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1. Gahapativaggo第一 長者品

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa

世尊、応供、正等覚者に礼拝したてまつる。

Majjhimanikāye

Majjhimapaṇṇāsaṭīkā

中分五十経篇 複注

1. Kandarakasuttavaṇṇanā

第一 カンダラカ経釈

1. Ārāmapokkharaṇīādīsūti ārāmapokkharaṇīuyyānacetiyaṭṭhānādīsu. Ussannāti bahulā. Asokakaṇikārakoviḷārakumbhīrājarukkhehi sammissatāya taṃ campakavanaṃ nīlādipañcavaṇṇakusumapaṭimaṇḍitanti daṭṭhabbaṃ, na campakarukkhānaṃyeva nīlādipañcavaṇṇakusumatāyāti vadanti. Bhagavā kusumagandhasugandhe campakavane viharatīti iminā na māpanakāle eva tasmiṃ nagare campakarukkhā ussannā, atha kho aparabhāgepīti dasseti. ‘‘Pañcasatamattehi aḍḍhateḷasehī’’ti evaṃ adassitaparicchedena. Hatthino cāreti sikkhāpetīti hatthācariyo hatthīnaṃ sikkhāpako, tassa puttoti āha **‘‘hatthācariyassa putto’’**ti. Tadā bhagavā tesaṃ pasādajananatthaṃ attano buddhānubhāvaṃ aniguhitvāva nisinnoti dassento **‘‘chabbaṇṇānaṃ ghanabuddharasmīna’’**ntiādimāha. Bhagavato ceva gāravenāti bhagavato garubhāvena, bhagavati gāravenāti vā pāṭho.

1. 「寺院・池沼等において」とは、寺院・池沼・園林・祠堂所などの諸所において、ということである。「盛んな」とは、多いということである。アショーカ樹、カニカーラ樹、コヴィラーラ樹、クンビーラ樹、王樹などが混在していることによって、そのチャンパカの林は青などの五色の花で飾られていたと見なすべきであり、チャンパカ樹そのものが五色の花をつけていたわけではないと説く者もいる。「世尊は花の香り芳しいチャンパカの林に住まわれる」というこの記述によって、その都市の建設当時だけでなく、その後の時代においてもチャンパカ樹が盛んであったことが示されている。「およそ五百人(の比丘たち)」というように、ここでは厳密な限定を示さない。「象を調教し訓練する」ゆえに象師(調象師)であり、象の訓練者である。その息子であることから「象師の子」と言われている。その時、世尊は彼らに清浄なる信を生じせしめるために、自らの仏の威神力を隠すことなく坐しておられたことを示すために、「六色の濃密な仏光の」等と言われた。「世尊への敬意によって」とは、世尊の尊厳さゆえに、あるいは「世尊において敬意をもって」という読みもある。

Niccaṃ na hotīti abhiṇhaṃ na hoti, kadācideva hotīti attho. Abhiṇhaniccatā hi idha adhippetā, na kūṭaṭṭhaniccatā. Loke kiñci vimhayāvahaṃ disvā hatthavikārampi karonti, aṅguliṃ vā phoṭayanti, taṃ sandhāya vuttaṃ **‘‘accharaṃ paharituṃ yutta’’**nti. Abhūtapubbaṃ bhūtanti ayaṃ niruttinayo yebhuyyena upādāya ruḷhīvasena vuttoti veditabbo. Tathā hi pāḷiyaṃ ‘‘yepi te, bho gotama, ahesuṃ atītamaddhāna’’ntiādi vuttaṃ, kiñci akattabbampi kariyamānaṃ dukkarabhāvena vimhayāvahaṃ hoti, tathā kiñci kattabbaṃ, purimaṃ garahacchariyaṃ, pacchimaṃ pasaṃsacchariyaṃ, tadubhayaṃ suttapadaso dassetuṃ **‘‘tatthā’’**tiādi vuttaṃ.

「常に(あるものでは)ない」とは、頻繁にあるものではなく、稀にしか起こらないという意味である。ここでは頻繁・恒常であることが意図されており、永遠不変の意味ではない。世間において何か驚嘆すべきものを見て、手の身振りをしたり、指を鳴らしたりする。それを指して「指を弾くにふさわしい」と言われた。「かつて生じたことのないものが生じた」というこの語源的解釈は、概ね慣用に従って述べられたものと知るべきである。実に聖典において「尊者ゴータマよ、過去の世において存在した者たちも……」等と説かれている通りである。なすべからざることでも、行うのが困難であることによって驚嘆をもたらす場合があり、またなすべきことによってそうなる場合もある。前者は非難されるべき驚嘆であり、後者は称賛されるべき驚嘆である。その双方を経の句ごとに示すために「その中で」等と言われた。

Sammā paṭipāditoti sammāpaṭipadāyaṃ ṭhapito. Esā paṭipadā paramāti etaparamaṃ, bhāvanapuṃsakaniddesoyaṃ yathā ‘‘visamaṃ candimasūriyā parivattantī’’ti (a. ni. 4.70). Ayañhettha attho – bhagavā bhikkhusaṅgho paṭipadāya tumhehi paṭipādito, atītepi kāle buddhā etaparamaṃyeva bhikkhusaṅghaṃ sammā paṭipādesuṃ, anāgatepi kāle etaparamaṃyeva bhikkhusaṅghaṃ sammā paṭipādessantīti paribbājako nayaggāhena diṭṭhena adiṭṭhaṃ anuminanto sabbesampi buddhānaṃ sāsane saṅghasuppaṭipattiṃ majjhe bhinnasuvaṇṇaṃ viya samasamaṃ katvā dasseti, evaṃ dassento ca tesaṃ sudhammatañca tathā dasseti evāti veditabbo, buddhasubuddhatā pana nesaṃ sarūpeneva dassitāti. Na ito bhiyyoti iminā pāḷiyaṃ etaparamaṃyevāti avadhāraṇena nivattitaṃ dasseti sīlapadaṭṭhānattā samādhissa, samādhipadaṭṭhānattā ca paññāya sīlepi ca abhisamācārikapubbakattā ādibrahmacariyakassa vuttaṃ **‘‘ābhisamācārikavattaṃ ādiṃ katvā’’**ti.

「正しく導かれた」とは、正しき行道に置かれたということである。「この行道は最上である」とは、これを最上とするものであり、「月や太陽が不順に運行する」のように行為の中性表現の指定である。ここでの意味はこういうことである――「世尊よ、比丘僧伽はあなたによって行道へと導かれました。過去の時代においても諸仏はまさにこれを行道の極致として比丘僧伽を正しく導き、未来の時代においてもまさにこれを行道の極致として比丘僧伽を正しく導かれるでしょう」と。遊行者は、自らの見解によって把握し、見えているものから見えていないものを推論し、すべての諸仏の教えにおける僧伽の正しい実践を、中ほどで割れた黄金を合わせたかのように等しく示している。このように示すことによって、彼らは法が善く説かれていることもまた同様に示していると知るべきである。しかし諸仏の善き覚りは、彼ら自身の本性によって示されている。「これより以上にない」とは、聖典における「まさにこれを最上とする」という限定によって排除された事柄を示している。戒は定の直接の原因(近因)であり、定は慧の近因であるからであり、また戒においても初行戒(作法の戒)を前駆として初梵行の戒があることから、「作法の義務を初めとして」と言われた。

2. Pucchānusandhiādīsu anantogadhattā **‘‘pāṭiekko anusandhī’’**ti vatvā tamevatthaṃ pākaṭaṃ kātuṃ **‘‘bhagavā kirā’’**tiādi vuttaṃ. Upasantakāraṇanti upasantabhāvakāraṇaṃ. Tañhi ariyānaṃyeva visayo, tatthāpi ca buddhānaṃ eva anavasesato visayoti imamatthaṃ byatirekato anvayato ca dassetuṃ na hi tvantiādi vuttaṃ. Tattha ñātatthacariyā kākajātakādivasena veditabbā, lokatthacariyā taṃtaṃpāramipūraṇavasena, buddhatthacariyā mahābodhijātakādivasena. Acchariyaṃ bho gotamātiādinā kandarakena kataṃ pasādapavedanaṃ dasseti.

2. 問いの接続等において直接含まれていないことから「個別の接続である」と述べて、まさにその意味を明らかにするために「世尊は〜とのことである」等と言われた。「寂静の原因」とは、寂静である状態の原因のことである。それは実に聖者たちの領域にほかならず、その中でも諸仏のみの余すところなき領域である。この意味を反対論と肯定論から示すために「実にあなたには〜ない」等と言われた。そこにおいて親族のための実践は『烏本生』等を通じて知るべきであり、世間のための実践はそれぞれの波羅蜜の成就を通じて、仏のための実践は『大菩提本生』等を通じて知るべきである。「驚くべきことです、尊者ゴータマよ」等によって、カンダラカによってなされた信順の表明を示している。

Yepi tetiādinā tena vuttamatthaṃ paccanubhāsantena bhagavatā sampaṭicchitanti caritattā āha – **‘‘santi hi kandarakāti ayampi pāṭiyekko anusandhī’’**ti. Yo hi kandarakena bhikkhusaṅghassa upasantabhāvo kittito, taṃ vibhajitvā dassentopi tena apucchitoyeva attano ajjhāsayena bhagavā **‘‘santi hī’’**tiādinā desanaṃ ārabhi. Tenāha ‘‘bhagavato kira etadahosī’’ tiādi. Kappetvāti aññathā santameva attānaṃ aññathā vidhāya. Pakappetvāti sanidassanavasena gahetvā. Tenāha **‘‘kuhakabhāvenā’’**tiādi. Paṭipadaṃ pūrayamānāti kāmaṃ avisesena sekkhā vuccanti, te pana adhigatamaggavasena ‘‘pūrayamānā’’ti na vattabbā kiccassa niṭṭhitattā. Maggo hi ekacittakkhaṇikoti āha **‘‘uparimaggassa vipassanāya upasantā’’**ti. Ito muttāti maggenāgatūpasamato muttā. Kalyāṇaputhujjane sandhāya vadati. Tenāha **‘‘catūhi satipaṭṭhānehi upasantā’’**ti.

「かの人々もまた」等によって、彼が述べた意味を繰り返し語りつつ世尊が受け入れられたという事実から、「『実に存在する、カンダラカよ』というこれもまた個別の接続である」と述べた。実にカンダラカによって比丘僧伽の寂静の状態が讃えられたが、それを分別して示しつつも、彼から問われることなく自らの意向によって世尊は「実に存在する」等として教示を始められた。それゆえに「世尊は〜と思われたとのことである」等と言われた。「変えて」とは、本来とは異なるありさまである自分を別のありように仕立てて、ということである。「構想して」とは、見せかけを設けて把握することである。それゆえに「欺瞞の状態によって」等と言われた。「行道を全うしつつある」とは、確かに広くは有学(修行者)全般が言われるが、彼らは得られた道に関しては、その役割が完了しているため「全うしつつある」とは言われない。道とは実に一刹那の心であるからである。ゆえに「上位の道のための洞察(ヴィパッサナー)によって寂静となった」と言われた。「これより脱した」とは、聖道によって得られた寂静から脱したということである。善き凡夫を指して言っている。それゆえに「四念処によって寂静となった」と言われた。

Satatasīlāti avicchinnasīlā. Sātisayo hi etesaṃ sīlassa akhaṇḍādibhāvo. Suparisuddhasīlatāvasena santatā vutti etesanti santatavuttinoti āha **‘‘tasseva vevacana’’**nti. Evaṃ sīlavuttivasena ‘‘santatavuttino’’ti padassa atthaṃ vatvā idāni jīvitavuttivasena dassento **‘‘santatajīvikāvāti attho’’**ti āha. Sāsanassa jīvitavutti sīlasannissitā evāti āha **‘‘tasmi’’**ntiādi.

「恒常の戒ある者たち」とは、途切れることなき戒を持つ者たちのことである。実に彼らの戒が破損なきことなどは際立っている。極めて清浄なる戒の状態によって、持続した行儀を持つ者たちを「持続した行儀の者たち」と言うのであり、「まさにその同義語である」と言われた。このように戒の行儀によって「持続した行儀の者たち」という句の意味を述べて、今度は生活のあり方によって示しつつ「持続した生活の者たちという意味である」と言われた。教法における生活のあり方は、まさに戒に依拠していることから「そこにおいて」等と言われた。

Nipayati visoseti rāgādisaṃkilesaṃ, tato vā attānaṃ nipātīti nipako, paññavā. Tenāha **‘‘paññavanto’’**ti. Paññāya ṭhatvā jīvikākappanaṃ nāma buddhapaṭikuṭṭhamicchājīvaṃ pahāya sammājīvena jīvananti taṃ dassento **‘‘yathā ekacco’’**tiādimāha. Tattha yaṃ vattabbaṃ, taṃ visuddhimagge (visuddhi. 1.14) taṃsaṃvaṇṇanāyañca (visuddhi. mahāṭī. 1.14) vuttanayeneva veditabbaṃ. Rathavinītapaṭipadādayo tesu tesu suttesu vuttanayena veditabbā. Ito aññattha mahāgopālakasuttādīsu (ma. ni. 1.346 ādayo) lokuttarasatipaṭṭhānā kathitāti āha – **‘‘idha pana lokiyalokuttaramissakā satipaṭṭhānā kathitā’’**ti, satipaṭṭhānasuttepi (dī. ni. 2.373-374; ma. ni. 1.106 ādayo) vomissakāva kathitāti. Ettakenāti ettakāya desanāya.

貪りなどの煩悩を滅ぼし枯渇させる、あるいはそれらから自身を守る(nipātī)がゆえに賢者(nipaka)、すなわち智慧ある者である。それゆえに「智慧ある者たち」と言われた。智慧に立脚して生計を営むこととは、仏によって斥けられた邪命を捨てて正命によって生きることである。それを示すために「ある者が〜のように」等と言われた。そこにおいて語られるべきことは、『清浄道論』およびその注釈に説かれた方法によって知るべきである。『駅車経』の行道などは、それぞれの経に説かれた方法によって知るべきである。これら以外の箇所、例えば『大牧牛者経』などでは出世間の念処が語られていることから、「しかしここでは世間と出世間が混ざり合った念処が語られている」と言われた。『大念処経』においても混ざり合ったものとして語られている。「これだけによって」とは、この程度の教示によって、ということである。

3. Kārakabhāvanti paṭipattiyaṃ paṭipajjanakabhāvaṃ. Mayampi nāma gihī bahukiccā samānā kālena kālaṃ satipaṭṭhānesu suppatiṭṭhitacittā viharāma, kimaṅgaṃ pana vivekavāsinoti attano kārakabhāvaṃ pavedento evaṃ bhikkhusaṅghañca ukkhipati. Tenāha **‘‘ayañhettha adhippāyo’’**tiādi. Nānārammaṇesu aparāparaṃ uppajjamānānaṃ rāgādikilesānaṃ ghanajaṭitasaṅkhātākārena pavatti kilesagahanena gahanatā, tenāha ‘‘anto jaṭā bahi jaṭā, jaṭāya jaṭitā pajā’’ti (saṃ. ni. 1.23, 192). Manussānaṃ ajjhāsayagahaṇena sāṭheyyampīti dassento āha **‘‘kasaṭasāṭheyyesupi eseva nayo’’**ti. Yathā sappimadhuphāṇitādīsu kacavarabhāvo, so kasaṭoti vuccati, evaṃ santāne aparisuddho saṃkilesabhāvo kasaṭanti āha **‘‘aparisuddhaṭṭhena kasaṭatā’’**ti. Attani asantaguṇasambhāvanaṃ kerāṭiyaṭṭho. Jānātīti ‘‘idaṃ ahitaṃ na sevitabbaṃ, idaṃ hitaṃ sevitabba’’nti vicāreti deseti. Vicāraṇatthopi hi hoti jānāti-saddo yathā ‘‘āyasmā jānātī’’ti. Sabbāpi…pe… adhippetā ‘‘pasupālakā’’tiādīsu viya. Idha antara-saddo ‘‘vijjantarikāyā’’tiādīsu (ma. ni. 2.149) viya khaṇatthoti āha **‘‘yattakena khaṇenā’’**ti. Tenāti hatthinā. Tānīti sāṭheyyādīni.

3. 「実践者たる状態」とは、実践において実践する者たる状態のことである。私たちのような多忙な在家の者でさえ、時おり四念処に心を堅固に据えて住している。ましてや閑静に住む者たちにおいては言うまでもない、と自身の修行者としてのあり方を知らせつつ、このように比丘僧伽をも讃嘆している。それゆえに「実にここでの意図は〜である」等と言われた。様々な対象に対して次々に生じる貪りなどの煩悩が、濃密に絡み合った様相で生起することが「煩悩の密林による密林状態」である。それゆえに「内にも結び目、外にも結び目があり、民衆は結び目に絡み合っている」と言われた。人間の意向を捉えることによる欺きをも示しつつ、「偽りや欺きにおいてもこの方法である」と言われた。精製バター、蜂蜜、糖蜜などにおける不純物が不純物(kasaṭa)と呼ばれるように、心相続における清浄でない煩悩の状態が不純物であることから、「不浄の意味において不純物であること」と言われた。自分にない徳を誇張することが狡猾さの意味である。「知る」とは、「これは不利益であるから親しむべきでない、これは利益であるから親しむべきである」と分別し、教示することである。「知る(jānāti)」という語は、「尊者がご存知のように」というように分別の意味も持つからである。「すべての…略…意図された」とは、「家畜の世話をする者」などの場合と同様である。ここでの「間(antara)」という語は、「一瞬の閃きの間に」などのように刹那の意味であることから、「どれほどの刹那において」と言われた。「彼によって」とは、象によって。「それらを」とは、欺きなどを。

Atthato kāyacittujukatāpaṭipakkhabhūtāva lobhasahagatacittuppādassa pavattiākāravisesāti tāni pavattiākārena dassetuṃ **‘‘tatthā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha yassāti pāṇabhūtassa assassa vā hatthino vā. Ṭhassāmīti tattheva sappaṭibhaye ṭhāne gantvā ṭhassāmīti na hoti. Imassa sāṭheyyatāya pākaṭakaraṇaṃ vañcanādhippāyabhāvato. Tathā hi catūsu ṭhānesu ‘‘vañcetvā’’ icceva vuttaṃ, niguhanto pana tattheva gantvā tiṭṭheyya. Esa nayo sesesupi. Paṭimaggaṃ ārohitukāmassāti āgatamaggameva nivattitvā gantukāmassa. Leṇḍavissajjanādīsu kālantarāpekkhābhāvaṃ **‘‘tathā’’**ti iminā upasaṃharati.

実質的には、身と心の正直さの反対である貪毒相応の心の生起の特別なあり方であるため、それらを生起の様態によって示すために「その中で」等と言われた。そこにおいて「誰の」とは、動物である馬あるいは象の。「踏みとどまるであろう」とは、まさにその恐るべき場所に自ら進んで立とうとすることはない、ということである。これの狡猾さとしての明白化は、欺く意図が存在することによる。実に四つの箇所において「欺いて」とだけ言われているが、隠そうとするならばまさにそこへ行って留まるであろう。この方法は他の箇所でも同様である。「逆戻りしようと欲する(象などの)」とは、来た道を引き返して行こうと欲する、ということである。糞を排泄することなどにおいて時間を要さないことを、「そのように」という言葉によってまとめている。

Antojātakāti attano dāsiyā kucchimhi jātā. Dhanakkītāti dhanaṃ datvā dāsabhāvena gahitā. Karamarānītāti dāsabhāvena karamaraggāhagahitā. Dāsabyanti dāsabhāvaṃ. Pessāti adāsā eva hutvā veyyāvaccakarā. Imaṃ vissajjetvāti imaṃ attano hatthagataṃ vissajjetvā. Imaṃ gaṇhantāti imaṃ tassa hatthagataṃ gaṇhantā. Sammukhato aññathā parammukhakāle kāyavācāsamudācāradassaneneva cittassa nesaṃ aññathā ṭhitabhāvo niddiṭṭhoti veditabbo.

「家で生まれた者」とは、自らの女召使いの胎から生まれた者。「金で買われた者」とは、財貨を支払って召使いとして得られた者。「捕虜として連れてこられた者」とは、召使いとして捕虜となり連れてこられた者。「奴僕の状態」とは、召使いの境遇。「使役される者」とは、召使いではなくとも雑務を行う者。「これを手放して」とは、自らの手中にあったこれを手放して。「これを取る者たち」とは、相手の手中にあったこれを受け取る者たち。面前での態度と異なる、陰での身口の振る舞いを見せることによってのみ、彼らの心のありようが異なって定まっていることが示されていると知るべきである。

4. Ayampi pāṭiyekko anusandhīti etthāpi anantare vuttanayeneva anusandhiyojanā veditabbā. Tenevāha **‘‘ayañhī’’**tiādi. Catuttho hitapaṭipadaṃ paṭipannoti yojanā. Puggalasīsena puggalapaṭipattiṃ dassento **‘‘puggale pahāyā’’**ti āha. Paṭipatti hi idha pahātabbā, na puggalā. Yathā assaddhādipuggalaparivajjanena saddhindriyādibhāvanā ijjhanti, evaṃ micchāpaṭipannapuggalaparivajjanena micchāpaṭipadā vajjitabbāti āha – **‘‘purime tayo puggale pahāyā’’**ti. Catutthapuggalassāti imasmiṃ catukke vuttacatutthapuggalassa hitapaṭipattiyaṃyeva paṭipādemi pavattemīti dassento. Santāti samaṃ vināsaṃ nirodhaṃ pattāti ayamettha atthoti āha **‘‘niruddhā santāti vuttā’’**ti. Puna santāti bhāvanāvasena kilesapariḷāhavigamato santāti ayamettha atthoti āha **‘‘nibbutā’’**ti. Santāti ānetvā yojanā. Santo haveti ettha samabhāvakarena sādhubhāvassa visesapaccayabhūtena paṇḍiccena samannāgatā ariyā ‘‘santo’’ti vuttāti āha – **‘‘santo have…pe… paṇḍitā’’**ti.

4. 「これもまた個別の接続である」とは、ここにおいても直前で述べた方法によって接続の構造を知るべきである。それゆえに「実にこれは」等と言われた。第四の者は「利益ある行道に入った」と結びつけられる。人物を主として人物の実践を示しつつ、「人物を離れて」と言われた。実にここでは実践が捨てられるべきであって、人物ではない。無信などの人物を避けることによって信などの諸機能の修習が成就するように、邪行の人物を避けることによって邪行が避けられるべきであることから、「前の三人の人物を捨てて」と言われた。「第四の人物の」とは、この四人組の中で説かれた第四の人物の有益な行道にこそ導く、生じさせる、と示す。「寂静となった」とは、静まり、滅び、消滅に達したということがここでの意味であることから、「滅したものを寂静と説いた」と言われた。さらに「寂静となった」とは、修習によって煩悩の熱苦が去ったことから寂静となった、というのがここでの意味であることから、「涅槃に入った」と言われた。「寂静となった」と補って解釈する。「真の寂静なる者たちとは」において、等しさをもたらし、善き状態の特別な原因となる智恵を具えた聖者たちが「寂静なる者たち」と説かれていることから、「実に寂静なる者たち…略…賢者たち」と言われた。

Āhito ahaṃmāno etthāti attā (a. ni. ṭī. 2.4.198) attabhāvo, idha pana yo paro na hoti, so attā, taṃ attānaṃ. Paranti attato aññaṃ. Chātaṃ vuccati taṇhā jighacchāhetutāya. Anto tāpanakilesānanti attano santāne attapariḷāhajananasantappanakilesānaṃ. Cittaṃ ārādhetīti cittaṃ pasādeti, sampahaṃsetīti attho. Yasmā pana tathābhūto cittaṃ sampādento ajjhāsayaṃ gaṇhanto nāma hoti, tasmā vuttaṃ **‘‘cittaṃ sampādetī’’**tiādi.

「ここに我執(我慢)が置かれる」ゆえに自己(attā)であり、身体のことであるが、ここでは他者ではないものが自己であり、その「自己を」ということである。「他者を」とは、自分以外の者を。「飢えたる」とは、渇愛が飢餓の原因であることから渇愛を言う。「内に苦しめる煩悩の」とは、自らの心相続において自らを焦熱せしめ苦しめる煩悩の、ということである。「心を喜ばせる」とは、心を清らかにし、歓喜せしめるという意味である。しかし、そのような境地にあって心を成就させる者は意向を捉える者であることから、「心を成就させる」等と言われた。

5. Dukkhaṃ paṭikkūlaṃ jegucchaṃ etassāti dukkhapaṭikkūlo taṃ dukkhapaṭikkūlaṃ. Visesanavisesitabbatā hi kāmacārā. Aṭṭhakathāyaṃ pana dukkhassa visesitabbataṃ sandhāya bāhiratthasamāsaṃ anādiyitvā **‘‘dukkhassa paṭikkūla’’**nti attho vutto. Yena hi bhāgena purisassa dukkhaṃ paṭikkūlaṃ, tena dukkhassa purisopīti. Tenāha – **‘‘paccanīkasaṇṭhita’’**nti.

5. 「苦痛を嫌い、嫌悪する者」が苦を嫌う者であり、その「苦を嫌う者を」ということである。修飾語と被修飾語の関係は文脈によって定まる。しかし義注においては、苦痛の被修飾性を考慮して、複合語の外部の意味を採らずに「苦痛にとって嫌悪すべきものを」という意味が説かれた。実に人間が苦痛を嫌うのと同じ度合いで、苦痛にとってもその人間は嫌悪すべきものだからである。それゆえに「敵対するものとして立っている」と言われた。

6. Catūhi kāraṇehīti dhātukusalatādīhi catūhi kāraṇehi. Kammaṃ karotīti yogakammaṃ karoti. Yasmā sambuddhā paresaṃ maggaphalādhigamāya ussāhajātā, tattha nirantaraṃ yuttappayuttā eva honti, te paṭicca tesaṃ antarāyo na hotiyevāti āha **‘‘na pana buddhe paṭiccā’’**ti. Kiriyaparihāniyā desakassa tasseva vā puggalassa tajjapayogābhāvato. ‘‘Desakassa vā’’ti idaṃ sāvakānaṃ vasena daṭṭhabbaṃ. Mahatā atthenāti ettha attha-saddo ānisaṃsapariyāyoti āha **‘‘dvīhi ānisaṃsehī’’**ti. Pasādaṃ paṭilabhati ‘‘arahanto’’tiādinā saṅghasuppaṭipattiyā sutattā. Abhinavo nayo udapādi santatasīlatādivasena anattantapatādivasena, sopi taṃ sutvā dāsādīsu savisesaṃ lajjī dayāpanno hitānukampī hutvā sekkhapaṭipadaṃ sīlaṃ sādhento anukkamena satipaṭṭhānabhāvanaṃ paribrūheti. Tenāha bhagavā **‘‘mahatā atthena saṃyutto’’**ti.

6. 「四つの理由によって」とは、界についての巧みさなどの四つの理由によって。「業をなす」とは、ヨーガの業(修練の実践)をなすということである。正等覚者たちは他者の道果の獲得のために熱意を抱いており、そこにおいて常に精進して関わっておられるため、彼らに起因して障碍が生じることは決してないことから、「しかし仏に起因して〜ではない」と言われた。実践の衰退は、説く者あるいはその人物自身において適切な努力がないことによる。「あるいは説く者によって」とは、声聞たちに関して見なされるべきである。「大いなる利益によって」において、「利益(attha)」という語は功徳と同義であることから、「二つの功徳によって」と言われた。「阿羅漢たち」などとして僧伽の正しい実践を聞くことによって清浄なる信を得る。持続した戒や自己を苦しめないことなどによって新たな方法が生じ、彼もまたそれを聞いて召使いなどに対して格別の恥じらいと慈悲と同情の心を持ち、有学の行道である戒を成就し、順を追って四念処の修習を増大させる。それゆえに世尊は「大いなる利益と結びついた」と言われた。

8. Paresaṃ hananaghātanādinā rodāpanato luddo, tathā vighātakabhāvena kāyacittānaṃ vidāraṇato dāruṇo, viruddhavādatāya kakkhaḷo, bandhanāgāre niyutto bandhanāgāriko.

8. 他者を打擲したり殺害したりして泣かせることから「残酷な者(猟師など)」、同様に破壊的であることによって身心を切り裂くことから「荒々しい者」、反逆的な言動によって「粗野な者」、牢獄に配属された者を「獄吏」と言う。

9. Khattiyābhisekenāti khattiyānaṃ kattabbaabhisekena. Santhāgāranti santhāravasena kataṃ agāraṃ yaññāvāṭaṃ. Sappitelenāti sappimayena telena, yamakasnehena hi tadā kāyaṃ abbhañjati. Vacchabhāvaṃ taritvā ṭhito vacchataro. Parikkhepakaraṇatthāyāti vanamālāhi saddhiṃ dabbhehi vediyā parikkhepanatthāya. Yaññabhūmiyanti avasesayaññaṭṭhāne. Yaṃ panettha atthato avibhattaṃ taṃ suviññeyyameva.

9. 「王族の灌頂によって」とは、王族になされるべき灌頂によって。「集会場(議場)」とは、敷物によって作られた家であり、祭祀の場である。「精製バター油によって」とは、ギーで作られた油のことで、当時は二種の油(または混ぜ合わせた油)を身体に塗っていた。「子牛の時期を越えて留まるもの」が若牛である。「囲いを作るために」とは、野の草花とともにクシャ草で祭壇の囲いを作るために。「祭祀の場において」とは、残りの祭祀の場所において。ここで実質的に分別されていないことは、極めて理解しやすいことである。

Kandarakasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

カンダラカ経釈の隠れたる意味の解明を終わる。

2. Aṭṭhakanāgarasuttavaṇṇanā

第二 アッタカナガラ経釈

17. Avidūreti iminā pāḷiyaṃ ‘‘vesāliya’’nti idaṃ samīpe bhummavacananti dasseti. Sārappattakulagaṇanāyāti (a. ni. ṭī. 3.11.16) mahāsāramahappattakulagaṇanāya. Dasame ṭhāneti aññe aññeti dasagaṇanaṭṭhāne. Aṭṭhakanagare jāto bhavo aṭṭhakanāgaro. Kukkuṭārāmoti pāṭaliputte kukkuṭārāmo, na kosambiyaṃ.

17. 「遠からぬ所に」とは、聖典における「ヴェーサーリーにおいて」という表現が、近隣を示す処格であることを示している。「富裕に達した家系の数えにおいて」とは、大いなる富と地位に達した家系の数えにおいて。「第十の位に」とは、他の十番目の位に。「アッタカ市に生まれた者、そこにある者」がアッタカナガラ(アッタカ市の者)である。「クックターラーマ」とは、パータリプッタにあるクックターラーマのことであり、コーサンビーのものではない。

18. Pakatatthaniddeso ta-saddoti tassa ‘‘bhagavatā’’tiādīhi padehi samānādhikaraṇabhāvena vuttassa yena abhisambuddhabhāvena bhagavā pakato adhigato supākaṭo ca, taṃ abhisambuddhabhāvaṃ saddhiṃ āgamanīyapaṭipadāya atthabhāvena dassento **‘‘yo so…pe… abhisambuddho’’**ti āha. Satipi ñāṇadassana-saddānaṃ idha paññāvevacanabhāve tena tena visesena tesaṃ visayavisese pavattidassanatthaṃ asādhāraṇañāṇavisesavasena vijjāttayavasena vijjāabhiññānāvaraṇañāṇavasena sabbaññutañāṇamaṃsacakkhuvasena paṭivedhadesanāñāṇavasena ca tadatthaṃ yojetvā dassento **‘‘tesaṃ tesa’’**ntiādimāha. Tattha āsayānusayaṃ jānatā āsayānusayañāṇena sabbaṃ ñeyyadhammaṃ passatā sabbaññutānāvaraṇañāṇehi. Pubbenivāsādīhīti pubbenivāsāsavakkhayañāṇehi. Paṭivedhapaññāyāti ariyamaggapaññāya. Desanāpaññāya passatāti desetabbadhammānaṃ desetabbappakāraṃ bodhaneyyapuggalānañca āsayānusayacaritādhimuttiādibhedaṃ dhammadesanāpaññāya yāthāvato passatā. Arīnanti kilesārīnaṃ, pañcavidhamārānaṃ vā, sāsanassa vā paccatthikānaṃ aññatitthiyānaṃ tesaṃ pana hananaṃ pāṭihāriyehi abhibhavanaṃ appaṭibhānatākaraṇaṃ ajjhupekkhanameva vā, kesivinayasuttañcettha nidassanaṃ.

18. 「かの」という語は既知の事柄の指示であり、「世尊によって」などの句と同格で述べられた、いかなる正覚の状態によって世尊が既知となり到達され極めて明白となったのか、その正覚の状態を行道とともに実質的な意味として示しつつ、「かの〜正等覚者」と言われた。「智見」という語はここでは智慧の同義語であるが、それぞれの区別によってそれらの対象の違いにおける働きを示すために、不共の智の特質により、三明により、三明・六神通・無礙智により、一切知智と肉眼により、証得と教示の智慧によってその意味を結びつけて示しつつ、「それらそれらの」等と言われた。そこにおいて、意図と随眠を知る者とは「意図随眠智」によってであり、すべての知るべき法を見る者とは「一切知智と無礙智」によってである。「宿住などによって」とは、宿住智と漏尽智によってである。「証得の智慧によって」とは、聖道の智慧によってである。「教示の智慧によって見る者」とは、説かれるべき法の説くべきあり方と、教化されるべき人々の意図・随眠・性格・信解などの違いを、法の教示の智慧によってありのままに見る者によってである。「敵の」とは、煩悩という敵の、あるいは五種の魔の、あるいは教えの敵である異学徒たちのことである。それらを討ち滅ぼすこととは、神通によって制圧すること、無答の状態にすること、あるいは単に見過ごすことであり、『ケーシ調御経』がここでの実例である。

Tathā ṭhānāṭṭhānādivibhāgaṃ jānatā yathākammūpagasatte passatā, savāsanānaṃ āsavānaṃ khīṇattā arahatā, abhiññeyyādibhede dhamme abhiññeyyādito aviparītāvabodhato sammāsambuddhena. Atha vā tīsu kālesu appaṭihatañāṇatāya jānatā, kāyakammādivasena tiṇṇaṃ kammānaṃ ñāṇānuparivattito nisammakāritāya passatā, davādīnaṃ abhāvasādhikāya pahānasampadāya arahatā, chandādīnaṃ ahānihetubhūtāya akkhayapaṭibhānasādhikāya sabbaññutāya sammāsambuddhenāti evaṃ dasabalaaṭṭhārasaāveṇikabuddhadhammavasenapi yojanā kātabbā.

同様に、是処非処などの分別を知る者、業に従って赴く衆生を見る者、習気とともに諸漏が尽きていることによる阿羅漢、知るべき法などの分別ある諸法において知るべきことなどから違背せずに覚知していることによる正等覚者によってである。あるいは、三世において妨げなき智を持つことによって知る者、身業などによる三種の業が智に従って転じることによって熟慮して行う者として見る者、戯論などの不在を成就する断尽の円満によって阿羅漢、意欲などの衰退なき原因となり尽きることなき弁才を成就する一切知性によって正等覚者による――このように十力と十八不共仏法によっても解釈されるべきである。

19. Abhisaṅkhatanti attano paccayehi abhisammukhabhāvena samecca sambhūyya kataṃ, svassa katabhāvo uppādanena veditabbo, na uppannassa paṭisaṅkharaṇenāti āha **‘‘uppādita’’**nti. Te cassa paccayā cetanāpadhānāti dassetuṃ pāḷiyaṃ ‘‘abhisaṅkhataṃ abhisañcetayita’’nti vuttanti ‘‘cetayitaṃ pakappita’’nti atthamāha. Abhisaṅkhataṃ abhisañcetayitanti ca jhānassa pātubhāvadassanamukhena viddhaṃsanabhāvaṃ ulliṅgeti yañhi ahutvā sambhavati, taṃ hutvā paṭiveti. Tenāha pāḷiyaṃ ‘abhisaṅkhata’ntiādi. Samathavipassanādhamme ṭhitoti samathadhamme ṭhitattā samāhito vipassanaṃ paṭṭhapetvā aniccānupassanādīhi niccasaññādayo pajahanto anukkamena taṃ anulomañāṇaṃ pāpetā hutvā vipassanādhamme ṭhito. Samathavipassanāsaṅkhātesu dhammesu rañjanaṭṭhena rāgo, nandanaṭṭhena nandīti. Tattha sukhumā apekkhā vuttā, yā ‘‘nikantī’’ti vuccati.

19. 「形成されたもの」とは、自身の縁によって直接に集まり結びついて作られたものであり、それが作られた状態とは生起させることによって知るべきであって、生じたものを修理することによってではないことから、「生ぜしめられたもの」と言われた。またその縁は意思(思)を中心とするものであることを示すために、聖典において「形成され、思念されたもの」と説かれているのであり、「思念され、構想されたもの」と意味を述べた。「形成され思念された」とは、禅定の出現を示すことを通じてその崩壊性をも暗示している。実に存在しなかったものが生じるならば、それは生じて後に滅び去るからである。それゆえに聖典において「形成された」等と言われた。「止観の法に留まる者」とは、止の法に留まることによって精神統一され、観を確立して無常の観察などによって常住の想などを捨て去り、次第にその随順智に達した者となって止観の法に留まる者のことである。止観と呼ばれる諸法において執着する意味で「愛(貪)」であり、喜ぶ意味で「喜」である。そこにおいて「愛着」と呼ばれる微細な執着が説かれている。

Evaṃ santeti evaṃ yathārutavasena ca imassa suttapadassa atthe gahetabbe sati. Samathavipassanāsu chandarāgo kattabboti anāgāmiphalaṃ nibbattetvā tadatthāya samathavipassanāpi anibbattetvā kevalaṃ tattha chandarāgo kattabbo bhavissati. Kasmā? Tesu samathavipassanāsaṅkhātesu dhammesu chandarāgamattena anāgāminā laddhabbassa aladdhānāgāmiphalena laddhabbattā tathā sati tena anāgāmiphalampi laddhabbameva nāma hoti. Tenāha – **‘‘anāgāmiphalaṃ paṭividdhaṃ bhavissatī’’**ti. Sabhāvato rasitabbattā aviparīto attho eva attharaso. Aññāpi kāci sugatiyoti vinipātike sandhāyāha. Aññāpi kāci duggatiyoti asurakāyamāha.

「そうであるならば」とは、このように文字通りの意味としてこの経の句の意味を受け取るならば、ということである。「止観において意欲と貪愛をなすべきである」とは、不還果を生じさせてそのために止観をも生じさせることなく、ただそこにおいて意欲と貪愛をなすことになるであろう。なぜか。それらの止観と呼ばれる諸法において意欲と貪愛をなすだけで、不還者によって得られるべきものが、不還果を得ていない者によって得られるべきとなるからである。そうであれば、彼によって不還果もまた得られるべきものとなってしまう。それゆえに「不還果が洞察されることになるであろう」と言われた。本質から味わわれるべきものであるから、違背なき意味こそが真の意味の味わいである。「他のいかなる善趣」とは、堕処に落ちた者(鬼類など)を指して言っている。「他のいかなる悪趣」とは、阿修羅の集団を指して言っている。

Samathadhurameva dhuraṃ samathayānikassa vasena desanāya āgatattā. Mahāmālukyovāde ‘‘vivicca akusalehi dhammehi savitakkaṃ savicāra’’nti pādakajjhānaṃ katvā ‘‘so yadeva tattha hoti rūpagataṃ vedanāgata’’ntiādinā vipassanaṃ vitthāretvā ‘‘so tattha ṭhito āsavānaṃ khayaṃ pāpuṇātī’’ti (ma. ni. 2.133) āgatattā **‘‘mahāmālukyovāde vipassanāva dhura’’**nti āha. Mahāsatipaṭṭhānasutte (dī. ni. 2.373 ādayo; ma. ni. 1.106 ādayo) sabbatthakameva tikkhatarāya vipassanāya āgatattā vuttaṃ **‘‘vipassanuttaraṃ kathita’’**nti. Kāyagatāsatisutte (ma. ni. 3.153-154) ānāpānajjhānādivasena savisesaṃ samathavipassanāya āgatattā vuttaṃ **‘‘samathuttaraṃ kathita’’**nti.

止の荷車(専念)こそが主たるものであり、止乗者(止を先とする修行者)に関して教示がなされているからである。『大マールンキャ経』においては「不善の諸法を離れて尋と伺を伴う」として基礎となる禅定をなし、「彼がそこにおいて色に属するもの、受に属するものであるいかなるものも」等によって観を広げ、「彼はそこに留まって諸漏の滅尽に達する」と説かれていることから、「『大マールンキャ経』においては観こそが主である」と言われた。『大念処経』においては、あらゆる箇所で極めて鋭い観によって説かれていることから、「観が勝れたものとして説かれた」と言われた。『身至念経』においては、入出息の禅定などにより格別に止観によって説かれていることから、「止が勝れたものとして説かれた」と言われた。

Appaṃ yācitena bahuṃ dentena uḷārapurisena viya ekaṃ dhammaṃ pucchitena ‘‘ayampi ekadhammo’’ti kathitattā ekādasapi dhammā pucchāvasena ekadhammo nāma jāto paccekaṃ vākyaparisamāpanañāyena. Ekavīsati pabbāni tehi bodhiyamānāya paṭipadāya ekarūpattā paṭipadāvasena ekadhammo nāma jātoti. Idha imasmiṃ aṭṭhakanāgarasutte. Nevasaññānāsaññāyatanadhammānaṃ saṅkhārāvasesasukhumabhāvappattatāya tattha sāvakānaṃ dukkaranti na catutthāruppavasenettha desanā āgatāti catunnaṃ brahmavihārānaṃ, heṭṭhimānaṃ tiṇṇaṃ āruppānañca vasena ekādasa. Pucchāvasenāti ‘‘atthi nu kho, bhante ānanda, tena…pe… sammāsambuddhena ekadhammo akkhāto’’ti (ma. ni. 2.18) evaṃ pavattapucchāvasena. Amatuppattiyatthenāti amatabhāvassa uppattihetutāya, sabbānipi kammaṭṭhānāni ekarasampi amatādhigamapaṭipattiyāti attho, evamettha aggaphalabhūmi anāgāmiphalabhūmīti dveva bhūmiyo sarūpato āgatā, nānantariyatāya pana heṭṭhimāpi dve bhūmiyo atthato āgatā evāti daṭṭhabbā.

わずかなものを請われて多くを与える気前よい人のように、一つの法を問われて「これもまた一つの法である」と説かれたことから、十一の法も問いに応じて、個別の文の完了という論理によって「一法」という名が生じた。二十一の節は、それらによって覚られる行道が同一の形態であることから、行道に応じて「一法」という名が生じた。ここ、このアッタカナガラ経においてである。非想非非想処の諸法は行(形成作用)の微細な残余の状態に達しているため、そこでは声聞たちにとって困難であることから、第四の無色定によってはここでは教示されず、四無量心と下位の三つの無色定によって十一となる。「問いに応じて」とは、「大徳アーナンダよ、かの…略…正等覚者によって一法が説かれましたか」とこのように生じた問いに応じて、ということである。「不死を生じせしめる意味において」とは、不死の状態の生起の原因となることによって、すべての瞑想主題(業処)は不死の証得の行道において同一の味わいを持つ、という意味である。このようにここでは、最上の果の境地(阿羅漢果)と不還果の境地という二つの境地のみが明確に示されているが、無間(連続性)の理によって下位の二つの境地も実質的には含まれていると見なすべきである。

21. Pañca satāni aggho etassāti pañcasataṃ. Sesaṃ uttānameva.

21. 「五百がこれの価値である」ゆえに五百(の価値あるもの)である。残りは明白である。

Aṭṭhakanāgarasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

アッタカナガラ経釈の隠れたる意味の解明を終わる。

3. Sekhasuttavaṇṇanā

第三 有学経釈

22. Santhāgāranti atthānusāsanāgāraṃ. Tenāha – **‘‘uyyogakālādīsū’’**tiādi. Ādi-saddena maṅgalamahādīnaṃ saṅgaho daṭṭhabbo. Santhambhantīti vissamanti, parissamaṃ vinodentīti attho. Sahāti sannivesavasena ekajjhaṃ. Saha atthānusāsanaṃ agāranti etasmiṃ atthe ttha-kārassa ntha-kāraṃ katvā santhāgāranti vuttanti daṭṭhabbaṃ. Santharantīti sammantanavasena tiṭṭhanti.

22. 「集会場(議場)」とは、利益と指導のための館である。それゆえに「出陣の時などに」等と言われた。「など」という語によって、吉祥の祝祭などの包摂を知るべきである。「休息する」とは、休息し、疲労を晴らすという意味である。「ともに」とは、集会のあり方として一堂に会して。「ともに利益を指導する館」というこの意味において、tthaの文字をnthaの文字にして「サンターガーラ(集会場)」と説かれたと見なすべきである。「集う」とは、協議のために留まることである。

Tepiṭakaṃ buddhavacanaṃ āgatameva bhavissatīti buddhavacanassa āgamanasīsena ariyaphaladhammānampi āgamanaṃ vuttameva, tiyāmarattiṃ tattha vasantānaṃ phalasamāpattivaḷañjanaṃ hotīti. Tasmiñca bhikkhusaṅghe kalyāṇaputhujjanā vipassanaṃ ussukkāpentā hontīti ce? Ariyamaggadhammānaṃ tattha āgamanaṃ hotiyeva.

「三蔵の仏の言葉がまさに到来することになる」とは、仏の言葉の到来を主として聖果の法などの到来もまた説かれたのであり、夜の三交代のあいだそこに住まう者たちにとって果定の受用がある、ということである。「そしてその比丘僧伽において善き凡夫たちが観に励むのであるならば?」と言えば、聖道の法がそこに到来することは確実である。

Allagomayenāti acchena allagomayarasena. Opuñchāpetvāti vilimpitvā. Catujjātiyagandhehīti tagarakuṅkumayavanapupphatamālapattāni pisitvā katagandhehi nānāvaṇṇeti nīlādivasena nānāvaṇṇe, na bhittivisesavasena. Bhittivisesavasena pana nānāsaṇṭhānarūpameva. Mahāpiṭṭhikakojavaketi hatthipiṭṭhīsu attharitabbatāya mahāpiṭṭhikāti laddhasamaññe kojaveti vadanti. Kuttake pana sandhāyetaṃ vuttaṃ hatthattharaṇā hatthirūpavicittā. Assattharakasīhattharakādayopi assasīharūpādivicittā eva attharakā, cittattharakaṃ nānārūpehi ceva nānāvidhamālākammādīhi ca vicittaṃ attharakaṃ.

「生の牛糞によって」とは、澄んだ生の牛糞液によって。「塗らせて」とは、塗りつけて。「四種の香によって」とは、タガラ、サフラン、ヤヴァナの花、タマーラの葉をすり潰して作った香によって。「様々な色において」とは、青などの色によって様々な色ということであり、壁の違いによるのではない。壁の違いによるならば、様々な形状の形態にほかならない。「大背敷物において」とは、象の背に敷かれるべきものとして「大背敷物」という名を得た毛織物の敷物において、と説く。しかしこれは小さな敷物を指して言われたものであり、手の敷物(小さな敷物)は象の姿で彩られている。馬敷物やライオン敷物などもまた、馬やライオンの姿などで彩られた敷物であり、絵模様の敷物とは様々な姿や様々な花模様などの細工によって彩られた敷物である。

Upadhānanti apassayanaṃ upadahitvāti apassayayoggabhāvena ṭhapetvā gandhehi katamālā gandhadāmaṃ, tamālapattādīhi kataṃ pattadāmaṃ. Ādi-saddena hiṅgulatakkolajātiphalajātipupphādīhi katadāmaṃ saṅgaṇhāti. Pallaṅkākārena katapīṭhaṃ pallaṅkapīṭhaṃ, tīsu passesu, ekapasse eva vā saupassayaṃ apassayapīṭhaṃ, anapassayaṃ muṇḍapīṭhaṃ yojanāvaṭṭeti yojanaparikkhepe.

「枕(背もたれ)」とは、寄りかかるもの。「設けて」とは、寄りかかるのに適した状態に配置して。香で作られた花輪が「香の綱」であり、タマーラの葉などで作られたものが「葉の綱」である。「など」という語によって、辰砂、タッコーラ、胡桃、ジャスミンなどの花で作られた綱を包摂する。結跏趺坐の形で作られた座が「結跏趺坐座」、三面あるいは一面だけに背もたれがあるものが「背もたれ付き座」、背もたれのないものが「平座」である。「一由旬の周囲において」とは、一由旬の周囲の広さにおいて。

Saṃvidhāyāti antaravāsakassa koṇapadesañca itarapadesañca samaṃ katvā vidhāya. Tenāha – **‘‘kattariyā padumaṃ kantanto viyā’’**ti timaṇḍalaṃ paṭicchādentoti ettha ca yasmā buddhānaṃ rūpasampadā viya ākappasampadāpi paramukkaṃsagatā, tasmā tadā bhagavā evaṃ sobhatīti dassento **‘‘suvaṇṇapāmaṅgenā’’**tiādimāha, tattha asamena buddhavesenātiādinā tadā bhagavā buddhānubhāvassa niguhaṇe kāraṇābhāvato tattha sannipatitadevamanussanāgayakkhagandhabbādīnaṃ pasādajananatthaṃ attano sabhāvapakatikiriyāyeva kapilavatthuṃ pāvisīti dasseti. Buddhānaṃ kāyappabhā nāma pakatiyā asītihatthamattameva padesaṃ pharatīti āha – **‘‘asītihatthaṭṭhānaṃ aggahesī’’**ti nīlapītalohitodātamañjiṭṭhapabhassarānaṃ vasena chabbaṇṇā buddharasmiyo.

「整えて」とは、下衣(アンタラヴァーサカ)の角の部分と他の部分を均等にして整えて。それゆえに「鋏で蓮を切り取るかのように」と言われた。「三輪を覆い」において、諸仏の容姿の円満と同様に身繕いの円満もまた極致に達しているため、その時世尊はこのように輝いておられたと示すために「黄金の胸飾りによって」等と言われた。そこにおいて「無比なる仏の姿によって」等によって、その時世尊は仏の威神力を隠す理由がなかったため、そこに集まった神々、人間、龍、夜叉、乾闥婆たちの信順を生ぜしめるために、自らの本来のありのままの振る舞いによってカピラヴァットゥに入られたことを示している。諸仏の身の光は、通常八十肘の範囲に広がることから「八十肘の場所を満たした」と言われた。青、黄、赤、白、紅、輝く光による六色の仏光である。

Sabbapāliphulloti mūlato paṭṭhāya yāva aggā phullo vikasito. Paṭipāṭiyā ṭhapitānantiādi parikappūpamā. Yathā taṃ…pe… alaṅkataṃ añño virocati, evaṃ virocittha, samatiṃsāya pāramitāhi abhisaṅkhatattā evaṃ virocitthāti vuttaṃ hoti. Pañcavīsatiyā nadīnanti gaṅgādīnaṃ candabhāgāpariyosānānaṃ pañcavīsatiyā mahānadīnaṃ. Sambhijjāti sambhedaṃ missībhāvaṃ patvā mukhadvāreti samuddaṃ paviṭṭhaṭṭhāne.

「全枝に花咲く」とは、根元から始まって梢に至るまで花開き、満開となった。「整然と配置されたものの」などは想定の比喩である。あたかも装飾された他の者が輝くように、このように輝かれた、三十の波羅蜜によって形成されたがゆえにこのように輝かれた、ということである。「二十五の河の」とは、ガンガーなどを初めとしてチャンダバーガーを最後とする二十五の大河の。「合流して」とは、合流し混ざり合う状態に達して。「河口において」とは、海へと入る場所において。

Devamanussanāgasupaṇṇagandhabbayakkhādīnaṃ akkhīnīti cetaṃ parikappanavasena vuttaṃ. Sahassenāti padasahassena, bhāṇavārappamāṇena ganthenāti attho.

「神、人間、龍、金翅鳥、乾闥婆、夜叉などの眼を」とは、これもまた想定によって説かれたものである。「千によって」とは、千の句によってであり、一誦分(バーナヴァーラ)の分量のテキストによってという意味である。

Kampayanto vasundharanti attano guṇavisesehi pathavīkampaṃ uppādento, evaṃbhūtopi aheṭhayanto pāṇāni. Sabbadakkhiṇattā buddhānaṃ dakkhiṇaṃ paṭhamaṃ pādaṃ uddharanto. Samaṃ samphusate bhūmiṃ suppatiṭṭhitapādatāya. Yadipi bhūmiṃ samaṃ phusati, rajasānupalippati sukhumattā chaviyā. Ninnaṭṭhānaṃ unnamatītiādi buddhānaṃ suppatiṭṭhitapādasaṅkhātassa mahāpurisalakkhaṇapaṭilābhassa nissandaphalaṃ. Nātidūre uddharatīti atidūre ṭhapetuṃ na uddharati. Naccāsanne ca nikkhipanti accāsanne ca ṭhāne anikkhipanto niyyāti. Hāsayanto sadevake loke tosayanto. Catūhi pādehi caratīti catucārī.

「大地を揺るがしつつ」とは、自らの勝れた徳によって大地を震動させつつ、このような状態であっても生きとし生けるものを害することなく。諸仏はあらゆる点で右を重んじるがゆえに、右足を最初に上げつつ。足裏が平らである(善立足)ことによって、大地に均等に触れる。大地に均等に触れるとしても、皮膚のきめ細かさによって塵芥に汚されることはない。「低き所は高くなり」などは、諸仏の善立足と呼ばれる大男相(三十二相)の獲得の流出果(報い)である。「遠すぎない所に上げ」とは、遠すぎる所に置くために上げるのではない。「近すぎない所に下ろし」とは、近すぎる場所に下ろすことなく進まれる。「歓喜させつつ」とは、神々を含む世界において満足させつつ。「四本の足で歩む」ゆえに「四足歩行のもの」である。

Buddhānubhāvassa pakāsanavasena gatattā vaṇṇakālo nāma kiresa. Sarīravaṇṇe vā guṇavaṇṇe vā kathiyamāne dukkathitanti na vattabbaṃ. Kasmā? Aparimāṇavaṇṇā hi buddhā bhagavanto, buddhaguṇasaṃvaṇṇanā jānantassa yathādhammasaṃvaṇṇanaṃyeva anupavisatīti.

仏の威神力を顕示することに従って進んだため、実にこれは称賛の時である。身体の美しさが語られようと、徳の称賛が語られようと、不適切に語られたとは言われるべきではない。なぜか。諸仏世尊は無量の称賛すべき徳を持っておられるからであり、仏の徳の称賛は、知る者にとって法にかなった称賛にこそ随順するからである。

Dukūlacumbaṭakenāti ganthitvā gahitadukūlavatthena, nāgavikkantacaraṇoti hatthināgasadisapadanikkhepo. Satapuññalakkhaṇoti anekasatapuññanimmitamahāpurisalakkhaṇo maṇiverocano yathāti ativiya virocamāno maṇi viya verocano nāma eko maṇivisesoti keci mahāsālovāti mahanto sālarukkho viya, koviḷārādimahārukkho viya vā padumo kokanado yathāti kokanadasaṅkhātaṃ mahāpadumaṃ viya, vikasamānapadumaṃ viya vā.

「上質の布の頭巻きによって」とは、結んで身につけた上質の布によって。「象のように堂々と歩む足取りの」とは、巨大な象に似た足の運びの。「百の功徳の相ある」とは、幾百もの功徳によって形作られた大男相を持つ。「輝く宝珠のように」とは、大いに輝く宝珠のように。「ヴェーローチャナとはある特別な宝珠のことである」と説く者もいる。「大樹のように」とは、大きな沙羅樹のように、あるいはコヴィラーラなどの大樹のように。「咲き誇る紅蓮のように」とは、コカナダと呼ばれる大紅蓮のように、あるいは開花しつつある蓮のように。

Ākāsagaṅgaṃ otārento viyātiādi tassā pakiṇṇakakathāya aññesaṃ dukkarabhāvadassanañceva suṇantānaṃ accantasukhāvahabhāvadassanañca pathavījaṃ ākaḍḍhento viyāti nāḷiyantaṃ yojetvā mahāpathaviyā heṭṭhimatale pappaṭakojaṃ uddhaṃmukhaṃ katvā ākaḍḍhento viya yojanikanti yojanappamāṇaṃ madhubhaṇḍanti madhupaṭalaṃ.

「天のガンガーを降ろすがごとく」などは、その種々の法話が他者にとって困難であることを示すとともに、聞く者たちに極上の安楽をもたらすことを示している。「大地の精華を引き寄せるがごとく」とは、竹筒の仕掛けを用いて大地の底層にある滋養の精華を上に向けて引き寄せるかのごとく。「一由旬の」とは、一由旬の分量の。「蜜の器」とは、蜂の巣のことである。

Mahantanti uḷāraṃ. Sabbadānaṃ dinnameva hotīti sabbameva paccayajātaṃ āvāsadāyakena dinnameva hoti. Tathāhi dve tayo gāme piṇḍāya caritvā kiñci aladdhā āgatassapi chāyūdakasampannaṃ ārāmaṃ pavisitvā nhāyitvā paṭissaye muhuttaṃ nipajjitvā uṭṭhāya nisinnassa kāye balaṃ āharitvā pakkhittaṃ viya hoti. Bahi vicarantassa ca kāye vaṇṇadhātu vātātapehi kilamati, paṭissayaṃ pavisitvā dvāraṃ pidhāya muhuttaṃ nisinnassa visabhāgasantati vūpasammati, sabhāgasantati patiṭṭhāti, vaṇṇadhātu āharitvā pakkhittā viya hoti, bahi vicarantassa ca pāde kaṇṭako vijjhati, khāṇu paharati, sarīsapādiparissayo ceva corabhayañca uppajjati, paṭissayaṃ pavisitvā dvāraṃ pidhāya nipannassa pana sabbe parissayā na honti, ajjhayantassa dhammapītisukhaṃ, kammaṭṭhānaṃ manasikarontassa upasamasukhaṃ uppajjati bahiddhā vikkhepābhāvato, bahi vicarantassa ca kāye sedā muccanti, akkhīni phandanti, senāsanaṃ pavisanakkhaṇe mañcapīṭhādīni na paññāyanti, muhuttaṃ nisinnassa pana akkhipasādo āharitvā pakkhitto viya hoti, dvāravātapānamañcapīṭhādīni paññāyanti, etasmimpi ca āvāse vasantaṃ disvā manussā catūhi paccayehi sakkaccaṃ upaṭṭhahanti. Tena vuttaṃ – **‘‘āvāsadānasmiṃ dinne sabbaṃ dānaṃ dinnameva hotī’’**ti. Bhūmaṭṭhaka…pe… na sakkāti ayamattho mahāsudassanavatthunā (dī. ni. 2.241 ādayo) dīpetabbo.

「大いなる」とは、広大なる。「すべての布施が与えられたことになる」とは、すべての必需品(資具)が精舎の寄進者によって与えられたことになる、ということである。実に二、三の村を托鉢に歩いて何も得られずに戻ってきた者であっても、木陰と水に恵まれた寺院に入り、身を清めて宿舎でしばし横になり、起き上がって坐したならば、身体に活力を注ぎ入れられたかのようになる。外を歩き回る者の身体では風や太陽熱によって皮膚の色艶が損なわれるが、宿舎に入って扉を閉ざし、しばし坐しているならば、不調和な相続は静まり、調和した相続が確立し、皮膚の色艶が注ぎ入れられたかのようになる。外を歩き回る者の足には棘が刺さり、切り株に当たり、這う虫などの危険や盗賊の恐怖が生じるが、宿舎に入って扉を閉ざし、横たわる者にはあらゆる危険が存在せず、読誦する者には法の歓喜の楽が、瞑想主題を作意する者には外への散乱がないことから寂静の楽が生じる。外を歩き回る者の身体からは汗が流れ、目がかすみ、宿舎に入る瞬間には寝台や椅子などが見えないが、しばし坐しているならば視力が注ぎ入れられたかのようになり、扉や窓や寝台や椅子などが見えるようになる。またこの精舎に住まう者を見て、人々は四つの必需品をもって恭しく給仕する。それゆえに「住居の布施がなされたとき、すべての布施がなされたことになる」と言われた。「大地に住まう…略…できない」というこの意味は、『大善見王経』によって解明されるべきである。

Sītanti (sārattha. ṭī. cūḷavagga 3.295; saṃ. ni. ṭī. 2.4.243) ajjhattadhātukkhobhavasena vā bahiddhautuvipariṇāmavasena vā uppajjanakasītaṃ. Uṇhanti aggisantāpaṃ. Tassa pana davadāhādīsu sambhavo daṭṭhabbo. Paṭihantīti paṭibāhati. Yathā tadubhayavasena kāyacittānaṃ bādhanāni na honti, evaṃ karoti. Sītuṇhabbhāhate hi sarīre vikkhittacitto bhikkhu yoniso padahituṃ na sakkoti. Vāḷamigānīti sīhabyagghādivāḷamige. Guttasenāsanañhi pavisitvā dvāraṃ pidhāya nisinnassa te parissayā na honti. Sarīsapeti ye keci sarantā gacchante dīghajātike. Makaseti nidassanametaṃ, ḍaṃsādīnaṃ eteneva saṅgaho daṭṭhabbo. Sisireti sītakālavasena sattāhavaddalikādivasena ca uppanne sisirasamphasse. Vuṭṭhiyoti yadā tadā uppannā vassavuṭṭhiyo paṭihanatīti yojanā.

「寒冷を」とは、体内の元素の乱れによって、あるいは外部の気候の変動によって生じる寒さのことである。「熱気を」とは、火の熱さのことである。それの発生は山火事などにおいて見なされるべきである。「防ぐ」とは、退けることである。それら双方によって身心の苦悶が生じないようにする。寒熱に侵された身体では、心が散乱した比丘は正しく精進することができないからである。「猛獣を」とは、ライオンや虎などの獰猛な獣を。防備された宿舎に入って扉を閉ざして坐する者には、それらの危険はないからである。「這う虫に」とは、這って進むいかなる長虫(蛇など)をも。「虻蚊を」とは、これは一例であり、これによって毒虫などの包摂も知るべきである。「冬の冷気に」とは、寒冷の時期によって、また七日間の長雨などによって生じる冷気の接触に。「雨を」とは、時折生じる降雨を防ぐ、と結びつける。

Vātātapo ghoroti rukkhagacchādīnaṃ ummūlabhañjanavasena pavattiyā ghoro sarajaarajādibhedo vāto ceva gimhapariḷāhasamayesu uppattiyā ghoro sūriyātapo ca. Paṭihaññatīti paṭibāhīyati. Leṇatthanti nānārammaṇato cittaṃ nivattetvā paṭisallānārāmatthaṃ. Sukhatthanti vuttaparissayābhāvena phāsuvihāratthaṃ. Jhāyitunti aṭṭhatiṃsārammaṇesu yattha katthaci cittaṃ upanijjhāyituṃ. Vipassitunti aniccādito sabbasaṅkhāre sammasituṃ.

「風と熱気は凄まじく」とは、樹木や藪を根こそぎ倒すことによって猛威を振るう、砂塵を伴う風および砂塵を伴わない風、ならびに夏の酷熱の時期に生じることによって凄まじい太陽の熱気である。「防がれる」とは、退けられる。「隠棲のために」とは、様々な対象から心を退けて、静座を好むことのために。「安楽のために」とは、説かれた危険がないことによる快適な生活のために。「禅定のために」とは、三十八の対象のどこにでも心を集中させるために。「洞察のために」とは、無常などからすべての形成されたものを観察するために。

Vihāreti paṭissaye. Kārayeti kārāpeyya. Rammeti manorame nivāsasukhe. Vāsayettha bahussuteti kāretvā pana ettha vihāresu bahussute sīlavante kalyāṇadhamme nivāseyya. Te nivāsento pana tesaṃ bahussutānaṃ yathā paccayehi kilamatho na hoti, evaṃ annañca pānañca vatthasenāsanāni ca dadeyya ujubhūtesu ajjhāsayasampannesu kammaphalānaṃ ratanattayaguṇānañca saddahanena vippasannena cetasā.

「僧院(精舎)に」とは、宿舎において。「建てさせるべきである」とは、建てさせるとよい。「快適な」とは、住み心地のよい。「多聞の者たちをここに住まわせるべきである」とは、建てた上で、ここに多聞で戒ある善き徳の者たちを住まわせるべきである。彼らを住まわせるにあたっては、それらの多聞の者たちに必需品の不足による疲労が生じないように、正直で優れた意向を持ち、業果と三宝の徳を信じることによって澄み切った心で、食物や飲み物、衣服や寝食の座を与えるべきである。

Idāni gahaṭṭhapabbajitānaṃ aññamaññūpakārataṃ dassetuṃ **‘‘te tassā’’**ti gāthamāha. Tattha teti bahussutā tassāti upāsakassa. Dhammaṃ desentīti sakalavaṭṭadukkhapanudanaṃ dhammaṃ desenti. Yaṃ so dhammaṃ idhaññāyāti so puggalo yaṃ saddhammaṃ imasmiṃ sāsane sammāpaṭipajjanena jānitvā aggamaggādhigamena anāsavo hutvā parinibbāyati.

今や在家の者と出家の者の相互の助け合いを示すために、「彼らはその者のために」という詩偈を説かれた。そこにおいて「彼らは」とは、多聞の者たちは。「その者のために」とは、信者(優婆塞)のために。「法を説く」とは、輪廻のすべての苦しみを払いのける法を説く。「その人がここで法を知って」とは、その人物がこの教えにおいて正しく実践することによって正しい法を知り、最上の道(阿羅漢道)の獲得によって諸漏なき者となって完全な涅槃に入る、ということである。

Pūjāsakkāravaseneva paṭhamayāmo khepito, bhagavato desanāya appāvaseso majjhimayāmo gatoti pāḷiyaṃ ‘‘bahudeva ratti’’nti vuttanti āha **‘‘atirekataraṃ diyaḍḍhayāma’’**nti. Sandassesīti ānisaṃsaṃ dassesi, āvāsadānapaṭisaṃyuttaṃ dhammiṃ kathaṃ sutvā tato paraṃ, ‘‘mahārāja, itipi sīlaṃ, itipi samādhi, itipi paññā’’ti sīlādiguṇe tesaṃ sammā dassesi, hatthena gahetvā viya paccakkhato pakāsesi. Samādapesīti ‘‘evaṃ sīlaṃ samādātabbaṃ, sīle patiṭṭhitena evaṃ samādhi, evaṃ paññā bhāvetabbā’’ti yathā te sīlādiguṇe ādiyanti, tathā gaṇhāpesi. Samuttejesīti yathā samādinnaṃ sīlaṃ suvisuddhaṃ hoti, samathavipassanā ca bhāviyamānā yathā suṭṭhu visodhitā uparivisesāvahā honti, evaṃ cittaṃ samuttejesi nisāmanavasena vodāpesi. Sampahaṃsesīti yathānusiṭṭhaṃ ṭhitasīlādiguṇehi sampati laddhaguṇānisaṃsehi ceva upari laddhabbaphalavisesehi ca uparicittaṃ sammā pahaṃsesi, laddhassāsavasena suṭṭhu tosesi. Evametesaṃ padānaṃ attho veditabbo.

供養と敬意によって初夜の分が過ごされ、世尊の説法によってわずかに残った中夜の分が過ぎたため、聖典において「夜の多くを」と説かれていることから、「一交代半余りを」と言われた。「示された」とは、功徳を示されたのであり、住居の布施に関する法話を聴いた後に、「大王よ、このように戒があり、このように定があり、このように慧がある」と戒などの徳を彼らに正しく示し、手にとって見せるかのように目の当たりに明らかにされた。「受持せしめられた」とは、「このように戒を受持すべきであり、戒に立脚してこのように定を、このように慧を修習すべきである」と、彼らが戒などの徳を受け入れるように把握させた。「奮い立たせられた」とは、受持された戒が極めて清浄となり、修習される止観が善く浄化されて上位の卓越した境地をもたらすように、心を奮い立たせ、観察によって清らかにされた。「喜ばせられた」とは、教示に従って確立した戒などの徳によって、現に得られた徳の功徳によって、また上位において得られるべき勝れた果によって、上位の心を正しく歓喜させ、得られた安らぎによって十分に満足させられた。このようにこれらの句の意味を知るべきである。

Samudāyavacanopi asītimahāthera-saddo tadekadesepi niruḷhoti āha **‘‘asītimahātheresu vijjamānesū’’**ti. Ānandattheropi hi antogadho evāti. Sākiyamaṇḍaleti sākiyarājasamūhe.

「八十人の大長老」という語は集団を指す語であるが、その一部分においても慣用されることから、「八十人の大長老が存在する中で」と言われた。実にアーナンダ長老も含まれているからである。「釈迦族の集いにおいて」とは、釈迦族の王族の集まりにおいて。

Paṭipadāya niyuttattā pāṭipado. Tenāha – **‘‘paṭipannako’’**ti. Sikkhanasīlatādinā sekho, odhiso samitapāpatāya samaṇo. Sekho pāṭipado paṭipajjanapuggalādhiṭṭhānena paṭipadādesanaṃ niyamento paṭipadāya puggalaṃ niyameti nāmāti **‘‘paṭipadāya puggalaṃ niyametvā dassetī’’**ti. Sekhappaṭipadā sāsane maṅgalapaṭipadā sammadeva asevitabbaparivajjanena sevitabbasamādānena ukkaṃsavatthūsu ca bhāvato asekhadhammapāripūriyā āvahattā ca vaḍḍhamānakapaṭipadā. Akilamantāva sallakkhessantīti idaṃ tadā tesaṃ asekhabhūmiadhigamāya ayogyatāya vuttaṃ. Akilamantāvāti iminā paṭisambhidāppattassapi anadhigatamaggasaññāpanā bhāriyāti dasseti. Osaṭāti anuppaviṭṭhā. Sakalaṃ vinayapiṭakaṃ kathitameva hoti tassa sīlakathābāhullato sesadvayepi eseva nayo. Tīhi piṭakehīti karaṇatthe karaṇavacanaṃ. Tena taṃtaṃpiṭakānaṃ tassā tassā sikkhāya sādhakatamabhāvaṃ dasseti.

行道に従事していることから「実践者(pāṭipada)」である。それゆえに「実践する者」と言われた。学ぶ性質などによって「有学(sekha)」であり、限定的に悪を静めたことによって「沙門」である。有学の実践者は、実践する人物を基礎として行道の教示を限定しつつ、行道によって人物を限定することから、「行道によって人物を限定して示す」と言われた。教えにおける有学の行道は吉祥の行道であり、親しむべきでないものを正しく避けることと親しむべきものを受持することによって、卓越した事柄において生じることから、無学の法(阿羅漢の境地)の円満をもたらすがゆえに増大する行道である。「疲れることなく考察するであろう」とは、これは当時彼らが無学の境地の獲得に適していなかったことによって説かれた。「疲れることなく」というこれによって、四無礙解に達した者であっても、聖道を得ていない者を納得させることは困難であることが示されている。「流れ込んだ」とは、入り込んだ。律蔵全体が説かれたことになる、それには戒に関する話が多いからである。残りの二つ(経・論)においてもこの方法である。「三蔵によって」とは、具格の意味における具格の語である。それによって、それぞれの蔵がそれぞれの修行を成就させる最高の手段であることを示している。

Piṭṭhivāto uppajjati upādinnakasarīrassa tathārūpattā saṅkhārānañca aniccatāya dukkhānubandhattā. Akāraṇaṃ vā etanti yenādhippāyena vuttaṃ, tameva adhippāyaṃ vivarituṃ **‘‘pahotī’’**tiādi vuttaṃ. Catūhi iriyāpathehi paribhuñjitukāmo ahosi sakyarājūnaṃ ajjhāsayavasena. Tathā hi vakkhati ‘‘satthāpi tadeva sandhāya tattha saṅghāṭiṃ paññapetvā nipajjītī’’ti. Yadi evaṃ ‘‘piṭṭhi me āgilāyatī’’ti idaṃ kathanti āha **‘‘upādinnakasarīrañca nāmā’’**tiādi.

「背中の痛みが」生じるのは、執着された身体(執受身)がそのような性質のものであり、諸行が無常であることから苦痛が付きまとうからである。「あるいはこれは理由にならない」といかなる意図によって説かれたのか、まさにその意図を明らかにするために「十分である」等と言われた。釈迦族の王たちの意向に応じて、四つの威儀(立ち振る舞い)によって受用しようと欲せられた。実に「師もまたそれを考慮してそこに大衣を敷いて横たわられた」と説かれる通りである。もしそうであるならば、「私の背中が痛む」というこれはどういうことかと言えば、「執着された身体というものは」等と言われた。

23. ‘‘Iminā pātimokkhasaṃvarena…pe… sampanno’’tiādīsu (vibha. 511) samannāgatattho sampanna-saddo, idha pana pāripūriatthoti dassetuṃ **‘‘paripuṇṇasīloti attho’’**ti vuttaṃ. Yo pana sampannasīloyeva, so paripuṇṇasīlo. Parisuddhañhi sīlaṃ ‘‘paripuṇṇa’’nti vuccati, na sabalaṃ kammāsaṃ vā. Sundaradhammehīti sobhanadhammehi. Yasmiṃ santāne uppannā tassa sobhanabhāvato. Tehi sappurisabhāvasādhanato sappurisānaṃ dhammehi.

23. 「この別解脱律儀を…略…具足して」などにおいて、具足(sampanna)という語は「具備した」という意味であるが、ここでは「円満」という意味であることを示すために「戒を円満にしたという意味である」と説かれた。実に戒を具足した者こそが、戒を円満にした者である。実に清浄な戒こそが「円満」と呼ばれるのであり、斑点があったり汚れのある戒ではない。「善き法によって」とは、美しき法によって。いかなる心相続において生じてもそれを美しくするからである。それらによって善男子たる状態を成就することから、善男子たちの法によって。

24. Iminā ettakena ṭhānenāti ‘‘idha, mahānāma, ariyasāvako’’ti ārabhitvā yāva ‘‘akasiralābhī’’ti padaṃ iminā ettakena uddesapadena mātikaṃ ṭhapetvā. Paṭipāṭiyāti uddesapaṭipāṭiyā. Evamāhāti ‘‘evaṃ kathañca, mahānāmā’’tiādinā idāni vuccamānena dassitākārena āha.

24. 「このこれだけの箇所によって」とは、「ここに、マハーナーマよ、聖弟子は」と始めて、「苦もなく得る者」という句に至るまでの、これだけの総括の句によって主題(母規)を据えて。「順序によって」とは、提示された順序によって。「このように言われた」とは、「このように、そしてどのようにか、マハーナーマよ」等と、今まさに説かれようとしている示されたあり方によって言われた。

25. Hirīyatīti lajjīyati pīḷīyati. Yasmā hirī pāpajigucchanalakkhaṇā, tasmā **‘‘jigucchatīti attho’’**ti vuttaṃ. Ottappatīti uttappati. Pāputrāsalakkhaṇañhi ottappaṃ. Paggahitavīriyoti saṅkocaṃ anāpannavīriyo. Tenāha **‘‘anosakkitamānaso’’**ti. Pahānatthāyāti samucchindanatthāya. Kusalānaṃ dhammānaṃ upasampadā nāma adhigamo evāti āha **‘‘paṭilābhatthāyā’’**ti. Satinepakkenāti satiyā nepakkena tikkhavisadasūrabhāvena. Aṭṭhakathāyaṃ pana nepakkaṃ nāma paññāti adhippāyena **‘‘satiyā ca nipakabhāvena cā’’**ti attho vutto, evaṃ sati añño niddiṭṭho nāma hoti. Satimāti ca imināva visesā sati gahitā, parato ‘‘cirakatampi cirabhāsitampi saritā anussaritā’’ti satikiccameva niddiṭṭhaṃ, na paññākiccaṃ, tasmā satinepakkenāti satiyā nepakkabhāvenāti sakkā viññātuṃ. Teneva hi paccayavisesavasena aññadhammanirapekkho satiyā balavabhāvo. Tathā hi ñāṇavippayuttacittenapi ajjhayanasammasanāni sambhavanti.

25. 「恥じる」とは、恥じらい、苦痛に思うことである。慚(恥じらい)は悪を嫌悪することを特徴とするため、「嫌悪するという意味である」と説かれた。「恐れる」とは、怖れることである。悪への恐怖を特徴とするのが愧(恐れ)である。「精進を奮い起こした」とは、萎縮に陥らない精進を持つ者である。それゆえに「後退しない心を持つ者」と言われた。「断ずるために」とは、根絶するために。善なる諸法の「具足」とはまさに獲得のことであることから、「獲得のために」と言われた。「正念の賢明さによって」とは、念(気づき)の賢明さ、すなわち鋭く明瞭で勇猛な状態によって。しかし義注においては賢明さとは智慧のことであるという意図から、「念と賢明なる状態によって」という意味が説かれた。そうであるならば別のものが示されたことになる。また「正念ある者」というこれによって格別の念が捉えられており、後で「遠い昔になされたことも、遠い昔に語られたことも思い出し、随念する者」と念の機能のみが示されており、智慧の機能ではない。したがって「正念の賢明さによって」とは念の賢明な状態によって、と理解することができる。それゆえに縁の特殊性によって、他の法に依存しない念の強力な状態がある。実に智慧を伴わない心によっても、読誦や観察が成立するからである。

Cetiyaṅgaṇavattādīti ādi-saddena bodhiyaṅgaṇavattādīni saṅgaṇhāti. Asītimahāvattapaṭipattipūraṇanti ettha asītivattapaṭipattipūraṇaṃ mahāvattapaṭipattipūraṇanti vattapaṭipattipūraṇa-saddo paccekaṃ yojetabbo. Tattha mahāvattāni (vibha. mūlaṭī. 406) nāma vattakhandhake (cūḷava. 356 ādayo) vuttāni āgantukavattaṃ āvāsikaṃ gamikaṃ anumodanaṃ bhattaggaṃ piṇḍacārikaṃ āraññikaṃ senāsanaṃ jantāgharaṃ vaccakuṭi upajjhāyaṃ saddhivihārikaṃ ācariyaṃ antevāsikavattanti cuddasa. Tato aññāni pana kadāci tajjanīyakammakatādikāle pārivāsikādikāle ca caritabbāni asīti khuddakavattāni sabbāsu avatthāsu na caritabbāni, tasmā mahāvattesu, aggahitāni. Tattha ‘‘pārivāsikānaṃ bhikkhūnaṃ vattaṃ paññapessāmī’’ti ārabhitvā ‘‘na upasampādetabbaṃ…pe… na chamāyaṃ caṅkamante caṅkame caṅkamitabba’’nti (cūḷava. 81) vuttāni pakabhatte caritabbavattāvasānāni chasaṭṭhi, tato paraṃ ‘‘na, bhikkhave, pārivāsikena bhikkhunā pārivāsikavuḍḍhatarena bhikkhunā saddhiṃ mūlāyapaṭikassanārahena mānattārahena mānattacārikena abbhānārahena bhikkhunā saddhiṃ ekacchanne āvāse vattabba’’ntiādīni (cūḷava. 82) pakatatte caritabbehi anaññattā visuṃ visuṃ agaṇetvā pārivāsikavuḍḍhatarādīsu puggalantaresu caritabbattā tesaṃ vasena sampiṇḍetvā ekekaṃ katvā gaṇitabbāni pañcāti ekasattativattāni, ukkhepaniyakammakatavattesu vattapaññāpanavasena vuttaṃ – ‘‘na pakatattassa bhikkhuno abhivādanaṃ paccuṭṭhānaṃ…pe… nhāne piṭṭhiparikammaṃ sāditabba’’nti (cūḷava. 51) idaṃ abhivādanādīnaṃ asādiyanaṃ ekaṃ, ‘‘na pakatatto bhikkhu sīlavipattiyā anuddhaṃsitabbo’’tiādīni ca dasāti evametāni dvāsīti. Etesveva pana kānici tajjanīyakammādivattāni kānici pārivāsikādivattānīti aggahitaggahaṇena dvāsīti, evaṃ appakaṃ pana ūnamadhikaṃ vā gaṇanupagaṃ na hotīti idha ‘‘asīti’’cceva vuttaṃ. Aññattha pana aṭṭhakathāpadese ‘‘dvāsīti khandhakavattānī’’ti vuccati.

「仏塔の境内における作法など」という語の「など」という語によって、菩提樹の境内における作法などが包含される。「八十の大いなる作法の行いを満たすこと」において、「八十の作法の行いを満たすこと」「大いなる作法の行いを満たすこと」と、「作法の行いを満たすこと」という語はそれぞれに結合されるべきである。その中で大いなる作法とは、作法犍度(小品三五六など)に説かれた客比丘の作法、住山比丘の作法、旅行比丘の作法、随喜の作法、食堂の作法、托鉢比丘の作法、森林住比丘の作法、坐臥処の作法、温室の作法、便所の作法、和尚に対する作法、共住者に対する作法、阿闍梨に対する作法、弟子に対する作法という十四箇条である。それ以外の、ときに呵責羯磨などが行われた時や、別住期などに実践されるべき八十の小なる作法は、あらゆる状況において行われるべきものではないため、大いなる作法の中には数え入れられていない。その中で「別住比丘のための作法を制定しよう」と始めて「具足戒を授けてはならない……(中略)……地面を歩く者の経行処で経行してはならない」(小品八一)と説かれた、平常の比丘に対して行うべき作法の終わりまでの六十六箇条、その後に「比丘たちよ、別住比丘は、年長の別住比丘とともに、根本に引き戻されるべき者、摩那埵を受けるべき者、摩那埵を行っている者、出罪を受けるべき比丘とともに、同一の屋根のある住居に住んではならない」など(小品八二)の、平常の比丘に対して行うべき作法と異ならないがゆえに別々には数えず、年長の別住比丘などの他の人々に対して行われるべきものであることから、それらに基づいて一括して一つとして数えられるべき五箇条の合計七十一の作法、挙罪羯磨を受けた者の作法において作法の制定に基づいて説かれた「平常の比丘への礼拝、迎礼……(中略)……入浴時の背中の摩擦を受け入れてはならない」(小品五一)という礼拝などの不受納の一箇条、「平常の比丘を戒の破綻によって告発してはならない」などの十箇条があり、このようにしてこれらは八十二となる。しかしながらこれらの中で、あるものは呵責羯磨などの作法であり、あるものは別住などの作法であるとして、重複を除いて把握することによって八十二となるが、このようにわずかな過不足は数に入れるに値しないため、ここではただ「八十」と説かれたのである。しかし他の注釈書の一節では「八十二の犍度の作法」と説かれている。

Sakkaccaṃ uddisanaṃ sakkaccaṃ uddisāpananti paccekaṃ sakkaccaṃ-saddo yojetabbo. Uddisanaṃ uddesaggahaṇaṃ. Dhammosāraṇaṃ dhammassa uccāraṇaṃ. Dhammadesanā

「うやうやしく教授すること、うやうやしく学ばせること」と、それぞれに「うやうやしく」という語を結合すべきである。教授することとは、教えを授かることである。法の読誦とは、法の唱和である。法の説示とは――

‘‘Ādimhi sīlaṃ deseyya, majjhe jhānaṃ vipassanaṃ;

「初めに戒を説くべし、中ほどに禅定とヴィパッサナーを、

Pariyosāne ca nibbānaṃ, esā kathikasaṇṭhitī’’ti. (dī. ni. aṭṭha. 1.190; saṃ. ni. aṭṭha. 3.4.246) –

そして終わりに涅槃を説くべし。これが説法者のあり方である」(長部注一・一九〇、相応部注三・四・二四六)――

Evaṃ kathitalakkhaṇā dhammakathā. Upagantvā nisinnassa yassa kassaci gahaṭṭhassa pabbajitassa vā taṅkhaṇānurūpā dhammī kathā upanisinnakathā. Bhattānumodanakathā anumodaniyā. Saritāti ettha na kevalaṃ cirakatacirabhāsitānaṃ saraṇamanussaraṇamattaṃ adhippetaṃ, atha kho tathāpavattarūpārūpadhammānaṃ pariggahamukhena pavattavipassanācāre satisambojjhaṅgasamuṭṭhāpananti dassetuṃ **‘‘tasmiṃ kāyena cirakate’’**tiādi vuttaṃ. Sakimpi saraṇenāti ekavāraṃ saraṇena. Punappunaṃ saraṇenāti anu anu saraṇena. Satisambojjhaṅgampi vivekanissitaṃ virāganissitaṃ nirodhanissitaṃ vosaggapariṇāmiñca katvā saranto tattha tattha javanavāre saraṇajavanavāre parittajavanavasena anussaritāti veditabbā.

このように語られた特徴をもつ法話である。近づいて着座した任意の在家者または出家者に対して、その瞬間にふさわしい法話が、近座の法話である。食事に対する随喜の法話が、随喜されるべきものである。「想起した」において、ここでは単に昔になされたことや昔に語られたことの単なる想起や追想だけが意図されているのではなく、実にそのように生じた色法・名法を把握することを通じて行われるヴィパッサナーの活動において、念等覚支を惹起することを示すために「その、身体によって昔になされたことにおいて」などと説かれたのである。「一度の想起によって」とは、一回の想起によって。「たびたび想起することによって」とは、繰り返し想起することによってである。念等覚支をも遠離に依り、離貪に依り、滅尽に依り、捨遣に廻向するものとして想起しつつ、それぞれの速行の機会、想起の速行の機会において、小の速行の力によって随念した者であると知るべきである。

Gatiatthā dhātusaddā buddhiatthā hontīti āha – **‘‘udayañca vayañca paṭivijjhituṃ samatthāyā’’**ti. Missakanayenāyaṃ desanā āgatāti āha – **‘‘vikkhambhanavasena ca samucchedavasena cā’’**ti. Tenāha **‘‘vipassanāpaññāya cevā’’**tiādi. Vipassanāpaññāya nibbedhikapariyāyato. Sā ca kho padesikāti nippadesikaṃ katvā dassetuṃ **‘‘maggapaññāya paṭilābhasaṃvattanato cā’’**ti vuttaṃ. Dukkhakkhayagāminibhāvepi eseva nayo. Sammāti yāthāvato. Akuppadhammatāya hi maggapaññā khepitakhepanāya na puna kiccaṃ atthīti upāyena ñāyena yā pavatti sā evāti āha – **‘‘hetunā nayenā’’**ti.

行くという意味の語根の語は知るという意味となるため、「生起と消滅を通達することができる」と言ったのである。この説示は混合の仕方によって説かれているため、「鎮伏によって、また断絶によって」と言ったのである。それゆえに「ヴィパッサナーの智慧によっても」などと言ったのである。ヴィパッサナーの智慧によって、洞察の異門から。そしてそれ(ヴィパッサナーの智慧)は局所的なものであるため、無局所的なものとして示すために「道智の獲得へと導くがゆえに」と説かれたのである。苦の滅尽に至る状態においてもこの方法と同じである。「正しく」とは、如実に。「不動の法性であることによって、実に道智は尽くされたものを再び滅尽するために為すべき働きはない」という手段によって、理法によって生起すること、まさにそのことであるとして「原因によって、理法によって」と言ったのである。

26. Adhikaṃ ceto abhiceto, mahaggatacittaṃ, tassa pana adhikatā kāmacchandādipaṭipakkhavigamena visiṭṭhabhāvappatti, tannissitāni ābhicetasikāni. Tenāha **‘‘abhicittaṃ seṭṭhacittaṃ sitāna’’**nti. Diṭṭhadhammasukhavihārānanti imasmiṃyeva attabhāve phāsuvihārabhūtānaṃ. Tehi pana samaṅgitakkhaṇe yasmā vivekajaṃ pītisukhaṃ samādhijaṃ pītisukhaṃ apītijaṃ satipārisuddhiñāṇasukhañca paṭilabhati vindati, tasmā āha – **‘‘appitappitakkhaṇe sukhapaṭilābhahetūna’’**nti. Icchiticchitakkhaṇe samāpajjitāti iminā tesu jhānesu samāpajjanavasībhāvamāha, ‘‘nikāmalābhī’’ti pana vacanato āvajjanādhiṭṭhānā paccavekkhaṇavasiyo ca vuttā evāti veditabbā. Nidukkhalābhīti iminā tesaṃ jhānānaṃ sukhapaṭipadākhippābhiññataṃ dasseti, vipulalābhīti iminā paguṇataṃ tappamāṇadassitabhāvadīpanato. Tenāha **‘‘paguṇabhāvenā’’**tiādi. Samāpajjituṃ sakkoti samāpajjanavasībhāvatāya sādhitattā. Samādhipāripanthikadhammeti vasībhāvassa paccanīkadhamme. Jhānādhigamassa pana paccanīkadhammā pageva vikkhambhitā, aññathā jhānādhigamo eva na siyā. Akilamanto vikkhambhetuṃ na sakkotīti kicchena vikkhambheti visodheti, kāmādīnavapaccavekkhaṇādīhi kāmacchandādīnaṃ aññesaṃ samādhipāripanthikānaṃ dūrasamussāraṇaṃ idha vikkhambhanaṃ visodhananti veditabbaṃ.

26.「勝れた心」とは「増上心」であり、大広の心である。その増上であることとは、欲貪などの反対のものが離れることによって卓越した状態に達することであり、それに依拠するものが「増上心に関するもの」である。それゆえに「増上心、すなわち最勝の心に依拠する」と言ったのである。「現法楽住の」とは、まさにこの身における安楽な住処となるものの。「それら(禅定)」とまさに具足した瞬間に、遠離より生じる喜楽、三摩地より生じる喜楽、離喜より生じる喜楽、念清浄の智による楽を獲得し享受するがゆえに、「安止の瞬間に楽を獲得する因となるもの」と言ったのである。「欲する瞬間に等至した」というこれによって、それらの禅定において等至の自在性があることを述べており、「意のままに得る者」という語からは、作意、受持、省察の自在性もまた説かれていると知るべきである。「無苦に得る者」というこれによって、それらの禅定において苦遅通達でなく楽速通達であることを示し、「広大に得る者」というこれによって、熟達していることを、その量を示された状態を明らかにすることによって示している。それゆえに「熟達した状態によって」などと言ったのである。等至の自在性があることによって成就されているため、「等至することができる」のである。「三摩地の障害となる法」とは、自在性の障害となる法のことである。禅定の獲得に対する障害となる法は、あらかじめ鎮伏されているのであり、そうでなければ禅定の獲得そのものが成り立たない。「疲労することなく鎮伏することができない」とは、困難を伴って鎮伏し清めることであり、諸欲の過患の省察などによって欲貪などの他の三摩地の障害となるものを遠くへ退けることが、ここでの「鎮伏すること」「清めること」であると知るべきである。

27. Vipassanāhitāya uparūparivisesāvahattā vaḍḍhamānāya pubbabhāgasīlādipaṭipadāya. Sā eva pubbabhāgapaṭipadā yathābhāvitatāya avassaṃ bhāvinaṃ visesaṃ pariggahitattā aṇḍaṃ viyāti aṇḍaṃ, kilesehi adūsitatāya apūti aṇḍaṃ etassāti apuccaṇḍo, vipassanaṃ ussukkāpetvā ṭhitapuggalo, tassa bhāvo apuccaṇḍatā. Vipassanādiñāṇappabhedāyāti pubbenivāsañāṇādiñāṇapabhedāya. Tatthāti cetokhilasutte (ma. ni. 1.185) ‘‘sa kho so, bhikkhave, evaṃ ussoḷhipannarasaṅgasamannāgato bhikkhu bhabbo abhinibbidāyā’’ti āgatattā ussoḷhipannarasehi aṅgehi samannāgatabhāvoti evaṃ yaṃ opammasaṃsandanaṃ āgataṃ, taṃ opammasaṃsandanaṃ idha imasmiṃ sekhasutte yojetvā veditabbanti sambandho.

27.「ヴィパッサナーのために」とは、より勝れた卓越性をもたらすがゆえに増大している前段階の戒などの行道のために。その前段階の行道そのものは、修習された通りに必然的に生じる卓越性を把持しているがゆえに、卵に似ているので「卵」であり、煩悩によって損なわれていないがゆえに腐っていない卵をこれ(雌鳥)が持っているため「不腐卵」であり、ヴィパッサナーに専念して留まっている人であり、その状態が「不腐卵の状態」である。「ヴィパッサナーなどの智の種々の区別のために」とは、宿住随念智などの智の種々の区別のために。「そこにおいて」とは、心荒廃経(中部一・一八五)において「比丘たちよ、そのように十五の勤勉の要素を具足した比丘は、孵化することができる」と説かれていることから、十五の勤勉の要素を具足した状態であるという、このように説かれた譬喩の照合を、この有学経において結びつけて知るべきであるという連関である。

28. Mahaggatādibhāvena heṭṭhimānaṃ jhānānaṃ anurūpampi attano visesena te uttaritvā atikkamitvāna ṭhitanti anuttaraṃ, tenāha – **‘‘paṭhamādijjhānehi asadisaṃ uttama’’**nti. Dutiyādīsupi abhinibbhidāsu. Pubbenivāsañāṇaṃ uppajjamānaṃ yathā attano visayapaṭicchādakaṃ kilesandhakāraṃ vidhamantameva uppajjati, evaṃ attano visaye kañci visesaṃ karontameva uppajjatīti āha – **‘‘pubbenivāsañāṇena paṭhamaṃ jāyatī’’**ti, sesañāṇadvayepi eseva nayo.

28. 大広などの状態によって、下位の禅定に相応していても、自らの卓越性によってそれらを超越し凌駕して留まるがゆえに「無上」であり、それゆえに「初禅などの禅定と比肩しえない最上のもの」と言ったのである。第二などの孵化においても同様である。宿住智が生じる際、自らの対象を覆う煩悩の暗黒を打ち払いながら生じるように、自らの領域において何らかの卓越性をなしながら生じるとして、「宿住智によって最初に生じる」と言ったのであり、残りの二つの智においてもこの方法と同じである。

29. Caraṇasminti paccatte bhummavacananti āha **‘‘caraṇaṃ nāma hotīti attho’’**ti. Tenāti karaṇatthe karaṇavacanaṃ agatapubbadisāgamane tesaṃ sādhakatamabhāvato.

29.「行において」とは、主格における処格の語であるとして「行と呼ばれるという意味である」と言ったのである。「それによって」とは、過去に到達したことのない方角へと向かうことにおいて、それらが最も成就させるものであることから、具格の意味における具格の語である。

Aṭṭha ñāṇānīti idha āgatāni ca anāgatāni ca ambaṭṭhasuttādīsu (dī. ni. 1.254 ādayo) āgatāni gahetvā vadati. Vinivijjhitvāti pubbenivāsapaṭicchādakādikilesatamaṃ bhinditvā padāletvā.

「八つの智」とは、ここに説かれたもの、および説かれていないが阿摩昼経など(長部一・二五四など)に説かれたものを把握して言っている。「貫通して」とは、宿住を覆い隠す煩悩の闇などを打ち破り、粉砕して。

30. Sanaṅkumārenāti sanantanakumārena. Tadeva hi tassa sanantanakumārataṃ dassetuṃ **‘‘cirakālato paṭṭhāyā’’**ti vuttaṃ. So attabhāvoti yena attabhāvena manussapathe jhānaṃ nibbattesi, so kumārattabhāvo, tasmā brahmabhūtopi tādisena kumārattabhāvena carati.

30.「サナンクマーラによって」とは、永遠の童子によってである。まさにその彼の永遠の童子であることを示すために「久しき昔から」と説かれたのである。「その身体」とは、人界において禅定を生じさせたときのその身体であり、その童子の身体である。それゆえに梵天となってもなお、そのような童子の身体で活動するのである。

Janitasmiṃ-saddo eva i-kārassa e-kāraṃ katvā **‘‘janetasmi’’**nti vutto, janitasminti ca janasminti attho veditabbo. Janitasminti sāmaññaggahaṇepi yattha catuvaṇṇasamaññā, tattheva manussaloke. Khattiyo seṭṭhoti lokasamaññāpi manussalokeyeva, na devakāye brahmakāye vāti dassetuṃ **‘‘ye gottapaṭisārino’’**ti vuttaṃ. Paṭisarantīti ‘‘ahaṃ gotamo, ahaṃ kassapo’’ti pati pati attano gottaṃ anusaranti paṭijānanti vāti attho.

「生まれた者において」という語そのものの i の音を e の音にして「生まれた者において(janetasmiṃ)」と説かれたのであり、「生まれた者において(janitasmiṃ)」とは「人々において」という意味であると知るべきである。「生まれた者において」と通称で把握されたとしても、四姓の呼称があるまさにその人間界においてである。「刹帝利は最上である」という世間の呼称もまた人間界においてのみであり、神々の世界や梵天の世界においてではないことを示すために「家系を頼りとする者たち」と説かれたのである。「頼りとする」とは、「私はゴータマである、私はカッサパである」と自らの家系を繰り返し随念し、あるいは言明するという意味である。

Ettāvatāti ‘‘sādhu sādhu ānandā’’ti ettakena sādhukāradānena. Jinabhāsitaṃ nāma jātantiādito paṭṭhāya yāva pariyosānā therabhāsitaṃ buddhabhāsitameva nāma jātaṃ. ‘‘Kimpanidaṃ suttaṃ satthudesanānuvidhānato jinabhāsitaṃ, udāhu sādhukāradānamattenā’’ti evarūpā codanā idha anokāsā therassa desanāya bhagavato desanānuvidhānahetukattā sādhukāradānassāti. Yaṃ panettha atthato avibhattaṃ, taṃ suviññeyyameva.

「これほどまでに」とは、「善いかな、善いかな、アーナンダよ」というこれほどの賞賛を与えることによって。「勝者の説かれたものとなった」とは、最初から終わりまで、長老の説かれたものが仏の説かれたものそのものとなったということである。「いったいこの経は、師の説法への順応によって勝者の説かれたものとなったのか、それとも単なる賞賛の付与によるものなのか」というこのような非難は、ここでは成り立たない。長老の説示において、世尊の説法への順応を原因として賞賛が与えられたからである。ここで意味として分別されていないものは、容易に理解できるものばかりである。

Sekhasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

有学経の注釈の隠れたる意味の解明が完了した。

4. Potaliyasuttavaṇṇanā

四 布吒利野経の注釈

31. Aṅgā nāma janapadino rājakumārā, tesaṃ nivāso ekopi janapado ruḷhivasena aṅgātveva vuccatīti āha **‘‘aṅgāyeva so janapado’’**ti. Mahiyā panassa uttarena yā āpoti mahiyā nadiyā yā āpo tassa janapadassa uttarena honti. Tāsaṃ avidūrattā so janapado uttarāpoti vuccati. Sā pana mahī katthaci katthaci bhijjitvā gatāti āha **‘‘kataramahiyā uttarena yā āpo’’**ti. Tatthāti tassā mahiyā āgamanato paṭṭhāya ayaṃ āvibhāvakathā. Yasmā (a. ni. ṭī. 3.8.19) lokiyā jambudīpo himavā tattha patiṭṭhitasamuddadahapabbatanadiyoti etesu yaṃ yaṃ na manussagocaraṃ, tattha sayaṃ sammūḷhā aññepi sammohayanti, tattha tattha sammohavidhamanatthaṃ **‘‘ayaṃ kira jambudīpo’’**tiādimāraddhaṃ. Dasasahassayojanaparimāṇo āyāmato ca vitthārato cāti adhippāyo. Tenāha **‘‘tatthā’’**tiādi. Udakena ajjhotthaṭo tadupabhogisattānaṃ puññakkhayena.

31. アンガとは地方の王子たちのことであり、彼らの居住地である一つの地方もまた慣習に基づいて「アンガ」とまさに呼ばれるとして、「アンガまさにその地方」と言ったのである。「そのマヒー川の北にある水」とは、マヒー川の水で、その地方の北にあるものである。それらに遠くないことから、その地方は「ウッタラーパ(北水)」と呼ばれる。しかしそのマヒー川は所々で分流して流れているため、「いずれのマヒー川の北にある水か」と言ったのである。「そこにおいて」とは、そのマヒー川の流路からのこの現れの物語である。世間的な人々が、ジャンブディパ、雪山、そこに位置する大海、湖、山、川というこれらの中で、人間の領域でないものについて、自ら迷い、他をも迷わせるため、それらの場所における迷妄を打破するために「このジャンブディパは実に」などと始められたのである。長さにおいても広さにおいても一万由旬の大きさであるという意味である。それゆえに「そこにおいて」などと言ったのである。それらを享受する生き物たちの功徳の尽滅によって、水に覆われた。

Sundaradassanaṃ kūṭanti sudassanakūṭaṃ, yaṃ loke ‘‘hemakūṭa’’nti vuccati. Mūlagandho kāḷānusāriyādi. Sāragandho candanādi. Pheggugandho salalādi. Tacagandho lavaṅgādi. Papaṭikagandho kabitthādi. Rasagandho sajjādi, pattagandho tamālahiriverādi. Pupphagandho nāgakuṅkumādi. Phalagandho jātiphalādi. Gandhagandho sabbesaṃ gandhānaṃ gandho. Yassa hi rukkhassa sabbesampi mūlādīnaṃ gandho atthi, so idha gandho nāma. Tassa gandhassa gandho gandhagandho. Sabbāni puthulato paññāsayojanāni, āyāmato pana ubbedhato viya dviyojanasatānevāti vadanti.

美しい見目を持つ峰がスダッサナ峰であり、世間で「ヘーマクータ(金峰)」と呼ばれるものである。根香とは黒沈香などである。心材香とは白檀などである。辺材香とは松などである。樹皮香とは丁子などである。外皮香とは象橘などである。樹脂香とは沙羅樹の樹脂などであり、葉香とはタマーラ葉、香薷などである。花香とは龍華、鬱金などである。果実香とは肉荳蔲などである。香の香とはすべての香の香である。実にどの樹木であれ、すべての根などの香を持つもの、それがここでは「香」と呼ばれる。その香の香が「香の香」である。すべて幅において五十由旬であり、長さにおいては高さと同じく二百由旬であると言われている。

Manoharasilātalānīti otaraṇatthāya manuññasopānasilātalāni. Supaṭiyattānīti tadupabhogisattānaṃ sādhāraṇakammānubhāvena suṭṭhu paṭiyattāni suppavattitāni honti. Macchakacchapādayo udakaṃ malinaṃ karonti, tadabhāvato phalikasadisanimmaludakāni. Tiriyato dīghaṃ uggatakūṭanti **‘‘tiracchānapabbata’’**nti āha.

「心惹かれる石畳」とは、水に降りるための快い階段の石畳である。「整えられた」とは、それらを享受する生き物たちの共通の業の威力によって、実によく整えられ、よく維持されている。魚や亀などが水を汚すが、それらがいないため、水晶のように汚れのない水である。横に長くそびえ立った峰を「横たわる山」と言ったのである。

Āpaṇāni eva vohārassa mukhabhūtānīti āha **‘‘āpaṇamukhasahassānī’’**ti. Vibhattānīti vavatthitāni aññamaññāsambhinnāni. Vasanaṭṭhānanti attano yathāphāsukaṃ vasitabbaṭṭhānaṃ. Āsati etthāti āsanaṃ, nisīditabbaṭṭhānāni.

市場そのものが取引の口となるものとして「千の市場の口」と言ったのである。「区画された」とは、定められて互いに混ざり合っていない。「居住処」とは、自らが心地よく住むべき場所である。ここに坐るがゆえに「坐処」であり、坐るべき場所である。

Asāruppaṃ paṭicca uppajjanakassa chādanato channaṃ anucchavikaṃ, tadeva ajjhāsayasampattiṃ patirūpeti pakāsetīti patirūpaṃ. Tenāha **‘‘nappatirūpa’’**nti. Kāraṇavevacanānīti ñāpakakāraṇavevacanāni. Ñāpakañhi kāraṇaṃ adhippetaṃ. Atthaṃ ākaroti pakāsetīti ākāro, tameva līnaṃ guḷhaṃ atthaṃ gametīti liṅgaṃ, so tena nimīyatīti nimittanti vuccati. Idāni tamevatthaṃ vivarituṃ **‘‘dīghadasavattha…pe… nimittāti vuttā’’**ti āha. Teti ākārādayo. Tathā hi pana metiādinā potaliyo gahapati ‘‘paribbājakaniyāmena ahaṃ jīvāmi, tasmā gahapati na homīti vadati. Ovadantoti anusāsanto. Upavadantoti paribhāsanto.

不相応に起因して生じるものを覆い隠すがゆえに「覆い」、相応しく、それこそが意図の成就を模倣し表すため「相応」である。それゆえに「不相応」と言ったのである。「原因の同義語」とは、知らせる原因の同義語である。知らせる原因こそが意図されているからである。意味をなし、表すから「様相(アーカーラ)」であり、その隠された秘密の意味を知らせるから「特徴(リンガ)」であり、それによって識別されるから「標識(ニミッタ)」と呼ばれる。今、まさにその意味を明かすために「長い縁取りの布……(中略)……標識と説かれた」と言ったのである。それらとは、様相などである。「実に私には」などによって、ポータリヤ居士は「遍歴行者のあり方によって私は生きており、それゆえに居士ではない」と言う。「訓戒する」とは、教誡することである。「非難する」とは、責め咎めることである。

32. Gedhabhūto lobhoti gijjhanasabhāvo lobho. Agijjhanalakkhaṇo na lobho, anindābhūtaṃ aghaṭṭananti nindāya paṭipakkhabhūtaṃ paresaṃ aghaṭṭanaṃ. Nindāghaṭṭanāti nindāvasena paresaṃ ghaṭṭanā akkosanā. Byavahāravohāropīti kayavikkayalakkhaṇo sabyohāropi dānaggahaṇaṃ vohāro. ‘‘Datto tisso’’ tiādinā voharaṇaṃ paññāpananti paññatti vohāro. Yathādhippetassa atthassa voharaṇaṃ kathanaṃ bodhananti vacanaṃ vohāro. Yāthāvato ayāthāvato ca voharati etenāti vohāro, cetanā. Ayamidhādhippetoti ayaṃ cetanālakkhaṇo vohāro idha imasmiṃ atthe adhippeto, so ca kho sāvajjova samucchedassa icchitattā. Idāni catubbidhassapi vohārassa idha sambhavaṃ dassetuṃ **‘‘yasmā vā’’**tiādi vuttaṃ. Gihīti cetanā natthīti ahaṃ gihīti cetanāpavatti natthi. Gihīti vacanaṃ natthīti gihīti attano paresañca vacanappavatti natthi. Gihīti paṇṇatti natthīti gihīti samaññā natthi. Gihīti byavahāro natthīti samudācāro natthi.

32.「貪婪となった貪欲」とは、執着する性質の貪欲である。執着しない特徴が無貪であり、「非難とならない非衝突」とは、非難の反対となる他者への非衝突である。「非難の衝突」とは、非難による他者への衝突、罵倒である。「商取引の世間的実践」とは、売買を特徴とする取引、授受の世間的実践である。「ダッタ、ティッサ」などと呼び名をつけることが「施設(概念)の世間的実践」である。意図された意味を語り、話し、知らせることが「言語の世間的実践」である。如実に、あるいは如実でなくこれによって語るがゆえに「世間的実践(ヴォーハーラ)」、すなわち「思(意志)」である。「これがここで意図されている」とは、この思を特徴とする世間的実践が、ここでの意味において意図されており、そしてそれは断絶が望まれているがゆえに過失を伴うものだけである。今、四種の世間的実践のここでの存在を示すために「あるいは……ゆえに」などと説かれた。「在家であるという思がない」とは、私は在家であるという思の生起がないことである。「在家であるという言葉がない」とは、在家であるという自他の言語の生起がないことである。「在家であるという施設がない」とは、在家であるという名称がないことである。「在家であるという世間的実践がない」とは、そのような振る舞いがないことである。

33. Pāṇātipātova saṃyojanaṃ. Kasmā? Bandhanabhāvena pavattanato nissarituṃ appadānato. Pāṇātipātassa atthitāya so puggalo ‘‘pāṇātipātī’’ti vuccatīti āha – **‘‘pāṇātipātassa…pe… hotī’’**ti. Yañhi yassa atthi, tena so apadissatīti. Bahutāyāti acakkhukādibhedena bahubhāvato. Pāṇātipātassa paṭipakkho apāṇātipāto. So pana atthato kāyadvāriko sīlasaṃvaroti āha **‘‘kāyikasīlasaṃvarenā’’**ti. Attāpi maṃ upavadeyyātiādi pāṇātipāte ādīnavadassanaṃ. Ādīnavadassino hi tato oramaṇaṃ. Desanāvasenāti aññattha sutte abhidhamme ca dasasu saṃyojanesu pañcasu nīvaraṇesu desanāvasena apariyāpannampi saṃyojanantipi nīvaraṇantipi idha vuttaṃ. Kasmā? Tadatthasambhavato. Tenāha – **‘‘vaṭṭabandhanaṭṭhena hitappaṭicchādanaṭṭhena cā’’**ti, pāṇātipāto hi apāṇātipātapaccayaṃ hitaṃ paṭicchādentova uppajjatīti. Eko avijjāsavoti idaṃ sahajātavasena vuttaṃ, upanissayavasena pana itaresampi āsavānaṃ yathārahaṃ sambhavo veditabbo. Pāṇātipātī hi puggalo ‘‘tappaccayaṃ atthaṃ karissāmī’’ti kāme pattheti. Diṭṭhiṃ gaṇhāti, bhavavisesaṃ paccāsīsati. Tattha uppannaṃ vihanati bādhatīti vighāto, dukkhaṃ, pariḷāhanaṃ anatthuppādavasena upatāpanaṃ pariḷāho, ayametesaṃ viseso. Sabbatthāti sabbesu vāresu. Iminā upāyenāti atidesena pana pariggahito attho parato āgamissatīti.

33. 殺生そのものが結び目(結)である。なぜなら、束縛となって機能し、脱出させないからである。殺生があることによってその人は「殺生者」と呼ばれるとして、「殺生が……(中略)……ある」と言ったのである。実に何かが誰かにあるとき、それによってその人は指し示されるからである。「多数であることによって」とは、無眼のものなどの区別によって多数であることからである。殺生の反対が無殺生である。しかしそれは意味の上では身体の扉における戒の抑制であるとして、「身体の戒の抑制によって」と言ったのである。「自らも私を責めるであろう」などは、殺生における過患の観察である。過患を見る者はそこから離れるからである。「説示によって」とは、他の経や阿毘達磨において十の結や五の蓋の中における説示としては含まれていないものも、結とも蓋ともここで説かれたということである。なぜなら、その意味が成り立つからである。それゆえに「輪廻の束縛という意味によって、また利益を覆い隠すという意味によって」と言ったのであり、実に殺生は不殺生を条件とする利益を覆い隠しながら生じるからである。「一つの無明の漏」とは、倶生に基づいて説かれたのであり、依止の力によっては他の漏もまた相応に生起しうると知るべきである。実に殺生を行う人は「それを条件として利益を得よう」と諸欲を希求する。見解を抱き、生存の差異を期待する。そこにおいて生じたものが損ない、苦しめるから「悩乱」すなわち苦であり、不利益の発生による熱苦が「熱悩」であり、これがこれらの差異である。「すべての箇所において」とは、すべての節において。「この方法によって」とは、類推によって把握された意味が後に現れるということである。

34-40. Imasmiṃ padeti etena sattasupi vāresu tathā āgataṃ padaṃ sāmaññato gahitaṃ. Tenāha **‘‘iminā’’**tiādi. Rosanaṃ kāyikaṃ vācasikañcāti tappaṭipakkho arosopi tathā duvidhoti āha **‘‘kāyikavācasikasaṃvarenā’’**ti. Yathā abhijjhā lobho, anabhijjhā alobho, evaṃ akodhūpāyāso abyāpādo, saṃvare sukhanti saṃvaroti daṭṭhabbo, anatilobho pana satisaṃvare, anatimāno ñāṇasaṃvare saṅgahaṃ gacchatīti daṭṭhabbaṃ. Imesu pana padesu evaṃ sabbavāresu yojanā kātabbāti sambandho.

34-40.「この句において」とは、これによって七つの節においても同様に説かれた句を通称として把握したのである。それゆえに「これによって」などと言ったのである。害意には身体的なものと言語的なものがあるため、その反対である無害意もまた同様に二種であるとして、「身体的・言語的な抑制によって」と言ったのである。貪欲がないことが無貪であり、同様に怒りと苦悩がないことが無瞋であり、「抑制における楽」とは抑制であると見なされるべきであり、過度の貪欲がないことは念の抑制に、過度の慢がないことは智の抑制に包含されると見なされるべきである。これらの句において、このようにすべての節において結合がなされるべきであるという連関である。

Evaṃ āsavuppatti veditabbāti ettha vuttassapi ekajjhaṃ vuccamānattā **‘‘puna ayaṃ saṅkhepavinicchayo’’**ti vuttaṃ. Asammohatthaṃ ārammaṇassa. Purimesu tāva catūsu vāresu viramituṃ na sakkomīti vattabbaṃ. ‘‘Attāpi maṃ upavadeyyā’’ti etassa padassa atthavaṇṇanāyaṃ **‘‘na sakkomī’’**ti, ‘‘anuvijjāpi maṃ viññū garaheyyu’’nti etassa padassa atthavaṇṇanāyaṃ ‘‘na sakkotī’’ti vattabbaṃ, iminā nayena pacchimesupi catūsu yathārahaṃ yojanā veditabbā. Atimāne bhavāsavaavijjāsavāti vuttaṃ mānena saha diṭṭhiyā anuppajjanato, atimāno pana kāmarāgenapi uppajjatevāti ‘‘atimāne kāmāsavaavijjāsavā’’ti vattabbaṃ siyā, svāyaṃ nayo vuttanayattā suviññeyyoti na dassito. Pātimokkhasaṃvarasīlaṃ kathitaṃ ādito catūhi chaṭṭhena vāti pañcahi vārehi, sesehi tīhi pātimokkhasaṃvarasīle ṭhitassa bhikkhuno paṭisaṅkhāpahānaṃ, sabbehipi pana bhikkhubhāve ṭhitassa gihivohārasamucchedo kathito. Tattha sabbattha vattaṃ ‘‘idañcidañca mayhaṃ kātuṃ nappatirūpa’’nti paṭisaṅkhānavasena akaraṇaṃ pajahanañca paṭisaṅkhāpahānaṃ.

「このように漏の生起を知るべきである」とは、ここで説かれたことも一括して説かれていることから「再びこの要約の決定」と説かれたのである。対象において無迷妄であるために。まず前の四つの節において「離れることができない」と語られるべきである。「自らも私を責めるであろう」というこの句の意味の注釈において「私はできない」と、「賢者たちも調べて私を非難するであろう」というこの句の意味の注釈において「できない」と語られるべきであり、この方法によって後の四つにおいても相応に結合が知られるべきである。過度の慢において有漏と無明漏が説かれたのは、慢とともに邪見は生じないからであるが、慢は欲愛によっても生じるため、「過度の慢において欲漏と無明漏」と語られるべきであろうが、この方法はすでに説かれた方法によって容易に理解できるため示されなかった。別解脱律儀戒は最初の四つ、あるいは六つによって、すなわち五つの節によって語られ、残りの三つによって別解脱律儀戒に留まる比丘の如理省察による捨断が、そしてすべてによって比丘の状態に留まる者の在家としての世間的実践の断絶が語られた。そこにおいてすべての作法において「これこれのことは私にとってなすのに相応しくない」と如理に省察することによって行わず捨てること、これが如理省察による捨断である。

Kāmādīnavakathāvaṇṇanā

諸欲の過患についての説示の注釈

42. Upasumbheyyāti ettha upa-saddo samīpattho, sumbhanaṃ vikkhepanaṃ. Teneva tamenanti bhummatthe upayogavacananti āha – **‘‘tassa samīpe khipeyyā’’**ti, tassa kukkurassa samīpe aṭṭhikaṅkalaṃ khipeyyāti attho. Nimmaṃsattā kaṅkalanti vuccatīti iminā vigatamaṃsāya aṭṭhikaṅkalikāya uraṭṭhimhi vā piṭṭhikaṇṭake vā sīsaṭṭhimhi vā kaṅkala-saddo niruḷhoti dasseti. Sunikkantanti nillikhitaṃ katvāva nibbisesaṃ likhitaṃ.

42.「投げ与えるであろう」において、upa という語は接近の意味であり、sumbhana とは投げ捨てることである。それゆえに「彼を」とは処格の意味における対格の語であるとして、「彼の近くに投げるであろう」と言ったのであり、その犬の近くに骨の骸を投げるであろうという意味である。肉がないことによって「骸(カンカラ)」と呼ばれるというこれによって、肉の失われた骨の骸において、胸骨において、背骨において、頭骨において「骸」という語が定着していることを示している。「すっかり削ぎ落とされた」とは、削り取られて完全に削られた。

Ekattupaṭṭhānassa ajjhupekkhanavasena pavattiyā ekattā. Tenāha **‘‘catutthajhānupekkhā’’**ti. Yasmā panassa ārammaṇampi ekasabhāvameva, tasmā āha **‘‘sā hī’’**tiādi. Lokāmisasaṅkhātāti apariññātavatthunā lokena āmasitabbato, loke vā āmisoti saṅkhaṃ gatāya vasena kāmaguṇānaṃ kāmabhāvo ca āmisabhāvo ca, so eva nippariyāyato āmisanti vattabbataṃ arahati. Kāmaguṇāmisāti kāmaguṇe chandarāgā. Gahaṇaṭṭhena bhusaṃ ādānaṭṭhena.

一境性の現前を捨置することによる機能によって「一境性」である。それゆえに「第四禅の捨」と言ったのである。しかしその対象もまた同一の性質のものであるため、「それは実に」などと言ったのである。「世間の愛着(アミサ)と呼ばれるもの」とは、把握されていない対象を持つ世間によって触れられるべきものであることから、あるいは世間において「アミサ」と呼ばれるものに基づいて、諸々の欲の属性の欲である状態とアミサである状態があり、それこそが無異門に「アミサ」と呼ばれるべきものに値する。「欲の属性のアミサ」とは、諸々の欲の属性に対する欲貪である。把握するという意味によって、強く執取するという意味によって。

43. Ḍayanaṃ ākāsena gamananti āha **‘‘uppatitvā gaccheyyā’’**ti. Gijjhādīnaṃ vāsipharasu na hotīti āha – **‘‘mukhatuṇḍakena ḍasantā taccheyyu’’**nti. Vissajjeyyunti ettha ‘‘vissajjana’’nti ākaḍḍhanaṃ adhippetaṃ anekatthattā dhātūnaṃ, ākaḍḍhanañca anubandhitvā pātananti āha **‘‘maṃsapesiṃ nakhehi kaḍḍhitvā pāteyyu’’**nti.

43. 飛翔とは虚空を行くことであるとして、「飛び立って行くだろう」と言ったのである。禿鷹などには手斧はないとして、「嘴で噛みつきながら削り取るだろう」と言ったのである。「落とすだろう」において、ここでは諸語根の多義性から「手放すこと」とは引っ張ることが意図されており、引っ張って追いかけて落とすことであるとして、「肉片を爪で引き裂いて落とすだろう」と言ったのである。

47. Purisassa ārohanayogyaṃ poriseyyaṃ.

47. 人が登るのに適したものが「人丈(ポーリセイヤ)」である。

48. Sampannaṃ sundaraṃ phalamassāti sampannaphalaṃ. Phalūpapannanti phalehi upetanti āha **‘‘bahuphala’’**nti.

48. 豊かで美しい果実を持つものが「果実の豊かな」である。「実をつけた」とは、果実を具えたことであるとして、「多くの果実を持つ」と言ったのである。

50. Suvidūravidūreti ariyassa vinaye vohārasamucchedato suṭṭhu vidūrabhūte eva vidūre ahaṃ ṭhito. Kassaci nāma atthassapi ajānanato na ājānantīti anājānīyāti kattusādhanamassa dassento ajānanaketi ajānantabhojanasīsena tesaṃ dātabbapaccaye vadati. Sesaṃ suviññeyyameva.

50.「極めて遠く離れたところに」とは、聖者の律における世間的実践の断絶から極めて遠く離れたまさに遠方に、私は立っていた。いかなる意味をも知らないことから「知らない」のであり、「知るべきでない」とはその能作の成就を示しつつ、「知らない者たちに」とは知る由もない食事を筆頭とする彼らに与えられるべき必需品を語っている。残りは容易に理解できるものばかりである。

Potaliyasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

布吒利野経の注釈の隠れたる意味の解明が完了した。

5. Jīvakasuttavaṇṇanā

五 耆婆経の注釈

51. Kumārena bhato posāpitoti kumārabhato, kumārabhato eva komārabhacco yathā ‘‘bhisakkameva bhesajja’’nti.

51. 王子によって養育され、養われたので「王子養育(クマーラバタ)」であり、「医師そのものが医薬である」というように、王子養育そのものが「童子養育(コマアラバッチャ)」である。

Ārabhantīti ettha ārabha-saddo kāmaṃ kāmāyūhanayaññuṭṭhāpanaāpattiāpajjanaviññāpanādīsupi āgato, idha pana hiṃsane icchitabboti āha – **‘‘ārabhantīti ghātentī’’**ti. Uddisitvā katanti (a. ni. ṭī. 3.8.12; sārattha. ṭī. mahāvagga 3.294) attānaṃ uddisitvā māraṇavasena kataṃ nibbattitaṃ. Paṭiccakammanti ettha kamma-saddo kammasādhano atītakālikoti āha – **‘‘attānaṃ paṭicca kata’’**nti. Nimittakammassetaṃ adhivacanaṃ ‘‘paṭicca kammaṃ phusatī’’tiādīsu (jā. 1.4.75) viya. Nimittakammassāti nimittabhāvena laddhabbakammassa, na karaṇakārāpanavasena. Paṭiccakammaṃ ettha atthīti maṃsaṃ paṭiccakammaṃ yathā ‘‘buddhaṃ etassa atthīti buddho’’ti. Tesanti nigaṇṭhānaṃ. Aññepi brāhmaṇādayo taṃladdhikā attheva.

「屠る」において、ここでの「屠る(アーラブハ)」という語は、確かに欲望の追求、祭祀の執行、罪の犯過、告知などにおいても用いられるが、ここでは殺害において望まれるべきであるとして、「『屠る』とは殺害することである」と言ったのである。「特定してなされた」とは、自らを特定して殺害することによってなされ、生み出された。「因果の業」において、ここでの業という語は過去の所作を成就するものとして「自らに起因してなされた」と言ったのである。これは「原因によって業に触れる」などのように、結果の業の同義語である。「結果の業の」とは、原因の状態によって得られるべき業のことであり、自らなすことや他者になさせることによるのではない。因果の業がここにあるから「肉は因果の業である」とは、「彼に覚りがあるから仏陀である」というようなものである。「彼らの」とは、ニガンタたちのことである。他のバラモンたちなどもそのような見解を持つ者として実に存在する。

Kāraṇanti ettha yutti adhippetā, sā eva ca dhammato anapetattā ‘‘dhammo’’ti vuttāti āha – **‘‘kāraṇaṃ nāma tikoṭiparisuddhamacchamaṃsaparibhogo’’**ti. Anukāraṇaṃ nāma mahājanassa tathā byākaraṇaṃ yuttiyā dhammassa anurūpabhāvato maṃsaṃ paribhuñjitabbanti anuññātaṃ tatheva kathananti katvā. Tanti ‘‘jānaṃ uddissakataṃ maṃsaṃ paribhuñjatī’’ti evaṃ vuttaṃ paribhuñjanaṃ neva kāraṇaṃ hoti sabbena sabbaṃ abhāvato sati ca ayuttiyaṃ adhammoti katvā. Tathā byākaraṇanti ‘‘jānaṃ uddissakataṃ maṃsaṃ paribhuñjatī’’ti kathanaṃ yuttiyā dhammassa ananurūpabhāvato na anukāraṇaṃ hoti. Parehi vuttakāraṇena sakāraṇo hutvāti pare titthiyā ‘jāna’ntiādinā dhammaṃ kathenti vadanti, tena kāraṇabhūtena sakāraṇo hutvā. Tehi tathā vattabbo eva hutvā tumhākaṃ vādo vā anuvādo vā ‘‘maṃsaṃ paribhuñjitabba’’nti pavattā tumhākaṃ kathā vā parato parehi tathā pavattitā tassā anukathā vā. Viññūhi garahitabbakāraṇanti titthiyā tāva tiṭṭhantu, tato aññehi paṇḍitehi garahitabbakāraṇaṃ. Koci na āgacchatīti garahitabbataṃ na āpajjatīti attho. Abhibhavitvā ācikkhantīti abhibhuyya madditvā kathenti, abhibhūtena akkosantīti attho.

「理由(カーラナ)」において、ここでは道理が意図されており、それこそが法から逸脱していないがゆえに「法」と説かれたとして、「理由とは三種清浄の魚肉の享受である」と言ったのである。「付随する理由」とは、多くの人々に対するその通りの解明であり、道理が法に相応していることから肉を享受すべきであると許可された、まさにその通りの言明であると見なす。「それを」とは、「知りながら特定してなされた肉を享受する」とこのように説かれた享受は、まったく存在しないがゆえに、また非道理であるときには非法であると見なして、決して理由ではない。「その通りの解明」とは、「知りながら特定してなされた肉を享受する」という言明は、道理が法に相応していないがゆえに付随する理由ではない。「他者によって語られた理由によって有理由となって」とは、他なる外道たちが「知りながら」などと法を語り、主張し、その理由となったものによって有理由となって。彼らによってそのように語られるべき者となって、あなた方の説、あるいは付随する説が、「肉を享受すべきである」と展開されたあなた方の教説、あるいは後に他者によってそのように展開されたその追従の教説が。「賢者たちによって非難されるべき理由」とは、外道たちはさておき、それ以外の賢者たちによって非難されるべき理由である。「誰も至らない」とは、非難されるべき状態に陥らないという意味である。「論破して語る」とは、論破し圧迫して語ることであり、論破された者として罵倒するという意味である。

52. Kāraṇehīti paribhogacittassa avisuddhatāhetūhi. Bhikkhū uddissakataṃ diṭṭhaṃ. Tādisamaṃsañhi paribhogānārahattā cittaavisuddhiyā kāraṇaṃ cittasaṃkilesāvahato. Idāni diṭṭhasutaparisaṅkitāni sarūpato dassetuṃ **‘‘diṭṭhādīsū’’**tiādi vuttaṃ. Tattha tadubhayavimuttaparisaṅkitanti ‘‘diṭṭhaṃ suta’’nti imaṃ ubhayaṃ anissāya – ‘‘kiṃ nu kho imaṃ bhikkhuṃ uddissa vadhitvā sampādita’’nti kevalameva parisaṅkitaṃ. Sabbasaṅgāhakoti sabbesaṃ tiṇṇaṃ parisaṅkitānaṃ saṅgaṇhanako.

52.「諸々の理由によって」とは、享受の心が不清浄となる原因によって。「比丘を特定してなされたのを見た」。そのような肉は享受に値しないがゆえに心の不清浄の原因となり、心の汚染をもたらすからである。今、見・聞・疑をそのものとして示すために「見などにおいて」などと説かれた。その中で「その両方を離れた疑い」とは、「見、聞」というこの両方に依らずに、「いったいこの比丘を特定して殺害して用意したのだろうか」と単に疑うことである。「すべてを包摂するもの」とは、三つの疑いのすべてを包摂するものである。

Maṅgalādīnanti ādi-saddena āhunapāhunādikaṃ saṅgaṇhāti. Nibbematikā hontīti sabbena sabbaṃ parisaṅkitābhāvamāha. Itaresanti ajānantānaṃ vaṭṭati, jānato evettha āpatti hoti. Teyevāti ye uddissa kataṃ, teyeva.

「吉兆など」の「など」という語によって、供養や歓待などを包含する。「無疑となる」とは、まったく疑いがないことを述べている。「他の者たちには」とは、知らない者たちには適うのであり、知っている者にのみここに罪が生じる。「彼らまさにその者たち」とは、特定してなされたまさにその者たちである。

Uddissakatamaṃsaparibhogato akappiyamaṃsaparibhogassa visesaṃ dassetuṃ **‘‘akappiyamaṃsaṃ panā’’**tiādi vuttaṃ. Purimasmiṃ sacittakā āpatti, itarasmiṃ acittakā. Tenāha – **‘‘akappiyamaṃsaṃ ajānitvā bhuttassapi āpattiyevā’’**ti. Paribhoganti paribhuñjitabbanti vadāmīti attho.

特定してなされた肉の享受と、不適格な肉の享受との差異を示すために「不適格な肉はしかし」などと説かれた。前者においては有心の罪であり、後者においては無心の罪である。それゆえに「不適格な肉を知らずに食べた者にも罪がある」と言ったのである。「享受」とは、享受すべきであると私は言う、という意味である。

53. Tādisassāti tikoṭiparisuddhassa macchamaṃsassa paribhoge. Mettāvihārinopīti api-saddena amettāvihārinopi. Mettāvihārino paribhoge sikhāppattā anavajjatāti dassetuṃ **‘‘idha, jīvaka, bhikkhū’’**tiādi vuttaṃ. Aniyametvāti avisesetvā sāmaññato. Yasmā bhagavatā – ‘‘yato kho, vaccha, bhikkhuno taṇhā pahīnā hotī’’tiādinā mahāvacchagottasutte (ma. ni. 2.194) attā aniyametvā vutto. Tathā hi vacchagotto – ‘‘tiṭṭhatu bhavaṃ gotamo, atthi pana bhoto gotamassa ekabhikkhupi sāvako āsavānaṃ khayā…pe… upasampajja viharatī’’ti āha, ‘‘idha, bhāradvāja, bhikkhu aññataraṃ gāmaṃ vā nigamaṃ vā upanissāya viharatī’’tiādinā caṅkīsutte (ma. ni. 2.430) attā aniyametvā vutto. Tathā hi tattha parato – ‘‘yaṃ kho pana ayamāyasmā dhammaṃ deseti, gambhīro so dhammo duddaso duranubodho santo paṇīto atakkāvacaro nipuṇo paṇḍitavedanīyo, na so dhammo sudesanīyo luddenā’’tiādinā desanā āgatā, tasmā vuttaṃ **‘‘bhagavatā hi mahāvacchagottasutte, caṅkīsutte imasmiṃ sutteti tīsu ṭhānesu attānaṃyeva sandhāya desanā katā’’**ti. Maṃsūpasecanova adhippeto macchamaṃsasahitassa āhārassa paribhogabhāvato macchamaṃsassa ca idha adhippetattā.

53.「そのような者の」とは、三種清浄の魚肉の享受において。「慈に住する者にも」の「も」という語によって、慈に住しない者にも。慈に住する者の享受において無過失性が頂点に達していることを示すために「ここに、ジーヴァカよ、比丘は」などと説かれた。「限定せずに」とは、区別せずに一般的に。世尊によって「ヴァッチャよ、比丘において愛着が捨てられたとき」などと大ヴァッチャゴッタ経(中部二・一九四)において自らを限定せずに説かれたからである。実にヴァッチャゴッタは「尊者ゴータマはさておき、尊者ゴータマの弟子に、一人でも漏尽によって……(中略)……具足して住する比丘はいるのか」と言い、「ここに、バーラドヴァージャよ、比丘はある村や町に依拠して住している」などとチャンキー経(中部二・四三〇)において自らを限定せずに説かれた。実にそこにおいて後に「この尊者が説く法は、深遠で、見がたく、覚り難く、静寂で、勝れ、思惟の領域を超え、微妙で、賢者によって知られるべきものであり、その法は貪欲な者によって正しく説かれうるものではない」などと説法がなされているからであり、それゆえに「世尊は実に大ヴァッチャゴッタ経、チャンキー経、この経という三箇所において、自らをまさに指し示して説法をなされた」と説かれたのである。魚肉を伴う食物の享受であることから、また魚肉がここで意図されていることから、「肉の副食物」のみが意図されている。

Agathito appaṭibaddho. Taṇhāmucchanāyāti taṇhāyanavasena mucchāpattiyā. Anajjhopanno taṇhāya abhibhavitvā na ajjhotthaṭo, gilitvā pariniṭṭhapetvā na saṇṭhitoti attho. Tenāha – **‘‘sabbaṃ ālumpitvā’’**tiādi. Idha ādīnavo āhārassa paṭikūlabhāvoti āha **‘‘ekarattivāsenā’’**tiādi. Ayamattho āhāraparibhogoti atthasaṃyojanaparicchedikā ‘‘yāvadeva imassa kāyassa ṭhitiyā’’tiādinā (dī. ni. 3.182; ma. ni. 1.23; 2.24; 3.75; saṃ. ni. 4.120) pavattā āhārapaṭibaddhachandarāganissaraṇabhūtā paññā assa atthīti nissaraṇapañño. Idamatthanti etamatthāya. Evaṃ santeti ‘‘brahmāti ca mettāvihārino samaññā’’ti avatvā ye dhammā mettāvihārassa paṭipakkhabhūtā, tattha sāvasesaṃ pahāsi brahmā, anavasesaṃ pahāsi bhagavāti sace te idaṃ sandhāya bhāsitaṃ, evaṃ sante tava idaṃ yathāvuttavacanaṃ anujānāmi, na mettāvihāritāsāmaññamattatoti attho.

「執着せず」とは、縛られておらず。「愛着の昏迷によって」とは、愛着をなすことによる昏迷への陥没によって。「陥ることなく」とは、愛着によって圧倒されて覆われることなく、飲み込んで終えてしまって定着していないという意味である。それゆえに「すべてを一口にして」などと言ったのである。ここでの過患とは食物の不浄性であるとして、「一晩留まることによって」などと言ったのである。この意味は食物の享受であるという、意味の結合を区切る「ただこの身体の維持のために」などによって(長部三・一八二、中部一・二三、二・二四、三・七五、相応部四・一二〇)展開された、食物にまつわる欲貪からの出離となる智慧を彼が持っているがゆえに「出離の智ある者」である。「この意味のために」とは、この目的のために。「そうであるならば」とは、「梵天とは慈に住する者の呼称である」と語らずに、慈の住の反対となる諸法を、そこにおいて梵天は有余に捨て、世尊は無余に捨てたのであり、もしあなたがこれを指し示して語ったのであれば、そうであるならばあなたのこの説かれた言葉を私は認めよう、単なる慈に住することの共通性のみによるのではない、という意味である。

55. ‘‘Pāṭiyekko **anusandhī’’**ti vatvā visuṃ anusandhibhāvaṃ dassetuṃ **‘‘imasmiṃ hī’’**tiādi vuttaṃ. Dvāraṃ thaketīti macchamaṃsaparibhogānuññāya aññesaṃ vacanadvāraṃ pidahati, codanāpathaṃ nirundhati. Kathaṃ sattānuddayaṃ dasseti? Sattānuddayamukhena bāhirakānaṃ macchamaṃsaparibhogapaṭikkhepo tayidaṃ micchā, tikoṭiparisuddhasseva macchamaṃsassa paribhogo bhagavatā anuññāto. Tathā hi vuttaṃ – ‘tīhi kho ahaṃ, jīvaka, ṭhānehi maṃsaṃ paribhoganti vadāmī’tiādi (ma. ni. 2.52). Vinayepi (pārā. 409; cūḷava. 343) vuttaṃ – ‘‘tikoṭiparisuddhaṃ, devadatta, macchamaṃsaṃ mayā anuññāta’’nti. Tikoṭiparisuddhañca bhuñjantānaṃ sattesu anuddayā niccalā. **‘‘Sattānuddayaṃ dassetī’’**ti saṅkhepato vuttamatthaṃ vivaranto **‘‘sace hī’’**tiādimāha.

55.「格別の結び」と述べて、別個の結びであることを示すために「このことにおいて実に」などと説かれた。「門を閉ざす」とは、魚肉の享受の許可によって他者の言葉の門を閉ざし、非難の道を遮断する。どのように生き物への憐れみを示すのか。生き物への憐れみを理由として、外道たちが魚肉の享受を拒絶すること、これは誤りであり、三種清浄の魚肉の享受のみが世尊によって許可されたのである。実に「ジーヴァカよ、私は三つの事柄によって肉を享受すべきものと言う」などと説かれている(中部二・五二)。律においても「デーヴァダッタよ、三種清浄の魚肉を私は許可した」(波羅提木叉四〇九、小品三四三)と説かれている。そして三種清浄のものを食べる者たちにおいて、生き物への憐れみは揺るぎない。「生き物への憐れみを示す」と要約して説かれた意味を解明しつつ「もし実に」などと言ったのである。

Paṭhamena kāraṇenāti desanāvasenapi payogavasenapi paṭhamena parūpaghātahetunā. Kaḍḍhito so pāṇo. Galena pavedhentenāti yottagalena karaṇena asayhamānena. Bahupuññameva hoti āsādanāpekkhāya abhāvato, hitajjhāsayattā vāti adhippāyo. Esāhaṃ, bhantetiādi kasmā vuttaṃ, saraṇagamanavaseneva gahitasaraṇoti codanaṃ sandhāyāha **‘‘aya’’**ntiādi. Ogāhantotiādito paṭṭhāya yāva pariyosānā suttaṃ anussaranto atthaṃ upadhārento. Sesaṃ suviññeyyameva.

「第一の理由によって」とは、説示の力によっても行為の力によっても、他者を害する第一の原因によって。「引き立てられたその生き物」。「首を震わせながら」とは、縄の首輪という道具によって耐えがたい状態で。「多大な功徳だけがある」とは、損なう期待がないことから、あるいは利益の意図があるからである、という意味である。「尊者よ、この私は」などがなぜ説かれたのか、三帰依文によってすでに帰依を受持した者であるのに、という非難を指し示して「これ」などと言ったのである。「沈潜しながら」とは、最初から終わりまで経を随念し、意味を思索しながら。残りは容易に理解できるものばかりである。

Jīvakasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

耆婆経の注釈の隠れたる意味の解明が完了した。

6. Upālisuttavaṇṇanā

六 優波離経の注釈

56. Pāvāraṃ pārupatīti pāvāriko, idaṃ tassa kulasamudāgataṃ nāmaṃ, so pana mahaddhano mahābhogo nagare seṭṭhiṭṭhāne ṭhito. Tenāha **‘‘dussapāvārikaseṭṭhino’’**ti. Dīghattā dīghatamattā. So kira pamāṇato upavacchayato diyaḍḍharatanaṃ atikkamma ṭhito. Evaṃladdhanāmoti ‘‘dīghatapassī’’ti laddhasamañño. Bāhirāyataneti titthiyasamaye piṇḍapātoti vohāro natthi, tasmā sāsanavohārena **‘‘piṇḍapātappaṭikkanto’’**ti vuttanti adhippāyo.

56. 上着を羽織るから「上着人(パーヴァーリカ)」であり、これは彼の家系に由来する名であるが、彼は大財・大富豪で都市において富豪の地位にあった。それゆえに「上着商人である富豪の」と言ったのである。背が高いことから、極めて苦行に励むことから。彼は身の丈において、肘から指先までの長さが一肘半を超えていたという。「このように名を得た者」とは、「長苦行者(ディーガタパッシー)」と名称を得た者。「外部の領域において」とは、外道の教義においては「托鉢」という世間的表現はないため、仏教の表現によって「托鉢から帰還した」と説かれたのであるという意味である。

Dassetīti deseti. Ṭhapetīti aññamaññasaṅkarato vavatthapeti. Kiriyāyāti karaṇena. Pavattiyāti pavattanena. Daṇḍāni paññapetīti ettha kasmā bhagavatā āditova tathā na pucchitanti? Yasmā sā tasmiṃ atthe sabhāvanirutti na hoti, sāsane loke samayantaresu ca tādiso samudācāro natthi, kevalaṃ pana tasseva nigaṇṭhassāyaṃ koṭṭhālakasadiso samudācāroti imamatthaṃ dassetuṃ ‘‘kammāni paññapeti’’ iccevāha. Acittakanti cittarahitaṃ, cittena asamuṭṭhāpitanti attho. Kathaṃ pana tadubhayassa cittena vinā sambhavoti codanaṃ sandhāya tattha nidassanamāha **‘‘yathā kirā’’**tiādi. Paṭivibhattānanti atthato bhinnānaṃ. Paṭivisiṭṭhānanti visesanapadavasena saddatopi bhinnānaṃ. Vacanaṃ patiṭṭhapetukāmoti dīghatapassino yathāvuttavacanaṃ patiṭṭhapetukāmo. Tasmiñhi patiṭṭhāpite tenappasaṅgena āgato, upāli gahapati tasmiṃ padese dhammaṃ disvā sāsane abhippasīdissati.

「示す」とは、説く。「置く」とは、相互の混同から区別して定める。「行為によって」とは、なすことによって。「機能によって」とは、機能させることによって。「罰を制定する」において、なぜ世尊は最初からそのように尋ねられなかったのか。なぜならそれはその意味において本来の語義ではなく、仏教において、世間において、他の教義においてそのような慣習はなく、ただそのニガンタだけの無知に似た慣習であるというこの意味を示すために、「業を制定する」とまさに言われたのである。「無心の」とは、心を欠いた、心によって惹起されていないという意味である。では、その両方が心なしにどのように生じうるのかという非難を指し示して、そこにおける実例を「実に……のように」などと言ったのである。「区別されたものの」とは、意味において異なっているものの。「卓越したものの」とは、修飾句によって言葉の上でも異なっているものの。「言葉を確立させたいと望む者」とは、長苦行者の説かれた通りの言葉を確立させたいと望む者。実にそれが確立されたとき、その機会によってやって来た優波離居士がその場所で法を見て、教えにおいて深く信順するであろう。

Kathā eva upari vādāropanassa vatthubhāvato kathāvatthu. Kathāyaṃ patiṭṭhapesīti kathāvatthusmiṃ, tadatthe vā patiṭṭhapesi. Yathā taṃ vādāropanabhayena na avajānāti, evaṃ tassaṃ kathāyaṃ, tasmiṃ vā atthe dīghatapassiṃ yāvatatiyaṃ vāde patiṭṭhapesi. Vādanti dosaṃ.

議論そのものがその後の教義の論駁の基礎となるがゆえに「議論の基礎(論事)」である。「議論において確立させた」とは、議論の基礎において、あるいはその意味において確立させた。彼が論駁の恐れによって否認しないように、そのようにその議論において、あるいはその意味において長苦行者を三度まで教説において確立させた。「論」とは過失のことである。

57. Idāni cetanāsampayuttadhammampi gahetvā kāyakammādivasena saṅgahetvā dassetuṃ **‘‘apicā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha tividhaṃ kāyaduccaritaṃ kāyakammaṃ nāmātiādi ‘‘kammassa kiriyāyā’’ti pāḷiyaṃ akusalakammassa adhigatattā vuttaṃ, pubbe pana aṭṭhakāmāvacarakusalacetanātiādi sāvajjaṃ anavajjañca sāmaññato ekajjhaṃ katvā dassitaṃ. Kasmā panettha cetanā na gahitāti āha **‘‘imasmiṃ sutte kammaṃ dhura’’**nti. Kāyakammādibhedaṃ kammameva dhuraṃ jeṭṭhakaṃ pubbaṅgamaṃ, na cetanāmattameva. Evamāgatepīti kammānīti evaṃ nāmena āgatepi cetanā dhuraṃ, tattha cetanaṃ jeṭṭhakaṃ pubbaṅgamaṃ katvā vuttanti adhippāyo. Kathaṃ pana tattha kammanti vā kammānīti vā āgate tesaṃ cetanāya dhurabhāvoti āha **‘‘yattha katthaci…pe… labhatī’’**ti. Tattha yattha katthacīti yasmiṃ kismiñci dvāre. Sā vuttāvāti sā cetanā vuttāva, yā kāyasaṅkhārādipariyāyena (yassa kassaci kammassa kāyadvārādīsu pavattāpanacetanā) sampayuttadhammāpi tadaggena lokiyāpi lokuttarāpi kammameva, abhijjhādayo pana cetanāpakkhikāti daṭṭhabbaṃ.

57. 今、思相応の法をも把握して、身業などによって総括して示すために「さらにまた」などと説かれた。その中で「三種の身体の悪行を身業と呼ぶ」などは、聖典において「業の行為によって」と不善業が得られていることから説かれたのであり、以前は八つの欲界善の思などを、有過失と無過失を一括して一般的に示した。なぜここでは思が把握されなかったのかといえば、「この経においては業が主導である」と言ったのである。身業などの区別のある業そのものが主導であり、筆頭であり、先駆者であって、単なる思だけではない。「このように説かれたとしても」とは、「業」とこのような名によって説かれたとしても思が主導であり、そこにおいて思を筆頭とし先駆者として説かれたのである、という意味である。ではどのようにしてそこにおいて「業」と、あるいは「諸業」と説かれたときに、それらの思の主導性があるのかといえば、「任意の……において得られる」と言ったのである。そこにおいて「任意のにおいて」とは、いずれかの扉において。その思が説かれたのであり、身体の働きなどの異門によって(任意の業の、身門などにおいて機能させる思)相応する法もまた、その頂点によって世間的なものも出世間的なものも業そのものであり、貪欲などは思の側にあるものと見なされるべきである。

Mahantanti kaṭukaphalaṃ. Na kilamati sappāṭihāriyattā paṭiññāya. Idāni tesaṃ sappāṭihāriyataṃ dassetuṃ **‘‘tathā hī’’**tiādi vuttaṃ. Yadi akusalaṃ patvā kāyakammaṃ vacīkammaṃ mahantanti vadanto na kilamati, atha kasmā bhagavā idha akusalaṃ manokammaṃ mahāsāvajjaṃ kathesīti āha **‘‘imasmiṃ pana ṭhāne’’**tiādi. Yāvatatiyaṃ patiṭṭhāpanamattena gatamaggaṃ paṭipajjanto. Tenāha **‘‘kiñci atthanipphattiṃ apassantopī’’**ti.

「大いなるもの」とは、厳しい果報をもたらすもの。教説に確証があるがゆえに疲労しない。今、彼らの教説の確証を示すために「実にそのように」などと説かれた。もし不善に関して身業・口業を大いなるものと語りながら疲労しないのであれば、それならなぜ世尊はここで不善の意業を大過失あるものとして語られたのかといえば、「しかしこの箇所において」などと言ったのである。三度まで確立させたことだけで、進んだ道を行きながら。それゆえに「いかなる意味の成就を見ずとも」と言ったのである。

58. Nivāsaṭṭhānabhūto bālako etissā atthīti bālakinī. Satthupaṭiññātatāya nigaṇṭhānaṃ mahāti sambhāvitattā mahānigaṇṭho.

58. 居住処となる小屋が彼女にあるので「小屋のある女(バーラキニー)」である。師であると言明されていることによって、ニガンタたちにとって大いなる者と尊敬されているがゆえに「大ニガンタ」である。

60. Āvaṭṭeti purimākārato nivatteti attano vase vatteti etāyāti āvaṭṭanī, māyā. Tenāha **‘‘āvaṭṭetvā gahaṇamāya’’**nti. Satthupaṭiññānaṃ buddhadassane cittameva na uppajjati, ayamettha dhammatā. Sace pana so taṃ paṭiññaṃ appahāya buddhānaṃ sammukhībhāvaṃ upagaccheyya, sattadhā muddhā phaleyya, tasmā bhagavā ‘‘mā ayaṃ bālo vinassī’’tiāditova yathā sammukhībhāvaṃ na labhati, tathā karoti. Svāyamattho pāthikaputtasamāgamena dīpetabbo. Dassanasampattiniyāmamāha **‘‘tathāgataṃ hī’’**tiādi. Āgamā nu kho idha tumhākaṃ santikaṃ.

60.「転換させる」とは、以前のあり方から戻らせ、自らの支配のもとに機能させる、これによって「転換させるもの(幻術)」である。それゆえに「転換させて捕らえる幻術」と言ったのである。師であると言明する者たちには、仏陀を見る心そのものが生じない、これがここでの法則である。しかしもし彼がその言明を捨てずに諸仏の前に進み出るならば、頭が七つに裂けるであろう。それゆえに世尊は「この愚者が滅びないように」と最初から対面を得られないようにされる。そのこの意味は波致迦子との出会いによって明らかにされるべきである。謁見の成就の法則を「実に如来を」などと言ったのである。「ここにお前たちのところにやって来たのか」。

61. Vacīsacce patiṭṭhahitvāti yathāpaṭiññātāya paṭiññāya ṭhatvā.

61.「言明の真実に立脚して」とは、誓約された通りの言明に留まって。

62. Sītodake amatā pāṇā pānakāle pana maranti, tepi tena sītodakaparibhogena māritā honti, tasmā tapassinā nāma sabbena sabbaṃ sītodakaṃ na paribhuñjitabbanti tesaṃ laddhi. Pākatikaṃ vā udakaṃ sattoti purātanānaṃ nigaṇṭhānaṃ laddhi. Tenāha **‘‘sattasaññāya sītodakaṃ paṭikkhipantī’’**ti. Tesaṃ taṃ adhunātananigaṇṭhānaṃ vādena virujjhati. Te hi pathavīādinavapadatthato aññameva jīvitaṃ paṭijānanti. Cittena sītodakaṃ pātukāmo paribhuñjitukāmo hoti roge ṭhatvāpi sattānaṃ cittassa tathā na vitatatā. Tenāha – **‘‘tenassa manodaṇḍo tattheva bhijjatī’’**ti. Tenāti sītodakaṃ pātuṃ paribhuñjituñca icchanena. Assāti yathāvuttassa nigaṇṭhassa. Tatthevāti tathācittuppādane eva. Bhijjati saṃvarassa vikopitattā. Tathābhūto so nigaṇṭho sītodakaṃ ce labheyya, katipayaṃ kālaṃ jīveyya, alābhena pana parisussamānakaṇṭhoṭṭhatālujivhāādiko sabbaso paridāhābhibhūto mareyya. Tenāha – **‘‘sītodakaṃ alabhamāno kālaṃ kareyyā’’**ti. Kasmā? Yasmā sītodakaṃ pivāya sannissitacittassa maraṇaṃ hoti, tasmā vuttaṃ **‘‘manodaṇḍo pana bhinnopi cutimpi ākaḍḍhatī’’**ti. Yasmā pana tathābhūtacittassa nigaṇṭhassa manosattesu nāma devesu upapatti hotīti titthiyānaṃ laddhi, tasmā vuttaṃ **‘‘manodaṇḍo pana bhinnopi paṭisandhimpi ākaḍḍhatī’’**ti. Itīti evaṃ ‘‘idhāssa nigaṇṭho’’tiādiākārena. Nanti upāliṃ gahapatiṃ. Mahantoti vadāpesi ‘‘manopaṭibaddho kālaṅkarotī’’ti vadantoti adhippāyo.

62. 冷水の中で死んでいない生き物が、飲むときに死ぬのであり、それらもその冷水の享受によって殺されたことになるため、苦行者はまったく冷水を享受してはならない、というのが彼らの教義である。あるいは自然の水が生き物である、というのが昔のニガンタたちの教義である。それゆえに「生き物であるという認識によって冷水を拒絶する」と言ったのである。彼らのそれは、現代のニガンタたちの説と矛盾する。彼らは地などの九つの句の意味とは異なる生命を認めるからである。病に伏していても生き物の心はそのように広がっていないため、心によって冷水を飲みたい、享受したいと欲する。それゆえに「それによって彼の意罰はまさにその場で破綻する」と言ったのである。「それによって」とは、冷水を飲み享受したいと欲することによって。「彼の」とは、前述のニガンタの。「まさにその場で」とは、そのように心を起こしたまさにその瞬間に。「破綻する」とは、抑制が乱されたことによる。そのようになったそのニガンタがもし冷水を得たならば、数日は生きるであろうが、得られないことによって喉、唇、口蓋、舌などが干からび、完全に熱苦に圧倒されて死ぬであろう。それゆえに「冷水を得られずに命を終えるだろう」と言ったのである。なぜなら、冷水を飲むことに執着した心を持つ者の死となるからであり、それゆえに「しかし意罰は破綻しても死をも引き寄せる」と説かれたのである。そしてそのようになった心のニガンタは、意受生と呼ばれる神々に転生する、というのが外道たちの教義であるため、「しかし意罰は破綻しても結生をも引き寄せる」と説かれたのである。「このように」とは、このように「ここに彼のニガンタが」などの様相によって。「彼を」とは、優波離居士を。「大いなるもの」と言わせたとは、「心に執着した者が命を終える」と語りながら、という意味である。

Upāsakassāti upālissa gahapatissa. Mucchāvasenātiādinā anvayato byatirekato ca manodaṇḍassa mahantataṃ vibhāveti. Cittasantatippavattimattenevāti vinā kāyadaṇḍena vacīdaṇḍena ca kevalaṃ cittasantatippavattimattena. Bhijjitvāpīti ettha pi-saddena abhijjitvāpi. Aniyyānikāti appāṭihīrā, ayuttāti attho. Sallakkhesi upāsakoti vibhattiṃ vipariṇāmetvā yojanā. Pañhapaṭibhānānīti ñātuṃ icchite atthe uppajjanakapaṭibhānāni.

「優婆塞の」とは、優波離居士の。「昏迷によって」などによって、順次および逆次から意罰の大いなることを明らかにする。「心の連続の機能の単なる力によって」とは、身罰や口罰なしに、単なる心の連続の機能の力によって。「破綻しても」において、ここでの「も」という語によって、破綻しなくても。「救いのない」とは、確証のない、非道理であるという意味である。「優婆塞は観察した」とは、格を転換しての結合である。「問答の弁才」とは、知りたいと望む意味において生じる弁才である。

‘‘Manopaṭibaddho kālaṃ karotī’’ti vadantena atthato manodaṇḍassa taduttarabhāvo paṭiññāto hotīti āha **‘‘idāni manodaṇḍo mahantoti idaṃ vacana’’**nti. Tathā ceva vuttaṃ – ‘‘manodaṇḍova balavā mahantoti vadāpesī’’ti.

「心に執着した者が命を終える」と語ることによって、意味の上では意罰のそれへの優位性が認められたことになるとして、「今、意罰は大いなるものであるというこの言葉」と言ったのである。まさにそのように「意罰こそが強力であり、大いなるものであると言わせた」と説かれたのである。

63. Pāṇātipātādito yamanaṃ yāmo, catubbidho yāmo catuyāmo, catuyāmasaṅkhātena saṃvarena saṃvuto cātuyāmasaṃvarasaṃvuto. Aṭṭhakathāyaṃ pana yāma-saddo koṭṭhāsapariyāyoti **‘‘iminā catukoṭṭhāsenā’’**ti vuttaṃ. Piyajātikaṃ rūpādiārammaṇaṃ rāgavasena bālehi bhāvanīyattā ‘‘bhāvita’’nti vuccatīti āha **‘‘bhāvitanti pañca kāmaguṇā’’**ti.

63. 殺生などを抑制することが「制御(ヤーマ)」であり、四種の制御が「四制御(チャトゥヤーマ)」であり、四制御と呼ばれる抑制によって抑制されている者が「四重の抑制によって抑制された者」である。しかし注釈書においてはヤーマという語は部分の同義語であるとして、「この四つの部分によって」と説かれたのである。愛すべき色などの対象は、貪愛の力によって愚者たちによって修習されるべきものであることから「修習された」と呼ばれるとして、「修習されたとは五つの欲の属性である」と言ったのである。

Yo sabbaṃ pāpaṃ āsavañca vāretīti sabbavārī, tassa navasu padatthesu sattamo padattho, tena sabbavārinā pāpaṃ vāritvā ṭhitoti sabbavārivārito. Tenāha **‘‘sabbena pāpavāraṇena vāritapāpo’’**ti. Tato eva sabbassa vāritabbassa āsavassa dhunanato sabbavāridhuto. Vāritabbassa nivāraṇavasena sabbavārino phuṭo phusitoti sabbavāriphuṭo. Saṅghātanti sahasā hananaṃ, asañcetanikavadhanti attho. Katarasmiṃ koṭṭhāseti tīsu daṇḍakoṭṭhāsesu katarakoṭṭhāse.

すべての悪と漏を遮止するから「全遮止者」であり、九つの句の意味における第七の句の意味であり、その全遮止者によって悪を遮止して留まるから「すべての遮止によって遮止された者」である。それゆえに「すべての悪の遮止によって遮止された悪を持つ者」と言ったのである。まさにそれゆえに、遮止されるべきすべての漏を払い落とすことから「すべての遮止によって払い落とした者」である。遮止されるべきものの遮止によって、全遮止者に満たされ、触れられているから「すべての遮止によって満たされた者」である。「殺傷」とは、不意の殺害、無意志の殺害という意味である。「いずれの部分において」とは、三つの罰の部分においていずれの部分において。

64. Khaliyati samādiyatīti khalaṃ, rāsīti āha – **‘‘ekaṃ maṃsakhalanti ekaṃ maṃsarāsi’’**nti. Vijjādharaiddhiyā iddhimā. Sā pana iddhi yasmā ānubhāvasampannasseva ijjhati, na yassa kassaci. Tasmā āha **‘‘ānubhāvasampanno’’**ti. Vijjānubhāvavaseneva ānubhāvasampanno. Citte vasībhāvappatto ānubhāvāya eva vijjāya paguṇabhāvāpādanena. Etena vasībhāvaṃ lokiyasamaññāvasena bhagavā upāliṃ gahapatiṃ paññapetukāmo evamāha. Lokikā hi ‘‘bhāvanāmayaiddhiyā iddhimā cetovasībhāvappatto parūpaghātaṃ karotī’’ti maññanti. Tathā hi te isayo paresaṃ saṃvaṇṇenti, isīnaṃ ānubhāvaṃ kittenti. Yaṃ panettha vattabbaṃ, taṃ parato āgamissatīti.

64. 集められ、蓄えられるから「集積(カラ)」、堆積であるとして、「一つの肉の集積とは、一つの肉の堆積」と言ったのである。明呪を保持する神通によって「神通ある者」。しかしその神通は、威力ある者にのみ成就するのであり、誰にでも成就するのではない。それゆえに「威力を具えた者」と言ったのである。明呪の威力そのものによって威力を具えた者。威力を生じる明呪そのものに熟達した状態を得ることによって、「心において自在に達した」。これによって自在性を世間の呼称に基づいて世尊は優波離居士に知らせたいと望んでこのように言われたのである。実に世間の人々は「修習から生じる神通によって神通あり、心の自在に達した者が他者への加害をなす」と考えるからである。実に彼らは仙人たちを他者に賞賛し、仙人たちの威力を称える。ここで語られるべきことは、後に出てくるであろう。

65. Araññameva hutvāti sabbaso araññameva hutvā. Araññabhāvena araññaṃ jātaṃ, na nāmamattena. Isīnaṃ atthāyāti isīnaṃ āsādanatthāya.

65.「森林そのものとなって」とは、完全に森林そのものとなって。森林となったことによって森林が生じたのであり、単なる名においてではない。「仙人たちのために」とは、仙人たちを損なうために。

Godhāvarītīrato nātidūre. Usūyamānoti ‘‘na maṃ esa jano parivāretī’’ti usūyaṃ karonto. Kiliṭṭho vatāti paṅkadantarajasiratādīhi kiliṭṭhasarīro. Anañjitamaṇḍitoti anañjitakkhiko sabbena, sabbaṃ amaṇḍito ca. Tasmiṃ kāle ‘‘kālasseva akkhīnaṃ añjanaṃ maṅgala’’nti manussānaṃ laddhi, tasmā anañjanaṃ visuṃ gahitaṃ.

「ゴーダーヴァリー川の岸から遠くない場所に」。「妬んで」とは、「この人々は私を取り巻いてくれない」と嫉妬することである。「実に汚れた」とは、泥や歯の汚れ、頭髪の埃などによって身体が汚れていることである。「目薬を塗らず飾らない」とは、目に薬を塗らず、一切の飾りをしていないことである。その当時、「朝早くに目に薬を塗ることは吉祥である」というのが人々の見解であったため、「目薬を塗らない」ということが個別に挙げられたのである。

Rājā tassa vacanaṃ gahetvāti ‘‘vedesu īdisaṃ āgataṃ bhavissatīti evaṃ, bhante’’ti rājā tassa purohitassa vacanaṃ gahetvā. Usumajātahadayoti uttattahadayo. Nāsikānaṃ appahonte mukhena assasanto.

「王はその言葉を受け入れて」とは、「ヴェーダにはこのように説かれているのだろう。その通りだ、大徳よ」と王がその祭司(プローヒタ)の言葉を受け入れてのことである。「心に熱を生じた」とは、心が激昂したことである。鼻孔からの呼吸が間に合わず、口で息を吸いながらである。

Vijitajayehi āgantvā nakkhattayuttaṃ āgamentehi nisīditabbaṭṭhānaṃ jayakhandhāvāraṭṭhānaṃ. Udakavuṭṭhipātanādi tasmiṃ pāpakamme asamaṅgibhūtānampi samanuññatāya antokaraṇatthaṃ kataṃ. Katabhaṇḍavuṭṭhīti ābharaṇavassaṃ. Mahājano samanuñño jātoti yojanā. Mātuposakarāmoti mātari sammāpaṭipanno rāmo nāma eko puriso. Asamaṅgibhūtānanti asamanuññānaṃ.

「勝利を得て戻り、吉兆の星宿を待ちながら座すべき場所」とは、陣営の場所である。水雨を降らせることなどは、その悪業に加担していなかった人々をも同意させることによって、共犯にするために行われた。「加工された品物の雨」とは、装身具の雨である。「群衆は同意した」と解釈される。「母を養うラーマ」とは、母に対して正しく仕えるラーマという名の一人の男である。「加担していなかった者たち」とは、同意していなかった者たちのことである。

Avakiriyāti asussūsataṃ paṭicca. Phuliṅgānīti aggikaṇāni. Patanti kāyeti kāye ito cito nipatanti. Ete kira nirayaṃ vivaritvā mahājanassa dassenti.

「注ぎかけて」とは、聴聞しようとしないことによってである。「火花」とは、火の粉である。「身体に降りかかる」とは、身体にあちこちから落ちかかることである。彼らは地獄を現して群衆に見せているのだという。

Yathāphāsukaṭṭhānanti mayaṃ kañcipi desaṃ uddissa na gacchāma, yattha pana vasantassa pabbajitassa phāsu hoti, taṃ yathāphāsukaṭṭhānaṃ gacchāmāti adhippāyo. Saṅghāti saṃhatā. Gaṇāti taṃtaṃseṇibhāvena gaṇitabbatāya gaṇā. Gaṇībhūtāti ekajjhāsayā hutvā rāsibhūtā. Adinnādānantiādīsupi niraye paccitvā manussalokaṃ āgatassa vipākāvasesenāti ānetvā yojetabbaṃ.

「心地よい場所へ」とは、私たちはどこか特定の場所を目指して行くのではなく、出家者が住んで心地よい場所、その心地よい場所へ行くのだ、という意味である。「僧伽」とは、集まりである。「群衆(部派)」とは、それぞれの仲間として数えられるべきものであるから「群」である。「群れをなして」とは、心を一つにして集まったことである。「不与取(盗み)」などの箇所でも、地獄で煮られた後、人間界に生まれ変わった者の「異熟の余業によって」と引き寄せて解釈すべきである。

Paggaṇhissāmīti sambhāvanaṃ uppādessāmi. Nesaṃ kattabbanti cintesīti yojanā. Kiṃ cintesi? Āghātaṃ uppādetvā anatthakaraṇūpāyaṃ. Tenāha **‘‘so dhammakathāpariyosāne’’**tiādi. Nāgabalapicchillādīnanti nāgabalasāsapaaṅkolatelakaṇikāraniyyāsādīnaṃ cikkhallānaṃ. Viheṭhayiṃsu nirayādikathāhi ghaṭṭentā. Chadvārārammaṇeti cakkhādīnaṃ channaṃ dvārānaṃ ārammaṇabhūte rūpādivisaye.

「引き立てよう」とは、称賛を起こさせようということである。「彼らに行うべきことを考えた」と解釈される。何を考えたのか? 怨恨を起こして危害を加える手段をである。それゆえに『彼は説法の終わりに』等と言われたのである。「ナーガバラー(植物)の粘液など」とは、ナーガバラー、からし菜、アンコーラ油、カニカーラの樹脂などの泥である。「苦しめた」とは、地獄などの話で責め立ててである。「六門の対象において」とは、眼などの六門の対象である色などの領域においてである。

Nava vuṭṭhiyoti udakavuṭṭhi sumanapupphavuṭṭhi māsakavuṭṭhi kahāpaṇavuṭṭhi ābharaṇavuṭṭhi āvudhavuṭṭhi aṅgāravuṭṭhi pāsāṇavuṭṭhi vālikāvuṭṭhīti imā nava vuṭṭhiyo. Avañcayīti sakkāraṃ karonto viya hutvā asakkāraṃ karonto anatthacaraṇena vañcayi. Adūsaketi anaparādhe.

「九種の雨」とは、水の雨、ジャスミンの花の雨、マーサカ銭の雨、カハーパナ銭の雨、装身具の雨、武器の雨、炭の雨、石の雨、砂の雨というこれら九種の雨である。「欺いた」とは、敬意を払うかのように見せかけて敬意を払わず、害をなすことによって欺いた。「罪なき者において」とは、過ちのない者に対してである。

‘‘Diṭṭhamaṅgalikā brāhmaṇakaññā’’ti jātakaṭṭhakathādīsu (jā. aṭṭha. 4.15.mātaṅgajātakavaṇṇanā) āgataṃ, idha pana ‘‘seṭṭhidhītā’’ti. Vāreyyatthāyāti āvāhatthāya, assāti pesitapuggalassa. Tādisena nīcakulasaṃvattaniyena kammunā laddhokāsena caṇḍālayoniyaṃ nibbatto.

「ディッタマンガリカというバラモンの娘」と本生経の注釈書など(本生経註 4.15. マータンガ本生譚註)には説かれているが、ここでは「資産家の娘」とされている。「婚姻のために」とは、結婚のために、ということであり、「彼に」とは、遣わされた者のことである。そのような下層の家柄に生まれ変わらせる業が機会を得たことによって、チャンダーラ(不可触民)の胎に生まれたのである。

Cammageheti cammena chādite gehe. Mātaṅgotvevassa nāmaṃ ahosi jātisamudāgataṃ. Tanti ghaṇṭaṃ. Vādento tālanena saddaṃ karonto. Mahāpathaṃ paṭipajji diṭṭhamaṅgalikāya gehadvārasamīpena.

「皮の家で」とは、皮で覆われた家においてである。彼には生まれによって得られた「マータンガ」という名があった。「それを」とは、鐘をである。「鳴らしながら」とは、打つことによって音を立てながらである。ディッタマンガリカの家の門の近くを通って大道に出た。

Tassā veyyāvaccakarā ceva upaṭṭhākamanussā paṭibaddhā ca surāsoṇḍādayo jāṇukapparādīhi sukoṭṭitaṃ koṭṭitabhāvena mucchaṃ āpannattā matoti saññāya chaḍḍesuṃ.

彼女の給仕人たちや召使いの者たち、またそこに居合わせた酒飲みなどが、膝や肘などで激しく殴打した。激しく殴打されたことによって失神したため、死んだと思って打ち捨てた。

Atha bodhisatto āyuavasesassa atthitāya mandamande vāte vāyante cirena saññaṃ paṭilabhati. Tenāha **‘‘mahāpuriso’’**tiādi. Gehaṅgaṇeti gehassa mahādvārato bahi vivaṭaṅgaṇe. Patitoti pātaṃ katvā icchitatthanipphattiṃ antaraṃ katvā anuppavesena nipanno. Diṭṭhamaṅgalikāyāti diṭṭhamaṅgalikākāraṇena.

そこで菩薩は、寿命がまだ残っていたため、微風が吹く中で長い時間をかけて意識を取り戻した。それゆえに『大士は』等と言われたのである。「屋敷の前庭で」とは、屋敷の大門の外の開けた庭でである。「倒れた」とは、身を投げ出して、望む結果が成就するまで横たわったことである。「ディッタマンガリカによって」とは、ディッタマンガリカを原因としてである。

Yasanti vibhavaṃ kittisaddañca. Candanti candamaṇḍalaṃ, candavimānanti attho. Ucchiṭṭhageheti parehi paribhuttagehe. Maṇḍapeti nagaramajjhe mahāmaṇḍape.

「名声を」とは、富と名声のことである。「月を」とは、月輪、すなわち月の宮殿という意味である。「他人の残飯の家で」とは、他人が使い古した家でである。「マンダパで」とは、都市の中央にある大天幕(大堂)でである。

Khīramaṇimūlanti khīramūlaṃ, pādesu baddhamaṇimūlañca. Yāvatā vācuggatā pariyattīti yattako manussavacīdvārato uggato nikkhanto pavatto, yaṃkiñci vacīmayanti attho. Ākāsaṅgaṇeti vivaṭaṅgaṇe.

「乳と宝珠の代価」とは、乳の代価、および足に結ぶ宝珠の代価のことである。「言葉から生じる限りの学習」とは、人間の言葉の門から生じ、発せられ、行われる限りの、一切の言葉によるものという意味である。「空の庭で」とは、開けた庭においてである。

Dummavāsīti dhūmo dhūsaro, anañjitāmaṇḍitoti adhippāyo. Otallakoti nihīnajjhāsayo, appānubhāvoti attho. Paṭimuñca kaṇṭheti yāva galavāṭakā pārupitvā. Ko re tuvanti are ko nāma tvaṃ.

「汚れた衣を着た者」とは、煙色で薄汚れ、目薬を塗らず飾らないという意味である。「下劣な者」とは、意図が卑しく、威光が乏しいという意味である。「首に掛けよ」とは、喉の窪みまで覆ってである。「おい、お前は誰だ」とは、やあ、お前の名は何か、ということである。

Pakatanti paṭiyattaṃ nānappakārato abhisaṅkhataṃ. Uttiṭṭhapiṇḍanti antaragharaṃ upagamma ṭhatvā laddhabbapiṇḍaṃ, bhikkhāhāranti attho. Labhatanti lacchatu. Sapākoti mahāsatto jātivasena yathābhūtaṃ attānaṃ āvikaroti.

「調えられた」とは、準備され、種々に調理されたものである。「立ち現れた托鉢の食物」とは、家々の間に入って立ち、得られるべき食物、すなわち托鉢の食物という意味である。「得よ」とは、得られますように。「犬を食う者(旃陀羅)」とは、大士が生まれのままの自己をありのままに明らかにする表現である。

Atthatthitaṃ saddahatoti samparāyikassa atthassa atthibhāvaṃ saddahantassa. Apehīti apagaccha. Ettoti imasmā ṭhānā. Jammāti lāmaka.

「利益の存在を信じる者」とは、来世の利益の存在を信じる者のことである。「去れ」とは、立ち去れ。「ここから」とは、この場所から。「下劣な者」とは、卑しい者よ、ということである。

Anūpakhetteti ajaṅgale udakasampanne khette phalavisesaṃ paccāsīsantā. Etāya saddhāya dadāhi dānanti ninnaṃ thalañca pūrento megho viya guṇavante nigguṇe ca dānaṃ dehi, evaṃ dento ca appeva ārādhaye dakkhiṇeyyeti. Dakkhiṇeyyeti sīlādiguṇasamannāgate.

「潤った田畑において」とは、荒れ地でなく水が豊富な田畑において、優れた果報を期待してである。「この信仰をもって施しを与えよ」とは、低地も高地も満たす雨雲のように、徳のある者にも徳のない者にも施しを与えよ、そのように与えることで、まさに布施を受けるにふさわしい者(福田)を満足させることができる、ということである。「福田において」とは、戒などの徳を具えた者たちにおいてである。

Tānīti te brāhmaṇā. Veṇupadarenāti veḷuvilīvena.

「彼らは」とは、それらのバラモンたちである。「竹のへらで」とは、竹の細片によってである。

Giriṃ nakhena khaṇasīti pabbataṃ attano nakhena khaṇanto viya ahosi. Ayoti kālalohaṃ. Padahasīti abhibhavasi, attano sarīrena abhibhavanto viya ahosi.

「爪で山を掘る」とは、自分の爪で山を掘るかのようであった。「鉄」とは、黒鉄である。「踏みつける」とは、圧倒することであり、自らの身体で圧倒するかのようであった。

Āvedhitanti calitaṃ viparivattetvā ṭhitaṃ. Piṭṭhitoti piṭṭhipassena. Bāhuṃ pasāreti akammaneyyanti akammakkhamaṃ bāhudvayaṃ thaddhaṃ sukkhadaṇḍakaṃ viya kevalaṃ pasāreti, na samiñjeti, setāni akkhīni parivattanena kaṇhamaṇḍalassa adissanato.

「揺り動かされた」とは、揺れて向きを変えて静止した。「背後から」とは、背中の側から。「腕を伸ばして動かない」とは、役に立たない両腕が枯れ木のように強張ってただ伸ばされたままで、曲げることができないことである。黒目が回転して見えなくなったことによって、目が白くなったからである。

Jīvitanti jīvanaṃ.

「命」とは、生活(生命)のことである。

Vehāyasanti ākāse. Pathaddhunoti pathabhūtaddhuno viya.

「空中に」とは、空においてである。「旅人のように」とは、道を行く旅人のようにである。

Saññampi na karotīti ‘‘ime kulappasutā’’ti saññāmattampi na karoti. Dantakaṭṭhakucchiṭṭhakanti khāditadantakaṭṭhattā vuttaṃ. Etasseva upari patissati appaduṭṭhapadosabhāvato, mahāsattassa tadā ukkaṃsagatakhettabhāvato. Iddhivisayo nāma acinteyyo, tasmā kathaṃ sūriyassa uggantuṃ nādāsīti na cintetabbaṃ. Aruṇuggaṃ na paññāyatīti tasmiṃ padese aruṇapabhā na paññāyati, andhakāro eva hoti.

「想いすら作らない」とは、「彼らは名家の出である」という想いすら抱かないことである。「噛み残した歯木」とは、噛まれた歯木であることから言われた。「まさに彼の上に落ちるであろう」とは、害意のない者に対する害心であること、そしてその時、大士が極めて優れた福田であったからである。神通の境地とは不可思議なものである。したがって、どのようにして太陽が昇るのを許さなかったのか、などと思慮すべきではない。「夜明けの光が現れない」とは、その地域において朝焼けの光が現れず、ただ暗闇のままであることである。

Yakkhāvaṭṭo nu kho ayaṃ kālavipariyāyo. Mahāpaññanti mahantānaṃ paññānaṃ adhiṭṭhānabhūtaṃ. Janapadassa mukhaṃ passathāti imassa janapadavāsino janassa upaddavena maṅkubhūtaṃ mukhaṃ passatha.

「夜叉の仕業であろうか、この天変地異は」。「大いなる智慧を」とは、広大な智慧のよりどころとなった者をである。「地方の人々の顔を見よ」とは、この地方に住む人々の災難によって青ざめた顔を見よ、ということである。

Etassa kathā etasseva upari patissatīti yāhi tena pāramitāparibhāvanasamiddhāhi nānāsamāpattivihāraparipūritāhi sīladiṭṭhisampadāhi susaṅkhatasantāne mahākaruṇādhivāse mahāsatte ariyūpavādakammaabhisapasaṅkhātā pharusavācā pavattitā, sā abhisapi tassa khettavisesabhāvato tassa ca ajjhāsayapharusatāya diṭṭhadhammavedaniyakammaṃ hutvā sace so mahāsattaṃ na khamāpeti, sattame divase vipaccanasabhāvaṃ jātaṃ, khamāpite pana mahāsatte payogasampatti paṭibāhitattā avipākadhammataṃ āpajjati ahosikammabhāvato. Ayañhi ariyūpavādapāpassa diṭṭhadhammavedaniyassa dhammatā, tena vuttaṃ ‘etassa kathā etasseva upari patissatī’tiādi. Mahāsatto pana taṃ tassa upari patituṃ na adāsi, upāyena mocesi. Tena vuttaṃ cariyāpiṭake (cariyā. 2.64) –

「彼の言葉はまさに彼自身の上に落ちるであろう」とは、波羅蜜の修習によって成就し、様々な等至の住によって満たされ、戒と見の具足によってよく調えられた相乗の持ち主であり、大悲の住処である大士に対して、聖者を非難する業・呪詛と名づけられる粗暴な言葉を発した。その呪詛は、相手が卓越した福田であること、そして自らの意図が粗暴であることによって、現世で受くべき業(順現法受業)となり、もし彼が大士に許しを請わなければ、七日目に熟す性質のものであった。しかし大士に許しを請えば、努力の成就が妨げられることによって、無効な業(既受業)となるため、異熟をもたらさない状態に至る。これこそが、現世で受くべき聖者非難の悪業の法爾である。それゆえに「彼の言葉はまさに彼自身の上に落ちるであろう」等と言われたのである。しかし大士は、それが彼の上に落ちるのを許さず、手段によって解脱させた。それゆえに行蔵(所行蔵 2.64)において次のように説かれた。

‘‘Yaṃ so tadā maṃ abhisapi, kupito duṭṭhamānaso;

「その時、怒り狂い、悪意を抱いた彼が私を呪ったが、

Tasseva matthake nipati, yogena taṃ pamocayi’’nti.

それはまさに彼自身の頭上に落ちた。私は巧みな手段によって彼を救った」と。

Yañhi tattha sattame divase bodhisattena sūriyuggamananivāraṇaṃ kataṃ, ayamettha yogoti adhippeto. Yogena hi ubbaḷhā sarājikā parisā nagaravāsino negamā ceva jānapadā ca bodhisattassa santikaṃ tāpasaṃ ānetvā khamāpesuṃ. So ca bodhisattassa guṇe jānitvā tasmiṃ cittaṃ pasādesi. Yaṃ panassa matthake mattikāpiṇḍassa ṭhapanaṃ, tassa ca sattadhā phālanaṃ kataṃ, taṃ manussānaṃ cittānurakkhaṇatthaṃ. Aññathā hi – ‘‘ime pabbajitā samānā cittassa vase vattanti, na pana cittaṃ attano vase vattāpentī’’ti mahāsattampi tena sadisaṃ katvā gaṇheyyuṃ, tadassa tesaṃ dīgharattaṃ ahitāya dukkhāyāti. Tenāha **‘‘athassā’’**tiādi.

実にそこで七日目に菩薩が日の出を止めたこと、これがここでの「巧みな手段(方便)」の意味である。その方便によって困惑した王をはじめとする会衆、町の人々、商業者たち、そして地方の人々は、苦行者を菩薩のもとへ連れて行って許しを請わせた。そして彼も菩薩の徳を知り、菩薩に対して心を清らかに信順させた。彼の頭上に粘土の塊を置き、それが七つに割れたということは、人々の心を守るためであった。そうでなければ、「この出家者たちは、心に従って行動しており、心を自らの支配下に置いていない」と、大士をも彼と同様に見なしてしまうかもしれず、そうなれば彼らの長きにわたる不利益と苦しみになるからである。それゆえに『そこで彼に』等と言われたのである。

Lohakūṭavassanti ayaguḷavassaṃ. Tadā hi ratanamattāni diyaḍḍharatanamattānipi tikhiṇaṃsāni ayaguḷamaṇḍalāni ito cito ca nipatantā manussānaṃ sarīrāni khaṇḍakhaṇḍakāni akaṃsu. Kalalavassanti tanukakaddamapaṭalakaddamaṃ. Upahaccāti āghāṭetvā. Tadeva majjhāraññaṃ.

「鉄槌の雨」とは、鉄球の雨である。その時、一肘あるいは一肘半ほどの大きさの鋭利な鉄球の輪があちこちに降り注ぎ、人々の身体をずたずたに引き裂いた。「泥の雨」とは、薄い泥の層の泥である。「打ち破って」とは、害してである。そこがまさに中央の森林となった。

67. Anuviccakāranti anuviccakaraṇaṃ. Kāraṇehi dvīhi aniyyānikasāsane ṭhitānaṃ attano sāvakattaṃ upagate paggahaniggahāni dassetuṃ **‘‘kasmā’’**tiādi vuttaṃ.

67. 「よく調べた上での行動」とは、熟慮して行うことである。出離に導かない教えにとどまる者たちが自分の弟子となった場合の、二つの理由による賞賛と叱責を示すために、『なぜなら』等と言われたのである。

69. Anupubbiṃ kathanti (dī. ni. ṭī. 2.75-76; a. ni. ṭī. 3.8.12) anupubbiyā anupubbaṃ kathetabbakathaṃ, kā pana sā? Dānādikathā. Dānakathā tāva pacurajanesupi pavattiyā sabbasādhāraṇattā sukarattā sīle patiṭṭhānassa upāyabhāvato ca āditova kathitā. Pariccāgasīlo hi puggalo pariggahavatthūsu nissaṅgabhāvato sukheneva sīlāni samādiyati, tattha ca suppatiṭṭhito hoti. Sīlena dāyakapaṭiggahaṇavisuddhito parānuggahaṃ vatvā parapīḷānivattivacanato, kiriyadhammaṃ vatvā akiriyadhammavacanato, bhogayasasampattihetuṃ vatvā bhavasampattihetuvacanato ca dānakathānantaraṃ sīlakathā kathitā. Tañca sīlaṃ vaṭṭanissitaṃ, ayaṃ bhavasampatti tassa phalanti dassanatthaṃ, imehi ca dānasīlamayehi paṇītacariyabhedabhinnehi puññakiriyavatthūhi etā cātumahārājikādīsu paṇītatarādibhedabhinnā aparimeyyā bhogabhavasampattiyoti dassanatthaṃ tadanantaraṃ saggakathā. Svāyaṃ saggo rāgādīhi upakkiliṭṭho sabbadā anupakkiliṭṭho ariyamaggoti dassanatthaṃ saggānantaraṃ maggo, maggañca kathentena tadadhigamūpāyasandassanatthaṃ saggapariyāpannāpi pageva itare sabbepi kāmā nāma bahvādīnavā aniccā addhuvā vipariṇāmadhammāti kāmānaṃ ādīnavo. Hīnā gammā pothujjanikā anariyā anatthasañhitāti tesaṃ okāro lāmakabhāvo, sabbepi bhavā kilesānaṃ vatthubhūtāti tattha saṃkileso. Sabbaso kilesavippamuttaṃ nibbānanti nekkhamme ānisaṃso ca kathetabboti ayamattho maggantīti ettha iti-saddena dassitoti veditabbaṃ.

69. 「次第の教え(次第説法)」とは、順序に従って説かれるべき教えのことであり、それは何かといえば、施論などの教えである。まず「施論」は、多くの人々においても実践され、すべての人に共通であり、行いやすく、戒に確立するための手段であることから、最初に説かれた。布施の徳を持つ人は、所有物に対する執着がないため、容易に戒を受持し、そこによく確立する。戒によって施者と受者の清浄さから他者を助けることを説き、他者を害することを止めることを説くことから、また作すべき法を説いて不作の法を説くことから、富と名声の成就の原因を説いて生存の成就の原因を説くことから、施論の次に「戒論」が説かれた。そしてその戒は輪廻に基づくものであり、この生存の成就はその果報であることを示すため、またこれら布施と戒からなる優れた行いの差別によって区分される福業事によって、これら四王天等におけるさらに優れた差別ある無量の富と生存の成就が得られることを示すために、その次に「生天論」が説かれた。その天界は貪り等によって汚されており、常に汚れのないものは聖道であることを示すために生天論の次に「道」が説かれ、道を説くにあたってその獲得の手段を示すために、天界に属するものであっても、ましてやその他のすべての欲望というものは多くの患難があり、無常であり、不確かであり、変壊する法であるとして「諸欲の患難」が説かれた。卑しく、村俗的で、凡夫のものであり、聖なるものではなく、無益であるとしてそれらの「過患・下劣さ」が説かれ、すべての生存は煩悩の根拠であるとしてそこにおける「雑染」が説かれ、完全に煩悩から解脱したものが涅槃であるとして「出離の功徳」が説かれるべきであるというこの意味が、「道を」という箇所の「〜と」という言葉によって示されていると知るべきである。

Sukhānaṃ nidānanti diṭṭhadhammikānaṃ samparāyikānaṃ nibbānasañhitānañcāti sabbesampi sukhānaṃ kāraṇaṃ. Yañhi kiñci loke bhogasukhaṃ nāma, taṃ sabbaṃ dānanidānanti pākaṭo ayamattho. Yaṃ pana jhānavipassanāmaggaphalanibbānapaṭisaṃyuttaṃ sukhaṃ, tassapi dānaṃ upanissayapaccayo hotiyeva. Sampattīnaṃ mūlanti yā imā loke padesarajjasirissariyasattaratanasamujjalacakkavattisampadāti evaṃpabhedā mānusikā sampattiyo, yā ca cātumahārājādigatā dibbā sampattiyo, yā vā panaññāpi sampattiyo, tāsaṃ sabbāsaṃ idaṃ mūlakāraṇaṃ. Bhogānanti bhuñjitabbaṭṭhena ‘‘bhogo’’nti laddhanāmānaṃ manāpiyarūpādīnaṃ, tannissayānaṃ vā upabhogasukhānaṃ, patiṭṭhā niccalādhiṭṭhānatāya. Visamagatassāti byasanappattassa. Tāṇanti rakkhā tato paripālanato. Leṇanti byasanehi paripātiyamānassa olīyanapadeso. Gatīti gantabbaṭṭhānaṃ. Parāyaṇanti paṭisaraṇaṃ. Avassayoti vinipatituṃ adento nissayo. Ārammaṇanti olubbhārammaṇaṃ.

「諸々の楽の因」とは、現世の楽、来世の楽、そして涅槃に伴う楽という、すべての楽の原因である。世間において富の楽しみと呼ばれるものは、すべて布施を因としているということは明白な事実である。また、禅定、観照、道、果、涅槃に関連する楽についても、布施はその強力な依止縁(親依縁)となる。「諸々の成就の根本」とは、世間における領土の王位の栄光、主権、七宝に輝く転輪聖王の栄華といった人間の諸々の成就、また四王天などに属する天上の諸々の成就、あるいはその他のどのような成就であれ、それらすべての根本原因である。「諸々の富楽の」とは、享受されるべきものであることから「富楽」と名づけられた好ましい色など、あるいはそれらに基づく享受の楽のことであり、「拠り所」とは、不動の基盤であることによる。「困難に陥った者の」とは、災難に遭った者のことである。「救護」とは、保護であり、そこから守ることからである。「避難所」とは、災難によって追われる者が身を隠す場所である。「行く先」とは、赴くべき場所である。「究極の拠り所」とは、帰依所である。「頼みの綱」とは、転落させない支持である。「支え」とは、頼りにする対象である。

Ratanamayasīhāsanasadisanti sabbaratanamayasattaṅgamahāsīhāsanasadisaṃ, mahagghaṃ hutvā sabbaso vinipatituṃ appadānato. Mahāpathavisadisaṃ gatagataṭṭhāne patiṭṭhāsambhavato. Yathā dubbalassa purisassa ālambanarajju uttiṭṭhato tiṭṭhato ca upatthambho, evaṃ dānaṃ sattānaṃ sampattibhave upapattiyā ṭhitiyā ca paccayo hotīti āha **‘‘ālambanaṭṭhena ālambanarajjusadisa’’**nti. Dukkhanittharaṇaṭṭhenāti duggatidukkhanittharaṇaṭṭhena. Samassāsanaṭṭhenāti lobhamacchariyādipaṭisattupaddavato sammadeva assāsanaṭṭhena. Bhayaparittāṇaṭṭhenāti dāliddiyabhayato paripālanaṭṭhena. Maccheramalādīhīti maccheralobhadosaissāmicchādiṭṭhivicikicchādi cittamalehi. Anupalittaṭṭhenāti anupakkiliṭṭhatāya. Tesanti maccheramalādīnaṃ. Etesaṃ eva durāsadaṭṭhena. Asantāsanaṭṭhenāti asantāsahetubhāvena. Yo hi dāyako dānapati, so sampatipi na kutoci santasati, pageva āyatiṃ. Balavantaṭṭhenāti mahābalavatāya. Dāyako hi dānapati sampati pakkhabalena balavā hoti, āyatiṃ pana kāyabalādīhi. Abhimaṅgalasammataṭṭhenāti ‘‘vuḍḍhikāraṇa’’nti abhisammatabhāvena. Vipattito sampattiyā nayanaṃ khemantabhūmisampāpanaṃ.

「宝でできた獅子の座に似ている」とは、あらゆる宝でできた七支の大獅子の座に似ているということであり、高価であって、決して完全に転落させないからである。大地に似ているとは、行き着く先々で足場となることが可能だからである。衰弱した人にとって、つかまる綱が立ち上がり立ち止まる時の支えとなるように、布施は生きとし生けるものが富める生存に生まれ、存続するための条件となることから、『つかまるという意味において、つかまる綱に似ている』と言われた。「苦しみを越えるという意味において」とは、悪趣の苦しみを乗り越えるという意味においてである。「大いに慰めるという意味において」とは、貪欲や物惜しみなどの敵対する災難から正しく慰めるという意味においてである。「恐怖から守るという意味において」とは、貧困の恐怖から保護するという意味においてである。「物惜しみの垢などによって」とは、物惜しみ、貪欲、怒り、嫉妬、邪見、疑いなどの心の垢によってである。「汚されないという意味において」とは、汚れがないことによる。「それらの」とは、物惜しみの垢などのことである。それら自身が近づき難いという意味においてである。「恐れさせないという意味において」とは、無畏の原因となることによる。実に布施を行う施主は、現在においても何ものをも恐れず、まして未来においてはなおさらである。「力強いという意味において」とは、絶大な力を持つことによる。施主は現在においては味方の力によって強く、未来においては身体の力などによって強い。「大いなる吉祥と認められるという意味において」とは、「繁栄の原因である」と高く認められていることによる。災難から繁栄へと導くこと、安全な境地へと到達させることである。

Idāni mahābodhicariyabhāvenapi dānaguṇaṃ dassetuṃ dānaṃ nāmetantiādi vuttaṃ. Tattha attānaṃ niyyādentenāti etena dānaphalaṃ sammadeva passantā mahāpurisā attano jīvitampi pariccajanti, tasmā ko nāma viññujātiko bāhire vatthumhi saṅgaṃ kareyyāti ovādaṃ deti. Idāni yā lokiyā lokuttarā ca ukkaṃsagatā sampattiyo, tā sabbā dānatoyeva pavattantīti dassento **‘‘dānañhī’’**tiādimāha. Tattha sakkamārabrahmasampattiyo attahitāya eva, cakkavattisampatti pana attahitāya ca parahitāya cāti dassetuṃ sā tāsaṃ parato vuttā. Etā lokiyā, imā pana lokuttarāti dassetuṃ **‘‘sāvakapāramīñāṇa’’**ntiādi vuttaṃ. Tāsupi ukkaṭṭhukkaṭṭhatarukkaṭṭhatamameva dassetuṃ kamena ñāṇattayaṃ vuttaṃ. Tesaṃ pana dānassa paccayabhāvo heṭṭhā vuttoyeva. Eteneva tassa brahmasampattiyāpi paccayabhāvo dīpitoti veditabbo.

今や、大菩提の行の観点からも布施の徳を示すために、「布施とは」等と言われた。そこにおいて「自らを捧げることによって」とは、これによって布施の果報を正しく見届ける偉人たちは自らの命すら投げ出すのであるから、どのような分別ある者が外的な事物に執着するだろうか、と教誡を与えるのである。今や、世間的および出世間的な最高峰の諸々の成就は、すべて布施からのみ生じることを示すために、『実に布施は』等と言われた。そこにおいて帝釈天、魔王、梵天の成就は自己の利益のためだけであり、転輪聖王の成就は自己の利益と他者の利益のためであることを示すために、それはそれらの後に説かれた。これらは世間的なものであり、一方これらは出世間的なものであることを示すために、『声聞の波羅蜜の智慧』等と言われた。それらの中でも、優れ、さらに優れ、最上であることのみを示すために、順に三種の智慧が説かれた。それらに対する布施の原因であることは、すでに上で説かれた通りである。これによって、それが梵天の成就に対する原因であることも明らかにされたと知るべきである。

Dānañca nāma hitajjhāsayena, pūjāvasena vā attano santakassa paresaṃ pariccajanaṃ, tasmā dāyako purisapuggalo paresaṃ santakaṃ harissatīti aṭṭhānametanti āha – **‘‘dānaṃ dadanto sīlaṃ samādātuṃ sakkotī’’**ti. Sīlālaṅkārasadiso alaṅkāro natthi sobhāvisesāvahattā sīlassa. Sīlapupphasadisaṃ pupphaṃ natthīti etthāpi eseva nayo. Sīlagandhasadiso gandho natthīti ettha ‘‘candanaṃ tagaraṃ vāpī’’tiādikā (dha. pa. 55; mi. pa. 4.1.1) gāthā – ‘‘gandho isīnaṃ ciradikkhitānaṃ, kāyā cuto gacchati mālutenā’’tiādikā (jā. 2.17.55) jātakagāthāyo ca āharitvā vattabbā, sīlañhi sattānaṃ ābharaṇañceva alaṅkāro ca gandhavilepanañca dassanīyabhāvāvahañca. Tenāha **‘‘sīlālaṅkārena hī’’**tiādi.

布施とは、利益を願う心によって、あるいは供養のために自らの所有物を他者に手放すことである。したがって、施主である人物が他人の物を奪うなどということはあり得ないことである、として『布施を与える者は、戒を受持することができる』と言われた。戒の装飾に匹敵する装飾は存在しない。戒が格別の美しさをもたらすからである。「戒の花に匹敵する花はない」という点においても、同様の理路である。「戒の香りに匹敵する香りはない」という点においては、「白檀もタガラも…」などの詩節(法句経 55、ミリンダ王の問い 4.1.1)や、「長らく戒律を保った仙人たちの香りは、身体から放たれて風に乗って漂う」などの本生経の詩節(本生経 2.17.55)を引用して説明されるべきである。戒こそが生きとし生けるものの装飾であり、飾りであり、芳香の塗料であり、見事な美しさをもたらすものであるからである。それゆえに『実に戒の装飾によって』等と言われた。

Ayaṃ saggo labbhatīti idaṃ majjhimehi chandādīhi samādānasīlaṃ sandhāyāha. Tenāha sakko devarājā –

「この天界が得られる」とは、中等の意欲などによって受持された戒を指して言われたものである。それゆえに帝釈天王は次のように言った。

‘‘Hīnena brahmacariyena, khattiye upapajjati;

「下等の清浄行によって、王族の中に生まれ、

Majjhimena ca devattaṃ, uttamena visujjhatī’’ti. (jā. 1.8.75; 2.22.429; dī. ni. ṭī. 2.75-76);

中等の清浄行によって神々の境涯に、最上の清浄行によって清浄となる」と。

Iṭṭhoti sukho. Kantoti kamanīyo. Manāpoti manavaḍḍhanako. Taṃ pana tassa iṭṭhādibhāvaṃ dassetuṃ **‘‘niccamettha kīḷā’’**tiādi vuttaṃ.

「好ましい」とは、幸福なことである。「愛らしい」とは、慕わしいことである。「意にかなう」とは、心を喜ばせることである。その好ましさなどの状態を示すために、『ここでは常に遊興があり』等と言われた。

Dosoti aniccatādinā appassādādinā ca dūsitabhāvo, yato te viññūnaṃ cittaṃ nārādhenti. Atha vā ādīnaṃ vāti pavattetīti ādīnavo, paramakapaṇatā. Tathā ca kāmā yathābhūtaṃ paccavekkhantānaṃ paccupatiṭṭhanti. Lāmakabhāvoti aseṭṭhehi sevitabbo, seṭṭhehi na sevitabbo nihīnabhāvo. Saṃkilissananti vibādhakatā upatāpatā ca.

「過患」とは、無常であることや味わいが少ないことなどによって損なわれた状態であり、それゆえに賢者たちの心を満足させない。「あるいは過患(アーディーナヴァ)とは、極度の貧しさを意味するアーディーナを進行させる(ヴァー)ことである」とも言われる。実に諸々の欲望は、ありのままに省察する者たちに対してそのように現れる。「下劣さ」とは、高貴ならざる者たちによって親しまれ、高貴な者たちによっては親しまれるべきでない卑しい状態である。「雑染」とは、害をもたらすことと苦悩させることである。

Nekkhamme ānisaṃsanti ettha yattakā kāmesu ādīnavā, tappaṭipakkhato tattakā nekkhamme ānisaṃsā. Apica – ‘‘nekkhammaṃ nāmetaṃ asambādhaṃ asaṃkiliṭṭhaṃ nikkhantaṃ kāmehi, nikkhantaṃ kāmasaññāya, nikkhantaṃ kāmavitakkehi, nikkhantaṃ kāmapariḷāhehi, nikkhantaṃ byāpādasaññāyā’’tiādinā (sārattha. ṭī. mahāvagga 3.26; dī. ni. ṭī. 2.75-76) nayena nekkhamme ānisaṃse pakāsesi, pabbajjāya jhānādīsu ca guṇe vibhāvesi vaṇṇesi. Kallacittanti heṭṭhā pavattitadesanāya assaddhiyādīnaṃ cittadosānaṃ vigatattā uparidesanāya bhājanabhāvūpagamanena kammakkhamacittaṃ. Aṭṭhakathāyaṃ pana yasmā assaddhiyādayo cittassa rogabhūtā, tadā te vigatā, tasmā āha **‘‘arogacitta’’**nti. Diṭṭhimānādikilesavigamena muducittaṃ. Kāmacchandādivigamena vinīvaraṇacittaṃ. Sammāpaṭipattiyaṃ uḷārapītipāmojjayogena udaggacittaṃ. Tattha saddhāsampattiyā pasannacittaṃ. Yadā bhagavā aññāsīti sambandho. Atha vā kallacittanti kāmacchandavigamena arogacittaṃ. Muducittanti byāpādavigamena mettāvasena akathinacittaṃ. Vinīvaraṇacittanti uddhaccakukkuccavigamena vikkhepassa vigatattā tena apihitacittaṃ. Udaggacittanti thinamiddhavigamena sampaggahitavasena alīnacittaṃ. Pasannacittanti vicikicchāvigamena sammāpaṭipattiyaṃ adhimuttacittanti evamettha sesapadānaṃ attho veditabbo.

「出離の功徳」において、欲望における過患がどれほどあろうとも、その反対に出離における功徳はそれほどある。さらに、「出離とは、障害がなく、汚れがなく、欲望から離れ、欲望の想念から離れ、欲望の思惟から離れ、欲望の熱苦から離れ、害意の想念から離れたものである」などの方法によって、出離の功徳を明示し、出家および禅定などの徳を解き明かし、称賛した。「調った心」とは、前になされた説法によって不信心などの心の過失が去ったため、さらに高度な教えの器となることによって、作業に適した心のことである。しかし注釈書においては、不信心などは心の病であり、その時それらが去ったため、『病のない心』と言われた。見や慢などの煩悩が去ったことによる「柔軟な心」。貪欲などの蓋が去ったことによる「障害のない心」。正しい実践において広大な歓喜と喜びが結びついたことによる「高揚した心」。そこにおいて信仰の具足による「澄んだ心」。「世尊が知られた時に」と結びつく。あるいは、「調った心」とは貪欲の離脱による病のない心、「柔軟な心」とは害意の離脱による慈しみによって硬くない心、「障害のない心」とは掉挙・悪作の離脱によって散乱が去ったためにそれによって覆われていない心、「高揚した心」とは惛沈・睡眠の離脱によって奮起することによって沈滞していない心、「澄んだ心」とは疑いの離脱によって正しい実践に確信を持った心、このようにここでの残りの言葉の意味は知られるべきである。

Seyyathāpītiādinā upamāvasena upālissa saṃkilesappahānaṃ ariyamagganipphādanañca dasseti. Apagatakāḷakanti vigatakāḷakaṃ. Sammadevāti suṭṭhu eva. Rajananti nīlapītādiraṅgajātaṃ. Paṭiggaṇheyyāti gaṇheyya pabhassaraṃ bhaveyya. Tasmiṃyeva āsaneti tissaṃ eva nisajjāyaṃ. Etenassa lahuvipassakatā tikkhapaññatā sukhapaṭipadākhippābhiññatā ca dassitā hoti. Virajanti apāyagamanīyarāgarajādīnaṃ vigamena virajaṃ. Anavasesadiṭṭhivicikicchāmalāpagamena vītamalaṃ. Tiṇṇaṃ maggānanti heṭṭhimānaṃ tiṇṇaṃ maggānaṃ. Tassa uppattiākāradassananti kasmā vuttaṃ? Nanu maggañāṇaṃ asaṅkhatadhammārammaṇanti codanaṃ sandhāyāha **‘‘taṃ hī’’**tiādi. Tattha paṭivijjhantanti asammohapaṭivedhavasena paṭivijjhantaṃ. Tenāha **‘‘kiccavasenā’’**ti.

『あたかも』等によって、比喩を通してウパーリの雑染の放棄と聖道の成就を示している。「黒いしみの除かれた」とは、黒ずみが去ったことである。「完全に」とは、実によく、ということである。「染料」とは、青や黄などの染料のことである。「受けるであろう」とは、受け入れる、輝くようになるであろう、ということである。「まさにその座において」とは、その同じ着席のままで、ということである。これによって、彼の速やかな観察力、鋭い智慧、そして楽行速通であることが示されている。「塵を離れ」とは、悪趣へ赴くべき貪りという塵などが去ったことによって塵がないことである。「汚れを去り」とは、残りのない見や疑いという汚れが去ったことによって汚れがないことである。「三つの道に」とは、下位の三つの道に、ということである。その発生のありさまを示すことについて、なぜ言われたのか? 「道智とは無為なる法を対象とするのではないか」という詰問を念頭に置いて、『実にそれは』等と言われたのである。そこにおいて「覚知する」とは、無癡による通達によって覚知することである。それゆえに『作用の力によって』と言われたのである。

Tatridaṃ upamāsaṃsandanaṃ – vatthaṃ viya cittaṃ, vatthassa āgantukamalehi kiliṭṭhabhāvo viya cittassa rāgādimalehi saṃkiliṭṭhabhāvo, dhovanasilā viya anupubbīkathā, udakaṃ viya saddhā, udake temetvā ūsagomayachārikābharehi kāḷakapadese sammadditvā vatthassa dhovanapayogo viya saddhāsinehena temetvā satisamādhipaññāhi dose sithile katvā sutādividhinā cittassa sodhane vīriyārambho. Tena payogena vatthe kāḷakāpagamo viya vīriyārambhena kilesavikkhambhanaṃ, raṅgajātaṃ viya ariyamaggo, tena suddhassa vatthassa pabhassarabhāvo viya vikkhambhitakilesassa cittassa maggena pariyodapananti.

ここに比喩の照合がある。布のようなものは心であり、布が外来の汚れによって汚れるようなものは心が貪りなどの汚れによって汚れることであり、洗濯石のようなものは次第の教えであり、水のようなものは信仰であり、水に浸して灰や牛糞や灰の調合物で黒ずんだ箇所をもみ洗いして布を洗う工夫のようなものは、信仰の愛情で潤して念・定・慧によって過失を緩め、聞くことなどの方法によって心を清める精進の開始である。その工夫によって布から黒ずみが去るようなものは、精進の開始によって煩悩が鎮伏されることであり、染料のようなものは聖道であり、それによって清浄となった布が輝くようなものは、煩悩が鎮伏された心が道によって清らかになることである。

Diṭṭhadhammoti vatvā dassanaṃ nāma ñāṇadassanato aññampi atthīti tannivattanatthaṃ **‘‘pattadhammo’’**ti vuttaṃ. Patti ca ñāṇasampattito aññāpi vijjatīti tato visesanatthaṃ **‘‘viditadhammo’’**ti vuttaṃ. Sā panesā viditadhammatā dhammesu ekadesanāpi hotīti nippadesato viditabhāvaṃ dassetuṃ **‘‘pariyogāḷhadhammo’’**ti vuttaṃ. Tenassa saccābhisambodhaṃyeva dīpeti. Maggañāṇañhi ekābhisamayavasena pariññādikiccaṃ sādhentaṃ nippadesena catusaccadhammaṃ samantato ogāhantaṃ nāma hoti. Tenāha – **‘‘diṭṭho ariyasaccadhammo etenāti diṭṭhadhammo’’**ti. Tiṇṇā vicikicchāti sappaṭibhayakantārasadisā soḷasavatthukā aṭṭhavatthukā ca tiṇṇā vicikicchā tiṇṇavicikicchā. Vigatakathaṃkathoti pavattiādīsu ‘‘evaṃ nu kho, kiṃ nu kho’’ti evaṃ pavattikā vigatā samucchinnā kathaṃkathā. Sārajjakarānaṃ pāpadhammānaṃ pahīnattā tappaṭipakkhesu sīlādiguṇesu suppatiṭṭhitattā vesārajjaṃ visāradabhāvaṃ veyyattiyaṃ patto. Attanā eva paccakkhato diṭṭhattā na tassa paro paccetabbo atthīti aparappaccayo.

「法を見た者」と述べて、見ることには智の見ること以外のものもあるため、それを排除するために『法に達した者』と言われた。また到達することも智の成就以外のものも存在するため、それと区別するために『法を知った者』と言われた。その法を知った状態は、諸法の一部においてもあり得るため、余すところなく知った状態を示すために『法を究めた者』と言われた。これによって彼の真理の現観を示している。実に道智は、一瞬の現観によって遍知などの作用を成就しつつ、余すところなく四聖諦の法に全面的に入り込むものである。それゆえに『これによって聖なる真理の法が見られたので、法を見た者である』と言われた。「疑いを越えた」とは、恐怖に満ちた荒野に似た十六の事柄および八つの事柄に関する疑いを乗り越えたので「疑いを越えた者」である。「どうだろうかという惑いを去った」とは、輪廻の転起などについて「そうだろうか、何だろうか」とこのように生じる惑いが去り、断ち切られたことである。臆病をもたらす悪法が断ぜられたことにより、その反対の戒などの徳によく確立しているため、無畏、すなわち恐れのない状態、熟達に達した者である。自ら直接に見極めたことによって、彼には他者を信じる必要がないため、「他者に頼らない者」である。

71. Paṇḍitoti paññavā.

71. 「賢者」とは、智慧ある者である。

72. Tena hi sammāti dovārikena saddhiṃ sallapatiyeva, **‘‘etthevā’’**ti tena vuttavacanaṃ sutvāpi tassa atthaṃ asallakkhento. Kasmā? Paridevatāya. Tenāha **‘‘balavasokena abhibhūto’’**ti.

72. 「それなら友よ」とは、門番と会話を交わしつつも、『まさにここに』と彼が言った言葉を聞きながらも、その意味に注意を払わずにいることである。なぜか? 嘆きのあまりである。それゆえに『激しい悲しみに圧倒されて』と言われた。

73. Tenevāti yena uttarāsaṅgena āsanaṃ sammajjati, teneva udare parikkhipanto ‘‘māhaṃ satthāraṃ mama sarīrena phusi’’nti antaraṃ karonto uttarāsaṅgena taṃ udare parikkhipanto pariggahetvā. ‘‘Dattapaññatta’’ntiādīsu (dī. ni. 1.171) viya datta-saddo ettha bālapariyāyoti āha **‘‘jaḷosi jāto’’**ti. Upaṭṭhākassa aññathābhāvenāti pubbe attano upaṭṭhākassa idāni anupaṭṭhākabhāvena.

73. 「それによって」とは、座所を払ったその上衣(ウッタラーサンガ)によって、腹部を巻きながら、「私が身体で師に触れることのないように」と間を隔てて、上衣でそれを腹部に巻き付け、包んでである。『与えられた定め』などの箇所(長部 1.171)のように、ここでの「ダッタ」という言葉は愚か者の同義語であることから、『愚かになった』と言われた。「給仕者の変心によって」とは、以前は自分の給仕者であった者が、今や給仕者でなくなったことによってである。

75. Aviññāṇakaṃ dārusākhādimayaṃ. Bahalabahalaṃ pītāvalepanaṃ raṅgajātanti ativiya bahalaṃ pītavaṇṇamañjiṭṭhaādiavalepanarajanaṃ. Ghaṭṭetvā uppāditacchaviṃ,raṅgaṃ pivati. Nillomatanti punappunaṃ anulimpanena. Khaṇḍakhaṇḍitanti khaṇḍakhaṇḍitabhāvaṃ. Raṅgakkhamo rajaniyo. Tenāha **‘‘rāgamattaṃ janetī’’**ti. Anuyoganti codanaṃ. Vīmaṃsanti vicāraṇaṃ. Thuse koṭṭetvā taṇḍulapariyesanaṃ viya kadaliyaṃ sārapariyesanaṃ viya ca nigaṇṭhavāde sāravīmaṃsanaṃ. Tato eva ca taṃ vīmaṃsanto rittako tucchakova hotīti. Sabbampi buddhavacanaṃ catusaccavinimuttaṃ natthi, tañca vīmaṃsiyamānaṃ viññūnaṃ pītisomanassameva janeti, atappakañca asecanābhāvenāti āha **‘‘catusaccakathā hī’’**tiādi. Yathā yathāti yadi khandhamukhena yadi dhātāyatanādīsu aññataramukhena buddhavacanaṃ ogāhissati, tathā tathā gambhīrañāṇānaṃyeva gocarabhāvato gambhīrameva hoti. Yo cettha paṇḍito nipuṇo kataparappavādo paṇidhāya sabbathāmena codanaṃ ārambhati tassa codanā kesaggamattampi cāletuṃ na sakkoti. Puna sucirampi kālaṃ vicārentesupi vimaddakkhamato, evaṃ tathāgatavādo svākhyātabhāvatoti āha **‘‘anuyogakkhamo vimajjanakkhamo cā’’**ti.

75. 「心なき」とは、木の枝などで作られたものである。「分厚い黄色の塗料の染料」とは、非常に分厚い黄色、茜色などの塗り染めである。磨いて生じさせた肌合いであり、それは染料を吸い込む。「毛羽立ちのない状態」とは、何度も重ね塗りすることによってである。「細切れになった」とは、ずたずたになった状態である。染まりやすいものは染まりやすい。それゆえに『愛着のみを生じさせる』と言われた。「詰問」とは、非難することである。「吟味」とは、探求することである。籾殻をついて米を探すようなもの、あるいはバナナの木の中に芯を探すようなものが、ニガンタの教説における真髄の吟味である。それゆえにそれを吟味する者は、空っぽで空虚な状態にしかならない。すべての仏の言葉は四聖諦を離れたものはなく、それは吟味されるほどに賢者たちに歓喜と喜びのみを生じさせ、混じりけがないために飽きることがないことから、『四聖諦の教説は実に』等と言われた。「どのように」とは、五蘊の観点からであれ、界・処などのいずれかの観点からであれ、仏の言葉に入り込むならば、そのように深遠な智慧を持つ者たちだけの領域であることから、実に深遠である。そしてここに、賢く巧みで他人の教説を論破してきた者が、全力を尽くして非難を試みようと企てても、その非難は髪の毛の一筋ほども揺るがすことができない。さらに極めて長い時間にわたって探求する者たちにおいても論駁に耐えるものであり、このように如来の教説は善く説かれたものであることから、『詰問に耐え、吟味に耐えうる』と言われた。

76. Visayapariññāṇena dahati paṭipakkhe sodhetīti dhīro, svāyamassa dhīrabhāvo sabbaso sammohaviddhaṃsanatāyāti āha – **‘‘yā paññā…pe… tena samannāgatassā’’**ti. Pabhinnakhīlassāti samucchinnasabbacetokhīlassa, kilesamaccumāravijayeneva abhisaṅkhārakhandhamārā jitāva hontīti tesaṃ dvinnaṃ idha aggahaṇaṃ. Īgha-saddo dukkhapariyāyoti āha **‘‘niddukkhassā’’**ti. Tattha saupādisesanibbānappattiyā kilesena niddukkhatā, anupādisesanibbānappattiyā vipākadukkhena niddukkhatā. Rajjanadussanamuyhanādivasena vividhaṃ īsanato vīsaṃ, vīsameva vesaṃ, rāgādīti āha – **‘‘vesantarassāti rāgādivīsaṃ taritvā vitaritvā ṭhitassā’’**ti.

76. 対象を完全に知ることによって対治の法を置き、清めるので「賢者(ディーラ)」であり、彼のこの賢者たる性質はあらゆる迷妄を打ち破ることによることから、『どのような智慧…略…それを具えた者の』と言われた。「心の杭を折った者の」とは、すべての心の杭を断ち切った者のことであり、煩悩魔と死魔に勝利することによって行魔と蘊魔はすでに打ち負かされているため、ここではその二つは挙げられていない。「イーガ」という言葉は苦の同義語であることから、『苦しみのない者の』と言われた。そこにおいて、有余涅槃の獲得によって煩悩による苦しみがなく、無余涅槃の獲得によって異熟の苦しみがない。「愛着・嫌悪・迷妄などによって様々に求めることから『ヴィーサ』であり、ヴィーサとはヴェーサであり、貪りなどのことである」として、『ヴェーサンタラとは、貪りなどのヴィーサを渡り、超克してとどまっている者の』と言われた。

Tusitassāti karuṇāyanavasena tusiyā itassa saṃvattassa. Evaṃ sati **‘‘muditassā’’**ti idaṃ punaruttameva hoti. Manujassāti paṭhamāya jātiyā bhagavā manussajātiyo hutvā vuttānaṃ vakkhamānānañca vasena sadevakaṃ abhibhavitvā ṭhito acchariyo bhagavāti dasseti. Sadevakaṃ lokaṃ saṃsārato nibbānasukhaṃ narati neti pāpetīti naro, nāyakoti attho, tassa narassa, tenāha **‘‘punarutta’’**nti. ‘‘Manujassā’’ti vatvā ‘‘narassā’’ti punaruttaṃ padaṃ. Atthavasena aññathā vuccamāne ekekagāthāya dasaguṇā nappahonti, na pūrentīti attho.

「喜悦した者の」とは、憐れみによって喜悦へと赴いた者の、それに伴う者のことである。そうであるならば、『歓喜した者の』という言葉は重複となる。「人の」とは、最初の生まれにおいて世尊は人間として生まれ、すでに説かれたことやこれから説かれることによって神々を含む世界を圧倒してとどまられた驚くべき世尊であることを示している。神々を含む世界を輪廻から涅槃の安楽へと導く(ナラティ)、導いて到達させるので「人(ナラ)」であり、指導者という意味であり、その人の、ということである。それゆえに『重複である』と言われた。「人間の」と言った後に「人の」と言ったのは重複の言葉である。意味の観点から別様に説かれなければ、一つの詩節において十の徳が満ち足りない、満たされないという意味である。

Vinetīti vinayo, vinayo eva veneyikoti āha **‘‘sattānaṃ vināyakassā’’**ti. Viññūnaṃ ruciṃ rāti, īretīti vā ruciro, svāyamassa rucirabhāvo kusalatāyāti āha **‘‘sucidhammassā’’**ti. Pabhāsakassāti ñāṇālokena pabhassarabhāvakarassa. Nissaṅgassāti aṭṭhasupi parisāsu, sadeve vā sabbasmiṃ loke aggaṇhāpanapariccāgena nissaṭassa. Gambhīraguṇassāti paresaṃ ñāṇena appatiṭṭhabhāvā gambhīraguṇassa. Tenāha bhagavā – ‘‘atthi, bhikkhave, aññeva dhammā gambhīrā’’tiādi (dī. ni. 1.28). Ariyāya vā tuṇhībhāvena monappattassa. Dhamme ṭhitassāti dhammakāye suppatiṭṭhitassa. Saṃvutattassāti arakkhiyakāyasamācārāditāya saṃvutasabhāvassa.

「導く」ので調伏(ヴィナヤ)であり、調伏こそが導き手であることから、『生きとし生けるものの導き手の』と言われた。賢者たちの好みを満たす、あるいは引き出すので「麗しい(ルチラ)」であり、彼のこの麗しい性質は善巧さによることから、『清浄な法を持つ者の』と言われた。「光を放つ者の」とは、智慧の光によって輝く状態をもたらす者のことである。「執着なき者の」とは、八つの会衆において、あるいは神々を含む全世界において、執着させることなく手放すことによって離脱した者のことである。「深遠な徳を持つ者の」とは、他者の智慧によっては底が知れないことから深遠な徳を持つ者のことである。それゆえに世尊は、「比丘たちよ、実に他に深遠な法がある」等(長部 1.28)と言われた。あるいは、聖なる沈黙によって沈黙(モーナ)に達した者のことである。「法にとどまる者の」とは、法身によく確立した者のことである。「自制した者の」とは、防護すべきでない身体の振る舞いなどを持つことによって自制された性質の者のことである。

Āguṃ na karotītiādīhi catūhi kāraṇehi, pantasenāsanassāti vivittasenāsanassa. Paṭimantanapaññāyāti sabbaparappavādānaṃ viparāvattamantanapaññāya. Monaṃ vuccati ñāṇaṃ sabbato kilesānaṃ nidhunanato.

「悪をなさない」などの四つの理由により、「閑静な座所を持つ者の」とは、人里離れた座所を持つ者のことである。「論破する智慧による」とは、すべての他宗の論説を覆して論駁する智慧によることである。一切の煩悩を払い落とすことから智慧を「沈黙(モーナ)」と呼ぶ。

Isisattamassāti sabbaisīsu jeṭṭhassa sādhutamassa. Seṭṭhappattassāti seṭṭhaṃ uttamaṃ sammāsambodhiṃ pattassa. Akkharādīnīti akkharapadabyañjanākāra-niruttiniddesa-saṃkāsanapakāsana-vivaraṇa-vibhajanuttānīkaraṇānīti byañjanatthapadāni. Samodhānetvā vineyyajjhāsayānurūpaṃ pakāsanato kathanato padakassa. Puri-saddo ‘‘pubbe’’ti iminā samānatthoti āha – **‘‘purindadassāti sabbapaṭhamaṃ dhammadānadāyakassā’’**ti. Bhagavā asayhaṃ sahituṃ samatthoti āha **‘‘samatthassā’’**ti. Tenāha – ‘‘tathāgataṃ buddhamasayhasāhina’’nti (itivu. 38). Te pattassāti te guṇe anavasesato pattassa. Vitthāretvā saṃkilesavodānadhammaṃ byākarotīti byākaraṇo, byākaraṇo eva veyyākaraṇo. Tantipadanti tantiṃ āropetvā ṭhapitaṃ padaṃ.

「第七の仙人の」とは、すべての仙人の中で最年長であり、最善の者のことである。「最勝に達した者の」とは、最勝で最上の正しい覚りに達した者のことである。「文字など」とは、文字、句、表現、様態、語源、解説、指示、開示、解明、分類、明白化という表現と意味の句のことである。統合して教化されるべき者の意図に応じて開示し、説くことから「句を説く者」である。「プリ」という言葉は「以前に」というこれと同義であることから、『プリンダダとは、最も最初に法の布施を与える者の』と言われた。世尊は耐え難いことに耐えることができるため、『耐えうる者の』と言われた。それゆえに、「如来、耐え難きを耐えうる仏」と説かれた(如是語経 38)。「それらに達した者の」とは、それらの徳に余すところなく達した者のことである。詳しく雑染と清浄の法を解明するので「解説者」であり、解説者こそが文法学者(ヴェイヤーカーラナ)である。「聖典の句」とは、聖典として編纂されて置かれた句のことである。

Taṇhābandhanena sabbena vā kilesabandhanena abaddhassa. Mahāpaññāyāti mahānubhāvāya paññāya, mahāvisayāya vā paññāya. Sabbā hi bhagavato paññā mahānubhāvā, yathāsakaṃ visaye mahāvisayā ca ekādivasena anavasesato mahāvisayā nāma sabbaññutāva. Ānubhāvadassanaṭṭhenāti acchariyācinteyyāparimeyyassa attano ānubhāvassa lokassa dassanaṭṭhena. Yakkhassāti vā lokena pūjanīyassa. Ayaṃ upāsako khujjuttarā viya upāsikā sekhapaṭisambhidāppattoti āha **‘‘sotāpattimaggeneva paṭisambhidā āgatā’’**ti. Kilesappahānavaṇṇaṃ kathentoti kilesappahānaṃ visayaṃ nimittaṃ katvā vaṇṇaṃ kathento.

渇愛の束縛によって、あるいは一切の煩悩の束縛によって縛られていない者の。「大いなる智慧によって」とは、大いなる威力を持つ智慧によって、あるいは広大な領域を持つ智慧によってである。実に世尊のすべての智慧は大いなる威力を持ち、それぞれの対象において広大であり、一切をあまねく対象とする広大な領域とはまさに一切知性にほかならない。「威力を示すという意味において」とは、驚くべき不可思議で無量の自らの威力を世間に示すという意味においてである。「夜叉の」とは、あるいは世間によって供養されるべき者のことである。この在家信者は、クジュッタラー在家信女のように有学の無礙解に達した者であることから、『預流道によって無礙解が生じた』と言われた。「煩悩の断滅の徳を語りながら」とは、煩悩の断滅を対象とし機縁として徳を語りながら、ということである。

77. Sampiṇḍitāti sannicitā, ganthitāti attho. Ime sattāti yaṃ yadeva paribbhamantā sattā. Attanova cintayantīti avītataṇhatāya sakaṃyeva payojanaṃ cintenti. Tathā hi mate ñātake anusocantāpi tehi sādhetabbassa attano payojanasseva vasena anusocanti. Uṇhaṃ ahosīti balavatā cittassa santāpena santattaṃ abbhantaraṃ hadayaṭṭhānaṃ khadiraṅgārasantāpitaṃ viya uṇhaṃ ahosi. Tenāha **‘‘lohitaṃ vilīyitthā’’**ti. Pattamattanti ekapattapūramattaṃ. Abhisamayasādhikāya catusaccadesanāya saṅkhepeneva desitattā āha – **‘ugghaṭitaññupuggalassa vasena dhammadesanā pariniṭṭhitā’’**ti.

77. 「集められた」とは、積み上げられた、結び合わされたという意味である。「これらの生きとし生けるものは」とは、さまよう生きとし生けるものは誰であれ、ということである。「自己の利益のみを考える」とは、渇愛が去っていないため、自分自身の利益のみを考えることである。実に死んだ親族のために嘆き悲しむ時も、彼らによって果たされるべき自分自身の利益の観点からのみ嘆き悲しむのである。「熱くなった」とは、心の激しい苦悩によって熱せられた胸の内部が、アカシアの炭火で熱せられたかのように熱くなったことである。それゆえに『血を吐いた』と言われた。「鉢の量」とは、一つの鉢に満ちるほどの量である。真理の現観を達成させる四聖諦の教説が簡潔に説かれたことから、『鋭い機根を持つ人物(開甘露者)に応じて説法は完了した』と言われた。

Upālisuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

ウパーリ経の注釈における深遠な意味の解明が完了した。

7. Kukkuravatikasuttavaṇṇanā

7. 犬行者経の注釈

78. Koliyesūti bahuvacanavasenāyaṃ pāḷi āgatā. Evaṃnāmake janapadeti atthavacanaṃ kasmā vuttanti āha **‘‘so hī’’**tiādi. Na niyamitoti ‘‘asukamhi nāma vihāre’’ti na niyametvā vutto. Senāsaneyevāti āvāseyeva, na rukkhamūlādike. Vesakiriyā ghāsaggahaṇādinā samādātabbaṭṭhena govataṃ, tasmiṃ niyutto govatiko. Tenāha **‘‘samādinnagovato’’**ti. Yaṃ sandhāyāhu vedavedino – ‘‘gacchaṃ bhakkheti, tiṭṭhaṃ mutteti, upāhā udakaṃ dhūpeti, tiṇāni chindatī’’tiādi. Ayaṃ aceloti acelakapabbajjāvasena acelo, purimo pana govatiko kukkuravatikoti ettha vuttanayānusārena attho vattabbo. Palikuṇṭhitvāti ubho hatthe ubho pāde ca samiñjitvā. ‘‘Ukkuṭiko hutvā’’tipi vadanti. Gamanaṃ nipphajjanaṃ gatīti āha – ‘‘kā **gatīti kā nipphattī’’**ti. Nipphattipariyosānā hi vipākadhammappavatti. Katūpacitakammavasena abhisampareti etthāti abhisamparāyo, paraloko. Tatthassa ca nipphattiṃ pucchatīti āha – **‘‘abhisamparāyamhi kattha nibbattī’’**ti. Kukkuravatasamādānanti kukkurabhāvasamādānaṃ, ‘‘ajja paṭṭhāya ahaṃ kukkuro’’ti kukkurabhāvādhiṭṭhānaṃ.

78. 「コーリヤ人たちの中に」とは、複数形によってこの聖典の言葉は伝えられている。「そのような名の地方において」という釈義がなぜ説かれたのかについて、『実に彼は』等と言われた。「規定されていない」とは、「某という名の精舎において」と特定して説かれていないことである。「住居においてのみ」とは、まさに住居においてであり、樹下などではない。「姿振る舞いや草を食むことなどによって受持されるべきものであることから『牛の誓戒』であり、それに専念する者が牛行者である」として、『牛の誓戒を受持した』と言われた。それについてヴェーダに通じた者たちは「歩きながら食べ、立ちながら放尿し、足元に水を滴らせ、草を食いちぎる」などと言った。この「無着衣者」とは、無着衣の出家による無着衣者であり、一方、先の「牛行者、犬行者」については、ここで説かれた方法に従って意味が語られるべきである。「丸まって」とは、両手と両足を折り曲げてである。「うずくまって」とも言われる。「行くこと、達成されることが趣(ガティ)である」として、『どのような趣かとは、どのような結果かということである』と言われた。異熟の法の働きは、結果を終極とするからである。作られ積み重ねられた業によってここに赴くので「来世(アビサンパラーヤ)」、すなわち他世である。そこにおける彼の達成について尋ねているので、『来世においてどこに生まれるのか』と言われた。「犬の誓戒の受持」とは、犬としての状態を受持することであり、「今日から私は犬である」と犬の状態を決意することである。

79. Paripuṇṇanti yattakā kukkuravikārā, tehi paripuṇṇaṃ. Tenāha **‘‘anūna’’**nti. Abbokiṇṇanti tehi avomissaṃ. Kukkurācāranti kukkurānaṃ gamanākārotiādiācārena kukkurabhāvādhiṭṭhānacittamāha. Tathā tathā ākappetabbato ākappo, pavattiākāro. So panettha gamanādikoti āha **‘‘kukkurānaṃ gamanākāro’’**tiādi. Ācārenāti kukkurasīlācārena. Vatasamādānenāti kukkuravatādhiṭṭhānena. Kukkuracariyādiyeva dukkaratapacaraṇaṃ. Tena gativipariyesākārena pavattā laddhi. Assa kukkuravatikassa aññā gati natthīti itaragatiṃ paṭikkhipati, itarāsaṃ pana sambhavo eva natthīti. Nipajjamānanti vatasīlādīnaṃ saṃgopanavasena sijjhamānaṃ. Yathā sakammakadhātusaddā atthavisesavasena akammakā honti ‘‘vibuddho puriso vibuddho kamalasaṇḍo’’ti, evaṃ atthavisesavasena akammakāpi sakammakā hontīti dassento **‘‘na paridevāmi na anutthunāmī’’**tiādimāha. Anutthunasaddo ca sakammakavasena payujjati ‘‘purāṇāni anutthuna’’ntiādīsu. Ayañcettha payogoti iminā gāthāyañca anutthunanarodanaṃ adhippetanti dasseti.

79. 「完全な」とは、犬の振る舞いとされる限りのもの、それらによって満たされていることである。それゆえに『欠け目のない』と言われた。「混じり気のない」とは、それら以外のものが混ざっていないことである。「犬の行儀」とは、犬の歩行のありさまなどという行儀によって、犬としての状態を決意する心を指して言っている。そのように振る舞われるべきものであるから「身構え(アーカッパ)」であり、行動のありさまである。それはここにおいて歩行などのことであるため、『犬の歩行のありさま』等と言われた。「行儀によって」とは、犬の戒の行儀によってである。「誓戒の受持によって」とは、犬の誓戒の決意によってである。犬の行儀などこそが困難な苦行の実践である。その趣の転倒したありさまによって生じた見解である。「この犬行者には他の趣はない」とは、他の趣を否定しているのであり、他のものについては生じる余地すらないということである。「横たわっている」とは、誓戒などの保護によって成就しつつあることである。自動詞の語根の言葉が意味の特殊性によって他動詞となるように(例:「目覚めた人」「開いた蓮華の群れ」)、このように意味の特殊性によって自動詞であっても他動詞となることを示して、『私は嘆かない、悲しまない』等と言われた。「嘆く(アヌットゥナ)」という言葉は、「古きことを嘆く」などの箇所において他動詞として用いられている。そしてここでの用法はこれであり、この詩節において嘆き泣くことが意図されていることを示している。

80. Vuttanayenevāti iminā govatanti govatasamādānaṃ. Gosīlanti gavācāraṃ. Gocittanti ‘‘ajja paṭṭhāya gohi kātabbaṃ karissāmī’’ti uppannacittanti imamatthaṃ atidisati. Gvākappe pana vattabbaṃ avasiṭṭhaṃ **‘‘kukkurākappe vuttasadisamevā’’**ti imināva atidiṭṭhaṃ, visiṭṭhañca yathā pana tatthātiādinā vuttameva. Yaṃ panettha vattabbaṃ, taṃ kukkuravatādīsu vuttanayameva.

80. 「説かれた方法によって」とは、これによって「牛の誓戒」とは牛の誓戒を受持すること、「牛の戒」とは牛の行儀、「牛の心」とは「今日から牛がなすべきことをなそう」と生じた心であるというこの意味を準用している。一方、牛の身構えについて述べるべき残りのことは、『犬の身構えにおいて説かれたのと同様である』とまさにこれによって準用されており、特別な点については「しかしそこにおいてどのように…」等によってすでに説かれた通りである。ここにおいて述べるべきことは、犬の誓戒などにおいて説かれた方法の通りである。

81. Ekaccakammakiriyāvasenāti ekaccassa akusalakammassa kusalakammassa karaṇappasaṅgena. Imesanti govatikakukkuravatikānaṃ. Kiriyāti govatabhāvanādivasena pavattā kiriyā. Pākaṭā bhavissatīti ‘‘imasmiṃ kammacatukke idaṃ nāma kammaṃ bhajatī’’ti pākaṭā bhavissati.

81. 「ある特定の業の働きによって」とは、ある特定の不善業や善業をなす機会によってである。「彼らの」とは、牛行者や犬行者たちのことである。「働き」とは、牛の誓戒の修習などによって生じた働きのことである。「明らかになるであろう」とは、「この四種の業の中で、この名の業に属する」と明らかになるであろう、ということである。

Kāḷakanti (a. ni. ṭī. 2.4.232) malīnaṃ, cittassa apabhassarabhāvakaraṇanti attho. Taṃ panettha kammapathasampattameva adhippetanti āha **‘‘dasaakusalakammapatha’’**nti. Kaṇhanti kaṇhābhijātihetuto vā kaṇhaṃ. Tenāha **‘‘kaṇhavipāka’’**nti. Apāyūpapatti manussesu ca dobhaggiyaṃ kaṇhavipāko, yathā tamabhāvo vutto, ekattaniddesena pana **‘‘apāye nibbattanato’’**ti vuttaṃ, nibbattāpanatoti attho. Sukkanti odātaṃ, cittassa pabhassarabhāvakaraṇanti attho, sukkābhijātihetuto vā sukkaṃ. Tenāha **‘‘sukkavipāka’’**nti. Saggūpapatti manussaloke sobhaggiyañca sukkavipāko, yathā ca jotibhāvo vutto, ekattaniddesena pana **‘‘sagge nibbattanato’’**ti vuttaṃ, nibbattāpanatoti attho, vomissakakammanti kālena kaṇhaṃ, kālena sukkanti evaṃ missakavasena katakammaṃ. **‘‘Sukhadukkhavipāka’’**nti vatvā sukhadukkhānaṃ pavattiākāraṃ dassetuṃ **‘‘missakakammañhī’’**tiādi vuttaṃ. Kammassa kaṇhasukkasamaññā kaṇhasukkābhijātihetutāyāti, apaccayagāmitāya tadubhayavinimuttassa kammakkhayakarakammassa idha sukkapariyāyopi na icchitoti āha – **‘‘ubhaya…pe… asukkanti vutta’’**nti. Tattha ubhayavipākassāti yathādhigatassa vipākassa. Sampattibhavapariyāpanno hi vipāko idha ‘‘sukkavipāko’’ti adhippeto, na accantaparisuddho.

「黒い」とは汚れたものであり、心を輝かなくさせるものという意味である。それはここにおいて業道に達したものだけが意図されているとして、『十不善業道』と言われた。「暗黒の」とは、暗黒の種姓の原因であることから暗黒である。それゆえに『暗黒の異熟を持つ』と言われた。悪趣への再生や人間における不運が暗黒の異熟であり、闇の状態として説かれた通りであるが、単数形での指示によって『悪趣に生まれることから』と言われたのであり、生まれさせることからという意味である。「白い」とは清らかなものであり、心を輝かせるものという意味であるか、あるいは白い種姓の原因であることから白い。それゆえに『白い異熟を持つ』と言われた。天界への再生や人間界における幸運が白い異熟であり、光の状態として説かれた通りであるが、単数形での指示によって『天界に生まれることから』と言われたのであり、生まれさせることからという意味である。「混じり合った業」とは、ある時は暗黒であり、ある時は白いというように混ざり合った状態で作られた業のことである。『苦楽の異熟を持つ』と述べて、苦楽の生じるありさまを示すために『実に混じり合った業は』等と言われた。業が暗黒・白と名づけられるのは暗黒・白の種姓の原因であることによるため、非蓄積に至るものであり、その双方から離れた業の消滅をもたらす業のここでの白いという同義語も望ましくないとして、『双方…略…白くないと説かれた』と言われた。そこにおいて「双方の異熟の」とは、得られた通りの異熟のことである。実に富める生存に属する異熟がここでは「白い異熟」と意図されているのであり、絶対的に清浄なものではない。

Sadukkhanti attanā uppādetabbena dukkhena sadukkhaṃ, dukkhasaṃvattanikanti attho. ‘‘Imasmiṃ sutte cetanā dhuraṃ, upālisutte (ma. ni. 2.56) kamma’’nti heṭṭhā vuttampi atthaṃ idha sādhayati vijānanatthaṃ. Abhisaṅkharitvāti āyūhitvā. Taṃ pana paccayasamavāyasiddhito saṃkaḍḍhanaṃ piṇḍanaṃ viya hotīti āha – **‘‘saṅkaḍḍhitvā, piṇḍaṃ katvāti attho’’**ti, sadukkhaṃ lokanti apāyalokamāha. Vipākaphassāti phassasīsena tattha vipākapavattamāha. Bhūtakammatoti nibbattakammato attanā katūpacitakammato. Yathābhūtanti yādisaṃ. Kammasabhāgavasenāti kammasarikkhakavasena. Upapatti hotīti apadādibhedā upapatti. Kammena viya vuttāti yaṃ karoti, tena upapajjatīti ekakammeneva jāyamānā viya vuttā apadādibhedā. Upapatti ca nāma vipākena hoti vipāke sambhavante ekaṃsena te upapattivisesā sambhavanti. Yadi evaṃ kasmā ‘‘tena upapajjatī’’ti upapattikammahetukā vuttāti āha **‘‘yasmā panā’’**tiādi. Yena kammavipākena nibbattoti yena kammavipākena vipaccamānena ayaṃ satto nibbattoti vuccati. Taṃkammavipākaphassāti tassa tassa kammassa vipākabhūtā phassā. Kammena dātabbaṃ dāyaṃ tabbipākaṃ ādiyantīti kammadāyādā, phassā. Kammassa dāyajjatā kammaphalassa dāyajjaṃ, tasmā vuttaṃ **‘‘kammadāyajjā’’**ti. Tenāha **‘‘kammameva nesaṃ dāyajjaṃ santaka’’**nti.

「苦痛を伴う」とは、自らによって生み出されるべき苦痛を伴うものであり、苦痛をもたらすものという意味である。「この経においては思(チェータナー)が主眼であり、ウパーリ経(中部 2.56)においては業である」と下に説かれた意味をも、理解させるためにここで論証している。「形成して」とは、積み上げてである。しかしそれは諸条件の結合によって成就することから、寄せ集めること、一塊にすることのようであるとして、『寄せ集めて、一塊にして、という意味である』と言われた。「苦痛に満ちた世界に」とは、悪趣の世界を指して言っている。「異熟の触」とは、触を筆頭としてそこにおける異熟の働きを言っている。「生じた業から」とは、生じた業から、自らによって作られ積み重ねられた業から、ということである。「あるがままに」とは、相応の。「業と同種であることによって」とは、業に似通ったものによってである。「生まれが生じる」とは、無足などの区別ある再生が生じることである。「業によるかのように説かれた」とは、何をなすかによってそれによって生まれるというように、一つの業のみによって生じるかのように無足などの区別が説かれたことである。そして再生とは異熟によって生じるものであり、異熟が存在するならば必然的にそれらの再生の差異が生じる。もしそうであるならば、なぜ「それによって生まれる」と再生は業を原因とするものとして説かれたのかについて、『しかし〜であるから』等と言われた。「いかなる業の異熟によって生まれた」とは、いかなる業の異熟が成熟することによってこの生きものが生まれたと言われるか、ということである。「その業の異熟の触」とは、それぞれの業の異熟である触のことである。業によって与えられるべき遺産、その異熟を受け取るので「業の相続者」であり、触のことである。業の相続性とは業の果報の相続であるため、『業の相続者』と言われた。それゆえに『業こそが彼らの相続財産であり、所有物である』と言われた。

Tisso ca heṭṭhimajjhānacetanāti idaṃ abyābajjhavedanaṃ vediyanaekantasukhuppattiyā hetubhāvasādhanaṃ. Yadi evaṃ yathāvuttā jhānacetanā tāva hotu ekantasukhuppattihetubhāvato. Kāmāvacarā kintīti kāmāvacarā pana kusalacetanā taṃsabhāvābhāvato kinti kena pakārena abyābajjhamanosaṅkhāro nāma jātoti codeti, itaro pana na sabbā kāmāvacarakusalacetanā tathā gahitā, atha kho ekaccā jhānacetanānukūlāti dassento **‘‘kasiṇasajjanakāle kasiṇāsevanakāle labbhantī’’**ti āha. Tattha kasiṇāsevanacetanā gahetabbā, sā upacārajjhānassa sādhikā. Tena kāmāvacaracetanā paṭhamajjhānacetanāya ghaṭitāti kasiṇasajjanacetanāpi kadāci tādisā hotīti gahitā. Parikammādivasena hi pavattā bhāvanāmayā kāmāvacarakusalacetanā paṭhamajjhānassa āsannatāya vuttā. Catutthajjhānacetanā tatiyajjhānacetanāya ghaṭitāti idaṃ ekattakāyaekattasaññīsattāvāsavatāya taṃsarikkhakā upekkhāpi īdisesu ṭhānesu sukhasarikkhatā, evaṃ santasabhāvatā ñāṇasahitatā ca. Keci pana catutthajjhānacetanānuguṇāti nidassentā kasiṇasajjanakāle kasiṇajjhānakāle kasiṇāsevanakāle labbhatīti tatiyajjhānacetanāya āsannaghaṭitatā vuttāti vadanti, taṃ tesaṃ matimattaṃ, vuttanayeneva tāsaṃ ghaṭitatā veditabbā. Ubhayamissakavasenāti ubhayesaṃ kusalākusalasaṅkhārānaṃ sukhadukkhānañca missakabhāvavasena. Vemānikapetānanti idaṃ bāhullato vuttaṃ, itaresampi vinipātikānaṃ kālena dukkhaṃ hotiyeva.

「下位の三つの禅定の思」とは、これが苦悩のない感受を味わう絶対的な安楽の再生の原因であることを論証するものである。もしそうであるならば、上述の禅定の思は絶対的な安楽の再生の原因であることから、ひとまずそれでよい。「欲界のものはどうなのか」とは、欲界の善なる思はそのような性質を持たないのに、どのようにして苦悩のない意の形成(意行)となったのかと詰問するのであり、相手は、すべての欲界の善なる思がそのように受け取られたのではなく、ある特定の禅定の思に適うものがそうであると示すために、『遍作を準備する時、遍作を習得する時に得られる』と言ったのである。そこにおいて遍作を習得する思が取られるべきであり、それは近行定を成就するものである。それによって欲界の思は初禅の思と結合しているため、遍作を準備する思も時にそのようであるとして取られたのである。実に準備段階などによって生じた修所成の欲界の善なる思は、初禅に近いことから説かれたのである。「第四禅の思は第三禅の思と結合している」とは、単一の身体・単一の想念を持つ生きものの住処の性質を持つことによって、それに類似した捨もこのような境地においては安楽に類似し、このように静寂な性質を持ち、智慧を伴うことによる。ある人々は、第四禅の思に適うものとして例示し、遍作を準備する時、遍作の禅定の時、遍作を習得する時に得られるため、第三禅の思と密接に結合していると説かれたのだと言うが、それは彼らの単なる私見であり、説かれた方法によってそれらの結合は知られるべきである。「双方の混じり合いによって」とは、善と不善の形成、および苦楽の双方の混ざり合った状態によることである。「神宮夜叉(ヴェーマーニカペータ)たちの」とは、これは大半の者について説かれたのであり、他の堕悪趣の者たちにも時として苦しみはあるのである。

Tassa pahānāyāti tassa yathāvuttassa kammassa anuppattidhammatāpādanāya. Yā cetanāti yā apacayagāminicetanā. Kammaṃ patvāti sukhakammanti vuccamāne maggacetanāya añño paṇḍarataro dhammo nāma natthi accantapārisuddhibhāvato. Akaṇhā asukkāti āgatāti ettha sukkabhāvapaṭikkhepakāraṇaṃ heṭṭhā vuttanayameva. Tenāha **‘‘idaṃ pana kammacatukkaṃ patvā’’**tiādi.

「それを断ずるために」とは、上述の業を二度と生じさせない状態にするために、ということである。「いかなる思か」とは、非蓄積に至る思のことである。「業に達して」とは、白き業と呼ばれるものにおいて、聖道の思にまさる純白な法というものは存在しない。極めて清浄な状態であるからである。「黒くもなく白くもない」と説かれたことについて、ここにおいて白い状態が否定される理由は、すでに上で説かれた方法の通りである。それゆえに『しかしこの四種の業に至って』等と言われたのである。

82. Aniyyānikapakkheti aceḷakapabbajjāya kukkuravate ca. Yogeti ñāyadhammapaṭipattiyanti attho. Yonenāti yo titthiyaparivāso tena bhagavatā paññatto. Yaṃ titthiyaparivāsaṃ samādiyitvāti ayamettha yojanā. Ghaṃsitvā suvaṇṇaṃ viya nighaṃsoppale. Koṭṭetvā hatthena viya kulālabhājanaṃ.

82. 「不導出の側に」とは、無衣の出家や犬の行においてである。「瑜伽(実践・修行)において」とは、正理の法の行道においてという意味である。「正理(よって来たる道)によって」とは、世尊によって規定されたかの外道別住によってである。「かの外道別住を受持して」というのがここでの解釈である。黄金を擦り減らすかのように、青蓮華を擦り減らす。手で叩くかのように陶師の器を叩く。

Vūpakaṭṭhoti vivitto ekībhūto. Pesitattoti nibbānaṃ pati pesitatto. Kāmaṃ tadanuttaraṃ brahmacariyapariyosānaṃ…pe… vihāsīti imināva arahattanikūṭena desanā niṭṭhāpitā hoti, āyasmato pana seniyassa paṭipattikittanaparametaṃ ujukaṃ āpannaarahattabhāvadīpanaṃ, yadidaṃ ‘‘aññataro kho panā’’tiādivacananti āha **‘‘arahattanikūṭenevā’’**ti. Arahattādhigamoyeva tassa tesaṃ abbhantaratā. Sesaṃ sabbaṃ suviññeyyameva.

「閑静なる者」とは、離れて独りとなった者。「専心せる者」とは、涅槃に向けて心を向けた者。「まことにその無上の梵行の究極を……住した」と、まさにこの阿羅漢果の頂によって説法は完結するのである。しかし、尊者セーニヤの実践を称賛することを第一とし、直接に阿羅漢果を得た状態を解明すること、すなわち「かの尊者は……の一人となり」等の言葉である。それゆえに「阿羅漢果の頂によってまさに」と言われた。阿羅漢果の獲得こそが、彼の彼ら(聖者たち)の中への加入である。残りはすべて容易に理解できる。

Kukkuravatikasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

狗行者経の注釈に対する幽微な意味の解明(複注)は完結した。

8. Abhayarājakumārasuttavaṇṇanā

8. 王子アバヤ経の注釈

83. Jātiyā asamāno nihīnācariyo paradattūpajīvikāya mātuyā kucchiyaṃ jāto pādasikaputto. Nindāvasena vadati etenāti vādo aguṇoti āha – **‘‘vādaṃ āropehīti dosaṃ āropehī’’**ti. Nibbattavasena nirayaṃ arahati, nirayasaṃvattaniyena vā kammena niraye niyutto nerayiko. Āpāyikoti etthāpi eseva nayo. Avīcimhi uppajjitvā tattha āyukappasaññitaṃ antarakappaṃ tiṭṭhatīti kappaṭṭho. Nirayūpapattipariharaṇavasena tikicchituṃ sakkuṇeyyoti tekiccho, na tekiccho atekiccho. Dve ante mocetvāti pharusaṃ vā appiyaṃ vā kappeyyāti dve koṭṭhāse muñcitvā te anāmasitvā pucchitaṃ atthaṃ tato bahi karonto uggilati nāma. Taṃ pana evaṃ kātuṃ na sakkotīti āha – **‘‘uggilituṃ bahi nīharituṃ na sakkhitī’’**ti. Evamevāyaṃ pucchā na gahetabbā, ayamettha dosoti taṃ apucchaṃ karonto apanayanto ogilati nāma, tathā pana asakkonto patiṭṭhāpento na ogilati nāma, bhagavā pana tamatthaṃ okāsampi akaronto ubhayathāpi asakkhīti veditabbo. Kathaṃ? Bhagavā hi **‘‘na khvettha rājakumāra ekaṃsenā’’**ti vadanto nigaṇṭhassa adhippāyaṃ viparivatteti, ubho ante mocetvā pañhaṃ vissajjesi, evaṃ tāva uggilituṃ asakkhi. ‘‘Na tatra rājakumāra ekaṃsenā’’ti vadanto eva ca ‘‘nāyaṃ pucchā evaṃ avibhāgena pucchitabbā, vibhajitvā pana pucchitabbā’’ti pucchāya dosaṃ dīpento taṃ hārento ogilitumpi sakkhatīti.

83. 生まれにおいて不相応で、卑しい行いをし、他人の施しによって生きる母の胎から生じた遊女の子である。「そしりによってこれをもって語る」ゆえに論議(論難)は過失である。それゆえに「論議を仕掛けるとは、過失を負わせることである」と言われた。生じることによって地獄にふさわしい、あるいは地獄に導く業によって地獄に配属された者が「地獄に堕ちるべき者」である。「悪趣に堕ちるべき者」というのも、ここでも同様の理趣である。阿鼻地獄に生じて、そこに寿命の一劫と称される中劫の間留まるゆえに「劫に留まる者」である。地獄への再生を回避することによって治療し得る者が「治療し得る者」であり、治療し得ない者が「治療し得ない者」である。「二つの極端を離れて」とは、荒々しい言葉か、あるいは不快な言葉を語るべきかという二つの部分を捨て去り、それらに触れることなく、問われた意味をそこから外に出す(両極端から外す)ことを「吐き出す」という。しかし、彼(王子)はそうすることができないゆえに「吐き出すこと、外に出すことができないであろう」と言われた。このようにこの問いは受け取られるべきではない、これがここでの過失であるとして、それを非難(無効な問い)となし、退けることを「飲み込む」という。しかしそのようにできず、成立させてしまうことを「飲み込まない」という。しかし世尊はその意味に隙を与えることすらなく、両方の仕方で可能であったと知るべきである。どのようにか? 世尊は実に「王子よ、ここでは決して一概には言えない」と語りつつニガンタの意図を覆し、両方の極端を離れて質問に答えられた。このようにまず吐き出すことができた。また「王子よ、そこでは決して一概には言えない」と語ることで、「この問いはこのように無分別に問われるべきではなく、分別して問われるべきである」と問いの過失を明らかにし、それを退けることで、飲み込むことすら可能であったのである。

Uṭṭhātuṃ na sakkhissati cittassa aññathā pavattiyā. Abhayo dve magge kataparicayo cheko nipuṇo vādasīlo ca hutvā vicarati. Tenāha – **‘‘so vādajjhāsayatāya tassa vacanaṃ sampaṭicchanto ‘evaṃ, bhante’ti āhā’’**ti.

心の別のありようによって「立ち上がることができないであろう」。アバヤは二つの道(問いの二者択一)に熟達し、巧みで、精緻であり、論争を好む性質となって行動していた。それゆえに「彼は論争を好む性質のゆえに、彼の言葉を受け入れて『大徳よ、その通りです』と言った」と言われた。

85. Evarūpanti yā paresaṃ appiyā amanāpā duruttavācā, evarūpā vācā, na pana pharusavācā. Pharusavācāya hi setughāto tathāgatānaṃ. Cetanāpharusatāya hi pharusavācā icchitā, na paresaṃ appiyatāmattena. Naṭṭhā nigaṇṭhā ogilikādisammatassa pañhassa ekavacanena viddhaṃsitattā.

85. 「このような類の」とは、他者にとって不快で、意に沿わない悪口のような言葉のことであり、粗悪な言葉(粗悪語)のことではない。実に如来たちにおいて粗悪語は根絶されているからである。思思の粗暴さによって粗悪語とみなされるのであり、単に他者にとって不快であるというだけではない。飲み込むこと等として認められた質問が一言によって粉砕されたため、ニガンタたちは敗北した。

86. Dārakassa aṅke nisīdanassa kāraṇaṃ dassetuṃ **‘‘lesavādino’’**tiādi vuttaṃ. Tattha lesavādinoti chalavādino, vādamagge vā aparipuṇṇatāya lesamatteneva vādasīlā. Osaṭasaṅgāmoti anekavāraṃ paravādamaddanavasena otiṇṇavādasaṅgāmo. Vijjhitvāti nakhena vijjhitvā. Imamevāti yvāyaṃ dārako attano vādabhaṅgapariharaṇatthaṃ iminā aṅke nisīdāpito, imameva assa dārakaṃ upamaṃ nissayaṃ katvā vādaṃ bhindissāmi. ‘‘Assa vādaṃ appaṭitatāya upamāya bhañjissāmī’’ti cintetvā.

86. 子供を膝の上に座らせた理由を示すために「口実を設けて論ずる者」等と言われた。そこにおいて「口実を設けて論ずる者」とは、詭弁を弄する者、あるいは論争の道において不完全であるために単なる口実によって論争を好む者である。「戦場に赴いた者」とは、何度も他人の論を打ち破るために論争の戦場に入った者。「突き刺して」とは、爪で突き刺して。「まさにこの」とは、自らの論の破綻を回避するために膝の上に座らせたこの子供を、まさにこの子供を譬えの根拠として論を破折しよう、「彼の論を無力な譬えによって粉砕しよう」と考えてのことである。

Apaneyyaṃ assa ahanti assa dārakassa mukhato ahaṃ taṃ apaneyyaṃ. Abhūtatthova abhūtaṃ uttarapadalopenāti āha **‘‘abhūtanti abhūtattha’’**nti. Atacchanti tasseva vevacananti āha **‘‘atacchanti na taccha’’**nti. Abhūtanti vā asantaṃ avijjamānaṃ. Atacchanti atathākāraṃ. Anatthasaṃhitanti diṭṭhadhammikena, samparāyikena vā anatthena saṃhitaṃ, anatthe vā saṃhitaṃ, na atthoti vā anattho, atthassa paṭipakkho sabhāvo, tena saṃhitanti anatthasaṃhitaṃ, pisuṇavācaṃ samphappalāpañcāti attho. Evamettha catubbidhassapi vacīduccaritassa gahitatā daṭṭhabbā.

「私が取り除くであろう」とは、この子供の口から私がそれを取り除くであろうということである。「真実でない意味」そのものが後代の語の省略によって「不真実」であるゆえに、「不真実とは、真実でない意味」と言われた。「真実でない」とはそれと同義語であるゆえに、「非真実とは、真実ではないこと」と言われた。あるいは「不真実」とは、存在しないこと、実在しないこと。「非真実」とは、如実でない様態。「無益な」とは、現世的あるいは来世的な不利益を伴うこと、あるいは不利益を伴うこと、あるいは利益でないものが不利益であり、利益と対立する性質であって、それを伴うものが「無益な」であり、離間語と無駄話であるという意味である。このようにここでは四種の口の悪行(言語の悪業)すべてが含まれると見なされるべきである。

Duppayuttoti duppaṭipanno. Na taṃ tathāgato bhāsati abhūtatādidosaduṭṭhattā. Tampi tathāgato na bhāsati bhūtatthepi anatthasaṃhitatādidosaduṭṭhattā.

「誤って用いる者」とは、誤った実践をする者。如来はそれを語らない、不真実であること等の過失に汚されているからである。如来はそれをも語らない、事実であっても無益であること等の過失に汚されているからである。

Ṭhānaṃ kāraṇaṃ etissā atthīti ṭhāniyā ka-kārassa ya-kāraṃ katvā, na ṭhāniyāti aṭṭhāniyā, nikkāraṇā ayuttiyuttā, sā eva kathāti aṭṭhāniyakathā. Attapaccakkhakathaṃ kathemāti attanā eva paccakkhaṃ katvā pavattiyamānaṃ chalakathaṃ kathema.

「道理(原因・根拠)」がこれにあるゆえに「道理に適う(ṭhāniyā)」であり、kaの文字をyaの文字として、「道理に適わない(aṭṭhāniyā)」とは道理に非ざるものであり、無根拠で論理に合わないものである。まさにその話が「道理に適わない話」である。「自ら目撃した話を語ろう」とは、自ら直接に体験して展開される詭弁の話を語ろう、ということである。

Gāmikamahallako ‘‘ime maṃ vañcetukāmā, ahameva dāni ime vañcessāmī’’ti cintetvā **‘‘evaṃ bhavissatī’’**tiādimāha. ‘‘Na mayaṃ dāsā’’tipi vattuṃ nāsakkhiṃsu pubbe tathākatikāya katattā.

村の老人は「こいつらは私を騙そうと望んでいる。今こそ私がこいつらを騙してやろう」と考えて、「そのようになるであろう」等と語った。「私たちは奴隷ではない」とすら言うことができなかった。以前にそのように取り決めを交わしていたからである。

Tatiyaṃ tatiyamevāti dvīsupi pakkhesu tatiyaṃ tatiyameva vācaṃ. Bhāsitabbakālaṃ anatikkamitvāti yassa yadā yathā bhāsitabbaṃ, tassa tadā tatheva ca bhāsanato bhāsitabbaṃ kāraṇaṃ bhāsitabbakālañca anatikkamitvāva bhāsati.

「まさに三番目のものを」とは、二つの側(組)においてもまさに三番目の言葉を。「語るべき時を違えずに」とは、誰に対していつどのように語るべきか、その者に対してその時にそのように語ることから、語るべき理由と語るべき時を違えることなく語るのである。

87. Ṭhānuppattikañāṇenāti ṭhāne eva uppajjanakañāṇena. Tasmiṃ tasmiṃ kāraṇe tassa taṃ taṃ avatthāya uppajjanakañāṇena, dhammānaṃ yathāsabhāvato avabujjhanasabhāvoti dhammasabhāvo. Dhamme sabhāvadhamme anavasese vā yāthāvato upadhāretīti dhammadhātu, sabbaññutā. Tenāha **‘‘sabbaññutaññāṇassetaṃ adhivacana’’**nti. Suppaṭividdhanti sabbaṃ ñeyyadhammaṃ suṭṭhu paṭivijjhanavasena, suṭṭhu paṭividdhanti attho. Tenāha **‘‘hatthagataṃ bhagavato’’**ti. Neyyapuggalavasena pariniṭṭhitāti kathāparivibhāgena ayameva desanā cattāri ariyasaccāni dassento arahattaṃ paccakkhāsīti.

87. 「その場に生じる智慧によって」とは、その場においてまさに生じる智慧によって。その時々の原因において、その時々の状況に応じて生じる智慧によって、諸法の如実なありのままを了解する性質が「法の自性」である。諸法、すなわち自性法を余すところなく如実に観察するゆえに「法界」、一切知性である。それゆえに「これは一切知智の同義語である」と言われた。「よく通達された」とは、一切の知るべき法を完全に見通すことによって、完全に通達されたという意味である。それゆえに「世尊の手中にある」と言われた。「導かれるべき人に応じて完結した」とは、話の区分によってまさにこの説法が四聖諦を示しつつ阿羅漢果を現証させた、ということである。

Abhayarājakumārasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

王子アバヤ経の注釈に対する幽微な意味の解明(複注)は完結した。

9. Bahuvedaniyasuttavaṇṇanā

9. 多受経の注釈

88. Pañcakaṅgoti vaḍḍhakīkiccasādhane vāsiādipañcakaṃ aṅgaṃ saṃdhanaṃ etasminti pañcakaṅgo. Thambhādivatthūnaṃ thapanaṭṭhena thapati. Paṇḍitaudāyitthero, na kāḷudāyī thero.

88. 「五つの道具を持つ者(五肢・パンチャカンガ)」とは、大工の仕事の達成において手斧等の五つの道具(要素)を自身の備えとする者ゆえに「五肢」である。柱等の資材を配置する(立てる)という意味で「大工(タパティ)」である。賢者ウダーイー長老のことであり、カーロダーイー長老のことではない。

89. Pariyāyati attano phalaṃ vattetīti pariyāyo, kāraṇaṃ. Vedanāsannissito ca kāyikacetasikabhāvo kāraṇaṃ. Tenāha – **‘‘kāyikacetasikavasena dve veditabbā’’**ti. Tattha pasādakāyasannissitā kāyikā, cetosannissitā cetasikā. Sukhādivasena tissoti ettha sukhanadukkhanupekkhanāni sukhādivedanāya kāraṇaṃ. Tāni hi pavattinimittāni katvā tattha sukhādisaddappavatti, iminā nayena sesesupi yathārahaṃ kāraṇaṃ niddhāretvā vattabbaṃ. Upavicāravasenāti ārammaṇaṃ upecca savisesapavattivasena. Yasmiñhi ārammaṇe somanassavedanā pavattati, ārammaṇatāya taṃ upagantvā itaravedanāhi visiṭṭhatāya savisesaṃ tattha pavatti. Tenāha **‘‘somanassaṭṭhāniyaṃ rūpaṃ upavicaratī’’**ti. Esa nayo sesavedanāsu gehassitānīti gehanissitāni.

89. 「方便(区分・様相)」とは、自らの結果を生起させるゆえに方便、原因である。また、受に依拠する身体的・精神的な状態が原因である。それゆえに「身体的・精神的な観点から二種と知られるべきである」と言われた。そこにおいて浄色身に依拠するものが身体的であり、心に依拠するものが精神的である。「楽等の観点から三種」とは、ここにおいて楽・苦・不苦不楽(捨)が楽受等の原因である。実にそれらを生起の契機として、そこにおいて楽等の言葉が起こるのである。この理趣によって、残りのものにおいても相応に原因を特定して語られるべきである。「意の近行の観点から」とは、対象に近づいて特別な働きをなすことによる。「実に喜受が生じる対象において、対象としてそれに近づき、他の受よりも際立っていることによって、特別な働きがそこにある」。それゆえに「喜の生じるべき色に近行する」と言われた。この理趣は残りの受においても同様である。「家に依拠した」とは、在家に依存したということである。

90. Pariyāyenāti ‘‘idamettha dukkhasminti vadāmī’’ti vuttaṭṭhānaṃ sandhāya vadati. Taṃ dassentoti kāmañcettha sutte – ‘‘dvepānanda, vedanā vuttā’’ti dve ādiṃ katvā vedanā dassitā, ekāpi pana dassitā evāti dassento. Upatthambhetunti ekāpi vedanā vuttā mayā pariyāyena, evaṃ sati dvepi vattabbāti evaṃ tassa vādaṃ upatthambhetuṃ. Kathaṃ pana ekā vedanā vuttāti? Yaṃ kiñci vedayitaṃ sukhaṃ vā dukkhaṃ vā adukkhamasukhaṃ vā, idamettha dukkhasminti vadāmīti. Yaṃ panettha vattabbaṃ, taṃ itivuttakavaṇṇanāyaṃ (itivu. aṭṭha. 52 ādayo) paramatthadīpaniyaṃ vuttanayena veditabbaṃ.

90. 「方便によって」とは、「私はこれにおいて苦であると説く」と語られた箇所を指して言っている。「それを示しつつ」とは、確かにこの経典においては「アーナンダよ、二つの受が説かれた」と二つを初めとして受が示されたが、一つすらも示されているのだということを示しつつ。「支持するために」とは、私によって方便によって一つの受も説かれた、そうであるならば二つとも言われるべきである、このように彼の主張を支持するために。では、どのように一つの受が説かれたのか? 「楽であれ苦であれ不苦不楽であれ、およそ感受されたいかなるものも、私はこれにおいて苦であると説く」と。ここで語られるべきことは、如是語経注(『如是語経註』52項等)の勝義灯(複注)において説かれた理趣によって知られるべきである。

Kathaṃ panettha rūpāvacaracatutthe arūpesu saññāvedayitanirodhe sukhaṃ uddhatanti āha **‘‘ettha cā’’**tiādi. Santaṭṭhenāti paṭipakkhadhammānaṃ vūpasantabhāvena. Paṇītaṭṭhenāti bhāvanāvisesavisiṭṭhena atappakabhāveneva seṭṭhabhāvena ca, paccayavisesena padhānabhāvaṃ nītantipi paṇītaṃ. Vedayitasukhaṃ nāma vedanābhūtaṃ sukhanti katvā. **Avedayitasukhaṃ nāma yāvatā niddukkhatā, tāvatā sukhanti vuccatīti.**Atha vā nirodho suṭṭhu khādati khanati kāyikacetasikābādhanti vattabbataṃ arahati sattāhampi tattha dukkhassa nirujjhanato. Tenāha **‘‘niddukkhabhāvasaṅkhātena sukhaṭṭhenā’’**ti.

どのようにしてここで色界の第四禅や無色界において想受滅が楽として掲げられているのか、これに対して「ここにおいて……」等と言われた。「静寂であるという意味で」とは、対立する諸法が寂静となった状態によって。「勝妙であるという意味で」とは、特別な修習によって際立ち、熱悩のない状態によって、また最上であることによって。特別な条件によって最勝の状態に至らしめられたものもまた勝妙である。「感受される楽」とは、受となった楽のことである。「感受されない楽とは、無苦である限りにおいて楽と呼ばれる」と言われる。あるいは滅尽定は身体的・精神的な病苦を完全に食い尽くし、掘り崩すゆえにそう言われるのにふさわしい。七日間もそこにおいて苦が滅しているからである。それゆえに「無苦の状態と名づけられた楽という意味で」と言われた。

91. Yasmiṃ yasmiṃ bhave, cittuppāde, avatthāya vā niddukkhabhāvo, dukkhassa paṭipakkhatā anupalabbhanena dukkhavivittaṃ, taṃ sukhasmiṃyeva paññapeti. Sesaṃ suviññeyyameva.

91. それぞれの生存において、心の生起において、あるいは状況において無苦の状態、苦の対立物であり得られないことによって苦から離れている状態、それをまさに楽の中に施設(規定)するのである。残りは容易に理解できる。

Bahuvedanīyasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

多受経の注釈に対する幽微な意味の解明(複注)は完結した。

10. Apaṇṇakasuttavaṇṇanā

10. 無謬経(確実経)の注釈

93. Nānāvidhāti nānāvidhadiṭṭhikā samaṇabrāhmaṇāti pabbajjāmattena samaṇā, jātimattena brāhmaṇā ca. Dassananti diṭṭhi. Gahitanti abhinivissa gahitaṃ. Iti te attano dassanaṃ gahetukāmā pucchanti. Vinā dassanena loko na niyyātīti vimokkhabhāvanāya ekena dassanena vinā loko saṃsāradukkhato na nigacchati. Ekadiṭṭhiyampi patiṭṭhātuṃ nāsakkhiṃsu saddhākārābhāvato. Tathā hi te imāya desanāya saraṇesu patiṭṭhahiṃsu. Yasmā aviparīte saddheyyavatthusmiṃ uppannasaddhā ‘‘ākāravatī’’ti adhippetā, tasmā yo loke aviparītadhammadesanā, ayamevesāti pavattā maggasādhanagatāya saddhāya kāraṇabhāvato tannissayā saddhā, sā ākāravatīti vuttā. Avatthusmiñhi saddhā ayuttakāraṇatāya na ākāravatī. Ākāravatīti ettha vatī-saddo na kevalaṃ atthitāmattadīpako, atha kho atisayatthadīpako pāsaṃsatthadīpako vā daṭṭhabbo. Tena ākāravatīti saddheyyavatthuvasena atisayakāraṇavatīti vā pāsaṃsakāraṇavatīti vā ayamettha attho. Apaṇṇakoti ettha yathā kañci atthaṃ sādhetuṃ āraddhassa payogo viraddho, tattha akārako viya hoti punapi ārabhitabbatāya. Aviraddho pana atthassa sādhanato apaṇṇako, evaṃ ayampi dhammo abhibhavitvā pavattanato ekaṃsato ‘‘apaṇṇako’’ti vutto. Tenāha **‘‘aviraddho advejjhagāmī ekaṃsagāhiko’’**ti.

93. 「種々の」とは、種々の見解を持つ沙門・婆羅門たちのことであり、出家したというだけで沙門であり、生まれだけで婆羅門である者たちである。「見解」とは、見解(邪見)である。「固執された」とは、固執して握られたものである。このように彼らは自らの見解を受け取らせようと望んで質問するのである。「見解なしには世間は解脱しない」とは、解脱の修習において一つの見解なしには世間は輪廻の苦から抜け出せないということである。信仰(信根)の相がないために、一つの見解においてすら確立することができなかった。事実、彼らはこの説法によって三宝に帰依したのである。倒錯のない信仰すべき対象において生じた信が「有相(根拠あるもの)」と意図されているがゆえに、世において倒錯のない法の説示はまさにこれであると生起した道の実践に至る信の原因となることから、それに依拠する信、それが「有相」と言われたのである。根拠のないものにおける信は不当な原因のゆえに有相ではない。「有相の(ākāravatī)」において、vatīという語は単に存在することを示すだけでなく、卓越の意味を示す、あるいは称賛すべき意味を示すと見なされるべきである。それゆえに有相とは、信ずべき対象の観点から卓越した根拠を持つ、あるいは称賛すべき根拠を持つ、これがここでの意味である。「無謬の(apaṇṇaka)」において、何らかの目的を達成するために始められた努力が外れた場合、そこでは再び始められるべきであるがゆえに無為であるかのようである。しかし外れていないものは目的を達成するがゆえに無謬である。このようにこの法もまた克服して生起するがゆえに、決定的に「無謬(確実)」と言われた。それゆえに「外れることなく、二股に分かれることなく、決定的に受け取られるもの」と言われた。

94. Tabbipaccanīkabhūtāti tassā micchādiṭṭhiyā paccanīkabhūtā.

94. 「それと敵対するものとなった」とは、その邪見と敵対するものとなった、ということである。

95. Nesanti kusalānaṃ dhammānaṃ. Akusalato nikkhantabhāveti asaṃkiliṭṭhabhāve. Ānisaṃsoti suddhavipākatā. Visuddhipakkhoti visuddhibhāvo pariyodātatā. Abhūtadhammassa diṭṭhibhāvassa saññāpanā ācikkhanā abhūtadhammasaññāpanā. Sāvajjesu paramavajje micchādassane paggahaṇanti kuto susīlyassa paggahoti āha – **‘‘micchādassanaṃ gaṇhantasseva susīlyaṃ pahīnaṃ hotī’’**ti. Micchādiṭṭhiādayoti ettha micchāsaṅkappo paralokābhāvacintā, micchāvācā paralokābhāvavādabhūto musāvādo, ariyānaṃ paccanīkatādayo. Aparāparaṃ uppajjanavasenāti punappunaṃ citte uppajjanavasena. Pāpakā akusalā dhammāti paccavekkhaṇasaññāpanādikāle uppajjanakā tathāpavattā akusalakhandhā.

95. 「それらの」とは、善なる諸法の。「不善から抜け出た状態において」とは、不汚染の状態において。「功徳」とは、清浄な異熟性(果報)である。「清浄の側」とは、清浄である状態、純白さである。事実でない法である見解の状態を知らせること、説き明かすことが「不実の法の教示」である。過失あるものの中で最悪の過失である邪見を堅持することにおいて、どこに良き戒の保持があろうか、これについて「邪見を把持するまさにその人に、良き戒は放棄されている」と言われた。「邪見等」とは、ここにおいて邪思惟とは来世が存在しないという思索であり、邪語とは来世が存在しないという主張である虚偽語であり、聖者たちへの敵対等である。「次々と生じることによって」とは、心に何度も生じることによって。「悪しき不善の法」とは、観察や教示などの時に生じる、そのように生起した不善の五蘊である。

Kaliggahoti anatthapariggaho. So pana yasmā diṭṭheva dhamme abhisamparāyañca parājayo hotīti āha **‘‘parājayaggāho’’**ti. Dussamattoti ettha du-saddo ‘‘samādinno’’ti etthāpi ānetvā yojetabboti āha **‘‘dupparāmaṭṭho’’**ti. Yathā dupparāmaṭṭho hoti, evaṃ samādinno dussamatto dusamādinno vutto. Sakavādameva pharitvāti attano natthikavādameva ‘‘idameva saccaṃ moghamañña’’nti (ma. ni. 2.187; 3.27-28) avadhārento aññassa okāsaadānavasena pharitvā. Tenāha **‘‘adhimuccitvā’’**ti. ‘‘Sambuddho’’tiādi adhimuccanākāradassanaṃ. Riñcatīti viveceti apaneti. Tenāha **‘‘vajjetī’’**ti.

「カリ(敗北の賽)の把握」とは、不利益の把握である。しかしそれは現世においても来世においても敗北となるがゆえに「敗北の把握」と言われた。「悪しく受け取られた」において、「悪(du)」という語は「受持された」という箇所にも持ってきて結合されるべきであるゆえに、「悪しく執着された」と言われた。悪しく執着されたようになる、そのように受持されたものが「悪しく受持された」と言われる。「自らの主張のみを満たして」とは、自らの虚無論のみを「これのみが真実であり、他は無駄である」と決定し、他に余地を与えないことによって満たして、ということである。それゆえに「確信して」と言われた。「正覚者である」等は確信のありようの提示である。「捨てる」とは、離脱させる、取り除く。それゆえに「避ける」と言われた。

96. Kaṭaggahoti kataṃ sabbaso siddhimeva katvā gahaṇaṃ. So pana jayalābho hotīti vuttaṃ **‘‘jayaggāho’’**ti. Suggahitoti suṭṭhukaraṇavasena gahito. Suparāmaṭṭhoti suṭṭhu parāparaṃ āsevanavasena āmaṭṭho. Ubhayenapi tassa kammassa katūpacitabhāvaṃ dasseti, sotthibhāvāvahattañca saggupapattisaṃvattanato pāpasabhāvapahānato ca.

96. 「カタ(勝利の賽)の把握」とは、完全に成し遂げられた成功として把握することである。しかしそれは勝利の獲得となるがゆえに「勝利の把握」と言われた。「よく把握された」とは、善く行われたことによって把握されたものである。「よく執着された」とは、善く繰り返し修習することによって触れられたものである。両者によって、その業が善く積聚された状態であることを示し、また天界への再生に導くことと悪しき性質を放棄することから無事の状態をもたらすことを示している。

97. Sahatthā karontassāti (dī. ni. ṭī. 1.166; saṃ. ni. ṭī. 2.3.211) sahattheneva karontassa. Nissaggiyathāvarādayopi idha sahatthakaraṇeneva saṅgahitā. Pacanaṃ dahanaṃ vibādhananti āha **‘‘daṇḍena pīḷentassā’’**ti. Sokaṃ sayaṃ karontassāti parassa sokakāraṇaṃ sayaṃ karontassa, sokaṃ vā uppādentassa. Parehi attano vacanakarehi. Sayampi phandatoti parassa vibādhanapayogena sayampi phandato. Atipātayatoti padaṃ suddhakattuatthe hetukattuatthe ca vattatīti āha **‘‘hanantassapi hanāpentassāpī’’**ti.

97. 「自らの手で行う者に」とは、自らの手でまさに行う者に。他人に命じることや不動の物などによることも、ここでは自らの手で行うことの中に含まれている。「煮ること、焼くこと、迫害すること」ゆえに「杖で苦しめる者に」と言われた。「自ら悲嘆を生じさせる者に」とは、他者の悲嘆の原因を自ら作る者に、あるいは悲嘆を生じさせる者に。「他者によって」とは、自らの言葉に従う者たちによって。「自らも震える者に」とは、他者を迫害する適用によって自らも震える者に。「殺害する者に(atipātayato)」という語は能動(自ら殺す)の意味にも使役(他人に殺させる)の意味にも用いられるゆえに、「自ら殺す者にも、殺させる者にも」と言われた。

Gharassa bhitti anto bahi ca sandhitā hutvā ṭhitā gharasandhi. Kiñcipi asesetvā niravasesameva lopoti nillopo. Ekāgāre niyutto vilopo ekāgāriko. Parito sabbaso panthe hananaṃ paripantho. Pāpaṃ na karīyati pubbe asato uppādetuṃ asakkuṇeyyattā, tasmā natthi pāpaṃ. Yadi evaṃ kathaṃ sattā pāpaṃ paṭipajjantīti āha – **‘‘sattā pana karomāti evaṃsaññino hontī’’**ti. Evaṃ kirassa hoti ‘‘imesañhi sattānaṃ hiṃsādikiriyā na attānaṃ phusati tassa niccatāya nibbikārattā, sarīraṃ pana acetanaṃ kaṭṭhakaliṅgarūpamaṃ, tasmiṃ vikopitepi na kiñci pāpa’’nti. Khuranemināti nisitakhuramayaneminā. Gaṅgāya dakkhiṇadisā appatirūpadeso, uttaradisā patirūpadesoti adhippāyena ‘‘dakkhiṇañce’’tiādi vuttanti **‘‘dakkhiṇatīre manussā kakkhaḷā’’**tiādimāha.

家の壁の内と外が結合して立っているものが「家の継ぎ目」である。いかなるものも余すことなく完全に奪うことが「徹底的な略奪」である。一つの家において行われる略奪が「一軒家への略奪」である。周囲のあらゆる通路において殺傷することが「待ち伏せ追剥」である。悪業はなされない、以前に存在しなかったものを生じさせることができないからであり、それゆえに悪は存在しない。もしそうであるなら、どうして生き物たちは悪業を行うのか、これに対して「しかし生き物たちは『私たちが行っている』という想いを持っているのである」と言われた。実に彼にはこのように思われるのである。「これらの生き物への暴力などの行為は、我(アートマン)には触れない。我は常住であり不変であるからである。身体は心を持たない木片や土くれのようなものであり、それが破壊されても何の悪もない」と。「剃刀の輪(刃)によって」とは、鋭い剃刀でできた車輪によって。ガンジス川の南側は不適当な地域であり、北側は適当な地域であるという意図で「もし南(に行くなら)」等と言われたゆえに、「南岸の人間は荒々しく」等と言われた。

Mahāyāganti mahāvijitayaññasadisaṃ mahāyāgaṃ. Sīlasaṃyamenāti kāyikavācasikasaṃvarena. Saccavacanenāti saccavācāya. Tassa visuṃ vacanaṃ loke garutarapuññasammatabhāvato. Yathā hi pāpadhammesu musāvādo garu, evaṃ puññadhammesu saccavācā. Tenāha bhagavā – ‘‘ekaṃ dhammamatītassā’’tiādi (dha. pa. 176). Vuttanayenevāti kaṇhapakkhe vuttanayena. Tattha hi – ‘‘natthi pāpaṃ, natthi pāpassa āgamo’’ti āgataṃ, idha ‘‘atthi puññaṃ, atthi puññassa āgamo’’ti āgataṃ, ayameva viseso. Sesaṃ vuttasadisamevāti ‘‘tesametaṃ pāṭikaṅkha’’nti evamādiṃ sandhāya vadati, taṃ heṭṭhā purimavārasadisaṃ.

「大祭祀」とは、大勝利の祭祀に類する大祭祀である。「戒の制御によって」とは、身体的・言語的な制御によって。「真実の言葉によって」とは、真実語によって。それ(真実語)を別個に語ったのは、世間においてより重大な功徳と認められているからである。実に悪しき法の中で虚偽語が重大であるように、功徳の法の中では真実語が重大なのである。それゆえに世尊は「一つの法を超越した者には……」等(法句経176)と説かれた。「説かれた理趣のまさに通りに」とは、黒分(悪の側)において説かれた理趣によって。そこでは実に「悪は存在せず、悪の到来は存在しない」と説かれたが、ここでは「功徳は存在し、功徳の到来は存在する」と説かれ、まさにこれだけの相違である。「残りは説かれたものと同様である」とは、「彼らにはこれが期待される」等々を指して言っているのであり、それは下の前回の段落と同様である。

100. Ubhayenāti hetupaccayapaṭisedhavacanena. Saṃkilesapaccayanti saṃsāre paribbhamanena kilinnassa malinabhāvassa kāraṇaṃ. Vuttavipariyāyena visuddhipaccayanti saddattho veditabbo. Balantiādīsu sattānaṃ saṃkilesāvahaṃ vodānāvahañca ussāhasaṅkhātaṃ balaṃ vā, sūravīrabhāvasaṅkhātaṃ vīriyaṃ vā, purisena kattabbo purisathāmo vā, so eva paraṃ paraṃ ṭhānaṃ akkamanappattiyā purisaparakkamo vā natthi na upalabbhati.

100. 「両者によって」とは、因と縁の否定の言葉によって。「汚染の条件」とは、輪廻において彷徨うことによって濡れ汚れた状態の原因である。説かれたことの反対によって「清浄の条件」という言葉の意味が知られるべきである。「力」等において、生き物たちの汚染をもたらし清浄をもたらす、奮起と称される力、あるいは勇敢さや勇猛さと称される精進、あるいは人によってなされるべき人の気力、まさにそれによって次々の境地を踏み越えて到達する人の勇敢さ、これらは存在せず、見出されない。

Satvayogato, rūpādīsu sattavisattatāya ca sattā. Pāṇanato assāsapassāsavasena pavattiyā pāṇā. Te pana so ekindriyādivasena vibhajitvā vadatīti āha **‘‘ekindriyo’’**tiādi. Aṇḍakosādīsu bhavanato bhūtāti vuccantīti āha **‘‘aṇḍakosa…pe… vadantī’’**ti. Jīvanato pāṇaṃ dhārento viya vaḍḍhanato jīvāti evaṃ sattapāṇabhūtajīvesu saddattho veditabbo. Natthi etesaṃ saṃkilesavisuddhīsu vasoti avasā. Natthi nesaṃ balaṃ vīriyañcāti abalā avīriyā. Niyatatāti acchejjasuttāvutābhejjamaṇi viya niyatapavattanatāya gatijātibandhapajahavasena niyāmo. Tattha tattha gamananti channaṃ abhijātīnaṃ tāsu tāsu gatīsu upagamanaṃ samavāyena samāgamo. Sabhāvoyevāti yathā kaṇṭakassa tikkhatā, kabiṭṭhaphalānaṃ parimaṇḍalatā, migapakkhīnaṃ vicittākāratā, evaṃ sabbassapi lokassa hetupaccayena vinā tathā tathā pariṇāmo, ayaṃ sabhāvoyeva akittimoyeva. Tenāha **‘‘yena hī’’**tiādi.

有情の結合のゆえに、また色などに執着し固執するゆえに「有情(サッタ)」である。息を吸い息を吐くことによって生起するゆえに「息ある者(パーナ)」である。しかし彼はそれらを一根(単一の感覚器官を持つもの)などの観点から分別して語るゆえに「一根の……」等と言われた。卵殻などにおいて生じるゆえに「生類(ブータ)」と呼ばれるゆえに、「卵殻……等と語る」と言われた。生きることによって、息を保持するかのように増長するゆえに「命ある者(ジーヴァ)」である。このように有情・息ある者・生類・命ある者における語の意味が知られるべきである。これらには汚染と清浄において自由になる力がないゆえに「無力な者」である。彼らには力も精進もないゆえに「力なき者、精進なき者」である。「決定性」とは、断ち切れない糸に通された壊れない宝珠のように、決定して生起することによって、趣・生まれ・束縛・放棄の観点からの必然性である。「そこかしこへ行くこと」とは、六つの階級(生類の色別)がそれぞれの趣へと赴くことであり、集合による出会いである。「自然(自性)そのもの」とは、ちょうど棘の鋭さ、クビッタ(木リンゴ)の果実の丸さ、鳥獣の多彩な様態のように、このようにすべての世間が因や縁なしにそのようにそのように変化すること、これが自然そのものであり、人為的でないものにほかならない。それゆえに「実にこれによって……」等と言われた。

Sakuṇe hanatīti sākuṇiko, tathā sūkariko. Luddoti aññopi yo koci māgaviko nesādo. Pāpakammapasutatāya kaṇhābhijāti nāma. Bhikkhūti sākiyā bhikkhū, macchamaṃsakhādanato nīlābhijātīti vadanti. Ñāyaladdhepi paccaye bhuñjamānā ājīvakasamayassa vilomagāhitāya **‘‘paccayesu kaṇṭake pakkhipitvā khādantī’’**ti vadanti. Eke pabbajitā, ye savisesaṃ attakilamathānuyogamanuyuttā. Tathā hi te kaṇṭake vattentā viya hontīti kaṇṭakavuttikāti vuttā. Ṭhatvā bhuñjanadānapaṭikkhepādivatasamāyogena paṇḍaratarā. Acelakasāvakāti ājīvakasāvake vadati. Te kira ājīvakaladdhiyā visuddhacittatāya nigaṇṭhehipi paṇḍaratarā. Nandādayo hi tathārūpāya paṭipattiyā pattabbā, tasmā nandādayo nigaṇṭhehi ājīvakasāvakehi ca paṇḍaratarāti vuttā **‘‘sukkābhijātī’’**ti.

鳥を殺す者が鳥撃ちであり、同様に豚殺しである。「猟師」とは、他のいかなる鹿狩りや狩人のことでもある。悪業に専念していることによって「黒色階級」と名づけられる。「比丘たち」とは、釈迦族の比丘たちのことであり、魚や肉を食べることから「青色階級」と語る。正当に得られた必需品(布施)であってもそれを享受する者を、アージーヴァカ教の教義の歪んだ受け取り方によって「必需品の中に棘を入れて食べている」と語る。「ある出家者たち」とは、格別に自らを苦しめる苦行の実践に従事している者たちである。実に彼らは棘の上で生活しているかのようであるゆえに「棘の生活者」と言われた。立ったまま食事をすることや施しを拒絶することなどの戒行の結合によって「より白い(白勝)者たち」である。「無衣の弟子たち」とは、アージーヴァカの弟子たちを指して言う。彼らはアージーヴァカの教義により心が清浄であることによって、ニガンタたちよりもさらに白い。実にナンタ(難陀)等は、そのような実践によって達せられるべき境地にあるゆえに、ナンタ等はニガンタたちやアージーヴァカの弟子たちよりもさらに白いとされ、「白色階級」と言われた。

Ayametesaṃ laddhīti sākuṇikādibhāvūpagamanena kaṇhābhijātiādīsu dukkhaṃ sukhañca paṭisaṃvedentā anukkamena mahākappānaṃ cullāsītisahassāni khepetvā ājīvakabhāvūpagamanena paramasukkābhijātiyaṃ ṭhatvā saṃsārato sujjhantīti ayaṃ tesaṃ niyati ājīvakānaṃ laddhi.

「これが彼らの見解である」とは、鳥撃ちなどの状態に至ることによって黒色階級などにおいて苦と楽を感受し、順次に八万四千の大劫を過ごして、アージーヴァカの状態に至ることによって最高の極白色階級に留まり、輪廻から清浄になるという、これが彼らの決定(宿命)であり、アージーヴァカたちの見解である。

‘‘Natthi dinna’’nti vadanto natthiko dānassa phalaṃ paṭikkhipatīti āha – **‘‘natthikadiṭṭhi vipākaṃ paṭibāhatī’’**ti. Tathā ceva heṭṭhā saṃvaṇṇitaṃ ‘‘natthikadiṭṭhi hi natthitamāhā’’ti. Ahetukadiṭṭhi ubhayanti kammaṃ vipākañca ubhayaṃ. So hi ‘‘ahetū apaccayā sattā saṃkilissanti visujjhantī’’ti vadanto kammassa viya vipākassapi saṃkilesavisuddhīnaṃ paccayattābhāvavacanato tadubhayaṃ paṭibāhati nāma. Vipāko paṭibāhito hoti asati kamme vipākābhāvato. Kammaṃ paṭibāhitaṃ hoti asati vipāke kammassa niratthakabhāvāpattito. Atthatoti sarūpena. Ubhayapaṭibāhakāti visuṃ visuṃ taṃtaṃdiṭṭhitā vuttāpi sabbe te natthikādayo natthikadiṭṭhiādivasena paccekaṃ tividhadiṭṭhikā eva ubhayapaṭibāhakattā. ‘‘Ubhayapaṭibāhakā’’ti hi hetuvacanaṃ. Ahetukavādā cātiādi paṭiññāvacanaṃ. Yo hi vipākapaṭibāhanena natthikadiṭṭhiko, so atthato kammapaṭibāhanena akiriyadiṭṭhiko, ubhayapaṭibāhanena ahetukadiṭṭhiko ca hoti. Sesadvayepi eseva nayo.

「施しはない」と語る虚無論者は布施の果報を否定するゆえに、「虚無の見解は異熟(果報)を排除する」と言われた。同様に下に「虚無の見解は実に存在しないことを語る」と解釈されている。「無因の見解は両方を」とは、業と異熟の両方をである。実に彼は「無因・無縁にして生き物は汚れ、清浄になる」と語り、業と同様に異熟をも汚染と清浄の条件ではないと語ることから、その両方を排除するのである。業が存在しなければ異熟は存在しないゆえに異熟は排除されたことになる。異熟が存在しなければ業は無意味なものとなるゆえに業は排除されたことになる。「実質において」とは、それ自体の性質として。「両者を排除する者」とは、別々にそれぞれの見解として語られたとしても、それら虚無論者等はすべて、虚無見等によって個別に三種の見解を持つ者たちである、両者を排除する者であるがゆえに。「両者を排除する者」というのは理由の言葉である。「無因を主張する者たちも」等は主張の言葉である。実に異熟を排除することによって虚無見を持つ者は、実質において業を排除することによって無作用見を持つ者であり、両方を排除することによって無因見を持つ者となる。残りの二つにおいても同様の理趣である。

Sajjhāyantīti taṃ diṭṭhidīpakaṃ ganthaṃ uggahetvā paṭhanti. Vīmaṃsantīti tassa atthaṃ vicārenti. Tesantiādi vīmaṃsanākāradassanaṃ. Tasmiṃ ārammaṇeti yathāparikappitakammaphalābhāvadīpake ‘‘natthi dinna’’ntiādinayappavattāya laddhiyā ārammaṇe. Micchāsati santiṭṭhatīti ‘‘natthi dinna’’ntiādivasena anussavūpaladdhe atthe tadākāraparivitakkanehi saviggahe viya sarūpato cittassa paccupaṭṭhite cirakālaparicayena ‘‘evameta’’nti nijjhānakkhamabhāvūpagamanena nijjhānakkhantiyā tathā gahite punappunaṃ tatheva āsevantassa bahulīkarontassa micchāvitakkena samādiyamānā micchāvāyāmupatthambhitā ataṃsabhāvaṃ ‘‘taṃsabhāva’’nti gaṇhantī micchāsatīti laddhanāmā taṃladdhisahagatā taṇhā santiṭṭhati. Cittaṃ ekaggaṃ hotīti yathāvuttavitakkādipaccayalābhena tasmiṃ ārammaṇe avaṭṭhitatāya anekaggaṃ pahāya ekaggaṃ appitaṃ viya hoti. Micchāsamādhipi hi paccayavisesehi laddhabhāvanābalehi kadāci samādhānapatirūpakiccakaro hotiyeva vālavijjhanādīsu viyāti daṭṭhabbaṃ. Javanāni javantīti anekakkhattuṃ tenākārena pubbabhāgiyesu javanavāresu pavattesu sabbapacchime javanavāre satta javanāni javanti. Paṭhamajavane pana satekicchā honti, tathā dutiyādīsūti dhammasabhāvadassanametaṃ, na pana tasmiṃ khaṇe tesaṃ satekicchabhāvāpādanaṃ kenaci sakkā kātuṃ.

「読誦する」とは、その見解を明らかにする書物を学んで読誦する。「思索する」とは、その意味を吟味する。「彼らの……」等は思索の様態の提示である。「その対象において」とは、想定された業と果報の不在を明らかにする「施しはない」等の理趣によって生起した見解の対象において。「邪念が確立する」とは、「施しはない」等によって伝承として得られた意味において、その相の思索によって形あるもののように具体的に心が現前した時、長期間の親しみによって「この通りである」と観察に堪えうる状態に至ることによって、観察の忍従(確信)によってそのように把握され、何度もそのように親しみ、多くなす人に、邪思惟によって受け入れられ、邪精進によって支持され、非自性を「それ自体の性質」として把握する、邪念という名を得た、その見解に伴う渇愛が確立する。「心が一点に集中する」とは、上述の思惟等の条件を得ることによって、その対象において定着しているがゆえに、散乱を捨てて一点に集中し、安止したかのようになる。邪定もまた特別な条件や得られた修習の力によって、時には毛先を射抜くことなどにおけるように、精神集中の類似の働きをなすものと見なされるべきである。「速行心が速行する」とは、その様態によって何度も前段階の速行の過程が生起した時、最後の速行の過程において七つの速行心が速行する。しかし最初の速行心においては治療可能な(改心可能な)状態であり、第二等においても同様であるというのは法の自性の提示であって、その瞬間において彼らを治療可能な状態にすることは誰にもできない。

Tatthāti tesu tīsu micchādassanesu. Koci ekaṃ dassanaṃ okkamatīti yassa ekasmiṃyeva abhiniveso āsevanā ca pavattā, so ekaṃyeva dassanaṃ okkamati. Yassa pana dvīsu, tīsupi vā abhinivesanā pavattā, so dve tīṇi okkamati. Etena yā pubbe ubhayapaṭibāhanatāmukhena vuttā atthasiddhā sabbadiṭṭhikatā, sā pubbabhāgiyā. Yā pana micchattaniyāmokkanti bhūtā, sā yathāsakaṃ paccayasamudāgamasiddhito bhinnārammaṇānaṃ viya visesādhigamānaṃ aññamaññaṃ ekajjhaṃ anuppattiyā asaṃkiṇṇā evāti dasseti. Ekasmiṃ okkantepītiādinā tissannampi diṭṭhīnaṃ samānabalataṃ samānaphalatañca dasseti, tasmā tissopi cetā ekassa uppannā aññamaññaṃ abbokiṇṇā eva, ekāya vipāke dinne itarā anubalappadāyikā honti. Vaṭṭakhāṇu nāmāti idaṃ vacanaṃ neyyatthaṃ, na nītatthanti taṃ vivaritvā dassetuṃ kiṃ panesātiādi vuttaṃ, akusalaṃ nāmetaṃ abalaṃ dubbalaṃ, na kusalaṃ viya mahābalanti āha – **‘‘ekasmiṃyeva attabhāve niyato’’**ti. Aññathā sammattaniyāmo viya micchattaniyāmopi accantiko siyā. Yadi evaṃ vaṭṭakhāṇukajotanā kathanti āha **‘‘āsevanavasena panā’’**tiādi, tasmā yathā ‘‘sakiṃ nimuggo nimuggova hotī’’ti (a. ni. 7.15) vuttaṃ, evaṃ vaṭṭakhāṇukajotanā. Yādise hi paccaye paṭicca ayaṃ taṃtaṃdassanaṃ okkanto puna kadāci tappaṭipakkhe paccaye paṭicca tato sīsukkhipanamassa na hotīti na vattabbaṃ. Tena vuttaṃ **‘‘yebhuyyenā’’**ti.

「そこにおいて」とは、それら三つの邪見において。「ある者は一つの見解に陥る」とは、一のものにおいてのみ執着と修習が生起した者は、一つの見解にのみ陥る。しかし二つあるいは三つにおいて執着が生起した者は、二つあるいは三つに陥る。これによって、以前に両者を排除する観点から語られた実質的に成就された一切の見解を持つ状態は前段階のものである。一方、邪性の決定に陥った状態となったものは、それぞれ自らの条件の集まりの成就によるゆえに、異なる対象を持つ特別な境地のように、互いに一箇所に集まることなく混ざり合わないのである、ということを示している。「一のものに陥ったとしても」等によって、三つの見解の平等の力と平等の果報を示す。それゆえにこれら三つも一人の人に生じた場合、互いに混ざり合わず、一方が果報を与えた時、他は加勢するものとなる。「輪廻の切り株と呼ばれる」というこの言葉は未了義(真意を汲み取るべき言葉)であって了義(確定した意味)ではない。それを解き明かして示すために「ではこれらは……」等と言われた。不善というものは無力で弱く、善のように強大な力を持つものではないゆえに、「まさに一つの個体(一生)において決定されている」と言われた。そうでなければ、正性の決定のように邪性の決定も永遠(絶対的)なものとなってしまうであろう。もしそうであるなら、輪廻の切り株の解明はどうなるのか、これに対して「しかし修習の観点から」等と言われた。それゆえに「一度沈んだ者は沈んだままである」(増支部7.15)と説かれたように、輪廻の切り株の解明はそのようになされる。いかなる条件に依拠してこの人がそれぞれの見解に陥ったとしても、再びいつかそれと対立する条件に依拠してそこから頭をもたげることがないとは言えないからである。それゆえに「概して」と言われた。

Tasmāti yasmā evaṃ saṃsārakhāṇubhāvassapi paccayo akalyāṇajano, tasmā. Bhūtikāmoti diṭṭhadhammikasamparāyikaparamatthānaṃ vasena attano guṇehi vaḍḍhikāmo. Yaṃ panettha keci vadanti ‘‘yathā cirakālabhāvanāya paripākūpagamaladdhabalattā upanissayakusalā akusale sabbaso samucchindanti, evaṃ akusaladhammā tatopi cirakālabhāvanāsambhavato laddhabalā hutvā kadāci kusaladhammepi samucchindanti. Evañca katvā daḷhamicchābhinivesassa micchādiṭṭhikassa vaṭṭakhāṇukabhāvajotanāpi samatthitā hotī’’ti yathā taṃ ‘‘vassabhaññānaṃ diṭṭhī’’ti, taṃ na, micchattaniyatadhammānaṃ cirakālabhāvanāmattena na paṭipakkhassa pajahanasamatthatā, atha kho dhammatāsiddhena paccayavisesāhitasāmatthiyena attano pahāyakasabhāvena pahāyakabhāvo bhāvanākusalānaṃyeva vutto, akusalānaṃyeva ca pahātabbabhāvo ‘‘dassanena pahātabbā’’tiādinā nayena, akusalānaṃyeva dubbalabhāvo ‘‘abalānaṃ balīyantī’’tiādinā (su. ni. 776; mahāni. 5) (yuttināpi nāmato vā adhigamaniyo āloko ālokabhāvato bāhirāraṇekā viya na cettha paṭiññatte bhāvesatā sotuno āsaṃkitabbā visesavassa sādhetabbato sāmaññassa ca sotubhāvena adhippetattā veda-saddassa lopo dīpe sabhāve sādhane yathā taṃ saddayabhāvassa nāpi visuddhakaanumānādivirodhasambhāvato. Na hi sakkā antarālokassa bāhirālokassa viya rūpakāyaṃ upādāya rūpatā cakkhuviññeyyattādike patiṭṭhāpetuṃ sakkāti vuttaṃ, nanupi antarāloko aviggahattā vedanā viyāti saddheva ñāṇālokassa avijjandhakārā viya vidhamaniyabhāve sabbesampi kusaladhammānaṃ kenacipi akusaladhammena samucchindaniyatā siddhāva hoti). Vaṭṭakhāṇukacodanāya yaṃ vattabbaṃ, taṃ heṭṭhā vuttamevāti tiṭṭhatesā bālajanavikatthanā.

「それゆえに」とは、このように輪廻の切り株となる状態の原因も悪友(悪しき人々)である、それゆえに。「繁栄を望む者」とは、現世的・来世的・究極の利益の観点から自らの徳による増大を望む者。ここで一部の人々が語る「長期間の修習によって成熟に達して得られた力によって依拠となる善が不善を完全に断ち切るように、そのように不善の諸法もそれ以上に長期間の修習が可能であることから力を得て、時には善なる諸法をも完全に断ち切る。このようにして強固な邪執を持つ邪見の者には輪廻の切り株となる状態の解明も立証されるのである」、例えばあの「ヴァッサバの見解」のようなものである、というのは正しくない。邪性に決定された諸法は、単に長期間修習したからといって対立するものを放棄させる力を持つのではない。そうではなく、法の本性として成立した特別な条件から生じた能力によって自ら放棄させる性質を持つ修習の善にのみ放棄させる性質が説かれており、「見解によって断ぜられるべきもの」等の理趣によって不善のみが断ぜられるべき性質であり、「力なきものが力を得る」等(スッタニパータ776)によって不善のみが微力な性質である(論理的にも名において獲得されるべき光は光である状態から外部の無明を照らすかのようであり……智慧の光が無明の暗黒を打ち払うべき状態において、一切の善法がいかなる不善法によっても断滅されることはないということが成立するのである)。輪廻の切り株の非難に関して語られるべきことは、既に下に語られた通りであるから、愚かな人々の自慢話はさておいておく。

103. Jhānacittamayāti rūpāvacarajjhānacittena nibbattā. Tathā hi tesaṃ visesena jhānamanasā nibbattattā ‘‘manomayā’’ti vuttā, avisesena pana abhisaṅkhāramanasā sabbepi sattā manomayā eva. Saññāmayāti etthāpi eseva nayo. Tenāha **‘‘arūpajjhānasaññāyā’’**ti. Ayanti rūpitābhāvapaṭipajjanakapuggalo. Appaṭiladdhajjhānoti anadhigatarūpajjhāno. Tassapīti takkinopi. Rūpajjhāne kaṅkhā natthi anussavavasena laddhavinicchayattā.

103. 「禅定心から生じる」とは、色界の禅定心によって生じたものである。実に彼らは格別に禅定の意によって生じたがゆえに「意成」と言われたが、区別なく言えば作意(行)の意によって一切の生き物は意成である。「想から生じる」というのも、ここでも同様の理趣である。それゆえに「無色禅の想によって」と言われた。「この」とは、物質性の不在を実践する人。「禅定を得ていない者」とは、色界の禅定を獲得していない者。「彼にも」とは、推論する者にも。色界の禅定において疑いはない、伝承によって得られた決定(確信)があるからである。

104. Sārāgāyāti sarāgabhāvāya. Santiketi samīpe, na thāmagatā diṭṭhinātidūrattā sarāgā, na sampayuttattā. Sā hi na thāmagatā vaṭṭapariyāpannesu dhammesu rajjatīti viññāyatīti āha – **‘‘rāgavasena vaṭṭe rajjanassā’’**ti. Sabbepi saṃyojanā taṇhāvaseneva sambhavantīti āha – **‘‘taṇhāvasena saṃyojanatthāyā’’**ti. Āruppe panassa kaṅkhā natthīti anussavavasena laddhanicchayaṃ sandhāya vuttaṃ. Kāmaṃ duggatidukkhānaṃ ekantasaṃvattanena natthikadiṭṭhiādīnaṃ apaṇṇakatā pākaṭā eva, nippariyāyena pana anavajjassa atthassa ekantasādhakaṃ apaṇṇakanti katvā codanā, sāvajjassapi atthassa sādhane ekaṃsikabhāvaṃ gahetvā parihāro. Tenāha **‘‘gahaṇavasenā’’**tiādi. Tena ruḷhīvasena ‘‘natthi dinna’’ntiādīni apaṇṇakaṅgāni jātānīti dasseti.

104. 「有愛のために」とは、有貪の状態のために。「近くに」とは、近隣に。強固な見解からそれほど遠くないために有愛であり、相応しているからではない。実にそれは強固でなく、輪廻に含まれる諸法に執着すると知られるゆえに、「貪の観点から輪廻に執着する者のために」と言われた。一切の結び目(結縛)は渇愛の観点からのみ生じるゆえに、「渇愛の観点からの結縛のために」と言われた。「しかし無色界において彼に疑いはない」とは、伝承によって得られた決定を指して語られている。確かに悪趣の苦しみに決定して導くことによって虚無見等の無謬性は明白であるが、無分別には過失のない利益を決定的に達成するものが「無謬」であるとして非難し、過失のある利益の達成においても決定的である状態を受け取って回答としたのである。それゆえに「把握の観点から」等と言われた。それゆえに通称の観点から「施しはない」等が無謬の要素となったのだと示している。

105. Heṭṭhā tayo puggalāva hontīti attantapo parantapoti imasmiṃ catukke heṭṭhā tayo puggalā honti. Yathāvuttā pañcapi puggalā duppaṭipannāva, tato atthikavādādayo pañcapuggalā sammāpaṭipannatāya imasmiṃ catukke eko catutthapuggalova hoti. Etamatthaṃ dassetunti idha heṭṭhā vuttapuggalapañcakadvayaṃ imasmiṃ catukke eva saṅgahaṃ gacchatīti vibhāgena duppaṭipattisuppaṭipattiyo dassetuṃ bhagavā imaṃ desanaṃ ārabhīti. Yaṃ panettha atthato avibhattaṃ, taṃ suviññeyyameva.

105. 「下の三人の人である」とは、自らを苦しめる者、他者を苦しめる者というこの四種の人において下の三人の人である。上述の五人の人も誤った実践をする者であり、それ以降の有論者等の五人の人は正しく実践する者であることから、この四種の人においては一つの第四の人となる。「この意味を示すために」とは、ここで下に述べられた二組の五人の人がまさにこの四種の人の中に包含されるのだという分別によって、誤った実践と正しい実践を示すために世尊はこの説法を始められた、ということである。ここで実質において分別されていないものは、容易に理解できる。

Apaṇṇakasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

無謬経の注釈に対する幽微な意味の解明(複注)は完結した。

Niṭṭhitā ca gahapativaggavaṇṇanā.

そして居士品の注釈は終了した。