5. Brāhmaṇavaggo5. バラモン品
1. Brahmāyusuttavaṇṇanā
1. ブラフマーユ経の解説
383. Evaṃ me sutanti brahmāyusuttaṃ. Tattha mahatā bhikkhusaṅghena saddhinti mahatāti guṇamahattenapi mahatā, saṅkhyāmahattenapi. So hi bhikkhusaṅghe guṇehipi mahā ahosi appicchatādiguṇasamannāgatattā, saṅkhyāyapi mahā pañcasatasaṅkhyattā. Bhikkhūnaṃ saṅghena bhikkhusaṅghena, diṭṭhisīlasāmaññasaṅghātasaṅkhātena samaṇagaṇenāti attho. Saddhinti ekato. Pañcamattehi bhikkhusatehīti pañca mattā etesanti pañcamattāni. Mattāti pamāṇaṃ vuccati, tasmā yathā bhojane mattaññūti vutte bhojane mattaṃ jānāti pamāṇaṃ jānātīti attho hoti, evamidhāpi tesaṃ bhikkhusatānaṃ pañcamattā pañcapamāṇanti evamattho daṭṭhabbo. Bhikkhūnaṃ satāni bhikkhusatāni. Tehi pañcamattehi bhikkhusatehi.
383. 「このように私は聞いた」とは、ブラフマーユ経である。その中の「大いなる比丘僧伽とともに」において、「大いなる」とは徳の偉大さによっても大であり、人数の多さによっても大である。その比丘僧伽は、少欲などの徳を具備していたがゆえに徳においても偉大であり、五百という数であったがゆえに数においても偉大であった。「比丘たちの僧伽とともに、比丘僧伽とともに」とは、見と戒の一致によって集まった沙門の集団とともに、という意味である。「ともに」とは、一つになって。「およそ五百の比丘たちとともに」において、「五が彼らの量(度)である」ということで五百である。「量(マッタ)」とは分量が言われる。したがって、食事において「適量を知る者」と言われるとき、食事における適量を知る、分量を知るという意味になるように、ここでもそれら比丘の数百において「五の量、五の分量」とこのように意味が見られるべきである。「比丘たちの百」で比丘百である。それら五百ほどの比丘たちとともに。
Vīsavassasatikoti vīsādhikavassasatiko. Tiṇṇaṃ vedānanti iruvedayajuvedasāmavedānaṃ. Oṭṭhapahatakaraṇavasena pāraṃ gatoti pāragū. Saha nighaṇḍunā ca keṭubhena ca sanighaṇḍukeṭubhānaṃ, nighaṇḍūti nāmanighaṇṭurukkhādīnaṃ vevacanappakāsakaṃ satthaṃ. Keṭubhanti kiriyākappavikappo kavīnaṃ upakārāya satthaṃ. Saha akkharappabhedena sakkharappabhedānaṃ. Akkharappabhedoti sikkhā ca nirutti ca. Itihāsapañcamānanti āthabbaṇavedaṃ catutthaṃ katvā ‘‘itiha āsa itiha āsā’’ti īdisavacanappaṭisaṃyutto purāṇakathāsaṅkhāto itihāso pañcamo etesanti itihāsapañcamā, tesaṃ itihāsapañcamānaṃ. Padañca tadavasesañca byākaraṇaṃ adhīyati pavedeti cāti padako veyyākaraṇo. Lokāyataṃ vuccati vitaṇḍavādasatthaṃ. Mahāpurisalakkhaṇanti mahāpurisānaṃ buddhādīnaṃ lakkhaṇadīpakaṃ dvādasasahassaganthappamāṇaṃ satthaṃ, yattha soḷasasahassagāthāparimāṇāya buddhamantā nāma ahesuṃ, yesaṃ vasena ‘‘iminā lakkhaṇena samannāgatā buddhā nāma honti, iminā paccekabuddhā nāma honti, iminā dve aggasāvakā, asītimahāsāvakā, buddhamātā, buddhapitā, aggupaṭṭhāko, aggupaṭṭhāyikā, rājā cakkavattī’’ti ayaṃ viseso ñāyati. Anavayoti imesu lokāyatamahāpurisalakkhaṇesu anūno paripūrakārī, avayo na hotīti vuttaṃ hoti. Avayo nāma yo tāni atthato ca ganthato ca sandhāretuṃ na sakkoti. Assosi khotiādīsu yaṃ vattabbaṃ siyā, taṃ sāleyyakasutte (ma. ni. 1.439 ādayo) vuttameva.
「百二十歳」とは、百歳を二十歳超えた者。「三ヴェーダの」とは、リグ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダの。「口唇を開閉することによって極致に達した」ゆえに「達者」である。「語彙集と儀軌論を伴う」とは、語彙集と儀軌論とを伴ったもの。「語彙集(ニガンドゥ)」とは、名辞の語彙集や樹木などの同義語を明示する学問である。「儀軌論(ケートゥバ)」とは、詩人たちの助力となる語形変化や修辞の学問である。「音韻の分類を伴う」とは、音韻の分類を伴ったもの。「音韻の分類」とは、音声学(シクシャー)と語源学(ニルクティ)である。「伝説を第五とする」とは、アタルヴァ・ヴェーダを第四とし、「このようにあった、このようにあった」というような言説に関連する古代の説話と呼ばれる歴史伝説(イティハーサ)を第五とするもの、それら歴史伝説を第五とする諸ヴェーダの。「句とその他の文法を学び、解明する」ゆえに「語句学者、文法学者」である。「順世派(ローカーヤタ)」とは、詭弁の学問(論理学)を言う。「相好(マハープリサ・ラッカナ)」とは、仏などの偉大な人々の相好を解明する一万二千偈の分量の学問であり、そこには一万六千の詩節の分量の仏陀の真言と呼ばれるものがあり、それらによって「この相好を具備する者は仏陀と呼ばれる。これによって辟支仏と呼ばれる。これによって二人の上首弟子、八十人の大弟子、仏の母、仏の父、第一の給仕者、第一の給仕女、転輪聖王と呼ばれる」というこの相違が知られる。「欠けるところのない」とは、これら順世派や偉大な人々の相好において欠けることなく完全に実行する者、不完全な者ではない、と説かれている。不完全な者とは、それらを意味の面からも文献の面からも保持することができない者のことである。「彼は聞いた」等の句において語られるべきことは、サーレーヤカ経(中部第41経など)においてすでに説かれた通りである。
384. Ayaṃ tātāti ayaṃ mahallakatāya gantuṃ asakkonto māṇavaṃ āmantetvā evamāha. Apica esa brāhmaṇo cintesi ‘‘imasmiṃ loke ‘ahaṃ buddho ahaṃ buddho’ti uggatassa nāmaṃ gahetvā bahū janā vicaranti, tasmā na me anussavamatteneva upasaṅkamituṃ yuttaṃ. Ekaccañhi upasaṅkamantassa apakkamanampi garu hoti, anatthopi uppajjati. Yaṃnūnāhaṃ mama antevāsikaṃ pesetvā ‘buddho vā no vā’ti jānitvā upasaṅkameyya’’nti tasmā māṇavaṃ āmantetvā ‘‘ayaṃ tātā’’tiādimāha. Taṃ bhavantanti tassa bhavato. Tathā santaṃyevāti tathā satoyeva. Idañhi itthambhūtākhyānatthe upayogavacanaṃ. Yathā kathaṃ panāhaṃ, bhoti ettha kathaṃ panāhaṃ, bho, taṃ bhavantaṃ gotamaṃ jānissāmi, yathā sakkā so ñātuṃ, tathā me ācikkhāti attho. Yathāti vā nipātamattamevetaṃ. Kathanti ayaṃ ākārapucchā, kenākārenāhaṃ bhavantaṃ gotamaṃ jānissāmīti attho.
384. 「これよ、子よ」とは、彼は高齢のために行くことができず、青年に呼びかけてこのように言ったのである。さらに、そのバラモンはこう考えた。「この世では『私は仏陀である、私は仏陀である』と名声の高まった者の名を取って多くの人々が巡行している。それゆえ、私はただの風聞だけで近づくべきではない。ある者に近づいたものの、立ち去ることも困難となり、不利益も生じる。それならば、私は自分の弟子を遣わして『仏陀であるか否か』を知ってから近づくのがよいのではないか」と。それゆえ、青年に呼びかけて「これよ、子よ」等と言ったのである。「その尊き方を」とは、その尊者のことを。「まさにその通りに」とは、まさにその事実の通りに。これは「状態の記述」の意味における対格である。「大徳よ、しかしどのようにして私は」において、どのようにして私は、尊者よ、その尊きゴータマを知るのか、彼を知ることができるように、そのように私に教えてほしい、という意味である。あるいは「どのように(ヤター)」とは、単なる不変化詞である。「どのようにして(カタン)」とは、これは様態を尋ねることであり、いかなる様態によって私は尊きゴータマを知るべきなのか、という意味である。
Evaṃ vutte kira naṃ upajjhāyo – ‘‘kiṃ tvaṃ, tāta, pathaviyaṃ ṭhito pathaviṃ na passāmīti viya candimasūriyānaṃ obhāse ṭhito candimasūriye na passāmīti viya vadasī’’tiādīni vatvā jānanākāraṃ dassento āgatāni kho tātātiādimāha. Tattha mantesūti vedesu. Tathāgato kira uppajjissatīti paṭikacceva suddhāvāsā devā vedesu lakkhaṇāni pakkhipitvā ‘‘buddhamantā nāma ete’’ti brāhmaṇavesena vede vācenti ‘‘tadanusārena mahesakkhā sattā tathāgataṃ jānissantī’’ti. Tena pubbe vedesu mahāpurisalakkhaṇāni āgacchanti. Parinibbute pana tathāgate anukkamena antaradhāyanti, tena etarahi natthi. Mahāpurisassāti paṇidhisamādānañāṇakaruṇādiguṇamahato purisassa. Dveyeva gatiyoti dve eva niṭṭhā. Kāmañcāyaṃ gatisaddo – ‘‘pañca kho imā, sāriputta, gatiyo’’tiādīsu (ma. ni. 1.153) bhavabhede vattati, ‘‘gati migānaṃ pavana’’ntiādīsu (pari. 339) nivāsaṭṭhāne, ‘‘evaṃ adhimattagatimanto’’tiādīsu (ma. ni. 1.161) paññāya, ‘‘gatigata’’ntiādīsu visaṭabhāve, idha pana niṭṭhāyaṃ vattatīti veditabbo. Tattha kiñcāpi yehi samannāgato rājā hoti, na teheva buddho hoti, jātisāmaññato pana tāniyeva tānīti vuccanti. Tena vuttaṃ – ‘‘yehi samannāgatassā’’ti. Sace agāraṃ ajjhāvasatīti yadi agāre vasati, rājā hoti cakkavattī. Catūhi acchariyadhammehi saṅgahavatthūhi ca lokaṃ rañjanato rājā. Cakkaratanaṃ vatteti, catūhi sampatticakkehi vatteti, tehi ca paraṃ vatteti, parahitāya ca iriyāpathacakkānaṃ vatto etasmiṃ atthīti cakkavattī. Ettha ca rājāti sāmaññaṃ, cakkavattīti visesanaṃ. Dhammena caratīti dhammiko, ñāyena samena vattatīti attho. Dhammena rajjaṃ labhitvā rājā jātoti dhammarājā. Parahitadhammakaraṇena vā dhammiko, attahitadhammakaraṇena dhammarājā. Caturantāya issaroti cāturanto, catusamuddantāya catubbidhadīpabhūsitāya ca pathaviyā issaroti attho. Ajjhattaṃ kopādipaccatthike bahiddhā ca sabbarājāno vijesīti vijitāvī. Janapadatthāvariyappattoti janapade thāvarabhāvaṃ dhuvabhāvaṃ patto, na sakkā kenaci cāletuṃ, janapado vā tamhi thāvariyappatto anussukko sakammanirato acalo asampavedhīti janapadatthāvariyappatto. Seyyathidanti nipāto, tassa tāni katamānīti attho. Cakkaratanantiādīsu cakkañca taṃ ratijananatthena ratanañcāti cakkaratanaṃ. Eseva nayo sabbattha.
このように言われたとき、その師は「子よ、お前は大地に立ちながら大地を見ないと言うかの如く、日月のかがやきの中に立ちながら日月を見ないと言うかの如く語るのか」などと言い、知るべき様態を示して「実に、子よ、伝承されている」等と言ったのである。その中の「真言において」とは、ヴェーダにおいて。「実に如来が出現するであろう」と、あらかじめ浄居天の神々がヴェーダの中に相好を挿入し、「これらは仏陀の真言と呼ばれるものである」とバラモンの姿をしてヴェーダを教え、「それに従って大徳ある衆生たちが如来を知るであろう」とした。それゆえ、かつてはヴェーダの中に三十二相が現れていたのである。しかし如来が入滅されると、次第に消失していき、それゆえ現在では存在しない。「大人の」とは、誓願の受持や智慧や慈悲などの徳によって大いなる人の。「二つの道(行く末)のみ」とは、二つの究極の結末のみである。この「道(ガティ)」という語は、「サーリプッタよ、実にこれらの五つの道がある」などの箇所では生存の差異を意味し、「鹿の道は森」などの箇所では住処を意味し、「このように並外れた知性(ガティ)を持つ者」などの箇所では智慧を意味し、「行くべき所に行った」などの箇所では拡散した状態を意味するが、ここでは究極の結末の意味で用いられていると知るべきである。そこで、それらを具備した者が王となるものと、それらによって仏となるものとは、生まれの共通性からまさにそれら同一のものと呼ばれる。それゆえ「それらを具備した者には」と説かれたのである。「もし家にとどまるならば」とは、もし家に住むなら、転輪聖王となる。「四つの驚くべき法と摂事によって世界を喜ばせる(ランジタ)」ゆえに「王(ラージャン)」である。「宝輪を転じ、四つの成就の輪をもって転じ、それらによって他者を導き、他者の利益のために威儀の輪の回転がこの者にある」ゆえに「転輪聖王(チャッカヴァッティ)」である。そしてここでは「王」が一般的な名であり、「転輪聖王」が限定修飾語である。「法によって行じる」ゆえに「正法にかなう者」であり、道理によって平等に行動する、という意味である。「法によって王権を得て王となった」ゆえに「法王」である。あるいは他者の利益となる法を行うことによって正法にかなう者であり、自己の利益となる法を行うことによって法王である。「四海の主」とは、四つの大洋に囲まれ、四つの洲に飾られた大地の主である、という意味である。「内なる怒りなどの敵と、外なるすべての王たちに勝利した」ゆえに「勝利者」である。「国土の安定を得た」とは、国土において不動の状態、永続する状態に達し、誰によっても動揺させられることがない者、あるいは国土が彼において安定を得て、憂いなく各々の仕事に専念し、動かず動揺しないゆえに国土の安定を得た者である。「すなわち次のようなもの」とは不変化詞であり、それらとはどれのことか、という意味である。「輪宝」などの箇所において、輪であり、かつ人々を喜ばせるという意味で宝であるから「輪宝」である。すべてにおいてこの方法による。
Imesu pana ratanesu ayaṃ cakkavattirājā cakkaratanena ajitaṃ jināti, hatthiassaratanehi vijite yathāsukhaṃ anuvicarati, pariṇāyakaratanena vijitamanurakkhati, sesehi upabhogasukhamanubhavati. Paṭhamena cassa ussāhasattiyogo, hatthiassagahapatiratanehi pabhusattiyogo, pacchimena mantasattiyogo suparipuṇṇo hoti, itthimaṇiratanehi tividhasattiyogaphalaṃ. So itthimaṇiratanehi bhogasukhamanubhavati, sesehi issariyasukhaṃ. Visesato cassa purimāni tīṇi adosakusalamūlajanitakammānubhāvena sampajjanti, majjhimāni alobhakusalamūlajanitakammānubhāvena, pacchimamekaṃ amohakusalamūlajanitakammānubhāvenāti veditabbaṃ. Ayamettha saṅkhepo, vitthāro pana bojjhaṅgasaṃyutte ratanasuttassa (saṃ. ni. 5.222-223) upadesato gahetabbo. Apica bālapaṇḍitasuttepi (ma. ni. 3.255) imesaṃ ratanānaṃ uppattikkamena saddhiṃ vaṇṇanā āgamissati.
これら宝の中で、この転輪聖王は輪宝によって未征服の地を征服し、象宝と馬宝によって征服地を意のままに巡行し、将軍宝によって征服地を護持し、残りの宝によって享受の楽を味わう。そして彼には第一のものによって積極的な行動力の具足があり、象宝・馬宝・居士宝によって統率力の具足があり、最後のものによって相談役の知謀の具足が完全に充実しており、女宝・摩尼宝によって三種の力の具足の果報がある。彼は女宝・摩尼宝によって財物の快楽を味わい、残りの宝によって統治権力の快楽を味わう。とりわけ、彼の前の三つの宝は無瞋の善根から生じた業の威力によって成就し、中間の三つは無貪の善根から生じた業の威力によって、最後の一つは無癡の善根から生じた業の威力によって成就すると知るべきである。これがここでの要約である。詳細については覚支相応の宝経の教示から把握されるべきである。さらに『愚痴賢者経』(中部第129経)においても、これら宝の出現の順序とともに解説がなされるであろう。
Parosahassanti atirekasahassaṃ. Sūrāti abhīrukajātikā. Vīraṅgarūpāti devaputtasadisakāyā, evaṃ tāva eke vaṇṇayanti, ayaṃ panettha sabhāvo – vīrāti uttamasūrā vuccanti. Vīrānaṃ aṅgaṃ vīraṅgaṃ, vīrakāraṇaṃ vīriyanti vuttaṃ hoti. Vīraṅgaṃ rūpaṃ etesanti vīraṅgarūpā, vīriyamayasarīrā viyāti vuttaṃ hoti. Parasenappamaddanāti sace paṭimukhaṃ tiṭṭheyya parasenā, taṃ maddituṃ samatthāti adhippāyo. Dhammenāti ‘‘pāṇo na hantabbo’’tiādinā pañcasīladhammena.
「千を超える」とは、千人以上の。「勇者」とは、恐れを知らない生まれの者たち。「英雄の体躯を持つ」とは、天子に似た身体を持つ者たち。このように一部の人々は説明するが、ここでの本来の意味はこうである。「勇者(ヴィーラ)」とは優れた勇士のことである。勇者の要素が勇者の体躯であり、勇者の要因である精進が説かれている。勇者の要素たる体躯を持つ者たちが「英雄の体躯を持つ者たち」であり、精進からなる身体のようである、と説かれているのである。「敵軍を粉砕する者」とは、もし敵軍が対峙するなら、それを粉砕することができる、という意味である。「法によって」とは、「生き物を殺害してはならない」などの五戒の法によって。
Arahaṃ hoti sammāsambuddho loke vivaṭṭacchadoti ettha rāgadosamohamānadiṭṭhiavijjāduccaritachadanehi sattahi paṭicchanne kilesandhakāraloke taṃ chadanaṃ vivaṭṭetvā samantato sañjātāloko hutvā ṭhitoti vivaṭṭacchado. Tattha paṭhamena padena pūjārahatā, dutiyena tassā hetu yasmā sammāsambuddhoti, tatiyena buddhattahetubhūtā vivaṭṭacchadatā vuttāti veditabbā. Atha vā vivaṭṭo ca vicchado cāti vivaṭṭacchado, vaṭṭarahito chadanarahito cāti vuttaṃ hoti. Tena arahaṃ vaṭṭābhāvena, sammāsambuddho chadanābhāvenāti evaṃ purimapadadvayasseva hetudvayaṃ vuttaṃ hoti. Dutiyavesārajjena cettha purimasiddhi, paṭhamena dutiyasiddhi, tatiyacatutthehi tatiyasiddhi hoti. Purimañca dhammacakkhuṃ, dutiyaṃ buddhacakkhuṃ, tatiyaṃ samantacakkhuṃ sādhetītipi veditabbaṃ. Tvaṃ mantānaṃ paṭiggahetāti imināssa sūrabhāvaṃ janeti.
「阿羅漢であり、正等覚者であり、世の覆いを解き放った者である」において、貪・瞋・癡・慢・邪見・無明・悪行という七つの覆いによって覆われた煩悩の暗黒の世界において、その覆いを取り除いて周囲に光を生じさせて立つ者であるから「世の覆いを解き放った者(ヴィヴァッタチャダ)」である。そこにおいて、第一の語によって供養を受けるに値する性質が、第二の語によってその根拠である正等覚者であるがゆえのことが、第三の語によって仏陀であることの根拠となった覆いを解き放った状態が説かれていると知るべきである。あるいは、輪廻を離れた者(ヴィヴァッタ)であり、覆いを離れた者(ヴィッチャダ)であるから「世の覆いを解き放った者」であり、輪廻を離れ、覆いを離れている、と説かれている。これによって阿羅漢は輪廻の不存在により、正等覚者は覆いの不存在による、とこのように前の二語の二つの根拠が説かれているのである。そして第二の無畏によって前の成就があり、第一の無畏によって第二の成就があり、第三・第四の無畏によって第三の成就がある。また、第一の語は法眼を、第二の語は仏眼を、第三の語は一切普見の眼(普眼)を成就する、とも知るべきである。「お前は真言を授かった者である」とは、これによって彼の勇気を生じさせる。
385. Sopi tāya ācariyakathāya lakkhaṇesu vigatasammoho ekobhāsajāto viya buddhamante sampassamāno evaṃ, bhoti āha. Tassattho – yathā, bho, maṃ tvaṃ vadasi, evaṃ karissāmīti. Samannesīti gavesi, ekaṃ dveti vā gaṇayanto samānayi. Addasā khoti kathaṃ addasa? Buddhānañhi nisinnānaṃ vā nipannānaṃ vā koci lakkhaṇaṃ pariyesituṃ na sakkoti, ṭhitānaṃ pana caṅkamantānaṃ vā sakkoti. Tasmā lakkhaṇapariyesanatthaṃ āgataṃ disvā buddhā uṭṭhāyāsanā tiṭṭhanti vā caṅkamaṃ vā adhiṭṭhahanti. Iti lakkhaṇadassanānurūpe iriyāpathe vattamānassa addasa. Yebhuyyenāti pāyena, bahukāni addasa, appāni na addasāti attho. Tato yāni na addasa, tesaṃ dīpanatthaṃ vuttaṃ ṭhapetvā dveti. Kaṅkhatīti ‘‘aho vata passeyya’’nti patthanaṃ uppādeti. Vicikicchatīti tato tato tāni vicinanto kicchati na sakkoti daṭṭhuṃ. Nādhimuccatīti tāya vicikicchāya sanniṭṭhānaṃ na gacchati. Na sampasīdatīti tato ‘‘paripuṇṇalakkhaṇo aya’’nti bhagavati pasādaṃ nāpajjati. Kaṅkhāya vā dubbalā vimati vuttā, vicikicchāya majjhimā, anadhimuccanatāya balavatī, asampasādena tehi tīhi dhammehi cittassa kālussiyabhāvo. Kosohiteti vatthikosena paṭicchanne. Vatthaguyheti aṅgajāte. Bhagavato hi vāraṇasseva kosohitavatthaguyhaṃ suvaṇṇavaṇṇaṃ padumagabbhasamānaṃ, taṃ so vatthapaṭicchannattā, antomukhagatāya ca jivhāya pahūtabhāvaṃ asallakkhento tesu dvīsu lakkhaṇesu kaṅkhī ahosi vicikicchī.
385. 彼もまた師のその話によって相好についての迷妄が去り、一つの光が生じたかのように仏陀の真言を考察しながら、「承知いたしました、尊者よ」と言った。その意味は「尊者よ、あなたが私に命じられるように、そのようにいたしましょう」ということである。「観察した」とは、探求した、あるいは一つ、二つと数えながら照合した。「実に彼は見た」とは、どのようにして見たのか。実に仏たちが坐っておられるか横になっておられるときには、誰も相好を探求することはできず、立っておられるか歩行(経行)しておられるときに可能である。それゆえ、相好を探求するためにやって来た者を見て、仏たちは座から立ち上がって立たれるか、経行に入られる。このように相好を見るのに適した威儀にあられるときに見たのである。「大部分を」とは、概ね、多くを見たが、わずかを見なかったという意味である。そこで、見えなかったものを明らかにするために「二つを除いて」と説かれた。「疑念を抱く」とは、「ああ、どうかそれを見たいものだ」と願いを生じさせること。「惑う」とは、あちこちにそれらを探求しても困難で見ることができないこと。「確信しない」とは、その疑惑によって確定に至らないこと。「澄浄しない」とは、それゆえ「この方は完全に相好を具足している」と世尊に対して清らかな信仰を起こさないこと。あるいは「疑念」によって弱い迷いが説かれ、「疑惑」によって中程度の迷いが、「不確信」によって強い迷いが説かれ、「不澄浄」によってこれら三つの法による心の濁りの状態が説かれている。「陰部に蔵された」とは、包皮によって隠された。「陰部」とは、性器のことである。世尊の陰部は実に象の王のように包皮に隠され、黄金色で蓮の萼のようであるが、それが衣服に覆われているがゆえに、また口内にある舌が広大である状態を観察できず、彼はそれら二つの相好に疑念を抱き、惑っていたのである。
Atha kho bhagavāti atha bhagavā cintesi – ‘‘sacāhaṃ imassa etāni dve lakkhaṇāni na dassessāmi, nikkaṅkho na bhavissati. Etassa kaṅkhāya sati ācariyopissa nikkaṅkho na bhavissati, atha maṃ dassanāya na āgamissati, anāgato dhammaṃ na sossati, dhammaṃ asuṇanto tīṇi sāmaññaphalāni na sacchikarissati. Etasmiṃ pana nikkaṅkhe ācariyopissa nikkaṅkho maṃ upasaṅkamitvā dhammaṃ sutvā tīṇi sāmaññaphalāni sacchikarissati. Etadatthaṃyeva ca mayā pāramiyo pūritā. Dassessāmissa tāni lakkhaṇānī’’ti.
「そのとき世尊は」とは、そのとき世尊はこう思われた。「もし私がこの青年にこれら二つの相好を示さなければ、彼は疑念を晴らすことがないであろう。彼に疑念があるならば、その師もまた疑念が晴れず、私を見るために来ないであろう。来なければ法を聞かず、法を聞かなければ三つの沙門果を証得しないであろう。しかし、彼が疑念を晴らせば、その師も疑念を晴らして私のもとに来て法を聞き、三つの沙門果を証得するであろう。まさにこの目的のためにこそ、私は諸々の波羅蜜を満たしたのである。彼にそれらの相好を示してあげよう」と。
Tathārūpaṃ iddhābhisaṅkhāramakāsi. Kathaṃrūpaṃ? Kimettha aññena vattabbaṃ? Vuttametaṃ nāgasenatthereneva milindaraññā puṭṭhena –
そのような神変の形成をなされた。どのようなものか。ここで他の何を語る必要があろうか。これはミリンダ王に尋ねられたナーガセーナ長老自身によって語られている通りである。
Āha ca dukkaraṃ, bhante nāgasena, bhagavatā katanti. Kiṃ mahārājāti? Mahājanena hirikaraṇokāsaṃ brahmāyubrāhmaṇassa ca antevāsiuttarassa ca bāvariyassa antevāsīnaṃ soḷasabrāhmaṇānañca selassa ca brāhmaṇassa antevāsīnaṃ tisatamāṇavānañca dassesi, bhanteti. Na, mahārāja, bhagavā guyhaṃ dasseti, chāyaṃ bhagavā dasseti, iddhiyā abhisaṅkharitvā nivāsananivatthaṃ kāyabandhanabaddhaṃ cīvarapārutaṃ chāyārūpakamattaṃ dassesi mahārājāti. Chāyaṃ diṭṭhe sati diṭṭhoyeva. Nanu, bhanteti? Tiṭṭhatetaṃ, mahārāja, hadayarūpaṃ disvā bujjhanakasatto bhaveyya, hadayamaṃsaṃ nīharitvā dasseyya sammāsambuddhoti. Kallosi, bhante nāgasenāti.
「そして言った。『大徳ナーガセーナよ、世尊は困難なことをなさいました』と。『大王よ、何のことですか』『世尊は、世間の人々が恥ずかしがる箇所を、ブラフマーユ・バラモンと弟子のウッタラ、そしてバーヴァリの弟子の十六人のバラモンたち、セーラ・バラモンの弟子の三百人の青年たちにお示しになりました、大徳よ』『大王よ、世尊は陰部をお見せになったのではありません。世尊は影像をお見せになったのです。神通力によって現出させ、下衣を着け、帯を締め、大衣をまとった影の姿だけをお示しになったのです、大王よ』『影が見られたならば、見られたことになります。そうではありませんか、大徳よ』『大王よ、それはさておき、心臓の姿を見て悟るべき衆生がいるとするなら、正等覚者は心臓の肉を取り出してでもお見せになるでしょう』『その通りです、大徳ナーガセーナよ』」と。
Ninnāmetvāti nīharitvā. Anumasīti kathinasūciṃ viya katvā anumajji. Tathā karaṇena cettha mudubhāvo, kaṇṇasotānumasanena dīghabhāvo, nāsikasotānumasanena tanubhāvo, nalāṭacchādanena puthulabhāvo pakāsitoti veditabbo. Ubhopi kaṇṇasotānītiādīsu cettha buddhānaṃ kaṇṇasotesu malaṃ vā jallikā vā natthi, dhovitvā ṭhapitarajatapanāḷikā viya honti, tathā nāsikasotesu, tānipi hi suparikammakatakañcanapanāḷikā viya ca maṇipanāḷikā viya ca honti. Tasmā jivhaṃ nīharitvā kathinasūciṃ viya katvā mukhapariyante upasaṃharanto dakkhiṇakaṇṇasotaṃ pavesetvā tato nīharitvā vāmakaṇṇasotaṃ pavesesi, tato nīharitvā dakkhiṇanāsikasotaṃ pavesetvā tato nīharitvā vāmanāsikasotaṃ pavesesi, tato nīharitvā puthulabhāvaṃ dassento rattavalāhakena aḍḍhacandaṃ viya ca suvaṇṇapattaṃ viya ca rattakambalapaṭalena vijjujotasadisāya jivhāya kevalakappaṃ nalāṭamaṇḍalaṃ paṭicchādesi.
「伸ばして」とは、取り出して。「撫でた」とは、硬い針のようにして撫でた。このようにすることによって柔軟であることが、耳孔を撫でることによって長いことが、鼻孔を撫でることによって薄いことが、額を覆うことによって広いことが示されたと知るべきである。「両方の耳孔を」などの箇所において、仏たちの耳孔には垢や耳垢はなく、洗い清めて置かれた銀の樋のようであり、鼻孔も同様で、それらもまた美しく細工された黄金の樋や宝珠の樋のようである。それゆえ舌を取り出し、硬い針のようにして口の端に寄せ、右の耳孔に入れ、そこから出して左の耳孔に入れ、そこから出して右の鼻孔に入れ、そこから出して左の鼻孔に入れ、そこから出して広大さを示し、赤い雲が半月を覆うように、また金箔の如く、赤い絨毯の幕の如く、稲妻の輝きに似た舌で額全体を覆われたのである。
Yaṃnūnāhanti kasmā cintesi? Ahañhi mahāpurisalakkhaṇāni samannesitvā gato ‘‘diṭṭhāni te, tāta, mahāpurisalakkhaṇānī’’ti ācariyena pucchito ‘‘āma, ācariyā’’ti vattuṃ sakkhissāmi. Sace pana maṃ ‘‘kiriyākaraṇamassa kīdisa’’nti pucchissati, taṃ vattuṃ na sakkhissāmi, na jānāmīti vutte pana ācariyo kujjhissati ‘‘nanu tvaṃ mayā sabbampetaṃ jānanatthāya pesito, kasmā ajānitvā āgatosī’’ti, tasmā yannūnāhanti cintetvā anubandhi. Bhagavā nhānaṭṭhānaṃ mukhadhovanaṭṭhānaṃ sarīrapaṭijagganaṭṭhānaṃ rājarājamahāmattādīnaṃ orodhehi saddhiṃ parivāretvā nisinnaṭṭhānanti imāni cattāri ṭhānāni ṭhapetvā sesaṭṭhānesu antamaso ekagandhakuṭiyampi okāsamakāsi.
「それならば私は」とは、なぜ考えたのか。「実に私は大人の相好を観察して帰り、師から『子よ、大人の相好を見たか』と尋ねられたなら『はい、師よ』と答えることができるであろう。しかし、もし私に『あの方の立ち居振る舞いはどのようなものか』と尋ねられたなら、それを答えることができず、『知りません』と言えば師は『お前はそれらすべてを知るために遣わされたのではないか。なぜ知らずに戻ってきたのか』と怒るであろう。それゆえ、それならば私は……」と考えて追随したのである。世尊は入浴の場所、洗顔の場所、身体の世話をする場所、国王や大臣などの後宮の者たちとともに座している場所というこれら四つの場所を除いて、残りの場所では一つの香室の中においてさえも機会をお与えになった。
Gacchante gacchante kāle – ‘‘ayaṃ kira brahmāyubrāhmaṇassa māṇavo uttaro nāma ‘buddho vā no vā’ti tathāgatassa buddhabhāvaṃ vīmaṃsanto carati, buddhavīmaṃsako nāmāya’’nti pākaṭo jāto. Yamhi yamhi ṭhāne buddhā vasanti, pañca kiccāni katāneva honti, tāni heṭṭhā dassitāneva. Tattha pacchābhattaṃ alaṅkatadhammāsane nisīditvā dantakhacitaṃ cittabījaniṃ gahetvā mahājanassa dhammaṃ desente bhagavati uttaropi avidūre nisīdati. Dhammassavanapariyosāne saddhā manussā svātanāya bhagavantaṃ nimantetvā māṇavampi upasaṅkamitvā evaṃ vadanti – ‘‘tāta, amhehi bhagavā nimantito, tvampi bhagavatā saddhiṃ āgantvā amhākaṃ gehe bhattaṃ gaṇheyyāsī’’ti. Punadivase tathāgato bhikkhusaṅghaparivuto gāmaṃ pavisati, uttaropi padavāre padavāre pariggaṇhanto padānupadiko anubandhati. Kulagehaṃ paviṭṭhakāle dakkhiṇodakaggahaṇaṃ ādiṃ katvā sabbaṃ olokento nisīdati. Bhattakiccāvasāne tathāgatassa pattaṃ bhūmiyaṃ ṭhapetvā nisinnakāle māṇavakassa pātarāsabhattaṃ sajjenti. So ekamante nisinno bhuñjitvā puna āgantvā satthu santike ṭhatvā bhattānumodanaṃ sutvā bhagavatā saddhiṃyeva vihāraṃ gacchati.
時が経つにつれて、「このブラフマーユ・バラモンの弟子でウッタラという青年は、『仏陀であるか否か』と如来の仏陀である状態を検証しながら歩んでおり、仏陀検証者と呼ばれている」と有名になった。仏たちが滞在される場所場所では、常に五つの勤めがなされており、それらは前述の通りである。そこにおいて、食後に美しく飾られた説法の座に坐り、象牙を散りばめた絵柄の扇を手にして人々に法を説かれるとき、ウッタラもまた遠くない場所に坐る。聴聞の終わりに信仰ある人々が翌日の供養に世尊を招待し、青年にも近づいてこのように言う。「子よ、私たちは世尊をお招きしました。あなたも世尊とともに来て、私たちの家で食事をお取りください」と。翌日、如来は比丘僧伽に取り囲まれて村に入り、ウッタラもまた一歩一歩の足取りを観察しながら影のように付き従う。在家に入ったときには、布施の水を注ぐことに始まってすべてを見つめながら坐る。食事の勤めが終わり、如来が鉢を床に置いて坐っておられるとき、青年のために朝食の食事が用意される。彼は一方に坐って食事をし、再びやって来て師の御前に立ち、食事の歓喜の法話を聞いて、世尊とともに精舎へと帰る。
Tattha bhagavā bhikkhūnaṃ bhattakiccapariyosānaṃ āgamento gandhamaṇḍalamāḷe nisīdati. Bhikkhūhi bhattakiccaṃ katvā pattacīvaraṃ paṭisāmetvā āgamma vanditvā kāle ārocite bhagavā gandhakuṭiṃ pavisati, māṇavopi bhagavatā saddhiṃyeva gacchati. Bhagavā parivāretvā āgataṃ bhikkhusaṅghaṃ gandhakuṭippamukhe ṭhito ovaditvā uyyojetvā gandhakuṭiṃ pavisati, māṇavopi pavisati. Bhagavā khuddakamañce appamattakaṃ kālaṃ nisīdati, māṇavopi avidūre olokento nisīdati. Bhagavā muhuttaṃ nisīditvā sīsokkamanaṃ dasseti, – ‘‘bhoto gotamassa vihāravelā bhavissatī’’ti māṇavo gandhakuṭidvāraṃ pidahanto nikkhamitvā ekamantaṃ nisīdati. Manussā purebhattaṃ dānaṃ datvā bhuttapātarāsā samādinnauposathaṅgā suddhuttarāsaṅgā mālāgandhādihatthā dhammaṃ suṇissāmāti vihāraṃ āgacchanti, cakkavattino khandhāvāraṭṭhānaṃ viya hoti.
そこで世尊は比丘たちの食事の終わりを待ちながら香炉堂(香室前の広間)に坐られる。比丘たちが食事を終えて衣鉢を片付け、やって来て礼拝し、時を告げると、世尊は香室に入られ、青年もまた世尊とともに入る。世尊は取り囲んでやって来た比丘僧伽に香室の前で訓戒を与えて送り出し、香室に入られ、青年もまた入る。世尊は小さな寝台にわずかな時間坐られ、青年もまた遠くない場所で見つめながら坐る。世尊がしばらく坐って頭を横たえる仕草を示されると、「尊きゴータマの休息の時間であろう」と青年は香室の扉を閉めて外に出て、一方に坐る。人々は午前中に布施をし、朝食を終えて八斎戒を受け、清らかな上衣をまとい、花や香などを手にして「法を聞こう」と精舎にやって来る。それは転輪聖王の陣営の場所のようである。
Bhagavā muhuttaṃ sīhaseyyaṃ kappetvā vuṭṭhāya pubbabhāgena paricchinditvā samāpattiṃ samāpajjati. Samāpattito vuṭṭhāya mahājanassa āgatabhāvaṃ ñatvā gandhakuṭito nikkhamma mahājanaparivuto gandhamaṇḍalamāḷaṃ gantvā paññattavarabuddhāsanagato parisāya dhammaṃ deseti. Māṇavopi avidūre nisīditvā – ‘‘kiṃ nu kho samaṇo gotamo gehassitavasena parisaṃ ussādento vā apasādento vā dhammaṃ deseti, udāhu no’’ti akkharakkharaṃ padaṃ padaṃ pariggaṇhāti. Bhagavā tathāvidhaṃ kathaṃ akathetvāva kālaṃ ñatvā desanaṃ niṭṭhāpesi. Māṇavo iminā niyāmena pariggaṇhanto satta māse ekato vicaritvā bhagavato kāyadvārādīsu aṇumattampi avakkhalitaṃ na addasa. Anacchariyañcetaṃ, yaṃ buddhabhūtassa manussabhūto māṇavo na passeyya, yassa bodhisattabhūtassa chabbassāni padhānabhūmiyaṃ amanussabhūto māro devaputto gehassitavitakkamattampi adisvā buddhabhūtaṃ ekasaṃvaccharaṃ anubandhitvā kiñci apassanto –
世尊はしばらく獅子の臥法をとって起き上がり、あらかじめ時間を定めて等至(三昧)に入られる。三昧から起き上がり、多くの人々が来たことを知って香室から出られ、人々に囲まれて香炉堂に行き、設けられた優れた仏座に着いて大衆に法を説かれる。青年もまた遠くない場所に坐り、「沙門ゴータマは在家の執着によって大衆を持ち上げたり貶めたりして法を説いているのだろうか、それともそうではないのだろうか」と一字一字、一句一句を観察する。世尊はそのような説話は全くなさらず、時を知って説法を終えられた。青年はこの方法によって観察し、七か月間起居を共にしたが、世尊の身口意の門にわずかばかりの過失も見出せなかった。そして、仏陀となった方に対して人間の青年が見出せなかったことは驚くべきことではない。菩薩であった六年間、精進の境地において非人である魔羅(天子魔)が在家の思惟のわずかさえも見出すことができず、仏陀となられた後も一年間追随したものの何一つ見出せず、
‘‘Satta vassāni bhagavantaṃ, anubandhiṃ padāpadaṃ;
「七年のあいだ世尊に、一歩一歩付き従った。
Otāraṃ nādhigacchissaṃ, sambuddhassa satīmato’’ti. (su. ni. 448) –
正覚者、正念ある方に、つけ入る隙を見出すことができなかった」
Ādigāthāyo vatvā pakkāmi. Tato māṇavo cintesi – ‘‘ahaṃ bhavantaṃ gotamaṃ satta māse anubandhamāno kiñci vajjaṃ na passāmi. Sace panāhaṃ aññepi satta māse satta vā vassāni vassasataṃ vā vassasahassaṃ vā anubandheyyaṃ, nevassa vajjaṃ passeyyaṃ. Ācariyo kho panassa me mahallako, yogakkhemaṃ nāma na sakkā jānituṃ. Samaṇassa gotamassa sabhāvaguṇeneva buddhabhāvaṃ vatvā mayhaṃ ācariyassa ārocessāmī’’ti bhagavantaṃ āpucchitvā bhikkhusaṅghaṃ vanditvā nikkhami.
などの詩偈を唱えて立ち去ったほどである。そこで青年はこう考えた。「私は尊きゴータマに七か月間付き従っているが、いかなる過失も見出せない。もし私がさらに七か月、あるいは七年、あるいは百年、あるいは千年のあいだ付き従ったとしても、決して過失を見出すことはないであろう。しかし私の師は高齢であり、余命は誰にも知ることはできない。沙門ゴータマの本来の徳によって仏陀であることを語り、我が師に報告しよう」と。そして世尊に別れを告げ、比丘僧伽を礼拝して出発した。
Ācariyassa santikañca pana gantvā – ‘‘kacci, tāta uttara, taṃ bhavantaṃ gotamaṃ tathāsantaṃyeva saddo abbhuggato’’ti pucchito, ‘‘ācariya, kiṃ vadesi? Cakkavāḷaṃ atisambādhaṃ, bhavaggaṃ atinīcaṃ, tassa hi, bhoto gotamassa ākāsaṃ viya apariyanto guṇagaṇo. Tathāsantaṃyeva, bho, taṃ bhavantaṃ gotama’’ntiādīni vatvā yathādiṭṭhāni dvattiṃsamahāpurisalakkhaṇāni paṭipāṭiyā ācikkhitvā kiriyasamācāraṃ ācikkhi. Tena vuttaṃ – ‘‘atha kho uttaro māṇavo…pe… ediso ca ediso ca bhavaṃ gotamo tato ca bhiyyo’’ti.
そして師のもとに行き、「子ウッタラよ、あの尊きゴータマについて、評判は実にその通りに高まっているのか」と尋ねられると、「師よ、何を仰るのですか。全世界はあまりに狭く、有頂天はあまりに低すぎます。あの尊きゴータマの徳の群れは空のように果てしないのです。尊者よ、実にあの尊きゴータマはその通りであり……」等と述べ、見た通りの三十二相を順序正しく説明し、その立ち居振る舞いを語った。それゆえ「そのときウッタラ青年は……中略……尊きゴータマはこのようであり、このようであり、さらにそれ以上である」と説かれたのである。
386. Tattha suppatiṭṭhitapādoti yathā hi aññesaṃ bhūmiyaṃ pādaṃ ṭhapentānaṃ aggatalaṃ vā paṇhi vā passaṃ vā paṭhamaṃ phusati, vemajjhaṃ vā pana chiddaṃ hoti, ukkhipantānampi aggatalādīsu ekakoṭṭhāsova paṭhamaṃ uṭṭhahati, na evaṃ tassa. Tassa pana suvaṇṇapādukatalaṃ viya ekappahāreneva sakalaṃ pādatalaṃ bhūmiṃ phusati, bhūmito uṭṭhahati. Tasmā ‘‘suppatiṭṭhitapādo kho pana so bhavaṃ gotamo’’ti vadati.
386. そこにおいて「足裏が平らに地につく」とは、他の人々が地に足を置くときには足先や踵や側面が最初につき、中央は窪んでいるか、あるいは持ち上げるときにも足先などの一部分だけが先に上がるのに対し、この方はそうではない。この方は黄金の履物の底のように、一撃で足底全体が地に触れ、地から離れる。それゆえ「実にその尊きゴータマは足裏が平らに地につく」と述べるのである。
Tatridaṃ bhagavato suppatiṭṭhitapādatāya – sacepi hi bhagavā anekasataporisaṃ narakaṃ akkamissāmīti pādaṃ nīharati, tāvadeva ninnaṭṭhānaṃ vātapūritaṃ viya kammārabhastaṃ unnamitvā pathavīsamaṃ hoti, unnataṭṭhānampi anto pavisati. Dūre akkamissāmīti abhinīharantassa sineruppamāṇopi pabbato seditavettaṅkuro viya namitvā pādasamīpaṃ āgacchati. Tathā hissa yamakapāṭihāriyaṃ katvā yugandharapabbataṃ akkamissāmīti pāde abhinīharato pabbato namitvā pādasamīpaṃ āgato, so taṃ akkamitvā dutiyapādena tāvatiṃsabhavanaṃ akkami. Na hi cakkalakkhaṇena patiṭṭhātabbaṭṭhānaṃ visamaṃ bhavituṃ sakkoti. Khāṇu vā kaṇḍako vā sakkharakathalā vā uccārapassāvo vā kheḷasiṅghāṇikādīni vā purimatarāva apagacchanti, tattha tattheva ca pathaviṃ pavisanti. Tathāgatassa hi sīlatejena paññātejena dhammatejena dasannaṃ pāramīnaṃ ānubhāvena ayaṃ mahāpathavī samā mudu pupphābhikiṇṇā hoti. Tatra tathāgato samaṃ pādaṃ nikkhipati, samaṃ uddharati, sabbāvantehi pādatalehi bhūmiṃ phusati.
世尊の足裏が平らに地につくことに関して、以下の通りである。世尊が数百人の人間の深さの穴を踏み越えようとして足を伸ばされると、その瞬間に低い場所は風で満たされた鍛冶屋の鞴のように盛り上がって地面と等しくなり、高い場所も内側へと沈む。遠くを踏もうと伸ばされると、須弥山ほどの山であっても蒸した藤の芽のように折れ曲がって足元へとやって来る。このように、双神変をなしてユガンダラ山を踏もうと足を伸ばされると山は折れ曲がって足元に来て、それを踏んで第二の一歩で三十三天に登られたのである。実に車輪の相が踏むべき場所が凸凹であるはずがない。杭や棘や小石・瓦礫や大小便や唾・鼻汁などは、遥か以前に取り除かれ、その場その場で大地の中に入り込む。如来の戒の力、智慧の力、法の力、十波羅蜜の威力によって、この大地は平坦で柔らかく、花で覆われる。そこに如来は等しく足を下ろし、等しく持ち上げ、足底の全体で地に触れられるのである。
Cakkānīti dvīsu pādesu dve cakkāni. Tesaṃ arā ca nemi ca nābhi ca pāḷiyaṃ vuttāva. Sabbākāraparipūrānīti iminā pana ayaṃ viseso veditabbo – tesaṃ kira cakkānaṃ pādatalassa majjhe nābhi dissati, nābhiparicchinnā vaṭṭalekhā dissati, nābhimukhaparikkhepapaṭṭo dissati, panāḷimukhaṃ dissati, arā dissanti, aresu vaṭṭalekhā dissanti, nemī dissanti, nemimaṇikā dissanti. Idaṃ tāva pāḷiāgatameva.
「諸々の車輪」とは、両足にある二つの車輪である。それらの輻(や)と轂(こしき)と網(リム)は本文に説かれている通りである。「あらゆる相を完備した」とは、これによって次の特徴が知られるべきである。それら車輪の足底の中央に轂が見え、轂で区切られた円形の線が見え、轂の口を取り巻く帯が見え、樋の口が見え、輻が見え、輻の上に円形の線が見え、網が見え、網の装飾が見える。これはまず聖典に現れている通りである。
Sambahulavāro pana anāgato, so evaṃ daṭṭhabbo – satti siri vaccho nandi sovattiko vaṭaṃsako vaḍḍhamānakaṃ macchayugalaṃ bhaddapīṭhaṃ aṅkusaṃ tomaro pāsādo toraṇaṃ setacchattaṃ khaggo tālavaṇṭaṃ morahatthako vāḷabījanī uṇhīsaṃ patto maṇi kusumadāmaṃ nīluppalaṃ rattuppalaṃ setuppalaṃ padumaṃ puṇḍarīkaṃ puṇṇaghaṭo puṇṇapāti samuddo cakkavāḷo himavā sineru candimasūriyā nakkhattāni cattāro mahādīpā dveparittadīpasahassāni, antamaso cakkavattirañño parisaṃ upādāya sabbo cakkalakkhaṇasseva parivāro.
しかし、多くの描象(吉祥相)については語られていないが、それは次のように見られるべきである。すなわち、槍、吉祥の印、徳の印、歓喜、卍(スヴァスティカ)、髪飾り、繁栄の器、一対の魚、吉祥の台座、鉤、投槍、宮殿、楼門、白傘、剣、椰子の扇、孔雀の尾の扇、払子、宝冠、鉢、宝石、花綱、青蓮華、紅蓮華、白蓮華、蓮華、白蓮、満杯の壺、満杯の皿、大海、鉄囲山、ヒマラヤ山、須弥山、日月、諸々の星座、四大洲、二千の小島、さらには転輪聖王の眷属に至るまで、すべてが千輻輪相の周囲の装飾である。
Āyatapaṇhīti dīghapaṇhi, paripuṇṇapaṇhīti attho. Yathā hi aññesaṃ aggapādo dīgho hoti, paṇhimatthake jaṅghā patiṭṭhāti, paṇhi tacchetvā ṭhapitā viya hoti, na evaṃ tathāgatassa. Tathāgatassa pana catūsu koṭṭhāsesu dve koṭṭhāsā aggapādo hoti, tatiye koṭṭhāse jaṅghā patiṭṭhāti, catutthe koṭṭhāse āraggena vaṭṭetvā ṭhapitā viya rattakambale geṇḍukasadisā paṇhi hoti.
「長い踵を持つ」とは、踵が長く、充実した踵を持つという意味である。他の人々は足の前部が長く、踵の上に脛が乗り、踵が削り取られて置かれたようになっているが、如来はそうではない。如来の足は四つの部分のうち二つの部分が足の前部であり、第三の部分に脛が乗り、第四の部分には轆轤で丸く仕上げられたかのように、赤い絨毯の上の鞠に似た踵がある。
Dīghaṅgulīti yathā aññesaṃ kāci aṅguli dīghā hoti, kāci rassā, na evaṃ tathāgatassa. Tathāgatassa pana makkaṭasseva dīghahatthapādaṅguliyo mūle thūlā anupubbena gantvā agge tanukā niyyāsatelena madditvā vaṭṭitaharitālavaṭṭisadisā honti. Tena vuttaṃ ‘‘dīghaṅgulī’’ti.
「長い指を持つ」とは、他の人々の指はあるものは長く、あるものは短いのに対し、如来はそうではない。如来の手足の指は猿のように長く、根元は太く次第に先が細くなり、樹脂の油で練って丸めた石黄の丸薬のようである。それゆえ「長い指を持つ」と説かれたのである。
Mudutalunahatthapādoti sappimaṇḍe osādetvā ṭhapitaṃ satavāravihatakappāsapaṭalaṃ viya mudū, jātamattakumārassa viya ca niccakālaṃ talunā ca hatthapādā assāti mudutalunahatthapādo.
「手足が柔らかく瑞々しい」とは、澄ましバターの中に浸して置かれた、百回打ちほぐされた綿の布のように柔らかく、生まれたばかりの幼児のように常に瑞々しい手足を持つ者であるから「手足が柔らかく瑞々しい」と言う。
Jālahatthapādoti na cammena paṭibaddhaaṅgulantaro. Ediso hi phaṇahatthako purisadosena upahato pabbajjampi na labhati. Tathāgatassa pana catasso hatthaṅguliyo pañcapi pādaṅguliyo ekappamāṇā honti, tāsaṃ ekappamāṇattāya yavalakkhaṇaṃ aññamaññaṃ paṭivijjhitvā tiṭṭhati. Athassa hatthapādā kusalena vaḍḍhakinā yojitajālavātapānasadisā honti. Tena vuttaṃ ‘‘jālahatthapādo’’ti.
「網状の手足を持つ」とは、指の間が皮膜で繋がっているのではない。そのような水かき状の手の者は、人間の欠陥によって損なわれて出家さえも得られない。しかし如来の四本の指と五本の足指は均等な長さであり、それらが均等な長さであるがゆえに、麦粒の相が互いに連なって立っている。そしてその手足は、熟練した大工が作った格子の窓のようである。それゆえ「網状の手足を持つ」と説かれたのである。
Uddhaṃ patiṭṭhitagopphakattā ussaṅkhā pādā assāti ussaṅkhapādo. Aññesañhi piṭṭhipāde gopphakā honti. Tena tesaṃ pādā āṇibaddhā viya thaddhā honti, na yathāsukhaṃ parivattanti, gacchantānaṃ pādatalāni na dissanti. Tathāgatassa pana abhiruhitvā upari gopphakā patiṭṭhahanti. Tenassa nābhito paṭṭhāya uparimakāyo nāvāya ṭhapitasuvaṇṇapaṭimā viya niccalo hoti, adhokāyova iñjati. Sukhena pādā parivattanti. Puratopi pacchatopi ubhayapassesupi ṭhatvā passantānaṃ pādatalāni paññāyanti, na hatthīnaṃ viya pacchatoyeva.
「くるぶしが高く位置している」ゆえに「隆起したくるぶしの足を持つ」と言う。他の人々のくるぶしは足の後方にある。それゆえ彼らの足は楔で留められたかのように硬く、意のままに回転せず、歩くときに足底が見えない。しかし如来のくるぶしは高く上がって位置している。それゆえ臍から上の上半身は船に置かれた黄金の像のように微動だにせず、下半身のみが動く。足は軽やかに回転する。前方からでも後方からでも両側面からでも、立ち止まって見る者に足底がはっきりと見え、象のように後方からだけ見えるのではない。
Eṇijaṅghoti eṇimigasadisajaṅgho maṃsussadena paripuṇṇajaṅgho, na ekato baddhapiṇḍikamaṃso, samantato samasaṇṭhitena maṃsena parikkhittāhi suvaṭṭitāhi sāligabbhasadisāhi jaṅghāhi samannāgatoti attho.
「エニ鹿の脛を持つ」とは、エニ鹿に似た脛、肉が盛り上がって充実した脛を持ち、片側だけにふくらはぎの肉が偏っているのではなく、周囲に均等に位置する肉によって囲まれ、美しく丸みを帯びた稲穂のような脛を具足している、という意味である。
Anonamantoti anamanto. Etenassa akhujjaavāmanabhāvo dīpito. Avasesajanā hi khujjā vā honti vāmanā vā, khujjānaṃ uparimakāyo aparipuṇṇo hoti, vāmanānaṃ heṭṭhimakāyo. Te aparipuṇṇakāyattā na sakkonti anonamantā jaṇṇukāni parimajjituṃ. Tathāgato pana paripuṇṇaubhayakāyattā sakkoti.
「屈むことなく」とは、身をかがめずに。これによって前屈みでも小人でもない状態が示されている。残りの人々は猫背であるか小人であり、猫背の者は上半身が不完全であり、小人は下半身が不完全である。彼らは身体が不完全であるがゆえに、屈むことなく膝を撫でることができない。しかし如来は上下両方の身体が完全であるがゆえに、それができるのである。
Usabhavāraṇādīnaṃ viya suvaṇṇapadumakaṇṇikasadise kose ohitaṃ paṭicchannaṃ vatthaguyhaṃ assāti kosohitavatthaguyho. Vatthaguyhanti vatthena gūhitabbaṃ aṅgajātaṃ vuccati.
牡牛や象などのように、黄金の蓮の萼に似た鞘の中に収められ隠された陰部を持つゆえに「陰部が鞘に収められた」と言う。「陰部」とは、衣服で隠されるべき性器のことである。
Suvaṇṇavaṇṇoti jātihiṅgulakena majjitvā dīpidāṭhāya ghaṃsitvā gerukaparikammaṃ katvā ṭhapitaghanasuvaṇṇarūpakasadisoti attho. Etenassa ghanasiniddhasaṇhasarīrataṃ dassetvā chavivaṇṇadassanatthaṃ kañcanasannibhattacoti vuttaṃ, purimassa vā vevacanameva etaṃ.
「黄金色の」とは、純粋な辰砂で磨き、豹の牙で擦り、赤土で仕上げをして置かれた純金の像のようである、という意味である。これによって充実して滑らかで繊細な身体であることを示し、皮膚の色を示すために「金のように輝く皮膚を持つ」と説かれたのである。あるいは前の語の同義語にすぎない。
Rajojallanti rajo vā malaṃ vā. Na upalimpatīti na laggati, padumapalāsato udakabindu viya vivaṭṭati. Hatthadhovanapādadhovanādīni pana utuggahaṇatthāya ceva dāyakānaṃ puññaphalatthāya ca buddhā karonti, vattasīsenāpi ca karontiyeva. Senāsanaṃ pavisantena hi bhikkhunā pāde dhovitvā pavisitabbanti vuttametaṃ.
「塵や垢」とは、埃や汚れである。「付着しない」とは、くっつかないことであり、蓮の葉の上の水滴のように転がり落ちる。手や足を洗うことなどは、季節の調整のためであり、布施者に福徳の果報をもたらすためであり、礼儀作法としても行われる。実に「宿舎に入る比丘は足を洗って入るべきである」と説かれているからである。
Uddhaggalomoti āvaṭṭapariyosāne uddhaggāni hutvā mukhasobhaṃ ullokayamānāni viya ṭhitāni lomāni assāti uddhaggalomo.
「上に向かう毛を持つ」とは、渦巻きの終わりにおいて毛先が上を向き、顔の美しさを見上げているかのように生えている毛を持つ者であるから「上に向かう毛を持つ」と言う。
Brahmujugattoti brahmā viya ujugatto, ujumeva uggatadīghasarīro. Yebhuyyena hi sattā khandhe kaṭiyaṃ jāṇūsūti tīsu ṭhānesu namanti. Te kaṭiyaṃ namantā pacchato namanti, itaresu dvīsu ṭhānesu purato. Dīghasarīrā paneke passavaṅkā honti, eke mukhaṃ unnāmetvā nakkhattāni gaṇayantā viya caranti, eke appamaṃsalohitā sūlasadisā honti, pavedhamānā gacchanti. Tathāgato pana ujumeva uggantvā dīghappamāṇo devanagare ussitasuvaṇṇatoraṇaṃ viya hoti.
「ブラフマーのように真っ直ぐな身体を持つ」とは、梵天のように真っ直ぐな身体を持ち、まっすぐに伸びた長身である。概して衆生は肩、腰、膝という三箇所で曲がる。彼らは腰で曲がるときには後方に曲がり、他の二箇所では前方に曲がる。長身の者の中には脇腹が曲がっている者もあり、ある者は顔を上げて星座を数えているかのように歩き、ある者は肉や血が乏しく串のようで、震えながら歩く。しかし如来はまっすぐに伸びて堂々たる長身であり、天の都に掲げられた黄金のアーチのようである。
Sattussadoti dve hatthapiṭṭhiyo dve pādapiṭṭhiyo dve aṃsakūṭāni khandhoti imesu sattasu ṭhānesu paripuṇṇamaṃsussado assāti sattussado. Aññesaṃ pana hatthapādapiṭṭhīsu nhārujālā paññāyanti, aṃsakūṭakhandhesu aṭṭhikoṭiyo, te manussapetā viya khāyanti, na tathāgato. Tathāgato pana sattasu ṭhānesu paripuṇṇamaṃsussadattā nigūḷhanhārujālehi hatthapiṭṭhādīhi vaṭṭetvā ṭhapitasuvaṇṇavaṇṇāliṅgasadisena khandhena silārūpakaṃ viya cittakammarūpakaṃ viya ca khāyati.
「七処が盛り上がった」とは、両手の上、両足の上、両肩の峰、首(項)というこれら七つの箇所に充実した肉の盛り上がりを持つゆえに「七処が盛り上がった」と言う。他の人々の手足の上には筋の網が見え、肩の峰や首には骨の端が見え、彼らは人間の姿をした餓鬼のように見えるが、如来はそうではない。如来は七つの箇所に充実した肉の盛り上がりがあるがゆえに、筋の網が隠れた手の上などを持ち、ろくろで挽いて置かれた黄金色の円柱のような首によって、石像のようであり、絵画の像のようにも見えるのである。
Sīhassa pubbaddhaṃ viya kāyo assāti sīhapubbaddhakāyo. Sīhassa hi puratthimakāyova paripuṇṇo hoti, pacchimakāyo aparipuṇṇo. Tathāgatassa pana sīhassa pubbaddhakāyova sabbo kāyo paripuṇṇo. Sopi sīhasseva na tattha tattha vinatunnatādivasena dussaṇṭhitavisaṇṭhito, dīghayuttaṭhāne pana dīgho, rassakisathūlaanuvaṭṭitayuttaṭṭhānesu tathāvidhova hoti. Vuttañhetaṃ –
「獅子の前半身のような身体を持つ」とは、獅子の前半分のような身体を持つことである。獅子は実に前身のみが充実しており、後身は充実していない。しかし如来は獅子の前身のように全身が充実している。それも獅子のようにあちこちが窪んだり盛り上がったりして不格好な乱れた姿ではなく、長いのがふさわしい箇所では長く、短さ・細さ・太さ・丸みがふさわしい箇所ではまさにそのようになっている。実に次のように説かれている。
‘‘Manāpiye ca kho, bhikkhave, kammavipāke paccupaṭṭhite yehi aṅgehi dīghehi sobhati, tāni aṅgāni dīghāni saṇṭhahanti. Yehi aṅgehi rassehi sobhati, tāni aṅgāni rassāni saṇṭhahanti. Yehi aṅgehi thūlehi sobhati, tāni aṅgāni thūlāni saṇṭhahanti. Yehi aṅgehi kisehi sobhati, tāni aṅgāni kisāni saṇṭhahanti. Yehi aṅgehi vaṭṭehi sobhati, tāni aṅgāni vaṭṭāni saṇṭhahantī’’ti.
「比丘たちよ、望ましい業の報いが現れるとき、長さによって美しくなる部分はその部分が長く形成される。短さによって美しくなる部分はその部分が短く形成される。太さによって美しくなる部分はその部分が太く形成される。細さによって美しくなる部分はその部分が細く形成される。丸みによって美しくなる部分はその部分が丸く形成される」と。
Iti nānācittena puññacittena cittito dasahi pāramīhi sajjito tathāgatassa attabhāvo, tassa loke sabbasippino vā iddhimanto vā paṭirūpakampi kātuṃ na sakkonti.
このように、多彩な福徳の心によって彩られ、十の波羅蜜によって装飾された如来の身体に対し、世のいかなる細工師も神通力者も模造することさえできない。
Citantaraṃsoti antaraṃsaṃ vuccati dvinnaṃ koṭṭānamantaraṃ, taṃ citaṃ paripuṇṇamassāti citantaraṃso. Aññesañhi taṃ ṭhānaṃ ninnaṃ hoti, dve piṭṭhikoṭṭā pāṭiyekkaṃ paññāyanti. Tathāgatassa pana kaṭito paṭṭhāya maṃsapaṭalaṃ yāva khandhā uggamma samussitasuvaṇṇaphalakaṃ viya piṭṭhiṃ chādetvā patiṭṭhitaṃ.
「肩の間が満ちている」とは、「肩の間」とは二つの肩甲骨の間を言い、それが満ちて充実しているゆえに「肩の間が満ちている」と言う。他の人々はその場所が窪んでおり、二つの肩甲骨が別々に浮き出ている。しかし如来は腰から肉の層が肩に至るまで盛り上がり、立てられた黄金の板のように背中を覆って存在している。
Nigrodhaparimaṇḍaloti nigrodho viya parimaṇḍalo. Yathā paṇṇāsahatthatāya vā satahatthatāya vā samakkhandhasākho nigrodho dīghatopi vitthāratopi ekappamāṇova hoti, evaṃ kāyatopi byāmatopi ekappamāṇo. Yathā aññesaṃ kāyo vā dīgho hoti byāmo vā, na evaṃ visamappamāṇoti attho. Teneva ‘‘yāvatakvassa kāyo’’tiādi vuttaṃ. Tattha yāvatako assāti yāvatakvassa.
「アショカ樹(ニグローダ樹)のように円満な」とは、ニグローダ樹のように円形であること。五十肘あるいは百肘の均等な幹と枝を持つニグローダ樹が縦にも横にも同じ広がりを持つように、身長においても両腕を広げた長さにおいても等しい寸法である。他の人々の身体のように身長が長かったり腕の広がりが長かったりするような不均等な寸法ではない、という意味である。それゆえ「彼の身長の分だけ……」等と説かれたのである。その中で「彼の(アッサ)それほどの(ヤーヴァタコー)」が「ヤーヴァタクヴァッサ」である。
Samavaṭṭakkhandhoti samavaṭṭitakkhandho. Yathā eke koñcā viya bakā viya varāhā viya ca dīghagalā vaṅkagalā puthulagalā ca honti, kathanakāle sirājālaṃ paññāyati, mando saro nikkhamati, na evaṃ tassa. Tathāgatassa pana suvaṭṭitasuvaṇṇāliṅgasadiso khandho hoti, kathanakāle sirājālaṃ na paññāyati, meghassa viya gajjato saro mahā hoti.
「均等に丸い首を持つ」とは、均等に丸みを帯びた首のことである。ある人々は鶴のようであり鷺のようであり猪のようであって首が長かったり曲がっていたり太かったりし、語るときに血管の筋が見え、弱々しい声が出るが、この方はそうではない。如来は美しく丸められた黄金の円柱のような首を持ち、語るときに血管の筋は見えず、雷鳴のように響く声は雄大である。
Rasaggasaggīti ettha rasaṃ gasantīti rasaggasā, rasaharaṇīnametaṃ adhivacanaṃ, tā aggā assāti rasaggasaggī. Tathāgatassa hi satta rasaharaṇisahassāni uddhaggāni hutvā gīvāyameva paṭimukkāni. Tilaphalamattopi āhāro jivhagge ṭhapito sabbaṃ kāyaṃ anupharati, teneva mahāpadhānaṃ padahantassa ekataṇḍulādīhipi kāḷāyayūsapasatenāpi kāyassa yāpanaṃ ahosi. Aññesaṃ pana tathā abhāvā na sakalakāyaṃ ojā pharati, tena te bahvābādhā honti. Idaṃ lakkhaṇaṃ appābādhatāsaṅkhātassa nissandaphalassa vasena pākaṭaṃ hoti.
「最上の味覚神経を持つ」において、味を摂取するゆえに「味蕾(ラサッガサー)」であり、これは味を伝える神経の名称であり、それらが最上であるゆえに「最上の味覚神経を持つ」と言う。実に如来には七千の味を伝える神経が上を向いて喉に集まっている。胡麻粒ほどの食物であっても舌先に乗せられると全身に行き渡り、それゆえに大精進を修められたとき、一粒の米などによっても、あるいは青豆の茹で汁一杯によっても身体を維持することができたのである。他の人々にはそれがないため全身に栄養分が行き渡らず、それゆえ彼らは病気が多い。この相好は病気が少ないことと呼ばれる等流果によって明らかになる。
Sīhasseva hanu assāti sīhahanu. Tattha sīhassa heṭṭhimahanumeva paripuṇṇaṃ hoti, na uparimaṃ. Tathāgatassa pana sīhassa heṭṭhimaṃ viya dvepi paripuṇṇāni dvādasiyaṃ pakkhassa candasadisāni honti.
「獅子のような顎を持つ」とは、獅子の顎のようであること。そこにおいて、獅子は下顎だけが充実しており、上顎はそうではない。しかし如来は獅子の下顎のように両方の顎が充実しており、十二日の月(満ちゆく月)のようである。
Cattālīsadantotiādīsu uparimahanuke patiṭṭhitā vīsati, heṭṭhime vīsatīti cattālīsa dantā assāti cattālīsadanto. Aññesañhi paripuṇṇadantānampi dvattiṃsa dantā honti, tathāgatassa cattālīsaṃ.
「四十の歯を持つ」などの箇所において、上顎に二十、下顎に二十と四十の歯を持つゆえに「四十の歯を持つ」と言う。他の人々は完全な歯であっても三十二本であるが、如来には四十本ある。
Aññesañca keci dantā uccā keci nīcāti visamā honti, tathāgatassa pana ayapaṭṭachinnasaṅkhapaṭalaṃ viya samā.
他の人々の歯は、あるものは高く、あるものは低くて不揃いであるが、如来の歯は、鉄板で切り取られた法螺貝の薄片のように平等に揃っている。
Aññesaṃ kumbhīlānaṃ viya dantā viraḷā honti, macchamaṃsādīni khādantānaṃ dantantaraṃ pūrati. Tathāgatassa pana kanakalatāya samussāpitavajirapanti viya aviraḷā tulikāya dassitaparicchedā viya dantā honti.
他の人々の歯は、鰐の歯のように隙間があり、魚や肉などを食べる者の歯の隙間は詰まる。しかし如来の歯は、金蔓の上に並べられた金剛石の列のように隙間がなく、筆で境界線を描いたかのようである。
Susukkadāṭhoti aññesañca pūtidantā uṭṭhahanti, tena kāci dāṭhā kāḷāpi vivaṇṇāpi honti. Tathāgato susukkadāṭho osadhitārakampi atikkamma virocamānāya pabhāya samannāgatadāṭho, tena vuttaṃ ‘‘susukkadāṭho’’ti.
「極めて白い牙(犬歯)を持つ」とは、他の人々には虫歯が生じ、それによってある牙は黒く、また変色している。如来は極めて白い牙を持ち、薬草の星(金星)をも凌駕して輝く光明を具えた牙を持っている。それゆえに「極めて白い牙を持つ」と言われる。
Pahūtajivhoti aññesaṃ jivhā thūlāpi hoti kisāpi rassāpi thaddhāpi visamāpi, tathāgatassa pana mudu dīghā puthulā vaṇṇasampannā hoti. So taṃ lakkhaṇaṃ pariyesituṃ āgatānaṃ kaṅkhāvinodanatthaṃ mudukattā taṃ jivhaṃ kathinasūciṃ viya vaṭṭetvā ubho nāsikasotāni parāmasati, dīghattā ubho kaṇṇasotāni parāmasati, puthulattā kesantapariyosānaṃ kevalampi nalāṭaṃ paṭicchādeti. Evaṃ tassā mududīghaputhulabhāvaṃ pakāsento kaṅkhaṃ vinodeti. Evaṃ tilakkhaṇasampannaṃ jivhaṃ sandhāya ‘‘pahūtajivho’’ti vuttaṃ.
「広大なる舌を持つ」とは、他の人々の舌は太く、あるいは薄く、短く、硬く、不揃いであるが、如来の舌は柔軟で長く、広大で、美しい色彩を具えている。世尊はその相を探究しに訪れた者たちの疑念を晴らすために、柔軟であるがゆえにその舌を太い針のように丸めて両方の鼻孔を撫で、長いがゆえに両方の耳孔を撫で、広大であるがゆえに生え際に至る額全体を覆う。このように舌の柔軟・長・広大なる状態を示して疑念を晴らす。このように三つの相を具えた舌に関して「広大なる舌を持つ」と言われる。
Brahmassaroti aññe chinnassarāpi bhinnassarāpi kākassarāpi honti, tathāgato pana mahābrahmuno sarasadisena sarena samannāgato. Mahābrahmuno hi pittasemhehi apalibuddhattā saro visuddho hoti. Tathāgatenāpi katakammaṃ vatthuṃ sodheti, vatthussa suddhattā nābhito paṭṭhāya samuṭṭhahanto saro visuddho aṭṭhaṅgasamannāgatova samuṭṭhāti. Karaviko viya bhaṇatīti karavikabhāṇī, mattakaravikarutamañjughosoti attho.
「梵音を持つ」とは、他の人々はかすれ声、割れ声、あるいは烏のような声を持つが、如来は大梵天の声に等しい声を具えている。実に大梵天の声は胆汁や粘液に妨げられないため清純である。如来の過去世の善業もまたその身体器官を清らかにし、器官が清純であるがゆえに、臍から生起する声は清純で八支を具えて生起する。「カラヴィーカ(迦陵頻伽)のように語る」ゆえにカラヴィーカの語り手であり、酔えるカラヴィーカの鳴き声のように妙なる響きを持つという意味である。
Tatridaṃ karavikarutassa mañjutāya – karavikasakuṇe kira madhurarasaṃ ambapakkaṃ mukhatuṇḍakena paharitvā paggharitaṃ rasaṃ sāyitvā pakkhena tālaṃ datvā vikūjamāne catuppadādīni mattāni viya laḷituṃ ārabhanti. Gocarappasutāpi catuppadā mukhagatānipi tiṇāni chaḍḍetvā taṃ saddaṃ suṇanti, vāḷamigā khuddakamige anubandhamānā ukkhittapādaṃ anukkhipitvāva tiṭṭhanti, anubaddhamigāpi maraṇabhayaṃ hitvāpi tiṭṭhanti, ākāse pakkhandapakkhinopi pakkhe pasāretvā tiṭṭhanti, udake macchāpi kaṇṇapaṭalaṃ apphoṭentā taṃ saddaṃ suṇamānāva tiṭṭhanti. Evaṃ mañjurutā karavikā.
ここにカラヴィーカの鳴き声の妙なることについて述べる。カラヴィーカの鳥が甘味ある熟したマンゴーを嘴で突き、滴り落ちる果汁を味わい、翼で拍子を取りつつ囀る時、四足獣などは酔ったかの如く戯れ始める。餌を求めていた四足獣たちも口にある草さえ捨ててその声を聞き、猛獣は小動物を追いかけていても上げた脚を下ろすことなく立ち止まり、追われていた動物も死の恐怖を忘れて立ち止まり、空を飛ぶ鳥たちも翼を広げたまま静止し、水中の魚たちも耳を澄ませるようにしてその声を聞き入る。このようにカラヴィーカの鳴き声は妙なるものである。
Asandhimittāpi dhammāsokassa devī – ‘‘atthi nu kho, bhante, buddhasaddena sadiso kassaci saddo’’ti saṅghaṃ pucchi. Atthi karavikasakuṇassāti. Kuhiṃ, bhante, sakuṇāti? Himavanteti. Sā rājānaṃ āha, – ‘‘deva, karavikasakuṇaṃ daṭṭhukāmā’’ti. Rājā ‘‘imasmiṃ pañjare nisīditvā karaviko āgacchatū’’ti suvaṇṇapañjaraṃ vissajjesi. Pañjaro gantvā ekassa karavikassa purato aṭṭhāsi. So ‘‘rājāṇāya āgato pañjaro, na sakkā agantu’’nti tattha nisīdi. Pañjaro āgantvā rañño puratova aṭṭhāsi. Karavikaṃ saddaṃ kārāpetuṃ na sakkonti. Atha rājā ‘‘kathaṃ bhaṇe ime saddaṃ karontī’’ti āha? Ñātake disvā devāti. Atha naṃ rājā ādāsehi parikkhipāpesi. So attanova chāyaṃ disvā ‘‘ñātakā me āgatā’’ti maññamāno pakkhena tāḷaṃ datvā mañjussarena maṇivaṃsaṃ dhamamāno viya viravi. Sakalanagare manussā mattā viya laḷiṃsu. Asandhimittā cintesi – ‘‘imassa tāva tiracchānassa evaṃ madhuro saddo, kīdiso nu kho sabbaññutaññāṇasirippattassa bhagavato ahosī’’ti pītiṃ uppādetvā taṃ pītiṃ avijahitvā sattahi jaṅghasatehi saddhiṃ sotāpattiphale patiṭṭhāsi. Evaṃ madhuro karavikasaddo. Tato satabhāgena sahassabhāgena ca madhurataro tathāgatassa saddo, loke pana karavikato aññassa madhurarassa abhāvato ‘‘karavikabhāṇī’’ti vuttaṃ.
法阿育王(アショーカ王)の王妃アサンディミッターもまた、「大徳よ、仏陀の御声に等しい何者かの声があるでしょうか」と僧伽に尋ねた。「カラヴィーカの鳥の声がある」と。「大徳よ、その鳥はどこにいるのですか」。「ヒマラヤにいる」と。彼女は王に「大王よ、カラヴィーカの鳥を見たいのです」と言った。王は「この籠に入ってカラヴィーカよ、来れ」と言って黄金の籠を放った。籠は飛んで行き、一羽のカラヴィーカの前に止まった。鳥は「王命によって来た籠であるから、行かないわけにはいかない」と思ってそこに止まった。籠は戻って王の前に止まった。人々はカラヴィーカに声を上げさせることができなかった。そこで王は「者どもよ、これらはどのようにして声を出すのか」と尋ねた。「大王よ、同族を見る時にです」と。そこで王はそれを鏡で囲ませた。鳥は自分の姿を見て「同族たちがやって来た」と思い、翼で拍子を取り、妙なる声で宝石の笛を吹くかのように囀った。都中の人々が酔ったかの如く戯れた。アサンディミッターは「この畜生でさえこのように甘美な声を持つのなら、一切知智の栄華に達した世尊の御声はいかばかりであっただろうか」と考えて喜悦を生じさせ、その喜悦を離れることなく、七百の宮女たちとともに預流果に安住した。このようにカラヴィーカの声は甘美である。それよりも百倍、千倍も如来の声は甘美であるが、世においてカラヴィーカより甘美な声の持ち主は他に存在しないため、「カラヴィーカの語り手」と言われる。
Abhinīlanettoti na sakalanīlanettova, nīlayuttaṭṭhāne panassa umāpupphasadisena ativisuddhena nīlavaṇṇena samannāgatāni akkhīni honti. Pītayuttaṭṭhāne kaṇikārapupphasadisena pītavaṇṇena, lohitayuttaṭṭhāne bandhujīvakapupphasadisena lohitavaṇṇena, setayuttaṭṭhāne osadhitārakasadisena setavaṇṇena, kāḷayuttaṭṭhāne addāriṭṭhakasadisena kāḷavaṇṇena samannāgatāni suvaṇṇavimāne ugghāṭitamaṇisīhapañjarasadisāni khāyanti.
「極めて紺青なる眼を持つ」とは、眼のすべてが紺青であるという意味ではなく、紺青であるべき部位において亜麻の花に似た極めて清純な紺青色の眼を具えている。黄色であるべき部位にはカニカーラの花に似た黄色を、赤色であるべき部位にはバンドゥジーヴァカの花に似た赤色を、白色であるべき部位には薬草の星に似た白色を、黒色であるべき部位には濡れたアリッタカ(無患子)に似た黒色を具え、黄金の宮殿に開かれた宝石の窓のように見目麗しい。
Gopakhumoti ettha pakhumanti sakalaṃ cakkhubhaṇḍaṃ adhippetaṃ. Taṃ kāḷavacchakassa bahaladhātukaṃ hoti, rattavacchakassa vippasannaṃ, taṃmuhuttajātarattavacchasadisacakkhubhaṇḍoti attho. Aññesañhi akkhibhaṇḍā aparipuṇṇā honti, hatthimūsikakākādīnaṃ akkhisadisehi viniggatehi gambhīrehipi akkhīhi samannāgatā honti. Tathāgatassa pana dhovitvā majjitvā ṭhapitamaṇiguḷikā viya mudusiniddhanīlasukhumapakhumācitāni akkhīni.
「牛の睫毛を持つ」において、「睫毛」とは眼球全体を指している。それは黒い仔牛においては厚みがあり、赤い仔牛においては清純である。その時に生まれたばかりの赤い仔牛に似た眼球を持つという意味である。他の人々の眼球は不揃いで満たされず、象や鼠や烏などの眼に似て、飛び出したり窪んだりした眼を具えている。しかし如来の眼は、洗い磨いて置かれた宝石の珠のように、柔軟で滑らかで紺青の繊細な睫毛に満たされている。
Uṇṇāti uṇṇalomaṃ. Bhamukantareti dvinnaṃ bhamukānaṃ vemajjhe nāsikamatthakeyeva jātā. Uggantvā pana nalāṭamajjhajātā. Odātāti parisuddhā osadhitārakavaṇṇā. Mudūti sappimaṇḍe osādetvā ṭhapitasatavāravihatakappāsapaṭalasadisā. Tūlasannibhāti simbalitūlalatātūlasamānā, ayamassā odātatāya upamā. Sā panesā koṭiyaṃ gahetvā ākaḍḍhiyamānā upaḍḍhabāhuppamāṇā hoti, vissaṭṭhā dakkhiṇāvaṭṭavasena āvaṭṭitvā uddhaggā hutvā santiṭṭhati, suvaṇṇaphalakamajjhe ṭhapitarajatapupphuḷakā viya suvaṇṇaghaṭato nikkhamamānā khīradhārā viya aruṇappabhārañjite gamanatale osadhitārakā viya ca atimanoharāya siriyā virocati.
「白毫」とは白毫の毛である。「眉間において」とは、二つの眉の真ん中、まさに鼻筋の頂上に生じ、そこから立ち上がって額の中央に生じている。「白い」とは清純で薬草の星の色である。「柔らかい」とは、澄ましバターの中に浸して置かれた百回打たれた綿の層のようである。「綿毛に似たる」とは、絹綿樹の綿毛や蔓の綿毛に等しいことであり、これはその白さの譬えである。それは先端を持って引き伸ばせば半腕の長さとなり、放せば右巻きに旋回して上を向いて留まり、黄金の板の中央に置かれた銀の泡の如く、金の水瓶から流れ出る乳の流れの如く、朝焼けに染まる天空の薬草の星の如く、極めて魅力的な輝きを放っている。
Uṇhīsasīsoti idaṃ paripuṇṇanalāṭatañceva paripuṇṇasīsatañcāti dve atthavase paṭicca vuttaṃ. Tathāgatassa hi dakkhiṇakaṇṇacūḷikato paṭṭhāya maṃsapaṭalaṃ uṭṭhahitvā sakalaṃ nalāṭaṃ chādayamānaṃ pūrayamānaṃ gantvā vāmakaṇṇacūḷikāya patiṭṭhitaṃ, rañño baddhauṇhīsapaṭṭo viya virocati. Pacchimabhavikabodhisattānaṃ kira imaṃ lakkhaṇaṃ viditvā rājūnaṃ uṇhīsapaṭṭaṃ akaṃsu, ayaṃ tāva eko attho. Aññe pana janā aparipuṇṇasīsā honti, keci kappasīsā, keci phalasīsā, keci aṭṭhisīsā, keci tumbasīsā, keci pabbhārasīsā. Tathāgatassa pana āraggena vaṭṭetvā ṭhapitaṃ viya suparipuṇṇaṃ udakapupphuḷasadisaṃ sīsaṃ hoti. Tattha purimanayena uṇhīsaveṭhitasīso viyāti uṇhīsasīso. Dutiyanayena uṇhīsaṃ viya sabbattha parimaṇḍalasīsoti uṇhīsasīso.
「頂肉髻を持つ」とは、額が円満であることと、頭部が円満であることの二つの意味に基づいて説かれた。如来は右の耳の上から肉の層が生起して額全体を覆い満たしつつ進み、左の耳の上に留まり、王の巻いた宝冠の帯のように輝いている。最後の生にある菩薩たちのこの相を知って、歴代の王たちは頭に巻く帯を作ったという。これが第一の意味である。また他の人々は頭部が不完全であり、ある者は平たい頭、ある者は果実のような頭、ある者は骨ばった頭、ある者は瓢箪のような頭、ある者は傾いた頭である。しかし如来の頭は轆轤で丸く仕上げられたかのように極めて円満で、水の泡のようである。そこにおいて第一の意味によれば「宝冠を巻いた頭のようである」ゆえに「頂肉髻を持つ」であり、第二の意味によれば「宝冠のように至るところ円満な頭である」ゆえに「頂肉髻を持つ」である。
Imāni pana mahāpurisalakkhaṇāni kammaṃ kammasarikkhakaṃ lakkhaṇaṃ lakkhaṇānisaṃsanti ime cattāro koṭṭhāse ekekasmiṃ lakkhaṇe dassetvā kathitāni sukathitāni honti. Tasmā bhagavatā lakkhaṇasutte (dī. ni. 3.200-202) vuttāni imāni kammādīni dassetvā kathetabbāni. Suttavasena vinicchituṃ asakkontena sumaṅgalavilāsiniyā dīghanikāyaṭṭhakathāya tasseva suttassa vaṇṇanāya vuttanayena gahetabbāni.
これらの三十二相は、業、業に相応する相、相の功徳というこれら四つの項目をそれぞれの相において示して語られた時に、よく語られたものとなる。それゆえ世尊によって『相経』(長部3.200-202)において説かれたこれらの業などを明かして語るべきである。経に基づいて判断できない者は、『長部注釈書(スムンガラヴィラーシニー)』のまさにその経の註解に説かれた方法によって理解すべきである。
Imehi kho, bho, so bhavaṃ gotamoti, bho ācariya, imehi dvattiṃsamahāpurisalakkhaṇehi so bhavaṃ gotamo samannāgato devanagare samussitaratanavicittaṃ suvaṇṇatoraṇaṃ viya yojanasatubbedho sabbapāliphullo pāricchattako viya selantaramhi supupphitasālarukkho viya tārāgaṇapaṭimaṇḍitagaganatalamiva ca attano sirivibhavena lokaṃ ālokaṃ kurumāno viya caratīti imatthampi dīpetvā kiriyācāraṃ ācikkhituṃ gacchanto kho panātiādimāha.
「尊者よ、かの尊きゴータマは」とは、師よ、かの尊きゴータマはこれら三十二相の大人相を具え、天界の都に聳え立つ宝玉で飾られた黄金の楼門の如く、百由旬の高さにしてすべての枝に花咲く波利質多樹(パーリチャッタカ)の如く、岩山の間に見事に咲き誇る沙羅樹の如く、星の群れに飾られた天空の如く、自らの美と威光によって世界を照らし出すかのように歩まれるという、この意味をも明らかにし、その立ち居振る舞いを説明するために「歩まれる時にも」などと述べた。
387. Dakkhiṇenāti buddhānañhi ṭhatvā vā nisīditvā vā nipajjitvā vā gamanaṃ abhinīharantānaṃ dakkhiṇapādova purato hoti. Satatapāṭihāriyaṃ kiretaṃ. Nātidūre pādaṃ uddharatīti taṃ dakkhiṇapādaṃ na atidūre ṭhapessāmīti uddharati. Atidūrañhi abhihariyamāne dakkhiṇapādena vāmapādo ākaḍḍhiyamāno gaccheyya, dakkhiṇapādopi dūraṃ gantuṃ na sakkuṇeyya, āsanneyeva patiṭṭhaheyya, evaṃ sati padavicchedo nāma hoti. Dakkhiṇapāde pana pamāṇeneva uddhate vāmapādopi pamāṇeneva uddhariyati, pamāṇena uddhato patiṭṭhahantopi pamāṇeyeva patiṭṭhāti. Evamanena tathāgatassa dakkhiṇapādakiccaṃ vāmapādena niyamitaṃ, vāmapādakiccaṃ dakkhiṇapādena niyamitanti veditabbaṃ.
387.「右足によって」とは、諸仏が立つか座るか横たわるかして歩みを始める時には、常に右足が先に出る。これは恒常的な奇跡であるという。「あまり遠くに足を上げず」とは、その右足をあまり遠くに置くまいとして上げることである。あまり遠くへ踏み出せば、右足に引っ張られて左足が引きずられ、右足もまた遠くへ行くことができず、近くに着地してしまい、そうなれば歩幅の乱れとなる。しかし右足が適度な歩幅で上げられるならば、左足も適度な歩幅で上げられ、適度な歩幅で上げられた足は着地する時も適度な位置に着地する。このように如来の右足の動作は左足によって制約され、左足の動作は右足によって制約されていると知るべきである。
Nātisīghanti divā vihārabhattatthāya gacchanto bhikkhu viya na atisīghaṃ gacchati. Nātisaṇikanti yathā pacchato āgacchanto okāsaṃ na labhati, evaṃ na atisaṇikaṃ gacchati. Adduvena adduvanti jaṇṇukena jaṇṇukaṃ, na satthiṃ unnāmetīti gambhīre udake gacchanto viya na ūruṃ unnāmeti. Na onāmetīti rukkhasākhāchedanadaṇḍaṅkusapādo viya na pacchato osakkāpeti. Na sannāmetīti obaddhānābaddhaṭṭhānehi pādaṃ koṭṭento viya na thaddhaṃ karoti. Na vināmetīti yantarūpakaṃ kīḷāpento viya na ito cito ca cāleti. Adharakāyovāti heṭṭhimakāyova iñjati, uparimakāyo nāvāya ṭhapitasuvaṇṇapaṭimā viya niccalo hoti. Dūre ṭhatvā olokento hi buddhānaṃ ṭhitabhāvaṃ vā gamanabhāvaṃ vā na jānāti. Kāyabalenāti bāhā khipanto sarīrato sedehi muccantehi na kāyabalena gacchati. Sabbakāyenevāti gīvaṃ aparivattetvā rāhulovāde vuttanāgāpalokitavaseneva apaloketi.
「速すぎず」とは、昼の休息のための食事に向かう比丘のように速く歩きすぎない。「遅すぎず」とは、後ろから来る者が場所を得られないほど遅く歩きすぎない。「膝と膝を」とは、膝と膝を擦り合わせず。「腿を上げず」とは、深い水の中を歩く時のように腿を高く上げない。「下げず」とは、木の枝を切るための鉤竿を持った足のように後ろへ引きずらない。「曲げず」とは、拘束された場所で足を打つかのように強張らせない。「揺らさず」とは、操り人形を遊ばせるようにあちこち揺らさない。「下半身のみが」とは、下半身のみが動き、上半身は船に安置された黄金の仏像のように不動である。遠くに立って見ている者は、諸仏が立っているのか歩いているのかを知ることができない。「身体の力によって」とは、腕を振ったり身体から汗を流したりして身体の力で歩くのではない。「身体全体で」とは、首を回さずに、『ラーフラ教誡経』に説かれた象の如き見返り(顧視)によって見られる。
Na uddhantiādīsu nakkhattāni gaṇento viya na uddhaṃ ulloketi, naṭṭhaṃ kākaṇikaṃ vā māsakaṃ vā pariyesanto viya na adho oloketi, na hatthiassādayo passanto viya ito cito ca vipekkhamāno gacchati. Yugamattanti navavidatthimatte cakkhūni ṭhapetvā gacchanto yugamattaṃ pekkhati nāma, bhagavāpi yuge yutto sudantaājānīyo viya ettakaṃ passanto gacchati. Tato cassa uttarīti yugamattato paraṃ na passatīti na vattabbo. Na hi kuṭṭaṃ vā kavāṭaṃ vā gaccho vā latā vā āvarituṃ sakkoti, atha khvassa anāvaraṇañāṇassa anekāni cakkavāḷasahassāni ekaṅgaṇāneva honti. Antaragharanti heṭṭhā mahāsakuludāyisutte indakhīlato paṭṭhāya antaragharaṃ, idha gharaummārato paṭṭhāya veditabbaṃ. Na kāyantiādi pakatiiriyapatheneva pavisatīti dassanatthaṃ vuttaṃ. Daliddamanussānaṃ nīcagharakaṃ pavisantepi hi tathāgate chadanaṃ vā uggacchati, pathavī vā ogacchati, bhagavā pana pakatigamaneneva gacchati. Nātidūreti atidūre parivattantena hi ekaṃ dve padavāre piṭṭhibhāgena gantvā nisīditabbaṃ hoti. Nāccāsanneti accāsanne parivattantena ekaṃ dve padavāre purato gantvā nisīditabbaṃ hoti. Tasmā yasmiṃ padavāre ṭhitena purato vā pacchato vā agantvā nisīditabbaṃ hoti, tattha parivattati.
「上を見ず」などにおいて、星座を数えるかの如く上を見上げず、失くした小銭を探すかの如く下を見ず、象や馬などを見るかのようにあちこちを見回しながら歩かない。「一尋(約二メートル)ばかり」とは、九スパンほどの距離に視線を置いて歩くのを「一尋を見る」といい、世尊もまた軛に繋がれたよく調御された駿馬のように、それだけの距離を見て歩まれる。「それ以上にも」とは、一尋より先を見ないと言っているのではない。壁や扉や茂みや蔓草が遮ることはできず、世尊の無碍智には無数の三千大千世界も一つの広場にすぎない。「家々の中へ」とは、下方の『大サクルダーユィー経』では結界の柱から先が家の内であるが、ここでは家の敷居から先と知るべきである。「身体を」などは、普段通りの威儀で入られることを示すために説かれた。貧しい人々の低い家に入る時にも、如来に対しては屋根が持ち上がるか、大地が沈むかするが、世尊は普段の歩みで入られる。「あまり遠くなく」とは、あまり遠くで向きを変えると、一歩二歩後退して座らねばならなくなる。「あまり近くなく」とは、あまり近くで向きを変えると、一歩二歩前進して座らねばならなくなる。それゆえ、立った歩幅の位置のまま前進も後退もせずに座ることができる場所で向きを変えられる。
Pāṇināti kaṭivātābādhiko viya na āsanaṃ hatthehi gahetvā nisīdati. Pakkhipatīti yo kiñci kammaṃ katvā kīḷanto ṭhitakova patati, yopi orimaṃ aṅgaṃ nissāya nisinno ghaṃsanto yāva pārimaṅgā gacchati, pārimaṅgaṃ vā nissāya nisinno tatheva yāva orimaṅgā āgacchati, sabbo so āsane kāyaṃ pakkhipati nāma. Bhagavā pana evaṃ akatvā āsanassa majjhe olambakaṃ dhārento viya tūlapicuṃ ṭhapento viya saṇikaṃ nisīdati. Hatthakukkuccanti pattamukhavaṭṭiyaṃ udakabinduṭhapanaṃ makkhikabījaniyā paṇṇacchedanaphālanādi hatthena asaṃyatakaraṇaṃ. Pādakukkuccanti pādena bhūmighaṃsanādi asaṃyatakaraṇaṃ.
「手で」とは、腰痛持ちのように手で座を支えて座らない。「投げ出す」とは、何かの仕事をして疲れた者が立ったまま倒れ込むように座ることや、手前の端に座って擦りながら奥の端まで進むこと、あるいは奥の端に座って同様に手前の端まで進むこと、これらすべてが座に身体を投げ出すと呼ばれる。しかし世尊はそのようになさらず、座の中央に下げ振りを垂らすように、綿の束を置くように静かに座られる。「手のいたずら」とは、鉢の縁に水滴を置いたり、払子で葉を切り裂いたりするなどの手による不作法である。「足のいたずら」とは、足で地面を擦ったりする不作法である。
Na chambhatīti na bhāyati. Na kampatīti na osīdati. Na vedhatīti na calati. Na paritassatīti bhayaparitassanāyapi taṇhāparitassanāyapi na paritassati. Ekacco hi dhammakathādīnaṃ atthāya āgantvā manussesu vanditvā ṭhitesu ‘‘sakkhissāmi nu kho tesaṃ cittaṃ gaṇhanto dhammaṃ vā kathetuṃ, pañhaṃ vā pucchito vissajjetuṃ, bhattānumodanaṃ vā kātu’’nti bhayaparitassanāya paritassati. Ekacco ‘‘manāpā nu kho me yāgu āgacchissati, manāpaṃ antarakhajjaka’’nti vā taṇhāparitassanāya paritassati. Tadubhayampi tassa natthīti na paritassati. Vivekāvaṭṭoti viveke nibbāne āvaṭṭamānaso hutvā. Vivekavattotipi pāṭho, vivekavattayutto hutvāti attho. Vivekavattaṃ nāma katabhattakiccassa bhikkhuno divāvihāre samathavipassanāvasena mūlakammaṭṭhānaṃ gahetvā pallaṅkaṃ ābhujitvā nisīdanaṃ. Evaṃ nisinnassa hi iriyāpatho upasanto hoti.
「脅えず」とは、恐れない。「震えず」とは、沈み込まない。「動揺せず」とは、揺らがない。「戦慄せず」とは、恐怖による戦慄も、渇愛による戦慄もしない。ある者は説法などのためにやって来て、人々が礼拝して立っている時、「自分は彼らの心を捉えて法を説くことや、質問されて答えることや、食後の謝辞を述べることができるだろうか」と恐怖の戦慄で戦慄する。またある者は「美味しい粥が来るだろうか、美味しい間食が来るだろうか」と渇愛の戦慄で戦慄する。世尊にはその両方がないため戦慄しない。「遠離に傾き」とは、遠離である涅槃に心が傾いて。「遠離の行儀を持つ」という読みもあり、遠離の行儀を具えてという意味である。遠離の行儀とは、食後の務めを終えた比丘が昼の休息において止観により根本の業処を取り、結跏趺坐して座ることである。このように座る者の威儀は静寂である。
Na pattaṃ unnāmetītiādīsu ekacco pattamukhavaṭṭiyā udakadānaṃ āharanto viya pattaṃ unnāmeti, eko pādapiṭṭhiyaṃ ṭhapento viya onāmeti, eko baddhaṃ katvā gaṇhāti, eko ito cito ca phandāpeti, evaṃ akatvā ubhohi hatthehi gahetvā īsakaṃ nāmetvā udakaṃ paṭiggaṇhātīti attho. Na samparivattakanti parivattetvā paṭhamameva pattapiṭṭhiṃ na dhovati. Nātidūreti yathā nisinnāsanato dūre patati, na evaṃ chaḍḍeti. Nāccāsanneti pādamūleyeva na chaḍḍeti. Vicchaḍḍayamānoti vikiranto, yathā paṭiggāhako temati, na evaṃ chaḍḍeti.
「鉢を上げず」などにおいて、ある者は鉢の縁で水を受けるために鉢を持ち上げ、ある者は足の甲に置くかのように下げ、ある者は抱え込むように取り、ある者はあちこち揺らすが、そのようになさらず、両手で持って少し傾けて水を受けられるという意味である。「回転させず」とは、鉢をひっくり返して最初に鉢の底を洗うようなことはしない。「あまり遠くなく」とは、座っている座から遠くに落ちるようには捨てない。「あまり近くなく」とは、足元にそのまま捨てない。「撒き散らさず」とは、跳ね散らかすことであり、給仕する者が濡れるようには捨てない。
Nātithokanti yathā ekacco pāpiccho appicchataṃ dassento muṭṭhimattameva gaṇhāti, na evaṃ. Atibahunti yāpanamattato atirekaṃ. Byañjanamattāyāti byañjanassa mattā nāma odanato catuttho bhāgo. Ekacco hi bhatte manāpe bhattaṃ bahuṃ gaṇhāti, byañjane manāpe byañjanaṃ bahuṃ. Satthā pana tathā na gaṇhāti. Na ca byañjanenāti amanāpañhi byañjanaṃ ṭhapetvā bhattameva bhuñjanto, bhattaṃ vā ṭhapetvā byañjanameva khādanto byañjanena ālopaṃ atināmeti nāma. Satthā ekantarikaṃ byañjanaṃ gaṇhāti, bhattampi byañjanampi ekatova niṭṭhanti. Dvattikkhattunti tathāgatassa hi puthujivhāya dantānaṃ upanītabhojanaṃ dvattikkhattuṃ dantehi phuṭṭhamattameva saṇhakaraṇīyapiṭṭhavilepanaṃ viya hoti, tasmā evamāha. Na mukhe avasiṭṭhāti pokkharapatte patitaudakabindu viya vinivattitvā paragalameva yāti, tasmā avasiṭṭhā na hoti. Rasapaṭisaṃvedīti madhuratittakadukādirasaṃ jānāti. Buddhānañhi antamaso pānīyepi dibbojā pakkhittāva hoti, tena nesaṃ sabbattheva raso pākaṭo hoti, rasagedho pana natthi.
「あまり少なくなく」とは、ある悪欲の者が少欲を示すために一握りだけを取るようにはしない。「あまり多くなく」とは、命を支える量を超えない。「副食物に見合った」とは、副食物の適量とは飯の四分の一の量である。ある者は飯が好物であれば飯を多く取り、副食物が好物であれば副食物を多く取る。しかし世尊はそのようになさらない。「副食物によって」とは、好ましくない副食物を避けて飯だけを食べたり、飯を避けて副食物だけを食べたりして、副食物で一口の量を誇張することである。世尊は副食物を交互に取られ、飯も副食物も同時に終わる。「二、三度」とは、如来の広大な舌によって歯に運ばれた食物は、二、三度歯に触れただけで、細かく挽かれた練り粉のようになるため、このように言われる。「口の中に残らず」とは、蓮の葉に落ちた水滴のように転がり落ちて喉を通るため、残ることはない。「味覚を享受し」とは、甘味や苦味などの味を知る。諸仏には飲み水にさえ天の滋養が注がれるため、あらゆる場所で味が明らかになるが、味への執着はない。
Aṭṭhaṅgasamannāgatanti ‘‘neva davāyā’’ti vuttehi aṭṭhahi aṅgehi samannāgataṃ. Visuddhimagge panassa vinicchayo āgatoti sabbāsavasutte vuttametaṃ. Hatthesu dhotesūti satthā kiṃ karoti? Paṭhamaṃ pattassa gahaṇaṭṭhānaṃ dhovati. Tattha pattaṃ gahetvā sukhumajālahatthaṃ pesetvā dve vāre sañcāreti. Ettāvatā pokkharapatte patitaudakaṃ viya vinivattitvā gacchati. Na ca anatthikoti yathā ekacco pattaṃ ādhārake ṭhapetvā patte udakaṃ na puñchati, raje patante ajjhupekkhati, na evaṃ karoti. Na ca ativelānurakkhīti yathā ekacco pamāṇātikkantaṃ ārakkhaṃ ṭhapeti, bhuñjitvā vā patte udakaṃ puñchitvā cīvarabhogantaraṃ pavesetvā pattaṃ udarena akkamitvā gaṇhāti, na evaṃ karoti.
「八支を具えた」とは、「戯れのためでなく」と説かれた八つの要素を具えたことである。その詳細な解釈は『清浄道論』に出ていると『一切漏経』において述べられた。「手が洗われた時」とは、世尊は何をされるのか。まず鉢の持つ場所を洗われる。そこで鉢を持ち、繊細な網目のある手を差し入れて二度巡らされる。それだけで蓮の葉に落ちた水のように流れ去る。「無頓着でなく」とは、ある者が鉢受けに鉢を置き、鉢の水を拭き取らず、埃が落ちるのを放置するようなことはなさらない。「過度に保護せず」とは、ある者が過剰な保護をし、食後に鉢の水を拭いて衣の間に包み入れ、腹で鉢を押さえて持つようなことはなさらない。
Na ca anumodanassāti yo hi bhuttamattova dārakesu bhattatthāya rodantesu chātajjhattesu manussesu bhuñjitvā anāgatesveva anumodanaṃ ārabhati, tato sabbakammāni chaḍḍetvā ekacce āgacchanti, ekacce anāgatāva honti, ayaṃ kālaṃ atināmeti. Yopi manussesu āgantvā anumodanatthāya vanditvā nisinnesu anumodanaṃ akatvāva ‘‘kathaṃ tissa, kathaṃ phussa, kathaṃ sumana, kathaṃ tisse, kathaṃ phusse, kathaṃ sumane, kaccittha arogā, sassaṃ sampanna’’ntiādiṃ pāṭiyekkaṃ kathaṃ samuṭṭhāpeti, ayaṃ anumodanassa kālaṃ atināmeti, manussānaṃ pana okāsaṃ ñatvā āyācitakāle karonto nātināmeti nāma, satthā tathā karoti.
「謝辞のために」とは、食事が終わるやいなや子供たちが食事を求めて泣き、人々が飢えている中で、食事を終えて人々が集まっていないのに謝辞を始める者は、すべての仕事を放り出してある者はやって来て、ある者は来ないままとなり、これは時機を逸することになる。また、人々がやって来て謝辞のために礼拝して座っているのに、謝辞をせずに「ティッサはどうだ、プッサはどうだ、スマナはどうだ、無事であるか、作物は豊作か」などと個別の世間話を始める者も、謝辞の時機を逸することになる。しかし人々の都合を知り、請われた時に行う者は時機を逸しないのであり、世尊はそのようになさる。
Na taṃ bhattanti kiṃ bhattaṃ nāmetaṃ uttaṇḍulaṃ atikilinnantiādīni vatvā na garahati. Na aññaṃ bhattanti svātanāya vā punadivasāya vā bhattaṃ uppādessāmīti hi anumodanaṃ karonto aññaṃ bhattaṃ paṭikaṅkhati. Yo vā – ‘‘yāva mātugāmānaṃ bhattaṃ paccati, tāva anumodanaṃ karissāmi, atha me anumodanāvasāne attano pakkabhattatopi thokaṃ dassantī’’ti anumodanaṃ vaḍḍheti, ayampi paṭikaṅkhati nāma. Satthā na evaṃ karoti. Na ca muccitukāmoti ekacco hi paṭisaṃmuñcitvā gacchati, vegena anubandhitabbo hoti. Satthā pana na evaṃ gacchati, parisāya majjhe ṭhitova gacchati. Accukkaṭṭhanti yo hi yāva hanukaṭṭhito ukkhipitvā pārupati, tassa accukkaṭṭhaṃ nāma hoti. Yo yāva gopphakā otāretvāva pārupati, tassa accukkaṭṭhaṃ hoti. Yopi ubhato ukkhipitvā udaraṃ vivaritvā yāti, tassapi accukkaṭṭhaṃ hoti. Yo ekaṃsaṃ katvā thanaṃ vivaritvā yāti, tassapi accukkaṭṭhaṃ. Satthā taṃ sabbaṃ na karoti.
「その食事を」とは、「この飯は何だ、生煮えだ、柔らかすぎる」などと言って非難しない。「他の食事を」とは、明日や明後日の食事を得ようとして謝辞を述べることで他の食事を期待することである。あるいは「女たちが飯を炊き終えるまで謝辞を述べよう、そうすれば謝辞の終わりに炊きたての飯から少し施してくれるだろう」と謝辞を長引かせる者もまた期待しているのである。世尊はそのようになさらない。「逃れ去ろうとして」とは、ある者はそそくさと立ち去り、急いで追いかけなければならない。しかし世尊はそのように行かれず、会衆の中に留まって去られる。「高すぎず」とは、顎の骨の高さまで引き上げて衣を着る者は「高すぎる」となる。踝の高さまで下げて着る者も「高すぎる(低すぎる)」となる。両側を引き上げて腹を露出して歩く者も「高すぎる」となる。偏袒右肩にして胸を露出して歩く者も「高すぎる」となる。世尊はそれらを一切なさらない。
Allīnanti yathā aññesaṃ sedena tintaṃ allīyati, na evaṃ satthu. Apakaṭṭhanti khalisāṭako viya kāyato muccitvāpi na tiṭṭhati. Vātoti verambhavātopi uṭṭhahitvā cāletuṃ na sakkoti. Pādamaṇḍanānuyoganti iṭṭhakāya ghaṃsanādīhi pādasobhānuyogaṃ. Pakkhāletvāti pādeneva pādaṃ dhovitvā. So neva attabyābādhāyātiādīni na pubbenivāsacetopariyañāṇānaṃ atthitāya vadati, iriyāpathasantataṃ pana disvā anumānena vadati. Dhammanti pariyattidhammaṃ. Na ussādetīti kiṃ mahāraṭṭhika, kiṃ mahākuṭumbikātiādīni vatvā gehassitavasena na ussādeti. Na apasādetīti ‘‘kiṃ, upāsaka, kathaṃ te vihāramaggo ñāto? Kiṃ bhayena nāgacchasi? Na hi bhikkhū kiñci acchinditvā gaṇhanti, mā bhāyī’’ti vā ‘‘kiṃ tuyhaṃ evaṃ macchariyajīvitaṃ nāmā’’ti vā ādīni vatvā gehassitapemena na apasādeti.
「密着せず」とは、他の者のように汗で濡れて衣が密着することが世尊にはない。「離れず」とは、脱穀用の布のように身体から離れて浮き上がることもない。「風」とは、大旋風が起きても衣を乱すことはできない。「足の装飾に専念すること」とは、煉瓦で磨くなどして足を美しく飾ること。「洗って」とは、足と足を擦り合わせて洗うこと。「彼はいかなる自他への障害のためにも」などは、宿住智や他心智があるために言うのではなく、威儀の連続を見て推論によって言うのである。「法」とは教説の法である。「持ち上げず」とは、「おお大領主よ、おお大富豪よ」などと言って在家への追従によって持ち上げない。「貶めず」とは、「在家信者よ、どうして寺への道を知ったのか。恐れて来ないのか。比丘たちは何も奪い取ったりしないから怖がるな」とか、「なぜお前はそのように吝嗇な生活をしているのか」などと言って在家への愛着から貶めない。
Vissaṭṭhoti siniddho apalibuddho. Viññeyyoti viññāpanīyo pākaṭo, vissaṭṭhattāyeva cesa viññeyyo hoti. Mañjūti madhuro. Savanīyoti sotasukho, madhurattāyeva cesa savanīyo hoti. Bindūti sampiṇḍito. Avisārīti avisaṭo, binduttāyeva cesa avisārī hoti. Gambhīroti gambhīrasamuṭṭhito. Ninnādīti ninnādavā, gambhīrattāyeva cesa ninnādī hoti. Yathāparisanti cakkavāḷapariyantampi ekābaddhaparisaṃ viññāpeti. Bahiddhāti aṅgulimattampi parisato bahiddhā na gacchati. Tasmā? So evarūpo madhurassaro akāraṇā mā nassīti. Iti bhagavato ghoso parisāya matthakeneva carati.
「明瞭で」とは、滑らかで滞りがない。「理解しやすく」とは、教えが明らかで、明瞭であるからこそ理解しやすい。「妙なる」とは、甘美である。「聞き心地よく」とは、耳に快く、甘美であるからこそ聞き心地がよい。「まとまりがあり」とは、凝縮している。「散漫でなく」とは、広がらず、まとまりがあるからこそ散漫でない。「深遠で」とは、深みから生じる。「響き渡る」とは、余韻があり、深遠であるからこそ響き渡る。「会衆に応じて」とは、世界樹の果てに至る一つの連続した会衆にも理解させる。「外へ」とは、指一本分も会衆の外へは漏れ出ない。なぜなら、そのような甘美な声が無駄に失われないようにするためである。このように世尊の音声は会衆の頭上を行き渡る。
Avalokayamānāti sirasmiṃ añjaliṃ ṭhapetvā bhagavantaṃ olokentāva paccosakkitvā dassanavijahanaṭṭhāne vanditvā gacchanti. Avijahitattāti yo hi kathaṃ sutvā vuṭṭhito aññaṃ diṭṭhasutādikaṃ kathaṃ kathento gacchati, esa sabhāvena vijahati nāma. Yo pana sutadhammakathāya vaṇṇaṃ kathentova gacchati, ayaṃ na vijahati nāma, evaṃ avijahantabhāvena pakkamanti. Gacchantanti rajjuyantavasena ratanasattubbedhaṃ suvaṇṇagghikaṃ viya gacchantaṃ. Addasāma ṭhitanti samussitakañcanapabbataṃ viya ṭhitaṃ addasāma. Tato ca bhiyyoti vitthāretvā guṇe kathetuṃ asakkonto avasese guṇe saṃkhipitvā kalāpaṃ viya suttakabaddhaṃ viya ca katvā vissajjento evamāha. Ayamettha adhippāyo – mayā kathitaguṇehi akathitāva bahutarā. Mahāpathavimahāsamuddādayo viya hi tassa bhoto anantā appameyyā guṇā ākāsamiva vitthāritāti.
「仰ぎ見つつ」とは、頭上に合掌して世尊を見つめながら後退し、見えなくなる場所で礼拝して立ち去る。「離れないがゆえに」とは、説法を聞いて立ち上がった後、見聞きした他の世間話をしながら去る者は、本質的に離れ去った者である。しかし、聞いた説法の徳を称賛しながら去る者は、離れ去っていない者である。このように離れ去らない状態で立ち去る。「歩まれるのを」とは、綱の仕掛けによって動く七宝で飾られた黄金の楼閣のように歩まれるのを。「立たれるのを見た」とは、聳え立つ黄金の山のように立たれるのを見た。「そしてそれ以上に」とは、徳を詳細に語り尽くすことができず、残りの徳を束ねるかのように、糸で括るかのようにして要約して答えてこのように言った。ここでの趣旨はこうである。私が語った徳よりも、語られなかった徳のほうが遥かに多い。大地や大海などのように、かの尊者の徳は無限・無量であり、虚空のように広がっている、と。
390. Appaṭisaṃviditoti aviññātaāgamano. Pabbajite upasaṅkamantena hi cīvaraparikammādisamaye vā ekaṃ nivāsetvā sarīrabhañjanasamaye vā upasaṅkamitvā tatova paṭinivattitabbaṃ hoti, paṭisanthāramattampi na jāyati. Puretaraṃ pana okāse kārite divāṭṭhānaṃ sammajjitvā cīvaraṃ pārupitvā bhikkhu vivitte ṭhāne nisīdati, taṃ āgantvā passantā dassanenapi pasīdanti, paṭisanthāro jāyati, pañhabyākaraṇaṃ vā dhammakathā vā labbhati. Tasmā paṇḍitā okāsaṃ kārenti. So ca nesaṃ aññataro, tenassa etadahosi. Jiṇṇo vuḍḍhoti attano uggatabhāvaṃ akathetvā kasmā evamāha? Buddhā nāma anuddayasampannā honti, mahallakabhāvaṃ ñatvā sīghaṃ okāsaṃ karissatīti evamāha.
390.「無断で」とは、来訪を知らせずに。出家者を訪ねる者は、衣の仕立ての時や、一枚の衣を着て身体を洗う時に訪ねてそのまま引き返さねばならず、挨拶さえ交わすことができない。しかし事前に機会を作ってもらえば、比丘は昼の居所を掃除し、衣をまとって静かな場所に座る。そこへやって来て見る人々は、見るだけでも清らかな信を生じ、挨拶が交わされ、問答や説法を得ることができる。それゆえ賢者は機会を設けるのである。彼もまたその賢者の一人であったため、このように考えた。「老衰し年老いた」とは、自らの高潔さを語らずになぜこのように言ったのか。諸仏は慈悲に満ちておられるので、年老いていることを知れば速やかに機会を設けてくださるだろうと考えてこのように言ったのである。
391. Oramiya okāsamakāsīti vegena uṭṭhāya dvidhā bhijjitvā okāsamakāsi.
391.「退いて場所を空けた」とは、素早く立ち上がり、二手に分かれて場所を空けた。
Ye meti ye mayā. Nārīsamānasavhayāti nārīsamānanāmaṃ itthiliṅgaṃ, tena avhātabbāti nārīsamānasavhayā, itthiliṅgena vattabbāti vohārakusalatāya evaṃ vadati. Pahūtajivhoti puthulajivho. Ninnāmayetanti nīhara etaṃ.
「私の」とは、私によって。「女性名と同名の」とは、女性と同じ名前の女性名詞であり、それによって呼ばれるべきゆえに女性名と同名であり、女性名詞で言われるべきであると、世俗の語法に巧みであるためにこのように言った。「広大なる舌を持つ」とは、広い舌を持つ。「それを取り出してください」とは、それを外へ出してください。
393. Kevalīti sakalaguṇasampanno.
393.「全き者」とは、すべての徳を具えた者。
394. Paccabhāsīti ekappahārena pucchite aṭṭha pañhe byākaronto patiabhāsi. Yo vedīti yo vidati jānāti, yassa pubbenivāso pākaṭo. Saggāpāyañca passatīti dibbacakkhuñāṇaṃ kathitaṃ. Jātikkhayaṃ pattoti arahattaṃ patto. Abhiññā vositoti taṃ arahattaṃ abhijānitvā vosito vosānappatto. Munīti arahattañāṇamoneyyena samannāgato.
394.「答えた」とは、一度に問われた八つの問いに答えつつ返答した。「知る者」とは、了解し知る者であり、宿住が明らかである者。「天界と悪趣を見る」とは、天眼智が語られている。「生を尽くした」とは、阿羅漢果に達した。「殊勝な知恵により究めた」とは、その阿羅漢果を覚知して究め、窮極に達した。「沈黙の聖者」とは、阿羅漢の智慧である沈黙の境地を具えた者。
Visuddhanti paṇḍaraṃ. Muttaṃ rāgehīti kilesarāgehi muttaṃ. Pahīnajātimaraṇoti jātikkhayappattattā pahīnajātiko, jātipahāneneva pahīnamaraṇo. Brahmacariyassa kevalīti yaṃ brahmacariyassa kevalī sakalabhāvo, tena samannāgato, sakalacatumaggabrahmacariyavāsoti attho. Pāragū sabbadhammānanti sabbesaṃ lokiyalokuttaradhammānaṃ abhiññāya pāraṃ gato, sabbadhamme abhijānitvā ṭhitoti attho. Pāragūti vā ettāvatā pariññāpāragū pañcannaṃ khandhānaṃ, pahānapāragū sabbakilesānaṃ, bhāvanāpāragū catunnaṃ maggānaṃ, sacchikiriyāpāragū nirodhassa, samāpattipāragū sabbasamāpattīnanti ayamattho vutto. Puna sabbadhammānanti iminā abhiññāpāragū vuttoti. Buddho tādī pavuccatīti tādiso chahi ākārehi pāraṃ gato sabbākārena catunnaṃ saccānaṃ buddhattā buddhoti pavuccatīti.
「清浄なる」とは、純白の。「貪りから解脱した」とは、煩悩の貪りから解脱した。「生と死を捨て去った」とは、生の消尽に達したがゆえに生を捨て去り、生を捨てることによって死をも捨て去った。「清浄行を全うした」とは、清浄行の全体である完全性を具えた者であり、四道の清浄行のすべてを生き抜いた者という意味である。「一切の法において彼岸に達した」とは、一切の世間的・出世間的な法を殊勝な知恵によって彼岸に達し、一切の法を覚知して安住したという意味である。あるいは「彼岸に達した」とは、これによって五蘊の遍知の彼岸に達し、一切の煩悩の断除の彼岸に達し、四道の修習の彼岸に達し、滅(涅槃)の現証の彼岸に達し、一切の等至(三昧)の獲得の彼岸に達したというこの意味が語られている。さらに「一切の法において」によって、殊勝な知恵の彼岸に達したことが語られている。「如実なる仏陀と呼ばれる」とは、そのような六つのあり方によって彼岸に達し、あらゆるあり方で四聖諦を覚ったがゆえに仏陀と呼ばれる、と。
Kiṃ pana ettāvatā sabbe pañhā vissajjitā hontīti? Āma vissajjitā, cittaṃ visuddhaṃ jānāti, muttaṃ rāgehīti iminā tāva bāhitapāpattā brāhmaṇoti paṭhamapañho vissajjito hoti. Pāragūti iminā vedehi gatattā vedagūti dutiyapañho vissajjito hoti. Pubbenivāsantiādīhi imāsaṃ tissannaṃ vijjānaṃ atthitāya tevijjoti tatiyapañho vissajjito hoti. Muttaṃ rāgehi sabbasoti imināva nissaṭattā pāpadhammānaṃ sottiyoti catutthapañho vissajjito hoti. Jātikkhayaṃ pattoti iminā pana arahattasseva vuttattā pañcamapañho vissajjito hoti. Vositoti ca brahmacariyassa kevalīti ca imehi chaṭṭhapañho vissajjito hoti. Abhiññā vosito munīti iminā sattamapañho vissajjito hoti. Pāragū sabbadhammānaṃ, buddho tādī pavuccatīti iminā aṭṭhamapañho vissajjito hoti.
これによってすべての問いは答えられたのであろうか。実に答えられたのである。「清らかな心を知り、貪りから解脱した」によって、悪を排した者ゆえに「バラモン」であるという第一の問いが答えられた。「彼岸に達した」によって、知識(ヴェーダ)を究めたがゆえに「達智者(ヴェーダグー)」であるという第二の問いが答えられた。「過去の生を」などによって、これら三明を持つがゆえに「三明者」であるという第三の問いが答えられた。「一切において貪りから解脱した」によって、まさに悪法を脱した者ゆえに「聞達者(ソッティヤ)」であるという第四の問いが答えられた。「生を尽くした」によって、まさに阿羅漢果が語られたゆえに第五の問いが答えられた。「究めた」および「清浄行を全うした」によって第六の問いが答えられた。「殊勝な知恵により究めた沈黙の聖者」によって第七の問いが答えられた。「一切の法において彼岸に達した、如実なる仏陀と呼ばれる」によって第八の問いが答えられた。
395. Dānakathantiādīni heṭṭhā sutte vitthāritāneva. Paccapādīti paṭipajji. Dhammassānudhammanti imasmiṃ sutte dhammo nāma arahattamaggo, anudhammo nāma heṭṭhimā tayo maggā tīṇi ca sāmaññaphalāni, tāni paṭipāṭiyā paṭilabhīti attho. Na ca maṃ dhammādhikaraṇaṃ vihesesīti mañca dhammakāraṇā na kilamesi, na punappunaṃ kathāpesīti vuttaṃ hoti. Sesaṃ sabbattha uttānameva. Tattha parinibbāyīti pana padena desanāya arahatteneva kūṭaṃ gahitanti.
395.「布施の説法を」などは、前の経で詳細に説かれた通りである。「従った」とは、実践した。「法にかなう教え」とは、この経において「法」とは阿羅漢道であり、「かなう教え」とは下位の三つの道と三つの沙門果であり、それらを順次に得たという意味である。「法に関して私を煩わせなかった」とは、法を理由として私を疲れさせず、何度も語らせなかったという意味である。残りは至るところで明白である。そこにおいて「完全なる涅槃に入った」という言葉によって、説法が阿羅漢果をもって頂点に達したことが示されている。
Papañcasūdaniyā majjhimanikāyaṭṭhakathāya
破障微細解(パパンチャ・スーダニー)中部注釈書における
Brahmāyusuttavaṇṇanā niṭṭhitā.
梵摩経の註解、ここに終わる。
2. Selasuttavaṇṇanā
二、セーラ経の註解
396. Evaṃ me sutanti selasuttaṃ. Tattha aṅguttarāpesūtiādi potaliyasutte vitthāritameva. Aḍḍhateḷasehīti aḍḍhena teḷasehi, dvādasahi satehi paññāsāya ca bhikkhūhi saddhinti vuttaṃ hoti. Te pana sāvakasannipāte sannipatitā bhikkhūyeva sabbe ehibhikkhupabbajjāya pabbajitā khīṇāsavā. Keṇiyoti tassa nāmaṃ, jaṭiloti tāpaso. So kira brāhmaṇamahāsālo, dhanarakkhaṇatthāya pana tāpasapabbajjaṃ samādāya rañño paṇṇākāraṃ datvā bhūmibhāgaṃ gahetvā tattha assamaṃ kāretvā vasati pañcahi sakaṭasatehi vaṇijjaṃ payojetvā kulasahassassa nissayo hutvā, assamepi cassa eko tālarukkho divase divase ekaṃ sovaṇṇamayaṃ tālaphalaṃ muñcatīti vadanti. So divā kāsāyāni dhāreti, jaṭā ca bandhati, rattiṃ kāmasampattiṃ anubhavati. Dhammiyā kathāyāti pānakānisaṃsapaṭisaṃyuttāya dhammiyā kathāya. Ayañhi keṇiyo tucchahattho bhagavato dassanāya gantuṃ lajjāyamāno – ‘‘vikālabhojanā viratānampi pānakaṃ kappatī’’ti cintetvā susaṅkhatabadarapānaṃ pañcahi kājasatehi gāhāpetvā agamāsi. Evaṃ gatabhāvo cassa – ‘‘atha kho keṇiyassa jaṭilassa etadahosi kiṃ nu kho ahaṃ samaṇassa gotamassa harāpeyya’’nti bhesajjakkhandhake (mahāva. 300) pāḷiāruḷhoyeva.
396.「このように私は聞いた」とはセーラ経である。そこにおいて「アングッタラーパの人々の間で」などは、ポータリヤ経で詳細に説かれた通りである。「千二百五十の」とは、十二百と五十の比丘たちとともに、という意味である。彼らは声聞の集いにおいて集まった比丘たちであり、皆「善来比丘」の出家によって出家した漏尽者(阿羅漢)たちである。「ケーニヤ」とは彼の名前であり、「結髪行者」とは苦行者である。彼は富裕な大バラモンであったが、財産を守るために苦行者の出家を受け入れ、王に贈り物を捧げて土地を譲り受け、そこに庵を建てて住み、五百両の車で交易を営み、千戸の拠り所となっていた。その庵には一本の椰子の木があり、毎日一つの黄金の椰子の実を落としたという。彼は昼には黄褐色の衣をまとい、髪を結い、夜には愛欲の歓楽を享受していた。「法話によって」とは、飲み物の功徳に関連する法話によってである。このケーニヤは手ぶらで世尊に会いに行くのを恥じらい、「時ならぬ食事を断つ者たちにも飲み物は許される」と考えて、上等に作られたナツメのジュースを五百の天秤棒で担がせて向かった。このように赴いたことは、「その時、結髪行者ケーニヤは『私は沙門ゴータマに何を持参させるべきか』と考えた」と律蔵の薬事犍度(大品300)の本文に記されている通りである。
Dutiyampi kho bhagavāti kasmā punappunaṃ paṭikkhipi? Titthiyānaṃ paṭikkhepapasannatāya, akāraṇametaṃ, natthi buddhānaṃ paccayahetu evarūpaṃ kohaññaṃ. Ayaṃ pana aḍḍhateḷasāni bhikkhusatāni disvā ettakānaṃyeva bhikkhaṃ paṭiyādessati, sveva selo tīhi purisasatehi saddhiṃ pabbajissati. Ayuttaṃ kho pana navake aññato pesetvā imeheva saddhiṃ gantuṃ, ime vā aññato pesetvā navakehi saddhiṃ gantuṃ. Athāpi sabbe gahetvā gamissāmi, bhikkhāhāro nappahossati. Tato bhikkhūsu piṇḍāya carantesu manussā ujjhāyissanti – ‘‘cirassāpi keṇiyo samaṇaṃ gotamaṃ nimantetvā yāpanamattaṃ dātuṃ nāsakkhī’’ti, sayampi vippaṭisārī bhavissati. Paṭikkhepe pana kate ‘‘samaṇo gotamo punappunaṃ ‘tvañca brāhmaṇesu abhippasanno’ti brāhmaṇānaṃ nāmaṃ gaṇhātī’’ti cintetvā brāhmaṇepi nimantetukāmo bhavissati, tato brāhmaṇe pāṭiyekkaṃ nimantessati, te tena nimantitā bhikkhū hutvā bhuñjissanti. Evamassa saddhā anurakkhitā bhavissatīti punappunaṃ paṭikkhipi. Kiñcāpi kho, bhoti iminā idaṃ dīpeti, – ‘‘bho gotama, kiṃ jātaṃ yadi ahaṃ brāhmaṇesu abhippasanno, adhivāsetu bhavaṃ gotamo, ahaṃ brāhmaṇānampi dātuṃ sakkomi tumhākampī’’ti.
「二度目もまた世尊は」とは、なぜ世尊は何度も断られたのか。外道たちの拒絶に喜ぶような、根拠のないことのためではなく、諸仏には供養のためにそのような偽善はない。しかしケーニヤは千二百五十人の比丘たちを見て、これだけの人数分の食事を用意するであろうが、まさに明日、セーラが三百人の部下とともに出家するであろう。新参の比丘たちを他へ行かせてこの者たちとだけ行くのも不適切であり、あるいはこの者たちを他へ行かせて新参者たちとだけ行くのも不適切である。かといって全員を連れて行けば、托鉢の食事は足りなくなるだろう。そうすれば比丘たちが托鉢に歩く時、人々は「ケーニヤは久しぶりに沙門ゴータマを招きながら、腹を満たすだけの施しさえできなかった」と非難し、彼自身も後悔するであろう。しかし断られれば、「沙門ゴータマは何度も『あなたもバラモンたちに信を寄せている』とバラモンたちの名を挙げられる」と考えて、バラモンたちも招きたいと思うようになり、そこでバラモンたちを別に招くであろう。彼らは招かれて比丘となって食事をすることになる。このようにして彼の信仰は守られるであろうと考えて、何度も断られたのである。「尊者よ、たとえそうであっても」とはこれを示している。「尊者ゴータマよ、私がバラモンたちに信を寄せているとして何の問題がありましょう。尊者ゴータマよ、受け入れてください。私はバラモンたちにも、あなた方にも施すことができます」と。
Kāyaveyyāvaṭikanti kāyaveyyāvaccaṃ. Maṇḍalamāḷanti dussamaṇḍapaṃ.
「身体の奉仕」とは、身体による雑務。「丸い天幕」とは、布で作られた仮設の小屋。
397. Āvāhoti kaññāgahaṇaṃ. Vivāhoti kaññādānaṃ. So me nimantitoti so mayā nimantito. Atha brāhmaṇo paripakkopanissayattā buddhasaddaṃ sutvāva amatenevābhisitto pasādaṃ āvikaronto buddhoti, bho keṇiya, vadesīti āha. Keṇiyo yathābhūtaṃ ācikkhanto buddhoti, bho sela, vadāmīti āha. Tato naṃ punapi daḷhīkaraṇatthaṃ pucchi, itaropi tatheva ārocesi.
397.「迎えること」とは、嫁をもらうこと。「送ること」とは、娘を嫁に出すこと。「かの人は私に招かれた」とは、かの人は私によって招かれた。そこでバラモンは素質が熟していたため、「仏陀」という言葉を聞くや否や、甘露を注がれたかのように清らかな信を現して、「尊きケーニヤよ、あなたは仏陀と言ったのか」と尋ねた。ケーニヤは事実を告げて、「尊きセーラよ、私は仏陀と言ったのだ」と答えた。そこで彼は念を押すためにもう一度尋ね、相手も同様に告げた。
398. Athassa kappasatasahassehipi buddhasaddasseva dullabhabhāvaṃ sampassato. Etadahosīti. Etaṃ ‘‘ghosopi kho’’tiādi ahosi. Nīlavanarājīti nīlavaṇṇarukkhapanti. Pade padanti padappamāṇe padaṃ. Accāsanne hi atidūre vā pāde nikkhipamāne saddo uṭṭhāti, taṃ paṭisedhento evamāha. Sīhāva ekacarāti gaṇavāsī sīho sīhapotakādīhi saddhiṃ pamādaṃ āpajjati, ekacaro appamatto hoti. Iti appamādavihāraṃ dassento ekacarasīhena opammaṃ karoti. Mā me bhontoti ācāraṃ sikkhāpento āha. Ayañhettha adhippāyo – sace tumhe kathāvāraṃ alabhitvā mama kathāya antare kathaṃ pavesessatha, ‘‘antevāsike sikkhāpetuṃ nāsakkhī’’ti mayhaṃ garahā uppajjissati, tasmā okāsaṃ passitvā manteyyāthāti. No ca kho naṃ jānāmīti vipassīpi bodhisatto caturāsītisahassattherapabbajitaparivāro satta māsāni bodhisattacārikaṃ cari, buddhuppādakālo viya ahosi. Amhākampi bodhisatto chabbassāni bodhisattacārikaṃ cari. Evaṃ paripuṇṇasarīralakkhaṇehi samannāgatāpi buddhā na honti. Tasmā brāhmaṇo ‘‘no ca kho naṃ jānāmī’’ti āha.
398.そこで百千劫を経ても仏陀という言葉を聞くことさえ稀であることを見て取った彼に、「これを聞いた」とは、「その声さえも」などの思いが生じた。「青い森の列」とは、青々とした木々の列。「足跡ごとに足を」とは、足の大きさに合わせた歩幅で足を置くことである。あまりに近すぎたり遠すぎたりして足を下ろすと足音が生じるので、それを防ぐためにこのように言った。「独り歩む獅子のように」とは、群れで住む獅子は子獅子たちと放逸に陥るが、独り歩む獅子は不放逸である。このように不放逸の生活を示すために、独り歩む獅子に譬えている。「尊者たちよ、私の」とは、礼儀を教えつつ言った。ここでの趣旨はこうである。もしあなた方が発言の機会を得ずに私の話の途中に口を挟むなら、「弟子を教育できなかった」と私への非難が生じるだろう。それゆえ機会を見て語るようにせよ、と。「しかし私はかの人を知らない」とは、毘婆尸(ヴィパッシー)菩薩も八万四千の長老出家者たちに取り囲まれて七ヶ月間菩薩の遊行を行い、仏陀の出現の時のようであった。我らの菩薩も六年間菩薩の遊行を行われた。このように円満な身体の相を具えていても、仏陀ではないことがある。それゆえバラモンは「しかし私はかの人を知らない」と言った。
399. Paripuṇṇakāyoti lakkhaṇehi paripuṇṇatāya ahīnaṅgatāya ca paripuṇṇasarīro. Surucīti sundarasarīrappabho. Sujātoti ārohapariṇāhasampattiyā saṇṭhānasampattiyā ca sunibbatto. Cārudassanoti sucirampi passantānaṃ atittijanako manoharadassano. Suvaṇṇavaṇṇoti suvaṇṇasadisavaṇṇo. Susukkadāṭhoti suṭṭhu sukkadāṭho. Mahāpurisalakkhaṇāti paṭhamaṃ vuttabyañjanāneva vacanantarena nigamento āha.
399.「円満なる身体を持つ」とは、諸相の円満さと欠けた部位がないことによって円満な身体を持つ。「麗しい」とは、身体の輝きが美しい。「端正に生まれた」とは、背丈や均整の美しさと姿形の美しさによって見事に生まれた。「麗しい容姿の」とは、いくら長く見つめていても飽きることがなく、心を奪う容姿の。「黄金色の」とは、黄金に似た色の。「極めて白い牙を持つ」とは、見事に白い牙を持つ。「大人相」とは、先に述べた特徴を別の言葉で要約して言った。
Idāni tesu lakkhaṇesu attano cittarucitāni gahetvā thomento pasannanettotiādimāha. Bhagavā hi pañcavaṇṇapasādasampattiyā pasannanetto, puṇṇacandasadisamukhatāya sumukho, ārohapariṇāhasampattiyā brahā, brahmujugattatāya uju, jutimantatāya patāpavā. Yampi cettha pubbe vuttaṃ, taṃ ‘‘majjhe samaṇasaṅghassā’’ti iminā pariyāyena thomayatā puna vuttaṃ. Ediso hi evaṃ virocati. Uttaragāthāyapi eseva nayo. Uttamavaṇṇīnoti uttamavaṇṇasampannassa. Rathesabhoti uttamasārathi. Jambusaṇḍassāti jambudīpassa. Pākaṭena issariyaṃ issaro hoti.
いまやそれらの相の中で自らの心にかなうものを取り上げて称賛し、「澄んだ眼を持つ」などと言った。世尊は五色の清純さを具えているがゆえに澄んだ眼を持ち、満月の如き顔であるがゆえに端麗な顔を持ち、背丈や均整の美しさにより雄大であり、高潔で真っ直ぐな身体により直立し、輝きに満ちているがゆえに威厳がある。先に述べられたことも、「沙門僧伽の中において」という別の表現で称賛しつつ再び語られた。このような方はそのように輝くのである。これ以降の詩節においても同様である。「至高の色艶を持つ者の」とは、至高の色艶を具えた者の。「戦車の長」とは、至高の御者。「閻浮樹の茂みの」とは、閻浮提(インド)の。顕著な支配力によって王となる。
Khattiyāti jātikhattiyā. Bhogīti bhogiyā. Rājānoti ye keci rajjaṃ kārentā. Rājābhirājāti rājūnaṃ pūjanīyo, adhirājā hutvā, cakkavattīti adhippāyo. Manujindoti manussādhipati paramissaro hutvā.
「王族たち」とは、生まれながらの王族。「諸侯」とは、領主たち。「王たち」とは、統治を行うすべての者たち。「諸王の王」とは、王たちに崇拝される者、至高の王となって、すなわち転輪聖王という意味である。「人々の主」とは、人間の支配者、最高の主となって。
Evaṃ vutte bhagavā – ‘‘ye te bhavanti arahanto sammāsambuddhā, te sakavaṇṇe bhaññamāne attānaṃ pātukarontī’’ti imaṃ selassa manorathaṃ pūrento rājāhamasmītiādimāha. Tatrāyamadhippāyo – yaṃ maṃ tvaṃ sela ‘‘rājā arahasi bhavitu’’nti yācasi, ettha appossukko hoti rājāhamasmi. Sati ca rājatte yathā añño rājā yojanasataṃ vā anusāsati yojanasahassaṃ vā, cakkavattī hutvāpi catudīpapariyantamattaṃ vā, nāhamevaṃ paricchinnavisayo, ahañhi dhammarājā anuttaro bhavaggato avīcipariyantaṃ katvā tiriyaṃ appamāṇalokadhātuyo anusāsāmi. Yāvatā hi apadadvipadādibhedā sattā, ahaṃ tesaṃ aggo. Na hi me koci sīlena vā…pe… vimuttiñāṇadassanena vā paṭibhāgo atthi, svāhaṃ evaṃ dhammarājā anuttaro anuttareneva catusatipaṭṭhānādibhedena dhammena cakkaṃ vattemi. Idaṃ pajahatha, idaṃ upasampajja viharathāti āṇācakkaṃ, idaṃ kho pana, bhikkhave, dukkhaṃ ariyasaccantiādinā pariyattidhammena dhammacakkameva vā. Cakkaṃ appaṭivattiyanti yaṃ cakkaṃ appaṭivattiyaṃ hoti samaṇena vā…pe… kenaci vā lokasminti.
このように言われた時、世尊は「かの阿羅漢・正等覚者たちは、自らの徳が称えられる時、自らの姿を現す」というセーラの願いを満たしつつ、「私は王である」などと説かれた。そこでの趣旨はこうである。セーラよ、お前が私に「王となるにふさわしい」と請うことについて、余計な心配をするな、私は王である。王であるとしても、他の王が百由旬あるいは千由旬を統治し、転輪聖王となったとしても四大州の範囲を統治するにすぎないが、私の領域はそのように限定されてはいない。私は無上の法王であり、有頂天から阿鼻地獄に至るまで、横には無量の世界を統治する。実に無足、二足などに分類される生きとし生けるものが存在する限り、私は彼らの最高者である。戒や…中略…解脱知見において私に匹敵する者は誰もいない。そのような無上の法王である私は、無上なる四念処などに分類される法によって法輪を転じる。「これを捨てよ、これに達して住せよ」という命令の輪、あるいは「比丘たちよ、これこそが苦の聖諦である」などの教法による法輪そのものである。「転じ返されることのない輪」とは、沙門によっても…中略…世の何者によっても転じ返されることのない輪のことである。
Evaṃ attānaṃ āvikarontaṃ bhagavantaṃ disvā pītisomanassajāto selo puna daḷhīkaraṇatthaṃ sambuddho paṭijānāsīti gāthādvayamāha. Tattha ko nu senāpatīti rañño bhoto dhammena pavattitassa cakkassa anupavattako senāpati ko nūti pucchi.
このように自らを明かされる世尊を見て、歓喜と喜悦を生じたセーラは、さらに確認するために「正等覚者であると自認される」という二つの詩節を語った。そこにおいて「誰が将軍であるのか」とは、尊き王によって法に従って転じられた輪を、引き続いて転じる将軍は誰であるのかと尋ねた。
Tena ca samayena bhagavato dakkhiṇapasse āyasmā sāriputto nisinno hoti suvaṇṇapuñjo viya siriyā sobhamāno, taṃ dassento bhagavā mayā pavattitanti gāthamāha. Tattha anujāto tathāgatanti tathāgataṃ hetuṃ anujāto, tathāgatena hetunā jātoti attho. Apica avajāto anujāto atijātoti tayo vuttā. Tesu avajāto dussīlo, so tathāgatassa putto nāma na hoti. Atijāto nāma pitarā uttaritaro, tādisopi tathāgatassa putto natthi. Tathāgatassa pana eko anujātova putto hoti, taṃ dassento evamāha.
その時、世尊の右側に尊者サーリプッタが座っており、黄金の山のように威光を放って輝いていた。世尊は彼を指し示しつつ「私によって転じられた」という詩節を説かれた。そこにおいて「如来に似て生まれた」とは、如来を原因として後に生まれた、如来という原因によって生まれたという意味である。さらに「劣って生まれた子」「似て生まれた子」「優れて生まれた子」の三種類が説かれている。そのうち「劣って生まれた子」とは破戒の者であり、彼は如来の子とは呼ばれない。「優れて生まれた子」とは父よりも優れた者であるが、そのような如来の子も存在しない。如来にはただ「似て生まれた子」だけが存在するのであり、それを示すためにこのように言われた。
Evaṃ ‘‘ko nu senāpatī’’ti pañhaṃ byākaritvā yaṃ selo āha ‘‘sambuddho paṭijānāsī’’ti, tatra naṃ nikkaṅkhaṃ kātukāmo ‘‘nāhaṃ paṭiññāmatteneva paṭijānāmi, apicāhaṃ iminā kāraṇena buddho’’ti ñāpetuṃ abhiññeyyanti gāthamāha. Tatra abhiññeyyanti vijjā ca vimutti ca. Bhāvetabbaṃ maggasaccaṃ. Pahātabbaṃ samudayasaccaṃ. Hetuvacanena pana phalasiddhito tesaṃ phalāni nirodhasaccadukkhasaccānipi vuttāneva honti. Evaṃ sacchikātabbaṃ sacchikataṃ pariññātabbaṃ pariññātanti idampettha saṅgahitanti catusaccabhāvanāphalañca vimuttiñca dassento ‘‘bujjhitabbaṃ bujjhitvā buddho jātosmī’’ti yuttahetunā buddhabhāvaṃ sādheti.
このように「誰が将軍であるのか」という問いに答えて、セーラが「正等覚者であると自認される」と言ったことについて、彼から疑念を取り除こうとして、「私は自称するだけで自認しているのではなく、実に私はこの理由によって仏陀なのである」と知らせるために「知るべきことを」という詩節を説かれた。そこにおいて「知るべきこと」とは三明と解脱である。「修めるべきこと」とは道聖諦である。「断ずべきこと」とは集聖諦である。原因を語ることで結果が成立することから、それらの結果である滅聖諦と苦聖諦も語られたことになる。このように「現証すべきことは現証され、遍知すべきことは遍知された」というこれもまたここに含められており、四諦の修習の果と解脱を示しつつ、「覚るべきことを覚って、私は仏陀となった」と、妥当な理由によって仏陀である境地を論証されている。
Evaṃ nippariyāyena attānaṃ āvikatvā attani kaṅkhāvitaraṇatthaṃ brāhmaṇaṃ aticāriyamāno vinayassūti gāthattayamāha. Tattha sallakattoti rāgādisallakantano. Anuttaroti yathā bāhiravejjena vūpasamitarogo imasmiññevattabhāve kuppati, na evaṃ. Mayā vūpasamitassa pana rogassa bhavantarepi uppatti natthi, tasmā ahaṃ anuttaroti attho. Brahmabhūtoti seṭṭhabhūto. Atituloti tulaṃ atīto, nirupamoti attho. Mārasenappamaddanoti kāmā te paṭhamā senāti evaṃ āgatāya mārasenāya pamaddano. Sabbāmitteti khandhakilesābhisaṅkhāramaccudevaputtamārasaṅkhāte sabbapaccatthike. Vasīkatvāti attano vase vattetvā. Akutobhayoti kutoci abhayo.
このように率直に自らを明かし、バラモンが自らへの疑念を克服するように導きつつ、「除き去れ」という三つの詩節を説かれた。そこにおいて「矢を抜く者」とは、貪りなどの矢を切り抜く者。「無上の」とは、世間の医師によって鎮められた病がまさにこの身体において再発するのとは異なり、私によって鎮められた病は来世においても生じることがない。それゆえに私は無上であるという意味である。「梵天となった者」とは、最上の者となった者。「比類なき者」とは、比較を超えた者、無比の者という意味である。「魔王の軍勢を粉砕する者」とは、「愛欲はお前の第一の軍勢である」と説かれた魔の軍勢を粉砕する者。「すべての敵を」とは、五蘊魔、煩悩魔、行魔、死魔、天子魔と呼ばれるすべての敵を。「服従させて」とは、自らの支配下に置いて。「何ものも恐れない者」とは、どこからも恐怖のない者。
Evaṃ vutte selo brāhmaṇo tāvadeva bhagavati sañjātapasādo pabbajjāpekkho hutvā imaṃ bhontoti gāthattayamāha. Tattha kaṇhābhijātikoti caṇḍālādinīcakule jāto. Tato tepi māṇavakā pabbajjāpekkhā hutvā evañce ruccati, bhototi gāthamāhaṃsu. Atha selo tesu māṇavakesu tuṭṭhacitto te ca dassento pabbajjaṃ yācanto **‘‘brāhmaṇā’’**ti gāthamāha.
このように言われたとき、セラバラモンはその場ですぐに世尊への清らかな信を生じ、出家を望んで「尊者よ、これを」という三つの詩偈を唱えた。その中の「黒き生まれの者」とは、チャンダーラなどの卑しい身分の家に生まれた者のことである。その後、それらの弟子(若きバラモン)たちも出家を望んで「尊者よ、もしそのようにお望みなら」という詩偈を唱えた。そこでセラはそれらの若者たちに歓喜し、彼らを指し示しつつ出家を請い求めて「バラモンたちよ」という詩偈を唱えた。
Tato bhagavā yasmā selo atīte padumuttarassa bhagavato sāsane tesaṃyeva tiṇṇaṃ purisasatānaṃ gaṇaseṭṭho hutvā tehi saddhiṃ pariveṇaṃ kāretvā dānādīni puññāni katvā tena kammena devamanussasampattiṃ anubhavamāno pacchime bhave tesaṃyeva ācariyo hutvā nibbatto, tañca tesaṃ kammaṃ vimuttiparipākāya paripakkaṃ ehibhikkhubhāvassa ca upanissayabhūtaṃ, tasmā te sabbeva ehibhikkhupabbajjaṃ pabbājento svākkhātanti gāthamāha. Tattha sandiṭṭhikanti sayameva daṭṭhabbaṃ paccakkhaṃ. Akālikanti maggānantaraphaluppattiyā na kālantaraṃ pattabbaphalaṃ. Yattha amoghāti yasmiṃ maggabrahmacariye appamattassa sikkhattayapūraṇena sikkhato pabbajjā amoghā hoti, saphalāti attho. Evañca vatvā ‘‘etha bhikkhavo’’ti bhagavā avoca. Te sabbe pattacīvaradharā hutvā ākāsenāgantvā vassasatikattherā viya suvinītā bhagavantaṃ abhivādayiṃsu. Evamimaṃ tesaṃ ehibhikkhubhāvaṃ sandhāya ‘‘alattha kho selo’’tiādi vuttaṃ.
それから世尊は、セラが過去のパドゥムッタラ世尊の教えにおいて、まさにその三百人の男たちの集団の長となり、彼らとともに精舎を建て、施しなどの功徳を積んで、その業によって天界と人間界の繁栄を享受し、最後の生においてまさに彼らの師となって生まれたこと、そして彼らのその業が解脱の熟成のために成熟し、「来たれ、比丘」としての出家の機縁となったことを知られた。それゆえ彼らすべてを「来たれ、比丘」として出家させつつ、「よく説かれた」という詩偈を唱えられた。その中の「現世で見られる」とは、自ら直に見るべきものであり、現前のものであるという意味である。「時を置かない」とは、道(修行の道)の直後に果が生じるため、時間を置いて得られる果ではないということである。「そこにおいて無駄ではない」とは、その道の清浄行において、不放逸にして三学を全うしつつ学ぶ者の出家は無駄ではなく、実りあるものであるという意味である。このように語って、世尊は「来たれ、比丘たちよ」と言われた。彼らはすべて衣鉢を具えた身となって虚空から現れ、あたかも百歳の長老のように威儀正しく世尊を礼拝した。このように彼らの「来たれ、比丘」としてのあり方に関して、「セラは実に得た」などと説かれたのである。
400. Imāhīti imāhi keṇiyassa cittānukūlāhi gāthāhi. Tattha aggiparicariyaṃ vinā brāhmaṇānaṃ yaññābhāvato ‘‘aggihuttamukhā yaññā’’ti vuttaṃ. Aggihuttaseṭṭhā aggijuhanappadhānāti attho. Vede sajjhāyantehi paṭhamaṃ sajjhāyitabbato, sāvittī, ‘‘chandaso mukha’’nti vutto. Manussānaṃ seṭṭhato rājā ‘‘mukha’’nti vutto. Nadīnaṃ ādhārato paṭisaraṇato ca sāgaro ‘‘mukha’’nti vutto. Candayogavasena ‘‘ajja kattikā ajja rohiṇī’’ti saññāṇato ālokakaraṇato sommabhāvato ca ‘‘nakkhattānaṃ mukhaṃ cando’’ti vuttaṃ. Tapantānaṃ aggattā ādicco ‘‘tapataṃ mukha’’nti vutto. Dakkhiṇeyyānaṃ pana aggattā visesena tasmiṃ samaye buddhappamukhaṃ saṅghaṃ sandhāya ‘‘puññaṃ ākaṅkhamānānaṃ, saṅgho eva yajataṃ mukha’’nti vuttaṃ. Tena saṅgho puññassa āyamukhanti dasseti.
400. 「これらによって」とは、ケーニヤの心に適うこれらの詩偈によって、という意味である。その中の「祭祀の第一は火神への供養」とは、火の供養なしにはバラモンたちの祭祀は成り立たないことから言われたものである。火神供養が最上であり、火への供儀が第一であるという意味である。ヴェーダを読誦する者たちによって最初に読誦されるべきものであることから、サーヴィッティー(太陽神の詩)は「詩句(韻律)の筆頭」と言われた。人間たちの中で最上であることから、王は「筆頭」と言われた。河川の受け皿であり帰着所であることから、大海は「筆頭」と言われた。月の満ち欠けによって「今日はクリッティカー(昴)の日、今日はローヒニー(畢)の日」と標識となり、光をもたらし、涼やかで穏やかであることから、「星々の筆頭は月」と言われた。輝くものたちの中で最高であることから、太陽は「輝くものの筆頭」と言われた。福田(施しの対象)の中で最高であることから、特にその時の仏陀を筆頭とする僧伽を指して、「功徳を望む者、祭祀を捧げる者たちにとって僧伽こそが筆頭である」と言われた。これによって僧伽が功徳の生じる源泉であることを示している。
Yaṃ taṃ saraṇanti aññaṃ byākaraṇagāthamāha. Tassattho – pañcahi cakkhūhi cakkhumā bhagavā yasmā mayaṃ ito aṭṭhame divase taṃ saraṇaṃ āgatamhā, tasmā attanā tava sāsane anuttarena damathena dantāmhā, aho te saraṇassa ānubhāvoti.
「かの帰依所」とは、もう一つの解明の詩偈を説いたものである。その意味は――五つの眼を持つ眼ある世尊よ、私たちは今日から八日前にあなたに帰依いたしました。それゆえ、あなたの教えにおいて自ら無上の調伏によって調伏されました。ああ、あなたの帰依所の威力は素晴らしい、ということである。
Tato paraṃ bhagavantaṃ dvīhi gāthāhi thometvā tatiyāya vandanaṃ yācanto bhikkhavo tisatā imetiādimāhāti.
その後、世尊を二つの詩偈で称賛し、三番目の詩偈で礼拝を請い求めつつ、「これら三百人の比丘たちが」などを唱えたのである。
Papañcasūdaniyā majjhimanikāyaṭṭhakathāya
『パパンチャ・スーダニー』(中部経典註解)において
Selasuttavaṇṇanā niṭṭhitā.
セラ経の註解は終了した。
3. Assalāyanasuttavaṇṇanā
3. アッサラーヤナ経の註解
401. Evaṃ me sutanti assalāyanasuttaṃ. Tattha nānāverajjakānanti aṅgamagadhādīhi nānappakārehi verajjehi āgatānaṃ, tesu vā raṭṭhesu jātasaṃvaḍḍhānantipi attho. Kenacidevāti yaññupāsanādinā aniyamitakiccena. Cātuvaṇṇinti catuvaṇṇasādhāraṇaṃ. Mayaṃ pana nhānasuddhiyā bhāvanāsuddhiyāpi brāhmaṇāva sujjhantīti vadāma, ayuttampi samaṇo gotamo karotīti maññamānā evaṃ cintayiṃsu. Vuttasiroti vāpitasiro.
401. 「このように私は聞いた」とはアッサラーヤナ経である。その中の「異国の」とは、アンガ国やマガダ国など様々な異国からやって来た者たちのことであり、あるいはそれらの国で生まれ育った者たちのことでもある。「何らかの」とは、祭祀の礼拝などの定まっていない所用によって、という意味である。「四種姓」とは、四つの身分に共通するものである。「しかし私たちは、沐浴による清浄や実践による清浄によってバラモンこそが清まるのだと主張する。沙門ゴータマは不当なことを行っている」と考えた彼らはこのように思念した。「剃髪した」とは、頭髪を剃り落としたことである。
Dhammavādīti sabhāvavādī. Duppaṭimantiyāti amhādisehi adhammavādīhi dukkhena paṭimantitabbā honti. Dhammavādino nāma parājayo na sakkā kātunti dasseti. Paribbājakanti pabbajjāvidhānaṃ, tayo vede uggahetvā sabbapacchā pabbajantā yehi mantehi pabbajanti, pabbajitā ca ye mante pariharanti, yaṃ vā ācāraṃ ācaranti, taṃ sabbaṃ bhotā caritaṃ sikkhitaṃ. Tasmā tuyhaṃ parājayo natthi, jayova bhavissatīti maññantā evamāhaṃsu.
「正法を語る者」とは、真実(あるがままの理)を語る者のことである。「論難しがたい」とは、私たちのような不正法を語る者たちによって論難することが困難である、ということである。正法を語る者を敗北させることはできない、ということを示している。「遊行者(の法)」とは、出家の規定であり、三つのヴェーダを習得したのち、最後に最も遅く出家する者たちが唱える呪文や、出家した者たちが保持する呪文、あるいは彼らが行う作法、それらすべてを尊者は実践し学ばれた。それゆえあなたに敗北はなく、勝利のみがあるだろうと考えた彼らはこのように言ったのである。
402. Dissanti kho panātiādi tesaṃ laddhibhindanatthaṃ vuttaṃ. Tattha brāhmaṇiyoti brāhmaṇānaṃ puttapaṭilābhatthāya āvāhavivāhavasena kulā ānītā brāhmaṇiyo dissanti. Tā kho panetā aparena samayena utuniyopi honti, sañjātapupphāti attho. Gabbhiniyoti sañjātagabbhā. Vijāyamānāti puttadhītaro janayamānā. Pāyamānāti dārake thaññaṃ pāyantiyo. Yonijāva samānāti brāhmaṇīnaṃ passāvamaggena jātā samānā. Evamāhaṃsūti evaṃ vadanti. Kathaṃ? Brāhmaṇova seṭṭho vaṇṇo…pe… brahmadāyādāti. Yadi pana nesaṃ saccavacanaṃ siyā, brāhmaṇīnaṃ kucchi mahābrahmuno uro bhaveyya, brāhmaṇīnaṃ passāvamaggo mahābrahmuno mukhaṃ bhaveyya, ettāvatā ‘‘mayaṃ mahābrahmuno ure vasitvā mukhato nikkhantā’’ti vattuṃ mā labhantūti ayaṃ mukhato jātacchedakavādo vutto.
402. 「実際に見られる」などは、彼らの見解を打破するために説かれたものである。その中の「バラモン女たち」とは、バラモンたちの男子を得るために、婚姻によって家々に迎え入れられたバラモンの女たちが見られる、ということである。そして彼女らはやがて月経を見る者となり、すなわち成熟した花(経血)を生じた者となる。「妊娠した者」とは、懐妊した者のことである。「出産する者」とは、息子や娘を産む者のことである。「授乳する者」とは、子供たちに母乳を飲ませる者のことである。「胎生であるのに」とは、バラモンの女たちの産道(尿道)から生まれた者であるのに、という意味である。「このように言う」とは、このように主張するということである。どのようにか? 「バラモンこそが最上の階級であり……(中略)……ブラフマーの相続人である」と。しかし、もし彼らの言葉が真実であるならば、バラモン女の胎内が大梵天の胸となり、バラモン女の産道が大梵天の口ということになってしまう。これによって「私たちは大梵天の胸に住し、口から出たのである」などと主張させないために、この「口から生まれたという説を論破する論理」が説かれたのである。
403. Ayyo hutvā dāso hoti, dāso hutvā ayyo hotīti brāhmaṇo sabhariyo vaṇijjaṃ payojento yonakaraṭṭhaṃ vā kambojaraṭṭhaṃ vā gantvā kālaṃ karoti, tassa gehe vayappatte putte asati brāhmaṇī dāsena vā kammakarena vā saddhiṃ saṃvāsaṃ kappeti. Ekasmiṃ dārake jāte so puriso dāsova hoti, tassa jātadārako pana dāyajjasāmiko hoti. Mātito suddho pitito asuddho so vaṇijjaṃ payojento majjhimapadesaṃ gantvā brāhmaṇadārikaṃ gahetvā tassā kucchismiṃ puttaṃ paṭilabhati, sopi mātitova suddho hoti pitito asuddho. Evaṃ brāhmaṇasamayasmiññeva jātisambhedo hotīti dassanatthametaṃ vuttaṃ. Kiṃ balaṃ, ko assāsoti yattha tumhe dāsā hontā sabbeva dāsā hotha, ayyā hontā sabbeva ayyā hotha, ettha vo ko thāmo, ko avassayo, yaṃ brāhmaṇova seṭṭho vaṇṇoti vadathāti dīpeti.
403. 「主人となっては奴隷となり、奴隷となっては主人となる」とは、あるバラモンが妻を伴って商売を営み、ヨーナ国やカンボージャ国に行って没したとする。彼の家に成人した息子がいない場合、バラモン女は奴隷や使用人と交わる。一人の男子が生まれたとき、その男は奴隷のままであるが、生まれた男子は相続人となる。母方からは純粋だが父方からは不純である彼が商売を営み、中インドに行ってバラモンの娘を娶り、彼女の胎内に息子を得る。彼もまた母方からのみ純粋で父方からは不純である。このように、バラモンの教えそのものにおいて身分の混淆が生じるということを示すためにこれが説かれたのである。「何の力があり、何の慰めがあるのか」とは、あなたがたが奴隷となる地域では誰もが奴隷となり、主人となる地域では誰もが主人となるのであるから、このような状況において「バラモンこそが最上の階級である」とあなたがたが主張する根拠や頼みがどこにあるというのか、と明らかにしているのである。
404. Khattiyova nu khotiādayo suttacchedakavādā nāma honti.
404. 「クシャトリヤだけが……」などは、教説を論破するための論理と呼ばれるものである。
408. Idāni cātuvaṇṇisuddhiṃ dassento idha rājātiādimāha. Sāpānadoṇiyāti sunakhānaṃ pivanadoṇiyā. Aggikaraṇīyanti sītavinodanaandhakāravidhamanabhattapacanādi aggikiccaṃ. Ettha assalāyanāti ettha sabbasmiṃ aggikiccaṃ karonte.
408. 今や四種姓の清浄を示すために、世尊は「ここに王がいて」などを説かれた。「犬の飲み桶」とは、犬が水を飲むための桶のことである。「火の用をなす」とは、寒さをしのいだり、暗闇を払ったり、飯を炊いたりする火の用務のことである。「ここにおいて、アッサラーヤナよ」とは、これらすべてにおいて火の用務をなすとき、という意味である。
409. Idāni yadetaṃ brāhmaṇā cātuvaṇṇisuddhīti vadanti, ettha cātuvaṇṇāti niyamo natthi. Pañcamo hi pādasikavaṇṇopi atthīti saṃkhittena tesaṃ vāde dosadassanatthaṃ idha khattiyakumārotiādimāha. Tatra amutra ca panesānanti amusmiñca pana purimanaye etesaṃ māṇavakānaṃ kiñci nānākaraṇaṃ na passāmīti vadati. Nānākaraṇaṃ pana tesampi atthiyeva. Khattiyakumārassa hi brāhmaṇakaññāya uppanno khattiyapādasiko nāma, itaro brāhmaṇapādasiko nāma, ete hīnajātimāṇavakā.
409. 今やバラモンたちが四種姓の清浄と呼ぶものについて、そこには四種姓という決定的な限定はない。実に第五の足階級(混血階級)も存在するということを端的に示し、彼らの見解の過失を明らかにするために、「ここにクシャトリヤの若者がいて」などを説かれた。その中の「あちらでもこちらでも彼らの間に」とは、あちらでも、また先ほどの論理においても、これらの若者たちの間にいかなる相違も見出せない、と述べている。しかし、彼らにも相違はあるのである。クシャトリヤの若者がバラモンの乙女に生ませた子は「クシャトリヤ・パーダシカ(クシャトリヤの足分)」と呼ばれ、他方は「バラモン・パーダシカ」と呼ばれ、これらは卑しい生まれの若者たちである。
Evaṃ pañcamassa vaṇṇassa atthitāya cātuvaṇṇisuddhīti etesaṃ vāde dosaṃ dassetvā idāni puna cātuvaṇṇisuddhiyaṃ ovadanto taṃ kiṃ maññasītiādimāha. Tattha saddheti matakabhatte. Thālipāketi paṇṇākārabhatte. Yaññeti yaññabhatte. Pāhuneti āgantukānaṃ katabhatte. Kiṃ hīti kiṃ mahapphalaṃ bhavissati, no bhavissatīti dīpeti.
このように第五の階級が存在することによって「四種姓の清浄」という彼らの見解の過失を示したのち、今や再び四種姓の清浄について諭しつつ、「それをどう思うか」などを説かれた。その中の「祖霊祭において」とは、死者のための供養の食事において、という意味である。「ソーマ祭において」とは、捧げ物の供養の食事において、という意味である。「祭祀において」とは、祭祀の食事において、という意味である。「賓客へのもてなしにおいて」とは、来訪者のためになされた食事において、という意味である。「何が」とは、何が大いなる果報となるのか、あるいはならないのか、と明らかにしているのである。
410. Bhūtapubbanti assalāyana pubbe mayi jātiyā hīnatare tumhe seṭṭhatarā samānāpi mayā jātivāde pañhaṃ puṭṭhā sampādetuṃ na sakkhittha, idāni tumhe hīnatarā hutvā mayā seṭṭhatarena buddhānaṃ sake jātivādapañhaṃ puṭṭhā kiṃ sampādessatha? Na ettha cintā kātabbāti māṇavaṃ upatthambhento imaṃ desanaṃ ārabhi. Tattha asitoti kāḷako. Devaloti tassa nāmaṃ, ayameva bhagavā tena samayena. Paṭaliyoti gaṇaṅgaṇupāhanā. Patthaṇḍileti paṇṇasālapariveṇe. Ko nu khoti kahaṃ nu kho. Gāmaṇḍalarūpo viyāti gāmadārakarūpo viya. So khvāhaṃ, bho, homīti so ahaṃ, bho, asitadevalo homīti vadati. Tadā kira mahāsatto koṇḍadamako hutvā vicarati. Abhivādetuṃ upakkamiṃsūti vandituṃ upakkamaṃ akaṃsu. Tato paṭṭhāya ca vassasatikatāpasopi tadahujātaṃ brāhmaṇakumāraṃ avandanto koṇḍito hoti.
410. 「昔のことである」とは、アッサラーヤナよ、過去において私が生まれにおいてより卑しく、あなたがたがより優れていたときでさえ、私から生まれの説についての質問を問われて答えることができなかったのに、今やあなたがたがより卑しくなり、私こそが仏たちの優れた生まれの身となって、生まれの説の質問を問われたなら、どうして答えることができようか、ここでは思い悩むべきではない、と若きバラモンを勇気づけつつ、この教えを説き始められた。その中の「アシタ」とは、黒い者という意味である。「デーヴァラ」とは、彼の名であり、実に当時の世尊ご自身のことである。「履物」とは、集会で用いる靴のことである。「草庵の庭で」とは、草庵の周囲の庭において、という意味である。「どこにいるのか」とは、どこにいるのかということである。「村の子供の姿のように」とは、村の小児の姿のようである。「尊者よ、私こそがそれである」とは、尊者よ、私こそがあのアシタ・デーヴァラである、と述べている。当時、大士(ボーディサッタ)は曲芸師となって巡り歩いていたという。「礼拝しようと試みた」とは、礼拝する試みをしたということである。その時以来、百歳の修行者であっても、その日に生まれたばかりのバラモンの若者を礼拝しなければ、身体が曲がってしまうようになった。
411. Janikā mātāti yāya tumhe janitā, sā vo janikā mātā. Janikāmātūti janikāya mātu. Yo janakoti yo janako pitā. ‘‘Yo janiko pitāteva’’ vā pāṭho.
411. 「産みの母」とは、あなたがたを生んだ女性、それがあなたがたの産みの母である。「産みの母の」とは、産みの母の、ということである。「生みの父である者」とは、生みの父親のことである。「あるいは生みの父である者」という読みもある。
Asitenāti pañcābhiññena asitena devalena isinā imaṃ gandhabbapañhaṃ puṭṭhā na sampāyissanti. Yesanti yesaṃ sattannaṃ isīnaṃ. Na puṇṇo dabbigāhoti tesaṃ sattannaṃ isīnaṃ dabbiṃ gahetvā paṇṇaṃ pacitvā dāyako puṇṇo nāma eko ahosi, so dabbigahaṇasippaṃ jānāti. Tvaṃ sācariyako tesaṃ puṇṇopi na hoti, tena ñātaṃ dabbigahaṇasippamattampi na jānāsīti. Sesaṃ sabbattha uttānamevāti.
「アシタによって」とは、五神通を得た仙人アシタ・デーヴァラによって、このガンダッバ(中有の霊魂)に関する質問を問われたならば、答えることができないであろう、という意味である。「彼らの」とは、それら七人の仙人たちの、ということである。「柄杓を持つプンナですらなく」とは、それら七人の仙人たちのために柄杓を取って葉の汁を煮て供養していたプンナという一人の者がおり、彼は柄杓を取る作法を知っていた。師を伴うあなたがたはそのプンナにすら及ばず、彼が知っていた柄杓を取る作法すら知らない、ということである。残りの箇所はすべて明瞭である。
Ayaṃ pana assalāyano saddho ahosi pasanno, attano antonivesaneyeva cetiyaṃ kāresi. Yāvajjadivasā assalāyanavaṃse jātā nivesanaṃ kāretvā antonivesane cetiyaṃ karontevāti.
さて、このアッサラーヤナは確固たる信心と清らかな信を得て、自分の屋敷の内部に塔(チェーティヤ)を建立した。今日に至るまで、アッサラーヤナの血統に生まれた者たちは屋敷を建てると、その屋敷の中に塔を建立するのである。
Papañcasūdaniyā majjhimanikāyaṭṭhakathāya
『パパンチャ・スーダニー』(中部経典註解)において
Assalāyanasuttavaṇṇanā niṭṭhitā.
アッサラーヤナ経の註解は終了した。
4. Ghoṭamukhasuttavaṇṇanā
4. ゴータムカ経の註解
412. Evaṃ me sutanti ghoṭamukhasuttaṃ. Tattha khemiyambavaneti evaṃnāmake ambavane. Dhammiko paribbajoti dhammikā pabbajjā. Adassanāti tumhādisānaṃ vā paṇḍitānaṃ adassanena. Yo vā panettha dhammoti yo vā pana ettha dhammo sabhāvo, tasseva vā adassanena. Iminā ‘‘amhākaṃ kathā appamāṇaṃ, dhammova pamāṇa’’nti dasseti. Tato thero ‘‘navauposathāgāre viya bahunā kammena idha bhavitabba’’nti cintetvā caṅkamā oruyha paṇṇasālaṃ pavisitvā nisīdi. Taṃ dassetuṃ evaṃ vuttetiādi vuttaṃ.
412. 「このように私は聞いた」とはゴータムカ経である。その中の「ケーミヤのマンゴー林において」とは、そのような名のマンゴー林において、という意味である。「法にかなった出家」とは、正法にかなった出家のことである。「見出さないことによって」とは、あなたがたのような賢者を見出さないことによって、という意味である。あるいは「ここにおいて法とは」とは、ここにおける正法、すなわち本質を見出さないことによって、ということである。これによって「私たちの言葉は基準ではなく、法こそが基準である」ということを示している。そこで長老は「新築の布薩堂のように、ここでは多くの作業(対話)が必要になるだろう」と考えて、経行堂から降りて草庵に入り、着座した。それを示すために「このように言われたとき」などが説かれたのである。
413. Cattārome brāhmaṇāti therassa kira etadahosi – ‘‘ayaṃ brāhmaṇo ‘dhammikaṃ pabbajjaṃ upagato samaṇo vā brāhmaṇo vā natthī’ti vadati. Imassa cattāro puggale dve ca parisā dassetvā ‘catutthaṃ puggalaṃ katarāya parisāya bahulaṃ passasī’ti pucchissāmi, jānamāno ‘anāgāriyaparisāya’nti vakkhati. Evametaṃ sakamukheneva ‘dhammiko paribbajo atthī’ti vadāpessāmī’’ti imaṃ desanaṃ ārabhi.
413. 「これら四種のバラモン」とは、長老はこのように思念されたという。「このバラモンは『法にかなった出家をなした沙門やバラモンは存在しない』と言っている。彼に四種の人と二つの集いを提示し、『第四の人をどちらの集いにおいて多く見るか』と問うてみよう。彼は知る者であるから『出家の集いにおいて』と答えるだろう。このようにして彼自身の口から『法にかなった出家は存在する』と言わせるようにしよう」と。そしてこの説法を始められたのである。
414. Tattha sārattarattāti suṭṭhu rattarattā. Sānuggahā vācā bhāsitā sakāraṇā vācā bhāsitā. Vuttañhetaṃ mayā ‘‘amhākaṃ kathā appamāṇaṃ, dhammova pamāṇa’’nti.
414. その中の「深く執着した」とは、極めて強く愛着したことである。「恵み深き言葉が語られた」とは、道理にかなった言葉が語られたということである。私が「私たちの言葉は基準ではなく、法こそが基準である」と言ったのはまさにこのことである。
421. Kiṃ pana teti gihi nāma kappiyampi akappiyampi vadeyyāti vivecanatthaṃ pucchi. Kārāpesīti māpesi. Kārāpetvā ca pana kālaṃ katvā sagge nibbatto. Etassa kira jānanasippe mātarampi pitarampi ghātetvā attāva ghātetabboti āgacchati. Etaṃ sippaṃ jānanto ṭhapetvā etaṃ añño sagge nibbatto nāma natthi, esa pana theraṃ upanissāya puññaṃ katvā tattha nibbattitvā ca pana ‘‘kenāhaṃ kammena idha nibbatto’’ti āvajjetvā yathābhūtaṃ ñatvā ekadivasaṃ jiṇṇāya bhojanasālāya paṭisaṅkharaṇatthaṃ saṅghe sannipatite manussavesena āgantvā pucchi – ‘‘kimatthaṃ, bhante, saṅgho sannipatito’’ti? Bhojanasālāya paṭisaṅkharaṇatthanti. Kenesā kāritāti? Ghoṭamukhenāti. Idāni so kuhinti? Kālaṅkatoti. Atthi panassa koci ñātakoti? Atthi ekā bhaginīti. Pakkosāpetha nanti. Bhikkhū pakkosāpesuṃ. So taṃ upasaṅkamitvā – ‘‘ahaṃ, tava bhātā, ghoṭamukho nāma imaṃ sālaṃ kāretvā sagge nibbatto, asuke ca asuke ca ṭhāne mayā ṭhapitaṃ dhanaṃ atthi, taṃ gahetvā imañca bhojanasālaṃ kārehi, dārake ca posehī’’ti vatvā bhikkhusaṅghaṃ vanditvā vehāsaṃ uppatitvā devalokameva agamāsi. Sesaṃ sabbattha uttānamevāti.
421. 「しかしあなたのために」とは、在家者は適法なものも不適法なものも語り得るため、分別するために問うたのである。「造営させた」とは、建立させたということである。造営させてのち、彼は命を終えて天界に転生した。彼の知る技芸においては、母も父も殺害して自らも命を断つべきであると伝えられていたという。この技芸を知る者で、彼を除いて天界に転生した者は他に誰もいなかったが、彼は長老に拠って功徳を積み、天界に転生したのである。そして「私はどのような業によってここに生まれたのだろうか」と省みて、真実を知った。ある日、老朽化した食堂を修復するために僧伽が集まったとき、彼は人間の姿となって現れ、「尊者よ、何のために僧伽は集まっているのですか」と尋ねた。「食堂を修復するためである」と。「これは誰が造営したのですか」と。「ゴータムカである」と。「今、彼はどこにいるのですか」と。「亡くなられた」と。「彼に誰か親族はいますか」と。「妹が一任いる」と。「彼女を呼び寄せてください」と。比丘たちは彼女を呼び寄せた。彼は彼女のもとに近づき、「私はあなたの兄のゴータムカである。この堂を造営して天界に生まれた。某所と某所に私が隠しておいた財宝がある。それを取ってこの食堂を修復し、子供たちを養いなさい」と言い、比丘僧伽を礼拝して虚空に飛び立ち、天界へと帰っていった。残りの箇所はすべて明瞭である。
Papañcasūdaniyā majjhimanikāyaṭṭhakathāya
『パパンチャ・スーダニー』(中部経典註解)において
Ghoṭamukhasuttavaṇṇanā niṭṭhitā.
ゴータムカ経の註解は終了した。
5. Caṅkīsuttavaṇṇanā
5. チャーンキー経の註解
422. Evaṃ me sutanti caṅkīsuttaṃ. Tattha devavane sālavaneti tasmiṃ kira devatānaṃ balikammaṃ karīyati, tena taṃ devavanantipi sālavanantipi vuccati. Opāsādaṃ ajjhāvasatīti opāsādanāmake brāhmaṇagāme vasati, abhibhavitvā vā āvasati, tassa sāmī hutvā yāya mariyādāya tattha vasitabbaṃ, tāya mariyādāya vasati. Upasaggavasena panettha bhummatthe upayogavacanaṃ veditabbaṃ, tathassa anuppayogattāva sesapadesu. Tattha lakkhaṇaṃ saddasatthato pariyesitabbaṃ. Sattussadanti sattehi ussadaṃ ussannaṃ, bahujanaṃ ākiṇṇamanussaṃ posāvaniyahatthiassamoramigādianekasattasamākiṇṇañcāti attho. Yasmā pana so gāmo bahi āvijjhitvā jātena hatthiassādīnaṃ ghāsatiṇena ceva gehacchadanatiṇena ca sampanno, tathā dārukaṭṭhehi ceva gehasambhārakaṭṭhehi ca, yasmā cassa abbhantare vaṭṭacaturassādisaṇṭhānā bahū pokkharaṇiyo, jalajakusumavicittāni ca bahi anekāni taḷākāni vā udakassa niccabharitāneva honti, tasmā satiṇakaṭṭhodakanti vuttaṃ.
422. 「このように私は聞いた」とはチャーンキー経である。その中の「デーヴァ林のサラ林において」とは、そこでは神々への供儀が行われていたため、神の林ともサラ林とも呼ばれているのである。「オーパーサーダに住まう」とは、オーパーサーダという名のバラモンの村に住む、あるいは支配して住む、その領主となってそこに住むべき規範に従って住む、という意味である。ここでの接頭辞の働きによって処格の意味における対格の言葉と理解されるべきであり、他の箇所でも同様に用いられているからである。その特徴は文法書から探究されるべきである。「人々で満ちあふれた」とは、生き物たちで満ちあふれ、大衆が多く、人間が密集し、飼育される象、馬、孔雀、鹿などの数多くの生き物で満ちているという意味である。またその村は、外に広がって生える象や馬などの飼料となる草や屋根を葺く草に恵まれ、同様に薪や建築用材となる木材に恵まれ、その内部には円形や四角形などの多くの蓮池があり、外には水生の花々で彩られた多くの池があり、常に水に満ちていたことから、「草と木と水に富む」と言われたのである。
Saha dhaññena sadhaññaṃ, pubbaṇṇāparaṇṇādibhedaṃ bahudhaññasannicayanti attho. Ettāvatā yasmiṃ gāme brāhmaṇo setacchattaṃ ussāpetvā rājalīlāya vasati. Tassa samiddhisampatti dīpitā hoti. Rājato laddhaṃ bhoggaṃ rājabhoggaṃ. Kena dinnanti ce, raññā pasenadinā kosalena dinnaṃ. Rājadāyanti rañño dāyabhūtaṃ, dāyajjanti attho. Brahmadeyyanti seṭṭhadeyyaṃ, chattaṃ ussāpetvā rājasaṅkhepena bhuñjitabbanti attho. Atha vā rājabhogganti sabbaṃ chejjabhejjaṃ anusāsantena titthapabbatādīsu suṅkaṃ gaṇhantena setacchattaṃ ussāpetvā raññā hutvā bhuñjitabbaṃ. Tattha raññā pasenadinā kosalena dinnaṃ rājadāyanti. Ettha raññā dinnattā rājadāyaṃ, dāyakarājadīpanatthaṃ panassa ‘‘raññā pasenadinā kosalena dinna’’nti idaṃ vuttaṃ. Brahmadeyyanti seṭṭhadeyyaṃ, yathā dinnaṃ na puna gahetabbaṃ hoti nissaṭṭhapariccattaṃ, evaṃ dinnanti attho.
「穀物とともに」とは穀物を伴うことであり、主穀や雑穀などの多くの穀物の蓄えがあるという意味である。これによって、その村においてバラモンが白い日傘を掲げて王の威厳をもって住んでいたことが示される。その豊かさと繁栄が明らかにされている。「王より得られた所領」とは王の封土のことである。誰によって与えられたのかといえば、コーサラ国のパセーナディ王によって与えられたのである。「王の賜物」とは王の施与物であり、相続財産という意味である。「最上の賜物(ブラフマデーヤ)」とは優れた施与物であり、日傘を掲げて王に準ずる形で享受すべきものであるという意味である。あるいは「王の封土」とは、すべての処罰や赦免を裁決し、渡し場や山などで税を徴収し、白い日傘を掲げて王となって享受すべきものである。その中の「コーサラ国のパセーナディ王によって与えられた王の賜物」とは、王によって与えられたがゆえに王の賜物であり、施与者たる王を明らかにするために「コーサラ国のパセーナディ王によって与えられた」と述べられたのである。「最上の賜物」とは優れた施与物であり、一度与えられたならば二度と取り戻されることのない完全な譲渡として与えられた、という意味である。
423. Bahū bahū hutvā saṃhatāti saṅghā. Ekekissā disāya saṅgho tesaṃ atthīti saṅghī. Pubbe gāmassa anto agaṇā bahi nikkhamitvā gaṇā sampannāti gaṇībhūtā. Uttarenamukhāti uttaradisābhimukhā. Khattaṃ āmantesīti khattā vuccati pucchitapañhabyākaraṇasamattho mahāmatto, taṃ āmantesi. Āgamentūti muhuttaṃ paṭimānentu, acchantūti vuttaṃ hoti.
423. 「多く集まって結集した者たち」とは集団のことである。それぞれの地域に彼らの集団があるゆえに「集団を持つ者」という。「以前は」村の中にいて集団をなしていなかったが、外に出て集団となったので「集団をなした」という。「北を向いた」とは北の方角を向いたことである。「側近(門衛)に声をかけた」とは、問われた質問に答える能力のある高官を側近と呼び、彼に声をかけたのである。「待たせよ」とは、しばらく待たせよ、控えさせよと言われたのである。
424. Nānāverajjakānanti nānāvidhesu rajjesu aññesu kāsikosalādīsu jātā vā nivasanti vā, tato vā āgatāti nānāverajjakā, tesaṃ nānāverajjakānaṃ. Kenacidevāti aniyamitena yaññupāsanādinā kenaci kiccena. Te tassa gamanaṃ sutvā cintesuṃ – ‘‘ayaṃ, caṅkī, uggatabrāhmaṇo, yebhuyyena ca aññe brāhmaṇā samaṇaṃ gotamaṃ saraṇaṃ gatā, ayameva na gato. Svāyaṃ sace tattha gamissati, addhā samaṇassa gotamassa āvaṭṭaniyā māyāya āvaṭṭito saraṇaṃ gamissati. Tato etassāpi gehadvāre brāhmaṇānaṃ asannipāto bhavissati. Handassa gamanantarāyaṃ karomā’’ti sammantayitvā tattha agamaṃsu. Taṃ sandhāya ‘‘atha kho te brāhmaṇā’’tiādi vuttaṃ.
424. 「異国の」とは、カーシー国やコーサラ国などの様々な他の国々で生まれたり住んでいたり、あるいはそこからやって来た者たちのことであり、それらの異国の人々の、という意味である。「何らかの」とは、祭祀の礼拝などの定まっていない所用によって、という意味である。彼らは彼の出発を聞いてこう考えた。「このチャーンキーは高名なバラモンであり、大半の他のバラモンたちは沙門ゴータマに帰依したが、彼だけはまだ帰依していない。もし彼がそこに行くならば、間違いなく沙門ゴータマの魅惑の術によって引き込まれ、帰依してしまうだろう。そうなれば彼の家の門前にもバラモンたちが集まらなくなってしまう。さあ、彼の出発を妨害しよう」と相談してそこへやって来た。それを指して「そこでそれらのバラモンたちは」などが説かれたのである。
Tattha ubhatoti dvīhi pakkhehi. Mātito ca pitito cāti, bhoto mātā brāhmaṇī, mātumātā brāhmaṇī, tassāpi mātā brāhmaṇī. Pitā brāhmaṇo, pitupitā brāhmaṇo, tassapi pitā brāhmaṇoti. Evaṃ bhavaṃ ubhato sujāto, mātito ca pitito ca. Saṃsuddhagahaṇikoti saṃsuddhā te mātu gahaṇī, saṃsuddhā te mātu kucchīti attho. Yāva sattamā pitāmahayugāti ettha pitu pitā pitāmaho, pitāmahassa yugaṃ pitāmahayugaṃ. Yuganti āyuppamāṇaṃ vuccati. Abhilāpamattameva cetaṃ, atthato pana pitāmahova pitāmahayugaṃ. Tato uddhaṃ sabbepi pubbapurisā pitāmahaggahaṇeneva gahitā. Evaṃ yāva sattamo puriso, tāva saṃsuddhagahaṇiko. Atha vā akkhitto anupakuṭṭho jātivādenāti dasseti. Akkhittoti apanetha etaṃ, kiṃ imināti evaṃ akkhitto anavakkhitto. Anupakkuṭṭhoti na upakuṭṭho, na akkosaṃ vā nindaṃ vā pattapubbo. Kena kāraṇenāti. Jātivādena, itipi hīnajātiko esoti evarūpena vacanenāti attho. Imināpaṅgenāti imināpi kāraṇena.
その中の「双方から」とは二つの血統から、という意味である。「母方からも父方からも」とは、尊者の母はバラモン女であり、母の母もバラモン女であり、その母もまたバラモン女である。父はバラモンであり、父の父もバラモンであり、その父もまたバラモンである。このように尊者は母方からも父方からも双方ともに正統な生まれである。「胎内が極めて清浄である」とは、あなたの母の胎内が清浄であり、母の子宮が清浄であるという意味である。「七代前の祖父母の世代に至るまで」とは、父の父が祖父であり、祖父の世代が祖父母の世代である。世代とは寿命の長さをいう。これは単なる表現にすぎず、意味の上では祖父こそが祖父の世代である。それ以前のすべての先祖たちも祖父という表現に含まれる。このように七代目の先祖に至るまで、胎内が極めて清浄である。「あるいは生まれの論争によって非難されず、誹謗されない」ということを示している。「非難されない」とは、「これを排除せよ、このような者に何の意味があるのか」とそのように排斥されず、軽んじられないことである。「誹謗されない」とは、非難されず、かつて罵詈や嘲笑を受けたことがないことである。いかなる理由によってか? 生まれの論争によって、すなわち「こいつは卑しい生まれの者だ」というような言葉によって、という意味である。「この特質によっても」とは、この理由によっても、ということである。
Aḍḍhoti issaro. Mahaddhanoti mahatā dhanena samannāgato. Bhoto hi gehe pathaviyaṃ paṃsuvālikā viya bahu dhanaṃ, samaṇo pana gotamo adhano bhikkhāya udaraṃ pūretvā yāpetīti dassenti. Mahābhogoti pañcakāmaguṇavasena mahāupabhogo. Evaṃ yaṃ yaṃ guṇaṃ vadanti, tassa tassa paṭipakkhavasena bhagavato aguṇaṃyeva dassemāti maññamānā vadanti.
「富裕な」とは有力なことである。「大いなる富を持つ」とは大いなる富を具足していることである。尊者の家には大地の土や砂のように多くの富があるが、沙門ゴータマは富を持たず、托鉢によって腹を満たして暮らしているのだと示している。「大いなる享楽を持つ」とは五つの欲望の対象による大いなる享受のことである。このように彼らが美徳を語るたびに、それに対比させて世尊の非難すべき点をこそ示そうと考えて語っているのである。
Abhirūpoti aññehi manussehi adhikarūpo. Dassanīyoti divasampi passantānaṃ atittikaraṇato dassanayoggo, dassaneneva cittapasādajananato pāsādiko. Pokkharatā vuccati sundarabhāvo, vaṇṇassa pokkharatā vaṇṇapokkharatā, tāya vaṇṇapokkharatāya, vaṇṇasampattiyāti attho. Porāṇā pana pokkharanti sarīraṃ vadanti, vaṇṇaṃ vaṇṇameva. Tesaṃ matena vaṇṇo ca pokkharañca vaṇṇapokkharāni, tesaṃ bhāvo vaṇṇapokkharatā. Iti paramāya vaṇṇapokkharatāyāti uttamaparisuddhena vaṇṇena ceva sarīrasaṇṭhānasampattiyā cāti attho. Brahmavaṇṇīti seṭṭhavaṇṇī, parisuddhavaṇṇesupi seṭṭhena suvaṇṇavaṇṇeneva samannāgatoti attho. Brahmavacchasīti mahābrahmuno sarīrasadisena sarīrena samannāgato. Akhuddāvakāso dassanāyāti bhoto sarīre dassanassa okāso na khuddako mahā. Sabbāneva te aṅgapaccaṅgāni dassanīyāneva, tāni cāpi mahantānevāti dīpeti.
「容姿端麗な」とは他の人間たちより優れた姿のことである。「見るに値する」とは一日中見ていても飽きることがないゆえに見るにふさわしく、見るだけで心に清らかな信を生じさせるゆえに端正であることである。美しさのことを容色といい、容貌の美しさを容貌端麗といい、その容貌端麗によって、すなわち容姿の完成によって、という意味である。古の師たちは美しさを身体といい、容色を文字通りの色という。彼らの見解によれば容色と美しさが容貌端麗であり、それらの状態が容貌の美しさである。このように「最上の容色と美しさによって」とは、最上に清らかな容色と身体の形態の完成によって、という意味である。「梵天のような容色を持つ」とは最上の容色を持つことであり、清らかな容色の中でも最上の黄金の容色を具足しているという意味である。「梵天のような威厳を持つ」とは大梵天の身体に似た身体を具足していることである。「見目麗しく偉大である」とは、尊者の身体において見るべき箇所は小さくなく偉大であるということである。あなたの身体の手足のすべてが見るに値するものであり、それらはまた偉大でもあるということを明らかにしている。
Sīlamassa atthīti sīlavā. Vuddhaṃ vaḍḍhitaṃ sīlamassāti vuddhasīlī. Vuddhasīlenāti vuddhena vaḍḍhitena sīlena. Samannāgatoti yutto, idaṃ vuddhasīlīpadasseva vevacanaṃ. Sabbametaṃ pañcasīlamattameva sandhāya vadanti.
「戒を持つ」とは戒があることである。「戒が増大した」とは戒が増し育ったことである。「増大した戒によって」とは増し育った戒によって、という意味である。「具足した」とは備わっていることであり、これは増大した戒という言葉の同義語である。これらすべては単に五戒のみを指して語っているのである。
Kālyāṇavācotiādīsu kalyāṇā sundarā parimaṇḍalapadabyañjanā vācā assāti kalyāṇavāco. Kalyāṇaṃ madhuraṃ vākkaraṇaṃ assāti kalyāṇavākkaraṇo. Vākkaraṇanti udāharaṇaghoso. Guṇaparipuṇṇabhāvena pure bhavāti porī. Pure vā bhavattā porī. Nāgarikitthiyā sukhumālattanena sadisātipi porī. Tāya poriyā. Vissaṭṭhāyāti apalibuddhāya, sandiṭṭhavilambitādidosarahitāya. Anelagalāyāti elagalena virahitāya. Ekaccassa hi kathentassa elaṃ galati, lālā vā paggharati, kheḷaphusitāni vā nikkhamanti, tassa vācā elagalā nāma hoti. Tabbiparitāyāti attho. Atthassa viññāpaniyātiādimajjhapariyosānaṃ pākaṭaṃ katvā bhāsitatthassa viññāpanasamatthāya. Sesamettha brāhmaṇavaṇṇe uttānameva.
「美しき言葉を語る」などにおいて、美しく優れ、円満な句と表現を持つ言葉であるゆえに「美しき言葉を語る」という。美しく甘美な発声を持つゆえに「美しき発声を持つ」という。発声とは音声を明瞭に出すことである。徳が満ち足りていることによって「都の(洗練された)」という。あるいは都で生じたものであるから都の言葉という。都会の女性の優美さに似ていることから都の言葉ともいう。その都の言葉によって。「淀みのない」とは滞りのない、理解しがたさや遅延などの過失を離れた言葉によって、という意味である。「明瞭な」とは濁りのないことである。ある者は語る際に言葉が濁ったり、唾液が垂れたり、飛沫が飛んだりするが、彼の言葉は濁りと呼ばれる。それとは反対であるという意味である。「意味を理解させる」とは初め・中・終わりを明確にして語られた意味を理解させることができる、という意味である。このバラモンの称賛における残りの部分は明瞭である。
425. Evaṃ vutteti evaṃ tehi brāhmaṇehi vutte, caṅkī, ‘‘ime brāhmaṇā attano vaṇṇe vuccamāne atussanakasatto nāma natthi, vaṇṇamassa bhaṇitvā nivāressāmāti jātiādīhi mama vaṇṇaṃ vadanti, na kho pana me yuttaṃ attano vaṇṇe rajjituṃ. Handāhaṃ etesaṃ vādaṃ bhinditvā samaṇassa gotamassa mahantabhāvaṃ ñāpetvā etesaṃ tattha gamanaṃ karomī’’ti cintetvā tena hi, bho, mamāpi suṇāthātiādimāha. Tattha yepi ‘‘ubhato sujāto’’tiādayo attano guṇehi sadisā guṇā, tepi ‘‘ko cāhaṃ, ke ca samaṇassa gotamassa jātisampattiādayo guṇā’’ti attano guṇehi uttaritareyeva maññamāno, itare pana ekanteneva bhagavato mahantabhāvadīpanatthaṃ pakāseti. Mayameva arahāmāti evaṃ niyamento cettha idaṃ dīpeti – yadi guṇamahantatāya upasaṅkamitabbo nāma hoti, yathā sineruṃ upanidhāya sāsapo, mahāsamuddaṃ upanidhāya gopadakaṃ, sattasu mahāsaresu udakaṃ upanidhāya ussāvabindu paritto lāmako, evamevaṃ samaṇassa gotamassa jātisampattiādayo guṇe upanidhāya amhākaṃ guṇā parittā lāmakā, tasmā mayameva arahāma taṃ bhavantaṃ gotamaṃ dassanāya upasaṅkamitunti.
425. 「このように言われたとき」とは、それらのバラモンたちによってこのように言われたとき、チャーンキーは「これらのバラモンたちは、自らの美徳が語られるときに喜ばない者はいないゆえに、彼の美徳を語って思いとどまらせようと、生まれなどを挙げて私の美徳を語っている。しかし私が自らの美徳に執着するのは正しくない。さあ、私は彼らの見解を打ち破り、沙門ゴータマの偉大さを知らせて、彼らをあそこへ赴かせよう」と考え、「それならば、尊者たちよ、私の言葉も聞きなさい」などを語った。その中で「双方から正統な生まれ」などの自らの特質に似た美徳についても、「私とは何者か、沙門ゴータマの生まれの完成などの美徳とは何者か」と自らの特質よりも遥かに優れたものとして捉え、その他の特質についてはもっぱら世尊の偉大さを明らかにするために説き示した。「私たちこそが行くにふさわしい」とこのように限定してここで明らかにしていることは――もし美徳の偉大さによって参ずべきであるとするならば、スメール山に比しての芥子粒のように、大海に比しての牛の足跡の水のように、七つの大湖の水に比しての露の雫のように、私たちの美徳はわずかで取るに足らないものである。同様に沙門ゴータマの生まれの完成などの美徳に比して、私たちの美徳はわずかで取るに足らないものである。それゆえ、私たちこそがあの尊者ゴータマにお会いするために参ずるにふさわしい、ということである。
Bhūmigatañca vehāsaṭṭhañcāti ettha rājaṅgaṇe ceva uyyāne ca sudhāmaṭṭhā pokkharaṇiyo sattaratanapūriṃ katvā bhūmiyaṃ ṭhapitaṃ dhanaṃ bhūmigataṃ nāma, pāsādaniyūhādayo pana pūretvā ṭhapitaṃ vehāsaṭṭhaṃ nāma. Evaṃ tāva kulapariyāyena āgataṃ. Tathāgatassa pana jātadivaseyeva saṅkho elo uppalo puṇḍarīkoti cattāro nidhayo upagatā. Tesu saṅkho gāvutiko, elo aḍḍhayojaniko, uppalo tigāvutiko puṇḍarīko yojanikoti. Tesupi gahitagahitaṭṭhānaṃ pūratiyeva. Iti bhagavā pahūtaṃ hiraññasuvaṇṇaṃ ohāya pabbajitoti veditabbo. Daharo vātiādīni heṭṭhā vitthāritāneva.
「地下にあるものも空中に蓄えられたものも」において、王宮の庭や遊園において漆喰で塗り固められた池を満たす七宝として大地に埋め置かれた富を「地下にあるもの」といい、宮殿の高殿などを満たして置かれたものを「空中に蓄えられたもの」という。これはまず家系に伝わるものについてである。しかし如来には生誕の当日にシャンカ、エーラ、ウッパラ、プンダリーカという四つの宝蔵が現れた。それらの中でシャンカは一ガーヴタ、エーラは半ヨージャナ、ウッパラは三ガーヴタ、プンダリーカは一ヨージャナの広さであった。それらは取っても取ってもその場所が再び満たされるのであった。このように世尊は莫大な金銀財宝を捨てて出家されたと知るべきである。「若くして」などは前述の通りである。
Akhuddāvakāsoti ettha bhagavati aparimāṇoyeva dassanāvakāsoti veditabbo. Tatridaṃ vatthuṃ – rājagahe kira aññataro brāhmaṇo ‘‘samaṇassa kira gotamassa pamāṇaṃ gahetuṃ na sakkā’’ti sutvā bhagavato piṇḍāya pavisanakāle saṭṭhihatthaṃ veḷuṃ gahetvā nagaradvārassa bahi ṭhatvā sampatte bhagavati veḷuṃ gahetvā samīpe aṭṭhāsi, veḷu bhagavato jāṇumattaṃ pāpuṇi. Punadivase dve veḷū ghaṭetvā samīpe aṭṭhāsi, bhagavā dvinnaṃ veḷūnaṃ upari dviveṇumattameva paññāyamāno, ‘‘brāhmaṇa, kiṃ karosī’’ti āha? Tumhākaṃ pamāṇaṃ gaṇhāmīti. ‘‘Brāhmaṇa, sacepi tvaṃ sakalacakkavāḷagabbhaṃ pūretvā ṭhitaveḷuṃ ghaṭetvā āgamissasi, neva me pamāṇaṃ gahetuṃ sakkhissasi. Na hi mayā cattāri asaṅkhyeyyāni kappasatasahassañca tathā pāramiyo pūritā, yathā me paro pamāṇaṃ gaṇheyya, atulo brāhmaṇa, tathāgato appameyyo’’ti vatvā dhammapade gāthamāha. Gāthāpariyosāne caturāsītipāṇasahassāni amataṃ piviṃsu.
「見目麗しく偉大である」とは、世尊においては見るべき姿が無量であると知るべきである。これについてのエピソードがある――王舎城であるバラモンが「沙門ゴータマの身長は測ることができないそうだ」と聞き、世尊が托鉢に入られる時に六十肘(約27メートル)の竹竿を持って城門の外に立ち、世尊が到着された時に竹竿を持って傍らに立ったところ、竹竿は世尊の膝の高さにしかならなかった。翌日、二本の竹竿を繋ぎ合わせて傍らに立ったが、世尊は二本の竹竿の上になお二本の竹竿の高さほどに見えられた。「バラモンよ、何をしているのか」と問われると、「あなた様の身長を測っているのです」と答えた。「バラモンよ、たとえそなたが全輪廻の世界を満たすほどの竹竿を繋ぎ合わせて来ようとも、決して私の身長を測ることはできないだろう。私は他者が私の身長を測ることができるような形で四阿僧祇十万劫のあいだ諸波羅蜜を満たしたのではない。バラモンよ、如来は無比であり、測り知れないのである」と語って、法句経の詩偈を説かれた。詩偈の終わりに八万四千の生きとし生ける者たちが不死(解脱)を味わった。
Aparampi vatthu – rāhu kira asurindo cattāri yojanasahassāni aṭṭha ca yojanasatāni ucco, bāhantaramassa dvādasayojanasatāni, hatthatalapādatalānaṃ puthulatā tīṇi yojanasatāni, aṅgulipabbāni paṇṇāsayojanāni, bhamukantaraṃ paṇṇāsayojanaṃ, nalāṭaṃ tiyojanasataṃ, sīsaṃ navayojanasataṃ. So – ‘‘ahaṃ uccosmi, satthāraṃ onamitvā oloketuṃ na sakkhissāmī’’ti na gacchati. So ekadivasaṃ bhagavato vaṇṇaṃ sutvā ‘‘yathā kathañca olokessāmī’’ti āgato. Bhagavā tassa ajjhāsayaṃ viditvā ‘‘catūsu iriyāpathesu katarena dassemī’’ti cintetvā ‘‘ṭhitako nāma nīcopi ucco viya paññāyati, nipannovassa attānaṃ dassessāmī’’ti, ‘‘ānanda, gandhakuṭipariveṇe mañcakaṃ paññāpehī’’ti vatvā tattha sīhaseyyaṃ kappesi. Rāhu āgantvā nipannaṃ bhagavantaṃ gīvaṃ unnāmetvā nabhamajjhe puṇṇacandaṃ viya ulloketi. Kimidaṃ asurindāti ca vutte, bhagavā onamitvā oloketuṃ na sakkhissāmīti na gacchinti. Na mayā asurinda adhomukhena pāramiyo pūritā, uddhaggaṃ me katvā dānaṃ dinnanti. Taṃdivasaṃ rāhu saraṇaṃ agamāsi. Evaṃ bhagavā akhuddāvakāso dassanāya.
もう一つのエピソードがある――阿修羅王ラーフラは身長が四千八百ヨージャナあり、両腕の間は千二百ヨージャナ、手のひらと足の裏の幅は三百ヨージャナ、指の節は五十ヨージャナ、眉の間は五十ヨージャナ、額は三百ヨージャナ、頭は九百ヨージャナあった。彼は「私は背が高いので、師を見下ろして見つめることはできないだろう」と思って行かなかった。彼はある日、世尊の美徳を聞いて「なんとかして見てみよう」とやって来た。世尊は彼の心情を知り、「四つの姿勢のうちどれで示そうか」と考えられ、「立っている者は低くても高く見えるものである。横たわっている姿を見せてやろう」と、「アーナンダよ、香房の庭に寝台を用意しなさい」と言って、そこで獅子の横臥をなされた。ラーフラがやって来て、横たわっておられる世尊を見上げると、首を高く伸ばして天の真ん中にある満月を見上げるかのようであった。「阿修羅王よ、どうしたのか」と問われると、「世尊よ、見下ろして見つめることができないと思って来なかったのです」と答えた。「阿修羅王よ、私は下を向いて諸波羅蜜を満たしたのではない。私は上を向いて施しをなしたのだ」と言われた。その日、ラーフラは帰依した。このように世尊は見目麗しく偉大であられる。
Catupārisuddhisīlena sīlavā. Taṃ pana sīlaṃ ariyaṃ uttamaṃ parisuddhaṃ, tenāha ariyasīlīti. Tadeva anavajjaṭṭhena kusalaṃ, tenāha kusalasīlīti. Kusalena sīlenāti idamassa vevacanaṃ. Bahūnaṃ ācariyapācariyoti bhagavato ekekāya dhammadesanāya caturāsītipāṇasahassāni aparimāṇāpi devamanussā maggaphalāmataṃ pivanti. Tasmā bahūnaṃ ācariyo, sāvakavineyyānaṃ pācariyoti.
四種清浄戒によって戒を持つ者である。その戒は聖なるものであり、最上で清らかなものであるゆえに「聖なる戒を持つ」という。それ自体が無過失という意味で善であるゆえに「善き戒を持つ」という。「善き戒によって」とはこれの同義語である。「多くの者たちの師であり大師である」とは、世尊の一度の説法によって八万四千の、また無量の神々と人間たちが道と果の不死を味わう。それゆえ多くの者たちの師であり、弟子たちや教化される者たちの大師なのである。
Khīṇakāmarāgoti ettha kāmaṃ bhagavato sabbepi kilesā khīṇā, brāhmaṇo pana te na jānāti, attano jānanaṭṭhāneyeva guṇaṃ katheti. Vigatacāpalloti ‘‘pattamaṇḍanā cīvaramaṇḍanā senāsanamaṇḍanā imassa vā pūtikāyassa…pe… kelanā paṭikelanā’’ti evaṃ vuttacāpalyavirahito.
「愛欲の貪りを滅ぼした」において、確かに世尊はすべての煩悩を滅ぼしておられるが、バラモンはそれを知らず、自らの知る範囲において美徳を語っている。「軽躁さを離れた」とは、「鉢を飾ること、衣を飾ること、宿所を飾ること、あるいはこの腐敗した身体を……(中略)……愛玩し執着すること」と説かれる軽躁さを離れていることである。
Apāpapurekkhāroti apāpe navalokuttaradhamme purato katvā vicarati. Brahmaññāya pajāyāti sāriputtamoggallānamahākassapādibhedāya brāhmaṇapajāya. (Aviruddho hi so) etissāya pajāya purekkhāro. Ayañhi pajā samaṇaṃ gotamaṃ purato katvā caratīti attho. Apica apāpapurekkhāroti na pāpupurekkhāro, na pāpaṃ purato katvā carati, pāpaṃ na icchatīti attho. Kassa? Brahmaññāya pajāya attanā saddhiṃ paṭiviruddhāyapi brāhmaṇapajāya aviruddho hitasukhatthikoyevāti vuttaṃ hoti.
「悪を排した」とは、悪なき九つの出世間法を重んじて歩まれることである。「バラモンを敬う人々に」とは、サーリプッタ、モッガッラーナ、マハーカッサパなどに代表されるバラモンの人々に、ということである。(彼は怨みを持たないゆえに)この人々にとって敬うべき対象である。実にこの人々は沙門ゴータマを先頭に立てて歩むという意味である。さらに「悪を排した」とは、悪を重んじる者ではなく、悪を重んじて歩むことなく、悪を望まないという意味である。誰に対してか? バラモンを敬う人々、すなわち自らに対して敵対するバラモンの人々に対しても怨みを持たず、利益と幸福を望む者である、と説かれているのである。
Tiroraṭṭhāti pararaṭṭhato. Tirojanapadāti parajanapadato. Saṃpucchituṃ āgacchantīti khattiyapaṇḍitādayo ceva brāhmaṇagandhabbādayo ca pañhe abhisaṅkharitvā pucchissāmāti āgacchanti. Tattha keci pucchāya vā dosaṃ vissajjanasampaṭicchane vā asamatthataṃ sallakkhetvā apucchitvāva tuṇhī nisīdanti, keci pucchanti, kesañci bhagavā pucchāya ussāhaṃ janetvā vissajjeti. Evaṃ sabbesampi tesaṃ vimatiyo tīraṃ patvā mahāsamuddassa ūmiyo viya bhagavantaṃ patvāva bhijjanti. Sesamettha tathāgatassa vaṇṇe uttānameva.
「他国から」とは他の国から、「他地方から」とは他の地方から、という意味である。「質問するためにやって来る」とは、クシャトリヤの賢者たちやバラモンの学者たちなどが問いを準備して質問しようとやって来る。その中で、ある者は問いの不備や回答を理解する能力のなさを自覚して質問もせずに沈黙して座し、ある者は質問し、ある者には世尊が質問への意欲を起こさせて回答される。このように彼らすべての疑念は、岸に達した大海の波のように、世尊に達して打ち砕かれるのである。この如来の称賛における残りの部分は明瞭である。
Atithī no te hontīti te amhākaṃ āgantukā navakā pāhunakā hontīti attho. Pariyāpuṇāmīti jānāmi. Aparimāṇavaṇṇoti tathārūpeneva sabbaññunāpi appameyyavaṇṇo, pageva mādisenāti dasseti. Vuttampi cetaṃ –
「彼らは私たちの賓客である」とは、彼らは私たちの訪問者であり、新参者であり、客であるという意味である。「完全に知っている」とは熟知していることである。「無量の美徳を持つ」とは、そのような一切智者であっても測り知れない美徳を持つのであり、まして私のような者においては言うまでもない、と示している。これについても次のように説かれている――
‘‘Buddhopi buddhassa bhaṇeyya vaṇṇaṃ,
「たとえ仏が仏の美徳を語り、
Kappampi ce aññamabhāsamāno;
一劫の間、他のことを語らなくとも、
Khīyetha kappo ciradīghamantare,
その途中で永く遥かなる劫は尽きようとも、
Vaṇṇo na khīyetha tathāgatassā’’ti.
如来の美徳は尽きることがない」と。
Imaṃ pana guṇakathaṃ sutvā te brāhmaṇā cintayiṃsu ‘‘yathā, caṅkī, samaṇassa gotamassa vaṇṇaṃ bhāsati, anomaguṇo so bhavaṃ gotamo, evaṃ tassa guṇe jānamānena kho pana iminā aticiraṃ adhivāsitaṃ, handa naṃ anuvattāmā’’ti anuvattamānā ‘‘tena hi, bho’’tiādimāhaṃsu.
この美徳の言葉を聞いて、それらのバラモンたちは考えた。「チャーンキーが沙門ゴータマの美徳を語る通り、尊者ゴータマは並外れた美徳を持つお方である。このように彼の美徳を知りながら、この方はあまりに長く留まっていたのだ。さあ、彼に従おう」と、従いつつ「それならば、尊者よ」などを言ったのである。
426. Opātetīti paveseti. Saṃpurekkharontīti puttamattanattamattampi samānaṃ purato katvā vicaranti.
426. 「導き入れる」とは入らせることである。「敬う」とは息子ほどや孫ほどの者であっても先頭に立てて歩むことである。
427. Mantapadanti mantāyeva mantapadaṃ, vedoti attho. Itihitiha paramparāyāti evaṃ kira evaṃ kirāti paramparabhāvena āgatanti dīpeti. Piṭakasampadāyāti pāvacanasaṅkhātasampattiyā. Sāvittiādīhi chandabandhehi ca vaggabandhehi ca sampādetvā āgatanti dasseti. Tattha cāti tasmiṃ mantapade. Pavattāroti pavattayitāro. Yesanti yesaṃ santakaṃ. Mantapadanti vedasaṅkhātaṃ mantameva. Gītanti aṭṭhakādīhi dasahi porāṇakabrāhmaṇehi padasampattivasena sajjhāyitaṃ. Pavuttanti aññesaṃ vuttaṃ, vācitanti attho. Samihitanti samupabyūḷhaṃ rāsikataṃ, piṇḍaṃ katvā ṭhapitanti attho. Tadanugāyantīti etarahi brāhmaṇā taṃ tehi pubbe gītaṃ anugāyanti anusajjhāyanti vādenti. Tadanubhāsantīti taṃ anubhāsanti, idaṃ purimasseva vevacanaṃ. Bhāsitamanubhāsantīti tehi bhāsitaṃ sajjhāyitaṃ anusajjhāyanti. Vācitamanuvācentīti tehi aññesaṃ vācitaṃ anuvācenti. Seyyathidanti te katameti attho. Aṭṭhakotiādīni tesaṃ nāmāni, te kira dibbena cakkhunā oloketvā parūpaghātaṃ akatvā kassapasammāsambuddhassa bhagavato pāvacanena saha saṃsandetvā mante ganthesuṃ, aparāpare pana brāhmaṇā pāṇātipātādīni pakkhipitvā tayo vede bhinditvā buddhavacanena saddhiṃ viruddhe akaṃsu.
427. 「呪句」とは呪文そのものが呪句であり、ヴェーダという意味である。「伝承の伝統によって」とは『このように伝えられている、このように伝えられている』と代々の伝承として伝わったことを明らかにしている。「聖典の完成によって」とは教説と呼ばれる完成によって、という意味である。サーヴィッティーなどの韻律の詩句や章節の集成として整えられて伝わったことを示している。その中の「それにおいて」とはその呪句において、ということである。「創作者たち」とは広めた者たちのことである。「彼らの」とは彼らに属する、ということである。「呪句」とはヴェーダと呼ばれる呪文そのものである。「歌われた」とはアッタカら十人の古のバラモンたちによって語句の完成に従って読誦されたことである。「説かれた」とは他者に語られた、教えられたという意味である。「集められた」とは集積され、積み重ねられ、ひとまとめに置かれたという意味である。「それに倣って歌う」とは、現在のバラモンたちが、かつて彼らによって歌われたものを倣って歌い、倣って読誦し、唱えることである。「それに倣って唱える」とは、それに倣って唱えることであり、これは前の言葉の同義語である。「語られたものを倣って語る」とは、彼らによって語られ読誦されたものを倣って読誦することである。「教えられたものを倣って教える」とは、彼らによって他者に教えられたものを倣って教えることである。「すなわちこれらは」とは、彼らとは誰かという意味である。「アッタカ」などは彼らの名であり、彼らは天眼をもって観察し、他者を害することなく、カッサパ正等覚者たる世尊の教えと照らし合わせて呪文を編纂したが、後世のバラモンたちは殺生などを挿入して三つのヴェーダを損ない、仏陀の言葉と対立するものにしてしまったのである。
428. Andhaveṇīti andhapaveṇī. Ekena hi cakkhumatā gahitayaṭṭhiyā koṭiṃ eko andho gaṇhāti, taṃ andhaṃ añño, taṃ aññoti evaṃ paṇṇāsa saṭṭhi andhā paṭipāṭiyā ghaṭitā andhaveṇīti vuccati. Paramparāsaṃsattāti aññamaññaṃ laggā, yaṭṭhiggāhakenapi cakkhumatā virahitāti attho. Eko kira dhutto andhagaṇaṃ disvā ‘‘asukasmiṃ nāma gāme khajjabhojjaṃ sulabha’’nti ussāhetvā tehi ‘‘tattha no sāmi nehi, idaṃ nāma te demā’’ti vutte lañjaṃ gahetvā antarāmagge maggā okkamma mahantaṃ gacchaṃ anuparigantvā purimassa hatthena pacchimassa kacchaṃ gaṇhāpetvā ‘‘kiñci kammaṃ atthi, gacchatha tāva tumhe’’ti vatvā palāyi. Te divasampi gantvā maggaṃ avindamānā ‘‘kahaṃ, bho, cakkhumā kahaṃ maggo’’ti paridevitvā maggaṃ avindamānā tattheva mariṃsu. Te sandhāya vuttaṃ ‘‘paramparāsaṃsattā’’ti. Purimopīti purimesu dasasu brāhmaṇesu ekopi. Majjhimopīti majjhe ācariyapācariyesu ekopi. Pacchimopīti idāni brāhmaṇesu ekopi.
428. 「盲人の列」とは盲人の連なりのことである。一人の目の見える者が持った杖の端を一人の盲人が掴み、その盲人を別の者が、その者をまた別の者がと、このように五十人、六十人の盲人が順番に連なったものを盲人の列という。「前後に連なった」とは互いに結びつき、杖を持つ目の見える者すら欠いているという意味である。ある詐欺師が盲人の集団を見て「某という村には食べ物が豊富にある」と唆し、彼らから「旦那よ、私たちをそこへ連れて行ってください。これだけのものを差し上げます」と言われて賄賂を受け取り、途中で道から外れて大きな藪の周りをぐるりと回り、先頭の者の手で最後尾の者の脇腹を掴ませ、「少し用事がある。お前たちは先に行け」と言って逃げ去った。彼らは一日中歩いても道を見出せず、「おい、目の見える者はどこだ、道はどこだ」と嘆き悲しみ、道を見出せないままその場で死んでしまった。彼らを指して「前後に連なった」と言われたのである。「最初の者も」とは最初の十人のバラモンの中の一人も、「中間の者も」とは中間の師や大師たちの中の一人も、「最後の者も」とは現在のバラモンたちの中の一人も、という意味である。
Pañca khoti pāḷiāgatesu dvīsu aññepi evarūpe tayo pakkhipitvā vadati. Dvedhāvipākāti bhūtavipākā vā abhūtavipākā vā. Nālametthāti, bhāradvāja, saccaṃ anurakkhissāmīti paṭipannena viññunā ‘‘yaṃ mayā gahitaṃ, idameva saccaṃ moghamañña’’nti ettha ekaṃseneva niṭṭhaṃ gantuṃ nālaṃ na yuttanti upari pucchāya maggaṃ vivaritvā ṭhapesi.
「実に五つのものが」とは、経文に現れる二つのものに他の同様の三つのものを加えて述べている。「二通りの結果をもたらす」とは、真実の結果となることもあれば、虚偽の結果となることもあるということである。「ここでは十分ではない」とは、バーラドヴァージャよ、真理を守護しようと実践する賢者が『私が把握したこれのみが真理であり、他のものは虚妄である』と、ここで一概に断定することは十分ではなく、正しくないと、その後の質問への道を開いて示したのである。
430. Idha, bhāradvāja, bhikkhūti jīvakasutte (ma. ni. 2.51 ādayo) viya mahāvacchasutte (ma. ni. 2.193 ādayo) viya ca attānaññeva sandhāya vadati. Lobhanīyesu dhammesūti lobhadhammesu. Sesapadadvayepi eseva nayo.
430. 「ここに、バーラドヴァージャよ、比丘が」とは、ジーヴァカ経や大ヴァッチャ経のように、世尊ご自身のことを指して述べておられる。「貪りを生じさせる法において」とは貪りの法において、という意味である。残りの二つの句においても同様である。
432. Saddhaṃ nivesetīti okappaniyasaddhaṃ niveseti. Upasaṅkamatīti upagacchati. Payirupāsatīti santike nisīdati. Sotanti pasādasotaṃ odahati. Dhammanti desanādhammaṃ suṇāti. Dhāretīti paguṇaṃ katvā dhāreti. Upaparikkhatīti atthato ca kāraṇato ca vīmaṃsati. Nijjhānaṃ khamantīti olokanaṃ khamanti, idha sīlaṃ kathitaṃ, idha samādhīti evaṃ upaṭṭhahantīti attho. Chandoti kattukamyatā chando. Ussahatīti vāyamati. Tuletīti aniccādivasena tīreti. Padahatīti maggapadhānaṃ padahati. Kāyena ceva paramasaccanti sahajātanāmakāyena ca nibbānaṃ sacchikaroti, paññāya ca kilese nibbijjhitvā tadeva vibhūtaṃ pākaṭaṃ karonto passati.
432. 「信仰を確立する」とは確信ある信仰を確立することである。「近づく」とは参ずることである。「親しく仕える」とは近くに座すことである。「耳を傾ける」とは清らかな信の耳を傾けることである。「法を」とは教えの法を聞くことである。「保持する」とは熟達して保持することである。「検討する」とは意味と論理から探究することである。「観察を受け入れる」とは観察に耐えうることであり、ここに戒が説かれ、ここに三昧が説かれていると、このように心に現れるという意味である。「意欲」とは為そうとする意欲である。「奮励する」とは努力することである。「比較検討する」とは無常などによって思量することである。「精進する」とは道の精進をなすことである。「身体によって究極の真理を」とは、倶生の名身(心・心所)によって涅槃を現証し、智慧によって煩悩を貫いてまさにそれを明確に明らかにしながら見るのである。
433. Saccānubodhoti maggānubodho. Saccānuppattīti phalasacchikiriyā. Tesaṃyevāti heṭṭhā vuttānaṃ dvādasannaṃ, evaṃ dīghaṃ maggavādaṃ anulometi, tasmā nāyamattho. Ayaṃ panettha attho – tesaṃyevāti tesaṃ maggasampayuttadhammānaṃ. Padhānanti maggapadhānaṃ. Tañhi phalasacchikiriyasaṅkhātāya saccānuppattiyā bahukāraṃ, magge asati phalābhāvatoti. Iminā nayena sabbapadesu attho veditabbo. Sesaṃ sabbattha uttānamevāti.
433. 「真理の覚知」とは道の覚知である。「真理の獲得」とは果の現証である。「まさにそれらの」とは下に説かれた十二のものである。このようにすると長い道の説に従うことになるため、この意味ではない。ここでの意味は――「まさにそれらの」とは、それらの道相応の諸法のことである。「精進」とは道の精進である。実にそれは果の現証と呼ばれる真理の獲得のために多くの働きをなすものであり、道がなければ果はないからである。この方法によってすべての句の意味が理解されるべきである。残りの箇所はすべて明瞭である。
Papañcasūdaniyā majjhimanikāyaṭṭhakathāya
『パパンチャ・スーダニー』(中部経典註解)において
Caṅkīsuttavaṇṇanā niṭṭhitā.
チャーンキー経の註解は終了した。
6. Esukārīsuttavaṇṇanā
6. エースカーリー経の註解
437. Evaṃ me sutanti esukārīsuttaṃ. Tattha bilaṃ olaggeyyunti koṭṭhāsaṃ laggāpeyyuṃ, iminā satthadhammaṃ nāma dasseti. Satthavāho kira mahākantārapaṭipanno antarāmagge goṇe mate maṃsaṃ gahetvā sabbesaṃ satthikānaṃ ‘‘idaṃ khāditvā ettakaṃ mūlaṃ dātabba’’nti koṭṭhāsaṃ olaggeti, goṇamaṃsaṃ nāma khādantāpi atthi akhādantāpi, mūlaṃ dātuṃ sakkontāpi asakkontāpi. Satthavāho yena mūlena goṇo gahito, tassa nikkhamanatthaṃ sabbesaṃ balakkārena koṭṭhāsaṃ datvā mūlaṃ gaṇhāti, ayaṃ satthadhammo. Evamevaṃ brāhmaṇāpi lokassa paṭiññaṃ aggahetvā attanova dhammatāya catasso pāricariyā paññapentīti dassetuṃ evameva khotiādimāha. Pāpiyo assāti pāpaṃ assa. Seyyo assāti hitaṃ assa. Atha vā pāpiyoti pāpako lāmako attabhāvo assa. Seyyoti seṭṭho uttamo. Seyyaṃsoti seyyo. Uccākulīnatāti uccākulīnattena seyyo. Pāpiyaṃsoti pāpiyo. Uccākulīnatā ca dvīsu kulesu vaḍḍheti khattiyakule brāhmaṇakule ca, uḷāravaṇṇatā tīsu. Vessopi hi uḷāravaṇṇo hoti. Uḷārabhogatā catūsupi. Suddopi hi antamaso caṇḍālopi uḷārabhogo hotiyeva.
437. 「このように私は聞いた」とはエースカーリー経である。その中の「割り当てを課す」とは分担を課すことであり、これによって商隊の掟を示している。大荒野を進む商隊の長が、途中で牛が死んだときにその肉を取ってすべての商隊員に「これを食べてこれだけの代金を支払うべきである」と割り当てを課すようなものである。牛の肉を食べる者もいれば食べない者もおり、代金を支払うことができる者もいればできない者もいる。商隊の長は牛を購入した代金を回収するために、全員に無理やり割り当てを与えて代金を徴収する。これが商隊の掟である。同様にバラモンたちも世人の承認を得ることなく、自らの独断によって四つの奉仕の規定を定めているということを示すために、「実にそのように」などを説かれた。「彼にとってより悪しきものとなる」とは悪となることである。「彼にとってより善きものとなる」とは利益となることである。あるいは「より悪しきもの」とは悪しく劣った身体(生まれ)となることであり、「より善きもの」とは優れて最上のものである。「より優れた」とはより善いことである。「門地の高さ」とは門地の高さによって優れていることである。「より劣った」とはより悪しきことである。そして門地の高さは二つの家系、すなわちクシャトリヤの家系とバラモンの家系において重んじられ、容姿の秀麗さは三つの階級において重んじられる。ヴァイシャもまた容姿が秀麗であるからである。富の豊富さは四つの階級すべてにおいて重んじられる。シュードラも、極端にはチャンダーラであっても実に莫大な富を持つことがあるからである。
440. Bhikkhācariyanti koṭidhanenapi hi brāhmaṇena bhikkhā caritabbāva, porāṇakabrāhmaṇā asītikoṭidhanāpi ekavelaṃ bhikkhaṃ caranti. Kasmā? Duggatakāle carantānaṃ idāni bhikkhaṃ carituṃ āraddhāti garahā na bhavissatīti. Atimaññamānoti yo bhikkhācariyavaṃsaṃ haritvā sattajīvakasikammavaṇijjādīhi jīvikaṃ kappeti, ayaṃ atimaññati nāma. Gopo vāti yathā gopako attanā rakkhitabbaṃ bhaṇḍaṃ thenento akiccakārī hoti, evanti attho. Iminā nayena sabbavāresu attho veditabbo. Asitabyābhaṅginti tiṇalāyanaasitañceva kājañca. Anussaratoti yattha jāto, tasmiṃ porāṇe mātāpettike kulavaṃse anussariyamāneti attho. Sesaṃ sabbattha uttānamevāti.
440. 「托鉢の行」とは、億万の富を持つバラモンであっても托鉢を行うべきであり、昔のバラモンたちは八億の富を持っていても一日に一度は托鉢を行った。なぜか? 貧困に陥った時に托鉢を巡り歩いたとしても、「今になって托鉢を始めた」という非難を受けないためである。「軽視する者」とは、托鉢の伝統を捨てて奴隷の生業や農業や商業などによって生計を立てる者のことであり、これを軽視するという。「牛飼いのように」とは、牛飼いが自ら守るべき財物を盗むことで本分を果たさない者となるようなものである、という意味である。この方法によってすべての段における意味が理解されるべきである。「鎌と天秤棒を」とは、草を刈る鎌と天秤棒のことである。「思い起こすならば」とは、自分が生まれたその古の父母の家系を思い起こすならば、という意味である。残りの箇所はすべて明瞭である。
Papañcasūdaniyā majjhimanikāyaṭṭhakathāya
『パパンチャ・スーダニー』(中部経典註解)において
Esukārīsuttavaṇṇanā niṭṭhitā.
エースカーリー経の註解は終了した。
7. Dhanañjānisuttavaṇṇanā
7. ダナンジャーニ経の註解
445. Evaṃ me sutanti dhanañjānisuttaṃ. Tattha dakkhiṇāgirisminti girīti pabbato, rājagahaṃ parikkhipitvā ṭhitapabbatassa dakkhiṇadisābhāge janapadassetaṃ nāmaṃ. Taṇḍulapālidvārāyāti rājagahassa kira dvattiṃsamahādvārāni catusaṭṭhikhuddakadvārāni, tesu ekaṃ taṇḍulapālidvāraṃ nāma, taṃ sandhāyevamāha. Rājānaṃ nissāyāti ‘‘gaccha manusse apīḷetvā sassabhāgaṃ gaṇhāhī’’ti raññā pesito gantvā sabbameva sassaṃ gaṇhāti, ‘‘mā no, bhante, nāsehī’’ti ca vutte – ‘‘rājakule vuttaṃ mandaṃ, ahaṃ raññā āgamanakāleyeva evaṃ āṇatto, mā kanditthā’’ti evaṃ rājānaṃ nissāya brāhmaṇagahapatike vilumpati. Dhaññaṃ yebhuyyena attano gharaṃ pavesetvā appakaṃ rājakule paveseti. Kiṃ brāhmaṇagahapatikānaṃ na pīḷaṃ akāsīti ca vutto – ‘‘āma, mahārāja, imasmiṃ vāre khettāni mandasassāni ahesuṃ, tasmā apīḷentassa me gaṇhato na bahuṃ jāta’’nti evaṃ brāhmaṇagahapatike nissāya rājānaṃ vilumpati.
445. 「このように私は聞きました」とはじまるのはダナンジャーニ経(Dhanañjānisutta)である。その中で「ダッキナーギリにおいて」とは、ギリとは山のことであり、ラージャガハ(王舎城)を取り囲んでそびえる山の南の地域、その地方の名称である。「タンデュラパーリ門へ」とは、ラージャガハには三十二の大門と六十四の小門があるといわれ、その中の一つがタンデュラパーリ門という名であり、それを指してこのように言ったのである。「王に頼って」とは、「行け、人々を苦しめることなく穀物の割り当てを徴収せよ」と王によって遣わされながら、行けばすべての穀物を奪い取り、「旦那様、私たちを破滅させないでください」と言われても、「王家から言われたことは少ない。私は王によって出発する際にまさにそのように命じられたのだ。嘆くな」と、このように王を口実にしてバラモンや資産家たちを略奪するのである。穀物の大部分を自分の家に入れ、わずかばかりを王家に入れる。そして「なぜバラモンや資産家たちを苦しめなかったのか」と問われると、「はい、大王様、今回の耕地は穀物の実りが少のうございました。それゆえ苦しめずに徴収した私には多くは集まりませんでした」と、このようにバラモンや資産家たちを口実にして王を略奪するのである。
446. Payo pīyatanti taruṇakhīraṃ pivatu. Tāva bhattassāti yāva khīraṃ pivitvā nisīdissatha, tāvadeva bhattassa kālo bhavissati. Idheva hi no pātarāsabhattaṃ āharissantīti dasseti. Mātāpitarotiādīsu mahallakā mātāpitaro mudukāni attharaṇapāvuraṇāni sukhumāni vatthāni madhurabhojanaṃ sugandhagandhamālādīni ca pariyesitvā posetabbā. Puttadhītānaṃ nāmakaraṇamaṅgalādīni sabbakiccāni karontena puttadāro posetabbo. Evañhi akariyamāne garahā uppajjatīti iminā nayena attho veditabbo.
446. 「乳を飲んでください」とは、絞りたての乳を飲んでくださいということ。「その間に食事を」とは、乳を飲んで座っていらっしゃる間に、すぐに食事の時となるでしょう、ここに私たちの朝食の食事を運んで参ります、と示すのである。「父母を」などの句において、高齢の父母には、柔らかい敷物や掛け物、繊細な布地、甘味な食事、芳しい香や花などを求めて養うべきである。息子や娘の名付けの祝宴などのすべての務めを行いつつ、妻子を養うべきである。なぜなら、このように行われないときには非難が生じるからである、という方法によって意味を知るべきである。
447. Adhammacārīti pañca dussīlyakammāni vā dasa dussīlyakammāni vā idha adhammo nāma. Upakaḍḍheyyunti pañcavidhabandhanādikammakaraṇatthaṃ taṃ taṃ nirayaṃ kaḍḍheyyuṃ.
447. 「非法を行じる者」とは、五つの不善戒(悪戒)の業、あるいは十の不善戒の業が、ここでは非法と呼ばれる。「引き立てるであろう」とは、五重の束縛などの責め苦を行うために、それぞれの地獄へと引き立てるであろう、ということ。
448. Dhammacārīti dhammikasivavijjādikammakārī. Paṭikkamantīti osaranti parihāyanti. Abhikkamantīti abhisaranti vaḍḍhanti. Seyyoti varataraṃ. Hīneti nihīne lāmake. Kālaṅkato ca sāriputtāti idaṃ bhagavā ‘‘tatrassa gantvā desehī’’ti adhippāyena theramāha. Theropi taṃkhaṇaṃyeva gantvā mahābrahmuno dhammaṃ desesi, tato paṭṭhāya cātuppadikaṃ gāthaṃ kathentopi catusaccavimuttaṃ nāma na kathesīti.
448. 「法を行じる者」とは、如法なる農業や知識などの業をなす者。「退く」とは、衰退し、損なわれること。「進む」とは、向上し、増大すること。「勝れている」とは、より勝れていること。「劣った」とは、下劣で卑しいこと。「そしてサーリプッタよ、彼は命終した」とは、世尊が「あそこへ行って彼のために説法せよ」という意図をもって長老に言われたのである。長老もまたその瞬間に赴いて、大梵天のために法を説いた。それ以降、四句からなる詩偈を説くときでも、四聖諦を離れたものは決して説かなかったという。
Papañcasūdaniyā majjhimanikāyaṭṭhakathāya
パパンチャ・スーダニー(破除戱論)中部註釈書において
Dhanañjānisuttavaṇṇanā niṭṭhitā.
ダナンジャーニ経の註解が終了した。
8. Vāseṭṭhasuttavaṇṇanā
八 ヴァーセッタ経の註解
454. Evaṃ me sutanti vāseṭṭhasuttaṃ. Tattha icchānaṅgalavanasaṇḍeti icchānaṅgalagāmassa avidūre vanasaṇḍe. Caṅkīti ādayo pañcapi janā rañño pasenadissa kosalassa purohitā eva. Aññe ca abhiññātāti aññe ca bahū abhiññātā brāhmaṇā. Te kira chaṭṭhe chaṭṭhe māse dvīsu ṭhānesu sannipatanti. Yadā jātiṃ sodhetukāmā honti, tadā pokkharasātissa santike jātisodhanatthaṃ ukkaṭṭhāya sannipatanti. Yadā mante sodhetukāmā honti, tadā icchānaṅgale sannipatanti. Imasmiṃ kāle mantasodhanatthaṃ sannipatiṃsu. Ayamantarā kathāti yaṃ attano sahāyakabhāvānurūpaṃ kathaṃ kathentā anuvicariṃsu, tassā kathāya antarā ayamaññā kathā udapādi. Sīlavāti guṇavā. Vattasampannoti ācārasampanno.
454. 「このように私は聞きました」とはじまるのはヴァーセッタ経(Vāseṭṭhasutta)である。その中で「イッチハーナンガラの林において」とは、イッチハーナンガラ村から遠くない林において、ということ。「チャンキー」をはじめとする五人の者たちも、コーサラ国のパセーナディ王の祭官(司祭)たちである。「他の著名な」とは、他の多くの著名なバラモンたちである。彼らは六ヶ月ごとに二つの場所に集まるという。血統の純粋性を吟味しようと望むときは、ポッカラサーティのもとへ血統吟味のためにウッカッタに集まる。ヴェーダの聖句を吟味しようと望むときは、イッチハーナンガラに集まる。この時は聖句吟味のために集まったのである。「この中間の対話」とは、互いの友人の関係にふさわしい対話を交わしながら巡っていたが、その対話の合間にこの別の対話が生じたのである。「戒ある者」とは徳ある者。「行儀を具えた者」とは善き所作(礼儀作法)を具えた者。
455. Anuññātapaṭiññātāti sikkhitā tumheti evaṃ ācariyehi anuññātā, āma ācariya sikkhitamhāti evaṃ sayañca paṭiññātā. Asmāti bhavāma. Ahaṃ pokkharasātissa, tārukkhassāyaṃ māṇavoti ahaṃ pokkharasātissa jeṭṭhantevāsī aggasisso, ayaṃ tārukkhassāti dīpeti.
455. 「認められ、自認した」とは、師匠たちから「お前たちは学んだ」とこのように認められ、自らも「はい、師匠よ、私たちは学びました」と自認していること。「私たちは〜である」とは、私たちは〜となる。「私はポッカラサーティの、この青年はタールッカの」とは、私はポッカラサーティの筆頭弟子(上首弟子)であり、この者はタールッカの弟子である、と明らかにしている。
Tevijjānanti tivedānaṃ brāhmaṇānaṃ. Yadakkhātanti yaṃ atthato ca byañjanato ca ekaṃ padampi akkhātaṃ. Tatra kevalinosmaseti taṃ sakalaṃ jānanato tattha niṭṭhāgatamhāti attho. Idāni taṃ kevalibhāvaṃ āvikaronto padakasmātiādimāha. Tattha jappe ācariyasādisāti kathanaṭṭhāne mayaṃ ācariyasadisāyeva.
456. 「三ヴェーダに通じた者たち」とは、三つのヴェーダに通じたバラモンたちのこと。「説かれたもの」とは、意味においても文表現においても説かれた一語であっても。「そこにおいて完全な者である」とは、それをことごとく知っていることから、そこにおいて極めた者である、という意味。今やその完全な状態を明かそうとして、「句に通じた者」などと言ったのである。その中で「聖句において師に等しい」とは、言説の場において私たちは師と等しいまさにその通りである、ということ。
Kammunāti dasakusalakammapathakammunā. Ayañhi pubbe sattavidhaṃ kāyavacīkammaṃ sandhāya ‘‘yato kho, bho, sīlavā hotī’’ti āha, tividhaṃ manokammaṃ sandhāya ‘‘vattasampanno’’ti. Tena samannāgato hi ācārasampanno hoti. Cakkhumāti pañcahi cakkhūhi cakkhumantabhāvena bhagavantaṃ ālapati.
「行為によって」とは、十善業道の行為によって。実にこの人は以前、身と口の七種の業を指して「尊者よ、実に戒ある者であるとき」と言い、三種の意の業を指して「行儀を具えた者」と言った。それを具足した者は所作を具えた者となるからである。「眼ある方」とは、五つの眼によって眼ある方であることから、世尊に呼びかけている。
Khayātītanti ūnabhāvaṃ atītaṃ, paripuṇṇanti attho. Peccāti upagantvā. Namassantīti namo karonti.
「尽きることのない」とは、欠ける状態を超越した、円満な、という意味。「赴いて」とは、近づいて。「敬礼する」とは、礼拝を捧げる。
Cakkhuṃ loke samuppannanti avijjandhakāre loke taṃ andhakāraṃ vidhamitvā lokassa diṭṭhadhammikādiatthadassanena cakkhu hutvā samuppannaṃ.
「世の中に生じた眼」とは、無明の闇の中にある世において、その闇を吹き払い、世の人々に現世の利益などを見せることによって眼となって生じた方、ということ。
456. Evaṃ vāseṭṭhena thometvā yācito bhagavā dvepi jane saṅgaṇhanto tesaṃ vo ahaṃ byakkhissantiādimāha. Tattha byakkhissanti byākarissāmi. Anupubbanti tiṭṭhatu tāva brāhmaṇacintā, tiṇarukkhakīṭapaṭaṅgato paṭṭhāya anupaṭipāṭiyā ācikkhissāmīti attho. Jātivibhaṅganti jātivitthāraṃ. Aññamaññā hi jātiyoti tesaṃ tesañhi pāṇānaṃ jātiyo aññamaññā nānappakārāti attho.
456. このようにヴァーセッタによって称賛され懇請された世尊は、両人を受け容れつつ、「それらを汝らに私は解説しよう」などと言われた。その中で「解説しよう」とは、明かして説明しよう。「順を追って」とは、ひとまずバラモンについての思索は置いておき、草木、昆虫、飛翔昆虫から始めて順序に従って説き明かそう、という意味。「種の区分」とは、種の詳細。「互いに実に種は(異なる)」とは、それら種々の生きものたちの種は、互いに様々に異なっている、という意味である。
Tiṇarukkheti anupādinnakajātiṃ katvā pacchā upādinnakajātiṃ kathessāmi, evaṃ tassa jātibhedo pākaṭo bhavissatīti imaṃ desanaṃ ārabhi. Mahāsīvatthero pana ‘‘kiṃ, bhante, anupādinnakaṃ bījanānatāya nānaṃ, upādinnaṃ kammanānatāyāti? Evaṃ vattuṃ na vaṭṭatī’’ti pucchito āma na vaṭṭati. Kammañhi yoniyaṃ khipati. Yonisiddhā ime sattā nānāvaṇṇā hontīti. Tiṇarukkheti ettha antopheggū bahisārā antamaso tālanāḷikerādayopi tiṇāneva, antosārā pana bahipheggū sabbe rukkhā nāma. Na cāpi paṭijānareti mayaṃ tiṇā mayaṃ rukkhāti vā, ahaṃ tiṇaṃ, ahaṃ rukkhoti vā evaṃ na jānanti. Liṅgaṃ jātimayanti ajānantānampi ca tesaṃ jātimayameva saṇṭhānaṃ attano mūlabhūtatiṇādisadisameva hoti. Kiṃ kāraṇā? Aññamaññā hi jātiyo. Yasmā aññā tiṇajāti, aññā rukkhajāti. Tiṇesupi aññā tālajāti, aññā nāḷikerajāti, evaṃ vitthāretabbaṃ. Iminā idaṃ dasseti – yaṃ jātivasena nānā hoti, taṃ attano paṭiññaṃ paresaṃ vā upadesaṃ vināpi aññajātito visesena gayhati. Yadi ca jātiyā brāhmaṇo bhaveyya, sopi attano paṭiññaṃ paresaṃ vā upadesaṃ vinā khattiyato vessato suddato vā visesena gayheyya, na ca gayhati. Tasmā na jātiyā brāhmaṇoti. Parato pana ‘‘yathā etāsu jātīsū’’ti gāthāya etamatthaṃ vacībhedeneva āvikarissati.
「草や木において」とは、執受されていない(無情の)種をまず説き、後に執受された(有情の)種を説こう、そうすれば彼に種の差異が明白となるであろう、とこの説法を開始された。しかしマハーシーヴァ長老は「尊者よ、執受されないものは種子の多様性によって異なり、執受されたものは業の多様性によって異なると言うのか。そのように言うのは妥当ではない」と問われて、「その通り、妥当ではない。業が生殖の場(胎・卵など)へ投げ入れるからである。生殖の場から成立したこれら衆生は多様な姿となる」と言った。「草や木において」のここで、内側が柔らかく外側が堅いものは、極めてヤシやココヤシなども草にほかならず、内側が堅く外側が柔らかいものはすべて木と呼ばれる。「また自ら知ることもない」とは、「私たちは草である、私たちは木である」とか、「私は草である、私は木である」とこのように知ることはない。「種からなる特徴」とは、知ることもない彼らであっても、種から生じる形態そのものが、自らの根本となった草などと同様である。何の理由によるか。種は互いに異なるからである。草の種と木の種とは別であるからである。草の中でもヤシの種とココヤシの種とは別であり、このように詳細に理解されるべきである。これによって次のことを示す。すなわち、種によって異なるものは、自らの言明や他者の教示がなくても、他の種とは際立って把握される。そしてもし生まれによってバラモンであるならば、彼もまた自らの言明や他者の教示がなくても、王族や庶民や奴隷とは際立って把握されるはずであるが、把握されることはない。それゆえ生まれによってバラモンなのではない。のちに「これら種において〜のように」という詩偈によって、この意味を言葉を分かって明かすであろう。
Evaṃ anupādinnakesu jātiṃ dassetvā upādinnakesu dassento tato kīṭetiādimāha. Yāva kunthakipilliketi kunthakipillikaṃ pariyantaṃ katvāti attho. Ettha ca ye uppatitvā gacchanti, te paṭaṅgā nāma. Aññamaññā hi jātiyoti tesampi nīlarattādivaṇṇavasena jātiyo nānappakārāva honti.
このように執受されないものにおける種を示し、執受されたものにおいて示そうとして、次に「虫」などと言った。「小さな蟻に至るまで」とは、小さな蟻を限界として、という意味である。そしてここで飛び立って進むものが飛翔昆虫(バッタなど)と呼ばれる。「互いに実に種は(異なる)」とは、彼らもまた青や赤などの色の違いによって種は実に様々に異なるのである。
Khuddaketi kāḷakādayo. Mahallaketi sasabiḷārādayo.
「小さな」とは、黒蟻などのこと。「大きな」とは、兎や猫などのこと。
Pādūdareti udarapāde, udaraṃyeva nesaṃ pādāti vuttaṃ hoti. Dīghapiṭṭhiketi sappānañhi sīsato yāva naṅguṭṭhā piṭṭhiyeva hoti, tena te ‘‘dīghapiṭṭhikā’’ti vuccanti.
「腹を足とするもの」とは、腹が足であるもの、腹そのものが彼らの足であると説かれている。「背の長いもの」とは、蛇たちの頭から尾に至るまで背中そのものであるから、彼らは「背の長いもの」と呼ばれる。
Udaketi odake, udakamhi jāte.
「水において」とは、水の中に生じるものにおいて。
Pakkhīti sakuṇe. Te hi pattehi yantīti pattayānā, vehāsaṃ gacchantīti vihaṅgamā.
「鳥」とは、有翼の鳥のこと。彼らは翼(羽)によって行くので「羽を行き具とするもの」であり、虚空を行くので「空を行くもの」である。
Evaṃ thalajalākāsagocarānaṃ pāṇānaṃ jātibhedaṃ dassetvā idāni yenādhippāyena taṃ dasseti, taṃ āvikaronto yathā etāsūti gāthamāha. Tassattho saṅkhepena vuttova. Vitthārato panettha yaṃ vattabbaṃ, taṃ sayameva dassento na kesehītiādimāha. Tatrāyaṃ yojanā – yaṃ vuttaṃ ‘‘natthi manussesu liṅgajātimayaṃ puthū’’ti, taṃ evaṃ natthīti veditabbaṃ. Seyyathidaṃ? Na kesehīti. Na hi – ‘‘brāhmaṇānaṃ edisā kesā honti, khattiyānaṃ edisā’’ti niyamo atthi yathā hatthiassamigādīnanti iminā nayena sabbaṃ yojetabbaṃ.
このように陸・水・空を活動域とする生きものたちの種の差異を示し、今やいかなる意図によってそれを示すのかを明らかにしようとして、「これらにおいて〜のように」という詩偈を説かれた。その意味は簡潔にはすでに説かれた。詳細にはここで説くべきことを自ら示そうとして、「頭髪によってではなく」などと言われた。そこでの結合はこうである。「人間たちには種からなる多様な特徴はない」と説かれたが、それはこのように無いのだと知るべきである。それはどういうことか。「頭髪によってではなく」とは、象・馬・鹿などのように「バラモンたちの頭髪はこのようであり、王族たちの頭髪はこのようである」という決まりはない、という方法によってすべてを結合すべきである。
Liṅgaṃ jātimayaṃ neva, yathā aññāsu jātisūti idaṃ pana vuttassevatthassa nigamananti veditabbaṃ. Tassāyaṃ yojanā – evaṃ yasmā imehi kesādīhi natthi manussesu liṅgaṃ jātimayaṃ puthu, tasmā veditabbametaṃ ‘‘brāhmaṇādibhedesu manussesu liṅgaṃ jātimayaṃ neva, yathā aññāsu jātisū’’ti.
「他の種におけるようには、種から生じる特徴は決してない」とは、すでに説かれた意味の結論であると知るべきである。その結合はこうである。このようにこれら頭髪などによって人間たちには種から生じる多様な特徴がないゆえに、「バラモンなどの区分における人間たちには、他の種におけるようには、種から生じる特徴は決してない」と知るべきである。
457. Idāni evaṃ jātibhede asatipi ‘‘brāhmaṇo khattiyo’’ti idaṃ nānattaṃ yathā jātaṃ, taṃ dassetuṃ paccattanti gāthamāha. Tattha vokāranti nānattaṃ. Ayaṃ panettha saṅkhepattho – yathā hi tiracchānānaṃ yonisiddhameva kesādisaṇṭhānena nānattaṃ, tathā brāhmaṇādīnaṃ attano attano sarīre taṃ natthi. Evaṃ santepi yadetaṃ ‘‘brāhmaṇo khattiyo’’ti vokāraṃ, taṃ vokārañca manussesu samaññāya pavuccati, vohāramatteneva pavuccatīti.
457. 今やこのように種の差異がないにもかかわらず、「バラモン」「王族」というこの差異がいかにして生じたのかを示すために、「各人において」という詩偈を説かれた。その中で「差異」とは区別のこと。ここでの簡潔な意味はこうである。畜生たちには生殖の場から生じる頭髪などの形態によって差異があるように、バラモンたちの各自の身体にはそれがない。そうであるにもかかわらず、「バラモン」「王族」というこの差異があるが、その人間たちにおける差異は慣習的呼称によって語られるのであり、単なる世俗の呼称によって語られるにすぎない、ということ。
Ettāvatā bhagavā bhāradvājassa vādaṃ niggaṇhitvā idāni yadi jātiyā brāhmaṇo bhaveyya, ājīvasīlācāravipannopi brāhmaṇo bhaveyya. Yasmā pana porāṇā brāhmaṇā tassa brāhmaṇabhāvaṃ na icchanti, loke ca aññepi paṇḍitamanussā, tasmā vāseṭṭhassa vādaṃ paggaṇhanto yo hi koci manussesūti aṭṭha gāthā āha. Tattha gorakkhanti khettarakkhaṃ, kasikammanti vuttaṃ hoti. Goti hi pathaviyā nāmaṃ, tasmā evamāha. Puthusippenāti tantavāyakammādinānāsippena. Vohāranti vaṇijjaṃ. Parapessenāti paresaṃ veyyāvaccakammena. Issatthanti āvudhajīvikaṃ, usuñca sattiṃ cāti vuttaṃ hoti. Porohiccenāti purohitakammena.
これによって世尊はバーラドヴァージャの説を論破し、今やもし生まれによってバラモンであるならば、生計や戒や所作が破綻した者であってもバラモンとなってしまう。しかし昔のバラモンたちは彼のバラモンたることを認めず、世の他の賢者たちも認めないゆえに、ヴァーセッタの説を支持しながら、「実に人間たちの中で誰であれ」という八つの詩偈を説かれた。その中で「牛の保護」とは田畑の保護であり、農業のことであると説かれている。「ゴー」とは大地の名であり、それゆえこのように言われたのである。「様々な技術によって」とは、機織りの業などの様々な技術によって。「交易」とは商業。「他人の使い走りによって」とは、他人の雑務・用向きをすることによって。「弓術によって」とは武器による生計であり、弓矢や槍のことであると説かれている。「司祭の役によって」とは祭官(プローヒタ)の務めによって。
Evaṃ brāhmaṇasamayena ca lokavohārena ca ājīvasīlācāravipannassa abrāhmaṇabhāvaṃ sādhetvā evaṃ sante na jātiyā brāhmaṇo, guṇehi pana brāhmaṇo hoti. Tasmā yattha katthaci kule jāto yo guṇavā, so brāhmaṇo, ayamettha ñāyoti evametaṃ ñāyaṃ atthato āpādetvā idāni naṃ vacībhedena pakāsento na cāhaṃ brāhmaṇantiādimāha. Tassattho – ahañhi yvāyaṃ catunnaṃ yonīnaṃ yattha katthaci jāto, tatrāpi visesena yo brāhmaṇassa saṃvaṇṇitāya mātari sambhūto, taṃ yonijaṃ mattisambhavaṃ, yā cāyaṃ ubhato sujātotiādinā nayena brāhmaṇehi brāhmaṇassa parisuddhauppattimaggasaṅkhātā yoni vuttā, saṃsuddhagahaṇikoti iminā ca mātisampatti, tatopi jātasambhūtattā yonijo mattisambhavoti vuccati, taṃ yonijaṃ mattisambhavaṃ iminā ca yonijamattisambhavamattena na brāhmaṇaṃ brūmi. Kasmā? Yasmā, bho bhoti, vacanamattena aññehi sakiñcanehi visiṭṭhattā bhovādi nāma so hoti, sace hoti sakiñcano sapalibodho. Yo panāyaṃ yattha katthaci jātopi rāgādikiñcanābhāvena akiñcano, sabbagahaṇapaṭinissaggena anādāno, akiñcanaṃ anādānaṃ, tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ. Kasmā? Yasmā bāhitapāpoti.
このようにバラモンの教えによっても世俗の呼称によっても、生計や戒や所作が破綻した者の非バラモン性を立証し、そうであるならば生まれによってバラモンなのではなく、徳によってバラモンとなるのである。それゆえいかなる家柄に生まれた者であっても、徳ある者がバラモンである、これがここでの道理であると、このようにこの道理を意味の上で確立し、今やそれを言葉を分かって示そうとして、「私は〜をバラモンとは呼ばない」などと言われた。その意味は、私は四つの生殖の場のいずこに生まれようとも、そこにおいて特にバラモンによって賞賛された母において生じた者を、母の胎から生まれ母から生じた者、また「双方から良き家柄に生まれ」などの方法によってバラモンたちによりバラモンの清らかな出生の道とされる胎生であり、清らかな胎受胎者であることによる母の完全性、それによって生まれ生じたゆえに胎生であり母から生じた者と呼ばれるが、その胎生であり母から生じた者であるという単なることによってバラモンとは呼ばない。なぜか。「尊者よ、尊者よ」という単なる言葉によって、他に執着(煩悩)のある者たちと区別されることから彼は「尊者と語る者(ボーヴァーディー)」と呼ばれるのであり、もし彼に執着があり妨げがあるならばそうである。しかし、いかなる処に生まれた者であっても、貪りなどの執着がないことによって無一物であり、一切の執着を捨遣したことによって無執着である者を、無一物にして無執着なるその人を私はバラモンと呼ぶ。なぜか。悪を払い除けた者であるからである。
458. Kiñcabhiyyo sabbasaṃyojanaṃ chetvātiādi sattavīsati gāthā. Tattha sabbasaṃyojananti dasavidhasaṃyojanaṃ. Na paritassatīti taṇhāparitassanāya na paritassati. Saṅgātiganti rāgasaṅgādayo atikkantaṃ. Visaṃyuttanti catūhi yonīhi sabbakilesehi vā visaṃyuttaṃ.
458. 「さらに〜」とはじまる「一切の結び目を断ち切り」などの二十七の詩偈がある。その中で「一切の結び目」とは十の束縛(結)。「おびえることがない」とは、渇愛による恐怖でおびえることがない。「執着を超越した」とは、貪りの執着などを超越した者。「離れた」とは、四つの生殖の場から、あるいは一切の煩悩から離れた者。
Naddhinti upanāhaṃ. Varattanti taṇhaṃ. Sandānanti yuttapāsaṃ, diṭṭhipariyuṭṭhānassetaṃ adhivacanaṃ. Sahanukkamanti anukkamo vuccati pāse pavesanagaṇṭhi, diṭṭhānusayassetaṃ nāmaṃ. Ukkhittapalighanti ettha palighoti avijjā. Buddhanti catusaccabuddhaṃ. Titikkhatīti khamati.
「革紐」とは怨恨。「手綱」とは渇愛。「つなぎ綱」とは結ばれた罠であり、見解の現起(見執)の同義語。「順序とともに」とは、順序とは罠に導く結び目のことであり、見解の随眠(見随眠)の名である。「閂を引き抜いた」のここで、閂とは無明のこと。「目覚めた者」とは四聖諦を悟った者。「耐え忍ぶ」とは忍受する。
Khantibalanti adhivāsanakhantibalaṃ. Sā pana sakiṃ uppannā balānīkaṃ nāma na hoti, punappunaṃ uppannā pana hoti. Tassā atthitāya balānīkaṃ.
「忍耐の力」とは、受容し耐え忍ぶ力。しかしそれは一度生じただけでは「軍勢を持つもの」とは呼ばれず、繰り返し生じてこそそうなる。その力があることによって軍勢を持つ者となる。
Vatavantanti dhutaṅgavantaṃ. Sīlavantanti guṇavantaṃ. Anussadanti rāgādiussadavirahitaṃ. ‘‘Anussuta’’ntipi pāṭho, anavassutanti attho. Dantanti nibbisevanaṃ.
「誓戒ある者」とは頭陀行を具えた者。「戒ある者」とは徳ある者。「隆起(煩悩)なき」とは貪りなどの隆起を離れた者。「流れなき」という読みもあり、煩悩の漏れ(漏脈)がないという意味。「調御された」とは悪習を離れた者。
Na limpatīti na allīyati. Kāmesūti kilesakāmavatthukāmesu.
「汚されない」とは執着しない。「諸々の欲望において」とは煩悩の欲望と対象の欲望において。
Dukkhassa pajānāti, idheva khayanti ettha arahattaphalaṃ dukkhakkhayoti adhippetaṃ. Pajānātīti adhigamavasena jānāti. Pannabhāranti ohitabhāraṃ, khandhakilesaabhisaṅkhārakāmaguṇabhāre otāretvā ṭhitaṃ. Visaṃyuttapadaṃ vuttatthameva.
「苦しみの〜を知る、まさにこの世での滅尽を」のここで、阿羅漢果が苦の滅尽として意図されている。「知る」とは証得によって知る。「重荷を下ろした」とは荷を置いた者であり、五蘊・煩悩・行・五欲の重荷を降ろして立っている者。「離れた」の語はすでに説いた通りの意味である。
Gambhīrapaññanti gambhīresu ārammaṇesu pavattapaññaṃ. Medhāvinti pakatipaññāya paññavantaṃ.
「深遠な智慧ある者」とは深遠な対象において働く智慧を持つ者。「聡明な者」とは生得の智慧によって智慧ある者。
Anāgārehi cūbhayanti anāgārehi ca visaṃsaṭṭhaṃ ubhayañca, dvīhipi cetehi visaṃsaṭṭhamevāti attho. Anokasārinti okaṃ vuccati pañcakāmaguṇālayo, taṃ anallīyamānanti attho. Appicchanti anicchaṃ.
「出家者たちとも、双方とも」とは、出家者たちとも交わらず、双方(在家と出家)とも交わらない、両者とも交わらないまさにそのこと。「住居なき境地を行く者」とは、住居(家)とは五欲の執着の場所をいい、それに執着しない、という意味。「少欲の」とは欲のないこと。
Tasesūti sataṇhesu. Thāvaresūti nittaṇhesu.
「動くもの(怯弱な者)において」とは渇愛ある者たちにおいて。「静止したもの(堅固な者)において」とは渇愛なき者たちにおいて。
Attadaṇḍesūti gahitadaṇḍesu. Nibbutanti kilesanibbānena nibbutaṃ. Sādānesūti saupādānesu.
「暴力(棒)を手にした者たちにおいて」とは武器(罰杖)をとった者たちにおいて。「寂静となった」とは煩悩の寂滅によって安らいだ者。「執着ある者たちにおいて」とは執受ある者たちにおいて。
Ohitoti patito.
「落ちた」とは脱落した。
459. Akakkasanti niddosaṃ. Sadoso hi rukkhopi sakakkasoti vuccati. Viññāpaninti atthaviññāpanikaṃ. Saccanti avisaṃvādikaṃ. Udīrayeti bhaṇati. Yāya nābhisajjeti yāya girāya parassa sajjanaṃ vā lagganaṃ vā na karoti, tādisaṃ apharusaṃ giraṃ bhāsatīti attho.
459. 「荒々しくない」とは過失のない。過失ある木であっても「荒々しい(トゲのある)」と言われるからである。「理解させる」とは意味を理解させる。「真実の」とは虚偽でない。「語るべきである」とは説く。「それによって害さない」とは、いかなる言葉によっても他者に害悪や執着を生じさせない、そのような粗暴でない言葉を語る、という意味である。
Dīghanti suttāruḷhabhaṇḍaṃ. Rassanti vippakiṇṇabhaṇḍaṃ. Aṇunti khuddakaṃ. Thūlanti mahantaṃ. Subhāsubhanti sundarāsundaraṃ. Dīghabhaṇḍañhi appagghampi hoti mahagghampi. Rassādīsupi eseva nayo. Iti ettāvatā na sabbaṃ pariyādiṇṇaṃ, ‘‘subhāsubha’’nti iminā pana pariyādiṇṇaṃ hoti.
「長い」とは紐を通した物品。「短い」とは散乱した物品。「細かな」とは小さなもの。「太い」とは大きなもの。「美・醜」とは善きものと悪しきもの。長い物品にも安価なものもあれば高価なものもある。短いものなどにおいても同様の理である。このようにこれだけではすべてを尽くしきれないが、「美・醜」というこれによって網羅されるのである。
Nirāsayanti nittaṇhaṃ.
「希望(渇愛)なき」とは渇愛を離れた。
Ālayāti taṇhālayā. Aññāyāti jānitvā. Amatogadhanti amatabbhantaraṃ. Anuppattanti anupaviṭṭhaṃ.
「執着」とは渇愛の執着。「知って」とは理解して。「不死に没入した」とは不死(涅槃)の内部に入った。「達した」とは進入した。
Ubho saṅganti ubhayampetaṃ saṅgaṃ. Puññañhi sagge laggāpeti, apuññaṃ apāye, tasmā ubhayampetaṃ saṅganti āha. Upaccagāti atīto.
「双方の執着」とはこれら双方の執着。福徳は天界に執着させ、非福徳(罪悪)は悪処に執着させる、それゆえ「これら双方の執着」と言ったのである。「乗り越えた」とは超越した。
Anāvilanti āvilakaraṇakilesavirahitaṃ. Nandībhavaparikkhīṇanti parikkhīṇanandiṃ parikkhīṇabhavaṃ.
「濁りのない」とは濁らせる煩悩を離れた。「歓喜と生存が尽きた」とは歓喜が尽き、生存が尽きた。
‘‘Yo ima’’nti gāthāya avijjāyeva visaṃvādakaṭṭhena palipatho, mahāviduggatāya duggaṃ, saṃsaraṇaṭṭhena saṃsāro, mohanaṭṭhena mohoti vutto. Tiṇṇoti caturoghatiṇṇo. Pāraṅgatoti nibbānaṃ gato. Jhāyīti ārammaṇalakkhaṇūpanijjhānavasena jhāyī. Anejoti nittaṇho. Anupādāya nibbutoti kiñci gahaṇaṃ aggahetvā sabbakilesanibbānena nibbuto.
「この〜を」という詩偈において、無明そのものが偽りの意味で泥沼であり、大いなる困難であることから難路であり、輪廻する意味で輪廻であり、惑わす意味で迷妄と呼ばれる。「渡った」とは四つの激流を渡った者。「彼岸に至った」とは涅槃に至った者。「禅定する者」とは対象の観察と特相の観察によって思惟する者。「動揺なき者」とは渇愛なき者。「執着することなく寂滅した」とは、いかなる執着をも捉えることなく、一切の煩悩の寂滅によって安らいだ者。
Kāmeti duvidhepi kāme. Anāgāroti anāgāro hutvā. Paribbajeti paribbajati. Kāmabhavaparikkhīṇanti khīṇakāmaṃ khīṇabhavaṃ.
「欲望を」とは二種の欲望(煩悩欲と境欲)を。「家なき者」とは家なき者となって。「遍歴する」とは出家遍歴する。「欲望と生存が尽きた」とは欲望が尽き生存が尽きた。
Mānusakaṃ yoganti mānusakaṃ pañcakāmaguṇayogaṃ. Dibbaṃ yoganti dibbaṃ pañcakāmaguṇayogaṃ. Sabbayogavisaṃyuttanti sabbakilesayogavisaṃyuttaṃ.
「人間の軛」とは人間の五欲の束縛。「天の軛」とは天上の五欲の束縛。「一切の軛から離れた」とは一切の煩悩の束縛から離れた。
Ratinti pañcakāmaguṇaratiṃ. Aratinti kusalabhāvanāya ukkaṇṭhitaṃ. Vīranti vīriyavantaṃ.
「愛着」とは五欲への愛着。「不快」とは善き修行への倦怠。「雄々しき者」とは精進ある者。
Sugatanti sundaraṃ ṭhānaṃ gataṃ, sundarāya vā paṭipattiyā gataṃ.
「善逝」とは善き境地へ行った者、あるいは善き実践によって行った者。
Gatinti nibbattiṃ. Pureti atīte. Pacchāti anāgate. Majjheti paccuppanne. Kiñcananti kiñcanakārako kileso.
「行く末(転生)」とは再生。「前に」とは過去に。「後に」とは未来に。「中間に」とは現在に。「障害(所有)」とは障害(煩悩)を生じさせる煩悩。
Mahesinti mahante guṇe pariyesanaṭṭhena mahesiṃ. Vijitāvinanti vijitavijayaṃ.
「大聖者」とは大いなる徳を求めるという意味での大仙人。「勝利者」とは勝利を収めた者。
460. Evaṃ bhagavā guṇato khīṇāsavaṃyeva brāhmaṇaṃ dassetvā ye jātito brāhmaṇoti abhinivesaṃ karonti, te idaṃ ajānantā, sāva nesaṃ diṭṭhi duddiṭṭhīti dassento samaññā hesāti gāthādvayamāha. Tassattho – yadidaṃ brāhmaṇo khattiyo bhāradvājo vāseṭṭhoti nāmagottaṃ pakappitaṃ kataṃ abhisaṅkhataṃ, samaññā hesā lokasmiṃ, vohāramattanti attho. Kasmā? Yasmā samuccā samudāgataṃ samaññāya āgataṃ. Etañhi tattha tattha jātakāleyevassa ñātisālohitehi pakappitaṃ kataṃ. No ce naṃ evaṃ pakappeyyuṃ, na koci kiñci disvā ayaṃ brāhmaṇoti vā bhāradvājoti vā jāneyya. Evaṃ pakappitaṃ petaṃ dīgharattānusayitaṃ, diṭṭhigatamajānataṃ, taṃ pakappitaṃ nāmagottaṃ ‘‘nāmagottamattametaṃ, vohāratthaṃ pakappita’’nti, ajānantānaṃ sattānaṃ hadaye dīgharattaṃ diṭṭhigatamanusayitaṃ. Tassa anusayitattā taṃ nāmagottaṃ ajānantā no pabrunti, ‘‘jātiyā hoti brāhmaṇo’’ti ajānantāva evaṃ vadantīti vuttaṃ hoti.
460. このように世尊は徳によってまさに煩悩の尽きた者(阿羅漢)こそがバラモンであると示し、生まれによってバラモンであると固執する者たちは、このことを知らず、まさに彼らのその見解は悪しき見解であると示すために、「実に世俗の呼称である」という二つの詩偈を説かれた。その意味は、この「バラモン」「王族」「バーラドヴァージャ」「ヴァーセッタ」と構想され、作られ、形成された名や家名は、世間における単なる呼称であり、世俗の約束事にすぎない、という意味である。なぜか。合意によって生じ、慣習的呼称から生じたからである。これはそれぞれの場所で生まれた時にまさにその親族や血縁者によって構想され作られたのである。もし彼らがこのように構想しなかったならば、誰もいかなる人を見ても「この人はバラモンである」とか「バーラドヴァージャである」とは知ることはないであろう。このように構想されたものでありながら、長き夜にわたって随眠し、邪見に陥って知ることなく、その構想された名や家名を「これは名や家名にすぎず、世俗の用務のために構想されたものである」と知ることのない衆生の心に、長き夜にわたって邪見が随眠したのである。それが随眠しているがゆえに、その名や家名を知らない者たちは語るのである。「生まれによってバラモンとなる」と知ることのないままにこのように語るのだ、と説かれている。
Evaṃ ‘‘ye ‘jātito brāhmaṇo’ti abhinivesaṃ karonti, te idaṃ vohāramattaṃ ajānantā, sāva nesaṃ diṭṭhi duddiṭṭhī’’ti dassetvā idāni nippariyāyameva jātivādaṃ paṭikkhipanto kammavādañca patiṭṭhapento na jaccātiādimāha. Tattha ‘‘kammunā’’ti upaḍḍhagāthāya vitthāraṇatthaṃ kassako kammunātiādi vuttaṃ. Tattha kammunāti paccuppannena kasikammādinibbattakacetanākammunā.
このように「『生まれによってバラモンである』と固執する者たちは、この世俗の約束事にすぎないことを知らず、まさに彼らのその見解は悪しき見解である」と示し、今や直接的に(真実義として)血統説を否定し、業説を確立しようとして、「生まれによってではなく」などと言われた。その中で「行為によって」という後半の詩偈を詳細に説くために、「農民も行為によって」などと説かれた。その中で「行為によって」とは、現世の農業などを生み出す思(意志)の行為によって、ということ。
Paṭiccasamuppādadassāti iminā paccayena evaṃ hotīti evaṃ paṭiccasamuppādadassāvino. Kammavipākakovidāti sammānāvamānārahakule kammavasena uppatti hoti, aññāpi hīnapaṇītatā hīnapaṇīte kamme vipaccamāne hotīti. Evaṃ kammavipākakusalā.
「縁起を見る者たち」とは、この条件によってこのように生じる、とこのように縁起を見る者たち。「業の異熟(報い)に巧みな者たち」とは、敬意や軽蔑を受けるべき家柄への出生は業によって生じ、他の優劣もまた優劣の業が熟するときに生じる、とこのように業の異熟に巧みな者たち。
Kammunā vattatīti gāthāya pana lokoti vā pajāti vā sattoti vā ekoyevattho, vacanamattabhedo. Purimapadena cettha ‘‘atthi brahmā mahābrahmā seṭṭho sajitā’’ti diṭṭhiyā paṭisedho veditabbo. Kammunā hi tāsu tāsu gatīsu vattati loko, tassa ko sajitāti. Dutiyapadena ‘‘evaṃ kammunā nibbattopi ca pavattepi atītapaccuppannabhedena kammunā vattati, sukhadukkhāni paccanubhonto hīnapaṇītādibhedañca āpajjanto pavattatī’’ti dasseti. Tatiyena tamevatthaṃ nigameti ‘‘evaṃ sabbathāpi kammanibandhanā sattā kammeneva baddhā hutvā pavattanti, na aññathā’’ti. Catutthena tametthaṃ upamāya vibhāveti. Yathā hi rathassa yāyato āṇi nibandhanaṃ hoti, na tāya anibaddho yāti, evaṃ lokassa nibbattato ca pavattato ca kammaṃ nibandhanaṃ, na tena anibaddho nibbattati na pavattati.
「行為によって回転する」という詩偈において、「世間」あるいは「衆生」あるいは「生きもの」とは同一の意味であり、言葉の違いにすぎない。そして前半の句によって、「最上なるブラフマー(梵天)、大梵天たる創造主が存在する」という見解の否定と知るべきである。実に業によって種々の境遇において世間は回転するのであり、誰がその創造主であろうか。第二の句によって、「このように業によって生じた後も、生存の過程においても過去と現在の区分による業によって回転し、苦楽を感受し、優劣などの差異に陥りながら回転する」と示す。第三の句によってまさにその意味を結ぶ。「このようにいかなる意味においても衆生は業に束縛され、業そのものによって縛られて回転するのであり、他のようではない」と。第四の句によってその意味を譬えによって解明する。実に走る車にとって楔が束縛(固定具)であり、それによって固定されずしては走らないように、世間の出生にとっても生存にとっても業が束縛であり、それによって縛られずしては生まれず、回転しないのである。
Idāni yasmā evaṃ kammanibandhano loko, tasmā seṭṭhena kammunā seṭṭhabhāvaṃ dassento tapenāti gāthādvayamāha. Tattha tapenāti dhutaṅgatapena. Brahmacariyenāti methunaviratiyā. Saṃyamenāti sīlena. Damenāti indriyadamena. Etenāti etena seṭṭhena parisuddhena brahmabhūtena kammunā brāhmaṇo hoti. Kasmā? Yasmā etaṃ brāhmaṇamuttamaṃ, yasmā etaṃ kammaṃ uttamo brāhmaṇaguṇoti vuttaṃ hoti. ‘‘Brahmāna’’ntipi pāṭho. Ayaṃ panettha vacanattho – brahmaṃ ānetīti brahmānaṃ, brāhmaṇabhāvaṃ āvahatīti vuttaṃ hoti.
今や、このように世間は業に束縛されているがゆえに、最上の行為によって最上となることを示そうとして、「苦行によって」という二つの詩偈を説かれた。その中で「苦行によって」とは頭陀行の苦行によって。「清浄行によって」とは性交の断絶によって。「制御によって」とは戒によって。「調御によって」とは感覚器官の制御によって。「これによって」とは、この最上にして清浄なる梵なる行為によってバラモンとなる。なぜか。実にこれこそが最上のバラモンであり、実にこの行為こそが最上のバラモンの徳である、と説かれている。「ブラフマン(梵天)を」という読みもある。ここでの言葉の意味はこうである。梵なる境地をもたらす(導く)ゆえにブラフマンであり、バラモンの状態をもたらす、と説かれている。
Dutiyagāthāya santoti santakileso. Brahmā sakkoti brahmā ca sakko ca, yo evarūpo, so na kevalaṃ brāhmaṇo, atha kho brahmā ca sakko ca so vijānataṃ paṇḍitānaṃ, evaṃ vāseṭṭha, jānāhīti vuttaṃ hoti. Sesaṃ sabbattha uttānamevāti.
第二の詩偈において「寂静なる者」とは煩悩の静まった者。「梵天であり帝釈天である」とは、梵天であり帝釈天でもある、このような姿の者は単にバラモンであるだけでなく、真に理解する賢者たちにとっては梵天であり帝釈天である、このようにヴァーセッタよ、知るがよい、と説かれている。残りはすべての箇所において明白である。
Papañcasūdaniyā majjhimanikāyaṭṭhakathāya
パパンチャ・スーダニー(破除戱論)中部註釈書において
Vāseṭṭhasuttavaṇṇanā niṭṭhitā.
ヴァーセッタ経の註解が終了した。
9. Subhasuttavaṇṇanā
九 スバ経の註解
462. Evaṃ me sutanti subhasuttaṃ. Tattha todeyyaputtoti tudigāmavāsino todeyyabrāhmaṇassa putto. Ārādhako hotīti sampādako hoti paripūrako. Ñāyaṃ dhammanti kāraṇadhammaṃ. Kusalanti anavajjaṃ.
462. 「このように私は聞きました」とはじまるのはスバ経(Subhasutta)である。その中で「トーデイヤの息子」とは、トゥディ村に住むトーデイヤ・バラモンの息子のこと。「成就する者となる」とは、達成する者となり円満にする者となる。「道理の法を」とは、因果の法を。「善きもの」とは、過失なきもの。
463. Micchāpaṭipattinti aniyyānikaṃ akusalapaṭipadaṃ. Sammāpaṭipattinti niyyānikaṃ kusalapaṭipadaṃ.
463. 「邪なる実践」とは、解脱をもたらさない不善の実践。「正しき実践」とは、解脱をもたらす善の実践。
Mahaṭṭhantiādīsu mahantehi veyyāvaccakarehi vā upakaraṇehi vā bahūhi attho etthāti mahaṭṭhaṃ. Mahantāni nāmaggahaṇamaṅgalādīni kiccāni etthāti mahākiccaṃ. Idaṃ ajja kattabbaṃ, idaṃ sveti evaṃ mahantāni adhikārasaṅkhātāni adhikaraṇāni etthāti mahādhikaraṇaṃ. Bahūnaṃ kamme yuttappayuttatāvasena pīḷāsaṅkhāto mahāsamārambho etthāti mahāsamārambhaṃ. Gharāvāsakammaṭṭhānanti gharāvāsakammaṃ. Evaṃ sabbavāresu attho veditabbo. Kasikamme cettha naṅgalakoṭiṃ ādiṃ katvā upakaraṇānaṃ pariyesanavasena mahaṭṭhatā, vaṇijjāya yathāṭhitaṃyeva bhaṇḍaṃ gahetvā parivattanavasena appaṭṭhatā veditabbā. Vipajjamānanti avuṭṭhiativuṭṭhiādīhi kasikammaṃ, maṇisuvaṇṇādīsu acchekatādīhi ca vaṇijjakammaṃ appaphalaṃ hoti, mūlacchedampi pāpuṇāti. Vipariyāyena sampajjamānaṃ mahapphalaṃ cūḷantevāsikassa viya.
「多くの用事がある」などの句において、多くの雑務を行う者たち、あるいは多くの道具・備品を必要とするという意味で「多くの用事がある」。「名付けの儀礼などの多くの務めがある」という意味で「多くの務めがある」。「今日はこれをなすべき、明日はこれを」とこのように多くの責任・職掌と呼ばれる審問・紛争があるという意味で「多くの係争がある」。「多くの人々の作業への従事によって苦しめられるという大きな開始(事業)がある」という意味で「多くの事業がある」。「在家生活の仕事」とは在家生活の業。すべての節においてこのように意味を知るべきである。そしてここで農業においては、鋤の先端をはじめとする農具の調達によって多くの用事があること、商業においては、既存の物品をそのまま仕入れて転売することによって少ない用事であることが知られるべきである。「失敗するとき」とは、日照りや長雨などによって農業が、宝石や黄金などへの不慣れなどによって商業が、少ない果報となり元本割れにも至る。「反対に成功するとき」とは、チュッランテヴァーシカのように大きな果報をもたらすのである。
464. Evameva khoti yathā kasikammaṭṭhānaṃ vipajjamānaṃ appaphalaṃ hoti, evaṃ gharāvāsakammaṭṭhānampi. Akatakalyāṇo hi kālaṃ katvā niraye nibbattati. Mahādattasenāpati nāma kireko brāhmaṇabhatto ahosi, tassa maraṇasamaye nirayo upaṭṭhāsi. So brāhmaṇehi ‘‘kiṃ passasī’’ti vutto? Lohitagharanti āha. Brahmaloko bho esoti. Brahmaloko nāma bho kahanti? Uparīti. Mayhaṃ heṭṭhā upaṭṭhātīti. Kiñcāpi heṭṭhā upaṭṭhāti, tathāpi uparīti kālaṃ katvā niraye nibbatto. ‘‘Iminā amhākaṃ yaññe doso dinno’’ti sahassaṃ gahetvā nīharituṃ adaṃsu. Sampajjamānaṃ pana mahapphalaṃ hoti. Katakalyāṇo hi kālaṃ katvā sagge nibbattati. Sakalāya guttilavimānakathāya dīpetabbaṃ. Yathā pana taṃ vaṇijjakammaṭṭhānaṃ vipajjamānaṃ appaphalaṃ hoti, evaṃ sīlesu aparipūrakārino anesanāya yuttassa pabbajjākammaṭṭhānampi. Evarūpā hi neva jhānādisukhaṃ na saggamokkhaṃ labhati. Sampajjamānaṃ pana mahapphalaṃ hoti. Sīlāni hi pūretvā vipassanaṃ vaḍḍhento arahattampi pāpuṇāti.
464. 「実にその通りである」とは、農業の仕事が失敗するときに少ない果報となるように、在家生活の仕事もまたそうである。善根を積まなかった者は命終して地獄に生まれるからである。マハーダッタ将軍という名のバラモン信奉者がいたというが、彼の死の時に地獄が現れた。彼はバラモンたちに「何が見えるか」と問われて、「赤い家(血の家)が見える」と言った。「尊者よ、それは梵天界です」と。「尊者よ、梵天界とはどこにあるのか」。「上方にあります」。「私には下方に現れている」。「たとえ下方に現れていようとも、それでも上方にあるのです」と(言われ)、彼は命終して地獄に生まれた。「この者は私たちの祭祀に汚名を着せた」と、千金を受け取って運び出させた。しかし成功するときには大きな果報となる。善根を積んだ者は命終して天界に生まれるからである。グッティラ天宮物語の全体によって明らかにされるべきである。しかしその商業の仕事が失敗するときに少ない果報となるように、戒において不完全に行い不正な生活に携わる出家の仕事もまたそうである。このような者は禅定などの安楽も天界や解脱も得られない。しかし成功するときには大きな果報となる。戒を満たしてヴィパッサナー(洞察)を深める者は阿羅漢果にも達するからである。
Brāhmaṇā, bho gotamoti idha kiṃ pucchāmīti pucchati? Brāhmaṇā vadanti – ‘‘pabbajito ime pañca dhamme pūretuṃ samattho nāma natthi, gahaṭṭhova pūretī’’ti. Samaṇo pana gotamo – ‘‘gihissa vā ahaṃ māṇava pabbajitassa vā’’ti punappunaṃ vadati, neva pabbajitaṃ muñcati, mayhameva pucchaṃ maññe na sallakkhetīti cāgasīsena pañca dhamme pucchāmīti pucchati. Sace te agarūti sace tuyhaṃ yathā brāhmaṇā paññapenti, tathā idha bhāsituṃ bhāriyaṃ na hoti, yadi na koci aphāsukabhāvo hoti, bhāsassūti attho. Na kho me, bhoti kiṃ sandhāyāha? Paṇḍitapaṭirūpakānañhi santike kathetuṃ dukkhaṃ hoti, te pade pade akkhare akkhare dosameva vadanti. Ekantapaṇḍitā pana kathaṃ sutvā sukathitaṃ pasaṃsanti, dukkathite pāḷipadaatthabyañjanesu yaṃ yaṃ virujjhati, taṃ taṃ ujuṃ katvā denti. Bhagavatā ca sadiso ekantapaṇḍito nāma natthi, tenāha ‘‘na kho me, bho gotama, garu, yatthassu bhavanto vā nisinno bhavantarūpo vā’’ti. Saccanti vacīsaccaṃ. Tapanti tapacariyaṃ. Brahmacariyanti methunaviratiṃ. Ajjhenanti mantagahaṇaṃ. Cāganti āmisapariccāgaṃ.
「尊者ゴータマよ、バラモンたちは〜」とは、ここで何を問うているのか。バラモンたちは言う。「出家者にはこれら五つの法を満たすことができる者など決していない。在家の者こそが満たすのだ」と。しかし修行者ゴータマは「青年よ、私は在家の者であれ出家の者であれ」と繰り返し語り、出家者を決して捨て置かず、私の問いをよく考察していないのではないかと思い、施しを筆頭とする五つの法について尋ねようと問うのである。「もし貴方に迷惑でなければ」とは、もし貴方にとってバラモンたちが規定するようにここで語ることが負担でなければ、何らの不都合もなければ語ってください、という意味。「尊者よ、私には負担ではない」とは、何を指して言ったのか。似非賢者たちの前で語ることは苦痛であり、彼らは一語一文字ごとに非難ばかりを口にする。しかし真の賢者たちは話を聞いて、善く語られたものを賞賛し、悪しく語られた経文の語句や意味や表現の中で矛盾するものをことごとく正して授けてくれる。そして世尊に匹敵する真の賢者など存在しない。それゆえ「尊者ゴータマよ、貴方や貴方のような方が座っておられるところで、私には負担ではありません」と言ったのである。「真実」とは言葉の真実。「苦行」とは苦行の実践。「清浄行」とは性交の断絶。「読誦」とは聖句の学習。「施し」とは財物の放棄。
466. Pāpito bhavissatīti. Ajānanabhāvaṃ pāpito bhavissati. Etadavocāti bhagavatā andhaveṇūpamāya niggahito taṃ paccāharituṃ asakkonto yathā nāma dubbalasunakho migaṃ uṭṭhapetvā sāmikassa abhimukhaṃ katvā sayaṃ apasakkati, evamevaṃ ācariyaṃ apadisanto evaṃ ‘‘brāhmaṇo’’tiādivacanaṃ avoca. Tattha pokkharasātīti idaṃ tassa nāmaṃ, ‘‘pokkharasāyī’’tipi vuccati. Tassa kira kāyo setapokkharasadiso devanagare ussāpitarajatatoraṇaṃ viya sobhati, sīsaṃ panassa kāḷavaṇṇaindanīlamayaṃ viya, massupi candamaṇḍale kāḷamegharāji viya khāyati, akkhīni nīluppalasadisāni, nāsā rajatapanāḷikā viya suvaṭṭitā suparisuddhā, hatthapādatalāni ceva mukhañca katalākhārasaparikammaṃ viya sobhati. Ativiya sobhaggappatto brāhmaṇassa attabhāvo. Arājake ṭhāne rājānaṃ kātuṃ yuttamimaṃ brāhmaṇaṃ, evamesa sassiriko, iti naṃ pokkharasadisattā ‘‘pokkharasātī’’ti sañjānanti, pokkhare pana so nibbatto, na mātukucchiyanti iti naṃ pokkhare sayitattā ‘‘pokkharasāyī’’tipi sañjānanti. Opamaññoti upamaññagotto. Subhagavanikoti ukkaṭṭhāya subhagavanassa issaro. Hassakaṃyevāti hasitabbakaññeva. Nāmakaṃyevāti lāmakaṃyeva. Tadeva taṃ atthābhāvena rittakaṃ. Rittakattā ca tucchakaṃ. Idāni naṃ bhagavā sācariyakaṃ niggaṇhituṃ kiṃ pana māṇavātiādimāha.
466. 「至らしめられるであろう」とは、無知の状態に至らしめられるであろう、ということ。「このように言った」とは、世尊によって盲人の竹の杖の譬えでやり込められ、それを取り消すことができず、あたかも弱い犬が鹿を追い立てて飼い主の方へ向かわせて自らは退くように、このように自らの師匠を引き合いに出してこのように「バラモンは〜」などの言葉を言ったのである。その中で「ポッカラサーティ」とは彼の名前であり、「ポッカラサーイー」とも呼ばれる。彼の身体は白蓮のようであり、神々の都に掲げられた銀の門のように輝き、頭は黒い輝きのサファイアのようであり、髭も満月にかかる黒雲の筋のように見え、両眼は青蓮のようであり、鼻は銀の樋のように美しく整い清らかであり、両手両足の裏と顔はラック塗料の化粧を施したかのように美しく輝いている。極めて美しさの頂点に達したバラモンの身体であった。王のいない地にあって王とするにふさわしいこのバラモンは、このように輝かしかった。このように蓮華(ポッカラ)に似ていることから「ポッカラサーティ」と知られ、また彼は蓮華の中に生まれ、母の胎内からではないことから、蓮華の中に臥したことによって「ポッカラサーイー」とも知られている。「オーパマンニャ」とはウパマニヤ姓のこと。「スバガヴァナの」とはウッカッタのスバガヴァナ(美林)の領主。「笑うべきことにすぎない」とは嘲笑すべきことにすぎない。「下劣なものにすぎない」とは卑しいものにすぎない。まさにそれは意味(実体)がないゆえに空虚なものである。空虚であるゆえに無益なものである。今や世尊は彼を師匠もろとも論破しようとして、「青年よ、それではどう思うか」などと言われた。
467. Tattha katamā nesaṃ seyyoti katamā vācā tesaṃ seyyo, pāsaṃsataroti attho. Sammuccāti sammutiyā lokavohārena. Mantāti tulayitvā pariggaṇhitvā. Paṭisaṅkhāyāti jānitvā. Atthasaṃhitanti kāraṇanissitaṃ. Evaṃ santeti lokavohāraṃ amuñcitvā tulayitvā jānitvā kāraṇanissitaṃ katvā kathitāya seyyabhāve sati. Āvutoti āvarito. Nivutoti nivārito. Ophuṭoti onaddho. Pariyonaddhoti paliveṭhito.
467. その中で「彼らのどちらが勝れているか」とは、彼らのいかなる言葉が勝れているか、より賞賛に値するか、という意味。「合意によって」とは、合意により世俗の呼称によって。「思慮深く」とは、比較考量し把握して。「熟慮して」とは、知って。「利益にかなった」とは、道理に基づいた。「そうであるならば」とは、世俗の約束事を離れず、比較考量し、知って、道理に基づいて語られた言葉が勝れているならば、ということ。「覆われ」とは覆い隠され。「遮られ」とは遮断され。「包まれ」とは巻き込まれ。「取り囲まれ」とは取り囲まれて。
468. Gadhitotiādīni vuttatthāneva. Sace taṃ, bho gotama, ṭhānanti sace etaṃ kāraṇamatthi. Svāssāti dhūmachārikādīnaṃ abhāvena so assa aggi accimā ca vaṇṇimā ca pabhassaro cāti. Tathūpamāhaṃ māṇavāti tappaṭibhāgaṃ ahaṃ. Idaṃ vuttaṃ hoti – yatheva hi tiṇakaṭṭhupādānaṃ paṭicca jalamāno aggi dhūmachārikaṅgārānaṃ atthitāya sadoso hoti, evamevaṃ pañca kāmaguṇe paṭicca uppannā pīti jātijarābyādhimaraṇasokādīnaṃ atthitāya sadosā. Yathā pana pariccattatiṇakaṭṭhupādāno dhūmādīnaṃ abhāvena parisuddho, evamevaṃ lokuttarajjhānadvayasampayuttā pīti jātiādīnaṃ abhāvena parisuddhāti attho.
468. 「執着した」などはすでに説いた通りの意味である。「尊者ゴータマよ、もしそのことがあるならば」とは、もしその理由があるならば、ということ。「彼にとってその(火は)」とは、煙や灰などがないことによって、その火は炎があり、輝きがあり、光明があるであろう、ということ。「青年よ、私はそれになぞらえる」とは、それと同等のものとして私は(なぞらえる)。こう説かれているのである。草や木の燃料に依存して燃える火は、煙や灰や炭があることによって過失があるように、五つの欲望に依存して生じた喜び(喜悦)は、生・老・病・死・憂いなどの存在によって過失がある。しかし草や木の燃料を離れたものが煙などがないことによって清浄であるように、二つの出世間の禅定に相応する喜びは、生などの過失がないことによって清浄である、という意味である。
469. Idāni ye te brāhmaṇehi cāgasīsena pañca dhammā paññattā, tepi yasmā pañceva hutvā na niccalā tiṭṭhanti, anukampājātikena saddhiṃ cha āpajjanti. Tasmā taṃ dosaṃ dassetuṃ ye te māṇavātiādimāha. Tattha anukampājātikanti anukampāsabhāvaṃ.
469. 今や、バラモンたちによって施しを筆頭として規定された五つの法、それらもまた五つだけで不動にとどまることはなく、慈悲の性質を伴って六つとなる。それゆえその過失を示すために、「青年よ、これら〜」などと言われた。その中で「憐れみの性質をもつ」とは、憐れみの本性をもつこと。
Kattha bahulaṃ samanupassasīti idaṃ bhagavā yasmā – ‘‘esa ime pañca dhamme pabbajito paripūretuṃ samattho nāma natthi, gahaṭṭho paripūretī’’ti āha, tasmā – ‘‘pabbajitova ime pūreti, gahaṭṭho pūretuṃ samattho nāma natthī’’ti teneva mukhena bhaṇāpetuṃ pucchati.
「どこに多く見出すか」とは、世尊が「彼は出家者にはこれら五つの法を満たすことができる者など決してなく、在家の者が満たすのだと言った」ゆえに、「出家者こそがこれらを満たし、在家の者には満たすことができる者など決してない」とまさに彼自身の口から語らせようとして問うのである。
Na satataṃ samitaṃ saccavādītiādīsu gahaṭṭho aññasmiṃ asati vaḷañjanakamusāvādampi karotiyeva, pabbajitā asinā sīse chijjantepi dve kathā na kathenti. Gahaṭṭho ca antotemāsamattampi sikkhāpadaṃ rakkhituṃ na sakkoti, pabbajito niccameva tapassī sīlavā tapanissitako hoti. Gahaṭṭho māsassa aṭṭhadivasamattampi uposathakammaṃ kātuṃ na sakkoti, pabbajitā yāvajīvaṃ brahmacārino honti. Gahaṭṭho ratanasuttamaṅgalasuttamattampi potthake likhitvā ṭhapeti, pabbajitā niccaṃ sajjhāyanti. Gahaṭṭho salākabhattampi akhaṇḍaṃ katvā dātuṃ na sakkoti, pabbajitā aññasmiṃ asati kākasunakhādīnampi piṇḍaṃ denti, bhaṇḍaggāhakadaharassapi patte pakkhipantevāti evamattho daṭṭhabbo. Cittassāhametenti ahaṃ ete pañca dhamme mettacittassa parivāre vadāmīti attho.
「常に絶え間なく真実を語る者ではない」などの句において、在家の者は他にいかなることもなくとも生活のための嘘さえつくが、出家者は剣で首を切り落とされるときでも二枚舌を使わない。在家の者は三ヶ月の間だけでも学習戒を保つことができないが、出家者は常に苦行者であり戒ある者であり修行に専念する者である。在家の者は一ヶ月のうち八日だけでも布薩の行をなすことができないが、出家者は生涯にわたり清浄行を修める者である。在家の者は宝経や吉祥経だけでも書物に書き留めて置くだけであるが、出家者は常に読誦する。在家の者は籤札の食事であっても欠かさずに与えることができないが、出家者は他にないときには烏や犬などにさえ団飯を与え、荷物持ちの少年のお布施の鉢にさえ投げ入れるのである、とこのように意味が理解されるべきである。「私はこれらを心の〜と言う」とは、私はこれら五つの法を慈心の伴侶(眷属)であると言う、という意味である。
470. Jātavaddhoti jāto ca vaḍḍhito ca. Yo hi kevalaṃ tattha jātova hoti, aññattha vaḍḍhito, tassa samantā gāmamaggā na sabbaso paccakkhā honti, tasmā jātavaddhoti āha. Jātavaddhopi hi yo ciraṃ nikkhanto, tassa na sabbaso paccakkhā honti, tasmā tāvadeva avasaṭanti āha, taṃkhaṇameva nikkhantanti attho. Dandhāyitattanti ‘‘ayaṃ nu kho maggo ayaṃ na nu kho’’ti kaṅkhāvasena cirāyitattaṃ. Vitthāyitattanti yathā sukhumaṃ atthajātaṃ sahasā pucchitassa kassaci sarīraṃ thaddhabhāvaṃ gaṇhāti, evaṃ thaddhabhāvagahaṇaṃ. Natvevāti iminā sabbaññutaññāṇassa appaṭihatabhāvaṃ dasseti. Tassa hi purisassa mārāvaṭṭanādīnaṃ vasena siyā ñāṇassa paṭighāto, tena so dandhāyeyya vā vitthāyeyya vā, sabbaññutaññāṇaṃ pana appaṭihataṃ, na sakkā tassa kenaci antarāyo kātunti dīpeti.
470. 「生まれ育った」とは、生まれ、かつ育ったこと。単にそこで生まれただけで他所で育った者は、村を取り囲む道がことごとく明白であるわけではない、それゆえ「生まれ育った」と言ったのである。生まれ育った者であっても久しく離れていた者は、ことごとく明白であるわけではない、それゆえ「直ちに出てきた」と言ったのであり、その瞬間に立ち去ったばかりである、という意味。「ためらうこと」とは、「この道であろうか、この道ではないだろうか」という疑惑による時間の遅延。「まごつくこと」とは、深遠な意味の事柄を不意に問われた者が身体を強張らせるように、そのように強張る状態に陥ること。「しかし決してそうではない」とは、これによって一切知の智慧の妨げられないことを示す。その人には魔の惑わしなどによって知恵の障害が生じるかもしれず、それによって彼はためらったりまごついたりするかもしれないが、一切知の智慧は妨げられることがなく、何ものもそれに障害をなすことはできない、と明らかにしている。
Seyyathāpi māṇava balavā saṅkhadhamoti ettha balavāti balasampanno. Saṅkhadhamoti saṅkhadhamako. Appakasirenāti akicchena adukkhena. Dubbalo hi saṅkhadhamako saṅkhaṃ dhamantopi na sakkoti catasso disā sarena viññāpetuṃ, nāssa saṅkhasaddo sabbaso phari. Balavato pana vipphāriko hoti, tasmā balavāti āha. Mettāya cetovimuttiyāti ettha mettāyāti vutte upacāropi appanāpi vaṭṭati, cetovimuttiyāti vutte pana appanāva vaṭṭati. Yaṃ pamāṇakataṃ kammanti pamāṇakataṃ kammaṃ nāma kāmāvacaraṃ vuccati, appamāṇakataṃ kammaṃ nāma rūpārūpāvacaraṃ. Tesupi idha brahmavihārakammaññeva adhippetaṃ. Tañhi pamāṇaṃ atikkamitvā odhisakaanodhisaka disāpharaṇavasena vaḍḍhetvā katattā appamāṇakatanti vuccati. Na taṃ tatrāvasissati, na taṃ tatrāvatiṭṭhatīti taṃ kāmāvacarakammaṃ tasmiṃ rūpārūpāvacarakamme na ohīyati na tiṭṭhati. Kiṃ vuttaṃ hoti? Kāmāvacarakammaṃ tassa rūpārūpāvacarakammassa antarā laggituṃ vā ṭhātuṃ vā rūpārūpāvacarakammaṃ pharitvā pariyādiyitvā attano okāsaṃ gahetvā patiṭṭhātuṃ vā na sakkoti, atha kho rūpārūpāvacarakammameva kāmāvacaraṃ mahogho viya parittaudakaṃ pharitvā pariyādiyitvā attano okāsaṃ gahetvā tiṭṭhati, tassa vipākaṃ paṭibāhitvā sayameva brahmasahabyataṃ upanetīti. Sesaṃ sabbattha uttānamevāti.
「青年よ、たとえば力ある法螺貝吹きが」のここで、「力ある」とは力量を具えた者。「法螺貝吹き」とは法螺貝を吹く者。「わずかの困難もなく」とは苦もなく難もなく。非力な法螺貝吹きは法螺貝を吹いても四方にその声で知らせることができず、その法螺貝の音はあまねく広がることはない。しかし力ある者の音は響き渡る、それゆえ「力ある」と言ったのである。「慈心による心解脱によって」のここで、「慈心によって」と言えば近行定も安止定も妥当するが、「心解脱によって」と言えば安止定のみが妥当する。「限定された行為をなす」とは、限定された行為とは欲界の行為をいい、無限定になされた行為とは色界・無色界の行為をいう。それらの中でもここでは四無量心の行為のみが意図されている。実にそれは限定を超越して、特定・不特定の方向への遍満によって増大させて行われたゆえに、「無限定になされた」と呼ばれる。「それはそこにとどまることなく、それはそこに残ることはない」とは、その欲界の行為は、その色界・無色界の行為の中に残ることもとどまることもない。何が説かれているのか。欲界の行為は、その色界・無色界の行為の間に割り込んでとどまったり、色界・無色界の行為を覆い尽くして自らの居場所を得て存続することはできず、むしろ色界・無色界の行為そのものが、大洪水がわずかな水を覆い尽くすように欲界の行為を覆い尽くし、自らの居場所を得てとどまり、その異熟(報い)を排除して自ら梵天の同胞(梵天界)へと導くのである。残りはすべての箇所において明白である。
Papañcasūdaniyā majjhimanikāyaṭṭhakathāya
パパンチャ・スーダニー(破除戱論)中部註釈書において
Subhasuttavaṇṇanā niṭṭhitā.
スバ経の註解が終了した。
10. Saṅgāravasuttavaṇṇanā
一〇 サンガーラヴァ経の註解
473. Evaṃ me sutanti saṅgāravasuttaṃ. Tattha cañcalikappeti evaṃnāmake gāme. Abhippasannāti aveccappasādavasena pasannā. Sā kira sotāpannā ariyasāvikā bhāradvājagottassa brāhmaṇassa bhariyā. So brāhmaṇo pubbe kālena kālaṃ brāhmaṇe nimantetvā tesaṃ sakkāraṃ karoti. Imaṃ pana brāhmaṇiṃ gharaṃ ānetvā abhirūpāya mahākulāya brāhmaṇiyā cittaṃ kopetuṃ asakkonto brāhmaṇānaṃ sakkāraṃ kātuṃ nāsakkhi. Atha naṃ brāhmaṇā diṭṭhadiṭṭhaṭṭhāne – ‘‘nayidāni tvaṃ brāhmaṇaladdhiko, ekāhampi brāhmaṇānaṃ sakkāraṃ na karosī’’ti nippīḷenti. So gharaṃ āgantvā brāhmaṇiyā tamatthaṃ ārocetvā – ‘‘sace, bhoti ekadivasaṃ mukhaṃ rakkhituṃ sakkuṇeyyāsi, brāhmaṇānaṃ ekadivasaṃ bhikkhaṃ dadeyya’’nti āha. Tuyhaṃ deyyadhammaṃ ruccanakaṭṭhāne dehi, kiṃ mayhaṃ etthāti. So brāhmaṇe nimantetvā appodakaṃ pāyāsaṃ pacāpetvā gharañca sujjhāpetvā āsanāni paññāpetvā brāhmaṇe nisīdāpesi. Brāhmaṇī mahāsāṭakaṃ nivāsetvā kaṭacchuṃ gahetvā parivisantī dussakaṇṇake pakkhalitvā ‘‘brāhmaṇe parivisāmī’’ti saññampi akatvā āsevanavasena sahasā satthārameva anussaritvā udānaṃ udānesi.
473. 「このように私は聞きました」とはじまるのはサンガーラヴァ経(Saṅgāravasutta)である。その中で「チャンチャリカッパにおいて」とは、そのような名の村において。「篤く信順する」とは、不壊の清浄信によって信順している。彼女は預流果に達した聖なる在家女性信者(聖弟子)であり、バーラドヴァージャ姓のバラモンの妻であったという。そのバラモンは以前、時々バラモンたちを招待して彼らをもてなしていた。しかしこのバラモン女性を家に迎え入れてからは、容姿端麗で名門出身のバラモン女性の心を損ねることができず、バラモンたちをもてなすことができなくなっていた。そこでバラモンたちは彼に会う場所ごとに「お前はもうバラモンの信奉者ではない、一日たりともバラモンたちをもてなそうとしない」と責め立てた。彼は家に帰って妻にその事情を話し、「もしお前が一日だけでも口を慎んでくれるなら、一日バラモンたちに施しをしたいのだが」と言った。「あなたの施すべき物は好きな相手に施しなさい、私に何の関わりがありますか」と。彼はバラモンたちを招待し、水気の少ない乳粥を炊かせ、家を清めさせ、座席を整えさせてバラモンたちを着席させた。バラモン女性は大きな布をまとい、柄杓を持って配膳していたが、布の端につまずいて、「バラモンたちに給仕している」という意識も忘れて、日頃の習慣の力によってとっさに師(仏陀)を念じて感興の言葉(感得語)を唱えた。
Brāhmaṇā udānaṃ sutvā ‘‘ubhatopakkhiko esa samaṇassa gotamassa sahāyo, nāssa deyyadhammaṃ gaṇhissāmā’’ti kupitā bhojanāni chaḍḍetvā nikkhamiṃsu. Brāhmaṇo – ‘‘nanu paṭhamaṃyeva taṃ avacaṃ ‘ajjekadivasaṃ mukhaṃ rakkheyyāsī’ti, ettakaṃ te khīrañca taṇḍulādīni ca nāsitānī’’ti ativiya kopavasaṃ upagato – ‘‘evameva panāyaṃ vasalī yasmiṃ vā tasmiṃ vā tassa muṇḍakassa samaṇassa vaṇṇaṃ bhāsati, idāni tyāhaṃ vasali tassa satthuno vādaṃ āropessāmī’’ti āha. Atha naṃ brāhmaṇī ‘‘gaccha tvaṃ, brāhmaṇa, gantvā vijānissasī’’ti vatvā ‘‘na khvāhaṃ taṃ, brāhmaṇa, passāmi sadevake loke…pe… vādaṃ āropeyyā’’tiādimāha. So satthāraṃ upasaṅkamitvā –
バラモンたちは感興の言葉を聞いて、「この男は二股をかける修行者ゴータマの仲間だ、彼の施し物を受け取ってはならない」と怒り、食事を投げ捨てて立ち去った。バラモンは「最初に『今日一日だけでも口を慎んでくれ』と言ったではないか。これほどの乳や米などを台無しにしおって」と激しい怒りに駆られ、「このあばずれ女は事あるごとにあのかの剃髪の修行者の徳を褒めそやす。あばずれ女よ、今こそ私はお前の師に論争を仕掛けてやろう」と言った。するとバラモン女性は「バラモンよ、行ってごらんなさい、行けば分かるでしょう」と言い、「バラモンよ、神を含む世において…中略…論争を仕掛けることができるような者を私は見出しません」などと言った。彼は師のもとに近づいて――
‘‘Kiṃsu chetvā sukhaṃ seti, kiṃsu chetvā na socati;
「何を断ち切って安らかに眠り、何を断ち切って憂えることがないのか。
Kissassu ekadhammassa, vadhaṃ rocesi gotamā’’ti. (saṃ. ni. 1.187) –
いかなる一の法の殺害を、ゴータマよ、貴方は賛同されるのか」(相応部 1.187)――
Pañhaṃ pucchi. Satthā āha –
と質問を問うた。師は言われた――
‘‘Kodhaṃ chetvā sukhaṃ seti, kodhaṃ chetvā na socati;
「怒りを断ち切って安らかに眠り、怒りを断ち切って憂えることがない。
Kodhassa visamūlassa, madhuraggassa brāhmaṇa;
毒を根本とし、甘い切先をもつ怒りの、
Vadhaṃ ariyā pasaṃsanti, tañhi chetvā na socatī’’ti. (saṃ. ni. 1.187) –
殺害を聖者たちは賞賛する。実にそれを断ち切って憂えることはない」(相応部 1.187)――
Pañhaṃ kathesi. So pabbajitvā arahattaṃ patto. Tasseva kaniṭṭhabhātā akkosakabhāradvājo nāma ‘‘bhātā me pabbajito’’ti sutvā bhagavantaṃ upasaṅkamitvā akkositvā bhagavatā vinīto pabbajitvā arahattaṃ patto. Aparo tassa kaniṭṭho sundarikabhāradvājo nāma. Sopi bhagavantaṃ upasaṅkamitvā pañhaṃ pucchitvā vissajjanaṃ sutvā pabbajitvā arahattaṃ patto. Aparo tassa kaniṭṭho piṅgalabhāradvājo nāma. So pañhaṃ pucchitvā pañhabyākaraṇapariyosāne pabbajitvā arahattaṃ patto. Saṅgāravo māṇavoti ayaṃ tesaṃ sabbakaniṭṭho tasmiṃ divase brāhmaṇehi saddhiṃ ekabhattagge nisinno. Avabhūtāvāti avaḍḍhibhūtā avamaṅgalabhūtāyeva. Parabhūtāvāti vināsaṃ pattāyeva. Vijjamānānanti vijjamānesu. Sīlapaññāṇanti sīlañca ñāṇañca na jānāsi.
と質問に答えられた。彼は出家して阿羅漢果に達した。彼の弟でアッコーサカ・バーラドヴァージャという者が「兄が出家した」と聞いて世尊のもとに近づき、罵倒したが世尊に教化されて出家し、阿羅漢果に達した。彼のもう一人の弟にスンダリカ・バーラドヴァージャという者がいた。彼もまた世尊のもとに近づいて質問を問い、回答を聞いて出家し、阿羅漢果に達した。彼のもう一人の弟にピンガラ・バーラドヴァージャという者がいた。彼も質問を問い、回答の終わりに際して出家し、阿羅漢果に達した。サンガーラヴァ青年とは、彼らの末弟であり、その日バラモンたちとともに同じ食事の席に座っていたのである。「衰退した者」とは、衰退した者、不吉な者。「破滅した者」とは、破滅に至った者。「現に存在する者たちの」とは、存在している者たちの中で。「戒と智恵を」とは、戒と智恵を知らない、ということ。
474. Diṭṭhadhammābhiññāvosānapāramippattāti diṭṭhadhamme abhiññāte imasmiññeva attabhāve abhijānitvā vositavosānā hutvā pāramīsaṅkhātaṃ sabbadhammānaṃ pārabhūtaṃ nibbānaṃ pattā mayanti vatvā ādibrahmacariyaṃ paṭijānantīti attho. Ādibrahmacariyanti brahmacariyassa ādibhūtā uppādakā janakāti evaṃ paṭijānantīti vuttaṃ hoti. Takkīti takkagāhī. Vīmaṃsīti vīmaṃsako, paññācāraṃ carāpetvā evaṃvādī. Tesāhamasmīti tesaṃ sammāsambuddhānaṃ ahamasmi aññataro.
474. 「現世において卓越した智恵により究極の完成に達した者たち」とは、現世において知られたこと、まさにこの自己の生存において直知して成すべきことを成し終え、波羅蜜(完成)と呼ばれる一切の法の彼岸である涅槃に達した、と自ら語って、根本の清浄行(梵行)を自負する、という意味。「根本の清浄行」とは、梵行の最初となった者、生み出した者、産み出した者であると、このように自負する、と説かれている。「思弁家」とは論理的思考に執着する者。「吟味者」とは考察する者、智恵の働きをめぐらせてこのように語る者。「私は彼らの中の一人である」とは、それら正等覚者たちの中で私はその一人である、ということ。
485. Aṭṭhitavatanti aṭṭhitatapaṃ, assa padhānapadena saddhiṃ sambandho, tathā sappurisapadassa. Idañhi vuttaṃ hoti – bhoto gotamassa aṭṭhitapadhānavataṃ ahosi, sappurisapadhānavataṃ ahosīti. Atthi devāti puṭṭho samānoti idaṃ māṇavo ‘‘sammāsambuddho ajānantova pakāsesī’’ti saññāya āha. Evaṃ santeti tumhākaṃ ajānanabhāve sante. Tucchaṃ musā hotīti tumhākaṃ kathā aphalā nipphalā hoti. Evaṃ māṇavo bhagavantaṃ musāvādena niggaṇhāti nāma. Viññunā purisenāti paṇḍitena manussena. Tvaṃ pana aviññutāya mayā byākatampi na jānāsīti dīpeti. Uccena sammatanti uccena saddena sammataṃ pākaṭaṃ lokasmiṃ. Adhidevāti susudārakāpi hi devā nāma honti, deviyo nāma honti devā pana adhidevā nāma, loke devo devīti laddhanāmehi manussehi adhikāti attho. Sesaṃ sabbattha uttānamevāti.
485. 「誓戒に立った」とは、苦行に留まったことである。この語は「精進」の語と結びつき、同様に「善士」の語とも結びつく。つまり、尊者ゴータマには精進の誓戒に留まることがあり、善士の精進の誓戒に留まることがあった、と言われているのである。「神々が存在するかと問われて」とは、この青年が「正等覚者は知らずして明かしたのだ」と考えて言ったことである。「そうであるならば」とは、あなた方の無知の状態があるならば、ということである。「空虚で偽りとなる」とは、あなた方の言葉が無益で実りなきものとなる、ということである。このように青年は世尊を虚妄の罪で詰問したのである。「識者によって」とは、賢明な人間によって、ということである。しかし「あなたは無知であるために、わたしが解き明かしたことさえ理解していない」ということを示している。「高く認められている」とは、世において高い名声によって認められ、知れ渡っているということである。「増上神」とは、幼子であっても王の男児(デーヴァ)と呼ばれ、王妃たち(デーヴィー)と呼ばれるように、神々こそが増上神と呼ばれるのであり、世において「デーヴァ」「デーヴィー」という名を得ている人間たちよりも勝れている、という意味である。残りの部分は、すべての箇所において明白である。
Papañcasūdaniyā majjhimanikāyaṭṭhakathāya
『パパンチャ・スーダニー』中部注釈において、
Saṅgāravasuttavaṇṇanā niṭṭhitā.
サンガーラヴァ経の注釈が完結した。
Pañcamavaggavaṇṇanā niṭṭhitā.
第五篇の注釈が完結した。
Majjhimapaṇṇāsa-aṭṭhakathā niṭṭhitā.
『中五十経篇』の注釈が完結した。