘‘passatha no tumhe, bhikkhave, sāriputtaṃ sambahulehi bhikkhūhi saddhiṃ caṅkamantanti. Evaṃ, bhante. Sabbe kho ete, bhikkhave, bhikkhū mahāpaññā’’ti sabbaṃ vitthāretabbaṃ.

大いなる智慧ある比丘たちを伴ってとは、尊者サーリプッタ長老の追従の比丘たちもまた、まさに大いなる智慧ある者たちであったということです。実に衆生は界(性質・素質)によって互いに親しみ合うからです。自身が神通力を有し、などの点においてもこの方法が適用されます。しかしこの意味は『界相応』(相応部2.99)によって解明されるべきです――霊鷲山において病床に臥されていた世尊は、警護のために周囲を取り囲んで住んでいたサーリプッタやモッガッラーナたちの中で、それぞれが自身の会衆とともに経行しているのを見渡し、比丘たちに呼びかけられました。「比丘たちよ、お前たちはサーリプッタが多くの比丘たちとともに経行しているのを見るか」「はい、世尊」「比丘たちよ、これらすべての比丘たちは大いなる智慧ある者たちである」と、すべて詳細に語られるべきです。

Vananteti upavanante. Meghavaṇṇāyāti nīlābhāya. Samuddakucchito uggacchantassa viya upaṭṭhānaṃ sandhāya vuttaṃ. Cakkavāḷapabbatamatthakasamīpe ābhāpharaṇavasena pavattiyā **‘‘pācīnacakkavāḷapabbatamatthake’’**ti vuttaṃ, na cakkavāḷapabbatamatthake candamaṇḍalassa vicaraṇato. Tathā sati lokantarikanirayesupi candimasūriyānaṃ ābhā phareyya. Ubbedhavasena hi cakkavāḷapabbatassa vemajjhato candimasūriyā vicaranti. Sālakusumapabhānaṃ atirattatāya vuttaṃ **‘‘lākhārasena siñcamānaṃ viyā’’**ti. Upagāyamānā viyāti payirupāsanavasena upecca gāyamānā viya. Kāya nu kho ajja ratiyāti ajja jhānasamāpattiratiyā eva nu kho, udāhu dhammasākacchāratiyā dhammadesanāratiyāti cintesi.

林の奥にとは、林園の奥にです。雲の色のとは、青みがかった輝きのことです。海の奥底から昇ってくるかのような出現を指して言われました。鉄囲山(輪廻の果ての山)の頂の近くに光を放ちつつ展開することから、「東の鉄囲山の頂に」と言われたのであり、鉄囲山の頂を月輪が巡行するからではありません。もしそうであるならば、世界の狭間の地獄においても日月からの光が照らすはずです。高さに関して言えば、鉄囲山の中央を日月は運行するからです。沙羅の花の輝きが極めて赤いことから、「ラック液(深紅の染料)を注ぎかけているかのように」と言われました。歌い寄るかのようにとは、親しく仕えることによって近づいて歌うかのようです。「今日はいかなる歓楽によってか」とは、今日は禅定や等至の歓楽によるのか、それとも法についての議論の歓楽、法の説示の歓楽によるのか、と思索したのです。

Dve candamaṇḍalāni viya paramasobhaggappattāya kantiyā. Dve sūriyamaṇḍalāni viya ativiya suvisuddhasamujjalāya guṇavibhūtiyā. Dve chaddantanāgarājāno viya mahānubhāvatāya. Dve sīhā viya tejussadatāya. Dve byagghā viya anolīnavuttitāya. Sabbapāliphullamevāti sabbameva samantato vikasitaṃ.

二つの月輪のようにとは、至高の美に達した輝きによってです。二つの太陽のようにとは、極めて清浄で輝かしい徳の威光によってです。二頭の六牙の象王のようにとは、大いなる威光によってです。二頭の獅子のようにとは、威勢の豊かさによってです。二頭の虎のようにとは、ひるむことのない振る舞いによってです。全開のとは、すべての花が四方に咲き誇っていることです。

333. Kathā upacarati pavattati etthāti kathāupacāro, savanūpacāro padeso, taṃ kathāupacāraṃ. Ramaṇīyameva rāmaṇeyyakaṃ. Ujjaṅgaleti lūkhapadese kaṭhinapadese. Dosehi itā apagatāti dosinā ta-kārassa na-kāraṃ katvā. Dibbā maññe gandhāti devaloke gandhā viya. Divi bhavāti dibbā. Dve therāti sāriputtattheraānandattherā. Ānandatthero tāva mamāyatu akhīṇāsavabhāvato, sāriputtatthero kathanti? Na idaṃ mamāyanaṃ gehassitapemavasena, atha kho guṇabhattivasenāti nāyaṃ doso.

333. そこで語らいが展開し、生じるから語らいの場(カターウパチャーラ)であり、聴聞に適した場所のことです。その語らいの場へ。美しいことこそが美しさ(ラーマネッヤカ)です。荒地においてとは、乾燥した場所、硬い場所においてです。欠点から離れ去ったものが「月夜の(ドシナ)」であり、タ行の音をナ行の音に変えたものです。天上の香りのようにとは、天界の香りのようです。天にあるから天上の(ディッバ)です。二人の長老とは、サーリプッタ長老とアーナンダ長老のことです。アーナンダ長老はまだ漏尽者でないことから自分自身のこととして捉えるとしても、サーリプッタ長老はどうしてなのか。この自分自身のこととすることは、在家の執着の愛によるのではなく、徳に対する信愛によるのであるから、この欠点はありません。

Anumatiyā pucchā anumatipucchā, anumatiggahaṇatthaṃ pucchanaṃ. Tattha yasmā adhammikampi vuddhassa anumatiṃ itaro paṭikkhipituṃ na labhati, tena sā anujānitabbāva hoti, tasmā saṅghakhuddakato paṭṭhāya anumati pucchitabbā. Tenāha **‘‘anumatipucchā nāmesā’’**tiādi. Khuddakato paṭṭhāyāti kaṇiṭṭhato paṭṭhāya. Paṭibhāti upaṭṭhātīti paṭibhānaṃ, yathādhippeto attho, taṃ paṭibhānaṃ. Sikhāppattā vepullappattā na bhavissati padesañāṇe ṭhitehi bhāsitattā. Sikhāppattā vepullappattā bhavissati sabbaññutaññāṇena saṃsanditattā. Vuttamevatthaṃ upamāya vibhāvetuṃ **‘‘yathā hī’’**tiādi vuttaṃ. Tattha paccatthikā aṭṭiyanti dukkhāyanti etenāti aṭṭo, vinicchitabbavohāro. Gāmabhojakanti yasmiṃ gāme so uppanno, taṃ gāmabhojakaṃ. Janapadabhojakanti yasmiṃ janapade so uppanno, taṃ janapadabhojakaṃ. Mahāvinicchayaamaccanti yasmiṃ rajje so janapado, tassa rājadhāniyaṃ mahāvinicchayaamaccaṃ. Senāpatinti yassa rañño so amacco, tassa senāpatiṃ. Tathā uparājanti. Idaṃ panettha pakaticārittavasena vuttaṃ upameyyatthānurūpatoti daṭṭhabbaṃ. Aparāparaṃ na sañcarati vinicchayanārahena vinicchitabhāvato.

同意のための問いが同意の問いであり、同意を得るための質問のことです。そこにおいて、不当なものであっても年長者の同意を他方が拒むことはできないため、それは承認されねばならないものであり、それゆえに僧伽の年少者から始めて同意を尋ねるべきです。それゆえに「同意の問いとはこのようなものである」などと言われました。年少者から始めてとは、最も年下の者から始めてです。現れるから辨才(パティバーナ)であり、意図された通りの意味、その辨才のことです。部分的な智慧に留まる者たちによって語られたものは頂点に達し、広大さに達したものとはならないでしょう。一切知智と合致することによって頂点に達し、広大さに達したものとなるでしょう。述べられたまさにその意味を比喩によって明らかにするために、「あたかも〜」などと言われました。そこにおいて、訴訟当事者たちがこれによって苦しみ悩むから訴訟(アッタ)であり、裁定されるべき事件のことです。村長とは、その事件が発生した村の村長のことです。地方長官とは、それが発生した地方の地方長官のことです。大裁判官とは、その地方が属する王国の首都における大裁判官のことです。将軍とは、その裁判官が仕える王の将軍のことです。同様に副王のことです。しかしこれは通常の慣例に基づいて、比喩とされる意味に相応しいものとして言われたと見なすべきです。裁定に適した者によって裁定された状態であるため、あちこちを行き交うことはありません。

Pakaṭṭhānaṃ (a. ni. ṭī. 2.4.22) ukkaṭṭhānaṃ sīlādiatthānaṃ bodhanato, sabhāvaniruttivasena buddhādīhi bhāsitattā ca pakaṭṭhānaṃ vacanappabandhānaṃ āḷīti pāḷi, pariyattidhammo. Purimassa atthassa pacchimena atthena anusandhānaṃ anusandhi. Atthamukhena pana pāḷipadesānampi anusandhi hotiyeva, so ca pubbāparānusandhi-pucchānusandhi-ajjhāsayānusandhi-yathānusandhivasena catubbidho. Taṃtaṃdesanānaṃ pana pubbāparasaṃsandanaṃ pubbāparaṃ. Pāḷivasena anusandhivasena pubbāparavasenāti paccekaṃ yojetabbaṃ. Uggahitanti byañjanaso atthaso ca uddhaṃ uddhaṃ gahitaṃ, pariyāpuṇanavasena ceva paripucchāvasena ca hadayena gahitanti attho. Vaṭṭadukkhanissaraṇatthikehi sotabbato sutaṃ, pariyattidhammo, taṃ dhāretīti sutadharo. Yo hi sutadharo, sutaṃ tasmiṃ patiṭṭhitaṃ hoti suppatiṭṭhitaṃ, tasmā vuttaṃ **‘‘sutassa ādhārabhūto’’**ti. Tenāha **‘‘yassa hī’’**tiādi. Ekapadaṃ ekakkharampi avinaṭṭhaṃ hutvā sannicīyatīti sannicayo, sutaṃ sannicayo etasminti sutasannicayo. Ajjhosāyāti anupavisitvā. Tiṭṭhatīti na mussati.

優れた、崇高な戒などの意味を教示することから、また本性の表現(自性言語)によって諸仏らによって語られたことから、優れた言葉の連なりの境界(堤)がパーリであり、教説の法のことです。前の意味と後の意味との連結が結節(相応・アヌサンディ)です。意味の観点からすればパーリの諸句にも結節は存在するのであり、それは前後結節、問いの結節、意向の結節、適合の結節という四種があります。それぞれの説法の前後の一致が前後関係です。パーリの観点から、結節の観点から、前後関係の観点から、とそれぞれに結びつけるべきです。把持されたとは、文字通りにも意味の上でも順次高く受け取られ、暗誦することによっても、質問することによっても心に受け取られたという意味です。輪廻の苦からの脱出を望む者たちによって聞かれるべきものであるから「聞かれたもの(スタ)」であり、教説の法のことです。それを保持するから聞法保持者です。実に聞法保持者である者には、聞かれたものがそこに確立し、堅固に確立しているため、「聞かれたものの基盤となった者」と言われました。それゆえに「実に彼には」などと言われました。一語や一文字さえも損なわれることなく蓄積されるから蓄積(サンニチャヤ)であり、聞かれたものの蓄積が彼にあるので聞法蓄積者です。沈潜してとは、入り込んでです。留まるとは、忘失しないことです。

Ṭhitā paguṇāti paguṇā vācuggatā. Niccalitanti aparivattitaṃ. Saṃsanditvāti aññehi saṃsanditvā. Samanuggāhitvāti paripucchāvasena atthaṃ ogāhetvā. Pabandhassa vibandhābhāvato gaṅgāsotasadisaṃ, ‘‘bhavaṅgasotasadisa’’nti vā pāṭho, akittimaṃ sukhappavattīti attho. Suttekadesassa suttassa ca vacasā paricayo idha nādhippeto, vaggādivasena pana adhippetoti āha **‘‘suttadasaka…pe… sajjhāyitā’’**ti, ‘‘dasa suttāni gatāni, dasa vaggāgatā’’tiādinā sallakkhetvā vācāya sajjhāyitāti attho. Manasā anu anu pekkhitā bhāgaso nijjhāyitā cintitā manasānupekkhitā. Rūpagataṃ viya paññāyatīti rūpagataṃ viya cakkhussa vibhūtaṃ hutvā paññāyati. Suppaṭividdhāti nijjaṭaṃ niggumbaṃ katvā suṭṭhu yāthāvato paṭividdhā.

確立して熟達したとは、熟達して口誦されたことです。揺るぎないとは、変転しないことです。照合してとは、他のものと照合してです。深く探究してとは、質問によって意味に沈潜してです。連続性に障害がないことからガンジス川の流れのような、あるいは「有分流のような」という読みもあり、作為的でなく心地よく展開するという意味です。経典の一部分や単一の経の口頭での習得はこの場合意図されておらず、品などの区分によって意図されているので、「十の経…略…読誦された」と言い、「十の経を終えた、十の品を終えた」などと識別して口頭で読誦されたという意味です。心でつぶさに観察されたとは、部分ごとに思索され、思惟されたことが、心で観察されたということです。色形を持つかのように明らかになるとは、色形を持つもののように眼に明白となって知られることです。よく通達されたとは、もつれを解き、密林を開くように、実に見事にありのままに通達されたということです。

Pajjati attho ñāyati etenāti padaṃ, tadeva atthaṃ byañjetīti byañjananti āha **‘‘padameva atthassa byañjanato padabyañjana’’**nti. Akkharapāripūriyā padabyañjanassa parimaṇḍalatā, sā pana pāripūrī evaṃ veditabbāti āha **‘‘dasavidhabyañjanabuddhiyo aparihāpetvā’’**ti. Aññaṃ upārambhakaranti yathānikkhittasuttato aññaṃ tassa ananulomakaṃ suttaṃ āharati. Tadatthaṃ otāretīti tassa āhaṭasuttasseva atthaṃ vicāreti. Tassa kathā aparimaṇḍalā nāma hoti atthassa aparipuṇṇabhāvato. Yathānikkhittassa suttassa atthasaṃvaṇṇanāvaseneva suttantarampi ānento bahi ekapadampi na gacchati nāma. Amakkhentoti avināsento. Taṃ taṃ atthaṃ suṭṭhu vavatthitaṃ katvā dassento tulikāya paricchindanto viya. Gambhīrataramatthaṃ gamento gambhīramātikāya udakaṃ pesento viya. Uttānamātikāya hi mariyādaṃ ottharitvā udakaṃ aññathā gaccheyya. Ekaṃyeva padaṃ anekehi pariyāyehi punappunaṃ saṃvaṇṇento padaṃ koṭṭento sindhavājānīyo viya. So hi vaggitāya gatiyā pade padaṃ koṭṭento gacchati. Kathāmaggena tassa kathā parimaṇḍalā nāma hoti dhammato atthato anusandhito pubbāparato ācariyuggahatoti sabbaso paripuṇṇabhāvato.

これによって意味が赴かれ、知られるから「句(パダ)」であり、それ自体が意味を表現するから「表現(ビャンジャナ)」であることから、「句こそが意味の表現であるから句文(パダビャンジャナ)」と言いました。文字の充実によって句文の円満性があり、その充実はこのように知られるべきであることから、「十種の表現の理解を欠くことなく」と言いました。別の論難となるものをとは、提示された経とは別の、それに適合しない経を持ち出します。その意味を導き入れるとは、その持ち出された経の意味ばかりを考察することです。彼の語らいは、意味が完全でないことから不円満と呼ばれます。提示された経の意味の解説に基づいてのみ別の経を導入する者は、外へと一歩も踏み出しません。損なうことなくとは、台無しにすることなくです。それぞれの意味を実に見事に確定して示すことは、絵筆で境界を描き分けるかのようです。より深遠な意味へと導くことは、深い水路に水を送り込むかのようです。浅い水路では堤防を越えて水が別の方向へ流れてしまうからです。単一の句を多くの方法によって繰り返し解説することは、足を踏み鳴らす駿馬のようです。実にそれは跳躍する歩行によって足ごとに踏み鳴らしながら進むからです。語らいの道筋によって彼の語らいは、法から、意味から、結節から、前後関係から、師の伝承から、すべての面で完全であることから円満と呼ばれます。

Anuppabandhehīti vissaṭṭhehi āsajjamānehi. Nātisīghaṃ nātisaṇikaṃ nirantaraṃ ekarasañca katvā parisāya ajjhāsayānurūpaṃ dhammaṃ kathento vissaṭṭhāya kathāya katheti nāma, na aññathāti dassento **‘‘yo bhikkhū’’**tiādimāha. Araṇiṃ manthento viya, uṇhakhādanīyaṃ khādanto viyāti sīghaṃ sīghaṃ kathanassa udāharaṇaṃ, gahitaṃ gahitamevātiādi laṅghetvā kathanassa. Purāṇapaṇṇantaresu hi paripātiyamānagodhā kadāci dissati, evamekaccassa atthavaṇṇanā katthaci na dissati. Ohāyāti ṭhapetvā. Yopītiādinā ekarūpena kathāya akathanaṃ dasseti. Petaggi nijjhāmataṇhikapetassa mukhato niccharaṇakaaggi. Vitthāyatīti appaṭitānatamāpajjati. Kenaci rogena dukkhaṃ patto viya nitthunanto. Kandanto viyāti ukkuṭṭhiṃ karonto viya. Appabandhā nāma hoti sukhena appavattabhāvato. Ācariyehi dinnanaye ṭhitoti ācariyuggahaṃ amuñcanto, yathā ca ācariyā taṃ taṃ suttaṃ saṃvaṇṇesuṃ, teneva nayena saṃvaṇṇentoti attho. Acchinnadhāraṃ katvāti ‘‘nātisīghaṃ nātisaṇika’’ntiādinā heṭṭhā vuttanayena avicchinnaṃ kathāpabandhaṃ katvā. Anusayasamugghātāyāti iminā tassā kathāya arahattapariyosānataṃ dasseti. Evarūpenāti nayidaṃ ekavacanaṃ tattakavasena gahetabbaṃ, atha kho lakkhaṇe pavattanti dassento **‘‘tathārūpeneva bhikkhusatena bhikkhusahassena vā’’**ti vuttaṃ. Pallaṅkenāti pallaṅkapadesena, pallaṅkāsanantenāti attho. Iminā nayenāti vārantarasādhāraṇaṃ atthaṃ atidisati, asādhāraṇaṃ pana vakkhatevāti.

連続した言葉によってとは、滑らかで整然とした言葉によってです。速すぎず遅すぎず、途切れることなく一様な味わいとして会衆の意向に応じた法を語る者は、明瞭な語らいによって語ると呼ばれるのであり、それ以外の方法ではないことを示すために、「いかなる比丘が」などと言いました。火起こし木を擦るかのようであり、熱い菓子を食べるかのようであるとは、極めて速く語ることの例えであり、取り上げたものだけを、などは飛ばして語ることの例えです。古びた葉の間を走るオオトカゲが時に見え隠れするように、ある者の意味の解説は所々で見えなくなります。除いてとは、差し置いてです。「また〜する者も」などによって、一様な調子で語らないことを示します。餓鬼の火とは、飢渇に苦しむ餓鬼の口から噴き出す火のことです。途絶えるとは、行き詰まりに陥ることです。何らかの病によって苦痛を受けた者のように呻きながら。叫ぶ者のようにとは、大声を上げながらです。心地よく展開しない状態であることから、連続性のないものと呼ばれます。師たちによって与えられた方法に留まる者とは、師の伝承を捨てず、師たちがそれぞれの経を解説したまさにその方法によって解説する者、という意味です。絶え間ない流れとしてとは、「速すぎず遅すぎず」などと下に述べられた方法によって、途切れることのない語らいの連続としてです。随眠を根絶するためにとは、これによってその語らいが阿羅漢果を究極とすることを示します。このような者によってとは、この単数の表現はその人数として受け取るべきではなく、その特徴に当てはまるものを示すために「そのような百人の比丘、あるいは千人の比丘によって」と言われました。結跏趺坐によってとは、結跏趺坐の座所によって、結跏趺坐の端によってという意味です。この方法によってとは、他の場合にも共通する意味を準用するのであり、固有の意味については語られるであろうということです。

334. Āramati etenāti ārāmo.

334. これによって歓喜するから園林(アーラーマ)です。

335. Dhuvasevananti niyatasevitaṃ. Pāsādapariveṇeti pāsādaṅgaṇe. Nābhiyā patiṭṭhitānanti nābhiyā bhūmiyaṃ patiṭṭhitānaṃ. Arantarānīti aravivarāni taṃtaṃarānaṃ vemajjhaṭṭhānāni.

335. 常に親しむこととは、決まって親しむことです。高楼の囲いの中でとは、高楼の庭においてです。轂(こしき)に立っている者たちのとは、轂によって地上に立っている者たちのことです。輻(や)の間とは、輻の隙間、それぞれの輻の中間の場所のことです。

336. Samādinnaaraññadhutaṅgo āraññiko, na araññavāsamattena.

336. 森林に住む頭陀行を受持した者が阿蘭若住者(森林に住む者)であり、単に森林に住むことだけによるのではありません。

337. Na osādentīti na avasādenti, na avasādanāpekkhā aññamaññaṃ pañhaṃ pucchantīti attho. Pavattinīti paguṇā.

337. 困惑させないとは、落ち込ませず、やり込める意図を持たずに互いに質問を尋ね合うという意味です。流暢に展開するとは、熟達していることです。

338. Lokuttarā vihārasamāpatti nāma therassa arahattaphalasamāpattiyo, pariyāyato pana nirodhasamāpattipi veditabbā.

338. 出世間の安住の等至とは、長老の阿羅漢果の等至のことであり、広義には滅尽定もまた知られるべきです。

339. Sādhukāro ānandattherassa dinno. Tenāha bhagavā ‘‘yathā taṃ ānandova sammā byākaramāno byākareyyā’’tiādi. Sammāti suṭṭhu, yathāajjhāsayanti adhippāyo. Yena hi yaṃ yathācittaṃ kathitaṃ, taṃ sammā kathitaṃ nāma hoti. Sampattavasena hi yathākārī tathāvādī sobhati. Tenāha **‘‘attano anucchavikamevā’’**tiādi. Bahussuto bhikkhu tattha tattha sutte sīlādīnaṃ āgataṭṭhāne tesaṃ suviditattā yathānusiṭṭhaṃ paṭipajjamāno tāni paripūretīti āha **‘‘sīlassa āgataṭṭhāne’’**tiādi. Maggādipasavanāya vipassanāgabbhaṃ gaṇhāpetvā paripākaṃ gametvāti attho.

339. 称賛の言葉がアーナンダ長老に与えられました。それゆえに世尊は「アーナンダが正しく答えるならば、そのように答えるであろう」などと仰せられました。正しくとは、見事に、意向の通りにという意味です。実に、ある者が心にかなうように語ったことは、正しく語られたと言われます。適性に適っていることによって、語る通りに行う者は美しく輝くのです。それゆえに「自らに相応しいことのみを」などと言われました。多聞の比丘は、それぞれの経において戒などが説かれた箇所においてそれらを熟知しているため、訓戒の通りに実践してそれらを充足させるので、「戒の説かれた箇所において」などと言いました。道などを生じさせるためにヴィパッサナーの胎内を宿らせ、円熟へと導いて、という意味です。

340. ‘‘Eseva nayo’’ti atidesavasena saṅkhepato vuttamatthaṃ vivaranto **‘‘āyasmā hi revato’’**tiādimāha.

340. 「この方法である」と準用によって要約して述べられた意味を解明しつつ、「実に尊者レーヴァタは」などと言いました。

342. Aparepi nānappakāre kileseti aparepi nānappakāre dosamohādikilese. Dhunitvāti vidhametvā.

342. 他の様々な煩悩をもとは、他の様々な怒りや迷妄などの煩悩をもです。払いのけてとは、粉砕してです。

343. Āyasmā mahāmoggallāno evaṃ byākāsīti sambandho. Sakalampi cakkhuviññāṇavīthigataṃ cittaṃ cakkhuviññāṇanti aggahetvā cakkhusannissitameva pana viññāṇaṃ cakkhuviññāṇaṃ, tadanantaraṃ sampaṭicchanaṃ, tadanantaraṃ santīraṇantiādinā saṇhaṃ sukhumaṃ atiittarakhaṇavantaṃ cittantaraṃ cittanānattaṃ. Khandhādīnañca nānattasaṅkhātaṃ khandhantarādi. Pathavīkasiṇe paṭhamajjhānaṃ samāpajjitvā tatheva tatiyaṃ jhānantiādinā ārammaṇaṃ anukkamitvā jhānasseva ekantarikabhāvena ukkamanaṃ jhānokkantikaṃ nāma. Pathavīkasiṇe paṭhamaṃ jhānaṃ samāpajjitvā puna tadeva tejokasiṇetiādinā jhānaṃ anukkamitvā ārammaṇasseva ekantarikabhāvena ukkamanaṃ ārammaṇokkantikaṃ nāma. ‘‘Paṭhamajjhānaṃ pañcaṅgika’’ntiādinā yāva nevasaññānāsaññāyatanaṃ duvaṅgikanti jhānaṅgamattasseva vavatthāpanaṃ aṅgavavatthānaṃ. ‘‘Idaṃ pathavīkasiṇaṃ…pe… idaṃ odātakasiṇa’’nti ārammaṇamattasseva vavatthāpanaṃ ārammaṇavavatthānaṃ. Pathavīkasiṇe paṭhamaṃ jhānaṃ samāpajjitvā tattheva itaresampi samāpajjanaṃ aṅgasaṅkanti. Pathavīkasiṇe paṭhamaṃ jhānaṃ samāpajjitvā tadeva āpokasiṇeti evaṃ sabbakasiṇesu ekasseva jhānassa samāpajjanaṃ ārammaṇasaṅkanti. Ekatovaḍḍhanaṃ ubhatovaḍḍhananti idaṃ khandhādidesanāyaṃ labbhati. Abhidhammabhājanīye hi vedanākkhandhaṃ bhājento bhagavā tike gahetvā dukesu pakkhipi, duke gahetvā tikesu pakkhipi, idaṃ ekatovaḍḍhanaṃ. Tike ca duke ca ubhatovaḍḍhananīhārena kathesi, idaṃ ubhatovaḍḍhanaṃ. Evaṃ sesakhandhesu dhātāyatanādīsu ca yathārahaṃ vibhaṅgappakaraṇe (vibha. 32-33; 155-156, 183-184) abhidhammabhājanīye āgatanayena veditabbaṃ. Tenāha **‘‘ābhidhammikadhammakathikasseva pākaṭa’’**nti. Khandhādīsu sabhāvadhammesu tīsu lakkhaṇesu paññattiyaṃ samayantaresu ca kosallābhāvato ayaṃ sakavādo ayaṃ paravādoti na jānāti. Tato eva sakavādaṃ…pe… dhammantaraṃ visaṃvādeti. Khandhādīsu pana kusalatāya ābhidhammiko sakavādaṃ…pe… na visaṃvādeti.

343. 尊者大モッガッラーナはこのように答えた、と結びつきます。眼識の認識過程(心路)に入ったすべての心を眼識として捉えるのではなく、まさに眼に依存した識のみが眼識であり、その直後に受容の心、その直後に推度の心というように、微細で極めて短い瞬間を持つ心の差異が心の多様性です。また蘊などの多様性と称される蘊の差異などです。地遍において初禅に入定し、そのまま第三禅に入るというように、対象を超克して禅定のみを一つ飛びに跳躍することを禅定の跳躍定と呼びます。地遍において初禅に入定し、再びまさにそれを火遍においてというように、禅定を超克して対象のみを一つ飛びに跳躍することを対象の跳躍定と呼びます。「初禅は五支を持つ」などから非想非非想処が二支を持つに至るまで、禅支のみを確定することが禅支の確定です。「これは地遍である…略…これは白遍である」と対象のみを確定することが対象の確定です。地遍において初禅に入定し、まさにその対象において他の禅支にも入定することが禅支の移行です。地遍において初禅に入定し、まさにそれを水遍においてというように、すべての遍において同一の禅定に入定することが対象の移行です。一方向への増大と双方向への増大とは、この蘊などの説示において得られます。実にアビダンマの分別において受蘊を分別する際、世尊は三組(三法)を取り上げて二組(二法)に投げ入れ、二組を取り上げて三組に投げ入れられました。これが一方向への増大です。また三組と二組をともに双方向への増大の様式によって語られました。これが双方向への増大です。このように残りの蘊において、界や処などにおいて、相応しい仕方で『分別論』のアビダンマの分別に説かれた方法によって知られるべきです。それゆえに「阿毘達磨の法を語る者にのみ明白である」と言われました。蘊などの自性法において、三相において、施設(概念)において、他の教義において巧みさがないことから、「これが自らの教説であり、これが他者の教説である」と知りません。それゆえに自説を…略…他の法と食い違わせます。しかし蘊などに熟達していることによって、阿毘達磨の論者は自説を…略…食い違わせることがありません。

344. Cittaṃ attano vase vattetuṃ sakkoti paṭisaṅkhānabhāvanābalehi pariggaṇhanasamatthattā. Idāni tamatthaṃ byatirekato anvayato ca vibhāvetuṃ **‘‘duppañño hī’’**tiādimāha. Tattha sabbānassāti sabbāni assa. Visevitavipphanditānīti kilesavisūkāyikāni ceva duccaritavipphanditāni ca. Bhañjitvāti madditvā. Bahīti kammaṭṭhānato bahi puthuttārammaṇe.

344. 心を自らの意のままに従わせることができるとは、思択の力と修習の力によって制御する能力があるからです。今、その意味を反対の面と肯定の面から明らかにするために、「実に智慧なき者は」などと言いました。そこにおいて、彼のすべてとは、彼のすべてのことです。多様な活動と動揺とは、煩悩の道化と悪行の動揺のことです。打ち砕いてとは、踏み虙いてです。外へとは、瞑想主題の外にある多様な対象へです。

345. Pariyāyenāti ettha pariyāya-saddo ‘‘atthi khvesa, brāhmaṇa, pariyāyo’’tiādīsu (a. ni. 8.11; pārā. 3-9) viya kāraṇatthoti āha **‘‘sobhanakāraṇaṃ atthī’’**ti. Yadi bhagavā – ‘‘idha, sāriputta, bhikkhu pacchābhattaṃ piṇḍapātapaṭikkanto’’tiādinā attano mahābodhipallaṅkaṃ sandhāyāha, evaṃ sante sammāsambuddheheva saṅghārāmo sobhetabbo, na aññehīti āpannanti āha **‘‘apica pacchimaṃ janata’’**ntiādi. Nibbānatthāya paṭipattisāraṃ etassāti paṭipattisāro, taṃ paṭipattisāraṃ. Nippariyāyenevāti kenaci pariyāyena lesena vinā mukhyena nayeneva. Yo ‘‘arahattaṃ appatvā na vuṭṭhahissāmī’’ti daḷhasamādānaṃ katvā nisinno taṃ adhigantvāva uṭṭhahati. Evarūpena idaṃ gosiṅgasālavanaṃ sobhati, sāsane sabbārambhānaṃ tadatthattāti attho. Āsavakkhayāvahaṃ paṭipattiṃ ārabhitvā āsavakkhayeneva desanāya pariyosāpitattā yathānusandhināva desanaṃ niṭṭhapesīti.

345. 理由によって(パリヤーイェーナ)とは、ここでの「パリヤーヤ」という語は「バラモンよ、実にそのような理由がある」などにおけるように原因という意味であることから、「輝かせる原因がある」と言いました。もし世尊が、「サーリプッタよ、ここに比丘がいて、食後に托鉢から戻り」などによってご自身の大菩提の宝座を指して仰せられたとすれば、そうであるならば正等覚者(仏)によってのみ僧院は輝かされるべきであり、他の者たちによってではない、ということになってしまうので、「しかしながら、後の人々を」などと言われたのです。涅槃のための実践の本質が彼にあるので実践を本質とする者であり、その実践を本質とする者のことです。無条件にとは、いかなる口実や方便もなしに、端的な方法によってまさに、ということです。「阿羅漢に達するまでは立ち上がらない」と固い決意をして座った者が、それを達成してこそ立ち上がるのです。このような者によってこの牛角沙羅林は輝くのであり、教えにおけるすべての営為はそれ(阿羅漢果)を目的としているからである、という意味です。漏尽(煩悩の消滅)をもたらす実践に着手し、漏尽によってこそ説法を完結させたことから、適切な結節によって説法を締めくくられたのです。

Mahāgosiṅgasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

大牛角経の注釈の深層義の解明は完結した。

3. Mahāgopālakasuttavaṇṇanā

3. 大放牛児経の注釈

346. Tatthāti gopālakasutte. Tisso kathāti (a. ni. ṭī. 3.11.17) tisso aṭṭhakathā, tividhā suttassa atthavaṇṇanāti attho. Ekekaṃ padaṃ nāḷaṃ mūlaṃ etissāti evaṃsaññitā ekanāḷikā, ekekaṃ vā padaṃ nāḷaṃ atthaniggamanamaggo etissāti ekanāḷikā. Tenāha **‘‘ekekapadassa atthakathana’’**nti. Cattāro aṃsā bhāgā atthasallakkhaṇūpāyā etissāti caturassā. Tenāha **‘‘catukkaṃ bandhitvā kathana’’**nti. Niyamato nisinnassa āraddhassa vatto saṃvatto etissā atthīti nisinnavattikā, yathāraddhassa atthassa visuṃ visuṃ pariyosāpikāti attho. Tenāha **‘‘paṇḍitaṃ gopālakaṃ dassetvā’’**tiādi. Ekekapadassāti piṇḍatthadassanavasena bahunnaṃ padānaṃ ekajjhaṃ atthaṃ akathetvā ekamekassa padassa atthavaṇṇanā. Ayaṃ sabbattheva labbhati. Catukkaṃ bandhitvāti kaṇhapakkhe upamūpameyyadvayaṃ, tathā sukkapakkheti idaṃ catukkaṃ yojetvā. Ayaṃ īdisesu eva suttesu labbhati. Pariyosānagamananti keci tāva āhu – ‘‘kaṇhapakkhe upamaṃ dassetvā upamā ca nāma yāvadeva upameyyasampaṭidānatthāti upameyyatthaṃ āharitvā saṃkilesapakkhaniddeso ca vodānapakkhavibhāvanatthāyāti sukkapakkhampi upamūpameyyavibhāgena āharitvā suttatthassa pariyosāpana’’nti. Kaṇhapakkhe upameyyaṃ dassetvā pariyosānagamanādīsupi eseva nayo. Apare pana ‘‘kaṇhapakkhe sukkapakkhe ca taṃtaṃupamūpameyyatthānaṃ visuṃ visuṃ pariyosāpetvāva kathanaṃ pariyosānagamana’’nti vadanti. Ayanti nisinnavattikā. Idhāti imasmiṃ gopālakasutte. Sabbācariyānaṃ āciṇṇāti sabbehipi pubbācariyehi ācaritā saṃvaṇṇitā, tathā ceva pāḷi pavattāti.

346. そこにおいてとは、放牛児経においてです。三つの語らいとは、三つの義注(アッタカター)、三通りの経の意味の解説という意味です。一語一語を茎(根底)とするものとしてこのように名付けられたものが一管(エーカナーリーカー)であり、あるいは一語一語がその意味の流出の導管であるから一管です。それゆえに「一語一語の意味の解説」と言われました。意味を識別する手段として四つの角(部分)を持つから四角(チャトゥラッサ)です。それゆえに「四つ組みを構成しての語らい」と言われました。規則正しく着席して開始された展開がこれにあるから着席循環(ニシンナヴァッティカー)であり、開始された通りの意味が個別に完結するという意味です。それゆえに「賢明な放牛児を示して」などと言われました。一語一語のとは、総括的な意味を示すことによって多くの語の意味を一括して語るのではなく、一語一語の語の意味の解説のことです。これはあらゆる箇所において得られます。四つ組みを構成してとは、黒分(悪の側)において比喩と被比喩の二つ、同様に白分(善の側)においてという、この四つ組みを結びつけてです。これはこのような経においてのみ得られます。究極への到達についてある者たちは次のように言っています――「黒分において比喩を示し、比喩とはまさに被比喩を対応させるためであるから被比喩の意味を持ち出し、雑染の側の提示は清浄の側を解明するためであるから、白分をも比喩と被比喩の分別によって持ち出して経の意味を完結させることである」と。黒分において被比喩を示して究極へ到達することなどにおいてもこの方法です。しかし他の者たちは、「黒分と白分においてそれぞれの比喩と被比喩の意味を個別に完結させて語ることこそが究極への到達である」と言います。これが着席循環です。ここにおいてとは、この放牛児経においてです。すべての師たちに慣行されたとは、すべての先代の師たちによって実践され、解説されたのであり、パーリもまたそのように展開しているということです。

Aṅgīyanti avayavabhāvena ñāyantīti aṅgāni, bhāgā. Tāni panettha yasmā sāvajjasabhāvāni, tasmā āha **‘‘aṅgehīti aguṇakoṭṭhāsehī’’**ti. Gomaṇḍalanti gosamūhaṃ. Pariharitunti rakkhituṃ. Taṃ pana pariharaṇaṃ pariggahetvā vicaraṇanti āha **‘‘pariggahetvā vicaritu’’**nti. Vaḍḍhinti gunnaṃ bahubhāvaṃ bahugorasatāsaṅkhātaṃ parivuddhiṃ. ‘‘Ettakamida’’nti rūpīyatīti rūpaṃ, parimānaparicchedopi sarīrarūpampīti āha **‘‘gaṇanato vā vaṇṇato vā’’**ti. Na pariyesati vinaṭṭhabhāvasseva ajānanato. Nīlāti ettha iti-saddo ādiattho. Tena setasabalādivaṇṇaṃ saṅgaṇhāti.

部分として知られるから支分(アンガ)であり、部分のことです。しかしそれらはここにおいては過失を伴う性質のものであるため、「支分によってとは、不徳の部分によって」と言いました。牛の群れ(ゴーマンダラ)とは、牛の集まりのことです。護持するとは、保護することです。しかしその護持とは、統率して行き巡ることであるから、「統率して行き巡ること」と言いました。増大とは、牛の数の多さ、豊富な乳製品という状態と称される増大のことです。「これほどの量である」と形作られるから色(ルーパ)であり、分量の限定もまた身体の色形(姿)であることから、「数からであれ、毛色からであれ」と言いました。探求しないとは、見失われた状態そのものを知らないからです。青いとは、ここでの「など」という語は例示の意味です。これによって白や斑などの毛色を総括します。

Dhanusattisūlādīti ettha issāsācariyānaṃ gāvīsu kataṃ dhanulakkhaṇaṃ. Kumārabhattigaṇānaṃ gāvīsu kataṃ sattilakkhaṇaṃ. Issarabhattigaṇānaṃ gāvīsu kataṃ sūlalakkhaṇanti yojanā. Ādi-saddena rāmavāsudevagaṇādīnaṃ gāvīsu kataṃ pharasucakkādilakkhaṇaṃ saṅgaṇhāti.

弓や槍や銛などとは、ここにおいて弓術の師たちの牝牛につけられた弓の印のことです。王子に従う集団の牝牛につけられた槍の印のことです。自在神に従う集団の牝牛につけられた銛の印のことである、と結びつきます。「など」という語によって、ラーマやヴァースデーヴァに従う集団などの牝牛につけられた斧や法輪などの印を総括します。

Nīlamakkhikāti piṅgalamakkhikā, khuddamakkhikā eva vā. Saṭati rujati etāyāti sāṭikā, saṃvaddhā sāṭikāti āsāṭikā. Tenāha **‘‘vaḍḍhantī’’**tiādi.

青い蝿とは、黄褐色の蝿、あるいは小さな蝿のことです。これによって傷つき痛むから蝿幼虫(サーティカー)であり、成長した蝿幼虫がアーサーティカーです。それゆえに「増殖する」などと言われました。

Vākenāti vākapattena. Cīrakenāti pilotikena. Antovasseti vassakālassa abbhantare. Niggāhanti susumārādiggāharahitaṃ. Pītanti pānīyassa pītabhāvaṃ. Sīhabyagghādiparissayena sāsaṅko sappaṭibhayo.

木の皮によってとは、樹皮の帯によってです。裂片によってとは、布切れによってです。雨季の間にとは、雨安居の期間の内部においてです。水棲動物のいないとは、ワニなどの捕食者のいないことです。飲まれたとは、飲み水が飲まれた状態のことです。獅子や虎などの害悪によって危惧があり、恐怖を伴うことです。

Pañca ahāni bhūtāni etassāti pañcāhito, so eva vāroti pañcāhikavāro. Evaṃ sattāhikavāroti veditabbo. Ciṇṇaṭṭhānanti caritaṭṭhānaṃ gocaraggahitaṭṭhānaṃ.

五日が存在するから五日の期間であり、まさにその順番のことであるから五日ごとの巡番です。このように七日ごとの巡番と理解すべきです。踏み慣らされた場所とは、歩き回った場所、餌場として利用された場所のことです。

Pituṭṭhānanti pitarā kātabbaṭṭhānaṃ, pitarā kātabbakaraṇanti attho. Yathāruciṃ gahetvā gacchantīti gunnaṃ rucianurūpaṃ gocarabhūmiyaṃ vā nadipāraṃ vā gahetvā gacchanti. Gobhattanti kappāsaṭṭhikādimissaṃ gobhuñjitabbaṃ bhattaṃ, bhattaggahaṇeneva yāgupi gahitā.

父の立場とは、父によって為されるべき立場、父によって為されるべき行為という意味です。好みのままに連れて行くとは、牛たちの好みに応じて餌場へ、あるいは対岸へと連れて行くことです。牛の飼料とは、綿の種子などが混ざった牛が食べるべき飼料であり、飼料という表現によって粥もまた含まれます。

347. **‘‘Dvīhākārehī’’**ti vuttaṃ ākāradvayaṃ dassetuṃ **‘‘gaṇanato vā samuṭṭhānato vā’’**ti vuttaṃ. Evaṃ pāḷiyaṃ āgatāti ‘‘upacayo santatī’’ti jātiṃ dvidhā bhinditvā hadayavatthuṃ aggahetvā ‘‘dasa āyatanāni pañcadasa sukhumarūpānī’’ti evaṃ rūpakaṇḍapāḷiyaṃ (dha. sa. 651-655) āgatā. Pañcavīsati rūpakoṭṭhāsāti salakkhaṇato aññamaññasaṅkarābhāvato rūpabhāgā. Rūpakoṭṭhāsāti vā visuṃ visuṃ appavattitvā kalāpabhāveneva pavattanato rūpakalāpā. Koṭṭhāsāti ca aṃsā, avayavāti attho. Koṭṭhanti vā sarīraṃ, tassa aṃsā kesādayo koṭṭhāsāti aññepi avayavā koṭṭhāsā viya koṭṭhāsā. Seyyathāpīti upamāsaṃsandanaṃ. Tattha rūpaṃ pariggahetvāti yathāvuttaṃ rūpaṃ salakkhaṇato ñāṇena pariggaṇhitvā. Arūpaṃ vavatthapetvāti taṃ rūpaṃ nissāya ārammaṇañca katvā pavattamāne vedanādike cattāro khandhe ‘‘arūpa’’nti vavatthapetvā. Rūpārūpaṃ pariggahetvāti puna tattha yaṃ ruppanalakkhaṇaṃ, taṃ rūpaṃ, tadaññaṃ arūpaṃ, ubhayavinimuttaṃ kiñci natthi attā vā attaniyaṃ vāti evaṃ rūpārūpaṃ pariggahetvā. Tadubhayañca avijjādinā paccayena sappaccayanti paccayaṃ sallakkhetvā aniccādilakkhaṇaṃ āropetvā yo kalāpasammasanādikkamena kammaṭṭhānaṃ matthakaṃ pāpetuṃ na sakkoti, so na vaḍḍhatīti yojanā.

347. 「二つの様相によって」と述べられた二つの様相を示すために、「数からであれ、生起の起源からであれ」と言われました。このようにパーリに説かれているとは、「積集と相続」として生(発生)を二つに分け、心基底(心所依)を取らずに「十の処と十五の微細な色」として、このように色聚のパーリ(『法集論』651-655)に説かれています。二十五の色部分とは、自相からして互いに混同がないことによる色の部分のことです。あるいは色の部分とは、個別に生起することなく集まり(微粒子群)としてのみ生起することによる色聚(ルーパーカラパ)のことです。部分(コッタパサ)とは要素、構成要素という意味です。あるいは身体(コッタ)の構成要素である頭髪などが部分であるように、他の構成要素もまた部分のようであるから部分です。あたかも〜のようにとは、比喩の照合です。そこにおいて、色を把握してとは、前述の色を自相から智慧によって把握してです。非色(精神)を確定してとは、その色に依存し、またそれを対象として生起している受などの四つの蘊を「非色」と確定してです。色と非色を把握してとは、さらにそこにおいて壊壊(変化・破壊)を特徴とするものが色であり、それ以外のものが非色であり、両者を離れた我や我所などいかなるものも存在しない、とこのように色と非色を把握してです。またその両者も無明などの条件による有縁(条件づけられたもの)であると条件を識別し、無常などの相を適用して、色聚の思惟などの順序によって瞑想主題を頂点へと到達させることができない者は、成長しない、と結びつきます。

Ettakaṃ rūpaṃ ekasamuṭṭhānanti cakkhāyatanaṃ, sotaghānajivhākāyāyatanaṃ itthindriyaṃ purisindriyaṃ jīvitindriyanti aṭṭhavidhaṃ kammavasena, kāyaviññatti vacīviññattīti idaṃ dvayaṃ cittavasenāti ettakaṃ rūpaṃ ekasamuṭṭhānaṃ. Saddāyatanamekaṃ utucittavasena dvisamuṭṭhānaṃ. Rūpassa lahutā mudutā kammaññatāti ettakaṃ rūpaṃ utucittāhāravasena tisamuṭṭhānaṃ. Rūpagandharasaphoṭṭhabbāyatanaṃ ākāsadhātu āpodhātu kabaḷīkāro āhāroti ettakaṃ rūpaṃ utucittāhārakammavasena catusamuṭṭhānaṃ. Upacayo santati jaratā rūpassa aniccatāti ettakaṃ rūpaṃ na kutoci samuṭṭhātīti na jānāti. Samuṭṭhānato rūpaṃ ajānantotiādīsu vattabbaṃ ‘‘gaṇanato rūpaṃ ajānanto’’tiādesu vuttanayeneva veditabbaṃ.

これだけの色は一因生起であるとは、眼処、耳処、鼻処、舌処、身処、女性性、男性性、命根という八種は業の力によるものであり、身表と語表というこの二つは心の力によるものであるから、これだけの色は一因生起です。声処という一つは、温度と心による二因生起です。色の軽快性、柔軟性、適業性というこれだけの色は、温度、心、食物による三因生起です。色、香、味、触処、虚空界、水界、段食というこれだけの色は、温度、心、食物、業による四因生起です。積集、相続、老性、色の無常性というこれだけの色は、いかなるものからも生起しない、ということを知りません。「生起の起源から色を知らない者」などにおいて語られるべきことは、「数から色を知らない者」などにおいて述べられた方法によって知られるべきです。

Kammalakkhaṇoti attanā kataṃ duccaritakammaṃ lakkhaṇaṃ etassāti kammalakkhaṇo, bālo. Vuttañhetaṃ – ‘‘tīṇimāni, bhikkhave, bālassa bālalakkhaṇāni. Katamāni tīṇi? Duccintitacintī hoti, dubbhāsitabhāsī, dukkaṭakammakārī. Imāni kho…pe… lakkhaṇānī’’ti (a. ni. 3.2; netti. 116). Attanā kataṃ sucaritakammaṃ lakkhaṇaṃ etassāti kammalakkhaṇo, paṇḍito. Vuttampi cetaṃ – ‘‘tīṇimāni, bhikkhave, paṇḍitassa paṇḍitalakkhaṇāni. Katamāni tīṇi? Sucintitacintī hoti, subhāsitabhāsī, sukatakammakārī. Imāni kho…pe… paṇḍitalakkhaṇānī’’ti (ma. ni. 3.253; a. ni. 3.3; netti. 116). Tenāha **‘‘kusalākusalaṃ kammaṃ paṇḍitamālalakkhaṇa’’**nti. Bāle vajjetvā paṇḍite na sevatīti yaṃ bālapuggale vajjetvā paṇḍitasevanaṃ atthakāmena kātabbaṃ, taṃ na karoti. Tathābhūtassa ayamādīnavoti dassetuṃ puna **‘‘bāle vajjetvā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha yaṃ bhagavatā ‘‘idaṃ vo kappatī’’ti anuññātaṃ, tadanulomañce, taṃ kappiyaṃ. Yaṃ ‘‘idaṃ vo na kappatī’’ti paṭikkhittaṃ, tadanulomañce, taṃ akappiyaṃ. Yaṃ kosallasambhūtaṃ, taṃ kusalaṃ, tappaṭipakkhaṃ akusalaṃ. Tadeva sāvajjaṃ, kusalaṃ anavajjaṃ. Āpattito ādito dve āpattikkhandhā garukaṃ, tadaññaṃ lahukaṃ. Dhammato mahāsāvajjaṃ garukaṃ, appasāvajjaṃ lahukaṃ. Sappaṭikāraṃ satekiccaṃ, appaṭikāraṃ atekicchaṃ. Dhammatānugataṃ kāraṇaṃ, itaraṃ akāraṇaṃ. Taṃ ajānantoti kappiyākappiyaṃ garukalahukaṃ satekicchātekicchaṃ ajānanto suvisuddhaṃ katvā sīlaṃ rakkhituṃ na sakkoti, kusalākusalaṃ sāvajjānavajjaṃ kāraṇākāraṇaṃ ajānanto khandhādīsu akusalatāya rūpārūpapariggahampi kātuṃ na sakkoti, kuto tassa kammaṭṭhānaṃ gahetvā vaḍḍhanā. Tenāha **‘‘kammaṭṭhānaṃ gahetvā vaḍḍhetuṃ na sakkotī’’**ti.

「業を相とする者」(kammalakkhaṇo)とは、自らによって作られた悪行の業がこれの相(特徴)であるからして業を相とする者であり、愚者である。実にこれは次のように説かれている――「比丘たちよ、愚者にはこれら三つの愚者の相がある。いかなる三つか。悪しき思いを思う者であり、悪しき言葉を語る者であり、悪しき行いを作す者である。これらが実に…中略…相である」と(増支部3.2;導論116)。自らによって作られた善行の業がこれの相であるからして業を相とする者であり、賢者である。実にこれもまた次のように説かれている――「比丘たちよ、賢者にはこれら三つの賢者の相がある。いかなる三つか。善き思いを思う者であり、善き言葉を語る者であり、善き行いを作す者である。これらが実に…中略…賢者の相である」と(中部3.253;増支部3.3;導論116)。それゆえに「善・不善の業が賢者と愚者の相である」と述べているのである。「愚者を避けて賢者に親しまない」とは、愚かな人物を避けて賢者に親しむという、利益を望む者によってなされるべきことをなさないということである。そのようである者にとってのこの過患を示すために、重ねて「愚者を避けて」等と説かれた。そこにおいて世尊によって「これは汝らに相応しい」と許されたもの、それにしたがうもの、それが適法(相応しいもの)である。「これは汝らに相応しくない」と斥けられたもの、それにしたがうもの、それが不適法(相応しくないもの)である。巧みさから生じたものが善であり、その反対が不善である。それまさに有罪(過失あるもの)であり、善は無罪(過失なきもの)である。犯戒の観点からは、最初の二つの罪聚が重罪であり、それ以外が軽罪である。法の観点からは、大いなる過失あるものが重く、僅かな過失あるものが軽い。治癒しうるものが治癒可能なものであり、治癒しえぬものが治癒不可能なものである。法性に従うものが理義(正当な理由)であり、他のものは非理義(不当な理由)である。「それを知らぬ者」とは、適法・不適法、重・軽、治癒可能・治癒不可能を知らぬゆえに、極めて清浄にして戒を守ることができず、善・不善、有罪・無罪、理義・非理義を知らぬゆえに、蘊等において不熟練であることから色・非色の把握すらも行うことができず、どこから彼に業処を把持しての増長があろうか。それゆえに「業処を把持して増長させることができない」と述べているのである。

Govaṇasadise attabhāve uppajjitvā tattha dukkhuppattihetuto micchāvitakkā āsāṭikā viyāti āsāṭikāti āha **‘‘akusalavitakkaṃ āsāṭikaṃ ahāretvā’’**ti.

牛の傷口に似た個体(自身)に生じて、そこにおいて苦の生起の原因となることから、邪なる尋(思い)はハエの幼虫のようであるからして「幼虫」であるという意味で、「不善なる尋というハエの幼虫を除去せず」と述べた。

‘‘Gaṇḍoti kho, bhikkhave, pañcannetaṃ upādānakkhandhānaṃ adhivacana’’nti vacanato (a. ni. 8.56) chahi vaṇamukhehi vissandamānayūso gaṇḍo viya pilotikakhaṇḍena chahi dvārehi vissandamānakilesāsuci attabhāvavaṇo satisaṃvarena pidahitabbo, ayaṃ pana evaṃ na karotīti āha **‘‘yathā so gopālako vaṇaṃ na paṭicchādeti, evaṃ saṃvaraṃ na sampādetī’’**ti.

「比丘たちよ、癰(はれもの)とは五つの取蘊の同義語である」という言(増支部8.56)から、六つの傷口から膿汁を流し出す癰のように、布片によって六つの門から流出する煩悩の不浄を念の防護によって塞ぐべきであるのに、この者はそのようにしないということから、「あの牛飼いが傷口を覆わないように、そのように防護を全うしない」と述べた。

Yathā dhūmo indhanaṃ nissāya uppajjamāno saṇho sukhumo taṃ taṃ vivaraṃ anupavissa byāpento sattānaṃ ḍaṃsamakasādiparissayaṃ vinodeti, aggijālasamuṭṭhānassa pubbaṅgamo hoti, evaṃ dhammadesanāñāṇassa indhanabhūtaṃ rūpārūpadhammajātaṃ nissāya uppajjamānā saṇhā sukhumā taṃ taṃ khandhantaraṃ āyatanantarañca anupavissa byāpeti, sattānaṃ micchāvitakkādiparissayaṃ vinodeti, ñāṇaggijālasamuṭṭhānassa pubbaṅgamoti dhūmo viyāti dhūmoti āha **‘‘gopālako dhūmaṃ viya dhammadesanādhūmaṃ na karotī’’**ti. Attano santikaṃ upagantvā nisinnassa kātabbā tadanucchavikā dhammakathā upanisinnakathā. Katassa dānādipuññassa anumodanakathā anumodanā. Tatoti dhammakathādīnaṃ akaraṇato. **‘‘Bahussuto guṇavā’’**ti na jānantīti kasmā vuttaṃ, nanu attano jānāpanatthaṃ dhammakathādi na kātabbamevāti? Saccaṃ, na kātabbameva, suddhāsayena pana dhamme kathite tassa guṇajānanataṃ sandhāyetaṃ vuttaṃ. Tenāha bhagavā –

あたかも煙が燃料に依って生じ、微細で精妙にして様々な隙間に入り込んで遍満し、生きとし生けるもののブヨや蚊などの害難を追い払い、火炎の生起の前駆となるように、そのように法を説く智慧の燃料となった色・非色の一切の法に依って生じ、微細で精妙にして様々な蘊の間や処の間に入り込んで遍満し、生きとし生けるものの邪尋などの害難を追い払い、智慧の火炎の生起の前駆となるからして、煙のようであるという意味で煙であるとして、「牛飼いが煙を立てるように、説法の煙を立てない」と述べた。自らのもとに近づいて着座した者に対してなされるべき相応しい法話が「近座の談話」である。なされた布施などの功徳への随喜の談話が「随喜」である。「それゆえに」とは、法話などをなさないことからである。「博学で徳ある者」と知られないのはなぜ説かれたのか、そもそも自らを知らせるために法話などをするべきではないのではないか?実のところ、そのとおりであり、すべきではない。しかし、清らかな意楽をもって法が説かれたときに、その徳を知ることに関してこれが説かれたのである。それゆえに世尊は仰せられた――

‘‘Nābhāsamānaṃ jānanti, missaṃ bālehi paṇḍitaṃ;

「語らないとき、愚者らの中に混ざる賢者を知ることはない。

Bhāsaye jotaye dhammaṃ, paggaṇhe isinaṃ dhaja’’nti. (saṃ. ni. 2.241);

法を語り、照らし出すべし。仙人たちの旗頭を掲げるべし」と。(相応部2.241)

Taranti etthāti titthaṃ, nadītaḷākādīnaṃ nahānādiatthaṃ otaraṇaṭṭhānaṃ. Yathā pana taṃ udakena otiṇṇasattānaṃ sarīramalaṃ pavāheti, parissamaṃ vinodeti, visuddhiṃ uppādeti, evaṃ bahussutā attano samīpaṃ otiṇṇasattānaṃ dhammūdakena cittamalaṃ pavāhenti, parissamaṃ vinodenti, visuddhiṃ uppādenti, tasmā te titthaṃ viyāti titthaṃ. Tenāha **‘‘titthabhūte bahussutabhikkhū’’**ti. Byañjanaṃ kathaṃ ropetabbanti, bhante, idaṃ byañjanaṃ ayaṃ saddo kathaṃ imasmiṃ atthe ropetabbo, kena pakārena imassa atthassa vācako jāto. ‘‘Nirūpetabba’’nti vā pāṭho, nirūpetabbaṃ ayaṃ sabhāvanirutti kathamettha niruḷhāti adhippāyo. Imassa bhāsitassa ko atthoti saddatthaṃ pucchati. Imasmiṃ ṭhāneti imasmiṃ pāḷipadese. Pāḷi kiṃ vadetīti bhāvatthaṃ pucchati. Attho kiṃ dīpetīti bhāvatthaṃ vā saṅketatthaṃ vā. Na paripucchatīti vimaticchedanapucchāvasena sabbaso pucchaṃ na karoti. Na paripañhatīti pari pari attano ñātuṃ icchaṃ na ācikkhati na vibhāveti. Tenāha **‘‘na jānāpetī’’**ti. Teti bahussutabhikkhū. Vivaraṇaṃ nāma atthassa vibhajitvā kathananti āha **‘‘bhājetvā na dassentī’’**ti. Anuttānīkatanti ñāṇena apākaṭīkataṃ guyhaṃ paṭicchannaṃ. Na uttānīkarontīti sinerumūlakaṃ vālikaṃ uddharanto viya pathavīsandhārodakaṃ vivaritvā dassento viya ca uttānaṃ na karonti. Evaṃ yassa dhammassa vasena bahussutā ‘‘tittha’’nti vuttā pariyāyato, idāni tameva dhammaṃ nippariyāyato titthanti dassetuṃ **‘‘yathā cā’’**tiādi vuttaṃ. Dhammo hi taranti etena nibbānaṃ nāma taḷākanti **‘‘tittha’’**nti vuccati. Tenāha bhagavā sumedhabhūto –

これにおいて渡るからして「渡し場」(tittha)であり、河や池などにおける沐浴などのための降り場である。しかし、あたかもそれが水によって下り立った生き物たちの身体の汚れを洗い流し、疲労を除き、清浄を生じさせるように、そのように多聞(博学)の者たちは自らのもとに下り立った生き物たちの心の汚れを法の水によって洗い流し、疲労を除き、清浄を生じさせる。それゆえに彼らは渡し場のようであるからして「渡し場」である。それゆえに「渡し場となった博学の比丘たち」と述べた。「文字(表現)をどのように置くべきか」とは、「大徳よ、この文字、この言葉をどのようにこの意味に置くべきか、いかなる様態によってこの意味の言説となるのか」ということである。「観察(規定)されるべきか」(nirūpetabbaṃ)という読みもあり、観察されるべきこの本性の言語慣用法がどのようにここで成り立ったのかという意図である。「この語られたことの意味は何か」と語の意味を問う。「この箇所において」とは、このパーリ(聖典)の箇所においてである。「パーリは何を語っているのか」と状態の意味(趣旨)を問う。「意味は何を照らし出しているのか」と趣旨あるいは約束された意味を問う。「問い尋ねない」とは、疑惑を断つ問いの力によって全く問いを行わないことである。「問い究めない」とは、自ら知りたいという欲求を詳しく示さず、明らかにしないことである。それゆえに「知らせない」と述べた。「彼ら」とは、博学の比丘たちである。「開示」とは、意味を分別して語ることであるからして「分別して示さない」と述べた。「明瞭にされていないもの」とは、智慧によって顕在化されていない、秘密で覆われたものである。「明瞭にしない」とは、須弥山の麓の砂を取り除くかのように、大地を支える水を開いて示すかのように明瞭にしないことである。このようにして、ある法によって博学の者たちが比喩的に「渡し場」と説かれたが、今やその法そのものを直接に渡し場であると示すために「また、いかに…」等と説かれた。実に法はこれによって涅槃という池を渡るからして「渡し場」と呼ばれる。それゆえにスメーダ(善慧)であった世尊は仰せられた――

‘‘Evaṃ kilesamaladhovaṃ, vijjante amatantaḷe;

「このように煩悩の汚れを洗い流す不死の池が存在するときに、

Na gavesati taṃ taḷākaṃ, na doso amatantaḷe’’ti. (bu. vaṃ. 2.14);

その池を求めないのは、不死の池の過失ではない」と。(仏種姓経2.14)

Dhammasseva nibbānassotaraṇatitthabhūtassa otaraṇapakāraṃ ajānanto **‘‘dhammatitthaṃ na jānātī’’**ti vutto.

法そのものが涅槃へ降り立つ渡し場となっている、その降り立つ様態を知らない者を「法の渡し場を知らない」と説いているのである。

Pītāpītanti gogaṇe pītaṃ apītañca gorūpaṃ na jānāti na vindati. Avindanto hi na labhatīti vutto. **‘‘Ānisaṃsaṃ na vindatī’’**ti vatvā tassa avindanākāraṃ dassento **‘‘dhammassavanaggaṃ gantvā’’**tiādimāha.

「飲んだものと飲んでいないもの」とは、牛の群れにおいて飲んだ牛と飲んでいない牛を知らず、得ないということである。得ない者は実に得られないと説かれている。「功徳を享受しない」と述べて、その享受しない様態を示すために「説法の座へと行って」等と述べた。

Ayaṃ lokuttaroti padaṃ sandhāyāha **‘‘ariya’’**nti. Paccāsattiñāyena anantaravidhippaṭisedho vā, ariya-saddo vā niddosapariyāyo daṭṭhabbo. Aṭṭhaṅgikanti ca visuṃ ekajjhañca aṭṭhaṅgikaṃ upādāya gahetabbaṃ, aṭṭhaṅgatā bāhullato ca. Evañca katvā sattaṅgassapi ariyamaggassa saṅgaho siddho hoti.

この出世間の句に関して「聖なる」と述べた。隣接の論理による直前規則の否定か、あるいは「聖(ariya)」という語は過失なきものの同義語として見られるべきである。「八支からなる」とは、個々別々にかつ一体として八支によるものとして把握されるべきであり、八支であることは多数によるからでもある。このようにすることによって、七支からなる聖道も包摂されることが成り立つのである。

Cattāro satipaṭṭhānetiādīsu avisesena satipaṭṭhānā vuttā. Tattha kāyavedanācittadhammārammaṇā satipaṭṭhānā lokiyā, tattha sammohaviddhaṃsanavasena pavattā nibbānārammaṇā lokuttarāti evaṃ ime lokiyā, ime lokuttarāti yathābhūtaṃ na pajānāti.

「四念処」等において無差別(一般)に念処が説かれた。そこにおいて身・受・心・法を所縁とする念処は世間的であり、そこにおいて迷妄を打ち破る力によって生じた、涅槃を所縁とするものは出世間的であると、このように「これらは世間的であり、これらは出世間的である」とありのままに了知しないのである。

Anavasesaṃ duhatīti paṭiggahaṇe mattaṃ ajānanto kismiñci dāyake saddhāhāniyā kismiñci paccayahāniyā anavasesaṃ duhati. Vācāya abhihāro vācābhihāro. Paccayānaṃ abhihāro paccayābhihāro.

「余すところなく搾り取る」とは、受納において分量を知らず、ある施主においては信を損ない、ある施主においては資具を損なうほどに余すところなく搾り取ることである。言葉による進取が「言の進取」である。資具の進取が「資具の進取」である。

Ime amhesu garucittīkāraṃ na karontīti iminā navakānaṃ bhikkhūnaṃ dhammasampaṭipattiyā abhāvaṃ dasseti ācariyupajjhāyesu pitupemassa anupaṭṭhāpanato. Tena ca sikkhāgāravatābhāvadīpanena saṅgahassa abhājanabhāvaṃ, tena therānaṃ tesu anuggahābhāvaṃ. Na hi sīlādiguṇehi sāsane thirabhāvappattā ananuggahetabbe sabrahmacārī anuggaṇhanti, niratthakaṃ vā anuggahaṃ karonti. Tenāha **‘‘navake bhikkhū’’**ti. Dhammakathābandhanti paveṇiāgataṃ pakiṇṇakadhammakathāmaggaṃ. Saccasattapaṭisandhipaccayākārapaṭisaṃyuttaṃ suññatādīpanaṃ guyhaganthaṃ. Vuttavipallāsavasenāti ‘‘na rūpaññū’’tiādīsu vuttassa paṭisedhassa paṭikkhepavasena aggahaṇavasena. Yojetvāti ‘‘rūpaññū hotīti gaṇanāto vā vaṇṇato vā rūpaṃ jānātī’’tiādinā, ‘‘tassa gogaṇopi na parihāyati, pañcagorasaparibhogatopi na paribāhiro hotī’’tiādinā ca atthaṃ yojetvā. Veditabboti tasmiṃ tasmiṃ padese yathārahaṃ attho veditabbo.

「彼らは我らに対して重んじる敬意を払わない」とは、これによって新参の比丘たちが、師や親師に対して父への愛情を起こさないことから法の正しい実践がないことを示す。そしてそれにより学処を尊重する心の欠如を示すことによって、包摂(受容)の器でない状態を、それによって長老たちが彼らに恩恵を施さないことを示す。実に戒などの徳によって教団において堅固な状態に達した者たちは、恩恵を施すべきでない同梵行者たちに恩恵を施すことはなく、無益な恩恵を施すこともない。それゆえに「新参の比丘たち」と述べた。「法話の筋道」とは、伝統に由来する種々の法話の道筋である。真理・衆生・結生・縁起の諸相に結びついた、空性を照らし出す深遠な教理である。「説かれた顛倒の力により」とは、「色を知らない」等において説かれた否定の斥けによって、不把持の力によって。「結びつけて」とは、「色を知る者となるとは、数から、あるいは色形から色を知ることである」等により、「彼の牛の群れも衰退せず、五種の牛酪の享受からも外れることがない」等により意味を結びつけてである。「知られるべきである」とは、それぞれの箇所において適切に意味が知られるべきであるということである。

Mahāgopālakasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

大牧牛者経の解説における幽玄なる意味の解明は完結した。

4. Cūḷagopālakasuttavaṇṇanā

4. 小牧牛者経の解説

350. Celukkāhīti celamayāhi ukkāhi. Ukkabhūtāni celāni etthāti ukkacelā, nagaraṃ. Sabbā gaṅgā pākaṭā hutvā paññāyatīti pakaticakkhussa pākaṭā hutvā upaṭṭhāti, dibbacakkhussa pana samantacakkhussa vā yattha katthaci nisinnassapi bhagavato pākaṭā hutvā paññāyateva. Sotthīti anupaddavo. Vaḍḍhīti aparihāni. Ārogyanti arogatā ābādhābhāvo.

350. 「布の松明によって」(celukkāhi)とは、布で作られた松明によってである。松明となった布がここにあることから「ウッカチェーラー」(松明布)という都市である。「ガンジス河の全体が明瞭となって知られる」とは、通常の肉眼に対して明瞭となって現れることであり、しかし天眼や一切普見眼を有する世尊にとっては、いずこに座しておられても明瞭となって知られるのである。「無事」(sotthī)とは無災難である。「増長」(vaḍḍhī)とは不退転である。「無病」(ārogyaṃ)とは無病の状態、病患のないことである。

Magadho janapado nivāso etassāti māgadho, māgadhova māgadhiko. Paññāya nāma duṭṭhubhāvo natthi ekantānavajjatāya, tasmā du-saddo abhāvavācī ‘‘dussīlo’’tiādīsu viya, jāti-saddo ca sabhāvatthoti āha **‘‘nippaññasabhāvo’’**ti. -Saddo ārambhatthoti āha **‘‘patāresīti tāretuṃ ārabhī’’**ti paratīraṃ gāvīnaṃ appattattā. Suvidehānanti sundaravidehānaṃ. Videharaṭṭhaṃ kira bhūmibhāgadassanasampattiyā ca vanarāmaṇeyyakādinā ca sundaraṃ. Āmaṇḍalikaṃ karitvāti āvatte patitā temaṇḍalākārena paribbhamitvā. Katipayāpi gāviyo asesetvā nadīsotena vūḷhattā vuttaṃ **‘‘avaḍḍhiṃ vināsaṃ pāpuṇiṃsū’’**ti. Katipayāsupi hi avasiṭṭhāsu gāvīsu anukkamenapi siyā gogaṇassa vaḍḍhīti. Vissamaṭṭhānanti parissamavinodanaṭṭhānaṃ. Titthā bhaṭṭhāti gahetuṃ asamatthatāya titthaṃ appattā. Arogo nāma nāhosīti lomamattampi asesetvā sabbā gāviyo nadīsote vinaṭṭhāti attho.

マガダ地方が居住地であるからして「マガダ人」、マガダ人そのものを「マガダ人」(māgadhiko)という。智慧には実に決して悪しき状態はなく、もっぱら無罪(欠点がない)であるからして、不(du-)という語は「破戒(dussīlo)」等におけるように無(欠如)を意味し、生れ(jāti)という語は本性の意味であるからして「無知なる本性の者」と述べた。パ(pa-)の語は開始の意味であるからして、「渡らせた(patāresi)とは、渡らせ始めた」と述べた。牛たちが対岸に到達しなかったからである。「美しきヴィデーハの」とは、優れたヴィデーハのということである。聞くところによれば、ヴィデーハ国は国土の景観の豊かさや森林の麗しさなどによって優れているとのことである。「旋回して」とは、渦に落ちて三重の輪の形となって回転して。「僅かの牛さえも残さず河の流れによって流された」ことから「衰退と破滅に至った」と説かれた。実に僅かでも牛が残っていれば、次第に牛の群れの増長もありうるからである。「休息所」とは、疲労を除く場所である。「渡し場から外れて」とは、把握することができぬために渡し場に到達できずにである。「無事なものはなかった」とは、毛一本ほども残さずにすべての牛が河の流れにおいて滅びたという意味である。

Yesu khandhāyatanadhātūsu idha lokasamaññā, te ajānantā ‘‘akusalā imassa lokassā’’ti vuttāti āha **‘‘idhaloke khandhadhātāyatanesu akusalā achekā’’**ti. Ayameva nayo ‘‘akusalā parassa lokassā’’ti etthāpīti āha **‘‘paralokepi eseva nayo’’**ti. Māro ettha dhīyatīti māradheyyaṃ. Māroti cettha kilesamāro veditabbo. Khandhābhisaṅkhārā hi tassa pavattanabhāvena gahitā, maccumāro visuṃ gahito eva, kilesamāravaseneva ca devaputtamārassa kāmabhave ādhipaccanti. Tesanti ye idhalokādīsu achekā, tesaṃ. Te pana ukkaṭṭhaniddesena dassento āha **‘‘iminā cha satthāro dassitā’’**ti.

ここに世間という呼称がある諸々の蘊・処・界において、それらを知らない者を「この世間に巧みでない」と説かれたからして「この世における蘊・界・処に不熟練で、巧みでない」と述べた。これと同じやり方が「他世に巧みでない」というここにもあるからして「他世においてもこのやり方である」と述べた。魔がここに置かれるからして「魔境」(māradheyya)である。そしてここでの魔とは煩悩魔と知るべきである。実に蘊と行はそれの活動する状態として把握され、死魔は別個に把握されており、まさに煩悩魔の力によって天子魔の欲界における主導権があるからである。「彼らの」とは、この世間等において巧みでない者たちのということである。そして彼らを最たる者の例示によって示して「これによって六師外道が示された」と述べた。

351. Balavagāvoti balavante gorūpe. Te pana dammataṃ upagatagoṇā ceva dhenuyo cāti āha **‘‘dantagoṇe ceva dhenuyo cā’’**ti. Avijātagāvoti na vijātagāviyo. Vacchaketi khuddakavacche. Appattho hi ayaṃ ka-saddo. Tenāha **‘‘taruṇavacchake’’**ti. Kisābalaketi dubbale.

351. 「力ある牛」とは、力強い牛たちである。そしてそれらは調教された雄牛たちと雌牛たちであるからして「調教された雄牛たちと雌牛たち」と述べた。「未産の牛」とは、まだ出産していない雌牛たちである。「幼い仔牛たち」とは、小さな仔牛たちである。実にこのカ(ka)の語は微小の意味である。それゆえに「幼き仔牛たち」と述べた。「痩せて力なきもの」とは、脆弱なものたちである。

352. Mārassa taṇhāsotaṃ chetvāti khandhamārasambandhītaṇhāsaṅkhātaṃ sotaṃ samucchinditvā. Tayo koṭṭhāse khepetvā ṭhitāti anāgāmino sandhāyāha. Sabbavāresūti sakadāgāmisotāpannaaṭṭhamakavāresu. Tattha pana yathākkamaṃ catumaggavajjhānaṃ kilesānaṃ dve koṭṭhāse khepetvā ṭhitā, ekakoṭṭhāsaṃ khepetvā ṭhitā, paṭhamaṃ koṭṭhāsaṃ khepentoti vattabbaṃ. Dhammaṃ anussaranti, dhammassa vā anussaraṇasīlāti dhammānusārino. Dhammoti cettha paññā adhippetā. Saddhaṃ anussaranti, saddhāya vā anussaraṇasīlāti saddhānusārino.

352. 「魔の渇愛の流れを断って」とは、蘊魔に結びついた渇愛と呼ばれる流れを完全に断ち切って。「三つの部分を滅ぼして留まる者」とは、不還者(阿那含)に関して述べた。「すべての節において」とは、一来者、預流者、第八人(預流向)の節においてである。そこでは順に、四道によって断ぜられるべき煩悩の二つの部分を滅ぼして留まる者、一つの部分を滅ぼして留まる者、第一の部分を滅ぼしつつある者と語られるべきである。法に随従して思い出す、あるいは法を随念する性質があるからして「随法行者」(dhammānusārino)である。そしてここでの法とは智慧が意図されている。信に随従して思い出す、あるいは信によって随念する性質があるからして「随信行者」(saddhānusārino)である。

Jānatāti ettha jānanakiriyāvisayassa avisesitattā adhikāravasena anavasesañeyyavisesā adhippetāti āha **‘‘sabbadhamme jānantenā’’**ti. Antosāravirahato abbhuggataṭṭhena ca naḷo viyāti naḷo, mānoti āha **‘‘vigatamānanaḷaṃ kata’’**nti. Khemaṃ patthethāti ettha catūhi yogehi anupaddavattā ‘‘khema’’nti arahattaṃ adhippetaṃ. Patthanā ca chandapatthanā, na taṇhāpatthanāti āha **‘‘kattukamyatāchandena arahattaṃ patthethā’’**ti. Pattāyeva nāma tassa pattiyā na koci antarāyo. Sotthinā pāragamanaṃ uddissa desanaṃ ārabhitvā khemappattiyā desanāya pariyosāpitattā yathānusandhināva desanaṃ niṭṭhāpesīti.

「知る者によって」における知る作用の対象は限定されていないため、文脈の力によって余すところなき知るべき殊勝な法が意図されているからして「一切法を知る者によって」と述べた。内部の芯の欠如からして、また高く生え伸びているという意味で葦(naḷa)のようであるからして「葦」であり、慢のことであるからして「離慢の葦とされた」と述べた。「安穏を願え」における「安穏」とは、四つの軛による害難がないことから阿羅漢果が意図されている。そして願いとは欲求の願い(意欲)であって、渇愛の願いではないからして「なさんとする意欲の欲求によって阿羅漢果を願え」と述べた。「達せられた」とはまさに、それの獲得に対するいかなる障害もないということである。無事に対岸へ渡ることをめぐって教示を開始し、安穏の獲得によって教示を終結させたことから、まさに文脈の接続にしたがって教示を完成させたのである。

Cūḷagopālakasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

小牧牛者経の解説における幽玄なる意味の解明は完結した。

5. Cūḷasaccakasuttavaṇṇanā

5. 小サッチャカ経の解説

353. Haṃsavaṭṭakacchannenāti haṃsavaṭṭakapaṭicchannena, haṃsamaṇḍalākārenāti attho.

353. 「白鳥の円陣の屋根によって」とは、白鳥の円陣に覆われた、白鳥の群れの輪の形によってという意味である。

Vadanti etenāti vādo, maggo. Kiṃ vadanti? Uttaraṃ. Vādānaṃ satāni vādasatāni. ‘‘Nigaṇṭho pañcavādasatāni, nigaṇṭhī pañcavādasatānī’’ti evaṃ nigaṇṭho ca nigaṇṭhī ca pañca pañca vādasatāni uggahetvā vicarantā. Kiriyato te pucchiṃsu, liṅgato pana nigaṇṭhabhāvo ñāto. Tenāha **‘‘ahaṃ vādaṃ āropessāmī’’**ti.

これによって語るからして「論」(vāda)、道筋である。何を語るのか?反答をである。論の百が「数百の論」である。「男のニガンタ(裸形外道)が五百の論条を、女のニガンタが五百の論条を」と、このように男のニガンタと女のニガンタがそれぞれ五百の論条を習得して歩行していた。彼らは行為から問うたが、標相(身なり)からニガンタである状態が知られた。それゆえに「我は論難を仕掛けるであろう」と述べた。

Jagganto sammajjanādivasena. Divātaranti atidivaṃ. ‘‘Kassa pucchā, kassa vissajjanaṃ hotū’’ti paribbājikāhi vutte thero āha **‘‘pucchā nāma amhākaṃ pattā’’**ti. Pucchā vādānaṃ pubbapakkho, yasmā tumhe vādapasutā vādābhiratā dhajaṃ paggayha vicaratha, tasmā vādānaṃ pubbapakkho amhākaṃ patto, evaṃ santepi tumhākaṃ mātugāmabhāvato pubbapakkhaṃ demāti āha **‘‘tumhe pana mātugāmā nāma paṭhamaṃ pucchathā’’**ti. paribbājikā ekekā aḍḍhateyyasatavādamaggaṃ pucchantiyo vādasahassaṃ pucchiṃsu. Yathā nisitassa khaggassa kumudanāḷacchedane kimatthi bhāriyaṃ, evaṃ paṭisambhidāppattassa sāvakesu paññavantānaṃ aggabhāve ṭhitassa dhammasenāpatino puthujjanaparikappitapañhavissajjane kimatthi bhāriyaṃ. Tenāha **‘‘thero khaggenā’’**tiādi. Tattha nijjaṭaṃ niggaṇṭhiṃ katvāti yathā tā puna tattha jaṭaṃ gaṇṭhiṃ kātuṃ na visahanti, tathā vijaṭetvā kathesi. Ayaṃ thero caturaṅgasamannāgate andhakāre sahassavaṭṭikaṃ dīpento viya aññesaṃ avisaye andhakārabhūte pañhe pucchitamatteyeva vissajjesīti therassa paññāveyyattiyaṃ disvā sayañca antimabhavikatāya kohaññe ṭhātuṃ asakkontiyo **‘‘ettakameva, bhante, mayaṃ jānāmā’’**ti āhaṃsu. Therassa visayanti therassa paññāvisayaṃ.

「目覚めて」とは、清掃などによってである。「日が高くなって」とは、極めて昼になってである。「誰の問いとなり、誰の解答となるべきか」と遊行女たちによって言われたとき、長老は「問いとは実に我らに至った(我らの順番である)」と述べた。問いは論争の前段階であり、汝らは論争に励み、論争を悦び、旗を掲げて歩行しているのであるから、論争の前段階は我らに至っている。そうであるにしても汝らは女性であることから前段階を譲るとして「汝らは実に女性であるから、まず問いなさい」と述べた。かの遊行女たちは一人ひとりが二百五十の論争の道を問い、千の論条を問うた。あたかも鋭利な剣にとって蓮の茎を切り落とすことに何の困難があろうか、そのように無礙解に達し、弟子たちの中で知者たちの最上位に留まる法将軍(サーリプッタ)にとって、凡夫によって構想された問いを解答することに何の困難があろうか。それゆえに「長老は剣によって」等と述べた。そこにおいて「もつれなく結び目なきものとして」とは、彼女らが再びそこでもつれや結び目を作ることができぬように、もつれを解きほぐして語った。この長老は四つの要素を備えた暗闇において千の燈火を照らすかのごとく、他者の領域ではない暗闇となった問いを、問われた瞬間に解答したことから、長老の智慧の明達を見て、自らもまた最後の生の者であることから偽善に留まることができずに「大徳よ、私たちが知っているのはこれだけです」と言った。「長老の領域」とは、長老の智慧の領域である。

Neva antaṃ na koṭiṃ addasaṃsūti ekanti vattabbassa bahubhāvato tassā pucchāya attho evamanto evamavasānakoṭīti na passiṃsu na jāniṃsu. Thero tāsaṃ ajjhāsayaṃ olokento pabbajjāruciṃ disvā āha **‘‘idāni kiṃ karissathā’’**ti? Uttaritarapaññoti vādamaggaparicayena medhāvitāya ca yādisā tāsaṃ paññā, tato uttaritarapañño.

「端も極致も見出さなかった」とは、一つと語られるべきことの多さから、その問いの意味はこのような端であり、このような究極の極致であると見ず、知らなかった。長老は彼女らの意向を観察して出家への好意を見て「今や汝らは何をなすのか」と述べた。「さらに優れた智慧の者」とは、論争の道の習熟と聡明さによって彼女らの智慧がどのようなものであろうとも、それよりもさらに優れた智慧の者ということである。

Kathāmaggoti vādamaggo. Tasmā tehi tehi parappavādādīhi bhassaṃ vādamaggaṃ pakārehi vadetīti bhassappavādako. Paṇḍitavādoti ahaṃ paṇḍito nipuṇo bahussutoti evaṃvādī. Yaṃ yaṃ nakkhattācārena ādisatīti nakkhattagatiyā kālañāṇena ‘‘asukadivase candaggāho bhavissati, sūriyaggāho bhavissatī’’tiādinā yaṃ yaṃ ādesaṃ bhaṇati. Sādhuladdhiko ñāṇasampattiyā sundaro. Āropitoti paṭiññāhetunidassanādidosaṃ upari āropito vādo svāropito. Dosapadaṃ āropentena vādinā paravādimhi abhibhuyya tassa dhātukkhobhopi siyā, cittavikkhepena yena doso tena saṅkappito sampavedhitoti. Thūṇanti sarīraṃ khobhitanti katvā. Thūṇanti hi lohitapittasemhānaṃ adhivacanaṃ sabbaṅgasarīradhāraṇato. Apica thūṇapado nāma atthi kathāmaggo vādamaggaṃ gaṇhantānaṃ. Saccako pana kohaññe ṭhatvā attano vādappabhedavasena pare vimhāpento **‘‘thūṇaṃ cepāha’’**ntiādimāha. Sāvakānaṃ vinayaṃ nāma sikkhāpadaṃ, tañca dhammadesanā hotīti esā eva cassa anusāsanīti vinayanādimukhena sammāsambuddhassa mataṃ sāsanaṃ pucchanto saccako **‘‘kathaṃ pana, bho, assajī’’**tiādimāha. Athassa thero ‘‘lakkhaṇattayakathā nāma anaññasādhāraṇā buddhāveṇikā dhammadesanā, tatra ca mayā aniccakathāya samuṭṭhāpitāya taṃ asahanto saccako tucchamānena paṭapaṭāyanto kurumāno licchavī gahetvā bhagavato santikaṃ āgamissati, athassa bhagavā vādaṃ madditvā aniccanti patiṭṭhapento dhammaṃ kathessati, tadā bhavissati vijahitavādo sammāpaṭipattiyā patiṭṭhito’’ti cintetvā aniccānattalakkhaṇapaṭisaṃyuttaṃ bhagavato anusāsanaṃ dassento **‘‘evaṃ, bho, aggivessanā’’**tiādimāha.

「談論の道」とは、論争の道である。それゆえにそれら種々の他者の主張などによって談話や論争の道を様々な様態で語るからして「談論の主張者」である。「賢者を自称する者」とは、私は賢明で精妙で多聞であると、このように主張する者である。「天体の運行によって予言するすべてのこと」とは、星座の運行による時の知識によって「某の日に月食があるだろう、日食があるだろう」等と、語るあらゆる予言のことである。「善き教義を持つ者」とは、知識の完成によって優れた者である。「仕掛けられた」とは、主張・論拠・実例などの過失の上に仕掛けられた論が、よく仕掛けられたものである。過失の語を仕掛ける論者によって他論者において圧倒され、彼の四大の動揺もあるであろう。心の混乱によって、過失であるそれによって構想され、動揺させられたのである。「柱を」とは、身体を動揺させたとしてである。実に「柱」とは血液・胆汁・粘液の同義語であり、すべての身体の器官を支えるからである。さらにまた「柱の句」という名の談論の道が、論争の道を把持する者たちにある。しかしサッチャカは偽善に留まって自らの論の多様性によって他者を驚嘆させつつ「我は柱をも」等と述べた。弟子たちの「律」とは戒律の箇条であり、それもまた説法であるからして、これこそが彼の教誡であるとして、律などを発端として正等覚者の教義・教えを問い求めつつ、サッチャカは「アッサジ殿よ、いかに…」等と述べた。そこで長老は「三相の説とは他に共通しない仏の不共の説法である。そしてそこにおいて私が無常の説を提起したとき、それに耐えられぬサッチャカは空虚な慢心によって激怒し、リッチャヴィたちを連れて世尊の御許に来るであろう。そのとき世尊は彼の論を打ち砕き、無常を確立しつつ法を説かれるであろう。そのとき彼は論を放棄して正しき実践に確立するであろう」と考えて、無常・無我の相に結びついた世尊の教誡を示しつつ「アッギヴェッサナ殿よ、このように…」等と述べた。

Kasmā panettha dukkhalakkhaṇaṃ aggahitanti āha **‘‘thero panā’’**tiādi. **‘‘Upārambhassa okāso hotī’’**ti saṅkhepato vuttaṃ vivarituṃ **‘‘maggaphalānī’’**tiādi vuttaṃ. Tattha pariyāyenāti saṅkhāradukkhatāpariyāyena. Ayanti saccako. Nayidaṃ tumhākaṃ sāsanaṃ nāmāti yattha tumhe avaṭṭhitā, idaṃ tumhākaṃ sabbaññusāsanaṃ nāma na hoti dukkhato anissaraṇattā, atha kho mahāāghātanaṃ nāmetaṃ, mahādukkhaniddiṭṭhattā pana nirayussado nāma ussadanirayo nāma, tasmā natti nāma tumhākaṃ sukhāsā. Uṭṭhāyuṭṭhāyāti ussukkaṃ katvā, dukkhameva jīrāpentā sabbaso dukkhameva anubhavantā, āhiṇḍatha vicarathāti. Sabbamidaṃ tassa micchāparikappitameva. Kasmā? Dukkhasaccūpasañhitāyeva hettha nippariyāyakathā nāma. Tassa hi pariññatthaṃ bhagavati brahmacariyaṃ vussati. Maggaphalāni saṅkhārabhāvena ‘‘yadaniccaṃ, taṃ dukkha’’nti pariyāyato dukkhaṃ, na nippariyāyato. Tenāha **‘‘tasmā’’**tiādi. Sotuṃ ayuttaṃ micchāvādattāti adhippāyo.

「しかしなぜここで苦相が把握されなかったのか」ということから「長老はしかし」等と述べた。「非難の機会となる」と要約して説かれたことを開示するために「道と果は」等と説かれた。そこにおいて「方便(比喩)によって」とは、行苦性の比喩によってである。「この者」とはサッチャカである。「これは汝らの教えではない」とは、汝らが依拠しているこれは、苦からの解脱がないことから汝らの一切知者の教えではなく、実にこれは大いなる処刑場であり、大いなる苦が指示されていることから地獄の増強、増強地獄というべきものであり、それゆえに汝らに楽の希望は全くない。「起き上がっては」とは、奮励して苦そのものを消化し、完全に苦そのものを経験しつつ徘徊し歩行しているということである。これらすべては彼の誤った妄想にすぎない。なぜか?実にここにおいて直截の説とは苦諦に結びついたものだからである。実にそれの遍知のために世尊のもとで梵行が修められるのである。道と果は行であることから「無常なるもの、それは苦である」と比喩的に苦であって、直截的にではない。それゆえに「それゆえに」等と述べた。邪説であるから聞くに値しないという意図である。

354. Saha atthānusāsanaṃ agāranti sandhāgāraṃ, rājakulānaṃ santhāpanaagārantipi sandhāgāraṃ, tasmiṃ santhāgāreti attho. Ekasmiṃ kāle tādise kāle rājakiccānaṃ santhānamettha vicārentīti sandhāgāraṃ, tasmiṃ santhāgāretipi attho. Patiṭṭhitanti ‘‘aniccaṃ anattā’’ti ca paṭiññātaṃ. Idāneva piṭṭhiṃ parivattentoti bhagavato nalāṭaṃ anoloketvā vimukhabhāvaṃ āpajjanto. Surāghareti surāsampādakagehe. Piṭṭhakilañjanti piṭṭhaṭhapanakiḷañjaṃ. Vālanti caṅgavāraṃ. Sāṇasāṭakakaraṇatthanti sāṇasāṭakaṃ karonti etenāti sāṇasāṭakakaraṇaṃ, suttaṃ, tadatthaṃ. Sāṇavākā etesu santīti sāṇavākā, sāṇadaṇḍā. Te gahetvā sāṇānaṃ dhovanasadisaṃ kīḷitajātaṃ yathā ‘‘uddālapupphabhañjikā, sāṇabhañjikā’’ti ca. Kiṃ so bhavamānoti kīdiso hutvā so bhavamāno, kiṃ honto loke aggapuggalassa sammāsambuddhassa vādāropanaṃ nāma tato uttaritarasūraguṇo eva yakkhādibhāvena so bhavamāno abhisambhuṇeyya. Ayaṃ pana appānubhāvatāya pisācarūpo kiṃ ettakaṃ kālaṃ niddāyanto ajja pabujjhitvā evaṃ vadatīti adhippāyo. Tenāha **‘‘kiṃ yakkho’’**tiādi.

354. 「議事堂(集会所)において」(santhāgāre)とは、利益ある教誡を共にする家が議事堂であり、王家を安定させる家も議事堂であり、その議事堂においてという意味である。ある時、そのような時に王の政務の安定をここで審議するからして議事堂であり、その議事堂においてというのも意味である。「確立された」とは、「無常・無我である」と承認されたことである。「今まさに背を向けて」とは、世尊の額を見ずに顔を背ける状態になりつつ。「酒屋において」とは、酒を造る家においてである。「粉を置く竹籠」とは、粉を置くための粗朶の籠である。「毛」とは、酒漉しの布である。「麻布を作るための」とは、これによって麻布を作るからして麻布の作成具、糸のことであり、そのための。「麻の繊維がある」からして麻の繊維、麻の茎である。それらを取って麻の洗濯に似た遊戯の類、例えば「ウッダーラカの花摘み、麻折り」などのようなものである。「彼はいかなる者となって」とは、彼はいかなる者となって、世において最上の人物である正等覚者に論難を仕掛けるという、それよりも優れた勇者の徳を、夜叉などの状態として彼がなりおおせようか。しかしこの者は威力なきゆえに悪鬼のような姿をして、なぜこれほどの時間眠っていて今日目覚めてこのように語るのかという意図である。それゆえに「夜叉か」等と述べた。

355. Mahāmajjhanhikasamayeti mahati majjhanhikakāle, gaganamajjhe sūriyagatavelāya. Divāpadhānikā padhānānuyuñjakā. Vattaṃ dassetvāti pacchābhattaṃ divāvihārūpagamanato pubbe kātabbavattaṃ dassetvā paṭipajjitvā. Bhagavantaṃ dassentoti bhagavati gāravabahumānaṃ vibhāvento ubho hatthe kamalamakulākāre katvā ukkhippa bhagavantaṃ dassento.

355. 「大いなる正午の時に」とは、大いなる正午の時に、空の真ん中に太陽が達した時に。「昼の瞑想に励む者たち」とは、精進に専念する者たちである。「義務を示して」とは、食後に昼の滞在へと赴く前に果たすべき義務を示して行い。「世尊を示して」とは、世尊への敬意と重んじる心を顕示し、両手を蓮の蕾の形にして掲げ、世尊を示してである。

Taṃ sandhāyāti taṃ aparicchinnagaṇanaṃ sandhāya evaṃ ‘‘mahatiyā licchaviparisāyā’’ti vuttaṃ. Kiṃ sīsena bhūmiṃ paharanteneva vandanā katā hoti? Kerāṭikāti saṭhā. Mocentāti bhikkhādānato mocentā. Avakkhittamattikāpiṇḍo viyāti heṭṭhākhittamattikāpiṇḍo viya. Yattha katthacīti attano anurūpaṃ vacanaṃ asallapento yattha katthaci.

「それに関して」とは、その無限定な員数に関してこのように「大いなるリッチャヴィの会衆によって」と説かれた。頭で地面を打つことによってのみ礼拝がなされたのであろうか?「狡猾な者たち」とは、詐欺師たちである。「解放しつつ」とは、托鉢の施しから解放しつつ。「投げ落とされた粘土の塊のように」とは、下に投げ落とされた粘土の塊のように。「いずこにでも」とは、自らに相応しい言葉を語ることなく、いずこにでも。

356. Dissati ‘‘idaṃ imassa phala’’nti apadissati etenāti deso, kāraṇaṃ, tadeva tassa pavattiṭṭhānatāya okāsoti āha **‘‘kañcideva desanti kañci okāsaṃ kiñci kāraṇa’’**nti. Okāso ṭhānanti ca kāraṇaṃ vuccati ‘‘aṭṭhānametaṃ anavakāso’’tiādīsu (dī. ni. 3.161; ma. ni. 3.128-131; a. ni. 1.268-295; vibha. 809). Yadākaṅkhasīti na vadanti anavasesadhammavisayattā paṭiññāya. Tumhanti tumhākaṃ. Yakkha…pe… paribbājakānanti ettha ‘‘pucchāvuso, yadākaṅkhasī’’tiādīni (saṃ. ni. 1.246; su. ni. āḷavakasutta) pucchāvacanāni yathākkamaṃ yojetabbāni.

356. 「これはこれの結果である」と見られる、これによって指示されるからして「理由」(deso)、根拠であり、それまさにそれの発生の場であることから「機会」(okāso)であるからして「ある理由を、ある機会を、ある根拠を」と述べた。「機会」も「場所」も「根拠」と呼ばれる。「これには根拠がなく、機会がない」等において(長部3.161;中部3.128-131;増支部1.268-295;分別論809)。「汝が望むとき」とは語らない。余すところなき法を対象とすることから承認されたからである。「汝を」とは、汝らの。「夜叉…中略…遊行者たちの」において、「友よ、汝が望むとき問いなさい」等という(相応部1.246;経集アーラヴァカ経)問いの言葉を順に結びつけるべきである。

Ñatvā sayaṃ lokamimaṃ parañcāti idaṃ mahāsatto nirayaṃ saggañca tesaṃ paccakkhato dassetvā āha.

「自らこの世と他世とを知って」とは、これは大士(菩薩)が地獄と天界とを彼らに直接に示して語ったことである。

Taggha te ahamakkhissaṃ, yathāpi kusalo tathāti yathā pakārena sukusalo sabbaññū jānāti katheti, tathā ahaṃ kathessāmi. Tassa pana kāraṇaṃ akāraṇañca avijānanto rājānaṃ karotu vā mā vā, ahaṃ pana te akkhissāmīti āha **‘‘rājā ca kho…pe… na vā’’**ti.

「まことに私は汝に語ろう、巧みな者がそのようであるように」とは、巧みな一切知者が知って語るその様態のように、そのように私は語るであろう。しかしその根拠と非根拠とを知らない王がなそうがなすまいが、私は汝に語るであろうとして「王は実に…中略…あるいは否」と述べた。

Kathitaniyāmeneva kathentoti teparivaṭṭakathāya dukkhalakkhaṇampesa kathessati, idha pana aññathā sāvakena assajinā kathitaṃ, aññathā samaṇena gotamenāti vacanokāsapariharaṇatthaṃ dukkhalakkhaṇaṃ anāmasitvā therena kathitaniyāmeneva aniccānattalakkhaṇameva kathentena bhagavatā – ‘‘rūpaṃ anattā yāva viññāṇaṃ anattā’’ti vutte saccako taṃ asampaṭicchanto upamāya atthañāpane upamāpamāṇaṃ yathā ‘‘go viya gavayo’’ti attānaṃ upameyyaṃ katvā upamāpamāṇena patiṭṭhāpetukāmo āha **‘‘upamā maṃ, bho gotama, paṭibhātī’’**ti, upamaṃ te karissāmi, upamāyapidhekacce viññū purisā bhāsitassa atthaṃ ājānantīti adhippāyo. Bhagavā upamāsatena, aññena vāpi pamāṇena tava attā patiṭṭhāpetuṃ na labbhā attano viya pamāṇassapi anupalabbhanatoti āha **‘‘paṭibhātu taṃ aggivessanā’’**ti. Yathā hi attā nāma koci paramatthato na upalabbhati ekaṃsena anupaladdhito, evassa ñāpakapuggalaṃ pamāṇampi na upalabbhati. Tenāha ‘‘āhara taṃ **upamaṃ vissattho’’**ti, na tena tava attavādo patiṭṭhaṃ labhatīti adhippāyo.

「語られた通りの方法で語りつつ」とは、三転の説話において苦相をも彼は語るであろうが、ここでは「別のやり方で弟子の弟子アッサジによって語られ、別のやり方で沙門ゴータマによって語られた」と言葉の批判の機会を避けるために苦相に言及せず、長老によって語られた通りの方法で無常・無我の相のみを語りつつ、世尊によって「色は無我である、識に至るまで無我である」と言われたとき、サッチャカはそれを受け入れず、比喩によって意味を知らせるにあたり、「牛のように野牛がある」と比喩の基準(証拠)のように我を比喩の対象として比喩の基準によって確立しようと望んで「ゴータマ殿よ、私に比喩がひらめきました」と述べた。「汝に比喩を作ろう、比喩によってもこの世のある賢明な人々は語られたことの意味を理解する」という意図である。世尊は「百の比喩によっても、あるいは他のいかなる基準(証拠)によっても汝の我を確立することはできない。我と同様に基準(証拠)も得られないからである」として「アッギヴェッサナよ、汝にひらめくがよい」と仰せられた。実に我というものがいかなるものも勝義においては全く得られないように、そのようにそれを知らせる人物も基準(証拠)も得られないのである。それゆえに「確信をもってその比喩を持ち出しなさい」と述べた。「それによって汝の我論が拠り所を得ることはない」という意図である。

Yaṃ diṭṭhaṃ kāyikaṃ vā puññāpuññaṃ purisapuggale upalabbhati, tena viññāyati rūpattāyaṃ purisapuggalo, tathā yaṃ diṭṭhaṃ sukhadukkhapaṭisaṃvedanaṃ purisapuggale upalabbhati, yaṃ diṭṭhaṃ nīlādisañjānanaṃ, yaṃ diṭṭhaṃ rajjanadussanādi, yaṃ diṭṭhaṃ ārammaṇapaṭivijānanaṃ purisapuggale upalabbhati, tena viññāyati viññāṇattāyaṃ purisapuggaloti. Evaṃ rūpādilakkhaṇo attā tattha tattha kāye kalyāṇapāpakānaṃ kammānaṃ vipākaṃ sukhadukkhaṃ paṭisaṃvedeti, evañcetaṃ sampaṭicchitabbaṃ, aññathā kammaphalasambandho na yujjeyyāti imamatthaṃ dassento **‘‘iminā kiṃ dīpetī’’**tiādimāha. Tattha teti sattā. Patiṭṭhāyāti nissāya. ‘‘Rūpattāyaṃ purisapuggalo’’tiādinā rūpādidhamme ‘‘attā’’ti vatvā puna ‘‘rūpe patiṭṭhāyā’’tiādiṃ vadanto ayaṃ nigaṇṭho attano vādaṃ bhindati patiṭṭhānassa, patiṭṭhāyakassa ca abhedadīpanato. Rūpādayo vedanādisabhāvā attā tannissayena puññādikiriyāsamupaladdhito idha yaṃ nissāya puññādikiriyā samupalabbhati, te rūpādayo sattasaññitā attasabhāvā diṭṭhā yathā taṃ devatādīsu, ye pana sattasaññitā tato aññe asattasabhāvā diṭṭhā yathā taṃ kaṭṭhakaliṅgarādīsūti evaṃ sādhetabbaṃ atthaṃ sahetuṃ katvā dassento nigaṇṭho nidassanaṃ ānesīti āha **‘‘ativiya sakāraṇaṃ katvā upamaṃ āharī’’**ti. Tassa pana ‘‘balakaraṇīyā’’ti vuttapurisappayogā viya bījagāmabhūtagāmāpi sajīvā evāti laddhīti te sadisūdāharaṇabhāvena vuttāti daṭṭhabbaṃ. Sace pana ye jīvassa ādhāraṇabhāvena sahitena pavattetabbabhāvena sallakkhetabbā, te sajīvāti icchitā, na kevalena pavattetabbabhāvena. Evaṃ sati ‘‘balakaraṇīyā kammantā’’ti vadantena visadisūdāharaṇabhāvena upanītanti daṭṭhabbaṃ.

見られた身体的な、あるいは福・非福が人物において得られるなら、それによって「色を我とするこの人物である」と了知される。同様に見られた苦楽の感受が人物において得られ、見られた青などの想が、見られた貪染や瞋恚などが、見られた対象の了知が人物において得られるなら、それによって「識を我とするこの人物である」と了知される。このように色などを相とする我が、それぞれの身体において善悪の業の異熟である苦楽を感受するのであり、このようにこれが受け入れられるべきであり、そうでなければ業と結果の結合が成り立たないであろうと、この意味を示すために「これによって何を示しているのか」等と述べた。そこにおいて「彼らは」とは衆生たちである。「拠って」とは依拠して。「色を我とするこの人物である」等により色などの法を「我」と述べて、再び「色に拠って」等と語るこのニガンタは、拠り所と拠るものとの無差別を示すことから自らの論を破綻させている。色などは受などの本性を持つ我であり、それに依拠して福などの行為が得られることから、ここで何かに依拠して福などの行為が得られるなら、それら色などは衆生と名づけられた我の本性として見られる、あたかも神々などにおけるように。しかし衆生と名づけられ、それとは異なる非衆生の本性として見られるもの、あたかも木片や瓦礫などにおけるように。このように証明されるべき意味を根拠あるものとして示しつつ、ニガンタは例証を持ち出したからして「極めて根拠あるものとして比喩を持ち出した」と述べた。しかし彼の「人の力によってなされるべきこと」と説かれた人間の営為のように、種子の集まりや植物の集まりもまた有情(魂あるもの)であるという見解があるため、それらは類似の例証として説かれたと見られるべきである。もし有情の支持体として共に行動させるべき状態として観察されるべきもの、それらが有情であると望まれるのであって、単に行動させるべき状態としてではない。そうであるならば「力によってなされるべき作業」と語ることによって非類似の例証として提示されたと見られるべきである。

Samattho nāma natthi attavādabhañjanassa anattatāpatiṭṭhāpanassa ca sugatāveṇikattā. Yaṃ panetarahi sāsanikā yathāsatti tadubhayaṃ karonti, taṃ buddhehi dinnanaye ṭhatvā tesaṃ desanānusārato. Nivattetvāti nīharitvā, visuṃ katvāti attho. Sakalaṃ vesālinti sabbavesālivāsinaṃ janaṃ nissayūpacārena nissitaṃ vadati yathā ‘‘gāmo āgato’’ti. Saṃvaṭṭitvāti sampiṇḍitvā, ekajjhaṃ gahetvāti attho.

我論を打破し無我性を確立することは善逝(仏)の不共のものであるからして、能う者はいない。しかし今、教団の者たちが力量に応じてその両方をなすのは、諸仏によって与えられた道筋に留まり、彼らの教示に従うことによる。「退けて」とは、取り除いて、別にしてという意味である。「ヴェーサーリー全体を」とは、すべてのヴェーサーリーに住む人々を、拠り所の比喩によって依拠するものとして語る、「村がやって来た」というように。「まとめて」とは、集約して、一つに把握してという意味である。

357. Patiṭṭhapetvāti yathā taṃ vādaṃ na avajānāti, evaṃ paṭiññaṃ kāretvāti attho. Ghāti-saddo hiṃsanattho, tato ca saddavidū arahatthaṃ tāya-saddaṃ uppādetvā ghātetāyanti rūpasiddhiṃ icchantīti āha **‘‘ghātāraha’’**nti. Jāpetāyantiādīsupi eseva nayo. Vattituñca marahatīti ma-kāro padasandhikaro. Visesetvā dīpetīti ‘‘vattati’’icceva avatvā ‘‘vattituñca marahatī’’ti dutiyena padena bhagavatā vuttaṃ visesetvā dīpeti.

357. 「確立させて」とは、その論を否認しないように承認させてという意味である。殺す(ghāti)という語は害する意味であり、そこから言語の通暁者は「〜に値する」という意味において「tāya」の語を生じさせて「殺されるに値する」(ghātetāyaṃ)という語形成立を望むからして「殺害に値する」と述べた。「奪われるに値する」等においてもこのやり方である。「従わせることもできる」(vattituñca marahati)の「m」の文字は結合詞である。「特筆して示す」とは、「従う」とだけ言わずに「従わせることもできる」と第二の句によって世尊によって説かれたことを特筆して示すことである。

Pāsādikaṃ abhirūpanti abhimatarūpasampannaṃ sabbāvayavaṃ. Tato eva susajjitaṃ sabbakālaṃ suṭṭhu sajjitākārameva. Evaṃvidhanti yādisaṃ sandhāya vuttaṃ, taṃ dasseti **‘‘dubbaṇṇa’’**ntiādinā. Imasmiṃ ṭhāneti ‘‘vattati te tasmiṃ rūpe vaso’’ti etasmiṃ kāraṇaggahaṇe. Kāraṇañhetaṃ bhagavatā gahitaṃ ‘‘vattati…pe… mā ahosī’’ti. Tenetaṃ dasseti rūpaṃ anattā avasavattanato, yañhi vase na vattati, taṃ anattakameva diṭṭhaṃ yathā taṃ sampatti. Vādanti dosaṃ niggahaṃ āropessati. Sattadhā muddhā phalatīti sahadhammikasākacchāhi tathāgate, pucchante abyākaraṇena vihesāya kayiramānattā tatiye vāre dhammatāvasena vihesakassa sattadhā muddhā phalati yathā taṃ sabbaññupaṭiññāya bhagavato sammukhabhāvūpagamane. Vajirapāṇi pana kasmā ṭhito hotīti? Bhagavā viya anukampamāno mahantaṃ bhayānakaṃ rūpaṃ māpetvā tāsetvā imaṃ diṭṭhiṃ vissajjāpemīti tassa purato ākāse vajiraṃ āharanto tiṭṭhati, na muddhaṃ phāletukāmo. Na hi bhagavato purato kassaci anattho nāma hoti. Yasmā pana bhagavā ekaṃsato sahadhammikameva pañhaṃ pucchati, tasmā **aṭṭhakathāyaṃ ‘‘pucchite’’**icceva vuttaṃ.

「端正で美しい」とは、望ましい姿形を備えたすべての肢体である。それゆえに「よく装飾された」とは、常に実によく装飾された姿そのものである。「このような」とは、どのようなものをめぐって説かれたのか、それを「醜悪な」等によって示す。「この箇所において」とは、「汝の意のままにその色において従うか」というこの根拠の把握においてである。実に「〜ではないように…中略…従うか」というこの根拠が世尊によって把握された。これによってこれを示す。色は意のままに従わないことから無我である。実に意のままに従わないものは無我であると見られる、あたかもあの富貴のように。「論を」とは、過失や論難を仕掛けるであろう。「頭が七つに裂ける」とは、如来が正当な法の対話において問うているのに、答えないことによって困惑させることがなされるとき、三度目には法性の力によって困惑させる者の頭が七つに裂ける、あたかも一切知の承認において世尊の御前に到達したときのように。しかし金剛手(ヴァジュラパーニ)はなぜ留まっていたのか?世尊のように憐れみ、巨大で恐ろしい姿を作り出して脅迫し「この見解を捨てさせよう」と、彼の前方の虚空において金剛杵を携えて留まっていたのであり、頭を裂こうと欲したのではない。実に世尊の前において誰にも害悪が生じることはないからである。しかし世尊は決定して正当な法の問いのみを問われるからして、義釈(アッタカター)においては「問われたときに」とだけ説かれたのである。

Ādittanti dippamānaṃ. Akkhināsādīnīti ādi-saddena eḷakasīsasadisakesamassuādīnaṃ saṅgaṇhāti. **‘‘Diṭṭhivissajjāpanattha’’**nti vatvā nayidaṃ yadicchāvasena āgamanaṃ, atha kho ādito mahābrahmānaṃ purato katvā attanā katapaṭiññāvasenāti dassento ‘‘apicā’’tiādimāha. Nti vajirapāṇiṃ. Taṃ saccakassa paṭiññāya parivattanakāraṇaṃ. Aññepi nu khotiādi saccakassa vīmaṃsakabhāvadassanaṃ. Avīmaṃsakena hi taṃ disvā mahāyakkhoti vadeyya, tenassa asāruppaṃ siyā, ayaṃ pana aññesaṃ abhītabhāvaṃ upadhāretvā ‘‘addhāme yakkhaṃ na passanti, tasmā mayhameva bhayaṃ uppanna’’nti tīretvā yuttappattavasena paṭipajji.

「燃え盛る」とは、輝いている。「目や鼻など」とは、「など」の語によって羊の頭のような髪や髭などを包摂する。「見解を捨てさせるために」と述べて、これは勝手な意志による来訪ではなく、最初から大梵天たちを前にして自らなされた誓約の力によるものであることを示すために「さらにまた」等と述べた。「彼を」とは金剛手をである。それはサッチャカの承認を覆す原因である。「他の者たちも果たして…」等は、サッチャカが観察の徒であることを示すものである。観察しない者であれば彼を見て「大夜叉だ」と叫び、それによって彼にとって不相応なことが生じるであろう。しかしこの者は他者の無恐怖の状態を観察して「確かに彼らは夜叉を見ていない。それゆえに私にのみ恐怖が生じたのだ」と判断し、道理と正当の力によって対処したのである。

358. Upadhāretvāti byākātabbamatthaṃ sallakkhetvā. Eseva nayoti saṅkhāraviññāṇesupi saññāya viya nayoti attho. Vuttavipariyāyenāti ‘‘akusalā dukkhā vedanā mā ahosi, akusalā domanassasampayuttā saññā mā ahosī’’tiādinā nayena attho veditabbo. Sappadaṭṭhavisanti sabbasattānaṃ sappadaṭṭhaṭṭhāne sarīrapadese patitaṃ visaṃ. Allīnoti saṃsiliṭṭho. Upagatoti na apagato. Ajjhositoti gilitvā pariniṭṭhapetvā ṭhito. Parito jāneyyāti samantato sabbaso kiñcipi asesetvā jāneyya. Parikkhepetvāti āyatiṃ anuppattidhammatāpādanavasena sabbaso khepetvā. Tathābhūto cassa khayavayaṃ upaneti nāmāti āha **‘‘khayaṃ vayaṃ anuppādaṃ upanetvā’’**ti.

358. 「省察して」とは、答えるべき意味を考慮して。「これと同じやり方である」とは、行と識においても想におけるようなやり方であるという意味である。「説かれたことの逆によって」とは、「不善で苦なる受がないように、不善で憂苦と相応した想がないように」等のやり方によって意味が知られるべきである。「蛇に噛まれた毒」とは、すべての生き物の蛇に噛まれた場所の身体の部位に入った毒のことである。「密着した」とは、結合した。「近づいた」とは、離れていない。「執着した」とは、飲み込んで完全に固着して留まることである。「完全に知るべきである」とは、周囲から余すところなく一切を知るべきである。「覆い尽くして」とは、将来に生じない法性をもたらす力によって完全に滅ぼして。そしてそのようになった者が滅尽と衰退をもたらすのであるからして「滅尽と衰退と不生をもたらして」と述べた。

359. Attano vādassa asārabhāvato, yathāparikappitassa vā sārassa abhāvato antosāravirahito ritto. Vippakāranti diṭṭhiyā sīlācārassa ca vasena virūpataṃ sāparādhataṃ sāvajjataṃ tesaṃ upari āropetvā. Sinnapattoti tanukapatto. Viphāritanti viphāḷitaṃ.

359. 自らの論に実質がないことから、あるいは構想されたような実質がないことから内部の芯を欠いて「空虚な」である。「醜態を」とは、見解と戒律の行状の力によって醜さ、有罪性、過失を彼らの上に負わせて。「葉を落とした」とは、葉が薄くなった。「裂かれた」とは、引き裂かれた。

Asārakarukkhaparicitoti palāsādiasārarukkhakoṭṭane kataparicayo. Thaddhabhāvanti vipakkabhāvaṃ, tikkhabhāvanti attho. Natthīti sadā natthīti na vattabbaṃ. Parisatīti catuparisamajjhe. Tathā hi **‘‘gaṇṭhikaṃ paṭimuñcitvā paṭicchannasarīrā’’**ti vuttaṃ. Yantāruḷhassa viyāti byākaraṇatthaṃ vāyamayantaṃ āruḷhassa viya.

「芯なき樹木に慣れた」とは、パラサ(ブテア)などの芯なき樹木を伐採することに習熟した。「頑なな状態」とは、熟練した状態、鋭利な状態という意味である。「ない」とは、常にないと言われるべきではない。「会衆において」とは、四部会衆の真ん中においてである。実にそのように「結び目を解いて身を覆った」と説かれた。「機械に乗せられた者のように」とは、解答のために努力の機械に乗せられた者のように。

360. Diṭṭhivisūkānīti diṭṭhikiñcakāni. Diṭṭhisañcaritānīti diṭṭhitāḷanāni. Diṭṭhivipphanditānīti diṭṭhiiñjitāni. Tesaṃ adhippāyaṃ ñatvāti tesaṃ licchavikumārānaṃ iñjiteneva ajjhāsayaṃ jānitvā. Tenāha **‘‘ime’’**tiādi.

360. 「見解の曲芸」(diṭṭhivisūkāni)とは、見解の戯れである。「見解の彷徨」とは、見解の打撃である。「見解の動揺」とは、見解の身もだえである。「彼らの意図を知って」とは、それらリッチャヴィの若者たちの身もだえによって意向を知ってである。それゆえに「これらの者たち」等と述べた。

361. Yasmiṃ adhigate puggalo satthusāsane visārado hoti parehi asaṃhāriyo, taṃ ñāṇaṃ visāradassa bhāvoti katvā vesārajjanti āha **‘‘vesārajjappattoti ñāṇappatto’’**ti. Tato evamassa na paro paccetabbo etassa atthīti aparappaccayo. Na paro pattiyo saddahātabbo etassa atthīti aparappattiyo. Kāmaṃ saccako sekkhabhūmi asekkhabhūmīti idaṃ sāsanavohāraṃ na jānāti. Passatīti pana dassanakiriyāya vippakatabhāvassa vuttattā ‘‘na ettāvatā bhikkhukiccaṃ pariyosita’’nti aññāsi, tasmā puna ‘‘kittāvatā panā’’ti pucchaṃ ārabhi. Tena vuttaṃ **‘‘passatīti vuttattā’’**tiādi.

361. それを体得したとき、人物が師の教えにおいて無畏となり他者によって動かされない、その知識が無畏の者の状態であることから「無畏」(vesārajja)であるとして「無畏に達したとは、知識に達したことである」と述べた。それゆえに彼には他者によって信じられるべきものが他にないからして「他によらない者」(aparappaccayo)である。他者によって信頼され信じられるべきものが彼にないからして「他を頼まない者」(aparappattiyo)である。確かにサッチャカは有学の境地、無学の境地というこの教団の術語を知らない。しかし「見ている」と見る作用が未完了の状態であると説かれたことから「これだけでは比丘の任務は終了していない」と知った。それゆえに再び「しかしどれほどによって」と問いを始めた。それゆえに「見ていると説かれたことから」等と述べた。

Yathābhūtaṃ passatīti dassanaṃ, visiṭṭhaṭṭhena anuttariyaṃ, dassanameva anuttariyanti dassanānuttariyaṃ, dassanesu vā anuttariyaṃ dassanānuttariyaṃ. Lokiyapaññāti cettha vipassanāpaññā veditabbā. Sā hi sabbalokiyapaññāhi visiṭṭhaṭṭhena ‘‘anuttarā’’ti vuttā. Lokiyapaṭipadānuttariyesupi eseva nayo. Idāni nippariyāyatova tividhampi anuttariyaṃ dassetuṃ **‘‘suddhalokuttaramevā’’**tiādi vuttaṃ. Satipi sabbesampi lokuttaradhammānaṃ anuttarabhāve ukkaṭṭhaniddesena aggamaggapaññā tato uttaritarassa abhāvato dassanānuttariyaṃ. Tenāha **‘‘arahattamaggasammādiṭṭhī’’**ti. Sesāni maggaṅgānīti sesāni arahattamaggaṅgāni. Tāni hi matthakappattāni nibbānagāminī paṭipadāti. Aggaphalavimuttīti aggamaggassa phalavimutti arahattaphalaṃ. Khīṇāsavassāti sabbaso khīyamānāsavassa. Nibbānadassananti aggamaggasammādiṭṭhiyā sacchikiriyābhisamayamāha. Tattha maggaṅgānīti aṭṭha maggaṅgāni. Catusaccantogadhattā sabbassa ñeyyadhammassa **‘‘cattāri saccāni buddho’’**ti vuttaṃ. Saccānugatasammohaviddhaṃsaneneva hi bhagavato sabbaso ñeyyāvaraṇappahānaṃ. Nibbisevanoti niruddhakilesavisevano.

ありのままに見るからして「見」(dassana)であり、勝れているという意味で「無上」であり、見ることそのものが無上であるからして「見無上」(dassanānuttariyaṃ)であり、あるいは見るものの中で無上なるものが「見無上」である。そしてここでの「世間の智慧」とは、 vipassanā(内観・観想)の智慧と知るべきである。実にそれは一切の世間の智慧の中で勝れているという意味で「無上」と説かれた。世間の行無上などにおいてもこのやり方である。今や直截に三種の無上を示すために「純粋に出世間のみを」等と説かれた。すべての出世間の法が無上である状態が存在するにしても、最上の例示によって最勝の道(阿羅漢道)の智慧がそれ以上に優れたものがないことから「見無上」である。それゆえに「阿羅漢道の正見」と述べた。「残りの道支」とは、残りの阿羅漢道の支分である。実にそれらは究極に達した涅槃へと赴く行道である。「最上の果の解脱」とは、最上の道の果の解脱である阿羅漢果である。「漏尽者の」とは、完全に漏(煩悩)が尽きつつある者の。「涅槃の覚知」とは、阿羅漢道の正見による現証の覚知をいう。そこにおいて「道支」とは、八つの道支である。四聖諦に包摂されることから一切の知るべき法について「四聖諦を覚った者」と説かれた。実に聖諦に従う迷妄の粉砕によってのみ世尊には一切の所知障の断滅があるからである。「煩悩の習慣なき者」とは、滅した煩悩の余習(習慣)なき者である。

362. Dhaṃsīti anuddhaṃsanasīlā. Anupahatanti avikkhittaṃ. Sakalanti anūnaṃ. Kāyaṅganti kāyameva aṅganti vadanti, kāyasaṅkhātaṃ aṅgaṃ sīsādiavayavanti attho. Tathā ‘‘hotu, sādhū’’ti evamidaṃ vācāya avayavo vācaṅganti.

362. 「破壊する者」(dhaṃsī)とは、滅ぼし落とす性質の者である。「損なわれていない」とは、錯乱していない。「完全な」とは、欠けのない。「身体の肢節」とは、身体そのものが肢節であると言い、身体と呼ばれる肢節である頭などの部分という意味である。同様に「よろしい、善い」というこれが言葉の部分である「語の肢節」である。

363. Āharantīti abhiharanti. Puññanti puññaphalasaṅkhāto ānubhāvo. Puññaphalampi hi uttarapadalopena ‘‘puñña’’nti vuccati – ‘‘kusalānaṃ, bhikkhave, dhammānaṃ samādānahetu evamidaṃ puññaṃ pavaḍḍhatī’’tiādīsu (dī. ni. 3.80). Tenāha **‘‘āyatiṃ vipākakkhandhā’’**ti. Puññamahīti mahati puññaphalavibhūti setacchattamakuṭacāmarādi. Tena vuttaṃ **‘‘vipākakkhandhānaṃyeva parivāro’’**ti. Licchavīhi pesitena khādanīyabhojanīyena samaṇo gotamo sasāvakasaṅgho mayā parivisito, tasmā licchavīnameva taṃ puññaṃ hotīti. Tenāha **‘‘taṃ dāyakānaṃ sukhāya hotū’’**ti. Yasmā pana bhagavato bhikkhusaṅghassa ca saccakena dānaṃ dinnaṃ, na licchavīhi, tasmā bhagavā saccakassa satiṃ parivattento **‘‘yaṃ kho’’**tiādimāha. Tena vuttaṃ **‘‘iti bhagavā’’**tiādi. Nigaṇṭhassa matena vināyevāti saccakassa cittena vinā eva tassa dakkhiṇaṃ khettagataṃ katvā dasseti. Tenāha **‘‘attano dinnaṃ dakkhiṇaṃ…pe… niyyātesī’’**ti.

363. 「持参する」とは、捧げ持つ。「功徳」とは、功徳の結果と呼ばれる威力である。功徳の結果もまた後語の省略によって「功徳」と呼ばれる――「比丘たちよ、善なる諸法を受持することを因として、このようにこの功徳が増大する」等において(長部3.80)。それゆえに「未来における異熟の蘊」と述べた。「功徳の大いなること」とは、白傘・宝冠・払子などの大いなる功徳の結果の栄華である。それゆえに「異熟の蘊の眷属そのものである」と説かれた。「リッチャヴィたちによって送られた硬軟の食糧によって、沙門ゴータマは弟子たちのサンガとともに私によって給仕された。それゆえにリッチャヴィたちにこそその功徳がある」と。それゆえに「それが施主たちの幸福のためにあるように」と述べた。しかし世尊と比丘サンガに対してサッチャカによって布施が与えられたのであって、リッチャヴィたちによってではない。それゆえに世尊はサッチャカの念を転じさせつつ「実に…」等と述べられた。それゆえに「このように世尊は」等と説かれた。「ニガンタの考えなしに」とは、サッチャカの意図なしにまさに彼の布施を福田に届いたものとして示される。それゆえに「自らに与えられた布施を…中略…捧げた」と述べた。

Cūḷasaccakasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

小サッチャカ経の解説における幽玄なる意味の解明は完結した。

6. Mahāsaccakasuttavaṇṇanā

6. 大サッチャカ経の解説

364. Ekaṃ samayaṃ bhagavā vesāliyaṃ viharatīti iminā tadā bhagavato vesāliyaṃ nivāsaparicchinno pubbaṇhādibhedo sabbo samayo sādhāraṇato gahito, tathā tena kho pana samayenāti ca iminā. Pubbaṇhasamayanti pana iminā tabbiseso, yo bhikkhācāratthāya paccavekkhaṇakālo. Aṭṭhakathāyaṃ pana **‘‘tīhi padehi ekova samayo vutto’’**ti vuttaṃ visesassa sāmaññantogadhattā. Mukhadhovanassa pubbakālakiriyābhāvasāmaññato vuttaṃ **‘‘mukhaṃ dhovitvā’’**ti. Mukhaṃ dhovitvā eva hi vāsadhuro ce, velaṃ sallakkhetvā yathāciṇṇaṃ bhāvanānuyogaṃ, ganthadhuro ce, ganthaparicaye katipaye nisajjavāre anuyuñjitvā pattacīvaraṃ ādāya vitakkamāḷaṃ upagacchati.

364. 「ある時、世尊はヴェーサーリーに住しておられた」とは、これによって当時世尊のヴェーサーリーにおける滞在によって区切られた午前などの区分のすべての時が一般的に把握され、同様に「その時まさに」というこれによってもそうである。「午前の時に」とは、しかしこれによってそれの特定、すなわち托鉢のための省察の時が把握される。しかし義釈においては「三つの句によって一つの時のみが説かれた」と説かれた。特定は一般の中に包摂されるからである。洗顔が以前の時の行為であることの共通性から「顔を洗って」と説かれた。実に顔を洗ってこそ、滞在の任務(修行)であるならば、時を考慮して習慣通りの修習専念を、読誦の任務(学習)であるならば、教理の習熟において幾ばくかの座臥の回数に専念して鉢と衣を持って問答の堂へと赴くのである。

Kāraṇaṃ yuttaṃ, anucchavikanti attho. Pubbe yathācintitaṃ pañhaṃ apucchitvā aññaṃ pucchanto maggaṃ ṭhapetvā ummaggato parivattento viya hotīti āha **‘‘passena tāva pariharanto’’**ti.

「理義」(kāraṇaṃ)とは相応しい、適切なという意味である。以前に考えていた通りの問いを問わずに別のことを問う者は、道を差し置いて邪道から方向転換するかのようであるとして「まずは横道から論難しつつ」と述べた。

365. Ūrukkhambhopi nāma bhavissatīti ettha nāma-saddo vimhayatthoti katvā vuttaṃ **‘‘vimhayatthavasenā’’**tiādi. ‘‘Andho nāma pabbataṃ abhiruhissatī’’tiādīsu viya vimhayavācīsaddayogena hi ‘‘bhavissatī’’ti anāgatavacanaṃ. Kāyanvayanti kāyānugataṃ. ‘‘Ayampi kho kāyo evaṃdhammo evaṃbhāvī evaṃanatīto’’tiādinā (dī. ni. 2.379; ma. ni. 1.112; ma. ni. 3.154) kāyassa asubhāniccāditāya anupassanā kāyabhāvanāti āha **‘‘kāyabhāvanāti pana vipassanā vuccatī’’**ti. Anāgatarūpanti abhīte atthe anāgatasaddāropanaṃ anāgatappayogo na sameti. Atthopīti ‘‘ūrukkhambhopi nāma bhavissatī’’ti vuttaatthopi na sameti. Ayanti attakilamathānuyogo. Tesanti nigaṇṭhānaṃ.

365. 「大腿の硬直さえもあるであろう」における「まさに」(nāma)という語は驚嘆の意味であるとして「驚嘆の意味の力によって」等と説かれた。「盲人が山に登るであろう」等におけるように、驚嘆を表す語の結合によって「あるであろう」という未来の表現がある。「身に随伴する」とは、身に従う。「この身体もまたこのような性質であり、このようになるものであり、これを免れない」等により(長部2.379;中部1.112;中部3.154)身体の不浄や無常などの観想が「身の修習」であるとして「身の修習とはしかし観想(vipassanā)と呼ばれる」と述べた。「未来の形」とは、過去の意味において未来の語を置くこと、未来の用法は合致しない。「意味もまた」とは、「大腿の硬直さえもあるであろう」と説かれた意味も合致しない。これは苦行の専念である。「彼らの」とは、ニガンタたちの。

366. Attano adhippetakāyabhāvanaṃ vitthārento vitthārato dassento ye taṃ anuyuttā, te nāmagottato vibhāvento **‘‘nando vaccho’’**tiādimāha. Kiliṭṭhatapānanti kāyassa kilesanatapānaṃ puggalānaṃ. Jātamedanti medabhāvāpattivasena uppannamedaṃ. Purimaṃ pahāyāti kālaparicchedena anāhāraappāhāratādivasena kāyassa apacinanaṃ khedanaṃ pariccajitvā. Kāyabhāvanā pana na paññāyatīti niyamaṃ paramatthato kāyabhāvanāpi tava ñāṇena na ñāyati, sesatopi na dissati.

366. 自らの意図する身の修習を詳述しつつ、詳細に示して、それに専念した者たちを名前と氏族から明らかにしつつ「ナンダ・ヴァッチャ」等と述べた。「苦行に汚れた者たちの」とは、身体を苦しめる苦行をなす人物たちの。「脂肪を生じた」とは、脂肪の状態に至る力によって生じた脂肪である。「以前のものを捨てて」とは、期間の限定による絶食や少食などの力による身体の減衰と疲労を放棄して。「身の修習はしかし知られない」とは、確かな勝義において身の修習も汝の知識によって知られず、残りからも見出されないということである。

367. Imasmiṃ pana ṭhāneti ‘‘kāyabhāvanampi kho tvaṃ, aggivessana, na aññāsi, kuto pana tvaṃ cittabhāvanaṃ jānissasī’’ti imasmiṃ ṭhāne. Tathā ‘‘yo tvaṃ evaṃ oḷārikaṃ dubbalaṃ kāyabhāvanaṃ na jānāsi, so tvaṃ kuto santasukhumaṃ cittabhāvanaṃ jānissasī’’ti etasmiṃ atthavaṇṇanāṭhāne. Abuddhavacanaṃ nāmetaṃ padanti kāyabhāvanāsaññitavipassanāto cittabhāvanā santā, vipassanā pana pādakajjhānato oḷārikā ceva dubbalā cāti ayañca etassa padassa attho. ‘‘Abuddhavacanaṃ nāmetaṃ vacanaṃ siyā’’ti vatvā thero pakkamituṃ ārabhati. Atha naṃ mahāsīvatthero ‘‘vipassanā nāmesā na ādito subrūhitā balavatī tikkhā visadā hoti, tasmā taruṇavasenāyamattho veditabbo’’ti dassento **‘‘dissati, bhikkhave’’**ti suttapadaṃ (saṃ. ni. 2.62) āhari. Tattha ādānanti paṭisandhi. Nikkhepananti cuti. Oḷārikanti arūpadhammehi duṭṭhullabhāvattā oḷārikaṃ. Kāyanti catusantatirūpasamūhabhūtaṃ kāyaṃ. Oḷārikanti bhāvanapuṃsakaniddeso, oḷārikākārenāti attho. Teneva vuttaṃ **‘‘ādānampi nikkhepanampī’’**ti.

367. 「この箇所において」とは、「アッギヴェッサナよ、そなたは身の修習すら知らなかったのに、どうして心の修習を知ることができようか」というこの箇所においてである。同様に、「そのように粗大で力のない身の修習を知らないそなたが、どうして静寂で微細な心の修習を知ることができようか」というこの釈義の箇所においてである。「『これは仏説ではない』という語」とは、身の修習と名づけられた毘鉢舎那(ヴィパッサナー)よりも心の修習は静寂であり、毘鉢舎那は基礎となる禅定(根本禅)に比べて粗大で力がない、というのがこの語の意味である。「この言葉は仏説ではないのではないか」と言って、長老は立ち去ろうとした。そこで大シーヴァ長老は、「毘鉢舎那というものは、初めから十分に増大し、強力で鋭敏かつ明晰であるわけではない。したがって、初期の段階に基づいてこの意味は理解されるべきである」と示すために、『比丘たちよ、見られる』(相応部 2.62)という経文を引いた。その中で、「把取」とは結生(再生)である。「放下」とは死歿である。「粗大」とは、無色法に比べて粗悪な状態であることから粗大である。「身」とは、四相続の色の集成である身である。「粗大」とは修飾的な中性表現であり、粗大なる様態で、という意味である。それゆえに「把取も放下も」と述べられたのである。

368. Sukhasārāgena samannāgatoti sukhavedanāya balavatararāgena samaṅgībhūto. Paṭṭhāne paṭisiddhā avacaneneva. Tasmāti sukhe ṭhite eva dukkhassānuppajjanato. Evaṃ vuttanti ‘‘sukhāya vedanāya nirodhā uppajjati dukkhā vedanā’’ti evaṃ vuttaṃ, na anantarāva uppajjanato. Khepetvāti kusalāni khepetvā. Gaṇhitvā attano eva okāsaṃ gahetvā. Ubhatopakkhaṃ hutvāti ‘‘kadāci sukhavedanā, kadāci dukkhavedanā’’ti pakkhadvayavasenapi vedanā cittassa pariyādāya hoti yathākkamaṃ abhāvitakāyassa abhāvitacittassa.

368. 「楽への愛着を具えた」とは、楽受に対するより強力な貪着を具足した者。「発趣論において否定されている」とは、言及されていないことによってである。「それゆえに」とは、楽が存続している間には苦が生じないことからである。「このように説かれた」とは、「楽受の滅によって苦受が生じる」とこのように説かれたのであって、無間(直後)に生じるからではない。「尽きて」とは、善根が尽きて。「捉えて」とは、自らの機会を捉えて。「両側となって」とは、「時には楽受、時には苦受」という二つの側によっても、身を修習していない者と心を修習していない者に対して、受は順次に心を支配するのである。

369. Vipassanā ca sukhassa paccanīkāti sukkhavipassakassaādikammikassa mahābhūtapariggahādikāle bahi cittacāraṃ nisedhetvā kammaṭṭhāne eva satiṃ saṃharantassa aladdhassādaṃ kāyasukhaṃ na vindati, sambādhe vaje sanniruddho gogaṇo viya vihaññati vipphandati, accāsannahetukañca sarīre dukkhaṃ uppajjateva. Tena vuttaṃ **‘‘dukkhassa āsannā’’**ti. Tenāha **‘‘vipassanaṃ paṭṭhapetvā’’**tiādi. Addhāne gacchante gacchanteti mahābhūtapariggahādivasena kāle gacchante. Tattha tatthāti tasmiṃ tasmiṃ sarīrapadese. Dukkhaṃ dūrāpagataṃ hoti samāpattibalena vikkhambhitattā appanābhāvato. Anappakaṃ vipulaṃ. Sukhanti jhānasukhaṃ. Okkamatīti jhānasamuṭṭhānapaṇītarūpavasena rūpakāyaṃ anupavisati, nāmakāyokkamane vattabbameva natthi. Kāyapassaddhikammikassapi sammasanabhāvanā paṭṭhapetvā nisinnassa kassaci āditova kāyakilamathacittupaghātāpi sambhavanti, samādhissa pana apaccanīkattā siniddhabhāvato ca na sukkhavipassanā viya sukhassa vipaccanīko, anukkamena ca dukkhaṃ vikkhambhetīti āha **‘‘yathā samādhī’’**ti. Yathā samādhi, vipassanāya panetaṃ natthīti āha **‘‘na ca tathā vipassanā’’**ti. Tena vuttanti yasmā vipassanā sukhassa paccanīkā, sā ca kāyabhāvanā, tena vuttaṃ **‘‘uppannāpi sukhā vedanā cittaṃ na pariyādāya tiṭṭhati, bhāvitattā kāyassā’’**ti. Tathā yasmā samādhi dukkhassa paccanīko, so ca cittabhāvanā, tena vuttaṃ **‘‘uppannāpi dukkhā vedanā cittaṃ na pariyādāya tiṭṭhati, bhāvitattā cittassā’’**ti yojanā.

369. 「毘鉢舎那は楽の敵対者である」とは、純観者(乾観者)である初心者が四大の把握などの時に、外への心の動きを制止し、業処(瞑想対象)にのみ気づきを集めていると、得られるべき身の楽を味わえず、狭い牛舎に閉じ込められた牛の群れのように疲れ苦しみ、身悶えし、身の極めて近い原因によって苦が生じる。それゆえに「苦に近い」と説かれた。それゆえに「毘鉢舎那を確立して」などと言われた。 「時が経つにつれて」とは、四大の把握などによって時間が経過するにつれて。「いたるところで」とは、その身のそれぞれの部位において。「苦は遠く離れたものとなる」とは、等至(三昧)の力によって伏除され、安止(定)の状態となるからである。「少なくない」とは、広大である。「楽」とは、禅定の楽である。「浸透する」とは、禅定から生じた勝れた色法によって色身に入り込むのであり、名身(心)への浸透については言うまでもない。身の軽安を修める者であっても、遍察の修習を始めて座している者のうち、ある者には最初から身の疲労や心の障害が生じることもあるが、三昧(定)は敵対するものがなく潤いがあるため、純粋な毘鉢舎那のように楽と敵対することなく、順次に苦を伏除するので、「定のようである」と言われた。定のようであるが、毘鉢舎那にはこれがないので「毘鉢舎那はそうではない」と言われた。それゆえに説かれたことには、毘鉢舎那は楽の敵対者であり、それは身の修習であることから、「生じた楽受も心を支配して留まることはない、身を修習しているがゆえに」と述べられた。同様に、三昧は苦の敵対者であり、それは心の修習であることから、「生じた苦受も心を支配して留まることはない、心を修習しているがゆえに」と結びつけられる。

370. Guṇe ghaṭṭetvāti apadesena vinā samīpameva netvā. Taṃ vata mama cittaṃ uppannā sukhā vedanā pariyādāya ṭhassatīti netaṃ ṭhānaṃ vijjatīti yojanā.

370. 「徳に触れて」とは、口実を設けることなく近づいて。「実にその私の心を生じた楽受が支配して留まるということはあり得ない」と結びつけられる。

371. Kiṃ na bhavissati, sukhāpi dukkhāpi vedanā yathāpaccayaṃ uppajjatevāti attho. Tamatthanti sukhadukkhavedanānaṃ uppattiyā attano cittassa anabhibhavanīyatāsaṅkhātaṃ atthaṃ. Tattha tāva pāsarāsisutte bodhipallaṅke nisajjā ‘‘tattheva nisīdi’’nti vuttā. Idha mahāsaccakasutte dukkarakārikāya dukkaracaraṇe nisajjā ‘‘tattheva nisīdi’’nti vuttā.

371. 「生じないことがあろうか」とは、楽受も苦受も条件に応じて生じるに決まっている、という意味である。「その意味を」とは、楽受や苦受が生じることによって自らの心が圧倒されないという義を。「聖求経」においては菩提座に着座したことが「まさにそこに座した」と説かれた。ここ「大サッチャカ経」においては苦行の実践において着座したことが「まさにそこに座した」と説かれた。

374. Chandakaraṇavasenāti taṇhāyanavasenāti attho. Sinehakaraṇavasenāti sinehanavasena. Mucchākaraṇavasenāti mohanavasena pamādāpādanena. Vipāsākaraṇavasenāti pātukamyatāvasena. Anudahanavasenāti rāgagginā anudahanavasena. Lokuttaramaggavevacanameva vaṭṭanissaraṇassa adhippetattā.

374. 「意欲をなすことによって」とは、渇愛する様態によって、という意味である。「情愛をなすことによって」とは、愛着する様態によって。「眩惑をなすことによって」とは、放逸を生じさせる惑乱の様態によって。「渇望をなすことによって」とは、飲みたいと欲する様態によって。「熱焼することによって」とは、貪欲の火で燃え盛る様態によって。輪廻からの解脱が意図されているため、出世間の道の同義語にほかならない。

Allaggahaṇena kilesānaṃ asamucchinnabhāvaṃ dasseti, sasnehaggahaṇena avikkhambhitabhāvaṃ, udake pakkhittabhāvaggahaṇena samudācārāvatthaṃ, udumbarakaṭṭhaggahaṇena attabhāvassa asārakattaṃ. Imināva nayenāti ‘‘allaṃ udumbarakaṭṭha’’ntiādinā vuttanayena. Saputtabhariyapabbajjāyāti puttabhariyehi saddhiṃ kataparibbājakapabbajjāvasena veditabbā. Kuṭīcakabahūdakahaṃsa-paramahaṃsādibhedā brāhmaṇapabbajjā.

「生木の把握」によって煩悩が断絶されていない状態を示し、「樹液を含んだものの把握」によって伏除されていない状態を、「水に投げ入れられた状態の把握」によって現行の段階を、「ウドンバラの木の把握」によって個体(自己の存在)の無実質性を示している。「まさにこの方法によって」とは、「生のウドンバラの木」などと説かれた方法によってである。「子と妻を伴う出家において」とは、子や妻とともになされた遊行者の出家の様態として知られるべきである。クティーチャカ、バフーダカ、ハンサ、パラマハンサなどの区別があるバラモンの出家である。

376. Kutopi imassa āposineho natthīti koḷāpaṃ. Tenāha **‘‘chinnasinehaṃ nirāpa’’**nti. Koḷanti vā sukkhakaliṅgaraṃ vuccati, koḷaṃ koḷabhāvaṃ āpannanti koḷāpaṃ. Paṭipannassa upakkamamahattanissitatā pakatiyā kilesehi anabhibhūtatāya. Atintatā paṭipakkhabhāvanāya. Tathā hi sukkhakoḷāpabhāvo, ārakā udakā thale nikkhittabhāvo ca nidassito. Opakkamikāhīti kilesaatiniggaṇhanupakkamappabhavāhi. Vedanāhīti paṭipattivedanāhi. Dukkhā paṭipadā hi idhādhippetā.

376. 「どこからも水気がない」ことからコラーパ(枯木)である。それゆえに「樹液が断たれ、水気がない」と言われた。あるいは、コラとは乾燥した木片をいい、コラである状態に達したものをコラーパという。実践する者が手段の偉大さに依拠していることは、本来的に煩悩に圧倒されないことによる。「濡れていないこと」とは、対治(敵対する法)の修習による。実に、乾いた枯木の状態や、水から遠く離れて陸地に置かれた状態が示されている。「加行から生じるものによって」とは、煩悩を極度に抑制する加行から生じるものによって。「受によって」とは、実践の受によって。ここでは苦難の道(苦遅通)が意図されているからである。

377. Kiṃ pana na samattho, yato evaṃ parehi cintitumpi asakkuṇeyyaṃ dukkaracariyaṃ chabbassāni akāsīti adhippāyo. Katvāpi akatvāpi samatthova kāraṇassa nipphannattā. ‘‘Yathāpi sabbesampi kho bodhisattānaṃ carimabhave antamaso sattāhamattampi dhammatāvasena dukkaracariyā hotiyeva, evaṃ bhagavā samattho dukkaracariyaṃ kātuṃ, evañca naṃ akāsi, na pana tāya buddho jāto, atha kho majjhimāya eva paṭipattiyā’’ti tassā byatirekamukhena sadevakassa lokassa bodhāya amaggabhāvadīpanatthaṃ, imassa pana bhagavato kammavipākavasena chabbassāni dukkaracariyā ahosi. Vuttañhetaṃ –

377. 「どうして可能でなかっただろうか、他者が考えることすらできないような苦行を六年間も行ったことからして」というのが趣旨である。行っても行わなくても、原因が成就していたため、まさに可能であった。「すべての菩薩の最後の生においては、法の必然性(法爾)として少なくとも七日間ほどの苦行があるように、世尊も苦行を行うことが可能であり、このようにそれを行った。しかしそれによって仏陀となったのではなく、中道の実践によって仏陀となったのである」と、その背理の側面から神々を含む世間に対して悟りへの道ではないことを示すためであったが、この世尊においては過去の業の報いによって六年間の苦行があったのである。これについてこのように説かれた——

‘‘Avacāhaṃ jotipālo, kassapaṃ sugataṃ tadā;

「その昔、私はジョーティパーラであった時、善逝カッサパ仏に対してこう言った。

Kuto nu bodhi muṇḍassa, bodhi paramadullabhā.

『坊主頭にどこに悟りがあろうか。悟りは至極得難いものである』と。

Tena kammavipākena, acariṃ dukkaraṃ bahuṃ;

その業の報いによって、私は多くの苦行を行い、

Chabbassānuruvelāyaṃ, tato bodhimapāpuṇiṃ.

ウルヴェーラーにおいて六年間過ごし、そののちに悟りを達成した。

Nāhaṃ etena maggena, pāpuṇiṃ bodhimuttamaṃ;

私はこの道(苦行)によって、最上の悟りを達成したのではない。

Kumaggena gavesissaṃ, pubbakammena vārito’’ti.

邪道によって探し求めたのは、過去の業に妨げられたからである」と。

Dukkaracariyāya bodhāya amaggabhāvadassanatthaṃ dukkaracariyaṃ akāsīti keci. Atha vā lokanāthassa attano parakkamasampattidassanatthāya dukkaracariyā. Paṇītādhimuttiyā hi paramukkaṃsagatabhāvato abhinīhārānurūpaṃ sambodhiyaṃ tibbachandatāya sikhāppattiyā tadatthaṃ īdisampi nāma dukkaracariyaṃ akāsīti loke attano vīriyānubhāvaṃ vibhāvetuṃ – ‘‘so ca me pacchā pītisomanassāvaho bhavissatī’’ti lokanātho dukkaracariyaṃ akāsi. Tenāha **‘‘sadevakassa lokassā’’**tiādi. Tattha vīriyanimmathanaguṇoti vīriyassa saṃvaḍḍhanasampādanaguṇo. Yathāvuttamatthaṃ upamāya vibhāvetuṃ **‘‘pāsāde’’**tiādi vuttaṃ. Saṅgāme dve tayo sampahāreti dvikkhattuṃ tikkhattuṃ vā parasenāya pahārapayoge. Padhānavīriyanti sammappadhānehi āsevanavīriyaṃ, sabbaṃ vā pubbabhāgavīriyaṃ.

苦行が悟りへの道ではないことを示すために苦行を行った、とする者たちもいる。あるいは、世の導師(仏陀)が自らの勇猛精進の成就を示すための苦行であった。勝れた信解が最高度に達していたことから、誓願にふさわしく正覚に対する強烈な意欲が頂点に達していたため、その目的のためにこのような苦行すら行ったのだと世に自らの精進の威徳を明らかにし、「それは後に私に歓喜と喜びをもたらすであろう」と、世の導師は苦行を行ったのである。それゆえに「神々を含む世間の」などと説かれた。その中で「精進を練磨する徳」とは、精進を増大させ成就する徳である。述べられた意味を比喩によって明らかにするために「宮殿において」などと説かれた。「戦闘において二度三度の打撃を」とは、敵軍に対して二度あるいは三度の打撃を加えること。「正勤の精進」とは、四正勤による習熟の精進、あるいはすべての前段階の精進である。

Abhidantanti abhibhavanadantaṃ, uparidantanti attho. Tenāha **‘‘uparidanta’’**nti. So hi itaraṃ musalaṃ viya udukkhalaṃ visesato kassaci khādanakāle abhibhuyya vattati. Kusalacittenāti balavasammāsaṅkappayuttena kusalacittena. Akusalacittanti kāmavitakkādisahitaṃ akusalacittaṃ. Akusalacittassa pavattituṃ appadānaṃ niggaho. Taṃtaṃpaṭikkhepavasena vinodanaṃ abhinippīḷanaṃ. Vīriyatāpena vikkhambhanaṃ abhisantāpanaṃ. Sadarathoti sapariḷāho. Padhānenāti padahanena, kāyassa kilamathuppādakena vīriyenāti attho. Viddhassāti tudassa. Satoti samānassa.

「制圧する歯」とは、圧倒する歯、上の歯という意味である。それゆえに「上の歯」と言われた。それはまさに、他の歯が臼に対する杵のように、特に何かを噛むときに圧倒して機能するからである。「善なる心によって」とは、強力な正思惟を伴う善なる心によって。「不善なる心」とは、欲尋などを伴う不善なる心。「制止」とは、不善なる心が生起することを許さないこと。「圧伏」とは、それぞれの排斥によって取り除くこと。「遍焼」とは、精進の熱によって伏除すること。「苦悩を伴う」とは、熱悶を伴うこと。「勤行によって」とは、努力によって、すなわち身の疲労を生じさせる精進によって、という意味である。「射られた者の」とは、傷つけられた者の。「ある者の」とは、存在する者の。

378. Sīsaveṭhananti sīsaṃ rajjuyā bandhitvā daṇḍakena parivattakaveṭhanaṃ. Arahanto nāma evarūpā hontīti iminā yathāyaṃ, evaṃ visaññībhūtāpi hutvā viharantīti dasseti. Tenāha **‘‘matakasadisā’’**ti, vedanāppattā viya hontīti attho. Supinappaṭiggahaṇato paṭṭhāyāti paṭisandhiggahaṇe setavāraṇasupinaṃ passitvā brāhmaṇehi byākatakālato paṭṭhāya.

378. 「頭部を縛ること」とは、縄で頭を縛り、棒で締め上げてねじること。「阿羅漢とはこのようなものである」とは、これによって、このように気絶した状態になって過ごすこともある、と示している。それゆえに「死人のようである」と言われた。受に圧倒されたかのようになる、という意味である。「夢の把握から始まって」とは、結生(入胎)の把握の際に白象の夢を見て、バラモンたちによって解釈された時から始まって。

379. Dhammasarīrassa arogabhāvena sādhūti marisaniyoti māriso, piyāyanavacanametaṃ. Tenāha **‘‘sampiyāyamānā’’**tiādi. Ajajjitanti evaṃ abhuñjitaṃ bhakārassa jakārādesaṃ katvā. Tenāha **‘‘abhojana’’**nti. Evaṃ mā karitthāti ‘‘lomakūpehi ajjhohāressāma anuppavesessāmā’’ti yathā tumhehi vuttaṃ, evaṃ mā karittha. Kasmā? Yāpessāmahanti ahañca yāvadatthaṃ āhāramattaṃ bhuñjanto yathā yāpessāmi, evaṃ āhāraṃ paṭisevissāmi.

379. 法身が無病であることによって「善き人」であり、耐え忍ぶべき人であるから「マーリサ(尊者)」である。これは親愛の言葉である。それゆえに「親愛の情を抱いて」などと言われた。「食べられなかった」とは、このように不食であったことであり、bhの文字をjの文字に置き換えたものである。それゆえに「不食」と言われた。「このようにしてはならない」とは、「毛穴から摂取させ、注入しましょう」とあなた方が言ったように、そのようにしてはならない。「なぜなら、私は養うであろう」とは、私は必要なだけのわずかな食物を食べながら命を維持するように、そのように食物を摂るつもりであるからだ。

380-81. Etāva paramanti ettakaṃ paramaṃ, na ito paraṃ opakkamikadukkhavedanāvediyanaṃ atthīti attho. Rañño gahetabbanaṅgalato aññāni sandhāya **‘‘ekena ūna’’**nti vuttaṃ. Taṃ suvaṇṇaparikkhataṃ, itarāni rajataparikkhatāni. Tenāha **‘‘amaccā ekenūnaaṭṭhasatarajatanaṅgalānī’’**ti. Āḷārudakasamāgame laddhajjhānāni vaṭṭapādakāni, ānāpānasamādhi pana kāyagatāsatipariyāpannattā sabbesañca bodhisattānaṃ vipassanāpādakattā ‘‘bodhāya maggo’’ti vutto. Bujjhanatthāyāti catunnaṃ ariyasaccānaṃ, sabbasseva vā ñeyyadhammassa abhisambujjhanāya. Satiyā anussaraṇakaviññāṇaṃ satānusāriviññāṇaṃ. Kassā pana satiyāti taṃ dassetuṃ **‘‘nayida’’**ntiādi vuttaṃ.

380-81. 「これこそが極限である」とは、これほどが最高であり、これ以上の加行から生じる苦受の体験は存在しない、という意味である。王が執るべき鋤以外のものを指して「一つ減じた」と言われた。それは黄金で装飾され、他のものは白銀で装飾されていた。それゆえに「大臣たちは一つ減じた百八十の白銀の鋤を」と言われた。アーラーラやウダカの集会で得た禅定は輪廻の基盤となるものであるが、入出息念三昧は身至念に含まれるものであり、すべての菩薩にとって毘鉢舎那の基盤となるものであるため、「悟りへの道」と説かれた。「悟るために」とは、四聖諦を、あるいはすべての知るべき法(所知障なき法)を正覚するために。「念に従う識」とは、念による想起をなす識である。「いかなる念であるか」を示すために「これではない」などと説かれた。

382. Paccupaṭṭhitāti taṃtaṃvattakaraṇavasena patiupaṭṭhitā upaṭṭhāyakā. Tenāha **‘‘paṇṇasālā’’**tiādi. Paccayabāhullikoti paccayānaṃ bāhullāya paṭipanno. Āvattoti pubbe paccayagedhappahānāya paṭipanno, idāni tato paṭinivatto. Tenāha **‘‘rasagiddho…pe… āvatto’’**ti. Dhammaniyāmenāti dhammatāya. Tameva dhammataṃ dassetuṃ **‘‘bodhisattassā’’**tiādimāha. Bārāṇasimeva tatthāpi ca sabbabuddhānaṃ avijahitadhammacakkapavattanaṭṭhānameva agamaṃsu. Pañcavaggiyā kira visākhamāsassa addhamāsiyaṃ gatā. Tenāha **‘‘tesu gatesu aḍḍhamāsaṃ kāyavivekaṃ labhitvā’’**ti.

382. 「仕えていた」とは、それぞれの奉仕を行うことによって近くに控えていた給仕者たちである。それゆえに「草庵」などと言われた。「資具の豊富を求める者」とは、資具を豊かに得る実践に赴いた者。「後戻りした」とは、以前は資具への執着を捨てるために実践していたが、今はそこから後退した者。それゆえに「味に執着し……中略……後戻りした」と言われた。「法の理法によって」とは、法爾(自然の理)によって。その法爾を示すために「菩薩の」などと言われた。彼らはヴァーラーナシーへ、それもすべての仏陀が決して離れることのない初転法輪の場所へと赴いた。五比丘はヴェーサーカ月の半月の頃に去ったと伝えられる。それゆえに「彼らが去った後、半月のあいだ身の遠離を得て」と言われた。

387. ‘‘Addhābhoto gotamassa sāvakācittabhāvanānuyogamanuyuttā viharanti, no kāyabhāvana’’nti imaṃ sandhāyāha **‘‘ekaṃ pañhaṃ pucchi’’**nti. Imaṃ dhammadesananti ‘‘abhijānāmi kho panāha’’ntiādikaṃ dhammadesanaṃ. Asallīno taṇhādiṭṭhikilesānaṃ samucchinnattā tehi sabbaso na litto. Anupalittoti tasseva vevacanaṃ taṇhānandiyā abhāvena. Gocarajjhattamevāti gocarajjhattasaññite phalasamāpattiyā ārammaṇe, nibbāneti attho. Yaṃ sandhāya pāḷiyaṃ ‘‘purimasmiṃ samādhinimitte’’ti vuttaṃ sannisīdāpemīti phalasamāpattisamādhinā accantasamādānavasena cittaṃ sammadeva nisīdāpemi. Pubbābhogenāti samāpajjanato pubbe pavattaābhogena. Paricchinditvāti samāpajjanakkhaṇaṃ paricchinditvā. Tenāha **‘‘sādhukāra…pe… avicchinneyevā’’**ti. Evamassa paricchinnakālasamāpajjanaṃ yathāparicchinnakālaṃ vuṭṭhānañca buddhānaṃ na bhāriyaṃ vasībhāvassa tathāsuppaguṇabhāvatoti dassento āha **‘‘buddhānaṃ hī’’**tiādi. Dhammasampaṭiggāhakānaṃ assāsavāre vā. Tadā hi desiyamānaṃ dhammaṃ upadhāretuṃ na sakkonti, tasmā tasmiṃ khaṇe desitadesanā niratthakā siyā. Na hi buddhānaṃ niratthakā kiriyā atthi.

387. 「実に尊者ゴータマの弟子たちは心の修習に専念して過ごしており、身の修習には専念していない」ということを指して「一つの問いを尋ねた」と言われた。「この説法を」とは、「私は実に知っている」などという説法を。「退縮しない」とは、渇愛や見解といった煩悩が断絶されているため、それらに全く汚されていないこと。「汚されない」とは、渇愛と歓喜がないことによる同義語である。「境の内部にのみ」とは、境の内部と名づけられた果等至の対象である涅槃において、という意味である。経文において「以前の定の相において」と説かれていることを指して「鎮める」とは、果等至の定によって完全に受け入れることで、心を正しく定着させることである。「以前の作意によって」とは、等至に入る前に生じた作意によって。「限定して」とは、等至に入る時間を限定して。それゆえに「喝采……中略……途切れることなく」と言われた。このように仏陀たちにとって、限定された時間で等至に入り、限定された通りに出定することは、自在力が極めて優れているために困難なことではない、と示すために「仏陀たちには実に」などと言われた。あるいは、法を受け取る者たちが息をつく合間にである。その時には説かれている法を把握することができないため、その瞬間に説かれた説法は無益となってしまう。仏陀たちには無益な行為など存在しないからである。

Okappanīyametanti ‘‘tassā eva kathāyā’’tiādinā vuttaṃ ativiya acchariyagataṃ aṭṭhuppattiṃ sutvā īdisī paṭipatti sammāsambuddhasseva hotīti upavādavasena vadati, na sabhāvena. Tenāha **‘‘satthari pasādamattampi na uppanna’’**nti. Kāyadarathoti paccayavisesavasena rūpakāyassa parissamākāro. Upādinnaketi indriyabaddhe. Anupādinnaketi anindriyabaddhe. Vikasanti sūriyarasmisamphassena. Tadabhāvena makulāni honti. Kesañci tintinikādirukkhānaṃ. Patilīyanti nissayarūpadhammaavipphārikatāya. Arūpadhammatāya pañcaviññāṇānañceva kiriyāmayaviññāṇānañca appavattisaññitā avipphārikatā hoti, yattha niddāsamaññā. Tenāha **‘‘darathavasena bhavaṅgasotañca idha niddāti adhippeta’’**nti. Tattha darathavasenāti darathavaseneva, na thinamiddhavasenāti avadhāraṇaṃ avadhāraṇaphalañca niddhāretabbaṃ. Taṃ sandhāyāti kāyassa darathasaṅkhātasarīragilānahetukaṃ niddaṃ sandhāya. Sarīragilānañca bhagavato natthīti na sakkā vattuṃ ‘‘piṭṭhi me āgilāyatī’’ti (dī. ni. 3.300; ma. ni. 2.22; cūḷava. 345) vacanato. Sammohavihārasminti paccatte etaṃ bhummavacananti āha **‘‘sammohavihāroti vadantī’’**ti, sammohavihārasmiṃ vā pariyāpannaṃ etaṃ vadanti, yadidaṃ divā niddokkamananti yojanā.

388. 「これは信じられるべきことである」とは、「まさにその話によって」などと説かれた極めて驚くべき事の生起を聞いて、このような実践は正等覚者にのみあるものだ、と非難の様態で述べているのであって、本質からではない。それゆえに「師に対するわずかな信順すら生じなかった」と言われた。「身の疲労」とは、特定の条件による色身の疲労の様態である。「執受されたものにおいて」とは、感覚器官に結びついたものにおいて。「非執受のものにおいて」とは、感覚器官に結びついていないものにおいて。「開く」とは、太陽光線の接触によってである。それがないことによって蕾となる。ティンティニー樹などのいくつかの樹木の葉が。「閉じる」とは、依処となる色法の活動が広大でないことによる。無色法であることから、五識および作事的な識が不活動となる状態を「広大でないこと」といい、そこに睡眠という名称が与えられる。それゆえに「疲労による有分(潜在意識)の流れを、ここでは睡眠と意図している」と言われた。その中で「疲労によって」とは、まさに疲労によるのであって、惛沈・睡眠によるのではないという限定と、その限定の結果を確かめるべきである。「それを指して」とは、身の疲労という身体の病的な状態を原因とする睡眠を指して。そして世尊に身体の病的な状態がないとは言えない、「私の背中が痛む」という言葉があるからである。「迷妄の境地において」とは、主格の代わりに用いられた処格であることから「迷妄の境地と言う」と言われ、あるいは昼寝に入るというこれは迷妄の境地に属するものであると言う、と結びつけられる。

389. Upanītehīti dosamaggaṃ nindāpathaṃ upanītehi. Abhinanditvāti sampiyāyitvā. Tenāha **‘‘cittena sampaṭicchanto’’**ti. Anumoditvāti ‘‘sādhu sādhū’’ti desanāya thomanavasena anumoditvā. Tenāha **‘‘vācāyapi pasaṃsanto’’**ti. Sampatte kāleti pabbajjāyogge kāle anuppatte.

389. 「至らしめられたものによって」とは、過失の道、非難の道に至らしめられたものによって。「歓喜して」とは、親愛の情を抱いて。それゆえに「心で受け入れ」と言われた。「随喜して」とは、「善いかな、善いかな」と説法を称賛することによって随喜して。それゆえに「言葉でも称賛し」と言われた。「時が至った時に」とは、出家に適した時が到来した時に。

Gaṇaṃ vinodetvāti gaṇaṃ apanetvā gaṇapalibodhaṃ chinditvā. Papañcanti avasesakilesaṃ. **‘‘Puññavā rājapūjito’’**ti vuttamatthaṃ vivarituṃ **‘‘tasmiñhi kāle’’**tiādi vuttaṃ. Chandavāsaharaṇena uposathakammaṃ karonto.

「大衆を去らせて」とは、大衆を退けて大衆の障害を断ち切って。「戯論を」とは、残余の煩悩を。「福徳があり、王に供養された」と説かれた意味を解き明かすために「実にその時に」などと説かれた。意欲と清浄(布薩の同意)を運ぶことによって布薩の作法を行いながら。

Sakalaṃ rattiṃ buddhaguṇānaṃyeva kathitattā therassa ñāṇaṃ desanāvibhavañca vibhāvento āha **‘‘ettakāva, bhante, buddhaguṇā’’**ti. Imāya, bhante, tumhākaṃ dhammakathāya anavasesato buddhaguṇā kathitā viya jāyanti, evaṃ santepi anantāparimeyyāva te, kiṃ ito parepi vijjantevāti theraṃ tattha sīhanādaṃ nadāpetukāmo āha **‘‘udāhu aññepi atthī’’**tiādi. Rajjassa padesikattā, yathāvuttasubhāsitassa ca anagghattā vuttaṃ **‘‘ayaṃ me duggatapaṇṇākāro’’**ti. Tiyojanasatikanti idaṃ parikkhepavasena vuttaṃ, tañca kho manussānaṃ paribhogavasenāti daṭṭhabbaṃ.

夜通し仏陀の徳のみが語られたため、長老の智慧と説法の力量を明らかにしようとして「尊者よ、仏陀の徳はこれだけでしょうか」と言った。「尊者よ、あなたのこの説法によって、仏陀の徳は余すところなく語られたかのようになりますが、そうであるとしても、それらは無限で計り知れないものです。これ以上のものがまだ存在するのでしょうか」と、長老にそこで獅子吼をさせようと欲して「それとも他にもあるのでしょうか」などと言った。王国は一地方のものであり、述べられた善説は無上のものであることから「これは私の貧しい贈り物です」と言われた。「三百由旬」とは、周囲の広さとして言われたものであり、それは人間たちの利用の観点から知られるべきである。

Mahāsaccakasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

大サッチャカ経の釈義における深奥の義の解明を終わる。

7. Cūḷataṇhāsaṅkhayasuttavaṇṇanā

7. 小愛尽経の釈義

390. Tatrāti tasmiṃ pubbārāmamigāramātupāsādānaṃ atthavibhāvane ayaṃ idāni vuccamānā anupubbī kathā. Maṇīnanti ettha padumarāgamaṇīnaṃ adhippetattā āha **‘‘aññehi cā’’**ti. Tena indanīlādimaṇīnaṃ saṅgaho daṭṭhabbo. Nīlapītalohitodātamañjiṭṭhapabhassarakabaravaṇṇavasena sattavaṇṇehi.

390. 「そこにおいて」とは、その東園鹿母講堂の意味を明らかにするにあたり、今から語られる順序立った話がある。「宝玉の」とは、ここではルビーが意図されているため「他のものによっても」と言われた。これによってサファイアなどの宝玉の包含が知られるべきである。青、黄、赤、白、茜色、輝く色、斑色の七色によって。

Taṇhā sabbaso khīyanti etthāti taṇhāsaṅkhayo (a. ni. ṭī. 3.7.61), tasmiṃ. Taṇhāsaṅkhayeti ca visaye idaṃ bhummanti āha **‘‘taṃ ārammaṇaṃ katvā’’**ti. Vimuttacittatāyāti sabbasaṃkilesehi vimuttacittatāya. Aparabhāgapaṭipadā nāma ariyasaccābhisamayo, sā sāsanacārigocarā paccattaṃ veditabbatoti āha **‘‘pubbabhāgappaṭipadaṃ saṃkhittena desethāti pucchatī’’**ti. Akuppadhammatāya khayavayasaṅkhātaṃ antaṃ atītāti accantā, so eva aparihānasabhāvattā accantā niṭṭhā etassāti accantaniṭṭho. Tenāha **‘‘ekantaniṭṭho satataniṭṭhoti attho’’**ti. Na hi paṭividdhassa lokuttaradhammassa dassanaṃ kuppanaṃ nāma atthi. Accantameva catūhi yogehi khemo etassa atthīti accantayogakkhemī. Maggabrahmacariyassa vusitattā, tassa ca aparihānasabhāvattā accantaṃ brahmacārīti accantabrahmacārī. Tenāha **‘‘niccabrahmacārīti attho’’**ti. Pariyosānanti brahmacariyassa pariyosānaṃ.

ここで渇愛が完全に尽きるので「愛尽」であり、その愛尽においてである。「愛尽において」とは、対象の領域における処格であるため「それを所縁として」と言われた。「心が解脱していることによって」とは、すべての煩悩から心が解脱していることによって。後段階の実践とは聖諦の現観であり、それは教えに従う者の領域として各自で知られるべきものであるため、「前段階の実践を簡潔に説いてくださいと尋ねている」と言われた。不壊の法であることから尽滅という限界を超越しているため「究極」であり、まさにそれが不退転の性質を持つことから「究極の帰着点」を持つ者を「究極の帰着点ある者」という。それゆえに「唯一の帰着点ある者、永遠の帰着点ある者という意味である」と言われた。実に、通達された出世間の法の覚知が壊れるということはない。完全に四つの軛(繋縛)から安穏である境地を持つため「究極の瑜伽安穏者」である。道の梵行を修め終え、それが不退転の性質を持つことから完全に梵行を修める者を「究極の梵行者」という。それゆえに「常に梵行を修める者という意味である」と言われた。「究極」とは、梵行の究極である。

Vegāyatīti turitāyati. Sallakkhesīti cintesi, attanā yathā sutāya satthu desanāya anussaraṇavasena upadhāresi. Anuggaṇhitvāvāti atthavinicchayavasena anuggahetvā eva. Chasu dvāresu niyuttāti chadvārikā, tehi.

「急いでいる」とは、急行している。「考察した」とは、考えた、すなわち自らが聞いた通りの師の説法を追想することによって思惟した。「把握してから」とは、意味の決定によって把握してから。「六門に配属された」とは、六門に属する、それらによって。

Pañcakkhandhāti pañcupādānakkhandhā. Sakkāyasabbañhi sandhāya idha **‘‘sabbe dhammā’’**ti vuttaṃ vipassanāvisayassa adhippetattā, tasmā āyatanadhātuyopi taggatikā eva daṭṭhabbā. Tenāha bhagavā ‘‘nālaṃ abhinivesāyā’’ti. Na yuttā abhinivesāya ‘‘etaṃ mama, eso me attā’’ti ajjhosānāya. ‘‘Alameva nibbindituṃ alaṃ virajjitu’’ntiādīsu (dī. ni. 2.272; saṃ. ni. 2.124-125, 128, 134, 143) viya alaṃ-saddo yuttatthopi hotīti āha **‘‘na yuttā’’**ti. Sampajjantīti bhavanti. Yadipi ‘‘tatiyā, catutthī’’ti idaṃ visuddhidvayaṃ abhiññāpaññā, tassā pana sappaccayanāmarūpadassanabhāvato, sati ca paccayapariggahe sappaccayattā (nāmarūpassa aniccatā, aniccaṃ dukkhaṃ, dukkhañca anattāti atthato) lakkhaṇattayaṃ supākaṭameva hotīti āha **‘‘aniccaṃ dukkhaṃ anattāti ñātapariññāya abhijānātī’’**ti. Tatheva tīraṇapariññāyāti iminā aniccādibhāvena nālaṃ abhinivesāyāti nāmarūpassa upasaṃharati, na abhiññāpaññānaṃ sambhāradhammānaṃ. Purimāya hi atthato āpannalakkhaṇattayaṃ gaṇhāti salakkhaṇasallakkhaṇaparattā tassā, dutiyāya sarūpato tassā lakkhaṇattayāropanavasena sammasanabhāvato. Ekacittakkhaṇikatāya abhinipātamattatāya ca appamattakampi. Rūpapariggahassa oḷārikabhāvato arūpapariggahaṃ dasseti. Dassento ca vedanāya āsannabhāvato, visesato sukhasārāgitāya, bhavassādagadhitamānasatāya ca sakkassa vedanāvasena nibbattetvā dasseti.

「五蘊」とは、五取蘊である。有身(個体)の全体を指してここで「一切の法」と説かれたのは、毘鉢舎那の領域が意図されているからであり、したがって処や界も同列のものとして知られるべきである。それゆえに世尊は「執着するに値しない」と仰せられた。「これは私のものである、これは私の我である」と固執することは妥当ではない。「実に厭離するに値する、離貪するに値する」などのように、「アラム(値する・十分である)」という言葉は妥当という意味でも用いられるため「妥当ではない」と言われた。「成就する」とは、生じることである。「第三、第四の」というこの二つの清浄は通達の智慧であるが、それは条件を伴う名色を観察するものであることから、条件の把握があるときには条件を伴うがゆえに(名色の無常性、無常なるものは苦、苦なるものは無我であるという義において)三相は極めて明瞭となるので、「無常・苦・無我であると知るべき知解によって了知する」と言われた。「同様に度脱の知解によって」とは、この無常などの性質によって執着するに値しないと名色に適用するのであって、通達の智慧の資糧となる諸法にではない。前の知解(知遍知)によって本質から生じる三相を捉えるのは、自相を観察することを主とするからであり、後の知解(審察遍知)によってそれ自体として三相を適用して遍察するからである。一瞬の心であり、単なる触れ合いであることから「わずかなものすら」と言われた。色の把握が粗大であることから、無色の把握を示している。そして示すにあたり、受が親密な存在であることから、特に楽への愛着と、生存の甘美に執着した心を持つ帝釈天のために、受を通じて生起させて示しているのである。

Uppādavayaṭṭhenāti udayabbayasabhāvena uppajjitvā nirujjhanena. Aniccāti addhu vā. Aniccalakkhaṇaṃ aniccatā udayavayatā. Tasmāti yasmā pañcannaṃ khandhānaṃ khayato vayato dassanañāṇaṃ aniccānupassanā, taṃsamaṅgī ca puggalo aniccānupassī, tasmā. Khayavirāgoti khayasaṅkhāto virāgo saṅkhārānaṃ palujjanā. Yaṃ āgamma sabbaso saṅkhārehi virajjanā hoti, taṃ nibbānaṃ accantavirāgo. Nirodhānupassimhipīti nirodhānupassipadepi. **‘‘Eseva nayo’’**ti abhidisitvā taṃ ekadesena vivaranto **‘‘nirodhopi hi…pe… duvidhoyevā’’**ti āha. Sabbāsavasaṃvare vuttavossaggova idha ‘‘paṭinissaggo’’ti vuttoti dassento **‘‘paṭinissaggo vuccati vossaggo’’**tiādimāha. Pariccāgavossaggo vipassanā. Pakkhandanavasena appanato pakkhandanavossaggo maggo aññassa tadabhāvato. Soti maggo. Ārammaṇatoti kiccasādhanavasena ārammaṇakaraṇato. Evañhi maggato aññesaṃ nibbānārammaṇānaṃ pakkhandanavossaggābhāvo siddho hoti. Pariccajanena pakkhandanena cāti dvīhipi vā kāraṇehi. Sabbesaṃ khandhānaṃ vossajjanaṃ tappaṭibaddhasaṃkilesappahānena daṭṭhabbaṃ. Cittaṃ pakkhandatīti maggasampayuttaṃ cittaṃ sandhāyāha. Ubhayampetaṃ vossajjanaṃ. Tadubhayasamaṅgīti vipassanāsamaṅgī maggasamaṅgī ca. ‘‘Aniccānupassanāya niccasaññaṃ pajahatī’’tiādivacanato (paṭi. ma. 1.52) yathā vipassanāya kilesānaṃ pariccāgapaṭinissaggo labbhati, evaṃ āyatiṃ tehi kilesehi uppādetabbakhandhānampi pariccāgapaṭinissaggo vattabbo, pakkhandanapaṭinissaggo pana magge labbhamānāya ekantakāraṇabhūtāya vuṭṭhānagāminivipassanāya vasena veditabbo, magge pana tadubhayampi ñāyāgatameva nippariyāyatova labbhamānattā. Tenāha **‘‘tadubhayasamaṅgī puggalo’’**tiādi.

「生起と衰滅の意味によって」とは、生滅の性質によって生じては滅することによって。「無常」とは、非永遠である。「無常の相」とは、無常性であり生滅性である。「それゆえに」とは、五蘊の消尽と破壊を観察する知が随観であり、それを具えた人が無常の随観者であることからである。「消尽による離貪」とは、消尽と名づけられた離貪であり、諸行の崩壊である。それに依拠して完全に諸行から離貪することになる、その涅槃を「究極の離貪」という。「滅の随観者においても」とは、滅の随観という語においても。「これと同じ方法である」と指示し、それを部分的に解明して「滅もまた……中略……実に二種である」と言われた。一切の漏の制御において説かれた捨断こそが、ここで「捨遣」と説かれていることを示すために「捨遣とは捨断と呼ばれる」などと言われた。放棄による捨断は毘鉢舎那である。跳入(没入)による安止であることから、跳入による捨断は道であり、他にはそれがないからである。「それ」とは道である。「所縁から」とは、作用を成就することによる所縁とすることから。このようにして、道以外の涅槃を所縁とするものには跳入の捨断が存在しないことが成立する。「放棄と跳入によって」とは、二つの理由によって。一切の蘊の捨遣は、それに結びついた煩悩を捨断することによって知られるべきである。「心が跳入する」とは、道相応の心を指して言われた。これら両方が捨断である。「その両方を具えた」とは、毘鉢舎那を具えた者と道を具えた者である。「無常の随観によって常の想いを捨てる」などの言葉から、毘鉢舎那によって煩悩の放棄の捨遣が得られるように、将来それらの煩悩によって生じるはずの諸蘊の放棄の捨遣も語られるべきであるが、跳入の捨遣は、道において得られる絶対的な原因である出起随観(出起に至る毘鉢舎那)によって知られるべきであり、道においてはその両方が理の当然として直接的に得られるからである。それゆえに「その両方を具えた人」などと言われた。

Pucchantassa ajjhāsayavasena ‘‘na kiñci loke upādiyatī’’ti ettha kāmupādānavasena upādiyanaṃ paṭikkhipīyatīti āha **‘‘taṇhāvasena na upādiyatī’’**ti. Taṇhāvasena vā asati upādiyane diṭṭhivasena upādiyanaṃ anavakāsamevāti **‘‘taṇhāvasena’’**icceva vuttaṃ. Na parāmasatīti nādiyati, diṭṭhiparāmāsavasena vā ‘‘nicca’’ntiādinā na parāmasati. Saṃkhitteneva khippaṃ kathesīti tassa ajjhāsayavasena papañcaṃ akatvā kathesi.

問う者の意図によって、「世間において何ものも執取しない」というここでの執取は欲の執取として否定されているため、「渇愛によって執取しない」と言われた。あるいは渇愛による執取がないとき、見解による執取の余地は全くないため「渇愛によって」とだけ言われた。「執着しない」とは、取着しない、あるいは見解の執着によって「常である」などと固執しない。「簡潔に速やかに語った」とは、彼の意図に応じて詳細に展開することなく語った。

391. Abhisamāgantvāti abhimukhañāṇena ñeyyaṃ samāgantvā yāthāvato viditvā. Tenāha **‘‘jānitvā’’**ti. Yathāparisaviññāpakattāti yathāparisaṃ dhammasampaṭiggāhikāya mahatiyā, appakāya vā parisāya anurūpameva viññāpanato. Pariyantaṃ na niccharatīti na pavattati. Mā niratthakā agamāsīti idaṃ dhammatāvasena vuttaṃ, na satthu ajjhāsayavasena. Ekañhetaṃ satthu vacīghosassa aṭṭhasu aṅgesu, yadidaṃ parisapariyantatā. Chiddavivarokāsoti chiddabhūto, vivarabhūto vā okāsopi natthi, bhagavato saddāsavanakāraṇaṃ vuttameva. Tasmāti yathāvuttakāraṇato.

391. 「完全に会得して」とは、向かう智慧によって知るべきものに合致し、ありのままに知って。それゆえに「知って」と言われた。「会衆に応じて知らせることから」とは、法を受け取る大勢の会衆、あるいは少人数の会衆にふさわしく知らせることから。「限界を超えて外へ漏れ出ない」とは、響き渡らない。「無益に過ぎ去ることがないように」とは、法爾(自然の理法)によって言われたのであって、師の思惑によるのではない。実にこれは、師の音声の八つの特質のうちの一つであり、会衆の限界内に留まるということである。「隙間や割れ目の空間」とは、隙間となった、あるいは割れ目となった空間すらなく、世尊の音声を聞くことの理由はすでに述べられた通りである。「それゆえに」とは、上述の理由からである。

Pañca aṅgāni etassāti pañcaṅgaṃ, pañcaṅgaṃ eva pañcaṅgikaṃ. Mahatīādi vīṇāvisesopi ātatamevāti **‘‘cammapariyonaddhesū’’**ti visesitaṃ. Ekatalaṃ kumbhathūṇadaddarādi. Cammapariyonaddhaṃ hutvā tantibaddhaṃ ātatavitataṃ. Tenāha **‘‘tantibaddhapaṇavādī’’**ti. Gomukhīādīnampi ettheva saṅgaho daṭṭhabbo. Vaṃsādīti ādi-saddena saṅkhasiṅgādīnaṃ saṅgaho. Sammādīti sammatāḷakaṃsatāḷasilāsalākatāḷādi. Tattha sammatāḷaṃ nāma daṇḍamayatāḷaṃ. Kaṃsatāḷaṃ lohamayaṃ. Silāya ayopattena ca vādanatāḷaṃ silāsalākatāḷaṃ. Samappitoti sammā appito upeto. Tenāha **‘‘upagato’’**ti. Upaṭṭhānavasena pañcahi tūriyasatehi upeto. Evaṃbhūto ca yasmā tehi upaṭṭhito samannāgato nāma hoti, tasmā vuttaṃ **‘‘samaṅgībhūtoti tasseva vevacana’’**nti. Paricāretīti parito cāreti. Kāni pana cāreti, kathaṃ vā cāretīti āha **‘‘sampattiṃ…pe… cāretī’’**ti. Tattha tato tatoti tasmiṃ tasmiṃ vādite tattha tattha ca vādakajane. Apanetvāti vādakajane nisedhetvā. Tenāha **‘‘nissaddāni kārāpetvā’’**ti. Devacārikaṃ gacchatiyeva devatānaṃ manussānañca anukampāya. Svāyamattho vimānavatthūhi (vi. va. 1) dīpetabbo.

五つの要素を持つことから「五支」であり、五支そのものが五支を具えたものである。マハティーなどの特殊な琵琶も張られたもの(弦楽器)であるため「皮で覆われたものにおいて」と限定された。一面のみのものは水瓶・柱・打楽器などである。皮で覆われ、弦が張られたものは打弦楽器である。それゆえに「弦が張られた小鼓など」と言われた。牛頭などのものもここに包含されると知られるべきである。「竹など」とは、「など」という言葉によって法螺貝や角笛などが包含される。「拍子板など」とは、木の拍子板、青銅の拍子板、石の薄板の拍子板などである。その中で、木の拍子板とは棒でできた拍子板である。青銅の拍子板とは金属製である。石や鉄の板で演奏する拍子板が石の薄板の拍子板である。「適切に備わった」とは、正しく備わり具足した。それゆえに「近づいた」と言われた。給仕として五百の楽器を具えていた。そしてそのようになった者は、それらによって給仕され具足した者と呼ばれるため、「『具足した』とはそれ自体の同義語である」と述べられた。「楽しむ」とは、周囲に行き渡らせる。何を巡らし、どのように巡らすのかを示すために「栄華を……中略……巡らす」と言われた。その中で「あちこちから」とは、それぞれの楽器において、そしてあちこちの演奏者たちにおいて。「退けて」とは、演奏者たちを制止して。それゆえに「無音にさせて」と言われた。天界への遊行には、神々と人間たちへの憐れみのために赴くのである。その意味は天宮事(経)によって明らかにされるべきである。

392. Appeva sakena karaṇīyenāti mārisa, moggallāna, mayaṃ sakena karaṇīyena appeva bahukiccāpi na homa. Apica devānaṃyevāti apica kho pana devānaṃyeva tāvatiṃsānaṃ karaṇīyena visesato bahukiccāti atthayojanā. Bhummaṭṭhakadevatānampi keci aṭṭā sakkena vinicchitabbā hontīti āha **‘‘pathavito paṭṭhāyā’’**ti. Niyamentoti avadhārento. Taṃ pana karaṇīyaṃ sarūpato dassetuṃ **‘‘devānaṃ hī’’**tiādi vuttaṃ. Tāsanti devadhītudevaputtapādaparicārikānaṃ. Maṇḍanapasādhanakārikāti maṇḍanapasādhanasaṃvidhāyikā. Aṭṭakaraṇaṃ natthi saṃsayasseva abhāvato.

392. 「おそらく自らの務めによって」とは、尊者モッガッラーナよ、私たちは自らの務めによってはおそらく多忙ではないかもしれません。しかし「実に神々の」とは、三十三天の神々の務めによって特に多忙である、という文脈の結びつきである。地居天のいくつかの訴訟も帝釈天によって裁決されなければならないため、「大地から始まって」と言われた。「限定して」とは、確定して。その務めを具体的に示すために「神々には実に」などと説かれた。「彼女たちの」とは、天女や天子の侍女たちのことである。「装飾を整える者」とは、装飾の準備を取り仕切る者である。疑いそのものがないため、訴訟の裁定は存在しない。

Yanti savanuggahaṇādivasena suparicitampi yaṃ atthajātaṃ. Na dissati, paññācakkhuno sabbaso na paṭibhātīti attho. Kecīti sārasamāsācariyā. Somanassasaṃveganti somanassasamuṭṭhānaṃ saṃvegaṃ, na cittasantāsaṃ.

「何であれ」とは、聴聞や学習などによって熟知されていたとしても、いかなる事柄であっても。「見られない」とは、智慧の眼に全く現れない、という意味である。「ある者たち」とは、要義集成の師たちである。「喜悦の戦慄」とは、喜びから生じる戦慄(感情の揺らぎ)であり、心の恐怖ではない。

Samupabyūḷhoti yujjhanavasena sahapatito samogāḷho. Evaṃbhūto ca yasmā samūhavasena sampiṇḍito hoti, tasmā vuttaṃ **‘‘sannipatito rāsibhūto’’**ti. Anantare attabhāveti idaṃ dutiyaṃ sakkattabhāvaṃ tato anantarātītena sakkattabhāvena sakkattabhāvasāmaññato ekamiva katvā gahaṇavasena vuttaṃ, aññathā ‘‘tatiye attabhāve’’ti vattabbaṃ siyā. Maghattabhāvo hi ito tatiyoti. Atha vā yasmiṃ attabhāve so devāsurasaṅgāmo ahosi, tassa anantarattā maghattabhāvassa vuttaṃ **‘‘anantare attabhāve’’**ti. Sattānaṃ hitesitāya mātāpituupaṭṭhānādinā cariyāhi bodhisattacariyā viyassa cariyā ahosi. Satta vatapadānīti satta vatakoṭṭhāse.

393. 「陣頭に立った」とは、戦うことによって共に飛び込み、深く突入した。そのようになった者は群集として集まるため、「集結し、一塊となった」と述べられた。「直前の生涯において」とは、この第二の帝釈天としての生涯を、その直前の過去の帝釈天としての生涯と帝釈天の共通性から一つであるかのように捉えて言われたのであり、そうでなければ「第三の生涯において」と言われるべきであった。マカとしての生涯はここから三番目だからである。あるいは、その神々と阿修羅の戦争があった生涯の直前であったことから、マカとしての生涯を「直前の生涯において」と述べたのである。衆生の福利を願うことによって、父母への給仕などの行いにより、菩薩の行いのような行いがあった。「七つの戒律条目」とは、七つの誓戒の区分である。

Mahāpānanti mahantaṃ surāpānaṃ. Gaṇḍapānanti gaṇḍasurāpānaṃ, adhimattapānanti attho. Pariharamānāti parivārentā. Vedikāpādāti sinerussa pariyante vedikāparikkhepā. Pañcasu ṭhānesūti pañcasu paribhaṇḍaṭṭhānesu nāgasenādīhi ārakkhaṃ ṭhapesi.

「大酒宴」とは、大々的な酒宴。「ガンダ酒の宴」とは、ガンダ酒の酒宴であり、過度の飲酒という意味である。「取り囲んで」とは、周囲を取り巻いて。「欄干の脚」とは、須弥山の周囲の欄干の囲い。「五箇所において」とは、五つの防護の場所において竜の軍勢などによる警備を配置した。

393. Rāmaṇeyyakanti ramaṇīyabhāvaṃ. Masāragallatthambheti kabaramaṇimaye thambhe. Suvaṇṇādimaye ghaṭaketi ‘‘rajatatthambhesu suvaṇṇamaye, suvaṇṇatthambhesu rajatamaye’’tiādinā suvaṇṇādimaye ghaṭake vāḷarūpakāni ca. Pabāḷhaṃ mattoti pamatto. Tenāha **‘‘ativiya matto’’**ti. Nāṭakaparivārenāti accharāparivārena.

393. 「快適さ」とは、麗しい状態。「キャッツアイの柱に」とは、斑模様の宝玉でできた柱に。「黄金などの壺に」とは、「銀の柱には黄金製の、黄金の柱には銀製の」などとある黄金などの壺や猛獣の像に。「極めて酔いしれた」とは、放逸になった。それゆえに「極度に酔いしれた」と言われた。「踊り子の従者によって」とは、天女の従者によって。

Acchariyabbhutanti padadvayenapi vimhayanākārova vutto, tasmā sañjātaṃ acchariyabbhutaṃ vimhayanākāro etesanti sañjātaacchariyaabbhutā, tathā pavattacittuppādā. Acchariyabbhutahetukā sañjātā tuṭṭhi etesanti sañjātatuṭṭhino. Saṃvigganti sañjātasaṃvegaṃ. Svāyaṃ saṃvego yasmā purimāvatthāya cittassa calanaṃ hoti, tasmā vuttaṃ **‘‘calita’’**nti.

「驚愕」とは、二つの語(驚きと怪異)によって感嘆の様態が述べられているため、生じた驚愕、すなわち感嘆の様態を持つ者たちを「驚愕が生じた者たち」といい、そのように生じた心の動きである。驚愕を原因として生じた歓喜を持つ者たちを「歓喜が生じた者たち」という。「戦慄した」とは、戦慄が生じたこと。この戦慄は、以前の状態から心が揺れ動くことであるため「動揺した」と述べられた。

394. Tamaṃ vinoditanti pāṭihāriyadassanena ‘‘aho therassa iddhānubhāvo’’ti sammāpaṭipattiyaṃ sañjātabahumāno, īdisaṃ nāma sāsanaṃ labhitvāpi mayaṃ niratthakena bhogamadena sammattā bhavāmāti yoniso manasikāruppādanena sammohatamaṃ vinoditaṃ vidhamitaṃ. Eteti mahāthero sakko cāti te dvepi samānabrahmacariyatāya sabrahmacārino.

394. 「闇が払われた」とは、神通の奇跡を見ることによって「ああ、長老の神通の威力は何と素晴らしいことか」と正しい実践に対する深い敬意が生じ、「このような教えに出遭いながらも、私たちは無益な富への驕りによって酔いしれていた」と如理作意を生じさせることによって、迷妄の闇が払われ、打ち破られた。「彼ら」とは、大長老と帝釈天のことであり、二人は共に同等の梵行にあることから同梵行者である。

395. Paññātānanti pākaṭānaṃ cātumahārāja-suyāma-santusita-paranimmitavasavattimahābrahmānaṃ aññataro, na yesaṃ kesañcīti adhippāyo. Āraddhadhammavaseneva pariyosāpitattā yathānusandhināva niṭṭhapesi.

395. 「著名な者たちの」とは、高名な四大王天、夜摩天、兜率天、化楽天、他化自在天、大梵天のいずれかであり、誰彼となくではない、という意味である。始められた法に従って締めくくられたため、文脈の通りに完結させた。

Cūḷataṇhāsaṅkhayasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

小愛尽経の釈義における深奥の義の解明を終わる。

8. Mahātaṇhāsaṅkhayasuttavaṇṇanā

8. 大愛尽経の釈義

396. Laddhimattanti micchāgāhamattaṃ, na diṭṭhābhiniveso. Sassatadiṭṭhīti niccābhiniveso. Soti ariṭṭho bhikkhu. Kathetvā samodhānentanti yojanā. Samodhānentanti ca nigamentanti attho. Tattha tatthevāti tesu tesu eva bhavesu nirujjhanti, na bhavantaraṃ saṅkamanti. Viññāṇaṃ pana abhinnasabhāvaṃ anaññanti adhippāyo. Idhalokatoti imasmā attabhāvā. Paralokanti parabhavasaññitaṃ attabhāvaṃ. Sandhāvatīti niccatāya kenaci asambaddhaṃ viya gacchati. Tena idhalokato paralokagamanamāha. Saṃsaratīti iminā paralokato idhāgamanaṃ. Sandhāvatīti vā bhavantarasaṅkamanamāha. Saṃsaratīti tattha tattha aparāparasañcaraṇaṃ.

396. 「単なる主張」とは、誤った把握にすぎず、確定した見解ではない。「常見」とは、常住であるという執着である。「彼」とは、アリッタ比丘。「説いて総括した」と結びつけられる。「総括した」とは、結論づけた、という意味である。「その場その場で」とは、それぞれの生存において滅するのであり、他の生存へと移行するのではない。しかし識は同一の性質であり別のものではない、というのが彼の意図である。「この世から」とは、この個体から。「あの世へ」とは、来世と名づけられた個体へ。「馳走する」とは、常住であることによって何ものにも束縛されないかのように行くこと。これによってこの世からあの世へ行くことを述べている。「輪廻する」とは、これによってあの世からこの世へ来ることを。「馳走する」とは、あるいは他の生存へ移行することを述べている。「輪廻する」とは、あちこちへ何度も巡ることである。

‘‘Paccaye sati bhavatī’’tiādinā viññāṇassa anvayato byatirekato ca paṭiccasamuppannabhāvaṃ dassento sassatabhāvaṃ paṭikkhipati. Buddhena akathitaṃ kathesīti iminā ‘‘yaṃ abhāsitaṃ alapitaṃ tathāgatena, taṃ bhāsitaṃ lapitaṃ tathāgatenāti dīpetī’’ti (cūḷava. 352, 353) imasmiṃ bhedakaravatthusmiṃ sandissatīti dasseti. Jinacakke pahāraṃ detīti ‘‘tadevidaṃ viññāṇaṃ…pe… anañña’’nti niccataṃ paṭijānanto – ‘‘sabbe saṅkhārā aniccā (dha. pa. 277), rūpaṃ, bhikkhave, anicca’’nti (saṃ. ni. 3.93-94) ca ādinayappavatte satthu dhammacakke khīlaṃ uppādento pahāraṃ deti. Sabbaññutaññāṇena aniccanti diṭṭhaṃ paveditañca viññāṇaṃ niccanti paṭijānanto vesārajjañāṇaṃ paṭibāhati. Sotukāmaṃ jananti ariyadhammādhigamassa ekantaupāyabhūtaṃ vipassanāmaggaṃ sotukāmaṃ janaṃ niccaggāhapaggaṇhanena visaṃvādeti. Tato eva ariyapathe ariyadhammavīthiyaṃ tassā paṭikkhipanena tiriyaṃ nipatitvā.

「縁があるときに生じる」などによって、識が順次および逆の側面から縁起したものであることを示し、常住であることを否定する。「仏陀が説かれなかったことを説いた」とは、これによって「如来が説かれず語られなかったことを、如来が説かれ語られたと示す」という破僧事(僧伽を分裂させる事柄)に該当することを示している。「勝者の車輪(法輪)に打撃を与える」とは、「これまさにその識であり……中略……別のものではない」と常住性を主張することで、「一切の諸行は無常である」「比丘たちよ、色は無常である」などの方法で展開された師の法輪に楔を打ち込んで打撃を与えることである。一切知の智慧によって無常であると見られ宣言された識を、常住であると主張することによって、四無畏の智を拒絶する。「聞くことを欲する人々を」とは、聖なる法の獲得のための絶対的な手段である毘鉢舎那の道を聴聞しようと欲する人々に、常住の執着を押しつけることによって欺く。それゆえに聖なる道、聖なる法の軌道において、それを否定することによって横たわり倒れ込んで。

398. Viññāṇasīsena attanā gahitaṃ attānaṃ vibhāvento **‘‘yvāyaṃ, bhante’’**tiādimāha. Tattha vado vedeyyotiādayo sassatadiṭṭhiyā eva abhinivesākārā. Vadatīti vado, vacīkammassa kārakoti attho. Iminā hi kārakabhāvupāyikasattānaṃ hitasukhāvabodhanasamatthataṃ attano dasseti. Vediyova vedeyyo, jānāti anubhavati cāti attho. Īdisānañhi padānaṃ bahulā kattusādhanataṃ saddavidū maññanti. Vedayatīti taṃ taṃ anubhavitabbaṃ anubhavati. Tahiṃ tahinti tesu tesu bhavayonigatiṭhitisattāvāsasattanikāyesu.

398. 識を筆頭として自らが捉えた我(アートマン)を明らかにしようとして「尊者よ、この」などと言った。その中で「語る者、経験する者」などは、常見の執着の様態そのものである。「語る」から「語る者」であり、言葉の行為(口業)をなす者、という意味である。これによって、行為者としての手段を持つ衆生たちに、自らの福利と歓喜を理解させる能力があることを示している。「経験されるべき者」こそが「経験する者」であり、知り、体験する、という意味である。実にこのような言葉は、能動の意味を持つと文法学者たちは考えている。「受苦楽する」とは、それぞれ経験されるべきものを経験する。「あちこちで」とは、それぞれの生存、胎生、趣、識住、有情居、衆生の類において。

399. Taṃ vādaṃ paggayha ṭhitattā sātissa chinnapaccayatā aviruḷhadhammatā ca veditabbā. Heṭṭhāti alagaddasuttasaṃvaṇṇanaṃ (ma. ni. aṭṭha. 2.236-237) sandhāyāha. Parato heṭṭhāti vuttaṭṭhānepi eseva nayo. Pāṭiyekko anusandhīti tīhipi anusandhīhi avomisso visuṃyeveko anusandhi. Nanu cāyampi sātissa ajjhāsayavasena pavattitattā ajjhāsayānusandhiyevāti? Na, niyyānamukhena appavattattā. Niyyānañhi purakkhatvā pucchādivasena pavattā itarā desanāpucchānusandhiādayo. Idha tadabhāvato vuttaṃ **‘‘pāṭiyekko anusandhī’’**ti. Parisāya laddhiṃ sodhentoti yādisī sātissa laddhi, tadabhāvadassanavasena parisāya laddhiṃ sodhento, parisāya laddhisodhaneneva sāti gaṇato nissārito nāma jāto.

399. その説を固執して留まっていたため、サーティは縁が断たれ、法において成長しない者であると知られるべきである。「下で」とは、蛇喩経の註釈を指して言われた。「以下で」と述べられた箇所でもこの方法は同様である。「独立した文脈」とは、三つの文脈と混ざり合わない、別個の単一の文脈である。「しかし、これもまたサーティの意図に基づいて展開されたものであるから、意図の文脈ではないのか」と言うなら、そうではない。出離の道として展開されたものではないからである。出離を目的として質問などに基づいて展開されたものが、他の説法の問いの文脈などである。ここではそれがないため「独立した文脈」と言われた。「会衆の主張を浄化しながら」とは、サーティの主張がどのようなものであれ、それが存在しないことを示すことによって会衆の主張を浄化し、会衆の主張を浄化することによってまさにサーティは集団から追放されたことになったのである。

400. Yaṃ yadevāti idaṃ yadipi avisesato paccayadhammaggahaṇaṃ, ‘‘viññāṇantveva saṅkhyaṃ gacchatī’’ti pana vuttattā taṃtaṃviññāṇassa samaññānimittapaccayajātaṃ gahitanti daṭṭhabbaṃ. Tena vuttaṃ pāḷiyaṃ – ‘‘cakkhuviññāṇantveva saṅkhyaṃ gacchatī’’tiādi. Atha vā taṃtaṃdvāraniyataṃ itarampi sabbaṃ tassa tassa viññāṇassa paccayajātaṃ idha ‘‘yaṃ yadevā’’ti gahitaṃ, tattha pana yaṃ asādhāraṇaṃ, tena samaññāti ‘‘cakkhuviññāṇantvevā’’tiādi vuttaṃ. Dvārasaṅkantiyā abhāvanti viññāṇassa dvārantarasaṅkamanassa abhāvaṃ. Svāyaṃ oḷārikanayena mandabuddhīnaṃ sukhāvabodhanatthaṃ nayadassanavasena vutto. Na hi kadāci paccuppannaṃ viññāṇaṃ vigacchantaṃ anantaraviññāṇaṃ saṅkamati anantarādipaccayālābhe tassa anuppajjanato.

400. 「何であれ」とは、無差別に縁となる法を把握することであるが、「まさに識という名称を得る」と説かれているため、それぞれの識の名称の契機となる縁の集まりが把握されていると知られるべきである。それゆえに経文において「まさに眼識という名称を得る」などと説かれた。あるいは、それぞれの感覚門に限定された他のすべての識の縁の集まりが、ここでは「何であれ」と把握されており、その中で特別なものによって名称が与えられるため「まさに眼識という」などと説かれた。「感覚門の移行がないこと」とは、識が他の感覚門へ移行することがないこと。これは粗大なる方法によって、知解の遅い者たちに容易に理解させるために方法を示すことによって述べられた。実に、現在において滅びつつある識が、直後の識へと移行することは決してない。直前などの縁が得られないときにはそれは生じないからである。

Evamevāti yathā aggi upādānaṃ paṭicca jalanto anupādāno tattheva nibbāyati, na katthaci saṅkamati, evameva. **‘‘Paccayavekallena tattheva nirujjhatī’’**ti kasmā vuttaṃ, na hettha anuppādanirodho icchito tādisassa nirodhassa idha anadhippetattā, atha kho khaṇanirodho, so ca sābhāvikattā na paccayavekallahetuko? Saccametaṃ, taṃtaṃdvārikassa pana viññāṇassa dvārantaraṃ asaṅkamitvā tattha tattheva nirujjhanaṃ idhādhippetaṃ. Yesañca paccayānaṃ vasena dvārantarikaviññāṇena bhavitabbaṃ, tesaṃ tadabhāvato paccayavekallaggahaṇaṃ, tasmā paccayavekallena na sotādīni saṅkamitvā sotaviññāṇantiādi saṅkhyaṃ gacchatīti yojanā. Etena yaṃ viññāṇaṃ cakkhurūpādipaccayasāmaggiyā vasena cakkhuviññāṇasaṅkhyaṃ gacchati, tattha tattheva nirujjhati tāvakālikabhāvato, tassa pana sotasaddādipaccayābhāvato kuto sotaviññāṇādisamaññā, evamappavattito tassa kuto saṅkamoti dassitaṃ hoti. Viññāṇappavatteti viññāṇappavattiyaṃ. Dvārasaṅkantimattanti dvārantarasaṅkamanamattampi na vadāmi tattha tattheva bhijjanato paccayassa uppādavantato sati ca uppāde avassaṃbhāvī nirodhoti hutvā abhāvaṭṭhena aniccatā dīpitā hotīti.

「まさにそのように」とは、火が燃料に依存して燃え上がり、燃料がなくなればまさにその場で消滅し、どこへも移行しないのと同じことである。「縁の欠如によってまさにその場で滅する」となぜ説かれたのか。ここでは不生による滅が望まれているわけではなく、そのような滅はここでは意図されていないからである。むしろ瞬間的な滅であり、それは自然の性質であるため、縁の欠如を原因とするものではないのではないか。それは真実である。しかし、それぞれの感覚門に属する識が他の感覚門へ移行することなく、まさにその場その場で滅することがここで意図されている。そして、それらの縁によって他の門の識が生じるはずであるが、それらがないことから「縁の欠如」と把握されているのであり、したがって縁の欠如によって耳などに移行して耳識などの名称を得ることはない、と結びつけられる。これによって、眼や色などの縁の集まりによって眼識という名称を得る識は、一時的なものであるためにまさにその場で滅するのであり、それには耳や声などの縁がないのにどうして耳識などの名称が得られようか、このように生起しないのにどうして移行があろうか、ということが示されたことになる。「識の生起において」とは、識の展開において。「単なる感覚門の移行すら」とは、他の感覚門への単なる移行すら私は言わない、まさにその場その場で破壊されるからであり、縁は生起を持つものであり、生起があるときには滅は不可避であることから、存在しない状態となるという意味によって無常性が明らかにされているからである。

401. ‘‘Paṭiccasamuppannaṃ viññāṇaṃ vuttaṃ mayā, aññatra paccayā natthi viññāṇassa sambhavo’’ti pāḷiyā anvayato ca byatirekato ca viññāṇassa saṅkhatatāva dassitāti āha **‘‘sappaccayabhāvaṃ dassetvā’’**ti. Hetupaccayehi jātaṃ nibbattaṃ ‘‘bhūta’’nti idhādhippetaṃ, taṃ atthato pañcakkhandhā tabbinimuttassa sappaccayassa abhāvato, yañca khandhapañcakaṃ attano tesañca bhikkhūnaṃ, taṃ ‘‘bhūtamida’’nti bhagavā avocāti āha **‘‘idaṃ khandhapañcaka’’**nti. Attano phalaṃ āharatīti āhāro, paccayo. Sambhavati etasmāti sambhavo, āhāro sambhavo etassāti āhārasambhavaṃ. Tenāha **‘‘paccayasambhava’’**nti. Tassa paccayassa nirodhāti yena avijjādinā paccayena khandhapañcakaṃ sambhavati, tassa paccayassa anuppādanirodhā. Khaṇanirodho pana kāraṇanirapekkho.

401. 「縁によって生じた識が私によって説かれたのであり、縁を離れては識の生起は存在しない」という経文によって、順次および逆の側面から識の有為性そのものが示されたため、「有縁の状態を示して」と言われた。因と縁によって生じ、生成したものが、ここで意図されている「生じたもの(有情・諸法)」であり、それは実質的には五蘊である。それを離れた有縁のものは存在しないからである。そして、自らとそれらの比丘たちの五蘊を、世尊は「これは生じたものである」と仰せられたため、「この五蘊」と言われた。自らの結果をもたらす(運ぶ)から「食(アーハーラ)」であり、縁である。これ(食)から生じるから「生起」であり、食を生起の原因とするから「食の生起によるもの」である。それゆえに「縁から生じたもの」と言われた。「その縁の滅によって」とは、無明などのいかなる縁によって五蘊が生起するのか、その縁の不生による滅によってである。しかし瞬間的な滅は原因を考慮しない。

Nossūti saṃsayajotano nipātoti āha **‘‘bhūtaṃ nu kho idaṃ, na nu kho bhūta’’**nti. Bhūtamidaṃ nossūti ca iminā khandhapañcakameva nu kho idaṃ, udāhu attattaniyanti evaṃjātiko saṃsayanākāro gahito. Tadāhārasambhavaṃ nossūti pana iminā sahetukaṃ nu kho idaṃ bhūtaṃ, udāhu ahetukanti yathā ahetukabhāvāpanno saṃsayanākāro gahito, evaṃ visamahetukabhāvāpannopi saṃsayanākāro gahitoti daṭṭhabbaṃ. Visamahetunopi paramatthato bhūtassa ahetukabhāvato. Visamahetuvādopi parehi parikappitamattatāya sabhāvaniyatiyadicchādivādehi samānayogakkhamoti. Nirodhadhammaṃ nossūti iminā yathā aniccaṃ nu kho idaṃ bhūtaṃ, udāhu niccanti aniccataṃ paṭicca saṃsayanākāro gahito, evaṃ dukkhaṃ nu kho, udāhu na dukkhaṃ, anattā nu kho, udāhu na anattātipi saṃsayanākāro gahitoyevāti daṭṭhabbaṃ aniccassa dukkhabhāvādiavassaṃbhāvato, nicce ca tadubhayābhāvato. Yāthāvasarasalakkhaṇatoti aviparītasarasato salakkhaṇato ca, kiccato ceva sabhāvato cāti attho. Vipassanāya adhiṭṭhānabhūtāpi paññā vipassanā evāti vuttaṃ **‘‘vipassanāpaññāyā’’**ti. Sarasatoti ca sabhāvato. Salakkhaṇatoti sāmaññalakkhaṇato. Tenāha **‘‘vipassanāpaññāya sammā passantassā’’**ti. Vuttanayenevāti ‘‘yāthāvasarasalakkhaṇato’’ti vuttanayeneva. Ye yeti tassaṃ parisāyaṃ ye ye bhikkhū. Sallakkhesunti sammadeva upadhāresuṃ.

「であろうか(ノッスー)」とは疑念を示す不変化詞であるため、「これは生じたものであろうか、生じたものではないだろうか」と言われた。「これは生じたものであろうか」とは、これによって「これは五蘊そのものであろうか、それとも我や我が物であろうか」というこのような種類の疑念の様態が捉えられている。「それは食から生じたものであろうか」とは、これによって「この生じたものは有因であろうか、それとも無因であろうか」と無因の状態に陥る疑念の様態が捉えられているように、不均等な原因(邪因)の状態に陥る疑念の様態も捉えられていると知られるべきである。不均等な原因論者にとっても、勝義においては生じたものは無因であるからである。不均等な原因論も、他者によって構想されたものにすぎないため、自然論、運命論、偶然論などと同列に扱われる。「滅する性質のものであろうか」とは、これによって「この生じたものは無常であろうか、それとも常住であろうか」と無常性についての疑念の様態が捉えられているように、「苦であろうか、それとも苦ではないだろうか」「無我であろうか、それとも無我ではないだろうか」という疑念の様態も捉えられていると知られるべきである。無常なるものには苦であることなどが不可避であり、常住なるものにはその両方がないからである。「ありのままの自相(特相)から」とは、転倒していない自らの特相から、作用と自性から、という意味である。毘鉢舎那の基盤となる智慧もまた毘鉢舎那そのものであるため、「毘鉢舎那の智慧によって」と述べられた。「自らの作用から」とは、自性から。「自相から」とは、共相(一般相)から。それゆえに「毘鉢舎那の智慧によって正しく見ている者にとって」と言われた。「述べられた方法によって」とは、「ありのままの自相から」と述べられたまさにその方法によって。「それぞれの」とは、その会衆の中のそれぞれの比丘たち。「考察した」とは、正しく思惟した。

Tehīti tehi bhikkhūhi. Tatthāti tissaṃ vipassanāpaññāyaṃ. Nittaṇhabhāvanti taṇhābhāvaṃ ‘‘etaṃ mama’’nti taṇhāggāhassa pahīnataṃ. Etenapi bhagavā ‘‘ahaṃ, bhikkhave, dhammesupi taṇhāpahānameva vaṇṇemi, sāti pana moghapuriso attabhāvepi taṇhāsaṃvaddhaniṃ viparītadiṭṭhiṃ paggayha tiṭṭhatī’’ti sātiṃ niggaṇhāti. Sabhāvadassanenāti dhammānaṃ aviparītasabhāvadassanena. Paccayadassanenāti kāraṇadassanena anavasesato hetuno paccayassa ca dassanena. Allīyethāti taṇhādiṭṭhivasena nissayetha. Tenāha **‘‘taṇhādiṭṭhīhī’’**ti. Kelāyethāti pariharaṇakeḷiyā parihareyyātha. Tenāha **‘‘kīḷamānā vihareyyāthā’’**ti. Dhanaṃ viya icchantāti dhanaṃ viya drabyaṃ viya icchaṃ taṇhaṃ janentā. Tenāha **‘‘gedhaṃ āpajjeyyāthā’’**ti. Mamattaṃ uppādeyyāthāti ‘‘mamamida’’nti taṇhādiṭṭhivasena abhinivesaṃ janeyyātha. Nikantivasenapi gahaṇatthāya no desito, tassa vā saṇhasukhumassa vipassanādhammassa gahaṇaṃ nāma nikantiyā eva siyā, na oḷārikataṇhāyāti vuttaṃ **‘‘nikantivasenā’’**ti.

「彼らによって」とは、それらの比丘たちによって。「そこにおいて」とは、その観の智慧において。「無渇愛の状態」とは、渇愛のない状態であり、「これは私のものである」という渇愛による執着が捨てられていることである。これによっても世尊は、「比丘たちよ、私は法においてさえも渇愛を捨てることのみを称賛する。しかし、愚人サーティは自己の存在においてさえ渇愛を増大させる転倒した見解を固持している」と言ってサーティを叱責されたのである。「自性の観察によって」とは、諸法の無転倒なる自性を観察することによって。「条件の観察によって」とは、原因を観察することによって、因と縁とを残余なく観察することによって。「固着する」とは、渇愛と見解の力によって依存することである。それゆえに「渇愛と見解によって」と言われた。「愛着する」とは、愛護の遊びによって愛護することである。それゆえに「戯れつつ住するであろうか」と言われた。「財のように欲する」とは、財や富のように欲し、渇愛を生じさせることである。それゆえに「貪欲に陥るであろうか」と言われた。「我がものとする思いを生じる」とは、「これは私のものである」と渇愛や見解によって執着を生じることである。愛着の力によって把握するためにも説かれてはいない。あるいは、その微細で巧妙な観の法を把握することは、まさに愛着によるものであり、粗雑な渇愛によるものではないことから、「愛着の力によって」と言われた。

402. Paṭicca etasmā phalaṃ etīti paccayo, sabbo kāraṇavisesoti āha **‘‘khandhānaṃ paccayaṃ dassento’’**ti. Yāva avijjā hi sabbo nesaṃ kāraṇaviseso idha dassito. Puna ādito paṭṭhāya yāva pariyosānā, antato paṭṭhāya yāva ādīti anulomato paṭilomato ca vaṭṭavivaṭṭadassanavasena nānānayehi paṭiccasamuppādo dassito, niccaggāhassa nimittabhūto kilesopi idha natthīti dīpeti. Tampi vuttatthamevāti tampi ‘‘ime ca, bhikkhave, cattāro āhārā’’tiādi yāva ‘‘taṇhāpabhavā’’ti pāḷipadaṃ, tāva vuttatthameva sammādiṭṭhisuttavaṇṇanāyaṃ (ma. ni. aṭṭha. 1.89). Sesaṃ paṭiccasamuppādakathābhāvato visuddhimagge (visuddhi. 2.570) vitthāritāvāti imināva saṅgahitaṃ.

402. これに縁りて果が生じるがゆえに「縁(条件)」であり、一切の原因の差異であることから、「諸蘊の縁を示しつつ」と言われた。実に無明に至るまでのそれらのすべての原因の差異がここに示されている。さらに初めから終わりまで、終わりから初めまでと、順次および逆次において、輪廻と還滅の観察の力によって種々の方法で縁起が示され、常住の執着の対象となる煩悩もここには存在しないことを明らかにしている。「それもまたすでに述べられた意味である」とは、「比丘たちよ、これら四つの食は」等から「渇愛を起源とする」というパーリの語に至るまで、正見経の註釈(マッジマ・ニカーヤ註釈1.89)においてすでに述べられた意味と同じである。残りは縁起の論説であるため、清浄道論(清浄道論2.570)において詳説されていることによって包摂されている。

404. Imasmiṃ sati idaṃ hotītiādīsu yaṃ vattabbaṃ, taṃ paramatthadīpaniyaṃ udānaṭṭhakathāyaṃ (udā. aṭṭha. 1) vuttanayeneva veditabbaṃ.

404. 「これがあるとき、これがある」等において語られるべきことは、勝義解明(ウダーナ註釈1)で述べられた方法によって知られるべきである。

407. Paṭidhāvanāti paṭisaraṇaṃ, pubbe attano āgataṃ atītaṃ addhānaṃ uddissa taṇhādiṭṭhivasena paṭigamananti attho. Nanu vicikicchāvasena pāḷiyaṃ paṭidhāvanā āgatāti? Saccaṃ āgatā, sā pana taṇhādiṭṭhihetukāti ‘‘taṇhādiṭṭhivasenā’’ti vuttaṃ. Tatthāti tasmiṃ yathādhigate ñāṇadassane.

407. 「馳せ走ること」とは、逆戻りすることであり、以前に自己がやって来た過去の時世を指して、渇愛や見解の力によって後戻りすることという意味である。「パーリにおいては疑念によって馳せ走ることが説かれているのではないか」と言うかもしれない。確かに説かれているが、しかしそれは渇愛と見解を原因とするものであるため、「渇愛と見解の力によって」と言われた。「そこにおいて」とは、その如実に得られた智見において。

Niccalabhāvanti suppatiṭṭhitabhāvaṃ, titthiyavādavātehi akampiyabhāvañca. Garūti garuguṇayutto. Bhāriko pāsāṇacchattasadiso. Akāmā anuvattitabboti saddhāmattakeneva anuvattanamāha, na aveccappasādena. Kiccanti satthukiccaṃ. Brāhmaṇānanti jātimantabrāhmaṇānaṃ. Vatasamādānānīti magavatādivatasamādānāni. Diṭṭhikutūhalānīti taṃtaṃdiṭṭhiggāhavasena ‘‘idaṃ saccaṃ, idaṃ sacca’’ntiādinā gahetabbakutūhalāni. Evaṃ nissaṭṭhānīti yathā mayā tumhākaṃ ovādo dinno, evaṃ nissaṭṭhāni vatādīni taṃ atikkamitvā kiṃ gaṇheyyātha. Sayaṃ ñāṇena ñātanti paraneyyataṃ muñcitvā attano eva ñāṇena yāthāvato ñātaṃ. Evaṃbhūtañca sayaṃ paccakkhato diṭṭhaṃ nāma hotīti āha **‘‘sayaṃ paññācakkhunā diṭṭha’’**nti. Sayaṃ vibhāvitanti tehi bhikkhūhi tassa atthassa paccattaṃ vibhūtabhāvaṃ āpāditaṃ. Upanītāti upakkamena dhammadesanānusārena nītā. Mayāti kattari karaṇavacanaṃ. Dhammenāti kāraṇena. Etaṃ vacananti etaṃ ‘‘sandiṭṭhiko’’tiādivacanaṃ.

「不動の状態」とは、堅固に確立された状態であり、異学派の論の風によって揺らぐことのない状態のことである。「重き人」とは、尊ぶべき徳を備えた人。石の傘のように重厚な人。「不本意ながら従うべき」とは、単なる信仰によって従うことを言い、壊れざる清浄信によるものではない。「なすべきこと」とは、師のなすべきこと。「バラモンたちの」とは、生まれ高きバラモンたちの。「誓戒を受持すること」とは、鹿の誓戒などの誓戒を受持すること。「見解への好奇心」とは、それぞれの見解を執着することによって「これが真実である、これが真実である」などと把握されるべき好奇心である。「このように捨て去られた」とは、私があなたがたに教誡を与えたように、このように捨て去られた誓戒などを、それを超えてどうして把握するであろうか。「自らの智慧によって知られた」とは、他者の指導によることを離れて、自己の智慧によってのみ如実に知られたことである。そしてこのようなものは、自ら直接に見たものとなるがゆえに、「自ら智慧の眼によって見られた」と言われた。「自ら明らかにした」とは、それらの比丘たちによって、その意味が個々に明白な状態に至らされたことである。「導かれた」とは、方便により、法の説示に従って導かれたことである。「私によって」とは、能動における具格の語である。「法によって」とは、道理によって。「この言葉」とは、「現証されるべきものである」などのこの言葉である。

408. Taṃ sammohaṭṭhānaṃ assa lokassa. Samodhānenāti samāgamena. Gabbhati attabhāvabhāvena vattatīti gabbho, kalalādiavattho dhammapabandho, tannissitattā pana sattasantāno ‘‘gabbho’’ti vutto yathā ‘‘mañcā ukkuṭṭhiṃ karontī’’ti. Tannissayabhāvato mātukucchi ‘‘gabbho’’ti veditabbo, gabbho viyāti vā. Yathā hi nivāsaṭṭhānatāya sattānaṃ ovarako ‘‘gabbho’’ti vuccati, evaṃ gabbhaseyyakānaṃ yāva abhijāti nivāsaṭṭhānatāya mātukucchi ‘‘gabbho’’ti vuttoti.

408. 「それはこの世間の迷妄の場所である」。「集合によって」とは、結合によって。「胎児(受胎)」とは、自己の存在として転起するゆえに「胎児」であり、羯羅藍などの状態にある諸法の連続である。しかしそれに依存していることから、衆生の連続が「胎児」と呼ばれる。「寝台が歓声をあげる」という比喩のようである。それに依存する場所であることから、母の胎内が「胎児(胎内)」と知られるべきである。あるいは胎児のようなものであるとも言える。実に衆生の居住場所であることから小部屋が「胎(奥部屋)」と呼ばれるように、胎生のものたちの誕生に至るまでの居住場所であることから、母の胎内が「胎」と呼ばれるのである。

Yamekarattinti yassaṃ ekarattiyaṃ. Bhummatthe hi idaṃ upayogavacanaṃ, accantasaṃyoge vā. Paṭhamanti sabbapaṭhamaṃ paṭisandhikkhaṇe. Gabbheti mātukucchiyaṃ. Māṇavoti satto. Yebhuyyena sattā rattiyaṃ paṭisandhiṃ gaṇhantīti rattiggahaṇaṃ. Abbhuṭṭhitovāti uṭṭhitaabbho viya, abhimukhabhāvena vā uṭṭhito eva maraṇassāti adhippāyo. So yātīti so māṇavo yāti paṭhamakkhaṇato paṭṭhāya gacchateva. Sa gacchaṃ na nivattatīti so evaṃ gacchanto khaṇamattampi na nivattati, aññadatthu maraṇameva upagacchatīti gāthāya attho.

「ある一夜において」とは、ある一つの夜において。この対格の語は場所の意味であり、あるいは期間の完全な継続におけるものである。「最初に」とは、まったく初めの結生の瞬間に。「胎において」とは、母の胎内において。「童子」とは、衆生のことである。大抵の衆生は夜に結生をとることから、夜が挙げられている。「現れた雲のように」とは、生じた雲のように、あるいは死に直面してまさに現れたという意味である。「彼は行く」とは、その童子は最初の瞬間からずっと行き続けるのである。「彼は行きつつ立ち止まらない」とは、彼がそのように行きつつ、一瞬たりとも立ち止まることなく、ひたすら死へと赴くのみであるというのが、詩偈の意味である。

Utusamayaṃ sandhāya vuttaṃ, na lokasamaññātarajassa lagganadivasamattaṃ. Idāni vuttamevatthaṃ pākaṭataraṃ kātuṃ **‘‘mātugāmassa kira yasmi’’**ntiādi vuttaṃ. Tatthāti tasmiṃ gabbhāsaye. Saṇṭhahitvāti nibbattitvā. Bhijjitvāti aggahitagabbhā eva bhinnā hutvā. Ayañhi tassā sabhāvo. Vatthu suddhaṃ hotīti paggharitalohitattā anāmayattā ca gabbhāsayo suddho hoti. Suddhavatthuttā tato paraṃ katipayadivasāni khettameva hoti gabbhasaṇṭhahanassa parittassa lohitalesassa vijjamānattā. Sambhavassa pana kathaṃ sabbhāvoti āha **‘‘tasmiṃ samaye’’**tiādi. Itthisantānepi sukkadhātu labbhateva. Tenāha **‘‘aṅgaparāmasanenapi dārako nibbattatiyevā’’**ti. Yathā pārikāya nābhiparāmasanena sāmassa bodhisattassa, diṭṭhamaṅgalikāya nābhiparāmasanena maṇḍabyassa nibbatti. Gandhabboti gandhanato uppajjanagatiyā nimittupaṭṭhāpanena sūcanato gandhoti laddhanāmena bhavagāmikammunā abbati pavattatīti gandhabbo, tattha uppajjanakasatto. Tenāha **‘‘tatrūpagasatto’’**ti. Kammayantayantitoti tatrūpapattiāvahena kammasaṅkhātena pellanakayantena tathattāya pellito upanīto. Mahantena jīvitasaṃsayenāti vijāyanaparikkilesena ‘‘jīvissāmi kho, na nu kho jīvissāmi ahaṃ vā, putto vā me’’ti evaṃ pavattena jīvitasaṃsayena vipulena garutarena saṃsayena. Taṃ ṭhānanti thanappadesamāha. Kīḷanti tenāti kīḷanaṃ, kīḷanameva kīḷanakaṃ.

季節の時期(排卵期)を指して言われたのであり、世間に知られる月経の付着した日だけのことではない。今や述べられた意味をより明瞭にするために、「母なる女性の実にいかなる」等と言われた。「そこにおいて」とは、その子宮において。「留まって」とは、生じて。「破れて」とは、受胎しなかったときに破れて。実にこれが女性の自然な性質である。「母胎が清浄となる」とは、血液が流出し、無病となることから子宮が清浄となることである。「母胎が清浄であることから」それ以後の数日間は、微量の血液の存在があるため、まさに受胎のための畑(受胎可能な状態)となる。しかし精気の存在はどのようにしてあるのかについて、「その時において」等と言われた。女性の相続(身体)においても精液の要素は確かに得られる。それゆえに「身体の接触によっても子は実に生じる」と言われた。パーリカーの臍の接触によって菩薩サヤマが生じ、ディッタマンガリカーの臍の接触によってマンダブヤが生じたように。「ガンダッバ」とは、結生する行先の前兆を現前させて示すことによって「ガンダ(香り・前兆)」という名を得た、生存に赴く業によって進行する(アッバティ)ゆえに「ガンダッバ」であり、そこに生じるべき衆生のことである。それゆえに「そこに赴く衆生」と言われた。「業の機構によって動かされた」とは、そこへの受生をもたらす業と呼ばれる推進の仕掛けによって、そのように推進され導かれたことである。「大いなる生命の不安によって」とは、出産時の激しい苦しみによって、「私は生きられるだろうか、生きられないだろうか、私あるいは私の息子は」というように生じた生命の不安、広大で甚だしい疑念によって。「その場所」とは、乳房の場所を言う。「これによって遊ぶ」ゆえに「遊び」であり、まさに遊びが「おもちゃ」である。

409. Sārajjatīti sārattacitto hoti. Byāpajjatīti byāpannacitto hoti. Kāye kesādidvattiṃsāsucisamudāye taṃsabhāvārammaṇā sati kāyasati. Anupaṭṭhapetvāti anuppādetvā, yathāsabhāvato kāyaṃ anupadhāretvāti attho. Parittacetasoti kilesehi parito khaṇḍitacitto. Tenāha **‘‘akusalacitto’’**ti. Ete akusaladhammā. Nirujjhantīti nirodhaṃ pattā honti. Taṇhāvasena abhinandatīti sappītikataṇhāvasena abhimukhaṃ hutvā nandati. Abhivadatīti taṇhāvasena taṃ taṃ ārammaṇaṃ abhinivissa vadati. Ajjhosāyāti anaññasādhāraṇaṃ viya ārammaṇaṃ taṇhāvasena anupavisitvā. Tenāha **‘‘gilitvā pariniṭṭhapetvā’’**ti. Dukkhaṃ kathaṃ abhinandatīti ettha dukkhahetukaṃ abhinandanto dukkhaṃ abhinandati nāmāti daṭṭhabbaṃ. Aṭṭhakathāyaṃ pana yāvatā yassa dukkhe diṭṭhitaṇhā abhinandanā appahīnā, tāvatāyaṃ dukkhaṃ abhinandati nāmāti dassetuṃ **‘‘ahaṃ dukkhito mama dukkhanti gaṇhanto abhinandati nāmā’’**ti vuttaṃ. Tena gāhadvayahetukā tattha abhinandanāti dasseti. Puna ekavāranti punapi ekavāraṃ. Phalahetusandhihetuphalasandhivasena dvisandhī. ‘‘Gabbhassāvakkanti hotī’’tiādinā atthato sarūpato ca etarahi phalasaṅkhepassa. Sarūpeneva ca itaradvayassa desitattā āha **‘‘tisaṅkhepa’’**nti.

409. 「貪着する」とは、貪愛に染まった心となる。「憤る」とは、害意のある心となる。身体において、毛髪などの三十二の不浄の集成において、その自性を対象とする念が身念である。「確立せずに」とは、生じさせずに、如実に身体を観察せずにという意味である。「矮小な心で」とは、煩悩によって周囲を寸断された心で。それゆえに「不善の心で」と言われた。これらは不善の諸法である。「滅する」とは、止滅に至る。「渇愛によって歓喜する」とは、喜悦を伴う渇愛によってそれに向かって歓喜する。「称賛する」とは、渇愛によってその時々の対象に固執して語る。「執着して」とは、他に共通しないかのように対象に渇愛によって深く入り込んで。それゆえに「呑み込んで完全に仕上げて」と言われた。「どのように苦を歓喜するのか」という点については、ここでは苦の原因となるものを歓喜する者が苦を歓喜すると呼ばれると見なされるべきである。しかし註釈においては、苦において見解と渇愛による歓喜が捨てられていない限り、その者は苦を歓喜していると示すために、「『私は苦しんでいる、私の苦しみである』と把握しつつ歓喜しているのである」と言われた。それによって二つの執着を原因とするものがそこでの歓喜であると示している。「再び一巡」とは、もう一度一巡するということである。果と因の結合、因と果の結合によって二つの結合がある。「胎児の降下が起こる」等によって、意味的にも形態的にも現在の果の総括がある。そして形態的にも他の二つが説かれていることから、「三つの総括」と言われた。

410-414. Samathayānikassa bhikkhuno vedanāmukhena saṅkhepeneva yāva arahattā kammaṭṭhānaṃ idha kathitanti āha **‘‘saṃkhittena taṇhāsaṅkhayavimuttiṃ dhārethā’’**ti. ‘‘Imaṃ taṇhāsaṅkhayavimutti’’nti ca bhagavā yathādesitaṃ desanaṃ avocāti vuttaṃ **‘‘imaṃ…pe… vimuttidesana’’**nti. Yadi evaṃ kathaṃ desanā vimuttīti āha **‘‘desanā hi…pe… vimuttīti vuttā’’**ti. Yassā taṇhāya vasena sāti bhikkhu sassataggāhamahāsaṅghāṭapaṭimukko, sā sabbabuddhānaṃ desanā hatthāvalambamānepi durugghāṭiyā jātāti āha **‘‘mahātaṇhājālataṇhāsaṅghāṭapaṭimukka’’**nti. Mahātaṇhājāleti mahante taṇhājaṭe. Taṇhāsaṅghāṭeti taṇhāya saṅghāṭe. Tathābhūto ca tassa abbhantare kato nāma hotīti āha **‘‘anupaviṭṭho antogadho’’**ti. Sesaṃ suviññeyyameva.

410-414. 止行者の比丘に対して、感受の導入口を通じて簡潔に阿羅漢果に至るまでの業処がここで語られたことから、「簡潔に渇愛の消尽による解脱を受持せよ」と言われた。そして世尊は、説かれた通りの説示を「この渇愛の消尽による解脱」と言われたことから、「この……中略……解脱の説示を」と言われた。もしそうであるなら、どうして説示が解脱であるのかについて、「実に説示は……中略……解脱と言われた」と述べられた。その渇愛の力によって比丘サーティは常住論の大僧伽梨(重衣)に囚われ、その渇愛は一切の諸仏の説示が手を差し伸べているときでさえも脱ぎ捨て難いものとなったことから、「大いなる渇愛の網という渇愛の重衣に囚われた」と言われた。「大いなる渇愛の網において」とは、大いなる渇愛のもつれにおいて。「渇愛の重衣において」とは、渇愛の僧伽梨において。そしてそのようになった者は、その内部に入れられた者となることから、「入り込み、包摂された」と言われた。残りは容易に理解できる。

Mahātaṇhāsaṅkhayasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

大愛尽経註の甚深義の解明は完結した。

9. Mahāassapurasuttavaṇṇanā

9. 大アッサプラ経註

415. Jānapadinoti janapadavanto, janapadassa vā issarā rājakumārā gottavasena aṅgā nāma. Tesaṃ nivāso yadi eko janapado, kathaṃ bahuvacananti āha **‘‘ruḷhīsaddenā’’**ti. Akkharacintakā hi īdisesu ṭhānesu yutte viya saliṅgavacanāni (pāṇini 1.2.51) icchanti. Ayamettha ruḷhī yathā ‘‘kurūsu viharati, mallesu viharatī’’ti ca. Tabbisesane pana janapadasadde jātisadde ekavacanameva. Tenāha **‘‘aṅgesu janapade’’**ti. Assā vuccanti pāsāṇāni, tāni sundarāni tattha santīti **‘‘assapura’’**nti so nigamo vuttoti kecī. Apare pana ājānīyo asso rañño tattha gahaṇaṃ upagatoti **‘‘assapura’’**nti vuttoti vadanti. Kiṃ tehi, nāmametaṃ tassa nigamassa. Yasmā pana tattha bhagavato nibaddhavasanaṭṭhānaṃ kiñci nāhosi, tasmā **‘‘taṃ gocaragāmaṃ katvā viharati’’**cceva vuttaṃ. Tathā hi pāḷiyaṃ ‘‘assapuraṃ nāma aṅgānaṃ nigamo’’ti gocaragāmakittanameva kataṃ.

415. 「地方の住民たち」とは、地方を持つ人々、あるいは地方の主である王子たちのことであり、氏族の名によってアンガと呼ばれる。それらの居住地が一つの地方であるのに、どうして複数形なのかについて、「慣用句によって」と言われた。実に文字の考察者(文法学者)たちは、このような箇所において結合されたものと同様に自らの性や数に従う語を欲する(パーニニ 1.2.51)。これはここでの慣用であり、「クル国の人々の中に住する、マッラ国の人々の中に住する」というようなものである。しかしその修飾語である「地方」という語、種族の語においては単数形のみである。それゆえに「アンガたちの地方において」と言われた。「アッサ」とは石のことであり、それらの美しい石がそこにあることから「アッサプラ(馬城/石城)」とその町が呼ばれたと一部の者は言う。しかし他の者たちは、王の名馬(アッサーザーニーヤ)がそこで捕獲されたことから「アッサプラ」と呼ばれたと言う。それらの論に何の意味があろうか、これはその町の名前である。しかしながら、そこには世尊の定住の場所が何もなかったため、「そこを行化の村として住する」とだけ言われた。実にパーリにおいて「アッサプラというアンガ国の町」と、行化の村の提示のみがなされている。

Evarūpena sīlenātiādīsu sīlaggahaṇena vārittasīlamāha. Tena sammāvācākammantājīve dasseti. Ācāraggahaṇena cārittasīlaṃ. Tena parisuddhaṃ kāyavacīsamācāraṃ. Paṭipattiggahaṇena samathavipassanāmaggaphalasaṅgahaṃ sammāpaṭipattiṃ. Lajjinoti iminā yathāvuttasīlācāramūlakāraṇaṃ. Pesalāti iminā pārisuddhiṃ. Uḷāraguṇāti iminā paṭipattiyā pāripūriṃ. Bhikkhusaṅghasseva vaṇṇaṃ kathentīti idaṃ tesaṃ upāsakānaṃ yebhuyyena bhikkhūnaṃ guṇakittanapasutatāya vuttaṃ. Te pana saddhammepi sammāsambuddhepi abhippasannā eva. Tenāha **‘‘buddhamāmakā dhammamāmakā’’**ti. Vatthuttaye hi ekasmiṃ abhippasannā itaradvaye abhippasannā eva tadavinābhāvato. Piṇḍapātāpacāyaneti lakkhaṇavacanametaṃ yathā ‘‘kākehi sappi rakkhitabba’’nti, tasmā paccayapaṭipūjaneti vuttaṃ hoti. Paccayadāyakānañhi kārassa attano sammāpaṭipattiyā mahapphalabhāvassa karaṇaṃ idha ‘‘piṇḍapātāpacāyana’’nti adhippetaṃ.

「このような戒によって」等において、「戒」を挙げることによって遮止の戒を語っている。それによって正語・正業・正命を示している。「行儀」を挙げることによって実践の戒を示している。それによって清浄な身体と言語の行儀を示している。「実践」を挙げることによって、止観と道果を包摂する正しい実践を示している。「恥を知る者」によって、前述の戒と行儀の根本原因を示している。「親愛なる者」によって清浄さを示している。「高貴な徳を持つ者」によって実践の円満を示している。「比丘サンガの徳のみを語る」とは、それらの在家信者たちが主に比丘たちの徳を称賛することに専念していたことから言われた。しかし彼らは正法にも正等覚者にも深く信順していたのである。それゆえに「仏を愛惜する者、法を愛惜する者」と言われた。実に三宝のうちの一つに深く信順している者は、互いに切り離せないものであるがゆえに、他の二つにも確かに深く信順している。「托鉢の供養において」とは、「カラスからギーを守るべし」というような特徴を表す言葉であり、それゆえに「四事の供養において」と言われたことになる。実に四事の施主たちの施しを、自らの正しい実践によって大果あるものとすることが、ここでは「托鉢の供養」として意図されている。

Samaṇakaraṇāti samaṇabhāvakarā, samaṇabhāvassa kārakāti attho. Te pana ekantato attano santāne uppāditā vaḍḍhitā ca hontīti āha **‘‘samādāya paripūritā’’**ti. Samaṇaggahaṇañcettha samaṇavasena, na sāmaññamattenāti āha **‘‘samitapāpasamaṇa’’**nti. Brāhmaṇakaraṇāti etthāpi vuttanayenevattho veditabbo. Byañjanato eva cāyaṃ bhedo, yadidaṃ samaṇabrāhmaṇāti, na atthato. Samaṇena kattabbadhammāti samaṇadhamme ṭhitena sampādetabbadhammā. Yo hi heṭṭhimasikkhāsaṅkhātasamaṇabhāve suppatiṭṭhito, tena ye uparisikkhāsaṅkhātasamaṇabhāvā sampādetabbā, tesaṃ vaseneva vuttasamaṇena kattabbadhammā vuttāti. Tathā hi tesaṃ samaṇabhāvāvahataṃ sandhāyāha **‘‘tepi ca samaṇakaraṇā hontiyevā’’**ti. Idha panāti mahāassapure. Hirottappādivasena desanā vitthāritāti hirottappa-parisuddhakāyavacīmanosamācārājīvaindriyasaṃvara-bhojanemattaññuta- jāgariyānuyogasatisampajañña-jhānavijjāvasena samaṇakaraṇadhammadesanā vitthārato desitā, na tikanipāte viya saṅkhepato. Phalaggahaṇeneva vipākaphalaṃ gahitaṃ, taṃ pana ukkaṭṭhaniddesena catubbidhaṃ sāmaññaphalaṃ daṭṭhabbaṃ. Ānisaṃsaggahaṇena piyamanāpatādiudrayo. Tasseva atthoti tasseva avañcāpadasseva atthaniddeso. ‘‘Yassā hī’’tiādinā byatirekavasena atthaṃ vadati. Ettakena ṭhānenāti ettakena pāḷipadesena. Hirottappādīnaṃ upari pāḷiyaṃ vuccamānānaṃ samaṇakaraṇadhammānaṃ. Vaṇṇaṃ kathesīti guṇaṃ ānisaṃsaṃ abhāsi. Satipaṭṭhāne vuttanayenāti ‘‘apica vaṇṇabhaṇanameta’’ntiādinā satipaṭṭhānavaṇṇanāyaṃ (dī. ni. aṭṭha. 2.373; ma. ni. aṭṭha. 1.106) vuttanayena.

「沙門たらしめる法」とは、沙門の状態を成すもの、沙門の状態を作すものという意味である。それらはもっぱら自己の相続において生じさせられ、増大させられたものであることから、「受持して円満にされた」と言われた。そしてここでの沙門の把握は、真の沙門によるものであり、単なる沙門の類似によるものではないことから、「悪を静めた沙門」と言われた。「バラモンたらしめる法」においても、述べられた方法によって意味が知られるべきである。そしてこの沙門とバラモンという差異は表現の上でのみであり、意味の上での差異ではない。「沙門によってなされるべき法」とは、沙門の法に留まる者によって成就されるべき諸法のことである。実に下位の学処と呼ばれる沙門の状態によく確立された者は、それによって上位の学処と呼ばれる沙門の状態を成就すべきであり、それらの力によって上述の沙門によってなされるべき諸法が語られたのである。実にそれらが沙門の状態をもたらすものであることを指して、「それらもまた実に沙門たらしめる法である」と言われた。「しかしここにおいては」とは、大アッサプラ経においては。「慚と愧等によって説示が詳説された」とは、慚、愧、清浄な身・口・意の行儀、生計、根の防護、食事の適量を知ること、不眠の修練、正念正知、禅定、明智によって、沙門たらしめる法の説示が詳細に説かれたのであり、三集におけるような簡潔さによるのではない。果を挙げることによって異熟の果が把握されたが、それは最勝の提示によって四種の沙門果と見なされるべきである。「功徳」を挙げることによって、愛らしく好ましいことなどの帰結が把握された。「まさにその意味」とは、まさにその「欺かない」という語の意味の提示である。「実にいかなる人の」等によって差異の力によって意味を語っている。「これほどの箇所によって」とは、これほどのパーリの語の箇所によって。慚と愧などの、後述のパーリで語られる沙門たらしめる諸法の。「徳を語られた」とは、功徳と利益を説かれた。「念処経で述べられた方法によって」とは、「さらにこれは称賛の言葉である」等によって念処経註(ディーガ・ニカーヤ註釈2.373、マッジマ・ニカーヤ註釈1.106)において述べられた方法による。

416. Yaṃ hirīyatīti yena dhammena hetubhūtena vā jigucchati. Karaṇe hetaṃ paccattavacanaṃ. Yanti vā liṅgavipallāsena vutto, dhammoti attho. Hirīyitabbenāti upayogatthe karaṇavacanaṃ, hirīyitabbayuttakaṃ kāyaduccaritādinti attho. Ottappitabbenāti etthāpi eseva nayo. Ajjhattaṃ niyakajjhattaṃ jātiādi samuṭṭhānaṃ etissāti ajjhattasamuṭṭhānā hirī, bahiddhā attato bahibhūto parasatto samuṭṭhānaṃ etissāti bahiddhāsamuṭṭhānaṃ ottappaṃ. Attādhipatito āgatā attādhipateyyā, attānaṃ adhipatiṃ katvā pavattā. Lajjāsabhāvasaṇṭhitāti pāpajigucchanasabhāvaṭṭhāyinī. Sappatissavalakkhaṇattā garunā kismiñci vutte gāravavasena patissavanaṃ patissavo, saha patissavenāti sappatissavaṃ, patissavabhūtaṃ taṃsabhāvañca yaṃ kiñci gāravaṃ. Jātiādimahattatāpaccavekkhaṇena uppajjamānā ca hirī tattha gāravavasena pavattatīti sappatissavalakkhaṇāti vuccati. Bhayasabhāvasaṇṭhitanti pāpato bhāyanasabhāvaṭṭhāyī, vajjabhīrukabhayadassāvilakkhaṇattā vajjaṃ bhāyati taṃ bhayato passatīti vajjabhīrukabhayadassāvī, evaṃsabhāvaṃ ottappaṃ. Ajjhattasamuṭṭhānāditā ca hirottappānaṃ tattha tattha pākaṭabhāveneva vuccati, na paresaṃ kadāci aññamaññavippayogā. Na hi lajjanaṃ nibbhayaṃ, pāpabhayaṃ vā alajjanaṃ hotīti. Ayamettha saṅkhepo, vitthāro pana aṭṭhasāliniyaṃ (dha. sa. aṭṭha. 1.balarāsivaṇṇanā) vuttanayeneva veditabbo. Lokamariyādassa pālanato lokapāladhammā nāma. Sukkāti odātā pabhassarabhāvakārakā, sukkābhijātihetutāya vā sukkā. Sambhedanti ācāramariyādāsaṅkaraṃ. Devabhāvāvahā dhammāti devadhammā.

416. 「恥じるもの」とは、それによって、あるいはそれが原因となって嫌悪する法のことである。具格においてこの主格の語が用いられている。あるいは性の転換によって語られたものであり、「法」という意味である。「恥じるべきことによって」とは、対格の意味における具格の語であり、恥じるに値する身の悪行などをという意味である。「恐れるべきことによって」においても同様の方法である。内なる自己の内面、生まれなどをその発生源とするものが「内面を発生源とする慚」であり、外なる自己の外にある他者や衆生を発生源とするものが「外面を発生源とする愧」である。自己を主とすることから生じたものが「自己を主とするもの」であり、自己を主として転起したものである。「恥の自性にとどまるもの」とは、悪を嫌悪する自性にとどまるものである。「敬意を伴う特徴をもつことから」尊者が何かを語ったとき、敬意によって聞き従うことが聞き従いであり、聞き従いを伴うものが「敬意を伴うもの」であり、聞き従いとなったそれと同性質のいかなる敬意でもある。そして生まれなどの高貴さを省察することによって生じる慚は、そこにおいて敬意の力によって転起することから、「敬意を伴う特徴をもつ」と言われる。「恐怖の自性にとどまるもの」とは、悪から恐れる自性にとどまるものであり、「罪過を恐れ、恐れを見る特徴をもつことから」罪過を恐れ、それを恐怖として見るゆえに「罪過を恐れ恐れを見るもの」であり、このような自性を持つのが愧である。そして慚と愧の内面を発生源とすることなどは、それぞれの箇所において顕著であることによってのみ語られるのであり、他において互いに離れることがあるからではない。実に恥じることが恐れなきものであることはなく、悪への恐れが恥なきものであることもないからである。これがここでの要約であり、詳細はアッタサーリニー(法集論註釈1・力聚の解説)において述べられた方法によって知られるべきである。世間の規範を守ることから「世間を保護する法」と呼ばれる。「清白なるもの」とは、白く輝く状態を作すもの、あるいは清白な生因となることから清白である。「混同」とは、行儀の規範の混乱である。「天の境地をもたらす法」ゆえに「天の法(デーヴァ・ダンマ)」である。

Sukkadhammasamāhitāti yathāvuttasukkadhammasamaṅgino. Santoti vūpasantadosā. Sappurisāti santajanā. Saparahitasādhakā hi sādhavo.

「清白の法を備えた」とは、前述の清白の法を具備した者たち。「寂静なる者」とは、過失を静めた者たち。「善人たち」とは、寂静なる人々である。実に自他の利益を達成する者が善人である。

Avayavavinimuttassa samudāyassa abhāvato, avayavena ca samudāyassa apadisitabbato ovādūpasampadāvahaovādekadeso ovādūpasampadāti. Idhāti imasmiṃ assapure. Ete hirottappadhammā. Samaṇadhammā nāmāti dassitā mūlabhūtasamaṇabhāvakarā dhammāti katvā. Tathā hi tesaṃ ādito gahaṇaṃ.

部分を離れた全体の存在はないことから、また部分によって全体が示されるべきであることから、教誡による具足戒をもたらす教誡の一部が「教誡による具足戒」である。「ここにおいて」とは、このアッサプラにおいて。「これら慚と愧の法」。「沙門の法と呼ばれる」とは、根本となる沙門の状態を作す諸法であることから示された。実にそれゆえにそれらが最初に把握されたのである。

Yassa adhigamena nippariyāyato samaṇā nāma honti, so ariyamaggo ‘‘samaṇassa kammaṃ paṭipadā’’ti katvā sāmaññaṃ, tassa pana phalabhāvato, ārammaṇakaraṇavasena araṇīyato phalanibbānāni sāmaññattho. Rāgaṃ khepetīti rāgakkhayo, ariyamaggo. Rāgo khīyati etthāti rāgakkhayo, nibbānaṃ. Phalaṃ pana kāraṇūpacārena rāgakkhayo daṭṭhabbo. Dosakkhayo mohakkhayoti etthāpi eseva nayo. Sāmaññabhūto attho sāmaññattho, maggo, sāmaññassa atthoti sāmaññattho, phalanti āha **‘‘maggampi phalampi ekato katvā sāmaññattho kathito’’**ti. Tayidaṃ ukkaṭṭhaniddesena vuttaṃ. Sīlādipubbabhāgapaṭipadāpi hi idha ‘‘sāmaññattho’’ti gahitā. Tenevāha ‘‘sati uttarikaraṇīye’’ti. Paṭivedayāmīti punappunaṃ ñāpemi.

それの証得によって無偏頗に真の沙門と呼ばれるところの、その聖道が「沙門の行為、実践」であることから「沙門の境地(沙門性)」であり、その果であること、対象とすることによって達せられるべきものであることから、果と涅槃が「沙門の目的」である。貪りを滅ぼすゆえに「貪りの消尽」であり、聖道のことである。貪りがここで滅し尽くされるゆえに「貪りの消尽」であり、涅槃のことである。しかし果は、原因の転用によって「貪りの消尽」と見なされるべきである。「怒りの消尽」「迷いの消尽」においても同様の方法である。沙門の境地である目的が「沙門の目的」であり道のこと、沙門の境地の目的が「沙門の目的」であり果のことであることから、「道も果も一つにして沙門の目的が語られた」と言われた。そしてこれは最勝の提示によって語られたものである。実に戒などの前段階の実践もまた、ここでは「沙門の目的」として把握されている。それゆえに「さらに上になすべきことがあるとき」と言われた。「知らせる」とは、繰り返し知らしめる。

417. Kammapathavasenevāti akusalakammapathabhāveneva, tato tādisampi akusalakammaṃ bhikkhussa kātuṃ na yuttanti duṭṭhullabhāveneva tato oramatīti adhippāyo. Sikkhāpadabaddhenāti sikkhāpadapaññāpanena. Pānīyaghaṭe vā patte vā kākānaṃ hatthaṃ vā daṇḍaṃ vā leḍḍuṃ vāti sabbamidaṃ nidassanamattaṃ daṭṭhabbaṃ. Yattha katthaci hi ṭhitānaṃ aññesampi pāṇīnaṃ uṭṭhāpanādi sabbaṃ aniṭṭhakaraṇaṃ idha aparisuddhakāyasamācārabhāveneva saṅgahitanti. Uttānoti uddhamuddhaṃ tanotīti uttāno. Evaṃbhūto ca kenaci anuppādabhūmiyaṃ sañjātasālakalyāṇīkhandho viya uparūpari uggatuggato pākaṭo ca hotīti āha **‘‘uggato pākaṭo’’**ti. Anāvaṭoti anivuto. Tenāha **‘‘asañchanno’’**ti, nacchādetabboti attho. Ekasadiso visuddhabhāvena. Antarantare chiddarahito pubbenāparaṃ sammāpaṭipattiyā sandhānena. Saṃvuto kāyikassa saṃvarassa anupakkilesato. Tenāha **‘‘kilesānaṃ dvāraṃ pidahanenā’’**ti.

417. 「業道によってのみ」とは、不善の業道であることによってのみであり、それゆえにそのような不善の業も比丘にとってなすに相応しくないという粗重さのゆえにそれから退くという意味である。「学処に結びつけられたものによって」とは、学処の制定によって。「水瓶あるいは鉢において、カラスに対して手や杖や土塊を」というのは、これらすべては単なる例示として見なされるべきである。実にいかなる場所にいる他の生き物に対しても、立たせることなどのすべての不快な行為は、ここでは不浄な身の行儀として包摂されている。「顕開なるもの」とは、上へ上へと広がるゆえに「顕開」である。そしてこのようになったものは、何ものにも妨げられない土地に生じた美しいサーラ樹の幹のように、上へ上へと伸びて顕著となることから、「伸びて顕著となった」と言われた。「覆われていない」とは、遮られていないこと。それゆえに「隠されていない」と言われたのであり、覆い隠されるべきではないという意味である。「一様である」とは、清浄な状態によって。「隙間なく穴がない」とは、前後において正しい実践が連続していることによる。「防護された」とは、身体的な防護に汚れがないことによる。それゆえに「煩悩の門を閉ざすことによって」と言われた。

418. Ettha yathā lahukataraṃ kākuṭṭhāpanādikāyakammaṃ kāyasamācārassa aparisuddhabhāvāvahaṃ sallekhavikopanato, micchāvitakkanamattañca manosamācārassa, evaṃ yaṃ kiñci aniyyānakathākathanamattaṃ vacīsamācārassa aparisuddhabhāvāvahaṃ sallekhavikopanato, na hasādhippāyena musākathananti daṭṭhabbaṃ. Hasādhippāyena hi musākathanaṃ sikkhāpadabaddheneva paṭikkhittanti.

418. ここにおいて、カラスを立たせるなどの軽微な身業が、削磨を損なうことによって身の行儀の不浄をもたらすものであり、単なる邪な思いが意の行儀の不浄をもたらすものであるのと同様に、いかなる無益な世間話の類も、削磨を損なうことによって口の行儀の不浄をもたらすものと見なされるべきであり、戯れによる嘘の言説ではない。実に戯れによる嘘の言説は、学処に結びつけられたものによってまさに禁止されているからである。

420. Ājīvopi ekacco kammapathavasena vārito labbhati. So pana atioḷāriko kāyavacīsamācāravāresu vuttanayo evāti na gahitoti daṭṭhabbaṃ. Ye pana ‘‘tādiso bhikkhūnaṃ ayogyato na gahito’’ti vadanti, taṃ micchā tathā sati kāyavacīsamācāravārepi tassa aggahetabbabhāvāpattito. ‘‘Khādatha pivathā’’ti pucchā attano khāditukāmatādīpanena, pariyāyakathābhāvato panesā sallekhavikopanā jātā.

420. 正命もまた、あるものは業道の力によって禁止されたものが得られる。しかしそれは極めて粗雑なものであり、身と口の行儀の項目において述べられた方法と同じであるため、取り上げられなかったと見なされるべきである。しかし「そのようなものは比丘に不相応であるから取り上げられなかった」と言う者たちがいるが、それは誤りである。もしそうであるなら身と口の行儀の項目においてもそれが取り上げられないはずであるという不都合が生じるからである。「食べなさい、飲みなさい」という問いは、自らの食べたい欲求を示すことによってであり、遠回しの言説であることからこれは削磨を損なうものとなった。

422. Anesanaṃ pahāya dhammena samena paccaye pariyesanto pariyesanamattaññū nāma. Dāyakassa deyyadhammassa attano ca pamāṇaññutāpaṭiggaṇhanto paṭiggahaṇamattaññū nāma. Yoniso paccavekkhitvā paribhuñjanto paribhogamattaññū nāma.

422. 邪命を捨てて、法によって正当に四事の必需品を探し求める者を「探求における適量を知る者」と呼ぶ。施主と施物と自己の限度を知りつつ受け取る者を「受納における適量を知る者」と呼ぶ。如理に省察して受用する者を「受用における適量を知る者」と呼ぶ。

423. Ekasmiṃ koṭṭhāseti majjhimayāmasaññite ekasmiṃ koṭṭhāse. **‘‘Vāmena passena sentī’’**ti evaṃ vuttā. Dakkhiṇapassena sayāno nāma natthi dakkhiṇahatthassa sarīraggahaṇādipayogakkhamato. Purisavasena cetaṃ vuttaṃ.

423. 「一つの区分において」とは、中夜と呼ばれる一つの区分において。「左脇を下にして横たわる」とは、このように言われた。右手を身体を支えるなどの作業に用いることができるため、右脇を下にして横たわる者(無自覚に眠る者)はいない。そしてこれは凡夫に関して言われたことである。

Tejussadattāti iminā sīhassa abhīrukabhāvaṃ dasseti. Bhīrukā hi sesamigā attano āsayaṃ pavisitvā santāsapubbakaṃ yathā tathā sayanti, sīho pana abhīrukabhāvato satokārī bhikkhu viya satiṃ upaṭṭhapetvāva sayati. Tenāha **‘‘dve purimapāde’’**tiādi. Seti abyāvaṭabhāvena pavattati etthāti seyyā, catutthajjhānameva seyyā. Kiṃ pana taṃ catutthajjhānanti? Ānāpānacatutthajjhānaṃ. Tattha hi ṭhatvā vipassanaṃ vaḍḍhetvā bhagavā anukkamena aggamaggaṃ adhigato tathāgato jātoti keci, tayidaṃ padaṭṭhānaṃ nāma na seyyā. Apare pana ‘‘catutthajjhānasamanantarā bhagavā parinibbāyī’’ti vuttapadaṃ gahetvā ‘‘lokiyacatutthajjhānasamāpatti tathāgataseyyā’’ti vadanti, tathā sati parinibbānakālikā tathāgataseyyāti āpajjati, na ca bhagavā catutthajjhānaṃ samāpajjanabahulo vihāsi, aggaphalajhānaṃ panettha ‘‘catutthajjhāna’’nti adhippetaṃ. Tattha yathā sattānaṃ niddupagamanalakkhaṇā seyyā bhavaṅgacittavāravasena hoti, tañca tesaṃ paṭhamajātisamanvayaṃ yebhuyyavuttikaṃ, evaṃ bhagavato ariyajātisamanvayaṃ yebhuyyavuttikaṃ aggaphalabhūtaṃ catutthajjhānaṃ ‘‘tathāgataseyyā’’ti veditabbaṃ. Sīhaseyyāti seṭṭhaseyyāti āha **‘‘uttamaseyyā’’**ti.

「熱力(気力)が勝れていること」によって、ライオンの恐れなき状態を示している。実に臆病な他の動物たちは、自らの住処に入って恐怖を先立たせて思いのままに横たわるが、ライオンは恐れなき状態から、正念ある比丘のように念を確立してのみ横たわる。それゆえに「二つの前足を」等と言われた。「横たわる、平穏な状態でここに転起する」ゆえに「臥所」であり、第四禅こそが臥所である。ではその第四禅とは何か。入出息念の第四禅である。そこに留まって観を増大させ、世尊は次第に最上道に達して如来となられたと一部の者は言うが、これは足場(近隣)であって臥所ではない。しかし他の者たちは、「第四禅の直後に世尊は完全な涅槃に入られた」という言葉を取り上げて、「世俗の第四禅の等至が如来の臥所である」と言う。もしそうであるなら、完全な涅槃の時のものが如来の臥所であるということになり、世尊は第四禅の等至を多く過ごされたのではないことになる。しかしここでは最上果の禅定が「第四禅」として意図されている。そこにおいて、衆生の眠りに入る特徴の臥所が有分心の転起の力によるものであり、それが彼らの最初の生存の連続において大半を占めるように、世尊の聖なる生存の連続において大半を占める最上果である第四禅が「如来の臥所」と知られるべきである。「ライオンの臥所」とは最上の臥所であることから、「最勝の臥所」と言われた。

426. Vigatantānīti iṇamūlāni. Tesanti iṇamūlānaṃ. Pariyantoti avaseso.

426. 「消滅したもの」とは、借金の元本のこと。「それらの」とは、それらの借金の元本のこと。「限界」とは、残りのことである。

Pavattinivāraṇena catuiriyāpathaṃ chindanto. Ābādhatīti pīḷeti. Dukkhitoti sañjātadukkho. Appaṃ balaṃ balamattā. Appattho hi ayaṃ mattā-saddo ‘‘mattāsukhapariccāgā’’tiādīsu (dha. pa. 290) viya, balavattho pana mattā-saddo anatthantaro. Sesanti ‘‘tassa hi bandhanā muttomhīti āvajjayato tadubhayaṃ hotī’’tiādinā vattabbaṃ sandhāyāha. Sabbapadesūti vuttāvasiṭṭhesu sabbapadesu. Yenakāmaṃ yathāruci gacchatīti yenakāmaṃgamoti anunāsikalopaṃ akatvā niddeso. Bhujo attano yathāsukhaviniyogo isso icchitabbo etthāti bhujisso, sāmiko. So pana aparasantakatāya **‘‘attano santako’’**ti vutto. Dullabhaāpatāya kaṃ tārenti etthāti kantāroti āha **‘‘nirudakaṃ dīghamagga’’**nti.

活動を阻止することによって四威儀を断つ。「病む」とは、苦しめる。「苦しむ者」とは、苦しみの生じた者。「わずかな力」とは、力微小のこと。実にこの「微小(マッター)」という語は、「わずかな安楽を捨てることによって」などのように少量の意味であり、力強い意味の「マッター」という語とは別のものである。「残りは」とは、「実に彼が『私は束縛から解き放たれた』と思念するとき、その両方が生じる」等によって語られるべきことを指して言った。「すべての句において」とは、述べられた残りのすべての句において。「欲するままに意のままに行く」ゆえに「意のままに行く者(イェーナカーマンガマ)」であり、鼻音の脱落をなさずに示したものである。自らの意のままの用益の権利(自由)がここで望まれるべきであるゆえに「自由人(ブジッサ)」であり、主人である。しかし彼が他者の所有でないことから、「自らの主」と言われた。水が得難いことから水を渡る(求める)場所ゆえに「荒野(カンターラ)」であることから、「水なき長途の道」と言われた。

Vināsetīti khādanadubbiniyojanādīhi yathā iṇamūlaṃ kiñci na hoti, tathā karoti. Yamhi rāgavatthumhi. So puggalo. Tena rāgavatthunā, puriso ce itthiyā, itthī ce purisena. Iṇaṃ viya kāmacchando daṭṭhabbo pīḷāsamānato.

「破滅させる」とは、浪費や悪用などによって借金の元本が何も残らないようにすることである。「いかなる愛着の対象において」。「その人は」。「その愛着の対象によって」、男であれば女によって、女であれば男によって。苦悩が等しいことから、欲望への執着は借金の如く見なされるべきである。

Na vindatīti na jānāti. Upaddavethāti sukhavihārassa upaddavaṃ karotha, vibādhethāti attho. Rogo viya byāpādo daṭṭhabbo sukhabhañjanasamānato.

「得ない」とは、知らない。「害する」とは、安楽な住まいに害をなし、妨げるという意味である。安楽を破壊することが等しいことから、悪意は病気の如く見なされるべきである。

Nānāvidhahetūpāyālaṅkatatāya khandhāyatanadhātupaṭiccasamuppādādidhammanītivicittatāya ca vicittanaye. Dhammassavaneti dhammakathāyaṃ. Kathā hi sotabbaṭṭhena ‘‘savana’’nti vuttā. Evamettha sīlaṃ vibhattaṃ, evaṃ jhānābhiññā, evaṃ vipassanāmaggaphalānīti neva tassa dhammassavanassa ādimajjhapariyosānaṃ jānāti. Uṭṭhiteti niṭṭhite. Aho kāraṇanti tattha tattha paṭiññānurūpena nikkhittasādhanavasena gahitakāraṇaṃ. Aho upamāti tasseva kāraṇassa patiṭṭhāpanavasena anvayato byatirekato ca patiṭṭhaṃ udāharaṇādi. Bandhanāgāraṃ viya thinamiddhaṃ daṭṭhabbaṃ dukkhato niyyānassa vibandhanato.

種々の因や方便によって飾られていること、蘊・処・界・縁起などの法の道理の多様さによって、多彩な方法において。「法の聴取において」とは、法の講話において。実に講話は聴かれるべきものであることから「聴取」と言われた。「このように戒が分析され、このように禅定と神通が、このように観と道果が」と、その法の聴取の初めも中間も終わりも知らない。「終わったとき」とは、完結したとき。「ああ、論拠よ」とは、それぞれの場所で主張に応じて提示された論証の力によって把握された論拠のこと。「ああ、比喩よ」とは、その論拠を確立する力によって順次および逆次において確立された実例などのこと。苦しみからの脱出を阻むことから、惛沈と睡眠は牢獄の如く見なされるべきである。

Yasmā kukkuccanīvaraṇaṃ uddhaccarahitaṃ natthi, yasmā vā uddhaccakukkuccaṃ samānakiccāhārapaṭipakkhaṃ, tasmā kukkuccassa visayaṃ dassento **‘‘vinaye apakataññunā’’**tiādimāha. Yathā hi uddhaccaṃ sattassa avūpasamakaraṃ, tathā kukkuccampi. Yathāpi uddhaccassa ñātivitakkādi āhāro, tathā kukkuccassapi. Yathā ca uddhaccassa samatho paṭipakkho, tathā kukkuccassapīti. Dāsabyaṃ viya uddhaccakukkuccaṃ daṭṭhabbaṃ aseribhāvāpādanato.

掉挙の蓋を離れた悪作(後悔)はないことから、あるいは掉挙と悪作は同じ働き、食物、敵対するものを持つことから、悪作の対象を示すために「律において熟達していないことによって」等と言われた。実に掉挙が衆生を不静止にするように、悪作もまたそうである。また掉挙の食物が親族への思いなどであるように、悪作の食物もそうである。そして掉挙に対抗するものが止(静止)であるように、悪作に対抗するものもそうである。不自由な状態をもたらすことから、掉挙と悪作は奴隷の身分の如く見なされるべきである。

Soḷasavatthukā vicikicchā aṭṭhavatthukaṃ vicikicchaṃ anupaviṭṭhāti āha **‘‘aṭṭhasu ṭhānesu vicikicchā’’**ti. Vicikicchantoti saṃsayanto. Adhimuccitvāti pattiyāyetvā. Gaṇhitunti saddheyyavatthuṃ pariggahetuṃ. Abhimukhaṃ sappanaṃ āsappanaṃ, parito sappanaṃ parisappanaṃ. Padadvayenapi cittassa anicchanākārameva vadati. Khemantagāmimaggaṃ na pariyogāhati etenāti apariyogāhanaṃ, ussaṅkitaparisaṅkitabhāvena chambhitaṃ hoti cittaṃ yassa dhammassa vasena, so dhammo chambhitattanti vicikicchanākāramāha. Tenāha **‘‘cittassa uppādayamānā’’**ti. Kantāraddhānamaggo viyāti sāsaṅkakantāraddhānamaggo viya daṭṭhabbā appaṭipattihetubhāvato.

十六の対象を持つ疑念は八つの対象を持つ疑念に含まれることから、「八つの箇所における疑念」と言われた。「疑念を抱く者」とは、迷う者。「確信して」とは、信じて。「把握するために」とは、信ずべき対象を捉えるために。前へ進むことが「前進(アーサッパナ)」、周囲へ這うことが「徘徊(パリサッパナ)」である。両方の語によって心の不決断の相を語っている。これによって安穏の境地へ赴く道に入り込まないゆえに「不進入」であり、不安や疑念の状態によって心が動揺する原因となる法、その法が動揺性であると疑念の相を語っている。それゆえに「心の[動揺を]生じさせつつ」と言われた。実践しないことの原因となることから、疑念は危険な荒野の道の実践の如く見なされるべきである。

Natthi ettha iṇanti aṇaṇo, tassa bhāvo āṇaṇyaṃ, kassaci iṇassa adhāraṇaṃ. Samiddhakammantoti nipphannajīvikappayogo. Paribundhati uparodhetīti ra-kārassa la-kāraṃ katvā palibodho, aserivihāro, tassa mūlaṃ kāraṇanti palibodhamūlaṃ. Cha dhamme bhāvetvāti asubhanimittaggāhādike cha dhamme uppādetvā vaḍḍhetvā. Cha dhamme bhāvetvāti ca mettānimittaggāhādayo ca tattha tattha cha dhammāti vuttāti veditabbo. Pajahatīti vikkhambhanavasena pajahati. Tenāha **‘‘ācārapaṇṇattiādīni sikkhāpiyamāno’’**tiādi. Paravatthumhīti visabhāgavatthusmiṃ, paravisaye vā. Paravisayā hete bhikkhuno, yadidaṃ pañca kāmaguṇā. Āṇaṇyamiva kāmacchandappahānaṃ āha piyavatthuabhāvāvahato.

ここに借金がないゆえに「無借金」であり、その状態が無借金性、いかなる借金も背負っていないことである。「事業の成就した者」とは、生活手段の確立した者。「取り囲んで妨げる」ゆえに、ラ行音をラ行音(L)にして「障害(パリボーダ)」、不自由な生活であり、その根本原因ゆえに「障害の根本」である。「六つの法を修習して」とは、不浄の相の把握などの六つの法を生じさせ、増大させて。「六つの法を修習して」とは、慈の相の把握など、それぞれの箇所で六つの法と言われたものであると知られるべきである。「捨てる」とは、鎮伏によって捨てることである。それゆえに「行儀の制定などを学ばされつつ」等と言われた。「他者の対象において」とは、異質な対象において、あるいは他者の領域において。実にこれら五つの欲望の対象は比丘にとって他者の領域である。好ましい対象のない状態をもたらすことから、欲望への執着の放棄は無借金の如く語られた。

Ācāravipattipaṭibāhakāni sikkhāpadāni ācārapaṇṇattiādīni. Ārogyamiva byāpādappahānaṃ āha kāyacittānaṃ phāsubhāvāvahato.

行儀の破綻を遮る学処が行儀の制定などである。心身の快調をもたらすことから、悪意の放棄は無病の如く語られた。

Bandhanā mokkhamiva thinamiddhappahānaṃ āha cittassa niggahitabhāvāvahato.

心が引き出された状態をもたらすことから、惛沈と睡眠の放棄は牢獄からの解放の如く語られた。

Bhujissaṃ viya uddhaccakukkuccappahānaṃ āha cittassa seribhāvāvahato.

心が自由な状態をもたらすことから、掉挙と悪作の放棄は自由人の身分の如く語られた。

Tiṇaṃ viyāti tiṇamiva katvā. Agaṇetvāti acintetvā. Khemantabhūmiṃ viya vicikicchāpahānaṃ āha anussaṅkitāparisaṅkitabhāvena sammāpaṭipattihetubhāvato.

「草のように」とは、草の如く見なして。「顧みずに」とは、思慮せずに。不安や疑念のない状態によって正しい実践の原因となることから、疑念の放棄は安穏の境地の如く語られた。

427. Kirīyati (a. ni. ṭī. 3.5.28-29) gabbhāsaye khipīyatīti karo, sambhavo, karato jātoti karajo, mātāpettikasambhavoti attho. Mātuyā hi sarīrasaṇṭhāpanavasena karato jātoti karajoti apare. Ubhayathāpi karajakāyanti catusantatirūpamāha. Temetīti tintaṃ karoti. Ko panettha tintabhāvoti āha **‘‘snehetī’’**ti, pītisnehena pīṇanaṃ karotīti attho. Tenāha **‘‘sabbattha pavattapītisukhaṃ karotī’’**ti. Pītisamuṭṭhānapaṇītarūpehi sakalassa karajakāyassa pariphuṭatāya cettha taṃsamuṭṭhāpakapītisukhānaṃ sabbattha pavatti jotitā. Parisandetītiādīsupi eseva nayo. Tatthāpi hi ‘‘samantato sandeti temeti sneheti, sabbattha pavattapītisukhaṃ karotī’’tiādinā yathārahaṃ attho veditabbo. Paripūretīti vāyunā bhastaṃ viya imaṃ karajakāyaṃ pītisukhena pūreti. Samantato phusatīti imaṃ karajakāyaṃ pītisukhena phusati. Sabbāvatoti a-kārassa ā-kāro kato, sabbāvayavavatoti atthoti āha **‘‘sabbakoṭṭhāsavato’’**ti, maṃsādisabbābhāgavatoti attho. Aphuṭaṃ nāma na hoti pītisukhasamuṭṭhānehi rūpehi sabbatthakameva byāpitattā. Kātuñceva yojetuñca cheko sannetuṃ paṭibaloti yojanā. Nhānīyacuṇṇānaṃ parimaddanavasena piṇḍaṃ karontena hatthena bhājanaṃ nippīḷetabbaṃ hotīti āha **‘‘sannentassa bhijjatī’’**ti. Anugatāti anupaviṭṭhā. Parigatāti parito samantato tintā. Tintabhāveneva samaṃ antaraṃ bāhirañca etissāti santarabāhirā. Sabbatthakamevāti sabbattheva. Na ca pagghariṇī pamāṇayuttasseva udakassa sittattā. Ettha ca nhānīyapiṇḍaṃ viya karajakāyo, taṃ temetvā sampiṇḍitapamāṇayuttaudakaṃ viya paṭhamajjhānasukhaṃ daṭṭhabbaṃ.

427. 子宮に注がれ(キリーヤティ)、投げ込まれるゆえに「行為(カラ)」、精気のことであり、行為から生じたゆえに「身体(カラジャ)」、父母の精気から生じたという意味である。実に母の身体の形成による行為から生じたゆえにカラジャであると他の者たちは言う。いずれにしても「カラジャの身体」とは四つの連続する物質(四相相続の色法)を言う。「潤す」とは、湿った状態にする。ここでの湿った状態とは何かについて、「潤沢にする」と言われたのであり、喜悦の潤いによって満足させるという意味である。それゆえに「あまねく生じる喜と楽をなす」と言われた。そして喜から生じる勝れた物質によって身体全体が満たされることから、それを生じさせる喜と楽の全所における転起が明らかにされている。「浸す」等においても同様の方法である。そこにおいても「四方から浸し、潤し、潤沢にし、あまねく生じる喜と楽をなす」等によって相応に意味が知られるべきである。「満たす」とは、風によって革袋を満たすように、この身体を喜と楽によって満たすことである。「あまねく触れる」とは、この身体に喜と楽によって触れることである。「すべての部分を持つものから」とは、ア音をアー音にしたものであり、すべての部分を持つものからという意味であることから、「すべての部分を持つものから」と言われたのであり、肉などのすべての部分を持つものからという意味である。喜と楽から生じる物質によって全体に行き渡っていることから、満たされていない部分は全くない。「なすことにも混ぜ合わせることにも巧みであり、こね合わせることができる」と結びつけられる。沐浴粉を揉み合わせることによって塊を作る者は、手で器を押し揉まねばならないことから、「こね合わせる者の[器が]壊れる」と言われた。「浸透した」とは、入り込んだ。「あまねく行き渡った」とは、周囲全体が湿った。湿った状態によって内側も外側も等しいことから「内外ともに」である。「すべての場所に」とは、あまねくすべての場所に。適量の水のみが注がれていることから、滴り落ちることはない。そしてここで、沐浴粉の塊の如きは身体であり、それを潤して塊にした適量の水の如きは初禅の楽であると見なされるべきである。

428. Heṭṭhā ubbhijjitvā uggacchanaudakoti rahadassa adhothūladhārāvasena ubbhijja uṭṭhahanaudako. Antoyeva ubbhijjanaudakoti rahadassa abbhantareyeva thūladhārā ahutvā uṭṭhitaudakasirāmukhehi ubbhijjanako. Āgamanamaggoti nadītaḷākakandarasaraādito āgamanamaggo.

428. 「下から湧き出て上昇する水を持つ」とは、池の下の太い水流によって湧き上がって生じる水を持つこと。「内部から湧き出る水を持つ」とは、池の内部において太い水流ではなく、生じた水脈の口から湧き出るものを持つこと。「流入路」とは、河川、池、渓谷、湖などからの流入路のことである。

429. Uppalagacchāni ettha santīti uppalinī (a. ni. ṭī. 3.5.28-29), vāri. Ayamettha vinicchayo, tathā hi loke rattakkhiko ‘‘puṇḍarīkakkho’’ti vuccati. Keci pana ‘‘rattaṃ padumaṃ, setaṃ puṇḍarīka’’nti vadanti. Uppalādīni viya karajakāyo, udakaṃ viya tatiyajjhānasukhanti ayampi attho **‘‘purimanayenā’’**ti atideseneva vibhāvitoti daṭṭhabbaṃ.

429. 青蓮華の茂みがここにあるゆえに「青蓮華の池」、水のことである。これがここでの決定であり、実に世間において赤い眼を持つ者が「白蓮華の眼を持つ者」と呼ばれるのと同様である。しかし一部の者は「赤いものがパドマ(紅蓮)、白いものがプンダリーカ(白蓮)である」と言う。青蓮華などの如きは身体であり、水の如きは第三禅の楽であるというこの意味もまた、「前述の方法によって」という類推によって明かされていると見なされるべきである。

430. Nirupakkilesaṭṭhenāti rajojallādinā anupakkiliṭṭhatāya amalīnabhāvena. Amalīnampi kiñci vatthu pabhassarasabhāvaṃ hotīti vuttaṃ **‘‘pabhassaraṭṭhenā’’**ti. Utupharaṇanti uṇhautupharaṇaṃ. Sabbatthakameva jhānasukhena phuṭṭho karajakāyo yathā utunā phuṭṭhavatthasadisoti āha **‘‘vatthaṃ viya karajakāyo’’**ti. Tasmāti ‘‘vatthaṃ viyā’’tiādinā vuttamevatthaṃ hetubhāvena paccāmasati, karajakāyassa vatthasadisattā catutthajjhānasukhassa ca utupharaṇasadisattāti attho. Santasabhāvattā ñāṇuttarattā cettha upekkhāpi sukhe saṅgahitāti catutthajjhānepi sukhaggahaṇaṃ kataṃ. ‘‘Parisuddhena pariyodātena pharitvā nisinno hotī’’ti vacanato catutthajjhānacittassa vatthasadisatā vuttā. Catutthajjhānasamuṭṭhānarūpehi bhikkhuno kāyassa phuṭabhāvaṃ sandhāya **‘‘taṃsamuṭṭhānarūpaṃ utupharaṇaṃ viyā’’**ti vuttaṃ. Purisassa kāyo viya bhikkhuno karajakāyoti ayaṃ panattho pākaṭoti na gahito, gahito eva vā ‘‘yathā hi katthaci…pe… kāyo phuṭo hotī’’ti vuttattā.

430. 「煩悩の汚れなき意味によって」とは、塵や垢などによって汚されていないことによる、汚れなき状態によって。汚れなきものもまた輝く自性を持つことから、「輝くという意味によって」と言われた。「気候の浸透」とは、温かい気候の浸透のことである。あまねく禅定の楽によって満たされた身体は、気候によって満たされた布に似ていることから、「布の如きは身体である」と言われた。「それゆえに」とは、「布の如く」等によって述べられた意味を原因として指し示しているのであり、身体は布に似ており、第四禅の楽は気候の浸透に似ているからという意味である。寂静の自性を持つこと、智慧が優れていることから、ここでは捨(ウペッカー)もまた楽に含まれるゆえに、第四禅においても「楽」の把握がなされた。「極めて清浄で純白な[心]によって満たして座している」という言葉から、第四禅の心が布に似ていることが語られた。第四禅から生じた物質によって比丘の身体が満たされている状態を指して、「そこから生じた物質は気候の浸透の如くである」と言われた。人の身体の如きは比丘の身体であるというこの意味は明白であるため取り上げられなかった。あるいは「実にいかなる箇所においても……中略……身体は満たされている」と述べられていることから、まさに取り上げられている。

431. Pubbenivāsañāṇaupamāyanti pubbenivāsañāṇassa dassitaupamāyaṃ. Taṃdivasaṃkatakiriyāgahaṇaṃ pākatikasattassapi yebhuyyena pākaṭā hotīti dassanatthaṃ. Taṃdivasagatagāmattayaggahaṇeneva mahābhinīhārehi aññesampi pubbenivāsañāṇalābhīnaṃ tīsu bhavesu katā kiriyā yebhuyyena pākaṭā hotīti dīpitanti daṭṭhabbaṃ.

431. 「宿住智の比喩において」とは、宿住智について示された比喩において。その日になされた行為の把握は、普通の衆生にとっても大抵は明白であると示すためである。その日に行った三つの村の把握によって、大いなる誓願を持った他の宿住智を得た者たちにとっても、三界においてなされた行為は大抵明白であると明らかにされたと見なされるべきである。

432. Sammukhadvārāti aññamaññassa abhimukhadvārā. Aparāparaṃ sañcaranteti taṃtaṃkiccavasena ito cito ca sañcarante. Ito pana gehā…pe… pavisanavasenapīti idaṃ cutūpapātañāṇassa visayadassanavasena vuttaṃ. Dvinnaṃ gehānaṃ antare ṭhatvāti dvinnaṃ gehadvārānaṃ sammukhaṭṭhānabhūte antaravīthiyaṃ vemajjhe ṭhatvā. Tesu hi ekassa ce pācīnamukhadvāraṃ itarassa pacchimamukhaṃ, tassa sammukhaṃ ubhinnaṃ antaravīthiyaṃ ṭhitassa dakkhiṇāmukhassa, uttarāmukhassa vā cakkhumato purisassa tattha pavisanakanikkhamanakapurisā yathā sukheneva pākaṭā honti, evaṃ dibbacakkhuñāṇasamaṅgino cavanakaupapajjanakapurisā. Yathā pana tassa purisassa aññeneva khaṇena pavisantassa dassanaṃ, aññena nikkhamantassa dassanaṃ, evaṃ imassapi aññeneva khaṇena cavamānassa dassanaṃ, aññena upapajjamānassa dassananti daṭṭhabbaṃ. Ñāṇassa pākaṭāti ānetvā sambandho. Tassāti ñāṇassa.

432. 「向かい合った扉を持つ」とは、互いに向かい合った扉を持つ。「行き来する」とは、それぞれの用事のためにあちこちを行き来する。「しかしこの家から……中略……入ることによっても」とは、これは死生智の対象を示すことによって語られた。「二つの家の間に立って」とは、二つの家の扉の正面の場所である路地の中央に立って。実にそれらの家の一つが東向きの扉を持ち、他方が西向きの扉を持つとき、その正面の二つの間の路地に立つ南向き、あるいは北向きの眼ある人にとって、そこに入り出る人々が容易に明白となるように、天眼智を備えた者にとっても死にゆく衆生や生まれゆく衆生は明白である。しかしその人にとって、ある瞬間に「入る者の観察」があり、別の瞬間に「出る者の観察」があるように、この者にとってもある瞬間に「死にゆく者の観察」があり、別の瞬間に「生まれゆく者の観察」があると見なされるべきである。「智にとって明白である」と結びつけて解釈する。「それの」とは、その智の。

433. Pabbatasikharaṃ yebhuyyena saṃkhittaṃ saṅkucitaṃ hotīti idha pabbatamatthakaṃ **‘‘pabbatasaṅkhepo’’**ti vuttaṃ, pabbatapariyāpanno vā padeso pabbatasaṅkhepo. Anāviloti akālusso. Sā cassa anāvilatā kaddamābhāvena hotīti āha **‘‘nikkaddamo’’**ti. Ṭhitāsupi nisinnāsupi gāvīsu. Vijjamānāsūti labbhamānāsu. Itarā ṭhitāpi nisinnāpi carantīti vuccanti sahacaraṇañāyena. Tiṭṭhantameva, na kadācipi carantaṃ. Dvayanti sippisammukaṃ macchagumbanti imaṃ ubhayaṃ tiṭṭhantanti vuttaṃ, carantampīti adhippāyo. Kiṃ vā imāya sahacariyāya, yathālābhaggahaṇaṃ panettha daṭṭhabbaṃ. Sakkharakathalassa hi vasena ‘‘tiṭṭhanta’’nti, sippisambukassa macchagumbassa ca vasena ‘‘tiṭṭhantampi, carantampī’’ti yojanā kātabbā.

433. 山の頂は大抵は狭く縮小していることから、ここでは山の頂が「山の窪み(縮小部)」と言われた。あるいは山に属する場所が山の窪みである。「濁りのない」とは、濁りがないこと。そしてその濁りのなさは泥がないことによることから、「泥のない」と言われた。「立っている牛にも、座っている牛にも」。「現に存在する」とは、得られる。「他方の牛は、立っているものも座っているものも歩いている」と言われるのは、共伴の論理による。実にじっと立っているだけであり、決して歩かない。「二つのもの」とは、貝殻と魚の群れというこの両方が立っていると言われたのであり、動いているものもそうであるという意味である。あるいはこの共伴に何の意味があろうか、ここでは得られた通りの把握と見なされるべきである。実に小石と砂利に関しては「じっとある」、貝殻と魚の群れに関しては「じっとあるものも、動くものも」と結びつけられるべきである。

434. Bhikkhūti bhinnakilesoti bhikkhu. So hi paramatthato samaṇotināmako. Tattha ariyamaggena sabbaso pāpānaṃ samitāvīti samaṇo. Tenāha **‘‘samitapāpattā’’**ti. Seṭṭhaṭṭhena brahmā vuccati sammāsambuddho, tato āgatoti brahmā, ariyamaggo, taṃ asammohapaṭivedhavasena aññāsīti brāhmaṇo. Taṃsamaṅgitāya hissa pāpānaṃ bāhitabhāvo. Tenāha **‘‘bāhitapāpattā brāhmaṇo’’**ti. Aṭṭhaṅgikena ariyamaggajalena nhātavā niddhotakilesoti nhātako. Gatattāti pahānābhisamayavasena paṭividdhattā. Tenāha **‘‘viditattā’’**ti. Nissutattāti samucchedappahānavasena santānato sabbaso nihatattā. Tenāha **‘‘apahatattā’’**ti, mariyādavasena kilesānaṃ hiṃsitattā ariyamaggehi odhiso sabbaso kilesānaṃ samucchinnattāti attho. Tenāha **‘‘hatattā’’**ti. Ārakattāti suppahīnatāya vippakaṭṭhabhāvato. Tenāha **‘‘dūrībhūtattā’’**ti. Ubhayampi ubhayattha yojetabbaṃ – kilesānaṃ ārakattā hatattā dūrībhūtattā ca ariyo, tathā arahanti. Yaṃ panettha atthato na vibhattaṃ, taṃ uttānatthattā suviññeyyameva.

434. 「比丘」とは、煩悩を破砕したゆえに比丘である。実に彼は勝義において沙門と呼ばれる者である。そこにおいて、聖道によって一切の悪を静めたゆえに沙門である。それゆえに「悪を静めたことから」と言われた。最勝なる意味によって正等覚者が梵天(ブラフマー)と呼ばれ、そこから来たりしものが梵(ブラフマ)であり聖道のこと、それを迷いなき通達によって知ったゆえにバラモンである。それを具備することによって彼の悪は排除された状態にある。それゆえに「悪を排除したことからバラモンである」と言われた。八支聖道の水によって沐浴し、煩悩を洗い流したゆえに「沐浴した者(スナータカ)」である。「達したことから」とは、断絶の現観によって通達したことからである。それゆえに「知ったことから」と言われた。「脱出したことから」とは、根絶の放棄によって相続から一切が打ち倒されたことからである。それゆえに「打ち倒されたことから」と言われた。規範の力によって煩悩を傷害したことから、聖道によって各段階において煩悩を一切断絶したという意味である。それゆえに「断殺されたことから」と言われた。「遠く離れたことから」とは、よく捨て去られたことによって遠く隔たった状態にあることからである。それゆえに「遠く離れたことから」と言われた。両方とも両方の場所で結びつけられるべきである。煩悩から遠く離れ、断殺され、遠く隔たったことから「聖者(アリア)」であり、同様に「阿羅漢(アラハント)」である。ここに意味の上で分析されなかったものは、明白な意味を持つがゆえに容易に理解できる。

Mahāassapurasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

大アッサプラ経註の甚深義の解明は完結した。

10. Cūḷaassapurasuttavaṇṇanā

10. 小アッサプラ経註

435. Purimasadisamevāti ‘‘assapuravāsīnaṃ bhikkhusaṅghe gāravabahumānaṃ nipaccakārañca disvā bhikkhū piṇḍapātāpacāyane niyojento idaṃ suttaṃ abhāsī’’ti purimasutte mahāassapure (ma. ni. aṭṭha. 2.415) vuttasadisameva. Samaṇānaṃ anucchavikāti samaṇānaṃ samaṇabhāvassa anucchavikā patirūpā. Samaṇānaṃ anulomappaṭipadāti samaṇānaṃ sāmaññasaṅkhātassa ariyamaggassa anukūlappaṭipadā.

435. 「前述と同様に」とは、「アッサプラの住民たちの比丘サンガに対する敬意と尊重と謙譲の態度を見て、比丘たちを托鉢の供養に専念させつつこの経を説かれた」という、前述の大アッサプラ経(マッジマ・ニカーヤ註釈2.415)において述べられたことと同様である。「沙門たちに相応しい」とは、沙門たちの沙門の状態に相応しい、適った。「沙門たちの順応の実践」とは、沙門たちの沙門の境地と呼ばれる聖道に順応する実践である。

436. Ete dhammāti ete pāḷiyaṃ āgatā abhijjhābyāpādādayo pāpadhammā. Uppajjamānāti uppajjamānā eva, pageva santāne bhāvitā. Malineti malavante kiliṭṭhe. Malaggahiteti gahitamale sañjātamale. Samaṇamalāti samaṇānaṃ samaṇabhāvassa malā. Dussantīti vipajjanti vinassanti. Samaṇadosāti samaṇānaṃ samaṇabhāvadūsanā. Kasaṭeti asāre. Nirojeti nitteje. Ayato sukhato apetāti apāyā, nirayādayo, taṃ phalaṃ arahanti, taṃ payojanaṃ vā etesanti āpāyikā. Ṭhānāni abhijjhādayo. Tenāha **‘‘apāye’’**tiādi. Kāraṇabhāvena duggatipariyāpannāya vedanāya hitānīti duggativedaniyāni. Tena vuttaṃ **‘‘duggatiyaṃ vipākavedanāya paccayāna’’**nti. Tikhiṇaṃ ayanti vekantakasadisaṃ sāraayaṃ. Ayenāti ayoghaṃsakena. Koñcasakuṇānaṃ kira kucchiyaṃ nivutthaṃ yaṃ kiñci kharaṃ tikhiṇañca hoti. Tathā hi tesaṃ vaccaṃ aṭṭhimpi pāsāṇampi vilīyāpeti. Tena vuttaṃ **‘‘koñcasakuṇe khādāpentī’’**ti. Taṃ kira ayacuṇṇaṃ aggināpi kicchena dayhati, bhesajjabalena pana sukhena dayheyya. Tena vuttaṃ **‘‘susikkhitā ca naṃ ayakārā bahuhatthakammamūlaṃ labhitvā karontī’’**tiādi. Atitikhiṇaṃ hoti, aññataraṃ ayobandhanaṃ pheggudaṇḍaṃ viya sukheneva chindanti. Sasabiḷāracammehi saṅghaṭitaṭṭhena saṅghāṭīti vuccati āvudhaparicchadoti āha **‘‘saṅghāṭiyāti kosiyā’’**ti. Pariyonaddhanti parito onaddhaṃ chāditaṃ. Samantato veṭhitanti sabbaso pihitaṃ.

436. 「これらの法」とは、パーリに現れるこれらの貪欲や悪意などの悪法のこと。「生じつつある」とは、まさに生じつつある、ましてや心身の連続において修習されたものはなおさらである。「汚れた」とは、垢のある、汚れた。「垢の付着した」とは、付着した垢のある、生じた垢のある。「沙門の垢」とは、沙門たちの沙門の状態の汚れ。「損なわれる」とは、破綻し、破滅する。「沙門の過失」とは、沙門たちの沙門の状態を損なうもの。「粗悪な」とは、無価値な。「生気のない」とは、力のない。「幸い(アヤ)から、安楽から離れたもの」が「悪趣(アパーヤ)」であり、地獄などであり、その果報に値するもの、あるいはそれらの目的を持つものが「悪趣に属するもの」である。諸々の境地とは貪欲などのことである。それゆえに「悪趣において」等と言われた。原因となることによって悪趣に含まれる感受に適合するものが「悪趣で感受されるべきもの」である。それゆえに「悪趣における異熟の感受の条件となるもの」と言われた。「鋭利な鉄」とは、金剛石(研磨材)のような堅固な鉄。「鉄によって」とは、鉄の研磨具によって。コウノトリ(コンチャ鳥)の腹の中に留まるものは、いかなるものであれ荒く鋭利になるという。実に彼らの糞は骨をも石をも溶かすのである。それゆえに「コウノトリに食べさせる」と言われた。その鉄の粉末は火によってさえも容易には焼けないが、薬草の力によって容易に焼けるという。それゆえに「熟練した鍛冶屋たちは多額の手間賃を得てこれを作る」等と言われた。極めて鋭利であり、他の鉄の束を柔らかな木屑の幹のように容易に切断する。「ウサギや猫の皮によって」継ぎ合わされた意味から「鞘(サンガーティー)」と呼ばれ、武器の覆いのことであることから、「鞘によってとは、覆いによって」と言われた。「覆い被された」とは、周囲を覆われた、隠された。「あまねく包まれた」とは、全面的に閉ざされた。

437. Rajoti āgantukarajo. Jallanti sarīre uṭṭhānakaloṇādimalaṃ. Rajojallañca vatasamādānavasena anapanītaṃ etassa atthīti rajojalliko, tassa. Tenāha **‘‘rajojalladhārino’’**ti. Udakaṃ orohantassātiādīnamattho mahāsīhanādasuttavaṇṇanāyaṃ vuttoyeva. Sabbametantiādīsu sabbasopi vatasamādānavasenāti adhippāyo. Yasmā sabbametaṃ bāhirasamayavaseneva kathitaṃ, tasmā saṅghāṭikassāti pilotikakhaṇḍehi saṅghaṭitattā ‘‘saṅghāṭī’’ti laddhanāmavatthadhārinoti attho. Tathā hi pāḷiyaṃ ‘‘saṅghāṭikassa’’icceva vuttaṃ, na ‘‘bhikkhuno’’ti. Tenāha **‘‘imasmiṃ hī’’**tiādi. Kasmā panettha bhagavatā saṅghāṭikattādīniyeva vatasamādānāni paṭikkhittānīti? Nayadassanametaṃ aññesampi pañcātapamūgavatādīnaṃ tappaṭikkhepeneva pasiddhito. Apare pana bhaṇanti – ‘‘nāhaṃ, bhikkhave, saṅghāṭikassa saṅghāṭidhāraṇamattena sāmaññaṃ vadāmī’’ti vutte tattha nisinno koci titthantaraladdhiko acelakattaṃ nu kho kathanti cintesi, apare rajojallakattaṃ nu kho kathanti, evaṃ taṃ taṃ cintentānaṃ ajjhāsayavasena bhagavā imāneva vatasamādānāni idha paṭikkhipīti. Saṅghāṭikanti nivāsanapārupanavasena saṅghāṭivantaṃ. Tenāha **‘‘saṅghāṭikaṃ vattha’’**ntiādi. Attano ruciyā mittādayo saṅghāṭikaṃ kareyyuṃ, pacchā viññutaṃ pattakāle saṅghāṭikatte samādapeyyuṃ.

437. 「塵」とは外から付着する塵である。「垢」とは身体に生じる塩分などの汚れである。誓願の受持によって塵や垢を取り除かない者について「塵垢ある者」と言い、その者のことである。それゆえに**「塵垢を帯びる者」**と言った。「水に入る者」などの意味は『大師子吼経註』において説かれた通りである。「これらすべて」などにおいて、「すべて誓願の受持によるもの」というのが趣旨である。これらすべては外道の実践に基づいてのみ語られたものであるから、「複衣を着る者」とはボロ布の小片を縫い合わせたことによって「複衣(僧伽胝)」という名を得た衣を帯びる者の意味である。実際、経文には「複衣を着る者」とだけ説かれており、「比丘」とは説かれていない。それゆえに**「ここにおいては実に」**などと言った。しかし、なぜ世尊はここで複衣を着ることなどの誓願の受持のみを否定されたのか。これは五火苦行や牛の誓願などを否定することによっても明らかとなる他の行の例示である。また他の者たちは次のように言う――「比丘たちよ、わたしは複衣を着る者が複衣を帯びることだけで沙門であるとは言わない」と説かれたとき、そこに座っていたある異教の信奉者は「無衣(裸形)であることはどうなのだろうか」と考え、他の者は「塵垢を帯びることはどうなのだろうか」と考えた。このようにそれぞれが考える意向に応じて、世尊はここでこれらの誓願の受持を否定されたのである。「複衣を着る者」とは下衣や上衣として複衣を持つ者のことである。それゆえに**「複衣である布」**などと言った。自分の意向により、友人たちが複衣を作り、後に分別のつく時期に達したときに複衣の受持を勧めさせるのである。

438. Attānaṃ visujjhantaṃ passati abhijjhādīnaṃ samudācārābhāvato. Maggena asamucchinnattā visuddhoti pana na vattabbo. Pāmojjanti taruṇapītimāha. Tassa hi attano sammāpaṭipattiyā kilesānaṃ vikkhambhitattā cittassa visuddhataṃ passantassa pāmojjaṃ jāyati, taṃ tuṭṭhākāraṃ. Tenāha **‘‘tuṭṭhākāro’’**ti. Pītīti passaddhiāvahā balavapīti. Nāmakāyo passambhatīti iminā ubhayampi passaddhiṃ vadati. Vediyatīti anubhavati vindati. Idāni tena nīvaraṇehi cittassa visodhanattaṃ laddhanti āha **‘‘appanāppattaṃ viya hotī’’**ti. Aññattha uṭṭhitā aññaṃ ṭhānaṃ upagatāti ettakena upamābhāvena uccanīcatāsāmaññena heṭṭhā asaddhammānaṃ paṭipakkhavasena desanāya pariyosāpitattā vuttaṃ **‘‘yathānusandhinā’’**ti. Mahāsīhanādasutte maggo pokkharaṇiyā upamito ‘‘seyyathāpi, sāriputta, pokkharaṇī’’tiādiṃ (ma. ni. 1.154) ārabhitvā upamāsaṃsandane ‘‘tathāyaṃ puggalo paṭipanno, tathā ca iriyati, tañca maggaṃ samāruḷho, yathā āsavānaṃ khayā’’ti (ma. ni. 1.154) vuttattā. Yathā hi puratthimādidisāhi āgatā purisā taṃ pokkharaṇiṃ āgamma visuddharūpakāyā vigatapariḷāhā ca honti, evaṃ khattiyādikulato āgatā tathāgatappaveditaṃ dhammavinayaṃ sāsanaṃ āgamma visuddhanāmakāyā vigatakilesapariḷāhā ca honti. Tasmā sabbakilesānaṃ samitattā paramatthasamaṇo hotīti. Sesaṃ suviññeyyameva.

438. 貪欲などの現行がないことから「自らを清浄になりつつあると見る」のである。しかし、聖道によって断ち切られていないため「清浄である」とは言うべきではない。「歓喜」とは未熟な喜悦を指して言う。自己の正しい実践によって煩悩が鎮伏されているため、心の清浄を見る者に歓喜が生じるのであり、それは満足の相である。それゆえに**「満足の相」**と言った。「喜悦」とは軽安をもたらす強力な喜悦である。「名身が軽安になる」によって、心身双方の軽安を説いている。「感受する」とは経験し、享受することである。今や彼によって蓋(障害)から心の清浄が得られたことを示すために**「安止に達したかのようになる」**と言った。他所で生じ、別の場所に達したというだけの譬喩の性質により、高低の類似によって下文の不善の法に対置するものとして説法が結ばれるため、**「結び(文脈)に従って」**と言われた。『大師子吼経』において聖道は池に譬えられており、「サーリプッタよ、譬えば池が…」など(中部1.154)に始まり、譬喩の照合において「そのようにこの人は実践し、そのように振る舞い、その道に登り、諸々の漏尽に至るように…」と説かれているからである。東などの諸方からやって来た人々がその池に至って身体を清浄にし、熱悩を去るように、王族などの家系から出家した者が如来によって説かれた法と規律の教えに至って名身(心)を清浄にし、煩悩の熱悩を去るのである。したがって、すべての煩悩が静まったことによって究極の意味での沙門となるのである。残りは容易に理解できる。

Cūḷaassapurasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

『小アッサプラ経註』の顕幽釈を了える。

Niṭṭhitā ca mahāyamakavaggavaṇṇanā.

そして『大双品註』を了える。