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3. Paribbājakavaggo3. 遊行者品

1. Tevijjavacchasuttavaṇṇanā

1. 三明ヴァッチャ経の解説

185. Tatthāti ekapuṇḍarīkasaññite paribbājakārāme. Anāgatapubbo lokiyasamudāhāravasena **‘‘cirassaṃ kho, bhante’’**tiādinā vuccati, ayaṃ panettha āgatapubbataṃ upādāya tathā vutto. Bhagavā hi kesañci vimuttijananatthaṃ, kesañci indriyaparipākatthaṃ, kesañci visesādhigamatthaṃ kadāci titthiyārāmaṃ upagacchati. Ananuññāya ṭhatvāti ananujānitabbe ṭhatvā. Anujānitabbaṃ siyā anaññātassa ñeyyassa abhāvato. Yāvatakañhi ñeyyaṃ, tāvatakaṃ bhagavato ñāṇaṃ, yāvatakañca bhagavato ñāṇaṃ tāvatakaṃ ñeyyaṃ. Tenevāha – ‘‘na tassa adiṭṭhamidhatthi kiñci, atho aviññātamajānitabba’’ntiādi (mahāni. 156; cūḷani. dhotakamāṇavapucchāniddesa 32; paṭi. ma. 1.121). Sabbaññutaññāṇena hi bhagavā āvajjetvā pajānāti. Vuttañhetaṃ ‘‘āvajjanapaṭibaddhaṃ buddhassa bhagavato ñāṇa’’nti (mi. pa. 4.1.2). Yadi evaṃ ‘‘caraṃ samāhito nāgo, tiṭṭhaṃ nāgo samāhito’’ti (a. ni. 6.43) idaṃ suttapadaṃ kathanti? Vikkhepābhāvadīpanapadametaṃ, na anāvajjanenapi ñāṇānaṃ pavattiparidīpanaṃ. Yaṃ panettha vattabbaṃ, taṃ heṭṭhā vitthārato vuttameva.

185. 「そこにおいて」とは、エカプンダリーカと呼ばれる遊行者の園において。世間の慣用表現によって以前に来たことがないことに関して「**久しぶりですね、世尊よ**」などと言われるが、ここでは以前に来たことがあることに基づいてそのように言われた。実に世尊はある者たちには解脱を生じさせるために、ある者たちには諸根を成熟させるために、ある者たちには特別な境地を獲得させるために、時に異学の園へと赴かれるのである。「承認せずして留まり」とは、承認すべきではないことに留まって。承認されるべきことがあるとすれば、知られない知るべき対象が存在しないことによる。実に知るべき対象がある限り、世尊の知恵があり、世尊の知恵がある限り、知るべき対象がある。それゆえにこそ「彼にとってここに見られないものは何もなく、また知られない知るべきものもない」などと説かれた。実に世尊は一切知智によって思念して知られるのである。「仏たる世尊の知恵は思念に結びついている」と説かれているとおりである。もしそうであるならば、「歩むとき象は定にあり、立つとき象は定にある」というこの経文はどうなのか? これは散乱がないことを示す句であり、思念することなしに知恵が生起することを説くものではない。ここで説かれるべきことは、下においてすでに詳細に説かれたとおりである。

186. Yāvadevāti idaṃ yathāruci pavatti viya aparāparuppattipi icchitabbāti tadabhāvaṃ dassento āha – **‘‘sakiṃ khīṇānaṃ āsavānaṃ puna khepetabbābhāvā’’**ti. Paccuppannajānanaguṇanti idaṃ dibbacakkhuñāṇassa paribhaṇḍañāṇaṃ anāgataṃsañāṇaṃ anādiyitvā vuttaṃ, tassa pana vasena anāgataṃsañāṇaguṇaṃ dassetīti vattabbaṃ siyā.

186. 「まさに〜まで」とは、意のままの生起のように再度の生起もまた望まれるべきであるというその不在を示して「**一度尽きた諸漏は再び滅ぼすべきものがないことから**」と説いた。「現在を知る徳」とは、これは天眼智の付属の知恵たる未来智を考慮に入れずに説かれたものであり、しかしその力によって未来智の徳を示すと説かれるべきであろう。

Gihiparikkhāresūti vatthābharaṇādidhanadhaññādigihiparikkhāresu. Gihiliṅgaṃ pana appamāṇaṃ, tasmā gihibandhanaṃ chinditvā dukkhassantakarā hontiyeva. Sati pana dukkhassantakiriyāya gihiliṅge te na tiṭṭhantiyevāti dassento **‘‘yepī’’**tiādimāha. Sukkhāpetvā samucchinditvā. Arahattaṃ pattadivaseyeva pabbajanaṃ vā parinibbānaṃ vāti ayaṃ nayo na sabbasādhāraṇoti āha **‘‘bhūmadevatā pana tiṭṭhantī’’**ti. Tattha kāraṇavacanaṃ **‘‘nilīyanokāsassa atthitāyā’’**ti. Araññapabbatādipavivekaṭṭhānaṃ nilīyanokāso. Sesakāmabhaveti kāmaloke. Laḷitajanassāti ābharaṇālaṅkāranaccagītādivasena vilāsayuttajanassa.

「在家の資具において」とは、衣服や装飾などの財産・穀物などの在家の資具において。しかし在家の相貌は基準ではない、それゆえに在家の束縛を断ち切って苦の終尽をなす者となるのである。しかし苦の終尽がなされたときには、在家の相貌において彼らは留まらない、と示すために「**〜たちもまた**」などを説いた。「枯渇させて」とは断ち切って。「阿羅漢果に達したまさにその日に出家するか、あるいは完全なる涅槃に入るか」というこの方法は普遍的ではないとして「**しかし地居天たちは留まる**」と説いた。そこにおける理由の言明は「**隠れる場所が存在することによって**」である。森林や山などの閑静な場所が隠れる場所である。「残りの欲界の生存において」とは欲界において。「華美な人々にとって」とは、装飾品や装身具、歌舞音曲などによる華やかさを伴った人々のことである。

Sopīti ‘‘so aññatra ekenā’’ti vutto sopi. Karato na karīyati pāpanti evaṃ na kiriyaṃ paṭibāhati. Yadi attānaṃyeva gahetvā katheti, atha kasmā mahāsatto tadā ājīvakapabbajjaṃ upagacchīti āha **‘‘tadā kirā’’**tiādi. Tassapīti na kevalaṃ aññesaṃ eva pāsaṇḍānaṃ, tassapi. Vīriyaṃ na hāpesīti tapojigucchavādaṃ samādiyitvā ṭhito virāgatthāya taṃ samādiṇṇavattaṃ na pariccaji, satthusāsanaṃ na chaḍḍesi. Tenāha – **‘‘kiriyavādī hutvā sagge nibbattatī’’**ti.

「彼もまた」とは、「あの一人を除いて」と説かれたその人のことである。「なす者に悪はなされない」とこのように行為(業)を否定しない。もし自分自身を取り上げて語るならば、なぜ大士はその時、邪命外道の出家へと赴いたのか、として「**その時、伝えられるところでは**」などと説いた。「彼にとっても」とは、他の宗派の者たちだけでなく、彼にとっても。「精進を減じなかった」とは、苦行嫌悪論を受持して留まり、離貪のためにその受持した誓戒を放棄せず、師の教えを捨てなかった。それゆえに「**行為論者となって天界に生ずる**」と説かれた。

Tevijjavacchasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

三明ヴァッチャ経の解説における幽玄なる意義の解明は完結した。

2. Aggivacchasuttavaṇṇanā

2. 火ヴァッチャ経の解説

187. Lokassa sassatatāpavattipaṭikkhepavasena pavatto vādo ucchedavādo eva hotīti sassataggāhābhāve ucchedaggāhabhāvato puna paribbājakena ‘‘asassato loko’’ti vadantena ucchedaggāho pucchito, bhagavatāpi so eva paṭikkhittoti āha **‘‘dutiye nāhaṃ ucchedadiṭṭhiko’’**ti. Antānantikādivasenāti ettha antānantikaggahaṇena antavā loko anantavā lokoti imaṃ vādadvayamāha. Ādi-saddena ‘‘taṃ jīvaṃ taṃ sarīra’’ntiādivādacatukkaṃ saṅgaṇhāti, itaraṃ pana dvayaṃ sarūpeneva gahitanti. Paṭikkhepo veditabboti ‘‘tatiye nāhaṃ antavādiṭṭhiko, catutthe nāhaṃ anantavādiṭṭhiko’’ti evamādinā paṭikkhepo veditabbo. ‘‘Hoti tathāgato paraṃ maraṇā’’ti ayampi sassatavādo, so ca kho aparantakappikavasena, ‘‘sassato loko’’ti pana pubbantakappikavasenāti ayametesaṃ viseso. ‘‘Na hoti tathāgato paraṃ maraṇā’’ti ayampi ucchedavādo, so ca kho sattavasena, ‘‘asassato loko’’ti pana sattasaṅkhāravasenāti vadanti.

187. 世界の常住の生起を否定することによって生じた所説は断滅論にほかならないのであり、常住の執着がないときには断滅の執着があることから、再び遊行者が「世界は非常住である」と言って断滅の執着を尋ね、世尊もまたそれを否定されたので、「**第二において私は断見者ではない**」と説かれた。「有辺・無辺などの力によって」において、ここで有辺・無辺の把握によって「世界は有辺である」「世界は無辺である」というこの二つの所説を説いている。「など」という語によって「命と身体は同一である」などの四つの所説を包括し、他の二つはそのままの形で捉えられている。「否定が知られるべきである」とは、「第三において私は有辺見者ではない、第四において私は無辺見者ではない」とこのように否定が知られるべきである。「如来は死後にも存在する」というこれもまた常住論であるが、それは未来劫の思索によるものであり、「世界は常住である」というのは過去劫の思索によるものである、というのがこれら両者の相違である。「如来は死後には存在しない」というこれもまた断滅論であるが、それは衆生の力によるものであり、「世界は非常住である」というのは衆生の諸行の力によるものである、と彼らは述べる。

189. Sappatibhayaṃ uppajjanato saha dukkhenāti sadukkhaṃ. Tenāha **‘‘kilesadukkhenā’’**tiādi. Tesaṃyevāti kilesadukkhavipākadukkhānaṃyeva. Saupaghātakanti sabādhaṃ. Saupāyāsanti saparissamaṃ saupatāpaṃ sapīḷaṃ. Sapariḷāhanti sadarathaṃ.

189. 恐怖を伴って生じることから苦しみを伴うので「苦を伴う」である。それゆえに「**煩悩の苦しみによって**」などと説かれた。「まさにそれらの」とは、まさに煩悩の苦しみと異熟の苦しみのことである。「害毒を伴う」とは侵害を伴う。「絶望を伴う」とは疲労を伴い、熱苦を伴い、圧迫を伴う。「熱悩を伴う」とは苦悩を伴う。

Kiñci diṭṭhigatanti imā tāva aṭṭha diṭṭhiyo mā hontu, atthi pana, bho gotama, yaṃ kiñci diṭṭhigataṃ gahitaṃ. Na hi tāya diṭṭhiyā vinā kañci samayaṃ pavattetuṃ yujjatīti adhippāyena pucchati. Apaviddhanti samucchedappahānavasena chaḍḍitaṃ. Paññāya diṭṭhanti vipassanāpaññāsahitāya maggapaññāya bhagavatā paṭividdhaṃ. Yattha uppajjanti, taṃ sattaṃ mathenti sammaddantīti mathitāti āha **‘‘mathitānanti tesaṃyeva vevacana’’**nti. Kañci dhammanti rūpadhammaṃ arūpadhammaṃ vā. Anupādiyitvāti aggahetvā.

「何らかの見解の偏執」とは、これら八つの見解はさておき、尊きゴータマよ、抱かれている何らかの見解の偏執は存在するのか。実にその見解なしにいかなる教説をも説くことは成り立たないではないか、という趣旨で尋ねている。「投げ捨てられた」とは遮断による断捨によって捨て去られた。「知恵によって見られた」とは、観慧を伴った道慧によって世尊によって通達された。生じる場所においてその衆生を攪乱し打ち砕くがゆえに「攪乱されたもの」であり、「**攪乱されたものとはまさにそれらの同義語である**」と説かれた。「何らかの法を」とは色法あるいは無色法を。「執着することなく」とは捉えることなく。

190. Na upetīti saṅkhaṃ na gacchatīti atthoti āha **‘‘na yujjatī’’**ti. Anujānitabbaṃ siyā anupādāvimuttassa kañcipi uppattiyā abhāvato. ‘‘Evaṃ vimuttacitto na upapajjatī’’ti kāmañcetaṃ sabhāvapavedanaṃ parinibbānaṃ, eke pana ucchedavādino ‘‘mayampi ‘satto āyatiṃ na upapajjatī’ti vadāma, samaṇo gotamopi tathā vadatī’’ti ucchedabhāveyeva patiṭṭhahissanti, tasmā bhagavā ‘‘na upapajjatīti kho vaccha na upetī’’ti āha. ‘‘Upapajjatī’’ti pana vutte sassatameva gaṇheyyāti yojanā. Sesadvayepi eseva nayo. Appatiṭṭhoti ucchedavādādivasena patiṭṭhārahito. Anālamboti tesaṃyeva vādānaṃ olambārammaṇassa abhāvena anālambo. Sukhapavesanaṭṭhānanti tesaññeva vādānaṃ sukhapavesanokāsaṃ mā labhatūti. Ananuññāya ṭhatvāti ‘‘na upapajjatī’’tiādinā anujānitabbāya paṭiññāya ṭhānahetu. Anuññampīti anujānitabbampi dutiyapañhaṃ paṭikkhipi. Pariyatto pana dhammo atthato paccayākāro evāti āha **‘‘dhammoti paccayākāradhammo’’**ti. Aññattha payogenāti imamhā niyyānikasāsanā aññasmiṃ micchāsamaye pavattappayogena, aniyyānikaṃ vividhaṃ micchāpaṭipattiṃ paṭipajjantenāti attho. ‘‘Aññavādiyakenā’’tipi pāṭho, paccayākārato aññākāradīpakaācariyavādaṃ paggayha tiṭṭhantenāti attho.

190. 「至らない」とは名称を得ないという意味である、として「**適合しない**」と説いた。無取解脱者にはいかなる生起も存在しないがゆえに承認されるべきであろう。「このように解脱した心は再生しない」とは、確かにこれは自性を明かす完全なる涅槃であるが、ある断滅論者たちは「我らも『衆生は未来において再生しない』と説き、沙門ゴータマもまたそのように説く」と断滅の状態にこそ立脚するであろう。それゆえに世尊は「ヴァッチャよ、『再生しない』ということは至らない」と説かれた。「再生する」と言われれば常住のみを捉えるだろう、と連結される。残りの二つにおいてもこの通則である。「立脚点なき」とは断滅論などの力による立脚点を欠いた。「拠り所なき」とは、それら諸々の所説の依処となる対象がないことによって拠り所がない。「安易に入り込む場所を」とは、それらの所説の安易に入り込む余地を得させないように。「承認せずして留まり」とは、「再生しない」などと承認されるべき言明に留まることを理由とする。「承認をも」とは、承認されるべき第二の問いをも否定した。しかし包括された法とは事実上、縁起の法にほかならないとして、「**法とは縁起の法である**」と説かれた。「他所での実践によって」とは、この解脱をもたらす教えとは異なる他の邪悪な教説において行われた実践によって、解脱をもたらさない種々の誤った実践を行うことによって、という意味である。「異なる教説に属することによって」という読みもあり、縁起とは異なる様態を示す師の教説を奉じて留まることによって、という意味である。

191. Appaccayoti anupādāno, nirindhanoti attho.

191. 「無縁」とは無取(燃料なき)、燃料がないという意味である。

192. Yena rūpenāti yena bhūtupādādibhedena rūpadhammena. Taṃ rūpaṃ tappaṭibaddhasaṃyojanappahānena khīṇāsava-tathāgatassa pahīnaṃ anuppattidhammataṃ āpannaṃ. Tena vuttaṃ pāḷiyaṃ ‘‘anuppādadhamma’’ntiādi. Aññesaṃ jānanāya abhāvaguṇatāya guṇagambhīro. ‘‘Ettakā guṇā’’ti pamāṇaṃ gaṇhituṃ na sakkuṇeyyo. ‘‘Īdisā etassa guṇā’’ti pariyogāhituṃ asakkuṇeyyatāya duppariyogāḷhoti. Dujjānoti agādhatāya gambhīro ‘‘ettakāni udakaḷhakasatānī’’tiādinā pametuṃ na sakkāti appameyyo, tato eva dujjāno. Evamevānti yathā mahāsamuddo gambhīro appameyyo dujjāno, evameva khīṇāsavopi guṇavasena, tasmā ayaṃ rūpādiṃ gahetvā rūpītiādivohāro bhaveyya, parinibbutassa pana tadabhāvā tathā paññāpetuṃ na sakkā, tato taṃ ārabbha upapajjatītiādi na yujjeyya. Yathā pana vijjamāno eva jātavedo byattena purisena nīyamāno puratthimādidisaṃ gatoti vucceyya, na nibbuto, evaṃ khīṇāsavopīti dassento **‘‘evamevā’’**tiādimāha.

192. 「いかなる色によって」とは、四大種と所造色などの区分によるいかなる色法によって。その色は、それに結びついた結の断捨によって、漏尽者たる如来にとって断ぜられ、非生起の性質に至った。それゆえに聖典において「不生起の法」などと説かれた。他者の知見の及ばない徳性によって深遠な徳を持つ。「これだけの徳である」と量を捉えることができない。「彼の徳はこのようなものである」と測り知ることができないことによって「測り知りがたい」。「知りがたい」とは底知れぬ深さによって深遠であり、「これだけの百アーラハカの水である」などと測ることができないがゆえに「無量」であり、それゆえに知りがたい。「このように」とは、大海が深遠で無量で知りがたいように、漏尽者もまた徳の力によって同様である。それゆえにこの者は色などを捉えて「色ある者」などの世間の表現がなされるであろうが、完全なる涅槃に入った者にはそれが存在しないことから、そのように規定することはできず、それゆえに彼に関して「再生する」などは適合しないであろう。しかし存在している火こそが知恵ある人によって運ばれるとき、「東などの方角へ行った」と言われるのであり、消え去った火ではないように、漏尽者もまた同様である、と示すために「**このように**」などを説いた。

Aniccatāti ettha aniccatāgahaṇaṃ asāranidassanaṃ. Tena yathā so sālarukkho sākhāpalāsādiasārāpagamena suddho sāre patiṭṭhito, evamayaṃ dhammavinayo sāsavasaṅkhātaasāravigamena lokuttaradhammasāre patiṭṭhitoti dasseti. Sesaṃ suviññeyyameva.

「無常性」において、ここでの無常性の把握は無実質さの例示である。これによって、あの沙羅樹が枝や葉などの実質ならざるものの脱落によって純粋となり、心材(実質)に確立したように、この法と律もまた有漏と呼ばれる実質ならざるものの除去によって出世間法の心材に確立している、ということを示す。残りは実に容易に理解できる。

Aggivacchasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

火ヴァッチャ経の解説における幽玄なる意義の解明は完結した。

3. Mahāvacchasuttavaṇṇanā

3. 大ヴァッチャ経の解説

193. Saha kathā etassa atthīti sahakathī, ‘‘mayaṃ pucchāvasena tumhe vissajjanavasenā’’ti evaṃ sahapavattakathoti attho. Etasseva kathitāni, tattha paṭhame vijjāttayaṃ desitaṃ, dutiye agginā dassitanti tevijjavacchasuttaṃ aggivacchasuttanti nāmaṃ visesetvā vuttaṃ. Sīghaṃ laddhiṃ na vissajjenti, yasmā saṅkhārānaṃ niyatoyaṃ vināso anaññasamuppādo, hetusamuppannāpi na cirena nijjhānaṃ khamanti, na lahuṃ. Tenāha ‘‘vasātela **…pe… sujjhantī’’**ti. Pacchimagamanaṃ ñāṇassa paripākaṃ gatattā. Yaṭṭhiṃ ālambitvā udakaṃ tarituṃ otaranto puriso **‘‘yaṭṭhiṃ otaritvā udake patamāno’’**ti vutto. Kammapathavasena vitthāradesananti saṃkhittadesanaṃ upādāya vuttaṃ. Tenāha **‘‘mūlavasena cetthā’’**tiādi. Vitthārasadisāti kammapathavasena idha desitadesanāva mūlavasena desitadesanaṃ upādāya vitthārasadisā. Vitthāradesanā nāma natthīti na kevalaṃ ayameva, atha kho sabbāpi buddhānaṃ nippariyāyena ujukena niravasesato vitthāradesanā nāma natthi desanāñāṇassa mahāvisayatāya karaṇasampattiyā ca tajjāya mahānubhāvattā sabbaññutaññāṇassa. Sabbaññutaññāṇasamaṅgitāya hi avasesapaṭisambhidānubhāvitāya aparimitakālasambhatañāṇasambhārasamudāgatāya kadācipi parikkhayānarahāya anaññasādhāraṇāya paṭibhānapaṭisambhidāya pahūtajivhāditadanurūparūpakāyasampattisampadāya vitthāriyamānā bhagavato desanā kathaṃ parimitā paricchinnā bhaveyya, mahākāruṇikatāya pana bhagavā veneyyajjhāsayānurūpaṃ tattha tattha parimitaṃ paricchinnaṃ katvā niṭṭhapeti. Ayañca attho mahāsīhanādasuttena (ma. ni. 1.146 ādayo) dīpetabbo. Sabbaṃ saṃkhittameva attajjhāsayavasena akathetvā bodhaneyyapuggalajjhāsayavasena desanāya niṭṭhāpitattā. Na cettha dhammasāsanavirodho pariyāyaṃ anissāya yathādhammaṃ dhammānaṃ bodhitattā sabbalahuttā cāti.

193. 「共に語る(sahakathī)」とは、この者と共に語りがあるということであり、「我らは質問によって、あなた方は答えることによって」というように、共に行われる語りを持つ者という意味である。この者自身に説かれたものであり、そこにおいて初めの経では三明が説かれ、第二の経では火によって示されたので、『三明ヴァッチャ経』『火ヴァッチャ経』と名を区別して説かれた。速やかに所見を捨てないのは、諸行にとってこの滅びは決定されたものであり、他のものから生じたのではないからであり、原因によって生じたものであっても、速やかには観察に耐えず、軽々しくはないからである。それゆえに「獣脂や油が……乃至……清まる」と言われた。最後の到達は、智の円熟に達したことによる。杖にすがって水を渡ろうとして降りていく人を「杖を降ろして水の中に落ちる者」と言った。業道による詳細な教説とは、要約された教説に依拠して説かれたものである。それゆえに「根源によりて、またここに……」等と言われた。詳細に似ているとは、ここで業道により説かれた教説こそが、根源により説かれた教説に依拠して詳細に似ているということである。詳細な教説なるものは存在しないとは、単にこれだけでなく、実に諸仏の無差別で直截かつ無余の詳細な教説なるものは一切存在しないということである。それは教説の智の広大な領域性と、それに適った全知の智の広大な威神力による手段の成就によるからである。実に全知の智を具足し、残る四無礙解を自在に用いて、無量劫に積み重ねた智の資糧から成就され、いかなるときも尽きることなく、他と共通しない弁才無礙解と、広大な舌などの相応しい色身の成就の具足によって展開される世尊の教説が、どうして限定され、区切られたものであり得ようか。しかし大悲心によって、世尊は化導されるべき者の意向に応じ、処々において限定し、区切って完成されるのである。そしてこの意味は『大師子吼経』等によって明らかにされるべきである。すべては要約されたものに過ぎず、自身の意向によって語るのではなく、覚るべき人の意向によって教説が完成されるからである。そしてここには教法の乱れはない。方便に依らず、法の如くに諸法を覚らせたからであり、極めて速やかであるからである。

194. Satta dhammā kāmāvacarā sampattasamādānaviratīnaṃ idhādhippetattā.

194. 「七つの法」とは欲界の法である。ここでは現前における受持の離悪が意図されているからである。

Aniyametvāti ‘‘sammāsambuddho, sāvako’’ti vā niyamaṃ visesena akatvā. Attānameva…pe… veditabbaṃ, tathā hi paribbājako ‘‘tiṭṭhatu bhavaṃ gotamo’’ti āha.

「特定せずして」とは、「正等覚者」あるいは「声聞」と格別に特定することなく、という意味である。「自身をこそ……乃至……知るべし」とは、実に遍歴行者が「尊者ゴータマはさておき」と言ったからである。

195. Satthāva arahā hoti paṭipattiyā pāripūribhāvato. Tasmiṃ byākateti tasmiṃ ‘‘ekabhikkhupi sāvako’’tiādinā suṭṭhu pañhe kathite.

195. 「師のみが」阿羅漢である。実践の円満性による。「それが答えられたとき」とは、その「一人の比丘の声聞であっても」等と問いが立派に語られたときのことである。

196. Sampādakoti paṭipattisampādako.

196. 「成就させる者」とは、実践を成就させる者である。

197. Sekhāya vijjāyāti sekhalakkhaṇappattāya maggapaññāya sātisayaṃ katvā karaṇavasena vuttā, phalapaññā pana tāya pattabbattā kammabhāvena vuttā. Tenāha **‘‘heṭṭhimaphalattayaṃ pattabba’’**nti. Imaṃ panettha aviparītamatthaṃ pāḷito eva viññāyamānaṃ appaṭivijjhanato vitaṇḍavādī ‘‘yāvatakaṃ sekhena pattabbaṃ, anuppattaṃ taṃ mayā’’ti vacanalesaṃ gahetvā ‘‘arahattamaggopi anena pattoyevā’’ti vadati. Evanti idāni vuccamānāya gāthāya.

197. 「有学の明によって」とは、有学の相に達した道智によって、卓越したものとして手段として説かれたものである。一方、果智はその道智によって得られるべきものであるため、所作(客体)として説かれている。それゆえに「下位の三果を得るべきである」と言われた。しかしここで、聖典からのみ知られるこの誤りなき意味を洞察しないために、論争者は「有学によって得られるべきところのものを、私は得た」という言葉の口実を捕らえて、「阿羅漢道もまた彼によって得られたのである」と言う。「このように」とは、今説かれる詩句による。

Kilesāni pahāya pañcāti pañcorambhāgiyasaṃyojanasaṅkhāte saṃkilese pahāya pajahitvā, pahānahetu vā. Paripuṇṇasekhoti sabbaso vaḍḍhitasekhadhammo. Aparihānadhammoti aparihānasabhāvo. Na hi yassa phātigatehi sīlādidhammehi parihāni atthi, samādhimhi paripūrakāritāya cetovasippatto. Tenāha **‘‘samāhitindriyo’’**ti. Aparihānadhammattāva ṭhitatto.

「五つの煩悩を捨てて」とは、五下分結と呼ばれる雑染を捨て去って、あるいは捨てる原因によって、という意味である。「円満せる有学」とは、あらゆる点で増大した有学の法を持つ者。「不退転の法ある者」とは、衰退しない性質を持つ者。実に、増大した戒などの法から退転することがない者は、三昧において満たすことをなす者として心自在に達している。それゆえに「諸根が定まった」と言われた。不退転の法ある者であるからこそ、「確立せる者」である。

Anāgāminā hi asekhabhāvāvahā dhammā paripūretabbā, na sekhabhāvāvahāti so ekantaparipuṇṇe sekho vutto. Etaṃ na buddhavacananti ‘‘maggo bahucittakkhaṇiko’’ti etaṃ vacanaṃ na buddhavacanaṃ anantarekantavipākadānato, bahukkhattuṃ pavattane payojanābhāvato ca lokuttarakusalassa, ‘‘samādhimānantarikaññamāhu (khu. pā. 6.5; su. ni. 228), na pāraṃ diguṇaṃ yantī’’ti (su. ni. 719) evamādīni suttapadāni etassatthasādhakāni. Orambhāgiyasaṃyojanappahānena sekkhadhammaparipūribhāvassa vuttatāya attho tava vacanena virujjhatīti. Assa āyasmato vacchassa.

実に不還者によって、無学の状態をもたらす諸法は満たされるべきであり、有学の状態をもたらす諸法ではない。それゆえに彼は決定して円満せる有学と呼ばれる。「これは仏の言葉ではない」とは、「道は多数の心刹那である」というこの言葉は、仏の言葉ではない。直後に決定的な異熟を与えるからであり、出世間の善にとって多数回にわたり生起することに目的がないからである。「無間の三昧と他の者が言う」「彼らは彼岸へ二度行くことはない」等の経文が、この意味を論証するものである。下分結の断滅によって有学の法の円満性が説かれているため、「その意味はあなたの言葉と矛盾する」ということになる。「彼の」とは、尊者ヴァッチャのことである。

198. Abhiññā vā kāraṇanti yañhi taṃ tatra tatra sakkhibhabbatāsaṅkhātaṃ iddhividhapaccanubhavanādi, tassa abhiññā kāraṇaṃ. Atha iddhividhapaccanubhavanādi abhiññā, evaṃ sati abhiññāpādakajjhānaṃ kāraṇaṃ. Avasāne chaṭṭhābhiññāya pana arahattaṃ. Ettha ca yasmā paṭhamasutte āsavakkhayo adhippeto, āsavā khīṇā eva, na puna khepetabbā, tasmā tattha ‘‘yāvadevā’’ti na vuttaṃ. Idha phalasamāpatti adhippetā, sā ca punappunaṃ samāpajjīyati, tasmā ‘‘yāvadevā’’ti vuttaṃ. Tato eva hi **‘‘arahattaṃ vā kāraṇa’’**nti vuttaṃ. Tañhi ‘‘kudāssu nāmāhaṃ tadāyatanaṃ upasampajja viharissāmi, yadariyā etarahi upasampajja viharantī’’ti (ma. ni. 1.465; 3.307) anuttaresu vimokkhesu pihaṃ upaṭṭhapetvā abhiññā nibbattentassa kāraṇaṃ, tayidaṃ sabbasādhāraṇaṃ na hotīti sādhāraṇavasena naṃ dassento **‘‘arahattassa vipassanā vā’’**ti āha.

198. 「あるいは神通が原因である」とは、処々において現証に堪え得る状態と呼ばれる神変の種々を体験すること等のことであり、それに対して神通が原因である。あるいは神変の種々を体験すること等が神通であり、そうであるなら神通の基礎となる禅定が原因である。しかし最後の第六の神通にとっては阿羅漢果が原因である。そしてここで、初めの経においては漏尽が意図されており、諸漏は尽きているのであって再び尽くされるべきではないため、そこでは「まさに……まで」とは言われなかった。ここでは果定が意図されており、それは何度も入定されるものであるため、「まさに……まで」と言われた。まさにそれゆえに「あるいは阿羅漢果が原因である」と言われたのである。実に「いつの日か、聖者たちが今入定して住しているその処に入定して住するようになろうか」と、無上の解脱に憧れを起こして神通を生じさせる者にとっての原因であり、これはすべての人に共通するものではないため、共通の観点からそれを示して「あるいは阿羅漢果のvipassanā(観)である」と言われた。

200. Paricaranti nāma vippakatabrahmacariyavāsattā. Pariciṇṇo hoti sāvakena nāma satthu dhamme kattabbā paricariyā sammadeva niṭṭhāpitattā. Tenāha **‘‘iti…pe… thero evamāhā’’**ti. Tesaṃ guṇānanti tesaṃ asekkhaguṇānaṃ. Sesaṃ suviññeyyameva.

200. 「仕える」とは、梵行の生活を中断していることによる。「よく仕えられた」とは、声聞として師の教法になされるべき奉仕が正しく完了したことによる。それゆえに「このように……乃至……長老はこのように言った」と言われた。「それらの徳の」とは、それら無学の徳のことである。残りは容易に理解できる。

Mahāvacchasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

『大ヴァッチャ経の註釈の釈(復註)』は完了した。

4. Dīghanakhasuttavaṇṇanā

4. 長爪経の註釈

201. Khananaṃ khataṃ, sūkarassa khataṃ ettha atthīti sūkarakhatā, sūkarassa vā imasmiṃ buddhuppāde paṭhamaṃ khataṃ upādāya sūkarakhatā, tāya. Evaṃnāmaketi evaṃ itthiliṅgavasena laddhanāmake. Paṃsudhoteti dhotapaṃsuke. Otaritvā abhiruhitabbanti pakatibhūmito anekehi sopānaphalakehi otaritvā puna leṇadvāraṃ katipayehi abhiruhitabbaṃ.

201. 掘ること(khananaṃ)が「掘られたもの(khataṃ)」である。豚によって掘られたものがここにあるので「豚が掘った場所(sūkarakhatā)」であり、あるいはこの仏の出現において豚によって最初に掘られたことに基づいて「豚が掘った場所」であり、それによって。「そのような名において」とは、このように女性名詞として得られた名において。「塵が洗い流された」とは、塵が清められた。「降りて登るべき」とは、通常の地面から多くの階段板で降り、再び洞窟の入り口へと少数の階段で登るべきである、ということである。

Ṭhitakovāti mātulassa ṭhitattā tattha sagāravasapatissavasena ṭhitakova. Kiñcāpi sabba-saddo avisesato anavasesapariyādāyako, vatthuadhippāyānurodhī pana saddappayogoti tamatthaṃ sandhāya paribbājako **‘‘sabbaṃ me nakkhamatī’’**ti āha. Yā loke manussaupapattiyotiādikā upapattiyo, tā anatthasamudāgatā tattha tattheva sattānaṃ ucchijjanato, tasmā samayavādīhi vuccamānā sabbā āyatiṃ uppajjanaupapatti na hoti. Jalabubbuḷakā viya hi ime sattā tattha tattha samaye uppajjitvā bhijjanti, tesaṃ tattha paṭisandhi natthīti assa adhippāyo. Tenāha **‘‘paṭisandhiyo’’**tiādi. Assa adhippāyaṃ muñcitvāti yenādhippāyena paribbājako ‘‘sabbaṃ me nakkhamatī’’ti āha, taṃ tassa adhippāyaṃ jānantopi ajānanto viya hutvā tassa akkhare tāva dosaṃ dassentoti padesasabbaṃ sandhāya tena vuttaṃ, sabbasabbavisayaṃ katvā tattha dosaṃ gaṇhanto. Yathā loke kenaci ‘‘sabbaṃ vuttaṃ, taṃ musā’’ti vutte tassa vacanassa sabbantogadhattā musābhāvo āpajjeyya, evaṃ imassapi ‘‘sabbaṃ me nakkhamatī’’ti vadato tathā pavattā diṭṭhipi nakkhamatīti atthato āpannameva hoti. Tenāha bhagavā – ‘‘esāpi te diṭṭhi nakkhamatī’’ti. Yathā pana kenaci ‘‘sabbaṃ vuttaṃ musā’’ti vutte adhippāyānurodhinī saddappavatti, tassa vacanaṃ muñcitvā tadaññesameva musābhāvo ñāyāgato, evamidhāpi ‘‘sabbaṃ me nakkhamatī’’ti vacanato yassā diṭṭhiyā vasena ‘‘sabbaṃ me nakkhamatī’’ti tena vuttaṃ, taṃ diṭṭhiṃ muñcitvā tadaññameva yathādhippetaṃ sabbaṃ nakkhamatīti ayamattho ñāyāgato, bhagavā pana vādīvaro sukhumāya āṇiyā thūlaṃ āṇiṃ nīharanto viya upāyena tassa diṭṭhigataṃ nīharituṃ tassa adhippāyena avatvā saddavasena tāva labbhamānaṃ dosaṃ dassento **‘‘yāpi kho te’’**tiādimāha. Tena vuttaṃ – ‘‘assa adhippāyaṃ muñcitvā akkhare tāva dosaṃ dassento’’ti.

「立ったままで」とは、叔父が立っていたため、そこにおいて敬意と慎み深さによって立ったままで、ということである。たとえ「一切」という言葉が無差別に余すところなくすべてを包摂するとしても、言葉の用法は文脈の意図に従うものであるため、その意味を意図して遍歴行者は「一切は私には忍ばれない」と言った。世間において人間の生まれること等の諸々の生があるが、それらは無益から生じたものであり、その場その場で衆生は断滅するからであり、それゆえに教義論者たちによって語られる未来に生じる一切の再生は存在しない。水泡のようにこれら衆生はその場その場の機会に生じては破滅し、彼らにそこでの再生はない、というのが彼の意図である。それゆえに「再生……」等と言われた。「彼の意図を差し置いて」とは、遍歴行者が「一切は私には忍ばれない」と言ったその意図を、知りながらも知らないかのようにして、まずその文字における誤りを示すために、一部分の一切を意図して彼が言ったことを、すべての一切を対象としてそこにおける誤りを捉えたのである。世間において誰かが「語られたことは一切、嘘である」と言ったとき、その言葉自体も一切に含まれるがゆえに嘘であるということになるように、この者にとっても「一切は私には忍ばれない」と言うなら、そのように生じた見解も忍ばれないということが意味として必然的に帰結する。それゆえに世尊は「そのあなたの見解も忍ばれないのか」と言われた。しかし誰かが「語られたことは一切、嘘である」と言ったとき、言葉の運用は意図に従うものであり、その言葉自身を除外してそれ以外のものこそが嘘であると論理的に導かれるように、ここでも「一切は私には忍ばれない」という言葉から、それによって「一切は私には忍ばれない」と言われたその見解を除外して、それ以外の意図された通りの一切が忍ばれないというこの意味が論理的に導かれるのであるが、論客の最高者である世尊は、微細な楔によって太い楔を取り出すかのように巧みな手段によって彼の偏執した見解を取り除くため、彼の意図によって語るのではなく、まず言葉によって得られる誤りを示して「あなたが……」等と言われた。それゆえに「彼の意図を差し置いて、まず文字における誤りを示して」と言われた。

Paribbājako pana yaṃ sandhāya ‘‘sabbaṃ me nakkhamatī’’ti mayā vuttaṃ, ‘‘ayaṃ so’’ti yathāvuttadosapariharaṇatthaṃ tasmiṃ atthe vuccamāne esa doso sabbo na hoti, evampi samaṇo gotamo mama vāde dosameva āropeyyāti attano ajjhāsayaṃ niguhitvā yathāvuttadosaṃ pariharitukāmo **‘‘esā me’’**tiādimāha. Tattha tampassa tādisamevāti yaṃ ‘‘sabbaṃ me nakkhamatī’’ti gahitaṃ vatthu, tampi tādisameva bhaveyyāti. Ayañca sabbantogadhadiṭṭhi mayhampi diṭṭhivatthu, taṃ me khameyyavāti. Yasmā pana ‘‘esāpi diṭṭhi tuyhaṃ nakkhamatī’’ti yāpi diṭṭhi vuttā bhavatā gotamena, sāpi mayhaṃ nakkhamati, tasmā sabbaṃ me nakkhamatevāti paribbājakassa adhippāyo. Tenāha – **‘‘taṃ pariharāmīti saññāya vadatī’’**ti. Tathā ca vakkhati **‘‘tasmāpi ucchedadiṭṭhi mayhaṃ nakkhamatī’’**ti. ‘‘Esā me diṭṭhī’’ti yā ṭhitibhūtā diṭṭhi, tāya ‘‘sabbaṃ me nakkhamatī’’ti panettha sabbaggahaṇena gahitattā āha – **‘‘atthato panassa esā diṭṭhi na me khamatīti āpajjatī’’**ti. Ayaṃ dosoti dassento āha **‘‘yassa panā’’**tiādi. Esāti diṭṭhi. Rucitanti diṭṭhidassanena abhinivisitvā rocetvā gahitaṃ. Tena hi diṭṭhiakkhamena arucitena bhavitabbanti sati diṭṭhiyā akkhamabhāve tato tāya gahitāya khameyya rucceyya yathā, evaṃ sabbassa akkhamabhāveti aparabhāge sabbaṃ khamati ruccatīti āpajjati. Na panesa taṃ sampaṭicchatīti esa ‘‘sabbaṃ me nakkhamatī’’ti evaṃ vadanto ucchedavādī taṃ vuttanayena sabbassa khamanaṃ ruccanaṃ na sampaṭicchati. Ñāyena vuttamatthaṃ kathaṃ na sampaṭicchatīti āha **‘‘kevalaṃ tassāpi ucchedadiṭṭhiyā ucchedameva gaṇhātī’’**ti. Sabbesañhi dhammānaṃ āyatiṃ uppādaṃ aruccitvā taṃ sandhāya ayaṃ ‘‘sabbaṃ me nakkhamatī’’ti vadati, ucchedadiṭṭhikesu ca ucchinnesu kuto ucchedadiṭṭhisabhāvoti.

しかし遍歴行者は、私が「一切は私には忍ばれない」と言った意図は「これである」と前述の誤りを回避するためにその意味が語られるとしても、この誤りはすべて解消するわけではなく、それでも沙門ゴータマは私の主張に誤りを負わせるであろうと考え、自身の意図を隠して前述の誤りを回避しようとして「これこそが私の……」等と言った。そこにおいて「彼にとってそれもまた同様である」とは、「一切は私には忍ばれない」と捉えられた事柄、それもまた同様であろうということである。そして一切を包摂するこの見解は私にとっても見解の対象であり、それが私に忍ばれようか、と。しかし「この見解もあなたには忍ばれないのか」と尊者ゴータマによって語られたその見解もまた私には忍ばれないので、それゆえに一切は私には忍ばれないのだ、というのが遍歴行者の意図である。それゆえに「それを回避しようという思いで語る」と言われた。そしてそのように「それゆえに断見も私には忍ばれない」と後に語るであろう。「これこそが私の見解である」と確立された見解、それによって「一切は私には忍ばれない」というここにおける一切の把握によって捉えられているため、「意味の上では、彼にとってこの見解は私には忍ばれないということに帰着する」と言われた。「この誤りを」示すために「しかしその者にとって……」等と言われた。「これ」とは見解のこと。「好まれたもの」とは、見解を洞察して固執し、好んで捉えられたもの。「それゆえに見解が忍ばれず、好まれないものであらねばならない」とは、見解が忍ばれない状態にあるなら、それからその捉えられたものが忍ばれ好まれるように、そのように一切が忍ばれない状態において、後の段階では一切が忍ばれ好まれるということに帰着する。しかし「彼はそれを受け入れない」とは、「一切は私には忍ばれない」とこのように言う断滅論者は、前述の論理による一切の忍受や好愛を受け入れない。論理によって語られた意味をなぜ受け入れないのかと言えば、「ただその断見においても断滅のみを捉える」と言われた。実に一切の諸法の未来における生起を好まず、それを意図してこの者は「一切は私には忍ばれない」と言うのであり、断見を持つ者たちが断滅したときに、どこに断見の自性があろうか、ということである。

Tenāti tena kāraṇena, yasmā idhekacce sattā īdisaṃ diṭṭhiṃ paggayha tiṭṭhanti, tasmāti vuttaṃ hoti. Pajahanakena vā cittena ekajjhaṃ gahetvā pajahanakehi appajahanake niddhāretuṃ bhagavā ‘‘ato…pe… bahutarā’’ti avocāti āha – **‘‘pajahanakesu nissakka’’**nti yathā ‘‘pañcasīlehi pabhāvanā paññavantatarā’’ti. **‘‘Bahū’’**ti vatvā na kevalaṃ bahū, atha kho ativiya bahūti dassento **‘‘bahutarā’’**ti āha. **‘‘Bahū hī’’**ti nayidaṃ nissakkavacanaṃ, atha kho paccattavacanaṃ. Kathaṃ hi-saddoti āha **‘‘hi-kāro nipātamatta’’**nti. Anissakkavacanaṃ tāva tassa pajahanakānaṃ bahubhāvato tepi parato ‘‘bahutarā’’ti vuccīyanti. Mūladassananti ye tādisaṃ dassanaṃ paṭhamaṃ upādiyanti, tajjātikameva pacchā gahitadassanaṃ. Vijātiyañhi paṭhamaṃ gahitadassanaṃ appahāya vijātiyassa gahaṇaṃ na sambhavati viruddhassa abhinivesassa saha anavaṭṭhānato. Aviruddhaṃ pana mūladassanaṃ avissajjitvā visayādibhedabhinnaṃ aparadassanaṃ gahetuṃ labbhati. Tenāha **‘‘ettha cā’’**tiādi.

「それによって」とは、その原因によって、という意味であり、この世の一部の衆生はこのような見解を奉じて留まるがゆえに、と言われたことになる。あるいは捨てる心によって一つに捉えて、捨てる者たちから捨てない者たちを抽出するために、世尊は「これより……乃至……より多い」と仰せられたのであり、「捨てる者たちにおいて離格である」と言われた。例えば「五戒よりも修行によって智慧ある者となる」と言うが如しである。「多い」と言った上で、単に多いだけでなく極めて多いことを示して「より多い」と言われた。「実に多い」とは離格の語ではなく、主格の語である。「hi」という語はどういうことかと言えば、「hiの字は小辞に過ぎない」と言われた。まずその離格でない言葉について、捨てる者たちが多いことから、彼らもまた他者より「より多い」と言われるのである。「根本の見解」とは、そのような見解を最初に受容する者たちにとって、同種のものこそが後から捉えられる見解となる。異種の最初に捉えた見解を捨てずに、異種のものを捉えることは生じ得ない。矛盾する執着が同時に共存することはないからである。しかし矛盾しない根本の見解を捨てることなく、領域などの違いによって分かれた別の見解を捉えることは可能である。それゆえに「そしてここにおいて……」等と言われた。

Tattha kiñcāpi ekaccasassatavādo sassatucchedābhinivesānaṃ vasena yathākkamaṃ sassatucchedaggāhanajātiko, ucchedaggāhena pana sassatābhinivesassa taṃgāhena ca asassatābhinivesassa virujjhanato ubhayatthapi **‘‘ekaccasassataṃ vā gahetuṃ na sakkā’’**ti vuttaṃ, tathā **‘‘sassataṃ vā ucchedaṃ vā na sakkā gahetu’’**nti ca. Mūlasassatañhi paṭhamaṃ gahitaṃ. Āyatanesupi yojetabbanti paṭhamaṃ cakkhāyatanaṃ sassatanti gahetvā aparabhāge na kevalaṃ cakkhāyatanameva sassataṃ, sotāyatanampi sassataṃ, ghānāyatanādipi sassatanti gaṇhātītiādinā yojetabbaṃ. Āyatanesupīti pi-saddena dhātūnaṃ indriyānampi gāho daṭṭhabbo. Idaṃ sandhāyāti ‘‘mūle sassata’’ntiādinā vuttapaṭhamaggāhassa samānajātiyaṃ aparaggāhaṃ sandhāya.

そこにおいて、一分常見論は常見と断見への執着によって順次に常見・断見の捉え方に準じるものであるが、断見の把握によって常見への執着が、それの把握によって日常的な常見でない執着が矛盾するため、両方において「一分常見を捉えることはできない」と言われ、同様に「常見あるいは断見を捉えることはできない」と言われた。根本の常見こそが最初に捉えられたからである。「処においても適用されるべきである」とは、最初に眼処を常住であると捉えて、後の段階で単に眼処だけでなく耳処も常住であり、鼻処等も常住であると捉える等と適用されるべきである。「処においても」の「も」という語によって、界や根の把握も知られるべきである。「これを意図して」とは、「根本において常見」等と説かれた最初の把握と同種の別の把握を意図してのことである。

Dutiyavāre paṭhamavāre vuttasadisaṃ vuttanayeneva veditabbaṃ. Tattha ādīnavaṃ disvāti ‘‘yadi rūpaṃ sassataṃ siyā, nayidaṃ ābādhāya saṃvatteyya. Yasmā ca kho idaṃ rūpaṃ asassataṃ, tasmā abhiṇhapaṭipīḷanaṭṭhena udayavayavantatāya rūpaṃ aniccaṃ saṅkhataṃ paṭiccasamuppannaṃ, sassatābhiniveso micchā’’tiādinā tattha sassatavāde ādīnavaṃ dosaṃ disvā. Oḷārikanti tasmā paṭipīḷanaṭṭhena ayāthāvaggāhatāya rūpaṃ na saṇhaṃ oḷārikameva. Vedanādīnampi aniccādibhāvadassanaṃ rūpavedanāādīnaṃ samānayogakkhamattā. Vissajjetīti pajahati.

第二の巡りにおいては、第一の巡りで説かれたのと同様に、説かれた論理によって知られるべきである。そこにおいて「過患を見て」とは、「もし色(物質)が常住であるなら、これは病に帰することはなかろう。しかし実にこの色は非常住であるがゆえに、絶え間なく圧迫されるという意味で、生滅あるものとして色は無常であり、有為であり、縁起したものであり、常住への執着は誤りである」等と、そこにおける常見における過患と欠陥を見て、ということである。「粗大である」とは、それゆえに圧迫されるという意味で、事実と異なる把握であるがゆえに、色は微細ではなく粗大に過ぎない。「受などについても無常などの状態を見ること」は、色と受などが等しく結合に耐え得るからである。「捨てる」とは、放擲することである。

Tisso laddhiyoti sassatucchedaekaccasassatadiṭṭhiyo. Yasmā sassatadiṭṭhikā vaṭṭe rajjanassa āsannā. Tathā hi te olīyantīti vuccanti, bhavābhavadiṭṭhīnaṃ vasena imesaṃ sattānaṃ saṃsārato sīsukkhipanaṃ natthīti etāva tisso visesato gahetabbā.

「三つの所見」とは、常見、断見、一分常見の見解のことである。常見論者たちは輪廻に執着することに近いからである。実に彼らは沈滞すると言われ、有見と無見によってこれらの衆生には輪廻から頭をもたげることはないため、これら三つが特に把握されるべきである。

Idhalokaṃ paralokañca atthīti jānātīti ettāvatā sassatadassanassa appasāvajjatākāraṇamāha, vaṭṭaṃ assādeti, abhinandatīti iminā dandhavirāgatāya. Tenāha **‘‘tasmā’’**tiādi. Idhalokaṃ paralokañca atthīti jānātīti iminā tāsu tāsu gatīsu sattānaṃ saṃsaraṇaṃ paṭikkhipatīti dasseti, sukatadukkaṭānaṃ kammānaṃ phalaṃ atthīti jānātīti iminā kammaphalaṃ. Kusalaṃ na karotīti iminā kammaṃ, akusalaṃ karonto na bhāyatīti iminā puññāpuññāni sabhāvato jāyantīti dasseti. Vaṭṭaṃ assādeti abhinandati tanninnabhāvato. Sīghaṃ laddhiṃ jahituṃ na sakkoti vaṭṭupacchedassa aruccanato. Ucchedavādī hi tasmiṃ bhave ucchedaṃ maññati. Tato paraṃ idhalokaṃ paralokañca atthīti jānāti sukatadukkaṭānaṃ phalaṃ atthīti jānāti kammaphalavādībhāvato. Yebhuyyena hi ucchedavādī sabhāvaniyatiyadicchābhinivesesu aññatrābhiniveso hoti. Sīghaṃ dassanaṃ pajahati vaṭṭābhiratiyā abhāvato. Pāramiyo pūretuṃ sakkonto paccekabuddho hutvā, lokavohāramatteneva so sammāsambuddho hutvā parinibbāyatīti yojanā. Asakkontoti buddho hotuṃ asakkonto. Abhinīhāraṃ katvā aggasāvakādibhāvassa abhinīhāraṃ sampādetvā. Sāvako hutvāti aggasāvako mahāsāvako hutvā, tatthāpi tevijjo chaḷabhiñño paṭisambhidāppatto vā sukkhavipassako eva vā buddhasāvako hutvā parinibbāyati. Sabbamidaṃ ucchedavādino kalyāṇamittanissayena sammattaniyāmokkamane khippavirāgatādassanatthaṃ āgataṃ. Tenāha **‘‘tasmā’’**tiādi.

「今世と他世が存在することを知る」とは、これによって常見の過失の少なさの原因を語り、「輪廻を賞味し、歓喜する」とは、これによって離欲の遅さを示している。それゆえに「それゆえに……」等と言われた。「今世と他世が存在することを知る」とは、これによって様々な趣への衆生の輪廻を肯定することを示し、「善作と悪作の業の果報が存在することを知る」とは、これによって業果を肯定することを示す。「善をなさない」とは、これによって業を、「悪をなしても恐れない」とは、これによって福と非福が自性から生じることを示す。「輪廻を賞味し、歓喜する」とは、それに傾倒している状態による。「速やかに所見を捨てることができない」とは、輪廻の断絶を好まないからである。実に断滅論者はその生存において断滅を考える。それ以降については、今世と他世が存在することを知り、善作悪作の果報が存在することを知る。業果を認める論者であるからである。実に断滅論者の多くは、自性論や決定論や偶然論の執着において他の執着を持つ。「速やかに見解を捨てる」とは、輪廻への愛着がないことによる。「波羅蜜を満たすことができるなら独覚となって、世間の語用においてのみ正等覚者となって完全な涅槃に入る」と結合される。「できないなら」とは、仏となることができないなら。「請願をなして」とは、上首声聞などの状態の請願を成就して。「声聞となって」とは、上首声聞や大声聞となり、そこにおいても三明ある者、六神通ある者、無礙解に達した者、あるいは乾観者たる仏の声聞となって完全な涅槃に入る。これらすべては、断滅論者が善知識に依拠することによって正性の決定へと入る際の速やかな離欲を示すために説かれた。それゆえに「それゆえに……」等と言われた。

202. Kañjiyenevāti āranāḷena. Kañjiyasadisena ucchedadassanena. Pūritoti paripuṇṇajjhāsayo. Soti paribbājako. Appahāyāti abhinditvā. Viggahoti kalaho idameva saccaṃ, moghamaññanti aññamaññaṃ viruddhaggāhoti katvā. Vivādanti viruddhavādaṃ. Vighātanti virodhahetukaṃ cittavighātaṃ. Vihesanti viggahavivādanimittaṃ kāyikaṃ cetasikañca kilamathaṃ. Ādīnavaṃ disvāti etāsaṃ diṭṭhīnaṃ evarūpo ādīnavo, aniyyānikabhāvatāya pana sampati āyatiñca mahādīnavoti evaṃ ādīnavaṃ disvā.

202. 「粥の汁によってのみ」とは、酸味ある穀物液によって。「粥の汁に似た」断見によって。「満たされた」とは、意図が満たされた。「彼」とは、その遍歴行者。「捨てずに」とは、破らずに。「闘争」とは、「これのみが真実であり、他は虚妄である」と互いに矛盾して執着することによる喧嘩のこと。「論争」とは、矛盾した主張のこと。「苦悶」とは、対立を原因とする心の苦悶。「侵害」とは、闘争や論争を機縁とする肉体的および精神的な疲労。「過患を見て」とは、これらの見解にはこのような過患があり、解脱をもたらさないものであるがゆえに現世および未来において大いなる過患であると、このように過患を見て、ということである。

205. ‘‘Esohamasmi, eso me attā’’tiādinā (ma. ni. 1.241; saṃ. ni. 3.8) kāyaṃ anvetīti kāyanvayo, soyeva, tassa vā samūho kāyanvayatā, kāyapaṭibaddho kileso. Tenāha **‘‘kāyaṃ…pe… attho’’**ti.

205. 「これこそが私であり、これこそが私の我である」等と身に追随するので「身追随」であり、まさにそれ、あるいはそれらの集まりが「身追随性」であり、身に関わる煩悩である。それゆえに「身を……乃至……意味である」と言われた。

Asammissabhāvanti asaṅkarato vavatthitabhāvaṃ. Tena tāsaṃ yathāsakaṃ paccayānaṃ uppajjitvā vigamaṃ dasseti. Evañhi tāsaṃ kadācipi saṅkaro natthi. Tenāha **‘‘tatrāyaṃ saṅkhepattho’’**tiādi. Sarūpaṃ aggahetvā ‘‘aññā vedanā’’ti aniyamena vuttattā tameva vigamaṃ dassento **‘‘anuppannāva honti antarahitā vā’’**ti āha. Sarūpato niyametvā vuccamāne kāci anuppannā vā hoti, kāci antarahitā vāti. Cuṇṇavicuṇṇabhāvadassanatthanti khaṇe khaṇe bhijjamānabhāvadassanatthaṃ.

「混ざり合わない状態」とは、混同なく確定された状態である。それによって、それらの各々の縁に従って生じて滅することを示す。このようにそれらにはいかなる時も混同はない。それゆえに「そこにおいてこの要約の意味は……」等と言われた。固有の形態を捉えずに「他の受」と無限定に説かれたため、その滅することを示して「未だ生じていないか、あるいはすでに消滅している」と言われた。固有の形態から限定して説かれるなら、あるものは未だ生じていないか、あるものはすでに消滅しているかである。「微粉微塵となる状態を示すため」とは、刹那刹那に破滅していく状態を示すためである。

Na kenaci saṃvadatīti kenaci puggalena saddhiṃ diṭṭhirāgavasena saṃkiliṭṭhacitto na vadati. Tenāha **‘‘sassataṃ gahetvā’’**tiādi. Na vivadatīti viruddhabhāvo hutvā na vivadati. Parivattetvāti ucchedaṃ gahetvā ekaccasassataṃ gahetvā evaṃ vuttanayena tayopi vādā parivattetvā yojetabbā. Tena voharatīti tena lokavohārena lokasamaññaṃ anatidhāvanto satto puriso puggalotiādinā voharati, na pana ito bāhirakā viya abhinivisati. Tenāha **‘‘aparāmasanto’’**ti. Kañci dhammanti rūpādīsu ekaṃ dhammampi. Parāmāsaggāhena aggaṇhantoti ‘‘nicca’’ntiādinā, ‘‘etaṃ mamā’’tiādinā ca dhammasabhāvaṃ atikkamitvā parato āmasitvā gahaṇena aggaṇhanto.

「誰とも語り合わない」とは、いかなる人とも見解への愛着によって汚された心で語らない。それゆえに「常見を捉えて……」等と言われた。「論争しない」とは、敵対的になって論争しない。「転回して」とは、断見を捉えて、一分常見を捉えて、このように説かれた論理によって三つの主張を転回して適用されるべきである。「それによって語用する」とは、その世間の語用によって世間の通称を踏み越えることなく、衆生、人間、個体等と語用するのであって、外道のように執着するのではない。それゆえに「固執することなく」と言われた。「いかなる法をも」とは、色などのうちの一つの法をも。「執着の把握によって捉えない」とは、「常住である」等と、また「これは私のものである」等と法の自性を踏み越えて、他から触れて把握することによって捉えないということである。

Katāvīti katakicco. So vadeyyāti khīṇāsavo bhikkhu ahaṅkāramamaṅkāresu sabbaso samucchinnesupi ahaṃ vadāmīti vadeyya. Tattha ahanti niyakajjhattasantāne. Mamanti tassa santakabhūte vatthusmiṃ lokaniruḷhe. Samaññanti tattha sukusalatāya loke samaññā kusalo viditvā. Vohāramattenāti kevalaṃ paccekabuddho hutvā mahābodhipāramiyo pūretuṃ asakkonto sāvako hutvā desavohāramattena na appahīnataṇho viya andhaputhujjano abhinivesanavasena.

「所作をなした者」とは、なすべきことをなし終えた者。「彼は語るであろう」とは、漏尽の比丘は、我執と我所執が完全に断たれたとしても「私は語る」と語るであろう。そこにおいて「私」とは自己の内なる相続において。「私のもの」とは、彼に属するものとなった世間に通用する事柄において。「通称を」とは、そこにおいて極めて巧みであるため、世間の通称において巧みであると知って。「語用に過ぎないものによって」とは、ただ独覚となって大菩提の波羅蜜を満たすことができず声聞となって、地方の語用に過ぎないものによってであり、渇愛を捨てていない愚痴な凡夫のように執着によるのではない。

206. Sassatādīsūti sassatābhinivesādīsu. Tesaṃ tesaṃ dhammānanti niddhāraṇe sāmivacanaṃ. Sassataṃ abhiññāyāti sassatadiṭṭhiṃ samudayato atthaṅgamato assādato nissaraṇato abhivisiṭṭhāya paññāya paṭivijjhitvā. Pahānanti accantappahānaṃ samucchedaṃ. Rūpassa pahānanti rūpassa tappaṭibaddhasaññojanappahānena pahānaṃ. Anuppādanirodhena niruddhehi āsavehi aggahetvāva cittaṃ vimucci. ‘‘Āsavehi cittaṃ vimuccī’’ti ettha kiñcipi aggahetvā asesetvā. Soḷasa paññāti mahāpaññādikā soḷasa paññā. Caturaṅgasamannāgatoti puṇṇauposathadivasatā, kenaci anāmantitameva anekasatānaṃyeva anekasahassānaṃ vā bhikkhūnaṃ sannipatitatā, sabbesaṃ ehibhikkhubhāvena upasampannatā, chaḷabhiññatā cāti. Tenāha **‘‘tatrimāni aṅgānī’’**tiādi. Yaṃ panettha atthato avibhattaṃ, taṃ suviññeyyameva.

206. 「常見等において」とは、常見への執着等において。「それらの諸法の」とは、抽出における所有格の言葉である。「常見を了知して」とは、常見を集起から、滅尽から、賞味から、出離から卓越した智慧によって洞察して。「捨断」とは、完全なる捨断、断絶のこと。「色の捨断」とは、色に関わる結びつきの捨断による色の捨断のこと。不生による消滅によって滅した諸漏を捉えることなく、心は解脱した。「諸漏から心が解脱した」のここにおいて、少しも捉えることなく、残すことなく。「十六の智慧」とは、大慧などの十六の智慧。「四支を具足せる者」とは、満月の布薩の日であること、誰からも招かれていないのに数百または数千の比丘たちが集まったこと、すべての者が「来たれ比丘」として具足戒を受けた者であること、六神通ある者であること、の四つである。それゆえに「そこにおいてこれらの支は……」等と言われた。ここで意味の上で詳細に説かれていないものは、容易に理解できる。

Dīghanakhasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

『長爪経の註釈の釈(復註)』は完了した。

5. Māgaṇḍiyasuttavaṇṇanā

5. マーガンディヤ経の註釈

207. Dve māgaṇḍiyāti dve māgaṇḍiyanāmakā. Devagabbhasadisanti devānaṃ vasanaovarakasadisaṃ. Etaṃ vuttanti ‘‘bhāradvājagottassa brāhmaṇassa agyāgāre tiṇasanthārake’’ti etaṃ vuttaṃ. Na kevalaṃ taṃ divasamevāti yaṃ divasaṃ māgaṇḍiyo paribbājako tiṇasanthārakaṃ paññattaṃ, na kevalaṃ taṃ divasameva bhagavā yenaññataro vanasaṇḍo, tenupasaṅkamīti yojanā. Gāmūpacāreti gāmasamīpe. Saññāṇaṃ katvāti saññāṇaṃ katvā viya. Na hi bhagavato tassa saññāṇakaraṇe payojanaṃ atthi.

207. 「二人のマーガンディヤ」とは、マーガンディヤという名の二人のこと。「神々の部屋に似た」とは、神々が住む小部屋に似た。「これが説かれた」とは、「バラドヴァージャ姓のバラモンの拝火堂の草の敷物において」というこれが説かれた。「単にその日だけでなく」とは、遍歴行者マーガンディヤが草の敷物を敷いたその日だけでなく、世尊がある林の茂みのあるところへと赴かれた、と結合される。「村の近郊において」とは、村の近くにおいて。「目印をなして」とは、目印をなしたかのようにして。実に世尊にとってその目印をなすことに目的はないからである。

Samaṇaseyyānurūpanti samaṇassa anucchavikā seyyā. Pāsaṃsattho hi ayaṃ rūpa-saddo. Tenāha **‘‘imaṃ tiṇasanthāraka’’**ntiādi. Anākiṇṇoti viluḷito aghaṭṭito. Hatthapādasīsehi tattha tattha pahaṭena na calito abhinno, acalitattā eva abhinnaṃ attharaṇaṃ. Paricchinditvā paññatto viyāti ayaṃ chekena cittakārena cintetvā tulikāya paricchinnalekhāya paricchinditvā likhitā cittakataseyyā viya. Bhūnaṃ vuccati vaḍḍhitaṃ, taṃ hantīti bhūnahuno. Tenāha **‘‘hatavaḍḍhino’’**ti. Taṃ panāyaṃ cakkhādīsu saṃvaravidhānaṃ vaḍḍhihananaṃ maññati. Tenāha **‘‘mariyādakārakassā’’**ti. Brūhetabbanti uḷāravisayūpahārena vaḍḍhetabbaṃ pīṇetabbaṃ. Taṃ pana ananubhūtānubhavanena hotīti āha **‘‘adiṭṭhaṃ dakkhitabba’’**nti. Anubhūtaṃ pana apaṇītaṃ hotīti vuttaṃ **‘‘diṭṭhaṃ samatikkamitabba’’**nti. Sesavāresupi eseva nayo. Paramadiṭṭhadhammanibbānavādī kiresa paribbājako, tasmā evaṃ chasu dvāresu vaḍḍhiṃ paññapeti. Yasmā yaṃ channampi cakkhādīnaṃ yathāsakaṃ visayaggahaṇaṃ paṭikkhipanto lokassa avaḍḍhitaṃ vināsameva paññapeti, tasmā so sayampi vaḍḍhihato hatavaḍḍhito.

「沙門の臥処に相応しい」とは、沙門に相応しい臥処である。「rūpa」という語は賞賛の意味である。それゆえに「この草の敷物を……」等と言われた。「乱れていない」とは、かき乱されておらず、触れられていない。手や足や頭によって処々で打たれて動いておらず、崩れていない。動いていないがゆえに崩れていない敷物である。「区切って敷かれたかのようである」とは、これは熟練した絵師が考えて筆の輪郭線によって区切って描いた美しい臥処のようである。成長したものが「bhūna」と言われ、それを殺すので「bhūnahu(生類の破壊者)」である。それゆえに「成長を破壊する者」と言われた。しかしこの者は、眼などの制御の規定を成長を破壊することであると考えている。それゆえに「境界を設ける者の」と言われた。「増大させるべき」とは、広大な対象の提供によって増大させ、満足させるべきである。しかしそれは未経験のものを経験することによってなされるので「見ざるものを見るべきである」と言われた。しかし経験されたものは取り除かれたものであるため「見られたものを超越すべきである」と言われた。残りの巡りにおいてもこの通則である。この遍歴行者は現法涅槃論者であると伝えられ、それゆえにこのように六つの門における増大を施設するのである。六つの眼などの各々の対象の把握を退けることによって世間の不成長と破滅のみを施設するがゆえに、彼自身も成長を破壊された者であり、成長を破壊する者なのである。

Saṃkilesato ārakattā ariyo niyyānikadhammabhāvato ñāyo dhammo. Vajjalesassapi abhāvato kusalo. Tenāha **‘‘parisuddhe kāraṇadhamme anavajje’’**ti. Uggatassāti uccakulīnatādinā uḷārassa. Mukhe ārakkhaṃ ṭhapetvāti mukhena saṃyato hutvā. Ambajambūādīni gahetvā viya apūrayamānoti ambajambūādīni aññamaññavisadisāni viya pūraṇakathānayena yaṃ kiñci akathetvā. Tenāha **‘‘mayā kathitaniyāmenā’’**ti.

「雑染から遠ざかっているがゆえに聖なる」出離の法であるからこそ、正しい法である。過失の微細なものさえもないからこそ善である。それゆえに「清浄にして原因となる法、無過失において」と言われた。「高貴な者の」とは、家柄の高さ等によって広大な者の。「口に見張りを置いて」とは、口を慎んで。「マンゴーやジャンブなどを取ったかの如く満たすことなく」とは、マンゴーやジャンブなどの互いに似ていないものを満たす語りのように、でたらめなことを語ることなく。それゆえに「私が語った通則によって」と言われた。

208. Phalasamāpattiyā vuṭṭhitoti divāvihārato vuṭṭhitoti attho. Divāvihāropi hi ‘‘paṭisallāna’’nti vuccati ‘‘rahogatassa paṭisallīnassa evaṃ cetaso parivitakko udapādī’’tiādīsu (pārā. 18). Bhagavā hi phalasamāpattito vuṭṭhānuttarakālaṃ tesaṃ kathāsallāpaṃ sutvā divāvihārato vuṭṭhāya tattha gato. Saṃvego nāma sahottappañāṇaṃ, taṃ nibbindanavasenapi hoti, saṃveganissitaṃ sandhāyāha **‘‘pītisaṃvegena saṃviggo’’**ti. So pana yasmā purimāvatthāya calanaṃ hoti cittassa, tasmā āha **‘‘calito kampito’’**ti. Tikhiṇasotena purisenāti bhagavantaṃ sandhāyāha.

208. 「果定から出起した」とは、昼の休息から出起したという意味である。昼の休息もまた「独坐」と呼ばれる。「独処にあり独坐せる者に、このように心の思惟が生じた」等においてである。実に世尊は果定から出起された直後、彼らの対話を聞いて、昼の休息から立ってそこへと赴かれた。「戦慄(saṃvega)」とは、慚愧を伴う智のことであり、それは嫌悪によっても生じる。戦慄に基づくものを意図して「喜悦と戦慄によって戦慄した」と言われた。しかしそれは以前の状態から心の動揺があるがゆえに「動揺した、震えた」と言われた。「鋭い耳を持つ人によって」とは、世尊を意図して言われた。

209. Dhammadesanaṃ ārabhi yathā vineyyadamanakusalo vasanaṭṭhānaṭṭhenāti idaṃ āramitabbabhāvassa bhāvalakkhaṇavacanaṃ. Āramati etthāti ārāmo, rūpaṃ ārāmo etassāti rūpārāmaṃ, tato eva tanninnabhāvena rūpe ratanti rūparataṃ, tena sammo duppattiyā rūpena sammuditanti rūpasammuditaṃ, tadetaṃ tadabhihatajavanakiccaṃ tattha āropetvā vuttaṃ. Dantantiādīsupi eseva nayo. Dantaṃ damitaṃ. Nibbisevananti vigatavisukāyikaṃ. Guttanti satiyā guttaṃ. Rakkhitanti tasseva vevacanaṃ. Saṃvutanti apanītaṃ pavesanivāraṇena. Tenāha **‘‘pihita’’**nti.

209. 化導されるべき者を調伏することに巧みな者として説法を始めた。「住居の意味において」とは、楽しむべき状態であることの相を示す言葉である。ここで楽しむので「園(ārāma)」であり、色がこの者の園であるから「色を園とするもの」であり、それゆえにそれに傾倒する状態によって色を楽しむので「色を楽しむもの」であり、それによって等しく歓喜が生じるので色によって等しく歓喜するので「色に等しく歓喜するもの」であり、それらはその打ち負かされた速行の作用をそこに帰して説かれた。調伏されたもの等においてもこの通則である。「調伏された」とは、慣らされた。「無愛執」とは、戯論の身体性を離れた。「守られた」とは、念によって守られた。「護られた」とは、それの同義語である。「制御された」とは、入るのを防ぐことによって取り除かれた。それゆえに「閉じられた」と言われた。

210. Uppajjanapariḷāhanti uppajjanakilesapariḷāhaṃ. Kiṃ vacanaṃ vattabbaṃ assāti rūpārammaṇaṃ anubhavitvā samudayādipahānaṃ pariggaṇhitvā parinibbinditvā virajjitvā yo vimutto, tattha kiṃ vuddhihatapariyāyo avassaṃ labhati na labhatīti pucchati. Paribbājako tādise sārabaddhavimuttike vuddhihatoti na vadeyyāti āha **‘‘na kiñci, bho, gotamā’’**ti.

210. 「生じる熱苦を」とは、生じる煩悩の熱苦を。「どのような言葉が語られるべきであろうか」とは、色の対象を体験して、集起などの捨断を把握し、完全に嫌悪して離欲し、解脱した者に対して、そこにおいて成長を破壊されたという表現が必然的に得られるか得られないか、と尋ねている。遍歴行者はそのような真髄に結びついて解脱した者に対して「成長を破壊された」とは言わないであろうと考え、「何もありません、尊者ゴータマよ」と言った。

211. Teti tayā, ayameva vā pāṭho. Vassaṃ vāso vassaṃ uttarapadalopena, vassituṃ arahatīti vassiko, vassakāle nivāsānucchavikoti attho.

211. 「汝によって」とは、あなたによって、あるいはこれこそが読みである。「雨季の住まい」は後肢の脱落による雨季であり、雨期に住むに値するので「雨季の」であり、雨季の時期の住まいに相応しいという意味である。

Nātiucco hoti nātinīcoti gimhiko viya ucco, hemantiko viya nīco na hoti, atha kho tadubhayavemajjhalakkhaṇatāya nātiucco hoti nātinīco. Nātitanūnīti hemantikassa viya na khuddakāni. Nātibahūnīti gimhikassa viya na atibahūni. Missakānevāti hemantikagimhikesu vuttalakkhaṇavomissakāni. Uṇhapavesanatthāyāti niyūhesu purebhattaṃ pacchābhattañca patitasūriyobhāsavasena uṇhassa abbhantarapavesanatthāya. Bhittiniyūhāni nīharīyantīti dakkhiṇapasse bhittīsu niyūhāni nīharitvā karīyanti. Vipulajālānīti puthulachiddāni. Udakayantānīti udakavāhakayantāni.

「高すぎず低すぎず」とは、夏用のもののように高くなく、冬用のもののように低くなく、実にその両者の中間の相を持つことによって高すぎず低すぎずである。「小さすぎず」とは、冬用のもののように小さくない。「多すぎず」とは、夏用のもののように多すぎない。「混合されたもののみ」とは、冬用と夏用に説かれた相が入り混じったものである。「熱を入れるために」とは、回廊において食前と食後に差し込む日光の輝きによって熱を内部に入れるためである。「壁の小部屋が突き出される」とは、南側の壁に小部屋を突き出して作られる。「広大な網」とは、広い格子。「水機関」とは、水を運ぶ機関。

Nīluppalagacchake katvāti vikasitehi nīluppalehi gacchake naḷinike katvā. Gandhakalalanti gandhamissakakaddamaṃ. Yamakabhittīti yugaḷabhitti, tassā antare nāḷi, yato udakaṃ abhiruhati. Lohanāḷinti lohamayayantanāḷiṃ. Jālanti tambalohamayaṃ jālaṃ. Heṭṭhā yantaṃ parivattentīti heṭṭhābhāge udakayantaṃ gamenti. Udakaphusite temente vivaṇṇatā māhosīti nīlapaṭaṃ nivāseti. Divākāleti divasavelāya. Ajjhattaṃ vūpasantacitto viharāmīti etena attano phalasamāpattivihāro bhagavatā dassitoti āha – **‘‘tāya ratiyā ramamānoti idaṃ catutthajjhānikaphalasamāpattiratiṃ sandhāya vutta’’**nti.

「青蓮華の茂みを作って」とは、開いた青蓮華で茂みや蓮池を作って。「香泥」とは、香りを混ぜた泥。「二重の壁」とは、一対の壁であり、その間に管があり、そこから水が上がる。「鉄の管」とは、鉄製の機関の管。「網」とは、青銅製の網。「下で機関を回転させる」とは、下部で水機関を作動させる。「水滴で濡れたときに変色しないように」青い布を纏う。「昼の時に」とは、昼の時間帯に。「内に静まりたる心で住する」とは、これによって世尊は自身の果定の安住を示されたのであり、「その歓喜に楽しむとは、この第四禅の果定の歓喜を意図して言われた」と言われた。

212. Mahā ca nesaṃ papañcoti nesaṃ rājūnaṃ mahāpapañco rājiddhivasena sabbadā sampattivisayo ca, anubhavituṃ na labhantīti adhippāyo. Mante gavesantā vicaranti, na bhogasukhaṃ. Gaṇanā nāma acchinnagaṇanā, na vigaṇagaṇanā na paṇagaṇanā. Āvaṭṭoti yathādhigate dibbe kāme pahāya kāmahetu āvaṭṭo nivatto parivattito bhaveyya. Evaṃ mānusakā kāmāti yathā koci kusaggena udakaṃ gahetvā mahāsamudde udakaṃ mineyya. Tattha mahāsamudde udakameva mahantaṃ vipulaṃ paṇītañca, evaṃ dibbānaṃ kāmānaṃ samīpe upanidhāya mānusakā kāmā appamattakā oramattakā nihīnā, dibbāva kāmā mahantā vipulā uḷārā paṇītā. Samadhigayhāti sammā adhigamanavasena niggayha dibbampi sukhaṃ hīnaṃ katvā tiṭṭhati.

212. 「彼らの大いなる戯論」とは、彼ら諸王の大いなる戯論と、王の栄華による常に成就される領域であり、それを楽しむことができない、というのが意図である。謀議を探し求めて行動するのであり、享受の楽ではない。「算術」とは、途切れない算術であり、粗雑な計算でも手のひらの計算でもない。「戻る」とは、得られた天界の諸欲を捨てて、欲の原因によって戻り、立ち返り、転回することである。「このように人間の諸欲は」とは、誰かが草の先で水を取って大海の水を測るようなものである。そこでは大海の水こそが広大で豊富で優れているように、このように天界の諸欲の傍らに比べるなら、人間の諸欲は微小で些細で卑劣であり、天界の諸欲こそが広大で豊富で卓越して優れている。「凌駕して」とは、正しく到達することによって制圧し、天上の楽をも劣ったものとして留まる。

213. Ārogyahetukaṃ sukhaṃ assa atthīti sukhī, taṃ panassa rogavigamatovāti āha **‘‘paṭhamaṃ dukkhito pacchā sukhito’’**ti. Serī nāma attādhīnavuttīti āha **‘‘serī ekako bhaveyyā’’**ti. Attano vaso sayaṃvaso, so etassa atthīti sayaṃvasī. Aṅgārakapallaṃ viya kāmavatthupariḷāhahetuto. Tacchetvāti ghaṭṭetvā, kaṇḍūyitvāti attho.

213. 無病を原因とする楽がこの者にあるので「楽ある者」であり、それは彼にとって病気が消え去ったことによるので「初めは苦しみ、後に楽となる」と言われた。「自由な者」とは、自らに従う行動をする者であるので「自由な者は一人であろう」と言われた。自らの支配が自己支配であり、それがこの者にあるので「自己を支配する者」である。炭の鍋のようであるとは、欲の対象の熱苦の原因であることによる。「掻きむしって」とは、擦り合わせて、痒がるという意味である。

214. Yena kāyo madhurakajāto hoti, taṃ kira kuṭṭhaṃ chaviṃ vināseti, cammaṃ chiddajātaṃ viya hoti. Tenevāha **‘‘upahatakāyappasādo’’**ti. Paccalatthāti paṭilabhi. Avijjābhibhūtatāya virodhipaccayasamāyogena paññindriyassa upahatattā. Āyatiṃ dukkhaphalatāya etarahi ca kilesadukkhabahulatāya kāmānaṃ dukkhasamphassatā, tadubhayasaṃyuttesu tesu ca taṃ asallakkhitvā ekantasukhābhiniveso viparītasaññāya, na kevalāya sukhavedanāya sukhāti pavattasaññī.

214. それによって身体が心地よくなるというその癩病は、実に皮膚を破壊し、皮は穴だらけのようになる。それゆえに「身体の清浄さを損なわれた者」と言われた。「取り戻した」とは、再び得た。無明に圧倒されていることによって、敵対する縁の結合によって慧根が損なわれているからである。未来において苦の果報をもたらすことによって、また現在において煩悩の苦が多いことによって、諸欲には苦の触れがあり、それら両者に結合したそれらにおいてそれを観察することなく、専ら楽であるという執着は転倒した想によるのであり、純粋な楽受によって楽であるという想いが生じたのではない。

215. Tānīti kuṭṭhasarīre vaṇamukhāni. Asucīnīti asubhāni. Duggandhānīti vissagandhāni. Pūtīnīti kuṇapabhūtāni. Idānīti etarahi. Nakhehi vippatacchanaaggiparitāpanehi atinippīḷanakāle pāṇakā…pe… paggharanti, tena vedanā tanukā hoti. Evanti vuttanayena vedanāya tanukabhāvato.

215. 「それらは」とは、癩病の身体における傷口のこと。「不浄なるもの」とは、醜いもの。「悪臭あるもの」とは、生臭い臭いのあるもの。「腐敗したもの」とは、死体のようになったもの。「今」とは、現在。爪で掻きむしり火で炙ることによって極度に圧迫される時、虫たちが……乃至……流れ出て、それによって苦受が軽くなる。「このように」とは、説かれた論理によって苦受が軽くなることからである。

Ārogyabhāve dhanalābhādilābhuppattito, asati ca ārogye lābhassa niratthakabhāvato, diṭṭhadhammikādisabbasampattīnaṃ lābhassa nimittabhāvato ca ārogyaparamā lābhā. Nibbāne sukhuppattito, asati ca nibbānādhigame tādisassa sukhassa anupalabbhanato, sabbasaṅkhatavivittattā ca sabbaso ca saṃsāradukkhābhāvato, adhigate ca tasmiṃ sakalavaṭṭadukkhābhāvato ca nibbānaṃ paramaṃ sukhaṃ. Pubbabhāgamaggānanti kāyānupassanādibhedabhinnānaṃ ariyamaggassa pubbabhāgiyānaṃ maggānaṃ. Tesañca amatagāmitā nāma tanninnatāvaseneva sacchikiriyāvasenāti āha **‘‘pubbabhāgagamaneneva amatagāmina’’**nti. Aṭṭhaṅgiko ariyamaggo khemo sabbaparissayasamugghātanena anupaddutattā, taṃsamaṅgīnaṃ sabbaso anupaddutattā taṃsamaṅgīnaṃ sabbaso anupaddavahetuto ca. Laddhivasena gahitāti sassatavādādīhi kevalaṃ tesaṃ laddhivasena tathā gahitā. Khemaamatagāminanti iminā hi ‘‘khemaṃamatagāmina’’nti vibhattialopena niddeso, attho pana vibhattilopena daṭṭhabboti dasseti.

無病の状態において財の獲得等の利得が生じることから、また無病でないときには利得が無駄になることから、また現世等のすべての富の利得の機縁となることから、「無病は最高の利得」である。涅槃において楽が生じることから、また涅槃の獲得がないときにはそのような楽が得られないことから、また一切の有為から離れていることから、またあらゆる点で輪廻の苦がないことから、またそれが得られたときには輪廻の苦が一切ないことから、「涅槃は無上の楽」である。「前段階の道たちの」とは、身随観などに区分される聖道の前段階となる道たちのこと。そしてそれらの不死への到達とは、まさにそれに傾倒する状態による現証によることであるので、「前段階の進行によって不死へと至る」と言われた。八支聖道は「安穏」である。すべての困難を根絶することによって脅かされないからであり、それを具足する者たちがあらゆる点で脅かされない原因となるからである。「所見によって捉えられた」とは、常見論者たちによって単に彼らの所見によってそのように捉えられた。「安穏にして不死へ至る」とは、これによって「khemaṃamatagāminaṃ」と格語尾の無脱落による提示であるが、意味は格語尾の脱落として見られるべきであることを示している。

216. Anomajjatīti anu anu omajjati. Aparāparaṃ hatthaṃ heṭṭhā otārento majjati.

216. 「下へと撫で下ろす」とは、繰り返し下へと撫で下ろす。次々に手を下へと降ろしながら撫でる。

217. Chekanti ghanabhāvena vītaṃ. Ghanamaṭṭhabhāvena sundaraṃ hotīti āha **‘‘sampanna’’**nti. Sādhūhi paramappicchasantuṭṭhehi lāto gahitoti sāhuḷi. Saṅkāracoḷakaṃ niccakāḷakaṃ.

217. 「巧みなもの」とは、密に織られたもの。密で滑らかな状態によって素晴らしいものであるので「成就せる」と言われた。最上の少欲と知足を持つ善人たち(sādhu)によって受け取られた(lāta)ので「sāhuḷi(粗衣)」である。ごみ捨て場の布、常に黒いもの。

218. Tattha tattha rujanaṭṭhena vibādhanaṭṭhena rogova bhūto. Vipassanāñāṇenapi sikhāppattena ārogyaṃ ekadesena passati, nibbānañca vaṭṭapaṭipakkhatoti āha **‘‘vipassanāñāṇañcevā’’**ti.

218. 処々において痛むという意味で、病むという意味で、まさに病気そのものとなった。頂点に達したvipassanāの智によっても、無病を一分において見、涅槃を輪廻の敵対するものとして見るので、「vipassanāの智をも……」と言われた。

219. Antarāti paṭhamuppatti jarāmaraṇānaṃ vemajjhe. Upahatoti pittasemhādidosehi dūsitabhāvena kathito. Pittādidose pana bhesajjasevanāya nivattento upahataṃ paṭipākatikaṃ karonto cakkhūni uppādeti nāma. Vinaṭṭhānīti anuppattidhammataṃ āpannāni.

219. 「中間に」とは、最初の生起と老死の中間において。「損なわれた」とは、胆汁や粘液などの欠陥によって害された状態として語られた。しかし胆汁などの欠陥を薬の服用によって取り除き、損なわれたものを元通りにすることを「眼を生じさせる」と名付ける。「滅びた」とは、不生の状態に陥ったもの。

220. Pubbe vutte sāhuḷiyacīre. Vaṭṭe anugatacittenāti anamatagge saṃsāravaṭṭe anādīnavadassitāya anugāmicittena.

220. 以前に説かれた粗衣の衣において。「輪廻に追随せる心によって」とは、始めなき輪廻において過患を見ないことによって追随する心によって。

221. Dhammassāti nibbānassa. Anudhammanti anurūpaṃ niyyānadhammaṃ. Tenāha **‘‘anucchavikaṃ paṭipada’’**nti. Pañcakkhandheti pañcupādānakkhandhe dasseti. ‘‘Dīgharattaṃ vata, bho’’tiādinā pāḷiyaṃ vivaṭṭaṃ dassitaṃ. Tenāha **‘‘upādānanirodhāti vivaṭṭaṃ dassento’’**ti. Sesaṃ suviññeyyameva.

221. 「法に」とは、涅槃に。「随法を」とは、相応しい出離の法を。それゆえに「相応しい実践を」と言われた。「五蘊を」とは、五取蘊を示す。「まことに長き夜……」等と聖典において離縛が示された。それゆえに「取の滅によって離縛を示しつつ」と言われた。残りは容易に理解できる。

Māgaṇḍiyasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

『マーガンディヤ経の註釈の釈(復註)』は完了した。

6. Sandakasuttavaṇṇanā

6. サンダカ経の註釈

223. Devena vassena kato sobbho devakatasobbho. Tenāha **‘‘vasso…pe… rahado’’**ti. Guhāti paṃsuguhā pāsāṇaguhā missakaguhāti tisso guhā. Tattha paṃsuguhā udakamuttaṭṭhāne ahosi ninnaṭṭhānaṃ pana udakena ajjhotthataṃ. Umaṅgaṃ katvāti heṭṭhā suduggaṃ katvā. Anamataggiyaṃ paccavekkhitvāti ‘‘na kho so sattāvāso sulabharūpo, yo iminā dīghena addhunā anāvuṭṭhapubbo’’tiādinā (ma. ni. 1.160) idañca taḷākaṃ mayā vutthapubbaṃ bhavissati, tampi ṭhānaṃ so ca attabhāvo apaññattikabhāvaṃ gatoti evaṃ anamataggiyaṃ paccavekkhitvā tādisaṃ ṭhānaṃ gantuṃ vaṭṭati. Iminā nayena samuddapabbatadassanādīsupi paccavekkhaṇāvidhi veditabbo.

223. 天(deva)によって、雨によって作られた窪地が「天の作れる窪地」である。それゆえに「雨が……乃至……湖」と言われた。「洞窟」とは、土の洞窟、石の洞窟、混合の洞窟の三つの洞窟である。そこにおいて土の洞窟は水から逃れた場所にあり、一方、低い場所は水によって覆われていた。「地下道を掘って」とは、地下に極めて進み難い道を作って。「始めなき輪廻を省察して」とは、「この長き歳月において、以前に住まなかったような有情の住処は得難い」等と、この池もまた私によって以前に住まれたことがあったであろうし、その場所もその身体も名状しがたい状態へと至った、とこのように始めなき輪廻を省察して、そのような場所へと行くことが適っている。この論理によって、海や山を見ることなどにおいても省察の方法が知られるべきである。

Uccaṃ nadamānāyāti uccaṃ katvā saddaṃ karontiyā kāmassādabhavassādādivatthunti ‘‘ayañca ayañca kāmo iṭṭho kanto manāpo, asuko bhavo iṭṭho kanto manāpo, evamayaṃ loko piyehi piyataro’’ti evaṃ kāmassādabhavassādalokassādādisaṅkhātaṃ vatthuṃ. Duggatito saṃsārato ca niyyāti etenāti niyyānaṃ, saggamaggo mokkhamaggo ca, taṃ niyyānaṃ arahati, niyyāne vā niyuttāti niyyānikā, niyyānaṃ vā phalaṃ etissā atthīti niyyānikā, vacīduccaritādisaṃkilesato niyyātīti vā niyyānīyā, ī-kārassa rassattaṃ ya-kārassa ca ka-kāraṃ katvā niyyānikā, cetanāya saddhiṃ samphappalāpā veramaṇi. Tappaṭipakkhato aniyyānikā, tassā bhāvo aniyyānikattaṃ, tasmā aniyyānikattā. Tiracchānabhūtāti tirokaraṇabhūtā. Gehassitakathāti kāmapaṭisaṃyuttakathā. Kammaṭṭhānabhāveti aniccatāpaṭisaṃyuttacatusaccakammaṭṭhānabhāve. Saha atthenāti sātthakaṃ, hitapaṭisaṃyuttanti attho. Visikhāti gharasanniveso, visikhāgahaṇena ca tannivāsino gahitā ‘‘gāmo āgato’’tiādīsu (sārattha. ṭī. 1.ācariyaparamparakathāvaṇṇanā) viya. Tenevāha **‘‘sūrā samatthā’’**ti **‘‘saddhā pasannā’’**ti ca. Kumbhaṭṭhānappadesena kumbhadāsiyo vuttāti āha **‘‘kumbhadāsikathā vā’’**ti.

224. 「高らかに鳴り響いて」とは、高く声を立てて、欲の賞味や生の賞味などの事柄を、即ち「これこれの欲は望ましく、愛らしく、心に快い。かの生は望ましく、愛らしく、心に快い。このようにこの世は愛しいものによってさらに愛しい」と、このように欲の賞味や生の賞味や世間の賞味などと呼ばれる事柄を。「これによって悪趣から、また輪廻から脱出する」ので「出離」であり、天界への道と解脱への道のことである。その出離に値し、あるいは出離に専心しているから「出離の」であり、あるいは出離という果報がこれにあるから「出離の」であり、あるいは言語の悪行などの雑染から脱出するから「出離すべき」であり、īの字を短縮しyaの字をkaの字として「出離の(niyyānikā)」であり、思慮を伴う無駄話からの離悪のことである。それと敵対することによって「取出離」であり、その状態が「取出離性」であり、それゆえに「取出離なるがゆえに」である。「無益となった」とは、遮蔽するものとなった。「家に依拠した語り」とは、諸欲に関わる語り。「業処の状態において」とは、無常に関わる四諦の業処の状態において。「意味を伴って」とは、有益な、利益に関わるという意味である。「路地」とは、家の配置であり、路地の把握によってそこに住む者たちが捉えられている。「村がやって来た」等におけるが如しである。まさにそれゆえに「勇敢で有能な」また「信じ清らかな」と言われた。「水瓶の場所によって水汲みの女奴隷たちが説かれた」ので、「あるいは水汲みの女奴隷についての語り」と言われた。

228. Vohāro viya tesaṃ tathā vohāramattaṃ gahetvā vuttaṃ **‘‘brahmacariyavāse’’**ti. Akatāti samena, visamena vā kenaci hetunā na katā na vihitā. Katavidho karaṇavidhi natthi etesanti akaṭavidhā. Padadvayenapi loke kenaci hetupaccayena nesaṃ anibbattataṃ dasseti. Iddhiyāpi na nimmitāti kassaci iddhimato cetovasippattassa devassa, issarādino vā iddhiyāpi na nimmitā. Animmātāti kassaci animmāpitā. Rūpādijanakabhāvanti rūpasaddādīnaṃ paccayabhāvaṃ, rūpādayopi pathaviyādīhi appaṭibaddhavuttikāti tassa adhippāyo. Yathā pabbatakūṭaṃ kenaci anibbattitaṃ kassaci ca anibbattanakaṃ, evametepīti āha **‘‘pabbatakūṭā viya ṭhitāti kūṭaṭṭhā’’**ti. Yamidaṃ bījato aṅkurādi jāyatīti vuccati, taṃ vijjamānameva tato nikkhamati nāvijjamānaṃ, aññathā aññatopi aññassa upaladdhi siyāti adhippāyo. Evaṃ ṭhitāti evaṃ nibbikārā ṭhitā. Ubhayenapīti atthadvayenapīti vadanti. ‘‘Kūṭaṭṭhā esikaṭṭhāyiṭṭhitā’’ti padadvayenapi. Tesaṃ sattannaṃ kāyānaṃ. Ṭhitattāti nibbikārābhāvena ṭhitattā. Na calantīti vikāraṃ nāpajjanti. Vikārābhāvato hi tesaṃ sattannaṃ kāyānaṃ esikaṭṭhāyiṭṭhitatā. Aniñjanañca atthato pakatiyā avaṭṭhānamevāti dassetuṃ **‘‘na vipariṇāmentī’’**ti vuttaṃ. Tathā avipariṇāmadhammattā eva te aññamaññaṃ na byābādhenti. Sati hi vikāraṃ āpādetabbatāya byābādhakatāpi siyā, tathā anuggahetabbatāya anuggāhakatāti tadabhāvaṃ dassetuṃ pāḷiyaṃ ‘‘nāla’’ntiādi vuttaṃ.

228. 彼らの語用のようであり、そのように語用に過ぎないものを捉えて「梵行の住まいにおいて」と言われた。「作られざる」とは、平等の、あるいは不平等のいかなる原因によっても作られず、配置されていない。「作られた方法、製作の方法が存在しない」ので「不作の方法」である。両方の語によっても、世間においていかなる原因や条件によってもそれらが生じさせられていないことを示す。「神通によっても創造されざる」とは、いかなる神通ある心自在に達した神や、主宰神などの神通によっても創造されていない。「創造せられざる」とは、いかなる者によっても創造されていない。「色などを生じさせる状態」とは、色や声などの条件となる状態のことであり、色などもまた地などに拘束されない活動を持つ、というのが彼の意図である。山頂がいかなる者によっても生じさせられず、いかなるものも生じさせないように、これらもまた同様であるので「山頂のように留まっているので峰のように立つ」と言われた。この種子から芽などが生じると言われるものは、まさに存在するものがそこから出てくるのであって、存在しないものではない、そうでなければ他からも他のものが得られることになろう、というのが意図である。「このように留まる」とは、このように変化なく留まる。「両方によっても」とは、二つの意味によっても、と言う。「峰のように立ち、門柱のように堅固に留まる」という両方の言葉によってもである。「それら七つの身体の」。「留まっているがゆえに」とは、変化なき状態として留まっているがゆえに。「動かない」とは、変化に陥らない。実に変化がないことから、それら七つの身体には門柱のように堅固に留まる状態がある。そして不動とは意味の上では本性として留まることに他ならないことを示すために「変異しない」と言われた。そのように変異しない性質であるがゆえに、それらは互いに害し合わない。実に変化させるべきものがあるなら害することもあり得ようし、そのように恩恵を与えるべきものがあるなら恩恵を与えることもあり得ようが、それらがないことを示すために聖典において「あたわず」等と言われた。

Pathavī eva kāyekadesattā pathavīkāyo. Hantuṃ vā ghātetuṃ vā samattho nāma natthi jīvasattamānaṃ kāyānaṃ niccatāya nibbikārabhāvato, eteneva nesamahantabbatā aghātetabbatā atthato vuttāyevāti daṭṭhabbā. Tathā hi vuttaṃ **‘‘sattannaṃtveva kāyāna’’**ntiādi. Sotuṃ vā sāvetuṃ vā samattho nāma natthīti paccekaṃ nesaṃ savanesu asamatthattā tadekadesādīsupi asamatthataṃ dīpeti. Yadi koci hantā natthi, kathaṃ satthappahāroti āha **‘‘yathā muggarāsiādīsū’’**tiādi. Kevalaṃ saññāmattameva hoti, hananaghātanādi pana paramatthato nattheva kāyānaṃ avikopanīyabhāvatoti adhippāyo. Kevalaṃ takkamattena niratthakaṃ diṭṭhiṃ dīpetīti etena yasmā takkikā niraṅkusatāya parikappanassa yaṃ kiñci attanā parikappitaṃ sārato maññamānā tatheva abhinivissa takkadiṭṭhiggāhaṃ gaṇhanti, tasmā na tesaṃ diṭṭhivatthusmiṃ viññūhi vicāraṇā kattabbāti dasseti. Kecīti sārasamāsācariyā. Pañcindriyavasenāti pañcarūpindriyavasena. Kammanti laddhi kammabhāvena supākaṭattā. Avaṅkakathātāraṇādikā dvāsaṭṭhi paṭipadā. Ekasmiṃ kappeti ekasmiṃ mahākappe.

地そのものが身体の一部分であるから「地の身体」である。生命ある第七の身体たちの常住性と無変化性によって、殺すことや殺害することができる者は存在せず、これによってそれらの不壊性と不可害性が意味の上ですでに語られていると知るべきである。実に「七つの身体のみの」等と言われた。聞くことや聞かせることができる者は存在しないとは、個々にそれらを聞くことにおいて無能力であることから、その一部分などにおいても無能力であることを示している。もし殺す者が誰もいないなら、どうして刀剣の一撃があるのかと言えば、「例えば槌の集まりなどにおいて」等と言われた。ただ想いに過ぎないのであり、殺傷などは勝義においては身体が破壊され得ない状態であるがゆえに全く存在しない、というのが意図である。「ただ思弁のみによって無益な見解を示す」とは、これによって思弁家たちは放縦な推論によって自ら推論したものを真髄であると思いなし、その通りに執着して思弁の見解の把握を捉えるがゆえに、知者たちによって彼らの見解の事柄において吟味がなされるべきではない、ということを示している。「ある者たちは」とは、サーラサマーサの師たち。「五根によって」とは、五つの色根によって。「業」とは、所見が業の状態として極めて明白であることによる。「屈折なき教説の渡船」などの六十二の道。「一つの劫において」とは、一つの大劫において。

Purisabhūmiyoti padhānapuggalena niddeso, itthīnampetā bhūmiyo icchanteva. Bhikkhu ca pannakotiādi tesaṃ pāḷiyeva. Tattha pannakoti bhikkhāya vicaraṇakoti vadanti, tesaṃ vā paṭipattiṃ paṭipannako. Jinoti jiṇṇo, jarāvasena nihīnadhātukoti vadanti, attano vā paṭipattiyā paṭipakkhaṃ jinitvā ṭhito. So kira tathābhūto kassacipi dhammaṃ na katheti, tenāha **‘‘na kiñci āhā’’**ti. Alābhinti ‘‘so na kumbhimukhā paṭiggaṇhatī’’tiādinā (dī. ni. 1.394) nayena vuttaalābhahetusamāyogena alābhiṃ. Tato eva jighacchādubbalaparetatāya sayanaparāyaṇaṃ samaṇaṃ pannabhūmīti vadati.

「人間の境地」とは、主要な人物による提示であり、女性たちにもこれらの境地は望まれる。「比丘、パンナカ」等は、彼らの聖典そのものである。そこにおいて「パンナカ」とは、托鉢して巡る者であると言い、あるいは彼らの実践を実践する者である。「ジナ(勝者)」とは、老いた者であり、老衰によって弱った性質の者であると言い、あるいは自らの実践によって敵対するものを征服して留まる者である。そのような状態となった彼は誰にも法を語らないと伝えられ、それゆえに「何も語らなかった」と言われた。「無利得の者」とは、「彼は瓶の口から受け取らない」等の論理によって説かれた無利得の原因の結合によって無利得となった者。まさにそれゆえに飢えと衰弱に圧倒されていることによって横たわることを専らとする沙門を「堕落の境地」と言う。

Ājīvavuttisatānīti sattānaṃ ājīvabhūtāni jīvikāvuttisatāni. Pasuggahaṇena eḷakajāti gahitā, migaggahaṇena rurugavayādisabbamigajāti. Bahū devāti cātumahārājikādibrahmakāyikādivasena nesaṃ antarabhedavasena bahū devā. Tattha cātumahārājikānaṃ ekacco antarabhedo ‘‘mahāsamayasuttena’’ (dī. ni. 2.331 ādayo) dīpetabbo. Mānusāpi anantāti dīpadesakulavaṃsājīvādivibhāgavasena mānusāpi anantabhedā. Pisācā eva pesācā, te aparapetādayo mahantā veditabbā.

「多くの生業のあり方」とは、衆生たちの生業となっている数百の生計・生業のあり方のことである。「家畜」という言葉によって羊の類が取られ、「鹿」という言葉によってルル鹿や野牛などのすべての野生動物の類が取られる。「多くの天族」とは、四大王衆天から梵衆天に至るまでの観点から、それらの内部の区別に基づいて多くの天族がいるということである。そこにおいて四大王衆天のある内部の区別は『大会経』(長部2.331以下)によって明らかにされるべきである。「人間たちも無量である」とは、島、地域、家系、生業などの区別によって人間たちも無量の区別があるということである。ピサーチャこそがペーサーチャであり、それらは下位の餓鬼など、大いなるものとして知られるべきである。

Chaddantadahamandākiniyo kuḷīramucalindanāmena vadati. Gaṇṭhikāti pabbagaṇṭhikā. Paṇḍitopi…pe… uddhaṃ na gacchati, kasmā? Sattānaṃ saṃsaraṇakālassa niyatabhāvato.

六牙池とマンダーキニー池を、クリカ池とムチャリンダ池という名で呼ぶ。「節」とは、竹の節のような結節のことである。「智者であっても……中略……高みへ行くことはない」とは、なぜか? 衆生の輪廻の期間が定まっているからである。

Aparipakkaṃ saṃsaraṇanimittaṃ sīlādinā paripāceti nāma sīghaṃyeva visuddhippattiyā. Paripakkaṃ phussa phussa patvā patvā paripakkabhāvāpādanena byantiṃ karoti nāma. Suttaguḷeti suttavaṭṭiyaṃ. Nibbeṭhiyamānameva paletīti upamāya sattānaṃ saṃsāro anukkamena khīyateva, na tassa vaddhīti dasseti paricchinnarūpattā.

未熟な輪廻の因縁を、戒などによって熟させるというのは、速やかに清浄に達するためである。熟したものを何度も触れ、何度も達して、円熟した状態をもたらすことによって「消滅させる」という。「糸玉において」とは、糸の巻き玉において。「解き放たれながら進む」という比喩によって、衆生の輪廻は次第に尽きるのみであり、それには増大がないことを示している。限定された形態であるからである。

229. Niyativāde pakkhipantoti sabbaññutaṃ paṭijānitvāpi padesaññutāya asampāyamāno tattha attano aññāṇakiriyaṃ pariharituṃ asakkonto ca ‘‘evamesā niyatī’’ti niyativāde pakkhipanto.

229. 「運命論に投げ込む」とは、一切知を公言しながらも、部分的な知にとどまるがゆえに答えられず、その場において自らの無知の行為を繕うことができずに、「このようにこれは定まっている」と運命論に投げ込むことである。

230. Dhammakathāya apassayabhūto anussavo etassa atthīti anussavī, tenevassa apassayavādaṃ dassetuṃ **‘‘anussavanissito’’**ti āha. Savanaṃ saccatoti yaṃ kiñci anussavaṃ, taṃ savanaṃ saccanti gahetvā ṭhito. Piṭakasampadāyāti ganthasampādanena, tādisaṃ ganthaṃ paguṇaṃ vācuggataṃ katvā taṃ nissāya dhammaṃ katheti. Tenāha **‘‘vaggapaṇṇāsakāyā’’**tiādi.

230. 説法の拠り所となる伝承をこの者が持っているため「伝承者」であり、それゆえにその者の拠って立つ論を示すために「**伝承に依拠する者**」と言った。「聞くことを真実とみなす」とは、どのような伝承であれ、その聞いたことを真実であると捉えて立っていることである。「聖典の具足によって」とは、聖典の集成によってであり、そのような聖典を熟達し、暗誦して、それに依拠して法を説く。それゆえに「**品や五十経篇によって**」等と言った。

232. Mandapaññoti parittapañño. Momūhoti sammuyhako. ‘‘Evantipi me no’’tiādinā vividho nānappakāro khepo vācāya paravādānaṃ khīpanaṃ vācāvikkhepo, taṃ vācāvikkhepaṃ, na marati na pacchijjati yathāvutto vādavikkhepo etāyāti amarā, tattha pavattā diṭṭhi amarāvikkhepo, taṃ amarāvikkhepaṃ. Apariyantavikkhepanti ‘‘evampi me no’’tiādinā pucchitassa apariyosāpanavasena vikkhepaṃ. Ito cito ca sandhāvati ekasmiṃ sabhāve anavaṭṭhānato. Gāhaṃ na upagacchatīti micchāgāhatāya uttaravidhānāya purimapakkhaṃ ṭhapetvā gāhaṃ na upagacchati. Amarāsadisāya amarāya vikkhepoti amarāvikkhepo.

232. 「鈍慧な者」とは、わずかな智慧しかない者。「極めて愚鈍な者」とは、惑乱している者。「私にはそうでもない」等によって、様々な種々の言葉の混乱、他者の説の粉砕、言葉の攪乱があり、その言葉の攪乱は、上述の論の攪乱が死ぬことなく、途切れることがないため「不死(ウナギ)」であり、そこに生じる見解が「不死の攪乱(ウナギのようにつかみどころのない攪乱)」であり、その不死の攪乱である。「果てなき攪乱」とは、「私にはそうでもない」等と問われたことに対して、結論を出さないことによる攪乱である。一つの自性に定まらないため、あちらこちらへと走り回る。「執着に達しない」とは、邪悪な執着によって後の規定のために前の立場を保ったまま、執着に達しないのである。不死(ウナギ)に似た不死の攪乱ゆえに「不死の攪乱」という。

Idaṃ kusalanti ettha iti-saddo pakārattho, iminā pakārenāti attho. Amarāvikkhepiko yathā kusale, evaṃ aññasmiṃ yaṃ kiñci kenaci pucchitaṃ atthaṃ attano aruccanatāya ‘‘evantipi me no’’tiādinā tattha tattha vikkhepaññeva āpajjati, tasmā ‘‘evantipi me no’’tiādi tattha tattha pucchitākārapaṭisedhanavasena vikkhipanākāradassanaṃ. Nanu cettha vikkhepavādino vikkhepapakkhassa ananujānanaṃ vikkhepapakkhe avaṭṭhānaṃ yuttanti? Na, tatthāpi tassa sammūḷhassa paṭikkhepavaseneva vikkhepavādassa pavattanato. Tena vuttaṃ **‘‘no’’**ti. Tathā hi sañcayo belaṭṭhaputto raññā ajātasattunā sandiṭṭhikaṃ sāmaññaphalaṃ puṭṭho paralokattikādīnaṃ paṭisedhanamukhena vikkhepaṃ byākāsi.

「これは善である」というここでの「iti(これ・この)」という語は様態を意味し、「このような様態で」という意味である。不死の攪乱者は、善についてと同様に、他のことにおいて誰かから問われたいかなる事柄に対しても、自らの好みに合わないために「私にはそうでもない」等と、そこかしこで攪乱にばかり陥る。それゆえ「私にはそうでもない」等は、そこかしこで問われた様態を否定することによる攪乱の様態を示すものである。「しかし、ここで攪乱論者が攪乱の側を承認しないことは、攪乱の側に立つこととして妥当ではないか」と言うかもしれないが、そうではない。そこにおいても、その惑乱した者の否定に基づいてのみ攪乱論が展開するからである。それゆえに「**そうではない**」と言った。実にサンジャヤ・ベーラッティプッタは、アジャータサットゥ王から現世の沙門果について問われた際、来世の存在の否定などを口実にして攪乱を説いたのである。

Etthāha – ‘‘nanu cāyaṃ sabbopi amarāvikkhepiko kusalādayo dhamme paralokattikādīni ca yathābhūtaṃ anavabujjhamāno tattha tattha pañhaṃ puṭṭho samāno pucchāya vikkhepamattaṃ āpajjati, tassa kathaṃ diṭṭhigatabhāvo. Na hi avattukāmassa viya pucchitamatthaṃ ajānantassa vikkhepakaraṇamattena tassa diṭṭhigatikatā yuttā’’ti? Vuccate – na heva kho pucchāya vikkhepakaraṇamattena tassa diṭṭhigatikatā, atha kho micchābhinivesavasena. Sassatābhinivesena micchābhiniviṭṭhoyeva hi puggalo mandabuddhitāya kusalādidhamme paralokattikādīni ca yāthāvato appaṭipajjamāno attanā aviññātassa atthassa paraṃ viññāpetuṃ asakkuṇeyyatāya musāvādabhayena ca vikkhepaṃ āpajjatīti. Atha vā puññapāpānaṃ tabbipākānañca anavabodhena asaddahanena ca tabbisayāya pucchāya vikkhepakaraṇaṃyeva sundaranti khantiṃ ruciṃ uppādetvā abhinivisantassa uppannā visuṃyeva sā ekā diṭṭhi sattabhaṅgadiṭṭhi viyāti daṭṭhabbā, indriyabaddhato ca tatiyaṭṭhānabhāve dassito.

ここで次のように言われる。「すべての不死の攪乱者は、善などの法や来世の存在などを如実に覚知しないまま、そこかしこで質問されたとき、問いに対する攪乱に陥るだけである。彼にどうして悪見に陥った状態があるのか。語りたくない者のように、問われた事柄を知らないことによる攪乱の行為だけで、彼が悪見に囚われているとするのは妥当ではないのではないか」と。それに対して答えられる。問いに対して攪乱を行うことだけで、彼が悪見に囚われているわけではなく、実に誤った執着に基づくのである。常住の執着によって誤って執着した人こそが、知能が鈍いために善などの法や来世の存在などを正しく理解せず、自ら知解していない事柄を他人に知解させることができないことと、虚妄を語る恐れから攪乱に陥るのである。あるいは、善悪の行為とその異熟を理解せず、信じないことによって、それに関する問いに対して攪乱を行うことこそが良いのだと承認・好意を生じさせて執着する者に生じた、七種断見のように別個の独自の一つの見解であると見なされるべきであり、諸根に拘束されていることから第三の境地において示されている。

234. Sannidhikārakaṃ kāmeti ettha anindriyabaddhāni adhippetānīti tilataṇḍulādiggahaṇaṃ, tassa lokassa appasādaparihāratthaṃ kadāci taṇḍulanāḷiādisaṅgahaṇakaraṇaṃ sandhāya vuttaṃ **‘‘tilataṇḍulādayo paññāyantī’’**ti.

234. 「蓄積を行う者を好む」というここにおいて、諸根に拘束されないものが意図されているので、胡麻や米などを取ることである。その世間の不信を避けるために、時に一握りの米などの蓄積を行うことについて「**胡麻や米などが見られる**」と言ったのである。

236. Ājīvakā matā nāmāti ime ājīvakā sabbaso sammāpaṭipattirahitā micchā eva ca paṭipajjamānā adhisīlasaṅkhātassa sīlajīvitassa abhāvena matā nāma. Puttamatāti mataputtā. Samaṇe gotame brahmacariyavāso atthīti samaṇaṃ eva gotamaṃ parisuddho suparipuṇṇo takkarassa sammā dukkhakkhayāvaho brahmacariyavāso atthi. Etenettha dhammasudhammatādidīpanena buddhasubuddhatañca dīpeti, aññattha natthīti iminā bāhirakesu tassa abhāvaṃ. Sesaṃ suviññeyyameva.

236. 「アージーヴァカ(邪命外道)たちは死んだ者と呼ばれる」とは、これらアージーヴァカたちは完全に正行を欠き、誤った実践ばかりをしており、増上戒と呼ばれる戒の生命がないがゆえに、死んだ者と呼ばれる。「死んだ者の子ら」とは、死者の子たちである。「沙門ゴータマには清浄行の暮らしがある」とは、沙門ゴータマにこそ清浄で円満であり、それを実践する者に正しく苦の終滅をもたらす清浄行の暮らしがあるということである。これによって、法の善法性などを示すことで仏の善仏性をも示し、「他にはない」ということによって外道にはそれがないことを示している。残りは容易に理解できる。

Sandakasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

サンダカ経の注釈の陰義の解明は完結した。

7. Mahāsakuludāyisuttavaṇṇanā

7. 大サクルダーイン経の注釈

237. Abhiññātāti ediso ediso cāti abhilakkhaṇavasena ñātā. Appasaddassa vinīto, appasaddatāya mandabhāṇitāya vinītoti ca appasaddavinītoti vuccamāne aññena vinītabhāvo dīpito hoti, bhagavā pana sayambhuñāṇena sayameva vinīto. Tasmā pāḷiyaṃ ‘‘appasaddavinīto’’ti na vuttaṃ. Tenāha **‘‘na hi bhagavā aññena vinīto’’**ti.

237. 「広く知られた」とは、このような、またこのような特徴によって知られているということである。「声の静かな人によって調御された」「静かな声であること、小声で語ることによって調御された」と「小声調御」と言われる場合、他者によって調御された状態が示されるが、世尊は自覚の智慧によって自ら調御されたのである。それゆえ聖典には「小声調御」とは言われていない。それゆえ「**世尊は他者によって調御されたのではないからである**」と言った。

238. Hiyyodivasaṃ upādāya tato āsannāni katipayāni divasāni purimāni nāma honti, purimānīti ca pubbakāni, atītānīti attho. Tato paranti yathā vuttaatītadivasato anantaraṃ paraṃ purimataraṃ atisayena purimattā. Iti imesu dvīsu pavattito yathākkamaṃ purimapurimatarabhāvo, evaṃ santepi yadettha ‘‘purimatara’’nti vuttaṃ, tato pabhuti yaṃ yaṃ oraṃ, taṃ taṃ paraṃ, yaṃ yaṃ paraṃ, taṃ taṃ ‘‘purimatara’’nti vuttaṃ hoti. Kutūhalayuttā sālā kutūhalasālā yathā ‘‘ājaññaratho’’ti. Ime dassanādayo.

238. 「昨日を起点として、それに近い数日間」を「前の」といい、「前の」とは「過去の」という意味である。「それより先」とは、上述の過去の日から間を置いた先であり、極めて前であることから「より前の」である。このようにこれら二つにおいて順次に「前」「より前」の状態が生じるが、そうであってもここで「より前の」と言われたのは、それ以降、手前にあるものを「先」とし、先にあるものを「より前の」と言ったのである。「好奇心(論議)に満ちた集会所」とは、好奇心集会所であり、ちょうど「名馬の車」のようなものである。これらが見ること等である。

Ayathābhūtaguṇehīti ayathābhūtaṃ micchādīpitaatthamatteneva ugghositaguṇehi samuggato ghosito. Taranti atikkamanti etenāti titthaṃ, aggamaggo. Diṭṭhigatikamaggo pana ayathābhūtopi tesaṃ tathā vitaraṇaṃ upādāya titthanti voharīyatīti taṃ karontā titthakarā. Osaratīti pavisati.

「如実ならざる徳によって」とは、如実ならず誤って示された事柄の分量だけで称揚された徳によって高らかに宣言されたということである。「これによって渡る、越える」ゆえに「渡場(外道の教説)」であり、最上の道である。しかし悪見者の道は、如実ならざるものであっても彼らがそのように渡ることにもとづいて「渡場」と呼ばれるので、それを作る者たちが「外道(渡場を作る者)」である。「入る」とは、入ることである。

239. Sahitanti pubbāparāviruddhaṃ. Na kiñci jātanti paṭiññādosahetudosaudāharaṇadosaduṭṭhadosatāya na kiñci jātaṃ. Tenāha **‘‘āropito te vādo’’**ti. Vadanti tena paribhāsantīti vādo doso. Sabhāvakkosenāti sabhāvato pavattakoṭṭhāsena.

239. 「一貫している」とは、前後で矛盾がないこと。「何一つ生じなかった」とは、主張の過失、理由の過失、実例の過失、悪しき過失があることによって、何一つ生じなかったということである。それゆえ「**あなたに論争が持ちかけられた**」と言った。「それによって語る、非難する」ゆえに「論争(過失)」である。「本性からの非難によって」とは、本性から生じた部分によってである。

240. Pīḷeyyāti madhubhaṇḍena saha bhājane pīḷetvā dadeyya. Sabrahmacārīhi sampayojetvāti sahadhammikehi viheṭhanapayogaṃ katvā, tenāha **‘‘vivādaṃ katvā’’**ti.

240. 「圧搾するであろう」とは、蜜の器とともに器の中で圧搾して与えるであろう。「同梵行者たちと交わって」とは、同法の者たちと加害の実践をしてのことであり、それゆえ「**諍いをして**」と言った。

241. Itarītarenāti paṇītato itarena. Tenāha **‘‘lāmakalāmakenā’’**ti.

241. 「それぞれ互いに」とは、優れたものとは異なるものによってである。それゆえ「**劣ったものの中でも劣ったものによって**」と言った。

242. Bhattakosakenāti kosakabhattena, khuddakasarāvabhattakenāti attho. Beluvamattabhattāhārāti billapamāṇabhattabhojanā. Oṭṭhavaṭṭiyāti mukhavaṭṭiyā. Sabbākārenevāti sabbappakāreneva. Anappāhāroti na vattabbo kadāci appāhāroti katvā. Tattha ativiya aññehi avisayhaṃ appāhārataṃ bhagavato dassetuṃ **‘‘padhānabhūmiya’’**ntiādi vuttaṃ. Mayāti nissakkavacanaṃ. Visesatarāti tena dhammena visesavantatarā.

242. 「一椀の飯によって」とは、小鉢の飯によってであり、小さな素焼きの小皿の飯によってという意味である。「ベルの木の実ほどの食事を摂る者たち」とは、ビルヴァの実の大きさの食事を食べる者たち。「唇の縁によって」とは、口の縁によって。「あらゆる様態において」とは、すべてのあり方において。「少食でない者」とは、決して少食であると言われるべきではない者。そこにおいて他者には極めて耐えがたい世尊の少食さを示すために「**精進の境地において**」等と言われた。「私によって」とは、奪格の語である。「より卓越した」とは、その法によってより卓越性を持つ者たちである。

Vatasamādānavaseneva paṃsukūlaṃ dhārentīti paṃsukūlikāti āha – **‘‘samādinnapaṃsukūlikaṅgā’’**ti, saddattho pana ‘‘visuddhimagge’’ (visuddhi. 1.24) vuttanayena veditabbo. Piṇḍapātikā sapadānacārinotiādīsupi eseva nayo. Tattha tattha satthena chinditattā satthalūkhāni. Yaṃ yaṃ sappāyaṃ, tasseva gahaṇaṃ uccinanti āha **‘‘uccinitvā…pe… thiraṭṭhānameva gahetvā’’**ti. Alābulomasānīti alābulomāni viya sukhumatarāni cīvarasuttaṃsūni etesaṃ santīti alābulomasāni. Pātitasāṇapaṃsukūlanti kaḷevarena saddhiṃ chaḍḍitasāṇamayaṃ paṃsukūlaṃ, yaṃ tumbamatte puḷave odhunitvā satthā gaṇhi.

誓戒の受持に基づいてのみ糞掃衣を身に着ける者が「糞掃衣の保持者」であるため、「**糞掃衣の頭陀行を受持した者**」と言ったが、その語義は『清浄道論』(清浄道1.24)で述べられた方法によって理解されるべきである。「托鉢者」「次第乞食者」等においてもこの方法と同じである。そこかしこで刃物で切り取られているため「刃物で粗末にされたもの」である。適切なものだけを取り上げることを「拾い集める」というので、「**拾い集めて……中略……しっかりした場所だけを取って**」と言った。「瓢箪の毛のような」とは、瓢箪の毛のように極めて微細な衣の糸筋を持つ者たちのことである。「投げ捨てられた麻の糞掃衣」とは、死体とともに捨てられた麻製の糞掃衣であり、師が桶一杯ほどの蛆虫を払い落として手に取ったものである。

‘‘Yathāpi bhamaro puppha’’ntiādinā (dha. pa. 49) vuttaṃ madhukarabhikkhācāravataṃ ‘‘piṇḍiyālopabhojanaṃ nissāya pabbajjā’’ti (mahāva. 73, 128) vacanato bhikkhūnaṃ pakatibhūtaṃ vatanti vuttaṃ **‘‘uñchāsake vate ratā’’**ti. Vata-saddo cettha pakativatasaṅkhātaṃ sakavataṃ vadati. Tenāha **‘‘uñchācariyasaṅkhāte bhikkhūnaṃ pakativate’’**ti. Uccanīcagharadvāraṭṭhāyinoti mahantakhuddakagehānaṃ bahidvārakoṭṭhakaṭṭhāyino. Kabaramissakaṃ bhattaṃ saṃharitvāti kaṇājakamissakaṃ bhattaṃ sampiṇḍitvā. Ummārato paṭṭhāyāti gharummārato paṭṭhāya.

「蜂が花を……」(法句経49)等で述べられた蜜蜂のような乞食の誓戒は、「托鉢の施食に依拠しての出家」(律蔵大品73, 128)という言葉から、比丘たちの本来の誓戒であると言われたので、「**拾い集める誓戒を喜ぶ**」と言った。そしてここでの「誓戒」という語は、本来の誓戒と呼ばれる自らの誓戒を語っている。それゆえ「**乞食行と呼ばれる比丘たちの本来の誓戒において**」と言った。「高低の家の扉の前に立つ者たち」とは、大小の家の外門の建物の前に立つ者たち。「雑多なものが混ざった飯を集めて」とは、糠粒の混ざった飯を寄せ集めて。「敷居から始めて」とは、家の敷居から始めて。

Cīvarānuggahatthanti cīvarānurakkhaṇatthaṃ. Ettha ca yasmā buddhā nāma sadevake loke anuttaraṃ puññakkhettaṃ, sā cassa puññakkhettatā paramukkaṃsagatā, tasmā sattānaṃ tādisaṃ upakāraṃ ācikkhitvā te ca anuggaṇhantā gahapaticīvaraṃ sādiyanti, catupaccayasantose pana ne paramukkaṃsagatā evāti daṭṭhabbaṃ.

「衣を摂受するために」とは、衣を保護するためである。そしてここにおいて、仏たちとは神々を含む世間において無上の福田であり、その福田たることは最高の極致に達しているがゆえに、衆生たちにそのような恩恵を告げ知らせ、彼らを摂受しながら居士の衣を受納されるのであり、四資具の満足においては彼らは実に最高の極致に達していると見なされるべきである。

244. Sappaccayanti sahetukaṃ sakāraṇaṃ hutvā dhammaṃ desetīti ayamettha attho. Codako pana adhippāyaṃ ajānanto **‘‘kiṃ panā’’**tiādimāha. Itaro **‘‘no na desetī’’**tiādinā adhippāyaṃ vivarati. Nidānanti cettha ñāpakaṃ uppattikāraṇaṃ adhippetaṃ, tañca tassa tassa anuppattiyuttassa atthassa paṭipakkhaharaṇato **‘‘sappāṭihāriya’’**nti vuccatīti āha ‘‘purimassevetaṃ **vevacana’’**nti. Rāgādīnaṃ vā paṭiharaṇaṃ paṭihāriyaṃ, tadeva pāṭihāriyaṃ, saha pāṭihāriyenāti sappāṭihāriyaṃ. Rāgādipaṭisedhavaseneva hi satthā dhammaṃ deseti.

244. 「縁(因縁)を伴って」とは、原因を伴い、理由を伴って法を説くということであり、これがここでの意味である。しかし質問者は真意を知らずに「**では……か**」等と言った。他方は「**説かないのではない**」等によって真意を明らかにする。そしてここでの「因縁」とは、知らしめる発生の原因が意図されており、それがそのそれぞれの未達成にふさわしい事柄の敵対者を取り除くことから「**奇跡(神通・確証)を伴う**」と言われるので、「これは前の語の**同義語**である」と言った。あるいは貪りなどの除去が「対治」であり、それこそが「神通」であり、神通を伴うことが「神変を伴う」ことである。実に師は貪りなどを制止することに基づいてのみ法を説かれるからである。

245. Tassa tassa pañhassāti yaṃ yaṃ pañhaṃ paro abhisaṅkharitvā bhagavantaṃ upasaṅkamitvā pucchati, tassa tassa pañhassa. Upari āgamanavādapathanti vissajjane kate tato upari āgacchanakaṃ vādamaggaṃ. Visesetvā vadantoti vattati, ‘‘bho gotama, vattumarahatī’’ti attano vādabhedanatthaṃ āhataṃ kāraṇaṃ attano māraṇatthaṃ āvudhaṃ nidassento viya visesetvā vadanto pahārakena vacanena. Antarantareti mayā vuccamānakathāpabandhassa antarantare. Dadeyya vadeyya. Evarūpesu ṭhānesūti paravādīhi saddhiṃ vādapaṭivādaṭṭhānesu. Te niggahetuṃ mayā desitaṃ suttapadaṃ ānetvā mamayeva anusāsaniṃ ovādaṃ paccāsīsanti.

245. 「そのそれぞれの問いに」とは、他者が作り上げて世尊のもとに近づいて尋ねるそのそれぞれの問いに、ということである。「さらに展開する論争の道」とは、解答がなされた後に、それ以上に進んでくる論争の道。「卓越させて語る」とは、生じるのであり、「ゴータマよ、語るに値する」と自らの論を破折するための理由を、自らを殺すための武器を示すかのように卓越させて打撃の言葉で語る。「合間合間に」とは、私によって語られている話の連なりの合間合間に。「与えるであろう」とは、語るであろう。「このような場所において」とは、他論者たちとの論争・抗弁の場所において。彼らを論破するために私が説いた経の句を持ち出して、まさに私の教誡・教導を期待するのである。

246. Sampādemīti manorathaṃ sampādemi. Paripūremīti ajjhāsayaṃ paripūremi. Adhisīleti adhike uttamasīle. Sāvakasīlato ca paccekabuddhasīlato ca buddhānaṃ sīlaṃ adhikaṃ ukkaṭṭhaṃ paramukkaṃsato anaññasādhāraṇabhāvato. Tenāha **‘‘buddhasīlaṃ nāma kathita’’**nti. Ṭhānuppattikapaññāti tattha tattha ṭhānaso uppannapaññā. Tenāha **‘‘tatthā’’**tiādi. Avasesā paññāti idha pāḷiyaṃ āgatā anāgatā ca yathāvuttañāṇadvayavinimuttā paññā.

246. 「達成させる」とは、望みを達成させる。「満たす」とは、意図を満たす。「増上戒において」とは、卓越した最上の戒において。声聞の戒や辟支仏の戒よりも、諸仏の戒は卓越し、最勝であり、最高峰であり、他と共有されないものである。それゆえ「**仏の戒と呼ばれて語られた**」と言った。「その場に応じた智慧」とは、その場その場で適切に生じる智慧である。それゆえ「**そこにおいて**」等と言った。「残りの智慧」とは、ここで聖典に説かれた、また説かれていない、上述の二つの知から離れた智慧である。

247. Visesādhigamānanti satipaṭṭhānādīnaṃ adhigandhabbavisesānaṃ. Abhiññā nāma cha abhiññā, tāsu ukkaṭṭhaniddesena chaḷabhiññārahatova aggamaggapaññā idha abhiññāti adhippetā, tassa vosānaṃ pariyosānaṃ pāramī paramukkaṃsāti avakaṃsāti ca aggaphalaṃ vuccatīti āha **‘‘abhiññā…pe… arahattaṃ pattā’’**ti.

247. 「卓越した証得の」とは、念処などの得られるべき卓越した徳の、ということである。「神通」とは六つの神通のことであり、それらの中で最高のものを示すことによって、六神通を持つ阿羅漢の最上の道の智慧がここで「神通」として意図されており、その成就、究極、波羅蜜、最高峰、下限として最高の結果が説かれるので、「**神通……中略……阿羅漢果に達した**」と言った。

Upāyapadhāneti ariyaphalādhigamanassa upāyabhūte padhāne. ‘‘Anuppannapāpakānuppādādiatthā’’ti gahitā tatheva honti, taṃ atthaṃ sādhentiyevāti etassa atthassa dīpako sammā-saddoti yathāadhippetatthassa anuppannapāpakānuppādādino upāyabhūte, padhānaupāyabhūteti attho. Sammā-saddassa vā yoniso atthadīpakataṃ sandhāya ‘‘yoniso padhāne’’ti vuttaṃ. Chandaṃ janetīti kattukamyatākusalacchandaṃ uppādeti pavatteti vā. Vāyamatīti payogaparakkamaṃ karoti. Vīriyaṃ ārabhatīti kāyikacetasikavīriyaṃ karoti. Cittaṃ ukkhipatīti teneva sahajātavīriyena kosajjapakkhato cittaṃ ukkhipati. Padahatīti sammappadhānabhūtaṃ vīriyaṃ pavatteti. Paṭipāṭiyā panetāni cattāri padāni āsevanābhāvanābahulīkammasātaccakiriyāhi yojetabbāni. ‘‘Padahatī’’ti vā iminā āsevanādīhi saddhiṃ sikhāpattaṃ ussoḷhivīriyaṃ yojetabbaṃ. Vaḍḍhiyā paripūraṇatthanti yāvatā bhāvanāpāripūriyā paripūraṇatthaṃ. Yā ṭhitīti yā kusalānaṃ dhammānaṃ paṭipakkhavigamena avaṭṭhiti. So asammosoti so avināso. Yaṃ vepullanti yo sabbaso vipulabhāvo mahantatā. Bhāvanāpāripūrīti bhāvanāya paripūritā. Atthotipi veditabbaṃ purimapacchimapadānaṃ samānatthabhāvato.

「方便の精進において」とは、聖果の証得の方便となる精進において。「生じていない悪を生じさせないことなどの目的」として捉えられたものはまさにその通りであり、その目的を果たすに他ならないというこの意味を示すのが「正しい(正)」という語であり、意図された通りの生じていない悪を生じさせないことなどの方便となる、精進の方便となる、という意味である。あるいは「正」という語が如理な意味を示すことに着目して「如理な精進において」と言った。「意欲を生じる」とは、作そうとする意欲である善なる意欲を生じさせ、あるいは活動させる。「努める」とは、実践の努力をする。「精進を起こす」とは、身体的・精神的な精進をする。「心を奮い起こす」とは、その倶生の精進によって懈怠の側から心を奮い起こす。「励む」とは、正精進となる精進を活動させる。順序としてはこれら四つの句は、親近・修習・多作・継続の実践に結合されるべきである。あるいは「励む」によって、親近などとともに頂点に達した熱烈な精進が結合されるべきである。「増大を満たすために」とは、修習が円満に達するまで満たすために。「留まること」とは、善なる諸法が敵対者の消滅によってしっかりと留まること。「忘失しないこと」とは、その不滅である。「広大さ」とは、完全に広大であること、広大さである。「修習の円満」とは、修習によって満たされた状態である。意味の上でも、前後の句が同義であることから知られるべきである。

Pubbabhāgapaṭipadā kathitātaṃtaṃvisesādhigamassa paṭipadāvibhāvanāya āraddhattā. Akusalānaṃ dhammānaṃ anuppajjanena anatthāvahatā nāma natthīti vuttaṃ – **‘‘uppajjamānā’’**ti vacanaṃ uppannānaṃ rāsantarabhāvena gahitattā. Tathā kusalānaṃ dhammānaṃ uppajjanenāti vuttaṃ – anuppajjamānāti vacanaṃ uppannānaṃ rāsantarabhāvena gahitattā. Nirujjhamānāti paṭipakkhasamāyogena vinassamānā, na khaṇanirodhavasena nirujjhamānā.

前段階の行道が説かれたのは、そのそれぞれの卓越した証得の行道を明らかにするために始められたからである。不善の諸法が生じないことによって不利益がもたらされることはないため、「**生じる**」という語は、生じたものの別の集まりとして捉えられたゆえに言われた。同様に、善なる諸法が生じることによってと言われたのは、生じないという言葉が生じたものの別の集まりとして捉えられたからである。「滅する」とは、敵対者との結合によって滅びることであり、刹那の滅に基づいて滅することではない。

Lobhādayo veditabbā, ye āraddhavipassakānaṃ uppajjanārahā. Sakiṃ uppajjitvāti sabhāvakathanamattametaṃ. Ekavārameva hi maggo uppajjati. Nirujjhamānoti saraseneva nirujjhamāno. Na hi tassa paṭipakkhasamāyogo nāma atthi. Phalassāti anantarakāleva uppajjanakaphalassa. Paccayaṃ datvāva nirujjhatīti iminā maggo sampati āyatiñca ekanteneva atthāvahoti dasseti. Purimasmimpīti ‘‘anuppannā me kusalā dhammā anuppajjamānā anatthāya saṃvatteyyu’’nti etasmiṃ tatiyavārepi. ‘‘Samathavipassanā gahetabbā’’ti vuttaṃ aṭṭhakathāyaṃ, taṃ pana maggassa anuppannatāya sabbhāvato, anuppajjamāne ca tasmiṃ vaṭṭānatthasabbhāvatoti maggassapi sādhāraṇabhāvato na yuttanti paṭikkhipati. Yadi samathavipassanānampi anuppatti anatthāvahā, maggassa anuppattiyā vattabbaṃ natthīti.

貪りなどは、観察行を始めた者たちに生じるにふさわしいものとして知られるべきである。「一度生じて」とは、単なる自性の説明にすぎない。実に道は一度だけ生じるからである。「滅しつつある」とは、それ自体の力で滅しつつあるということである。実にそれには敵対者の結合などというものはないからである。「果の」とは、無間(直後)の時に生じるべき果の。「縁を与えてこそ滅する」とは、これによって道は現在においても未来においても絶対に利益をもたらすことを示している。「前においても」とは、「生じていない私の善なる諸法が生じないならば、不利益のために資するであろう」というこの第三の節目においてもである。「止観が取られるべきである」と注釈書に言われたが、それは道が生じていないことの事実と、それが生じないときには輪廻の不利益があるという事実から、道にも共通することであるため妥当ではないと否定する。もし止観の不生も不利益をもたらすならば、道の不生については言うまでもないからである。

Mahantaṃ, gāravaṃ hoti, tasmā ‘‘saṅghagāravena yathāruci vandituṃ na labhāmī’’ti saṅghena saha na nikkhami. Ettakaṃ dhātūnaṃ nidhānaṃ nāma aññatra natthi, mahādhātunidhānato hi nīharitvā katipayā dhātuyo tattha tattha cetiye upanītā, idha pana rāmagāmathūpe vinaṭṭhe nāgabhavanaṃ paviṭṭhā doṇamattā dhātuyo upanītā. Atimandāni noti nanu ativiya mandāni.

「大いなる敬意がある、それゆえ『僧伽への敬意から思う存分に礼拝することができない』と、僧伽とともに出発しなかった。これほどの遺骨(仏舎利)の安置は他にはない。大仏舎利安置所から取り出されて少数の仏舎利があちこちの仏塔に納められたが、ここではラーマ村の仏塔が壊れた際に龍宮に入った一ドナほどの仏舎利が納められた。極めて鈍いのではないか」とは、なんと極めて鈍いことではないか。

Saṃvijjitvāti ‘‘kathañhi nāma mādiso īdisaṃ anatthaṃ pāpuṇissatī’’ti saṃvegaṃ janetvā. Īdisaṃ nāma mādisaṃ ārabbha vattabbanti kiṃ vadatīti taṃ vacanaṃ anādiyanto.

「戦慄して」とは、「私のような者がどうしてこのような不利益に至るであろうか」と戦慄(畏怖)を生じさせて。「私のような者を対象としてこのようなことが言われるべきだとは、何を言っているのか」と、その言葉を受け入れないことである。

Santasamāpattito aññaṃ santhambhanakāraṇaṃ balavaṃ natthīti tato parihīno sammāpaṭipattiyaṃ patiṭṭhā kathaṃ bhavissatīti āha **‘‘santāya…pe… na sakkotī’’**ti. Na hi mahārajjuyā chinnāya suttatantū santhambhetuṃ sakkontīti. Samathe dassetvā tena samānagatikā imasmiṃ visaye vipassanāpīti iminā adhippāyenāha **‘‘evaṃ uppannā samathavipassanā…pe… saṃvattantī’’**ti.

寂静な等至より他に強力な支持の因はないので、そこから衰退した者が正行において確立することがどうしてあろうか、という意で「**寂静な……中略……できない**」と言った。実に大綱が切れたとき、糸筋が支えることはできないからである。止水(静寂)を示して、それと同列のこの領域における観察(ヴィパッサナー)もそうであるという意図から、「**このように生じた止観は……中略……資する**」と言った。

Kāsāvanti kāsāvavatthaṃ. Kacchaṃ pīḷetvā nivatthanti pacchimaṃ ovaṭṭikaṃ pīḷento viya daḷhaṃ katvā nivatthaṃ addasaṃsūti yojanā.

「黄褐色の」とは、黄褐色の布。「腰紐を締めて着けた」とは、後ろの端を締め付けるかのようにしっかりと整えて着けたのを彼らは見た、という文脈である。

Vuttanayenāti (a. ni. ṭī. 1.1.394) ‘‘kāmā nāmete aniccā dukkhā vipariṇāmadhammā’’tiādinā vatthukāmakilesakāmesu ādīnavadassanapubbakanekkhammapaṭipattiyā chandarāgaṃ vikkhambhayato samucchindantassa ca ‘‘anuppanno ca kāmāsavo na uppajjatī’’tiādinā heṭṭhā sabbāsavasuttavaṇṇanādīsu (ma. ni. 1.15 ādayo; ma. ni. aṭṭha. 1.15 ādayo) vuttanayena. Ārammaṇarasaṃ anubhavitvā niruddhavipākoti tadārammaṇamāha. Anubhavitvā bhavitvā ca vigataṃ bhūtavigataṃ. Anubhūtabhūtā hi bhūtatāsāmaññena bhūta-saddena vuttā. Sāmaññameva hi upasaggena visesīyatīti. Anubhūtasaddo ca kammavacanicchāya abhāvato anubhavakavācako daṭṭhabbo. Vipāko ārammaṇe uppajjitvā niruddho bhutvāvigatoti vattabbataṃ arahati, vikappagāhavasena rāgādīhi tabbipakkhehi ca akusalaṃ kusalañca kammaṃ ārammaṇarasaṃ anubhavitvā vigatanti vattabbataṃ arahati. Yathāvutto pana vipāko kevalaṃ ārammaṇarasānubhavanavaseneva pavattatīti anubhavitvā vigatattā nippariyāyeneva vutto, tassa ca tathā vuttattā kammaṃ bhavitvā vigatapariyāyena, yaṃ ‘‘uppannānaṃ akusalānaṃ dhammānaṃ pahānāya, uppannānaṃ kusalānaṃ dhammānaṃ ṭhitiyā’’ti ettha ‘‘uppanna’’nti gahetvā taṃsadisānaṃ pahānaṃ, vuddhi ca vuttā. Vipaccituṃ okāsakaraṇavasena uppatitaṃ atītakammañca tato uppajjituṃ āraddho anāgato vipāko ca ‘‘okāsakatuppanno’’ti vutto. Yaṃ uppannasaddena vināpi viññāyamānaṃ uppannaṃ sandhāya ‘‘nāhaṃ, bhikkhave, sañcetanikāna’’ntiādi (a. ni. 10.217, 219) vuttaṃ.

「述べられた方法によって」とは(増支部複注1.1.394)、「諸々の欲望とは無常であり、苦であり、変易する法である」等によって、対象となる欲望と煩悩となる欲望において過患を見ることを先立つ出離の実践により、欲貪を鎮伏し根絶する者にとって、「生じていない欲の漏が生じない」等と、下の『一切漏経の注釈』等(中部1.15以下、中部注1.15以下)で述べられた方法による。「対象の味わいを経験して滅した異熟」とは、その対象を経験したものを指す。経験して、存在して消え去ったものが「生じて消え去ったもの」である。経験され生じたものは、生じたという共通性によって「生じた」という語で語られた。共通性こそが接頭辞によって特殊化されるからである。そして「経験された」という語は、受動の語を意図しないことから、経験する者を意味するものと見なされるべきである。異熟は対象において生じて滅し、「経験して消え去った」と言われるに値し、分別と執着に基づいて貪り等やその対治によって不善と善の業が対象の味わいを経験して消え去ったと言われるに値する。しかし上述の異熟は、単に対象の味わいを経験することに基づいてのみ展開するので、経験して消え去ったことから直接的に説かれたのであり、それがそのように説かれたことから、業は「存在して消え去った」という間接的な表現によって、「生じた不善の諸法を断ずるために、生じた善の諸法を持続させるために」というここにおいて「生じた」と取って、それに類似したものの断絶と増大が説かれた。熟すための機会を作ることによって生起した過去の業と、そこから生じ始めた未来の異熟は「機会を作って生じたもの」と言われた。「生じた」という語なしでも知られる生じたものを指して、「比丘たちよ、私は故意の業を……」(増支部10.217, 219)等と説かれたのである。

Tesūti vipassanāya bhūmibhūtesu khandhesu. Anusayitakilesāti anusayavasena pavattā appahīnā maggena pahātabbā kilesā adhippetā. Tenāha **‘‘atītā…pe… na vattabbā’’**ti. Tesañhi ambarukkhopamāya vattamānāditā na vattabbā maggena pahātabbānaṃ tādisassa vibhāgassa anuppajjanato. Appahīnāva hontīti iminā appahīnaṭṭhena anusayaṭṭhoti dasseti. Idaṃ bhūmiladdhuppannaṃ nāmāti idaṃ tesu khandhesu uppattirahakilesajātaṃ tāya eva uppattirahatāya bhūmiladdhuppannaṃ nāma, tebhūmakabhūmiladdhā nāma hotīti attho. Tāsu tāsu bhūmīsūti manussadevādiattabhāvasaṅkhātesu upādānakkhandhesu. Tasmiṃ tasmiṃ santāne anuppattianāpāditatāya asamugghātitā. Ettha ca laddhabhūmikaṃ bhūmiladdhanti vuttaṃ aggiāhito viya.

「それらにおいて」とは、観察の基盤となる諸蘊において。「随眠した煩悩」とは、随眠として展開し、未だ断たれず、道によって断たれるべき煩悩が意図されている。それゆえ「**過去の……中略……語られるべきではない**」と言った。実にそれらには、マンゴーの木の比喩において現在などの状態は語られるべきではない。道によって断たれるべきものにはそのような区別が生じないからである。「未だ断たれていない」とは、これによって断たれていないという意味で随眠の意味であると示している。「これは領域を得て生じたものと呼ばれる」とは、この諸蘊において生じるにふさわしい煩悩の集まりが、まさにその生じるにふさわしさによって「領域を得て生じたもの」と呼ばれ、三界の領域を得たものとなるという意味である。「そのそれぞれの領域において」とは、人間や天族などの個体と呼ばれる取蘊において。「そのそれぞれの相続において」生じない状態に達していないことによって根絶されていない。そしてここでは、領域を得たものが、火が置かれたように「領域を得たもの」と言われた。

Okāsakatuppanna-saddepi ca okāso kato etenāti okāso kato etassāti ca atthadvayepi kata-saddassa paranipāto daṭṭhabbo. Āhatakhīrarukkho viya nimittaggāhavasena adhiggahitaṃ ārammaṇaṃ, anāhatakhīrarukkho viya avikkhambhitatāya antogadhakilesaṃ ārammaṇaṃ. Nimittaggāhakāvikkhambhitakilesā vā puggalā āhatānāhatakhīrarukkhasadisā. Purimanayenevāti avikkhambhituppanne viya ‘‘imasmiṃ nāma ṭhāne nuppajjissantīti na vattabbā. Kasmā? Asamugghātitattā’’ti yojetvā vitthāretabbaṃ.

「機会を作って生じたもの」という語においても、「これによって機会が作られた」「これのために機会が作られた」という両方の意味において「作られた(kata)」という語の後置が見られるべきである。傷つけられた乳木のように相の把持によって捉えられた対象、傷つけられていない乳木のように鎮伏されていないことによって内部に含まれた煩悩の対象。あるいは、相を把持して煩悩を鎮伏していない人物は、傷つけられた乳木と傷つけられていない乳木に似ている。「前述の方法によってのみ」とは、鎮伏されずに生じたものにおけるように、「この場所に生じないであろう、と語られるべきではない。なぜか? 根絶されていないからである」と結合して敷衍されるべきである。

Vuttaṃ paṭisambhidāmagge. Tattha ca maggena pahīnakilesānameva tidhā navattabbataṃ apākaṭaṃ supākaṭaṃ kātuṃ ajātaphalarukkho upamābhāvena āgato. Atītādīnaṃ appahīnatā dassanatthampi **‘‘jātaphalarukkhena dīpetabba’’**nti vuttaṃ. Tattha yathā acchinne rukkhe nibbattārahāni phalāni chinne anuppajjamānāni na kadāci sasabhāvāni ahesuṃ honti bhavissanti cāti tāni atītādibhāvena na vattabbāni, evaṃ maggena pahīnakilesā ca daṭṭhabbā. Yathā chede asati phalāni uppajjissanti, sati ca nuppajjissantīti chedassa sātthakatā, evaṃ maggabhāvanāya ca sātthakatā yojetabbā.

『無礙解道』に説かれている。そこにおいて、道によって断たれた煩悩こそが三様(過去・現在・未来)に語られるべきではないという不明瞭なことを極めて明瞭にするために、実を結んでいない木が比喩として登場した。過去等のものが未だ断たれていないことを示すためにも「**実を結んだ木によって示されるべきである**」と言われた。そこにおいて、切り倒されていない木において生じるべき果実が、切り倒されたときには生じないものが決して自性として存在したこともなく、存在することもなく、存在するはずもないように、それらは過去等の状態として語られるべきではないのと同様に、道によって断たれた煩悩もまた見なされるべきである。伐採がなければ果実は生じ、伐採があれば生じないという伐採の有益性があるように、道の修習の有益性も結合されるべきである。

Tepi pajahatiyeva kilesappahāneneva tesampi anuppattidhammatāpādanato. Abhisaṅkhāraviññāṇassāti paṭisandhiviññāṇassa. Upādinnaanupādinnatoti upādinnakhandhato ceva kilesato ca. Upapattivasena vuṭṭhānaṃ dassetumāha – **‘‘bhavavasena panā’’**tiādi. Ye sotāpannassa satta bhavā appahīnā, tato pañca ṭhapetvā itare dve **‘‘sugatibhavekadesā’’**ti adhippetā. Sugatikāmabhavatoti sugatibhavekadesabhūtakāmabhavato. Arahattamaggo rūpārūpabhavato vuṭṭhāti uddhambhāgiyasaṃyojanasamugghātabhāvato. Yadi arahattamaggo eva ariyamaggo siyā, so eva sabbakilese pajaheyya, sabbabhavehipi vuṭṭhaheyya. Yasmā pana odhisova kilesā pahīyanti, tasmā heṭṭhimaheṭṭhimamaggehi pahīnāvasese kilese so pajahati, iti imaṃ sāmatthiyaṃ sandhāya **‘‘sabbabhavehi vuṭṭhātiyevātipi vadantī’’**ti vuttaṃ. Tathā hi so eva ‘‘vajirūpamo’’ti vutto.

彼らは煩悩の断滅によってそれらも生じない法とすることから、それらをも断ずるのである。「行識の」とは、結生識のことである。「執受されたものと執受されないものから」とは、執受された諸蘊からも煩悩からも、ということである。生処に基づいた出離を示すために「**生存(界)に基づいては……**」等と言った。預流者に残された七つの生存のうち、五つを除いて残りの二つが「**善趣の生存の一部分**」として意図されている。「善趣の欲界の生存から」とは、善趣の生存の一部分である欲界の生存から。「阿羅漢道は色界・無色界の生存から出離する」とは、上分結を根絶することによる。もし阿羅漢道だけが聖道であるならば、それだけがすべての煩悩を断じ、すべての生存から出離するであろう。しかし煩悩は段階的に断たれるがゆえに、それは下位の諸道によって断たれた残りの煩悩を断ずるのであり、この能力に着目して「**すべての生存からまさに出離する、とも言われる**」と述べられた。実にそれこそが「金剛に譬えられるもの」と言われたのである。

Hotu tāva vuttanayena anuppannānaṃ akusalānaṃ anuppādāya, uppannānaṃ uppannasadisānaṃ pahānāya anuppattidhammatāpādanāya maggabhāvanā, atha maggakkhaṇe kathaṃ anuppannānaṃ kusalānaṃ uppādāya uppannānañca ṭhitiyā bhāvanā hoti ekacittakkhaṇikattā tassāti codeti, itaro ‘‘maggappavattiyāyevā’’ti parihāramāha. Maggo hi kāmañcekacittakkhaṇiko, tathārūpo panassa pavattiviseso, yaṃ anuppannā kusalā dhammā sātisayaṃ uppajjanti, uppannā ca savisesaṃ pāripūriṃ pāpuṇanti. Tenāha **‘‘maggo hī’’**tiādi. Kiñcāpi ariyamaggo vattamānakkhaṇe anuppanno nāma na hoti, anuppannapubbataṃ upādāya upacāravasena tathā vuccatīti dassetuṃ **‘‘anāgatapubbaṃ hī’’**tiādi vuttaṃ. Ayamevāti ayaṃ maggassa yathāpaccayapavatti eva ṭhiti nāmāti, maggasamaṅgī puggalo maggampi bhāvento eva tassa ṭhitiyā bhāvetīti vattuṃ vaṭṭati.

ひとまず上述の方法によって、生じていない不善の不生のために、生じたもの、生じたものに類似したものの断滅のために、不生法をもたらすための道の修習があるとしても、では道刹那において、どのようにして生じていない善の発生のために、生じたものの持続のために修習があるのか、それは一心刹那的なものであるのに、と詰問し、他方は「道の展開によってこそである」と回答を述べる。実に道は確かに一瞬の心刹那であるが、生じていない善なる諸法が格別に生じ、生じたものが卓越して円満に達するような、そのような展開の卓越性がある。それゆえ「**道は実に……**」等と言った。聖道は現在の刹那において未だ生じていないものではないが、かつて生じたことがないことに基づいて仮の名としてそのように言われることを示すために「**かつて未生であったものを実に……**」等と言われた。「これこそが」とは、この条件に従った道の展開こそが「持続」と呼ばれるのであり、道を備えた人は道を修習しながらまさにその持続のために修習するのだ、と言うのが妥当である。

Upasamamānaṃ gacchatīti vikkhambhanavasena samucchedavasena kilese upasamentaṃ vattati. Pubbabhāgindriyāni eva vā adhippetāni. Tenevāha **‘‘kilesūpasamatthaṃ vā gacchatī’’**ti.

「静止へと向かう」とは、鎮伏によって、根絶によって煩悩を静めつつ進行する。あるいは前段階の諸根こそが意図されている。それゆえ「**あるいは煩悩の寂静のために向かう**」と言った。

248. Adhimuccanaṭṭhenāti (dī. ni. ṭī. 2.129; a. ni. ṭī. 3.8.66) adhikaṃ savisesaṃ muccanaṭṭhena, tenāha **‘‘suṭṭhu muccanaṭṭho’’**ti. Etena satipi sabbassapi rūpāvacarajjhānassa vikkhambhanavasena paṭipakkhato vimuttabhāve yena bhāvanāvisesena taṃ jhānaṃ sātisayaṃ paṭipakkhato vimuccitvā pavattati, so bhāvanāviseso dīpito. Bhavati hi samānajātiyuttopi bhāvanāvisesena pavattiākāraviseso. Yathā taṃ saddhāvimuttato diṭṭhippattassa, tathā paccanīkadhammehi suṭṭhu vimuttatāya eva aniggahitabhāvena nirāsaṅkatāya abhirativasena suṭṭhu adhimuccanaṭṭhenapi vimokkho. Tenāha **‘‘ārammaṇe cā’’**tiādi. Ayaṃ panatthoti ayaṃ adhimuccanattho pacchimavimokkhe nirodhe natthi. Kevalo vimuttattho eva tattha labbhati, taṃ sayameva parato vakkhati.

248. 「勝解(確信)の意味によって」とは(長部複注2.129、増支部複注3.8.66)、大いに卓越して解脱するという意味によってであり、それゆえ「**よく解脱するという意味である**」と言った。これによって、すべての色界禅に鎮伏による対敵からの解脱があるとしても、いかなる修習の卓越性によってその禅が格別に対敵から解脱して展開するのか、その修習の卓越性が示されている。実に同種のものであっても修習の卓越性によって展開の様態の卓越性があるからである。信解脱者に対する見至者のように、対立する法からよく解脱していることによってこそ、抑圧されない状態ゆえに疑念がないことによる愛楽に基づいて、よく勝解するという意味によっても「解脱(勝解)」である。それゆえ「**対象において……**」等と言った。しかし「この意味」とは、この勝解の意味は最後の解脱である滅尽定にはない。そこには単なる解脱の意味だけが得られるのであり、それは自ら後で述べるであろう。

Rūpīti yenāyaṃ sasantatipariyāpannena rūpena samannāgato, taṃ yassa jhānassa hetubhāvena visiṭṭhaṃ rūpaṃ hoti. Yena visiṭṭhena rūpena ‘‘rūpī’’ti vucceyya rūpī-saddassa atisayatthadīpanato, tadeva sasantatipariyāpannarūpanimittaṃ jhānamiva paramatthato rūpībhāvasādhakanti daṭṭhabbaṃ. Tenāha **‘‘ajjhatta’’**ntiādi. Rūpajjhānaṃ rūpaṃ uttarapadalopena. Rūpānīti panettha purimapadalopo daṭṭhabbo. Tena vuttaṃ **‘‘nīlakasiṇādīni rūpānī’’**ti.

「色を持つ者」とは、この者が自らの相続に属する色(物質)を備えている場合、それがどの禅の原因として卓越した色となるか、ということである。「色を持つ者」と言われるような卓越した色によって、色を持つ者という語が卓越した意味を示すことから、自らの相続に属する色という相こそが禅のように勝義において有色性の達成因であると見なされるべきである。それゆえ「**内なる……**」等と言った。色界禅が「色」であり、後続の語が省略されている。「諸々の色を」というここにおいては、前の語の省略が見なされるべきである。それゆえ「**青の遍などの諸々の色を**」と言った。

Antoappanāyaṃ subhanti ābhogo natthīti iminā pubbābhogavasena adhimutti siyāti dasseti. Evañhettha tathāvattabbatāpatticodanā anavakāsā hoti. Yasmā suvisuddhesu nīlādīsu vaṇṇakasiṇesu tattha katādhikārānaṃ abhirativasena suṭṭhu adhimutti siyā, tasmā aṭṭhakathāyaṃ tathā tatiyo vimokkho saṃvaṇṇito. Yasmā pana mettādivasena pavattamānā bhāvanā satte appaṭikūlato dahati, te subhato adhimuccitvāva pavattati, tasmā paṭisambhidāmagge (paṭi. ma. 1.212) brahmavihārabhāvanā ‘‘subhavimokkho’’ti vuttā, tayidaṃ ubhayampi tena tena pariyāyena vuttattā na virujjhatīti daṭṭhabbaṃ.

「安止(定)の内部において清浄であるという作意はない」とは、前の作意に基づいて勝解があるかもしれないということを示している。このようにすれば、ここでそのように語られるべきだという非難の余地はなくなる。極めて清浄な青などの色遍において、そこで修練を積んだ者たちには愛楽に基づいてよく勝解があるかもしれないので、注釈書においてそのように第三の解脱が解説された。しかし慈悲などに基づいて展開する修習は衆生を忌避すべきでないものと見なし、彼らを清浄なものと勝解してこそ展開するので、『無礙解道』(無礙解道1.212)において梵住の修習が「浄解脱」と言われたのであり、これら両者はそれぞれの手法によって説かれているため矛盾しないと見なされるべきである。

Sabbasoti anavasesato. Na hi catunnaṃ arūpakkhandhānaṃ ekadesopi tattha avasiṭṭhoti. Vissaṭṭhattāti yathāparicchinne kāle nirodhitattā. Uttamo vimokkho nāma ariyeheva samāpajjitabbato, ariyaphalapariyosānattā diṭṭheva dhamme nibbānappattibhāvato ca.

「完全に」とは、余すところなく。実に四つの無色蘊の一部分もそこには残っていないからである。「解き放たれたことによって」とは、限定された時間通りに滅せられたことによって。「最上の解脱と呼ばれる」のは、聖者たちによってのみ到達されるべきものであり、聖果の極致であり、現法において涅槃の境地を得ることであるからである。

249. Abhibhavatīti abhibhu (dī. ni. ṭī. 2.173; a. ni. ṭī. 3.6.61-65) parikammaṃ, ñāṇaṃ vā. Abhibhu āyatanaṃ etassāti abhibhāyatanaṃ, jhānaṃ. Abhibhavitabbaṃ vā ārammaṇasaṅkhātaṃ āyatanaṃ etassāti abhibhāyatanaṃ, jhānaṃ. Ārammaṇābhibhavanato abhibhu ca taṃ āyatanañca yogino sukhavisesānaṃ adhiṭṭhānabhāvato manāyatanadhammāyatanabhāvato cātipi sasampayuttaṃ jhānaṃ abhibhāyatanaṃ. Tenāha **‘‘abhibhavanakāraṇānī’’**tiādi. Tānīti abhibhāyatanasaññitāni jhānāni. Samāpattito vuṭṭhitassa ābhogo pubbabhāgabhāvanāvasena jhānakkhaṇe pavattaṃ abhibhavanākāraṃ gahetvā pavattoti daṭṭhabbo. Parikammavasena ajjhattaṃ rūpasaññī, na appanāvasena. Na hi paṭibhāganimittārammaṇā appanā ajjhattavisayā sambhavati. Taṃ pana ajjhatta parikammavasena laddhaṃ kasiṇanimittaṃ asuvisuddhameva hoti, na bahiddhā parikammavasena laddhaṃ viya visuddhaṃ.

249. 「圧倒する」ゆえに「勝(圧倒するもの)」(長部複注2.173、増支部複注3.6.61-65)であり、予備修行、あるいは知恵である。圧倒する処をこれ(禅)が持つので「勝処」、禅である。あるいは圧倒されるべき対象と呼ばれる処をこれ(禅)が持つので「勝処」、禅である。対象を圧倒することから圧倒するものであり、その処であり、修行者の卓越した楽の依り処であること、意処・法処であることから、相応する禅が「勝処」である。それゆえ「**圧倒する原因……**」等と言った。「それらを」とは、勝処と呼ばれる禅を。「等至から出定した者の作意」とは、前段階の修習によって禅の刹那に展開した圧倒の様態を捉えて展開したものであると見なされるべきである。予備修行によって内において色を想うのであり、安止によってではない。実に似相を対象とする安止が内の領域に生じることはあり得ない。しかしその内に予備修行によって得られた遍の相は極めて清浄というわけではなく、外に予備修行によって得られたもののように清浄ではない。

Parittānīti yathāladdhāni suppasarāvamattāni. Tenāha **‘‘avaḍḍhitānī’’**ti. Parittavasenevāti vaṇṇavasena ābhoge vijjamānepi parittavaseneva idamabhibhāyatanaṃ vuttaṃ. Parittatā hettha abhibhavanassa kāraṇaṃ. Vaṇṇābhoge satipi asatipi abhibhāyatanabhāvanā nāma tikkhapaññasseva sambhavati, na itarassāti **‘‘ñāṇuttariko puggalo’’**ti. Abhibhavitvā samāpajjatīti ettha abhibhavanaṃ samāpajjanañca upacārajjhānādhigamasamanantarameva appanājhānuppādananti āha **‘‘saha nimittuppādenevettha appanaṃ pāpetī’’**ti. Saha nimittuppādenāti ca appanāparivāsābhāvassa lakkhaṇavacanametaṃ. Yo ‘‘khippābhiñño’’ti vuccati, tatopi ñāṇuttarasseva abhibhāyatanabhāvanā. Etthāti etasmiṃ nimitte. Appanaṃ pāpetīti bhāvanā appanaṃ neti.

「わずかなものを」とは、得られたままの、箕や小皿ほどの大きさのものを。それゆえ「**拡大されていないものを**」と言った。「わずかなものに基づいてのみ」とは、色に基づいた作意が存在しても、わずかなものに基づいてのみこの勝処が説かれた。ここではわずかであることが圧倒の原因だからである。色の作意があってもなくても、勝処の修習とは鋭い智慧を持つ者にのみ可能であり、他の者には可能でないため、「**知恵が卓越した人物**」と言った。「圧倒して入定する」というここにおいて、圧倒することと入定することは近行禅を獲得した直後に安止禅を生じさせることであるため、「**ここでは相の発生とともに安止に至らしめる**」と言った。「相の発生とともに」とは、安止の猶予がないことの特徴を述べた言葉である。「速疾通者」と呼ばれる者よりも、さらに知恵が卓越した者にこそ勝処の修習がある。「ここにおいて」とは、この相において。「安止に至らしめる」とは、修習が安止へ導くということである。

Ettha ca keci ‘‘uppanne upacārajjhāne taṃ ārabbha ye heṭṭhimantena dve tayo javanavārā pavattanti, te upacārajjhāna pakkhikā eva, tadanantarañca bhavaṅgaparivāsena upacārāsevanāya ca vinā appanā hoti, saha nimittuppādeneva appanaṃ pāpetī’’ti vadanti, taṃ tesaṃ matimattaṃ. Na hi pārivāsikaparikammena appanāvāro icchito, nāpi mahaggatappamāṇajjhānesu viya upacārajjhāne ekantato paccavekkhaṇā icchitabbā, tasmā upacārajjhānādhigamato paraṃ katipayabhavaṅgacittāvasāne appanaṃ pāpuṇanto ‘‘saha nimittuppādenevettha appanaṃ pāpetī’’ti vutto. ‘‘Saha nimittuppādenā’’ti ca adhippāyikamidaṃ vacanaṃ, na nītatthaṃ, adhippāyo vuttanayeneva veditabbo.

そしてここで一部の者は「近行禅が生じたとき、それを対象として下限として生じる二、三の速行の連なりは近行禅に属するものであり、その直後には有分への移行や近行の習熟なしに安止が生じるので、『相の発生とともに安止に至らしめる』と言うのだ」と主張するが、それは彼らの単なる私見にすぎない。猶予期間としての予備修行によって安止の連なりが望まれるわけではなく、広大無辺な禅におけるように近行禅において絶対的に省察が望まれるべきでもない。それゆえ近行禅の獲得の後に、いくつかの有分心の終わりに安止に達する者を「ここでは相の発生とともに安止に至らしめる」と言ったのである。そして「相の発生とともに」とは意図を含んだ言葉であり、直接的な意味ではなく、その意図は述べられた方法によって理解されるべきである。

Na antosamāpattiyaṃ tadā tathārūpassa ābhogassa asambhavato, samāpattito vuṭṭhitassa ābhogo pubbabhāgabhāvanāvasena jhānakkhaṇe pavattaṃ abhibhavanākāraṃ gahetvā pavattoti daṭṭhabbaṃ. Abhidhammaṭṭhakathāyaṃ (dha. sa. aṭṭha. 204) pana ‘‘iminā panassa pubbabhāgo kathito’’ti vuttaṃ. Antosamāpattiyaṃ tathā ābhogābhāve kasmā ‘‘jhānasaññāyapī’’ti vuttanti āha **‘‘abhibhava…pe… atthī’’**ti.

等至の内部においてはその時そのような作意はあり得ないため、等至から出定した者の作意は、前段階の修習によって禅の刹那に展開した圧倒の様態を捉えて展開したものであると見なされるべきである。しかしアビダンマ注釈書(法集論注204)においては「これによって彼の前段階が説かれた」と言われている。等至の内部にそのような作意がないのに、なぜ「禅の想においても」と言われたのかというと、「**圧倒……中略……がある**」と言った。

Vaḍḍhitappamāṇānīti vipulappamāṇānīti attho, na ekaṅguladvaṅgulādivasena vaḍḍhitappamāṇānīti tathā vaḍḍhanassevettha asambhavato. Tenāha **‘‘mahantānī’’**ti.

「拡大された大きさのものを」とは、広大な大きさのものをという意味であり、一指や二指などの拡大された大きさによるものではない。そのように拡大することはここではあり得ないからである。それゆえ「**大いなるものを**」と言った。

Rūpe saññā rūpasaññā, sā assa atthīti rūpasaññī, na rūpasaññī arūpasaññī. Saññāsīsena jhānaṃ vadati. Rūpasaññāya anuppādanamevettha alābhitā. Bahiddhāva uppannanti bahiddhāvatthusmiṃyeva uppannaṃ. Abhidhamme pana ‘‘ajjhattaṃ arūpasaññī bahiddhā rūpāni passati parittāni suvaṇṇadubbaṇṇāni, appamāṇāni suvaṇṇadubbaṇṇānī’’ti evaṃ catunnaṃ abhibhāyatanānaṃ āgatattā abhidhammaṭṭhakathāyaṃ (dha. sa. aṭṭha. 204) ‘‘kasmā pana yathā suttante – ‘ajjhattaṃ rūpasaññī eko bahiddhā rūpāni passati parittānī’tiādi vuttaṃ, evaṃ avatvā idha catūsupi abhibhāyatanesu ajjhattaṃ arūpasaññitāva vuttā’’ti codanaṃ katvā ‘‘ajjhattarūpānaṃ anabhibhavanīyato’’ti kāraṇaṃ vatvā ‘‘tattha vā hi idha vā bahiddhārūpāneva abhibhavitabbāni, tasmā tāni niyamato vattabbānīti tatrāpi idhāpi vuttāni. ‘Ajjhattaṃ arūpasaññī’ti idaṃ pana satthu desanāvilāsamattamevā’’ti vuttaṃ.

色における想いが「色の想い」であり、それを持つ者が「色を想う者」であり、色を想わない者が「色を想わない者」である。想いを筆頭にして禅を語っている。色の想いを生じさせないことこそが、ここでの「得ていないこと」である。「外においてのみ生じたものを」とは、外の対象においてのみ生じたものを。しかしアビダンマにおいては「内において色を想わず、外の諸々の色を見る。わずかな美色・悪色、無量の美色・悪色を」と、このように四つの勝処が説かれていることから、アビダンマ注釈書(法集論注204)において「なぜ経典のように『内において色を想う一人が、外の諸々の色を見る、わずかな……』等と言われているように言わず、ここにおいて四つのすべての勝処において内において色を想わないことばかりが説かれているのか」と詰問し、「内の諸色は圧倒することができないからである」と理由を述べ、「そこにおいてもここにおいても外の諸色こそが圧倒されるべきものであり、それゆえそれらは必ず語られるべきものとしてそこでもここでも説かれた。『内において色を想わず』というのは、師の説法の巧みさにすぎない」と述べられている。

Ettha ca vaṇṇābhogarahitāni sahitāni ca sabbāni ‘‘parittāni suvaṇṇadubbaṇṇānī’’ti vuttāni, tathā ‘‘appamāṇānī’’ti daṭṭhabbāni. Atthi hi eso pariyāyo ‘‘parittāni abhibhuyya tāni ce kadāci vaṇṇavasena ābhujitāni honti suvaṇṇadubbaṇṇāni abhibhuyyā’’ti. Pariyāyakathā hi suttantadesanāti. Abhidhamme pana nippariyāyadesanattā vaṇṇābhogarahitāni visuṃ vuttāni, tathā sahitāni. Atthi hi ubhayattha abhibhavanapariyāyoti ‘‘ajjhattaṃ rūpasaññī’’tiādinā paṭhamadutiyaabhibhāyatanesu paṭhamavimokkho, tatiyacatutthābhibhāyatanesu dutiyavimokkho, vaṇṇābhibhāyatanesu tatiyavimokkho ca abhibhavanappavattito saṅgahito, abhidhamme pana nippariyāyadesanattā vimokkhābhibhāyatanāni asaṅkarato dassetuṃ vimokkhe vajjetvā abhibhāyatanāni kathitāni, sabbāni ca vimokkhakiccāni jhānāni vimokkhadesanāyaṃ vuttāni. Tadetaṃ ‘‘ajjhattaṃ rūpasaññī’’ti āgatassa abhibhāyatanadvayassa abhidhamme abhibhāyatanesu avacanato ‘‘rūpī rūpāni passatī’’tiādīnañca sabbavimokkhakiccasādhāraṇavacanabhāvato vavatthānaṃ katanti viññāyati.

そしてここで、色の作意を欠くものも伴うものも、すべて「わずかな美色・悪色」「無量のもの」として見なされるべきである。「わずかなものを圧倒し、それらがもし時に色に基づいて作意されるならば、美色・悪色を圧倒して」という手法があるからである。経典の教えとは手法による説示である。しかしアビダンマにおいては直接的な説示であるため、色の作意を欠くものは別個に説かれ、伴うものも同様である。両方に圧倒の手法があるからであり、「内において色を想う」等によって第一・第二の勝処に第一の解脱が、第三・第四の勝処に第二の解脱が、色の勝処に第三の解脱が圧倒の展開から包摂され、アビダンマにおいては直接的な説示であることから解脱と勝処を混同なく示すために、解脱を除外して勝処が語られ、すべての解脱の働きを持つ禅が解脱の説示において説かれた。この「内において色を想う」と説かれた二つの勝処がアビダンマの勝処において語られないこと、および「色を持つ者が諸々の色を見る」等がすべての解脱の働きに共通する言葉であることから、明確な区分がなされたと知られる。

‘‘Ajjhattarūpānaṃ anabhibhavanīyato’’ti idaṃ abhidhamme katthacipi ‘‘ajjhattaṃ rūpāni passatī’’ti avatvā sabbattha yaṃ vuttaṃ ‘‘bahiddhārūpāni passatī’’ti, tassa kāraṇavacanaṃ. Tena yaṃ aññahetukaṃ, taṃ tena hetunā vuttaṃ, yaṃ pana desanāvilāsahetukaṃ ajjhattaṃ arūpasaññitāya eva abhidhamme vacanaṃ, na tassa aññaṃ kāraṇaṃ maggitabbanti dasseti. Ajjhattarūpānaṃ anabhibhavanīyatā ca tesaṃ bahiddhārūpānaṃ viya avibhūtattā, desanāvilāso ca yathāvuttavavatthānavasena veditabbo, veneyyajjhāsayavasena vijjamānapariyāyakathanabhāvato. ‘‘Suvaṇṇadubbaṇṇānī’’ti eteneva siddhattā nīlādiabhibhāyatanāni na vattabbānīti ce? Na, nīlādīsu katādhikārānaṃ nīlādibhāvasseva abhibhavanakāraṇattā. Na hi tesaṃ parisuddhāparisuddhavaṇṇānaṃ parittatā tadappamāṇatā vā abhibhavanakāraṇaṃ, atha kho nīlādibhāvo evāti. Etesu ca parittādikasiṇarūpesu yaṃ caritassa imāni abhibhāyatanāni ijjhanti, taṃ dassetuṃ **‘‘imesu panā’’**tiādi vuttaṃ.

「内の諸色は圧倒することができないからである」とは、アビダンマにおいてどこにも「内において諸々の色を見る」と言わず、あらゆる場所で「外の諸色を見る」と言われていることの理由を述べた言葉である。これによって、他の理由によるものはその理由によって説かれ、説法の巧みさを理由とする内において色を想わないことだけがアビダンマにおいて説かれていることについては、それ以外の理由を探し求めるべきではないと示している。内の諸色が圧倒できないということは、それらが外の諸色のように明瞭でないからであり、説法の巧みさは上述の規定に基づいて理解されるべきであり、教化されるべき者の意図に基づいて存在する手法を語るものである。「美色・悪色の」ということだけで成立するのだから、青などの勝処は語られるべきではないと言うのか? そうではない。青などに修練を積んだ者たちにとっては、青などの状態こそが圧倒の原因だからである。実に彼らの清浄・不清浄な色にとって、わずかであることや無量であることが圧倒の原因なのではなく、青などの状態こそが原因なのである。そしてこれらわずかなどの遍の色において、いかなる性格の者にこれらの勝処が成就するのか、それを示すために「**しかしこれらにおいて……**」等と言われた。

Sabbasaṅgāhikavasenāti sakalanīlavaṇṇanīlanidassananīlanibhāsānaṃ sādhāraṇavasena. Vaṇṇavasenāti sabhāvavaṇṇavasena. Nidassanavasenāti passitabbatāvasena. Obhāsavasenāti sappabhāsatāya avabhāsanavasena. Umāpupphanti atasipupphaṃ. Nīlameva hoti vaṇṇasaṅkarābhāvato. Bārāṇasiyaṃ bhavanti bārāṇasiyaṃ samuṭṭhitaṃ.

「すべてを包括することに基づいて」とは、すべての青い色、青の顕色、青の輝きに共通することに基づいて。「色に基づいて」とは、自性の色に基づいて。「顕色に基づいて」とは、見られるべき状態に基づいて。「輝きに基づいて」とは、光を伴うことによる輝きに基づいて。「亜麻の花」とは、アマの花のことである。色の混じり合いがないため青そのものである。「バーラーナシーに生じる」とは、バーラーナシーで作られたもの。

Te dhammeti te satipaṭṭhānādidhamme ceva aṭṭhavimokkhadhamme ca. Ciṇṇavasībhāvāyeva tattha abhivisiṭṭhāya paññāya pariyosānuttaraṃ sataṃ gatā abhiññāvosānapāramippattā.

「それらの法を」とは、それら念処などの諸法、および八解脱の法を。そこにおいてまさに修練を積んで自在を得た卓越した智慧によって、究極の最高峰に達した者たちが「神通の極致・波羅蜜に達した者たち」である。

250. Sakalaṭṭhenāti (dī. ni. ṭī. 3.346; a. ni. ṭī. 3.10.25) sakalabhāvena, asubhanimittādīsu viya ekadese aṭṭhatvā anavasesato gahetabbaṭṭhenāti attho. Yathā khettaṃ sassānaṃ uppattiṭṭhānaṃ vaḍḍhiṭṭhānañca, evameva taṃtaṃsampayuttadhammānanti āha **‘‘khettaṭṭhenā’’**ti. Paricchinditvāti idaṃ uddhaṃ adho tiriyanti yojetabbaṃ. Paricchinditvā eva hi sabbattha kasiṇaṃ vaḍḍhetabbaṃ. Tena tena kāraṇenāti upariādīsu tena tena kasiṇena. Yathā kinti āha – **‘‘ālokamiva rūpadassanakāmo’’**ti, yathā dibbacakkhunā uddhaṃ ce rūpaṃ daṭṭhukāmo, uddhaṃ ālokaṃ pasāreti, adho ce, adho, samantato ce rūpaṃ daṭṭhukāmo, samantato ālokaṃ pasāreti, evaṃ sabbakasiṇanti attho. Ekassāti pathavīkasiṇādīsu ekekassa. Aññabhāvānupagamanatthanti aññakasiṇabhāvānupagamanadīpanatthaṃ, aññassa vā kasiṇabhāvānupagamanadīpanatthaṃ. Na hi aññena pasāritakasiṇaṃ tato aññena pasāritakasiṇabhāvaṃ upagacchati, evampi nesaṃ aññakasiṇasambhedābhāvo veditabbo. Na aññaṃ pathavīādi. Na hi udakena ṭhitaṭṭhāne sasambhārapathavī atthi. Aññakasiṇasambhedoti āpokasiṇādinā saṅkaro. Sabbatthāti sabbesu sesakasiṇesu. Ekadese aṭṭhatvā anavasesapharaṇaṃ pamāṇassa aggahaṇato appamāṇaṃ. Teneva hi nesaṃ kasiṇasamaññā. Tathā hi **‘‘tañhī’’**tiādimāha. Tattha cetasā pharantoti bhāvanācittena ārammaṇaṃ karonto. Bhāvanācittañhi kasiṇaṃ parittaṃ vā vipulaṃ vā sakalameva manasi karoti.

250. 「すべての意味によって」とは(長部複注3.346、増支部複注3.10.25)、完全な状態によってであり、不浄の相などにおけるように一部分にとどまらず、余すところなく把握されるべきであるという意味である。ちょうど畑(処)が作物の発生の場所であり成長の場所であるように、そのそれぞれの相応する諸法にとってそうであるため「**処(畑)の意味によって**」と言った。「限定して」とは、これを上、下、横と結合するべきである。限定してこそ、あらゆる場所で遍を拡大するべきだからである。「そのそれぞれの理由によって」とは、上方などにおいてそのそれぞれの遍によって。「どのようにか」というと、「**姿を見ようと欲する者が光を放つように**」と言った。天眼によって上方にある姿を見ようと欲するなら、上方に光を広げ、下方ならば下方に、四方にある姿を見ようと欲するなら、四方に光を広げるように、すべての遍も同様であるという意味である。「一つの」とは、地遍などのそれぞれ一つの。「他の状態に至らないことを示すため」とは、他の遍の状態に至らないことを示すためであり、あるいは他のものが遍の状態に至らないことを示すためである。実に他者によって広げられた遍が、それ以外の者によって広げられた遍の状態に至ることはなく、このように彼らの他の遍との混同がないことが知られるべきである。地などが他ではない。水がある場所に資具を伴う地はないからである。「他の遍との混同」とは、水遍などとの混濁である。「すべての場所において」とは、すべての残りの遍において。一部分にとどまらず余すところなく満たすことは、限定を捉えないことから「無量」である。それゆえにこそそれらは「遍」という名を持つ。実にそれゆえ「**実にそれは……**」等と言った。そこにおいて「心によって満たす」とは、修習の心によって対象とすることである。修習の心は、遍がわずかであれ広大であれ、全体を作意するからである。

Kasiṇugghāṭimākāse pavattaṃ viññāṇaṃ pharaṇaappamāṇavasena ‘‘viññāṇakasiṇa’’nti vuttaṃ. Tathā hi taṃ ‘‘viññāṇa’’nti vuccati. Kasiṇavasenāti ugghāṭitakasiṇavasena kasiṇugghāṭimākāse uddhaṃadhotiriyatā veditabbā. Yattakañhi ṭhānaṃ kasiṇaṃ pasāritaṃ, tattakaṃ ākāsabhāvanāvasena ākāsaṃ hotīti. Evaṃ yattakaṃ ṭhānaṃ ākāsaṃ hutvā upaṭṭhitaṃ, tattakaṃ ākāsameva hutvā viññāṇassa pavattanato āgamanavasena viññāṇakasiṇepi uddhaṃadhotiriyatā vuttāti **‘‘kasiṇugghāṭimākāsavasena tattha pavattaviññāṇe uddhaṃadhotiriyatā veditabbā’’**ti āha.

遍を撤去した空間に展開した識を、充満が無量であることに基づいて「識遍」と言った。実にそれゆえそれは「識」と呼ばれる。「遍に基づいて」とは、撤去された遍に基づいて、遍を撤去した空間における上下横の状態が知られるべきである。遍が広げられただけの場所が、空間の修習によって空間となるからである。このように空間となって現れた場所だけの空間となって識が展開することから、到達に基づいて識遍においても上下横の状態が説かれたのであり、「**遍を撤去した空間に基づいて、そこに展開した識において上下横の状態が知られるべきである**」と言った。

252. Vuttoyeva vammikasutte. Nissitañca chavatthunissitattā vipassanāñāṇassa. Paṭibaddhañca tena vinā appavattanato kāyasaññitānaṃ rūpadhammānaṃ ārammaṇakaraṇato ca. Suṭṭhu bhāti obhāsatīti vā subho. Kuruvindajātiādijātivisesopi maṇi ākarapārisuddhimūlako evāti āha **‘‘suparisuddhaākarasamuṭṭhito’’**ti. Dosanīharaṇavasena parikammanipphattīti āha **‘‘suṭṭhu kataparikammo apanītapāsāṇasakkharo’’**ti. Dhovanavedhanādīhīti catūsu pāsāṇesu dhovanena ceva kāḷakādiapaharaṇatthāya suttena āvunanatthāya ca vijjhanena. Tāpasaṇhakaraṇādīnaṃ saṅgaho ādi-saddena. Vaṇṇasampattinti suttassa vaṇṇasampattiṃ.

252. まさに『蟻塚経』において説かれた。「依拠している」とは、観察の知が六つの物質的根拠に依拠しているからである。「結びついている」とは、それなしには展開しないことと、身体と呼ばれる色法を対象とすることからである。「見事に輝く、光り輝く」ゆえに「美しい」である。クルヴィンダ種などの特殊な宝石も鉱山の清浄さに根ざしているため、「**極めて清浄な鉱山から産出した**」と言った。過失の除去による予備加工の完成であるため「**見事に加工され、小石や砂利が取り除かれた**」と言った。「洗浄や穿孔などによって」とは、四つの砥石での洗浄によって、また黒点などを取り除くため、糸を通すために孔を開けることによって。「研磨など」の包摂が「など」という語による。「色の具足を」とは、糸の色の具足を。

Maṇi viya karajakāyo paccavekkhitabbato. Āvutasuttaṃ viya vipassanāñāṇaṃ anupavisitvā ṭhitattā. Cakkhumā puriso viya vipassanālābhī bhikkhu sammadeva tassa dassanato. Tadārammaṇānanti rūpadhammārammaṇānaṃ. Phassapañcamakacittacetasikaggahaṇena gahitadhammāpi vipassanācittuppādapariyāpannā evāti veditabbaṃ. Evañhi tesaṃ vipassanāñāṇagatikattā ‘‘āvutasuttaṃ viya vipassanāñāṇa’’nti vacanaṃ avirodhitaṃ hoti.

「宝玉のように」とは、省察されるべきものであることから、身体のことである。「通された糸のように」とは、内に入り込んで留まっていることから、ヴィパッサナー智のことである。「眼ある人のように」とは、それを正しく見ることから、ヴィパッサナーを得た比丘のことである。「それらの対象」とは、色法を対象とするものたちのことである。触を第五とする心・心所の把握によって把握された諸法もまた、ヴィパッサナーの心の生起に含まれるものにほかならないと知るべきである。このように、それらがヴィパッサナー智の境地にあることから、「通された糸のようなヴィパッサナー智」という言葉は矛盾しないのである。

Ñāṇassāti paccavekkhaṇañāṇassa. Yadi evaṃ ñāṇassa vasena vattabbaṃ, na puggalassāti āha **‘‘tassa panā’’**tiādi. Maggassa anantaraṃ, tasmā lokiyābhiññānaṃ parato chaṭṭhābhiññāya purato vattabbaṃ vipassanāñāṇaṃ. Evaṃ santepīti yadipāyaṃ ñāṇānupubbaṭṭhiti, evaṃ santepi etassa antarā vāro natthīti pañcasu lokiyābhiññāsu kathitāsu ākaṅkheyyasuttādīsu (ma. ni. 1.64 ādayo) viya chaṭṭhābhiññā kathetabbāti etassa anabhiññālakkhaṇassa vipassanāñāṇassa tāsaṃ antarā vāro na hoti, tasmā tattha avasarābhāvato idheva rūpāvacaracatutthajjhānānantarameva dassitaṃ vipassanāñāṇaṃ. Yasmā cāti ca-saddo samuccayattho. Tena na kevalaṃ tadeva, atha kho idampi kāraṇaṃ vipassanāñāṇassa idheva dassaneti imamatthaṃ dīpeti. Dibbena cakkhunā bheravarūpaṃ passatoti ettha iddhividhañāṇena bheravaṃ rūpaṃ nimminitvā cakkhunā passatoti vattabbaṃ, evampi abhiññālābhino apariññāṇavatthukassa bhayasantāso uppajjati uccavālikavāsīmahānāgattherassa viya. Idhāpīti imasmiṃ vipassanāñāṇepi, na satipaṭṭhānādīsu evāti adhippāyo.

「智の」とは、省察智のことである。もしそのように智の働きによって語られるべきであり、補特伽羅によるのではないとするなら、「しかし、彼の」等と述べた。道の直後であるから、世間的な神通の後に、第六の神通の前にヴィパッサナー智は説かれるべきである。「そうであるとしても」とは、たとえこの智の順序があるとしても、それらの間に順序がないため、五つの世間的通力が説かれた時、『希求経』等(中部1.64等)のように第六の神通が説かれるべきであるのに、神通の特徴をもたないこのヴィパッサナー智にはそれらの間に機会がない。それゆえ、そこには入る余地がないことから、まさにここで色界第四禅の直後にヴィパッサナー智が示されたのである。「そして〜のゆえに」の「そして(ca)」という語は、並列の意味である。それによって、単にそれだけでなく、まさにこの理由もまた、ヴィパッサナー智をまさにここに示したことにおいて、この意味を明らかにしている。「天眼によって恐ろしい姿を見る者に」とは、ここでは神変智によって恐ろしい姿を作り出して眼で見る者に、と語られるべきであり、このように神通を得た者であっても、知られざる所依を持つ者には、ウッチャヴァーリカ在住のマハーナーガ長老のように恐怖や戦慄が生じる。「ここでもまた」とは、このヴィパッサナー智においてもということであり、念処等においてのみではない、という趣旨である。

253. Manomayiddhiyaṃ ciṇṇavasitāya abhiññā vosānapāramippattatā veditabbāti yojanā. Manena nibbattanti abhiññāmanena nibbattitaṃ. Taṃ sadisabhāvadassanatthamevāti saṇṭhānatopi vaṇṇatopi avayavavisesatopi sadisabhāvadassanatthameva. Sajātiyaṃ ṭhito, na nāgiddhiyā aññajātirūpo. Suparikammakatamattikādayo viya iddhividhañāṇaṃ vikubbanakiriyāya nissayabhāvato.

253. 「意成の神通において」とは、修練された自在性によって、神通の究極の完成に達した状態と知るべきである、というのが結合である。「意によって生じる」とは、神通の意によって生じさせられたということである。「その類似性を示すためだけに」とは、形状においても色においても器官の差異においても、まさに類似性を示すためだけのことである。「自らの種にとどまり」とは、竜の神通のように他の種の姿をとるのではない。よく準備された粘土などのように、神変智が変化の働きの拠り所となるからである。

255. Appakasirenevāti akiccheneva.

255. 「ほとんど苦もなく」とは、難なくということである。

256. Mando uttānaseyyakadārakopi **‘‘daharo’’**ti vuccatīti tato visesanatthaṃ **‘‘yuvā’’**ti vuttaṃ. Yuvāpi koci anicchanato amaṇḍanasīlo hotīti tato visesanatthaṃ **‘‘maṇḍanakajātiko’’**ti vuttaṃ. Tena vuttaṃ **‘‘yuvāpī’’**tiādi. Kāḷatilappamāṇā bindavo kāḷatilakāni. Nātikammāsatilappamāṇā bindavo tilakāni. Vaṅkaṃ nāma piyaṅgaṃ. Yobbanapīḷakādayo mukhadūsipīḷakā. Mukhagato doso mukhadoso, lakkhaṇavacanañcetaṃ mukhe adosassapi pākaṭabhāvassa adhippetattā. Yathā vā mukhe doso, evaṃ mukhe adosopi mukhadoso saralopena, mukhadoso ca mukhadoso ca mukhadosoti ekasesanayenapettha attho daṭṭhabbo. Evañhi paresaṃ soḷasavidhaṃ cittaṃ pākaṭaṃ hotīti vacanaṃ samatthitaṃ hoti.

256. 愚鈍な仰向けに寝ているだけの幼児も「若年者」と呼ばれるため、それと区別するために「若者」と言われた。若者であっても、望まないために装飾を好まない者もいるため、それと区別するために「装身を好む性質の」と言われた。それゆえに「若者であっても」等と言われた。黒胡麻の大きさの斑点が黒胡麻斑(ほくろ)である。それほど粗くない胡麻の大きさの斑点が胡麻斑である。ヴァンカとはピヤング(薬草・穀物の一種)のことである。青春期の吹き出物などが顔を汚す吹き出物である。顔にある過失が顔の欠点(むくみ・吹き出物等)であり、これは顔に過失がないことの明瞭さをも意図されているため、特徴を表す言葉である。あるいは、顔における過失のように、顔における無過失もまた母音の脱落によって「顔の欠点(=顔の相)」であり、「顔の欠点と顔の欠点でないもの」が同根語省略の規則(エーカーシェーサ)によって、ここでの意味と見なされるべきである。このようにして、「他者の十六種の心が明らかになる」という言葉が論証されるのである。

259. Paṭipadāvasenāti yathārahaṃ samathavipassanāmaggapaṭipadāvasena. Aṭṭhasu koṭṭhāsesūti satipaṭṭhānādīsu bodhipakkhiyadhammakoṭṭhāsesu, vimokkhakoṭṭhāsesu vāti imesu aṭṭhasu koṭṭhāsesu. Sesesūti vuttāvasesesu abhibhāyatanakoṭṭhāsādīsu. Sesaṃ suviññeyyameva.

259. 「行道に従って」とは、相応する止・観の道の行道に従って。「八つの区分において」とは、念処等の三十七菩提分法の区分において、あるいは解脱の区分において、というこれら八つの区分においてである。「残余の」とは、すでに説かれた勝処の区分などの残りのものにおいてである。残りは容易に理解できる。

Mahāsakuludāyisuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

大サクルダーイン経の解説における隠れた意味の解明は完結した。

8. Samaṇamuṇḍikāputtasuttavaṇṇanā

8. 沙門ムンディカープッタ経の解説

260. Uggahitunti sikkhituṃ. Uggāhetunti sikkhāpetuṃ, pāṭhato attanā yathāuggahitamatthaṃ tabbibhāvanatthāya uccāraṇavasena paresaṃ gāhetunti attho. Samayanti diṭṭhiṃ. Sā hi saṃyojanabhāvato sameti sambandhā eti pavattati, daḷhaggahaṇabhāvato vā saṃyuttā ayanti pavattanti sattā yathābhinivesaṃ etenāti samayoti vuccati. Diṭṭhisaṃyojanena hi sattā ativiya bajjhantīti. Sūriyassa uggamanato atthaṅgamā ayaṃ ettako kālo rattandhakāravidhamanato divā nāma, tassa pana majjhimapahārasaññito kālo samujjalitapabhātejadahanabhāvena divā nāma. Tenāha **‘‘divasassapi divābhūte’’**ti. Paṭisaṃharitvāti nivattetvā. Evaṃ cittassa paṭisaṃharaṇaṃ nāma gocarakkhette ṭhapananti āha **‘‘jhānaratisevanavasena ekībhāvaṃ gato’’**ti. Etena kāyavivekapubbakaṃ cittavivekamāha. Sīlādiguṇavisesayogato manasā sambhāvanīyā, te pana yasmā attano sīlādiguṇehi viññūnaṃ manāpā honti (kilesaaniggahassa pañcapasādāyattattā,) tasmā āha **‘‘manavaḍḍhanakāna’’**ntiādi. Tattha unnamatīti udaggaṃ hoti. Vaḍḍhatīti saddhāvasena vaḍḍhati. Tenāha bhagavā – ‘‘anussaraṇampahaṃ, bhikkhave, tesaṃ bhikkhūnaṃ bahūpakāraṃ vadāmī’’ti (itivu. 104; saṃ. ni. 5.184).

260. 「学ぶこと」とは、習得すること。「教え込むこと」とは、学ばせることであり、聖典から自ら学んだ通りの意味を、それを解明するために唱滅させることによって他者に把握させること、という意味である。「見解を」とは、邪見を。それは結びつきであることから、結びついて生起し、あるいは強固な執着であることから、衆生がその執着に従ってそれによって結合して生起するため、「サマヤ(見解・教義)」と呼ばれる。見解という結びつきによって、衆生は極めて強く縛られるからである。太陽の上昇から日没までのこの期間は夜の闇を打ち破ることから「昼」と呼ばれ、その中でも中間の刻(正午)と呼ばれる時は、輝く光と熱の燃焼の状態によって「昼」と呼ばれる。それゆえ「昼の中でも真昼となった時に」と言った。「引き戻して」とは、反転させて。このように心の引き戻しとは、対象の領域に確立させることであるため、「禅定の歓びに親しむことによって専心状態に達した」と言った。これによって身の遠離に先立つ心の遠離を述べている。戒などの徳の卓越性と結びついていることから、心によって尊ばれるべきである。しかしそれらは、自らの戒などの徳によって賢者たちに好まれるものであるため(煩悩の非制止は五つの清浄に依存するため)、「心を増大させるものたちの」等と言った。その中で「高まる」とは、歓喜することである。「増大する」とは、信によって増大することである。それゆえ世尊は、「比丘たちよ、私はそれらの比丘たちを随念することさえも、多くの恩恵があると説く」(如是語104;相応部5.184)と仰せられた。

261. Paññapemīti pajānanabhāvena ñāpemi tathā vavatthapemi. Tenāha **‘‘dassemi ṭhapemī’’**ti. Paripuṇṇakusalanti sabbaso puṇṇakusaladhammaṃ, uttamakusalanti uttamabhāvaṃ seṭṭhabhāvaṃ pattakusaladhammaṃ. Ayojjhanti vādayuddhena ayodhanīyaṃ, vādayuddhaṃ hotu, tena parājayo na hotīti dasseti, tenāha **‘‘vādayuddhenā’’**tiādi. Saṃvarappahānanti pañcasu saṃvaresu yena kenaci saṃvarena saṃvaralakkhaṇaṃ pahānaṃ. Paṭisevanappahānaṃ vāti vā-saddena parivajjanappahānādiṃ saṅgaṇhāti. Sesapadesūti ‘‘na bhāsatī’’tiādīsu padesu. Eseva nayoti iminā ‘‘abhāsanamattameva vadatī’’ti evamādiṃ atidisati.

261. 「私は施設する」とは、知ることによって知らせ、そのように規定する。それゆえ「示し、確立する」と言った。「円満な善を」とは、完全に満ちた善法を、「最上の善を」とは、最上の状態・勝れた状態に達した善法を。「論破され得ない」とは、論争の戦いによって戦われ得ないこと、論争の戦いがあろうとも、それによって敗北することはないことを示している。それゆえ「論争の戦いによって」等と言った。「制止による断」とは、五つの制止のうちいずれかの制止による制止の特徴を持つ断である。「受用による断、あるいは」とは、「あるいは」という語によって回避による断などを包括している。「残りの語において」とは、「語らない」等の語においてである。「これと同じ方法である」とは、これによって「語らないことだけを説く」等と準用している。

Nābhinandīti na sampaṭicchi. Sāsane tiṇṇaṃ duccaritānaṃ micchājīvassa vivajjanaṃ vaṇṇīyati, ayañca evaṃ katheti, tasmā sāsanassa anulomaṃ viya vadati, vadanto ca sammāsambuddhe dhamme cassa appasādaṃ na dasseti, tasmā pasannakārampi vadatīti maññamāno tassa vādaṃ na paṭisedheti.

「歓喜しなかった」とは、受け入れなかった。教えにおいては三つの悪行と邪命の回避が称賛されるが、彼もこのように語り、それゆえ教えに適っているかのように語っており、語りながらも正等覚者と法に対して不信を示さないため、信仰の態度をも語っていると考え、彼の説を否定しなかった。

262. Yathā tassa vacanaṃ, evaṃ santeti yathā tassa paribbājakassa vacanaṃ, evaṃ samaṇabhāve sante labbhamāne. Mayaṃ pana evaṃ na vadāmāti etena samaṇabhāvo nāma evaṃ na hotīti dasseti. Yo hi dhammo yādiso, tatheva taṃ buddhā dīpenti. Visesañāṇaṃ na hotīti kāyavisesavisayañāṇaṃ tassa tadā natthi, yato parakāye upakkamaṃ kareyyāti dasseti, tassa pana tattha visesañāṇampi natthevāti. Yasmā kāyapaṭibaddhaṃ kāyakammaṃ, tasmā taṃ nivattento āha **‘‘aññatra phanditamattā’’**ti. Kilesasahagatacittenevāti dukkhasamphassassa asahananimittena domanassasahagatacitteneva. Dutiyavārepi eseva nayo. Jighacchāpipāsadukkhassa asahananimittena domanasseneva. Vikūjitamattāti ettha virūpaṃ kūjitaṃ vikūjitaṃ pubbenivāsasannissayaṃ upayaṃ, taṃ panettha rodanahasanasamuṭṭhāpakacittasahagatanti dosasahagataṃ lobhasahagatañcāti daṭṭhabbaṃ. Cittanti kusalacittaṃ. Akusalacittaṃ pana atītārammaṇaṃ pavattatīti vattabbameva natthi. Saritvāti yāva na satisaṇṭhāpanā dhammā uppajjanti, tāva supinante anubhūtaṃ viya dukkhaṃ saritvā rodanti. Hasantīti etthāpi eseva nayo. Ayañca nayo ye laddhasukhārammaṇā hutvā gahitapaṭisandhikā mātukucchitopi sukheneva nikkhamanti, tesaṃ vasena vuttoti daṭṭhabbo. Pāyantiyāti attano janapadadesarūpena pāyantiyā. Ayampīti ājīvopi mātu aññavihitakāle ca lokassādavasena kilesasahagatacitteneva hoti.

262. 「彼の言葉の通りであるならば」とは、その遊行者の言葉の通りに沙門の状態があるとするならば、得られるとするならば。「しかし私たちはそのようには説かない」とは、これによって沙門の状態というものはそのようにはならないことを示している。法がどのようなものであれ、諸仏はまさにその通りにそれを明かされるからである。「特別な知がない」とは、その時、彼には身体の差異に関する対象の知がなく、それゆえに他者の身体に危害を加えることがあろうか、ということを示しており、彼にはそこでの特別な知さえ全くないのである。身業は身体に依存しているため、それを否定して「単なる身動きを除いて」と言った。「まさに煩悩を伴う心によって」とは、苦しい接触に耐えられないことを原因とする憂いを伴う心によってのみ。第二の機会においても同じ方法である。飢えと渇きの苦しみに耐えられないことを原因とする憂いによって。「単なる泣き叫び」とは、ここでは異常な鳴き声、泣き叫びのことであり、過去世の住処に依拠した手段であり、それはここでは泣くことと笑うことを引き起こす心を伴うものであり、瞋恚を伴い、貪欲を伴うものであると見なされるべきである。「心」とは、善心のことである。不善心は過去を対象として生起することは言うまでもない。「思い出して」とは、正念を確立する諸法が生じない間は、夢の中で体験したような苦しみを思い出して泣くのである。「笑う」ということも、ここにおいて同じ方法である。そしてこの方法は、快い対象を得て受胎し、母の胎内からも安らかに出てきた者たちに関して説かれたものと見なされるべきである。「乳を飲ませる時に」とは、自らの地方や国の風習に従って乳を飲ませる時に。「これもまた」とは、生計(暮らし)もまた、母が他のことに気を取られている時や世間の味気なさによって、煩悩を伴う心によってのみ生じる。

263. Samadhigayhāti sammā adhigatabhāvena gahetvā abhibhavitvā visesetvā visiṭṭho hutvā. Khīṇāsavaṃ sandhāyāti byatirekavasena khīṇāsavaṃ sandhāya. Ayañhettha attho – khīṇāsavampi sotāpannakusalaṃ paññapeti sekkhabhūmiyaṃ ṭhitattā. Sesapadesupi eseva nayo.

263. 「完全に超克して」とは、正しく達成された状態によって捉え、圧倒し、卓越して、優れた者となって。「漏尽者を指して」とは、差異化によって漏尽者を指して。ここでの意味はこういうことである――有学の境地にあることから、漏尽者であっても預流者の善を施設する。残りの語においても同じ方法である。

Tīṇi padāni nissāyāti na kāyena pāpakaṃ kammaṃ karoti, na pāpakaṃ vācaṃ bhāsati, na pāpakaṃ ājīvaṃ ājīvatīti imāni tīṇi padāni nissāya kusalasīlamūlakā ca akusalasīlamūlakā cāti dve paṭhamacatukkā ṭhapitā. Ekaṃ padaṃ nissāyāti na pāpakaṃ saṅkappaṃ saṅkappetīti imaṃ ekapadaṃ nissāya kusalasaṅkappamūlakā akusalasaṅkappamūlakā cāti ime dve pacchimacatukkā ṭhapitā.

「三つの語に依拠して」とは、「身によって悪業をなさず、悪しき言葉を語らず、悪しき生計を営まない」というこれら三つの語に依拠して、善戒を根本とするものと不善戒を根本とするものという最初の二つの四組が立てられた。「一つの語に依拠して」とは、「悪しき思惟を思惟しない」というこの一つの語に依拠して、善思惟を根本とするものと不善思惟を根本とするものという最後の二つの四組が立てられた。

264. Vicikicchuddhaccasahagatacittadvayampi vaṭṭati balavatā mohena samannāgatattā. Tathā hi tāni ‘‘momūhacittānī’’ti vuccanti.

264. 疑と掉挙を伴う二つの心もまた、強力な癡を備えていることから妥当する。実にそれらは「大癡の心」と呼ばれるからである。

Kuhinti kiṃnimittaṃ. Kataraṃṭhānaṃ pāpuṇitvāti kiṃ kāraṇaṃ āgamma. Ettheteti etthāti kāyavacīmanosucaritabhāvanāsājīvanipphattiyaṃ. Sā pana heṭṭhimakoṭiyā sotāpattiphalena dīpetabbāti āha **‘‘sotāpattiphale bhumma’’**nti. Yasmā ājīvaṭṭhamakaṃ avasiṭṭhañca sīlaṃ pātimokkhasaṃvarasīlassa ca pārisuddhipātimokkhādhigamena sotāpattiphalappattiyā siddho hotīti āha – **‘‘pātimokkha…pe… nirujjhatī’’**ti. ‘‘Sukhasīlo dukkhasīlo’’tiādīsu viya pakatiatthasīlasaddaṃ gahetvā vuttaṃ **‘‘akusalasīla’’**ntiādi.

「どこにおいて」とは、何のために。「いかなる境地に至って」とは、いかなる原因に基づいて。「ここに」とは、「ここにおいて」であり、身・口・意の善行の修習と正しい生計の完成においてである。しかしそれは、最低限の限界としては預流果によって明らかにされるべきであるため、「預流果においての処格」と言った。生計を第八とする戒と残りの戒は、別解脱律儀戒の清浄別解脱の獲得によって、預流果の達成により完成されるため、「別解脱…中略…滅する」と言った。「幸ある戒の者、苦ある戒の者」等におけるように、通常の意味の「シーラ(性質・習癖)」という言葉を取って、「不善戒」等と言われた。

265. Kāmāvacarakusalacittameva vuttaṃ sampattasamādānaviratipubbakassa sīlassa adhippetattā. Tenāha – **‘‘etena hi kusalasīlaṃ samuṭṭhātī’’**ti.

265. 欲界の善心のみが説かれたのは、直面した受持による離を前駆とする戒が意図されているからである。それゆえに「これによって善戒が起立する」と言った。

Sīlavāti ettha -saddo pāsaṃsatthova veditabboti āha **‘‘sīlasampanno hotī’’**ti. Yo sīlamatte patiṭṭhito, na samādhipaññāsu, so sīlamayadhammapūritatāya sīlamayo. Tenāha **‘‘alamettāvatā’’**tiādi. Yatthāti yassaṃ cetovimuttiyaṃ paññāvimuttiyañca. Tadubhayañca yasmā arahattaphale saṅgahitaṃ, tasmā vuttaṃ **‘‘arahattaphale bhumma’’**nti. Asesaṃ nirujjhati sukhavipākabhāvassa sabbaso paṭippassambhanato.

「戒ある者」のここでの「あるいは(vā)」という語は、称賛の意味としてのみ知られるべきであるため、「戒を具足した者となる」と言った。戒のみに留まり、三摩地や智慧に留まらない者は、戒から成る法で満たされていることから「戒から成る者」である。それゆえ「これだけで十分である」等と言った。「いずこにおいて」とは、いかなる心解脱と慧解脱において。「そしてその両者は」阿羅漢果に含まれることから、「阿羅漢果においての処格」と言った。楽の異熟の状態が完全に静まることから、「余すところなく滅する」。

266. Kāmapaṭisaṃyuttā saññā kāmasaññā. Sesesupi eseva nayo. Itarā dveti byāpādavihiṃsāsaññā.

266. 「欲に結びついた想」が欲想である。残りのものにおいても同じ方法である。「他の二つ」とは、瞋恚想と害想である。

Anāgāmiphalapaṭhamajjhānanti anāgāmiphalasahagataṃ paṭhamajjhānaṃ. Etthāti yathāvutte paṭhamajjhāne. Ettha ca ujuvipaccanīkena paṭipakkhappahānaṃ sātisayanti paṭhamajjhānaggahaṇaṃ. Tenāha **‘‘aparisesā nirujjhantī’’**ti. Nekkhammasaññānaṃ kāmāvacaracittasahagatatā tassa sīlassa samuṭṭhānatā ca sampayuttanayena veditabbā.

「不還果の初禅」とは、不還果を伴う初禅である。「ここにおいて」とは、上述の初禅においてである。そしてここにおいて、正反対の対治によって敵対するものを捨断することが勝れていることから、初禅の把握がある。それゆえ「余すところなく滅する」と言った。出離想が欲界の心に伴うものであること、およびその戒が起立することは、相応する方法によって知られるべきである。

267. Kusalasaṅkappanirodhadutiyajjhānikaarahattaphalaakusalasaṅkappanirodha- paṭhamajjhānikaanāgāmiphalaggahaṇena samaṇo dassito. Sesaṃ suviññeyyameva.

267. 善思惟が滅した第二禅の阿羅漢果と、不善思惟が滅した初禅の不還果の把握によって、沙門が示された。残りは容易に理解できる。

Samaṇamuṇḍikāputtasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

沙門ムンディカープッタ経の解説における隠れた意味の解明は完結した。

9. Cūḷasakuludāyisuttavaṇṇanā

9. 小サクルダーイン経の解説

271. Pañhoti ñātuṃ icchito attho, tadeva dhammadesanāya nimittabhāvato kāraṇaṃ. Upaṭṭhātūti ñāṇassa gocarabhāvaṃ upagacchatu. Yena kāraṇenāti yena tuyhaṃ upaṭṭhitena kāraṇena dhammadesanā upaṭṭhaheyya, taṃ pana paribbājakassa ajjhāsayavasena tathā vuttaṃ. Tenāha **‘‘etena hi…pe… dīpetī’’**ti. Ekaṅgaṇānīti pidhānābhāvena ekaṅgaṇasadisāni. Tenāha **‘‘pākaṭānī’’**ti.

271. 「問い」とは、知ることを望まれた意味であり、それこそが説法の動機であることから原因である。「現れよ」とは、智の領域の状態に至れ。「いかなる原因によって」とは、あなたに現れたいかなる原因によって説法が現れ得るかということであり、それは遊行者の意図に従ってそのように語られた。それゆえ「これによって…中略…明かす」と言った。「一つの庭のように」とは、覆いがないことによって一つの庭に似ていることである。それゆえ「明白である」と言った。

Jānantoti attano tathābhāvaṃ sayaṃ jānanto. Sakkaccaṃ sussūsatīti ‘‘tathābhūtaṃyeva maṃ tathā avocā’’ti sādaraṃ sussūsati. Tasmāti dibbacakkhulābhino anāgataṃsañāṇalābhato. Evamāhāti ‘‘yo kho, udāyi, dibbena cakkhunā’’ti ārabhitvā ‘‘so vā maṃ aparantaṃ ārabbha pañhaṃ puccheyyā’’ti evaṃ avoca.

「知りつつ」とは、自らの真実の状態を自ら知りつつ。「恭しく聞こうと欲する」とは、「ありのままの私を、その通りに語ってくれた」と敬意を込めて聞こうと欲することである。「それゆえに」とは、天眼を得た者に未来世智が得られることからである。「このように言った」とは、「ウダーインよ、天眼によって〜する者は」と始めて、「彼が私に未来に関して質問を尋ねるであろう」とこのように言った。

Itaranti avasiṭṭhaṃ imasmiṃ ṭhāne vattabbaṃ. Vuttanayamevāti ‘‘yo hi lābhī’’tiādinā vuttanayameva. Atīteti pubbenivāsānussatiñāṇassa visayabhūte atthe. Anāgateti anāgataṃsañāṇassa visayabhūte anāgate atthe.

「他方を」とは、この箇所で語られるべき残りのものを。「説かれた方法の通りに」とは、「実に得た者は」等によって説かれた方法の通りに。「過去において」とは、宿命通の対象となった過去の意味において。「未来において」とは、未来世智の対象となった未来の意味において。

Paṃsupadese nibbattanato paṃsusamokiṇṇasarīratāya paṃsupisācakaṃ. Ekaṃ mūlaṃ gahetvāti dīghaso heṭṭhimantena caturaṅgulaṃ, uparimantena vidatthikaṃ rukkhagacchalatādīsu yassa kassaci ekaṃ mūlaṃ gahetvā aññajātikānaṃ adissamānakāyo hoti. Ayaṃ kira nesaṃ jātisiddhā dhammatā. Tatrāti tassa mūlavasena adissamānakatāya. Na dissati ñāṇena na passati.

塵埃の場所に生じることから、塵埃にまみれた身体を持つことによって「塵埃の夜叉」である。「一つの根を手にとって」とは、長さにおいて最低四指、最高で一咫(約20cm)の、樹木・茂み・蔓草などのいずれかの根を一つ手にとって、他の種族のものたちに姿が見えなくなる。これは彼らの生まれつき備わった性質であるという。「そこにおいて」とは、その根によって姿が見えなくなることにおいて。「見られない」とは、智によって見られないことである。

272. Na ca atthaṃ dīpeyyāti adhippetamatthaṃ sā vācā sarūpato na ca dīpeyya, kevalaṃ vācāmattamevāti adhippāyo. Paṭiharitabbaṭṭhena parasantāne netabbaṭṭhena paṭihāriya-saddadvārena viññātabbo bhāvattho, sova pāṭihīrako niruttinayena, natthi etassa pāṭihīrakanti appāṭihīrakataṃ, ta-saddena padaṃ vaḍḍhetvā tathā vuttaṃ, aniyyānaṃ. Tenāha **‘‘niratthakaṃ sampajjatī’’**ti. Subhakiṇhadevaloke khandhā viya jotetīti iminā – ‘‘dibbo rūpī manomayo sabbaṅgapaccaṅgī ahīnindriyo attā’’ti imamatthaṃ dasseti.

272. 「意味を明かさない」とは、意図された意味をその言葉がそれ自体として明かさない、単なる言葉にすぎないという趣旨である。運ばれるべきであるという義において、他者の相続(心身の連続)に導かれるべきであるという義において、「奇蹟(パーティハーリヤ)」という語門によって知られるべき状態の意味があり、それこそが語源の規則による「奇蹟」であり、これには奇蹟がないことが「無奇蹟性」であり、接尾辞-taによって語を拡張してそのように言われたのであり、出離ではない。それゆえ「無益なものとなる」と言った。「遍浄光天において蘊が輝くように」とは、これによって「天界の、色ある、意成の、すべての四肢五体を具え、諸根の欠けていない我」というこの意味を示している。

273. Saupasaggapadassa attho upasaggena vināpi viññāyatīti āha **‘‘viddheti ubbiddhe’’**ti. Sā cassa ubbiddhatā upakkilesavigamena sucibhāvena upaṭṭhānanti āha **‘‘meghavigamena dūrībhūte’’**ti. Indanīlamaṇi viya dibbati jotetīti **devo, ākāso. ‘‘Aḍḍharattasamaye’’**ti vattabbe bhummatthe vihitavacanānaṃ accantasaṃyogābhāvā upayogavacanaṃ veditabbaṃ. Puṇṇamāsiyañhi gaganamajjhassa purato vā pacchato vā ante ṭhite aḍḍharatte samayo bhinno nāma hoti, majjhe eva pana ṭhito abhinno nāma. Tenāha **‘‘abhinne aḍḍharattasamaye’’**ti.

273. 接頭辞を伴う語の意味は、接頭辞なしでも理解されることから、「清澄において(viddhe)」を「高く開けて(ubbiddhe)」と言った。そしてその開けた状態とは、随煩悩が消え去ることによる清浄な状態としての出現であることから、「雲の消滅によって遠ざけられた」と言った。ラピスラズリの宝玉のように輝き、光を放つことから「天(deva)、空間」である。「夜半の時に」と語られるべきところ、処格の意味で規定された言葉は、完全な結合がないことから対格の表現と知るべきである。満月の夜には、天頂の前あるいは後に月が位置する夜半には時は分割されていると呼ばれ、まさに中央に位置する時が分割されていないと呼ばれる。それゆえ「分割されていない夜半の時に」と言った。

Ye anubhontīti ye devā candimasūriyānaṃ ābhā anubhonti vinibhuñjanti vaḷañjanti ca tehi devehi bahū ceva bahutarā ca candimasūriyānaṃ ābhā ananubhonto. Tenāha – **‘‘attano sarīrobhāseneva ālokaṃ pharitvā viharantī’’**ti.

「享受する者たち」とは、日月光を享受し、分かち合い、用いる神々よりも、日月光を享受しない神々のほうが多く、はるかに多数である。それゆえ「自らの身体の輝きによって光を放って住する」と言った。

274. Pucchāmūḷho pana jāto ‘‘ayaṃ paramo vaṇṇo’’ti gahitapadassa vidhamanena. Acelakapāḷinti ‘‘acelako hoti muttācāro’’tiādinayappavattaṃ (dī. ni. 1.394) acelakapaṭipattidīpakaganthaṃ, ganthasīseneva tena pakāsitavādāni vadati. Surāmerayapānamanuyuttapuggalassa surāpānato virati tassa kāyaṃ cittañca tāpentī saṃvattatīti surāpānavirati (tapo, soyeva guṇo. Tenāha ‘‘surāpānaviratīti attho’’ti).

274. しかし、「これこそが最高の美色である」と執着された語が論破されたことによって「問いに迷った者」となった。「無衣の聖典」とは、「無衣であり、放縦な行いがあり」等の方法で説かれた(長部1.394)、無衣の行を明かす文献のことであり、文献の表題によってそれによって説かれた教義を語る。酒類の飲用に従事する者にとって、飲酒からの離脱はその身と心を苦しめることへと導くため、飲酒の離脱が(苦行であり、まさにその徳である。それゆえ「飲酒の離脱という意味である」と言った)。

275. Ekantaṃ accantameva sukhaṃ assāti ekantasukhaṃ. Pañcasu dhammesūti ‘‘pāṇātipātā paṭiviratī’’tiādīsu pañcasu sīlācāradhammesu. Na jāniṃsūti sammosena anupaṭṭhahanti tadatthaṃ na bujjhanti. Buddhuppādena kira vihatatejāni mahānubhāvāni mantapadāni viya bāhirakānaṃ yogāvacaraganthena saddhiṃ yogāvacarapaṭipadā nassati. Uggaṇhiṃsūti ‘‘pañca pubbabhāgadhamme’’tiādivacanamattaṃ uggaṇhiṃsu. Tatiyajjhānatoti kāraṇopacārena phalaṃ vadati, phalabhūtato tatiyajjhānato.

275. 「ひたすら絶対的な楽が彼にある」ことから「一向に楽なるもの」である。「五つの法において」とは、「殺生からの離脱」等の五つの戒行の法において。「知らなかった」とは、忘却によって現れず、その意味を理解しない。仏の出現によって威光を失った大いなる威力ある呪文のように、外道の行者の文献と共に行者の行道は滅びるという。「学んだ」とは、「五つの予備段階の法」等の単なる言葉を学んだ。「第三禅から」とは、原因の比喩によって結果を語っており、結果となった第三禅から、ということである。

276. Ekantasukhassa lokassa paṭilābhena pattiyā tattha nibbatti paṭilābhasacchikiriyā. Ekantasukhe loke anabhinibbattitvā eva iddhiyā tattha gantvā tassa sattalokassa bhājanalokassa ca paccakkhato dassanaṃ paccakkhasacchikiriyā. Tenāha **‘‘tatthā’’**tiādi.

276. 一向に楽なる世界の獲得によって、達成によって、そこへの再生が「獲得による現証」である。一向に楽なる世界に再生することなく、神通によってそこへ赴き、その衆生世間と器世間を直接見るのが「直接の現証」である。それゆえ「そこにおいて」等と言った。

277. Udañcanikoti udañcano. Viñjhupabbatapasse gāmānaṃ aniviṭṭhattā tiṃsayojanamattaṃ ṭhānaṃ aṭavī nāma, tattha senāsanaṃ, tasmiṃ aṭavisenāsane padhānakammikānaṃ bhikkhūnaṃ bahūnaṃ tattha nivāsena ekaṃ padhānagharaṃ ahosi.

277. 「水を汲む容器」とは、水汲み桶のことである。ヴィンディヤ山の麓には村々が定着していなかったため、三十由旬ほどの場所が荒野と呼ばれ、そこにある精舎、その荒野の精舎に、多くの精励修行する比丘たちがそこに住んでいたことによって、一つの瞑想堂(精舎)があった。

Cūḷasakuludāyisuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

小サクルダーイン経の解説における隠れた意味の解明は完結した。

10. Vekhanasasuttavaṇṇanā

10. ヴェーカナサ経の解説

280. Saha vatthukāmena kilesakāmo garu garukātabbo etassāti kāmagaru. Tesveva kāmesu ninnapoṇapabbhārajjhāsayoti kāmādhimutto. Pabbajjāpaṭhamajjhānādikaṃ nekkhammaṃ garu garukātabbaṃ etassāti nekkhammagaru. Tattha ninnapoṇapabbhārajjhāsayo nekkhammādhimutto svāyamattho yathā ekacce gahaṭṭhe labbhati, evaṃ ekacce anagārepīti āha **‘‘pabbajitopī’’**tiādi. Ayaṃ pana vekhanaso paribbājako. So hi vekhanasatāpasapabbajjaṃ upagantvā vekhanasena iminā diṭṭhimādāya samādiyitvā ṭhitattā ‘‘vekhanaso’’ti vuccati. Yathā loko sayaṃ ekādasahi aggīhi ādittopi samāno paccakkhato anubhaviyamānaṃ sālākikaṃ aggisantāpaṃ viya anādikālānugatasammākavacarasantāpaṃ ādittatāya na sallakkheti, sammāsambuddhena pana mahākaruṇāsamussāhitamānasena ‘‘sabbaṃ, bhikkhave, āditta’’nti ādittapariyāye (saṃ. ni. 4.28; mahāva. 54) desiyamāne sallakkheti, evaṃ ayampi anādikālaparibhāvitaṃ attaajjhāsaye avaṭṭhitaṃ kāmādhimuttaṃ sarasena anupadhārento satthārā – ‘‘pañca kho ime, kaccāna, kāmaguṇā’’tiādinā kāmaguṇesu kāmasukhe bhāsiyamāne ‘‘kāmādhimuttaṃ vata pabbajitassa citta’’nti upadhāressatīti āha – **‘‘imāya kathāya kathiyamānāya attano kāmādhimuttataṃ sallakkhessatī’’**ti. Kāmaggasukhanti kāmetabbavatthūhi aggabhūtaṃ sukhaṃ. Sabbe hi tebhūmakadhammā kāmanīyaṭṭhena kāmā, te paṭicca uppajjanasukhato nibbānasukhameva aggabhūtaṃ sukhaṃ. Yathāha – ‘‘yāvatā, bhikkhave, dhammā saṅkhatā vā asaṅkhatā vā, virāgo tesaṃ aggamakkhāyatī’’ti (itivu. 90; a. ni. 4.34) – ‘‘nibbānaṃ paramaṃ sukha’’nti (ma. ni. 2.215, 217; dha. pa. 203) ca. Tena vuttaṃ **‘‘nibbānaṃ adhippeta’’**nti.

280. 事欲と共に煩悩欲を重んじるべき、尊重すべきものとする者が「欲を重んじる者」である。まさにそれらの欲に対して低く傾き傾注する意図を持つ者が「欲に傾倒した者」である。出家や初禅などの出離を重んじるべき、尊重すべきものとする者が「出離を重んじる者」である。そこへ低く傾き傾注する意図を持つ者が出離に傾倒した者であり、この意味はある在家の者に見られるように、ある出家の者にも見られることから、「出家した者であっても」等と言った。しかしこのヴェーカナサは遊行者である。彼はヴェーカナサ隠者の出家に入り、このヴェーカナサによって見解を受け入れて奉持して留まっていたことから「ヴェーカナサ」と呼ばれる。世間が自ら十一の火によって燃え盛っていながらも、直接体験される槍の火の熱さのように、無始の時より続く正しい修行者の熱を、燃え盛る状態として識別しないように、しかし正等覚者によって、大悲によって奮い立たされた心で「比丘たちよ、すべては燃えている」(相応部4.28;大犍度54)と『燃焼経』が説かれる時に識別するように、このように彼もまた、無始の時より薫習され、自らの意図に留まっている欲への傾倒を自発的には考察せず、師によって「カッチャーナよ、これら五つの欲功徳がある」等と欲功徳における欲の快楽が語られる時、「実に、出家者の心は欲に傾倒している」と考察するであろうことから、「この教えが語られる時、自らの欲への傾倒を識別するであろう」と言った。「最上の欲の楽」とは、欲されるべき対象の中で最上のものとなった楽である。実にすべての三界の法は望ましいという意味で欲であり、それらに依存して生じる楽よりも、涅槃の楽こそが最上の楽である。「比丘たちよ、有為であれ無為であれ、諸法のある限り、離貪がそれらの中で最上であると説かれる」(如是語90;増支部4.34)、「涅槃は最上の楽である」(中部2.215, 217;法句経203)と仰せられた通りである。それゆえ「涅槃が意図されている」と言った。

281. Pubbenivāsañāṇalābhino pubbantaṃ ārabbha vuccamānakathā anucchavikā tadatthassa paccakkhabhāvato, tadabhāvato vekhanasassa ananucchavikāti āha **‘‘yasmā…pe… natthī’’**ti. Anāgatakathāya…pe… natthīti etthāpi eseva nayo. Ārakkhatthāyāti devatāhi mantapadehi saha ṭhitā tattha ārakkhatthāya. Avijjāyāti idaṃ lakkhaṇavacanaṃ, taṃmūlakattā vā sabbakilesadhammānaṃ avijjāva gahitā. Jānanaṃ pahīnakilesapaccavekkhaṇañāṇena. Sesaṃ suviññeyyameva.

281. 宿命通を得た者にとって、過去世に関して語られる教えは相応しいものであり、その意味が直接的であるからであるが、それがないためにヴェーカナサには相応しくないことから、「〜がないゆえに…中略…ない」と言った。「未来の教えにおいても…中略…ない」ということも、ここにおいて同じ方法である。「保護のために」とは、神々が呪文と共にそこに保護のために留まっていたということである。「無明によって」とは、これは特徴を表す言葉であり、あるいはすべての煩悩法の根本であることから無明のみが取られた。知ることは、断ぜられた煩悩の省察智による。残りは容易に理解できる。

Vekhanasasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

ヴェーカナサ経の解説における隠れた意味の解明は完結した。

Niṭṭhitā ca paribbājakavaggavaṇṇanā.

そして遊行者品(遍歴行者品)の解説は終了した。