5. Saḷāyatanavaggo5. 六処品
1. Anāthapiṇḍikovādasuttavaṇṇanā
1. 給孤独教誡経の注釈
383. Adhimattagilānoti adhikāya mattāya maraṇassa āsannatāya ativiya gilānoti attho. Tenāha **‘‘maraṇaseyyaṃ upagato’’**ti. Akhaṇḍaṃ akāsi gahapatino satthari paramapemattā. Yattakaṃ cassāti, ‘‘sakiṃ vā dvikkhattuṃ vā’’ti vuttaṃ yattakaṃ assa gahapatissa.
383. 「甚だしい病者(adhimattagilāno)」とは、度を越して、死が間近であることによって極めて重病である、という意味である。それゆえ「死の床に就いた」と言われた。居士は世尊に対する最高の敬愛ゆえに、(世尊への面会を)欠かすことがなかった。「彼にどれほどであれ」とは、「一度であれ二度であれ」と説かれた、その居士にとってのどれほどであれ、ということである。
384. Osakkantīti parihāyanti. Ottharantīti abhibhavanti. Usmā nāma kammajatejodhātu, sā saha jīvitindriyanirodhā pariyādiyati, yāva tā āyuusmā vattanti, tāva maraṇantikā vedanā vattanteva viññāṇassa aniruddhattā. Tenāha **‘‘yāva usmā’’**tiādi.
384. 「退く(osakkanti)」とは、衰える。「覆う(ottharanti)」とは、圧倒する。「温熱」とは業から生じた火の元素のことであり、それは命根の消滅とともに尽きる。それらの寿命と温熱が存続する限り、意識が滅していないがゆえに、臨終の受(苦痛)は存続し続ける。それゆえ「温熱のある限り」等と言われた。
385. Tīhi gāhehīti taṇhāmānadiṭṭhiggāhehi. Paṭibāhituṃ vikkhambhetuṃ. Cakkhuṃ tīhi gāhehi na gaṇhissāmīti mānaggāhapaṭikkhepamukhena cakkhusmiṃ aniccānupassanāti dasseti. Aniccānupassanāya hi sati appatiṭṭho mānaggāho, dukkhānupassanāya sati appatiṭṭho taṇhāggāho, anattānupassanāya sati appatiṭṭho diṭṭhiggāhoti, gāho ca nāma oḷāriko, tasmiṃ vigatepi nikanti tiṭṭheyyāti taṃ vijahāpetukāmena, – ‘‘na ca me cakkhunissitaṃ viññāṇaṃ bhavissatī’’ti vuttanti āha – **‘‘viññāṇañcāpi me cakkhunissitaṃ na bhavissatī’’**ti. Sabbaṃ kāmabhavarūpanti kāmabhūmipariyāpannaṃ sabbaṃ rūpakkhandhamāha – ‘‘kāmarūpabhavarūpa’’nti vā pāṭho. So yutto imassa vārassa eva anavasesapañcavokārabhavapariyāpannato. Tathā hi upari catuvokārabhavo anavasesato vutto.
385. 「三つの執着によって」とは、渇愛・慢・見の執着によって。「防ぐために」とは、抑止するために。「眼を三つの執着によって把持しないでおこう」とは、慢の執着を退けることを通じて眼における無常随観を示す。実に、無常随観があるとき慢の執着は拠り所を失い、苦随観があるとき渇愛の執着は拠り所を失い、無我随観があるとき見の執着は拠り所を失う。執着とは粗大なものであり、それが去っても愛着が残るかもしれないので、それを捨てさせようと欲して、「また私の意識は眼に依存したものとはならないであろう」と説かれた、として「意識もまた私の眼に依存したものとはならないであろう」と言った。「すべての欲界の存在の物質を」とは、欲界の領域に属するすべての色蘊をいう。「欲界と色界の存在の物質を」という読みもある。この段落が余すところのない五蘊の領域に属するからこそ、それは妥当である。同様に、以下において四蘊の存在(無色界)が無余に説かれているからである。
386. Idhalokanti ettha saṅkhāralokavisayoti adhippāyena, **‘‘vasanaṭṭhānaṃ vā’’**tiādi vuttaṃ, tañca kho paṭhamadutiyavārehi idhaloko gahitoti katvā. Paṭhamadutiyavārehi pana idhaloko paralokoti vibhāgena vinā pañcavokārabhavo gahito; tathā tatiyavāre pañcavokārabhavo catuvokārabhavo ca gahitoti puna diṭṭhadhammasamparāyavasena taṃ vibhajitvā dassetuṃ, **‘‘na idhaloka’’**ntiādi vuttaṃ. Idhalokanti ca sattasaṅkhāravaseneva gahitaṃ. Sabbampi saṅkhāravasena pariggahetvā dassetuṃ, **‘‘yampi me diṭṭha’’**ntiādi vuttanti keci. Aparitassanatthaṃ taṇhāparitassanāya anuppādanatthaṃ. Yassa diṭṭhadhammoti vuccati, tassa pana abhāvato, **‘‘manussalokaṃ ṭhapetvā sesā paralokā nāmā’’**ti vuttaṃ. Yesaṃ pana ‘‘idhaloka’’nti iminā sattalokassapi gahaṇaṃ icchitaṃ. Tesaṃ matena, ‘‘manussalokaṃ ṭhapetvā’’ti yojanā.
386. 「現世を」において、ここは行世間の領域であるという意図で「あるいは居住の場所を」等と言われた。そしてそれもまた、第一と第二の段落によって現世が把握されたとしてである。しかし第一と第二の段落によっては、現世と来世という分別なしに五蘊の存在が把握され、同様に第三の段落では五蘊の存在と四蘊の存在が把握されたとして、再び現世と来世に基づいてそれを分別して示すために「現世を……ではない」等と言われた。「現世」とはまさに有情と諸行の力によって把握された。すべてのものを行の力によって包括して示すために「私が見たものもまた」等と言われた、とする者たちもいる。「恐れないために」とは、渇愛による恐怖を生じさせないために。現世と呼ばれるものの不在ゆえに、「人間界を除いて、残りは来世と呼ばれる」と言われた。しかし、「現世」というこれによって有情世間の把握も望まれる者たちにとっては、彼らの見解によれば「人間界を除いて」と結びつけられる。
387. Allīyasīti attabhāve bhogesu ca apekkhaṃ karosīti attho. Evarūpīti yādisī tadā dhammasenāpatinā kathitā, evarūpī. Dhammakathā na sutapubbāti yathākathitākārameva sandhāya paṭikkhepo, na sukhumagambhīrasuññatāpaṭisaṃyuttatāsāmaññaṃ. Tenāha **‘‘evaṃ panā’’**tiādi.
387. 「執着するのか(allīyasi)」とは、自己の存在と財産に執着を抱くのか、という意味である。「このような(evarūpī)」とは、その時法将(サーリプッタ)によって語られたような、このような。「法話はかつて聞かれたことがない」とは、語られたまさにそのあり方を念頭に置いた否定であり、微細で深遠な空性に結びついたことの共通性の否定ではない。それゆえ「しかしこのように」等と言った。
Mayā gatamaggameva anugacchasīti dānamayapuññabhāvasāmaññaṃ gahetvā vadati, na bodhisattadānabhūtaṃ dānapāramitaṃ. Na paṭibhātīti ruccanavasena citte na upatiṭṭhati. Tenāha **‘‘na ruccatī’’**ti. Tathā hesa vaṭṭābhiratoti. Ujumaggāvahā vipassanā bhagavatā panassa kathitapubbā.
「私の歩んだ道そのものに従っている」とは、施による功徳のあり方の共通性を取って語るのであり、菩薩の布施である布施波羅蜜をいうのではない。「思い浮かばない」とは、好みの力によって心に現れない。それゆえ「好まない」と言った。実に彼は輪廻を喜ぶ者だからである。しかし世尊によって、彼に直道をもたらす毘鉢舎那(ヴィパッサナー)がかつて説かれていた。
388. Esitaguṇattā esiyamānaguṇattā ca isi, asekkhā sekkhā kalyāṇaputhujjanā ca, isīnaṃ saṅgho, tena nisevitanti isisaṅghanisevitaṃ. Kāmaṃ tassa vihārassa gandhakuṭipāsādakūṭāgārādivasena nisīdananipajjanāya rukkhalatādivasena bhūmisayādivasena ca anaññasādhāraṇā mahatī ramaṇīyatā attheva, sā pana gehassitabhāvena ariyānaṃ cittaṃ tathā na toseti; yathā ariyānaṃ nisevitabhāvenāti āha – **‘‘paṭhamagāthāya jetavanassa vaṇṇaṃ kathetvā’’**ti. Tenāha bhagavā – ‘‘yattha arahanto viharanti, taṃ bhūmirāmaṇeyyaka’’nti (dha. pa. 98; theragā. 991; saṃ. ni. 1.261). Apacayagāminī cetanā sattānaṃ suddhimāvahatīti āha – **‘‘kammanti maggacetanā’’**ti. Catunnaṃ ariyasaccānaṃ viditakaraṇaṭṭhena kilesānaṃ vikkhambhanaṭṭhena ca vijjā, maggasammādiṭṭhīti āha – **‘‘vijjāti maggapaññā’’**ti. Samādhipakkhiko dhammo nāma sammāvāyāmasatisamādhayo. Tathā hi vijjābhāgiyo samādhipi samādhipakkhiko. Sīlaṃ tassa atthīti sīlanti āha – **‘‘sīle patiṭṭhitassa jīvitaṃ uttama’’**nti. Diṭṭhisaṅkappoti sammāsaṅkappo. Tattha sammāsaṅkappassa upakārakabhāvena vijjābhāgo. Tathā hi so paññākkhandhasaṅgahitoti vuccati, yathā sammāsaṅkappo paññākkhandhena saṅgahito, evaṃ vāyāmasatiyo samādhikkhandhasaṅgahitāti. Tenāha – **‘‘dhammoti vāyāmasatisamādhayo’’**ti. ‘‘Dhammo’’ti hi idha sammāsamādhi adhippeto, – ‘‘evaṃ dhammā te bhagavanto ahesu’’ntiādīsu (dī. ni. 2.13; ma. ni. 3.198; saṃ. ni. 5.378) viya. Vācākammantājīvāti sammāvācākammantājīvā maggapariyāpannā eva, te sabbepi gahitāti. Tenāha – **‘‘etena aṭṭhaṅgikena maggenā’’**ti.
388. 求められた徳と求められつつある徳のゆえに仙人(isi)であり、無学者・有学者・善き凡夫たちであり、仙人たちの集団、それによって親しまれたものを「仙人の集団に親しまれた」という。なるほどその精舎には香室・大殿・重閣などによる坐臥のために、樹木や蔓草などによる敷物などのために、他に比類のない大いなる快適さが確かにあるが、それは家に依存した性質によって聖者たちの心をそのようには喜ばせない。聖者たちによって親しまれた状態によるように喜ばせることはないので、「第一の詩偈によって祇樹給孤独園の賛嘆を語って」と言った。それゆえ世尊は「阿羅漢たちが住する場所、その地こそ麗しい」(法句経98、長老偈991、相応部1.261)と言われた。減損へと向かう思(意志)が有情の清浄をもたらすとして、「業とは道の思である」と言った。四聖諦を知らしめる意味と煩悩を抑止する意味において明であり、道の正見であるとして、「明とは道の智慧である」と言った。三摩地に属する法とは、正精進・正念・正定である。実に、明の分に属する三摩地もまた三摩地に属するものである。彼に戒があるゆえに戒であるとして、「戒に確立した者の命は最上である」と言った。「見解の思惟」とは正思惟である。そこにおいて正思惟は助成するものとしてのあり方によって明の分である。実にそれは慧蘊に包摂されると言われる。正思惟が慧蘊に包摂されるように、精進と念は定蘊に包摂される。それゆえ「法とは精進・念・定である」と言った。実にここでは「法」とは正定が意図されている。「かの世尊たちにはこのような法があった」(長部2.13、中部3.198、相応部5.378)等におけるように。「語・業・命」とは、道に包摂された正語・正業・正命そのものであり、それらすべてが把握されている。それゆえ「この八支聖道によって」と言った。
Upāyenāti yena vidhinā ariyamaggo bhāvetabbo, tena samādhipakkhiyaṃ vipassanādhammañceva maggadhammañca. ‘‘Ariyaṃ vo, bhikkhave, sammāsamādhiṃ desessāmi saupanisaṃ saparikkhāra’’nti (ma. ni. 3.136) hi vacanato sammāsamādhiādayo maggadhammāpi samādhipakkhiyā. Vicineyyāti vīmaṃseyya, bhāveyyāti attho. Tatthāti hetumhi bhummavacanaṃ. Ariyamaggahetukā hi sattānaṃ visuddhi. Tenāha – **‘‘tasmiṃ ariyamagge visujjhatī’’**ti. Pañcakkhandhadhammaṃ vicineyya, pañcupādānakkhandhe vipasseyya. Tesu hi vipassiyamānesu vipassanā ukkaṃsagatā. Yadaggena dukkhasaccaṃ pariññāpaṭivedhena paṭivijjhīyati, tadaggena samudayasaccaṃ pahānapaṭivedhena nirodhasaccaṃ sacchikiriyāpaṭivedhena, maggasaccaṃ bhāvanāpaṭivedhena paṭivijjhīyati, evaṃ accantavisuddhiyā sujjhati. Tenāha – **‘‘evaṃ tesu catūsu saccesu visujjhatī’’**ti. Idhāpi nimittatthe bhummavacanaṃ. Saccesu vā paṭivijjhiyamānesūti vacanaseso.
「方便によって」とは、いかなる方法によって聖道が修習されるべきか、それによって三摩地に属する毘鉢舎那の法と道の法を。「比丘たちよ、汝らに因縁を具え資具を具えた聖なる正定を説こう」(中部3.136)という言葉から、正定などの道の法もまた三摩地に属するものである。「考察すべきである」とは、探求すべきであり、修習すべきである、という意味である。「そこにおいて」とは、原因における処格の語である。聖道を原因とするからこそ有情の清浄がある。それゆえ「その聖道において清まる」と言った。五蘊の法を考察すべきであり、五取蘊を観察すべきである。それらが観察されるとき、毘鉢舎那は卓越したものとなる。苦聖諦が遍知の通達によって通達されると同時に、集聖諦は断の通達によって、滅聖諦は作証の通達によって、道聖諦は修習の通達によって通達され、このように究極の清浄によって清まる。それゆえ「このようにこれら四つの真理において清まる」と言った。ここでも理由の意味における処格の語である。あるいは「四聖諦が通達されるとき」という言葉が補われる。
Avadhāraṇavacananti vavatthāpanavacanaṃ, avadhāraṇanti attho. Sāriputtovāti ca avadhāraṇaṃ tassa sāvakabhāvato sāvakesu sāriputtova seyyoti imamatthaṃ dīpeti. Kilesaupasamenāti iminā mahātherassa tādiso kilesūpasamoti dasseti, yassa sāvakassa visaye paññāya pāramippatti ahosi. Yadi evaṃ – ‘‘yopi pāraṅgato bhikkhu, etāvaparamo siyā’’ti idaṃ kathanti? Tesaṃ tesaṃ buddhānaṃ sāsane paññāya pāramippattasāvakavasenetaṃ vuttanti daṭṭhabbaṃ. Atha vā – ‘‘natthi vimuttiyā nānatta’’nti (dī. ni. ṭī. 3.141; vibha. mūlaṭī. suttantabhājanīyavaṇṇanā) vacanato sāvakehi vimuttipaññāmattaṃ sandhāyetaṃ vuttaṃ. Tenāha – **‘‘pāraṅgatoti nibbānaṃ gato’’**tiādi. Sesaṃ suviññeyyameva.
「限定の言葉」とは、規定の言葉であり、限定という意味である。「まさにサーリプッタ」という限定は、彼が弟子であることから、弟子たちの中ではまさにサーリプッタが勝れているというこの意味を照らし出す。「煩悩の静止によって」とは、これによって大長老にはそのような煩悩の静止があることを示す。いかなる弟子の領域においても智慧の波羅蜜の達成があった。「もしそうであるなら、『彼岸に至った比丘であっても、これほどを最高とするであろう』というこれはどのように解釈されるのか」と。それぞれの仏陀の教えにおいて智慧の波羅蜜に達した弟子に基づいてこれが説かれたと見るべきである。あるいは「解脱に多様性はない」(長部注釈3.141、勝法概論根本複注経分別注)という言葉から、弟子たちによる解脱の智慧だけを念頭に置いてこれが説かれたのである。それゆえ「彼岸に至った者とは涅槃に至った者」等と言った。残りは容易に理解できることである。
Anāthapiṇḍikovādasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.
『給孤独教誡経』の注釈の深遠なる意味の解明を終わる。
2. Channovādasuttavaṇṇanā
2. 闡陀教誡経の注釈
389. Channoti idaṃ tassa nāmanti āha **‘‘evaṃnāmako thero’’**ti. Yassa pana satthārā parinibbānakāle brahmadaṇḍo āṇatto, ayaṃ so na hotīti dassento āha – **‘‘na abhinikkhamanaṃ nikkhantatthero’’**ti, lokanāthassa abhinikkhamanakāle kapilapurato nikkhantoti attho. Gilānapucchakāti gilānassa pucchanakā, gilānabhāvassa avatthaṃ sotukāmāti attho. Sasanato hiṃsanato satthanti āha **‘‘jīvitahārakasattha’’**nti.
389. 「チャンナ(闡陀)」とは、これが彼の名であるとして「このような名の大長老」と言った。しかし世尊によって入滅の時に梵罰を科された者、これはその者ではないことを示しつつ、「出家した出家長老ではない」と言った。世間の導師の出家の時にカピラ城から出立した者、という意味である。「病気の見舞い人」とは、病気について尋ねる者たち、病気の容態を聞きたいと望む者たち、という意味である。断ち切ることから、傷つけることから刃物(刀剣)であるとして「命を奪う刀剣」と言った。
390. Upavajjaṃ etassa natthīti anupavajjaṃ, karajakāyaṃ katvā āyatiṃ uppattirahitanti attho. Tenāha **‘‘anuppattika’’**nti.
390. 「非難すべきことが彼にはない」ゆえに非難なきこと(無過失)であり、業生の肉体をなして将来の再生がない、という意味である。それゆえ「再生なきこと」と言った。
391. Khayavayaṃ ñatvāti saṅkhāragataṃ khaṇabhaṅgaṃ netvā ñāṇena yāthāvato ñatvā. Netaṃ mamāti dukkhato samanupassanā saṅkhāresu diṭṭhesu mamaṃkārābhāvato. Nesohamasmīti aniccato samanupassanā aniccato tesu diṭṭhesu ahaṃkārābhāvato. Na meso attāti anattato samanupassanā anattato tesu diṭṭhesu attaggāhābhāvatoti āha – **‘‘netaṃ mama…pe… attāti samanupassāmī’’**ti.
391. 「尽滅と変壊を知って」とは、諸行における刹那の崩壊を導き、智慧によって如実に知って。「これは私のものではない」とは、苦としての観察であり、諸行が見られたときに我所見がないからである。「これは私ではない」とは、無常としての観察であり、無常としてそれらが見られたときに我慢がないからである。「これは私の我ではない」とは、無我としての観察であり、無我としてそれらが見られたときに我見の執着がないからである、として「これは私のものではない……(中略)……我であると観察する」と言った。
393. Tasmā puthujjanoti yasmā ariyo sabbaso pariññātavatthuko dukkhavedanaṃ adhivāsetuṃ asakkonto nāma natthi, tasmā puthujjano, kevalaṃ pana adhimāneneva – ‘‘nābhikaṅkhāmi jīvitaṃ, pariciṇṇo me satthā, nirodhaṃ disvā’’ti vadatīti adhippāyo. Idampīti idampi, ‘‘nissitassa calita’’ntiādi. Taṇhānissitabhāvena hi āyasmā channo māraṇantikaṃ vedanaṃ adhivāsetuṃ asakkonto ito cito parivattanto calati vipphandati, tasmā ‘‘nissitassa calita’’ntiādi manasikātabbaṃ, tena idaṃ sabbaṃ taṃ vipphanditaṃ na bhavissatīti adhippāyo. Kappasaddo kālapariyāyopi hoti, na kālavisesavācako evāti āha – **‘‘niccakappanti niccakāla’’**nti. Yathā appahīnataṇhādiṭṭhiko puggalo taṃnissito allino, evaṃ tāhipi nissito amuttabhāvatoti āha – **‘‘taṇhādiṭṭhīhi nissitassā’’**ti. Calitanti yathā yathā asamāraddhāya sammāpaṭipattiyā ādīnavavasena calantaṃ pana yasmā ariyassa vinaye virūpaṃ calitaṃ nāma hoti, tasmā āha – **‘‘vipphanditaṃ hotī’’**ti. Tādise pana papañcavikkhambhanavasena cittassa calite asati bhāvanāya vīthipaṭipannatāya kilesapaṭippassaddhi eva hotīti āha ‘‘calite asati passaddhī’’ti. Tena vuttaṃ – **‘‘kilesapassaddhi nāma hotī’’**ti.
393. 「したがって凡夫である」とは、聖者には完全に遍知された対象を持つ苦受を耐え忍ぶことができない者など断じていないのだから、凡夫であり、ただ増上慢によってのみ「私は命を望まない。師は私によって仕えられた。止滅を見て」と語っているのだ、というのが意図である。「これもまた」とは、これもまた「依存する者には動揺があり」等である。実に、渇愛に依存している状態によって、チャンナ長老は臨終の苦受を耐え忍ぶことができず、あちこち身悶えして動揺し、激しく震える。したがって「依存する者には動揺があり」等が作意されるべきであり、それによってこれらすべての震動はなくなるであろう、というのが意図である。「kappa」という語は時間の同義語でもあり、特定の時間を表す言葉だけではないとして、「常に(niccakappaṃ)とは常時(niccakālaṃ)」と言った。渇愛や見解を断じていない人がそれに依存し執着するように、同様にそれら(渇愛や見解)によって依存され、解き放たれていない状態であることから、「渇愛と見解によって依存する者の」と言った。「動揺した(calitaṃ)」とは、正しい実践が十分に始められていないことによる過患の力によって動揺するが、聖者の規律においては見苦しい動揺と呼ばれることから、「激しく震えたものとなる」と言った。しかしそのような戯論の抑止による心の動揺がないとき、修習の道筋に従っていることによって煩悩の寂静そのものがあるとして、「動揺がないとき寂静がある」と言った。それゆえ「煩悩の寂静と呼ばれるものがある」と言われた。
Bhavantaraṃ disvā namanaṭṭhena nati. Tenāha – **‘‘natiyā asatīti bhavatthāya ālayanikantipariyuṭṭhānesu asatī’’**ti. Paṭisandhivasena āgati nāmāti paṭisandhiggahaṇavasena bhavantarato idheva āgamanaṃ nāma, cutivasena cavanavasena ito bhavantarassa gamanaṃ nāma na hoti āgatigatiyā asati katūpacitassapi kammassa uppattiparikappavasena pavattiyā abhāvato. Cavanavasenāti nibbattabhavato cavanavasena cuti, āyatiṃ upapajjanavasena upapāto na hoti. Yato gati āgati cavanaṃ upapāto na hoti, tato eva nevidha, na huraṃ, na ubhayamantarena, kāyassa gatiyā āgatiyā ca abhāvato sabbaso cutūpapāto natthi; tena na idhaloke ṭhitoti vattabbo. Na paraloke ṭhitoti vattabbo, na ubhayamantarena ṭhitoti vattabbo. Tenāha **‘‘nayidha loke’’**tiādi. Tattha idhalokaparalokavinimuttassa saṃsaraṇapadesassa abhāvato, ‘‘na ubhayamantarenā’’ti vuttoti ubhayapariyāpanno na hotīti paṭikkhipanto, **‘‘na ubhayattha hotī’’**ti āha. Ayameva antoti yo idhaloke paraloke ca abhāvo avijjamānatā anuppajjanaṃ, ayameva sakalassa dukkhamūlassa anto pariyosānaṃ.
別の生存を見て傾くという意味で「傾き(nati)」である。それゆえ「傾きがないときとは、生存のための執着・愛着・現起がないとき」と言った。「結生によるものを来生(āgati)と呼ぶ」とは、結生を把握することによる別の生存からまさにここへの到来のことであり、死による、死没することによるここから別の生存への行進はない。来生と去生がないとき、作られ積み上げられた業であっても、再生の構想による展開が存在しないからである。「死没することによって」とは、生じた生存から死没することによる死であり、将来において生じることによる再生はない。去生・来生・死没・再生がないことから、まさにそれゆえに「ここでもなく、彼処でもなく、両者の間でもない」。身体の去生と来生がないことから、完全なる死没と再生はない。それゆえ「現世に留まる」と言われるべきではない。「来世に留まる」と言われるべきでもなく、「両者の間に留まる」と言われるべきでもない。それゆえ「現世においてではなく」等と言った。そこにおいて、現世と来世を離れた輪廻の場所は存在しないことから、「両者の間でもなく」と言われたのであり、両者に包摂されることはない、と否定しつつ、「両方において存在しない」と言った。「これこそが終尽である」とは、現世と来世において存在しないこと、現存しないこと、生じないことであり、これこそがすべての苦の根源の終尽であり、究極の終わりである。
394. Kaṇṭhanāḷiṃ chindīti nāḷiṃ chindituṃ ārabhi. Tasmiṃ chindituṃ āraddhakkhaṇe chedo ca vattati; maraṇabhayañca okkami avītarāgabhāvato, tato eva gatinimittaṃ upaṭṭhāti. ‘‘Sopi nāma sabrahmacārīnaṃ anupavajjataṃ byākaritvā sarāgamaraṇaṃ marissatī’’ti saṃviggamānaso saṅkhāre aniccādivasena pariggaṇhanto. Arahattaṃ patvāti pubbe bahuso vipassanāya udayabbayañāṇaṃ pāvitattā tāvadeva arahattaṃ patvā arahattaphalapaccavekkhaṇānantaraṃ kaṇṭhanāḷicchedapaccayā jīvitanirodhena samasīsī hutvā parinibbāyi. Na hi antimabhavikassa arahattaṃ appatvā jīvitantarāyo hoti. Therassāti āyasmato channattherassa. Byākaraṇenāti hetumhi karaṇavacanaṃ ‘‘byākaraṇena hetunā’’ti. Tannimittañhi thero vīriyaṃ paggaṇhanto vipassanaṃ ussukkāpeti. Imināti, ‘‘atthi, bhante’’tiādivacanena. Theroti āyasmā sāriputtatthero. Pucchatīti, bhante, tathā kulasaṃsaggapasuto kathaṃ parinibbāyissatīti pucchati. ‘‘Pubbe kulesu saṃsaṭṭhavihārī’’ti sabrahmacārīnaṃ paññātassapi imasmiṃ ‘‘honti hete sāriputtā’’tiādinā bhagavato vutta-ṭṭhāne asaṃsaṭṭhabhāvo pākaṭo ahosi. Pakkampi nipakkaṃ viya sammāpaṭipajjamānāpi keci asaññatā upaṭṭhahanti. Sesaṃ suviññeyyameva.
394. 「喉笛を断った」とは、喉笛を断ち切り始めた。それを断ち切り始めた瞬間に切断も起こり、離貪していなかったことから死の恐怖も襲い、それゆえに来世の相(趣相)が現れる。「彼ほどの同輩の修行者が無過失を明言しておきながら、有愛の死を迎えて死ぬのであろうか」と心に危機感を抱き、諸行を無常等として把握しつつ。「阿羅漢果に達して」とは、以前に多く毘鉢舎那の生滅随観智を修習していたため、直ちに阿羅漢果に達し、阿羅漢果の観察の直後に喉笛切断を縁とする命の消滅によって「等頭(生と死が同時に尽きる者)」となって完全に入滅した。実に、最後の生存にある者には、阿羅漢果に達することなく命の障害が生じることはないからである。「長老の」とは、チャンナ長老の。「明言によって」とは、原因における具格の語であり、「明言という原因によって」ということである。実にそれを機縁として長老は精進を奮い起こし、毘鉢舎那に励んだのである。「これによって」とは、「大徳よ、あります」等の言葉によって。「長老は」とは、サーリプッタ長老のことである。「尋ねる」とは、「大徳よ、そのように在家との交わりに熱心であった者が、どうして完全に入滅したのでしょうか」と尋ねる。「以前は諸々の家と交わって住していた」と同輩の修行者たちに知られていた者であっても、この「サーリプッタよ、実に彼らは……である」等と世尊によって説かれた箇所において、交わりのない状態が明白となった。熟練した者であっても熟練していないかの如く、正しく実践していながらも、ある者たちは不節制であるかのように現れる。残りは容易に理解できることである。
Channovādasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.
『闡陀教誡経』の注釈の深遠なる意味の解明を終わる。
3. Puṇṇovādasuttavaṇṇanā
3. 富楼那教誡経の注釈
395. Anantarasutte ‘‘paṭisallānāti phalasamāpattito’’ti vuttaṃ, tattha dhammasenāpatino ariyavihārassa adhippetattā, idha pana akatakiccassa paṭisallānaṃ nāma kāyavivekoti āha – **‘‘paṭisallānāti ekībhāvā’’**ti. ‘‘Cakkhuviññeyyā rūpā’’ti panettha viññeyyarūpaṃ vijānantassa dvārabhūtaṃ cakkhunti ubhayaṃ ajjhattikaṃ bāhirañca āyatanaṃ abhinanditādisāmaññena tañceti ettha taṃ-saddena ekajjhaṃ paccāmaṭṭhanti āha – **‘‘tañceti taṃ cakkhuñceva rūpañcā’’**ti. Yaṃ panettha viññeyyasaddena jotitaṃ viññāṇaṃ taṃ sampayuttadhammāti tadubhayaṃ, ‘‘manoviññeyyā dhammā’’ti padena kathitamevāti idha na gahitaṃ. Esa nayo sesesupi. Samodhānenāti sahāvaṭṭhānena, cittena nandiyā taṇhāya saha pavattiyā cittasahuppattiyāti attho. Tenāha – ‘‘uppajjati nandī’’ti. Pañcakkhandhadukkhassa samodhānanti pañcakkhandhasaṅkhātassa dukkhasaccassa paccavokāre sahappavatti hoti. Yasmā dukkhaṃ uppajjamānaṃ channaṃ dvārānaṃyeva vasena uppajjati, tathā samudayoti, tasmā āha – **‘‘iti chasu dvāresū’’**tiādi. Kilesavaṭṭassa kammavaṭṭassa vipākavaṭṭassa ca kathitattā āha – **‘‘vaṭṭaṃ matthakaṃ pāpetvā dassetī’’**ti. Dutiyanayeti ‘‘santi ca kho’’tiādinā vutte dutiye desanānaye. Pāṭiyekko anusandhīti na yathānusandhi nāpi ajjhāsayānusandhīti adhippāyo, pucchānusandhissa pana idha sambhavo eva natthīti. Sattasu ṭhānesūti akkosane paribhāsane pāṇippahāre leḍḍuppahāre daṇḍappahāre satthappahāre jīvitāvoropaneti imesu sattasu. ‘‘Bhaddakā vatime’’tiādinā khantipaṭisaṃyuttaṃ sīhanādaṃ nadāpetuṃ.
395. 直前の経において「独座とは果等至によるもの」と説かれたが、そこでは法将(サーリプッタ)の聖住が意図されていたのに対し、ここでは未だなすべきことを終えていない者の独座とは身の遠離のことであるとして、「独座とは独りあることによって」と言った。「眼によって認識される諸の色」において、認識される色と、それを認識する者の門となる眼という、内外の両方の処を、喜ぶなどの共通性によって「それら」とし、ここでは「それ(taṃ)」という語によって一括して指示されているとして、「それらとは、その眼と色である」と言った。そこにおいて「認識される」という語によって照らされた意識とその相応法は、それら両方が「意によって認識される諸の法」という句によって語られたまさにそのものであるため、ここでは取り上げられていない。この筋道は残りにおいても同様である。「結びつきによって(samodhānena)」とは、共存することによって、心と歓喜と渇愛とが共に展開することによって、心と同時に生じることによって、という意味である。それゆえ「歓喜が生じる」と言った。「五蘊の苦の結びつき」とは、五蘊と呼ばれる苦聖諦の五蘊の領域における同時展開がある。実に苦が生じるのはまさに六つの門に基づいて生じるのであり、集(苦の原因)も同様である。それゆえ「このように六つの門において」等と言った。煩悩の輪転・業の輪転・異熟の輪転が語られたことから、「輪転を頂点に導いて示す」と言った。「第二の方法において」とは、「実に存在する」等によって説かれた第二の説示の方法において。「個別の連結(pāṭiyekko anusandhī)」とは、事態に応じた連結でもなく、意図に応じた連結でもない、という意味であり、質問に応じた連結はここではおよそ生じ得ない。「七つの箇所において」とは、罵倒・叱責・平手打ち・投石・棍棒の打撃・刃物の打撃・生命の剥奪というこれら七つにおいて。「これらは実に善き人々である」等によって、忍辱に関する獅子吼を吼えさせるために。
396. Caṇḍāti kodhanā, tena dūsitacittatāya duṭṭhāti vuttā. Kibbisāti pāpā. Pharusāti īsakampi pasādasinehābhāvena luddā. Pharusavacanatāya vā pharusā, tathābhūtā pana luddā nāma honti, tasmā vuttaṃ **‘‘kakkhaḷā’’**ti. Idañca teti, ‘‘hatthacchedaṃ nāsikaccheda’’nti evamādiṃ idañca aniṭṭhaṃ karissāmāti bhayadassanena tajjessanti.
396. 「粗暴である(caṇḍā)」とは、怒りっぽいことであり、それによって心が汚されていることから邪悪であると言われる。「悪人である(kibbisā)」とは、悪をなす者である。「過酷である(pharusā)」とは、わずかな信愛の情もないことから残忍である。あるいは過酷な言葉を話すことによって過酷であり、そのようになった者は残忍と呼ばれる。それゆえ「苛烈である」と言われた。「これらをあなたに」とは、「手足を切断し、鼻を切断する」等といった、このような好ましくないことをなそうと、恐怖を示すことによって脅すであろう。
Ghaṭikamuggarenāti daṇḍānaṃ kira aggapasse ghaṭākāraṃ dassenti, tena so ‘‘ghaṭikamuggaro’’ti vuccati. Ekatodhārādinā satthena karavālakhaggādinā. **‘‘Indriyasaṃvarādīnaṃ etaṃ nāma’’**nti vatvā yattha yattha indriyasaṃvarādayo ‘‘damo’’ti vuttā, taṃ pāṭhapadesaṃ dassento **‘‘saccenā’’**tiādimāha. Manacchaṭṭhāni indriyāni dameti saṃvaretīti indriyasaṃvaro, damo. Rāgādipāpadhamme dameti upasametīti damo, paññā. Pāṇātipātādikammakilese dameti upasameti vikkhambhetīti damo uposatho. Byāpādavihesādike dameti vinetīti damoti āha – **‘‘imasmiṃ pana sutte khanti ‘damo’ti veditabbā’’**ti. Upasamoti tasseva damassa vevacanaṃ, tasmā damo ca so byāpādādīnaṃ vinayanaṭṭhena tesaṃyeva upasamanaṭṭhena upasamo cāti damūpasamo, adhivāsanakhanti.
「木槌(ghaṭikamuggara)」とは、棍棒の先端部分に壺(ghaṭa)の形を示しているらしく、それゆえにそれは「木槌」と呼ばれる。「片刃などの刃物によって」とは、刀剣や長剣などによって。「根の制御などの名である」と言って、根の制御などが「調御(dama)」と説かれているところではどこでも、その経文の箇所を示しつつ、「真理によって」等と言った。意を第六とする諸根を調御し、防護するゆえに根の制御であり、調御である。貪りなどの悪法を調御し、静めるゆえに調御であり、智慧である。殺生などの業の煩悩を調御し、静め、抑止するゆえに調御であり、布薩である。瞋恚や害意などを調御し、導くゆえに調御であるとして、「しかしこの経においては忍辱が『調御』と知られるべきである」と言った。「寂静(upasamo)」とは、その調御の同義語である。したがって瞋恚などを導くという意味において調御であり、それらを静めるという意味において寂静であるゆえに調御寂静、耐え忍ぶ忍辱である。
397. Tattha khantiyaṃ katādhikāro taṃ janapadaṃ gantvā mahājanassa avassayo hoti, tasmā tadassa apadānaṃ samudāgamato paṭṭhāya vibhāvetuṃ, **‘‘ko panesa puṇṇo’’**tiādi āraddhaṃ. Etthāti etasmiṃ sunāparantajanapade. Asappāyavihāranti bhāvanābhiyogassa na sappāyaṃ vihāraṃ.
397. そこにおいて忍辱において功績を積んだ者は、その地方へ行って民衆の拠り所となる。それゆえ彼のためにその行状を起源から解明するために、「しかしこのプンナ(富楼那)とは誰か」等と始められた。「ここに」とは、このスナーパランタ地方に。「不適切な住処を」とは、修習の実践にとって適切でない住処を。
Dve bhātaroti avibhattasāpateyyā avibhattavohārasaṃyogā. Tenāha **‘‘tesū’’**tiādi. Janapadacārikaṃ caranto bhaṇḍaṃ gahetvā janapadesu vikkayaṃ karonto.
「二人の兄弟」とは、財産を分割せず、事業の結合を分割していない者たちである。それゆえ「彼らの中で」等と言った。「地方を行脚しつつ」とは、商品を持って地方において商売をしつつ。
‘‘Buddhapūjaṃ dhammapūjaṃ saṅghapūjaṃ karissāmā’’ti tanninnā. Aṭṭhimiñjaṃ āhacca aṭṭhāsīti, ‘‘buddho’’ti vacanaṃ assutapubbaṃ sotapathaṃ upagataṃ anappakaṃ pītisomanassaṃ samuṭṭhāpentaṃ pītisamuṭṭhānapaṇītarūpehi chavicammādīni chinditvā aṭṭhimiñjaṃ āhacca aṭṭhāsi. Vissajjitanti vikkiṇanavasena viniyojitaṃ. Kammaṭṭhānaṃ na upaṭṭhātīti bhāvanāvīthiṃ na otarati. Mayhaṃ asappāyoti mayhaṃ kammaṭṭhānabhāvanāya sappāyo upakāro na hoti.
「仏陀への供養、法への供養、僧伽への供養をなそう」とそのことに傾倒した。「骨髄に至るまで達して留まった」とは、「仏陀」というかつて聞いたことのない言葉が耳の領域に入り、少なからぬ歓喜と喜びを沸き起こさせ、歓喜から生じた勝れた物質(色法)によって肌や皮膚などを突き抜けて骨髄に至るまで達して留まった。「放たれた」とは、売却することによって用いられた。「瞑想主題が現前しない」とは、修習の道筋に入らない。「私にとって不適切である」とは、私の瞑想主題の修習にとって適切な助けとならない。
Koci caṅkamituṃ samattho nāma natthi mahatā samuddavīcisaddena upaddutattā bhāvanāmanasikārassa anabhisambhuṇanato. Tenāha **‘‘samuddavīciyo’’**tiādi. Soti makuḷavihāro.
誰も経行することができる者はいない。大いなる大波の音によって妨げられるため、修習の作意を全うすることができないからである。それゆえ「大波が」等と言った。「その」とは、マクラ精舎のことである。
Uttamajavena gacchamānā yathādhippetaṃ maggaṃ atikkamitvā aññataraṃ dīpakaṃ pāpuṇi.
最高の速度で進みながら、意図した航路を越えてある島に到着した。
Uppādikaṃ uṭṭhāpetvāti mahāvātamaṇḍalasamuṭṭhāpanena tasmiṃ padese mahāsamuddaṃ saṃkhobhento mahantaṃ uppādaṃ uṭṭhapetvā.
「怪異を現出させて」とは、大旋風を巻き起こすことによってその海域で大海を激動させ、大いなる異変を現出させて。
Thero, ‘‘amhe āvajjeyyāthā’’ti kaniṭṭhassa vacanaṃ saritvā antarantarā āvajjeti, tasmā tadāpi āvajjeti, taṃ sandhāya vuttaṃ – **‘‘tasmiṃyeva khaṇe āvajjitvā’’**ti. Sammukheti sīsaṭṭhāne. Paṭivedesunti pavedesuṃ, upāsakā mayanti paṭijāniṃsu. Imināti iminā mayhaṃ pariccattakoṭṭhāsena. Maṇḍalamāḷanti muṇḍamaṇḍalamāḷasadisaṃ paṭissayaṃ. Paricārakāti avasesagāmino.
長老は「私たちを念じてください」という弟の言葉を思い出して時折念じていたので、その時も念じた。そのことを念頭に置いて「その瞬間にまさに念じて」と言われた。「面前に」とは、船首の場所に。「知らせた」とは、表明した。「私たちは優婆塞(在俗信者)です」と自認した。「これによって」とは、この私に分与された分け前によって。「円屋根の円堂を」とは、頂が丸い円堂のような宿舎を。「従者たち」とは、残りの航海者たちである。
Saccabandhassa okāsaṃ karonto **‘‘ekūnapañcasatāna’’**nti āha. Taṃ divasaṃ…pe… aggahesi, tena so thero paṭhamaṃ salākaṃ gaṇhantānaṃ etadagge ṭhapito.
サッチャバンダ長老の機会を設けつつ「四百九十九人の」と言った。「その日……(中略)……受け取った」それゆえかの長老は最初に割符(食事の札)を受け取る者たちの最高位に据えられた。
Vāṇijagāmaṃ gantvāti vāṇijagāmasamīpaṃ gantvā. Buddhakolāhalanti buddhānaṃ upagamma sattānaṃ uppajjanakutūhalaṃ.
「商人たちの村へ行って」とは、商人たちの村の近くへ行って。「仏陀の騒動」とは、仏陀たちに近づいて有情たちに生じる好奇心のことである。
Mahāgandhakuṭiyaṃyevāti jetavanamahāvihāre mahāgandhakuṭiyaṃyeva. Paricaritabbanti upaṭṭhātabbaṃ.
「大香室においてまさに」とは、祇樹給孤独大精舎の大香室においてまさに。「世話をされるべきである」とは、給仕されるべきである。
Gandhakaṭṭhānīti candanaagarusalaḷādīni sugandhakaṭṭhāni. Sesaṃ suviññeyyamevāti.
「香木」とは、白檀・沈香・サララなどの芳香ある木である。残りは容易に理解できることである。
Puṇṇovādasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.
『富楼那教誡経』の注釈の深遠なる意味の解明を終わる。
4. Nandakovādasuttavaṇṇanā
4. 難陀迦教誡経の注釈
398. Saṅghassa bhāraṃ akāsi upāyena nandakattherassa ovādena vinetabbānaṃ bhikkhunīnaṃ vinayatthaṃ. Tenāha **‘‘imaṃ panā’’**tiādi. Pariyāyati pavattatīti pariyāyo, paṭipāṭīti āha – **‘‘pariyāyenāti vārenā’’**ti. Assāti nandakattherassa. Vadāpesi aññehi attano anokāsabhāvaṃ. Pariyāyena ovadantīti ovadituṃ samatthā bhikkhuniyo vārena ovadanti. Idaṃ pariyāyena ovadanaṃ. Cittaṃ ekaggaṃ hoti pasīdati pubbacariyasiddhena gāravabahumānena gehassitapemavasena.
398. ナンダカ長老の教誡によって導かれるべき比丘尼たちを導くために、僧伽の責任とした。それゆえ「しかしこれを」等と言った。「順序(pariyāya)で」展開するゆえに順序であり、順番であるとして、「順序によってとは番によって」と言った。「かの長老に(assa)」とは、ナンダカ長老に。自らに都合がつかないことを他者たちに言わせた。「順序によって教誡する」とは、教誡する能力のある比丘たちが順番で教誡する。これが順序による教誡である。「心が専一となり、澄み清まる」とは、過去世の行状によって成就された敬意と尊崇により、家に依存した愛情の力によってである。
Gotamīti mahāpajāpatigotamī. Seṭṭhissāti bārāṇasiseṭṭhino.
「ゴータミー」とは、マハープジャパティ・ゴータミーのことである。「長者の」とは、バーラーナシーの長者の。
Teti paccekabuddhe. Kiṃ nu khoti pucchi ciratarakālaṃ puññakiriyāya paribhāvitasantānatāya, paccekabuddhesu ca gāravabahumānatāya. Duggatehipi sakkā kātunti duggatehipi yathāvibhavaṃ katā kuṭi tumhākaṃ vasituṃ sakkāti pucchi.
「彼らに」とは、辟支仏(独覚)たちに。「果たして……であろうか」と尋ねたのは、極めて長い間功徳の行為によって心を薫習された状態であることと、辟支仏たちへの敬意と尊崇によるものである。「貧しい者たちによっても作ることができるか」とは、貧しい者たちによっても能力に応じて作られた庵が、あなた方の住まうことができるものであるかと尋ねた。
Hatthakammaṃ dethāti hatthakammaṃ katvā dethāti attho. Ānisaṃsaṃ ācikkhitvāti ‘‘tādisānaṃ mahesīnaṃ kataṃ veyyāvaccaṃ amhākampi dīgharattaṃ hitāya hoti. Āvāsadānañca nāma mahapphalaṃ mahānisaṃsaṃ nibbattaṭṭhāne mahāsampattiāvahaṃ bhavissatī’’tiādinā ānisaṃsaṃ ācikkhitvā. Gāḷhena ovādena tajjetvāti, ‘‘imesu nāma karontesu tvaṃ kasmā na karosi, mama jeṭṭhakadāsassa bhariyabhāvaṃ na jānāsi. Sabbehipi kariyamānassa hatthakammassa akaraṇe tuyhaṃ idañcidañca dukkhaṃ āgamissatī’’ti bhayena tajjetvā. Sataṃ sataṃ hutvāti sataṃ sataṃ dāsaputtā ekajjhaṃ hutvā ekañca ekañca kuṭiṃ katvā adāsi. Caṅkamanādiparivāranti caṅkamanarattiṭṭhānadivāṭṭhānabhojanādiparivāraṭṭhānasahitaṃ. Jaggitvā upaṭṭhāpetvā. Vissajjāpesīti pariccajāpesi. Parivattāpetvāti cetāpetvā. Ticīvarānīti sahassagghanikāni ticīvarāni katvā adāsi. Kālena kālanti kāle kāle, kismiñci kāleti attho. Rajje ṭhitassāti sabbabhūtūpakārarajje ṭhitassa.
「手作業の労力を与えよ」とは、手作業の労力をなして与えよ、という意味である。「功徳の利益を説いて」とは、「そのような大仙人たちになされた給仕は、私たちにとっても長き夜にわたる利益となる。住居の布施というものは実に大果であり大功徳であり、生まれた場所において大いなる富貴をもたらすであろう」等によって利益を説いて。「激しい教誡によって威嚇して」とは、「これほどの人々が作っているのに、あなたはどうして作らないのか。私が筆頭召使いの妻であることを知らないのか。すべての人によってなされている手作業の労力をなさないなら、あなたにはあれこれの苦痛が訪れるであろう」と恐怖によって威嚇して。「百人ずつとなって」とは、百人ずつの下僕の子供たちが一つになって、一つ一つの庵を作って施した。「経行処などの附属施設を伴う」とは、経行処・夜の居場所・昼の居場所・食堂などの附属施設を伴った。「大切にして」とは、給仕して。「手放させた」とは、布施させた。「交換させて」とは、買い求めさせて。「三衣を」とは、千の価値ある三衣を作って施した。「時折に」とは、その時その時に、ある時に、という意味である。「王権に就いていた者の」とは、すべての生きとし生けるものを助ける王権に就いていた者の。
Nandakattheropīti tadā jeṭṭhakadāso etarahi nandakatthero pabbajitvā arahattaṃ patto. Jeṭṭhakadāsidhītā …pe… aggamahesiṭṭhāne ṭhitāti mahāpajāpatigotamiṃ sandhāya vadati. Ayamāyasmā nandakoti ayameva samudāgamato āyasmā nandakatthero. Etāva tā bhikkhuniyoti etāvatā samudāgamato pañcasatā bhikkhuniyo.
「ナンダカ長老もまた」とは、その時の筆頭召使いが、現在はナンダカ長老として出家して阿羅漢果に達した。「筆頭下女の娘……(中略)……第一の王妃の位に就いた」とは、マハープジャパティ・ゴータミーを念頭に置いて語っている。「この尊者ナンダカ」とは、まさに起源からしてこの尊者ナンダカ長老のことである。「これほどのかの比丘尼たち」とは、起源からして五百人の比丘尼たちのことである。
399. Hetunāti ñāyena aviparītapaṭipattiyā. Pubbabhāgā hi purimā purimā paṭipadā pacchimāya kāraṇaṃ. Yāthāvasarasato diṭṭhanti yathābhūtasabhāvato paccakkhaṃ viya.
399. 「理由によって(hetunā)」とは、理法によって、転倒なき実践によって。実に前段階である前々の一歩一歩が、後々のものの原因となる。「如実の自性から見られた」とは、ありのままの性質から直観されたかの如くに。
401. Taṃ sabhāvaṃ taṃsabhāvanti tassā vedanāya paccayabhāvena anurūpaṃ.
401. 「その自性を(taṃ sabhāvaṃ)」とは、その受の条件となるあり方に応じて。
403. Paṭhamataraṃyeva aniccāti tassāpi chāyāya aniccabhāvo paṭhamataraṃyeva siddho. Na hi kadāci aniccaṃ nissāya pavattaṃ kiñci niccaṃ nāma atthīti.
403. 「最初から無常である」とは、その影の無常性も最初から成就している。実に、無常なものに依存して展開した何かが常住であるということは決してあり得ないからである。
404. Anupahanitvāti avināsetvā. Kathaṃ pana maṃsakāyaṃ cammakāyañca avināsetvā itaresaṃ kantanaṃ hotīti byatirekamukhena dassetuṃ, **‘‘tatthā’’**tiādi vuttaṃ. Cammaṃ alliyāpentoti camme laggāpento cammapaṭibaddhaṃ karonto. Cammaṃ baddhaṃ katvāti vivarakāle na phālento cammabaddhe katvā. Evaṃ akatvāti evaṃ maṃsacammakāyānaṃ vināsanaṃ akatvā, vilimaṃsādivikantanena aññamaññaṃ vivecetvā. Tattha vilimaṃsanti cammanissitamaṃsaṃ, paṭicchannakilomakanti ca vadanti. Nhārūti sukhumanhāru. Bandhananti cammamaṃsānaṃ sambandhaṃ. Tenāha – **‘‘sabbacamme laggavilipanamaṃsamevā’’**ti. Antarakilesamevāti antare citte jātattā sattasantānantogadhatāya abbhantarabhūtakilesameva.
404. 「損なうことなく」とは、損壊することなく。「しかし、どのように肉の身体と皮の身体を損なうことなく、それら以外のものを切り離すのか」ということを、反対の面から示すために「そこにおいて」等と言われた。「皮を密着させながら」とは、皮にくっつけながら、皮に結合させながら。「皮を結び合わされたものとして」とは、開く時に引き裂くことなく皮で結ばれたものとして。「このようになすことなく」とは、このように肉と皮の身体を損壊することなくなすことなく、付着した肉などを切り離すことによって互いに引き離して。そこにおいて「付着した肉」とは皮に付随する肉のことであり、隠れた筋膜(kilomaka)とも言われる。「筋」とは微細な筋。「腱(bandhana)」とは皮と肉の結合のことである。それゆえ「すべての皮に付着した薄皮の肉そのものを」と言った。「内部の煩悩そのものを」とは、内部の心に生じたことから、有情の相続の内部に含まれることによって、内部に存在する煩悩そのものを。
405. Tajjaṃ vāyāmanti nidassanamattaṃ daṭṭhabbaṃ. Tathā hi purisena kuṭhārinā chejjaṃ chindite chejjaṭṭhānassa sallakkhaṇaṃ icchitabbaṃ, tassa paṭighātabhāvo icchitabbo, kāyapariḷāhābhāvo icchitabbo, tassa avaṭṭhānaṃ icchitabbaṃ, kiccantare ajjhupekkhaṇaṃ icchitabbaṃ, evaṃ paññāya kilese chindantassa yogino vīriyabalena saddhiṃ sati-pīti-passaddhi-samādhi-upekkhāsambojjhaṅgaṃ icchitabbanti āha – **‘‘evaṃ na vinā chahi…pe… sakkotī’’**ti.
405. 「相応する努力を」とは、例示にすぎないと見なされるべきである。実に、人によって斧で切断されるべきものが切断されるとき、切断箇所の観察が望まれるべきであり、その反動のなさが望まれるべきであり、身体の熱のなさが望まれるべきであり、その安定が望まれるべきであり、他の作業の観察(等閑視)が望まれるべきである。このように智慧によって煩悩を切断する修行者には、精進の力とともに念・喜・軽安・定・捨の覚支が望まれるべきであるとして、「このように六つの……なしには(中略)……できない」と言った。
407. Tena kāraṇenāti yena tāsaṃ bhikkhunīnaṃ sā dhammadesanā sappāyā, āsevanamandatāya pana ajjhāsayena paripuṇṇasaṅkappā na jātāyeva; puna tathā desanāya sati āsevanabalavatāya paripuṇṇasaṅkappā bhavissanti; tena kāraṇena tvampi tā bhikkhuniyo teneva ovādena ovadeyyāsīti.
407. 「その理由によって」とは、それによって彼女ら比丘尼たちにとってその説法は適切なものであったが、習熟の少なさゆえに志向によって意図が満たされていなかった。再び同様の説法があるならば、習熟の強さによって意図が満たされるであろう。その理由によって、あなたもまた彼女ら比丘尼たちにまさにその教誡によって教誡せよ、と。
415. Sabbapacchimikāti sabbāsaṃ kaniṭṭhā sotāpannā, anariyā tattha kāci natthīti attho. Tenāha – **‘‘sesā pana…pe… khīṇāsavā cā’’**ti. Yadi evanti akhīṇāsavāpi tādisā bhikkhunī atthi. Evaṃ sati sukkhavipassakabhāvenapi sati khīṇāsavabhāve ariyassa vinaye aparipuṇṇasaṅkappāvāti adhippāyena codeti, **‘‘kathaṃ paripuṇṇasaṅkappā’’**ti? Itaro ajjhāsayapāripūriyāti kāraṇaṃ vatvā, **‘‘yassa hī’’**tiādinā tamatthaṃ vivarati. Ajjhāsayapāripūriyāti tattha adhippāyapāripūriyā, na sabbaso guṇapāripūriyāti adhippāyo. Tenāha **‘‘kadā nu kho’’**tiādi. Etena pādakajjhānasammasitajjhānānaṃ visadisatāya puggalassa vipassanākāle pavattaajjhāsayavasena ariyamagge bojjhaṅgamaggaṅgajhānaṅgānaṃ visesatāti ayamattho dīpitoti veditabbo. Sesaṃ suviññeyyameva.
415. 「最も後れた者」とは、すべての者の中で最も年下の預流者であり、そこに凡夫は一人もいない、という意味である。それゆえ「残りは……(中略)……漏尽者たちである」と言った。「もしそうであるなら」とは、漏尽者ではないそのような比丘尼もいる。「そうであるなら、乾観者(止水のない観行者)であることによって漏尽者の状態であっても、聖者の規律において意図が満たされていないのか」という意図で、「どうして意図が満たされているのか」と論難する。もう一方は「志向の充足によって」と理由を述べて、「実にいかなる者の」等によってその意味を解き明かす。「志向の充足によって」とは、そこにおいて意図の充足によるのであり、完全な徳の充足によるのではない、というのが意図である。それゆえ「いつであろうか」等と言った。これによって、基礎となる禅定と観察された禅定の非類似性によって、個人の毘鉢舎那の時に生じた志向に基づいて、聖道において覚支・道支・禅支の区別があるという、この意味が照らし出されたと知られるべきである。残りは容易に理解できることである。
Nandakovādasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.
『難陀迦教誡経』の注釈の深遠なる意味の解明を終わる。
5. Rāhulovādasuttavaṇṇanā
5. 羅睺羅教誡経の注釈
416. Vimuttiṃ paripācentīti kilesānaṃ paṭippassaddhivimuttibhūtaṃ arahattaṃ sabbaso pācenti sādhenti nibbāpentīti vimuttiparipācanīyā. Dhammāti kāraṇadhammā. Tenāha – **‘‘visuddhikāraṇavasenā’’**ti, arahattasaṅkhātāya visuddhiyā sampādanavasenāti attho. Saddhindriyādayo visujjhamānā maggapaṭipāṭiyāva sabbaso assaddhiyādīhi cittaṃ vimocentā aggaphalavimuttiṃ sampādenti. Tesaṃ pana visuddhi bālaparivajjanena paṇḍitapayirupāsanena pasādāvahadhammapaccavekkhaṇāya ca hoti. Tato idha pannarasa dhammā adhippetāti dassento, **‘‘vuttañheta’’**ntiādimāha.
416. 「解脱を成熟させる」とは、煩悩の寂静の解脱である阿羅漢果を完全に熟させ、成就させ、涅槃に至らしめるゆえに解脱成熟の法である。「法」とは原因となる法である。それゆえ「清浄の原因によって」と言われ、阿羅漢果と呼ばれる清浄を成就させることによって、という意味である。信根などが清められつつ、道の順序によってまさに完全に不信などから心を解脱させながら、最上の果の解脱を成就させる。しかしそれらの清浄は、愚者を遠ざけ、賢者に親近し、信をもたらす法を観察することによって生じる。したがってここで十五の法が意図されていることを示しつつ、「実にこのように説かれた」等と言った。
Tattha assaddhe puggaleti saddhārahite puggale. Te hi nissāya na kadāci saddhā sambhavati, tesaṃ pana diṭṭhānugatiāpajjanena aññadatthu asaddhiyameva vaḍḍhati, tasmā te paṭibhayamaggo viya dūrato vajjetabbā. Assaddhiyanti ca saddhāya paṭipakkhabhūtā asaddheyyavatthusmiṃ adhimuccanākārena pavattā saṃkilesadhammā veditabbā. Saddhe puggaleti saddhāsampanne puggale. Te hi nissāya saddheyyavatthusmiṃ anuppannā uppajjati, uppannā bhiyyobhāvaṃ vepullaṃ āpajjati. Saddheyyavatthūti ca buddhādīni ratanāni kammakammaphalāni ca. Sevatoti labbhamānaṃ saddhāsampadaṃ uppādetuṃ vaḍḍhetuñca nisevato. Sesapadāni tasseva vevacanāni. Atha vā sevato upasaṅkamato. Bhajato tesaṃ paṭipattiyaṃ bhattiṃ kubbato. Payirupāsatoti tesaṃ ovādānusāsanikaraṇavasena upaṭṭhahato. Pasādanīyasuttantā nāma buddhādiguṇapaṭisaṃyuttā pasādāvahā sampasādanīyasuttādayo. Te hi paccavekkhato buddhādīsu anuppannā pasannā upajjati, uppannā bhiyyobhāvaṃ vepullaṃ āpajjati. Imehi tīhākārehīti imehi yathāvuttehi tīhi kāraṇehi. Paṭipakkhadūrībhāvato paccekaṃ sūpahārato ca āsevanaṃ bhāvanaṃ labhanti. Saddhindriyaṃ visujjhati maggaphalāvahabhāvena acchati visuddhiṃ pāpuṇāti. Iminā nayena sesapadesupi attho veditabbo.
その中で、「不信の人」とは信仰の欠けた人である。実に彼らに依止しても決して信仰は生じず、むしろ彼らの見解に追従することによってもっぱら不信仰ばかりが増大する。ゆえに彼らは危険な道のように遠くから避けるべきである。「不信仰」とは、信仰の対立物であり、信ずべき対象において信じない相として生じる汚れた諸法(煩悩の法)であると知るべきである。「信ある人」とは信仰を具足した人である。彼らに依止するならば、信ずべき対象において(信仰が)いまだ生じていなければ生じ、生じたものはさらに増大し広大に至る。「信ずべき対象」とは、仏をはじめとする三宝や、業と業の果報である。「親近する(親しむ)」とは、得られるべき信仰の成就を生じさせ増大させるために親近することである。残りの語句はそれと同義語である。あるいは、「親近する」とは近づくことであり、「交わる」とは彼らの実践に敬愛をなすことであり、「親しく仕える」とは彼らの教誡と訓戒を受けることによって仕えることである。「清らかな信仰を起こさせる経典」とは、仏などの徳に関連し、清らかな信仰をもたらす『清信経』などのことである。実にそれらを省察する者には、仏などに対して未だ生じていない清らかな信が生じ、生じた信はさらに増大し広大に至る。「これら三つの相によって」とは、上述の三つの原因によってということである。対立するものが遠ざかること、および個々に善く提供されることによって、実践と修習を得る。「信根が清らかになる」とは、道と果をもたらす状態によって清澄となり、清浄に達するということである。この方法によって残りの語句においても意味を知るべきである。
Ayaṃ pana viseso – kusīteti alase sammāpaṭipattiyaṃ nikkhittadhure. Āraddhavīriyeti paggahitavīriye sammāpaṭipanne. Sammappadhāneti anuppannānaṃ akusalānaṃ anuppādanādivasena pavatte cattāro upāyappadhāne. Paccavekkhato paṭipattiṃ avekkhato. Te hi paccavekkhato līnaṃ abhibhavitvā sammadeva ārambhadhātuādi anuppannānaṃ vidhinā satisampadāya uppādāya bhiyyobhāvāya saṃvattati. Asamāhite bhantamigabhantagoṇasappaṭibhāge vibbhantacitte. Samāhite upacārasamādhinā appanāsamādhinā ca sammadeva samāhitacitte. Jhānavimokkheti savitakkasavicārādijhānāni paṭhamādivimokkhe ca. Tesañhi paccavekkhaṇā uparūpari accantameva samādhānāya saṃvattati. Duppaññeti nippaññe, ariyadhammassa uggahaparipucchāsavanasammasanābhāvena sabbaso paññārahite ca. Paññavanteti vipassanāpaññāya ceva maggapaññāya ca samannāgate. Gambhīrañāṇacariyanti gambhīraṃ khandhāyatanadhātusaccapaṭiccasamuppādādibhedaṃ ñāṇassa caritabbaṭṭhānaṃ, yattha vā gambhīrañāṇassa cariyaṃ pavattati. Tattha hi paccavekkhaṇā sammohaṃ vidhamati, anuppannāya paññāya uppādāya bhiyyobhāvāya saṃvattati. Suttantakkhandheti suttasamūhe.
しかし、次の差異がある。「怠惰な人」とは、正しき実践において荷を下ろして怠けている人である。「精進を開始した人」とは、精進を奮い起こして正しく実践している人である。「正しい精進(正勤)」とは、未だ生じていない不善を生じさせないことなどを通じて行われる四つの手段の精進である。「省察する」とは、実践を観察することである。実にそれらを省察する者は沈滞を克服し、正しく発起の界(精進の始め)などにより、未だ生じていないものの規定により、正念の成就を生じさせ、増大へと向かわせる。「定に入っていない者」とは、狂った鹿や狂った牛に似て、心が散乱した者である。「定に入っている者」とは、近行定や安止定によって正しく心が定まっている者である。「禅定と解脱」とは、有尋有伺などの禅定や、初解脱などのことである。実にそれらを省察することは、上へ上へと極めて深く心を定めることに資する。「無智慧の人」とは智慧のない人、聖なる法を学び、問い、聞き、思惟することがないために、まったく智慧を欠いた人である。「智慧ある人」とは、内観(ヴィパッサナー)の智慧と道の智慧を兼ね備えた人である。「甚深の智慧の遊歩」とは、蘊・処・界・諦・縁起などの区分という智慧が遊歩すべき甚深の境地、あるいは甚深の智慧の活動が働くところである。実にそこにおいて省察することは迷妄を打ち払い、未だ生じていない智慧を生じさせ、増大へと向かわせる。「経典の集成(経蘊)」とは、経の集成のことである。
Pubbe saddhindriyādīnaṃ visuddhikāraṇāni, ‘‘vimuttiparipācanīyā dhammā’’ti vuttānīti idha saddhādike aññe ca dhamme dassento, **‘‘aparepī’’**tiādimāha. Tattha saddhādīnaṃ vimuttiparipācanīyatā dassitā eva, aniccasaññādīnaṃ pana vimuttiparipācanīyatāya vattabbameva natthi vipassanābhāvato. Tenāha – **‘‘ime pañca nibbedhabhāgiyā saññā’’**ti. Kalyāṇamittatādayoti kalyāṇamittatā sīlasaṃvaro abhisallekhakathā vīriyārambho nibbedhikā paññā ime kalyāṇamittatādayo pañca dhammā. Ayamettha saṅkhepo, vitthāro pana ‘‘meghiyasuttasaṃvaṇṇanāyaṃ’’ (udā. aṭṭha. 31) vuttanayena veditabbo. Lokaṃ volokentassāti buddhaveneyyasattalokaṃ buddhacakkhunā visesato olokentassa.
以前に信根などの清浄の原因について「解脱を成熟させる諸法」と説かれたので、ここでは信などを始めとする他の諸法を示すために、**「さらに他にも」**などと述べられた。そこにおいて、信などの解脱を成熟させる性質はすでに示されており、無常想などの解脱を成熟させる性質については、それらがヴィパッサナー(内観)の性質であることから言うまでもないことである。それゆえに、**「これら五つの通達に至る想(決択分想)」**と言われたのである。「善友性など」とは、善友性、戒の防護、削滅に関する語らい、精進の開始、通達する智慧という、これら善友性などの五法である。これがここでの要約であり、詳細については『メーギヤ経注釈』で述べられた方法に従って知るべきである。「世間を観察する」とは、仏によって教化されるべき生ける者たちの世界を、仏眼によって特に観察することである。
419. Āyasmato rāhulassa indriyānaṃ paripakkattā saddhiṃ paṭṭhapitapatthanā devatā udikkhamānā tiṭṭhanti, – ‘‘kadā nu kho uttari āsavānaṃ khaye vinessatī’’ti. Yadā pana satthā evaṃ parivitakkesi, tāvadeva samānajjhāsayatāya sabbakālaṃ taṅkhaṇaṃ āgamentiyo tā devatāyo taṃ samavāyaṃ disvā ekasmiṃ andhavanasmiṃyeva sannipatitā. Upālissa gahapatino dīghanakhaparibbājakassa catusaccadhammesu dassanakiccena pavatto sotāpattimaggoti tesu suttesu (paṭi. ma. aṭṭha. 2.2.30) paṭhamamaggo ‘‘dhammacakkhu’’nti vutto, tassa dassanatthassa sātisayattā, brahmāyuno pana phalañāṇāni heṭṭhimāni tīṇi sātisayānīti brahmāyusutte(ma. ni. 2.383 ādayo) tīṇi phalāni ‘‘dhammacakkhu’’nti vuttāni. Idaṃ panettha āyasmato rāhulassa maggañāṇaṃ phalañāṇañca dassanattho sātisayo, tāhi ca devatāhi yaṃ ñāṇaṃ adhigataṃ, taṃ sātisayamevāti vuttaṃ – ‘‘imasmiṃ sutte cattāro maggā, cattāri ca phalāni dhammacakkhunti **veditabbānī’’**ti. Kiṃ pana sāvakānaṃ saccābhisamayañāṇe atthi koci visesoti? Āma atthi. So ca kho pubbabhāge vuṭṭhānagāminivipassanāya pavattiyākāravisesena labheyya kāci visesamattā. Svāyamattho abhidhamme ‘‘no ca kho yathā diṭṭhippattassā’’ti saddhāvimuttato diṭṭhippattassa kilesappahānaṃ pati visesakittanena dīpetabbo. Kiṃ pana āyasmā rāhulo viya tā devatā sabbā ekacittā pageva cattāri phalāni adhigaṇhiṃsūti? Noti dassento **‘‘tattha hī’’**tiādimāha. Kittakā pana tā devatāti āha **‘‘tāsañca panā’’**tiādi.
419. 尊者ラーフラの諸根が成熟したため、彼とともに誓願を立てていた諸天たちは、「いつになったら(世尊は彼を)煩悩の滅尽へと導いてくださるのだろうか」と見守っていた。世尊がこのように思惟されたとき、同じ志を持っていたがゆえに常にその時を待ち望んでいた諸天たちは、その集まりを見て、ただ一つのアンダ林に集まった。長者ウパーリや遊行者ディーガナカに対して、四聖諦の法における見の働きとして生じた預流道が、それらの経において初道が「法眼」と説かれた。それはその見の働きが卓越していたからである。一方、ブラフマーユに対しては下の三つの果智が卓越していたため、『ブラフマーユ経』などにおいて三つの果が「法眼」と説かれた。しかしここにおいては、尊者ラーフラの道智と果智が見の働きとして卓越しており、それらの諸天によって証得された智もまた極めて卓越していたため、「この経においては四つの道と四つの果が法眼であると**知るべきである**」と説かれたのである。では、弟子たちの諦の現観の智に何か差異があるのだろうか。然り、ある。それは前段階において、出起に至るヴィパッサナー(内観)の働きの相の差異によって、何らかのわずかな差異を得るのである。この意味はアビダルマにおいて、「しかし、見至者のようではない」と、信解脱者に対して見至者の煩悩の断滅に関する差異を称揚することによって明らかにされるべきである。では、尊者ラーフラのように、それらの諸天はすべて一心にして、直ちに四つの果を証得したのだろうか。そうではないことを示すために、**「そこにおいて実に」**などと言われた。では、その諸天はどれほどいたのかといえば、**「そして彼女たち(天女たち)は」**などと言われたのである。
Rāhulovādasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.
ラーフラ教誡経注釈の玄義の解明は完結した。
6. Chachakkasuttavaṇṇanā
6. 六六経注釈
420. Ādimhi kalyāṇanti ādikoṭṭhāse kalyāṇaṃ etassāti vā ādikalyāṇo, taṃ ādikalyāṇaṃ, ādikalyāṇabhāvo ca dosavigamena icchitabbo. Yañhi sabbaso vigatadosaṃ, taṃ paripuṇṇaguṇameva hotīti **‘‘niddosa’’**nti vuttaṃ. Katvāti ca padaṃ, **‘‘kalyāṇaṃ katvā bhaddakaṃ katvā’’**ti purimapadadvayenapi yojetabbaṃ. Desanākāro hi idha kalyāṇasaddena gahito. Tenevāha – ‘‘desetabbadhammassa kalyāṇatā dassitā hotī’’ti, dutiye pana atthavikappe desetabbadhammassa kalyāṇatā mukhyeneva kathitā itarassa atthāpattito. Majjhekalyāṇaṃ pariyosānakalyāṇanti etthāpi eseva nayo. Ayañca desanāya thomanā buddhānaṃ āciṇṇasamāciṇṇāvāti dassetuṃ, **‘‘iti bhagavā ariyavaṃsa’’**ntiādi vuttaṃ. Dhammaggahaṇampi desanāya thomanā evāti **‘‘navahi padehī’’**ti vuttaṃ.
420. 「初めにおいて善い」とは、最初の部分において善い、あるいは初めが善いこれ(法)であるから初善であり、その初善である。初善である状態は過失が離れていることによって求められるべきである。完全に過失が離れているものは、まさに具足した徳を有するものであるから、**「無過失」**と言われた。「~として」という語は、**「善いものとして、吉なるものとして」**という前の二語とも結合されるべきである。実にここでは説法のあり方が「善」という語によって取られている。それゆえに、「説かれるべき法の善さが示されている」と言われたのである。しかし第二の解釈においては、説かれるべき法の善さが直接的に語られており、他方の意味は含意(当為)による。中善・後善においてもこの方法が適用される。そしてこの説法の称讃は諸仏の慣習・恒例であるかを示すために、**「このように世尊は聖者の家系を」**などと言われた。「法を取ること」もまた説法の称讃に他ならないので、**「九つの句によって」**と言われた。
Vedanā yāthāvato jānanaṃ, tañca maggakiccaṃ, tassa upāyo vipassanātiāha – **‘‘sahavipassanena maggena jānitabbānī’’**ti. Pariññābhisamayādikiccena nibbattiyā asammohato ca paṭivijjhitabbo. Tebhūmakacittameva kathitaṃ sammasanaṭṭhānassa adhippetattā. Esa nayo dhammāyatanādīsupi. Dhammāyatanassa vā āyatanabhāvato bahiddhāgahaṇaṃ, na sabbaso anajjhattabhāvato. Vipākavedanāpaccayā javanakkhaṇe uppannataṇhāti chattiṃsavipākavedanaṃ nissāya evaṃ assādentī anubhaveyyanti akusalajavanakkhaṇato uppannataṇhā.
受をありのままに知ることであり、それは道の働きであり、その手段はヴィパッサナー(内観)である。それゆえに、**「ヴィパッサナーを伴う道によって知られるべきである」**と言われた。遍知や現観などの働きによる生起において、迷妄なくして通達されるべきである。思惟の対象となる境地が意図されているため、三界の心のみが語られている。この方法は法処などにおいても同様である。あるいは法処は処であることから外部として取られるのであり、完全に内面でないというわけではない。「異熟の受を縁として速行の瞬間に生じた渇愛」とは、三十六の異熟の受に依止して、このように味わい享受しようと、不善の速行の瞬間から生じた渇愛である。
422. Pāṭiyekko anusandhīti yathānusandhiādīnaṃ asambhavatoti adhippāyena vuttaṃ. Heṭṭhāti viññāṇaphassavedanātaṇhānaṃ paccayāyattavuttitādassanena cakkhāyatanādīnaṃ rūpāyatanādīnañca paccayāyattavuttitā dīpitā apaccayuppannassa paccayābhāvato, yañca paccayāyattavuttikaṃ, taṃ aniccaṃ uppādasambhavato, yadaniccaṃ taṃ dukkhaṃ, yaṃ dukkhaṃ tadanattāti khandhapañcake ca channaṃ chakkānaṃ vasena ghanavinibbhogakaraṇena atthato anattalakkhaṇaṃ vibhāvitaṃ. Na sarūpatoti sarūpatopi taṃ vibhāvetukāmo teneva chachakkānaṃ vasena ghanavinibbhoganayena byatirekato ca anvayato ca dassento bhagavā – ‘‘cakkhu attāti yo vadeyyā’’tiādimāhāti yathānusandhikāva desanā vibhāvitā. Tenāha **‘‘heṭṭhā kathitānaṃ hī’’**tiādi. Heṭṭhā pana channaṃ chakkānaṃ vasena vinibbhogadassanamattaṃ, na anattalakkhaṇaṃ vibhāvitaṃ, idha pana sarūpato anattalakkhaṇaṃ vibhāvitanti adhippāyena anusandhantarabhāvajotanā. Yadipi anattabhāvo nāma catūsupi saccesu labbhateva, sabbepi hi dhammā anattā, ime panettha dvepi nayā sammasanavasena pavattāti vuttaṃ – **‘‘dvinnaṃ saccānaṃ anattabhāvadassanattha’’**nti. Na upapajjatīti upapattisaṅkhātayuttiyā na sametīti ayamettha atthoti āha **‘‘na yujjatī’’**ti. Attavādinā – ‘‘nicco dhuvo sassato’’ti abhimato, cakkhuñca uppādavantatāya aniccaṃ, yaṃ paccayāyatthavuttitā, tasmā ‘‘cakkhu attāti yo vadeyya, taṃ na upapajjatī’’tiādi. Sakkāyavatthu cakkhu anattā aniccabhāvato seyyathāpi ghaṭo, cakkhuṃ aniccaṃ paccayāyattavuttibhāvato seyyathāpi ghaṭo, cakkhu paccayāyattavutti uppādādisambhavato seyyathāpi ghaṭo. Vigacchatīti bhaṅguppattiyā sabhāvāvigamena vigacchati. Tenāha **‘‘nirujjhatī’’**ti.
422. 「個別の接続」とは、相応する接続などが存在しないという意図によって言われた。「下で」とは、識・触・受・愛が条件(縁)に依存して生起することを示すことによって、眼処などや色処などが条件に依存して生起することが明かされた。縁なくして生じたものには縁が存在しないからである。そして条件に依存して生起するものは、生起が存在することから無常であり、無常なるものは苦であり、苦なるものは無我である。このように五蘊において六つの六組を通じて堅固な想念を解体することによって、実質的に無我相が解明された。「自らの姿においてではなく」とは、自らの姿(明確な形)においてもそれを解明しようと欲し、それゆえに六つの六組による堅固な想念の解体の方法によって、反証(背理)と順行(帰納)によって示しつつ、世尊は「眼を我であると誰かが言うならば」などと言われた。このように接続に適った説法が解明された。それゆえに、**「実に下で説かれたものたちの」**などと言われた。しかし下では六つの六組による解体を示しただけで、無我相は解明されていなかったが、ここでは自らの姿において無我相が解明されたという意図により、別の接続の状態が示されている。無我である状態は四つの諦のすべてに見出されるものであり、すべての法は無我であるが、ここにあるこれら二つの方法も思惟を通じて展開されたものであるため、**「二つの諦の無我である状態を示すために」**と言われた。「適合しない」とは、生起と呼ばれる道理に合致しないということがここでの意味であるため、**「適さない」**と言われた。我論者によって「常住であり、堅固であり、永遠である」と考えられているが、眼は生起を有することによって無常であり、条件に依存して生起するものである。ゆえに「眼を我であると誰かが言うならば、それは適合しない」などと言われる。有身の基盤である眼は無我である、無常なるものであるがゆえに、甕のごとし。眼は無常である、条件に依存して生起するものであるがゆえに、甕のごとし。眼は条件に依存して生起する、生起などを有するがゆえに、甕のごとし。「消滅する」とは、破壊が生じることによって自性を失うことによって消滅する。それゆえに**「滅する」**と言われた。
424. Yasmā kilesavaṭṭamūlakaṃ kammavaṭṭaṃ, kammavaṭṭamūlakañca vipākavaṭṭaṃ. Kilesuppatti ca taṇhādiggāhapubbikā, tasmā **‘‘tiṇṇaṃ vā gāhānaṃ vasena vaṭṭaṃ dassetu’’**nti āha. Yasmā pana taṇhāpakkhikā dhammā samudayasaccaṃ, cakkhādayo dukkhasaccaṃ, tasmā vuttaṃ – **‘‘dvinnaṃ saccānaṃ vasena vaṭṭaṃ dassetu’’**nti. Taṇhāmānadiṭṭhiggāhāva veditabbā sakkāyagāminipaṭipadāya adhippetattā. ‘‘Etaṃ mamā’’tiādinā gahaṇamevettha anupassanāti āha – **‘‘gāhattayavasena passatī’’**ti.
424. 煩悩の輪廻を根本として業の輪廻があり、業の輪廻を根本として異熟の輪廻がある。そして煩悩の生起は渇愛などの執着を先立たせる。それゆえに**「あるいは三つの執着によって輪廻を示すために」**と言われた。さらに、渇愛の側にある諸法は集諦であり、眼などは苦諦である。ゆえに**「二つの諦によって輪廻を示すために」**と言われた。有身に至る道において意図されているため、渇愛・慢・邪見の執着として知るべきである。「これは私のものである」などと取ることこそがここでの随観であるゆえに、**「三つの執着によって見る」**と言われた。
Tiṇṇaṃ gāhānaṃ paṭipakkhavasenāti taṇhādiggāhapaṭipakkhabhūtānaṃ dukkhāniccānattānupassanānaṃ vasena, tāhi vā tiṇṇaṃ gāhānaṃ paṭipakkhavasena viniveṭhanavasena anuppādanavasenāti attho. Paṭipakkhavasena vivaṭṭaṃ dassetunti yojanā. Sakkāyanirodhagāminī paṭipadāti ettha nirodhadhammo sarūpeneva dassitoti āha – **‘‘nirodho…pe… dassetu’’**nti. Paṭisedhavacanānīti paṭikkhepavacanāni.
「三つの執着の対治によって」とは、渇愛などの執着の対治である苦・無常・無我の随観によって、あるいはそれらによって三つの執着に対治し、解きほぐし、生じさせないことによって、という意味である。対治によって還滅を示すために、と結合される。「有身の滅に至る道」において、滅の法が自らの姿として示されているので、**「滅を……(中略)……示すために」**と言われた。「否定の言葉」とは、拒絶の言葉である。
425. Taṇhādīnaṃ anupādiyanavacanāni taṇhādiṭṭhivaseneva vuttāni taṇhādiṭṭhīnaṃyeva abhinandanādivasena pavattisabbhāvato. Appahīnattho anusayatthoti āha – **‘‘anusetīti appahīno hotī’’**ti ariyamaggena hi appahīno thāmagato rāgādikileso anusayo kāraṇalābhe sati uppajjanārahabhāvato. Yaṃ panettha vattabbaṃ, taṃ heṭṭhā vuttameva. Vaṭṭadukkhakilesadukkhassāti vaṭṭadukkhassa ceva kilesadukkhassa ca. Saupādisesanibbānañhi kilesadukkhassa antakaraṇaṃ, anupādisesanibbānaṃ vaṭṭadukkhassa.
425. 渇愛などを取らないという言葉は、渇愛と邪見によってのみ説かれている。渇愛と邪見こそが歓喜などとして展開する存在だからである。断ぜられていないという意味が随眠の意味であるため、**「随眠するとは、断ぜられていないことである」**と言われた。聖道によって断ぜられておらず、力を得ている貪などの煩悩は随眠であり、原因を得た時に生起するにふさわしい状態にあるからである。これに関して語られるべきことは、すでに前述された通りである。「輪廻の苦と煩悩の苦の」とは、輪廻の苦と煩悩の苦の両方についてである。有余依涅槃は煩悩の苦の終極であり、無余依涅槃は輪廻の苦の終極である。
426. Tesanti anusayānaṃ. Paṭikkhepavasenāti pajahanavasena, appavattikaraṇavasenāti attho. Avijjaṃ pajahitvāti anavasesato avijjaṃ appavattidhammataṃ āpādetvā. Kāmaṃ heṭṭhimamaggañāṇampi avijjāpahāyinī vijjā eva, taṃ pana ñāṇaṃ avijjāya anavasesappahāyakaṃ na hoti, aggamaggañāṇe pana uppanne avijjāya lesopi nāvasissatīti tadeva avijjāya pahāyakanti āha – **‘‘arahattamaggavijjaṃ uppādetvā’’**ti.
426. 「それらの」とは、随眠たちのことである。「拒絶によって」とは、捨断によって、働かせないようにすることによって、という意味である。「無明を捨てて」とは、余すところなく無明を不活動の法となして、ということである。確かに下の道智も無明を断じる明(智慧)に他ならないが、その智は無明を余すところなく断じるものではない。しかし最上の道智が生じたときには、無明の痕跡さえも残らないため、それこそが無明を断じるものであるとして、**「阿羅漢道の明を生じさせて」**と言われた。
427. Sayameva tathāgate attano buddhānubhāvena desente saṭṭhi bhikkhū arahattaṃ pattāti anacchariyametaṃ, atha kiṃ acchariyanti āha **‘‘ima’’**ntiādi. Kathentepīti ettha itisaddo pakārattho, imināva pakārenāti attho. Pattā evāti saṭṭhi bhikkhū arahattaṃ pattā evāti yojanā. Etampi anacchariyaṃ, satthu sammukhā sāvakā samudāgamā mahābhiññā pabhinnapaṭisambhidā tathā tathā sappāṭihāriyaṃ dhammaṃ desentīti. Tenāha – **‘‘mahābhiññappattā hi te sāvakā’’**ti.
427. 如来が自ら仏の威神力によって説法されるとき、六十人の比丘が阿羅漢果に達したことは驚くべきことではない。では何が驚くべきことかといえば、**「これを」**などと言われた。「説いている時にも」における「このように(iti)」という語は様態の意味であり、まさにこのような様態で、という意味である。「達した」とは、六十人の比丘が阿羅漢果に達した、と結合される。これもまた驚くべきことではない。師の御前で、弟子たちは成就し、大神通を持ち、無礙解を得て、様々に神変を伴って法を説くからである。それゆえに**「実にそれらの弟子たちは大神通に達していた」**と言われた。
Mahāmaṇḍapeti lohapāsādassa purato eva mahābhikkhusannipāto jātoti tesaṃ pahonakavasena kate mahati sāṇimaṇḍapeti vadanti. Tesupi ṭhānesūti tesu yathāvuttamahāmaṇḍapādīsu ṭhānesu. Mahāthero atthīti padaṃ ānetvā sambandhitabbaṃ. Devattherassa guṇe sutvā pasannamānaso mahāthero, tathāpi vatthasampattiyā pasīditvā **‘‘tvaṃ pana nhāpehī’’**ti āha.
「大曼荼羅堂において」とは、銅宮殿のまさに前で大比丘衆の集会が生じたため、彼らを収容するのに十分なように作られた大きな幕張りの堂において、と言われる。「それらの場所においても」とは、それら上述の大曼荼羅堂などの場所においてである。「長老がいた」という語を補って結合すべし。デーヴァ長老の徳を聞いて心を清めていた大長老は、それでもなお衣の美しさに感嘆して、**「では、そなたが(私を)入浴させよ」**と言った。
Heṭṭhāpāsādeti ca kalyāṇiyamahāvihāre uposathāgāre heṭṭhāpāsāde ekadā uparipāsāde ekadā, kathesīti. Cūḷanāgassa tathā mahatī parisā devatānubhāvena abhiññāpādanaṃ ahosīti keci. Thero pana mahiddhiko ahosi, tasmā tāva mahatiṃ parisaṃ abhiññāpesīti apare.
「下の宮殿において」とは、カリヤーニ大会堂の布薩堂において、ある時は下の宮殿で、ある時は上の宮殿で説いたということである。チューラナーガのように、広大な会衆が神々の威神力によって神通の対象となったのだと言う者もいる。しかし長老は大神通の持ち主であったため、それゆえに自ら広大な会衆に神通を見せられたのだと、別の者たちは言う。
Tato tatoti tassaṃ tassaṃ disāyaṃ. Ekovāti ekacco eva, na bahuso, katipayāva puthujjanā ahesunti attho. Sesaṃ heṭṭhā vuttanayattā suviññeyyameva.
「あちこちから」とは、それぞれの地方から。「ただ一人」とは、一部の者だけであり、多くはなく、ごく少数の凡夫だけであったという意味である。残りは前述の方法によるため、極めて容易に理解できる。
Chachakkasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.
六六経注釈の玄義の解明は完結した。
7. Mahāsaḷāyatanikasuttavaṇṇanā
7. 大六処経注釈
428. Mahantāni saḷāyatanāni adhikicca pavattattā mahāsaḷāyatanikaṃ, mahantatā ca tesaṃ mahantaṃ lokasannivāsaṃ abhibyāpetvā ṭhitattā ayoniso gayhamānānaṃ mahato anatthāya saṃvattanato, yoniso gayhamānānaṃ mahato atthāya hitāya sukhāya saṃvattanato ca daṭṭhabbā. Jotakanti bodhakaṃ.
428. 広大な六処について説かれているため『大六処経』と呼ばれる。そしてその広大さとは、それらが広大な世間の住処に行き渡って存在し、如理作意なく受け取られるならば大いなる無益へと向かわせ、如理作意をもって受け取られるならば大いなる義、利益、幸福へと向かわせることから見出されるべきである。「明らかにするもの」とは、覚らせるものである。
429. Sikhāppattāya vipassanāya jānanampi yathābhūtajānanameva maggena jānanassa āsannakāraṇabhāvatoti āha – **‘‘sahavipassanena maggena ajānanto’’**ti. Vuḍḍhiṃ gacchantīti paccayasamodhānena bhavayonigatiṭhitisattāvāsapāḷiyā aparāparaṃ parivuddhiṃ gacchanti. Evaṃbhūtā paguṇabhāvamāpāditā samathavipassanādhammā viya suṭṭhutaraṃ vasībhāvaṃ pāpitā jhānābhiññā viya ca vasībhūtā hutvā uparūpari brūhentīti āha – **‘‘vasībhāvaṃ gacchantī’’**ti. Tathā hi te kadāci bhavapatthanāya anuppāditāyapi appahīnabhāvenevassā tiṭṭhanti. Akusalā dhammāva yebhuyyena dassanāyatanena vināsadassanato pavattanti parivaḍḍhanti ca. Pañcadvārikadarathāti pañcadvārikajavanasahagatā akusaladarathā. Evaṃ manodvārikadarathā veditabbā. Santāpāti darathehi balavanto sampayuttadhammānaṃ nissayassa ca santāpanakarā. Pariḷāhāti tatopi balavatarā tesaṃyeva paridahanakarā.
429. 頂点に達したヴィパッサナーによる知もまた、ありのままの知に他ならない。道による知の直接の原因であるからである。それゆえに**「ヴィパッサナーを伴う道によって知らずして」**と言われた。「増大に向かう」とは、諸条件の結合によって、有・胎生・趣・住処・有情の住処の連鎖を通じて次々に増大へと向かう。このようになり、熟練した状態に至った止観の諸法のように、極めて善く自在の境地に達した禅定や神通のように、自在となって上へ上へと増大させる。それゆえに**「自在へと向かう」**と言われた。実にそれらは時に、有(存在)への願望を生じさせていなくても、未断であることによってまさに存在する。不善の法は、多くは見る処によって破壊を見ることなく生起し、増大する。「五門の苦悩」とは、五門の速行に伴う不善の苦悩である。意門の苦悩も同様に知るべきである。「熱苦」とは、苦悩よりも強力で、相応する諸法と依止処を熱く焼くものである。「大熱苦」とは、それよりもさらに強力で、それらを激しく焼き尽くすものである。
430. Pañcadvārikasukhaṃ, na kāyappasādasannissitasukhameva. Manodvārikasukhanti manodvārikacittasannissitasukhaṃ, na yaṃ kiñci cetasikasukhaṃ tassa kāyikasukhaggahaṇeneva gahitattā. Pañcadvārikajavanena samāpajjanaṃ vā vuṭṭhānaṃ vā natthīti idaṃ manodvārikajavanena tassa sambhavaṃ dassetuṃ, maggassa vasena vuttaṃ, na pana tappasaṅgasaṅkānivattanatthaṃ. Viññattimattampi janetuṃ asamatthaṃ samāpajjanassa kathaṃ paccayo hoti, buddhānaṃ pana bhagavantānaṃ hotīti ce? Tathāpi tassa āsannaṭṭhāne pañcadvārikacittappavattiyā asambhavo eva tādisassa pubbābhogassa tasmiṃ kāle asambhavato. Eteneva yā kesañci ariyadhamme akovidānaṃ ghaṭasabhāvādīsu buddhitulyakāritāpatticodanā; sā paṭikkhittāti daṭṭhabbā taṃtaṃpurimābhogavasena tena tena pañcadvārikābhiniyatamanoviññāṇassa parato pavattamānamanoviññāṇena tasmiṃ tasmiṃ atthe vaṇṇasaṇṭhānādivisesassa vinicchinitabbato. Uppannamattakameva hotīti pañcadvārikajavanaṃ tādisaṃ kiñci atthanicchayakiccaṃ kātuṃ na sakkoti, kevalaṃ uppannamattameva hoti. Ayanti ‘‘ādīnavānupassino’’tiādinā vuttā.
430. 「五門の楽」とは、身の浄色に依止した楽のみではない。「意門の楽」とは、意門の心に依止した楽のことであり、どのような心所の楽でもよいわけではない。それは身体的な楽を取ることによってすでに取られているからである。「五門の速行によって等至(入定)することや出定することはない」というこれは、意門の速行によってそれらが生じることを示すために、道に関して説かれたものであり、その関連に対する疑念を払拭するためではない。表色(身表・語表)を生じることさえできないものが、どうして等至の縁となるのか、しかし諸仏・世尊においては縁となるのではないか、と言われるなら、そうであってもその直前の段階において五門の心の生起はあり得ない。そのような事前の思惟はその時には存在しないからである。これによって、聖法に未熟な一部の者たちが瓶の自性などにおいて認識が等しく働くという過失の非難は退けられたと見なすべきである。それぞれ以前の思惟によって、それぞれの五門の意図された意識の後に生起する意識によって、それぞれの対象において色や形などの区別が決定されるべきだからである。「生じただけでしかない」とは、五門の速行はそのような対象を決定する働きをなすことができず、ただ生じただけであるということである。「この者」とは、「過患を随観する者」などと説かれた者のことである。
431. Kusalacitta…pe… bhūtassāti vuṭṭhānagāminivipassanāsahagatakusalacittassa sampayuttacetosukhasamaṅgībhūtassa. Pubbasuddhikāti magguppattito, vipassanārambhatopi vā pubbeva suddhā. Tenāha – **‘‘ādito paṭṭhāya parisuddhāva hontī’’**ti. Sabbatthakakārāpakaṅgānīti sīlavisodhanassa cittasamādhānassa vipassanābhiyogassa maggena pahātabbakilesapahānassāti sabbassapi maggasambhārakiccassa kārāpakaṅgāni. Aṭṭhaṅgiko vāti paṭhamajjhāniko vā aṭṭhaṅgiko, dutiyajjhāniko vā sattaṅgiko hoti.
431. 「善心……(中略)……となった者」とは、出起に至るヴィパッサナー(内観)に伴う善心と、相応する心の楽を具足した者となったことである。「初めから清浄である」とは、道の生起以前から、あるいはヴィパッサナーの開始以前から清浄であることである。それゆえに**「初めから清浄そのものである」**と言われた。「すべてを成し遂げさせる支分」とは、戒の清浄、心の集中、ヴィパッサナーへの専念、道によって断ぜられるべき煩悩の捨断という、道の資糧となるすべての働きを成し遂げさせる支分である。「八支であるか」とは、初禅においては八支であり、第二禅においては七支となる。
Imameva suttapadesaṃ gahetvāti, ‘‘yā tathābhūtassa diṭṭhī’’tiādinā sammādiṭṭhiādīnaṃ pañcannaṃyeva tasmiṃ ṭhāne gahitattā lokuttaramaggo pañcaṅgikoti vadati. Soti tathā vadanto vitaṇḍavādī. Anantaravacanenevāti, ‘‘yā tathābhūtassa diṭṭhī’’tiādivacanassa, ‘‘evamassāya’’ntiādinā anantaravacanena. Paṭisedhitabboti paṭikkhipitabbo. ‘‘Ariyo aṭṭhaṅgiko maggo’’ti hi idaṃ vacanaṃ ariyamaggassa pañcaṅgikabhāvaṃ ujukameva paṭikkhipati. Yadi evaṃ ‘‘yā tathābhūtassa diṭṭhī’’tiādinā tattha pañcannaṃ eva aṅgānaṃ gahaṇaṃ kimatthiyanti āha **‘‘uttari cā’’**tiādi. Sammāvācaṃ bhāveti ariyamaggasamaṅgī. Tenāha **‘‘micchāvācaṃ pajahatī’’**ti. Yasmiñhi khaṇe sammāvācā bhāvanāpāripūriṃ gacchati, tasmiṃyeva micchāvācā pajahīyatīti. Saheva viratiyā pūrenti samucchedaviratiyā vinā dukkhapariññādīnaṃ asambhavato. Ādito paṭṭhāya parisuddhāneva vaṭṭanti parisuddhe sīle patiṭṭhitasseva bhāvanāya ijjhanato. Yathāvuttamatthaṃ ganthantarenapi samatthetuṃ, **‘‘subhaddasuttepi cā’’**tiādi vuttaṃ. Anekesu suttasatesu aṭṭhaṅgikova maggo āgato, na pañcaṅgikoti adhippāyo.
まさにこの経の句を取って、「そのようである者の見」などと、その箇所において正見などの五つのみが取られていることから、出世間道は五支であると主張する者がいる。「彼」とは、そのように主張する論難者である。「直後の言葉によってこそ」とは、「そのようである者の見」などの言葉の、「このように彼のこれ(正見)」などという直後の言葉によってである。「排斥されるべきである」とは、否定されるべきであるということである。「聖なる八支の道」というこの言葉は、聖道が五支である状態を直接に否定しているからである。もしそうであるなら、「そのようである者の見」などにおいて、なぜ五つの支分のみが取られているのかといえば、**「さらにまた」**などと言われた。聖道を具足した者は正語を修習する。それゆえに**「邪語を捨てる」**と言われた。実に正語が修習の円満に達するその瞬間にこそ、邪語が捨てられるからである。離戒(不善を断つこと)とともに満たす。断截の離戒なしには苦の遍知などはあり得ないからである。初めから清浄であってこそ機能する。清浄な戒に確立した者にこそ修習が成就するからである。上述の意味を他の文献によっても論証するために、**「スバッダ経においても」**などと言われた。幾百もの経において八支の道のみが現れ、五支ではないというのが意図である。
Sammāsati maggakkhaṇe kāyānupassanādicatukiccasādhikā hotīti taṃ catubbidhaṃ katvā dassento, **‘‘maggasampayuttāva cattāro satipaṭṭhānā’’**ti āha. Na catumaggasampayuttatāvasena. Esa nayo sammappadhānādīsupi. Aññamaññānativattamānā yuganaddhā yuttā viya ariyamaggayuganaddhā aññamaññaṃ paṭibaddhāti yuganaddhā. Tenāha – **‘‘ekakkhaṇikayuganandhā’’**ti ariyamaggakkhaṇe eva hi samathavipassanā ekakkhaṇikā hutvā samadhuraṃ vattanti. Tenevāha **‘‘ete hī’’**tiādi. Aññasmiṃ khaṇe samāpatti, aññasmiṃ vipassanāti idaṃ tesaṃ tattha tattha kiccato adhikabhāvaṃ sandhāya vuttaṃ, na aññathā. Na hi paññārahitā samāpatti, samādhirahitā ca vipassanā atthi. Ariyamagge pana ekakkhaṇikā samadhuratāya ekarasabhāvenāti attho. Phalavimuttīti arahattaphalavimutti. Sesaṃ heṭṭhā vuttanayattā suviññeyyameva.
正念は道の瞬間に身随観などの四つの働きを成し遂げるため、それを四種にして示すために、**「道に相応する四念処」**と言われた。四つの道に相応するという意味においてではない。この方法は正勤などにおいても同様である。互いに乗り越えることなく、軛(くびき)を並べた牛のように、聖道の軛を並べて互いに結合しているゆえに「止観双運(二つが結合したもの)」という。それゆえに**「一瞬における止観双運」**と言われた。聖道の瞬間においてこそ、止と観は一瞬となって等しい重荷を担って機能するからである。それゆえに**「これらは実に」**などと言われた。「ある瞬間に等至(定)があり、別の瞬間にヴィパッサナー(観)がある」というこれは、それらがそれぞれの場所において働きが優勢であることを意図して説かれたのであり、それ以外の意味ではない。実に智慧のない等至はなく、定のないヴィパッサナーもない。しかし聖道においては、一瞬にして等しい重荷を担うがゆえに一味であるという意味である。「果の解脱」とは、阿羅漢果の解脱である。残りは前述の方法によるため、極めて容易に理解できる。
Mahāsaḷāyatanikasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.
大六処経注釈の玄義の解明は完結した。
8. Nagaravindeyyasuttavaṇṇanā
8. ナガラヴィンダ経注釈
435. Samavisamaṃ carantīti kāyasamādiṃ samaññeva, kāyavisamādiṃ visamaññeva caranti karonti paṭipajjanti. Taṃ pana samavisamaṃ aññamaññaṃ viruddhattā visadisattā na ekasmiṃ kāle sambhavatīti āha – **‘‘kālena samaṃ kālena visama’’**nti. Samacariyampi hi etanti pubbe samacariyāya jotitattā vuttaṃ.
435. 「平等の行と不平等の行を行う」とは、身の平等の行などを平等に行い、身の不平等の行などを不平等に行う、実践するということである。しかしその平等の行と不平等の行は互いに矛盾し異なっているため、同時に存在することはない。それゆえに**「ある時は平等を、ある時は不平等を」**と言われた。「これもまた平等の行である」とは、以前に平等の行が明らかにされたために言われたのである。
437. Ākaronti adhippetamatthaṃ ñāpenti pabodhentīti ākārā, ñāpakakāraṇanti āha – **‘‘ke ākārāti kāni kāraṇānī’’**ti. Anubuddhiyoti anumānañāṇāni. Tañhi yathādiṭṭhamatthaṃ diṭṭhabhāvena anveti anugacchatīti ‘‘anvayā’’ti vuccati. Haritatiṇacampakavanādivasenāti haritakambalādisadisatiṇādivasena vitthāritakanakapaṭādisadivikasitacampakavanādivasena. Ādisaddena cettha kīcakaveṇusaddamadhurasaphalāphalavasena saddarasānaṃ atthibhāvo veditabboti. Campakavaseneva pana phassagandhānampi atthibhāvo vuttoti. Tenāha – **‘‘rūpādayo pañca kāmaguṇā atthī’’**ti. **‘‘Itthirūpādīni sandhāyetaṃ kathita’’**nti vatvā indriyabaddhā vā hontu rūpādayo anindriyabaddhā vā, sabbepi cete kilesuppattinimittatāya kāmaguṇā evāti codanaṃ sandhāya visabhāgitthigatā rūpādayo savisesaṃ kilesuppattinimittanti dassento, **‘‘tāni hī’’**tiādimāha.
437. 「意図された意味を形づくる、知らせる、覚醒させる」ゆえに相(アーカーラ)であり、知らせる原因である。それゆえに**「どのような相かとは、どのような原因か」**と言われた。「推知」とは、推論の智慧である。実にそれは見られた対象を見られた状態に従って追随する、従うがゆえに「追随(アンヴァヤ)」と呼ばれる。「青草やチャンパカの森などによって」とは、青い絨毯のような草などによって、広げられた黄金の布のような咲き誇るチャンパカの森などによってである。「など」という語によって、ここでは鳴く竹の音や甘美な果実などによって、声や味が存在することが知られるべきである。しかしチャンパカによって触覚と香りの存在も説かれている。それゆえに**「色などの五つの欲情の対象が存在する」**と言われた。**「女の色などを意図してこれが説かれた」**と述べて、有情に属する色などであれ、無情に属する色などであれ、これらすべては煩悩の生起の因泉となるがゆえに欲情の対象に他ならないという異論を考慮し、異性である女に属する色などは特に煩悩の生起の因泉となることを示すために、**「それらは実に」**などと言われた。
Tattha tānīti rūpādīni. Hi-saddo hetuattho. Tena yathāvuttamatthaṃ samattheti, ‘‘yasmā purisassa cittaṃ pariyādāya tiṭṭhanti, tasmā itthirūpādīni sandhāya etaṃ kathita’’nti. Purisassa cittanti purisassa catubhūmakaṃ kusalacittaṃ pariyādāya gahetvā antomuṭṭhigataṃ viya katvā. ‘‘Hatthikāyaṃ pariyādiyitvā’’tiādīsu (saṃ. ni. 1.126) hi gahaṇaṃ pariyādānaṃ nāma, ‘‘aniccasaññā bhāvitā bahulīkatā sabbaṃ kāmarāgaṃ pariyādiyatī’’tiādīsu (saṃ. ni. 3.102) khepanaṃ pariyādānaṃ, idha ubhayampi vaṭṭati. Idāni yathāvuttamatthaṃ sutteneva sādhetuṃ, **‘‘yathāhā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha **‘‘nāhaṃ, bhikkhave’’**tiādīsu na-kāro paṭisedhattho. Ahanti bhagavā attānaṃ niddisati. Bhikkhaveti bhikkhū ālapati. Aññanti idāni vattabbaṃ itthirūpato aññaṃ. Ekarūpampīti ekampi rūpaṃ. Samanupassāmīti ñāṇassa samanupassanā adhippetā, heṭṭhā na-kāraṃ ānetvā sambandhitabbaṃ. Ayañhettha attho – ‘‘ahaṃ, bhikkhave, sabbaññutaññāṇena sabbaso olokento aññaṃ ekarūpampi na samanupassāmī’’ti. Yaṃ evaṃ purisassa cittaṃ pariyādāya tiṭṭhatīti yaṃ rūpaṃ rūpagarukassa purisassa sabbampi kusalacittaṃ pavattituṃ appadānavasena pariyādiyitvā gahetvā khepetvā ca tiṭṭhati. Yathayidaṃ itthirūpanti itthiyā rūpakāyaṃ. Rūpasaddo khandhādianekatthavācako, idha pana itthiyā catusamuṭṭhāne rūpāyatane vaṇṇadhātuyaṃ daṭṭhabbo. ‘‘Itthirūpaṃ, bhikkhave, purisassa cittaṃ pariyādāya tiṭṭhatī’’ti idaṃ purimasseva daḷhīkaraṇatthaṃ vuttaṃ. Purimaṃ ‘‘yathayidaṃ, bhikkhave, itthirūpa’’nti idaṃ opammavasena vuttaṃ, idaṃ pariyādānabhāve nidassananti daṭṭhabbaṃ. Sesaṃ suviññeyyameva.
その中で、「それらは」とは色などのことである。「実に(hi)」という語は原因の意味である。それによって上述の意味を論証する。「男の心を奪って捕らえてとどまるがゆえに、女の色などを意図してこれが説かれた」と。「男の心」とは、男の四地の善心を奪って、掌握して、手の中に握ったかのようにして。「象の群れを捕らえて」などの箇所では捕らえることが「奪うこと(パリヤーダーナ)」と呼ばれ、「無常想を修習し多修するならば、すべての欲貪を滅尽する」などの箇所では滅尽させることが「奪うこと」であるが、ここでは両方が適する。今や上述の意味を経典によって証明するために、**「説かれた通りである」**などと言われた。その中で**「比丘たちよ、私は~ない」**などの「ない」という語は否定の意味である。「私」とは世尊がご自身を指している。「比丘たちよ」とは比丘たちに呼びかけている。「他の」とは、これから語られるべき女の色から他のものである。「一つの色も」とは、ただ一つの色さえも。「見出さない」とは、智慧による観察が意図されており、下の「ない」という語を補って結合すべし。ここでの意味はこういうことである。「比丘たちよ、私は一切知の智慧によってあまねく観察するが、他のただ一つの色も見出さない」と。「このように男の心を奪ってとどまるような」とは、色を重んじる男のすべての善心を働かせないことによって、奪い取り、掌握し、滅尽させてとどまるような色である。「この女の色のようである」とは、女の身体の色のことである。「色」という語は蘊などの多くの意味を表すが、ここでは女の四つの原因から生じた色処、色界として見なされるべきである。「比丘たちよ、女の色は男の心を奪ってとどまる」というこれは、前の言葉を確固とするために説かれた。前の「この女の色のようである」というこれは比喩として説かれたものであり、これは心を奪う状態の実例として見なされるべきである。残りは極めて容易に理解できる。
Nagaravindeyyasuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.
ナガラヴィンダ経注釈の玄義の解明は完結した。
9. Piṇḍapātapārisuddhisuttavaṇṇanā
9. 乞食清浄経注釈
438. Dhammasenāpatino paṭisallīyanassa adhippetattā, upari ca pāḷiyaṃ, ‘‘suññatāvihārena kho ahaṃ, bhante, etarahi bahulaṃ viharāmī’’ti (ma. ni. 3.438) vuttattā **‘‘paṭisallānāti phalasamāpattito’’**ti āha.
438. 法将(サーリプッタ)の独座(遠離)が意図されていること、および後の本文において「尊者よ、私は今、空の住(空の境地)によって多くを過ごしています」と説かれていることから、**「独座からとは、果等至から」**と言われた。
Vippasannānīti visesato pasannāni. Okāsavasenāti indriyānaṃ patiṭṭhitokāsavasena. Nanu tāni indriyāni sabhāvato vippasannāni hontīti? Saccaṃ honti. Na hidaṃ tādisaṃ pasannataṃ sandhāya vuttaṃ, idaṃ pana santapaṇītasamāpattisamuṭṭhitānaṃ paccupaṭṭhitānaṃ cittajarūpānaṃ vasena sesatisantatirūpānaṃ seṭṭhataraṃ paṇītabhāvāpattiṃ sandhāya vuttaṃ. Phalasamāpattitoti suññatānupassanāvasena samāpannaphalasamāpattito. Mahantānaṃ buddhādīnaṃ purisānaṃ vihāro mahāpurisavihāro. Tenāha – **‘‘buddha…pe… vihāro’’**ti. Vihārato paṭṭhāyāti parikkhitte ca vihāre parikkhepato paṭṭhāya, aparikkhitte ca parikkhepārahaṭṭhānato paṭṭhāya. Keci pana ‘‘vihārabbhantarato paṭṭhāyā’’ti vadanti. Yāva gāmassa indakhīlāti gāmassa abbhantarindakhīlo. Gehapaṭipāṭiyācaritvāti piṇḍāya caritvā. Yāva nagaradvārena nikkhamanāti nagaradvārena yāva nikkhamanapadesā. Yāva vihārāti yāva vihārabbhantarā. Paṭikkantamaggoti nivattanamaggo. Ārammaṇe paṭihaññanākārena pavattamānampi paṭighasampayuttaṃ citte paṭihanantaṃ viya pavattatīti āha – **‘‘citte paṭihaññanakilesajāta’’**nti. Divasañca rattiñca anusikkhantenāti etaṃyeva rāgādippahāyiniṃ sammāpaṭipattiṃ divā ca rattiñca anu anu sikkhantena uparūpari vaḍḍhentena.
「極めて澄んでいる」とは、格別に清らかであること。「場所によって」とは、諸根が位置している場所によってである。そもそもそれらの諸根は自性からして澄んでいるのではないか。確かに澄んでいる。しかしここではそのような澄んだ状態を指して言われたのではなく、静かで優れた等至から生じ現起した心生の色(物質)によって、残りの三つの相続(業生・時節生・食生)の色がより勝れ、優れた状態に達したことを指して言われたのである。「果等至から」とは、空の随観によって入定した果等至から。「大人物の住」とは、仏などの偉大な人々の住境のことである。それゆえに**「仏の……(中略)……住境」**と言われた。「精舎から」とは、囲いのある精舎においては囲いから、囲いのない精舎においては囲いにふさわしい場所から。しかし一部の者は「精舎の内部から」と言う。「村の門柱に至るまで」とは、村の内部の門柱まで。「家々を順に巡って」とは、托鉢のために歩んで。「市門を出るまで」とは、市門を出る場所に至るまで。「精舎に至るまで」とは、精舎の内部に至るまで。「引き返す道」とは、帰りの道である。対象に衝突する相として生じるものであっても、瞋恚に相応するものは心において衝突するかのように生じるので、**「心において衝突する煩悩の類」**と言われた。「昼も夜も学びつつ」とは、まさにこの貪などを断じる正しい実践を、昼も夜も絶えず学び、上へ上へと増大させつつ、ということである。
440. Pahīnā nu kho me pañca kāmaguṇāti ettha kāmaguṇappahānaṃ nāma tappaṭibaddhachandarāgappahānaṃ. Tathā hi vuttaṃ – ‘‘tiṭṭhanti citrāni tatheva loke, athettha dhīrā vinayanti chanda’’nti. Ekabhikkhussa paccavekkhaṇā nānāti ekasseva bhikkhuno, ‘‘pahīnā nu kho me pañca kāmaguṇā’’tiādinā pāḷiyaṃ āgatā nānāpaccavekkhaṇā honti. Nānābhikkhūnanti visuṃ visuṃ anekesaṃ bhikkhūnaṃ. Paccavekkhaṇā nānāti vuttanānāpaccavekkhaṇā. Idāni tameva saṅkhepato vuttamatthaṃ vitthārato dassetuṃ, **‘‘katha’’**ntiādi vuttaṃ. Tattha **‘‘paccavekkhatī’’**ti vuttaṃ, kathaṃ pana paccavekkhatīti āha **‘‘pahīnā nu kho’’**tiādi. Vīriyaṃ paggayhāti catubbidhasammappadhānavīriyaṃ ārabhitvā vipassanaṃ vaḍḍhitvā. Maggānantaraṃ anāgāmiphalaṃ patvāti vacanaseso. Phalānantaraṃ magganti tasmiṃ anāgāmimagge ṭhito phalasamāpattito vuṭṭhāya aggamaggatthāya vipassanaṃ ārabhitvā tasmiṃyeva āsane na cireneva vipassanaṃ ussukkāpetvā arahattamaggaṃ gaṇhanto nirodhadhammānuppattiyā vipassanāparivāsābhāvato phalānantaraṃ maggappatto nāma hotīti katvā.
440. 「私の五つの欲情の対象は断ぜられただろうか」において、欲情の対象の断滅とは、それらに結びついた欲貪の断滅のことである。実に次のように説かれている。「世間における美しきものはそのままにとどまる。されど賢者はそこにある意欲(貪)を調伏する」と。「一人の比丘の省察は様々である」とは、一人の比丘に「私の五つの欲情の対象は断ぜられただろうか」などと本文に出てくる様々な省察があるということである。「様々な比丘たちの」とは、それぞれ異なる多くの比丘たちのことである。「省察は様々である」とは、説かれた様々な省察のことである。今やその要約して説かれた意味を詳細に示すために、**「どのように」**などと言われた。そこにおいて**「省察する」**と言われたが、どのように省察するのかといえば、**「断ぜられただろうか」**などと言われた。「精進を奮い起こして」とは、四種の正勤の精進を開始して、ヴィパッサナー(内観)を増大させて。「道の直後に不還果に達して」という言葉が補われるべきである。「果の直後の道」とは、その不還道にとどまる者が果等至から出定し、最上の道(阿羅漢道)のためにヴィパッサナーを開始し、まさにその座において間もなくヴィパッサナーに励み、阿羅漢道を取る者は、滅の法の不生によってヴィパッサナーの停止がないため、「果の直後に道に達した者」と呼ばれるからである。
Tato vuṭṭhāyāti maggānantaraphalato vuṭṭhāya. Maggānantarato hi vuṭṭhito maggato vuṭṭhito viya hotīti tathā vuttaṃ. **‘‘Phalānantaraṃ magga’’**nti ettha phalaṃ anantaraṃ etassāti phalānantaraṃ. ‘‘Phalānantaraṃ magga’’nti padadvayenapi anāgāmimaggaphalāni ceva vadatīti evamettha attho daṭṭhabbo. Nīvaraṇādīsupi eseva nayoti ettha, ‘‘pahīnā nu kho me pañca nīvaraṇā’’tiādinā yojanā veditabbā. Etesanti ettha etesaṃ nīvaraṇapañcupādānakkhandhasatipaṭṭhānādīnaṃ. Pahānādīnīti pahānapariññābhāvanāsacchikiriyā. Nānāpaccavekkhaṇā hotīti tā paccavekkhaṇā nānāti adhippāyo. Etāsu pana paccavekkhaṇāsūti etāsu kāmaguṇapaccavekkhaṇādīsu dvādasasu paccavekkhaṇāsu. Ekaṃ paccavekkhaṇaṃ paccavekkhati dvādasasu nayesu ekeneva kiccasiddhito. Añño bhikkhu. Ekanti aññaṃ paccavekkhati. Aññattho hi ayaṃ ekasaddo ‘‘ittheke’’tiādīsu (ma. ni. 3.21, 27) viyāti. Nānābhikkhūnaṃ pana ekā paccavekkhaṇā, nānābhikkhūnaṃ nānāpaccavekkhaṇāti evaṃ catukkapaccavekkhaṇampi ettha sambhavati. Imassa pana dvayassa vasena abhisamayo natthīti tadubhayaṃ aṭṭhakathāyaṃ na uddhaṭaṃ. Sesaṃ suviññeyyameva.
「そこから出定して」とは、道の直後の果から出定して。実に道の直後から出定した者は、道から出定したかのようであるから、そのように言われた。**「果の直後の道」**において、果がこの直後にあるから果直後である。「果の直後の道」という二語によっても、不還の道と果のことを語っていると、このようにここでの意味は見なされるべきである。「蓋などにおいてもこの方法である」において、「私の五蓋は断ぜられただろうか」などと結合して知るべきである。「これらを」とは、これら五蓋、五取蘊、四念処などのことである。「断滅など」とは、断滅・遍知・修習・作証のことである。「様々な省察がある」とは、それらの省察が様々であるという意味である。しかし「これら省察において」とは、これら欲情の対象の省察などの十二の省察においてである。「一つの省察を省察する」とは、十二の方法の中でただ一つによって働きの成就があるからである。別の比丘は他の一つを省察する。実にこの「一(エカ)」という語は、「ここに一部の者は」などのように「他」の意味であるからである。様々な比丘の一つの省察、様々な比丘の様々な省察と、このように四通りの省察もここにおいてあり得る。しかしこの二つの方法による現観は存在しないため、その双方は注釈書に引用されていない。残りは極めて容易に理解できる。
Piṇḍapātapārisuddhisuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.
乞食清浄経注釈の玄義の解明は完結した。
10. Indriyabhāvanāsuttavaṇṇanā
10. 根修習経注釈
453. Evaṃnāmaketi ‘‘gajaṅgalā’’ti evaṃ itthiliṅgavasena laddhanāmake majjhimapadesassa mariyādaṭṭhānabhūte nigame. Suveḷu nāma nicalarukkhoti vadanti. Tato aññaṃ evāti pana adhippāyena **‘‘ekā rukkhajātī’’**ti vuttaṃ. Cakkhusotānaṃ yathāsakavisayato nivāraṇaṃ damanaṃ indriyabhāvanā, tañca kho sabbaso adassanena asavanenāti āha – **‘‘cakkhunā rūpaṃ na passati, sotena saddaṃ na suṇātī’’**ti. Sati hi dassane savane ca tāni adantāni abhāvitānevāti adhippāyo. Cakkhusotāni ca asampattaggāhitāya durakkhitānīti brāhmaṇo tesaṃyeva visayaggahaṇaṃ paṭikkhipi. Asadisāyāti aññatitthiyasamayehi asādhāraṇāya. Ālayanti kathetukāmatākāranti attho.
453. 「その名を持つ」とは、「ガジャンガラ」と女性名詞によって名付けられた、中インドの境界の地にある町において。「スヴェールとは不動の木である」と言われる。しかしそれとは別のものであるという意図から、**「樹木の一種」**と言われた。眼と耳をそれぞれの対象から防護し調伏することが「根の修習」であり、それも全く見ず聞かないことによってであるゆえに、**「眼で色を見ず、耳で声を聞かない」**と言われた。実に、見ることや聞くことがあるならば、それらは調伏されておらず修習されていないからであるというのが意図である。眼と耳は直接触れない対象を取るがゆえに守りがたいので、バラモンはそれらの対象の把握を否定したのである。「比類のない」とは、他の外道の教義と共通しないということである。「執着(アーラヤ)」とは、語りたいと欲する相という意味である。
454. Vipassanupekkhāti āraddhavipassakassa vipassanāñāṇena lakkhaṇattaye diṭṭhe saṅkhārānaṃ aniccabhāvādivicinane majjhattabhūtā vipassanāsaṅkhātā upekkhā. Sā pana yasmā bhāvanāvisesappattiyā heṭṭhimehi vipassanāvārehi santā ceva paṇītā ca, pageva cakkhuviññāṇādisahagatāhi upekkhāhi, tasmā āha – **‘‘esā santā esā paṇītā’’**ti. Atappikāti santapaṇītabhāvanārasavasena tittiṃ na janeti. Tenevāha –
454. 「ヴィパッサナーの捨(捨智)」とは、ヴィパッサナーを開始した者がヴィパッサナーの智慧によって三相を見たとき、諸行が無常であることなどを思惟する際の中立となった、ヴィパッサナーと呼ばれる捨である。そしてそれは、修習の卓越に達したことによって、下の段階のヴィパッサナーよりも静かで優れており、眼識などに伴う捨よりも遥かに優れている。それゆえに**「これは静かであり、これは優れている」**と言われた。「飽くことのない」とは、静かで優れた修習の味わいによって満足を生じさせないことである。それゆえに次のように説かれた。
‘‘Suññāgāraṃ paviṭṭhassa, santacittassa bhikkhuno;
「空屋に入り、心を静めた比丘には、
Amānusī ratī hoti, sammā dhammaṃ vipassato’’ti. (dha. pa. 373);
正しく法を観ずる者に、人ならぬ歓喜が生じる」(法句経373)と。
Itīti evaṃ vakkhamānākārenāti attho. Ayaṃ bhikkhūti ayaṃ āraddhavipassako bhikkhūti yojanā. Cakkhudvāre rūpārammaṇamhīti cakkhudvāre āpāthagate rūpārammaṇe. Manāpanti manāpabhāvena pavattanakaṃ. Majjhatte manāpāmanāpanti iṭṭhamajjhatte manāpabhāvena amanāpabhāvena ca pavattanakaṃ manāpāmanāpaṃ nāmāti. Tenāha (‘‘neva manāpaṃ na amanāpa’’nti). Iminā manāpabhāvo gahito, ‘‘neva manāpa’’nti iminā manāpabhāvo majjhatto ca ubhayaṃ ekadesato labbhatīti, **‘‘manāpāmanāpa’’**nti vuttaṃ. Evaṃ ārammaṇe labbhamānavisesavasena tadārammaṇassa cittassa pākatikaṃ pavattiākāraṃ dassetvā idāni tappaṭisedhena ariyassa vinaye anuttaraṃ indriyabhāvanaṃ dassetuṃ, **‘‘tassa rajjituṃ vā’’**tiādi vuttaṃ. Tatrāyaṃ yojanā – tassa cittaṃ iṭṭhe ārammaṇe rajjituṃ vā aniṭṭhe ārammaṇe dussituṃ vā majjhatte ārammaṇe muyhituṃ vā. Adatvāti nisedhetvā. Pariggahetvāti parijānanavasena ñāṇena gahetvā ñātatīraṇapahānapariññāhi parijānitvā. Vipassanaṃ majjhatte ṭhapetīti anukkamena vipassanupekkhaṃ nibbattetvā taṃ saṅkhārupekkhaṃ pāpetvā ṭhapeti. Cakkhumāti na pasādacakkhuno atthitāmattajotanaṃ; atha kho tassa atisayena atthitājotanaṃ, ‘‘sīlavā’’tiādīsu viyāti āha – **‘‘cakkhumāti sampannacakkhu visuddhanetto’’**ti.
「このように」とは、これから語られるような様態で、という意味である。「この比丘は」とは、このヴィパッサナーを開始した比丘は、と結合される。「眼門に色という対象が現れたとき」とは、眼門の領域に至った色の対象において。「愛らしい」とは、愛らしいものとして生じるもの。「中立において愛らしく愛らしくない」とは、好ましい中立において愛らしいものとしても愛らしくないものとしても生じるものが「愛らしく愛らしくない」と呼ばれる。それゆえに(「愛らしくもなく、愛らしくなくもない」)と言われた。これによって愛らしい状態が取られ、「愛らしくもなく」によって愛らしい状態と中立の両方が一部分から得られるため、**「愛らしく愛らしくない」**と言われた。このように対象において得られる差異によって、その対象に対する心の通常の働きの相を示し、今やその否定によって聖者の律における無上の根修習を示すために、**「彼の愛着すること、あるいは」**などと言われた。そこでの結合はこうである。彼の心が好ましい対象に愛着すること、あるいは好ましくない対象に嫌悪すること、あるいは中立の対象に迷妄することを。**「与えずして」**とは、制止して。**「把握して」**とは、遍知によって智慧をもって把握し、知解遍知・度脱遍知・断捨遍知によって遍知して。**「ヴィパッサナーを中立に確立する」**とは、順次にヴィパッサナーの捨を生じさせ、それを行捨(サンカーロウペッカー)に至らせて確立する。「具眼者」とは、ただ浄色の眼を有することを示すだけではなく、「具戒者」などのように、それを卓越して有することを示すものである。それゆえに**「具眼者とは、眼を成就した者、清らかな眼を持つ者」**と言われた。
456. Īsakaṃ poṇeti majjhe uccaṃ hutvā īsakaṃ poṇe, na antantena vaṅke. Tenāha – **‘‘rathīsā viya uṭṭhahitvā ṭhite’’**ti.
456. 「わずかに傾斜した」とは、中央が高く、わずかに傾斜しており、端が曲がっているのではない。それゆえに**「車の轅(ながえ)のように立ち上がって立っている」**と言われた。
461. Paṭikūleti amanuññe ārammaṇe. Appaṭikūlasaññīti na paṭikūlasaññī. Taṃ pana appaṭikūlasaññitaṃ dassetuṃ, **‘‘mettāpharaṇena vā’’**tiādi vuttaṃ. Tattha paṭikūle aniṭṭhe vatthusmiṃ sattasaññite mettāpharaṇena vā dhātuso upasaṃhārena vā saṅkhārasaññite pana dhātuso upasaṃhārena vāti yojetabbaṃ. Appaṭikūlasaññī viharatīti hitesitāya dhammasabhāvacintanāya ca nappaṭikūlasaññī hutvā iriyāpathavihārena viharati. Appaṭikūle iṭṭhe vatthusmiṃ sattasaññite kesādiasucikoṭṭhāsamattamevāti asubhapharaṇena vāti asubhato manasikāravasena. Idaṃ rūpārūpamattaṃ aniccaṃ saṅkhatanti aniccato upasaṃhārena vā. Tato eva, ‘‘dukkhaṃ vipariṇāmadhamma’’nti manasi karonto paṭikūlasaññī viharati. Sesapadesūti, ‘‘paṭikūle ca appaṭikūle cā’’tiādinā āgatesu sesesu dvīsu padesu. Tattha hi iṭṭhāniṭṭhavatthūni ekajjhaṃ gahetvā vuttaṃ yathā sattānaṃ paṭhamaṃ paṭikūlato upaṭṭhitameva pacchā gahaṇākāravasena avatthantarena vā appaṭikūlato upaṭṭhāti. Yañca appaṭikūlato upaṭṭhitameva pacchā paṭikūlato upaṭṭhāti, tadubhayepi khīṇāsavo sace ākaṅkhati, vuttanayena appaṭikūlasaññī vihareyya paṭikūlasaññī vāti.
461. 「嫌悪すべきものにおいて」とは、好ましくない対象において。「嫌悪すべきでないという想いを持つ」とは、嫌悪の想いを持たないことである。そしてその嫌悪の想いを持たない状態を示すために、**「あるいは慈悲の遍満によって」**などと言われた。そこにおいて、嫌悪すべき好ましくない対象が有情と想定される場合には慈悲の遍満によって、あるいは界としての考察によって、諸行と想定される場合には界としての考察によって、と結合すべきである。「嫌悪すべきでないという想いを持って住する」とは、利益を願う心と法の自性を思惟することによって嫌悪の想いを持たない者となって、威儀の住によって住する。「嫌悪すべきでない好ましい対象」において、有情と想定される場合には髪などの不浄の部分に過ぎないとして不浄の遍満によって、あるいは不浄としての作意によって。「これは名色に過ぎず、無常であり、作られたものである」と無常としての考察によって。まさにそこから「苦であり、変易する法である」と作意しつつ、嫌悪すべきという想いを持って住する。「残りの句において」とは、「嫌悪すべきものと嫌悪すべきでないものにおいて」などと説かれた残りの二つの句においてである。そこでは好ましい対象と好ましくない対象を一つにまとめて説かれている。有情たちにとって初めは嫌悪すべきものとして現れたものが、後に受け取り方の様態や状態の変化によって嫌悪すべきでないものとして現れるように。また、嫌悪すべきでないものとして現れたものが、後に嫌悪すべきものとして現れるように。その両方において、煩悩を滅尽した者(阿羅漢)は、もし望むならば、説かれた方法によって嫌悪すべきでないという想いを持って住することも、嫌悪すべきという想いを持って住することもできる。
Tadubhayaṃ abhinivajjetvāti sabhāvato bhāvanānubhāvato ca upaṭṭhitaṃ ārammaṇaṃ paṭikūlasabhāvaṃ appaṭikūlasabhāvaṃ vāti taṃ ubhayaṃ pahāya aggahetvā. Sabbasmiṃ vatthusmiṃ pana, **‘‘majjhatto hutvā viharitukāmo kiṃ karotī’’**ti, vatvā tattha paṭipajjanavidhiṃ dassento, **‘‘iṭṭhāniṭṭhesu…pe… domanassito hotī’’**ti āha. Idāni yathāvuttamatthaṃ paṭisambhidāmaggapāḷiyā vibhāvetuṃ, **‘‘vuttaṃ heta’’**ntiādimāha. Tassattho heṭṭhā vuttanayo eva. Satoti sativepullappattiyā satimā. Sampajānoti paññāvepullappattiyā sampajānakārī. Cakkhunā rūpaṃ disvāti kāraṇavasena cakkhūti laddhavohārena rūpadassanasamatthena cakkhuviññāṇena, cakkhunā vā karaṇabhūtena rūpaṃ passitvā. Neva sumano hoti gehassitasomanassapaṭikkhepena nekkhammapakkhikāya kiriyāsomanassavedanāya.
「その双方を避けて」とは、自性から、また修習の力から現れた対象が嫌悪すべき自性であれ、嫌悪すべきでない自性であれ、その双方を捨てて取らずに。しかしすべての対象において、**「中立となって住することを欲する者は何をなすのか」**と述べて、そこでの実践の規定を示すために、**「好ましいものや好ましくないものにおいて……(中略)……憂いを持つ」**と言われた。今や上述の意味を『無礙解道』の本文によって解明するために、**「実にこれは説かれている」**などと言われた。その意味はすでに前述された通りである。「念ある者」とは、念の広大さに達したことによる念ある者。「正知ある者」とは、智慧の広大さに達したことによる正知ある者。「眼で色を見て」とは、原因によって眼と呼ばれる色の観察をなし得る眼識によって、あるいは道具としての眼によって色を見て。「喜ぶこともない」とは、家庭に執着した喜悦を否定することによる、出離の側に属する作為的な喜受によってである。
Imesu cāti ‘‘aññathā ca panānanda, ariyassa vinaye anuttarā indriyabhāvanā hotī’’tiādinā (ma. ni. 3.453), – ‘‘kathañcānanda, sekho hoti paṭipado’’tiādinā (ma. ni. 3.460); – ‘‘kathañcānanda, ariyo hoti bhāvitindriyo’’tiādinā (ma. ni. 3.461) ca āgatesu tividhesu nayesu. Manāpaṃ amanāpaṃ manāpāmanāpanti ettha manāpaggahaṇena somanassayuttakusalākusalānaṃ, amanāpaggahaṇena domanassayuttaakusalānaṃ, manāpāmanāpaggahaṇena tabbidhurupekkhāyuttānaṃ saṅgahitattā paṭhamanaye **‘‘saṃkilesaṃ vaṭṭati, nikkilesaṃ vaṭṭatī’’**ti vuttaṃ. Paṭhamanaye hi puthujjanassa adhippetattā saṃkilesakilesavippayuttampi yujjati. Dutiyanaye pana **‘‘so…pe… aḍḍīyatī’’**tiādivacanato **‘‘paṭhamaṃ saṃkilesaṃ vaṭṭatī’’**ti vuttaṃ. Sekkhassa adhippetattā cassa appahīnakilesavasena, **‘‘saṃkilesampi vaṭṭatī’’**ti vuttaṃ. Tatiyanaye arahato adhippetattā, **‘‘tatiyaṃ nikkilesameva vaṭṭatī’’**ti vuttaṃ. Sekkhavāre pana ‘‘cakkhumā puriso’’tiādikā upamā ekameva atthaṃ ñāpetuṃ āha. Tasmā cakkhudvārassa uppanne rāgādike vikkhambhetvā vipassanupekkhāya patiṭṭhānaṃ ariyā indriyabhāvanāti. Paṭhamanayo vipassakavasena āgato, dutiyo sekkhassa vasena, paṭhamadutiyo ca sekkhaputhujjanānaṃ mūlakammaṭṭhānavasena, tatiyo khīṇāsavassa ariyavihāravasena āgato. Paṭhamanaye ca puthujjanassa vasena, dutiyanaye sekkhassa vasena kusalaṃ vuttaṃ, tatiyanaye asekkhassa vasena kiriyābyākataṃ vuttanti ayaṃ viseso veditabbo.
「これらにおいて」とは、「アーナンダよ、聖者の律において無上の根の修習とは異なるものである」など、「アーナンダよ、どのように有学は実践者となるのか」など、「アーナンダよ、どのように聖者は根を修習した者となるのか」などと説かれた三種の方法においてである。「愛らしい、愛らしくない、愛らしく愛らしくない」において、ここでは愛らしいを取ることによって喜悦に伴う善と不善が、愛らしくないを取ることによって憂いに伴う不善が、愛らしく愛らしくないを取ることによってそれらと反対の捨に伴うものが包摂されているため、第一の方法において**「有垢に適合し、無垢に適合する」**と言われた。第一の方法では凡夫が意図されているため、煩悩を伴うものも煩悩を離れたものも適合するからである。しかし第二の方法では**「彼は……(中略)……恥じ入る」**などの言葉から、**「初めは有垢に適合する」**と言われた。有学が意図されており、彼の未断の煩悩によるため、**「有垢にも適合する」**と言われた。第三の方法では阿羅漢が意図されているため、**「第三は無垢にのみ適合する」**と言われた。有学の段における「具眼の男」などの比喩は、ただ一つの意味を知らせるために語られた。ゆえに眼門に生じた貪などを鎮伏して、ヴィパッサナーの捨に確立することが聖なる根の修習である。第一の方法は内観者(ヴィパッサナー実践者)に関して説かれ、第二は有学に関して説かれ、第一と第二は有学と凡夫の根本の業処(瞑想の対象)に関して説かれ、第三は煩悩を滅尽した者の聖なる住境に関して説かれた。そして第一の方法では凡夫に関して、第二の方法では有学に関して善が説かれ、第三の方法では無学(阿羅漢)に関して唯作無記が説かれたと、この差異を知るべきである。
Papañcasūdaniyā majjhimanikāyaṭṭhakathāya
中部経典注釈書『破障(パパンチャ・スーダニー)』における
Indriyabhāvanāsuttavaṇṇanāya līnatthappakāsanā samattā.
根修習経注釈の玄義の解明は完結した。
Niṭṭhitā ca saḷāyatanavaggavaṇṇanā.
そして六処篇の注釈は終了した。
Uparipaṇṇāsaṭīkā samattā.
後分五十経篇複注(ウパリパンナーサ・ティーカー)は完結した。