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5. Cūḷayamakavaggo5. 小双品

1. Sāleyyakasuttavaṇṇanā

1. サーレッヤカ経註

439. Mahājanakāye sannipatiteti keci ‘‘pahaṃsanavidhiṃ dassetvā rājakumāraṃ hāsessāmā’’ti, keci ‘‘taṃ kīḷanaṃ passissāmā’’ti evaṃ mahājanasamūhe sannipatite. Devanaṭanti dibbagandhabbaṃ. Kusalaṃ kusalanti vacanaṃ upādāyāti ‘‘kacci kusalaṃ? Āma kusala’’nti vacanapaṭivacanavasena pavattakusalavāditāya te manussā ādito kusalāti samaññaṃ labhiṃsu. Tesaṃ kusalānaṃ issarāti rājakumārā kosalā. Kosale jātā. Tesaṃ nivāsoti sabbaṃ pubbe vuttanayameva. Tenāha **‘‘so padeso kosalāti vuccatī’’**ti.

439. 「群衆が集まったとき」とは、ある者は「歓喜の技を見せて王子を楽しませよう」とし、ある者は「その遊戯を見よう」として、このように多くの人々の集まりが集まったときのことである。「天の踊り子」とは天上のガンダッバ(乾闥婆)である。「善きかな、善きかなという言葉にちなんで」とは、「無事であるか(クサラ)? はい、無事です(クサラ)」という問いと答えによって行われる善なる言説によって、その人々は最初から「善(クサラ)」という名を得た。それらの善なる者たちの主であるから王子たちは「コーサラ」と呼ばれる。コーサラに生まれた。彼らの住処であるからというのも、すべて以前に説かれた通りの筋道である。それゆえに**「その地はコーサラと呼ばれる」**と言った。

Cārikaṃ caramānoti sāmaññavacanampi ‘‘mahatā…pe… tadavasarī’’ti vacanato visesaṃ niviṭṭhamevāti āha **‘‘aturitacārikaṃ caramāno’’**ti. Mahatāti guṇamahattenapi saṅkhyāmahattenapi mahatā. Tasmiñhi bhikkhusamūhe keci adhisīlasikkhāvasena sīlasampannā, tathā keci sīlasamādhisampannā, keci sīlasamādhipaññāsampannāti guṇamahattenapi so bhikkhusamūho mahāti. Taṃ anāmasitvā saṅkhyāmahattameva dassento **‘‘sataṃ vā’’**tiādimāha. Aññagāmapaṭibaddhajīvikāvasena samosaranti etthāti samosaraṇaṃ, gāmo nivāsagāmo. Nti sālaṃ brāhmaṇagāmaṃ. Vihāroti bhagavato viharaṇaṭṭhānaṃ. Etthāti etasmiṃ sāleyyakasutte. Aniyamitoti asukasmiṃ ārāme pabbate rukkhamūle vāti na niyamito, sarūpaggahaṇavasena na niyamitvā vutto. Tasmāti aniyamitattā. Atthāpattisiddhamatthaṃ parikappanavasena dassento **‘‘vanasaṇḍo bhavissatī’’**ti āha, addhā bhaveyyāti attho.

「遊行を行じつつ」とは一般的な言葉であるが、「大いなる…(中略)…そこに立ち寄られた」という言葉から、特別な意味を帯びていることを示して**「急ぐことなく遊行を行じつつ」**と言った。「大いなる」とは徳の大いさによっても、数の大いさによっても大いなることである。実にその比丘衆の中には、増上戒学によって戒を具足した者もいれば、戒と定を具足した者も、戒・定・慧を具足した者もいるというように、徳の大いさによってもその比丘衆は大いなるものである。それを言及せずに数の大いさのみを示して**「百人あるいは」**などと言った。他の村に依存する生活のために集まる場所であるから「集会所」、すなわち村、定住する村である。「それを」とはサーラというバラモンの村を。「寺院」とは世尊の滞在処である。「ここにおいて」とはこのサーレッヤカ経において。「特定されていない」とは、某々の園林、山、樹下などと特定されておらず、固有名詞の把握によって特定して説かれていないことをいう。それゆえに特定されていないことから、必然的に導き出される意味を推測として示して**「森林地帯であろう」**と言った。おそらくそうであろうという意味である。

Upalabhiṃsūti (sārattha. ṭī. 1.1.verañjakaṇḍavaṇṇanā; dī. ni. ṭī. 1.255; a. ni. ṭī. 2.3.64) savanavasena upalabhiṃsūti imamatthaṃ dassento **‘‘sotadvāra…pe… jāniṃsū’’**ti āha. Avadhāraṇaphalattā sabbampi vākyaṃ antogadhāvadhāraṇanti āha ‘‘padapūraṇamatte vā **nipāto’’**ti. Avadhāraṇattheti pana iminā iṭṭhatthāvadhāraṇatthaṃ kho-saddaggahaṇanti dasseti. ‘‘Assosu’’nti padaṃ kho-sadde gahite tena phullitamaṇḍitavibhūsitaṃ viya hontaṃ pūritaṃ nāma hoti, tena ca purimapacchimapadāni saṃsiliṭṭhāni honti, na tasmiṃ aggahiteti āha **‘‘padapūraṇena byañjanasiliṭṭhatāmattamevā’’**ti. Matta-saddo visesanivattiattho. Tenassa anatthantaradīpanataṃ dasseti, eva-saddena pana byañjanasiliṭṭhatāya ekantikataṃ. Sālāyaṃ jātā saṃvaḍḍhakā sāleyyakā yathā ‘‘katteyyakā ubbheyyakā’’ti.

「知得した」とは、聞くことによって知得したというこの意味を示して**「耳の門…(中略)…知った」**と言った。強調の意味を持つことから、すべての文は強調を内包しているとして、「語勢を整えるための**小辞**」と言った。しかし「強調の意味において」とは、これによって望ましい意味を強調するために「コー(実に)」という語を用いたことを示している。「聞いた」という語は、「コー」という語が取られると、それによって花が開き、飾られ、美しく装われたかのようになって満たされたものとなり、それによって前後の語が滑らかに結合するのであり、それが取られないときはそうではないことを示して**「語勢を整えることによる文字の滑らかさにすぎない」**と言った。「~にすぎない(マッタ)」という語は、別の意味を排除するためのものである。それによってそれが別の意味を示していないことを表し、「エヴァ(まさに)」という語によって文字の滑らかさの確実性を示している。サーラ村に生まれ育った者を「サーレッヤカ」という。譬えば「カッティヤ村の者、ウッビヤ村の者」と言うがごとしである。

Samitapāpattāti accantaṃ anavasesato savāsanaṃ samitapāpattā. Evañhi bāhirakavītarāgasekkhāsekkhapāpasamanato bhagavato pāpasamanaṃ visesitaṃ hoti. Anekatthattā nipātānaṃ idha anussavattho adhippetoti āha **‘‘khalūti anussavanatthe nipāto’’**ti. Ālapanamattanti piyālāpavacanaṃ. Piyasamudāhārā hete ‘‘bho’’ti vā ‘‘āvuso’’ti vā ‘‘devānaṃpiyā’’ti vā. Gottavasenāti ettha taṃ tāyatīti gottaṃ. Gotamoti hi pavattamānaṃ abhidhānaṃ buddhiñca ekaṃsikavisayatāya tāyati rakkhatīti gotamagottaṃ. Yathā hi buddhi ārammaṇabhūtena atthena vinā na vattati, evaṃ abhidhānaṃ abhidheyyabhūtena, tasmā so tāni tāyati rakkhatīti vuccati. So pana atthato aññakulaparamparāsādhāraṇaṃ tassa kulassa ādipurisasamudāgataṃ taṃkulapariyāpannasādhāraṇaṃ sāmaññarūpanti daṭṭhabbaṃ. Uccākulaparidīpanaṃ uditoditavipulakhattiyakulavibhāvanato. Sabbakhattiyānañhi ādibhūtamahāsammatamahārājato paṭṭhāya asambhinnaṃ uḷāratamaṃ sakyarājakulaṃ. Kenaci pārijuññenāti ñātipārijuññabhogapārijuññādinā kenacipi pārijuññena parihāniyā anabhibhūto anajjhotthaṭo. Tathā hi kadācipi tassa kulassa tādisapārijuññābhāvo, abhinikkhamanakāle ca tato samiddhatamabhāvo loke pākaṭo paññātoti. Sakyakulā pabbajitoti idaṃ vacanaṃ bhagavato saddhāpabbajitabhāvadīpanaṃ vuttaṃ mahantaṃ ñātiparivaṭṭaṃ mahantañca bhogakkhandhaṃ pahāya pabbajitabhāvadīpanato. Ettha ca samaṇoti iminā parikkhakajanehi bhagavato bahumatabhāvo dassito samitapāpatādīpanato, gotamoti iminā lokiyajanehi uḷāratamakulīnatādīpanato.

「悪を静めたことによって」とは、徹底的に余すところなく習気とともに悪を静めたことによる。このようにして、外道の離欲者や有学・無学の悪の静まりと比して世尊の悪の静まりは際立ったものとなる。小辞は多義的であるため、ここでは伝聞の意味が意図されているとして**「カル(実に)とは伝聞の意味における小辞である」**と言った。「呼びかけにすぎない」とは親愛の呼びかけの言葉である。「尊者よ」「友よ」「天に愛されたる者よ」などは親愛なる呼称である。「氏姓によって」において、それを保つ(守る)から「姓(ゴッタ)」という。「ゴータマ」として行われる名称と理解を確実な対象として保ち、守るからゴータマ姓という。実に理解が対象となる意味なしには機能しないように、名称も名指されるものなしには機能しない。それゆえに彼はそれらを保ち守ると言われる。しかしそれは実質的には、他の家系の伝統に共通し、その家系の始祖から受け継がれ、その家系に属する者に共通する一般的な形態であると見なされるべきである。高貴な家柄を明示することとは、代々栄えゆく広大なクシャトリヤの家柄を明らかにすることからである。実にすべてのクシャトリヤの始祖であるマハーサンマタ大王以来、混じりけのない最高に広大なる釈迦の王家である。「いかなる喪失によっても」とは、親族の喪失や財産の喪失など、いかなる喪失や衰退によっても圧倒されず、覆われなかったことである。実際、いついかなるときもその家系にはそのような喪失がなく、出家の時にもそれ以上に繁栄した状態であったことが世に広く知られている。釈迦族から出家したというこの言葉は、世尊が信仰によって出家された状態を示すために説かれたものであり、広大な親族の輪と莫大な財産の蓄積を捨てて出家された状態を示すためである。そしてここで「沙門」とは、悪を静めたことの明示によって観察力ある人々から世尊が尊崇されている状態が示され、「ゴータマ」とは、最高に高貴な家柄の明示によって世俗の人々から尊崇されている状態が示されている。

Abbhuggatoti ettha abhi-saddo itthambhūtākhyāne, taṃyogato pana ‘‘bhavantaṃ gotama’’nti upayogavacanaṃ sāmiatthepi samānaṃ itthambhūtayogadīpanato **‘‘itthambhūtākhyānatthe’’**ti vuttaṃ. Tenāha **‘‘tassa kho pana bhoto gotamassāti attho’’**ti. Kalyāṇoti bhaddako. Sā cassa kalyāṇatā uḷāravisayatāyāti āha **‘‘kalyāṇaguṇasamannāgato’’**ti. Taṃvisayatā hettha samannāgamo. Seṭṭhoti etthāpi eseva nayo yathā ‘‘bhagavāti vacanaṃ seṭṭha’’nti (pārā. aṭṭha. 1.verañjakaṇḍavaṇṇanā; visuddhi. 1.142; udā. aṭṭha. 1; itivu. aṭṭha. nidānavaṇṇanā; mahāni. aṭṭha. 50). ‘‘Bhagavā araha’’ntiādinā guṇānaṃ saṃkittanato saṃsaddanato ca kittisaddo vaṇṇoti āha **‘‘kittiyevā’’**ti. Kittipariyāyopi hi sadda-saddo yathā taṃ ‘‘uḷārasaddā isayo guṇavanto tapassino’’ti. Thutighosoti abhitthavudāhāro. Ajjhottharitvāti paṭipakkhābhāvena anaññasādhāraṇatāya ca abhibhavitvā.

「立ち昇った」において、「アビ」という語はこのような状態を語ることであり、その結合から「尊者ゴータマを」という対格の言葉は、所有の意味であってもこのような状態の結合を示すことから**「このような状態を語る意味において」**と言われた。それゆえに**「実にその尊者ゴータマの、という意味である」**と言った。「善き」とは善美なることである。そしてその善美であることは広大な境域によるものであるとして**「善美なる徳を具足せる」**と言った。ここにおいてその境域であることが具足である。「最上なる」において、ここでも同様の論法である。譬えば「世尊という言葉は最上である」と言うがごとしである。「世尊は応供であり…」などによって諸々の徳が称揚され、宣揚されることから、「キッティ(名声)」という言葉は徳の称賛であるとして**「まさに名声である」**と言った。「サッダ(声)」という語も名声の同義語であり、譬えば「大いなる名声(ウラーラサッダ)ある仙人たち、有徳の苦行者たち」と言うがごとしである。「称賛の声」とは賛嘆の言葉である。「満ち渡って」とは、対抗するものがなく他と共有されない卓越性によって覆い尽くして、の意味である。

So bhagavāti yo so samatiṃsa pāramiyo pūretvā sabbakilese bhañjitvā anuttaraṃ sammāsambodhiṃ abhisambuddho devānaṃ atidevo sakkānaṃ atisakko brahmānaṃ atibrahmā lokanātho bhāgyavantatādīhi kāraṇehi bhagavāti laddhanāmo, so bhagavā. ‘‘Bhagavā’’ti hi idaṃ satthu nāmakittanaṃ. Tathā hi vuttaṃ ‘‘bhagavāti netaṃ nāmaṃ mātarā kata’’ntiādi (mahāni. 149, 198, 210; cūḷani. ajitamāṇavapucchāniddesa 2). Parato pana ‘‘bhagavā’’ti guṇakittanameva. Evaṃ ‘‘araha’’ntiādīhi padehi ye sadevake loke ativiya paññātā buddhaguṇā, te nānappakārato vibhāvitāti dassetuṃ paccekaṃ itipi-saddo yojetabboti āha **‘‘itipi arahaṃ, itipi samāsambuddho…pe… itipi bhagavā’’**ti. ‘‘Itipetaṃ bhūtaṃ, itipetaṃ taccha’’ntiādīsu (dī. ni. 1.6) viya hi idha iti-saddo āsannapaccakkhakāraṇattho, pi-saddo sampiṇḍanattho tena tesaṃ guṇānaṃ bahubhāvadīpanato. Tāni guṇasallakkhaṇakāraṇāni saddhāsampannānaṃ viññujātikānaṃ paccakkhāni evāti dassento **‘‘iminā ca iminā ca kāraṇenāti vuttaṃ hotī’’**tiādi. Tato visuddhimaggato. Tesanti ‘‘araha’’ntiādīnaṃ. Vitthāro atthaniddeso gahetabbo. Tato eva taṃsaṃvaṇṇanāyaṃ (visuddhi. mahāṭī. 1.130) vutto ‘‘ārakāti arahaṃ suvidūrabhāvato, ārakāti arahaṃ āsannabhāvato, rahitabbassa abhāvato, sayañca arahitabbato, natthi etassa rahogamanaṃ gatīsu paccājāti, pāsaṃsabhāvato vā araha’’ntiādinā ‘‘araha’’ntiādīnaṃ padānaṃ attho vitthārato veditabbo.

「かの世尊は」とは、かの三十の波羅蜜を満たし、すべての煩悩を打ち砕き、無上の正等覚を現等覚し、神々の上の神、帝釈天の上の帝釈天、梵天の上の梵天、世の救い主であり、幸運を具足することなどの理由によって「世尊」という名を得た、かの世尊である。実に「世尊」とは師の名の称揚である。実際、「世尊とは母によって作られた名ではない…」などと説かれている通りである。しかし後文の「世尊」は徳の称揚にすぎない。このように「応供」などの語によって、天を含む世界において極めて知れ渡っている仏陀の諸徳がさまざまな側面から明らかにされたことを示すために、それぞれに「このように(イティピ)」という語を結びつけるべきであるとして、**「このように応供であり、このように正等覚者であり…(中略)…このように世尊である」**と言った。「このようにこれは真実であり、このようにこれは如実である」などのごとく、ここでの「イティ」の語は近接した直接的な理由の意味であり、「ピ」の語は包含の意味であって、それによってそれらの徳が多大であることを示すからである。それらの徳を見極める理由は、信仰を具足した智者たちにとって直接的なものであることを示すために、**「これこれの理由によって、と説かれたことになる」**などと言った。「そこから」とは清浄道論からである。「それらの」とは「応供」などの語の、である。詳細な意味の解明を把握すべきである。まさにそこからその復注において説かれている。「遠く離れている(アーラカー)から応供(アラハン)であり、極めて遠い状態にあることから。近くにある(アーラカー)から応供であり、近接した状態にあることから。捨てるべきものがないことから、そして自ら捨てるべきでないことから。彼には諸々の生存状態において密かな歩み(秘密裏の再誕生)がないことから、あるいは称賛に値する状態(パーサンサ)であることから応供である」などにより、「応供」などの語の意味が詳細に理解されるべきである。

Bhavanti cettha (visuddhi. mahāṭī. 1.130; sārattha. ṭī. 1.verañjakaṇḍavaṇṇanā) –

そしてここにおいて(以下の偈が)ある――

‘‘Sammā nappaṭipajjanti, ye nihīnāsayā narā;

「下劣なる志向を持つ人々は、正しく実践しない。

Ārakā tehi bhagavā, dūre tenārahaṃ mato.

世尊は彼らから遠く離れておられる。それゆえに遠く離れる者(応供)と見なされる。

Ye sammā paṭipajjanti, suppaṇītādhimuttikā;

正しく実践する人々、優れた信解を持つ人々、

Bhagavā tehi āsanno, tenāpi arahaṃ jino.

世尊は彼らに近くおられる。それゆえにもまた勝者は応供である。

Pāpadhammā rahā nāma, sādhūhi rahitabbato;

悪しき法は、善人によって捨てられるべき(ラヒタッバ)ものであるゆえに密なるもの(ラハ)と呼ばれる。

Tesaṃ suṭṭhu pahīnattā, bhagavā arahaṃ mato.

それらを完全に捨て去られたがゆえに、世尊は応供と見なされる。

Ye sacchikatasaddhammā, ariyā suddhagocarā;

正法を現証した、清浄なる境地を行く聖者たち、

Na tehi rahito hoti, nātho tenārahaṃ mato.

救い主は彼らから離れておられない。それゆえに応供と見なされる。

Raho vā gamanaṃ yassa, saṃsāre natthi sabbaso;

輪廻においていかなる密かな歩み(秘密の誕生)も全くなく、

Pahīnajātimaraṇo, arahaṃ sugato mato.

生と死を捨て去られた善逝は、応供と見なされる。

Guṇehi sadiso natthi, yasmā loke sadevake;

天を含む世界において、徳によって比肩する者は存在しない。

Tasmā pāsaṃsiyattāpi, arahaṃ dvipaduttamo.

それゆえに称賛されるべき(パーサンサ)者であることによっても、二足の尊者は応供である。

Ārakā mandabuddhīnaṃ, āsannā ca vijānataṃ;

鈍根なる者たちからは遠く離れ、理解ある者たちには近く、

Rahānaṃ suppahīnattā, vidūnamaraheyyato;

捨てるべきものを完全に捨て去り、智者たちから供養されるに値する(アラハ)がゆえに、

Bhavesu ca rahābhāvā, pāsaṃsā arahaṃ jino’’ti.

諸々の生存において密なる再誕生がないがゆえに、称賛さるべき勝者は応供である」と。

Sundaranti bhaddakaṃ. Tañca passantassa hitasukhāvahabhāvena veditabbanti āha **‘‘atthāvahaṃ sukhāvaha’’**nti. Tattha atthāvahanti diṭṭhadhammikasamparāyikaparamatthasañhitahitāvahaṃ. Sukhāvahanti tappariyāpannatividhasukhāvahaṃ. Tathārūpānanti tādisānaṃ. Yādisehi pana guṇehi bhagavā samannāgato, tehi catuppamāṇikassa lokassa sabbathāpi accantāya pasādanīyoti dassetuṃ **‘‘anekehipī’’**tiādi vuttaṃ. Tattha yathābhūta…pe… arahatanti iminā dhammappamāṇānaṃ lūkhappamāṇānaṃ sattānaṃ bhagavato pasādāvahatamāha, itarena itaresaṃ. Dassanamattampi sādhu hotīti ettha kosiyasakuṇassa vatthu kathetabbaṃ. Ekaṃ padampi sotuṃ labhissāma, sādhutaraṃyeva bhavissatīti ettha maṇḍūkadevaputtavatthu kathetabbaṃ.

「佳い」とは善美なることである。そしてそれを見る者に利益と幸福をもたらす状態として理解されるべきであるとして、**「利益をもたらし、幸福をもたらす」**と言った。そこにおいて「利益をもたらす」とは、現世・来世・究極の利益を伴う利益をもたらすことである。「幸福をもたらす」とは、それに属する三種の幸福をもたらすことである。「そのような者たちの」とは、そのような徳を持つ者たちの、である。世尊が具足されているような徳によって、四種の標準を持つ世の人々をあらゆる点でこの上なく清澄にさせるものであることを示すために、**「多くの…によっても」**などと言われた。そこにおいて「如実な…(中略)…応供たちを」とは、これによって法を標準とする者たちや粗悪な苦行を標準とする衆生たちに世尊の清澄をもたらす状態を説き、他によって他の者たちの清澄をもたらす状態を説いている。「見ることだけでも善きことである」において、ここではフクロウの物語が語られるべきである。「一節だけでも聞くことができれば、なお善きことであろう」において、ここでは蛙の天子の物語が語られるべきである。

Iminā nayena agārikapucchā āgatāti idaṃ yebhuyyavasena vuttaṃ. Yebhuyyena hi agārikā evaṃ pucchanti. Anagārikapucchāyapi eseva nayo. Yathā na sakkonti…pe… vissajjentoti iminā satthu tesaṃ brāhmaṇagahapatikānaṃ niggaṇhanavidhiṃ dasseti. Tesañhi saṃkhittarucitāya saṅkhepadesanā, tāya atthaṃ ajānantā vitthāradesanaṃ āyācanti, sā ca nesaṃ saṃkhittarucitā paṇḍitamānitāya, so ca māno yathādesitassa atthassa ajānante appatiṭṭho hoti, iti bhagavā tesaṃ mānaniggahavidhiṃ cintetvā saṅkhepeneva pañhaṃ vissajjesi, na sabbaso desanāya asallakkhaṇatthaṃ. Tenāha **‘‘paṇḍitamānikā hī’’**tiādi. Yasmā maṃ tumhe yācatha, saṃkhittena vuttamatthaṃ na jānitthāti adhippāyo.

「この筋道によって在家者の質問がなされた」とは、大部分に基づく言説である。大部分の在家者はこのように質問するからである。出家者の質問においても同様の筋道である。「能わざるように…(中略)…答えられつつ」とは、これによって師がそれらバラモン・資産家たちを屈服させる方法を示している。彼らは要約を好むため簡略な説法がなされ、それによって意味を理解できずに詳細な説法を請い願う。そして彼らが要約を好むのは智者気取りによるものであり、その慢心は説かれた意味を理解できないときに根拠を失う。このように世尊は彼らの慢心を屈服させる方法を考えて、簡潔に問いに答えられたのであり、説法を全く理解させないためのものではない。それゆえに**「智者気取りの者たちは実に」**などと言った。あなたがたがわたしに請い願うのは、簡潔に説かれた意味を理解しなかったからである、というのが趣旨である。

440. ‘‘Ekavidhena ñāṇavatthu’’ntiādīsu (vibha. 751) viya koṭṭhāsattho vidha-saddo, so ca vibhattivacanavipallāsaṃ katvā paccatte karaṇavacanavasena **‘‘tividha’’**nti vutto. Attho pana karaṇaputhuvacanavasena daṭṭhabboti āha **‘‘tividhanti tīhi koṭṭhāsehī’’**ti. Pakārattho vā vidha-saddo, pakāratthattāyeva labbhamānaṃ adhammacariyāvisamacariyābhāvasāmaññaṃ, kāyadvārikabhāvasāmaññaṃ vā upādāya ekattaṃ netvā **‘‘tividha’’**nti vuttaṃ. Pakārabhede pana apekkhite ‘‘tividhā’’icceva vuttaṃ hoti. Kāyenāti ettha kāyoti copanakāyo adhippeto, so ca adhammacariyāya dvārabhūto tena vinā tassā appavattanato. Kāyenāti ca hetumhi karaṇavacanaṃ. Kiñcāpi hi adhammacariyāsaṅkhātacetanāsamuṭṭhānā sā viññatti, na ca sā paṭṭhāne āgatesu catuvīsatiyā paccayesu ekenapi paccayena cetanāya paccayo hoti, tassā pana tathāpavattamānāya kāyakammasaññitāya cetanāya pavatti hotīti tena dvārena lakkhitabbabhāvato tassā kāraṇaṃ viya ca sabbohāramattaṃ hoti. Kāyadvārenāti vā kāyena dvārabhūtena kāyadvārabhūtenāti taṃ itthambhūtalakkhaṇe karaṇavacanaṃ. Adhammaṃ carati etāyāti adhammacariyā, tathāpavattā cetanā. Adhammoti pana taṃsamuṭṭhāno payogo daṭṭhabbo. Dhammato anapetāti dhammā, na dhammāti adhammā, adhammā ca sā cariyā cāti adhammacariyā. Paccanīkasamanaṭṭhena samaṃ, samānaṃ sadisaṃ yuttanti vā samaṃ, sucaritaṃ. Samato vigataṃ, viruddhaṃ vā tassāti visamaṃ, duccaritaṃ. Sā eva visamā cariyāti visamacariyā. Sabbesu kaṇhasukkapadesūti ‘‘catubbidhaṃ vācāya adhammacariyāvisamacariyā hotī’’tiādinā uddesaniddesavasena āgatesu sabbesu kaṇhapadesu – ‘‘tividhaṃ kho gahapatayo kāyena dhammacariyāsamacariyā hotī’’tiādinā uddesaniddesavasena āgatesu sabbesu sukkapadesu ca.

440. 「一様なる智の対象」などのごとく、「種(ヴィダ)」という語は部分の意味であり、格変化の語尾の転倒をなして主格において具格の形をとって**「三種(ティヴィダン)」**と説かれた。しかし意味は具格の複数として見なされるべきであるとして、**「三種とは三つの部分によって」**と言った。あるいは「種」という語は種類の意味であり、種類の意味であることによって得られる非法行・不平等行であることの共通性、または身門に属することの共通性にちなんで単数にして**「三種」**と説かれたのである。種類の相違が意図される場合には「三つの種類(ティヴィダー)」と説かれたはずである。「身によって」において、ここでの「身」とは動作をなす身体が意図されており、それは非法行の門となるものであり、それなしには非法行が生じないからである。「身によって」とは原因における具格である。非法行と呼ばれる思惟から生じた身体的表色であっても、それは『発趣論』に説かれる二十四の縁のうちの一つによっても思惟の縁となることはないが、そのように生じる身業と名づけられた思惟の生起があるため、その門によって特徴づけられる状態から、それの原因であるかのように世俗の表現がなされるにすぎない。あるいは「身門によって」とは、門となった身によって、身門となったことによって、という状態の特徴における具格である。これによって非法を行ずるから「非法行」であり、そのように生起した思惟である。しかし「非法」とはそれから生じる行為の試みと見なされるべきである。正法から離れないものが「法」であり、法ならざるものが「非法」であり、非法であり行であるから「非法行」である。敵対するものを静めるという意味で「平等(サマ)」であり、等しく類似し相応しいから「平等」、すなわち善行である。平等から離れ、あるいはそれに反するから「不平等(ヴィサマ)」、すなわち悪行である。その不平等なる行いが「不平等行」である。「すべての黒白の句において」とは、「言葉による四種の非法行・不平等行がある」などの総説・別説によって説かれるすべての黒(悪)の句において、また「居士たちよ、身による三種の法行・平等行がある」などの総説・別説によって説かれるすべての白(善)の句において、である。

Rodeti kurūrakammantatāya parapaṭibaddhe satte assūni mocetīti ruddo, so eva luddo ra-kārassa la-kāraṃ katvā. Kakkhaḷoti luddo. Dāruṇoti pharuso. Sāhasikoti sāhassakārī. Sacepi na lippanti. Tathāvidho paresaṃ ghātanasīlo lohitapāṇītveva vuccati yathā dānasīlo paresaṃ dānatthaṃ adhotahatthopi ‘‘payatapāṇī’’tveva vuccati. Paharaṇaṃ pahāradānamattaṃ hataṃ, pavuddhaṃ paharaṇaṃ parassa māraṇaṃ pahatanti dassento **‘‘hate’’**tiādimāha. Tattha niviṭṭhoti abhiniviṭṭho pasuto.

泣かせる、残酷な行為によって他者に依存する生きものたちに涙を流させるから「ルッダ(残忍な者)」であり、ラ行がラ行に変化して「ルッダ(猟師・残虐者)」となる。「獰悪な者」とは残虐な者。「恐ろしい者」とは粗暴な者。「乱暴な者」とは粗暴な振る舞いをする者。「たとえ塗れていなくとも」とは、そのような他者を殺傷する習性のある者は「血の手を持つ者」と呼ばれるのであり、譬えば施与の習性のある者が他者に施すために手を洗っていなくとも「清らかな手を持つ者(施与を差し伸べる手を持つ者)」と呼ばれるがごとしである。「打撃」とは殴打を与えることだけであり、それが「撃ち(ハタ)」であり、打撃が増大して他者を殺害することが「殺害(パハタ)」であることを示して**「撃つことにおいて」**などと言った。そこにおいて「執着せる」とは深く執着し、没頭せることである。

Yassa vasena ‘‘parassā’’ti sāminiddeso, taṃ sāpateyyaṃ. Yañhi sāmaññato gahitaṃ, taṃ teneva sāminiddesena pakāsitanti āha **‘‘parassa santaka’’**nti. Parassaparavittūpakaraṇanti vā ekamevetaṃ samāsapadaṃ, yaṃ kiñci parasantakaṃ visesato parassa vittūpakaraṇaṃ vāti attho. Tehi parehīti yesaṃ santakaṃ, tehi. Yassa vasena puriso ‘‘theno’’ti vuccati, taṃ theyyanti āha **‘‘avaharaṇacittassetaṃ adhivacana’’**nti. Theyyasaṅkhātena, na vissāsatāvakālikādivasenāti attho.

それに基づいて「他者の」という所有者の指定がなされるもの、それが財産である。一般的に把握されたものがまさにその所有者の指定によって明示されるとして**「他者の所有物」**と言った。あるいは「他者の、他者の財産の資具」とは一つの複合語であり、他者の所有物であるいかなるもの、特に他者の財産の資具という意味である。「それら他者によって」とは、所有者である彼らによって。「盗賊(テーナ)」と呼ばれる根拠となるもの、それが「盗取(テイヤ)」であるとして**「奪取の心の同義語である」**と言った。「盗取と呼ばれるものによって」とは、信頼や一時的な借用などによるのではない、という意味である。

Mate vāti -saddo avuttavikappattho. Tena pabbajitādibhāvaṃ saṅgaṇhāti. Etenupāyenāti yaṃ mātari matāya, naṭṭhāya vā pitā rakkhati, sā piturakkhitā. Yaṃ ubhosu asantesu bhātā rakkhati, sā bhāturakkhitāti evamādiṃ sandhāyāha. Sabhāgakulānīti āvāhakiriyāya sabhāgāni kulāni. Dassukavidhiṃ vā uddissa ṭhapitadaṇḍārājādīhi. Sammādiṭṭhisutte (ma. ni. aṭṭha. 1.89) ‘‘asaddhammādhippāyena kāyadvārappavattā agamanīyaṭṭhānavītikkamacetanā’’ti evaṃ vuttamicchācāralakkhaṇavasena.

「死せる時あるいは」の「あるいは」という語は、説かれていない選択肢の意味である。それによって出家などの状態を包摂する。「この手段によって」とは、母が死に、あるいは行方不明のときに父が保護する者は父に保護された女である。両親がいないときに兄(弟)が保護する者は兄(弟)に保護された女である、というようなことを指して言っている。「同等の家柄」とは、婚姻関係において同等の家柄である。あるいは悪徒の取締りを目的として王などによって刑罰が定められた者たちである。『正見経註』において「邪悪なる思いによって身門に生起した、行くべからざる対象を犯す思惟」とこのように説かれた邪淫の特徴による。

Hatthapādādihetūti hatthapādādibhedanahetu. Dhanahetūti dhanassa lābhahetu jānihetu ca. Lābhoti ghāsacchādanāni labbhatīti lābho. Kiñcikkhanti kiñcimattakaṃ āmisajātaṃ. Tenāha **‘‘yaṃ vā’’**tiādi. Jānantoyevāti musābhāvaṃ tassa vatthuno atthi, taṃ jānanto eva.

「手足などのために」とは、手足などを切断されることを理由として。「財産のために」とは、財産の獲得や喪失を理由として。「利得」とは食物や衣服が得られるから利得という。「些細なこと」とはごくわずかな世俗の品物である。それゆえに**「あるいは何であれ」**などと言った。「知りながらまさに」とは、その事柄に虚偽の状態が存在することを知りながらまさに、である。

Aṇḍakāti vuccati rukkhe aṇḍasadisā gaṇṭhiyo. Yathā thaddhā visamā dubbinītā ca honti, evamevaṃ khuṃsanavambhanavasena pavattavācāpi hi ‘‘aṇḍakā’’ti vuttā. Tenāha **‘‘yathā sadose rukkhe’’**tiādi. Kakkasāti pharusā eva, so panassā kakkasabhāvo byāpādanimittatāya tato pūtikāti. Tenāha **‘‘yathā nāmā’’**tiādi. Kaṭukāti aniṭṭhā. Amanāpāti na manavaḍḍhanī, tato eva dosajananī, cittasandosuppattikārikā. Mammesūti ghaṭṭanena dukkhuppattito mammasadisesu jātiādīsu. Lagganakārīti evaṃ vadantassa evaṃ vadāmīti atthādhippāyena lagganakārī, na byañjanavasena. Kodhassa āsannā tassa kāraṇabhāvato. Sadosavācāyāti attano samuṭṭhāpakadosassa vasena sadosavācāya vevacanāni.

「結節」とは、樹木における卵のような瘤(こぶ)をいう。それらが硬く不揃いで粗削りであるように、誹謗や軽蔑によって生じる言葉も「結節ある言葉」と呼ばれる。それゆえに**「瑕疵ある樹木においてのごとく」**などと言った。「粗暴な」とはまさに荒々しいことであり、その粗暴さは害意を原因とすることから悪臭を放つものである。それゆえに**「譬えばあたかも」**などと言った。「辛辣な」とは好ましくないこと。「不快な」とは心を増長させないことであり、それゆえに怒りを生じさせ、心を汚濁させるものである。「急所において」とは、触れることで苦痛を生じることから急所に似た生まれや素性などにおいて、である。「固着を生じさせる」とは、このように言う者に対してこのように言い返すという、意味の意図によって固着を生じさせるのであり、文字通りによるのではない。「怒りに近い」とは、怒りの原因となる状態であることから。「瑕疵ある言葉の」とは、自らを引き起こす瑕疵による瑕疵ある言葉の同義語である。

Akālenāti ayuttakālena. Akāraṇanissitanti nipphalaṃ. Phalañhi kāraṇanissitaṃ nāma tadavinābhāvato. Akāraṇanissitaṃ nipphalaṃ, samphanti attho. Asabhāvavattāti ayāthāvavādī. Asaṃvaravinayapaṭisaṃyuttassāti saṃvaravinayarahitassa, attano suṇantassa ca na saṃvaravinayāvahassa vattā. Hadayamañjūsāyaṃ nidhetunti ahitasaṃhitattā cittaṃ anuppavisetvā nidhetuṃ. Ayuttakāleti dhammaṃ kathentena yo attho yasmiṃ kāle vattabbo, tato pubbe pacchā tassa akālo, tasmiṃ ayuttakāle vattā hoti. Anapadesanti bhagavatā asukasutte evaṃ vuttanti suttāpadesavirahitaṃ. Aparicchedanti paricchedarahitaṃ. Yathā pana vācā paricchedarahitā hoti, taṃ dassetuṃ **‘‘suttaṃ vā’’**tiādi vuttaṃ. Upalabbhanti anuyogaṃ. Bāhirakathaṃyevāti yaṃ suttaṃ, jātakaṃ vā nikkhittaṃ, tassa sarīrabhūtaṃ kathaṃ anāmasitvā tato bahibhūtaṃyeva kathaṃ. Sampajjitvāti viruḷhaṃ āpajjitvā. Paveṇijātakāvāti anujātapārohamūlāniyeva tiṭṭhanti. Āharitvāti nikkhittasuttato aññampi anuyogaupamāvatthuvasena tadanupayoginaṃ āharitvā. Jānāpetunti etadatthamidaṃ vuttanti jānāpetuṃ yo sakkoti. Tassa kathetunti tassa tathārūpassa dhammakathikassa bahumpi kathetuṃ vaṭṭati. Na atthanissitanti attano paresañca na hitāvahaṃ.

「時に非ずして」とは相応しくない時において。「無根拠な」とは無益なことである。果は根拠に基づくものであり、それなしには存在しないからである。無根拠なとは無益な、無駄話の意味である。「非真実を語る者」とは事実でないことを語る者。「不自制の律儀に関する」とは自制の律儀を欠いた、自らにも聞く者にも自制の律儀をもたらさないことを語る者。「心の箱に納めるに値しない」とは不利益を伴うものであるため、心に入れ込んで納めるに値しないことである。「相応しくない時に」とは、法を説く者によってある意味がある時に説かれるべきであるのに、それより前や後に説くことは相応しくない時であり、その相応しくない時に語る者となる。「根拠なき」とは、世尊によって某々の経においてこのように説かれたという経典の引用を欠いたこと。「無限定な」とは限定を欠いたこと。言葉がいかに限定を欠いたものとなるかを示すために、**「経あるいは」**などと言われた。「反論」とは質問・詰問である。「外の話ばかりを」とは、提示された経や本生談の骨子となる話を論じることなく、それから外れた話ばかりを。「繁茂して」とは生長して枝葉を広げて。「連鎖本生あるいは」とは次々に生じる気根のように留まる。「引き合いに出して」とは提示された経とは別の問答や譬喩の事柄によって、それにそぐわないものを引き合いに出して。「理解させる」とは、この意味のためにこれが説かれたと理解させることができる者のことである。「その者が語るには」とは、そのような説法者にとっては多くを語ることも相応しい。「義に基づかない」とは自分にも他者にも利益をもたらさないことである。

Abhijjhāyanaṃ yebhuyyena parasantakassa dassanavasena hotīti **‘‘abhijjhāya oloketā hotī’’**ti vuttaṃ. Abhijjhāyanto vā abhijjhāyitaṃ vatthuṃ yattha katthaci ṭhitampi paccakkhato passanto viya abhijjhāyatīti vuttaṃ **‘‘abhijjhāya oloketā hotī’’**ti. Kammapathabhedo na hoti, kevalaṃ lobhamattova hoti pariṇāmanavasena appavattattā. Yathā pana kammapathabhedo hoti, taṃ dassetuṃ **‘‘yadā panā’’**tiādi vuttaṃ. Pariṇāmetīti attano santakabhāvena pariggayha nāmeti.

貪欲は大部分が他者の所有物を見ることによって生じることから、**「貪欲をもって見つめる者となる」**と言われた。あるいは貪欲を起こす者は、貪欲の対象となる事柄がどこにあろうとも直接見ているかのように貪欲を起こすことから、**「貪欲をもって見つめる者となる」**と言われた。業道の破綻(完成)はなく、単なる貪愛にすぎない。自分のものに転化させる作用として生起していないからである。いかにして業道の破綻となるかを示すために、**「しかし…のときに」**などと言われた。「転化させる」とは、自分の所有物として把握して傾けることである。

Vipannacittoti byāpādena vipattiṃ āpāditacitto. Tenāha **‘‘pūtibhūtacitto’’**ti. Byāpādo hi visaṃ viya lohitassa cittaṃ pūtibhāvaṃ janeti. Dosena duṭṭhacittasaṅkappoti visena viya sappiādikopena dūsitacittasaṅkappo. Ghātīyantūti hanīyantu. Vadhaṃ pāpuṇantūti maraṇaṃ pāpuṇantu. Mā vā ahesunti sabbena sabbaṃ na hontu. Tenāha **‘‘kiñcipi mā ahesu’’**nti, anavasesavināsaṃ pāpuṇantūti attho. Haññantūti ādicintanenevāti ekantato vināsacintāya eva.

「邪悪な心の者」とは瞋恚によって破滅に至った心の者である。それゆえに**「腐敗した心の者」**と言った。瞋恚は毒が血液を腐敗させるように心を腐敗させるからである。「怒りによって損なわれた心と思考の者」とは、毒によってギーなどが損なわれるように損なわれた心と思考の者である。「殺されよ」とは撃ち殺されよ。「殺戮に至れ」とは死に至れ。「あるいは存在しなくなれ」とは完全にすべて存在しなくなれ。それゆえに**「微塵も存在するな」**と言った。余すところなく壊滅に至れという意味である。「殺されよなどの思考によってまさに」とは、偏に壊滅を願う思考によってまさに、である。

Micchādiṭṭhikoti ayoniso uppannadiṭṭhiko. So ca ekantato kusalapaṭipakkhadiṭṭhikoti āha **‘‘akusaladassano’’**ti. Vipallatthadassanoti dhammatāya vipariyāsaggāhī. Natthi dinnanti deyyadhammasīsena dānaṃ vuttanti āha **‘‘dinnassa phalābhāvaṃ sandhāya vadatī’’**ti. Dinnaṃ pana annādivatthuṃ kathaṃ paṭikkhipati. Esa nayo **‘‘yiṭṭhaṃ huta’’**nti etthāpi. Mahāyāgoti sabbasādhāraṇaṃ mahādānaṃ. Paheṇakasakkāroti pāhunakānaṃ kattabbasakkāro. Phalanti ānisaṃsaphalañca nissandaphalañca. Vipākoti sadisaṃ phalaṃ. Paraloke ṭhitassa ayaṃ loko natthīti paraloke ṭhitassa kammunā laddhabbo ayaṃ loko na hoti. Idhaloke ṭhitassapi paraloko natthīti idhaloke ṭhitassa kammunā laddhabbo paraloko na hoti. Tattha kāraṇamāha **‘‘sabbe tattha tattheva ucchijjantī’’**ti. Ime sattā yattha yattha bhavayonigatiādīsu ṭhitā tattha tattheva ucchijjanti nirudayavināsavasena vinassanti. Phalābhāvavasenāti mātāpitūsu sammāpaṭipattimicchāpaṭipattīnaṃ phalassa abhāvavasena ‘‘natthi mātā, natthi pitā’’ti vadati, na mātāpitūnaṃ, nāpi tesu sammāpaṭipattimicchāpaṭipattīnaṃ abhāvavasena tesaṃ lokapaccakkhattā. Bubbuḷakassa viya imesaṃ sattānaṃ uppādo nāma kevalova, na cavitvā āgamanapubbakoti dassanatthaṃ ‘‘natthi sattā opapātikā’’ti vuttanti āha **‘‘cavitvā upapajjanakasattā nāma natthīti vadatī’’**ti. Samaṇena nāma yāthāvato jānantena kassaci kiñci akathetvā saññatena bhavitabbaṃ, aññathā ahopurisikā nāma siyā, kiṃ paro parassa karissati, tathā attano sampādanassa kassaci avasaro eva natthi tattha tattheva ucchijjanatoti āha **‘‘ye imañca…pe… pavedentī’’**ti. Ettāvatāti ‘‘natthi dinna’’ntiādinā byapadesena. Dasavatthukāti paṭikkhipitabbāni dasa vatthūni etissāti dasavatthukā.

「邪見の者」とは不正な思惟から生じた見解を持つ者である。そしてそれは偏に善の反対の見解であるとして**「不善の見解を持つ者」**と言った。「顛倒した見解の者」とは事物の本性について転倒した把握をする者。「施されたものはない」とは布施の品物を主として施しが説かれているとして、**「施しの果報がないことを指して言っている」**と言った。しかし施された食物などの品物をどうして否定できようか。「供犠も奉献も」においても同様の筋道である。「大供犠」とは万人に共通する大施与である。「歓待の礼遇」とは来客に対してなされるべき礼遇である。「果」とは功徳の果と等流の果である。「報い」とは相応する果報である。「来世にある者にとってこの世はない」とは、来世にある者が業によって得られるべきこの世はない。「現世にある者にとっても来世はない」とは、現世にある者が業によって得られるべき来世はない。そこでの理由を述べて**「すべてはそこでまさに断滅する」**と言った。これらの衆生は、生存・胎生・境遇などのいかなる場所に住していようとも、まさにその場で断滅し、再起なき壊滅によって滅びるのである。「果報がないことによって」とは、父母に対する正しい実践・誤った実践の果報がないことによって「母はない、父はない」と言うのであり、父母そのものや彼らに対する正しい実践・誤った実践がないことによるのではない。それらは世間において明白だからである。水泡のようにこれら衆生の発生は単なる生起にすぎず、没して他からやって来た前世に基づくものではないことを示すために「化生の衆生はない」と説かれたとして、**「没して再誕する衆生など存在しないと言う」**と言った。真実を知る沙門たる者は誰にも何も語らず自制しているべきであり、そうでなければ男気取りにすぎず、他人が他人に何をしてやれようか、また自らの達成の機会すら誰にも全くなく、いたるところで断滅するからであるとして、**「これら…(中略)…宣説する者たち」**と言った。「これほどまでに」とは「施されたものはない」などの言説によって、である。「十事の」とは、否定されるべき十の事柄を持つものであるから十事の邪見という。

441. Anabhijjhādayo heṭṭhā atthato pakāsitattā uttānatthāyeva.

441. 無貪などの項目は下文で意味が明らかにされているため、明白である。

442. Saha byayati gacchatīti sahabyo, sahavattanako, tassa bhāvo sahabyatā, sahapavattīti āha **‘‘sahabhāvaṃ upagaccheyya’’**nti. Brahmānaṃ kāyo samūhoti brahmakāyo, tappariyāpannatāya tattha gatāti brahmakāyikā. Kāmaṃ cetāya sabbassapi brahmanikāyassa samaññāya bhavitabbaṃ, ‘‘ābhāna’’ntiādinā pana dutiyajjhānabhūmikādīnaṃ upari gahitattā gobalībaddañāyena tadavasesānaṃ ayaṃ samaññāti āha **‘‘brahmakāyikānaṃ devānanti paṭhamajjhānabhūmidevāna’’**nti. Ābhā nāma visuṃ devā natthi, parittābhādīnaṃyeva pana ābhāvantatāsāmaññena ekajjhaṃ gahetvā pavattaṃ etaṃ adhivacanaṃ, yadidaṃ ‘‘ābhā’’ti yathā ‘‘brahmapārisajjabrahmapurohitamahābrahmānaṃ brahmakāyikā’’ti. Parittābhānantiādi panāti ādi-saddena appamāṇābhānaṃ devānaṃ ābhassarānaṃ devānanti imaṃ pāḷiṃ saṅgaṇhāti. Ekato aggahetvāti ābhāti vā, ekattakāyanānattasaññāti vā ekato aggahetvā. Tesaṃyevāti ābhāti vuttadevānaṃyeva. Bhedato gahaṇanti kāraṇassa hīnādibhedabhinnatādassanavasena parittābhādiggahaṇaṃ. Iti bhagavā āsavakkhayaṃ dassetvāti evaṃ bhagavā dhammacariyaṃ, samacariyaṃ, vaṭṭanissitaṃ sugatigāmipaṭipadaṃ, vivaṭṭanissitaṃ āsavakkhayagāmipaṭipadaṃ katvā tibhavabhañjanato āsavakkhayaṃ dassetvā arahattanikūṭena desanaṃ niṭṭhapesi.

442. ともに赴き歩むから「同行者」、共存者であり、その状態が「同行」、共存であるとして**「同等の状態に達するであろう」**と言った。梵天たちの身、すなわち集まりであるから「梵身」であり、そこに属することによってそこへ至った者たちを「梵身天」という。本来ならこの名称はすべての梵天の部類に当てはまるべきであるが、「光天」などによって第二禅の境地などが上位に把握されているため、牛と牡牛の論法(通称と別称の使い分け)によってそれら以外の残りの者たちの名称であるとして、**「梵身の神々とは初禅の境地の神々のことである」**と言った。「光天」という個別の神々が存在するのではなく、少光天などの光を持つことの共通性によって一括して把握されて生じた呼称がこの「光天」であり、譬えば「梵衆天、梵輔天、大梵天を梵身天という」がごとしである。「少光天などの」の「など」の語は、無量光天、光音天という経文を包摂している。「一括して把握することなく」とは、光天として、あるいは同一の身体にして異なった表象を持つものとして一括して把握することなく。「それらの」とは光天と説かれた神々の、である。「区別による把握」とは、原因が劣等などの区別によって分かれていることを示すことによって少光天などの把握がなされている。このように世尊は諸漏の尽滅を示し、法行・平等行を、輪廻に属する善趣に至る実践とし、解脱に属する諸漏の尽滅に至る実践として、三界を打ち破ることによる諸漏の尽滅を示して、阿羅漢位を頂点として説法を締めくくられた。

Idha ṭhatvāti imasmiṃ dhammacariyāsamacariyāya niddese ṭhatvā. Devalokā samānetabbāti chabbīsatipi devalokā samodhānetabbā. Vīsati brahmalokāti taṃtaṃbhavapariyāpannanikāyavasena vīsati brahmalokā, vīsati brahmanikāyāti attho. Dasakusalakammapathehīti yathārahaṃ dasakusalakammapathehi kammūpanissayapaccayabhūtehi kevalaṃ upanissayabhūtehi ca nibbatti dassitā.

「ここにおいて」とは、この法行・平等行の解説にとどまって。「天界が集められるべきである」とは、二十六のすべての天界も統括されるべきである。「二十の梵天界」とは、それぞれの生存に属する部類によって二十の梵天界、二十の梵天の部類という意味である。「十善業道によって」とは、相応に応じて業の親依止縁となり、単なる親依止となった十善業道によって誕生が示されている。

Tiṇṇaṃ sucaritānanti tiṇṇaṃ kāmāvacarasucaritānaṃ. Kāmāvacaraggahaṇañcettha manosucaritāpekkhāya. Vipākenevāti iminā vipākuppādeneva nibbatti hoti, na upanissayatāmattenāti dasseti. **‘‘Upanissayavasenā’’**ti vuttamatthaṃ vivarituṃ **‘‘dasa kusalakammapathā hī’’**tiādi vuttaṃ. Dutiyādīni bhāvetvātiādīsupi ‘‘sīle patiṭṭhāyā’’ti padaṃ ānetvā sambandhitabbaṃ. Kasmā panettha ‘‘upanissayavasenā’’ti vuttaṃ, nanu paṭisambhidāmagge (paṭi. ma. 1.41) – ‘‘paṭhamena jhānena nīvaraṇānaṃ pahānaṃ sīlaṃ, veramaṇi sīlaṃ, cetanā sīlaṃ, saṃvaro sīlaṃ, avītikkamo sīla’’ntiādinā sabbesupi jhānesu sīlaṃ uddhaṭanti tassa vasena uparidevalokānampi vipākena nibbatti vattabbāti? Na, tassa pariññāya desanattā, pariññāya desanatā cassa ‘‘yattha ca pahāna’’ntiādinā visuddhimaggasaṃvaṇṇanāyañca (visuddhi. mahāṭī. 2.837, 839) pakāsitā eva. Tathā hi idhāpi ‘‘dasa kusalakammapathā hi sīla’’ntiādinā sīlassa rūpārūpabhavānaṃ upanissayatā vibhāvitā, na nibbattakatāya. Kasmā panettha bhāvanālakkhaṇāya dhammacariyāya bhavavisese vibhajiyamāne asaññabhavo na gahitoti āha ‘‘asaññabhavo **pana…pe… na niddiṭṭho’’**ti. Bāhirakā hi ayathābhūtadassitāya asaññabhavaṃ bhavavippamokkhaṃ maññamānā tadupagajjhānaṃ bhāvetvā asaññesu nibbattanti. Ayamettha saṅkhepo, yaṃ panettha vattabbaṃ, taṃ brahmajālaṭṭhakathāyaṃ taṃsaṃvaṇṇanāyañca (dī. ni. aṭṭha. 1.68-73; dī. ni. ṭī. 1.68-73) vuttanayeneva veditabbaṃ.

「三つの善行の」とは三つの欲界の善行の、である。ここでの欲界の把握は意の善行を考慮してのことである。「異熟によってまさに」とは、これによって異熟が生じることによってのみ誕生があるのであり、単なる親依止であることによるのではないことを示している。**「親依止によって」**と説かれた意味を明らかにするために、**「十善業道は実に」**などと言われた。「第二禅などを修習して」などにおいても、「戒に立脚して」という語を補って結合させるべきである。しかしなぜここで「親依止によって」と言われたのか。『無礙解道』において「初禅によって諸蓋を捨断することが戒であり、離止が戒であり、思惟が戒であり、自制が戒であり、不犯が戒である」などとすべての禅定において戒が掲げられており、それに基づいて上位の天界へも異熟による誕生が説かれるべきではないのか。そうではない。それは遍知のための説法だからであり、それが遍知のための説法であることは「捨断があるところにおいて…」などの清浄道論の復注においても明らかにされている通りである。実にここでも「十善業道は実に戒であり…」などによって、戒が色界・無色界の生存に対する親依止であることが明らかにされているのであり、誕生させるものとしてではない。しかしなぜここで修習を特徴とする法行において生存の差異が分別されるにあたり、無想天の生存が把握されなかったのかについて、**「しかし無想天の生存は…(中略)…説かれていない」**と言った。外道たちは如実ならざる見解により、無想天の生存を生存からの解脱と思い込み、そこへ至る禅定を修習して無想天に生まれるからである。これがここでの要約であり、ここで説かれるべきことは『梵網経註』とその復注において説かれた筋道によって理解されるべきである。

Sāleyyakasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

『サーレッヤカ経註』の顕幽釈を了える。

2. Verañjakasuttavaṇṇanā

2. ヴェランジャカ経註

444. Verañjavāsinoti verañjagāmavāsino. Keci pana ‘‘vividharaṭṭhavāsino verañjakā’’ti etamatthaṃ vadanti, tesaṃ matena ‘‘verajjakā’’ti pāḷiyā bhavitabbanti. Aniyamitakiccenāti ‘‘iminā nāmā’’ti evaṃ na niyamitena kiccena. Ayaṃ visesoti ayaṃ puggalādhiṭṭhānadhammādhiṭṭhānakato imesu dvīsu suttesu desanāya viseso, attho pana desanānayo ca majjhe bhinnasuvaṇṇaṃ viya avisiṭṭhoti dasseti. Kasmā pana bhagavā katthaci puggalādhiṭṭhānadesanaṃ deseti, katthaci dhammādhiṭṭhānanti? Desanāvilāsato veneyyajjhāsayato ca. Desanāvilāsappattā hi buddhā bhagavanto, te yathāruci katthaci puggalādhiṭṭhānaṃ katvā, katthaci dhammādhiṭṭhānaṃ katvā dhammaṃ desenti. Ye pana veneyyā sāsanakkamaṃ anotiṇṇā, tesaṃ puggalādhiṭṭhānadesanaṃ desenti. Ye otiṇṇā, tesaṃ dhammādhiṭṭhānaṃ. Sammutisaccavisayā puggalādhiṭṭhānā, itarā paramatthasaccavisayā. Purimā karuṇānukūlā, itarā paññānukūlā. Saddhānusārigottānaṃ vā purimā. Te hi puggalappamāṇā, pacchimā dhammānusārīnaṃ. Saddhācaritatāya vā lokādhipatīnaṃ vasena puggalādhiṭṭhānā, paññācaritatāya dhammādhipatīnaṃ vasena dhammādhiṭṭhānā. Purimā ca neyyatthā, pacchimā nītatthā. Iti bhagavā taṃ taṃ visesaṃ avekkhitvā tattha tattha duvidhaṃ desanaṃ desetīti veditabbaṃ.

444. 「ヴェランジャの住民たち」とはヴェランジャ村の住民たちのことである。しかしある者たちは「様々な国の住民たちをヴェランジャカという」とこの意味を述べるが、彼らの見解によれば経文は「ヴェーラッジャカー」となるべきである。「特定されない用件によって」とは、「某々の用件によって」とこのように特定されない用件によって。「この差異」とは、この人に基づく教説と法に基づく教説によって生じるこれら二つの経における説法の差異であるが、意味と説法の筋道は真っ二つに割った黄金のように差異がないことを示している。しかしなぜ世尊はあるところでは人に基づく説法を説き、あるところでは法に基づく説法を説くのか。説法の巧みさと教化されるべき者の意向による。実に仏陀・世尊たちは説法の巧みさを極めておられ、意向に応じてあるところでは人を主体とし、あるところでは法を主体として法を説かれる。教えの階梯に入っていない教化対象者たちには人に基づく説法を説かれる。すでに入っている者たちには法に基づく説法を説かれる。世俗の真理を対象とするのが人を主体とする説法であり、勝義の真理を対象とするのが法を主体とする説法である。前者は慈悲に随順し、後者は智慧に随順する。あるいは信随行の部類には前者が、彼らは人を標準とするからであり、法随行の者たちには後者が説かれる。あるいは信仰を行ずることによる世間を主とする者たちには人に基づく説法が、智慧を行ずることによる法を主とする者たちには法に基づく説法が説かれる。そして前者は未了義(導かれるべき意味)であり、後者は了義(決定された意味)である。このように世尊はそれぞれの差異を観察して、処々において二種の説法を説かれると知るべきである。

Verañjakasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

『ヴェランジャカ経註』の顕幽釈を了える。

3. Mahāvedallasuttavaṇṇanā

3. 大有明経註

449. Garubhāvo gāravaṃ, pāsāṇacchattaṃ viya garukaraṇīyatā. Saha gāravenāti sagāravo, garunā kismiñci vutte gāravavasena patissavanaṃ patissavo, saha patissavena sappatissavo, patissavabhūtaṃ taṃsabhāgañca yaṃ kiñci garukaraṇaṃ. Sagārave sappatissavacanaṃ sagāravasappatissavacanaṃ. Garukaraṇaṃ vā gāravo, sagāravassa sappatissavacanaṃ sagāravasappatissavacanaṃ. Etena sabhāveneva sagāravassa tathāpavattaṃ vacananti dasseti. Aññattha du-saddo garahatthopi hoti ‘‘dukkhaṃ dupputto’’tiādīsu viya, idha pana so na sambhavati kucchitāya paññāya abhāvatoti āha **‘‘paññāya duṭṭhaṃ nāma natthī’’**ti. ‘‘Dussīlo’’tiādīsu viya abhāvattho du-saddoti vuttaṃ **‘‘appañño nippaññoti attho’’**ti. Kittakenāti kena parimāṇena. Taṃ pana parimāṇaṃ yasmā parimeyyassa atthassa paricchindanaṃ hoti, nu-saddo ca pucchāya jotako, tasmā **‘‘kittāvatā nu khoti kāraṇaparicchedapucchā’’**ti vatvā **‘‘kittakena nu kho evaṃ vuccatīti attho’’**ti āha. ‘‘Kāraṇaparicchedapucchā’’ti iminā ‘‘kittāvatā’’ti sāmaññato pucchābhāvo dassito, na visesato, tassa pucchāvisesabhāvañāpanatthaṃ mahāniddese āgatā sabbāva pucchā atthuddhāranayena dasseti **‘‘pucchā ca nāmā’’**tiādinā. Adiṭṭhaṃ jotīyati etāyāti adiṭṭhajotanā, pucchā. Diṭṭhasaṃsandanā sākacchāvasena vinicchayakaraṇaṃ. Vimati chijjati etāyāti vimaticchedanā. Anumatiyā pucchā anumatipucchā. ‘‘Taṃ kiṃ maññatha, bhikkhave’’tiādipucchāya hi ‘‘kiṃ tumhākaṃ anumatī’’ti anumati pucchitā hoti. Kathetuṃ kamyatāya pucchā kathetukamyatāpucchā.

449. 重き状態が「敬重(ガーラヴァ)」であり、石の傘のように重んじるべき状態である。「敬重を伴う」から敬重ある者であり、尊者によって何かが語られたときに敬重によって応答することが「恭順(パティッサヴァ)」であり、恭順を伴うから「有恭順」であり、応答となった、それに類似したいかなる重んじる行為をも指す。敬重ある者における恭順の言葉が「敬重と恭順の言葉」である。あるいは重んじることが敬重であり、敬重ある者の恭順の言葉が敬重と恭順の言葉である。これによって、敬重ある者の本性としてそのように発せられた言葉であることを示している。他所においては「ドゥ(悪・難)」の語は「苦難(ドゥッカ)」「悪子(ドゥップッタ)」などのごとく非難の意味にもなるが、ここにおいては卑劣な智慧が存在しないためそれは成り立たないとして、**「智慧において悪しきものなど存在しない」**と言った。「悪戒(ドゥッシーラ)」などのごとく「ドゥ」の語は無の意味であるとして、**「無智、智慧なき者の意味である」**と言った。「どれほどによって」とはいかなる分量によって。「しかしその分量とは測られるべき意味を限定するものであり、『ヌ・コー』の語は質問を示すものであるから、**『どれほどによってであろうか、とは理由の限定の問いである』**と言い、**『どれほどによってこのように言われるのであろうか、という意味である』**と言った」。「理由の限定の問い」とは、これによって「どれほどによって」という一般的な問いの状態を示したのであり、特殊なものではない。その問いの特殊性を知らせるために『大義釈』に説かれるすべての問いを意味の抽出の筋道によって示して、**「問いとは実に」**などと言った。見られないものがこれによって明らかにされるから「未見開示の問い」である。「既見照合の問い」とは議論による決定をなすことである。疑惑がこれによって断ち切られるから「疑惑切断の問い」である。同意を求める問いが「同意の問い」である。「比丘たちよ、これをどう思うか」などの問いにおいて、「あなたがたの同意はどうか」と同意が問われているからである。語りたいという欲求による問いが「言説欲求の問い」である。

Lakkhaṇanti ñātuṃ icchito yo koci sabhāvo. Aññātanti yena kenaci ñāṇena aññātabhāvaṃ āha. Adiṭṭhanti dassanabhūtena paccakkhaṃ viya adiṭṭhataṃ. Atulitanti ‘‘ettakaṃ ida’’nti tulanabhūtena atulitataṃ. Atīritanti tīraṇabhūtena akatañāṇakiriyāsamāpanataṃ. Avibhūtanti ñāṇassa apākaṭabhāvaṃ. Avibhāvitanti ñāṇena apākaṭīkatabhāvaṃ. Idha diṭṭhasaṃsandanāpucchā adhippetā, na adiṭṭhajotanā vimaticchedanā cāti.

「相」とは知られることを望まれるいかなる自性でもよい。「知られていない」とは、いかなる智によっても知られていない状態をいう。「見られていない」とは、見ることによって直接であるかのようには見られていないこと。「衡量されていない」とは、「これほどのものだ」と量ることによって量られていないこと。「判定されていない」とは、判定することによって智の作用の完成がなされていないこと。「顕現していない」とは智にとって明白でない状態。「明らかにされていない」とは智によって明白にされていない状態。ここでは「既見照合の問い」が意図されているのであり、「未見開示」や「疑惑切断」ではない。

Kathamayaṃ attho viññāyatīti āha **‘‘thero hī’’**tiādi. Sayaṃ vinicchinantoti sayameva tesaṃ pañhānaṃ atthaṃ visesena nicchinanto. Idaṃ suttanti idaṃ pañcavīsatipañhapaṭimaṇḍitasuttaṃ, na yaṃ kiñci anavaseseneva matthakaṃ pāpesīti. ‘‘Sayameva pañhaṃ samuṭṭhāpetvā sayaṃ vinicchinanto’’ti ettha catukkoṭikaṃ bhavatīti dassento **‘‘ekacco hī’’**tiādimāha. Pañhaṃ samuṭṭhāpetuṃyeva sakkotīti pucchanavidhiṃyeva jānāti. Na nicchetunti nicchetuṃ na sakkoti, vissajjanavidhiṃ na jānātīti attho. Visesaṭṭhānanti aññehi asadisaṭṭhānaṃ. Therena sadisoti therena sadiso sāvako natthi.

いかにしてこの意味が知られるのかについて、**「長老は実に」**などと言った。「自ら決着をつけつつ」とは、自らそれらの問いの意味を詳細に決着させつつ、である。「この経を」とは、この二十五の問いで飾られた経を、余すところなく頂点に至らせたのであり、適当なものではない。「自ら問いを起こして自ら決着をつけつつ」において四句分別が存在することを示して、**「ある者は実に」**などと言った。「問いを起こすことだけができる」とは、問いかける方法だけを知っている。「決着をつけることはできない」とは、決着をつけることができない、答える方法を知らないという意味である。「卓抜した境地」とは他者に比類なき境地である。「長老に類似する」とは、長老に比肩する弟子は存在しない。

Saṃsanditvāti saṃyojetvā samānaṃ katvā, yathā tattha sabbaññutaññāṇaṃ pavattaṃ, tathā taṃ avilometvāti attho. Līḷāyantoti līḷaṃ karonto. Dhammakathikatāya aggabhāvappattiyā tattha appaṭihatañāṇatāya buddhalīḷāya viya catunnaṃ parisānaṃ gamanaṃ gaṇhanto dhammakathaṃ katheti.

「照合して」とは結合して同等にして、そこに一切知智が働いたように、それに反することなく、という意味である。「自在に振る舞いつつ」とは巧みな威儀をなしつつ。説法者としての最高位に達したことによってそこにおいて妨げなき智を持つため、仏陀の自在の振る舞いのごとく四部衆の歩みを把握して法話を語る。

Ito vā etto vā anukkamitvāti uggahitakathāmaggato yattha katthaci īsakampi anukkamitvā uggahitaniyāmenevāti attho. Tenāha **‘‘yaṭṭhikoṭi’’**ntiādi. Ekapadikanti ekapadanikkhepamattaṃ. Daṇḍakasetunti ekadaṇḍakamayaṃ setuṃ. Heṭṭhā ca upari ca suttapadānaṃ āharaṇena tepiṭakaṃ buddhavacanaṃ heṭṭhupariyaṃ karonto. Jātassarasadisañca gāthaṃ, suttapadaṃ vā nikkhipitvā tattha nānāupamākāraṇāni āharanto tāni ca tehi suttapadehi bodhento samuṭṭhāpento **‘‘jātassare pañcavaṇṇāni kusumāni phullāpento viya sinerumatthake vaṭṭisahassaṃ jālento viyā’’**ti vutto.

「あちらへこちらへと踏み迷うことなく」とは、学んだ説法の道筋からどこへも少しも踏み外すことなく、学んだ通りのやり方でまさに、という意味である。それゆえに**「杖の先を」**などと言った。「一本道」とは一歩を踏み出すだけの道。「一本橋」とは一本の丸太でできた橋。下位と上位の経文の句を引き合いに出すことによって、三蔵の仏言を下から上へと縦横に駆使しつつ。清らかな天然の池に似た詩偈や経文の句を提示して、そこに様々な譬喩や論拠を引き合いに出し、それらをそれらの経文の句によって開示し現前させつつ、**「天然の池に五色の花を開かせるかのごとく、須弥山の頂に千の燈火を灯すかのごとく」**と説かれた。

Ekapaduddhāreti ekasmiṃ paduddhāraṇakkhaṇe. Padavasena saṭṭhi padasatasahassāni gāthāvasena pannarasa gāthāsahassāni. Ākaḍḍhitvā gaṇhanto viyāti paccekaṃ pupphāni anocinitvā vallimeva ākaḍḍhitvā ekajjhaṃ pupphāni katvā gaṇhanto viya. Tenāha **‘‘ekappahārenevā’’**ti. Gatimantānanti atisayāya ñāṇagatiyā yuttānaṃ. Dhitimantānanti dhāraṇabalena yuttānaṃ.

「一歩を踏み出す間に」とは一歩を踏み出す一瞬の間に。句としては六十万句、詩偈としては一万五千偈である。「手繰り寄せて把握するかのごとく」とは、一つ一つの花を摘み取ることなく、蔓そのものを手繰り寄せて花を一まとめにして把握するかのようである。それゆえに**「一撃のもとにまさに」**と言った。「鋭敏なる理解力を持つ者たちの」とは卓越した智の理解力を持つ者たちの。「強固なる把持力を持つ者たちの」とは記憶の把持力を持つ者たちの。

Anantanayussadanti paccayuppannabhāsitatthanibbānavipākakiriyādivasena anantapabhede visaye pavattiyā anantanayehi ussannaṃ upacitaṃ. Caturoghanittharaṇatthikānaṃ titthe ṭhapitanāvā viyāti yojanā. Sahassayuttaājaññarathoti vejayantarathaṃ sandhāya vadati.

「無数の筋道に満ちあふれた」とは、縁起・説示された意味・涅槃・異熟・作用などの無限の区別ある領域に機能することによって、無数の筋道によって豊かに集積された。「四つの激流を渡ることを望む者たちのために渡し場に置かれた船のごとく」と解釈される。「千匹立ての駿馬の戦車」とはデイバのバイジャヤンタ戦車を指して言っている。

Yasmā pucchāyaṃ byāpanicchānayena ‘‘duppañño duppañño’’ti āmeḍitavasena vuttaṃ, tasmā dhammasenāpati pucchitamatthaṃ vissajjento pucchāsabhāgena ‘‘nappajānāti nappajānātī’’ti āmeḍitavasenevāha. Tattha iti-saddo kāraṇatthoti dassento ‘‘yasmā nappajānāti, tasmā duppaññoti **vuccatī’’**ti āha. Idaṃ dukkhanti idaṃ upādānakkhandhapañcakaṃ dukkhaṃ ariyasaccaṃ. Tañca kho ruppanaṃ vediyanaṃ sañjānanaṃ abhisaṅkharaṇaṃ vijānananti saṅkhepato ettakaṃ. Ito uddhaṃ kiñci dhammajātaṃ dukkhaṃ ariyasaccaṃ nāma natthīti yāthāvasarasalakkhaṇato pavattikkamato ceva pīḷanasaṅkhatasantāpavipariṇāmalakkhaṇato ca yathābhūtaṃ ariyamaggapaññāya nappajānāti. Avasesapaccayasamāgame udayati uppajjati, svāyaṃ samudayo saṃsārapavattibhāvenāti āha **‘‘pavattidukkhapabhāvikā’’**ti, dukkhasaccassa uppādikāti attho. Yāthāvasarasalakkhaṇatoti yathābhūtaṃ anupacchedakaraṇarasato ceva sampiṇḍananidānasaṃyogapalibodhalakkhaṇato ca.

質問において詳細な確認の筋道によって「智慧なき者、智慧なき者」と反復して説かれたため、法の将軍(サーリプッタ)は問われた意味に答えるにあたり、問いの形式に合わせて「正知しない、正知しない」と反復してまさに語った。そこにおいて「イティ」の語は理由の意味であることを示して、「正知しないがゆえに、智慧なき者と**言われる**」と言った。「これなる苦」とは、この五取蘊の苦聖諦である。そしてそれは破壊されること、感受すること、知覚すること、形成すること、識別することという要約してこれだけのものである。これ以上のいかなる法も苦聖諦と呼ばれるものはないと、如実な自相の働きから、また生起の順序から、そして逼迫相・有為相・熱悩相・変壊相から如実に聖道の智慧によって正知しないのである。残りの諸縁の集まりにおいて生じ、現れ出る、この集起は輪廻の生起の状態によるものであるとして**「生起の苦をもたらすもの」**と言った。苦諦を生じさせるものという意味である。「如実な自相の働きから」とは、如実な絶え間なく生じさせる働きから、そして堆積・因縁・結合・障礙の相から、である。

Idaṃ nāma ṭhānaṃ patvāti idaṃ nāma appavattikāraṇaṃ āgamma. Nirujjhatīti anuppādanirodhavasena nirujjhati, tenāha **‘‘ubhinnaṃ appavattī’’**ti. Yāthāvasarasalakkhaṇatoti yathābhūtaṃ accutirasato ceva nissaraṇavivekāsaṅkhatāmatalakkhaṇato ca. Ayaṃ paṭipadāti ayaṃ sammādiṭṭhiādikā samodhānalakkhaṇā paṭipajjati etāyāti paṭipadā. Dukkhanirodhaṃ gacchatīti dukkhanirodhaṃ nibbānaṃ sacchikiriyābhisamayavasena gacchati ārabbha pavattati. Yāthāvasarasalakkhaṇatoti yathābhūtaṃ kilesappahānakaraṇasarasato ceva niyyānahetudassanādhipateyyalakkhaṇato ca nappajānāti. Anantaravāreti dutiyavāre. Imināva nayenāti ‘‘idaṃ dukkhaṃ, ettakaṃ dukkha’’ntiādinā paṭhamavāre vuttanayena. Tattha hi duppaññaniddesattā pajānanapaṭikkhepavasena desanā āgatā, idha paññavantaniddesattā pajānanavasenāti ayameva viseso. Etthāti dutiyavāre.

「某々の境地に至って」とは、某々の非生起の原因に基づいて。「滅する」とは不生起の滅によって滅するのであり、それゆえに**「両者の非生起」**と言った。「如実な自相の働きから」とは、如実な不死の境地という働きから、そして出離・遠離・無為・不死の相から、である。「これなる実践」とは、この正見などを初めとする統合を特徴とし、これによって実践されるから実践(道諦)である。「苦滅へと赴く」とは、苦滅である涅槃を現証・体得することによって赴き、それを対象として機能する。「如実な自相の働きから」とは、如実な煩悩を捨断するという固有の働きから、そして出離・因・正見・増上の相から正知しないのである。「直後の節において」とは第二の節において。「この筋道によってまさに」とは、「これなる苦、これだけの苦」などと第一の節で説かれた筋道によって、である。そこでは実に智慧なき者の解説であるため正知の否定によって説法がなされ、ここでは有智の者の解説であるため正知することによってなされたという、まさにこの差異がある。「ここにおいて」とは第二の節において、である。

Savanatoti kammaṭṭhānassa savanato uggaṇhāti. Ganthasavanamukhena hi tadatthassa uggahaṇaṃ. Ṭhapetvā taṇhantiādi tassa uggahaṇākāranidassanaṃ. Abhinivisatīti vipassanābhinivesavasena abhinivisati vipassanākammaṭṭhānaṃ paṭṭhapeti. No vivaṭṭeti vivaṭṭe abhiniveso na hoti avisayattā. Ayanti catusaccakammaṭṭhāniko.

「聞くことによって」とは、業処(瞑想の対象)を聞くことによって学び取るという意味である。実に経典の教えを聞くことを通じてその意味を学び取るのである。「渇愛を除いて」などは、その学び取る様相を示すものである。「傾倒する」とは、毘鉢舎那(観相)への傾倒によって傾倒し、毘鉢舎那の業処を確立することである。「還滅(解脱)においてはそうではない」とは、還滅においては傾倒がないという意味である。それは領域外だからである。「この人は」とは、四聖諦を業処とする人のことである。

Pañcakkhandhāti pañcupādānakkhandhā. Khandhavasena vipassanābhinivesassa cakkhādivasena vedanādivasena ca satipi anekavidhatte sukaraṃ suviññeyyanti catudhātumukhena taṃ dassetuṃ **‘‘dhātukammaṭṭhānavasena otaritvā’’**ti āha. Rūpanti vavatthapetīti ruppanaṭṭhena rūpanti asaṅkarato paricchindati. Tadārammaṇāti taṃ rūpaṃ ārammaṇaṃ katvā pavattanakā. Nāmanti vedanādicatukkaṃ namanaṭṭhena nāmanti vavatthāpeti. Yamakatālakkhandhaṃ bhindanto viya yamakaṃ bhinditvā ‘‘arūpaṃ, rūpañcā’’ti dveva ime dhammā, na ettha koci attā vā attaniyaṃ vāti nāmarūpaṃ vavatthapeti paricchindati pariggaṇhāti. Ettāvatā diṭṭhivisuddhi dassitā. Taṃ panetaṃ nāmarūpaṃ na ahetukaṃ. Yasmā sabbaṃ sabbattha sabbadā ca natthi, tasmā sahetukaṃ. Kīdisena hetunā? Na issarādivisamahetunā. Yaṃ panettha vattabbaṃ, taṃ visuddhimaggasaṃvaṇṇanāyaṃ (visuddhi. mahāṭī. 2.447) vuttanayena gahetabbaṃ. Sahetukattā eva sapaccayaṃ. Avijjādayoti avijjātaṇhupādānakammāhārādayo. Evanti ‘‘taṃ paneta’’ntiādinā vuttappakārena avijjādike paccaye ceva rūpavedanādike paccayuppannadhamme ca vavatthapetvā paricchinditvā pariggahetvā. Vuttañhetaṃ ‘‘avijjāsamudayā rūpasamudayo, taṇhāsamudayā rūpasamudayo’’ti (paṭi. ma. 1.50). Ettāvatā kaṅkhāvitaraṇavisuddhiṃ dasseti.

「五蘊」とは、五取蘊のことである。蘊の観点からの毘鉢舎那への傾倒は、眼などや受などの観点から多様であるとしても、四大の門を通じて示す方が容易で理解しやすいため、「四大業処の観点から入って」と述べたのである。「色を確定する」とは、破壊されるという意味において色であると、混同することなく識別することである。「それを対象とするもの」とは、その色を対象として生じる諸心である。「名」とは、受などの四つの名蘊を、対象に傾くという意味において名であると確定することである。双子の多羅樹の幹を裂くように、二つを裂いて「無色(名)と色」というこれら二つの法のみが存在し、ここにはいかなる我も我所も存在しないと、名色を確定し、識別し、把握するのである。ここまでに「見清浄」が示された。しかし、その名色は無因ではない。すべてがあらゆる場所で常に存在するわけではないから、有因である。どのような原因によるのか。自在神などの不平等な原因によるのではない。ここで説かれるべきことは、『清浄道論釈』に説かれた方法に従って把握されるべきである。有因であるがゆえに有縁(条件を持つもの)である。「無明など」とは、無明・渇愛・取・業・食などのことである。「このように」とは、「その名色」などと説かれた方法によって、無明などの縁と、色・受などの縁によって生じた諸法とを確定し、識別し、把握して、ということである。実に「無明の生起によって色の生起があり、渇愛の生起によって色の生起がある」と説かれている通りである。ここまでに「度疑清浄」が示されている。

Hutvāti hetupaccayasamavāye uppajjitvā. Abhāvaṭṭhenāti tadanantarameva vinassanaṭṭhena. Aniccāti aniccā addhuvā. Aniccalakkhaṇaṃ āropetīti tesu pañcasu khandhesu aniccatāsaṅkhātaṃ sāmaññalakkhaṇaṃ niropeti. Tatoti aniccalakkhaṇāropanato paraṃ, tato vā aniccabhāvato. Udayabbayappaṭipīḷanākārenāti uppādanirodhehi pati pati abhikkhaṇaṃ pīḷanākārena hetunā dukkhā aniṭṭhā, dukkhamā vā. Avasavattanākārenāti kassaci vasena avasavattanākārena. Anattāti na sayaṃ attā, nāpi nesaṃ koci attā atthīti anattāti. Tilakkhaṇaṃ āropetvāti evaṃ aniccassa dukkhabhāvato, dukkhassa ca anattabhāvato khandhapañcake tividhampi sāmaññalakkhaṇaṃ āropetvā. Sammasantoti udayabbayañāṇuppattiyā uppanne vipassanupakkilese pahāya maggāmaggaṃ vavatthapetvā udayabbayañāṇādivipassanāpaṭipāṭiyā saṅkhāre sammasanto gotrabhuñāṇānantaraṃ lokuttaramaggaṃ pāpuṇāti.

「生じて」とは、因と縁の集まりによって生じてということである。「非存在の意味によって」とは、その直後に滅尽するという意味によってである。「無常」とは、常ならず、堅固ならざるものである。「無常相を置く」とは、これら五蘊において、無常性と呼ばれる共通相(共相)を確立することである。「それから」とは、無常相を置いた後から、あるいはその無常性からという意味である。「生滅に圧迫される様相によって」とは、生起と消滅によって度々絶え間なく圧迫されるという様相の理由により、苦であり、不快であり、耐え難いということである。「意のままにならない様相によって」とは、誰の意のままにもならない様相によってである。「無我」とは、自らが我ではなく、またそれらにいかなる我も存在しないから、無我である。「三相を置いて」とは、このように無常なるものは苦であり、苦なるものは無我であることから、五蘊において三種の共通相を置いて、ということである。「思惟しつつ」とは、生滅の知が生じることによって生じた毘鉢舎那の随煩悩を捨て、道と非道を確定し、生滅随観知などの毘鉢舎那の階梯に従って諸行を思惟しつつ、種姓知の直後に四出世間道に到達するということである。

Ekapaṭivedhenāti ekeneva ñāṇena paṭivijjhanena. Paṭivedho paṭighātābhāvena visaye nissaṅgacārasaṅkhātaṃ nibbijjhanaṃ. Abhisamayo avirajjhitvā adhigamanasaṅkhāto avabodho. ‘‘Idaṃ dukkhaṃ, ettaṃ dukkhaṃ, na ito bhiyyo’’ti paricchinditvā yāthāvato jānanameva vuttanayena paṭivedhoti pariññāpaṭivedho, idañca yathā ñāṇe pavatte pacchā dukkhassa sarūpādiparicchede sammoho na hoti, tathā pavattiṃ gahetvā vuttaṃ, na pana maggañāṇassa ‘‘idaṃ dukkha’’ntiādinā pavattanato. Tenāha **‘‘tasmiñcassa khaṇe’’**tiādi. Pahīnassa puna apahātabbatāya pakaṭṭhaṃ hānaṃ cajanaṃ samucchindanaṃ pahānaṃ, pahānameva vuttanayena paṭivedhoti pahānapaṭivedho. Ayampi yena kilesena appahīyamānena maggabhāvanāya na bhavitabbaṃ, asati ca maggabhāvanāya yo uppajjeyya, tassa padaghātaṃ karontassa anuppattidhammataṃ āpādentassa ñāṇassa tathāpavattiyā paṭighātābhāvena nissaṅgacāraṃ upādāya evaṃ vutto. Sacchikiriyā paccakkhakaraṇaṃ anussavākāraparivitakkādike muñcitvāva sarūpato ārammaṇakaraṇaṃ ‘‘idaṃ ta’’nti yāthāvasabhāvato gahaṇaṃ, sā eva vuttanayena paṭivedhoti sacchikiriyāpaṭivedho. Ayampi yassa āvaraṇassa asamucchindanato ñāṇaṃ nirodhaṃ ālambituṃ na sakkoti, tassa samucchindanato taṃ sarūpato vibhāvitameva pavattatīti evaṃ vutto.

「一つの通達によって」とは、唯一の知によって通達することによってである。「通達」とは、障害がないことによって対象において執着なく活動することと呼ばれる通達である。「現観」とは、過たずに到達することと呼ばれる覚知である。「これが苦である。これだけが苦である。これ以上のものではない」と識別して、ありのままに知ることこそが、上述の方法における通達であり、これが「遍知現観(知る通達)」である。そしてこれは、知が生じた後に苦の自相などの識別において惑いが生じないように、その現起を捉えて説かれたものであり、道知が「これが苦である」などとして活動するからではない。それゆえに「そしてその刹那において」などと説いたのである。断ぜられたものが再び断ぜられる必要がないため、勝れたる放棄・断滅が「断(断捨)」であり、断捨そのものが上述の方法における通達であり、これが「断通達」である。これもまた、断ぜられないならば道の修習が生じ得ず、道の修習がないならば生じるであろう煩悩に対し、その足場を打ち砕き、不生なる法性をもたらす知が、そのように活動することによって障害なく執着なく活動することに基づき、このように説かれたのである。「作証」とは現証することであり、伝聞や思弁などを離れて自相から対象とし、「これこそがそれである」とありのままの本性から把握することである。それこそが上述の方法における通達であり、「作証通達」である。これもまた、その覆いが断滅されないことによって知が滅(涅槃)を対象とすることができないところ、その覆いが断滅されることによって滅が自相として明らかに現起するがゆえに、このように説かれたのである。

Bhāvanā uppādanā vaḍḍhanā ca. Tattha paṭhamamagge uppādanaṭṭhena bhāvanā, dutiyādīsu vaḍḍhanaṭṭhena, ubhayatthāpi vā ubhayaṃ veditabbaṃ. Paṭhamamaggopi hi yathārahaṃ vuṭṭhānagāminiyaṃ pavattaṃ parijānanādiṃ vaḍḍhento pavattoti tatthāpi vaḍḍhanaṭṭhena bhāvanāti sakkā viññātuṃ. Dutiyādīsupi appahīnakilesappahānato puggalantarasādhanato ca uppādanaṭṭhena bhāvanā, sā eva vuttanayena paṭivedhoti bhāvanāpaṭivedho. Ayampi yathā ñāṇe pavatte pacchā maggadhammānaṃ sarūpaparicchede sammoho na hoti, tathā pavattiṃ gahetvā vutto. Tiṭṭhantu tāva yathādhigatā maggadhammā, yathāpavattesu phalesupi ayaṃ yathādhigatasaccadhammesu viya vigatasammohova hoti sekkhopi samāno. Tena vuttaṃ – ‘‘diṭṭhadhammo pattadhammo viditadhammo pariyogāḷhadhammo’’ti (mahāva. 27). Yathā cassa dhammā tāsaṃ jotitā yathādhigatasaccadhammāvalambiniyo maggavīthito parato maggaphalapahīnāvasiṭṭhakilesanibbānānaṃ paccavekkhaṇā pavattanti. Dukkhasaccadhammā hi sakkāyadiṭṭhiādayo. Ayañca atthavaṇṇanā pariññābhisamayenātiādīsupi vibhāvetabbā. Kiccatoti asammohato. Nirodhaṃ ārammaṇatoti ettha ‘‘ārammaṇatopī’’ti pi-saddo luttaniddiṭṭho daṭṭhabbo nirodhepi asammohapaṭivedhassa labbhanato. Etassāti catusaccakammaṭṭhānikassa puggalassa.

「修(修習)」とは、生起させること、および増大させることである。そこにおいて、初道(預流道)においては生起させるという意味において修習であり、第二道(一来道)などにおいては増大させるという意味においてであるが、双方において双方が知られるべきである。初道もまた、適切に出起へと向かう心において生じた遍知などを増大させつつ生起するものであるから、そこにおいても増大させるという意味での修習と知ることができる。第二道などにおいても、未断の煩悩を断ずることや別の聖者の境地を達成することから、生起させるという意味での修習であり、それこそが上述の方法における通達であって、「修通達」である。これもまた、知が生じた後に道法の自相の識別において惑いが生じないように、その現起を捉えて説かれたものである。獲得された道法はひとまず置くとしても、現起した果法においても、この人は獲得された諦法においてのように惑いが離れた者となる(有学であってもそうである)。それゆえに「法を見、法を得、法を知り、法に通達した」と説かれたのである。そして彼において諸法が照らされたように、獲得された諦法を拠り所とする道心の過程の後に、道・果・断ぜられた煩悩・残余の煩悩・涅槃の省察が生じる。実に苦諦の法とは有身見などである。そしてこの注釈的解釈は、「遍知現観によって」などの箇所においても明らかにされるべきである。「作用の観点から」とは、無迷(惑いがないこと)の観点からである。「滅を対象とする観点から」において、滅においても無迷の通達が得られることから、「対象の観点からも」という「〜も(api)」の語が省略されて示されていると見なされるべきである。「この人の」とは、四聖諦を業処とする人のことである。

Paññavāti niddiṭṭho nippariyāyato paññavantatāya idha adhippetattā. Pāḷitoti dhammato. Atthatoti aṭṭhakathāto. Anusandhitoti tasmiṃ tasmiṃ sutte taṃtaṃanusandhito. Pubbāparatoti pubbenāparassa saṃsandanato. Saṅgītikkamena cettha pubbāparatā veditabbā. Taṃtaṃdesanāyameva vā pubbabhāgena aparabhāgassa saṃsandanato. Viññāṇacaritoti vijānanacarito vīmaṃsanacarito tepiṭake buddhavacane vicāraṇācāravepullato. Paññavāti na vattabbo maggenāgatāya paññāya abhāvato. Ajja ajjeva arahattanti ittaraṃ atikhippamevāti adhippāyo. Paññavāpakkhaṃ bhajati sekkhapariyāyasabbhāvato. Sutte pana paṭivedhova kathito saccābhisamayavasena āgatattā.

「智慧ある者」と示されたのは、無方便(直接的・究極的)に智慧を具足していることがここで意図されているからである。「聖典(パーリ)の観点から」とは、法(テキスト)の観点から。「義(アッタ)の観点から」とは、義注(アッタカタ)の観点から。「文脈の観点から」とは、それぞれの経におけるそれぞれの文脈の観点から。「前後関係の観点から」とは、前と後を突き合わせることによって。そしてここにおいて前後関係とは結集の順序によって知られるべきである。あるいはそれぞれの説法自体において、前段と後段を照合することによる。「識の行(観察の傾向)を持つ者」とは、識別する行・思察する行を持つ者であり、三蔵の仏語における思慮と考察が広大であることによる。「智慧ある者」とは呼ばれない。道によって得られた智慧が存在しないからである。「今日のうちに、今日こそ阿羅漢に」とは、極めて速やかに、短時間のうちにという意味である。有学の段階が存在することから「智慧ある者の側に属する」のである。しかし経においては、諦の現観の観点から説かれたものであるため、通達のみが語られたのである。

Esāti anantare vutto ariyapuggalo. Kammakārakacittanti bhāvanākammassa pavattanakacittaṃ. Sukhavedanampi vijānātīti ko vediyati, kassa vedanā, kiṃkāraṇā vedanā, sopi kassaci abhāvaggahaṇamukhena sukhaṃ vedanaṃ sabhāvato samudayato atthaṅgamato assādato ādīnavato ca yathābhūtaṃ paricchindanto pariggaṇhanto sukhaṃ vedanaṃ vijānāti nāma. Sesapadadvayepi eseva nayo. Yasmā **‘‘satipaṭṭhāne’’**ti iminā satipaṭṭhānakathaṃ upalakkheti. Tāya hi tadattho veditabbo, tasmā taṃsaṃvaṇṇanāyampi (dī. ni. ṭī. 2.380) vuttanayena tassattho veditabbo. Kāmañcetaṃ viññāṇaṃ vedanāto aññampi ārammaṇaṃ vijānāti, anantaravāre pana rūpamukhena vipassanābhinivesassa dassitattā idha arūpamukhena dassetuṃ ‘‘sukhantipi vijānātī’’tiādinā niddiṭṭhaṃ, pucchantassa vā ajjhāsayavasena.

「これ」とは、直前に述べられた聖者のことである。「行を作す心」とは、修習の行を現起させる心のことである。「楽受をも知る」とは、誰が感じるのか、誰の受なのか、いかなる原因による受なのか、それすらも誰の非存在の把握を通じて、楽受を本性から、集起から、滅尽から、味わいから、過患から、ありのままに識別し把握しつつ、楽受を知るということである。残りの二句(苦受・不苦不楽受)においてもこの方法による。「念処において」という言葉によって念処の教説を暗示している。実にそれによってその意味が知られるべきであるから、その釈(『長部注疏』)に説かれた方法によってもその意味が知られるべきである。そしてこの識は受以外の対象をも知るのであるが、直前の段落において色の門を通じて毘鉢舎那への傾倒が示されたため、ここでは無色(名)の門を通じて示すために「楽をも知る」などと示されたのである。あるいは質問者の意向に応じたものである。

Saṃsaṭṭhāti sampayuttā. Tenāha **‘‘ekuppādādilakkhaṇena saṃyogaṭṭhenā’’**ti. Visaṃsaṭṭhāti vippayuttā. Bhinditvāti aññabhūmikassa aññabhūmidassaneneva vināsetvā, saṃbhinditvā vā. Saṃsaṭṭhabhāvaṃ pucchatīti taṃcittuppādapariyāpannānaṃ pañcaviññāṇānaṃ saṃsaṭṭhabhāvaṃ pucchati. Yadi evaṃ kathaṃ pucchāya avasaro visaṃsaṭṭhabhāvāsaṅkāya eva abhāvato? Na, cittuppādantaragatānaṃ maggapaññāmaggaviññāṇānaṃ vipassanāpaññāvipassanāviññāṇānañca vomissakasaṃsaṭṭhabhāvassa labbhamānattā. Vinivaṭṭetvāti aññamaññato vivecetvā. Nānākaraṇaṃ dassetuṃ na sakkāti idaṃ kevalaṃ saṃsaṭṭhabhāvameva sandhāya vuttaṃ, na sabhāvabhedaṃ, sabhāvabhedato pana nānākaraṇaṃ nesaṃ pākaṭameva. Tenāha **‘‘ārammaṇato vā vatthuto vā uppādato vā nirodhato vā’’**ti. Idāni tameva sabhāvabhedaṃ visayabhedena suṭṭhu pākaṭaṃ katvā dassetuṃ **‘‘tesaṃ tesaṃ panā’’**tiādi vuttaṃ. Visayoti pavattiṭṭhānaṃ issariyabhūmi, yena cittapaññānaṃ tattha tattha pubbaṅgamatā vuccati.

「相応した」とは、結合したという意味である。それゆえ「倶生などの特徴による相応という意味によって」と述べた。「不相応な」とは、離れているという意味である。「分別して」とは、異なる境地(界)のものを異なる境地として示すことによって識別し、あるいは区分して、ということである。「相応の状態を問う」とは、その心生起に包摂される五識(あるいは諸識)の相応の状態を問うのである。もしそうであるなら、不相応であるという疑い自体が存在しないのに、なぜ質問の余地があるのか。そうではない。心生起の内部にある道智と道識、毘鉢舎那の智と毘鉢舎那の識の混合した相応の状態が見出されるからである。「分離して」とは、互いから区別してということである。「差異を示すことはできない」とは、もっぱら相応の状態そのものを意図して説かれたものであり、自性の差異を否定したものではない。自性の差異から見ればそれらの差異は実に明白である。それゆえに「対象から、あるいは依処から、あるいは生起から、あるいは消滅から」と述べたのである。今、まさにその自性の差異を領域の差異によって極めて明確に示そうとして、「それぞれの…」などが説かれた。「領域」とは、活動の場所・主導権の境地であり、それによってそれらの場所における心や智慧の主導性が語られるのである。

Kāmañca vipassanāpi paññāvaseneva kiccakārī, maggopi viññāṇasahitova, na kevalo, yathā pana lokiyadhammesu cittaṃ padhānaṃ tatthassa dhorayhabhāvena pavattisabbhāvato. Tathā hi taṃ ‘‘chadvārādhipati rājā’’ti (dha. pa. aṭṭha. 2.181) vuccati, evaṃ lokuttaradhammesu paññā padhānā paṭipakkhavidhamanassa visesato tadadhīnattā. Tathā hi maggadhamme sammādiṭṭhi eva paṭhamaṃ gahitā. Ayañca nesaṃ visayavasena pavattibhedo, tathā ca paññāpanavidhi na kevalaṃ thereheva dassito, apica kho bhagavatāpi dassitoti vibhāvento **‘‘sammāsambuddhopī’’**tiādimāha. Yattha paññā na labbhati, tattha cittavasena pucchane vattabbameva natthi yathā ‘‘kiṃcitto tvaṃ bhikkhū’’tiādīsu (pārā. 132-135). Yattha pana paññā labbhati, tatthāpi cittavasena jotanā hoti yathā – ‘‘ajjhattameva cittaṃ saṇṭhapeti sannisādeti ekodiṃ karoti samādahati (saṃ. ni. 4.332), yasmiṃ samaye kāmāvacaraṃ kusalaṃ cittaṃ uppannaṃ hotī’’tiādīsu (dha. sa. 1). Aṭṭhakathāyaṃ pana lokiyadhammesu cittavasena, lokuttaradhammesu paññāvasena codanaṃ byatirekamukhena dassetuṃ **‘‘katamā te bhikkhu paññā adhigatā’’**tiādi vuttaṃ. Yebhuyyavasena cetaṃ vuttanti daṭṭhabbaṃ. Tathā hi katthaci lokiyadhammā paññāsīsenapi niddisīyanti – ‘‘paṭhamassa jhānassa lābhino kāmasahagatā saññāmanasikārā samudācaranti hānabhāginī paññā’’tiādīsu (paṭi. ma. 1.1). Saññāsīsenapi – ‘‘uddhumātakasaññāti vā sesarūpārūpasaññāti vā ime dhammā ekatthā, udāhu nānatthā’’tiādīsu (pārā. aṭṭha. 45.padabhājanīyavaṇṇanā). Tathā lokuttaradhammāpi katthaci cittasīsena niddisīyanti – ‘‘yasmiṃ samaye lokuttaraṃ cittaṃ bhāvetī’’ti (dha. sa. 277), tathā phassādisīsenapi – ‘‘yasmiṃ samaye lokuttaraṃ phassaṃ bhāveti, vedanaṃ saññaṃ cetanaṃ bhāvetī’’tiādīsu (dha. sa. 277).

毘鉢舎那もまた智慧の力によって作用をなし、道もまた識を伴うものであり単独ではないが、世間法においては心が主導的である。そこでは心が牽引車として活動するからである。実に心は「六門の主なる王」と呼ばれる通りである。同様に出世間法においては智慧が主導的である。対治すべき煩悩を打ち破ることは特に智慧に依存しているからである。実に道の法においては正見が最初に挙げられている。そしてこれら(心と智慧)の領域による活動の違い、およびその開示の方法は、長老たちによって示されたのみならず、世尊によっても示されたことを明らかにするために、「正等覚者もまた…」などと述べたのである。智慧が見出されないところでは、心に基づいて問うことのみが語られる。「比丘よ、そなたはいかなる心であったか」などの通りである。しかし智慧が見出されるところでも、心に基づいて示されることがある。「内において心を安定させ、静まらせ、専一にし、定に入らせる」「欲界の善心が生起している時」などの通りである。しかし義注において、世間法においては心に基づき、出世間法においては智慧に基づく詰問を差異の門を通じて示すために、「比丘よ、そなたはいかなる智慧を獲得したか」などと説かれたのである。そしてこれは大部分の傾向に基づいて説かれたものと見なされるべきである。実に、ある箇所では世間法も智慧を筆頭として示される。「初禅を得た者に、欲を伴う想と作意が現行するなら、それは退分(衰退に属する)の智慧である」などの通りである。想を筆頭としても示される。「膨張相の想、あるいは残りの色・無色の想というこれら法は、一つの意味であるか、あるいは異なる意味であるか」などの通りである。同様に出世間法もある箇所では心を筆頭として示される。「出世間の心を修習する時」などの通りである。また触などを筆頭としても示される。「出世間の触を修習し、受・想・思を修習する時」などの通りである。

Catūsu sotāpattiyaṅgesūti sappurisasevanā, saddhammassavanaṃ, yonisomanasikāro, dhammānudhammapaṭipattīti imesu catūsu sotāpattimaggassa kāraṇesu. Kāmaṃ cetesu satiādayopi dhammā icchitabbāva tehi vinā tesaṃ asambhavato, tathāpi cettha saddhā visesato kiccakārīti veditabbā. Saddo eva hi sappurise payirupāsati, saddhammaṃ suṇāti, yoniso ca manasi karoti, ariyamaggassa ca anudhammaṃ paṭipajjati, tasmā vuttaṃ **‘‘ettha saddhindriyaṃ daṭṭhabba’’**nti. Iminā nayena sesindriyesupi attho daṭṭhabbo. Catūsu sammappadhānesūti catubbidhasammappadhānabhāvanāya. Catūsu satipaṭṭhānesūtiādīsupi eseva nayo. Ettha ca sotāpattiyaṅgesu saddhā viya sammappadhānabhāvanāya vīriyaṃ viya ca satipaṭṭhānabhāvanāya – ‘‘satimā vineyya loke abhijjhādomanassa’’nti (dī. ni. 2.373; ma. ni. 1.106; saṃ. ni. 5.384, 407) vacanato pubbabhāge kiccato sati adhikā icchitabbā. Evaṃ samādhikammikassa samādhi, ‘‘ariyasaccabhāvanā paññābhāvanā’’ti katvā tattha paññā pubbabhāge adhikā icchitabbāti pākaṭoyamattho, adhigamakkhaṇe pana samādhipaññānaṃ viya sabbesampi indriyānaṃ saddhādīnaṃ samarasatāva icchitabbā. Tathā hi **‘‘ettha saddhindriya’’**ntiādinā tattha tattha etthaggahaṇaṃ kataṃ. Evanti yaṃ ṭhānaṃ, taṃ indriyasamattādiṃ paccāmasati. Savisayasmiṃyevāti attano attano visaye eva. Lokiyalokuttarā dhammā kathitāti lokiyadhammā lokuttaradhammā ca tena tena pavattivisesena kathitā. Idaṃ vuttaṃ hoti – saddhāpañcamesu indriyesu saha pavattamānesu tattha tattha visaye saddhādīnaṃ kiccādhikatāya tassa tasseva daṭṭhabbatā vuttā, na sabbesaṃ. Evaṃ aññepi lokiyalokuttarā dhammā yathāsakaṃ visaye pavattivisesavasena bodhitāti.

「四つの預流支において」とは、善友への親近、正法の聴聞、如理作意、法随法行という、これら預流道の四つの原因においてである。確かにこれらにおいて念などの法も当然望まれるべきである。それらなしにはこれらが成り立たないからである。それでもここにおいては信が特に作用をなすものと知られるべきである。信ある者こそが善友に近づき、正法を聞き、如理に作意し、聖道に随う法を実践するからであり、それゆえに「ここにおいて信根が見られるべきである」と説かれた。この方法によって残りの諸根においても意味が知られるべきである。「四正勤において」とは、四種の正勤の修習においてである。「四念処において」などの箇所でも同様である。そしてここにおいて、預流支における信のように、四正勤の修習における精進のように、四念処の修習においては「念を保ち、世における貪欲と憂いを除いて」という教説から、前段階において作用の点から念が多く望まれるべきである。このように、止(サマタ)の実践者には定が、「四聖諦の修習は智慧の修習である」とすることからそこでは智慧が、前段階において多く望まれるべきであるということは明白である。しかし証得の刹那においては、定と智慧のように、信などのすべての根の等しい働き(同等の味わい)こそが望まれるべきである。それゆえに「ここにおいて信根を」などとそれぞれの箇所において「ここにおいて」という把握がなされたのである。「このように」とは、その場所、諸根の平等性などを指している。「自らの領域においてのみ」とは、それぞれの領域においてのみということである。「世間・出世間の諸法が説かれた」とは、世間法と出世間法がそれぞれの活動の特質によって説かれたということである。言わんとすることは、信を第五とする五根が共に活動している時、それぞれの領域において信などの作用が優勢であることに応じて、それぞれの根が見られるべきであると説かれたのであり、すべてが一律ではないということである。このように他の世間・出世間の諸法も、それぞれの領域における活動の特質に基づいて教示されたのである。

Idāni saddhādīnaṃ indriyānaṃ tattha tattha atirekakiccataṃ upamāya vibhāvetuṃ **‘‘yathā hī’’**tiādi vuttaṃ. Tatridaṃ upamāsaṃsandanaṃ rājapañcamā sahāyā viya vimuttiparipācakāni pañcindriyāni. Nesaṃ kīḷanatthaṃ ekajjhaṃ vīthiotaraṇaṃ viya indriyānaṃ ekajjhaṃ vipassanāvīthiotaraṇaṃ. Sahāyesu paṭhamādīnaṃ yathāsakageheva vicāraṇā viya saddhādīnaṃ sotāpattiaṅgādīni patvā pubbaṅgamatā. Sahāyesu itaresaṃ tattha tattha tuṇhībhāvo viya sesindriyānaṃ tattha tattha tadanvayatā. Tassa pubbaṅgamabhūtassa indriyassa kiccānugatatā. Na hi tadā tesaṃ sasambhārapathavīādīsu āpādīnaṃ viya kiccaṃ pākaṭaṃ hoti, saddhādīnaṃyeva pana kiccaṃ vibhūtaṃ hutvā tiṭṭhati puretaraṃ tathāpaccayehi cittasantānassa abhisaṅkhatattā. Ettha ca vipassanākammikassa bhāvanā visesato paññuttarāti dassanatthaṃ rājānaṃ nidassanaṃ katvā paññindriyaṃ vuttaṃ. Itītiādi yathādhigatassa atthassa nigamanaṃ.

今、信などの諸根がそれぞれの場所で卓越した作用を持つことを譬喩によって明らかにするために、「実に〜のように」などと述べた。ここにおいて譬喩との照合は次の通りである。王を第五とする友人のように、解脱を成熟させる五根がある。彼らが遊ぶために一堂に会して通りに出るように、諸根が一堂に会して毘鉢舎那の道へと入る。友人たちの中で最初の一人が自らの家において指図するように、信などが預流支などに至って主導的となる。友人たちの中で他の者たちがそれぞれの場所で沈黙しているように、残りの諸根がそれぞれの場所でそれに従うこと。その主導的となった根の作用に従うことである。実にその時、構成要素である地などにおける水などのように、残りの根の作用は顕著ではないが、信などの作用のみが明確となって現れる。前もってそのような縁によって心相続(心の流れ)が形成されているからである。そしてここにおいて毘鉢舎那の実践者の修習は特に智慧が優位であることを示すために、王を例として慧根が説かれたのである。「このように」などは、得られた意味の結びである。

Maggaviññāṇampīti ariyamaggasahagataṃ apacayagāmiviññāṇampi. Tatheva taṃ vijānātīti saccadhammaṃ ‘‘idaṃ dukkha’’ntiādinā nayeneva vijānāti ekacittuppādapariyāpannattā maggānukūlattā ca. Yaṃ vijānātīti ettha vijānanapajānanāni vipassanācittuppādapariyāpannāni adhippetāni, na ‘‘yaṃ pajānātī’’ti ettha viya maggacittuppādapariyāpannāti āha **‘‘yaṃ saṅkhāragata’’**ntiādi. Tathevāti ‘‘anicca’’ntiādinā nayena. Ekacittuppādapariyāpannattā vipassanābhāvato ca samānapaccayehi saha pavattikatā ekuppādatā, tato eva ekajjhaṃ saheva nirujjhanaṃ ekanirodhatā, ekaṃyeva vatthuṃ nissāya pavatti ekavatthukatā, ekaṃyeva ārammaṇaṃ ārabbha pavatti ekārammaṇatā. Hetumhi cetaṃ karaṇavacanaṃ. Tena ekuppādāditāya saṃsaṭṭhabhāvaṃ sādheti. Anavasesapariyādānañcetaṃ, ito tīhipi sampayuttalakkhaṇaṃ hotiyeva.

「道識をも」とは、聖道に伴う減損(輪廻の解体)へと赴く識をも、ということである。「同様にそれを知る」とは、諦法を「これが苦である」などの方法によってまさに知るということである。同一の心生起に包摂され、道に随順するからである。「知るものを」において、知ること(識)と了知すること(慧)は毘鉢舎那の心生起に包摂されるものが意図されており、「了知するものを」におけるような道の心生起に包摂されるものではないため、「諸行に属するものを」などと述べた。「同様に」とは、「無常である」などの方法によってである。同一の心生起に包摂され毘鉢舎那の状態であることから、等しい縁によって共に活動することが「倶生(共に生じること)」であり、それゆえに一堂に会して共に滅することが「倶滅(共に滅すること)」であり、同一の依処に依って活動することが「同一依処」であり、同一の対象を機縁として活動することが「同一所縁」である。そしてこれは理由を表す具格(手段)の言葉である。それによって倶生などであることによる「相応の状態」を論証する。そしてこれは余すところのない網羅であり、この三つによっても相応の特徴となるのである。

Maggapaññaṃ sandhāya vuttaṃ, sā hi ekantato bhāvetabbā, na pariññeyyā, paññāya pana bhāvetabbatāya taṃsampayuttadhammāpi taggatikāva hontīti āha **‘‘taṃsampayuttaṃ panā’’**tiādi. Kiñcāpi vipassanāpaññāya bhāvanāvasena pavattanato taṃsampayuttaviññāṇampi tatheva pavattati, tassa pana pariññeyyabhāvānativattanato pariññeyyatā vuttā. Tenevāha – ‘‘yampi taṃ dhammaṭṭhitiñāṇaṃ, tampi khayadhammaṃ vayadhammaṃ virāgadhammaṃ nirodhadhamma’’nti.

道慧について意図して説かれた。道慧はひたすら修習されるべきものであり、遍知されるべきものではない。しかし智慧が修習されるべきものであることから、それに相応する諸法も同じ傾向を持つため、「それに相応するものは…」などと述べた。たとえ毘鉢舎那の智慧が修習の観点から活動することによって、それに相応する識も同様に活動するとしても、その識が遍知されるべき性質を超えるものではないことから、「遍知されるべきもの」と説かれたのである。それゆえに「その法住智もまた、尽きる性質のものであり、衰える性質のものであり、離貪の性質のものであり、滅する性質のものである」と説かれたのである。

450. Evaṃ santepīti vedanāti evaṃ sāmaññaggahaṇe satipi. Tebhūmikasammasanacāravedanāvāti bhūmittayapariyāpannā, tato eva sammasanañāṇassa gocarabhūtā vedanā eva adhippetā sabrahmacārīnaṃ upakārāvahabhāvena desanāya āraddhattā. Tathā hi vuttaṃ ‘‘caturoghanittharaṇatthikāna’’ntiādi. Esa nayo paññāyapi. Idha sukhādisaddā tadārammaṇavisayāti imamatthaṃ suttena sādhetuṃ **‘‘rūpañca hī’’**tiādi vuttaṃ. Ekantadukkhanti ekanteneva aniṭṭhaṃ, tato eva dukkhamatāya dukkhaṃ. Ārammaṇakaraṇavasena dukkhavedanāya anupatitaṃ, otiṇṇañcāti dukkhānupatitaṃ, dukkhāvakkantaṃ. Sukhena anavakkantaṃ abhavissāti yojanā. Nayidanti ettha idanti nipātamattaṃ. Sārajjeyyunti sārāgaṃ uppādeyyuṃ. Sukhanti sabhāvato ca iṭṭhaṃ. Sārāgā saṃyujjantīti bahalarāgahetu yathārahaṃ dasahipi saṃyojanehi saṃyujjanti. Saṃyogā saṃkilissantīti tathā saṃyuttatāya taṇhāsaṃkilesādivasena saṃkilissanti, vibādhīyanti upatāpīyanti cāti attho. Ārammaṇanti iṭṭhaṃ, aniṭṭhaṃ, majjhattañca ārammaṇaṃ yathākkamaṃ sukhaṃ, dukkhaṃ, adukkhamasukhanti kathitaṃ. Evaṃ avisesena pañcapi khandhe sukhādiārammaṇabhāvena dassetvā idāni vedanā eva sukhādiārammaṇabhāvena dassetuṃ **‘‘apicā’’**tiādi vuttaṃ. Pākatikapacurajanavasenāyaṃ kathitāti katvā **‘‘purimaṃ sukhaṃ vedanaṃ ārammaṇaṃ katvā’’**ti vuttaṃ. Visesalābhī pana anāgatampi sukhaṃ vedanaṃ ārammaṇaṃ karoteva. Vuttametaṃ satipaṭṭhānavaṇṇanāyaṃ (dī. ni. aṭṭha. 2.380; ma. ni. aṭṭha. 1.79). Vedanāya hi ārammaṇaṃ vediyantiyā taṃsamaṅgīpuggalo vedetīti vohāramattaṃ hoti.

450. 「そうであるとしても」とは、受という一般的な把握があるとしても、ということである。「三界の思惟において活動する受」とは、三界に包摂され、それゆえに思惟智の対象となった受のみが意図されている。同朋たる修行者たちに利益をもたらすものとして説法が始められたからである。実に「四つの激流を乗り越えようと欲する者たちに」などと説かれている通りである。この方法は智慧においても同様である。ここにおいて楽などの語は、その対象となる領域を指しているというこの意味を経によって論証するために、「実に色とは…」などと述べた。「まったくの苦」とは、まったく不快なものであり、それゆえに耐え難いことによる苦である。対象とすることを通じて苦受に随伴され、苦受に圧倒されていることから、「苦の随伴せるもの、苦の圧倒せるもの」である。「楽に圧倒されていないものであったならば」と結合される。「これは〜ない」において、「これ(idaṃ)」は単なる不変化詞である。「染着するであろう」とは、強烈な貪着を生じさせるであろうということである。「楽」とは、本性として快いものである。「貪着によって結びつけられる」とは、強烈な貪愛を原因として、状況に応じて十の結び(結)によっても結びつけられるということである。「結びつきによって汚される」とは、そのように結びついていることによって渇愛の汚れなどの観点から汚され、妨げられ、苦しめられるという意味である。「対象」とは、快い対象、不快な対象、中立な対象が、順に楽、苦、不苦不楽と説かれている。このように無差別に五蘊をも楽などの対象であると示し、今や受そのものが楽などの対象であることを示すために、「さらにまた…」などが説かれた。「通常の一般の人々の観点からこれが説かれた」として、「以前の楽受を対象として」と述べた。しかし殊勝なる境地を得た者は、未来の楽受をも対象とする。このことは念処の解説において説かれている。実に受が対象を感じている時、それを具足した人が感じているというのは世俗の表現にすぎないからである。

Sabbasaññāyāti sabbāyapi catubhūmikasaññāya. Sabbatthakasaññāyāti sabbasmiṃ cittuppāde pavattanakasaññāya. Vatthe vāti -saddena vaṇṇadhātuṃ saṅgaṇhāti. Pāpentoti bhāvanaṃ upacāraṃ vā appanaṃ vā upanento. Uppajjanakasaññāpīti ‘‘nīlaṃ rūpaṃ, rūpārammaṇaṃ nīla’’nti uppajjanakasaññāpi.

「すべての想において」とは、すべての四界(欲界・色界・無色界・出世間)の想においてである。「あらゆる場所に存在する想において」とは、すべての心生起において活動する想においてである。「布において、あるいは」の「あるいは(vā)」の語によって色界(色彩の要素)を包摂する。「導く者は」とは、修習・近行あるいは安止へと導く者である。「生起する想もまた」とは、「青い色である、青という色を対象とする」と生起する想もまた、ということである。

Asabbasaṅgāhikattāti sabbesaṃ vedanāsaññāviññāṇānaṃ asaṅgahitattā. Takkagatanti suttakantanakatakkamhi, suttavattanakatakkamhi vā veṭhanavasena ṭhitaṃ. Parivaṭṭakādigatanti suttaveṭhanaparivaṭṭakādigataṃ. Vissaṭṭhattāva na gahitā, yadaggena paññā viññāṇena saddhiṃ sampayogaṃ labhāpitā, tadaggena vedanāsaññāhipi sampayogaṃ labhāpitā evāti. Tadeva sañjānāti saṃsaṭṭhabhāvato.

「すべてを包摂するものではないことから」とは、すべての受・想・識を包摂していないことからである。「紡ぎ車にあるもの」とは、糸を紡ぐ車の軸、あるいは糸を巻く車の軸に巻き取られて留まっているもののことである。「巻き枠などにあるもの」とは、糸を巻く枠などにあるもののことである。放擲された(解かれた)がゆえに把握されなかったのであり、智慧が識と共に相応を得させられた時以来、受や想とも相応を得させられたのである。相応しているがゆえにまさにそれを想知するのである。

Sañjānāti vijānātīti ettha ‘‘pajānātī’’ti padaṃ ānetvā vattabbaṃ pajānanavasenapi visesassa vakkhamānattā. Jānātīti ayaṃ saddo ca laddatoyevettha aviseso, atthato pana visesato icchitabbo. Anekatthattā hi dhātūnaṃ tena ākhyātapadena nāmapadena ca vuttamatthaṃ upasaggapadaṃ jotakabhāvena viseseti, na vācakabhāvena. Tenāha **‘‘tassapi jānanatthe viseso veditabbo’’**ti. Etena saññāviññāṇapaññāpadāni antogadhajānanatthe yathāsakaṃ visiṭṭhavisaye ca niṭṭhānīti dasseti. Tenevāha **‘‘saññā hī’’**tiādi. Sañjānanamattamevāti ettha matta-saddena visesanivattiatthena vijānanapajānanākāre nivatteti, eva-saddena kadācipi imissā te visesā natthevāti avadhāreti. Tenevāha **‘‘aniccaṃ dukkha’’**ntiādi. Tattha viññāṇakiccampi kātuṃ asakkontī saññā kuto paññākiccaṃ kareyyāti **‘‘lakkhaṇapaṭivedhaṃ pāpetuṃ na sakkoti’’**cceva vuttaṃ, na vuttaṃ ‘‘maggapātubhāva’’nti.

「想知し、識別する」において、「了知する」という語を補って説かれるべきである。了知すること(慧)による差異も後述されるからである。そして「知る」という語は、語根としては無差別であるが、意味においては差異として理解されるべきである。実に語根は多様な意味を持つため、その動詞や名詞によって語られた意味を、接頭辞が意味を明示することによって際立たせるのであり、単なる表現としてではない。それゆえに「その知るという意味における差異が知られるべきである」と述べた。これによって想・識・慧の諸語は、知るという意味を内に含みつつ、それぞれ卓越した領域において完成されることを示している。それゆえに「想は実に…」などと述べた。「単に想知するだけである」において、「単に(matta)」という語によって差異を排除する意味で識別や了知の様相を排除し、「まさに(eva)」という語によって、この想にはいかなる時もそれらの殊勝な働きは存在しないと限定している。それゆえに「無常、苦…」などと述べた。そこにおいて識の作用すらなし得ない想が、どうして智慧の作用をなし得ようか、ゆえに「相の通達に至らせることはできない」とだけ説き、「道の出現」とは説かなかったのである。

Ārammaṇe pavattamānaṃ viññāṇaṃ na saññā viya nīlapītādimattasañjānanavasena pavattati, atha kho tattha aññampi tādisaṃ visesaṃ jānantameva pavattatīti āha **‘‘viññāṇa’’**ntiādi. Kathaṃ pana viññāṇaṃ lakkhaṇapaṭivedhaṃ pāpetīti? Paññāya dassitamaggena. Lakkhaṇārammaṇikavipassanāya hi anekavāraṃ lakkhaṇāni paṭivijjhitvā pavattamānāya paguṇabhāvato paricayavasena ñāṇavippayuttacittenapi vipassanā sambhavati, yathā taṃ paguṇassa ganthassa ajjhayane tattha tattha gatāpi vārā na upadhārīyanti. ‘‘Lakkhaṇapaṭivedha’’nti ca lakkhaṇānaṃ ārammaṇakaraṇamattaṃ sandhāya vuttaṃ, na paṭivijjhanaṃ. Ussakkitvāti udayabbayañāṇādiñāṇapaṭipāṭiyā ārabhitvā. Maggapātubhāvaṃ pāpetuṃ na sakkoti asambodhasabhāvattā. Ārammaṇampi sañjānāti avabujjhanavaseneva, na sañjānanamattena. Tathā lakkhaṇapaṭivedhampi pāpeti, na vijānanamattena, attano pana aññāsādhāraṇena ānubhāvena ussakkitvā maggapātubhāvampi pāpeti.

対象において活動する識は、想のように青や黄色などを単に想知することによって活動するのではなく、そこにおいて他のそのような特質をも知りつつ活動するのである、ということを示すために「識は…」などと述べた。ではどのようにして識が相の通達に至らせるのか。智慧によって示された道によってである。実に相を対象とする毘鉢舎那が何度も諸相を通達して活動し熟達することによって、慣れの力により智慧と不相応な心によっても毘鉢舎那が可能となる。あたかも熟達した経典の読誦において、あちこちに進んだ節々が意識されないようなものである。「相の通達」とは、諸相を単に対象とすることを指して説かれたのであり、真の通達ではない。「奮起して」とは、生滅随観知などの知の階梯によって始めて、ということである。「道の出現に至らせることはできない」とは、完全なる覚知(菩提)を本性とするものではないからである。対象をも想知するが、それは覚知を通じてであって単なる想知によるのではない。同様に相の通達にも至らせるが、単なる識別によるのではなく、自らの他と共通しない威力によって奮起し、道の出現にまで至らせるのである。

Idāni yathāvuttamatthaṃ upamāya vibhāvetuṃ **‘‘yathā hī’’**tiādi vuttaṃ. Tattha ajātabuddhīti asañjātabyavahārabuddhi. Upabhogaparibhoganti upabhogaparibhogārahaṃ, upabhogaparibhogavatthūnaṃ paṭilābhayogganti attho. Kūṭoti kahāpaṇapatirūpako tambakaṃsādimayo. Chekoti mahāsāro. Karatoti aḍḍhasāro. Saṇhoti mudujātiko samasāro. Iti-saddo ādiattho. Tena pādasāraparopādasāraaḍḍhasārādīnaṃ saṅgaho. Jānanto ca pana naṃ rūpaṃ disvāpi…pe… asukācariyena katotipi jānāti tathā heraññikaganthassa suggahitattā. Evamevantiādi upamāsaṃsandanaṃ. Saññāvibhāgaṃ akatvā piṇḍavaseneva ārammaṇassa gahaṇato dārakassa kahāpaṇadassanasadisā vuttā. Tathā hi sā yathāupaṭṭhitavisayapadaṭṭhānā vuccati. Viññāṇaṃ ārammaṇe ekaccavisesaggahaṇasamatthabhāvato gāmikapurisakahāpaṇadassanasadisaṃ vuttaṃ. Paññā pana ārammaṇe anavasesāvabodhato heraññikakahāpaṇadassanasadisā vuttā. Nesanti saññāviññāṇapaññānaṃ. Visesoti sabhāvaviseso. Duppaṭivijjho pakatipaññāya. Imināva nesaṃ accantasukhumataṃ dasseti.

今、述べられた意味を譬喩によって明らかにするために、「実に〜のように」などと説かれた。そこにおいて「分別知が生じていない」とは、世俗の商取引の分別知が生じていない子どものことである。「享楽と使用に値する」とは、享楽と使用に適しており、享楽と使用の品々を獲得するにふさわしいという意味である。「偽の貨幣」とは、銅や青銅などで作られた貨幣のイミテーションである。「良質の貨幣」とは、価値の高いもの。「並の貨幣」とは、半分の価値のもの。「薄い貨幣」とは、純度が低く額面通りの価値のないもの。「〜など」という語は、それに類するものを意味する。それによって四分の一の価値、八分の一の価値、半分の価値などの貨幣が包摂される。そして貨幣を知る両替商は、その形を見て…(中略)…誰某の職人によって作られたということまでも知る。そのように貨幣鑑定の技術書をよく学んでいるからである。「このように」などは譬喩との照合である。想の区分をなさず塊としてのみ対象を把握することから、子どもの貨幣の見方に似ていると説かれた。実に想は、現前した対象を直接の足場(近因)とすると説かれるからである。識は対象における特定の特徴を把握する能力があることから、村人の貨幣の見方に似ていると説かれた。しかし智慧は対象において余すところなく覚知することから、両替商の貨幣の見方に似ていると説かれた。「それらの」とは、想・識・慧のことである。「差異」とは、自性の差異である。通常の智慧(凡夫の知)では通達し難い。これによってそれらの極めて微細な性質を示している。

Ekārammaṇe pavattamānānanti ekasmiṃyeva ārammaṇe pavattamānānaṃ. Tena abhinnavisayābhinnakālatādassanena avinibbhogavuttitaṃ vibhāvento duppaṭivijjhataṃyeva ulliṅgeti. Vavatthānanti asaṅkarato ṭhapanaṃ. Ayaṃ phasso…pe… idaṃ cittanti nidassanamattametaṃ. Iti-saddo vā ādiattho. Tena sesadhammānampi saṅgaho daṭṭhabbo. Idanti arūpīnaṃ dhammānaṃ vavatthānakaraṇaṃ. Tatoti yaṃ vuttaṃ tilatelādiuddharaṇaṃ, tato. Yadi dukkarataraṃ, kathaṃ tanti āha **‘‘bhagavā panā’’**tiādi.

「同一の対象において活動するものの」とは、唯一の対象において活動するものの、ということである。それによって領域が同一であり時間も同一であることを示すことで、不可分に共存するあり方を明らかにし、通達し難いことそのものを指し示している。「確定」とは、混同することなく確立することである。「これが触であり…(中略)…これが心である」とは単なる例示である。あるいは「〜など」という語はそれに類するものを意味する。それによって残りの諸法の包摂も知られるべきである。「これ」とは、無色の諸法(名法)を確定することである。「それよりも」とは、説かれた胡麻から油を取り出すことなどよりも、ということである。もしそれがより困難であるなら、どうしてそれが可能かを示すために「しかし世尊は…」などと述べた。

451. Nissaṭenāti nikkhantena ataṃsambandhena. Pariccattenāti pariccattasadisena paccayabhāvānupagamanena paccayuppannasambandhābhāvato. Nissakkavacanaṃ apādānadīpanato. Karaṇavacanaṃ kattuatthadīpanato. Kāmāvacaramanoviññāṇaṃ na niyamato ‘‘idaṃ nāma pañcadvārikāsambandhā’’ti sakkā vattuṃ, rūpāvacaraviññāṇaṃ pana na tathāti, tasseva pañcahi indriyehi nissaṭatā vuttāti āha **‘‘rūpāvacaracatutthajjhānacittenā’’**ti. Catutthajjhānaggahaṇaṃ tasseva arūpāvacarassa padaṭṭhānabhāvato. Parisuddhenāti visesato asaṃkilesikattāva. Tañhi vigatūpakkilesatāya visesato parisuddhaṃ. Tenāha **‘‘nirupakkilesenā’’**ti. Jānitabbaṃ neyyaṃ, saparasantānesu idaṃ atisayaṃ jānitabbato bujjhitabbaṃ bodhetabbaṃ vāti attho. Neyyanti vā attano santāne netabbaṃ pavattetabbanti attho. Tenāha **‘‘nibbattetuṃ sakkā hoti. Ettha ṭhitassa hi sā ijjhatī’’**ti. Pāṭiyekkanti visuṃ visuṃ, anupadadhammavasenāti attho. Abhinivesābhāvatoti vipassanābhinivesassa asambhavato. Kalāpato nayatoti kalāpasammasanasaṅkhātato nayavipassanato. Bhikkhunoti sāvakassa. Sāvakasseva hi tatra anupadadhammavipassanā na sambhavati, na satthu. Tenāha **‘‘tasmā’’**tiādi. Vissajjesīti tappaṭibaddhachandarāgappahānena pajahati.

451. 「離脱した(出離した)」とは、脱出した、それとの結びつきがないということである。「放棄された」とは、放棄されたに等しく、縁となる状態に至らないことによって、縁生のものとの結びつきがないことからである。奪格の言葉は起点を示すためであり、具格の言葉は能動者の意味を示すためである。欲界の意意識は、必ずしも「これは五門との関連がない」と決定して言うことはできないが、色界の識はそうではないため、まさにそれ(色界の識)が五根から離脱していると説かれたのであり、それゆえに「色界第四禅の心によって」と述べたのである。第四禅を挙げたのは、まさにそれが無色界の近因(足場)となるからである。「清浄な」とは、特に汚れがないからである。実にそれは随煩悩を離れていることによって特に清浄なのである。それゆえに「随煩悩なき」と述べた。「知るべきこと」とは所知(知られるべき対象)であり、自己および他者の相続においてこの卓越したものが知られるべきであることから、覚知されるべき、あるいは悟られるべきという意味である。あるいは「知るべきこと」とは、自己の相続において導かれるべき、活動させられるべきという意味である。それゆえに「生じさせることが可能となる。実にここに留まる者にそれは成就する」と述べた。「個別に」とは、別々に、一法ごとの観点からという意味である。「傾倒がないことから」とは、毘鉢舎那の傾倒が不可能であることからである。「一括して思惟する方法から」とは、聚括思惟と呼ばれる方法による毘鉢舎那からである。「比丘にとって」とは、声聞(弟子)にとってということである。実に声聞にのみそこ(無色定の最高位)において一法ごとの毘鉢舎那は不可能なのであり、仏陀(師)にとってはそうではない。それゆえに「それゆえに…」などと述べた。「放棄した」とは、それに関連する欲貪を断ずることによって捨てるということである。

Hatthagatattāti hatthagatasadisattā, āsannattāti attho. Yadā hi lokanātho bodhimūle aparājitapallaṅke nisinno – ‘‘kicchaṃ vatāyaṃ loko āpanno’’tiādinā (dī. ni. 2.57; saṃ. ni. 2.4, 10) paṭiccasamuppādamukhena vipassanābhinivesaṃ katvā adhigantabbasabbaññutaññāṇānurūpaṃ chattiṃsakoṭisahassamukhena mahāvajirañāṇaṃ nāma mahābodhisattasammasanaṃ pavattento anekākārasamāpattidhammasammasane anupadameva nevasaññānāsaññāyatanadhammepi aparāparaṃ sammasi. Tenāha **‘‘bhagavā panā’’**tiādi. Paropaññāsāti dvepaññāsaṃ. Kāmañcettha keci dhammā vedanādayo phassapañcamakādīsu vuttāpi jhānakoṭṭhāsādīsupi saṅgahitā, taṃtaṃpaccayabhāvavisiṭṭhena pana atthavisesena dhammantarāni viya hontīti evaṃ vuttaṃ. Tathā hi lokuttaracittuppādesu navindriyatā vuccati. Aṅguddhārenāti tattha labbhamānajhānaṅgabojjhaṅgamaggaṅgānaṃ uddharaṇena. Aṅga-saddo vā koṭṭhāsapariyāyo, tasmā aṅguddhārenāti phassapañcamakādikoṭṭhāsānaṃ samuddharaṇena. Yāvatā saññāsamāpattiyoti yattakā saññāsahagatā jhānasamāpattiyo, tāhi vuṭṭhāya adhigandhabbattā tāvatikā veneyyānaṃ aññāpaṭivedho arahattasamadhigamo.

「手に入ったがゆえに」とは、手に入ったに等しいがゆえに、極めて間近であるという意味である。実に世尊が菩提樹の根元の不敗の座に座し、「実にこの世は困難に陥った」などによって縁起の門を通じて毘鉢舎那への傾倒をなし、獲得されるべき一切知智にふさわしい、三億六千万の門を持つ「大金剛智」と呼ばれる大菩薩の思惟を巡らせた時、多様な様相の等至の諸法を思惟する中で、一法ごとに非想非非想処の諸法をも次々と思惟した。それゆえに「しかし世尊は…」などと述べた。「五十以上」とは、五十二のことである。確かにここにおいて受などの幾つかの法は、触を第五とする諸法などにおいて説かれ、禅支の構成要素などにも包摂されているが、それぞれの縁の状態によって際立った意味の差異により、別々の法であるかのようになるため、このように説かれたのである。実に、出世間の心生起においては九根が存在すると説かれる通りである。「支を取り出すことによって」とは、そこに見出される禅支・覚支・道支を取り出すことによってである。あるいは「支(aṅga)」という語は部分の同義語であるから、「支を取り出すことによって」とは、触を第五とする部分などを取り出すことによってである。「想を伴う等至がある限りにおいて」とは、想を伴う禅定の等至がどれほどあろうとも、それらから出定して獲得されるべきものであるがゆえに、教化されるべき者たちの無漏の通達(智の通達)である阿羅漢果の達成もそれだけあるということである。

Dassanapariṇāyakaṭṭhenāti andhassa yaṭṭhikoṭiṃ gahetvā maggadesako viya dhammānaṃ yathāsabhāvadassanasaṅkhātena pariṇāyakabhāvena. Yathā vā so tassa cakkhubhūto, evaṃ sattānaṃ paññā. Tenāha **‘‘cakkhubhūtāya paññāyā’’**ti. Samādhisampayuttā paññā samādhipaññā. Samādhi cettha āruppasamādhīti vadanti, sammasanapayogo pana koci jhānasamādhīti yuttaṃ. Vipassanābhūtā paññā vipassanāpaññā. Samādhipaññāya antosamāpattiyaṃ kiccato pajānāti, ‘‘samāhito yathābhūtaṃ pajānātī’’ti pana vacanato (saṃ. ni. 3.5; 4.99-100; 3.5.1071-1072; netti. 40; mi. pa. 2.1.14) asammohato pajānāti. Tattha kiccatoti gocarajjhatte ārammaṇakaraṇakiccato. Asammohatoti sampayuttadhammesu sammohavidhamanato yathā pītipaṭisaṃvedanādīsu. Kimatthiyāti kiṃpayojanāti āha **‘‘ko etissā attho’’**ti. Abhiññeyye dhammeti yāthāvasarasalakkhaṇāvabodhavasena abhimukhaṃ ñeyye jānitabbe khandhāyatanādidhamme. Abhijānātīti salakkhaṇato sāmaññalakkhaṇato ca abhimukhaṃ avirajjhanavasena jānāti. Etena ñātapariññābyāpāramāha. Pariññeyyeti aniccātipi dukkhātipi anattātipi paricchijja jānitabbe. Parijānātīti ‘‘yaṃ kiñci rūpaṃ…pe… aniccaṃ khayaṭṭhenā’’tiādinā (paṭi. ma. 1.48) paricchinditvā jānāti. Iminā tīraṇapariññābyāpāramāha. Pahātabbe dhammeti niccasaññādike yāva arahattamaggavajjhā sabbe pāpadhamme. Pajahati pakaṭṭhato jahati, vikkhambheti ceva samucchindati cāti attho. Iminā pahānapariññābyāpāramāha. Sā panesā paññā lokiyāpi tippakārā lokuttarāpi, tāsaṃ visesaṃ sayamevāha. Kiccatoti abhijānanavasena ārammaṇakiccato. Asammohatoti yathābalaṃ abhiññeyyādīsu sammohavidhamanato. Nibbānamārammaṇaṃ katvā pavattanato abhiññeyyādīsu vigatasammohato evāti āha **‘‘lokuttarā asammohato’’**ti.

「観察の先導者という意味によって」とは、盲人の杖の先を握って案内する者のように、諸法のありのままの性質を見るという観察の先導者であることによってである。あるいは、彼が盲人にとっての眼となるように、生きとし生けるものにとって智慧が眼となる。それゆえに「眼となった智慧によって」と述べた。定に相応する智慧が「定慧」である。そしてここでの定とは無色定であると言われるが、思惟の実践においては何らかの禅定の定とするのが妥当である。毘鉢舎那となった智慧が「毘鉢舎那慧(観慧)」である。定慧によって等至の内部において作用の観点から了知し、「定に入った者はありのままに了知する」という教説から、無迷(迷いなきこと)の観点から了知する。そこにおいて「作用の観点から」とは、境地の内部で対象とする作用の観点からである。「無迷の観点から」とは、喜を感受することなどにおいてのように、相応する諸法において惑いを打ち破る観点からである。「何のために」とは、いかなる目的のためにかということであり、ゆえに「これの目的は何か」と述べた。「知られるべき法において」とは、ありのままの本質と特徴の覚知を通じて、面前において知られるべき、把握されるべき蘊・処などの法においてである。「知る(証知する)」とは、自相から、また共通相から、面前において過つことなく知るということである。これによって「知名遍知(知ることによる遍知)」の働きを説いた。「遍知されるべきにおいて」とは、無常としても、苦としても、無我としても識別して知られるべきものにおいてである。「遍知する(了知する)」とは、「いかなる色であれ…(中略)…滅尽するという意味において無常である」などによって識別して知ることである。これによって「審察遍知(量ることによる遍知)」の働きを説いた。「断ぜられるべき法において」とは、常想などから阿羅漢道によって断ぜられるべきすべての悪法に至るまでにおいてである。「断ずる」とは、勝れて捨てることであり、制伏し、また断滅するという意味である。これによって「断遍知(捨てることによる遍知)」の働きを説いた。そしてこの智慧は世間的なものも三種あり、出世間的なものもあるが、それらの差異を自ら述べている。「作用の観点から」とは、証知することを通じて対象とする作用の観点からである。「無迷の観点から」とは、能力に応じて知られるべき法などにおいて惑いを打ち破る観点からである。涅槃を対象として活動することから、知られるべき法などにおいて惑いが離れていることそのものであるため、「出世間的なものは無迷の観点から」と述べたのである。

452. Kammassakatā sammādiṭṭhi ca vaṭṭanissitattā idha nādhippetā, vivaṭṭakathā hesāti vuttaṃ **‘‘vipassanāsammādiṭṭhiyā ca maggasammādiṭṭhiyā cā’’**ti. Parato ghosoti parato satthuto, sāvakato vā labbhamāno dhammaghoso. Tenāha **‘‘sappāyadhammassavana’’**nti. Tañhi sammādiṭṭhiyā paccayo bhavituṃ sakkoti, na yo koci paratoghoso. Upāyamanasikāroti yena nāmarūpapariggahādi sijjhati, tādiso pathamanasikāro. Ayañca sammādiṭṭhiyā paccayoti niyamapakkhiko, na sabbasaṃgāhakoti dassento **‘‘paccekabuddhānaṃ panā’’**tiādimāha. Yonisomanasikārasmiṃyevāti avadhāraṇena paratoghosameva nivatteti, na padaṭṭhānavisesaṃ paṭiyogīnivattanatthattā eva-saddassa.

452. 業所有見(業を自らの所有とする正見)は輪廻に依存しているためここでは意図されていない。これは解脱(輪廻を離れること)の教説であるから、「毘鉢舎那の正見と、道の正見とによって」と述べた。「他者の声」とは、他者である師から、あるいは弟子から得られる法の声(教えの響き)のことである。それゆえに「適した正法の聴聞」と述べた。実にそれが正見の縁となり得るのであり、いかなる他者の声でもよいわけではないからである。「方便作意(巧みな作意)」とは、それによって名色の把握などが成就するような、正しい道筋の作意のことである。そしてこれが正見の縁であるということは限定的な側面であり、すべてを包摂するものではないことを示すために、「しかし辟支仏たちにとっては…」などを述べた。「如理作意においてのみ」という限定によって他者の声のみを排除しているのであり、根底となる原因の特質を排除しているのではない。「まさに(eva)」の語は対立するものを排除する意味を持つからである。

Laddhupakārāti (a. ni. ṭī. 3.5.25) yathārahaṃ nissayādivasena laddhapaccayā. Vipassanāsammādiṭṭhiyā anuggahitabhāvena gahitattā maggasammādiṭṭhīsu ca arahattamaggasammādiṭṭhi, anantarassa hi vidhi, paṭisedho vā. Aggaphalasamādhimhi tapparikkhāradhammesuyeva ca kevalo cetopariyāyo niruḷhoti sammādiṭṭhīti arahattamaggasammādiṭṭhi. Phalakkhaṇeti anantare kālantare cāti duvidhe phalakkhaṇe. Paṭippassaddhivasena sabbasaṃkilesehi ceto vimuccati etāyāti cetovimutti, aggaphalapaññaṃ ṭhapetvā avasesā phaladhammā. Tenāha ‘‘cetovimutti phalaṃ assāti. **Cetovimuttisaṅkhātaṃ phalaṃ ānisaṃso’’**ti, sabbasaṃkilesehi cetaso vimuccanasaṅkhātaṃ paṭippassambhanasaññitaṃ pahānaṃ phalaṃ ānisaṃso cāti yojanā. Idha ca cetovimutti-saddena pahānamattaṃ gahitaṃ, pubbe pahāyakadhammā, aññathā phaladhammā eva ānisaṃsoti gayhamāne punavacanaṃ niratthakaṃ siyā.

「恩恵(助力)を得た」とは、状況に応じて依止などの観点から縁を得たということである。毘鉢舎那の正見によって助長された状態として把握されていることから、道の正見の中でも阿羅漢道の正見である。直前のものに対する規則、あるいは排除であるからである。最高果の定において、およびその資具となる諸法においてのみ、純粋な心(心解脱)の熟達が正見に確立されていることから、阿羅漢道の正見である。「果の刹那において」とは、直後の刹那と、その後の別の時という二種の果の刹那においてである。寂静の観点によってすべての煩悩から心が解脱するがゆえに「心解脱」であり、最高果の智慧を除いた残りの果法のことである。それゆえに「心解脱が彼の果である。心解脱と呼ばれる果がその功徳である」と述べた。すべての煩悩から心が解脱することと呼ばれる、寂静と名づけられた断捨が果であり、また功徳であると結びつけられる。そしてここにおいて「心解脱」という語によって断捨そのものが把握されており、前段階において断ぜしめる諸法が把握されている。そうでなく果法そのものが功徳であると解釈されるなら、重ねて語ることが無意味となってしまうからである。

Paññāvimuttiphalānisaṃsāti etthāpi evameva attho veditabbo. Sammāvācākammantājīvā sīlasabhāvattā visesato samādhissa upakārā, tathā sammāsaṅkappo jhānasabhāvattā. Tathā hi so ‘‘appanā’’ti niddiṭṭho. Sammāsatisammāvāyāmā pana samādhipakkhiyā evāti āha **‘‘avasesā dhammā cetovimuttīti veditabbā’’**ti. Catupārisuddhisīlanti ariyamaggādhigamassa padaṭṭhānabhūtaṃ catupārisuddhisīlaṃ. Sutādīsupi eseva nayo. Attano cittappavattiārocanavasena saha kathanaṃ saṃkathā, saṃkathāva sākacchā. Idha pana kammaṭṭhānapaṭibaddhāti āha **‘‘kammaṭṭhāne…pe… kathā’’**ti. Tattha kammaṭṭhānassa ekavāraṃ vīthiyā appaṭipajjanaṃ khalanaṃ, anekavāraṃ pakkhalanaṃ, tadubhayassa vicchedanīkathā khalanapakkhalanachedanakathā. Pūrentassāti vivaṭṭanissitaṃ katvā pālentassa brūhentassa ca. Suṇantassāti ‘‘yathāuggahitakammaṭṭhānaṃ phātiṃ gamissatī’’ti evaṃ suṇantassa. Teneva hi **‘‘sappāyadhammassavana’’**nti vuttaṃ. Kammaṃ karontassāti bhāvanānuyogakammaṃ karontassa.

「慧解脱という果の功徳」においても、まったく同様に意味が理解されるべきである。正語・正業・正命は戒の性質を持つがゆえに特に定(サマーディ)の助けとなり、同様に正思惟は禅の性質を持つがゆえに助けとなる。実にそれは「安止」として示されているからである。正念と正精進はまさに定の側に属するものであるため、「残りの法が心解脱であると知られるべきである」と述べた。「四種清浄戒」とは、聖道の獲得の足場(近因)となる四種清浄戒のことである。多聞などにおいてもこの方法による。自らの心のありようを知らせつつ共に語ることを「談話」といい、談話こそが「議論(対話)」である。しかしここでは業処に関連するものであるため、「業処において…(中略)…談話」と述べた。そこにおいて、業処が一回正しい軌道に乗らないことを「逸脱」といい、何度も逸脱することを「頻繁な逸脱」といい、それら双方を断ち切る談話を「逸脱と頻繁な逸脱を断ち切る談話」という。「満たす者にとって」とは、解脱に結びつくものとして保持し増大させる者にとって、ということである。「聞く者にとって」とは、「学び取った業処がいっそう増進するであろう」とこのように聞く者にとって、ということである。それゆえに実に「適した正法の聴聞」と述べた。「作業をなす者にとって」とは、修習専修の作業をなす者にとって、ということである。

Pañcasupi ṭhānesu anta-saddo hetuatthajotano daṭṭhabbo. Evañhi **‘‘yathā hī’’**tiādinā vuccamānā ambupamā ca yujjeyya. Udakakoṭṭhakanti ālavālaṃ. Thiraṃ katvā bandhatīti asithilaṃ daḷhaṃ nātimahantaṃ nātikhuddakaṃ katvā yojeti. Thiraṃ karotīti udakasiñcanakāle tato tato vissaritvā udakassa anikkhamanatthaṃ ālavālaṃ thirataraṃ karoti. Sukkhadaṇḍakoti tasseva ambagacchakassa sukkho sākhāsīsako. Kipillikapuṭoti tambakipillikakuṭajaṃ. Khaṇittinti kudālaṃ. Koṭṭhakabandhanaṃ viya sīlaṃ sammādiṭṭhiyā vaḍḍhanupāyassa mūlabhāvato. Udakasiñcanaṃ viya dhammassavanaṃ bhāvanāya paribrūhanato. Mariyādāya thirabhāvakaraṇaṃ viya samatho yathāvuttabhāvanādhiṭṭhānāya sīlamariyādāya daḷhabhāvāpādanato. Samāhitassa hi sīlaṃ thirataraṃ hoti. Samīpe valliādīnaṃ haraṇaṃ viya kammaṭṭhāne khalanapakkhalanacchedanaṃ ijjhitabbabhāvanāya vibandhāpanayanato. Mūlakhaṇanaṃ viya sattannaṃ anupassanānaṃ bhāvanā tassā vibandhassa mūlakānaṃ taṇhāmānadiṭṭhīnaṃ palikhaṇanato. Ettha ca yasmā suparisuddhasīlassa kammaṭṭhānaṃ anuyuñjantassa sappāyadhammassavanaṃ icchitabbaṃ, tato yathāsute atthe sākacchāsamāpajjanaṃ, tato kammaṭṭhānavisodhanena samathanipphatti, tato samāhitassa āraddhavipassakassa vipassanāpāripūri. Paripuṇṇavipassano maggasammādiṭṭhiṃ paribrūhetīti evametesaṃ aṅgānaṃ paramparāya sammukhā ca anuggaṇhanato ayamānupubbī kathitāti veditabbaṃ.

五つの箇所すべてにおいて、現在分詞の語尾(anta)は原因の意味を示すものと見なされるべきである。このように解してこそ、「実に〜のように」などと述べられるマンゴーの譬喩も整合するからである。「水槽(囲い)」とは、木の根元の水溜めのことである。「堅固にして結ぶ」とは、緩みなくしっかりと、大きすぎず小さすぎず整えて結び合わせることである。「堅固にする」とは、水を注ぐ時にあちこちから水が漏れ出て逃げないように、水溜めの囲いをより堅固にすることである。「枯れ枝」とは、そのマンゴーの若木の枯れた枝先のことである。「蟻の巣」とは、赤蟻の巣のことである。「鍬(つるはし)」とは、土を掘る道具のことである。囲いを結ぶことのような戒は、正見を増大させる手立ての根本であるからである。水を注ぐことのような正法の聴聞は、修習を豊かに育てるからである。堤防を堅固にすることのような止(サマタ)は、上述の修習の基礎となる戒の堤防を強固にするからである。定に入った者の戒は実にいっそう堅固となる。近くの蔓草などを取り除くことのような業処における逸脱の遮断は、達成されるべき修習の障害を取り除くからである。根を掘り起こすことのような七種の随観の修習は、その障害の根本である渇愛・慢・悪見を根こそぎ掘り起こすからである。そしてここにおいて、極めて清浄な戒を持つ者が業処に専念する時、適した正法の聴聞が望まれるべきであり、次いで聞いた通りの意味について対話に入り、次いで業処を浄化することによって止が成就し、次いで定に入り毘鉢舎那を始めた者に毘鉢舎那の円満が生じる。毘鉢舎那を円満にした者が道の正見を増大させるのである。このようにこれら諸支が順次に、また直接に助長することから、この順序が説かれたと知られるべきである。

453. Idha kiṃ pucchatīti idha evaṃ arahattaphalaṃ pāpitāya desanāya ‘‘kati panāvuso, bhavā’’ti bhavaṃ pucchanto kīdisaṃ anusandhiṃ upādāya pucchatīti attho. Teneva hi **‘‘mūlameva gato anusandhī’’**ti vatvā adhippāyaṃ pakāsento **‘‘duppañño’’**tiādimāha. Duppaññoti hi idha appaṭividdhasacco adhippeto, na jaḷo eva. Kāmabhavotiādīsu kammopapattibhedato duvidhopi bhavo adhippetoti dassento **‘‘kāmabhavūpagaṃ kamma’’**ntiādimāha. Tattha yaṃ vattabbaṃ, taṃ visuddhimagge taṃsaṃvaṇṇanāyaṃ (visuddhi. 2.647; visuddhi. mahāṭī. 2.646-647) vuttanayena veditabbaṃ. Punabbhavassāti punappunaṃ aparāparaṃ bhavanato jāyanato punabbhavoti laddhanāmassa vaṭṭapabandhassa. Tenāha **‘‘idha vaṭṭaṃ pucchissāmī’’**ti. Abhinibbattīti bhavayonigatiādivasena nibbatti. Tahiṃ tahiṃ tasmiṃ tasmiṃ bhavādike. Abhinandanāti taṇhāabhinandanahetu. Gamanāgamanaṃ hotītiādinā bhavādīsu sattānaṃ aparāparaṃ cutipaṭisandhiyo dasseti. Khayanirodhenāti accantakhayasaṅkhātena anuppādanirodhena. Ubhayametaṃ na vattabbaṃ pahānābhisamayabhāvanābhisamayānaṃ accāsannakālattā. Vattabbaṃ taṃ hetuphaladhammūpacāravasena. Yathā hi padīpujjalanahetuko andhakāravigamo, evaṃ vijjuppādahetuko avijjānirodho, hetuphaladhammā ca samānakālāpi pubbāparakālā viya voharīyanti yathā – ‘‘cakkhuñca paṭicca rūpe ca uppajjati cakkhuviññāṇa’’nti (ma. ni. 1.204, 400; ma. ni. 3.420, 425, 426; saṃ. ni. 2.43-45; 2.4.60; kathā. 465, 467) paccayapaccayuppannakiriyā. Gamanaṃ upacchijjati idha kāmabhave parinibbānena. Āgamanaṃ upacchijjati tattha rūpārūpesu parinibbānena. Gamanāgamanaṃ upacchijjati sabbaso aparāparuppattiyā abhāvato.

453. 「ここで何を問うているのか」とは、このように阿羅漢果に至らせた説法において、「友よ、ところで有(存在)とは幾つあるのか」と有を問うにあたり、いかなる文脈に基づいて問うているのか、という意味である。それゆえに実に「文脈は根本そのものに至った」と言って、その意図を明らかにしつつ「智慧なき者…」などを述べた。「智慧なき者」とは、ここでは諦(四聖諦)を通達していない者が意図されているのであり、単なる愚者のことではない。「欲有」などにおいて、業と受生の区分によって二種の有が意図されていることを示すために、「欲有に赴く業…」などと述べた。そこにおいて説かれるべきことは、『清浄道論』のその解説に説かれた方法によって知られるべきである。「後有(再生物)の」とは、何度も次々と生じ生成することから後有という名を得た輪廻の連続のことである。それゆえに「ここで輪廻について問おう」と述べた。「再生(結生)」とは、存在(有)・胎生(子宮)・趣(迷いの世界)などの観点による生起のことである。「その場所その場所で」とは、それぞれの有などにおいてである。「歓喜」とは、渇愛による歓喜を原因とするもの。「往還(行き来)がある」などによって、有などにおける生きとし生けるものの次から次への死と再生を示している。「尽滅によって」とは、究極の滅尽と呼ばれる不生の滅によってである。「これら双方は説かれるべきではない」とは、断現観(断ずる現観)と修現観(修する現観)が極めて接近した時間であるからである。それは因果の法の仮設の観点から説かれるべきである。あたかも灯火がともることを原因として暗闇が消滅するように、明(知恵)の生起を原因として無明の滅があり、因果の法は同時であっても前後の時間であるかのように世俗で語られる。「眼を縁とし色を縁として眼識が生じる」という縁と縁生の働きの通りである。「行くことが断たれる」とは、ここ欲有における完全なる涅槃(般涅槃)によってである。「来ることが断たれる」とは、かの色有・無色有における完全なる涅槃によってである。「往還が断たれる」とは、あらゆる点において次々に生起することがなくなるからである。

454. Vivaṭṭakathāya parato jotitaṃ paṭhamaṃ jhānaṃ vivaṭṭaṃ patvā ṭhitassa ukkaṭṭhaniddesena ubhatobhāgavimuttassa nirodhasādhakaṃ vibhāvituṃ yuttanti āha **‘‘katamaṃ panāvusoti idha kiṃ pucchatī’’**tiādi. Tathā hi anantaraṃ nirodhasamāpajjanakena bhikkhunā jānitabbāni paṭhamassa jhānassa sampayogapahānaṅgāni pucchitāni. Aṅgavavatthānanti jhānaṅgavavatthānaṃ. Koṭṭhāsaparicchedoti tattha labbhamānaphassapañcamakādidhammakoṭṭhāsaparicchedo jānitabbo. Imasmiṃ jhāne ettakā dhammā saṃvijjanti, ettakā nirodhitāti jānitabbaṃ. Upakārānupakārāni aṅgānīti nirodhasamāpattiyā upakārāni ca anupakārāni ca aṅgāni. Nirodhasamāpattiyā hi soḷasahi ñāṇacariyāhi navahi samādhicariyāhi ca pattabbattā taṃtaṃñāṇassa samādhicariyāhi samatikkamitabbā dhammā anupakārakaṅgāni, samatikkamakā upakārakaṅgāni. Tesañhi vasena yathānupubbaṃ upasantupasantaoḷārikabhāvāya bhavaggasamāpattiyā saṅkhārāvasesasukhumataṃ pattā cittacetasikā yathāparicchinnaṃ kālaṃ nirujjhanti, appavattiṃ gacchanti. Tassāti nirodhassa. Anantarapaccayanti anantarapaccayasadisaṃ. Na hi nirodhassa koci dhammo anantarapaccayo nāma atthi. Yañhi tadā cittacetasikānaṃ tathā nirujjhanaṃ, taṃ yathāvuttapubbābhisaṅkhārahetukāya nevasaññānāsaññāyatanasamāpattiyā ahosīti sā tassa anantarapaccayo viya hotīti taṃ vuttaṃ. Cha samāpattiyoti suttantanayena vuttasuttantapiṭakasaṃvaṇṇanāti katvā. ‘‘Satta samāpattiyo’’ti pana vattabbaṃ, aññathā idaṃ ‘‘caturaṅgika’’nti na vattabbaṃ siyā. Nayaṃ vā dassetvāti ādiantadassanavasena nayadassanaṃ katvā.

454. 「出離の説」の後に説かれた初禅は、出離に達して留まる卓越した記述によって、倶分解脱者が滅尽定を成就することを解明するのに適している。それゆえに「『友よ、ではどちらですか』とは、ここで何を尋ねているのか」等と言われた。実に、直ちに滅尽定に入る比丘によって知られるべき初禅の相応支と断除支が尋ねられたからである。「諸支の決定」とは、禅支の決定である。「部分の区別」とは、そこで得られる触を第五とする等の法群の区別が知られるべきであるということである。「この禅においてはこれだけの法が存在し、これだけの法が滅せられた」と知られるべきである。「資益するものと資益しない諸支」とは、滅尽定に資益するものと資益しない諸支である。滅尽定は十六の智行と九の三摩地行によって達せられるべきものであるから、それら個々の智の三摩地行によって超越されるべき諸法は「資益しない諸支」であり、超越させるものは「資益する諸支」である。実にそれらによって、順次に静まり粗大な状態を離れることによって、有頂定において行の余れる微細さに達した心・心所は、限定された時間に応じて滅し、不生(非現起)へと向かう。「それの」とは、滅尽の。「無間縁」とは、無間縁に似たもの。滅尽定にはいかなる法も無間縁たるものはないからである。実にその時、心・心所がそのように滅することは、上述の前作意を原因とする非想非非想処定によって生じたのであるから、それが滅尽定のあたかも無間縁のようになるのであり、それゆえにこのように言われた。「六の等至」とは、経の所説の順序に従って説かれた経蔵の註釈であるからである。しかし「七の等至」と言うべきである。そうでなければ、これを「四つの支分を有する」と言うことはできないであろう。「あるいは指針を示して」とは、初めと終わりを示すことによって指針の指示をなして、ということである。

455. Evaṃ nirodhassa pādakaṃ vibhāvetvā idāni antonirodhe anupabandhabhāvato pañcannaṃ pasādānaṃ paccayapucchane paṭhamaṃ tāva te sarūpato āveṇikato āveṇikavisayato paṭissaraṇato ca pucchanavasena pāḷi pavattāti dassento **‘‘viññāṇanissaye pañca pasāde pucchanto’’**ti āha. Gocaravisayanti ettha kāmaṃ tabbahulacāritāpekkhaṃ gocaraggahaṇaṃ, anaññatthabhāvāpekkhaṃ visayaggahaṇanti attheva gocaravisayabhāvānaṃ viseso, vivariyamānaṃ pana ubhayampi ārammaṇasabhāvamevāti āha **‘‘gocarabhūtaṃ visaya’’**nti. Ekekassāti eko ekassa, añño aññassāti attho. Aññattho hi ayaṃ eka-saddo ‘‘ittheke abhivadantī’’tiādīsu (ma. ni. 3.27) viya. Sace hītiādi abhūtaparikappanavacanametaṃ. Tattha samodhānetvāti ekajjhaṃ katvā. Vināpi mukhenātiādinā atthasallāpikanidassanaṃ nāma dasseti. Yathā viññāṇādhiṭṭhitameva cakkhu rūpaṃ passati, na kevalaṃ, evaṃ cakkhunissayameva viññāṇaṃ taṃ passati, na itaranti āha **‘‘cakkhupasāde upanehī’’**ti. Tena tesaṃ tattha saṃhaccakāritaṃ dasseti. Yadi vā nīlaṃ yadi vā pītakanti idaṃ nīlapītādisabhāvajānanamattaṃ sandhāyāha. Nīlaṃ pītakanti pajānanaṃ cakkhuviññāṇassa nattheva avikappakabhāvato. Etesaṃ cakkhuviññāṇādīnaṃ. Nissayasīsena nissitapucchā hesā, evañhi visayānubhavanacodanā samatthitā hoti. Tenāha **‘‘cakkhuviññāṇaṃ hī’’**tiādi. Yathāsakaṃ visayaṃ rajjanādivasena anubhavituṃ asamatthāni cakkhuviññāṇādīni, tattha samatthatāyeva ca natthi, na kiñci atthato paṭisarantāni viya hontīti vuttaṃ **‘‘kiṃ etāni paṭisarantī’’**ti. Javanamano paṭisaraṇanti pañcadvārikaṃ itarañca sādhāraṇato vatvā puna yāya’ssa rajjanādipavattiyā paṭisaraṇatā, sā savisesā yattha labbhati, taṃ dassento **‘‘manodvārikajavanamano vā’’**ti āha. Etasmiṃ pana dvāreti cakkhudvāre javanaṃ rajjati vā dussati vā muyhati vā, yato tattha aññāṇādiasaṃvaro pavattati.

455. このように滅尽の基礎を解明した上で、今や滅尽定の内部においては相続しない状態であることから、五つの浄色(感覚器官)の所縁を尋ねるにあたり、まずそれらを自性、特有、特有の対象、帰趨の観点から尋ねる聖典本文が展開していることを示すために、「心識の依処たる五つの浄色を尋ねて」と言われた。「対象の領域」とは、ここでは確かに、専らそれを行じることを考慮したものが「行境(対象)」の把握であり、他の対象ではないことを考慮したものが「領域(対象)」の把握であるというように、行境と領域の状態に差異はあるが、解明されれば双方ともに対象(所縁)の自性にほかならない。それゆえに「境となった領域」と言われた。「それぞれが」とは、一つが一つを、他のものが他のものを、という意味である。この「eka(一)」という語は、「ここに、ある人々は称賛する」(中部3.27)などのように、他の意味を持つからである。「もし〜ならば」等とは、事実ではない仮定の言葉である。そこにおいて「合一して」とは、一所に集めて。「顔なしでも」等により、事物の対話の比喩を示す。あたかも識によって統括された眼のみが色(物質)を見るのであり、単独で見るのではないように、そのように眼に依存した識のみがそれを見るのであり、他のものではない。それゆえに「眼浄色にもたらして」と言われた。それによって、それらのそこでの協働の作用を示している。「あるいは青、あるいは黄」とは、青や黄などの自性を単に知ることを指して言われた。青である、黄であると分別して知ることは、眼識には無分別であるがゆえに存在しない。「これら眼識等の」とは、依処(所依)を主とすることによる、依存するもの(能依)の問いである。このようにしてこそ、対象を享受することについての詰問が成立する。それゆえに「眼識は実に」等と言われた。自己の対象を貪り等によって享受することができない眼識等は、そこにおいて能力そのものがなく、事実上何にも帰依しないかのようである。それゆえに「これらは何に帰依するのか」と言われた。「速行の意に帰依する」とは、五門におけるものと他(意門)のものを総括して述べた上で、さらに、それの貪り等の生起によって帰依性があること、それが特に得られるところを示すために、「あるいは意門の速行の意に」と言われた。「しかしこの門において」とは、眼門において速行心が貪り、あるいは怒り、あるいは迷う。そこからそこに無知等の不防護が生じるからである。

Tatrāti tasmiṃ javanamanasseva paṭisaraṇabhāve. Dubbalabhojakāti hīnasāmatthiyā rājabhoggā. Sevakānaṃ gaṇanāya yojitadivase labbhamānakahāpaṇo yuttikahāpaṇo. Andubandhanena baddhassa vissajjanena labbhamānakahāpaṇo bandhakahāpaṇo. Kiñci paharante mā paharantūti paṭikkhipato dātabbadaṇḍo māpahārakahāpaṇo. So sabbopi parittakesu gāmikamanussesu tathā labbhamāno ettako hotīti āha **‘‘aṭṭhakahāpaṇo vā’’**tiādi. Satavatthukanti satakarīsavatthukaṃ. Esa nayo sesapadadvayepi. Tatthātiādi upamāsaṃsandhanaṃ, taṃ suviññeyyameva.

「そこにおいて」とは、その速行の意そのものの帰依性において。「無力な領主」とは、力量の劣った王族の封建領主。「召使いの計算に割り当てられた日に得られるカーハーパナ」とは、役務のカーハーパナ。「足枷の束縛で縛られた者を解放することで得られるカーハーパナ」とは、釈放のカーハーパナ。「誰かを殴る者を『殴るな』と制止する者によって課される罰金」とは、制止のカーハーパナ。これらすべては、少数の村人たちにおいてそのように得られるものであり、これほどのものである。それゆえに「あるいは八カーハーパナ」等と言われた。「百の地所を有する」とは、百カリーサの地所を有する。この方法は残りの二つの語においても同様である。「そこにおいて」等とは比喩の照合であり、それは極めて容易に理解できる。

456. Antonirodhasmiṃ pañca pasādeti nirodhasamāpannassa pavattamāne pañca pasāde. Kiriyamayapavattasminti javanādikiriyānibbattakadhammappavattiyaṃ. Balavapaccayā hontīti pacchājātavippayuttaatthiavigatapaccayehi paccayā honti, upatthambhakabhāvena balavapaccayā honti. Jīvitindriyaṃ paṭiccāti indriyaatthiavigatapaccayavasena paccayabhūtaṃ jīvitindriyaṃ paṭicca pañcavidhopi pasādo tiṭṭhati. Jīvitindriyena vinā na tiṭṭhati jīvitindriyarahitassa kammasamuṭṭhānarūpakalāpassa abhāvato. Tasmāti yasmā anupālanalakkhaṇena jīvitena anupālitā eva usmā pavattati, na tena ananupālitā, tasmā usmā āyuṃ paṭicca tiṭṭhati. Jālasikhaṃ paṭicca ābhā paññāyatīti jālasikhāsaṅkhātabhūtasaṅghātaṃ saheva pavattamānaṃ nissāya ‘‘ābhā’’ti laddhanāmā vaṇṇadhātu ‘‘ujjalati, andhakāraṃ vidhamati, rūpagatāni ca vidaṃsetī’’tiādīhi pakārehi ñāyati. Taṃ ālokaṃ paṭiccāti taṃ vuttappakāraṃ ālokaṃ paccayaṃ labhitvā. Jālasikhā paññāyatīti ‘‘appikā, mahatī, uju, kuṭilā’’tiādinā pākaṭā hoti.

456. 「滅尽定の内部における五つの浄色」とは、滅尽定に入った者に現起している五つの浄色である。「作用に伴う現起において」とは、速行などの作用を生じさせる諸法の現起において。「強力な条件(縁)となる」とは、後生・不相応・有・非離去縁によって縁となり、支持する状態によって強力な縁となる。「命根に依存して」とは、根・有・非離去縁の力によって縁となった命根に依存して、五種の浄色も存続する。命根なしには存続しない。命根を欠いた業生の物質集合(色聚)は存在しないからである。「それゆえに」とは、維持することを特徴とする命によって維持された温熱のみが現起し、それによって維持されないものは現起しないがゆえに、温熱は寿命に依存して存続するのである。「炎の切先(火炎)に依存して輝きが知られる」とは、火炎と称される四大種の集合がともに現起することに依存して、「輝き」と名付けられた色処(顕色)が「輝く、暗闇を打ち破る、物質の姿を顕在化させる」などの諸相によって知られる。「その光に依存して」とは、その述べられた様相の光を条件として得て。「火炎が知られる」とは、「小さい、大きい、直立している、曲がっている」等によって明白になる。

Jālasikhā viya kammajatejo nissayabhāvato. Āloko viya jīvitindriyaṃ tannissitabhāvato. Idāni upamopamitabbānaṃ sambandhaṃ dassetuṃ **‘‘jālasikhā hī’’**tiādi vuttaṃ. Ālokaṃ gahetvāva uppajjatīti iminā yathā jālasikhāya saheva āloko uppajjati, evaṃ kammajusmanā saheva jīvitindriyaṃ uppajjatīti dasseti. Jālasikhāsannissayo tassā satiyeva honto āloko tāya uppādito viya hotīti āha **‘‘attanā janitaālokenevā’’**ti. Usmā nāmettha kammasamuṭṭhānā tejodhātu tannissitañca jīvitindriyaṃ tadanupālakañcāti āha **‘‘kammajamahābhūtasambhavena jīvitindriyena usmāya anupālana’’**nti. Na kevalaṃ khaṇaṭṭhitiyā eva, atha kho pabandhānupacchedassapi jīvitindriyaṃ kāraṇanti āha **‘‘vassasatampi kammajatejapavattaṃ pāletī’’**ti. Usmā āyuno paccayo honto sesabhūtasahito eva hotīti āha **‘‘mahābhūtānī’’**ti. Tathā āyupi sahajātarūpaṃ pālentameva usmāya paccayo hotīti vuttaṃ **‘‘mahābhūtāni pāletī’’**ti.

火炎のようであるのは、業生の熱(火界)が依処たる状態であるからである。光のようであるのは、命根がそれに依存する状態であるからである。今や比喩とされるべきものの関連を示すために「実に火炎は」等と言われた。「光を伴って生じる」とは、これによって、あたかも火炎とともに光が生じるように、そのように業生の温熱とともに命根が生じることを示している。火炎に依拠し、火炎があるときにのみ存在する光は、あたかも火炎によって生じさせられたかのようである。それゆえに「自己が生み出した光によって」と言われた。ここでの温熱とは業生の火界であり、それに依存する命根はそれを維持するものである。それゆえに「業生の大種から生じた命根による温熱の維持」と言われた。単に瞬間的な存続のためだけでなく、相続が断絶しないためにも命根は原因である。それゆえに「百年もの間、業生の熱の現起を保つ」と言われた。温熱が寿命の縁となるにあたっては、残りの大種とともにあるものとしてのみである。それゆえに「諸大種を」と言われた。同様に寿命も、倶生の色法を保ちつつ温熱の縁となる。それゆえに「諸大種を保つ」と言われた。

457. Āyu eva indriyapaccayādivasena sahajātadhammānaṃ anupālanavasena saṅkharaṇato āyusaṅkhāro. Bahuvacananiddeso pana anekasatasahassabhedesu rūpakalāpesu pavattiyā anekabhedanti katvā. Ārammaṇarasaṃ anubhavantīti vedaniyā yathā ‘‘niyyānikā’’ti. Tenāha **‘‘vedanā dhammāvā’’**ti. Sukhādibhedabhinnattā bahuvacananiddeso. Imesaṃ āyusaṅkhāravedanānaṃ ekantanirodhaṃ samāpannassa maraṇena bhavitabbaṃ vedanāya niruddhattā. Āyusaṅkhārānaṃ tathā aniruddhattā nirodhassa samāpajjanameva na siyā, kuto vuṭṭhānaṃ. Tena vuttaṃ pāḷiyaṃ ‘‘te ca hāvuso’’tiādi. Vuṭṭhānaṃ paññāyati saññāvedanādīnaṃ uppattiyā. Idāni tamatthaṃ vitthārato upamāya vibhāvetuṃ **‘‘yo hī’’**tiādi vuttaṃ. Ukkaṇṭhitvāti nānārammaṇāpātato nibbinditvā. Yathāparicchinnakālavasenāti yathāparicchinne kāle sampatte. Rūpajīvitindriyapaccayāti indriyapaccayabhūtā. Jālāpavattaṃ viya arūpadhammā tejussadabhāvato visayobhāsanato ca. Udakappahāro viya nirodhasamāpattiyā pubbābhisaṅkhāro. Pihitaaṅgārā viya rūpajīvitindriyaṃ usmāmattatāya anobhāsanato. Yathāparicchinnakālāgamananti yathāparicchinnakālassa upagamanaṃ. Anurūpapattivaseneva rūpapavattiggahaṇaṃ. Imaṃ rūpakāyaṃ jahantīti imasmā rūpakāyā kaḷevarā vigacchanti nappavattanti.

457. 寿命そのものが、根縁等の力によって倶生の諸法を維持することによって形成(行)するがゆえに「寿命の行(寿行)」である。複数形による言及は、幾十万にも分かれた色聚において現起することから多種多様であることによる。対象の味わいを享受するがゆえに「感受されるもの(受)」であり、あたかも「出離に導くもの」のようである。それゆえに「受の法、あるいは」と言われた。楽などの差異に分かれるがゆえに複数形の指示である。これら寿行と受について、完全な滅尽に入った者には、受が滅していることから死が存在するはずである。寿行がそのように滅していないことから、滅尽定に入ることもできず、どこに出定があろうか。それゆえに聖典本文において「友よ、それらもまた」等と言われた。出定は想や受などの生起によって知られる。今やその意味を詳細に比喩によって解明するために「実に誰であれ」等と言われた。「嫌悪して」とは、種々の対象の衝撃から厭い離れて。「限定された時間に応じて」とは、限定された時間に達したときに。「物質の命根の縁」とは、根縁となったものである。火炎の現起のようであるのは非物質(名法)であり、熱が優勢であることと対象を照らすことによる。水の打撃のようであるのは滅尽定の前作意である。覆われた消し炭のようであるのは物質の命根であり、温熱の分量にすぎず照らさないことによる。「限定された時間の到来」とは、限定された時間に近づくこと。相応の達成に応じてのみ物質の現起を捉える。「この肉身を捨てる」とは、この肉身、死体から離れ去り、現起しない。

Kāyena saṅkharīyantīti kāyasaṅkhārā tappaṭibaddhavuttitāya. Vācaṃ saṅkharontīti vacīsaṅkhārā. Vitakketvā vicāretvā hi vācaṃ bhindati katheti. Cittena saṅkharīyantīti cittasaṅkhārā tappaṭibaddhavuttito. Cittasaṅkhāranirodhacodanāya rūpanirodho viya cittanirodho acodito tesaṃ tato aññattāti na cittasampayuttanirodho ekantiko vitakkādinirodhe tadabhāvato. Yaṃ pana vuttaṃ ‘‘vācā aniruddhā hotī’’ti, tampi na. Vācaṃ saṅkharontīti hi vacīsaṅkhārā, tesu niruddhesu kathaṃ vācāya anirodho. Cittaṃ pana niruddhesupi cittasaṅkhāresu tehi anabhisaṅkhatattā vitakkādinirodho viya pavattatiyevāti ayamettha parassa adhippāyo. Ānantariyakammaṃ kataṃ bhaveyya, cittassa aniruddhattā taṃ nissāya ca rūpadhammānaṃ anapagatattā te jīvanti eva nāmāti. Byañjane abhinivesaṃ akatvāti ‘‘cittasaṅkhārā niruddhā’’ti vacanato teva niruddhā, na cittanti evaṃ neyyatthaṃ suttaṃ ‘‘nītattha’’nti abhinivesaṃ akatvā. Ācariyānaṃ naye ṭhatvāti paramparāgatānaṃ ācariyānaṃ adhippāye ṭhatvāti attho. Upaparikkhitabboti suttantarāgamato suttantarapadassa aviparīto attho vīmaṃsitabbo. Yathā hi ‘‘asaññabhavo’’ti vacanato ‘‘saññāva tattha natthi, itare pana cittacetasikā santī’’ti ayamettha attho na gayhati. Yathā ca ‘‘nevasaññānāsaññāyatana’’nti vacanato ‘‘saññāva tattha tādisī, na phassādayo’’ti ayamettha attho na gayhati saññāsīsena desanāti katvā, evamidhāpi ‘‘cittasaṅkhārā niruddhā’’ti, ‘‘saññāvedayitanirodho’’ti ca desanāsīsameva. Sabbepi pana cittacetasikā tattha nirujjhantevāti ayamettha aviparīto attho veditabbo, tathāpubbābhisaṅkhārena sabbesaṃyeva cittacetasikānaṃ tattha nirujjhanato. Etena yaṃ pubbe ‘‘aññattā, tadabhāvato’’ti ca yuttivacanaṃ, tadayuttaṃ adhippāyānavabodhatoti dassitaṃ hoti. Tenāha **‘‘attho hi paṭisaraṇaṃ, na byañjana’’**nti.

身体によって形成されるがゆえに「身行」であり、身体に結びついた現起による。言葉を形成するがゆえに「語行」である。実に尋求(思考)し、伺察(吟味)して言葉を発し、語るからである。心によって形成されるがゆえに「心行」であり、心に結びついた現起による。心行の滅の詰問において、色(物質)の滅のように心の滅は詰問されなかった。それらは心とは別のものであるから、尋求などの滅においてそれ(心)の不在ゆえに、心相応の滅が絶対的であるわけではない。また「言葉は滅していない」と言われたが、それも正しくない。実に言葉を形成するがゆえに「語行」であり、それらが滅したとき、どうして言葉の不滅があろうか。しかし心は、心行が滅しても、それらによって形成されないがゆえに、尋求などの滅のように現起し続けるという、これがここでの他者の意図である。無間業がなされたことになりかねない。心が滅しておらず、それに依存して物質の法が去っていないため、彼らは生きていると言えるからである。「文言への執着をなさず」とは、「心行が滅した」という言葉から、それらのみが滅したのであって心ではないというように、了義ならざる(解釈を要する)経を「了義である」と執着することなく。「師たちの指針に留まって」とは、伝承された師たちの意図に留まって、という意味である。「探求されるべきである」とは、他の経典の伝承から、経典の句の無謬の意味が考察されるべきである。実に「無想有情天」という言葉から「想のみがそこにはなく、他の心・心所は存在する」というような意味がここでは取られないように。また「非想非非想処」という言葉から「想のみがそこではそのようなものであり、触等ではない」というような意味が、想を主とした教説であるがゆえに取られないように、このようにここでも「心行が滅した」「想受滅」というのは教説の首題にすぎない。しかしすべての心・心所がそこでは滅するのであるという、これがここでの無謬の意味と知られるべきである。そのように前作意によって、すべての心・心所がそこにおいて滅するからである。これによって、以前に「別のものであるから、それの不在ゆえに」とされた論理的な言葉は、意図を理解しないことによる不当なものであることが示されたことになる。それゆえに「実に意味こそが帰依処であり、文言ではない」と言われた。

Upahatānīti bādhitāni. Makkhitānīti dhaṃsitāni. Ārammaṇaghaṭṭanāya indriyānaṃ kilamatho cakkhunā bhāsurarūpasukhumarajadassanena vibhāvetabbo. Tathā hi uṇhakāle purato aggimhi jalante kharassare ca paṇave ākoṭite akkhīni bhedāni viya na sahanti sotāni ‘‘sikharena viya abhihaññantī’’ti vattāro honti.

「害された」とは、損なわれた。「汚された」とは、破壊された。対象の衝突による諸根の疲労は、眼によって輝く物質や微細な塵を見ることによって解明されるべきである。実に暑い時期に前方で火が燃え盛り、荒々しい音の鼓が打ち鳴らされるとき、眼は裂けるかのようで耐えられず、耳は「山頂によって打ち砕かれるかのようだ」と言われるようになる。

458. Rūpāvacaracatutthajjhānameva rūpavirāgabhāvanāvasena pavattaṃ arūpajjhānanti nevasaññānāsaññāyatanaṃ vissajjento dhammasenāpati ‘‘sukhassa ca pahānā’’tiādinā vissajjesi. Apagamanena vigamena paccayā apagamanapaccayā sukhādippahānāni. Adhigamapaccayā pana kasiṇesu rūpāvacaracatutthajjhānaṃ heṭṭhimā tayo ca āruppā. Na hi sakkā tāni anadhigantvā nevasaññānāsaññāyatanamadhigantuṃ. Nirodhato vuṭṭhānakaphalasamāpattinti nirodhato vuṭṭhānabhūtaṃ aniccānupassanāsamudāgataphalasamāpattiṃ. Sā hi ‘‘animittā cetovimuttī’’ti vuccati. Yathā samathanissando abhiññā, mettākaruṇāmuditābrahmavihāranissando upekkhābrahmavihāro, kasiṇanissando āruppā, samathavipassanānissando nirodhasamāpatti, evaṃ vipassanāya nissandaphalabhūtaṃ sāmaññaphalanti āha **‘‘vipassanānissandāya phalasamāpattiyā’’**ti. Ārammaṇā nāma sārammaṇadhammānaṃ visesato uppattinimittanti āha **‘‘sabbanimittānanti rūpādīnaṃ sabbārammaṇāna’’**nti. Natthi ettha kiñci saṅkhāranimittanti animittā, asaṅkhatā dhātūti āha **‘‘sabbanimittāpagatāya nibbānadhātuyā’’**ti. Phalasamāpattisahajātaṃ manasikāraṃ sandhāyāha, na āvajjanamanasikāraṃ. Na hettha tassa sambhavo anulomānantaraṃ uppajjanato.

458. 色界の第四禅そのものが、色への離貪の修習の力によって現起したものが無色禅であると、非想非非想処を答えるにあたり法将(サーリプッタ)は「楽の断除によって」等によって答えた。離去・消滅による縁が「離去縁」であり、楽などの断除である。しかし「獲得縁」とは、遍(カシナ)における色界第四禅と、下位の三つの無色定である。実にそれらを獲得することなしに、非想非非想処を獲得することはできないからである。「滅尽からの出定の果等至」とは、滅尽からの出定たる、無常の随観から生じた果等至である。実にそれは「無相心解脱」と呼ばれる。あたかも止水の流出(等流果)が神通であり、慈・悲・喜の梵住の流出が捨梵住であり、遍の流出が無色定であり、止観の流出が滅尽定であるように、このように、内観(ヴィパッサナー)の流出果たる沙門果である。それゆえに「内観の流出たる果等至によって」と言われた。対象(所縁)とは、所縁を有する諸法の特別な生起の相(目印)である。それゆえに「一切の相の、とは、色などの一切の対象の」と言われた。ここにはいかなる行の相もないがゆえに無相であり、無為の界(涅槃)である。それゆえに「一切の相を離れた涅槃界によって」と言われた。果等至に倶生する作意を指して言ったのであり、導入(転向)の作意ではない。ここでは順応の直後に生じるがゆえに、それの生起はあり得ないからである。

Imasmiṃ ṭhāneti idha vuttanirodhassa ādimajjhapariyosānānaṃ gahitānaṃ imasmiṃ pariyosānassa gahitaṭṭhāne. Dvīhi balehīti samathavipassanābalehi. Tayo ca saṅkhārānanti kāyasaṅkhārādīnaṃ tiṇṇaṃ saṅkhārānaṃ. Soḷasahi ñāṇacariyāhīti aniccānupassanā, dukkhā, anattā, nibbidā, virāgā, nirodhā, paṭinissaggā, vivaṭṭānupassanā, sotāpattimaggo…pe… arahattaphalasamāpattīti imāhi soḷasahi ñāṇacariyāhi. Navahi samādhicariyāhīti paṭhamajjhānasamādhiādīhi navahi samādhicariyāhi. Yo yathāvuttāsu cariyāsu puggalassa vasībhāvo, sā vasībhāvatāpaññā. Assā sā kathitāti yojanā. Vinicchayakathāti vinicchayavasena pavattā aṭṭhakathā kathitā. Tasmā visuddhimagge (visuddhi. 2.868-869) taṃsaṃvaṇṇanāyañca (visuddhi. mahāṭī. 2.868) vuttanayena veditabbā.

「この箇所において」とは、ここで説かれた滅尽の初め・中・終わりの把握されたもののうち、この終わりの把握された箇所において。「二つの力によって」とは、止と観の力によって。「三つの行の」とは、身行等の三つの行の。「十六の智行によって」とは、無常随観、苦、無我、厭離、離貪、滅、捨遣、出離随観、預流道……中略……阿羅漢果等至という、これら十六の智行によって。「九の三摩地行によって」とは、初禅の三摩地等を初めとする九の三摩地行によって。上述の諸行における人物の自在性、それが自在性の智慧である。彼女にそれが説かれた、と連結される。「判定の説」とは、判定の力によって展開した註釈が説かれた。それゆえに清浄道論(Visuddhimagga 2.868-869)とその大疏(Visuddhimagga-mahāṭīkā 2.868)で説かれた方法によって知られるべきである。

Valañjanasamāpatti ariyavihāravasena viharaṇasamāpatti. Ṭhitiyāti ettha pabandhaṭṭhiti adhippetā, na khaṇaṭṭhiti. Kasmā? Samāpajjanattā. Tenāha **‘‘ṭhitiyāti ciraṭṭhitattha’’**nti. Addhānaparicchedoti ettakaṃ kālaṃ samāpattiyā vītināmessāmīti pageva kālaparicchedo. Rūpādinimittavasenāti kammakammanimittagatinimittesu yathārahaṃ labbhamānarūpādinimittavasena. Tattha yasmā kammanimitte chabbidhampi ārammaṇaṃ labbhati, tasmā **‘‘sabbanimittāna’’**nti vuttaṃ, na sabbesaṃ ārammaṇānaṃ ekajjhaṃ, ekantato vā manasikātabbato. Lakkhaṇavacanañhetaṃ yathā ‘‘dātabbametaṃ bhesajjaṃ, yadi me byādhitā siyu’’nti.

「享受の等至」とは、聖者の住処の力による安住の等至である。「持続のために」において、ここでは相続の持続が意図されており、刹那の持続ではない。なぜなら等至に入るからである。それゆえに「持続のために、とは久しく留まるため」と言われた。「期間の限定」とは、これだけの時間を等至によって過ごそうと前もって時間を限定すること。「色等の相の力によって」とは、業・業相・趣相において相応に得られる色等の相の力によって。そこにおいて、業相においては六種の対象すべてが得られるがゆえに、「一切の相の」と言われたのであり、一切の対象を一所に、あるいは絶対的に作意すべきであるからではない。実にこれは「もし私に病があるならば、この薬が与えられるべきである」というような特徴の言明である。

459. Nīlampi sañjānātītiādinā nīlādiggahaṇamukhena taṃvaṇṇānaṃ sattānaṃ sañjānanaṃ averādibhāvamanasikaraṇaṃ jotitanti āha **‘‘etasmiñhi ṭhāne appamāṇā cetovimutti kathitā’’**ti. Ettha ākiñcaññaṃ kathitanti sambandho. **‘‘Ettha suññatā’’ti, ‘‘ettha animittā’’**ti etthāpi eseva nayo. Nti ‘‘idha aññaṃ abhinavaṃ nāma natthī’’tiādinā vuttaṃ atthavacanaṃ. Etāti appamāṇacetovimuttiādayo. Ekanāmakāti ekekanāmakā, ye nānābyañjanāti adhippetā. Eko dhammoti arahattaphalasamāpatti. Catunāmakoti appamāṇacetovimuttiādināmako. Etanti etamatthaṃ. Appamāṇāti anodhiso, odhisopi vā ‘‘ettakā’’ti aparimitā. Asesetvāti asubhasamāpatti viya ekasseva aggahaṇato.

459. 「青をも了知する」等によって、青などの把握を端緒としてそれらの色彩を持つ有情の了知、無怨などの状態の作意が解明された。それゆえに「この箇所において無量心解脱が説かれた」と言われた。ここでは無所有が説かれた、と連結される。「ここでは空性」「ここでは無相」というのもここにおいて同様の方法である。「〜と」とは、「ここに他の新たなものは存在しない」等によって述べられた意味の言明である。「これらは」とは、無量心解脱等である。「一つの名前を持つもの」とは、それぞれ一つの名前を持つものであり、異なる文言であると意図されたものである。「一つの法」とは、阿羅漢果等至である。「四つの名前を持つもの」とは、無量心解脱等の名を持つものである。「これを」とは、この意味を。「無量」とは、無限定に、あるいは限定的であっても「これほど」と測り知れないこと。「余すことなく」とは、不浄の等至のように一つだけを把握することではないからである。

Kiñcāpi asubhanimittārammaṇampi kiñcanaṃ hoti, ārammaṇasaṅghaṭṭanassa kiñcanassa asubhasamāpattīnampi paṭibhāganimittasaṅkhātaṃ ārammaṇaṃ sabimbaṃ viya viggahaṃ kiñcanaṃ hutvā upaṭṭhāti, na tathā imassāti. Nanu brahmavihārapaṭhamāruppānampi paṭibhāganimittabhūtaṃ kiñci ārammaṇaṃ natthīti? Saccaṃ natthi, ayaṃ pana paṭhamāruppaviññāṇaṃ viya na paṭibhāganimittabhūtaārammaṇatāya evaṃ vuttā. Attenāti attanā. Bhavati etena attāti abhidhānaṃ buddhi cāti bhāvo, attā. Bhāva-saddopi attapariyāyoti āha **‘‘bhāvaposapuggalādisaṅkhātenā’’**ti. Nesaṃ appamāṇasamādhiādīnaṃ catunnaṃ. **‘‘Nānatā pākaṭāvā’’**ti vuttaṃ nānattaṃ bhūmito ārammaṇato ca dassetuṃ **‘‘attho panā’’**tiādi vuttaṃ. Parittādibhāvena atītādibhāvena ajjhattādibhāvena ca na vattabbaṃ ārammaṇaṃ etissāti navattabbārammaṇā nibbānārammaṇaphalasamāpattibhāvato.

不浄相を対象とするものも少片(障害)ではあるが、対象の衝突という少片の、不浄等至にとっても似像相と称される対象は、形像を伴うかのような形態の少片となって現れるが、これ(無量心解脱)にはそのようではない。梵住や第一無色定にも似像相たるいかなる対象もないのではないか。確かに存在しないが、しかしこれは第一無色定の識のように似像相たる対象ではないことによってこのように説かれたのである。「我によって」とは、自己によって。これによって我という名称と覚知が生じるがゆえに「状態(有)」であり、我である。「bhāva(状態・有)」という語も我の同義語である。それゆえに「有、養育される者、個我等と称されるものによって」と言われた。これら無量三摩地等の四つの。「差異が明白であるか」と説かれた差異を、境地から、また対象から示すために「しかし意味は」等と言われた。微小等の状態として、過去等の状態として、内等の状態として語られるべきではない対象をこれ(無相心解脱)は有するがゆえに「語られるべからざる対象」であり、涅槃を対象とする果等至であることによる。

Ettakoti rāgādīhi saṃkiliṭṭhatāya ettakappamāṇo, uttāno parittacetasoti attho. Nibbānampi appamāṇameva pamāṇakaraṇānaṃ abhāvenāti ānetvā sambandho. Akuppāti arahattaphalacetovimutti paṭipakkhehi akopanīyatāya. Kiñcatīti kattari paṭhito dhātu maddanatthoti āha **‘‘kiñcati maddatī’’**ti. Tassa payogaṃ dassetuṃ **‘‘manussā kirā’’**tiādi vuttaṃ.

「これほどの」とは、貪り等によって汚染されていることによってこれほどの分量であり、浅薄で微小な心を持つ者、という意味である。涅槃もまた、限定するものが存在しないことによってまさに無量である、と引き入れて連結される。「動揺しない」とは、阿羅漢果心解脱は敵対するものによって動揺させられないことによる。「kiñcati」とは、能動態で読まれた語根で踏みにじる意味である。それゆえに「kiñcatiとは踏みにじる」と言われた。その用法を示すために「人間たちは実に」等と言われた。

Samūhādighanavasena sakiccaparicchedatāya ca saviggahā viya upaṭṭhitā saṅkhārā niccādiggāhassa vatthutāya **‘‘niccanimittaṃ sukhādinimitta’’**nti ca vuccati. Vipassanā pana tattha ghanavinibbhogaṃ karontī niccādiggāhaṃ vidhamentī ‘‘nimittaṃ samugghātetī’’ti vuttā ghananimittassa ārammaṇabhūtassa abhāvā. Na gahitāti ekatthapadaniddese pāḷiyaṃ kasmā na gahitā? ti suññatā cetovimutti. Sabbatthāti appamāṇācetovimuttiādiniddesesu. Ārammaṇavasenāti ārammaṇavasenapi ekatthā, na kevalaṃ sabhāvasarasatova. Iminā pariyāyenāti appamāṇatotiādinā ārammaṇato laddhapariyāyena. Aññasmiṃ pana ṭhāneti ākiñcaññādisaddapavattihetuto aññena hetunā appamāṇātisaddappavattiyaṃ etassa cetovimuttiyā honti. Esa nayo sesesupi. Iminā pariyāyenāti iminā tāya tāya samaññāya voharitabbatāpariyāyena. Saccānaṃ dassanamukhena vaṭṭavasena uṭṭhitadesanaṃ arahattena kūṭaṃ gaṇhanto yathānusandhināva desanaṃ niṭṭhapesi. Yaṃ panettha atthato avibhattaṃ, taṃ suviññeyyameva.

集積などの堅固さの力によって、また自らの作用の限定によって、形態を持つかのように現れた諸行は、常などの把握の根拠となるがゆえに「常の相、楽などの相」と言われる。しかし内観はそこにおいて堅固さを解体し、常などの把握を打ち破るものであり、対象となった堅固な相が存在しないことから「相を根絶する」と言われる。「把握されなかった」とは、同一の意味の句の指示において聖典本文でなぜ把握されなかったのか。「それ」とは、空性心解脱である。「一切において」とは、無量心解脱等の指示において。「対象の力によって」とは、対象の力によっても同一の意味であり、単に自性の本質からだけではない。「この方法によって」とは、無量等という対象から得られた方法によって。「しかし他の箇所において」とは、無所有等の語の生起原因とは別の原因によって「無量」という語が生起するとき、これ(無相)の心解脱となる。この方法は残りにおいても同様である。「この方法によって」とは、この、それぞれの名称によって表現されるべき方法によって。四聖諦の開示を端緒として輪廻の力によって生じた教説を、阿羅漢果をもって頂点とし、相応の脈絡に従って教説を完結させた。ここで意味として分別されなかったものは、極めて容易に理解できる。

Mahāvedallasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

『大有明経』註釈の微細義釈(復註)を終わる。

4. Cūḷavedallasuttavaṇṇanā

4. 小有明経註釈

460. Ayaṃ desanā yasmā pucchāvissajjanavasena pavattā, tasmā pucchakavissajjake pucchānimittañca samudāyato vibhāvetuṃ **‘‘ko panāya’’**ntiādi vuttaṃ. Upāsakattanti amaggāgataṃ upāsakattaṃ. Tesanti ekādasanahutānaṃ. Maggāgatena upasamena santindriyo santamānaso.

460. この教説は問答の力によって展開したものであるから、問う者と答える者、および問いの契機を総括して解明するために「しかしこれは誰か」等と言われた。「優婆塞の状態」とは、聖道に達していない優婆塞の状態。「彼らの」とは、十一万の人々の。聖道に達した寂静によって諸根が静まり、心が静まった者。

‘‘Kiṃ nu kho ajja bhavissati ayyaputto’’ti vīthiṃ olokayamānā. Olambanatthanti tassa hatthāvalambanatthaṃ pubbāciṇṇavasena attano hatthaṃ pasāresi. Bahiddhāti attanā aññaṃ visabhāgavatthuṃ sandhāya vadati. Paribhedakenāti pesuññavādinā.

「今日、わが夫はどうされたのだろうか」と通りを眺めていた。「つかまらせるために」とは、彼の手をつかまらせるために、以前の慣習に従って自らの手を差し伸べた。「外において」とは、自分とは別の不調和な対象を指して言う。「離間させる者によって」とは、中傷を語る者によって。

Adhigamappicchatāya ‘‘na pakāsetabbo’’ti cintesi. Puna taṃ anukampanto **‘‘sace kho panāha’’**ntiādiṃ cintesi. Eso dhammoti eso lokuttaradhammo. Vivaṭṭaṃ uddissa upacitaṃ nibbedhabhāgiyaṃ kusalaṃ upanissayo. ‘‘Yadi me upanissayo atthi, sakkā etaṃ paṭiladdhuṃ. Sacepi natthi, āyatiṃ upanissayo bhavissatī’’ti cirakālaparibhāvitāya ghaṭe padīpajālā viya abbhantare dippamānāya hetusampattiyā codiyamānā āha **‘‘evaṃ sante mayhaṃ pabbajjaṃ anujānāthā’’**ti.

証得について寡欲であったため「明かすべきではない」と考えた。再び彼女を憐れんで「もし私が〜ならば」等と考えた。「その法」とは、その出世間の法である。輪廻からの出離を目指して積み立てられた決択分(洞察に至る)の善が「資糧(依処)」である。「もし私に資糧があるならば、これを獲得することができるであろう。もしなくとも、未来において資糧となるであろう」と、長きにわたり修習された壺の中の灯火のように内部で輝く因の具足に促されて「そうであるならば、私に出家をお許しください」と言った。

Lābhasakkāro uppajji sucirakālaṃ katūpacitapuññatāya. Abhinīhārasampannattāti sujātattherassa padumuttarassa bhagavato aggasāvakassa nipaccakāraṃ katvā – ‘‘tumhehi diṭṭhadhammassa bhāgī assa’’nti nibbedhabhāgiyaṃ dānaṃ datvā katapatthanāsaṅkhātasampannābhinīhārattā. Nāticiraṃ kilamitthāti kammaṭṭhānaṃ bhāventī vipassanāya paripākavasena ciraṃ na kilamittha. Vuttamevatthaṃ vivarituṃ **‘‘ito paṭṭhāyā’’**tiādi vuttaṃ. Dutiyagamanenāti pabbājanatthaṃ gamanato dutiyagamanena.

長きにわたり作られ積まれた功徳によって利養と敬愛が生じた。「誓願を具足したことによって」とは、スジャータ長老、パドゥムッタラ世尊の筆頭弟子に恭敬をなし、「あなた方が見出された法に預かる者となりますように」と決択分に資する布施をなして立てられた願望と称される具足した誓願による。「あまり長く疲労しなかった」とは、業処を修習し、内観の成熟の力によって長く疲労することはなかった。まさに述べられた意味を解明するために「これより以降」等と言われた。「二度目の訪問によって」とは、出家させるための訪問から数えて二度目の訪問によって。

Upanetvāti pañhassa atthabhāvena upanetvā. Sakkāyanti sakāyaṃ. Upanikkhittaṃ kiñci vatthuṃ sampaṭicchamānā, viya sampaṭicchantī viya. Eko eva pāso etissāti ekapāsakā, gaṇṭhi. Sā hi sumociyā, anekapāsā pana dummociyā, ekapāsaggahaṇaṃ vissajjanassa sukarabhāvadassanatthaṃ. Paṭisambhidāvisaye ṭhatvāti etena theriyā pabhinnapaṭisambhidataṃ dasseti. Paccayabhūtāti ārammaṇādivasena paccayabhūtā.

「導いて」とは、問いの意味の状態に導いて。「有身(サッカーヤ)」とは、自己の身体。「置かれた何らかの品物を受け取るかの如く」とは、受け取るかのようである。「一本の輪縄を持つもの」とは、一重の結び目。それは解きやすく、多重の結び目は解きがたい。一重の結び目の把握は、解答が容易である状態を示すためである。「無礙解の境地に留まって」とは、これによって長老尼が無礙解を極めていたことを示している。「縁となった」とは、対象等の力によって縁となった。

Theriyā visesādhigamassa attano avisayatāya visākho **‘‘na sakkā’’**tiādinā cintesīti daṭṭhabbaṃ. Saccavinibbhogapañhabyākaraṇenāti saccapariyāpannassa dhammassa dassanato aññānaññatthaniddhāraṇabhedanāsaṅkhātassa vinibbhogapañhassa vissajjanena. Dve saccānīti dukkhasamudayasaccāni. Paṭinivattetvāti parivattetvā. Gaṇṭhipañhanti dubbinibbedhatāya gaṇṭhibhūtaṃ pañhaṃ.

長老尼の卓越した証得が自らの境地を超えていることから、ヴィサーカは「できない」等と考えたと見なされるべきである。「真理の分析の問いに答えることによって」とは、真理に包摂される法の開示において、他のものと他のものでないことの確定・分析と称される分析の問いの解答によって。「二つの真理」とは、苦と集の真理。「反転させて」とは、翻して。「結節の問い」とは、分析し難いことによる結び目のような問い。

Na taṃyeva upādānaṃ te pañcupādānakkhandhā ekadesassa samudāyatābhāvato, samudāyassa ca ekadesatābhāvato. Nāpi aññatra pañcahi upādānakkhandhehi upādānaṃ tassa tadekadesabhāvato. Na hi ekadeso samudāyavinimutto hoti. Yadi hi taññevātiādinā ubhayapakkhepi dosaṃ dasseti. Rūpādisabhāvampīti rūpavedanāsaññāviññāṇasabhāvampi, phassacetanādisabhāvampi upādānaṃ siyā. Aññatra siyāti pañcahi upādānakkhandhehi visuṃyeva upādānaṃ yadi siyā. Parasamayeti nikāyavāde. Cittavippayutto anusayoti nidassanamattametaṃ nikāyavāde cittasabhāvābhāvaviññāṇādīnampi cittavippayuttabhāvapaṭijānanato. Evaṃ byākāsīti ‘‘na kho, āvuso’’tiādinā khandhagatachandarāgabhāvena byākāsi. Atthadhammanicchayasambhavato asambandhena. Tesu katthacipi asammuyhanato avitthāyantena. Pucchāvisaye mohandhakāravigamanena padīpasahassaṃ jālentena viya. Saupādānupādānaṭṭhānaṃ anuttānatāya pacurajanassa gūḷho. Aggahitasaṅketānaṃ kesañci paṭicchāditasadisattā paṭicchanno. Tilakkhaṇabbhāhatadhammavisayatāya tilakkhaṇāhato. Gambhīrañāṇagocaratāya gambhīro. Laddhapatiṭṭhā ariyasaccasampaṭivedhanato. Evaṃ diṭṭhadhammādibhāvato vesārajjappattā. Sabbaso nivutthabrahmacariyatāya tiṇṇaṃ bhavānampi aparabhāge nibbāne nivutthavatīti bhavamatthake ṭhitā.

その取(執着)そのものが五取蘊なのではない。一部分が全体であることはなく、全体が一部分であることもないからである。また五取蘊を離れて取が存在するわけでもない。それはその一部分であるからである。実に一部分が全体から遊離していることはない。「もしそのものならば」等によって、双方の立場における過失を示す。「色等の自性もまた」とは、色・受・想・識の自性も、触・思などの自性も取となってしまう。「他に存在するならば」とは、五取蘊とはまったく別に取が存在するならば、ということである。「他宗において」とは、部派の教義において。「心不相応の随眠」とは、これは単なる例示であり、部派の教義においては心自性のない識等にも心不相応の状態を主張するからである。「このように答えた」とは、「友よ、そうではない」等によって蘊における欲貪の状態として答えた。義と法の確定が存在することから、矛盾なく。それらのどこにおいても迷わないことから、躊躇することなく。問いの対象において無明の闇を除去することによって、千の灯火を点じたかのようであった。取を伴う取の境地は浅薄でないため、凡夫には隠されている。約束(名目)を把握していないある人々にとっては覆われているかのようであるため、覆われている。三相に打たれた法を対象とするがゆえに、三相に打たれている。深遠な智慧の境地であるがゆえに、深遠である。四聖諦の通達から足場を得ている。このように現見の法等であることから、無畏に達している。完全に清浄行を修め終えていることから、三有の彼方の涅槃に住しているため、有の頂に立っている。

461. **‘‘Rūpaṃ attato samanupassatī’’**ti paduddhāraṃ katvā **‘‘idhekacco’’**tiādinā (paṭi. ma. 1.130) paṭisambhidāpāṭhena tadatthaṃ vivarati. Tattha attato samanupassatīti attāti samanupassati, attabhāvena samanupassati. Ahanti attānaṃ niddisati. Ahaṃbuddhinibandhanañhi attānaṃ attavādī paññapeti, tasmā yaṃ rūpaṃ so ahanti yadetaṃ mama rūpaṃ nāma, so ahanti vuccamāno mama attā taṃ mama rūpanti rūpañca attañca advayaṃ anaññaṃ samanupassati. Tathā passato ca attā viya rūpaṃ, rūpaṃ viya vā attā aniccoti āpannameva. Accīti jālasikhā. Sā ce vaṇṇo, cakkhuviññeyyāva siyā, na kāyaviññeyyā, vaṇṇopi vā kāyādiviññeyyo acciyā anaññattāti upameyyaṃ viya upamāpi diṭṭhigatikassa ayuttāva. Diṭṭhipassanāyāti micchādiṭṭhisaṅkhātāya passanāya passati, na taṇhāmānapaññānupassanāya. Arūpaṃ vedanādiṃ attāti gahetvā chāyāya rukkhādhīnatāya chāyāvantaṃ rukkhaṃ viya, rūpassa santakabhāvena attādhīnatāya rūpavantaṃ attānaṃ samanupassati. Pupphādhīnatāya pupphasmiṃ gandhaṃ viya ādheyyabhāvena attādhīnatāya rūpassa attani rūpaṃ samanupassati. Yathā karaṇḍo maṇino ādhāro, evaṃ rūpampi attano ādhāroti katvā attānaṃ rūpasmiṃ samanupassati. Eseva nayoti iminā attano vedanādīhi anaññattaṃ tesañcādhāraṇataṃ nissitatañca yathāvuttaṃ atidisati.

461. 「色を我であると随観する」と句を掲げて、「ここに、ある者は」等(無礙解道1.130)という無礙解道の本文によってその意味を解明する。そこにおいて「我であると随観する」とは、我であると随観する、我が身として随観する。「私」と自己を指し示す。実に我論者は「私」という覚知に結びつけて我を施設する。それゆえに「この色こそが私である」「この私の色と称されるものが私である」と言われる私の我、その私の色というように、色と我とを無二であり別でないものとして随観する。そのように観る者にとって、我のように色が、あるいは色のように我が無常であると帰着することになる。「炎」とは火炎である。それがもし顕色であるならば、眼によってのみ知られるべきであり、身体によって知られるべきではない。あるいは顕色もまた身体等によって知られるべきことになり、火炎と別ではないからである。したがって比喩を受けるものと同様に、比喩もまた悪見の持ち主にとっては不当である。「見解の観察によって」とは、邪見と称される観察によって観るのであり、渇愛・慢・智慧による随観によってではない。非物質たる受等を「我」と捉えて、影が樹木に依存することから「影を持つ樹木」を観るように、色が自己のものであり我に依存することから「色を持つ我」を随観する。花に依存することから花における香りのように、内包されるものとして我に依存することから「我における色」を随観する。あたかも小箱が宝石の器であるように、色もまた我の器であるとして「色における我」を随観する。「この方法である」とは、これによって我と受等との無差別性、およびそれらの包摂性と依存性を上述のように準用する。

Arūpaṃ attāti kathitaṃ ‘‘vedanāvanta’’ntiādīsu viya rūpena vomissakatāya abhāvato. Rūpārūpamissako attā kathito rūpena saddhiṃ sesārūpadhammānaṃ attāti gahitattā. Ucchedadiṭṭhi kathitā rūpādīnaṃ vināsadassanato. Tenevāha ‘‘rūpaṃ attāti yo vadeyya, taṃ na upapajjati, attā me uppajjati ca veti cāti iccassa evamāgataṃ hotī’’tiādi. Avasesesūti pannarasasu ṭhānesu. Sassatadiṭṭhi kathitā rūpavantādibhāvena gahitassa aniddhāritarūpattā.

非物質が我であると説かれたのは、「受を有する」等におけるように色と混ざり合っていないからである。色と非物質が混ざり合った我が説かれたのは、色とともに残りの非物質の法を我と捉えたからである。断見が説かれたのは、色などの滅亡を観ることによる。それゆえに「『色が我である』と誰かが言うならば、それは成り立たない。私の我は生じ、また滅する、と彼にこのように生じるからである」等と言われた。「残りにおいて」とは、十五の箇所において。常見が説かれたのは、色を有する等の状態として捉えられたものが、特定の色として限定されないからである。

Diṭṭhigatiko yaṃ vatthuṃ attāti samanupassati, yebhuyyena taṃ niccaṃ sukhanti ca samanupassateva. Sāvako pana tappaṭikkhepena sabbe dhammā anattāti sudiṭṭhattā rūpaṃ attāti na samanupassati, tathābhūto ca aniccaṃ dukkhaṃ anattāti samanupassati, tathā vedanādayoti dassento **‘‘na rūpaṃ attato’’**tiādimāha. Evaṃ bhavadiṭṭhipi avijjābhavataṇhā viya vaṭṭassa samudayoyevāti diṭṭhikathāyaṃ **‘‘ettakena gamanaṃ hotī’’**tiādi. Diṭṭhippahānakathāyañca **‘‘ettakena gamanaṃ na hotī’’**tiādi vuttaṃ.

悪見の持ち主が何らかの対象を「我」と随観するとき、大抵はそれを「常である、楽である」とも随観する。しかし弟子はその否定によって「一切の法は無我である」と正しく見極めているがゆえに、色を我であると随観せず、そのようであって無常・苦・無我であると随観し、受等についても同様であると示すために「色を我であると〜せず」等と言われた。このように有見もまた無明や有愛のように輪廻の集(原因)そのものであるから、見解の説において「これほどによって赴くことになる」等と言われた。そして見解の断除の説において「これほどによって赴くことにはならない」等と言われた。

462. Heṭṭhā vuttamatthameva pucchitattā **‘‘theriyā paṭipucchitvā vissajjetabbo’’**ti vatvā paṭipucchanavidhiṃ dassetuṃ **‘‘upāsakā’’**tiādi vuttaṃ. Paṭipattivasenāti sakkāyanirodhagāminipaṭipadābhāvena. Saṅkhatāsaṅkhatavasena lokiyalokuttaravasena saṅgahitāsaṅgahitavasenāti ‘‘vasenā’’ti padaṃ paccekaṃ yojetabbaṃ. Tattha kāmaṃ asaṅkhato nāma maggo natthi, kiṃ saṅkhato, udāhu asaṅkhatoti pana pucchāvasena tathā vuttaṃ? ‘‘Ariyo’’ti vacaneneva maggassa lokuttarato siddhā, saṅgāhakakhandhapariyāpannānaṃ pana maggadhammānampi siyā lokiyatāti idha lokiyaggahaṇaṃ. Kiñcāpi saṅgahitapadameva pāḷiyaṃ āgataṃ, na asaṅgahitapadaṃ, ye pana saṅgāhakabhāvena vuttā, te saṅgahitā na hontīti aṭṭhakathāyaṃ asaṅgahitaggahaṇaṃ katanti daṭṭhabbaṃ. Saṅkhatotiādīsu samecca sambhuyya paccayehi katoti saṅkhato. Tathābhūto ca taṃsamaṅgino puggalassa pubbabhāgacetanāti mayhaṃ maggo aṭṭhaṅgiko hotu sattaṅgiko vāti cetitabhāvena cetito. Sahajātacetanāyapi cetitova tassā sahakārīkāraṇabhāvato, tato eva pakappito āyūhito. Paccayehi nipphāditattā kato nibbattito ca. Samāpajjantena attano santāne sammadeva āpajjantena uppādentena. Iti sattahipi padehi paccayanibbattitaṃyeva ariyamaggassa dasseti.

462. すでに下で述べられた意味そのものを尋ねられたため、「長老尼によって問い返されて答えられるべきである」と述べて、問い返す手順を示すために「優婆塞よ」等と言われた。「実践の力によって」とは、有身の滅に至る道としての実践の状態によって。「有為・無為の力によって、世間・出世間の力によって、包摂・非包摂の力によって」とは、「力によって」という句をそれぞれに結合すべきである。そこにおいて、確かに無為なる道というものは存在しないが、「有為であるか、それとも無為であるか」という問いの力によってそのように言われた。「聖なる」という言葉だけで道の出世間性は確立しているが、道を包摂する蘊に属する道の諸法にも世間性があり得ることから、ここで「世間」という把握がなされた。確かに「包摂された」という句のみが聖典本文に現れ、「包摂されない」という句は現れないが、包摂するものとして述べられたものは包摂されるものではないため、註釈において「包摂されない」という把握がなされたと見なされるべきである。「有為である」等において、諸々の縁が集まり合わさって作られたがゆえに「有為」である。そのようであり、それを具備した人物の事前の思念(前分思)として「私の道が八支となるか、七支となるか」と思念された状態として「思念された」のである。倶生の思(意志)によっても思念されたものであり、それが協同原因であるからであり、それゆえに構想され、集積されたのである。諸縁によって達成されたがゆえに「作られ、生み出された」。等至に入る者によって、自己の相続において正しく入り、生じさせられることによって。このように七つの句によっても、聖道が縁によって生み出されたものであることのみを示している。

Asaṅgahito khandhānaṃ padeso etassa atthīti maggo sappadeso. Natthi etesaṃ padesāti khandhā nippadesā. Padissati etena samudāyoti hi padeso, avayavo. Ayanti maggo. Sappadesattā ekadesattā. Nippadesehi samudāyabhāvato niravasesapadesehi. Yathā nagaraṃ rajjekadesabhūtaṃ tadantogadhattā rajjena saṅgahitaṃ, evaṃ ariyamaggo khandhattayekadesabhūto tadantogadhattā tīhi khandhehi saṅgahitoti dasseti **‘‘nagaraṃ viya rajjenā’’**ti iminā. Sajātitoti samānajātitāya, samānasabhāvattā evāti attho. Ettha ca sīlakkhandho ‘‘nava koṭisahassānī’’tiādinā (visuddhi. 1.20; apa. aṭṭha. 2.55.55; paṭi. ma. aṭṭha. 1.1.37) vuttapabhedavasena ceva sampattasamādānaviratiādivasena ca gayhamāno nippadeso, maggasīlaṃ pana ājīvaṭṭhamakameva samucchedaviratimattamevāti sappadesaṃ. Samādhikkhandho parittamahaggatādivasena ceva upacārappanāsamādhivasena ca anekabhedatāya nippadeso, maggasamādhi pana lokuttarova, appanāsamādhi evāti sappadeso. Tathā paññākkhandho parittamahaggatādivasena ceva sutamayañāṇādivasena ca anekabhedatāya nippadeso, maggapaññā pana lokuttarāva, bhāvanāmayā evāti sappadesā. Attano dhammatāyāti sahakārīkāraṇaṃ anapekkhitvā attano sabhāvena attano balena appetuṃ na sakkoti vīriyena anupatthambhitaṃ, satiyā ca anupaṭṭhitaṃ. Paggahakiccanti yathā kosajjapakkhe na patitā cittaṭṭhiti, tathā paggaṇhanakiccaṃ. Apilāpanakiccanti yathā ārammaṇe na pilavati, evaṃ apilāpanakiccaṃ.

諸蘊の包摂されない一部分がこれ(道)にあるがゆえに、道は「一部分を有するもの(有分・局分)」である。これらにはそのような一部分がないがゆえに、諸蘊は「全体(無分・全分)」である。これによって全体が示されるがゆえに「一部分(分)」、すなわち部分である。「この道は」とは、一部分を有するものであることによって、一部分であることによる。全体であることによって、余すところのない部分である「全体」によって。あたかも都市が王国の一部分であり、その内部に含まれることによって王国に包摂されるように、このように聖道は三蘊の一部分であり、その内部に含まれることによって三蘊に包摂されるということを、「都市が王国によるように」というこれによって示している。「同類であることから」とは、同種であることによって、同一の自性であることから、という意味である。そしてここにおいて戒蘊は「九十億」等によって説かれた分類の力によって、また正受・受持・遠離等の力によって把握されるならば「全体(無分)」であるが、道の戒は正命を第八とするもののみ、断除の遠離のみであるから「一部分(有分)」である。定蘊は微小・広大等の力によって、また近行・安止三摩地の力によって多くの分類があることから「全体」であるが、道の三摩地は出世間のみであり、安止三摩地のみであるから「一部分」である。同様に慧蘊も微小・広大等の力によって、また聞所成の智慧等の力によって多くの分類があることから「全体」であるが、道の智慧は出世間のみであり、修所成のみであるから「一部分」である。「自己の法性によって」とは、協同原因を考慮することなく、自己の自性によって、自己の力によって安止させることはできない、精進によって支えられず、念によって確立されないならば。「奮起の作用」とは、怠惰の側に心の安定が落ち込まないように、引き上げる作用である。「没入させない作用」とは、対象において浮動しないように、没入させない作用である。

Ekato jātāti sahajātā. Piṭṭhiṃ datvā onatasahāyo viya vāyāmo samādhissa ārammaṇe appanāya visesapaccayabhāvato. Aṃsakūṭaṃ datvā ṭhitasahāyo viya sati samādhissa ārammaṇe daḷhapavattiyā paccayabhāvato. Kiriyatoti upakārakiriyato.

「ともに生じた」とは、倶生したものである。背中を預けてかがんだ友人のように精進は、三摩地の対象への安止にとって特別な縁となるからである。肩を貸して立った友人のように念は、三摩地の対象における堅固な現起にとって縁となるからである。「作用から」とは、資益する作用から。

Ākoṭetvāti ārammaṇaṃ āhanitvā. Tathā hi vitakko ‘‘āhananaraso’’ti, yogāvacaro ca ‘‘kammaṭṭhānaṃ takkāhataṃ vitakkapariyāhataṃ karotī’’ti vuccati. Idhāpīti sammādiṭṭhisaṅkappesu. Kiriyatoti vuttappakāraupakārakiriyato.

「打ち当てて」とは、対象に打ち当てて。実に尋(尋求)は「打ち当てる本質」であり、修行者は「業処を思考に打ち当てさせ、吟味に打ち当てさせる」と言われる。ここでも正見と正思惟において。「作用から」とは、述べられた様相の資益する作用から。

Subhasukhādinimittaggāhavidhamanaṃ catukiccasādhanaṃ. Paccayattenāti sahajātādipaccayabhāvena. Catukiccasādhanavasenevāti idaṃ maggavīriyasseva gahitabhāvadassanaṃ. Tañhi ekaṃyeva hutvā catukiccaṃ yathāvuttaupakārakasabhāvena ca parivāraṭṭhena parikkhāro hoti. Maggasampayuttadhammānanti iminā maggadhammānampi gahaṇaṃ, na taṃsampayuttaphassādīnaṃyeva. Ekacittakkhaṇikāti maggacittuppādavasena ekacittakkhaṇikā.

浄・楽などの相の把握を打ち破ることは四作用の達成である。「縁の状態によって」とは、倶生縁等の状態によって。「四作用の達成の力によってのみ」とは、これは道の精進のみが把握された状態を示すものである。実にそれは一つでありながら四作用を有し、上述の資益する自性によって、また眷属の意義によって資具となる。道の相応の諸法の、とは、これによって道の諸法も把握されるのであり、それに相応する触等のみではない。「一刹那の心」とは、道心の生起の力による一刹那の心である。

Sattahi ñāṇehīti paramukkaṃsagatehi sattahi javanehi sampayuttañāṇehi, sattahi vā anupassanāñāṇehi. Ādito sevanā āsevanā, tato paraṃ vaḍḍhanā bhāvanā, punappunaṃ karaṇaṃ bahulīkammanti adhippāyenāha **‘‘aññena cittenā’’**tiādi. Adhippāyavasena niddhāretvā gahetabbatthaṃ suttaṃ neyyatthaṃ. Yathārutavasena gahetabbatthaṃ nītatthaṃ. Evaṃ santeti yadi idaṃ suttaṃ nītatthaṃ, āsevanādi ca visuṃ visuṃ cittehi hoti, evaṃ sante. Āsevanādi nāma cittassa anekavāraṃ uppattiyā hoti, na ekavāramevāti āha **‘‘ekaṃ citta’’**ntiādi. Tatrāyaṃ saṅkhepattho – āsevanāvasena pavattamānaṃ cittaṃ sucirampi kālaṃ āsevanāvaseneva pavatteyya, tathā bhāvanābahulīkammavasena pavattamānānipi, na cettha ettakāneva cittāni āsevanāvasena pavattanti, ettakāni bhāvanāvasena, bahulīkammavasenāti niyamo labbhati. Iti anekacittakkhaṇikaariyamaggaṃ vadantassa dunnivāriyovāyaṃ doso. Yathā pana pubbabhāgepi nānācittesu pavattapariññādikiccānaṃ sammādiṭṭhiādīnaṃ paṭivedhakāle yathārahaṃ catukiccasādhanaṃ, ekacittakkhaṇikā ca pavatti, evaṃ vipassanāya pavattābhisaṅkhāravasena āsevanābhāvanābahulīkammāni paṭivedhakāle ekacittakkhaṇikāneva hontīti vadantānaṃ ācariyānaṃ na koci doso āsevanādīhi kātabbakiccassa tadā ekacittakkhaṇeyeva sijjhanato. Tenāha **‘‘ekacittakkhaṇikāvā’’**tiādi. Sace sañjānātīti sace saññattiṃ gacchati. Yāguṃ pivāhīti uyyojetabbo dhammasākacchāya abhabbabhāvatoti adhippāyo.

「七つの智によって」とは、最高の頂点に達した七つの速行心に相応する智慧によって、あるいは七つの随観の智によって。初めからの実践が「習熟(親近)」であり、それ以降の増大が「修習」であり、何度も行うことが「多作」であるという意図から「他の心によって」等と言われた。意図の力によって確定して把握されるべき意味を持つ経が「了義ならざる(密意の)経」である。文字通りの力によって把握されるべき意味を持つ経が「了義の経」である。「そうであるならば」とは、もしこの経が了義であり、習熟等は別々の心によって生じるならば、そうであるならば。習熟等とは、心が何度も生起することによって生じるのであり、一度だけではない。それゆえに「一つの心を」等と言われた。そこにおいてこれが要約の意味である――習熟の力によって現起している心は、どれほど長い時間であっても習熟の力によってのみ現起するであろう。同様に修習・多作の力によって現起しているものもそうであり、ここではこれだけの心が習熟の力によって現起し、これだけが修習の力によって、多作の力によって現起するという規則は得られない。このように、多数の刹那の心による聖道を主張する者にとって、この過失は避けがたい。しかしあたかも前分においても種々の心において現起した遍知等の作用を持つ正見等に通達の時において相応に四作用の達成があり、一刹那の心の現起があるように、このように内観において現起した作意の力によって、習熟・修習・多作は通達の時においては一刹那の心にほかならないと主張する師たちにはいかなる過失もない。習熟等によってなされるべき作用はその時、一刹那の心においてのみ成就するからである。それゆえに「一刹那の心のみ」等と言われた。「もし知解するならば」とは、もし納得するならば。「粥を飲むがよい」と送り出すべきである。法談に適さない状態であるから、というのが意図である。

463. Puññābhisaṅkhārādīsūti ādi-saddena kāyasañcetanādi lakkhaṇe kāyasaṅkhārādikepi saṅgaṇhāti, na apuññāneñjābhisaṅkhāre eva. Kāyapaṭibaddhattā kāyena saṅkharīyati, na kāyasamuṭṭhānattā. Cittasamuṭṭhānā hi te dhammāti. Nibbattīyatīti ca idaṃ kāye sati sabbhāvaṃ, asati ca abhāvaṃ sandhāya vuttaṃ. Vācanti vacīghosaṃ. Saṅkharotīti janeti. Tenāha **‘‘nibbattetī’’**ti. Na hi taṃ vitakkavicārarahitacittaṃ vacīghosaṃ nibbattetuṃ sakkoti. Cittapaṭibaddhattāti etena cittassa nissayādipaccayabhāvo cittasaṅkhārasaṅkharaṇanti dasseti. Aññamaññamissāti atthato bhinnāpi kāyasaṅkhārādivacanavacanīyabhāvena aññamaññamissitā abhinnā viya, tato eva āluḷitā saṃkiṇṇā avibhūtā apākaṭā duddīpanā duviññāpayā. Ādānaggahaṇamuñcanacopanānīti yassa kassaci kāyena ādātabbassa ādānasaṅkhātaṃ gahaṇaṃ, vissajjanasaṅkhātaṃ muñcanaṃ, yathātathācalanasaṅkhātaṃ copananti imāni pāpetvā sādhetvā uppannā. Kāyato pavattā saṅkhārā, kāyena saṅkharīyantīti ca kāyasaṅkhārātveva vuccanti. Hanusaṃcopananti hanusañcalanaṃ. Vacībhedanti vācānicchāraṇaṃ. Vācaṃ saṅkharontīti katvā idha vacīsaṅkhārātveva vuccanti.

463. 「福行等において」とは、「等」という語によって身の思念などを特徴とする身行等も包摂するのであり、非福行や不動行のみではない。身体に結びついていることから「身体によって形成される」のであり、身体から生起したからではない。実にそれらの法は心から生起したものであるからである。「生み出される」というのも、これは身体があるときの存在、ないときの不在を指して言われた。「言葉を」とは、言語音を。「形成する」とは、生じさせる。それゆえに「生み出す」と言われた。実に尋求・伺察を欠いた心は、言語音を生み出すことができないからである。「心に結びついていることから」とは、これによって心の依処等の縁の状態が、心行の形成であることを示している。「互いに混ざり合っている」とは、事実上は分かれていても、身行などの言葉で述べられるべき状態によって互いに混ざり合い分かれていないかのようであり、それゆえに混乱し、錯綜し、明白でなく、顕著でなく、説明し難く、理解し難い。「持ち上げ、握り、放し、動かすこと」とは、何であれ身体によって取られるべきものを「持ち上げる」と称される把握、「放す」と称される放棄、「あれこれと動かす」と称される運動という、これらを至らせ達成して生じた。身体から現起した行であり、身体によって形成されるがゆえに「身行」とまさに呼ばれる。「顎の運動」とは、顎を動かすこと。「言葉の表出」とは、言葉を発すること。言葉を形成することから、ここでは「語行」とまさに呼ばれる。

464. Samāpajjissanti padaṃ nirodhassa āsannānāgatabhāvavisayaṃ āsannaṃ vajjetvā dūrassa gahaṇe payojanābhāvato. Nirodhapādakassa nevasaññānāsaññāyatanacittassa ca gahaṇato paṭṭhāya nirodhaṃ samāpajjati nāmāti adhippāyena **‘‘padadvayena nevasaññānāsaññāyatanasamāpattikālo kathito’’**ti vuttaṃ. Tathā cittaṃ bhāvitaṃ hotīti ettha addhānaparicchedacittaggahaṇaṃ itaresaṃ nānantariyabhāvato. Na hi baladvayañāṇasamādhicariyānaṃ vasībhāvāpādanacittehi vinā addhānaparicchedacittaṃ acittakabhāvāya hoti.

464. 「入定するであろう」という句は、滅尽の直前の未来の状態を対象とする。直前を避けて遠い未来を捉えることには意味がないからである。そして滅尽の基礎となる非想非非想処の心を捉えることから始まって滅尽定に入ると呼ばれるという意図から、「二つの句によって非想非非想処定の時が説かれた」と言われた。「そのように心が修習されている」において、ここでは期間を限定する心の把握であり、他のものは直前のものではないからである。実に、二力・智行・三摩地行の自在性を獲得させる心なしには、期間を限定する心は無心の状態のためにはならない。

Sesasaṅkhārehīti kāyasaṅkhāracittasaṅkhārehi. Dutiyajjhāneyeva nirujjhati anuppattinirodhena. Itaresupi eseva nayo. Vuṭṭhahissanti padaṃ vuṭṭhahanassa āsannānāgatabhāvavisayaṃ āsannaṃ vajjetvā dūrassa gahaṇe payojanābhāvato. Nirodhato vuṭṭhānassa ca cittuppādena paricchinnattā tato oramevāti āha **‘‘padadvayena antonirodhakālo kathito’’**ti. Tathā cittaṃ bhāvitaṃ hotīti yathā yathāparicchinnakālameva acittakabhāvo, tato paraṃ sacittakabhāvo hoti, tathā nirodhassa parikammacittaṃ uppāditaṃ hoti.

「残りの行によって」とは、身行と心行によって。第二禅においてまさに生じないことによる滅によって滅する。他においてもこの方法である。「出定するであろう」という句は、出定の直前の未来の状態を対象とする。直前を避けて遠い未来を捉えることには意味がないからである。そして滅尽からの出定は心の生起によって限定されるため、それより以前である。それゆえに「二つの句によって滅尽の内部の時が説かれた」と言われた。「そのように心が修習されている」とは、限定された時間だけ無心の状態となり、それ以降は有心の状態となるように、そのように滅尽の準備の心が生み出されているのである。

Paṭisaṅkhāti paṭisaṅkhāya idameva kātabbaṃ jānitvā appavattimattaṃ. Samāpajjantīti acittakabhāvaṃ sampadeva āpajjanti. Atha kasmā sattāhameva samāpajjantīti? Yathākālaparicchedakaraṇato, tañca yebhuyyena āhārūpajīvīnaṃ sattānaṃ upādinnakapavattassa ekadivasaṃ bhuttāhārassa sattāhameva yāpanato.

「思量して」とは、思量してこれだけがなされるべきであると知り、単なる非現起を。「入定する」とは、無心の状態に正に入定する。「ではなぜ七日間だけ入定するのか」とは、適切に時間を限定することによる。そしてそれは大抵、食物によって生きる有情の、執受されたものとして現起する一日に摂取された食物が七日間だけ維持されることによる。

Sabbā phalasamāpatti assāsapassāse na samuṭṭhāpetīti idaṃ natthīti āha **‘‘samuṭṭhāpetī’’**ti. Yā pana na samuṭṭhāpeti, taṃ dassento **‘‘imassa pana…pe… na samuṭṭhāpetī’’**ti āha. Tattha imassāti idha pāḷiyaṃ vuttanirodhasamāpajjanabhikkhuno. Tassa pana phalasamāpatti catutthajjhānikāvāti niyamo natthīti āha **‘‘kiṃ vā etenā’’**tiādi. Abbohārikāti sukhumattabhāvappattiyā ‘‘atthī’’ti voharituṃ asakkuṇeyyāti keci. Nirodhassa pana pādakabhūtāya catutthajjhānādisamādhicariyāya vasena acatutthajjhānikāpi nirodhānantaraphalasamāpatti assāsapassāse na samuṭṭhāpetīti abhāvato eva te abbohārikā vuttā. Evañca katvā sañjīvattheravatthumhi ānītasamāpattiphalanidassanampi suṭṭhu upapajjati. Tenāha **‘‘bhavaṅgasamayenevetaṃ kathita’’**nti. Kiriyamayapavattavaḷañjanakāleti ettha kiriyamayapavattaṃ kāyavacīviññattivipphāro, tassa vaḷañjanakāle pavattanasamaye. Vācaṃ abhisaṅkhātuṃ na sakkonti aviññattijanakattā tesaṃ vitakkavicārānaṃ.

すべての果等至が出入息を生じさせないということはない。それゆえに「生じさせる」と言われた。しかし生じさせないものを明かすにあたり、「しかしこの者の……中略……生じさせない」と言われた。そこにおいて「この者の」とは、ここで聖典本文に説かれた滅尽定に入る比丘の。しかし彼の果等至は第四禅に属するものかという規則はない。それゆえに「これによって何になろうか」等と言われた。「施設され得ない」とは、微細な状態に達したことにより「存在する」と表現することができない、とする者もいる。しかし滅尽の基礎となった第四禅等の三摩地行の力によって、第四禅に属さないものであっても滅尽直後の果等至は出入息を生じさせないことから、存在しないことによってこそそれらは「施設され得ない」と説かれた。そしてこのようにしてこそ、サンジーヴァ長老の物語において導かれた等至の果の比喩もよく適合する。それゆえに「有分の時によってこれが説かれた」と言われた。「作用に伴う現起を享受する時において」において、作用に伴う現起とは身表・語表の展開であり、それを享受する時、現起する時において。言葉を形成することができないのは、それらの尋求・伺察が表色を生じさせないものであるからである。

Saguṇenāti sarasena, sabhāvenāti attho. Suññatā nāma phalasamāpatti rāgādīhi suññattā. Tathā rāganimittādīnaṃ abhāvā animittā, rāgapaṇidhiādīnaṃ abhāvā appaṇihitāti āha **‘‘animittaappaṇihitesupi eseva nayo’’**ti. Animittaṃ appaṇihitañca nibbānaṃ ārammaṇaṃ katvā uppannaphalasamāpattiyaṃ phasso animitto phasso appaṇihito phasso nāmāti imamatthaṃ **‘‘eseva nayo’’**ti iminā atidisati.

「自己の特質によって」とは、自己の本質によって、自性によって、という意味である。空性という果等至は、貪り等から空であることによる。同様に貪りの相等の不在によって「無相」であり、貪りの願望等の不在によって「無願」である。それゆえに「無相・無願においてもこの方法である」と言われた。無相・無願なる涅槃を対象として生じた果等至における触は、無相の触、無願の触と呼ばれるというこの意味を「この方法である」というこれによって準用している。

Attasuññatādassanato anattānupassanā suññatā, niccanimittugghāṭanato aniccānupassanā animittā, sukhappaṇidhipaṭikkhepato dukkhānupassanā appaṇihitāti āha – **‘‘suññatā…pe… vipassanāpi vuccatī’’**ti. Aniccato vuṭṭhātīti saṅkhārānaṃ aniccākāraggāhiniyā vuṭṭhānagāminiyā parato ekatovuṭṭhānaubhatovuṭṭhānehi nimittapavattato vuṭṭhāti. Aniccato pariggahetvāti ca idaṃ ‘‘na ekantikaṃ evampi hotī’’ti katvā vuttaṃ. Esa nayo sesesupi. Appaṇihitavipassanāya maggotiādinā, suññatavipassanāya maggotiādinā ca yojanaṃ sandhāyāha **‘‘eseva nayo’’**ti. Vikappo āpajjeyya āgamanassa vavatthānassa abhāvena avavatthānakarattā. Evañhi tayo phassā phusantīti evaṃ saguṇato ārammaṇato ca nāmalābhe suññatādināmakā tayo phassā phusantīti aniyamavacanaṃ. Sameti yujjati ekasseva phassassa nāmattayayogato.

「我の空性を見ることから無我の随観は空であり、常の相を打破することから無常の随観は無相であり、楽への希求を退けることから苦の随観は無願である」と説かれた。それゆえ「空も……乃至……毘鉢舎那(ヴィパッサナー)とも呼ばれる」と言われたのである。「無常から脱出する」とは、諸行の無常の様相を把握する脱出に至る(智)によって、それ以降、一方からの脱出または双方からの脱出により、相の現起から脱出することである。「無常から把握して」とは、「一概に定まったわけではなく、このようにもなる」として説かれたものである。この理趣は他においても同様である。「無願の毘鉢舎那によって道が」など、また「空の毘鉢舎那によって道が」などと解釈することに関連して「まさにこの理趣である」と言われたのである。到来の規定がないことによって不決定となるため、異念(疑念)が生じるかもしれない。「実にこのように三つの触が触れる」とは、このように自らの特質から、また所縁から名を得ることで、空などの名を持つ三つの触が触れるという不定の言説である。一なる触に三つの名が結びつくことから、整合し、理にかなう。

Sabbasaṅkhatavivittatāya nibbānaṃ viveko nāma upadhivivekoti katvā. Ninnatā tappaṭipakkhavimukhassa tadabhimukhatā. Poṇatā onamanaṃ, pabbhāratā tato vissaṭṭhabhāvo.

すべての有為から離れていることにより、涅槃は「離」と名づけられ、依拠(煩悩・蘊)からの離であるとされる。「傾向」とは、その反対に背を向け、それに向けられていることである。「傾斜」とは傾くことであり、「傾注」とはそれへと放たれた状態である。

465. Cakkhādito rūpādīsu pavattarūpakāyato uppajjanato pañcadvārikaṃ sukhaṃ kāyikaṃ nāma, manodvārikaṃ cetophassajātāya cetasikaṃ nāma. Sabhāvaniddeso sukhayatīti katvā. Madhurabhāvadīpakanti iṭṭhabhāvajotanaṃ. Vedayitabhāvadīpakanti vedakabhāvavibhāvakaṃ. Vedanā eva hi paramatthato ārammaṇaṃ vedeti, ārammaṇaṃ pana veditabbanti. Dukkhanti sabhāvaniddesotievamādiatthavacanaṃ sandhāyāha **‘‘eseva nayo’’**ti. Ṭhitisukhāti ṭhitiyā dharamānatāya sukhā, na ṭhitikkhaṇamattena. Tenāha **‘‘atthibhāvo sukha’’**nti. Vipariṇāmadukkhāti vipariṇamanena vigamanena dukkhā, na nirodhakkhaṇena. Tenāha **‘‘natthibhāvo dukkha’’**nti. Apariññātavatthukānañhi sukhavedanuparamo dukkhato upaṭṭhāti. Svāyamattho piyavippayogena dīpetabbo. Ṭhitidukkhā vipariṇāmasukhāti etthāpi eseva nayo. Tenāha **‘‘atthibhāvo dukkhaṃ, natthibhāvo sukha’’**nti. Dukkhavedanuparamo hi sattānaṃ sukhato upaṭṭhāti. Evañhi vadanti – ‘‘tassa rogassa vūpasamena aho sukhaṃ jāta’’nti. Jānanabhāvoti yāthāvasabhāvato avabujjhanaṃ. Adukkhamasukhañhi vedanaṃ jānantassa sukhaṃ hoti tassa sukhumabhāvato, yathā tadaññe dhamme salakkhaṇato sāmaññalakkhaṇato ca sammadeva avabodho paramaṃ sukhaṃ. Tenevāha –

465. 眼などから色などの対象において生起する色身から生じることから、五門における楽は「身体的なもの」と名づけられ、意門におけるそれは意の触から生じることから「心的なもの」と名づけられる。「楽にする」ということから自性の説明である。「美味なる状態を示す」とは、愛すべき状態を明らかにすることである。「感受される状態を示す」とは、感受する状態を明示することである。勝義においては受そのものが所縁を感受し、所縁こそが感受されるべきものであるからである。「苦である」とは自性の説明であるといった意味の言説に関連して「まさにこの理趣である」と言われたのである。「持続が楽である」とは、持続し存続していることが楽なのであり、単なる持続の瞬間によるのではない。それゆえ「存在することが楽である」と言われたのである。「変易が苦である」とは、変易し消滅することが苦なのであり、滅尽の瞬間によるのではない。それゆえ「存在しないことが苦である」と言われたのである。対象を遍知していない者たちにとっては、楽受の止滅が苦として現れる。その意味は、愛するものとの別離によって示されるべきである。「持続が苦であり、変易が楽である」という点においても、まさにこの理趣である。それゆえ「存在することが苦であり、存在しないことが楽である」と言われたのである。苦受の止滅は、衆生にとって楽として現れるからである。彼らは実にこのように言う。「その病の平癒によって、ああ、楽が生じた」と。「知ることの状態」とは、真実の自性から覚知することである。実に、不苦不楽の受を知る者には、それが微細であることから楽となる。それは、それ以外の諸法を自相から、また共相から正しく覚知することが至高の楽であるのと同じである。まさにそれゆえに説かれたのである――

‘‘Yato yato sammasati, khandhānaṃ udayabbayaṃ;

「いずこより諸蘊の生滅を省察するにつけ、

Labhatī pītipāmojjaṃ, amataṃ taṃ vijānata’’nti. (dha. pa. 374);

彼は歓喜と悦脱を得る。これこそ、知る者たちにとっての不死である」(法句経 374)と。

Ajānanabhāvoti ettha vuttavipariyāyena attho veditabbo. Dukkhañhi sammohavihāroti. Aparo nayo jānanabhāvoti jānanassa ñāṇassa sabbhāvo. Ñāṇasampayuttā hi ñāṇopanissayā ca adukkhamasukhā vedanā sukhā iṭṭhākārā. Yathāha ‘‘iṭṭhā ceva iṭṭhaphalā cā’’ti. Ajānanabhāvo dukkhanti ettha vuttavipariyāyena attho veditabbo.

「不知の状態」とは、ここで説かれたことの逆によって意味が理解されるべきである。実に、痴の境涯は苦であるからである。別の理趣として、「知ることの状態」とは知る智の存在である。実に、智と相応し智を依処とする不苦不楽の受は、楽であり愛すべき様相である。「愛すべきものであり、愛すべき果報をもたらす」と言われる通りである。「不知の状態は苦である」とは、ここで説かれたことの逆によって意味が理解されるべきである。

Katamo anusayo anusetīti kāmarāgānusayādīsu sattasu anusayesu katamo anusayo anusayavasena pavattati? Appahīnabhāvena hi santāne anusayantīti anusayā, anurūpaṃ kāraṇaṃ labhitvā uppajjantīti attho. Etena kāraṇalābhe sati uppajjanārahatā nesaṃ dassitā. Appahīnā hi kilesā kāraṇalābhe sati uppajjanti. Tenāha **‘‘appahīnaṭṭhena sayito viya hotī’’**ti. Te ca nippariyāyato anāgatā kilesā daṭṭhabbā, atītā paccuppannā ca taṃsabhāvattā tathā vuccanti. Na hi dhammānaṃ kālabhedena sabhāvabhedo atthi. Yadi appahīnaṭṭho anusayaṭṭho, nanu sabbepi kilesā appahīnā anusayā bhaveyyunti? Na mayaṃ appahīnatāmattena anusayaṭṭhaṃ vadāma, atha kho pana appahīnaṭṭhena thāmagatā kilesā anusayā. Idaṃ thāmagamanañca rāgādīnameva āveṇiko sabhāvo daṭṭhabbo, yato abhidhamme – ‘‘thāmagataṃ anusayaṃ pajahatī’’ti vuttaṃ. Soti rāgānusayo. Appahīnoti appahīnabhāvamukhena anusayanaṭṭhamāha. So ca apariññātakkhandhavatthuto, pariññātesu patiṭṭhaṃ na labhati. Tenāha **‘‘na sabbāya sukhāya vedanāya so appahīno’’**ti. Ārammaṇavasena cāyaṃ anusayaṭṭho adhippeto. Tenāha **‘‘na sabbaṃ sukhaṃ vedanaṃ ārabbha uppajjatīti attho’’**ti.

「いかなる随眠が随眠するのか」とは、欲愛随眠などの七つの随眠の中で、いかなる随眠が随眠として生起するのかということである。断じられていない状態によって相続において随眠するから随眠であり、相応する原因を得て生起するという意味である。これによって、原因を得た時にそれらが生起に値することが示された。実に、断じられていない煩悩は、原因を得た時に生起する。それゆえ「断じられていないという意味で、眠っているかのようである」と言われたのである。それらは直接的な意味では未来の煩悩と見なされるべきであり、過去や現在のものは同質であることからそのように言われる。諸法には時間の相違による自性の相違はないからである。「もし断じられていないという意味が随眠の意味であるならば、断じられていないすべての煩悩が随眠となるのではないか」と言うかもしれないが、我々は単に断じられていないことだけをもって随眠の意味とは言わず、断じられていないことによって勢力を得た煩悩を随眠と言うのである。そして、この勢力を得るということは、貪などの固有の自性として見なされるべきである。アビダンマにおいて「勢力を得た随眠を断ずる」と説かれているからである。「それ」とは欲愛随眠である。「断じられていない」とは、断じられていない状態を通じて随眠の意味を語っている。そしてそれは、遍知されていない蘊という対象から生じるのであり、遍知されたものにおいては立脚地を得ない。それゆえ「すべての楽受においてそれが断じられていないのではない」と言われたのである。また、この随眠の意味は所縁の力によって意図されている。それゆえ「すべての楽受を対象として生起するのではないという意味である」と言われたのである。

Vatthuvasenapi pana anusayaṭṭho veditabbo, yo ‘‘bhūmiladdha’’nti vuccati. Tena hi aṭṭhakathāyaṃ (visuddhi. 2.834) vuttaṃ –

しかし、基盤(対象)の力によっても随眠の意味は理解されるべきであり、それは「地を得たもの」と呼ばれる。それゆえに義釈(清浄道論)において説かれた――

‘‘Bhūmīti vipassanāya ārammaṇabhūtā tebhūmakā pañcakkhandhā. Bhūmiladdhaṃ nāma tesu khandhesu uppattirahaṃ kilesajātaṃ. Tena hi sā bhūmiladdhā nāma hoti, tasmā bhūmiladdhanti vuccati, sā ca kho na ārammaṇavasena. Ārammaṇavasena hi sabbepi atītānāgate pariññātepi ca khīṇāsavānaṃ khandhe ārabbha kilesā uppajjanti mahākaccānauppalavaṇṇādīnaṃ khandhe ārabbha soreyyaseṭṭhinandamāṇavakādīnaṃ viya. Yadi ca taṃ bhūmiladdhaṃ nāma siyā, tassa appaheyyato na koci bhavamūlaṃ pajaheyya, vatthuvasena pana bhūmiladdhaṃ veditabbaṃ. Yattha yattha hi vipassanāya apariññātā khandhā uppajjanti, tattha tattha uppādato pabhuti tesu vaṭṭamūlaṃ kilesajātaṃ anuseti. Taṃ appahīnaṭṭhena bhūmiladdhanti veditabba’’ntiādi.

「『地』とは、毘鉢舎那の所縁となった三界の五蘊である。『地を得たもの』とは、それらの蘊において生起するに値する煩悩の群れである。それゆえにそれは地を得たものとなり、それゆえに地を得たものと呼ばれるが、それは所縁の力によるのではない。実に所縁の力によっては、過去・未来の、また遍知された漏尽者(阿羅漢)の蘊を対象としても煩悩が生起する。マハーカッチャーナやウッパラヴァンナーなどの蘊を対象としてソレイヤ長者やナンダ青年などに(煩悩が生じた)ようなものである。もしそれが地を得たものと呼ばれるならば、それが断ぜられ得ないことから、誰も有の根源を断じることができなくなってしまう。しかし、基盤の力によって地を得たものは理解されるべきである。なぜなら、毘鉢舎那によって遍知されていない蘊が生起するあらゆる場所に、生起の初めからそれらにおいて輪廻の根源たる煩悩の群れが随眠するからである。それは断じられていないという意味で地を得たものと理解されるべきである」などと。

Esa nayo sabbatthāti iminā ‘‘na sabbāya dukkhāya vedanāya so appahīno, na sabbaṃ dukkhaṃ vedanaṃ ārabbha uppajjatī’’tiādiṃ atidisati. Tattha yaṃ vattabbaṃ, taṃ vuttanayeneva veditabbaṃ. ‘‘Yo anusayo yattha anuseti, so pahīyamāno tattha pahīno nāma hotī’’ti tattha tattha pahānapucchā, taṃ sandhāyāha **‘‘kiṃ pahātabbanti ayaṃ pahānapucchā nāmā’’**ti.

「この理趣はすべてにおいてである」とは、これによって「すべての苦受においてそれが断じられていないのではない、すべての苦受を対象として生起するのではない」などを敷衍している。そこにおいて語られるべきことは、すでに述べられた理趣によって理解されるべきである。「いかなる随眠がいずこにおいて随眠し、それが断ぜられるとき、そこにおいて断ぜられたとされるのか」という、そこかしこにおける断についての問いであり、それに関連して「『何を断ずべきか』とは、断についての問いである」と言われたのである。

Ekeneva byākaraṇenāti ‘‘idhāvuso, visākha, bhikkhu vivicceva kāmehī’’tiādinā (ma. ni. 1.374) ekeneva vissajjanena. Dve pucchāti anusayapucchā pahānapucchāti dvepi pucchā vissajjesi. ‘‘Rāgaṃ tena pajahatī’’ti idamekaṃ vissajjanaṃ, ‘‘na tattha rāgānusayo anusetī’’ti idamekaṃ vissajjanaṃ, pucchānukkamañcettha anādiyitvā pahānakkamena vissajjanā pavattā. **‘‘Dve pucchā vissajjesī’’**ti saṅkhepato vuttamatthaṃ vivarituṃ **‘‘idhā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha tathāvikkhambhitameva katvāti iminā yo rāgaṃ vikkhambhetvā puna uppajjituṃ appadānato tathāvikkhambhitameva katvā maggena samugghāteti, tassa vasena ‘‘rāgaṃ tena pajahati, na tattha rāgānusayo anusetī’’ti vattabbanti dasseti. Kāmoghādīhi catūhi oghehi saṃsārabhavogheneva vā vegasā vuyhamānesu sattesu taṃ uttaritvā pattabbaṃ, tassa pana gādhabhāvato patiṭṭhānabhūtaṃ. Tenāha bhagavā – ‘‘tiṇṇo pāraṅgato thale tiṭṭhati brāhmaṇo’’ti (saṃ. ni. 4.238; itivu. 69; pu. pa. 187).

「唯一の解答によって」とは、「友ヴィサーカよ、ここに比丘は諸欲からまさに離れて」など(中部経典 1.374)の唯一の解答によってである。「二つの問い」とは、随眠についての問いと断についての問いという二つの問いに答えた。「それによって貪を断ずる」というのが一つの解答であり、「そこには貪の随眠は随眠しない」というのが一つの解答である。ここでの問いの順序によらず、断の順序によって解答がなされた。「二つの問いに答えた」と簡潔に述べられた意味を解明するために「ここに」などと言われたのである。そこにおいて「そのように制伏されたものとして」とは、これによって貪を制伏し、再び生起することを許さないようにそのように制伏されたものとして、道によって根絶する者の力によって「それによって貪を断じ、そこには貪の随眠は随眠しない」と語られるべきであることを示している。欲の激流などの四つの激流によって、あるいは輪廻の有の激流によって勢いよく押し流されている衆生たちにあって、それを乗り越えて到達すべきであり、またそれは底があることから確固たる足場となったものである。それゆえ世尊は説かれた――「激流を渡り、彼岸に達し、陸地に立つバラモンよ」と。

Suññatādibhedena anekabhedattā pāḷiyaṃ ‘‘anuttaresū’’ti bahuvacananiddesoti **‘‘anuttarā vimokkhā’’**ti vatvā puna tesaṃ sabbesampi arahattabhāvasāmaññena **‘‘arahatte’’**ti vuttaṃ. Visaye cetaṃ bhummaṃ. Patthanaṃ paṭṭhapentassāti ‘‘aho vatāhaṃ arahattaṃ labheyya’’nti patthanaṃ upaṭṭhapentassa, patthentassāti attho. Paṭṭhapentassāti cettha hetumhi antasaddo. Kathaṃ pana arahattavisayā patthanā uppajjatīti? Na kāci arahattaṃ ārammaṇaṃ katvā patthanā uppajjati anadhigatattā avisayabhāvato. Parikappitarūpaṃ pana taṃ uddissa patthanā uppajjati. ‘‘Uppajjati pihāpaccayā’’ti vuttaṃ paramparapaccayataṃ sandhāya, ujukaṃ pana paccayabhāvo natthīti vuttaṃ **‘‘na patthanāya paṭṭhapanamūlakaṃ uppajjatī’’**ti. Idaṃ pana sevitabbaṃ domanassaṃ akusalappahānassa kusalābhivuḍḍhiyā ca nimittabhāvato. Tenāha bhagavā – ‘‘domanassampāhaṃ, devānaminda, duvidhena vadāmi sevitabbampi asevitabbampī’’ti (dī. ni. 2.359-362). Tīhi māsehi sampajjanakā temāsikā. Sesapadadvayepi eseva nayo. Imasmiṃ vāreti imasmiṃ pavāraṇavāre. Visuddhipavāraṇanti ‘‘parisuddho aha’’nti evaṃ pavattaṃ visuddhipavāraṇaṃ. Arahantānameva hesa pavāraṇā.

空などの区分によって無数の区分があることから、パーリ本文において「無上なるものたちにおいて」と複数形で示されたゆえに「無上の解脱たち」と述べて、さらにそれらすべての阿羅漢果の共通性によって「阿羅漢果において」と言われた。これは対象における処格(第七格)である。「願を立てる者に」とは、「ああ、願わくは私は阿羅漢果を得たい」と願を現前させる者に、願う者にという意味である。「立てる者に」における「アンタ」の語は原因を表す。では、どのようにして阿羅漢果を対象とする願が生じるのか。未獲得であり対象とならないことから、阿羅漢果を所縁としてはいかなる願も生じることはない。しかし、想定された相を目標として願が生じる。「熱望を縁として生じる」とは、間接的な縁となることを指して説かれたのであり、直接的な縁となる状態はないことから「願を立てることを根本として生じるのではない」と言われたのである。しかし、この憂いは親しむべきものである。不善の断滅と善の増大の契機となるからである。それゆえ世尊は説かれた――「天帝よ、私は憂いにも親しむべきものと親しむべきでないものの二種類があると説く」と。三ヶ月で成し遂げられるものが「三ヶ月のもの」である。残りの二つの句においてもまさにこの理趣である。「この機会に」とは、この自恣(パヴァーラナー)の機会に。「清浄の自恣」とは、「私は清浄である」とこのように行われる清浄の自恣である。実にこれは阿羅漢たちだけの自恣である。

Na kadāci pahātabbassa pahāyakatā atthīti dassento **‘‘na domanassena vā’’**tiādiṃ vatvā pariyāyenetaṃ vuttaṃ, taṃ vibhāvento **‘‘ayaṃ panā’’**tiādimāha. Yaṃ panettha vattabbaṃ, taṃ parato vitthārena āgamissati. Paṭipadaṃ gahetvā patthanaṃ katvā patthanaṃ ṭhapetvā. Paṭisañcikkhatīti ovādavasena attānaṃ samuttejento katheti. Sīlena hīnaṭṭhānanti aññehi arahattāya paṭipajjantehi sīlena hīnaṭṭhānaṃ kiṃ tuyhaṃ atthīti adhippāyo. Suparisuddhanti akhaṇḍādibhāvato sudhotajātimaṇi viya suṭṭhu parisuddhaṃ. Supaggahitanti kadācipi saṅkocābhāvato vīriyaṃ suṭṭhu paggahitaṃ. Paññāti vipassanāpaññā paṭipakkhehi anadhibhūtatāya akuṇṭhā tikkhavisadā saṅkhārānaṃ sammasane sūrā hutvā vahati pavattati. Pariyāyenāti tassa domanassassa arahattupanissayatāpariyāyena. Ārammaṇavasena anusayanaṃ idhādhippetanti āha **‘‘na taṃ ārabbha uppajjatī’’**ti. Anuppajjanamettha pahānaṃ nāmāti vuttaṃ **‘‘pahīnova tattha paṭighānusayoti attho’’**ti. Tatiyajjhānena vikkhambhetabbā avijjā, sā eva ariyamaggena samucchindīyatīti **‘‘avijjānusayaṃ vikkhambhetvā’’**tiādi vuttaṃ, anusayasadisatāya vā. ‘‘Rāgānusayaṃ vikkhambhetvā’’ti etthāpi eseva nayo. Catutthajjhāne nānuseti nāma tattha kātabbakiccākaraṇato.

決して断ずべきものが断ずる力を持つことはないことを示すために「憂いによってではなく」などと述べて、これは方便によって説かれたのであるとし、それを説明して「しかしこれは」などと言われた。ここで語られるべきことは、後において詳細に現れるであろう。「行道を把握して願を立てて」とは、願を据えてということである。「省察する」とは、教誡を通じて自らを奮い立たせつつ語ることである。「戒において劣る点」とは、阿羅漢果のために実践している他の者たちと比べて、戒において劣る点があなたにあるのか、という趣旨である。「極めて清浄である」とは、破損などの状態がないことから、よく磨かれた純正の宝石のように極めて清浄であること。「極めて引き締められた」とは、いかなる時も縮退することがないことから、精進が極めて引き締められていること。「智慧」とは毘鉢舎那の智慧であり、敵対するものに圧倒されないことから鈍ることなく、鋭く明晰で、諸行を省察することに勇敢となって運び、機能する。「方便によって」とは、その憂いが阿羅漢果の依拠となる方便によってである。ここでは所縁の力による随眠が意図されていることから「それを対象として生起しない」と言われたのである。ここでの不生起こそが断と呼ばれることから「そこには瞋恚随眠は断ぜられているという意味である」と言われたのである。第三禅によって制伏されるべき無明は、まさに聖道によって根絶されることから「無明随眠を制伏して」などと言われたのであり、あるいは随眠に類似していることによる。「貪の随眠を制伏して」という点においても、まさにこの理趣である。第四禅において随眠しないとされるのは、そこにおいてなされるべき役割がなされないことによる。

466. Tasmāti paccanīkattā sabhāvato kiccato paccayato cāti adhippāyo. Visabhāgapaṭibhāgo kathito ‘‘kaṇhasukkasappaṭibhāgā dhammā’’tiādīsu viya. Andhakārāti andhakārasadisā appakā sabhāvato. Avibhūtā apākaṭā anoḷārikabhāvato. Tato eva duddīpanā duviññāpanā. Tādisāvāti upekkhāsadisāva. Yathā upekkhā sukhadukkhāni viya na oḷārikā, evaṃ avijjā rāgadosā viya na oḷārikā. Atha kho andhakārā avibhūtā duddīpanā duviññāpanāti attho. Sabhāgapaṭibhāgo kathito ‘‘paṇidhi paṭighoso’’tiādīsu viya. Yattakesu ṭhānesūti dukkhādīsu yattakesu ṭhānesu, yattha vā ñeyyaṭṭhānesu. Visabhāgapaṭibhāgoti andhakārassa viya āloko vighātakapaṭibhāgo. Vijjāti maggañāṇaṃ adhippetaṃ, vimuttīti phalanti āha **‘‘ubhopete dhammā anāsavā’’**ti. Anāsavaṭṭhenātiādīsu paṇītaṭṭhenātipi vattabbaṃ. Sopi hi vimuttinibbānānaṃ sādhāraṇo, vimuttiyā asaṅkhataṭṭhena nibbānassa visabhāgatāpi labbhateva. Pañhaṃ atikkamitvā gatosi, apucchitabbaṃ pucchantoti adhippāyo. Pañhānaṃ paricchedapamāṇaṃ gahetuṃ yuttaṭṭhāne aṭṭhatvā tato paraṃ pucchanto nāsakkhi pañhānaṃ pariyantaṃ gahetuṃ. Appaṭibhāgadhammassāti nippariyāyato sabhāgapaṭibhāgena appaṭibhāgadhammassa. Anāgatādipariyāyena nibbānassa sabhāgapaṭibhāgo vutto, visabhāge ca attheva saṅkhatadhammā, tasmā nippariyāyato kiñci sabhāgapaṭibhāgaṃ sandhāya pucchatīti katvā **‘‘accayāsī’’**tiādi vuttaṃ. Asaṅkhatassa hi appatiṭṭhassa ekantaniccassa sato nibbānassa kuto nippariyāyena sabhāgassa sambhavo. Tenāha **‘‘nibbānaṃ nāmeta’’**ntiādi.

466. 「それゆえ」とは、自性から、役割から、縁から敵対していることによる、という趣旨である。不相応な対応物(反対物)が、「黒と白の対比される諸法」などにおけるように語られた。「暗闇」とは、自性において暗闇のように微細なものである。「未顕現」とは、粗大ではない状態から明白でないこと。まさにそれゆえに「説明しがたく、知らせがたい」。「それと同様である」とは、まさに捨と同様であるということ。捨が苦楽のように粗大ではないのと同様に、無明も貪や瞋のように粗大ではない。しかし、暗闇であり、未顕現であり、説明しがたく知らせがたいという意味である。相応する対応物(類似物)が、「願と反響」などにおけるように語られた。「いかなる箇所において」とは、苦などのいかなる箇所において、あるいは知るべき箇所において。「反対の対応物」とは、暗闇に対する光のような、破壊する反対物である。「明」とは道智が意図されており、「解脱」とは果であることから「これら両者の法は無漏である」と言われた。「無漏という意味において」などにおいて、「殊勝という意味において」とも言われるべきである。実にそれも解脱と涅槃に共通しており、解脱が無為という意味によって涅槃と異なる性質を持つこともまた得られる。「問いを踏み越えて進んだ」とは、問うべきでないことを問うている、という趣旨である。問いの限定の基準を把握すべき適切な場所に留まらず、それ以上を問うて、問いの限界を把握することができなかった。「対応物のない法に」とは、直接的な意味において相応する対応物のない法に、ということである。未来などの方便によって涅槃の相応する対応物が説かれ、反対のものには確かに有為法が存在する。それゆえ直接的な意味で何らかの相応する対応物を指して問うているとして「踏み越えた」などと言われたのである。実に無為であり、無依拠であり、一向に常住である涅槃に、どうして直接的な意味での相応するものが生じ得ようか。それゆえ「涅槃とは」などと言われたのである。

Viraddhoti ettha sabhāgapaṭibhāgaṃ pucchissāmīti nicchayābhāvato pucchitamatthaṃ virajjhitvāva pucchi, na ajānitvāti attho. Etena heṭṭhā sabbapucchā diṭṭhasaṃsandananayena jānitvāva pavattāti dīpitaṃ hoti. Therī pana taṃ taṃ pucchitamatthaṃ sabhāvato vibhāventī satthu desanāñāṇaṃ anugantvāva vissajjesi. Nibbānogadhanti nibbānaṃ ogāhitvā ṭhitaṃ nibbānantogadhaṃ. Tenāha **‘‘nibbānabbhantaraṃ nibbānaṃ anupaviṭṭha’’**nti. Assāti brahmacariyassa.

「外れた」とは、ここで「相応する対応物を問おう」という確信がなかったことから、問われた意味から外れて問いかけたのであり、知らなかったからではないという意味である。これによって、前のすべての問いは見解を照合する理趣によって知った上でなされたことが示される。しかし長老尼は、その問われた意味を自性から解明しつつ、師の説法の智に従って答えた。「涅槃を拠所とする」とは、涅槃に入り込んで留まる、涅槃を内に含むということである。それゆえ「涅槃の内部であり、涅槃に入り込んだ」と言われた。「これの」とは、清浄行(梵行)の、である。

467. Paṇḍiccena samannāgatāti ettha vuttapaṇḍiccaṃ dassetuṃ **‘‘dhātukusalā’’**tiādi vuttaṃ. Tenevāha – ‘‘kittāvatā nu kho, bhante, paṇḍito hoti? Yato kho, ānanda, bhikkhu dhātukusalo ca hoti, āyatanakusalo ca paṭiccasamuppādakusalo ca ṭhānāṭṭhānakusalo ca. Ettāvatā nu kho, ānanda, bhikkhu paṇḍito hotī’’ti (ma. ni. 3.124). Paññāmahattaṃ nāma theriyā asekkhappaṭisambhidappattāya paṭisambhidāyo pūretvā ṭhitatāti taṃ dassetuṃ **‘‘mahante atthe’’**tiādi vuttaṃ. Rājayuttehīti rañño kamme niyuttapurisehi. Āhaccavacanenāti satthārā karaṇādīni āhanitvā pavattitavacanena. Yadettha atthato na vibhattaṃ, taṃ heṭṭhā vuttanayattā suviññeyyameva.

467. 「賢明さを具えた」とは、ここで説かれた賢明さを示すために「界に巧みであり」などと言われた。まさにそれゆえに説かれた――「大徳よ、どれほどによって賢者となるのでしょうか? アーナンダよ、比丘が界に巧みであり、処に巧みであり、縁起に巧みであり、処非処に巧みであるとき、アーナンダよ、これほどによって比丘は賢者となるのである」と。長老尼の「智慧の大いなること」とは、無学の無礙解に達した者として無礙解を満たして留まることであり、それを示すために「偉大なる義を」などと言われた。「王に仕える者たちによって」とは、王の用務に任じられた人々によって。「直接の言葉によって」とは、師によって根拠などを直接打つようにして説かれた言葉によって。ここで意味において分別されなかったことは、前に述べられた理趣によるため、極めて容易に理解される。

Cūḷavedallasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

『小有明経』の注釈における深遠な意味の解明は完結した。

5. Cūḷadhammasamādānasuttavaṇṇanā

5. 小法受経の注釈

468. Dhammoti gahitagahaṇānīti dhammo vā hotu itaro vā, dhammoti paggahitaggāhappavattā cariyāva. Āyūhanakkhaṇeti tassa dhammoti gahitassa pavattanakkhaṇe. Sukhanti akicchaṃ. Tenāha **‘‘sukara’’**nti. Dukkhavipākanti aniṭṭhaphalavipaccanaṃ.

468. 「法とは」把握された執着のことである。法であれそれ以外であれ、「法」として信受し把握されて行われる行いそのものである。「積み上げる瞬間に」とは、その法として把握されたものが生起する瞬間に。「安楽に」とは、困難なくということ。それゆえ「容易に」と言われた。「苦の異熟をもたらす」とは、好ましくない果報として熟すことである。

469. Yathā cakkhādīnaṃ pañcannaṃ indriyānaṃ yathāsakaṃ visayaggahaṇaṃ sabhāvasiddhaṃ, evaṃ manasopi. Te ca visayā iṭṭhākārato gahaṇe na koci doso, purisattabhāve na ca te dosaṃ pavattentīti ayaṃ tesaṃ samaṇabrāhmaṇānaṃ laddhīti āha **‘‘vatthukāmesupi kilesakāmesupi doso natthī’’**ti, assādetvā visayaparibhoge natthi ādīnavo, tappaccayā na koci antarāyoti adhippāyo. Pātabyataṃ āpajjantīti paribhuñjanakataṃ upagacchanti. Paribhogattho hi ayaṃ -saddo kattusādhano ca tabya-saddo, yathāruci paribhuñjantīti attho. Kilesakāmopi assādiyamāno vatthukāmantogadhoyeva, kilesakāmavasena pana nesaṃ assādetabbatāti āha **‘‘vatthukāmesu kilesakāmena pātabyata’’**nti. Kilesakāmenāti karaṇatthe karaṇavacanaṃ. Pātabyataṃ paribhuñjitabbatanti etthāpi kattuvaseneva attho veditabbo. Moḷiṃ katvāti veṇibandhavasena moḷiṃ katvā. Tāpasaparibbājikāhīti tāpasapabbajjūpagatāhi. Pariññaṃ paññapentīti idaṃ ‘‘pahānamāhaṃsū’’ti padasseva vevacananti **‘‘pahānaṃ samatikkamaṃ paññapentī’’**ti vuttaṃ. Tena kāmā nāmete aniccā dukkhā vipariṇāmadhammāti yāthāvato parijānanaṃ idha ‘‘pahāna’’nti adhippetaṃ, na vinābhāvamattanti dasseti. Māluvāsipāṭikāti māluvāvidalaṃ māluvāphale poṭṭalikā. Santāsaṃ āpajjeyyāti sāle adhivatthadevatāya pavattiṃ gahetvā vuttaṃ. Tadā hi tassā evaṃ hoti. Koviḷārapattasadisehīti mahākoviḷārapattasaṇṭhānehi. Saṇṭhānavasena hetaṃ vuttaṃ, māluvāpattā pana koviḷārapattehi mahantatarāni ceva ghanatarāni ca honti. Vipulabahughanagarupattatāya mahantaṃ bhāraṃ janetvā. Sāti māluvālatā. Oghananti heṭṭhato olambanahetubhūtaṃ ghanabhāvaṃ.

469. 眼などの五つの感覚器官がそれぞれ自らの対象を把握することが自性として成り立っているように、意もまた同様である。そして、それらの対象を愛すべき様相として把握することにいかなる過失もなく、人の身体においてそれらは過失を生じさせない、というのがこれら沙門・バラモンたちの所見であることから「事欲(対象)においても煩悩欲においても過失はない」と言われた。味読して対象を享受することに過患はなく、それを縁としていかなる障害もない、という趣旨である。「飲まれるべき状態に至る」とは、享受される状態に達するということ。「パー(飲む)」の語は享受の意味であり、「タッバ(べき)」の語は能動の達成であり、望むがままに享受するという意味である。煩悩欲もまた、味読されるときは事欲に含まれるものであり、煩悩欲の力によって彼らは味読すべきであることから「事欲において煩悩欲によって飲まれるべき状態」と言われた。「煩悩欲によって」とは、具格の意味における具格の語である。「飲まれるべき状態、享受されるべき状態」とは、ここでも能動の力によって意味が理解されるべきである。「髷を結んで」とは、編み髪を結ぶことによって髷を結んで。「遊行の女出家者たちと」とは、遊行の出家を遂げた女性たちと。「遍知を施設する」とは、これは「断滅を語った」という句の同義語であることから「断滅と超越を施設する」と言われた。これによって、諸欲とは無常であり苦であり変易する法であると正しく遍知することが、ここでは「断滅」と意図されているのであり、単なる別離ではないことを示している。「マルアの種袋」とは、マルアの蔓の破片であり、マルアの実の包みである。「恐れを抱くかもしれない」とは、サーラ樹に住まう樹神の身の上を取り上げて説かれた。実にその時、彼女にはこのように思われるからである。「コヴィラーラの葉に似た」とは、大きなコヴィラーラの葉の形をした。「形に従って」とは、このように言われたのであり、マルアの葉はコヴィラーラの葉よりも大きく、また厚いものである。「広大で多く厚く重い葉によって」とは、大きな重みを生じさせて。「それ」とは、マルアの蔓。「下に垂れ下がる」とは、下へと垂れ下がる原因となる厚みである。

Andhavanasubhagavanaggahaṇaṃ tesaṃ abhilakkhitabhāvato. Nāḷikerādīsu tiṇajātīsu. Khādanupalakkhaṇaṃ upacikānaṃ uṭṭhahanaggahaṇanti āha **‘‘uṭṭhaheyyu’’**nti. Keḷiṃ karontī viyāti vilambananadī viya keḷiṃ karontī. Idāni ahaṃ taṃ ajjhottharinti pamodamānā viya ito cito ca vipphandamānā vilambantī. Samphassopi sukho mudutaluṇakomalabhāvato. Dassanampi sukhaṃ ghanabahalapattasaṃhatatāya. Somanassajātāti pubbe anussavavasena bhavanavināsabhayā santāsaṃ āpajji, idāni tassā sampattidassanena palobhitā somanassajātā ahosi.

暗林と美麗林への言及は、それらが著名であることによる。「椰子などの」草木において。「食い荒らすことの兆候」とは、白蟻が生じることの言及であることから「生じるかもしれない」と言われた。「戯れをするかのように」とは、蛇行する川が戯れをするかのように。「今や私はそれを覆い尽くした」と歓喜するかのように、あちこちに揺れ動きながら垂れ下がりつつ。「接触も心地よい」とは、柔軟で若く柔らかい状態であることによる。「見ることも心地よい」とは、厚く豊かな葉が密生していることによる。「歓喜を生じた」とは、以前は伝聞によって住処が破壊される恐れから恐怖を抱いていたが、今やその美観を見て魅惑され、歓喜を生じた。

Viṭabhiṃ kareyyāti ātānavitānavasena jaṭentī jālaṃ kareyya. Tathābhūtā ca ghanapattasañchannatāya chattasadisī hotīti āha **‘‘chattākārena tiṭṭheyyā’’**ti. Sakalaṃ rukkhanti upari sabbasākhāpasākhaṃ sabbarukkhaṃ. Bhassamānāti paliveṭhanavaseneva otaramānā. Yāva mūlā otiṇṇasākhāhīti māluvā bhārena onamitvā rukkhassa yāva mūlā otiṇṇasākhāhi puna abhiruhamānā. Sabbasākhāti heṭṭhā majjhe upari cāti sabbāpi sākhāyo paliveṭhentī. Saṃsibbitvā jālasantānakaniyāmena jaṭetvā. Evaṃ aparāparaṃ saṃsibbanena ajjhottharantī. Sabbasākhā heṭṭhā katvā sayaṃ upari ṭhatvā mahābhārabhāvena vāte vā vāyante deve vā vassante padāleyya. Sākhaṭṭhakavimānanti sākhāpaṭibaddhaṃ vimānaṃ. Yasmā idha satthārā ‘‘seyyathāpi, bhikkhave’’tiādinā bhūtapubbameva vatthu upamābhāvena āhaṭaṃ, tasmā **‘‘idaṃ pana vimāna’’**ntiādi vuttaṃ.

「天蓋を作るかもしれない」とは、張り巡らされることによって絡み合い網を作るかもしれない。「そのようになり、厚い葉に覆われていることから天蓋のようである」ことから「天蓋の姿で立つかもしれない」と言われた。「樹木全体を」とは、上方のすべての枝や小枝、すべての樹木を。「落ちていきながら」とは、巻き付くことによって降りていきながら。「根に至るまで垂れ下がった枝によって」とは、マルアの重みで垂れ下がり、樹木の根に至るまで降りてきた枝によって、再び登りながら。「すべての枝」とは、下部、中間、上部のすべての枝を巻き付けながら。「縫い合わせるようにして」とは、網の広がりの理趣によって絡み合わせて。このように次々と縫い合わせるようにして覆い尽くしながら。すべての枝を下にし、自らは上に立って、大いなる重みによって、風が吹くときも雨が降るときも裂いてしまう。「枝の宮殿」とは、枝に依存した宮殿である。ここで師によって「比丘たちよ、例えば」などと、かつて実際にあった事柄が譬喩として引き合いに出されたゆえに「しかしこの宮殿は」などと言われたのである。

471. Bahalarāgasabhāvoti paccavekkhaṇāhi nīharituṃ asakkuṇeyyatāya balavā hutvā abhibhavanarāgadhātuko. Rāgajanti rāganimittajātaṃ. Diṭṭhe diṭṭhe ārammaṇeti diṭṭhe diṭṭhe visabhāgārammaṇe. Nimittaṃ gaṇhātīti kilesuppattiyā kāraṇabhūtaṃ anubyañjanaso nimittaṃ gaṇhāti, sikkhāgāravena pana kilesehi nissitaṃ maggaṃ na paṭipajjati, tato eva ācariyupajjhāyehi āṇattaṃ daṇḍakammaṃ karoteva. Tenāha **‘‘na tveva vītikkamaṃ karotī’’**ti. Hatthaparāmāsādīnīti – ‘‘ehi tāva tayā vuttaṃ mayā vuttañca amutra gantvā vīmaṃsissāmā’’tiādinā hatthaggahaṇādīni karonto, na karuṇāmettānidānavasena. Mohajātikoti bahalamohasabhāvo.

471. 「強い貪の自性を持つ者」とは、省察によって除去することができないことから強大となって圧倒する貪の性質を持つ者。「貪から生じる」とは、貪の対象から生じる。「見られた対象ごとに」とは、見られた様々な好ましくない対象において。「相を把握する」とは、煩悩の生起の原因となる細相を把握することであるが、学処への敬意から煩悩に依拠した道には入らず、まさにそれゆえに師や阿闍梨によって命じられた罰則の務めを必ず行う。それゆえ「しかし決して逸脱を犯さない」と言われたのである。「手を取ることなど」とは、「さあ、あなたが言ったことと私が言ったことをあそこへ行って検討しよう」などとして手を取ることなどを行うのであり、慈悲を動機とするのではない。「痴の性質を持つ者」とは、強い痴の自性を持つ者である。

472. Kammaniyāmenāti purimajātisiddhena lobhussadatādiniyamitena kammaniyāmena. Idāni taṃ lobhussadatādiṃ vibhāgena dassetuṃ **‘‘yassa hī’’**tiādi āraddhaṃ. Tattha kammāyūhanakkhaṇeti kammakaraṇavelāya. Lobho balavāti tajjāya sāmaggiyā sāmatthiyato lobho adhiko hoti. Alobho mandoti tappaṭipakkho alobho dubbalo hoti. Kathaṃ panete lobhālobhā aññamaññaṃ ujuvipaccanīkabhūtā ekakkhaṇe pavattanti? Na kho panetaṃ evaṃ daṭṭhabbaṃ ‘‘ekakkhaṇe pavattantī’’ti, nikantikkhaṇaṃ pana āyūhanakkhaṇameva katvā evaṃ vuttaṃ. Esa nayo sesesu. Pariyādātunti abhibhavituṃ na sakkoti. Yo hi ‘‘evaṃsundaraṃ evaṃvipulaṃ evaṃmahagghañca na sakkā parassa dātu’’ntiādinā amuttacāgatādivasena pavattāya cetanāya sampayutto alobho sammadeva lobhaṃ pariyādātuṃ na sakkoti. Dosamohānaṃ anuppattiyaṃ tādisapaccayalābheneva adosāmohā balavanto. Tasmāti lobhādosāmohānaṃ balavabhāvato alobhadosamohānañca dubbalabhāvatoti vuttameva kāraṇaṃ paccāmasati. Soti taṃsamaṅgī. Tena kammenāti tena lobhādiupanissayavatā kusalakammunā. Sukhasīloti sakhilo. Tamevatthaṃ akkodhanoti pariyāyena vadati.

472. 「業の決定によって」とは、前世において確立した貪の増盛などによって決定された業の理趣によって。今や、その貪の増盛などを分別して示すために「実にいかなる者の」などと始められた。そこにおいて「業を積み上げる瞬間に」とは、業をなす時に。「貪が強く」とは、それに相応する和合の力によって貪が優勢となる。「無貪が弱い」とは、それと反対の無貪が弱弱しいことである。では、これら貪と無貪という互いに真っ向から対立するものが、どのようにして一瞬のうちに生起するのか。しかしこれは「一瞬のうちに生起する」と見なされるべきではなく、執着の瞬間をまさに積み上げの瞬間としてこのように説かれたのである。この理趣は他においても同様である。「克服すること」とは、圧倒することができない。「実に『このように美しく、このように広大で、このように高価なものを他人に与えることはできない』などと、惜しみなく施すことのない状態などによって生起した思(意志)と相応する無貪は、貪を完全に克服することができない」。瞋恚と痴の不生起において、そのような条件を得ることによってのみ無瞋と無痴が強力となる。「それゆえ」とは、貪・無瞋・無痴が強大であること、そして無貪・瞋恚・痴が弱弱しいことによる、というすでに述べられた理由を指し示している。「彼」とは、それを具えた者。「その業によって」とは、その貪などの依拠を持つ善業によって。「柔和な性格の」とは、親しみやすいこと。まさにその意味を「怒りのない」と換言して述べている。

Mandā alobhādosā lobhadose pariyādātuṃ na sakkonti, amoho pana balavā mohaṃ pariyādātuṃ sakkotīti evaṃ yathārahaṃ paṭhamavāre vuttanayeneva atidesattho veditabbo. Purimanayenevāti pubbe vuttanayānusārena. Duṭṭhoti kodhano. Dandhoti mandamañño. Sukhasīlakoti sukhasīlo.

微弱な無貪と無瞋は貪と瞋恚を克服することができないが、強力な無痴は痴を克服することができる、とこのように相応して第一の節において述べられた理趣によって敷衍される意味が理解されるべきである。「まさに前述の理趣によって」とは、前に述べられた理趣に従って。「粗暴な」とは、怒りっぽいこと。「愚鈍な」とは、理解が遅いこと。「柔和な性格の」とは、親しみやすいことである。

Ettha ca lobhavasena, dosamoha-lobhadosa-lobhamoha-dosamoha-lobhadosamohavasenāti tayo ekakā, tayo dukā, eko tikoti lobhādiussadavasena akusalapakkhe eva satta vārā, tathā kusalapakkhe alobhādiussadavasenāti cuddasa vārā labbhanti. Tattha alobhadosamohā, alobhādosamohā, alobhadosāmohā balavantoti āgatehi kusalapakkhe tatiyadutiyapaṭhamavārehi dosussadamohussadadosamohussadavārā gahitā eva honti. Tathā akusalapakkhe lobhādosāmohā, lobhadosāmohā, lobhādosamohā balavantoti āgatehi tatiyadutiyapaṭhamavārehi adosussadaamohussadaadosāmohussadavārā gahitā evāti akusalakusalapakkhesu tayo tayo vāre antogadhe katvā aṭṭheva vārā dassitā. Ye pana ubhayasammissatāvasena lobhālobhussadavārādayo apare ekūnapaññāsa vārā kāmaṃ dassetabbā, tesaṃ asambhavato eva na dassitā. Na hi ‘‘ekasmiṃ santāne antarena avatthantaraṃ lobho ca balavā alobho cā’’tiādi yujjati. Paṭipakkhavasena vāpi etesaṃ balavadubbalabhāvo sahajātadhammavasena vā. Tattha lobhassa tāva paṭipakkhavasena anabhibhūtatāya balavabhāvo, tathā dosamohānaṃ adosāmohehi. Alobhādīnaṃ pana lobhādianabhibhavanato. Sabbesañca samānajātiyasamadhibhuyya pavattivasena sahajātadhammato balavabhāvo. Tena vuttaṃ aṭṭhakathāyaṃ (ma. ni. aṭṭha. 2.472) – ‘‘lobho balavā, alobho mando. Adosāmohā balavanto, dosamohā mandā’’tiādi, so ca nesaṃ mandabalavabhāvo purimūpanissayato tathā āsayassa paribhāvitatāya veditabbo. Tenevāha **‘‘kammaniyāmenā’’**ti. Sesaṃ vuttanayattā suviññeyyamevāti.

そしてここにおいて、貪の力によって、瞋恚・痴、貪・瞋恚、貪・痴、瞋恚・痴、貪・瞋恚・痴の力によって、三つの単独、三つの二重複合、一つの三重複合というように、貪などの増盛の力によって不善の側において七つの節、同様に善の側において無貪などの増盛の力によって十四の節が得られる。そこにおいて、無貪・瞋恚・痴、無貪・無瞋・痴、無貪・瞋恚・無痴が強力であると説かれた善の側の第三・第二・第一の節によって、瞋恚の増盛、痴の増盛、瞋恚・痴の増盛の節はすでに把握されている。同様に不善の側において、貪・無瞋・無痴、貪・瞋恚・無痴、貪・無瞋・痴が強力であると説かれた第三・第二・第一の節によって、無瞋の増盛、無痴の増盛、無瞋・無痴の増盛の節はすでに把握されているため、不善と善の側のそれぞれ三つずつの節を含めて八つの節のみが示された。一方で、双方の混在によって貪・無貪の増盛の節など、他の四十九の節が当然示されるべきであるが、それらはあり得ないことから示されなかった。実に「一つの相続において、別の状態を挟むことなく貪が強く、かつ無貪も強い」などは成立しないからである。あるいは、これらは反対のものによる強弱、または倶生する法による強弱である。そこにおいて、まず貪は反対のものによって圧倒されないことから強力であり、同様に瞋恚と痴は無瞋と無痴によって圧倒されないことによる。しかし無貪などは貪などを圧倒しないことによる。そしてすべては同類が優勢となって生起することによって、倶生する法から強力となる。それゆえ義釈において説かれた――「貪が強く、無貪が微弱である。無瞋と無痴が強力であり、瞋恚と痴が微弱である」などと。そして彼らの微弱さと強力さの状態は、過去の習気によってそのように意楽が薫習されたことによって理解されるべきである。まさにそれゆえ「業の決定によって」と言われたのである。残りは述べられた理趣によるため、極めて容易に理解される。

Cūḷadhammasamādānasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

『小法受経』の注釈における深遠な意味の解明は完結した。

6. Mahādhammasamādānasuttavaṇṇanā

6. 大法受経の注釈

473. Evaṃ idāni vuccamānākāro kāmo kāmanaṃ icchā etesanti evaṃkāmā. Evaṃ chando chandanaṃ rocanaṃ ajjhāsayo etesanti evaṃchandā. Abhimukhaṃ, abhinivissa vā pakārehi eti upagacchatīti adhippāyo, laddhi. Sā hi laddhabbavatthuṃ abhimukhaṃ ‘‘evameta’’nti abhinivisantī tena tena pakārena upagacchati, hatthagataṃ katvā tiṭṭhati na vissajjeti. Evaṃ vuccamānākāro adhippāyo etesanti evaṃadhippāyā. Bhagavā mūlaṃ kāraṇaṃ etesaṃ yāthāvato adhigamāyāti bhagavaṃmūlakā. Tenāha **‘‘bhagavantañhi nissāya mayaṃ ime dhamme ājānāma paṭivijjhāmā’’**ti. Amhākaṃ dhammāti tehi attanā adhigantabbatāya vuttaṃ. Sevitabbānañhi yāthāvato adhigamañāṇāni adhigacchanakasambandhīni, tāni ca sammāsambuddhamūlakāni anaññavisayattā. Tenāha **‘‘pubbe kassapasambuddhenā’’**tiādi. Bhagavā netā tesanti bhagavaṃnettikā. Netāti sevitabbadhamme vineyyasantānaṃ pāpetā. Vinetāti asevitabbadhamme vineyyasantānato apanetā. Tadaṅgavinayādivasena vā vinetā. Anunetāti ime dhammā sevitabbā, ime na sevitabbāti ubhayasampāpanāpanayanatthaṃ paññapetā. Tenāha **‘‘yathāsabhāvato’’**tiādi.

473. 「このように」今語られるような様相の欲求、願望、望みを彼らが持つことから「このような欲求を持つ」。このような意欲、志向、嗜好、意向を彼らが持つことから「このような意欲を持つ」。向かって、あるいは執着して様々な様態で進み至るという意図、見解である。実にそれは、得られるべき対象に向かって「この通りである」と執着しつつ様々な様態で進み至り、手中に収めて留まり、手放さない。このように語られる様相の意図を彼らが持つことから「このような意図を持つ」。世尊がそれらを真実のままに覚知するための根本、原因であることから「世尊を根本とする」。それゆえ「実に世尊に依拠して、私たちはこれらの法を知り、通達する」と言われたのである。「私たちの法」とは、彼ら自身によって覚知されるべきものとして説かれた。親しむべき諸法を真実のままに覚知する智は覚知する者に関連しており、それらは他ならぬ世尊を根本とするからである。それゆえ「かつてカッサパ正等覚者によって」などと言われた。「世尊がそれらの導き手である」ことから「世尊を導き手とする」。「導き手」とは、親しむべき法において教化される者の相続を到達させる者。「調御者」とは、親しむべからざる法から教化される者の相続を遠ざける者。あるいは、部分的な調伏などの力によって調御する者。「勧導者」とは、これらの法は親しむべきであり、これらの法は親しむべきではないと、双方の獲得と排除のために施設する者。それゆえ「自性のままに」などと言われた。

Paṭisaranti etthāti paṭisaraṇaṃ, bhagavā paṭisaraṇaṃ etesanti bhagavaṃpaṭisaraṇā. Paṭisarati sabhāvasampaṭivedhavasena paccekamupagacchatīti vā paṭisaraṇaṃ, bhagavā paṭisaraṇaṃ etesanti bhagavaṃpaṭisaraṇā. Paṭivedhavasenāti paṭivijjhitabbatāvasena. Asatipi mukhe atthato evaṃ vadanto viya hotīti āha **‘‘phasso āgacchati, ahaṃ bhagavā kiṃ nāmo’’**ti. Paṭibhātūti ettha paṭi-saddāpekkhāya ‘‘bhagavanta’’nti upayogavacanaṃ, attho pana sāmivacanavaseneva veditabboti dassento āha **‘‘bhagavato’’**ti paṭibhātūti ca bhagavato bhāgo hotu. Bhagavato hi esa bhāgo, yadidaṃ dhammassa desanā, amhākaṃ pana bhāgo savananti adhippāyo. Keci pana paṭibhātūti padissatūti atthaṃ vadanti, ñāṇena dissatu, desīyatūti vā attho. Upaṭṭhātūti ca ñāṇassa paccupaṭṭhātu.

「ここに帰着する」ことから帰処であり、世尊が彼らの帰処であることから「世尊を帰処とする」。自性を洞察することによって個々に帰着するから帰処であり、世尊が彼らの帰処であることから「世尊を帰処とする」。「通達によって」とは、通達されるべき状態によってである。口がなくとも意味においてこのように語っているかのようであるとして「触がやって来て、『世尊よ、私の名は何ですか』と言う」と言われた。「示されますように」における「世尊を」という対格は「パティ(向かって)」の語を考慮したものであり、意味は属格の力によって理解されるべきであることを示して「世尊の」と言われた。「示されますように」とは、世尊の分前となりますように、ということである。実に、法を説くことこそが世尊の分前であり、私たちの分前は聞くことである、という趣旨である。しかしある人々は「示されますように」とは現れますようにという意味であり、智によって見られますように、あるいは説かれますようにという意味であると言う。「現前しますように」とは、智の前に現前しますように、ということである。

474. Nissayitabbeti attano santāne uppādanavasena apassayitabbe. Tatiyacatutthadhammasamādānāni hi apassāya sattānaṃ etarahi āyatiñca sampattiyo abhivaḍḍhanti. Bhajitabbeti tasseva vevacanaṃ. Sevitabbeti vā sappurisupassayasaddhammassavanayonisomanasikāre sandhāyāha. Bhajitabbeti tappaccaye dānādipuññadhamme.

474. 「依拠すべきものに」とは、自らの相続において生起させることによって頼るべきものに、ということである。実に第三と第四の法受に頼ることによって、衆生の現世と来世における諸々の繁栄が増大するからである。「親しむべきものに」とは、それの同義語である。あるいは「親しむべきものに」とは、善士への親近、正法の聴聞、如理作意を指して言われた。「親しむべきものに」とは、それを縁とする布施などの功徳の法に、ということである。

475. Uppaṭipāṭiākārenāti paṭhamaṃ saṃkilesadhamme dassetvā pacchā vodānadhammadassanaṃ satthu desanāpaṭipāṭi, yathā – ‘‘vāmaṃ muñca, dakkhiṇaṃ gaṇhā’’ti (dha. sa. aṭṭha. 498; visuddhi. mahāṭī. 1.14), tathā uppaṭipāṭipakārena, sā ca kho purimesu dvīsu dhammasamādānesu, pacchimesu pana paṭipāṭiyāva mātikā paṭṭhapitā. Yathādhammarasenevāti pahātabbapahāyakadhammānaṃ yathāsabhāveneva. Sabhāvo hi yāthāvato rasitabbato jānitabbato ‘‘raso’’ti vuccati. Paṭhamaṃ pahātabbadhamme dassetvā tadanantaraṃ ‘‘ime dhammā etehi pahīyantī’’ti pahāyakadhammadassanaṃ desanānupubbī. Gahaṇaṃ ādiyanaṃ attano santāne uppādanaṃ.

475. 「逆の順序の様相で」とは、まず雑染の法を示し、その後に清浄の法を示すのが師の説法の順序であり、「左を手放し、右を取れ」というように、そのように逆の順序の様態で示された。そしてそれは前の二つの法受においてであり、後の二つにおいては順序通りの要綱が据えられた。「まさに法の味わいに従って」とは、断ぜられるべき法と断ずる法の自性のままに、ということである。実に自性は、真実のままに味わわれるべきもの、知られるべきものであることから「味わい」と呼ばれる。まず断ぜられるべき法を示し、その直後に「これらの法はこれらによって断ぜられる」と断ずる法を示すのが説法の次第である。「受持、把持」とは、自らの相続において生起させることである。

478. Vadhadaṇḍādīhi bhītassa upasaṅkamane, micchā caritvā tathā apagamane ca pubbāparacetanānaṃ vasena micchācāro dukkhavedano hoti, tathā issānindādīhi upaddutassa aparacetanāvasena, evaṃ abhijjhāmicchādiṭṭhīsupi yathārahaṃ veditabbaṃ. Tissannampi cetanānanti pubbāparasanniṭṭhāpakacetanānaṃ. Adinnādānaṃ musāvādo pisuṇavācā samphappalāpoti imesaṃ catunnaṃ sanniṭṭhāpakacetanānaṃ sukhasampayuttā vā upekkhāsampayuttā vāti ayaṃ nayo idha adhikatattā na uddhaṭo. Domanassameva cettha dukkhanti idaṃ pubbabhāgāparabhāgacetanāpi cettha āsannā domanassasahagatā eva hontīti katvā vuttaṃ. Anāsannā pana sandhāya **‘‘pariyeṭṭhiṃ vā āpajjantassā’’**tiādi vuttaṃ. Teneva micchācārābhijjhāmicchādiṭṭhīnaṃ pubbabhāgāparabhāgacetanā āsannā sanniṭṭhāpakacetanāgatikāvāti dassitaṃ hotīti daṭṭhabbaṃ. Pariyeṭṭhinti micchācārādīsu vītikkamitabbavatthumālāgandhādipariyesanaṃ. Pāṇātipātādīsu māretabbavatthuāvudhādipariyesanaṃ āpajjantassa. Akicchenapi tesaṃ pariyesanaṃ sambhavatīti **‘‘vaṭṭatiyevā’’**ti sāsaṅkaṃ vadati.

478. 殺害や処罰などを恐れて近づき、邪行を行って同様に立ち去る前後の思(意志)によって邪淫は苦受となる。同様に嫉妬や非難などに苦しめられる者の後の思によってもそうであり、このように貪欲や邪見においても相応に理解されるべきである。「三つの思においても」とは、前後の思と決定する思のことである。不与取、妄語、離間語、粗悪語というこれら四つの決定する思が、楽相応であるか捨相応であるかというこの理趣は、ここでは主題とされないため取り上げられていない。「憂いこそがここでの苦である」とは、ここでの前段階と後段階の思もまた近接しているものは憂いを伴うものであるとして説かれた。しかし近接していないものを指して「あるいは探求に赴く者に」などと言われたのである。それゆえ、邪淫・貪欲・邪見の前段階と後段階の思で近接しているものは、決定する思の性質を持つことが示されていると見なされるべきである。「探求を」とは、邪淫などにおいて犯すべき対象や花輪や香などの探求。殺生などにおいて殺すべき対象や武器などの探求に赴く者に、ということである。困難なくそれらを探求することも可能であることから「まさに該当する」と含みを持たせて述べている。

479. Sukhavedanā hontīti sukhavedanāpi hontīti adhippāyo. Tāsaṃ cetanānaṃ asukhavedanatāpi labbhatīti **‘‘sukhavedanāpi hontiyevā’’**ti sāsaṅkavacanaṃ. Somanassameva cettha sukhanti idaṃ pubbabhāgāparabhāgacetanāpi somanassasahagatā eva hontīti katvā vuttaṃ. Tañca kho micchācāravajjānaṃ channaṃ vasena. Micchācārassa pana pubbāparabhāgassa vasena ‘‘kāyikaṃ sukhampi vaṭṭatiyevāti sāsaṅkavacanaṃ.

479. 「楽受となる」とは、楽受にもなるという趣旨である。それらの思には楽受でない状態も得られることから「楽受にもまさに生じる」と含みを持たせた言説である。「喜悦こそがここでの楽である」とは、前段階と後段階の思もまた喜悦を伴うものであるとして説かれた。そしてそれは、邪淫を除く六つの力による。邪淫の前段階と後段階の力によっては「身体的な楽もまたまさに該当する」と含みを持たせて言われている。

480. Dosajapariḷāhavasenassa siyā kāyikampi dukkhanti adhippāyena **‘‘so gaṇhantopi dukkhito’’**ti vuttaṃ. Cetodukkhameva vā sandhāya tassa aparāparuppattidassanatthaṃ **‘‘dukkhito domanassito’’**ti vuttaṃ.

480. 瞋恚から生じる熱悩の力によって彼には身体的な苦もあるかもしれないという趣旨で「彼は受領しつつも苦悩する」と言われた。あるいは心の苦そのものを指して、それが次々と生起することを示すために「苦悩し、憂える」と言われた。

481. Dasasupi padesūti dasasupi koṭṭhāsesu, vākyesu vā. Upekkhāsampayuttatāpi sambhavatīti **‘‘sukhasampayuttā hontiyevā’’**ti idha sāsaṅkavacanaṃ. Pāṇātipātā paṭiviratassa kāyopi siyā vigatadarathapariḷāhoti pāṇātipātāveramaṇiādipaccayā kāyikapaṭisaṃvedanāpi sambhavatīti sahāpi sukhenāti ettha kāyiyasukhampi vaṭṭatiyeva.

481. 「十の句においても」とは、十の区分、あるいは文において。「捨相応であることも可能である」ことから「まさに楽相応である」とここでは含みを持たせて言われている。「殺生を離れた者の身体もまた苦悩や熱悩を離れたものとなるかもしれない」とは、殺生からの離別などを縁として身体的な受苦(感受)も生じ得ることから「楽とともに」というここにおいては身体的な楽もまたまさに該当する。

482. Tittakālābūti upabhuttassa ummādādipāpanena kucchitatittakaraso alābu. Na ruccissati aniṭṭharasatāya aniṭṭhaphalatāya ca.

482. 「苦瓢(にがふくべ)」とは、飲食した者に狂気などを引き起こすことによって忌まわしい苦味を持つ瓢箪である。「好まれないであろう」とは、好ましくない味であり、好ましくない結果をもたらすからである。

483. Rasaṃ detīti rasaṃ dasseti vibhāveti.

483. 「味を与える」とは、味を示し、明らかにする。

484. Pūtimuttanti pūtisabhāvamuttaṃ. Taruṇanti dhārāvasena nipatantaṃ hutvā uṇhaṃ. Tenassa uparimuttatamāha. Muttañhi passāvamaggato muccamānaṃ kāyusmāvasena uṇhaṃ hoti.

484. 「腐尿」とは、腐敗した性質の尿。「新鮮な」とは、流れとして落ちてくることで温かいもの。それゆえその上質の尿の状態を語っている。実に尿は尿道から排出されるとき、体温によって温かいからである。

485. Yaṃ bhagandarasaṃsaṭṭhaṃ lohitaṃ pakkhandatīti bhagandarabyādhisahitāya lohitapakkhandatāya vasena yaṃ lohitaṃ vissavati. Pittasaṃsaṭṭhaṃ lohitaṃ pakkhandatīti ānetvā sambandho.

485. 「痔瘻の疾患を伴って血液が下る」とは、痔瘻の病を伴う下血によって血液が流出すること。「胆汁を伴って血液が下る」と結びつけて解釈する。

486. Ubbiddheti dūre. Abbhamahikādiupakkilesavigamena hi ākāsaṃ uttuṅgaṃ viya dūraṃ viya ca khāyati. Tenāha **‘‘dūrībhūte’’**ti. Tamaṃyeva tamagataṃ ‘‘gūthagataṃ muttagata’’nti (ma. ni. 2.119; a. ni. 9.11) yathā. Bhāsate ca tapate ca virocate ca idaṃ catutthaṃ dhammasamādānaṃ vibhajantena kusalakammapathassa vibhajitvā dassitattā.

486. 「高く晴れ渡った空に」とは、遥か遠くに。雲や霧などの障害が消え去ることによって、空は高くそびえ、また遠くにあるかのように見えるからである。それゆえ「遥か遠くなった」と言われた。「暗闇そのもの」とは、糞便に入ったもの、尿に入ったものというのと同様に、暗闇に入ったもののことである。「輝き、熱を放ち、燦然と光る」とは、この第四の法受を分別することによって善業道が分別されて示されたことによる。

Saṅgararukkho kandamādasapova. Sarabhaññavasenāti atthaṃ avibhajitvā padaso sarabhaññavasena. Osārentassāti uccārentassa. Saddeti osāraṇasadde. Adhigatavisesaṃ anārocetukāmā devatā tattheva antaradhāyi. Taṃ divasanti satthārā desitadivase. Iti attano visesādhigamanimittatāya ayaṃ devatā imaṃ suttaṃ piyāyati. Sesaṃ uttānameva.

サンガラ樹とはカンダマーダサポのことである。「諷誦の旋律によって」とは、意味を分別することなく、句ごとに諷誦の旋律によって。「唱える者の」とは、声に出す者の。「音に」とは、唱える音に。得られた殊勝な境地を告げまいと望んだ神は、その場ですぐに姿を消した。「その日を」とは、師によって説かれた日を。このように、自らの殊勝な境地の獲得の契機となったことから、この神はこの経を愛好するのである。残りは明白である。

Mahādhammasamādānasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

『大法受経』の注釈における深遠な意味の解明は完結した。

7. Vīmaṃsakasuttavaṇṇanā

7. 審察者経の注釈

487. Atthavīmaṃsakoti attatthaparatthādiatthavijānanako. Saṅkhāravīmaṃsakoti saṅkhatadhamme salakkhaṇato sāmaññalakkhaṇato vā āyatanādivibhāgato ca vīmaṃsako. Satthuvīmaṃsakoti ‘‘satthā nāma guṇato ediso ediso cā’’ti satthu upaparikkhako. Vīmaṃsakoti vicārako. Yaṃ cetaso sarāgādivibhāgato paricchindanaṃ, taṃ cetopariyāyo. Tenāha **‘‘cittapariccheda’’**nti. Yasmā cetopariyāyañāṇalābhī – ‘‘idaṃ cittaṃ ito paraṃ pavattaṃ idamito para’’nti parassa cittuppattiṃ pajānāti, tasmā vuttaṃ ‘‘**cetopariyāyanti cittavāra’’**nti. Vāratthepi hi pariyāya-saddo hoti – ‘‘kassa nu kho, ānanda, pariyāyo ajja bhikkhuniyo ovaditu’’ntiādīsu (ma. ni. 3.398). Cittacārantipi pāṭho, cittapavattinti attho. Evaṃ vijānanatthāyāti idāni vuccamānākārena vīmaṃsanatthāya.

487. 「義の審察者」とは、自利や利他などの義を知る者。「諸行の審察者」とは、有為法を自相から、あるいは共相から、また処などの分別から審察する者。「師の審察者」とは、「師とは功徳においてこのような、このような方である」と師を観察する者。「審察者」とは吟味する者。心が貪りを伴っているかなどの区分から限定することが、心読知(他心通)である。それゆえ「心の限定」と言われた。心読知の智を得た者は「この心はこれ以降に生起し、これはこれ以降に」と他者の心の生起を知ることから「心読知とは心の順番である」と言われた。順番の意味においても「パリヤーヤ」の語は用いられる。「アーナンダよ、今日比丘尼たちを教誡するのは誰の順番か」などにおける通りである。「心行(心の巡り)」という読みもあり、心の働きの意味である。「このように知るために」とは、今語られるような様相で審察するために。

488. Kalyāṇamittūpanissayanti kalyāṇamittasaṅkhātaṃ brahmacariyavāsassa balavasannissayaṃ. Upaḍḍhaṃ attano ānubhāvenāti iminā puggalena sampādiyamānassa brahmacariyassa upaḍḍhabhāgamattaṃ attano vimuttiparipācakadhammānubhāvena sijjhati. Upaḍḍhaṃ kalyāṇamittānubhāvenāti itaro pana upaḍḍhabhāgo yaṃ nissāya brahmacariyaṃ vussati, tassa kalyāṇamittassa upadesānubhāvena hoti, sijjhatīti attho. Lokasiddho eva ayamattho. Lokiyā hi –

488. 「善友への依拠」とは、善友と呼ばれる清浄行の生活の力強い拠り所のこと。「半分は自らの力によって」とは、この人によって成し遂げられる清浄行の半分の部分は、自らの解脱を成熟させる法の力によって成就する。「半分は善友の力によって」とは、他の半分の部分は、それを依拠として清浄行が営まれるその善友の教導の力によってあり、成就する、という意味である。この意味は世間において確立したものである。実に世俗の人々は――

‘‘Pādo siddho ācariyā, pādo hissānubhāvato;

「四分の一は師によって成し遂げられ、四分の一は自らの力による。

Taṃvijjāsevakā pādo, pādo kālena paccatī’’ti. –

四分の一はその知識に親しむことによ理、四分の一は時を経て熟す」と、

Vadanti. Attano dhammatāyāti attano sabhāvena, ñāṇenāti attho. Kalyāṇamittatāti kalyāṇo bhadro sundaro mitto etassāti kalyāṇamitto, tassa bhāvo kalyāṇamittatā, kalyāṇamittavantatā. Sīlādiguṇasampannehi kalyāṇapuggaleheva ayanaṃ pavatti kalyāṇasahāyatā. Tesu eva cittena ceva kāyena ca ninnapoṇapabbhārabhāvena pavatti kalyāṇasampavaṅkatā. Māhevanti evaṃ mā āha, ‘‘upaḍḍhaṃ brahmacariyassā’’ti mā kathehīti attho. Tadamināti ettha nti nipātamattaṃ da-kāro padasandhikaro i-kārassa a-kāraṃ katvā niddeso. Imināpīti idāni vuccamānenapīti attho. Pariyāyenāti kāraṇena. Idāni taṃ kāraṇaṃ dassetuṃ **‘‘mamaṃ hī’’**tiādi vuttaṃ.

語る。「自らの法性によって」とは、自らの本性によって、智によってという意味である。「善友であること」とは、善き、幸ある、美しい友をその人が持つことから善友であり、その状態が善友であること、善友を持つことである。戒などの徳を具えた善き人々とのみ交流し共にあることが「善き仲間であること」。彼らに対してのみ心と身体をもって傾き、傾斜し、傾注して活動することが「善友へ傾倒していること」。「そのように言うな」とは、そのように言ってはならない、「清浄行の半分である」などと語るな、という意味である。「このことによっても」における「ンティ」は単なる不変化詞であり、「ダ」の文字は結合辞であり、「イ」を「ア」に変えて示されたものである。「これによっても」とは、今語られることによってもという意味である。「方便によって」とは、理由によって。今やその理由を示すために「実に私によって」などと言われた。

Yathā cettha, aññesupi suttesu kalyāṇamittupanissayameva visesoti dassento **‘‘bhikkhūnaṃ bāhiraṅgasampattiṃ kathentopī’’**tiādimāha. Tattha vimuttiparipācaniyadhammeti vimuttiyā arahattassa paripācakadhamme. Paccayeti gilānapaccayabhesajje. Mahājaccoti mahākulīno.

そしてここにおけるように、他の経典においても善友への依拠こそが卓越したものであることを示すために「比丘たちの外面的な条件の完備を説くときにも」などと言われた。そこにおいて「解脱を成熟させる法において」とは、解脱たる阿羅漢果を成熟させる法において。「資具において」とは、病人のための資具・医薬品において。「名門の生まれ」とは、高貴な家柄の出身。

Kāyiko samācāroti abhikkamapaṭikkamādiko satisampajaññaparikkhato pākatiko ca. Vīmaṃsakassa upaparikkhakassa. Cakkhuviññeyyo nāma cakkhudvārānusārena viññātabbattā. Sotaviññeyyoti etthāpi eseva nayo. Saṃkiliṭṭhāti rāgādisaṃkilesadhammehi vibādhitā, upatāpitā vidūsitā malīnā cāti attho. Te pana tehi samannāgatā hontīti āha **‘‘kilesasampayuttā’’**ti. Yadi na cakkhusotaviññeyyā, pāḷiyaṃ kathaṃ tathā vuttāti āha **‘‘yathā panā’’**tiādi. Kāyavacīsamācārāpi saṃkiliṭṭhāyeva nāma saṃkiliṭṭhacittasamuṭṭhānato. Bhavati hi taṃhetukepi tadupacāro yathā ‘‘semho guḷo’’ti. ‘‘Mā me idaṃ asāruppaṃ paro aññāsī’’ti pana **paṭicchannatāya na na upalabbhanti. ‘‘Na kho mayaṃ, bhante, bhagavato kiñci garahāmā’’**ti vatvā garahitabbābhāvaṃ dassento **‘‘bhagavā hī’’**tiādimāha. Abhāvitamaggassa hi garahitabbatā nāma siyā, na bhāvitamaggassa. Esa uttaro māṇavo ‘‘buddhampi garahitvā pakkamissāmī’’ti katvā anubandhi. Evaṃ cintesi mahābhinikkhamanadivase attano vacane aṭṭhitattā. Kiñci vajjaṃ apassanto māro evamāha –

「身体的な振る舞い」とは、進退などに際して正念と正知に守られた日常の振る舞いである。「審察者の」とは観察者の。「眼によって知られるべきもの」とは、眼門を通じて知られるべきものであることによる。「耳によって知られるべきもの」という点においても、まさにこの理趣である。「汚れた」とは、貪りなどの雑染の法によって損なわれ、悩まされ、害され、汚濁したという意味である。それらはそれら(煩悩)を伴っていることから「煩悩と相応した」と言われた。「もし眼や耳によって知られるべきでないならば、パーリ本文においてなぜそのように説かれたのか」として「しかしどのように」などと言われた。身口の振る舞いもまた、汚れた心から生じることからまさに汚れたものと呼ばれる。実に「痰は糖である(糖が痰の原因である)」というように、それを原因とするものにもその表現が用いられるからである。しかし「私のこの不適切な振る舞いを他人が知りませんように」と覆い隠されていることから、見出されないわけではない。「大徳よ、私たちは世尊を何一つ非難しません」と述べて非難すべき点がないことを示すために「世尊は実に」などと言われた。実に、道を修習していない者には非難されるべき点があるかもしれないが、道を修習した者にはない。あのウッタラ青年は「仏陀を非難して立ち去ろう」として付きまとった。出家の大いなる出立の日に、自らの言葉に従わなかったことからこのように考えたのである。何ら過失を見出せない魔王は次のように言った――

‘‘Satta vassāni bhagavantaṃ, anubandhiṃ padāpadaṃ;

「七年のあいだ、私は世尊に一歩一歩付きまとったが、

Otāraṃ nādhigacchissaṃ, sambuddhassa satīmato’’ti. (su. ni. 448);

正念ある正等覚者に隙を見出すことはできなかった」(経集 448)と。

Kāle kaṇhā, kāle sukkāti yathāsamādinnaṃ sammāpaṭipattiṃ parisuddhaṃ katvā pavattetuṃ asakkontassa kadāci kaṇhā aparisuddhā kāyasamācārādayo, kadāci sukkā parisuddhāti evaṃ antarantarā byāmissavasena vomissakā. Nikkilesāti nirupakkilesā anupakkiliṭṭhā.

「ある時は黒く、ある時は白い」とは、受持した通りの正しい実践を清浄にして保つことができない者にとって、ある時は身体の振る舞いなどが黒く不清浄であり、ある時は白く清浄であるというように、合間合間に混じり合っていることによって混合している。「煩悩なき」とは、随煩悩がなく、汚されていないこと。

Anavajjaṃ vajjarahitattā. Dīgharattanti accantasaṃyoge upayogavacanaṃ. Samāpannoti sammā āpanno samaṅgībhūto. Tenāha **‘‘samannāgato’’**ti. Attanā katassa asāruppassa paṭicchādanatthaṃ āraññako viya hutvā. Tassa parihāranti uḷārehi pūjāsakkārehi manussehi tassa parihariyamānataṃ. Atidappitoti evaṃ manussānaṃ sambhāvanāya ativiya datto gabbito.

「非難なき」とは、過失を離れていることによる。「長き夜(長年月)」とは、持続した結合における対格の語である。「成就した」とは、正しく達した、具足した。それゆえ「具えた」と言われた。自らがなした不適切な振る舞いを覆い隠すために、森林住者であるかのようになって。「そのもてなしを」とは、人々によって盛大な供養と敬意をもって彼がもてなされていることを。「過度に傲慢になった」とは、このように人々の尊崇によって過度に驕り高ぶり、うぬぼれた。

Na ittarasamāpannoti jānāti. Kasmā? Sīlaṃ nāma dīghena addhunā jānitabbaṃ, na ittarena. Idāni anekajātisamudācāravasena tathāgato imaṃ kusalaṃ dhammaṃ dīgharattaṃ samāpanno, tañcassa ativiya acchariyanti dassetuṃ **‘‘anacchariyaṃ ceta’’**ntiādi vuttaṃ.

「一過性の成就ではない」と知る。なぜか。戒というものは長期の年月によって知られるべきであり、短期間によるのではないからである。今や、幾多の生涯における実践の力によって如来はこの善法を長年月具足しており、それは彼にとって極めて驚くべきことではないことを示すために「そしてこれは驚くべきことではない」などと言われた。

Araññagāmaketi araññapadese ekasmiṃ khuddakagāme. Tattha nesaṃ divase divase piṇḍāya caraṇassa avicchinnataṃ dassetuṃ **‘‘piṇḍāya carantī’’**ti vuttaṃ. Pivantīti etthāpi eseva nayo. Dullabhaloṇo hoti samuddassa dūratāya.

「森の村において」とは、森林地帯のある小さな村において。そこにおいて彼らが日々托鉢に歩くことが途切れないことを示すために「托鉢に歩く」と言われた。「飲む」という点においても、まさにこの理趣である。海から遠いことから「塩が得がたい」のである。

Tadā kira videharaṭṭhe soḷasa gāmasahassāni mahantāneva. Tenāha – **‘‘hitvā gāmasahassāni, paripuṇṇāni soḷasā’’**ti. Idāni kasmā **‘‘sannidhiṃ dāni kubbasī’’**ti maṃ ghaṭṭethāti vatthukāmo taṃ anāvikatvā **‘‘loṇa…pe… na karothā’’**ti āha. Gandhāro tassādhippāyaṃ vibhāvetukāmo **‘‘kiṃ mayā kataṃ vedehīsī’’**ti āha.

その当時、ヴィデーハ国には一万六千の大きな村落があったという。それゆえ「満てる一万六千の村落を捨てて」と言われた。今や「なぜ蓄えをするのか」と私を非難するのか、と語りたいと思いながらもそれを露骨にせず「塩を……乃至……蓄えてはならない」と言った。ガンダーラ(大師)はその意図を明らかにしようとして「ヴィデーハの王よ、私が何をなしたというのか」と言った。

Itaro attano adhippāyaṃ vibhāvento **‘‘hitvā’’**ti gāthamāha. Itaro **‘‘dhammaṃ bhaṇāmī’’**ti gāthanti evaṃ sabbāpi nesaṃ vacanapaṭivacanagāthā. Tattha pasāsasīti ghaṭṭento viya anusāsasi. Na pāpamupalimpati cittappakopābhāvato. Mahatthiyanti mahāatthasaṃhitaṃ. No ce assa sakā buddhītiādi vedehaisino – ‘‘ācariyo mama hitesitāya ṭhatvā dhammaṃ eva bhaṇatī’’ti yoniso ummujjanākāradassanaṃ. Tenāha **‘‘evañca pana vatvā’’**tiādi.

前者は自らの意図を明らかにしつつ「捨てて」という詩偈を語った。後者は「私は法を語る」という詩偈を語った。このように彼らの問答の詩偈のすべてがある。そこにおいて「教誡する」とは、非難するかのように戒めること。心の憤りがないことから「悪は染着しない」。「大いなる利益ある」とは、大いなる利益を伴った。「もし彼に自らの智慧がなかったならば」などとは、ヴィデーハの仙人(大師)が「師は私の幸福を願って立ち、法そのものを語っている」と如理に思い至る様相を示している。それゆえ「このように語って」などと言われたのである。

‘‘Ñattā’’ti loke ñāyati vissutoti ñāto, ñātassa bhāvo ñattaṃ. Ajjhāpannoti upagato. Ñatta-ggahaṇena patthaṭayasatā vibhāvitāti āha **‘‘yasañca parivārasampatti’’**nti. Kinti kiṃpayojanaṃ, ko ettha dosoti adhippāyo.

「名声(ñattā)」とは、世において知られている、名高いということから「知られた者(ñāta)」であり、知られた者の状態が名声(ñattaṃ)である。「陥った(ajjhāpanno)」とは、立ち至ったということである。名声を得ることによって名声が広まったことが明らかにされたので、「名声と従者の具足を」と言われた。「何が(kinti)」とは、どのような利点があるのか、ここに何の過失があるのかという趣旨である。

Tattha tattha vijjhantoti yasamadena parivāramadena ca matto hutvā gāmepi vihārepi janavivittepi saṅghamajjhepi aññe bhikkhū ghaṭṭento ‘‘mayhaṃ nāma pādā itaresaṃ pādaphusanaṭṭhānaṃ phusantī’’ti aphusitukāmatāya aggapādena bhūmiṃ phusanto viya carati. Onamatīti nivātavuttitāya avanamati anuddhato atthaddho hoti. Akiñcanabhāvanti ‘‘pabbajitena nāma akiñcanañāṇena samapariggahena bhavitabba’’nti akiñcanajjhāsayaṃ paṭiavekkhitvā. Lābhepi tādī, alābhepi tādīti yathā alābhakāle lābhassa laddhakālepi tathevāti tādī ekasadiso. Yase satipi mahāparivārakālepi.

「あちこちで突き当たる」とは、名声の傲慢や従者の傲慢によって酔い痴れ、村においても精舎においても人気の絶えた所においても僧伽の只中においても、他の比丘たちにぶつかり、「自分の足が他人の足の触れた場所に触れている」と言って触れたくないがために、つま先立ちで地面に触れるかのように歩くことである。「身を低くする(onamati)」とは、謙遜さ(低我慢)のゆえに身を低くし、高慢にならず頑迷でないことである。「無一物なる境地を(akiñcanabhāvaṃ)」とは、「出家者たる者は無所有の智によって平等の執着(平等なる受容)を持つべきである」と無一物の志向を観察してのことである。「利得においてもあるがままであり、無利得においてもあるがままである」とは、無利得の時と同様に利得を得た時においてもそのとおりであるということであり、あるがまま(tādī)とは同一不変であることである。名声がある時にも、多くの従者がいる時にも同様である。

Abhayo hutvā uparatoti nibbhayo hutvā bhayassa abhāveneva oramitabbato uparato bhayahetūnaṃ pahīnattā. Tañca kho na katipayakālaṃ, atha kho accantameva uparatoti accantūparato. Atha kho bhāyitabbavatthuṃ avekkhitvā tato bhayena uparato. Kilesā eva bhāyitabbato kilesabhayaṃ. Esa nayo sesesupi. Satta sekkhāti satta sekkhāpi bhayūparatā, pageva puthujjanoti adhippāyo.

「無畏となって離脱した」とは、恐れなき者となって、恐怖が存在しないことによってのみ離れるべき事柄から離脱した者、恐怖の原因が断ぜられているからである。しかもそれは僅かな期間ではなく、実に徹底して離脱したということから「徹底して離脱した者(accantūparato)」である。そうではなく、恐れるべき対象を観察し、それゆえに恐怖から離脱したのである。煩悩こそが恐れるべきものであるから、煩悩の恐怖である。他の場合もこの方法による。「七人の有学者」とは、七人の有学者たちも恐怖によって離脱した者たちであり、凡夫においては言うまでもないという趣旨である。

Thaṇḍilapīṭhakanti thaṇḍilamañcasadisaṃ pīṭhakanti attho. Nissāyāti apassāya taṃ apassāyaṃ katvā. Dvinnaṃ majjhe thaṇḍilapīṭhakā dvāre ṭhatvā olokentassa nevāsikabhikkhussa na paññāyi. Asaññatanīhārenāti na saññatākārena. ‘‘Maṃ bhāyanto heṭṭhāmañcaṃ paviṭṭho bhavissatī’’ti heṭṭhāmañcaṃ oloketvā. Ukkāsi ‘‘bahi gacchanto akkositvā mā apuññaṃ pasavī’’ti. Adhivāsetunti tādisaṃ iddhānabhāvaṃ disvāpi paṭapaṭāyanto attano kodhaṃ adhivāsetuṃ asakkonto.

「土壇の小椅子(thaṇḍilapīṭhakaṃ)」とは、土壇の寝台に似た小椅子という意味である。「頼りとして(nissāya)」とは、寄りかかって、それを背もたれにして。「二つのものの間に」とは、土壇の小椅子から戸口に立って眺めている定住比丘には見えなかった。「不節制な所作によって(asaññatanīhārena)」とは、慎みのない態度で。「私を恐れて寝台の下に入ったのであろう」と寝台の下を見て。「外へ出る際、罵って悪徳を積むことのないように」と咳払いをした。「堪え忍ぶことを(adhivāsetuṃ)」とは、そのような神通の威力を目の当たりにしながらも、怒りを燃え上がらせて自らの怒りを鎮めることができずに。

Khayenevāti rāgassa accantakkhayeneva vītarāgattā. Na paṭisaṅkhāya vāretvāti na paṭisaṅkhānabalena rāgapariyuṭṭhānaṃ nivāretvā vītarāgattā. Evaṃ vuttappakārena. Kāyasamācārādīnaṃ saṃkiliṭṭhānaṃ vītikkamiyānañca abhāvaṃ ācārassa vodānaṃ cirakālasamāciṇṇatāya ñātassa sahitabhāvepi anupakkiliṭṭhatāya abhayūparatabhāvasamannesanāya ākarīyati ñāpetuṃ icchito attho pakārato ñāpīyati etehīti ākārā, upapattisādhanakāraṇāni. Tāni pana yasmā attano yathānumatassa atthassa ñāpakabhāvena vavatthīyanti, tasmā tāni tesaṃ mūlakāraṇabhūtāni anumānañāṇāni ca dassento bhagavā – ‘‘ke panāyasmato ākārā ke anvayā’’ti avocāti imamatthaṃ vibhāvento **‘‘ākārāti kāraṇāni, anvayāti anubuddhiyo’’**ti āha. Yathā hi loke diṭṭhena dhūmena adiṭṭhaṃ aggiṃ anveti anumānato jānāti, evaṃ vīmaṃsako bhikkhu – ‘‘bhagavā ekekavihāresu suppaṭipannesu duppaṭipannesu ca yathā ekasadisatādassanena abhayūparatataṃ anveti anumānato jānāti, suppaṭipannaduppaṭipannapuggalesu anussādanānapasādanappattāya satthu aviparītadhammadesanatāya sammāsambuddhataṃ saṅghasuppaṭipattiñca anveti anumānato jānāti, evaṃ jānanto ca abhayūparato tathāgato sabbadhi vītarāgattā, yo yattha vītarāgo, na so tannimittaṃ kiñci bhayaṃ passati seyyathāpi brahmā kāmabhavanimittaṃ, tathā sammāsambuddho bhagavā aviparītadhammadesanattā, svākhāto dhammo ekantaniyyānikattā, suppaṭipanno saṅgho aveccappasannattā’’ti vatthuttayaṃ guṇato yāthāvato jānāti.

「滅尽によってのみ(khayeneva)」とは、貪愛の徹底した滅尽によってのみ離貪となった者であるから。「思索して制止したのではなく(na paṭisaṅkhāya vāretvā)」とは、思索の力によって貪愛の現起を抑え込んで離貪となったのではない。このように述べられた様態によって。身体の行いなどの汚辱や違犯の不存在、行いの清浄、長期にわたる実践による周知の適合性においても汚辱されないことによって、無畏離脱の状態を探求するために、なされる(知らしめようと望まれる事柄が様態に従って知らしめられる)それらによってということで「様相(ākārā)」であり、論拠を成就する因である。それらは自らの推論された事柄を知らしめるものとして確定されるがゆえに、世尊はそれらの根本原因となった推論の知を示しつつ、「いかなる様相があり、いかなる帰結があるのか」と仰せられた。この意味を明らかにして「『様相とは諸々の原因であり、帰結とは諸々の追知(推論知)である』」と述べた。世間において見られた煙によって見られない火を推論して知るように、考察する比丘は「世尊は個々の住処において、正しく実践する者たちや悪しく実践する者たちに対して同一不変に見られることによって、無畏離脱の状態を推論して知る。正しく実践する者や悪しく実践する者に対して称賛も非難も行わないことから、師の無顚倒の説法によって正等覚者であることと僧伽の正しい実践を推論して知る。このように知って、『如来はすべての対象において離貪であるがゆえに無畏離脱の者である。いかなる者がある所において離貪であれば、その者は梵天が欲界の対象を見ても恐れないように、それによるいかなる恐怖も見ない。同様に世尊は無顚倒の説法をなすがゆえに正等覚者であり、法は決定的な出離を導くがゆえに善説されたものであり、僧伽は不動の信を得ているがゆえに正しく実践するものである』と三宝の徳を如実に知るのである」。

Gaṇabandhanenāti ‘‘mama saddhivihārikā mama antevāsikā’’ti evaṃ gaṇe apekkhāsaṅkhātena bandhanena baddhā payuttā. Tāya tāya paṭipattiyāti ‘‘sugatā duggatā’’ti vuttāya suppaṭipattiyā duppaṭipattiyā ca. Ussādanāti guṇavasena ukkaṃsanā. Apasādanāti hīḷanā. Ubhayattha gehassitavasenāti iminā sammāpaṭipattiyā paresaṃ uyyojanatthaṃ – ‘‘paṇḍito, bhikkhave, mahākaccāno’’tiādinā (ma. ni. 1.205; 3.285, 322) guṇato ukkaṃsanampi āyatiṃ saṃvarāya yathāparādhaṃ garahaṇampi na nivāreti.

「徒党の束縛によって(gaṇabandhanena)」とは、「私の共住者である、私に近住する弟子である」とこのように会衆への愛着という束縛によって縛られ結びつけられて。「それぞれの実践によって(tāya tāya paṭipattiyā)」とは、「善逝・悪逝」と述べられた正しい実践と悪しい実践によって。「称賛(ussādanā)」とは、徳による引き上げ。「非難(apasādanā)」とは、見下すこと。「双方が在家に依存することによって」とは、これによって正しい実践へと他者を励ますために「比丘たちよ、大カッチャーナは賢者である」などと徳によって称賛することや、未来の防護のために過失に応じて呵責することを排除するものではない。

489. Vīmaṃsakassapi adhippāyo vīmaṃsanavasena pavatto. Mūlavīmaṃsako hetuvāditāya. Gaṇṭhivīmaṃsakassa anussutibhāvato vuttaṃ **‘‘parasseva kathāya niṭṭhaṅgato’’**ti. Tenāha bhagavā – ‘‘parassa cetopariyāyaṃ ajānantenā’’ti. Tathāgatova paṭipucchitabboti iminā pubbe sādhāraṇato vuttaṃ anumānaṃ ukkaṃsaṃ pāpetvā vadati. Ukkaṃsagatañhetaṃ anumānaṃ, yadidaṃ sabbaññuvacanaṃ avisaṃvādaṃ sāmaññato aputhujjanagocarassa atthassa anumānato. Tividho hi attho, koci paccakkhasiddho, yo rūpādidhammānaṃ paccattavedaniyo aniddisitabbākāro. Koci anumānasiddho, yo ghaṭādīsu pasiddhena paccayāyattabhāvena sādhiyamāno saddādīnaṃ aniccatādiākāro. Koci okappanasiddho, yo pacurajanassa accantamadiṭṭho saddhāvisayo paralokanibbānādi. Tattha yassa satthuno vacanaṃ paccakkhasiddhe anumānasiddhe ca atthe na visaṃvādeti aviparītappavattiyā, tassa vacanena saddheyyatthasiddhi, saddheyyarūpā eva ca yebhuyyena satthuguṇā accantasambhavato.

489. 考察者(vīmaṃsaka)の意図も考察の働きによって生じたものである。根本の考察者は原因を説く者であるから。結節の考察者が伝聞に基づく者であることから、「他者の言葉によって結論に達した」と述べられた。それゆえに世尊は「他者の心を知ることなく」と仰せられた。「如来自身に尋ねるべきである」とは、これによって以前に共通のものとして述べられた推論を最高峰へと至らせて述べている。一切知者の言葉が無謬であること、凡夫の境地ではない事柄の総相からの推論であること、これは実に最高峰に達した推論である。事柄には三種ある。あるものは現量によって成就され、色などの法のように各自で体験されるべき指し示せない様相である。あるものは推論によって成就され、瓶などにおいて知られている条件依存性によって証明される、声などの無常などの様相である。あるものは信順によって成就され、多くの人々には全く見えず信仰の対象となる来世や涅槃などである。その中で、師の言葉が現量によって成就された事柄や推論によって成就された事柄において無顚倒の働きゆえに誤りがないならば、その言葉によって信ずべき事柄の成就があり、師の徳は極めて十全に存在するために大半が信ずべき性質のものである。

Esa mayhaṃ pathoti yvāyaṃ ājīvaṭṭhamakasīlasaṅkhāto mayhaṃ oramattako guṇo, esa aparacittaviduno vīmaṃsakassa bhikkhuno mama jānanapatho jānanamaggo. Esa gocaroti eso ettako eva tassa mayi gocaro, na ito paraṃ. Tathā hi brahmajālepi (dī. ni. 1.7) bhagavatā ājīvaṭṭhamakasīlameva niddiṭṭhaṃ. Etāpāthoti ettakāpātho. Yo sīle patiṭṭhito ‘‘etaṃ mamā’’ti, ‘‘imināhaṃ sīlena devo vā bhavissāmi devaññataro vā’’ti taṇhāya parāmasanto, tassa visesabhāgiyatāya, nibbedhabhāgiyatāya vā akāraṇena taṇhaṃ anativattanato so tammayo nāma. Tenāha **‘‘na tammayo na sataṇho’’**tiādi.

「これが我が道である」とは、八支の正命戒と呼ばれる我が卑近な徳であり、他者の心を知らない考察者の比丘にとっての我が知る道、認識の道である。「これが境地である」とは、これが彼にとって私における境地(把握対象)の限度であり、これ以上のものではない。実に『梵網経』においても世尊によって八支の正命戒のみが指し示された。「これが限界である(etāpātho)」とは、これほどの範囲ということである。戒に安住して「これは我がものである」「私はこの戒によって神あるいは特定の神となるであろう」と渇愛によって執着し、それが勝進分や決択分の原因とならずに渇愛を超越しないことから、その者は「それに執着した者(tammayo)」と呼ばれる。それゆえに「それに執着せず、渇愛を持たず」などと述べられた。

Sutassa uparūpari visesāvahabhāvena uttaruttarañceva tassa ca visesassa anukkamena paṇītatarabhāvato paṇītatarañca katvā deseti. Savipakkhanti pahātabbapahāyakabhāvena sappaṭipakkhaṃ. Kaṇhaṃ paṭibāhitvā sukkanti idaṃ dhammajātaṃ kaṇhaṃ nāma, imassa pahāyakaṃ idaṃ sukkaṃ nāmāti evaṃ kaṇhaṃ paṭibāhitvā sukkaṃ. Sukkaṃ paṭibāhitvā kaṇhanti etthāpi eseva nayo. Idha pana ‘‘iminā pahātabba’’nti vattabbaṃ. Saussāhanti sabyāpāraṃ. Kiriyamayacittānañhi anupacchinnāvijjātaṇhāmānādike santāne sabyāpāratā saussāhatā, savipākadhammatāti attho. Tasmiṃ desite dhammeti tasmiṃ satthārā desite lokiyalokuttaradhamme. Ekaccaṃ ekadesabhūtaṃ maggaphalanibbānasaṅkhātaṃ paṭivedhadhammaṃ abhiññāya abhivisiṭṭhāya maggapaññāya jānitvā. Paṭivedhadhammena maggena. Desanādhammeti desanāruḷhe pubbabhāgiye bodhipakkhiyadhamme niṭṭhaṃ gacchati – ‘‘addhā imāya paṭipadāya jarāmaraṇato muccissāmī’’ti. Pubbe pothujjanikasaddhāyapi pasanno, tato bhiyyosomattāya aviparītadhammadesano sammāsambuddho so bhagavāti satthari pasīdati. Niyyānikattāti vaṭṭadukkhato eva tato niyyānāvahattā. Vaṅkādīti ādi-saddena aññaṃ asāmīcipariyāyaṃ sabbaṃ dosaṃ saṅgaṇhāti.

聞かれた法の上へ上へと卓越した境地をもたらす性質によって「さらに上へと」、そしてその卓越した境地が次第にさらに勝れたものとなることから「より勝れたものとして」説かれる。「対立するものと共に(savipakkhanti)」とは、断ぜられるべきものと断ずるものという相反するものと共にあること。「黒き法を排して白き法を」とは、この法は黒き法(不善)であり、これを断ずるものがこの白き法(善)であると、このように黒き法を排して白き法を説くこと。「白き法を排して黒き法を」においても同様の趣旨である。ただしここでは「これによって断ぜられるべきである」と語られるべきである。「熱意を伴って(saussāhaṃ)」とは、作用を伴って。無明・渇愛・慢などが断ち切られていない相続における作用心には、作用性があり熱意がある、すなわち異熟の法を伴う性質であるという意味である。「その説かれた法において」とは、師によって説かれたその世間的・出世間的な法において。「ある一部を(ekaccaṃ)」とは、道・果・涅槃と呼ばれる一部の通達の法を。「証知して(abhiññāya)」とは、卓越した道智によって知って。「通達の法によって」とは、道によって。「教説の法において」とは、教説として説かれた前段階の菩提分法において「確かにこの行道によって私は老死から脱するであろう」と結論に達する。以前の凡夫の信仰においても澄浄であったが、それ以上に無顚倒の説法をなす正等覚者たる世尊であると師に信を深める。「出離の性質による(niyyānikattā)」とは、まさに輪廻の苦しみから出離をもたらすがゆえに。「邪悪など(vaṅkādi)」の「など」という言葉によって、他の不適切なあらゆる過失を総括している。

490. Imehi satthuvīmaṃsanakāraṇehīti ‘‘parisuddhakāyasamācāratādīhi ceva uttaruttaripaṇītapaṇītaaviparītadhammadesanāhi cā’’ti imehi yathāvuttehi satthuupaparikkhanakāraṇehi. Akkharasampiṇḍanapadehīti tesaṃyeva kāraṇānaṃ sambodhanehi akkharasamudāyalakkhaṇehi padehi. Idha vuttehi akkharehīti imasmiṃ sutte vuttehi yathāvuttassa atthassa abhibyañjanato byañjanasaññitehi akkharehi. Okappanāti saddheyyavatthuṃ okkantitvā pasīdanato okappanalakkhaṇā. Saddhāya mūlaṃ nāmāti aveccappasādabhūtāya saddhāya mūlaṃ nāma kāraṇanti saddahanassa kāraṇaṃ parisuddhakāyasamācārādikaṃ. Thirā paṭipakkhasamucchedena suppatiṭṭhitattā. Harituṃ na sakkāti apanetuṃ asakkuṇeyyā. Itaresu samaṇabrāhmaṇadevesu vattabbameva natthīti āha **‘‘samitapāpasamaṇena vā’’**tiādi.

490. 「これらの師を考察する諸々の原因によって」とは、「清浄なる身体の行いなどの徳、および上へ上へと勝れた無顚倒の説法によって」という、これら述べられた師の観察原因によって。「文字を結合した句によって」とは、それらの原因を了解させる諸文字の集積を特徴とする句によって。「ここに述べられた文字によって」とは、この経において述べられた、前述の意味を表現することから言葉と名付けられた文字によって。「信順(okappanā)」とは、信ずべき対象に入り込んで澄浄となることから信順の特徴を持つものである。「信仰の根とは」とは、不動の澄浄たる信仰の根という原因、すなわち清浄なる身の行いなどの信ずる原因である。「堅固である」とは、対立するものを断滅することによって確立されているからである。「奪い去ることはできない」とは、取り去ることが不可能であること。「他の沙門、婆羅門、神々においては言うまでもない」ということから、「罪悪を静止した沙門によっても」などと言われた。

‘‘Buddhānaṃ kesañci sāvakānañca vibādhanatthaṃ māro upagacchatī’’ti sutapubbattā **‘‘ayaṃ māro āgato’’**ti cintesi. Ānubhāvasampannena ariyasāvakena pucchitattā musāvādaṃ kātuṃ nāsakkhi. Eteti yathāvutte samitapāpasamaṇādayo ṭhapetvā. Sabhāvasamannesanāti yāthāvasamannesanā aviparītavīmaṃsā. Sabhāvenevāti sabbhāveneva yathābhūtaguṇato eva. Suṭṭhu sammadeva. Samannesitoti upaparikkhito. Sesaṃ suviññeyyamevāti.

「諸仏や幾人かの弟子たちを妨害するために魔羅が近づく」と以前に聞いたことがあったため、「この魔羅が来たのだ」と考えた。威力に満ちた聖弟子から問われたため、虚偽を語ることができなかった。「これらは」とは、前述の罪悪を静止した沙門などを除いて。「本質の探求(sabhāvasamannesanā)」とは、如実なる探求、無顚倒の考察である。「本質によってのみ(sabhāveneva)」とは、真の存在によって、如実なる徳によってのみ。「極めて正しく(suṭṭhu)」とは、正しく。「探求された(samannosito)」とは、考察された。「残りは極めて理解しやすい」と。

Vīmaṃsakasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

考察者経の注釈の陰れたる意味の解明は完結した。

8. Kosambiyasuttavaṇṇanā

8. 拘睒弥経の注釈

491. Tasmāti yasmā kosambarukkhavatī, tasmā nagaraṃ kosambītisaṅkhamagamāsi. Kusambassa vā isino nivāsabhūmi kosambī, tassāvidūre bhavattā nagaraṃ kosambī.

491. 「それゆえに」とは、クサンバ(kosamba)の樹木があることから、その都はコーサンビー(kosambī)と名付けられたからである。あるいは仙人クサバ(kusamba)の居住地がコーサンビーであり、その近くにあることから都はコーサンビーと呼ばれる。

Ghositaseṭṭhinā kārite ārāmeti ettha ko ghositaseṭṭhi, kathañcānena ārāmo kāritoti antolīnāya codanāya vissajjane samudāgamato paṭṭhāya ghositaseṭṭhiṃ dassetuṃ **‘‘addilaraṭṭhaṃ nāma ahosī’’**tiādi āraddhaṃ. Kedāraparicchinnanti tattha tattha kedārabhūmiyā paricchinnaṃ. Gacchantoti kedārapāḷiyā gacchanto. Pahūtapāyasanti pahūtataraṃ pāyasaṃ, taṃ pana garu siniddhaṃ antarāmagge appāhāratāya mandagahaṇiko samāno jīrāpetuṃ nāsakkhi. Tenāha **‘‘jīrāpetuṃ asakkonto’’**tiādi. Yasavati rūpavati kulaghare nibbatti. Ghositaseṭṭhi nāma jātoti evamettha saṅkhepeneva ghositaseṭṭhivatthuṃ katheti, vitthāro pana dhammapadavatthumhi (dha. pa. aṭṭha. 1.sāmāvatīvatthu) vuttanayeneva veditabbo.

「ゴーシタ長者によって造営された園林において」という文において、ゴーシタ長者とは誰であり、どのようにして彼によって園林が造られたのかという内なる疑問に答えるため、その出生からゴーシタ長者を示すべく「アッディラ国という国があった」などが始められた。「田畑で区切られた(kedāraparicchinnaṃ)」とは、あちこちの田畑の土地によって区切られた。「歩みつつ(gacchanto)」とは、田の畔を歩きつつ。「大量の乳粥を」とは、極めて多くの乳粥を。しかしそれは重く脂っこく、道中で食事を取っていなかったために消化力の弱かった彼は消化させることができなかった。それゆえに「消化させることができずに」などと言われた。名声あり美貌ある良家に生まれた。「ゴーシタ長者という名となった」とこのようにここでは簡潔にゴーシタ長者の物語を語っているが、詳細は『法句経注』(サーマーヴァティーの物語)で述べられた方法によって知るべきである。

Upasaṃkappanavasenāti upasaṅkappananiyāmena. Āhāraparikkhīṇakāyassāti āhāranimittaparikkhīṇakāyassa, āhārakkhayena parikkhīṇakāyassāti attho. Suññāgāreti janavivitte phāsukaṭṭhāne.

「思惟の働きによって」とは、思惟の規則によって。「食物の不足によって衰弱した身体を持つ者の」とは、食物が原因で衰弱した身体を持つ者の、すなわち食物の尽きたことによって衰弱した身体を持つ者のという意味である。「人気の絶えた場所において(suññāgāre)」とは、人の離れた快適な場所において。

Kalahassa pubbabhāgo bhaṇḍanaṃ nāmāti kalahassa hetubhūtā paribhāsā taṃsadisī ca aniṭṭhakiriyā bhaṇḍanaṃ nāma. Hatthaparāmāsādivasenāti kujjhitvā aññamaññassa hatthe gahetvā parāmasanaaccantabandhanādivasena. ‘‘Ayaṃ dhammo’’tiādinā viruddhavādabhūtaṃ āpannāti vivādāpannā. Tenāha **‘‘viruddhabhūta’’**ntiādi. Mukhasannissitatāya vācā idha ‘‘mukha’’nti adhippetāti āha **‘‘mukhasattīhīti vācāsattīhī’’**ti. Saññattinti saññāpanaṃ ‘‘ayaṃ dhammo, ayaṃ vinayo’’ti saññāpetabbataṃ. Nijjhattinti yāthāvato tassa nijjhānaṃ. Aṭṭhakathāyaṃ pana **‘‘saññattivevacanameveta’’**nti vuttaṃ.

「争闘の前段階を罵倒と呼ぶ」とは、争闘の原因となる罵りと、それに類する望ましくない行為を罵倒と呼ぶ。「手で掴み合うことなどによって」とは、怒って互いの手を掴んで執着しきつく縛り合うことなどによって。「『これが法である』などと対立する説をなすに至った」ことから論争に陥った者たちである。それゆえに「対立したものとなった」などと言われた。口に依存することから言葉をここでは「口」と意図されているので、「口の武器によってとは、言葉の武器によって」と言われた。「納得させることを(saññattiṃ)」とは、「これが法であり、これが律である」と教え知らせるべき状態を知らせること。「納得することを(nijjhattiṃ)」とは、それを如実に熟慮して受け入れること。しかし義注においては「これは納得させることの同義語にすぎない」と述べられている。

Sace hoti desessāmīti subbacatāya sikkhākāmatāya ca āpattiṃ passi. Natthi te āpattīti anāpattipakkhopi ettha sambhavatīti adhippāyenāha. Sā panāpatti eva. Tenāha – **‘‘tassā āpattiyā anāpattidiṭṭhi ahosī’’**ti.

「もしそうであるなら告白しましょう」と素直さと修学を望む心から罪を見た。「あなたには罪はない」とは、罪がない側もここでは成立しうるという意図から言われた。しかしそれは罪そのものであった。それゆえに「その罪に対して無罪の見解を持った」と言われた。

492. Kalahabhaṇḍanavasenāti kalahabhaṇḍanassa nimittavasena. Yathānusandhināva gatanti kalahabhaṇḍanānaṃ sāraṇīyadhammapaṭipakkhattā tadupasamāvahā heṭṭhādesanāya anurūpāva uparidesanāti yathānusandhināva uparisuttadesanā pavattā. Saritabbayuttāti anussaraṇārahā. Sabrahmacārīnanti sahadhammikānaṃ. Piyaṃ piyāyitabbaṃ karontīti piyakaraṇā. Garuṃ garuṭṭhāniyaṃ karontīti garukaraṇā. Saṅgahaṇatthāyāti saṅgahavatthuvisesabhāvato sabrahmacārīnaṃ saṅgaṇhanāya saṃvattantīti sambandho. Avivādanatthāyāti saṅgahavatthubhāvato eva na vivādanāya. Sati ca avivādanahetubhūtasaṅgāhaṇatte tesaṃ vasena sabrahmacārīnaṃ samaggabhāvo bhedābhāvo siddhoyevāti āha **‘‘sāmaggiyā’’**tiādi. Mijjati siniyhati etāyāti mettā, mittabhāvo, mettā etassa atthīti mettaṃ, kāyakammaṃ. Taṃ pana yasmā mettāsahagatacittasamuṭṭhānaṃ, tasmā vuttaṃ **‘‘mettacittena kattabbaṃ kāyakamma’’**nti. Imāni mettakāyakammādīni bhikkhūnaṃ vasena āgatāni pāṭhe bhikkhūhi paccupaṭṭhapetabbatāvacanato. Bhikkhuggahaṇeneva cettha sesasahadhammikānampi gahaṇaṃ daṭṭhabbaṃ. Bhikkhuno sabbampi anavajjakāyakammaṃ ābhisamācārikakammantogadhamevāti āha – **‘‘mettacittena…pe… kāyakammaṃ nāmā’’**ti. Vattavasena pavattiyamānā cetiyabodhīnaṃ vandanā mettāsadisīti katvā tadatthāya gamanaṃ mettaṃ kāyakammanti vuttaṃ. Ādi-saddena cetiyabodhibhikkhūsu vuttāvasesaapacāyanādiṃ mettāvasena pavattaṃ kāyikaṃ kiriyaṃ saṅgaṇhāti.

492. 「争闘と罵倒によって」とは、争闘と罵倒を原因として。「文脈の連結に従って説かれた」とは、争闘と罵倒は思念すべき法の対立物であるから、それらの静息をもたらす上位の教説は下位の教説に適合しており、文脈の連結に従って上位の経の教説が説かれたのである。「思い出すべき価値のある」とは、随念するに値する。「同胞の修業者たちの」とは、同法の者たちの。「愛すべきもの、愛慕すべきものとする」ことから「親愛を生ずるもの(piyakaraṇā)」である。「重んずべきもの、尊ぶべきものとする」ことから「敬重を生ずるもの(garukaraṇā)」である。「摂受のために」とは、特別な摂事(摂受の対象)であることから、同胞の修業者たちを包容することに資するという結びつきである。「非論争のために」とは、摂受の対象であることそのものから、論争のためではない。「そして非論争の原因となる摂受性があるとき、それらによって同胞の修業者たちの和合した状態、不分裂の状態が成就される」ということから「和合のために」などと言われた。これによって親しみ、慈しむことから慈愛(mettā)であり、友誼であり、この慈愛を持つものが「慈しみある身の行為(mettaṃ kāyakammaṃ)」である。しかしそれは慈愛を伴う心から生じるものであるがゆえに、「慈心によってなされるべき身の行為」と述べられた。これら慈しみある身の行為などは比丘たちに関して説かれているが、経文において比丘たちによって確立されるべきこととして述べられているからである。そしてここで比丘と挙げられていることによって、他の同法の者たちも含まれると見るべきである。比丘の一切の無過失な身の行為は、威儀の行為に含まれるものであるから「慈心によって……身の行為と呼ばれる」と言われた。義務として行われる仏塔や菩提樹への礼拝は慈愛に似ているとして、そのために赴くことを慈しみある身の行為と述べた。「など」という言葉によって、仏塔・菩提樹・比丘たちにおいて述べられた残りの恭敬など、慈愛によって生じた身体的行為を総括している。

Tepiṭakampi buddhavacanaṃ kathiyamānanti adhippāyo. Tīṇi sucaritāni kāyavacīmanosucaritāni. Cintananti iminā evaṃ cintanamattampi mettaṃ manokammaṃ, pageva vidhipaṭipannā bhāvanāti dasseti.

「三蔵の仏の言葉が語られている」という趣旨である。三つの善行とは、身・口・意の善行である。「念ずること」とは、これによってこのように念ずるだけでも慈しみある意の行為であり、作法に従った瞑想(修習)においては言うまでもないということを示している。

Sahāyabhāvūpagamanaṃ tesaṃ purato. Tesu karontesuyeva hi sahāyabhāvūpagamanaṃ sammukhā kāyakammaṃ nāma hoti. Kevalaṃ ‘‘devo’’ti avatvā guṇehi thirabhāvajotanaṃ devattheroti vacanaṃ paggayha vacanaṃ. Mamattabodhanaṃ vacanaṃ mamāyanavacanaṃ. Ekantatirokkhakassa manokammassa sammukhatā nāma viññattisamuṭṭhāpanavaseneva hoti, tañca kho loke kāyakammanti pākaṭaṃ paññātaṃ hatthavikārādiṃ anāmasitvā eva dassento **‘‘nayanāni ummīletvā’’**ti āha. Tathā hi vacībhedavasena pavatti na gahitā.

彼らの前において「仲間となること」。彼らが行為しているまさにその時に仲間となることが「面前における身の行為」と呼ばれる。単に「神」と言わずに徳によって確固たる状態を照らし出す「神長老」という言葉は、称賛の言葉である。我が物と執着することを示す言葉が「執着の言葉」である。全く見えない意の行為が面前にあるということは、表出を生じさせることによってのみ成立し、世間において身の行為として明白に知られている手の身振りなどに触れることなく示しつつ、「目を開いて」と言われた。実に発話の区別による働きはここでは取られていない。

Laddhapaccayā labbhantīti lābhā, parisuddhāgamanā paccayā. Na sammā gayhamānāpi na dhammaladdhā nāma na hontīti tappaṭisedhanatthaṃ pāḷiyaṃ **‘‘dhammaladdhā’’**ti vuttaṃ. Deyyaṃ dakkhiṇeyyañca appaṭivibhattaṃ katvā bhuñjatīti appaṭivibhattabhogī. Tenāha **‘‘dve paṭivibhattāni nāmā’’**tiādi. Cittena vibhajananti etena – ‘‘cittuppādamattenapi vibhajanaṃ paṭivibhattaṃ nāma, pageva payogato’’ti dasseti.

得られた生活必需品は得られるものであるから「利得(lābhā)」であり、清浄な来歴による必需品である。正しく受け取られないとしても法によって得られたものでないわけではない、ということを排除するために、聖典において「法によって得られた」と述べられた。施されるべきものと受者とを差別せずに受用することから「無差別受用者(appaṭivibhattabhogī)」である。それゆえに「二つの分配と呼ばれるものがあり」などと言われた。「心による分配」とは、これによって「心を生起させただけでも分配と呼ばれ、実際の行為においては言うまでもない」ということを示している。

Paṭiggaṇhantova…pe… passatīti iminā āgamanato paṭṭhāya sādhāraṇabuddhiṃ upaṭṭhāpeti. Evaṃ hissa sādhāraṇabhogitā sukarā, sāraṇīyadhammo cassa supūro hoti. Vattanti sāraṇīyadhammapūraṇavattaṃ.

「受け取りつつ……見る」とは、これによって手に入った時から共通の意識を確立させる。このようにすれば彼にとって共通の受用は容易であり、思念すべき法も完全に満たしやすい。義務とは「思念すべき法を満たす義務」である。

Dātabbanti avassaṃ dātabbaṃ. Attano palibodhavasena sapalibodhasseva pūretuṃ asakkuṇeyyattā odissakadānampissa na sabbattha vāritanti dassetuṃ **‘‘tena panā’’**tiādi vuttaṃ. Adātumpīti pi-saddena dussīlassapi atthikassa sati sambhave dātabbanti dasseti. Dānañhi nāma kassaci na nivāritaṃ.

「与えられるべきである」とは、必ず与えられるべきである。自らの執着によって、執着を持つ者自身が満たすことができないがゆえに、彼に対して特定の人への施しもすべての場合に禁止されているわけではないということを示すために、「しかしそれによって」などと述べられた。「与えないことにも(adātumpī)」の「も」という言葉によって、破戒の者であっても求める者には可能であれば与えられるべきであることを示している。布施というものは何人に対しても禁じられてはいないからである。

Mahāgirigāmo nāma nāgadīpapasse eko gāmo. Sāraṇīyadhammo me, bhante, pūrito…pe… pattagataṃ na khīyatīti āha tesaṃ kukkuccavinodanatthaṃ. Taṃ sutvā tepi therā ‘‘sāraṇīyadhammapūrako aya’’nti abbhaññaṃsu. Daharakāle eva kiresa sāraṇīyadhammapūrako ahosi, tassā ca paṭipattiyā avañjhabhāvavibhāvanatthaṃ **‘‘ete mayhaṃ pāpuṇissantī’’**ti āha.

大山村とは、ナーガ島の側にある一つの村である。「大徳よ、私の思念すべき法は満たされており……鉢の中のものは尽きません」と、彼らの疑念を除くために語った。それを聞いてそれらの長老たちも「この者は思念すべき法を満たす者である」と認めた。実に彼は若い頃から思念すべき法を満たす者であったのであり、その実践が決して無駄ではないことを明らかにするために「これらは私のところへ届くであろう」と述べた。

Ahaṃ sāraṇīyadhammapūrikā, mama pattapariyāpannenapi sabbāpimā bhikkhuniyo yāpessantīti āha **‘‘mā tumhe tesaṃ gatabhāvaṃ cintayitthā’’**ti.

「私は思念すべき法を満たす者であり、私の鉢に属するものによってもこれらすべての比丘尼たちは生活できるであろう」と言って、「あなたがたは彼らが行ってしまったことを気にかけてはならない」と述べた。

Sattasu āpattikkhandhesu ādimhi vā ante vā, vemajjheti ca idaṃ uddesāgatapāḷivasena vuttaṃ. Na hi añño koci āpattikkhandhānaṃ anukkamo atthi. Pariyante chinnasāṭako viyāti vatthante, dasante vā chinnavatthaṃ viya. Khaṇḍanti khaṇḍavantaṃ, khaṇḍitaṃ vā. Chiddanti etthāpi eseva nayo. Visabhāgavaṇṇena upaḍḍhaṃ, tatiyabhāgaṃ vā sambhinnavaṇṇaṃ sabalaṃ, visabhāgavaṇṇeheva pana bindūhi antarantarā vimissaṃ kammāsaṃ, ayaṃ imesaṃ viseso. Taṇhādāsabyato mocanavacaneneva tesaṃ sīlānaṃ vivaṭṭupanissayatamāha. Bhujissabhāvakaraṇatoti iminā bhujissakarāni bhujissānīti uttarapadalopenāyaṃ niddesoti dasseti. Aviññūnaṃ appamāṇatāya **‘‘viññuppasatthānī’’**ti vuttaṃ. Taṇhādiṭṭhīhi aparāmaṭṭhattāti – ‘‘imināhaṃ sīlena devo vā bhavissāmi devaññataro vā’’ti taṇhāparāmāsena – ‘‘imināhaṃ sīlena devo hutvā tattha nicco dhuvo sassato bhavissāmī’’ti diṭṭhiparāmāsena ca aparāmaṭṭhattā. Parāmaṭṭhunti codetuṃ. Sīlaṃ nāma avippaṭisārādipārampariyena yāvadeva samādhisampādanatthanti āha **‘‘samādhisaṃvattakānī’’**ti. Samānabhāvo sāmaññaṃ, paripuṇṇacatupārisuddhibhāvena majjhe bhinnasuvaṇṇassa viya bhedābhāvato sīlena sāmaññaṃ sīlasāmaññaṃ, taṃ gato upagatoti sīlasāmaññagato. Tenāha **‘‘samānabhāvūpagatasīlo’’**ti.

七つの罪の集聚において初め、あるいは終わり、あるいは中間というのは、戒本の説示の経文に従って述べられたものである。罪の集聚には他にどのような順序もないからである。「端の破れた衣のように」とは、布の端、あるいは縁の裂けた衣のように。「断片ある(khaṇḍaṃ)」とは、断片を持つこと、損なわれていること。「穴のある(chiddaṃ)」においても同様の趣旨である。異なる色によって半分あるいは三分の一が混ざり合った色を「まだら(sabala)」といい、異なる色の斑点があちこちに混ざり合っているものを「斑(kammāsa)」という。これがこれらの相違である。渇愛の奴隷状態からの解放の言葉によって、それらの戒の解脱の所依たる性質を述べている。「自由な状態をなすことから」とは、これによって自由をなすものが「自由(bhujissa)」であると、後肢の脱落によってこの定義がなされていることを示している。賢者ならざる者たちには基準がないことから「智者に称賛された」と述べられた。「渇愛と見解によって執着されていないことから」とは、「私はこの戒によって神あるいは特定の神となるであろう」という渇愛による執着や、「私はこの戒によって神となってそこで常住・堅固・永遠の者となるであろう」という見解による執着によって執着されていないことから。「執着された(parāmaṭṭhuṃ)」とは、非難するためである。戒というものは後悔なきことなどの順序を経て三昧を成就するためにこそあることから、「三昧に資する」と述べられた。同一の状態が「共通(sāmañña)」であり、四種清浄戒を具足した状態によって中間に割れ目のない黄金のように分裂がないことから、戒による共通性が「戒の共通性(sīlasāmaññaṃ)」であり、そこに至った、達した者ということで「戒の共通性に達した者」である。それゆえに「共通の状態に至った戒を持つ」と言われた。

Yāyaṃ diṭṭhīti yā ayaṃ diṭṭhi mayhañceva tumhākañca paccakkhabhūtā. Catusaccadassanaṭṭhena diṭṭhi, ‘‘sabbe saṅkhārā aniccā, sabbe saṅkhārā dukkhā, sabbe dhammā anattā’’ti, ‘‘sammāsambuddho bhagavā, svākhāto bhagavatā dhammo, suppaṭipanno saṅgho’’ti ca diṭṭhiyā sāmaññaṃ samānadiṭṭhibhāvaṃ. Aggaṃ itaresaṃ sāraṇīyadhammānaṃ padhānabhāvato. Etasmiṃ sati sukhasiddhito tesaṃ saṅgāhikaṃ, tato eva tesaṃ saṅghāṭanikaṃ gopānasiyo aparipatante katvā saṅgaṇhāti dhāretīti saṅgāhikaṃ. Saṅghāṭanti aggabhāvena saṅghāṭabhāvaṃ. Saṅghāṭanaṃ etesaṃ atthīti saṅghāṭanikaṃ, saṅghāṭaniyanti vā pāṭho, saṅghāṭane niyuttanti vā saṅghāṭanikaṃ, ka-kārassa ya-kāraṃ katvā saṅghāṭaniyaṃ. Sāmaññato eva gahitattā napuṃsakaniddeso.

「いかなる見解か」とは、私にとってもあなたがたにとっても明白であるこの見解である。四諦を見るという意味での見解であり、「諸行は無常であり、諸行は苦であり、諸法は無我である」「世尊は正等覚者であり、法は世尊によって善説され、僧伽は正しく実践する」という見解の共通性、同一の見解の状態である。「最上である」とは、他の思念すべき法よりも主要であることから。これが存在するとき安楽が成就することからそれらを包括するものであり、それゆえにそれらを結びつけるもの、垂木が崩れ落ちないように包括し保持するものであるから「包括するもの(saṅgāhikaṃ)」である。「結合(saṅghāṭa)」とは、最上であることによる結合の状態である。結合がそれらにおいてあることから「結合するもの(saṅghāṭanikaṃ)」であり、「saṅghāṭaniyaṃ」とも読まれ、あるいは結合に結びついていることから「saṅghāṭanikaṃ」であり、kの文字をyの文字に変えて「saṅghāṭaniyaṃ」となる。総相として把握されていることから中性の表現である。

493. Paṭhamamaggasammādiṭṭhipi evaṃsabhāvā, aññamaggasammādiṭṭhīsu vattabbameva natthīti āha **‘‘yāyaṃ sotāpattimaggadiṭṭhī’’**ti. Ettāvatāpīti ettakenapi rāgādīsu ekekena pariyuṭṭhitacittatāyapi pariyuṭṭhitacittoyeva nāma hoti, pageva dvīhi, bahūhi vā pariyuṭṭhitacittatāya. Sabbatthāti sabbesu aṭṭhasupi vāresu. Suṭṭhu ṭhapitanti yathā maggabhāvanā upari saccābhisambodho hoti, evaṃ sammā ṭhapitaṃ. Tenāha **‘‘saccānaṃ bodhāyā’’**ti. Taṃ ñāṇanti ‘‘natthi kho me taṃ pariyuṭṭhāna’’ntiādinā pavattaṃ paccavekkhaṇañāṇaṃ. Ariyānaṃ hotīti ariyānameva hoti. Tesañhi ekadesatopi pahīnaṃ vattabbataṃ arahati. Tenāha **‘‘na puthujjanāna’’**nti. Ariyanti vuttaṃ ‘‘ariyesu jāta’’nti katvā. Lokuttarahetukatāya lokuttaranti vuttaṃ. Tenevāha **‘‘yesaṃ panā’’**tiādi. Tathā hissa puthujjanehi asādhāraṇatā. Tenāha **‘‘puthujjanānaṃ pana abhāvato’’**ti. Sabbavāresūti sabbesu itaresu chasu vāresu.

493. 初道の正見もこのような本質を持つものであり、他の道の正見においては言うまでもないことから、「預流道の見解であるこの見解」と言われた。「これほどによっても」とは、これほどによって貪愛などの一つに心が支配された状態であっても、まさに支配された心と呼ばれるのであり、二つあるいは多くによって心が支配された状態においては言うまでもない。「すべての箇所において」とは、すべての八つの箇条において。「正しく確立された」とは、道修習が上位の諦の覚知に至るように正しく確立されたことである。それゆえに「諸諦を覚知するために」と言われた。「その知とは」とは、「私にはその支配はない」などと生起した省察の知である。「聖者たちにある」とは、聖者たちにのみある。彼らには一部分であっても断ぜられたと語られるに値するからである。それゆえに「凡夫たちにはない」と言われた。「聖なる」と述べられたのは「聖者たちの中に生じた」ということからである。出世間を原因とすることから「出世間の」と述べられた。それゆえに「しかしそれらの者には」などと言われた。実にその知は凡夫たちと共有されない。それゆえに「しかし凡夫たちには存在しないことから」と言われた。「すべての箇条において」とは、他のすべての六つの箇条において。

494. Paccattanti pāṭiyekkaṃ attani mama citteyeva. Tenāha **‘‘attano citte’’**ti. ‘‘Paccattaṃ attano citte nibbutiṃ kilesavūpasamaṃ labhāmī’’ti imamatthaṃ **‘‘eseva nayo’’**ti iminā atidisati.

494. 「各自に(paccattaṃ)」とは、個別に自分自身の心においてのみ。それゆえに「自らの心において」と言われた。「各自に自らの心において煩悩の寂静たる涅槃を得る」というこの意味を、「これと同じ方法である」とこれによって適用している。

495. Tathārūpāya diṭṭhiyāti idaṃ ‘‘yathārūpāya diṭṭhiyā samannāgato’’ti imassa atthassa paccāmasananti āha **‘‘tathārūpāya diṭṭhiyāti evarūpāya sotāpattimaggadiṭṭhiyā’’**ti.

495. 「そのような見解によって」とは、これは「いかなる見解を具足しているか」というこの意味を振り返るものであるとして、「『そのような見解によってとは、このような預流道の見解によって』」と述べた。

496. Sabhāvenāti niyatapañcasikkhāpadatādisabhāvena. Saṅghakammavasenāti mānattacariyādisaṅghakammavasena. Daharoti bālo. Kumāroti dārako. Yasmā daharo ‘‘kumāro’’ti ca ‘‘yuvā’’ti ca vuccati, tasmā mandoti vuttaṃ. Mandindriyatāya hi mando. Tenāha **‘‘cakkhusotādīnaṃ mandatāyā’’**ti. Evampi yuvāvatthāpi keci mandindriyā hontīti tannivattanatthaṃ **‘‘uttānaseyyako’’**ti vuttaṃ. Yadi uttānaseyyako, kathamassa aṅgārakkamananti? Yathā tathā aṅgārassa phusanaṃ idha ‘‘akkamana’’nti adhippetanti āha **‘‘ito cito cā’’**tiādi. Manussānanti mahallakamanussānaṃ. Na sīghaṃ hattho jhāyati kathinahatthatāya. Khippaṃ paṭisaṃharati mudutaluṇasarīratāya. Adhivāseti kiñci payojanaṃ apekkhitvā.

496. 「本質によって」とは、規定された五戒などの本質によって。「僧伽の作法によって」とは、マナッタ(別住)の行などの僧伽の作法によって。「年少の者(daharo)」とは、愚かな者。「幼子(kumāro)」とは、童子。年少の者は「幼子」とも「若者」とも呼ばれることから、「鈍い者(mando)」と述べられた。諸根が未発達であるがゆえに鈍いのである。それゆえに「眼や耳などの未発達さによって」と言われた。このように若者の状態であってもある者は諸根が未発達であることから、それを除外するために「仰向けに寝ている者」と述べられた。もし仰向けに寝ている者であるなら、どうして彼の炭火を踏むことがあるのか。どのようにであれ炭火に触れることがここでは「踏むこと」と意図されているとして、「あちらこちらから」などと述べられた。「人間たちの」とは、大人の人間たちの。手の皮膚が硬いためすぐには手が焼けない。柔らかく幼い身体であるため素早く引き戻す。何らかの目的を考慮して堪え忍ぶ。

497. Uccāvacānīti mahantāni ceva khuddakāni ca. Tatthevāti sudhākammādimhiyeva. Kasāvapacanaṃ sudhādisaṅkharaṇatthaṃ, udakānayanaṃ dhovanādiatthaṃ, haliddivaṇṇadhātulepanatthaṃ kucchakaraṇaṃ. Bahalapatthanoti daḷhachando. Vacchakanti nibbattadhenupagavacchaṃ. Apacinātīti apavindati, āloketīti attho. Tenāha **‘‘apaloketī’’**ti. Tanninno hotīti adhisīlasikkhādininnova hoti uccāvacānampi kiṃkaraṇīyānaṃ cārittasīlassa pūraṇavaseneva karaṇato, yonisomanasikāravaseneva ca tesaṃ paṭipajjanato. Therassa santike aṭṭhāsi yonisomanasikārābhāvato ‘‘taṃ taṃ samullapissāmī’’ti.

497. 「大小の(uccāvacāni)」とは、大きなものと小さなもの。「まさにその場所において」とは、漆喰塗りなどの場所において。渋液を煮ることは漆喰などを整えるためであり、水を運ぶことは洗浄などのためであり、黄色の鉱物顔料を塗るために塗り刷毛を作ること。「強い望みを持つ者」とは、強固な意欲を持つ者。「子牛(vacchakaṃ)」とは、生まれたばかりの牝牛のそばにいる子牛。「見守る(apacināti)」とは、見出す、観察するという意味である。それゆえに「見守る(apaloketi)」と言われた。「それに傾注している」とは、大小のなすべき務めであっても実践戒を満たすことによってのみ行うことから、また如理作意によってのみそれらに従事することから、増上戒の修学などに傾注している。「あれこれと話しかけよう」という如理作意のなさから長老のそばに立った。

498. Balaṃ eva balatāti āha **‘‘balena samannāgato’’**ti. Atthikabhāvaṃ katvāti tena dhammena savisesaṃ atthikabhāvaṃ uppādetvā. Sakalacittenāti desanāyaādimhi majjhe pariyosāneti sabbattheva pavattatāya sakalena anavasesena cittena.

498. 力そのものが力強さであることから、「力を具足して」と言われた。「熱意ある状態にして」とは、その法に対して特別な熱意ある状態を生じさせて。「全心によって」とは、説法の初め・中・終わりとすべての部分において生起することから、完全なる欠けるところのない心によって。

500. Sabhāvoti ariyasāvakassa puthujjanehi asādhāraṇatāya āveṇiko sabhāvo. Suṭṭhu samannesitoti sammadeva upaparikkhito. Sotāpattiphalasacchikiriyāyāti sotāpattiphalassa sacchikaraṇena, sacchikatabhāvenāti attho. Tenāha **‘‘sotāpattiphalasacchikatañāṇenā’’**ti. Paṭhamamaggaphalassa paccavekkhaṇañāṇavisesā hete pavattiākārabhinnā. Tenevāha **‘‘sattahi mahāpaccavekkhaṇañāṇehī’’**ti. Ayaṃ tāva ācariyānaṃ samānakathāti ‘‘idamassa paṭhamaṃ ñāṇa’’ntiādinā vuttāni paccavekkhaṇañāṇāni, na maggañāṇānīti evaṃ pavattā paramparāgatā pubbācariyānaṃ samānā sādhāraṇā imissā pāḷiyā aṭṭhakathā atthavaṇṇanā. Tattha kāraṇamāha **‘‘lokuttaramaggo hi bahucittakkhaṇiko nāma natthī’’**ti. Yadi so bahucittakkhaṇiko siyā nānābhisamayo, tathā sati saṃyojanattayādīnaṃ ekadesappahānaṃ pāpuṇātīti ariyamaggassa anantaraphalattā ekadesasotāpannatādibhāvo āpajjati, phalānaṃ vā anekabhāvo, sabbametaṃ ayuttanti tasmā ekacittakkhaṇikova ariyamaggo.

500. 「本質」とは、聖弟子の凡夫と共有されない特有の本質である。「極めて正しく探求された」とは、正しく考察された。「預流果の現証によって」とは、預流果を現証することによって、現証した状態によってという意味である。それゆえに「預流果を現証した知によって」と言われた。これらは初道の果の省察の特別な知であり、生起の様態を異にするものである。それゆえに「七つの大いなる省察の知によって」と言われた。「これらはひとまず諸師の共通の説である」とは、「これが彼の第一の知である」などと述べられた省察の知であり、道智ではないとこのように伝承されてきた過去の諸師の共通の、一般的なこの聖典の註釈の解釈である。その理由を「『出世間の道には多くの心刹那を持つものはないからである』」と述べた。もしそれが多くの心刹那を持つものであるなら異なった覚知となり、そうなれば三結などの一部分の断滅に至ることになり、聖道は直ちに果をもたらすがゆえに一部分だけの預流者などの状態に陥るか、あるいは果が多数存在することになり、これらはすべて不当である。それゆえに聖道は唯一の心刹那のみである。

Yaṃ pana suttapadaṃ nissāya vitaṇḍavādī ariyamaggassa ekacittakkhaṇikataṃ paṭikkhipati, taṃ dassento **‘‘satta vassānīti hi vacanato’’**ti āha. Kilesā pana lahu…pe… chijjantīti vadantena hi khippaṃ tāva kilesappahānaṃ, dandhapavattikā maggabhāvanāti paṭiññātaṃ hoti. Tattha sace maggassa bhāvanāya āraddhamattāya kilesā pahīyanti, sesā maggabhāvanā niratthakā siyā, atha pacchā kilesappahānaṃ, kilesā pana lahu chijjantīti idaṃ micchā, ‘‘sotāpattiphalasacchikiriyāyā’’ti vakkhatīti. Tato suttapaṭijānanato. Maggaṃ abhāvetvāti ariyamaggaṃ paripuṇṇaṃ katvā abhāvetvā. Attharasaṃ viditvāti suttassa aviparīto attho eva attharaso, taṃ yāthāvato ñatvā. Evaṃ vitaṇḍavādivādaṃ bhinditvā vuttamevatthaṃ nigametuṃ **‘‘imāni satta ñāṇānī’’**tiādi vuttaṃ. Sesaṃ suviññeyyameva.

論客が経文に基づいて聖道が唯一の心刹那であることを否定するその経文を示して、「『七年という言葉があるからである』」と述べた。「煩悩は速やかに……断ぜられる」と述べる者によって、煩悩の断滅は速やかであり、道修習の働きは緩やかであると主張されたことになる。その場合、もし道の修習が始められただけで煩悩が断ぜられるならば、残りの道修習は無益となり、もし後から煩悩が断ぜられるならば「煩悩は速やかに断ぜられる」というこれは誤りであり、「預流果の現証によって」と説かれるはずである。その経の主張によって。「道を修習することなく」とは、聖道を円満に修習することなく。「意味の味わいを知って」とは、経の無顚倒の意味こそが意味の味わいであり、それを如実に知って。このように論客の説を論破して、述べられた通りの意味を結論づけるために「これら七つの知は」などが述べられた。残りは極めて理解しやすい。

Kosambiyasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

拘睒弥経の注釈の陰れたる意味の解明は完結した。

9. Brahmanimantanikasuttavaṇṇanā

9. 梵天勧請経の注釈

501. ‘‘Sassato attā ca loko cā’’ti (dī. ni. 1.30) evaṃ pavattā diṭṭhi sassatadiṭṭhi (saṃ. ni. ṭī. 1.1.175). Saha kāyenāti saha tena brahmattabhāvena. Brahmaṭṭhānanti attano brahmavatthuṃ. ‘‘Aniccaṃ nicca’’nti vadati aniccatāya attano apaññāyamānattā. Thiranti daḷhaṃ, vināsābhāvato sārabhūtanti attho. Uppādavipariṇāmābhāvato sadā vijjamānaṃ. Kevalanti paripuṇṇaṃ. Tenāha **‘‘akhaṇḍa’’**nti. Kevalanti vā jātiādīhi amissaṃ, virahitanti adhippāyo. Uppādādīnaṃ abhāvato eva acavanadhammaṃ. Koci jāyanako vā…pe… upapajjanako vā natthi niccabhāvato. Ṭhānena saddhiṃ tannivāsīnaṃ niccabhāvañhi so paṭijānāti. Tisso jhānabhūmiyoti dutiyatatiyacatutthajjhānabhūmiyo. Catutthajjhānabhūmivisesā hi asaññasuddhāvāsāruppabhavā. Paṭibāhatīti santaṃyeva samānaṃ ajānantova natthīti paṭikkhipati. Avijjāya gatoti avijjāya saha gato pavatto. Sahayoge hi idaṃ karaṇavacanaṃ. Tenāha **‘‘samannāgato’’**ti. Aññāṇīti avidvā. Paññācakkhuvirahato andho bhūto, andhabhāvaṃ vā pattoti andhībhūto.

501. 「我と世界は常住である」とこのように生じた見解が常住論の見解である。「身体とともに」とは、その梵天の個体(生存)とともに。「梵天の境地を」とは、自らの梵天界を。「無常なるものを常住と」語るのは、無常であることが自分に知られないからである。「堅固である」とは確固たるものであり、滅びることがないことから本質的であるという意味である。生起と変異がないことから常に存在する。「完全である」とは円満であること。それゆえに「欠け目がない」と言われた。あるいは「完全である」とは生などの諸現象と混ざり合わず、離れているという趣旨である。生起などがないことからまさに死没することのない性質である。常住であるがゆえに「生まれる者も……生じる者も誰もいない」。境地とともにそこに住する者たちの常住性を実に彼は主張するのである。「三つの禅定の境地」とは、第二・第三・第四の禅定の境地である。第四禅の境地の特別なものとして無想定や浄居天や無色界の生存がある。「退ける」とは、存在しているにもかかわらず知らずに「存在しない」と否定することである。「無明とともに行った」とは、無明とともに行って生起した。同伴関係においてこの具格の言葉がある。それゆえに「具足した」と言われた。「無知なる者」とは、智恵なき者。慧眼を欠いていることから盲目となった、盲目の状態に至ったということで「盲目となった者」である。

502. Tadā bhagavato subhagavane viharaṇassa avicchinnataṃ sandhāya vuttaṃ **‘‘subhagavane viharatīti ñatvā’’**ti. Tattha pana tadāssa bhagavato adassanaṃ sandhāyāha **‘‘kattha nu kho gatoti olokento’’**ti. Brahmalokaṃ gacchantaṃ disvāti iminā katipayacittavāravasena tadā bhagavato brahmalokagamanaṃ jātaṃ, na ekacittakkhaṇenāti dasseti. Na cettha kāyagatiyā cittapariṇāmanaṃ adhippetaṃ – ‘‘seyyathāpi nāma balavā puriso samiñjitaṃ vā bāhaṃ pasāreyyā’’tiādivacanato (ma. ni. 1.501). Yaṃ panettha vattabbaṃ, taṃ heṭṭhā vuttameva. Vichandanti chandavigamaṃ. Apasāditoti diṭṭhiyā gāhassa viparivattanena santajjito. ‘‘Metamāsado’’ti vacanena upatthambho hutvā.

502. 当時、世尊が善福林に止住されていたことの不断の継続を指して「『善福林に住していると知って』」と述べられた。しかし当時、彼に世尊のお姿が見えなかったことを指して「『いったい何処へ行かれたのかと見回して』」と述べた。「梵天界へ赴かれるのを見て」とは、これによって当時、世尊の梵天界への行進は幾つかの心刹那の過程によって生じたのであり、一瞬の心刹那によるものではないことを示している。またここでは身体の歩行への心の転換を意図したものではない。「たとえば力ある男が屈げた腕を伸ばすように」などの言葉があるからである。ここで語られるべきことは、すでに前に述べられた通りである。「意欲を失った」とは、意欲の離脱。「非難された」とは、見解の執着が覆されたことによって威圧されたこと。「私に近づくな」という言葉によって支えとなって。

Anvāvisitvāti āvisanavasena tassa attabhāvaṃ adhibhavitvā. Tathā abhibhavato hi tassa sarīraṃ paviṭṭho viya hotīti vuttaṃ **‘‘sarīraṃ pavisitvā’’**ti. Yañhi sattaṃ devayakkhanāgādayo āvisanti, tassa pākatikakiriyamayaṃ cittappavattiṃ nivāretvā attano iddhānubhāvena yaṃ icchitaṃ hasitalapitādi, taṃ tena kārāpenti, kārentā ca āviṭṭhapuggalassa cittavasena kārenti. ‘‘Attanovā’’ti na vattabbametaṃ acinteyyattā kammajassa iddhānubhāvassāti keci. Apare pana yathā tadā cakkhuviññāṇādipavatti āviṭṭhapuggalasseva, evaṃ kiriyamayacittapavattipi tasseva, āvesakānubhāvena pana sāmaññatā parivattati. Tathā hi mahānubhāvaṃ puggalaṃ te āvisituṃ na sakkonti, tikicchāvuṭṭhāpane pana chavasarīraṃ anupavisitvā satantaṃ karoti vijjānubhāvena. Korakhattiyādīnaṃ pana chavasarīrassa uṭṭhānaṃ vacīnicchāraṇañca kevalaṃ buddhānubhāvena. Acinteyyā hi buddhānaṃ buddhānubhāvāti. Abhibhavitvā ṭhitoti sakalalokaṃ attano ānubhāvena abhibhavitvā ṭhito. Jeṭṭhakoti padhāno, tādisaṃ vā ānubhāvasampannattā uttamo. Passatīti daso. Visesavacanicchāya abhāvato anavasesavisayo daso-saddoti āha **‘‘sabbaṃ passatī’’**ti. Sabbajananti laddhanāmaṃ sabbasattakāyaṃ. Vase vatteti, seṭṭhattā nimmāpakattā ca attano vase vatteti. Lokassa īsanasīlatāya issaro. Sattānaṃ kammassa kārakabhāvena kattā. Thāvarajaṅgamavibhāgaṃ sakalaṃ lokaṃ nimmānetīti nimmātā.

「憑依して」とは、憑依することによって彼の個体を圧倒して。そのように圧倒することによって彼の身体に入り込んだかのようになることから「身体に入り込んで」と述べられた。実に神・夜叉・竜などが憑依する生き物に対して、彼らはその通常の作用心を抑え、自らの神通力によって望む笑いや会話などをその者に行わせるのであり、行わせる際も憑依された人物の心を通じて行わせる。「自らの心によってのみ」とは言うべきではない。業生の神通力は不可思議であるからである、とある諸師は言う。他の諸師は、当時、眼識などの生起が憑依された人物自身のものであるように、作用心の生起も彼自身のものであり、ただ憑依者の威力によって共通性が転換するのである。実に威力の大きな人物には彼らは憑依することができないが、呪術の治療においては屍体に入り込んで呪術の力によって言葉を発させる。しかしコーラカッティヤなどの屍体の起き上がりや発声は、専ら仏の威力による。実に諸仏の仏の威力は不可思議であるからである。「圧倒して留まる者」とは、全世界を自らの威力によって圧倒して留まる者。「最年長者」とは首位の者であり、あるいはそのような威力に満ちていることから最上者。「見る者」とは観者。特別な言葉を望むことがないことから、一切を対象とする言葉として「すべてを見る者」と言われた。すべての者という名を得たすべての生き物の群れを。「意のままに従わせる」とは、最勝であり創造者であるがゆえに意のままに従わせる。世界を支配する性質から主宰者。生き物たちの業の行為者であることから作者。不動と可動に分かれる全世界を創造することから創造主。

Guṇavisesena loke pāsaṃsattā seṭṭho. Tādiso ca ukkaṭṭhatamo hotīti āha **‘‘uttamo’’**ti. Sattānaṃ nimmānaṃ tathā tathā sajanaṃ visajanaṃ viya hotīti āha **‘‘tvaṃ khattiyo’’**tiādi. Jhānādīsu attano citte ca ciṇṇavasittā vasī. Bhūtānanti nibbattānaṃ. Bhavaṃ abhijātaṃ arahantīti bhabyā, sambhavesino, tesaṃ bhabyānaṃ. Tenāha **‘‘aṇḍajajalābujā sattā’’**tiādi.

卓越した徳によって世において称賛されるべき者ゆえに「最高者」。そのような者は最勝であることから「最上者」と言われた。生き物たちの創造はあれこれと集めることや散らすことのようであることから「そなたは王族である」などと言われた。禅定などにおいて自らの心において自在を修めた者であるから「自在者」。「生じた者たちの」とは、生まれた者たちの。「生起を、生まれを」得るにふさわしいことから「生ずべき者(bhabyā)」、すなわち生を求める者たち、それら生ずべき者たちの。それゆえに「卵生や胎生の生き物たち」などと言われた。

Pathavīādayo niccā dhuvā sassatā. Ye tesaṃ ‘‘aniccā’’tiādinā garahakā jigucchā sattā, te ayathābhūtavāditāya matakāle apāyaniṭṭhā ahesuṃ. Ye pana pathavīādīnaṃ ‘‘niccā dhuvā’’tiādinā pasaṃsakā, te yathābhūtavāditāya brahmakāyūpagā ahesunti māro pāpimā anvayato byatirekato ca pathavīādimukhena saṅkhārānaṃ pariññāpaññāpane ādīnavaṃ vibhāveti tato vivecetukāmo. Tenāha **‘‘pathavīgarahakā’’**tiādi. Ettha ca māro pathavīādidhātumahābhūtaggahaṇena manussalokaṃ, bhūtaggahaṇena cātumahārājike, devaggahaṇena avasesakāmadevalokaṃ, pajāpatiggahaṇena attano ṭhānaṃ, brahmaggahaṇena brahmakāyike gaṇhi. Ābhassarādayo pana avisayatāya eva anena aggahitāti daṭṭhabbaṃ. Taṇhādiṭṭhivasenāti taṇhābhinandanāya diṭṭhābhinandanāya ca vasena. ‘‘Etaṃ mama, eso me attā’’ti abhinandino abhinandakā, abhinandanasīlā vā. Brahmuno ovāde ṭhitānaṃ iddhānubhāvaṃ dassetīti tesaṃ tattha sannipatitabrahmānaṃ iddhānubhāvaṃ tassa mahābrahmuno ovāde ṭhitattā nibbattaṃ katvā dasseti. Yasenāti ānubhāvena. Siriyāti sobhāya. Maṃ brahmaparisaṃ upanesīti yādisā brahmaparisā issariyādisampattiyā, tattha maṃ uyyojesi. Mahājanassa māraṇatoti mahājanassa vivaṭṭūpanissayaguṇavināsanena ānubhāvena māraṇato. Ayasanti yasapaṭipakkhaṃ akittikammānubhāvañcāti attho.

地などは常住であり、堅固であり、永遠である。それらを「無常である」などと非難し嫌悪する生き物たちは、如実ならざることを説いたがゆえに死時に悪趣に堕ちた。しかし地などを「常住であり、堅固である」などと称賛する者たちは、如実なることを説いたがゆえに梵天の身に生まれた、と悪魔魔羅は順次と逆次の両面から地などを通じて諸行を如実に知ることへの過患を明らかにし、そこから離れさせようと欲した。それゆえに「地を非難する者たち」などと言われた。そしてここで魔羅は地などの大種を挙げることによって人間界を、鬼神を挙げることによって四大王天を、神を挙げることによって残りの欲界の神々の世界を、生類主を挙げることによって自らの境地を、梵天を挙げることによって梵天の身の眷属たちを把握した。しかし光音天などは対象外であることによって彼に把握されなかったと見るべきである。「渇愛と見解の働きによって」とは、渇愛による歓喜と見解による歓喜の働きによって。「これは我がものであり、これは我が我である」と歓喜する者たち、歓喜する性質の者たち。「梵天の教誡に留まる者たちの神通力を示す」とは、そこに集まったそれらの梵天たちの神通力が、大梵天の教誡に留まっていることによって生じたものとして示す。「名声によって」とは威力によって。「栄光によって」とは美しさによって。「私を梵天の会衆へと導いた」とは、主宰権などの具足による梵天の会衆があるそこに、私を赴かせた。「大衆を殺害することから」とは、大衆の出離の所依たる徳を滅ぼす威力によって殺害することから。「不名誉を」とは名声の反対であり、悪評をもたらす行為の威力であるという意味である。

503. Kasiṇaṃ āyunti vassasataṃ sandhāya vadati. Upanissāya setīti upasayo, upasayova opasāyiko yathā ‘‘venayiko’’ti (ma. ni. 1.246; a. ni. 8.11; pārā. 8) āha **‘‘samīpasayo’’**ti. Sayaggahaṇañcettha nidassanamattanti dassetuṃ **‘‘maṃ gacchanta’’**ntiādi vuttaṃ. Anekatthattā dhātūnaṃ vattanattho daṭṭhabbo. Mama vatthusmiṃ sayanakoti mayhaṃ ṭhāne visaye vattanako. Bāhitvāti nīcaṃ katvā, abhibhavitvā vā. Jajjharikāgumbatoti ettha jajjharikā nāma pathaviṃ pattharitvā jātā ekā gacchajāti.

503. 「全生涯を」とは、百年を指して述べている。「依拠して臥す」ことから依処であり、依処そのものが依拠する者であり、律に通じた者を「venayiko」と呼ぶようなもので、「『近くに臥す者』」と言われた。臥すという表現はここでは単なる例示であることを示すために「私が行くのを」などと述べられた。語根には多くの意味があることから、存在する(留まる)という意味と見なすべきである。「私の境地に臥す者」とは、私の場所・領域に留まる者。「排斥して」とは、卑しくして、あるいは圧倒して。「ジャッジャリカの茂みから」のここで、ジャッジャリカとは地を這って生える一種の低木である。

Imināti ‘‘sace kho tvaṃ bhikkhū’’tiādivacanena. Esa brahmā. Upalāpetīti saṅgaṇhāti. Apasādetīti niggaṇhāti. Sesapadehīti vatthusāyiko yathākāmakaraṇīyo bāhiteyyoti imehi padehi. Mayhaṃ ārakkhaṃ gaṇhissasīti mama ārakkhako bhavissasi. Lakuṇḍakataranti nīcataraṃ nihīnavuttisarīraṃ.

「これによって」とは、「比丘よ、もしそなたが」などの言葉によって。この梵天は。「巧みに語りかける」とは、懐柔する。「威圧する」とは、叱責する。「残りの句によって」とは、領域に臥す者、意のままになされるべき者、排斥されるべき者というこれらの句によって。「私の護衛となるであろう」とは、私の守護者となるであろう。「より背が低く」とは、より身分が低く卑しい振る舞いの身体を。

Phusitumpi samatthaṃ kiñci na passati, pageva ñāṇavibhavanti adhippāyo. Nipphattinti nipphajjanaṃ, phalanti attho. Tañhi kāraṇavasena gantabbato adhigantabbato gatīti vuccati. Ānubhāvanti pabhāvaṃ. So hi jotanaṭṭhena virocanaṭṭhena jutīti vuccati. Mahatā ānubhāvena paresaṃ abhibhavanato mahesoti akkhāyatīti mahesakkho. Tayidaṃ abhibhavanaṃ kittisampattiyā parivārasampattiyā cāti āha **‘‘mahāyaso mahāparivāro’’**ti.

触れることさえ可能なものを何一つ見ず、智恵の威力においては言うまでもないという趣旨である。「達成を」とは成し遂げること、果という意味である。それは原因に従って至るべきもの、到達すべきものであることから「至達(gati)」と呼ばれる。「威力を」とは輝きを。それは照らすという意味、光り輝くという意味から「光輝(juti)」と呼ばれる。大いなる威力によって他者を圧倒することから「大いなる主(mahesa)」と告げられるゆえに「威容ある者(mahesakkho)」である。この圧倒は名声の具足と従者の具足によるものであるとして、「大いなる名声あり、多くの従者あり」と述べた。

Pariharantīti sineruṃ dakkhiṇato katvā parivattanti. Disāti bhummatthe etaṃ paccattavacananti āha **‘‘disāsu virocamānā’’**ti. Attano jutiyā dibbamānāya vā. Tehīti candimasūriyehi. Tattakena pamāṇenāti yattake candimasūriyehi obhāsiyamāno lokadhātusaṅkhāto eko loko, tattakena pamāṇena. Idaṃ cakkavāḷaṃ buddhānaṃ uppattiṭṭhānabhūtaṃ seṭṭhaṃ uttamaṃ padhānaṃ, tasmā yebhuyyena etthupapannā devatā aññesu cakkavāḷesu devatā abhibhuyya vattanti. Tathā hi brahmā sahampati dasasahassabrahmaparivāro bhagavato santikaṃ upagañchi. Tenāha **‘‘ettha cakkavāḷasahasse tuyhaṃ vaso vattatī’’**ti. Idāni **‘‘ettha te vattate vaso’’**ti vuttaṃ vase vattanaṃ sarūpato dassetuṃ **‘‘paroparañca jānāsī’’**tiādi vuttaṃ. Tattha paṭhamagāthāyaṃ vuttaṃ ettha-saddaṃ ānetvā attho veditabboti dassento **‘‘ettha cakkavāḷasahasse’’**ti āha. Uccanīceti jātikularūpabhogaparivārādivasena uḷāre ca anuḷāre ca. Ayaṃ iddho ayaṃ pakatimanussoti iminā ‘‘sarūpato evassa sattānaṃ paroparajānanaṃ, na samudāgamato’’ti dasseti. Yaṃ pana vakkhati ‘‘sattānaṃ āgatiṃ gatinti, taṃ kāmaloke sattānaṃ ādānanikkhepajānanamattaṃ sandhāya vuttaṃ, na kammavipākajānanaṃ. Yadi hi samudāgamato jāneyya, attanopi jāneyya, na cassa taṃ atthīti, tathā āha ‘‘itthambhāvoti **idaṃ cakkavāḷa’’**ntiādi. Rāgayogato rāgo etassa atthīti vā rāgo, virajjanasīlo virāgī, taṃ rāgavirāginaṃ. Sahassibrahmā nāma tvaṃ cūḷaniyā eva lokadhātuyā jānanato. Tayāti nissakke karaṇavacanaṃ. Catuhatthāyāti anekahatthena sāṇipākārena kātabbapaṭappamāṇaṃ dīghato catuhatthāya, vitthārato dvihatthāya pilotikāya kātuṃ vāyamanto viya gopphake udake nimujjitukāmo viya ca pamāṇaṃ ajānanto vihaññatīti niggaṇhāti.

「周回する」とは、須弥山を右回りに回転する。「方角を(disā)」とは、処格の意味における主格の言葉であるとして「『方角において光り輝きつつ』」と言われた。自らの輝きによって、あるいは輝きつつ。それら月と太陽によって。「それほどの範囲において」とは、月と太陽によって照らされる世界と呼ばれる一つの世界がある、それほどの範囲において。この輪囲世界(仏国土)は諸仏の生誕の地であり、最勝・最上・首位である。それゆえに大半はここに生まれた神々が他の輪囲世界の神々を圧倒して留まるのである。実にサハンパティ梵天は一万の梵天を従えて世尊の御許へと赴いた。それゆえに「ここ千の世界においてそなたの支配が及ぶ」と言われた。今や「ここにそなたの支配が及ぶ」と述べられた支配が及ぶことを具体的に示すために、「上下一切を知る」などが述べられた。そこで第一の詩偈において述べられた「ここに」という言葉を導いて意味を理解すべきであるとして、「ここ千の世界において」と述べた。「高低において」とは、生まれ・家柄・容姿・富・従者などによって気高い者と気高くない者において。「この者は栄えており、この者は普通の人間である」とこれによって「彼の生き物たちの上下を知ることは具体的な姿においてのみであり、原因の総体からではない」ということを示している。後に「生き物たちの来歴と行く末を」と語られるが、それは欲界における生き物たちの誕生と死没を知る程度を指して述べたものであり、業と異熟を知ることではない。もし原因の総体から知るならば自分自身のことも知るはずであるが、彼にはそれがないからであり、それゆえに「このような状態とは、この輪囲世界のことである」などと述べた。貪愛の結合によって貪愛が彼にあることから貪愛であり、離貪の性質の者が離貪者であり、その「貪愛ある者と離貪の者を」。小千世界のみを知ることから、そなたは「小千世界の梵天」と呼ばれる。「そなたによって」とは、奪格における具格の言葉である。「四肘の布によって」とは、多くの肘の長さの天幕の囲いによってなされるべき布の寸法を、長さ四肘、幅二肘のぼろ布で作ろうと試みる者のように、またくるぶしほどの水に潜ろうと望む者のように、分量を弁えずに苦しんでいると叱責するのである。

504. Taṃ kāyanti tadeva nikāyaṃ. Jānitabbaṭṭhānaṃ patvāpīti anaññasādhāraṇā mayhaṃ sīlādayo guṇavisesā tāva tiṭṭhantu, īdisaṃ lokiyaṃ parittakaṃ jānitabbaṭṭhānampi patvā. Ayaṃ imesaṃ atisayena nīcoti nīceyyo, tassa bhāvo nīceyyanti āha **‘‘tayā nīcatarabhāvo pana mayhaṃ kuto’’**ti.

504. 「その身を」とは、まさにその梵天の群れを。「知るべき境地に達しても」とは、他と共有されない私の戒などの特別な徳はひとまず措くとして、このような世間的な僅かな知るべき境地に達しても。「この者はこれらの中で極めて卑しい」ことから「卑下されるべき者(nīceyyo)」であり、その状態が卑下であるとして、「『しかしそなたよりも卑しい状態が私にどうしてあろうか』」と述べた。

Heṭṭhūpapattikoti uparūparito cavitvā heṭṭhā laddhūpapattiko. Evaṃ saṅkhepato vuttamatthaṃ vitthārato dassetuṃ **‘‘anuppanne buddhuppāde’’**ti āha. Heṭṭhūpapattikaṃ katvāti heṭṭhūpapattikaṃ patthanaṃ katvā. Yathā kenaci bahūsu ānantariyesu katesu yaṃ tattha garutaraṃ balavaṃ, tadeva paṭisandhiṃ deti, itarāni pana tassa anubalappadāyakāni honti, na paṭisandhidāyakāni, evaṃ catūsu rūpajjhānesu bhāvitesu yaṃ tattha garutaraṃ chandapaṇidhiadhimokkhādivasena sābhisaṅkhārañca, tadeva ca paṭisandhiṃ deti, itarāni pana aladdhokāsatāya tassa anubalappadāyakāni honti, na paṭisandhidāyakāni, tannibbattitajjhāneneva āyatiṃ punabbhavābhinibbatti hotīti āha **‘‘tatiyajjhānaṃ paṇītaṃ bhāvetvā’’**ti. Tatthāti subhakiṇhabrahmaloke. Puna tatthāti ābhassarabrahmaloke. Paṭhamakāleti tasmiṃ bhave paṭhamasmiṃ kāle. Ubhayanti atītaṃ attano nibbattaṭṭhānaṃ, tattha nibbattiyā hetubhūtaṃ attano katakammanti ubhayaṃ. Pamussitvā kālassa ciratarabhāvato. Vītināmeti paṭipajjantīti ca tadā tassā kiriyāya pavattikkhaṇaṃ upādāya pavattamānapayogo.

「下位に転生した者」とは、上層から死没して下層に転生を得た者である。このように簡潔に述べられた意味を詳細に示すために「仏の出現がない時に」と述べた。「下位への転生をなして」とは、下位への転生を願って。誰かによって多くの無間業がなされたとき、その中で最も重く強力なものが結生(再生)をもたらし、他のものはそれに力を与えるものとなって結生をもたらさないように、四つの色界禅が修習されたとき、その中で意欲・祈願・勝解などによって最も重く行を伴うものが結生をもたらし、他のものは機会を得ないために力を与えるものとなって結生をもたらさない。それによって生じた禅定によってのみ未来に再び生存の生起があるとして、「第三禅を勝れたものとして修習して」と述べた。「そこにおいて」とは遍浄梵天界において。「再びそこにおいて」とは光音梵天界において。「最初の時期に」とは、その生存の最初の時期に。「両方を」とは、過去の自らの生じた場所と、そこへ生じる原因となった自らのなした業という両方を。「忘却して」とは、時間が極めて長かったことから。「過ごす」「実践する」とは、当時、その行為が生起していた瞬間を基準として生起している働きである。

Apāyesīti pāyesi. Pipāsiteti tasite. Ghammanīti ghammakāle. Sampareteti ghammapariḷāhena pipāsāya abhibhūte. Nti pānīyadānaṃ. Vatasīlavattanti samādānavasena vatabhūtaṃ cārittasīlabhāvena samāciṇṇattā sīlavattaṃ. Suttappabuddhova anussarāmīti supitvā pabuddhamatto viya supinaṃ tava pubbanivutthaṃ mama pubbenivāsānussatiñāṇena anussarāmi, sabbaññutaññāṇena viya paccakkhato passāmīti attho.

「飲ませた(apāyesi)」とは、飲ませた。「渇いた者に」とは、渇望した者に。「炎熱において」とは、暑い季節に。「苦しめられた者に」とは、暑さの熱苦しさによって、渇きによって圧倒された者に。「飲み水を与えること」。「誓戒の義務」とは、受持することによる誓いであり、実践戒として実践されたことから戒の義務である。「眠りから覚めたかのように思い出す」とは、眠りから覚めたばかりの者が夢を思い出すかのように、そなたの過去の生存を私の宿住随念智によって思い出す、一切知智によるかのように目の当たりに見るという意味である。

Karamareti vilumpitvā ānīte. Kammasajjanti yuddhasajjaṃ, āvudhādāyininti attho.

「捕虜たちを」とは、略奪して連れてこられた者たちを。「戦の備えをした者を」とは、戦いの備えをし、武器を手にした者という意味である。

Eṇīkūlasminti eṇīmigabāhullena ‘‘eṇīkūla’’nti saṅkhaṃ gate gaṅgāya tīrappadese. Gayhaka nīyamānanti gayhavasena karamarabhāvena corehi attano ṭhānaṃ nīyamānaṃ.

「エニー河の岸において」とは、エニー鹿が多いことから「エニー河の岸」と名付けられたガンジス河の岸の地域において。「捕らえられて連行される者を」とは、捕虜として捕虜の状態で盗賊たちによって自分たちの場所へ連行される者を。

Āvāhavivāhavasena mittasanthavaṃ katvā. ‘‘Evaṃ amhesu kīḷantesu gaṅgeyyako nāgo kupito’’ti mayi saññampi na karontīti. Susukāranti susūti pavattaṃ bheravanāganissāsaṃ.

「婚姻関係を結んで親交をなした」とは、通婚によって親密な交際を結んだということである。「私たちがこのように遊んでいるのに、ガンガーの竜は怒っている」と言って、私に対して注意すら払わないという意味である。「シューシューと音を立てる」とは、シューシューと生じる恐ろしい竜の鼻息のことである。

Gahītanāvanti viheṭhetukāmatāya gatinivāraṇavasena gahitaṃ niggahitaṃ nāvaṃ. Luddenāti kurūrena. Manussakappāti nāvāgatānaṃ manussānaṃ viheṭhetukāmatāya.

「捕らえられた舟」とは、危害を加えたいという欲求によって運行を妨げる形で捕らえられ、引き留められた舟のことである。「残忍な者によって」とは、冷酷な者によって。「人間に擬態した者たち」とは、舟に乗ってやって来た人間に危害を加えたいがための姿である。

Baddhacaroti paṭibaddhacariyo. Tenāha **‘‘antevāsiko’’**ti. Taṃ nissāyevāti raññā upaṭṭhiyamānopi rājānaṃ pahāya taṃ kappaṃ antevāsiṃ nissāyeva.

「付き従う者」とは、繋ぎ止められて共に行動する弟子のことである。それゆえに『弟子』と言った。「ただ彼を頼りにして」とは、王に仕えられていながらも王を捨てて、その擬態した弟子のみに頼って、ということである。

Sambuddhimantaṃ vatinaṃ amaññīti ayaṃ sammadeva buddhimā vatasampannoti amaññi sambhāvesi ca.

「正しく覚った智慧ある者、誓戒を保つ者とみなした」とは、この者はまさに正しく智慧があり、誓戒を具えているとみなして敬重したということである。

Nānattabhāvesūti nānā visuṃ visuṃ attabhāvesu.

「種々の生存において」とは、様々に異なる個々の個体・生存において、という意味である。

Addhāti ekaṃsena. Mametamāyunti mayhaṃ etaṃ yathāvuttaṃ tattha tattha bhave pavattaṃ āyuṃ. Na kevalaṃ mama āyumeva, atha kho aññampi sabbaññeyyaṃ jānāsi, na tuyhaṃ aviditaṃ nāma atthi. Tathā hi buddho sammāsambuddho tuvaṃ. No ce kathamayamattho ñāto? Tathā hi sammāsambuddhattā eva te ayaṃ jalito jotamāno ānubhāvo obhāsayaṃ sabbampi brahmalokaṃ obhāsento dibbamāno tiṭṭhatīti satthu asamasamataṃ pavedesi.

「確かに」とは、決定的に。「私のこの寿命を」とは、私の、そのように説かれたあちこちの生存において経過した寿命を、ということである。ただ私の寿命だけでなく、その他のすべての知られるべき対象をも知っておられ、あなたにとって知られていないものなど存在しない。実にあなたは覚者であり、正等覚者である。もしそうでなければ、どうしてこの事柄が知られようか。実に正等覚者であるがゆえに、あなたのこの輝き燃え盛る威光は、梵天界の全体をも照らし出し、輝きながら存しているのである、と世尊の無比にして等しき徳のあり方を明かしたのである。

Pathavattenāti pathavīattena. Tenāha **‘‘pathavīsabhāvenā’’**ti. Ettha ca yasmā – ‘‘sabbasaṅkhārasamathoti’’ādinā (mahāva. 7; dī. ni. 2.64, 67; ma. ni. 1.281; saṃ. ni. 1.172) sādhāraṇato, ‘‘yattha neva pathavī’’ti asādhāraṇato ca pathaviyā asabhāvena nibbānassa gahetabbatā atthi, taṃ nivattetvā pathaviyā anaññasādhāraṇaṃ sabhāvaṃ gahetuṃ **‘‘pathaviyā pathavattenā’’**ti vuttaṃ. Nāpahosinti na pāpuṇiṃ. Idha pathaviyā pāpuṇanaṃ nāma ‘‘etaṃ mamā’’tiādinā gahaṇanti āha **‘‘taṇhādiṭṭhimānaggāhehi na gaṇhi’’**nti.

「地性によって」とは、地の自性によって。それゆえに『地の自性によって』と言った。そしてここでは、「すべての形成されたものの静止」など(律蔵大犍度7;長部2.64, 67;中部1.281;相応部1.172)により一般的特性として、「そこに地が存在しない」と非一般的特性として、地の非自性による涅槃の把握があり得るので、それを退けて地の不共の自性を把握するために『地の地性によって』と説かれた。「到達しなかった」とは、獲得しなかった。「ここでの地への到達とは『これは私のものである』などと執着することである」と述べて、『渇愛・見解・慢心による執着によって執受しなかった』と言った。

Vāditāyāti vādasīlatāya. Sabbanti akkharaṃ niddisitvāti ‘‘sabbaṃ kho ahaṃ brahme’’tiādinā bhagavatā vuttaṃ sabba-saddaṃ – ‘‘sace kho te mārisa sabbassa sabbattena ananubhūta’’nti paccanubhāsanavasena niddisitvā. Akkhare dosaṃ gaṇhantoti bhagavatā sakkāyasabbaṃ sandhāya sabba-sadde gahite sabbasabbavasena tadatthaparivattanena sabba-saddavacanīyatāsāmaññena ca dosaṃ gaṇhanto. Tenāha **‘‘satthā panā’’**tiādi. Tattha yadi sabbaṃ ananubhūtaṃ ‘‘natthi sabba’’nti loke anavasesaṃ pucchati. Sace sabbassa sabbattena anavasesasabhāvena ananubhūtaṃ appattaṃ, taṃ gaganakusumaṃ viya kiñci na siyā. Athassa ananubhūtaṃ atthīti assa sabbattena ananubhūtaṃ yadi atthi, ‘‘sabba’’nti idaṃ vacanaṃ micchā, sabbaṃ nāma taṃ na hotīti adhippāyo. Tenāha **‘‘mā heva te rittakamevā’’**tiādi.

「論争を好むことによって」とは、論争する性質によって。「一切という文字を挙げて」とは、「梵天よ、私は一切を…」などと世尊によって説かれた一切という語を、「友よ、もしあなたにとって一切が一切性として経験されていないのなら」と反駁する形で挙げて。「文字の欠陥を咎めて」とは、世尊が有身(個体性)の一切を意図して一切という語を用いられたのに対し、すべての一切性としてその意味を歪曲し、一切という語の一般的な表現性に基づいて欠陥を咎めて、ということである。それゆえに『しかし世尊は…』などと言った。その中で、もし一切が経験されていないのなら、「一切は存在しない」と世間において余すところなく問うている。もし一切の一切性としての余すところなき自性によって経験されておらず到達されていないならば、それは虚空の花のように何物でもないはずである。しかし彼にとって経験されていないものが存在するならば、一切性として経験されていないものが存在するならば、「一切」というこの言葉は誤りであり、それは一切とは言えない、という意図である。それゆえに『あなたにとって空虚なものであってはならない』などと言った。

Ahaṃ sabbañca vakkhāmi, ananubhūtañca vakkhāmīti ahaṃ ‘‘sabba’’nti ca vakkhāmi, ‘‘ananubhūta’’nti ca vakkhāmi, ettha ko dosoti adhippāyo. Kāraṇaṃ āharantoti sabbassa sabbattena ananubhūtassa atthibhāve kāraṇaṃ niddisanto. Vijānitabbanti maggaphalapaccavekkhaṇañāṇehi visesato sabbasaṅkhatavisiṭṭhatāya jānitabbaṃ. Anidassananti idaṃ nibbānassa sanidassanaduke dutiyapadasahitatādassananti adhippāyena **‘‘cakkhuviññāṇassa āpāthaṃ anupagamanato anidassanaṃ nāmā’’**ti vuttaṃ. Sabbasaṅkhatavidhuratāya vā natthi etassa nidassananti anidassanaṃ. Natthi etassa antoti anantaṃ. Tena vuttaṃ **‘‘tayida’’**ntiādi.

「私は一切をも説き、経験されていないものをも説くであろう」とは、私は「一切」とも説き、「経験されていないもの」とも説くが、これに何の欠点があろうか、という意図である。「理由を提示して」とは、一切性として経験されていないものが存在することの根拠を明示して。「知覚されるべき」とは、道と果の省察の智慧によって、とりわけすべての有為(作られたもの)を超絶したものであるがゆえに知られるべきであるということである。「無見」とは、これが涅槃の「有見」の二肢の第二句を伴うこと(無見)を意味するという意図から、『眼の識の領域に入らないことから無見と呼ばれる』と説かれた。あるいは、すべての有為と異なるがゆえに、これには対照・類例(見)が存在しないので無見である。これには終わり(辺)がないので無辺である。それゆえに『それは…』などと説かれた。

Bhūtānīti paccayasambhūtāni. Asambhūtanti paccayehi asambhūtaṃ, nibbānanti attho. Apabhassarabhāvahetūnaṃ sabbaso abhāvā sabbato pabhāti sabbatopabhaṃ. Tenāha **‘‘nibbānato hī’’**tiādi. Tathā hi vuttaṃ – ‘‘tamo tattha na vijjatī’’ti. (Netti. 104) pabhūtamevāti pakaṭṭhabhāvena ukkaṭṭhabhāvena vijjamānameva. Arūpībhāvena adesikattā sabbato pabhavati vijjatīti sabbatopabhaṃ. Tenāha **‘‘puratthimadisādīsū’’**tiādi. Pavisanti etthāti pavisaṃ, tadeva sa-kārassa bha-kāraṃ, vi-kārassa ca lopaṃ katvā vuttaṃ **‘‘pabha’’**nti. Tenāha **‘‘titthassa nāma’’**nti. Vādaṃ patiṭṭhapesīti evaṃ mayā sabbañca vuttaṃ, ananubhūtañca vuttaṃ, tattha yaṃ tayā adhippāyaṃ ajānantena sahasā appaṭisaṅkhāya dosaggahaṇaṃ, taṃ micchāti brahmānaṃ niggaṇhanto bhagavā attano vādaṃ patiṭṭhapesi.

「生じたもの」とは、諸条件(縁)から生じたもの。「不生」とは、諸条件から生じないもの、すなわち涅槃という意味である。光を失わせる原因が完全に存在しないことから、あらゆる面から光り輝くので「一切処に輝くもの(遍照)」である。それゆえに『涅槃からは…』などと言った。実に「そこには闇は存在しない」(導論104)と説かれている通りである。「広大なものとして」とは、卓越した状態として、最高のものとして存在しているものとして。「無色であることによって空間的な限定がないため、至るところから生起し存在する」ので、一切処に輝くものである。それゆえに『東の方角などに…』などと言った。ここに入って行くので「進入(パヴィサ)」であり、その「サ」音を「バ」音とし、「ヴィ」音を脱落させて『光(パバ)』と説かれた。それゆえに『渡し場の名』と言った。「自説を確立した」とは、このように私は一切をも説き、経験されていないものをも説いたのであり、そこにおいてあなたが意図を知らずに軽率に熟慮もせず欠点を咎めたことは誤りである、と梵天を論破しながら世尊はご自身の教説を確立されたのである。

Gahitagahitanti ‘‘idaṃ nicca’’ntiādinā gahitagahitaṃ gāhaṃ. Tattha tattha dosadassanamukhena niggaṇhantena satthārā vissajjāpito kiñci gahetabbaṃ attano paṭisaraṇaṃ adisvā parājayaṃ paṭicchādetuṃ laḷitakaṃ kātukāmo vādaṃ pahāya iddhiyā pāṭihāriyalīḷaṃ dassetukāmo. Yadi sakkosi mayhaṃ antaradhāyituṃ, na pana sakkhissasīti adhippāyo. Mūlapaṭisandhiṃ gantukāmoti attano pākatikena attabhāvena ṭhātukāmo. So hi paṭisandhikāle nibbattasadisatāya mūlapaṭisandhīti vutto. Aññesanti heṭṭhā aññakāyikānaṃ brahmūnaṃ. Na adāsi abhisaṅkhatakāyenevāyaṃ tiṭṭhatu, na pākatikarūpenāti cittaṃ uppādesi. Tena so abhisaṅkhatakāyaṃ apanetuṃ avisahanto attabhāvapaṭicchādakaṃ andhakāraṃ nimminituṃ ārabhi. Satthā taṃ tamaṃ viddhaṃseti. Tena vuttaṃ **‘‘mūlapaṭisandhiṃ vā’’**tiādi.

「執着されたものを次々に」とは、「これは常住である」などと様々に執着された執見のことである。あちこちで欠陥を示される形で論破された世尊によって(執着を)放棄させられ、何か執着すべき自らの拠り所を見出せず、敗北を隠すために戯れを行おうと欲し、論争を捨てて神通の奇跡の威勢を示そうと欲して。「もし私から姿を隠すことができるなら(やってみるがよい)、だが隠れることはできないであろう」という意図である。「根源の結生へ行こうと欲して」とは、自らの通常の個体として留まろうと欲して。彼は結生の時に生じた姿と似ていることから「根源の結生」と言われたのである。「他の者たちに」とは、下層の異身の梵天たちに。「与えなかった」とは、この者は作為された身体のままで留まるべきであり、通常の姿であってはならない、と心を生起された。それにより、彼は作為された身体を取り去ることができず、自らの個体を覆い隠す暗闇を創造しようとし始めた。世尊はその暗闇を打ち破られた。それゆえに『根源の結生に、あるいは…』などと説かれた。

Bhavevāhanti bhave eva ahaṃ. Ayañca eva-saddo aṭṭhānapayuttoti dassento āha **‘‘ahaṃ bhave bhayaṃ disvāyevā’’**ti, sabbasmiṃ bhave jātiādibhayaṃ ñāṇacakkhunā yāthāvato disvā. Sattabhavanti sattasaṅkhātaṃ bhavaṃ. Kammabhavapaccaye hi upapattibhave sattasamaññā. Vibhavanti vimuttiṃ. Pariyesamānampi upāyassa anadhigatattā bhaveyeva disvā. Bhavañca vibhavesinaṃ vibhavaṃ nibbutiṃ esamānānaṃ sattānaṃ bhavaṃ, bhavesu uppattiñca disvāti evaṃ vā ettha attho daṭṭhabbo. Na abhivadinti ‘‘aho vata sukha’’nti evaṃ abhivadāpanākārābhāvato na abhinivisiṃ, lakkhaṇavacanametaṃ. Gāhattho eva vā abhivāda-saddoti āha **‘‘nābhivadi’’**nti, ‘‘na **gavesi’’**nti. Bhavaggahaṇenettha dukkhasaccaṃ, nandīgahaṇena samudayasaccaṃ, vibhavaggahaṇena nirodhasaccaṃ, nandiñca na upādiyinti iminā maggasaccaṃ pakāsitanti āha **‘‘iti cattāri saccāni pakāsento’’**ti. Tadidaṃ catunnaṃ ariyasaccānaṃ gāthāya vibhāvanadassanaṃ. Satthā pana tesaṃ brahmūnaṃ ajjhāsayānurūpaṃ saccāni vitthārato pakāsento vipassanaṃ pāpetvā arahattena desanāya kūṭaṃ gaṇhi. Te ca brahmāno keci sotāpattiphale, keci sakadāgāmiphale, keci anāgāmiphale, keci arahatte ca patiṭṭhahiṃsu. Tena vuttaṃ **‘‘saccāni pakāsento satthā dhammaṃ desesī’’**tiādi. Acchariyajātāti sañjātacchariyā. Samūlaṃ bhavanti taṇhāvijjāhi samūlaṃ bhavaṃ.

「まさに生存において私は」とは、生存においてのみ私は、ということである。そしてこの「まさに(エヴァ)」という語は不適切な箇所で用いられていることを示して、『私はまさに生存に恐怖を見て』と言い、すべての生存において生などの恐怖を智慧の眼で如実に見て、ということである。「有情の生存」とは、有情と呼ばれる生存である。業有を条件とする受生有において、有情という名称があるからである。「非存在」とは、解脱のことである。探求していても方策を獲得していないがゆえに生存においてのみ見て。「また、非存在を求める者たちの生存を」とは、非存在すなわち寂静を求めている有情たちの生存を、生存への受生を見て、とこのようにここでの意味を解釈すべきである。「歓喜しなかった」とは、「ああ、実に幸福である」とこのように歓喜させるあり方が存在しないことから固執しなかったということであり、これは特徴を示す言葉である。あるいは執着の意味こそが歓喜という語であるとして、『歓喜しなかった』『求めなかった』と言った。ここにおいて、生存の把握によって苦諦が、歓喜の把握によって集諦が、非存在の把握によって滅諦が、「歓喜をも執受しなかった」によって道諦が示されている、として『このように四聖諦を明かして』と言った。これは四つの聖諦を詩偈によって解き明かして示したものである。さらに世尊は、それらの梵天たちの素養に応じて聖諦を詳細に明かし、ヴィパッサナー(洞察)に至らせて、阿羅漢果をもって説法の頂点とされた。そしてそれらの梵天たちは、ある者は預流果に、ある者は一来果に、ある者は不還果に、ある者は阿羅漢果に確立した。それゆえに『聖諦を明かしながら、世尊は法を説かれた』などと説かれた。「驚愕を生じた」とは、驚きを生起させた。「根をもつ生存」とは、渇愛と無明を根本とする生存のことである。

505. Mama vasaṃ ativattitānīti sabbaso kāmadhātusamatikkamanapaṭipadāya mayhaṃ visayaṃ atikkamitāni. Kathaṃ panāyaṃ tesaṃ ariyabhūmisamokkamanaṃ jānātīti? Nayaggāhato – ‘‘samaṇo gotamo dhammaṃ desento saṃsāre ādīnavaṃ, nibbāne ca ānisaṃsaṃ pakāsento veneyyajanaṃ nibbānaṃ diṭṭhameva karoti, tassa desanā avañjhā amoghā indena vissaṭṭhavajirasadisā, tassa ca āṇāya ṭhitā saṃsāre na dissantevā’’ti nayaggāhena anumānena jānāti. Sace tvaṃ evaṃ anubuddhoti yathā tvaṃ paresaṃ saccābhisambodhaṃ vadati, evaṃ tvaṃ attano anurūpato sayambhuñāṇena buddho dhammaṃ paṭivijjhitvā ṭhito. Taṃ dhammaṃ mā upanayasīti tayā paṭividdhadhammaṃ mā sāvakapaṭivedhaṃ pāpesi. Idanti idaṃ anantaraṃ vuttaṃ brahmaloke patiṭṭhānaṃyeva sandhāya māro vadati, te dassento **‘‘anuppanne hī’’**tiādimāha. Apāyapatiṭṭhānaṃ pana ājīvakanigaṇṭhādipabbajjaṃ upagate titthakare, ye keci vā pabbajitvā micchāpaṭipanne jane sandhāya vadati. Anuppanneti asañjāte, appatteti attho. Anullapanatāyāti yathā māro upari kiñci uttaraṃ lapituṃ na sakkoti, evaṃ tathā uttarabhāsanena. Nimantanavacanenāti viññāpanavacanena. Brahmaṃ seṭṭhaṃ nimantanaṃ, brahmuno vā nimantanaṃ ettha atthīti brahmanimantanikaṃ, suttaṃ. Yaṃ panettha atthato avibhattaṃ, taṃ suviññeyyameva.

505. 「私の支配を超えた」とは、欲界を完全に超越する修行道によって私の領域を超えた、ということである。では、どうして彼はそれらの者たちが聖者の境地に入ったことを知るのか。推論による理解からである――「沙門ゴータマは法を説き、輪廻における過患と、涅槃における功徳を明かして、教化されるべき人々をまさに涅槃を見届ける者となす。彼の教えは不毛ではなく無益ではなく、帝釈天の放った金剛石のようであり、彼の教令に留まった者たちは輪廻の中にはもはや見出されない」と推論による理解によって、推測によって知るのである。「もしあなたがこのように覚ったのなら」とは、あなたが他者に聖諦の覚知を語るように、そのようにあなた自身にふさわしく自覚の智慧によって覚り、法を通達して留まっている。「その法を導いてはならない」とは、あなたによって通達された法を、弟子たちの通達へと至らせてはならない。「これ」とは、直前に説かれた梵天界への確立のみを意図して魔王は言っているのであり、それらを示して『生起していないときには、実に…』などと言った。しかし悪趣への確立については、アージーヴィカ教やニガンタ教などの出家をなした開祖たち、あるいは出家して誤った実践をした人々を意図して言っている。「生じていないときに」とは、生まれていない、到達していないときに、という意味である。「言い返すことができないように」とは、魔王がさらにそれ以上の返答を述べることができないように、そのように適切な返答を語ることによって。「勧請の言葉によって」とは、知らせる言葉によって。勝れた梵天の勧請、あるいは梵天の勧請がここにあることから『梵天勧請経』という経である。ここに意味として詳細に分別されていないものは、容易に理解できるものばかりである。

Brahmanimantanikasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

梵天勧請経注の深義釈を終わる。

10. Māratajjanīyasuttavaṇṇanā

10. 魔訶責経注

506. Koṭṭhamanupaviṭṭhoti āsayo vaccaguttaṭṭhānatāya koṭṭhaṃ, tassa abbhantarañhettha koṭṭhaṃ. Anurūpo hutvā paviṭṭho anupaviṭṭho. Sukhumañhi tadanucchavikaṃ attabhāvaṃ māpetvā ayaṃ tattha paviṭṭho. Garugaro viyāti garukagaruko viya. U-kārassa hi o-kāraṃ katvā ayaṃ niddeso, ativiya garuko maññeti attho. Garugaru viya icceva vā pāṭho. Māsabhattaṃ māso uttarapadalopena, māsabhattena ācitaṃ pūritaṃ māsācitaṃ maññe. Tenāha **‘‘māsabhattaṃ bhuttassa kucchi viyā’’**ti. Uttarapadalopena vinā atthaṃ dassetuṃ **‘‘māsapūritapasibbako viyā’’**ti vuttaṃ. Tintamāso viyāti tintamāso pasibbako viya. Kiṃ nu kho etaṃ mama kucchiyaṃ pubbaṃ bhārikattaṃ, kiṃ nu kho kathaṃ nu kho jātanti adhippāyo? Upāyenāti pathena ñāyena. Byatirekato panassa anupāyaṃ dassetuṃ **‘‘sace panā’’**tiādi vuttaṃ. Attānameva vā sandhāya **‘‘mā tathāgataṃ vihesesī’’**ti āha. Yathā hi ariyasaṅgho ‘‘tathāgataṃ devamanussapūjitaṃ, saṅghaṃ namassāma suvatthi hotū’’tiādīsu (khu. pā. 6.18; su. ni. 241) tathāgatoti vuccati, evaṃ tappariyāpannā ariyapuggalā, yathā ca purimakā dutiyaaggasāvakā kappānaṃ satasahassādhikaṃ ekaṃ asaṅkhyeyyaṃ pāramiyo pūretvā āgatā, ayampi mahāthero tathā āgatoti tathāgatoti. Patiaggaḷeva aṭṭhāsīti aggaḷassa bahibhāge aṭṭhāsi.

506. 「腹腔に入り込んだ」とは、糞便を隠す場所であるがゆえに腹腔であり、その内部がここでの腹腔である。適した姿となって入ったので「入り込んだ」である。実にその場にふさわしい微細な個体を化作して、彼はそこに入り込んだのである。「非常に重いかのように」とは、極めて重いかのように。「ウ」音を「オ」音としてこの記述がなされており、非常に重く思われる、という意味である。あるいは「ガルガル・ヴィヤ」という読みそのままでもよい。「インゲン豆の飯」とは、後続の語の省略によってインゲン豆のことであり、インゲン豆の飯で満たされた、いっぱいに詰められたものと思われる。それゆえに『インゲン豆の飯を食べた者の腹のように』と言った。後続語の省略なしに意味を示すために『インゲン豆を満たした袋のように』と説かれた。「湿ったインゲン豆のように」とは、湿ったインゲン豆の袋のように。「いったい私の腹のこのかつてない重さは何であろうか、いったいどのように生じたのであろうか」という意図である。「方策によって」とは、正しい道・理法によって。しかし背反によって彼の方策でないことを示すために『しかしもし…』などと説かれた。あるいは自らを意図して『如来を害してはならない』と言った。実に聖者たちの集いが「神々と人々に供養される如来を、サンガを礼拝します、平安あれ」など(小誦6.18;スッタニパータ241)において如来と呼ばれるように、そのようにそれに含まれる聖者たちも、また過去の第二の上首弟子たちが十万劫を超えた一阿僧祇劫のあいだ諸波羅蜜を満たしてやって来たように、この大長老もまたそのようにやって来た(如来)ので「如来」と呼ばれるのである。「閂のすぐそばに立った」とは、閂の外側に立ったということである。

507. Rukkhadevatā nāma cātumahārājikesu nihīno kāyo, tasmā nesaṃ manussagandho paricitattā nātijegucchoti āha **‘‘ākāsaṭṭhadevatāna’’**nti. Ābādhaṃ karotīti dukkhaṃ janeti. Nāgarikoti sukumāro. Paricokkhoti sabbaso sucirūpo. Ñātikoṭinti ñātibhāgaṃ. Anādimati hi saṃsāre ñātibhāgarahito nāma satto kassacipi natthīti adhippāyo. Idanti ‘‘so me tvaṃ bhāgineyyo hosī’’ti idaṃ vacanaṃ. Paveṇivasenāti tadā mayhaṃ bhāgineyyo hutvā idāni māraṭṭhāne ṭhitoti imissā paveṇiyā vasena vuttaṃ. Aññassa vā vesamaṃ dhuro vidhuro. Tenāha **‘‘aññehi saddhiṃ asadiso’’**ti. Appadukkhenāti sukheneva. Panthānaṃ avanti gacchantīti pathāvino. Ettakenāti ettāvatā citakasannisayena. Udakaleṇanti udakanissandanaleṇaṃ. Samāpattitoti nirodhasamāpattito. Samāpattiphalanti nirodhasamāpattiphalaṃ.

507. 「樹木の神」とは、四天王衆の中でも下位の集団であり、それゆえに彼らにとって人間の臭いは慣れ親しんでいるため過度に嫌悪すべきものではない、として『空居の神々に』と言った。「苦悩を生じさせる」とは、苦しみを生み出す。「都人」とは、優美で繊細な者。「清浄な者」とは、完全に清らかな姿の者。「親族の端」とは、親族の分際のことである。実に無始の輪廻において、親族の関係にない有情など誰にとっても存在しない、という意図である。「これ」とは、「そのお前は私の甥であった」というこの言葉のことである。「血統の順によって」とは、当時は私の甥であり、今は魔王の位に就いているという、この血統の順に基づいて説かれた。「あるいは他者にとって不揃いな軛(重荷)を持つ者がヴィドゥラである」。それゆえに『他の者たちと等しくない者』と言った。「わずかな苦痛で」とは、安楽のうちに。「道を歩む者」とは、道を行く者のことである。「これほどのことで」とは、これほどの火葬場の遺骸に拠ることによって。「水滴る洞窟」とは、水がしたたり落ちる洞窟のことである。「等至から」とは、滅尽定から。「等至の果」とは、滅尽定の果である。

508. Dasahi akkosavatthūhīti dasahipi akkosavatthūhi, tato kiñci ahāpentā. Paribhāsathāti garahatha. Ghaṭṭethāti anūnāhi kathāhi imesu ovijjhatha. Dukkhāpethāti citte dukkhaṃ janetha. Etesanti tesaṃ bhikkhūnaṃ tumhākaṃ akkosanādīhi bhikkhūnaṃ kilesuppattiyā. Tenettha dūsī māro otāraṃ labhati nāmāti adhippāyo. Upaṭṭhātabbaṃ ibhaṃ arahantīti ibbhā, hatthibhaṇḍakā, hīnajīvikatāya hete ibbhā viyāti ibbhā, te pana sadutiyakavasena **‘‘gahapatikā’’**ti vuttā. Kaṇhāti kaṇhābhijātikā. Pādato jātattā pādānaṃ apaccā. Ālasiyajātāti kasivaṇijjādikammassa akaraṇena sañjātālasiyā. Gūthaniddhamanapanāḷīti vaccakūpato gūthassa nikkhamapadeso.

508. 「十の罵倒の事柄によって」とは、十の罵倒の事柄すべてによって、そこから何も減じることなく。「罵倒せよ」とは、非難せよ。「攻撃せよ」とは、欠けるところのない言葉でこれらに突き刺せ。「苦しめよ」とは、心に苦しみを生じさせよ。「彼らの」とは、それらの比丘たちの、あなた方の罵倒などによって比丘たちに煩悩が生じることによって。それゆえにここでドゥーシー魔王は機会を得るのである、という意図である。「仕えるべき象を所有するに値する者たち」が象主(長者)であり、象の世話係たちであり、卑しい生活であることから彼らは象主のようであるとして「象主」と呼ばれるが、彼らは妻を伴うことから『在家信徒たち』と説かれた。「黒き者たち」とは、黒い生まれの者たち。足から生まれたがゆえに足の子孫たち。「怠惰に陥った」とは、農耕や商業などの活動を行わないことによって生じた怠惰をもつ者たち。「糞便を流す排水溝」とは、便所から糞便が流れ出る場所のことである。

Manussānaṃ akusalaṃ na bhaveyya tesaṃ tādisāya abhisandhiyā abhāvato. Āvesakassa ānubhāvena āviṭṭhassa cittasantati viparivattatīti vuttovāyamattho. Visabhāgavatthunti bhikkhūnaṃ santike itthirūpaṃ, bhikkhunīnaṃ santike purisarūpanti īdisaṃ, aññaṃ vā pabbajitānaṃ asāruppaṃ visabhāgavatthuṃ. Vippaṭisārārammaṇanti passantānaṃ vippaṭisārassa paccayaṃ. Lepayaṭṭhinti lepalittaṃ vākurayaṭṭhiṃ.

人間たちにとって不善とはならないであろう、彼らにそのような意図が存在しないからである。「憑依させた者の威徳によって、憑依された者の心の連続体は変転する」とは、すでに説かれた通りの意味である。「不相応な対象」とは、比丘たちの前での女の姿、比丘尼たちの前での男の姿というこのようなもの、あるいは出家者にふさわしくないその他の不相応な対象のことである。「後悔の対象」とは、見る者たちにとっての後悔の原因となるもの。「鳥黐の棒」とは、鳥黐の塗られた網の棒のことである。

510. Somanassavasenāti gehassitasomanassavasena. Aññathattanti uppilāvitattaṃ. Purimanayenevāti ‘‘sace māro manussānaṃ sarīre adhimuccitvā’’tiādinā pubbe vuttanayena. Yadi mārova tathā kareyya, manussānaṃ kusalaṃ na bhaveyya, mārasseva bhaveyya, sarīre pana anadhimuccitvā tādisaṃ pasādanīyaṃ pasādavatthuṃ dassesi. Tenāha **‘‘yathā hī’’**tiādi.

510. 「喜悦によって」とは、家庭に執着した喜悦によって。「変異」とは、浮かれ騒ぐこと。「以前の方式によって」とは、「もし魔王が人間たちの身体に憑依して…」などと前に説かれた方式によって。もし魔王自身がそのようにするならば、人間たちには善は生じず、魔王にのみ生じるであろうが、身体に憑依することなく、そのような信順すべき信順の対象を示したのである。それゆえに『実に…のように』などと言った。

511. Asubhasaññāparicitenāti sakalaṃ kāyaṃ asubhanti pavattāya saññāya sahagatajjhānaṃ asubhasaññā, tena paricitena paribhāvitena. Cetasā cittena. Bahulanti abhiṇhaṃ. Viharatoti viharantassa, asubhasamāpattibahulassāti attho. Patilīyatīti saṅkucati tattha paṭikūlatāya saṇṭhitattā. Patikuṭatīti apasakkati. Pativattatīti nivattati. Tato eva na sampasāriyati. Rasataṇhāyāti madhurādirasavisayāya taṇhāya.

511. 「不浄想を習熟させたことによって」とは、身体全体を不浄であると生じた想を伴う禅定が不浄想であり、それによって親しまれ、修習された。「心によって」とは、意によって。「多く」とは、頻繁に。「住する者に」とは、住している者に、不浄の等至を多く修める者に、という意味である。「縮みこむ」とは、そこにおいて嫌悪すべきものとして確立しているがゆえに縮こまる。「退く」とは、後退する。「引き返す」とは、反転する。それゆえに伸展されないのである。「味への渇愛によって」とは、甘味などの味を対象とする渇愛によって。

Sabbaloke anabhiratisaññāti tīsupi bhavesu aruccanavasena pavattā vipassanābhāvanā. Nibbidānupassanā hesā. Lokacitresūti hatthiassarathapāsādakūṭāgārādibhedesu ceva ārāmarāmaṇeyyakādibhedesu ca loke cittavicittesu. Rāgasantāni vūpasantarāgāni. Dosamohasantānīti etthāpi eseva nayo. Imesaṃ evaṃ kammaṭṭhānaggahaṇaṃ sabbesaṃ sappāyabhāvato.

「一切世間に対する不欣求想」とは、三界の生存において喜ばないことによって生じるヴィパッサナー(洞察)の修習のことである。これは厭離随観のことである。「世間の美事において」とは、象・馬・車・宮殿・重閣などの諸種、および庭園の麗しさなどの諸種に分かれる、世間の美しく多彩なものにおいて。「貪欲の静まった」とは、貪欲の鎮まった。「瞋恚と愚痴の静まった」においても同様の解釈である。これらのような瞑想主題の把握は、すべての人にとって有益であるがゆえである。

512. Sakkharaṃ gahetvāti sakkharāsīsena tattakaṃ bhinnapāsāṇamuṭṭhinti āha **‘‘antomuṭṭhiyaṃ tiṭṭhanapamāṇaṃ pāsāṇa’’**nti. Muṭṭhipariyāpannanti attho. Ayañhi pāsāṇassa heṭṭhimakoṭi. Hatthināgoti mahāhatthī. Mahantapariyāyo nāga-saddoti keci. Ahināgādito vā visesanatthaṃ hatthināgoti vuttaṃ. Sakalasarīreneva nivattitvā apalokesīti vuttamatthaṃ vivarituṃ **‘‘yathā hī’’**tiādi vuttaṃ. Na vāyanti ettha -saddo avadhāraṇatthoti āha **‘‘neva pamāṇaṃ aññāsī’’**ti. Sahāpalokanāyāti ca vacanatoti iminā vacanena imaṃ vacanamattaṃ gahetvāti adhippāyo. Uḷāreti uḷāraguṇe. Bhagavantañhi ṭhapetvā natthi tadā sadevake loke tādiso guṇavisesayuttoti.

512. 「小石を手に取って」とは、小石の頭ほどの大きさの、砕けた石の握りこぶし大のものを言い、『手の中に収まる大きさの石』と言った。握りこぶしに含まれるものという意味である。これこそが石の最小の限界である。「巨象」とは、大いなる象のこと。「ナーガ」という語は偉大なものの同義語であるとする者もいる。あるいは蛇のナーガなどと区別するために巨象と言った。「全身をもって振り返って見つめた」とは、説かれた意味を解明するために『実に…のように』などと説かれた。「あるいは…ない」における「あるいは(ヴァー)」という語は限定の意味であるとして、『まったく分量を測り知らなかった』と言った。「『見つめると同時に』という言葉からも」とは、この言葉によって、この言葉の通りに理解して、という意図である。「広大なる徳をもつ者に」とは、広大な徳において。世尊を除いては、当時、神々を含む世間においてそのような勝れた徳を具えた者は存在しなかったからである。

Visuṃ visuṃ paccattavedaniyo ayasūlena saddhiṃ bhūtāni cha phassāyatanāni etassāti cha phassāyatanaṃ, dukkhaṃ. Taṃ ettha atthīti cha phassāyataniko, nirayo. Tenāha **‘‘chasu phassā…pe… paccayo’’**ti. Samāhanatīti samāhato, anekasatabhedo saṅkusamāhato ettha atthīti saṅkusamāhato, nirayo. Visesapaccayatāya vedanāya ṭhitoti vedaniyo, kāraṇākārakena vinā paccattaṃ sayameva vedaniyoti paccattavedaniyo. Ayasūlena saddhiṃ ayasūlanti pādapadesato paṭṭhāya nirantaraṃ abhihananavasena āgatena paṇṇāsāya janehi gahitena ayasūlena saha sīsapadesato paṭṭhāya āgataṃ. Ayasūlabhāvasāmaññena cetaṃ ekavacanaṃ, satamattāni patitāni sūlāni. Iminā te ṭhānena cintetvāti nissitavohārena nissayaṃ vadati. Evaṃ vuttanti ‘‘tadā jāneyyāsi vassasahassaṃ me niraye paccamānassā’’ti evaṃ vuttaṃ. Vuṭṭhānimanti vuṭṭhāne bhavaṃ, antimanti attho. Tenāha **‘‘vipākavuṭṭhānavedana’’**nti, vipākassa pariyosānaṃ vedananti attho. Dukkhatarā hoti padīpassa vijjhāyanakkhaṇe mahantabhāvo viya.

「個々にみずから感受されるべき、鉄の串と共にある六つの触処がこれにある」ことから「六触処」、すなわち苦しみである。それがここにあるので「六触処の」、すなわち地獄である。それゆえに『六つの触…略…原因』と言った。「打ち込まれる」ので打ち込まれたもの、数百種に分かれる杭が打ち込まれたものがここにあるので「杭が打ち込まれた」、すなわち地獄である。「特別な条件性によって感受において留まる」ので感受されるべきものであり、原因を作る者なしに個々に自分自身で感受されるべきものであるので「みずから感受されるべきもの」である。「鉄の串と共に鉄の串を」とは、足の部分から始まって絶え間なく打ち込むことによってやって来て、五十人の人々によって握られた鉄の串と共に、頭の部分から始まってやって来た。そして鉄の串であることの共通性によってこれは単数形であり、およそ百本の串が落ちてきたのである。「この点から考えて」とは、依存した表現によって拠り所を述べている。「このように説かれた」とは、「その時、お前は地獄で千年のあいだ煮られている私を知るであろう」とこのように説かれた。「脱出の際の」とは、脱出の際にある、最後のという意味である。それゆえに『異熟からの脱出の感受』と言い、異熟の終末の感受という意味である。灯火が消える瞬間の大いなる輝きのように、より甚だしい苦しみとなる。

513. Ghaṭṭayitvā pothetvā. Pāṭiyekkavedanājanakāti paccekaṃ mahādukkhasamuppādakā. Ayato apagato nirayo, so devadūtasuttena (ma. ni. 3.261) dīpetabbo. Atthavaṇṇanā panassa parato sayameva āgamissati. Imaṃ pana atītavatthuṃ āharitvā attano ñāṇānubhāvadīpanamukhena māraṃ santajjento mahāthero ‘‘yo **etamabhijānātī’’**ti gāthamāha. Tassattho – yo mahābhiñño etaṃ kammaṃ kammaphalañca hatthatale ṭhapitaṃ āmalakaṃ viya abhimukhaṃ katvā paccakkhato jānāti. Sabbaso bhinnakilesatāya bhikkhu sammāsambuddhassa aggasāvako, tādisaṃ uḷāraguṇaṃ āsajja ghaṭṭayitvā ekantakāḷakehi pāpadhammehi samannāgatattā kaṇha māra āyatiṃ mahādukkhaṃ vindissasi.

513. 「打ち据えて」とは、打ち倒して。「個別の苦痛を生じさせる」とは、個々に大いなる苦しみを生じさせる。幸運(アヤ)から去った(アパガタ)ものが地獄(アパヤ)であり、それは『使者経』(中部3.261)によって解明されるべきである。その釈義は後において自ずと現れるであろう。そしてこの過去の物語を引用し、自らの智慧の威徳を明かすことを通じて魔王を威嚇しながら、大長老は『これを証知する者は…』という詩偈を説いた。その意味は――大神通力をもち、この業と業の果報を手の中の阿摩勒果のように目の当たりにして如実に知る者。完全に煩悩を打ち砕いたがゆえの比丘であり、正等覚者の上首弟子である。そのような広大なる徳をもつ者を攻撃し打ち据えて、徹底して黒暗なる悪法を具えているがゆえに、黒暗なる魔王よ、お前は未来において大いなる苦痛を経験するであろう。

Udakaṃ vatthuṃ katvāti tattha nibbattanakasattānaṃ sādhāraṇakammaphalena mahāsamuddaudakameva adhiṭṭhānaṃ katvā. Tathā hi tāni kappaṭṭhitikāni honti. Tenāha **‘‘kappaṭṭhāyino’’**ti. Tesanti vimānānaṃ. Etaṃ yathāvuttavimānavatthuṃ tāsaṃ accharānaṃ sampattiṃ, tassa ca kāraṇaṃ attapaccakkhaṃ katvā jānāti. Pādaṅguṭṭhena kampayīti pubbārāme visākhāya mahāupāsikāya kāritaṃ sahassagabbhapaṭimaṇḍitamahāpāsādaṃ attano pādaṅguṭṭhena kampesi. Tenāha **‘‘idaṃ pāsādakampanasuttena dīpetabba’’**nti. Idanti ‘‘yo vejayanta’’nti imissā gāthāya atthajātaṃ cūḷataṇhāsaṅkhayavimuttisutteneva (ma. ni. 1.393) dīpetabbaṃ.

「水を拠り所として」とは、そこに受生する有情たちの共通の業の果報によって、大海の水そのものを基盤として。「実にそれらは劫のあいだ持続するものである」。それゆえに『劫のあいだ存続する』と言った。「それらの」とは、宮殿の。「この上述の宮殿の事柄、それらの天女たちの富裕、そしてその原因を自ら目の当たりにして知っている」。「足の親指で揺るがした」とは、東園において大信女ヴィサーカーによって造立された千の部屋で飾られた大宮殿を、自らの足の親指で揺るがした。それゆえに『これは宮殿震撼経によって解明されるべきである』と言った。「これ」とは、「帝釈天の最勝の宮殿を…」というこの詩偈の意味内容は『小愛尽解脱経』(中部1.393)によってまさに解明されるべきである。

Tassa brahmagaṇassa tathācintanasamanantarameva tasmiṃ brahmaloke sudhammaṃ brahmasabhaṃ gantvā. Tepīti mahāmoggallānādayo. Paccekaṃ disāsūti mahāmoggallānatthero puratthimadisāyaṃ, mahākassapatthero dakkhiṇadisāyaṃ, mahākappinatthero pacchimadisāyaṃ, anuruddhatthero uttaradisāyanti evaṃ cattāro therā brahmaparisamatthake majjhe nisinnassa bhagavato samantato catuddisā nisīdiṃsu. Gāthā vuttāti ‘‘yo brahmaṃ paripucchatī’’ti gāthā vuttā. Aññatarabrahmasuttenāti – ‘‘tena kho pana samayena aññatarassa brahmuno evarūpaṃ pāpakaṃ diṭṭhigataṃ uppannaṃ hotī’’tiādinā (saṃ. ni. 1.176) mahāvagge āgatena aññatarabrahmasuttena.

その梵天の群れがそのように考えた直後に、その梵天界の善法なる梵天の集会所に赴いて。「彼らもまた」とは、マハーモッガッラーナたちである。「それぞれの方角に」とは、マハーモッガッラーナ長老は東の方角に、マハーカッサパ長老は南の方角に、マハーカッピナ長老は西の方角に、アヌルッダ長老は北の方角にと、このように四人の長老たちが梵天の会衆の頭上に、中央にお座りになった世尊の周囲の四方に座った。「詩偈が説かれた」とは、「梵天に問いかける者は…」という詩偈が説かれた。「ある梵天の経によって」とは、「実にその時、ある梵天にこのような悪しき見解が生じていた」などと(相応部1.176)大品に出てくる『ある梵天の経』によって。

Jhānavimokkhena phusīti jhānavimokkhasannissayena abhiññāñāṇena phassayi. Vananti jambudīpaṃ aphassayīti sambandho. Jambudīpo hi vanabahulatāya idha ‘‘vana’’nti vutto. Tenāha ‘‘jambusaṇḍassa issaro’’ti. Pubbavidehānaṃ dīpanti pubbavidehavāsīnaṃ dīpaṃ, pubbavidehadīpanti attho. Bhūmisayā narā nāma aparagoyānakā uttarakurukā ca. Yasmā te gehapariggahābhāvato bhūmiyaṃyeva sayanti, na pāsādādīsu. Paṭilabhīti uppādesi. Etaṃ āsaṃ mā akāsīti esā yathā pubbe dūsimārassa, evaṃ tuyhaṃ āsā dīgharattaṃ anatthāvahā, tasmā edisaṃ āsaṃ mā akāsīti mārassa ovādaṃ adāsi. Sesaṃ sabbattha suviññeyyameva.

「禅定の解脱によって触れた」とは、禅定の解脱に拠る神通の智慧によって触れた。「森を」とは、ジャンブ州(閻浮提)に触れた、という関係である。ジャンブ州は実に森が多いことから、ここでは「森」と説かれた。それゆえに「閻浮の茂みの主」と言った。「勝身洲の人々の島」とは、勝身洲(東勝身洲)の住人たちの島、すなわち東勝身洲という意味である。「地に横たわる人間たち」とは、西牛貨洲の者たちと北倶盧洲の者たちのことである。彼らは家屋の所有がないことから大地にのみ横たわり、宮殿などには横たわらないからである。「得た」とは、生起させた。「その望みを抱いてはならない」とは、このようにかつてドゥーシー魔王にとってそうであったように、あなたにとってその望みは長き夜にわたって無益をもたらすであろう、だからこのような望みを抱いてはならない、と魔王に教誡を与えた。残りの部分は、すべてにおいて容易に理解できるものばかりである。

Papañcasūdaniyā majjhimanikāyaṭṭhakathāya

パパンチャ・スーダニー(戯論摧破)中部経典註釈において、

Māratajjanīyasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

魔訶責経注の深義釈を終わる。

Niṭṭhitā ca cūḷayamakavaggavaṇṇanā.

そして小双品注も終了した。

Mūlapaṇṇāsaṭīkā samattā.

根本五十経篇複注を終わる。

Dutiyo bhāgo niṭṭhito.

第二部終了。