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4. Vibhaṅgavaggo4. 分別品

1. Bhaddekarattasuttavaṇṇanā

1. 『一夜賢者経』の註解

272. Ekā ratti ekaratto, bhaddo ekaratto etassāti bhaddekarattaṃ, vipassanaṃ paribrūhento puggalo. Tenāha – **‘‘vipassanānuyogasamannāgatattā’’**ti. Taṃ uddissa pavattiyā pana bhaddekarattasahacaraṇato bhaddekaratto. Tenāha bhagavā – ‘‘bhaddekarattassa vo, bhikkhave, uddesañca vibhaṅgañca desessāmī’’ti. Desetabbamatthaṃ uddisati etenāti uddeso, saṅkhepadesanā eva. Yasmā pana niddesapadānaṃ jananiṭṭhāne ṭhitattā mātā viyāti mātikāti vuccati, tasmāha **‘‘uddesanti mātika’’**nti. Uddiṭṭhamatthaṃ vibhajati etenāti vibhaṅgo vitthāradesanā, tenāha – **‘‘vitthārabhājaniya’’**nti ‘‘yathāuddiṭṭhamatthaṃ vitthārato bhājeti vibhajati etenā’’ti katvā.

272. 一夜(ekā ratti)とは「一晩(ekaratto)」のことであり、吉兆なる一夜(bhaddo ekaratto)を過ごす者であるから「一夜賢者(bhaddekarattaṃ)」、すなわちヴィパッサナー(観)を増大させる人である。それゆえに「**ヴィパッサナーの実修を具足していることによって**」と言われた。しかし、その人を指して説かれた教説が、一夜賢者に随伴するものであることから「一夜賢者」と呼ばれる。それゆえに世尊は「諸比丘よ、汝らに一夜賢者の総説と分別を説こう」と言われた。説かれるべき意味をこれによって総括して示す(uddisati)から「総説(uddesa)」であり、要約の教説にほかならない。しかし、個別解説(niddesa)の句の母胎となる位置に立つことによって母のようであるから「母体(mātikā)」と言われる。それゆえに「**総説とは母体である**」と言われた。総括して示された意味をこれによって詳細に分別するから「分別(vibhaṅga)」であり、詳細な教説である。それゆえに「総括して示された意味を詳細に区分し分別するから」として、「**詳細な区分**」と言われた。

Uppādādikhaṇattayaṃ patvā atikkamaṃ atikkantaṃ atītaṃ. Taṃ pana atthato vigataṃ khandhapañcakanti āha **‘‘atīte khandhapañcake’’**ti. Taṇhādiṭṭhīhi nānugaccheyyāti taṇhādiṭṭhābhinandanāhi nānubhaveyya, nābhinandeyyāti attho. Yathā ‘‘nicca’’ntiādinā viparītaggāhavasena atītesu rūpādīsu micchāabhinivisanaṃ parāmāso diṭṭhābhinandanā; evaṃ ‘‘nicca’’ntiādinā viparītaggāhavasena anāgatesu rūpādīsu micchāabhinivisanaṃ parāmāso diṭṭhi kammasamādānaṃ diṭṭhipatthanāti taṃ paṭikkhipanto āha – **‘‘taṇhādiṭṭhīhi na pattheyyā’’**ti. Yadatītanti ettha iti-saddo ādiattho. Tena ‘‘apatta’’nti padaṃ saṅgaṇhāti. Tampi hi kāraṇavacanaṃ. Tenāha **‘‘yasmā cā’’**ti. Tatthāyamadhippāyo, ‘‘atītaṃ taṇhādivasena nābhinanditabbaṃ sabbaso avijjamānattā sasavisāṇaṃ viya, tathā anāgatampi na patthetabba’’nti. Tattha siyā – atītaṃ nābhinanditabbaṃ abhinandanāya nippayojanattā, anāgatapatthanā pana saphalāpi siyāti na sabbaso paṭikkhipitabbāti? Na, tassāpi savighātabhāvena paṭikkhipitabbato. Tenāha **‘‘yasmā’’**tiādi. Tattha pahīnanti nissaṭṭhasabhāvaṃ. Niruddhanti bhaggaṃ. Atthaṅgatanti vināsaṃ. Appattanti sabhāvaṃ uppādādikaṃ asampattaṃ. Ajātanti na jātaṃ. Anibbattanti tasseva vevacanaṃ.

生などの三刹那を経て過ぎ去ったものが「過去(atīta)」である。それは意味としては消滅した五蘊のことであるから、「**過去の五蘊において**」と言われた。「渇愛と邪見によって追随してはならない」とは、渇愛と邪見による歓喜によって体験してはならない、喜んではならないという意味である。「常である」などという顛倒した把握の力によって過去の物質(色)などに誤って固執することが執着であり、邪見による歓喜である。同様に、「常である」などという顛倒した把握の力によって未来の物質などに誤って固執することが執着であり、邪見であり、業の引き受けであり、邪見による願望である。それを退けて「**渇愛と邪見によって願ってはならない**」と言われた。「過ぎ去ったものは」という箇所の「〜と(iti)」という語は「〜など」という意味である。それによって「未だ至らざるもの」という句が含まれる。それもまた理由を示す言葉だからである。それゆえに「**そして〜ゆえに**」と言われた。そこでの意図はこうである。「過去のものは、兎の角のように全く存在しないがゆえに、渇愛などによって喜んではならない。同様に、未来のものも願ってはならない」。ここで次のような疑問が生じるかもしれない。「過去のものは喜んでも無益であるから喜んではならないとしても、未来への願望は実を結ぶこともあるのだから、全面的に否定されるべきではないのではないか?」と。そうではない。それもまた苦悩を伴うものであるがゆえに否定されるべきである。それゆえに「**〜ゆえに**」などと言われた。その中で「捨て去られたもの(pahīna)」とは、手放された性質のものである。「滅した(niruddha)」とは壊れたことである。「失われた(atthaṅgata)」とは消滅したことである。「至らざるもの(appatta)」とは、生起などの自相にまだ至っていないことである。「生じざるもの(ajāta)」とは生じていないことである。「生起せざるもの(anibbatta)」とはそれの同義語である。

Yattha yatthāti yasmiṃ yasmiṃ khaṇe, yasmiṃ yasmiṃ vā dhammapuñje uppannaṃ, taṃ sabbampi asesetvā. Araññādīsu vāti -saddo aniyamattho. Tena araññe vā rukkhamūle vā pabbatakandarādīsu vāti ṭhānaniyamābhāvā anupassanāya sātaccakāritaṃ dasseti. Yamakādivasena paribrūhiyamānā vipassanā viya paṭipakkhehi akopaniyāva hotīti āha – **‘‘asaṃhīraṃ asaṃkuppanti idaṃ vipassanāpaṭivipassanādassanatthaṃ vutta’’**nti. Gāthāyamayamattho vipassanāvasena yujjatīti āha – **‘‘vipassanā hī’’**tiādi. Kiṃ etāya pariyāyakathāyāti nippariyāyatova asaṃhīraṃ asaṃkuppaṃ dassetuṃ, **‘‘atha vā’’**tiādi vuttaṃ. Kathaṃ pana niccassa nibbānassa anubrūhanā hotīti āha **‘‘punappuna’’**ntiādi. Etena tadārammaṇadhammā brūhanāya, tesaṃ ārammaṇampi atthato anubrūhitaṃ nāma hoti bahulaṃ manasikārenāti dasseti.

「処々において(yattha yattha)」とは、その時々の刹那において、あるいはその時々の法(諸要素)の集まりにおいて生じた、そのすべてを漏れなくという意味である。「あるいは森林などにおいて(araññādīsu vā)」の「あるいは(vā)」という語は不確定の意味である。それによって、森林であれ樹下であれ山窟などであれ、場所の限定がないことによって観察の不断の継続性を示している。双(止観双運)などによって増大されたヴィパッサナーのように、対治するものによって動揺させられないのであるから、「**『動かされず、揺るがされない』とは、ヴィパッサナーとその反対のヴィパッサナーの提示のために説かれた**」と言われた。詩偈においてはこの意味はヴィパッサナーの力によって適合するから、「**実にヴィパッサナーは**」などと言われた。このような間接的な説示で十分であろうか、直説として動かされず揺るがされないことを示すために「**あるいはまた**」などと言われた。では、常住である涅槃の増大とはどのようにして起こるのか、それゆえに「**度々**」などと言われた。これによって、それを対象(所縁)とする法(心・心所)の増大によって、その対象もまた実質的に作意を多くすることによって増大されたことになる、ということを示している。

Ādito tāpanaṃ ātāpanaṃ, tena ārambhadhātumāha. Parito tāpanaṃ paritāpanaṃ, tena nikkamadhātuparakkamadhātuyo cāti. Tassa senāti tassa maccuno sahakaraṇaṭṭhena senā viyāti senā. Saṅgarotiādīsu mittākāraggahaṇena sāmapayogamāha. Lañjaggahaṇena lañjadānaṃ, tena dānappayogaṃ. Balarāsīti hatthiassādibalakāyo. Tena daṇḍabhedāni vadati. Bhedopi hi balavato eva ijjhati, svāyaṃ catubbidhopi upāyayogena sampavattīyati. Tattha tattha ca saṅgaṃ āsattiṃ arati detīti saṅgaro pubbabhāge vā saṅgaraṇavasena tassa paṭijānanavasena pavattanato.

初めから熱することが「発熱(ātāpana)」であり、それによって発趣界(発端となる精進)を指している。隈なく熱することが「遍熱(paritāpana)」であり、それによって出離界と勇猛界(中間と最高の精進)を指している。「その軍勢」とは、その死神と行動を共にするという意味で軍勢のようであるから「軍勢」である。「同盟(saṅgara)」などの箇所では、友人の態度を取ることによって平和的な計策(和親策)を指している。賄賂を取ることによって賄賂を与えること、それによって金品による計策(贈賄策)を指している。「軍隊の集まり」とは象や馬などの軍団である。それによって実力行使と離間策を述べている。離間もまた強力な者にのみ成功するからである。この四種の計策の適用によって働きかけるのである。それぞれの場所で執着、愛着、倦怠を与えるから「同盟(saṅgara)」であり、あるいは以前の段階で約束することによって、それへの言質に基づいて生起するからである。

Uṭṭhāhakaṃ uṭṭhānavīriyasampannaṃ. Saparahitasīvanalakkhaṇena asādhubhāvaparammukhabhāvagamanena vā santo.

奮起する者を「立ち上がる精進を具足した者」という。自他の利益を縫い合わせる特徴によって、あるいは善からぬ状態に背を向けて進むことによって「善き人(santa)」である。

273. Manuññarūpavaseneva evaṃrūpo ahosīnti atītaṃ anvāgameti tattha nandiyāsamanvānayanato. Vedanādīsupi eseva nayo. Kusalasukhasomanassavedanāvasenāti kusalavedanāvasena sukhavedanāvasena somanassavedanāvasenāti paccekaṃ vedanāsaddo yojetabbo. Taṇhābhinandanāya sati diṭṭhābhinandanā siddhā evāti – **‘‘taṇhaṃ samanvāneti’’**icceva vuttaṃ. Hīnarūpādi…pe… na maññati amanuññopi samāno samanuññabhāvasseva vasena maññanāya pavattanato. Nānupavattayati vikkhambhanavasena nandiyā dūrīkatattā.

273. 快い物質(色)に関してのみ「このような物質であった」と過去を振り返る。そこにおける歓喜を伴わせるからである。受などにおいてもこれと同じ理趣である。「善の快の喜の受によって」とは、善の受によって、快の受によって、喜の受によって、と個別に「受」という語を結合させるべきである。渇愛による歓喜があれば、邪見による歓喜も当然成立しているから、「**渇愛を伴わせる**」とだけ言われた。劣悪な物質などを…中略…思惟しない。快くないものであっても、快い性質のものとしてのみ思惟が生じるからである。歓喜が鎮伏によって遠ざけられているため、「随行させない」のである。

274. Uḷārasundarabhāvamukheneva anāgatesupi rūpādīsu taṇhādiṭṭhikappanā pavattatīti āha – **‘‘evaṃrūpo…pe… veditabbā’’**ti.

274. 広大で美しい状態を拠り所としてのみ、未来の物質などにおいても渇愛と邪見の分別が働くから、「**このような物質で…中略…知られるべきである**」と言われた。

275. Vattabbaṃ siyāti yathā nandiyā asamanvānayanajotanaṃ byatirekamukhena patiṭṭhapetuṃ, ‘‘atītaṃ na nvāgameyyā’’ti uddesassa, ‘‘kathañca, bhikkhave, atītaṃ anvāgametī’’tiādinā (ma. ni. 3.273) vibhaṅgo vutto, evaṃ ‘‘paccuppannañca yo dhamma’’ntiādikassa uddesassa byatirekamukhena vibhaṅge vuccamāne vipassanāpaṭikkhepavasena, ‘‘kathañca…pe… vattabbaṃ siyā’’ti vuttaṃ. Tayidaṃ paramagambhīraṃ satthudesanānayaṃ anupadhāretvā coditaṃ, yasmā ‘‘paccuppannañca yo dhamma’’ntiādikassa uddesassa byatirekamukheneva vipassanāpaṭikkhepavasena, ‘‘kathañca, bhikkhave, paccuppannesū’’ti vibhaṅgadesanā sampavattati. Tenāha **‘‘yasmā panā’’**tiādi. Tattha tassā evāti vipassanāya eva. Abhāvaṃ dassetuṃ saṃhīratīti mātikaṃ uddharitvāti kathetukamyatāya mātikāvasena paduddhāraṃ katvā, ‘‘idha, bhikkhave, asutavā sutavā’’ti ca ādinā vitthāro vutto. Vipassanāya abhāvatoti vipassanāya abhāvitatāya avikkhambhitatāya taṇhādiṭṭhīhi sapattehi viya tattha tattha ṭhapanāya ākaḍḍhīyati, tattha tattha visaye tato eva apāyasamuddaṃ saṃsārasamuddaṃ ānīyati. Sukkapakkho vuttavipariyāyena veditabbo. Sesaṃ suviññeyyameva.

275. 「語られるべきであろう(vattabbaṃ siyā)」について。歓喜を伴わせないことを反対の側面から確立するために、「過去を追ってはならない」という総説に対して、「諸比丘よ、どのようにして過去を追うのか」などと分別が説かれたように、「また現在生じた法を」などの総説に対して、反対の側面から分別が説かれる際に、ヴィパッサナーの否定の力によって「どのようにして…中略…語られるべきであろう」と説かれた。これは極めて深遠な導師の教示の理趣を深く考察せずに論難したものである。「また現在生じた法を」などの総説に対して、まさに反対の側面からヴィパッサナーの否定の力によって、「諸比丘よ、どのようにして現在生じたものにおいて…」という分別の教説が展開するからである。それゆえに「**しかし〜ゆえに**」などと言われた。その中で「まさにそれの」とは、まさにヴィパッサナーの、ということである。非存在を示すために「奪われる」という母体を掲げて、説示しようと欲することによって母体の力に基づいて句を掲げ、「諸比丘よ、ここに未聞の者、有聞の者…」などと詳細が説かれた。「ヴィパッサナーの非存在ゆえに」とは、ヴィパッサナーが修習されず、鎮伏されていないことによって、敵によるかのように渇愛と邪見によって処々に置かれるために引きずり込まれ、処々の対象において、それゆえに悪趣の海へ、輪廻の海へと導かれるのである。白法(善き側)は説かれたことの反対として知られるべきである。残りは容易に理解できる。

Bhaddekarattasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

一夜賢者経解説の釈義は完結した。

2. Ānandabhaddekarattasuttavaṇṇanā

2. 阿難一夜賢者経解説

276. Bahiddhā puthuttārammaṇato nivattetvā ekasmiṃyeva ārammaṇe cittassa sammadeva layanaṃ appanaṃ paṭisallānaṃ, yo koci samāpattivihāro, idha pana ariyavihāro adhippetoti āha – **‘‘paṭisallānā vuṭṭhito’’**tiādi. Jānantova bhagavā kathāsamuṭṭhāpanatthaṃ pucchi. Vuttañhetaṃ – ‘‘jānantāpi tathāgatā pucchanti, jānantāpi na pucchantī’’tiādi (pārā. 16).

276. 外なる多くの対象から引き戻して、一つの対象にのみ心を正しく潜ませ安立させることが「宴黙(paṭisallāna:独座瞑想)」であり、いかなる等至の境地であってもよいが、ここでは聖者の境地が意図されているので「**独座瞑想から立ち上がって**」などと言われた。世尊は知りつつも、話を起こすために尋ねられた。実にこのように説かれている。「如来たちは知りながらも尋ね、知りながらも尋ねないことがある」(パーラージカ16)などと。

278. Sādhukāramadāsīti sādhusaddaṃ sāvesi. Taṃ pana pasaṃsā hotīti pasaṃsattho sādhusaddo. Tenāha **‘‘desanaṃ pasaṃsanto’’**ti. Vijjamānehi vaṇṇehi guṇavante udaggatākaraṇaṃ sampahaṃsanaṃ, kevalaṃ guṇasaṃkittanavasena thomanā pasaṃsāti ayametesaṃ viseso.

278. 「善哉を与えた」とは、善哉(さーどぅ)の声を響かせたことである。それは賞賛であるから、「善哉」という語は賞賛の意味である。それゆえに「**教説を賞賛して**」と言われた。実際に存在する美点によって徳ある者を歓喜させることが「激励(sampahaṃsana)」であり、単に美点を讃えることによる称賛が「賞賛(pasaṃsā)」である。これがこれらの相違である。

Ānandabhaddekarattasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

阿難一夜賢者経解説の釈義は完結した。

3. Mahākaccānabhaddekarattasuttavaṇṇanā

3. 摩訶迦旃延一夜賢者経解説

279. Uṇhabhāvena tapanato tapaṃ udakaṃ etassāti tapodā, rahado. Tenāha **‘‘tattodakassa rahadassā’’**ti. Saṅkhepena vuttamatthaṃ vitthārato dassetuṃ, **‘‘vebhārapabbatassā’’**tiādi vuttaṃ. Tato udakarahadato, taṃ rahadaṃ upanissāyāti attho. Nāgabhavanāgatopi hi so rahado tato upari manussaloke jalāsayena sambaddho hoti. Tena vuttaṃ – **‘‘tapodā nāma nadī sandatī’’**ti. Edisāti kuthitā uṇhā, anvatthanāmavasena tapodāti ca vuccatīti attho. Petalokoti petānaṃ vasanaṭṭhānaṃ paccekanirayaṃ sandhāyāha. Imassa pana ārāmassāti tapodārāmassa. Tatoti tapodāsaṅkhātanadito. Mahāudakarahadoti mahāudakabharitaṃ pallalaṃ.

279. 熱さによって熱することから、熱い水を持つ池が「温水池(Tapodā)」である。それゆえに「**熱い水の池の**」と言われた。簡潔に説かれた意味を詳細に示すために「**ヴェーバーラ山の**」などと言われた。「その水の池から」とは、その池に依存して、という意味である。竜宮から来ているその池は、その上の人間界の水域と結ばれているからである。それゆえに「**タポダーという川が流れている**」と言われた。「このような」とは、沸き立つように熱く、名実相応した名前によって「タポダー」とも呼ばれるという意味である。「餓鬼の世界において」とは、餓鬼たちの住処である別小地獄を指して言っている。「この園の」とは、タポダー園のことである。「それから」とは、タポダーと呼ばれる川から、ということである。「大水池」とは、大量の水に満ちた沼のことである。

280. Samiddhoti uḷāro, paripuṇṇoyevāti attho. Ādimhi brahmacariyamassāti ādibrahmacariyo, so eva ādibrahmacariyako. Tenāha **‘‘pubbabhāgappaṭipattibhūto’’**ti. ‘‘Atītaṃ anāgataṃ paccuppanna’’nti addhabhedamukhena saṅkhatadhammabodhavacanaṃ.

280. 「成就した(samiddha)」とは、広大で満ち足りているという意味である。初めに清浄行(梵行)があるものを「根本梵行(ādibrahmacariya)」といい、それ自体が「根本梵行者」である。それゆえに「**初発の段階の実践となった**」と言われた。「過去、未来、現在」とは、時節の区分の観点から有為法を覚知する言葉である。

282. Kāmaṃ khandhādivasena vibhajanaṃ sādhāraṇaṃ, paṭhamadutiyacatutthasuttesu pana khandhavasena vibhajanaṃ katvā idha tathā akatvā evaṃ desanāya ṭhapanaṃ tato aññathā āyatanavasena vibhajanatthaṃ. Evaṃ vibhinnā hi saṅkhepavitthārato anavasesā sammasanupagā dhammā vibhajitvā dassitā honti; ayaṃ kirettha bhagavato ajjhāsayo therena nayato gahitoti dassetuṃ, **‘‘imasmiṃ kirā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha dvādasāyatanavaseneva mātikaṃ ṭhapesīti lokiyāni dvādasāyatanāni eva sandhāya mātikaṃ ṭhapesi, yathā tīsu suttesu khandhavasena vibhattaṃ, evaṃ yadi bhagavatā idhāpi vibhajanaṃ icchitaṃ siyā, tathā vibhajeyya, yasmā pana tathā avibhajitvāva gandhakuṭiṃ paviṭṭho, tasmā dvādasāyatanavasenevettha vibhajanaṃ bhagavatā ca adhippetanti nayaggāhe ṭhatvā thero vibhaji. Tenāha – **‘‘nayaṃ paṭilabhitvā evamāhā’’**ti. Bhāriyaṃ katanti dukkaraṃ kataṃ. Apade padaṃ dassitaṃ ākāse padaṃ kataṃ sādhāraṇassa atthassa visiṭṭhavisayatāya dassitattā. Nikantiviññāṇanti nikantitaṇhāya sampayuttaṃ viññāṇaṃ, ‘‘chandarāgappaṭibaddhaṃ hotī’’ti vacanato. Manoti bhavaṅgacittaṃ manodvārikajavanānaṃ dvārabhūtaṃ.

282. 確かに蘊などによる分別は共通しているが、第一、第二、第四の経において蘊による分別を行い、ここではそうせずにこのように教説を提示したのは、それとは別に処(十二処)による分別のためである。このように区分されたなら、要約と詳細によって余すところなく思惟の対象となる諸法が分別されて示されることになる。実にこれこそが世尊の意図であり、長老はそれを理趣から把握したのだと示すために「**これにおいて実に**」などと言われた。その中で「十二処に基づいてのみ母体を提示した」とは、世俗の十二処のみを指して母体を提示したのである。三つの経において蘊によって分別されたように、もし世尊がここでも分別を望まれるならば、そのように分別されたであろう。しかし、そのように分別することなく香室に入られたので、それゆえにここでは十二処によって分別されることが世尊によって意図されていると理趣の把握に立って長老は分別したのである。それゆえに「**理趣を得てこのように言った**」と言われた。「重責を果たした」とは、なし難いことをなしたということである。「足跡のないところに足跡を示した、虚空に足跡をつけた」とは、共通の意味を優れた領域のものとして示したからである。「愛着を伴う識」とは、愛着の渇愛と相応した識のことであり、「欲貪に繋縛されたものである」という言葉による。「意(mano)」とは、意門の速行心の門となる有分心のことである。

283. Patthanāvasena ṭhapesīti patthanāvasena cittaṃ pavattesi.

283. 「願望によって安立した」とは、願望の力によって心を活動させたということである。

Mahākaccānabhaddekarattasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā

摩訶迦旃延一夜賢者経解説の釈義

Samattā.

完結。

4. Lomasakakaṅgiyabhaddekarattasuttavaṇṇanā

4. 盧夷強耆一夜賢者経解説

286. Ghananicitalomo lomaso, ayaṃ pana appatāya lomasakoti āha – **‘‘īsakalomasākāratāyā’’**ti, lomasako aṅgiko lomasakakaṅgiyo, paṭhamo ka-kāro appattho, dutiyaṃ pana padavaḍḍhanameva. Rattakambalasilāyanti rattakambalavaṇṇasilāyaṃ. Oruyhāti ākāsato otaritvā. Pāṭihāriyaṃ disvā dinnalābhasakkārassa asādiyanato manussapathe na vasanti.

286. 濃く密集した体毛を持つ者が「多毛者(lomaso)」であるが、この者は毛が少ないことによって「少し毛深い者(lomasako)」であるから、「**少し毛深い容貌であることによって**」と言われた。ロマサカという肢体を持つ者がロマサカンギヤ(Lomasakaṅgiya)であり、第一のkaの音は縮小(少し)の意味であり、第二のkaは語を整えるためのものである。「赤毛布の岩において」とは、赤い毛布の色の岩において、ということである。「降りて」とは、虚空から降りてきて、ということである。神通を見て与えられる利養や恭敬を受け入れないため、人間の歩む道には住まないのである。

Dasahi cakkavāḷasahassehīti nissakkavacanato āgantvāti adhippāyo. Sannipatitāhi devatāhīti karaṇavacanaṃ. Paññāpayogamandatāya paṭivijjhituṃ asakkontānaṃ devānaṃ ñāṇassa tikkhavisadabhāvāpādanena samuttejetuṃ saṃvegajananatthaṃ…pe… abhāsi. Tatrāti tasmiṃ devasannipāte, tissaṃ vā desanāyaṃ. Devattassāti devabhāvassa, dibbasampattiyāti attho. Bhaddekarattassa suttassa etāti bhaddekarattiyā.

「一万の輪囲世界から」とは、奪格の言葉であることから「やって来て」という意味である。「集まった諸天によって」とは具格の言葉である。智慧の働きの鈍さゆえに通達することができない諸天の智慧を、鋭く明晰な状態にすることによって奮起させ、緊迫感(道心)を生じさせるために…中略…説いた。「そこで」とは、その神々の集会において、あるいはその教説において。「神性(天の状態)の」とは、天界の果報の富という意味である。「一夜賢者経のこれ(etā)」とは、一夜賢者の詩偈のことである。

Savanamukhena byañjanaso atthaso ca upadhāraṇaṃ uggaṇhananti āha – **‘‘tuṇhībhūto nisīditvā suṇanto uggaṇhāti nāmā’’**ti. Vācuggatakaraṇaṃ pariyāpuṇananti āha – **‘‘vācāya sajjhāyaṃ karonto pariyāpuṇāti nāmā’’**ti. Ganthassa parihaṇaṃ dhāraṇaṃ, taṃ pana paresu patiṭṭhāpanaṃ pākaṭaṃ hotīti āha – **‘‘aññesaṃ vācento dhāreti nāmā’’**ti. Sesaṃ heṭṭhā vuttanayameva.

聴聞を通じて文句と意味を把握することが「学習(uggaṇhana)」であるから、「**沈黙して座り、聴きながら学習する**」と言われた。口誦することを「習熟(pariyāpuṇana)」というから、「**声に出して復習しながら習熟する**」と言われた。経典を護持することが「受持(dhāraṇa)」であり、それは他人に確立させることによって明白となるから、「**他人に教えて受持する**」と言われた。残りは前述の理趣の通りである。

Lomasakakaṅgiyabhaddekarattasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā

盧夷強耆一夜賢者経解説の釈義

Samattā.

完結。

5. Cūḷakammavibhaṅgasuttavaṇṇanā

5. 小業分別経解説

289. Aṅgasubhatāyāti aṅgānaṃ hatthapādādisarīrāvayavānaṃ sundarabhāvena. Yaṃ apaccaṃ kucchitaṃ muddhaṃ vā, tattha loke māṇavavohāro, yebhuyyena sattā daharakāle suddhadhātukā hontīti vuttaṃ, **‘‘taruṇakāle vohariṃsū’’**ti. Adhipatittāti issarabhāvato.

289. 「身体の端正さによって」とは、手足などの身体諸部分の美しさによって、ということである。卑しい子どもであれ尊い子どもであれ、世間では「若者(māṇava)」と通称される。一般に人々は幼い頃は清純な素質を持っていることから、「**若い頃に通称された**」と言われた。「主権者であることから」とは、支配者の状態から、ということである。

Samāhāranti sannicayaṃ. Paṇḍito gharamāvaseti yasmā appatarepi byayamāne bhogā khīyanti, appatarepi sañcayamāne vaḍḍhanti, tasmā viññujātiko kiñci byayaṃ akatvā ayameva uppādento gharāvāsaṃ anutiṭṭheyyāti lobhādesitamatthaṃ vadati.

「集積」とは蓄積のことである。「賢者は家に住む」とは、わずかに出費しても財は尽き、わずかに蓄積しても増大するがゆえに、分別ある生まれの者は一切の出費をせず、自ら財を生み出しつつ在家の生活を営むべきであるという、貪欲に指示された意味を述べている。

Dhanalobhena…pe… nibbatto. Lobhavasikassa hi gati nirayo vā tiracchānayoni vā. Vuttañhetaṃ – ‘‘nimittassādagathitaṃ vā, bhikkhave, viññāṇaṃ tiṭṭhamānaṃ tiṭṭhati anubyañjanassādagathitaṃ vā. Tasmiṃ samaye kālaṅkareyya, dvinnaṃ gatīnaṃ aññataraṃ gatiṃ vadāmi – nirayaṃ vā tiracchānayoniṃ vā’’ti (saṃ. ni. 4.235). Niraye nibbattissati katokāsassa kammassa paṭibāhituṃ asakkuṇeyyabhāvato.

財への貪欲によって…中略…生まれた。貪欲に支配された者の行き場は地獄か畜生界だからである。実にこのように説かれている。「諸比丘よ、対象の全体的相への執着に縛られた識が存続し、あるいは個別的特徴への執着に縛られた識が存続する。その時に命を終えるならば、地獄か畜生界という二つの行き場のうちのいずれかの行き場をわたしは説く」(相応部4.235)。地獄に生まれるであろうとは、機会を得た業は防ぐことができないからである。

Pattakkhandhaadhomukhabhāvaṃ sandhāya **‘‘onāmetvā’’**ti vuttaṃ. Brāhmaṇacārittassa bhāvitataṃ sandhāyāha **‘‘brahmaloke nibbatto’’**ti. Taṃ pavattiṃ pucchīti sutametaṃ mayā, ‘‘mayhaṃ pitā sunakho hutvā nibbatto’’ti, etaṃ bhotā gotamena vuttanti. Kimidaṃ vuttanti imaṃ pavattiṃ pucchi.

肩を落としてうつむいている状態を指して「**うなだれて**」と言われた。バラモンの行儀作法を修めていたことを指して「**梵天界に生まれた**」と言われた。「その出来事を尋ねた」とは、「私の父は犬となって生まれたと、尊者ゴータマによって言われたと私は聞いた。これは何ゆえに言われたのか」とこの出来事を尋ねたのである。

Tatheva vatvāti yathā sunakhassa vuttaṃ, tatheva vatvā. Avisaṃvādanatthanti, ‘‘todeyyabrāhmaṇo sunakho jāto’’ti attano vacanassa avisaṃvādanatthaṃ, visaṃvādanābhāvadassanatthanti adhippāyo. Ñātomhi imināti iminā mama puttena mayhaṃ purimajātiyaṃ pitāti evaṃ ñāto amhīti jānitvā. Buddhānubhāvena kira sunakho tathā dasseti, na jātissaratāya. Bhagavantaṃ disvā bhukkaraṇaṃ pana purimajātisiddhavāsanāya. Bhavapaṭicchannanti bhavantarabhāvena paṭicchannaṃ. Nāma-saddo sambhāvane. Paṭisandhiantaranti aññajātipaṭisandhiggahaṇena heṭṭhimajātaṃ gatiṃ. Aṅgavijjāpāṭhako kiresa, tena appāyukadīghāyukatādivasena cuddasa pañhe abhisaṅkhari; evaṃ kirassa ahosi, ‘‘imesaṃ sattānaṃ appāyukatādayo visesā aṅgapaccaṅgavasena sallakkhiyanti. Na kho panetaṃ yuttaṃ ‘aṅgapaccaṅgāni yāva tesaṃ tesaṃ kāraṇa’nti; tasmā bhavitabbamettha aññeneva kāraṇena. Samaṇo gotamo taṃ kāraṇaṃ vibhajitvā kathessati, evāyaṃ sabbaññūti nicchayo me apaṇṇako bhavissatī’’ti. Apare pana bhaṇanti, ‘‘tiracchānagataṃ manussaṃ vā āvisitvā icchitatthakasāvanaṃ nāma mahāmantavijjāvasena hoti; tasmā na ettāvatā samaṇassa gotamassa sabbaññutā sunicchitā hoti. Yaṃ nūnāhaṃ kammaphalamassa uddissa pañhaṃ puccheyyaṃ, tattha ca me cittaṃ ārādhento pañhaṃ byākarissati. Evāyaṃ sabbaññūti vinicchayo me bhavissatīti te pañhe pucchatī’’ti.

「まさにそのように言って」とは、犬に言ったようにまさにそのように言って、ということである。「相違なきことのために」とは、「トーデイヤ・バラモンは犬となって生まれた」という自らの言葉が相違ないことのため、相違がないことを示すためという意味である。「知られた」とは、この私の息子によって「私の前世における父である」とこのように知られたと理解して、ということである。仏の威力によって犬はそのように示したのであり、前世を記憶していたからではないとのことである。世尊を見て吠えたのは、前世において身についた習気によるものである。「他生に隠された」とは、別の生存状態にあることによって隠されたことである。「〜という(nāma)」という言葉は推測の意味である。「結生の中間」とは、別の生存への結生を取ることによる下位の生存の行き先のことである。実にこの若者は相法(身体の特徴から運命を占う学問)の読誦者であり、それゆえに短命・長命などの観点から十四の問いを構想した。彼にはこのように思われたのである。「これら衆生の短命などの相違は身体の大小の部分によって観察される。しかし『身体の大小の部分こそがそれぞれの原因である』ということは妥当ではない。したがって、ここには別の原因があるに違いない。沙門ゴータマはその原因を分別して語るであろう。そうすれば、彼が全知者であるという私の確信は揺るぎないものとなるだろう」と。しかし他の者たちは言う。「畜生や人間に憑依して望む意味を語らせることは、大呪文の術の力によるものである。それゆえにそれだけでは沙門ゴータマの全知性は明確にはならない。それなら私は彼に業と果報についての問いを尋ねてみよう。そこで私の心を満足させつつ問いを解明してくれるだろう。そうすれば、彼が全知者であるという私の決着がつくだろうと考え、それらの問いを尋ねるのだ」と。

Bhaṇḍakanti sāpateyyaṃ, santakanti attho. Kammunā dātabbaṃ ādiyantīti kammadāyādā, attanā katūpacitakammaphalabhāgīti attho. Taṃ pana kammadāyajjaṃ kāraṇopacārena vadanto, **‘‘kammaṃ etesaṃ dāyajjaṃ bhaṇḍakanti attho’’**ti āha – yathā ‘‘kusalānaṃ, bhikkhave, dhammānaṃ samādānahetu evamidaṃ puññaṃ pavaḍḍhatī’’ti (dī. ni. 3.80). Yavati phalaṃ sabhāvato bhinnampi abhinnaṃ viya missitaṃ hoti, etenāti yonīti āha – **‘‘kammaṃ etesaṃ yoni kāraṇa’’**nti. Mamattavasena bajjhati saṃbajjhatīti bandhu, ñāti sālohito ca. Kammaṃ pana ekantasambandhamevāti āha – **‘‘kammaṃ etesaṃ bandhū’’**ti. Patiṭṭhāti avassayo. Kammasadiso hi sattānaṃ avassayo natthi, añño koci issaro brahmā vā na karoti tādisaṃ kattuṃ sajjituṃ asamatthabhāvato. Yaṃ panettha vattabbaṃ, taṃ visuddhimaggasaṃvaṇṇanāyaṃ vuttanayena veditabbaṃ. Kammamevāti kasmā avadhāritaṃ, nanu kilesāpi sattānaṃ hīnapaṇītabhāvakāraṇaṃ, na kevalanti? Saccametaṃ, kilesapayogena vipākavaṭṭaṃ nibbattaṃ kammapavattitamevāti katvā vuttaṃ. **‘‘Kathitassa atthaṃ na sañjānāsī’’**ti saṅkhepato vatvā nanu bhagavā mahākāruṇiko paresaṃ ñāpanatthameva dhammaṃ desetīti āha – **‘‘mānanissito kiresā’’**tiādi.

「財貨(bhaṇḍaka)」とは所有物、自身の持ち物という意味である。業によって与えられるべきものを受け取るから「業の相続者(kammadāyādā)」であり、自ら行い積み立てた業の果報を分かち持つ者という意味である。その業の相続を原因の比喩によって述べて、「**業が彼らの相続財産、財貨であるという意味である**」と言われた。「諸比丘よ、善き法を引き受けることを原因として、このようにこの功徳が増大する」(長部3.80)と言われる通りである。果報が本質的に異なっていても、同一であるかのように混ざり合って生じる、これによって生じるから「母胎(yoni)」であり、「**業が彼らの母胎、原因である**」と言われた。我執によって結びつき、固く結ばれるから「親族(bandhu)」であり、血縁の親族のことである。しかし業こそは絶対的な結びつきであるから、「**業が彼らの親族である**」と言われた。「拠り所」とは頼りとするもの(依処)である。衆生にとって業に匹敵する頼りとなるものは存在しない。他のいかなる主宰神や梵天も、そのようなものを作ったり整えたりすることができないからである。ここで語られるべきことは、『清浄道論』の注釈で説かれた理趣によって知られるべきである。なぜ「業のみ」と限定したのか、煩悩もまた衆生の優劣の原因であって、業だけではないのではないか? それは真実であるが、煩悩の働きによって生じた果報の輪廻は、まさに業によって展開されたものであるとして語られたのである。「**語られた意味を理解しないのか**」と簡潔に述べて、世尊は大慈悲深き方であり、他者に理解させるためにこそ法を説かれるのではないか、ということで「**実にこの者は慢心に依止していた**」などと言われた。

290. Samattenāti pariyattena, yathā taṃ phalaṃ dātuṃ samatthaṃ hoti, evaṃ katena, upacitenāti attho. Tādisaṃ pana attano kicce anūnaṃ nāma hotīti āha **‘‘paripuṇṇenā’’**ti. Samādinnenāti ettha samādānaṃ nāma taṇhādiṭṭhīhi gahaṇaṃ parāmasananti āha – **‘‘gahitena parāmaṭṭhenā’’**ti. Paṭipajjati etāya sugatiduggatīti paṭipadā, kammaṃ. Tathā hi taṃ ‘‘kammapatho’’ti vuccati.

290. 「完全なることによって(samatta)」とは、十分に整えられたことによって、その果報を与えることができるように、そのようになされた、集積されたという意味である。そのようなものは自らの機能において欠けることがないから「**円満なることによって**」と言われた。「引き受けられたことによって」において、引き受けとは渇愛と邪見による把握と執着であるから、「**把握され、執着されたことによって**」と言われた。これによって善趣や悪趣へと赴くから「行道(paṭipadā)」、すなわち業である。実にそれゆえにそれは「業道」と呼ばれる。

Esāti paṭipadā. Dubbalaṃ upaghātakameva siyāti upapīḷakassa visayaṃ dassetuṃ, **‘‘balavakammenā’’**tiādi vuttaṃ. Balavakammenāti puññakammena. Vadati nāmāti vadanto viya hoti. Nibbattāpeyyanti kasmā vuttaṃ, nanu upapīḷakasabhāvaṃ kammaṃ janakasabhāvaṃ na hotīti? Sabbametaṃ parikappanavacanaṃ, yathā manussā paccatthikaṃ paṭipakkhaṃ kiñci kātuṃ asamatthāpi keci ālambanavasena samatthā viya attānaṃ dassenti, evaṃsampadamidanti keci. Apare pana bhaṇanti – yassidaṃ kammassavipākaṃ pīḷeti, sace tasmiṃ anokāse eva sayaṃ vipaccituṃ okāsaṃ labheyya, apāyesu eva taṃsamaṅgipuggalaṃ nibbattāpeyya, yasmā taṃ kammaṃ balavaṃ hutvā avasesapaccayasamavāyena vipaccituṃ āraddhaṃ, tasmā itaraṃ tassa vipākaṃ vibādhentaṃ upapīḷakaṃ nāma jātaṃ. Etadatthameva cettha ‘‘balavakammena nibbatta’’nti balavaggahaṇaṃ kataṃ. Kiccavasena hi nesaṃ kammānaṃ etā samaññā, yadidaṃ upapīḷakaṃ upacchedakaṃ janakaṃ upatthambhakanti, na kusalāni viya upatthambhāni honti nibbattatthāya. Pīḷetvāti viheṭhetvā paṭighāṭanādivasena ucchutelayantādayo viya ucchutilādike vibādhetvā. Nirojanti nittejaṃ. Niyūsanti nirasaṃ. Kasaṭanti nissāraṃ. Parissayanti upaddavaṃ.

「これである」とは行道のことである。弱小のものはまさに障害となるだけであるかもしれないので、抑圧する業(支持業を弱める業)の領域を示すために「**強力な業によって**」などと言われた。「強力な業によって」とは功徳の業によって、ということである。「語るかのようである」とは、語っているかのようであるということである。「生じさせるであろう」となぜ言われたのか、実に抑圧する性質の業は生起させる(結生をもたらす)性質の業ではないのではないか? これらはすべて仮定の言葉であり、例えば人間が敵対する相手に対して何もすることができなくても、ある拠り所に基づいて能力があるかのように自分を見せるようなものであり、これと同じことである、とある者たちは言う。しかし他の者たちは言う――この業の果報を圧迫するものが、もしその機会のない場所で自ら異熟する機会を得たならば、悪趣においてまさにその人を生まれさせるであろう。その業が強力となって残りの条件が揃うことによって異熟し始めたがゆえに、他の業はその果報を妨げつつ「抑圧業」と呼ばれるようになったのである。この意味のためにこそ、ここで「強力な業によって生じた」と「強力」という語が用いられた。実に機能の観点からそれらの業にこれらの名称が与えられたのであり、これがいわゆる抑圧業、断絶業、順生業(生起業)、支持業であり、生起させるために善業のように支持するものではない。「圧迫して」とは、害を与えて、甘蔗搾り機などが甘蔗や胡麻などを圧迫して粉砕するように妨げて、ということである。「滋養のない」とは光彩のないこと。「エキスのない」とは味のないこと。「かすのような」とは実質のないこと。「災患(parissaya)」とは障害のことである。

Idāni parissayassa upanayanākāraṃ dassentena tattha, **‘‘dārakassā’’**tiādiṃ vatvā bhogānaṃ vināsanākāraṃ dassetuṃ, puna **‘‘dārakassā’’**tiādi vuttaṃ. Kumbhadohanāti kumbhapūrakhīrā. Gomaṇḍaleti goyūthe.

今や災患の到来する様相を示すために、そこで「**子どもの…**」などと言って、財産の消滅する様相を示すために、再び「**子どもの…**」などと言われた。「壺を満たす乳を出す牝牛」とは、壺を満たすほどの乳を出す牛のことである。「牛群において」とは、牛の群れにおいて、ということである。

Aṭṭhusabhagamanaṃ katvāti aṭṭhausabhappamāṇaṃ padesaṃ paccatthikaṃ uddissa dhanuggaho anuyāyiṃ katvā. Tanti saraṃ. Aññoti paccatthiko. Tattheva pāteyya accāsannaṃ katvā sarassa khittattā. Vāḷamacchodakanti makarādivāḷamacchavantaṃ udakaṃ.

「八ウサバの距離を行かせて」とは、八ウサバ(約400メートル)の広さの場所で敵をめがけて弓の射手が追尾させて、ということである。「それ」とは矢のことである。「他の者」とは敵のことである。矢が放たれた距離があまりにも近かったために、まさにその場に倒れさせるであろう。「凶暴な魚のいる水」とは、マカラ(怪魚)などの凶暴な魚のいる水のことである。

Paṭisandhinibbattakaṃ kammaṃ janakakammaṃ nāma paripuṇṇavipākadāyibhāvato, na pavattivipākamattanibbattakaṃ. Bhogasampadādīti ādi-saddena ārogyasampadādi-parivārasampadādīni gaṇhāti. Na dīghāyukatādīni hi appāyukatāsaṃvattanikena kammunā nibbattāni; aññaṃ dīghāyukatākaraṇena upatthambhetuṃ sakkoti; na atidubbaṇṇaṃ appesakkhaṃ nīcakulīnaṃ duppaññaṃ vā vaṇṇavantatādivasena. Tathā hi vakkhati, ‘‘imasmiṃ pana pañhavissajjane’’tiādi, taṃ pana nidassanavasena vuttanti daṭṭhabbaṃ.

結生を生じさせる業を生起業(順生業)と呼ぶ。円満な果報を与える性質があるからであり、単に生存期間中の果報のみを生じさせるものではない。「財産の成就など」の「など」という語によって、無病の成就など、従者の成就などを包含している。短命をもたらす業によって生じたものたちは長命などにはならない。他の業が長命をもたらすことによって支持することができる。極端に醜い者、権勢のない者、卑しい家柄の者、愚鈍な者を美貌などの状態にすることはできない。実にそれゆえに「しかしこの問いへの回答において」などと説かれるであろうが、それは例示として説かれたものと見なされるべきである。

Purimānīti upapīḷakopacchedakāni. Upapīḷakupaghātā nāma kusalavipākapaṭibāhakāti adhippāyena **‘‘dve akusalānevā’’**ti vuttaṃ. Upatthambhakaṃ kusalamevāti ettha yathā janakaṃ ubhayasabhāvaṃ, evaṃ itaresampi ubhayasabhāvatāya vuccamānāya na koci virodho. Devadattādīnañhi nāgādīnaṃ ito anuppavacchitānaṃ petādīnañca narakādīsu akusalakammavipākassa upatthambhanupapīḷanupaghātanāni na na sambhavanti. Evañca katvā yā heṭṭhā bahūsu ānantariyesu ekena gahitapaṭisandhikassa itaresaṃ tassa anubalappadāyitā vuttā, sāpi samatthitā hoti. Yasmiñhi kamme kate janakanibbattaṃ kusalaphalaṃ vā akusalaphalaṃ vā byādhidhātusamatādinimittaṃ vibādhīyati, tamupatthambhakaṃ. Yasmiṃ pana kate jātisamatthassa paṭisandhiyaṃ pavattiyañca vipākakaṭattārūpānaṃ uppatti hoti, taṃ janakaṃ. Yasmiṃ pana kate aññena janitassa iṭṭhassa vā aniṭṭhassa vā phalassa vibādhāvicchedapaccayānuppattiyā upabrūhanapaccayuppattiyā ca janakasāmatthiyānurūpaṃ parivutticiratarapabandhā hoti, etaṃ upatthambhakaṃ. Tathā yasmiṃ kate janakanibbattaṃ kusalaphalaṃ akusalaphalaṃ vā byādhidhātusamatādinimittaṃ vibādhīyati, taṃ upapīḷakaṃ. Yasmiṃ pana kate janakasāmatthiyavasena ciratarapabandhārahampi samānaṃ phalaṃ vicchedakapaccayuppattiyā vicchijjati, taṃ upaghātakanti ayamettha sāro.

「前者のもの」とは、抑圧業と断絶業のことである。抑圧するものと破壊するものは善業の果報を妨げるものであるという意図から「**二つは不善業のみである**」と言われた。「支持するものは善業のみである」において、生起業が善・不善の両方の性質を持つように、他のものもまた両方の性質を持つと述べられたとしても何ら矛盾はない。デーヴァダッタなどの者たち、竜などの者たち、ここから施与を受け取らない餓鬼などの者たちにとって、地獄などにおいて不善業の果報に対する支持・抑圧・破壊が生じないわけではないからである。このように解釈することによって、先に多くの無間業において一つの業によって結生を得た者に対して、他の業がその業の勢力を後押しするということも確立される。実にいかなる業がなされた時に、生起業によって生じた善の果報であれ不善の果報であれ、病気の体液の不調などを原因として妨げられるならば、それが支持業(あるいは妨害業)である。しかし、いかなる業がなされた時に、誕生の能力ある結生時および生存期間中に果報の業所生の色(物質)が生起するならば、それが生起業である。しかしいかなる業がなされた時に、他によって生み出された望ましい、あるいは望ましくない果報が妨害や切断の条件が生じないことによって、また増大の条件が生じることによって、生起業の能力に応じてより長く連続して展開するならば、これが支持業である。同様に、いかなる業がなされた時に、生起業によって生じた善の果報であれ不善の果報であれ、病気の体液の不調などを原因として妨げられるならば、それが抑圧業である。しかしいかなる業がなされた時に、生起業の能力によって長く継続するに値するものであっても、切断する条件が生じることによって果報が断絶されるならば、それが断絶業である。これがここでの要点である。

Tatthāti tesu kammesu. Upacchedakakammenāti āyuno upaghātakakammena. Svāyamupaghātakabhāvo dvidhā icchitabboti taṃ dassetuṃ **‘‘pāṇātipātinā’’**tiādi vuttaṃ. Na sakkoti pāṇātipātakammunā santānassa tathābhisaṅkhatattā. Yasmiñhi santāne nibbattaṃ, tassa tena abhisaṅkhatatā avassaṃ icchitabbā tattheva tassa vipākassa vinibandhanato. Etena kusalassa kammassa āyūhanakkhaṇeyeva pāṇātipāto tādisaṃ sāmatthiyupaghātaṃ karotīti dasseti, tato kammaṃ appaphalaṃ hoti. ‘‘Dīghāyukā’’tiādinā upaghātasāmatthiyena khette uppannasassaṃ viya upapattiniyāmakā dhammāti dasseti. Upapatti niyatavisese vipaccituṃ okāse karonte eva kusalakamme ākaḍḍhiyamānapaṭisandhikaṃ pāṇātipātakammaṃ appāyukatthāya niyametīti āha – **‘‘paṭisandhimeva vā niyāmetvā appāyukaṃ karotī’’**ti. Pāṇātipātacetanāya accantakaṭukavipākattā sanniṭṭhānacetanāya niraye nibbattati tassā atthassa khīṇābhāvato; itare pana na tathā bhāriyāti āha – **‘‘pubbā…pe… hotī’’**ti. Idha pana yaṃ heṭṭhā vuttasadisaṃ, taṃ vuttanayena veditabbaṃ.

「そこにおいて」とは、それらの業において、ということである。「断絶業によって」とは、寿命を破壊する業によって、ということである。この断絶する性質は二通りに理解されるべきであるから、それを示すために「**殺生を行う者によって**」などと言われた。殺生業によって心相続がそのように形成されているため、(長命を)保つことができない。実にいかなる心相続において業が生じたならば、まさにそこにその果報が結びつけられるがゆえに、それによって形成されていることが必ず認められなければならない。これによって、善業を形成するまさにその刹那に、殺生業はそのような能力の破壊をなすということを示しており、それゆえにその善業は少ない果報となるのである。「長命の者たち」などの箇所では、破壊の能力によって、畑に生えた作物の生育を規定する諸条件のようなものであることを示している。善業が特定の卓越した生まれにおいて異熟する機会を作っているまさにその時に、引き寄せられつつある結生を伴う殺生業が短命のために限定するので、「**結生そのものを規定して短命にする**」と言われた。殺生の意思(思)は極めて辛酸な果報をもたらすものであるから、決定された意思によって地獄に生まれる。その目的(動機)が尽きていないからである。他の意思はそれほど重くないので、「**前の…中略…となる**」と言われた。しかしここで前述と同様のものは、前述の理趣によって知られるべきである。

Manussāmanussaparissayāti mānusakā amānusakā ca upaddavā. Puratoti pubbadvārato. Pacchatoti pacchimavatthuto. Pavaṭṭamānāti parijanassa, devatānaṃ vā desena pavaṭṭamānā. Parehīti purātanehi parehi. Sammukhībhāvanti sāmibhāvavasena paccakkhattaṃ. Āharitvā denti iṇāyikā. Kammantāti vaṇijjādikammāni. Apāṇātipātakammanti pāṇātipātassa paṭipakkhabhūtaṃ kammaṃ; pāṇātipātā virativasena pavattitakammanti attho. Dīghāyukasaṃvattanikaṃ hoti vipākassa kammasarikkhabhāvato. Iminā nayenāti iminā appāyukadīghāyukasaṃvattanikesu kammesu yathāvuttena taṃ saṃvattanikavibhāvananayena.

「人間・非人間の災患」とは、人間による災患および人間以外の存在による災患のことである。「前門から」とは、東の門から。「後門から」とは、西の屋敷から。「転がり出る」とは、従者たちの、あるいは神々の指示によって転がり出ることである。「他者によって」とは、昔の他者たちによって。「面前に現れる」とは、主人の立場として直接現れることである。「債務者たちが持ってきて与える」とは、借金をしている者たちのことである。「生業」とは、商業などの生業のことである。「不殺生業」とは、殺生の反対となる業であり、殺生からの離滅の力によって生じた業という意味である。業の果報は業に類似した状態であるから「長命をもたらすものとなる」のである。「この理趣によって」とは、短命・長命をもたらす業において前述された、それをもたらすことを解明する理趣によって、ということである。

Viheṭhanakammādīnipīti pi-saddena kodhaissāmanakamaccherathaddhaaviddasubhāvavasena pavattitakammāni saṅgaṇhāti. Tathevāti yathā pāṇātipātakammaṃ atthato evaṃ vadati nāmāti vuttaṃ, tatheva vadamānāni viya. ‘‘Yaṃ yadevātipatthenti, sabbametena labbhatī’’ti (khu. pā. 8.10) vacanato yathā sabbakusalaṃ sabbāsaṃ sampattīnaṃ upanissayo, evaṃ sabbaṃ akusalaṃ sabbāsaṃ vipattīnaṃ upanissayoti, **‘‘upapīḷanena nibbhogataṃ āpādetvā’’**tiādi vuttaṃ. Tathā hi pāṇātipātakammavasenapi ayaṃ nayo dassito. Aviheṭhanādīnīti ettha ādi-saddena akkodhana-anissāmana-dāna-anatimāna-viddasubhāvena pavattakammāni saṅgaṇhāti.

「迫害の業などもまた」の「〜もまた(pi)」という言葉によって、怒り、嫉妬、貪欲、物惜しみ、傲慢、無知の力によって生じた諸業を包含している。「まさにそのように」とは、殺生業が実質的にこのように語るかのようであると説かれたように、まさにそのように語っているかのようである、ということである。「彼らが願ういかなるものも、これによってすべて得られる」(小誦8.10)という言葉の通り、あらゆる善業があらゆる幸福の拠り所であるように、あらゆる不善業があらゆる不幸の拠り所であることから、「**抑圧によって無財の状態に至らしめて**」などと言われた。実に殺生業の観点によってもこの理趣は示された。「不迫害など」において、「など」という言葉によって、無瞋、無嫉妬、布施、無傲慢、知恵の力によって生じた諸業を包含している。

293. Issā mano etassāti issāmanakoti āha **‘‘issāsampayuttacitto’’**ti. Upakkosantoti akkosavatthūhi akkosanto. Issaṃ bandhatīti issaṃ anubandhati issāsahitameva cittaṃ anupavatteti. Appesakkhoti appānubhāvo appaññāto. Tenāha **‘‘na paññāyatī’’**ti. Sā panassa appānubhāvatā parivārābhāvena pākaṭā hotīti āha **‘‘appaparivāro’’**ti.

293. 嫉妬の心(意)を持つ者であるから「嫉妬深い心を持つ者」であり、「**嫉妬相応の心を持つ者**」と言われた。「罵る者」とは、罵りの言葉によって罵る者のことである。「嫉妬を結ぶ」とは、嫉妬を追随させ、嫉妬を伴う心のみを生じさせ続けることである。「権勢のない者」とは、威光の少ない者、名声のない者のことである。それゆえに「**知られない**」と言われた。その威光の少なさは従者がいないことによって明白となるから、「**従者が少ない者**」と言われた。

294. Macchariyavasena na dātā hotīti sabbaso deyyadhammassa abhāvena na dātā na hoti. Amaccharī hi puggalo sati deyyadhamme yathārahaṃ detiyeva.

294. 「物惜しみの力によって施さない者となる」とは、施すべき物が全くないことによって施さないのではない。実に物惜しみのない人は、施すべき物があるならば相応に施すからである。

295. Abhivādetabbaṃ khettavasena matthakappattaṃ dassetuṃ, **‘‘buddhaṃ vā’’**tiādi vuttaṃ. Aññepi mātupitujeṭṭhabhātarādayo abhivādanādiarahā santi, tesu thaddhādivasena karaṇaṃ nīcakulasaṃvattanikameva. Na hi pavatte sakkā kātunti sambandho. Tena pavattivipākadāyino kammassa visayo esoti dasseti. Tenāha **‘‘paṭisandhimeva panā’’**tiādi.

295. 敬礼されるべき福田としての最高峰を示すために「**仏陀あるいは…**」などと言われた。他にも父母や兄などの敬礼を受けるに値する者たちがいるが、それらに対して傲慢などの力によって無礼をなすことは、まさに卑しい家柄をもたらすものである。「生存期間中にはなし得ない」と結びつく。それによって、これは生存期間中の果報を与える業の領域であることを示している。それゆえに「**しかし結生そのものを…**」などと言われた。

296. Aparipucchanenāti aparipucchāmattena niraye na nibbattati; aparipucchāhetu pana kattabbākaraṇādīhi siyā nirayanibbattīti pāḷiyaṃ, ‘‘na paripucchitā hotī’’tiādi vuttanti dassento, **‘‘aparipucchako panā’’**tiādimāha. Yathānusandhiṃ pāpesīti desanaṃ yathānusandhiniṭṭhānaṃ pāpesi. Sesaṃ vuttanayattā suviññeyyameva.

296. 「尋ねないことによって」とは、単に尋ねないということだけで地獄に生まれるのではない。しかし尋ねないことを原因として、なすべきことをなさなかったりすることによって地獄への誕生があり得るのである。聖典において「尋ねる者とならない」などと説かれていることを示して、「**しかし尋ねない者は**」などと言われた。「文脈に合致させた」とは、教説を文脈の結論に合致させたということである。残りはすでに説かれた理趣によるため、容易に理解できる。

Cūḷakammavibhaṅgasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

小業分別経解説の釈義は完結した。

6. Mahākammavibhaṅgasuttavaṇṇanā

6. 大業分別経解説

298. Kammassa moghabhāvo nāma phalena tucchatā phalābhāvoti āha – **‘‘moghanti tucchaṃ aphala’’**nti. Tathaṃ bhūtanti saccasaddassa atthamāha. Paribbājako pana ‘‘sacca’’nti iminā tameva saphalanti vadati. Saphalañhi kammaṃ satthu abhimatamanokammanti adhippāyo. Idañca ‘‘moghaṃ kāyakamma’’ntiādivacanaṃ. Taṃ gahetvāti paramparāya gahetvā. Esāti potaliputto paribbājako. Abhisaññānirodhakathaṃ sandhāya vadati. Sāpi hi titthiyānaṃ antare pākaṭā jātāti. Theroti samiddhitthero. Yathā bhagavatā vuttaṃ, tato ca aññathāva dosāropanabhayena gahetvā tato bhagavantaṃ thero rakkhatīti adhippāyena paribbājako, ‘‘parirakkhitabbaṃ maññissatī’’ti avocāti āha – **‘‘parirakkhitabbanti garahato mocanena rakkhitabba’’**nti. Sañcetanā assa atthīti sañcetanikaṃ. Kammanti sañcetanikassapi kammassa attano samaye icchitattā paribbājakena vuttaṃ.

298. 業の「虚妄性」とは、果報において空虚であること、果報のないことであるから、「**虚妄とは、空虚で無果であること**」と言われた。「真実である、生じたものである」とは、「真実(sacca)」という語の意味を述べている。しかし遍歴行者は「真実」というこの語によって、まさにそれ(意業)を果報あるものとして述べている。果報ある業こそが導師の意図する意業であるという意図である。そしてこれは「身業は虚妄である」などの言葉である。「それを受け取って」とは、口伝によって受け取って、ということである。「この者」とはポータリプッタ遍歴行者である。想受滅の教説を指して言っている。それもまた異学の徒たちの間で知られるようになったからである。「長老」とはサミッディ長老である。世尊によって説かれた通りであるのに、それとは異なる非難を負わされる恐れから受け取り、それゆえに世尊を長老が護るという意図から、遍歴行者は「護られるべきであると考えるであろう」と言ったのである。それゆえに「**護られるべきとは、非難から免れさせることによって護られるべきであること**」と言われた。思慮(意思)がそれにあるから「故意の(sañcetanika)」である。「業」とは、故意の業もまた自らの教義において容認されていることから、遍歴行者によって言われた。

Saṅkhatasaṅkhāratāya rūpameva **‘‘tilamattampi saṅkhāra’’**nti vuttaṃ. Tenāha – **‘‘maṃsacakkhunāva passatī’’**ti. Samāgamadassanaṃ sandhāyāti katthacipi tassa dassanaṃ sandhāya, na pariññādassanaṃ. Tenāha bhagavā – ‘‘kuto panevarūpaṃ kathāsallāpa’’nti.

有為の諸行であることから、物質(色)そのものを「**胡麻粒ほどの諸行も**」と言われた。それゆえに「**肉眼でのみ見ている**」と言われた。「出会いの観察を指して」とは、どこかでの出会いの観察を指して言っているのであり、遍知の観察ではない。それゆえに世尊は「どこからこのような対話が生じたのか」と言われた。

299. Vaṭṭadukkhanti saṃsāradukkhaṃ. Kilesadukkhanti kilesasambhavarāgapariḷāhadukkhaṃ. Saṅkhāradukkhanti yadaniccaṃ, taṃ dukkhanti evaṃ vuttadukkhaṃ. Sace bhāsitaṃ bhaveyyāti imaṃ īdisaṃ dukkhaṃ sandhāya āyasmatā samiddhinā bhāsitaṃ siyā nu bhagavā, avibhajitvā byākaraṇaṃ yuttamevāti adhippāyo.

299. 「輪廻の苦」とは輪廻の苦しみである。「煩悩の苦」とは煩悩から生じる貪欲の焦熱の苦しみである。「行苦」とは「無常なるものは苦である」とこのように説かれた苦しみである。「もし語られたのであれば」とは、このような苦しみを指して尊者サミッディによって語られたのであろうか、世尊よ、分別せずに答えることが適切であったという意図である。

300. Ummaṅganti ummujjanaṃ, kathāmuḷhena antarā aññāṇavisayapañhā ummaṅgaṃ. Tenāha – **‘‘pañhāummaṅga’’**nti neva dibbacakkhunāti kasmā vuttaṃ. Na hi taṃ ayoniso ummujjanaṃ dibbacakkhuvisayanti? Kāmañcetaṃ na dibbacakkhuvisayaṃ, dibbacakkhuparibhaṇḍañāvisayaṃ pana siyāti tathā vuttaṃ. Adhippāyenevāti udāyittherassa adhippāyeneva gayhamānena taṃ ayoniyo ummujjanaṃ aññāsi. Sannisīdituṃ pubbe nisinnākārena sannisīdituṃ na sakkoti. Samiddhittherena anabhisaṅkhatasseva atthassa kathitattā, **‘‘yaṃ abhūtaṃ, tadeva kathessatī’’**ti vuttaṃ. Tenāha ‘‘ayoniso ummujjissatī’’ti. Tisso vedanā pucchitā, ‘‘kiṃ so vediyatī’’ti avibhāgena vediyamānassa jātitattā. Sukhāya vedanāya hitanti sukhavedaniyaṃ. Tenāha – **‘‘sukhavedanāya paccayabhūta’’**nti. Sesesūti, ‘‘dukkhavedaniya’’ntiādīsu.

300. 「湧出(ummaṅga)」とは浮き出ること、対話に迷って途中で無知の領域の問いに浮き出ることである。それゆえに「**問いへの湧出**」と言われた。なぜ「決して天眼によってではなく」と言われたのか。その理にかなわない浮き出ることは天眼の領域ではないからか? 確かにそれは天眼の領域ではないが、天眼の周辺の智慧の領域ではあり得るから、そのように言われた。「意図そのものによって」とは、ウダーイー長老の意図そのものを受け取ることによって、その理にかなわない浮き出ることを知ったのである。「静座する」とは、以前に座っていた態勢で静座することができない。「サミッディ長老によって構想されていない意味が語られたため、『**真実でないまさにそれを語るであろう**』と言われた」。それゆえに「如理ならざる浮き出方をするであろう」と言われた。「彼は何を感受するのか」と三つの受が尋ねられた。無差別に感受されるものの種類であるからである。快の受にとって有益なものが「順楽受(sukhavedaniya)」である。それゆえに「**快の受の条件となった**」と言われた。「その他において」とは、「順苦受」などの箇所においてである。

Heṭṭhā tikajjhānacetanāti ettha, ‘‘kusalato’’ti adhikārato rūpāvacarakusalato heṭṭhā tikajjhānacetanāti attho. Etthāti etesu kāmāvacararūpāvacarasukhavedaniyakammesu. Adukkhamasukhampīti pi-saddena iṭṭhārammaṇe sukhampīti imamatthaṃ sampiṇḍeti.

「下位の三禅の意思」とは、ここでは「善から」という前提から色界の善のうちの下位の三禅の意思という意味である。「ここにおいて」とは、これら欲界と色界の快の受を受けるべき諸業において、ということである。「不苦不楽をも」の「〜をも(pi)」という言葉によって、望ましい対象における快をも、というこの意味を統括している。

Yadi kāyadvāre pavattato aññattha adukkhamasukhaṃ janeti, atha kasmā, ‘‘dukkhasseva jananato’’ti vuttanti āha – **‘‘sā pana vedanā’’**tiādi.

もし身門において生起すること以外で不苦不楽を生じさせるならば、なぜ「苦のみを生じさせることから」と言われたのか、それゆえに「**しかしその受は…**」などと言われた。

Catutthajjhānacetanāti ettha arūpāvacarakusalacetanātipi vattabbaṃ. Yathā hi ‘‘kāyena vācāya manasā’’ti ettha yathālābhaggahaṇavasena manasā sukhavedaniyaṃ adukkhamasukhavedaniyanti ayamattho arūpāvacarakusalepi labbhatīti sukhampi janeti ukkaṭṭhassa ñāṇasampayuttakusalassa soḷasavipākacittanibbattanato, ayañca nayo heṭṭhā, ‘‘adukkhamasukhampī’’ti etthāpi vattabbo. Pubbe pariyāyato dukkhavedanā vuttā, suttantasaṃvaṇṇanā hesāti idāni nippariyāyato puna dassetuṃ, **‘‘apicā’’**tiādi vuttaṃ. Tena ettha dukkhavedaniyaṃ pavattivaseneva vaṭṭatīti. Etassāti dukkhavedaniyassa pavattivaseneva yujjamānattā etassa vasena sabbaṃ sukhavedaniyaṃ adukkhamasukhavedaniyañca pavattivaseneva vattuṃ vaṭṭati.

「第四禅の意思」において、無色界の善の意思とも語られるべきである。実に「身によって、言葉によって、意によって」において、得られたものを受け取る力によって「意によって順楽受、順不苦不楽受である」というこの意味は無色界の善においても得られるからであり、最上の智相応の善業は十六の異熟心を生じさせるがゆえに快をも生じさせる。この理趣は前述の「不苦不楽をも」という箇所においても語られるべきである。以前には方便(間接的)の観点から苦受が説かれたが、これは経の注釈であるから、今や直接的な観点から再び示すために「**さらにまた**」などと言われた。それによってここでは、順苦受はまさに生存期間中の生起の力によってのみ適合する。「これの」とは、順苦受がまさに生存期間中の生起の力によってのみ適合するがゆえに、これの力によってすべての順楽受および順不苦不楽受も、生存期間中の生起の力によってのみ語ることが適合する。

Ālayoti abhiruci. Mahākammavibhaṅgañāṇanti mahati kammavibhajane ñāṇaṃ, mahantaṃ vā kammavibhajanañāṇaṃ. Bhājanaṃ nāma niddeso, ayaṃ pana uddesoti katvā āha – **‘‘katame cattāro…pe… mātikāṭṭhapana’’**nti.

「愛着」とは好みのことである。「大業分別智」とは、大いなる業の分別における智慧、あるいは偉大な業分別の智慧のことである。「配分」とは詳細な解説(分別)のことであるが、これは総説(母体)であるとして「**いかなる四種か…中略…母体の提示**」と言われた。

301. Pāṭiyekko anusandhi yathāuddiṭṭhassa mahākammavibhaṅgañāṇassa abhājanabhāvato, pucchānusandhiajjhāsayānusandhīsu ca anantogadhattā. Tenāha **‘‘idaṃ hī’’**tiādi. Idaṃ ārammaṇaṃ katvāti idha, ‘‘pāṇātipātiṃ adinnādāyi’’ntiādinā puggalādhiṭṭhānena vuttaṃ kammavibhaṅgaṃ ārabbha. Imaṃ paccayaṃ labhitvāti tasseva vevacanaṃ. Idaṃ dassanaṃ gaṇhantīti idaṃ, ‘‘atthi kira, bho, pāpakāni kammāni, natthi kira, bho, pāpakāni kammānī’’ti ca ādīni hatthidassakaandhāviya diṭṭhamatte eva ṭhatvā acittakadassanañca gaṇhanti. Vīriyaṃ kilesānaṃ ātāpanavasena ātappaṃ, tadeva padahavasena padhānaṃ, punappunaṃ yuñjanavasena anuyogo, tathā bhāvanāya nappamajjati etenāti appamādo, sammā yoniso manasi karoti etenāti sammāmanasikāroti vuccatīti adhippāyena, **‘‘pañcapi vīriyasseva nāmānī’’**ti āha. Appamādo vā satiyā avippavāso. Yasmiṃ manasikāre sati tassa dibbacakkhuñāṇaṃ ijjhati, ayamettha sammāmanasikāroti ettha attho daṭṭhabbo. Cetosamādhinti dibbacakkhuñāṇasahagataṃ cittasamādhiṃ. Tenāha **‘‘dibbacakkhusamādhi’’**nti. Aññathāti akusalakammakaraṇato aññathā, taṃ pana kusalakammakaraṇaṃ hotīti āha – **‘‘ye dassannaṃ kusalānaṃ kammapathānaṃ pūritattā’’**ti diṭṭhithāmenāti diṭṭhivasena diṭṭhibalena. Diṭṭhiparāmāsenāti diṭṭhivasena dhammasabhāvaṃ atikkamitvā parāmāsena. Adhiṭṭhahitvāti, ‘‘idameva saccaṃ, moghamañña’’nti adhiṭṭhāya abhinivisitvā. Ādiyitvāti daḷhaggāhaṃ gahetvā. Voharatīti attano gahitaggahaṇaṃ paresaṃ dīpento voharati.

総説として示された大業分別智が詳細に解説されていない状態であり、質問への連結や意図への連結にも含まれないため、個別の脈絡である。それゆえに「**実にこれは…**」などと言われた。「これを対象として」とは、ここにおいて「殺生をなし、盗みを働き…」などと人を主体として説かれた業の分別に関して、ということである。「この条件を得て」とはそれの同義語である。「この見解を取る」とは、この「友よ、実に悪業は存在する、友よ、実に悪業は存在しない」などと、象を見る盲人のように見えたことだけに留まって、無分別な見解を取るのである。精進は煩悩を熱する力によって「熱心(ātappa)」であり、まさにそれ自体が励む力によって「精励(padhāna)」であり、度々励む力によって「専修(anuyoga)」であり、そのように修習において怠らないことによって「不放逸(appamāda)」であり、正しく理にかなって作意することによって「正作意(sammāmanasikāra)」と呼ばれるという意図から、「**五つともに精進そのものの名称である**」と言われた。あるいは不放逸とは正念を失わないことである。いかなる作意がある時にその者に天眼智が成就するのか、これがここでの正作意であると、ここでは意味が見なされるべきである。「心の三昧」とは、天眼智を伴う心の定のことである。それゆえに「**天眼の三昧**」と言われた。「異なって」とは、不善業をなすこととは異なって、しかしそれは善業をなすことであるから「**十の善業道を全うしたことによって**」と言われた。「見解の力によって」とは、見解の働きによって、見解の力によって、ということである。「見解への執着によって」とは、見解の力によって法の自相を超えて執着することによって。「確信して」とは、「これのみが真実であり、他は虚妄である」と確信して固執して、ということである。「執着して」とは、強固な把握を取って、ということである。「言い立てる」とは、自らの取った見解を他者に示しつつ言い立てるのである。

302. Tatrānandāti ettha iti-saddo ādiattho. Idampīti idaṃ vacanaṃ. ‘‘Tatrānandā’’ti evamādivacanampīti attho. Na mahākammavibhaṅgañāṇassa bhājanaṃ tassa aniddesabhāvato. Assāti mahākammavibhaṅgañāṇassa mātikāṭṭhapanameva dibbacakkhukānaṃ samaṇabrāhmaṇānaṃ vasena anuññātabbassa ca dassanavasena uddesabhāvato. Tenāha **‘‘ettha panā’’**tiādi. Tattha ettha panāti ‘‘tatrānandā’’tiādipāṭhe. Etesaṃ dibbacakkhukānanti etesaṃ heṭṭhā catūsupi vāresu āgatānaṃ dibbacakkhukānaṃ. Ettakāti ekacciyā saccagirā. Anuññātāti anujānitā. Ananuññātāti paṭikkhepitā. Idha ananuññātamukhena dīpitaṃ ananuññātabhāvamattaṃ. Tatrānandātiādike tatrāti niddhāraṇe bhummanti dassento, **‘‘tesu catūsu samaṇabrāhmaṇesū’’**ti āha. Idaṃ vacanaṃ ‘‘atthi kira, bho…pe… vipāko’’ti idaṃ evaṃ vuttaṃ. Assāti tathāvādino samaṇabrāhmaṇassa. Aññenākārenāti ‘‘yo kira, bho’’tiādinā vuttakāraṇato aññena kāraṇena. Dvīsu ṭhānesūti ‘‘atthi kira, bho…pe… vipāko’’ti ca, ‘‘apāyaṃ…pe… nirayaṃ upapanna’’nti ca imesu dvīsu pāṭhapadesesu. Anuññātā tadatthassa atthibhāvato. Tīsu ṭhānesūti ‘‘yo kira, bho…pe… nirayaṃ upapajjati’’, ‘‘yampi so…pe… te sañjānanti’’, ‘‘yampi so yadeva…pe… moghamañña’’nti imesu tīsu pāṭhapadesesu. Ananuññātā tadatthassānekantikattā micchābhinivesato ca. Tenāha bhagavā – ‘‘aññathā hi, ānanda, tathāgatassa mahākammavibhaṅgañāṇa’’nti. Yathā te appahīnavipallāsā padesañāṇasamaṇabrāhmaṇā kammavibhaṅgaṃ sañjānanti, tato aññathāva sabbaso pahīnavipallāsassa tathā āgamanādiatthena tathāgatassa sammāsambuddhassa mahākammavibhaṅgañāṇaṃ hotīti attho.

302. 「アーナンダよ、そこにおいて」における「〜と(iti)」という語は「〜など」という意味である。「これもまた」とはこの言葉のことである。「アーナンダよ、そこにおいて」というような言葉もまた、という意味である。大業分別智の配分(詳細解説)ではない。それがまだ詳細に解説されていない状態だからである。「それの」とは、大業分別智の母体の提示にほかならない。天眼を持つ沙門・バラモンたちに基づいて容認されるべきことを示すことによる総説の状態であるからである。それゆえに「**しかしここにおいて**」などと言われた。その中で「しかしここにおいて」とは、「アーナンダよ、そこにおいて」などの本文において、ということである。「これら天眼を持つ者たちの」とは、これら前述の四つの場合において現れた天眼を持つ者たちの、ということである。「これほどの」とは、ある真実の言葉のことである。「容認された」とは、認められたということ。「容認されない」とは、否定されたということである。ここでは容認されない側面を通じて示された単なる容認されない状態である。「アーナンダよ、そこにおいて」などの「そこにおいて」とは、選択における処格であることを示して、「**これら四人の沙門・バラモンたちの中で**」と言われた。この言葉とは、「友よ、実に…中略…異熟は存在する」というこのように説かれた言葉である。「その者の」とは、そのように主張する沙門・バラモンの、ということである。「異なる様態によって」とは、「友よ、実に〜する者は」などと説かれた理由とは異なる理由によって、ということである。「二つの箇所において」とは、「友よ、実に…中略…異熟は存在する」ということと、「悪趣に…中略…地獄に生まれた」というこれら二つの本文の句においてである。その意味が真実であることによって容認されたのである。「三つの箇所において」とは、「友よ、実に〜する者は…中略…地獄に生まれる」、「彼が…中略…彼らが知ることもまた」、「彼がまさに…中略…他は虚妄であるとすることもまた」というこれら三つの本文の句においてである。その意味が確定的でなく、誤った固執であることから容認されないのである。それゆえに世尊は「アーナンダよ、実に如来の大業分別智は異なっている」と言われた。それらの顛倒を断じていない一部分の智慧を持つ沙門・バラモンたちが業の分別を知るのとは異なって、完全に顛倒を断じた、真実に来たなどの意味を持つ如来、正等覚者の大業分別智は存在する、という意味である。

303. Iminā dibbacakkhukena yaṃ kammaṃ karonto diṭṭho, tato pubbeti yojanā. Tatoti tato kariyamānakammato pubbe. Khandoti kumāro. Sivoti issaro. Pitāmahoti brahmā. Issarādīhīti issarabrahmapajāpatiādīhi. Visaṭṭhoti nimmito. Micchādassanenāti micchādassanavasena. Yanti yaṃ kammaṃ. Tatthāti tesu pāṇātipātādivasena pavattakammesu. Diṭṭheva dhammeti tasmiṃyeva attabhāve vipākaṃ paṭisaṃvedetīti yojanā. Upapajjitvāti dutiyabhave nibbattitvā. Aparasmiṃ pariyāyeti aññasmiṃ yattha katthaci bhave.

303. この天眼を持つ者によって、なしているところを見られた業、それより前、と結合される。「それより」とは、そのなされている業より前、ということである。「カンダ(童子神)」とはクマーラ神である。「シヴァ(吉祥神)」とは主宰神である。「ピターマハ(祖父神)」とは梵天である。「主宰神などによって」とは、主宰神、梵天、生主などによって、ということである。「放たれた(visaṭṭha)」とは創造されたこと。「邪見によって」とは、邪見の力によって。「いかなる」とは、いかなる業を。「そこにおいて」とは、それらの殺生などの力によって生じた諸業において。「現世において」とは、まさにその身体(生存)において果報を体験する、と結合される。「生まれて」とは、第二の生存に生まれて。「別の機会において」とは、別のいかなる生存においてであれ、ということである。

Ekaṃ kammarāsinti pāṇātipātādibhedena ekaṃ kammasamudāyaṃ. Ekaṃ vipākarāsinti tasseva aṅgena ekaṃ vipākasamudāyaṃ. Imināti yathāvuttena dibbacakkhukena samaṇena brāhmaṇena vā adiṭṭhā. Tayoti ‘‘pubbe vāssa taṃ kataṃ hotī’’tiādinā vuttā tayo. Dve vipākarāsīti diṭṭhadhammavedaniyo aparāpariyāyavedaniyoti dve vipākarāsī. Upapajjavedaniyaṃ pana tena diṭṭhaṃ, tasmā ‘‘dve’’ti vuttaṃ. Diṭṭho eko, adiṭṭhā tayoti diṭṭhe ca adiṭṭhe ca cattāro kammarāsī, tathā diṭṭho eko, adiṭṭhā dveti tayo vipākarāsī. Imāni satta ṭhānānīti yathāvuttāni satta ñāṇassa pavattanaṭṭhānāni. ‘‘Imassa nāma kammassa idaṃ phalaṃ nibbatta’’nti kammassa, phalassa vā adiṭṭhattā, **‘‘dutiyavāre dibbacakkhukena kiñci na diṭṭha’’**nti vuttaṃ. Paṭhamaṃ vuttanayena tayo kammarāsī veditabbā, idha dibbacakkhukena diṭṭhassa abhāvato, **‘‘paccattaṭṭhānānī’’**ti vuttaṃ.

「一つの業の集まり」とは、殺生などの区分による一つの業の集積である。「一つの異熟の集まり」とは、それの一部分としてのひとつの異熟の集積である。「この者によって」とは、前述の天眼を持つ沙門あるいはバラモンによって見られなかったもの。「三つ」とは、「あるいは以前に彼によってそれがなされていた」などと説かれた三つのことである。「二つの異熟の集まり」とは、順現法受(現世で受けるべきもの)と順後次受(来々世以降で受けるべきもの)という二つの異熟の集まりのことである。しかし順次生受(来世で受けるべきもの)は彼によって見られたので、それゆえに「二つ」と言われた。「見られたものが一つ、見られなかったものが三つ」とは、見られたものと見られなかったものとで四つの業の集まりであり、同様に「見られたものが一つ、見られなかったものが二つ」で三つの異熟の集まりである。「これら七つの箇所」とは、前述の智慧の働く七つの領域のことである。「この業のこの果報が生じた」と業あるいは果報が見られなかったことから、「**二度目には天眼を持つ者によって何も見られなかった**」と言われた。最初に説かれた理趣によって三つの業の集まりが知られるべきであり、ここでは天眼を持つ者によって見られたものがないことから、「**各自の箇所**」と言われた。

Bhavati vaḍḍhati etenāti bhabbaṃ, vaḍḍhinimittaṃ. Na bhabbaṃ abhabbanti āha **‘‘bhūtavirahita’’**nti. Attano phale bhāsanaṃ dibbanaṃ ābhāsananti āha – **‘‘ābhāsati abhibhavati paṭibāhatī’’**ti. Balavakammanti mahāsāvajjaṃ kammaṃ garusamāsevitādibhedaṃ. Āsanneti maraṇe, abhiṇhaṃ upaṭṭhānena vā tassa maraṇacittassa āsanne. Balavakammanti garusamāsevitatādivasena balavaṃ kusalakammaṃ. Dubbalakammassāti attano dubbalassa. Āsanne kusalaṃ katanti idhāpi āsannatā pubbe vuttanayeneva veditabbā.

これによって生成し増大するから「可能(bhabba)」であり、増大の原因である。可能でないものが「不可能(abhabba)」であるから、「**存在を欠いた**」と言われた。自らの果報において輝くこと、現れることが「顕現(ābhāsana)」であるから、「**照らし出す、凌駕する、妨げる**」と言われた。「強力な業」とは、重罪を伴う業、重ねてよく親しまれたものなどの区分である。「臨終において」とは死の時に、あるいは度々の現起によって、その死の心に近接している時に。「強力な業」とは、重ねてよく親しまれたことなどによる強力な善業のことである。「弱小な業の」とは、自らの弱小な業の、ということである。「臨終に善をなした」において、ここでも近接していることは先に説かれた理趣によって知られるべきである。

Upaṭṭhānākārenāti maraṇassa āsannakāle kammassa upaṭṭhānākārena. Tassāti tassa puggalassa. Nibbattikāraṇabhūtaṃ hutvā upaṭṭhāti akusalanti yojanā. Titthiyā kammantaravipākantaresu akusalatāya yaṃ kiñci kammaṃ yassa kassaci vipākassa kāraṇaṃ katvā gaṇhanti hatthidassakaandhādayo viya diṭṭhamattābhinivesinoti, **‘‘aññatitthiyā…pe… upaṭṭhātī’’**ti vuttaṃ. Itarasminti bhabbañceva bhabbābhāsañca, bhabbaṃ abhabbābhāsanti imasmiṃ dvaye. Eseva nayo paṭhamadutiyapuggalavasena purimānaṃ dvinnaṃ kammānaṃ yojanānayo vutto upaṭṭhānākāravasena. Ayameva tatiyacatutthapuggalavasena pacchimānaṃ dvinnaṃ kammānaṃ yojanānayo. Tatiyassa hi kammassa kusalattā tassa ca sagge nibbattattā tattha kāraṇabhūtaṃ kusalaṃ hutvā upaṭṭhāti; tathā catutthassapi kammassa kusalattā, tassa pana niraye nibbattattā tattha nibbattikāraṇabhūtaṃ aññatitthiyānaṃ akusalaṃ hutvā upaṭṭhātīti. Yaṃ panettha atthato avibhattaṃ, taṃ suviññeyyameva.

「現起の様相によって」とは、臨終の時における業の現起の様相によって、ということである。「その者の」とは、その人物の、ということである。生起の原因となって現起するものが不善である、と連結される。外道たちは、業の差異や異熟の差異において無知であるために、いかなる業であれ任意の異熟の原因であると見なして執着する。象を見る盲人たちのように、ただ見聞きしたことだけに執着する者たちであるゆえに、「他の外道たちは……乃至……現起する」と説かれたのである。「他の者において」とは、証得の能力がある者と、能力があるように見えてない者、能力がある者と、能力がないように見える者の、この二組においてである。これと同様の理趣が、第一と第二の人物の観点から、先の二つの業の連結の理趣として、現起の様相の観点から説かれたのである。まさにこの理趣が、第三と第四の人物の観点から、後の二つの業の連結の理趣である。実に、第三の業は善であるゆえに、そしてその者が天界に生じたゆえに、そこにおいて原因となった善となって現起するのである。同様に、第四の業もまた善であるが、しかしその者が地獄に生じたゆえに、そこにおいて生起の原因となった他の外道たちの不善となって現起する、ということである。ここで意味の上で分別されていないことは、極めて理解しやすいことである。

Mahākammavibhaṅgasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

大業分別経の注釈に対する甚深義の解明は完結した。

7. Saḷāyatanavibhaṅgasuttavaṇṇanā

七、六処分別経の注釈

304. Veditabbānīti ettha yathā viditāni cha ajjhattikāni āyatanāni vaṭṭadukkhasamatikkamāya honti, tathā vedanaṃ adhippetanti āha – **‘‘sahavipassanena maggena jānitabbānī’’**ti. Tattha vipassanāya ārammaṇato maggena asammohato jānanaṃ daṭṭhabbaṃ. Sesapadesupi eseva nayo. Mano savisesaṃ upavicarati ārammaṇe pavattati etehīti manopavicārā, vitakkavicārā. Ārammaṇe hi abhiniropanānumajjanehi vitakkavicārehi saha cittaṃ pavattati, na tabbirahitaṃ. Tenāha **‘‘vitakkavicārā’’**tiādi. Sattā pajjanti etehi yathārahaṃ vaṭṭaṃ vivaṭṭañcāti sattapadā, gehanissitā vaṭṭapadā. Yoggānaṃ damanaācariyā yoggācariyā. Tenāha **‘‘dametabbadamakāna’’**nti. Sesanti vuttāvasesaṃ ekasattatividhaviññāṇaṃ saphassarūpakasseva adhippetattā.

三〇四。「知られるべきもの」とは、ここで六つの内なる処が、輪廻の苦を乗り越えるために知られるのと同様に、受も意図されているとして、「ヴィパッサナーを伴う道によって知られるべきである」と述べたのである。そこでは、ヴィパッサナーによる対象の観点から、道による無痴の観点から知ることが見られるべきである。残りの句においても、これと同様の理趣である。意が特別に巡り歩き、対象においてそれらによって活動するゆえに「意の巡歴」であり、尋と伺のことである。実に、対象において投射と考察の働きを持つ尋・伺とともに心は活動し、それらを欠いて活動することはない。それゆえに「尋と伺」などと述べたのである。有情たちがこれらによって応じて輪廻と解脱へと赴くゆえに「有情の足場」であり、在家に依拠する輪廻の足場である。調教に適した者を調教する指導者が調教導師である。それゆえに「調教されるべき者の調教師」と述べたのである。「残りの」とは、説かれた残りの七十一種類の識のことであり、触を伴う色法のみが意図されているからである。

305. Idhāti imissaṃ chaviññāṇakāyadesanāyaṃ. Manodhātuttayavinimuttameva manoviññāṇadhātūti veditabbaṃ.

三〇五。「ここに」とは、この六つの識身の教説において、ということである。三つの意界を離れたものだけが意識界であると知られるべきである。

Cakkhumhi samphassoti cakkhuṃ nissāya uppanno samphasso. Tenāha – **‘‘cakkhuviñāṇasampayuttasamphassassetaṃ adhivacana’’**nti.

「眼における触」とは、眼に依拠して生じた触である。それゆえに「これは眼識に相応する触の同義語である」と述べたのである。

Yathā kevalena viññāṇena rūpadassanaṃ na hoti, evaṃ kevalena cakkhupasādenapīti vuttaṃ **‘‘cakkhuviññāṇenā’’**ti. Tena pāḷiyaṃ cakkhunāti nissayamukhena nissitakiccaṃ vuttanti dasseti. Ārammaṇavasenāti ārammaṇapaccayabhāvena. ‘‘Upavicarati’’cceva kasmā vuttaṃ, nanu tattha vitakkabyāpāropi atthīti? Saccaṃ atthi. So panettha taggatikoti āha – **‘‘vitakko taṃsampayutto cā’’**ti. Sampayuttadhammānampi upavicaraṇaṃ vitakkavicārānaṃyevettha kiccanti **‘‘vitakkavicārasaṅkhātā manopavicārā’’**ti vuttaṃ. Somanassayutto upavicāro somanassūpavicāro yathā ‘‘ājaññaratho’’ti āha **‘‘somanassena saddhi’’**ntiādi.

単なる識のみでは色を見ることはなく、同様に単なる眼の浄色のみによっても見ることはないゆえに、「眼識によって」と説かれたのである。それによって、経文において「眼によって」と依拠処の観点から、依拠するものの働きが説かれたことを示している。「対象の観点から」とは、対象縁のあり方によって、ということである。「巡り歩く」とだけなぜ説かれたのか、そこに尋の作用もあるのではないか、と。その通り、存在する。しかしそれはここではそれに従うものであるゆえに、「尋とそれに相応するもの」と述べたのである。相応する諸法を巡り歩かせることも、まさにここでの尋と伺の働きであるゆえに、「尋と伺と呼ばれる意の巡歴」と説かれたのである。喜悦を伴う巡歴が喜悦の巡歴であり、あたかも「駿馬の車」と呼ばれるのと同様であるゆえに、「喜悦とともに」などと述べたのである。

306. Upavicārānaṃ upassayaṭṭhena gehaṃ viyāti gehaṃ, rūpādayoti āha – **‘‘gehassitānīti kāmaguṇanissitānī’’**ti. Niccasaññādinikkhamanato nekkhammaṃ vipassanāti, ‘‘nekkhammassitānīti **vipassanānissitānī’’**ti vuttaṃ. Iṭṭhānanti kasivaṇijjādivasena pariyiṭṭhānanti āha **‘‘pariyesitāna’’**nti. Piyabhāvo pana kantasaddeneva kathitoti kāmitabbānaṃ mano rametīti manoramānaṃ. Lokena āmasīyatīti lokāmisaṃ, taṇhā. Tāya gahetabbatāya iṭṭhabhāvāpādanena paṭisaṅkhatatāya ca paṭisaṃyuttānaṃ. Atīte kataṃ uppajjati ārammaṇikaanubhavanassa asambhavatoti adhippāyo. Edisaṃ anussaraṇaṃ diṭṭhaggahaṇānussarena ca hotīti dassetuṃ, **‘‘yathāha’’**ntiādi vuttaṃ.

三〇六。巡歴にとっての依り処という意味で家のようなものであるから「家」であり、色などのことであるゆえに、「在家に依拠するものとは、諸々の欲望の属性に依拠するもの」と述べたのである。常なる想いなどから離れるゆえに出離がヴィパッサナーであり、「出離に依拠するものとは、ヴィパッサナーに依拠するもの」と説かれたのである。「好ましいもの」とは、農業や商業などによって求められたもの、探求されたものであるゆえに「探求されたもの」と述べたのである。愛される状態はただ「愛着」という言葉によって語られるゆえに、愛されるべきもので意を喜ばせるゆえに「喜ばしいもの」である。世間によって味わわれるゆえに「世間の味わい」であり、渇愛のことである。それによって把持されるべきものとして、好ましい状態をもたらすことによって、また作られたものであることによって関係づけられたものである。過去になされたことが生じるのは、認識主体による体験があり得ないからである、というのが意図である。このような想起は見解の把握の想起によっても生じることを示すために、「彼が言ったように」などと述べられたのである。

Aniccākāranti hutvā abhāvākāraṃ. Vipariṇāmavirāganirodhanti jarāya maraṇena cāti dvedhā vipariṇāmetabbañceva, tato eva palokitaṃ bhaṅgañca. Aṭṭhakathāyaṃ pana yasmā uppannaṃ rūpaṃ tenevākārena na tiṭṭhati, atha kho uppādāvatthāsaṅkhātaṃ pakatiṃ vijahati, vijahitañca jarāvatthāya tato vigacchati, vigacchantañca bhaṅguppattiyā nirujjhatīti imaṃ visesaṃ dassetuṃ, **‘‘pakativijahanenā’’**tiādi vuttaṃ. Kāmañcettha ‘‘yathābhūtaṃ sammappaññāya passato’’ti vuttaṃ, anubodhañāṇaṃ pana adhippetaṃ vīthipaṭipannāya vipassanāya vasenāti **‘‘vipassanāpaññāyā’’**ti vuttaṃ upavicāraniddesabhāvato. Tathā hi vakkhati – ‘‘chasudvāresu iṭṭhārammaṇe āpāthagate’’tiādi. Saṅkhārānaṃ bhedaṃ passatoti sabbesaṃ saṅkhārānaṃ khaṇe khaṇe bhijjanasabhāvaṃ vīthipaṭipannena vipassanāñāṇena passato. Tenāha **‘‘saṅkhāragatamhi tikkhe’’**tiādi. Tattha saṅkhāgatamhīti saṅkhāragate visayabhūte. Tikkheti bhāvanābalena indriyānañca samatāya tibbe. Sūreti paṭipakkhehi anabhibhūtatāya, tesañca abhibhavanasamatthatāya visade paṭubhūte pavattante.

「無常の相」とは、有となりて無となる相のことである。「変易・離貪・滅」とは、老いと死によって二通りに変易されるべきものであり、まさにそれゆえに破壊され崩壊することである。しかし義注においては、生じた色法はその同じ様相のままには留まらず、生起の状態と呼ばれる本来の性質を捨て去り、捨て去られたものは老いの状態によってそこから消え去り、消え去りつつあるものは崩壊の生起によって滅するというこの特質を示すために、「本来の性質を捨てることによって」などと説かれたのである。確かにここでは「如実に正しき智慧をもって観る者」と説かれているが、しかし路に達したヴィパッサナーによる随覚の智慧が意図されているゆえに、巡歴の解説であることから「ヴィパッサナーの智慧によって」と述べたのである。実にこのように説かれるであろう、「六つの門において好ましい対象が領域に入った時」などと。「諸行の破壊を見る者」とは、すべての諸行の刹那刹那に崩壊する自性を、路に達したヴィパッサナーの智慧によって観る者のことである。それゆえに「諸行に達した鋭利な」などと述べたのである。そこにおいて「諸行に達した」とは、諸行に至った対象において、ということである。「鋭利な」とは、修行の力によって、また諸根の平等によって鋭敏となったものである。「勇猛な」とは、敵対するものに圧倒されないことによって、またそれらを圧倒する能力があることによって、明晰で巧みな状態となって活動することである。

Kilesānaṃ vikkhambhanavasena vūpasantatāya santacittassa, saṃsāre bhayassa ikkhanato bhikkhuno, uttarimanussadhammasannissitattā amānusī ratīti vivekarati nekkhammarati. Yato yatoti yathā yathā nayavipassanādīsu yena yena sammasanākārenāti attho. Khandhānaṃ udayabbayanti pañcupādānakkhandhānaṃ uppādañca bhaṅgañca. Amatantaṃ vijānatanti vijānantānaṃ viññūnaṃ āraddhavipassanānaṃ taṃ pītipāmojjaṃ amatādhigamahetutāya amatanti veditabbaṃ.

煩悩の鎮伏によって静まり平穏となった心を持つ者の、輪廻における恐れを観る比丘の、上位の人間を超えた法に依拠するゆえに非人間的な歓喜が出離の歓喜、離別の歓喜である。「どこからどこから」とは、いかにいかに理趣のヴィパッサナーなどにおいて、いかなるいかなる省察の様相によって、という意味である。「諸蘊の生滅」とは、五取蘊の生起と崩壊のことである。「不死なるそれを知る者たちの」とは、知っている賢者たち、ヴィパッサナーに励む者たちにとって、その歓喜と喜悦は不死を証得する原因であるゆえに「不死」と知られるべきである。

Chasu dvāresu iṭṭhārammaṇe āpāthagateti rūpādivasena chabbidhe iṭṭhārammaṇe yathārahaṃ chasu dvāresu āpāthagate. Visaye cetaṃ bhummavacanaṃ.

「六つの門において好ましい対象が領域に入った時」とは、色などに応じた六種の好ましい対象が、それぞれ相応しく六つの門において領域に入った時、ということである。これは対象における処格の言葉である。

307. Paccuppannanti santatipaccuppannaṃ. Anuttaravimokkho nāma arahattaṃ idha adhippetaṃ ukkaṭṭhaniddesena. Kathaṃ pana tattha pihaṃ upaṭṭhapeti, na hi adhigataṃ arahattaṃ ārammaṇaṃ hoti, na ca taṃ ārabbha pihā pavattatīti? Ko vā evamāha – ‘‘arahattaṃ ārammaṇaṃ katvā pihaṃ upaṭṭhapetī’’ti. Anussutiladdhaṃ pana parikappasiddhaṃ arahattaṃ uddissa patthanaṃ ṭhapeti, tattha cittaṃ paṇidahati. Tenāha bhagavā – ‘‘kudāssu nāmāhaṃ tadāyatanaṃ upasampajja viharissāmī’’ti. Āyatananti arahattameva chaḷaṅgasamannāgamādikāraṇabhāvato, manāyatanadhammāyatanabhāvato ca tathā vuttaṃ, taṃ panetaṃ domanassaṃ patthanaṃ paṭṭhapentassa uppajjati patthanāya sahāvattanato. Na hi lobhadosānaṃ saha vutti atthi. Patthanāmūlakattāti iminā upaṭṭhāpayato padassa hetuatthajotakatamāha. Evanti ‘‘kudāssunāmā’’tiādinā vuttākārena. Ussukkāpetunti yathā maggena ghaṭeti, evaṃ ussukkāpetuṃ.

三〇七。「現在」とは、相続の現在である。「無上の解脱」とは、ここでは優れたものの提示によって阿羅漢果が意図されている。しかしいかにしてそれに対して欲求を起こすのか、すでに証得された阿羅漢果は対象とならず、またそれを目指して欲求が働くこともないのではないか、と。誰がこのように言ったのか、「阿羅漢果を対象として欲求を起こす」などと。しかしながら、随念によって得られ、構想によって成り立った阿羅漢果を目指して願いを立て、そこに心を向けるのである。それゆえに世尊は仰せられた、「いつの日か私はその境地に達して住するようになるのだろうか」と。「境地」とは、六支の具足などの原因であること、意処や法処であることから、まさに阿羅漢果のことがそのように説かれたのである。しかしその憂いは、願いを立てる者に生じるのであり、願いとともに活動するからである。実に、貪りと怒りが同時に活動することはない。「願いを根本とするゆえに」とは、これによって「起こす者の」という語が原因の意味を明らかにすることを示している。「このように」とは、「いつの日か」などと説かれた様相によって、ということである。「奮起させるために」とは、道によって精進するように、そのように奮起させるためである。

308. Aññāṇupekkhāti aññāṇasahitā upekkhā asamapekkhanapavattā. Tena tena maggodhinā tassa tassa apāyagamanīyakilesodhissa anavasesato jitattā khīṇāsavo nippariyāyato odhijino nāma; tadabhāvato puthujjano nippariyāyatova anodhijino nāma; sekho pana siyā pariyāyato odhijinoti. Tampi nivattento, **‘‘akhīṇāsavassāti attho’’**ti āha. Āyatiṃ vipākaṃ jinitvāti appavattikaraṇavasena sabbaso āyatiṃ vipākaṃ jinitvā ṭhitattā khīṇāsavova nippariyāyato vipākajino nāma; tadabhāvato puthujjano nippariyāyato avipākajino nāma; sekho pana siyā pariyāyato vipākajinoti. Tampi nivattento **‘‘akhīṇāsavassevāti attho’’**ti āha. Apassantassa rūpanti pāḷito padaṃ ānetvā sambandhitabbaṃ. Pāḷiyaṃ pubbe ‘‘puthujjanassā’’ti vatvā puna ‘‘assutavato puthujjanassā’’ti vacanaṃ andhaputhujjanassāyaṃ upekkhā, na kalyāṇaputhujjanassāti dassanatthaṃ. Gehassitā upekkhā hi yaṃ kiñci ārammaṇavatthuṃ apekkhasseva, na nirapekkhassāti iṭṭhe, iṭṭhamajjhatte vā ārammaṇe siyāti vuttaṃ **‘‘iṭṭhārammaṇe āpāthagate’’**ti. Aññāṇena pana tattha ajjhupekkhanākārappatti hoti. Tenāha **‘‘guḷapiṇḍake’’**tiādi.

三〇八。「無知の捨」とは、無知を伴い、不平等な観察によって活動する捨のことである。それぞれの道による区切りによって、その道で断ぜられるべき悪趣に至る煩悩の区切りを余すところなく克服したゆえに、漏尽者は無条件に「区切りの克服者」と呼ばれる。それが存在しないゆえに凡夫は無条件に「非区切りの克服者」と呼ばれる。しかし有学は条件付きで「区切りの克服者」となるであろう。それをも排除して、「漏尽者でない者の意味である」と述べたのである。「未来の異熟を克服して」とは、生起させないことによって未来の異熟を完全に克服して確立したゆえに、漏尽者のみが無条件に「異熟の克服者」と呼ばれる。それが存在しないゆえに凡夫は無条件に「非異熟の克服者」と呼ばれる。しかし有学は条件付きで「異熟の克服者」となるであろう。それをも排除して、「漏尽者でない者のみの意味である」と述べたのである。「色を見ない者」とは、経文から語を補って連結されるべきである。経文において、以前に「凡夫の」と説き、再び「無聞の凡夫の」と説いたのは、この捨が愚鈍な凡夫のものであり、善なる凡夫のものではないことを示すためである。実に、在家に依拠する捨はいかなる対象であれ期待を持つ者のみのものであり、期待を持たない者のものではないゆえに、好ましい対象、あるいは好ましくも好ましくなくもない中等の対象において生じるとして、「好ましい対象が領域に入った時」と説かれたのである。しかし無知によってそこに見過ごす様相の生起がある。それゆえに「糖蜜の塊において」などと述べたのである。

Iṭṭhe arajjantassa aniṭṭhe adussantassāti idaṃ yebhuyyena sattānaṃ iṭṭhe rajjanaṃ, aniṭṭhe dussananti katvā vuttaṃ. Ayoniyomanasikāro hi taṃtaṃārammaṇavasena na katthacipi javananiyamaṃ karotīti vuttaviparītepi ārammaṇe rajjanadussanaṃ sambhavati, tathāpissa rajjanadussanaṃ atthato paṭikkhittamevāti daṭṭhabbaṃ. Asamapekkhaneti asamaṃ ayuttadassane ayoniso sammohapubbakaṃ ārammaṇassa gahaṇe.

「好ましいものに執着せず、好ましくないものに嫌悪しない者」とは、これは多くの有情が好ましいものに執着し、好ましくないものに嫌悪することから言われたものである。実に、如理ならざる作意はそれぞれの対象に応じていかなる場合も速行を限定することはないゆえに、説かれたことと反対の対象においても執着や嫌悪が生じ得るが、それでもその者の執着や嫌悪は意味の上で否定されたものであると見なされるべきである。「不平等な観察において」とは、不平等で正しくない見解において、如理ならざる迷妄を先行させた対象の把握において、ということである。

309. Pavattanavasenāti uppādanavasena ceva bahulīkaraṇavasena ca. Nissāya ceva āgamma ti āgamanaṭṭhānabhūte nissayapaccayabhūte ca katvā. Atikkantāni nāma honti vikkhambhanena ussārentā samussārentā.

三〇九。「活動の観点から」とは、生起させることの観点から、また多大にすることの観点から、ということである。「依拠し、また拠り所として」とは、至るべき場所とし、依拠縁となったものとして、ということである。「乗り越えられたものと呼ばれる」とは、鎮伏によって遠ざけ、完全に遠ざけつつ、ということである。

Somanassabhāvasāmaññaṃ gahetvā, **‘‘sarikkhakeneva sarikkhakaṃ jahāpetvā’’**ti vuttaṃ. Idhāpi pahāyakaṃ nāma pahātabbato balavameva, saṃkilesadhammānaṃ balavabhāvato sātisayaṃ pana balavabhāvaṃ sandhāya **‘‘idāni balavatā’’**tiādi vuttaṃ. Balavabhāvato vodānadhammānaṃ adhigamassa adhippetattā hettha nekkhammassitadomanassānampi pahānaṃ jotitaṃ.

喜悦であることの共通性を取って、「同種のものによってまさに同種のものを捨てさせて」と説かれたのである。ここでも断ずるものは断ぜられるものよりも力強いものであり、汚れた諸法の力強さゆえに、とりわけ力強い状態を指して「今や力強いものによって」などと述べたのである。力強い状態から清浄な諸法の証得が意図されているゆえに、以下において出離に依拠する憂いの断滅も明らかにされた。

Upekkhāya pahāyakabhāvena adhippetattā **‘‘upekkhākathā veditabbā’’**ti vuttaṃ. Jhānassa alābhino ca lābhino ca pakiṇṇakasaṅkhārasammasanaṃ sandhāya, **‘‘suddhasaṅkhāre ca pādake katvā’’**ti. Upekkhāsahagatāti bhāvanāya paguṇabhāvaṃ āgamma kadāci ajjhupekkhanavasenapi hi sammasanaṃ hotīti. Pādakajjhānavasena, sammasitadhammavasena vā āgamanavipassanāya bahulaṃ somanassasahagatabhāvato **‘‘vuṭṭhānagāminī pana vipassanā somanassasahagatāvā’’**ti niyametvā vuttaṃ. Upekkhāsahagatā hotīti etthāpi eseva nayo. Catutthajjhānādīnīti ādi-saddena arūpajjhānāni saṅgaṇhāti. Purimasadisāvāti purimasadisā eva, upekkhāsahagatā vā hoti somanassasahagatā vāti attho. Idaṃ sandhāyāti yaṃ catutthajjhānādipādakato eva upekkhāsahagataṃ vuṭṭhānagāminivipassanaṃ nissāya somanassasahagatāya vipassanāya pahānaṃ, idaṃ sandhāya. Pahānanti cettha samatikkamalakkhaṇaṃ veditabbaṃ.

捨の断ずる力としてのあり方が意図されているゆえに、「捨に関する教説が知られるべきである」と説かれたのである。禅定を得ていない者と得ている者の雑多な諸行の省察を指して、「純粋な諸行を基礎として」と述べた。「捨倶行の」とは、修習の熟達によって時には見過ごすことによっても省察があるからである。基礎となる禅定の観点から、あるいは省察された法の観点から、至り着くヴィパッサナーは多くが喜悦倶行であることから、「しかし出起に至るヴィパッサナーは喜悦倶行である」と限定して説かれたのである。「捨倶行となる」ということにおいても、これと同様の理趣である。「第四禅など」とは、「など」という言葉によって無色界定を包含している。「前と同様であるか」とは、前とまったく同様に、捨倶行であるか喜悦倶行であるか、という意味である。「これを指して」とは、第四禅などを基礎とすることによってまさに捨倶行である出起に至るヴィパッサナーに依拠して、喜悦倶行のヴィパッサナーを断ずるという、これを指してのことである。そしてここでの「断滅」とは、超越の特徴として知られるべきである。

Etaṃ visesaṃ vipassanāya āvajjanaṭṭhānabhūtaṃ. Vuṭṭhānagāminiyā āsanne samāpannajjhānavipassanā pādakajjhānavipassanā, sammasitadhammoti vipassanāya ārammaṇabhūtā khandhā. Puggalajjhāsayoti pādakajjhānassa sammasitajjhānassa ca bhede sati paṭipajjanakassa puggalassa, ‘‘aho vata mayhaṃ pañcaṅgikaṃ jhānaṃ bhaveyya caturaṅgika’’ntiādinā pubbe pavattaajjhāsayo. Tesampi vādeti ettha paṭhamatheravāde. Ayameva…pe… niyameti tato tato dutiyādipādakajjhānato uppannassa saṅkhārupekkhāñāṇassa pādakajjhānātikkantānaṃ aṅgānaṃ asamāpajjitukāmatā virāgabhāvanābhāvato itarassa ca atabbhāvato. Eteneva hi paṭhamatheravāde apādakapaṭhamajjhānapādakamaggā paṭhamajjhānikāva honti, itare ca dutiyajjhānikādimaggā pādakajjhānavipassanāniyamehi taṃtaṃjhānikāva. Evaṃ sesavādesupi vipassanāniyamo yathāsambhavaṃ yojetabbo. Tenāha – **‘‘tesampi vāde ayameva pubbabhāge vuṭṭhānagāminivipassanāva niyametī’’**ti. Vuttāva, tasmā na idha vattabbāti adhippāyo.

この差異はヴィパッサナーの反省の基盤となるものである。出起に至るものに近接して等至された禅定のヴィパッサナーが基礎となる禅定のヴィパッサナーであり、「省察された法」とはヴィパッサナーの対象となった諸蘊のことである。「人物の意向」とは、基礎となる禅定と省察された禅定に差異がある場合、実践する人物が「ああ、私に五支を具えた禅定、四支を具えた禅定があればよいのに」などと以前に起こした意向のことである。「彼らの説においても」とは、ここでの第一の長老の説においてである。「まさにこれのみが……乃至……決定する」とは、それぞれの第二禅などの基礎となる禅定から生じた行捨智が、基礎となる禅定を超越した諸支を等至することを欲しない離貪の修習の状態であるゆえに、また他方のものはその状態にないゆえに、である。実にこれによって、第一の長老の説においては、非基礎の第一禅を基礎とする道は第一禅のもののみであり、その他の第二禅などを基礎とする道は基礎となる禅定のヴィパッサナーの規定によってそれぞれの禅定のものとなる。このように、残りの諸説においてもヴィパッサナーの規定は可能に応じて連結されるべきである。それゆえに「彼らの説においても、まさにこの前段階における出起に至るヴィパッサナーのみが決定するのである」と述べたのである。すでに説かれたゆえに、ここでは語られるべきではない、というのが意図である。

310. Nānattādi kāmāvacarādikusalādivibhāgato nānāvidhā. Tenāha **‘‘anekappakārā’’**ti. Nānattasitāti rūpasaddādinānārammaṇanissayā. Ekattā ekasabhāvā jātibhūmiādivibhāgābhāvato. Ekārammaṇanissitāti ekappakāreneva ārammaṇe pavattā. Heṭṭhā aññāṇupekkhā vuttā ‘‘bālassa muḷhassā’’tiādinā (ma. ni. 3.308). Upari chaḷaṅgupekkhā vakkhati ‘‘upekkhako viharatī’’tiādinā (ma. ni. 3.311). Dve upekkhā gahitā dvinnampi ekattā, ekajjhaṃ gahetabbato, nānattasitāya upekkhāya pakāsitabhāvato ca.

三一〇。「種々性など」とは、欲界などの善などの分別によって種々雑多である。それゆえに「多種多様な」と述べたのである。「種々性に依拠する」とは、色や声などの多様な対象に依拠するものである。「単一性」とは、生起の境地などの分別がないゆえに単一の自性を持つものである。「単一の対象に依拠する」とは、単一の様相においてのみ対象に活動するものである。下において「愚者、迷妄の者の」などによって無知の捨が説かれた(中部三・三〇八)。上において「捨たる者として住する」などによって六支の捨が説かれるであろう(中部三・三一一)。二つの捨が取られたのは、両者ともに単一性であるゆえに、一括して取られるべきであること、また種々性に依拠する捨が明らかにされたことによる。

Aññāṇupekkhā aññā saddādīsu tattha tattheva vijjamānattā. Rūpesūti ca iminā na kevalaṃ rūpāyatanavisesā eva gahitā, atha kho kasiṇarūpānipīti āha – **‘‘rūpe upekkhābhāvañca aññā’’**tiādi. Ekattasitabhāvopi idha ekattavisayasampayogavaseneva icchito, na ārammaṇavasena cāti dassetuṃ, **‘‘yasmā panā’’**tiādi vuttaṃ. Tenevāha **‘‘tatthā’’**tiādi. Sampayuttavasenāti sampayogavasena. Ākāsānañcāyatanaṃ nissayatīti ākāsānañcāyatananissitā, ākāsānañcāyatanakhandhanissitā. Sesāsupīti viññāṇañcāyatananissitādīsupi.

無知の捨は、声などにおいてそれぞれそこに存在するゆえに別のものである。「色において」というこれによって、単に色処の差異のみが取られたのではなく、遍作の色もまた取られたとして、「色における捨の状態、および他の」などと述べたのである。ここでの単一性に依拠するあり方もまた、単一の境地の相応の観点によってのみ望まれるのであり、対象の観点からではないことを示すために、「しかしながら……ゆえに」などと説かれたのである。それゆえに「そこにおいて」などと述べたのである。「相応の観点から」とは、相応のあり方によって、ということである。「空無辺処に依拠する」とは、空無辺処に依拠したものであり、空無辺処の諸蘊に依拠したものである。「残りにおいても」とは、識無辺処に依拠するものなどにおいても、ということである。

Arūpāvacaravipassanupekkhāyāti arūpāvacaradhammārammaṇāya vipassanupekkhāya. Rūpāvacaravipassanupekkhanti etthāpi eseva nayo. Tāya kāmarūpārūpabhedāya taṇhāya nibbattāti tammayā, tebhūmakadhammā, tesaṃ bhāvo tammayatā, taṇhā yassa guṇassa vasena atthe saddaniveso, tadabhidhānakoti āha – **‘‘tammayatā nāma taṇhā’’**ti. Atammayatā tammayatāya paṭipakkhoti katvā. Vipassanupekkhanti, ‘‘yadatthi yaṃ bhūtaṃ, taṃ pajahati upekkhaṃ paṭilabhatī’’ti (dī. ni. 3.71; a. ni. 7.55) evamāgataṃ saṅkhāravicinane majjhattabhūtaṃ upekkhaṃ.

「無色界のヴィパッサナーの捨において」とは、無色界の法を対象とするヴィパッサナーの捨において、ということである。「色界のヴィパッサナーの捨を」ということにおいても、これと同様の理趣である。その欲・色・無色に分かれた渇愛によって生じたゆえに「それに満ちたもの」であり、三界の諸法のことである。それらの状態が「それに満ちた状態」であり、渇愛がその属性の観点から意味において言葉が適用されるものであり、それを指し示すものであるとして、「それに満ちた状態とは渇愛のことである」と述べたのである。「それに満ちていない状態」とは、それに満ちた状態の敵対するものであるとしてである。「ヴィパッサナーの捨を」とは、「存在するもの、生じたもの、それを捨てて捨を得る」(長部三・七一、増支部七・五五)とこのように説かれた、諸行の観察において中立となった捨のことである。

311. Yadariyoti ettha da-kāro padasandhikaro, upayogaputhuvacane ca ya-saddoti dassento, **‘‘ye satipaṭṭhāne ariyo’’**ti āha. Kāmaṃ ‘‘ariyo’’ti padaṃ sabbesampi paṭividdhasaccānaṃ sādhāraṇaṃ, vakkhamānassa pana visesassa buddhāveṇikattā, **‘‘ariyo sammāsambuddho’’**ti vuttaṃ. Na hi paccekabuddhādīnaṃ ayamānubhāvo atthi. Tīsu ṭhānesūti na sussūsantīti vā, ekacce na sussūsanti ekacce sussūsantīti vā, sussūsantīti vā, paṭipannāpaṭipannānaṃ sāvakānaṃ paṭipattisaṅkhātesu tīsu satipaṭṭhānesu. Satiṃ paṭṭhapentoti paṭighānunayehi anavassutattā tadubhayanivattattā sabbadā satiṃ upaṭṭhapento. Buddhānameva sā niccaṃ upaṭṭhitasatitā, na itaresaṃ āveṇikadhammabhāvato. Ādarena sotumicchā idha sussūsāti tadabhāvaṃ dassento, **‘‘saddahitvā sotuṃ na icchantī’’**ti āha. Na aññāti ‘‘na aññāyā’’ti vattabbe yakāralopena niddesoti āha **‘‘na jānanatthāyā’’**ti. Satthu ovādassa anādiyanameva vokkamananti āha – **‘‘atikkamitvā…pe… maññantī’’**ti.

三一一。「聖者が」というここにおいて、「da」の文字は結合詞であり、また「ya」の語は対格の複数であることを示すために、「諸々の念処において聖者が」と述べたのである。確かに「聖者」という語は、すべての真理を悟った者たちに共通するものであるが、しかしこれから説かれる特質が仏陀固有のものであるゆえに、「聖者なる正等覚者」と説かれたのである。実に辟支仏などにはこの威徳はない。「三つの場において」とは、聞くことを欲しない場合、あるいは一部は聞くことを欲せず一部は聞くことを欲する場合、あるいは聞くことを欲する場合という、実践する弟子と実践しない弟子たちの実践と呼ばれる三つの念処において、ということである。「念を確立する者」とは、嫌悪や執着によって汚されないゆえに、その両者を退けているゆえに、常に念を現起させている者である。仏陀たちのみが常に念を現起させている状態であり、他の者たちにはない、固有の法であるゆえにである。恭敬をもって聞くことの欲求がここでは「聞くことを欲すること」であり、それがないことを示すために、「信じて聞くことを欲しない」と述べたのである。「無知からではなく」とは、「知るためではなく」と語られるべきところを「ya」の文字の脱落によって説かれたとして、「知るためではなく」と述べたのである。師の教誡に従わないことこそが逸脱であるとして、「乗り越えて……乃至……考える」と述べたのである。

Gehassitadomanassavasenāti idaṃ idha paṭikkhipitabbamattadassanapadaṃ daṭṭhabbaṃ. Nekkhammassitadomanassassapi satthu pasaṅgavasena ‘‘na ceva attamano hotī’’ti attamanapaṭikkhepena anattamanatā vuttā viya hotīti taṃ paṭisedhento – **‘‘appatīto hotīti na evamattho daṭṭhabbo’’**ti. Tassa setughāto hi tathāgatānaṃ. Yadi evaṃ kasmā attamanatāpaṭikkhepoti āha – **‘‘appaṭipannakesu pana anattamanatākāraṇassa abhāvenetaṃ vutta’’**nti. Paṭighaavassavenāti chahi dvārehi paṭighavissandanena, paṭighappavattiyāti attho. Uppilāvitoti na evamattho daṭṭhabbo uppilāvitattassa bodhimūle eva pahīnattā. Paṭipannakesūti idaṃ adhikāravasena vuttaṃ, appaṭipannakesupi tathāgatassa anattamanatākāraṇaṃ nattheva. Etaṃ vuttanti etaṃ ‘‘attamano ceva hotī’’tiādivacanaṃ vuttaṃ sāvakānaṃ sammāpaṭipattiyā satthu anavajjāya cittārādhanāya sambhavato.

「在家に依拠する憂いの観点から」とは、これはここで否定されるべきものだけを示す語として見られるべきである。出離に依拠する憂いもまた、師の文脈の観点から「満足することもなく」と満足の否定によって不満足が説かれたかのようであるため、それを否定して、「『不快になる』とこのように意味が見られるべきではない」と述べたのである。それの堤防の破壊が実に如来たちにはあるからである。もしそうであるなら、なぜ満足の否定があるのか、として、「しかし実践しない者たちに対して不満足となる原因がないゆえに、これが説かれたのである」と述べたのである。「嫌悪の漏出によって」とは、六つの門による嫌悪の流出によって、嫌悪の活動によって、という意味である。「舞い上がった」とは、このように意味が見られるべきではない。舞い上がった状態は菩提樹の根元においてまさに断じられているからである。「実践する者たちにおいて」とは、これは主題の観点から説かれたのであり、実践しない者たちにおいても如来には不満足となる原因はまったく存在しない。「これが説かれた」とは、この「満足する」などの言葉が説かれたのは、弟子たちの正しい実践によって師の非難なき心が喜ぶことがあり得るからである。

312. Damitoti nibbisevanabhāvāpādanena sikkhāpito. Iriyāpathaparivattanavasena aparivattitvā ekadisāya eva sattadisāvidhāvanassa idhādhippetattā sāritānaṃ hatthidammādīnaṃ ekadisādhāvanampi anivattanavaseneva yuttanti āha – **‘‘anivattitvā dhāvanto ekaṃyeva disaṃ dhāvatī’’**ti. Kāyena anivattitvāvāti kāyena aparivattitvā eva. Vimokkhavasena aṭṭha disā vidhāvati, na puratthimādidisāvasena. Ekappahārenevāti ekanīhāreneva, ekasmiṃyeva vā divase ekabhāgena. ‘‘Pahāro’’ti hi divasassa tatiyo bhāgo vuccati. Vidhāvanañcettha jhānasamāpajjanavasena akalaṅkamappatisātaṃ javanacittapavattanti āha **‘‘samāpajjatiyevā’’**ti. Sesaṃ suviññeyyameva.

三一二。「調教された」とは、悪習のない状態に導くことによって訓練された、ということである。姿勢の変換による転回をすることなく、ただ一つの方向へ七つの方向を走ることがここで意図されているゆえに、走らされた調教象などが一つの方向へ走ることも、転回しないことによってのみ相応しいとして、「転回せずに走る者は、ただ一つの方向へ走る」と述べたのである。「身体によって転回せずに」とは、身体によって向きを変えることなく、ということである。解脱の観点から八つの方向を駆け巡るのであり、東などの方向の観点からではない。「一撃によってのみ」とは、一つのやり方によってのみ、あるいはまさに一日のうちの一つの区分において。「撃」とは、一日の三分の一のことを言うのである。そしてここでの駆け巡るとは、禅定を等至することによって、汚れなく清らかに速行の心が活動することであるとして、「まさに等至するのである」と述べたのである。残りは極めて理解しやすい。

Saḷāyatanavibhaṅgasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

六処分別経の注釈に対する甚深義の解明は完結した。

8. Uddesavibhaṅgasuttavaṇṇanā

八、総説分別経の注釈

313. Desetabbassa atthassa uddisanaṃ uddeso, vibhajanaṃ vibhaṅgoti āha – **‘‘mātikañca vibhajanañcā’’**ti tuleyyātiādīni cattāripi padāni paññāvevacanāni. Atha vā tuleyyāti tulanabhūtāya paññāya tassa dhammassa paggahādividhinā parituleyya. Tīreyyāti tīraṇabhūtāya paññāya tattha ñāṇakiriyāsamāpanavasena tīreyya. Pariggaṇheyyāti tathāsamāpanno ānisaṃse assādaādīnave ca vicineyya. Paricchindeyyāti paricchindabhūtena ñāṇena atthaṃ paricchinditvā jāneyya. Ārammaṇesūti rūpādiputhuttārammaṇesu. Nikantivasenāti nikāmanavasena apekkhāvasena. Tiṭṭhamānanti pavattamānaṃ. Gocarajjhatteti jhānārammaṇabhūte. Tañhi bhāvanācittenābhibhuyya avissajjitvā gayhamānaṃ ajjhattaṃ viya hotīti ‘‘gocarajjhatta’’nti vuccati. Bhāvanaṃ āraddhassa bhikkhuno yadi bhāvanārammaṇe nikanti uppajjeyya, tāya nikantiyā upari bhāvanaṃ vissajjetvā cittasaṃkocavasena saṇṭhitaṃ nāma, tadabhāvena asaṇṭhitaṃ nāma hotīti, ‘‘ajjhattaṃ asaṇṭhita’’nti vuttanti dassento, **‘‘gocarajjhatte nikantivasena asaṇṭhita’’**nti āha. Tathā hi vakkhati – ‘‘nikantivasena hi atiṭṭhamānaṃ hānabhāgiyaṃ na hoti, visesabhāgiyameva hotī’’ti. Aggahetvāti rūpādīsu kiñci taṇhādiggāhavasena aggahetvā. Tathā aggahaṇeneva hi taṇhāparitāsādivasena na paritasseyya. Avasesassa ca dukkhassāti sokādidukkhassa. Avasesassa ca dukkhassāti vā jātijarāmaraṇasīsena vipākadukkhassa gahitattā kilesadukkhassa ceva saṃsāradukkhassa cāti attho.

三一三。説かれるべき意味を総説することが総説であり、詳細に分かつことが分別であるとして、「本母と分別とを」と述べた。「秤にかけるべきである」などの四つの語もすべて智慧の同義語である。あるいは、「秤にかけるべきである」とは、秤量である智慧によって、その法を持ち上げることなどの方法によって比較検討すべきである。「推し量るべきである」とは、推度である智慧によって、そこにおいて智慧の作用を完成させることによって推し量るべきである。「把握すべきである」とは、そのように等至して功徳と過患とを考察すべきである。「限定すべきである」とは、限定する智慧によって意味を限定して知るべきである。「対象において」とは、色などの多様な対象において、ということである。「愛着の観点から」とは、欲望の観点から、期待の観点から、ということである。「留まるものを」とは、活動するものを、ということである。「境地の内において」とは、禅定の対象となったものにおいて、ということである。実にそれは修習の心によって圧倒され、手放されることなく把握されるゆえに内なるもののようであることから、「境地の内」と呼ばれるのである。修習に励む比丘に、もし修習の対象において愛着が生じるならば、その愛着によってそれ以上の修習を手放し、心の収縮によって確立したものと呼ばれ、それが存在しないことによって確立していないものと呼ばれるとして、「内において確立していない」と説かれたことを示すために、「境地の内において愛着の観点から確立していない」と述べたのである。実にこのように説かれるであろう、「実に愛着の観点から留まらないものは衰退に与かるものとはならず、まさに殊勝に与かるものとなる」と。「把握することなく」とは、色などにおいて何ものをも渇愛などの把握の観点から把握することなく、ということである。実にそのように把握しないことによってのみ、渇愛による動揺などの観点から動揺しないであろう。「そして残りの苦の」とは、憂いなどの苦のことである。あるいは「そして残りの苦の」とは、生・老・死を筆頭とする異熟の苦が取られたゆえに、煩悩の苦および輪廻の苦のことである、という意味である。

316. Rūpameva kilesuppattiyā kāraṇabhāvato rūpanimittaṃ. Rāgādivasena taṃ anudhāvatīti rūpanimittānusārī.

三一六。色そのものが煩悩の生起の原因であることから色の相である。貪りなどによってそれに随従して走るゆえに「色の相に随従する者」である。

318. Nikantivasena asaṇṭhitanti apekkhāvasena saṇṭhitaṃ nikantiṃ pahāya pavattamānaṃ upari visesāvahatoti. Tenāha **‘‘nikantivasena hī’’**tiādi.

三一八。「愛着の観点から確立していない」とは、期待の観点から確立した愛着を捨てて活動し、さらに上位の特質をもたらすゆえに、である。それゆえに「愛着の観点から実に」などと述べたのである。

320. Aggahetvā aparitassanāti pañcupādānakkhandhe, ‘‘etaṃ mamā’’tiādinā taṇhādiggāhavasena upādiyitvā taṇhāparitāsādivasena paritassanā, vuttavipariyāyena aggahetvā aparitassanā veditabbā. Kathaṃ panesā anupādāparitassanā hotīti mahātherassa adhippāyaṃ vivarituṃ codanaṃ samuṭṭhapeti? Upādātabbassa abhāvatoti tassa anupādāparitassanābhāve kāraṇavacanaṃ. Yadi hītiādi tassa samatthanaṃ. Upādāparitassanāva assa tathā upādātabbassa tatheva upādinnattā. Evanti niccādiākārena. Upādinnāpīti gahitaparāmaṭṭhāpi. Anupādinnāva honti ayoniso gahitattā, viññūsu nissāya jānitabbattā ca. Diṭṭhivasenāti micchādiṭṭhiyā gahaṇākāravasena, tassa pana ayathābhūtagāhitāya paramatthato ca abhāvato. Atthatoti paramatthato. Anupādāparitassanāyeva nāma hoti upādātabbākārassa abhāvena taṃ anupādiyitvā eva paritassanāti katvā.

三二〇。「把握することなく動揺しないこと」とは、五取蘊において「これは私のものである」などと渇愛などの把握の観点から執着して、渇愛による動揺などの観点から動揺することであり、説かれたことの反対によって、把握することなく動揺しないことが知られるべきである。しかしいかにしてこの執着なき動揺が生じるのかと、長老の意図を明らかにするために詰問を起こすのか。「執着されるべきものが存在しないゆえに」とは、その執着なき動揺の状態における原因の言葉である。「もし実に」などとは、その立証である。そのように執着されるべきものがその通りに執着されたならば、まさに執着による動揺であろう。「このように」とは、常などの様相によって、ということである。「執着されたものも」とは、把握され執着されたものも、ということである。如理ならざる仕方で把握されたゆえに、また賢者たちに依拠して知られるべきものであるゆえに、まさに執着されていないのである。「見解の観点から」とは、邪見の把握の様相の観点からであるが、しかしそれは如実ならざる把握であり、勝義においては存在しないゆえにである。「意味において」とは、勝義において、ということである。執着されるべき様相が存在しないことによって、それを執着することなくまさに動揺することから、「執着なき動揺」と呼ばれるのである。

Parivattatīti na tadeva rūpaṃ aññathā pavattaṃ parivattati, atha kho pakatijahanena sabhāvavigamena nassati bhijjati. Vipariṇatanti aññathattaṃ gataṃ vinaṭṭhaṃ. Kammaviññāṇanti abhisaṅkhāraviññāṇaṃ. ‘‘Rūpaṃ attā’’tiādi micchāgāhavasena viññāṇassa rūpabhedena vuttassa bhedānuparivatti hoti. Vipariṇāmaṃ anugantvā viparivattanataṃ ārabbha pavattaṃ vipariṇāmānuparivattaṃ; tato samuppannā paritassanā vipariṇāmānuparivattajā paritassanāti dassento āha – **‘‘vipariṇāmassa…pe… paritassanā’’**ti. Akusaladhammasamuppādā cāti, ‘‘yaṃ ahu vata me, taṃ vata me natthī’’tiādinā pavattā akusalacittuppādadhammā. Khepetvāti pavattituṃ appadānavasena anuppattinimittatāya khepetvā. Bhayatāsenāti bhāyanavasenapi cittutrāsena. Taṇhātāsenāti tassanena. Savighātoti cittavighātanavighātena savighāto. Tato eva cetodukkhena sadukkho. Maṇikaraṇḍakasaññāyāti rittakaraṇḍaṃyeva maṇiparipuṇṇakaraṇḍoti uppannasaññāya. Aggahetvā paritassanāti gahetabbassa abhāvena gahaṇampi avijjamānapakkhiyamevāti aggahetvā paritassanā nāma hoti.

「転変する」とは、その同じ色法が別のあり方で活動して転変するのではなく、本来の性質を捨てて自性を失うことによって滅し、破壊されるのである。「変易した」とは、異なった状態に至り、滅び去ったものを。「業識」とは、諸行の識のことである。「色は我である」などの誤った把握の観点から、識の色法の崩壊による説かれた崩壊への随転がある。変易に従って、転変することを契機として活動するものが「変易への随転」であり、そこから生じた動揺が「変易への随転から生じた動揺」であることを示して、「変易の……乃至……動揺」と述べたのである。「不善の諸法の生起からも」とは、「ああ、かつて私のものだったものが、今や私のものとしてない」などと活動する不善の心生起の法のことである。「滅し尽くして」とは、活動させないことによって、生起しないことを原因として滅し尽くして、ということである。「恐怖の動揺によって」とは、恐れることによる心の恐怖によっても。「渇愛の動揺によって」とは、渇望することによって。「障害を伴う」とは、心の障害という害悪によって障害を伴うものである。まさにそれゆえに心の苦しみによって苦を伴う。「宝珠の小箱の想いによって」とは、空の小箱をまさに宝珠で満たされた小箱であると生じた想いによって。「把握することなく動揺する」とは、把握されるべきものが存在しないことによって、把握することすら存在しない側に属するものであるゆえに、「把握することなく動揺する」と呼ばれるのである。

321. Kammaviññāṇameva natthi sati kammaviññāṇe rūpabhedānuparivatti siyāti kammaviññāṇābhāvadassanamukhena khīṇāsavassa sabbaso kilesābhāvaṃ dasseti. Sesaṃ suviññeyyameva.

三二一。業識そのものが存在しない。業識が存在するならば色法の崩壊への随転があるであろうが、業識が存在しないことを示すことによって、漏尽者には完全に煩悩が存在しないことを示している。残りは極めて理解しやすい。

Uddesavibhaṅgasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

総説分別経の注釈に対する甚深義の解明は完結した。

9. Araṇavibhaṅgasuttavaṇṇanā

九、無諍分別経の注釈

323. Gehassitavasenāti kilesanissitavasena anurodhavasena. Neva ukkhipeyyāti na anuggaṇheyya. Na avakkhipeyyāti gehassitavasena virodhavasena na niggaṇheyya. Anurodhena vinā sampahaṃsanavasena yathābhūtaguṇakathanaṃ nevussādanā vajjābhāvato; tathā virodhena vinā vivecanavasena yathābhūtadosakathanaṃ na apasādanaṃ. Sabhāvamevāti yathābhūtasabhāvameva kassaci puggalassa anādesakaraṇavasena katheyya, seyyathāpi āyasmā subhūtitthero. Vinicchitasukhanti, ‘‘ajjhattaṃ anavajja’’ntiādinā visesato vinicchitasukhāya hoti. Parammukhā avaṇṇanti svāyaṃ rahovādo pesuññūpasaṃhāravasena pavatto idhādhippetoti āha **‘‘pisuṇavācanti attho’’**ti. Khīṇātīti khīṇo, yo bhāsati, yañca uddissa bhāsati, dvepi hiṃsati vibādhatīti attho, taṃ khīṇavādaṃ. Svāyaṃ yasmā kilesehi ākiṇṇo saṃkiliṭṭho eva ca hoti, tasmā vuttaṃ – ‘‘ākiṇṇaṃ **saṃkiliṭṭhaṃ vāca’’**nti. Tena avasiṭṭhaṃ tividhampi vacīduccaritamāha. Adhiṭṭhahitvāti, ‘‘idameva sacca’’nti ajjhosāya. Ādāyāti paggayha. Vohareyyāti samudācareyya. Lokasamaññanti lokasaṅketaṃ.

三二三。「在家に依拠する観点から」とは、煩悩に依拠する観点から、迎合の観点から、ということである。「称揚すべきではない」とは、引き立てるべきではない。「貶めるべきではない」とは、在家に依拠する観点から、反発の観点から排斥すべきではない。迎合することなく、歓喜させることの観点から如実なる徳を語ることは、過失がないゆえに称揚ではない。同様に、反発することなく、分別することの観点から如実なる過失を語ることは排斥ではない。「自性そのものを」とは、いかなる人物をも名指しすることなく、如実なる自性そのものを語るべきである。あたかも尊者スブーティ長老のように。「決定された楽」とは、「内において非難なき」などによって特別に決定された楽のことである。「面前にて非難を」とは、この密かな語りは離間を目的として活動するものがここで意図されているとして、「離間を企てる言葉という意味である」と述べたのである。「損なわれた」とは、損なわれたものであり、語る者と、語られる対象となる者の双方を害し、苦しめるという意味であり、その損なわれた言葉のことである。それは煩悩に満ちており、まさに汚れたものであるゆえに、「混濁し、汚れた言葉」と説かれたのである。それによって残りの三種の言葉の悪行をも述べている。「固執して」とは、「これのみが真理である」と執着して。「取って」とは、掲げて。「用いるべきである」とは、語るべきである。「世間の呼称」とは、世間の約束事のことである。

324. Ārammaṇato sampayogato kāmehi paṭisaṃhitattā kāmapaṭisandhi, kāmasukhaṃ. Tenāha **‘‘kāmūpasaṃhitena sukhenā’’**ti. Sadukkhoti vipākadukkhena saṃkilesadukkhena sadukkho. Tathā sapariḷāhoti vipākapariḷāhena ceva kilesapariḷāhena ca sapariḷāho.

三二四。対象から、相応から、欲望に関係づけられているゆえに「欲の結びつき」であり、欲の楽のことである。それゆえに「欲に関係づけられた楽によって」と述べたのである。「苦を伴う」とは、異熟の苦と煩悩の苦によって苦を伴うものである。同様に「熱苦を伴う」とは、異熟の熱苦と煩悩の熱苦によって熱苦を伴うものである。

326. Vaṭṭato nissarituṃ adatvā tattheva sīdāpanato micchāpaṭipadābhāvena satte saṃyojetīti saṃyojanaṃ, visesato bhavasaṃyojanaṃ taṇhāti āha **‘‘taṇhāyetaṃ nāma’’**nti. Na taṇhāyeva mānādayopi saṃyojanattaṃ sādhenti nāma sabbaso saṃyojanato suṭṭhu bandhanato. Tena vuttaṃ – ‘‘avijjānīvaraṇānaṃ, bhikkhave, sattānaṃ taṇhāsaṃyojanāna’’nti (saṃ. ni. 2.125-126).

三二六。輪廻から脱出することを許さず、そこに沈み込ませることから、誤った実践のあり方によって有情たちを束縛するゆえに「結び」であり、特別には有結である渇愛のことであるとして、「これは渇愛の名称である」と述べたのである。渇愛のみならず、慢などもまた完全に束縛することから、固く縛ることから結びのあり方を果たすのである。それゆえに「比丘たちよ、無明に覆われ、渇愛に結ばれた有情たちの」と説かれたのである(相応部二・一二五〜一二六)。

Imaṃ catukkanti, ‘‘ye kāmapaṭisandhisukhino somanassānuyogaṃ anuyuttā, ye attakilamathānuyogaṃ anuyuttā’’ti evamāgataṃ imaṃ catukkaṃ nissāya. ‘‘Etadagge ṭhapito’’ti, vatvā taṃ nissāya ṭhapitabhāvaṃ vitthārato dassetuṃ, **‘‘bhagavato hī’’**tiādi vuttaṃ. Ussādanāapasādanā paññāyanti tathāgatena vinetabbapuggalavasena dhammadesanāya pavattetabbato. Ayaṃ puggalo…pe… ācārasampannoti vā natthi paresaṃ anuddesakavasena dhammadesanāya pavattanato.

「この四つ組を」とは、「欲の結びつきの楽に、喜悦の専修に勤しむ者たち、自己を苦しめる専修に勤しむ者たち」とこのように説かれたこの四つ組に依拠して、ということである。「これの最高位に置かれた」と述べて、それに依拠して置かれた状態を詳細に示すために、「世尊の実に」などと述べたのである。「称揚と排斥」が知られるのは、如来によって教化されるべき人物に応じて法の説示がなされるべきであるからである。「この人物は……乃至……行儀を具足している」などと他者を名指しすることなく、法の説示がなされるからである。

329. Parammukhā avaṇṇanti nindiyassa dosassa nindanaṃ. Na hi kadāci nindiyo pasaṃsiyo hoti, taṃ pana kālaṃ ñatvāva kathetabbanti āha, **‘‘yuttapattakālaṃ ñatvāvā’’**ti. Khīṇavādepi eseva nayo tassa rahovādena samānayogakkhamattā.

三二九。「面前にて非難を」とは、非難されるべき過失を非難することである。実に、非難されるべきものが賞賛されることは決してないが、しかし時を知ってこそ語られるべきであるとして、「相応しく適した時を知ってこそ」と述べたのである。損なわれた言葉においても同様の理趣であり、それは密かな語りと同様に適用されるべきであるからである。

330. Ghātīyatīti vadhīyati. Saddopi bhijjati nassati, bhedo hotīti attho. Gelaññappattoti khedaṃ parissamaṃ patto. Apalibuddhanti dosehi ananupatitaṃ.

三三〇。「害される」とは、殺されることである。音声もまた壊れ、滅びる、破滅するという意味である。「病に達した」とは、疲労や困憊に達した。「妨げられない」とは、過失に付きまとわれない。

331. Abhinivissa voharatīti evametaṃ, na ito aññathāti taṃ janapadaniruttiṃ abhinivisitvā samudācarati. Atidhāvananti samaññaṃ nāmetaṃ lokasaṅketasiddhā paññattīti paññattimatte aṭṭhatvā paramatthato thāmasā parāmassa voharaṇaṃ.

三三一。「固執して用いる」とは、このようにであって、これと異なることはない、とその地方の言語に固執して語ることである。「踏み越えること」とは、呼称というものは世間の約束事によって成り立った概念であるとして、単なる概念にとどまらず、勝義において頑なに執着して用いることである。

332. Aparāmasantoti anabhinivisanto samaññāmattatova voharati.

三三二。「執着しない者」とは、固執することなく、単なる呼称としてのみ用いることである。

333. Mariyādabhājanīyanti yathāvuttasammāpaṭipadāya micchāpaṭipadāya ca aññamaññaṃ saṅkarabhāvavibhājanaṃ. Raṇanti sattā etehi kandanti akandantāpi kandanakāraṇabhāvatoti raṇā; rāgadosamohā, dasapi vā kilesā, sabbepi vā ekantākusalā, tehi nānappakāradukkhanibbattakehi abhibhūtā sattā kandanti; saha raṇehīti saraṇo. Raṇasaddo vā rāgādireṇūsu niruḷho. Tenāha **‘‘sarajo sakileso’’**ti. Pāḷiyaṃ pana ‘‘sadukkho eso dhammo’’tiādinā āgatattā kāmasukhānuyogādayopi ‘‘saraṇo’’ti vuttāti dukkhādīnaṃ raṇabhāvo tannibbattakasabhāvānaṃ akusalānaṃ saraṇatā ca veditabbā. Araṇotiādīnaṃ padānaṃ vuttavipariyāyena attho veditabbo.

三三三。「境界の区分」とは、説かれた正しい実践と誤った実践とが互いに混同されることの分別である。「諍い」とは、有情たちがこれらによって泣き叫ぶ、あるいは泣き叫ばないとしても泣き叫ぶ原因となることから諍いであり、貪り・怒り・迷妄、あるいは十の煩悩、あるいはすべてのまったくの不善のことであり、種々様々な苦を生じさせるこれらに圧倒された有情たちは泣き叫ぶのである。諍いとともに活動するゆえに「有諍」である。あるいは諍いという言葉は貪りなどの塵芥において定着している。それゆえに「塵芥を伴い、煩悩を伴う」と述べたのである。しかし経文においては、「この法は苦を伴う」などと説かれていることから、欲楽への耽溺なども「有諍」と説かれているゆえに、苦などの諍いとしてのあり方と、それらを生じさせる自性を持つ不善の諸法の有諍のあり方が知られるべきである。「無諍」などの語の意味は、説かれたことの反対によって知られるべきである。

Vatthuṃ sodhetīti nirodhasamāpajjanena mahapphalabhāvakaraṇena dakkhiṇeyyavatthubhūtaṃ attānaṃ visodheti; nirodhasamāpattiyā vatthuvisodhanaṃ nirodhaṃ samāpajjitvā vuṭṭhitānaṃ paccekabuddhānaṃ mahākassapattherādīnaṃ dinnadakkhiṇāvisuddhiyā dīpetabbaṃ. Tenāha **‘‘tathā hī’’**tiādi. Tathevāti iminā ‘‘piṇḍāya caranto’’tiādiṃ upasaṃharati. Mettābhāvanāya mudubhūtacittabahumānapubbakaṃ dentīti, ‘‘subhūtitthero dakkhiṇaṃ visodhetī’’ti vuttaṃ. Tena dāyakatopi dakkhiṇāvisuddhiṃ dasseti. Vatthusodhanaṃ pana paṭibhāgato. Evaṃ pana kātuṃ sakkāti sāvakānampi kimevaṃ lahuvuṭṭhānādhiṭṭhānaṃ sāvakesu ciṇṇavasībhāvo sambhavatīti pucchati. Itaro aggasāvakamahāsāvakesu kiṃ vattabbaṃ, pakatisāvakesupi vasippattesu labbhatīti te dassento, **‘‘āma sakkā’’**tiādimāha. Sesaṃ suviññeyyameva.

「布施の基盤を清める」とは、滅尽定を等至することによって大果をもたらすものとすることによって、供養を受ける基盤となった自己を清めるのである。滅尽定による基盤の清浄は、滅尽定を等至して出定した辟支仏たちや大迦葉長老たちに施された布施の清浄によって明らかにされるべきである。それゆえに「実にこのように」などと述べたのである。「同様に」というこれによって、「托鉢に歩み」などを結びつけている。慈悲の修習によって柔軟となった心を先行させた敬意をもって施すゆえに、「スブーティ長老は布施を清める」と説かれたのである。それによって施者の側からの布施の清浄をも示している。しかし基盤の清浄は対応するものによる。しかし「このようにすることは可能か」とは、弟子たちにもこのように速やかに出定する決意という、弟子たちにおける自由自在な制御の獲得があり得るのか、と問うているのである。もう一方は、上首弟子や大弟子たちにおいて何を言う必要があるだろうか、通常の弟子たちにおいても自在に達した者たちには得られるとして、それらを示して、「まことに可能である」などと述べたのである。残りは極めて理解しやすい。

Araṇavibhaṅgasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

無諍分別経の注釈に対する甚深義の解明は完結した。

10. Dhātuvibhaṅgasuttavaṇṇanā

一〇、界分別経の注釈

342. Aparikkhīṇāyukaṃ pukkusātikulaputtaṃ uddissa gamananti katvā vuttaṃ **‘‘turitagamanacārika’’**nti. Mama vāsupagamanena tava cittassa aphāsukaṃ aniṭṭhaṃ sace natthi. Soti pubbupagato. Dinnaṃ dinnameva vaṭṭatīti ekavāraṃ dinnaṃ dinnameva yuttaṃ, na puna dātabbanti adhippāyo. Kataṃ katamevāti saṅgahatthaṃ kataṃ anucchavikakammaṃ katameva, na taṃ puna viparivattetabbanti adhippāyo.

三四二。寿命が尽きていないプックサーティ良家の男子を目指しての行歩であるとして、「速やかな行歩の遊行」と説かれたのである。「私が宿泊することによって、あなたの心に不快や好ましくないことがもしないならば」と。「彼」とは、先に宿泊していた者のことである。「与えられたものは与えられたままが相応しい」とは、一度与えられたものは与えられたままが相応しく、再び与えられるべきではない、というのが意図である。「なされたことはなされたままである」とは、もてなしのためになされた相応しい行為はなされたままであり、それを再び覆すべきではない、というのが意図である。

Pukkusātimhi ubhayathāpi kulaputtabhāvo paripuṇṇo evāti āha – **‘‘jātikulaputtopi ācārakulaputtopī’’**ti. Tatrāti tasmiṃ takkasīlato āgamane. Aṅke nipannadārakaṃ viya janaṃ toseti tuṭṭhiṃ pāpeti. Ratanāni uppajjanti pabbatasamuddādisannissitattā paccantadesassa. Dassanīyanti dassaneneva sukhāvahaṃ. Evarūpanti dassanīyaṃ savanīyañca.

プックサーティにおいては、両方の意味においても良家の男子としてのあり方が満たされているとして、「生まれによる良家の男子であり、行儀による良家の男子でもある」と述べたのである。「そこにおいて」とは、そのタッカシラーからの道中において、ということである。膝の上に抱かれた子供のように人々を満足させ、歓喜に至らしめる。「宝が生じる」とは、山や海などに近接している辺境の地であるゆえにである。「見事なもの」とは、見るだけで幸福をもたらすもの。「このようなものを」とは、見事であり、聞くべき価値のあるものを。

Anagghakambale mahagghakambale. Sārakaraṇḍaketi candanasārādisāramayakaraṇḍake. Likhāpetvā ukkirāpetvā. Lākhāya vaṭṭāpetvāti mukhaṃ pidahitvā lākhāparikammaṃ kāretvā.

「値のつけられない毛織物」とは、極めて高価な毛織物のこと。「堅固な小箱において」とは、白檀の芯などの堅木で作られた小箱において。「書かせて」とは、彫り刻ませて。「封蝋で固めさせて」とは、口を閉ざして封蝋の処置をさせて。

Anto dussabhaṇḍikaṃ atthīti aññāsi nātigarukabhāvato. Anagghā ahesunti vaṇṇasampattiphassasampattipamāṇamahattadunnimmāpiyatāhi mahagghā ahesuṃ, mahāpuñño rājā tassa atthevāti adhippāyo.

「内部に衣類の品がある」と知ったのは、過度に重くはなかったからである。「値のつけられないものであった」とは、色彩の美しさ、感触の素晴らしさ、寸法の大きさ、作ることの困難さによって極めて高価なものであった。大いなる功徳を持つ王にこそ相応しい、というのが意図である。

Yadi evaṃ, ‘‘kinnu kho pesemī’’ti kasmā vīmaṃsaṃ āpajjīti āha – **‘‘apica kho panā’’**tiādi. Soti bimbisāro rājā. Vicinituṃ āraddho ratanassa anekavidhattā uttaruttariñca paṇītatarādibhāvato. Suvaṇṇarajatādīti suvaṇṇarajatapavāḷamaṇimuttāveḷuriyādi. Indriyabaddhanti cakkhādiindriyapaṭibaddhaṃ. Padesanti guṇavasena ekadesaṃ na pāpuṇāti.

もしそうであるなら、「何を贈るべきだろうか」となぜ熟考に入ったのかとして、「しかしながら実に」などと述べたのである。「彼」とはビンビサーラ王のことである。宝には多種多様なものがあり、より上位のものほど優れているゆえに探し始めたのである。「金銀など」とは、金・銀・珊瑚・宝珠・真珠・瑠璃などのことである。「感覚器官に結びついたもの」とは、眼などの感覚器官に結びついたものである。「一地域を」とは、徳の観点から一部分にも及ばない。

Sāmaṃ saccānaṃ abhisambuddhatāsāmaññena, **‘‘buddharatanampi duvidha’’**nti vuttaṃ. Buddharatanasamaṃ ratanaṃ nāma natthi, yasmā pana imasmiṃ loke parasmiṃ vā pana buddhena sadiso na vijjatīti. Paṭhamabodhiyaṃyeva pavattatīti katvā vuttaṃ **‘‘ghosopī’’**tiādi.

自ら真理を正しく覚ったことの共通性によって、「仏宝もまた二種である」と説かれたのである。仏宝に匹敵する宝というものは存在しない。実にこの世においても、あるいは他界においても仏陀に等しい者は見出されないからである。初成道においてのみ活動するとして、「声もまた」などと説かれたのである。

Rājā tuṭṭho cintesi, ‘‘tattha avijjamānaṃyeva pesetuṃ laddha’’nti. Tasmāti yasmā paripuṇṇaṃ ekadivasampi tasmiṃ padese buddhānaṃ āvāsapariggaho natthi, tasmā. Pubbadisāmukhanti pubbadisābhimukhaṃ sīhapañjaraṃ. Tenassa suvibhūtālokataṃ dasseti.

王は歓喜して考えた、「そこには存在しないものこそを贈る機会を得た」と。「それゆえに」とは、丸一日ですらその地域において仏陀たちの滞在や居住がなかったゆえに、それゆえにである。「東を向いた」とは、東に向けられた獅子の窓のことである。それによって十分に明るい光であることを示している。

Evaṃ anaññasādhāraṇassa bhagavato īdiso samudāgamoti dassetuṃ, **‘‘evaṃ dasa pāramiyo pūretvā’’**tiādi vuttaṃ. Evaṃ sampannasamudāgamassa tadanurūpā ayaṃ phalasampadāti dassetuṃ, **‘‘tusitabhavanato’’**tiādi vuttaṃ.

このように他者と共通しない世尊には、このような修行の達成があることを示すために、「このように十の波羅蜜を満たして」などと述べたのである。このように達成された修行には、それに応じたこの果報の成就があることを示すために、「兜率天の宮殿から」などと述べたのである。

Ariyadhammo nāma ariyamaggappadhāno, ariyamaggo ca sattatiṃsabodhipakkhiyasaṅgaho, te ca uddesamatteneva gahitāti āha – ‘‘sattatiṃsabodhipakkhiye ekadesena likhitvā’’ti. Cūḷasīlādīni brahmajāle (dī. ni. 1.8-9) āgatanayena veditabbāni. Chadvārasaṃvaraṃ satisampajaññanti manacchaṭṭhānaṃ dvārānaṃ saṃvaraṇavasena sattaṭṭhānikaṃ satisampajaññaṃ. Dvādasappabhedaṃ cīvarādicatuppaccayasantosaṃ. Araññarukkhamūlādīnañca vibhaṅgaṃ bhāvanānukūlaṃ senāsanaṃ. ‘‘Abhijjhaṃ loke pahāyā’’tiādinā vuttaṃ nīvaraṇappahānaṃ. Parikammanti kasiṇādiparikammaṃ. Pāḷiyaṃ āgatanayena aṭṭhatiṃsa kammaṭṭhānāni. Visuddhipaṭipāṭiyā yāva āsavakkhayā imaṃ paṭipattiṃ ekadesena likhi. Soḷasavidhanti soḷasavidhabhāvanāya payogaṃ.

「聖なる法」とは聖道を筆頭とするものであり、聖道とは三十七の菩提分法を包含するものであり、それらは単なる総説によってのみ取られたとして、「三十七の菩提分法を一地域において書き記して」と述べたのである。小戒などは梵網経(長部一・八〜九)に説かれた理趣によって知られるべきである。「六門の防護、正念正知」とは、意を第六とする諸門を防護することによる七つの箇所の正念正知のことである。十二種に分かれた衣などの四資具の満足。森林や樹下のなどの分別による修習に適した坐臥処。「世間における貪りを捨てて」などによって説かれた諸蓋の断滅。「準備」とは遍作などの準備のこと。経文に説かれた理趣による三十八の業処。清浄の順序によって漏尽に至るまでのこの実践を一地域において書き記した。「十六種の」とは十六種の修習の適用を。

Kilañjamayeti nānāvidhabhittivibhatte saṇhasukhumaratanaparisibbite kilañjamayasamugge. Bahi vatthena veṭhetvāti paṭhamaṃ sukhumakambalena veṭhetvā paṭipāṭiyā tettiṃsāya samuggesu pakkhipitvā tato bahi sukhumavatthena veṭhetvā chādetvā. Tiṇagacchapahānasammajjanādinā sodhitamattakameva hotu, kadalipuṇṇaghaṭaṭhapanadhajapaṭākussāpanādialaṅkaraṇena mā niṭṭhāpethāti attho. Rājānubhāvena paṭiyādethāti mama rājānurūpaṃ sajjetha, alaṅkarothāti attho. Antarabhogikānanti anuyuttarājamahāmattānaṃ. Javanadūteti khippaṃ gacchantakadūtapurise. Tāḷehi saha avacarantīti tāḷāvacarā.

「敷物で作られた」とは、種々様々な壁に分かれ、きめ細かく微細な宝石で縫い合わされた敷物製の小箱において。「外側を布で包んで」とは、まず微細な毛織物で包み、順に三十三の小箱の中に入れ、それから外側を微細な布で包んで覆い。「草や低木を刈り取り、清掃することなどによって清められただけのものであれ、バナナの木や満ちた水瓶の設置、旗や幟を掲げることなどの装飾によって完成させてはならない」という意味である。「王の威光によって準備せよ」とは、「私の王としての身分に相応しく整えよ、装飾せよ」という意味である。「内部の官吏たちに」とは、専任の王の大臣たちのことである。「迅速な使者たちに」とは、速やかに歩む使者の使徒たちに。「打楽器とともに巡る」とは打楽器奏者のことである。

Raññā paṇṇākāraṃ uddissa katapūjāsakkārassa amaccato sutattā paṇṇākāraṃ uccaṭṭhāne ṭhapetvā sayaṃ nīcāsane nisinno. Nāyaṃ aññassa ratanassa bhavissatīti ayaṃ parihāro aññassa maṇimuttādibhedassa ratanassa na bhavissati maṇimuttādīhi abhisaṅkhatattā. Balavasomanassaṃ uppajji ciratanakālaṃ buddhasāsane bhāvitabhāvanatāya vāsitavāsanatāya ghaṭe dīpo viya abbhantare eva samujjalamānaparipakkatihetukabhāvato.

王のために贈り物に対する供養と礼拝がなされたことを大臣から聞いたゆえに、贈り物を高い場所に置き、自身は低い座に座った。「これは他の宝のものではないだろう」とは、この扱いは宝石や真珠などの種類の他の宝のものではないだろう、宝石や真珠などによって作られたものであるから。「強い喜悦が生じた」とは、久しい昔から仏教において修習された実践であり、薫習された習気であるゆえに、瓶の中の灯火のように内部においてまさに輝き成熟した三因の結生であるゆえに、である。

Dhāremīti icchāmi, gaṇhāmīti attho. Dvejjhavacananti dveḷhakabhāvo. Antaraṃ karotīti dvinnaṃ pādānaṃ antaraṃ taṃ lekhaṃ karoti, ekena pādena atikkamīti attho. Tassā gatamaggenāti tāya deviyā vivaṭṭamānāya nāsitāya gatamaggena. Taṃ pana lekhanti pukkusātinā katalekhaṃ. Paṇṇacchattakanti tālapattamuṭṭhiṃ.

「保つ」とは、望む、受け取るという意味である。「二重の言葉」とは、疑念を抱く状態のことである。「間を作る」とは、その手紙を二つの足の間に置く、一方の足で踏み越えたという意味である。「彼女が通った道によって」とは、その王妃が転落して滅び去った、通った道によって。「しかしその手紙を」とは、プックサーティによって作られた手紙を。「葉の傘」とは、椰子の葉の一握りのことである。

Satthugāravenāti satthari uppannapasādapemabahumānasambhavena. Tadā satthāraṃyeva manasi katvā tanninnabhāvena gacchanto, ‘‘pucchissāmī’’tipi cittaṃ na uppādesi, ‘‘ettha nu kho satthā vasatī’’ti parivitakkasseva abhāvato; rājagahaṃ pana patvā rañño pesitasāsanavasena tattha ca vihārassa bahubhāvato satthā kahaṃ vasatīti pucchi. Satthu ekakasseva nikkhamanaṃ pañcacattālīsa yojanāni padasā gamanañca dhammapūjāvasena katanti daṭṭhabbaṃ. Dhammapūjāya ca buddhānaṃ āciṇṇabhāvo heṭṭhā vitthāritoyeva. Buddhasobhaṃ pana paṭicchādetvā aññātakavesena tattha gamanaṃ tassa kulaputtassa vissatthavasena maggadarathapaṭipassambhanatthaṃ. Appaṭipassaddhamaggadaratho hi dhammadesanāya bhājanaṃ na hotīti. Tathāhi vakkhati, ‘‘nanu ca bhagavā’’tiādi.

「師への敬意によって」とは、師に対して生じた清らかな信、愛着、尊崇の念が起こったことによって、である。その時、師のことのみを作意して、それに傾倒した状態で歩みながら、「尋ねよう」という心すら起こさなかった。「ここに師は住んでおられるのだろうか」という思索そのものがなかったからである。しかし王舎城に到着して、王が送った音信の力によって、またそこには寺院が多くあったことから、「師はどこにおられるのか」と尋ねた。師がお一人だけで出発され、四十五由旬を徒歩で歩まれたのは、法への供養の観点からなされたと見なされるべきである。そして法への供養における仏陀たちの慣行は、すでに詳細に述べられた通りである。しかし仏陀の荘厳を覆い隠して、見知らぬ者の姿でそこへ行かれたのは、その良家の男子が気を許したことによって道中の疲労を鎮めるためであった。道中の疲労が鎮まっていない者は、法の説示を受ける器とはならないからである。実にこのように説かれるであろう、「世尊は実に……ではないか」などと。

Uruddhanti visālanti keci. Atirekatiyojanasatantiādinā anvayato byatirekato ca maccheravinayane sabrahmacārīnaṃ ovādadānaṃ. Accantasukhumālotiādinā satthu dhammagāravena saddhiṃ kulaputtassapi dhammagāravaṃ saṃsandati sametīti dasseti. Tena bhagavato katassa paccuggamanassa ṭhānagatabhāvaṃ vibhāvento aññesampi bhabbarūpānaṃ kulaputtānaṃ yathārahaṃ saṅgaho kātabboti dasseti.

「広大な」とは、広い、とある人々は言う。「百由旬以上」などとは、順次と逆次の観点から、物惜しみを調伏することにおいて同朋たちへの教誡の付与である。「極めて繊細な」などとは、師の法への敬意とともに、良家の男子の法への敬意をも一致させ、適合させることを示している。これによって世尊のなされた出迎えが相応しいものであったことを明らかにしつつ、他の有能な良家の男子たちにも相応しくもてなしがなされるべきであることを示している。

Brahmalokappamāṇanti uccabhāvena. Ānubhāvenāti iddhānubhāvena yathā so sotapathaṃ na upagacchati, evaṃ vūpasametuṃ sakkoti. Avibbhantanti vibbhamarahitaṃ nilloluppaṃ. **‘‘Bhāvanapuṃsakaṃ paneta’’**nti vatvā tassa vivaraṇatthaṃ, ‘‘pāsādikena iriyāpathenā’’ti vuttaṃ. Itthambhūtalakkhaṇe etaṃ karaṇavacanaṃ daṭṭhabbaṃ. Tenāha **‘‘yathā iriyato’’**tiādi. Amanāpo hoti passantānaṃ. Sīhaseyyāya nipannassapi hi ekacce sarīrāvayavā adhokhittavikkhittā viya dissanti. Kaṭiyaṃ dvinnaṃ ūrusandhīnaṃ dvinnañca jāṇusandhīnaṃ vasena catusandhikapallaṅkaṃ. Na patiṭṭhātīti nappavattati, ‘‘kaṃsi tva’’ntiādinā apucchite kathāpavatti eva na hoti. Appatiṭṭhitāya kathāya na sañjāyatīti tathā pana pucchāvasena kathāya appavattitāya upari dhammakathā na sañjāyati na uppajjati. Itīti tasmā. Kathāpatiṭṭhāpanatthaṃ kathāpavattanatthaṃ kathāsamuṭṭhāpanatthaṃ vā pucchi.

「梵天の世界の大きさ」とは、高さの観点からである。「威徳によって」とは、神通の威徳によって、彼が耳の領域に入らないように、このように鎮めることができる。「動揺のない」とは、散乱を離れ、執着のない。「しかしこれは状態を示す中性名詞である」と述べて、それを説明するために「端正な威儀によって」と説かれたのである。これは様態を示す具格として見られるべきである。それゆえに「活動したように」などと述べたのである。「見る者にとって不快である」とは、獅子の臥法によって横たわっている者であっても、ある身体の部位は投げ出され散乱しているかのように見えるからである。腰における二つの大腿の関節と、二つの膝の関節の観点からの四つの関節による結跏趺坐である。「確立しない」とは、活動しない、「あなたは何者か」などと尋ねられない限り、会話の活動そのものが存在しない。「会話が確立しないことによって生じない」とは、そのように質問による会話が活動しないことによって、それ以上の法の会話が生じず、起こらない、ということである。「このように」とは、それゆえに、である。会話を確立させるために、会話を活動させるために、あるいは会話を起こさせるために尋ねられたのである。

Sabhāvameva kathetīti attano bhagavato adiṭṭhapubbattā ‘‘adiṭṭhapubbakaṃ kathamahaṃ jāneyya’’nti sabhāvameva kevalaṃ attano ajjhāsayameva katheti; na pana sadevakassa lokassa supākaṭaṃ sabhāvasiddhaṃ buddharūpakāyasabhāvaṃ. Atha vā sabhāvameva kathetīti ‘‘idameva’’nti jānantopi tadā bhagavato ruciyā tathāpavattamānaṃ rūpakāyasabhāvameva katheti appavikkhambhanti adhippāyo. Tenāha – **‘‘tathā hi na’’**ntiādi, vipassanālakkhaṇameva paṭipadanti adhippāyo.

「自性そのものを語る」とは、自分自身が世尊をかつて見たことがなかったゆえに、「かつて見たことのない方を私はいかにして知るだろうか」と、自性そのもの、単に自分自身の意図のみを語るのであり、天人を含む世間に極めて明白な、自性によって成就された仏陀の色身の自性を語るのではない。あるいは「自性そのものを語る」とは、「これこそがそうである」と知っていながらも、その時の世尊のお好みに応じてそのように活動している色身の自性そのものを語るのであり、動揺のないことである、というのが意図である。それゆえに「実に彼を」などと述べたのであり、ヴィパッサナーの特徴そのものの実践である、というのが意図である。

343. **‘‘Pubbabhāgapaṭipadaṃ akathetvā’’**ti vatvā pubbabhāgapaṭipadāya akathane kāraṇaṃ pubbabhāgapaṭipadañca sarūpato dassetuṃ, **‘‘yassa hī’’**tiādi vuttaṃ. Aparisuddhāyapi pubbabhāgapaṭipadāya vipassanā tathā na kiccakārī, pageva avijjamānāyāti, **‘‘yassa hi…pe… aparisuddhā hoti’’**cceva vuttaṃ. Pubbabhāgapaṭipadā ca nāma saṅkhepato pannarasa caraṇadhammāti āha – **‘‘sīlasaṃvaraṃ…pe… imaṃ pubbabhāgapaṭipadaṃ ācikkhatī’’**ti. Yānakiccaṃ sādheti maggagamanena akilantabhāvasādhanattā. Cirakālaṃ paribhāvitāya paripakkagatāya hetusampadāya upaṭṭhāpitaṃ sāmaṇerasīlampi paripuṇṇaṃ akhaṇḍādibhāvappattiyā, yaṃ pubbahetuttā ‘‘sīla’’nti vuccati.

343. **「前分の行道を説かずに」**と述べて、前分の行道を説かない理由と、前分の行道の実体を自ら示すために、**「実に彼には……」**などが説かれた。前分の行道が清浄でない場合でも、観(ヴィパッサナー)はそのように役目を果たさない。存在しない場合は言うまでもない。それゆえに**「実に彼には……清浄でない」**とまさに説かれたのである。そして前分の行道とは、要約すれば十五の行法であるから、**「戒の防護を……この前分の行道を説き示す」**と言われた。道を行くことによって疲労しない状態を成就させるため、乗り物の役目を果たす。長いあいだ修習され、円熟に達した因の具足によって確立された沙弥の戒であっても、不欠などの状態に達することによって円満である。それゆえに過去の因であることから「戒」と呼ばれる。

Dhātuyo paramatthato vijjamānā, paññattimattho puriso avijjamāno. Atha kasmā bhagavā arahattassa padaṭṭhānabhūtaṃ vipassanaṃ kathento ‘‘chadhāturo’’ti avijjamānappadhānaṃ desanaṃ ārabhīti āha – **‘‘bhagavā hī’’**tiādi. Katthaci ‘‘tevijjo chaḷabhiñño’’tiādīsu vijjamānena avijjamānaṃ dasseti. Katthaci – ‘‘itthirūpaṃ, bhikkhave, purisassa cittaṃ pariyādāya tiṭṭhatī’’tiādīsu (a. ni. 1.1) avijjamānena vijjamānaṃ dasseti. Katthaci ‘‘cakkhuviññāṇaṃ sotaviññāṇa’’ntiādīsu (vibha. 121) vijjamānena vijjamānaṃ dasseti. Katthaci – ‘‘khattiyakumāro brāhmaṇakaññāya saddhiṃ saṃvāsaṃ kappetī’’tiādīsu (dī. ni. 1.275) avijjamānena avijjamānaṃ dasseti. Idha pana vijjamānena avijjamānaṃ dasseti. ‘‘Chadhāturo’’ti hi samāsattho avijjamāno puggalavisayattā, tassa padassa avayavattho pana appadhānattho vijjamāno, so saddakkamena appadhānopi atthakkamena padhānoti āha – **‘‘vijjamānena avijjamānaṃ dassento’’**ti. Puggalādhiṭṭhānāyettha desanāya kāraṇaṃ dassetuṃ, **‘‘sace hī’’**tiādi vuttaṃ. Upaṭṭhāpeyyāti – ‘‘dhātuyo’’icceva kulaputtassa cittaṃ niveseyya tathā sañjāneyya, evaṃ dhammaṃ deseyyāti attho. Sandehaṃ kareyyāti asati purise ko karoti? Ko paṭisaṃvedeti, dhātuyo evāti kiṃ nu kho idaṃ, kathaṃ nu kho idanti saṃsayaṃ uppādeyya? Sammohaṃ āpajjeyyāti caturaṅgasamannāgate andhakāre vattamānaṃ viya desiyamāne atthe sammohaṃ āpajjeyya. Tathābhūto ca desanāya abhājanabhūtattā desanaṃ sampaṭicchituṃ na sakkuṇeyya. Evamāhāti evaṃ ‘‘chadhāturo’’ti āha.

界(要素)は勝義において存在するものであり、施設(概念)にすぎない人は存在しないものである。それなら世尊は、阿羅漢果の近因である観を説きながら、なぜ「六界の人」と存在しないものを主体とする教説を始められたのか、それを示すために**「世尊は実に……」**などを言われた。ある箇所では「三明あり六神通あり」などにおいて、存在するもので存在しないものを示す。ある箇所では「比丘たちよ、女の色(姿)は男の心を奪って住する」など(増支部1.1)において、存在しないもので存在するものを示す。ある箇所では「眼識、耳識」など(分別論121)において、存在するもので存在するものを示す。ある箇所では「刹帝利の若者が婆羅門の娘とともに交わりを結ぶ」など(長部1.275)において、存在しないもので存在しないものを示す。しかしここでは、存在するもので存在しないものを示している。「六界の人」という複合語の意味は補特伽羅(人)の領域であるため存在しないが、その語の構成要素の意味、すなわち非主位の意味は存在する。それは語の順序としては非主位であっても、意味の順序としては主位である。それゆえに**「存在するもので存在しないものを示しながら」**と言われた。ここでは補特伽羅を拠り所とする教説の理由を示すために、**「もし実に……」**などが説かれた。「確立させるであろう」とは、「界(要素)」とまさにその善男子の心を落ち着かせ、そのように了知させ、このように法を説くであろうという意味である。「疑念を抱くであろう」とは、人が存在しないなら誰が為すのか、誰が感受するのか、ただ諸界だけなのかと、「これは一体何なのか、どういうことなのか」と疑いを生じるであろう。「迷妄に陥るであろう」とは、四肢を具えた暗闇の中で進行するように、説かれる意味について迷妄に陥るであろう。そのような状態になれば、教説の器(受容者)とならないため、教説を受け取ることができないであろう。「このように言われた」とは、このように「六界の人」と言われたということである。

Yaṃ tvaṃ purisoti sañjānāsīti yaṃ rūpārūpadhammasamūhaṃ pabandhavasena pavattamānaṃ adhiṭṭhānavisesavisiṭṭhaṃ – ‘‘puriso satto itthī’’tiādinā tvaṃ sañjānāsi, so chadhāturo. Santesupi chadhātuvinimuttesu dhātvantaresu sukhāvaggahaṇatthaṃ tathā vuttaṃ taggahaṇeneva ca tesaṃ gahetabbato, svāyamattho heṭṭhā dassito eva. Sesapadesūti ‘‘chaphassāyatano’’tiādipadesupi. Cattāri adhiṭṭhānāni catasso patiṭṭhā etassāti caturādhiṭṭhāno, adhitiṭṭhati patiṭṭhahati etenāti adhiṭṭhānaṃ, yesu patiṭṭhāya uttamatthaṃ arahattaṃ adhigacchati, tesaṃ paññādīnaṃ etaṃ adhivacanaṃ. Tenāha **‘‘svāyaṃ bhikkhū’’**tiādi. Ettoti vaṭṭato. Vivaṭṭitvāti vinivaṭṭitvā apasakkitvā. Ettoti vā etehi chadhātuādīhi. Ettha hi niviṭṭhassa āyattassa uttamāya siddhiyā asambhavoti. Patiṭṭhitanti ariyamaggādhigamavasena suppatiṭṭhitaṃ. Evañhi sabbaso paṭipakkhasamucchindanena tattha patiṭṭhito hoti. Maññassavā nappavattantīti chahipi dvārehi pavattamānasotāya maggena visositāya sabbaso vigatāya sabbaso vicchedappattiyā na sandanti. Tenāha **‘‘nappavattantī’’**ti. Yasmā māne sabbaso samucchinne asamucchinno anupasanto kileso nāma natthi, tasmā āha – **‘‘muni santoti vuccatī’’**ti rāgaggiādīnaṃ nibbānena nibbuto.

「汝が人であると了知するもの」とは、相続の力によって生起し、特別の所持によって特徴づけられる色法・非色法の集成を、「人である、有情である、女である」などと汝が了知する、それが六界の人である。六界を離れた他の界が存在するとしても、理解を容易にするためにそのように説かれ、またそれらを把握することによってそれらも把握されるべきであるからである。その意味はすでに下で示された通りである。「残りの語において」とは、「六触処」などの語においても、ということである。「四つの住処、四つの確立所をこれに有する」ゆえに四住処の人であり、これによって安住し確立するゆえに「住処」である。それらに安住して至高の義である阿羅漢果を獲得する、それらの智慧などの同義語である。それゆえに**「そのこの比丘は……」**などと言われた。「これより」とは輪廻より。「離脱して」とは転回して、退いて。「あるいはこれより」とは、これら六界などより。実にここに執着し依存する者には至高の成就はあり得ないからである。「確立した」とは聖道の獲得によってよく確立した。「このように実に」すべての敵対者を根絶することによってそこに確立したのである。「思い計らいの流れが活動しない」とは、六つの門によって生起する流れが、道によって涸らされ、完全に去り、完全に断絶に達したため流れない。それゆえに**「活動しない」**と言われた。慢が完全に根絶されたとき、根絶されず静まっていない煩悩は存在しないゆえに、貪りの火などが涅槃によって消滅した者として**「聖者は寂静と呼ばれる」**と言われた。

Paññaṃ nappamajjeyyāti, ‘‘divasaṃ caṅkamena nisajjāya āvaraṇīyehi dhammehi cittaṃ parisodhetī’’tiādinayappavattāya (ma. ni. 1.423; 2.24; 3.75; saṃ. ni. 4.120; a. ni. 3.15; vibha. 519; mahāni. 161) appamādappaṭipattiyā samādhivipassanāpaññaṃ nappamajjeyya. Etena pubbabhāgiyaṃ samathavipassanābhāvanamāha. Saccamanurakkheyyāti saccānurakkhanāpadesena sīlavisodhanamāha; sacce ṭhito samādinnasīlaṃ avikopetvā paripūrento samādhisaṃvattaniyataṃ karoti. Tenāha **‘‘vacīsaccaṃ rakkheyyā’’**ti. Kilesapariccāgaṃ brūheyyāti tadaṅgādivasena kilesānaṃ pariccajanavidhiṃ vaḍḍheyya. Kilesavūpasamanaṃ sikkheyyāti yathā te kilesā tadaṅgādivasena pariccattā yathāsamudācārappavattiyā santāne pariḷāhaṃ na janenti; evaṃ kilesānaṃ vūpasamanavidhiṃ sikkheyya paññādhiṭṭhānādīnanti lokuttarānaṃ paññādhiṭṭhānādīnaṃ. Adhigamatthāyāti paṭilābhatthāya.

「智慧を怠ってはならない」とは、「日中、経行と坐禅によって覆いとなる諸法から心を清める」などの方法で生起した(中部1.423; 2.24; 3.75; 相応部4.120; 増支部3.15; 分別論519; 大義釈161)不放逸の行道により、定と観の智慧を怠ってはならない。これによって前分の止観の修習を説いている。「真実を守るべきである」とは、真実の保護という名目で戒の清浄を説いている。真実に安住し受持した戒を損なわずに円満にする者は、定をもたらす必然性をなす。それゆえに**「語の真実を守るべきである」**と言われた。「煩悩の放棄を増大させるべきである」とは、一部の断(彼分断)などの力によって煩悩を放棄する方法を増進させるべきである。「煩悩の寂静を学ぶべきである」とは、それらの煩悩が一部の断などによって放棄され、習気(現行)の生起によって相続(心身)に熱苦を生じさせないように、そのように煩悩を寂静にする方法を学ぶべきである。智慧の住処などのとは、出世間の智慧の住処などのことである。「獲得のために」とは、取得のためという意味である。

347. Pubbe vuttānanti, ‘‘caturādhiṭṭhāno, yattha ṭhitaṃ maññassavā nappavattantī’’ti (ma. ni. 3.343) evaṃ pubbe vuttānaṃ.

347. 「前に説かれたもの」とは、「四つの住処を有し、そこに安住する者には思い計らいの流れが活動しない」(中部3.343)と、このように前に説かれたもののことである。

348. Vattabbaṃ bhaveyyāti niddesavasena vattabbaṃ bhaveyya. Ādīhīti evamādīhi. Kiccaṃ natthi kiccābhāvato. Uppaṭipāṭidhātukanti ayathānupubbikaṃ. Yathādhammavasenevāti desetabbadhammānaṃ yathāsabhāveneva. Sappāyaṃ dhutaṅganti attano kilesaniggaṇhanayoggaṃ dhutaṅgaṃ. Cittarucitanti attano cittapakatiyā ācariyehi virocetabbaṃ, cariyānukūlanti attho. Hatthipadopamasuttādīsūti ādi-saddena visuddhimaggadhātuvibhaṅgādiṃ saṅgaṇhāti.

348. 「説かれるべきである」とは、解説の力によって説かれるべきであるということである。「これらなどによって」とは、このようなことなどによってである。「用事はない」とは用事の不在による。「順序を乱した界を」とは、順序に従わないものを。「まさに諸法のありのままの力によって」とは、説かれるべき諸法の本性そのままに、ということである。「適した頭陀行を」とは、自身の煩悩を制伏するのに適した頭陀行を。「心に適ったものを」とは、自身の心の性向に従って師たちによって照らされるべきものを、すなわち行儀に適ったものを、という意味である。「象跡喩経などにおいて」の「など」という語によって、清浄道論や界分別などを包摂する。

354. Ayampetthāti pi-saddo sampiṇḍanattho. Tena ‘‘athāparaṃ upekkhāyeva avasissatī’’ti uparidesanaṃ sampiṇḍeti. Sopi hi pāṭiyekko anusandhīti. Nanu cāyaṃ yathāuddiṭṭhāya viññāṇadhātuyā niddesopi bhavissatīti yathānusandhinayo vijjatīti? Na, viññāṇadhātuniddesanayena desanāya appavattattā tenāha **‘‘heṭṭhato’’**tiādi. Yaṃ vā panātiādinā pana desanāya sānusandhitaṃ vibhāveti. Na hi buddhā bhagavanto ananusandhikaṃ desanaṃ desenti. Āgamanīyavipassanāvasenāti yassā pubbe pavattattā āgamanīyaṭṭhāne ṭhitā vipassanā, tassā vasena. Kammakārakaviññāṇanti ‘‘netaṃ mama nesohamasmi, na meso attā’’ti evaṃ vipassanākiccakārakaṃ vipassanāsahitaṃ viññāṇaṃ. Viññāṇadhātuvasenāti yathāuddiṭṭhāya viññāṇadhātuyā bhājanavasena. Satthu kathanatthāyāti satthārā uddesameva katvā ṭhapitattā niddesavasena kathanatthāya. Akathitabhāvo eva hissa avasiṭṭhatā kathanatthāya paṭivijjhanatthāya ca. Paṭipakkhavigamena tassa cittassa parisuddhatāti āha **‘‘nirupakkilesa’’**nti. Upakkilesānaṃ pana pahīnabhāvato pariyodātaṃ. Samudayavasena udayadassanatthañceva paccayanirodhavasena atthaṅgamadassanatthañca. Kāraṇabhāvena sukhāya vedanāya hitanti sukhavedaniyaṃ. Tenāha **‘‘sukhavedanāya paccayabhūta’’**nti.

354. 「ここにおいてもまた」の「また(api)」という語は、包摂の意味である。それによって「そしてさらに捨のみが残る」という上方の教説を包摂する。それもまた個別の結びつきであるからである。「しかしこれは提示された通りの識界の解説にもなるのではないか、したがって順序に従った結びつきの方法が存在するのではないか」と言うのか。そうではない。識界の解説の方法としては教説が生起していないからである。それゆえに**「下より」**などと言われた。あるいは「あるいはまた」などによって、教説の連続性を明らかにする。実に諸仏・世尊は結びつきのない教説を説かれないからである。「獲得されるべき観の力によって」とは、前に生起したことによって獲得されるべき境地にとどまる観の、その力によって。「行為をなす識を」とは、「これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない」とこのように観の役目をなす、観を伴った識を。「識界の力によって」とは、提示された通りの識界の分類の力によって。「師の説示のために」とは、師によって提示のみがなされて置かれていたため、解説の力によって説示するためである。実に説かれていない状態そのものが、説示のため、また通達のために残されたものなのである。敵対者が去ることによるその心の清浄さを**「無随煩悩」**と言われた。随煩悩が断ぜられていることから「極めて清浄」である。集(原因)の力によって生起を見せるため、また縁の滅の力によって滅尽を見せるためである。原因の状態によって楽受に有益であるから「受楽的(楽受をもたらすもの)」である。それゆえに**「楽受の縁となったもの」**と言われた。

360. Rūpakammaṭṭhānampi catudhātuvavatthānavasena, arūpakammaṭṭhānampi sukhadukkhavedanāmukhena paguṇaṃ jātaṃ.

360. 色の業処も四界の限定の力によって、非色の業処も苦楽の受を手がかりとして熟達したものとなった。

Satthu kathanatthaṃyeva avasissatīti, ‘‘kulaputtassa paṭivijjhanattha’’nti vuttamevatthaṃ nisedheti, tasmā vuttamevatthaṃ samatthetuṃ, **‘‘imasmiṃ hī’’**tiādi vuttaṃ. Kulaputtassa rūpāvacarajjhāneti kulaputtena adhigatarūpāvacarajjhāne. Tenāha – **‘‘bhikkhu paguṇaṃ tava idaṃ rūpāvacaracatutthajjhāna’’**nti. Yaṃ kiñci suvaṇṇatāpanayogyaṃ aṅgārabhājanaṃ idha ‘‘ukkā’’ti adhippetanti āha **‘‘aṅgārakapalla’’**nti. Sajjeyyāti yathā tattha pakkhittasuvaṇṇañca tappati, evaṃ paṭiyādiyeyya. Nīhaṭadosanti vigatībhūtakāḷakaṃ. Apanītakasāvanti apagatasukhumakāḷakaṃ.

「ただ師の説示のためにのみ残る」とは、「善男子の通達のため」と説かれたまさにその意味を否定する。それゆえに説かれたまさにその意味を確立するために、**「実にこれにおいて……」**などが説かれた。「善男子の色界禅において」とは、善男子によって獲得された色界禅においてである。それゆえに**「比丘よ、汝のこの色界第四禅は熟達している」**と言われた。金を熱するのに適した何らかの炭火の器が、ここでは「炉(うっかー)」として意図されている。それゆえに**「炭火の土鍋」**と言われた。「整えるであろう」とは、そこに投入された金が熱せられるように、そのように準備するであろう。「汚れが除かれた」とは、黒ずみが去った状態となった。「塵芥が除かれた」とは、微細な黒ずみが去った。

Ariyamagge patiṭṭhāpetukāmena nāma sabbasmimpi lokiyadhamme virajjanatthāya dhammo kathetabboti adhippāyena, **‘‘kasmā panā’’**tiādinā codanā katā. Vineyyadamanakusalena bhagavatā veneyyajjhāsayavasena tāva catutthajjhānupekkhāya vaṇṇo kathitoti tassa parihāraṃ vadanto, **‘‘kulaputtassā’’**tiādimāha.

「聖道に確立させたいと望む者は、すべての世間の法に対して離貪させるために法を説くべきである」という意図から、**「しかしなぜ……」**などと詰問がなされた。化導されるべき者を調御することに巧みな世尊は、化導されるべき者の意向に従って、まず第四禅の捨の称賛を説かれたのであり、その解決を述べる者として**「善男子の……」**などを言われた。

361. Tadanudhammanti tassa arūpāvacarassa kusalassa anurūpadhammaṃ, yāya paṭipadāya tassa adhigamo hoti, tassa pubbabhāgapaṭipadanti attho. Tenāha **‘‘rūpāvacarajjhāna’’**nti. Taggahaṇāti tassa gahaṇena tassā paṭipattiyā paṭipajjamānena. Ito uttarinti ‘‘viññāṇañcāyatana’’ntiādīsu.

361. 「その法に従うもの」とは、その無色界の善に相応する法、すなわちそれによってその獲得がなされる行道、その前分の行道という意味である。それゆえに**「色界禅」**と言われた。「その把握から」とは、その把握によって、その実践を実践することによって。「これよりさらに上に」とは、「識無辺処」などにおいてである。

362. Tassevāti arūpāvacarajjhānassa. Etaṃ pana savipākaṃ arūpāvacarajjhānaṃ samecca sambhuyya paccayehi katattā saṅkhataṃ. Pakappitanti paccayavasena savihitaṃ. Āyūhitanti sampiṇḍitaṃ. Karontena karīyatīti paṭipajjanakena paṭipajjīyati saṅkharīyati. Nibbānaṃ viya na niccaṃ na sassataṃ. Atha kho khaṇe khaṇe bhijjanasabhāvatāya tāvakālikaṃ. Tato eva cavanādisabhāvanti sabbametaṃ rūpāvacaradhammesu ādīnavavibhāvanaṃ. Dukkhe patiṭṭhitanti saṅkhāradukkhe patiṭṭhitaṃ. Atāṇanti cavanasabhāvāditāya tāṇarahitaṃ. Aleṇanti tato arakkhattā līyanaṭṭhānarahitaṃ. Asaraṇanti appaṭisaraṇaṃ. Asaraṇībhūtanti sabbakālampi appaṭisaraṇaṃ.

362. 「それ自身の」とは無色界禅の。しかしこの異熟を伴う無色界禅は、諸縁が集まり合わさって作られたものであるから有為である。「構想された」とは諸縁の力によって作られた。「集積された」とはまとめ上げられた。「為す者によって為される」とは、実践する者によって実践され、形成される。涅槃のように常住でも永遠でもない。むしろ刹那刹那に崩壊する性質をもつがゆえに一時的である。それゆえにまさに死没などの性質をもつ。これらすべては色界の諸法における過患の解明である。「苦に安住した」とは行苦に安住した。「無防護」とは死没などの性質をもつことによる防護のなさ。「無隠れ家」とはそれから保護されないことによる避難所のなさ。「無帰依所」とは帰依処のなさ。「無帰依となった」とは常に帰依処がないことである。

Samattapattavise khandhādīsu gahite duttikicchā siyāti, **‘‘khandhaṃ vā sīsaṃ vā gahetuṃ adatvā’’**ti vuttaṃ. Evamevāti etthāyaṃ upamāsaṃsandanā – cheko bhisakko viya sammāsambuddho. Visavikāro viya kilesadukkhānubandho, bhisakkassa visaṃ ṭhānato cāvetvā upari āropanaṃ viya bhagavato desanānubhāvena kulaputtassa kāmabhave nikantiṃ pariyādāya arūpajjhāne bhavanaṃ. Bhisakkassa visaṃ otāretvā pathaviyaṃ pātanaṃ viya kulaputtassa orambhāgiyakilesadukkhāpanayanaṃ.

完全に達した毒が蘊(身体)などに把握されたなら治療が困難になるであろうから、**「肩や頭を掴ませずに」**と説かれた。「このように」とは、ここにおける譬喩の照合はこうである。熟練した医師のような者は正等覚者である。毒の変異のようなものは煩悩と苦の連続である。医師が毒をその場所から動かして上に引き上げるようなものは、世尊の教説の威力によって善男子が欲愛への執着を尽くして無色禅にとどまることである。医師が毒を降ろして大地に落とすようなものは、善男子の下分結の煩悩の苦を取り除くことである。

Asampattassāti arūpāvacarajjhānaṃ anadhigatassa. Appaṭiladdhassevāti tassa vevacanaṃ. Sabbametanti ‘‘aniccaṃ adhuva’’ntiādinā vitthārato vuttaṃ sabbametaṃ ādīnavaṃ. Ekapadeneva ‘‘saṅkhatameta’’nti kathesi saṅkhatapadeneva tassa atthassa anavasesato pariyādinnattā.

「達していない者の」とは無色界禅を獲得していない者の。「得ていない者の」とはその同義語である。「これらすべてを」とは、「無常であり、不堅固である」などと詳細に説かれたこれらすべての過患を。「ただ一語で『これは有為である』と説かれた」とは、「有為」という一語によってその意味が余すところなく尽くされているからである。

Nāyūhatīti bhavakāraṇacetanāvasena byāpāraṃ na samūheti na sampiṇḍeti. Tenāha – **‘‘na rāsiṃ karotī’’**ti. Abhisaṅkharaṇaṃ nāma cetanābyāpāroti āha – **‘‘na abhisañcetayatī’’**ti. Taṃ pana phaluppādanasamatthatāya phalena kappananti āha **‘‘na kappetī’’**ti. Sace abhisaṅkhāracetanā uḷārā, phalamahattasaṅkhātāya vuḍḍhiyā hoti, anuḷārā ca avuḍḍhiyāti āha – **‘‘vuḍḍhiyā vā parihāniyā vā’’**ti. Buddhavisaye ṭhatvāti bhagavā attano buddhasubuddhatāya sīhasamānavuttitāya ca desanaṃ ukkaṃsato sāvakehi pattabbaṃ visesaṃ anavasesento tathā vadati, na sāvakavisayaṃ atikkamitvā attano buddhavisayameva desento. Tenāha – **‘‘arahattanikūṭaṃ gaṇhī’’**ti. Yadi kulaputto attano…pe… paṭivijjhi, atha kasmā bhagavā desanāya arahattanikūṭaṃ gaṇhīti āha **‘‘yathā nāmā’’**tiādi.

「集積しない」とは、有(存在)の原因となる思(意志)の力による働きを集めず、積み上げない。それゆえに**「堆積をなさない」**と言われた。形成することとは思の働きであるから**「思念しない」**と言われた。しかしそれは果報を生じさせる能力によって果報と一致させるゆえに**「構想しない」**と言われた。もし行(形成)の思が勝れているなら果報の偉大さと呼ばれる増大となり、勝れていなければ不増大となるゆえに、**「増大のためにも、衰退のためにも」**と言われた。「仏の境地に立って」とは、世尊はご自身の仏としての完全な覚りの性質と獅子に等しい振る舞いによって、教説を最高度のものとして、弟子たちによって達せられるべき卓越性を余すところなく示してそのように説かれるのであり、弟子の境地を超えてご自身の仏の境地のみを説かれるのではない。それゆえに**「阿羅漢果の頂を把持された」**と言われた。もし善男子が自身の……通達したのなら、それではなぜ世尊は教説において阿羅漢果の頂を把持されたのか、それを示すために**「あたかも……」**などが説かれた。

Ito pubbeti ito anāgāmiphalādhigamato uttari upari. Assāti kulaputtassa. Kathentassa bhagavato dhamme neva kaṅkhā na vimati paṭhamamaggeneva kaṅkhāya samucchinnattā. Ekaccesu ṭhānesūti tathā vineyyaṭhānesu. Tathā hi ayampi kulaputto anāgāmiphalaṃ patvā bhagavantaṃ sañjāni. Tena vuttaṃ **‘‘yato anenā’’**tiādi.

「これより以前に」とは、この不還果の獲得よりさらに上に。「彼にとって」とは善男子にとって。説法される世尊の法について、疑惑も躊躇も全くない。第一の道(預流道)によってすでに疑惑が根絶されているからである。「ある場所においては」とは、そのように化導されるべき場所においてである。実にこの善男子も不還果に達して世尊を正しく知った。それゆえに**「彼によって……から」**などが説かれた。

363. Anajjhositāti anajjhosanīyāti ayamatthoti āha – **‘‘gilitvā pariniṭṭhāpetvā gahetuṃ na yuttā’’**ti.

363. 「執着されない」とは執着されるべきではない、これが意味であるから、**「呑み込んで完了させて把握するのには適さない」**と言われた。

364. Rāgova anusayo rāgānusayo, so ca paccayasamavāye uppajjanārahoti vattabbataṃ labhatīti vuttaṃ – **‘‘sukhavedanaṃ ārabbha rāgānusayo uppajjeyyā’’**ti. Na pana tassa uppādanaṃ atthi khaṇattayasamāyogāsambhavato. Esa nayo sesesupi. Itaranti adukkhamasukhavedanaṃ. Visaṃyuttoti kenaci saññojanena asaṃyuttatāya eva niyatavippayutto. Kāyassa koṭi paramo anto etassāti kāyakoṭikaṃ. Dutiyapadeti ‘‘jīvitapariyantika’’nti imasmiṃ pade. Visevanassāti upādānassa. Sītībhavissantīti padassa ‘‘nirujjhissantī’’ti attho vutto, kathaṃ pana vedayitānaṃ dvādasasu āyatanesu nirujjhanaṃ sītibhāvappattīti codanaṃ sandhāyāha – **‘‘kilesā hī’’**tiādi. Samudayapañhenāti mahāsatipaṭṭhāne (dī. ni. 2.400; ma. ni. 1.133) samudayasaccanirodhapañhena. Nanu sabbaso kilesapariḷāhavigame sītibhāvo nāma vedanānirodhamattena adhippeto; tena idha vedayitāni vuttāni, na kilesāti vedayitānaṃ accantanirodhasaṅkhāto sītibhāvopi kilesasamucchedenevāti āha **‘‘vedayitānipī’’**tiādi.

364. 貪りそのものが随眠(潜在的煩悩)であるから貪随眠であり、それは諸縁が集まったときに生起するにふさわしいゆえに、そのように言われる資格を得る。それゆえに**「楽受について貪随眠が生起するであろう」**と説かれた。しかしそれには生起はない。三刹那の結合が不可能だからである。この方法は残りにおいても同様である。「他のものを」とは不苦不楽受を。「離縛した」とはいかなる結び目(結)によっても結ばれていないことによってまさに決定的に離れていること。「身の限界、至高の終極をこれに有する」ゆえに身の終極である。第二の句においてとは、「命の終極」というこの句においてである。「耽溺の」とは取(執着)の。「冷涼になるであろう」という句について「滅するであろう」という意味が説かれたが、どのようにして十二処における受の滅が冷涼な状態への到達となるのかという詰問について、**「実に諸煩悩は……」**などを言われた。「集の問いによって」とは、大念処経(長部2.400; 中部1.133)における集聖諦の滅の問いによって。およそすべての煩悩の熱苦が去ったときの冷涼な状態とは、受の滅のみによって意図されているのではないか、それゆえにここでは諸受が説かれ、諸煩悩ではないのではないか、諸受の究極の滅と呼ばれる冷涼な状態も煩悩の根絶によってのみであるから、**「諸受もまた……」**などと言われた。

365. Idaṃ opammasaṃsandananti ettha saññojanā dīpasikhā viya, adhiṭṭhānakapallikā viya vedanāya nissayabhūtā cattāro khandhā, telaṃ viya kilesā, vaṭṭi viya kammavaṭṭaṃ, upaharaṇakapuriso viya vaṭṭagāmī puthujjano, tassa sīsacchedakapuriso viya arahattamaggo santānassa samucchedakaraṇato, anāhārāya dīpasikhāya nibbāyanaṃ viya kammakilesānaṃ anantarapaccayato anāhārāya vedanāya anupādisesavasena nibbāyanaṃ.

365. 「この譬喩の照合」とは、ここにおいて結(束縛)は灯火の炎のようであり、灯芯の受け皿のようなものは受の拠り所となる四つの蘊であり、油のようなものは諸煩悩であり、灯芯のようなものは業の輪廻であり、油を注ぐ人のようなものは輪廻に赴く凡夫であり、その人の首を刎ねる人のようなものは阿羅漢道である、相続を断絶させることをなすからである。燃料のない灯火の炎の消滅のようなものは、業と煩悩という無間縁(直接の条件)からの燃料のない受の、無余依による涅槃への消滅である。

Ādimhi samādhivipassanāpaññāhīti pubbabhāgapaṭipadābhūtā tayā paguṇasamādhito arahattassa padaṭṭhānabhūtavipassanāpaññāto ca. Uttaritarāti visiṭṭhatarā. Evaṃ samannāgatoti ettha evaṃ-saddo idaṃsaddatthavacanoti āha – **‘‘iminā uttamena arahattaphalapaññādhiṭṭhānenā’’**ti. Sabbaṃ vaṭṭadukkhaṃ khepetīti sabbadukkhakkhayo, aggamaggo, taṃpariyāpannatāya tattha ñāṇanti āha – **‘‘sabbadukkhakkhaye ñāṇaṃ nāma arahattamagge ñāṇa’’**nti. Arahattaphale ñāṇaṃ adhippetaṃ vuttanayena sabbadukkhakkhaye sante tannimittaṃ vā uppannañāṇanti katvā. Tassāti, ‘‘evaṃ samannāgato bhikkhu iminā paramena paññādhiṭṭhānena samannāgato hotī’’ti vuttabhikkhuno.

「初めにおける定と観の智慧によって」とは、前分の行道となった汝の熟達した定より、また阿羅漢果の近因となった観の智慧より。「さらに優れた」とは、さらに勝れた。「このように具足した」において、「このように」という語は「これ」という語の意味を表すゆえに、**「この至高の阿羅漢果の智慧の住処によって」**と言われた。「すべての輪廻の苦を尽くす」ゆえに一切苦尽、すなわち最上の道(阿羅漢道)であり、それに包摂されることからそこにおける智であるとして、**「一切苦尽における智とは阿羅漢道における智である」**と言われた。説かれた方法によって一切の苦の滅が存在するとき、それを対象として生じた智であるとして、阿羅漢果における智が意図されている。「彼の」とは、「このように具足した比丘は、この最高の智慧の住処を具足した者となる」と説かれた比丘のことである。

366. ti yasmā. Vimuttīti arahattaphalavimutti, tasmā sabbadukkhakkhaye ñāṇanti arahattaphalañāṇaṃ adhippetaṃ. Saccanti paramatthasaccaṃ nibbānaṃ, na maggasaccaṃ. Kāmaṃ arahattaphalavimutti paṭipakkhehi akopanīyatāya akuppā, ‘‘sacce ṭhitā’’ti pana vacanato, **‘‘akuppārammaṇakaraṇena akuppāti vuttā’’**ti āha. Vitathanti naṭṭhaṃ, jarāya maraṇena ca vipariṇāmetabbatāya yādisaṃ uppādāvatthāya jātaṃ, tato aññādisanti attho. Tathā hi taṃ jarāmaraṇehi parimusitabbarūpatāya ‘‘musā’’ti vuttaṃ. Tenāha – **‘‘mosadhammanti nassanasabhāva’’**nti. Taṃ avitathanti taṃ vuttanayena avitathaṃ nāma, taṃ sabhāvo sabbakālaṃ teneva labbhanato. Samathavipassanāvasena vacīsaccatoti samathavipassanāvasena yaṃ visuddhimattaṃ vacīsaccaṃ, tato. Dukkhasaccasamudayasaccehi tacchavipallāsabhūtasabhāvehi. Iti nesaṃ yathāsakaṃ sabhāvena avitathabhāve amosadhammatāya tehipi avitathabhāvā paramatthasaccaṃ nibbānameva uttaritaraṃ. Tasmāti nibbānasseva uttaritarabhāvato.

366. 「実に」とは、なぜなら。「解脱」とは阿羅漢果の解脱であり、それゆえに一切苦尽における智とは阿羅漢果の智が意図されている。「真実」とは勝義の真実である涅槃であり、道諦ではない。確かに阿羅漢果の解脱は敵対者によって動揺させられないがゆえに不動であるが、「真実に安住した」という言葉から、**「不動の対象をなすことによって不動と呼ばれる」**と言われた。「虚偽」とは滅びたもの、老いと死によって変異させられるべきものであるがゆえに、生起の状態において生じたようなものとは異なる状態となる、という意味である。実にそれは老死によって奪われるべき性質をもつがゆえに「偽り」と説かれた。それゆえに**「虚妄の法とは滅びる性質のもの」**と言われた。「その非虚偽」とは、説かれた方法によって非虚偽と呼ばれるものであり、その本性は常にそれによってのみ得られるからである。「止観の力による語の真実より」とは、止観の力によって清浄となっただけの語の真実より。「苦諦と集諦という、真実の転倒となった本性のものより」。このようにそれら各自の本性によって非虚偽であることにおいて、非虚妄の法であることによってそれらによっても非虚偽であることから、勝義の真実である涅槃こそがさらに優れている。「それゆえに」とは、涅槃こそがさらに優れている状態であることからである。

367. Upadhīyati ettha dukkhanti upadhī, khandhā kāmaguṇā ca. Upadahanti dukkhanti upadhī, kilesābhisaṅkhārā. Paripūrā gahitā parāmaṭṭhāti pariyattabhāvena taṇhāya gahitā diṭṭhiyā parāmaṭṭhā. Samathavipassanāvasena kilesapariccāgatoti vikkhambhanavasena tadaṅgappahānavasena ca kilesānaṃ pariccajanato. Uttaritaro visiṭṭhatarassa pahānappakārassa abhāvato.

367. ここにおいて苦が置かれる(積まれる)ゆえに「所依(うぱでぃ)」であり、蘊と諸欲の徳(五欲)である。苦を置く(もたらす)ゆえに「所依」であり、煩悩と行(意志作用)である。「満ちて、把握され、執着された」とは、遍執された状態として渇愛によって把握され、見解によって執着された。「止観の力による煩悩の放棄より」とは、伏断の力により、また彼分断の力によって諸煩悩を放棄することより。「さらに優れた」とは、さらに勝れた断滅のあり方が存在しないからである。

368. Āghātakaraṇavasenāti cetasikāghātassa uppajjanavasena. Byāpajjanavasenāti cittassa vipattibhāvavasena. Sampadussanavasenāti sabbaso dussanavasena. Tīhi padehi yadi arahattamaggena kilesānaṃ pariccāgo cāgādhiṭṭhānaṃ, arahattamaggeneva nesaṃ vūpasamo upasamādhiṭṭhānaṃ hotīti dasseti. Ettha visesena pariccāgo sampajahanaṃ anuppattidhammatāpādanaṃ cāgo, tathā pana pariccāgena yo so nesaṃ tadā vūpasantatāya abhāvo, ayaṃ upasamoti ayametesaṃ viseso.

368. 「怨恨をなすことの力によって」とは、心的な怨恨が生起する力によって。「害意を抱くことの力によって」とは、心が破滅の状態となる力によって。「完全に汚濁することの力によって」とは、完全に損なわれる力によって。三つの句によって、もし阿羅漢道によって諸煩悩を放棄することが捨の住処であるなら、阿羅漢道によってまさにそれらの寂静が寂静の住処となるということを示している。ここにおいて格別に放棄すること、完全に捨てること、不生起の法性を生じさせることが「捨」であり、そのように放棄することによって、それらの当時寂静となったことによる不在、これが「寂静」である。これがこれらの差異である。

369. Maññitanti maññanā, ‘‘etaṃ mamā’’tiādinā kappanāti attho. Avijjāvibandhanataṇhāgāhādīnaṃ sādhāraṇabhāvato ayamahanti ettha ahanti diṭṭhimaññanādassanaṃ, sā pana diṭṭhi mānamaññanāya attaniyagāhavasena hotīti sveva ‘‘aya’’nti iminā gahitoti āha – **‘‘ayamahanti ekaṃ taṇhāmaññitameva vaṭṭatī’’**ti. Ābādhaṭṭhenāti paṭipīḷanaṭṭhena. Maññanāvasena hi sattānaṃ tathā hoti. Antodosaṭṭhenāti abbhantaraduṭṭhabhāvena. Maññanādūsitattā hi sattānaṃ attabhāvo dukkhatāmūlāyatto, kilesāsucipaggharaṇato uppādanirodhabhaṅgehi uddhamuddhaṃ pakkapabhinno hotīti phalūpacārena ‘‘maññitaṃ gaṇḍo’’ti vutto. Anupaviṭṭhaṭṭhenāti anupavisitvā hadayamāhacca adhiṭṭhānena. Maññitañhi pīḷājananato antotudanato duruddharaṇato sallaṃ. Khīṇāsavamuni sabbaso kilesānaṃ santattā, tato eva pariḷāhānaṃ parinibbutattā vūpasantattā santo upasanto nibbutoti vuccati. Yattha ṭhitanti yasmiṃ asekkhabhūmiyaṃ ṭhitaṃ. Yadi bhagavā attano desanāñāṇānurūpaṃ desanaṃ pavattāpeyya, mahāpathaviṃ pattharantassa viya, ākāsaṃ pasārentassa viya, anantāparimeyyalokadhātuyo paṭicca tesaṃ ṭhitākāraṃ anuppūraṃ vicinantassa viya desanā pariyosānaṃ na gaccheyya. Yasmā panassa vineyyajjhāsayānurūpameva desanā pavatti, na tato paraṃ aṇumattampi vaḍḍhati. Tasmā vuttaṃ – **‘‘sabbāpi dhammadesanā saṃkhittāva, vitthāradesanā nāma natthī’’**ti. Nanu sattapakaraṇadesanā vitthārakathāti? Na sāpi vitthārakathāti āha – **‘‘samantapaṭṭhānakathāpi saṃkhittāyevā’’**ti. Sannipatitadevaparisāya ajjhāsayānurūpameva hi tassāpi pavatti, na satthudesanāñāṇānurūpanti. Yathānusandhiṃ pāpesi yathāuddiṭṭhe anupubbena anavasesato vibhajanavasena desanāya niṭṭhāpitattā. Vipañcitaññū…pe… kathesi nātisaṅkhepavitthāravasena desitattā.

369. 「思い計られたもの」とは思い計りであり、「これは私のものである」などと構想すること、という意味である。無明の束縛、渇愛の把握などに共通することから「これは私である」において、「私」とは見解の思い計りの顕現である。しかしその見解は慢の思い計りによる自己への執着の力によって生じるゆえに、まさにそれが「これ」という語によって把握されているとして、**「『これは私である』とは一つの渇愛の思い計りのみに適する」**と言われた。「病苦の意味によって」とは、圧迫するという意味によって。実に思い計りの力によって有情にはそのようになるからである。「内部の過失の意味によって」とは、内部が損なわれた状態であることによって。実に思い計りに汚されたことによって有情の身体は苦しみの根源に依存し、煩悩の不浄を漏出させることから生・滅・壊によって次々と熟して破裂するものであるから、果の比喩によって「思い計りは腫物である」と説かれた。「侵入したという意味によって」とは、入り込んで心臓を突き刺して留まることによって。実に思い計りは苦痛を生じさせ、内部を刺し通し、抜き難いゆえに「矢」である。漏尽の聖者はすべての煩悩が寂静となったことから、それゆえに熱苦が完全に消滅し寂静となったことから、静まり、寂静となり、消滅したと言われる。「そこに安住する」とは、無学の境地に安住する。「もし世尊がご自身の説法の智に相応して教説を生起させられたなら、大地を広げる者のように、空間を拡大する者のように、無辺無量の世界に依存してそれらの存在の様相を次々と探求する者のように、教説は終極に達しないであろう。しかし世尊の教説の生起は、化導されるべき者の意向にまさに相応するだけであり、それ以上には微塵も増大しない。それゆえに**『すべての法の説示もまさに要約されたものであり、詳細な説示というものは存在しない』**と説かれた。『七論の説示は詳細な話ではないのか』と言うのか。それも詳細な話ではない、として**『大発趣論の話もまさに要約されたものにすぎない』**と言われた。集まった神々の会衆の意向にまさに相応してそれも生起したのであり、師の説法の智に相応したのではないからである」。「順序に従って結びつきに至らせた」とは、提示された通りに順を追って余すところなく分別する力によって教説が完成されたからである。「広く説かれることによって理解する者(広演知者)……説かれた」とは、過度に簡潔でも詳細でもない力によって説かれたからである。

370. Aṭṭhannaṃ parikkhārānanti nayidamanavasesapariyādānaṃ, lakkhaṇavacanaṃ panetaṃ, aññatarassāti vacanaseso. Tathā hi, ‘‘mayhaṃ iddhimayaparikkhāralābhāya paccayo hotū’’ti patthanaṃ paṭṭhapetvā pattacīvaraṃ, pattaṃ, cīvarameva vā dinne carimabhave iddhimayaparikkhāro nibbattatīti vadanti. Adinnattāti kecivādo, tenāha **‘‘kulaputto’’**tiādi. Okāsābhāvatoti upasampadālakkhaṇassa asambhavato. Tenāha – **‘‘kulaputtassa āyuparikkhīṇa’’**nti. Udakatittha…pe… āraddho paramappicchabhāvato.

370. 「八つの資具の」とは、これは余すところのない網羅ではなく、標識の言説であり、「いずれかの」とは言葉の補足である。実に「私の神通によって生じる資具の獲得の縁となりますように」と願いを立てて、鉢と衣、あるいは鉢、あるいは衣だけを与えた場合、最後の生存において神通によって生じる資具が生じる、と彼らは言う。「与えられなかったことから」とはある者たちの主張であり、それゆえに**「善男子は……」**などと言われた。「機会の不在から」とは具足戒の標相が不可能であることからである。それゆえに**「善男子の寿命は尽きていた」**と言われた。「水浴場……始めた」とは、最高の少欲の性質によるものである。

Vibbhantāti bhantacittā. Siṅgena vijjhitvā ghātesi purimajātibaddhāghātatāyāti vadanti.

「錯乱した」とは心が乱れた。前世からの怨恨の継続による性質によって角で突いて殺害した、と彼らは言う。

Mānusaṃ yoganti manussattabhāvaṃ. Attabhāvo hi yujjati kammakilesehīti ‘‘yogo’’ti vuccati. Upaccagunti upagacchiṃsu. Upakotiādi tesaṃ nāmāni.

「人間の軛を」とは人間としての身体を。実に身体は業と煩悩によって結びつけられるゆえに「軛(ヨーガ)」と呼ばれる。「超克した」とは達した。「ウパカ」などは彼らの名前である。

Gandhakaṭṭhehīti candanāgarusaḷaladevadāruādīhi gandhadārūhi. Sesaṃ suviññeyyameva.

「香木によって」とは白檀、沈香、沙羅、松などの香る木によって。残りは容易に理解できる。

Dhātuvibhaṅgasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

界分別経の註釈の深奥義の解明は完結した。

11. Saccavibhaṅgasuttavaṇṇanā

11. 諦分別経の註釈

371. Ācikkhanāti – ‘‘idaṃ dukkhaṃ ariyasaccaṃ, ayaṃ dukkhanirodhagāminī paṭipadā ariyasacca’’nti ādito kathanaṃ. Desanāti tasseva atthassa atisajjanaṃ pabodhanaṃ. Paññāpanāti pakārehi ñāpanā, sā pana yasmā itthamidanti veneyyānaṃ paccakkhato dassanā, tesaṃ vā santāne patiṭṭhāpanā hoti, tasmā āha – **‘‘dukkhasaccādīnaṃ ṭhapanā’’**ti. Paṭṭhapanāti patiṭṭhāpanā. Yasmā paṭṭhapiyamānasabhāvā desanā bhājanaṃ upagacchantī viya hoti, tasmā vuttaṃ – ‘‘paññāpanā’’ti, jānāpanāti attho. Vivaṭakaraṇāti desiyamānassa atthassa vivaṭabhāvakaraṇaṃ. Vibhāgakiriyāti yathāvuttassa atthavibhāgassa vitthārakaraṇaṃ. Pākaṭabhāvakaraṇanti agambhīrabhāvāpādanaṃ. Aparo nayo – catusaccasaññitassa atthassa paccekaṃ sarūpato dassanavasena idanti ādito sikkhāpanaṃ kathanaṃ ācikkhanā, evaṃ parasantāne pabodhanavasena pavattāpanā desanā, evaṃ vineyyānaṃ cittaparitosajananena tesaṃ buddhiparipācanaṃ **‘‘paññāpanā’’**ti vuccati. Evaṃ paññāpentī ca sā desiyamānaṃ atthaṃ veneyyasantāne pakārato ṭhapeti patiṭṭhapetīti **‘‘paṭṭhapanā’’**ti vuccati. Pakārato ṭhapentī pana saṃkhittassa vitthārato paṭivuttassa punābhidhānato **‘‘vivaraṇā’’**ti, tassevatthassa vibhāgakaraṇato **‘‘vibhajanā’’**ti, vuttassa vitthārenābhidhānato vibhattassa hetudāharaṇadassanato, **‘‘uttānīkamma’’**nti vuccati. Tenāha – **‘‘pākaṭabhāvakaraṇa’’**nti, hetūpamāvasenatthassa pākaṭabhāvakaraṇatoti attho.

371. 「説き示すこと」とは、「これは苦聖諦である、これは苦滅に至る道聖諦である」と初めに説くこと。「教説」とはまさにその意味を明確に示し覚醒させること。「施設すること」とは諸々の様相によって知らせることであり、それは「これはこのようなものである」と化導されるべき者たちに直接に見せることであり、あるいは彼らの心身に確立させることであるゆえに、**「苦諦などを置くこと」**と言われた。「安立すること」とは確立させること。安立されつつある本性をもつ教説は、あたかも器に至るかのようであるゆえに「施設すること」と説かれ、知らせることという意味である。「開顕すること」とは説かれつつある意味を開かれた状態にすること。「分別の作用」とは説かれた通りの意味の分別を詳細にすること。「明白にすること」とは難解でない状態にすること。別の方法によれば、四諦と名づけられた意味を個別に自ら示すことによって「これである」と初めに教え説くことが「説き示すこと」であり、このように他者の心身において覚醒させることによって生起させることが「教説」であり、このように化導されるべき者たちの心を喜ばせることによって彼らの智慧を成熟させることが**「施設すること」**と呼ばれる。そしてこのように施設しながら、説かれつつある意味を化導されるべき者の心身に様相に応じて置き確立させるゆえに**「安立すること」**と呼ばれる。しかし様相に応じて置きながら、要約されたものを詳細に重ねて説くことによって再び述べることから**「開顕」**であり、まさにその意味を分別することから**「分別」**であり、説かれたものを詳細に述べることによって、分別されたものの原因や実例を示すことから**「敷衍すること」**と呼ばれる。それゆえに**「明白にすること」**と言われた。原因と譬喩の力によって意味を明白にすることから、という意味である。

Anuggāhakāti anuggaṇhanakāmā. Svāyamanuggaho saṅgahavatthuvasena pākaṭo hotīti āha **‘‘āmisasaṅgahenā’’**tiādi. Janetā janettīti āha **‘‘janikā mātā’’**ti. Vuddhiṃ parisaṃ āpādetīti āpādetā. Tenāha **‘‘posetā’’**ti. Idāni dvinnaṃ mahātherānaṃ yathākkamaṃ sabrahmacārīnaṃ bhagavatā vuttehi janikaposikamātuṭṭhāniyehi saṅgāhakataṃ vitthārato dassetuṃ, **‘‘janikamātā hī’’**tiādi vuttaṃ. Paratoghosena vināpi uparimaggādhigamo hotīti **‘‘paccattapurisakārenā’’**ti vuttaṃ. Paṭhamamaggo eva hi sāvakānaṃ ekantato ghosāpekkhoti. Pattesupīti pi-saddena pageva appattesūti dasseti. Bhavassa appamattakatā nāma ittarakālatāyāti āha **‘‘accharāsaṅghātamattampī’’**ti. Janetāti janako, thero pana ariyāya janayitā. Āpādetāti vaḍḍhetā paribrūhetā. Purimasmiṃ saccadvaye sammasanaggahaṇaṃ lokiyattā tassa, itarasmiṃ tassa aggahaṇaṃ lokuttarattā.

「扶助者たち」とは扶助することを望む者たち。その扶助は摂事の力によって明白となるゆえに、**「財施の包摂によって……」**などと言われた。生み出す者、生みの母であるゆえに**「生みの母」**と言われた。会衆を成長に至らせるゆえに至らせる者である。それゆえに**「養育者」**と言われた。今や二人の長老が順に同梵行者たちにとって、世尊によって説かれた生みの母と養育の母の立場にある者たちとして包摂する状態を詳細に示すために、**「実に生みの母は……」**などが説かれた。他者の教示の声がなくても上方の道の獲得はあるゆえに、**「各自の人間の働きによって」**と説かれた。実に第一の道(預流道)のみが弟子たちにとって決定的に他者の教示の声を必要とするからである。「達した者たちにおいても」の「〜もまた」という語によって、達していない者たちにおいては言うまでもない、ということを示している。有(生存)のわずかであることとは、束の間の時間であることによるゆえに、**「指弾き(指を鳴らす)ほどのわずかな間でも」**と言われた。「生み出す者」とは生みの親であり、長老は聖なる生み主である。「至らせる者」とは増大させ充実させる者である。前の二諦において観察の把握がなされたのはそれが世間的であるからであり、他(後の二諦)においてそれが把握されないのは出世間的であるからである。

Kāmehi nikkhanto saṅkappo nekkhammasaṅkappo. Svāyamassa tato nikkhamanattho tesaṃ paṭipakkhabhāvato tehi visaṃsaggato virajjanato samucchindanato sabbaso vivittabhāvato ca hotīti dassetuṃ, **‘‘kāmapaccanīkaṭṭhenā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha kāmapadaghātanti yathā kāmo padaṃ patiṭṭhaṃ na labhati, evaṃ hananaṃ, kāmasamucchedanti attho. Kāmehi sabbaso vivittattā kāmavivitto, ariyamaggo, tassa anto, ariyaphalaṃ, tasmiṃ kāmavivittante. Eseva nayoti iminā ‘‘byāpādapaccanīkaṭṭhenā’’tiādiyojanaṃ atidisati. Sabbe cete nekkhammasaṅkappādayo nānācittesu labbhantīti yojanā. Yadi ekacitte labbhanti, kathaṃ tividhamicchāsaṅkappānaṃ samugghātoti āha **‘‘tatra hī’’**tiādi. Na nānā labbhatīti iminā tividhakiccakāritaṃ sammāsaṅkappassa dasseti. Kiccavasena hi tassa nāmassa lābho. Sammāvācādīnampi maggakkhaṇe ekacitte labbhamānānampi catukiccakāritāya catubbidhanāmāditā veditabbā. Sesaṃ suviññeyyameva.

諸欲から脱出した思惟が出離の思惟である。そのこれのそれ(諸欲)からの脱出という意味は、それらの敵対者であること、それらから離れていること、離貪していること、根絶していること、完全に隔離していることによるものであることを示すために、**「諸欲の敵対者の意味によって……」**などが説かれた。そこにおいて「諸欲の足場を打つこと」とは、欲が足場や確立所を得ないように打つことであり、欲の根絶という意味である。諸欲から完全に隔離していることから「欲より隔離したもの」とは聖道であり、その終極とは聖果であり、「その欲より隔離した終極において」である。「これと同じ方法である」とは、これによって「害意の敵対者の意味によって」などの結合を準用する。そしてこれら出離の思惟などはすべて異なる心において得られる、という結合である。もし一つの心において得られるなら、どのようにして三種の邪思惟の根絶があるのか、それを示すために**「実にそこにおいて……」**などが説かれた。「異なって得られるのではない」とは、これによって正思惟の三種の役目を果たす状態を示している。実に役目の力によってその名称の獲得があるからである。正語なども道刹那において一つの心において得られるものであっても、四つの役目を果たすことによって四種の名称などをもつことが知られるべきである。残りは容易に理解できる。

Saccavibhaṅgasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

諦分別経の註釈の深奥義の解明は完結した。

12. Dakkhiṇāvibhaṅgasuttavaṇṇanā

12. 布施分別経の註釈

376. Mahāpajāpatigotamīti ettha gotamīti tassa gotamagottato āgataṃ nāmaṃ, mahāpajāpati pana guṇato. Taṃ vivarituṃ, **‘‘nāmakaraṇadivase panassā’’**tiādi vuttaṃ. Mahatiṃ uḷāraṃ pajaṃ jananaposanehi parirakkhatīti mahāpajāpati. Paribhogavasena na haññatīti ahataṃ. Sippikānanti tantavāyānaṃ. Vāyanaṭṭhānanti vīnaṭṭhānaṃ. Tāni maṃ na tosenti kāyikassa puññassa abhāvato. Tenāha – ‘‘sahatthā katameva **maṃ tosetī’’**ti. Pisitvā nibbattanaṃ katvā. Pothetvāti sukhumabhāvāpādanatthaṃ dhanukena netvā. Kālānukālañca dhātigaṇaparivutā gantvā vemakoṭiṃ aggahesi ekadivasanti adhippāyo. Evañhi ‘‘ekadivasaṃ pana…pe… akāsī’’ti purimavacanena taṃ na virujjheyya.

376. 「摩訶波闍波提瞿曇弥」において、「瞿曇弥(ゴータミー)」とは彼女のゴータマ姓から生じた名であり、「摩訶波闍波提(マハーパジャーパティー)」とは徳によるものである。それを解明するために**「しかし彼女の名づけの日に……」**などが説かれた。偉大で勝れた人々を生み養育することによって保護するゆえに摩訶波闍波提(大生主)である。使用によって傷つけられていないゆえに「真新しい」。「職人たちの」とは機織りたちの。「織る場所」とは機織り場。「それらは私を喜ばせない」とは身体的な功徳がないことによる。それゆえに**「自分の手で作ったものだけが私を喜ばせる」**と言われた。「紡いで」とは生じさせて。「打って」とは繊細な状態にするために弓(綿打ち弓)にかけて。「時折、乳母の群れに伴われて行って機(はた)の端を把持した、ある日」というのが意図である。このように解釈すれば、「しかしある日……なした」という前の言葉と矛盾しないであろう。

Cha cetanāti chabbidhā cetanā. Na hi tā chayeva cetanāti. Saṅghe gotami dehi…pe… saṅgho cāti idameva suttapadaṃ. Saṅghe gotami dehīti saṅghassa dānāya niyojesi, tasmā saṅghova dakkhiṇeyyataroti ayamevettha attho. Yadi evantiādinā tattha byabhicāraṃ dasseti. Rājamahāmattādayotiādinā tattha byatirekato nidassanaṃ āha. Mahantatarā bhaveyyunti ānubhāvādinā mahantatarā bhaveyyuṃ, na ca taṃ atthīti. Tasmāti yasmā guṇavisiṭṭhahetukaṃ dakkhiṇeyyataṃ anapekkhitvā attano dīyamānassa dāpanaṃ labhati, tasmā. Mā evaṃ gaṇhāti sammāsambuddhato saṅghova dakkhiṇeyyo’’ti mā gaṇha.

「六つの思」とは六種の思である。それらは決して六つだけの思ではない。「ゴータミーよ、僧伽に与えなさい……僧伽もまた」とはまさにこの経の句である。「ゴータミーよ、僧伽に与えなさい」とは僧伽への布施に勧奨した。それゆえに僧伽こそがより布施にふさわしい、これがここでのまさに意味である。「もしそうなら」などによってそこにおける逸脱を示す。「王の大臣たちなど」などによってそこにおける対比からの実例を述べた。「より偉大になるであろう」とは威徳などによってより偉大になるであろう、しかしそのようなことはない。「それゆえに」とは、徳の勝れたことを原因とする布施の受者たる資格を考慮せずに、自分に与えられるべきものを与えさせることが得られるゆえに。「このように把握してはならない」とは、正等覚者よりも僧伽こそが布施にふさわしいと把握してはならない。

Tattha nicchayasādhakaṃ suttapadaṃ dassento, **‘‘nayimasmiṃ loke…pe… vipulaphalesina’’**nti āha. Svāyamattho ratanasutte (khu. pā. 6.3; su. ni. 226), ‘‘yaṃ kiñci vitta’’nti gāthāya, aggapasādasuttādīhi (itivu. 90) ca vibhāvetabboti. Tenāha – **‘‘satthārā uttaritaro dakkhiṇeyyo nāma natthī’’**ti.

そこにおいて決定を成就する経の句を示す者として、**「この世において……広大な果報を求める者たちの」**と言われた。そのこの意味は宝経(小誦6.3; スッタニパータ226)において、「いかなる財であれ」という詩偈によって、また第一浄信経など(如是語90)によっても明らかにされるべきである。それゆえに**「師よりさらに優れた布施にふさわしい者は存在しない」**と言われた。

Gotamiyā antimabhavikatāya dānassa dīgharattaṃ hitāya sukhāya anuppādanato na taṃ garutaraṃ saṅghassa pādāpane kāraṇanti āha – **‘‘pacchimāya janatāyā’’**tiādi. Vacanatopīti tassa vatthayugassa satthu eva paṭiggahaṇāya vacanatopi. Tenāha **‘‘na hī’’**tiādi.

ゴータミーは最後の生存にある者であるため、布施が長いあいだの利益と幸福を生じさせないことから、それが僧伽に与えさせることのより重大な理由ではない、として**「後代の人々のために……」**などを言われた。「言葉からもまた」とは、その一対の布を師自身が受け取ることについての言葉からもまた、ということである。それゆえに**「実に……ない」**などを言われた。

Satthā saṅghapariyāpannova īdise ṭhāne aggaphalaṭṭhatāya aṭṭha-ariyapuggalabhāvato, sace panassa na sayaṃ saṅghapariyāpannatā, kathaṃ saṅghe pūjite satthā pūjito nāma siyāti adhippāyo. Tīṇi saraṇagamanāni tayo eva aggapasādāti vakkhatīti adhippāyo. Abhidheyyānurūpāni hi liṅgavacanāni. Na ruhati ayāthāvapaṭipattibhāvato, na gihivesaggahaṇādinā gihibhāvassa paṭikkhipitattā. **Na vattabbametaṃ ‘‘satthā saṅghapariyāpanno’’**ti satthubhāvato. Sāvakasamūho hi saṅgho. Saṅghagaṇe hi satthā uttaritaro anaññasādhāraṇaguṇehi samannāgatabhāvato mūlaratanabhāvato ca.

師はこのような場においては最上の果に安住する者として八輩の聖者であることから、まさに僧伽に包摂される。もし彼自身が僧伽に包摂されるのでないなら、どうして僧伽が供養されたときに師が供養されたことになるのか、というのが意図である。三帰依はまさに三つの第一の浄信であると説かれるであろう、というのが意図である。実に表現されるべきものに相応した性や数がある。正しくない行いの状態であることから成り立たず、在家の姿をとることなどによって在家者の状態が否定されているからではない。**「師は僧伽に包摂される」と説かれるべきではない**、師としての状態にあるからである。実に弟子の集まりが僧伽である。実に僧伽の集団において師は他に共通しない徳を具足した状態であること、また根本の宝であることからさらに優れている。

377. Sampatijātassa mahāsattassa sattapadavītihāragamanaṃ dhammatāvasena jātaṃ, paraṃ tadaññadaharasadisī paṭipattīti āha – **‘‘hatthapādakiccaṃ asādhentesū’’**ti.

377. 生まれたばかりの大士(菩薩)が七歩の歩行を行ったのは法性(必然の理)によって生じたことであり、それ以後は他の幼児と同様の振る舞いであった、として**「手足の役目を果たせないでいるとき」**と言われた。

378. Paccūpakāraṃ na sukaraṃ vadāmi anucchavikakiriyāya kātuṃ asakkuṇeyyattā. Abhivādenti etenāti abhivādanaṃ. Vandamānehi antevāsikehi ācariyaṃ ‘‘sukhī hotū’’tiādinā abhivādenti nāma. Tena vuttaṃ **‘‘abhivādana’’**nti. Tadabhimukho…pe… vanditvā nipajjati, seyyathāpi āyasmā sāriputto. Kālānukālaṃ upaṭṭhānaṃ bījayanapādasambāhanādi anucchavikakammassa karaṇaṃ nāma. Anucchavikaṃ kiriyaṃ kātuṃ na sakkotiyeva, yasmā ācariyena katassa dhammānuggahassa antevāsinā kariyamāno āmisānuggaho saṅkhampi kalampi kalabhāgampi na upetiyevāti. Tena vuttaṃ **‘‘na suppatikāraṃ vadāmī’’**ti.

378. 「恩返しは容易ではないと私は説く」とは、相応しい行いによってなすことができないからである。これによって礼拝するゆえに「礼拝」である。拝礼する弟子たちによって師に対して「幸せであれ」などと礼拝するのである。それゆえに**「礼拝」**と言われた。「彼に向かって……拝礼して横たわる」とは、あたかも尊者舎利弗のようにである。時折の世話、扇ぐことや足の揉みほぐしなどは、相応しい行為をなすことと呼ばれる。相応しい行いをなすことは決してできない。なぜなら師によってなされた法の恩恵に対して弟子によってなされる財の恩恵は、数にも、一部にも、微小な部分にも決して及ばないからである。それゆえに**「容易に恩返しできるとは私は説かない」**と言われた。

379. Pāṭipuggalikaṃ dakkhiṇaṃ ārabbha samuṭṭhitaṃ, ‘‘taṃ me bhagavā paṭiggaṇhatū’’ti mahāpajāpatigotamiyā vacanaṃ nimittaṃ katvā desanāya uṭṭhitattā. Na kevalañca tassā eva vacanaṃ, atha kho ānandattheropi…pe… samādapesi, tasmā vibhāgato cuddasasu…pe… hotīti dassetuṃ, imaṃ desanaṃ ārabhi. Tattha patipaccekaṃ puggalaṃ dīyatīti pāṭipuggalikaṃ. Paṭhamasaddo yathā aggattho, evaṃ seṭṭhapariyāyopīti āha **‘‘jeṭṭhakavasenapī’’**ti. Aggā uttame khette pavattattā. Dutiyatatiyāpi paramadakkhiṇāyeva sabbaso sammāvikkhambhitarāgādikilesattā. Rāgādayo hi adakkhiṇeyyabhāvassa kāraṇaṃ. Tenevāha – ‘‘tiṇadosāni khettāni, rāgadosā ayaṃ pajā’’tiādi (dha. pa. 356). Yasmā pana savāsanaṃ sabbaso samucchinnakilesehi tato eva sabbaso appaṭihatañāṇacārehi anantāparimeyyaguṇagaṇādhārehi sammāsambuddhehi sadiso sadevake loke koci dakkhiṇeyyo natthi. Tasmā **‘‘paramadakkhiṇāyevā’’**ti sāsaṅkaṃ vadati. Yasmā pañcābhiñño aṭṭhasamāpattilābhī eva hoti lokiyābhiññānaṃ aṭṭhasamāpattiadhiṭṭhānattā, tasmā **‘‘lokiyapañcābhiññe’’**icceva vuttaṃ, na ‘‘aṭṭhasamāpattilābhimhī’’ti tāya avuttasiddhattā. Gosīladhātukoti gosīlasabhāvo, sīlavatā sadisasīloti attho. Tenāha **‘‘asaṭho’’**tiādi. Tena na alajjidhātuko pakatisiddho idha puthujjanasīlavāti adhippetoti dasseti.

379. 個人に対する布施をめぐって起こった、「世尊よ、それを私からお納めください」という摩訶波闍波提瞿曇弥の言葉を契機として教説が起こったからである。そして彼女の言葉だけでなく、実に阿難陀長老もまた……勧めた。それゆえに分別によって十四の……あることを示すために、この教説を始められた。そこにおいて、個々の人に対して与えられるゆえに「個別的(個別の布施)」である。「第一」という語が最高を意味するように、最上の同義語でもあるとして、**「最年長者の力によっても」**と言われた。「最高の」とは最上の福田において行われたからである。第二・第三のものもまた、貪りなどの煩悩が完全に正しく伏断されているがゆえに最高の布施である。実に貪りなどは布施にふさわしくない状態の原因である。それゆえにこそ「田地には雑草の害があり、この人々には貪りの害がある」など(法句経356)と言われた。しかし習気とともに煩悩を完全に根絶したことによって、それゆえに完全に妨げのない智の活動をもち、無辺無量の徳の集成の拠り所である正等覚者たちに比肩する布施にふさわしい者は、神々を含む世界において誰も存在しない。それゆえに**「まさに最高の布施である」**と留保をつけて述べている。五神通を具え八等至を得た者こそが世間の神通の八等至を拠り所とする者であるゆえに、**「世間の五神通を具えた者において」**とまさに説かれ、「八等至を得た者において」とは説かれなかった、それによって説かれなくても成立しているからである。「牛戒の性質をもつ者」とは牛戒の本性をもつ者、持戒者に類似した戒をもつ者という意味である。それゆえに**「虚偽のない」**などと言われた。これによって、無恥の性質をもつ者ではなく、生まれつき具わった者がここでは凡夫の持戒者として意図されていることを示している。

Paricchindantoti ettakoti paccekappamāṇato tato eva aññamaññaṃ asaṅkaratova paricchindanto. Kathaṃ pana asaṅkhyeyyabhāvena vuccamāno vipāko paricchinno hoti? Sopi tassa paricchedo eva itarehi asaṃkiṇṇabhāvadīpanato, etadatthameva pubbe asaṅkaraggahaṇaṃ kataṃ. Guṇavasenāti lakkhaṇasampannādiguṇavasena. Upakāravasenāti bhogarakkhādiupakāravasena. Yaṃ posanatthaṃ dinnaṃ, idaṃ na gahitaṃ dānalakkhaṇāyogato. Anuggahapūjanicchāvasena hi attano deyyavatthupariccāgo dānaṃ bhayarāgaladdhukāmakulādivasena sāvajjābhāvato. Tampi na gahitaṃ ayāvadatthatāaparipuṇṇabhāvena yathādhippetaphaladānāsamatthabhāvato. Sampattassāti santikāgatassa. Tena sampattipayojane anapekkhataṃ dasseti. Phalaṃ paṭikaṅkhitvāti ‘‘idaṃ me dānamayaṃ puññaṃ āyatiṃ sukhahitabhāvāya hotū’’tiādinā phalaṃ paccāsīsitvā. Tenassa phaladāne namiyataṃ dasseti, yāvadatthanti iminā paripuṇṇaphalataṃ. Sataguṇāti ettha guṇasaddo na ‘‘guṇena nāmaṃ uddhareyya’’ntiādīsu (dha. sa. aṭṭha. 1313; udā. aṭṭha. 53; paṭi. ma. aṭṭha. 1.1.76; netti. aṭṭha. 4.38) viya sampattiattho, ‘‘taddiguṇa’’ntiādīsu viya na vaḍḍhanattho, ‘‘pañca kāmaguṇā loke, manochaṭṭhā paveditā’’tiādīsu (su. ni. 173) viya na koṭṭhāsattho, ‘‘antaṃ antaguṇa’’ntiādīsu (dī. ni. 2.377; ma. ni. 1.110; khu. pā. 3) viya na antabhāgattho, atha kho ānisaṃsatthoti dassento, **‘‘satānisaṃsā’’**ti āha, te ānisaṃse sarūpato dassetuṃ, **‘‘āyusata’’**ntiādi vuttaṃ. Sataguṇāti vā satavaḍḍhikāti evamettha attho daṭṭhabbo. Nipparitasaṃ karotīti āyuādīnaṃ ānisaṃsānaṃ aparittāsaṃ karoti. Atha vā nipparitasaṃ karotīti āyuādinimittaṃ aparittāsaṃ karoti. Atha vā nipparitasaṃ karotīti āyuādīni tato uttarimpi āhārādihetu aparittāsaṃ karoti. Attabhāvavinimuttasañcaraṇassa abhāvā, **‘‘bhavasatepi vutte ayamevattho’’**ti vuttaṃ. Sabbatthāti, ‘‘puthujjanadussīle’’tiādīsu sabbavāresu. Nayo netabboti, ‘‘āyusahassaṃ vaṇṇasahassa’’ntiādiko nayo.

「限定しながら」とは、これほどであると個々の量から、それゆえに互いに混同することなくまさに限定しながら。それでは無数(不可数)として説かれる異熟がどのように限定されるのか。それもまた他のものと混同されない状態を示すことによるその限定である。この意味のために前に「混同しないこと」の把握がなされた。「徳の力によって」とは相の具足などの徳の力によって。「恩恵の力によって」とは財産の保護などの恩恵の力によって。養育のために与えられたものは、布施の定義に合致しないゆえに把握されない。実に恩恵や供養の望みの力によって自身の施すべきものを放棄することが布施であり、恐怖や愛着、欲求、家柄などの力によるものではないから罪がない。それもまた必要なだけの完全な状態でないことにより、意図された通りの果報を与えることができない状態であるゆえに把握されない。「至った者の」とは身近に来た者の。これによって至ったことへの配慮のなさを accessory とすることを示す。「果報を期待して」とは、「私のこの布施による功徳が、将来の幸福と利益のためになりますように」などと果報を期待して。これによってその果報を与えることへの傾きを示し、「必要なだけ」ということによって完全な果報であることを示す。「百倍」において、「倍(ぐな)」という語は「徳によって名を取り上げるべきである」など(示法解説1313; 自説経註53; 無礙解道註1.1.76; 導論註4.38)におけるような「成就」の意味ではなく、「二倍」などにおけるような「増大」の意味でもなく、「世における五つの欲の徳、第六のものとして意が説かれた」など(スッタニパータ173)におけるような「部分」の意味でもなく、「腸、腸間膜」など(長部2.377; 中部1.110; 小誦3)におけるような「内部の部分」の意味でもなく、功徳の意味であると示す者として、**「百の功徳」**と言われた。それらの功徳を自ら示すために、**「百の寿命」**などが説かれた。あるいは「百倍」とは「百の増大をもたらすもの」と、このようにここでの意味が見られるべきである。「不安のないものとする」とは、寿命などの功徳を恐れのないものとする。あるいは「不安のないものとする」とは、寿命などを原因とする恐れのないものとする。あるいは「不安のないものとする」とは、寿命などをそれよりさらに上においても食物などを原因とする恐れのないものとする。身体を離れた輪廻の移動は存在しないゆえに、**「百の生涯においてと説かれた場合もまさにこの意味である」**と言われた。「すべての箇所において」とは、「凡夫の破戒者において」などのすべての項目において。「方法が導かれるべきである」とは、「千の寿命、千の美貌」などの方法である。

Sāsanāvataraṇaṃ nāma yāvadeva vaṭṭadukkhanittharaṇatthaṃ, tañca maggapaṭivedhanaṃ, tasmā nibbedhabhāgiyasaraṇagamanaṃ sikkhāpadasamādānaṃ pabbajjā upasampadā sīlaparipūraṇaṃ adhicittasikkhānuyogo vipassanābhāvanāti sabbāpesā sotāpattiphalasacchikiriyāya paṭipatti eva hotīti āha – **‘‘tisaraṇaṃ gato upāsakopī’’**tiādi. Tattha yathā nibbedhabhāgiyo samādhi tāva nāma paramparāya ariyamaggādhigamassa paccayabhāvato upanissayo; tathā nibbedhabhāgiyaṃ sīlaparipūraṇaṃ upasampadā pabbajjā upāsakassa dasasu pañcasu sīlesu patiṭṭhānaṃ antamaso saraṇādigamanampi nibbedhabhāgiyaṃ ariyamaggādhigamassa upanissayo hotiyevāti, ‘‘sabbāpesā sotāpattiphalasacchikiriyāya paṭipattī’’ti vuttā. Tattha anaññasādhāraṇa-vijjācaraṇādi-asaṅkhyeyyaaparimeyya-guṇa-samudayapūrite bhagavati saddhamme ariyasaṅghe uḷāratarabahumānagāravataṃ gato. ‘‘Sammāsambuddho bhagavā, svākhāto dhammo, suppaṭipanno saṅgho’’ti tapparāyaṇatādiākārappatto ñāṇaparisodhito pasādo saraṇagamananti tena vatthugatena pasādena paribhāvite santāne kataṃ puññakkhettasampattiyā mahapphalaṃ mahānisaṃsameva hotīti āha – **‘‘tasmiṃ dinnadānampi asaṅkhyeyyaṃ appameyya’’**nti. Tayidaṃ saraṇaṃ vatthuttaye pasādabhāvena ajjhāsayasampattimattaṃ, tādisassa pana pañcasīlaṃ ajjhāsayasampattiupathambhito kāyavacīsaṃyamoti tattha dinnaṃ tato uttari mahapphalanti, dasasīlaṃ pana paripuṇṇuposathasīlaṃ, tattha dinnaṃ mahapphalanti, **‘‘tato uttari mahapphala’’**nti vuttaṃ. Sāmaṇerasīlādīnaṃ pana uttari visiṭṭhatarādibhāvato tattha tattha dinnassa visesamahapphalatā vuttā.

仏法への帰依とはまさに輪廻の苦を脱出するためであり、それは道を通達することである。それゆえに通達の分となる三帰依、戒の受持、出家、具足戒、戒の円満、増上心学への専念、観の修習のすべてが預流果の現証のための実践そのものとなる、として**「三帰依に赴いた優婆塞もまた……」**などを言われた。そこにおいて、あたかも通達の分となる定が順次に聖道の獲得の縁となる状態から依止(強力な条件)となるように、そのように通達の分となる戒の円満、具足戒、出家、優婆塞の十戒や五戒への安住、さらには帰依などに赴くことさえも、通達の分として聖道の獲得の依止となるのである、として「これらすべてが預流果の現証のための実践である」と説かれた。そこにおいて、他に共通しない明行などの無数無量の徳の集成に満たされた世尊において、正法において、聖僧伽において、より勝れた敬意と尊敬に達した。「世尊は正等覚者であり、法は善く説かれたものであり、僧伽は善く実践したものである」とそれに専念するなどのあり方に達した、智によって清浄にされた浄信が三帰依である。それゆえにその対象における浄信によって熏習された心身においてなされたものは、福田の具足によって大果であり大功徳そのものである、として**「その者に対して与えられた布施もまた無数であり無量である」**と言われた。そのこの帰依は三宝における浄信であることによって意図の具足にすぎないが、そのような者の五戒は意図の具足によって支えられた身と語の制御であるゆえに、そこに与えられたものはそれよりさらに大果であり、十戒は円満な布薩の戒であり、そこに与えられたものは大果であるとして、**「それよりさらに大果である」**と説かれた。しかし沙弥の戒などはさらに優れた状態などであることから、それぞれにおいて与えられたものの特別な大果であることが説かれた。

Maggasamaṅgitā nāma maggacittakkhaṇaparicchinnā, tasmiñca khaṇe kathaṃ dātuṃ paṭiggahetuñca sambhavatīti codeti **‘‘kiṃ pana maggasamaṅgissa sakkā dānaṃ dātu’’**nti. Itaro tādise sati samayeti dassento, **‘‘āma sakkā’’**ti paṭijānitvā, **‘‘āraddhavipassako’’**tiādinā tamatthaṃ vivarati. Tasmiṃ khaṇeti tasmiṃ pakkhipanakkhaṇe. Yadi aṭṭhamakassa sotāpannassa dinnadānaṃ phalato asaṅkhyeyyameva, ko nesaṃ visesoti āha **‘‘tatthā’’**tiādi. Tena satipi asaṅkhyeyyabhāvasāmaññe atthi nesaṃ appabahubhāvo saṃvaṭṭaṭṭhāyī asaṅkhyeyyamahākappāsaṅkhyeyyānaṃ viyāti dasseti. Maggasamaṅgīnaṃ tena tena odhinā saṃkilesadhammānaṃ pahīyamānattā vodānadhammānaṃ vaḍḍhamānattā apariyositakiccattā aparipuṇṇaguṇatā, pariyositakiccattā phalasamaṅgīnaṃ paripuṇṇaguṇatāti taṃtaṃmaggaṭṭhehi phalaṭṭhānaṃ khettātisayatā veditabbā. Heṭṭhimaheṭṭhimehi pana maggaṭṭhehi uparimānaṃ maggaṭṭhānaṃ phalaṭṭhehi phalaṭṭhānaṃ uttaritaratā pākaṭā eva. Tathā hi uparimānaṃ dinnadānassa mahapphalatā vuttā.

「道を備えた者」とは道心の刹那によって限定された者であり、その刹那においてどのように与え受け取ることが可能であるのか、と**「それでは道を備えた者に布施を与えることができるのか」**と詰問する。他方はそのような時において可能であると示す者として、**「然り、可能である」**と肯定し、**「観を始めた者……」**などによってその意味を解明する。「その刹那において」とはその(鉢に)投入する刹那において。「もし第八の人(預流向)と預流果の者に与えられた布施が果報の点からともに無数であるなら、彼らの差異は何なのか」として**「そこにおいて……」**などを言われた。これによって、無数であるという共通性があるとしても、彼らには壊劫にとどまる無数と大劫の無数のように、多少の差異が存在することを示している。道を備えた者たちには、それぞれの段階によって雑染の法が断ぜられつつあり、清浄の法が増大しつつあるため、役目が未完了であることから不円満な徳があり、役目が完了していることから果を備えた者たちには円満な徳があるとして、それぞれの道に安住する者たちよりも果に安住する者たちの福田の卓越性が知られるべきである。しかし下位の道に安住する者たちよりも上位の道に安住する者たちが、果に安住する者たちよりも果に安住する者たちがさらに優れていることは明白である。実に上位の者たちに与えられた布施の大果であることが説かれているからである。

380. Kāmañcettha buddhappamukhe ubhatosaṅghe kevale ca bhikkhusaṅghe dānaṃ atthi eva, na pana buddhappamukhe bhikkhusaṅghe, taṃ pana buddhappamukhaubhatosaṅgheneva saṅgahitanti aviruddhaṃ. Na pāpuṇanti mahapphalabhāvena sadisatampi, kuto adhikataṃ.

380. 確かにここにおいて、仏を首長とする両僧伽(比丘・比丘尼僧伽)に対する布施、また比丘僧伽のみに対する布施は存在するが、仏を首長とする比丘僧伽に対する布施はない。しかしそれは仏を首長とする両僧伽によってまさに包摂されているゆえに矛盾はない。「達しない」とは大果であることにおいて同等にさえ達しない、ましてや優ることはどうしてあろうか。

‘‘Tathāgate parinibbute ubhatosaṅghassa’’ icceva vuttattā – **‘‘kiṃ panā’’**tiādinā codeti. Itaro parinibbute tathāgate taṃ uddissa gandhapupphādipariccāgo viya cīvarādipariccāgopi mahapphalo hotiyevāti katvā paṭipajjanavidhiṃ dassetuṃ, **‘‘ubhatosaṅghassā’’**tiādi vuttaṃ. ‘‘Ettakāyeva, bhikkhū uddisathā’’ti evaṃ paricchedassa akaraṇena upacārasīmāpariyāpannānaṃ khettapariyāpannānaṃ vasena aparicchinnakamahābhikkhusaṅghe.

「如来が般涅槃されたとき両僧伽に対して」とまさに説かれたことから、**「それでは……」**などと詰問する。他方は、如来が般涅槃されたとき彼を期して香や花などを放棄するのと同じように、衣などを放棄することもまた大果そのものであるとして、実践の方法を示すために**「両僧伽に対して……」**などが説かれた。「これだけの比丘たちを指定しなさい」とこのように限定をしないことによって、近隣の結界に包摂される者たち、領域に包摂される者たちの力による、限定されない大比丘僧伽において、ということである。

Gottaṃ vuccati sādhāraṇanāmaṃ, mattasaddo luttaniddiṭṭho, tasmā samaṇāti gottamattaṃ anubhavanti dhārentīti gotrabhuno. Tenāha **‘‘nāmamattasamaṇā’’**ti. Diṭṭhisīlasāmaññena saṃhato samaṇagaṇo saṅgho, tasmā saṅgho dussīlo nāma natthi. Guṇasaṅkhāyāti ānisaṃsagaṇanāya, mahapphalatāyāti attho. Kāsāva…pe… asaṅkhyeyyāti vuttā saṅghaṃ uddissa dinnattā. Yathā pana saṅghaṃ uddissa dānaṃ hoti, taṃ vidhiṃ dassetuṃ, **‘‘saṅghagatā dakkhiṇā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha cittīkāranti gāravaṃ.

「種姓(gottaṃ)」とは共通の名をいう。「matta(~だけ)」という語は省略されて示されている。したがって、「沙門」という種姓の名称だけを享受し保持しているゆえに「勝姓(gotrabhū、種姓の者)」である。それゆえに「名だけの沙門」と言われる。見解と戒の共通性によって結合された沙門の集団が僧伽(サンガ)である。したがって、僧伽には破戒というものはない。「徳を考慮して(guṇasaṅkhāya)」とは、功徳の計算によって、大果であることによって、という意味である。「袈裟(kāsāva)……(中略)……無量である」と言われたのは、僧伽を対象として施されたからである。しかし、どのように僧伽を対象とする布施がなされるのか、その方法を示すために、「僧伽に帰した布施(saṅghagatā dakkhiṇā)」などと言われた。そこにおいて、「敬重(cittīkāra)」とは敬意のことである。

Saṅghato na puggalato. Aññathattaṃ āpajjatīti ‘‘imassa mayā dinnaṃ saṅghassa dinnaṃ hotī’’ti evaṃ cittaṃ anuppādetvā, ‘‘saṅghassa dassāmī’’ti deyyadhammaṃ paṭiyādetvā sāmaṇerassa nāma dātabbaṃ jātanti aññathattaṃ āpajjati; tasmā tassa dakkhiṇā saṅghagatā na hotiyeva puggalavasena cittassa pariṇāmitattā. Nibbematiko hutvāti ‘‘kiṃ nu kho mayā imassa dinnaṃ hoti vā na vā’’ti vimatiṃ anuppādetvā, ‘‘yo panā’’tiādinā vuttākārena karoti.

「僧伽からであり、個人からではない。『この者に私が施したものは、僧伽に施したものとなる』とこのように心を生じさせずに、『僧伽に施そう』と施物を準備しておきながら、沙弥に施すべきことになったからといって心変わりが生じる(aññathattaṃ āpajjati)。それゆえ、彼の布施は決して僧伽に帰したものとはならない。個人の力によって心を変化させたからである。『果たして私はこの者に施したことになるのだろうか、ならないのだろうか』と疑念を生じさせずに、『しかし誰であれ』等の文によって説かれたあり方で行うのである」と。

Tatthātiādinā vuttassevatthassa pākaṭakaraṇatthaṃ vatthuṃ nidasseti, **‘‘parasamuddavāsino’’**tiādinā. Opuñjāpetvā paribhaṇḍaṃ kāretvā, haritagomayena upalimpitvāti attho. Kāsāvakaṇṭhasaṅghassāti kāsāvakaṇṭhasamūhassa. Ko sodhetīti mahapphalabhāvakaraṇena ko visodheti. Mahapphalabhāvāpattiyā hi dakkhiṇā visujjhati nāma. Tattha yesaṃ hatthe dinnaṃ, tesaṃ vasena paṭiggāhakato dakkhiṇāya visuddhattā, – ‘‘tadāpāhaṃ, ānanda, saṅghagataṃ dakkhiṇaṃ asaṅkhyeyyaṃ appameyyaṃ vadāmī’’ti (ma. ni. 3.380) ca vuttaṃ, tasmā kammavaseneva dakkhiṇāvisuddhiṃ pucchati. Itaro ariyasaṅghe dinnadakkhiṇāya nibbisiṭṭhaṃ katvā vuttattā matthakappattasseva ariyasaṅghassa vasena dakkhiṇāvisuddhiṃ dassento, **‘‘sāriputta…pe… sodhentī’’**ti vatvā puna, ‘‘ye keci arahanto sodhentī’’ti dassento, **‘‘apicā’’**tiādimāha. Therā ciraparinibbutāti idaṃ ajjatanānampi ariyānaṃ sāvakataṃ dassentena maggasodhanavasena vuttanti daṭṭhabbaṃ, na uddissa puññakaraṇe sati akaraṇappattiyā. Evañhi ‘‘asītimahātherā sodhentī’’ti idaṃ suvuttaṃ hoti, na aññathā.

「そこにおいて」などの文によって説かれたまさにその意味を明らかにするために、「海の向こうに住む者」などの文で実例を示す。「積み上げさせて囲いを造らせて」とは、新鮮な牛糞で塗布して、という意味である。「黄衣を首に巻く者たちの僧伽に」とは、黄衣を首に巻く者たちの集団に、ということである。「誰が清めるのか」とは、大果ならしめることによって誰が清めるのか、ということである。実に、大果となることによって布施は清められるとされる。そこにおいて、誰の手に施されたか、その者たちに基づいて受者によって布施が清められることから、「アーナンダよ、その時であっても、私は僧伽に帰した布施は無量無辺であると説く」(中部3.380)とも言われた。したがって、まさに業の力によって布施の清浄を問うているのである。もう一方は、聖者僧伽に施された布施と区別なく説かれていることから、最高位に達したまさに聖者僧伽に基づいて布施の清浄を示しつつ、「サーリプッタ……(中略)……清める」と言って、さらに「すべての阿羅漢が清める」と示しつつ、「さらにまた」等と言った。「諸長老はとっくに完全に入滅している」とは、現代の聖者たちをも弟子たる身分として示しつつ、道を清める力によって説かれたと見るべきであり、対象として功徳をなすことがあるのに、なさないことに至るからではない。このようにしてこそ「八十人の大長老が清める」という言葉は善く説かれたものとなるのであり、そうでなければ成り立たない。

‘‘Saṅghagatāya dakkhiṇāyā’’ti kāmañcetaṃ sādhāraṇavacanaṃ, tathāpi tattha tattha puggalaviseso ñātabboti dassento, **‘‘atthi buddhappamukho saṅgho’’**tiādimāha. Na upanetabbo bhagavato kāle bhikkhūnaṃ abhiññāpaṭisambhidāguṇavasena ativiya uḷārabhāvato, etarahi tadabhāvato. Etarahi saṅgho…pe… na upanetabboti ettha nayānusārena attho vattabbo. Tena teneva samayenāti tassa tassa kālassa sampattivipattimukhena paṭipattiyā uḷārataṃ anuḷāratañca ulliṅgeti. Yattha hi bhikkhū guṇehi sabbaso paripuṇṇā honti, tasmiṃ samaye saṅghagatā dakkhiṇā itarasmiṃ samaye dakkhiṇato mahapphalatarāti daṭṭhabbā. Saṅghe cittīkāraṃ kātuṃ sakkontassāti suppaṭipannatādiṃ saṅghe āvajjitvā saṅghagatena pasādena saṅghassa sammukhā viya tasmiṃ puggale ca gāravavasena dentassa puthujjanasamaṇe dinnaṃ mahapphalataraṃ saṅghato uddisitvā gahitattā, ‘‘saṅghassa demī’’tiyeva dinnattā ca.

「僧伽に帰した布施において」とは、なるほどこれは一般的な言葉であるが、それでもそこかしこで個人の区別を知るべきであることを示しつつ、「仏陀を筆頭とする僧伽があり」等と言った。世尊の時代の比丘たちには神通と無礙解の徳に基づいて極めて広大であったのに対し、現在はそれがないため、比べるべきではない。「現在の僧伽は……(中略)……比べるべきではない」とは、ここでは論理の筋道に従って意味が語られるべきである。「その時その時の時代によって」とは、それぞれの時代の成就と不成就の面から実践の広大さと非広大さを指し示している。実に、比丘たちが諸徳によって完全に満たされている場合、その時代における僧伽に帰した布施は、他の時代における布施よりも大果であると見なされるべきである。「僧伽において敬重をなすことができる者の」とは、僧伽における正しい実践などを憶念し、僧伽に帰した清らかな信によって、僧伽の面前であるかのようにその個人においても敬意をもって施す者の、凡夫の沙門に施したものは大果である。僧伽から指名されて受け取られたからであり、「僧伽に施す」とまさに施されたからである。

Eseva nayoti iminā, ‘‘sotāpanne dinnaṃ mahapphalatara’’nti evamādiṃ atidisati. Ādi-saddena uddisitvā gahito sakadāgāmī, pāṭipuggaliko anāgāmīti evamādi saṅgahitaṃ. Mahapphalatarameva. Tenāha bhagavā – ‘‘na tvevāhaṃ, ānanda, kenaci pariyāyena saṅghagatāya dakkhiṇāya pāṭipuggalikaṃ dānaṃ mahapphalataraṃ vadāmī’’ti (ma. ni. 3.380). Yadi khīṇāsave dinnadānato saṅghato uddisitvā gahitadussīlepi dinnadānaṃ mahapphalaṃ, evaṃ sante – ‘‘sīlavato, mahārāja, dinnaṃ mahapphalaṃ, no tathā dussīle’’ti idaṃ kathanti āha – **‘‘taṃ imaṃ nayaṃ gahāyā’’**tiādi. Saṅghato uddisitvā gahaṇavidhiṃ pahāya dussīlasseva gahaṇavasena vuttaṃ. Imasmiṃ catukke daṭṭhabbanti imassa padassa vasena daṭṭhabbaṃ. Tattha hi ‘‘paṭiggāhakā honti dussīlā pāpadhammā’’ti āgataṃ.

「この筋道である」とは、これによって「預流者に施したものは大果である」等といったことを類推適用する。「等」という語によって指名されて受け取られた一来者、個人の不還者などが包括される。実に大果である。それゆえ世尊は、「アーナンダよ、しかしながら私は、いかなる方便によっても僧伽に帰した布施よりも個人への布施が大果であるとは説かない」(中部3.380)と言われた。もし漏尽者に施した布施よりも、僧伽から指名されて受け取られた破戒者に施した布施であっても大果であるとするなら、そうであるならば、「大王よ、持戒者に施したものは大果であり、破戒者への布施はそうではない」というこの言葉はどのように解釈されるのかと問い、「この筋道を把握して」等と言った。僧伽から指名して受け取る方法を離れて、破戒者そのものを受け取ることによって説かれたのである。「この四句において見るべきである」とは、この句の力によって見るべきである。そこにおいて「受者たちが破戒で悪法ある者たちである」と説かれているからである。

381. Visujjhatīti na kilissati, mahājutikārī mahāvipphārā hotīti attho. Sucidhammoti rāgādiasucividhamanena sucisabhāvo. Na pāpadhammoti na nihīnasabhāvo pāpakiriyāya. Akusaladhammo hi ekantanihīno. Jūjako sīlavā kalyāṇadhammo na hoti. Tassa mahābodhisattassa attano puttadānaṃ dānapāramiyā matthakaṃ gaṇhantaṃ mahāpathavīkampanasamatthaṃ jātaṃ, svāyaṃ dānaguṇo vessantaramahāraññā kathetabboti.

381. 「清まる(visujjhati)」とは、汚れず、大いなる光を放ち、大いなる威力を現すものとなる、という意味である。「清らかな法ある者(sucidhammo)」とは、貪り等の不浄を払拭することによって清らかな性質の者である。「悪法なき者(na pāpadhammo)」とは、悪をなすことによる卑しい性質ではない者である。不善の法は実に極めて卑しいものである。ジュージャカは持戒の善法ある者ではない。かの大菩薩自身の子供の布施は、布施波羅蜜の頂点に達し、大地を震動させる能力あるものとなった。その布施の徳はヴェッサンダラ大王によって語られるべきである、と。

Uddharatīti bahulaṃ katapāpakammavasena laddhavinipātato uddharati. Tasmā natthi mayhaṃ kiñci cittassa aññathattanti adhippāyo.

「救い上げる(uddharati)」とは、多く作られた悪業の力によって得られた堕悪趣から救い上げる。「したがって私には少しの心の変異もない」というのが意図である。

Petadakkhiṇanti pete uddissa dātabbadakkhiṇaṃ. Pāpitakāleyevāti, ‘‘idaṃ dānaṃ asukassa petassa hotū’’ti uddisanavasena patte pāpitakāleyeva. Assāti petassa. Pāpuṇīti phalasamāpattiyā vasena pāpuṇi. Ayañhi pete uddissa dāne dhammatā.

「餓鬼への布施(petadakkhiṇā)」とは、餓鬼を対象として施されるべき布施である。「到達させた時まさに」とは、「この施物が某々の餓鬼に届きますように」と対象を定めることによって、鉢に到達させた時まさに、ということである。「かの者に(assa)」とは、餓鬼に。「到達した」とは、果等至の力によって到達した。実にこれが餓鬼を対象とした布施における法性(理法)である。

Tadā kosalarañño pariccāgavasena ativiya uḷārajjhāsayataṃ, buddhappamukhassa ca bhikkhusaṅghassa ukkaṃsagataguṇavisiṭṭhataṃ sandhāyāha, **‘‘asadisadānaṃ kathetabba’’**nti.

その時、コーサラ王の遺棄による極めて広大な志と、仏陀を筆頭とする比丘僧伽の卓越した徳の勝性を念頭に置いて、「無比の布施が語られるべきである」と言った。

Asārampi khettanti sārahīnaṃ dukkhettaṃ. Samayeti kasanārahe kāle. Paṃsuṃ apanetvāti nissāraṃ paṃsuṃ nīharitvā. Sārabījānīti sabhāvato abhisaṅkhārato ca sārabhūtāni bījāni. Patiṭṭhapetvāti vapitvā. Evanti yathā kassako attano payogasampattiyā asārepi khette phalaṃ adhigacchati. Evaṃ sīlavā attano payogasampattiyā dussīlassapi datvā phalaṃ mahantaṃ adhigacchati. Iminā upāyenāti iminā paṭhamapade vuttanayena. Sabbapadesūti sabbakoṭṭhāsesu visujjhanaṃ vuttaṃ, tatiyapade pana visujjhanaṃ paṭikkhittameva.

「無力な田であっても」とは、精気のない不良な田である。「時に」とは、耕作にふさわしい時に。「土を取り除いて」とは、無価値な土を運び出して。「精気ある種子を」とは、性質としても作意としても本質的な種子を。「定着させて」とは、蒔いて。「このように」とは、農夫が自らの努力の充実によって無力な田においても収穫を得るように。このように持戒者は自らの努力の充実によって破戒者に施しても大いなる果を得るのである。「この方便によって」とは、この第一句で説かれた筋道によって。「すべての句において」とは、すべての部分において清浄が説かれたが、第三句においては清浄はまさに否定されている。

382. Arahato dinnadānameva aggaṃ dānacetanāya kenaci upakkilesena anupakkiliṭṭhattā, paṭiggāhakassa aggadakkhiṇeyyattā. Tenāha – **‘‘bhavālayassa bhavapatthanāya abhāvato’’**ti, ‘‘ubhinnampī’’ti vacanaseso. Khīṇāsavo dānaphalaṃ na saddahatīti idaṃ tassa appahīnakilesajanassa viya kammakammaphalānaṃ saddahanākārena pavatti natthīti katvā vuttaṃ, yato arahā ‘‘asaddho akataññū ca…pe… poriso’’ti (dha. pa. 97) thomīyati. Asaddahanaṃ anumānapakkhikaṃ, anumānañca saṃsayapubbakaṃ, nissandiddho ca kammakammaphalesu paccakkhabhāvaṃ gato. Tameva hi nicchitabhāvasiddhaṃ nissandiddhataṃ sandhāya – **‘‘dānaphalaṃ saddahantā’’**tiādi vuttaṃ. Yadi evaṃ tena katakammaṃ kammalakkhaṇappattaṃ hotīti āha **‘‘khīṇāsavenā’’**tiādi. Tenevāha – **‘‘nicchandarāgattā’’**ti, etañca lakkhaṇavacanaṃ, kenaci kilesena anupakkiliṭṭhattāti adhippāyo. Assāti khīṇāsavassa dānaṃ.

382. 阿羅漢に施された布施こそが最上である。施す思(意志)にいかなる随煩悩の汚れもないからであり、受者が最上の福田だからである。それゆえ「生存への執着や生存への願求がないことから」と言われ、「両者にとっても」という言葉が補われる。「漏尽者は施果を信じない」とは、煩悩を断じていない人のように業と業報を信じるという形での心の働きがないことによって言われたのである。なぜなら阿羅漢は「不信にして恩を知らず……(中略)……人である」(法句経97)と讃えられるからである。不信は推論の側に属し、推論は疑惑を前提とするが、漏尽者は業と業報において疑いなく直観の状態に至っている。まさにその確定的状態によって成就された無疑惑性を念頭に置いて、「施果を信じる者たち」等と言われたのである。もしそうであるなら、彼によってなされた行為は業の特徴を備えることになるのではないかと言って、「漏尽者によって」等と言った。それゆえ「意欲と貪愛を離れていることから」と言われたのであり、これも特徴の言葉であり、いかなる煩悩にも汚されていないことによる、というのが意図である。「かの者の(assa)」とは、漏尽者の布施である。

Kiṃ pana sammāsambuddhenātiādinā dāyakato dakkhiṇāvisuddhi coditā, sāriputtattherenātiādinā pana paṭiggāhakatoti vadanti; tadayuttaṃ, sāvakassa mahapphalabhāve saṃsayābhāvato, heṭṭhā nicchitattā ca, tasmā ubhayenapi dāyakato dakkhiṇāvisuddhi eva coditā. Sā hi idha sādhāraṇavasena nicchitattā saṃsayavatthu. Tenāha – **‘‘sammāsambuddhena…pe… vadantī’’**ti. Sammāsambuddhaṃ hītiādi yathāvuttaatthassa kāraṇavacanaṃ. Añño dānassa vipākaṃ jānituṃ samattho nāma natthi sabbaso sattānaṃ kammavipākavibhāgajānanañāṇassa ananuññātattā. Tenāha bhagavā – ‘‘yasmā ca kho, bhikkhave, sattā na jānanti, dānasaṃvibhāgassa vipākaṃ yathāhaṃ jānāmi, tasmā adatvā bhuñjantī’’tiādi (itivu. 26). Etena ettha ñāṇavisodhanaṃ nāma kathitaṃ, na dakkhiṇāya visuddhi nāma dāyakato paṭiggāhakato ca vasena hotīti; sammāsambuddhena sāriputtattherassa dinnadānaṃ sabbaso upakkilesavisuddhiyā ñāṇassa ca ativiya uḷārattā mahānubhāvaṃ nāma siyā mahātejavantañca; na mahapphalaṃ tesaṃ santāne paripuṇṇaphalassa asambhavato. Yadi dinnadānaṃ paripuṇṇaphalaṃ na hoti ubhayavipākadānābhāvato, pavattivipākadāyī pana hotīti dassento, **‘‘dānaṃ hī’’**tiādimāha.

「それでは正等覚者によって」等によって施者による布施の清浄が難問とされ、「サーリプッタ長老によって」等によって受者によるそれが言われている、と彼らは言う。それは不当である。弟子の大果性には疑いがないからであり、先にも確定されているからである。したがって、両者によって施者による布施の清浄こそが難問とされている。実にそれは、ここでは一般的なあり方として確定されているゆえに疑いの対象となる。それゆえ「正等覚者によって……(中略)……と言う」と言われた。「実に正等覚者を」等は、前述の意味の理由を述べる言葉である。施物の異熟を知ることができる他の者は存在しない。完全に生きとし生けるものの業報の分別を知る智慧が許されていないからである。それゆえ世尊は「比丘たちよ、生きとし生けるものが、私が知るように施しの分かち合いの異熟を知らないがゆえに、施さずに食べるのである」等(如是語26)と言われた。これによって、ここでは智慧の清浄が説かれたのであり、施者と受者の力に基づく布施の清浄が説かれたのではない。正等覚者によってサーリプッタ長老に施された布施は、完全な随煩悩の清浄と智慧の極めて広大さゆえに、大威力にして大威光あるものとなるであろうが、彼らの相続において満ち足りた果が生じ得ないため、大果ではない。もし施された布施が両方の異熟(受願と結生)を与えないがゆえに満ち足りた果ではないとしても、転起の異熟を与えるものとはなる、ということを示しつつ、「布施は実に」等と言った。

Catūhīti sahayoge karaṇavacanaṃ, catūhi sampadāhi sahagatā sahitaṃ katvāti attho. Imā catasso sampadā sabbasādhāraṇavasena vuttā, na yathādhigatapuggalavasena. Tenāha – **‘‘deyyadhammassa dhammenā’’**tiādi. Tasmiṃyeva attabhāveti yasmiṃ attabhāve taṃ dānamayaṃ puññaṃ uppannaṃ, tasmiṃyeva attabhāve vipākaṃ deti, cetanāya mahantattā diṭṭhadhammavedanīyaṃ hutvā vipaccatīti attho. Pubbacetanādivasenāti sanniṭṭhāpakajavanavīthito pubbāparavīthicetanāvasena, aññathā sanniṭṭhāpakavīthiyaṃyeva pubbacetanādivasenāti vattabbaṃ siyā. Sā hi cetanā diṭṭhadhammavedanīyabhūtā tasmiṃyeva attabhāve vipākaṃ deti, na itarā. Mahattatāti pubbābhisaṅkhāravasena ñāṇasampayogādivasena cetanāya uḷāratā. Khīṇāsavabhāvenāti yassa deti, tassa khīṇāsavabhāvena. Vatthusampannatāti ettha yathā paṭighasaññā nānattasaññānaṃ vigamena dibbavihārānaṃ vasena, byāpādasaññādīnaṃ vigamena brahmavihārānaṃ vasena, sabbaso rūpasaññānānattasaññānaṃ vigamena āneñjavihārānaṃ vasena sabbaso niccasaññādīnaṃ paṭippassaddhiyā sabbasaṅkhāravimukhatāya ariyavihārānaṃ vasena vatthusampannatā icchitā. Taṃtaṃsamāpattisamāpajjanena santānassa nirodhasādhanatā taṃ divasaṃ nirodhassa sādhanatā nāma. Vatthusampannatāti sabbaso nirodhasamāpattisamāpajjanena vatthusampannatā icchitā; na sabbaso anavasesasaññānirodhatāyāti āha – **‘‘taṃ divasaṃ nirodhato vuṭṭhitabhāvena vatthusampannatā’’**ti. Saññānirodhassa cettha accāsannataṃ sandhāya, **‘‘taṃ divasa’’**nti vuttaṃ. Yaṃ panettha atthato avibhattaṃ, taṃ suviññeyyameva.

「四つの」とは、相伴における具格の語であり、四つの成就(具足)を伴った、具足したものとして、という意味である。これら四つの成就は、すべて一般的なあり方として説かれたのであり、証得した個人のあり方に応じて説かれたのではない。それゆえ「施物が法にかなって」等と言われた。「まさにその自己の存在(現世)において」とは、その施による功徳が生じたまさにその自己の存在において異熟を与える、思(意志)の偉大さによって順現法受(現世に受くべき業)となって熟す、という意味である。「事前の思等によって」とは、決定的な速行の心の過程の前後の過程の思によって、という意味であり、そうでなければ「決定的な過程においてまさに事前の思等によって」と言われるべきであろう。実にその思は順現法受となってまさにその自己の存在において異熟を与えるのであり、他ではない。「偉大さ(mahattatā)」とは、事前の作意による、智慧の相応等による思の広大さである。「漏尽者であることによって」とは、施す相手が漏尽者であることによって。「対象の成就(vatthusampannatā)」とは、ここでは瞋恚の想や種々の想の離脱による天住の力によって、瞋害の想などの離脱による梵住の力によって、すべての色想や種々の想の離脱による不動住の力によって、すべての常想などの寂静によりすべての形成されたものから解脱したことによる聖住の力によって、対象の成就が望まれる。それぞれの等至に入ることによって心の相続が滅を達成すること、その日の滅の達成という。「対象の成就」とは、完全に滅尽定に入ることによって対象の成就が望まれるのであり、完全に余すところのない想の滅によるのではない、として「その日、滅尽定から出定した状態によって対象の成就である」と言った。また、想の滅の極めて直近であることを念頭に置いて、「その日」と言われた。ここで意味として分別されていないものは、容易に理解できることである。

Dakkhiṇāvibhaṅgasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.

『施分別経』の注釈の深遠なる意味の解明を終わる。

Niṭṭhitā ca vibhaṅgavaggavaṇṇanā.

そして分別品(品)の注釈を完結する。