2. Anupadavaggo2. 随法品
1. Anupadasuttavaṇṇanā
1. 随法経釈
93. Iddhimāti guṇo pākaṭo paratoghosena vinā pāsādakampanadevacārikādīhi sayameva pakāsabhāvato; dhutavādādiguṇānampi tathābhāve eteneva nayena tesaṃ guṇānaṃ pākaṭayogato ca paresaṃ nicchitabhāvato ca. Paññavato guṇāti paññāpabhedapabhāvite guṇavisese sandhāya vadati. Te hi yebhuyyena paresaṃ avisayā. Tenāha – **‘‘na sakkā akathitā jānitu’’**nti. Visabhāgā sabhāgā nāma ayonisomanasikārabahulesu puthujjanesu, te pana appahīnarāgadosatāya parassa vijjamānampi guṇaṃ makkhetvā avijjamānaṃ avaṇṇameva ghosentīti āha – **‘‘visabhāga…pe… kathentī’’**ti.
93. 神通力ある者の徳は、他者の声(他人の証言)がなくとも、宮殿を揺るがすことや天上への旅などによって自ずから明白となることから顕著である。頭陀行の徳等についても同様であり、その方法によってそれらの徳が明白に結びつくことからも他者にとって確実である。「智慧ある者の徳」とは、智慧の分類によって輝き出た卓越した徳を指して述べている。それらは多くの場合、他者の領域ではないからである。それゆえに「**語られなければ知ることはできない**」と言われた。「非類同のもの、類同のもの」とは、不正な作意の多い凡夫たちにおいてであり、彼らは貪・瞋が断ぜられていないことによって、他者に現存する徳をも覆い隠し、現存しない悪名のみを言いふらすとして、「**非類同の……中略……語る**」と言われた。
Yā aṭṭhārasannaṃ dhātūnaṃ samudayato atthaṅgamato assādato ādīnavato yathābhūtaṃ pajānanā, ayaṃ dhātukusalatā. Āyatanakusalatāyapi eseva nayo. Avijjādīsu dvādasasu paṭiccasamuppādaṅgesu kosallaṃ paṭiccasamuppādakusalatā. Idaṃ imassa phalassa ṭhānaṃ kāraṇaṃ, idaṃ aṭṭhānaṃ akāraṇanti evaṃ ṭhānañca ṭhānato, aṭṭhānañca aṭṭhānato yathābhūtaṃ pajānanā, ayaṃ ṭhānāṭṭhānakusalatā. Yo pana imesu dhātuādīsu pariññābhisamayādivasena nissaṅgagatiyā paṇḍāti laddhanāmena ñāṇena ito gato pavatto, ayaṃ paṇḍito nāmāti āha – **‘‘imehi catūhi kāraṇehi paṇḍito’’**ti. Mahantānaṃ atthānaṃ pariggaṇhanato mahatī paññā etassāti mahāpañño. Sesapadesupi eseva nayoti āha – **‘‘mahāpaññādīhi samannāgatoti attho’’**ti.
十八界の生起、消滅、味、過患、出離をありのままに知ることが「界に巧みであること」である。処に巧みであることにおいてもこの方法である。無明などの十二の縁起の支分における巧みさが「縁起に巧みであること」である。「これはこの果報の処(原因)であり、これは非処(原因にあらざるもの)である」と、このように処を処として、非処を非処としてありのままに知ることが「処非処に巧みであること」である。そしてこれら界などにおいて遍知の現観などの力によって無執着の境地により「パンダー(智慧)」という名を得た智によってここから進み活動した者を「賢者(パンディタ)」と呼ぶとして、「**これら四つの原因によって賢者である**」と言われた。広大な意味(対象)を把握することから広大な智慧が彼にあるゆえに「大慧者」である。残りの句においてもこの方法であるとして、「**大慧などを具足したという意味である**」と言われた。
Nānattanti yāhi mahāpaññādīhi samannāgatattā thero ‘‘mahāpañño’’tiādinā kittīyati, tāsaṃ mahāpaññādīnaṃ idaṃ nānattaṃ ayaṃ vemattatā. Yassa kassaci (dī. ni. ṭī. 3.216; saṃ. ni. ṭī. 1.1.110; a. ni. ṭī. 1.1.584) visesato arūpadhammassa mahattaṃ nāma kiccasiddhiyā veditabbanti tadassa kiccasiddhiyā dassento, ‘‘mahante **sīlakkhandhe pariggaṇhātīti mahāpaññā’’**tiādimāha. Tattha hetumahantatāya paccayamahantatāya nissayamahantatāya pabhedamahantatāya kiccamahantatāya phalamahantatāya ānisaṃsamahantatāya ca sīlakkhandhassa mahantabhāvo veditabbo. Tattha hetū alobhādayo, paccayā hirottappasaddhāsativīriyādayo. Nissayā sāvakabodhipaccekabodhisammāsambodhiniyatatā taṃsamaṅgino ca purisavisesā. Pabhedo cārittādivibhāgo. Kiccaṃ tadaṅgādivasena paṭipakkhassa vidhamanaṃ. Phalaṃ saggasampadā nibbānasampadā ca. Ānisaṃso piyamanāpatādi. Ayamettha saṅkhepo, vitthāro pana visuddhimagge (visuddhi. 1.9) ākaṅkheyyasuttādīsu (ma. ni. 1.64 ādayo) ca āgatanayena veditabbo. Iminā nayena samādhikkhandhādīnampi mahantatā yathārahaṃ niddhāretvā veditabbā, ṭhānāṭṭhānādīnaṃ pana mahantabhāvo mahāvisayatāya veditabbo. Tattha ṭhānāṭṭhānānaṃ mahāvisayatā bahudhātukasutte (ma. ni. 3.124 ādayo) sayameva āgamissati. Vihārasamāpattīnaṃ samādhikkhandhe niddhāritanayena veditabbā, ariyasaccānaṃ sakalasāsanasaṅgahaṇato saccavibhaṅge (vibha. 189 ādayo) taṃsaṃvaṇṇanāsu (vibha. aṭṭha. 189 ādayo) āgatanayena. Satipaṭṭhānādīnaṃ vibhaṅgādīsu (vibha. 355 ādayo) taṃsaṃvaṇṇanādīsu (vibha. aṭṭha. 355 ādayo) ca āgatanayena. Sāmaññaphalānaṃ mahato hitassa mahato sukhassa mahato atthassa mahato yogakkhemassa nipphattibhāvato santapaṇītanipuṇaatakkāvacarapaṇḍitavedanīyabhāvato ca. Abhiññānaṃ mahāsambhārato mahāvisayato mahākiccato mahānubhāvato mahānipphattito ca. Nibbānassa madanimmadanādimahatthasiddhito mahantatā veditabbā.
「多様性」とは、大慧などを具足していることによって長老が「大慧者」等と称賛される、それらの大慧などのこの多様性、この差異である。何であれ、特に非物質(無色)の法の偉大さとは、作用の成就によって知られるべきであるとして、その作用の成就によって示し、「広大なる**戒蘊を把握するがゆえに大慧である**」等と言われた。そこにおいて因の広大さ、縁の広大さ、依拠の広大さ、分類の広大さ、作用の広大さ、果の広大さ、功徳の広大さによって戒蘊の広大さが知られるべきである。そこにおいて因とは無貪などであり、縁とは慚・愧・信・念・精進などである。依拠とは声聞菩提・独覚菩提・正等覚菩提の決定性と、それを具備した卓越した人物たちである。分類とは作持(行儀)などの区分である。作用とは各支分などによる反対のものの粉砕である。果とは天界の円満と涅槃の円満である。功徳とは愛され好まれることなどである。これがここでの要約であり、詳細は『清浄道論』や『願経』等に説かれた方法によって知られるべきである。この方法によって定蘊などの広大さも相応に吟味して知られるべきであり、処非処などの広大さは広大な領域性によって知られるべきである。そこにおいて処非処の広大な領域性は『多界経』において自ずから現れるであろう。諸々の住(禅定)と等至の広大さは定蘊において吟味された方法によって知られるべきであり、四聖諦の広大さはすべての教えを包摂することから『分別論』の諦分別とその註釈に説かれた方法によって知られるべきである。念処などの広大さは『分別論』等とその註釈等に説かれた方法によって知られるべきである。沙門果の広大さは、大いなる利益、大いなる安楽、大いなる義、大いなる瑜伽安穏(平安)の成就であること、寂静・勝妙・微細・非思量領域・智者により知られるべきものであることから知られるべきである。神通の広大さは、大いなる資糧、大いなる領域、大いなる作用、大いなる威力、大いなる成就から知られるべきである。涅槃の広大さは、傲慢の粉砕などの大いなる意味の成就から知られるべきである。
Puthupaññāti etthāpi vuttanayānusārena attho veditabbo. Ayaṃ pana viseso – nānākhandhesu ñāṇaṃ pavattatīti, ‘‘ayaṃ rūpakkhandho nāma…pe… ayaṃ viññāṇakkhandho nāmā’’ti, evaṃ pañcannaṃ khandhānaṃ nānākaraṇaṃ paṭicca ñāṇaṃ pavattati. Tesupi ‘‘ekavidhena rūpakkhandho, ekādasavidhena rūpakkhandho, ekavidhena vedanākkhandho, bahuvidhena vedanākkhandho, ekavidhena saññākkhandho…pe… ekavidhena viññāṇakkhandho, bahuvidhena viññāṇakkhandho’’ti evaṃ ekekassa khandhassa ekavidhādivasena atītādibhedavasenapi nānākaraṇaṃ paṭicca ñāṇaṃ pavattati. Tathā ‘‘idaṃ cakkhāyatanaṃ nāma…pe… idaṃ dhammāyatanaṃ nāma. Tattha dasāyatanā kāmāvacarā, dve catubhūmakā’’ti evaṃ āyatananānattaṃ paṭicca ñāṇaṃ pavattati.
「広慧」においても説かれた方法に従って意味が知られるべきである。しかしこれが相違である——様々な諸蘊において智が活動するとして、「これは色蘊というものであり……中略……これは識蘊というものである」と、このように五蘊の相違に基づいて智が活動する。それらにおいても「一様なる色蘊、十一種の色蘊、一様なる受蘊、多種多様なる受蘊、一様なる想蘊……中略……一様なる識蘊、多種多様なる識蘊」と、このように個々の蘊の一様などの力により、過去などの区分によっても相違に基づいて智が活動する。同様に「これは眼処というものであり……中略……これは法処というものである。そこにおいて十の処は欲界に属し、二つは四地に属する」と、このように処の多様性に基づいて智が活動するのである。
Nānādhātūsūti ‘‘ayaṃ cakkhudhātu nāma…pe… ayaṃ manoviññāṇadhātu nāma. Tattha soḷasa dhātuyo kāmāvacarā, dve catubhūmakā’’ti evaṃ nānādhātūsu paṭicca ñāṇaṃ pavattati. Tayidaṃ upādiṇṇakadhātuvasena vuttanti veditabbaṃ. Paccekabuddhānañhi dvinnañca aggasāvakānaṃ upādiṇṇakadhātūsuyeva nānākaraṇaṃ paṭicca ñāṇaṃ pavattati. Tañca kho ekadesatova, no nippadesato, anupādiṇṇakadhātūnaṃ pana nānākaraṇaṃ na jānantiyeva. Sabbaññubuddhānaṃyeva pana, ‘‘imāya nāma dhātuyā ussannattā imassa rukkhassa khandho seto hoti, imassa kaṇho, imassa bahalattaco, imassa tanuttaco, imassa pattaṃ vaṇṇasaṇṭhānādivasena evarūpaṃ, imassa pupphaṃ nīlaṃ pītaṃ lohitaṃ odātaṃ sugandhaṃ duggandhaṃ, phalaṃ khuddakaṃ mahantaṃ dīghaṃ vaṭṭaṃ susaṇṭhānaṃ maṭṭhaṃ pharusaṃ sugandhaṃ madhuraṃ tittakaṃ ambilaṃ kaṭukaṃ kasāvaṃ, kaṇṭako tikhiṇo atikhiṇo ujuko kuṭilo lohito odāto hotī’’ti dhātunānattaṃ paṭicca ñāṇaṃ pavattati.
「種々の界において」とは、「これを目界と名づけ……乃至……これを意識界と名づける。そこにおいて十六の界は欲界に属し、二つは四地に属する」というように、種々の界に関して智が生起する。これは執受された界(有情の身を構成する界)に関して説かれたものであると知るべきである。実に、辟支仏たちや二人の上首弟子たちには、執受された界においてのみ、差異に関する智が生起する。しかもそれは一面においてのみであり、一切の領域においてではない。非執受の界(有情以外の物質界)の差異については全く知らないのである。しかし全知の仏たちにのみ、「この名を持つ界が勝っているために、この樹の幹は白く、この樹は黒く、この樹は樹皮が厚く、この樹は樹皮が薄く、この樹の葉は色や形の様態によってこのようなものであり、この樹の花は青、黄、赤、白、芳香、悪臭があり、果実は小さく、大きく、長く、丸く、均整がとれ、滑らかで、粗く、芳香があり、甘く、苦く、酸っぱく、辛く、渋く、棘は鋭く、極めて鋭く、真っ直ぐで、曲がり、赤く、白い」というように、界の多様性に関する智が生起する。
Atthesūti rūpādīsu ārammaṇesu. Nānāpaṭiccasamuppādesūti ajjhattabahiddhābhedato santānabhedato ca nānappabhedesu paṭiccasamuppādaṅgesu. Avijjādiaṅgānañhi paccekaṃ paṭiccasamuppādasaññitāti. Tenāha – saṅkhārapiṭake ‘‘dvādasa paccayā dvādasa paṭiccasamuppādā’’ti. Nānāsuññatamanupalabbhesūti nānāsabhāvesu niccasārādivirahato suññasabhāvesu, tato eva itthipurisaattaattaniyādivasena anupalabbhesu sabhāvesu. Ma-kāro hettha padasandhikaro. Nānāatthesūti atthapaṭisambhidāvisayesu paccayuppannādinānāatthesu. Dhammesūti dhammapaṭisambhidāvisayesu paccayādinānādhammesu. Niruttīsūti tesaṃyeva atthadhammānaṃ niddhāraṇavacanasaṅkhātāsu nānāniruttīsu. Paṭibhānesūti ettha atthapaṭisambhidādīsu visayabhūtesu, ‘‘imāni idamatthajotakānī’’ti (vibha. 725-745) tathā tathā paṭibhānato paṭibhānānīti laddhanāmesu ñāṇesu. Puthu nānāsīlakkhandhesūtiādīsu sīlassa puthuttaṃ nānattañca vuttameva. Itaresaṃ pana vuttanayānusārena suviññeyyattā pākaṭameva. Yaṃ pana abhinnaṃ ekameva nibbānaṃ, tattha upacāravasena puthuttaṃ gahetabbanti āha – **‘‘puthu nānājanasādhāraṇe dhamme samatikkammā’’**ti. Tenassa madanimmadanādipariyāyena puthuttaṃ paridīpitaṃ hoti.
「義において」とは、色などの対象において。「種々の縁起において」とは、内・外の区分から、また相乗(相続)の区分から、種々に分かれた縁起の支分において。実に無明などの支分はそれぞれが縁起と名づけられるからである。それゆえ、諸行蔵において「十二の縁は十二の縁起である」と説かれた。「種々の空性・不可得において」とは、種々の自性において、常住の精髄などを欠くことから空の自性であり、それゆえに女・男・我・我所などのあり方としては得られない自性において。「マ」の字はここでは連声である。「種々の義において」とは、義無礙解の領域である縁生などの種々の義において。「法において」とは、法無礙解の領域である縁などの種々の法において。「辞句において」とは、それら義と法の限定表現と称される種々の言説(辞句)において。「弁舌において」とは、ここで義無礙解などの領域となっているものについて、「これらはこの義を照らすものである」と様々に生起することから「弁舌」という名を得た諸智において。「多くの種々の戒蘊において」などにおいて、戒の多種性と多様性はすでに説かれた通りである。その他のものについては説かれた方法に従って容易に理解できるため明白である。一方、無分別の唯一なる涅槃においては、比喩的な表現(施設)によって多種性を把握すべきであるとし、「**多くの種々の人々と共有される諸法を超越して**」と言われた。これによって、涅槃の驕慢の粉砕などの異名による多種性が明らかにされたのである。
Evaṃ visayavasena paññāya mahattaṃ puthuttañca dassetvā idāni sampayuttadhammavasena hāsabhāvaṃ, pavattiākāravasena javanabhāvaṃ, kiccavasena tikkhādibhāvañca dassetuṃ, **‘‘katamā hāsapaññā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha hāsabahuloti pītibahulo. Sesapadāni tasseva vevacanāni. Sīlaṃ paripūretīti haṭṭhapahaṭṭho udaggudaggo hutvā pītisahagatāya paññāya. Pītisomanassasahagatā hi paññā abhirativasena ārammaṇe phullā vikasitā viya pavattati; na upekkhāsahagatāti pātimokkhasīlaṃ ṭhapetvā hāsanīyaṃ paraṃ tividhampi sīlaṃ paripūretīti attho. Visuṃ vuttattā puna sīlakkhandhamāha. Samādhikkhandhantiādīsupi eseva nayo.
このように領域の観点から智慧の広大さと多種性を示し、今や相応する法の観点から歓喜性(喜慧)を、生起の様相の観点から速疾性(捷慧)を、働きの観点から鋭敏性(利慧)などを明かすために、「**喜慧とはいかなるものか**」等と説かれた。その中で「歓喜が多い」とは喜悦が多いことである。残りの語句はそれの同義語である。「戒を満たす」とは、大いに歓喜し、極めて高揚して、喜を伴う智慧によって満たすことである。実に、喜と悦びを伴う智慧は、愛楽の力によって対象において満開に咲き誇るかのように生起するのであり、捨を伴うものではない。したがって別解脱律儀戒を除いて、歓喜すべき他の三種の戒をも満たすという意味である。別個に説かれているため、再び「戒蘊」と言われた。定蘊などにおいてもこの方法が適用される。
Rūpaṃ aniccato khippaṃ javatīti rūpakkhandhaṃ aniccanti sīghaṃ vegena pavattiyā paṭipakkhadūrībhāvena pubbābhisaṅkhārassa sātisayattā indena vissaṭṭhavajiraṃ viya lakkhaṇaṃ paṭivijjhantī adandhāyantī rūpakkhandhe aniccalakkhaṇaṃ vegasā paṭivijjhati, tasmā sā javanapaññā nāmāti attho. Sesapadesupi eseva nayo. Evaṃ lakkhaṇārammaṇikavipassanāvasena javanapaññaṃ dassetvā balavavipassanāvasena dassetuṃ, **‘‘rūpa’’**ntiādi vuttaṃ. Tattha khayaṭṭhenāti yattha yattha uppajjati, tattha tattheva bhijjanato khayasabhāvattā. Bhayaṭṭhenāti bhayānakabhāvato. Asārakaṭṭhenāti attasāravirahato niccasārādivirahato ca. Tulayitvāti tulābhūtāya vipassanāpaññāya tuletvā. Tīrayitvāti tāya eva tīraṇabhūtāya tīretvā. Vibhāvayitvāti yāthāvato pakāsetvā pañcakkhandhaṃ vibhūtaṃ katvā. Rūpanirodheti rūpakkhandhassa nirodhabhūte nibbāne ninnapoṇapabbhāravasena. Idāni sikhāppattavipassanāvasena javanapaññaṃ dassetuṃ, puna **‘‘rūpa’’**ntiādi vuttaṃ. Vuṭṭhānagāminivipassanāvasenāti keci.
「色を無常と速やかに奔流する」とは、色蘊を無常であると速やかに急速に生起することにより、敵対するものの遠離によって過去の行(準備)が優れているため、帝釈天の放った金剛杵のように相を貫通し、遅滞することなく色蘊において無常相を速やかに貫通する。それゆえ、それが「捷慧」と名づけられるという意味である。残りの語句においてもこの方法が適用される。このように相を対象とする毘鉢舎那の観点から捷慧を示し、さらに強力な毘鉢舎那の観点から示すために「**色を**」等と説かれた。その中で「滅尽の義により」とは、どこに生起してもその場所その場所で崩壊することから滅尽の自性であることによる。「恐怖の義により」とは、恐るべき状態であることによる。「無精髄の義により」とは、我という精髄を欠き、常住の精髄などを欠くことによる。「衡量して」とは、秤となった毘鉢舎那の智慧によって衡量して。「確定して」とは、確定の働きをなすその智慧によって確定して。「明示して」とは、ありのままに顕現させて五蘊を明瞭にして。「色の止滅において」とは、色蘊の止滅である涅槃において、傾倒し、傾斜し、傾注することによる。今や頂点に達した毘鉢舎那の観点から捷慧を示すために、再び「**色を**」等と説かれた。出起転向の毘鉢舎那の観点による、と言う者もいる。
Ñāṇassa tikkhabhāvo nāma savisesaṃ paṭipakkhasamucchindanena veditabboti, **‘‘khippaṃ kilese chindatīti tikkhapaññā’’**ti vatvā te pana kilese vibhāgena dassento, **‘‘uppannaṃ kāmavitakka’’**ntiādimāha. Tikkhapañño hi khippābhiñño hoti, paṭipadā cassa na calatīti āha – **‘‘ekasmiṃ āsane cattāro ariyamaggā adhigatā hontī’’**tiādi.
智の鋭敏さとは、殊勝に敵対するものを断絶することによって知られるべきであるとし、「**速やかに煩悩を断つゆえに利慧である**」と述べて、それらの煩悩を区分して示すために「**生起した欲尋を**」等と言われた。利慧の者は速疾に通達する者(速通達者)であり、その行道は動揺しないので、「**一の座において四の聖道が証得される**」等と言われたのである。
‘‘Sabbe saṅkhārā aniccā dukkhā vipariṇāmadhammā saṅkhatā paṭiccasamuppannā khayadhammā vayadhammā nirodhadhammā’’ti yāthāvato dassanena saccasampaṭivedho ijjhati, na aññathāti kāraṇamukhena nibbedhikapaññaṃ dassetuṃ, ‘‘sabbasaṅkhāresu **ubbegabahulo hotī’’**tiādi vuttaṃ. Tattha ubbegabahuloti vuttanayena sabbasaṅkhāresu abhiṇhaṃ pavattasaṃvego. Uttāsabahuloti ñāṇutrāsavasena sabbasaṅkhāresu bahuso utrastamānaso. Tena ādīnavānupassanamāha. Ukkaṇṭhanabahuloti pana iminā nibbidānupassanaṃ āha – aratibahulotiādinā tassā eva aparāparuppattiṃ. Bahimukhoti sabbasaṅkhārato bahibhūtaṃ nibbānaṃ uddissa pavattañāṇamukho, tathā vā pavattitavimokkhamukho. Nibbijjhanaṃ nibbedho, so etissā atthi, nibbijjhatīti vā nibbedhā, sāva paññā nibbedhikā. Yaṃ panettha atthato avibhattaṃ, taṃ heṭṭhā vuttanayattā suviññeyyameva.
「一切の諸行は無常であり、苦であり、変易する法であり、有為であり、縁起したものであり、尽きる法であり、滅びる法であり、止滅する法である」とありのままに見ることによって真理の貫通が成就するのであり、それ以外の方法ではないという理由の面から決擇慧を示すために、「一切の諸行において**戦慄が多い者となる**」等と説かれた。その中で「戦慄が多い」とは、説かれた方法によって一切の諸行において頻繁に生起する戦慄(畏怖)である。「恐怖が多い」とは、智の恐怖によって一切の諸行においてしばしば恐れを抱いた心である。これによって過患随観が説かれている。一方、「倦怠が多い」とは、これによって厭離随観が説かれている。「不楽が多い」などによって、まさにその厭離が次々と生起することが示される。「外に向かう」とは、一切の諸行から外にある涅槃をめがけて生起する智の向きを持ち、あるいはそのように生起した解脱の向きを持つことである。貫通することを決擇といい、それを持つもの、あるいは貫通するものが決擇であり、その智慧こそが決擇慧である。ここで意味において詳しく分別されていないものは、前述の方法によるため容易に理解できる。
Pajjati etena vipassanādikoti padaṃ, samāpatti, tasmā anupadanti anusamāpattiyoti attho. Padaṃ vā sammasanupagā dhammā vipassanāya pavattiṭṭhānabhāvato. Tenāha **‘‘samāpattivasena vā’’**ti. Jhānaṅgavasena vāti jhānaṅgavasenāti ca attho. Aṭṭhakathāyaṃ pana kamattho idha padasaddo, tasmā anupadaṃ anukkamenāti ayamettha atthoti āha **‘‘anupaṭipāṭiyā’’**ti. Dhammavipassananti taṃtaṃsamāpatticittuppādapariyāpannānaṃ dhammānaṃ vipassanaṃ. Vipassatīti samāpattiyo jhānamukhena te te dhamme yāthāvato pariggahetvā, ‘‘itipi dukkhā’’tiādinā sammasati. Addhamāsena arahattaṃ patto ukkaṃsagatassa sāvakānaṃ sammasanacārassa nippadesena pavattiyamānattā, sāvakapāramīñāṇassa ca tathā paṭipādetabbattā. Evaṃ santepīti yadipi mahāmoggallānatthero na cirasseva arahattaṃ patto; dhammasenāpati pana tato cirena, evaṃ santepi yasmā moggallānattheropi mahāpaññova, tasmā sāriputtattherova mahāpaññataroti. Idāni tamatthaṃ pākaṭataraṃ kātuṃ, **‘‘mahāmoggallānatthero hī’’**tiādi vuttaṃ. Sammasanaṃ carati etthāti sammasanacāro, vipassanābhūmi, taṃ sammasanacāraṃ. Ekadesamevāti sakaattabhāve saṅkhāre anavasesato pariggahetuñca sammasituñca asakkontaṃ attano abhinīhārasamudāgatañāṇabalānurūpaṃ ekadesameva pariggahetvā sammasanto. Nanu ca ‘‘sabbaṃ, bhikkhave, anabhijānaṃ aparijānaṃ avirājayaṃ appajahaṃ abhabbo dukkhakkhayāyā’’ti (saṃ. ni. 4.26) vacanato vaṭṭadukkhato muccitukāmena sabbaṃ pariññeyyaṃ parijānitabbameva? Saccametaṃ, tañca kho sammasanupagadhammavasena vuttaṃ. Tasmā sasantānagate sabbadhamme, parasantānagate ca tesaṃ santānavibhāgaṃ akatvā bahiddhābhāvasāmaññato sammasanaṃ, ayaṃ sāvakānaṃ sammasanacāro. Thero pana bahiddhādhammepi santānavibhāgena keci keci uddharitvā sammasi, tañca kho ñāṇena phuṭṭhamattaṃ katvā. Tena vuttaṃ – **‘‘yaṭṭhikoṭiyā uppīḷento viya ekadesameva sammasanto’’**ti. Tattha ñāṇena nāma yāvatā neyyaṃ pavattitabbaṃ, tathā apavattanato **‘‘yaṭṭhikoṭiyā uppīḷento viyā’’**tiādi vuttaṃ. Anupadadhammavipassanāya abhāvato **‘‘ekadesameva sammasanto’’**ti vuttaṃ.
これによって毘鉢舎那などが進む(得られる)ゆえに「句(足跡・道)」、すなわち等至(定)である。それゆえ「句ごとに(逐次に)」とは、等至ごとにという意味である。あるいは「句」とは、毘鉢舎那が生起する場所であることから、思惟に達する諸法のことである。それゆえ「**等至の観点から、あるいは**」と言われた。「禅定の支分の観点から、あるいは」とは、禅定の支分の観点からもという意味である。しかし義釈においては、ここでは「句」の語は順序の義である。それゆえ「句ごとに、順次に」というのがここでの意味であるとし、「**順序に従って**」と言われた。「法の毘鉢舎那」とは、それぞれの等至の心惹起に含まれる諸法の毘鉢舎那である。「随観する」とは、等至を禅定の導入部としてそれら諸法をありのままに把握し、「このように苦である」などと思惟する。半月で阿羅漢位に達した。弟子の思惟の行境の最高峰に達したものが一切の領域において生起させられるためであり、声聞波羅蜜智もそのように成就されるべきだからである。「そうであっても」とは、大目犍連長老は間もなく阿羅漢位に達したが、法将(舎利弗)はそれより長い時間を要した。そうであっても、目犍連長老も大いなる智慧の持ち主であるが、舎利弗長老こそがより大いなる智慧の持ち主であるということである。今やその意味をさらに明白にするために、「**実に大目犍連長老は**」等と説かれた。思惟がここにおいて行われるゆえに「思惟の行境」、すなわち毘鉢舎那の基盤であり、その思惟の行境である。「一面においてのみ」とは、自身の個体における諸行を残すところなく把握し思惟することができず、自らの誓願によって成就した智の力に応じて一面のみを把握して思惟した。「しかし『比丘たちよ、一切を証知せず、遍知せず、離欲せず、捨てなければ、苦の滅尽を果たすことはできない』という教説から、輪廻の苦から解脱しようと望む者は、一切の遍知されるべきものを遍知しなければならないのではないか」と言うかもしれない。それは真実であるが、それは思惟に達する諸法の観点から説かれたのである。それゆえ、自身の相続に属する一切の諸法と、他者の相続に属する諸法について、それらの相続の区別をなさずに外部にあることの共通性から思惟すること、これが弟子たちの思惟の行境である。しかし長老は、外部の法についても相続の区別によっていくつかを取り出して思惟し、しかもそれを智によって触れるだけにした。それゆえ「**杖の先で突くかのように一面のみを思惟しつつ**」と説かれたのである。そこにおいて智によって知るべき領域の及ぶ限り生起すべきであるのに、そのように生起しなかったことから「**杖の先で突くかのように**」等と説かれた。逐次の法の毘鉢舎那がないことから「**一面のみを思惟しつつ**」と説かれたのである。
Buddhānaṃ sammasanacāro dasasahassilokadhātuyaṃ sattasantānagatā, anindriyabaddhā ca saṅkhārāti vadanti, koṭisatasahassacakkavāḷesūti apare. Tathā hi addhattayavasena paṭiccasamuppādanayaṃ osaritvā chattiṃsakoṭisatasahassamukhena buddhānaṃ mahāvajirañāṇaṃ pavattaṃ. Paccekabuddhānaṃ sasantānagatehi saddhiṃ majjhimadesavāsisattasantānagatā anindriyabaddhā ca sammasanacāroti vadanti, jambudīpavāsisattasantānagatāti keci. Dhammasenāpatinopi yathāvuttasāvakānaṃ vipassanābhūmiyeva sammasanacāro. Tattha pana thero sātisayaṃ niravasesaṃ anupadadhammaṃ vipassi. Tena vuttaṃ – **‘‘sāvakānaṃ sammasanacāraṃ nippadesaṃ sammasī’’**ti.
仏たちの思惟の行境は、一万の世界における有情の相続に属する諸行と、非情(根に結合していないもの)の諸行であると言われ、他の者たちは百千俱胝の世界においてであると言う。実に仏たちの大金剛智は、三世の観点から縁起の理法に趣き、三十六百千俱胝の導入部をもって生起したのである。辟支仏たちの思惟の行境は、自身の相続に属するものとともに、中インドに住する有情の相続に属するものと非情の諸行であると言われ、閻浮提に住する有情の相続に属するものであると言う者もいる。法将(舎利弗)の思惟の行境も、前述の弟子たちの毘鉢舎那の基盤そのものである。しかしそこにおいて長老は、殊勝に残すところなく逐次の法を随観した。それゆえ「**弟子たちの思惟の行境を残すところなく思惟した**」と説かれたのである。
Tattha ‘‘sāvakānaṃ vipassanābhūmī’’ti ettha sukkhavipassakā lokiyābhiññappattā pakatisāvakā aggasāvakā paccekabuddhā sammāsambuddhāti chasu janesu sukkhavipassakānaṃ jhānābhiññāhi anadhigatapaññānepuññattā andhānaṃ viya icchitapadesokkamanaṃ vipassanākāle icchikicchitadhammavipassanā natthi. Te yathāpariggahitadhammamatteyeva ṭhatvā vipassanaṃ vaḍḍhenti. Lokiyābhiññappattā pana pakatisāvakā yena mukhena vipassanaṃ ārabhanti; tato aññena vipassanaṃ vitthārikaṃ kātuṃ sakkonti vipulañāṇattā. Mahāsāvakā abhinīhārasampannattā tato sātisayaṃ vipassanaṃ vitthārikaṃ kātuṃ sakkonti. Aggasāvakesu dutiyo abhinīhārasampattiyā samādhānassa sātisayattā vipassanaṃ tatopi vitthārikaṃ karoti. Paṭhamo pana tato mahāpaññatāya sāvakehi asādhāraṇaṃ vitthārikaṃ karoti. Paccekabuddho tehipi mahābhinīhāratāya attano abhinīhārānurūpaṃ tatopi vitthārikavipassanaṃ karonti. Buddhānaṃ, sammadeva, paripūritapaññāpāramipabhāvita-sabbaññutaññāṇādhigamanassa anurūpāyāti. Yathā nāma katavālavedhaparicayena sarabhaṅgasadisena dhanuggahena khitto saro antarā rukkhalatādīsu asajjamāno lakkhaṇeyeva patati; na sajjati na virajjhati, evaṃ antarā asajjamānā avirajjhamānā vipassanā sammasanīyadhammesu yāthāvato nānānayehi pavattati. Yaṃ mahāñāṇanti vuccati, tassa pavattiākārabhedo gaṇato vuttoyeva.
そこにおいて「弟子たちの毘鉢舎那の基盤」とは、乾観者、世間的な神通を得た者、通常弟子、上首弟子、辟支仏、正等覚者の六種の人々のうち、乾観者たちは禅定の神通によって得られる智慧の巧みさがないため、盲人が望む場所に踏み入るようなものであり、毘鉢舎那の時に意のままに望む法を随観することはない。彼らはただ把握された法にとどまって毘鉢舎那を増大させる。一方、世間的な神通を得た通常弟子たちは、毘鉢舎那を始めた導入部とは別の導入部からも、広大な智を持つがゆえに毘鉢舎那を拡張することができる。大弟子たちは誓願を具足しているがゆえに、それよりもさらに殊勝に毘鉢舎那を拡張することができる。上首弟子たちのうち第二の者(目犍連)は、誓願の成就による定の卓越性から、毘鉢舎那をそれよりも拡張する。しかし第一の者(舎利弗)は、それよりも大いなる智慧を持つがゆえに、他の弟子たちには共通しないほど拡張する。辟支仏は彼らよりも大いなる誓願を持つがゆえに、自らの誓願に応じてそれよりも拡張した毘鉢舎那をなす。仏たちのそれは、正しく智慧の波羅蜜を満たしたことによって生じた一切知智の証得にふさわしいものである。あたかも毛先を射る修練を積んだサラバンガのような射手が放った矢が、途中の樹木や蔓などに引っかかることなく的だけに命中し、引っかかることも外れることもないように、途中で引っかかることも外れることもない毘鉢舎那が、思惟されるべき諸法においてありのままに種々の理法によって生起する。「大智」と呼ばれるものの生起の様相の区分は、集団の観点からすでに説かれた通りである。
Etesu ca sukkhavipassakānaṃ vipassanācāro khajjotapabhāsadiso, abhiññappattapakatisāvakānaṃ dīpapabhāsadiso, mahāsāvakānaṃ okkāpabhāsadiso, aggasāvakānaṃ osadhitārakāpabhāsadiso, paccekabuddhānaṃ candapabhāsadiso, sammāsambuddhānaṃ rasmisahassapaṭimaṇḍitasaradasūriyamaṇḍalasadiso upaṭṭhāsi. Tathā sukkhavipassakānaṃ vipassanācāro andhānaṃ yaṭṭhikoṭiyā gamanasadiso, lokiyābhiññappattapakatisāvakānaṃ daṇḍakasetugamanasadiso, mahāsāvakānaṃ jaṅghasetugamanasadiso, aggasāvakānaṃ sakaṭasetugamanasadiso, paccekabuddhānaṃ mahājaṅghamaggagamanasadiso, sammāsambuddhānaṃ mahāsakamaggagamanasadisoti veditabbo.
そしてこれらのうち、乾観者の毘鉢舎那の行境は蛍の光のようであり、神通を得た通常弟子のそれは灯火の光のようであり、大弟子のそれは松明の光のようであり、上首弟子のそれは明星の光のようであり、辟支仏のそれは月の光のようであり、正等覚者のそれは千の光線で飾られた秋の太陽の円盤のようであると現れた。同様に、乾観者の毘鉢舎那の行境は盲人が杖の先で歩むようであり、世間的な神通を得た通常弟子のそれは一本橋を歩むようであり、大弟子のそれは歩道橋を歩むようであり、上首弟子のそれは車道橋を歩むようであり、辟支仏のそれは大街道を歩むようであり、正等覚者のそれは広大な車道を歩むようであると知るべきである。
Arahattañca kira patvāti ettha kira-saddo anussavaladdhoyamatthoti dīpetuṃ vutto. Patvā aññāsi attano vipassanācārassa mahāvisayattā tikkhavisadasūrabhāvassa ca sallakkhaṇena. Kathaṃ panāyaṃ mahāthero dandhaṃ arahattaṃ pāpuṇanto sīghaṃ arahattaṃ pattato paññāya attānaṃ sātisayaṃ katvā aññāsīti āha – **‘‘yathā hī’’**tiādi. Mahājaṭanti mahājālasākhaṃ ativiya sibbitajālaṃ. Yaṭṭhiṃ pana sāraṃ vā ujuṃ vā na labhati veṇuggahaṇe anuccinitvā veṇussa gahitattā. Evaṃsampadanti yathā tesu purisesu eko veḷuggahaṇe anuccinitvā veḷuyaṭṭhiṃ gaṇhāti, eko uccinitvā, evaṃ nipphattikaṃ. Padhānanti bhāvanānuyuñjanaṃ.
「そして阿羅漢位に達して」において、「実に」という語は、この意味が伝承によって得られたものであることを示すために説かれた。「達して知った」とは、自らの毘鉢舎那の行境が広大であることと、鋭敏・明晰・勇猛であることの観察によってである。しかし、この大長老はなぜゆっくりと阿羅漢位に達しながら、速やかに阿羅漢位に達した者よりも智慧において自身を卓越したものとして知ったのかについて、「**あたかも**」等と言われた。「大きな叢林」とは、大網の枝のように極めて絡み合った網のことである。しかし竹を採取する際に選別せずに竹を取ったため、幹や芯のある真っ直ぐな竹を得られない。「このように成就した」とは、それらの人のうち一人が竹を採取する際に選別せずに竹の幹を取り、一人が選別して取ったように、このように結果が得られたということである。「精勤」とは、修習への専心である。
Sattasaṭṭhi ñāṇānīti paṭisambhidāmagge (paṭi. ma. 1.73 mātikā) āgatesu tesattatiyā ñāṇesu ṭhapetvā cha asādhāraṇañāṇāni sutamayañāṇādīni paṭibhānapaṭisambhidāñāṇapariyosānāni sattasaṭṭhi ñāṇāni. Tāni hi sāvakehi pavicitabbāni, na itarāni. Soḷasavidhaṃ paññanti (saṃ. ni. aṭṭha. 3.5.379; saṃ. ni. ṭī. 3.5.379) mahāpaññādikā, navānupubbavihārasamāpattipaññāti idaṃ soḷasavidhaṃ paññaṃ.
「六十七の智」とは、無礙解道に説かれる七十三の智のうち、六つの不共智を除いた、聞所成智などに始まり弁舌無礙解智に至る六十七の智である。実にそれらは弟子たちによって探求されるべきものであり、他のものではない。「十六種の智慧」とは、大慧などに始まり、九次第定の智慧に至る、この十六種の智慧である。
Tatrāti tassa. Idaṃ hotīti idaṃ dāni vuccamānaṃ anupubbasammasanaṃ hoti. Vipassanākoṭṭhāsanti vitakkādisammasitabbadhammavibhāgena vibhattavipassanābhāgaṃ.
「そこにおいて」とは、それにおいて。「これがある」とは、今説かれる順次の思惟があるということである。「毘鉢舎那の区分」とは、尋などの思惟されるべき法の区分によって分別された毘鉢舎那の区分である。
94. Paṭhame jhāneti upasilese bhummaṃ, tasmā ye paṭhame jhāne dhammāti ye paṭhamajjhānasaṃsaṭṭhā dhammāti attho. Antosamāpattiyanti ca samāpattisahagate cittuppāde samāpattisamaññaṃ āropetvā vuttaṃ. Vavatthitāti katavavatthanā nicchitā. Paricchinnāti ñāṇena paricchinnā salakkhaṇato paricchijja ñātā. Olokentoti ñāṇacakkhunā paccakkhato passanto. Abhiniropanaṃ ārammaṇe cittassa āropanaṃ. Anumajjanaṃ ārammaṇe cittassa anuvicāraṇaṃ. Pharaṇaṃ paṇītarūpehi kāyassa byāpanaṃ, vipphārikabhāvo vā. Sātanti sātamadhuratā. Adhikkhepo vikkhepassa paṭipakkhabhūtaṃ samādhānaṃ. Phusanaṃ indriyavisayaviññāṇassa tato uppajjitvā ārammaṇe phusanākārena viya pavatti. Vedayitaṃ ārammaṇānubhavanaṃ. Sañjānanaṃ nīlādivasena ārammaṇassa sallakkhaṇaṃ. Cetayitaṃ cetaso byāpāro. Vijānanaṃ ārammaṇūpaladdhi. Kattukamyatā cittassa ārammaṇena atthikatā. Tasmiṃ ārammaṇe adhimuccanaṃ, sanniṭṭhānaṃ vā adhimokkho. Kosajjapakkhe patituṃ adatvā cittassa paggaṇhanaṃ paggāho, adhiggahoti attho. Ārammaṇaṃ upagantvā ṭhānaṃ, anissajjanaṃ vā upaṭṭhānaṃ. Samappavattesu assesu sārathi viya sakiccapasutesu sampayuttesu ajjhupekkhanaṃ majjhattatā. Sampayuttadhammānaṃ ārammaṇe anunayanaṃ saṃcaraṇaṃ anunayo. Sabhāvatoti yathābhūtasabhāvato. Soḷasannaṃ eva cettha dhammānaṃ gahaṇaṃ tesaṃyeva therena vavatthāpitabhāvato, te evassa tadā upaṭṭhahiṃsu, na itareti vadanti. Vīriyasatiggahaṇena cettha indriyabhāvasāmaññato saddhāpaññā; satiggahaṇeneva ekantānavajjabhāvasāmaññato passaddhiādayo cha yugaḷā; alobhādosā ca saṅgahitā jhānacittuppādapariyāpannattā tesaṃ dhammānaṃ. Therena ca dhammā vavatthānasāmaññato āraddhā. Te na upaṭṭhahiṃsūti na sakkā vattunti apare.
94. 「初禅において」とは、近接における処格である。それゆえ「初禅における諸法」とは、初禅と相応する諸法という意味である。「等至の内部において」とは、等至と共にある心の生起において、等至という名称を付して説かれたものである。「確定された」とは、確定がなされ、決定された。「限定された」とは、智によって限定され、自相から限定されて知られた。「見渡しつつ」とは、智の眼によって現量(直接)として見つつ。「適用」とは、対象に心を向けること。「推敲」とは、対象において心を巡らせること。「遍満」とは、勝れた色法によって身体を満たすこと、あるいは拡散性である。「快感」とは、甘美なる快さである。「専注」とは、散乱に対抗する精神の統一である。「接触」とは、根と境から生じる識がそこから生じて、対象に接触する様相のように生起すること。「受領」とは、対象を体験すること。「認知」とは、青などの観点から対象を識別すること。「思念」とは、心の働きである。「識知」とは、対象を了知すること。「作意」とは、対象を必要とする心の状態である。その対象における確信、あるいは決定が「勝解」である。怠惰の側に落ちないように心を高揚させることが「策励」であり、強固に保持するという意味である。対象に近づいてとどまること、あるいは捨て去らないことが「現起」である。等しく走る馬たちを御者が眺めるように、自らの仕事に専念する相応法を等閑視することが「中捨(捨)」である。相応する諸法を対象へと導くこと、行き来させることが「随順」である。「自性から」とは、ありのままの自性から。また、ここで十六の法のみが挙げられているのは、それらのみが長老によって確定されたからであり、その時にそれらのみが彼に現起し、他のものは現起しなかったからであると言われる。また、精進と念を挙げることによって、根であることの共通性から信と慧が、念を挙げることによって全く無過失であることの共通性から軽安などの六対の法が、無貪と無瞋が初禅の心の生起に含まれることから包摂されている。そして長老によって諸法は確定の共通性から把握された。それらは現起しなかったとは言えない、と他の者たちは述べている。
Viditā uppajjantīti uppādepi nesaṃ vedanānaṃ pajānanaṃ hotiyevāti attho. Sesapadadvayepi eseva nayo. Taṃ jānātīti taṃñāṇo, tassa bhāvo taṃñāṇatā, ñāṇassa attasaṃvedananti attho. Taṃsamānayogakkhamāhi sampayuttadhammā. Ñāṇabahutāti ñāṇassa bahubhāvo, ekacittuppāde anekañāṇatāti attho. Idāni tamevatthaṃ vivarituṃ, **‘‘yathā hī’’**tiādi vuttaṃ. Na sakkā jānituṃ ārammaṇakaraṇassa abhāvato. Asammohāvabodho ca īdisassa ñāṇassa natthi. Ekekameva ñāṇaṃ uppajjati tasmiṃ khaṇe ekasseva āvajjanassa uppajjanato, na ca āvajjanena vinā cittuppatti atthi. Vuttañhetaṃ –
「知られて生起する」とは、生起する時にもそれらの感受が知られることこそがあるという意味である。残りの二句においてもこの方法が適用される。「それを知る」とはその智であり、その状態がその智性であり、智が自らを体験することという意味である。実に相応法はそれと同等に結合する資格があるからである。「智の多さ」とは智が多数であることであり、一の心の生起において多数の智があるという意味である。今やその意味を明らかにするために、「**あたかも**」等と説かれた。対象とすることがないため、知ることはできない。このような智には無癡の覚知もない。その瞬間に一の転向のみが生起するため、個々の智のみが生起するのであり、転向なしに心の生起はないからである。実にこのように説かれた――
‘‘Cullāsītisahassāni, kappā tiṭṭhanti ye marū;
「八万四千劫の間、生存する諸天であっても、
Na tveva tepi jīvanti, dvīhi cittehi saṃyutā’’ti. (mahāni. 10, 39) ca,
二つの心と結合して生きることは決してない」(大義釈 10, 39)また、
‘‘Natthi citte yugā gahī’’ti ca –
「心に二つの把握(同時把持)はない」とも。
Vatthārammaṇānaṃ pariggahitatāyāti yasmiñca ārammaṇe ye jhānadhammā pavattanti, tesaṃ vatthārammaṇānaṃ pageva ñāṇena paricchijja gahitattā. Yathā nāma migasūkarādīnaṃ āsayepariggahite tatra ṭhitā migā vā sūkarā vā tato uṭṭhānatopi āgamanatopi nesādassa sukhaggahaṇā honti, evaṃsampadamidaṃ. Tenāha **‘‘therena hī’’**tiādi. Tenāti vatthārammaṇānaṃ pariggahitabhāvena. Assāti therassa. Tesaṃ dhammānanti jhānacittuppādapariyāpannānaṃ dhammānaṃ. Uppādaṃ āvajjantassātiādinā uppādādīsu yaṃ yadeva ārabbha ñāṇaṃ uppajjati; tasmiṃ tasmiṃ khaṇe tassa tasseva cassa pākaṭabhāvo dīpito. Na hi āvajjanena vinā ñāṇaṃ uppajjati. Ahutvā sambhontīti pubbe avijjamānā hutvā sambhavanti, anuppannā uppajjantīti attho. Udayaṃ passati tesaṃ dhammānaṃ, ‘‘ahutvā sambhontī’’ti uppādakkhaṇasamaṅgibhāvadassanato. Pubbe abhāvabodhako hi attalābho dhammānaṃ udayo. Hutvāti uppajjitvā. Paṭiventīti paṭi khaṇe khaṇe vinassanti. Vayaṃ passati, ‘‘hutvā paṭiventī’’ti tesaṃ dhammānaṃ bhaṅgakkhaṇasamaṅgibhāvadassanato. Viddhaṃsabhāvabodhako hi dhammānaṃ vijjamānato vayo.
「依処と所縁が把握されていることにより」とは、いかなる対象においていかなる禅定の法が生起するとしても、それらの依処と所縁があらかじめ智によって限定され把握されていることによる。あたかも鹿や猪などの隠れ家が把握されている時、そこにいる鹿や猪がそこから起き上がる時も来る時も猟師にとって容易に捕らえられるようなものであり、このように成就したのである。それゆえ「**実に長老によって**」等と言われた。「それによって」とは、依処と所縁が把握されている状態によって。「彼の」とは長老の。「それらの諸法の」とは、禅定の心の生起に含まれる諸法の。「生起に転向する彼に」等によって、生起などに関して生じる智が生じるその時その時の瞬間に、その法が彼に明白であることが示されている。転向なしには智は生起しないからである。「あらずして生じる」とは、以前には存在しなかったものが存在するようになり、未生起のものが生起するという意味である。「あらずして生じる」と生起の瞬間に具足する状態を見ることから、それらの諸法の生起を見るのである。以前には存在しなかったことを知らせる自己の獲得こそが、諸法の生起である。「あって」とは、生起して。「消え去る」とは、瞬間ごとに滅びる。「あって消え去る」とそれらの諸法の破壊の瞬間に具足する状態を見ることから、壊滅を見るのである。消滅の状態を知らせる存在からの離脱こそが、諸法の壊滅である。
Tesu dhammesu natthi etassa upayo rāgavasena upagamananti anupayo, ananurodho. Hutvā viharatīti yojanā. Tathā natthi etassa apāyo paṭighavasena apagamananti anapāyo, avirodho. ‘‘Etaṃ mama, eso me atthā’’ti tassa taṇhādiṭṭhiabhinivesābhāvato taṇhādiṭṭhinissayehi anissito. Appaṭibaddhoti anupayānissitabhāvato vipassanāya paribandhavasena chandarāgena na paṭibaddho na vibandhito. Vippamuttoti tato eva vikkhambhanavimuttivasena kāmarāgato vimutto. Visaṃyutto vikkhambhanavaseneva paṭipakkhadhammehi visaṃyutto.
それらの法において、彼には貪による接近(執着)がないゆえに「無接近」であり、随順しないことである。「〜となって住する」と結びつく。同様に、彼には瞋恚による離脱(反発)がないゆえに「無離脱」であり、違背しないことである。「これは私のものである、これは私の我である」という彼における愛・見の執着がないことから、愛・見の所依に「依らない」。「囚われない」とは、無接近・無所依の状態から、毘鉢舎那の障害となる欲貪によって囚われず、束縛されないことである。「解脱した」とは、まさにその鎮伏解脱によって欲貪から解脱したことである。「離脱した」とは、鎮伏によって敵対する法から離脱したことである。
Kilesamariyādā tena katā bhaveyyāti antosamāpattiyaṃ pavatte soḷasa dhamme ārabbha pavattamānaṃ vipassanāvīthiṃ bhinditvā sace rāgādayo uppajjeyyuṃ; tassa vipassanāvīthiyā kilesamariyādā tena cittena, cittasamaṅginā vā katā bhaveyya. Tesūti tesu dhammesu. Assāti therassa. Ekopīti rāgādīsu ekopīti ca vadanti. Vuttākārena ekaccānaṃ anāpāthagamane sati vipassanā na tesu dhammesu nirantarappavattāti ārammaṇamariyādā bhaveyya. Vikkhambhitapaccanīkattāti vipassanāya paṭipakkhadhammānaṃ pageva vikkhambhitattā idānipi vikkhambhetabbā kilesā natthīti vuttaṃ.
「彼によって煩悩の限界が作られたであろう」とは、等至の内部で生起した十六の法に関して生起している毘鉢舎那の心路を破って、もし貪などが生起したならば、その毘鉢舎那の心路の煩悩の限界がその心によって、あるいは心を具足する者によって作られたであろうということである。「それらにおいて」とは、それら諸法において。「彼に」とは長老に。「一つでも」とは、貪などのうち一つでもと言われる。説かれた様態で一部のものが認識領域に入らない場合、毘鉢舎那はそれらの法において絶え間なく生起するのではないため、対象の限界となるであろう。「敵対するものが鎮伏されていることにより」とは、毘鉢舎那に敵対する諸法があらかじめ鎮伏されているため、今や鎮伏されるべき煩悩は存在しないと説かれたのである。
Itoti paṭhamajjhānato. Anantaroti uparimo jhānādiviseso. Tassa pajānanassāti, ‘‘atthi uttari nissaraṇa’’nti evaṃ pavattajānanassa. Bahulīkaraṇenāti punappunaṃ uppādanena.
「これより」とは、初禅から。「直後の」とは、上位の禅定などの殊勝な境地である。「その了知によって」とは、「さらに上位の出離がある」とこのように生起した了知によって。「多修することによって」とは、繰り返し生起させることによって。
Sampasādanaṭṭhenāti kilesakālusiyāpagamanena, tassa vicārakkhobhavigamena vā cetaso sammadeva pāsādikabhāvena.
「清澄の義により」とは、煩悩の濁りの離脱によって、あるいは尋伺の動揺の離脱によって、心が正しく清らかであることによる。
Vīriyaṃ sati upekkhāti āgataṭṭhāne pārisuddhiupekkhā, adukkhamasukhāvedanāti ettha jhānupekkhāti, **‘‘sukhaṭṭhāne vedanupekkhāvā’’**ti vuttaṃ. Sukhaṭṭhāneti ca paṭhamajjhānādīsu sukhassa vuttaṭṭhāne. Passaddhattāti samadhuracetayitabhāvena ārammaṇe visaṭavitthatabhāvato yo so cetaso ābhogo vutto. Sāmaññaphalādīsu satiyā pārisuddhi, sā thana atthato sativinimuttā natthīti āha **‘‘parisuddhāsatiyevā’’**ti. Pārisuddhiupekkhā, na jhānupekkhādayo.
精進・念・捨と説かれる箇所における捨は清浄捨であり、不苦不楽受における捨は禅捨であるとし、「**楽の箇所においては受捨、あるいは**」と説かれた。「楽の箇所において」とは、初禅などにおいて楽が説かれた箇所において。「静止していることから」とは、平等に均整のとれた心の働きであることによって対象において拡張し広がった状態から、説かれた心の働きのことである。沙門果などにおける念の清浄は、実際には念から離れたものではないとし、「**清浄なる念そのもの**」と言われた。清浄捨であり、禅捨などではない。
95. Īdisesu ṭhānesu satiyā na kadācipi ñāṇaviraho atthīti āha – **‘‘ñāṇena sampajāno hutvā’’**ti. Tathā hi tatiyajjhāne, ‘‘satimā sukhavihārī’’ti ettha sampajānoti ayamattho vutto eva hoti. Na sāvakānaṃ anupadadhammavipassanā hoti saṅkhārāvasesasukhumappavattiyā duviññeyyattā vinibbhujitvā gahetuṃ asakkuṇeyyabhāvato. Tenāha – **‘‘kalāpavipassanaṃ dassento evamāhā’’**ti.
95. このような境地において、念が智を欠くことは決してないとし、「**智によって正知となり**」と言われた。実に第三禅において、「念を有し、正知にして、楽に住する」における「正知」とは、まさにこの意味が説かれているのである。行の残余が微細に生起するために知ることが困難であり、分別して把握することができないため、弟子たちには逐次の法の毘鉢舎那はない。それゆえ「**一括の毘鉢舎那を示しつつ、このように説いた**」と言われたのである。
96. Paññāya cassadisvā āsavā parikkhīṇā hontīti dassanasamakālaṃ khīyamānā āsavā, ‘‘disvā parikkhīṇā hontī’’ti vuttā. Samānakālepi hi ediso saddappayogo dissati –
96. 「智慧によって見て彼の漏(煩悩)は尽きた」とは、見ることと同時に尽きる漏を、「見て尽きた」と説かれたのである。同時であってもこのような言葉の用法が見られるからである――
‘‘Cakkhuñca paṭicca rūpe ca uppajjati cakkhuviññāṇa’’nti (ma. ni. 1.204, 400; 3.421, 425, 426; saṃ. ni. 2.43-45; 2.4.60; kathā. 465, 467).
「眼と色とに縁して眼識が生起する」(中部 1.204, 400; 3.421, 425, 426; 相応部 2.43-45; 2.4.60; 論事 465, 467)。
‘‘Nihantvā timiraṃ sabbaṃ, uggatejo samuggato;
「一切の暗黒を滅ぼし、熾盛なる威光をもって昇りたる、
Verocano rasmimālī, lokacakkhupabhaṅkaro’’ti. (paṭṭhā. anuṭī. 1.25-34; visuddhi. mahāṭī. 2.580) ca –
光輝く毘盧遮那、世間の眼にして光明をなすもの」(発趣論後注 1.25-34; 清浄道論大注 2.580)などにおいて。
Evamādīsu. Hetuattho vā ayaṃ disvāsaddo asamānakattuko yathā – ‘‘ghataṃ pivitvā balaṃ hoti, sīhaṃ disvā bhayaṃ hotī’’ti (visuddhi. mahāṭī. 2.802). Dassanahetuko hi āsavānaṃ parikkhayo pariññāsacchikiriyābhāvanābhisamaye sati pahānābhisamayassa labbhanato. Yuganaddhaṃ āharitvāti paṭhamajjhānaṃ samāpajjitvā vuṭṭhāya tattha jhānadhamme sammasanto samathavipassanaṃ yuganaddhaṃ bhāveti. Evaṃ yāva nevasaññānāsaññāyatanaṃ samāpajjitvā vuṭṭhāya tattha sammasanto samathavipassanaṃ yuganaddhaṃ katvā yathā thero arahattaṃ pāpuṇi. Taṃ sandhāya vuttaṃ – **‘‘arahattaṃ pattavāro idha gahito’’**ti. Idhāti imasmiṃ sutte. Dīghanakhasuttadesanāya (ma. ni. 2.205-206) hi thero arahattaṃ patto. Tadā ca anāgāmī hutvā nirodhaṃ samāpajjatīti vacanaavasaro natthi, tasmā vuttaṃ – ‘‘arahattaṃ pattavāro idha gahito’’ti. Yadi evaṃ – ‘‘sabbaso nevasaññānāsaññāyatanaṃ samatikkamma saññāvedayitanirodhaṃ upasampajja viharatī’’ti idaṃ kasmā vuttanti? There vijjamāne paṇḍitaguṇe anavasesato dassetvā arahattanikūṭena desanaṃ niṭṭhāpetuṃ. Nirodhasamāpajjanaṃ pana therassa āciṇṇasamāciṇṇaṃ. Tenāha **‘‘nirodhaṃ pana…pe… vadantī’’**ti. Tena phalasamāpattimpi antarā samāpajjatiyevāti dasseti.
あるいはこの「見て」という語は、同一の主体でない場合の理由の意味である。あたかも「ギーを飲んで力が出る、獅子を見て恐怖が生じる」というように。見ることを原因とする煩悩の滅尽は、遍知・作証・修習の現観がある時に断ぜられる現観が得られるからである。「止観を双運して」とは、初禅に入定して出定し、そこにおける禅定の諸法を思惟して止観を双運して修習する。このようにして非想非非想処に至るまで入定して出定し、そこにおいて思惟して止観を双運して、長老が阿羅漢位に達したようにである。それを指して「**阿羅漢位に達した順序がここで取られている**」と説かれた。「ここで」とは、この経において。実に長老は長爪経の説法によって阿羅漢位に達したのである。その時に不還者となって滅尽定に入定するという言及の機会はない。それゆえ「阿羅漢位に達した順序がここで取られている」と説かれたのである。もしそうであるなら、「完全に非想非非想処を超越して想受滅を具足して住する」というこれはなぜ説かれたのか。長老に存する賢者の徳を残すところなく示して、阿羅漢位という頂点をもって説法を完成させるためである。一方、滅尽定に入定することは長老の熟練した実践である。それゆえ「**滅尽を……乃至……言う**」と言われた。これによって果定にも途中で入定することを示している。
Vomissaṃ vivarituṃ **‘‘tatthassā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha ‘‘nirodhaṃ samāpajjissāmī’’ti ābhogena samathavipassanaṃ yuganaddhaṃ āharitvā ṭhitassa nirodhasamāpatti sīsaṃ nāma hoti, tassa ābhogavasena nirodhassa vāro āgacchati. Phalasamāpatti gūḷho hoti, ‘‘phalasamāpattiṃ samāpajjissāmī’’ti ābhogassa abhāvato. Phalasamāpatti sīsaṃ hotīti etthāpi vuttanayena attho veditabbo. Etena ābhogapaṭibaddhametesaṃ āgamananti dīpitanti veditabbaṃ. Jambudīpavāsino therā panātiādi aṭṭhakathāruḷhameva taṃ vacanaṃ. Antosamāpattiyanti nirodhaṃ samāpannakāle. Tisamuṭṭhānikarūpadhammeti utukammāhāravasena tisamuṭṭhānikarūpadhamme.
混合した状態を明かすために「**そこにおいて彼に**」等と説かれた。そこにおいて「滅尽定に入定しよう」という作意をもって止観を双運して住する者には、滅尽定が首位となり、その作意によって滅尽の順序がやって来る。果定は隠れたものとなる。「果定に入定しよう」という作意がないからである。「果定が首位となる」というここにおいても説かれた方法によって意味を知るべきである。これによって、それらの到来は作意に依存していることが明らかにされたと知るべきである。「一方、閻浮提に住する長老たちは」等は、義釈に記載された通りの言葉である。「等至の内部において」とは、滅尽定に入定した時に。「三因縁から生じる色法において」とは、時節・業・食によって三因縁から生じる色法において。
97. Ciṇṇavasitanti paṭipakkhadūribhāvena subhāvitavasībhāvaṃ. Nipphattiṃ pattoti ukkaṃsaparinipphattiṃ patto. Ure vāyāmajanitāya oraso. Pabhāvitanti uppāditaṃ. Dhammenāti ariyamaggadhammena. Tassa hi adhigamena ariyāya jātiyā jāto nibbattoti katvā, **‘‘dhammajo dhammanimmito’’**ti vuccati. Dhammadāyassāti navavidhassa lokuttaradhammadāyassa. Ādiyanatoti gaṇhanato, sasantāne uppādanatoti attho. Sesaṃ suviññeyyameva.
97. 「自在を修めた」とは、敵対するものの遠離によってよく修習された自在性である。「完成に達した」とは、究極の完成に達した。「胸における努力から生じた」ゆえに「胸から生じた(真の愛子)」である。「生み出された」とは、生起させられた。「法によって」とは、聖道の法によって。実にその証得によって聖なる生に生まれ出たということから、「**法より生じ、法によって造られた**」と言われる。「法の継承の」とは、九種の出世間法の相続の。「受け取ることによって」とは、把握することによって、自身の相続において生起させることによってという意味である。残りは容易に理解できる。
Anupadasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.
逐次経の解説における隠れた意味の解明は完結した。
2. Chabbisodhanasuttavaṇṇanā
2. 六清浄経の解説
98. Khīṇā jātīti attano jātikkhayaṃ paṭijānantena arahattaṃ byākataṃ hoti arahato tadabhāvato. Tathā vusitaṃ brahmacariyanti maggabrahmacariyavāso me pariyositoti paṭijānantenapi. Kataṃ karaṇīyanti catūhi maggehi catūsu saccesu pariññādivasena soḷasavidhassapi kiccassa attanā niṭṭhāpitabhāvaṃ paṭijānantenapi. Nāparaṃ itthattāyāti āyatiṃ punabbhavābhāvaṃ, āyatiṃ vā pariññādikaraṇīyābhāvaṃ paṭijānantenapīti āha – **‘‘ekenapi padena aññā byākatāva hotī’’**ti. Dvikkhattuṃ baddhaṃ pana subaddhaṃ viyāti vuttaṃ. Idha pana aññābyākaraṇaṃ catūhi padehi āgataṃ, tasmā vattabbameva cettha natthīti adhippāyo. Cetanāya diṭṭhavāditā nāma ariyavohāro. Sabhāvoti pakatiattho hi ayaṃ dhammasaddo, ‘‘jātidhammā jarādhammā’’tiādīsu (ma. ni. 1.274-275) viya tasmā, anudhammoti ariyabhāvaṃ anugatā pakatīti attho. Paramappicchatāya ariyā attano guṇe anāvikarontāpi sāsanassa niyyānikabhāvapavedanatthañceva sabrahmacārīnaṃ sammāpaṭipattiyaṃ ussāhajananatthañca tādisānaṃ parinibbānasamayeyeva āvikarontīti adhippāyenāha – **‘‘parinibbutassa…pe… kātabbo’’**ti.
98. 「生は尽きた」とは、自らの生の滅尽を言明することによって阿羅漢位が宣言されたことになる。阿羅漢には生の存在がないからである。同様に「清浄行は修められた」とは、道としての清浄行の修行は完了したと言明することによっても。「なすべきことはなされた」とは、四つの道によって四つの聖諦において遍知などによる十六種の働きも自身によって完了した状態を言明することによっても。「この状態のための更なるものはない」とは、未来において再び生存することがないことを、あるいは未来において遍知などのなすべきことがないと言明することによっても、という意味で、「**一の句によっても阿羅漢位は宣言されたのである**」と言われた。しかし二度縛られたものはよく縛られたようなものであると言われた。ここでは阿羅漢位の宣言が四つの句によって示されている。それゆえ、ここで言うべきことは何もないというのが意図である。思慮をもって見たことを語るのが聖者の表現である。「自性」とは、実にこの「法」という語は「生じる法、老いる法」などにおけるように本性の義であるから、「随法」とは聖者の境地に従った本性という意味である。極めて無欲であることから、聖者たちは自らの徳を明かさないが、教えの出離性を知らせるため、また同僚の修行者たちに正しき行いへの意欲を生じさせるために、そのような人々の涅槃の時にのみ明かすのであるという意図から、「**般涅槃した者の……乃至……なされるべきである**」と言われた。
99. Dubbalanti pheggu viya subhejjanīyaṃ balavirahitaṃ, asāranti attho. Virāgutanti palujjanasabhāvaṃ. Vigacchanasabhāvanti vināsagamanasabhāvaṃ. Aniccadukkhavipariṇāmattā assāsalesassapi abhāvato assāsavirahitaṃ. Ārammaṇakaraṇavasena samannāgamanavasena ca yathārahaṃ upenti upagacchantīti upayā, ‘‘etaṃ mama, eso me attā’’ti upādiyanti daḷhaggāhaṃ gaṇhantīti upādānā. Adhitiṭṭhati cetaso abhinandanabhūtāti cetaso adhiṭṭhānaṃ. Tāhīti taṇhādiṭṭhīhi. Tanti cittaṃ. Abhinivisatīti abhirativasena nivisati, ayañhettha attho – sakkāyadhammesu cittaṃ abhinivisati ‘‘etaṃ mamaṃ, eso me attā’’ti ajjhosāya tiṭṭhati etāhi abhinivesāhi, tathā sakkāyadhammesu cittaṃ anuseti etāhīti anusayā, taṇhādiṭṭhiyo. Yadaggena hi tebhūmakadhammesu rāgādayo anusenti, tadaggena taṃsahagatadhammā tattha anusentīti pariyāyena, **‘‘taṃ anusetī’’**ti vuttaṃ. Khayā virāgāti hetumhi nissakkavacananti **‘‘khayena virāgenā’’**ti hetumhi karaṇavasena attho vutto. Virāgenāti ca itisaddo ādi attho. Tena ‘‘nirodhenā’’ti evamādikaṃ gahitaṃ hoti. Aññamaññavevacanāneva upayādīnaṃ samucchedasseva bodhanato.
99. 「脆弱な」とは、外皮のように容易に壊れやすく力がない、無精髄であるという意味である。「色あせた」とは、崩壊する自性であること。「消滅する自性」とは、滅亡へと向かう自性であること。無常・苦・変易であることから、わずかな安らぎすらないため、安らぎがない。「接近」とは、対象とすることによって、また具足することによって相応に接近するものであり、「これは私のものである、これは私の我である」と執着し、固執することから「取(執着)」である。「心の執着となるもの」とは、心の住処である。「それらによって」とは、愛と見によって。「その心に」。「執着する」とは、愛楽によって住する。ここでの意味はこういうことである――有身法において心が「これは私のものである、これは私の我である」と執着しとどまるのはこれら執着によるものであり、同様に有身法において心が随眠するのはこれらによるものであるから、随眠とは愛と見である。実に三界の諸法において貪などが随眠する度合いに応じて、それと相応する諸法がそこにおいて随眠することから、比喩的に「**それに随眠する**」と説かれた。「滅尽と離貪によって」は理由における奪格であるため、「**滅尽によって、離貪によって**」と理由において具格としての意味が説かれた。「離貪によって」の「〜によって」という語は、〜を始めとするという意味である。これによって「止滅によって」などが含まれる。接近などは互いに同義語にすぎず、完全な断絶を知らせるためである。
100. Patiṭṭhāti ettha sesabhūtattayaṃ upādārūpañcāti patiṭṭhānā, nijjīvaṭṭhena dhātucāti patiṭṭhānadhātu. Nhānīyacuṇṇaṃ bāhiraudakaṃ viya sesabhūtattayaṃ ābandhatīti ābandhanaṃ. Pacanīyabhattaṃ bāhiratejo viya sesabhūtattayaṃ paripācetīti paripācanaṃ. Bāhiravāto viya sesabhūtattayaṃ vitthambhetīti vitthambhanaṃ. Dhātusaddattho vuttoyeva. Asamphuṭṭhadhātūti asamphusitabhāvo tesaṃ viparimaṭṭhatābhāvato. Vijānanaṃ ārammaṇūpaladdhi. Ahaṃ attāti ahaṃ, ‘‘rūpadhammo me attā’’ti attakoṭṭhāsena attabhāvena na upagamiṃ na gaṇhiṃ. Nissitanissitāpi nissitā eva nāmāti āha **‘‘pathavīdhātunissitāvā’’**ti. Attanā vā pana tannissitāti **‘‘ekena pariyāyenā’’**ti. Upādārupampi kāmaṃ nissitampi hoti. Tathāpi taṃ nissitaṃ hotiyevāti taṃ na uddhaṭaṃ. Paricchedakarattā paricchedākāsassa **‘‘avinibbhogavasenā’’**ti vuttaṃ. Tena ca tathā paricchinnattā sabbampi bhūtupādārūpaṃ ākāsadhātunissitaṃ nāma. Taṃ nissāya pavattiyā upādārūpaṃ viya bhūtarūpāni, arūpakkhandhā viya ca vatthurūpāni, **‘‘taṃnissitarūpavatthukā arūpakkhandhā’’**ti vuttanayena ākāsadhātunissitacakkhādirūpadhammavatthukā vedanādayo arūpakkhandhā ākāsadhātunissitā nāmāti imamatthaṃ tathā-saddena upasaṃharati. Idhāpīti ākāsadhātunissitapadepi, na pathavīdhātunissitapadādīsu eva. Rūpārūpanti sabbampi rūpārūpaṃ gahitameva hoti, aggahitaṃ natthi. Sahajātā…pe… nissitanti idaṃ nippariyāyasiddhaṃ nissayattaṃ gahetvā vuttaṃ. Heṭṭhā vuttanayena pariyāyasiddhe nissayatte gayhamāne – ‘‘pacchājātapaccayoti pacchājātā cittacetasikā dhammā purejātassa imassa kāyassa pacchājātapaccayena paccayo’’ti (paṭṭhā. 1.1.11) vacanato sabbaṃ catusamuṭṭhānikarūpaṃ, **‘‘viññāṇadhātunissita’’**nti vattabbaṃ. Tathā anantaraviññāṇadhātupaccayā pavattanato, ‘‘viññāṇadhātunissita’’nti vattabbaṃ.
100. 「支持」において、残りの三大種と所造色とが支持されるものであり、無霊魂の義により界であることから支持界である。入浴用の粉が外の水のように残りの三大種を結合するゆえに「結合」である。調理される飯を外の火が熟させるように、残りの三大種を成熟させるゆえに「成熟」である。外の風のように残りの三大種を支えるゆえに「支持」である。界の語の意味はすでに説かれた通りである。「無接触の界」とは、それらが触れられていない状態であり、接触されていないことによる。「識知」とは対象の了知である。「我は我である」とは、我は「色法は私の我である」と我が部分として、我が身として接近せず、把握しなかった。「依存するものに依存するものも、まさに依存するものと名づけられる」とし、「**地界に依存するものである、あるいは**」と言われた。あるいは自らそれらに依存するものであるとし、「**ある方法によって**」と言われた。所造色は確かに依存するものでもある。そうであっても、それは依存するものであるゆえに、取り出されなかった。限定をなすものであることから、限定空隙は「**無分離によって**」と説かれた。そしてそれによってそのように限定されているため、大種と所造色の一切が空界に依存するものと名づけられる。それに依存して生起することにより、所造色が四大種に、無色蘊が所依の色法に依存するように、「**それに依存する色を所依とする無色蘊**」と説かれた方法によって、空界に依存する眼などの色法を所依とする受などの無色蘊は、空界に依存するものと名づけられるというこの意味を、「同様に」という語によって結びつける。「ここにおいても」とは、空界に依存するという句においてもであり、地界に依存するという句などにおいてのみではない。「色・無色」とは、一切の色と無色が把握されたのであり、把握されないものはない。「倶生……乃至……依存する」とは、比喩ではない直接の意味によって成立した所依性を取って説かれたものである。前述の方法によって比喩的に成立した所依性を取るならば、「後生縁とは、後生した心・心所法が、前生したこの身にとって後生縁によって縁となる」(発趣論 1.1.11)という教説から、四因縁から生じる色の一切を「**識界に依存するもの**」と述べるべきである。同様に、無間識界の縁によって生起することから、「識界に依存するもの」と述べるべきである。
101. Ruppati vaṇṇavikāraṃ āpajjamānaṃ hadayaṅgatabhāvaṃ pakāsetīti rūpanti ayamattho cakkhudvāre āpāthagate rūpāyatane nippariyāyato labbhati, na āpāthamanāgate. Cakkhuviññāṇaviññātabbabhāvo pana āpāthamanāgatepi tasmiṃ labbhateva taṃsabhāvānativatthanato. Rūpāyatanaṃ dvidhā vibhajitvā. Thero pana āpāthaṃ anāgatassāpi rūpāyatanassa rūpabhāvaṃ na sakkā paṭikkhipitunti dvidhākaraṇaṃ nānujānanto channovādaṃ nidasseti, **‘‘upari channovāde kinti karissathā’’**ti. Tattha hi ‘‘cakkhuṃ, āvuso channa, cakkhuviññāṇaṃ cakkhuviññāṇaviññātabbe dhamme’’ti (ma. ni. 3.391) āgataṃ, na cettha cakkhudvāre āpāthaṃ āgatameva rūpāyatanaṃ cakkhuviññāṇaviññātabbapadena gahitaṃ, na āpāthaṃ anāgatanti sakkā viññātuṃ aviseseneva rūpāyatanena taṇhāmānadiṭṭhigāhābhāvassa jotitattā. Tenāha **‘‘na yidaṃ labbhatī’’**ti. Rūpamevāti rūpāyatanameva. Yadi evaṃ ‘‘cakkhuviññāṇaviññātabbesu dhammesū’’ti padaṃ kathaṃ netabbanti āha – **‘‘cakkhuviññāṇasampayuttā panā’’**tiādi. Cakkhuviññāṇena saddhiṃ viññātabbesūti yena manoviññāṇena cakkhuviññāṇaṃ aniccantiādinā cakkhuviññāṇena saddhiṃ tena viññātabbesu taṃsampayuttadhammesūti attho. Taṇhāchandoti tassanasabhāvo chando, na kattukamyatā chandoyevāti taṇhāchando. Rajjanavasenāti vatthaṃ viya raṅgajātaṃ cittassa anurañjanavasena. Abhinandanavasenāti ārammaṇe abhiramitvā nandanavasena. Sappītikataṇhā hi nandīti vuccati. Taṇhāyanavasena taṇhā.
101. 「変壊し、色の変化を被りつつ、心に入った状態を明かすゆえに色である」というこの意味は、眼の器官において認識領域に入った色処において直接に得られるのであり、認識領域に入っていないものにおいては得られない。しかし眼識によって識知されるべき状態は、認識領域に入っていないものにおいても、その自性を超えないことから得られるのである。色処を二種類に区分して。しかし長老は、認識領域に入っていない色処の色としての状態も否定することはできないとし、二区分を認めずに闡陀への教誡を例示して、「**後の闡陀への教誡においてどのようにするのか**」と言われた。実にそこにおいて「友闡陀よ、眼を、眼識を、眼識によって識知されるべき諸法を」(中部 3.391)と説かれており、ここで眼の器官において認識領域に入った色処のみが「眼識によって識知されるべき」という句によって把握され、認識領域に入っていないものは把握されないと知ることはできない。無差別(区別なく)に色処に対する愛・慢・見の執着の不在が明らかにされているからである。それゆえ「**これは妥当ではない**」と言われた。「色そのもの」とは色処そのものである。もしそうであるなら、「眼識によって識知されるべき諸法において」という句はどのように導かれるべきかとし、「**一方、眼識と相応するものは**」等と言われた。「眼識とともに識知されるべきものにおいて」とは、眼識が無常であるなどと、眼識とともにそれによって識知されるべき意識によって識知されるべき相応法においてという意味である。「愛欲」とは、渇愛の自性を持つ欲であり、作意の欲ではないゆえに愛欲である。「染着によって」とは、布を染めるように心を染めることによって。「歓喜によって」とは、対象において愛楽し喜ぶことによって。実に喜を伴う渇愛を「喜(歓喜)」という。「愛執によって」とは渇愛のことである。
102. Ahaṅkāroti ‘‘seyyohamasmī’’tiādinā (dha. sa. 1121, 1239; vibha. 832, 866; saṃ. ni. 4.108; mahāni. 21, 178) ahaṃkaraṇaṃ. Yena hi mamaṃ karoti, etaṃ mamaṅkāro. Svevāti ‘‘ahaṅkāro’’ti vuttamāno. Evaṃ catutthajjhāne niddiṭṭhe sabbāsu lokiyābhiññāsu vuccamānāsu heṭṭhā vijjādvayaṃ vattabbanti adhippāyena, **‘‘pubbenivāsaṃ dibbacakkhuñca avatvā kasmā vutta’’**nti āha? Itaro idha sabbavāresupi lokuttaradhammapucchā adhikatā tasmā ‘‘so evaṃ samāhite’’tiādinā tatiyā vijjā kathitāti dassento, **‘‘bhikkhū lokiyadhammaṃ na pucchantī’’**tiādimāha. Ekavissajjitasuttaṃ nāmetaṃ tatiyavijjāya eva āgatattā. Ariyadhammavasenapissa samaññā atthevāti dassento, **‘‘chabbisodhanantipissa nāma’’**nti vatvā tesu dhammesu bhedaṃ dassetuṃ, **‘‘ettha hī’’**tiādi vuttaṃ. Visuddhāti tassā codanāya sodhanavasena visodhitā. Ekameva katvāti ekavāravaseneva pāḷiyaṃ ekajjhaṃ āgatattā ekameva koṭṭhāsaṃ katvā. Yadi evaṃ kathaṃ vā chabbisodhanatāti āha – **‘‘catūhi āhārehi saddhi’’**nti kathaṃ panettha cattāro āhārā gahetabbāti? Keci tāva āhu – ‘‘sādhūti bhāsitaṃ abhinanditvā anumoditvā uttari pañho pucchitabbo’’ti heṭṭhā āgatena nayena āhāravāro āharitvā vattabboti. ‘‘Bahiddhā sabbanimittesū’’ti ettha āhārānampi saṅgahitattā āhārā atthato āgatā evāti aññe. Apare pana rūpakkhandhaggahaṇena kabaḷīkāro āhāro, saṅkhārakkhandhaggahaṇena phassāhāro, manosañcetanāhāraggahaṇena viññāṇāhāro sarūpatopi gahitoti vadanti.
102. 「我慢」とは、「我は勝れている」などによって我となすことである。実にこれによって我所となす、これが「我所慢」である。「まさにそれ」とは、「我慢」と説かれる慢のことである。このように第四禅が説かれ、一切の世間的な神通が説かれている時に、下位の二つの明(宿住智・死生智)が説かれるべきであるという意図から、「**宿住随念智と天眼智を説かずに、なぜ説いたのか**」と言われた。他方、ここではすべての段階において出世間法の問いが主題となっているため、「彼はこのように心が定まった時に」などによって第三の明(漏尽智)が説かれたのだと示すために、「**比丘たちは世間法を問うのではない**」等と言われた。これは第三の明のみが説かれていることから「一解答経」と名づけられる。聖者の法の観点からもこの経の名称は妥当であると示すために、「**六清浄ともこの経の名である**」と述べて、それらの法における区分を示すために「**実にここにおいて**」等と説かれた。「清浄である」とは、その糾弾に対する清浄によって清められたということである。「一つとして」とは、聖典において一括して説かれていることから、一つの区分として。「もしそうであるなら、どのようにして六つの清浄となるのか」とし、「**四つの食とともに**」と、どのようにここで四つの食が把握されるべきか。ある者たちはまず、「『善い哉』とその説示を歓喜し随喜して、さらに質問を問うべきである」と前述された方法に従って、食の段を導入して述べるべきであると言う。「外の一切の相において」において食も包含されているため、食は意味の上ですでに説かれていると他の者たちは言う。さらに他の者たちは、色蘊を把握することによって段食が、行蘊を把握することによって触食が、意思食を把握することによって識食が、そのものとしても把握されていると述べている。
‘‘Chabbisodhana’’nti imassa suttassa samaññāya anvatthataṃ dassetvā āyatimpi tādisena byākaraṇena bhikkhūnaṃ paṭipattimpi dassanatthaṃ, **‘‘ime panā’’**tiādi āraddhaṃ. Vinayaniddesapariyāyenāti vinayaniddese āgatena kāraṇena. Vinaye vā āgataniddesānukkamena.
「六清浄」というこの経の名称の妥当性を示し、未来においてもそのような解答によって比丘たちが実践すべきことをも示すために、「**一方、これらは**」等と始められた。「律の解釈の方法によって」とは、律の解釈において説かれた理由によって。あるいは律において説かれた解釈の順序に従って。
Adhigantabbato adhigamo, jhānādiadhigamapucchā. Tenāha – **‘‘jhānavimokkhādīsū’’**tiādi. Upāyapucchāti adhigamopāyapucchā. Kintīti kena pakārena vidhināti attho.
証得されるべきものであることから「証得」、禅定などの証得についての質問である。それゆえ「**禅定や解脱などにおいて**」等と言われた。「手段の問い」とは証得の手段についての質問である。「どのように」とはいかなる様態、方法によってという意味である。
Katamesaṃ tvaṃ dhammānaṃ lābhīti idaṃ pana pubbe ‘‘kiṃ te adhigata’’nti aniddhāritabhedā jhānādivisesā pucchitāti idāni tesaṃ niddhāretvā pucchanākāradassanaṃ. Tasmāti yasmā yathāvuttehi ākārehi adhigamabyākaraṇaṃ sodhetabbaṃ, tasmā. Ettāvatāvāti ettakena byākaraṇamatteneva na sakkāro kātabbo. Byākaraṇañhi ekaccassa ayāthāvatopi hoti, yathā nāma jātarūpapatirūpaṃ jātarūpaṃ viya khāyatīti jātarūpaṃ nighaṃsanatāpanachedanehi sodhetabbaṃ evamevaṃ imesu idāneva vuttesu chasu ṭhānesu pakkhipitvā sodhanatthaṃ vattabbo vimokkhādīsūti ādi-saddena samādhi-samāpatti-ñāṇadassana-maggabhāvanā-phalasacchikiriyā saṅgaṇhāti.
「あなたはいかなる法を得ているのか」とは、以前に「あなたは何を証得したのか」と区分を限定せずに禅定などの境地が問われたため、今やそれらを限定して問う様相を示すものである。「それゆえ」とは、前述の様態によって証得の宣言が審査されるべきであるから、それゆえに。「これだけで」とは、これだけの宣言のみによって敬意を払うべきではない。実に宣言はある者にとっては事実と異なることもある。あたかも偽りの黄金が黄金のように見えるため、黄金は擦ること、熱すること、切ることによって吟味されるべきであるように、まさにこのように、今説かれた六つの項目に当てはめて吟味するために語られるべきである。「解脱などにおいて」の「など」という語によって、定、等至、知見、道修習、果作証を包含している。
Pākaṭo hoti adhigatavisesassa satisammosābhāvato. Sesapucchāsupi ‘‘pākaṭo hotī’’ti pade eseva nayo. Uggahaparipucchākusalāti sajjhāyamaggasaṃvaṇṇanāsu nipuṇā. Yāya paṭipadāya yassa ariyamaggo āgacchati, sā pubbabhāgapaṭipatti āgamanapaṭipadā. Sodhetabbāti suddhā udāhu asuddhāti vicāraṇavasena sodhetabbā. Na sujjhatīti tattha tattha pamādapaṭipattibhāvato. Apanetabbo attano paṭiññāya. **‘‘Sujjhatī’’**ti vatvā sujjhanākāraṃ dassetuṃ, **‘‘dīgharatta’’**ntiādi vuttaṃ. Paññāyatīti ettha ‘‘yadī’’ti padaṃ ānetvā yadi so bhikkhu tāya paṭipadāya yadi paññāyatīti sambandho. Khīṇāsavapaṭipattisadisā paṭipadā hoti dīgharattaṃ vikkhambhitakilesattā.
証得された境地に対する念の忘失がないため「明白である」。残りの質問においても「明白である」という句においてこの方法が適用される。「学習と質問に巧みな者」とは、読誦と道の説明において熟達した者たちである。いかなる実践によっていかなる人に聖道が訪れるのか、その準備段階の実践が「到来の実践」である。「審査されるべき」とは、清浄であるか、あるいは不清浄であるかの検討によって審査されるべきである。「清浄ではない」とは、その場所その場所で放逸な実践があることによる。「自らの言明から除外されるべきである」。「**清浄である**」と述べて、清浄の様相を示すために「**長きにわたって**」等と説かれた。「知られる」において「もし」という句を補って、もしその比丘がその実践によって知られるならば、と結びつく。長きにわたって煩悩が鎮伏されていることから、漏尽者の実践に似た実践となる。
Nadiyā samuddaṃ pakkhandanaṭṭhānaṃ nadīmukhadvāraṃ. Maddamānoti badarasāḷavaṃ sarasaṃ patte pakkhitto hutvā maddamāno. Sesaṃ suviññeyyameva.
川が海へと注ぎ込む場所が「河口の門」である。「押し潰しつつ」とは、酸味のある果実の飲料を鉢に入れて押し潰しつつ。残りは容易に理解できる。
Chabbisodhanasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.
六清浄経の解説における隠れた意味の解明は完結した。
3. Sappurisadhammasuttavaṇṇanā
3. 善士法経の解説
105. Sappurisadhammanti sappurisabhāvakaraṃ dhammaṃ. So pana yasmā sappurisānaṃ paveṇiko dhammo hoti. Tasmā āha – **‘‘sappurisānaṃ dhamma’’**nti, esa nayo asappurisadhammanti etthāpi. Evaṃ padhānaṃ anuṭṭhātabbañca sappurisadhammaṃ ādiṃ katvā mātikaṃ ṭhapetvā ayathānupubbiyā niddisanto **‘‘katamo ca, bhikkhave, asappurisadhammo’’**tiādimāha. Tathā pana niddisanto udāharaṇapubbakaṃ hetuṃ dassetuṃ, **‘‘yathā nāmā’’**tiādi vuttaṃ. Tena icchitabbapariccāgapubbakaṃ gahetabbaggahaṇaṃ nāma ñāyapaṭipatti, tasmā sappurisadhammā sampādetabbāti dīpento satthā ayathānupubbiyā niddhārīyatīti imamatthaṃ dasseti. Tathā aññatthāpi ‘‘asevanā ca bālānaṃ, paṇḍitānañca sevanā’’ti. Etadeva hi kuladvayaṃ ‘‘uccakula’’nti vuccati nippariyāyato. Tathāhi antimabhavikā bodhisattā tattheva paṭisandhiṃ gaṇhanti. Soti sāmīcippaṭipanno bhikkhu. Antaraṃ karitvāti taṃ kāraṇaṃ katvā. Paṭipadā hi viññūnaṃ pūjāya kāraṇaṃ, na uccakulīnatā. Mahākulāti vipulakulā upāditoditakulasampavattikāti attho.
105. 「善士法」とは、善士たる状態をなす法である。しかしそれは善士たちの伝統的な法であることから、「**善士たちの法**」と言われた。この方法は非善士法においても同様である。このように主たるものであり実践されるべき善士法を最初にして題目(本母)を立て、順序によらずに示しつつ、「**比丘たちよ、非善士法とはいかなるものか**」等と言われた。そのように示すにあたって例証を先立たせた理由を示すために、「**あたかも**」等と説かれた。これによって、望むべき放棄を先立たせて、受け取るべきものを把握することこそが正しい実践であり、それゆえに善士法は成就されるべきであることを示しつつ、師は順序によらずに限定されるというこの意味を示している。同様に他の箇所でも「愚者に親しまず、賢者に親しむこと」と説かれている。実にこの二つの家系のみが直接の意味において「高貴な家柄」と呼ばれる。実に最後の生にある菩薩たちはそこにこそ受胎するのである。「彼」とは正しく実践する比丘である。「理由として」とは、それを理由として。実に実践こそが智者たちの供養の理由であり、高貴な生まれであることではない。「大いなる家柄」とは広大な家柄であり、代々繁栄した家柄の継続という意味である。
106. Yasasaddo parivāravācako. Yasassīti ca sātisayaparivāravantatā vuccatīti āha **‘‘parivārasampanno’’**ti. Ādhipateyyābhāvato paresaṃ uparinatti etesaṃ īso īsanaṃ issariyanti akkhātabbāti appesakkhā. Tenāha **‘‘appaparivārā’’**ti. Abhāvattho hi idha appa-saddo.
106. 「名声」という語は従者を意味する言葉である。「名声ある者」とは卓越した従者を持つ状態が言われるとし、「**従者を具足した**」と言われた。主導権がないことから他者の上に立つことがなく、彼らには主、支配、主権と称されるべきものがないゆえに「無勢力な者たち」である。それゆえ「**従者の少ない者たち**」と言われた。実にここでは「少ない」という語は不在の意味である。
107. Naveva dhutaṅgāni āgatānīti ettha yathā ukkaṭṭhapaṃsukūlikassa tecīvarikatā sukarā. Evaṃ ukkaṭṭhapiṇḍapātikassa sapadānacārikatā sukarā. Ekāsanikassa ca pattapiṇḍikakhalupacchābhattikatā sukarā evāti – ‘‘paṃsukūliko hotī’’tiādivacaneneva pāḷiyā anāgatānampi āgatabhāvo veditabbo pariharaṇasukaratāya tesampi samādānasambhavato. Tenāha **‘‘terasa hontī’’**ti.
107. 「九つの頭陀行のみが説かれた」ということについて、ここで、例えば最上級の糞掃衣者にとって三衣所持者であることが容易であるように、最上級の乞食者にとって次第乞食者であることが容易であり、一坐食者にとって一鉢食者・随時過食拒食者であることが極めて容易であるから、「糞掃衣者である」などの言葉によって、聖典に説かれていないものであっても説かれていると知るべきである。保つことの容易さゆえに、それらの受持も可能だからである。それゆえに「十三となる」と言ったのである。
108. Kāmataṇhādikāya tāya taṇhāya nibbattāti tammayā, puthujjanā, pakatibhāvūpagamanena tesaṃ bhāvo tammayatā, tappaṭikkhepato atammayatā, nittaṇhatā. Taṃyeva kāraṇaṃ katvāti paṭhamajjhānepi taṇhāpahānaṃyeva kāraṇaṃ katvā. Citte uppādetvāti atammayatāpariyāyena vutte taṇhāya paṭipakkhadhamme sampādetvā. Na maññatīti maññanānaṃ ariyamaggena sabbaso samucchinnattā kismiñci okāse kāmabhavādike kenaci vatthunā hatthiassakhettavatthādinā pattacīvaravihārapariveṇādinā ca puggalaṃ na maññati. Sesaṃ suviññeyyameva.
108. 欲愛などの愛によって生じた者ゆえに「それより成る者(tammaya)」、すなわち異生(凡夫)のことである。本来の性質に至ることによる彼らの状態が「それより成る状態(tammayatā)」であり、それを退けることから「それより成らない状態(atammayatā)」、すなわち無愛(渇愛なきこと)である。「それをまさに原因として」とは、初禅においてもまさに愛の断捨を原因として、という意味である。「心に生じさせて」とは、非貪(atammayatā)の様態として説かれた愛に対抗する法を成就させて、という意味である。「思わない(我執を起こさない)」とは、想念(我慢)が聖道によって完全に断ち切られているため、いかなる処においても、欲界などの場所において、象・馬・田畑・財物・衣鉢・精舎・僧院などのいかなる事物によっても人を我執の対象として思わないことである。残りは容易に理解できる。
Sappurisadhammasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.
善士法経の註釈の隠れた意味の解明(複註)を終わる。
4. Sevitabbāsevitabbasuttavaṇṇanā
4. 親近・不親近経の註釈
109. Aññamaññanti aññaṃ aññaṃ. Tenāha **‘‘aññaṃ sevitabba’’**ntiādi. Sattahi padehīti sattahi vākyehi. Pajjati etena yathādhippeto atthoti padaṃ, vākyaṃ. Sāriputtattherassa okāsakaraṇaṃ dhammadāyāde (ma. ni. 1.31) vuttanayena veditabbaṃ.
109. 「互いに(aññamaññaṃ)」とは、それぞれ異なって、ということである。それゆえに「異なった親近すべきもの」などと言ったのである。「七つの句によって」とは、七つの文によって、ということである。これによって意図された意味へと至る(pajjati)がゆえに「句(pada)」、すなわち文(vākya)である。サーリプッタ長老の機会の開示(教示の開始)については、『法嗣経』(中部第3経)で説かれた方法によって知るべきである。
113. Diṭṭhiyeva paccayavasena paṭiladdhatāya diṭṭhipaṭilābho. Saññāpaṭilābhepi eseva nayo. Micchādiṭṭhisammādiṭṭhiyo…pe… na gahitā kammapathappattānaṃ tesaṃ manosamācārabhāvena gahitattā. Yadi evaṃ kasmā diṭṭhi cittuppādavāre na gahitāti? Kāmaṃ micchādiṭṭhiyā avayavibhāvo labbhati, tathāpi cittuppādakkhaṇe lokiyalokuttaracittuppādesu kammapathakoṭṭhāso na uddhaṭo.
113. 見(見解)がまさに縁の力によって得られるものであることから「見の獲得」という。想の獲得においても同様の理趣である。邪見・正見などは……(中略)……把握されていない。業道に至ったそれらのものは意の行状(意行)として把握されているからである。もしそうであるなら、なぜ見は心の生起(心起)の節において把握されないのか。確かに邪見の構成要素たることは得られるが、それでもなお心の生起の瞬間の世間的・出世間の心起において業道の部分は抽出されていないからである。
115. Kāmasaññādīnanti ettha ādi-saddena yathā byāpādavihiṃsāsaññā saṅgahitā, evaṃ anabhijjhāabyāpādaavihiṃsāsaññā saṅgahitā paṭhamena ādisaddena ‘‘anabhijjhāsahagatāya saññāyā’’tiādipāṭhassa saṅgahitattā.
115. 「欲想などの」という点において、「等(ādi)」という語によって、瞋恚想・害想が包摂されるように、無貪想・無瞋想・無害想もまた包摂される。最初の「等」の語によって「無貪を伴う想によって」などの経文が包摂されているからである。
117. Ti kāmabhavādīnaṃ apariyosānāya pariyosānaṃ icchatopi tādisassa bhavānaṃ apariyosānameva hoti. Cattāro honti puggalavasena. Tenāha **‘‘puthujjanopi hī’’**tiādi. Akusalā dhammā vaḍḍhantīti tesaṃ pahānāya appaṭipajjamānassāti adhippāyo, tato eva kusalā dhammā parihāyanti. Tenassa kilesadukkhena vipākadukkhena ca sadukkhameva attabhāvaṃ abhinibbatteti. Orambhāgiyasaṃyojanāni pahāya suddhāvāsesu nibbattanāraho anāgāmī kathaṃ…pe… abhivaḍḍhantīti āha **‘‘anāgāmīpī’’**tiādi. Sadukkhameva attabhāvaṃ abhinibbatteti, yāya labbhamānaakusalābhivuddhiṃ kusalaparihāniñca gahetvā anāgāminopi sabyābajjhaattabhāvābhinibbattanaṃ vuttaṃ. Evaṃ yathālabbhamānaṃ akusalaparihāniṃ kusalābhivuddhiñca gahetvā puthujjanassapi antimabhavikassa abyābajjhaattabhāvābhinibbattanaṃ vuttanti daṭṭhabbaṃ. Tenāha **‘‘puthujjanopī’’**tiādi. **Akusalameva hāyati,**na kusalaṃ tassa buddhipakkhe ṭhitattā. Tatthāpi vipassanameva gabbhaṃ gaṇhāpeti, na vaṭṭagabbhaṃ antimabhavikatāya vivaṭṭūpanissitattā ajjhāsayassa, ñāṇassa ca pākagamanato.
117. 欲界などの生存の終わりがないことに対して、終わりを望む者であっても、そのような者には生存の終わりはまさにないのである。人の分類によれば四種となる。それゆえに「凡夫であっても」などと言ったのである。「不善の法が増大する」とは、それらを断ずるために実践しない者のことである、というのが意図である。それゆえに善の法は衰退する。それゆえにその者は煩悩の苦と異熟(結果)の苦とによって、まさに苦を伴う個体(身)を生じさせる。「下分結を断じて浄居天に生まれるにふさわしい不還者は、どのようにして……(中略)……増大するのか」ということについて、「不還者であっても」などと言ったのである。まさに苦を伴う個体を生じさせる。それによって得られる不善の増大と善の衰退とを捉えて、不還者であっても苦悩を伴う個体の生起が説かれたのである。このように、現に得られている不善の衰退と善の増大とを捉えて、最後の生存にある凡夫であっても苦悩なき個体の生起が説かれたのだと見なすべきである。それゆえに「凡夫であっても」などと言ったのである。「まさに不善のみが減じる」、善は減じない。その者の智慧の側にとどまっているからである。そこにおいてもまさにヴィパッサナー(内観)のみを胎(原因)として宿すのであり、輪廻の胎を宿すのではない。最後の生存にある者ゆえに、志向が輪廻の超越(解脱)に依拠しており、智慧が成熟へと向かっているからである。
119. Ekaccassāti sāmivacanaṃ ‘‘abhinandatī’’tiādīsu paccattavasena pariṇāmetabbaṃ, tathā ‘‘nibbindatī’’tiādīsupi. Uggaṇhitvāpīti pi-saddo luttaniddiṭṭho. Bhagavato bhāsitassa atthaṃ ajānantā tāva dīgharattaṃ hitasukhato paribāhirā hontu jānantānampi sabbesaṃ dīgharattaṃ hitāya sukhāya hotīti anekaṃsikataṃ codento **‘‘evaṃ santepī’’**tiādimāha. Itaro sabbesampi dīgharattaṃ hitāya sukhāya hotiyevāti, **‘‘appaṭisandhikā’’**tiādinā anekaṃsikataṃ pariharati. Sesaṃ suviññeyyameva.
119. 「ある者の」という属格(所有格)の語は、「歓喜する」などの文脈においては主格として読み替えるべきであり、「嫌気する」などの文脈においても同様である。「学んでもなお」の「なお(pi)」の語は、省略されて示されている。「世尊の説かれた意味を知らない者たちが、まず長きにわたって利益と幸福から外れているのはよいとして、知っているすべての者にとっても長きにわたって利益と幸福のためになるのか」という不定性(不確かさ)を難詰して、「そうであるとしても」などと言ったのである。他方、「すべての者にとっても長きにわたって利益と幸福のためになるのは確実である」として、「結生なき者たち(解脱者たち)」などの言葉によって不定性を解消している。残りは容易に理解できる。
Sevitabbāsevitabbasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.
親近・不親近経の註釈の隠れた意味の解明(複註)を終わる。
5. Bahudhātukasuttavaṇṇanā
5. 多界経の註釈
124. Bhayanti (a. ni. ṭī. 2.3.1) cittasaṃsappatāti āha **‘‘cittutrāso’’**ti. Upaddavoti antarāyo. Tassa pana vikkhepakāraṇattā vuttaṃ **‘‘anekaggatākāro’’**ti. Upasaggoti upasajjanaṃ. Tato appatīkāravighātāpatti yasmā patīkārābhāvena vihaññamānassa kiñci kātuṃ asamatthassa osīdanakāraṇaṃ, tasmā vuttaṃ – **‘‘tattha tattha lagganākāro’’**ti. Vañcetvā āgantuṃ yathāvutte divase anāgacchantesu. Bahi anikkhamanatthāya dvāre aggiṃ datvā.
124. 「恐怖」とは、心の動揺であることから「心の戦慄」と言った。「災難(upaddava)」とは障害のことである。しかし、それは心を散乱させる原因であることから「不集中(心の散乱)の様相」と言われた。「障害(upasagga)」とはまとわりつくこと(upasajjana)である。それゆえに対処法のない疲弊に陥ることは、対処法の欠如によって疲弊し何事もなすことができない者の沈没の原因であるから、「あちこちに行き詰まる様相」と言われたのである。欺いてやって来るために、指定された日に来ない者たちに対してである。外に出させないために扉に火をつけて、である。
Naḷehīti naḷacchannasaṅkhepena upari chādetvā tehiyeva dārukacchadananiyāmena paritopi chāditā. Eseva nayoti iminā tiṇehi channataṃ, sesasambhārānaṃ rukkhamayatañca atidisati. Vidhavāputteti adantabhāvopalakkhaṇaṃ. Te hi nippitikā avinītā asaṃyatā akiccakārino honti.
「葦によって」とは、葦で覆う簡素さによって上を覆い、まさにそれら(葦)によって木板で覆うように周囲も覆われた、ということである。「これと同じ理趣である」とは、これによって草で覆われていること、残りの資材が木造であることを類推して示している。「寡婦の息子たちにおいて」とは、調御されていない状態を示している。彼らは父がなく、躾けられず、自制がなく、なすべきことをなさない者たちだからである。
Matthakaṃ apāpetvāva niṭṭhāpitāti kasmā bhagavā evamakāsīti? Ānandattherassa pucchākosalladīpanatthameva, tattha nisinnānaṃ sannipatitabhikkhūnaṃ desanāya jānanatthañca. Te kira saṅkhepato vuttamatthaṃ ajānantā andhakāraṃ paviṭṭhā viya ṭhitā. Pucchānusandhivasena pariggayha jānissantīti.
「頂点(結論)に達することなく終了した」とは、なぜ世尊はそのようになされたのか。アーナンダ長老の問いの巧みさを明らかにするためであり、そこに座し集まった比丘たちが教説を理解するためである。彼らは要約して説かれた意味を理解できず、暗闇に入った者のようにたたずんでいたという。問いの結びつきによって把握して理解するであろうからである。
125. Rūpapariggahova kathito, na aññaṃ kiñcīti attho. Idāni tato saccāni niddhāretvā catusaccakammaṭṭhānaṃ dassetuṃ, **‘‘sabbāpī’’**tiādi vuttaṃ. Pañcakkhandhā hontīti addhekādasa dhātuyo rūpakkhandho, addhaṭṭhamā dhātuyo yathārahaṃ vedanādayo cattāro arūpino khandhāti evaṃ aṭṭhārasa dhātuyo pañcakkhandhā honti. Pañcapi khandhā taṇhāvajjā dukkhasaccaṃ. Appavattīti appavattinimittaṃ. Nirodhapajānanāti paññāsīsena maggakiccamāha. Sammādiṭṭhipamukho hi ariyamaggo. Matthakaṃ pāpetvā kathitaṃ hoti sammasanassa bhūmiyā nipphattiyā ca kathitattā. Jānāti passatīti iminā ñāṇadassanaṃ kathitaṃ taṃ pana lokiyaṃ lokuttaranti duvidhanti tadubhayampi dassento āha – **‘‘saha vipassanāya maggo vutto’’**ti.
125. 色の把握のみが説かれたのであり、他のいかなるものでもない、という意味である。今やそこから四聖諦を抽出し、四諦の業処(瞑想対象)を示すために、「すべての……」などと説かれた。「五蘊となる」とは、十一半の界が色蘊であり、七半の界が適宜、受などの四つの非色の蘊である。このように十八界が五蘊となる。五蘊すべてが、渇愛を除いて苦諦である。「非生起」とは、非生起の相(涅槃)である。「滅の覚知」とは、智慧の頭(主導)による道の役割を述べている。正見を筆頭とするものが聖道だからである。遍知(思惟)の領域と成就とが説かれたことによって、頂点に至らしめて説かれたことになる。「知り、見る」とは、これによって智見が説かれたのであるが、それは世間的なものと出世間的なものの二種であるから、その双方を示すために「ヴィパッサナー(内観)とともに道が説かれた」と言ったのである。
Ettāvatāpi khoti pi-saddaggahaṇena aññena pariyāyena satthā dhātukosallaṃ desetukāmoti thero, ‘‘siyā pana, bhante’’ti pucchatīti bhagavā pathavīdhātuādivasenapi dhātukosallaṃ vibhāveti. Tattha pathavīdhātuādisaddena desanākāraṇaṃ vibhāvento, **‘‘pathavīdhātu…pe… vuttā’’**ti āha. Tāpi hi ādito cha dhātuyo. ‘‘Viññāṇadhātuto **nīharitvā pūretabbā’’**ti vatvā kathaṃ rūpadhātuyo nīharīyantīti codanaṃ sandhāya taṃ nayaṃ dassetuṃ, **‘‘viññāṇadhātū’’**tiādi vuttaṃ. Kāmañcettha kāyaviññāṇadhātuyā ārammaṇaṃ phoṭṭhabbadhātupathavīdhātu ādivasena desanāruḷameva, kāyadhātu pana nīharitabbāti ekaṃsameva nīharaṇavidhiṃ dassento, **‘‘esa nayo sabbatthā’’**ti āha. Purimapacchimavasena manodhātūti pacchimabhāgavasena kiriyāmanodhātu gahetabbā tassānurūpabhāvato. Nanu cettha manodhātu nāmāyaṃ manoviññāṇadhātuyā asaṃsaṭṭhā, visuṃyeva cesā dhātūti? Saccametaṃ aṭṭhārasadhātudesanāya, cittavibhattiniddese chaviññāṇakāyadesanāyaṃ pana sā manoviññāṇakāyasaṅgahitāvāti daṭṭhabbaṃ. Yaṃ panettha vattabbaṃ taṃ visuddhimaggasaṃvaṇṇanāyaṃ (visuddhi. mahāṭī. 2.517) vuttanayena veditabbaṃ. Atha vā purimapacchimavasenāti purecarānucaravasena. Manodhātūti vipākamanodhātu gahetabbā purecaraṇato, parato uppajjanakiriyāmanoviññāṇadhātuyā anantaraṃ manodhātuyā, kiriyāmanodhātuyā anantaraṃ manoviññāṇadhātuyā anuppajjanato ca.
「これだけでも」という「〜も(pi)」の語を捉えることによって、長老は「師は別の様態によって界の巧みさを説くことを望んでおられる」と考え、「尊師よ、さらにあり得ますでしょうか」と問うたのであり、世尊は地界などの観点からも界の巧みさを明らかにされる。そこにおいて地界などの言葉によって教示の理由を明らかにしつつ、「地界……(中略)……と説かれた」と言った。それらもまた初めの六界である。「識界から取り出して満たすべきである」と述べて、「どのようにして色界が取り出されるのか」という疑念に関して、その理趣を示すために「識界は……」などと説かれた。確かにここで身識界の対象は触界・地界などによって教説においてすでに確立されているが、身界は取り出されるべきであるとして、決定的な抽出の方法を示して「この理趣はすべてにおいて適用される」と言ったのである。「前後によって意界」とは、後方の部分としての作用意界が、それにふさわしいものであることから捉えられるべきである。「しかし、ここで意界というものは意識界とは混じり合わず、別個の界ではないのか」と言うかもしれない。十八界の教示においてはその通りであるが、心の識別の解説における六識身の教示においては、それは意識身に包摂されると見なすべきである。ここで語るべきことは、『清浄道論註』で説かれた理趣によって知るべきである。あるいは、「前後によって」とは先行するものと後続するものによって、という意味である。「意界」とは、先行することから異熟意界が捉えられるべきであり、後から生じる作用意識界の直後には意界は生じず、作用意界の直後には意識界は生じないからである。
Dhammānaṃ yāvadeva nissattanijjīvavibhāvanatthāya satthu dhātudesanāti aññesu sabhāvadhāraṇādiatthesu labbhamānesupi ayamettha attho padhānoti āha – **‘‘esanayo sabbatthā’’**ti. Sappaṭipakkhavasenāti sappaṭibhāgavasena sukhaṃ dukkhena sappaṭibhāgaṃ, dukkhaṃ sukhena, evaṃ somanassadomanassāti. Yathā sukhādīnaṃyeva samudācāro vibhūto, na upekkhāya, evaṃ rāgādīnaṃyeva samudācāro vibhūto, na mohassa, tena vuttaṃ **‘‘avibhūtabhāvenā’’**ti. Kāyaviññāṇadhātu pariggahitāva hoti tadavinābhāvato. Sesāsu somanassadhātuādīsu, pariggahitāva hoti avinābhāvato eva. Na hi somanassādayo manodhātuyā vinā vattanti. Upekkhādhātuto nīharitvāti ettha cakkhuviññāṇadhātuādayo catasso viññāṇadhātuyo tāsaṃ vatthārammaṇabhūtā cakkhudhātuādayo cāti aṭṭha rūpadhātuyo, manodhātu, upekkhāsahagatā manoviññāṇadhātu, upekkhāsahagatā eva dhammadhātūti evaṃ pannarasa dhātuyo upekkhādhātuto nīharitabbā. Somanassadhātuādayo pana catasso dhātuyo dhammadhātuantogadhā, evaṃ sukhadhātuto kāyaviññāṇadhātuyā tassā vatthārammaṇabhūtānaṃ kāyadhātuphoṭṭhabbadhātūnañca nīharaṇā heṭṭhā dassitanayāti, **‘‘upekkhādhātuto nīharitvā pūretabbā’’**icceva vuttaṃ.
諸法がただ無霊魂・非生命であることを明らかにするための師の界の教示であるから、他の自相の保持などの意味が得られるとしても、ここではこの意味が主要であるとして、「この理趣はすべてにおいて適用される」と言った。「敵対するもの(反対のもの)によって」とは、対応するもの(対照的なもの)によって、ということであり、楽は苦と対照的であり、苦は楽と対照的であり、このように喜と憂も同様である。楽などの現行(活動)のみが顕著であり、捨はそうではないように、貪などの現行のみが顕著であり、癡はそうではない。それゆえに「顕著でない状態によって」と言ったのである。身識界はそれ(身界)と不離であることから把握されている。残りの喜界などにおいても、不離であることによって把握されている。喜などは意界なしには生起しないからである。「捨界から取り出して」という点について、ここでは眼識界などの四つの識界、それらの所依・対象である眼界などの八つの色界、意界、捨倶行の意識界、捨倶行の法界というように、十五の界が捨界から取り出されるべきである。喜界などの四つの界は法界に含まれ、同様に楽界から身識界およびその所依・対象である身界・触界が取り出されることは下で示された理趣であるから、「捨界から取り出して満たすべきである」とまさに説かれたのである。
Kāmavitakkādayo idha kāmadhātuādipariyāyena vuttāti **‘‘kāmadhātuādīnaṃ dvedhāvitakke kāmavitakkādīsu vuttanayena attho veditabbo’’**ti āha. Tattha hi ‘‘kāmavitakkoti kāmapaṭisaṃyutto vitakko, byāpādavitakkoti byāpādapaṭisaṃyutto vitakko, vihiṃsāvitakkoti vihiṃsāpaṭisaṃyutto vitakko, nekkhammapaṭisaṃyutto vitakko nekkhammavitakko, so yāva paṭhamajjhānā vaṭṭati. Abyāpādapaṭisaṃyutto vitakko abyāpādavitakko, so mettāpubbabhāgato paṭṭhāya yāva paṭhamajjhānā vaṭṭati. Avihiṃsāpaṭisaṃyutto vitakko avihiṃsāvitakko, so karuṇāya pubbabhāgato paṭṭhāya yāva paṭhamajjhānā vaṭṭatī’’ti vuttaṃ. Ayaṃ panattho abhidhamme vitthārato āgato evāti dassetuṃ, **‘‘abhidhamme’’**tiādi vuttaṃ. Kāmadhātuto nīharitvāti ettha kāmaggahaṇena gahitā rūpadhātuādayo cha, taṃvisayā sattaviññāṇadhātuyo, tattha pañcannaṃ viññāṇadhātūnaṃ cakkhudhātuādayo pañcāti aṭṭhārasa. Nekkhammadhātuādayo pana dhammadhātuantogadhā eva.
欲尋などはここでは欲界などの同義語として説かれていることから、「欲界などの意味は、『二種尋経』において欲尋などについて説かれた方法によって知るべきである」と言った。そこでは実に「欲尋とは欲に関連した尋であり、瞋恚尋とは瞋恚に関連した尋であり、害尋とは害に関連した尋である。出離に関連した尋は出離尋であり、それは初禅に至るまで働く。無瞋恚に関連した尋は無瞋恚尋であり、それは慈の初段階から始まって初禅に至るまで働く。無害に関連した尋は無害尋であり、それは悲の初段階から始まって初禅に至るまで働く」と説かれている。この意味はアビダルマにおいて詳細に説かれていることを示すために、「アビダルマにおいて」などと説かれた。「欲界から取り出して」という点について、ここでは「欲」という把握によって取られた色界などの六つ、その対象である七つの識界、そこにおいて五つの識界の眼界などの五つという十八である。出離界などはまさに法界に含まれる。
Kāmataṇhāya visayabhūtā dhammā kāmadhātūti āha – **‘‘pañca kāmāvacarakkhandhā kāmadhātū’’**ti. Tathā rūpataṇhāya visayabhūtā dhammā rūpadhātu, arūpataṇhāya visayabhūtā dhammā arūpadhātūti āha – **‘‘cattāro arūpāvacarakkhandhā’’**tiādi. Kāmataṇhā kāmo uttarapadalopena, evaṃ rūpārūpataṇhā rūpārūpaṃ. Ārammaṇakaraṇavasena tā yattha avacaranti, te kāmāvacarādayoti evaṃ kāmāvacarakkhandhādīnaṃ kāmataṇhādibhāvo veditabbo. Ādinā nayenāti etena ‘‘uparito paranimmitavasavattideve antokaritvā etthāvacarā’’tiādipāḷiṃ (vibha. 1020) saṅgaṇhāti. Etthāvacarāti avīciparanimmitaparicchinnokāsāya kāmataṇhāya visayabhāvaṃ sandhāya vuttaṃ, tadokāsatā ca taṇhāya tanninnattā veditabbā. Sesapadadvayepi eseva nayo. Paripuṇṇaaṭṭhārasadhātukattā kāmāvacaradhammānaṃ **‘‘kāmadhātuto nīharitvā pūretabbā’’**ti vuttaṃ. Manoviññāṇadhātudhammadhātu ekadesamattameva hi rūpārūpāvacaradhammāti.
欲愛の対象となった諸法が欲界であるとして、「五つの欲界繋の蘊が欲界である」と言った。同様に色愛の対象となった諸法が色界であり、無色愛の対象となった諸法が無色界であるとして、「四つの無色界繋の蘊」などと言った。「欲愛」は後続の語の省略によって「欲」であり、このように色愛・無色愛は「色・無色」である。対象とすることによってそれらが活動する場所が欲界繋などであるから、このように欲界繋の蘊などの欲愛などの状態を知るべきである。「などの方法によって」とは、これによって「上は他化自在天を含めて、ここで活動する」などの聖典(『分別論』)を包摂している。「ここで活動する」とは、阿鼻地獄から他化自在天までに区切られた領域の欲愛の対象たる状態に関して説かれたのであり、その領域たることは渇愛がそれに傾斜していることから知るべきである。残りの二句においても同様の理趣である。欲界繋の諸法は完全な十八界を有するものであるから、「欲界から取り出して満たすべきである」と説かれた。意識界と法界の一部分のみが実に色界繋・無色界繋の法だからである。
Samāgantvāti sahitā hutvā. Yattakañhi paccayadhammā attano phalassa kāraṇaṃ, tattha tannibbattane samāgatā viya hoti vekalle tadanibbattanato. Saṅkhatadhātuto nīharitvā pūretabbā asaṅkhatāya dhātuyā dhammadhātuekadesabhāvato.
「集まって」とは、結合して、ということである。縁となる諸法が自己の結果の原因となる限り、そこにおいてその結果を生じさせるにあたって集まったかのようである。欠落があるときにはそれが生じないからである。無為界は法界の一部分であることから、有為界から取り出して満たすべきである。
126. Evaṃ pavattamānā mayaṃ attāti gahaṇaṃ gamissāmāti iminā viya adhippāyena attānaṃ adhikicca uddissa pavattā ajjhattā, tesu bhavā tappariyāpannattāti ajjhattikāni. Tato bahibhūtāni bāhirāni. Āyatanakathā paṭiccasamuppādakathā ca visuddhimagge (visuddhi. 2.510, 570, 571) vuttanayeneva veditabbāti na vitthāritā.
126. 「このように生起しているわれらは我(アートマン)という執着に至るであろう」という意図によるかのように、我に関して、我を指して生起したものが「内」であり、それらに存在し、それに包摂されるがゆえに「内なるもの(内処)」である。それから外にあるものが「外なるもの(外処)」である。処の解説および縁起の解説は、『清浄道論』で説かれた方法によって知るべきであるから、詳しく述べない。
127. Avijjamānaṃ ṭhānaṃ aṭṭhānaṃ (a. ni. ṭī. 1.1.268; vibha. mūlaṭī. 809), natthi ṭhānanti vā aṭṭhānaṃ. Anavakāsoti ettha eseva nayo. Tadatthanigamanameva hi ‘‘netaṃ ṭhānaṃ vijjatī’’ti vacananti. Tenāha **‘‘ubhayenapī’’**tiādi. Yanti kāraṇe paccattavacanaṃ, hetuattho ca kāraṇatthoti āha – **‘‘yanti yena kāraṇenā’’**ti. Ukkaṭṭhaniddesena ettha diṭṭhisampatti veditabbāti vuttaṃ **‘‘maggadiṭṭhiyā sampanno’’**ti. Kuto panāyamattho labbhatīti? Liṅgato. Liṅgañhetaṃ, yadidaṃ niccato upagamanapaṭikkhepo. Catubhūmakesūti idaṃ catutthabhūmakasaṅkhārānaṃ ariyasāvakassa visayabhāvūpagamanato vuttaṃ; na pana te ārabbha niccato upagamanasabbhāvato. Vakkhati ca ‘‘catutthabhūmakasaṅkhārā panā’’tiādinā. Abhisaṅkhatasaṅkhāraabhisaṅkharaṇakasaṅkhārānaṃ sappadesattā nippadesasaṅkhāraggahaṇatthaṃ **‘‘saṅkhatasaṅkhāresū’’**ti vuttaṃ. Lokuttarasaṅkhārānaṃ pana nivattane kāraṇaṃ sayameva vakkhati. Etaṃ kāraṇaṃ natthi setughātattā. Tejussadattāti saṃkilesavidhamanatejassa adhikabhāvato. Tathā hi te gambhīrabhāvena duddasā. Akusalānaṃ ārammaṇaṃ na hontīti idaṃ pakaraṇavasena vuttaṃ. Appahīnavipallāsānaṃ sattānaṃ kusaladhammānampi te ārammaṇaṃ na honti.
127. 存在しない場所が「不可能(処にあらざること、aṭṭhāna)」であり、あるいは場所がないことが「不可能」である。「機会がない」という点においても同様の理趣である。その意味の結論こそが「この処は存在しない」という言葉である。それゆえに「双方によっても」などと言ったのである。「〜ということは(yaṃ)」とは原因における主格の語であり、原因の意味が理由の意味であることから、「『〜ということは』とは、いかなる原因によって」と言った。優れた提示によって、ここで見の具足が知られるべきであるとして、「聖道における見を具足した者」と言われた。しかし、この意味はどこから得られるのか。特徴からである。常住であると執着することの否定こそが、その特徴だからである。「四地におけるものにおいて」とは、これは四地の諸行が聖弟子の領域たる状態に至ることから説かれたのであり、それらに関して常住と執着することが存在するからではない。後に「しかし四地の諸行は」などと述べるであろう。作られた諸行と作る諸行とは部分的なものであるため、無余の諸行を把握するために「有為の諸行において」と説かれた。出世間の諸行が除外される原因は、自ら述べるであろう。架橋が破壊されている(断絶している)がゆえに、この原因はない。「威光の卓越ゆえに」とは、煩悩を焼き払う威光の強大さゆえである。実にそれらは深遠であるため見がたい。「不善の対象とはならない」とは、論書の観点から説かれたことである。転倒(狂い)を断じていない衆生の善法にとっても、それらは対象とはならない。
Asukhe ‘‘sukha’’nti vipallāso ca idha sukhato upagamanassa ṭhānanti adhippetanti dassento, **‘‘ekanta…pe… vutta’’**nti. Attadiṭṭhivasenāti padhānadiṭṭhimāha. Diṭṭhiyā nibbānassa avisayabhāvo heṭṭhā vutto evāti **‘‘kasiṇādipaṇṇattisaṅgahattha’’**nti vuttaṃ. Paricchedoti saṅkhārānaṃ paricchedo saṅkhārānaṃ paricchijjagahaṇaṃ. Svāyaṃ yesaṃ niccādito upagamanaṃ bhavati tesaṃyeva vasena kātabboti dassento **‘‘sabbavāresū’’**tiādimāha. Sabbavāresūti niccādisabbavāresu. Puthujjano hīti hi-saddo hetuattho. Yasmā yaṃ yaṃ saṅkhāraṃ niccādivasena puthujjanakāle upagacchati, taṃ taṃ ariyamaggādhigamena aniccādivasena gaṇhanto yāthāvato jānanto taṃ gāhaṃ taṃ diṭṭhiṃ viniveṭheti vissajjeti. Tasmā yattha gāho tattha vissajjanāti catutthabhūmakasaṅkhārā idha saṅkhāraggahaṇena na gayhatīti attho.
不苦不楽(苦なきこと)において「楽である」という転倒が、ここでは楽として執着する根拠として意図されていることを示すために、「極めて……(中略)……説かれた」と言った。「我見によって」とは、勝義の見(根本的な見解)を述べている。見にとって涅槃が対象外であることはすでに上で述べられた通りであるから、「遍処などの概念を包摂するため」と説かれた。「限定」とは、諸行の限定、諸行を限定して把握することである。これは常住などとして執着が生じる対象そのものによってなされるべきであることを示すために、「すべての節において」などと言った。「すべての節において」とは、常住などのすべての節において、ということである。「異生(凡夫)は実に」の「実に(hi)」の語は原因の意味である。凡夫の時に常住などとして執着したまさにその諸行を、聖道の獲得によって無常などとして把握し、如実に知ることで、その執着・その見解を解きほぐし、放棄するからである。それゆえに「執着があるところに放棄がある」のであり、四地の諸行はここでは「諸行」という把握によって取られない、という意味である。
128. Puttasambandhena mātāpitusamaññā, dattakittimādivasenapi puttavohāro loke dissati, so ca kho pariyāyato nippariyāyasiddhaṃ taṃ dassetuṃ, **‘‘janikā va mātā janako pitā’’**ti vuttaṃ. Tathā ānantariyakammassa adhippetattā **‘‘manussabhūtova khīṇāsavo arahāti adhippeto’’**ti vuttaṃ. ‘‘Aṭṭhānameta’’ntiādinā mātuādīnaṃyeva jīvitā voropane ariyasāvakassa abhabbabhāvadassanato tadaññaṃ ariyasāvako jīvitā voropetīti idaṃ atthato āpannamevāti maññamāno vadati – **‘‘kiṃ pana ariyasāvako aññaṃ jīvitā voropeyyā’’**ti? ‘‘Aṭṭhānametaṃ, bhikkhave, anavakāso, yaṃ diṭṭhisampanno puggalo sañcicca pāṇaṃ jīvitā voropeyya, netaṃ ṭhānaṃ vijjatī’’ti vacanato, **‘‘etampi aṭṭhāna’’**nti vuttaṃ. Tenāha **‘‘sacepi hī’’**tiādi. Baladīpanatthanti saddhādibalasamannāgamadīpanatthaṃ. Ariyamaggenāgatasaddhādibalavasena hi ariyasāvako tādisaṃ sāvajjaṃ na karoti.
128. 子との関係によって父母という名称があり、養子や名義上の子などによっても世間では子の呼称が見られるが、それは世俗的(比喩的)なものである。勝義として成立するそれを示すために、「生みの母こそが母であり、生みの父が父である」と説かれた。同様に無間業が意図されていることから、「人間となった漏尽者(阿羅漢)こそが阿羅漢として意図されている」と説かれた。「この処は存在しない」などによって、母などの命を奪うことにおいてのみ聖弟子がなし得ない状態であることが示されているため、「それ以外の者を聖弟子は命から奪う(殺害する)のか」ということは意味上帰結してしまうと考えて、「聖弟子は他の者を命から奪うであろうか」と問うのである。「比丘たちよ、見を具足した人が故意に生き物の命を奪うということは、あり得ないことであり、機会がない。この処は存在しない」という言葉から、「これもまたあり得ないことである」と説かれた。それゆえに「もし……であっても」などと言ったのである。「力の開示のため」とは、信などの力の具足を明らかにするためである。聖道によって得られた信などの力の働きによって、聖弟子はそのような罪過を犯さないからである。
Pañcahi kāraṇehīti idaṃ atthanipphādakāni tesaṃ pubbabhāgiyāni ca kāraṇāni kāraṇabhāvasāmaññena ekajjhaṃ gahetvā vuttaṃ, na pana sabbesaṃ pañcannaṃ sahayogakkhamato. Ākārehīti kāraṇehi. Anussāvanenāti anurūpaṃ sāvanena. Bhedassa anurūpaṃ yathā bhedo hoti, evaṃ bhinditabbānaṃ bhikkhūnaṃ attano vacanassa sāvanena viññāpanena. Tenāha **‘‘nanu tumhe’’**tiādi. Kaṇṇamūle vacībhedaṃ katvāti etena ‘‘pākaṭaṃ katvā bhedakaravatthudīpanaṃ vohāro, tattha attano nicchitamatthaṃ rahassavasena viññāpanaṃ **anussāvana’’**nti dasseti.
「五つの原因によって」とは、これは結果を成就させるものとそれらの前段階の原因とを、原因という共通性によって一括して捉えて説いたものであり、五つすべてが同時に働くわけではない。「様相によって」とは原因によって、ということである。「布告(勧告)によって」とは、相応しい布告によって、ということである。破僧(教団分裂)に相応しく、分裂が生じるように、分裂させられるべき比丘たちに自らの言葉を聞かせ、理解させることによってである。それゆえに「あなたがたは……ではないか」などと言った。「耳元で言葉を交わして」とは、これによって「明白にして破僧の原因となる事柄を示すのが世俗の談話(vohāra)であり、そこにおいて自ら決定した意味を秘密裏に理解させることが布告(anussāvana)である」と示している。
Kammameva uddeso vā pamāṇanti tehi saṅghabhedasiddhito vuttaṃ, itare pana tesaṃ pubbabhāgabhūtā. Tenāha **‘‘vohārā’’**tiādi. Tatthāti vohāre. Cutianantaraṃ phalaṃ anantaraṃ nāma, tasmiṃ anantare niyuttāni tannibbattanena anantarakaraṇasīlāni, anantarappayojanāni cāti ānantariyāni, tāni eva **‘‘ānantariyakammānī’’**ti vuttāni.
「羯磨(儀式)そのもの、あるいは説戒が基準である」とは、それらによって僧伽の分裂が成就することから説かれたのであり、他のものはそれらの前段階となったものである。それゆえに「世俗の談話……」などと言った。「そこにおいて」とは、談話において、ということである。死の直後の結果を「無間(anantara)」と名づけ、その無間に結びついたもの、それを生じさせることによって無間をもたらす性質のもの、無間の目的をもつものを「無間業(ānantariya)」といい、それらこそが「無間業」と説かれている。
Kammatoti ‘‘evaṃ ānantariyakammaṃ hoti, evaṃ anantariyakammasadisa’’nti evaṃ kammavibhāgato. Dvāratoti kāyādidvārato. Kappaṭṭhitiyatoti ‘‘idaṃ kappaṭṭhitikavipākaṃ, idaṃ na kappaṭṭhitikavipāka’’nti evaṃ kappaṭṭhitiyavibhāgato. Pākāti ‘‘idamettha vipaccati, idaṃ na vipaccatī’’ti vipaccanavibhāgato. Sādhāraṇādīhīti gahaṭṭhapabbajitānaṃ sādhāraṇāsādhāraṇato, ādi-saddena vedanādivibhāgato ca.
「業によって」とは、「このように無間業となり、このように無間業に類似したものとなる」という業の区分による。「門によって」とは、身などの門による。「劫の持続によって」とは、「これは劫の間持続する異熟(結果)であり、これは劫の間持続する異熟ではない」という劫の持続の区分による。「異熟によって」とは、「これはここで異熟し、これは異熟しない」という異熟の区分による。「共通性などによって」とは、在家と出家の共通・不共通により、「等」の語によって受などの区分による。
Yasmā manussattabhāve ṭhitasseva ca kusaladhammānaṃ tikkhavisadasūrabhāvāpatti, yathā taṃ tiṇṇampi bodhisattānaṃ bodhittayanibbattiyaṃ, evaṃ manussabhāve ṭhitasseva akusaladhammānampi tikkhavisadasūrabhāvāpattīti āha **‘‘manussabhūtassevā’’**ti. Pākatikamanussānampi ca kusaladhammānaṃ visesappatti vimānavatthuaṭṭhakathāyaṃ (vi. va. aṭṭha. 3) vuttanayena veditabbā. Yathā vutto ca attho samānajātiyassa vikopane kammaṃ garutaraṃ, na tathā vijātiyassāti vuttaṃ – **‘‘manussabhūtaṃ mātaraṃ vā pitaraṃ vā’’**ti. Liṅge parivatte ca so eva ekakammanibbatto bhavaṅgappabandho, jīvitindriyappabandho ca, na aññoti āha **‘‘api parivattaliṅga’’**nti. Arahantepi eseva nayo. Tassa vipākantiādi kammassa ānantariyabhāvasamatthanaṃ, catukoṭikañcettha sambhavati. Tattha paṭhamā koṭi dassitā, itarāsu visaṅketaṃ dassetuṃ, **‘‘yo panā’’**tiādi vuttaṃ. Yadipi tattha visaṅketo, kammaṃ pana garutaraṃ ānantariyasadisaṃ bhāyitabbanti āha – **‘‘ānantariyaṃ āhacceva tiṭṭhatī’’**ti. Ayaṃ pañhoti ñāpanicchānibbattā kathā.
人間の個体(境涯)にとどまっている者においてのみ、善法が鋭く明瞭で勇壮な状態に至ることは、三人の菩薩における三種の菩提の成就のようであり、同様に人間の境涯にとどまっている者においてのみ、不善法もまた鋭く明瞭で勇壮な状態に至ることから、「人間となった者においてのみ」と言った。通常の人間にとどまる者であっても善法の卓越の成就は、『天宮事註』で説かれた方法によって知るべきである。説かれた意味のように、同種の者を害することにおいては業はより重く、異種においてはそうではないことから、「人間となった母または父を」と説かれた。性別が変化しても、まさに同一の業から生じた有分(潜在意識)の連続および命根の連続であり、別のものではないことから、「性別が変化しても」と言った。阿羅漢においても同様の理趣である。「その異熟を」などは、業が無間業であることの論証であり、ここには四句分別が成り立つ。そこにおいて第一の句が示され、他の句において約束(狙い)の齟齬を示すために、「しかし誰であれ……」などと説かれた。たとえそこにおいて狙いの齟齬があっても、業は極めて重く、無間業に類似したものとして恐れるべきであるとして、「無間業にまさに触れる(達する)」と言ったのである。「この問いは」とは、教示を望むことによって生じた話である。
Ānantariyaṃ phusati maraṇādhippāyeneva ānantariyavatthuno vikopitattā. Ānantariyaṃ na phusati ānantariyavatthuabhāvato. Sabbattha hi purimaṃ abhisandhicittaṃ appamāṇaṃ, vadhakacittaṃ pana tadārammaṇaṃ jīvitindriyañca ānantariyanānantariyabhāve pamāṇanti daṭṭhabbaṃ. Saṅgāmacatukkaṃ sampattavasena yojetabbaṃ.
殺害の意図そのものによって無間業の対象を害したことから、無間業に触れる(無間業となる)。無間業の対象が存在しないことから、無間業には触れない。いかなる場合も前の決意の心は基準とはならず、殺害の心とその対象である命根こそが、無間業であるか無間業でないかの基準であると知るべきである。戦闘の四句分別は、その成就の観点から適用されるべきである。
Tenevāti teneva payogena. Arahantaghāto hotiyeva arahato māritattā. Puthujjanasseva dinnaṃ hotīti yasmā yathā vadhakacittaṃ paccuppannārammaṇampi pabandhavicchedavasena ca jīvitindriyaṃ ārammaṇaṃ katvā pavattati, na evaṃ cāgacetanā, sā hi cajitabbavatthuṃ ārammaṇaṃ katvā cajanamattameva hoti, aññasantakabhāvakaraṇañca tassa cajanaṃ, tasmā yassa taṃ santakaṃ kataṃ. Tasseva dinnaṃ hotīti.
「そのことによって」とは、まさにその行為(努力)によって、ということである。阿羅漢が殺されたことから、まさに阿羅漢殺害となる。「凡夫にまさに与えられたものとなる」とは、殺害の心は現在を対象とし、連続を断絶させることによって命根を対象として働くのに対し、施捨の思(喜捨の意志)はそのようではなく、それは放棄されるべき事物を対象として放棄することそのものであり、他者の所有とすることがその放棄であるから、それが所有とされたまさにその人に与えられたものとなるからである。
Lohitaṃ samo saratīti abhighātena pakuppamānaṃ sañcitaṃ hoti. Mahantataranti garutaraṃ. Sarīrapaṭijaggane viyāti satthurūpakāyapaṭijaggane viya.
「血が均等に流れる」とは、打撃によって激昂し凝固することである。「より偉大である」とは、より重いということである。「身体の手入れにおけるように」とは、師(仏陀)の色身の世話におけるように、ということである。
Asannipatiteti idaṃ sāmaggiyadīpanaṃ. Bhedo ca hotīti saṅghassa bhedo hoti. Vaṭṭatīti saññāyāti īdisakaraṇaṃ saṅghassa bhedāya na hotīti saññāya. Navato ūnaparisāyaṃ karontassa tathāti yojetabbaṃ, tathāti iminā ‘‘na ānantariyakammanti’’ imaṃ ākaḍḍhati, na pana ‘‘bhedo hotī’’ti idaṃ. Heṭṭhimantena hi navannameva vasena saṅghabhedo. Dhammavādino anavajjā yathādhammaṃ avaṭṭhānato. Saṅghabhedassa pubbabhāgo saṅgharāji.
「集まっていないときに」とは、これは和合(の欠如)を示している。「そして分裂が生じる」とは、僧伽の分裂が生じることである。「正当であるという想いによって」とは、このような行為は僧伽の分裂のためにはならないという想いによって、ということである。九人未満の集まりで行う者にとってはそうである、と結合すべきである。「そうである」とは、これによって「無間業ではない」ということを引き寄せるのであり、「分裂が生じる」ということをではない。最低でも九人によってのみ僧伽の分裂が成立するからである。法を語る者たちは無過失である。法に従ってとどまっているからである。僧伽の分裂の前段階が僧伽の亀裂である。
Kāyadvārameva pūrenti kāyakammabhāveneva lakkhitabbato.
身業としての状態によってのみ特徴づけられることから、「身門のみを満たす」という。
**‘‘Saṇṭhahante hi…pe… muccatī’’**ti idaṃ kappaṭṭhakathāya na sameti. Tathā hi kappaṭṭhakathāyaṃ (kathā. aṭṭha. 654-657) vuttaṃ – ‘‘āpāyikoti idaṃ suttaṃ yaṃ so ekaṃ kappaṃ asītibhāge katvā tato ekabhāgamattaṃ kālaṃ tiṭṭheyya, taṃ āyukappaṃ sandhāya vutta’’nti. Kappavināseyevāti pana āyukappavināseyevāti atthe sati natthi virodho. Ettha ca saṇṭhahanteti idampi ‘‘svevavinassissatī’’ti viya abhūtaparikappavasena vuttaṃ. Ekadivasameva niraye paccati tato paraṃ kappābhāve āyukappassapi abhāvatoti avirodhato atthayojanā daṭṭhabbā. Sesānīti saṅghabhedato aññāni ānantariyakammāni.
「維持されるときに……(中略)……解脱する」ということは、『論事註』の説と一致しない。実に『論事註』においては、「『悪趣に堕ちる者』というこの経は、彼が一劫を八十の部分に分けてその一部分の期間とどまるという、その寿劫(寿命の長さ)を指して説かれたものである」と説かれているからである。「劫の破壊においてのみ」とは、しかし寿劫の破壊においてのみという意味であれば矛盾はない。そしてここでの「維持されるときに」ということも、「明日にも滅びるであろう」というように非実在の仮定によって説かれたのである。まさに一日のみ地獄で煮られ、それ以降は劫が存在しないため寿劫も存在しないことから、矛盾のないように意味の結合を見なすべきである。「残りのものは」とは、破僧以外の無間業のことである。
Ahosikammaṃ…pe… saṅkhyaṃ gacchanti, evaṃ sati kathaṃ nesaṃ ānantariyatā cutianantaraṃ vipākadānābhāvato. Atha sati phaladāne cutianantaro eva etesaṃ phalakālo, na aññoti phalakālaniyamena niyatatā nicchitā, na phaladānaniyamena, evampi niyataphalakālānaṃ aññesampi upapajjavedanīyānaṃ diṭṭhadhammavedanīyānañca niyatatā āpajjeyya. Tasmā vipākadhammadhammānaṃ paccayantaravikalatādīhi avipaccamānānampi attano sabhāvena vipākadhammatā viya balavatā ānantariyena vipāke dinne avipaccamānānampi ānantariyānaṃ phaladāne niyatasabhāvā ānantariyasabhāvā ca pavattīti attano sabhāvena phaladānaniyameneva niyatatā ānantariyatā ca veditabbā. Avassañca ānantariyasabhāvā tato eva niyatasabhāvā ca tesaṃ pavattīti sampaṭicchitabbametaṃ aññassa balavato ānantariyassa abhāve cutianantaraṃ ekantena phaladānato.
「既成業(無効となった業)……(中略)……に数えられる」とすれば、そのようにあるとき、死の直後に異熟を与えないことから、どのようにしてそれらの無間性が成り立つのか。あるいは結果を与えるにあたって、死の直後こそがそれらの結果の時であり他ではないとして、結果の時期の規定によって決定されたのであり、結果の供与の規定によるのではないとするなら、そのように結果の時期が決定されている他の順次生受業や順現法受業の決定性も生じてしまうであろう。それゆえに、異熟の性質をもつ諸法が他の縁の欠如などによって異熟しないとしても自らの本性によって異熟の性質をもつように、強力な無間業によって異熟が与えられたときに異熟しない無間業であっても、結果を与えることにおいて決定された本性と無間の本性とをもつ生起であるから、自らの本性によって結果を与えることの規定によってのみ決定性と無間性とを知るべきである。そして必然的に無間の本性ゆえに、それゆえに決定された本性をもつそれらの生起であると承認されるべきである。他の強力な無間業がないときには、死の直後に確実に結果を与えるからである。
Nanu evaṃ aññesampi upapajjavedanīyānaṃ aññasmiṃ vipākadāyake asati cutianantaramekantena phaladānato niyatasabhāvā anantariyasabhāvā ca pavatti āpajjatīti? Nāpajjati. Asamānajātikena cetopaṇidhivasena upaghātakena ca nivattetabbavipākattā anantare ekantaphaladāyakattābhāvā. Na pana ānantariyakānaṃ paṭhamajjhānādīnaṃ dutiyajjhānādīni viya asamānajātikaṃ phalanivattakaṃ atthi sabbānantariyānaṃ avīciphalattā. Na ca heṭṭhūpapattiṃ icchato sīlavato cetopaṇidhi viya uparūpapattijanakakammaphalaṃ ānantariyaphalaṃ nivattetuṃ samattho cetopaṇidhi atthi anicchantasseva avīcipātanato, na ca ānantariyopaghātakaṃ kiñci kammaṃ atthi, tasmā tesaṃyeva anantare ekantavipākajanakasabhāvā pavattīti. Anekāni ca ānantariyāni katāni ekanteneva vipāke niyatasabhāvattā uparatāvipaccanasabhāvāsaṅkattā nicchitāni sabhāvato niyatāneva. Tesu pana samānasabhāvesu ekena vipāke dinne itarāni attanā kātabbakiccassa teneva katattā na dutiyaṃ tatiyaṃ vā paṭisandhiṃ karonti. Na samatthatāvighātattāti natthi tesaṃ ānantariyakatā nivatti; garutarabhāvo pana tesu labbhatevāti saṅghabhedassa siyā garutarabhāvoti, **‘‘yena…pe… vipaccatī’’**ti āha. Ekassa pana aññāni upatthambhakāni hontīti daṭṭhabbāni. Paṭisandhivasena vipaccatīti vacanena itaresaṃ pavattivipākadāyitā anuññātā viya dissati. No vā tathā sīlavatīti yathā pitā sīlavā, tathā sīlavatī no vā hotīti yojanā. Sace mātā sīlavatī, mātughāto paṭisandhivasena vipaccatīti yojanā.
「それでは、他の順次生受業も、他に異熟を与えるものがないときには死の直後に確実に結果を与えることから、決定された本性と無間の本性とをもつ生起が生じるのではないか」と言うかもしれない。生じない。同種でない心の発願や障害となる業によって阻まれるべき異熟であるため、直後に確実に結果を与えるものとはならないからである。しかし無間業には、初禅などに対する第二禅などのように、同種でなく結果を阻むものは存在しない。すべての無間業は阿鼻地獄を結果とするからである。そして、下層への再生を望む持戒者の心の発願のように、上層への再生を生じさせる業の結果である無間業の結果を阻むことができる心の発願は存在しない。望まない者であっても阿鼻地獄に堕とすからであり、無間業を損なういかなる業も存在しないからである。それゆえに、それらのみが直後に確実に異熟を生じさせる本性の生起なのである。そして多くの無間業がなされた場合、確実に異熟において決定された本性をもつことから、停止して異熟しない本性であるという疑念がないため、本性からして決定されたものばかりである。しかしそれらの同等の本性をもつものの中で、一つによって異熟が与えられたとき、他のものは自らがなすべき役割がそれによってなされたため、二度目や三度目の結生をなすことはない。能力の喪失によるのではないため、それらの無間業たる性質の消滅はない。しかしそれらの中でより重い状態は確かに得られるため、破僧がより重い状態となるであろうから、「それによって……(中略)……異熟する」と言ったのである。一つに対して他のものは支援するものとなると見なすべきである。「結生の観点から異熟する」という言葉によって、他のものには現行(転起)の異熟を与える性質が許容されているかのように見える。「あるいはそのように持戒者ではない」とは、父が持戒者であるように母は持戒者であるかないか、という結合である。もし母が持戒者であれば、母殺害が結生の観点から異熟する、という結合である。
Pakatattoti anukkhitto. Samānasaṃvāsakoti apārājiko. Samānasīmāyanti ekasīmāyaṃ.
「本来の身分にある者」とは、追放(停権)されていない者である。「同等の共住者」とは、波羅夷(不共住)でない者である。「同一の結界において」とは、一つの結界内において、ということである。
Satthukiccaṃ kātuṃ asamatthoti yaṃ satthārā kātabbakiccaṃ anusāsanādi, taṃ kātuṃ asamatthoti bhagavantaṃ paccakkhāya. Aññaṃ titthakaranti aññaṃ satthāraṃ.
「師の役割を果たすことができない」とは、師によってなされるべき訓誡などの役割を果たすことができないとして世尊を否認して、ということである。「他の外道教祖を」とは、他の師を、ということである。
129. Abhijātiādisu (a. ni. ṭī. 1.1.277) pakappanena devatūpasaṅkamanādinā jātacakkavāḷena samānayogakkhemaṃ dasasahassaparimāṇaṃ ṭhānaṃ jātikhettaṃ, saraseneva āṇāpavattiṭṭhānaṃ āṇākhettaṃ, visayabhūtaṃ ṭhānaṃ visayakhettaṃ. Dasasahassī lokadhātūti imāya lokadhātuyā saddhiṃ imaṃ lokadhātuṃ parivāretvā ṭhitā dasasahassī lokadhātu. Tattakānaṃyeva jātikhettabhāvo dhammatāvasena veditabbo. ‘‘Pariggahavasenā’’ti keci. ‘‘Sabbesampi buddhānaṃ tattakaṃ eva jātikhettaṃ tannivāsīnaṃyeva ca devatānaṃ dhammābhisamayo’’ti ca vadanti. Mātukucchiokkamanakālādīnaṃ channaṃ eva gahaṇaṃ nidassanamattaṃ mahābhinīhārādikālepi tassa pakampanassa labbhamānato. Āṇākhettaṃ nāma yaṃ ekajjhaṃ saṃvaṭṭati ca vivaṭṭati ca. Āṇā vattati āṇāya tannivāsīnaṃ devatānaṃ sirasā sampaṭicchanena, tañca kho kevalaṃ buddhānaṃ ānubhāveneva, na adhippāyavasena, adhippāyavasena pana ‘‘yāvatā vā pana ākaṅkheyyā’’ti (a. ni. 3.81) vacanato tato parampi āṇā pavatteyya.
129. 生誕などにおいて、推論によって神々の来訪などにより生誕の輪囲(世界)と同等の安穏をもつ一万の範囲の場所が生域(生誕領域)であり、自然に命令(威力)の及ぶ場所が命域(命令領域)であり、認識の対象となる場所が境域(対象領域)である。「一万の世界」とは、この世界とともにこの世界を取り囲んで存在する一万の世界のことである。その数だけのものが生域であることは、法の秩序(法爾)の観点から知るべきである。「把握(主宰)の観点から」と言う者もいる。「すべての仏たちにとっても、まさにその数だけが生域であり、そこに住む神々のみが法を覚知する」とも言われる。母の胎内への降誕などの六つの時のみを把握することは単なる例示であり、偉大な誓願などの時においてもその動揺は見られるからである。「命域」とは、一体となって破壊され、また一体となって生成する領域のことである。命令(威力)が働くとは、そこに住む神々が頭上に命令を受け入れることによるが、それもただ仏たちの威力によってのみであって意図の力によるのではない。意図の力によるなら、「あるいは欲する限り」という言葉から、それ以降にも命令が及ぶであろう。
Na uppajjantīti pana atthīti, ‘‘na me ācariyo atthi, sadiso me na vijjatī’’tiādiṃ (ma. ni. 1.285; 2.341; mahāva. 11; kathā. 405; mi. pa. 4.5.11) imissaṃ lokadhātuyaṃ ṭhatvā vadantena bhagavatā, ‘‘kiṃ panāvuso sāriputta, atthetarahi aññe samaṇā vā brāhmaṇā vā bhagavatā samasamā sambodhiyanti, evaṃ puṭṭho ahaṃ, bhante, noti vadeyya’’nti (dī. ni. 3.161), vatvā tassa kāraṇaṃ dassetuṃ, ‘‘aṭṭhānametaṃ anavakāso, yaṃ ekissā lokadhātuyā dve arahanto sammāsambuddhā’’ti imaṃ suttaṃ (dī. ni. 3.161; mi. pa. 5.1.1) dassentena dhammasenāpatinā ca buddhakhettabhūtaṃ imaṃ lokadhātuṃ ṭhapetvā aññattha anuppatti vuttā hotīti adhippāyo.
「生じない」という点については、しかし意味がある。「私に師はなく、私に等しい者は存在しない」などとこの世界にとどまって語られる世尊によって、「友なるサーリプッタよ、現今において世尊と等しい他の沙門や婆羅門が正覚において存在するであろうか。このように問われたなら、尊師よ、私は『否』と答えるでしょう」と述べてその原因を示すために、「比丘たちよ、一つの世界に二人の阿羅漢・正等覚者が……ということは、あり得ないことであり、機会がない」というこの経を示される法将(サーリプッタ)によって、仏処(仏国土)となったこの世界を除いて他処には生じないことが説かれたことになる、というのが意図である。
Ekatoti saha, ekasmiṃ kāleti attho. So pana kālo kathaṃ paricchinnoti carimabhave paṭisandhiggahaṇato paṭṭhāya yāva dhātuparinibbānāti dassento **‘‘tatthā’’**tiādimāha. Nisinnakālato paṭṭhāyāti paṭilomakkamena vadati. Parinibbānato paṭṭhāyāti anupādisesāya nibbānadhātuyā parinibbānato paṭṭhāya. Etthantareti carimabhave bodhisattassa paṭisandhiggahaṇaṃ dhātuparinibbānanti etesaṃ antare.
「同時に」とは、ともに、同一の時に、という意味である。しかしその時はどのように規定されるのか。最後の生存における結生の獲得から始まって、仏舎利の入滅(灰身滅智)に至るまでであることを示すために、「そこにおいて」などと言った。「坐した時から始まって」とは、逆順によって述べている。「入滅から始まって」とは、無余涅槃界による完全な入滅から始まって、ということである。「この中間において」とは、最後の生存における菩薩の結生の獲得と仏舎利の入滅、これらの中間において、ということである。
Aññassa buddhassa uppatti na nivāritā, tattha kāraṇaṃ dassetuṃ **‘‘tīṇi hī’’**tiādi vuttaṃ. Paṭipattiantaradhānena hi sāsanassa osakkitattā aparassa buddhassa uppatti laddhāvasarā hoti. Paṭipadāti paṭivedhāvahā pubbabhāgapaṭipadā. **‘‘Pariyatti pamāṇa’’**nti vatvā tamatthaṃ bodhisattaṃ nidassanaṃ katvā dassetuṃ, **‘‘yathā’’**tiādi vuttaṃ tayidaṃ hīnaṃ katanti daṭṭhabbaṃ. Niyyānikadhammassa ṭhitiñhi dassento aniyyānikadhammaṃ nidasseti.
他の仏の生起は妨げられていない。そこにおける原因を示すために、「三つの……実に」などと説かれた。実践の消失によって教えが後退したとき、他の仏の出現に機会が得られるからである。「行道」とは、通達をもたらす前段階の行道のことである。「教理が基準である」と述べて、その意味を菩薩を実例として示すために、「例えば……」などと説かれたが、これは劣ったものとしてなされたと見なすべきである。出離の法の存続を示すにあたって、不出離の法を例示しているからである。
Mātikāya antarahitāyāti, ‘‘yo pana bhikkhū’’tiādinayappattā sikkhāpadapāḷi mātikā, tāya antarahitāya nidānuddesasaṅkhāte pātimokkhuddese pabbajjāyupasampadākammesu ca sāsanaṃ tiṭṭhatīti attho. Atha vā pātimokkhe dharanteyeva pabbajjā upasampadā ca, evaṃ sati tadubhayaṃ pātimokkhe antogadhaṃ tadubhayābhāve pātimokkhābhāvato, tasmā tayidaṃ tayaṃ sāsanassa ṭhitihetūti āha – **‘‘pātimokkhapabbajjāupasampadāsu ṭhitāsu sāsanaṃ tiṭṭhatī’’**ti. Yasmā vā upasampadādhīnaṃ pātimokkhaṃ, upasampadā ca pabbajjādhīnā, tasmā pātimokkhe siddhe, siddhāsu pabbajjāupasampadāsu ca sāsanaṃ tiṭṭhati. Pacchimapaṭivedhato hi paraṃ paṭivedhasāsanaṃ, pacchimasīlato ca paraṃ paṭipattisāsanaṃ vinaṭṭhaṃ nāma hoti. Osakkitaṃ nāmāti pacchimakapaṭivedhasīlabhedadvayaṃ ekato katvā tato paraṃ vinaṭṭhaṃ nāma hotīti attho.
「本母(マータカー)が消失したとき」とは、「誰であれ比丘が……」などの方法に至る戒本の経文が本母であり、それが消失したとき、序説の提示と呼ばれる波羅提木叉の提示(説戒)において、また出家・受具足戒の儀式において教えは存続する、という意味である。あるいは、波羅提木叉が存続しているまさにその時に出家と受具足戒とがあり、そうであるならその双方は波羅提木叉に含まれ、その双方がなければ波羅提木叉もないことから、この三者が教えの存続の原因であるとして、「波羅提木叉・出家・受具足戒が存続するときに教えは存続する」と言ったのである。あるいは受具足戒は波羅提木叉に依存し、受具足戒は出家に依存するから、波羅提木叉が成就し、出家と受具足戒とが成就したときに教えは存続する。最後の通達(覚者)の後に通達の教えは滅び、最後の戒の後に実践の教えは滅びたことになる。「後退した」とは、最後の通達と戒の破綻の二つを一括して、それ以降に滅びたことになる、という意味である。
Tena kāmaṃ ‘‘sāsanaṭṭhitiyā pariyatti pamāṇa’’nti vuttaṃ, pariyatti pana paṭipattihetukāti paṭipattiyā asati appatiṭṭhā hoti, tasmā paṭipattiantaradhānaṃ sāsanosakkanassa visesakāraṇanti dassetvā tayidaṃ sāsanosakkanaṃ dhātuparinibbānosānanti dassetuṃ, **‘‘tīṇi parinibbānānī’’**ti vuttaṃ.
それゆえに確かに「教えの存続には教理が基準である」と説かれたが、教理は実践を原因とするため、実践がないときには確立しない。それゆえに実践の消失こそが教えの後退の特別な原因であることを示し、この教えの後退は仏舎利の入滅を最後とすることを示すために、「三つの入滅」と説かれたのである。
Kāruññanti paridevanakāruññaṃ. Jambudīpe dīpantaresu devanāgabrahmalokesu ca vippakiritvā ṭhitānaṃ dhātūnaṃ mahābodhipallaṅke ekajjhaṃ sannipatanaṃ, rasmivissajjanaṃ, tattha tejodhātuyā uṭṭhānaṃ, ekajālībhāvo cāti sabbametaṃ satthu adhiṭṭhānavaseneva veditabbaṃ.
「哀愍」とは、悲嘆の哀憐のことである。閻浮提や他の島々、神々・龍・梵天の世界に散らばって存在していた仏舎利が大菩提樹の宝座に一堂に集まり、光明を放ち、そこに火界が生じて一面の炎となることなどは、すべて師の決意の力によるものと知るべきである。
Anacchariyattāti dvīsupi uppajjamānesu acchariyattābhāvadosatoti attho. Buddhā nāma majjhe bhinnaṃ suvaṇṇaṃ viya ekasadisāti tesaṃ desanāpi ekarasā evāti āha – **‘‘desanāya ca visesābhāvato’’**ti. Etenapi anacchariyattameva sādheti. Vivādabhāvatoti etena vivādābhāvatthaṃ dve ekato na uppajjantīti dasseti.
「驚嘆すべきことでないことから」とは、二人同時に生じるときには驚嘆すべき状態の欠如という過失があることから、という意味である。仏たちとは中央で割った黄金のように同一であるから、彼らの教説もまた一味であるとして、「教説に差異がないことから」と言った。これによっても驚嘆すべきことでないことのみを論証している。「論争の状態から」とは、これによって論争をなくすために二人が同時に生じることはない、と示している。
Tatthāti milindapañhe. Ekaṃ buddhaṃ dhāretīti ekabuddhadhāraṇī. Etena evaṃ sabhāvā ete buddhaguṇā, yena dutiyabuddhaguṇe dhāretuṃ asamatthā ayaṃ lokadhātūti dasseti. Paccayavisesanipphannānañhi guṇadhammānaṃ bhāriyo viseso na sakkā dhāretunti, **‘‘na dhāreyyā’’**ti vatvā tameva adhāraṇaṃ pariyāyantarenapi pakāsento **‘‘caleyyā’’**tiādimāha. Tattha caleyyāti paripphandeyya. Kampeyyāti pavedheyya. Nameyyāti ekapassena nameyya. Onameyyāti osīdeyya. Vinameyyāti vividhaṃ itocito ca nameyya. Vikireyyāti vātena thusamuṭṭhi viya vippakireyya. Vidhameyyāti vinasseyya. Viddhaṃseyyāti sabbaso viddhastā bhaveyya. Tathābhūtā ca katthaci na tiṭṭheyyāti āha **‘‘na ṭhānamupagaccheyyā’’**ti.
「そこにおいて」とは、『ミリンダ王の問い』において、ということである。「一人の仏を保持する」とは、一仏を保持できる、ということである。これによって、これらの仏の徳はそのような性質のものであり、それゆえに第二の仏の徳を保持することがこの世界にはできないのだ、と示している。特別な諸縁によって成就した功徳の法という重大な卓越を保持することはできないとして、「保持できないであろう」と述べて、その不保持を別の表現によっても明らかにしながら「揺れ動くであろう」などと言った。そこにおいて「揺れ動くであろう(caleyya)」とは、震動するであろう、ということである。「震えるであろう(kampeyya)」とは、戦慄するであろう、ということである。「傾くであろう(nameyya)」とは、片側に傾くであろう、ということである。「沈むであろう(onameyya)」とは、沈没するであろう、ということである。「歪むであろう(vinameyya)」とは、様々にあちこちに歪むであろう、ということである。「散乱するであろう(vikireyya)」とは、風による籾殻の握りのように飛び散るであろう、ということである。「崩壊するであろう(vidhameyya)」とは、滅びるであろう、ということである。「粉砕されるであろう(viddhaṃseyya)」とは、完全に粉々になるであろう、ということである。そしてそのようになったものはどこにもとどまらないであろうとして、「とどまる状態に至らないであろう」と言ったのである。
Idāni tattha nidassanaṃ dassento, **‘‘yathā, mahārājā’’**tiādimāha. Tattha samupādikāti samaṃ uddhaṃ pajjati pavattatīti samupādikā, udakassa upari samaṃ gāminīti attho. Vaṇṇenāti saṇṭhānena. Pamāṇenāti ārohena. Kisathūlenāti kisathūlabhāvena, pariṇāhenāti attho.
今やそこにおける実例を示すために、「大王よ、例えば……」などと言った。そこにおいて「等しく積載されたもの(samupādikā)」とは、等しく上へと進み機能するものが「等しく積載されたもの」であり、水の上を均等に進むもの、という意味である。「色によって」とは、形状によって、ということである。「大きさによって」とは、高さによって、ということである。「痩せ太りによって」とは、痩せているか太っているかによって、すなわち周囲の太さによって、という意味である。
Chādentanti rocentaṃ ruciṃ uppādentaṃ. Tandīkatoti tena bhojanena tandībhūto. Anonamitadaṇḍajātoti yāvadatthaṃ bhojanena onamituṃ asakkuṇeyyatāya anonamitadaṇḍo viya jāto. Sakiṃ bhutto vameyyāti ekampi ālopaṃ ajjhoharitvā vameyyāti attho.
「満足させるものを」とは、好ましさを生じさせるものを、ということである。「倦怠した」とは、その食事によって怠惰になった、ということである。「曲がらない棒のようになった」とは、望む限りの食事によって屈曲することができなくなったために、曲がらない棒のようになった、ということである。「一度食べられたものを吐き出すであろう」とは、一口飲み込んだだけでも吐き出すであろう、という意味である。
Atidhammabhārena pathavī calatīti dhammena nāma pathavī tiṭṭheyya. Sā kiṃ teneva calati vinassatīti adhippāyena pucchati. Puna thero ‘‘ratanaṃ nāma loke kuṭumbaṃ sandhārentaṃ abhimatañca lokena attano garusabhāvatāya sakaṭabhaṅgassa kāraṇaṃ atibhārabhūtaṃ diṭṭhaṃ. Evaṃdhammo ca hitasukhavisesehi taṃsamaṅginaṃ dhārento abhimato ca viññūnaṃ gambhīrappameyyabhāvena garusabhāvattā atibhārabhūto pathavīcalanassa kāraṇaṃ hotī’’ti dassento, **‘‘idha, mahārāja, dve sakaṭā’’**tiādimāha. Eteneva tathāgatassa mātukucchiokkamanādikāle pathavīkampanakāraṇaṃ saṃvaṇṇitanti daṭṭhabbaṃ. Ekasakaṭato ratananti ekasmā, ekassa vā sakaṭassa ratanaṃ, tasmā sakaṭato gahetvāti attho.
「法の過大な重みによって大地が揺れる」とは、法によって実に大地はとどまるはずである。それがなぜそれ(法)によって揺れ、崩壊するのかという意図によって問うているのである。再び長老は、「宝と呼ばれるものは世間において家財を支え、世間によって望まれるものであるが、それ自体の重い性質ゆえに車の破壊の原因となり、過大な重荷となることが見られる。このような法もまた利益と幸福の卓越によってそれを具えた者を支え、智者たちによって望まれるものであるが、深遠で計り知れない状態ゆえに重い性質をもち、過大な重荷となって大地の動揺の原因となる」ということを示しつつ、「大王よ、ここに二台の荷車があり……」などと言った。これによって如来の母胎への降誕などの時における大地の震動の原因が解説されたのだと見なすべきである。「一台の荷車から宝を」とは、一つから、あるいは一台の車の宝を、その車から取って、という意味である。
Osāritanti uccāritaṃ, vuttanti attho. Aggoti sabbasattehi aggo.
「唱えられた」とは、発せられた、説かれた、という意味である。「最上である」とは、すべての衆生よりも最上である、ということである。
Sabhāvapakatīti sabhāvabhūtā akittimā pakati. Kāraṇamahantatāyāti mahantehi buddhakārakadhammehi pāramitāsaṅkhātehi kāraṇehi buddhaguṇānaṃ nibbattitoti vuttaṃ hoti. Pathaviādīni mahantāni vatthūni, mahantā ca sakkabhāvādayo attano attano visaye ekekā eva, sammāsambuddhopi mahanto attano visaye ekova, ko ca tassa visayo? Buddhabhūmi, yāvatakaṃ vā ñeyyaṃ. Evaṃ ‘‘ākāso viya anantavisayo bhagavā ekova hotī’’ti vadanto paracakkavāḷesu dutiyassa buddhassa abhāvaṃ dasseti.
「自性の本性」とは、自然の、作為的でない本性のことである。「原因の偉大さによって」とは、波羅蜜と呼ばれる仏を成す偉大な法という原因によって仏の功徳が生じること、と説かれたことになる。大地などの偉大な事物や、帝釈天の身分などの偉大なものは、それぞれの領域において一つずつのみであり、正等覚者もまた偉大であり、自らの領域において唯一である。そして、その領域とは何か。仏地、あるいは知るべきすべてのこと(所知)である。このように「空間のように無限の領域をもつ世尊は唯一である」と述べることによって、他界(他の世界)における第二の仏の不在を示している。
Imināva padenāti ‘‘ekissā lokadhātuyā’’ti iminā eva padena. Dasacakkavāḷasahassāni gahitāni jātikhettattā. Ekacakkavāḷenevāti iminā ekacakkavāḷeneva. Yathā – **‘‘imasmiṃyeva cakkavāḷe uppajjantī’’**ti vutte imasmimpi cakkavāḷe jambudīpeyeva, tatthapi majjhimapadese evāti paricchindituṃ vaṭṭati; evaṃ ‘‘ekissā lokadhātuyā’’ti jātikhette adhippetepi imināva cakkavāḷena paricchindituṃ vaṭṭati.
「まさにこの句によって」とは、「一つの世界に」というまさにこの句によって、ということである。生域であることから一万の世界が取られている。「まさに一つの世界によって」とは、この一つの世界のみによって、ということである。例えば、「まさにこの世界において生じる」と説かれたとき、この世界においても閻浮提においてのみであり、そこにおいてもまさに中印度においてのみであると限定するのが妥当であるように、「一つの世界に」と生域が意図されているときであっても、まさにこの世界によって限定するのが妥当である。
Vivādūpacchedatoti vivādūpacchedakāraṇā. Dvīsu uppannesu yo vivādo bhaveyya, tassa anuppādoyevettha vivādupacchedo. Ekasmiṃ dīpetiādinā dīpantarepi ekajjhaṃ na uppajjanti, pageva ekadīpeti dasseti. So parihāyethāti cakkavāḷassa padese eva vattitabbattā parihāyeyya.
「論争の遮断から」とは、論争を遮断する原因から、ということである。二人生じたときに生じるであろう論争、それの不生起こそがここでの論争の遮断である。「一つの島において」などによって、他の島であっても一堂に生じることはなく、一つの島においては言うまでもない、と示している。「それは衰退するであろう」とは、世界の領域においてのみ機能すべきであることから衰退するであろう、ということである。
130. Manussattanti manussabhāvo tasseva pabbajjādiguṇasampattiādīnaṃ yoggabhāvato. Liṅgasampattīti purisabhāvo. Hetūti manovacīpaṇidhānapubbikā hetusampadā. Satthāradassananti satthusammukhībhāvo. Pabbajjāti kammakiriyavādīsu tāpasesu, bhikkhūsu vā pabbajjā. Guṇasampattīti abhiññādiguṇasampadā. Adhikāroti buddhaṃ uddissa adhiko sakkāro. Chandatāti sammāsambodhiṃ uddissa sātisayo kattukamyatākusalacchando. Aṭṭhadhammasamodhānāti etesaṃ aṭṭhannaṃ dhammānaṃ samāyogena. Abhinīhāroti kāyapaṇidhānaṃ. Samijjhatīti nipphajjatīti ayamettha saṅkhepo, vitthāro pana paramatthadīpaniyā cariyāpiṭakavaṇṇanāya (cariyā. aṭṭha. pakiṇṇakakathā) vuttanayeneva veditabbo.
130. 「人間性」とは人間の状態であり、まさにそれに出家などの功徳の具足などの適合性があるからである。「性の具足」とは男性の状態である。「因」とは意と口の誓願を前駆とする原因の具足である。「師との対面」とは師の面前にあることである。「出家」とは業と行為を説く苦行者たちにおける、あるいは比丘たちにおける出家である。「徳の具足」とは神通などの徳の具足である。「功績」とは仏を指しての卓越した供養である。「意欲」とは正等覚を指しての、なすことを望む卓越した善なる意欲である。「八法の結合」とは、これら八つの法の結合によって、ということである。「誓願」とは身の誓願である。「成就する」とは完遂される、ということであり、これがここでの要約である。しかし詳細は『勝義灯』(所行蔵註)で説かれた方法によって知るべきである。
Sabbākāraparipūramevāti paripuṇṇalakkhaṇatāya sattussadādīhi sabbākārehi sampannameva. Na hi itthiyā kosohitavatthaguyhatā sambhavati, dutiyapakati ca nāma paṭhamapakatito nihīnā eva. Tenevāha anantaravāre **‘‘yasmā’’**tiādi.
「すべての様相を完全に満たした」とは、円満な相(三十二相)を有することによって、七処隆起などのすべての様相を具足した、ということである。実に女性には陰部が鞘に隠れている相(陰蔵相)はあり得ず、第二の性質(女性)は第一の性質(男性)よりも劣っているからである。それゆえに直後の節で「〜ゆえに」などと言ったのである。
Idha purisassa tattha nibbattanatoti imasmiṃ manussaloke purisabhūtassa tattha brahmaloke brahmattabhāvena nibbattanato. Tena asatipi purisaliṅge purisākārā brahmāno hontīti dasseti. Taṃyeva hi purisākāraṃ sandhāya vuttaṃ – **‘‘yaṃ puriso brahmattaṃ kareyyā’’**ti. Tenevāha **‘‘samānepī’’**tiādi. Yadi evaṃ itthiyo brahmaloke na uppajjantīti āha **‘‘brahmatta’’**ntiādi.
「ここでの男性がそこに生じることから」とは、この人間界における男性がかの梵天界に梵天の身として生じることからである。これによって、男性器は存在しないとしても、梵天たちは男性の姿形をしていると示している。実にその男性の姿形を指して「男性が梵天となるであろうということは」と説かれたのである。それゆえに「同等であるとしても」などと言った。「もしそうなら、女性は梵天界に生まれないのか」という疑念に対して、「梵天の状態を……」などと言ったのである。
131. Kāyaduccaritassātiādipāḷiyā kammaniyāmo nāma kathito. Samañjanaṃ samaṅgo, so etassa atthīti samaṅgī, samannāgato. Samañjanasīlo vā samaṅgī. Pubbabhāge āyūhanasamaṅgitā, sanniṭṭhāpakacetanāvasena cetanāsamaṅgitā. Cetanāsantativasena vā āyūhanasamaṅgitā, taṃtaṃcetanākhaṇavasena cetanāsamaṅgitā. Katūpacitassa avipakkavipākassa kammassa vasena kammasamaṅgitā, kamme pana vipaccituṃ āraddhe vipākappavattivasena vipākasamaṅgitā. Kammādīnaṃ upaṭṭhānakālavasena upaṭṭhānasamaṅgitā. Kusalākusalakammāyūhanakkhaṇeti kusalakammassa ca akusalakammassa ca samīhanakkhaṇe. Tathāti iminā kusalākusalakammapadaṃ ākaḍḍhati. Yathā kataṃ kammaṃ phaladānasamatthaṃ hoti, tathā kataṃ upacitaṃ. Vipākārahanti dutiyabhavādīsu vipaccanārahaṃ. Uppajjamānānaṃ upapattinimittaṃ upaṭṭhātīti yojanā. Calatīti parivattati. Ekena hi kammunā tajje nimitte upaṭṭhāpite paccayavisesavasena tato aññena kammunā aññassa nimittassa upaṭṭhānaṃ parivattanaṃ.
131. 「身の悪行の」などの聖典によって、業の決定が説かれている。結合(samañjana)は結合体(samaṅga)であり、これにそれが存在するゆえに「具足者(samaṅgī)」、すなわち具備した者である。あるいは結合する習性のある者が具足者である。前段階においては励起の具足であり、決定的思惟によって思惟の具足である。あるいは思惟の相続によって励起の具足であり、個々の思惟の瞬間によって思惟の具足である。作られ積集されて未だ異熟(果報)が熟していない業によって業の具足であり、しかし業が熟し始めたときには異熟の現起によって異熟の具足である。業などの現起の時によって現起の具足である。「善悪の業の励起の瞬間に」とは、善業および悪業の追求努力の瞬間に、ということである。「そのように」によって、善悪の業の句を引き入れる。作られた業が果報をもたらす能力を持つように、そのように作られ積集された。「異熟に相応しい」とは、第二の生などにおいて熟するのに相応しい。「生起する者たちに再生の標相が現れる」と解釈される。「動く」とは、転換するということである。一つの業によって相応の標相が現出された後、条件の特殊性によって、それ以外の業によって別の標相が現れることが転換である。
Sunakhajīvikoti sunakhehi jīvanasīlo. Talasantharaṇapūjanti bhūmitalassa pupphehi santaraṇapūjaṃ. Āyūhanacetanākammasamaṅgitāvasenāti kāyaduccaritassa aparāparaṃ āyūhanena sanniṭṭhāpakacetanāya tasseva pakappane kammakkhayakarañāṇena akhepitattā yathūpacitakammunā ca samaṅgibhāvassa vasena.
「犬の生活をする者」とは、犬のような生活を習性とする者。「敷物の供養」とは、地表に花を敷き詰める供養。「励起と思惟と業の具足によって」とは、身の悪行を次々に励起することによって、決定的思惟によりそれを構想することによって、業を滅尽する智によって滅ぼされていないがゆえに、積集された通りの業と具足する状態によって、ということである。
132. Evaṃ sassirikanti vuttappakārena anekadhātuvibhajanādinā nānānayavicittatāya paramanipuṇagambhīratāya ca atthato byañjanato ca sasobhaṃ katvā.
132. 「このように吉祥に満ちた」とは、説かれた態様によって、多くの界の分別などにより種々の論理が多彩であり、極めて精緻で甚深であることから、意味においても文字(表現)においても美しく輝くものとして、ということである。
Naṃ dhārehīti ettha nanti nipātamattaṃ. Dhātuādivasena parivaṭṭīyanti atthā etehīti parivaṭṭā, desanābhedā. Cattāro parivaṭṭā etassa, etasmiṃ vāti catuparivaṭṭo, dhammapariyāyo. Dhammo ca so pariyattibhāvato yathāvuttenatthena ādāsoti dhammādāso. Upaṭṭhānaṭṭhena yathādhammānaṃ ādāsotipi dhammādāso. Yathā hi ādāsena sattānaṃ mukhe maladosaharaṇaṃ, evaṃ imināpi suttena yogīnaṃ mukhe maladosaharaṇaṃ. Tasmāti yasmā iminā suttena kilese madditvā samathādhigamena yogino jayappattā; tasmā amatapurappavesane ugghosanamahābheritāya ca amatadundubhi. Idha vuttanti imasmiṃ sutte vuttaṃ. Anuttaro saṅgāmavijayoti anuttarabhāvato kilesasaṅgāmavijayo, ‘‘vijeti etenā’’ti katvā. Sesaṃ suviññeyyameva.
「それを把持せよ」において、「それを(naṃ)」は単なる不変化詞である。界などによって意味がこれらによって転回(分類)されるゆえに転回(parivaṭṭā)、すなわち教説の区分である。これに四つの転回がある、あるいはこれにおいて(四つの転回がある)ゆえに「四転(catuparivaṭṭo)」の法門である。そしてその法は、教説(聖典)である状態から、説かれた通りの意味において鏡であるゆえに「法の鏡(dhammādāso)」である。現起するという意味において、諸法のありのままの鏡でもあるゆえに「法の鏡」である。鏡によって生きとし生けるものの顔の汚れや欠陥が除かれるように、このようにこの経によっても修習者の顔(心)の汚れや欠陥が除かれる。それゆえに、この経によって煩悩を粉砕して止寂の獲得により修習者たちが勝利を得たがゆえに、不死の都に入る際の布告の大太鼓であることから「不死の鼓(amatadundubhi)」である。「ここで説かれた」とは、この経において説かれた。「無上の戦勝」とは、無上であることから煩悩の戦いにおける勝利であり、「これによって勝利する」としてである。残りは容易に理解できる。
Bahudhātukasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.
多界経の注釈の深義解説を終わる。
6. Isigilisuttavaṇṇanā
6. 仙人呑経の注釈
133. Samaññāyati etāyāti samaññā, nāmanti attho. Ayamayaṃ nāmāti paññāpenti etāya, tathāpaññāpanamattanti vā paññatti, nāmameva. Tenāha **‘‘purimapadasseva vevacana’’**nti. Sesesupīti ‘‘paṇḍavassa pabbatassā’’tiādīsu tīsu vāresupi.
133. これによって名づけ知られるゆえに「名称(samaññā)」、名前という意味である。「これはこれという名である」とこれによって施設(提示)する、あるいはそのように施設することそのものが「概念・施設(paññatti)」であり、名前そのものである。それゆえに「**前の語の同義語である**」と言った。「他のものにおいても」とは、「パーンダヴァ山において」などの三つの巡り(箇所)においても、ということである。
Samuṭṭhānaṃ tāva suttassa kathetvā atthasaṃvaṇṇanaṃ kātuṃ **‘‘tadā kirā’’**tiādi vuttaṃ. Na pabbatehi atthoti na bhagavato pabbatehi kathitehi attho atthi. Isigilibhāvoti isigilināmatā. Itīti iminā kāraṇena, imaṃ aṭṭhuppattiṃ avekkhantoti attho.
まず経の起原を語って意味の解説をするために、「**その時、伝えられるところでは**」などが説かれた。「山によって意味(用)があるのではない」とは、世尊にとって山が語られることによって用(目的)があるのではない。「仙人呑である状態」とは、仙人呑という名称であること。「このように」とは、この理由によって、この事脈の発生を観照して、という意味である。
Cetiyagabbheti cetiyaghare cetiyassa abbhantare. Yamakamahādvāranti yamakakavāṭayuttaṃ mahantaṃ dvāraṃ. Dvedhā katvāti pabbatassa abbhantare maṇḍapasaṅkhepena leṇaṃ nimminitvā dvedhā katvā tadā te tattha vasiṃsu.
「祠堂の胎内において」とは、祠堂の堂内、祠堂の内部において。「対の大きな扉」とは、対の扉がついた大きな扉。「二つに分ち」とは、山の内部に東屋のような形で窟を造り出して二つに分ち、その時彼らはそこに住んだ。
Vasitakālañca kathento tesaṃ mātuyā yāva tatiyabhavato paṭṭhāya samudāgamaṃ dassetuṃ, **‘‘atīte kirā’’**tiādi vuttaṃ. Patthesīti tassā kira khettakuṭiyā vīhayo bhajjantiyā tattha mahākarañjapupphappamāṇā mahantā manoharā pañcasatamattā lājā jāyiṃsu. Sā tā gahetvā mahante paduminipatte ṭhapesi. Tasmiñca samaye eko paccekabuddho tassā anuggahatthaṃ avidūre khettapāḷiyā gacchati. Sā taṃ disvā pasannamānasā supupphitaṃ mahantaṃ ekaṃ padumaṃ gahetvā tattha lāje pakkhipitvā paccekabuddhaṃ upasaṅkamitvā pañcapatiṭṭhitena vanditvā, ‘‘imassa, bhante, puññassa ānubhāvena ānubhāvasampanne pañcasataputte labheyya’’nti pañca puttasatāni patthesi. Tasmiṃyeva khaṇeti yadā sā yathāvuttaṃ patthanaṃ paṭṭhapesi; tasmiṃyeva khaṇe pañcasatā migaluddakā sambhatasambhārā paripakkapaccekabodhiñāṇā tasseva paccekabuddhassa madhuramaṃsaṃ datvā, ‘‘etissā puttā bhaveyyāmā’’ti patthayiṃsu. Atītāsu anekajātīsu tassā puttabhāvena āgatattā tathā tesaṃ ahosīti vadanti. Pāduddhāreti pāduddhāre pāduddhāre. Pāduddhārasīsena cettha nikkhipanaṃ āha.
彼らが住んだ時を語りつつ、彼らの母の第三の生より始まる集大成を示すために、「**過去において、伝えられるところでは**」などが説かれた。「願った」とは、伝えられるところでは、彼女が田の小屋で籾米を炒っていたとき、そこに大きなカランジャの花の大きさほどの、大きく美しい約五百粒の炒り米が生じた。彼女はそれらを取って大きな蓮の葉の上に置いた。そしてその時、一人の独覚(辟支仏)が彼女を済度するために、田のあぜ道の近くを通っていた。彼女は彼を見て澄んだ心となり、美しく咲いた大きな一つの蓮の花を取ってそこに炒り米を入れ、独覚に近づいて五体投地で礼拝し、「尊者よ、この功徳の威力によって、威力ある五百人の息子たちを得られますように」と五百人の息子を願った。まさにその瞬間、彼女が前述の願いを立てたその瞬間に、資糧を積集し独覚の菩提の智が熟していた五百人の鹿の狩人が、まさにその独覚に美味な肉を供養して、「彼女の息子となりますように」と願った。過去の多くの生において彼女の息子として転生してきたゆえに、彼らに対してそのようになったのだと言われる。「足を踏み上げるごとに」とは、足を一歩一歩踏み上げるごとに。そしてここでは、足を踏み上げることを頭として、足を下ろすことも言っている。
Gabbhamalaṃ nissāyāti bahi nikkhantaṃ gabbhamalaṃ nissayaṃ katvā saṃsedajabhāvena nibbattā. Opapātikabhāvenāti keci. Khayavayaṃ paṭṭhapetvāti vipassanaṃ ārabhitvā. Vipassanāti aniccānupassanāpubbikā sappaccayanāmarūpadassanapubbikā ca, saṅkhāre sammasantassa aniccalakkhaṇe diṭṭhe, ‘‘yadaniccaṃ taṃ dukkhaṃ, yaṃ dukkhaṃ tadanattā’’ti sesalakkhaṇāni suviññeyyāneva honti. Paccekabodhiñāṇaṃ nibbattayiṃsūti dve asaṅkhyeyyāni kappānaṃ satasahassañca paccekabodhipāramitāya parinipphannattā ñāṇassa paripākattā vuttanayena sayameva vipassanaṃ pavattetvā matthakaṃ pāpetvā paccekabodhiñāṇaṃ adhigacchiṃsu. Sabbepi te taṃyeva gāthaṃ abhāsiṃsūti āha – **‘‘ayaṃ tesaṃ byākaraṇagāthā ahosī’’**ti.
「胎の汚れに依拠して」とは、外に出た胎の汚れを依拠(縁)として湿生として生まれた。「化生として」と言う者たちもいる。「壊滅を生起させて」とは、毘鉢舎那(ヴィパッサナー)を始めて。「毘鉢舎那」とは、無常の随観を先駆けとし、縁を伴う名色を観察することを先駆けとして、諸行を思惟する者に無常の相が見られたとき、「無常であるものは苦であり、苦であるものは無我である」と、残りの相は極めて容易に理解される。「独覚の菩提の智を生起させた」とは、二阿僧祇と十万劫にわたる独覚の菩提の波羅蜜が成就したゆえに、智が成熟したことから、説かれた方法によって自ら毘鉢舎那を行じ、頂点に達せしめて独覚の菩提の智を証得した。彼ら全員がまさにその詩偈を唱えたゆえに、「**これが彼らの告白の詩偈であった**」と言った。
Saroruhanti sarasi jātaṃ. Padumapalāsapattajanti khuddakamahantehi kamaladalehi sahajātaṃ. Khuddakamahantakamaladalasaṅkhātāni vā padumapalāsapattāni ettha santīti padumapalāsapattaṃ, padumagacchaṃ. Tattha jātanti padumapalāsapattajaṃ. Supupphitanti suṭṭhu pupphitaṃ sammā vikasitaṃ. Bhamaragaṇānuciṇṇanti bhamaragaṇehi anukulañceva anuparibbhamitañca. Aniccatāyupagatanti khaṇe khaṇe vaṇṇabhedādivasena aniccatāya upagataṃ. Viditvāti vipassanāpaññāsahitāya maggapaññāya jānitvā. Eko careti tasmā aññopi mādiso hotukāmo evaṃ paṭipajjitvā eko care khaggavisāṇakappoti.
「池に生じたもの(saroruha)」とは、湖に生じたもの。「蓮の葉と花弁から生じたもの」とは、大小の蓮の葉と共に生じたもの。あるいは大小の蓮の花弁と呼ばれる蓮の葉がここにあるゆえに蓮の葉(株)であり、蓮の茂みである。そこに生じたゆえに蓮の葉と花弁から生じたものである。「美しく咲いた」とは、実に見事に咲き、正しく開花した。「蜂の群れが群がる」とは、蜂の群れによって親しまれ、周りを飛び回られた。「無常性に至ったのを」とは、瞬間ごとに色合いの変化などによって無常性に至ったのを。「知って」とは、毘鉢舎那の智慧を伴う道の智慧によって知って。「独り歩め」とは、それゆえに私のようになりたいと望む他の者も、このように実践して、犀の角のように独り歩むべし、と。
135. Satisārasīlasārādisamannāgamanena sattesu sārabhūtā. Sabbaso vaṭṭadukkhassa vigatattā niddukkhā. Samucchinnataṇhatāya nittaṇhā. Mānacchidoti thutivacanaṃ.
135. 念の精髄や戒の精髄などを具備することによって、衆生の中で精髄(最勝)となった者たち。輪廻の苦しみが完全に離れているゆえに「無苦の者たち」。渇愛が断絶しているゆえに「無愛の者たち」。「慢を断じた者」とは称賛の言葉である。
Etesaṃ ekanāmakāyevāti etesaṃ āgatānaṃ paccekabuddhānaṃ pāḷiyaṃ anāgatā aññe paccekabuddhā samānanāmakā eva. Vuttamevatthaṃ pākaṭīkaraṇatthaṃ **‘‘imesu hī’’**tiādi vuttaṃ. Visuṃ visuṃ avatvāti paccekaṃ sarūpato avatvā. Aññe cāti asādhāraṇattā āha. Sesaṃ suviññeyyameva.
「彼らと同名である」とは、これらの現れた独覚たちと、聖典に現れていない他の独覚たちはまさに同名である。説かれた意味を明白にするために「**実にこれらにおいて**」などが説かれた。「個々に言わずに」とは、個別に具体的に言わずに。「他の者たちも」とは、非共通(特別)であることから言った。残りは容易に理解できる。
Isigilisuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.
仙人呑経の注釈の深義解説を終わる。
7. Mahācattārīsakasuttavaṇṇanā
7. 大四十経の注釈
136. Dosehi ārakāti ariyaṃ. Tenāha **‘‘niddosa’’**nti. Sā pana niddosatā lokuttarabhāvena savisesāti āha **‘‘lokuttara’’**nti. Sammā sundaro pasattho niyyāniko samādhi sammāsamādhīti āha – **‘‘sammāsamādhinti maggasamādhi’’**nti. Upanisīdati ettha phalaṃ tappaṭibaddhavuttitāyāti upanisaṃ, kāraṇanti āha – **‘‘saupanisanti sappaccaya’’**nti. Parikaroti parivāretīti parikkhāroti āha – **‘‘saparikkhāranti saparivāra’’**nti.
136. 諸々の過失から遠く離れているゆえに「聖なる(ariya)」である。それゆえに「**無過失の**」と言った。しかしその無過失であることは出世間であることによって卓越しているゆえに「**出世間の**」と言った。正しく、善美で、称賛され、解脱に導く三摩地が正定であるゆえに、「**正定とは道の三摩地である**」と言った。これに結果が依存して生起することによって依処となるゆえに「依処(upanisa)」、すなわち原因であることから、「**依処を伴うとは条件を伴うこと**」と言った。取り囲み、従えるゆえに「資糧(parikkhāra)」であることから、「**資糧を伴うとは眷属を伴うこと**」と言った。
Parivāritāti sahajātādipaccayabhāvena parivārantehi viya upagatā. Purecārikāti vuṭṭhānagāminibhāvanā sahajātādipaccayavasena paccayattā purassarā. Tenāha – **‘‘vipassanāsammādiṭṭhi cā’’**ti. Idāni tāni kiccato dassetuṃ, **‘‘vipassanāsammādiṭṭhī’’**tiādi vuttaṃ. Tattha parivīmaṃsaggahaṇaṃ tattha tattha cittuppāde vīmaṃsādhipateyyena pavattiyā sammādiṭṭhiyā pubbaṅgamabhāvadassanatthaṃ. Tenassa maggasamādhissa nānākhaṇikaṃ pubbaṅgamabhāvaṃ dasseti. Vīmaṃsanapariyosāneti tathāpavattaanulomañāṇassa osāne. Bhūmiladdhaṃ vaṭṭaṃ samugghāṭayamānāti attano santāne dīgharattaṃ anusayitaṃ kilesavaṭṭaṃ samucchindanti. Vūpasamayamānāti tasseva vevacanaṃ. Vūpasamayamānāti vā tato eva avasiṭṭhampi vaṭṭaṃ appavattikaraṇavasena vūpasamenti. Tenevāha – **‘‘maggasammādiṭṭhi…pe… uppajjatī’’**ti. Sāti sammādiṭṭhi. Duvidhāpīti yathāvuttā duvidhāpi. Idha adhippetā vipassanāpaññāsahitāya maggapaññāya kiccassa dassitattā.
「取り囲まれた」とは、倶生などの条件の状態によって取り囲むかのように寄り添っている。「先駆する」とは、出起(解脱)に至る修習が倶生などの条件により原因となるゆえに先駆することである。それゆえに「**毘鉢舎那の正見もまた**」と言った。今それらを作用から示すために、「**毘鉢舎那の正見は**」などが説かれた。そこでの簡択の把持は、種々の心の生起において簡択の主導権によって生起する正見が先行することを示すためである。それによって、その道の三摩地に対して異刹那における先行状態を示す。「簡択の終極において」とは、そのように生起した随順智の終極において。「境地を得た輪廻を根絶しつつ」とは、自身の相続において永きにわたり随眠していた煩悩の輪廻を断絶しつつ。「寂静にしつつ」とは、それと同義語である。あるいは「寂静にしつつ」とは、それから残った輪廻をも生起させないことによって寂静にすることである。まさにそれゆえに「**道の正見が…中略…生じる**」と言った。「それは」とは、正見である。「二種ともに」とは、前述の二種ともに。ここでは、毘鉢舎那の智慧を伴う道の智慧の作用が示されているゆえに意図されている。
Lakkhaṇe paṭivijjhamāne lakkhaṇiko dhammo paṭividdho hotīti āha – **‘‘micchādiṭṭhiṃ…pe… ārammaṇato pajānātī’’**ti. Vipassanāsammādiṭṭhiyampi eseva nayo. Kiccatoti bhāvanākiccato. Sammādiṭṭhiyaṃ tadadhigataasammohatāya asammohato pajānāti. Kiccatoti paṭivedhakiccato. Taṃ pana sabbathā asammuyhanamevāti āha **‘‘asammohato’’**ti. Evaṃ pajānanāti micchādiṭṭhi micchādiṭṭhīti yāthāvato avabodho. Assāti taṃsamaṅgino puggalassa.
相(特徴)を貫通して知るとき、その相を持つ法が貫通して知られたことになるゆえに、「**邪見を…中略…所縁から了知する**」と言った。毘鉢舎那の正見においてもこの通則である。「作用から」とは、修習の作用から。正見において、それによって得られた不癡(無迷妄)によって不癡から了知する。「作用から」とは、通達の作用から。しかしそれは完全に迷妄しないことそのものであるゆえに「**不癡から**」と言った。「このように了知すること」とは、邪見を邪見であると如実に覚知することである。「彼にとって」とは、それを具足した人物にとって。
Dvāyanti -kāro dīghaṃ katvā vutto. Tenāha **‘‘dvayaṃ vadāmī’’**ti. Dve avayavā etassāti dvayaṃ. Tenāha **‘‘duvidhakoṭṭhāsaṃ vadāmī’’**ti. Puññassa eko bhāgo so eva puññabhāgiko, ka-kārassa ya-kāraṃ katvā itthiliṅgavasena **‘‘puññabhāgiyā’’**ti vuttaṃ. Upadhisaṅkhātassāti khandhapabandhasaṅkhātassa.
「二つのもの(dvāyaṃ)」とは、接尾辞を長音にして説かれたものである。それゆえに「**二つのものを説く**」と言った。これに二つの部分があるゆえに二つ(dvaya)である。それゆえに「**二つの部分を説く**」と言った。福徳の一つの区分、それそのものが福徳の区分(puññabhāgika)であり、ka音をya音にして女性形により「**福徳の区分に属する(puññabhāgiyā)**」と説かれた。「所依と呼ばれるものの」とは、諸蘊の連続と呼ばれるものの。
Amatadvāranti ariyamaggaṃ. Paññapetīti niyyānādipakārato paññapeti. Tenāha **‘‘vibhajitvā dassetī’’**ti. Tattha sammohassa viddhaṃsanena asammohato dasseti. Tasmiṃ attheti amatadvārapaññāpane atthe. Bojjhaṅgappattāti bojjhaṅgabhāvappattā. Maggabhāvena niyyānabhāvena pavattiyā maggapaññāya aṭṭhannampi sādhāraṇattā samudāyassa ca avayavo aṅganti katvā sesadhamme aṅgikabhāvena dassento **‘‘ariyamaggassa aṅga’’**nti āha. So bhikkhūti micchādiṭṭhiṃ ‘‘micchādiṭṭhī’’ti sammādiṭṭhiṃ ‘‘sammādiṭṭhī’’ti jānanto bhikkhu. Pajahanatthāyāti samucchedavasena pajahanāya. Paṭilābhatthāyāti maggasammādiṭṭhiyā adhigamāya. Kusalavāyāmoti vipassanāsampayuttova kosallasambhūto vāyāmo. Saratīti sato, taṃ panassa saraṇaṃ satisamaṅgitāyāti āha **‘‘satiyā samannāgato’’**ti. Kāmañcettha vipassanāsammādiṭṭhiṃ yathābhūtā sammāvāyāmasatiyo sahajātā ca purejātā ca hutvā parivārenti, ‘‘itiyime tayo dhammā sammādiṭṭhiṃ anuparidhāvanti anuparivattantī’’ti pana vacanato, ‘‘ettha hī’’tiādinā maggasammādiṭṭhiyā eva sesadhammānaṃ yathārahaṃ sahacaraṇabhāvena parivāraṇaṃ yojitaṃ. Sammāsaṅkappādīnanti ādi-saddena sammāvācākammantājīvānaṃ gahaṇaṃ itaresaṃ parivārabhāvena gahitattā. Na hi sakkā te eva parivāre parivāravante ca katvā vattuṃ saṅkarato sammohajananato ca. Tayoti sammādiṭṭhivāyāmasatiyo sahajātaparivārāva honti maggakkhaṇikānaṃ tesaṃ adhippetattā vipassanākhaṇaviratīnaṃ asambhavato.
「不死の門」とは、聖道。「施設する(明示する)」とは、解脱に至るなどの様態から施設する。それゆえに「**分別して示す**」と言った。そこにおいて迷妄を打破することによって不癡から示す。「その意味において」とは、不死の門を施設するという意味において。「覚支に達した」とは、覚支の状態に達した。道の状態として、解脱に至る状態として生起する道の智慧は八支すべてに共通であること、および全体の部分が支分であるとして、残りの諸法を支分である状態として示しつつ、「**聖道の支分**」と言った。「その比丘」とは、邪見を「邪見である」と、正見を「正見である」と知る比丘。「捨断のために」とは、断絶による捨断のために。「獲得のために」とは、道の正見の証得のために。「善なる努力」とは、毘鉢舎那に相応した、巧みさから生じた努力。「念じる」ゆえに念じる者であり、しかしその念じることは彼の念の具足によるゆえに「**念を具足した**」と言った。そしてここでは確かに、毘鉢舎那の正見を取り囲むのは、如実なる正精進と正念が倶生および前生となってである。「このようにこれら三つの法が正見の周りをめぐり、転回する」という教説から、「実にここにおいて」などにより、道の正見に対してこそ、残りの諸法が相応しい倶行の状態によって取り囲むことが結合された。「正思惟などの」とは、「など」の語によって正語・正業・正命の把持であり、他のもの(正見・正精進・正念)は取り囲むもの(眷属)として把持されているからである。それら自身を取り囲むものとし、また取り囲まれるものとして語ることは、混同や迷妄を生じさせるためできない。三つとは、正見・正精進・正念であり、これらは倶生の眷属にほかならない。道刹那のこれらが意図されており、毘鉢舎那の刹那における離(離邪語など)は存在しないからである。
137. Takkanavasena lokasiddhenāti adhippāyo. ‘‘Evañcevañca bhavitabba’’nti vividhaṃ takkanaṃ kūpe viya udakassa ārammaṇassa ākaḍḍhanaṃ vitakkanaṃ vitakko. Saṅkappanavasenāti taṃ taṃ ārammaṇaṃ gahetvā kappanavasena. Takkanaṃ kappananti ca ataṃsahajātānamevāti daṭṭhabbaṃ. Ekaggoti iminā samādhinā laddhupakārasseva vitakkassa appanāpariyāyo hotīti dasseti. Visesena vā appanā vitakkassa vasena cittaṃ ārammaṇaṃ abhiropeti, vitakke asati kathanti āha **‘‘vitakke panā’’**tiādi. Attanoyeva dhammatāya cittaṃ ārammaṇaṃ abhiruhatīti, etena ārammaṇadhammānaṃ gahaṇaṃ nāma sabhāvasiddhaṃ, na dhammantaramapekkhati, vitakko pana pavattamāno ārammaṇābhiniropanavaseneva pavattatīti dasseti. Evaṃ santepi sabhāvāvitakkacittuppādato savitakkacittuppādassa ārammaṇaggahaṇaviseso vitakkena jātoti katvā vitakko cittassa ārammaṇaggahaṇe visesapaccayoti pākaṭoyamattho. Apare pana bhaṇanti – yathā koci rājavallabhaṃ, taṃsambandhīnaṃ mittaṃ vā nissāya rājagehaṃ ārohati anupavisati, evaṃ vitakkaṃ nissāya cittaṃ ārammaṇaṃ ārohati vitakkassa ārammaṇābhiniropanasabhāvattā, aññesaṃ dhammānañca avitakkasabhāvato. Tenāha bhagavā – ‘‘cetaso abhiniropanā’’ti (dha. sa. 7).
137. 尋求(思惟)によって世間に知られたものによって、というのが意図である。「このようであり、このようであるべきだ」という種々の尋求は、井戸における水のように所縁を引き寄せること、探求することが尋(vitakka)である。「思惟によって」とは、個々の所縁を取って構想することによって。尋求と構想は、それに倶生しない諸法のみのものであると見なされるべきである。「一境性」とは、これによって三摩地により助力を得た尋にのみ安止の論理があることを示す。あるいは特別に安止は尋によって心を所縁へと専従させるが、尋がないときにはどうなのかと言って、「**しかし尋がないときには**」などが説かれた。自らの本性によって心が所縁へと専従する、ということによって、所縁の諸法を把持することは自性によって確立したものであり、他の法を待たないが、尋は生起するとき所縁への専従によってのみ生起することを示す。このようであっても、自性において無尋の心の生起に比して、有尋の心の生起の所縁把持の卓越は尋によって生じたものであるとして、尋は心の所縁把持における卓越した条件である、というこの意味は明白である。しかし他の者たちは言う――あたかも何者かが王の寵臣やその縁者の友人を頼って王宮に登り入るように、このように尋を頼って心が所縁へと登る。尋は所縁への専従を自性とし、他の法は無尋を自性とするからである。それゆえに世尊は「心の専従(cetaso abhiniropanā)」と説かれた。
Yadi evaṃ kathaṃ avitakkacittaṃ ārammaṇaṃ ārohatīti? Vitakkabaleneva. Yathā hi so puriso paricayena tena vināpi nirāsaṅko rājagehaṃ pavisati, evaṃ paricayena vitakkena vināpi avitakkaṃ cittaṃ ārammaṇaṃ ārohati. Paricayenāti ca santāne pavattavitakkabhāvanāsaṅkhātena paricayena. Vitakkassa hi santāne abhiṇhaṃ pavattassa vasena cittassa ārammaṇābhiruhanaṃ ciraparicitaṃ; tena taṃ kadāci vitakkena vināpi tattha pavattateva; yathā ñāṇasahagataṃ cittaṃ sammasanavasena ciraparicitaṃ kadāci ñāṇarahitampi sammasanavasena pavattati; yathā vā kilesasahitaṃ hutvā pavattaṃ sabbaso kilesarahitampi paricayena kilesavāsanāvasena pavattati, evaṃ sampadamidaṃ daṭṭhabbaṃ.
もしそうなら、どのようにして無尋の心が所縁へと登るのか。尋の力によってである。あたかもその人物が親熟によって、その人なしでも恐れなく王宮に入るように、このように親熟によって尋なしでも無尋の心は所縁へと登る。「親熟によって」とは、相続において生起した尋の修習と呼ばれる親熟によってである。相続において絶え間なく生起した尋によって、心の所縁への専従が長年親熟している。それによって、それは時に尋なしでもそこにおいて生起するのである。あたかも智を伴う心が、思惟によって長年親熟していると、時に智を離れても思惟によって生起するように。あるいは煩悩を伴って生起したものが、完全に煩悩を離れても親熟により煩悩の残気によって生起するように、このようにこの事態も見なされるべきである。
Vācaṃ saṅkharotīti vācaṃ uppādeti, vacīghosuppattiyā visesapaccayo hotīti attho. Lokiyavitakko dvattiṃsacittasahagato vācaṃ saṅkharoti vacīviññattijananato. Vacīsaṅkhārotveva panassa nāmaṃ hoti ruḷhito, taṃsamatthatānirodhato vā sambhavato pana saṅkhāroti. **‘‘Lokuttarasammāsaṅkappaṃ parivārentī’’**ti vatvā tividhe sammāsaṅkappe kadāci katamaṃ parivārentīti? Codanaṃ sandhāyāha **‘‘etthā’’**tiādi. Nānācittesu labbhanti nānāsamannāhārahetukattā, pubbabhāgeyeva ca te uppajjantīti. Tīṇi nāmāni labhati tividhassapi paṭipakkhassa samucchindanena sātisayaṃ tiṇṇampi kiccakaraṇato. Esa nayo sammāvācādīsupi.
「言葉を形成する」とは、言葉を生じさせる、言葉の音声の生起に対して卓越した条件となる、という意味である。世間の尋は三十二の心に伴って、語表を生じさせることから言葉を形成する。しかし慣習によって、あるいはその能力の制御から、あるいは生起することから「語行(vacīsaṅkhāra)」という名を持つ。「**出世間の正思惟を取り囲む**」と説いて、三種の正思惟において時としてどれを取り囲むのか、という詰問を念頭に置いて「**ここにおいて**」などを言った。種々の配慮を原因とするゆえに種々の心において得られ、前段階においてのみそれらは生じる、と。三種の対立するものを断絶することによって、際立って三つの作用をも為すゆえに三つの名を得る。この通則は正語などにおいても同様である。
138. Viramati etāyāti veramaṇī virati vuccati. Sā musāvādato viramaṇassa kāraṇabhāvato cetanāpi verassa maṇanato vināsanato viratipīti āha – **‘‘viratipi cetanāpi vaṭṭatī’’**ti. Ārakā ramatīti samucchinnehi dūrato samussāreti. Vinā tehi ramatīti accantameva tehi vinā bhavati. Tato tatoti diṭṭhe adiṭṭhavādādito musāvādā. Visesato anuppattidhammattā paṭinivattā hutvā.
138. これによって離れる(viramati)ゆえに離罪(veramaṇī)、すなわち離(virati)と呼ばれる。それは妄語から離れることの原因であることから思惟でもあり、敵意(vera)を粉砕し滅ぼすことから離でもあるゆえに、「**離も思惟も妥当する**」と言った。「遠く離れて楽しむ」とは、断絶されたものたちから遠くに退けることである。「それらなしで楽しむ」とは、完全にそれらなしであることである。「それらそれらから」とは、見たものを見ていないと言うことなどの妄語から。特に不生起の法であることから、引き返したものとなって。
140. Tividhena kuhanavatthunāti paccayapaṭisevana-sāmantajappana-iriyāpathapavattanasaṅkhātena pāpicchatā nibbattena tividhena kuhanavatthunā. Etāya kuhanāya karaṇabhūtāya paccayuppādanatthaṃ nimittaṃ sīlaṃ etesanti yojanā. Attavisayalābhahetu akkosanakhuṃsanavambhanādivasena pisanaṃ ghaṭṭanaṃ viheṭhanaṃ nippeso. Ito laddhaṃ aññassa, tato laddhaṃ parassa datvā evaṃ lābhena lābhaṃ nijigīṃsatīti lābhena lābhaṃ nijigīṃsanā. Pāḷiyaṃ āgato kuhanādivasena micchāājīvo. Ko pana soti āha **‘‘ājīvahetū’’**tiādi. Tāsaṃyevāti avadhāraṇaṃ, ‘‘ājīvo kuppamāno kāyavacīdvāresu eva kuppatī’’ti katvā vuttaṃ.
140. 「三種の詐現の事由によって」とは、資具の受用・近隣の語らい・威儀の現起と呼ばれる、悪欲から生じた三種の詐現の事由によって。この作因となった詐現によって、資具を生じさせるための標相を習性とする者たち、と解釈される。自己の領域の利得を原因として、罵倒・侮辱・軽蔑などによってすり潰し、衝突し、悩乱することが「圧搾(nippeso)」である。ここから得たものを他者に、そこから得たものを別の者に与えて、このように利得によって利得を熱望することが「利得による利得の熱望(lābhena lābhaṃ nijigīṃsanā)」である。聖典に現れる詐現などによる邪命である。ではそれは何かと言って、「**生活の手段を原因として**」などが説かれた。「それらのみの」とは限定であり、「生活手段が損なわれるとき、身と口の門においてのみ損なわれる」として説かれた。
141. Sammā pasatthā sobhanā niyyānikā diṭṭhi etassāti sammādiṭṭhi, puggalo. Tassa pana yasmā sammādiṭṭhi saccābhisamayassa nibbānasacchikiriyāya avassayo, tasmā vuttaṃ – **‘‘maggasammādiṭṭhiyaṃ ṭhitassā’’**ti. Pahoti bhavati tāya saheva uppajjati pavattati. Paccavekkhaṇañāṇaṃ yāthāvato jānanaṭṭhena sammāñāṇanti idhādhippetaṃ, tañca kho maggasamādhimhi ṭhite eva hotīti imamatthaṃ dassetuṃ āha – **‘‘maggasammāsamādhimhi…pe… sammāñāṇaṃ pahotī’’**tiādi. Iminā kiṃ dassetīti? Yathā maggasammādiṭṭhiyaṃ ṭhito puggalo, ‘‘sammādiṭṭhī’’ti vutto, evaṃ maggaphalapaccavekkhaṇañāṇe ṭhito, ‘‘sammāñāṇo’’ti vutto, tassa ca maggaphalasammāsamādhipavattiyā pahoti sammāñāṇassa sammāvimuttiyā pahotīti imamatthaṃ dasseti. Phalasamādhi tāva pavattatu, maggasamādhi pana kathanti? Tampi akuppabhāvatāya accantasamādhibhāvato kiccanipphattiyā pavattatevāti vattabbataṃ labhati. Ṭhapetvā aṭṭhaphalaṅgānīti phalabhūtāni sammādiṭṭhiādīni aṭṭhaṅgāni, ‘‘sammādiṭṭhissa sammāsaṅkappo pahotī’’tiādinā visuṃ gahitattā ṭhapetvā. Sammāñāṇaṃ paccavekkhaṇaṃ katvāti paccavekkhaṇañāṇaṃ sammāñāṇaṃ katvā. Phalaṃ kātunti phaladhammasahacaritatāya vipākasabhāvatāya ca ‘‘phala’’nti laddhanāme phalasampayuttadhamme sammāvimuttiṃ kātuṃ vaṭṭatīti vuttaṃ. Tathā ca vuttaṃ sallekhasuttavaṇṇanāyaṃ (ma. ni. aṭṭha. 1.83) ‘‘phalasampayuttāni pana sammādiṭṭhiādīni aṭṭhaṅgāni ṭhapetvā sesadhammā sammāvimuttīti veditabbā’’ti.
141. 正しく、称賛され、善美で、解脱に導く見解をこれに持つゆえに「正見」であり、人物のことである。しかし彼にとって正見は真理の現観、涅槃の作証の依処であるゆえに、「**道の正見に留まる者にとって**」と説かれた。「生じる」とは、存在する、それと共に生起する、作用する、ということである。如実に知るという意味での省察智が、ここで意図された「正智」であり、そしてそれはまさに道の三摩地に留まる時に生じる、というこの意味を示すために、「**道の正定において…中略…正智が生じる**」などが説かれた。これによって何を示すのか。あたかも道の正見に留まる人物が「正見の者」と言われるように、このように道と果の省察智に留まる者が「正智の者」と言われ、そして彼には道と果の正定の生起によって正智が生じ、正解脱が生じる、というこの意味を示すのである。果の三摩地はまず生起するとして、道の三摩地はどのようにしてか。それも不退転であることから究極の三摩地であるゆえに、作用の成就によって生起する、と語られるべき立場を得る。「八つの果の支分を除いて」とは、果となった正見などの八支を、「正見の者には正思惟が生じる」などによって個別に取られているゆえに除いて。「正智を省察として」とは、省察智を正智として。「果となす」とは、果の法に伴うことによって、また異熟の自性であることによって「果」と名づけられた果相応の諸法を、正解脱となすことが妥当であると説かれた。そしてそれは削減経の注釈(マッジマ・ニカーヤ注釈 1.83)においても、「果相応の正見などの八支を除いて、残りの諸法が正解脱であると知られるべきである」と説かれている通りである。
142. Nijjiṇṇāti nijjīritā, viddhastā vināsitāti attho. Phalaṃ kathitanti ‘‘sammādiṭṭhissa, bhikkhave, micchādiṭṭhi nijjiṇṇā hotī’’ti iminā vārena sāmaññaphalaṃ kathitanti vadanti, nijjīraṇaṃ paṭippassambhananti adhippāyo. Nijjīraṇaṃ pana samucchindananti katvā, majjhimabhāṇakā…pe… maggo kathitoti vadanti. Dassanaṭṭhenāti pariññābhisamayādivasena catunnaṃ saccānaṃ paccakkhato dassanaṭṭhena. Viditakaraṇaṭṭhenāti paccakkhena yathādiṭṭhānaṃ maggaphalānaṃ pākaṭakaraṇaṭṭhena. Tadadhimuttaṭṭhenāti tasmiṃ yathāsacchikate nibbāne adhimuccanabhāvena.
142. 「消化された」とは、擦り減らされた、打ち砕かれ滅ぼされた、という意味である。「果が説かれた」とは、「比丘たちよ、正見の者には邪見が消化される」というこの巡り(文脈)によって沙門果が説かれた、と彼らは言う。消化とは止息であるというのが意図である。しかし消化とは断絶であるとして、中誦者たちは…中略…道が説かれた、と言う。「観察の意味によって」とは、遍知の現観などによって四聖諦を直接に観察するという意味によって。「既知となす意味によって」とは、直接に如実に観察された道と果を明白にするという意味によって。「それへの信解の意味によって」とは、その如実に作証された涅槃に信解する状態によって。
Kusalapakkhāti anavajjakoṭṭhāsā. Mahāvipākadānenāti mahato vipulassa lokuttarassa sukhavipākassa ceva kāyikādidukkhavipākassa ca dānena.
「善の側」とは、無過失の区分。「大果報を与えることによって」とは、大いなる広大な出世間の楽の果報、および身体的などの苦の果報を与えることによって。
Yathā mahāvipākassa dānena mahācattārīsakaṃ, tathā bahutāyapi mahācattārīsakoti dassetuṃ, **‘‘imasmiñca pana sutte pañca sammādiṭṭhiyo kathitā’’**tiādi vuttaṃ. Bahuatthopi hi mahā-saddo hoti ‘‘mahājano’’tiādīsu (ma. ni. 2.65). Ettha ca ‘‘natthi dinna’’ntiādinā vatthubhedena dasa micchādiṭṭhidhammā kathitā, vatthubhedeneva, ‘‘atthi dinna’’ntiādinā dasa sammādiṭṭhidhammāti vīsati hoti. Yathā ‘‘sammādiṭṭhissa, bhikkhave, sammāsaṅkappo pahotī’’tiādinā maggavasena dasa sammattadhammā, tappaṭipakkhabhūtā ‘‘micchādiṭṭhissa micchāsaṅkappo pahotī’’tiādinā atthato dasa micchattadhammāti vīsati, tathā phalavasena tesu evaṃ vīsati. Kathaṃ vārepi sammādiṭṭhiādayo dasāti vīsati? Evamete dve cattārīsakāni purimena saddhiṃ tayo cattārīsakā vibhāvitāti veditabbā.
大果報を与えることによって大四十であるように、数の多さによっても大四十であることを示すために、「**そしてこの経において五つの正見が説かれた**」などが説かれた。実に「大衆(mahājano)」などにおいて、「大(mahā)」という語は多数の意味も持つ。「布施はない」などによって対象の区分により十の邪見の法が説かれ、対象の区分によってまさに「布施はある」などにより十の正見の法があるとして二十となる。「比丘たちよ、正見の者には正思惟が生じる」などによって道により十の正の法があり、それと対立する「邪見の者には邪思惟が生じる」などによって意味の上で十の邪の法があるとして二十となり、このように果によってそれらにおいて同様に二十となる。いかにして巡りにおいても正見などの十があるとして二十となるのか。このようにこれら二つの四十は、前のものと共に三つの四十として解明されたと知られるべきである。
143. Pasaṃsiyassa ujuvipaccanīkaṃ nindiyaṃ pasaṃsantopi atthato pasaṃsiyaṃ nindanto nāma hoti. Pasaṃsiyassa guṇaparidhaṃsanamukheneva hi nindiyassa pasaṃsāya pavattanatoti āha – **‘‘micchādiṭṭhināmāyaṃ sobhanāti vadantopi sammādiṭṭhiṃ garahati nāmā’’**tiādi. Evamādīti ādisaddena ‘‘natthi hetu natthi paccayo sattānaṃ saṃkilesāyā’’ti (dī. ni. 1.168; ma. ni. 2.227) evamādiṃ saṅgaṇhāti; tasmā evaṃvādinoti evaṃ hetu paṭikkhepavādinoti attho. Okkantaniyāmāti ogāḷhamicchattaniyāmā. Evarūpaṃ laddhiṃ gahetvātiādīsu yaṃ vattabbaṃ, taṃ cūḷapuṇṇamasuttavaṇṇanāyaṃ vuttanayameva tasmā tattha vuttanayeneva veditabbaṃ. Ediso hi ‘‘buddhānampi atekiccho’’tiādi vuttasadiso.
143. 称賛されるべきものと真っ向から対立する非難されるべきものを称賛する者も、意味の上では称賛されるべきものを非難していることになる。称賛されるべきものの徳を破壊することを通じてこそ、非難されるべきものの称賛が生起するからである。それゆえに「**邪見という名のこれは善美であると言う者も、正見を誹謗していることになる**」などが説かれた。「このようななどの」とは、「などの」という語によって「衆生の汚濁には因がなく、縁がない」というこのようななどを包含する。それゆえに「このような論者」とは、このように因を否定する論者、という意味である。「決定に入った者たち」とは、深く邪性決定に陥った者たち。「このような見解を執着して」などにおいて語られるべきことは、小満月経の注釈で説かれた方法そのものであるゆえに、そこで説かれた方法によって知られるべきである。このような者は「諸仏にとっても治療不可能である」などと説かれたものと同様である。
Attano nindābhayenāti ‘‘sammādiṭṭhiñca nāmete garahantī’’ādinā upari parehi vattabbanindābhayena. Ghaṭṭanabhayenāti tathā paresaṃ āsādanābhayena. Sahadhammena parena attano upari kātabbaniggaho upārambho, garahato parittāso upārambhabhayaṃ, taṃ pana atthato upavādabhayaṃ hotīti āha **‘‘upavādabhayenā’’**ti. Sesaṃ suviññeyyameva.
「自己の非難への恐れによって」とは、「彼らは実に正見を誹謗する」などと後に他者から語られるべき非難への恐れによって。「衝突への恐れによって」とは、同様に他者からの攻撃への恐れによって。同法者によって他者が自己に対してなすべき叱責が詰問であり、非難に対する恐れが詰問への恐れであり、しかしそれは意味の上では非難への恐れとなるゆえに「**非難への恐れによって**」と言った。残りは容易に理解できる。
Mahācattārīsakasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.
大四十経の注釈の深義解説を終わる。
8. Ānāpānassatisuttavaṇṇanā
8. 出入息念経の注釈
144. Pubbenāti nissakke karaṇavacanaṃ. ‘‘Aparaṃ visesa’’nti vuttattā visesavisayo ca pubbasaddoti āha – **‘‘sīlaparipūraṇādito pubbavisesato’’**ti.
144. 「以前によって(pubbena)」とは、奪格における具格の表現である。「さらなる卓越を」と説かれたことから、卓越を対象とするのも「以前(pubba)」という語であるゆえに、「**戒の円満などの以前の卓越によって**」と言った。
145. Āraddho yathānusiṭṭhaṃ paṭipattiyā ārādhito. Yadatthāya sāsane pabbajjā, visesāpatti ca, tadevettha appattanti adhippetaṃ, taṃ jhānavipassanānimittanti āha – **‘‘appattassa arahattassā’’**ti. Komudīti kumudavatī. Tadā kira kumudāni supupphitāni honti. Tenāha – **‘‘kumudānaṃ atthitāya komudī’’**ti. Kumudānaṃ samūho, kumudāni eva vā komudā, te ettha atthīti komudīti. Pavāraṇasaṅgahanti mahāpavāraṇaṃ akatvā āgamanīyasaṅgahaṇaṃ.
145. 「励まれた」とは、教誡の通りの実践によって成就された。それのために教えにおいて出家し、また卓越の獲得がある、それそのものがここでは未獲得なものとして意図されており、それは禅定と毘鉢舎那の標相であるゆえに、「**未獲得の阿羅漢果の**」と言った。「拘牟頭(komudī)」とは、白蓮華(クムダ)を持つもの。その時、伝えられるところでは白蓮華が美しく咲いている。それゆえに「**白蓮華の存在によって拘牟頭**」と言った。白蓮華の群れ、あるいは白蓮華そのものが拘牟頭であり、それらがここにあるゆえに拘牟頭である。「自恣の包摂」とは、大自恣を行わずに、来訪者を包摂することである。
Āraddhavipassakassāti ārabhitavipassanassa, vipassanaṃ vaḍḍhetvā ussukkāpetvā vipassissa. Bhikkhū idha osarissanti vutthavassā pavāritapavāraṇā ‘‘bhagavantaṃ vandissāma, kammaṭṭhānaṃ sodhessāma, yathāladdhaṃ visesañca pavedissāmā’’ti ajjhāsayena. Ime bhikkhūti ime taruṇasamathavipassanā bhikkhū. Visesaṃ nibbattetuṃ na sakkhissanti senāsanasappāyādialābhena. Apalibuddhanti aññehi anupaddutaṃ. Senāsanaṃ gahetuṃ na labhanti antovassabhāvato. Ekassa dinnopi sabbesaṃ dinnoyeva hoti, tasmā sutasutaṭṭhāneyeva ekamāsaṃ vasitvā osariṃsu.
「毘鉢舎那を始めた者の」とは、毘鉢舎那を開始した者の、毘鉢舎那を増大させて熱意を起こさせた毘鉢舎那の実践者の。「比丘たちはここに集まるであろう」とは、安居を終えて自恣を済ませた者たちが、「世尊を礼拝し、業処を清め、得られた卓越を報告しよう」という意図によって。「これらの比丘たち」とは、これら止寂と毘鉢舎那がまだ若い比丘たち。「卓越を生じさせることができないであろう」とは、住処の適不適などを得られないことによって。「妨げのない」とは、他者によって邪魔されない。「住処を得ることができない」とは、安居期間中であることによる。「一人のために与えられたものも全員に与えられたものそのものである」ゆえに、聞き知った場所において一ヶ月住んでから集まった。
146. Alanti yuttaṃ, opāyikanti attho, ‘‘alameva nibbinditu’’ntiādīsu (dī. ni. 2.272; saṃ. ni. 2.124, 128, 134, 143) viya. Puṭabaddhaṃ pariharitvā asitaṃ puṭosaṃ a-kārassa o-kāraṃ katvā. Tenāha **‘‘pātheyya’’**nti.
146. 「十分である(alaṃ)」とは、相応しい、適当であるという意味であり、「実に厭離するのに十分である」などにおけるがごとし。包み縛ったものを持ち運んで飲食する包み(puṭosa)は、a音をo音にしたものである。それゆえに「**路糧(旅の食糧)**」と言った。
147. Vipassanā kathitāti aniccasaññāmukheneva vipassanābhāvanā kathitā. Na hi kevalāya aniccānupassanāya vipassanākiccaṃ samijjhati. Bahū bhikkhū te ca vitthārarucikāti adhippāyo. Tenāha **‘‘tasmā’’**tiādi.
147. 「毘鉢舎那が説かれた」とは、無常の想を通じてこそ毘鉢舎那の修習が説かれた。単なる無常の随観のみによって毘鉢舎那の作用が成就するわけではないからである。多くの比丘たちがおり、彼らは詳細を好む者たちである、というのが意図である。それゆえに「**それゆえに**」などが説かれた。
149. Sabbatthāti sabbavāresu. ‘‘Tasmā tiha, bhikkhave, vedanānupassī’’tiādīsupi pītipaṭisaṃveditādivaseneva vedanānupassanāya vuttattā, **‘‘sukhavedanaṃ sandhāyetaṃ vutta’’**nti āha. Satipaṭṭhānabhāvanāmanasikāratāya vuttaṃ – **‘‘sādhukaṃ manasikāra’’**nti. Saññānāmena paññā vuttā tesaṃ payogattā. Manasikāranāmena vedanā vuttā, bhāvanāya paricitattā ārammaṇassa manasikāranti katvā. Vitakkavicāre ṭhapetvāti vuttaṃ vacīsaṅkhārattā tesaṃ.
149. 「すべての箇所で」とは、すべての巡り(文脈)において。「それゆえにここで、比丘たちよ、受を随観し」などにおいても、喜を感受することなどによって受の随観が説かれているゆえに、「**楽受を念頭に置いてこれが説かれた**」と言った。念処の修習の作意であることから、「**善き作意**」と説かれた。想という名によって智慧が説かれたのは、それらの適用によるからである。作意という名によって受が説かれたのは、修習によって親熟された所縁の作意であるとしてである。「尋と伺を除いて」と説かれたのは、それらが語行であるからである。
Evaṃ santepīti yadipi manasikārapariyāpannatāya ‘‘manasikāro’’ti vuttaṃ, evaṃ sante vedanānupassanābhāvo na yujjati, assāsapassāsā hissa ārammaṇaṃ. Vatthunti sukhādīnaṃ vedanānaṃ pavattiṭṭhānabhūtaṃ vatthuṃ ārammaṇaṃ katvā vedanāva vediyati, vedanāya ekantabhāvadassanena tassa vedanānupassanābhāvo yujjati evāti imamatthaṃ dasseti. Etassa anuyogassa.
「このようであっても」とは、作意に含まれることから「作意」と説かれたとしても、このようであれば受の随観である状態が成り立たない。出入息こそが彼の所縁であるからである。「基盤を」とは、楽などの諸受の生起の場所となった基盤を所縁として受そのものが感受されるのであり、受の専一的な状態を観察することによって、彼にとって受の随観である状態はまさに成り立つ、というこの意味を示す。この専修の。
Dvīhākārehīti ye sandhāya vuttaṃ, te dassento **‘‘ārammaṇato asammohato cā’’**ti āha. Sappītike dve jhāneti pītisahagatāni paṭhamadutiyajjhānāni paṭipāṭiyā samāpajjati. Samāpattikkhaṇeti samāpajjanakkhaṇe. Jhānapaṭilābhenāti jhānena samaṅgībhāvena. Ārammaṇato ārammaṇamukhena tadārammaṇajhānapariyāpannā pīti paṭisaṃviditā hoti ārammaṇassa paṭisaṃviditattā. Yathā nāma sappapariyesanaṃ carantena tassa āsaye paṭisaṃvidite sopi paṭisaṃviditova hoti mantāgadabalena tassa gahaṇassa sukarattā; evaṃ pītiyā āsayabhūte ārammaṇe paṭisaṃvidite sā pīti paṭisaṃviditā eva hoti salakkhaṇato sāmaññalakkhaṇato ca tassā gahaṇassa sukarattā. Vipassanākkhaṇeti vipassanāpaññāpubbaṅgamāya maggapaññāya visesato dassanakkhaṇe. Lakkhaṇapaṭivedhāti pītiyā salakkhaṇassa sāmaññalakkhaṇassa ca paṭivijjhanena. Yañhi pītiyā visesato sāmaññato ca lakkhaṇaṃ, tasmiṃ vidite sā yāthāvato viditā hoti. Tenāha – **‘‘asammohato pīti paṭisaṃviditā hotī’’**ti.
「二つの様態によって」とは、念頭に置いて説かれたものを明示して「**所縁から、また不癡から**」と言った。「有喜の二つの禅定に」とは、喜を伴う初禅と第二禅に順次に入定する。「入定の瞬間に」とは、入定する瞬間に。「禅定の獲得によって」とは、禅定と具足する状態によって。「所縁から」とは、所縁を通じてその所縁の禅定に含まれる喜が覚知される、所縁が覚知されているからである。あたかも蛇を探し求める者がその住処を覚知したとき、呪文や薬の力によってそれを捕らえるのが容易であることから、それ(蛇)も覚知されたものそのものであるように、このように喜の住処となった所縁が覚知されたとき、その喜は自相からも共相からもそれを把握するのが容易であることから、まさに覚知されたものそのものである。「毘鉢舎那の瞬間に」とは、毘鉢舎那の智慧を先駆けとする道の智慧によって特に観察する瞬間に。「相の通達から」とは、喜の自相と共相を通達することによって。喜の特殊な相および共通の相、それが知られたとき、それは如実に知られたことになる。それゆえに「**不癡から喜が覚知される**」と言った。
Idāni tamatthaṃ pāḷiyā vibhāvetuṃ, **‘‘vuttampi ceta’’**ntiādi vuttaṃ. Tattha dīghaṃ assāsavasenāti dīghassa assāsassa ārammaṇabhūtassa vasena. Cittassa ekaggataṃ avikkhepaṃ pajānatoti jhānapariyāpannaṃ avikkhepoti laddhanāmaṃ cittassekaggataṃ taṃsampayuttāya paññāya pajānato. Yatheva hi ārammaṇamukhena pīti paṭisaṃviditā hoti, evaṃ taṃsampayuttadhammāpi ārammaṇamukhena paṭisaṃviditā eva honti. Sati upaṭṭhitā hotīti dīghaṃ assāsavasena jhānasampayuttā sati tasmiṃ ārammaṇe upaṭṭhite ārammaṇamukhena jhānepi upaṭṭhitā eva nāma hoti. Tāya satiyāti evaṃ upaṭṭhitāya tāya satiyā yathāvuttena tena ñāṇena suppaṭividitattā ārammaṇassa tassa vasena tadārammaṇā sā pīti paṭisaṃviditā hoti. Avasesapadānipīti ‘‘dīghaṃ passāsavasenā’’tiādipadānipi.
今その意味を聖典によって解明するために、「**そしてこれもまた説かれた**」などが説かれた。そこでの「長い入息によって」とは、所縁となった長い入息によって。「心の散乱なき一境性を了知する者にとって」とは、禅定に含まれる散乱なきことと名づけられた心の一境性を、それに相応する智慧によって了知する者にとって。あたかも所縁を通じて喜が覚知されるように、このようにそれに相応する諸法もまた所縁を通じて覚知されるものそのものである。「念が現起している」とは、長い入息によって禅定に相応する念がその所縁において現起したとき、所縁を通じて禅定においてもまさに現起したことになる。「その念によって」とは、このように現起したその念によって、前述のその智によって所縁がよく通達されているゆえに、それによってその所縁のその喜が覚知される。「残りの句もまた」とは、「長い出息によって」などの句もまた、ということである。
Evaṃ paṭisambhidāmagge vuttamatthaṃ imasmiṃ sutte yojetvā dassetuṃ, **‘‘itī’’**tiādi vuttaṃ. Imināpi yoginā manasikārena paṭilabhitabbato paṭilābhoti vuttaṃ – **‘‘jhānasampayutte vedanāsaṅkhātamanasikārapaṭilābhenā’’**ti.
このように無礙解道において説かれた意味をこの経に適用して示すために、「**このように**」などが説かれた。この修習者によっても作意によって獲得されるべきものであることから獲得であり、「**禅定に相応する受と呼ばれる作意の獲得によって**」と説かれた。
Assāsapassāsanimittanti assāsapassāse nissāya paṭiladdhapaṭibhāganimittaṃ ārammaṇaṃ kiñcāpi karoti; satiñca sampajaññañca upaṭṭhapetvā pavattanato ārammaṇamukhena tadārammaṇassa paṭisaṃviditattā citte cittānupassīyeva nāmesa hoti. Evaṃ cittānupassanāpi satisampajaññabaleneva hotīti āha **‘‘na hī’’**tiādi. Pajahati etena, sayaṃ vā pajahatīti pahānaṃ, ñāṇaṃ. Domanassavasena byāpādanīvaraṇaṃ dassitaṃ tadekaṭṭhabhāvato. Tassāti nīvaraṇapabbassa. Pahānakarañāṇanti pajahanañāṇaṃ. Vipassanāparamparanti paṭipāṭiyā vipassanamāha. Samathapaṭipannanti majjhimasamathanimittaṃ paṭipannacittaṃ ajjhupekkhati. Ekato upaṭṭhānanti paṭipakkhavigamena ekabhāvena upaṭṭhānaṃ. Sahajātānaṃ ajjhupekkhanā hotīti paggahaniggahasampahaṃsanesu byāpārassa anāpajjitattā ārammaṇānaṃ ajjhupekkhanā, ‘‘yadatthi yaṃ bhūtaṃ taṃ pajahati upekkhaṃ paṭilabhatī’’ti, evaṃ vuttaajjhupekkhanā pavattāti paṭipannā. Kevalaṃ nīvaraṇādidhammeti nīvaraṇādidhamme eva pahīne disvā, atha kho tesaṃ pajahanañāṇampi yāthāvato paññāya disvā ajjhupekkhitā hoti. Vuttañhetaṃ bhagavatā ‘‘dhammāpi kho, bhikkhave, pahātabbā, pageva adhammā’’ti (ma. ni. 1.240).
「出入息の標相を」とは、出入息に依拠して得られた相似相を所縁とするとしても、念と正知を現起させて生起することから、所縁を通じてその所縁のものが覚知されているゆえに、心において心随観者そのものとなる。このように心随観も念と正知の力によってのみ生じるゆえに、「**実に〜ない**」などが説かれた。これによって捨断する、あるいは自ら捨断するゆえに「捨断(pahāna)」、すなわち智である。憂によって瞋恚(恚害)の蓋が示された、それと同等の意味を持つからである。「彼の」とは、蓋の節の。「捨断をなす智」とは、捨断の智。「毘鉢舎那の連鎖」とは、順次の毘鉢舎那を言っている。「止寂に入った」とは、中庸なる止寂の標相に入った心を捨置(中立に観察)する。「一つになって現起する」とは、対立するものの離脱によって単一の状態として現起すること。「倶生のものを捨置することになる」とは、策励・制止・歓喜において作用をなさないゆえに、諸々の所縁を捨置することであり、「存在するあるがままのものを捨断し、捨(ウペッカー)を獲得する」と、このように説かれた捨置が生起した、すなわち入ったことである。「単に蓋などの諸法を」とは、蓋などの諸法のみを断じられたと観察し、さらにそれらの捨断の智をも如実に智慧によって観察して捨置したことになる。実に世尊によって「比丘たちよ、法さえも捨てるべきである、まして非法をや」と説かれている通りである。
150. Aniccādivasena pavicinatīti aniccādippakārehi vicinati passati. Nirāmisāti kilesāmisarahitā. Kāyikacetasikadarathapaṭippassaddhiyāti kāyacittānaṃ sādhubhāvūpagamanena vikkhambhitattā. Sahajātadhammānaṃ ekasabhāvena pavattiyā sahajātaajjhupekkhanāya ajjhupekkhitā hoti.
150. 「無常などによって識別する」とは、無常などの様態によって識別し観察する。「無物質的(nirāmisā)」とは、煩悩の物質的執着を離れた。「身体的・精神的な熱悩の止息によって」とは、身と心の善良な状態に至ることによって鎮められたゆえに。倶生の諸法が一つの自性として生起することによって、倶生の捨(中立性)によって捨置したことになる。
Tasmiṃ kāye pavattā kāyārammaṇā sati, pubbabhāgiyo satisambojjhaṅgo. Esa nayo sesesupi. Somanassasahagatacittuppādavasena cetaṃ okkamanaṃ oliyanaṃ kosajjaṃ, tato ativattanaṃ atidhāvanaṃ uddhaccaṃ, tadubhayavidhurā bojjhaṅgupekkhābhūtā anosakkanaanativattanasaṅkhātā majjhattākāratā. Idāni yatheva hītiādinā tameva majjhattākāraṃ upamāya vibhāveti. Tudanaṃ vā patodena. Ākaḍḍhanaṃ vā rasminā. Natthi na kātabbaṃ atthi. Ekacittakkhaṇikāti ekekasmiṃ citte vipassanāvasena saha uppajjanakā. Nānārasalakkhaṇāti nānākiccā ceva nānāsabhāvā ca.
その身体において生起した、身体を所縁とする念が、前段階の念等覚支である。この通則は残りのものにおいても同様である。喜を伴う心の生起によって、この沈下、引きこもりが懈怠であり、それからの逸脱、走りすぎが掉挙であり、その両方を離れた覚支の捨となった、退屈せず逸脱しないことと呼ばれる中庸の様態である。今「あたかも〜のように」などによって、その中庸の様態を譬喩によって解明する。突き棒による突き。あるいは手綱による引き寄せ。「ない」とは、為すべきことがないことである。「一刹那のもの」とは、個々の心において毘鉢舎那によって共に生起するもの。「種々の作用と相を持つ」とは、種々の作用を持ち、また種々の自性を持つ。
152. Vuttatthāneva sabbāsavasuttavaṇṇanāyaṃ (ma. ni. aṭṭha. 27) ānāpānārammaṇā aparāparaṃ pavattasatiyo ārammaṇasīsena tadārammaṇā dhammā gahitā, tā panekasantāne lokiyacittasampayuttāti lokiyā, tā vaḍḍhamānā lokiyaṃ catubbidhampi satipaṭṭhānaṃ paripūrenti. Vijjāvimuttiphalanibbānanti vimuttīnaṃ phalabhūtaṃ tehiyeva veditabbaṃ kilesanibbānaṃ, amatamahānibbānameva vijjāvimuttīnaṃ adhigamena adhigantabbatāya tathā vuttaṃ. Paripūraṇañcassa ārammaṇaṃ katvā amatassānubhavanameva. Idha sutte lokiyāpi bojjhaṅgā kathitā lokuttarāpīti ettakaṃ gahetvā, **‘‘iti lokiyassa āgataṭṭhāne lokiyaṃ kathita’’**nti ca atthavaṇṇanāvasena aṭṭhakathāyaṃ kathitaṃ. Theroti mahādhammarakkhitatthero. Aññattha evaṃ hotīti aññasmiṃ lokiyalokuttaradhammānaṃ tattha tattha vomissakanayena āgatasutte evaṃ lokiyaṃ āgataṃ, idha lokuttaraṃ āgatanti kathetabbaṃ hoti. Lokuttaraṃ upari āgatanti vijjāvimuttiṃ paripūrentīti evaṃ lokuttaraṃ upari desanāyaṃ āgataṃ; tasmā lokiyā eva bojjhaṅgā vijjāvimutti paripūrikā kathetabbā lokuttarānaṃ bojjhaṅgānaṃ vijjāgahaṇena gahitattā, tasmā therena vuttoyevettha attho gahetabbo. Sesaṃ vuttanayattā suviññeyyameva.
152. 説かれた箇所そのものである一切漏経の注釈(マッジマ・ニカーヤ注釈 27)において、出入息を所縁として次々に生起する念が、所縁を頭としてその所縁の法として把持された。それらは一つの相続において世間の心に相応するゆえに世間的であり、それらは増大して世間の四種の念処をも円満にする。「明と解脱の果である涅槃」とは、諸々の解脱の果となった、それらによってのみ知られるべき煩悩の寂滅であり、不死の大いなる涅槃そのものが明と解脱の証得によって証得されるべきものであることからそのように説かれた。そしてそれを円満することは、所縁として不死を体験することにほかならない。この経において世間の覚支も説かれ、出世間の覚支も説かれた、とこれだけを取って、「**このように世間のものが現れた箇所で世間のものが説かれた**」と義釈によって義注において説かれた。「長老は」とは、大法護(マハーダンマラッキタ)長老である。「他所ではこのようになる」とは、他の、世間と出世間の諸法がそこかしこで混合した方法により現れる経において、このように世間のものが現れ、ここでは出世間のものが現れた、と語られるべきである。「出世間のものが上に現れた」とは、「明と解脱を円満する」とこのように出世間のものが上の教説において現れた。それゆえに世間の覚支こそが明と解脱を円満するものとして語られるべきである、出世間の覚支は明の把持によって把持されているからである。それゆえに長老によって説かれた意味こそがここで取られるべきである。残りは説かれた方法によるゆえに容易に理解できる。
Ānāpānassatisuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.
出入息念経の注釈の深義解説を終わる。
9. Kāyagatāsatisuttavaṇṇanā
9. 身至念経の注釈
153-4. Tappaṭisaraṇānaṃ kāmāvacarasattānaṃ paṭisaraṇaṭṭhena gehā kāmaguṇā, gehe sitā ārabbha pavattiyā allīnāti gehassitā. Sarantīti vegasā pavattanti. Vegena hi pavatti dhāvatīti vuccati. Saṅkappāti ye keci micchāsaṅkappā, byāpādavihiṃsāsaṅkappādayopi kāmaguṇasitā evāti. Gocarajjhattasmiṃyevāti pariggahite kammaṭṭhāne eva vattanti. Tañhi dhammavasena upaṭṭhitāya bhāvanāya gocarabhāvato ‘‘gocarajjhatta’’nti vuttaṃ. Assāsapassāsakāye gatā pavattāti kāyagatā, taṃ kāyagatāsatiṃ. Satisīsena taṃsahagate bhāvanādhamme vadati assāsapassāsakāyādike taṃtaṃkoṭṭhāse samathavatthubhāvena pariggahetvā satiyā pariggahitattā; tathāpariggahite vā te ārabbha aniccādimanasikāravasena pavattā kāyārammaṇā satī satibhāvena vatvā ekajjhaṃ dassento **‘‘kāyapariggāhika’’**ntiādimāha.
153-4. それを拠り所とする欲界の衆生にとって拠り所という意味で「家(gehā)」は諸々の欲の対象であり、家に依存したとは、それを発端として生起することによって執着したゆえに「家に依存した(gehassitā)」である。「走る」とは、勢いよく生起する。実に勢いよく生起することを「走る」と言う。「思惟」とは、いかなる邪思惟であれ、瞋恚や害悪の思惟なども欲の対象に依存したものにほかならない。「行境の内部においてのみ」とは、把持された業処においてのみ生起する。実にそれは法として現起した修習の行境であることから「行境の内部」と説かれた。出入息の身体に至った、生起したゆえに「身至(身に向けられた)」であり、その身至念である。念を頭としてそれに伴う修習の法を語っている、出入息の身体などの個々の部分を止寂の基盤として把持することによって念に把持されているからである。あるいはそのように把持されたそれらを発端として無常などの作意によって生起した身体を所縁とする念を、念の状態として語り、一括して示しつつ「**身体を把持する**」などを言った。
Satipaṭṭhāneti mahāsatipaṭṭhānasutte (dī. ni. 2.378; ma. ni. 1.111), cuddasavidhena kāyānupassanā kathitā, cuṇṇakajātāni aṭṭhikāni pariyosānaṃ katvā kāyānupassanā niddiṭṭhā, idha pana kesādīsu vaṇṇakasiṇavasena nibbattitānaṃ catunnaṃ jhānānaṃ vasena uparidesanāya vaḍḍhitattā aṭṭhārasavidhena kāyagatāsatibhāvanā.
「念処において」とは、大念処経において十四種によって身随観が説かれ、粉々になった骨を最後として身随観が指示されたが、しかしここでは頭髪などにおいて色遍(色の瞑想対象)によって生起せしめられた四つの禅定によって上の教説が増大されているゆえに、十八種の身至念の修習である。
156. Tassa bhikkhunoti yo kāyagatāsatibhāvanāya vasībhūto, tassa bhikkhuno. Sampayogavasena vijjaṃ bhajantīti sahajāta-aññamañña-nissaya-sampayutta-atthi-avigatapaccayavasena vijjaṃ bhajanti, tāya saha ekībhāvamiva gacchantīti attho. Vijjābhāge vijjākoṭṭhāse vattantīti vijjāsabhāgatāya tadekadese vijjākoṭṭhāse vattanti. Tāhi sampayuttadhammā phassādayo. Nanu cettha vijjānaṃ vijjābhāgiyatā na sambhavatīti? No na sambhavati. Yāya hi vijjāya vijjāsampayuttānaṃ vijjābhāgiyatā, sā taṃnimittāya vijjāya upacarīyatīti. Ekā vijjā vijjā, sesā vijjābhāgiyāti aṭṭhasu vijjāsu ekaṃ ‘‘vijjā’’ti gahetvā itarā tassā bhāgatāya ‘‘vijjābhāgiyā’’ti veditabbā. Saddhiṃ pavattanasabhāvāsu ayameva vijjāti vattabbāti niyamassa abhāvato vijjābhāgo viya vijjābhāgiyāpi pavattati evāti vattabbaṃ. Āpopharaṇanti paṭibhāganimittabhūtena āpokasiṇena sabbaso mahāsamuddapharaṇaṃ āpopharaṇaṃ nāma. Dibbacakkhuñāṇassa kiccaṃ pharaṇanti katvā, dibbacakkhuatthaṃ vā ālokapharaṇaṃ dibbacakkhupharaṇanti daṭṭhabbaṃ. Ubhayasmimpi pakkhe samuddaṅgamānaṃ kunnadīnaṃ samuddantogadhattā tesaṃ cetasā phuṭatā veditabbā. Kunnadiggahaṇañcettha kañcimeva kālaṃ sanditvā tāsaṃ udakassa samuddapariyāpannabhāvūpagamanattā, na bahi mahānadiyo viya parittakālaṭṭhitikāti.
156. 「その比丘の」とは、身至念の修習に自在となったその比丘の。「相応によって明に親しむ」とは、倶生・相互・依止・相応・存在・非離去の条件によって明に親しむ、それと共に一体となるかのように至る、という意味である。「明の区分に、明の部類に存在する」とは、明と同質であることからその一部分である明の部類に存在する。それらに相応する触などの諸法である。ではここにおいて明が明の区分に属することは成り立たないのではないか。成り立たないことはない。明相応の法が明の区分に属することをもたらすその明は、それを機縁とする明に仮託されるからである。「一つの明が明であり、残りは明に属するものである」とは、八つの明において一つを「明」と取って、他はそれの区分であることから「明に属するもの」と知られるべきである。倶に生起する性質のものたちにおいて「これこそが明である」と語られるべき規定はないことから、明の区分のように明に属するものもまさに生起する、と語られるべきである。「水を満たすこと」とは、相似相となった水遍によって完全に大海を満たすことが「水を満たすこと」と呼ばれる。天眼智の作用を満たすこととして、あるいは天眼のために光を満たすことが天眼の充実であると見なされるべきである。両方の立場においても、海へと流れる小川は海に含まれるゆえに、それらの心によって遍満された状態が知られるべきである。そしてここでの小川の把持は、わずかな時間流れてそれらの水が海に含まれる状態に至るからであり、外部の大河のように短い時間留まるものではないからである。
Otāranti kilesuppattiyā avasaraṃ, taṃ pana vivaraṃ chiddanti ca vuttaṃ. Ārammaṇanti kilesuppattiyā olambanaṃ. Yāva pariyosānāti mattikāpuñjassa yāva pariyosānā.
「隙」とは、煩悩が生起する機会であり、それはまた割れ目、穴とも説かれる。「所縁」とは、煩悩が生起するための足がかり。「最後まで」とは、粘土の塊の最後まで。
158. Abhiññāyāti iddhividhādiabhiññāya. Sacchikātabbassāti paccakkhato kātabbassa adhiṭṭhānavikubbanādidhammassa. Abhiññāva kāraṇanti āha – ‘‘sacchikiriyāpekkhāya, abhiññākāraṇassa pana siddhiyā pākaṭā’’ti. Mariyādabaddhāti udakamātikāmukhe katā.
158. 「神通によって」とは、神変などの神通によって。「作証されるべきものの」とは、直接に為されるべき決意・変化などの法について。「神通こそが原因である」ゆえに、「作証を望むことによって、神通の原因の成就によって明白である」と言った。「堤防で囲まれた」とは、導水路の口に作られた。
Yuttayānaṃ viya katāya icchiticchite kāle sukhena paccavekkhitabbattā. Patiṭṭhākatāyāti sampattīnaṃ patiṭṭhābhāvaṃ pāpitāya. Anuppavattitāyāti bhāvanābahulīkārehi anuppavattitāya. Paricayakatāyāti āsevanadaḷhatāya suciraṃ paricayāya. Susampaggahitāyāti sabbaso ukkaṃsaṃ pāpitāya. Susamāraddhāyāti ativiya sammadeva nibbattikatāya. Sesaṃ suviññeyyameva.
「軛につないだ車のようにされた」とは、望むときにいつでも容易に省察されるべきものであることから。「依処とされた」とは、諸々の達成の依処の状態に至らしめられたことから。「修められた」とは、修習の頻繁な実践によって修められたことから。「親熟された」とは、反復の堅固さによって極めて長く親熟されたことから。「よく統御された」とは、完全に最高潮に至らしめられたことから。「よく始められた」とは、極めて正しく生起せしめられたことから。残りは容易に理解できる。
Kāyagatāsatisuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.
身至念経の注釈の深義解説を終わる。
10. Saṅkhārupapattisuttavaṇṇanā
10. 行生起経の注釈
160. Saṅkhārupapattinti vipākakkhandhasaññitānaṃ saṅkhārānaṃ uppattiṃ, nibbattinti attho. Yasmā avadhāraṇaṃ etasmiṃ pade icchitabbanti, **‘‘saṅkhārānaṃyeva upapatti’’**nti vatvā tena nivattitaṃ dassento, **‘‘na sattassā’’**ti āha. Tena satto jīvo uppajjatīti micchāvādaṃ paṭikkhipati. Evaṃ uppajjanakadhammavasena uppattiṃ dassetvā idāni uppattijanakadhammavasenapi taṃ dassetuṃ, **‘‘puññābhisaṅkhārena vā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha kāmesu puññābhisaṅkhārenapi upapatti hoti, sā pana imasmiṃ sutte gahitāti. Puññābhisaṅkhārena vāti vā-saddo avuttatthāpekkhaṇavikappattho, avuttatthāpekkhāya pana na āgato ‘‘āneñjābhisaṅkhārenā’’ti. Atha vā upapatti āgatā, evaṃ kiccaṃ āgataṃ, āneñjābhisaṅkhāro panettha sarūpena anāgatopi puññābhisaṅkhāraggahaṇeneva gahitoti daṭṭhabbaṃ. Keci pana ‘‘puññāneñjābhisaṅkhārenā’’ti paṭhanti. Bhavūpagakkhandhānanti sugatibhavūpagānaṃ upādānakkhandhānaṃ.
160. 「行の生起(saṅkhārupapatti)」とは、異熟蘊と名づけられた諸行の生起、発生という意味である。限定がこの語において望まれるゆえに、「**諸行の生起にほかならない**」と説いて、それによって否定されたものを示しつつ、「**衆生の生起ではない**」と言った。これによって「衆生、霊魂が生じる」という邪見を論破する。このように生起する法によって生起を示し、今や生起を生じさせる法によってもそれを示すために、「**あるいは福行によって**」などが説かれた。そこにおいて欲望(欲界)において福行によっても生起があり、それはこの経において把持されている。「あるいは福行によって」における「あるいは(vā)」の語は、説かれていない意味を考慮する選択の意味であり、説かれていない意味の考慮によって「不動行によって」とは現れていない。あるいは生起が現れ、このように作用が現れ、不動行はここでは明示的には現れていないとしても、福行の把持によって把持されていると見なされるべきである。しかしある者たちは「福行と不動行によって」と読む。「有(存在)に至る諸蘊の」とは、善趣の有に至る取蘊の。
161. Lokikā vaṭṭanti kammavaṭṭassa gahaṇato. Bhavūpapattihetubhūtā okappanīyasaddhā catupārisuddhisīlaṃ tādisaṃ buddhavacanabāhusaccaṃ āmisapariccāgo kammassakatāñāṇaṃ kammaphaladiṭṭhi ca ime saddhādayo veditabbā. Ṭhapetīti paṇidahanavasena ṭhapeti. Paṇidahatīti hi ayamettha attho. Patiṭṭhāpetīti tattha suppatiṭṭhitaṃ katvā ṭhapeti. Sahapatthanāyāti, ‘‘aho vatāhaṃ…pe… upapajjeyya’’nti evaṃ pavattapatthanāya saha. Saddhādayovāti yathāvuttā saddhādayo eva pañca dhammā upapattiyā saṅkharaṇaṭṭhena saṅkhārā, tasmā eva aññehi visiṭṭhabhavūpaharaṇaṭṭhena vihārā nāmāti. Tasmiṃ ṭhāneti tasmiṃ upapattiṭṭhāne.
161. 「世間のものたちが妥当する」とは、業の輪廻の把持によるからである。有の再生の原因となった確信ある信仰、四種清浄戒、そのような仏語の多聞、物質的施与、業自得智と業果の見解、これら信などの諸法が知られるべきである。「置く」とは、誓願によって置く。「誓願する」というのが実にここでの意味である。「確立する」とは、そこによく確立したものとして置く。「願いを伴って」とは、「ああ、願わくは私が…中略…生じますように」とこのように生じた願いと共に。「信などこそが」とは、前述の信などの五つの法こそが生起を形成するという意味で行(形成力)であり、それゆえに他のものよりも卓越した有をもたらすという意味で住処(vihāra)と呼ばれる。「その場所において」とは、その生起の場所において。
Pañcadhammāva taṃsamaṅgīpuggalo upapattiṃ maggati gavesati etenāti maggo. Paṭipajjati etāyāti paṭipadā. Cetanā panettha suddhasaṅkhāratāya saddhādiggahaṇeneva gahitā, tasmā avadhāraṇaṃ kataṃ. Upapattipakappanavaseneva pavattiyā patthanāgahaṇeneva tassā gahaṇanti keci. Cittakarayuttagatinibbattanadhammavasena avadhāraṇassa katattā. Cetanā hi nāma kammaṃ, tassā upapattinibbattane vattabbameva natthi, tassā pana kiccakaraṇā saddhādayo patthanā cāti ime dhammā sahakārino bhavūpapattiyā niyāmakā hontīti tatrūpapattiyā pavattantīti tesaṃ maggādibhāvo vutto. Tenāha **‘‘yassa hī’’**tiādi. Tena saddhā patthanā cāti ubhaye dhammā sahitā hutvā kammaṃ visesentā gatiṃ niyamentīti dasseti, paṭisandhiggahaṇaṃ aniyataṃ kevalassa kammassa vasenāti adhippāyo. Kāmañcettha ‘‘kammaṃ katvā’’ti vuttaṃ, kammāyūhanato pana pageva patthanaṃ ṭhapetumpi vaṭṭatiyeva. Kammaṃ katvāti cettha ‘‘tāpetvā bhuñjati, bhutvā sayatī’’tiādīsu viya na kālaniyamo, kammaṃ katvā yadā kadāci patthanaṃ kātuṃ vaṭṭatīti ca idaṃ cārittadassanaṃ viya vuttaṃ. Yathā hi bhavapatthanā yāva maggena na samucchijjati, tāva anuppannābhinavakatūpacitassa kammassa paccayo hotiyeva. Puna tathā visesapaccayo, yathā niyametvā uppāditā. Tena vuttaṃ – **‘‘yassa pañca dhammā atthi, na patthanā tassa gati anibaddhā’’**ti.
五つの法を備えた者が、それによって再生を求め、探求するから「道(magga)」である。これによって実践するから「実践(道・paṭipadā)」である。ここで思(思惟・意志)は、純粋な行(形成作用)であるがゆえに信などの把握に含まれて把握されているので、限定がなされたのである。再生を企図する力によって生じるがゆえに、願い(願求)の把握によってそれ(思)が把握されるのだと言う者たちもいる。心に作用し結びついた趣(赴く先)を生じさせる法の力によって、限定がなされたからである。思(意志)とは実に業(kamma)であり、それの再生を生じさせることについては言うまでもない。しかし、それの役割を果たす信などと願いというこれらの法は、相伴うものとして生存への再生を規定するものであるため、そこでの再生へと向かって生起するから、それらに道などの状態が説かれたのである。それゆえに「誰であれ〜」などと言われた。それによって、信と願いという両法が相伴って業を卓越したものとし、趣(再生の境遇)を決定づけるということを示している。単なる業のみによるならば、結生(再生の結合)の把握は不定であるという意味である。ここでは「業を作って」と説かれているが、業の積集よりも前に願いを立てておくことさえも妥当である。「業を作って」ということについては、「温めて食べ、食べて横たわる」などのように時間の限定ではなく、業を作っていつでも願いを立てることが妥当であるという、慣行を示すかのように説かれたのである。実に生存への願いが道(聖道)によって断ち切られない限りは、まだ生じていない新たに作られ積集された業の縁となるのである。さらに、決定して生起させたように、そのように特別な縁となる。それゆえに「五法があり、願いがない者には、その趣は拘束されない」と説かれたのである。
165. Sabbasovāti ‘‘idaṃ kāḷakaṃ sāmaṃ setaṃ haritaṃ maṇḍalaṃ aparimaṇḍalaṃ caturaṃsaṃ paripuṇṇaṃ khuddakaṃ mahanta’’ntiādinā sabbasova pākaṭaṃ hoti.
165. 「全面的に(sabbaso)」とは、「これは黒い、褐色である、白い、黄色である、円形である、非円形である、四角である、完全である、小さい、大きい」などによって、全面的に明白になることである。
167. Sundaroti kāḷakādidosarahitatāya sobhano. Ākarasampanno sampannaākaruppattiyā. Dhovanādīhīti dhovanatāpanamajjanādīhi.
167. 「優れた(sundaro)」とは、黒点などの欠点がないため美しいことである。「鉱山を具えた」とは、豊かな鉱山から生じたことによる。「洗浄などによって」とは、洗浄・加熱・研磨などによってである。
168. Lokadhātūnaṃ satasahassaṃ attano vase vattanato satasahasso. Tassa pana tattha obhāsakaraṇaṃ pākaṭanti āha **‘‘ālokapharaṇabrahmā’’**ti. Ayameva nayo heṭṭhā ‘‘sahasso brahmā’’tiādīsupi. Nikkhena katanti nikkhaparimāṇena jambonadena kataṃ. Nikkhaṃ pana vīsatisuvaṇṇanti keci. Pañcavīsatisuvaṇṇanti apare. Suvaṇṇaṃ nāma catudharaṇanti vadanti. Ghaṭṭanamajjanakkhamaṃ na hoti parittabhāvato. Atirekenāti pañcasuvaṇṇaatirekena nikkhappamāṇaṃ asampattena. Vaṇṇavantaṃ pana na hoti avipulatāya uḷāraṃ hutvā anupaṭṭhānato. Avaṇṇavantatāya eva pharusadhātukaṃ khāyati. Tāsūti tāsu bhūmīsu, yattha sākhā vaḍḍhitvā ṭhitā. Teti suvaṇṇaṅkurā. Pacitvāti tāpetvā. Sampahaṭṭhanti samujjalīkatanti āha – **‘‘dhotaghaṭṭitapamajjita’’**nti, tambamattikalepaṃ katvā dhotañceva pāsāṇādinā ghaṭṭitañca eḷakalomādinā pamajjitañcāti attho.
168. 十万の世界を自らの支配下に置くことから「十万の(主)」である。しかし、彼がそこにおいて光を放つことが明白であることから「光を遍満させる梵天」と言った。これと同じ様式が、下の「千の梵天」などにおいても当てはまる。「ニッカで作られた」とは、ニッカ(金貨・重量単位)の分量のジャンブー河の黄金で作られたということである。ニッカとは二十スヴァンナであると言う者もいる。二十五スヴァンナであると言う者もいる。スヴァンナとは四ダラナであると言う。微小であるため、摩擦や研磨に耐えない。「それ以上で」とは、五スヴァンナ以上で、ニッカの量には達しないものによってである。しかし、広大でなく優れて現出しないため、美色を備えたものではない。美色がないがゆえに、粗雑な性質のものとして現れる。「それらにおいて」とは、枝が成長して立っているそれらの地においてである。「それらは」とは、黄金の芽である。「焼いて」とは、加熱してである。「非常によく輝く」とは、燦然と輝くようにされたことであり、「洗われ、擦られ、拭かれた」と言った。赤土を塗って洗われ、石などで擦られ、羊毛などで拭かれたという意味である。
Etadevāti ālokaṃ vaḍḍhetvā ettha ālokapharaṇameva. Atha vā yaṃ dibbacakkhupharaṇaṃ, ālokapharaṇampi etadeva. Yattakañhi ṭhānaṃ yogī kasiṇālokena pharati; tattakaṃ ṭhānaṃ dibbacakkhuñāṇaṃ phusatīti dibbacakkhupharaṇe dassite ālokapharaṇaṃ dassitamevāti attho. Sabbatthāti sabbasmiṃ ‘‘pharitvā’’ti āgataṭṭhāne. Avināsentenāti asambhinnena.
「これだけを」とは、光を増大させて、ここにおいて光の遍満だけをである。あるいは、天眼の遍満であるものは、光の遍満もまたこれと同じである。修行者が遍処(カシナ)の光によって満たすその場所の分だけ、天眼の智が触れるのであり、天眼の遍満が示されたならば光の遍満も示されたことになるという意味である。「すべての箇所において」とは、「遍満して」と出てくるすべての箇所においてである。「損なうことなく」とは、混同することなくである。
Kasiṇapharaṇaṃ viyāti kasiṇobhāsena pharaṇaṃ viya dissati upaṭṭhāti, maṇipabhāpharaṇassa viya brahmaloke dhātupharaṇassa dassitattāti adhippāyo. Sarīrapabhā pana nikkhapabhāsadisāti, **‘‘nikkhopamme sarīrapharaṇaṃ viya dissatī’’**ti vuttaṃ. Aṭṭhakathā nāma natthīti pāḷipadassa atthavaṇṇanāya nāma nicchitāya bhavitabbaṃ, avinicchitāya pana natthi viyāti akathanaṃ nāma aṭṭhakathāya anāciṇṇanti tassa vādaṃ paṭikkhipitvā. Yathā hi vattabbaṃ, tathā avatvā ‘‘viyā’’ti vacanaṃ kimatthiyanti adhippāyo. Buddhānaṃ byāmappabhā byāmappadese sabbakālaṃ adhiṭṭhāti viya tassa brahmuno sarīrapharaṇaṃ sarīrābhāya pattharaṇaṃ sabbakālikaṃ. Cattārimāni itarāni pharaṇāni avināsetvā aññamaññamabhinditvā kathetabbaṃ. Pharaṇapadasseva vevacanaṃ ‘‘adhimuccaneneva pharaṇa’’nti. Pattharatīti yathāvuttaṃ pharaṇavasena pattharati. Jānātīti adhimuccanavasena jānāti.
「遍処の遍満のように」とは、遍処の輝きの遍満のように見え、現れることであり、宝珠の光の遍満のように梵天界における界の遍満が示されているからである、というのが意図である。しかし、身体の光はニッカの光に類似しているため、「ニッカの譬えにおいて、身体の遍満のように見える」と説かれた。「義釈はない」とは、パーリ語の語句の意味の注釈は確定的なものであるべきであり、未確定であるのに「〜のようである」と語らないことは義釈の慣行ではないとして、その説を退けたのである。実に語るべき通りに語らずに「〜のようである」という言葉に何の目的があるのか、というのが意図である。諸仏の尋光(一尋の身光)が一尋の領域に常に定住しているように、その梵天の身体の遍満、身光の広がりは常時である。これら他の四つの遍満を損なうことなく、互いに壊すことなく語るべきである。遍満という言葉の同義語が「確信することによる遍満」である。「広がる」とは、述べられた遍満の力によって広がる。「知る」とは、確信の力によって知る。
169. Ādayoti ādi-saddena subhe saṅgaṇhāti. Ābhāti dutiyajjhānabhūmike deve ekajjhaṃ gahetvā sādhāraṇato vuttaṃ. Tato subhāti tatiyajjhānabhūmike. Tenāha – **‘‘pāṭiyekkā devā natthī’’**tiādi. Sādhāraṇato katāyapi patthanāya jhānaṅgaṃ parittaṃ bhāvitañce, parittābhesu upapatti hoti, majjhimañce, appamāṇābhesu, paṇītañce, ābhassaresu upapatti hotīti daṭṭhabbaṃ. Subhāti etthāpi eseva nayo. Heṭṭhā vuttanayeneva suviññeyyoti āha – **‘‘vehapphalādivārā pākaṭāyevā’’**ti.
169. 「〜など」という言葉によって、遍浄(subha)を含める。「光(ābhā)」とは、第二禅の境地の諸天を一括して総括的に説いたものである。それゆえ「遍浄(subha)」とは第三禅の境地の諸天である。それゆえに「個別の諸天は存在しない」などと言った。総括的になされた願いであっても、もし禅支が劣等に修習されたなら少光天に再生が生じ、中等であれば無量光天に、優れていれば極光浄天(光音天)に再生が生じると知るべきである。「遍浄」においても同様の様式である。下に述べられた様式によって容易に理解できるため、「広果天などの項目は明白である」と言った。
Kāmāvacaresu nibbattatūtiādinā saddhādīnaṃ ajjhānavipassanānaṃ kathaṃ tadadhiṭṭhānaṃ hotīti āsaṅkati. Itaro saddhādīnaṃ ajjhānasabhāvattepi jhānavipassanānaṃ adhiṭṭhānaṃ nissayapaccayādivasena sappaccayattā brahmalokūpapattiṃ nibbānañca āvahantīti dassento, **‘‘ime pañca dhammā’’**tiādimāha. Tattha sīlanti sambhārasīlaṃ. Anāgāmī samucchinnaorambhāgiyasaṃyojano samāno sace sabbaso upapattiyo atikkamituṃ na sakkoti, ariyabhūmīsu eva nibbattati yathūpacitajhānakammunāti āha – **‘‘anāgāmi…pe… nibbattatī’’**ti. Uparimagganti aggamaggaṃ bhāvetvā. Āsavakkhayanti sabbaso āsavānaṃ khayaṃ pahānaṃ pāpuṇāti. Sesaṃ suviññeyyameva.
「欲界に生まれよ」などによって、信などの禅定と観(ウィパッサナー)が、どのようにその基礎(定住処)となるのかと疑念を抱く。他方が、信などは禅定の自性(本質)であっても、禅定と観の基礎であり、所依の縁などの力によって条件を具えているため、梵天界への再生と涅槃をもたらすものであることを示しつつ、「これら五つの法は」などと言った。そこにおいて「戒」とは、資糧の戒である。下分結を断じた不還者は、もしすべての再生を超越することができないならば、積集された禅定の業にしたがって聖者の境地にのみ生まれるので、「不還者は……中略……生まれる」と言った。「上位の道を」とは、最上の道(阿羅漢道)を修習してである。「漏尽を」とは、すべての漏(煩悩)の滅尽、断尽に達する。残りは容易に理解できる。
Saṅkhārupapattisuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.
『行生起経注』の幽玄義の解明は完結した。
Niṭṭhitā ca anupadavaggavaṇṇanā.
そして『無間品注』が終了した。